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千本桜さんの記事が100件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[81277]2012年8月8日
千本桜
[81261]2012年8月6日
千本桜
[81260]2012年8月6日
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[81222]2012年8月1日
千本桜
[81214]2012年7月31日
千本桜
[81211]2012年7月30日
千本桜
[81207]2012年7月29日
千本桜
[81201]2012年7月29日
千本桜
[81196]2012年7月29日
千本桜
[81088]2012年7月13日
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[81048]2012年7月8日
千本桜
[81047]2012年7月8日
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[81038]2012年7月7日
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[81019]2012年7月1日
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[80986]2012年6月22日
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[80971]2012年6月17日
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[80942]2012年6月7日
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[80934]2012年6月4日
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[80895]2012年5月25日
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[80418]2012年3月21日
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[80412]2012年3月20日
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[80403]2012年3月14日
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[80331]2012年2月25日
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[80301]2012年2月17日
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[80290]2012年2月14日
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[80283]2012年2月12日
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[80282]2012年2月12日
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[80253]2012年2月5日
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[79929]2012年1月4日
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[79788]2011年12月29日
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[79784]2011年12月29日
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[79736]2011年12月14日
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[79658]2011年11月21日
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[79657]2011年11月21日
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[79591]2011年11月2日
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[79312]2011年9月6日
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[79289]2011年8月31日
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[79282]2011年8月30日
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[79249]2011年8月27日
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[79092]2011年8月14日
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[79055]2011年8月12日
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[78879]2011年8月7日
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[78803]2011年7月21日
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[78772]2011年7月16日
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[78768]2011年7月14日
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[78767]2011年7月13日
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[78751]2011年7月10日
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[78732]2011年7月9日
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[78712]2011年7月5日
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[78599]2011年6月20日
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[78578]2011年6月18日
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[78559]2011年6月14日
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[77851]2011年4月1日
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[77614]2011年2月7日
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[77608]2011年2月6日
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[77591]2011年2月4日
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[77582]2011年2月3日
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[77570]2011年1月31日
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[77547]2011年1月29日
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[77407]2011年1月12日
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[77119]2010年12月27日
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[77093]2010年12月23日
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[77083]2010年12月22日
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[77082]2010年12月22日
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[76288]2010年10月2日
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[76196]2010年9月16日
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[75500]2010年7月19日
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[75490]2010年7月17日
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[75322]2010年6月8日
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[75311]2010年6月7日
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[75271]2010年6月4日
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[75252]2010年6月3日
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[75196]2010年5月27日
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[75176]2010年5月23日
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[75169]2010年5月22日
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[75156]2010年5月22日
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[74447]2010年3月26日
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[74322]2010年3月11日
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[74255]2010年3月4日
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[74203]2010年2月22日
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[74167]2010年2月16日
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[74115]2010年2月8日
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[74112]2010年2月7日
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[74078]2010年1月30日
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[74046]2010年1月25日
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[73486]2009年12月31日
千本桜
[73406]2009年12月27日
千本桜
[73392]2009年12月25日
千本桜
[73386]2009年12月24日
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[73371]2009年12月21日
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[73357]2009年12月20日
千本桜
[73340]2009年12月17日
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[73280]2009年12月13日
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[73208]2009年12月5日
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[72957]2009年11月26日
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[72894]2009年11月20日
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[72228]2009年10月21日
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[72164]2009年10月12日
千本桜
[72073]2009年9月26日
千本桜
[71771]2009年8月23日
千本桜

[81277] 2012年 8月 8日(水)18:55:01千本桜 さん
八戸と鮫
現代では八戸そのものが港町として捉えられているわけですが、本来は少し内陸部に城下町・八戸の市街が広がり、その外港の役割を果たしていたのは鮫。・・・だと思います。
[81261] 2012年 8月 6日(月)06:40:26千本桜 さん
忘れてしまって漢字で書けない
[81239] 白桃さん
ところで、千本桜さんのお母様はどこなんでしょうか。

認知症で地名の記憶が失われて行くなか、今でも忘れずにいるのは生まれ故郷の「白石」です。でも、残っているのは「白石」と言う名のホルダーだけ。保存してあったファイルはことごとく破損または消去されてしまったようです。

実は私も最近になって書けなくなった市町村名が増えて困っています。三重県の「いなべ」の漢字が思い出せないのですよ。「そうさ」「しそう」もダメっぽい。これって認知症の始まりなんでしょうか。
[81260] 2012年 8月 6日(月)06:07:33千本桜 さん
赤穂と尾崎
hmtさん
「明治13年共武政表を眺める」の続編を期待しています。

明治13年共武政表「戸数1千以上地名表」を見て、おや?と思ったのが播磨の赤穂郡。リストに尾崎があって赤穂(加里屋・ 上仮屋)がないのですね。ちょっと奇異に感じましたが、当時の赤穂はその程度の町だったのでしょうか。
[81222] 2012年 8月 1日(水)07:57:03千本桜 さん
矢吹町の大字柿之内
[81213] 皿さん
他の字を合わせて大字の線を引いても、後から間違っている所が指摘されることがあるからです。

皿さんが求めている大字界線は大雑把なもので良いはずです。地権や水利権が絡むことではありませんから精密さを必要としません。ならば、角川地名大辞典とマピオンがあれば解決できる範疇の問題だとと思います。本当は皿さんご自身の手で調べてもらいたいのですが、1つだけ私がやってしまいます。大字柿之内をターゲットにします。時間がないので結果だけ書きます。なぜその結果が出たのかは書きません。
大字柿之内の領域は現在の境町本郷町南町東の内田内子ハ清水と推測しました。
大字柿之内の近隣に位置する堰の上、井戸尻、川原などは大字大和久の領域。花咲、舘沢、滝八幡などは大字矢吹の領域と推測しました。
現在の字(字か町丁かは大きな問題ではありません)をそのまま旧大字に当てはめるのは無理があるとは思いますが、こまかなことを気にしなければ、こんなもので良いのではないですか。
[81214] 2012年 7月 31日(火)01:04:27千本桜 さん
大字の探し方
[81213] 皿 さん
現時点で引っ張り出せるのは13の大字のうちわずか3つです。
その3つ、どういうわけか知らないけど、3つとも奥州街道の宿場町ですね。どのようにして引っ張り出したのですか。
[81211] 2012年 7月 30日(月)21:57:22千本桜 さん
矢吹町の大字
[81209] 皿さん
最後に矢吹町の字に関して一部確定しているところがあります。
大字矢吹:中町~本町
大字中畑新田:新町
大字大和久:大和久

ひょっとして、皿さんは矢吹町に13の大字があったことをご存知ないのでは?。だとすると、それを知ることから始める必要があると思います。13の大字名とその場所をリンクします。大字の「首部」にあたる位置にポインターが表示されるように狙い撃ちしていますのでご覧ください。
松倉中畑大畑三城目須乗神田中野目明新矢吹中畑新田大和久柿之内
これだけでは皿さんの疑問解決にはなりませんね。できるなら、私がリンクした13大字の首部と周辺部をにらめっこしながら、各大字の地域範囲をイメージして大字界線を線引きしてほしいのです。私がイメージするのではなく、皿さんがイメージするのです。

私がほしいのは、昭和54年までの矢吹町の大字図です。
それは、どうすれば入手できるのか私には分かりません。いっそのこと、 皿さんご自身が大字界図を作ってみてはいかがですか。精密さを求めない大まかなものでよければ作れるはずです。資料は角川地名大辞典とマピオンがあれば充分です。その二つを駆使すれば、大字の地域範囲と所属していた郡が明らかになるはずです。問題は皿さんが角川地名大辞典を読むか否かにかかっています。角川地名大辞典を読みたいと思われたとき、その旨を落書き帳に書き込んでください。微力ながら矢吹町の大字に関して多少のアドバイスはできると思いますので。
[81207] 2012年 7月 29日(日)23:55:14千本桜 さん
矢吹町の字(あざ)
[81198] 皿さん
福島県矢吹町の現行町名と江戸時代にのちの現在の矢吹町にあった村の位置が全然わかりません。
矢吹町の字(あざ)にハマってしまいましたね。あの町は大胆に字の整理を実施しましたから、現況の字界図をもとにして過去の村(近世村)の範囲を知るのは無理だと思います。町役場に問い合わせをするのが最良かと思いますが、それを実行しても埒があかなかったから落書き帳に書き込んだのですよね。私も三十数年前、矢吹町の字界図を入手したことがあります。でもそれはあくまでも現況字界図です。皿さんに必要なのは字の整理前と整理後をオーバーラップさせた地図ですよね。やっぱり、無いよね。役場には。困った、困った。
ところで、矢吹町の字にハマったということは、旧二本松市の字にもハマっておられるのでしょうか。
[81201] 2012年 7月 29日(日)08:35:06千本桜 さん
近世村「西野村」と町場名「米岡」
[81146] hmtさん
このような 町場名・近世村名・町村名の関係については、千本桜さんが事例を挙げて考察された 記事 が多数あります。
上にリンクしたのは一例で、マガジンの形にまとめて利用できればよいと思うのですが、私は手を出せずにいます。
千本桜さんの視点による 新マガジンの創刊を期待しています。
ありがたいお言葉、感謝申し上げます。しかし私は今、なかなか時間がとれない状況にあり、落書き帳への書き込みも途切れることがあるのが実状です。マガジン創刊など出来るかどうか自信がありません。とは言うものの「近世村と町場」、「町場名と町村名」、「公称と通称」、「住所と大字」の関係などは、次の世代に語り継がなければならない大切なものだと考えています。時間があれば何らかの形でまとめてみたいとは思っています。

近世の町場名が町村制下の村名に影響したと考えられる記事を一つ書きます。

明治22年、宮城県登米郡の西野・中津山2ヶ村が合併して米山村が成立しました。旧村名を継承する2大字を編成し、村役場を大字西野に置きました。角川地名大辞典は米山の村名由来を次のように書いています。
江戸期から干拓・開墾・新田開発の盛んに行われた米どころで、米の山を築く意味からなづけられたといわれる。
この説を否定するつもりはありません。けれども、どことなく作り話の臭いがしますね。「米の山を築く」は後で付けた理由で、本当は西野・中津山両村から1文字ずつ出し合って合成した村名だと思うのです。西野の「米」と中津山の「山」で米山です。西野に「米」の文字は見えませんが、実はあるんです。西野村には米岡と言う名の町場がありました。米岡は江戸期に商業活動を許された町場で、地籍の上では西野村に属していました。米岡宿、米岡驛、米岡町などと称されていたようですが、宿・驛・町の使い分けには明確な基準があるのでしょうか。ご存知の方、教えて頂けたら幸いです。

元来、米岡とは西野村の町場を指す地名ですが、時には西野村を指す名称としても用いられていた可能性があります。その根拠は、宮城県柴田郡において村名の前川と町場名の川崎、村名の入間野と町場名の槻木、村名の平と町場名の金ヶ瀬が混用されているばかりでなく、各地に同様のケースが見られるからです。槻木宿と書いてあるかと思えば、物によっては入間野宿と書いてあったり、入間野村と表記すべき所に槻木驛と書いてあったりで、大いに悩まされたものです。この通称町場名の川崎・槻木・金ヶ瀬は明治22年、それまでの公称村名である前川・入間野・平を抑えて町村制下の新村名に躍りでました。しかし、米岡は町村制下の新村名に躍りでることができなかった。なぜでしょうね。

なぜ米岡は町村制下の村名に採択されなかったのか。これにズバリ言及した記述を見たことがありません。そのような視点からの記録はたぶん存在しないのでしょう。ならば自分流に想像力を働かせて考えるしかありません。以下の文は想像で書く創作ですから鵜呑みにしないでください。でも本筋はそれほど大きく外れてはいないはずです。

(明治22年、西野村は中津山村との合併に向けて内部調整の話し合いをしていた。)
【西野村職員A】志田郡千石村など5ヶ村合併の新村名は、千石村の町場名をとって松山村とするそです。
【西野村職員B】桃生郡相野谷村など6ヶ村合併も、相野谷村の町場名をとって飯野川村とするそうです。
【西野村村長】すると西野・中津山の2ヶ村合併も、西野村の町場名をとって米岡村にするか。
【西野村職員A】西野村の名が消えるのは淋しいですね。
【西野村職員B】米岡村になっても西野の名は消えません。米岡村大字西野として後世に残ります。
【西野村職員A】そうなんですか。米岡も西野も消えずに残るなら、新村名は米岡村にしましょう。
【西野村村長】それに、西野より米岡の方が対外的に通りが良いだろう。
【西野村職員B】確かにそうです。佐沼や涌谷の人は西野のことを米岡と呼んでますね。
【西野村職員A】白石の近くから来ましたという人も、西野を知らないのに米岡を知っていました。
【西野村職員B】白石の近くから来ましたという人って、それ、大河原村の人だろう。
【西野村職員A】そうらしいです。なんで大河原から来ましたと言わないのだろう。
【西野村村長】主体性がないんだよ、大河原村は。我々もそうならないように気をつけよう。
【西野村職員B】やはり胸を張って自分の村の名を言えるようにしたいですね。
【西野村職員A】これからは対外的に通じやすい米岡の名を名乗り、胸を張って生きましょう。
【西野村職員B】了解しました。新村名は米岡村ということで、中津山村に話し掛けましょう。

(そして西野・中津山2ヶ村の合併協議が始まった。)
【西野村職員B】西野村としては、新村名を米岡村とすることを希望します。
【中津山村職員A】米岡って西野村の別称でしょう。西野村主体の考えは納得できません。
【西野村職員A】牡鹿郡根岸村など3ヶ村合併の新町名は、根岸村の町場名をとって渡波町とするそです。
【西野村職員B】近世の町場名をもって町村制下の町村名とする所が多いですね。
【中津山村職員B】そんな馬鹿な。人口の多い中津山が、人口の少ない西野に馬鹿にされてたまるか。
【西野村職員A】そんな馬鹿な。西野の方が人口が多いに決まってるだろう。
【中津山村職員B】そんな馬鹿な。中津山の方が多いんです。
【相談役の県職員】人口のことは落書き帳の方々が調べてくれるはずですから、話を先に進めましょう。
【中津山村職員B】中津山村としては、新たな合成村名を作ることを希望します。
【中津山村職員A】例えば、西野村の西と中津山村の山で「西山村」はどうでしょう。
【西野村職員B】西野村としては、西野より米岡の名を残したいのですが・・・。
【中津山村職員A】では、米岡の米と中津山村の山で「米山村」はどうでしょう。
【西野村村長】それは名案だ。
【中津山村村長】米どころにふさわしい村名だね。
【相談役の県職員】では「米の山を築く」という意味合いを込めて「米山村」としましょう。

こうして米山村は誕生したのではないだろうか。この場合、後世に伝え継ぐ村名由来は、下記の内のどちらがふさわしいのでしょうか。
1・西野村の町場名である米岡の「米」と中津山村の「山」を合成して「米山村」とした。
2・米どころなので、米の山を築く意味から「米山村」とした。

なお、人口のことで西野村と中津山村がもめていましたが、実際はどちらが多かったのでしょう。明治22年頃には、中津山村が西野村を凌いでいたと思うのですが、詳しいことが分かりません。ただし、西野村が中津山村を隷属扱いできるほどの開きは絶対なかったはずです。もし、西野村が中津山村を隷属扱いしていたなら「米山村」の名称は生まれず、「米岡村」の名称が誕生していた可能性が高いと思います。西野村の町場名「米岡」が町村制下の村名になれなかった理由の一つは、合併相手の中津山村が西野村に比して遜色なく、思いのほか大きな村だったからではないかと踏んでいます。
[81196] 2012年 7月 29日(日)01:15:49千本桜 さん
♪母の鞄
[81136] 白桃さん
3位 武豊(愛知) 29,634

武豊の文字から「たけゆたか」を連想する人は多いはず。ところが、私が連想するのは「武智豊子」。昔からそうでした。地図を見て武豊町の存在を知ったのは中学生の頃ですが、あれからずっと武智豊子は武豊町の生れだと思い込んでいました。実際は違うらしいけれど・・・。武豊から武智豊子を連想する人はもともと数が少ないはずだから、今となっては絶滅危惧種でしょうね。

ところで、私はいま老老介護の最中にあります。母親の口にスプーンで食事を与え、おむつの交換をする毎日。結構辛うございます。母は四捨五入すると100歳になります。認知症で親の名前も子の名前も忘れてしまいました。地名もほとんどすっかり忘れたようです。近隣の集落名は勿論、昔馴染みの人が住んでいる栃木・桐生・清水なども忘れてしまいました。そんな母が今も忘れずにすらすらと口にする地名が一つだけあります。それは、次の内のどれでしょう。

1・生れ故郷の「白石」
白石のど真んなか、中町の生れ。大正時代は町場と農村部のメリハリがはっきりしていたようで、町場生れの母の話言葉は、白石近郊の農村出身者と少し異なっていました。

2・楽しかった娘時分に暮らした「仙台」
数年間だけ仙台は大町東一番丁角あたりに住んでいました。大町と東一番丁の角といったら、銀座四丁目みたいなものです。凄い所に住んでいたんですね。

3・現在の居住地「大河原」

さて、地名の記憶が失われていく中、いまも母の脳内に張りついて剥がれないのは白石・仙台・大河原の内、どれでしょう。団塊世代のおじさんが思わず涙ぐむ静かなヒット曲、♪母の鞄をタイトルに用いました。
[81088] 2012年 7月 13日(金)20:05:41千本桜 さん
山目と中里の関係。輻輳地の鹿島台とはどこか。高須賀の輻輳地は荒浜
[81073] 白桃さん
山ノ目駅西側と(一関駅方面から来て)磐井川を渡った一帯の山目は同じ山目(旧村→旧町)なのでしょうか、多分そうなんでしょうけど、だとすると(旧)中里村が入りこんでいて不自然な気がします。
JR山ノ目駅がある場所は山目村ではなく中里村の領域です。また、また現在の新町蘭梅町山目町二丁目山目町三丁目なども元をたどれば中里村の領域でした。ですから、本来は山目村と中里村の間に不自然な領域の入込みはありませんでした。ではなぜ中里村にJR山ノ目駅や山目町があるのかというと、これには宿駅「山目」の存在が絡んでいます。山目宿は山目村と中里村に跨がる宿場で、山目町(現在の山目町一丁目、二丁目)と呼ばれる町場を形成していました。山目村に属す町場は現在の山目町一丁目、中里村に属す町場が現在の山目町二丁目です。中里村の内に山目町という町場があったわけですから、中里地区民はJR山ノ目駅や山目町二丁目の呼称も自然に受け入れていたと思います。

[81048]
明治11~13年当時、一関と山目の町並みは一体化していたのだろうか。
と書きましたが、角川地名大辞典を読んでみると、磐井川で分断されるものの、連続した町並みの様子が見えてきました。

明治11、12、13年の共武政表を見て思うのですが、宮城県の輻輳地のうち、下記の2箇所は場所を勘違いする人がいるかもしれませんね。
輻輳地明治11年の表記明治12年の表記明治13年の表記
鹿島台記載なし鹿島臺126人鹿島臺127人
高須賀高須賀村2,352人高須賀2,301人高須賀1,770人
共武政表は人口120人ほどの小さな輻輳地「鹿島台」を掲出しています。鹿島台とはどこを指すのでしょう。現代の我々が思い浮かべる鹿島台の町並みといえば、平渡地区(藩政村の平渡村)に展開するJR鹿島台駅前の町並みでしょう。でも、江戸~明治初期において平渡村内に鹿島台と呼ばれる集落があった話は聞いたことがありません。しかし、平渡地区に隣接した広長地区(藩政村の広長村)には元鹿島台(通称)という集落があり、2.5万分の1地形図にもその名が記載されています。また、宮城県各村字調書によると広長村に鹿島台(たぶん通称)があり、鹿島台には鹿島、琵琶原という二つの小字が記載されています。鹿島、琵琶原を頼りに場所を探すと、2.5万分の1地形図の元鹿島台と同じ場所に行き着きます。よって、共武政表の鹿島台とは元鹿島台の集落を指していると判断します。
また、共武政表は輻輳地「高須賀」を掲出しています。現代の我々が思い浮かべる高須賀はここ。でも、明治13年共武政表の輻輳地「高須賀」は、高須賀村の端郷で河口港の荒浜を指していると判断します。
[81048] 2012年 7月 8日(日)11:33:58千本桜 さん
岩手県の輻輳地「磐井」とは。宮城県の茶屋町ってどこでしょう。
共武政表の岩手県西磐井郡に「磐井」と言う名の輻輳地が記載されていますが、そのことでお尋ねします。磐井の人口は明治11年共武政表で4,561人、明治12年4,293人、明治13年4,310人となっています。人口規模からして磐井とは一関のことだと推測しますが、なにゆえ「一関」と表記しないで「磐井」と表記するのか、その理由が分かりません。一関城下は藩政期の一関、二関、三関の3村に跨がっていますが、3村は明治8年に合併して一関村を名乗っています。古来より城下町としての名称は一関、宿駅名も一関、村名も一関。ならば輻輳地の名称も一関で良いはずなのに、「一関」と表記できない何かがあるのでしょう。つらつら思うに、この「磐井」は一関以外のどこかを含んでいるのではないだろうか。そんな考えに至りました。一関宿の2キロほど北に山目宿があります。普通に考えれば山目は人口100人以上の輻輳地に該当するはずです。ところが共武政表には「山目」の記載がありません。そのことから、一関と山目を併せて1個の輻輳地とし、便宜上の名称を「磐井」としたのではないだろうかと考えるようになりました。明治11~13年当時、一関と山目の町並みは一体化していたのだろうか。いろいろ調べましたが定かなことは分かりませんでした。よって「磐井は一関と山目を併せた便宜上の名称」というのも、私個人の発想の域を脱していません。どなたか、共武政表に記載された「磐井」の正体をご存知の方はおられませんか。

共武政表の宮城県宮城郡に茶屋町という輻輳地が記載されています。初めて見る地名です。これは二軒茶屋のことなのでしょうか。それしか思い浮かびません。でもマピオンを見て、あれ!と思いました。本来の二軒茶屋はこのへんではなかったでしょうか。だって昔、新寺小路から延びてきた道路のこのへんに二軒茶屋南というバス停があったのですから。二軒茶屋は二軒茶屋南バス停より北にあったはずだと思うのですが、みんな遠い過去の思い出。
[81047] 2012年 7月 8日(日)10:45:29【1】千本桜 さん
町裏とは町の外側か、内側か
[81018] YTさん
これら三年分の『共武政表』はそれぞれの地方についてはるかに詳しい内容を含んでいます。是非皆さんも確認してください。
拝見いたしました。予想以上に小規模な集落まで掲出していますね。宮城県柴田郡菅生村(現・村田町)に造営された宿場町菅生驛や名取郡坪沼村(現・仙台市)に造営された宿場町赤石驛、宮城郡竹谷村(現・松島町)に形成された新田町などまで輻輳地として取り上げられているのには感動しました。
ところで、宮城県内には「町」と言う名の字(あざ)があちこちにあります。角田市角田字町、村田町大字村田字町、蔵王町宮字町、大河原町金ヶ瀬字町などです。みな町の中心部にあたります。少し詳しく見ると、金ヶ瀬の字町は奥州街道に沿った宿場町の区域であることが分かります。字町の裏側(外、陰、後、そんなイメージ)には字町裏があります。メイン道路に沿って字町が区割りされ、字町の背後には字町裏が区割りされる。それが一般的だと自分は思っているのですが、菅生(現・村田町大字菅生)の場合は様子が異なります。字町という区域がなくて、宿場の街道沿いに、いきなり字町裏が区割りされています。どう見ても町裏ではなく町そのものに見える区域です。街道を挟んで東側に連なる家並が字町東裏、西側に連なる家並が字町西裏です。主体となるはずの字町はどこにあるの?という感じです。
もしかすると、町裏=外側、背後、陰などを連想するからいけないので、裏=内側と解釈すれば良いのかなと考えたりもします。洋服の裏地は内側にありますからね。すると町裏は町の内側を指す地名、つまり町そのものになります。でも、このような考えは成立するのでしょうか?。実は竹谷村(現・松島町)の新田町にも字町裏があり、これまた街道に面した町並みの一角ですから町裏とは思えない区域です。どなたか、裏事情に詳しい方、字町裏の解釈の仕方を教えてください。
注:菅生でリンクしたマピオン地図に「町」という地名が記載されていますが、あれは字名ではありません。菅生宿の町並みの区域を指して通称「町」と呼ぶ慣わしがある。その意味での「町」です。

脱字1文字追加修正しました。
[81038] 2012年 7月 7日(土)11:51:29千本桜 さん
見ていないので難問でした
[81034] 白桃さん
次の市に共通する事柄は?
角田市 米沢市 亀山市 神戸市 伊丹市
どうでもいいけど、戸田、松本、蟹江、小野、長門、阿南に共通する事柄は?
付け加えると、平成の合併時期に惜しまれながらお亡くなりになられた前沢、石橋、津川、萩原、山崎も由紀恵ちゃんです。
[81019] 2012年 7月 1日(日)21:18:51千本桜 さん
昼夜間人口比率
[80994] 白桃さん
総務省から「従業地・通学地による○○・産業等集計」が公表になります。これで、昼間○○、昼夜間○○比率が明らかになります。
地域における中心性が高まる一方で、それに背を向けるように昼夜間人口比率が低下していく大河原町。おそるおそる平成22年国勢調査の昼間人口を閲覧すると案の定、昼夜間人口比率の下落は止まらず、前回調査の95.9%から1.6ポイント下がって94.3%まで落ち込んでいました。あーぁ、ひよわな中心都市。県は仙南圏を白石市、角田市、大河原町、柴田町を中心とする地域としていますが、力が分散して強力な中心都市が育たない地域です。大局的に見れば、昼夜間人口比率が高ければ吸引力が強く、中心性の高い自治体ということになるのでしょう。それを否定するつもりはありませんが、仙南圏の様子からは昼夜間人口比率と中心性の関連が見えてこないのです。

平成22年の昼夜間人口比率の高い順に仙南圏の自治体を並べてみます。

自治体名H22比率H17比率比率の増減H22昼間人口H17昼間人口昼間人口減少数昼間人口減少率
角田市102.5%100.8%1.7ポイント31,336人33,453人2,117人6.3%
七ヶ宿町101.6%101.9%-0.3ポイント1,721人1,907人186人9.8%
村田町101.1%98.7%2.4ポイント12,121人12,574人453人3.6%
白石市98.6%98.7%-0.1ポイント36,894人38,971人2,077人5.3%
蔵王町96.7%96.4%0.3ポイント12,463人12,838人375人2.9%
大河原町94.3%95.9%-1.6ポイント22,195人22,370人175人0.8%
柴田町92.1%91.8%0.3ポイント36,217人36,542人325人0.9%
川崎町89.8%89.0%0.8ポイント8,961人9,416人455人4.8%
丸森町86.5%87.3%-0.8ポイント13,402人14,653人1,251人8.5%

昼夜間人口比率が100%を超えるのは角田市、七ヶ宿町、村田町の3自治体。しかも前回調査(H17)に比べて角田市は1.7ポイント上昇して102.5%、村田町は2.4ポイント上昇して101.1%になっています。対して大河原町は1.6ポイントも低下して94.3%に下落しています。この数字だけから判断すると、中心性を高める角田市と村田町。中心性を喪失した大河原町になります。でも、実態は大きく異なります。

角田市、村田町の昼夜間人口比率が上昇した原因は常住人口が減少したため。大河原町の昼夜間人口比率が低下した原因は常住人口が増加したためと考えられます。常住人口が減少したために起こる昼夜間人口比率の上昇って、あまり喜べないと思うのです。

ここで、昼夜間比率ではなく昼間人口そのものの増減率を見てみます。経済活動が冷えている仙南圏では全ての自治体が昼間人口を減少させています。仙南圏の中心都市と目される白石市、角田市、大河原町、柴田町の昼間人口減少率を比較します。減少率が少ない順に大河原町0.8%減、柴田町0.9%減、白石市5.3%減、角田市6.3%減となっていて、大河原、柴田両町が何とか現状維持ぷらぷら。白石、角田両市が明らかに衰退。不思議なのは、新幹線の駅があり、高速道路のICがあり、国道4号が縦貫し、国道113号が横断し、国道457号が接続する白石市が、なにゆえ衰退状況に陥っているのかです。
[80986] 2012年 6月 22日(金)21:28:38千本桜 さん
島田は浜松の「となりまち」なんですか
市域同士が隣接しているのに、となりまち(お隣さん)と言うには違和感があるカップル20選。ランキングは私の感覚で決めただけですから異論もあろうかと思います。
1位・静岡と伊那
2位・静岡と飯田
3位・浜松と飯田
4位・高山と白山
5位・高山と大野
6位・高山と大町
7位・札幌と伊達
8位・新発田と喜多方
9位・高梁と庄原
10位・大野と白山
11位・大野と関
12位・富山と大町
13位・仙台と尾花沢
14位・宮古と花巻
15位・新潟と長岡
16位・田辺と新宮
17位・浜松と島田
18位・富山と高山
19位・鳥取と津山
20位・岩国と益田
ランキングの圏外ですが、前橋と桐生も「となりまち」らしくないカップルです。市原と君津も微妙な隣接市ですね。市原の隣は袖ヶ浦で、その先に木更津があり、そのまた先に君津があるから、市原と君津は「となりまち」ではないと思っている人も多いのではないでしょうか。
[80971] 2012年 6月 17日(日)01:42:41千本桜 さん
♪安芸灘の風
安芸灘とびしま海道のイメージソング♪「安芸灘の風」を聴きながら空想旅行をしています。還暦を過ぎたシンガーソングライター・レーモンド松屋が、エレキギターを弾きながら唄うロック調の歌謡曲である。歌詞には関前、観音崎、とまちせと、御手洗、大長港、下蒲刈、恋ヶ浜、十文字山の地名が織り込まれていますが、東北地方に住む私には馴染みの薄いものばかりです。以前から名称と場所を知っていたのは関前と下蒲刈だけ。御手洗と大長は何かで見覚えのある地名でしたが、場所を探すのに少し手間取りました。なお、安芸灘に浮ぶ島々の中に観音崎、とまちせと、恋ヶ浜、十文字山なる場所があるのは全く知りませんでした。どんな所だろう、ちょっと調べてみよう。という訳で、5万分の1地形図を引っぱり出して空想旅行に出発です。

1番の歌詞。歌い出しは「青くやわらかなこの海は島々つつむゆり籠」。とびしま海道のイメージソングにぴったりな良い歌詞だと思います。そして「関前の空~」、「観音崎からあなたを見送る~」と続きます。どうやら舞台は岡村島のようです。しかし、「とまちせとで その日が来るのを待ってた~」の歌詞に、はたと困りました。地形図に「とまちせと」の表記がない。「とまちせと」とは何ぞや。分からないのは後で調べるとして先に進むことにする。

2番の歌詞。舞台は岡村島から大崎下島に移りました。「御手洗の古い町並み歩いた~」、「大長港みかん船~」、「きっと来るあなたは来る安芸灘の風に乗って~」。どうやら、この歌は東から西へ向かって進んでいるようです。最後は本州島の川尻か仁方に辿り着くのでしょうか。

3番の歌詞。「下蒲刈のあかりの館訪ねた~」。あれれ・・・、豊島と上蒲刈島を飛び越えて一気に下蒲刈島まで行っちゃいました。飛び過ぎですよね。豊島と上蒲刈島を素通りしてはまずいと思ったか、レーモンド松屋氏はくるりと方向転換して東へ逆戻り。上蒲刈島へ戻って「恋ヶ浜の海まぶしく~」、豊島へ戻って「十文字山で遥かに見つめる~」、「きっと来るあなたは来る安芸灘の風に乗って~」と唄いあげます。

地理的に見れば♪「安芸灘の風」は順路が変だと思う。しかし、レーモンド松屋氏の優れた音楽性がそれを吹き飛ばしてしまう。それに、私の周りにいるカラオケ好きのオジさんたちは、関前がどこにあり下蒲刈がどこにあるかなど一向に気にしない。たぶん「とまちせと」が何であるかも気にしないだろう。「とまちせと」の正体を追って、マピオンを拡大してみました。すると、ありました。岡村島の西端に戸町鼻というのが・・・。この戸町鼻と中ノ島の間の水域が戸町瀬戸なのだろう。では、なぜレーモンド松屋氏は「戸町瀬戸」と書かずに、ひらがなで「とまちせと」と書くのだろう。ここから先は全くの推測ですが、戸町瀬戸を単なる地名に終わらせたくなかった。「とまちせと」と表すことで膨らみを持たせたかった。レーモンド松屋氏は「とまちせと」と唄う時、きっと頭の中では「ひとまちせと」と唄っているのではないだろうか。そうあって欲しいと願いながら♪「安芸灘の風」を唄ってみよう。「あれからずっと ひとまちせとで その日が来るのを待ってた あなたは来る きっと来る いくつもの橋を渡って~」。すばらしいイメージソングだと思います。被災した三陸の海辺にも、こんな力強く期待に満ちたイメージソングが作られ、観光キャンペーンが展開される日が来ることを願っています。
[80942] 2012年 6月 7日(木)20:07:53千本桜 さん
DID上位150都市、赫下バス停、和歌山市街図の「○○地区」
[80928] YTさん
その昔某所でこういう試算をしたことがありますけど、今ならもっと楽ですね。
http://mimizun.com/log/2ch/geo/1078037542/104-180
力作ですね。大変だったでしょう。私も40年ほど前、似たようなことをしました。当時、すでに世の中には電卓が普及していましたが、電卓を使う習慣がなかったので「そろばん」で計算しました。作業中何度も「俺はいつまでもこんな無益なことをやっていて良いのか」と思いましたが、いまとなっては「それで良かったのだ」と自分に言い聞かせています。DIDデータを加工し、独自のデータを作り出すのは楽しいですね。でも、私が本当に欲しいのは、市町村の境界線に拘束されずに集計された昼間人口集中地区昼間人口です。しかし、その基礎データがないですね。メッシュ統計に進めば良いのでしょうが、高額すぎて手がでません。

[80937] hmtさん
現地レポ はバス停ですが、片方は別の字と間違えられています。
面白い現地レポ、ありがとうございました。「はけ」に「赫」を用いるなんて大胆ですね。思わず顔がニヤケてしまいました。地元住民はバス会社に訂正を要求しないのでしょうか。そもそも「赫」という字は滅多に見かけないから、地元の人も何がなんだか分からないまま見ぬふりなんでしょうか。私も「赫」という字は、東千代之介夫人で女優の千之 赫子(ちのかくこ)さんの名前を介して知るのみです。千之 赫子さんは他界して久しいのですが、赫子(はけこ)なんてイヤよ、赫子(かくこ)と呼んでと苦笑いしていることでしょう。

[80940] レインメイカーさん
昭文社の県別マップル和歌山県版や関西版で、和歌山市の地図を見てみると、「○○地区」というのが表記されていました。
この件については全然詳しくありませんが、つい反応して昭文社の地図を見てしまいました。確認したのは、2008年発行「県別マップル和歌山県道路地図」の15,000分の1和歌山市街のページと、昭和61年発行「25,000分の1和歌山市広域図」の2種類です。レインメイカーさんが書いておられるとおり、どちらの地図にも「○○地区」の文字が表記されていました。ところが、双方ともに今福高松和歌浦田野の4地区名を表記していません。最初は表記漏れのミスかと思いましたが、どうやら、やむをえず意図的に表記しなかった可能性が高いようです。あの辺りは文字情報や線情報が込み入っている区域なので、編集者は地区名を挿入するスペースがないと判断したものと推察します。でも、25,000分の1には無理としても、15,000分の1には工夫をすれば「○○地区」の文字を表記できそうな気がしました。レインメイカーさんの質問に対する回答になっていなくてごめんなさい。
[80934] 2012年 6月 4日(月)02:59:26千本桜 さん
なぜか小都市のDIDに熱くなる
[80922] 白桃さん
古座中学校は隣の古座川町にあり、この辺りなかなかややこしいです。
しかも、古座町に国保古座川病院があったりするからややこしくて、やや♪夜霧のハウスマヌカン。

