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白桃研究所長による人口テーマ専門誌

日はまた昇ってほしい

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記事数=22件/更新日:2012年11月2日

都市や地域の人口が一挙に激減することがあります。
戦乱、地震、大火、津波、水害、・・・そしてこの度の原発事故。(これら、全てを“一緒くた”にしても良いのかどうか大いに悩みました。)
とにかく、戦争も含むこのような災害によって、直接の死者がでるばかりでなく、焼け野原となったり、住居を奪われたりで、その土地を離れて行かざるを得ない人々が大量に出てきます。
この落書き帳には、このような悲惨な戦争や災害に触れた記事はそんなに多くありません。でも、敢えて記事にしていただいた貴重なものを記録として残したいと思い特集にした次第です。
1920年第1回国勢調査人口で第7位が長崎市、第8位が広島市でした。「六大都市」に次ぐ人口を擁していた両市に、奇しくも1945年に原爆が投下されました。でも、見事に復興したではありませんか!神戸も然りです。
東日本大震災の被災地域の「復興・復活の日」が一日も早く来ることを切に願うばかりです。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[3503]2002年10月3日
ニジェガロージェッツ
[4656]2002年11月8日
ニジェガロージェッツ
[4811]2002年11月11日
いな
[7642]2003年1月13日
ニジェガロージェッツ
[7736]2003年1月15日
ニジェガロージェッツ
[9060]2003年2月11日
ニジェガロージェッツ
[14715]2003年5月5日
三丁目
[24108]2004年1月24日
hmt
[34730]2004年11月2日
出石隠
[35018]2004年11月11日
N-H
[35132]2004年11月16日
ニジェガロージェッツ
[39976]2005年4月18日
作々
[60963]2007年9月1日
スピカ
[67581]2008年12月13日
むっくん
[78504]2011年6月7日
hmt
[79296]2011年9月1日
白桃
[79612]2011年11月8日
白桃
[79613]2011年11月10日
みかちゅう
[80028]2012年1月9日
白桃
[81877]2012年9月22日
白桃
[81886]2012年9月25日
白桃
[82041]2012年11月2日
hmt

[3503] 2002年 10月 3日(木)02:23:38ニジェガロージェッツ さん
Re:区の数
[3491]
大阪が24区あり、東京が23区。大阪の方が東京よりも狭いにもかかわらず区の数が多い。
とのことですが、法的なことに関する知識は薄学につきうまくご説明出来ないので、他の諸先生方にお任せするとして、
まず、同じ「区」という名称を使っていても東京の区は「特別区」として独立した存在で区議会があり、区長を選挙で選出しています。一方、大阪の区は完全に「大阪市」の下部組織で「市」が独自に設置しているものです。
ですから、東京の「区」と大阪の「区」を同じ性質のものとして比べることはできません。

では、政令指定都市の行政区として同質の筈の大阪市の「区」と横浜市の「区」ではその規模に大きな違いがあるのかという疑問が出てくることと存じます。
政令市の区は大体の人口要件があり、その適正規模としては概ね人口15万人±5万人とされているようです。(私自身は行政に携わるものではないので、どういった根拠でこの数字が出てきたのかは詳しくは存じません。)とはいえ、人口20万人を超えたからといってすぐに分区の話がでたり、逆に10万人を割り込んだからといっていきなり他の区と統合したりということはなさそうですが、人口30万人近くに達したり、逆に5万人以下に落ち込んだりすると「そろそろ区の再編を」となりそうです。([3419]で京都市伏見区民さんがご披露くださった京都市のような極端な例外もありますが。)

グリグリさんが編集された今年6月1日現在の推計人口表によれば、

大阪市(全24区) 人口 2,618,508人  1区平均人口109,105人 うち人口20万人以上の区1区、10万人以下の区13区
横浜市(全18区) 人口 3,489,694人  1区平均人口193,872人 うち人口20万人以上の区9区、10万人以下の区1区

となっています。
で、この違いはどこから来るのか? ですが、
私見で恐縮なのですが、両市の「区の沿革」の違い、に尽きるのではと思っています。
まず、拙稿[3421][3422]の昭和15年の人口を見て頂きたいのですが、今の人口分布とはまるで違う62年前の両市の姿があります。ですが、横浜市の場合、このときの7区のうち中区、磯子区、保土ヶ谷区、港北区、戸塚区の5区がそれぞれ人口の増加に伴い分区を続け現在の18区になったのですが、首都圏の人口集中による市人口の激増で「人口20万人を超える大きな区があちこちに出来た」といった所でしょうか。
一方、大阪市の場合は、このときの15区を一旦白紙に戻すかのように、昭和18年という近代史上最も下町に人口が集中した時代に全市域でそのときの人口分布に沿って行政区の再編成をやり、22区に大増区しました。これが現在の区の原型です。しかしその直後、度重なる大空襲で市街は灰塵に帰し、戦後復興はしたものの、特に都心部の各区では戦前の人口に遠く及ばないまま、昭和35年を過ぎた頃には早くも「ドーナツ化」減少が始まり、人口7万人にも達しない区が続出しました。昭和40年代に入り大阪市もさすがに再度の行政区再編を計画し、人口増加が続いていた周辺部(一部戦後の合併で区域が拡大)の4区を8区に分区(東淀川区から淀川区、城東区から鶴見区、東住吉区から平野区、住吉区から住之江区をそれぞれ分区)するのに併せ、人口減少の著しい都心部の11区を5区に統合(北区と大淀区、東区と東成区、南区と天王寺区と浪速区、西区と港区、此花区と福島区をそれぞれ統合)する案を発表しましたが大騒ぎとなり、市民の猛反対でこの合区案は昭和48年ごろ葬られ、結局分区案のみ実行され市内は26区となりました。合区の難しさを見せつけた格好になりましたが、その後、不可能とさえ言われた合区が昭和55年に神戸市で(葺合区と生田区が統合され中央区に)実現するに及び、昭和58年頃より大阪市でも再度合区について議論されることとなり(この頃の東区の人口2万7千、南区で3万6千ほどでした)、その組み合わせについては色々の意見があったといわれていますが結局、最小限にとどめ、北区と大淀区を統合し(新)北区、東区と南区を統合し中央区とすることとなり、平成元年に実行され、現在の24区制となりました。
大阪市に関する説明が長くなりましたが、全国的に見ても異様な「人口10万以下の区」乱立の経緯を述べました。ポイントは「昭和18年の人口分布に沿った行政区」ということになります。
[4656] 2002年 11月 8日(金)01:40:33ニジェガロージェッツ さん
ヒロシマ と スターリングラード ~廃墟からの復興~
[4589]hiroさん。「広島は大都市と呼べるか?」ですが、もちろん大都市ですよ。
雑魚さんのお言葉をお借りして「政令指定都市は伊達ではない」ということです。
以前に広島と岡山の対比をテーマとしてどちらが云々するスレがありましたが、何故に格違いの都市をわざわざ比較するのか理解に苦しんだ程です。
広島についての子細は、ここのご常連さんの中にも地元の先生方がおられますので、お任せするとして、私が敢えて注意を喚起したいのは廃墟からの復興です。
ご存知の通り、広島市は第二次世界大戦末期の1945年8月6日午前8時15分に米軍機B29「エノラゲイ」からの原子爆弾投下により灰燼に帰してしまいました。1942年の市人口は419,182でした。そこから再び戦前期の人口を二倍以上も越える大都市にした広島人の凄さ、素晴らしいものがあります。

