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[77633] 2011年 2月 12日(土)02:01:08【1】Issie さん
Re:駅から遠い市役所
[77632] ソーナンス さん
こういった市役所から駅が遠い市のパターン

5.もっと近くに駅のあった鉄道が廃止された

というものもあるように思われます。
リストに挙がっているものの中では

1位南九州市知覧駅鹿児島交通知覧線1965年廃止
2位曽於市末吉駅国鉄志布志線1987年廃止
3位登米市佐沼駅仙北鉄道登米線1968年廃止
4位志布志市安楽駅国鉄志布志線1987年廃止
5位嘉麻市臼井駅JR上山田線1988年廃止
6位栗原市築館駅仙北鉄道築館線1950年廃止
8位篠山市篠山駅国鉄篠山線1972年廃止
11位杵築市杵築町駅大分交通国東線1966年廃止廃止時は「杵築市駅」かも
14位倉吉市打吹駅国鉄倉吉線1985年廃止開業時~1972年の駅名は「倉吉駅」
16位能美市本寺井駅北陸鉄道能美線1980年廃止
20位大田原市大田原駅東野鉄道1968年廃止
25位尾花沢市尾花沢駅山形交通尾花沢線1970年廃止
26位桜川市雨引駅筑波鉄道筑波線1987年廃止
31位藤枝市藤枝本町駅静岡鉄道駿遠線1964年廃止
34位下関市唐戸停留所山陽電気軌道1971年廃止軌道(路面電車)

…あたりが,これに当たるのではないかと。
もちろん,これらの中には市になるずっと前に鉄道が廃止されたものも多いのですが,ま,鉄道が健在だったら今頃は…,ということで。

 
[77622] 2011年 2月 9日(水)21:06:25【1】Issie さん
Re:多摩丘陵
[77621] k-ace さん
「多摩丘陵」交差点・バス停

バス停の名前は,しばしばとても大雑把ですからねぇ。
なぜこんな名前がついているのか,もちろん私も知りません。なので,周辺情報を。

私がここを通る路線バスに初めて乗ったのは,(家族が)多摩ニュータウンに越してきた30年近く前のことでした。当時は,多摩センター駅から八王子駅までバス路線が通じていて,それに乗ってみたのですね(ちなみに,当時は京王相模原線も小田急多摩線も多摩センターが終点でした)。当時,すでに絹ヶ丘・北野台の大規模な宅地造成は完了していましたが,丘陵上の造成地から浅川沿いの旧市街へ下りる幹線道路はまだ整備が完了しておらず,北野駅方面へは「多摩丘陵」バス停のある野猿街道の古く細く曲がりくねった道しかありませんでした。

このバス路線,今は終点が南大沢駅に付け替わっていたかと思いますが,元々は合併前の旧由木村中心部と八王子駅を結ぶ路線で,かなり早い時期から運行されていたものです。絹ヶ丘の宅地造成は1970年代のことではないかと思うのですが,それ以前は近くの都立長沼公園や町田市との境の御殿峠周辺のような丘陵地帯でした。
1960年代末頃の景観を想像するに,たぶん,北野駅の近くに形成された古いタイプの住宅地が終わり,未開発の丘陵地帯に入っていく境目に当たるのが多摩丘陵バス停の辺りではなかったのか。で,バス停を設置するのはいいけれど,名前を付けるのに都合のいい目ぼしい目標物がないので,まあ「多摩丘陵」でいいや,なんて風に決まったんじゃないか…。そんな光景を想像してしまいます。
いや,もっとちゃんとした理由があるかも知れませんよ。

交差点の方は,バス停が先にあって,そのあとから信号機付きの交差点になったんじゃないかなぁ。そもそも,信号のある交差点に一々名前を付けるようになったのは,そんなに古い話ではありませんよね。
たった40年前には,まだ信号のある交差点の方が珍しかったんだから。
[77617] 2011年 2月 7日(月)23:38:09Issie さん
関内駅南口前
[77611] k-ace さん
駅に一番近い市役所・町村役場・特別区の区役所

横浜の市役所(←横浜市は「市庁」と呼んでいる)が,かなりの線いってると思いますよ。
何しろ,根岸線の関内駅南口の海側出口を出たら,線路(高架橋)に並行する歩行者専用街路を横断して,確か十数歩で市役所の中に入れたはずです。
もっとも,市役所の「正面玄関」は,少し離れたところにありますが。

千葉市役所も,モノレールの「市役所前」駅のそばですね。ただし,モノレールという性格上,地平面へのアプローチが長く,また市役所の敷地にはいってから庁舎内に入るまでの距離も少しあります。

ついでに市区町村ではありませんが,地下鉄大江戸線の「都庁前」駅は,名前の通り“都庁前”です。
[77601] 2011年 2月 5日(土)10:48:38Issie さん
上から読んでも,下から読んでも
[77598] oki さん
ここの海苔屋さん

山本山。そう言えば最近,あまりCMを見かけないような。

でもやっぱり,「中巻き」というのがイメージわきません。
細巻きの方に近いのか,太巻きの方に近いのか。

[77599] グリグリ さん
とろろ昆布やおぼろ昆布を巻いたおにぎり

我が家には,おにぎりを昆布で巻く習慣はありません。ただ,私の住んでいた埋立地の団地は,全国から移り住んだ余所者の集合体ですから(もちろん,大部分は関東甲信越+東北。むしろ,地元の千葉県は少数派),小学校の同級生がそういうおにぎりを持ってきた記憶があるような,ないような。
目の前の海で海苔を養殖して,国道沿いの漁家の庭先で海苔を干していた,まさに海苔の産地だったわけですが,別に産地だから,というわけではありませんよね。もともと,昆布を薄く削ったもの,というものがマイナーな食べ物だったのだろうと思います。
私,とろろ昆布とおぼろ昆布の違いがわかりません。