古座が主体とばかり思っていたのですが、「実権」は西向が握っていたのでしょうか。
wikipediaの古座駅の頁に次のような記述があります。
この駅は西向のうちの岩淵(後述)に立地している。西向は串本町と合併する前に存在していた古座町の中心部で、駅周辺には串本町役場古座分庁舎(旧古座町役場)をはじめとする各施設もある。なお、古座町の中心部が大字古座でないのは、「古座」という町名が、1956年3月にその前からあった古座町と西向町および田原村が合併し古座町が誕生した際、古座川などの影響で知名度の最も高かった古座から採ったに過ぎないからである。
上記から伝わってくるのは、新たに誕生した古座町の中心部は旧西向町であり、旧古座町ではないということです。でも、これを鵜呑みにして良いのかと少々疑問を感じます。古座町、西向町、田原村が合併して新たな古座町が誕生したのは、今から56年前の1956年。そして、第1回のDID調査が1960年です。その当時から新しい古座町の中心は旧西向町だったのだろうか?。旧古座町が中心だったとは考えられないだろうか?。そんな思いが行ったり来たりしています。旧西向町と旧古座町の現況比較を下に記します。
1・ネットに公表されている路線価の最高地点は、平成21、22、23年分いずれも旧西向町ではなく旧古座町に位置します。変化の少ない地域ですから、平成21年以前も今と変わらず最高額の路線は旧古座町にあったと推測します。
2・現況において古座町には銀行が2行あります。しかし旧西向町には立地せず、2行とも旧古座町に立地しています。もし、56年も前から旧西向町の都市勢力が旧古座町を上回っていたのなら、銀行は旧西向町に移転していたでしょう。それなのに、今も旧古座町に店舗を構えているのを見ると、旧古座町の底力を感じます。
3・旧西向町と旧古座町の人口については、[80922]で白桃さんが1955年の数値、[80925] でIssieさんが1920年と1940年の数値を書いておられます。現況の人口を知りたいのですが、資料がないので小学校児童数を基に現人口に思いを巡らすことにします。2011年度の小学校児童数は西向小75人、古座小57人、田原小23人で、古座川右岸(旧西向町)が75に対し、左岸(旧古座町+旧田原村)が80になります。さらに、左岸の旧古座町には古座川町高池の町並みが連担していますから、それを旧古座町グループに取込むと左岸の数値はもっと大きくなります。
そんなこんなを考えると、右岸の旧西向町を都市「古座」の中心とするのは少し変かなと思えてきます。たぶん、右岸と左岸の市街地は拮抗しているのでしょうが、もし、都市「古座」の中心を探し当て、そこに杭を打てと言われたら、私は左岸の旧古座町大字中湊の紀陽銀行古座支店前の十字路に打ち込みたい。

[80925] Issieさん
合併前の旧3町村のうちで一番西の西向に役場が置かれたのも駅のもたらす町勢の差が反映しているようにも思うのですが,実際はどうなのか。
私も実際はどうなのか分かりませんが、本当は駅も役場も左岸の旧古座町に置きたかった。でも、地形的に敷地確保が無理だった。そんなわけで、農地が広がる右岸の旧西向町に建設されることになった。地形図を見ていると、そんな感じが涌いてきます。古座町役場(現:串本町役場古座分庁舎)がいつ現在地に建てられたのか知りませんが、以前は古座橋のたもと付近にあったようです。昭和57年発行の5万分の1には、そう描かれています。

[80928] YT さん
『昭和35年国勢調査の人口集中地区の中には,5,000人に満たないものもあるが,これは,人口集中地区の設定に当たって,昭和35年国勢調査人口ではなく,昭和34年10月1日現在の調査区設定時の推定人口を用いたためである。』
例えば山梨県韮崎市のDID人口は昭和35年に4,070人、昭和40年に3,479人となっています。5,000人以上という規定を大きく下回っています。しかも、35年、40年の2回とも下回っているのは、やっぱり変ですね。昭和40年の調査で規定人口を大きく下回っているDIDとして、山梨県韮崎市3,479人、佐賀県厳木町3,565人、群馬県安中市4,401人、徳島県鴨島町4,490人、富山県福野町4,555人、北海道歌志内市4,593人などがありますが、これもやはり,『人口集中地区の設定に当たって,昭和40年国勢調査人口ではなく,昭和39年10月1日現在の調査区設定時の推定人口を用いたためである。』となるのでしょうか?。
[80895] 2012年 5月 25日(金)20:10:31千本桜 さん
Re:鶯沢町の1960年のDID
[80553] 白桃さん
ポンヌフの野洲酒場で飲んでいたら
その酒場は、ちょっと疲れた男たちが飲みにくる、こんな感じの店でしょうか。野洲酒場であれ、ポンヌフやタイガーゲートのような華やかにネオン輝く都会で飲めるのは羨ましいかぎりです。私なんぞ、友人たちに誘われて村田町まで飲みに行ったのですが、店の隣は草が繁る農業用水堀と田んぼでした。さびしかった-。

[80846] 白桃さん
鶯沢のDIDは意外でした。でも、ここには細倉鉱山があったのですね。
初めて鶯沢町の細倉鉱山へ行ったのは昭和42年か43年のことでした。鉱山事業所の周りにはDID人口5,000人ほどの町並みが展開し、映画館もあったように記憶しています。ここは江戸期からずっと鶯沢村(昭和26年に町制)の一角でしたから、この町並みを鶯沢と呼んでも間違いではないのでしょうが、一般には細倉と呼ばれています。この細倉の町並みは南郷という大字に属し、細倉という名の大字はありません。大字の南郷は幾つかの小字に分かれますが、細倉という名の小字もありません。また、町は地籍とは別に、行政区という地域区分を設けていますが、細倉という名の行政区はありません。したがって、細倉という地名は旧村名、大字名、小字名、行政区名のいずれにも該当しない俗称になりますが、地元の人はどのように地名を使い分けているのか気になります。
細倉ってどんな町?と聞かれると答に困る(記憶が薄れてしまった)のですが、当時、宮城県北でDIDを形成していた若柳、佐沼、涌谷などとは明らかに異なる雰囲気でした。平坦地の少ない地形に形成された町ですから、どこか雑然としていました。中心性、拠点性のない町ですから、どこか沈んでいるように感じました。当時、細倉はDIDを形成しない栗駒町岩ヶ崎の都市機能に依存していました。DIDを形成した町が、DIDを形成しない町の都市機能に依存するって何か変だなと思ったものですが、最近はどうでも良くなってきました。

炭鉱も含め鉱業で成り立っていた地といえば、岡山県の柵原と吹屋しか知りません。
私は柵原も吹屋も行ったことがありません。ただ、この前、テレビに吹屋が映っているのを、ちらっと見ました。鉱業で成り立っていた町は、普通なら閉山するとぼろぼろの廃虚になるじゃないですか。それなのに、吹屋には裕福そうで立派な町並みが残っていますね。不思議に思いました。
柵原の全盛期はどんな町だったのでしょうね。手もとには昭和62年発行の5万分の1地形図しかないので、それを基に柵原鉱山全盛期の昭和30年当時を想像するしかありません。全盛期の鉱山従業者数から推測すると、柵原には細倉と同規模の町並みが展開していたと思われます。しかし、平地が少ないですね。どんなふうに家屋が張り付いていたのでしょう。近世村(後に柵原町の大字)の柵原、吉ヶ原、藤原、久木4地区に跨がって、その平地を埋めるように家屋が立ち並んでいたのでしょうか。でも、4地区とも結構急斜面の山と吉井川で分断されていますね。町の「へそ」を形成しにくい地形のようですが、実際どこなんですか?柵原の中心って。どうも、柵原ではなさそうです。吉ヶ原、藤原、久木のいずれかだと思うのですが・・・。答は「へそ」のない町だったりして。
[80418] 2012年 3月 21日(水)21:28:19千本桜 さん
村が単独で町制移行する際に改称した自治体
[80336] YTさんの記述に
好地村内石鳥谷
というのが出てきます。YTさんが話題にしている事柄とは関係がないのですが、常々関心をいだいていることを「好地村内石鳥谷」に絡めて書きます。

石鳥谷は好地村の内に形成された町場(宿駅)の名称ですが、後に好地に代わって自治体名にのしあがります。昭和3年、好地村は単独で町制を敷き、石鳥谷町に改称しています。単独で町制施行するのですから誰にも遠慮は要らず、そのまま好地町を名乗っても構わないと思うのですが、わざわざ石鳥谷町に改称したのはなぜでしょう。

花巻市には、この類がもう一ケ所あります。十二鏑村と土沢の関係です。土沢は十二鏑村の内に形成された町場(宿駅)ですが、後に十二鏑に代わって自治体名にのしあがります。昭和15年、十二鏑村は単独で町制を施行して土沢町に改称。単独で町制施行するのですから、そのまま十二鏑町を名乗っても構わないと思うのですが、あえて土沢町に改称したのはなぜでしょう。思うに当時すでに、地籍を持つ公称名「十二鏑」より、地籍を持たない通称名「土沢」の方が通りが良かったからではないかと推測します。

このような事例を見るにつけ、公称村名よりも通称町場名を自治体名に採択した例は多々あるものと考えます。下に、通称の町場名に由来して改称したと思われる自治体町を掲出します。数が多いので条件を付けて絞り込みます。

条件1:村が単独で町制施行する際に改称した自治体。(村が単独で町に移行するのに、あえて改称したのは何故だろうという単純な疑問から。)

条件2:明治の大合併が済んでからの明治、および大正年間に町制へ移行し改称した自治体。(明治・大正時代に町に成れたくらいだから、そこには町場形態の都市的集落が存在した可能性が高いと思うから。)

条件3:地籍上の村名になったことのない地名を町名に採択して町制へ移行し改称した自治体。(大原、韮崎、水窪、茶屋町、辻、浜、本渡、米ノ津は藩政時代にも公称村名になったことがない(はず)。村名でなければ、町場名の可能性があるから。)

改称年旧村名新町名現行自治体名
明治32中魚落村大原町千葉県いすみ市
明治25河原部村韮崎町山梨県韮崎市
大正14奥山村水窪町静岡県浜松市
明治29江島村茶屋町岡山県倉敷市
明治40井川村辻町徳島県三好市
大正7八本木村浜町佐賀県鹿島市
明治31町山口村本渡町熊本県天草市
大正12中出水村米ノ津町鹿児島県出水市

大原、韮崎、水窪、茶屋町、辻町、浜町、本渡、米ノ津は、その起源が宿場町であれ港町であれ在郷町であれ、都市集落だったと思うのですよ。好きな言葉じゃないけれど、近隣の村落を支配する力のある町場です。地籍のない通称だったけれど、重要な地名だと思います。中魚落、河原部、奥山、江島、井川、八本木、町山口、中出水など、地籍上の公称村名に取って代わる力があったのですから。
[80412] 2012年 3月 20日(火)00:55:51千本桜 さん
Re:東北で「し」と「す」は区別しないか?
[80406] 般若堂そんぴんさん
東北地方在住,あるいは東北地方出身の方に伺いたいのですが,「し」と「す」は,皆様の「脳内」で識別されている(いた)でしょうか?

私の同級生は、みんな識別していたと思います。でも、中には訛りの強い人もいました。たとえば、新田町は「すんでんまぢ」になります。しかし、その人とて新田町にルビをふる場合は「しんでんまち」と書いたはずですから、「し」と「す」は識別できていたと思うのです。

「し」と「す」と言えば、隣家のおばちゃん(大正末年ごろの生まれ。故人)を思い出します。

エピソード1
そのおばちゃんは庭で採取した蝦夷菊の種を袋に入れ、「あか」とか「むらさき」と書いて花色別に区分けしていました。その中に、「すもふり」と書かれた袋を見て、笑ってしまいました。おばちゃんは、霜降り模様の花が咲く蝦夷菊の種袋に、「すもふり」と書いていたのでした。

エピソード2
そのおばちゃんは夕飯の支度中に「ある調味料」を切らしたらしく、「すを少し分けて欲しい」と小皿を持って来ました。まだ新妻だった家内は、どうしてコップや茶わんでなく小皿なんだろうと不思議に思いながら、台所から「す」を持ち出して小皿に注ごうとすると、「す」でなく、「すお」が欲しいの・・・。なるほど、それで小皿を持って来たのか。今では懐かしい想い出です。

宮城県には栗原市の清水目(すずのめ)、大清水(おおすず)など、清水を「すず」と呼ぶ地名がありますね。南三陸町の清水浜や長清水も正式には「しずはま」「ながしず」ですが、地元の人は「すずはま」「ながすず」と呼び習わしているようです。
[80403] 2012年 3月 14日(水)23:24:55千本桜 さん
Re:「歳の差」と「都市の差」
[80399] 白桃さん
Aパターン、Bパターン、Cパターンいずれにおいても登別の評価が高すぎるように感じます。私としては稚内、滝川、網走より登別の方が下位のイメージがあります。
[80331] 2012年 2月 25日(土)12:28:24千本桜 さん
謎解きはランチのまえに
[80330] 白桃さん
謎解きはブレックファーストのまえで
花巻の謎解きは御正解のようです。私も黒沢尻の人口を絡めて全く同じことを考えておりました。町分と里分を併せると黒沢尻村の人口は7,965人。あの時代、黒ちゃんが花ちゃん、水ちゃん、一ちゃんより人口が多かったとは考えにくいから、これはおかしいと・・・。それにしても激しく火花を散らす花巻、黒沢尻(北上)、水沢(奥州)、一関の都市間競争は江戸時代から続いていたのでしょう。花ちゃんは名前から受ける印象は優しそうですが、なんのなんの戦士のような町だと私は思っています。花巻と里川口は明治22年の町村制施行でも合併しませんでした。これも底辺にあるのは花巻と里川口の都市間競争意識でしょう。
[80301] 2012年 2月 17日(金)23:47:41千本桜 さん
丸亀
88さん
[79657]で仙台区の川内追廻を冠称する町々(川内追廻西町、川内追廻山下町など)が軍用地になり、町が消滅したことを書きました。88さんは既にご存知かもしれませんが、これと同じことが香川県丸亀でも起きていたようですね。角川地名大辞典には丸亀の一番丁, 二番丁, 三番丁, 四番丁, 五番丁は明治7年に軍用地となって町が消滅したと書いてあります。当然、丸亀町成立時(明治23年)には一番丁~五番丁は存在しなかったはずですが、 市区町村変遷情報 市制町村制施行時の情報 【香川県】では、丸亀町を構成する町のリストに一番町, 二番町, 三番町, 四番町, 五番町の名を載せています。実際のところ、県令などの布令は一番丁(町)~五番丁(町)の消滅をどのように扱っているのでしょう。また、角川地名辞典では「丁」を用い、市区町村変遷情報では「町」を用いているのも気にかかりますが、丸亀あたりの人は「丁」と「町」の違いを気にしないのでしょうか。
[80290] 2012年 2月 14日(火)06:41:40千本桜 さん
仙台区の町の形
郡区町村編成法で仙台区が生まれました。仙台区を構成する町々は本当に“自治体”として機能していたのだろうか。もしかして名目だけの“自治体”ではなかったのか?などと、考えが行ったり来たりして迷っています。この考えは仙台区を構成する町の形からきています。文章より図形の方が伝えやすいので図化してみました。仙台区の町の形

【仙台区の町の形・1  大町、肴町、立町、国分町、南町編】
藩政期の町人町の一部を図化しました。町人町には序列があって、その筆頭は大町です。大町の町域は東西に長く延びています。それを突き抜けて南北に走るのが奥州街道です。奥州街道沿いには国分町や南町が展開しますが、大町と奥州街道の交点は大町の町域に含まれます。道路の交点がどの町に含まれるかに着眼し、郡区町村編成法時代の仙台区の町を考えたいと思います。図に描いた大町、肴町、立町、国分町、南町はどれも江戸期からの町人町です。こういう町を市廛というのでしょう。自治権が与えられていたそうです。黄色で着色した肴町を見てください。東西に走る肴町のメイン道路に対し、南北に走る道路が3本交差しています。交点はどれも肴町の町域に含まれ、肴町はほかの町によって分断されることはありません。立町も国分町も同様です。図形からは自治権を持った町としてのまとまりが感じられます。これらの町は郡区町村編成法により仙台区を構成する町になりました。仙台区を構成する町はそれぞれが自治体ですと言われれば、そうですねと納得できる町の形をしています。しかし、下の図に掲げる南町通、柳町通、北目町通、北二番丁、北三番丁などはどうでしょう。それそれが独立した自治体だと言われても、即座には納得できない形をしています。

【仙台区の町の形・2  南町、柳町、北目町、南町通、柳町通、北目町通編】
図の左手に奥州街道が鈎型になって走っています。街道に沿って淡黄色で着色した南町、淡青色で着色した柳町、淡赤色で着色した北目町が連なっています。南町、柳町、北目町とも江戸期からの町人町でした。図の中を東西に3本の「通り」が走っています。東から南町に向かう「通り」が南町通。柳町に向かう「通り」が柳町通。北目町に向かう「通り」が北目町通です。いずれも「通り」の名称ですが、同時に「町」の名称でもあります。南町通の町域を濃黄色、柳町通の町域を濃青色、北目町通の町域を濃赤色で着色しました。3町とも形が変でしょう。例えば、南町通という「通り」は途中で東五番丁、東四番丁、東三番丁、東二番丁、東一番丁と交差しながら南町に向かいますが、交差部分は南町通という「町」ではなく、東五番丁や東一番丁という「町」になります。したがって、南町通という「町」は東西2つに分断されます。このように分断された南町通という「町」は、一体となって1つの“自治体”を運営できたのだろうか。はなはだ疑問です。柳町通という「町」、北目町通という「町」についても同じことがいえます。

【仙台区の町の形・3  北一番丁、北二番丁、北三番丁、北四番丁】
赤色で着色した北三番丁の町域に注目します。元来、北三番丁とは東端の宮町から西端の土橋通に至る「通り」の名称で、延長は約2,500mにおよびます。この「通り」に面した土地が北三番丁と呼ばれる「町」にあたりますが、形が変ですね。南北に延びる14本の「通り」によってバラバラに分断され、まとまりがありません。例えば、北三番丁という「通り」と堤通という「通り」の交点は堤通という「町」に含まれ、北三番丁という「町」には含まれません。同じように奥州街道との交点は二日町という「町」になり、木町通との交点は木町通という「町」になります。このように分断されてまとまりをなくした北三番丁という「町」は、一体となって一個の“自治体”を運営できたのだろうか。ここに描き出した変な町は全体の一部です。仙台には変だなと思える町がほかにも数多くあります。仙台と同じように城下町の歴史を持ち、郡区町村編成法で区制を敷いた名古屋区・金沢区・広島区・和歌山区・福岡区・熊本区・岡山区には、これに類似した変な町はございませんか?
[80283] 2012年 2月 12日(日)20:47:34千本桜 さん
門前
[80271] 88 さん
「輪島市門前町」の件
私には88さんの主張が基本的には理解できます。自治体+大字+地番、あるいは自治体+大字+小字+地番で住所は成り立ちますからね。普通なら市制町村制以降にできた門前町を住所に残さなくても良いわけです。住所に市町村合併の履歴を背負わせて、長い住所にするのはいかがなものかと思うからです。でも、門前は普通でない要素を含んでいるみたいです。
マピオンで門前の地図を一瞥して、うむむむ・・・と思いました。この複雑な大字界の陰に何か隠れているぞという感じ。地籍上の走出、鬼屋、門前、清水などに跨がって形成された町並みには、地籍名とは別に、生活空間としての町場名があるはず。その町場は「門前」と呼ばれていたのではないだろうかと推測します。たぶん、走出や清水という地籍の村の住民は、江戸期の頃より「門前」という町場の住民感覚で暮らしていたのではないか。消せないほどに「門前」という地名が染付いているのではないかと思うのです。走出、鬼屋、門前、清水などをひっくるめて「門前」と呼ぶのはデッチあげではなく、それらの地籍に跨がって形成された一塊の町場を呼びあらわす必然性から生まれたものではないかと私は推測します。近世村名「門前」と町場名「門前」が共存し、町場名「門前」には走出村や清水村の土地も含まれていたことが複雑さの原因かと考えました。間違っていたらごめんね。
[80282] 2012年 2月 12日(日)10:30:14千本桜 さん
いろいろ
[80222] 白桃さん
かつて造船業が盛んで1975年に人口ピークを迎えた瀬戸内海に面する市はどこでしょうか?
相生市のほかに旧因島市も造船業が盛んでしたね。因島市の場合は1970年に人口ピークを迎えたようですが、いずれにしても1970年代の初めごろが造船業都市の最盛期だったのでしょう。このように産業別に人口ピークを打ち出してもらうと勉強になります。続けて別種の産業で同じことを打ち出してもらえたらありがたいのですが、お願いできますか。たとえば繊維産業都市の人口ピークとか・・・。でも繊維産業は難しいかな?。絹織物とか、化学繊維とか、ニットとかに細分されて、それぞれのピークが異なるかもしれないし。遠洋漁業とか炭坑業とか、どんな産業でもいいです。白桃さんにお任せいたします。

[80237] 白桃さん
宮城県より2012年1月1日現在の推計人口が公表され
震災後は人口に触れることが怖くなってしまった私です。大河原町の人口が増えても、なんだか気持ちが重いのです。でも元来、人口統計が好きだから今朝は少し人口に触れてみます。平成22年の国勢調査結果を見ると、東北地方の県庁所在都市は仙台市を除いて全て人口が減少。郡山市や北上市のように元気だった都市も人口減少に突入して寂しい限りです。東北地方の広域市町村圏の中心都市に値する都市(ここでは、税務署、裁判所が所在する都市)の中で、人口が増えたのは仙台市、旧古川市(現・大崎市)と大河原町だけのようです。大河原町では町長も町の人口増加と中心地性の高まりを誇りにしているようです。私もそのことに同調なのですが、人知れず密かに怖れていることがあります。それは大河原駅の奇異に思えるほどの乗車客減少です。人口減少で乗車客も減っている白石駅よりも減少幅が大きいのです。10年前は明らかに乗車客が少なかった船岡駅と肩を並べるまでに落ち込んでいます。それまで大河原駅の勢圏内にあった村田蔵王から仙台行きの高速バスが出るようになり、大河原駅の中継機能が不要になったことが原因かと推測します。都市戦略上で見落とすことのできない重要なことだと思うのですが、のほほんスーパータウンでは、「都市戦略」などと口にすると笑われるのであります。下に2000年~2010年の乗車客数と10年間の減少数、減少率を掲げます。
駅名2000年2002年2004年2006年2008年2010年減少数減少率
白石3,590人3,324人3,317人3,104人3,030人2,897人693人19.3%
大河原4,052人3,856人3,786人3,574人3,435人3,218人834人20.6%
船岡3,234人3,224人3,193人3,170人3,128人3,125人109人3.0%
槻木3,478人3,310人3,224人3,148人3,039人2,826人652人18.7%


[80256] 白桃さん
私が見たYou Tubeのバック画像は仙南の古都?、白石ではなく、秋田県仙北市角館のように思われるのですが・・・。
♪「恋して仙南」がYou Tubeで聴けるとは知りませんでした。早速、You Tubeで聴いてみました。一番は丸まる船岡のことを歌い、大河原に関しては♪「香るハーブの大河原」だけで軽く流す。このアンバランスな作詞感覚に喝!ですね(笑)。私も瞬間的にバック画像は仙南の古都・白石かな?と思いましたが、結局、どこなのか特定できませんでした。
青森県人口第3位の市以外に思いつきません
正解です。弘前市です。弘前は私の好きな都市でして、弘前の街路形状をベースに、あれこれ手を加えては勝手に都市計画し、架空都市を描いて楽しんでいます。また、弘前はリトルさんの奥様の出身地でもありますね。

[80266] 白桃さん
今日で一つ歳をとってしまうのでしたね
還暦おめでとうございます。後は喜寿に向って邁進するのみ!。ガンバレ白桃さん!。
今はなき玉島市(1952.1.1)で、その次は、1952.4.1の大船渡、茂原、魚津、中津川、西脇、笠岡、柳川、阿久根です。以上の8市に加え、安城、氷見、益田が本年「還暦」を迎える市になります。
こうして同期生を並べると、阿久根だけが浮いて(実は沈んで)見えるのは私だけでしょうか。人口ではなく、都市機能集積の点から見て、1952年当時に少々背伸びして市制を敷いたように感じられます。
[80253] 2012年 2月 5日(日)19:29:16千本桜 さん
歌謡地理考
スーパータウンのスナックで還暦すぎのオジ様とオバ様が好んでデュエットするのが♪「恋して仙南」。地域限定のロングヒット曲です。歌い出しの♪「チュッチュチュッ チュ…」が少し嫌らしいけど、白石、角田、村田、遠刈田温泉など仙南各地の地名が盛り込まれていて楽しい。仙南というからには、代表都市・白石で始まり、中心都市・大河原で締めくくりたいのだが、この歌は船岡で始まり七ヶ宿で終わるのである。1番は船岡公園でデートした想い出を歌い、2番は「夢を飛ばそか宇宙のはてへ ロケット眺めて角田から」、「夏は阿武隈舟下り 商家名残りの斎理屋敷は丸森町よ」と続く。仙南地域のことを知らないと、「ロケット眺めて角田から」と言われても何のことやら意味不明でしょうね。ローカルソングの面白いところです。スーパータウンのママの作詞だから、けなすつもりはありませんが、1つだけ注文つけさせてもらえるなら、「丸森町よ」の「町」をどうにかして欲しい。流行歌に登場する地名は数々あれど、その地名に「市」や「町」をくっつけてしまうと、とたんに興醒め。事務的になって、心の機微を表せなくなるようだ。「そして神戸」は良いけれど、「そして神戸市」はなじめない。「東京だョおっ母さん」は良いけれど、「東京都だョおっ母さん」はなじめない。

なぜか、隠れた名曲が好き。さほどヒットしないで終わってしまった歌への愛惜か。いま、はまっているのが美樹克彦♪「回転禁止の青春さ」と佐々木新一♪「リンゴの花が咲いていた」。「回転禁止の青春さ」は、回転禁止と言われても、つい回転したくなるノリの良さ。体がひとりでに動き出すが、テンポもリズムもズレズレになっているのは明らか。歌い終わった後で恥ずかしくなる。昭和41年発売の「リンゴの花が咲いていた」は、これぞ青春叙情歌の名曲。すばらしい!。この歌には具体的な都市名は出てきませんが、ある都市をイメージさせる詞が出てきます。そこでクイズです。次の歌詞から連想する都市をお答え下さい。
お城が空に 浮いていたよ お岩木山は 月だったよ
(中略)
津軽は夢の 津軽は夢の 国だったよ
[79929] 2012年 1月 4日(水)08:07:30千本桜 さん
長久手町から長久手市へ
あけましておめでとうございます。

[79915] オーナー グリグリさん
大字や字の表記をなくした瞬間に、もはや大字であるか字であるかなどは、必要性も意味もなくなると考えるのが妥当なのでしょうか。

同じ小字起番地帯である東北地方の某町の事例からして、一般住民は、もともと大字と小字を区別することに必要性も意味も感じていないのが実状です。基本的に住所に無関心です。しかし、住所政策に携わる人は「必要性」はともかく、大字と小字の「意味」を忘れてはならないはずです。それなのに、「意味」を忘れた(あるいは、最初から意味を知らない)人たちが住所政策に携わっているから、こわいのです。
ついさっきグリグリさんの記事を拝読したばかりなので、長久手町に対する事前知識はあまり持ち合わせていませんが、即席で長久手町の住所変更の背景にあるものを推測してみました。

(ア) 大字長湫 ・・・「長湫」を表記しなくなります。
大字長湫を表記しなくなる理由を探ります。長久手町には、町村制以前の村を引き継いでだ大字長湫、大字岩作、大字前熊、大字熊張の4大字があります。このうち大字長湫の区域は、土地区画整理が進み、字名地番の変更が行われ、大字長湫を付さない字(例えば字荒田、字井堀、字杁ヶ池など)が多数出現しています。それまで長久手町大字長湫字荒田を名乗っていた土地が区画整理されて都市化すると、大字長湫を付さずに長久手町字荒田になるわけです。このような住所政策を施すと住民にどのような感情が芽生えるかが重要です。同じ字荒田の住民でも土地区画整理から外れた土地の住民は、従来通り長久手町大字長湫字荒田と書かなければなりません。なぜ我々だけが大字長湫を付して面倒な住所を書かなければならないのか、と疑問をいだくようになります。そして、大字長湫を付す土地は都市化から取り残された土地という疎外感をいだくようになります。東北地方の某町では、このことが一因となって、とんでもない住所変更が企てられましたが未遂に終わっています。いずれにしても、大字長湫を付す土地と付さない土地とが隣接する複雑さを解消するために、大字長湫の区域から「長湫」の名称を取り払うことにしたのだと推測します。

(イ) 大字岩作 ・・・「岩作」と字名を併記します。
大字岩作の区域に従前どおり「岩作」を付す理由を探ります。長湫地区と異なり、岩作地区は地域変化が少なく、すべての小字が昔どおり岩作という大字名を付してきましたから、あえて岩作を消す必要がなかったものと推測します。地域変化が少ないとはいうものの、岩作地区でも土地区画整理が行われています。しかし、対処のしかたが長湫地区とは異なっています。長湫地区では土地区画整理が行われると大字長湫を省いてしまいますが、岩作地区では土地区画整理後も大字岩作を省きません。この大字岩作字落合・大字岩作字長筬・大字岩作字西島)の一部は、岩作第一土地区画整理事業で新しい形状の土地になったのに、住所は大字岩作字落合・大字岩作字長筬・大字岩作字西島のままです。

(ウ) 大字前熊 ・・・「前熊」 と字名を併記します。
大字前熊は、さらに地域変化の少ない地区です。大字長湫地区とは異なり、大字名を付さない字は発生していません。地区住民は、前熊という大字名を自分たちのものとして自然に受け入れていることでしょう。住所から前熊という名称を外してくれという人はいないと思います。前熊という名称を省いたら、ここはどこなんだと、戸惑うだけです。

(エ) 大字熊張 ・・・「熊張」を表記しなくなります。
大字熊張を表記しなくなる理由を探ります。長久手町の4大字のうち、長湫、岩作、前熊は江戸期の村(もっと以前から村だったかも知れない)を引き継いだものですが、熊張は明治10年(1877)に大草村と北熊村が合併して成立した村のようです。どうも、今でも大草北熊が地区名として根強く生きているようで、そのぶん熊張の影が薄いのではないかと推測します。それは、この町議のこれこれからも読み取れます。この町議は岩作、前熊、大草、北熊を住所地名として残すように頑張ったようですが、受け入れてもらえなかったようです。同情します。この町議は「行き先を尋ねる場合、岩作、前熊、大草、北熊のどこと聞かれれば、おおよその見当がつきますが、字名だけでは数が多く見当がつきません。実生活では目次の無い本、ファイルの無いデータのようです。」と書いています。まったく同感です。
それにしても空しくなるのは、長久手町は市に移行するにあたり、住民アンケートを行っていることです。住居表示実施で新町名を決めるのならいざしらず、大字をどうするかと住民に問いかけて何になるんですか。こんなことは、行政担当者が過去、現在、未来、町域全体、他市町村の実態などを見据えて決めれば良いことです。そのためには、それなりの勉強しなければなりませんが、お給料を貰っているのですから当然のことです。岩作の住民に「岩作」という地名を残すか、熊張の住民に「熊張」という地名を残すかと個別にアンケートをとっても、町全体のバランスを考えた答など返ってきません。一般住民に、これを求めるのは酷です。

(オ) 大字の付かない地区 ・・・変更ありません。
大字の付かない地区とは、もともとは大字長湫に属していた土地で、土地区画整理によって大字長湫を付さなくなった土地です。念のために書きますが、住居表示実施で大字長湫が省かれたわけではありません。地番区域のままです。一つの考えとして、この区域に再び「長湫」という大字名を付してやれば、問題なく長久手町から長久手市に移行できた可能性もありますが、いったん省いたものは元に戻さないのが役所のやりかたなんでしょうね。

このような大字問題を考えると、胸が痛みます。国は自治体の自主性にゆだね、自治体は住民主体などと体裁のいいことをいう。これでは国全体として見た場合、ちぐはぐな住所が続出するだけです。何度も言いますが、大字の扱いをどのようにするかを住民に決めさせるのは酷です。
[79788] 2011年 12月 29日(木)23:35:42千本桜 さん
ここはどこ?解答
問題3(半島名を答えてください)

解答3
[79784] 2011年 12月 29日(木)17:36:48千本桜 さん
ここはどこ?解答
問題1(島名を答えてください)

解答1

こんなふうに答えればよいのでしょうか。
[79736] 2011年 12月 14日(水)08:59:43千本桜 さん
地番と住居表示
地番を住所にしている区域は「1番地1」と表し、住居表示実施区域は「1番1号」と表すものと思っていました。でも、住居表示を実施しても「1番地1」と表す場合もあるのでしょうか?
と申しますのは、[79728]でグリグリさんがご紹介されている第8回落書き帳公式オフ会記録・ミニ十番勝負・問1の解説を読むと、日光、銚子、茂原、市原、流山、武蔵村山、藤沢、笠岡、日南各市の市役所住所が「1番地」「1番地1」または「1番地の1」になっているのに住居表示に○が付いています。変だなと思いました。ちなみに、wikipediaの流山市には
流山市では住居表示は行っていないが、土地区画整理事業に合わせて地番整理を行っている。
と書いてあり、藤沢市の住居表示実施区域を見ると、市役所がある藤沢駅北側が住居表示されていない区域になっています。確認したのは2市だけですが、このことから推測すると、ほかの市の市役所所在場所も住居表示されていない可能性があると思います。
[79658] 2011年 11月 21日(月)08:23:17千本桜 さん
仙台区から仙台市に移行する時点での町名・まとめ2
88さんへ。[79657] の続きです

[79282] でも書きましたが、もう一度、明治41年発行「仙台市史」を引用しながら仙台区の町について書きます。なお、仙台市史は町数を載せていないので、私が町名を追いながら計算しています。

【ステップ1】郡区町村編成法が発布された明治11年から始めます。仙台市史は次のように書いています。
明治11年7月22日布告第17号を以て郡区町村編成法を発布せられ、庁下を仙台区と称し、区長一員を置かる、是に於いて仙台は一の独立行政区となれり、此年11月区内を5部に分ち毎部町場持4人乃至6人を置き、部内を4分又は6分して布告布達等の事務を取扱はしむ、之を区行政の区画とする
と記述して、第1部(河原町など31町)、第2部(片平丁など74町)、第3部(南町など50町)、第4部(国分町など59町)、第5部(八幡町など39町)を挙げ、計253町を掲出しています。しかし、この町数は要注意です。延長の長い町は2つの部に分割され、双方の部に町名が載っているからです。つまり重複記載です。このような重複記載が25ありますから、253-25=228で実際は228町になります。

【ステップ2】次に、市史は明治14年に行われた区画変更の記述に進みます。
明治14年4月15日、仙台区と宮城郡南目、荒巻、小田原各村の内、地所交換、区は差引6町1反7畝15歩余を増せり、同年10月24日、1名称にして数町に亘る市街区分を左の如く定めらる
と記述して、140の町名を掲出し、各町を幾つかの丁目に細分しています。具体的には、国分町(1丁目より5丁目まで)、北二番丁(1丁目より14丁目まで)のように書いてあり、丁目の合計数は402になります。この丁目区分は、本当に明治14年に定められたのかは疑わしい。なぜなら、明治13年出版の宮城県仙台区全図に既に丁目が表示されているからです。この区分は、市制直前の町名解決に繋がらないようなので思いきって無視します。

