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hmtさんの記事が20件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[87794]2015年5月17日
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[87785]2015年5月16日
hmt
[87709]2015年5月8日
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[87680]2015年5月5日
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[87667]2015年5月3日
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[87504]2015年4月25日
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[87493]2015年4月22日
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[87492]2015年4月22日
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[87486]2015年4月19日
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[87471]2015年4月15日
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[87470]2015年4月15日
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[87465]2015年4月13日
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[87461]2015年4月10日
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[87458]2015年4月9日
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[87455]2015年4月6日
hmt
[87450]2015年4月4日
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[87437]2015年3月30日
hmt
[87423]2015年3月25日
hmt
[87422]2015年3月24日
hmt
[87421]2015年3月23日
hmt

[87794] 2015年 5月 17日(日)15:04:20hmt さん
多摩川・稲田堤の渡し船
[87787] MasAka さん
多摩川の両岸、川崎市と調布市を結ぶ通称・競輪場の渡しは不定期航路(競輪開催日のみ運行)
[87789] いろずー さん
生まれてこの方四半世紀、京王閣は何度も行ってるがまったく存じ上げません。
[87793] ペーロケ さん
Wikiにも掲載されていますし、不定期ながら一応やっているようです。

数年前の落書き帳[66785]で 稲田堤の渡し船に言及したところ、JOUTOU さんからレポート[66847][66888]を頂いています。
それは現地スタッフからの 聞き取り調査でしたが、貸しボート屋が臨時営業していた渡し船は、当時から10年ほど前【現在から十数年前】に廃止されたとのことでした。

一方、hmtが記事にリンクした ページ によると、「通称・競輪場の渡し」は 確かに一時期存在したようです。
しかしそのページには 1999年と記載されています。

これを総合すると、20世紀末年頃に廃止されたようであり、Wikipediaには、この廃止情報が反映されていないのではないでしょうか?

非公認くさいこの渡し船の前身が、多摩川最後の渡しであった「菅の渡し」でした。
Wikipediaに引用された 多摩川の渡し一覧表 には、かつて存在した多数の渡し場が記録されています。

これによると、昭和10年に「矢野口の渡し」と「下菅の渡し」とが統合して「菅の渡し」になり、昭和48年(1973)まで存続したとのこと。
多摩ニュータウンを通る京王相模原線は、「菅の渡し」のすぐ上手に建設された鉄橋で多摩川を渡り、1971年に京王よみうりランドまで開業しました。参照
[87785] 2015年 5月 16日(土)23:53:19【1】hmt さん
「いわき太平洋・島サミット2015」の開催と ニウエの国家承認 
閣議決定-と言っても、大きな話題になっている 安全保障法制関連11法案 のことではなく、その翌日です。
昨日(2015/5/15)の閣議で ニウエの国家承認が決定された という 外務省発表 がありました。

日本の地理には詳しい皆さんでも、ニウエ? どこだ? という方が大部分だと思うので、最初に地図を出します。
外務省・太平洋の島国

マガジンの中に 南太平洋 という特集を作っている hmtとしては 黙視するわけにゆきません。
落書き帳の話題の大勢が流れている方向とは無関係ですが、それを承知の上で、この機会をとらえて太平洋島嶼国の記事を入れます。

最初にお断り。この地図には太平洋にある14の国が示されていますが、太平洋の島はこれで全部というわけではなく、米国領、フランス領などの島もあります。
赤道より北ではグアム島・サイパン島、それに右上の表で隠れているハワイ州も米国領ですね。
サモア独立国の東の空白域にも米国領サモア【サマセット・モームの短編『雨』の舞台】があります。ニウエはその南に位置しています。

面積で比較すると、日本より大きいパプアニューギニアはずば抜けた「大国」です。
それに次ぐメラネシアの3ヶ国は1万~3万km2で、その南のフランス領のニューカレドニア島、この図に示されていないハワイと共に大きい方です。
…で、ポリネシアにある ニウエは 259km2、人口 1600人とも 1500人とも。奄美群島の 徳之島248km2と対比される面積ですが、人口は 1/17。

ニウエは国でなく地域(2015年1月1日現在)と書いてありましたが、昨日の決定に基づいて国交関係を開くことが決まったわけです。

外務省発表にはありませんでしたが、新聞報道によると ニウエから 国家承認を求める要請がなされており、今回の国家承認は いわき市で開催する 第7回太平洋・島サミット2015 に合せたもので、太平洋地域での外交強化のねらいもあるとのことでした。

キャプテン・クックは 1774年の第2回航海[45308]の際に ニウエを確認したが、上陸を阻まれました。
その後 1900年に英国の保護領、ニュージーランド領を経て、1974年に内政自治権を獲得して 事実上の独立を達成しました。

現状では内政自治権を保持しつつ、防衛と外交についてはニュージーランドが責任を負うという自由連合関係結んでいます。既にニュージーランド、オーストラリア、マレーシア、中国など 12ヶ国と外交関係を開設。国連未加盟ながら、ユネスコなど 34の国際機関には加盟済みとのこと。

わが国が承認した国は これで 195か国になりました。前回の国家承認は 2011年7月の南スーダン[81210]でしたが、2011年3月には 193番目としてクック諸島を承認していました。[78607]

ココ椰子【ニウエという国名の語源らしい】、ヤムイモ、タロイモなどの農産物輸出国ですが、地理的条件から サイクロンの直撃による被害もしばしばで、市民権を有するニュージーランドに移住する人も多いのが現実。
世界最大の隆起珊瑚礁であるという自然を活かし、ニュージーランドの援助を受けながら観光事業を開発中。

太平洋・島サミット。Pacific Islands Leadets Meeting - 略して PALM は、アブラヤシの意味になっています。
私は知りませんでしたが、日本が太平洋島嶼国との関係を強化する目的で1997年に初めて東京で開催され、以後3年ごとに日本で開催されているとのことです。
開催地は PALM2が宮崎、PALM3,4,6の3回が沖縄県名護市の万国津梁館、PALM5が北海道占冠村トマムでした。
そしてPALM7の開催地が いわき市。首脳級の国際会議が福島県内で開かれるのは初めてのこと。
地球温暖化による海面上昇。津波と違い じわじわと襲ってくる海の脅威。
太平洋の島国にとっては大問題です。キリバス
[87709] 2015年 5月 8日(金)18:26:42【1】hmt さん
奇跡の樹
[87670] グリグリ さん
あしかがフラワーパークをたった1年で再生させた樹木医としても有名な女性経営家の塚本こなみさん
[87702] G さん
樹齢100年を超える大藤を、足利市河南の旧早川農園(中略)から足利市東部の迫間町へ大移動。

先日報道ステーションでも中継放送があり、大藤の見事な姿と共に、移植された過去を知りました。画像
樹齢約150年の2本の藤の木は、移植の際に縮小されたが、現在では広さ1200畳の藤棚に広がっているとのこと。