[77597] 桜トンネル さん
おにぎりを買うと「温めますか?」と聞かれる

できたその場で食べるとき以外,おにぎりや弁当というものは本来,冷めているものだと思うのですけどね。冷めて食べてもおいしくなきゃ。
おにぎりの海苔も,湿気を十分吸ってしっとりとしているもの。
コンビニで売っている,海苔を別パックにして食べる直前にご飯に巻いてパリッとした状態で食べる,というのも,それはそれで悪かないけど,やっぱり海苔がしっとりして,表面がきちんと塩辛くないと,おにぎりらしく思えません。ついでに,梅干しも甘くなんかなくていいから,余計な味のついていない,ちゃんと塩っぱい梅干しが食べたいです。
[77596] 2011年 2月 5日(土)00:08:11Issie さん
one hundred peanuts
[77595] 右左府 さん
節分に落花生をまく

私,落花生の産地の近くに住んでいたわけですが,産地にはそういう習慣はないんじゃないかなぁ。
「信」のお寺の前の町に住んでいた頃,学生寮の豆まきで落花生を蒔いていたけど,当時も今も私には「大豆の代用品」という感覚しかありません。

[77591] 千本桜 さん
この辺りでは栃木と違ってかんぴょう栽培している家はあまりないはず

たびたび表明している通り,私の母方の田舎が越後のチャーザァ村(の少し奥)というわけで,何でも新潟県は栃木県と並ぶユウガオの栽培地域だそうで,田舎に行くたびにユウガオの入った味噌汁を出してもらいました。そういう意味で私には“干していないユウガオ”の方が,“干したかんぴょう”よりもなじみの深い食材なのですが,東京近辺ではマイナーな食べ物のようですね。
[77590] 2011年 2月 4日(金)20:06:23Issie さん
海苔巻き
[77589] oki さん
東京に出てきた頃は、お店に太巻と細巻しか並んでいないのを見て、通常の巻き寿司より太いのを太巻、細いのを細巻と呼ぶのだと思いこんでいました。

あっ,これ,よくわかんない。
河童巻きや鉄火巻きのような細巻きと,でんぶや卵焼きを巻いた太巻きとの間の「中間の巻き寿司」ってのがあるのかしら。

そういえば,久しく かんぴょう というものを見ていません。
子どもの頃は,「海苔巻き」(←「巻き寿司」とは言わない)と言えば「かんぴょう巻き」がデフォルトで,アラカルトというか,“変わり寿司”として「河童巻き」や「鉄火巻き」なんかがあるんだと思っていました。「ネギとろ」なんて,昔は聞いたこともなかった海苔巻きが出てくる一方で,いつの間にか かんぴょう巻き を見ることが減ってしまいました。お寿司屋さんの出前にも入ってないですよね。

いや,かんぴょう もさることながら,その原料である夕顔の実もあまり見ないなあ。

ところで,昨日2月3日は旧暦の1月1日,旧正月。
惜しいなあ。立春の今日が旧正月だったら美しかったのに。
月の暦(旧暦)のサイクルと,太陽の暦(立春,春分など)のサイクルが,たまたま一致して(…と言っても,このサイクルは決まっていて,別段「たまたま」ではないのだけど)「月の暦の正月」≒「太陽の暦の新春」となったわけだけど,立春=旧正月 となるのは何年おきなんでしょうね。…計算が面倒。
[77587] 2011年 2月 4日(金)00:01:43Issie さん
転用に次ぐ転用
今晩の「ブラタモリ」は,いつになく鉄分が多めでした。ま,今シリーズは昨年度のシリーズに比べて鉄ネタが多いのですが。
なるほど,「牛込駅」の駅舎はあそこにああいうふうに建っていたのか…。

[77586] スナフキん さん
どこまでを「復活」とするか

私としてはやはり,保存鉄道やアトラクション的なものではなく,「完全な鉄道」として「本来の役割」で営業している路線,としたいところです。その点では,一旦廃止した路線の形態を転換(軽便鉄道→新交通システム)した上で“復活”した西武山口線も,(法律上の扱いに関わらず,実態として)西武の遊園地群を結ぶアトラクション的な存在で,私的には「アウト」かな。
逆に旧土電安芸線は,まさに「ストライク」。

北丹鉄道や頸城鉄道

北丹鉄道は由良川沿い,というよりも,ほとんど河川敷内と変わりないような,かなり条件の悪い所を走っていましたよね。そのままでは「国鉄」の完全な路線とするには無理だったのでは…。
頸城鉄道は信越線の黒井駅から浦川原に向かってほぼ東に進んでいましたが,ほくほく線は一旦ずっと北の犀潟まで進んでそこで信越線と分かれ,わざと北の丘陵に突っ込んで豪雪地帯をトンネルでやり過ごしています。どちらも以前に走っていた鉄道ルートとは違ったところを走っています。

湖西線が江若鉄道のルートの大部分をなぞっていることは,よく知られていますね。
最近,むかし鉄道雑誌の“P誌”に掲載された記事を復刻編集したものを読んで知ったのですが,湖西線への転用がらみで江若鉄道には「国有化」への期待があったようなことが書かれています。けれども,戦前の「鉄道省」ではなく,“公共企業体”である国鉄の時代,しかも1960年代後半となれば,それはやはり時代錯誤ではないか,と今から見れば思えます。