【ステップ3】次に、市史は明治15、18、19年に行われた行政組織と区画更正の記述に進みます。その全文を引用します。
同15年10月行政区画を改めて、各町組合を設け組毎に組長1人を置き、18年4月1日之を更正して140組とし、同時に組長設置規則を改め、組長は満25歳以上にして組内に不動産を所有するものより選挙し、任期を3ヶ年として専ら組内の布告回達、納税注意、戸籍方並に篤行者、極貧者の取調を司り兼ねて共同の事件に関係せり、其筆紙墨料は1ヶ年1戸に付拾銭を徴せり、明治18年10月15日追廻組を中ノ町組に合併、19年2月13日更に改めて56組とし、翌月29日北七番丁(堤通東)を北二、三、四、五、六番丁東組に、北七、八、九番丁(通町東 堤通西)を通町組に変更せり、其名称及区画は左の如し
として、八幡町組(八幡町、坊主町ほか3町)、花京院通組(花京院通、空堀丁ほか6町)など56組207町の名称を掲出しています。207町の名称は下記のとおりです。207町を原文のまま書き出せれば良いのですが、誤字脱字があったり、複数の組に跨がる町については重複記載の調整が必要なことから、私が手を加えています。[79282] に記載した207町をもう一度掲載します
河原町, 新河原町, 新河原町東丁, 南石切町, 新弓ノ町, 八軒小路, 南染師町, 南鍛冶町, 南材木町, 穀町, 三百人町, 五十人町, 六十人町, 畳屋丁, 保春院前丁, 成田町, 表柴田町, 裏柴田町, 元茶畑, 椌木通, 木ノ下, 西新丁, 東新丁, 荒町, 連坊小路, 清水小路, 北目町, 上染師町, 田町, 南町, 柳町, 大町一丁目頭, 大町一丁目, 大町二丁目, 大町三丁目, 大町四丁目, 大町五丁目, 大町五丁目新丁, 新伝馬町, 名掛丁, 二十人町, 榴ヶ岡, 舟丁, 堰場, 石名坂, 弓ノ町, 土樋, 猿牽丁, 姉歯横丁, 石垣町, 米ヶ袋上丁, 米ヶ袋中丁, 米ヶ袋下丁, 米ヶ袋十二軒丁, 米ヶ袋広丁, 米ヶ袋鍛冶屋前丁, 七軒丁, 鉄砲横丁, 桜小路, 道場小路, 伊勢屋横丁, 六軒丁, 片平丁, 本荒町, 良覚院丁, 狐小路, 袋町, 中ノ町, 琵琶首丁, 琵琶首新丁, 花壇, 花壇川前丁, 霊屋下, 越路, 越路六軒丁, 越路路地町, 宮沢, 川内大橋通, 川内柳丁, 川内中ノ瀬町, 川内大工町, 川内川前丁, 川内明神横丁, 川内元支倉, 川内澱橋通, 川内元支倉通, 川内新横丁, 川内数寄屋丁, 川内亀岡町, 川内亀岡北裏丁, 川内三十人町, 川内山屋敷, 肴町, 立町, 立町新丁, 本柳町,元櫓丁, 定禅寺通櫓丁, 元鍛冶町, 常盤町, 北材木町, 本材木町, 跡付町, 木町末無, 立町通, 定禅寺通, 南町通, 南光院丁, 教楽院丁, 薬鑵小路, 裏五番丁, 柳町通, 北目町通, 新寺小路, 国分町, 二日町, 北鍛冶町, 通町, 北田町, 堤町, 支倉町, 木町通, 新坂通, 土橋通, 支倉通, 半子町, 伊勢堂下, 神子町, 北山町, 八幡町, 坊主町, 江戸町, 覚性院丁, 石切町, 中島丁, 切通, 十二軒丁, 北五十人町, 滝前丁, 角五郎丁, 角五郎新丁, 澱町, 勾当台通, 表小路, 外記丁, 堤通, 外記丁通, 同心町通, 中杉山通, 光禅寺通, 二本杉通, 杉山通, 元寺小路, 茂市ヶ坂, 掃部丁, 末無掃部丁, 大仏前, 同心町中丁, 元貞坂, 空堀丁, 新名懸丁, 新小路, 花京院通, 長丁, 長刀丁, 北六軒丁, 鉄砲町, 車町, 小田原山本丁, 小田原裏山本丁, 小田原車通, 小田原宮町東裏丁, 小田原東丁, 小田原袖振丁, 小田原遣水丁, 小田原長丁通, 小田原高松通, 小田原金剛院丁, 小田原広丁, 小田原大行院丁, 小田原牛小屋丁, 小田原清水沼通, 小田原弓ノ町, 小田原北一番丁通, 小田原北二番丁通, 小田原北三番丁通, 宮町, 東一番丁, 東二番丁, 東三番丁, 東四番丁, 東五番丁, 東六番丁, 東七番丁, 東八番丁, 東九番丁, 東十番丁, 北一番丁, 北二番丁, 北三番丁, 北四番丁, 北五番丁, 北六番丁, 北七番丁, 北八番丁, 北九番丁, 北十番丁

【ステップ4】次に、市史は明治22年3月に行われた区域変更の記述へ進みます。仙台区消滅直前の区域変更です。
而して区は22年3月31日更に区域を変更すること左の如し
と述べて、宮城郡荒巻村の一部(字山上清水, 字滝前, 字宮裏, 字上郡山, 字中丿沢)、宮城郡小田原村の一部(字小野田, 字杉山)、宮城郡南目村の一部(字柳沢, 字二軒茶屋)、宮城郡南小泉村の一部(字八軒小路, 字行人塚, 字五ツ谷, 字桃源院東, 字鍛冶屋敷, 字広瀬川橋下)、名取郡長町村の一部(字窪谷地の一部)を仙台区に編入。また、仙台区宮沢の一部を名取郡茂ヶ崎村に編入し、仙台区北六番丁の一部を宮城郡原町に編入したと記しています。

以上のことから、88さんが纏めておられる市区町村変遷情報に載せるべき仙台の町は、【ステップ3】で掲載した207町および【ステップ4】で掲載した周辺村との区画変更だと思いました。しかしその後、市史に町名書き漏れの疑念をいだき、各種資料を突き合わせてチェックしました。チェックの方法は[79312]に書いたとおりです。その結果、上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町が書き漏れとして浮上しました。
しかし、大聖寺裏門通(現在の青葉区本町二丁目錦町公園付近)で頭を抱えてしまいました。地籍があっても家屋が消滅して無人になっていた可能性が見え隠れするからです。大聖寺裏門通という地籍があったとする根拠は歴史的町名復活検討委員会の29ページ「旧城下の町名(住居表示実施直前の町名)一覧」と36ページ右側の地図に大聖寺裏門通の表記があるからです。また、明治22年当時は無人になっていたかも知れないという根拠は、36ページ右側の地図に線引きされた大聖寺裏門通の区域が非常に狭いことに加え、明治後期の地図には家屋のない更地ふうに描かれているからです。
大聖寺裏門通が無人か有人かで引っ掛かり、前進できないでおりましたが、これ以上考えるのは止めましょう。仙台区から仙台市に移行する時点で、上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町は存在していたと決着をつけます。そうしないと埒があきません。

上記を踏まえ、明治22年仙台区消滅直前の町数は、【ステップ3】に掲げた207町に上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町を加え、211町に訂正したいと思います。【ステップ3】に掲げた207町のうち、六軒丁を南六軒丁に修正し、宮沢と北六番丁に(微)を付し、新たに加える上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通は、それぞれ適宜な位置に挿入しました。はたして判断が正しいのか否か自信はありませんが、自分なりに出した結論に従い仙台211町5村を掲出しますので、市区町村変遷情報を下記のように修正してください。

河原町, 新河原町, 新河原町東丁, 南石切町, 新弓ノ町, 八軒小路, 南染師町, 南鍛冶町, 南材木町, 穀町, 三百人町, 五十人町, 六十人町, 畳屋丁, 保春院前丁, 成田町, 表柴田町, 裏柴田町, 元茶畑, 椌木通, 木ノ下, 西新丁, 東新丁, 荒町, 連坊小路, 清水小路, 北目町, 上染師町, 田町, 南町, 柳町, 大町一丁目頭, 大町一丁目, 大町二丁目, 大町三丁目, 大町四丁目, 大町五丁目, 大町五丁目新丁, 新伝馬町, 名掛丁, 二十人町, 榴ヶ岡, 舟丁, 堰場, 石名坂, 弓ノ町, 土樋, 猿牽丁, 姉歯横丁, 石垣町, 米ヶ袋上丁, 米ヶ袋中丁, 米ヶ袋下丁, 米ヶ袋十二軒丁, 米ヶ袋広丁, 米ヶ袋鍛冶屋前丁, 米ヶ袋中ノ坂, 米ヶ袋鹿子清水通, 七軒丁, 鉄砲横丁, 桜小路, 道場小路, 伊勢屋横丁, 南六軒丁, 片平丁, 本荒町, 良覚院丁, 狐小路, 袋町, 中ノ町, 琵琶首丁, 琵琶首新丁, 花壇, 花壇川前丁, 霊屋下, 越路, 越路六軒丁, 越路路地町, 宮沢(微), 川内大橋通, 川内柳丁, 川内中ノ瀬町, 川内大工町, 川内川前丁, 川内明神横丁, 川内元支倉, 川内澱橋通, 川内元支倉通, 川内新横丁, 川内数寄屋丁, 川内亀岡町, 川内亀岡北裏丁, 川内三十人町, 川内山屋敷, 肴町, 立町, 立町新丁, 本柳町,元櫓丁, 定禅寺通櫓丁, 元鍛冶町, 常盤町, 北材木町, 本材木町, 跡付町, 木町末無, 立町通, 定禅寺通, 南町通, 南光院丁, 教楽院丁, 薬鑵小路, 裏五番丁, 柳町通, 北目町通, 新寺小路, 国分町, 二日町, 北鍛冶町, 通町, 北田町, 堤町, 支倉町, 木町通, 新坂通, 土橋通, 支倉通, 半子町, 伊勢堂下, 神子町, 北山町, 八幡町, 坊主町, 江戸町, 覚性院丁, 石切町, 中島丁, 切通, 十二軒丁, 北五十人町, 滝前丁, 角五郎丁, 角五郎新丁, 澱町, 勾当台通, 表小路, 外記丁, 堤通, 外記丁通, 上杉山通, 同心町通, 中杉山通, 光禅寺通, 二本杉通, 杉山通, 元寺小路, 茂市ヶ坂, 掃部丁, 末無掃部丁, 大仏前, 同心町中丁, 元貞坂, 大聖寺裏門通, 空堀丁, 新名懸丁, 新小路, 花京院通, 長丁, 長刀丁, 北六軒丁, 鉄砲町, 車町, 小田原山本丁, 小田原裏山本丁, 小田原車通, 小田原宮町東裏丁, 小田原東丁, 小田原袖振丁, 小田原遣水丁, 小田原長丁通, 小田原高松通, 小田原金剛院丁, 小田原広丁, 小田原大行院丁, 小田原牛小屋丁, 小田原清水沼通, 小田原弓ノ町, 小田原北一番丁通, 小田原北二番丁通, 小田原北三番丁通, 宮町, 東一番丁, 東二番丁, 東三番丁, 東四番丁, 東五番丁, 東六番丁, 東七番丁, 東八番丁, 東九番丁, 東十番丁, 北一番丁, 北二番丁, 北三番丁, 北四番丁, 北五番丁, 北六番丁(微),, 北七番丁, 北八番丁, 北九番丁, 北十番丁, 宮城郡 荒巻村(微), 小田原村(微), 南目村(微), 南小泉村(微), 名取郡 長町村(微)
[79657] 2011年 11月 21日(月)08:13:39【2】千本桜 さん
仙台区から仙台市に移行する時点での町名・まとめ1
苦めのコーヒー飲みながら独り言。国土地理院地形図の集落名は地籍の字名・町名とは限りません。地籍があっても家屋がなければ字名を載せないし、家屋があれば地籍に関係なく通称地名でも載せています。内務省地理局は国土地理院の前身だから発想は似ていたかも知れない。内務省地理局編纂の郡区町村一覧、地方行政区画便覧が掲出した「仙台の町名」には、町名らしからぬ名称が多数混入しているようです。それを基に編纂したであろう新旧対照市町村一覧、幕末以降市町村名変遷系統図総覧もまた然り。ほかの都市については目を通していないので何とも言えませんが、「仙台の町名」を見ていると、郡区町村一覧、地方行政区画便覧、新旧対照市町村一覧、幕末以降市町村名変遷系統図総覧は、やはり要注意のようです。

88さんへ
[78879] [79092] [79249] [79282] [79289] [79312]のまとめです。仙台区から仙台市へ移行する際の町名確認は戸惑いの連続でした。資料によって記述がまちまちだからです。そんなこんなで時間が経ちましたが、私なりの結論を出さなくてはなりませんね。でも、ちょっと気が重いです。これまで見てきた資料10点・AからJまでを振り返ります。

A・【宮城県仙台区全図 復刻版 解説書】
平成17年に復刻出版された宮城県仙台区全図(明治13年 宮城県地理課編集)に関する解説書です。その一部分を引用します。
本図右上部に、「町数305、戸数12,151、人口55,170」と、当時の市勢を掲出している。この町数305には、村落の小字にあたる地区名称(例えば川内中ノ坂通、追廻山下丁、小田原袖振丁など)、及び地区内にある小道(例えば梅原前丁、石名坂横丁、八幡町三丁目横丁)なども加えられていて、県の布例等に記載されている数値とは大きな差がある。ちなみに、明治9年中の県の記録に残された町数は、次のとおりとなっている。
1・明治9年「陸前国仙台区各村町調書」町数280→県公文書館蔵
2・明治9年12月2日「県甲160号」町数137→県公文書館蔵
3・明治9年国史「内閣文庫59022号」町数137→県図書館蔵
なお、史料3に掲載されている「町名」のすべてを、本図発行以降の町名変遷の原点とみなし、原文のまま採録しておく。
と記述して、明治9年国史「内閣文庫59022号」の137町を列記しています。その町数と町名は、B・仙台の大小区変遷およびC・更正区画とまったく同じです。文献A・B・Cから分かることは、明治9年および明治11年3月に宮城県第三課地籍係が確認した町数は137町だったということです。ただし、この解説書に書いてある、明治9年「陸前国仙台区各村町調書」町数280という記述は誤りで、正しくは、発行年不明「陸前国仙台区各村町調書」町数254です。原本を見て町数を数えましたから間違いありません。

B・【1876(明治9)年 仙台の大小区変遷 宮城県史】
明治9年11月の町名が掲載されています。小六区に属するものが58町、小七区が35町、小八区が49町で計142町です。しかし、東一番丁、東二番丁、東三番丁、東四番丁、元寺小路の5町は、2つの小区に跨がっているため重複記載されています。この重複を差し引くと142-5=137になります。つまり、明治9年11月の町数は137ということです。


C・【1878(明治11)年  更正区画 宮城県第三課地籍係】
この文献は図書館に蔵書がないので、知人から複写版を拝借しました。原本は毛筆和綴本で、裏表紙には「明治十一年三月改正方記録係ニテ取調 改正セシヲ写而地籍方定備トス」と書いてありますが、なぜか表紙には「明治九年 更正區畫 第三課 地籍係」と書いてあります。この文献に書いてある町名は、B・仙台の大小区変遷の町名と全く同じです。つまり、明治11年3月の町数は137ということです。問題は、137町のまま仙台区へ移行したかどうかですが、仙台区発足時点(明治11年7月)の明確な町名記録がないので何ともいえません。ところが、下に掲げる資料D・E・Fでは305町に増え、資料G・Hでは297町となっています。1つずつ資料に目を通してみましょう。まず、D・明治13年 宮城県地理課編集 宮城県仙台区全図からです。

D・【1880(明治13)年9月14日出版 宮城県仙台区全図 宮城県地理課編集】
出版は明治13年ですが、調査はそれ以前で、明治11、12年ごろの仙台を描いていると推察します。この地図には、A・復刻版解説書で述べたように、「町数305、戸数12,151、人口55,170」と書いてあります。江戸期の絵図と違い、一定の図式に基づいて表示された実測図で、横丁や袋小路の小道も描かれ、その小道には名称(例えば角五郎川前丁ヨコ丁、北材木町一丁目末ナシなど)も付されています。これらの小道名も町名と見なしているので、町数は305に跳ね上がっています。E・郡区町村一覧と密接に連動しているようです。

E・【1881(明治14)年  郡区町村一覧 内務省地理局】
この文献はネット閲覧できます。明治12年12月調査に基づき305町を掲載しています。掲載してある町名は、D・宮城県仙台区全図の町名と一致します。ただし、Dはヨコ丁、末ナシ、サクラ小路などカタカナ表記も交えて自由奔放。対して、Eは「丁」と表記すべきもの(例えば北一番丁、片平丁など)も、「町」を用いて北一番町、片平町と表記しています。仙台の慣例を無視した誤記といえるでしょう。さらに、木町通を誤って本町通と表記しています。これらの誤記は、後に発行されるF・地方行政区画便覧に遺伝し、G・新旧対照市町村一覧とH・幕末以降市町村名変遷系統図総覧にも伝染していきます。余談ですが、郡区町村一覧は宮城県の最後に「伊達郡湯原村」という珍郡村名を掲出しています。誤記にしてはあまりに大胆。

F・【1887(明治20)年10月刊行 地方行政区画便覧 内務省地理局編纂】
この文献はネット閲覧できます。内容はE・郡区町村一覧の流れを汲んでいて、Eの誤記をそっくり誤記しています。さらに本荒町を木荒町、新寺小路を新小寺小路と誤記したほか、町名記入欄に記入漏れがあり、1マス空白になっています。この空白マスに記入すべき町名は北九番丁です。町数は305町でEと同数ですが、経年変化で町名が入れ替わっています。Eに記載された榴ヶ岡梅原前町、榴ヶ岡二十人町通、榴ヶ岡神明脇町は、榴ヶ岡という名称に1本化されて2町減。新たに有巴沢町一丁目、有巴沢町二丁目が加わって2町増。奇しくも差し引きゼロで、町数はEと同数の305になっています。ところで、当時の内務省地理局は、町の消滅や発生をどのように捉えていたのでしょうか。例えば、町が消滅するとは、地籍が消えることか、住民がいなくなることか?。どちらでしょう。

G・【1889(明治22)年11月15日 新旧対照市町村一覧 東京和泉橋警察署著】
この文献はネット閲覧できます。内容はF・地方行政区画便覧の流れを汲んでいて、Fの誤記をそっくり誤記しています。この文献に記載された町村数は297町4村(南小泉村ノ内、荒巻村ノ内、小田原村ノ内、南目村ノ内)です。Fの305町から1町増加し、9町減少して297町です。増加した1町は古城。減少した9町は川内追廻西町、川内追廻山下町、川内追廻川前町、川内追廻中町、川内追廻九軒町、川内追廻東町、川内追廻通、薬缶小路、大聖寺裏門通です。川内追廻を冠称する町々が消えたのは、この地が軍用地となり、かつての町並みが消滅したからです。それなのに、川内追廻川前町末無だけは新旧対照市町村一覧の中に残っています。川内追廻川前町が消えたのに、そこから枝分かれした袋小路の川内追廻川前町末無だけが存続するのは地理的に絶対無理です。記載ミスの可能性があります。また、薬缶小路、大聖寺裏門通については、本当に消滅したのか否か半信半疑です。

H・【1995(平成7)年8月発行 幕末以降市町村名変遷系統図総覧 太田孝 編著】
誤字を無視すれば、掲載された町名はG・新旧対照市町村一覧の町名と一致します。町村数も297町4村で同数です。この幕末以降市町村名変遷系統図総覧には以下の問題点があります。
1つ目。掲載された297町の中には、自治体町名にあらず、町の中を通る小道(横丁・袋小路)の名称が混在しています。例えば、東九番町一丁目横町、角五郎川前横町、北材木町末無、元材木町横町末無など、その他多数です。たとえこの横丁や袋小路に家屋が張り付いていたとしても、自治体を形成するほどの規模に達していたか疑問です。地図で北材木町末無を見てみましょう。はたして、この小道に戸数が何戸張り付くことができたでしょう。これらの小道が江戸期の市廛を起源とする明らかな自治体町(例えば大町、南町、国分町など)と同等に扱われていることが不思議です。これはE・F・G・Hに共通した問題点です。
2つ目。仙台は「丁」と「町」を使い分ける習わしがあります。「丁」を用いる例として、小田原山本丁、片平丁、東一番丁、北十番丁など、その他多数あります。しかし、E・郡区町村一覧はこの習わしに反して小田原山本町、片平町、東一番町、北十番町と書き表わし、画一的に「町」で統一しました。これは表記の「揺れ」や「おおらかさ」では済まないことで、明らかに誤記でしょう。これもまたE・F・G・Hに共通した問題点です。
3つ目。単純ミスによる誤字が散見されます。カッコ外が誤、カッコ内が正です。大町二丁目櫓町(大町二丁目横町)、川内裏下馬町(川内裏下馬通)、小田原振袖町(小田原袖振町)、新小寺小路(新寺小路)、外記通(外記町)、本町通(木町通)、立町新前通(立町新町通)。本来なら「丁」と「町」を使い分けるべきですが、原文のまま「町」で統一しました。

I・【作成年不明  陸前国仙台区各村町調書 宮城県地籍係】
毛筆和綴本の原本を宮城県公文書館で閲覧しました。調書には作成年が書いておらず、蔵書整理の上では明治9年の文献として扱われています。しかし、赤鉛筆で「明治9年村町調書は内容を見ると明治11年以降と思われる」と注意書きしてあります。また、この調書を原典とするJ・角川日本地名大辞典4宮城県 資料編 小字一覧は、調書の作成年を明治17、8年と推定しています。H・幕末以降市町村名変遷系統図総覧は297町を掲出していますが、この調書が掲出しているのは254町です。その差、43町。その差の主因は、この調書が横丁、末無の大部分(例えば竹屋横町、川内新横町末無、北目町末無など)を掲出していないからです。やはり、横丁、末無の多くは町名にあらず、小道の名称なのだという思いが深まります。

J・【角川日本地名大辞典4宮城県 資料編 小字一覧】
この小字一覧の原典は、I・陸前国仙台区各村町調書です。原典の町数は254ですが、小字一覧では1町少なく253です。薬缶小路という町名を書き漏らしているからです。さらに、河原町東裏町を河原町東新町、新坂通を新坂町と誤記しているほか、片平丁を片平町と表記するなど、「丁」を「町」と記した誤りが散見されます。日本地名大辞典4宮城県をお持ちの方は、どうぞチェックしてみてください。

以上、AからJまで10点の資料を挙げました。これを原典別に3グループに分類します。

グループ1:明治9年国史「内閣文庫59022号」または宮城県第三課地籍係更正区画を根拠とするもので、A・B・Cが該当します。掲出町数はいずれも137町です。

グループ2:宮城県地理課または内務省地理局を根拠とするもので、D・E・F・G・Hが該当します。掲出町数はD・E・Fが305町、G・Hが297町です。町数305と297の違いは経年変化で発生したものです。

グループ3:宮城県地籍係「陸前国仙台区各村町調書」を根拠とするもので、I・Jが該当します。掲出町数はIが254町、Jが253町です。Jが1町記載漏れしているので町数に違いが生じています。

ここまで書いても仙台市制直前の町名に結論が出せません。どの資料を信じて良いのやら、はっきり言って分かりません。やはり、頼りは仙台市史でしょうか。頁をあらため、仙台市史の記述に移ります。

書込訂正機能で、下から3行目、「D・Eが305町、F・G・Hが297町」を「D・E・Fが305町、G・Hが297町」に訂正しました。
書込訂正機能で、C・【1878(明治11)年  更正区画 宮城県第三課地籍係】の記述中、「仙台市発足時点(明治11年7月)」を「仙台区発足時点(明治11年7月)」に訂正しました。
[79591] 2011年 11月 2日(水)06:37:47千本桜 さん
漢字三文字の繁華街、東山温泉、メディアテーク
[79572] ペーロケ さん
なんとなく漢字三文字の繁華街ってカッコいいな?と。
大阪で漢字三文字の繁華街なら、心斎橋と道頓堀を思い出します。でも道頓堀は繁華街よりも盛場とか歓楽街の類いでしょうね。路上の空中をフグが泳いだりして、一年中お祭りをしている感じ。♪今夜も泣かせるネオン川・・・はるみちゃん。

[79575] 伊豆之国 さん
それから20数年を経て再び作並温泉に
私も先月、50年を経て再び会津の東山温泉に泊まってきました。平均年齢70ん歳の団体旅行で、みなさん、歩くのが大嫌い。観光スポットを見て歩く気持ちが薄れてしまった方々ばかりです。でも私には東山に着いたら立ち寄りたい場所がありました。それは、50年ほど前に修学旅行で泊まった小さな旅館です。宿泊ホテルを抜け出して、その小さな旅館を見つけたとき、思わず込み上げるものがありました。なんなの、この感情は。
東山温泉の現状ですが、宿泊したホテルには原発事故から避難してきた方々も身を寄せていて、避難児童はランドセルを背負ってホテルから登校し、腰の曲がった避難老人はホテル玄関で虚ろにデイサービスの車を待っています。この避難生活はいつまで続くのか、つらい現状を目の当たりにしました。

[79576] Issie さん [79582] N-H さん [79587] みかちゅう さん
六角橋
六角橋は初耳なので地図で確認してみました。地図を通して受けた印象は、昭和の匂いのするようなレトロ調。特にこの細い道。両側に小規模家屋がびっしり連なっていて、周囲の町並みとは明らかに異なる雰囲気。アーケード商店街のようですね。家族経営の商店や飲食店が並んでいて、白い割烹着姿のオバさんがサンダル履いて買物カゴぶらさげて歩いてもおかしくない感じ。ところで、横浜で漢字三文字の繁華街といえば中華街が浮かんできますが、これは論外ですかね?。ついでに、どうでもいい話ですが、真夏の真夜中、♪本牧メルヘンを口ずさみながら一人でドライブすると青春時代に戻った気がします。というわけで、横浜で好きな地名は本牧。

[79590] いろずー さん
若干離れたところには「メディアワーク」なる建物もあります。
メディアテークでしょう。ケヤキ並木が美しい定禅寺通に面したガラス張りのビルで、仙台市民図書館が入居しています。1階には、いろずー さんが喜びそうなオープンカフェがあってランチも食べられます。でも、私はこのカフェで昼食をとるとき、しゃれたメニューは要らないからカツ丼を置いてくれと、いつも思うのです。
[79312] 2011年 9月 6日(火)08:44:13千本桜 さん
市制直前の仙台区の町名
[79289]千本桜
[79282] で書き込んだ207町の名称は明治41年発行の仙台市史を見て書きました。しかし、市史に町名記載漏れの疑いを感じています。私は、仙台区廃止時に「上杉山通」という町名があったはずだ、あって当然だ、と思っているのですが、仙台区末期の町名リストに「上杉山通」がありません。なぜ「上杉山通」があって当然だと思うのか。

仙台の街は奥州街道に並行して勾当台通堤通外記丁通上杉山通同心町通中杉山通光禅寺通二本杉通杉山通などの街路が走っています。
以上の9街路名は同時に町名でもあります。この9町は仙台市史の中の町名リストすべて(明治11年、明治14年、明治22年市制直前、明治22年市制直後のリスト)に記載されており、陸前国仙台区各村町調書(明治17?18年頃のものと推定)にも載っています。ただ一つ、明治22年市制直前の町名リストに上杉山通が見あたらないことを除いては・・・。市制間近になって上杉山通だけが消滅し、市制直後に再び登場するのは不自然です。これは、仙台市史が市制直前の町名リストに上杉山通を書き忘れた可能性が非常に高いと推察します。ほかにも記載漏れがないか、市制直前と市制直後の町名リストを照合して確認します。

まず、市制直前の字・町数は旧市街の町が207町、周辺5村から編入した字が16字です。次に市制直後の町数ですが、仙台市史は下のように記述しています。
明治22年市制を仙台区に施行し、4月1日を以て仙台市と改称せり、(中略)区域内の字名称226即ち左の如し
市史は市制直後の字数を226と書いています。内訳は旧市街の町が210町、周辺5村から編入した字が16字になるものと思われますが、字・町名を点検すると228になりました。226とする市史の数と合いません。合わないのは、あやまって重複記載された町名が1つあるためですが、もう1つの原因は分かりません。仙台市史を編纂する際に数え間違えたかもしれません。記録とは、かくも危うきものなのです。ここでつまずいてはいられません。市制直前の町名リストに上杉山通が漏れているのではないか。ほかにも漏れている町があるのではないか。その問題解決に向かって進むことにします。

まず、町を3つに分類します。A:市制直前・直後双方のリストに記載された町。B:市制直前リストに記載があって、市制直後リストに記載がない町。C:市制直前リストに記載がなくて、市制直後リストに記載がある町。以上3種類です。ここで重要なのはCです。Cに属する町は上杉山通、米ヶ袋中ノ坂など14町です。Cに属する町を表形式で表します。表の凡例は次の通りです。
M11=明治11年の町名リスト。M14=明治14年の町名リスト。M17頃=陸前国仙台区各村町調書の町名リスト。市制直前=仙台区末期の町名リスト。市制直後=仙台市発足当時の町名リスト。以上、5つのリストを対象に、町名が記載してあれば○、なければ×を付します。

町名M11M14M17頃市制直前市制直後
上杉山通×
米ヶ袋中ノ坂×
米ヶ袋鹿子清水通×
大聖寺裏門通××
新河原町行人塚××××
越路瑞鳳寺門前丁××××
二十人町通××××
八幡町崖下××××
通町北裏××××
堤通東××××
堤町土手下××××
穴田下堤××××
北七番丁明神××××
北八番丁雨宮××××
上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町は市制直前の町名リストに記載されていませんが、市史編纂時に書き漏れした可能性が非常に高いと推察します。大聖寺裏門通が明治14年の町名リストに記載されないのは、当時、元寺小路周辺の小規模町(大仏前、同心町中丁、元貞坂、大聖寺裏門通など)が、一括して元寺小路の名に包含されていたからだと推測します。大仏前、同心町中丁、元貞坂は市制直前の町名リストで復活していますから、同時に大聖寺裏門通も復活していたはずです。記載がないのは書き漏れでしょう。新河原町行人塚~北八番丁雨宮の10町については、市制直前に公的な町として存在しなかったとみて良いはずです。

念のために、上記14町に関する角川地名大辞典の記述を読んでみました。14町は明治41年発行仙台市史に市制直後の町名として記載されています。それなのに地名大辞典は、北七番丁明神を昭和初期~45年の仙台市の町名、北八番丁雨宮を大正期~昭和45年の仙台市の町名と書いています。あくまでも勘ですが、この件に関しては地名大辞典の記述が正しいように感じます。昭和初期や大正期に成立した町が明治41年発行仙台市史に記載されているのは不思議でなりません。これ以上追求しても新たな資料を得ることはできないでしょうから諦めますが、一体、何が真実なのか。何を信じれば良いのか。たかが120年ほど前のことなのに、底なしの泥沼です。
上杉山通:江戸期~昭和45年の町名。
米ヶ袋中ノ坂:江戸期~昭和45年の町名。
米ヶ袋鹿子清水通:江戸期~昭和45年の町名。
大聖寺裏門通:江戸期~昭和45年の町名。
新河原町行人塚:⇒行人塚
越路瑞鳳寺門前丁:⇒霊屋下
二十人町通:明治22年~現在の仙台市の町名。
八幡町崖下:昭和21年以降~42年の町名。
通町北裏:明治期~昭和53年の町名。
堤通東:昭和初年~45年の仙台市の町名。
堤町土手下:江戸期~昭和53年の町名。
穴田下堤:昭和期の仙台市の町名。
北七番丁明神:昭和初期~45年の仙台市の町名。
北八番丁雨宮:大正期~昭和45年の仙台市の町名。

88さんへ
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等に記載すべき「仙台区の町名」に関する私的結論はまた後日書き込みます。
[79289] 2011年 8月 31日(水)06:34:38千本桜 さん
仙台
[79288] 88さん

[79282] で千本桜は次のように書きました。
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等ですが、この表組を普通に読めば、「明治22年(1889年) 3月31日に仙台区, 仙台区新河原町, 新弓ノ町,(以下省略)が合併して仙台区が新設された。」になります。表組作成にもう一工夫必要かなと思いました。
これに対し、[79288] で88さんから下記の返答をいただきました。
・ M22.2.9付け(宮城)県令第8号の107コマにより、M22.3.31付けで、仙台区、仙台区の中の207町、宮城郡荒巻村ほか計5村のそれぞれ一部が新設合併して郡区町村編制法下の「仙台区」となる(207町は自治体としては消滅)
・ M222.9付け(宮城)県令第10号によりM22.4.1付けで仙台区が法律「市制」による仙台市となる
ということでよいのですね?
それとも、M22.3.31付けでは仙台区と宮城郡荒巻村ほか計5村のそれぞれ一部との境界変更であり、207町は自治体としてまだ存続し、M22.4.1付けで仙台区と207町との合併により仙台市となったのでしょうか。
どうやら、[79282]千本桜の書き込みはうまく伝えることができなかったようです。もう一度、簡単に書きます。仙台区は明治11年7月22日に発足し、明治22年3月31日に廃止されました。しかし、明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等には、変更種別:新設、自治体名:仙台区と書いてありますから、この表組を見た人は「明治22年3月31日に仙台区が新設された」と誤解するのではないか。88さんの伝えたかったことが伝わらないでしまうのではないか。そんな心配をしておったのです。

[79282] で書き込んだ207町の名称は明治41年発行の仙台市史を見て書きました。しかし、市史に町名記載漏れの疑いを感じています。私は、仙台区廃止時に「上杉山通」という町名があったはずだ、あって当然だ、と思っているのですが、仙台区末期の町名リストに「上杉山通」がありません。なぜ「上杉山通」があって当然だと思うのか。それを説明すると長くなるので、単に地理好きな人間の勘ぐりと受け止めてください。仙台市発足直前に「上杉山通」が有ったか無かったか。これを確認するには、どうすれば良いのでしょう。仙台市発足直後の町名リストを調べる必要がありますね。少し時間を下さい。ひょっとして、記載漏れは「上杉山通」にとどまらず、ほかにもあるかもしれません。もしかすると207町あらため210町などということになる可能性もあります。仙台市史に誤りがなければ良いのですが、誤りがあるとすると何を信じて良いのやら。
[79282] 2011年 8月 30日(火)06:43:52千本桜 さん
仙台区町名
明治41年発行「仙台市史」を引用しながら仙台区の町について書き込みます。仙台市史は「行政組織及び区画の沿革」について
明治11年7月22日布告第17号を以て郡区町村編成法を発布せられ、庁下を仙台区と称し、区長一員を置かる、是に於いて仙台は一の独立行政区となれり、此年11月区内を5部に分ち毎部町場持4人乃至6人を置き、部内を4分又は6分して布告布達等の事務を取扱はしむ、之を区行政の区画とする
として、5部(5つの地域ブロック)と253の町名を記載しています。この数字は要注意です。東西に長く延びた北一番丁などは町域が2つのブロックに跨がっていて、各々のブロックに北一番丁が載っいています。つまり重複記載です。このような町名が25ありますから、253-25=228で実際は228町になります。なお、仙台市史は町数の合計を記載していないので、私が町名を追いながら算出しました。検算していますが2、3の漏れがある可能性も考えられます。

