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hmtさんの記事が10件見つかりました

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[99415] 2020年 5月 2日(土)12:22:38hmt さん
「下ノ関市」は存在しなかったらしい
[81567] hmt などへの自己レスです。
長門国 赤間関 23527人:1889年市制施行で赤間関区から赤間関市へ。1902年下関市に改称。下ノ関?

末尾のリンクにまとめられている 改称に関する過去記事の要点を記します。

[123] Issieさん 戦前の制度:町村の廃置分合や市の改称(町村も)について、内務省告示は不掲載。
[882] Issieさん はじめ「赤間関市」、一般には「下関」、やがて 下関に統一。
[27855] Issieさん 旧憲法および市制・町村制下 赤間関市 →下関市 の“改称”に関わる告示 見出だせず。

[74498] hmt 
「山口県管下長門国豊浦郡赤間関市を下ノ関市と改称し同年6月1日より実施(同上)」
出典:「府県及北海道境域沿革一覧」(内閣統計局編、明治43年東京統計協会)第三編
その原典とされた統計局の 郡市町村廃置分合一覧表でも赤間関市→下ノ関市 M35/6/1実施を確認。

この資料を信じると、「下ノ関市」を経た2段階改称説 が生まれます。2段階説は正しいのか?

[74499] hmt 下ノ関市への改称告示は市条例? 短期間で下関市になったと推測 統計局は知らなかった?
[74506] Issieさん 漢文の感覚では「ノ」がない方が正式なのかも。“潔癖症”的な現代とは感覚が違う。
[74509] oki さん 税務署以外の役所は「ノ」の有無にこだわらなかった?
【この記事も 改称を受け止める側の感覚に注目。その上で 2段階改称に否定的。】
[74715] hmt 新聞記事:下之関市を含めた三転、「下関」を 市名として取り戻したい地元の要望

最後に、最近の調査で知った レファレンス事例を紹介
これによると、下関市史 市制施行-終戦 P58 に記載があるとのこと。

「下ノ関市」への言及はなく、下関市の公式見解は、赤間関市→下関市 の直接改称と理解されます。
下関市史の該当箇所は閲覧していませんが、改称当事者の下関市の公式見解が明らかになったと思われます。

[74498]で引用した統計局資料の「下ノ関市」。
いかにも告示らしき口調の文ですが、原典を発見できず、何故誤った情報になったかは、謎のまま残ります。

[74498][74499]から 10年を経過しましたが、これで 2段階改称説の幕を引くことにします。
[99400] 2020年 4月 28日(火)16:06:08【1】hmt さん
1952/4/28 平和条約発効に伴う市町村の変遷 戦前の小笠原5村廃止
4月28日 今日は何の日でしょうか?
1952年というと昭和27年ですから、メンバーの中で当時の記憶があるのは hmt くらいのものと思いますが、日本にとって新時代の始まる年でした。
個人的には大学生になった年であり、直接の関係はないものの メーデー騒擾事件 も記憶に残ります。
東京の市街地道路には、至る処に 英文の標識が立っていました。Occupied Japan のシンボルです。

その前年 1951年9月に 連合国51ヶ国による 対日講和会議 がサンフランシスコで開かれました。
もっとも、事前に来日した米国のダレス国務長官顧問が 吉田茂首相との間で実務的な合意を成立させており、会議の実態は「平和条約」に署名する調印式に近いものでした。
とはいうものの、会議ではソ連のグロムイコ外相が反対論を展開、ソ連、ポーランド、チェコの3国は署名せず。
当時は朝鮮戦争中で、中華人民共和国は米国と対立していました。会議主催者の米国は、東西対立を考慮し、中華人民共和国と中華民国(台湾)との両国 いずれも講和会議に招聘しませんでした。

会議において吉田全権が読み上げた受諾演説は、30m近い巻紙に毛筆で記されたもの。裏話1 裏話2 

講和会議では、後に首相になった池田勇人など全権5人全員が署名しました。
しかし、同日に調印された 日米安全保障条約の署名者は、吉田首相1人でした。

講和条約は1952/4/28寄託により発効し、日本国との平和条約(昭和27年条約第5号) として公布されました。

この落書き帳の中で多用している「Occupied Japan」という用語が過去の存在になったのは、この日でした。
そこで、都道府県市区町村 履歴情報1952年 を開いてみたのですが、4月28日の記載がありません。