路線の転用と言えば,これも知られていることだろうと思いますが,京都・伏見間での二重転用の例があります。
京都の東山を突き抜けるトンネルを掘ることなどとてもできなかった明治時代,東海道線は当初,逢坂山を越えたあと山科の谷の南の方を迂回して伏見稲荷の前を通って北上し,何とか「七条ステーション」に到達。後にこの京都駅から東寺の東側を通って伏見,木津方面へ奈良鉄道(現JR奈良線)が開業しています。
大正になってようやく東山トンネルを掘ることができるようになって,大津と京都をほぼ直線で結ぶ現在の東海道線のルートが1921年に開業。それに合わせて,伏見稲荷前の旧東海道線ルートが奈良線に転用され,廃線となった東寺前の奈良線旧ルートは奈良電気鉄道に払い下げられ1928年に新装開業。これが現在の近鉄奈良線。1928年というタイミングは,「御大典」がらみなのですね。
“多い”というほどではないにしても,“使われなくなった”線路敷を別の路線に転用するという例はままありますが,こういう二重の転用はそうはないように思います。
[77584] 2011年 2月 3日(木)22:09:06Issie さん
消える電車,よみがえる電車
鉄道の廃線に関わる話2題。

長野電鉄屋代線(屋代-須坂)は乗降客の減少による赤字の累積が進み,沿線3市による活性化協議会でも委員の投票によりバス代替を受け入れて,同線の廃線が決まった,というニュース。
元は「河東線」の名前で 屋代-須坂-信州中野-木島 間を結んでいたこの路線。長野や湯田中に乗り入れる路線の方が後からできたんですよね。でも,やがてはこちらがメインとなり,「木島線」となった信州中野以北の区間は既に廃止。須坂以南も「屋代線」となって,細々と運行されていたのですが,とうとう“引導”を渡される時が来た,ということでしょうかね。
もともと沿線の主邑である松代は,長野との間を“縦”に直結するルートの方がメインであって,屋代-松代-須坂を“横”に結ぶ流れはあまり太くないし…。思えばもう四半世紀前,国鉄の昼行急行削減・特急格上げ政策による上野からの直通乗り入れ列車の廃止と,屋代駅を介した貨物の連絡運輸の廃止とで既に役割の大半を終えていたわけで,今まで生きながらえてきたことを良しとすべきなのかもしれません。
それでも四半世紀前には長野の「地下鉄」と松代を直接結ぶ新線をつくろう,なんて構想が語られたりもしたんですけどね。

一方,広島では2003年に廃止された可部線の末端区間の一部を復活させようという動きがあるのだとか。元は非電化のディーゼル区間であって,本当のところは電車が「よみがえる」のではなくて「伸びる」というお話。
よみがえるのは廃止された46キロのうち2キロほど。全体からすれば1割にも満たないわずかな区間ですが,それにしても一旦完全に廃止された鉄道がよみがえる,というのは少なくとも最近は聞かなかったような気がします。
[77554] 2011年 1月 30日(日)11:15:02【1】Issie さん
山口県は九州北部
[77553] 白桃 さん
「オーストラリアってアジアなの?」

「オセアニア」だけで地域大会を開こうとしても難しそうですからね。だから本当は「アジア plus」。

自治体名以外にも、地域が関係する事柄へのネーミングは難しいものですね。

本当に。分けるのも,くっつけるのも,名づけるのも大変です。

ちなみに,「かっこいい」かどうかは別にして,私も「南アルプス市」,大好きですよ。「北杜市」も「北斗市」も,どちらもいいなあ。
「安曇野市」も好きなのですが,振り仮名の方で「現代仮名遣い」のルールから逸脱する「づ」を「正しい」とする表記には個人的には賛同できないのだが…,まあ,いいでしょう。
※ややこしい話ですが,私が賛同していないのは「あづみの」という表記を「正式な表記」として“行政が定めている”点です。私自身は“旧かな表記大好き”ですから,実は「あづみの」という表記を好もしく思っています。ただ,現代仮名遣いのルールにしたがって「かずさ(上総)」「こうずけ(上野)」という表記が行われているのに則るならば,「安曇」は「あずみ」と表記されるべきで,行政がわざわざそれに反するのはどうかと個人的には思います。
蛇足ながら,「吾妻」の場合は「あ+つま」と分解できるから連濁原則により「あづま」と表記する,と強弁できなくもないのですが(ただし,現代語に「あ」という“独立した単語”がないので,本来この言い訳は成立しません),「曇」(ドン)という音に「づみ」という読みをあてはめた「安曇」の場合は,“初めから濁っている”ので「頭痛」「地震」が「づつう→ずつう」「ぢしん→じしん」と書き替わったように,「あずみ」と表記すべきもので,これは「現代仮名づかい」の適用で「とうきやう」が「とうきょう」(東京),「おほさか」が「おおさか」(大阪)と書き替わったように,自動的に行われたはずのものです。
けれども繰り返し,「あづみ」「あづま」「あづさ」という表記の方が私自身は好きです。

[77546] ぺとぺと さん
石川県市制条例

神奈川県の現行の条例(都市としての要件に関する条例,昭和29年条例第44号)では,こうなっています。

----------------------------------------------------------------------------
(3) 公立又は私立の図書館、博物館、公会堂、公園等の文化施設を有すること。
----------------------------------------------------------------------------

すでに「映画館」はありません。
「博物館」という名前の施設も藤沢市にはなかったような。ただし,よく知られている「水族館」や「植物園」があって(ただし私立),これが広い意味での「博物館」にはなりますね。藤沢市で特筆すべきことは「文書館」があって,これは全国市町村に先駆けた先進事例なのですが,ほかの分野は貧弱で何ともチグハグです。

言い忘れた。
「山口県は九州北部」というのは,天気予報の区分です。
[77542] 2011年 1月 29日(土)00:33:06【1】Issie さん
Re:藤沢市が
[77541] 笠津前浜 さん
シネコンは除くようですね