ロシアでは、「ヒロシマ」は東京の次に有名なぐらいの地名です。ソ連時代は小学校でヒロシマの悲劇を教えていたそうです。ただ、一部の人から「戦前の日本に広島という都市があったが原爆で消滅したそうだが知ってますか?」と真顔で問われたことがありましたが。「今では100万都市だ。」と答えると一様にビックリしていました。
ところが、そのロシアにも戦時下に完全に破壊され、その後みごとに100万都市となったところがあります。現在のヴォルゴグラード市で、1925年から1961年まではスターリングラード市と呼ばれていました。(1925年までの歴史的都市名はツァリーツィン市、1555年建設、広島ではちょうど毛利元就の時代。1589年にヴォルガの要塞ツァリーツィンに。1780年市に昇格。地名はタタール語起源ですがロシア語で「ツァリーツァ」はロシア女帝の意。共産主義体制下ではさすがに馴染まず、ソ連の独裁者ヨシフ ヴィサリオノヴィッチ スターリン首相の名を冠し改称、スターリン死後も元の名には戻されず、「ヴォルガ河の都市=ヴォルゴグラード」に)
この都市は1942年7月17日にドイツ軍の攻撃に始まる「スターリングラード攻防戦(ドイツ軍30個師団100万人対ソ連軍38個師団100万人が激突。結果ドイツ軍が包囲され壊滅)」により徹底的に破壊され、1943年2月2日、戦闘はソ連軍の勝利で終結するものの1939年に445,000人を数えた市人口はわずか1,545人にまで激減しました。2000年にこの攻防戦をテーマにした米・独・英・アイルランドの合作映画「スターリングラード」が上映されご覧になられた方も多いと存じます。
実はこのヴォルゴグラード市と広島市は姉妹都市でして、共に戦前は40万人台の人口を擁しながらも第二次世界大戦時に廃墟となり、その後100万都市になるまで復興するなど共通点も多く、まさに絶好の組み合わせだと感じました。
姉妹都市提携の経緯は
http://www.city.hiroshima.jp/shimin/kokusai/shimai/volgograd.html
に詳しく書かれていますので興味のある方はご参考まで。但し、この中に戦前の人口を150万としていますが、何かの間違いでしょう。もしかしたら市の人口ではなく州のそれかも。

さて、ここで人口データを基に両市を比べて見ます。2000年現在の両市の人口は以下の通りです。[ ]には現地名を出来るだけ発音に忠実になるように表記してみました。

広島市1,126,239ヴォルゴグラード市993,400[ゴーラト ヴァルガグラート]
安佐南区204,636赤軍区177,000[クラスナアルメイスキー ラヨン]
西区179,519ジェルジンスキー区166,700[ヂルジンスキー ラヨン]
安佐北区156,387赤い十月区158,500[クラスナアクチャーブリスキー ラヨン]
南区135,467トラクター工場区139,200[トラクタラザヴォーツキー ラヨン]
佐伯区126,818キーロフ区97,400[キーロフスキー ラヨン]
中区124,719中央区92,900[ツェントラーリヌィ ラヨン]
東区123,258ソビエト区84,000[サヴェーツキー ラヨン]
安芸区75,435ヴォロシーロフ区77,700[ヴァラシーロフスキー ラヨン]
    (広島市は2000年10月1日の国勢調査人口、ヴォルゴグラード市は2000年1月1日推計人口)
また、戦後の両市の人口の推移は
  広島市             ヴォルゴグラード市
1960年431,3361959年591,000
1965年504,2451967年742,000
1970年541,9981970年815,000
1975年852,6111976年900,000
1980年899,3991979年928,600
1985年1,044,1181986年981,000
1990年1,085,6771992年1,005,000
1995年1,108,8881996年1,003,300
2000年1,126,2392000年993,400
    (広島市の人口は当該年次の市域によるもの。
     参考までに広島市面積は1970年86.75k㎡、1975年672.83k㎡、2000年741.75k㎡)
両市とも順調な復興振りが伺えます。近年のヴォルゴグラード市における人口減少傾向はロシアの諸都市共通のもので、大幅な自然減によるものと推測します。
ヴォルゴグラード市は独ソ戦争の勝利に貢献した都市として「英雄都市」の称号が与えられていますが、広島市もまた日本の「英雄」であると世界に誇ってもよいと思います。

ヴォルゴグラードへは一度も行ったことがありませんが(行こうとしたんですが、なにしろ住んでいたニジニノヴゴロドから列車で2日もかかるのでやめました。今にして思うと残念)、ロシアで唯一?広島風お好み焼きが食べられるそうです。
[4811] 2002年 11月 11日(月)21:36:37いな さん
衰退するには惜しい・・・西枇杷島町の場合
[4714] 白桃 さん
>2002年10月1日現在の推計人口(茨城、愛知、大阪、広島については9月1日現在)が、
>2000年国調確定人口から500人以上減少している20「町」と減少数は次のとおりです。
> 南知多647、西枇杷島564(以上 愛知)

この件について、コメントさせていただきます。<地元民からの反応
これは、一昨年の9月と、今年の9月との間に何があって、こんなにも減少してしまったかと考えればいいんですよね・・・

<南知多町の場合>
・ちょっと見当がつきません
 ・中部国際空港の海上埋め立てのための土砂の搬出作業が一段落ついた?

<西枇杷島町の場合>
・これははっきりしています・・・ズバリ!東海豪雨の影響
 ・昨年9月11日、夕方から深夜にかけて、1時間に最大100mmを超える記録的な集中豪雨が発生
   名古屋市西区の新川など十数ヶ所が破堤、西枇杷島町は全域にわたって水没
  その後、避難生活や復旧作業など、大変な出来事だったわけではあるが、全ての住民が元通りに
   戻ったわけではないのではなかろうか?
 ・建て替えに当って引っ越しをしたとか、建て替えできずに実家に身を寄せたままだとか・・・

この豪雨は、私も実際に遭遇しましたが、それはもう凄いのひと言・・・
滝のような雨が降ってて、道路は河のように水が流れ、側溝は排水しきれず逆流し
翌日には、道路脇に乗り捨てられた車がたくさん、中には田圃の向こうの方に流されていたり
そりゃあもう、大変な惨状でした。

幸いにも我が家は、雨漏りもせずに持ちこたえてくれましたけど・・・
[7642] 2003年 1月 13日(月)00:27:59【2】ニジェガロージェッツ さん
震災から8年の神戸・新長田界隈 (1)
神戸にまた悪夢の1月17日5時46分がまたやってきます。
あの1995年は、14日が第2土曜日、15日が日曜日で祝日、16日は振替休日と言うことで17日は多くの人にとって3連休明けの火曜日の未明、我われ神戸の人間にとっては17日よりも3連休明けの火曜日の方が「あの悪夢」を思い出すことが多いのです。
今、手元に3冊の写真帳があります。ここに収めてある写真は震災直後の1月から2月にかけてカメラ片手に避難所を抜け出し、焼け野原となった新長田界隈を写して廻ったものです。
この写真帳を辿って8年を経過した被災地の現在の様子を一枚一枚同じカメラ位置でもう一度、写して廻ろうと計画し、今日行って参りました。(完全に怪しいオッサンでしたが、時期柄か違和感がない)
復興半ばとはいえ、完全に瓦礫に埋まった当時の状況と違う今日では、それらの撮影位置を特定するのも困難でした。実際に現場を歩き、様相を完全に変えた街並みの中に、たった一箇所の変わっていない部分(片隅に写る倒壊を免れたビルの屋上にある高架水槽、歩道の縁石、電信柱など)を発見したときは感激ものでした。

現場を歩きながら、考えたことなどを地区ごとに書いて見たく存じます。
(但し、ここに書く地区名はあくまで私が便宜上つけたもので、実際の土地区画事業などとは関係はございません。)
人口データは国勢調査人口を用い、復興率の計算は「減った人口」と「回復した人口」の比率で計算しました。
計算法は、震災前の1990年10月1日人口:A、震災直後の1995年10月1日人口:B、2000年10月1日人口:Cとすると
復興率%=(C-B)÷(A-B)×100 で計算致しました。(1995年1月1日推計人口が丁目別に出ていないため、1990年国調人口で代用。1990年人口の方が95年1月人口より多いと思われるので、復興率は実際よりやや低めになりますが・・)
ただ、2000年の国勢調査時点から既に2年以上が経過し、現状の人口と差異が生じているために参考までに2002年11月30日の住民基本台帳(プラス外国人登録)人口を併記しておきます。