移植不可能と言われた「大藤の引越し」に成功した物語は、『奇跡の樹』という絵本 にもなり、21世紀の子どもたちに命の大切さを伝えています。

古樹の移植に関連する過去記事
東京・日比谷公園 本多静六の 首かけイチョウ [35013] 
御母衣ダムによる水没から救われた 荘川桜


あしかがフラワーパークの所在地「足利市迫間町」は、もちろん はさまコレクション に収録されていますが、「はざま」と濁るのですね。

【追記】
大藤の移植に成功した 塚本こなみさん のインタビュー記事
[87680] 2015年 5月 5日(火)18:47:30hmt さん
三重の津
足利学校や閑谷学校などが選定された「日本遺産」について [87667]で触れたばかりですが、先輩格の「世界遺産」でも同様な傾向の事例が注目を浴びています。

昨夜のニュース によると、世界文化遺産への登録を目指している「明治日本の産業革命遺産」について、ICOMOS(ユネスコの諮問機関)が登録にふさわしいとの勧告を行なったとのこと。

“同様な傾向”と書いたのは、今回の産業遺産の事例が、8県に及ぶ地域に点在する23もの文化財を一体的にとらえ、ストーリーを組み立てたパッケージとして扱われているからです。
ICOMOSが「九州・山口と関連地域」という地域的な名称よりも「製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」という名称への変更を求めたのも、ストーリー性を重視した結果と思われます。

ところで23の文化財。程度の差はあるものの、その多くは 一度は耳にしたことがある有名文化財です。
1つだけ佐賀市の「三重津海軍所跡」 を紹介しておきましょう。
鍋島閑叟(直正)の下で、日本で最初に実用的な蒸気船が建造された場所です。
2009年に帆船修理の木造ドックが確認され、2013年に国史跡に指定されたとか。
その遺構は地中に保存され、一帯が公園として整備されているそうです。

三重県の「津」ではありません。念の為。
[87667] 2015年 5月 3日(日)22:42:35hmt さん
日本遺産
[87659] G さん
足利学校が4市(水戸市・備前市・日田市・足利市)によるシリアル型で日本遺産に認定されるという明るい話題

2015/4/24に発表された 日本遺産 の第1号ですね。おめでとうございます。
わが国の文化・伝統を語るストーリーのタイトルは、「近世日本の教育遺産群 -学ぶ心・礼節の本源-」でした。

近世日本では、武士階級だけでなく、商人・職人・百姓階級(農工商)も 読み書き・ソロバン・礼儀 を身に付けていました。
近世日本の高い教育水準は、藩校・郷学・私塾・寺子屋など様々な教育システムによって実現したものです。
江戸時代から国民の間で広く普及していた教育は、「開国」を契機とする急速な近代化の原動力になりました。
そして、現代でも学問・教育に力を入れ、礼節を重んじる日本の国民性に受け継がれています。

従来の文化財行政は個々の遺産ごとに点として指定し、保護するやりかたが主流でした。
しかし、日本の魅力を世界に伝えるためには、地域に点在する様々な遺産を面としてとらえ、ストーリーを組み立てた文化財パッケージを一体的にPRし、その魅力を観光誘致や地域起こしにも活用しようという考えになってきました。

これを具体化した政府の施策が「日本遺産」の選定事業です。
全国自治体からの 第1期募集・審査・認定が先日行なわれ、83件の応募から18件が選ばれました。

近世までの教育に関連する文化財は全国に多数あると思います。
その中で、「日本遺産」という形で 日本の魅力を世界に発信する ストーリー。
それを語る上で不可欠な文化財として今回申請し、認定されたのは、旧弘道館(水戸市)・足利学校跡(足利市)・旧閑谷学校(備前市)・咸宜園跡(日田市)でした。

シリアル型(ネットワーク型)というのは、文化財が複数の市町村に存在するからでしょうが、時代的には中世起源の足利学校を含み、地理的にも関東・中国・九州の4県に及ぶこの教育遺産群は、第1期18件の中でも、特に広範囲な文化財を包含する事例として注目されます。

落書き帳記事が最も多かったのは 閑谷学校でしたが、大部分はさらっと触れている程度でした。記事集

あまりに久しぶりのため暗証コードを失念してしまい、新規書き込みでニックネーム「G」が使えず。

久しぶりはお互い様なのですが、半角alphabetニックネーム仲間ということでもあり、一つ確認。
半角Gと全角Gとは非常に紛らわしいのですが、Gさんは最初からずっと「半角G」ですね。
実は、「久しぶり度」を確認するために、落書き帳メンバー紹介で 最新の書込(10件) をクリックしてみたのですが、正しく表示されませんでした。
記事検索>ニックネーム検索で半角の G を入力すれば、前回は2011/3/3と正しく出ます。

プログラムのどこかに、全角Gが紛れ込んだ影響ではないかと推測するのですがどうでしょうか。>グリグリさん
[87504] 2015年 4月 25日(土)15:04:27【2】hmt さん
知床半島羅臼町海岸での異変
[87500] 山野さん
海底が数10mほど隆起しているのを地元住民が発見したそうです。

住民が24日朝に発見したのは海岸の状態の変化であり、夕方には更に大きく盛り上がっていたとのこと。NHK北海道

朝日によれば 付着したウニや昆布に鳥が群がっていたとのことであり、これから山からの土砂崩れではなく、海中から隆起した岩と判断したようです。

海中・海底の調査はこれからでしょう。
しかし、朝と夕方で違いが判るほどの大きな隆起が短時間の間に起こったとすれば、その原因探求が待たれます。

釧路地方気象台によると羅臼町付近で火山や地震の活動は 24日には確認されていないとのこと。NHK北海道

スロー地震サイレント地震 などという ゆっくりした地殻変動も発見されつつあるようですね。

リンクした地理院地図は 知床半島の形が見える 20万分の1サイズを選びました。
羅臼町の幌萌町という居住地名は、これを3段階拡大した2万5千分の1サイズになると やっと現れます。

国後島を望む地で起きた今回の異変。探求の結果 何らかの形で防災に役立つ知見が得られればよい と思います。

【追記】
25日の現地調査の結果、現場周辺では がけ崩れなどの大規模な土砂災害が起きているとのこと。NHK

【追記2】
現地を調査した北見工業大学工学部の山崎新太郎助教らによると、海岸より陸側に地滑りが起きていたとのことです。
羅臼町では例年より積雪が多く、一気に雪解けが進んだことで大雨のように地面に水がしみ込み、地中の岩石と岩石の間の摩擦力が低下して滑り始めたとみられる と分析。地滑りの端が海底よりも深い部分に突っ込んで、海面下の地面が押し上げられたという見方が示されました。NHK北海道NEWS WEB
[87493] 2015年 4月 22日(水)16:04:51hmt さん
畿内と近畿
[87492] に引き続き、hmtマガジンの特集「畿内から北陸へ」に関する補足記事です。

