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[99962] 2020年 7月 5日(日)18:36:37【2】hmt さん
変遷情報 小笠原(2)1940年 東京府に設置された 小笠原諸島の旧5村
小笠原諸島の村について、変遷情報の見直しをお願いした [99957]の続編です。
前回は、1945年の敗戦から約23年間の米軍統治を経て日本に返還され、特別法により新たに設置された「東京都小笠原村」[53386]【注】に関する情報を記しました。
【注】「小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」(昭43/6/1 法律第83号)
(村の設置)
第十八条 地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第五条第一項及び第七条第一項の規定にかかわらず、この法律の施行の日に、東京都に属する小笠原諸島の区域をもつて小笠原村を置く。

今回は、戦前の 1940/4/1 の東京府時代に設置された(旧)5村です。
[78644] hmt
戦前に遡ると 1940年4月1日に 小笠原に町村制が施行され、 5村が設置 されています。
二見港のある父島北部が大村で、兄島などの離島も管轄していたと思います。父島南部は扇村袋澤村【併称地名でしょうが、村という字を2つ残しているのは珍しい】。
母島は 沖港がある南部が 沖村で、北部が北村。硫黄島には もちろん 硫黄島村[56162]です。

市区町村変遷情報東京府では、昭和15年(1940年) 4月1日 小笠原諸島,八丈島(青ヶ島) 町村制 6村設置の#2~6として5村が記録されていますが、詳細欄を開いても 父島北部【二見港所在地】などの地理的情報の記載がなく、不十分と思われます。母島2村の間に硫黄島がある順番も不自然です。

一次資料を探したら、当時の ndl官報に「島嶼町村制は之を廃止す」【昭和15年勅令238号】とありました。従って、町村制施行でOKと思います。

同じ官報の続番 勅令 昭和15-239 には、次の記載がありました。
東京府管下小笠原島中硫黄島に村の名称を附す
父島・母島の4村については、村名を確認することができませんでした。

変遷情報から離れますが、明治13年(1880)東京府移管の 50年前。
1830年 ハワイ王国のホノルルで結成された 25人の移民団。

第二次大戦後の 1946年 統治者のアメリカによって帰島を許された「欧米系島民」は、1830年移民団の子孫のようですが、「欧米系」という言葉は必ずしも正確ではないようです。
Original Settlers には クロアチア出身のイギリス人と称するマザロ団長など英米人(4人)とデンマーク人も居ましたが、ポリネシアの島々からの人が多かったとか。

マザロ等が去った後、事実上の首長になったのは アメリカ人のナサニエル・セボリーで、ペリー[26683][78654]や 1861年に 咸臨丸による「小笠原回収」に赴いた水野忠徳[78725]と面談しています。
子孫は今も父島に在住。ハローページは、瀬堀さん 4人、セーボレーさん 3人を掲載。[26683]

それはさておき、「さかのぼり小笠原史」[78654] 1830年の移民団。
英国領事が関係していたものの、英国の支援は、領有宣言(1827 ビーチー)を裏付けるには不十分。
入植者は自力で自給自足のコミュニティーを創り上げ、米英露仏の捕鯨船などに飲料水・食料を供給しながら 税金のない「南海の楽園」を夢見ました。しかし、警察力の及ばない島のままでは婦女拉致事件も起り、安心できません。

その後、小笠原をハワイのような太平洋海運の基地にする構想を抱いたペリーも登場しました。
しかし、結局のところ 小笠原に近く、1675年の島谷隊による探検実績も持つ国は 日本でした。

日本は、無人島(ぶにんじま:Bonin Islandの語源)という名で放置していながらも、小笠原の存在を西洋に知らしめた国です[26683]
1785年(天明5年) 林子平の『三国通覧図説』(無人島之図)[78665]

ペリー来航による刺激を受け、「決定せず・行動せず」の幕府も、1861年に咸臨丸による小笠原回収に踏切りました。
生麦事件の影響による一時的撤退はあったが 1875年明治丸で再回収[78654]

変遷情報から離れた 過去記事の紹介が多くなりましたが、本筋に戻ります。

1940/4/1に設置された小笠原旧5村の消滅を、変遷情報に記載してください。
[79760] 中島悟さん の末尾、[79266][79773] hmt、 [83624] むっくんさん(16)

