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[97420] 2019年 1月 9日(水)22:45:54【1】hmt さん
海と島(32)馬毛島買収問題決着へ
馬毛島は種子島の西隣12kmの東シナ海にある島ですが、落書き帳では「大きな無人島」として登場していました。

2016年 [91213]の記載
馬毛島 面積 8.17km2 鹿児島県西之表市 島を手に入れた企業が有人島化 その狙いは? 

疑問符付きで記してありますが、その答えはリンクしたページに記されていました。
島を国有化して米軍空母艦載機の陸上離着陸訓練(FOLP)に用いる計画関連。2008年から内々の打診が進行。
しかし、防衛省が提示した評価額は、高値での売却を狙う所有者の希望金額と一桁異なり、物別れの状態でした。

そこで所有者が利用したのが、地権者の言い値で国有化したという尖閣諸島と、中国企業の動きでした。
2012年になると、「中国の企業が何社か接触してきている。日本の対応次第では売ってもいい」という地権者発言。

日米両国政府による在日米軍再編合意(2006)をふまえ、厚木の艦載機部隊は2018年迄に岩国に移動しました。
日本側としても、近くなった馬毛島の整備は、待ったなしの状態に追い込まれた形です。

今朝の読売新聞は、「米軍機訓練 馬毛島を買収/安保重視 官邸主導」という見出しで決着を報じていました。

問題になっていた対価については、島としての単純な資産価値の45億円から滑走路用地や関連施設を加味した100億円に増加され、更に地権者の希望で60億円上積みした 160億円で仮契約に漕ぎ着けたと伝えられます。


【2019/1/10 追記】馬毛島の人口 産業利用の概要

渡島大島に次ぐ「日本で2番目に広い無人島」であった馬毛島。所有者の企業による土地に付加価値を付けるための工事で有人島化[91213]したが、最近の調査では 無人島に戻っているようです。日本の島へ行こうによる国勢調査人口。
0人(H27)・11人(H22)・15人(H17)・0人(H12)・0人(H7) 国勢調査

それ以前の産業利用の概略。種子島第一の西之表港の対岸にあり、種子島家が漁業基地として利用。
蛇足:種子島と言う地名からは 16世紀大航海時代「鉄砲伝来」の門倉岬や 種子島宇宙センターを連想します。
しかし、それらの地は 島の南端近い南種子町で、馬毛島からはずっと離れています。

馬毛島は、明治期の牧畜業を経て、戦時中は一時無人島にもなりました。
戦後の 1951年から馬毛島入植が再開され、1959年には 113世帯、528人を記録して小中学校も開校。
しかしその後は 旱魃・風害・食害などによる農業不振と製糖工場閉鎖で 1980年に全島民離島。無人島に。

その後は実質的な利用のないまま、土地投機の対象として翻弄される運命をたどりました。
[97343] 2019年 1月 5日(土)19:40:23hmt さん
嫦娥(じょうが)4号 と 鵲橋(じゃっきょう)
[97342]で平成31年暦要項を眺めて気がついたこと。
東京の日出入 1月11日 日出6時51分 10日間隔のデータだが、最も遅い日出は今頃
朔(新月)1月6日10時28分 地球/月/太陽 が一直線上に並ぶのが朔  旧暦12月1日
部分日食 1月6日 東京の最大食は 10時6分 日食も地球/月/太陽 が一直線上に並ぶ時

それはさておき、中国の無人探査機が、世界で初めて 2019/1/3に「月の裏側」南極付近に着陸したとのこと。朝日

タイトルは探査機の名。嫦娥は中国神話に登場する人物。Wikipediaを見ると、もとは仙女。夫から不死の薬を盗んで月宮殿に逃げた。供え物をする月見の由来とも関係。道教では嫦娥を月神とし、中秋節に祀る。
日本での竹取物語や三保松原の天女と似たところもあるようだが、蟇蛙になったというから、イメージが違う?

月の裏側は、アボロ計画での周回で写真が撮られているが、軟着陸は初めて。
月の裏側は 地球との直接交信ができず、クレーターも多く、裏側への着陸は野心的な挑戦とか。
地球との交信を中継するのは「鵲橋(じゃっきょうQueqiao)という衛星。
かささぎの橋:男女が良縁で結ばれる橋。七夕の日に織姫と彦星が出会うために天の川にできるという橋。

技術的困難があるが、中国は将来の資源開発などを視野に置き、優位に立つつもりらしい。
最終目標は月面基地の建設など、やや詳しい情報が英国の WIREDに紹介されている。
[97342] 2019年 1月 5日(土)17:57:37hmt さん
2019年の暦
十番勝負の最中に異質の書き込みで失礼します。

2019年の新年。最初に確認しておきたいと思ったものは、やはり「暦」です。
本年限りの特徴は、5月1日が新しい天皇の即位日ということで 今年限りの祝日になったことです。

しかし、これにより 昭和の日(4/29)と憲法記念日(5/3)との間の 「架橋 pont 休日」【ポン休】も発生し、2019/4/27(土曜日)から 2019/5/6(こどもの日の振替休日の月曜日)までの間の「10連休」が実現します。
【もちろん、この期間にも働いて、社会を支えている人たちが大勢います。】

即位の日付により、政府が 10連休の方針を決めた というニュースが流れたのは 2018年6月末頃だったようです。
しかし正式手続、つまり 2019/5/1(即位の日)と 2019/10/22(即位を国内外に正式に示す戴冠式の日)とを祝日扱いとする 特別法(平成30年法律第99号)の公布は 、2018/12/14でした。

そこで、平成30年2月1日 官報に掲載された 国立天文台 平成31年暦要項 で「国民の祝日」を確認してみました。
ご覧のように、上記特別法に基づく事項が 枠外4行に亘り【最近】追加記載されています。

Web暦要項は、平成30年2月1日という日付のまま、年末の特別法による修正を加えたpdf文書に改められていました。
官報の訂正は簡単でしょうが、市中に出回っているカレンダーは、簡単に訂正することができません。
手元の 12枚もの の5月1日には 赤い小文字で「即位の日」が入れてありましたが、大きな「1」の文字は黒字のままです。平成30年法律第99号の公布前には、赤文字で印刷するわけにゆかなかったのでしょう。
【シートの4月末に、"暦の内容は2018年4月3日の情報に基づくものです。" という注記が入れてありました。】
1枚ものや手帳には 「即位の日」という注記すらありませんでした。
【祝日は何れも2018年7月現在】【手帳末尾の翌年予定表に2020/2/23 天皇誕生日、24振替休日】

