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ニジェガロージェッツさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[66862]2008年9月24日
ニジェガロージェッツ
[65940]2008年8月5日
ニジェガロージェッツ
[65937]2008年8月5日
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[65891]2008年7月29日
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[65753]2008年7月13日
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[65328]2008年5月30日
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[65315]2008年5月30日
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[65047]2008年5月10日
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[64939]2008年5月1日
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[64795]2008年4月18日
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[64773]2008年4月17日
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[64704]2008年4月14日
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[64113]2008年3月24日
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[64045]2008年3月16日
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[63864]2008年2月29日
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[63729]2008年2月14日
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[63695]2008年2月10日
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[63030]2008年1月3日
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[63011]2008年1月1日
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[62865]2007年12月16日
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[62757]2007年12月2日
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[62753]2007年12月2日
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[62579]2007年11月20日
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[62497]2007年11月12日
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[62450]2007年11月9日
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[62325]2007年11月1日
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[62240]2007年10月26日
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[62005]2007年10月16日
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[61873]2007年10月13日
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[61863]2007年10月13日
ニジェガロージェッツ

[66862] 2008年 9月 24日(水)22:33:23ニジェガロージェッツ さん
稜線規制
神戸は震災(平成7年1月17日)から数えて今日で5000日目を迎えました。
「え! もうそんなに?」と言うのが率直な感想ですが,被災後の生活は一向に好転しません。というより,被災直後の方が,将来の復興など,夢のある生活をしていたような気がします。

さて,神戸についての話題を少々。

[66805] 小松原ラガー さん
景観条例
神戸の特徴である六甲山脈(神戸背山)の海からの景観を保護するために建物の高さを規制する,具体的には兵庫区の北にある菊水山(標高459m―山頂は北区)から灘区西端の摩耶山(標高702m)までの稜線が「ポーアイしおさい公園」から見えるように,云わば「稜線規制」ですが,これだと生田・葺合の市街地のほとんどが規制の範囲に掛かる一方で,西隣の兵庫区,東隣の灘区の市街地は範囲外になります。
そのうちリンク切れになるでしょうが,神戸新聞のニュースに起点からの景観の画像が出ています。ご参考まで。
小松原ラガーさんは記事の最後に東灘区の御影に建設の47階をリンクされていますが,今回の景観条例には全く無関係ですのでご安心の程。

ところが,引っ掛かりそうな計画がひとつ。
三ノ宮駅の東に近接する,葺合の旭通4丁目に54階建ての再開発ビルが計画されています。神戸市のサイトにも旭通4丁目地区第一種市街地再開発事業のページが公開されています。現場を見ると現在は広大な更地となっており,一部にこれを利用して駐車場が営業していたり,一部では「雲井遺跡」なる遺跡調査が行われており,再開発用地全域で遺跡調査が平成21年9月頃まで予定されており,ビルの建設作業はそれ以降になることでしょう。建物の高さは176mだそうですから,三宮で160m以上が規制となれば,もろに「稜線規制」に抵触します。
ただ,三宮からやや東にずれている分だけ,背景の稜線は,より標高の高い摩耶山に近くなり,微妙なところです。

そこで,実際に25000分の1の地形図に線を引いて確かめてみました。
景観の起点を「ポーアイしおさい公園」の北端に取ると,そこから旭通4丁目の再開発計画地区までは2.7kmです。その延長上の背景の稜線は「布引ハーブ園」のある世継山(標高417m)から摩耶山に至る尾根にあり,ちょうど六甲全山縦走路の「稲妻坂」の途中に当たります。ここでポーアイの起点からの距離は5.6km―標高は450mです。更に「ポーアイしおさい公園」からだと稲妻坂よりもっと奥にある,(地蔵谷の北側に聳える)「黒岩尾根」が見えるはずです。旭通4丁目の背後では,ちょうど黒岩尾根の途中の標高606mのピークにあたり(ここには昔の神戸市境界標石があります),距離は6.45kmです。
そこで,基点の公園を標高0m,旭通4丁目標高20mと仮定して
「稲妻坂」を守れば 196m
「黒岩尾根」を守れば 233m
の高さまで建設可能となります。
さて,再開発計画がどのように進むかが楽しみです。

話は変わって,小生個人的なことですが,最近の休みの日は神戸背山歩きに興じています。昨日はJR元町駅を出発して→再度公園→黒岩尾根→摩耶山→六甲山上→アイスロード→鶴甲→JR六甲道まで歩いてきました。先週は新長田→高取山→菊水山→鍋蓋山→再度公園→JR元町,2週間前はJR元町→大竜寺→市が原→稲妻坂→天狗道→摩耶山→新神戸など,このように毎週違う好きなコースで気軽に登山道を選べる,しかもそれらが都心に近接したところにある神戸という街のロケーションの贅沢さが地元ながら嬉しくなります。
6月頃から背山歩きを始めましたが,この3ヶ月の間に体重の1割を削ぎ落としました(笑
[65940] 2008年 8月 5日(火)23:28:28ニジェガロージェッツ さん
Re:グーグルマップのストリートビュー
[65938] オーナー グリグリ さん
これは凄い!
もう形容する言葉もないくらいです。うちの家というか店もモロに映っています。店の前に止めている自転車までもはっきりと。
こんなの公開して,ソ連が攻めてきたらどうするのだろうか・・・
[65937] 2008年 8月 5日(火)21:53:27ニジェガロージェッツ さん
宝塚
宝塚の「塚」の字が話題になっていますが,落書き帳では5年前にもspecial-weekさんが[14857]にて話題にされていました。
小生も[15608]にて反応しておりました。どちらもアーカイブ愛ヒメと書く訳 ―地名は当用漢字を超える―にも収録していただいております。

宝塚市の場合は,「塚」の字に「丶のある塚」を正式なものとしていました。震災の数年前の平成2~3年ごろだったかと記憶していますが,神戸新聞に宝塚の「塚」の字を話題とする記事があり,宝塚市役所としては「丶のある塚」を正しい字体とする見解が述べられていました。ただし,市民が「丶のない塚」を使用するのも間違いとはしない旨の付記がありました。

当時知人に宝塚市民がおり,彼が住所に「丶のある塚」を書いていたのを見たので尋ねてみると,「書く『塚』の字を見れば,本物の宝塚の人間かどうかが判る」と言っていました。落書き帳でも,地元のだいてんさんが[56558]にて
塩竈の「竈」すら表示できるんですから、いろいろ表示できるようにしておいてもらいたいものですがねえ。
特に宝塚市民としては、切実な願いです(笑)
とおっしゃっておられることから,やはり宝塚では『塚』の字には「丶」を書くのに,ひとかたならぬ拘りがあるのでは,と感じた次第です。

ところが,[65930]Issieさんの記事には,
市民はともかく,少なくとも“宝塚市役所”では「丶のない塚」を“公式”の表記としているものと思われます。
とあり,私が一昔以上前に読んだ神戸新聞の記事とは正反対の考察を述べられています。
市民のネット利用に便宜を図って公開している「戸籍関係証明交付申請書」のpdfファイルだけからでは結論付けるのは無理があるようにも感じますが,神戸新聞の記事が書かれた(ネット利用など一般ではなかった)時代からは市長も変わっており,広報(になるのかな?)の担当者も変わっていることでしょう。
時代背景や自治体の担当者が変わることで,注意しないと気づかないような「塚」の字程度では,その表記についての公式見解が変わることがあるのかもしれません。
(地方自治や,その法的な事柄には全く疎いもので・・・)


話は変わって,うちの近所に神戸市長田区腕塚町なる町名があります。
「塚」の字が気になったので,その1丁目から10丁目までを歩いてみました(ヒマかい!)
神戸市が電柱などに設置している縦長の大きな町名街区表示板には全て「丶のある塚」でした。また各戸の表札脇などに設置している小さな住居表示板にまで「丶のある塚」を書く拘りようです。
腕塚町一帯は平成7年の震災で壊滅的被害をうけたところですから,これらの表示板は震災後の新しいものです。「塚」の字が「丶のない塚」として常用漢字に加わった昭和56年以降のものであることは疑いありません。神戸市も何かこだわりがあるのか(笑
こうなると,長田区大塚町や兵庫区塚本通,中央区割塚通,旗塚通,東灘区御影塚町も行って見てこんとアカンかな?
[65891] 2008年 7月 29日(火)20:51:39【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸の気象
[65883] 小松原ラガー さん
自宅から程遠くない川では鉄砲水による死亡事故が発生した模様。

酷暑続きの中,街の整備され開放された小川でひと時の水浴びに興じる子供たちと引率の大人たちを襲った,突然の雷雨による予想外の鉄砲水による惨事。胸が痛み,言葉もありません。
事故発生後,ニュースで頻繁に報じられている通り,この川は灘区の都賀川で,以前に落書き帳でも話題になったことがありました。([49081] 小松原ラガーさん)

都賀川は摩耶山の東側に切り込む谷間の杣谷(そまたに)を源流とし,阪急線を北に越えたあたりで六甲川を合わせ,灘区の真ん中をほぼ一直線に南の大阪湾へ流れています。灘区内市街地の西端部は青谷川へ,東端部は石屋川へ排水しますから,都賀川の排水域は旧灘区(六甲山町新設による兵庫区・東灘区の六甲山域の灘区編入-昭和47年6月-以前の区域)の六甲山域および市街地中央部ということになり,面積は20平方キロに満たないものです。

ここで神戸(旧市街地=六甲山脈南麓)の地形による気象条件が問題になります。
#以下に語る内容は,具体的な気象データに裏付けられたものではなく,長年神戸に住み続けての雑感ですが,一口に「神戸では」と言っても西と東では随分違うと感じる話です。