[85063] グリグリさん に続いて、[85081][85082] hmt も意見を記しています。
[85081]に記した 「[79266]でリンクした小笠原村沿革」の代りに、現在閲覧できる同名のページ をリンクしておきますが、当時リンクしたページに巧く辿り着ける自信はありません。
[99957] 2020年 7月 3日(金)18:17:02【1】hmt さん
変遷情報 小笠原(1)東京都小笠原村
[90655] グリグリさん
残っている未処理・未使用については、小笠原関係、特別区対応、その他であり、もう少し詰めが必要です。

小笠原諸島の日本復帰52年 村長メッセージ を機会に、市区町村変遷情報・東京都#195「小笠原村」詳細前身5村設置 の見直しをお願いします。

「小笠原諸島日本復帰(返還)」という言葉は、50周年記念事業においても使われており、特に疑問を伴わずに受け入れてきました。
(返還)は、日本への復帰を実現するために行なわれた外交交渉で用いられた用語であると理解。

しかし、「都道府県市区町村の変遷を伝える」という立場で考え直してみると、小笠原のケースは、奄美や沖縄の日本復帰(返還)と異なる事情にあることが明らかです。

住民を巻き込んだ地上戦が行なわれた沖縄では、人命・財産共に大きな損害が出ました。
しかし、敗戦直後の混乱期を除けば、住民共同体である市町村は変化を伴いながらも保持されました。
沖縄県という行政組織も その名や実体を変えながらも、潜在的には存続し続けました。

鹿児島県の管轄外になっていた奄美では、1946/7/1に名瀬市が誕生。
変遷情報では「市制」と記されていますが、『名瀬市史 改訂 第一巻』によると 「市制」ではなく町村制適用であり、地方自治法上の正式の市になったのは日本復帰(1953/12/25)の際だそうです(Wikipedia)。

それはさておき、敗戦後の小笠原は 1946/1/29の SCAPIN-677 により「日本の地域から除かれる外周領域」に指定されていました。[56190]に記された 覚書第3条
(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原および火山(硫黄)列島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島

[99400]で記したように、1951年9月に 連合国51ヶ国による 対日講和会議 がサンフランシスコで開かれ、1952/4/28に 発効しました。ソ連など3国は署名せず。第2次国共内戦(1946-1949)後の中国は招聘されず。

日本は Occupied Japan を脱して独立国の立場を回復しましたが、小笠原は米国から戻りませんでした。

日本国との平和条約(昭和27年条約第5号)
第三条 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

この信託統治条項は、東西冷戦時代 米国防総省の強い意向に沿ったもので、日本は潜在主権を保持したまま返還を待ち続ける姿勢でした。
結局のところ、国連への信託統治は提案されないままで、1967年の首脳会談(佐藤・ジョンソン)により、小笠原諸島の1年以内返還が合意されました。
通称・小笠原返還協定 が結ばれ、1968/6/26の日本復帰が実現したのでした。

市区町村変遷情報東京都 #195 詳細に記された「村制」については、[53248]で問題点を指摘しました。でるでるさん[63262]、88さん[53386]からもレスをいただいていますが、
プログラム上、データの自動認識機能も含めての入力項目・表示となっているようですので、具体的な表現についてはちょっと保留させてください。
とのことでした。

「村制」という用語の使い方以外にも、【変更内容】父島, 母島, 硫黄島 にも疑問があります。
1968年の村設置時点で南鳥島・沖ノ鳥島まで拡張。その後、噴出した西之島も、小笠原村の領域になっています。

「沖縄・奄美の市町村」は【戦後の混乱期を含めて、曲りなりにも】存在し続けていた。
しかし、小笠原の5村については、戦場になった硫黄島村だけでなく、父島・母島の 「地域住民共同体」も、強制疎開によって 消滅に近い状態 になっていた」という違いがある。この点については、[99400]で既報でした。

本論から外れますが、この機会に触れておきたいのが、秋田県大潟村です。

ゼロに近い状態から再出発し、村長や村議会のない状態で設置された「戦後の小笠原」。
これは、沖縄や奄美よりも、むしろ干拓で新規に造成された 秋田県大潟村 と対比される状況であったと言えそうです。

