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[54253]2006年9月30日
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[63030] 2008年 1月 3日(木)19:18:26ニジェガロージェッツ さん
レス3題(単行・湯郷・イオヌイ島)
[63021] hiroroじゃけぇ さん
「単行」という言葉が最も似合うかもしれませんね。
ご教示ありがとうございます。
実は今日も「単行」に乗って着ました。といっても姫新線のそれではなく、[62638]k-aceさん他の記事にある三木鉄道ですが。
丁度、加古川へ行く所用が出来たので、普段ならばJR神戸線(山陽本線)に乗って直行するのですが、今日はわざわざ神戸電鉄粟生線、三木鉄道、JR加古川線を経由しました。
神戸電鉄はガラ空きでしたが、今年3月末で廃線になる三木鉄道は満員でした。明らかに「鉄」と分かる鉄道愛好家で賑わっており、沿線の各駅でもそれらしき人々がカメラを構えていました。因みに私は「鉄」ではありませんが、同じく駅や車両を写してきました。(笑)

湯郷ベルの選手たちは、日中湯郷温泉のどこかで働いているようですよ。
湯郷温泉街には宿泊者へのサービスで、宿泊ホテル以外の各館の浴場を巡ることが出来るようになっていて、私もいくつか廻ったのですが、女子サッカーリーグの選手のような若い女性は見かけませんでした。日頃の激務から年末年始くらいは休んでおられるのでは。

[63025] 笠津前浜 さん
これはまさしくオホーツク海の孤島ですね…。今頃は氷の海の上へ頭を出しているところでしょうか。
訳の分からない妄想にお付き合い頂いて恐縮です。あの辺り一面の北部オホーツク海は冬には氷結しますから、恐らく笠津前浜さんのおっしゃるような幻想的な光景であろうと推測します。
また、わざわざマップをお探し下さり有難うございました。Googleマップを見ても同じような島が表示されますが、航空写真からは(下表参照)そこに何かあるようでなさそうな不明瞭な「点」になっています。
手持ちの帝国書院の地図帳では、2007年の「地歴高等地図」には載っておらず、1987年の「サミットワールドアトラス」には載っていました。

リンクされた先のページには、とても美しい写真が揃っていますね。
「ふた昔」前であれば、鉄のカーテンの奥に隠されたような謎の島々の画像が手軽に家庭で楽しめるとは、ネット時代の醍醐味のひとつですね。
ロシア語のページですが、リンク先のページの島の画像の一覧を和名を添えて書いておきます。千島列島の島々が多いので、参考までに千島列島の地図(昭和5年)を出しておきます。
ロシア名和名場所Googleマップ
о. Парамушир幌筵島/パラムシル島北千島衛星写真
о. Анциферов志林規島/シリンキ島北千島衛星写真
о-ва Ловушки牟知列岩/ムシル列岩中千島衛星写真
о. Райкоке雷公計島/ライコケ島中千島衛星写真
о-ва Среднего宇志知諸島北島/スレドネワ島中千島衛星写真
о-ва Братья Черные智理保以島/チリポイ島中千島衛星写真
о. Ионыイオヌイ島オホーツク海北西部衛星写真
о-ва Ямскиеヤムスク諸島オホーツク海北東部衛星写真
о. Берингаベーリング島コマンドル諸島衛星写真
о. Медныйメードヌイ島コマンドル諸島衛星写真
[63011] 2008年 1月 1日(火)17:41:41【1】ニジェガロージェッツ さん
年始めに最果ての島を妄想する
平成二十年になりました。旧年中はいろいろとお世話になりました。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

平成十九年最後の二日間、岡山県美作市の湯郷温泉に行ってまいりました。温泉のお話をしても「いい湯でしたよ」と、日頃の雑多を離れてのんびりと温泉浴を楽しんだと月並みの言葉しか出ませんが、地理的なことで印象的だったのは、まず姫新線に18年振りに乗ったこと。
兵庫県姫路市と岡山県新見市を結ぶ姫新線に以前乗ったときは姫路から津山まで直通で行った記憶があるのですが、今やそれは昔の話。佐用での乗り継ぎに42分の時間待ち。それも津山へは一両編成。電化されていないから「電車」ではないし、一両だから「列車」でもない。これを何と言えばよいのか? 中国山地の山中を細い狭軌の単線鉄道が縫うように一両で走る様は「植民地の軽便鉄道やんけ~!」と言いたくなるような(笑)
温泉の最寄り駅は林野駅で、この林野が平成の大合併で成立した美作市の市役所が置かれた、云わば「市の中心集落」になるのですが、どう見ても「市」の面影はどこにもない田舎の小集落でした。福岡オフ会の時にネットで見た、市街地だけを「市」とした明治の福岡市の範囲が頭にあっただけに(拙稿[62579])、時代が変われば「市」の感覚も変わるもんだと実感した次第です。
しかしながら、古谷一行氏ふんする金田一耕助が下駄履きでいても全く違和感のないような、のんびりとした懐かしい昭和を思わせる街並みは、嬉しく感じました。短いながらも味わいのある楽しい旅でした。

さて、新年に年始めにあたり、日本列島周辺の地図を眺めていると、ユーラシア大陸の東縁に弓状に連なるその姿は、いつ見ても「カッコいい」形をしています。
ところで、列島の最北端は北方領土択捉島の北端であるカモイワッカ岬(北緯45度33分)ですが、北方領土を含めない最北端は宗谷岬弁天島(北緯45度31分)とのこと。しかしこれは「日本列島」を日本の領土の限定した極めて政治的な話。戦前であれば台湾も南樺太も千島列島も日本列島の一部と見なしていたようで、そうなれば列島は北海道の北で樺太と千島の二股に分かれていたことになります。
そうではなく、日本の統治範囲の枠を外し、視点を「ユーラシア大陸の東縁に連なる弓状列島」に戻し「弓」を伸ばしてみると、北は樺太こそが列島の一部になるのではないかと妄想します。
となればその北端はサハリン州最北端のエリザヴェータ岬(北緯54度24分)になり、この岬で列島はオホーツク海に没します。この北には北部オホーツク海の大海原が広がるばかりなり・・・。

エリザヴェータ岬のほぼ真北540キロには大陸のオホーツク町があります。今では人口5,054人(2007年1月1日)の小さな町ですが、大きな海洋の名称として世界に知られた名となりました。ですが、この町の名もオホータ川という小さな河川名を由来としています。
そのオホーツク町とサハリンのエリザヴェート岬の間のほぼ中間点、広がるは大海原ばかりなり・・・と思われる所に、正に絶海の孤島が存在します。どうしてこんな所に島があるのかと首を傾げたくなるような、サハリン北端の北250キロの北緯56度24分、東経143度23分にその島は存在します。まるでビリケンさんの頭が海中から突き出したような、標高300mの点のような小島です。その名をイオヌイ島(または実際には「ヨーヌイ」と発音するかも)と言いますが、この島こそが弓状列島最北の島ではと妄想を続けております。
人を寄せ付けない海岸にトドの群生。一度は訪れてみたい最果ての島です。
皆様お持ちの地図には、この島が描かれているでしょうか?
[62865] 2007年 12月 16日(日)17:26:41ニジェガロージェッツ さん
アライグマがブタに化ける神戸の話
先月のオフ会での「荒ゴミ」や「別勉」という神戸の言葉についての[62579]へ沢山のレスをいただいておりながら、返事が(いつもながら)遅くなってしまい、申し訳ございません。最近はどうも無気力でいけません。

今月一日に港則法施行令の改正による3港の合併により阪神港が誕生しました。神戸市街地の南に広がる大きな港は、既に「神戸港」ではなく堺泉北から須磨に広がる巨大な港のうちの「阪神港神戸区」になりました。従来は神戸港、尼崎西宮芦屋港、大阪港の3港でそれぞれで入港税や書類手続きの負担が求められていたのが阪神港に一元化されたことで、入港船舶の増加や競争力の強化が期待されているところです。東京、川崎、横浜3港を合体した京浜港については[57385]hmtさんが触れておられます。 阪神港の開港は京浜港の例にならったものでしょう。
港則法でのお話ですが、神戸港が消えるのは地元の神戸っ子としてはちょっと寂しい気もします。

[62583] 桜トンネル さん
「荒ゴミ」について
阪神地区全域はすべて通じると思っていました。最近、僕がよく行く尼崎市では使われないとは驚きです。一体、どこが線引きとなっているのでしょうね。
通じるのは原則として神戸市域のみだと推測します。但し、住民の移動がありますから、他市民であっても神戸に一時期でも居住した経験のある人や、神戸に通勤している人などは「荒ゴミ」を知っていて当然で、また、神戸周辺を営業範囲としているゴミ収集業者では「荒ゴミ」という言葉を使っている場合もありますから、神戸市に隣接する地域では、通じる可能性が高いと思われます。また「荒ゴミ」を検索すると、稀ですが神戸とは無関係のところでも用いる所があるようです。
私事ですが、震災後、一時期加古川市に居住したことがありました。町内の人に「この辺りの荒ゴミの日はいつですか」と尋ねても要領を得ませんでした。それもその筈で「荒ゴミの日」など存在せず、加古川市ではゴミの細分化が既に徹底されていました。
今では神戸市のゴミ区分からも「荒ゴミ」は廃止されましたが、元来、神戸市の場合は西区(布施畑)や北区(長尾山)に広大な埋立処分場を有し、「荒ゴミ」として一括で埋立処分する用地に恵まれていたために不燃ごみを細分する必要が薄く、それが震災によって生じた瓦礫や引越しゴミなどの膨大な量を処分したために埋立処分地の余裕がなくなり、いよいよゴミの細分化、リサイクルに対応した区分を導入したというところでしょうか。
ゴミの細分化を啓蒙するキャラクターとして神戸弁の「分けとん」から、豚の「ワケトン君」が採用されています。因みにワケトンの敵キャラ「ワケヘン」と「ヤラヘン」も存在します。
以前の荒ゴミ置場こと「荒ゴミステーション」のキャラクターは荒の字からか、アライグマだったことは知る人ぞ知る話。

「荒ゴミ」の他にも代表的な例としては「日番」があります。
小生が小学校1年生のときも「日番」でした。昭和40年代の前半の話ですから、随分古い言葉です。というより、桜トンネルさんの[62583]を読むまで、これが神戸独特の言葉だったとは知りませんでした。子供の頃はセロハンテープなどの日用品で有名な「ニチバン」も日番絡みの社名かと思っていたほどでしたが、こちらは絆創膏のほうの「バン」のようです。
面白いお話、有難うございました。

[62633] たもっち さん
「荒ゴミ」という言葉が出て来た場面をよく見ると、電柱の「芦屋金持町一丁目」という標示が描き込まれていますので、実は、神戸周辺で使われている言葉を考証のうえでセリフを書いたのではないか、という可能性も・・。
とりあえず芦屋市のHPから「荒ゴミ」を探しましたが、見つかりませんでした。(笑
少なくとも、現在の芦屋市のゴミ収集区分には「荒ゴミ」はありません。但し、一部のゴミ収集業者が「荒ゴミ」とう言葉を使う場合もありますから、やはり、いしい氏が考証したうえで書いている可能性は高いと思います。

神戸から来た同級生も何人かいて、彼らが、表紙にポートタワーあたりの風景写真が載っているノートを持っていたことを覚えています。表紙全体の背景に薄緑のモノクロ(?)で刷り込まれていたように記憶していますが、これって、神戸の小学生の間で広く使われていたものだったのでしょうか。あるいは、世代が限られるのかもしれませんが、どなたかご存じないですか?
神戸市指定の学習ノートで、関西ノート(株)が製作しているもので、国語帳(緑)、算数帳(水色)、理科の記録(黄)、社会科(橙)、自由帳(桃)、連絡帳(紫)、百字練習帳(青)、二百字練習帳(青)があり、他にも音楽ノートやRomazi Renshu-tyo がありました。
もちろん、昭和40年代(いや、もっと以前から?)存在していました。
表紙は神戸市内の景色の写真がそれぞれの色のモノカラーで印刷されています。風景写真は時代によって変わっていますが、百時練習帳のそれは小生が使用していた当時の写真のままで、ポートタワーの建つ中突堤を写したものですが、現在の風景とは比べ物にならない、昭和40年代中頃のもので、今では「歴史的写真」と言えるものです。
ネットでは「神戸ノート」と呼ばれているようですが、文房具好きにはちょっとした人気だそうです。(記事
[62757] 2007年 12月 2日(日)21:48:20ニジェガロージェッツ さん
Re^2:唐太の子供列車
[62755] 伊豆之国 さん
[62756] Issie さん
今日の番組は見逃してしまいましたが、豊原の子供鉄道については過去に何度かメディアや書籍でも取り上げられておりました。
日本のテレビドラマでは、役所公司主演で1991年に放送された東芝日曜劇場スペシャル「サハリンの薔薇」のひとコマで、現地の少女が役所氏を子供鉄道に誘う場面がありました。

サハリン州20万分の1地形図にもユジノ・サハリンスク市街地の東北東、ピオネールスカヤという所に小さな環状鉄道が描かれており、駅も2つあります。
場所はガガーリン文化公園で、旧豊原公園(本当は、「旧」なんて書きたくないのですが)に当たります。

ソ連の子供鉄道については、こんなに沢山の都市で運行されていました。豊原のそれは、1954年6月6日の開業のようです。
写真1 写真2
[62753] 2007年 12月 2日(日)18:32:34【1】ニジェガロージェッツ さん
唐から樺へ
カラフト(北蝦夷)について「唐太」と表記したことのある歴史について、[61689] 伊豆之国さんへのレスの形で投稿させていただきましたが、その後も[62464]伊豆之国さんをはじめ、多くの反響をいただきながらも、3週間以上を経てしまい、いつもながらの亀レスにて失礼しておりました。

[62467] 笠津前浜 さん
カラフトの字に漢字をあてる際に「樺」を選んだ理由は何なのでしょうね。あるいは樺が多く生えていたのでしょうか。訓読みですから如何様にも読めるのですが、樺を「から」と読ませる例も少ないのではないでしょうか。

カラフトの「カラ」も部分に「樺」の字を充てた所以は、[62501]北の住人さんより、
江戸時代を通じ一般的なものは「唐太」です。一時的に「北蝦夷」が使われますが、幕末からまた「カラフト」と称され、「柄太」「柯太」が多く使われ、明治2年以降は「樺太」に定まりました。
「樺太」については、「樺が多いから」という松浦武四郎の意見が採られたようです。
とフォローいただきましたが、正に樺太は白樺の木の多いところです。現地で飲んだ白樺ジュースのおいしかったこと。サハリンの名産だと聞きましたが、ロシアのほとんどの地域で白樺の木は多く、全国的に生産されていたようです。ソ連時代の末期、ヴォルガ沿岸のゴーリキー市でも食料品店の棚には品薄で何もなかったような時でさえ、白樺ジュースだけは入手が容易だったと聞きました。ソ連解体後はコーラなど西側の飲料が大量に流入し、それに反比例して白樺ジュースは人気薄となり、これを売っている店を探すのはロシアでも容易ではありません。
話が逸れましたが、その白樺の「樺」の字を「カラ」と読ませるのはちょっとした無理があり、後世「カバフト」と読み改められる恐れがあるから「柯太」と表記すべしとの議論もあったと聞きます。

北の住人さんの記事にあるように「樺太」の表記が松浦武四郎の意見により採られた明治2年のことですが、では江戸期において「樺太」との表記があったのかどうかの検証も必要になってくることと思われます。以下、結論には達しませんが、メモ代わりに画像へのリンクも添えて続けます。

北海道大学付属図書館北方古地図高精細画像電子展示のコーナーには、1801年に普請役・中村小市郎と小人目付出役・高橋次太夫の調査による「樺太見分図」とのタイトルで2葉(離島説、半島説)出ていますが、こちらにも地図色分けの凡例部分に「唐太山」の表記があることから、タイトルの「樺太」は後に付けられたもののようにも思われます。
また、別に近藤重蔵が1802年に作製した2葉(1離島説、2半島説)の地図を「蝦夷及樺太ノ図」とのタイトルが付けられていますが、実際に地図を見るとカラフトには「唐太」と表記されており、北海道大学の「江戸時代における日本北辺地図(講演要旨)」には同じものが離島説・半島説を併記した形で「近藤重蔵「蝦夷地図式 乾」1802年として紹介されていますから、こちらも「樺太表記」を裏付けるものではありません。
なお、船越昭生著「北方図の歴史」(講談社―1976年)には「蝦夷及樺太ノ図2半島説」と同じものが『近藤重蔵「蝦夷地図式」乾』として載せられています。

さて、船越氏の「北方図の歴史」などに収録されている諸図や解説によると
図名作者など時代カラフトについての表記リンク
蝦夷風俗人情之沙汰最上徳内1790年唐太画像
蝦夷地図式 乾近藤重蔵1802年唐太画像
享和元年樺太見分図中村小市郎・高橋次太夫1801年唐太山画像
辺要分界図考近藤重蔵1804年カラフト画像
唐太島図松田伝十郎・間宮林蔵1809年
北蝦夷島図間宮林蔵1810年
日本辺界略図高橋景保1809年北蝦夷画像
蝦夷闔境輿地全図藤田良・橋本蘭斎1854年画像
官板 実測日本地図(北蝦夷)幕府開成所1867年北蝦夷画像

以上、手持ちの書籍やウエブの画像で読めそうなものを集めてみましたが、これだけでは江戸期に「樺太」の表記が存在したことの裏づけにはあまりにも不十分、というより、否定的な感触です。江戸期においては「樺太」との表記はおおよそ用いられておらず、「唐太」または「北蝦夷」の表記が一般であったことは言えると推察します。


[62501] 北の住人 さん
ところで、全国樺太連盟のサイト(中略)のURLを見ると「kabaren」の文字があり、連盟の略称として「樺」を「かば」と読んでいるようです。実際、「樺太」の読みとして「かばふと」も書いている辞書もありました。
樺連「かばれん」だけではなく、一般に樺太を略して「樺」の一文字で表す場合の読みは大概が「かば」です。1941年に樺太庁鉄道に吸収されましたが、落合駅から分岐してオホーツク海岸に沿って敷香まで建設された「樺太鉄道」も「かばてつ」と呼ばれていました。
大泊―豊原間の貝場駅から分岐して。留多加に至る私鉄線「南樺鉄道」は「なんかてつどう」のようですが。