神戸旧市街地(東灘区から須磨区までの大阪湾岸の6区,要するに垂水区と西区と北区の除く残り全部,この話題の場合は須磨アルプス以北の須磨区北須磨も除外対象ですが,東の芦屋市や西宮市の一部を加えても良い)の背後には急峻な六甲山脈が壁のように聳えています。ここに南から湿った空気が吹き込むと,六甲山脈の「壁」に当たり地形性上昇気流となり雲を発生させて,しばしば激しい降雨を伴う場合があります。
ですが,同じ神戸旧市街地とはいえ,その東部(灘区,東灘区,芦屋市など)と西部(須磨区,長田区)とでは随分状況が違っています。第一,山の高さが違います。灘区・東灘区では700~900m級の山々が続くのに対し,須磨区・長田区ではその3分の1程度の200~300m級に留まっています。更に東部では六甲山脈の稜線が途切れることなくつながっているのに対し,西部では長田区の丸山市街地や須磨区の妙法寺川のような切れ目が目立ちます。
つまり,東神戸で上昇気流による乱雲が発生しても,西神戸では空気の抜け目があるために雲は発生せず,東は雨でも西は晴天といったことが珍しくありません。
また,神戸の冬の風物詩でもある「六甲颪」も西神戸では馴染みがありません。

昨日の雷雨の場合は神戸に限定した局地的なものではなく,北陸から近畿地方にかけての全体的な前線の活動によるものですが,それでも小生の住む長田区では,曇り空が掛かってから激しい降雨まではしばしの時間差があり,降雨時間も量も東部のそれに比べれば少なめだったのではないかと感じています。

夏季の局地的な降雨には,特に東神戸の場合は要注意ですが,かくいう私も,仮に同じ都賀川で川辺の涼を楽しんでいたとしたら,あれ程の急激な鉄砲水の来襲はすぐには予測できず,積乱雲の出現から即避難の対応が出来たかどうかは,甚だ疑問です。
今の段階では尚早ですが,犠牲になられた皆様のご冥福をお祈りするしかありません。
[65753] 2008年 7月 13日(日)22:29:14【2】ニジェガロージェッツ さん
バイカル湖の汚染源
お久しぶりです。しばらく留守にしている間に,書いた本人が忘れているような古い記事や,うちのフォトアルバムにリンクを張っていただき,何やら嬉しい様やら恥ずかしいようやら・・・ 有難うございました。

さて,バイカル湖の汚染について話題になっているようですが,その直接の汚染源として名が挙がっているのは,湖南岸のイルクーツク州バイカリスク市(人口15,210―2007.01.01現在,以下同じ)にある「バイカル紙パルプコンビナート БЦБК」(写真)があります。シベリア鉄道のサイトで見つけたこの写真(古いかも知れませんが)からは,結構お盛んな印象を受けます。今年5月22日付けロシアDV-NEWSの記事(ロシア語)の見出しには「5月20日,イルクーツク州調停裁判所は『ロシア自然監視団』の『バイカル紙パルプコンビナート』に対する,無許可での水使用稼動よるバイカル湖の環境損害への補償金としての40億4千万ルーブルの支払い要求に対する訴訟の審議を,6月17日まで延期する」とありますから,地元でも環境被害の甚大さが指摘されているようです。
更に,そのコンビナートだけではなく,バイカル湖に流入する最大河川でブリャート共和国とモンゴルを流域に抱えるセレンガ川の汚染も湖の汚染原因です。湖岸の河口から約50キロのところにあるブリャート共和国セレンギンスク町(人口15,687)にも紙パルプ工場があり,更に河口から約130キロにはブリャート共和国の首都ウラン=ウデ市(人口342,980)があり,この都市の存在もバイカル湖の主要汚染源の一つです。

イルクーツク州の州都イルクーツク市(人口575,869)は,今川焼さんが[65751]にておっしゃるように,バイカル湖からは「川下」になりますから,この都市の排水の影響は直接湖の汚染にはなりそうもありませんが,それでもイルクーツクからの大気汚染は当然バイカル湖の水質に影響します。今川焼さんが大阪と琵琶湖の距離でイルクーツクとバイカル湖をご説明されているのに倣うと,詳しいデータは持ち合わせていませんが,阪神工業地帯の大気汚染がどれほど琵琶湖の水質に影響するか,そして京阪神大都市圏とイルクーツク都市圏の人口差,琵琶湖とバイカル湖の水量差を考慮すると,まあどれほどのものになるのか。
[65328] 2008年 5月 30日(金)22:03:56ニジェガロージェッツ さん
句読点の設定
[65316] 般若堂そんぴん さん
日本語入力メソッドの環境設定で変更するのではないか,と思います.
[65323] Issie さん
MS-IME でも,(中略) ATOK でも「プロパティ」画面で句読点の組み合わせを変更することができます。読点(、)とコンマ(,),句点(。)とピリオード(.)で,都合4つの組み合わせが選択できます。

「うっわー,できた,できた !!!」
いいおっさんが年甲斐もなく,無邪気に喜びはしゃいでいます。何たって6年前のIssieさんの[3402]を見て以来,ずっと引っかかっていましたから。
設定の変更など,多分に面倒くさい作業だと思っていたところ,MS-IMEに関して句読点を「、」「。」以外のものにしたいと題したページに詳しく(しかも至って簡単)設定方法が書かれていました。
[65320]hmtさんより,「公用文作成の要領」についての歴史的経緯の検証を頂きました。いつもながら,大変勉強になります。
さすがに,リンクしてくださった文化庁のサイトも読点コンマ(,)と句点マル(。)の組み合わせで書かれています。

以前は横書きに於いても日本語の伝統的な読点テン(、)と句点マル(。)の組み合わせを何の疑いもなく正しい表記と思っており,一方で読点コンマ(,)との組み合わせで書かれている出版物を見たとき,「これ日本語とちゃうやんけ。どこの出版社や」と無知にもくさしていた頃もありましたが,実際に横書きした印刷物やウエブを見たとき,多分に好みの問題で,小生の主観ですが,どうもこのほうが文章が締まって読みやすく感じます。
情報有難うございました。
[65315] 2008年 5月 30日(金)10:12:37ニジェガロージェッツ さん
レス2題
[65310] 白桃 さん
Issie さんって、文章区切るの「、」ではなく「,」ですよね。

この件については、Issieさんご自身より[3402]にて、
一応ね,これは「公文書作成の要領」(1952年4月4日付)に従っています。つまりここでは,左横書き文書の“読点”は「コンマ」,“句点”は「まる」で表記することになっているのです。
と、実に明快にご説明されています。
もう6年も前の記事で、白桃さんのデビュー以前ですが、この記事は小生にとっては新鮮な情報で、今でも記憶に残っています。この読点をコンマにする書式に賛同して、それを倣おうとしたのですがどうも巧くいきません。キーボードの設定を変える必要があるのか、今でもそのままにして書いています。


[65053] ペーロケ さん
「岡」についてのレス、有難うございます。今行われている常用漢字表の見直しでは、「岡」が常用漢字に追加されるのは確定のようですが、小生は既存の「丘」との違いにこだわります。
ところでこの件は5年も前に小生自身が[15608]にて同じようなことを書いていることが判明しました。(恥)
岡山市の政令市入りなど、最近はどうも「岡」の字を見ることが多かったので気になっていたのですが、同じことの繰り返しになりちょっと恥ずかしく感じているところです。
[65047] 2008年 5月 10日(土)01:25:55【1】ニジェガロージェッツ さん
丘岡
最近の落書き帳を拝読していると、特命課本郷功次郎とGメン若林豪の両警部が大活躍している様子が浮かび、読んでいて楽しい限りです。(何のことか分かっていただかなくても結構ですよ)

[64996]小松原ラガーさんの記事にある北野坂でのイベント、その前日に小生も見てきました。人混みは疲れるだけなので普段はこのようなイベント会場などには行かないのですが、当日は神戸で暮らし始めたモスクワのご婦人の案内役を買って出てのことでした。このご婦人は神戸在住1ヶ月で、まだ海を見たことがないとのこと。神戸が海に面した都市とは想像できないと仰るので、それではと、北野坂を登り抜けて新神戸ロープウエイに乗り、布引ハーブ園からの神戸港と大阪湾の絶景を案内しました。布引の滝などハイキングコースを歩き、街に下りての夕食は2005年神戸オフ会の二次会場となった市役所24階の展望レストランにて。一日中ロシア語で通しましたが、こちとら数年来ロシア語を喋っていなかったので、簡単な言葉が出なかったり、もちろん滑舌も悪くていけません。外国語など使わないと錆び付くのは早いものです。ご婦人が神戸の景色を大層気に入ってくれたのが唯一の収穫でした。

前置きが長くなりましたが本題です。以下、文学には縁のない無学な小生のちょっとした疑問です。
日本語には同じ意味合いの漢字二文字を合わせた熟語を結構日常生活で目にします。地図に関係ある言葉でも「山岳」「河川」「海洋」とか、「道路」もそうです。ですが「丘岡(きゅうこう)」はどうでしょうか。「丘陵」は使いますが「丘岡」は広辞苑にも出ていません。Yahoo国語辞書によれば「土地の小高い所。おか。」とありますが、そもそも「岡」の字が常用漢字には入っていませんでした。平地や山岳に対しての低山や小山を言う場合のオカには「丘」、海に対してのオカの場合は「陸」、岡目八目のようにカタワラを表すオカには「傍」があり、言葉として「岡」の字は必要がなかったのでしょう。オカッピキは「岡っ引き」と書くところから、この字を「オカッピキの岡」なんて苦しい説明をすることもあります。

ところが「福岡」や「岡山」など「岡」の字は頻繁に出てきます。言葉としての日本語としてはおおよそ必要としない「岡」が、地名や人名では欠かせない最も基本的な字のひとつになっています。一方、「丘」の字は人名で見かけることは稀で、地名としても「○○が丘」以外にはあまり例が浮かびません。札幌の空港に「丘珠空港」がありますが、初めてこの地名を見た(というより稚内経由で樺太へ向かった際にこの空港を利用した)時には、何かものすごく斬新な地名に出くわしたような気さえしました。