過去記事の中に、秋田県能代市出身・右左府さんの [53892]がありました。
・大潟村も小笠原村同様、「村設置」から暫くの間、通常の地方公共団体ではない状態が続いた。
・但し、その間の議会の代替機関の役割は県知事が担うなど、違いも見られる。
・大潟村と小笠原村では、国と都県の関係の強さに差が見られる。

右左府さん による [76285] 大潟村の特異性 という記事もありました。
「昼夜間人口比率 121.9%」、第1次産業従業者(%)77.9【全国トップ】
[92604]近況報告など 過去1年間の書き込みは存在しないものの、高校時代からの落書き帳メンバーは 健在の御様子です。

話は変りますが、右左府さんの名から、「偉人名を音読みする理由」を書いたことを思い出しました。
音読み有名人

能代の最新の話題と言えば、バスケ名門「能代工業」の校名変更、OBから惜しむ声
[99936] 2020年 6月 26日(金)15:17:32【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (4)「中防」への 新ルート・東京港海の森トンネル
最初に、このシリーズについての言い訳です。

「東京臨海部の陸地化」シリーズの連載は、10年前に「水に囲まれた江東区」という副題の第1回 [75307]から始め、江戸時代末期の [80264]「品川台場」で 10回シリーズを締め括りました。
引き続き明治以後の続編を記す予定でしたが、なかなか着稿できない間に東京ゲートブリッジが完成し、番外編として hmtマガジン にも収録。

続編に着手する次の機会は、中央卸売市場が築地から豊洲に移転した 2018年でした。
埋立地の歴史としては 幕末から かなり飛んでしまうものの、前歴のガス工場なども含めて 話題にはこと欠かない埋立地。しかし、筆を進める気力が衰えており、[96927]の後が続きませんでした。

それでも、気持ちだけは 第2シリーズを続けたい。
そこに現れたのが、東京湾「中央防波堤埋立地」の帰属争い決着へというニュースです。

「中防」は「中央防波堤内側【or 外側】埋立地」という長い埋立地名を省略した通称地名ですが、その帰属に争いがあり、長い間「所属未定」のま 落書き帳の話題になっていました。

コロナ騒動がなければ、2020年東京オリンピックを機に盛んに話題になっている筈の場所です。
しかし、拡大を続ける大都市・東京の物流基地として、重視される場所でもあります。

参考までに、「中防」の検索結果【長い名称は対象外】を古い順に示しておきます。

東京地裁判決を江東区・大田区双方が受け入れた結果、ようやく帰属先が決定[98525]
昨年末には、テレビで「東京リボーン」の 第3集「輸送革命 果てなき欲望との闘い」が放送され、[98765]で紹介しました。

新しい町名も誕生[99880][99885]。大田区の「令和島」、江東区の「海の森」。

以上、シリーズに関連した過去記事の紹介が、主になりました。

ところで、落書き帳トップに掲載されている NEWS欄により、水底トンネルコレクションの更新を知りました。

開いてみると、東京港の埋立地・有明から「中防」への 新ルートである「東京港海の森トンネル」2459..5m が、2020/6/20 に開通したことを伝える内容でした。[98765]で紹介した輸送革命の主役です。

乗りものニュース [が伝えるように、従来の青海縦貫線の東側に並行する都心側ルートの増強で、トレーラーなどによる大型貨物輸送の 隘路解消が目的です。トンネルの命名は昨年末でした。
トンネルの先、内側埋立地と外側埋立地の間は 250mの架橋です。

青海と並行する有明ルートの開通で、東京港臨海道路西端の臨海トンネル、東側の東京ゲートブリッジと合わせて「中防」へのルートは4本に増強され、私達の「果てなき欲望」に奉仕することになりました。
[99933] 2020年 6月 25日(木)15:29:27hmt さん
朝鮮戦争 70年
1950/6/25の「朝鮮戦争勃発」から 70年を経過しました。
朝日新聞の朝刊を開いてみたところ、北朝鮮が 開城工業地区の南北共同連絡事務所(2018)を爆破した件に関する解説記事はありましたが、1950年からの約3年間、激しく行なわれた戦争についての言及は、全くありませんでした。