また、「樺太」を「かばふと」と呼ぶ人も少なくはなく、「からぷと」と呼ぶ人も居たとか。


[62471] むっくん さん
モンゴル帝国の支配地域の拡がりに伴い(中略)、具体的な侵略の歴史を初めて知りました。
拙稿[62450]に書いた「1286年の樺太上陸にはじまる元軍の侵攻で1308年には樺太の諸種族の抵抗を排除」の部分の資料としては、M.S.ヴィソーコフ著、板橋政樹訳「サハリンの歴史」(北海道撮影社―2000年)に基づきました。ロシア側から見たサハリン史です。
アイヌ側からの歴史を紹介したページ「アイヌ民族の歴史年表」というページを見つけましたが、樺太アイヌ(骨嵬)の元帝国との戦いとして、その経緯が詳しく述べられています。
一方、ヴィソーコフ著「サハリンの歴史」には、中国の史料の伝えとして、モンゴル軍がアムール下流に現われ、サハリン北部のニヴフ(ギリヤーク)族を支配下に置いたのが1263年。しかしサハリンアイヌの大多数の種族は頑強に服従を拒んでおり、1286年、強力な武装部隊1万人がサハリンに上陸し各所に配置され、1308年に軍は諸種族の抵抗を排して毎年の貢物を上納させるに至った、とあります。
[62579] 2007年 11月 20日(火)02:05:04【1】ニジェガロージェッツ さん
オフ会での雑談
福博オフ会から早くも十日が経ちました。[62566]グリグリさん、第四回オフ会の記録ページ早速のアップ有難うございます。
ついに実現した参加者全員の集合写真、壮観です。ところで撮影場所の福博であい橋の西詰は、拙稿[61426]でご紹介した明治43年の福岡市地図を見ると福岡市外になっています。今ではすっかり都心のど真ん中と思える場所で、以前の県庁のすぐ傍に当たりますが、明治時代の福岡市域がいかに狭かったか、と言うより、当時の「市」というもののあり方が伺えて面白いところです。

さて、小生オフ会から帰神してからというもの、先週はすっかり抜け殻のようになってしまい、第二水曜日の町内の荒ゴミの日さえ、ついうっかり荒ゴミを出すのを忘れてしまいました。
ところで、この「荒ゴミ」という言葉、日常的に使っていた言葉なので、全国どこでも通じる日本語の普通名詞だと思い込んでいたのですが、最近、神戸などの一部地域でしか通じない言葉だと知りました。
オフ一次会で隣席の皆さんに尋ねてみましたが、当たり前に通じたのは同じ神戸の小松原ラガーさんのみで、尼崎のかすみさんにさえ通じない言葉でした。らるふさんからは「荒」の字が違うとのこと。「粗ゴミ」ならば少しは通じるエリアが拡大するかも。

とはいえ、平成16年12月に神戸市のゴミ収集区分では荒ゴミが廃止され、従来であればジャムの小ビンから大型家具に至るまで、燃えないゴミは何でも荒ゴミとして廃棄していたのですが、今やそれは昔話。しかしながら、言葉としての「荒ゴミ」は今なお、神戸においては生きています。今のゴミ出し区分が徹底されれば、そのうち死語になる可能性はありますが。

一方で既に死語になった言葉としては「別勉」がありました。昭和40年代に神戸でリアル小学生だった小生より年配の人のみに通じる言葉のようです。
「別勉の横の荒ゴミ置き場にほかして来い」と言っても何のことだか。
「学習塾の横の不燃ごみ収集場所に捨てて来い」とは、些かまどろこしい。

話は変わってオフ三次会では、かぱぷうさんが白桃さんにコップ酒を一升瓶に見立てて、「これで頭を一発やってください!」と懇願するシーンがありました。何でも過去の書き込みから「都市人口トップ10」が言えなかったとかで、面白いエピソードでした。
すっかり出来上がっていた白桃さんがその場でどう対応したかはさて置いて(笑)、小生は「トップ20」ぐらいは諳んじていないといかんと思って、帰りの新幹線の中でトップ20をメモに書き出して帰宅後確認すると、80万都市の15位サラトフと16位ヴォロネジを逆にしていました。
どこの国の話やねんっっ! と言うことで、荒ゴミのような書き込み失礼いたしました。

#カラフト「樺太・唐太」について数多くのレスを有難く頂いていたのですが、また後日ということで稿を改めさせてください。
[62497] 2007年 11月 12日(月)20:54:30ニジェガロージェッツ さん
オフ会堪能して参りました
こんばんは、「兵庫県オッサンカルテット」のひとり、ニジェガロージェッツです。
福岡からは昨晩帰神いたしましたが、PCの調子が悪かったのと、旅の疲れで、本来ならば真っ先に参加者皆様への御礼などを落書き帳へ書き込むべきでしたが、一日遅れになってしまいました。

一昨日の福博オフ会(一次会は博多区、二次会以降は中央区での開催)では皆様お世話になりました。
見事な采配で、そつなく幹事役をこなされた、かぱぷうさんには何と御礼を申し上げればよいかわかりません。
小生は四次会のカラオケ店を2時に失礼したのですが、[62470]かぱぷうさんの書き込み時間ではまだ4名いらっしゃったとは、家族旅行途中の御仁もまだ粘っておられたようで、御仁の日曜日の家族内での修羅場を勝手に想像して他人事ながら血の気が失せました。

さて、当日を振り返れば、一次会では[62493]ペーロケさんのシルエットクイズで引いた紙を見て、それを「壱岐」かと直感したのですが、周りから「それは壱岐じゃないよね」と断定されると、「ああ、やっぱり違ったか~」とあっさり自説を放棄するという一貫性のなさ、そして解答をもらうとしっかり壱岐だったりして、「やった!」と自説放棄を棚に上げて喜ぶという馬鹿さ加減。

二次会ではまかいのさんが披露されていたニュージーランドの道路地図を見ながらの談笑に、また、JOUTOUさんとは軍人将棋とカルビーの「仮面ライダースナック」のお話に花を咲かせ、昭和47~48年当時に戻った感覚でした。

三次会と四次会では音痴にもかかわらず歌を2曲づつ歌ってしまいました。場違いな三次会にもかかわらず歌ったのは、
―♪つくしのきわ~み♪―で始まる「蛍の光」と、「豊原市制謳歌」でした。いったい何をやっているのやら。厚顔無恥が続きます。

最近は腹の底から笑ったことがなかったので、本当に毎年の落書き帳オフ会は日々の暮らしの気分転換だけではなく、カンフル剤にもなります。とはいえ、毎年毎年羽目の外し過ぎです。
次のオフ会に参加する時は少しは大人しくしていようと思います。

楽しいひと時を提供してくださった、幹事役かぱぷうさんをはじめ、オーナーのグリグリさん、参加者の皆様、本当に有難うございました。


#三次会で歌った「豊原市制謳歌」ですが、少し噛んでしまったのと、一部に歌詞がうろ覚えの部分があったため、この場をお借りして1~4番の歌詞を書いておきます。(音楽テープを聴くと五番まで歌われていますが、歌集には載っていないため、五番の歌詞は割愛します)

【豊原市制謳歌】昭和12年
一、
北斗を仰げ北のはて ねいき巷に満ち満ちて
ようようにみめぐみ まつところ
市民われらに希望あり おーおー おーおー
荒茫と極みなき 希望の都 豊原市

二、
鈴谷の眺め水清く 若き命を生みいずる
みいまのしおの よぶところ
市民われらに光あり おーおー おーおー
発瀬(はつらつ)とほとばしる 光の都 豊原市

三、
累々満てる天産の 光輝く朝あけて
共栄の旗 ゆくところ
市民われらに力あり おーおー おーおー
隆々と盛りあがる 力の都 豊原市

四、
日々のみいずみ潤いて 殖産興業日に進み
世紀の嵐の 吹くところ
市民われらに誉れあり おーおー おーおー
洋々と拓けゆく 誉れの都 豊原市


 
[62450] 2007年 11月 9日(金)23:35:19ニジェガロージェッツ さん
いつもながらの遅レス2題
いよいよ明日は楽しみに待った福岡オフ会です。明日は午前中いっぱい仕事で、新神戸を13時を過ぎてからの新幹線で博多を目指します。幹事役のかぱぷうさんをはじめ皆様、お世話になります。
さて、出発を前に、いつもながらの遅レスにて恐縮ですが、オフ会を心残りなく楽しむためにも、宿題を済ませておきましょう。

[61689] 伊豆之国 さん
西伊豆町の田子地区に、「唐太(からふと)」と呼ばれている地区があります。
西伊豆に「カラフト」ですか。これはこれは面白い地名をご紹介くださり有難うございました。
西伊豆の「カラフト」の由来としてリンク頂いたページによれば、岩礁(=カラ:マライ語由来など諸説あり)の先端が太くなっている地形から付けられたとのことですが、
一方の北海道の北にある大きな島を「カラフト」と呼ぶのには大きく分けて2説あるようです。このあたりは雪の字さんやIssieさんがご専門かと思いますが、ちょっとメモ代わりに書いておきます。

【アイヌ神話説】
社団法人全国樺太連盟のサイトに樺太の名前の由来として紹介されていますが、アイヌの伝説として、神が生んだ大きな島を北海道と樺太の二つに割る国造りの伝説から、それをアイヌ語で「カムイ(神)、カラ(造る)、プト(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)」と言い、その「カラプト」に「唐太」の字を当てたとする説。
なお、この説はロシア語のウィキペディアの記事Южный Сахалин(南サハリン)にも樺太の由来として引用されています。但し、出典は?で問われています。

【唐人説】
江戸時代に大層重宝がられた清国産の衣服を「蝦夷錦」と呼ばれることに代表されるように、日本と清国を結ぶ「北のルート」、山丹(現在のロシア領ニジニ・アムール地域で、元は清国領)―樺太―北海道を経由する山丹交易が存在したことから、樺太のことを「唐人」「唐太」と呼んだとする説。
更に時代を遡れば、大陸ではモンゴル系の元朝の時代、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)に続く「第3の元寇」とも言うべき、1286年の樺太上陸にはじまる元軍の侵攻で1308年には樺太の諸種族の抵抗を排除し、一部の歴史ロマンには次は北海道へ上陸する戦略があったかとも推測されている「北の元寇」の歴史もあり、この島の中国大陸とのつながりの深さを物語っています。

蝦夷地を北海道に改める際、北蝦夷地=カラフトについては「唐」の字は清国をイメージすることから国内の地名としては好ましくないとのことで、「樺」の字を与えて「樺太」としたとのこと。

どちらの説もなるほどと感じさせるものがありますが、まあ敢えて一つに絞る必要もないのかも知れません。西伊豆のカラフトと北蝦夷のカラフト、どちらも「唐太」の表記が出てくるのは、やはり偶然の一致でしょうか。

伊豆とロシアの関係といえば、幕末の伊豆近海でのロシア軍艦座礁事件と、その代替艦の建造が戸田港で行われたことです。
1854年に下田で結ばれた日露和親条約とその顛末ですが、その時のロシア側の全権代表はプチャーチン提督(Е. В. Путятин)で、安政の大地震の津波により大破し、その後沈没した船はフリゲート艦ディアナ号(фрегат Диана)でした。プチャーチン提督の肖像と津波を受けて転覆するディアナ号を描いたロシアの絵画がこちらのページに載っています。
新造したスクーナー帆船ヘダ号(шхуна Хэда)については歴史小説になっています。「ヘダ」と題したこの本はソ連時代1979年に出版されています。表紙の絵が何とも当時の伊豆の様子を表しているようで好感が持てます。
#どちらもロシア語のページですが、絵だけでも楽しんでいってください。


[62273] まがみ さん
私も地名由来?のニックネームではあります。実際とは「読み」が違いますが…。人口は、9,941人。2007年6月末現在、高槻市真上町一丁目~六丁目の合計人口
これはこれは大変なお人が漏れておりました(笑)
読み方が違うことも含めて昔どこかでお聞きした記憶はあったのですが、改めて探してみると4年半前の貴稿[13150]にしっかりと書かれていました。失敬いたしました。

拙稿[61343]には、まだまだ漏れがあるようで、いつもながらの詰めの甘さ、恐縮しております。
[62325] 2007年 11月 1日(木)01:51:09【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:神戸市西区
[62321] 小松原ラガー さん
今期(今月?)の神戸市西区の増加って一過性のものではありませんか?(中略)
ここ2~3年程度は都心回帰というか、西区、垂水区はむしろ現状維持、もしくは人口減の方向に向かっていたかと思うのですが・・・。
酔った勢いで子供に変な先入観を植えつけてもらっては困ります(笑)
人口減少区の垂水区と、人口増加区の西区を一緒にしてはいけません。
ですが、西区についても[62320]ドラえもんさんの言うような、
30万人越えももう間もなくというところです。
は、ありえません。
「間もなく」をどの程度の年月を想定しているのかは本人に聞かなければわかりませんが、西区の直近5年間の人口増加数は修正値ベースで8,846人、年平均すると1,769人にすぎません。
仮に甘く見積もって、年平均2000人の人口増が見込まれるとしても、
(300000-248000)÷2000=26年。これって「間もなく」ですか。これを「間もなく」と言ってしまうと、私は「間もなく」71歳になってしまいます(笑)
私の勘ですが、西区の場合、人口26万(多くても27万)ぐらいで頭打ちになるのではと感じています。

震災後の各年10月1日現在の人口データを出しておきます。出典/神戸の統計
年月北区の人口垂水区の人口西区の人口データの性質
平成7年10月230,473240,203222,163国勢調査結果確定値
平成8年10月231,500235,672228,932推計人口修正値
平成9年10月230,454229,440234,118推計人口修正値
平成10年10月228,131224,711235,580被災地人口実態調査結果
平成11年10月226,781225,681235,743推計人口修正値
平成12年10月225,184226,230235,758国勢調査結果確定値
平成13年10月224,853225,361237,597推計人口修正値
平成14年10月224,775225,037239,315推計人口修正値
平成15年10月224,847224,873240,698推計人口修正値
平成16年10月225,480223,565242,117推計人口修正値
平成17年10月225,945222,729243,637国勢調査結果確定値
平成18年10月226,207221,319246,201推計人口
平成19年10月226,440220,546248,161推計人口

平成8~9年より平成11年までは震災後の仮設住宅の撤去の影響もあり、垂水区で大幅な人口減、西区でも増加の鈍化(新規開発地の人口増と仮設住宅撤去による人口減が相殺される)が見られるのが特徴です。
[62240] 2007年 10月 26日(金)22:00:23ニジェガロージェッツ さん
一桁の疑問
[62230] 千本桜 さん
興味深い出荷額と人口のデータ、有難うございます。
横レスにて申し訳ありませんが、相模原市のデータ
相模原市  140,516,349万円  703,717人  1,997万円
一桁間違っていませんか。

相模経済新聞の記事には、「1兆4千500億円」とありますから、千本桜さんの出荷額データを尊重すると、
相模原市 140,516,349万円 703,717人 200万円 が正しいのではないでしょうか。
[62005] 2007年 10月 16日(火)23:19:46ニジェガロージェッツ さん
神戸での相互乗り入れ
[62000] 小松原ラガー さん
あれ、そう言えば、阪急電鉄としては三宮から神戸市営地下鉄山手線と乗り入れて西神中央を目指していたのではなかったっけ?

むしろ、この阪急阪神HDへの株式譲渡で、阪急の神戸市営地下鉄乗り入れ構想は進みそうな気もします。

阪急としては、阪急春日野道―三宮間を地下化し、現在の阪急三宮駅を廃止。神戸市営地下鉄に連絡してニュータウンの西神中央と大阪・梅田を結ぶ構想(神戸新聞・04年7月22日付け記事)ですが、そのネックとなっていたのは、実現すれば神戸市の第三セクターである神戸高速鉄道の新開地駅まで乗り入れている阪急の撤退からの神戸市の難色にありました。
神戸市には、その他にも地下化される阪急線建設への事業費負担、阪急乗り入れによる三宮―新神戸―谷上間の運行本数の減少がありますが、この株式譲渡により、「反対勢力」たる神戸市が神戸高速鉄道から抜けることになり、すでに実現した阪急と阪神の経営統合を合わせ、いよいよ時期が熟してきつつあるとの印象を持ちました。
神戸高速鉄道線には阪神を、市営地下鉄線へは阪急、の色分けが決定付けられたように感じます。
[61873] 2007年 10月 13日(土)11:16:50ニジェガロージェッツ さん
ご自身で解決を
[61865] YSK さん
レス有難うございました。[61865]を書かれるにあたっては、よほど思うところがあってのことと察します。
拙稿[61863][61826]につづき、YSKさんには厳しい物言いになってしまい、またYSKさんならずとも、ご気分を害された方もいらっしゃることと思います。その点は、申し訳なく感じております。


思えばYSKさんとは、2003年には神戸・長田にも足をお運び頂き、また私を両毛への旅に誘っていただいたりと、本当に良い青年とお知り合いになれたと、率直に喜んでおりました。

そういう背景もあり、友人としても、今回は敢えて心を鬼にして申し上げます。

オフ会に関する書き込みだけではありませんが、他人を怒らせたり、また迷惑を掛けてしまったと思われるのであれば、まずなすべきことは、その怒りを癒してもらうように対処するのが先決です。
「申し訳ございません」と言いながらも、自分の心情を一方的に相手に吐露して理解を求めるやり方は、あまり上手な事後対応には感じられません。
また、その後も「一から出直すつもり」で、まるで何もなかったかのような今までどおりの頻度で書き込みを続けるのは、場合によっては、相手に拒否反応を増幅させるだけのものになる恐れさえあります。

「落書き帳で、自分は認められているのだろうか?仲間はずれにされていないか?」といった不安にさいなまれて、その気持ちを押しとどめられなくなると、皆さんに迷惑をおかけするような発言に至ってしまうように思います
「認められていない」と感じられるのであれば、認めていただくように精進するしかありません。また、ここはリアルの実生活の場ではありません。仮に「認められていない」としても、それがどれほどの不都合を生じるのでしょうか。
私には、YSKさんの[61865]を読んでの感想として、余りにも自己中心にしか物事を見ていないと感じざるを得ませんでした。

私がちょっと変な方向の発言をしたら、「きっとこいつは不安になっているな」と受け止めていただき、適切な方向へお導きいただければ、幸いです。
それはご自身の心の問題です。他人が立ち入れる筋合いのものではないと私は考えます。
少なくとも、私にはYSKさんを適切な方向へ導くことなど、出来ることのようには思えません。
敢えて私見を申し上げるとすれば、何か変な書き込みをしそうであれば、心が落ち着くまで、書き込みを控えていただく他はないと思っています。


皆様、本当にお見苦しい粗末な物言いを続けて申し訳ございません。
YSKさんへの地理には関係ないメッセージはこれを最後にしたく存じます。
[61863] 2007年 10月 13日(土)00:27:08【2】ニジェガロージェッツ さん
アドバイスを超えてしまったようで恐縮です
[61861] オーナー グリグリ さん
第十七回十番勝負いつもながらのご盛況、ご同慶の至りです。小生今回も参加できずにおり、申し訳なく感じているところです。
現在微力ながらも都市人口のデータの整理を続けており、都道府県の範囲を超えた某国(笑)のデータですが、ネットの世界では小生以外にこのようなことをやっている人はいないようで、思いもよらないような機関や組織から問い合わせがきたりで、何か使命感のようなものまで感じるに至っております。
そんなこんなで、今回も十番勝負は静観にて失礼いたしておりますが、機会があればそのうち参加させていただきたく思います。
(恐らく、十に一つも当たらない誤答の山を築くことになりそうですが・・・)

#らるふさん、ニジェさん、お気遣いありがとうございました。
オーナーのこの一言で、救われたような気がいたします。
実際に[61826]を投稿するに当たり迷いがありました。特に十番勝負のお祭りの盛り上がっている時期でもあり、あまり無粋なことを書くのもこの場の雰囲気に水を差すようで、気が進みませんでした。
ですが、ドラえもんさんや日本人さんに対して、アドバイスのつもりでも相当厳しい注文といいますか書き込みをしてしまい、その一方で、たとえ三十路を過ぎた青年とはいえ、明らかに変な書き込みをされる方がおられると、やはり一言お伝えしなければならないような気がして、僭越ながら投稿させていただいた次第でした。
[61822]を書かれたらるふさんも、相当嫌な思いがあったことと察しております。「ア・イ・シ・テ・ル」という言葉も度々一方的に言われると、正直なところ気味の悪いものを私も感じておりました。