そのシネコンも,今のところはありません。
辻堂駅北口の再開発で,今年の秋にはシネコンが出店するようなのですが。
藤沢市に映画館がない,という話の前段には,それまで唯一残っていた(古いタイプの)映画館が昨年の夏に閉館してしまった,というお話があります。

映画館は,銭湯とともに街中から急速に消えているものの一つですね。そう言えば,以前は町田駅の近くにあったはずの映画館が,いつの間にかなくなっていて驚いたことがありました。一応,市の南はずれのショッピングモールにシネコンがあるので,藤沢市よりもわずかに人口の多い町田市が「映画館のない最大の市」にはならなかったわけですが。

私は学生時代からあまり映画を見に行く人ではなくて,ごくたまにしか映画館まで足を運ぶことがないのですが,やはりしょっちゅう行くには高いですよね。でも,高く設定しなければ経営を維持できないようになっているのでしょう。その,スパイラル。
朝日新聞の記事には,どうもシネコンも飽和状態にあるようなことが書いてありました。
「映画」という媒体をめぐるシステム全体が,かなり厳しいのかもしれませんね。出版や新聞という紙メディア,あるいはレコード(←という言葉は,もはやほぼ死語ですが)という媒体の状況も合わせて,“時代の変わり目”にいるのかもしれませんが,寂しさの前に,いまは不安を感じています。

※追記
私は今,秋葉原の石丸電気のCDショップがこの3月で大幅縮小される,というニュースに大変ショックを受けています。
この20年ほど,最盛期にはビル3館で営業していたものが数年前にビル1館に集約されて「あれっ?」と思ったのですが,とうとう電器売場などがある本店ビルの1フロアに吸収されてしまうのだとか。
このお店は,私が高校生だった頃から折に触れて利用してきたのですが,最近メジャーなCDショップとは違って,歌謡曲とかフォークとか,アイドルとか,つまり「J-POP以前」のジャンルが充実していて重宝したものです。新しい売り場も覗いてみたのですが,DVDもあるわけだし,あの規模では期待できないな。
さて,4月からはどこにCDを買いに行きましょうか。
[77531] 2011年 1月 27日(木)00:06:23Issie さん
きれえやで,かっこええ,ピンクの戦車やでぇ
[77528] ころすけ さん
街のイメージとか印象ではなく、単純に市名のみで日本一かっこいい市名はどこでしょうか?

横綱 氷見市(富山県)

「氷見市」の,どこが,どのようにかっこいいのでしょう?
そして「由利本荘市」以下がランクアップされた理由は? なぜ,あんな順番でならんでいるのでしょう? 北の方がかっこよくて,南の方はそうでないのか? いっぱい市があるのに1つもランクアップされない北海道は,かっこよくないの?
別に「氷見」に恨みはないけれど,このリストから外れた市の人は怒っちゃいますよ。だって,理由がわからないから。

つまり,何の基準も示されずに「かっこいい」と言われても,何をどのように答えていいいのかわからない。そもそも,「かっこいい」というのは思いっきり“主観的”なものであって,いかなる客観性もない。私には ころすけ さんがリストアップされた12市の名前のどこがかっこいいのか,全くわかりません。

「かっこよさ」は人それぞれ。特別な思い入れのある人にとっては,その市の名前が一番かっこいいのだろうけれど,ほかの人には別にかっこよくも何ともない,なんていうようなものじゃないかと思います。
というわけで,

皆さんは、どう思いますか???

といわれても,困ってしまうなぁ…。
[77482] 2011年 1月 18日(火)23:27:04Issie さん
ナマコの入り江
テレビ朝日の「世界の車窓から」。
関東ローカル以外では同じ時間帯に他番組が放送されていたり,放送されていても時期がずれていたりするものですが,関東ではこれからシベリア鉄道に乗るようです。
(昨日,じゃまなサッカー中継があったのでチャンネルを合わせなかったのですが,オーストリアの旅は先週で終わったのですね。)

とうわけで,今日・明日は「東方を征服せよ」という意味のウラジオストク。ちなみに,ロシア領化される前の中国名は「ナマコの入り江」。
私がソ連に行った頃は外国人が入れなかった町ですが,やっぱり行ってみたいところではありますね。私がシベリア鉄道に乗ったのはもう20年前。この番組が以前にシベリア鉄道に乗ったのは確か15年ほど前だったと思うのですが,まあ,どんな姿になっているのか。
毎晩,楽しみではあります。
[77479] 2011年 1月 18日(火)22:17:08【1】Issie さん
あはれせうじよよ
[77477] 白桃 さん
某国営放送の歌謡番組

あたしも見てました。残念なことに,“懐メロコーナー”はお風呂に入っていて,寸での差で見逃してしまったのですが。
実は私,あるコーラスグループの一人が亡くなって,もう“4人”で歌うことがなくなってしまったことに大変ショックを受けています。メンバーの年齢を見ると,やむを得ないこととは思うのですが,一番若い方ですからね…。
だから,

ご本人が歌われてました

というのには,たいへん感慨深いものがあります。

念のため、シラフです。

あたし,酔っ払っています。
[77459] 2011年 1月 16日(日)11:37:19【2】Issie さん
S, A, G, A, 佐賀!
何気なくテレビを見ていたら,CMに テツandトモ が出ていました。久しぶり。もったいないなぁ…,「平成の牧伸二」になれるかと期待していたのに。

問.次の各都市の中で,2000~2005年で最も人口が増えたのはどこか。また減少したのはどこか。
 A:愛知県豊田市  B:長崎市  C:兵庫県西宮市

…というような意味の問題がセンター試験「地理B」に出題されていました(実際の問題文は少し違います)。

そう。センター試験ですねぇ。実際の受験生の皆さんがこれを読む頃には,試験は終わっているはずですが。
私がセンター試験ならぬ「共通一次試験」を受けたころは,共通一次の日は東京近辺の雪の特異日などと言われたものです。正しくは,雪が降りそう,雪が舞う,積もらない程度に雪が降る…,というものですが。実際,私が受けた時は“2回とも”千葉大構内に雪が舞っていた記憶が(←“2日とも”という意味ではないので,念のため)。
昨日,東京は寒い曇天だったけど,雪は舞ったかな?