実は、昨年の4月28日に[97663]を記した際に、 沖縄「屈辱の日」と書いたのですが、今日は 小笠原への影響について記します。

1952年の平和条約発効時点での小笠原。
潜在主権の存在は認められたものの、日本復帰が実現していなかった点では、沖縄と共通の事情にあります。

違うのは、「地域住民共同体を構成する市町村」が【戦後の混乱期を含めて、曲りなりにも】存在し続けていた 沖縄・奄美に対して、小笠原では 消滅に近い状態 になっていたことでした。

戦前の小笠原5村については、市制町村制施行時の状況東京都の下の方に 1940/4/1 設置が記録されていますが、その後の変遷が記録されない状態になっています。

[79760] 中島悟さん の末尾
小笠原諸島の【中略】これらの5村が消滅していることを書き加えたほうが良いと思います。
[83624] むっくんさん
(16)小笠原5村(大村、扇村袋沢村、北村、硫黄島村、沖村)の廃止の記載をすること
に対する [85063] グリグリさん の意見
こちらの変更種別については「廃止」が妥当でしょうか。
に続いて、[85081][85082] hmt も意見を記しています。
[85081]に記した 「[79266]でリンクした小笠原村沿革」の代りに、現在閲覧できる同名のページ をリンクします。

その中の 1952年(昭和27年)の記載
対日平和条約の発効により、小笠原はアメリカの施政権下になる。小笠原支庁及び各村役場が廃止される。父島に米海軍施設(U.S. Naval Facility, ChiChi Jima)が設立される。

言葉が少し増えていますが、わざわざ「各村役場が廃止」と書かれた表現は変りません。
やはり【事実上の村の廃止はもっと前だが、“村の廃止”が(1952年に)手続上でも完了した】と理解します。

事実上の廃止日は、硫黄島地上戦と父島などへの空襲とは 条件が異なり、村により相違するでしょう。
変遷情報としては、手続的に旧村の廃止が完了した 1952年【日付を入れるならば、平和条約発効に伴い、戦前の行政機構から《自動的に縁が切れた》4月28日です。】を記録するのがよいと思います。
[99374] 2020年 4月 18日(土)13:48:08hmt さん
明治22年4月1日 「町村制」施行により 長野県北安曇郡に設置された自治体 「大町」
[99372] MI さん
数年前に県立長野図書館で確認していただいた調査の詳細報告をいただき、ありがとうございます。

從來ノ町村ヲ分合シ其區域別册之通來ル四月一日ヨリ編制ス
【別冊】【新町村区域の郡名】北安曇郡、【新町村名】大町、【舊町村名】大町
朱書による訂正なし。さらに【同年】4月10日 - 町制施行 の記載もなし。

これにより、明治22年(1889年) 4月1日 長野県 町村制施行 16町375村設置の #252 に記されている情報は、正しい裏付けを得たと判断します。

詳細ではピンク地で示されている 旧・大町 が、Wikipediaに記載されているように
1882年(明治15年)3月20日 - 大町村が村格のまま、「大町」に改称
された状態を継続していたのか 否かは 未確認のままですが、新制度とは無関係のことでしょう。


いずれにせよ、明治22年当時に使われていた制度用語は「町村制」「町村名」で、町と村とを区別するのは、個別の名称だけです。
従って、「変更種別」も「町制」ではなく、「町村制」と記録するのが正しいように思われます。

制度としては「町村制」であり、村から町への呼称変更は 別の制度による「町制」を施行したのではなく、「町村制」の制度内での「改称」に過ぎない。
「24年告示第27号を以て上諏訪村を上諏訪町と改称」[91956]

このような慣行から、「町制施行」という言葉が使われる慣行に移行したのは、何時のことか?
戦後の地方自治法? いや、もっと根が深いのではないか?