さて、いよいよ第四回福岡オフ会開催までひと月を切りましたね。
幹事役をお引き受けされたかぱぷうさんが精力的に、そつなく下準備をされ、盛況が目に見えるようです。福岡行きが今から楽しみです。

厳しい注文ついでに、大きなお世話になりますが、ひとつだけお願いをしたく存じます。
第二回神戸オフ会に際しては、[44957]
関西に来ているにもかかわらずオフ会には参加しておりません。
第三回金沢オフ会に際しては、[54320]
オフ会についても参加することはないでしょう。皆さんとお会いすることももうないと思います。
などという書き込みは、今年こそ控えていただきたく思います。開催に尽力された世話役の皆様をはじめ、楽しいひと時を過ごされた参加メンバーに対して、大変に非礼な言葉です。
[61826] 2007年 10月 11日(木)03:12:01【2】ニジェガロージェッツ さん
スルーできませんでした
私は今回の一連の[61343]に始まる日本人人口の件で、初めて日本人さん、ドラえもんさんご両名とレスを交わしましたが、こちらがきちんと伝えたいことがまともに伝わらず、特にドラえもんさんには妙なところだけ変な形で引用されレスを付けられ戸惑いました。
いちいち反論するのも大人気ないこととスルーするつもりでおりましたが、やはり伝えておくべきだと考え、以下に記します。

[61501] ドラえもん さん
しかし、ニジェガロージェッツ さんは、「日本国内の日本人人口(有効数字千人まで)」と書きながら、
日本人人口=125,730,148+482,341×125,730,148÷127,285,653=126,206,595人
を書かれているので、

この部分、文面からは私ニジェが「有効数字千人まで」としているところを、1人単位の数字まで書いているのに首を傾げているかのような印象を受けます。
ですが、「日本国内の日本人人口(有効数字千人まで)」としているのは、[61343]に引用した2006年10月1日現在の推計人口であり、
「日本人人口=125,730,148+482,341×125,730,148÷127,285,653=126,206,595人」
としたのは、[61459]に引用した2005年10月1日現在の国勢調査人口に基づいての計算です。
まったく違うデータに関する備考をひっつけて、コメントするのは論外です。

そして、更に
このニジェガロージェッツ さんの算出された人口(国内)と自分の算出した、人口(国内)を比較してみると、約100万人の差が出来てしまいます。
と続きましたから、結局はドラえもんさんはご自身の導き出したデータと、[61459]にて私が導き出した126,206,595人との差についての謎を言いたかったことと読み取れます。
この謎については[61510]中島悟さんが的確にフォローしてくださったので、ここでは「謎の解明」を繰り返しませんが、この一件を見ても、また他の皆様へのレスを見ても、ドラえもんさんは他人の書いた記事の意味が理解出来ておらず、そのうえ、記事の引用の仕方も理解していないのではないかと感じました。

ですが、ドラえもんさんはまだ若年でおられることから、これからいろいろな事を学び経験していく中で、数年の時間は掛かるかもしれませんが、これらの間違いや行き違いはご成長とともに解消していくものと思われます。
ですから、他の皆様からのアドバイスにもあるように、レスを急がず、ドラえもんさんに対して書かれた記事をよく読んで理解をする習慣をつけていただきい。そして理解が出来ないのならば、記事のどの部分が分からないのかを率直に尋ねられると良いかと思います。


[61486] 2007 年 10 月 3 日 (水) 11:05:02 YSK さん
先ごろ、個人的に悲しい出来事がありまして、気持ちを察しますとかなりつらい気持ちになってしまいます・・・。今はゆっくりと休まれ、いつかまた復帰していただけることを願って止みません・・・。
大変お気の毒な内容ですが、どなた様のことをおっしゃっているのか分かりませんでした。
書き込みの時間も普通の社会人であれば勤務時間内のことでもあり、よほどの緊急事で、また「落書き帳」に書かれるからには、ここのメンバーなり関係者のことかとも思いましたが、どうやら「落書き帳」とは無関係の芸能界の方のようですね。
書き込みをするのであれば、何ゆえ誰のことかを明記されなかったのでしょうか。
誰のことかを触れたくないのであれば、そもそも書き込みをされる必要があったのでしょうか。
その一方で、[61822]らるふさんへのメッセージは「落書き帳」には投稿されず、[61825]にて言葉を濁したうえでご自身の掲示板へ誘導しようとなされる、私には理解が出来ません。
「落書き帳」に書けない内容ならば、また、メールでしか伝えられないような内容ならば、一層のこと何も書かないという選択は出来なかったのでしょうか。
ここでは「申し訳ありませんでした」としながらも、「場外」で自己弁明に終始するのは傍目に見ているだけで不愉快になります。
[61561] 2007年 10月 7日(日)19:50:12ニジェガロージェッツ さん
再決着
[61556] Issie さん
ドラえもんさん が「決着がついていない」と感じているなら,それはそれで悪いことだとは思いませんよ。

確かに、おっしゃる通りです。
ただ、例えば[61535]について、人口数についての問題だけであれば、その数値だけを書いて、出典へのリンクを添えておけばそれで済む事です。
ですが、[61535]を書くに当たっては数値そのものよりも、その数値の導き方(つまりネットでの見つけ方)と、その数値の背景(どのような性質の数値か。外務省はどうやって調査したか)に重点を置いて、ややしつこいほどの説明させていただいたつもりです。
それを、ドラえもんさんは[61537]にて、全体の数値にのみコメントなされ、さらに[61547]にて「まだ決着がついていない」とこられましたから、私としては、大人げないのですが、「いったい何が?」と感じた次第です。

ドラえもんさんへ
拙稿[61555]を受けて、訂正機能を利用して貴稿[61547]の引用部分
(まだ決着はついていないようですけど。)
を削除された上で、私へのレスを書かれておられますが、このような記事の訂正は混乱を招く恐れがあります。この場合には、Issieさんへのレスも含め、新たな記事として投稿されることをおすすめします。
なお、書き足された拙稿[61555]に対してのレスの趣旨については、了解です。
時間は掛かってもかまいませんから、急がずに、これからも頑張ってください。
[61555] 2007年 10月 7日(日)18:36:18ニジェガロージェッツ さん
まだ何か不足ですか?
[61547] ドラえもん さん
(まだ決着はついていないようですけど。)

これは人口についての話について言っていますか?
私としては、日本在住の外国人の人口については[61478]にて、海外在住の日本人人口および内外日本人総人口については[61535]にて決着をつけたつもりですが、「まだ決着がついていない」とは何についての決着がついていないのでしょうか。

それとも[61478][61535]については、大半の落書き帳のメンバーにはわかりきっていると思われる事を、できるだけ丁寧に述べたつもりですが、それでもご理解いただけないと解釈してよろしいでしょうか。

私としては、この件、これ以上の書き込みをする意志はありませんので、ご自身のご納得いく形で、ご決着をつけて頂ければと思います。
[61535] 2007年 10月 6日(土)22:26:35【1】ニジェガロージェッツ さん
内外日本人総人口
[61501] ドラえもん さん
外国在住の日本人の人口について、だいたいの結果が出たようですね。データの収集お疲れ様でした。
[61510] 中島悟 さん
適切なフォロー有難うございました。お手数をおかけしました。

小生からもこの辺りで、この件を「総括」と言うほど大袈裟ではありませんが、おさらいしておきたく存じます。

元々は拙稿[61343]に引用した「日本人人口」について、総務省統計局から公表されている平成18年10月1日現在推計人口のうち、日本人人口男女計総数 126,154千人をそのまま引用したことから、果たしてこの数値に外国に住んでいる日本人は含まれているのかどうかという疑問をドラえもんさんが持たれたことに始まりました。
そもそも「日本人人口」と言うからには、日本人は日本国内にのみ住んでいる訳ではなく、外国にも数多く住む日本人を含まないデータでは不正確ではないかと言うことでしょう。
地理好きであるならば当然の疑問で、ドラえもんさんの問いかけには敬意を表します。

で、確かにその通りなんですが、小生は[61343]を書くに当たって、それぞれの数値(人口)は一つの出典からのみのデータにしようと決めていました。
これは、国内のみを対象とした平成17年国勢調査をベースにした国内の推計人口と、外務省が各国に配置している大使館や領事館を通じて把握している在外邦人の人口数という、全く性質が異なると思われる2つのデータを合計したところで、これまた正確なデータとはいえないとの判断からでした。
*(本稿の最後に、この判断を覆します)

[61441] ドラえもん さん
その人口調査には日本人人口は外国にいる日本人の人口は含まれているんですか?
この人口調査は平成17年国勢調査をベースにした国内の推計人口ですから、外国にいる日本人の人口は含まれていません。
但し海外滞在期間が90日以内の出入国者は、外国に居る者とは見なさずに日本に常住していると見なされ、仮にその調査時点で外国に居住していても、日本国内の人口としてカウントされています。

このように、国内の日本人人口は前出の2005年10月1日現在のものは「平成17年国勢調査」、2006年10月1日現在のものは「平成18年10月1日現在推計人口」に出ています。但し平成17年国勢調査の日本人人口には[61459]にも書きましたが、年齢不詳人口が含まれていません。

では、外国に住む日本人の人口のデータはどこにあるのか。
[61501]にてドラえもんさんは外務省の平成12年の海外在留邦人数調査統計に行き着き、既にお気づきとは思いますが、外務省にデータがあります。

海外に3ヵ月以上滞在する場合は、その国にある日本外務省の出先機関である大使館や領事館に在留届を提出する義務があります。小生もロシアのニジニノヴゴロド市に住んでいたときは、そこを管轄するモスクワの在ロシア大使館に在留届を提出しておりました。
もちろん、在留届の存在を知らなかったり、届出を怠る人もいるでしょう。その人の場合は外務省の認知外のこととなってしまい、その国にその人が住んでいることは知られませんから、原則的には滞在者人口のデータには上がらないことでしょうが、外務省では調査に際して
在留届を提出していない邦人もいるので、日系進出企業、日本人会、邦人研究者・留学生が在籍する大学、研究機関、各種学校に調査票を配布し、協力を求めた。
とあり、世界各地に在留する邦人の実態について大部分を把握したと考えられています。

そのようにして推計された海外の日本人人口は、
外務省のHPから、
→「渡航関連情報」→「統計」→「海外在留邦人数統計」を辿って詳細なデータを入手することが出来ます。
それによると今現在の最新のデータは、2006年10月1日のデータで、
3ヵ月以上の長期滞在 735,378人、永住 328,317人、合計 1,063,695人と出ています。

さて、この 1,063,695人というデータは
(1)2006年10月1日のデータである。
(2)3ヵ月以上の長期滞在と永住者のもので、3ヵ月未満の短期滞在者は含まれていない

ということは、日本国内の日本人人口として[61343]にて引用した 126,154,000人というデータも
(1)2006年10月1日のデータである。
(2)海外滞在期間が90日以内の短期出入国者は、日本国内の人口

ですから、この2つのデータはその趣旨は全く異なるものの、性質としては概ね一致しており、この2つを合計してもそれほどの不都合があるようには感じられません。

ゆえに、2006年10月1日現在の内外日本人総人口は、推計人口の有効数字千人に合わせて、
国内 126,154千 + 海外 1,064千 = 127,218千人 と推測されます。


蛇足ですが、[61459]にて総務省統計局の概要を引用したように、日本の人口は
総人口は1億2777万人となっており,前年に比べ2千人(0.00%)の増加
日本人人口は1億2615万4千人で,前年に比べ5万1千人減少
とあることから、この1年前の2005年10月1日現在の内外日本人総人口は
国内 126,205千 + 海外 1,013千 = 127,218千人 と推測されます。

ということは、日本は2005年に人口減少社会に突入したと言われていますが、実際には2006年10月までの1年間では
・日本国の総人口は(国内日本人の減少があるものの外国人の増加により)2千人の増加
・内外日本人人口総数は(国内日本人の減少と海外在留者の増加が相殺され)±0
であると、ニジェ的には推測します。
[61483] 2007年 10月 3日(水)02:15:38【1】ニジェガロージェッツ さん
レス2題
[61467] 日本人 さん
外国人を含めたやつなので、日本人とは言えない人も入っているから認めていないわけですね。
どうも、解釈がずれています。
また、「外国人を含めたやつ」とか「日本人とは言えない人」という表現を外国の人が見ると、本当に気分を害されますよ。

私の言いたかったことは、[61442]Pachiさんが簡潔に仰っておられますが
統計としての性質が違うのに、軽軽しく100万人も人口が減っていますという事は宜しくないのです。
ということです。

本稿に対するレスは同じことの繰り返しになりますから、無用に願います。


[61456] ペーロケ さん
京津: 228,000 「京阪京津線」等
京津については、北京-天津を意味する場合が多い(昔は「平津 =北平-天津」の方が通りが良いかも)ですから、[61471]MasAkaさんに倣って、除外しておいた方が良いでしょう。
北京と天津を「含めない」キーワードに入れて検索すると、73,200件に激減しました。
[61478] 2007年 10月 3日(水)01:21:41ニジェガロージェッツ さん
外国人人口
[61468] ドラえもん さん
最新資料では197万人(2004年)だったので、今現在なら200万人を超えているかな?それと、ニジェガロージェッツ さんの人口とはかなりのずれが有るようですが、これは何故でしょう??

[61448]中島悟さんのアドバイスもあり、ドラえもんさんご自身でデータの収集にチャレンジされておられ、結果が出つつあります。それに横槍を入れる意図はありませんが、元々は拙稿[61437]へのレスに始まったこともあり、この点だけはフォローしておきます。
この人口データのずれは、趣旨の異なるデータを比べてはいけないことの好例でもありますから。

まず、[61468]にもリンクが出されている、外国人登録者数の推移の資料として、法務省「外国人登録者統計」と、出典が明記されていることに留意ください。
(外国人の出入国を管理しているのは、法務省入国管理局です)
法務省のHPの左欄のメニューに「白書・統計」があり、それを辿ると、
「出入国管理関係」→「関連統計」→「外国人登録者統計について」
があり、「平成18年末現在における外国人登録者統計について」と題されたファイルが閲覧できます。
平成18年末現在の外国人登録者数は 2,084,919人とのデータがあります。

一方、拙稿[61459]にも引用した、平成17年国勢調査における外国人人口は 1,555,505人です。
法務省入国管理局のデータで、この国勢調査に時期的に一番近いものは、平成17年末現在の外国人登録者数で 2,011,555人ですが、45万人ほどの開きがあります。

この差については、国勢調査の対象にあります。
国勢調査の対象としては、白桃さんの[58656]にもご紹介されているように、
平成17年国勢調査は,調査時において,本邦内に常住している者について行った。ここで「常住している者」とは,当該住居に3か月以上にわたって住んでいるか,又は住むことになっている者
詳しくはこのページに書かれていますが、3か月以内の短期滞在の外国人は調査の対象になっていないということです。
また、外国の領事機関の構成員や在日米軍兵士やその家族も調査から外されています。
この国勢調査を元に算出される推計人口においても、国内滞在期間90日以内の外国人は除かれています。

このように、外国人の出入国を管理している法務省入国管理局のデータと、統計目的の国勢調査や人口推計におけるデータとでは、その目的も算出方法も異なっています。
ご参考まで。
[61459] 2007年 10月 2日(火)02:40:36【1】ニジェガロージェッツ さん
日本人人口の減少数
[61440] hmt さん
[61442][61445] Pachi さん
[61451] Issie さん
適切なフォロー有難うございます。

元々は拙稿[61343]の、「ニックネームの人口圧力」と名付けた「おふざけ」ネタでしたが、そこに日本人の人口データと、その備考として「日本人人口(有効数字千人まで)」と書いたのが誤解の元でした。
備考欄には、もう少し丁寧に「日本国内の日本人人口(有効数字千人まで)」と書いておけば、日本国総人口と日本人人口の違いが誰にでも判り、今回の百万人人口減という、とんでもない明らかに間違ったレスはつかなかったと思います。
出典を明記していた上、元々がちょっとした「おふざけ」のつもりの投稿であったために、小生の油断が生じた格好になり、その点は反省しております。

日本人さんの[61366]にて、百万人減ったというレスを見たとき、その間違いの性質は日本国総人口との混同によるものであるとの想像はついていました。
ですが、勝手に決め付けてしまうのも如何なものかとも考え、[61426]にて比較の対象となったデータの提示を求めたのですが、その間違いに気づかず[61435]にて堂々と切り返してこられましたので、[61437]の書き込みに至った次第です。

[61451] Issie さん
統計データは,ときどき人をだまします。…というよりも,統計データを利用する側がそのデータの性質をきちんと理解していないと,だまされてしまいます。

誠に的を射た、見事なご指摘です。

Issieさんと違い、小生はこの分野には学識がなく、単に趣味の範囲で人口統計を眺めているだけのことですが、できる限り複数の統計を入手し、その違いから統計の性質に注意するようにしています。

日本国総人口と、日本国内の日本人人口、外国人人口を収録した平成17年国勢調査の諸統計書では、
総人口は「第1表」「第3表」によれば 127,767,994人ですが、「第4表」では 127,285,653人となっています。
その差 482,341人。
しかし「第3表」を最後まで見ていると、年齢不詳人口として、この 482,341人が出ており、これで一つの謎が解決します。

さて、「第3表」によれば日本人人口は 125,730,148人。
「第37表」によれば外国人人口は 1,555,505人。
総人口=日本人人口+外国人人口、と思いきや、125,730,148+1,555,505=127,285,653人。
あれれ・・・、482,341人、少ない!
何のことはない、総人口=日本人人口+外国人人口+年齢不詳人口 だと判ります。

なお、利用上の注意によれば、
「年齢不詳」については,第1表,第2表及び第3表においては集計対象とし,他の表においては集計から除外した。
とあり、「謎の種明かし」がされています。

このように、「第3表」日本人と「第37表」外国人には、年齢不詳人口は含まれていませんから、不詳人口は日本人と外国人の割合で便宜上按分しましょう。そうすると、
日本人人口=125,730,148+482,341×125,730,148÷127,285,653=126,206,595人
外国人人口=1,555,505+482,341×1,555,505÷127,285,653=1,561,399人

ここまで下準備をした上で、拙稿[61343][61437]に提示した、平成18年10月1日の
総人口127,770千人と、日本人人口126,154千人
とを有効数字に合わせて比較してみましょう。
平成17年10月1日から平成18年10月1日までの人口増減は、
総人口 127,770千-127,768千=+2千人
日本人 126,154千-126,207千=-53千人

これで、すこし誤差は生じましたが、平成18年10月1日現在推計人口―概要にある、
総人口は1億2777万人となっており,前年に比べ2千人(0.00%)の増加
日本人人口は1億2615万4千人で,前年に比べ5万1千人減少
におおよそ符号します。

