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[92742] 2017年 3月 11日(土)14:57:16【1】hmt さん
国立公園(1)三陸復興国立公園
[92739] k-ace さん 奄美群島国立公園
[92740] Takashi さん
日本で5番目の 世界自然遺産登録(2018年夏) を目指す「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」の推薦書は、2017/2/1に 日本政府からユネスコに提出、受理されました。朝日デジタル
今回の「奄美群島国立公園」誕生は、「やんばる国立公園」[90614]に続いて、この世界自然遺産登録を見据えたものなのでしょう。

但し、国立公園と世界遺産とは目的が違うため、両者が相容れない事例もあります。
[79238] hmt
1972年に小笠原国立公園が指定された時には、南硫黄島も入っていましたが、1975年に国立公園区域から除外。
なぜ? それは、自然公園法に基づく国立公園が「自然環境の保護」と同時に「利用増進を図ること」を目的としているからです。南硫黄島の「手つかずの自然」を保護するには、これでは不十分。

なお やんばる国立公園 は、ピーくん さんの記事の3ヶ月後、2016/9/15に指定されました。
ヤンバルクイナやヤンバルテナガコガネで知られるヤンバルには 「山原」という字が使われており、沖縄本島北部、山が連なり森が広がる地域です。

それはさておき、今日は 大地震と津波のあった 2011/3/11 から6年を経過した記念日です。

国立公園と言えば、リアス式海岸で知られた 陸中海岸国立公園 があった…
と考えているうちに、「三陸復興国立公園」という名に変っていることに気がつきました。

落書き帳過去記事にも登場していない。これはまずい。…というわけで、少し書きます。
環境省の 国立公園一覧 の東北地区を開くと、次の記述。

戦後の1955年に指定された「陸中海岸国立公園」が、大地震津波の2年後 2013年に区域を拡張して「三陸復興国立公園」に改名。陸域面積 28537haで、青森・岩手・宮城の3県にまたがる。

なるほど、区域が拡張されて「陸中海岸」という名が不適当になったわけか。
Wikipediaにも同様の記載があるが、「面積は12,212 ha」とあり、大幅に違う。

そこで環境省のページに戻って、概要・計画書を見ると、陸域公園面積(ha)は 宮城県 14882、岩手県 11232、青森県 2423 合計 28537ha。

計画変更などの経緯という項目があり、昭和30年の公園指定から平成27年までの要点がわかりました。
昭和39年:陸中国南端の釜石市大根崎から南の宮城県気仙沼市(陸前国)まで公園区域が拡張されているが、まだ陸奥国に及んでいないので「三陸」を使わずに済ませていたようです。
平成25年:青森県蕪島など(陸奥国)の拡張あり、公園名称変更。

そして、面積への影響が大きかったのは平成27年の拡張でした。
平成27年:宮城県内牡鹿半島など区域拡張。これは南三陸金華山国定公園(139km2)を編入したもので、これにより三陸復興国立公園の面積は大きく広がり、宮城県区域が最大になりました。
Wikipediaに記されていたのは2012年(陸中海岸時代)の面積のまま未修正だったのでした。

国立公園の区域拡張による名称変更はずっと前からあります。
みやこ♂さんの記事がある 尾瀬のような国立公園分割事例 も見逃すことができません。

この記事は、とりあえず 三陸復興国立公園 についてのみ記しましたが、記事検索してみると、霧島錦江湾国立公園など近年名称変更された国立公園も登場していません。
今回の記事で概ね理解できた調査手法を用いて、全国の国立公園について、簡単な変遷履歴を含めた一覧表を作っておきたいと思っています。

ずっと昔のことになりますが、[23882] グリグリさん に記されている構想にも沿ったものであろうと思います。
こちらも構想がありまして、どちらかというと「都道府県プロフィール」のメニューにしようかと思っていました。日本三景、日本三名園、国立公園、国定公園、世界遺産、島、湖沼、など基本情報に加え、百名山、滝百選、など。えい、時間よ止まれ!