その答を持っていない私としては、根拠不詳ながらも 変遷情報 上諏訪町 における「変更種別:町制」を受け入れざるを得ない、中途半端な状態なのです。
[99370] 2020年 4月 16日(木)17:09:51【1】hmt さん
hmtマガジン「町と村の違い」更新
2016年11月、グリグリさんの疑問 [91951]「大町は村?」を発端に、[91971]種別名 に至る一連の記事9本がありました。

大町・谷村の同類。つまり語幹部が漢字1字である自治体名。
このタイプの「もとの地名」を論じた最初の記事は[34776]の「中村」でした。
しかし、[91969]に引用してあるので 省略し、特集 町と村の違い の末尾には 2016年の9本の記事を 追加しました。

[91951]で引用された Wikipediaには、現在でも次の記載があり、町村制施行当初「大町は村だったのか?」という疑問が生じたのでした。
1882年(明治15年)3月20日 - 大町村が村格のまま、「大町」に改称する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
【同年】4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。

この疑問に答えようとしたのが[91956]ですが、明治22年4月10日 大町の町制施行 を裏付けることができそうな県令・告示などの一次資料を発見するには至りませんでした。

[76874] むっくんさん に引用された『長野県現行令達類聚』に掲載された 明治22年長野県令 第18号(3月19日)には、「新町村名:大町」が明記されているのですが、明治25年12月迄の改正が盛り込まれており、「明治22年の原文そのままではない」という問題点がありました。
此書専ら専ら簡約を主とす 故に…改正増補の文字に改め旧文を存せず 欄外に於て其沿革のみを記載す

結局、[91956]の結論は グリグリさんの問に対する返事としては物足りないが、次の通りでした。 
現状では、「大町は 1889/4/1に村制を施行した」と信ずるに足る証拠が 具体的に示されていない。
従って、大町は 1889/4/1に町制を施行した生まれながらの町である」とする趣旨の変遷情報を 改める必要はない。

[91956]の末尾、余談:村と町との区別について より抜粋
便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いましたが、これは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
現行の「町になる要件」【地方自治法第8条第2項】は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。

「生まれながらの町」論争はさておき、グリグリさんは [91965]で、「町村名」に「まち・ちょう・むら・そん」なども含めるべきかどうかというテーマに舵を切りました。

例示された山口県阿武郡椿郷東分村。
私も 椿郷/東/分村 だろうと思っていましたが、にまんさん[91970]から 椿郷/東分/村 という指摘がありました。
大きな村の「西半分」「東半分」といった意味合いが強いと思われます。

椿郷西分村→1910年椿村、椿郷東分村→1921年椿東村、1923年両村他1村萩町に編入、1932年萩市

現在は統合された市町村名で単純化されましたが、履歴を遡ると「町村名」からも複雑な過去が現れるのでした。
[99368] 2020年 4月 14日(火)16:16:30【1】hmt さん
役場巡りの菊人形さん
[99366] 菊人形さん
全国の市町村役場を一通り巡りましたが、庁舎が新しくなると再訪しているので、ゴールは永遠に来ないかもしれないです(笑)。【中略】
さて、新型コロナの影響で各地で自粛空気の中で、本日(4月13日)に3つの市役所の新庁舎が開庁しました。

お久しぶりです。
菊人形さんとの初対面は、2012年の岐阜オフ会。例会翌日にも、金華山行きなどで助けていただきました[82265]
その後も 2016年の杖立まで 5年連続してオフ会同席。
2013年の松江では、富士山世界文化遺産登録を記念して 富士見市が作成した団扇[83633] を菊人形さんがゲット[84496]

2015年 氷見を訪れる往路では、思わぬハプニングもあった[89225]とか。
hmtも 2008年 湯瀬オフ会への往路で訪れた八戸駅(当時は新幹線終着駅、記事なし)で、同様の失敗を経験。

庁舎訪問の趣味は 特にありませんが、『広報かわぐち』で川口市新庁舎の外観4/13_使用開始を閲覧。

菊人形さんの過去記事を眺めていたら、4年前に 北海道石狩湾北端の 雄冬に関する記事があることを発見。

関連記事には、
30年前の「陸の孤島」時代に 酷い船酔いに苦しめられながらも訪れた高校生が 落書き帳メンバーとして活躍しており、しかも3年前にも国道231号で 再訪を果していること
に感動した hmtの記事[92055]も 含まれていました。