特集名に 安易に「畿内」という言葉を使いましたが、これは都が京都に移るよりずっと前の言葉でした。
机上の『大辞林』の説明を見たら、律令国家を形成した諸氏族の居住地域【山背・大和・河内・摂津】を行政上特別扱いして四畿内(和泉の分立後は五畿内)と呼んだとのこと。つまり古代国家の「首都圏」を意味していたのですね。
なお、「畿」の意味は王城から五百里【周では200km余】。(漢和辞典)

具体的な範囲が記されている日本書紀・大化二年(646)改新の詔によると、東は名張の横河、南は紀伊の兄山【葛城】、西は赤石【明石】の櫛淵、北は近江の合坂山【逢坂山】迄でした。
都が難波や飛鳥にあった時代ですから、京都から山一つ隔てただけの近江は畿内ではなく、東山道所属なのでした。

従って、近江から越前へのルートを「畿内から北陸へ」と表したのは問題であることを認めざるを得ません。

そこで考えた屁理屈。ここでは平安時代以後を問題にしているので、畿内の範囲は改新の詔を根拠とするのでなく、「京都が都であった時代の首都圏」と解釈していただきたい。

近江は天智天皇時代に短期間ながら大津京が置かれた実績もありますが、それ以上に平安遷都以来千年以上の間に「首都圏」に組み込まれていました。
タイトルの説明だけならば、「畿内から(近江経由で)北陸へ」を短縮したもの と解釈することもできます。
しかし、「京都基準の首都圏」という形で 近江を畿内の中に取り込む解釈 の方が、むしろ適切なように思われました。

もちろん都に近い国々という意味では、「近畿」という言葉を使う方が一般的でしょう。
白桃さんは[86442]で滋賀県を含むブロックを「畿内」と名付けた後、これを適切でないとして、素直に「近畿ブロック」に修正していました。

今回の記事は、[87452]で使われていた“畿内から北陸方面へ向う街道”に影響されて、畿内と越前とを結ぶルート[87455]から戻れなくなってしまったhmtの悪あがきです。ご容赦ください。
[87492] 2015年 4月 22日(水)13:47:18hmt さん
本州横断運河
[87452] 伊豆之国さん 愛発越え に始まり、敦賀近辺の鉄道に関する記事がいくつか続きました。
そこで、2006年の鳩原ループの記事と合せて hmtマガジンの特集に仕立てることを考えました。

新しい特集の骨格は 何よりも記事 ですが、それと共に「特集のタイトル」と「まえがき」も必要です。
今回「まえがき」に据えたのは、港湾都市・敦賀が交通路の要衝になった原因である その特異な位置です。
本州日本海側で大きく湾入した若狭湾の東部、敦賀湾として更に深く入り込んだ最奥で、その先には琵琶湖。

琵琶湖と言えば 淀川の源流[67664]。ということはシロウト目にも本州横断運河構想に結びつきます。
これについては予備知識がなかったのですが、近代以前の日本ではパナマ運河のような工事は技術的に無理 ということで片付け、鉄道の話につなげて2015/4/16に 登録しました

これで「まえがき」の形は一応できたものの、やはり 本州横断運河構想 が気になります。
調査したところ、本州横断 運河計画 水運ネットワーク というページがあり、これを手掛りに調査を進めてみました。

海運・貿易によって天下を握った平清盛。その嫡男・平重盛が越前国司であった時代に 敦賀琵琶湖の運河が計画されたという伝説があるそうです。敦賀から笙の川を遡り、深坂峠を切り開いて大川で近江塩津に至るルートでした。その名も「堀止地蔵」という別名を持つ深坂地蔵が 計画断念の遺跡とのこと。参考

近世にも いくつかの計画があり、19世紀初頭に 大阪商人の資金で山中峠経由ルートの改修が行なわれ、幕末まで利用され活況を呈した と記されていました。
地理院地図を見ると、七里半越【現在の国道161号】の国境【「くにざかい」という地名らしい】には 389mと記され、付近にはスキー場が作られています。疋田で合流する笙の川の支流・五位川は 曳舟によってどこまで遡れたものか知りませんが、いずれにせよ近江側の知内川とを結ぶ全区間を 無理に舟運でつなぐというものではなく、道路による峠越えを併用した 現実的なルートであったようです。

幕末の加賀藩運河計画は実現しなかったものの、新湊博物館「高樹文庫」資料中の越前・近江関係には 越前近江糧道測量絵図 慶応三年 その他が残されています。

近代になると 1903年にアメリカが着工した パナマ運河【1914開通】に倣った 閘門式運河計画が登場。
1905年には 貴族院で 日本海から琵琶湖経由大阪までの汽船通船計画が採択されたが、日露戦争で実現できず。参考

昭和恐慌をようやく抜け出た頃の 田辺朔郎による運河計画も、5億円の工費とあって 実現は前途遼遠と伝えられています。

最後に戦後の高度経済成長時代。
海外では 外洋の航行が可能な大型船を五大湖に通じる セントローレンス海路 が1959年に開通。
今度の本州横断ルートは、伊勢湾と敦賀湾とを結ぶ計画で、三重県が熱心だったそうです。
大野伴睦氏を会長とする建設促進期成同盟会を 1962年に設立。岐阜県に港を作る構想もあったようです。中日新聞

でも、もう高速自動車道の時代が近づいており、1965年には名神高速道路が全線開通。
運河構想が日の目を見ることはありませんでした。
[87486] 2015年 4月 19日(日)16:13:08hmt さん
「ただそれだけ」の地名
[87477] じゃごたろさん
[87481] inakanomozartさん 
「ただそれだけ」につられて、もう一つ。
10年前、合併前の中川根町時代ですが、地名(じな)という地名を取り上げた ゼンリン地図豆の記事 をリンクしておきます。最後の文に注目。

以下は、「ただそれだけ」にしては長すぎるフォロー記事です。

地名(じな)の説明:「(山がちの地域の中で 居住に適した)土地のあるところ」という意味であるとのこと。

地図豆の連載は中断していますが、せっかくなので 「豆27:地図には地名は書いていない」も読んでみましょう。
ここには「居住地名」と本来の「地名」との区別が解説されています。 [56419]などに落書き帳の関連記事もあるので 参照してください。

[87481]で言及されたように 静岡県大井川沿いの地名(じな)に関しては 過去記事 で話題になりました。

その中に「徳山の盆踊り」というヒントがありましたが、大井川鉄道で地名駅から11.2km先に駿河徳山駅があります。
[29164]に記されているように 徳山の盆踊りも 国指定重要無形民俗文化財 ですが、これから思い出した極めて特徴のある地名が、盆踊りとしては全国最初の指定を受けた(1981) 秋田県西馬音内(にしもない) でした。
[87471] 2015年 4月 15日(水)20:08:11【1】hmt さん
北陸新幹線整備の基本計画は長野経由が前提
[87469] グリグリさん 北陸新幹線に乗車 
[87457]で私が言いたかったことの本質は…(中略)…長野経由前提ということだったのか と言う点です。