なお、これら統計書における「日本人」の定義は、「日本国籍を有する者」です。
ですから、大相撲で「モンゴル人力士」と総称されていても、日本国籍を取得している旭天鵬関は日本人であり、取得していない朝青龍関は外国人(モンゴル人)になります。
[61437] 2007年 10月 1日(月)09:58:14【1】ニジェガロージェッツ さん
データの取り扱いには、くれぐれもご注意下さい
[61435] 日本人 さん
データの取り扱いには、ご注意下さい。データの、それも増減の比較には、同じ趣旨で集計されたものを比較しないと、意味はありません。

2005年10月1日に実施した国勢調査(確定値)で,前年度から2万2000人割り込み、1億2776万人となりました。

それは日本の総人口です。
私が[61343]に提示したのは、日本の人口のうちの日本人の人口。当たり前のことですが日本には日本人だけが住んでいるわけではありません。
[61343]には、出典として総務省統計局による平成18年10月1日現在推計人口をリンクしておいたのですが、それをご覧になりましたか。
エクセルを装備していないPCでは閲覧できないので、その場合は仕方ありませんが、総人口127,770千人と、日本人人口126,154千人が併記されています。

安易に国勢調査における日本の総人口と、推計人口の日本人人口とを比べて
100万人以上減ってますね。
などと結論付けるのは、おやめ下さい!!!
[61426] 2007年 9月 30日(日)22:27:03【1】ニジェガロージェッツ さん
まとめレスにて恐縮
[61291] かぱぷう さん
福岡オフ会の幹事役、ご苦労さまです。まだひと月あまり先ですが、今からオフ会が楽しみです。メーリングリストで参加予定者を拝見していると、二年前の神戸オフ会にご参加くださった皆様が多く、嬉しい限りです。
「福博」についてのレス、有難うございます。
福岡と博多が合体した様子が良く分かる明治43年の福岡市地図を発見しました。この地図を見ていると、商人の街「博多」と、武家の街「福岡」の違いの名残がまだ残っていたように感じます。

これには爆笑しました!
爆笑していただいて、光栄です(爆)


[61366] 日本人 さん
2番目に多いのですね。
確かに一番は「地球人さん」に掛かる地球人人口ですが、「自分は地球人である」と意識して暮らしている人は少ないと思います。
一方、「自分は日本人である」との帰属意識を持ち、またそれを誇りにしている人は大勢おられ、そういう意味で「日本人さん」は「一番重いニックネーム」を背負っていることを肝に銘じて頂ければと思います。

私は短いとはいえ海外での在住経験があり、日本人であることを常に意識しておりました。
ですから、「日本人さん」がこの落書き帳で粗末な書き込みをされて、指摘を受けて謝罪を繰り返すのを見せられるのは、そのニックネームに対しても決して愉快なものではありません。
素直に謝罪するのは大変良いことですが、謝罪を必要とされるような書き込みは、投稿の際にご一考いただければと願います。

年の人口最高の時から1000000人も減ってしまったのですね
日本人の人口が百万人も減っているのですか!
比較の基になったデータの提示を、以下の観点から願います。
1)「年の人口最高の時」とは何年の何月のデータですか?
2)データの出所(出典)は何ですか?

この落書き帳は、ちょっとしたデータベースにもなっていると思います。
雑レスとはいえ、「落書き帳」を通じて意味不明のデータが発信されるのは看過できません。


[61370] スピカ さん
スピカ おそらく0 第12回国星調査? 全域が不可住地
いやぁ、これは完全に小生の見落としでした。一本とられました(笑)
[61363] 2007年 9月 29日(土)00:41:16ニジェガロージェッツ さん
「京」の意味する街は
[61297] 伊豆之国 さん
ところで関西在住・出身の皆さんにお伺いしたいのですが、

関西在住の皆様から、主に京都・奈良両都市の結びつきからの諸レスが続き、納得のいく説明がなされていると感じます。
同じ意見を繰り返しても面白みがないので、皆さんに続き「京奈」と言う呼称が定着していない現状について、別の側面からふと思いついたことがあります。
(ニックネームは遠くに置いていますが、一応、小生もどっぷり関西在住・出身なので)

一般に関西で「京」といえば即ち京都を指しますが、京都=平安京よりも古い歴史のある平城京を持つ奈良の人々にとって、「京」の文字が自分達の街を指すという意識は考えられないでしょうか。
三文字で「京阪奈」「京奈和」となれば(どちらも比較的新しい呼び名だと感じますが)、府県名の連名ということで奈良の人々にも受け入れられるとしても、京都との一対一で「京奈」と略されると、ちょっと心中穏やかではないところがあるのではないかとも感じます。

いずれも小生の雑感でしかありませんが、奈良に生まれ育った人は「京」の一字について何を連想するのかが気になるところです。
[61343] 2007年 9月 27日(木)23:44:27【1】ニジェガロージェッツ さん
ニックネームに掛かる人口圧力
落書き帳にメンバー登録されているニックネームに関しては、それぞれ色々な想い入れもあることと存じますが、今回は人口データから視点を当ててみたく思います。
2007年9月27日現在、登録208名のなかで、そのニックネームに関連して人口データが算出できそうなメンバーが、ざっと見たところ小生を含め約10名おられます。
人口が多いほど「大それたニックネーム」ということで、その「人口数を代表しての書き込みを心掛ける」ことを肝に銘じて・・・。(笑)

ニックネーム人口データの日付備考など
地球人さん6,628,429,9312007.09.27米国勢調査局、国連統計のデータから推計 出典
日本人さん126,154,0002006.10.01日本人人口(有効数字千人まで) 出典
花の東京都民さん12,787,9712007.09.01東京都推計人口 出典
ニジェガロージェッツ1,600,6092002.10.09露・ニジニノヴゴロド州の男性人口 出典
佐賀県さん859,0102007.08.01佐賀県推計人口 出典
ハンブルガーさん824,6861999独・ハンブルク市の男性人口 出典
伊豆之国さん426,1492007.09.01静岡県伊豆半島5市5町および三島市、函南町人口合計 出典
葵区さん262,7742007.08.31静岡市葵区住民基本台帳+外国人登録人口 出典
JOUTOUさん223,0562007.09.01東京都江東区のうち、旧城東区域の住民基本台帳人口 出典
太白さん220,7622007.09.01仙台市太白区推計人口 出典

各メンバーのニックネーム由来については精通しておらず、まだ漏れがあるかもしれません。その他、以下、ご容赦の程。

1)「ハンブルガー」さんに関しては、小生ドイツ語は分からないのですが、名詞に男女の区別があったと記憶しています。ニックネームは男性名詞と勝手に推測して男性人口のみのデータを探し、古い国連のデータにてお茶を濁しました。
なお、ハンブルク市の人口は2005年12月31日現在1,743,627人のデータがあります。 出典

2)「伊豆之国」さんについては「伊豆の国市」が存在しますが、ニックネームに敢えて「之」の字を充てておられることから、狭義の「伊豆の国市」ではなく、「伊豆国」のことと勝手ながら推察させていただきました。その「伊豆国」の範囲には、旧戸田村など現在の沼津市域を含みますが、人口データには沼津市域の人口を含んでいません。

3)12,787,971東京都民の中には、東京都に住んでいることを「花」だと思っていない人が居るかも知れません。

4)「足利人@伊勢原市民」さんについては、神奈川県伊勢原市民100,723人(2007.09.01 出典)のうち、栃木県足利市出身者の人口が該当するのでしょうか。さすがに公表外データのようで・・・

5)「三丁目」さんについては、全国津々浦々に存在する三丁目の人口を漏れなく摘出し、総合計することで人口データの算出は理論上可能ですが、どうかご容赦の程・・・・。
[61223] 2007年 9月 19日(水)16:59:02ニジェガロージェッツ さん
オフ会に行きたい^2
[61211] 2007 年 9 月 18 日 (火) 04:08:25 かぱぷう さん

ホークスが日本シリーズに出場した場合、タイガースほどではないにせよ「のぼせもん」が福博の街で大騒ぎすることが目に見えてます
福岡オフ会の幹事役ご苦労さまです。
「のぼせもん」とか「福博」とか、初めて目にする言葉が新鮮です。
こちら神戸でも「兵神」という言葉があるにはありますが、今では一部の企業名以外では完全に死語になっており、「福博」という言葉が生きている福岡・博多の歴史を感じます。

タイガース優勝には、大阪・道頓堀川への飛び込みが、恥ずかしいことですが恒例になってしまいました。福岡でも同様の「飛び込み」が発生するのでしょうか。ですが、福博の川底には投げ捨てられた使いきりのクラウンライターが堆積しているでしょうから、そのような所へ飛び込むのはいかがなものかと。

とはいえ、今から福博行きが楽しみです。
[61095] 2007年 9月 8日(土)22:19:47ニジェガロージェッツ さん
茨田
取り急ぎの事実関係のみ確認にて失礼します。

[61094] 伊豆之国 さん
この「茨田」は、「まつだ」と読むそうですが、
関西では比較的よく聞く地名ですが、読みは「まった」です。
[61016] 2007年 9月 3日(月)02:30:56ニジェガロージェッツ さん
まとめレスにて恐縮
数ヶ月前の記事へのレスもありますが、いつもながらの亀レス、まとめレスにて恐縮です。

[58258] 2007 年 5 月 3 日 (木) 00:11:22【2】 いっちゃん さん
中でもこれは感動モノです。70~80年代にそれなりの年齢だった関西人(関西系?)には堪りません
小生の名まで挙げていただいておきながら、反応出来ずにおりました。
自称「浪速のモーツァルト」ことキダ・タロー氏作曲のメドレーですが、キダ氏は今でも関西のメディアでは露出度が高く、ときどき曲を聞かされるので、特に「懐かしい」というよりは、「また相変わらず・・」というのが率直な感想でした。
70~80年代に関西に住み、その後関西を離れた方々には、確かに懐かしさがこみ上げてくるメドレーだとは思います。


[59382] 2007 年 6 月 23 日 (土) 22:26:22 雪の字 さん
ありました!「志の田うどん」が。それとは別に「きつねうどん」もありました。
(中略) 「きつね」と「しのだ」は、別物のようです。
[54256]むっくんさんのお話から、名古屋では「しのだ」はお揚げを短冊状に切って具にした饂飩、「きつね」はお揚げが一枚ものの状態で具にした饂飩のようですね。
ただ、
「このあたりは東西の中間という感じだから、店によっても差が激しいよ。二、三件のお店を見て、わかったような事を書いちゃダメだよ」
というご忠告からすると、これもお店によりけりでしょうか。(笑)
出汁の濃い淡いを含めて、名古屋では当たり外れが多いと覚悟しておかなければなりませんね。


[59578] 2007 年 7 月 1 日 (日) 22:49:53 小松原ラガー さん
北側を呼ぶ時には・・・恐らく「大池」、「唐櫃」、「花山」など、もっと細かい地名を使っているケースが多く、意外と「裏六甲」という言葉は使っていない状況です。
学生時代は六甲山系のハイキングを趣味としていて、いちいち距離を計算して付けていたのですが、二度の六甲全山縦走大会への参加を含めて4年間(昭和56~60年)の合計で1100kmほど六甲山系を歩きました。そういう経験から「裏六甲」という言葉についてですが、神戸電鉄沿線の住宅地には用いられていないと感じております。ですが、もちろん「死語」になっているとも思いません。
拙稿[42057]にも書きましたが、あくまで六甲山域(登山道関係や自動車道など)に限る、「六甲山脈の北斜面」としての意味合いのみです。
もちろん「表六甲」も同じで、山域のみの範囲で「六甲山脈の南斜面」との意味で、神戸旧市街地を表す言葉ではありません。
小生らは六甲山域を3分割して、「表六甲」「六甲山上」「裏六甲」と区分していました。あまり六甲登山に縁のない他人に説明する際には、「表六甲の油コブシ山」」とか「六甲山上の三国池」とか「裏六甲の地獄谷」といった具合に話をしていました。


[60913] 2007 年 8 月 30 日 (木) 10:06:43 稚拙 さん
ああ、「あのころの未来」っていうのは、そういうことなんだな、とわかりました。
「あのころの未来」ですか。確かに、あのころ(小生が中学生だった当時)から見た未来ですね。
しかし、そういうロマンチックな言葉は思い浮かびませんでした。稚拙さんのセンスに一本取られた感じです。


[58685] 2007 年 5 月 26 日 (土) 23:45:19 白桃 さん
[59385] 2007 年 6 月 23 日 (土) 23:55:08【1】 hmt さん
古い拙稿を思い出していただき感激しております。有難うございました。
今の小生は「書くことすべて書き尽くし」賞味期限の切れた状態を自覚しておりますが、当時はいろいろ変わったことを書いておりました。お恥ずかしい限りです。


[60942] 2007 年 8 月 31 日 (金) 20:30:39【1】 inakanomozart さん
そのほか街区符号の“渡辺”(久太郎町四丁目)とか“A・B・C”(上町)など、原則に必ずしもとらわれない大阪市の住居表示制度に対する柔軟な対応には、感心させられます。
確かに「渡辺」はユニークな回答と思います。
ですが、[7379]てへへさんの記事にもあり、まがみさんにはオフで地図を見せて教えてもらったのですが、同じ大阪市の鶴見区の焼野1丁目焼野2丁目浜5丁目諸口5丁目の街区番号の付け方は柔軟というより、奇怪です。
大阪市はどちらかと言えば、新住居表示実施に際して従来の町名を無視し、バッサリと纏めてしまったという印象があります。
神戸市は東灘区では随分派手にやりましたが(拙稿[15018]に関連記事)、旧市街地の他の区では、旧町名を出来るだけ尊重した形で柔軟に新住居表示を実施しています。


[60856] 2007 年 8 月 28 日 (火) 02:11:04 ペーロケ さん
最近は「過去ログにあることを書き込んではいけない」等、いい意味でも悪い意味でも敷居が高くなったような気がして
それは少し違うと思います。
過去ログにあることでも、別の視点からの書き込みであれば、大いに書いても良いのではないでしょうか。古い記事の投稿時点と今ではメンバーも違っていますから、全く新しい視点や別の解釈からの議論の展開も望めるかも知れません。
ただし、同じ話題であれば、過去にどのような記事のやり取りがあったかは「記事検索」で調べた上で、記事番号のリンクは最低限のマナーだと思います。その点、hmtさんなどの記事には過去ログへのタイトルまでつけてリンクしておられ、いつも感心させられます。

何につけても、書き込む場合には6万記事に及ぶ過去ログの中に「既に述べられている」と考えた方が良いと思います。最低限、キーワードとなる語句ぐらいは記事検索すべきと考えます。
記事検索には時々エラーが出る場合がありますが、うまくいくまで何度も繰り返せば良いだけのことで、記事の書き込みを急ぐ必要などはどこにも無いと思います。


[61001] 2007 年 9 月 2 日 (日) 19:12:00 グリグリ さん
第二回神戸開催でも地元のニジェガロージェッツさんに献身的な準備作業を行っていただきました。
いや、こればかりは、小生だけのことではありません。ご参加いただいた皆様のお力添えのお蔭です。第四回オフ会の成功を祈ります。


横レスになりますが、一言だけ。
[60971] 2007 年 9 月 2 日 (日) 01:17:21【1】 ペーロケ さん
そう、台湾を忘れていたんですよね。。。
台湾を忘れられると、「蛍の光」の4番が、歌えない。
[60910] 2007年 8月 30日(木)02:01:09【3】ニジェガロージェッツ さん
新住居表示実施前の大阪
いつもながら、レスが遅くなり申し訳ございません。

[60830] inakanomozart さん
また、大阪城の西に広がる東西の道沿いにつけられた町(道修町、平屋町など)も、現在の地図でみるかぎり、たしかに丁目区分は、3筋目ごとで250mほどになっていますね。
現在この辺りでは新住居表示が実施され(拙稿[7175]に関連記述あり)、以前は東区であったこのあたりの町丁目割がそれ以前のものとは違っているため、古い地図を見る必要があります。
小生の手元に昭和13年9月和樂路屋発行の「最新大大阪市街地圖」、および昭和48年1月昭文社発行の「エアリアマップ大阪区分地図」があります。昭和48年の地図も東区は新住居表示実施前で、拙稿[60826]もこれらの地図を計って書き込みしました。
東区については両地図に丁目区分の変化は無く、東横堀川の東(糸屋町、内本町、両替町など)では2筋ごとの丁目割で2丁目まで、東横堀川の西(道修町、平野町など)では1,3,4,5丁目は2筋ごとに、2丁目のみ3筋で丁目割が為されていました。なお、東横堀川は中央大通り(町名で言えば「船場中央」、但し昭和13年の地図では中央大通り開通前で「船場中央」という町名は存在せず)以南では1筋分東にずれており、唐物町より南の各町では1丁目が3筋分の長さになっています。つまり、
1丁目は東横堀川から堺筋の1つ東の筋まで。
2丁目は堺筋を跨ぎ、その1つ東の筋から2つ西の筋まで。
3丁目は堺筋の2つ西の筋から、堺筋の4つ西の筋まで。
4丁目は堺筋の4つ西の筋(=御堂筋の2つ東の筋)から御堂筋まで。
5丁目は御堂筋以西。但し西区との境界のブロックは南北に続く「横堀1~6丁目」という別の町。
となります。

なお、現在の新住居表示による町丁目割では、東横堀川の東では以前の町丁目割をおおよそ踏襲していますが、東横堀川の西ではinakanomozartさんの仰る様に、3筋ごとに改変されています。
地図を見れば東横堀川の西の丁目割を改変した理由として、
1丁目は東横堀川と堺筋の間とし、3筋(南本町以南は4筋)分に。
2・3丁目は堺筋と御堂筋の間の6筋分を2等分し、3筋ごとにする。
4丁目は御堂筋以西、西区との境界までとし、「横堀」は各町の4丁目に吸収。
と、「機械的」に「わかりやすく」したのでしょう。

この辺りの市街はこの1筋がおおよそ90mおきに通っていますから、長さの単位「町/丁=109.09m」から見れば、ちょっと短めで中途半端です。

[60843] Issie さん
これらの具体的な値は地方や時代によって違いがあるのが普通だと思います。今,私たちが知っている 1町=109.09m という値は,明治になって統一され,しかもメートル法と関連づけた値ですね。
のお話からすると、大阪ではこの90mというのが、昔の「大坂規格」だったのかも知れません。
となれば(推測の話から結論付ける、あくまでも小生の私見ですが)、大阪の丁目は距離の「1町/丁」とは関係なく付けられていると言えるかも知れません。
[60851] 2007年 8月 28日(火)00:34:09【1】ニジェガロージェッツ さん
デッドスペースには枝番を
[60824] ペーロケ さん
レスが一日遅れになり、申し訳ございません。昨夜[60826]を投稿した時点で貴稿[60824]には気付いてはおりましたが、時間と体力切れですでに限界でした。
小生は「落書き帳」レビューから5年を経ましたが、この5年間の流れをひと通り知っており、また最近の疎筆も手伝ってか、書き込みには非常に緊張します。書き込みをせずにROMしているここ数ヶ月の方が「落書き帳」とのお付き合いはずっと楽でした。そういう意味では、新しくメンバーになられた方々のほうが、良い意味でも悪い意味でも思いついたことを気軽に書いているなと感じます。