同じ意味合いの漢字二文字として「山岳」「河川」「海洋」と言っても、「山・川・海」と「岳・河・洋」とでは、何だかニュアンスが違いますね。個人的感想ですがどちらかと言えば後者の方が雄大というか。では「丘」と「岡」ではどうでしょうか。同じ訓読みで「オカ」と読む両字は果たして同じ地形を表すことばでしょうか。「丘」が小山を表すのに対し、「岡」を漢和辞典で引くと「山の背」との字義があることから、尾根のような所を表すのでしょうか。

長々と個人的な雑感を書き綴りましたが、疑問点は2点です。
1)地名(人名を含めて)において、なぜ「丘」ではなく「岡」が多く用いられるのか。
2)地形としての「丘」と「岡」の違い。
皆様はどうように感じられるでしょうか。

#小生には記憶がないのですが以前に話題になっていたかも知れません。検索しても「丘」と「岡」では膨大な無関係の記事がヒットしますから(笑)
[64939] 2008年 5月 1日(木)23:44:05ニジェガロージェッツ さん
20年5月1日
― 20年5月1日 ― と聞いて、真っ先に浮かぶのは「神戸市行政区再編成のあった日」です。
市内8区を6区に再編(神戸区、湊東区、湊区、林田区を廃止し、生田区と長田区を新設)した日ですが、これは昭和20年5月1日のことでした。
そう言えば神戸市神戸区のように市名と区名が一緒というのは神戸区がはじめてでした。神戸市神戸区の廃止以降は、川崎市が政令市になって川崎区が設置された昭和47年4月1日まで市名と区名の一致を見るものはなく、次に現われるのは堺市堺区で平成18年4月1日と、つい2年前のこと。
話を神戸に戻して神戸駅は神戸区ではなく湊東区。神戸区が廃止されてこの現象は解消されましたが、神戸区に代わって設置された生田区には生田町(葺合区)が含まれていないと、新たなねじれが生じました。中央区(昭和55年12月1日)となって久しい現在では古い地図に埋もれてしまった話です。
そういえば平成17年の神戸オフ会で「生田区あんない地図」を景品にしましたがあれはどなた様に渡ったことやら(笑)

[64924] 小松原ラガー さん
姫路バイパスのことを「ひめばい」、加古川バイパスのことを「かこばい」と略して使っていました。う~む、お初だ・・・。
平成元年より11年まで加古川で商売を営んでおり、現に震災後は5年間加古川市民(NN市在住期間は除く)でした。加古川から姫路市東部までは縁浅からぬ所ですが、そんな小生でさえ同じく「お初」です。
[64932]星野彼方さんのお言葉にもありますが、敢えて略すのなら「バイパス」です。
「ひめばい」「かこばい」と言うのは、個人的な略し方か、或いは例えば運送業界などの一部の業界用語または社内用語ではないかと推測します。「バイパス」と並行して走る明姫幹線道路は「めいかん」と略すのは一般的ですが。
私などテレビのCMで「ひ~めせん」と歌っているのを聞いて、それが「姫路セントラルパーク」のこととは咄嗟に浮かびませんでした。
妙な略し方をするのも善し悪しです。

#私の場合は「503」対策として、電子メールの下書きに文章を保存してからプレビューや投稿ボタンを押すようにしていますから、敢えて悩むほどの不自由やストレスを感じてはいません。もちろん、エラーの改善ができるようであればそれに越したことはありませんが、グリグリさんの(お人柄を存じ上げているだけに)ご負担にならないかと察しております。
「つながった時に書き込みが出来ればそれで良い。」それだけです。
[64795] 2008年 4月 18日(金)23:06:47ニジェガロージェッツ さん
外国でもやらかす鉄壁構造
[64790] Issie さん
日本語では“2音でひと組”という単位がとても安定していて,中でも「2+2」という組み合わせが“鉄壁”なのですね。「国鉄(こく・てつ)」という昔ながらの略語から,「鉄オタ(てつ・おた)」などという“その筋”で使われる言葉を並べてみれば,その鉄壁ぶりは明らかです。

話をお聞きして大層腑に落ちたことがあります。
これ、日本人は外国の地名でもしばしばこの調子で「やらかして」います。
例えば、小生が以前滞在していた欧露部で、そこの三大都市を日本人が

モスクワ ― サンクト ― ニジノブ

と言っていたのを耳にしたことがあります。
「モスクワ」はそれそのままだから良いのですが、サンクト・ペテルブルクのことを「サンクト」と略すのにはものすごい違和感を覚えました。
普通我々でも略す場合は「ペテルブルク」と言いません? 「サンクト」だと、まるで大韓民国を略して「大」と言うほどの違和感です。
ロシア人はサンクト・ペテルブルクを略す場合は[ピチルブルク]、或いは親愛をこめて[ピーチェル]と言っています。
それと・・・

「ニジノブ」って言うなぁぁぁぁぁ!!!!

もう違和感を通り越して殺意さえ覚えました(笑)
ニジニ・ノヴゴロドのことは[ニジニ]って言ってくださいね。ニジニですよ。

それもこれも、Issieさんの「鉄壁構造」理論から察すると、日本語の略語構造からすれば当然起こりうる略語だったのかと、今になって深く納得したした次第です。
[64773] 2008年 4月 17日(木)02:22:31【1】ニジェガロージェッツ さん
鶴見区諸口五丁目浜
[64732] TN さん
早速の鴻巣実地踏査お疲れ様でした。実際に本町一丁目宮本町、本町一丁目本一町の存在を現地入りしてご確認されるとは、いつもながらの探究心、敬服いたしております。
確かにWeb埼玉の記事にある現地の写真と、地図で見た駅前再開発地区のイメージが一致しませんでした。TNさんの調査で再開発のメイン地区A1とは道一つ隔てた細い三角地が件の公園とはちょっと意外でした。面白い情報ありがとうございました。

さて、今回の町名復活劇の先達となった大阪の「東区渡辺町」を「中央区久太郎町四丁目渡辺」として保存した例には、「鶴見区諸口五丁目浜」にその伏線があったのかなと感じています。
私事ですが「久太郎町四丁目渡辺」を拙稿[7175]にてご紹介した際には「鶴見区諸口五丁目浜」の事例を知らず、これを認識したのは[7379]てへへさんの記事にありますが、後にまがみさんとお会いした際に地図で教えていただいてからのことでした。([61016] に関連)
拙稿[64704]にご紹介したように、新住居表示実施による現在の浜(1~5丁目)、諸口(1~6丁目)が起立する前の町名は茨田浜町(マッタハマチョウ)と茨田諸口町(マッタモロクチチョウ)でした。手元に昭和56年と昭和60年の大阪市の区分地図があるのですが、56年版は茨田浜町と茨田諸口町、60年版では既に浜1~5丁目、諸口1~6丁目、緑地公園に分かれていますから、ここではこの間に新住居表示が実施されたようです。一方で東区渡辺町は両地図ともに健在です。
旧茨田浜町南端と茨田諸口町の境界は府道23号大阪生駒線よりやや南の市街地に食い込んでいましたが、新住居表示に際しては大阪生駒線を境界とし、同線より南にはみ出した茨田浜町南端部分は諸口五丁目に組み込まれました。「諸口五丁目浜6~浜14」との街区符号が打たれた部分はその一部分です。しかしながら、そこまでしてここに旧茨田浜町の一角である名残を残す必要があったのならば、大阪生駒線の南の街区を「浜六丁目」として「諸口五丁目」から分離した町割りが出来なかったのかが疑問です。「浜6~浜14」とは何か変則的と言うか、姑息と言うか。
その数年後に大阪の都心では久太郎町の新設による渡辺町廃止の問題が持ち上がるわけですが、「諸口五丁目浜」の実績から「久太郎町四丁目渡辺」につながったのではないかと想像しております。
もしも「浜六丁目」を作る英断をしていれば、「久太郎町四丁目渡辺」という発想は出ずに終わり、鴻巣の「本町一丁目宮本町、本町一丁目本一町」誕生もなかったのかも知れません。
傍目には姑息な手段とも映る大阪市の地名街区符号の苦心が生んだ怪我の巧妙でしょうか。

なお、茨田は大阪湾岸から遠く離れた内陸の旧河内国に属していますが、そこに茨田浜町という「浜」が付く地名があるのは、古代の「難波の入江」が大阪平野の奥深くまで達していた頃の名残といわれています。

【1】地名街区符合を地名街区符号に訂正
#この原稿を書き始めた頃、久しぶりに「悪夢の揺れ」がありました。ここ長田区では震度3とか。規模はあの時と比べられないぐらい小さなものでしたが、揺れる方向は同じようなものに感じられたので気味が悪かったです。
[64704] 2008年 4月 14日(月)01:39:32【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:2例目の地名街区(鴻巣)
[64671] TN さん
鴻巣での旧町名復活の面白いお話有難うございます。
リンクしていただいたWeb埼玉の「40年ぶりに町名復活」記事には、先例となった大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺街区の誕生を「十年前」としていますが、これは間違いです。拙稿[7175]の繰り返しになりますが、実際に誕生したのは平成元(1989)年2月13日に行われた行政区再編による中央区の誕生(東区と南区の合区)に合わせて実施された住居表示変更によるものですから、もう19年も前のことです。

今回の鴻巣の場合は、再開発で整備された駅前の公園とのことで旧町名の復活が容易だったことが挙げられていますが、それにしても市の粋な計らいには拍手を送りたいところです。
加えて、旧大阪市東区渡辺町の町名由来となっていた嵯峨源氏の渡辺綱が鴻巣出身ですか。何かお話が出来すぎているような。千年の時を経て町名復活劇の話題としてその名が取り沙汰されるとは、平安時代の武将も想像だにしなかったことでしょう。

なお、大阪市内の地名街区として渡辺の他には鶴見区に諸口五丁目浜6~浜14街区があります。
現在の鶴見区浜(1~5丁目)、諸口(1~6丁目)の領域には、住居表示変更前には茨田浜町と茨田諸口町がありましたが、「諸口五丁目」となった区画には旧茨田浜町の一部が含まれており、その部分の街区に「浜」を冠して番号を付けたと推測できます。
[64113] 2008年 3月 24日(月)01:49:25ニジェガロージェッツ さん
灘目
[64099] 蒼の狼 さん
江戸時代の灘という地名は今のどのあたりにあたるのでしょうか。