【1】シリーズ化に伴い、タイトル変更
[92736] 2017年 3月 7日(火)15:45:59hmt さん
高島市今津町天増川(あますがわ)
[92735] スナフキん さん
滋賀県全域が淀川水系とは限らない

このことは私も初めて知りました。具体的な地名を知るために平凡社の地図帳を開いて確認。
今津から小浜に通じる国道303号が県境を越える手前付近に「天増川」という集落が記されていました。

地理院地図をスクロールして 少し北(上流)に移動すると、河川名の「天増川」も確認できました。
南から合流する寒風川の谷と合わせて南北に長い谷ですが、滋賀県内で合流する3本の川【東の水坂峠からの流れもある】の何れが「北川」の本流であるかは判断できませんでした。

高島市で「北川」と言えば、琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ)水系の川もあります。例えば 北川ダム
滋賀県内では、この北川の方が知られているのではないか? などと余計なことを考えてしまいました。

滋賀県の大部分は 琵琶湖→淀川水系。
しかし 北西部の北川水系だけでなく、東には木曽川水系もある とのこと[5119]
伊吹山南麓の米原市藤川付近で降った雨は、藤古川>牧田川>揖斐川を経て伊勢湾に注ぐようです。
[92734] 2017年 3月 5日(日)22:29:59hmt さん
都道府県の歌 市区町村の歌
先日、都道府県市区町村の歌に関するテレビ番組を見ました。
それによると、各地の自治体が制定している歌は 400を超えるとのことです。

話の発端は 和歌山県民歌の歌詞で、『和歌山は常春の国』『南国』『黒潮』と紀南のイメージが強い。これでは、橋本や高野山など冬が寒い紀北を連想しにくいという批判が県議会であったそうです。和歌山放送

県歌・県民歌はどの程度に存在するのか? 番組によると、47都道府県中の 42 が公式に制定しているとか。
でも、自分の居住地や出身地の県歌を知っていますか?
落書き帳メンバーの反応を見ても、あまり定着していないという印象です。[50696]の末尾[68694][68724][89539]
「なぜか千葉県民歌は知っています。」という方も。[68727]

そんな中で、学校教育などを通じて 全県民?の愛唱歌として定着しているように思われるのが、長野県歌「信濃の国」です。
この歌は もともと長野師範学校の校歌だったそうです[2751]。落書き帳にも度々登場しています。

信濃国=信州は 律令時代から存在した旧国の名称ですが、明治前期に作られた新しい地方制度では、これを一体とする行政区画になっていませんでした。1871年の3府72県時代には、信濃国北部は長野県でしたが、信濃国南部は飛騨国と共に「筑摩県」【県庁所在地:松本】を構成していました

現在では 「長野県」の ほぼ同義語のように使われている一体感のある地域「信濃の国」。この関係が生まれたのは、1876年(明治9年)8月に行なわれた 県の廃合・管轄替です。
この時に筑摩県は廃止になり、飛騨国は岐阜県へ、そして信濃国の南部は長野県と合併になりました。

松本が県庁を失った きっかけは、1876年6月の火災による筑摩県庁舎焼失と考えられています。
その結果の統合で成立した長野県ですが、70余年後の戦後間もない 1948年(昭和23年)1月、県庁別館が焼失。

これを機会に、松本側のかねての主張である 分県論が活発になり、定例県議会は大混乱になりました。
両派の攻防はあったものの、上程された分県意見書案は法定得票数に達せずということで決着。

県議会の記録の他に、当時駆け出しだったという県政記者の記録をリンクしておきます。
そのタイトルは 「分県」を救った『信濃の国』とされています。

上記採決で分県阻止派の巧妙な作戦が成功した後のこと
「信濃の国は、十州に、境連ぬる国にして・・」と『信濃の国』の歌の大合唱がまきおこった。議場の傍聴席にも伝播して「信濃の国」が議場にこだました。(中略)感激のシーンに、県議会はまた一つになった。

「県歌が長野県を分県の危機から救った」というよりも、[89539]で紹介されているように、「県歌で有耶無耶にした様な話」なのですが、互いに力を尽くした攻防の後、県歌の大合唱で仲直りできた…という感激の一幕だったようです。