2019/5/1以降に使われる元号については、4/1に発表するというニュースだけです。
新元号の早期公表に反対していたのは「保守派」だそうです。記事
しかし、これは かえって国民をして「元号の使用から遠避ける」結果をもたらすだけではないでしょうか。

2019年の暦。暦屋さんの苦心の跡を偲びながらも、休日について 改めて要注意 を感じた次第でした。
[97168] 2018年 12月 28日(金)17:02:58【1】hmt さん
岩国空港国道
[97165] じゃごたろさん
昭和二十八年に(中略)これらの「重要な飛行場」や「国際観光上重要な地」が二級国道の起点して指定されています。
羽田飛行場・・・国道131号
岩国飛行場・・・国道189号

二級国道の起点として指定された重要な飛行場。岩国飛行場が 羽田と共に挙げられていたことに驚きました。

昭和28年(1953)という時代:1951年にサンフランシスコで調印された平和条約が 1952/4/28に発効し、Occupied Japanからの 独立を回復した翌年です。

時刻表 昭和27年12月号[74163]によると、当時の民間航空路は すべて外国航空で、日本から世界各地への国際線を合計しても週39便でした。
これを根拠に、1945年の敗戦から 日本航空による国際線再開(1954年)までの間、日本に飛来する民間航空国際線飛行機の発着地は「すべて羽田」と思っていました。

岩国の錦帯橋の下を流れる錦川が流れくだった河口部。三角州に海軍飛行場が建設されたのは、戦前の 1938年。
1945年の敗戦後 連合軍に接収され、1952年の占領終結後は 米軍基地→自衛隊との共用基地を経て、6年前の 2012/12/13に 民間機の定期便が就航。2013年5月には 早速利用する機会がありました。

この程度の認識でしたが、どうも戦後間もない頃の状況について認識不足があったようなので、改めて調査しました。

岩国錦帯橋空港の沿革には、民間空港の実績として、昭和26年(1951)に国際飛行場として指定され、1952年日本航空の国内航空幹線の中継寄港と記されていました。

国際線の具体的な記載はないものの、「昭和27年5月 羽田とともにわが国で2か所の国際空港」とあり、これが国道の起点になる「決め手」だったのでした。

しかし、旧広島空港【広島市西区】の供用開始(1961)後は 岩国便が衰退。
1964/12の変更で岩国への民間機定期便の就航はなくなり、48年間の空白期になっていました。

推測ですが、特に記載すべき国際空港としての実績はなく、「建前上の国際空港」に基づく国道189号か?

国道189号の終点は 麻里布の国道2号合流点ですが、大部分は柳井経由の国道188号との共用区間です。
単独区間は 0.36kmに過ぎず、神戸港の国道174号に次ぐ短距離国道とのこと。

蛇足:2013年岩国空港利用時のバス経路。民間便用入口が変更されており、国道189号は通過せず。
[97156] 2018年 12月 23日(日)18:24:02hmt さん
浜松市浜北区
[97154] 稲生さん
8年ぶりに投稿という稲生さんを歓迎して、一筆記します。
2007年の発足時から7区体制の浜松市が、新3区案を提示。
そして、2019年4月の統一地方選挙の際に住民投票実施とのこと。
政令指定都市としては人口の少ない 浜松市にとって、区役所削減による経費節減は 理解できる施策と思います。
区役所の削減により、住民の利便はある程度損なわれるかもしれませんが、止むを得ないようにも思われます。

私は幸いにも浜北区在住ですので、単独区は温存され、…

部外者なので、ブログに記された事情などには疎いのですが、C案にならず、F案が有力になったことに安堵する気持ちは、理解できるような気がします。

…ということで、これまで殆ど知ることのなかった「浜北区」について、調べた初歩的なことを記します。

浜北区の沿革(Wikipedia)によると、1889年の町村制では7ヶ村。現在の地図で浜北区の中心地と目される区役所付近は、長上郡小野田村・平貴村あたりと思われますが、1896年には浜名郡に編入されました。
その後、小野田村と平貴村(平口+貴布祢)は小野口村と北浜村に組み換えられ、1926年には日清紡績の工場が貴布祢に進出しました。
戦後の1951年には 小野口村が浜名町になり、昭和合併の1956年には 浜名町、北浜村を含む1町4村で「浜北町」になる。
「合併時点での人口52,561人は、町の人口として当時日本最大」と記されています。

浜北区南西部の現在の地図を見ると、小松・内野・平口・貴布祢などの大字地名を発見することができます。
明治時代にできた合成村名に使われた 1889年以前の旧村名ですね。

話 変わって
2010年頃にフェードアウトしてから、8年も経ってしまいました。

前回の記事の日付は 2010/6/17。「hmtマガジン」発足のご挨拶 2010/6/20 の直前でした。
[25159][58458][65372]など、稲生さんの記事も収録されています。訪問をお待ちしています
[97097] 2018年 12月 10日(月)12:24:42hmt さん
平塚市須賀
[97093] ぺとぺとさん
左岸の基本単位区が右岸に組み込まれているとしか思えないのですが、そうだとすると右岸と左岸では町名(大字名)が異なっており(右岸は千石河岸、左岸は須賀)、釈然としません。

平塚の「須賀」と言えば、相模川河口(馬入川)右岸の港町[77631]と心得ていたので、「左岸は須賀」に驚きました。

地図を確認すると、確かに左岸にも須賀がありますが、右岸にもあります。ひらつかタマ三郎漁港を中心とする地域で、河岸沿いに河口まで続いています。

湘南大橋の南側は、人家が「連担」した状態とは見えませんが、左右両岸共に「(大字)須賀」です。
歴史ある漁港地域から連続した大字須賀は相模川の両岸に広がっており、これが「人口密集地域」として扱われているものと思われます。
河口の南、相模湾に突き出た平塚漁港(新港)は DID区域外になっています。