【新長田駅南地区】 神戸市長田区
町名\人口・復興率1990.10.11995.10.12000.10.1復興率 2002.11.30
地区合計3,7971,6962,19523.8 2,956
日吉町1~2丁目209155382420.4 410
若松町3~4丁目5633745679.7 743
若松町6~7丁目1688460-28.6 35
大橋町3~7丁目1,105741576-45.3 537
腕塚町5~6丁目1351411306.0 690
久保町5~6丁目691239110-28.5 83
二葉町5~6丁目926439200-49.1 458
この地区はほぼ全域が神戸市の「復興市街地再開発事業」の区域にあります。この再開発とは、大雑把にいえば区域の土地を一旦神戸市が買い上げ、再開発ビル等を建設し住民に分譲したり賃貸したりする手法です。
この区域は商店街が縦横に並ぶ一大商業地域で、1960年代より「西の副都心」として位置付けられましたが、1980年頃には市街地の空洞化が顕著になり副都心とは名ばかりで、さらに震災では倒壊だけでなく大部分が大火により焼失してしまいました。神戸市はここに再び「副都心」を建設すべく、震災2か月後の再開発地域に指定しました。1997年には早くも駅前の若松町4丁目に27階建ての再開発ビルが完成しましたが、これは震災の直前から着工したものでした。実際の復興再開発としては1999年3月に日吉町2丁目に12階建ての市営住宅が完成したのが始まりで、現在までに日吉町2丁目、腕塚町5・6丁目、若松町3丁目、二葉町6丁目に再開発ビルが完成しています。
上記のデータでは二葉町等で大幅に震災直後の人口を下回っていますが、これは再開発ビル建設が始まったための建ち退きによるものです。逆に完成した再開発ビルが建つ日吉町や腕塚町では震災前の人口を大幅に上回っています。
震災前には腕塚町の「神戸デパート」から久保・二葉町にかけて「大正筋」と呼ばれる新長田のメインストリートがありましたが、デパートもろとも完全に焼失してしまいました。「大正筋」のアーケイドの在りし賑やかな姿は既に過去のもので、現在では「再開発の工事現場の中の歩道」のような寂しい哀れな姿です。嘗て大正筋に軒を並べていた商店の一部が既に完成した再開発ビルに入り、細々と営業を続ける姿は痛々しいものがあります。再開発地域すべての完成はまだまだ遠い未来のことです。それまで、減少した商圏人口がどの程度回復するのか、地域の高齢化とともに頭の痛いところです。
また、「今の新長田にこれだけのビル群が必要なのか?」というのも疑問点として挙がっている程ですが、私的には、早くビルの林立する活気ある未来の新長田の一日も早い誕生を願っております。
[7736] 2003年 1月 15日(水)23:20:32ニジェガロージェッツ さん
インナーシティ問題 (神戸市長田区から)
[7665]TN さん
>低層木造住宅の密集、高高齢化率といった問題があるところへあの震災が襲い、
>復興と絡めてインナーシティー問題に果敢に挑んでいる、といった印象を持っております。


神戸の旧市街地のインナーシティー問題は、かつての異常なほどの密集もあって深刻なものがありました。
神戸の場合、都心部を形成している新生田川以西の中央区と、郊外を形成している東灘・垂水・西・北の4区及び須磨区北須磨の間に横たわる旧市街地が「インナーシティ」の区域に当たると思われます。東部市街地では灘区及び中央区のうち新生田川以東、西部市街地では兵庫・長田2区及び須磨区南部(地元行政では「須磨本区」と呼ばれています)がこの区域にあたり、1995年の震災では壊滅的な打撃を受けました。この区域は全て戦前期に密集市街地を形成しており、その多くは戦災で焼失しましたが、戦後はいち早く復興し1950年代中葉には早くも密集市街地を再現しておりました。なお、長田区南部などでは戦災でも焼け残った長屋なども多数ありました。これがTNさんの仰る、「低層木造住宅の密集」するインナーシティ市街地です。
高高齢化率の問題は、こういった狭小住宅から若年層が独立して郊外に住居を求めて去った後、老齢層だけが残ることによって生じる問題です。人口統計では、人口は大幅に減少するものの世帯数はあまり減少しない現象で数値に出てきます。
低層木造住宅の密集と高高齢化率の問題は、ここで改めて述べるまでも無く、全国の古い大都市において共通の問題です。ただ、神戸市の場合は1970年当時で130万そこそこの人口だったにも拘らず、六甲山地と大阪湾に挟まれた狭い市街地の地形上、都市規模に対し異常なほどの密集ぶりで、神戸市の悲願である新市街地の造成が70年代以降郊外で急ピッチで進んだことも相まって、急激に旧市街地からの人口の流出が始まったことです。
特に、長田区などはその典型例です。以下、長田区の人口の推移です。
調査日人口面積km2人口密度世帯数世帯当たり人口
1940.10.1229,35610.6021,637.3650,1174.58(林田区のデータ)
1945.11.1112,99210.0511,242.9930,2363.74
1947.10.1150,20410.0514,945.6737,4084.02
1950.10.1167,1098.6419,341.3241,1394.06面積再測定?
1955.10.1189,8068.6022,070.4745,1674.20
1960.10.1202,2668.6623,356.3549,5514.08
1965.10.1214,34510.4520,511.4857,1653.75海面埋め立て
1970.10.1210,07210.7219,596.2760,4063.48海面埋め立て
1975.10.1185,97410.7217,348.3258,7773.16
1980.10.1163,94910.7215,293.7555,7182.94
1985.10.1148,59010.7213,861.0153,7302.77
1990.10.1136,88411.4711,934.0952,9162.59面積再測定
1995.10.196,80711.478,440.0237,9402.55
2000.10.1105,46411.469,202.7945,8712.30
 注)人口データなどはその時点当時の統計表などから掻き集めたため、速報値などが混じっているかも知れません

ご覧のとおりの酷い人口減少です。人口で1965年と1990年を比べると77,461人(36.1%)の減少に対し、世帯数では僅か4,249世帯(7.4%)の減少にとどまっています。
しかし、何十年もこの地に暮らす馴染みの老人達が多いということは、それだけ地域コミュニティーが強い地域であったことも確かでしたが、インナーシティ問題と都市の不燃化の問題は議論されながらも事実上棚上げの状態となり、人口減少にも歯止めがかからないまま震災に遭遇することになりました。
震災での長田区の焼失面積が他区に比べ群を抜いている一因です。(長田区の全焼棟数4,759は、2位の兵庫区940棟を大きく上回る酷さ)
市は震災で街が焼け野原になったのを機に震災復興と絡めて、懸案のインナーシティ問題を解決すべく再開発と土地区画整理事業の「網」をかぶせて「果敢に挑んでいる」というTNさんのご感想はその通りだと思います。
その一方でこの「網」がかぶさっていることで、新たな土地の境界が定まらず、たとえ古くからの住民や商店であっても勝手に建物を再建できないため、復興が遅れていることも事実です。その間にも当初は一時避難的に他地域に転居したものの、既にそこでの生活基盤が出来てしまい、「今さら長田に」と帰って来ない住民も数多く出る結果となってしまいました。

>そのリーディングプロジェクトとしての地下鉄海岸線が存在するとのことですが

地下鉄海岸線(2001年7月7日開通、新長田―和田岬―三宮・花時計前)の建設構想は神戸市電の廃止(1971年)直後に既に出ておりましたが、採算性が問題となり長く放置されてきた感があります。
それでも地下鉄西神・山手線が1987年に全線開通した後、建設についての議論も活発となり震災発生前には既に着工されていました。震災復興よりも兵庫・長田2区南部のインナーシティ対策の色合いの濃い路線です。
なお、神戸市営地下鉄の当初の構想では、これら西神・山手・海岸の3線に加え「東部線、布引―原田(王子公園)」というのもありましたが、それについては議論さえされておりません。唯一記憶にあるのは、当初は山手線「仮称・布引駅」としていたのを「新神戸駅」と改めた際、布引駅構想は新神戸駅に隣接して造られる「東部線」の駅として残すことが神戸新聞に出ていたことぐらいです。

>実際には結果が出るまでには長い月日がかかるのでしょうが、
>是非とも活性化がうまくいって欲しいものです。

実際に行政に携わっている者ではありませんが、神戸市民の一人として勇気付けられるお言葉です。
ありがとうございます。
[9060] 2003年 2月 11日(火)17:27:51【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:悲劇的な人口減少
[9056]seahawk さん
栄華を誇った街が衰退の一途をたどったというような市を知っているという方は教えて頂きたいなと思います。
真っ先に思い浮かぶのは広島県呉市です。
第二次世界大戦中の昭和18(1943)年に人口最大を記録し404,000人程になっていたようです。
http://www.inakagurashi.jp/view/kure-shi/
平成14(2002)年10月1日推計では201,518人です。