所さんの番組では具体的な紹介がなかったものの、秋田県民歌も大作のようで、戦前から「三大県民歌」の1曲と称されていたようです。参考

市町村の歌も多数あるようです。

過去記事を検索して拾ったもの。
森鴎外作詞という 横浜市歌
英タイトル・英歌詞入りとはユニークな座間市[59067]
[35055]、習志野・相模原[50696][68730]、金沢[68720]、町田[68731]、茨城県13市[77019]など 。
私も今はなき「東京市歌」の冒頭を[74320]のタイトルに使ったことがあります。

所さんの番組を締めくくったのは、長~~~~い超大作。
全部演奏したら40分という 叙事詩・交響組曲「伊万里讃歌」でした。
伊万里合唱団>伊万里の歌の3番目に、縄文時代から現代まで8章からなる壮大な叙事詩の一部が紹介されていました。
[92729] 2017年 2月 28日(火)22:54:49hmt さん
勾金(まがりかね)
現在の地名で言えば葛飾区高砂・新宿・金町あたりにあった旧村名の「曲金」(まがりかね)。
落書き帳では静岡市駿河区に現存する同名の町があるなど話題になりました。
この地名が気になってフォローした[92728]の続編として、同音異字の「勾金」にも言及します。

[92726] 伊豆之国 さん
福岡県香春町には平成筑豊鉄道に同音の「勾金」という駅があります。
これらの地名と、葛飾の「曲金」との間には、何か由来に共通項でもあるのでしょうか?

葛飾の「曲金」については[92728]で道路説の資料を紹介しましたが、川の曲流説もあるようです。

静岡の「曲金」は、現存町名だけに材料が多数あると予想したのですが、思うように見つかりません。
とりあえず一つだけですが、「直角に曲がった金尺のように水田が区割りされていることから」という説を紹介したサイトを挙げておきます。

豊橋市に「曲尺手町」という町があります。呉服町の近くでもあり、矩尺を使う職人町由来でしょうか。

さて、[92726]で紹介されたように 1956年の昭和合併で消滅した旧・勾金村【福岡県田川郡】。
市区町村変遷情報には明治合併前の4村名が記されていますが、現在の大字と対比すると、「鐘山」は「鏡山」の誤記と思われます。

それはさておき、
その鏡山にあるのが 勾金陵墓参考地です。河内王墓とも呼ばれています。

地名・勾金 に関する Yahoo!知恵袋の記載。
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勾金(まがりかね)とは曲尺(矩尺)のことで、通称「指し金」と言われる大工道具のことと推測できます。古代、寺社などの木造建築は元より、町作り、都作りの基本は正しい目盛りで測量することで、曲尺は長さを計るだけでなく垂直や水平を計ることが出来る最も簡略な器具でしたので、国作りには不可欠な至宝扱いされるほど大切な物です。宇佐神宮大宮司の所領であったほど大切な土地であったという事実は、おそらく、宇佐神宮造営の際に用いた曲尺をこの地に奉祀したのではないかと思います。
荒俣宏氏の『新帝都物語維新国生み篇』を読まれると、古代から大陸や日本に於いて、測量の基本となる尺(ものさし)が国家にとって如何に重要なものであったかが理解できますよ。
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この「勾金」という地名も「L字型の金属製定規」由来とする点は共通しています。
しかし、道路・川・水田などの曲がり方を直角定規に見立てたものではなく、宝物扱いされた曲尺(さしがね)そのものに由来するようです。

「測定の基本として重んじられた物差し」と言えば、近代では「メートル原器」[45385]です。
古代でこれに相当する道具を示したものとして、大阪の四天王寺・番匠堂に祀られた「曲尺太子像」を挙げることができます。
仏教伝来と共に日本に伝えれた宮大工の技術。聖徳太子はその大切な道具である「曲尺」も発明し、大工の始祖として崇められています。

大阪仕事文化研究会
Y!知恵袋_聖徳太子信仰と曲尺
研究授業・矩
[92728] 2017年 2月 26日(日)22:32:28【2】hmt さん
曲金
[92727] ぺとぺと さん
「まがりかね」自体に何か意味があるのではないか

この言葉から真っ先に思いつく意味は、大工や建具職人が使う L字型の金属製定規 です。
呼び方は「さしがね」や「かねじゃく」が一般的でしょうが、「まがりかね」「かねざし」「まがりざし」「まがりじゃく」も使います。
漢字も「曲尺」、「指矩」、「差金」、「指金」、「矩尺」などいろいろ。