# もともと DIDでいう人口「密集」の対象は地域です。建築用語である「連担」の対象物は人家(建築物)です。
「地域の連続」と「建築物の連担」。両者のモノサシは、本質的に違うのではないか?

千石河岸と大字須賀との関係【住居表示と地籍について】
相模川河口の両側が「大字須賀」だったので、「右岸は千石河岸」問題はなくなったのですが、「千石河岸」は 1965年に実施された住居表示に基づき、「大字須賀」の一部を対象に設置された町名【一部は1981年編入】です。
日常使われる住居表示町名とは別に、札場町など付近の町を含めて、地籍としての「大字須賀」は残っているのではないかと思われますが、この点は未調査。

DID設定範囲に関して、住居表示町名と地籍の大字町丁名とは、どのように考慮されるのか?
[97081] 2018年 12月 7日(金)19:58:11hmt さん
「虎ノ門ヒルズ」駅
[97077] ぺとぺとさん
そういえば、東京メトロ日比谷線の新駅の名称もカタカナつきの「虎ノ門ヒルズ」になったみたいですね。

2020年東京オリンピックまでに供用開始。関連事業の最終完成は2022年度。UR都市機構と東京メトロ

現在の森タワー(2014年開業)北隣にビジネスタワー、南隣にレジデンシャルタワー、そして桜田通り西側にステーションタワーができます。
配置図が示すように、銀座線の通る外堀通りから、南側の「新虎通り」【環状二号線】への移動。

hmtがこの地帯を訪れる機会も遠退きましたが、思い起こせば、通勤先が「芝の金毘羅さま」[73150]の隣のビルだったのは 20年以上前のことでした。

それはさておき、森ビル御用達の「ヒルズ」も出世して、駅名になります。

Akasaka Roppongi Knot から名付けた ARKヒルズ(開業は1986年)に始まり、2003年の六本木ヒルズを経て 、虎ノ門ヒルズ(2014)が開業。その頃に、環状二号線の記事[85227]を書きました。

本家のビバリーヒルズは、丘が連なった住宅地でしょうが、東京の「ヒルズ」は地形とは無関係。

例えば、六本木ヒルズになった港区六本木6丁目の旧名称は麻布日ケ窪町。
江戸時代には長府藩邸があった場所で、日露戦争で有名な乃木希典はこの地で誕生とか。
でも「日ケ窪」という名では、高級マンションは売りにくいのでしょうね。
人工的な高層ビルの町が「ヒルズ」という名になるのも止むを得ないか。

蛇足
[85227]には、虎ノ門ヒルズは「高さは247メートルと都内2位の超高層複合ビル」と記しました。
港区のミッドタウン・タワーより 1m低いのは、実はヘリポートの高さ。普通に使われる最高所の値を使うと 255.5mで都内1位になるのだが それを避けています。なぜ?
謎解き:公共事業の計画変更に必要な審議会の承認を回避するため(開業日2014/6/11の朝日新聞)。
[97079] 2018年 12月 7日(金)14:49:32hmt さん
大田区の最高点
[97065] EMM さん
大田区の最高点は改めて探す必要があります。
ただ、大田区の高い所ってビミョーなでこぼこがある大地の上なので、真の最高点を見つけるのはなかなか難しそうです。

大田区内町丁目別標高一覧によると、田園調布五丁目の最高標高 43.7m が最高のようです。
地理院地図上での位置:私には特定できませんでした。
[97051] 2018年 12月 2日(日)18:19:24hmt さん
柳瀬川から飯能まで連続するDID(2)
前報[97050]で示した連続DID【川越地区】の来歴を記します。
YTさんが昔まとめて投稿した連続DID情報[97027]により、DIDの履歴の大筋が判明したので、登場順に列挙します。

1960年 DID初年に設定されたのは川越市だけで、DID人口全国順位は98位の48,403人、面積は 4.6km2と、今とは比較にならない小規模でした。
1970年になると、川越市DIDは 連続した福岡町と大井町(鶴ヶ岡)に拡大し、42位 142,075人/15.6km2

1975年になると、川越地区の連続DIDは、人口194,318人で全国 30位、面積21.5km2
そして西武鉄道沿線に、狭山市I・入間市・所沢市II(狭山ヶ丘)という名の3つのDIDが連続状態で登場します。
これを【西武地区】と仮称しておきます。全国66位 109,045人、面積 21.6km2
同じ1975年、東上線沿いにも 富士見市Iと三芳町(藤久保)の連続が登場。
【富士見地区】は 104位 61,455人 面積 5.6km2

2つのギャップ:ふじみ野と新狭山【いずれも駅名に基づく仮称】による分断状態ですが、現在の連続DIDの原型である3地区は 1975年に形成されたようです。

1980年 新狭山の工業地域がDIDに組み込まれ、川越地区の連続DID人口は全国 12位 441,360人に躍進しました。1975年の川越地区・西武地区合計に対する増加率 45%。面積 61.3km2の増加率は 42%。
富士見地区は全国91位 4,360人 面積 7.2km2

その後、川越地区DIDには 1985年に飯能市、1990年に鶴ヶ島町II【鶴ヶ丘】のDIDとも連続状態になり、2000年のデータは 川越地区が 全国11位の 人口703,759人 面積89.23km2になりました。
富士見地区は 全国78位の人口 118,402人で、面積 10.01km2

このデータを前報で示した2015年のデータと比較すると、ふじみ野付近の市街地化などで少し増加したのは当然ですが、ふじみ野IIの人口は DID指定から10年以内に ほぼ飽和状態に近づいているように思われます。
年別DID連続地区市町人口面積-全国順位
2000年【富士見地区】1市2町11840210.0178
2000年【川越地区】7市1町7037599.2311
2000年【合計】8市2町82216199.24-
2015年【川越地区】8市1町856050103.96?

[97027]を見ると、2000年のギャップ【DID途切れ】状況が次のように記されていました。
志木市(京浜地区)~富士見市I(富士見地区) 約50 m (接するのは時間の問題?)
大井町I(川越地区)~大井町II(富士見地区) 約30 m (接するのは時間の問題?)