もっと詳しい情報をお持ちの方がおられるとは思いますが、とりあえず。

北陸新幹線について、全国新幹線鉄道整備法第四条に定められた基本計画は昭和47年6月決定のようです。
その公示を国土交通省サイトで閲覧することはできませんでしたが、S47/7/3の運輸省告示第243号であり、起点:東京都、終点:大阪市、経過地:長野市付近、富山市付近とされているようです。参考

基本計画がこのように長野経由と定められた理由。それは、上記法律の第三条に示された
全国の中核都市を有機的かつ効率的に連結するもの
に沿ったものであると思います。
北陸新幹線は、やはり長野新幹線でもあるのですね。

【追記】
長野五輪開催が大きく影響したのでしょうか。

オリンピック冬季大会開催都市への国内立候補は戦前(1935)に始まり、1961年にも山ノ内町などが立候補したが札幌市に敗れたそうです。札幌大会の実現は1972年でした。
長野県では県内の候補地一本化ができなかったのが敗因と考え、三度目の正直を合言葉に具体的に動き出したのが1985年でした。翌年に国内立候補した都市は、長野市・旭川市・山形市・盛岡市。国内候補地選定1988を経て 1991年に IOCでの最終選定を獲得しました。

「長野でもできるのか?」 「できるさ。サラエボ【1984年開催地[86112]】だってやったんだから。」
こんな会話が交わされた 昭和60年(1985)でも、長野市が北陸新幹線の経過地と明記されてから10年以上も後のことです。

1998年の長野五輪開催は、北陸新幹線の軽井沢・長野間フル規格化着工決定(1990)には影響したと思います。
しかし、ずっと前に決定していた ルートの選定 には無関係です。
[87470] 2015年 4月 15日(水)18:12:38【1】hmt さん
気比大神 木ノ芽峠
かつては 敦賀ウラジオ航路を介して ヨーロッパに向う交通路の結節点であった敦賀。
外国貿易港や鉄道基地としての賑わいも 過去のものとなった現在ですが、選抜高校野球大会における敦賀気比高校の優勝で注目され、落書き帳でも話題になっています。

こちらでの話題の中心は畿内と越前とを結ぶ交通路ですが、ここで初心に戻り「気比」(けひ)について。

気比神宮・主祭神の気比大神(伊奢沙別命)は海神・食物神のようです。古代の人にとっては、渤海国など海外を含め、海産物や舶来品を手に入れることができた地、それが敦賀だったのでしょう。海外と言えば、神功皇后の三韓征伐とも関連し、気比大神は朝廷から重視されました。越前出身の継体天皇も関係していると思われます。

気比神宮は明治以後の称号でしょうが、越前国一宮として崇められ、古代からの北陸総鎮守だったものの、南北朝動乱では敗け組になりました。戦国時代も朝倉方で織田信長の侵攻を受けるなどして衰退。

落書き帳で「気比」を検索すると 大多数は高校野球でしたが、その中で気比の松原[16538][58771][61217]が健闘。

明治20年頃の敦賀駅は 気比神宮に隣接していたそうです。
明治26年鉄道局年報に 福井に向う線路を説明し、敦賀停車場から既成線に沿って南進し左旋して東北に向うとあります。その後に駅を南に移してスイッチバック線形を解消したようですが、[87466]で東海道線と北陸線の接点とされた敦賀ステーションが移転後なのか否かは判りません。

それはさておき、上記で引用した年報には 敦賀森田間の線路工事景況が説明されています。
森田は後に九頭竜川北岸にできた森田駅ではなく、工事の終点であった九頭竜川南岸を指していたようです。

「葉原より西北行…屈曲極めて多し…杉津の東に出て山腹を迂回…隧道橋梁交互相接し」などの記述を経て山中峠に達し、「葉原より此に至る4哩半余は 本線中至難の工区」 と記しています。

[61344]でも引用した北陸本線旧線地図を再びリンクしておきます。赤線が明治27年(1894)開通の旧線です。
青線は昭和37年(1962)開通の北陸トンネル経由の新線、緑線が昭和52年(1977)開通の北陸自動車道です。
越前海岸の絶景を展望できる唯一の駅であった杉津駅の跡は 杉津PA上り施設に利用されています。

工部省沿革報告に記された 明治14年6月井上鉄道局長の加越地方巡視復命書には、「江越の境界は 栃の木・木の芽の峻嶺を開通して敦賀線に連絡するは容易の業にあらず」と記されており、これを後回しにする姿勢でした。
しかし、それから15年後の鉄道局年報にあるように、「北陸線は本年度(明治29年)7月15日を以て運輸営業を開始」することができたのでした。

60年前にSL牽引の準急「ゆのくに」で通ったはずの旧線ですが、残念ながら天気が悪く 印象に残っていません。
地理院地図も付けておきます。2段階拡大すると、旧道の木ノ芽峠が北陸トンネルの真上近くを越えていることがわかります。

この木ノ芽峠。別名が「木嶺」で、福井県を分ける嶺北・嶺南という言葉はこれに由来します[85057]
多くの人口と文化とが集積された嶺北の福井(足羽県)は、港湾都市敦賀の拡大を見据えた敦賀県への統合(M6)に反発。
明治9年に敦賀県を分裂・消滅させるに至った騒動[85057]は、嶺北・嶺南を隔てていた木ノ芽峠の険しさを思わせます。

もっともこの措置は嶺北を併合した石川県に混乱をもたらしたようで、明治14年には分県して福井県新置となりました。
嶺南4郡については 滋賀県から離れなければならない積極的な理由はなかった とも言われますが、結局は現在の福井県に落ち着きました。
[87465] 2015年 4月 13日(月)23:22:02【1】hmt さん
日本海と琵琶湖とを結んだ鉄道は「東海道線」の一部だった時代もあった
少し間が空きましたが、[87455]畿内と越前とを結ぶルート の続編です。
[87542] 伊豆之国さん
「近江・越前国境を越える交通路」というと、北陸本線のルートと、その変遷

最初に、明治25年の 鉄道敷設法[61108] に 予定線路として記されていた区間を示します。【地名の頭の○○県下を省略】
北陸線 敦賀より金沢を経て富山に至る鉄道 及 本線より分岐して七尾に至る鉄道
北陸線及北越線の連絡線 富山より直江津に至る鉄道
北越線 直江津又は前橋若は豊野より新潟及新発田に至る鉄道
ご覧のように日本海縦貫線のうち敦賀から北の部分を主とするものですが、上越線や飯山線にも言及しています。