あと、ロシアではグローズヌイ(チェチェン共和国)など戦地は別にして
カムチャツカ州の州都、ペトロパヴロフスク=カムチャツキー市で、
最盛期1992年人口の272,600人が、わずか8年後の2000年には194,100人まで減っています。

呉、ペトロパヴロフスク=カムチャツキー両市とも軍港の街が奇妙な一致ですが。
[14715] 2003年 5月 5日(月)17:15:17【2】三丁目 さん
北方領土、from根室
[14066]TACOさん
[14083][14149]ニジェガロージェッツさん
[14153]kenさん
[14279]TACOさん
としばらく北方領土関係が続きましたが、遅ればせながら、私は、根室市の立場から。というか、自分自身では、このことについて、特段の意見を持ってはいないのです。だから、市のHPからは統計的なデータをほとんど得られなかったため、別件も併せて根室市役所にお問い合わせしたときに、下記資料を送って下さったので、そのご好意に感謝する原稿とします。
頂いたものは
(1)根室(2003市勢要覧)
(2)根室市統計書(平成14年度)

それで、長くなりますが、根室市の歩みを2/3くらいに端折って、以下「」内に引用します。

「1882年(明治15年)に北海道三県の一つとして根室県庁が設置され、根室の開発が進みました。カニ、コンブ、サケなどの北方領土近海の豊かな資源に恵まれ、水産業を中心に発展し、1900年(明治33年)には人口14,000人余りを数え、道東一の活況をみせました。

1945年(昭和20年)の戦災によりマチの大半を消失し、さらに北方領土をソ連邦に不法占拠されたため人口は減少し、産業、経済の復興も一時は危ぶまれましたが、北洋漁業を中心とした水産業で立ち直り、我が国有数の水産都市として発展してきました。

1977年(昭和52年)の経済専管水域200カイリ施行、さらに1992年(平成4年)からは公海でのサケ・マス沖獲り禁止などにより、漁獲高が減少し厳しい状況におかれています。

新しい海洋時代に対応するため、沿岸漁業資源の増養殖をはじめ、水産資源の高次加工などの振興策を積極的に取り組んでいます。また、北方領土返還要求運動原点の地として、さらに国民世論を高め、北方領土返還実現による日ロ両国の平和条約が、早期に締結されるよう全国民の先頭に立って変換運動を展開しています。」とあります。

また、市史とは別に、北方領土返還運動の歩みも載っていました。これは一部の紹介にとどめますが、
「日本固有の領土である国後島、択捉島および色丹島、歯舞群島は、父祖伝来の地であり、これをふたたび我々の手にもどそうとの目的のもとに、この根室の地から叫ばれたのは、終戦直後である昭和20年の秋ごろからである。(中略)

昭和20年9月5日までに北部、中部千島、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の占領を終えたソ連は、9月19日、クリル諸島(千島列島)と南樺太の領土宣言を行った。(中略)

根室と国後、択捉などの島との関係は地理的にも歴史的にも、経済的にも切り離して考えることのできない深い間柄にあった。島の人々は根室の人たちを「本家の人」と呼び、根室の人々は「島の人」と呼んで、たがいに行き来し、また、親戚関係の人もかなりあって、両者の間における親密の度合いは想像以上のものがあった。(以下省略)」

ちなみに、北方領土に係る組織(課以上という意味で)が道内の自治体の中であるのは、下記のとおりです。
北海道庁総務部北方領土対策本部
根室支庁地域政策部北方領土対策室
根室市役所総務部北方領土対策室

なお、根室支庁管内の4町(別海町、中標津町、標津町、羅臼町)では、それぞれ「係」として事務局を設けていますが、支庁管内で横で連携して何かを行う、というよりは、縦組織として道庁~支庁~市町とつながっているそうです。だから何ってわけでもありませんが、個人的興味で確認してしまいました。

根室市統計書には、根室市役所内だけで作成されたものばかりではなく、民間事業者を含め、いろいろなところから集められたデータが載っており、私には興味深かったのです。たとえば、根室市内では、鉄道駅でよりも、バス路線での乗降客の減少のほうが大きかったのは、意外でした。データをどのように紹介したものか、難しかったものですから、今回はご紹介しませんでしたが、載せたほうが良かったですか?

もともとは、北海道に県が置かれたときに、なぜ釧路県でなくて根室県なのだろうという興味だったのです。根室、釧路ともネモロ、クスリとアイヌ語に由来する古い地名で、ともに沿岸部で初期から開拓はされているのです。根室市のあゆみには「道東一の活況」とありますし、根室県が設置の1882年(明治15年)当時は、釧路よりは根室の方が、中心的な存在だったのだろう、と推測しました。あるいは、北方警備の要衝の地として考えられていたからでしょうか?

よくわからなかったながら勝手に述べますが、土地に執着する傾向が強い、日本人の心情を考えると、たとえ釧路集落の方が大きかったとしても、根室の名前を前面に出すことで、根室地元民の、北方警備へのプライドを高めたのかしら、とも思いましたが。これは、完全に私の推測です。
[24108] 2004年 1月 24日(土)16:27:29hmt さん
西暦535年の大噴火~人類滅亡の危機をどう切り抜けたか~
西暦535年頃アフリカからペストが流行しはじめ、エジプト・東ローマ帝国・西ゴート王国(現在のスペインからフランスの一部)へと拡がりました。モンゴルでは馬に基礎を置いた柔然の経済が崩壊して突厥に追われ、5000kmを移動して東ヨーロッパにアヴァール帝国を作りました。南北朝時代の中国・三韓時代の朝鮮・欽明朝の日本・南北アメリカの先住民社会を含めて、世界各地同時多発の異常気象・飢饉・疫病・戦乱等の連鎖で人類滅亡の危機に見舞われたこの時代。

連鎖の始まりになった異常気象は何によって引き起こされたのか? 隕石の衝突か、火山の大噴火か? それとも… というストーリーで書かれたのが、タイトルの書物です。デイヴィッド・キーズ著・畔上司 訳(文芸春秋)。元のタイトルは"Catastrophe" (1999)。日本について言うと、538年の仏教公認が危機対策に関連しているとされています。

邦訳本のタイトルは、この南北両半球にわたる異常気象が、スンダ海峡のクラカタウ火山の大噴火により空を覆った火山灰が原因だったとする説を示しています。しかし、 http://www.volcano.si.edu/gvp/world/volcano.cfm?vnum=0602- によると、クラカタウでカルデラを形成した大噴火は416年となっており、年代が合いません。このストーリーをどこまで信じてよいことやら。なおクラカタウは1883年にも大噴火しています.

人類滅亡の危機はともかくとして、1783年にも火山ショックがありました。この年は6月にアイスランドのラカギガル火山列ラキ山が大噴火(スカフタオの火)、8月(旧暦天明3年7月)には日本で浅間山焼けと呼ばれる大噴火があり、2つの噴火による火山灰で空を覆われた北半球の農業は、数年間にわたり深刻な打撃を受けました。天明の大飢饉による人口減少は100万人以上とされ、火砕流等による直接の死者1151とは桁違いです。フランスでも「パンが食べられない」(もちろんケーキも食べられない)人が街にあふれ、大革命に至ったとされます [11541]
上前淳一郎:複合大噴火(文芸春秋)はこの事件を題材としたもののようですが、私はまだ読んでいません。

[23960]
102 鬼界カルデラ: 6300年前に170km3=1700億m3以上の 鬼界アカホヤを噴出する大噴火、南九州の縄文早期文化に壊滅的打撃。
これはNHKの「日本人はるかな旅」 2 巨大噴火に消えた黒潮の民(2001)で紹介されていました。これ以降の日本列島はカルデラ破局噴火をひとつも経験していません。

その他、
10世紀の白頭山(現中国/朝鮮国境)噴火と渤海国の滅亡、3500年前のエーゲ海サントリニ火山噴火とクレタ島ミノア文明衰退(事件から千年後にプラトンがアトランティス伝説を残す)等が論じられています。AD79年 のヴェスヴィオ火山の噴火(ポンペイ最後の日)も有名。