前者【柳瀬川ギャップ】は[97046]のリンク地図で示されるように現存していますが、後者は消滅しています。
後者の「約30 m」というギャップ。その位置は当時のDID地図がないので不明ですが、ふじみ野市誕生と同日の 2005/10/1国勢調査において 旧上福岡市と旧大井町にあった3つのDIDも合体し、一つになったものと推察します。
いずれにせよ、現在のふじみ野の市街地が形成される前に存在していた原野状態(耕作放棄地?)に因むギャップという意味で、ふじみ野ギャップと仮称しておきます。

この2005年国勢調査に際して、ふじみ野駅所在地を含む勝瀬原の区画整理地域にも DID 富士見市II が設定され、それに伴って新河岸川沿いにある水谷東のDID【志木市DIDに隣接】は 富士見市IIIと番号が改められました。

脱線ですが、水谷東は、1961年頃からの高度成長期に志木方面から開発された住宅地です。何度も水害を受けていますが、元々新河岸川沿いの遊水地であったとのこと。
住所は富士見市ですが、浦所道路の東にあり、DIDは以前から【京浜地区】の一部になっていました。
[97050] 2018年 12月 2日(日)17:15:32【1】hmt さん
柳瀬川から飯能まで連続するDID(1)
[97046] YT さん
2015年現在も、柳瀬川を境とするDIDの途切れは健在で、富士見市~ふじみ野市~川越市~狭山市~入間市~飯能市と続く、DID上の隠れ大都市川越は今なお健在

巨大な赤地により DID地図の中で存在感を示す京浜地区から、道路・鉄道沿い四方八方に伸びる触手。
東京の北西に伸びる赤い触手には、御指摘のように 現在も柳瀬川の DIDギャップがあります。

大正9年の国勢調査からずっと使われている「市部」という言葉は、元々は「市街地そのもの」であったのでしょうが[79563]、昭和30年代以降の市町村合併を経た現在、行政上の「市部」は、本来の意味であった「市街地」から乖離しました。

その対策として、都市的地域の特質を明らかにする統計上の地域単位として,昭和35(1960)年国勢調査から新たに設定されたのが「人口集中地区(DID;Densely Inhabited District)」です。

個別自治体や市部の連続に代えて、「DIDの連続」を指標にすれば、柳瀬川の先、飯能まで連続する赤い触手【川越地区】は、最大の「DID衛星都市」なのですね。

「DIDが富士見から飯能まで続いている」と言われても実感はないのですが、それでも 連続DID【川越地区】の住人として関心をそそられ、調べてみました。
2015年国勢調査データで該当する連続DIDを集計した結果は、8市1町に跨る 11個のDID【下記】で、合計すると 人口約 85万6千人、面積約 104km2でした。

冒頭の引用文6市【枝を含めると8市1町】に関係する 連続DID【川越地区】の 2015年版を示します。
DIDを並べる順番は、「柳瀬川ギャップ」を起点として、東上線・西武線沿いに幹を並べ、枝は1文字下げて記しました。右側3列は 来歴関係のデータ[97051]です。

DID公式名参考地名人口-面積2000年DID連続地区登場年-順位
2015年【川越地区】856050103.96
富士見市I鶴瀬・みずほ台823217.31富士見1975104
 三芳町II竹間沢73390.69富士見
 三芳町I藤久保215291.66富士見1975104
ふじみ野市上福岡1039789.33川越/富士見1970福岡町, 大井町
 富士見市IIふじみ野駅126790.76【注】
川越市28065034.53川越196098位
 鶴ヶ島市II鶴ヶ丘209782.12川越1990(11)
狭山市入間川13008622.01川越197566
入間市I豊岡11844914.77川越197566
 所沢市II狭山ヶ丘325213.02川越197566
飯能市I455207.76川越1985(12)

【注】2000年は未指定 指定後の人口:2005年5923、2010年12412なので、指定後10年でほぼ飽和?
[97038] 2018年 11月 26日(月)20:05:38hmt さん
宝塚に関する情報3題
1 初代市長

[97035] グリグリさん
なお、宝塚市の初代市長は田中九右衛門(S29.5.8就任)です。

初代宝塚市長の就任日は リンクされた水道事業資料の 3/17コマにもありますが、宝塚市>選挙の統計情報の中に、候補者別得票数や投票状況の記録がありました。
それによると、昭和29年5月8日執行の宝塚市長選挙は、立候補者4人で、65%と高い投票率。
当選者と次点者とはかなりの接戦でした。

[97002]で引用した『近代宝塚歴史紀行』(ウイルキンソン・タンサン)にも「合併問題の渦」という言葉が使われており、市長選挙が 1954/4/1の合併期日に間に合わず、宝塚市発足当初は、旧・良元村女性村長の岡田さんが「市長職務代理者」を務めたことなどが記されています。
このことから、合併そのものは成立したが、市長の選定問題は難航したことが窺えます。

なお、初代宝塚市長は4年の任期を全うすることなく、2年後に第2回の市長選挙が行われました。

2 行政地名:兵庫県武庫郡良元村宝塚町

[97013] ekinenpyouさん
武庫郡良元村大字伊孑志村の一部を分離してT4.11.10より(大字)宝塚町を設置とありました。

1954年に発足した「宝塚市」は武庫川の両岸に跨っているが、自治体名になったのは左岸の「川辺郡宝塚町」で、1951年のことでした。そのことから派生した疑問「"宝塚"が地名になったのは何時からか?」[97002]に答える調査結果をいただき、ありがとうございます。

今回、1915年まで遡った行政地名「宝塚」のルーツ。それは「宝塚旧温泉」の所在地・武庫川右岸の「武庫郡良元村宝塚町」でした。
1915年(大正4年)11月13日の官報広告欄に記された兵庫県の通知 大字区域変更 并(ならびに)大字新設
武庫郡良元村大字伊孑志(イソシ)の内 左の区域を分離し 来月十日より(大字)宝塚(タカラヅカ)を設置せり  大正4年11月  兵庫県  塚原など7字の全部と3字の一部

宝塚が加わり5大字になった大正7年市町村名鑑
「孑」というのは、珍しい字ですね。漢和辞典では「子部」に「ゲツ」という音で収録されていました。
使用例:「孔」の左側。ぼうふら「孑孑」。