そんなわけで,昨日の「地理B」の問題をざっと眺めてみました。最近は,某予備校が pdf 形式で問題を配信してくれるのでいいですね。新聞の不鮮明かつ小さい紙面で地図を見せられても,読み取れません(最近,30cmくらいのところがよく見えなくて…)。

まあ,今年もオーソドックス,というところでしょうか。ほぼ満遍なく,重箱の隅をつつかない程度に細かめの問題が出ています。
地形図の読図を含めた問題。昔はわざわざ地名を書き換えて出していたものですが,学習指導要領で地域調査が重視されるようになって,具体的な地域をストレートに出すようになりました。で,今年の対象地域は 佐賀県。
1966年には佐賀城の南側はまだ田んぼだったんですねぇ…。地図の上では,まだ藩政時代の面影が残っているようにも見えます。最後の問題,有田焼の知識なんかもあると役に立つかもしれませんね。

…冒頭の2人に対して,はなわ はうまく生き残っているよな,と思う今日この頃。
[77422] 2011年 1月 13日(木)21:41:53【1】Issie さん
あき
[77418] 山野 さん
ところで、土佐国である高知県に何故「安芸市」及び「安芸郡」があるのかと。その由来は?

[77421] 雲雀山 さん
壬申の乱の頃に土地を治めていた豪族”安芸氏”からとったようです。

「安芸郡」について言えば,これはたぶん逆です。
該当のページをよく読めばわかるように,「安芸氏」がこの地を治めていたのは“中世”です。通常,日本史で“中世”という場合は鎌倉時代(早ければ平安時代末)から室町・戦国時代までを指すのが習慣です。で,ここでは戦国大名の 長宗我部氏 に滅ぼされた,とありますね。
「壬申の乱」は一般に“古代”と呼ばれている時代でも前の方の 672年 のできごとです。
土佐の 安芸氏 が“言い伝え”の通りに壬申の乱に敗れた 蘇我赤兄 の子孫かどうかわからず,あるいはハクづけのために“捏造”した話かもしれないのですが,いずれにせよ,中世のある時期,この地域で勢力を拡大した豪族がその支配圏の地名である 安芸郡 から「安芸氏」を名乗った,あるいは,そう呼ばれるようになった,ということでしょう。
たぶん,「安芸氏」よりも「安芸郡」の方が先にあった。

では「安芸郡」の地名がいつからあったかというと,少なくとも7~8世紀に律令制下の国郡が編成される過程(それこそ,壬申の乱の前後ですね)で,「土佐国」の中に「安芸郡」が編成されているようです。
で,「あき」という地名自体は,瀬戸内の「安芸」とは関係なく,それ以前からあったらしい。

「大野郡」という郡は,飛騨・越前・美濃・豊後 の各国にありました。まあ,素直に「大きい野原」というほどの意味でしょうから,これはどこにでもありそうな地名ではあるでしょうね。実は,飛騨国大野郡 と 越前国大野郡,また 越前国大野郡 と 美濃国大野郡 はそれぞれ隣接しているのですが,これは元々「大・大野郡」として存在していたものが 飛・越・濃 3国に分割されたというよりは,元々“野原”について与えた地名を“山”まで広げて行ったら,偶然隣接してしまった,ということだと思われます(この「大野郡」については,結構以前に話題になったことがあります)。

「海部郡」という郡も,尾張・紀伊・阿波・豊後 の各国にあります。現在,尾張(愛知県)では「あま」,阿波(徳島県)では「かいふ」,豊後(大分県)では「あまべ」と読み,紀伊(和歌山県)の 海部郡 は 名草郡 と合併して「海草郡」となっていますが,古代ではいずれも「あま」と呼んでいたようです(ただし,阿波国海部郡 は古代は 那賀郡 の一部で,中世になって独立したようです)。
尾張の 海部郡 は,中世以来分割されていた「海西郡」「海東郡」を再統合して1913(大正2)年に“復元”されたもので,その時にわざわざ大昔の「あま」という読み方を持ち出したものですが,別の読み方もあったことは近隣地域出身の「かいふ」元首相を見ればわかりますね。
「あま(海士・海女)」という言葉が現代語にも残っていますが,古代の部民制では漁撈や航海などの海上作業を生業とする人々が「あまべ」という職能集団に編成されました。各地の沿岸地域に「あまべ」が配置され,律令国郡を編成するに当たって各「あまべ」の本拠地を中心い編成された郡が「海部郡」なのだろうと思います。
そして,中央(大和)にはこうした各地の「あまべ」を統括する集団がありました。壬申の乱の一方の当事者である 大海人皇子(天武天皇) は,その名前からこうした中央の「あまべ」集団と深い関係があったと考えられています。

※ちなみに,兄の 天智天皇 は元々の名前を 葛城皇子 と呼び,それはかつての有力氏族であった 葛城氏 と関係のあるものと考えられています。そして,彼は「大兄」の皇子でした。それに対して,弟の名は職能集団に由来する 大海人皇子。たとえ両親が天皇(舒明 と 皇極/斉明)であっても,「大海人」とはいかにもランクが低い。日本書紀の記述とは違って,そもそも 大海人皇子 には初めから皇位継承の芽などなかったのでは…,などという説が最近はあるようです。ま,天武天皇とは要するに壬申の乱に勝利した“叛乱軍の総帥”であって,彼(と彼の後継者)が編纂させた「日本書紀」には当然に“粉飾”がある,という前提のお話です。