楽しからざるニュースが溢れている昨今です。
しかし、久方ぶりのメンバー登場を機に、一つの地名「雄冬」を選んで、過去記事を発掘してみました。
その結果、普段は忘れていた地域や その過去を再認識して、歴史の中に生きている実感を味わうことができました。
[99364] 2020年 4月 12日(日)15:18:34【1】hmt さん
チバニアン補足
[99356]の補足です。
これまで「中期更新世」と仮に呼んでいた77万4000年前から12万9000年前の地質時代

シロウトですが、学問の進展により変化している 地質時代の名称について、少し記しておきます。

最初に 第一紀・第二紀・第三紀・第四紀と呼ばれた区分の基準は、古生物化石の変化【大量絶滅】でした。
しかし、研究が進んだ結果、第一紀には6紀が、第二紀には3紀が含まれることになり、古生代・中生代と命名。
これに伴い、恐竜に代り哺乳類と鳥類が陸と空の動物代表になった第三紀以降は、新生代と命名。

第三紀 Tertiary。これは 長く使われてきた用語であり、現在でも「K-T境界層」などの用例を見かけます。
K-Tの「K」は、ドイツ語の Kreide 白亜紀 です。
現在では 古第三紀 Paleogene と 新第三紀 Neogene とに分けられており、「K-T」は「K-Pg」になりました。

第四紀 Quaternary だけは、大量絶滅とは無関係に、「人類の時代」として使われてきましたが、2004年に Neogene に併合する提案がなされました。
しかし、この提案には 反対論が多く、第四紀を存続し、その始期【新第三紀との境界】を ジェラシアンの基底年代である 258万年前とすることになりました。2009年6月です。

2010年の 地質時代区分を見ると、0.78-0.126Mya は「更新世中期*2」と記され、「*2:Ionian が提案」という注記により「チバニアン案」は未申請であったことが解ります。【イオニア海に由来するイタリアの提案】

最新の 国際年代層序表v2020/01

この表の左上 第四紀更新統/更新世の2番目に 「チバニアン」0.774-0.129Mya があります。

日本の地名に由来する チバニアン が、国際年代層序表に 新たに採用されたのは 快挙であるように思われます。
それは「地磁気逆転」研究分野に関して、松山教授を先駆者とする日本人が貢献した成果を背景とするものでした。

しかし、今回の命名に至る段階では 日本国内の反対論・反対活動もあったと伝えられています。出典


新第三紀 中新世に「アキタニアン」があります。これは 秋田… ではなく、フランス南西部 Aquitaine 由来です。
[99356] 2020年 4月 10日(金)19:06:11hmt さん
心配事の材料は、コロナウイルスだけではない
現時点で世間を騒がしている心配事の材料と言えば 何と言っても コロナウイルス です。
感染の原因とされる 他人との濃厚接触 を避けることは、もちろん必要でしょう。
幸い、免疫というシステムが存在し、免疫に関する研究も進みつつあるので、人類滅亡という段階になることはあるまい。

悪疫対策や老衰への備えは常識となっていますが、発生の時期も、社会に対する影響も不明であり、如何なる対処が求められるのかわからず、不明のまま放置されているに等しいリスクもあります。

「無視していたリスク」の一つに気付かされた材料に、4月1日の記事 [99325]チバニアン がありました。

改めてチバニアンを検索してみた結果、この地は 地磁気の逆転(ポールシフト)に関する研究にゆかりのある地であることを知りました。

2020年1月、ついに「チバニアン」という時代が誕生することになりました。これまで「中期更新世」と仮に呼んでいた77万4000年前から12万9000年前の地質時代、その時代の始まりを告げる痕跡が千葉県市原市の地層にあったことから、日本の研究者たちが時代の名前としてチバニアンを申請していました。