3 近代的な「新」温泉と 伝統的な「旧」温泉

[97013]にリンクしていただいた「宝塚温泉物語第2章」も興味深く拝見しました。
後に炭酸泉に溶食【溶蝕】された新温泉大理石浴室[97002]の写真もありました。
向かい合う武庫川の両岸は 共栄を願いながらも、新・旧温泉で発展への競争。
1915年の「武庫郡良元村宝塚町」と 1951年の「川辺郡宝塚町」という地名争い?も、両岸の温泉が関係。
[97012] 2018年 11月 20日(火)14:47:17【1】hmt さん
女性首長
[97010] グリグリさん
女性首長一覧の更新漏れ:兵庫県良元村の岡田幾村長(1951年就任1954年廃村)[97002]

参考文献:「レジーム再編と女性首長」という論文です。その 6コマに女性町村長の経歴一覧表がありました。
しかし、岡田幾さんの年齢は記載は見当たらず。

なお、この表では 千葉県安房郡神戸村早川村長の初当選が 1947年となっていますが、これはグリグリさんの 女性首長の一覧・冒頭説明にあるように、1948年が正しいようです。[91257]参照

余談ですが、第1回統一地方選挙で当選した前任の村長は、強権発動による米の強制的供出割当がらみにより、僅か1年で失脚辞任。
食料不足時代ならではの事件でしたが、これが5人目の女性首長誕生につながったようです。[91257]の資料(1)参照

上記参考文献(選挙研究29巻 2013年)には、女性町村長だけでなく、女性知事や女性市長の一覧表もあります。
[97006] 2018年 11月 18日(日)17:35:02hmt さん
五重塔
五重塔コレクションのリリース[97001]を知り、真っ先に記憶に甦ったのが、「女人高野」と呼ばれた室生寺の五重塔でした。

大戦後間もない 1949(昭和24年)/1/26の法隆寺金堂火災をきっかけに、作家の山本有三らによる参議院議員立法による文化財保護法が、翌1950年に制定されました。毎日新聞

この法律に基づく基準により 第一次の国宝指定(1951/6/9日)を受けた 181件の中で、法隆寺金堂などの建造物は 37件ありました。

このうち、屋外にある五重塔は、コレクションに収録されているように、法隆寺・室生寺・醍醐寺の3件です。
海龍王寺五重小塔は 屋内にある建造物ですが、これも第一次指定。

「五重塔」ではないので、今回のコレクション対象外ですが、国宝の第一次として指定された「塔」を拾い出してみると、フェノロサが「凍れる音楽」と讃えた西の京の薬師寺東塔(三重塔)、法隆寺と同じく斑鳩の里にある法起寺三重塔、石山寺多宝塔と有名な塔が並びます。

・三重塔や十三重塔はどうするか?多宝塔(事実上の二重塔)は?
というコメント [96947] EMM さん もあります。対象拡張を検討していただければ有り難い と思いますが、「石造」の五重塔までを含んでいる現在の対象のまま 十三重塔に拡張すると、多くなりすぎる?

私としては、「木造」限定でよいのですが、多武峰(とうのみね)の談山神社[13109][76112]にある、世界唯一の木造十三重塔は、この種のコレクション対象としては、是非加えておきたい珍品であると思っています。

室生寺の五重塔に戻ります。
私がこの 小ぶりながら 魅力的な美しさで 人を惹きつける天女 の姿を見たのは 何十年も前ですが、台風で倒れた巨木の下敷きになって大破した というニュースを記憶しています。

その後を気にしながらも そのまま年月が過ぎましたが、今回のコレクション収録で健在を知り、調べました。
被害をもたらしたのは 平成10年(1998)台風7号。なぎ倒された巨木が小さな塔に倒れかかり、初層から五層までが損壊した無残な姿。宮大工たちも言葉を失うような惨状だったとのこと。
重さ6トンもの塔をジャッキで持ち上げ、桧皮葺の屋根の修理には、室生山のヒノキ500本の樹皮7.5トンを使用。修理の際の調査により、塔の建立年代を 800年頃とする従来の定説が裏づけられた。

室生寺の五重塔は、無事に再生できてよかったのですが、幸田露伴の名作『五重塔』のモデルになった東京・谷中・天王寺の五重塔は、1957年焼失したままで、コレクションの対象になりません。

文学作品だけに残る「谷中の五重塔」を作った大工の名は のっそり十兵衛
[97002] 2018年 11月 16日(金)18:54:02【1】hmt さん
地名ではなく、温泉名だった「宝塚」
「宝塚」を話題にした機会に、この名が「地名になった」のは意外に新しいことを記しておきます。

[96956]で紹介されたFAQの回答には、「その近くで物を拾った人には幸運が舞い込むと信じられていた古墳」があり、これが市名の由来という説が記されています。

自治体名としての「宝塚」が出現したのは、宝塚市成立の約3年前、1951/3/15の町制/改称でした。
兵庫県川辺郡小浜村→宝塚町。
変遷情報を明治合併の 1889年まで遡っても、「宝塚」という旧村名は見当たりません。
「宝塚」が地名になったのは何時からか?

古墳の呼び名から地名になる間を繋ぐ名前としては、「宝塚駅」が思い浮かびます。
阪鶴鉄道宝塚駅(国鉄>JRの前身)は 1897年12月開業。阪急の前身・箕面有馬電気軌道の開業は 1910年。

駅名より更に古いのが温泉名でした。阪急の創業者・小林一三が、宝塚音楽学校創設【1913年】の頃を回顧した『宝塚生い立ちの記』を 青空文庫で読んでみると、「四十年前の宝塚風景」として次のように記されていました。
宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近…武庫川の岸にささやかな湯小屋…。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のこと…。
その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げたが、1910/3/10 【阪急の】電車開通当時は、武庫川の東岸【左岸】すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。

その宝塚温泉も、明治時代に栄えたのは武庫川西岸の旧温泉側【武庫郡良元村】であったようです。
駅側の 新温泉は、阪急が乗客誘致のために明治末の 1911年に開業したものです。
私は 1950年代末期頃 大理石を使った豪華な大浴場を利用した経験がありますが、炭酸泉に溶食されていました。
炭酸カルシウムの大理石が炭酸水に溶けるのは、ケミストならずとも常識でしょう。
小林一三さんは偉大な事業経営者ですが、材質選定が不適切と実感したのでした(笑)。

