[67560]YTさん
鹿児島に関して何通りもの統計が存在する背景については、どなたか明治初期の鹿児島について詳しい方に解説して欲しいところです。
鹿児島についてはあまり詳しくはないのですが、推測してみました。
まず、江戸時代に話は遡ります。
通常の藩、例えば尾張徳川家62万石では、おそらく侍は城下町である名古屋及び江戸に在住しています。そして町人は城下町に居住しました。これがごく一般的な姿であろうと考えられます。
そして統治の方法ですが、藩の都合上、数村や数町単位で藩が統治していることはあっても、各町村の内部ではそれぞれの町村が独自に自治を行っていました。これら江戸時代に作られた各々の町村が現在の市町村に直接つながります。村のなかに通称で町とよばれたところも全国的に多数ありましたが、山城国葛野郡大将軍村の中にあった下横町(明治元年7月に大将軍村より分立)のように独立した町とならない限りは、基本的には通称どまりで自治体としての町村とはなりませんでした。
ただ薩摩大隅全域と日向の一部を治めた島津家77万石ではこれとは若干異なりました。
何が異なるのかというと、島津家統治地域には郷というものがありました(正確には従来からの郷が存続していましたの方が正しいのかもしれません)。
郡と各町村の間に郷を置き、基本的には数村をまとめた郷単位で統治されました。そして各郷に藩士が分散居住しており、有事の際には、各々の郷が鹿児島の本城を守る外城となっていました。
上記のように郷というものがあったため、鹿児島という言葉は2つの意味を持つようになりました。一つは城下町としての鹿児島、もう一つは鹿児島郷(注)で、鹿児島というと一般的には後者をさすことがほとんどであったようです。
(注):郷の名称において通常は○△郷というのですが、鹿児島郷だけは鹿児島郷とは言わずに鹿児島と言うのが正式であるようです。ただ便宜上、本稿では「鹿児島郷」という言葉を用います。
鹿児島郷の範囲としては、鹿児島城下及び鹿児島郡荒田村・郡元村・中村・田上村・武村・西田村・原良村(明治4年永吉村へ編入)・草牟田村(明治4年下伊敷村へ編入)・小野村・下伊敷村・永吉村・坂元村・犬迫村・上伊敷村・花棚村・皆房村(明治4年比志島村へ編入)・塚之原村(後に岡之原村と改称)・下田村・吉野村・川上村・花野村(明治4年岡之原村へ編入)・西別府村・塩屋村・日置郡比志島村・日置郡小山田村の25か村でした。
鹿児島郷で城下以外の近隣の村に住んだ武士について、「角川地名大辞典46鹿児島県」(著:角川日本地名大辞典編纂委員会、出版:角川書店、1983)では、
文政年間の武家屋敷1,831か所の分布状況は、上方限に571か所、うち2か所は佐土原屋敷・琉球館、下方限に865か所、岩崎・東福寺城・城内に55か所、新上橋・西田・高麗町・荒田・武・中村・草牟田・吉野・上伊敷・下伊敷・大迫・坂元に340か所で、約2割は近在に進出
と記載されています。「約2割は近在に進出」と書かれているように在郷の武士の数は少なくないようです。
#文政年間・・・1818-1829年
その後、明治4年には谿山郡谷山郷の宇宿村が鹿児島郡鹿児島郷へと所属郡&所属郷を変更しています。同時期には日置郡の比志島村と小山田村も鹿児島郡に所属郡の変更が行われていたと考えられます。
さてここからが考察です。
(1)
薩隅日地理篇考(明治4年1月15日以前)85,435人
ここでの鹿児島とは
薩隅日地理篇考に書かれています。その記載によりますと、鹿児島とは上述した江戸時代からの鹿児島郷の村々及び城下町に、明治4年に新たに鹿児島郷に加わった宇宿村を併せた、20村及び城下町の範囲であることが分かります。
#明治22年4月1日の市制町村制施行時にはこれら20村及び城下町は
鹿児島市、
伊敷村、
吉野村、
西武田村、
中郡宇村となりました。
(2)
日本地誌提要第7冊(PDF)(明治6年正月調)27,240人
日本地誌提要第7冊(PDF)123-124コマによりますと、鹿児島坂元村27,240人とあります。坂元村というのは城下町東側の通称・上町と呼ばれた地域の北側にあります。おそらく少なくても上町は坂元村が町場化したのであろうと推察します。そのため坂元村と記載されているのであろうと。
さて、ここの鹿児島とは、おそらく純粋な鹿児島の城下町のみで、近隣の村は含まれて居ないと推察します。
ただ、城下町部分には嘉永5(1852)年には少なくても、諸士家来並足軽・諸座附・寺社門前の39,922人、士妻子の8,712人、三町の4,040人、合計52,674人は住んでいました。
いくら廃藩置県で知行が削減されていく時期とは言え、人口が半減するとは相当に考えにくいですが。
(3)
第一回共武政表(明治8年以前)89,374人
第一回共武政表の鹿児島と、鹿児島郡の人口と一致します。既に
[67560]でYTさん御自身が推察されていますが、江戸時代からの鹿児島郷の村々及び城下町に、明治4年に新たに鹿児島郷に加わった宇宿村に加えて、さらに鹿児島郡の残りの部分である吉田郷の村々の部分も付け加わった範囲と考えられます。