さて、本題。

ただし、街区方式による住居表示では区画整理された土地ということが必ずしも必要条件ではありませんが、この方式ではある程度区画が整理されていないと、通りに面していない「デットスペース」が発生するため、適用できる範囲はかなり限定されるでしょうが。
「街路方式」による住居表示でも、通りに面していない「デッドスペース」でも、基本的にナンバーを与えることは可能です。
極論になりますが、いかなる通りにも面していない「デッドスペース」になど、建物が存在するでしょうか。仮に建っていても、そこへどのようにして家財道具を運べば良いのでしょうか。
要するに、その建物に至るヒト一人は通れる路地なり通路が当然存在するわけで、その路地なり通路が、街路名を与えられた道路に出るところの番号を、路地なり通路に面する建物の共通番号にしたうえで、枝番を付していけば問題なしと考えます。
具体的に“うち”の近所(←神戸じゃないよ)の「実例」からご説明します。

上記「実例」にリンクした地図を見ていただければ、「デッドスペース」にも建物が建っているのが分かります。具体的には「77а」「83а」「83б」「85а」などです。このナンバーから読むと、「77а」の建物への(地図にも出ていない)通路は「77」の建物の脇にあると分かります。また「83а」「83б」への通路は共に「83」のところに入り口がある筈です。この街では、建物番号に「а(アー)」とか「б(ベー)」「в(ヴェー)」といったアルファビートの枝番を付して住居表示している訳です。
#「77」はパン屋さんでした。お菓子やインスタントラーメンまで売っていて、よく通ったものです。「79」は自動車のパーツ屋さんだったか。たまに道路地図なんか置いてあったり。う~ん、懐かしい。

なお、地図の上の方にある(南側に71~87,北側に54~68が面している)通りは「大ペチョールスカヤ通り」という、長さ1.8kmに及ぶ(一部に市電やバスが走る)大通りです。一方、下を通るのは「ノヴォソルダーツカヤ通り」という、長さ200mほどの「路地」と言ってもよいくらいの小さな通りです。
ですから、もしも「デッドスペース」内部を通る「路地」クラスの通路でも、枝番が数多く付けなければならないほどの棟数の建物が面しているのであれば、独立した「通り名」を付してやれば良いと言うことになります。
拙稿[60766]にて、ニジニの通り数をいちいち数えていったのも、そのあたりの雰囲気を表現したかったからです。

さて、これを日本に適応するとなると、日本の場合は道路と道路の間の路地に面して沢山の建物が建っています。もちろん、このクラスの路地にいちいち「通り名」を付していくのはさすがに論外です。ペーロケさんの仰る「デットスペース」とはこのことでしょう。これには、枝番の付け方に統一したルールを整備していけば、対応できると考えます。巧くいけば、碁盤の目状の街並でも、東西の通りにのみ「通り名」を与え、南北の通りには名を与えず、これに面する建物はすべて枝番で対応するなんてことも可能となり、命名の必要となる通り数の軽減につながることと思います。

神戸市役所:神戸市中央区フラワーロード八幡通上る加納町六丁目
この言い方、名状しがたい違和感があります。(笑)
というのは、「八幡通」という葺合の地名と、「加納町」という神戸の地名が混合しているからです。拙稿[54321]に書いていますが、今では同じ中央区に含まれながらも、元来は葺合と神戸は、その所属郡さえ違う全く別の区画です。
神戸市役所は居留地外に建っていますが、同じ神戸で隣接する居留地の通り名で、その延長が葺合の八幡通に通じる「北町通り」の名を借用し、「神戸市中央区フラワーロード北町通り上る加納町六丁目」とでもすれば、実情に近いと感じます。
[60826] 2007年 8月 27日(月)02:51:31ニジェガロージェッツ さん
丁目について
88さん、Issieさん、inakanomozartさん、拙稿[60790]へのレス、有難うございます。

[60791] 88 さん
「住所と地名の大研究」(今尾恵介著、新潮選書、新潮社、2004年3月20日発行)に、まさしく、そのとおりのことが書かれています。

これはこれは恐縮です。2004年発行とは比較的新しい書籍ですね。今尾氏の書籍は本屋さんで見つけたときには手にとって読むようにしているのですが、ネットに浸かって以来のここ数年は、書店で足を止めることがめっきり減りました。「住所と地名の大研究」は要チェックですね。

[60793] Issie さん
耕地での「条里制」、都城での「条坊制」から「町/丁」についての詳細なご解説ご教示、有難うございます。
「丁目」の元来の意味が、ここまで遡れるとは痛快です。

話は変わりますが、Issieさんのご説明にある、朱雀大路から始まる中国式都城の設計システムをお聞きしていると、福原遷都(1180年)における「和田京計画」を思い出しました。
今の神戸市営地下鉄山手線上沢駅から長田駅辺りにかけてが大内裏に想定され、山陽道を朱雀大路として、南西方向に都城計画がおかれていたそうです。
そうすると左京は五条で妙法寺川河口の須磨海岸に達し海に没し、右京は山谷相交わるという地形によりかなりの制約を受ける都城計画だったそうです。
「平家物語」にも
和田の松原の西の野を点じて、九城(条)の地をわ(割)られける。
一条よりしも(下)五条までは其所あって、五条よりしもはなかりけり
とあるそうです。
朱雀大路の伸びる方向こそ違いますが、和田京の復元図を現在の市街図に落として計ると1条の幅は約600mで、小路以下は不明ですが平安京と同じような構造を考えていたのかも知れません。
(参考文献 「ながたの歴史」、長田区役所、昭和52年3月発行)

[60801] inakanomozart さん
駿府城下における町割りについての具体的な例示とその後の変遷の詳細、興味深く拝読させていただきました。

駿府を例にとると、駿府城の南西面に碁盤の目状につくられた町は、正確に一丁四方(約110メートル四方)の街区でした。
小生の生まれ育った神戸市長田区の南部は碁盤の目状に街路が区切られ、丁目もそれに沿って区切られています。[60790]にて11丁目まである長さ1200mの「若松町」の例を挙げましたが、この一帯は
1200÷11=109.09
となり、正しく「1丁」の長さに一致します。
道を尋ねられた場合の会話にも、「2丁先の角を北へ1丁上がって・・・」という言い方が、言う方も聴く方も何の違和感もなく理解しています。
ところが同じ長田区でも山麓のほうへ行くとそんな尺度は全く通用せず、雅に言えば「和田京」の「左京」から「右京」へ引越し転校したときのことですが「この辺りの丁割りはインチキや!」と子供ながら思っていました。

駿府にかぎらず、江戸時代の人為的に町割れされた城下町の多くは、「字」のようなブロック単位の町ではなく、欧米の都市の住所表示方のごとく、通りに町名がつけられ、丁目は文字どおり一丁ごとだったのではないでしょうか?
江戸期の町割りが、通りに町名がつけられているのはおおよそ共通に思いますが、丁目=1町の図式は、やはり違うところもあるように感じています。
便宜上に長い通りを(1町=109mに拘らず)適当な長さに分けていると思われるのが、例えば大阪の谷町。現在の大阪市中央区谷町は新住居表示がなされていますが、新住居表示前とその町域はあまり変わりなく、丁目数も同じです。その長さ約2.6kmに9丁目ですから、1丁目平均289mになります。
谷町だけが例外と言うわけではなく、大阪の場合は新住居表示実施前の地図を見ると1丁目平均がだいたい200m前後のところが多いように感じます。
[60790] 2007年 8月 25日(土)23:11:55ニジェガロージェッツ さん
「丁目」とは元来、距離を示す単位?
[60756]だんなさんからの「とおりめい」に触れて、リンクを出して下さった国土交通省道路局の「通り名で道案内」にある、距離で住居番号を示すシステムに、これは目的地までの距離も把握できるところが便利だという書き込み[60766]をしましたが、それはそうと、「丁目」とは元来は長さを示す単位「丁」に由来するものではないかと、かなり以前より思っていました。

というのは、小生の住む神戸市の旧市街地部分、特に明治後期から昭和初期にかけて行われた耕地整理組合による市街化事業で誕生した区画の多くの「丁目」がだいたい100mで区切られています。神戸市の市街地図を見れば分かりますが、新住居表示を実施している現在でも、その多くは当時の「丁目」を踏襲しています。具体的には灘区、中央区東部(旧葺合区)、兵庫区、長田区の平野部、須磨区南東部の区域です。
現在のメートル法に換算して、1丁(町)=109.09m ですから、大体一致します。
ここで最も「丁目数」が多いのは長田区若松町で11丁目までありますから、若松町の長さを地図で計ると約1200mで、いい線が出ていると感じます。

神戸のお話は大体が明治末期から大正期に市街化していった地域ですが、[60759]千本桜さんに続き、[60787]今川焼さんのお話にある京都市東山区本町の場合は、もっと時代を遡ることが出来ると推察します。
東山区本町の場合は1丁目から22丁目まであり、その距離は約2800mで1丁平均127m。
だいたいにおいて、昔の人の感覚で「五丁目」と言えば、正に距離としての「5丁め」だったのではないかと推測できないだろうか。

しかし、一方で「丁目」とは広い(長い)「町」や「通」を距離には関係なく(便宜上)分割したもので、後の時代、特に現在の新住居表示においては、元来(?)の距離の概念としての「丁目」の性質が失われていった・・・。

ここ「落書き帳」において、「丁目」を距離の概念として述べたような記事があるか、アーカイブ「町名、字名(大字、小字、字)、丁目とは何か?」を流し読みですが一通り目を通しましたが、ちょっと見当たりませんでした。
#見落としていれば、ごめんなさい。
[60766] 2007年 8月 25日(土)02:32:12ニジェガロージェッツ さん
通りで表す住居表示
[60756] だんな さん
お久しぶりです。2年前の神戸オフ会には、お忙しいところわざわざ金沢より日帰りにてご参加され、昨年の金沢オフ会ではご事前準備にご協力くださったとのことで、だんなさんには随分お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。

要は「街区方式」の住居表示だとどこにあるのかわかりづらいので、欧米でなじみのある「道路方式」を使って所在地を案内しようというものです。

これは興味深い取り組みですね。今のところ名所や店舗の場所を案内する試みとしての、ごく限られた市街での「社会実験」とのことですが、仮にこれが定着した場合、市街地では不動産登記に使われる「地番による住所表示」、一般に住所として用いられている「街区方式による住居表示」に加え、「第三の住所」になります。

産経新聞の記事にある図によると、この「道路方式」では住所の番号を道路の起点からのメートル距離(の10分の1)に合わせるとのことで、その道路のどこかに居れば目的地までの距離も把握できるところが便利に感じます。現在の新住居表示「街区方式」による住居番号「号」も、街区「番」の角地などの起点からのメートル距離(の10分の1)ですから、この点は踏襲していることになります。

個人的に馴染みのある「道路方式」による住居表示はロシアでの住居表示ですが、その概略は拙稿[10585]に書いていますが、あちらは距離(メートル)ではなく、建物そのものの個数による表示です。ゆえに
路の起点では「1番」の向かい側に「2番」があるのが多いのですが、順に3・5・7・・・、片や4・6・8・・・、と続くに従って、一方では大きな建物や広場あったり、片側は逆に小さな建物が続いていたりすると、番号がくい違い、「35番」の向かいに「36番」があるとは限りません、というより、そのように揃う方が希です。
という風に、道路の右側と左側に食い違いが生じます。それでもそのシステムを知っていれば道路の反対側の番号は基本的に無関係ですから、目的地探しには別段不都合はありませんでした。ですが距離が分かれば更に便利だったことは言うまでもありません。

「道路方式」になると面倒になると思われるのが、いちいち通りに名を、行政側は付けて、市民側は覚えておく必要があることで、そうなると凄い数の新地名が誕生することに他なりません。
以下、市街全域に通り名を付けるとして、夢想を暴走させます。

参考までに小生が暮らしたことのあるニジニ・ノヴゴロド市にはいくつの通り名があるかといえば、1310の通りがありました。(1996年に入手した市街区分地図帳から一つ一つ数えましたから、見落としや重複もあるでしょう。正確さの保障はしません)
人口と通り(住所)数の関係を計算しました。
(人口は2006年1月1日現在)
人口通り数1通り当たり人口
自動車工場区308,8401961,576
ソルモヴォ区174,517202864
カナヴィノ区157,261204771
ソビエト区151,411162935
レーニン区148,275160927
モスクワ区130,2301151,132
ニジニ・ノヴゴロド区120,343134898
沿オカ区92,676137676
ニジニ・ノヴゴロド市計1,283,5531,310980

一方、街区方式を採用している日本では、例えば神戸市旧市街地のように新住居表示実施前の古い町名を出来るだけ尊重した所と、大阪市のように大きくまとめたところでは地名数の大差(実際には丁目も地名の一部ですが、ここではこれを考えない)があります。
ニジニと同様の計算をすると
(人口は2007年8月1日現在)
人口町名数1町当たり人口
神戸市長田区102,947941,095
大阪市都島区102,334156,822
大阪市旭区94,403118,582

神戸市長田区(ごく一部に新住居表示未実施の所もあります)のように町名の多い(それも通りに沿った所が多い)場所では、現町名が通り名にも活用(転用)できるでしょうが、大阪のように新住居表示による町名改正を徹底させて様なところでは、膨大な新通り名を生じることになります。
[60672] 2007年 8月 19日(日)02:54:31【1】ニジェガロージェッツ さん
地下鉄の東部新都心(HAT神戸)への延伸
[60622] 小松原ラガー さん
「昭和76の神戸市」へのレス有難うございます。
地下鉄海岸線の東部延伸について、山麓線の神戸東部部分(神戸市バス2系統路線に相当)への独自延伸構想、楽しく拝読させていただきました。

確かにラッシュ時に3分おき、ラッシュ時以外でも6分おきに運行されている市バス2系統が地下鉄化されると、多くの神戸東部市民に恩恵を与えることと思います。
ただ、これを言ってしまえば元も子もないのですが、震災以来危機的な財政状況の神戸市が、ドル箱路線の市バス2系統を廃止してまで、大枚はたいてミニ地下鉄の建設に踏み切るかと言えば、少なくとも現状ではありえないことと思います。
その頃に私が生きているか怪しいのでしょうが・・・。^^;
仰るとおり、数世代後の時代に、沿線に何か大規模な再開発などが行われるようなことでもあれば、実現への道が開けるかも知れません。

地下鉄海岸線の延伸について、最も可能性があるとすれば、小松原ラガーさんのお話にあるように、
現在の三宮・花時計前駅からそのまま東進し、東部副都心、すなわちHAT神戸方面へのアクセス路線とする。
この路線でしょう。(実は小生も[49002]にて、こっそり書いています)

その前に、HAT神戸についての事実確認を少し。
小松原ラガーさんはHAT神戸を「東部副都心」とされていますが、神戸市のプランでは「東部新都心」です。
「東部副都心」はあくまでJR六甲道駅周辺です。

神戸市のマスタープランでは、都市核について都心、副都心、衛星都心・・としていますが、「新都心」という設定は従来は存在しませんでした。
東部新都心HAT神戸については震災復興の一環として、復興事業のシンボルプロジェクトとして各種都市機能の受け皿として整備するものでした。
従来のプランにある都市の核としての都心や副都心とは次元の違う震災復興構想により整備されている、との印象を受けます。
なお、[60613][60616]にてお話させていただいた「昭和76年」の神戸市を描いた巻末地図では、現在のHAT神戸の地域は「工業地」のままです。
神戸経済の一翼を担っていた、川崎製鉄の葺合工場と神戸製鋼所の脇浜・岩屋工場が、よもや閉鎖され、この地域が遊休化することなど想像だにしなかったことでしょう。

さて、そのHAT神戸への地下鉄海岸線の延伸については、この地域を「新都心」などと言う、分かりにくい分類ではなく、文字通り「神戸の新しい顔」として、都市の核として発展させるつもりかどうかに拠るところが大きいと思います。
HAT神戸への入居募集に際して、将来的には地下鉄海岸線延伸を仄めかすような説明が為されたとの噂(あくまで「噂」ですよ)を聞いたことがありますが、現状では、鉄道関連の整備としては
(2)周辺鉄道駅における大規模改良(鉄道駅総合改善事業)
・阪神春日野道駅(平成17年度完成予定) ・阪神岩屋駅(平成13年度完成)
で十分と判断していることと推察します。

仮に近い将来に神戸市内に鉄道新線なり延伸の建設があるとすれば(それでも相当厳しいけど)、この地下鉄海岸線のHAT神戸への延伸と、神戸新交通「ポートライナー」の新神戸延伸による新幹線―神戸空港間のアクセス改善ぐらいしかないでしょう。
[60616] 2007年 8月 16日(木)01:19:54ニジェガロージェッツ さん
昭和76年の神戸市 ― (2)
前稿[60613]の続編です。
31年前の冊子「新・神戸市総合基本計画のあらまし―2001」についての雑感をお話したく、一気に書き綴るつもりでしたが、あれこれと書いているうちに話が長くなり、2稿に分割しました。
それにしても、[60613]を投稿した後で、書込ランキングで前稿の文字数を確認すると3752文字。こういうことがいちいち確認出来るグリグリさんの「落書き帳」の付加機能はホンマに凄い。楽しくなります。
但し、文字数の多さは過去の議論からオーナー様の望むところではないので注意しなければなりません。3752文字は多すぎです。個人的には、半年間に渡って[57177]「田井(ママ)して意味も無い」「紙面のムダとしか」思えない投稿や、「南濃(ママ)知的発展性も無いと」思われるような、調子に乗った雑談は控えてきたことに免じて、どうぞお赦し下さい。

さて、本題。

【鉄道】
件の冊子の巻末に収められている地図(以下[60613]と同じく、巻末地図と称します)には、[新幹線]、[国鉄]、[私鉄・その他]、[新しい交通システム]、の4種類の鉄道路線が描かれています。
そのうち、新幹線については当時と現況が変わることなく、国鉄線においても、現在のJR線(東海道本線、山陽本線、福知山線)と変わりはありません。実際に設置された甲南山手駅などJR新駅については、駅についての細かな図示がないため、ここではコメント出来ません。
ただ、現在においても廃線になることなく存続している兵庫―和田岬間の和田岬線が描かれていません。昭和76年においては廃線が見込まれていたのでしょうか。

「私鉄・その他」については、ちょっとした違いがあります。
巻末地図に描かれてれている私鉄路線は、阪急神戸線、阪神本線、山陽電鉄、神戸電鉄、神戸高速鉄道で、これらは現在神戸市内を走っている現況と(当時も含めて)同じです。
但し、実際に存在する新神戸―谷上間の北神急行電鉄(昭和63年4月1日開業)は描かれていません。
一方、神戸市営地下鉄線は現在存在する西神線(新長田―名谷:昭和52年3月13日開業)、山手線(新長田―新神戸:昭和58年6月17日部分開業、昭和60年6月18日全通)、西神延伸線(名谷―西神中央:昭和60年6月18日部分開業、昭和62年3月18日全通)に加え、実在しない東部線(布引―鶴甲)が描かれています。海岸線については、後述しますが別の記号で描かれています。
西神延伸線の山手線の新神戸駅以北、および西神中央駅以西には更なる延伸を思わせる矢印が付してあり、新神戸駅以北の矢印をそのまま延長させると谷上付近に達し、これが現在の北神急行電鉄に相当するとみなされますが、当初は山手線の一部として造るつもりだったのでしょうか。西神中央駅以西については、後に押部谷(西区)、西明石(明石市)、神野(加古川市)への延伸についての議論がありましたが、巻末地図には、いずれも図示されていません。