それはさておき、宝塚温泉としては、広く事業を展開した新温泉が栄えました。
小林さん本人は「無理にこしらえた新都会」と記していました。
蒸気加熱設備のない室内プールで失敗しても、これを温泉客寄せの 少女歌劇場に転用し、花嫁学校につなげるなど、事業展開の才能には舌を巻きます。

「タカラヅカ」の名は温泉から脱皮し、新しい舞台芸術として 広く知られる名前になりました。
新温泉のある東岸側・川辺郡小浜村が 1951年に「川辺郡宝塚町」を名乗ることになったのも当然でしょう。

変遷情報を見ると、昭和合併時代の 1954/4/1に 宝塚市が誕生しています。
1950年国勢調査人口では、武庫川右岸の武庫郡良元村 21687人、左岸の川辺郡小浜村 15090人で、居住者は良元村の方が多いのですが、新市名は、一足先に小浜村から改名していた 全国区の「宝塚」になりました。

突然ですが、ここで女性首長の情報です。

宝塚市になって消滅した兵庫県武庫郡良元村の 最後の村長は女性でした。
岡田幾(おかだ いく) 1951/7/5当選 1954/4/1良元村消滅 

岡田指月(しげつ)の名で俳誌「白扇」を共宰する女性俳人でした。
合併問題の渦中にあった村長就任時の句:身をすててゆくや茨の夏の道
宝塚市誕生を喜ぶ句:春光に産声高し宝塚
安堵して村長職を辞任する時の句:戦ひは終りて安き日永かな
出典 近代宝塚歴史紀行

【追記】
この記事は小林一三『宝塚生い立ちの記』の冒頭文「宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく」に基づいて書いたものです。
その後、1672年の検地記録に「川面村の小字として宝塚東・宝塚南・宝塚北が記されている。」という異説が記されていることを、Wikipediaで発見しました。しかし、この点については 未修正です。ご承知ください。
[97000] 2018年 11月 16日(金)18:02:09【1】hmt さん
「塚」という字の来歴
「塚」という字の来歴
hmtマガジンに 特集 地名漢字(1)塚 を作りました。
[96956]で 雑学 市区町村名の画数 がリリースされ、賑っている地名漢字記事へのフォローです。

現存する市町村名の中で「塚」が使われているのは4市1村、横浜市戸塚区を加えても僅か6件[65927]ですが、話題になった地名漢字の代表として「塚」を選びました。

「塚」を選んだ理由は、常用漢字に採用されている 12画の「塚」[65972]の他に 13画の旧字体、いわゆる「ひげ塚」が存在するということだけでなく、平塚市など多くの自治体が 常用漢字使用に移行している中で、宝塚市が強い愛着を持って旧字体を使用しているように思われる点に注目したためです。

今回の特集に収録された記事から「塚」という字の来歴を要約しておきます。

[65948] 土偏と「丶」のある「塚」【13画の旧字体】:中国では「冢」zhong という字の“異体字
[65962] 漢字の本筋としては、「つちへん」がなく「丶」がある「冢」という字A が“正字”
[65964] 「冢」は、土を盛り上げた大きな墓 を意味する
 足を縛られた【丶】 いけにえ【豕】を埋め、土【俗字の土偏】で覆う【ワ冠】
[65962] 土偏のある「塚」という字B【13画の旧字体】を(日本では)普通に使用
 平塚市(1932)や宝塚市(1954)が誕生した時代には、当然この字を使用
[65903][65972] 1946年当用漢字1850字制定 塚は慣用正字13画Bも「丶」なし俗字12画C 共に「表外字」
[65972] 1977/1/21「新漢字表試案」1900字の中に「丶」がない「塚」Cが登場【12画の新字体】
[65962] 「常用漢字表」制定(1945字 1981/10/1)で公式に認められた C【12画の新字体】
[96995] (引用記事)宝塚市は1985年に市名に「丶」を入れることで見解統一【現在も13画を徹底】
参考: 宝塚市トップページの冒頭画像B 【1】誤記訂正

更に、平成合併によって自治体名ではなくなったが 市内の地名として存在する 藪塚本町の「塚」。
これについても、現在の大田市HPに正式表記は旧字体Bであることが記されています。【1】誤記訂正

「ひげ塚」のような字体問題は、宝塚市のような 現存市町村名 に留まる問題ではないようです。
[96951] 2018年 10月 22日(月)19:08:53hmt さん
明治150年
今年 2018年は、「明治」という言葉が登場した 1868年から 150年になります。

政府は、明日 10月23日に 憲政記念館で 記念式典を開催します。
明治150年記念の銀貨も既に発行されているようです。裏面は、明治初期の20円金貨の紋様。
額面千円ですが、財務省の販売価格は 9000円とのこと。日経2018/5/25

50年前・明治百年の時の大蔵省は、こんな「商売」をしなかったように思うのですが…

それはさておき、「一世一元制度」と共に「明治」という新元号を定めた 明治改元の詔書が 第726号として行政官から布告されたのは、九月八日でした。
10月23日は、この旧暦【天保暦】日付を、グレゴリオ暦【明治6年採用の太陽暦】に換算[21976][49122]した日付なのです。

上からは 明治だ などというけれど、「治明」【おさまるめい】と下からは読む

新しい政治体制を引き継いでいる政府としては、150年の成果を誇らしげに宣伝したいところですが、この狂歌[75516]に示されているように、庶民からは 横暴な田舎侍(おはぎ・おいも)への反発があったようです。

戊辰戦争で負けた側にとっては、「明治150年」というよりも「戊辰(ぼしん)150年」なのかもしれません。
でも、干支(えと)は 60年周期なので、150年は2周期半。今年は「戊辰」でなく「戊戌(ぼじゅつ)」です。

既に[75457]で書いたことですが、改元の遡及効果について。
慶応四年を改め明治元年と為す
明治改元までは、このように 年初に遡って歴史に記録する のが正式でした。

しかし、当時使っていた日付を そのまま使う現在方式の方が解り易く、落書き帳の記載には、便宜上、新方式の表記を多用しています。ご了承ください。

明治150年というニュースに接し、取り留めのない記事を書いてしまいました。
私としては、「都道府県市区町村」というサイトなので、約150年前の「府県」を再認識する機会と捉えています。