話戻して,
そんなわけで,各地の 海部郡 はお互いに関係がありそう。

古代の海上集団としては「あずみ(阿曇/安曇)」という部族も知られています。元は現在の福岡市周辺を本拠としていたものが,古代の始まり頃に全国各地に移住したらしい。
で,彼らが移住したとされる先々に「あずみ(<あづみ)」「あつみ」などという地名が成立した。そのうちの幾つかは律令国郡編成の過程で 郡 となり,それがたとえば,三河の「渥美郡」であったり,美濃の「厚見郡」であったり,信濃の「安曇郡」であったり,さらには出羽の「飽海郡」もこれと関係がある,などと言われます。
実際,信州・安曇野の 穂高神社。奥宮が上高地にあって,北アルプスの穂高岳もこれと関係があるわけですが,ここの祭神は“山の神様”である前に“海の神様”ですね。

というように,全国には“同じ名前の郡”のグループがいくつかあって,その中にはお互いにとても深い関連のあるものもあれば,偶然の一致と思われるものがある。
では「安芸郡」はどうか,というと,よくわからない。

「あき」という名前そのものの語源については様々な“憶測”が語られているのですが,たいていはアテにならないので,ここでは話題にしません。
ともかく,瀬戸内の「あき」の方は,すでに律令以前の段階で「阿岐国造」というものが見られます。その支配領域をもとに「安芸郡」が編成され,さらに周囲の各郡を合わせて管轄する国府をこの郡内に置き,その国を「安芸国」と呼ぶことにした。
一方,四国の「あき」の方でも,そのように呼ばれている地域に「安芸郡」が編成されたけれども,こちらはもっと広い平野部を支配拠点とした「都佐国造」の領域をもとに編成された「土佐郡」に国府が置かれたので,その「土佐国」に含まれることになった。
そんなわけで,ずっと古い歴史をさかのぼってみたら 安芸国安芸郡 と 土佐国安芸郡 の間にもしかしたら何か関連があるのかもしれませんが,とりあえずはお互いに別個の存在であったと考えておくのがいいのかもしれません。

一方,「安芸市」の方は,その 安芸郡 において中世の 安芸氏 以来,郡の支配の中心であったわけで,その意味では“安芸氏に由来する”と言えるのかもしれません。
[77385] 2011年 1月 10日(月)01:43:07【1】Issie さん
Re:パスポートの申請
[77375] 白桃 さん
浦安市に住んでいる人は千葉市まで出向くわけですが

千葉(中央旅券事務所)か松戸(東葛旅券事務所)まで出向けば,受け取りだけは船橋(葛南県民センター)でできるみたいですね(千葉県の該当ページ)。葛南県民センター,その昔,私がある書類を提出しに行った時よりも,ずっと便利な所に移ったのですね。
これも昔の話ですが,千葉市の中学校に通っていた頃,足繁く通っていた千葉市中心街。市川市の高校に進学したら見事に全く出向かなくなり,今に至ります。千葉市に通っていた頃は,総武線は複線で,稲毛駅で貨車の入換をやっていたものですが。

でも何故、丸亀ではなく善通寺、三本松ではなく津田、なのでしょうか???

香川県の出先機関(県民センター)がそこにあるから,みたいですね(香川県の該当ページ)。
 ・東讃 ---津田
 ・小豆島 ---土庄
 ・中讃 ---善通寺
 ・西讃 ---観音寺
という配置は,1942年設置の 地方事務所 にさかのぼるようです。その前の 大川郡役所 は 長尾 にあったようですが,1878年の郡区町村編制法による 大内寒川郡役所 は最初 津田 にあったものが,三木郡も合併した時に 長尾 に移って,そのまま郡制による 大川郡役所 になったみたいですね(郡制施行で三木郡は山田郡と一緒になって 木田郡)。

そう言えば,私,神奈川県民になってからパスポートを作ったことがない(直近は,東京都民だった時に新宿まで申請しに行った)ので今調べてみたのですが,千葉県の場合とは逆に,申請だけなら相模原でできるけど,受け取りは横浜か厚木まで出向かなければいけないようです(神奈川県の該当ページ)。
相模原の申請窓口(神奈川県企業庁「プロミティふちのべ」ビル)なら,我が家から歩いて10分足らずなのに。
[77347] 2011年 1月 5日(水)23:48:08【3】Issie さん
…いつか「蓮(はちす)」の花と咲く
タイトルは [77318] の続きということで。

[77331] グリグリ さん
[77147]実那川蒼さんからの情報

ごめんなさい。読み落としてました。重複しちゃいましたね。

[77338] ペーロケ さん
改称?

実はこの件に関しては,自分のHPでどのように取り扱うか,考え中なところです。
が,基本的には 88 さん([77341])と同様,“手続き”を重視すべきである,というのが私の意見です。
今回の件は,「総務省告示」という文書を「官報告示」という形で一般に周知する,という手続きを経たことを何よりも重視したいと思います。
実際,自治体名等の表記の変更について,「自治省/総務省告示」という形で周知された例として1960年7月1日以降では
 ・1972年3月30日付の 鹿児島県噌唹郡→曽於郡(同年4月1日施行,昭和47年自治省告示第82号)
 ・1991年12月3日付 奈良県山辺郡都祁村(“しめすへん”の書体変更。同年10月24日施行。平成3年自治省告示第167号)
の2例があります。…というか,2例しか“ありません”。
大筋は 88 さん([77341]) の説明にある通りです。私も全く同じ認識を持っています。