[92726] 伊豆之国 さん
「葛飾の曲金村」については、水戸街道が鉤の手状に曲げられていたことに端を発するという由来が記されていました。金町の由来

【追記】「葛飾の曲金村」の修正履歴
一度は[92726]に合わせて「下総国葛飾郡曲金村」に修正【1】。
ところが、この地が下総国だった「昔」は おそらく中世以前のことで、「直角に曲げられていた水戸街道」と時代が合わないこと気が付く。
わざわざ武蔵国に再修正することもないので、【2】で元の表記に戻す。
[92722] 2017年 2月 24日(金)13:18:27hmt さん
愛媛県以外の用例
[92720] ペーロケさん
今までの人生の中で、「媛」の字を愛媛以外の用法で見たことがありません。

落書き帳アーカイブズに 愛ヒメと書く訳 ―地名は当用漢字を超える―という記事集が作られています。

落書き帳では、その後も 地名に使われる漢字についての議論があります。
例えば [65937]宝塚市の「丶のある塚」 など。

[92721] Takashi さん
才媛という単語がこの字を用いております。

この落書き帳で、私が記憶する用例は「才媛」の他に「弟橘媛」がありました。
参考までに列挙しておきます。愛媛でない「媛」
[92702] 2017年 2月 12日(日)15:29:50【1】hmt さん
高千穂峰と高千穂町
[92700] 伊豆之国 さん
●2つの「高千穂」について
戦前、その「高千穂」はどこにあったか、と言うことを巡って「宮崎県と鹿児島県が裁判で争った」

その名が示すように 地上ではないらしい「高天原」(たかまがはら)は別として、天孫降臨神話を通じて 日本発祥の地と言われている「高千穂」。

私は、初等科国史により、宮崎県と鹿児島県との境界地帯にある霧島火山群の「高千穂峰」が、その地であると教え込まれていました。紀元二千六百年記念切手(四銭)の画像も 高千穂峰でした。

宮崎県の北端・五ケ瀬川上流の「西臼杵郡高千穂町」の存在を知ったのは ずっと後のことでした。
1889年の町村制で旧三田井村など3村の合併により成立した高千穂村の他に岩戸村も生まれており、この付近も神話に地であったことが知れます。大正9年に高千穂町になった後、昭和合併で岩戸村を含めて再発足しました。

延岡から五ケ瀬川沿いに遡る鉄道は、戦前に日ノ影線が開通。日ノ影-高千穂間は 戦後の 1972年に完成。高千穂線の深角 - 天岩戸間には水面から105mという高い鉄道橋がありました。
北にも「高千穂」が存在することを知ったのは、高千穂峡への交通が便利になったこの頃のことかもしれません。

その先、阿蘇・南郷谷の高森とを結ぶ九州横断ルートの鉄道も引き続き着工しましたが、1977年高森トンネル出水事故などもあり全線開通を断念。
1989年第三セクター・高千穂鉄道に転換後、2005年の台風で全線にわたり橋梁流失などの被害で運休となり、2008年に全線廃止。

高千穂町岩戸の奥にあった鉱山が「土呂久」です。銀山だった時代もありますが、戦前から戦後にかけて殺虫剤などに使用された亜ヒ酸の製造が行なわれ、公害病をもたらした苦い歴史があります。

天孫降臨に関連して2つの「高千穂」の間の本家争いが、大審院にまで持ち込まれていたことは初耳でした。
資料を見ると、日本書紀「襲の高千穂峯」、古事記「日向の高千穂の久士布流多氣」、日向國風土記逸文「臼杵の郡の内、知鋪の郷」など まちまち。二上の峯→「ちほの郷」。
また、北→南の移動説だけでなく、南→北の移動説もあるとか。
もともと、神話ですから現実の地名に当てはめることに無理があり、裁判で黒白を決すべき適切な対象ではないのでしょう。

高千穂大学が冠する「高千穂」は、やはり日本書紀に記された「高千穂峯」をイメージしているのだろうと思います。

自治体を異にする2つの「高千穂」ではあるが、「同一地域を表す地名が、都道府県境、市町村境、区境によって分断された地名」ではない。従って 『自治体越えの地名』コレクションの対象外。そのように理解します。