明治14年4月15日、仙台区と宮城郡南目、荒巻、小田原各村の内、地所交換、(中略)同年10月24日、1名称にして数町に亘る市街区分を左の如く定めらる
として、町名と各々の町を細分した丁目を記載しています。町の延長が短い南町などは1丁目から2丁目まで。延長が長い北二番丁などは1丁目から14丁目まであります。これに記載された町の名称は140。丁目の合計は402です。この場合、町数を140とするか402とするか迷いますが、私は140町とするのが自然だと思います。

明治15年10月行政区画を改めて、各町組合を設け組毎に組長1人を置き、
明治18年4月1日之を更正して140組とし、(中略)
明治18年10月15日追廻組を中ノ町組に合併、
明治19年2月13日更に改めて56組とし、
明治19年3月29日北七番丁(堤通東)を北二、三、四、五、六番丁東組に、北七、八、九番丁(通町東 堤通西)を通町組に変更せり、其の名称及区画は左の如し
として、56組207町の名称を記載しています。207町の名称は次のとおりです。
河原町, 新河原町, 新河原町東丁, 南石切町, 新弓ノ町, 八軒小路, 南染師町, 南鍛冶町, 南材木町, 穀町, 三百人町, 五十人町, 六十人町, 畳屋丁, 保春院前丁, 成田町, 表柴田町, 裏柴田町, 元茶畑, 椌木通, 木ノ下, 西新丁, 東新丁, 荒町, 連坊小路, 清水小路, 北目町, 上染師町, 田町, 南町, 柳町, 大町一丁目頭, 大町一丁目, 大町二丁目, 大町三丁目, 大町四丁目, 大町五丁目, 大町五丁目新丁, 新伝馬町, 名掛丁, 二十人町, 榴ヶ岡, 舟丁, 堰場, 石名坂, 弓ノ町, 土樋, 猿牽丁, 姉歯横丁, 石垣町, 米ヶ袋上丁, 米ヶ袋中丁, 米ヶ袋下丁, 米ヶ袋十二軒丁, 米ヶ袋広丁, 米ヶ袋鍛冶屋前丁, 七軒丁, 鉄砲横丁, 桜小路, 道場小路, 伊勢屋横丁, 六軒丁, 片平丁, 本荒町, 良覚院丁, 狐小路, 袋町, 中ノ町, 琵琶首丁, 琵琶首新丁, 花壇, 花壇川前丁, 霊屋下, 越路, 越路六軒丁, 越路路地町, 宮沢, 川内大橋通, 川内柳丁, 川内中ノ瀬町, 川内大工町, 川内川前丁, 川内明神横丁, 川内元支倉, 川内澱橋通, 川内元支倉通, 川内新横丁, 川内数寄屋丁, 川内亀岡町, 川内亀岡北裏丁, 川内三十人町, 川内山屋敷, 肴町, 立町, 立町新丁, 本柳町,元櫓丁, 定禅寺通櫓丁, 元鍛冶町, 常盤町, 北材木町, 本材木町, 跡付町, 木町末無, 立町通, 定禅寺通, 南町通, 南光院丁, 教楽院丁, 薬鑵小路, 裏五番丁, 柳町通, 北目町通, 新寺小路, 国分町, 二日町, 北鍛冶町, 通町, 北田町, 堤町, 支倉町, 木町通, 新坂通, 土橋通, 支倉通, 半子町, 伊勢堂下, 神子町, 北山町, 八幡町, 坊主町, 江戸町, 覚性院丁, 石切町, 中島丁, 切通, 十二軒丁, 北五十人町, 滝前丁, 角五郎丁, 角五郎新丁, 澱町, 勾当台通, 表小路, 外記丁, 堤通, 外記丁通, 同心町通, 中杉山通, 光禅寺通, 二本杉通, 杉山通, 元寺小路, 茂市ヶ坂, 掃部丁, 末無掃部丁, 大仏前, 同心町中丁, 元貞坂, 空堀丁, 新名懸丁, 新小路, 花京院通, 長丁, 長刀丁, 北六軒丁, 鉄砲町, 車町, 小田原山本丁, 小田原裏山本丁, 小田原車通, 小田原宮町東裏丁, 小田原東丁, 小田原袖振丁, 小田原遣水丁, 小田原長丁通, 小田原高松通, 小田原金剛院丁, 小田原広丁, 小田原大行院丁, 小田原牛小屋丁, 小田原清水沼通, 小田原弓ノ町, 小田原北一番丁通, 小田原北二番丁通, 小田原北三番丁通, 宮町, 東一番丁, 東二番丁, 東三番丁, 東四番丁, 東五番丁, 東六番丁, 東七番丁, 東八番丁, 東九番丁, 東十番丁, 北一番丁, 北二番丁, 北三番丁, 北四番丁, 北五番丁, 北六番丁, 北七番丁, 北八番丁, 北九番丁, 北十番丁

而して区は22年3月31日更に区域を変更すること左の如し
として、下記の5村から各々土地の一部を編入したとしています。
宮城郡荒巻村の一部(字山上清水, 字滝前, 字宮裏, 字上郡山, 字中丿沢)
宮城郡小田原村の一部(字小野田, 字杉山)
宮城郡南目村の一部(字柳沢, 字二軒茶屋)
宮城郡南小泉村の一部(字八軒小路, 字行人塚, 字五ツ谷, 字桃源院東, 字鍛冶屋敷, 字広瀬川橋下)
名取郡長町村の一部(字窪谷地の一部)
また、
仙台区宮沢の一部を名取郡茂ヶ崎村に編入
仙台区北六番丁の一部を宮城郡原町に編入
とあります。

以上のことから、仙台区の町村として市区町村変遷情報に乗せるべきは、掲載した207の町名および明治22年3月31日に行われた区画変更の情報だと思います。

(注):207町について。原文のまま書き出せれば良いのですが、
1・誤字脱字が見受けられること。
2・複数の組に跨がる町は重複して町名が記載されていること。
3・同名の町名があり、それを区別表記をしなければならないこと。
そのような理由があり、私が手を加えています。

88さん
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等ですが、この表組を普通に読めば、「明治22年(1889年) 3月31日に仙台区, 仙台区新河原町, 新弓ノ町,(以下省略)が合併して仙台区が新設された。」になります。表組作成にもう一工夫必要かなと思いました。
[79249] 2011年 8月 27日(土)08:27:28【1】千本桜 さん
仙台区の町名と町数
[79130] むっくん さん
仙台区に関する疑問解決にお付き合い下さいまして感謝申し上げます。私の方でも新たな情報を入手しましたのでお伝えします。と言っても、仙台市発足直前の仙台区における町村名と町村数が解明したわけではありません。

【市区町村変遷情報 仙台区の不思議】
M22.3.31 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等(以後、「仙台区情報」と書きます)で仙台区の町村名を見たとき、何か不思議なものに出合った感じがしたものです。理由は
1):「丁」と「町」の使い分けがされておらず、すべて「町」で表記されていることへの違和感。住居表示が実施される前の仙台を知る者には「丁」と「町」の使い分けは当然のことで、特に東一番丁や北一番丁の「番丁」を「番町」と表すことは非常に違和感を感じるものです。
2):宮城県史に掲載された宮城県の市町村変遷(3コマ掲載のうち3コマ目)によると、明治9年における仙台の町村数は137。ところが仙台区情報では、明治22年3月31日の町村数が295町3村。町数の開きの大きさに驚きました。なぜ、こんなに増えたのだろう。
3):仙台区情報には 姉歯横町末無, 北材木町末無のように「末無:スエナシ」を付す町名が多数掲載されています。「○○末無」のうち、木町末無と末無掃部丁(別称 掃部丁末無)は昭和40年代まで住所地名でしたから良く憶えています。しかし、ほかの「○○末無」は聞き覚えがありません。本当に、明治22年3月に存在していた自治町名なのだろうか。本当は町名ではなく街路名ではないだろうか。そんな疑問を感じているのです。

【明治13年 宮城県地理課編集「仙台区全図」】
仙台区情報に掲載された町名と符合するものはないだろうかと いろいろ書物を調べましたが、姉歯横町末無, 北材木町末無など「○○末無」に関する記述が見つかりません。仙台区の時代に自治体として存在していた町なら少しは書物に書きとめられていそうなものですが、変ですね。書物がだめなら地図を見ようということで、江戸期~明治末期の地図を手当りしだい見てみました。すると、仙台区情報新旧対照市町村一覧と連動していそうな地図を発見しました。明治13年 宮城県地理課編集「仙台区全図」の復刻版です。この地図はまるで強迫観念にかられたかのように、小さな横丁や末無(袋小路)の形状と名称まで丹念に描いています。道路延長30mほどの袋小路まで描き、そこが北材木町末無であることを表す文字を添えています。でも、これって町名なのでしょうか。自治町が成立するほどの広がりは感じられません。あくまでも推測ですが、北材木町末無は街路名で、地籍は北材木町に含まれていたのではないかと思うのです。この地図には、このように小さな末無や横丁が全部描かれています。地図の中の地名と仙台区情報の町名を全て照合してみました。すると、一部を除いてぴったんこ合致するではありませんか。仙台区情報、もとを正せば新旧対照市町村一覧の仙台区を構成する町名の情報源は宮城県地理課の可能性がありますね。もちろん、これも推測の域を出ませんが。

【復刻図の解説書】
明治13年 宮城県地理課編集「仙台区全図」復刻版には解説書が付いています。その一部分を引用します。
本図右上部に、「町数305、戸数12,151、人口55,170」と、当時の市勢を掲出している。この町数305には、村落の小字にあたる地区名称(例えば川内中ノ坂通、追廻山下丁、小田原袖振丁など)、及び地区内にある小道(例えば梅原前丁、石名坂横丁、八幡三丁目横丁)なども加えられていて、県の布例等に記載されている数値とは大きな差がある。

【陸前国仙台区各村町調書】
小道の中には末無も含まれます。仙台区情報新旧対照市町村一覧には約300の町名が記載されていますが、横丁、末無を除外すると仙台区の町数は大きく変わってしまいます。いったい、何が本当なのか。そこで、県の公文書館へ行き「陸前国仙台区各村町調書」をコピーしてきました。それを分析しているところですが、ますます底なしの泥沼にはまり込んで行きそうです。仙台区の町は難しい。今日は村の鎮守の夏祭りです。これから祭りの準備に入りますので、続きは後日にします。

●脱字追加訂正
旧対照市町村一覧→新旧対照市町村一覧
[79092] 2011年 8月 14日(日)23:56:42【1】千本桜 さん
仙台区の町
88さん、むっくん さん。
[78879]でお約束したとおり、宮城県の「明治11年更正区画」を入手し、仙台区を構成する町について分析しているところです。しかし、その前に

1)・88さんが明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等を作成する際に資料とした新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)は何を資料にして編纂された物なのか。

2)・仙台区は郡区町村編成法により誕生し、明治11年から同22年まで存在しました。その間、仙台区に属した町、つまり88さんがまとめられた市制町村制施行前の町村名等に列記された町々はそれぞれが明治22年まで独立した自治町でありえたのか。

上記の事柄を明確にしておかないと意味のない分析になるような気がして空しいのです。和泉橋警察署編「新旧対照市町村一覧」は、誤字や記載漏れを単発的に指摘しても済まない問題を抱えているように感じます。どうか、1)と2)の答えを教えてください。

●誤記訂正
参考にした資料をそのままに、冒頭で「明治11年更正区書」と書きましたが、入手したコピーには手書きで「更正區畫」と書いてあります。いまふうに書けば「更正区画」になりますね。「区書」を「区画」に訂正しました。
[79055] 2011年 8月 12日(金)13:00:27千本桜 さん
近郊の正しい使いかた
熱くなっている方々への息抜きクイズです。実態に即しているのはA・Bどちらでしょう。難問です。
A:角田市近郊の大河原町では・・・
B:大河原町近郊の角田市では・・・
[78879] 2011年 8月 7日(日)12:21:06千本桜 さん
仙台
88さん、むっくん さん
仙台区を構成する町についてお尋ねします。私は法令とか条例に疎いので頓珍漢な質問をするかもしれませんが大目に見てください。市制町村制施行時の情報 宮城県によると、明治22年3月31日時点で仙台区を構成する町はおよそ300町。明治9年の仙台は137町でしたから2倍以上に増えたわけです。明治22年仙台市発足時の面積はおよそ17km2、戸数およそ16,800戸でした。1町あたりの平均面積はざっと570m2、平均戸数は56戸です。たとえば、名称から判断して元材木町横町末無という町は、元材木町の横丁の袋小路に面した町ということでしょうから、面積、戸数ともかなり小規模のはずです。幅30m×長さ40mの面積で、戸数は10数戸程度だったかもしれません。こまかい数字にこだわる必要はありません。これで自治体として機能できたのでしょうか。機能していたとして、どの範囲までの自治を行っていたのでしょうか。私は上染師町東末無, 畳屋町末無, 滝前町末無, 川内追廻川前町末無などの羅列を見て、これって自治体なの?、規模からすれば村社会の契約講と変わらないじゃないかと考えてしまうのです。

お手数でも宮城県の市町村変遷をご覧ください。3コマ掲載のうち一番下の表組です。明治9年に137あった仙台の町村数は、明治11年には1になっています。ということは、仙台市街を形成していた137の町々は仙台区が発足した時点で自治体としての役目を終え、単に地名としての町名になったと解釈していいのでしょうか?。でも市制町村制施行時の情報 宮城県を見ると、仙台市街の約300におよぶ町々は明治22年3月31日まで自治体として存続したようにも受けとれるし、どちらなんでしょう。

[78859] 88さん
何か、具体的な資料等をお示しいただけると助かります。

88さんご提示の新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)「大日本市町村名鑑」(星野文三編、博聞社,明26.11)では「丁」はことごとく「町」に置き換えられているのですね。驚きました。「ホンマでっか!?」という感じです。「ホンマでっせ!」と、本間千代子さんが現れるよりもっと驚きです。済みません。落書き帳でこんな話は受けませんよね。今年66歳になられた永遠の青春スター本間千代子さんに反応できる感性の持ち主は、落書き帳ではあの方だけでしょうから。

私は「新旧対照市町村一覧」における仙台の情報を黒だと感じています。濃度95%のブラックかな。仙台には江戸期から今日まで「町」と「丁」があることは多様な人によって伝え継がれていますから、疑いようのない事実です。例えば、日本地図センターは「地図と空中写真で見る昔と今」で
市街の大部分は侍の住むまちで「丁」と呼ばれ、足軽・小人・職人・商人等の住む「町」と区別された。
と、記述しています。まず、地図で確認してみます。江戸期の資料として天保4(1833)年の御城下町割絵図をあげます。国分町や南町の「町」と、東一番丁や永丁などの「丁」が読みとれます。次に明治22年発行の仙台中心街をご覧ください。探しやすいように町名に赤線を引いておきます。国分町、南町などの「町名」と、東一番丁、東二番丁などの「丁名」が書き分けられています。国分町は仙台を代表する夜の盛場。東一番丁は仙台を代表する昼の繁華街です。かつて武士が居住した東一番丁がなぜハイセンスな商店街に成長したかは、先を急ぎますので触れないでおきます。次に現代の地図をご覧ください。仙台市は昭和40年から始まった住居表示の実施で多くの「丁名」が消えましたが、住居表示が進まなかった区域には今も「丁名」が残っています。小田原山本丁、名掛丁、東七番丁などがそれです。このように、江戸期から今日まで一貫して「町」と「丁」が使い分けられ、「丁」を廃して「町」とした時代はなかったはずです。

次に地図以外の文献で確認します。まずwikipedia仙台都心部は「丁」と「町」と題し、
侍町の名掛丁や東二番丁には丁を付け、他方、町人町の国分町や大町などには町を付けた。
と記述し、また
丁と町の使い分けに関しては、和歌山城下町でも同様
とも書いています。早速88さんの市制町村制施行時の情報 和歌山県に飛びます。お!やっぱり一番丁, 二番丁, 三番丁, 四番丁と「丁名」が連なっていますね。wikipediaでは心もとない方のために、手持ち資料の中から「宮城県の市町村変遷」「仙台の大小区変遷」を貼ります。これは、宮城県史からコピーしたはずですが、記憶が朧になってしまいました。たぶん、むっくんさんも同じ物をお持ちではないかと推測します。仙台旧市内における「町」と「丁」の使い分けが見てとれます。私が仙台の街と深く関わったのは昭和40年代のことで、江戸期からの町名がたくさん残っていた時代です。好きな町名は角五郎丁、末無掃部丁、保春院前丁、琵琶首丁などでした。懐かしがっている場合ではありませんね。先へ急ぎます。地図と文献から判断して「町」と「丁」の使い分けは明らかです。

[78859] 88さん
どこが「町」でどこが「丁」か、の別も個別に示していただけるとありがたいです。

これがやっかいです。どの資料も「丁」の使い方がアバウトで、明らかに侍町で「丁名」の代表格である「片平丁」が「片平町」になっていたりして、どの資料を信頼したら良いのか苦しみました。手許に「仙台地図さんぽ」という出版物があります。その中に「おもな旧町名・通名 索引」というページがあって、これがなかなかよくできています。この本には大正元年の地図がそのまま復刻され、その地図に記載された地名を
1・明治11年の更正区書はどのように表記していたか。
2・明治22年の市制施行当時の表記はどうであったか。
3・昭和40年代の住居表示実施直前の表記はどうであったか。
以上3つの時点から調べてある優れものです。編集者の熱意が感じられて信憑性があります。
実例をあげると次のようになっています。
畳屋町------大正元年の地図表記
疊屋町------明治11年(更正区書の表記)
疊屋丁------明治22年(市制施行時の町名)
畳屋丁------昭和40年代(住居表示実施直前の表記)
ただし、これは主な旧町名を対照にしているため、約300ある旧仙台市街の旧町名すべてが網羅されたものではないことが残念です。

88さんの「市制町村制施行前の町村名等」を丸ごとコピーし、「仙台地図さんぽ」の明治22年(市制施行時の町名)と照合してみました。
●は私が訂正を加えたものです。○は88さんのデータがイキです。※は「地図さんぽ」では道路・ヨコ丁扱いしています。無印は「地図さんぽ」では触れていないために照合できなかったものです。
 
仙台区, 仙台区 ○新河原町, ○新弓ノ町, ○河原町, ○南材木町, ○穀町,○ 南鍛冶町, ○荒町, ●疊屋丁, ●六十人町, ○連坊小路, ○石垣町, ●船丁,○ 堰場, ○成田町,○ 南染師町, ○南石切町, ○八軒小路, ●三百人町, ●保春院前丁, ●五十人町, ○土樋, ○表柴田町, ○椌木通, ○木ノ下, ○元茶畑, ○裏柴田町, ●西新丁, ●東新丁, 新河原町西町, ※姉歯横丁, 猿牽町, ※東街道, 長町通, ●米ヶ袋廣丁, ○米ヶ袋鹿子清水通, ●米ヶ袋鍛冶屋前丁, ●米ヶ袋下丁, ●米ヶ袋中丁, ○米ヶ袋中ノ坂通, ●米ヶ袋十二軒丁, ●米ヶ袋上丁, ○弓ノ町, ○石名坂, ●南六軒丁, ●片平丁, ●櫻小路,● 鐵砲横丁, ○道場小路, ●伊勢屋横丁, ○袋町, ○元鍛冶町, ○本荒町, ○狐小路, ●良覺院丁, ○大町一丁目, ○大町二丁目, ○大町三丁目, ○大町四丁目, ○大町五丁目, ○肴町, ○立町, ●本櫓丁, ●定禪寺通櫓丁, ○北材木町, ○本材木町, ○本柳町, 立町新町, ●川内川前丁, ○川内大工町, 川内数寄屋町, ○川内元支倉, 川内元支倉通, 川内新横町, ●川内明神横丁, ○川内澱橋通, 川内亀岡通, 川内中ノ坂通, 川内大堀通, ○川内亀岡町, ○川内三十人町, 川内大橋通, 川内柳町, 川内筋違橋通, 川内山屋敷中町, 川内山屋敷北町, 川内山屋敷南町, 川内山屋敷町, 川内山屋敷上町, 川内山屋敷横町, 川内三十人町通, 川内亀岡北裏町, 大町二丁目櫓町, 中ノ町川前町, 中ノ町, ●琵琶首丁, 琵琶首新町, ○花壇, ●花壇川前丁,※ 細横丁, 七軒町, ○川内中ノ瀬町, 川内裏下馬町, 川内亀岡杉町, 米ヶ袋新町, ○田町, ○上染師町, ○北目町, ○柳町, ●東一番丁, ●東二番丁, ●東三番丁, ●東四番丁, ●東五番丁, ●東六番丁, ●東七番丁, ●東八番丁, ●東九番丁, ●東十番丁, ●教樂院丁, ●南光院丁, ○南町通, ○清水小路, ○二十人町,● 鐵砲町, ○小田原車通, ●小田原振袖丁, ●小田原遣水丁, ●小田原山本丁, ●小田原裏山本丁, ●小田原金剛院丁, ●小田原牛小屋丁, ○小田原弓ノ町, ●小田原大行院丁, ●小田原廣丁, ○小田原清水沼通, 小田原宮町東裏町, ●小田原北一番丁通, ●小田原北二番丁通, ●小田原北三番丁通, ○小田原高松通, ●小田原東丁, ●小田原長丁通, ○車町, ○柳町通, ○北目町通,● 新寺小路, ○榴ヶ岡, ※長泉寺横丁, 年徳神横町, 五ツ橋通, ※和光明神横丁, ※於多福横丁, ●新傅馬町, ●名掛町, ○立町通, 赤井横町, ○元寺小路, ●末無掃部丁, ●大佛前, ○同心町通, ●同心町中丁, ○元貞坂, ●國分町, 表小路, ●定禪寺通, ●勾當臺通, ○堤通, ●外記丁, ●外記丁通, ○花京院通, ○中杉山通, ○茂市ヶ坂, ●光禪寺通, ●掃部丁, ●長丁, ●長刀丁, ●空堀丁, ●新名懸丁,●六軒丁, 二軒町, ○宮町, ○北田町, ○堤町, ●北一番丁, ●北二番丁, ●北三番丁, ●北四番丁,● 北五番丁, ●北六番丁(本), ●北七番丁, ●北八番丁, ●北九番丁, 北十番町, ○二本杉通, ○杉山通, ○上杉山通, ※虎屋横丁, ○新小路, ○二日町, ○北鍛冶町, ○通町, ●跡附丁, ○神子町, ○北山町, ●木町通, ○支倉町, ○支倉通, ○新坂通, ○切通町, ●十二軒丁, ○石切町,● 覺性院丁, 伊勢堂下, ○半子町, ○坊主町, ●中島丁,○ 江戸町, ○北五十人町, ○八幡町, ●瀧前丁, 有巴沢一丁目, 有巴沢二丁目, 角五郎新町, ※荒井横丁, ○澱町, ○土橋通, 角五郎表町, 角五郎裏町, 角五郎川前町, 中島町新坂, 中ノ横町, 大願寺前町, 大願寺横町, ●裏五番丁, 新河原町東町, 東九番町一丁目横町, 東九番町二丁目横町, 川内元支倉通一丁目横町, 松源寺前町, 誓願寺通, 西坊主町, 東坊主町, 角五郎川前横町, 大橋通, 小田原宮町三丁目裏町, 新坂通一丁目横町, 八幡町三丁目横町, 石屋横町, 桃源院前町, 沖ノ村通, 東桜小路, 茶畑町, ※竹屋横丁, 椌木前町, ※加川横丁, 鉄砲町三丁目横町, 立町新前通, ※閻魔堂横丁, 石名坂横町, 北山古街道, 大町三丁目横町, 川内亀岡南町, 中島新町, 常磐町, 北五十人町新町, ●大町五丁目新丁, 元材木町横町, 北材木町末無, 十二軒町上末無, 十二軒町下末無, 上染師町西末無, 上染師町東末無, 畳屋町末無, 滝前町末無, 川内新横町末無, 川内追廻川前町末無, 土樋二丁目西末無, 土樋二丁目東末無, 土樋四丁目末無, 姉歯横町末無, 霊屋下新町, ●霊屋下, 宮沢(本), 北六番町九丁目末無, 元材木町横町末無, 覚性院町末無, 北目町末無, 元誓願寺前町, ●越路, 河原町東裏町, 越路路地町, ●越路六軒丁, 霊屋下疣田町, 霊屋下四谷町, 古城, 宮城郡 ○小田原村(微), ○南目村(微), ○南小泉村(微)

結果としてまだまだ不備ですが、「新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)を鵜呑みにはできないぞという思いです。で、どうすればいいのか。「仙台地図さんぽ」に書かれている明治11年(更正区書の表記)なるものを見てみる必要がありそうです。仙台市に行けばあるのかどうか。いつまでとは約束はできませんが、あたってみようと思います。ところで88さん、「仙台地図さんぽ」必要とあらば差し上げますよ。必要なときはお知らせください。それから、「市制町村制施行前の町村名等」に「南町」が漏れているようです。「新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)の段階で漏れていますね。「南町」は絶対外せないはずです。直感でそう思います。
[78803] 2011年 7月 21日(木)22:09:26千本桜 さん
都市計画道路
[78802] k-aceさん
八雲町の道道202号に3・4・4富士見通というのがありましたが、この「3・4・4」って何の数字なんだろう?

都市計画道路の番号ではないでしょうか。都市計画図を作る時にそのような番号を貼り込みました。「貼り込み」はアナログ時代の作業ですね。今はパソコンだから「入力」と言うのでしょうか。愛知県知多市のHPが都市計画道路について分かりやすく説明しています。
[78772] 2011年 7月 16日(土)08:48:49【1】千本桜 さん
成田山、新月村
[78769] 伊豆之国さん

比叡山の場合は、延暦寺の山号「比叡山」と自然地形の山名「比叡山」が同時に思い浮かんできます。でも、個人的には自然地形の山名「比叡山」の方を強く意識しているようです。高野山の場合は金剛峯寺の山号「高野山」と自然地形の山名「高野山」があると仮定して、個人的には金剛峯寺の山号「高野山」の方を強く意識しています。成田山となると、意識するのは新勝寺の山号「成田山」ですね。こうして考えると、難しいものですね。でも、面白い。
長野県の美ヶ原は山名なのでしょうか。国土地理院は王ヶ頭、王ヶ鼻を山名を意味する文字で表記し、美ヶ原は山名を意味しない文字で表記しています。でも、美ヶ原は日本百名山に入っているのですね。

[78770]むっくんさん
本吉郡新月村についてですが、明治8年に合併してその後分離して明治22年に再度合併した可能性はないのでしょうか。

そこに着眼されましたか。さすがに、むっくんさんです。明治8年に合併したけれど、2、3年後には元の新城村と月館(月立)村に分離した可能性は大ありです。ただし、確信は持てません。確信が持てないのは、そのことについて文章化された記述を見たことがないからです。しかし、表組化された市町村変遷表から推測すると、2村間で合併→分離→合併を繰り返した可能性があることを見てとれます。

ここに、宮城県の「明治5年~22年市町村変遷表」があります。昔のことなので記憶は不確かですが、宮城県史からコピーしたように憶えています。この変遷表によると、本吉郡の藩政時代の村数は33村。明治9年は18村。明治11年は19村。明治14年は19村。明治17年は19村。明治22年の大合併直前は19村。明治9年から11年の間に1村増えています。変遷表を読み進むと、明治9年の欄に新月村の名があるのに、明治11、14、17、22年大合併直前の欄には新月村の名がなく、新城村と月立村の名が記載されています。そして、明治22年の町村制を迎えるに当たり新城村と月立村が合併。新月村誕生。このことから推測すると、合併→分離→合併の可能性が大きいですね。

この変遷表は所々に誤字が目につきますが、表から判断する限りでは、「明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等」の合併後名称新月村の参加自治体
本吉郡 新城村, 月館村
の月館村は、月立村と表記すべきかな?と思われます。いずれにしても、誤字が目につく文献ですから真偽のほどは分かりません。ちなみに、現代に通用する地名は「月立」です。「月館」は藩政時代に通用した書き方ではないかと私は思っています。

訂正機能で追加書き込み。
投稿の後で読んでみると、88さんの「市制町村制」施行時の都道府県別一覧に誤記が多い、と受け止められかねない文章になっていました。誤記が目につくのは、私が所持している宮城県の「明治5年~22年市町村変遷表」ですので、誤解なさらないでください。
[78768] 2011年 7月 14日(木)23:05:01千本桜 さん
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等
宮城県関係で気が付いた点です。

合併後の名称・宮城郡七北田村について。参加自治体の七木田村は、正しくは七北田村ではないでしょうか。
合併後の名称・宮城郡松島村について。参加自治体に手樽村,幡谷村,北小泉村,竹谷村が漏れているようです。
合併後の名称・宮城郡原町について。参加自治体の仙台区北六番町(微)は、正しくは仙台区北六番丁(微)ではないでしょうか。
合併後の名称・加美郡鳴瀬村について。参加自治体の雑色目村は、正しくは雑式目村ではないでしょうか。
合併後の名称・栗原郡姫松村について。参加自治体の玉沢村は、正しくは王沢村ではないでしょうか。
合併後の名称・桃生郡二股村について。参加自治体の福田村は、正しくは東福田村ではないでしょうか。
合併後の名称・本吉郡十三浜村について。参加自治体に十三榎とあるのが理解できません。十三浜ではないでしょうか。

亘理郡荒浜村について。明治22年、高須賀村が改称して荒浜村になったはずですが「市制町村制施行直前の廃置分合等」の一覧表に荒浜村の記載がありません。単なる漏れでしょうか、それとも「直前の廃置分合等」には該当しないのでしょうか。

本吉郡新月村について。「市制町村制施行直前の廃置分合等」の一覧表に新月村が記載されています。ということは、新城村と月館村が合併して新月村になったのは、明治22年3月31日と判断して良いのでしょうね。ところが、角川地名大辞典には次のような記述があります。原文のまま書き写します。
同8年気仙沼村(気仙沼本郷を改称)・鹿折村・大島村を除く8か村が次のように統合された。
新月村=新城村・月立村
松岩村=赤岩村・松崎村
階上村=長磯村・最知村・波路上村・岩月村
同8年とは明治8年のことです。ところが、同じ辞典の中に明治22年合併らしき記載もあったりして不可解です。結構迷いますね。明治8年にしろ22年にしろ、そんなに遠い昔のできごとではないはずなのに、過ぎてしまったことは曖昧になってしまうものなのですね。
[78767] 2011年 7月 13日(水)22:01:36千本桜 さん
私からも “祝” 市区町村変遷情報(市制町村制施行時の情報) 完成
[78761] 88 さん
今後とも、市区町村変遷情報をよろしくお願いいたします。

大事業、本当におつかれさまでした。感謝申し上げます。早速、宮城県の市制町村制施行時の情報を拝見いたしました。ひとつ、確認をお願いしてよろしいでしょうか。仙台市の市制町村制施行前の町村名等で、片平町、東一番町、教楽院町など(その他、多数あり)は片平丁、東一番丁、教楽院丁と表記するのが正しいはずですので、参考にされた資料との照合をお願いします。仙台の場合、町人の区域は「町」、武家の区域は「丁」と書き表す慣しがありました。

仙台区を構成する市制町村制施行前の町村名等の中頃にある
田原長町通, 車町, 柳町通, 北目町通, 新小寺小路, 榴ヶ岡, 長泉寺横
の「新小寺小路」は正しくは「新寺小路」のはずですので、ご確認おねがいします。

福島県の市制町村制施行時の情報で、田村郡の「三春町」を「三春村」と誤打されているようです。
[78751] 2011年 7月 10日(日)19:12:50【1】千本桜 さん
都道府県を代表する山と川 「高野山」
[78715] futsunoおじさん
「山」には宗教的修行の場等の意味もありますので純粋な山岳を選択したい場合、判断は難しくなりますが「都道府県を代表する山」ではどう考えるべきでしょうか。

futsunoおじさんの問いかけに応えなければと思っているのですが、考えがまとまらず前進できないでおりました。高野山には複数の意味があります。住所地名の大字高野山、金剛峯寺の山号高野山、自然地形の山名高野山などです。この中で、高野山は自然地形の山名に値するのだろうかと迷っているのです。[78715]で提示していただいた Wikipediaを読んでみました。確かに
高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称
と書いてありました。しかし、読み進むと
なお、高野山という名称の山は無い
とも書いてあります。山々の総称名「高野山」はあるが、個々の山名「高野山」はないと受け止めれば済むのでしょうが、高野山のメインは山頂をもった山々ではなく、それらに囲まれた平坦地形にあるのではないかと感じる私としては、「高野山は山々の総称」という表現に違和感を感じるのです。普通一般に山を思うとき、少なからず山頂を意識するはずですが、私的イメージの高野山は山頂がなくても高野山なんです。自分の中にあるイメージを上手く文章化できなくて辛いのですが、私はそんな風に高野山を捉えています。

さらに Wikipediaで金剛峯寺を調べると
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する
と書いてあります。高野山は山ではなく、山に囲まれた平坦地を指すと受けとれます。国土地理院の地形図注記に当てはめるなら、ゴシック体で表記される山には該当しない地形と考えられます。お断りしておきますが、私は全てを知った上で書いている訳ではありません。勉強のつもりで試行錯誤しながら書いています。ですから、間違った考えをしているかもしれないし、途中で考えが変わるかもしれません。以下、いろいろ調べた結果を書き出します。

河出書房の日本歴史大辞典(昭和48年発行)には次のように書かれています。
(高野山は)和歌山県伊都郡高野町にあり、略して野山といい、また南山・南岳ともいい、山の形より八葉峰ともいう。
やはり、高野山は山を指す名称なのかと考えがぐらついてきます。

平凡社の世界大百科事典(1972年発行)には次のように書かれています。
(高野山は)和歌山県伊都郡高野町にあり、紀伊山脈の1支長峰山地の東部、陣ガ峰、楊柳山、弁天岳など標高1,000m前後の山々の間に横たわる平たん面(東西6km,南北3km)一帯の総称。
おぉ。やはり高野山は山名ではなく、平坦部を中心とした場所名ではないかと、またまたぐらつきます。

角川日本地名大辞典には次のように書かれています。
(高野山は)伊都郡高野町に所在。平安初期、空海が真言宗の根本道場として創建した金剛峯寺の別称として知られる。固有の山名としてではなく長峰山脈の東部、陣ヶ峰・楊柳山・摩尼山・弁天岳など標高1,000m前後の山々とそれに囲まれた盆地状の平坦地を含んだ総称で、平坦地は標高800mほど、東西6km・南北3kmの広がりをもつ。
「標高1,000m前後の山々とそれに囲まれた盆地状の平坦地」と書いてあるけれど、山々の全ての斜面を高野山と言うのだろうか?。ひょっとして、高野山に該当するのは盆地に向いた斜面だけで、反対斜面は高野山ではないのではないか?。そこが一般の山と異なるところではないか。そんな思いが湧いてきました。

いろいろ探しているうちに、私のイメージを言い当てたようなHPに遭遇しました。高野山の地形と自然環境というHPには、次のように書いてあります。
和歌山県伊都郡の紀ノ川西南高地に位置する高野町。高野山はその主要部に広がる東西約5km南北約3kmの山上盆地をしめします。一般に◯◯山と言われる時、頂上の有る山を想像しますが、高野山の場合「高野山」と呼ばれる頂上はなく、周囲の峰々と、それらに囲まれた盆地部分全体を含めた地域が、いわゆる「高野山」です。
そうだ、これだ、と思いました。私がイメージする「高野山」は、これなのです。