今川焼さんより、[64108]にて明確に
武庫川河口から神戸市の生田川河口までの海岸地区名。【別称】摂津灘。東西20km。
とのご説明がありましたが、小生からも説明と言うほどではありませんが少しばかり灘についての雑感を述べてみます。

まず、江戸期の「灘」についてですが、当時は正確には「灘目(なだめ)」と呼ばれていたようです。
これも古代の「灘辺(なだべ)」が転じた呼び名で、灘とは海のことですから、地名は海辺のことを言い、京の都より山陽道(西国街道)を西へ下ってここで初めて海(灘)が見えるところからこのように呼ばれたようです。西宮までの西国街道は現在の国道171号線に相当しますから、やはり「灘辺」は西宮市の海沿いの地域から西側の地域、当時の武庫郡、菟原郡の海岸線一帯の総称のようなものではなかったでしょうか。このあたりの経緯は神戸東灘まちづくり文化のルーツのサイトに詳しく述べられています。

とはいえ、村落名や行政区画名として「灘」を名乗るものはありませんでした。初めて村名として灘が現われるのは、明治28(1895)年に菟原郡都賀野村が西灘村(現在の灘区西部、但し大石は都賀浜村→西郷町の一部)に改称したときでした。

「灘五郷」とは、地名というよりはこの地域の地場産業である酒造地の酒蔵を纏めた名称で、江戸期には東から、今津郷、魚崎郷、御影郷、西郷、下灘郷であり、明治時代になると下灘郷が抜けて、代わって西宮郷が入って現在に至っているようです。
(出典:gallery 灘五郷

しかしながら、これも酒造業の業界でのお話で、「灘の酒」がよく売れるとのことで、元来の「灘」の範囲外にあっても「灘ブランド」を得るために「灘に入った」との見方もあります。
下灘郷は現在の神戸市中央区・兵庫区の一角にあったようですが、江戸期と言えども地名としての灘(或いは灘目)に現在の兵庫区までは含まれていなかったと推察します。
[64045] 2008年 3月 16日(日)23:14:23【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸は公園だらけ
昨日はおおさか東線の開業を筆頭にJR西日本ではいくつかの新駅の開業があり、神戸市内にも新駅「須磨海浜公園」駅が開業しました。昨年の駅名決定に際しては[61238]k-aceさんの記事がありましたが、小生は以前に新駅の名称について散々ケチをつけた覚えがあり[25385]、もう4年も前の書き込みでした。時が経つのは早いものです。

さて、須磨海浜公園駅の誕生で神戸市内には「公園駅」を名乗る駅が9駅になりました。
戦前の旧神戸市内には「公園駅」はなく、現在の市域に広げれば(当時は)市外の明石郡垂水町に山陽電鉄の「舞子公園駅」が存在するのみでした。廃止された神戸市電の停留所には「湊川公園」がありましたが。
以下、神戸市内の「公園駅」について古い順に開業(改称)時期まとめてみます。
駅名路線開業または改称日備考
舞子公園山陽電鉄本線昭和10年8月1日舞子駅を改称
須磨浦公園山陽電鉄本線昭和23年9月30日新駅設置
中公園神戸新交通ポートアイランド線昭和56年2月5日ポートライナー開業
南公園神戸新交通ポートアイランド線昭和56年2月5日ポートライナー開業
湊川公園神戸市営地下鉄山手線昭和58年6月17日山手線開業
王子公園阪急電鉄神戸線昭和59年6月1日西灘駅を改称
総合運動公園神戸市営地下鉄西神線昭和60年6月18日西神延伸線開業
御崎公園神戸市営地下鉄海岸線平成13年7月7日海岸線開業
須磨海浜公園JR神戸線平成20年3月15日新駅設置

ここ数年というより、もっと長い期間で「公園駅」が人気のようにも感じますが、神戸の場合は実在する(または一般にそのように呼ばれている)公園が近くに存在し、やはり他に良い名称がなかったのかも。ポートアイランドの中公園そのものは駅開業後に「原口記念公園」に改称されたようにも記憶しています。
個人的には、阪急の「西灘駅」が「王子公園駅」に改称されたときは喝采しましたが。
[63864] 2008年 2月 29日(金)22:29:23ニジェガロージェッツ さん
旧神明
[63860] 小松原ラガー さん
この道ではないでしょうか?地図の中央に鉄拐山トンネルとありますが、まさにその道こそが第一神明というか旧神明というか、「神明道路」だったと思います。
(中略)
大蔵谷から先も神明と称していたような気もするし・・・。
はい、現在で言うところの「旧神明」こと「神明道路」は小松原ラガーさんのリンクされた地図にあるとおり、「鉄拐山トンネル」を通る道路がそれです。現在の第二神明道路の「名谷出入口」から「大蔵谷出入口」までの区間は、旧神明道路を踏襲したもので、大蔵谷以西はこの道路が神明道路でした。この道を更に進むと、西明石の小久保交差点を超えて明姫幹線道路に入りますが、この小久保までは神明道路だったと記憶しています。
一方、かつての神明道路の東の起点ですが、小生もリアルタイムで通ったことがある筈ですが、幼少のため記憶が定かではありません。
現在地元で「旧神明」と呼ばれている道路は須磨離宮公園南側のここ以西です。日本地図センターから出ている「地図で見る神戸の変遷」に収録されている「昭和44年頃の神戸5万分の1」には、今の阪神高速3号神戸線月見山出入口あたりから「神明道路」が出ているように描かれています。いずれにせよ、やはり離宮公園あたりが起点だったかと推測します。
[63729] 2008年 2月 14日(木)00:26:37【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸の町名
[63705] 油天神山 さん
[63703] EMM さん
神戸市中央区港島について、「外来語由来町名」コレクションへの採用を真剣にご検討いただき、恐縮しております。
おそらく、油天神山さんの「外来語由来町名」のイメージからは離れているとは察しておりましたが、小生、子供の頃に読んだ[63695]に引用した「神戸の町名」(昭和50年)に紹介されている解説文が印象に残り、外来語由来町名として真っ先に思い浮かぶのがポーアイの「港島」「港島中町」でした。[63705]油天神山さんの
「どうぞご勘弁を」という気持ちだったんですが、一夜明けた今、「町名由来系カテゴリーに名を連ねる以上はやらんといかん!」と覚悟を決めました。
とのご英断に深謝いたします。

この「港島」の場合、地名「ポートアイランド」との順序が問題で、人工島ポートアイランドの造成着工が始まったのが昭和41年のことで、埋立が進み新たに生じた陸地に町名をつけてコンテナ埠頭を「港島」としたのが昭和47年5月、都市機能・居住地区を「港島中町」としたのが昭和49年4月でした。「港島南町」に至っては昭和61年にポートアイランド2期工事が始まってから生じた土地に出来たもので、町名としては恐らく平成になってからのものかと記憶しています。
もし、順序が逆で、既存の「港島」という地名を愛称として「ポートアイランド」と英語に洒落て命名されたのであれば、これでは「外来語由来町名」にはならないでしょう。
これを採用すると大変な道に足を踏み入れることになりそうです。
とのご懸念は、この順序の検証が難しいことと推察します。
とはいえ、浦安市の舞浜の例([63703]EMMさん)もありますが、先に英語で地名を付けるなど、極めて特異な例だと思います。

さて、この「神戸の町名」という33年前に発行された冊子は既に絶版であることは言うまでもありませんが、数年前にその新版を見たことがあり、昨日改めて本屋に行ってみると、昨年末に「第三版」となる「神戸の町名 改訂版」が神戸新聞総合出版センターより発行されたところでした。
思えば旧版の昭和50年当時とでは神戸においても市街地の範囲が拡大し、それに伴い郊外では新町名が続々と誕生しているので(その一方で今後の神戸市街地の拡大は、既にやり尽くした感があり、それほど期待できない)、旧版にはなかった新町名の由来が知り得て、思わず買ってしまいました。
嬉しいのは市販の地図では確認出来ない地名として拙稿[45136]に紹介した兵庫区の5つの町名が全て収録されているところ。
そのうちの一つ「東尻池村」については、旧版の解説文を[43133]に引用していましたが、今回の改訂版では
==========
【東尻池村】 ひがししりいけむら
神戸市内で残っている二つの“村”の一つで、御崎村と並んで兵庫区内にある。昔の村は行政区画や町名改正によって多くの町に分割されたが、旧東尻池村のほとんどは長田区内に含まれる。由来についてはそこでふれらているので省略するが、兵庫区では一部の国有地が、人家や建て物もないまま、旧村名として続いている。
==========
と紹介されています。
昭和50年の旧版にあった、「しかし、この“村”も近く消える運命にある。」の一文が削除されているのも面白いところです。
[63695] 2008年 2月 10日(日)21:18:28ニジェガロージェッツ さん
港島=Port Island
[63693] 油天神山 さん
「外来語由来町名コレクション」の完成、おめでとうございます。

早速で恐縮ですが、神戸市中央区の人工島ポートアイランドに起立している町名
「港島一~九丁目」「港島中町一~八丁目」「港島南町一~七丁目」
も候補にご検討いただければ幸いです。
神戸新聞社編「神戸の町名」(昭和50年)によれば、
「先に英語で地名をつけ、その直訳を町名にした珍しい例だ。」とあります。
「港」も「島」も純然たる日本語ですが、その由来は和製英語地名の「ポートアイランド」を起源としており、貴コレクションの
(2)表記はカタカナに限定せず、外来語をひらがな・漢字表記したものも含める。
(3)和製英語・造語等も対象に含める。
に合致しているように感じられます。
[63030] 2008年 1月 3日(木)19:18:26ニジェガロージェッツ さん
レス3題(単行・湯郷・イオヌイ島)
[63021] hiroroじゃけぇ さん
「単行」という言葉が最も似合うかもしれませんね。
ご教示ありがとうございます。
実は今日も「単行」に乗って着ました。といっても姫新線のそれではなく、[62638]k-aceさん他の記事にある三木鉄道ですが。
丁度、加古川へ行く所用が出来たので、普段ならばJR神戸線(山陽本線)に乗って直行するのですが、今日はわざわざ神戸電鉄粟生線、三木鉄道、JR加古川線を経由しました。
神戸電鉄はガラ空きでしたが、今年3月末で廃線になる三木鉄道は満員でした。明らかに「鉄」と分かる鉄道愛好家で賑わっており、沿線の各駅でもそれらしき人々がカメラを構えていました。因みに私は「鉄」ではありませんが、同じく駅や車両を写してきました。(笑)