150年前というと、まさに「府県」が誕生しつつある時代でした。
詳しくは、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県までをご覧ください。
[96938] 2018年 10月 18日(木)18:16:37hmt さん
MIさんにお礼
[96936]の御教示、有難うございます。
例示により、urlの「&extent=」以下の記述による 経緯度指定を知りました。
[96934] 2018年 10月 16日(火)19:25:21【2】hmt さん
五千分一東京図測量原図
[96933] MI さん
これ【永田町の富士見坂】については url が変わっており、千代田区内の坂の14.に説明があります。

御指摘を受けて、[96931]【追記2】で対応した際に 記事番号を誤記し 失礼しました。こちらが正しい番号でした。

今回の本題は、同じ[96933]で教えていただいた「五千分一東京図測量原図」を使ってみた報告です。

1884(明治17)年に作成された「五千分一東京図測量原図」は復刻版もありますが、農研機構の所蔵するものが公開されており、閲覧することが出来ます。「マップビューアーで開く」をクリックすると地図が開きますので…

デフォルト地図は、皇居を中心とした都心部の縮小地図でした。
ズームとスクロールによって、皇居の西側に移り、右に桜田濠【内濠】、左に弁慶堀【外濠】という配置にします。

明治の地図では弁慶堀の岸に赤坂区役所があり、少し東の赤坂門【赤坂見附、明治の地図の表記は南坂門?】まで伸びている濠(現存)と共に、よい目印になっています。

地図の右(東)方を見ると、桜田濠に沿った広大な敷地に陸軍の施設があります。
その中でも東京市麹町区永田町一丁目一番地。
三宅坂交差点に面するこの地については、地図の元締め 陸地測量部の住所に関する記事[94784]を書いたことがありますが、それよりも前の五千分一図には、陸軍省、その南に参謀本部と記されていました。

【追記1】
五千分一図が作られたのは東京市発足以前ですから、[94784]記載のまま書いた上記の番地は少し不適切でした。

それはさておき、この東京五千分一測量は、先進的な技術・機器を持つ内務省地理局の測量部門を併合した 参謀本部測量局による 本格的な地図作りの始まりでした[44653]
地図がフランス式彩色図から、ドイツ式一色図に変ったのも同じ時代ですが、明治17年に測量が完了した参謀本部の五千分一東京図も、フランス式彩色図で作られた原図があり、そのWEB公開が 今回落書き帳に登場したのでした。

なお、参謀本部と同じ測量結果を共有して作成された 内務省地理局の五千分一「東京実測図」15面(明治19-21刊行)についても、[44653]で言及しました。カラー印刷ではありませんが、参謀本部の地図よりも 範囲が少し広く、およそ東京府15区の範囲をカバーしているようです。柏書房の復刻地図集だけでなく、人文社の「明治の東京」(1996)に記された溜池の話[33199]も、この地図の説明でした。【追記1終】

話を永田町の富士見坂に戻すと、この坂は 赤坂見附と三宅坂との間に位置するわけですが、明治16-17年の五千分一図には、まだ姿を見せていません。

以上が、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」を眺めた結果です。

MIさん[96933]が記載してくれた情報。
これを個人的に確認するだけならば、マップビューアー上の前記操作の報告だけでよかったのです。
しかし、多くの読者に伝えるには、作業結果を地図で示したい。そのように思いました。

2万分の1の歴史的農業環境閲覧システムのように「Permalink」が付いていれば有り難いのですが、今回の五千分一図では、この状態の地図を示す方法がわかりません。

そこで、農業土地利用変遷マップを使い、東京5千分の1を表示してみました。

このマップのデフォルト地図は 新常盤橋付近の zoom=17図でした。
これをスクロールして永田町の富士見坂の位置にして、 永続リンクを表示させたた結果 です。

ここで得た地図は、「参謀本部の五千分一東京図」に現代の基盤地図情報/地名【青字】を重ねたものです。
だから、後者のレイヤーを透明にすることで、国道246号【現代の富士見坂】などを消去すれば、明治前期の地図に戻ります。

赤坂区役所。赤坂門【南坂門?】。坂名の記載がないこと。三宅坂までの道路はまだつながっていないこと。
そして、汐留川上流になる小川の周囲に 湿地状態で残る「溜池」[33199]

地図の扱いをよく理解できていませんが、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」。
どうやら、有用な資料として使いこなす手がかりを得たような気がします。

【追記2】
五千分の一東京図の礼賛記事 がありました。
残念ながら東京の中心部しかカバーしていないこの地図は 上記の基準【正確さ、使いやすさ、美しさ、歴史的価値】を全て満点で満たす最高の地図である.

この地図を自由にWEB閲覧できる時代が到来。農研機構だけでなく、教えてくれた[96933]にも感謝。【追記2終】
[96931] 2018年 10月 13日(土)18:08:09【2】hmt さん
永田町の富士見坂
きっかけは、WEBを眺めているうちに AERAdotで偶々見つけた 55年前の「永田町」 という写真です。
鉄道写真家の 諸河久さんの名は雑誌で存じ上げていたのですが、「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」を連載中であることは知りませんでした。

これだけなら、こちら都道府県市区町村落書き帳への投稿に繫がることはないのですが、次ページの記載が気になりました。
この界隈。学生時代から疑問だったのだが、赤坂見附から平河町に続く坂道の名称が不明だった。(中略)
現地踏査しても不明だったので、赤坂見附の交番にお邪魔して、お巡りさんに質問
したが、解決せず。
ご存知の方からのご教示をお待ちしたい。
とのことでした。

東京の坂道について 特に詳しいわけではありませんが、問題の坂が「富士見坂」であることは知っていました。
埼玉県ですが「富士見市ふじみ野」の住民でもあり、そのまま放置しておくことが できなくなり、教えてあげたい。
ツイッターを使えば連絡できそうです。でも 私は使ったことがなく、手を出せません。