●紀元節の歌
「高千穂」という地名を聞いて、私が反射的に思い出すのは ♪雲に聳(そび)ゆる高千穂の… という句で始まる唱歌です。毎年2月11日に学校の紀元節式典で歌いました。
明治21年に発表された山田流箏曲の作品に基づく曲で、その後間もなく学校教育の唱歌に採用。解説

私が入学した 1940年(昭和15年)は 皇紀【神武天皇紀元】二千六百年にあたり、日本中に「神がかり」の宣伝が流れた 異常な時代を象徴する 国を挙げての記念行事が行なわれた年でした。
秋の記念式典で演奏されたと思われる儀式用の「紀元二千六百年頌歌」は記憶にありませんが、一般向けにラジオで流されていたのは、行進曲風の奉祝國民歌でした。

もっとも、人々は政府の宣伝に踊らされていただけでなく、タバコ値上げを皮肉った替え歌も作り、流行らせていました。

●当時の市町村の動き
市区町村変遷情報を見ても、昭和15年の2月11日には 洲本市[74036]、飾磨市、川内市と24町【新設合併2町を含む】が誕生するなど、お祝い気分を感じることができます。

合併期日は少し遅れていますが、戦時合併の一種としての「紀元二千六百年記念事業」と銘打った合併もありました[37842]

●4自治体の微妙な境界
[92700] 
微妙な4自治体接点の近く

大縮尺(#16)の地理院地図により、東の高千穂峰と西の御鉢の間にある1408m鞍部の西側境界線【グレーとジャンクションもどき】を示しておきます。境界線の北:宮崎県小林市、東:宮崎県高原町、南:宮崎県都城市、西:鹿児島県霧島市で、南北の自治体は隣接せず。

この高千穂峰から少し北西に位置する霧島山の最高峰・韓国岳1700.1mの地理院地図も示しておきます。
ここは現在では 北:宮崎県えびの市、東:宮崎県小林市、南:鹿児島県霧島市の3自治体接点です。
しかし、2005/1/7の霧島市新設合併前までは 西:鹿児島県牧園町、南:鹿児島県霧島町の境界でもあり、真のグレーとジャンクション【4自治体境界】であった可能性があります。[24021]ペーロケさん参照。

【重要でない追記】
●高千穂大学のある東京都杉並区和田堀
現在地に大学の前身である高等商業学校が開校したのは1914年です。日向の高千穂とは無関係と思いますが、11世紀創建の大宮八幡宮と隣接しています。祭神は当然のことながら応神天皇。
付近の善福寺川沿いは和田堀公園になっている東京近郊の景勝地で、子供の頃にも訪れたことがあります[35838]
東京府東多摩郡和田堀内(わだほりのうち)村は連称自治体名。

「土呂久」で話題にした亜ヒ酸
●1998年の和歌山カレー事件で使われた毒物です。
[92698] 2017年 2月 10日(金)19:10:02hmt さん
Re:岐阜市は三重県?
[92695] Takashiさん
岐阜市について紹介する歴史の本に、岐阜市が三重県内にあるなどの誤った記述や誤字が、少なくとも30か所見つかったとのこと。

引用された報道にも、『岐阜信長 歴史読本』の誤記について
岐阜市が三重県内にあるなどの誤った記述
と記されていました。

そのような「常識では考えられない」誤った記述が本当にあったのか? 

疑問に思って調べてみたら、岐阜新聞Webに 誤表記を指摘した「西部・南部エリア」という地図の画像がありました。
画像の説明
地図では岐阜市に「三重」、岐南町、笠松町に「愛知」と表記されている

画像の指の先に見える「三重」の文字が記されているのは、岐阜県庁【表示なし】の北東(岐阜駅方面)だから、県名「岐阜」の誤記であることは明らかと思われます。
この地図での「岐阜市」の表記は、更に北東に進んだ岐阜市役所【表示なし】の東方に見えます。

県名誤記は明らかですが、この地図から「岐阜市が三重県内にある」という「自治体の相互関係」を示しているとは思われません。

もちろん、地図に表示した「県名の誤記」を見逃した校正・出版のプロセスは許されるべきものではありません。
誤記を指摘したニュース報道自体は価値あるものと評価します。

しかし、誤記の対象を「県名」から「岐阜市の所属」にすり替えて報道したことに問題はないでしょうか?