湯郷ベルの選手たちは、日中湯郷温泉のどこかで働いているようですよ。
湯郷温泉街には宿泊者へのサービスで、宿泊ホテル以外の各館の浴場を巡ることが出来るようになっていて、私もいくつか廻ったのですが、女子サッカーリーグの選手のような若い女性は見かけませんでした。日頃の激務から年末年始くらいは休んでおられるのでは。

[63025] 笠津前浜 さん
これはまさしくオホーツク海の孤島ですね…。今頃は氷の海の上へ頭を出しているところでしょうか。
訳の分からない妄想にお付き合い頂いて恐縮です。あの辺り一面の北部オホーツク海は冬には氷結しますから、恐らく笠津前浜さんのおっしゃるような幻想的な光景であろうと推測します。
また、わざわざマップをお探し下さり有難うございました。Googleマップを見ても同じような島が表示されますが、航空写真からは(下表参照)そこに何かあるようでなさそうな不明瞭な「点」になっています。
手持ちの帝国書院の地図帳では、2007年の「地歴高等地図」には載っておらず、1987年の「サミットワールドアトラス」には載っていました。

リンクされた先のページには、とても美しい写真が揃っていますね。
「ふた昔」前であれば、鉄のカーテンの奥に隠されたような謎の島々の画像が手軽に家庭で楽しめるとは、ネット時代の醍醐味のひとつですね。
ロシア語のページですが、リンク先のページの島の画像の一覧を和名を添えて書いておきます。千島列島の島々が多いので、参考までに千島列島の地図(昭和5年)を出しておきます。
ロシア名和名場所Googleマップ
о. Парамушир幌筵島/パラムシル島北千島衛星写真
о. Анциферов志林規島/シリンキ島北千島衛星写真
о-ва Ловушки牟知列岩/ムシル列岩中千島衛星写真
о. Райкоке雷公計島/ライコケ島中千島衛星写真
о-ва Среднего宇志知諸島北島/スレドネワ島中千島衛星写真
о-ва Братья Черные智理保以島/チリポイ島中千島衛星写真
о. Ионыイオヌイ島オホーツク海北西部衛星写真
о-ва Ямскиеヤムスク諸島オホーツク海北東部衛星写真
о. Берингаベーリング島コマンドル諸島衛星写真
о. Медныйメードヌイ島コマンドル諸島衛星写真
[63011] 2008年 1月 1日(火)17:41:41【1】ニジェガロージェッツ さん
年始めに最果ての島を妄想する
平成二十年になりました。旧年中はいろいろとお世話になりました。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

平成十九年最後の二日間、岡山県美作市の湯郷温泉に行ってまいりました。温泉のお話をしても「いい湯でしたよ」と、日頃の雑多を離れてのんびりと温泉浴を楽しんだと月並みの言葉しか出ませんが、地理的なことで印象的だったのは、まず姫新線に18年振りに乗ったこと。
兵庫県姫路市と岡山県新見市を結ぶ姫新線に以前乗ったときは姫路から津山まで直通で行った記憶があるのですが、今やそれは昔の話。佐用での乗り継ぎに42分の時間待ち。それも津山へは一両編成。電化されていないから「電車」ではないし、一両だから「列車」でもない。これを何と言えばよいのか? 中国山地の山中を細い狭軌の単線鉄道が縫うように一両で走る様は「植民地の軽便鉄道やんけ~!」と言いたくなるような(笑)
温泉の最寄り駅は林野駅で、この林野が平成の大合併で成立した美作市の市役所が置かれた、云わば「市の中心集落」になるのですが、どう見ても「市」の面影はどこにもない田舎の小集落でした。福岡オフ会の時にネットで見た、市街地だけを「市」とした明治の福岡市の範囲が頭にあっただけに(拙稿[62579])、時代が変われば「市」の感覚も変わるもんだと実感した次第です。
しかしながら、古谷一行氏ふんする金田一耕助が下駄履きでいても全く違和感のないような、のんびりとした懐かしい昭和を思わせる街並みは、嬉しく感じました。短いながらも味わいのある楽しい旅でした。

さて、新年に年始めにあたり、日本列島周辺の地図を眺めていると、ユーラシア大陸の東縁に弓状に連なるその姿は、いつ見ても「カッコいい」形をしています。
ところで、列島の最北端は北方領土択捉島の北端であるカモイワッカ岬(北緯45度33分)ですが、北方領土を含めない最北端は宗谷岬弁天島(北緯45度31分)とのこと。しかしこれは「日本列島」を日本の領土の限定した極めて政治的な話。戦前であれば台湾も南樺太も千島列島も日本列島の一部と見なしていたようで、そうなれば列島は北海道の北で樺太と千島の二股に分かれていたことになります。
そうではなく、日本の統治範囲の枠を外し、視点を「ユーラシア大陸の東縁に連なる弓状列島」に戻し「弓」を伸ばしてみると、北は樺太こそが列島の一部になるのではないかと妄想します。
となればその北端はサハリン州最北端のエリザヴェータ岬(北緯54度24分)になり、この岬で列島はオホーツク海に没します。この北には北部オホーツク海の大海原が広がるばかりなり・・・。

エリザヴェータ岬のほぼ真北540キロには大陸のオホーツク町があります。今では人口5,054人(2007年1月1日)の小さな町ですが、大きな海洋の名称として世界に知られた名となりました。ですが、この町の名もオホータ川という小さな河川名を由来としています。
そのオホーツク町とサハリンのエリザヴェート岬の間のほぼ中間点、広がるは大海原ばかりなり・・・と思われる所に、正に絶海の孤島が存在します。どうしてこんな所に島があるのかと首を傾げたくなるような、サハリン北端の北250キロの北緯56度24分、東経143度23分にその島は存在します。まるでビリケンさんの頭が海中から突き出したような、標高300mの点のような小島です。その名をイオヌイ島(または実際には「ヨーヌイ」と発音するかも)と言いますが、この島こそが弓状列島最北の島ではと妄想を続けております。
人を寄せ付けない海岸にトドの群生。一度は訪れてみたい最果ての島です。
皆様お持ちの地図には、この島が描かれているでしょうか?
[62865] 2007年 12月 16日(日)17:26:41ニジェガロージェッツ さん
アライグマがブタに化ける神戸の話
先月のオフ会での「荒ゴミ」や「別勉」という神戸の言葉についての[62579]へ沢山のレスをいただいておりながら、返事が(いつもながら)遅くなってしまい、申し訳ございません。最近はどうも無気力でいけません。

今月一日に港則法施行令の改正による3港の合併により阪神港が誕生しました。神戸市街地の南に広がる大きな港は、既に「神戸港」ではなく堺泉北から須磨に広がる巨大な港のうちの「阪神港神戸区」になりました。従来は神戸港、尼崎西宮芦屋港、大阪港の3港でそれぞれで入港税や書類手続きの負担が求められていたのが阪神港に一元化されたことで、入港船舶の増加や競争力の強化が期待されているところです。東京、川崎、横浜3港を合体した京浜港については[57385]hmtさんが触れておられます。 阪神港の開港は京浜港の例にならったものでしょう。
港則法でのお話ですが、神戸港が消えるのは地元の神戸っ子としてはちょっと寂しい気もします。

[62583] 桜トンネル さん
「荒ゴミ」について
阪神地区全域はすべて通じると思っていました。最近、僕がよく行く尼崎市では使われないとは驚きです。一体、どこが線引きとなっているのでしょうね。
通じるのは原則として神戸市域のみだと推測します。但し、住民の移動がありますから、他市民であっても神戸に一時期でも居住した経験のある人や、神戸に通勤している人などは「荒ゴミ」を知っていて当然で、また、神戸周辺を営業範囲としているゴミ収集業者では「荒ゴミ」という言葉を使っている場合もありますから、神戸市に隣接する地域では、通じる可能性が高いと思われます。また「荒ゴミ」を検索すると、稀ですが神戸とは無関係のところでも用いる所があるようです。
私事ですが、震災後、一時期加古川市に居住したことがありました。町内の人に「この辺りの荒ゴミの日はいつですか」と尋ねても要領を得ませんでした。それもその筈で「荒ゴミの日」など存在せず、加古川市ではゴミの細分化が既に徹底されていました。
今では神戸市のゴミ区分からも「荒ゴミ」は廃止されましたが、元来、神戸市の場合は西区(布施畑)や北区(長尾山)に広大な埋立処分場を有し、「荒ゴミ」として一括で埋立処分する用地に恵まれていたために不燃ごみを細分する必要が薄く、それが震災によって生じた瓦礫や引越しゴミなどの膨大な量を処分したために埋立処分地の余裕がなくなり、いよいよゴミの細分化、リサイクルに対応した区分を導入したというところでしょうか。
ゴミの細分化を啓蒙するキャラクターとして神戸弁の「分けとん」から、豚の「ワケトン君」が採用されています。因みにワケトンの敵キャラ「ワケヘン」と「ヤラヘン」も存在します。
以前の荒ゴミ置場こと「荒ゴミステーション」のキャラクターは荒の字からか、アライグマだったことは知る人ぞ知る話。