朝鮮半島を南北に分断する 事実上の国境線である「軍事境界線」。
1945年、日本の敗戦後に行なわれた 分割占領に基づく「北緯38度線」は、地理的には現在でも存在します。
しかし、戦争の結果 南へ、北へ、また南へと半島内を移動した結果としての停戦ラインや、その南北 2kmを無人とした「非武装地帯 DMZ」は「38度線」と一致していません。

この食い違いを端的に示しているのが、開城(ケソン)です。
地理的には「北緯38度線」より南側に残された唯一の大都市。
北緯37度58分14秒 東経126度33分15秒
停戦ラインよりも北西側にあるので 北朝鮮領内。

落書き帳で「朝鮮戦争」の過去記事を検索したら、[56950]から[99400]の7件は hmtの記事。
他の方の記事は、3万台以前でした。

高校生だった hmt[78506]の記憶に残る朝鮮戦争。

その朝鮮戦争は、現在も まだ「休戦状態」です。
南北間の「平和」は 70年後の現在も回復しておらず、核兵器とミサイルで身を守る「隣人」は健在?です。
拉致問題も 全く進展せず。

時間だけでは解決しない現実が残されていることを実感した 70年前。
ラジオから流れるニュースにかじりついていた高校2年生、日曜日の記憶でした。
[99927] 2020年 6月 23日(火)15:51:04【1】hmt さん
さとうきび畑
沖縄戦が終結してから 75年経過した(沖縄県)慰霊の日です。 

糸満の摩文仁にあった日本軍の司令部が壊滅し、組織的戦闘が終結した 1945(昭和20)年の日付に基づくものですが、1965年の改正により 6月22日から変更されたものです。
正確な日付の確定が困難なくらいの状況であったことは、[80990]に記しました。

一般住民も巻き込んだ悲惨な地上戦により、日本側だけで推定約 19万人の生命が失われたと伝えられています。
沖縄県外出身の戦死者 7万人弱を差し引くと、沖縄県民の死者は 推定 12万人余となります。
これは 沖縄県(先島諸島以外の2市3郡)の人口の 1/4 にも相当します。

「鉄の暴風」に例えられる沖縄戦は、「人のいのち」だけでなく、琉球文化にも壊滅的打撃を与えました。
最近の東京新聞日曜版「大図解」シリーズ。No.1462 失われた文化財-沖縄戦-

私が今回の記事のタイトルに選んだのは、「ざわわ ざわわ ざわわ」というリフレインで知られる『さとうきび畑』という歌です。
1964年、復帰前の沖縄を訪れた作曲家の寺島尚彦が作詞・作曲した 11連の歌。
1967年初演とされていますが、1970年代に沖縄返還への関心が高まり、流行したとのことです。
森山良子の歌がよく知られていますが、その他にも多数の歌手が歌っています。

2012年4月1日に 中城郡読谷村の さとうきび畑 の一角に この歌の 歌碑 が建てられたそうです。

読谷村(よみたんそん)は 人口約4万人で、日本最多の村。
東シナ海岸の村で、南は嘉手納町と隣接。沖縄戦の当時は読谷【当時の名は 読谷山村 ゆんたんざそん】にも 嘉手納にも飛行場がありました。

読谷村の戦跡によると、閣議決定に基づき1944年7月から「足手まといになる老人と子どもを戦闘地域から移し、食糧を確保する」ということを目的とする「県外疎開」が実施されました。しかし、疎開者を乗せた対馬丸がトカラ列島を航行中に潜水艦の魚雷攻撃により沈没[56250]。読谷山村民90人も犠牲になりました。

1944/10/10の空襲などを経て 1945/4/1に比謝川河口から米軍が上陸。
日本軍の守備は手薄であり、米軍は 当日中に2つの飛行場を占領。4/5頃には米軍が宜野湾以北の中部一帯を制圧。
その後、首里を攻め落された守備軍司令部が糸満の摩文仁に後退、6月23日に最後の抵抗も終了。

読谷村の歌碑に戻ると、基金募集のコンサートなど、草の根運動で集めたお金で、完成に至ったとのこと。
この歌にふさわしいエピソードです。歌碑に刻まれた「ざわわ」は、各連6回で合計 66回。