問題の東部線ですが、神戸市が海岸線などと一緒に当初プランしていた路線は山手線(プラン当初の終点は「布引駅」)の延長上にあり、布引―原田(現在の灘区王子公園あたり)間としていました。それが巻末地図では「原田」から更に東へ、篠原(灘区)を通り鶴甲団地(灘区)に達しています。かなり思い切ったプランですが、鶴甲の先、六甲山中へも矢印が書かれ、それをそのまま延長すると有馬方面へ抜けることになります。本当に造る気だったのでしょうか。

「新しい交通システム」については、3本の路線が引かれています。
新神戸とポートアイランドを結ぶ線、国鉄住吉と六甲アイランドを結ぶ線、および新長田―和田岬―三宮―脇浜―灘浜―住吉川口を結ぶ線の3本です。
ポートアイランドへは神戸新交通ポートアイランド線(三宮―市民広場―北埠頭―三宮:昭和56年2月5日開業)、六甲アイランドへは同六甲アイランド線(住吉―マリンパーク:平成2年2月21日開業)として現実に存在しています。
現在のポートアイランドでは、開業当初の環状運転のみではなく、神戸空港への延伸(市民広場―神戸空港:平成18年2月2日開業)がありますが、巻末地図では神戸空港はおろか、ポートアイランド2期(南公園以南の埋立地)さえ存在していません。
ただ、新神戸駅がポートアイランド線の起点になっているのは興味深いところです。
一方、六甲アイランド線の起点が住吉にある点では現行世界と同じですが、六甲アイランド内の路線がポートアイランドと同じく環状運転になっている点が違っています。

さて、「新しい交通システム」に分類された、現在の地下鉄海岸線に相当する路線ですが、実際の地下鉄海岸線(新長田―和田岬―三宮:平成13年7月7日開業)は従来の地下鉄とは規格の違う「ミニ地下鉄」だそうで、それを「新しい交通システムだ」と言うのであれば、強ち間違いではありません。昭和40年代に神戸市が描いた当初のプランでは西神線、山手線、東部線とともに「普通の」地下鉄としての構想でした。それにしても、住吉まで海岸線に沿っての建設とは、こちらも本当に造る気だったのでしょうか。

実際に開業した地下鉄路線は、都心の三宮からみて西に偏りすぎで、当初からそのように西へしか造らないつもりだったのを、それでは東部の市民が納得しないから、東部線とか海岸線の東への延伸とか、「リップサービス」のつもりで描いたのかと勘繰りたくもなります。


【埋立地】
前述しましたが、現在実際にある神戸空港やポートアイランド2期が描かれていません。南公園が海に面しているポートピア81当時のポートアイランドのままです。
そればかりか、神戸港では中突堤~メリケン波止場間の船溜りの水面を「メリケンパーク」として埋め立てたを筆頭に、摩耶埠頭、新港第五~第八突堤間、兵庫突堤の突堤間の水面を埋め立てられていますが、港内の埠頭に関しては昭和51年当時のまま埋め立てられることなく昭和76年を迎えています。
ただ、ポートアイランドと六甲アイランドの間、ちょうど摩耶埠頭の沖合いに小さいながらも現実には存在しない人工島が描かれています。また現実の六甲アイランドは東西非対称ですが、巻末地図では西側にも東側と同じように船舶のための水面が描かれています。
あと、西では垂水区の東垂水の浜に沖に突き出した「逆コの字」型の大きな埠頭が描かれています。


さて、まだまだ道路状況など(現実に存在する港島トンネルが計画されていない。兵庫・長田・須磨沖に高速道路が走っている。・・などなど)、書きたいことはいろいろあるのですが、キリがないのでこれくらいにしておきましょう。

最後に、今回話題にさせていただいた「新・神戸市総合基本計画」は昭和51年に21世紀に向けての神戸の都市としてのあり方を規定した「マスタープラン」と呼ばれるもので、このプランはその後も改正を重ね、現在のものは神戸市のサイトからも概略が閲覧できます。
震災後の平成7年10月に策定された「第4次神戸市基本計画」をみて見ると、目標年次2010年の設定人口を170万人にしていたり、「ちょっと」と感じるところはありますが、神戸市の考え方が書かれています。
[60613] 2007年 8月 15日(水)20:22:27ニジェガロージェッツ さん
昭和76年の神戸市 ― (1)
ご無沙汰を重ねております。半年振りの書き込みにもかかわらず、地元ネタにて恐縮です。

昨年、転宅した際にダンボール箱へ押し込んでいた雑誌類を今になって整理していると「新・神戸市総合基本計画のあらまし―2001」という懐かしい冊子が出てきました。
タイトルからは6年前の冊子のように感じられますが、実は31年前の1976(昭和51)年に当時の神戸市企画局総合調査課から発行されたものです。要するに、昭和50~51年当時に神戸市が夢見た21世紀初年の2001(昭和76)年の未来の神戸を、多くのイラストや地図を添えて描いたものです。
圧巻は巻末にある折込の地図で、ここには「えっ」と思うような所に地下鉄が通っていたりする一方、現実の21世紀の現在には存在するものが影も形も描かれていなかったり、今にしてみると随分面白い地図です。
昭和51年というと、既に高度経済成長時代は終わり、当時は「安定経済成長時代に入った」と言われていました。ご存知のようにその後の時代の流れは円高不況や造船不振、地価高騰やバブル経済などなど、特に神戸においては平成7年の震災による都市の破壊を経験し今日を迎えていますが、そ~んなことは一切関係なく2001(昭和76)年を迎えた神戸市の姿です。
当時小生は中学生でした。この冊子を見て25年後の昭和76年の神戸市を想像し、「ものすごい街」になると感動したのを覚えています。

この冊子は「緑と、心のふれあいと、生きがいのまち・こうべ」とサブタイトルが付けられており、都市空間のプランから福祉、市民生活など当時の神戸市の考え方などが書かれていますが、ここでは地理に関連しそうなものをいくつかつまみ出してみたく存じます。

【人口】
人口規模について、市域を北神地域(現在の北区)、西神地域(現在の西区)、既成市街地域(北区の西区を除く全て)の三つに分けて計画しています。
昭和50年 136万人(既成市街地域116万、北神地域13万、西神地域7万)
昭和60年 160万人(既成市街地域120万、北神地域23万、西神地域17万)
昭和76年 180万人(既成市街地域120万、北神地域30万、西神地域30万)

実際の人口の推移は
昭和50年 1,360,530人(既成市街地域1,156,620、北神地域135,697、西神地域68,213)
昭和60年 1,410,834人(既成市街地域1,122,839、北神地域177,221、西神地域110,774)
平成13年 1,503,480人(既成市街地域1,041,030、北神地域224,853、西神地域237,597)
平成19年 1,530,088人(既成市街地域1,056,038、北神地域226,287、西神地域247,763)
注】昭和50、60年は10月1日国勢調査人口、平成13年は10月1日の推計修正値、平成19年は7月1日推計人口

神戸市は昭和50年代前半は人口増加の停滞が生じ(拙稿[12405]にちょっと状況が分かるデータがあります)、昭和50年代後半からは再び増加に転じましたが、昭和50年代半ばには、さすがに昭和60年に「160万人」になる可能性は無いと断じ、昭和60年は146万、昭和76年は160万人に修正されました。
もともと、将来人口180万人というのも、「180万人を限度として・・・」とあり、あくまで上限値であり、それ以上の人口を市域に抱えてはいけない、という尺度ですが、現実の人口の推移を見ると・・・
論評は控えさせていただきます。


【行政区】
昭和40年代に計画された「行政区再編成」ですが、昭和51年の時点では六甲山上の灘区への移管(昭和47年6月1日)、兵庫区より北区の分区(昭和48年8月1日)は実現していましたが、垂水区名谷団地の須磨区への移管(昭和52年6月6日)以降の変更は実現していません。

昭和76年の神戸市は11の区が描かれています。(昭和51年以降の)プランとしては
1)生田区と葺合区の統合 (実現:昭和55年12月1日に中央区発足)
2)垂水区から西神地域の分区 (実現:昭和57年8月1日に西区発足)
3)北区の北部地区を分区 (実現せず)
4)須磨区・垂水本区の新規開発地を分離し新区の創設 (実現せず)

北区の北部については、1983(昭和58)年9月16日に開かれた市会本会議にて、当時の宮崎辰雄神戸市長の答弁で「今すぐではなくて、十年はかかる話」と断った上で、「北区は将来、二つに割るべきだ。山田町以南と以北で区を作りたい」と、構想を明かしていました。(1983年9月17日付、神戸新聞より)
ですが「十年」どころか、答弁から24年を経た現在においても、分区を考えていません
昭和76年の将来人口を30万人としている北区の人口は、2007(平成19)年7月1日現在 226,287人で、分区の境とされる本区(同、144,487人)と北部(同、81,800人)では、震災後は本区は緩やかな減少傾向、北部では緩やかな増加傾向にあり、区全体としては横ばいの状況が続いています。
注】本稿で北区の「北部」と表記した、当時の宮崎市長の言う山田町以北については、現在では「北区北神」と言われています。
本稿では昭和51年当時「北神」と呼ばれていたのは現在の北区全域であることから、混同を避けるために敢えて「北部」としました。

須磨区・垂水本区の新規開発地に新区を設ける話については、昭和51年当時は垂水区に属していた造成途上の名谷団地を1977(昭和52)年6月6日に須磨区に編入し、須磨区の北半分を須磨区役所北須磨支所として、須磨区は「本区・北須磨」に分けられました。
1985(昭和60)年2月1日には「垂水本区の新規開発地」の総合運動公園(緑台)、流通業務団地(弥栄台)を須磨区北須磨に編入し、その後も流通業務団地の西区へのはみ出し部分が須磨区弥栄台に統一されるなど、北須磨は拡張して現在に至っていますが、本格的な須磨区からの分区については、話題さえも存在していません。
なお、冊子に載っている区分地図には、現在の垂水区のうち、第二神明道路以北・神戸淡路鳴門自動車道以東が「北須磨区?」に入っています。


【地域中心核】
「地域中心核として、都心―副都心―衛星都心―生活都心―まち住区中心―近隣住区中心を設定し、商業・業務機能、ターミナル機能などを整備します」とあり、生活都心以上のものは、具体的に以下のように地名が列挙されています。
都心:三宮~神戸
副都心:六甲、大橋~板宿
衛星都心:二郎、西神ニュータウンの中心
生活都心:住吉、湊川、須磨、垂水、須磨ニュータウンの中心、鈴蘭台

都心については、おおよそ現在の神戸市においても大きな違いはありませんが、ただ都心の一角に含まれても良い、1992(平成4)年に神戸駅浜側に商業地としてオープンしたハーバーランド地区は巻末地図にも描かれておらず、この地域には「ウォーターフロント緑地」とされています。

副都心においては、昭和40年代ごろより「東の六甲道、西の新長田」と言われていましたが、それをちょっと拡大したようで、巻末地図を見れは「六甲」には阪神新在家~国鉄六甲道~阪急六甲周辺まで、「大橋~板宿」には国鉄新長田周辺一帯と山陽板宿駅付近が連なった商業核のように描かれています。
現在の状況を見ると、六甲道、新長田ともに平成7年の震災では壊滅的な被害を受け、それぞれ六甲道駅南地区新長田駅南地区において、震災復興市街地再開発事業が実施されており、復興途上にあります。
ただ、「六甲」においては新在家から阪急六甲に至る大規模商業核には成長しておらず、「新長田」においても地下鉄新長田駅から駒ヶ林駅にかけては再開発ビル群として復活した大正筋商店街などで一体性のある商業地にはなっていますが、板宿(須磨区)との連帯感はなく、新長田―板宿間は震災前は住工混在地域、震災後の焼け野原を経て、現在は住宅街として整備されています。

衛星都心として名が挙げられている北区の二郎については、「二郎いちご」として神戸では有名なイチゴの産地で、昭和51年当時は神戸電鉄二郎駅も人里離れた長閑な田園地帯にありました。
そうような二郎ですが、巻末地図では二郎駅より南は神鉄の東西両側に大規模な住宅街が形成され、北側には工業地帯が描かれています。そして駅の西側に商業核が計画されています。
現在の状況を見ると、実際に衛星都心として整備されているのは二郎ではなく、神鉄にして2駅南の岡場駅周辺です。岡場は藤原山を削りニュータウンとして開発された藤原台の中心駅となり、かつては地上にあった田舎駅でしたが高架駅となり、当時とは様変わりしています。

一方、「西神ニュータウンの中心」とは、現在の地下鉄西神中央駅の場所に一致しています。こちらは計画通りの実現です。

生活都心として名が挙げられている「須磨ニュータウンの中心」とは、現在の地下鉄名谷駅です。昭和51年当時は市営地下鉄開業前でした。(開業は昭和52年3月13日)
住吉、湊川、垂水、名谷、鈴蘭台は、確かに生活都心と言っても良いと思いますが、須磨だけはとても生活都心とは言えず、今日においても手付かずの状態に感じます。
[57118] 2007年 3月 2日(金)00:03:42ニジェガロージェッツ さん
海上渡橋歴など
3月に入りました。この冬、神戸(神戸海洋気象台)では最低気温の記録が2006年12月29日の0.0℃で、まだ一度も氷点下になっていません。恐ろしいほどの暖冬です。
さて、以下まとめレスにて恐縮です。

[57060] ペーロケ さん
日本が主張する領土とは裏腹に、実権を持って支配している範囲はどんどん狭くなっていますね。

そうですか? 小生など能天気なもので、横浜市内の米軍施設が返還されたりして、逆だと思っていました。

地球温暖化で沖ノ鳥島はいつまで持つのか気になります。
これは本当に怖いですね。あれは「岩だ」と言い出す国もあるようですから、領土保全のためにも何とかならないものかと思います。
ところで、「岩」と言えば、宗谷海峡にある「二丈岩」という、別名「危険岩」と呼ばれる岩があり、文字通り船舶の衝突事故が多発したために、灯台を建設したとか。
その灯台が気になって、稚内から宗谷海峡を横断した時に、その灯台を探したのですが、見当たりませんでした。

[57062] グリグリ さん
容量問題は現在はほぼないと考えていただいて結構です。時代が変わりました。(笑
有難うございます。2003年7月にあった18000番台の、あの時の議論はもう時効と考えて差し支えないですか?
とはいえ、やはり容量が無限になったわけではありませんので、書き込みの際にはあの時の議論をこころの片隅に留めおいて、望みたく思います。

[57094] まるちゃん さん
見島といえば、自衛隊とマグロです。
あの島はマグロの島でしたか。(←知らなさ過ぎ)
リンク頂いた写真は見事なマグロですね。
小生の島達度には、舳倉島や見島など、釣り好きかと思われるような島がありますが、釣り好きではないばかりか、釣りをしたこともありません。
学生時代に、夏休みには六甲登山仲間と「島へ篭る」という、変な企画を毎年やっていました。81年=友ヶ島、82年=舳倉島、83年=直島、と来て、84年に見島を選びました。

[57106] 星野彼方 さん
東二見橋は徒歩専用(現在車も渡れるように工事中)であそこを渡るのは地元民と釣り人以外では思い浮かばないような橋です。
あれは震災の前の年でしたが、自動二輪に乗って取引先へ機械の修理に行った際、予想外に早く仕事が終了し、余った時間に近辺の海岸巡りをやりました。
記憶違いでなければ、東二見橋を強引に自動二輪で突破し、南二見人工島に渡ったと思います。その後、二見大橋を通り南二見人工島を離れ、播磨大橋([57101]には「新島橋」と書きましたが、まちがい)を通り播磨町新島(人工島)に渡りました。

[57110] 小松原ラガー さん
走るたびに路面からカタカタ音がして「いかにも」という仮設の橋だったのを覚えています。
そうでした、そうでした。徒歩で歩いて仮設大橋を渡っていると、震災復旧工事の大型ダンプが通る度に橋全体が揺れ、落橋しそうなスリルがありました。
この時は、ポーアイの「バンドール」という大型商業施設(現在はありません)に旅支度に買出しに行った際に渡橋しました。今思い出したのですが、「バンドール」でスーツケースに目星を付け、後日にそのスーツケースを買いに車で再訪しました。従って[57101]の仮設大橋は○ではなく◎でした。
仮設橋を実際に歩いて渡ると、落橋のスリルも手伝ってか地図で見るよりもずっと長距離に感じました。再訪したときに写真に撮っておこうと思いましたが、その直後に神戸を離れて人口140万人の「Nという町」で暮らし、1年後神戸に帰ってきたときには既に仮設橋は撤去されており、果たせず仕舞いに終わりました。残念です。
[57101] 2007年 3月 1日(木)01:50:02【3】ニジェガロージェッツ さん
海上渡橋歴
[57062] グリグリ さん
交通整理は後回しにしてさらに加速してみましょうか。[57022]で書いた「海上架橋」です。

とりあえず地元中心ですが、思い出す限り海上渡橋歴を挙げてみます。但し、海上を通る高速道路に架かる架橋などは名称が分からないものもあり、結構適当です。
◎徒歩、交通機関利用とも渡橋歴あり、○徒歩のみ、●交通機関利用(車・自動二輪・電車)のみ

【兵庫県】 ●尼崎東海岸、●甲子園浜、●西宮港大橋、●南芦屋浜、●深江浜、●東神戸大橋、●六甲アイランド大橋(以上、阪神高速5号湾岸線)、●住吉浜渡り橋、◎六甲大橋、●六甲大橋(六甲ライナー橋)、●灘大橋、●灘浜大橋、●摩耶大橋、◎神戸大橋、●神戸大橋(ポートライナー橋)、●神戸空港連絡橋(ポートライナー橋)、○仮設大橋、●浜手バイパス、○モザイク北側、◎苅藻橋、◎明石海峡大橋、●東二見橋、●二見大橋、●新島橋(播磨町)、●高砂大橋
【兵庫県―大阪府】 ●中島川橋(阪神高速5号湾岸線)
【大阪府】 ●神崎川橋、●正連寺川大橋、●天保山大橋(以上、阪神高速5号湾岸線)、●港大橋、●南港大橋、●新浜寺大橋(以上、阪神高速4号湾岸線)、●関西国際空港連絡橋、●平林大橋
【三重県】 ●麻生の浦大橋、●的矢湾大橋(以上、パールロード)
【兵庫県―徳島県】 ●大鳴門橋
【徳島県】 ●小鳴門橋、●撫養橋
【岡山県】 ●片上大橋
【岡山県―香川県】 ●下津井瀬戸大橋(瀬戸中央自動車道・JR線)
【香川県】 ●櫃石島橋、●岩黒島橋、●与島橋、●北備讃瀬戸大橋、●南備讃瀬戸大橋(以上、瀬戸中央自動車道・JR線)
【高知県】 ●浦戸大橋、●宇佐大橋
【広島県】 ●尾道大橋、●因島大橋
【長崎県】 ●平戸大橋
【樺太】 ●大泊港連絡橋