次に、国土地理院は高野山の名称をどのように扱っているか見てみます。参照した地図はだいぶ以前に発行されたものですが、高野山を判断するのに支障なしと思います。
2.5万分の1地形図(ウォッちず)、5万分の1地形図(昭和54年発行)、20万分の1地勢図(昭和49年発行)、50万分の1地方図(昭和57年発行)いずれも、「高野山」を集落名または場地名として読取れるように表記し、山名としては扱っていません。ですから、これらの地理院図を基に編集発行した民間図には、自然地形の山名「高野山」はありません。S社の3万分の1県別道路地図、Z社の10万分の1道路地図、B社の20万分の1道路地図、S社の50万分の1地方図、どれにも自然地形の山名「高野山」は記載されていません。知名度では下位にあるはずの飯野山(香川県)が記載されているのにですよ・・・。こうしてみると、高野山は山名に値しないように思えてきました。

ところがです。地理院の100万分の1日本(平成2年発行)には、高野山が山名として記載されているのです。標高数値は記載されていませんが、文字に斜体が掛けられていますから、間違いなく自然地形の山を意識した注記です。50万分の1に記載がなくて100万分の1に記載があるのはなぜだろう。あらら、困りました。やはり高野山は自然地形の山名なのでしょうか。そこで、T社発行の110万分の1社会科地図帳をみると、高野山(弁天岳)985と記載されているではありませんか。ごく一般の人が見たら、高野山は別名を弁天岳と言い、標高は985mであると判断するのでしょうね。なんだか、私には納得できないものがありますが、これで良いのでしょうか。

futsunoおじさんの問いかけに応えたことにはならない書き込みで申し訳ありません。私自身、高野山をどのように捉えたら良いのか分からない状態です。

書込訂正。誤記2ヶ所、弁天山を弁天岳に訂正しました。
[78732] 2011年 7月 9日(土)00:43:51【1】千本桜 さん
2大
[78730] 白桃 さん
「2大」は納得できないです

「2大スター夢の共演」の会場を覗いてみたら、大下八郎と大木伸夫がデュエットしていたなんて許せないっすよ! 演歌ファンとしては、おんなの宿で涙の酒なんて最高にシビれるけど。
演歌が似合う北海道2大港町。釧路、苫小牧、小樽、函館がノミネートされました。苫小牧は演歌っぽくないので落選確実ですが、釧路、小樽、函館は激戦でしょうね。

女の宿を、おんなの宿に訂正
[78712] 2011年 7月 5日(火)22:18:37千本桜 さん
Re:都道府県を代表する山と川 (改訂版)
[78710] futsunoおじ さん

宮城県を代表する山が蔵王山。これには同感です。ただし、蔵王山の最高峰である熊野岳 (1841m)は山形県に属していますから、山頂が他県に属する山に該当します。

宮城県を代表する川については、北上川、鳴瀬川、名取川、阿武隈川で迷っておられるご様子ですが、鳴瀬川、名取川に代表性を持たせるのは苦しい。やはり、北上川/阿武隈川と連記するか、または一つに絞って北上川とするのが良いと思います。もし、宮城県の輪郭だけが描かれた白地図があったとして、そこに一つだけ都市名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「仙台」を書きます。一つだけ山名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「蔵王山」、一つだけ川名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「北上川」、一つだけ観光地名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「松島」、一つだけ桜名所を入れて宮城県たらしめよと言われたら「一目千本桜」を書き入れます。私の場合。
 
ところで、[78710]
和歌山県 ☆高野山 985m
を見て思うのですが、「高野山」と言う名の山はあるのでしょうか?。私は高野山に行ったことがなく、日常的に高野山を意識することも全くありません。早い話が、高野山に対して知識がありません。ですから、「高野山」と聞いて思い浮かぶのは、集落、居住地、町並み、金剛峯寺などの建造物といった類いのものであり、山が連想できないのです。標高985mは弁天岳を指しているのでしょうが、地元の人は弁天岳を「高野山」と呼んでいるのでしょうか?。ちなみに、国土地理院の2.5万分の1地形図には、集落名「高野山」はありますが、山名「高野山」は記載されていません。したがって、5万分の1地形図や20万分の1地勢図にも記載されていません。
[78599] 2011年 6月 20日(月)07:28:49千本桜 さん
Re:都道府県を代表する山と川
futsunoおじさんが山形県を代表する山に「蔵王」を選ばれたことに同調します。ただ、昔(私がまだ、まじまじと山形盆地の風景を見ることがなかった頃)、山形市在住の方に「山形市民にとっての山はどこですか」とお尋ねしたところ、即座に「月山」と答が返ってきて驚いたのを憶えています。「蔵王」じゃなかったのですね。あくまでも山形市民にとってですが。
ところで[78597]の富士山3376mは、正しくは3776mでしょうね。
[78578] 2011年 6月 18日(土)17:50:22千本桜 さん
富山県出町、五百石と宮城県槻木、金ヶ瀬の共通点
[77087] 88 さん
富山県の市制町村制施行時の情報を上梓予定ですので、引き続きご活用いいただければ、と思います。

市制町村制施行時の情報を見て、富山県の出町(砺波市)と五百石(立山町)は、宮城県の槻木(柴田町)と金ヶ瀬(大河原町)に似た経緯を辿って来たことを知りました。

共通点・第1段階(江戸期)
槻木は入間野村に形成された町場の名。
金ヶ瀬は平村に形成された町場の名。
出町は杉木新村に形成された町場の名。
五百石は松本開(開は村と同義)に形成された町場の名。
ということで、いずれも「村名と異なる名称を持つ町場だった」ことで共通します。宮城県にはこれに類する町場が数多くあります。
ここで素朴な疑問が生じます。江戸期の入間野村に槻木と言う名の宿場町が開設されました。入間野村にあるなら入間野宿でよかろうに、なぜ槻木宿を名乗るのか。なぜ入間野宿を名乗れなかったのか。地名由来を追っても解決しない問題です。柴田町のその道に詳しい人にお尋ねしても、やはり分からないとのことでした。

共通点・第2段階(明治22年 町村制施行時)
入間野村など10村が合併。新自治体は入間野村の町場名をもって槻木村とし、それまでの入間野村は槻木村大字入間野になりました。
平村など3村が合併。新自治体は平村の町場名をもって金ヶ瀬村とし、それまでの平村は金ヶ瀬村大字平になりました。
杉木新村など8村と杉木村の一部が合併。新自治体は杉木新村の町場名をもって出町とし、それまでの杉木新村は出町大字杉木新になりました。
松本開など8村が合併。新自治体は松本開の町場名をもって五百石町とし、それまでの松本開は五百石町大字松本開になりました。
ということで、いずれも「村名を抑えて町場名が自治体名に出世した」ことで共通しています。「入間野の槻木」から「槻木の入間野」へ逆転したわけです。宮城県にはこの類の町場が結構あります。

共通点・第3段階(昭和の合併時)
槻木町は船岡町と合併して消滅。しかし、大字入間野を大字槻木に改称することで、槻木の名を残しました。
金ヶ瀬村は大河原町と合併して消滅。しかし、大字平を金ヶ瀬(大字の字句を冠しないが実態は大字)に改称することで、金ヶ瀬の名を残しました。
出町は周辺5村と合併して消滅。しかし、大字杉木新を大字出町に改称することで、出町の名を残しました。
五百石町は槻木町、金ヶ瀬村、出町より少し複雑な経緯を辿りますが、結果的に大字松本開の区域は大字五百石に改称されています。
宮城県には、第1段階から第2段階へ進展した町場は結構ありますが、第3段階まで進展したのは槻木と金ヶ瀬だけです。くしくも出町、五百石はその仲間でした。通称町場名に由来する地名が生き残る中、公称村名に由来する地名が消されて行く。この現象をどう解釈すれば良いのでしょうか。町場名は強いですね。自分が帰属していた村名を消滅させ、その区域を自分の名に書き換えてしまうのですから。

ここで、村名と町場名が同名の場合はどうなのかという疑問が涌いてきます。例えば、富山県の上市は江戸期の村名が上市で、そこに形成された町場も上市のはずです。現在私たちが上市と呼んでいるのは、村名を引きずった上市なのか、町場名を引きずった上市なのか。どっちなんでしょう。
なんだか疲れてきました。話題を砺波地方の都市間競争に切り替えます。

砺波地域(砺波市、南砺市、小矢部市の範囲を想定)と仙南地域は地勢こそ似ていませんが、どちらも小規模都市がドングリの背比べをしている点で似ています。砺波地域の中心都市って、どこなんでしょう。やはり今でも出町、石動、福光がビッグ3でしょうか。井波、福野がビッグ5にしてくれと言いたげですが、我慢してもらいましょう。

平成17年の人口集中地区または準人口集中地区比較
都市人口数
石動7,625人
福光4,331人
出町3,691人
出町が石動の半分。やはりDID人口は都市の賑わいや中心性の判断基準になりにくいようです。

平成22年分の路線価より、各都市の1平方メートル当り最高評価額比較
都市評価額
出町56,000円
福光50,000円
石動49,000円
こちらの方が判断基準になりそうな気配です。
[78559] 2011年 6月 14日(火)23:22:25千本桜 さん
赤道
[78555] 山野 さん
どれが「町道」(地区内)か分かる方、居られますか?
一番手っ取り早くて初歩的な解決策は、町役場で道路台帳を閲覧することだと思います。私も赤道で悩まされている住民です。(ごめんね、ニジェさん。「思います」を使って。)
話は少し逸れますが、昨年の秋、南三陸町に一泊旅行しました。宿は町の中心部から遥かに離れた漁村の高台にありました。翌日、日の出と共に目が覚めてしまい、ぶらぶらと坂を下って港の辺りを早朝散歩。まだ朝早いのに、港の周りは牡蠣むき仕事をしている人や漁船の出入りで活気づいていました。道ばたで、漁から帰る船を待つおばさんと立ち話。地元の人との立ち話も旅の楽しみの一つです。つい話し込んでいるうちに、宿の朝食時間が近くなっていました。
わたし:○○旅館へ帰るんですが近道はないですか。
おばさん:ほら、そこを入って行けばいいよ。
わたし:でも、あそこは民家の庭ではないですか。
おばさん:いいの、あそこは赤線だから。
わたし:え!赤線?
こんな岬の外れの小さな漁村に赤線だなんて。たぶん0.5秒くらいは私の顔が固まっていたはずです。もちろん、おばさんが言う赤線は赤道のことだと直ぐに推測がつきましたけど・・・。道路か庭か区別のつかない赤線を通って漁村の坂道を登った日から5ヶ月後、あの漁村も大津波に呑まれてしまいました。美しい風景だったのに。おばさん、助かっただろうか。
[77851] 2011年 4月 1日(金)20:40:07千本桜 さん
亘理町荒浜の高須賀
[77841] hmt さん
宮城県岩手県の沿岸部を主とした 浸水範囲概況図 が、国土地理院HPに発表されています。
浸水範囲概況図11を見て亘理町高須賀集落の状況に感じるものがありましたので書込みます。単調な海岸線が続く宮城県南部も津波で大きな被害を受けました。亘理町では海岸から5kmほど内陸にまで津波が押し寄せた様子が図から読みとれます。そのような中、赤く塗られた浸水区域にぽっんと着色していない区域があります。浸水を免れた高須賀集落です。高須賀とは、洪水などで水が押し上げることのない高い砂丘の地形からきた地名です。まるで今回の震災で津波から免れることを予見したかのような的確な地名ですね。先人が残してくれた地名の重みを感じた次第です。
この高須賀は藩政期の自治村で、高須賀村と呼ばれていました。阿武隈川河口の港町荒浜を端郷にかかえていましたが、いつしか荒浜の方が大きな集落になり、明治22年の町村制で荒浜村に改名してしまいました。江戸期には「高須賀村の中の荒浜」だったものが、明治22年以降は「荒浜村の中の高須賀」に逆転したわけです。
[77614] 2011年 2月 7日(月)22:46:04千本桜 さん
Re:新幹線に踏切が・・・
[77610] YASU さん
高架橋の表示がなくなった代わりでしょうか?
そのようですね。「橋および高架部」の表示を止めたことで、平面交差と立体交差の判別がつかなくなった。そこで、平面交差部には踏切記号を付すことにしたのだと思います。でも、やはり所々に間違いがあるようです。東北新幹線を東京から北に向ってチェックしてみたところ、栃木県那須町、福島県白河市で各1ヶ所、福島県桑折町で2ヶ所、宮城県大河原町で1ヶ所、新幹線の踏切記号を見つけました。あら~~~、これは有り得ないと思って、それ以上チェックするのを止めたところです。
[77608] 2011年 2月 6日(日)20:46:43千本桜 さん
ウォッちずの1/25000地形図と電子国土基本図
[77607] oki さん
今回「ウォッちず」の「電子国土基本図」を見てみたのですが、重大な難点があります。1/25000地形図では、大字と小字は文字の大きさで判別可能でしたが、「電子国土基本図」では両者とも同じ大きさで、まったく判別できません。これでは非常に困る。
同感です。しかし、これはどうも居住地名だけでなく、島や山の自然地名にも及んでいるようです。松島湾に浮かぶ個々の島々の名称と、それらを総称する松島群島という文字が同じ大きさで表されています。個々名の茶臼岳と総称の那須岳も同じ大きさで表されているところをみると、最初から「個々の名称」と「総称」の区別は考慮していないようです。
また、「樹木に囲まれた居住地」の記号がなくなっています。「建物」の記号が従来より淡彩で表示されていることもあり、地方(田園地帯)での集落の状況が非常に分かりにくくなった、というのが正直な感想です。
これも同感です。植生界や送電線や橋の表示もなくなりましたね。時代とともに地図に求められる物が変わってきたと受け止めるべきなのでしょうか。それにしても建物の色は淡すぎますね。文字情報が見やすくなる利点はありますが、少し淡すぎたようです。そのため、相対的に水部の藍色が強くなりすぎたようです。水田地帯では一条河川と水田記号がうるさく感じるでしょう。ちょっと目が疲れます。でも、電子国土基本図に踏切が表示されるようになったのは良案ですね。
[77591] 2011年 2月 4日(金)21:00:55千本桜 さん
海苔巻き、かんぴょう
[77588] 白桃さん
ウチのパソコンはどういうわけか「和田紫波志木の那珂出羽市場ん春日須木です。」となってしまいます。
私のパソコンは自動的に東北訛りに変換してくれるので「和田諏訪・・・」になります。滝川と打てば立川が出てくるし、桐生と打てば知立が出てくる。静岡などは珠洲男鹿に変換ですよ。

なんせ50年も前だし、あの頃しょっちゅう「巻きずし」食べてたから・・・。
あの頃にしては結構贅沢ですね(笑)。ただ、ナニで巻いていたかで贅沢の度合いが変わりますね。舌で巻いて食べてたりして(冗談ですよ!)。私が子供の頃、海苔はちょっと贅沢品だったようで、遠足や運動会のおにぎりは紫蘇の葉っぱで巻いてありました。卵焼きだって、うどん粉を混ぜて増量し、ふくらし粉でボリュームアップして食べたんですから。砂糖の代わりにサッカリンでしたね。サッカリンとか赤チンキ、DDTに込み上げてくるものを感じませんか。そんなわけで恵方巻など食べたことはないし、この地域にその風習がありませんでした。昔、富山県大沢野町の小さな神社に野宿した時、近所のおばさんに、とろろ昆布を巻いたおにぎりを頂いて感激しました。見た目もきれいで高級品に思えたのですが、北陸地方では普通に食べているらしいですね。

[77590] Issie さん
かんぴょう もさることながら,その原料である夕顔の実もあまり見ないなあ。
我が家では栃木からかんぴょうを貰うこともあって、たまに煮物で食べますね。この辺りでは栃木と違ってかんぴょう栽培している家はあまりないはずですが、ときどき夕顔の花を見かけることはあります。花の美しさに大味とか小味って有るのか無いのかよく分かりませんが、夕顔を見るたび、何とまあ大味なと感じますね。まじまじと見ればきめ細やかな美しさも宿しているのでしょうが。
[77582] 2011年 2月 3日(木)01:49:49【1】千本桜 さん
郵便番号
[77573] ぺとぺと さん 郵便番号データの誤収録について
[77576] にまん さん 0.1.1.0.0.0
[77579] oki さん 0.1.1.0.0.0=305
[77580] ぺとぺと さん 0.1.1.0.0.0の一部確認結果

皆さんのご意見通り、栗原市築館芋埣の件は郵便番号簿の誤記だと解釈することにします。郵便番号簿を信じていましたから、自分の方が間違っているのではないかと本気で悩んでいたのです(笑)。あれだけ膨大なデータですから誤記があっても不思議ではありませんよね。だとすると、宮城県には他にも所々に誤記らしきものが見受けられます。
[77570]で私は下記のように書きました。
変則的なところでは、大崎市鳴子温泉赤這や鳴子温泉赤湯が0.0.0.0.0.0ではなく0.1.0.0.0.0になる理由も理解できたつもりでいます。
「理解できたつもり」というのは、郵便番号簿を正当化して自分を押し殺してしまった結果です。赤這や赤湯は小字ですから直下に番地がぶらさがっています。なので0.0.0.0.0.0になるはずですが、郵便番号簿には0.1.0.0.0.0と記載されています。これは変だと思いながらも、赤這や赤湯に冠してあった大字大口が平成の合併時に廃止されたことと関連があるのかも知れないと、無理矢理自分を納得させてしまいました。気仙沼市二ノ浜や三ノ浜もそうです。本来0.0.0.0.0.0になるはずが0.1.0.0.0.0と記載されています。これもやはり郵便番号簿を正当化して自分を無理に納得させています。二ノ浜は俗に梶ヶ浦、三ノ浜は俗に鶴ヶ浦と呼ばれています。公称の字名と通称の集落名が共存しているところに、私の知らない郵便番号簿の事情が潜んでいるのかなと無理に納得したものです。郵便番号簿の誤記だと分かれば悩む必要がなかったわけですね。

なお、okiさんが0.1.1.0.0.0に該当する町域を全国で305ヶ所と弾き出しておられますが、その内の10%は宮城県に所在するものですね。仙台市、名取市、多賀城市、大崎市などに分布し、私としては小字起番の大字である(大崎市古川)稲葉と住居表示された稲葉○丁目が隣接している姿を、ごく普通のことと捉えていました。全国的に見ると意外に少ないのですね。いま再度郵便番号簿を見ているのですが、0.1.1.0.0.0と記載されて当然の仙台市の田子、福室、袋原、名取市の閖上が0.1.0.0.0.0と誤記されているのが目につきました。

書込訂正機能を使って追加書込みします。
「郵便番号データ」と書くべきところを、私が不用意にも「郵便番号簿」と書いてしまったため、皆様に誤解を抱かせているのではないかと心配になってきました。誤記が見つかったのは皆様がお使いになっている「郵便番号簿」ではなく、ネット上の「郵便番号データ」ですのでお詫びして訂正します。詳しくは郵便番号データダウンロードをご覧下さい。取り急ぎお詫びいたします。
[77570] 2011年 1月 31日(月)22:59:11【1】千本桜 さん
栗原市築館芋埣の謎
[77557] oki さん
スペースが限られる表頭部分に、「市区町村の直下の地域区分」などという長たらしい表示をしたくなかったので単純に「大字」と表現したのですが、以上の説明を丁寧にしておくべきでした。
ですよね。たぶん、そのような事情かと思いながらも、本気で宮城県に2848個の大字があると思われたらいやだなと、つい老婆心が働いてしまったものです。これで安心しました。そしてokiさんにお手間を掛けさせてしまったことをお詫びします。

[77486] でokiさんが話題にするまで、私はネット上で郵便番号簿を調べることは滅多にありませんでした。ところが日本郵便の郵便番号簿を見て、これは結構おもしろい!と、はまってしまいました。と言っても、時間の都合から目を通しているのは徳島県の一部と宮城県の全部だけですが・・・。宮城県は「"仙台市青葉区","以下に掲載がない場合"」から始まって「"本吉郡南三陸町","戸倉"」まで、3,320個の番号が割り振られています。小字毎に番地が起番されている町域の表示は0.1.0.0.0.0。丁目を有する町域の場合の表示は0.0.1.0.0.0になりますね。この番号と地名を照合し、仙台市青葉区青葉町が0.0.0.0.0.0。同じく旭ヶ丘が0.0.1.0.0.0。同じく芋沢が0.1.0.0.0.0になる理由は理解できています。変則的なところでは、大崎市鳴子温泉赤這や鳴子温泉赤湯が0.0.0.0.0.0ではなく0.1.0.0.0.0になる理由も理解できたつもりでいます。しかし、どうしても理解できない場所が1ヶ所だけあります。栗原市築館芋埣です。

芋埣周辺は宮城県で最も複雑な合併と分離を繰り返した地域で、その行政区画変遷を理解するのには大変苦労した地域です。現在と違って簡単に資料を入手できなかった時代でしたから泣かされました。現在の栗原市築館芋埣は次のような変遷を経てきました。
明治8年、芋埣村は渡丸村、泉沢村、嶺崎村と合併し宝沢村の一部となる。
明治22年、宝沢村は王沢村、片子沢村と合併して姫松村の大字となる。
昭和30年、姫松村のうち宝沢地区と片子沢地区は岩ヶ崎町などと合併して栗駒町姫松となる。王沢地区は一迫町などと合併し一迫町王沢となる。
昭和31年、栗駒町姫松芋埣の一部が分離して築館町芋埣となる。したがって栗駒町芋埣と築館町芋埣が存在する。
この複雑な変遷が関係しているのかどうか分かりませんが、郵便番号簿では築館芋埣の扱いがどうも変なのです。

マピオンで住所検索をすると、築館芋沢の下部に日照田や沼ヶ崎などの小字が出てきます。日照田4番地沼ヶ崎4番地があることから判断すれば、築館芋埣は「小字毎に番地が起番されている町域」に該当し、その表示は0.1.0.0.0.0になるはずなのに0.0.0.0.0.0と表されています。これが全く理解できない。お手上げです。ちなみに、隣接する栗駒芋埣は0.1.0.0.0.0と表示されています。

わ~~、全くお手上げです。築館芋埣日照田4番地をちゃんとリンクしたのに、地図は栗駒芋埣を指している。何かが変です。

書込訂正機能を使って追加書込みします。
マピオンだと栗駒芋埣を指してしまうので、ヤフー地図で築館芋埣を表示します。築館芋埣日照田4と入力して検索すると、築館芋埣地内の地図が表れてきました。やはり築館芋埣の下部には日照田や沼ヶ崎などの小字があって、それぞれの小字ごとに起番されているようです。そのような区域は0.1.0.0.0.0となるはずなのに、なんで0.0.0.0.0.0なのか悩ましい。
[77547] 2011年 1月 29日(土)19:49:02千本桜 さん
Re:再び、小字について
[77486] oki さん
日本郵便は、ほぼ毎月、全国の郵便番号簿を改定しており、ネット上からダウンロードできます。この郵便番号簿には、「小字毎に番地が起番」という欄があり、これをチェックすることで、全国の大字地域について、それが小字起番かどうかを確認することができます。昨年の2月くらいに、これを使って小字起番地域の分布を調べた結果が以下の表です。
都道府県名 大字数 小字起番 小字起番率
宮城県    2848   773    27.1
レスのタイミングがずれてしまって失礼します。okiさんのネット検索の高い能力には毎度感心しています。郵便番号簿のように有益なサイトを提示して頂けて大変ありがたく思っています。しかし宮城県の大字数が2848個というのは納得できません。この数字は大字の他に住居表示実施で発生した町と多数の小字を含んでいるはずです。明治22年当時の大字数をベースにその後の廃止や新設による変動を加減すれば、宮城県の現況大字数は700前後になるのではないかと推測しているところです。

大字とは市町村の直下にある地名で、多くの場合江戸時代の近世村ですが、そうでない場合もあります(住居表示された丁目地名やビル名は、小字起番があり得ないので除去してあります)。
住居表示された丁目地名は小字起番があり得ないので除去しているとのことですが、丁目がない住居表示済みの町も同様に扱うべきだと思います。仙台市国分町には一丁目、二丁目、三丁目があるから小字起番があり得ず、従って大字ではない。しかし立町春日町には丁目がないから大字扱いにするというのはまずいでしょう。

徳島や宮城は小字起番の割合が30%程度になっていますが、これらの県では大字が分解されてかつての小字が市町村の直下に組み込まれる事例が少なくなく、この場合は小字が大字扱いになってしまいます。
宮城県では大字の分割や廃止でかつての小字が市町村の直下に組み込まれても、小字は小字のままなのが普通だと思います。2006年に[51948]EMMさん、[51966] 矢作川太郎さん、[51973] EMMさん、[51988] 千本桜が話題にしている宮城県登米郡南方町(現・登米市南方町)を例に出します。南方町は昭和53年に大字を廃して自治体+大字+小字の住所を自治体+小字に改めました。現在、日本郵便はその小字一つ一つに異なる郵便番号を付して南方町を159個の番号で区分けしています。oki さんはその159個を大字数と数えておられるようですが本当の大字数は0です。同じように刈田郡七ヶ宿町も小字ごとに105個の郵便番号が設定してあって大字はありません。気仙沼市本吉町も104個すべて小字で大字なし。栗原市高清水町も99個すべて小字で大字はありません。こうして数えて行くと宮城県の大字数2848はあり得ない数字になります。これは宮城県に限らず徳島県でも同じだと思います。例えば徳島県吉野川市山川町の区域は121個の郵便番号で区分けされていますが、この121個を大字の数とするのは感覚的に受け入れにくいことです。もともと旧山川町は大字を編成していませんでしたから、合併して吉野川市山川町になった現在も大字なしの小字地帯であることに変わりはないと思うのです。

okiさんがなぜ「大字が分解されてかつての小字が市町村の直下に組み込まれると小字が大字扱いになってしまう」と考えておられるのか不思議でした。この謎を解く鍵は okiさんの故郷にあるのではないかと思い徳島県阿南市に飛んでみました。国土地理院地形図、角川日本地名大辞典、郵便番号簿、マピオン地図、Yahoo!地図の航空写真を用いてのバーチャル旅行です。一夜漬けの勉強ですが少し阿南市のことが解った気がします。そして okiさんの発想の原点らしきものに触れたような気もします。確かに阿南市には大字が分解されて、かつての小字が大字扱いされているような事例がありました。
明治22年、富岡町、石塚村、領家村、覚原村、西路見村、七見村、日開野村、黒津地浦、辰己新田村、原ヶ崎村、豊益村、芥原村の12ヶ町村が合併して富岡町が成立。富岡、石塚、領家、学原、西路見、七見、日開野、黒津地、辰己、原ヶ崎、豊益、芥原の12大字を編成。この地域は現在、富岡町、領家町、学原町、西路見町、七見町、日開野町、黒津地町、辰己町、原ヶ崎町、豊益町、住吉町、向原町、出来町、畭町、福浦町の15大字に変化しています。大字芥原が住吉町に改称。大字富岡が大字石塚を統合。大字西路見が西路見町、向原町、出来町、畭町、福浦町に分解。ざっとこんな流れでしょうか。 大字小字を語る上で少なからず大字西路見の分解がokiさんを左右していたのではないかと想像しています。間違っていたらごめんなさい。
[77407] 2011年 1月 12日(水)12:56:57千本桜 さん
宮城県の国勢調査速報が出ました
宮城県の国勢調査速報が出ました。仙台市が予想を超える頑張りで20,804人の増加。
不景気風が吹く仙南地域の中にあってスーパータウンは201人の増加。敢闘賞!
[77119] 2010年 12月 27日(月)00:33:18千本桜 さん
卯名沢は小字
[77111] k-ace さん
町名・大字名のみを対象とし、小字名は割愛。
気仙沼市本吉町卯名沢

本吉町は大字を編成していませんので、卯名沢は小字として扱うのが妥当かと思われます。当然ですが、近隣の中島下宿今朝磯などもすべて小字で、敢えてそれらを総称する大字相当の地名を挙げるなら小泉(藩政期の小泉村)になります。旧小泉村の中心となる小字は。藩政期の小泉村は明治22年(1889)に他村と合併せずに単独で町村制下の小泉村になりましたから、大字を置く必要がなかったのです。昭和30年に小泉村、津谷村、大谷村が合併して本吉町が成立しましたが、やはり大字は置かずに、自治体名(本吉町)の後ろに直接 小字名を書くことになっています。
[77093] 2010年 12月 23日(木)19:21:14千本桜 さん
引綱から唐琴へ、平から金ヶ瀬へ
[76203] hiroroじゃけぇ さん
落ち着いて書き込みする時間がとれず、ご返事が遅くなって申し訳ありませんでした。
唐琴は明治22年まで存在した引網村のことではないかと推察します。もし、地理範囲に変わりがないなら、今も引綱と呼ばれて良いはずなのに、どうして唐琴に改称したのでしょうか。
という私の問い掛けに
人口が集中する「唐琴」を採用したのではと推測しています。
との回答を頂きましてありがとうございました。私も人口や居住空間(集落)が少なからず作用しているだろうと感じています。そこで、私なりに藩政期の引綱村が現在の倉敷市児島唐琴町に変化する過程を追ってみました。
明治22年、引綱村と田ノ口村が合併して町村制下の田ノ口村が発足。引綱村の区域は田ノ口村大字引綱となる。
明治40年、田ノ口村と鴻村が合併して琴浦村が発足。田ノ口村大字引綱の区域は琴浦村大字引綱となる。
大正4年、琴浦村が町制施行。琴浦村大字引綱の区域は琴浦町大字引綱となる。
昭和31年、琴浦町と児島市が合併して(新)児島市が発足。琴浦町大字引綱の区域は児島市唐琴町となる。
昭和42年、児島市と倉敷市、玉島市が合併して(新)倉敷市が発足。児島市唐琴町の区域は倉敷市児島唐琴町となる。
昭和46年、倉敷市児島唐琴町に住居表示が実施されて倉敷市児島唐琴1~4丁目となる。住居表示が未実施の区域は倉敷市児島唐琴町のまま残留。
昭和31年に大字引網を唐琴町に改称したようですね。ここまでは調べることができたのですが、なぜ引綱ではダメだったのかについては分からずじまいです。実は、宮城県でも昭和31年に大字平(藩政期の平村)が金ヶ瀬という地名に改められています。あまり参考にならないかとは思いますが、平が金ヶ瀬に変化して行く経緯を紹介します。
【第1段階】
寛永14年(1637)、6月23日朝より大雨。24日雨止まず。25日雨止まず。26日洪水。この洪水で刈田郡宮村(現・蔵王町)の金ヶ瀬宿は流出して河原と化した。同じ場所での再建は方策がたたず、領主の片倉重長は伊達藩主に請願して柴田郡平村(現・大河原町)の畑地を拝領し、そこに屋敷割りを実施して、侍1、町足軽27、百姓修験1、百姓16、計45軒を移転させることにしました。
【第2段階】
寛永19年(1642)、金ヶ瀬宿が平村の南西部に移転して宿駅業務を再開する。この時に形成された町並みは、後に増設される金ヶ瀬新町に対して金ヶ瀬本町と呼ばれます。
【第3段階】
享保6年(1721)、金ヶ瀬宿の貨客増加に伴い、平村の村落部に住む農民90軒を強制移住させて金ヶ瀬宿を拡張する。この時に増設された町並みは金ヶ瀬新町と呼ばれます。金ヶ瀬本町と金ヶ瀬新町は途切れのない一連の町並みになっていて、安永風土記には、本町 長サ三丁拾弍間 家数四十五軒。新町 長サ八丁 家数九十三軒と書いてあります。この時点で平村の村落部に住む住民と金ヶ瀬町場に住む住民の比率が完全逆転しましたから、平とは金ヶ瀬のことという感覚が生まれ始めてもおかしくないと思います。対外的な知名度は、地籍上の村名「平」よりも町場名「金ヶ瀬」の方が勝ってしまったのではないかと想像します。
【第4段階】
明治22年(1889)、平村、堤村新寺村が合併。平村の町場名をもって金ヶ瀬村になりました。旧3村は、平村が金ヶ瀬村大字平、堤村が金ヶ瀬村大字堤、新寺村が金ヶ瀬村大字新寺となりました。
【第5段階】
昭和31年(1956)、金ヶ瀬村は大河原町に合併。村内の旧3大字は、大字平が大河原町金ヶ瀬、大字堤が大河原町堤、大字新寺が大河原町新寺となりました。この段階で大字平(藩政期の平村)は金ヶ瀬という名に置き換えられて消滅しました。
こうしてみると、平は金ヶ瀬に庇を貸して母屋を取られた格好ですが、私としてはあまり抵抗感がないんですよね。リアルタイムのできごとではなく、昔のできごとだからというのも少しはあります。しかし、何よりも大きいのは、へんちくりんな大字のエリア変更がなかったこと。過去の歴史が見えなくなるような大字の領域変更がなかったこと。天保郷帳や安永風土記などの古い書物に書かれている「平村」をそっくりそのまま「金ヶ瀬」に置き換えれば意味が通じる状態に保たれたこと。それが一番の理由です。大字の変更で私が一番恐れるのは、無感心なるが故に安易な領域変更に走る行政による歴史破壊です。これがリアルタイムで目の前で行われたなら、たまったもんじゃありません。
[77083] 2010年 12月 22日(水)19:38:07千本桜 さん
市区町村変遷情報および『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』
[76590]88 さん
静岡県(336件)、長野県(391件)の計1,257件(いずれも町村のみ)の一括登録をしていただきました。
いつも感謝しながら市区町村変遷情報を利用させていただいております。ところで、市制町村制施行時の情報の静岡県ですが、「市制町村制施行前の町村名等」を記載する欄に「施行後の町村名」が掲載されているようです。88さんが間違う筈はないという前提で見ていますから、もしかして私の方が見方を誤っているのかな?と少々頭が混乱していますが、念のため御確認おねがいします。