それはさておき、この法律では敦賀から南の鉄道には触れていません。
それは 明治15年に 金ヶ崎【敦賀港】-長浜間が既に開通していた から当然のことなのでした。
太湖汽船【初代頭取は藤田伝三郎[67436]】が運行した鉄道連絡船は浜大津に通じ、日本海と京阪神との間は鉄道で結ばれることになりました。
当初は徒歩連絡だった柳ヶ瀬トンネル区間も 明治17年(1884)に開通[87455]
関ヶ原・米原・馬場【膳所】間の開通により陸路による新橋神戸間が全通したのは明治22年(1889)でした。

北陸線グループの幹線という意味で現在も使われている「北陸本線」という名称は、明治42年(1909/10/12)の鉄道院告示第54号で 誕生しました。私鉄17社の買収が完了した 鉄道国有化の2年後でした。
国有鉄道線路名称左の通定む 北陸線 北陸本線(米原魚津間及貨物支線)、七尾線(津幡矢田新間)

これは国有化後の名称ですが、現在北陸線と呼ばれている区間のうち最も歴史の古い敦賀長浜米原間の官設鉄道は何と呼ばれていたのか?

明治26年鉄道局年報 を見ると 鉄道線路哩程延長・建設費の表があり、東京横浜間【注1】など8区間が示されていました【注2】。
【注1】 もちろん東京駅開業前ですが、新橋横浜間ではないのですね。つまり駅間でなく、都市間で表したらしい。
【注2】 横浜・神戸・敦賀・直江津と 鉄道建設資材荷揚用の港湾名[61303] が目立ちますが、武豊が脱落?

それはさておき、注目すべきは「敦賀大垣間」です。アレ? 東海道線と北陸線に跨っている。
よく見ると、東京神戸間を全通している現在の東海道線は、横浜・大垣・長浜・大津で5つの線区に分断されています。

明治27年鉄道局年報 でも同様なのですが、営業収支を示した87コマでは東海道線、信越線、奥羽線と現在と同様の線区名が登場し、88コマで次のように説明されています。
表中東海道線とは前年度まで東京神戸間、大船横須賀間、大府武豊間、米原敦賀間の4区間に区別したるものを合併改称し…

言及された前年度の表は17コマで確認。こちらには大府武豊間も記されていました。
「東海道線」という線区名は、合併改称により明治27年度(1894)に誕生したものでした。
それは現在の東海道本線、横須賀線、武豊線、北陸線の一部(敦賀以南)を総称したものでした。

既に完成していた米原敦賀間は、建設中だった敦賀から先と区別され、営業上は東海道線の一部という扱いだったのですね。
明治29年7月に敦賀福井間が営業を開始した時点で、米原以北を含めて営業線としての北陸線が登場したようです。
[87461] 2015年 4月 10日(金)23:23:08【1】hmt さん
地すべり地帯にある松之山温泉
[87457] グリグリさん
この部分、約50km程度

[87460] MasAkaさん
地すべりの多い地帯ですので(中略)、自分ならこういうルートは引かないですね。

この記事で、40年ほど前に新潟県の頸城(くびき)地方に住んでいた頃を思い出しました。
当時の東頸城郡【平成合併後は十日町市と上越市とに分属】には足を踏み入れた記憶がありませんが、このあたりの山が 地すべり地帯であることは、ローカルニュースに接しているだけでも感じていました。

グリグリさんの案によるルートを ほくほく線【北越北線】ルート図 と対比すると、越後湯沢を出て西に進み 信濃川を渡った先の津南町三箇(さんが)迄は 北越南線案と同じです。

三箇には東京電力信濃川水力発電所があります。
飯山市の西大滝ダムで取水された水は長い水路で県境を越え[66799]、この地で位置エネルギーを電力に変えています。

ここから高田の少し南に今回開業した上越妙高駅までを 東西に結ぶ新ルート ということになります。
松代(まつだい)西側の赤い直線部には、[87460]で言及された鍋立山トンネル9130mがあります。
その南に並ぶ新ルートも同じような性質の地山に由来する難工事が予想されるということですね。

松代の南の光間(ひかるま)は、東頸城郡松之山町でした。その南には薬湯で知られる松之山温泉があります。
その温泉水も地質を劣化させる原因ということなのですね。
この町では、半世紀前に 大規模な地すべりが発生し、防災50周年記録誌 『大地と共に生きる』等が作成されています。

参考までに、 アーバンクボタ20号 に掲載されている松之山地すべりの記事もリンクしておきます。
前記『大地と共に生きる』5コマにも図がありますが、地すべり地帯は、町の全域に及ぶことがわかります。
[87458] 2015年 4月 9日(木)15:55:47hmt さん
「南洋群島」 と 「遠刈田」
戦後70年、戦没者慰霊などを目的とする天皇陛下のパラオ訪問。戦後60年のサイパン訪問に続くものです。

日本がミクロネシアの島々を支配していたのは、第一次大戦から第二次大戦にかけての間でした。
hmtマガジンに収録した「戦前は広かった 日本地理の範囲」 という記事の後半部「53.南洋庁」で、この地域の歴史地理を少し詳しく説明しました。この機会に 再読していただければ幸いです。

この記事を書いた頃には、戦前の日本の行政区分を記した 小川琢治編『市町村大字読方名彙』へのリンクがありませんでした。その後、近代デジタルライブラリーに収録されたことを知ったので、今回の記事にも リンクを付けておきます

「南洋庁」には6支庁が記載されていますが、その本庁所在地は今回ご訪問の目的地パラオ諸島のコロール島でした。激戦地のペリリュー島は「ピリリウ島」と記されています。

話変って宮城県へ。
[87456] グリグリさん
北のパラオから「北原尾」。(中略)宮城県【刈田(かった)郡】蔵王町遠刈田温泉にある地名

いかにも「遠かった」と思わせる地名に惹かれて調べたら、「とおがった」と濁って読むのですね。
蔵王権現(現・刈田嶺神社)への信仰登山を兼ねた湯治場で、「湯刈田」(とうがった)から変化した地名のようです。

こんなところにも、1917年に軽便鉄道ができ、遠刈田停車場が設置されたというのには驚きました。
道路が整備されていなかった時代、参拝・湯治客だけでなく 鉱石運搬を含む大計画があったようですが、33‰勾配の連続など 軽便鉄道には いささか無理 という印象の地形です。
それでも 1921年には東北本線大河原駅からの線路が全通しました(仙南温泉軌道)。

そのうちに遠刈田温泉までの県道も整備され、バスが直接乗り入れるようになると、衰退した軌道線は 1937年廃止。

【北原尾には】集落というほどの場所は確認できませんでしたが、牧草地なども散見される長閑な場所です。

地理院地図 をリンクしておきます。家畜小屋や鶏小屋などもあるのでしょうが、思いの外多くの建物が散らばっています。
北に4kmほど行くと遠刈田温泉、南に行けば白石市です。