「荒ゴミ」の他にも代表的な例としては「日番」があります。
小生が小学校1年生のときも「日番」でした。昭和40年代の前半の話ですから、随分古い言葉です。というより、桜トンネルさんの[62583]を読むまで、これが神戸独特の言葉だったとは知りませんでした。子供の頃はセロハンテープなどの日用品で有名な「ニチバン」も日番絡みの社名かと思っていたほどでしたが、こちらは絆創膏のほうの「バン」のようです。
面白いお話、有難うございました。

[62633] たもっち さん
「荒ゴミ」という言葉が出て来た場面をよく見ると、電柱の「芦屋金持町一丁目」という標示が描き込まれていますので、実は、神戸周辺で使われている言葉を考証のうえでセリフを書いたのではないか、という可能性も・・。
とりあえず芦屋市のHPから「荒ゴミ」を探しましたが、見つかりませんでした。(笑
少なくとも、現在の芦屋市のゴミ収集区分には「荒ゴミ」はありません。但し、一部のゴミ収集業者が「荒ゴミ」とう言葉を使う場合もありますから、やはり、いしい氏が考証したうえで書いている可能性は高いと思います。

神戸から来た同級生も何人かいて、彼らが、表紙にポートタワーあたりの風景写真が載っているノートを持っていたことを覚えています。表紙全体の背景に薄緑のモノクロ(?)で刷り込まれていたように記憶していますが、これって、神戸の小学生の間で広く使われていたものだったのでしょうか。あるいは、世代が限られるのかもしれませんが、どなたかご存じないですか?
神戸市指定の学習ノートで、関西ノート(株)が製作しているもので、国語帳(緑)、算数帳(水色)、理科の記録(黄)、社会科(橙)、自由帳(桃)、連絡帳(紫)、百字練習帳(青)、二百字練習帳(青)があり、他にも音楽ノートやRomazi Renshu-tyo がありました。
もちろん、昭和40年代(いや、もっと以前から?)存在していました。
表紙は神戸市内の景色の写真がそれぞれの色のモノカラーで印刷されています。風景写真は時代によって変わっていますが、百時練習帳のそれは小生が使用していた当時の写真のままで、ポートタワーの建つ中突堤を写したものですが、現在の風景とは比べ物にならない、昭和40年代中頃のもので、今では「歴史的写真」と言えるものです。
ネットでは「神戸ノート」と呼ばれているようですが、文房具好きにはちょっとした人気だそうです。(記事
[62757] 2007年 12月 2日(日)21:48:20ニジェガロージェッツ さん
Re^2:唐太の子供列車
[62755] 伊豆之国 さん
[62756] Issie さん
今日の番組は見逃してしまいましたが、豊原の子供鉄道については過去に何度かメディアや書籍でも取り上げられておりました。
日本のテレビドラマでは、役所公司主演で1991年に放送された東芝日曜劇場スペシャル「サハリンの薔薇」のひとコマで、現地の少女が役所氏を子供鉄道に誘う場面がありました。

サハリン州20万分の1地形図にもユジノ・サハリンスク市街地の東北東、ピオネールスカヤという所に小さな環状鉄道が描かれており、駅も2つあります。
場所はガガーリン文化公園で、旧豊原公園(本当は、「旧」なんて書きたくないのですが)に当たります。

ソ連の子供鉄道については、こんなに沢山の都市で運行されていました。豊原のそれは、1954年6月6日の開業のようです。
写真1 写真2
[62753] 2007年 12月 2日(日)18:32:34【1】ニジェガロージェッツ さん
唐から樺へ
カラフト(北蝦夷)について「唐太」と表記したことのある歴史について、[61689] 伊豆之国さんへのレスの形で投稿させていただきましたが、その後も[62464]伊豆之国さんをはじめ、多くの反響をいただきながらも、3週間以上を経てしまい、いつもながらの亀レスにて失礼しておりました。

[62467] 笠津前浜 さん
カラフトの字に漢字をあてる際に「樺」を選んだ理由は何なのでしょうね。あるいは樺が多く生えていたのでしょうか。訓読みですから如何様にも読めるのですが、樺を「から」と読ませる例も少ないのではないでしょうか。

カラフトの「カラ」も部分に「樺」の字を充てた所以は、[62501]北の住人さんより、
江戸時代を通じ一般的なものは「唐太」です。一時的に「北蝦夷」が使われますが、幕末からまた「カラフト」と称され、「柄太」「柯太」が多く使われ、明治2年以降は「樺太」に定まりました。
「樺太」については、「樺が多いから」という松浦武四郎の意見が採られたようです。
とフォローいただきましたが、正に樺太は白樺の木の多いところです。現地で飲んだ白樺ジュースのおいしかったこと。サハリンの名産だと聞きましたが、ロシアのほとんどの地域で白樺の木は多く、全国的に生産されていたようです。ソ連時代の末期、ヴォルガ沿岸のゴーリキー市でも食料品店の棚には品薄で何もなかったような時でさえ、白樺ジュースだけは入手が容易だったと聞きました。ソ連解体後はコーラなど西側の飲料が大量に流入し、それに反比例して白樺ジュースは人気薄となり、これを売っている店を探すのはロシアでも容易ではありません。
話が逸れましたが、その白樺の「樺」の字を「カラ」と読ませるのはちょっとした無理があり、後世「カバフト」と読み改められる恐れがあるから「柯太」と表記すべしとの議論もあったと聞きます。

北の住人さんの記事にあるように「樺太」の表記が松浦武四郎の意見により採られた明治2年のことですが、では江戸期において「樺太」との表記があったのかどうかの検証も必要になってくることと思われます。以下、結論には達しませんが、メモ代わりに画像へのリンクも添えて続けます。

北海道大学付属図書館北方古地図高精細画像電子展示のコーナーには、1801年に普請役・中村小市郎と小人目付出役・高橋次太夫の調査による「樺太見分図」とのタイトルで2葉(離島説、半島説)出ていますが、こちらにも地図色分けの凡例部分に「唐太山」の表記があることから、タイトルの「樺太」は後に付けられたもののようにも思われます。
また、別に近藤重蔵が1802年に作製した2葉(1離島説、2半島説)の地図を「蝦夷及樺太ノ図」とのタイトルが付けられていますが、実際に地図を見るとカラフトには「唐太」と表記されており、北海道大学の「江戸時代における日本北辺地図(講演要旨)」には同じものが離島説・半島説を併記した形で「近藤重蔵「蝦夷地図式 乾」1802年として紹介されていますから、こちらも「樺太表記」を裏付けるものではありません。
なお、船越昭生著「北方図の歴史」(講談社―1976年)には「蝦夷及樺太ノ図2半島説」と同じものが『近藤重蔵「蝦夷地図式」乾』として載せられています。

さて、船越氏の「北方図の歴史」などに収録されている諸図や解説によると
図名作者など時代カラフトについての表記リンク
蝦夷風俗人情之沙汰最上徳内1790年唐太画像
蝦夷地図式 乾近藤重蔵1802年唐太画像
享和元年樺太見分図中村小市郎・高橋次太夫1801年唐太山画像
辺要分界図考近藤重蔵1804年カラフト画像
唐太島図松田伝十郎・間宮林蔵1809年
北蝦夷島図間宮林蔵1810年
日本辺界略図高橋景保1809年北蝦夷画像
蝦夷闔境輿地全図藤田良・橋本蘭斎1854年画像
官板 実測日本地図(北蝦夷)幕府開成所1867年北蝦夷画像

以上、手持ちの書籍やウエブの画像で読めそうなものを集めてみましたが、これだけでは江戸期に「樺太」の表記が存在したことの裏づけにはあまりにも不十分、というより、否定的な感触です。江戸期においては「樺太」との表記はおおよそ用いられておらず、「唐太」または「北蝦夷」の表記が一般であったことは言えると推察します。


[62501] 北の住人 さん
ところで、全国樺太連盟のサイト(中略)のURLを見ると「kabaren」の文字があり、連盟の略称として「樺」を「かば」と読んでいるようです。実際、「樺太」の読みとして「かばふと」も書いている辞書もありました。
樺連「かばれん」だけではなく、一般に樺太を略して「樺」の一文字で表す場合の読みは大概が「かば」です。1941年に樺太庁鉄道に吸収されましたが、落合駅から分岐してオホーツク海岸に沿って敷香まで建設された「樺太鉄道」も「かばてつ」と呼ばれていました。
大泊―豊原間の貝場駅から分岐して。留多加に至る私鉄線「南樺鉄道」は「なんかてつどう」のようですが。

また、「樺太」を「かばふと」と呼ぶ人も少なくはなく、「からぷと」と呼ぶ人も居たとか。


[62471] むっくん さん
モンゴル帝国の支配地域の拡がりに伴い(中略)、具体的な侵略の歴史を初めて知りました。
拙稿[62450]に書いた「1286年の樺太上陸にはじまる元軍の侵攻で1308年には樺太の諸種族の抵抗を排除」の部分の資料としては、M.S.ヴィソーコフ著、板橋政樹訳「サハリンの歴史」(北海道撮影社―2000年)に基づきました。ロシア側から見たサハリン史です。
アイヌ側からの歴史を紹介したページ「アイヌ民族の歴史年表」というページを見つけましたが、樺太アイヌ(骨嵬)の元帝国との戦いとして、その経緯が詳しく述べられています。
一方、ヴィソーコフ著「サハリンの歴史」には、中国の史料の伝えとして、モンゴル軍がアムール下流に現われ、サハリン北部のニヴフ(ギリヤーク)族を支配下に置いたのが1263年。しかしサハリンアイヌの大多数の種族は頑強に服従を拒んでおり、1286年、強力な武装部隊1万人がサハリンに上陸し各所に配置され、1308年に軍は諸種族の抵抗を排して毎年の貢物を上納させるに至った、とあります。
[62579] 2007年 11月 20日(火)02:05:04【1】ニジェガロージェッツ さん
オフ会での雑談
福博オフ会から早くも十日が経ちました。[62566]グリグリさん、第四回オフ会の記録ページ早速のアップ有難うございます。
ついに実現した参加者全員の集合写真、壮観です。ところで撮影場所の福博であい橋の西詰は、拙稿[61426]でご紹介した明治43年の福岡市地図を見ると福岡市外になっています。今ではすっかり都心のど真ん中と思える場所で、以前の県庁のすぐ傍に当たりますが、明治時代の福岡市域がいかに狭かったか、と言うより、当時の「市」というもののあり方が伺えて面白いところです。