まだあるかも知れませんが、取り敢えず以上です。このうち、仮設大橋(9ページ写真6下 神戸新港第三突堤―第四突堤)のみ現存しません。


[57099] 小松原ラガー さん
私も上記3つは全てクリアですが、実は3つとも自分の足で、というか正確には「人力で」クリアしたことがあります。
小生も同じ体験をしております。小松原ラガーさんは更に仮設大橋の渡橋歴もお持ちなのでは・・?
[57051] 2007年 2月 26日(月)20:31:09【1】ニジェガロージェッツ さん
渡島歴
続々と続くことが予想され、容量問題からオーナーさんに遠慮して[56986]に「やめとけ」と書きましたが、[57022]グリグリさんご自身より「面白そうですね」とあるので、遠慮なく書き込みさせていただきます(笑)

島の基準は[57040]太白さんご紹介のサイトに準じました。
主要五島○樺太、○北海道、◎本州、○四国、○九州
石川県●舳倉島
三重県○答志島、●賢島
滋賀県●竹生島
和歌山県●沖ノ島(友ヶ島)
兵庫県○淡路島、●家島、●坊勢島
岡山県▲頭島、▲鴻島、●大多府島、△前島、●犬島
広島県○仙酔島、●向島、●因島、●生口島
山口県○見島、●青海島
徳島県▲大毛島
香川県○小豆島、○直島、●女木島、▲櫃石島、▲岩黒島、△与島、▲鍋島
長崎県○平戸島
宮崎県●青島

ついでに、番外になりますが人工島についてもやってみました。拙稿[24523]に挙げた埋立島+神戸空港より拾い集めました。
東京都▲新木場
大阪府●関西空港島、▲高砂、▲南港南、●南港北
兵庫県-神戸を除く▲甲子園浜、▲西宮浜、▲南芦屋浜、▲南二見、▲人工島
兵庫県神戸市●東部第四工区、▲東部第三工区、●東部第二工区、●六甲アイランド、
●ポートアイランド、●神戸空港、●苅藻島

こうしてみると、先の拙稿[56966]の「港歴」から(【6】回も修正を重ねたにもかかわらず)◎鞆の浦、◎田ノ浦(仙酔島)=ともに広島県福山市、が完全に漏れていました。
また、岡山県日生諸島の頭島港を◎としていましたが、この港は寄港のみで、実際には大多府島が◎でした。
また、[57018]まるちゃんさんをびっくりさせてしまった山口県の見島の上陸港は「本村」ではなく、山を隔てた北側の「宇津」でした。島内で探検と称して、南の本村まで山越えした経験があります。 宿は宇津の民宿に確保していましたが、この島には自衛隊の基地があり、最終日は自衛隊員の集団宿泊が急遽あり、宿主の別宅のようなところへ移された記憶があります。


[56988]いっちゃん さん
疑惑の航路
私の経港歴にも該当するものが有るような、無いような・・・。
道理で・・・分からなかった筈です(笑)

小生の場合、「疑惑」というほどではありませんが、「敦賀」の相手港は「浦塩」です。
また「長田」の相手港は淡路島の「浦港」でしたが、何分にも昭和40年代前半の幼少期の経港のため、記憶が確かではありません。長田港をフェリーで出港した記憶は鮮明にありますからカウントしましたが、どこか覚えていない港は挙げようがありません。

[56996]魚熊 さん
アンカレッジ経由のヨーロッパ便がなくなりました。そのため我々の世代が
アンカレッジを知る最後の世代といえるでしょう。
当時は1ドル=280円位でしたか。とても気軽に海外へ出かけるような時代ではなかったですね。そのあたりも、アンカレッジ経由の経験が少ない理由かも。
因みに小生の初海外は、円高になった1989年8月に稚内港からソ連統治下の樺太真岡港に渡った時でした。
(ワ! 樺太を海外と言ってしまった!)
[56986] 2007年 2月 23日(金)20:27:50ニジェガロージェッツ さん
港歴雑感
空港&港の話題、盛り上がっていますね。
こうして利用した空港や港を挙げていくと、物理的に「島歴」(←やめときなはれや!)が出てしまうところが面白いところです。もっとも架橋のある島は別ですが。

○出発のみ港と●到着のみ港との関係から旅程を推理したりしていると、一瞬「この人、この港からどこへいったん?」と思うような、港が書かれていたり(小生の「敦賀」も大概ですが)、興味が尽きません。


以下、いつもながらの遅れ遅れレスにつき、御免です。

[54534] かぱぷう さん
福岡県北九州地方ならびに福岡地方の現在の売り場の占有率は「(6枚切り)6:(5枚切り)4」くらいでしょうか。でも6枚切りの方が早く売れてます。私も6枚切り派です。

レスが遅くなり、誠に恐縮です。
こちらは逆で、5枚切りが先に売り切れます。遅めにスーパーへ行くと5枚切りは売り切れ、6枚切れが極わずか、ほとんど4枚切れしか売っていません。

[56595] ペーロケ さん
5駅は横浜市が該当します。
[56597] デスクトップ鉄 さん
横浜高速鉄道(みなとみらい線)もありますので6駅になります。そしてどの駅にも接頭語がつきません。

ご教示有難うございます。「横浜」は6駅ですか。もう9年も前のことですが、休日の朝にJRの横浜駅で下車して、海側へ出て歩いたところ、なんだか寂しい所だったとの印象があり、横浜の6駅(当時は5駅?)には気が付きませんでした。

[56985] 油天神山 さん
ウラジオストクって札幌よりも南だったんですねー。今まで全然気づいていなかったので、ビックリしました。

あまり日本地図にウラジオストクなんて載ってませんからね。たまに図端にちょこっと載っているのがあって、そういう日本地図をみると個人的に感動します。
札幌とはほとんど同緯度ですが、わずかにウラジオストクが南です。
ウラジオストクは苫小牧市の真西、山口県光市の真北ぐらいのところに位置しています。
[56966] 2007年 2月 22日(木)22:38:23【6】ニジェガロージェッツ さん
港歴
[56955] いっちゃん さん
[56933][56963]ただけんさん
[56958] Issie さん
[56965] 今川焼 さん

今度は「港歴」ですか。皆さんどこまでやる御積りですかっ!
と言いつつ、小生も反応させて頂きます。
とりあえず、地図とにらめっこで思い出す限り

1.その港の発着便を利用したことがある。◎=出発、到着とも利用、○=出発のみ利用、●到着のみ利用。
南から順に
日向宮崎県日向市清水高知県土佐清水市
三角熊本県宇城市島原長崎県島原市
大分大分県大分市高知高知県高知市
苅田福岡県京都郡苅田町松山観光愛媛県松山市
北九州北九州市小倉北区鳴門徳島県鳴門市
福良兵庫県南あわじ市友が島和歌山県和歌山市
加太和歌山県和歌山市深日大阪府泉南郡岬町
洲本兵庫県洲本市関西空港大阪府泉佐野市
広島県呉市瀬戸田広島県尾道市
三原広島県三原市高松香川県高松市
女木島香川県高松市洲本兵庫県洲本市
宮ノ浦香川県香川郡直島町仙崎山口県長門市
青海島山口県長門市山口県萩市
和具三重県志摩市賢島三重県志摩市
鳥羽三重県鳥羽市答志三重県鳥羽市
宇野岡山県玉野市福田香川県小豆島町
見島本村山口県萩市仮屋兵庫県淡路市
犬島岡山県岡山市朝日岡山県岡山市
岩屋兵庫県淡路市坊勢島兵庫県姫路市
網手兵庫県姫路市(家島)真浦兵庫県姫路市(家島)
明石兵庫県明石市頭島岡山県備前市
日生岡山県備前市大阪南港大阪市住之江区
大阪大阪市港区須磨神戸市須磨区
長田神戸市長田区神戸神戸市中央区
東神戸神戸市東灘区飾磨兵庫県姫路市
長浜滋賀県長浜市竹生島滋賀県長浜市
久美浜京都府京丹後市湊宮京都府京丹後市
敦賀福井県敦賀市輪島石川県輪島市
舳倉島石川県輪島市浦塩ウラジオストク市フルンゼ区
稚内北海道稚内市大泊サハリン州コルサコフ市
真岡サハリン州ホルムスク市リストヴャンカイルクーツク州リストヴャンカ町
イルクーツクイルクーツク市十月区

尾道水道やヴォルガ河の渡船、東条湖やアムール河やウラジオ金角湾の遊覧船、神戸港内の船舶移動(六甲アイランド―ハーバーランド)などは除いています。
港域に関しては、例えば須磨港、長田港、東神戸フェリー埠頭などはいずれも神戸港の内港ですが、[56955]いっちゃんさんが大阪港を南港と天保山に分けているように、別の港として扱いました。
[56956] 2007年 2月 22日(木)20:27:30【1】ニジェガロージェッツ さん
空港歴
[56953] 魚熊 さん
お久しぶりです。「両みみニ焼魚」以来ですね懐かしい限りです。

#他の方の書き込みを見て、アンカレッジの記述がほとんどないのは皆様がお若いからなのか、
我々の世代がそれを言ってしまえば、年配の世代に思われてしまいそうで...

「空港歴」久しぶりに簡単な話題にて、気楽にレスさせていただきます。
「言い出しっぺ」の佐賀県さん[56930]に準じて、小生の場合は以下の通りです。

1.その空港の発着便を利用したことがある。(到着・出発いずれか片方のみを含む。)
南から順に、
KIX大阪(関空)発着
ITM大阪(伊丹)発着
NGO名古屋
NRT東京(成田)発着
KIJ新潟発着
SDJ仙台
HNA花巻
AOJ青森
VVOウラジオストク(アルチョーム)
SPK札幌(千歳)発着
OKD札幌(丘珠)
WKJ稚内発着
UUS豊原(ユジノ=サハリンスク)発着
KHVハバロフスク発着
IKTイルクーツク発着
???オハ発着
???ブグリマ
DMEモスクワ(ドモジェドヴォ)
SVOモスクワ(シェレメーチェヴォ)発着

2.送迎や見学などで空港の建物の中に入ったことはあるが、発着便は利用したことがない。
 UKB 神戸

3.建物の中に入ったことはないが、送迎などで敷地内に入ったことがある。
 該当なし。

4.敷地内にすら入ったことがない。
 その他のすべての空港

変わったところと言えば北樺太のオハ空港と、ロシア・タタルスタン共和国東部のブグリマ空港ですか。
あと居住経験のある、神戸(UKB)とニジニ・ノヴゴロド(GOJ)のどちらも空港がありますが、一度も利用したことがありません。
昨年のオフ会は新潟か仙台かと勝手に予想して、ひそかに神戸空港利用を狙っていたのですが、金沢開催とあって期待外れ。
今年こそは!っと思っていたところ、新潟便、仙台便ともに廃止との由、残念。
[56593] 2007年 2月 3日(土)00:54:46ニジェガロージェッツ さん
一文字の駅
お久しぶりです。今年も落書き帳益々のご盛況、ご同慶の至りです。

[56579] ハンブルガー さん「呉市」呉、広
[56582] なると金時 さん「三好市」佃、辻
[56591] にまん さん「堺市」堺、湊、鳳

ハンブルガーさんから「呉市」を見たとき、「確かに!」と思ったのですが、なると金時さん、にまんさんの記事を見て、「結構あるけど珍しいな」と思っていたら、小生の地元市にも一文字の駅が2駅ありました。どちらも乗り降り経験があります。

「神戸市」 灘(JR)、栄(神戸電鉄)

ところで、駅で「一つの市を特定する条件」としては、神戸市の場合、同名の駅が4駅(表記のぶれを含めると5駅)あるのですが、他にもこれを上回る「市」はありふれていますか?

市営地下鉄「三宮」
阪神「三宮」
阪急「三宮」
ポートライナー「三宮」
JR「三ノ宮」
[54396] 2006年 10月 10日(火)02:29:06ニジェガロージェッツ さん
食パンの切厚戦略
[54367] eiji_t さん ,[54369] YSK さん ,[54373] inakanomozart さん ,[54374] かすみ さん ,[54376] オーナー グリグリ さん ,[54379] ワカメ さん
食パンの切り厚についてのレス有難うございます。
まだまだ関東では8枚切りが健在と知り、嬉しくなりました。オフ会か何かで東へ行くことがあれば、絶対8枚切りを買って帰ろうと思います。
そういえば、小生の通っていた神戸市立小学校の給食では食パンが低学年で2枚、高学年で3枚出た記憶があります。いずれも昭和40年代の話ですけれども、5枚切りを3枚も食べさせるというのはちょっと多すぎるのでは。今にして思えば、あれは8枚切りだったのではないか?
[54373]inakanomozartさんのおっしゃる様に、当時はこちらでも街中至るところに小さな駄菓子屋兼パン屋さんがあって、食パンを切ってもらっていましたが、給食パンの厚みに違和感を感じなかったことからすると、昔は案外こちらでも8枚切りが主流だったかも知れないですね。

[54376] オーナー グリグリ さん
特売などの場合、8枚切りがいつも先に売り切れてしまいます。私には、需要が6枚切りに移行したと言うよりも、市場を6枚切りに移行させようとしているように感じられます。
なるほど!大いに有り得る話ですね。そういえば今では結構見かける4枚切りは以前はなかったように思います。
8枚→6枚→5枚切りと食パンの厚みの変化には、冷徹なメーカーの販売戦略が絡んでいたとは、妙に納得です。
純粋に東西の食文化の差だと思っていたのですが、勿論そういった側面はあるでしょうが、それだけではないようですね。
[54366] 2006年 10月 8日(日)02:39:47ニジェガロージェッツ さん
先週の今ごろは・・・
金沢オフ会の四次会のカラオケボックスで叫んでいました。(笑)
もうあれから1週間。時間が経つのは早いものです。
オフ二次会では金沢は西日本か東日本かの話題が盛り上がり、地元出身のグリグリさんは「金沢は西だ!」と断定されていました。更に高岡は西、能登は東、富山は東、という線引きに、北陸に土地鑑のない小生には新鮮な驚きでした。
ということで、去年の神戸に続き2年連続でオフ会は西で開催されたことになります。では来年は東でしょうか。具体的には南東北などが候補に上がるかも??
そうなると、関西在住のメンバーは参加が難しいかも?

[54276] 今川焼 さん
いつか、関西プチオフやりましょう。
是非やりましょう。大賛成です。小生は下戸で、元来宴席は好きではありませんが、落書き帳メンバーだけは別です。過去のプチオフも含めて、本当に有意義で楽しいひと時でした。昨年の神戸オフ会のときよりも関西在住メンバーは増えていますから、楽しみ倍増です。
さて、来年の「第4回公式オフ会」の開催時期を外して、いつ頃やるかですが、・・で、誰が音頭取りを???

[54271] らるふ さん
オフ会の土産話を楽しみにしています。
個人的には誰よりもご一緒したかったのが貴兄でした。またの機会を楽しみにしております。

さて、明治初期の神戸についての投稿で力尽きて、今更ながらのレスで申し訳ありませんが・・・
その前に、食パンの切り厚についての拙稿[53851]
関東では8枚切がよく売られているそうですが
と書いていましたが、オフ会にて「今や関東でも6枚切が主流で、8枚切はあまり見かけない」とお聞きしました。「関東=8枚切」という小生の思い込みか、情報が古いのかですが、知識不足失礼致しました。8枚切はトーストにするとカリカリ感が楽しめそうで小生には魅力的に映ったのですが、関東で消え行くとなると絶滅かな? ちょっと残念。

[54256] むっくん さん
名古屋の『しのだうどん』とは、お揚げ(醤油で軽く味付けしてある)を短冊状に切ったものとねぎが入ったうどんのことで、関西での『きざみうどん』とほぼ同一のものだと思います。
やはり名古屋には「しのだ」が存在すると知って嬉しくなりました。ただ「きつねうどん」とは同義語ではないようで、奥が深いと感じました。

[54263] 油天神山 さん
消費量で言うと、濃口:淡口が8:2くらいかと思います(我が家の話ですよ)。
小生の家も同じくらいの割合でした。
恥ずかしい話ですが、日常生活では濃口醤油が普通なのでこれを濃口と認識せず、小生は数年前まで濃口醤油とはたまり醤油のことだと誤解していました。

[54317] 星野彼方 さん
家島町は宿泊経験があります。これは結構貴重かも。でも、ニジェガロージェッツさんの舳倉島がうらやましい(オフ会でそういう話題が出た)。
家島町には小生も渡った事があります。1998年ごろの話ですが、島内は原付自転車の「無法地帯」で、2人乗りやヘルメット非着用が当たり前の世界にはショックでした。
石川県最北端の舳倉島に渡ったのは1982年の夏でした。当時はまだ学生で、友人と図書館に集まって夏の旅行の計画を立てるのに地図帳を見ていて、たまたま中部地方のページが開いていたので、冗談で「ここへ行こう」と端っこに載っていた舳倉島を差したのが、本当に行ってしまったという嘘のような話です。絶海孤島の岩だけの島でしたが、それでも船着場があり、5軒ほどの建物がありました。夏季のみ人の住む、海士さんの島と聞きました。
[54365] 2006年 10月 8日(日)00:18:03ニジェガロージェッツ さん
湊東区は兵庫湊東・坂本・荒田より
[54363] ezekiel さん
幕末~明治初期の神戸についての詳細レス、引き続き有難うございます。
様々な角度からスポットを当て、神戸のルーツについてのご考察をお聞きし、こちらも大変勉強になりました。
ezekielさんより「湊東の興隆」という記事をいただき、此度は後に戦前の神戸市の中心となる湊東区を中心にこちらからもレスさせていただきます。

その前に、まず事実確認から
そして北前船で有名な高田屋嘉兵衛の拠点は、昔からの兵庫津ではなくて湊東の西出町でしたし

確かに江戸期の豪商・高田屋嘉兵衛の店や邸は西出町にありましたが、この西出町は東隣の東出町とともに「湊西」に含まれます。確かに兵庫津全体の中では、湊川河口に向かって東に突き出た部分に位置していますが、それゆえ「出町」と名付けられ、後に東出・西出に分かれたのでしょう。しかし、湊川を越えて東には出ておらず、実際、幕末期の兵庫津において湊川の東、つまり「湊東」に位置していたのは、東川崎町と相生町の2町だけです。
後に神戸区、更に神戸市と発展するにつれて、兵庫湊東の範囲も拡大していきました。
神戸市に区政が敷かれ湊東区が誕生するのは昭和6年9月1日ですが、明治期には既に「湊東区」という区域分けが為されています。
その範囲は前出の2町に加え、明治5年に兵庫津に編入された坂本村南部の仲町部、新福原、明治12年に神戸区となった坂本村残存部、明治22年に神戸市となった荒田村でした。
湊東区は神戸市一の「ミニ区」で、面積わずか2.04km2でした。(人口では湊区の方が少なかった。拙稿[3421]
町名を全部列挙してもしれているので、範囲の確認のために記しておきます。
湊東区の町名備考湊東区廃止後
東川崎町1~7丁目もと兵庫津の1町、1丁目は神戸停車場に生田区東川崎町1~7丁目
相生町1~5丁目もと兵庫津の1町生田区相生町1~5丁目
古湊通1~4丁目もと仲町部生田区古湊通1~2丁目、*兵庫区西古湊通1~2丁目
中町通1~6丁目もと仲町部生田区中町通1~4丁目、*兵庫区中町西通1~2丁目
多聞通1~8丁目もと仲町部生田区多聞通1~6丁目、兵庫区西多聞通1~2丁目
橘通1~6丁目もと仲町部生田区橘通1~4丁目、兵庫区西橘通1~2丁目
上橘通1~4丁目もと仲町部*生田区上橘通1~2丁目、兵庫区西上橘通1~2丁目
福原町新福原、旧福原が移転[5887]兵庫区福原町
楠町1~8丁目もと坂本村生田区楠町1~8丁目
荒田町1~4丁目もと荒田村兵庫区荒田町1~4丁目
*印は現存しない町名です。(昭和49~50年:新開地1~6丁目の新設、昭和55年:上橘通を橘通に統合)