火山に関心のある方は、下記のサイト「火山学者に聞いてみよう」も役に立つと思います。
http://hakone.eri.u-tokyo.ac.jp/kazan/Question/topic/topicindex.html
例えば
歴史上最大の噴火 http://hakone.eri.u-tokyo.ac.jp/kazan/Question/topic/topic249.html
世界最大の火山 http://hakone.eri.u-tokyo.ac.jp/kazan/Question/topic/topic243.html
[34730] 2004年 11月 2日(火)23:41:36出石隠 さん
津和野と日原と美濃郡・・・島根県石西(せきせい)
11月1日付けで美濃郡美都町、匹見町が益田市に編入合併し、美濃郡が消滅しました。
匹見町は社会科の教科書に過疎の村として写真が掲載されるところです。昭和38年の豪雪以来人口が減少し続け、平成12年には約1800人、面積が約300平方キロ、人口密度は約6人/平方キロです。美都町も約2700人、面積約130平方キロ、人口密度約20人/平方キロです。新益田市は人口約54000人、面積730平方キロでスタートです。旧益田市からみると、面積が430平方キロ増えたのに対して、人口は4千数百人しか増えていません。ツキノワグマの生息地である西中国山地北側の大部分が、日本海や山口県と接する益田市に加わりました。

益田市の南側には鹿足郡4町村、日原町、津和野町、柿木村、六日市町があります。当初この4町村で合併協議が進んでいましたが破局。日原・津和野、柿木・六日市という組み合わせになりました。柿木・六日市の合併は来年秋の予定で順調に協議が進んでいるようですが、日原・津和野は05年3月の期日にこだわる津和野と延期を求める日原との間で、いざこざが続いているようです。町名を津和野、本庁舎を日原に決めたのは良いのですが、津和野側は津和野分庁舎に本庁舎とさほど変わらぬ機能を持たそうと要求しているとのことです。
津和野はネームバリューの割に小さな町です。日原は津和野に隣接しながら、鉱山があったため、津和野藩領ではなく天領になっていました。傍から見るより拮抗したライバル関係にあるようです。破局の可能性も残っています。

ちなみに島根県西部の旧国名は石見と言いますが、大田、邇摩郡を石東(せきとう)、浜田、江津、那賀郡近辺を石央(せきおう)、益田周辺を石西(せきせい)、邑智郡は邑智、鹿足郡は鹿足と呼ぶことがあります。
[35018] 2004年 11月 11日(木)16:05:55N-H さん
幻の大横須賀市
[35011]いっちゃんさん
10 横須賀 202,038 +8,680 +4.5%

戦争を挟んでのこの動き、何も言いますまい。
この表だけ見ますと、横須賀市は終戦を挟んで何事も無かったかのような印象を持ってしまいますが、実は1940年の調査とこの1945年11月の調査との間に激変がありました。
1940年当時の横須賀市は、現在の市域よりもかなり小さいもので、東京湾沿いに限られておりました。
そして、1943年に大合併があったのです。このときに横須賀市に編入されたのは、浦賀、逗子、長井、大楠の各町と北下浦、武山の各村です。そう、つまり現在の横須賀市+逗子市の市域を持つ「大横須賀市」が戦争末期に忽然と出現することとなります。
さて、その合併後の横須賀市の人口なのですが、今尾恵介氏の「地図で今昔」によりますと、1944年時点でなんと45万人ほどだったというのです。
それが1年後にはどうなったかが、いっちゃんさんの表にある数字です。
この急激な減少の理由は、空襲、疎開などの一般市民の離散・死亡もあるでしょうが、むしろ占領軍が1945年9月に出した「軍人・軍属三浦半島立退き命令」がきいているものと思われます。

ところで1944年時点での「大横須賀市」の人口ランキングですが、他の都市の1940年の人口データから類推するに、広島、札幌、仙台、福岡よりもはるかに多く、なんと6大都市に次ぐ人口規模の大都市だったことがうかがわれます。
それがわずか成立より2年で人口激減となり、さらに1950年に逗子を分離し、首都圏の衛星都市としてその後急激に人口を回復するもついに戦時中の人口を上回ることなく現在に至っているというわけです。
そして戦後もずっと今に至るまで横須賀市は米軍基地問題に悩まされます。
ペリー来航以来、ずっと軍港都市の宿命として翻弄され続けた横須賀市、ぜひ健全な発展をしていってほしいものです。
[35132] 2004年 11月 16日(火)22:17:25ニジェガロージェッツ さん
11月1日の神戸市の推計人口が震災前人口推計値を越える
拙稿[34879]の冒頭に若干触れておりましたが、11月1日の神戸市推計人口が震災前の推計人口最高値(1995年1月1日、1,520,365人)をはじめて上回りました。
1995年1月17日発生の震災により激減に見回れた神戸市人口が、推計人口で最低を記録したのが1996年4月1日の1,415,720人でした。
(1998年10月の被災地人口調査結果により、1995年10月の国勢調査人口まで遡っての修正値によれば同日の人口は1,423,096人ですが、この人口値も修正値の中では最低。なお本稿では、96年4月という時点が、前年の国勢調査に近いことから、修正前のデータで話を進めます。)
回復まで「10年はかかる話」と言われた神戸市人口は、予想通り9年10か月を要したことになります。

以下に区別人口データを提示します。

1995年1月1996年4月人口差2004年11月人口差(95.1との)人口差(96.4との)
東灘区191,716155,605-36,111203,55011,83447,945
灘区124,53895,253-29,285127,0392,50131,786
中央区111,195102,153-9,042114,7363,54112,583
兵庫区117,55897,313-20,245107,414-10,14410,101
長田区129,97893,413-36,565104,077-25,90110,664
須磨区188,949174,532-14,417172,115-16,834-2,417
(6区計)863,934718,269-145,665828,931-35,003110,662
垂水区237,735239,0311,296223,584-14,151-15,447
北区217,166232,24015,074225,6448,478-6,596
西区201,530226,18024,650242,42240,89216,242
(3区計)656,431697,45141,020691,65035,219-5,801
神戸市1,520,3651,415,720-104,6451,520,581216104,861

震災直前の95年1月と、震災後の96年4月推計人口を比べると、震災により六甲山脈南麓の旧市街地6区(東灘区から須磨区)では、合計145,665人の人口減を記録する一方、被害の比較的軽かった郊外3区では、仮設住宅の建設などにより41,020人の人口増となっており、神戸市域がはっきりと2分されることを示しています。
更に04年11月人口を見ると、その後の復興過程では、一様に被災した6区でも東部3区(東灘、灘、中央)で確実な復興を歩んでいる一方で、西部3区(兵庫、長田、須磨)では復興の遅れが人口データにはっきりと出てきました。
須磨区では96年4月人口より更に人口が減少していますが、これは被災した須磨区南部の本区での復興の遅れと共に、被災を免れた区北部の北須磨ニュータウンでの―言葉は悪いですが―「オールドタウン化」による人口流出の結果によるものです。
この「オールドタウン化」の現象は、垂水区、北区でも見られます。
復興の過程で、仮設住宅の解散撤去(1999年まで)により、西区や北区での人口減少要因はありましたが、新規開発による住宅建設が進む西区では、依然(衰えたとはいえ)人口増加が進んでいます。

なお、近年の神戸市の人口動向では、郊外住宅地での人口増加は低迷、または減少し転じ、特に垂水区や北須磨での人口減少が目立ちます。一方でマンション建設が好調な都心から東(東部3区)での人口増加が目立っています。
但し、市全体では自然増加および社会増加ともに縮小傾向にあり、近い将来、人口減少都市になるのではと思います。個人的には3~4年後の153万人~154万人あたりがピークではないかと感じています。

その後は(災害が無いにも拘らず人口144万人から13年間で131万人にまで減少した)ニジニノヴゴロド市と同じ道を辿りそうに思えてなりません。
[39976] 2005年 4月 18日(月)02:16:43【2】作々 さん
鹿児島の人口について
お疲れ様です。