「岐阜市は三重県?」に限れば、常識的には誰にも明らかな間違いです。
腹の立つ方もあるでしょうが、あまり実害はない「から騒ぎ」として受け止めてください。
プロの出版社としては、痛い教訓を今後に生かしてください。
でも、「都道府県市区町村」落書き帳の話題にするには格好のネタでしたね。
[92668] 2017年 1月 31日(火)18:22:26【1】hmt さん
名所地名を利用した自治体名 (2)十和田
十番勝負で賑わっていた正月の落書き帳。すっかり御無沙汰していた hmt です。

私は豊洲のニュースを聞きながら、東京臨海部の陸地化の近代・現代編を書かねばならないと思っていました。
その他にも、書きたいテーマをいろいろと抱えているのですが、気力が衰えて 筆を進めることができず、低迷状態でした。

ところが、月末になったら 別の事情に気がついて、少し慌てました。
それは、2017年1月の書き込み数がゼロということになると、2003年8月から 161ヶ月継続していた月間連続記録が中断するからです。

記録を意識して無理やり投稿する。それは褒められた行為ではありませんが、追い詰められたらやむを得ません。
最近のネタ帳を眺めたら、[91957] 名所地名を利用した自治体名(1)妙高 が目につきました。
とりあえず、青森県と秋田県とに跨る「十和田湖」に因む「十和田」のつく自治体を その続編として選ぶことに決め、これを 162ヶ月目の投稿に仕立てておきます。
本来の大仕事は先送り。このような姿勢では、何時になったら書けることやら
…と反省しながら、今日は「十和田」の記事を書きます。

最初に、変遷情報検索結果をご覧ください。

「十和田」を名乗る自治体が誕生したのは戦前の青森県上北郡で、1931/9/7のことでした【#1】。
そこは十和田湖から奥入瀬川が流れ出る子ノ口から始まる奥入瀬(おいらせ)渓流沿いの村です。明治22年町村制の時に 上流から奥瀬村【現在の地名:十和田市奥瀬】, 法量村, 沢田村の3村が合併した際には合成地名の「法奥沢村」を名乗っていたのですが、昭和戦前期になるとようやく「十和田村」に改称したのでした。この青森県十和田村が十和田町になったのは戦後の1955/4/1でした【#3】。

ところがこの昭和合併時代になると、静かに眠っていた十和田湖もようやく観光に目覚め始め、秋田県側を含めて動きが活発になります。

秋田県では青森県十和田町誕生の前日1955/3/31に花輪線の通る交通拠点(毛馬内町・錦木村)が合併して鹿角郡十和田町を名乗ります【#2】。
こちらは十和田湖に面していませんが、青森・秋田両県に、ほぼ同時に十和田町誕生というわけです。
秋田県十和田町は翌1956年大湯町との合併後も同じ名称を維持【#4】。

一方、1956年には青森県十和田町に隣接する三本木市が十和田市と改称し【#5】、「十和田」を名乗る自治体名は三つ巴になりました。
三つ巴状態が解消されたのは、1972年まで鹿角市になるまで 通算17年間存続した 秋田県十和田町の消滅です【#6】。

これで2つになった「十和田」自治体は、本家筋の青森県上北郡十和田町と、湖岸もない新参者の十和田市。
1975年には湖水に面した本家?が「十和田湖町」に改称し【#7】、2005年には平成合併【#8】で 「十和田」の名を共有することになり、ようやく一つになりました。