毎日新聞2015/4/7 によると、1946年3月と5月にパラオからの引き揚げ者29戸が定着し、手作業で開拓した焼き畑で 大豆・小麦を栽培。電灯が点いたのが1952年。
その後の冷害を経て酪農への転換を図り、「酪農の北原尾」では養鶏も順調に拡大し、ようやく生活が安定しました。
2001年には「北原尾のゆかり」を知ったレメンゲサウ・現パラオ大統領が訪問されたそうです。
[87455] 2015年 4月 6日(月)22:34:38【3】hmt さん
畿内と越前とを結ぶルート
[87452] 伊豆之国さん
畿内と越前とを結ぶルートの境界に設けられた「愛発関」(あらちのせき)。
古代三関の一つとして名前だけは知っていましたが、歴史に記録された具体的な役割については知りませんでした。

この「愛発関」が絡んだ奈良時代の大事件「恵美押勝の乱」の顛末

橘諸兄[64972]を排除して政権を握ったのは藤原南家の仲麻呂。とは言っても、極盛期だった天皇の権力によって奈良の大仏が作られた時代のことです。真の権力者は聖武天皇の一人娘・孝謙女帝でした。藤原仲麻呂は 女帝の最初の愛人になって 権力を委ねられ、恵美押勝という名も得たのです。
押勝は女帝の下で唐の文化を手本に 一時は国政を思いのままに操りました。しかし、やがて強力なライバルが出現。
それが 病勝ちの孝謙上皇と親しい関係になった 弓削道鏡でした。
恵美押勝は傀儡の淳仁天皇を通じて上皇に諫言したが怒りを買い、対立する結果になりました。
そして権力回復を図るも先手を打たれて敗退。
越前国守の息子と共に再起を図ろうとした内乱の拡大を防止したのが 愛発関だったのですね。福井県文書館

戦国時代に柴田勝家によって開かれたと伝えられる北国街道

柴田勝家の本拠地・北ノ庄。現在の地名は福井[64833]です。
この地と信長の安土城とを北から南へと最短距離で結ぶルートは、越前と近江の国境を「栃の木峠」で越える 北国街道 でした。
♪今庄朝立ち、木の本泊まり、中の河内で昼弁当♪ と歌われた近世のメインルートです。

鉄道の時代になってからは、海運・陸運の連絡輸送拠点である「敦賀」経由がメインルートになり、栃の木峠越えは寂れました。
「栃の木峠越え」という言葉は、「畿内から越前へ」を意味する言葉として使われる機会はなくなっているのでしょうか?

敦賀経由で「栃の木峠越え」から離れた鉄道ルートですが、木之本以北も柳ヶ瀬トンネル【注】の手前までは北国街道沿いでした。
【注】
1352mの柳ヶ瀬トンネルは、1884年開業時には わが国で最長の鉄道トンネルでした。これも近江越前国境です。
ところが断面が小さく急勾配のトンネルは、1928年に延べ5人の乗務員が窒息死する事故を起しました。

事故対策は、余呉から西に折れ 近江塩津経由 深坂トンネル 5170m で近江越前国境=滋賀福井県境を越える新線です。
この北陸本線新線は 戦争等の影響で遅れたものの、1957年に開業しました。同時に北陸本線の交流電化が始まりました。
このルートで福井県に入るのを「疋田超え」[87447]と言うのは、最初の駅が新疋田だからでしょうか?
でも「疋田」は峠道の名ではなく、偶々旧線の駅名に使われていた集落の名ではないでしょうか。
新線のトンネル名に使われている「深坂」は 峠や山の名 です。このルートの呼び名は「深坂越え」の方が適切と思われます。

旧北陸本線は当面柳ヶ瀬線として残されましたが、1964年の複線化を機会に廃止されました。

以上、古代北陸道の「愛発越え」、近世の北国街道「栃の木峠越え」、鉄道時代初期の「柳ヶ瀬越え」、戦後電化時代の「深坂越え」(疋田越え?)という移り変わりを概観しました。
いずれも越前・近江国境ですが、福井県・滋賀県の県境という枠に広げれば、若狭・近江県境の「鯖街道」など、別の視点のルートも加わると思います。

そして、やがては北陸新幹線が大阪まで全通する時代に。
敦賀から先のルートは未定のようです。丹波から若狭に通じる新たな「○○越え」が登場するのでしょうか。 参考
[87450] 2015年 4月 4日(土)15:39:55【1】hmt さん
国土面積統計の変遷 (18)戦後の埋立による 都道府県面積順位レースの展開
2015/3/6に国土地理院から発表された平成26年面積調は 計測方法と基礎となる地図の変更を伴うものであり、面積データの変化は全国の自治体に及ぶものでした。
集計方法でも四捨五入の処理法が変り、当サイトの面積データ更新プログラム見直しが必要になったとのことです[87424]

このように面積調の前提条件が変っているので、平成26年と前年との数値を比較することは、それ自体に疑問があります。国土地理院の発表が対比形式を避けた理由も その点にあると思いますが、おおまかな要因を知る目的で、都道府県面積の差を計算しました。その結果、北海道(-33.26km2)、長崎県(+26.44km2)など 10道府県で 3km2以上という大きな差がありました[87373]
最大の差があった北海道(-33.26km2)は、観測衛星を用いて改測された北方領土面積が主要因子であるという予想を裏付けるものでした。長崎県の大幅な増加は予想外でしたが、諫早湾干拓の調整池を国土に編入した結果として解釈することができました[87437]

今回の面積調は、都道府県や市区町村の面積に関して、久しぶりに多くの「数値変動」をもたらすものでした。[87435][87436]

しかし 都道府県ランキング の中でも「面積順位」に限れば、その変動はありません。
諫早湾埋立をした37位長崎県は 21世紀になってから 40km2も面積を増して 36位徳島県との差をかなり詰めましたが 順位逆転には至りませんでした。
平成16年(2004)面積調で愛知県と千葉県の順位が入れ替わって以来、「都道府県面積順位」は10年間不変のままです。

実は過去に遡ると都道府県面積順位でも かなり変動があります。その変動要因を解析できたら面白いと思いました。
手始めは面積の数値集め。近年の数値だけなら国土地理院の面積調が定番ですが、境界未定地について「参考値」の初出は平成16年(2004)なので[67271]、10年ほどしか遡れません。

今回の目的に最も適していたのは、統計局の 長期統計でした。目次の第1章に国土・気象 があり、1-11表で都道府県別面積のエクセルファイルをダウンロードできます。原資料名「国勢調査」とあるように、大正9年以来・原則5年間隔のデータです。

もっと古い時代の資料は統計年鑑があり、府県別面積については明治16年まで遡れます[87405]
しかし、ベースになる5万分の1地形図を 全国的に利用できる前の時代の面積データは、伊能図との二本立て記載など[87405] まだ旧時代を引きずっていた跡が窺われます。