方位磁石は古くから航海に利用されていましたが、ギルバートが地球は大きな磁石であるとしたのは1600年。
ガウスが地磁気の研究を始めたのは 19世紀であり、ブリュンヌが現在とは逆向きに磁化された岩石を発見したのは、1906年でした。
京大の松山基範教授は、1926年の玄武洞以後に行なった逆向き磁化の研究により、「地磁気逆転の可能性」を示す論文を 1929年に発表しました。

最近 500万年澗を見ると、ギルバート, ガウス, 松山, ブリュンヌと4人の先駆者の名で大別された4期間の中で、更に細別された逆転を繰り返していたことがわかります。

2015年5月作成の 第四紀とは 2/4コマの図では横向きになっていますが、同様の図が日射量、海水準、人類と共に示されています。海水準の上った間氷期もありますが、概ね氷期であったことがわかります。

ネアンデルタール人、ホモ・サピエンス共に、地磁気逆転を経験したのは 人類の文明段階が低かった「氷河時代」ですから、私達文明人にとり、地磁気逆転は COVID19とは比較にならない 全くの未経験の事態です。

楽観的観測もありますが、メカニズムが解明されていない磁極逆転の時期とその影響。
私達の生きている間に、そのような事態になることはないだろう。

そんな気休めを唱えながら、幸運を祈るばかりです。参考
[99352] 2020年 4月 6日(月)20:14:16hmt さん
Re:連鎖循環クイズ
解いてみた結果、私として最も感心したヒントは、下記の部分でした。
A市と同一年月日に市制施行した兵庫県の市はB市です。
[99340] 2020年 4月 5日(日)17:18:38【1】hmt さん
琉球処分
昨日4月4日は 1879年に 沖縄県が設置された日 でした。明治12年太政官布告第14号
ローカル祝日とされている県も多い「県の誕生日」ですが、沖縄県の受け止め方は、様子が違うようです。

【追記】
公式書類上では日本全国に布告された M12/4/4とされている「第二次琉球処分の日付」ですが、沖縄の人たちの心に深い傷跡を残した日付は、突然に 武力による威嚇を伴って 知らされた 「M12/3/27」 であったようです。【追記終】

沖縄県公文書館のページ あの日の沖縄をご覧ください。
沖縄県の誕生は、琉球人の視点では、500年余の歴史を持つ琉球王朝の 事実上滅亡。
その厳しい変化を実感した出来事でした。

琉球の歴史 を遡ると、江戸時代初期の 1609年に 日本の薩摩に征服され、奄美を失いましたが、沖縄と先島については 首里の王府が存続しました。
鹿児島による間接支配を受けながらも、対外的には【“中国の服属国”たる「琉球王国」として】外交・貿易権を行使し、稼いでいました。

明治になると、その影響は琉球にも及びます。
明治4年 廃藩置県の結果 一旦鹿児島県管轄になった「琉球国」[76021]は、明治5年には 政府(外務省)直轄の琉球藩になりますが、その
明治5年正月に 鹿児島県が琉球に派遣した 伊地知貞馨らが 明治維新の変革を説明したのが、琉球処分に至る公式手続の最初でしょう。ここで 琉球の置かれた状況 を確認させたつもりでしたが、現実には 琉球側は 政権交代の意味を 十分には認識しなかった と思われます。

琉球藩王・尚泰王の名で 最後の清国進貢船を送ったのは 明治9年(1876)[4027]

前記「あの日の沖縄」には、次のように記されていました。
この琉球藩設置から沖縄県設置までの一連の措置は、政府の公文書にちなんで「琉球処分」と呼ばれます。

「琉球処分」という言葉について。
当時の公文書にズバリの例は未発見でしたが、松田本人の使用した言葉であるようです。参考
後に生まれた呼び方かもしれませんが、内務大書記官の彼は、「琉球処分官」松田道之 という 肩書により呼ばれるようになったようです。その時、沖縄は

明治12年4月4日の変化は、形式的には 日本本土で明治4年に行なわれた「廃藩置県」と同様です。
しかし、武力による威嚇を伴い実行され、「処分」にふさわしい厳しさを伴う変化であったようです。