「字体」の扱いについては 88 さんが [77341] で抜粋された自治省の通知がありますが,“そもそも”の「当用漢字字体表」(昭和24年内閣告示第1号)に付随して出された“内閣訓令”(「当用漢字字体表の実施に関する件」)には以下の下りがあります。

--------------------------------------------------------------------------------------
今後,各省庁においては,この表によって漢字を使用するとともに,広く各方面その使用を勧めて,当用漢字字体表制定の趣旨の徹底するように努めることを希望する。
--------------------------------------------------------------------------------------

実は,市町村はあくまでも“自治体”であって“国の官庁”ではないことは,現行憲法・地方自治法の下はもとより,旧憲法の下でもそうであったととらえるべきなのでしょうが,それでもこの「訓令」には相当の強制力があったと理解すべきであろうと思います。「長野県諏訪郡ちの町」の例を考えれば,少なくとも「公」の分野における「当用漢字」の強制力はとても強かった。だから,「廣島市」は“当然に”「広島市」と“書き替わる”(←“受け身(受動態)”ではなく“自発態”)ものであって,告示の必要など全くない
(ところで,「廣嶋市」という表記は“公式に”行われていたのでしょうか)。
全国の自治体名が“自動的”に「新字体」に書き替わったものと思われます(現在,わざわざ“旧字体”表記を(勝手に)主張している自治体も含めて)。

一連の「国語改革」は戦前からの取り組みの歴史を踏まえて 文部省 が主管官庁となって推進されました(決してGHQが「日本の伝統を破壊する」ために押し付けたものではありません。明治以来積み重ねられた試行錯誤の到達点として,獲得されたものです)。ところが,占領終了とともに,旧内務省系の官庁が 自治庁→自治省 と整備されていく中,自治庁/自治省では公文書の表記について文部省系のそれとは若干違うルールを採用しました。たとえば,横書き文書の読点について,文部省系では「,(コンマ)」としているのに対して,自治省系では「、(点)」で表記するものとしています。
常用漢字表において「全て」という表記が“公認”されたのは実は今回の改定が“初めて”です。これまでの常用漢字表(昭和56年内閣告示第1号)では「全て」という表記は認められておらず,「ゼン」または「まったく(まっとう)」としか読めませんでした。けれども,自治省系では「全て」という表記はずっと以前から認められていたようで,公文書でも普通でした。
私が県庁勤務であった時に戸惑ったことの1つは,この“文部省系”と“自治省系”の表記ルールの違いであったわけですが,それはつまり,“自治省の縄張り”である地方自治体において,文部省系の表記の縛りは,最近であればあるほど強くはなかったといえそうです。それとは対照的に,検定教科書における文部省ルールの縛りは極めて厳格でありました。
一方で,その「厳格な」学校における漢字教育を受けた世代においては漢字の一点一画が極めて厳格に決められているものとの「誤解」が芽生えて,それが今回の「しんにょうの点の数」にかかわる「名称の変更」告示につながったのでしょう。
…そんなこと,蓮田市に言われる前っから,あたしゃ「蓮」の字を“一点しんにょう”で書いていますって。

過去に何度も表明しているように,私自身は今回の件は「文字(活字)のデザインの相違」に過ぎないと考えています。“二点しんにょう”であろうが,“一点しんにょう”であろうが,どちらも“全く同じ漢字”。たとえ「正字」というものがあっても,それは“明朝体活字”のお手本であって,それを筆で楷書で書けばそのお手本とされている唐代の字体が“正字体”と違う例はいくらでもある。過去に話題になった「塚」の“点”の有無もそう。「ヶ」や「ッ」の大小もそう。[77344] で にまん さんが紹介されている「葛城市」の例もそう。どちらの形の「葛」が“正しい”かなんて,およそナンセンス。
少なくとも,“手で書く”際にそのようなことにこだわる必要は全くない。ただし,個人名や私企業のような「私」の存在については,それぞれのアイデンティティは尊重されねばならず,字体の違いも最大限区別するべきだと思いますが,逆に「公」の存在である自治体の表記については個々の住民による表記を縛るものであってはならい(“ガバメント・アイデンティティ”というものがあるにしても。それ(たとえば“旧字体/新字体”とか,“ヶの大小”とか)を住民に“上から”強制してはならない。どちらが「正しい」かを決めるのは,住民の多数の“慣用”です。

ただ,冒頭の繰り返しですが,今回の「蓮田市」の件は手続き上,「公的」な表記について“総務省告示”という形で告示されるに至りました。何となく書き替わった「広島市」の例とは違って。この手続きは,重視してしかるべきです。
したがって,記録性を重視するならば,そのような手続きが“わざわざ”行われたことを“記録”として残しておくことは,十分に妥当なことであると思います。
[77326] 2011年 1月 4日(火)18:55:14【2】Issie さん
捕らぬ狸
[77324] 山野 さん
敢えて命名するならば「安芸府中市」でしょうか。

町の公式HPに「あきふちゅうの歴史」なんてコーナーもありますから,そのあたりが穏当ではあるでしょうね。
単独市制であるなら「さくら」や「みどり」のような新奇な地名を創作する必要はありませんよね。お隣りの山口県の例に倣って「芸府市」と言って言えなくもないけど,あまり耳慣れないし,古代の国府の有無にかかわらず近世以降の人々の感覚では「芸府=広島」でしょう。「甲府」が,本来国府のあった 笛吹市 ではないように。
北海道の広島に倣った「西府中市」は,あるか,どうか。
まさか,挙母市の真似をして「マツダ市」とか「東洋市」は,ないと信じたいけど。