[39973] ken さん
ここにない、鹿児島は、4万人台の後半~5万人なんでしょうかね。
私が持っている本によると、明治12年時点の鹿児島の人口は20,171人となっております。
ここで言う鹿児島というのは、明治22年に鹿児島市となった部分(参考)にあたるかと思われます。
このときの鹿児島郡の人口が92,752人だそうです。これには後の西武田村、中郡宇村、伊敷村、吉野村、吉田村の部分が含まれるのでしょうか。
西南戦争が起こったのが明治10年。復興まで10年はかかったということなので、それにかかわる人口減もあるかもしれません。
因みに、明治22年時点の鹿児島市の人口が58,722人だそうです。

…いろいろ書いたり調べたりしてているうちに、「鹿児島」の範囲が何処に当たるのかちょっと混乱していたりして…。
[60963] 2007年 9月 1日(土)19:35:00スピカ さん
横浜は意外と高い
[60954] 2007 年 9 月 1 日 (土) 11:58:44 日本人さん
横浜へ 関東大震災
今日、町田に行きます。
町田は横浜じゃないですよ。横浜も町田じゃないですよ。
関東大震災から84年です。
地震の影響で東京の都心部では人口が減少しましたが、神奈川県においても
自治体T9T14現在の自治体
横浜市中区328,070289,742横浜市中区・南区・港南区の一部・西区の一部
三浦郡浦賀町20,37218,673横須賀市
足柄上郡三保村2,4881,874山北町
足柄下郡片浦村4,4952,359小田原市
(数字は国勢調査人口)
と、大きく人口が減った地域があります。人口が半分近くになってしまった片浦村では大規模な地滑りが起こり、東海道線の根府川駅が海中に押し流された話は有名です。
亡くなられた方々に追悼の意を示すと共に、今後起きるであろう大地震で大きな被害を出さないようそなえてゆきます。

[60959] 2007 年 9 月 1 日 (土) 15:38:22 ドラえもんさん
もしもの話になりますが、(自分の考え)数十度上昇して海面も数十mの上昇となると千葉県は沈みませんが、千葉市、東京特別区、横浜市、川崎市、さいたま市等の大きな街は沈むことになりますね。(勿論、この街だけでなく、関東平野のほとんどが。
横浜市の最高所は栄区と鎌倉市の境にある「天園(太平山)」の160mほどなので、仮に海面が上がって来たとしてもそう簡単には沈みませんよ~。都筑郡・鎌倉郡の多くの地域も40mくらいの標高ですからこっちも意外と高いのです。
30m位の海面上昇があったら、ヤト地形はリアス式海岸になるでしょう。それも相当深い。

ところで、この「天園 159.4m」、『稀少地名コレ(山)』にいかがですか?と、思って地図を貼り付けたら「天園峠」って!!峠って鞍部を指すのだから、最高所ってのは可笑しいですよね。>>EMMさん
[67581] 2008年 12月 13日(土)06:20:01【3】むっくん さん
鹿児島の人口を考える
[67560]YTさん
鹿児島に関して何通りもの統計が存在する背景については、どなたか明治初期の鹿児島について詳しい方に解説して欲しいところです。
鹿児島についてはあまり詳しくはないのですが、推測してみました。

まず、江戸時代に話は遡ります。
通常の藩、例えば尾張徳川家62万石では、おそらく侍は城下町である名古屋及び江戸に在住しています。そして町人は城下町に居住しました。これがごく一般的な姿であろうと考えられます。
そして統治の方法ですが、藩の都合上、数村や数町単位で藩が統治していることはあっても、各町村の内部ではそれぞれの町村が独自に自治を行っていました。これら江戸時代に作られた各々の町村が現在の市町村に直接つながります。村のなかに通称で町とよばれたところも全国的に多数ありましたが、山城国葛野郡大将軍村の中にあった下横町(明治元年7月に大将軍村より分立)のように独立した町とならない限りは、基本的には通称どまりで自治体としての町村とはなりませんでした。

ただ薩摩大隅全域と日向の一部を治めた島津家77万石ではこれとは若干異なりました。
何が異なるのかというと、島津家統治地域には郷というものがありました(正確には従来からの郷が存続していましたの方が正しいのかもしれません)。
郡と各町村の間に郷を置き、基本的には数村をまとめた郷単位で統治されました。そして各郷に藩士が分散居住しており、有事の際には、各々の郷が鹿児島の本城を守る外城となっていました。

上記のように郷というものがあったため、鹿児島という言葉は2つの意味を持つようになりました。一つは城下町としての鹿児島、もう一つは鹿児島郷(注)で、鹿児島というと一般的には後者をさすことがほとんどであったようです。
(注):郷の名称において通常は○△郷というのですが、鹿児島郷だけは鹿児島郷とは言わずに鹿児島と言うのが正式であるようです。ただ便宜上、本稿では「鹿児島郷」という言葉を用います。

鹿児島郷の範囲としては、鹿児島城下及び鹿児島郡荒田村・郡元村・中村・田上村・武村・西田村・原良村(明治4年永吉村へ編入)・草牟田村(明治4年下伊敷村へ編入)・小野村・下伊敷村・永吉村・坂元村・犬迫村・上伊敷村・花棚村・皆房村(明治4年比志島村へ編入)・塚之原村(後に岡之原村と改称)・下田村・吉野村・川上村・花野村(明治4年岡之原村へ編入)・西別府村・塩屋村・日置郡比志島村・日置郡小山田村の25か村でした。
鹿児島郷で城下以外の近隣の村に住んだ武士について、「角川地名大辞典46鹿児島県」(著:角川日本地名大辞典編纂委員会、出版:角川書店、1983)では、
文政年間の武家屋敷1,831か所の分布状況は、上方限に571か所、うち2か所は佐土原屋敷・琉球館、下方限に865か所、岩崎・東福寺城・城内に55か所、新上橋・西田・高麗町・荒田・武・中村・草牟田・吉野・上伊敷・下伊敷・大迫・坂元に340か所で、約2割は近在に進出
と記載されています。「約2割は近在に進出」と書かれているように在郷の武士の数は少なくないようです。
#文政年間・・・1818-1829年

その後、明治4年には谿山郡谷山郷の宇宿村が鹿児島郡鹿児島郷へと所属郡&所属郷を変更しています。同時期には日置郡の比志島村と小山田村も鹿児島郡に所属郡の変更が行われていたと考えられます。


さてここからが考察です。
(1)薩隅日地理篇考(明治4年1月15日以前)85,435人
ここでの鹿児島とは薩隅日地理篇考に書かれています。その記載によりますと、鹿児島とは上述した江戸時代からの鹿児島郷の村々及び城下町に、明治4年に新たに鹿児島郷に加わった宇宿村を併せた、20村及び城下町の範囲であることが分かります。
#明治22年4月1日の市制町村制施行時にはこれら20村及び城下町は鹿児島市伊敷村吉野村西武田村中郡宇村となりました。

(2)日本地誌提要第7冊(PDF)(明治6年正月調)27,240人
日本地誌提要第7冊(PDF)123-124コマによりますと、鹿児島坂元村27,240人とあります。坂元村というのは城下町東側の通称・上町と呼ばれた地域の北側にあります。おそらく少なくても上町は坂元村が町場化したのであろうと推察します。そのため坂元村と記載されているのであろうと。
さて、ここの鹿児島とは、おそらく純粋な鹿児島の城下町のみで、近隣の村は含まれて居ないと推察します。
ただ、城下町部分には嘉永5(1852)年には少なくても、諸士家来並足軽・諸座附・寺社門前の39,922人、士妻子の8,712人、三町の4,040人、合計52,674人は住んでいました。
いくら廃藩置県で知行が削減されていく時期とは言え、人口が半減するとは相当に考えにくいですが。

(3)第一回共武政表(明治8年以前)89,374人
第一回共武政表の鹿児島と、鹿児島郡の人口と一致します。既に[67560]でYTさん御自身が推察されていますが、江戸時代からの鹿児島郷の村々及び城下町に、明治4年に新たに鹿児島郷に加わった宇宿村に加えて、さらに鹿児島郡の残りの部分である吉田郷の村々の部分も付け加わった範囲と考えられます。
#明治22年4月1日の市制町村制施行時にはこれら村々及び城下町は鹿児島市伊敷村吉野村西武田村中郡宇村吉田村となりました。