今回の調査では、面積データとしてはkm2単位・5年間隔で揃っている長期統計1-11表を使うことにしました。
面積自体はこれでOKですが、変動要因を考察する資料は なかなか探しにくく、福井県面積の謎など全く解けていません。
とりあえず、判り易い埋立面積が影響したと思われる都道府県面積順位レースの展開を眺めます。

愛知県と千葉県だけについて言えば、元々面積が近く(5000km2余)、戦後盛んに埋立地が作られたという共通点があります。
hmtの頭の中の地図で距離や面積を比較する「物差し」になっている千葉県の面積[76231]
千葉港のあゆみ で見るように、戦後に発足した東京湾岸の整備によって千葉県の面積は 1960年からの20年間で108km2も増加し、5100km2を越えました。
千葉県の急ピッチな拡大は、面積順位レースでも同期間に73km2増えた愛知県を追い越し、1975年に27位を獲得。しかし、1990年以降は 愛知県が面積増加を続けたのに 千葉県の伸びは止り、前記のように愛知県が再逆転しています。

都道府県面積順位レースでよく知られているのは、最下位が大阪府から香川県に変った事実です。
“最小面積は大阪府” という かつての常識が覆されたのが、1988年【26年前の面積リセット】を含む5年の間でした。
1950年からの40年間で大阪府の面積増69.2km2。香川県も1945年からの40年間に23.4km2面積増と意外に健闘。
しかし[68680]で記したように、1985-1990の5年間に7km2も減少していたのですね。
やはり、埋立面積で大阪府に差を付けられただけでなく、陸海の境界が満潮界に改められ、入浜式塩田(の跡地)などが「海」になった影響があるようです。

同じく1950年からの40年間で比較すると、戦前に民間事業として開始された児島湾干拓[67436]が 戦後の国営事業として引き継がれた岡山県が+52km2で、ほぼ増減のなかった高知県を抜いて17位を獲得しました。これも1990年。

元々の面積が近かったため、埋立面積の差で順位逆転したペアをもう1組。
山口県は1960年からの50年間で+40.85 km2、茨城県は+7.8km2。23位をかけた順位逆転は1975年でした。
[87437] 2015年 3月 30日(月)17:34:27【2】hmt さん
諫早市と雲仙市の面積増加は大部分が水面?
平成26年面積調で明らかになった著しい変化として、諫早市と雲仙市の面積増加がありました[87436]
[87373]でこれを紹介した際にも、諫早湾干拓事業との関係を考えたのですが、諫早市だけでも20km2という「大きな数字はうまく説明できません」と記していました。
ところが、[87374]MasAkaさんにより紹介された毎日新聞記事には、次のように記されていました。
増加面積が最大だったのは長崎県で、26.44km2の増。水門を閉じた諫早湾を陸地に加算したため。

諫早湾干拓地案内図 を見ると、とてもそんな面積が陸地化したように見えません。

よく考えた結果、今回増えた26.44km2は その大部分が「水面のままの状態で」陸地に加算されたと思われます。
元々は「諫早湾」の一部でしたが、1999年に完成した潮受堤防によって海から切り離され、案内図に記されたように「いさはや新池」という名の調整池に変っており、淡水化が進行しているものと思われます。
海と隣り合う「ダム湖」[37037]ということでは、岡山県の児島湖の同類であり、「水面のまま」であっても 国土面積の一部に編入されるのは当然です。

以下、少し詳細に記します。
諫早市のページ を見たら、このプロジェクトは 昭和27年(1952)の長崎大干拓構想以来 何度も練り直された計画であることがわかりました。
戦後の食料不足解消のために湾口で締め切った 120km2もの諫早湾に大干拓地を作り米を増産する。
その後の社会情勢の変化に応じて事業目的や規模は何回も変更されました。
本決まりになった「国営諫早湾干拓事業」は 35km2規模に縮小されており、そのスタートは昭和61年(1986)でした。

事業者の 九州農政局 によると、有明海では干潟の成長により陸地の排水が年々困難になるために、干拓と排水を組み合わせた農地改良工事が古代から続けられ、この時代までに266km2もの干拓地が作られてきたとのことです。

10km2規模の諫早干拓は、現代でも大きなプロジェクトであると思います。
しかし、技術もお金も乏しかった昔の日本人でも、コツコツと仕事を続きた結果、その数十倍もの面積の干拓をなしとげていた。
このことに驚いた後、現代に戻るといささか失望する結果がありました。

諫早湾干拓事業の潮受堤防は締切2年後の平成11年(1999)に完成しました。
しかし、そこでの工法変更などを受けて、総事業費は増額され、完成予定も遅れました。
そして平成14年(2002)には、干拓計画に大きな変更があり、干陸面積は半減してしまいました。

会計検査院報告 を示しておきます。簡単な比較図はここにもありますが、失敗百選 に残されている当初計画図と、最終計画概要 を比較すれば、中央干拓地(1222ha)東工区や、北側の小江干拓地(104ha)の一部などが縮小対象になったことがわかります。

見て楽しい数字ではありませんが、表1 事業計画の変遷 の中から抜き書きしておきます。
項目当初計画(S61)第2回変更(H14)
締切面積3550ha3542ha
調整池面積1710ha2600ha
干陸面積1635ha816ha
総事業費1350億円2460億円
完了予定年度平成12年度平成18年度

最終的には 干陸面積816haに対して 調整池面積2600ha。
この数字を見て気がついたのが、面積調の数字と符合することです。

平成20年面積調における増加面積全国一は諫早市の 8.75km2【875ha】[68527]
平成26年面積調での市区町村面積増減 諫早市 20.57、雲仙市 7.35、合計27.92km2=2792ha[87436]

なるほど、陸地化した面積は既に平成20年面積調で国土面積に算入していたが、調整池の面積は未算入だった。
そこで、平成26年面積調で算入することにした。…私はこのように理解しました。

蛇足
有明海の干潟や干拓については、落書き帳内に過去記事があります。
熊本県の郡築村[85117]、佐賀県南端の 竹崎島

関係機関のサイトの一部は本文中でリンクしておきましたが、参考までに少し追加しておきます。
九州農政局 干拓とは有明海干拓、長崎県 干拓の歴史
[87423] 2015年 3月 25日(水)22:52:19hmt さん
市区町村面積を合計しても都道府県面積と一致しないし、47都道府県の合計も日本全国と一致しない
[87419] オーナーグリグリさん
面積データの更新作業に取り掛かったところ、重大な問題に直面しました。
合計値はその下層データの積み上げ値と一致していません。

面積は、人口と違って本質的には連続値です。連続値の測定によって得た結果を、適当なレベルの桁での四捨五入により【小数点下2桁のkmに】「まるめた」数字で発表されていることは、従来から行なわれていました。
私としてはこのような認識で、部分面積を合計した数値が全体の面積と合わないのは「当然のこと」と考えていました。

で、具体的にどの程度の不一致があるのか。平成26年面積調の47都道府県面積の合計値は 377,972.27km2であるの対して、全国面積は 377,972.28km2でした。その差 0.01km2は、わが国の全国面積として有意の値と理解すべきでしょうか?