琉球処分時代に見られた人口の異常な変化についての記事もありました。[72118]
[72124] YT さん
第二次琉球処分の前後の2年間(明治11年~明治13年)で、ほぼ本籍人口が倍増しています。いくらなんでも2年間で人口(しかも本籍人口)が倍増することは、たとえ本土から集団移住があったとしてもありえないので、解釈は一つしかあり得ません。つまり本土からの役人が介入したことにより、それまで隠されていた人口が明らかにされたということです。
人口が隠蔽された原因ですが、おそらく税の主体が人頭税であったことが考えられます。これに対し本土では地租が税金の主体であり、人頭税が敷かれた藩は余り多くありません。そのため比較的本土の本籍人口は実態を反映していると考えられています。
[99312] 2020年 3月 29日(日)17:57:36hmt さん
1854年 御台場を舞台としてペリー艦隊と戦ったら?
高輪ゲートウェイ駅が暫定開業(2020/3/14)したと思ったら、今度はコロナウイルス感染症対策で東京封鎖の動き。

慌ただしい動きを示す首都の「玄関口」ですが、170年近く前の「御台場築造」も、東海道封鎖を伴う大工事でした。

ことの起こりは、ペリーが率いて嘉永6年(1853)浦賀に来航した艦隊による アメリカからの開国要求でした。

江戸幕府は、どのように対処したのか?
とりあえずは、通商条約を拒否。
しかし、アヘン戦争の二の舞だけは回避しなければならない。そこで、日米和親条約を締結[91104]

「品川台場」[80264]を築造し、急拵えながらも、翌年には数を増して再来航し 江戸湾に入った米国艦隊に対し、辛くも日本の「海防体制」を示すことができました。
1854年の日米和親条約締結については [77711]に記しましたが、条約調印の場所に 江戸から少し離れた横浜が選ばれた背景には、品川台場の威嚇効果も多少は寄与していたのかもしれません。

最近 NHK 歴史探偵で「黒船来航」と題して、品川台場を舞台とする「黒船迎撃作戦シミュレーション」が放送されました。
もちろん、現実には 日米和親条約で妥結した外交交渉により、結果的には避けることができた決戦でした。
しかし、御台場からの集中砲火能力、アメリカ側のボート・ホイッツル砲の活用、ペリーの再訪が予定より早くて御台

場築造工事が間に合わず 3砲台では負けてしまうという結果、日本側が用意できる多数の小舟、武士の気概と戦闘能力、日米問題に留まらず ロシア・イギリスなど他国が動く可能性など、多方面の視点からの言及があり、なかなか興味深い番組でした。
…と、一応はシミュレーションを褒めておきます。

しかし、番組で取り上げていなかった重要な因子として、アメリカの国内事情があります。

ペリーは日本に対して通商を求める 第13代大統領フィルモアの国書を持参しました。
しかし、「これを日本に拒否された場合、直ちに開戦に直結させる権限」など与えられていません。
日米戦争に発展する可能性など、全くなかったのではないでしょうか。

これを言い出すと、番組の主軸である「黒船迎撃作戦」が成り立ちませんが、テレビの娯楽番組なんて こんなもの なのでしょうか。

参考までに、ペリーの持参した国書【翻訳文】を発行したフィルモア大統領の任期は、ペリー来航より前に切れて、第14代ピアース大統領に引き継がれています。第15代ブキャナン大統領を経て、第16代大統領がご存知・リンカーン大統領です。

通信技術が発達していなかった時代というだけでなく、南北戦争前で米国内の対立も存在した時代です。
そもそも、捕鯨船への物資補給を頼るために 日本開国を求めたアメリカ。
兵站のことだけを考えても、太平洋を隔てた遠い日本との戦争など、アメリカが考えるはずはなかったのでした。

1854年の騒ぎから4年後、ハリスとの交渉により通商条約も調印。もちろん、
阿片の輸入厳禁たり
という一文が、罰金額と共に第二則の末尾に記されていたのでした。出典

幸い実戦に使わずに済んだ御台場ですが、今回の記事を記すための調査により、江戸の守りは品川台場でというページを知り、参考になりました。


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