「十和田」自治体については、既に[11649]seahawk さん の記事がありました。
湖畔に存在し、戦前からの使用実績を持つ青森県上北郡の十和田町。
下記再録からも、この自治体が「十和田」の名に値する本家筋であると考えられるようです。
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青森県に十和田市と十和田湖町があるんですが、これも仲間だと思います。
十和田市は昭和30年2月に三本木町、大深内村、藤坂村が合併して三本木市として市制を施行しました。そして、十和田湖への入り口の町ということから昭和31年10月に十和田市に市名を変更します。
十和田湖町は明治16年に法量村、奥瀬村、沢田村が合併。頭文字をとって法奥沢村を名乗りました。昭和6年に十和田村に村名を改称して、昭和30年に町制を施行しました。そして、町制施行20周年の昭和50年に十和田湖町となったのです。
ですから、昭和31年から昭和50年まで「十和田」という名称の自治体が隣り合っていたということになるのです。今の北海道釧路市と釧路町みたいですね。十和田湖の湖畔にある十和田湖町は「十和田町」を名乗るのは当然のように思いますが、十和田市が「十和田」を名乗ってしまったことで、十和田湖町にとってはかなり迷惑だったかもしれません。
そして、秋田県にも十和田町(現・鹿角市)があったので、「十和田」の名称争いは激しかったのかもしれませんね。
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[92107] 2016年 12月 17日(土)17:35:10hmt さん
町村の所属郡表記は 原則として必要
[92105]白桃さん
正直申しまして私は、郡は「無用の長物」なので省略しても良いと考えており、

現在では出番が少なくなったからと言って、郡が「無用の長物」になったわけではありません。
21世紀になってからでも全国で5つもの郡が設置されています。

岡山県加賀郡 石川県鳳珠郡 福井県三方上中郡 北海道二海郡 北海道日高郡

ましてや、このサイト「都道府県市区町村」の取り扱う対象は 現在だけに限定されるものでありません。
群馬県勢多郡・吾妻郡・佐波郡などの「東村」を郡によって区別していた時代があったのは、記憶に新しいことです。

町村の所属郡表記は 「原則として必要なもの」であると考えます。

しかし、町村制施行以降だけを考えても、時代により「郡」の担う役割・意味も変りました。
「郡制」を含む制度の変遷については [83665]にも要点を記し、Issieさんが要領よく説明してくれた [9296]を含む アーカイブズも紹介してあります。
そのタイトルにも、「郡はなくしてもいいのではないか? -「郡」とは何なのだろうか-」とあります。

今更、郡記載の原則無用論に対する反論を書く気にもなりませんが、
特に消滅した町村が所属していた郡名は記載しない
を実行し「旧茨城県七会村は七つの村が合併したから七会となった。」と記した記事について、
(いずれも7村の合併ですが) 茨城県西茨城郡七会村(現・城里町)と 茨城県新治郡七会村(千代田村を経て、現・かすみがうら市)とがあり、「茨城県七会村」では特定不十分です。
と指摘したことがあります[65257]。ご参考まで。

なお、私が反対するのは 一律的な「郡記載の原則無用論」です。
私自身にしても、時に応じて所属郡の記載を省略することは、しばしばあります。

特に明治30年から郡役所に代る「支庁」が設置された北海道庁管内では、これが道内の広域行政区分として定着し、現在の総合振興局・振興局に引き継がれており、「郡の存在感」は希薄なように思われます。
「自治体としての郡」が存在した歴史がなく、「行政区画としての郡」も古くから機能していない北海道。しかし、そこに新しい郡が2つも生まれているのは皮肉な結果です。住所表示専用の郡?

都道府県市区町村サイトで提供される情報が、その目的に応じて、適宜省略記載が行なわれていることは、当然の前提として受け止めております。

長い読みという企画の内【8文字】No.48 の事例で説明すると、伝えるべき情報のうち、1890年の「香川県寒川郡鴨部下庄村」という「長い読みの市町村登場」が最も重要であり、それに次いで 1916年改称による「長い読み失格」が位置することは明らかです。
「鴨部下庄村」という市町村名は維持されているので、所属郡変更の情報【1899年大川郡】は省略されています。
失格時の名称【鴨庄村】は記されていますが、その所属郡名は省略されています。

白桃さんの個人的な感想としては、慣れ親しんだ「大川郡」の方を優先させたいという思いがあったのだと思います。
大川郡は、郡名としては平成まで残っていましたが、長い読みの鴨部下庄村が存在したのは、明治から大正にかけてのことでした。

この企画のポイントに立ち返ると、それは「長い読みの市町村名」、特にその誕生です。
明治~大正の17年間存在した「香川県大川郡鴨部下庄村」は、少しピント外れのように思われます。残念でした。


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