慣れ親しんでいる こちらのページを利用すれば、何らかの情報仲介も期待できのではないか? 
というのが、この記事を書き込んだ趣旨です。

落書き帳過去記事で「富士見坂」を検索すると、[71914] 江戸の坂道 と題する記事がありました。
これによると、江戸に富士見坂が多数あったことは書いているが、永田町の富士見坂には触れておらず。
[22911] KMKZさん では http://www.t3.rim.or.jp/~kuri/fujimi/ 東京の富士見坂 が紹介されており、そのサイトの千代田区には、永田町・富士見坂 を紹介したページへのリンクもありました。

千代田区の坂(3)~平河町・麹町方面 には 地図リンク もつけられていますが、説明文を見ると【標識なし】と記されています。

【追記2】[96033] MI さん の御指摘に基づき、【追記1】を再修正しました。
この説明文には千代田区ウェブサイト【url変更】からの引用文がありました。

首都高速道路の下になって、現実の景観と外れてしまった「富士見坂」という名称の取り扱いについて。

ウェブサイトの説明文や標識が見当たらなかったことから、千代田区としては「富士見坂」の地名を放棄したいのかと疑ってしまいましたが、説明文urlの変更でした。
富士山の眺望が失われて久しい「永田町の富士見坂」ですが、地名ファンとしては「過去の景観を伝える文化遺産である地名自体は残したい」と考えます。
諸河さんやお巡りさん、そして多くの地名ファンの隠れた希望も考えていただきたい。
「富士見坂」の地名消滅に通じるようなことはせず、標識も建てていただけないものでしょうか。

余談ですが、三宅坂[94784]交差点から西に進む青山通りには、富士見坂の坂上付近の南側に 全国町村会館があります(千代田区永田町1-11-35)。
富士見坂を西に下った青山通り北側には、都道府県会館があります(千代田区平河町2-6-3)。
富士見坂を離れ、都道府県会館から右(北)に進めば、都市センターホテルの先が 全国都市会館です(千代田区平河町2-4-2)。【追記終】
[96927] 2018年 10月 11日(木)19:42:41【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (1)東京都中央卸売市場 「ターレ」の行列
我が国最大の規模を持つ生鮮食品市場が、再出発しました。
豊洲市場が開場 2年遅れ、築地継承の中核市場始動 日経2018/10/11

「東京のローカルニュース」と言えば それまで なのですが、大きな胃袋を抱えた大都市の台所。
産地直送、インターネット販売など、従来と異なる商品流通システムが稼働しつつある中で、これまで流通の中心になっていた市場の役割も見直されつつあるようです。
巨額の投資を伴った豊洲の新設備の将来が注目されます。

築地市場から豊洲市場へ。落書き帳の初期。‎[5229]蘭丸さんの「中央区」と題する記事がありました。
この区は銀座や日本橋といった日本を代表する商都を抱えており、東京都中央卸売市場築地市場も預かっています。
戦後、日本橋区と京橋区が統合されて誕生した中央区ですが、銀座・日本橋の賑わいは今や新宿や渋谷に押され気味、築地市場も、都は地元の反対を振り切って江東区豊洲へ移転計画を進行中です。

「中央」と言えば卸売市場法に「中央卸売市場」という制度があり、特に重要な都市地域における生鮮食料品等の卸売の中核的拠点と位置づけられています。

3都府県と37市とが 64市場を開設しており、Wikipediaに一覧表がありました。
これによると、東京都には 11市場が存在し、2010年度取扱金額は、青果5296、水産4571、食肉978、花卉856、合計11701億円で、東京の総額は1兆円を越えていました。

10月6日に廃止された 築地市場のデータを見ると、2014年1日当りの取扱金額(百万円)が、水産: 1611、青果:323となっていました。合計金額 1934百万円/日を260倍すると 約5000億円になります。【11市場で45億/日、260日計算で2010年度の金額とほぼ一致】

築地は、東京にある 11の中央市場の中でもダントツの知名度を持つ市場ですが、取扱金額を見ても、全体の 半分近くを占める日本一の巨大市場だったのでした。
この大市場が 中央区から江東区の豊洲に引越したわけです。

参考までに、11市場の中で築地に次ぐ大田市場【大井埠頭】は青果の他に花卉と水産の扱いもあり、合計1196百万円/日。
取扱規模の3番目は、品川駅港南口【芝浦】にある食肉市場で 495百万円/日。
以下、淀橋【大久保】、北足立【舎人】、葛西【臨海】、板橋【高島平】という順で、豊島【巣鴨】、世田谷【砧】、足立(水産)【千住】、多摩ニュータウン【永山】はその下位。【括弧内は参考までに記した地名】

江戸から東京へ 主な市場の歴史:
水産物市場(魚河岸)は、江戸以来の日本橋から 築地の83年を経て 今回 豊洲移転が実現。
開国による肉食の普及により 市内各地に作られた屠場。1938年 芝浦の施設ができ、これに統合。
最も長い歴史を重ねたのは 青物市場で、巣鴨とげぬき地蔵に近い 豊島市場の起源は 16世紀頃に遡るとか。
江戸時代以来、江戸の青物市場としては [51822]神田多町(たちょう)の名が有名で、関東大震災で焼失後も、神田の秋葉原駅北口で復興。戦後の 1989年 大井埠頭埋立地の大田市場が開場し、移転。


築地から豊洲への引越作業も大仕事だったようです。
冒頭の日経にもありましたが、朝日2018/10/7の記事を引用します。
7日は早朝から、市場で使われる小型運搬車「ターレット」(ターレ)やフォークリフト300台以上が、使用開始前の環状2号線を走って豊洲へ移った。

「Turret」という言葉は、欧州の城郭に由来する円筒形砲塔が起源で、戦車や軍用機の砲塔・銃座、更には消防車・旋盤・顕微鏡のメカなどにも使用。ここに登場するのは、市場の狭い構内を走り回る運搬用車両。円柱状の動力部と、荷台とが合体した立ち乗物で、動力部自体がハンドルの役目をしています。
昔は内燃機駆動でしたが、その後登場した電動車に置き換えられているようです。築地市場を走りまわる「ターレ」の謎に迫る

今回の 東京都中央卸売市場引越 に際しては、築地から豊洲の区間について、公道化する直前の環状2号線[85227]をターレット・トラックの行列が走り、とても珍しい光景が動画に収められていました。


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