郡区町村編成法が実施される以前の、少なくとも(1)~(3)の時期は、他の府県のように城下町を構成する町村を以て都市の範囲を決定したのではなく、従前の郷を以て都市の範囲を決定したものと考えられます。
#この時期の鹿児島県以外の府県での都市とは、[67556]拙稿で挙げた彦根のように、自治体と一致するものではありません(都市・彦根には98の自治体がありました)。

(4)第二回共武政表(明治12年1月1日調)32,067人
第一回共武政表の時期からこの時期にかけて、おそらく鹿児島の城下町に住んでいた下級藩士を主とした武士の数が帰農したことで鹿児島の都市人口が激減したことが推測されます。そして西南戦争により、城下町のかなりの部分が消失したために鹿児島の人口減少に拍車をかけたのではないか、ということが推測されます。
これら2つの理由より、城下町のみの人口が嘉永5(1852)年の少なくても52,674人から大幅に減少したことは推測がつくものと考えられます。
しかし第二回共武政表で書かれている鹿児島が[67560]YTさんで示された情報のみからではどの範囲なのかは私にはよく分かりません。
ただ一つ言える事は、別途記載されている六日町から塩屋町は、いずれも鹿児島城下町としての各町の名称です。ということは、鹿児島と別途数えるというのは不適当であると言えるのではないでしょうか。これらの町は鹿児島城下町の内の主要な町を別途例示しただけ、と私は推測します。

(5)第三回共武政表(明治13年1月1日調)20,171人
第三回共武政表の20,171人というのはおそらく鹿児島の城下町各町のみとして鹿児島を取り扱っていると私は推測します。その理由としては郡区町村編制法がおそらく明治12年(ただし第二回共武政表の日付である明治12年1月1日ではない)に鹿児島県に施行されたからです。
郡区町村編制法においては、それ以前と異なり、全国で例外なく均一に町村を取り扱っています。鹿児島県でも法律の基準にのっとり、他の地域と同様の基準を採用したものと考えられます。この時、鹿児島では郷という独自の基準の変更を余儀なくされたために、第二回共武政表より約1万人も人口が減少したのであると私は考えます。

(6)第四回共武政表(明治14年1月1日調)20,670人と都府名邑戸口表(明治17年1月1日調)49,360人
この二書を比較すると明治14年から明治17年にかけて人口が倍増以上しています。そこで理由を考えてみました。

理由の一つ目としては、江戸時代以降盛んに行われてきた海の埋め立てによって城下町が拡がり住める場所が拡がったということが考えられます。ただ、薩摩藩が廃止されてさらにその後西南戦争もあり完全に荒廃していた都市で新たに埋め立てがなされることは考えにくいです。

二つ目としては、薩摩藩が廃止され、さらにその後西南戦争もあり完全に荒廃していた鹿児島の城下町部分にようやく活気が戻ったからということが考えられます。
城下町部分には嘉永5(1852)年には少なくても52,674人は住んでいました。それが一端人口が減少し、明治14年1月1日では20,670人だった人口が、明治17年1月1日に49,360人住むようになったとしても、別段不思議ではない気がします。

三つ目としては城下町が拡がり、町場化した近隣の村々の一部を編入したということが考えられます。これはあったのかもしれませんが、やはり鹿児島の城下町部分に活気が戻ったという二つ目の理由が主であるのではないでしょうか。

(7)明治17年から明治21年にかけて
明治17年1月1日の都府名邑戸口表(49,360人)ですが、明治17年1月1日の現住人口(47,583人)と比較しても2000人程度多いだけで、明治21年末の現住人口(45,092人)と比較しても4000人程度多いだけで、この間はあまり人口に変化がなかったと考えられます。

(8)市制町村制施行前後の状況(明治21年末の現住人口と明治22年末の現住人口)
明治21年末は鹿児島は45,092人となっていたのが、明治22年末では鹿児島市は57,750人となっています。
これは明治22年4月1日に鹿児島市が成立したとき、城下町である47町に加え、近隣の3村も加わっています。おそらくこの約1万人の増加とは、3村の人口そのものではないかと推測されます。

以上長々と書いてきましたが、(1)~(6)で挙げた本に書かれている人口というのは良く考えれば本籍人口なのですよね。現在であれば本籍の移動というのは容易ですが、この当時はそれほど簡単には出来なかったのではないか、とも考えてしまいます。
ただ、本籍の移動は容易ではなかったが、ある程度の頻度でなされた、という前提でこの文章を書いた、という断りを入れて、本稿の〆とします。

訂正
【1】:誤字訂正
【2】:(4)を大幅修正。(4)の前に一文追記。
【3】:鹿児島郡東別府村の記載を削除(遅くても幕末には所在不明の村とされていたため)。(4)の前にさらに一文追記。
[78504] 2011年 6月 7日(火)15:19:24hmt さん
東京市の面積
市区町村雑学・東京市ってあったの?
修正意見が小出しになってしまいましたが、気になるところを、もう1ヶ所。
当時の「東京市」は現在の東京23区よりもかなり狭い範囲でしたが、少しずつ周辺の町村を取り込み現在の23区に近い大きさになりました。

東京市が周辺の町村を取り込む「市域拡張」は、隣接部の編入を繰り返した他の五大都市に遅れており、概ね江戸の朱引内由来の 15区のままという状態が続いていました。

関東大震災(1923)後に加速した 郊外への人口流出に対応するために、東京の市域は拡張されましたが、それは“少しずつ”ではなく、1932年10月1日に、隣接5郡の一括編入という形の“大拡張”を行ったのでした [74867]
いわゆる“大東京市”になった日は、東京市にとって、実質的に 34回目の誕生日[78433]でした。

市の変遷 にも示されているように、1932年に 現在の23区に近い大きさの “大東京市” が実現する前の町村編入は、1920年の内藤新宿町だけでした。

陸地測量部が昭和10年(1935)3月末日現在で調査した面積の内閣統計局版[74314]が、[74308] YT さん により紹介されています。
これにより面積を計算すると、東京の旧市域 15区は 81.23km2で、5郡編入後の35区は 550.85km2です。
1936年に ひと足遅れで編入した北多摩郡千歳村・砧村を加えると 572.81km2で、面積が約7倍になる大拡張でした。

参考までに、市区町村プロフィール の特別区面積は 617.18km2で、1936年の値よりも 44km2増加した計算になります。

葬祭場や変電所に「戸田」の名を残す船渡[65713]のような 隣接地編入もありますが、大部分は臨海地域の埋立です。
1935年の深川区 8.24 + 城東区 10.18 = 18.42km2 から 2009年の 39.94km2へと 21.5km2も増加した 江東区[75307] がダントツ。
以下、羽田空港の大田区 13.91、大井ふ頭の品川区 6.76、お台場の港区 3.14、葛西臨海公園の江戸川区 3.05と続き、増加トップ5区合計で 48km2の増加。
もちろん、「東京市」と無関係になってからの埋立地が大部分です。