#明治22年4月1日の市制町村制施行時にはこれら村々及び城下町は
鹿児島市、
伊敷村、
吉野村、
西武田村、
中郡宇村、
吉田村となりました。
郡区町村編成法が実施される以前の、少なくとも(1)~(3)の時期は、他の府県のように城下町を構成する町村を以て都市の範囲を決定したのではなく、従前の郷を以て都市の範囲を決定したものと考えられます。
#この時期の鹿児島県以外の府県での都市とは、
[67556]拙稿で挙げた彦根のように、自治体と一致するものではありません(都市・彦根には98の自治体がありました)。
(4)第二回共武政表(明治12年1月1日調)32,067人
第一回共武政表の時期からこの時期にかけて、おそらく鹿児島の城下町に住んでいた下級藩士を主とした武士の数が帰農したことで鹿児島の都市人口が激減したことが推測されます。そして西南戦争により、城下町のかなりの部分が消失したために鹿児島の人口減少に拍車をかけたのではないか、ということが推測されます。
これら2つの理由より、城下町のみの人口が嘉永5(1852)年の少なくても52,674人から大幅に減少したことは推測がつくものと考えられます。
しかし第二回共武政表で書かれている鹿児島が
[67560]YTさんで示された情報のみからではどの範囲なのかは私にはよく分かりません。
ただ一つ言える事は、別途記載されている六日町から塩屋町は、いずれも鹿児島城下町としての各町の名称です。ということは、鹿児島と別途数えるというのは不適当であると言えるのではないでしょうか。これらの町は鹿児島城下町の内の主要な町を別途例示しただけ、と私は推測します。
(5)第三回共武政表(明治13年1月1日調)20,171人
第三回共武政表の20,171人というのはおそらく鹿児島の城下町各町のみとして鹿児島を取り扱っていると私は推測します。その理由としては郡区町村編制法がおそらく明治12年(ただし第二回共武政表の日付である明治12年1月1日ではない)に鹿児島県に施行されたからです。
郡区町村編制法においては、それ以前と異なり、全国で例外なく均一に町村を取り扱っています。鹿児島県でも法律の基準にのっとり、他の地域と同様の基準を採用したものと考えられます。この時、鹿児島では郷という独自の基準の変更を余儀なくされたために、第二回共武政表より約1万人も人口が減少したのであると私は考えます。
(6)第四回共武政表(明治14年1月1日調)20,670人と都府名邑戸口表(明治17年1月1日調)49,360人
この二書を比較すると明治14年から明治17年にかけて人口が倍増以上しています。そこで理由を考えてみました。
理由の一つ目としては、江戸時代以降盛んに行われてきた海の埋め立てによって城下町が拡がり住める場所が拡がったということが考えられます。ただ、薩摩藩が廃止されてさらにその後西南戦争もあり完全に荒廃していた都市で新たに埋め立てがなされることは考えにくいです。
二つ目としては、薩摩藩が廃止され、さらにその後西南戦争もあり完全に荒廃していた鹿児島の城下町部分にようやく活気が戻ったからということが考えられます。
城下町部分には嘉永5(1852)年には少なくても52,674人は住んでいました。それが一端人口が減少し、明治14年1月1日では20,670人だった人口が、明治17年1月1日に49,360人住むようになったとしても、別段不思議ではない気がします。
三つ目としては城下町が拡がり、町場化した近隣の村々の一部を編入したということが考えられます。これはあったのかもしれませんが、やはり鹿児島の城下町部分に活気が戻ったという二つ目の理由が主であるのではないでしょうか。
(7)明治17年から明治21年にかけて
明治17年1月1日の都府名邑戸口表(49,360人)ですが、明治17年1月1日の現住人口(47,583人)と比較しても2000人程度多いだけで、明治21年末の現住人口(
45,092人)と比較しても4000人程度多いだけで、この間はあまり人口に変化がなかったと考えられます。
(8)市制町村制施行前後の状況(明治21年末の現住人口と明治22年末の現住人口)
明治21年末は鹿児島は
45,092人となっていたのが、明治22年末では鹿児島市は
57,750人となっています。
これは明治22年4月1日に
鹿児島市が成立したとき、城下町である47町に加え、近隣の3村も加わっています。おそらくこの約1万人の増加とは、3村の人口そのものではないかと推測されます。
以上長々と書いてきましたが、(1)~(6)で挙げた本に書かれている人口というのは良く考えれば本籍人口なのですよね。現在であれば本籍の移動というのは容易ですが、この当時はそれほど簡単には出来なかったのではないか、とも考えてしまいます。
ただ、本籍の移動は容易ではなかったが、ある程度の頻度でなされた、という前提でこの文章を書いた、という断りを入れて、本稿の〆とします。
訂正
【1】:誤字訂正
【2】:(4)を大幅修正。(4)の前に一文追記。
【3】:鹿児島郡東別府村の記載を削除(遅くても幕末には所在不明の村とされていたため)。(4)の前にさらに一文追記。