表面的なデジタル表記にとらわれることなく、四捨五入で生じた「見掛けの違い」にすぎないことを認識する。
面積データのような連続値を扱う際には、このようなアナログ思考による解釈が妥当なのではないか?

これまでは、すべての階層において積み上げ値と合計値は一致していましたので、統計データの作りとしては大きな変更です。
との指摘により、今回問題が表面化したことに驚き、あえて異論を唱えた次第です。

それにしても、過去の面積調ではすべて一致していたのに、今回から四捨五入問題が表面化した理由は何故でしょう? 
国土地理院内が発表する「小数点下2桁」への「まるめ方」が、「ROUND関数形式」から「表示形式」へと変更されたのかもしれません。参考

余談ですが、国土地理院の元データの一部を窺うことができる資料があったので、紹介しておきます。
それは、[87371]を見た直後にダウンロードしておいた「都道府県別面積(エクセル)」です。
山形県 9323.154394、福島県 13783.748808、茨城県 6096.931984、栃木県 6408.094782、群馬県 6362.283652、埼玉県 3797.745363

小数点下6桁、つまりm2単位の測定データなのですね。他の41都道府県はすべて小数点下2桁、つまり「ha単位にまるめる」処理が施されていたのですが、この6県のデータだけは 元のデータが残っていたようです。【現在は この6県もhaの桁に揃えられています。】
四捨五入の結果、切り捨てが山形・茨城・栃木・群馬の4県、切り上げが福島・埼玉の2県。6県合計で約0.009km2の切り捨て。
他の41都道府県でも同様な切り上げ・切り捨てが行なわれた結果、47都道府県で0.01km2の切り捨てとなり、これが全国面積0.01km2の差という前記結果になったものと理解されます。

偶々得られたこの資料は、都道府県面積と全国面積との比較でしたが、市区町村面積がらみでも個々のデータとしては最大0.005km2の四捨五入があります。しかし多数のデータを集計することで四捨五入の影響は殆んど相殺され、実用上不都合なほどの差としては残らないことが期待できます。

連続値である面積データの取り扱いに関して、四捨五入の影響は皆無ではないが、その程度は小さい。
このサイトとしては “重大な問題” として 気にする必要はない のではないか。
これが私の言いたいことです。
[87422] 2015年 3月 24日(火)14:24:31hmt さん
「紀川」(きのかわ)から「紀ノ川」へ、更に「紀の川」へ
[87421]の後半部を分割しました。こちらは読み方ではなく、表記の問題です。

Kinokawaと言えば、日本語の「紀ノ川」と「紀の川」との関係も気になります。
地名集日本の Japanese(Kanji)は 「紀ノ川」ですが、河川法第四条第一項の水系を指定する政令 (昭和40年政令第43号)では 六十五 紀の川水系 となっています。
地理院地図 を見ると「紀の川」なのですが、これを縮小すると 河口付近に「紀ノ川」が現れます。

Mapionの河川名は「紀ノ川」。南海の紀ノ川駅付近から遡って 紀の川市内 になっても、河川名は「紀ノ川」のまま。
少し古いが机上の地図帳でも確認すると、平凡社も帝国書院も「紀ノ川」となっていました。

更に古い資料。有吉佐和子の小説『紀ノ川』(1959)より前の20万分の1地勢図(1956)を見たら「紀川」。
戦時中に国民学校で習った初等科地理の記述 「紀川の上流にある吉野山」には、「きのかは」と振り仮名が付いていました。

どうやら「紀川」から「紀ノ川」になった後、最近では「紀の川」の表記が使われるようになったようです。

仕事の上で、この川と密接な関係にあると思われる 和歌山河川国道事務所のサイトを確認。
河川事業 では、「紀の川」が使われています。
しかし、事務所の 案内地図 では「紀ノ川」なんですね。やはり、まだ移行途中のため不統一なのかな?

1965年の政令だけでなく、2005年に「紀の川市」ができた影響も あるのかもしれません。
[87421] 2015年 3月 23日(月)15:43:57【1】hmt さん
安倍-川・富士-川は二語だが、荒川・早川は一語
【お断り】追記・分割してタイトルも改めました。

[87420] デスクトップ鉄さん
『川の名前を調べる地図』をご紹介いただき、ありがとうございます。
収録件数が多く、役に立ちそうな資料です。

地名集日本には、300以上の"River"がエントリーしていますが、「かわ」は1割以下の23件しかありません。

確かに自然地名としての「かわ」は、明らかに少数派ですね。
「早川」は神奈川県となっていますが、地名集日本では Grid欄に 5338 と記されています。
序文 5/7に説明されているように、このメッシュコードは 20万分1地勢図「甲府」の経緯度範囲ですから、富士川支流・山梨県の早川であると思われます。

最初に[87411] 白桃さんも言われたことであり、hmtも[87413]で例示しましたが、「かわ」という読み方は、居住地名での使用について 自然地名よりも 相対的に目立つように思われます。
今回の調査でも、静岡県の井川、長野県の横川、愛媛県の城川【[80392]合成漢字自治体】などが目につきました。

地名集日本 は Gazetteer of Japan2007 というタイトルが示すように、海外向けを意識して発信された情報です。
名称にも Romanized Japanese の欄が設けられているのですが、河川名は4タイプがあります。
●kawa :Arakawa, Hayakawa, Kinokawa, Midorikawa
○ Kawa :Abe Kawa, Fuji Kawa, Hime Kawa, Su Kawa, Totsu Kawa
▲gawa :Akagawa, Amanogawa, Kiragawa,
△ Gawa :Agano Gawa, Chikuma Gawa, Ishikari Gawa, Tone Gawa

清濁の他に、一語にするか二語に分けるかの選択肢がありますが、濁音読みで二語に分ける「△」が 圧倒的に多いようです。

【追記】
安倍-川・富士-川は、固有名詞(郡名)に基づく川だから二語に分ける。姫-川のような 普通名詞の場合も二語。
荒川や早川は、形容詞に基づく修飾語を含む 一体の言葉 と考え 一語にする。
緑川の緑は名詞でもあるが、その本質は修飾語なので これも一語にする。
須-川の「す」は 元々は水質の酸性に由来する修飾語と思われるが、文字も変化しており二語扱いとなっている。
支流の酢川上流にある蔵王温泉は強酸性で有名。
名詞二語の酢-川と同様の扱いで 須-川としたのかもしれないが、やや異例と思われる。
紀ノ川は 「紀ノ」という名の川ではないから、当然 一語にする。
こんな解釈でよいでしょうか?


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