私のイメージ(思い込み)では、西国街道の北側に、西から荒田村、坂本村、宇治野村、花隈村というような位置関係で捉えていました。

全くそのとおりで、まず間違いないでしょう。(花隈村の表記については、「花熊村」としている資料が多いようですが、これはどちらでも良かったのでしょう。)
ここで問題となるのは、元来の坂本村の範囲が海岸まで達していたかどうかですが、これは極めて疑問です。史料となる江戸期の地図を持ち合わせていないので断言は控えますが、小生は海岸には至っていないと思います。神戸に属する走水村についても海岸に接していたかどうか?
また、仲町部として整備された古湊通から上橘通までの区域のうち、その西部(荒田村の南方にあたり、現在は兵庫区内)も坂本村域ではなく、兵庫港地方に属していたかもしれません。

さて、ここからが本題ですが、ではなぜ兵庫の地をわざわざ湊川を境に「湊西」と「湊東」に2分する必要があったのでしょうか。
#ここから先の話は小生の主観が強く入るので、史実とは異なるかも知れません。「こう思っている人も居るんだ」という程度に聞き流して下さい。

結論から言えば、湊西を兵庫の街として残す(整備する)一方で、湊東は神戸の新都心として建設しようとしたのではないかと推察します。
湊東区のうち、元々の兵庫津の町は東川崎町と相生町の2町のみですが、両町とも神戸停車場の建設予定地に組み込まれ、坂本村南部の仲町部に新市街を整備し移転、福原遊廓も神戸停車場敷地より移転、神戸駅開業、仲町部多聞通・橘通に湊川神社を新設・・・などなど、自然拡大的な市街化ではなく、おおよそ大部分を計画的に「神戸の顔」強いては「日本の玄関の顔」として造っている印象を受けます。
小生は坂本の名の消滅について、旧坂本村が単に兵庫と神戸の「接着剤」としてではなく、まさに兵庫・神戸を統合した新しい神戸の都心として整備されたからこそ、旧村名を神戸市の町名として残さなかったのではないかと思っています。

今でこそ神戸の都心は三宮周辺となっていますが、これは戦後、特に昭和30年代のはじめ、所謂「三宮トリオ」(=神戸市役所、神戸国際会館、神戸新聞会館)が建設されたことにより加速しました。戦前の三宮地区は、神戸の「東のターミナル」という位置付けであり、都心は神戸駅前の旧仲町部周辺にあり、神戸最大の商業地は湊東区と湊西区の境、旧湊川河川敷を整備した新開地本通でした。

なお、前出の「三宮トリオ」は平成7年の大震災で揃って倒壊しましたが、神戸市役所は震災前に高層の新1号館が完成し、「トリオ」の建物2号館は、倒壊した上層階を撤去して使用、神戸国際会館は1999年に再建し、最後に残った神戸新聞会館はつい先日、10月4日に複合商業ビル「ミント神戸」として復活しました([54330]小松原ラガーさん)。

最後に、hmtさんの兵庫開港に至る日本史からのグローバルな視点、ezekielさんの神戸村と二ツ茶屋村の関係と庄屋・生島四郎の存在など、色々と新たな勉強になりました。重ねて深く御礼申し上げます。

「食パンの切り厚がどうだ」とか軽い話題の場合は別ですが、まじめに長文の投稿をする場合には、自分自身が以前より持っている知識が、実は「知識」ではなく単なる「思い込み」である場合も考えられ、出来る限り参考となる書籍などの資料の裏付を取るように心掛けています。それでもどうしても確証のもてないものは「思う」「推察する」「小生の主観」などの語句を添えるようにしています。
今回の一連の神戸に関する投稿に際し、裏付に使用した文献は角川書店「兵庫県地名大事典」、神戸新聞社「神戸の町名」、葺合区役所「葺合ものがたり」、神戸市中央区役所「中央区歴史物語」、兵庫区役所「由緒あるまち兵庫」、(財)日本地図センター「地図で見る神戸の変遷」などです。ご参考まで。
[54357] 2006年 10月 7日(土)01:17:39ニジェガロージェッツ さん
明治初期の坂本
[54322][54339] hmt さん、[54340] ezekiel さん、神戸黎明期ついてのレス諸々、有難うございます。
拙稿は神戸地元からの視点に終始しており、幕末の神戸を取り巻く情勢について日本史からの視点は大きなフォローとなります。深く御礼申し上げます。

さて、タイトルの「坂本」ですが、先般「落書き帳」で話題となった大津市の坂本のことではございません。
兵庫神戸ど真ん中の坂本のお話です。

明治初期の兵庫と神戸の統合期、両者の融合に大きな役割を果たすこととなった坂本ですが、残念ながらその地名は明治28年を最後に消滅してしまいました。
明治12年の郡区町村編制法による「神戸区」誕生について、「神戸町、兵庫津、坂本村が合併」とありますが、「坂本村ってどこ?」というのが第一の印象ではないでしょうか。
坂本村はまさに兵庫と神戸の中間に位置し、兵庫津岡方の1町「相生町」の北に接し、西は荒田村に、東は宇治川右岸(西岸)を境としていました。

[54340] ezekiel さん
とにかく、明治7年開業の
初代神戸駅の位置というのは、当時の兵庫(相生町)と神戸(旧・走水村)の境界地帯で
あったようです。
(中略)
湊川左岸に関しても、兵庫の町が発展、膨張して、西出町や東出町、東川崎町、相生町が
湊川左岸の走水村を徐々に侵食していったのかなあ~と。

ここで仰る「走水村」とは、実のところ「坂本村」ではないでしょうか。
走水村は宇治川左岸(東岸)までで湊川左岸一帯にまでは達しておらず、また兵庫津の市街が宇治川を越えて走水村を侵食したとも考え難いと思います。

兵庫津の最北東端の相生町は西国街道に面した街路町である様子が、明治5年の「兵庫神戸実測三千分箇之縮図」より伺えます。
明治7年の神戸駅の開業に先立つ明治3年6月、相生町一帯が神戸停車場敷地となることが決まり、この一帯の住民の代替土地を北に隣接する坂本村南部の田畑地帯に求め、新たに「仲町部」として市街造成が行われました。現在でも神戸駅北側(実際には西側)の街区に「中町通」という町名が残っています。
坂本村南部に整備された新市街「仲町部」には、兵庫と神戸の中間に位置するため、両者の統合を物語るように、新たな「神戸」の都心としての街並みが整備されていきました。
明治5年には楠木正成の墓地に湊川神社を造営し、同年、坂本村仲町部は兵庫津へ編入となり町名が付けられ、上橘通、橘通、多聞通、仲町通、古湊通となりました。このため、明治22年の神戸市成立以降はこれらの町名には「兵庫」を冠していました。

拙稿[54321]に提示した略図は、神戸市中央区役所発行「中央区歴史物語」(1990年12月)に収録されている図を参考に打ちましたが、坂本村の範囲については明治5年の仲町部の兵庫津への編入後のようにも見えます。幕末期の村々の位置図としては坂本村が小さいと言えるでしょう。明治5年以降の地図だとすると、明治元年には走水村、二ツ茶屋村、神戸村が統合し神戸町となっているので無理がありそうです。
[54321] 2006年 10月 3日(火)23:41:20ニジェガロージェッツ さん
明治初期の神戸
[54258] ezekiel さん、[54297] hmt さん、レス有難うございます。
特にhmtさんの「兵神市街之図」についてのお話は、大変面白く拝読させて頂きました。いつもながら的確なフォローに深く感謝致します。

[54258] ezekiel さんの神戸に関するご考察、生田への関連も含めて大変興味深いものがありますが、その前に確認までに少し。
兵庫港が神戸港に改称したのが明治25年。
これを「改称」と言えるかどうかですが、兵庫開港に際し兵庫津ではなく、実際には北へ離れた神戸村の浜辺を開港場として以来、兵庫港と神戸港が並存していました。明治25年に起こった事は両港の統合であり、神戸港内に含まれる兵庫港となったことです。

先の拙稿[54253]の書き込みの主旨は、2つの都市「兵庫」と「神戸」との勢力の逆転について、その逆転時期を考える上で、「神戸駅の開業」というイベントにスポットを当ててみたかったいうものでした。
[54297]hmtさんの仰るように、鉄道建設の経緯からして「神戸港」に隣接している駅名が「神戸」であるのは当然でしょう。
生田川河口から和田岬に至る海岸線は、湊川の河口を頂点に二つの扇が連なった形状をしています。
湊川河口「南側の扇」が兵庫港、「北側の扇」が神戸港と言うわけです。
ところが、兵庫の陸上での境界は「北側の扇」の中程にある宇治川です。この「陸海境界のずれ」が兵庫の地に在りながら「神戸駅」との名称になったとすれば、海岸線という地形の為せる悪戯でしょうか。

江戸期までは、どちらかというと「生田」の地名の方が通りが良かったのでは
ないかなあ~と思います。神社の名前は生田神社、その附近は生田の森で、
山手からの流れは生田川、神戸と生田では、生田の方が地名としては優勢の
ような気がします。

生田に関して言えば、「神戸」という地名が生田神社の「神封戸」を由来とするのであれば、古来は確かに「生田」のほうが格上の地名と言えるでしょう。
しかし、開港を迎えた幕末期では状況が違っていたはずです。
まず元来「生田」の地名は生田川を東界とする摂津国八部郡に属していましたが、川の流路の変化もあったのでしょう、いつしか村落は摂津国菟原郡に、生田神社は八部郡と分かれてしまいました。
江戸期には生田村は菟原郡、神社のある生田宮村は八部郡に所属しています。
この場合、「神戸」に対抗する「生田」と言えば、同じ八部郡に所属し隣接する「生田宮村」の方でしょうか?
しかし、この村は「社官と寺僧の家居ありて、村とは単に名のみ」と言われ、天明8(1788)年には家数3・人数18を数えるに過ぎず、幕末に至ってもこの様子は変わらなかったと言います。
一方、後の明治9年に合併して葺合村の一部となる「生田村」については、生田川を挟んだ反対側の菟原郡にあり、あくまで私見ですが開港場となった神戸村の名称とするには、無理があったのではと思います。

以下、明治初期に神戸村→神戸町→神戸区→神戸市と発展していく過程で、神戸に吸収されていった村々を簡単ではありますが略図で表してみます。
|===========△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△尾尾筒筒筒==原田=|
|============△△△△△△△△△△△△△△△△△△△尾尾尾筒筒筒====|
|============△△△△△△△△△△△△△△△△△滝尾尾尾尾筒筒筒====|
|=============△△△△△△△△△△△△△△滝滝滝滝滝尾村筒筒筒筒筒==|
|=============△△△△△△△△△△△北北北生熊熊熊熊村村村筒脇脇脇==|
|==============△△△△△△△△△△北北北生生熊熊熊村脇脇脇脇脇脇脇=|
|==============△△△△△△△△北北北北生生生生生脇脇脇脇脇脇脇脇―-|
|==============△△△△△△△中北北北北生生生生生脇脇脇脇脇脇――――|
|=============△△△△△△中中中北北北生生生生生生脇脇脇脇―――――-|
|=======奥平野===△△△宇中中中中中中北宮宮生生生小小脇脇脇―――――――|
|===============宇宇花花花中中中宮宮神生小小小小脇脇―――――――-|
|===石井==★=★=====宇宇花花花花花中神神神神小小小小小小――――――――|
|=======★★=荒==宇宇宇花花花花花神神神神神神神小小小小――――――――-|
|========★荒荒荒=坂宇宇宇花花走茶茶神神神神神神神小小小―――――――――|
|夢野=====地★荒荒坂坂坂坂宇宇走走茶茶茶神神神神神神神小――――――――――-|
|=======地★荒荒荒坂坂坂坂兵走走茶茶茶―――――――――――――――――――|
|====地地地地★荒荒荒兵坂坂兵兵兵茶茶――――――――――――――――――――-|
|====地地地地地★荒兵兵兵兵兵兵兵兵兵――神戸港――――――――――――――――|
|==地地地地地地地★★★★兵兵兵兵兵兵兵――――――――――――――――――――-|
|===地地地地地地兵兵兵兵★★★★兵兵兵兵兵―――――――――――――――――――|
|==地地地地地地兵兵兵兵兵兵兵兵★★★★兵兵――――――――――――――――――-|
|===地地地地地兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵★★兵兵―――――――――――――――――|
|===地地地兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵★―――――――――――――――――-|
|====地地兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵――――――――――――――――――――――――|
|=====地兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵――――――――――――――――――――――――-|
|=======兵兵兵兵兵兵兵兵兵兵――――――――――――――――――――――――|
|===========兵=兵兵兵兵――――兵庫港――――――――――――――――-|
|==============兵兵兵兵―――――――――――――――――――――――|
|==========御崎====兵兵――――――――――――――――――――――-|
|====東尻池==========兵兵兵―――――――――――――――――――――|
|============今和田=兵兵兵兵兵―――――――――――――――――――-|
|========吉田========兵兵兵兵兵――――――――――――――――――|
|――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-|
|-――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――|
|△は山域、★は湊川を示します。

凡例および初代神戸市域(明治22年成立)の村々の統合経緯
略号村名明治元年明治5年明治9年明治12年明治20年明治22年
【菟原郡】
筒井村葺合村神戸市
中尾村葺合村神戸市
滝寺村葺合村神戸市
熊内村葺合村神戸市
生田村葺合村神戸市
中村葺合村神戸市
脇浜村葺合村神戸市
小野新田葺合村神戸市
【八部郡】
神戸村神戸町神戸区神戸市
二ツ茶屋村神戸町神戸区神戸市
走水村神戸町神戸区神戸市
生田宮村神戸町神戸区神戸市
北野村神戸町神戸区神戸市
中宮村神戸町神戸区神戸市
花熊村神戸町神戸区神戸市
宇治野村神戸町神戸区神戸市
坂本村神戸区神戸市
兵庫津神戸区神戸市
兵庫港地方神戸区神戸市
荒田村神戸市
[54284] 2006年 10月 1日(日)09:42:51ニジェガロージェッツ さん
オフ会御礼
オフ会にご出演された皆様。金沢で実りある一日を過ごすことが出来ました。推進役のいっちゃんさん、EMMさん、司会進行役のJOUTOUさん有難うございました。
そして、宿が取れずにサンダーバードの始発まで粘ることをを決め込んでいた小生に快く最後までお付き合いくださった、白桃さん、EMMさんのご両名には本当に申し訳なく感じております。
お疲れ様でした。小生、無事神戸に帰ってきました。

それでは、おやすみなさい。バタッ!
[54254] 2006年 9月 30日(土)00:45:00ニジェガロージェッツ さん
聞き流して下さい
いよいよ金沢オフ会デーに入りました。早くも気分は金沢に飛んでいますが、その前にたわごとを少々・・・。

[54210] 雪の字 さん
ですから、「しのだ」という呼び方は、まさにニジェガロージェッツ さんの地元から持ち込まれた、当家だけのものである可能性も高いのです。

レス有難うございます。そう言われてみると雪の字さんのおうちの「しのだ」はこちら神戸旧市街地西部発に間違いないようですね。
しかし、Yahoo!でキーワード「しのだ うどん」を検索すると、結構各地にヒットします。
名古屋にも、少なくともかつては「きつね」ではなく「しのだ」と呼ぶうどん屋があったのではないか、と思います。
確かに雪の字さんの地元名古屋でも「しのだ」は存在するようです。

[54250] たもっち さん
そのまま勢いで「柏原」の分布地図を作ってしまいました。
オフ会出発前に大きな仕事をされたようで感服です。こういう地図は大好きです(笑)
ですがもう一つ、北海道占守郡幌筵島の柏原[かしわばら]=サハリン州北クリル地区セヴェロ=クリリスク市(2005年1月1日人口2,522人)もお忘れなく。
[54253] 2006年 9月 30日(土)00:10:17ニジェガロージェッツ さん
兵庫の地にて神戸駅を開業
神戸市についての話題や地名「神戸」についての話題が続き、神戸市在住の一人として楽しんでおります。

[54186] ezekiel さん
書いた小生さえ忘れているような拙稿を発掘して頂いて恐縮です。
拙稿[18378]では全く異なる2つの都市「神戸」と「兵庫」の力関係について、その逆転の時期をぼかした表現をとっています。
1867(慶応3)年の開港時には、実際に開港したのは神戸港でありながら「兵庫港」として開港したことから、この時点では「兵庫」に軍配。
1879(明治12)年に郡区町村編制法施行に伴い、神戸と兵庫、その中間に位置する坂本村が合併して「神戸区」となったことから、この時点では既に「神戸」に軍配。

そして、もう一つ面白い尺度としては「神戸駅」の開業があると思います(拙稿[5887]に若干触れています)。
1874(明治7)年開業の初代神戸駅は、現在の神戸駅からハーバーランド(旧・湊川貨物駅)にかけての広大な領域を構内としていましたが、この場所は意外にも兵庫の領域です。
今でこそ神戸駅周辺を「神戸」ではなく「兵庫」の一部だと思っている人は少ないと思いますが、神戸駅のある現在の「中央区相生町」は神戸市誕生当初より1931(昭和6)年の区政施行までは「兵庫」を冠し「兵庫相生町」でした。(区設置以前の神戸市の冠称については拙稿[51105]に記述)
区設置後も神戸駅は神戸区ではなく湊東区でした。
つまり、兵庫の地に駅を作りながらも、その駅名を「神戸」としたことになります。
一方、本来の神戸の地にも駅を作りましたが、これを「三ノ宮駅」としました。初代の三ノ宮駅は今ある三ノ宮駅の場所ではなく、現在の元町駅の辺りにありました。

「神戸」と「兵庫」の力関係について、明治7年の時点の神戸駅の開業と結びつけるのは、ちょっと筋違いかもしれませんが、時代背景としては面白いと思っています。

なお、駅名を「神戸」と命名したことについては、こういった「陸上の論理」だけでは済まないかもしれません。
というのは、海上では神戸港と兵庫港が共存していた時代でもあり、両港の境界は湊川の河口としていました。「湊川」という河川は現在の神戸市には存在しておらず(あるのは「新湊川」です)、土地鑑のない他都市の皆さんには判り難いかもしれませんが、現在の町名で言えば中央区東川崎町(当時は兵庫東川崎町)の浜辺は神戸港域、兵庫区東出町(当時は兵庫東出町)の浜辺は兵庫港域となります。
ですから「海上の論理」では、神戸駅は正に神戸港に隣接していたことになります。


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