[76822]YT さん
『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』 東北編
天保郷帳では陸前国栗原郡92村ですが、旧高旧領取調帳では1つ増えて93村になっています。どうしてかなと調べたところ、明治4年(1871)に真坂村から北沢村が分村したことによる増加のようですね。北沢村は江戸期の昔より独立した1個の自治村だと思い込んでいましたが、YTさんの『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』の村数比較を見て、勘違いしていたことに気がつきました。ありがとうございました。ところで、旧高旧領取調帳では羽前国置賜郡292村2町となっていますが、その2町がどこなのか、御存知でしたなら教えて頂けないでしょうか。
[77082] 2010年 12月 22日(水)19:26:40千本桜 さん
鈍感都市
[76095] 白桃 さん
その市の郊外?にあるバス停に到着
そのバス停は大内バスストップのことだと推察しますが、そこで下車した人の数が気になりました。そして仮に、利用客が少ないことを理由にバス会社が大内バスストップへの停車をやめると通告してきたなら、東かがわ市の行政や住民はどんな行動に出るのだろうと考えてしまいました。A・バス会社に停車継続を働きかける。B・行政も住民も無関心のままやりすごす。さあ、東かがわ市はA・Bどちらをとるでしょう。
こんなことを書きますのも、昨年2月から岩沼、大河原、白石に東京行き夜行バスが停車しなくなり、宮城県南部は長距離バスの空白地帯になってしまったからです。私は訳あって大河原、白石両バス停の乗客数を時折チェックしていましたが、乗車する人が非常に少なく、バス会社が停留所を廃止したくなるのも分からないわけではありませんでした。しかし、地域には地域の側の論理があって当然で、東京行きのバスは地域にとって必要、交通機関は都市戦略に欠かせないアイテム、だから通過措置は回避して欲しいと、ダメもと承知で行政が声をあげるのを期待していましたが、その声も聞かれないまま実質バス停廃止に至りました。こうして大河原は東京と直結する交通手段を失ったのですが、それでも平然としていられるのは都市として鈍感すぎ。なにしろ、18万人圏域の中心地としての役目を背負っているのですから、もっと敏感にならなくちゃと思うのです。
そこで、国の出先機関配置から見た東北地方の拠点都市を書き出します。対象となる役所は「地方裁判所またはその支部」、「法務局またはその支局」、「国税局の税務署」の3つに絞ります。東北地方の都市で3機関がすべて設置されているのは青森、五所川原、弘前、十和田、八戸、盛岡、二戸、宮古、花巻、水沢、一関、仙台、気仙沼、石巻、古川、大河原、秋田、大館、能代、本荘、大曲、横手、山形、酒田、鶴岡、新庄、米沢、福島、会津若松、郡山、白河、相馬、いわきの32市1町です。平成の大合併後の自治体にまだ馴染めないので、合併前の自治体を念頭に置いて書きました。このそうそうたるメンバーの中に名を連ねながら、東京との直結交通手段もなければホテルもない大河原町って、やっぱり異色ですね。
[76288] 2010年 10月 2日(土)08:19:57千本桜 さん
児島、日比、水城の御礼
[76203] hiroroじゃけぇさん
[76204] かぱぷうさん
[76205] 中島悟さん
[76263] hiroroじゃけぇさん
私の疑問にお応え下さいましてありがとうございました。拝読いたしましたのに、御礼の書込みが遅れて申し訳なく思っております。実は[76196]を書込んだ後に、敬老会、同級会などの準備や種々の会合が重なって舞い込み、落ち着いて書込みをする時間がとれない状態に陥っておりました。この後も、村の鎮守の秋祭りやカラオケフェステバルに追われますが、それらが終われば書込み可能な状態に戻れると思います。塩生・通生・宇野津をまとめて本荘と呼ぶ習慣はないのだろうか?など、お尋ねしたい事はまだまだあるのですが、取り敢えず御礼まで。
[76196] 2010年 9月 16日(木)08:22:18千本桜 さん
児島、玉野市日比、太宰府市水城
[59333] hiroroじゃけぇ さん
地元における一般的な区分は、
児島(味野・小川・琴浦・田ノ口・唐琴・赤崎・由加をまとめて)
下津井
塩生(しおなす)・通生(かよう)(リンク先は塩生)
郷内
と分かれています。自治体の変遷とは必ずしも一致していませんので分かりづらいでしょう。大まかに言えば、山に囲まれ東側または南側が海の地域が児島、それ以外は別々と言うことです。
児島に関して幾つかお尋ねします。
1・公的な行政区分ではなく、世間の一般的な人々の地理意識を知りたいので教えてください。琴浦から少し離れた地域の人々、例えば下津井や日比の人は琴浦の地理範囲をどのように捉えているのでしょう。A・下の町・上の町の区域を琴浦と呼んでいる。B・下の町・上の町・田ノ口・唐琴・由加・白尾の全域を琴浦と呼んでいる。捉え方は世代によって違いがあるかもしれません。そこで、1つはhiroroじゃけぇさん世代の感覚で捉えた琴浦。もう1つは70才以上の高齢者の感覚で捉えた琴浦。二者の立場からの琴浦を解説いただけたなら幸いです。
2・唐琴は明治22年まで存在した引網村のことではないかと推察します。もし、地理範囲に変わりがないなら、今も引綱と呼ばれて良いはずなのに、どうして唐琴に改称したのでしょうか。
3・塩生(しおなす)・通生(かよう)で1つの区域とした場合、宇野津はどこへ行ってしまうのでしょう。塩生に含まれるのでしょうか。
4・次に、現在の公的な住所地名の話に移ります。旧児島市の区域では、大字に相当する町丁名のほとんどが児島を冠して倉敷市児島○○と表記するのに、郷内村、下津井町および味野町の菰池だけは児島を冠称しません。何故でしょうか。後に児島市に編入された郷内村の区域が児島を冠称しないのは理解できますが、児島市発足当初から児島市に組込まれていた下津井町と味野町の菰池地区が児島を冠しない理由がわかりません。児島を冠せず、いきなり倉敷市下津井、倉敷市菰池になるのが不可解なのです。赤崎が倉敷市児島赤崎ですから、菰池は倉敷市児島菰池になるのが一般的だと思うのですが・・・。
5・さらに不可解なのは下津井の大畠です。明治22年以前、下津井町の区域は下津井村、吹上村、田ノ浦村、大畠村に分かれていました。現在の住所表記は、下津井村の区域が倉敷市下津井、吹上村の区域が倉敷市下津井吹上、田ノ浦村の区域が倉敷市下津井田ノ浦なのに、大畠村の区域は下津井を付さずに倉敷市大畠です。大畠村の区域が児島も下津井も冠称しないのはなぜでしょうか。

玉野市やその周辺に住む世間の人は、日比の地理範囲をどのように捉えているのでしょう。
A・日比という地名を耳にすると、藩政期の日比村に相当する区域を思い浮かべる。
B・日比という地名を耳にすると、日比に渋川和田を加えた区域を思い浮かべる。
C・日比という地名を耳にすると、日比、渋川、和田にを加えた区域を思い浮かべる。
私の関心は、今も日比という地名が玉を包含する力を持っているかどうかにあります。

かぱぷうさんへ
太宰府市近隣、例えば筑紫野市や大野城市の人たちは、水城という地名が及ぶ地理範囲をどのように捉えているか知りたいので教えてください。
1・太宰府市水城あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、と言い習わしている。
2・太宰府市坂本あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、C・坂本へ行くと言い習わしている。
3・太宰府市通古賀あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、C・通古賀へ行くと言い習わしている。

明治22年、藩政期の水城村, 国分村, 坂本村, 観世音寺村, 通古賀村, 片野村, 吉松村, 向佐野村, 大佐野村の9村が合併して町村制下の水城村が誕生しました。これら旧9村は水城村の大字に引継がれ、後に太宰府町の時代を経て、太宰府市の大字・町丁名に継承されています。ところが、旧9村のうち片岡村の名称だけは現在の太宰府市の住所地名に見当たりません。ここから先は推測で書きますが、大字片岡(旧片岡村)は住居表示が実施されて朱雀○丁目になり、住所地名としては消滅してしまったのでしょう。私の関心は、この片岡という地名が世間の人に今も使われているかどうかにあります。かぱぷうさんは片岡という地名を口にしたり耳にしたことはありませんか。もし、かぱぷうさん世代になじみのない地名だとしても、住居表示が実施される以前に物心がついていた人たちは今も片岡という地名を使っているかもしれません。高齢者が片岡を口にしているのを耳にしたことはありませんか。
[75500] 2010年 7月 19日(月)18:13:52千本桜 さん
田老森崎
[75493] 2010 年 7 月 17 日 (土) 22:55:15 しんちゃん さん
岩手県宮古市田老森崎(郵便番号0270354)という所があります。しかし地図検索しても指示点はありますが、どの地図にも字名が書かれていません。どんな所なんですか。

宮古市田老森崎の名称と字界はちず丸で確認できます。ただし、字界の精度は保証できません。マピオンで田老森崎43番地を検索するとこの場所が表示されますが、ちず丸は そこを田老末前の領域にしています。どちらかがズレているわけですが、この場合に限って判断するなら、ちず丸の字界線がズレている可能性が高いと思います。また、ちず丸やマピオンの他に国土地理院ウォッちず2万5千分の1地形図併用をおすすめします。2万5千分の1地形図には森崎の表記がなく、字界も表示されていませんが、地形や集落への想像をかきたててくれます。

森崎は町村制が敷かれる明治22年以前は末前村の字(あざ)でした。角川地名大辞典によると、末前村の字(あざ)は七滝・青倉・立腰・日影山・森崎・末前・和山・鈴子沢の8字です。ただし、日影山は現在、日影と呼ばれているようです。ちず丸は この8字名を全部表示していまが、ウォッちず2万5千分の1地形図は森崎・日影・和山の3字名を表記していません。2万5千分の1地形図の集落名表記は、地籍の上で存在するかどうかではなく、地図の上で集落としての図形が確認できるかどうかで決まります。ですから、家屋が存在しない字(あざ)の名称は表記されず、家屋が少ない字(あざ)も名称表記がされないことがあります。また、ひとかたまりの集落に見えても、複数の字(あざ)に跨がっているものが多々あります。この場合、すべての字名を表記すると繁雑になり、等高線・河川・道路・家屋・植生などの表示に悪影響をおよぼすので、代表的または総称的な地名のみを表記し、他は省略します。

森崎が2万5千分の1地形図に表記されなかった理由は、家屋が少ないことに加え、中心集落の末前と ひとかたまりの集落とみなされ、省略されたからではないかと思います。世に出回っている多くの地図は、国土地理院の地図を基にして作られています。地理院2万5千分の1地形図に記載されない地名は、他の地図にも記載されないことが多くなります。森崎もその例でしょう。

末前村の字だった森崎は明治22年、末前・田老・乙部・摂待の4村合併で田老村(後に田老町となる)が成立すると、田老村大字末前の小字になりました。住所は昭和59年まで田老町大字末前第5地割字森崎○○番地と表記していたようです。昭和59年に字(あざ)の名称変更があり、大字末前第5地割の字句を外して田老町字森崎になりました。この名称変更に関する資料が見つかりましたので貼っておきます。その後、平成17年に田老町は宮古市・新里村と合併し、田老町字森崎は宮古市田老森崎となって現在に至っています。
[75490] 2010年 7月 17日(土)17:05:46千本桜 さん
間違い探し
[75488] 白桃 さん
東かがわ市の合併等の経過図ですが、一部が間違っていますね。
横レスをお許しください。福栄村を構成する入野山村が記載もれですね。

三本松高校の同級生だった市長に言っとこう・・・
この系統図を東かがわ市の市長に見せて、間違い探しをしてもらいましょう。ヒントなしで一瞬に間違いを探し当てたら、頭をなでなでしてあげて下さい。そのとき、ついでに次のことを市長に質問して下さい。
「中筋地区と三本松地区の家並は連続状態ですから、中筋○○番地を三本松○○番地に改めましょうよ。中筋なんて田舎臭い大字名を捨て、都会的な三本松を名乗らせてやれば住民は喜びますからね」。これに対して「いいアイディアだ!」などと乗って来たなら、頭をゴッツンしてやりましょう。藩政村が大字として継承されてきた歴史の重みを認識させましょう。
東北地方の某町では、住所政策担当者にこの認識が足りません。藩政村とか大字の歴史を知っている住民はいないから、大字の名称や領域を変更しても良いのだそうです。変な理屈ですね。
[75322] 2010年 6月 8日(火)22:02:35千本桜 さん
サントス生まれの編集者が選ぶ福岡県の三都市
茨城県:水戸、土浦、日立
(たとえ時代遅れといわれても、まだ この3都市に執着します。“つくば”をいまいち理解できていないからかな)
埼玉県:さいたま、熊谷、川越
(さいたまは浦和それとも大宮?、それが第3位選びに少し影響しますが、川越が伝統の重みで所沢を押し倒し)
千葉県:千葉、銚子、館山
(千葉県の形状を思うと銚子、館山を配置したときが最も安定感を感じます。柏、船橋ごめんなさい)
新潟県:新潟、長岡、上越
(第2位長岡、第3位上越、ともに順当かと思います)
岐阜県:岐阜、高山、大垣
(第2位は岐阜の勢力が及ばない高山。第3位は大垣と多治見が決戦して大垣に)
静岡県:静岡、浜松、沼津
(沈丁花は枯れても香しという諺は沼津のためにあるような)
愛知県:名古屋、豊橋、岡崎
(第2位はすんなり豊橋に決定。第3位は岡崎と豊田が決戦の末に岡崎の判定勝ち)
兵庫県:神戸、姫路、豊岡
(第2位は迷わず姫路。第3位は独自の都市圏を形成し小粒でもピリリと辛い豊岡。尼崎、西宮ごめんなさい)
福岡県:福岡、北九州、久留米
(サントス生まれでトスマニア島育ちの編集員は福岡、北九州、鳥栖を選びました。いくらトスマニアでも、やりすぎでしょう。でも鳥栖は福岡県三都市の一つに選ばれて喜んだそうです。唐津は福岡県三都市から漏れてがっかり。佐賀県って・・・)
[75311] 2010年 6月 7日(月)08:35:41千本桜 さん
Re:県下三都市決定戦
[75271]で書いた
広島県には3つの都市を記載して広島県であることを伝えようとしています。広島、福山、もう1つはどこでしょう。
答えは廿日市でした。

[75306] 白桃 さん
以下の9県で3つの都市をお選びください。
時間がないので取り敢えず、番外・大阪府の「酒の肴編」です。
市りとりマニアの編集者は大阪府の地図に大阪、門真、松原の3都市を表記しました。これにクレームをつけたのは先輩編集者でした。3都市が近くに固まりすぎているというのです。そこで先輩編集者は手本を示しました。いいか、よく見ておけ。大阪府全体を見渡して摂津、和泉、河内の3国にそれぞれ1都市ずつ配置するのがベストなんだ。そして大阪、貝塚、河内長野を選びました。どうやら、この先輩も市りとりマニアだったみたいですね。こんな末期症状の地図編集現場を見て、堺、岸和田、高槻、枚方の面々は、あまりのばかばかしさに第2都市、第3都市に立候補するのをやめたそうです。
[75271] 2010年 6月 4日(金)20:57:10千本桜 さん
Re:イバラキの市に突っ込みを入れてみる
[75263] 白桃 さん
孤軍奮闘しているようなので援軍参加します。さっき、本屋で立ち読みしたプレジデント別冊、なかなか面白かったです。内容が「出世・結婚・お金は県民性で9割決まる」とかで、各県ごとに、ものすごく簡単な地図が載っているわけです。どんな地図かというと、県の輪郭と主要都市が3つ4つ載っているだけで、他の情報は一切なし。たぶん、こういう簡略な地図を真剣に見る人は少ないと思うのですが、主要都市の選択が実に面白い。たとえば、鳥取県は県の輪郭の中に鳥取、米子、倉吉の3都市をプロットして鳥取県であることを表しています。これは順当な選択ですね。山形県は山形、酒田、米沢を選択。3都市だけで山形県を伝えるなら、これも順当。新潟県にも3都市がプロットされています。新潟、長岡とくれば残り1つはあの都市だと思うでしょう。ところが、あの都市ではなく糸魚川を選択しています。なんでやねん。宮崎県も延岡を外して、宮崎、都城、日向を記載。肩透かしを喰らいました。福島県には4都市をプロット。福島、郡山、いわき、そして喜多方!。なんで喜多方?。会津若松が怒るで。ここでクイズです。広島県には3つの都市を記載して広島県であることを伝えようとしています。広島、福山、もう1つはどこでしょう。思わず、うにゃ~とするような都市が選択されています。
では本題の茨城県に突っ込みます。こういう簡略な地図の場合、水戸、土浦、日立の3都市を記載すれば済むだろうと考えるのは、どうやら時代遅れの男たちの感覚みたいです。この地図では水戸、日立、つくば、取手を選択し、土浦を外しています。つくばが土浦に取って代わる。これも時代の流れかなと納得しようと努力してはいるのですが、どうにも納得できないのは、つくばに県都のマークが付され、水戸はその他の一般都市と同じマークで扱われていることです。関東あたりでは水戸って、そんなに影が薄いんでしょうか。(笑)
[75252] 2010年 6月 3日(木)22:49:15【1】千本桜 さん
東北地方の自治体を越える地名
青森県上北郡六戸町大字犬落瀬/青森県三沢市大字犬落瀬
青森県三戸郡五戸町大字上市川/青森県八戸市大字市川町
岩手県花巻市成田/岩手県北上市成田
宮城県大崎市田尻北小牛田/宮城県美里町南小牛田
宮城県大崎市鹿島台木間塚/宮城県遠田郡美里町木間塚
宮城県黒川郡富谷町明石台○丁目/宮城県仙台市泉区明石南○丁目
宮城県黒川郡富谷町東向陽台○丁目/宮城県仙台市泉区向陽台○丁目
宮城県仙台市泉区南中山○丁目/宮城県仙台市青葉区中山○丁目
宮城県仙台市青葉区小田原○丁目/宮城県仙台市宮城野区小田原○丁目
宮城県仙台市青葉区花京院○丁目/宮城県仙台市宮城野区花京院通
宮城県仙台市青葉区五橋○丁目/宮城県仙台市若林区五橋○丁目
宮城県仙台市青葉区土樋一丁目/宮城県仙台市若林区土樋一丁目
宮城県仙台市青葉区茂庭/宮城県仙台市太白区茂庭
宮城県仙台市若林区四郎丸/宮城県仙台市太白区四郎丸
秋田県仙北郡美郷町金沢/秋田県横手市金沢・金沢本町・金沢中野
山形県新庄市大字本合海/山形県最上郡大蔵村大字合海
山形県尾花沢市大字五十沢/山形県村山市大字五十沢
福島県伊達郡国見町大字西大枝/福島県伊達市梁川町東大枝
福島県福島市松川町下川崎/福島県二本松市下川崎
福島県田村郡三春町大字南成田/福島県田村市船引町成田
福島県双葉郡大熊町大字小良浜/福島県双葉郡富岡町大字小良ケ浜

秋田県の美里町を美郷町に訂正。
[75196] 2010年 5月 27日(木)20:43:27千本桜 さん
市場統合
河北新報の報道によると、今年9月ごろをめどに大河原町地方卸売市場、白石市地方卸売市場、角田市地方卸売市場の3市場が統合。白石市、角田市の市場を閉鎖し、大河原町の市場に機能を集約するとのことです。またしても市町逆転。市の都市機能が町に引き寄せられる不思議な地域の、地味なローカルニュースでした。
[75176] 2010年 5月 23日(日)08:07:24千本桜 さん
♪ウミはステキだな~
大磯がハズレだとすると、あとはアソコしかないと思うのですが、人口資料を持ち合わせていないので確認できません。そこで推測ですが、1920年当時に人口1万超の町になっていた要因は炭坑にあり、1960年当時2万人超の町になっていた要因は母都市Fの膨張によるベッドタウン化にあると考えてよろしいでしょうか。すると答えはウミ。
[75169] 2010年 5月 22日(土)20:59:20千本桜 さん
大忙し
[75167] 白桃 さん
これの正解はもちろん音更町なんですが、実は、全国でいうと、もうひとつだけあるのです。
昭和35年には既に人口集中地区を形成していた あの町だと思いますが確認できません。なぜなら、私はいま大忙しだから。
[75156] 2010年 5月 22日(土)02:38:17千本桜 さん
四国旅行
[74078]で書いた四国旅行の件、先週実行して参りました。個人の自由が利かない団体旅行でしたが、晴天に恵まれ、穏やかな瀬戸内の風景を久しぶりに眺めることができました。伊丹空港を出発したバスは中国池田IC→(中国自動車道経由)→神戸JCT→(山陽自動車道経由)→神戸西IC→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路ICのルートを走行して淡路夢舞台へ。夢舞台を全部見るには3時間ほど欲しいのですが、許された滞在時間は40分だけ。我が家のジギタリスやラベンダーはまだ蕾さえ付けていないのに、淡路島では もう咲いているのですね。広い園内の一画だけを見て回り、昼食のため旧東浦町の海鮮料理屋へ急ぎました。このあたりは40年ほど前に自転車で走り抜けていますから、久しぶりの再訪問になります。

昼食後は淡路島の北辺をなぞるように岩屋経由で海辺の道を走り、研修先の旧北淡町のとある施設へ向かいました。研修終了後は北淡ICから鳴門北ICまで神戸淡路鳴門自動車道を走行して大鳴門橋架橋記念館へ。記念館の展望台から眺める風景は明るい日差しを浴びて美しく、海上遊歩道「渦の道」のガラス床から覗き込んだ海もスリルがあって良かったです。この日の宿は大毛島にある大きなリゾートホテル。阿波踊りのショーを見ながらの宴会でした。

翌日は7時30分にホテルを出発。バスガイド嬢によると徳島県には市が4つあるそうな・・・。「徳島市、鳴門市、阿南市、えーと、あと1つは、小松島市ですね。」と言っていました。バスは神戸淡路鳴門自動車道、高松自動車道、徳島自動車道を乗り継ぎ、8時30分には美馬市の脇町に到着しました。平日の朝、まだ観光客がいない静かなうだつの町並みを目にして、私は正直舞い上がりました。宮城県では こんな素晴らしい町並みを見ることができません。でも、脇町観光に割り振られた時間はたった30分。ガイド嬢は300mほど先を指し、「あそこまで行ったら戻って来て下さい」と案内していましたが、それを無視して500m先の脇町劇場オデオン座、そして中心街の県道12号沿線商店街を見て回りました。

脇町観光の次は金比羅参りです。金刀比羅宮へは脇町→(県道12号を西へ走行)→美馬町→(国道438号経由)→琴平のルートで行きました。国道438号を進むにつれて高度が上がり、眼下に吉野川流域の風景が広がって、遠くに貞光の町が見えました。琴平の滞在予定は昼食を含めて2時間弱ですからハードスケジュールです。本宮まで登るのを諦めて途中で引き返し、参道新町商店街JR琴平駅琴電琴平駅神明町商店街→参道の順で町歩きをしました。琴平は町なのに田舎の市より都会的。昔も今もスーパータウンです。参道の食堂で早めの昼食を済ませ、松山へ向って出発。善通寺ICから先は松山自動車道を ひた走るだけなのでガイド嬢も一休み。車内はお昼寝タイムに入って静かになりました。

午後2時に松山のとある施設に到着。そこで研修交流会を済ませて子規堂へ。再びガイド嬢の出番到来です。ガイド嬢によると松山市は人口46万、四国一の大きな都会だそうな・・・。人口にうるさい人がいなかったのはガイド嬢にとって幸いでした。みんなの関心は人口よりも土産品選びにあるようです。個人的には中心商店街の銀天街と大街道を歩きたかったのですが願いは叶わず、バスは子規堂から市役所、県庁、三越前を通過して松山城ロープウェイのりばへ移動。松山は2度目ですが、松山城に登るのは初めてです。天守閣から見渡す市街地の規模は、宇都宮と同じ程度かなと感じました。ロープウエイの下り最終運行が午後5時ということで、早めに下山して道後温泉に向かいました。

その夜の宿は温泉街のどまんなか、あの有名な道後温泉本館の近くでした。平日なのに道後温泉本館の周りは観光客で賑わっていました。こんなふうに賑わっている温泉街を見るのは、3年前に見た草津温泉以来のことです。この道後温泉と宮城県の秋保温泉は年間宿泊客数がほぼ同数ですが、景観は道後の方がずっと大きな温泉場に見えます。秋保は施設が充実した大規模旅館が多く、遊びも買物も旅館内で済ませてしまうので温泉街が育たないようです。秋保って、そんなに大規模旅館が多いのか?と訝る方のために、秋保と道後の旅館規模を比較をしてみます。宿泊収容人数100人以上の旅館を対象に規模別分布を調べると次のようになります。
宿泊収容人数秋保温泉道後温泉
900人以上2軒0軒
700~899人3軒1軒
500~699人1軒1軒
300~499人3軒9軒
100~299人4軒6軒
宿泊した旅館は道後温泉の中でもハイクラスの旅館でしたが、秋保温泉の大規模旅館に慣れてしまった身には少々物足りなさを感じました。私はこれを秋保症候群と呼んでいます。旅館の中に各種施設が整っていないと、どのようにして時間を過ごせば良いのか分からなくなる症候群です。たぶん、仙台周辺には秋保症候群に陥っている人が他にもいると思います。

翌朝は5時に起きて温泉街を散歩しました。道後温泉駅前のからくり時計を眺めていると、「昨夜は明かりがついて綺麗でしたよ」と背後から声をかけられてびっくり。ふりむくと左手にお酒、右手にカップラーメンを持ったホームレスのおじさんが優しい まなざしで こっちを見ています。おじさんは一定の土地にとどまっていられない病気なのだそうです。ひとつ どうです、と酒をすすめられましたが遠慮しました。7年前に隅田川の川べりで博識なホームレス氏にビールを御馳走になりましたが、今度のホームレス氏もなかなかで、「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の・・・・」と茂吉の歌を投げてくるではありませんか。それならこっちも茂吉でと、道後温泉宝厳寺の歌碑に刻まれた「あかあかと一本の道通りたり・・・・」を返しました。ホームレス氏との不思議な時間が流れます。聞けば、望まれずに生まれてきた身とか。でも、そんな優しい目をして身の上話をするのは良くないよ。つい、ほろりとするじゃないか。コンビニで牛乳を買った時の釣銭を、そっとホームレス氏の手に渡しました。

朝食をすませて8時に旅館を出発。石手寺に向かいました。実は、今度の旅行まで石手寺の存在を知りませんでした。想像以上に大きな寺で、朝から観光客やお遍路さんで賑わっていました。ガイド嬢の説明によると、四国八十八ヶ所めぐりの中で一番に参拝客が多い寺だそうです。でも、先を急ぐ旅なので滞在時間は30分だけでした。バスは国道317号を走行して今治へ。そして、しまなみ海道に入ります。来島海峡大橋から今治市街を遠望すると、1棟だけ周囲の建物より突き出た高層ビルが見えました。あれが有名な今治国際ホテルなのだろうか?。絶好の行楽日和のなか、大島、伯方島、大三島と進んで愛媛県とはお別れです。

多々羅大橋を渡って広島県に入りました。しまなみ海道を生口島南ICで下りて一般道へ。生口島の南海岸を回って耕三寺に向かいました。サンセットビーチあたりで、「あれが因島です」とガイド嬢。え!、それはあり得ない。あれは三原市の海岸のはず。でも、それは観光旅行にとってたいした問題ではないのでしょう。バスはちゃんと予定どおり耕三寺に着いたのですから。耕三寺の評価は分かれますね。同行者の話を聞くと、石手寺にはまたいつか来てみたいが耕三寺はもういいだろうという人もいて。瀬戸田の食事処で昼食とお買物です。2泊3日の旅もここが最後の立寄り場所とあって、みんなお土産を買い込んでいました。因島、向島と進んで新尾道大橋にさしかかりました。そこから尾道の美しい風景を眺めることができました。でも不思議です。風景に色がないのです。千光寺山も向島も町並みも、そして青いはずの海までもが水墨画のように白黒です。しかも、反射して光っています。力強いタッチで描かれた水墨画のような尾道。あれは太陽光線のいたずらか、それとも幻影か。新尾道大橋を渡るほんの一瞬ですが、絵になる構図の尾道の美しい風景を見ることができたのは幸いでした。

尾道からは山陽自動車道を走って伊丹空港へ。ハードスケジュールな旅でしたが無事帰宅できました。なお、文中ではバスガイド嬢と書きましたが、本当は“嬢”と言ったら失礼なくらい人生を積み重ねた大ベテランガイドさんでした。ガイドさんは3つ間違いました。徳島県の市数、松山市の人口、三原と因島の取り違えです。でも、それを補って余ある巧みな話術と心配り。素晴らしかったです。あのガイドさんが落書き帳を見ているとは思えませんが、この場を借りて御礼申し上げます。
[74447] 2010年 3月 26日(金)20:44:03千本桜 さん
石巻
[74412] 牛山牛太郎 さん
お久しぶりです。
3月8日には石巻市の市役所が移転を開始し、22日に完了しました。
移転した石巻市役所は雰囲気が良さそうですね。某町の町役場のように、外壁の色が暗くて いかにも役所らしい造りだと訪庁するのも気が重くなります。その点、元デパートの建物を利用した石巻市役所は外観がピンク系、1階がスーパー、6階まで全階エスカレーターあり、映画館だったスペースが議場という変わりものですが、気軽に立寄れそうで好感が持てそうです。ただ、気になったのは駐車場の料金です。大河原駅前ビルの駐車場は60分未満が無料で以降1時間ごとに100円ですが、石巻駅前の市役所駐車場は60分未満が無料で以降30分ごとに150円です。30分ごとに150円は大河原の3倍、仙台市役所の二日町駐車場の1.5倍です。石巻の地価の安さを思えば少し料金が高すぎるように感じます。ちなみに石巻市役所前の路線価は、高知県いの町の中心街から離れた山の際を走る町道と同額の1平米50,000円です。いの町の路線価が高すぎるのか、それとも石巻の路線価が低すぎるのか・・・どっちもみたいですね。そんな訳でまたまた懲りもせずに路線価の話に入ります。路線価は都市の規模を評価したものではないことを承知の上で、都市規模と路線価を照合しながら そのギャップを楽しんでいるわけですから、地価関係者の皆さんは気になさらないでください。

[74322]では釧路・石巻・滝川と徳島県諸都市の路線価を比較しましたが、今回は石巻に焦点を絞ってみます。石巻の中心街を歩いていると岩手県の一関や水沢とそれほど変わらない規模に見えたりしますが、実際の規模は見た目より もっと大きな都市だと思います。そこで、石巻と同じような規模の市を選出し、それらの市との比較を通じて石巻の路線価を考えてみることにします。石巻は都市圏人口221,282人、市域人口161,192人、DID人口97,637人で、市域人口は減少しています。それを踏まえて下記の条件に当てはまる市を類似規模の市とします。
条件1・都市圏人口が15万から25万人(2005年都市雇用圏)
条件2・市域人口が10万から20万人(2009年10月1日推計)
条件3・DID人口が5万から15万人(2005年国勢調査)
条件4・人口増加率がマイナス数値(2005年国勢調査と2009年10月1日推計の市域人口比)
以上の4条件をクリアした市を「類似規模の市」とします。これに該当するのは、鳥取会津若松宇部都城米子大牟田三条石巻伊勢桐生今治酒田岩国鶴岡八代の15市です。ただし、特例として次の市を加えたいと思います。条件1の「都市圏人口」が規定の15万人に満たないものの、条件2、条件3および条件4をクリアした延岡北見新居浜。条件3の「DID人口」が規定の5万人に満たないものの、条件1、条件2および条件4をクリアした飯塚上田の5市です。これで類似規模の市は20市になりました。以上の20市については、最高路線価の位置をセンターにして航空写真をリンクしています。最高路線価は各市とも概ね中心街に位置していますが、伊勢と三条だけは異色です。伊勢の最高路線価は中心街の伊勢市駅周辺ではなく、町並みの どん詰まり伊勢神宮内宮の入口付近。三条の最高路線価は中心街の本町ではなく、新興の燕三条駅前にあります。また、心情的には苫小牧、室蘭、小山、足利、太田、上越、松阪、尾道、山口も類似規模の市とみなしたいのですが、条件に合致しない点があるので外します。では、類似規模20市の都市圏人口(2005年都市雇用圏)、市域人口(2009年10月1日推計)、DID人口(2005年国勢調査)、人口増加率(2005年国勢調査に対する2009年10月1日推計市域人口)、製造品出荷額(2006年)、|卸売販売額(2007年)、小売販売額(2007年)、人口比小売額(小売販売額を市域人口で除した数値)を表形式にまとめてみます。表作成の都合で会津若松を「若松」と表記します。

順位都市圏人口市域人口DID人口人口増加率製造品出荷額卸売販売額小売販売額人口比小売額
(万人)(万人)(万人)(%)(百億円)(百億円)(百億円)(万円)
1位鳥取 25鳥取 20大牟田 10米子 -1.0今治 73北見 38鳥取 22北見 136
2位若松 25宇部 17石巻 10新居浜 -1.0新居浜 69三条 34米子 19米子 129
3位宇部 25今治 17若松 9都城 -1.4上田 59今治 32都城 19若松 127
4位都城 24都城 17延岡 9飯塚 -1.6鳥取 57宇部 29石巻 18伊勢 121
5位米子 24石巻 16北見 9鳥取 -1.7宇部 54鳥取 29上田 18上田 115
6位大牟田 23上田 16鳥取 8伊勢 -2.0石巻 35上田 28宇部 17石巻 115
7位三条 23米子 15桐生 8上田 -2.3伊勢 34米子 25北見 17飯塚 114
8位上田 22岩国 14新居浜 8三条 -2.5若松 33酒田 20若松 16都城 113
9位石巻 22鶴岡 14宇部 8北見 -2.5三条 31都城 20今治 16鳥取 113
10位飯塚 20八代 13米子 7宇部 -2.6岩国 31石巻 20伊勢 16酒田 111
11位伊勢 18伊勢 13都城 6若松 -2.8延岡 29新居浜 17飯塚 15新居浜 102
12位桐生 18飯塚 13今治 6今治 -3.0都城 29岩国 16岩国 14三条 101
13位今治 17延岡 13岩国 6八代 -3.1大牟田 28若松 15鶴岡 14宇部 100
14位酒田 16若松 13八代 6鶴岡 -3.2鶴岡 28伊勢 15酒田 13岩国 99
15位岩国 15北見 13鶴岡 6延岡 -3.3桐生 27飯塚 13新居浜 12鶴岡 99
16位鶴岡 15大牟田 12酒田 6岩国 -3.4米子 26八代 13大牟田 12大牟田 97
17位八代 15新居浜 12伊勢 5石巻 -3.7八代 24延岡 11八代 12今治 95
18位延岡 14桐生 12三条 5酒田 -4.1酒田 23大牟田 10延岡 12八代 91
19位北見 13酒田 11飯塚 5桐生 -4.5飯塚 18鶴岡 8桐生 10延岡 89
20位新居浜 12三条 10上田 4大牟田 -4.8北見 15桐生 5三条 10桐生 84

石巻は都市圏人口9位、市域人口5位、DID人口2位、製造品出荷額6位、卸売販売額10位、小売販売額4位、人口比小売額6位ですから、都市景観の貧弱さとは裏腹に結構高い位置に付けています。しかし、人口増加率は17位と低迷。さらに、1平米当りの最高路線価は鳥取185千円、岩国185千円、伊勢170千円、米子145千円、上田140千円、今治140千円、宇部115千円、新居浜97千円、三条92千円、延岡91千円、都城90千円、飯塚82千円、会津若松81千円、大牟田73千円、桐生69千円、北見67千円、八代62千円、酒田61千円、石巻54千円、鶴岡53千円の順で、石巻は19番目に低落しています。最高路線価が低いのは人口減少が原因かというと、そうでもなさそうです。もっと大きな要因は商業の郊外立地による中心街の空洞化のようです。石巻は商業の郊外立地が著しい都市で、昭和の終わりごろには中心街の橋通りアイトピア立町大通りが寂びれはじめ、郊外の中里地区が活発な商業地になっていたと記憶しています。あれから20年以上を経た今では、中里地区がさらに郊外の蛇田地区にその座を奪われています。現在、商圏人口36万をかかえる宮城県第2の商都石巻の商業活動は、郊外の蛇田地区に完全移転してしまったようです。蛇田地区は、店鋪面積33,000平米を超すイオンSCや11,000平米超のイトーヨーカドーをはじめ、大型のホームセンター、家電店、ドラッグストア、ファッションショップ、さらには銀行、ホテルなども進出して急激な変ぼうを遂げています。その小売店の合計店鋪面積は十日町、大和高田、日南など人口6万人クラスの1市まるごと分の店鋪面積に匹敵し、愛媛県内子町の小売店全部を束ねて4倍してもまだ足りない面積に達しているだろうと推測されます。これほどの店鋪面積が半径わずか500mの区域に集積しているのですから、さぞ地価は熱く跳ね上がるだろうと思うのですが、なぜか路線価の評価額は冷めていて、内子町の国道から1本裏に入った用水堀とおぼしき水路に沿った小道よりも1,000円安い1平米49,000円ですから驚きです。こんなことを書いてると、路線価図の使用目的を間違えてるぞと叱られそうですが、都市規模を念頭において路線価図を眺めると新鮮な驚きが沢山あって面白いものです。
[74322] 2010年 3月 11日(木)07:52:26【1】千本桜 さん
徳島県諸都市vs釧路・石巻・滝川
平成21年分の路線価を見ていて釧路、石巻、滝川3市の最高路線価が低いと感じました。都市の大きさというか、地域の中で占めている都市としての役割の重さに比して、低いと感じるのです。徳島県の諸都市と対比すると、その低さが明確になります。人口集中地区を形成していない藍住町、石井町、美馬市の一等地より、釧路市の一等地の地価が安いなんて・・・。最高路線価(平成21年分)、DID人口(平成17年国勢調査)、行政人口(平成17年国勢調査)、事業所従業者数(平成18年事業所・企業統計)、年間小売販売額(平成19年)を表形式にまとめました。