さて、小生オフ会から帰神してからというもの、先週はすっかり抜け殻のようになってしまい、第二水曜日の町内の荒ゴミの日さえ、ついうっかり荒ゴミを出すのを忘れてしまいました。
ところで、この「荒ゴミ」という言葉、日常的に使っていた言葉なので、全国どこでも通じる日本語の普通名詞だと思い込んでいたのですが、最近、神戸などの一部地域でしか通じない言葉だと知りました。
オフ一次会で隣席の皆さんに尋ねてみましたが、当たり前に通じたのは同じ神戸の小松原ラガーさんのみで、尼崎のかすみさんにさえ通じない言葉でした。らるふさんからは「荒」の字が違うとのこと。「粗ゴミ」ならば少しは通じるエリアが拡大するかも。

とはいえ、平成16年12月に神戸市のゴミ収集区分では荒ゴミが廃止され、従来であればジャムの小ビンから大型家具に至るまで、燃えないゴミは何でも荒ゴミとして廃棄していたのですが、今やそれは昔話。しかしながら、言葉としての「荒ゴミ」は今なお、神戸においては生きています。今のゴミ出し区分が徹底されれば、そのうち死語になる可能性はありますが。

一方で既に死語になった言葉としては「別勉」がありました。昭和40年代に神戸でリアル小学生だった小生より年配の人のみに通じる言葉のようです。
「別勉の横の荒ゴミ置き場にほかして来い」と言っても何のことだか。
「学習塾の横の不燃ごみ収集場所に捨てて来い」とは、些かまどろこしい。

話は変わってオフ三次会では、かぱぷうさんが白桃さんにコップ酒を一升瓶に見立てて、「これで頭を一発やってください!」と懇願するシーンがありました。何でも過去の書き込みから「都市人口トップ10」が言えなかったとかで、面白いエピソードでした。
すっかり出来上がっていた白桃さんがその場でどう対応したかはさて置いて(笑)、小生は「トップ20」ぐらいは諳んじていないといかんと思って、帰りの新幹線の中でトップ20をメモに書き出して帰宅後確認すると、80万都市の15位サラトフと16位ヴォロネジを逆にしていました。
どこの国の話やねんっっ! と言うことで、荒ゴミのような書き込み失礼いたしました。

#カラフト「樺太・唐太」について数多くのレスを有難く頂いていたのですが、また後日ということで稿を改めさせてください。
[62497] 2007年 11月 12日(月)20:54:30ニジェガロージェッツ さん
オフ会堪能して参りました
こんばんは、「兵庫県オッサンカルテット」のひとり、ニジェガロージェッツです。
福岡からは昨晩帰神いたしましたが、PCの調子が悪かったのと、旅の疲れで、本来ならば真っ先に参加者皆様への御礼などを落書き帳へ書き込むべきでしたが、一日遅れになってしまいました。

一昨日の福博オフ会(一次会は博多区、二次会以降は中央区での開催)では皆様お世話になりました。
見事な采配で、そつなく幹事役をこなされた、かぱぷうさんには何と御礼を申し上げればよいかわかりません。
小生は四次会のカラオケ店を2時に失礼したのですが、[62470]かぱぷうさんの書き込み時間ではまだ4名いらっしゃったとは、家族旅行途中の御仁もまだ粘っておられたようで、御仁の日曜日の家族内での修羅場を勝手に想像して他人事ながら血の気が失せました。

さて、当日を振り返れば、一次会では[62493]ペーロケさんのシルエットクイズで引いた紙を見て、それを「壱岐」かと直感したのですが、周りから「それは壱岐じゃないよね」と断定されると、「ああ、やっぱり違ったか~」とあっさり自説を放棄するという一貫性のなさ、そして解答をもらうとしっかり壱岐だったりして、「やった!」と自説放棄を棚に上げて喜ぶという馬鹿さ加減。

二次会ではまかいのさんが披露されていたニュージーランドの道路地図を見ながらの談笑に、また、JOUTOUさんとは軍人将棋とカルビーの「仮面ライダースナック」のお話に花を咲かせ、昭和47~48年当時に戻った感覚でした。

三次会と四次会では音痴にもかかわらず歌を2曲づつ歌ってしまいました。場違いな三次会にもかかわらず歌ったのは、
―♪つくしのきわ~み♪―で始まる「蛍の光」と、「豊原市制謳歌」でした。いったい何をやっているのやら。厚顔無恥が続きます。

最近は腹の底から笑ったことがなかったので、本当に毎年の落書き帳オフ会は日々の暮らしの気分転換だけではなく、カンフル剤にもなります。とはいえ、毎年毎年羽目の外し過ぎです。
次のオフ会に参加する時は少しは大人しくしていようと思います。

楽しいひと時を提供してくださった、幹事役かぱぷうさんをはじめ、オーナーのグリグリさん、参加者の皆様、本当に有難うございました。


#三次会で歌った「豊原市制謳歌」ですが、少し噛んでしまったのと、一部に歌詞がうろ覚えの部分があったため、この場をお借りして1~4番の歌詞を書いておきます。(音楽テープを聴くと五番まで歌われていますが、歌集には載っていないため、五番の歌詞は割愛します)

【豊原市制謳歌】昭和12年
一、
北斗を仰げ北のはて ねいき巷に満ち満ちて
ようようにみめぐみ まつところ
市民われらに希望あり おーおー おーおー
荒茫と極みなき 希望の都 豊原市

二、
鈴谷の眺め水清く 若き命を生みいずる
みいまのしおの よぶところ
市民われらに光あり おーおー おーおー
発瀬(はつらつ)とほとばしる 光の都 豊原市

三、
累々満てる天産の 光輝く朝あけて
共栄の旗 ゆくところ
市民われらに力あり おーおー おーおー
隆々と盛りあがる 力の都 豊原市

四、
日々のみいずみ潤いて 殖産興業日に進み
世紀の嵐の 吹くところ
市民われらに誉れあり おーおー おーおー
洋々と拓けゆく 誉れの都 豊原市


 
[62450] 2007年 11月 9日(金)23:35:19ニジェガロージェッツ さん
いつもながらの遅レス2題
いよいよ明日は楽しみに待った福岡オフ会です。明日は午前中いっぱい仕事で、新神戸を13時を過ぎてからの新幹線で博多を目指します。幹事役のかぱぷうさんをはじめ皆様、お世話になります。
さて、出発を前に、いつもながらの遅レスにて恐縮ですが、オフ会を心残りなく楽しむためにも、宿題を済ませておきましょう。

[61689] 伊豆之国 さん
西伊豆町の田子地区に、「唐太(からふと)」と呼ばれている地区があります。
西伊豆に「カラフト」ですか。これはこれは面白い地名をご紹介くださり有難うございました。
西伊豆の「カラフト」の由来としてリンク頂いたページによれば、岩礁(=カラ:マライ語由来など諸説あり)の先端が太くなっている地形から付けられたとのことですが、
一方の北海道の北にある大きな島を「カラフト」と呼ぶのには大きく分けて2説あるようです。このあたりは雪の字さんやIssieさんがご専門かと思いますが、ちょっとメモ代わりに書いておきます。

【アイヌ神話説】
社団法人全国樺太連盟のサイトに樺太の名前の由来として紹介されていますが、アイヌの伝説として、神が生んだ大きな島を北海道と樺太の二つに割る国造りの伝説から、それをアイヌ語で「カムイ(神)、カラ(造る)、プト(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)」と言い、その「カラプト」に「唐太」の字を当てたとする説。
なお、この説はロシア語のウィキペディアの記事Южный Сахалин(南サハリン)にも樺太の由来として引用されています。但し、出典は?で問われています。

【唐人説】
江戸時代に大層重宝がられた清国産の衣服を「蝦夷錦」と呼ばれることに代表されるように、日本と清国を結ぶ「北のルート」、山丹(現在のロシア領ニジニ・アムール地域で、元は清国領)―樺太―北海道を経由する山丹交易が存在したことから、樺太のことを「唐人」「唐太」と呼んだとする説。
更に時代を遡れば、大陸ではモンゴル系の元朝の時代、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)に続く「第3の元寇」とも言うべき、1286年の樺太上陸にはじまる元軍の侵攻で1308年には樺太の諸種族の抵抗を排除し、一部の歴史ロマンには次は北海道へ上陸する戦略があったかとも推測されている「北の元寇」の歴史もあり、この島の中国大陸とのつながりの深さを物語っています。

蝦夷地を北海道に改める際、北蝦夷地=カラフトについては「唐」の字は清国をイメージすることから国内の地名としては好ましくないとのことで、「樺」の字を与えて「樺太」としたとのこと。

どちらの説もなるほどと感じさせるものがありますが、まあ敢えて一つに絞る必要もないのかも知れません。西伊豆のカラフトと北蝦夷のカラフト、どちらも「唐太」の表記が出てくるのは、やはり偶然の一致でしょうか。

伊豆とロシアの関係といえば、幕末の伊豆近海でのロシア軍艦座礁事件と、その代替艦の建造が戸田港で行われたことです。
1854年に下田で結ばれた日露和親条約とその顛末ですが、その時のロシア側の全権代表はプチャーチン提督(Е. В. Путятин)で、安政の大地震の津波により大破し、その後沈没した船はフリゲート艦ディアナ号(фрегат Диана)でした。プチャーチン提督の肖像と津波を受けて転覆するディアナ号を描いたロシアの絵画がこちらのページに載っています。
新造したスクーナー帆船ヘダ号(шхуна Хэда)については歴史小説になっています。「ヘダ」と題したこの本はソ連時代1979年に出版されています。表紙の絵が何とも当時の伊豆の様子を表しているようで好感が持てます。
#どちらもロシア語のページですが、絵だけでも楽しんでいってください。