内陸部の大部分の区は、1935年に比べて面積が減少しています。
これは面積測定ベースが5万分1地形図から2万5千分1地形図になり、陸海境界も変更されるなど、1988年に基準変更があった[67248]ためです。
[79296] 2011年 9月 1日(木)22:23:03白桃 さん
千葉県の人口が
[79295]ペーロケ さん
福島県の7月1日現在の推計人口が、ついに200万人を割り込んだようです。
福島県ほど注目を集めはしないと思いますが、8月1日現在の千葉県全体の推計人口が国勢調査速報値から2,911人減少しております。液状化現象の影響もあるのではないかとみられる浦安市の-568人などは固有の要因かもしれませんが、「いよいよ千葉県までもが!」という気がしております。
[79612] 2011年 11月 8日(火)16:22:00白桃 さん
東北三県太平洋沿岸部市町村の年間人口推移
岩手、宮城、福島県で2011年10月1日現在の推計人口が公表されましたので、震災で特に大きな被害に遭った沿岸部の市町村について、2010年国勢調査以降1年間の人口推移をまとめました。
(南三陸町と女川町については推計人口が出されておりません。)
2010年2011年増減率(%)
岩手県宮古市59,430人57,952人- 2.49
大船渡市40,737人39,097人- 4.03
釜石市39,574人37,271人- 5.82
久慈市36,872人36,515人- 0.97
陸前高田市23,300人20,252人-13.08
山田町18,617人16,903人- 9.21
洋野町17,913人17,559人- 1.98
大槌町15,276人12,681人-16.90
岩泉町10,804人10,574人- 2.13
野田村4,632人4,446人- 4.02
田野畑村3,843人3,747人- 2.50
普代村3,088人3,015人- 2.36
宮城県仙台市1,045,986人1,049,493人+ 0.34
石巻市160,826人150,774人- 6.25
名取市73,134人71,925人- 1.65
気仙沼市73,489人69,146人- 5.91
多賀城市63,060人61,517人- 2.45
塩竃市56,490人55,828人- 1.17
岩沼市44,187人43,798人- 0.88
東松島市42,903人40,409人- 5.81
利府町33,994人34,764人+ 2.27
亘理町34,845人33,579人- 3.63
七ヶ浜町20,416人19,834人- 2.85
松島町15,085人15,010人- 0.50
山元町16,704人14,535人-12.98
南三陸町17,429人
女川町10,051人
福島県いわき市342,249人334,280人- 2.33
南相馬市70,878人66,542人- 6.12
相馬市37,817人36,606人- 3.20
浪江町20,905人19,454人- 6.94
富岡町16,001人14,847人- 7.21
大熊町11,515人11,049人- 4.05
新地町8,224人7,933人- 3.54
楢葉町7,700人7,367人- 4.32
双葉町6,932人6,430人- 7.24
広野町5,418人5,178人- 4.43
[79613] 2011年 11月 10日(木)01:01:54みかちゅう さん
Re:東北三県太平洋沿岸部市町村の年間人口推移
[79612]白桃さん
国勢調査(昨年10月)で判明した人口から、それ以降の出生・死亡・転出入などの届出数をもとに推定した人口なので、震災で他の自治体に避難しているのに住民票の移動を行っていない人数が加味されていません。実際に居住している人数となればもっと減少していてもおかしくないと思います。とりわけ福島第一原発周辺の警戒区域内の住民はほとんど域外に避難しているはずであり、統計の数字に表れる4~7%の減少ですんでいるとは考えられません。実態を反映していない統計上の数字にどれだけの意味があるのでしょうか…?


そういえば2・3日前の朝日新聞に「被災地の地図作成が悩ましい」という記事が出ていました。更地で真っ白な地図を発行する意味や、被災者感情への配慮の問題などで悩んでいるようなことが書いてありました。紙媒体だと出版されるまでにタイムラグもあり、発行されたころには地図と実際が大きく異なるという事態も予想されます。
[80028] 2012年 1月 9日(月)11:54:33白桃 さん
千葉県東葛地域等の人口減少
[80026]Issie さん
これについては,追って“その筋”から詳細な報告がなされることでしょう,たぶん。
“その筋”かどうかは別にして、オホン、「承知いたしました。」
2010年国勢調査2011年10月推計減少率(%)
松戸市484,457483,770-0.14
市川市473,919471,694-0.47
浦安市164,877163,886-0.60
----
江戸川区678,967678,060-0.13
葛飾区442,586442,550-0.01
Issieさんの記事の通り、松戸、市川、浦安の3市の減少は目立っています。県人口順位で流山と習志野に抜かれた浦安の人口減少については、液状化の影響も多分にあるかと思います。また、千葉市の人口の伸びが極端に鈍化しており、花見川区、稲毛区、美浜区の湾岸3区ではこの1年間に減少しております。
特別区では、江戸川、葛飾以外に新宿、中野、杉並、北、板橋区で減少している一方、千代田区が1.35%、中央区が2.70%、江東区が1.02%の増加を示しております。

あんまり詳細な報告でなくて「申し訳ございません。」
[81877] 2012年 9月 22日(土)19:19:00白桃 さん
大熊町 ほか
「今後5年帰還せず」を決めた大熊町。となると、こんなことを話題にすることは気が引けるのですが、2015年国勢調査での大熊町の人口はゼロということになるのでしょうか。
大熊町役場公式ホームページ臨時サイトで約11,000人の町民の避難先を見ますと、8月31日現在福島県内に避難されている方が8,239人、その内、いわき市が3,351人、会津若松市が2,893人ということです。
噴火による島外避難のため東京都三宅村が2000年国勢調査において人口ゼロを記録しましたが、2005年には2,439人(1995年3,831人の約64%)、2010年には2,676人(同、約70%)と戻りつつ?あります。
言うまでもなく、今回の原発事故の影響は三宅島の場合より遥かに深刻です。
もう、これ以上は書けませんので、話題を変えます。

[81874]千本桜 さん
“医療圏”は興味深いです。
今後、特に地方においては、“人口減少の歯止め”とはいかないまでも、病院の存在がそれに近い役割を果たすのでは、と考えております。
病院のある町は人口が減らない?、でもやはり変ですね。
なんか、侘しい書き込み失礼しました。
[81886] 2012年 9月 25日(火)23:23:08白桃 さん
秋月千軒
昔の賑わいぶりを語るときによく出てくるのが、“○○千軒”という言葉です。
一番有名なのが、今の福山市にあった「草戸千軒」なのでしょうが、他にも[74965]で播磨坂 さんが、「広千軒」(姫路市)、「室津千軒」(たつの市)、「福岡千軒」(瀬戸内市)について触れられています。私も少し調べてみたのですが、「奈良井千軒」(塩尻市)、「宇陀(松山)千軒」(宇陀市)、「津屋崎千軒」(福津市)、「志布志千軒」(志布志市)と、いろいろあるようです。郡上市の「郡上八幡町家千軒」も同類でしょうし、香川県小豆郡土庄町の「千軒」という地名も関係あるのかもしれません。
面白いのは「広千軒」で、「湯浅千軒広千軒、同じ千軒なら広がよい」と謳われているように、和歌山県広川町にも「広千軒」があったとか。
こちらの「広千軒」は津波によって大きな打撃を受けたようですが、“筑前の小京都”「秋月千軒」(朝倉市)の場合は、明治初期の“秋月の乱”の後、士族や商人が街を離れて急激に寂れていったようです。
このように、津波、地震などの災害や戦乱によってその町が激変したという例は、少なくはないと思います。
そこで・・・(コレ!まだ準備中なのでその先はマル秘でしょう)→失礼いたしました。
[82041] 2012年 11月 2日(金)20:27:34hmt さん
東京市15区を包囲した5郡
[82040] 白桃さん
New Taipei Cityのことを聞いて、これと対比したくなったのが、80年前、つまり 1932年の編入 より前に 「東京市15区を包囲」 していた5郡(荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡)です。

1930年国勢調査データを使うと、5郡の人口は合計 2,899,926人で、東京市の人口 2,070,913人の1.4倍ありました。
これが 1920年国勢調査のデータでは、1,177,429 / 2,173,201 = 0.54倍と、東京市の人口にはとても及ばなかったのです。
なお、5郡と東京市15区との面積比は、469.614km2 / 81.235km2 = 5.78倍でした。

この 10年間に何があったのか、ご存知ですね。そうです、1923年の関東大震災。
[46290]
今回の激震は、田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!それは非常口のない活動写真館から、広々とした大公園に移転することです。すべての基本である安住の地を定めるのは今です。
これにより東京市 15区の人口はやや減少し、それを取り囲む郡部の人口は2~3倍に急増しました。

これが東京市 15区を 35区へと大拡張させた主な原因になりました。
面積拡張については[78504]で記していましたが、人口データに触れていなかったので、今回補足します。

白桃マガジンの特集タイトル 日はまた昇ってほしい に合せて、東京市と5郡との合計人口を確認してみました。
震災前 1920年の 3,350,630人から、震災後1930年の人口は 4,970,839人と、1.48倍になっています。

1920年から1930年への10年間には、全国の人口も 55,963,053人から 64,450,005人へと1.15倍になっています。
このことを考慮しても、大震災後の東京の復興ぶりを窺うことができます。

東京以上の被害を受けた横浜市の人口も、1920年の 502,413人から 1930年には 620306人と 1.23倍になりました。

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