都市最高路線価DID人口行政人口事業所従業者数年間小売販売額
徳島県 徳島市440,000円189,975人267,833人139,412人30,177,566万円
徳島県 阿南市94,000円5,604人78,002人31,506人6,529,878万円
徳島県 小松島市89,000円19,296人42,115人15,366人3,792,090万円
徳島県 吉野川市86,000円6,547人45,782人15,303人3,381,167万円
徳島県 藍住町82,000円32,286人10,417人3,954,153万円
徳島県 石井町81,000円26,068人8,755人2,370,478万円
徳島県 鳴門市80,000円21,695人63,200人24,291人4,682,792万円
徳島県 三好市80,000円5,410人34,103人13,070人2,163,911万円
徳島県 北島町79,000円11,866人20,703人8,495人2,811,262万円
徳島県 美馬市76,000円34,565人11,472人2,956,786万円
北海道 釧路市66,000円165,175人190,478人84,024人18,721,195万円
徳島県 松茂町65,000円14,926人8,675人1,766,759万円
宮城県 石巻市54,000円97,637人167,324人71,400人18,484,583万円
北海道 滝川市28,000円33,564人45,562人18,748人5,248,671万円

北海道釧路市の最高路線価・北大通五丁目の北大通りは、人口集中地区を形成しない徳島県美馬市の拝原地区を走る県道と同額の1平米66,000円。
宮城県石巻市の最高路線価・鋳銭場の石巻駅前通りは、徳島県阿南市学原町の国道を逸れて奥まった袋小路と同額の1平米54,000円。
北海道滝川市の最高路線価・本町一丁目の国道451号通りは、徳島県美馬市脇町の農地の中を走る市道より1,000円安い1平米28,000円。

書込み訂正。阿南市大字学原を阿南市学原町に訂正しました。
[74255] 2010年 3月 4日(木)00:14:07千本桜 さん
愛媛県内子町VS北海道釧路市
愛媛県内子町(人口18,546)と、その10倍の人口を持つ北海道釧路市(人口184,492)の路線価を単純比較します。人口は2008年10月1日の推計人口。路線価は平成21年分の評価額です。
内子町で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり79,000円。町外れの農地と家屋が入り混じるこの場所では66,000円です。一方、釧路市で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり66,000円。内子町の町外れと釧路市の中心街が同額とは・・・。

[74252]小松原ラガー さん
この町の中心駅?
その駅は、北島三郎♪「終着駅は始発駅」ですか?
[74203] 2010年 2月 22日(月)20:56:39【1】千本桜 さん
飫肥駅
[74200] Issie さん
もしかしたら酒谷川を渡って飫肥町の領域に乗り入れていたのかもしれません。ただ,今町も本町(飫肥1~10丁目)も川のそばから市街地が密集していそうで,それならどこに突っ込めたのか。
軽便鉄道は昭和6年、吾田村大字星倉から飫肥町大字本町まで400mほど延伸しています。酒谷川を渡ったのですね。でも、どのようなルートで走っていたのかは不明です。 Issieさんがおっしゃるとおり、市街地が密集しているので鉄道を突っ込む余地がなさそうです。また、Yahoo! の地図や写真を見ても、鉄道跡らしき形状が見つかりません。酒谷川に鉄橋を架けたのなら、両岸にルートの痕跡が残っているはずなのに、その痕跡が無いのが不思議です。ここから先は推測で書きます。推測と言っても全くの当てずっぽうではなく、むかし大河原駅前通りを走っていた軽便鉄道を念頭に置いての推測です。思いますに、吾田村星倉の飫肥駅から飫肥町本町の新駅までは、現在の国道222号と同じルートを走っていたのではないか。道路橋の稲荷下橋を利用して酒谷川を渡り、そのまま本町通りの路上に突っ込んだのではないか。400m延伸ですから、新駅の位置は現在の飫肥一丁目と二丁目を区切る本町通りの道ばたではないか。軽便鉄道ですから、道路の上を走れたのではないか。鉄道ルートの痕跡が無いのは、道路上を走っていたからではないか。そのようなことを考えてみました。間違っていなければ良いのですが、また、はらはらドキドキです。推測することを楽しむお遊びですので、間違っていたら笑って許して。

書込み訂正機能を使って書込みです。
直前に今川焼さんからの書込みがありました。軽便鉄道の新駅は本町通りの少し南になるのですね。間違いまして失礼しました。実際のところ、本当は酒谷川をどのようにして渡ったのだろうと気になっていました。大河原の軽便鉄道は道路橋の尾形橋を使って白石川を渡りましたので、「飫肥 稲荷下橋 軽便鉄道」で検索しましたところ、日南の今昔というサイトにヒットしました。これを見ると、稲荷下橋に沿って鉄橋が架けられていたようです。サイト内の昔と今の写真を見比べて思ったのですが、本町通りは拡幅されていますね。昔の家並は残されているのでしょうか。素朴な疑問です。
[74167] 2010年 2月 16日(火)08:22:37千本桜 さん
温泉ランキング。日南市。
宮城県の温泉クイズの答えです。年間宿泊客数50,000人以上のランキングと温泉名は次のとおりです。
順位温泉名平成20年平成15年
1位秋保温泉834,000人996,000人
2位鳴子温泉488,000人390,000人
3位遠刈田温泉346,000人411,000人
4位作並温泉276,000人326,000人
5位南三陸温泉166,000人0人県の資料では志津川湾温泉
6位中山平温泉103,000人141,000人
7位東鳴子温泉85,000人141,000人
40年ほど前の雑誌「旅」の記事を書きとめていたノートを見ると、当時の宮城県では鳴子温泉がトップでした。温泉地の盛衰も浮き沈みが激しいですね。個人的な感想ですが、遠刈田温泉が意外に頑張っていると感じました。また、2年前に松島でも温泉を掘りあてて松島温泉を名乗るようになりましたから、今後の統計には「松島温泉」の名も登場することになるでしょう。

ついでに、40年ほど前の雑誌「旅」に掲載してあった温泉ランキングも書いておきます。日本を東西に分けて相撲番付ふうに書いてありますが、ランキングの上位から下位に向って30位までを羅列します。
【東日本】
熱海、川湯、洞爺湖、鬼怒川、伊東、登別、湯ノ川、中禅寺、修善寺、小涌谷、定山渓、下田、小涌谷、片山津、中山、熱川、飯坂、層雲峡、下呂、宇奈月、日光湯元、東山、西浦、那須、和倉、草津、伊香保、温根湯、浅虫、芦原
【西日本】
雲仙、別府、白浜湯崎、観海寺、指宿、勝浦、霧島、内牧、道後、玉造、城崎、湯田、皆生、有馬、小浜、嬉野、三朝、長門湯本、鳥取、日奈久、湯ノ山、長島、雄琴、牧ノ戸、湯之児、戸下、二日市、鉄輪、宝塚、湯原
西日本のトップは「雲仙」ですが、狭義の別府に観海寺・鉄輪など広義の別府を加えると、やはり西日本最大の温泉地は別府になります。牧ノ戸温泉や戸下温泉のランクインが何とも奇異ですが、真偽のほどは分かりません。

[74142] 伊豆之国 さん
私が初めてみちのくに足を踏み入れた、その思い出の温泉(過去に書き込んでいます)。
みちのく初体験は作並温泉でしたか。私も伊豆之国さんと同じ旅館に泊まっています。また、奈良の今井町に行かれたとか。今井は未訪ですが、歩いてみたい街の一つです。


[74136] 白桃 さん
合併により成立した市の市役所の位置というのも、その後の人口推移に大きな影響を与えるもんですな・・・。
[74137] Issie さん
両者に優劣はつけられず,恐らくは妥協の結果 吾田 に市役所が置かれ

この手の話題に乗りたくなる癖があります。飫肥と油津の人口が減少し、市役所所在地の吾田が一人勝ちしていることをネタに、あれこれ調べながら遊んでみました。

まず最初に飫肥、吾田、油津の境界線チェックです。すると、飫肥駅は飫肥ではなく吾田(大字星倉)にあることが判明。飫肥市街を一歩出れば吾田(大字星倉)の領域です。油津駅周辺にも吾田(大字平野)の領域が伸びていて、油津市街を出るとすぐ吾田(大字平野)になります。どうやら飫肥と油津は領域内に市街地を広げる適地に恵まれていないようです。ことさら面積の狭い油津は既に可住地が満杯状態で、人口増加を望むのは絶望的です。開発余地のある吾田が人口受皿になるのは自然の成り行きだったようです。

油津と吾田の関係はミステリアスで、油津市街の中にも吾田(大字平野)の領域臭が漂っています。地図上で油津を歩いているはずが、実はここは吾田(大字平野)ではないかという疑念が湧いて来たのです。きっかけは、あるサイトの日南郵便局に関する次の記述です。
1951年(昭和26年)日南市大字油津町から同市大字平野に移転するとともに、日南郵便局に改称。
上記をストレートに解釈すれば、大字平野は近世村の平野村で、平野村は明治22年に星倉村などと合併して吾田村になりましたから、日南郵便局の場所は吾田ということになります。でも、そこは明らかに油津市街の真ん中です。いったい、油津市街は油津なのか吾田(大字平野)なのか。謎を解かずにいられません。

そこで、油津市街の古い地名を追ってみました。すると、光明院という寺名からも、岩崎という町丁名からも、昔は平野村または吾田村大字平野に属していた形跡が見つかったのです。さらには、日南市 大字油津平野 字古奥という変な地名まで出てきて迷は深まるばかり。明治22年に油津村が単独で油津町になったのだから、大字油津平野という名の大字はありえないはず。大字油津平野とは何者か。ここには、88さんが纏めて下さっている市区町村変遷情報に書かれていない区画変更が隠れているぞと思っていたら、わりあい簡単に謎が解けました。油津と平野は下記のように複雑な関係にあったようです。
江戸時代、油津は平野村の一部だった。
明治15年、平野村から油津村が分立し、油津村以外の区域は平野村として継続。
明治22年、油津村は単独で油津町になり、平野村は星倉村, 隈谷村, 戸高村, 西弁分村と合併して吾田村になる。
明治41年、油津町が吾田村大字平野の一部を編入。
油津市街の中に漂う吾田(大字平野)の臭いの正体は、油津町の「吾田村大字平野の一部編入」にあったのですね。平凡社や角川の地名辞典があれば一発で解明できる事柄でしょうが、あいにく所持していないので、ここに辿り着くまで結構遠回りしました。でも、この遠回りが楽しいのですよ。

では、吾田村大字平野の一部を編入する以前の油津町はどこかというと、現在の油津一丁目から四丁目にあたる狭い範囲だったようです。この狭い領域では市街地の拡張に対応しきれないのは当然で、明治41年の油津町による吾田村大字平野の一部編入は必然だったのでしょう。現在、誰もが油津そのものだと思っている市街(油津駅・山形屋・油津小学校などのエリア)は、かつての吾田村大字平野に形成されたことになります。間違っていなければ良いけど・・・少し、はらはらしてます。

どこが中心???昆明、混迷深まるばかり・・・
路線価を見て感じたまま書くと、昭和の頃の中心は油津で、A地点の山形屋・宮崎銀行前からB地点のアーケード街にかけてでしょう。今もA地点が日南市の最高路線価を保持しています。しかし、都市機能の郊外移転が進んだ現在では、A地点よりも路線評価額は低いものの、長い区間に亘って水準以上の評価額が続く吾田地区の国道222号沿道C地点が実質的な中心になっていると思います。でも見た目はやっぱりA・B地点でしょうね。お遊びですので間違っていたら笑って許して。
[74115] 2010年 2月 8日(月)23:50:46千本桜 さん
温泉クイズ
[74113] 白桃 さん
A温泉:読み方が試験に良く出る温泉ですか?
ありふれた漢字二文字ですが、なぜ、あの字が「う」なのか、「読み」は確かに難解ですね。

B温泉:「こけし」で有名ですか?
C温泉も「こけし」で有名ですが、B温泉の「こけし」は首を回すとキイキイ鳴ります。

C温泉:帰り道は近かった?
まだマイカーを保有していなかったころ、C温泉まで何度か自転車で行ったことがあります。向う時は遠がったなぁ。でも帰り道は近かった。これ、ほんとの実感です。自転車というのは微妙な地形の変化を体感させてくれるのですね。

D温泉:松本清張「山峡の章」に出てきますか?
ここは「山峡の章」の舞台でしたね。A温泉と共に「仙台の奥座敷」と言われていましたが、近年ではA温泉に水をあけられてしまいました。

E温泉:人口17,441人(1月1日現在推計)の町にありますか?
いまでは本吉郡も1郡1町になってしまいました。温泉とは無縁に思える地域でも掘れば温泉が涌くのですね。この温泉を掘り当てた「ホテルK」からの眺め。何が凄いかというと、ホテルに入ったとたん、延長160メートルにも及ぶロビーの窓から、○○○湾の風景が丸ごと目に飛込んで来るのです。何に感動するかは人それぞれでしょうが、私はこのオーシャンビューに感動しました。

[74114] YT さん
一方E温泉は食事も景色も最高でした。
ホテル関係者ではありませんが、お褒めいただいて感謝します。食事は値段に左右されて当たり外れがあるとは思いますが、あの素晴らしい景色は、低額料金で宿泊した人も、高額料金で宿泊した人も、みんな平等に眺めることのできる最高のサービスですよね。
[74112] 2010年 2月 7日(日)23:28:14千本桜 さん
宮城県の温泉クイズ
宮城県内の温泉に関するクイズです。年間宿泊客数が5万人を超える温泉をまとめてみました。ランキングは平成20年の宿泊客数を基準にしていますが、参考までに平成15年の宿泊客数も掲載しました。数値は敢えて千人未満を四捨五入しています。宮城県内にはこの他にも多数の温泉がありますが、年間宿泊客数が5万人に満たないために残念ながらランクインできなかった主な温泉として、北から順に鬼首温泉、川渡温泉、青根温泉、鎌先温泉、小原温泉をあげておきます。さて、ここで問題です。1位から5位までの温泉名を伏せてあります。A・B・C・D・Eにあてはまる温泉名をお答え下さい。いずれも宿泊客数の多い著名な温泉ですから、旅行好きな人には簡単すぎるかもしれません。でも、5位のE温泉だけは難問のはずです。

宮城県の温泉・年間宿泊客数50,000人以上の温泉ランキング
順位温泉名平成20年平成15年
1位A温泉834,000人996,000人
2位B温泉488,000人390,000人
3位C温泉346,000人411,000人
4位D温泉276,000人326,000人
5位E温泉166,000人0人
6位中山平温泉103,000人141,000人
7位東鳴子温泉85,000人141,000人

A温泉のヒント:大規模な高級旅館が多く、500人以上の宿泊客を収容できる旅館だけでも6軒あります。年間の宿泊客数で比較すると四国の道後温泉と同等規模の温泉になりますが、湯の街歩き楽しむほどの街並みはありません。そもそも、A温泉には温泉街など有るのかしら?といった雰囲気です。遊興も買物も大規模旅館内で完結するので、温泉街が不要なんでしょうね。ちょっと淋しい。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「S」。

B温泉のヒント:A温泉と違って湯のまち歩きが楽しめます。宮城県で最も大きな温泉街を形成していますが、観光機能だけの街並みではなさそうです。周辺集落にとっては日常生活圏の中心で、4年前までは町役場もありましたが、合併で総合支所になりました。最大規模の旅館は収容力およそ600人の「Nホテル」。

C温泉のヒント:背後に控えた山岳観光地への基地としての性格を有し、近くには県内最大規模のスキー場もあります。B温泉より小規模ですが、整った街路形態をした温泉街があります。温泉街としては宮城県で二番目に大きな街並みでしょう。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「ZRホテル」。

D温泉のヒント:旅行計画で宿泊地を設定する際に、A温泉と競合関係になりやすい地理的位置にあります。歓楽街などとは無縁の温泉地ですが、老舗旅館の有名な露天風呂と、その露天風呂まで下る長い長い木造の階段は趣があります。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「ホテルG」。

E温泉のヒント:温泉とは無縁の海沿いに建つ一軒宿が増改築し、それまで最大だった福島県のホテルハワイアンズの宿泊収容力を抜いて東北最大規模でグランドオープンしたのは1997年のことでした。そのホテルが温泉を掘り当てて6年ほど前に開湯したのが、この温泉です。旅館は収容力およそ1,300人の「ホテルK」だけです。ただ、温泉名が不確かです。県の資料には「○○○湾温泉」と記載されていて、○○○は平成17年に合併消滅した旧町名と同名です。しかし、当事者のホテルは「×××温泉」を名乗っていて、×××は合併で誕生した新町名と同名です。ですから、解答は「○○○湾温泉」、「×××温泉」どちらを答えても正解にします。
[74078] 2010年 1月 30日(土)20:11:36千本桜 さん
淡路・四国の御礼。人口減。
[74047] 小松原ラガー さん
[74048] 今川焼 さん
[74049] 88 さん
[74051] futsunoおじ さん
皆様、ありがとうございました。たぶん、小松原ラガーさんあたりが書き込んで下さると思っておりましたが予想通りでした。淡路・四国への旅行は私も参加しますが、実際に計画を練っているのは幹事さんや旅行会社です。しかし、「何か良い案はないか」と意見を求められたので行程表を見せてもらったところ、観光スポットごとの発着時刻は書いてあるものの、ルートが大雑把で不明確なものでした。車窓からの眺めも観光の一部と思っている私は、事前にルートをつかんでいないと不安になるのです。そこで、自分なりに行程を検討してみることにした次第です。私案が実際の旅行に反映される保証はありませんが、旅行計画を練ること自体がとても楽しくて、気分はすでに空想の旅へ出発しています。しかし、地図を見ると神戸周辺では高速道路の他に六甲北道路などの一般有料道路が何本も走っていて、それらが同じ色で印刷されているものですから、どの道路(路線)を繋げて走れば良いのか判断がつかない状態でした。そこで、路線別に色分け着色してみたところ、1・山陽自動車道経由。2・阪神高速7号北神戸線経由。3・阪神高速3号神戸線経由の三案が浮んだわけですが、これはやはり小松原ラガーさんはじめ皆さんの御意見どおり、1か2の選択になりそうですね。
個人的には、今川焼さんの「神戸港や六甲山を眺めてみたいという方が多ければ3を」に惹かれますが、我を通すわけにもまいらず、残念だけど諦めざるをえないようです。今川焼さんに関しては、[71819]で綴られた富来のくだりが凝縮された短編紀行文を読むようで素晴らしく、とても感心しておりました。目の前に現れた現象を地理的にとらえる感覚が身に付いておられるのですね。今回の書込みでも随所にそれを感じました。淡路・四国の旅は仰せのとおりバスの最前部に陣取り、飛込んでくる風景を地勢図や地形図と対比しながら眺めることにするつもりです。また、脇町観光のアドバイスは実にリアルで参考になりました。ただ心配なのは、時間の都合で脇町観光がカットされる可能性があることです。その時は、鳴門から高松自動車道を走行し、東讃の中心都市・三本松を横目で追いながら琴平に向うことになりますが、三本松市街はビルが林立しているので(笑)見のがさずに済みそうです。
琴平からは善通寺ICで四国自動車に上がって松山に行きます。個人的には、88さんがお住まいの高松をもう一度見たいのですが団体旅行では自由が利きません。松山までは時間の都合でどこにも立寄らないで走るだけです。川之江も三島も新居浜も横目で見ながら通過するだけ。そして、小学校の同級生の「みよちゃん」が住んでいる西条も通過するだけです。これって、街歩きを趣味にしている人間にはストレスが溜まりますね。ましてや、防音壁で視界が遮断されて市街地遠望もできなかったりすると、変な理屈だけれど「通行料をただにして」と言いたくなります。それは勿論冗談ですが、見たい所を見れずに横目で過ぎるのは実際にストレスが溜まります。
だいぶ前のことですが、「どなたかインターチェンジの利用車台数ランキングを御存知でしたら教えていただけませんか?」と問いかけたところ、futsunoおじさんに道路公団のサイトを紹介していただいたことがありました。今度も道路時刻表のサイトへリンクを貼っていただきまして、ありがとうございました。私はインターネットが苦手で、検索の活用方法も分からないまま原始的に市販の道路地図帳を見ながら電卓で区間距離を弾き出しておりました。紹介していただいたサイトはこれからも活用させていただきます。ありがとうございました。

[47072]白桃 さん
三大都市圏への人口集中にブレーキ
[74074]Issie さん
大阪圏の人口減少にもブレーキ?
大都市圏の話題に田舎の情報を突っ込んで申しわけありませんが、こちらは人口減少にブレーキがかかりません。全国的には、もっともっと人口減に悩んでいる地方もありますから話題にするほどではないかもしれませんが、なぜか気になります。
仙南圏ビッグ4の平成17年10月1日~平成22年1月1日の人口と人口増減数
市町名2005年10月1日2010年1月1日増減数
白石市39,492人37,763人-1,729人
角田市33,199人31,927人-1,272人
柴田町39,809人39,162人-647人
大河原町23,335人23,470人135人
かつて、町としては東北一の人口を誇った柴田町も4万人を目前に足踏みし、ついに人口減に転落。仙南圏2市7町の中では、かろうじて大河原町だけが人口増を保っています。でも、もうだめみたい。昨年1年間だけを取りあげると減少組の仲間入りをしています。

仙南圏ビッグ4の1年間(平成21年2月1日~平成22年1月1日)の人口増減数
市町名純増減自然増減社会増減
白石市-447人-213人-234人
角田市-391人-177人-214人
柴田町-154人4人-158人
大河原町-52人27人-79人
軒並み社会減というのが辛いですね。みんな、どこへ行ってしまったのでしょう。千昌夫さんも「あんた」という曲で、♪「どこへ行ったのよ 戻って来てよ ねえあんた」と唄っていますが、戻って来ても仕事がないんですよね。
[74046] 2010年 1月 25日(月)07:06:45【1】千本桜 さん
淡路&四国についてのお尋ね。ややこしい涌谷町。
ちょっとお尋ねします。大型バスで伊丹空港から淡路島の淡路ICまで行きたいのですが、いろいろなルートが浮かんできて迷っています。下記の三ルートを考えてみましたが最短時間で到達できるのは、どのルートでしょうか。途中で観光はしません。ただ走るのみです。有料道路の通行料金は気にしません。
1・伊丹空港→中国池田IC→(中国自動車道経由)→神戸JCT→(山陽自動車道経由)→神戸西IC→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC
2・伊丹空港→中国池田IC→(中国自動車道経由)→西宮山口JCT→(阪神高速7号北神戸線経由)→布施畑JCT→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC
3・伊丹空港→(阪神高速11号池田線経由)→豊中IC→(名神高速道路経由)→西宮IC→(阪神高速3号神戸線経由)→月見山出入口→(第二神明道路経由)→垂水JCT→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC

同じように、大型バスで徳島県の脇町うだつの町並みから香川県琴平町の金刀比羅宮まで行きたいのですが最短時間で到達できるのは、どのルートでしょうか。
1・脇町うだつの町並み→(県道12号を西へ走行)→美馬市美馬町→(国道438号経由)→琴平
2・脇町うだつの町並み→(県道12号を東へ走行)→脇町IC→(徳島自動車道経由)→美馬IC→(国道438号経由)→琴平
3・脇町うだつの町並み→(県道12号を東へ走行)→脇町IC→(徳島自動車道経由)→井川池田IC→(国道32号経由)→琴平
4・脇町うだつの町並み→(県道12号を西へ走行)→美馬IC→(徳島自動車道経由)→井川池田IC→(国道32号走行)→琴平

[74025] 白桃さん
ややこしや、津山東町と加茂町
宮城県の涌谷町もややこしいです。涌谷市街は江合川を挟んで両岸に展開していますが江戸期の自治体区分では左岸が涌谷村、右岸が馬場谷地村になります。市街の重心は馬場谷地村の方にあります。しかし、地籍上は別々の村でも二つの村は一体となって城下町を形成していましたから、地理的には一つの都市集落と解釈して良いだろうと思います。この涌谷村と馬場谷地村の関係が少しややこしい。
まず、馬場谷地村から。江戸期には馬場谷地村に涌谷町と呼ばれる宿場町が置かれ、それを取り囲むように伊達氏家中小路が配置されました。当時の人がこの地理空間を馬場谷地という名でとらえていたか、それとも涌谷という名でとらえていたか非常に気になるところですが、答えは町村制施行時の町村名にありそうです。明治22年、馬場谷地村は単独で町制を敷き涌谷町に改称しました。隣に涌谷村があるのを承知で涌谷町を名乗るとは身勝手にみえますが、たぶん地籍上の村名「馬場谷地」よりも町場名「涌谷」の方が広く知られていたからだろうと思われます。馬場谷地村が単独で町村制下の町になった涌谷町(明治22年~昭和23年の自治体)の区域には大字がありません。現在、この区域の住所は自治体名+小字名で涌谷町字○○と表記します。
次に涌谷村です。涌谷村には涌谷城があって城下の家並みが広がっていました。明治22年、涌谷村は上郡村、下郡村、小塚村と合併して元涌谷村になりました。角川地名大辞典には「隣村の馬場谷地村が江戸期の宿場町名の涌谷町を継承し涌谷町と改称したので、涌谷村に元の字を冠した。」と書いてあります。隣村に名前を奪われた恰好ですが、当時の人がどのように感じたかは不明です。元涌谷村(明治22年~昭和23年の自治体)は旧4村の名を大字として残しましたから、江戸期の涌谷村の区域は元涌谷村大字涌谷になりました。住所は自治体名+大字名+小字名で元涌谷村大字涌谷字○○と表記します。昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して現行涌谷町になりました。現在、住所の上で涌谷町涌谷と表記される区域は江戸期の涌谷村の内にあるでしょうか、それとも馬場谷地村の内にあるでしょうか。くだらないクイズで済みません。

訂正
朝の忙しい時間に書込みしましたので安易に端折りすぎた箇所がありました。昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して現行涌谷町になりました。と書きましたが、正しくは、昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して涌谷町になり、その後、昭和30年に涌谷町と箆岳村が合併して現行の涌谷町になりました。が正しいので訂正します。
[73486] 2009年 12月 31日(木)16:29:36千本桜 さん
宇多津、日和佐、富士川
[73420] 蒼の狼 さん
閉まってる店が多いのはわかってましたし、遊ぶんだったら宇多津まで行きましたからね。
それも商店街が寂れる一つの要因かと思いますが、いかがでしょう。
私が坂出の商店街を見たのは40年も前のことです。でも、白桃さんが書かれた「坂出:この商店街のシャッターはいつ開くのだろう・・・」という坂出の現状は想像できます。また、私が見た宇多津町は昔からの市街地で、蒼の狼さんが闊歩されたのは宇多津町の新しい市街地でしょう。新しい宇多津町は凄いらしいですね。市に至らない町としては、沖縄県北谷町などと共に超スーパータウンの部類に入ることでしょう。東北のスーパータウンo町は間違いなく宇多津より地味です。平成16年調査の香川県商圏調査報告書をネットで見ることができますのでリンクします。買回商圏における宇多津町の凄さが見えてきますね。丸亀商圏が西に向かって及ぶ範囲は三豊市までなのに、宇多津商圏はそれを乗り越えて観音寺市まで延びているのですから驚きです。

[73445] oki さん
美波町のHPではウミガメ博物館の住所が「日和佐字浦370-4」となっていましたが、「日和佐字浦」という住所はなく、近世村の名称をそのまま残す「日和佐浦」です。
とあるHPには、うみがめ博物館の住所が「〒779-2304 海部郡美波町大浜海岸」と書いてあります。大浜海岸に面した観光施設ですし、天然記念物に指定された名称も「大浜海岸のウミガメ及びその産卵地」ですから、「日和佐浦」より「大浜海岸」の方が場所の特定も安易になり効果的なのでしょう。しかし、「住所」と銘打打ち、郵便番号まで記載しているのですから、ちゃんとした住所地名で「〒779-2304 美波町日和佐浦」と書いて欲しかったと思うのは私だけなのだろうか。大浜海岸に位置することを伝えるためなら、もっと別の表現方法があるはずですね。さて、本題に入ります。美波町役場の住所は大字+小字の形式で「美波町奥河内字元村18番地」と表しますが、日和佐郵便局の住所は小字なしで「美波町日和佐浦119番地」と表します。明治22年以来、奥河内も日和佐浦も同一自治体として一緒に歩いてきたわけですが、奥河内は小字を地番区域とし、日和佐浦は大字を地番区域とするように別々の道をとったのは、いつ頃からなのでしょう。

[73473] inakanomozart さん
もっと遠く離れた県の町だったら抵抗がなかったかもしれませんが・・・
静岡県民ではありませんが、静岡県富士川町がなくなって山梨県富士川町ができることに戸惑いを感じています。なにしろ、静岡県への第一歩が岩渕駅でしたから。

今年もきょうが最後。それでは皆様、佳いお年をお迎えください。
[73406] 2009年 12月 27日(日)09:04:18千本桜 さん
自治体の改称。DIDと都市地域。
[73387] Issie さん
生見尾村は,1921年に単独で町になりました。その際に改称して「鶴見町」。
やはり、同様の例は全国的にあるようですね。
鹿児島県では、明治22年に枕崎村など4村が合併して「東南方村」を名乗りましたが、大正12年に単独で町制に移る際に「枕崎町」に改称しています。
宮崎県では、明治22年に妻町など9村が合併して「下穂北村」を名乗りましたが、大正13年に単独で町制に移行して「下穂北町」になるやいなや、数ヶ月後には「妻町」に改称しています。
大分県では、明治22年に香々地村と見目村が合併して「岬村」を名乗りましたが、大正8年に単独で町制に移る際に「香々地町」に改称しています。
こうしてみると、新しい自治体名を名乗ってはみたものの馴染めず、むしろ藩政村名(ただし、都市機能を備えた町場集落のある藩政村)の方が通用しやすかったのではないかと思われます。宮城県でこのような例に当てはまるのは下記の町村です。
明治22年、長町村と郡山村が合併して茂ヶ崎村になる。大正4年、茂ヶ崎村は単独で町になり長町に改称。
明治22年、閖上浜など5村が合併して東多賀村になる。昭和3年、東多賀村は単独で町になり閖上町に改称。
明治22年、雄勝浜など12村が合併して十五浜村になる。昭和16年、十五浜村は単独で町になり雄勝町に改称。
明治22年、矢本村など3村が合併して鷹来村になる。昭和15年、鷹来村は単独で町になり矢本町に改称。
明治22年、志津川村など3村が合併して本吉村になる。明治28年、本吉村は単独で町になり志津川町に改称。
明治22年、柳津村と黄牛村が合併して麻崎村になる。明治39年、麻崎村は単独で町になり柳津町に改称。
明治22年、津谷村など3村が合併して御嶽村になる。昭和16年、御嶽村は単独で町になり津谷町に改称。
以上は町制に移行する際に改称したケースですが、下記の一件は、村制を継続するのに、それでも改称しています。
明治22年、根白石村など6村が合併して泉嶽村になる。明治30年、泉嶽村は根白石村に改称。

[73398] rigst さん
仙台ホテルで初めてフランス料理を食べた時の感激よりも、初めてDID人口を見たときの感激が何十倍も大きかった。わなわなと震える感じと言いましょうか。でも、仕方ないことですが、DIDをもって都市地域とするには矛盾もつきまといますね。たとえば、代表的な例をあげると登米市迫町佐沼。たぶん平成17年時点でもそうだと思うのですが、市役所や商業施設が立地する新市街はDIDの区域外。DID区域は都市施設が抜け出してしまった旧市街。時代にそぐわなくなって来ているのでしょうね。
[73392] 2009年 12月 25日(金)00:16:24千本桜 さん
都市雇用圏
[73386] 千本桜
都市雇用圏では勝山町・久世町が落合圏に含まれるのですね。
rigstさん、ごめんなさい。上記の件、勘違いして書きました。落合圏(落合町、勝山町、久世町、美甘村、富村:39,611人)は、金本・徳岡両氏が提唱した「都市雇用圏」に該当するものではなく、「都市雇用圏」の定義から「DID>10000」および「昼夜比>1.0」の条件を除いた上で、rigstさんご自身が編み出した圏域だったのですね。こういう独自の発想による圏域設定、大好きです!。ところで「DID>10000」ですが、南陽市のように2つのDID(赤湯地区と宮内地区)を合算して10,000人超とみなすことに抵抗を感じるのですよ。それなら10,000人以下でも迫や六日町を都市雇用圏の中心自治体として認めて欲しいと思ってしまう。たぶん、rigstさんも同じ考えでおられるものと思います。北海道、近畿、九州もよろしくお願いします。

[73388] 桜トンネル さん
人口も2000人以上増加しているようです
悩まされている人もいると思うので取り急ぎ。12,000人以上の間違いじゃない?
[73386] 2009年 12月 24日(木)08:08:05千本桜 さん
町並み歩き、徳島県、都市圏
[73342] 伊豆之国 さん
町並み歩きが話題にならなかった頃
町並み歩きが流行り出したのは、国鉄のディスカバージャパン・キャンペーンによるところが大きいと思いますが、それ以前から西日本の萩・津和野などは観光客を集めていましたよね。どうも、町並み歩きは西日本が優勢で東北地方などは劣勢に感じます。角館や大内宿は萩や妻籠宿に比べたら後発だし、宮城県の白石・岩出山・登米なども趣が有るにはありますが、観光客を集めるほどの古い家並が連続しているわけでもないし。それで、蔵の町村田をおすすめしたいのですが、景観未整備の現状では「通」の人たちに喜んでもらえても、普通の観光客からは「何だ、こんな街」と言われそうで怖い。本当は良い町並みなんです。これからでしょう。

[73362] oki さん
江戸時代の阿波国で「町」を名乗った地域は数少なく、脇町のほかは川島、富岡くらいです。
なるほど・・・。川島は古く江戸期からの町場だったのですね。私は長年、何故に税務署・警察署などの公的機関が鴨島ではなく川島に置かれているのを不思議に思っていました。これで疑問が解けたような気がします。ありがとうございます。下に、主な国機関の設置場所を一覧表にしてみます。
徳島市鳴門市小松島市阿南市牟岐町鴨島町川島町脇町池田町
法務局
税務署
労働基準監督署
公共職業安定所
地方裁判所
簡易裁判所
農政事務所
ところで、1889年に麻植郡 川島町, 桑村, 宮ノ島村, 山田村, 東山村の一部が合併して桑川村になりましたが、その桑川村は18年後の1907年に、単独で川島町に改称して町政施行しています。合併ではなく単独で町政に移行するだけですから、誰憚らず桑川町にすれば良さそうなものですが、川島町に改称したのは何故でしょう。


[73363] 白桃 さん
注目の脇町ですが、吉野川中下流域における首邑の座は次第に鴨島に奪われていったようです。
昭和31年改訂発行の徳島県新誌(初版は昭和26年発行)は川島町について「旧川島町は吉野川南岸の一地方的中心地
」と記述し、鴨島町については「最近中央橋の架橋によって吉野川北岸との交通が便利になり、町の成長発展をきたしつつある」と記述してあります。鴨島が「成長発展をきたしつつある」という記述。このことから、昭和20年代はまだ川島の中心性が高く、鴨島が(急激に)追い上げているように感じ取れます。中心性の点で逆転した時期は分かりませんが、いずれにしても昭和10年代・20年代の吉野川中流域では脇町・川島・鴨島が都市間競争を展開していたのでしょうね。[15425]で白桃さんが書かれた三本松~鴨島間の国鉄バスも、中央橋で吉野川を渡っていたのだと思います。昔なら三本松が鴨島を引っ張ったのでしょうが、今もバスが走っていたなら鴨島が三本松を引っ張る関係になっていたのでしょうか?。