歌詞の主人公に見立てられた少女は、「大図解」で知った ウチナーグチを使えば
カンポーヌ クェヌクサー【艦砲射撃の 喰い残し】

【2連】昔 海のむこうから いくさがやってきた 夏の陽ざしの中で
【3連】あの日 鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしの中で
【4連】そして わたしの生まれた日に いくさの終わりがきた 夏の陽ざしの中で
[99921] 2020年 6月 19日(金)17:35:53【2】hmt さん
北アルプスの超火山
登山にも地質学にも無縁の hmtですが、最近放送された Nスペ『ジオ・ジャパン』シリーズ2第1回「列島大隆起」。
300万年前の 北アルプスに、1万m?のスーパー火山が存在した可能性を知り、驚いて投稿します。

地質探偵ハラヤマとして世界的にも著名な地質学者・原山智さん(信州大学名誉教授 67)の発見に基づくもの。

巡検案内書を引用してみると、「くるりんぱ」した隆起年代は 1.6-0.6Ma【百万年前】とされていました。

北アルプスの北部に位置する鹿島槍ヶ岳から爺ヶ岳, 蓮華岳一帯には, 第四紀前期更新世の火山-深成コンプレックスの断面が広く露出している.この一帯では火山活動と花崗岩マグマの上昇定置の直後にあたる 1.6-0.6Ma の間に傾動を伴う隆起が生じており,これらコンプレックスが 80°前後の直立に近い状態まで南北水平軸回転していることが判明している(原山ほか,2003、2010)
参考までに、原山さんの講演記録(2005)特別寄稿

テレビでは、300万年前に始まるこの時期を、プレートの動きによって説明していました。
北上してきたフィリピン海プレートが太平洋プレート・ユーラシアプレートに押し負けた結果、150kmもの深みに潜り込み、進路は 北か北西へと 45度変化しました。

海水の影響によりマグマが生成した結果、飛騨山脈に、世界一若い露出花崗岩ができます。

爺ヶ岳の西側では黒部峡谷の割れ目ができ、割れ目は カルデラ花崗岩の下に伸びてきます。
そして、東からの圧力【45度カックン】で、カルデラ火山の噴出物と 地下の花崗岩塊とは 西向きに隆起します。
【幻の】超火山形成は、こんなシナリオと理解しました。

爺ヶ岳で火山岩が分布する範囲は 南北18km・東西10kmだそうです。
この火山が、東からの圧力に押されて 垂直に立ち上がれば、計算上の高さは 10000mになります。
しかし、垂直移動と同時に、崩壊も進行してゆきます。10000mの火山 は、やはり実現しないでしょう。

爺ヶ岳と同様のカルデラと変動とは、南側の槍穂高連峰でも観察されます。
こちらは垂直でなく、水平面から 20度の傾きだそうです。

「列島大隆起」は、巨大火山の他にも、関東平野ができた話もあり、興味深い番組でした。
6月21日・日曜日に再放送が予定されていたようだが、変更された?

同日、午後9時からは「列島大分裂」と題する第2回です。
中央構造線など西日本の変化によって、現在の日本列島が形成される物語に期待。
[99916] 2020年 6月 14日(日)19:25:18hmt さん
岩手県への表記統一(2)
[99914] ekinenpyou さん

複雑な謎解きの解説をいただき、ありがとうございます。

実は、[99914]を拝見する前に、[99907]で示された【その1】は改印届であることが明記されているが、
【その2】は単純な欠損改刻であることに気付き、[99911]の修正 or 別記事化【出直し】を検討していました。

公文録に残されたM9.10.9届出当時の原本を示します。

明治9年の改印届は「巌手縣」であったこと。そして

※法規分類大全の印影「岩手縣」は同書がM24年刊行であり、
「巖」を「岩」に置き換えた可能性があると推測しております。
という 落し穴 には全く気付いていませんでした。

…というわけで、[99907]の謎解きについては 完敗でした。
[99911] 2020年 6月 13日(土)13:35:09hmt さん
岩手県への表記統一
[99907] ekinenpyou さん

公文雑纂を示していただいた 県名の文字に関する件照会
日付は大正12年9月10日。100年近く前、関東大震災から間もない頃です。
この一次資料に接することで、当時の雰囲気を味わうことができました。

用紙枠には「巌手縣」と印刷されています。
「岩手縣知事 牛塚虎太郎」と記された冒頭の「岩」には、通常の邦文タイプ活字(明朝風字体)でなく、清朝風字体の活字が特別に使われています。そして、氏名の下の知事公印に記されていた文字は「岩手縣知事之印」。