[62273] まがみ さん
私も地名由来?のニックネームではあります。実際とは「読み」が違いますが…。人口は、9,941人。2007年6月末現在、高槻市真上町一丁目~六丁目の合計人口
これはこれは大変なお人が漏れておりました(笑)
読み方が違うことも含めて昔どこかでお聞きした記憶はあったのですが、改めて探してみると4年半前の貴稿[13150]にしっかりと書かれていました。失敬いたしました。

拙稿[61343]には、まだまだ漏れがあるようで、いつもながらの詰めの甘さ、恐縮しております。
[62325] 2007年 11月 1日(木)01:51:09【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:神戸市西区
[62321] 小松原ラガー さん
今期(今月?)の神戸市西区の増加って一過性のものではありませんか?(中略)
ここ2~3年程度は都心回帰というか、西区、垂水区はむしろ現状維持、もしくは人口減の方向に向かっていたかと思うのですが・・・。
酔った勢いで子供に変な先入観を植えつけてもらっては困ります(笑)
人口減少区の垂水区と、人口増加区の西区を一緒にしてはいけません。
ですが、西区についても[62320]ドラえもんさんの言うような、
30万人越えももう間もなくというところです。
は、ありえません。
「間もなく」をどの程度の年月を想定しているのかは本人に聞かなければわかりませんが、西区の直近5年間の人口増加数は修正値ベースで8,846人、年平均すると1,769人にすぎません。
仮に甘く見積もって、年平均2000人の人口増が見込まれるとしても、
(300000-248000)÷2000=26年。これって「間もなく」ですか。これを「間もなく」と言ってしまうと、私は「間もなく」71歳になってしまいます(笑)
私の勘ですが、西区の場合、人口26万(多くても27万)ぐらいで頭打ちになるのではと感じています。

震災後の各年10月1日現在の人口データを出しておきます。出典/神戸の統計
年月北区の人口垂水区の人口西区の人口データの性質
平成7年10月230,473240,203222,163国勢調査結果確定値
平成8年10月231,500235,672228,932推計人口修正値
平成9年10月230,454229,440234,118推計人口修正値
平成10年10月228,131224,711235,580被災地人口実態調査結果
平成11年10月226,781225,681235,743推計人口修正値
平成12年10月225,184226,230235,758国勢調査結果確定値
平成13年10月224,853225,361237,597推計人口修正値
平成14年10月224,775225,037239,315推計人口修正値
平成15年10月224,847224,873240,698推計人口修正値
平成16年10月225,480223,565242,117推計人口修正値
平成17年10月225,945222,729243,637国勢調査結果確定値
平成18年10月226,207221,319246,201推計人口
平成19年10月226,440220,546248,161推計人口

平成8~9年より平成11年までは震災後の仮設住宅の撤去の影響もあり、垂水区で大幅な人口減、西区でも増加の鈍化(新規開発地の人口増と仮設住宅撤去による人口減が相殺される)が見られるのが特徴です。
[62240] 2007年 10月 26日(金)22:00:23ニジェガロージェッツ さん
一桁の疑問
[62230] 千本桜 さん
興味深い出荷額と人口のデータ、有難うございます。
横レスにて申し訳ありませんが、相模原市のデータ
相模原市  140,516,349万円  703,717人  1,997万円
一桁間違っていませんか。

相模経済新聞の記事には、「1兆4千500億円」とありますから、千本桜さんの出荷額データを尊重すると、
相模原市 140,516,349万円 703,717人 200万円 が正しいのではないでしょうか。
[62005] 2007年 10月 16日(火)23:19:46ニジェガロージェッツ さん
神戸での相互乗り入れ
[62000] 小松原ラガー さん
あれ、そう言えば、阪急電鉄としては三宮から神戸市営地下鉄山手線と乗り入れて西神中央を目指していたのではなかったっけ?

むしろ、この阪急阪神HDへの株式譲渡で、阪急の神戸市営地下鉄乗り入れ構想は進みそうな気もします。

阪急としては、阪急春日野道―三宮間を地下化し、現在の阪急三宮駅を廃止。神戸市営地下鉄に連絡してニュータウンの西神中央と大阪・梅田を結ぶ構想(神戸新聞・04年7月22日付け記事)ですが、そのネックとなっていたのは、実現すれば神戸市の第三セクターである神戸高速鉄道の新開地駅まで乗り入れている阪急の撤退からの神戸市の難色にありました。
神戸市には、その他にも地下化される阪急線建設への事業費負担、阪急乗り入れによる三宮―新神戸―谷上間の運行本数の減少がありますが、この株式譲渡により、「反対勢力」たる神戸市が神戸高速鉄道から抜けることになり、すでに実現した阪急と阪神の経営統合を合わせ、いよいよ時期が熟してきつつあるとの印象を持ちました。
神戸高速鉄道線には阪神を、市営地下鉄線へは阪急、の色分けが決定付けられたように感じます。
[61873] 2007年 10月 13日(土)11:16:50ニジェガロージェッツ さん
ご自身で解決を
[61865] YSK さん
レス有難うございました。[61865]を書かれるにあたっては、よほど思うところがあってのことと察します。
拙稿[61863][61826]につづき、YSKさんには厳しい物言いになってしまい、またYSKさんならずとも、ご気分を害された方もいらっしゃることと思います。その点は、申し訳なく感じております。


思えばYSKさんとは、2003年には神戸・長田にも足をお運び頂き、また私を両毛への旅に誘っていただいたりと、本当に良い青年とお知り合いになれたと、率直に喜んでおりました。

そういう背景もあり、友人としても、今回は敢えて心を鬼にして申し上げます。

オフ会に関する書き込みだけではありませんが、他人を怒らせたり、また迷惑を掛けてしまったと思われるのであれば、まずなすべきことは、その怒りを癒してもらうように対処するのが先決です。
「申し訳ございません」と言いながらも、自分の心情を一方的に相手に吐露して理解を求めるやり方は、あまり上手な事後対応には感じられません。
また、その後も「一から出直すつもり」で、まるで何もなかったかのような今までどおりの頻度で書き込みを続けるのは、場合によっては、相手に拒否反応を増幅させるだけのものになる恐れさえあります。

「落書き帳で、自分は認められているのだろうか?仲間はずれにされていないか?」といった不安にさいなまれて、その気持ちを押しとどめられなくなると、皆さんに迷惑をおかけするような発言に至ってしまうように思います
「認められていない」と感じられるのであれば、認めていただくように精進するしかありません。また、ここはリアルの実生活の場ではありません。仮に「認められていない」としても、それがどれほどの不都合を生じるのでしょうか。
私には、YSKさんの[61865]を読んでの感想として、余りにも自己中心にしか物事を見ていないと感じざるを得ませんでした。

私がちょっと変な方向の発言をしたら、「きっとこいつは不安になっているな」と受け止めていただき、適切な方向へお導きいただければ、幸いです。
それはご自身の心の問題です。他人が立ち入れる筋合いのものではないと私は考えます。
少なくとも、私にはYSKさんを適切な方向へ導くことなど、出来ることのようには思えません。
敢えて私見を申し上げるとすれば、何か変な書き込みをしそうであれば、心が落ち着くまで、書き込みを控えていただく他はないと思っています。


皆様、本当にお見苦しい粗末な物言いを続けて申し訳ございません。
YSKさんへの地理には関係ないメッセージはこれを最後にしたく存じます。
[61863] 2007年 10月 13日(土)00:27:08【2】ニジェガロージェッツ さん
アドバイスを超えてしまったようで恐縮です
[61861] オーナー グリグリ さん
第十七回十番勝負いつもながらのご盛況、ご同慶の至りです。小生今回も参加できずにおり、申し訳なく感じているところです。
現在微力ながらも都市人口のデータの整理を続けており、都道府県の範囲を超えた某国(笑)のデータですが、ネットの世界では小生以外にこのようなことをやっている人はいないようで、思いもよらないような機関や組織から問い合わせがきたりで、何か使命感のようなものまで感じるに至っております。
そんなこんなで、今回も十番勝負は静観にて失礼いたしておりますが、機会があればそのうち参加させていただきたく思います。
(恐らく、十に一つも当たらない誤答の山を築くことになりそうですが・・・)

#らるふさん、ニジェさん、お気遣いありがとうございました。
オーナーのこの一言で、救われたような気がいたします。
実際に[61826]を投稿するに当たり迷いがありました。特に十番勝負のお祭りの盛り上がっている時期でもあり、あまり無粋なことを書くのもこの場の雰囲気に水を差すようで、気が進みませんでした。
ですが、ドラえもんさんや日本人さんに対して、アドバイスのつもりでも相当厳しい注文といいますか書き込みをしてしまい、その一方で、たとえ三十路を過ぎた青年とはいえ、明らかに変な書き込みをされる方がおられると、やはり一言お伝えしなければならないような気がして、僭越ながら投稿させていただいた次第でした。
[61822]を書かれたらるふさんも、相当嫌な思いがあったことと察しております。「ア・イ・シ・テ・ル」という言葉も度々一方的に言われると、正直なところ気味の悪いものを私も感じておりました。

さて、いよいよ第四回福岡オフ会開催までひと月を切りましたね。
幹事役をお引き受けされたかぱぷうさんが精力的に、そつなく下準備をされ、盛況が目に見えるようです。福岡行きが今から楽しみです。

厳しい注文ついでに、大きなお世話になりますが、ひとつだけお願いをしたく存じます。
第二回神戸オフ会に際しては、[44957]
関西に来ているにもかかわらずオフ会には参加しておりません。
第三回金沢オフ会に際しては、[54320]
オフ会についても参加することはないでしょう。皆さんとお会いすることももうないと思います。
などという書き込みは、今年こそ控えていただきたく思います。開催に尽力された世話役の皆様をはじめ、楽しいひと時を過ごされた参加メンバーに対して、大変に非礼な言葉です。


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