[73365] suikotei さん
合併時の本庁舎は最も新しく延床面積も広い穴吹町役場
そういう事情があったのですか。今後、脇町と穴吹の関係がどのように変化するか気になりますね。

[73384] rigst さん
新たな都市圏定義方法に胸をはせながら過ごす師走の夜でしたとさ。
はじめまして rigstさん。私も都市圏に興味があります。都市雇用圏では勝山町・久世町が落合圏に含まれるのですね。新鮮な驚きです。種々の最新統計を見たいのですが、現在、Excelを開けない環境にあります。それで、手持ちの本の中では最新(1998年、古すぎ!)の東洋経済地域経済総覧を見ているのですが、微妙なところなんでしょうね。とくに落合と久世の関係は。
[73371] 2009年 12月 21日(月)20:16:59千本桜 さん
スーパータウン
昭和31年12月改訂版発行、日本書院の「○○県新誌」によると、昭和30年10月1日における「○○町」の面積は137.7平方キロメートルで、人口は41,343人だそうです。昭和30年に4万人を超していた、このスーパータウンはどこでしょう。当時の町名と現在の市名をお答えください。落書帳メンバーの中には、あ!なんだ、と即答できる方がいらっしゃいます。
[73357] 2009年 12月 20日(日)08:35:30【1】千本桜 さん
頑張れワッキー
[73331] 白桃 さん
自分でもわかりませんが、吉野川の北側に鉄道が走っていたら、(鍛冶屋原線は無視)、脇町は遅くとも昭和の合併時に市制施行をしていたのではないか、
美馬郡の人口分布変遷と徳島本線の関連性を調べるのも面白そうですね。そのためには、明治期からの人口推移が分かればベストでしょうが、あいにく古い年代の資料を持ち合わせていませんので、昭和45年以降の国勢調査人口だけを表にしてみました。(昭和50年以降は確定値ですが、昭和45年の数値は速報値かも知れません)
調査年脇町美馬町穴吹町貞光町半田町一宇村木屋平村
昭和45年19,06110,47211,6438,8129,4065,0923,622
昭和50年19,02610,08110,3858,1218,4573,7323,098
昭和55年19,19410,2309,8788,0137,9152,9292,340
昭和60年19,33110,1489,2607,5287,2832,5301,950
平成2年19,1329,9348,4916,8996,7712,1241,602
平成7年19,0649,4838,1506,5296,3411,7441,505
平成12年18,3769,3107,6325,9635,5901,5471,314
意外にも、鉄道が走っていない脇町・美馬町より、鉄道が走っている穴吹町・貞光町・半田町の人口減が激しいのですね。脇町に焦点を当ててみます。資料がないので推測で書きますが、間違っていたら教えてください。たぶん、脇町の人口ピークは昭和20年代後半で、2万5千人程度いたのではないでしょうか。その後、急激に減少したはずですが、昭和45年から平成7年までは横這いで持ちこたえています。徳島市のベッドタウンに成り得ない距離に位置し、しかも、鉄道が走っていない環境での人口横這いは敢闘賞ものでしょう。工場誘致の賜でしょうね。ところが、何が原因か分かりませんが、平成12年には少し目立つ人口減になっています。
美馬郡の機能的センターが脇町なら、サブセンターは貞光でしょうね。平成の合併で、美馬市(脇町・美馬町・穴吹町,木屋平村)とつるぎ町(貞光町・半田町・一宇村)に分かれて合併したのは、そのような力関係が影響したからでしょうか?。でも、そうだとすると、貞光グループと関係が深そうな美馬町が脇町グループに組込まれていたり、美馬市の市役所が脇町にあらず穴吹だったり、ちょっと理解しにくいところがありますね。
脇町は未訪ですが、貞光・穴吹は自転車で走りました。ウン十年前の8月20日(晴れ)、高知市から徳島市まで走行。大歩危・小歩危の風景と、池田の町の繁華街を見たいという思いが強かったですね。川島か鴨島あたりで薄暗くなり、徳島市に着いたときは夜だったような。その夜は徳島駅で寝ました。元来めんどくさがりで記録するのが苦手ですが、自転車旅行中は気になった場所だけ、短いメモを書き残していました。たとえば次のように。小野田=中心となる所がない。宇部=変な街。小郡=大河原より上。山口=静かだ。福山=情緒全くない街。笠岡=小さい。倉敷=大原美術館(100円)に入る。ゴッホの「アルプスへの道」とゴーガンの「タヒチにて」に感激す。岡山=整った街。宇野=バス待合所に寝る。坂出=商店街安っぽい。丸亀=葉書に丸亀城をスケッチ。等々です。宇部が変な街とか、笠岡が小さいとか、坂出の商店街が安っぽいとか、いろいろ書いてますが、それは、笠岡はもっと大きな街で、坂出の商店街はもっと立派だろうと想像していたからにほかなりません。なので関係者の皆さん、気にしないでください。

追記
なかなか古い記憶が抜けなくて徳島本線と書きましたが、民営化後の1988年にJR四国は徳島本線を徳島線に改称していたのでした。
[73340] 2009年 12月 17日(木)18:49:01千本桜 さん
ハーヌ民国 チョンホワ民国
[73329] 興田小 さん
かつては教えていたが現在は避ける傾向にある表現はほかにもあるのでしょうか?
わたしが思いついたのは「旧大陸」と「新大陸」や「支那」です。
最近は「南朝鮮」も耳にしなくなりましたね。

[73330] Issie さん
学校で(公式に)教わったとなると
記憶が定かではないのですが、中学校で教わったのは「北朝鮮」「南朝鮮」だったような。「北朝鮮」は工業国で、「南朝鮮」は農業国という教えられ方をしたような・・・。ところが、姉が残して行った昭和29年発行開成館の中学社会科地図には、南北ひっくるめて「ハーヌ民国(韓国)」と記載されているのですよ。ちなみに、中国の名称については、ページによって「中国」だったり、チョンホワ(中華)民国だったりしています。もちろん、私の時代はハーヌ民国とかチョンホワ民国という教えられ方はしていませんけど。
[73280] 2009年 12月 13日(日)08:44:24千本桜 さん
国機関の統廃合
宮城県内における国機関の統廃合の話題を二つ。仙台法務局は、県北部の築館支局(栗原市)を来年2月、古川支局(大崎市)に統合して廃止する方針を決めました。これで、面積800平方キロメートル、人口77,000人の栗原地域から法務局がなくなります。栗原地域の中心機能が集まる築館は、平成17年9月実施の消費購買動向調査で商圏消失が判明。その後も商圏回復ができないままです。そして、今度の法務局支局廃止と、なにかと寂しい状況にあります。一方、県南部では昨年4月、白石公共職業安定所(白石市)が大河原公共職業安定所(大河原町)に統合されて大河原公共職業安定所白石出張所になりました。白石市・角田市より人口が多い柴田町。白石市・角田市より中枢機能の集積が進む大河原町。また一つ、仙南地域の市町逆転現象が進んだようです。どうして、「市」「町」「村」などと、面倒くさい3種類に分けなければならないのかとボヤキながら今年も終わろうとしています。
[73208] 2009年 12月 5日(土)21:20:47千本桜 さん
国土地理院発行地図販売代理店
[73205] hmt さん
地図販売店一覧 を見ると、そのすべてを取り揃えているのは、東京でも、日本橋の ぶよお堂、駿河台下の 内外地図[73200]、それに渋谷から1km余先の青葉台にある 日本地図センター だけのようですね。
(財)日本地図センター は国土地理院の外郭団体ですから性格が異なりますが、(株)武揚堂と内外地図(株)に日本地図共販(株)を加えた3社は国土地理院発行地図の元売捌所ですから、品揃えが多いというか、揃えて置かなければならない立場にあるのでしょう。武揚堂、内外地図、日本地図共販の元売捌所3社を通じて、全国の国土地理院発行地図販売代理店(書店など)に流れる仕組みになっていますので。
[72957] 2009年 11月 26日(木)06:54:28千本桜 さん
井原
[72944]白桃 さん
特に井原市では、白桃としては珍しく結構時間をかけて歩きました。
井原は未訪地ですが、恩ある人の生まれ故郷ということもあって興味がありました。それに、旧市街(小田川沿いの谷口集落)を置き去りにしたまま、大胆に新市街(井原駅前地区)を造成している点でも関心がありました。旧市街を置き去りにしたまま新市街を造成したというのは、あくまで地形図や空中写真を見ての印象です。つまり、真上から見下ろした印象です。これを横からの目線で見て、どんな印象を受けられましたか。井原の規模の街で駅前通りが片側二車線(両側で四車線)というのは、ゆとりある空間に感じませんでしたか。たぶん、旧市街と新市街のコントラストが明確な都市だろうと想像しますが、いかがでしたか。それに、旧市街(谷口集落)の区域は旧山陽道から少し逸れているのですね。微妙な逸れ方。なんで?、と考え込んでしまいそうな逸れ方です。
[72894] 2009年 11月 20日(金)13:01:57千本桜 さん
八女郡福島町
[72893]Issie さん
福岡 八女郡福岡町 ほか →1954. 4. 1 福岡市 →八女市
県名に釣られた誤打だとは思いますが、正しくは、福岡 八女郡福島町 ほか →1954. 4. 1 福島市 →八女市ですね。
[72228] 2009年 10月 21日(水)08:15:15【1】千本桜 さん
町場名と藩政村名、公称と通称
[72164]で、古くからの町場名が明治期の新町村名に引き継がれた事例を挙げましたが、もう少し詳しく書いてみます。町場の規模はさまざまで、菅生宿下戸沢宿のように戸数50戸あるかないかの町並みでも町場は町場です。ちなみに、いまも菅生の町場の通称は「町」。そして下戸沢の町場の小字名も「町」です。しかし、このように小規模な町場ですと、その名が明治22年の新町村名に影響を及ぼした可能性は低くなります。影響を及ぼすには、それなりの規模と都市機能の集積が必要になります。そこで、江戸期の仙台藩で商業活動が許されていた町場を選出し、それを便宜上の「町場」とします。商業活動を許された町場は、おおむね規模の大きな町場でもあります。宮城県史は仙台藩の在方商業の統制について次のように記述しています。
藩指定の町場以外では原則として在方の商業は禁ぜられ、農民の商人化はもとより厳重に取り締まられた。領内の町場は、中期において77、享保19年(1734)に89、幕末に96に増加しており、ここで定期に日市が開かれ、商業取引が行われた。
として、江戸中期における77の町場名と市日を紹介しています。町場の内訳は、現在の岩手県に属するものが一関、水沢など31町場。宮城県に属するものが古川、気仙沼など46町場です。では、宮城県に属する46の町場名と明治期の新町村名の関わりを見てみましょう。まず、町場が属した藩政村名と明治22年の新町村名を調べ、次の5つに分類します。

【類型1】町場と藩政村が異名なものの内、町場名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)町場=川崎。藩政村=前川村。明治22年新町村=川崎村

【類型2】町場と藩政村が異名なものの内、藩政村名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)該当するものがありません。

【類型3】町場と藩政村が異名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=金津。藩政村=尾山村。明治22年新町村=藤尾村

【類型4】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=高城。藩政村=高城本郷。明治22年新町村=松島村

【類型5】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に絡んでいると思われるケース。
(例)町場=白石。藩政村=白石本郷。明治22年新町村=白石町

【類型1のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
川崎前川村川崎村(柴田郡)なし
亘理小堤村亘理町(亘理郡)なし
吉岡今村吉岡町(黒川郡)なし
松山千石村松山村(志田郡)なし
小牛田南小牛田村小牛田村(遠田郡)なし
涌谷馬場谷地村涌谷町(遠田郡)なし
宮野下宮野村宮野村(栗原郡)明治8年下宮野村など3村が合併して宮野村
佐沼北方村佐沼町(登米郡)なし
登米寺池村登米町(登米郡)明治6年寺池村など4村が合併して登米村
飯野川相野谷村飯野川村(桃生郡)なし
類型1は、藩政村名を採らずに、町場名を採って明治期の新町村名にしたケースです。小堤村・今村・馬場谷地村は明治22年、合併しないで単独で町村制の町に移行し、町場名をもって亘理町・吉岡町・涌谷町に改称しました。佐沼は北方村に属する宿場町(通称佐沼町)ですが明治22年、北方村から分離して自治体の佐沼町になりました。明治22年に前川村など5ヶ村が合併して発足した川崎村は、前川村の町場名「川崎」を新村名にしています。松山村・小牛田村・宮野村・登米町・飯野川村も町場名が新町村名に繋がっています。

【類型2のリスト】
類型2は、町場名を採らずに、藩政村名を採って明治期の新町村名にしたケースです。しかし、該当するものがありません。町場名と藩政村名が異なる場合は、【類型1】のように町場名が引き継がれるか、【類型3】のように双方とも引き継がれずに新名称が立てられています。江戸期に商業取引を許されたほどの町場は、ネームバリューもステータスも藩政村より勝っていたのでしょう。仙台藩では、町場名が藩政村名を抑えて新町村名に引き継がれることはあっても、藩政村名が町場名を抑えて新町村名に引き継がれることはありませんでした。勿論これは、それなりの規模と都市機能を有した町場があった場合の話です。有効な町場がない場合は藩政村名を新町村名にしている例も多々あります。

【類型3のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
金津尾山村藤尾村(伊具郡)なし
米岡西野村米山村(登米郡)なし
横川福地村大川村(桃生郡)なし
類型3は、町場・藩政村・新町村の名称が全て異なります。町場名・藩政村名とも新村名に引き継がれなかったケースです。明治22年、尾山村と藤田村が合併し、新村名は旧村名から1文字ずつ採って藤尾村になりました。旧村はその大字になりましたが、通称町場名「金津」は今も健在で、公称大字名の尾山や藤田よりも汎用されている感じさえします。江戸期からの町場名「金津」「米岡」「横川」が明治期の新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。

【類型4のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
高城高城本郷松島村(宮城郡)なし
真坂真坂村一迫村(栗原郡)明治8年真坂村と清水村が合併して真坂村
狼河原狼河原村米川村(登米郡)明治8年狼河原村と鱒淵村が合併して米川村
釜谷釜谷浜大川村(桃生郡)なし
柳津柳津村麻崎村(本吉郡)明治8年柳津村と黄牛村が合併して麻崎村
志津川志津川村本吉村(本吉郡)明治8年志津川村など3村が合併して本吉村
津谷津谷村御嶽村(本吉郡)明治8年津谷村など3村が合併して御嶽村
馬籠馬籠村御嶽村(本吉郡)明治8年馬籠村など3村が合併して御嶽村
類型4は、町場と藩政村が同名なのに、双方とも新村名に引き継がれなかったケースです。新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。ただし、志津川についてのみ感想を記します。志津川村は明治8年に周辺2村と合併して本吉村になりました。なぜ志津川ほどの町場が、その名を捨てて本吉村になったのだろう。たぶん、本吉郡の中心としての自負および中心でありたいという願望が込められていると推測します。しかし、そこには「本吉」と言う名の町場はありません。本吉村を名乗ってみたものの、そこにあるのは「志津川」と言う名の町場です。おそらく、どこか不安定でおさまりが悪かったのでしょう。明治28年に志津川町に改称しています。明治期に成立した亘理郡亘理町や登米郡登米町は、そこに「亘理」「登米」と呼ばれる町場があるから、ぶれないのです。しかし、昭和の合併で成立した柴田郡柴田町や牡鹿郡牡鹿町(現・石巻市)などは、いまだに地名としての定着がぶれているように感じられます。

【類型5のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
白石白石本郷白石町(刈田郡)なし
大河原大河原村大河原町(柴田郡)なし
船岡船岡村船岡村(柴田郡)なし
村田村田郷村田村(柴田郡)なし
角田角田本郷角田町(伊具郡)なし
丸森丸森村丸森村(伊具郡)なし
金山金山本郷金山村(伊具郡)なし
岩沼岩沼郷岩沼町(名取郡)なし
中新田中新田村中新田町(加美郡)なし
宮崎宮崎村宮崎村(加美郡)なし
古川古川村古川町(志田郡)なし
三本木三本木村三本木村(志田郡)なし
岩出山岩出山本郷岩出山町(玉造郡)明治5年岩出山本郷が岩出山村に変更
田尻田尻村田尻村(遠田郡)なし
高清水高清水村高清水村(栗原郡)なし
築館築館村築館村(栗原郡)明治8年築館村と成田村が合併して築館村
岩ヶ崎岩ヶ崎村岩ヶ崎町(栗原郡)なし
沢辺沢辺村沢辺村(栗原郡)なし
金成金成村金成村(栗原郡)明治8年金成村と畑村が合併して金成村
若柳若柳村若柳町(栗原郡)なし
石森石森村石森村(登米郡)なし
米谷米谷村米谷村(登米郡)明治8年米谷村と楼台村が合併して米谷村
小野小野本郷小野村(桃生郡)なし
鹿又鹿又村鹿又村(桃生郡)なし
気仙沼気仙沼本郷気仙沼町(本吉郡)なし
類型5は、町場・藩政村・新町村が共に同名のケースです。藩政村と新町村が同名のため、一般には藩政村名を継承したと思われているようです。それを否定するつもりはありませんが、町場名も大きく影響しただろうと私は思うのです。なぜなら、ここで取り上げた46ヶ所の町場は商業活動を許された町場ですから、大なり小なり都市性格を有しています。このような町場のネームバリューは、藩政村の名を上回っていたのではないでしょうか。それは、類型1から推測できます。類型1は町場名と藩政村名が異なりますが、すべて藩政村名を捨てて町場名を新町村名に採用しています。その逆に、町場名を捨てて藩政村名を新町村名に採用した自治体はありません。類型5で風変わりなのは古川です。通称「古川」と呼ばれる町場は、藩政村でいうと古川村・大柿村・稲葉村・中里村に跨がっていました。新幹線古川駅の開業で中心街が駅前に移動するまで、古川の中心街は七日町でした。しかし、この七日町は地籍上は古川村ではなく大柿村の内にあったのです。でも、江戸期や明治期の人は七日町界隈に行くことを、「大柿村に行く」とは言わずに「古川に行く」と言っていたと思うのです。

近年、地図や道路案内板やネットを見ていると、公称が本流で、通称は傍流に押しやられ過ぎていると感じます。住所に対する感覚が昔と変わってきたので仕方ないのでしょうが・・・。

誤字を1文字訂正しました。
[72164] 2009年 10月 12日(月)09:57:07【1】千本桜 さん
明治期の市町村名に影響を及ぼした町場名
角川地名大辞典は富来町の町名由来を中世以来の院名によるとしています。しかし、明治22年に町村制施行で誕生した富来村の村名決定にあたっては、院名「富来」よりも町場名「富来」が強く影響しているのではないかと思います。中世富来院の区域に位置する藩政村は明治22年、下記のようにA~Gの7村に統合されました。
合併前の藩政村町村制による合併後の新村名
A地頭町村・領家町村など7村富来村
B今田村・東小室村など16村稗造村
C相神村・八幡村など11村東増穂村
D酒見村・大福寺村など4村西増穂村
E風無村・風戸村など3村西海村
F鹿頭村・赤崎村など6村西浦村
G西谷内村・藤瀬村など9村釶打村
過去に富来院に属していたことを理由に富来村を名乗れるなら、A~Gの7村はいずれも富来村を名乗れたはずです。しかし、富来村を名乗ったのはAであり、Bは稗造村、Cは東増穂村、Dは西増穂村、Eは西海村、Fは西浦村、Gは釶打村を名乗りました。なぜAは富来村を名乗り、B~Gは富来村を名乗らなかったのでしょう。それは、すでにAの区域内に「富来」と呼ばれる町場が存在していたからだと思います。推測ですが、Fの鹿頭村やGの西谷内村の人たちは、Aの地頭町・領家町に形成された町場へ行くことを「富来に行く」と言っていたのではないでしょうか。地頭町村や領家町村は地籍上の名称で、これを公称というのでしょう。しかし、それと同等またはそれ以上に「富来」という通称が汎用されていたのだろうと思います。それは、天保国絵図が地頭町村を富木村と表記していることや、正保郷帳が地頭町村の代わりに富木村を用いて「富木村 領家町 町本江村」として高付していることからも推測できます。

公称と通称の混用はどこにでもあることで、能登国でも公称の村名と通称の町場名が混用されています。そもそも、七尾・輪島・穴水という町場はあっても、七尾村・輪島村・穴水村という藩政村はありませんでした。七尾は藩政期の所口村や府中村などに跨がって展開する町場の名称です。江戸期や明治初期の能登の村人にとって、七尾の町に遊びに行くのは楽しみだったはずです。そのとき彼等は「七尾に行く」という言い方を多用し、「所口に行く」という言い方は少なかったと推測します。地名の汎用性としては、公称の村名「所口」より通称の町場名「七尾」が勝っていたように思います。明治22年、所口村・府中村・小島村・藤橋村が合併して町村制下の七尾町になります。同じように、輪島も藩政期の風至町・河井町に跨がる町場の通称です。この通称の町場名「輪島」が明治22年に発足した輪島町に繋がっています。また、穴水も藩政期の大町村・川島村に跨がって形成された町場の通称です。この穴水と言う町場の名が、明治22年発足の穴水村の村名決定に大きく影響していると思います。そして、富来もまた同じだと思います。

公称村名とは異なる通称町場名を持つものとして、[71220]で原ノ町宿(現・福島県南相馬市)、登米宿(現・宮城県登米市)、水沢宿(現・岩手県奥州市)をあげました。以上は、なじみの深い東北地方の中から3例をピックアップしたものです。このような事例は東北地方や能登地方以外にもたくさん転がっています。たとえば美作国の真庭郡(現・真庭市)では、藩政期の垂水村に通称「落合」と呼ばれる川舟港町があり、その名が明治22年に発足した落合村の村名に影響しています。同じく、藩政期の高田村に通称「勝山」と呼ばれる城下&宿場があり、その名が明治22年発足の勝山村に直接結びついています。しかも、高田村は他村と合併せずに単独で町村制の村に移行したのに、あえて勝山村に改称しています。と言うことは、当時すでに藩政村「高田」よりも町場「勝山」の名が地名として勝っていたのでしょう。勝山・落合と並ぶ真庭郡の拠点町場に「久世」がありますが、こちらは藩政村名も「久世」、町場名も「久世」ですから問題はなかったようです。

公称村名より通称町場名が勝っていたために改称したと思われる事例は宮城県にもあります。藩政村の小堤村は単独で町村制の町に移行したのに、町場名をとって亘理町に改称。同じく今村は吉岡町に改称。馬場谷地村は涌谷町に改称しています。岩手県の遠野や広島県の竹原もそうですね。藩政村の岩手県横田村は単独で町村制の町になり遠野町に改称。広島県下市村も単独で町村制の町になり竹原町に改称しています。亘理、吉岡、涌谷、遠野、竹原の共通点は、明治期に警察署が置かれたことからも分かるように、地域の中心性を担った町場だということです。このような場合、公称の村名より通称の町場名の方がステータスが高くなるのでしょう。小堤村、今村、馬場谷地村、横田村、下市村がそれまでの公称村名を捨て、通称町場名の亘理、吉岡、涌谷、遠野、竹原を新自治体名に採用したのは、そのような背景があってのことではないでしょうか。もっとも、亘理、遠野、竹原については、郡名、通名、荘名などの広域地名も絡んでいますから、それらと町場名の複合由来とすることもできます。しかし、直に影響を及ぼしたものは何かをつきつめれば、江戸期の町場名が明治期の町村名に影響している可能性は非常に高いのです。角川地名大辞典は宮城県亘理町の項で下記のように記述しています。
明治22年~現在の亘理郡の自治体名。小堤村の街衞地域を古くから亘理駅と称していたことから町名に採用。
小堤村の町場が古くから亘理駅と呼ばれていたので、新自治体名は「小堤」を用いず「亘理」にしたと言うことです。郡名、荘名、郷名などの広域地名と同じ名称の市町村については、その名称由来を郡名、荘名、郷名にあるとするだけでなく、域内に郡、荘、郷と同名の町場が存在していないかを確認する必要があると思うのです。

城下町、宿場町、港町、在郷町といった町場は、元来それ自体が一つの施設だろうと感じています。施設ですから名称が必要になります。その名称が地籍上の村名と同名の場合もあれば、異なる場合もあったのでしょう。

書込み訂正機能で下記のとおり訂正しました。
明治22年発足の穴水町の町名決定→明治22年発足の穴水村の村名決定
[72073] 2009年 9月 26日(土)11:09:40千本桜 さん
富来・西海の冠称
志賀町に移行した旧富来町域の住所は、自治体+大字+小字+番地で機能しますから、理論的には地区名(明治22年から昭和29年までの村名)を付さなくても住所として成り立ちます。しかし、実態は地区名を付す地区もあれば付さない地区もあって、統一されていません。。
1・富来地区は大字名の前に地区名「富来」を付す
2・西海地区は大字名の前に地区名「西海」を付す
3・福浦地区は地区名を付さない
4・熊野地区は地区名を付さない
5・稗造地区は地区名を付さない
6・東増穂地区は地区名を付さない
7・西増穂地区は地区名を付さない
8・西浦地区は地区名を付さない
富来地区は大字名の前に地区名「富来」を付けます。西海地区も大字名の前に地区名「西海」を付けます。しかし、福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区は大字名の前に地区名を付けません。どうして、こんなふうになったのでしょう。それが話題の発端でしたね。これに関しては、EMMさんとokiさんが「富来」「西海」の冠称を考察しておられますが、いずれも現段階では推測の域を出ておらず、明確な答えに至っていないようです。お二方にしてそうなのですから、私などには難しすぎて分かるはずもありません。思いますに、合併がらみの住所取り扱いは、往々にして論理よりも情緒に左右されたりするものです。情緒に左右されて決定したものを当事者不在のままあれこれ考えても、結局は推測の域を出ないで終わるでしょう。いっそのこと、当事者の町役場に問い合わせてみたらいかがでしょう。たった4年前のできごとですから、いきさつを憶えている方もおられるはずです。ただし、「富来」「西海」の冠称理由が明らかになったとしても、なぜ他の地区は地区名を冠称しないのかという疑問が残ります。それに対しては、「他の地区からは地区名の冠称要望がなかったから」という、あっさりした他人事のような答えが返ってきて肩透かしを喰らいそうな気がします。ですから、仮説→検証→考察などと堅苦しいことを言わずに肩の力を抜いて、もっと自由に地域を考えることを楽しみましょう。私は、そのようにします。

「富来・西海地区」と「他の地区」の扱いが異なるということは、両者に何らかの地理的相違があってのことかも知れません。地形図を用いて相違点を探してみたいと思います。最初に、次の手順で五万分の一地形図に各種境界線を描き入れます。
1・五万分の一地形図4面「剣地」「穴水」「富来」「七尾」を接合して1枚の地形図にします。
2・地形図に描いてある旧富来町の境界線を太く赤い線でなぞります。
3・Yahoo! 地図などを参照して、地形図に大字の境界線を細く赤い線で描き込みます。
4・富来・西海・福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区の境界を太く赤い線でなぞります。
5・各大字の機能中心地点を探し出し、それぞれの位置に赤い点を落します。
こうして、地形図に自分の手で境界線を描き進むうちに、大字の領域と集落の関係が見えてきます。小さな村落が多い中、小規模ながら町並みを形成している集落も見られます。赤崎、風無風戸、酒見、地頭町領家町高田、福浦港などです。このうち、赤崎、酒見、福浦港の町並みは、それぞれの帰属大字にすっぽり収まって、他の大字にハミ出ていません。ところが、風無と風戸の町並みは途切れることなく連続し、大字界を跨いで一つの町並みになっています。同じように、地頭町、領家町、高田の町並みも連担して、三つの大字に跨がって一つの市街地を形成しています。このような場合、藩政村や大字と言ったククリではククリ切れない別種のククリ感覚が生まれるはずです。

町の場末の縄のれんで、鳥羽一郎さん、金井克子さん、瀬川瑛子さん、ちあきなおみさんが、「浦霞」「一ノ蔵」を注ぎながら、「富来」の話で盛り上がっています。三重県出身の鳥羽さんが、宮城県の酒を呑んでも、富来の話をしても、よそ者が出過ぎるな、などと言う人は誰もいません。ちょうちん一つ、椅子五つ、他人の肩も気にならぬ。そんな小さな居酒屋での会話です。
【鳥羽一郎】俺は、♪「兄弟船」を唄うたび、風無と風戸の村を思い出すんだ。
【金井克子】♪「波の谷間に 命の花が ふたつ並んで 咲いている」という歌でしょう。「命の花」ってなに?。
【鳥羽一郎】「命の花」とは、風無と風戸ことさ。二つは兄弟のように繋がって海辺に張り付いているだろう。
【瀬川瑛子】ほんとだわ。風無と風戸の家並は連続しているのね。
【ちあきなおみ】そーね。風無と風戸は二つで一つなのね。もう切り離せないという感じ。タンスにゴンだわ。
【鳥羽一郎】だから、風無・風戸を一つにまとめて表わす呼び名が必要なんだ。それが西海さ。
【瀬川瑛子】私はね、♪「命くれない」を唄っていると、地頭町と領家町が浮かんでくるのよ。
【鳥羽一郎】♪「生まれる前から 結ばれていた そんな気がする 紅の糸」か。地頭町と領家町を表わしてるね。
【金井克子】地頭町と領家町も二つ併せて一つの町場になってるわ。まるで夫婦の関係ね。
【鳥羽一郎】♪「だから死ぬまで ふたりは一緒」というわけか。
【ちあきなおみ】そーね。地頭町と領家町も二つで一つよね。高田を加えると三つで一つ。タンスにゴンだわ。
【鳥羽一郎】だから、地頭町・領家町・高田を一つにまとめて表わす呼び名が必要なんだ。それが富来さ。
【ちあきなおみ】私の歌に♪「さだめ川」というのがあるけど、知ってる?。
【瀬川瑛子】♪「あなたの愛に 次の世までも ついて行きたい 私です」という歌でしょう。
【鳥羽一郎】「次の世までも・・・」って、富来町が消滅して志賀町に移行することを暗示してるね。
【ちあきなおみ】そーね。富来町がなくなっても、風無と風戸は西海というククリの中で結ばれていたいのね。
【瀬川瑛子】そーよ。志賀町になっても、地頭町と領家町は富来というククリの中で結ばれていたいのよ。
【鳥羽一郎】もしもだよ、風無と風戸の町並みが山で断絶されていたなら、どうなるだろう。
【金井克子】そのときは、♪「他人の関係」よ。♪「あなたはあなた そして私はわたし」という感じね。
【鳥羽一郎】風無は風無、風戸は風戸か。すると「西海」というククリ感が弱まるだろうな。
【瀬川瑛子】地頭町と領家町の町並みが農地や山林で分断されていたなら、どうなるの。
【金井克子】もちろん、♪「他人の関係」よ。♪「地頭は地頭 そして領家は領家?」という感じね。
【ちあきなおみ】そーね。地頭町や領家町の前に「富来」を付けたいという気持も薄らぐわね。
【瀬川瑛子】結局、「富来」「西海」を付けたのは、大字と集落の関係にも原因がありそうね。
【鳥羽一郎】まあ、少しはね・・・。そんなところだろう。
こうして、地理談義に盛り上がりながら、場末の縄のれんの夜は更けて行くのでした。もちろん、これはフィクションです。どのように受けとめるも、読み手の皆さん次第です。ただ、私がはっきり言えることは、大字と集落の関係の処理がお粗末になってしまった町が東北地方の某所にあるということです。そして、旧富来町は、まだそのような事態におちいっていないので救われるということです。

ついでに、旧富来町(石川県志賀町)と旧河北町(宮城県石巻市)の大字を比較してみます。両町を比較するのは、面積が同じで人口も似通っているからです。面積と人口は1965年の数値です。
【旧富来町】
面積=124平方km、人口=15,000人、大字数=59、大字の平均面積=2平方km、大字の平均人口=254人、中心になる大字=地頭町・領家町、中心になる町場名=富来。
【旧河北町】
面積=124平方km、人口=19,000人、大字数=17、大字の平均面積=7平方km、大字の平均人口=1,118人、中心になる大字=相野谷、中心になる町場名=飯野川。
両町を比較すると、旧富来町の大字は旧河北町の大字に比べて小規模なことに気が付きます。人口の少ない大字とその人口を書き出します。人口は角川地名大辞典を参照しました。
【旧富来町の人口の少ない大字、人口100人以下の大字】
深谷0人、大鳥居3人、六実8人、灯9人、八千代10人、中泉13人、江添20人、香能20人、日用23人、楚和30人、入釜47人、地保52人、日下田53人、阿川55人、切留65人、生神67人、豊後名73人、八幡座主74人、牛下77人、栢木77人、広地77人、草江80人、大西85人、荒屋86人、小窪87人、尊保89人、田中93人、谷神93人。
【旧河北町の人口の少ない大字、人口1,000人以下の大字】
北境241人、尾の崎312人、馬鞍406人、東福田448人、成田520人、中野566人、皿貝634人、中島697人、長面762人、福地870人、針岡870人、釜谷891人、三輪田940人、大森954人。
旧富来町には人口100人以下の大字が28ありました。現在ではもっと増えていると思われます。それに対し、旧河北町には人口100人以下の大字がありません。大字の規模が明らかに異なっています。旧富来町深谷は人口0人ですから集落はありません。能登の大字は歴史的に一大字一集落とはいうものの、現実において大鳥居、六実、灯、八千代、中泉、江添、香能、日用、楚和などが単独の集落として成り立っているのだろうか?と、ふと思うのです。

[71891] oki さん
「富来」が冠称された理由が過去へのノスタルジアだとすれば、
富来院、富来郷といった遠い過去へのノスタルジアより、合併で消滅しようとしている富来町への惜別の思いが「富来」を冠称させたのだと思います。まして、富来地区住民にすれば、西海・福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区の住民よりも、その思いは強かったことでしょう。

[71997] oki さん
(※陸奥国信夫郡伊達郷、武蔵国新座郡志木郷は上記集計から除いています。
伊達は信夫郡から分郡した伊達郡が名称の由来と考えられることが理由。
とすると、[71947] で今川焼さんが紹介して下さった陸奥国白河郡石川郷も除外対象になると思います。中世に白河郡から石川郡が分郡してますので。また、現行石川町の名称由来が石川郡にあるのかと言うと、一概にそうとも言い切れません。明治7年に藩政村下泉町村、内槇村、外槇村、高田町村が合併して石川村が生まれましたが、すでに江戸期より下泉町村、高田町村に跨がる町場は「石川町」と呼ばれていました。明治7年発足(明治22年町制)の石川村は江戸期の町場名「石川町」に由来し、昭和30年発足の石川町は明治22年町制施行の「石川町」に由来しているとも考えられるからです。もし、昭和30年発足の石川町の名称が郡名由来だとすると、同じ石川郡に属していた浅川町、平田村、玉川村、大東村が、なぜ石川町または石川村を名乗らなかったのかと言う疑問が残ります。

[72059] 白桃 さん
岡山、倉敷周辺は「小都邑」が一杯あって複雑怪奇、結構面白いですよ
それが、岡山県東部の海寄りの地域になると、片上、伊部、牛窓、長船、邑久など「小都邑」というよりも「小小都邑」ばかりで、なかなかのみこめません。特に、藩政村「尾張」を中心とした自治体が、郡名と同名の邑久町を名乗っていたのが複雑怪奇。和気を知りたい。それにしても牛窓って、「窓」がつくから覗き見したくなりますね。一度はぶらり町歩きをしたくなるような旅情をかき立てられる地名です。
[71771] 2009年 8月 23日(日)20:32:25千本桜 さん
了解しました
[71767] オーナー グリグリさん
了解しました。グリグリさんにまでご心配をおかけいたしまして申し訳ございませんでした。


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