[99907]では、テーマが「県名」から「県印」に変り、M9.10.9 岩手県届けによる印鑑の印影【その1】【その2】が提示されています。

【その1】は「当県印鑑欠損に付」と理由が記され、別紙の通相改 「岩手縣」
 上部欄外に明治5年正月5日 盛岡県>岩手県 を記載
【その2】も同じ理由が記されており「巌手縣」に改刻
 上部欄外の付箋は読み取れない 件名:諸県県印彫刻・九条とあるが、その内容は不詳

明治9年当時は 正式の「岩手縣」と慣用の「巌手縣」とが共に使われており、旧印鑑の欠損を機会に、慣用している「巌手縣」の印鑑も彫刻し、届出をしたのでしょうか? よくわかりません。

時代は進んで、大正12年に 名称を統一した知事。
牛塚虎太郎の名は初耳だったのですが、後の東京市長時代【1933-1937年】に、水源確保・し尿処理などの実績を残した大物官僚政治家でした。
[99889]で紹介していただいたように射水市の名誉市民になっているのですね。

余談
射水市の名誉市民には、読売新聞の 正力松太郎[35062] も 名を連ねていました。
戦後は、プロ野球や日本テレビに加え、原子力政策でも活躍した 記憶に残る人物です。
[99890] 2020年 6月 8日(月)10:31:30【2】hmt さん
慣用されていた 巌手県 から 正式の 岩手県 に統一する手続
[99889] ekinenpyou さん
このような変更手続は法的には行われていないという見解を多くの方がお持ちだと思います。

レファレンス協同データベース に、大正12年発行の岩手県報彙報欄掲載の、「今後は「岩」の字に統一する」旨の記事が紹介されていました。

--------------
『岩手県報 第847号』(大正12年9月22日発行)
⇒p.3「縣名ノ文字ニ關スル件」
“従来本縣名ニハ巌又ハ岩ノ二様ノ文字使用セラレ今日ニ於テハ官記辭令等一般ニ巌ノ文字ヲ使用スルニ至レリ【中略】
今回内閣書記官長ノ諒解ヲ得テ爾今官記法令其ノ他公文書等ニハ總テ明治五年一月改稱ノ際太政官ヨリ通達有リタル通岩ノ文字ヲ使用スルコトトセリ。”
--------------

【2】追記
太政官布告(明治5年正月8日)
仙台県を宮城県 盛岡県を岩手県 と改称候事
[99888] 2020年 6月 7日(日)14:10:09hmt さん
虎ノ門ヒルズ駅「静かに」開業
昨日 東京メトロ 日比谷線に 開業以来 56年ぶりの 新駅誕生。
朝日デジタルのタイトルが示すように、コロナ禍の最中、新駅開業恒例の出発式もなく、静かな船出であったとか。

それはともかく、1.3kmしか離れていない 既存の霞ヶ関・神谷町両駅の間に設置された新駅は、再開発が進んでいる この地域の「交通の結節点」としての役割が 期待されているようです。

落書き帳では、2018年に[97081] hmt 「虎ノ門ヒルズ」駅 を書いていますが、その前にも 2014年の[85227]で、東京の環状二号線 地下部分開通(新橋-虎ノ門)を伝えています。

日比谷線の新駅は、この道路と 地下鉄との交点 に設けられたもので、銀座線虎ノ門駅との乗換駅になっています。
両駅は 約400m離れており、改札外地下道経由。
参考までに、東京メトロは 改札外乗換適用時間を 60分に拡大しました。改札外の店舗への立寄便宜もあるようです。

「芝の金毘羅さま」東京都港区虎ノ門は 丸亀藩主京極家の上屋敷内にあり、江戸市民の要望に応えて毎月十日に参拝が許されていました。

hmtが 隣接する 外濠跡のオフィス に勤務していたのは 20年以上前ですが、毎月十日の縁日は賑わっていました。
私が退職し、会社が移転した結果 OB会開催地も変化したので、この付近とは すっかりご無沙汰になっています。
しかし、新駅誕生の機会に、過去記事を材料にして、虎ノ門のことを振り返ってみました。


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