ま,今の段階から“皮”の値段の算段をしてもね…。
[77318] 2011年 1月 4日(火)10:50:01【1】Issie さん
どぶに落ちても根のある奴は
今年の 総務省告示第1号 (←pdfファイル。たぶんリンクが有効なのは2月初めまで)は「市の名称変更」というものでした。埼玉県の 蓮田市 の名前を変更する,というもの。
で,何か新しい名前になるのかと思ったら,変更後も「蓮田市」なんですね。
何が変わったかというと,「蓮」の“しんにょう”の点が2つから1つになった,ということ。PCのディスプレー上では,特別なフォントを用いない限り区別できなさそうですが。

これは,昨年11月の告示で差し替えられた「常用漢字表」(平成22年内閣告示第2号)を受けてのことなのでしょう。もっとも「蓮」は常用漢字ではないので,直接には無関係のはずなのですが。
もしかしたら,これからこのタイプの「名称変更」が続くのかもしれません。

なお,蓮田市の「名称変更」は本日,2011年1月4日より有効です。
[77149] 2010年 12月 31日(金)20:44:19Issie さん
明日という日は明るい日と書くのね…
「幸い」という字は「辛い」という字に似てるわ…
なんて言ったら,この歳取りの夜には似つかわしくありませんね。なので,以下自粛。

[77141] 伊豆之国 さん
「十干」(甲乙丙‥)地名の宝庫

さすがに,10分の8番目までは回ってきませんかね。
ひとつ前の「庚(かのえ)」だと,庚申信仰にちなんだ地名が多いし,次の「壬(みずのえ)」も「壬生」なんて形でよく見かけますけどね。
だからやっぱり,本来の意味の「からい」「つらい」に期待しましょうか。

…今,テレビを視ずにベートーベンを聴いています。ベタですが。
[77139] 2010年 12月 31日(金)09:42:50【2】Issie さん
百年
明日の今頃はイベントの解答で埋まっていそうなので,今年のうちに。

明けて2011年は,実は「大正百年」です。
「明治百年」のときにはいろいろなイベントがあったりしたようですが(子どもなのでおぼえていない),今回はあまり話題にならないようですね。明治天皇の誕生日(明治節)は「文化の日」に姿を変えて残っているし(現行憲法的には「憲法公布記念日」),何を記念したいのか,「昭和の日」などというものも作られてしまいました。なのに,大正天皇の誕生日(8月31日)は,ほとんど誰も祝っていません。命日は,全く別の趣旨で勝手に盛り上がっていますけどね。
短い,というだけ以上に,扱いの淡白な「大正」。
けれども,明治年間に形の整った「近代日本」の“熟成”が進んだのが「大正」です。
このページに関連したものでいえば,9年(1920年)の「第1回国勢調査」。初期の頃に話題になっていた,戦前の教育制度がほぼ完成するのも大正年間で,旧制高等学校や高等専門学校の配置もほぼこの時期に固まりました。14年(1925年)には「普通選挙法」が成立,この時に導入された衆議院議員選挙の「中選挙区制」は,東京・大阪の都心部を除いて,ほぼそのまま1993年の小選挙区制導入まで続きました。
鶴見沖が埋め立てられて京浜工業地帯の造成が始まるなど,その後の重化学工業化が始まるのも,この時期。
「明治」や「昭和」ばっかり話題にするけれど,短くても実はとっても中身の濃い「大正」。

ついでに戦前の二大政党制の枠組みができあがるのも大正年間です(紆余曲折がありますが)。昭和に入って,両政党は相互にあまり程度の高くない政争と自党内の内紛を繰り返して“自滅”しました。今の二大政党,どうも「戦前昭和の二大政党制の失敗」とよく似た道を通っているようで…。

ところで,2011年の干支は「辛卯」。「卯」の方は話題になっているので,「辛」の方に注目すると,実は「辛亥革命」(1911年)からちょうど百年。革命政権は明けた1912年1月1日に 中華民国臨時政府 を南京に樹立してこの年を「民国元年」としたので,2011年は「民国百年」でもあります。
ちなみに,革命政権は成立してすぐに太陽暦を採用したのですが,「民国元年1月1日」の段階でまだ存続していた北京の清朝は旧暦(太陰太陽暦)で「宣統3年(辛亥)11月13日」。宣統帝(溥儀)が退位して清朝が滅亡するのは1912年2月12日ですが,旧暦ではまだ宣統3年の12月25日。清朝は(旧暦による)「壬子=宣統4年」を迎えることができなかったのですね。

その「辛(かのと)」。「卯」の方は既にリストアップされているのですが,「辛」のつく地名はどれくらいのあるのでしょう。
熊本の「辛島町」というのが,すぐ頭に思い浮かぶのですが…。

[77134] hmt さん
「業平橋」はそのまま存在し続けているようです。

その通り,運河ではなくなっても“溝”はそのまま残っているで,橋もそのまま存在します。
ちょうど,運河がそのまま首都高になって橋がまるごと残っている東銀座・築地周辺のように。
[77126] 2010年 12月 28日(火)01:09:42【1】Issie さん
二人の銀座・ふたたび
[77125] 伊豆之国 さん
現在の「109」の西側の大通り辺りにもアーケード街があったのですが

都南デパート,って言いませんでしたっけ?
私自身が原町田を歩くようになったのが25年ほど前なので,あまり古いことは知らないのですが,いつの間にかマラソン道路のアーケードがなくなっていてビックリしました。
次にビックリしたのが,JR町田駅の北口下からズドーンと大通りが抜けたこと。
仲見世の方は最近,入口に出店した小籠包屋が人気で,先日も東京12チャンネルの番組で紹介されて賑わっていますね。
商店街の通りの狭さと人の多さにあまり変わりはないけれど,一連の区画整理・再開発でやっぱり街の印象が変わりました。初めて原町田へ行ったときには,何て乾物屋の多い街だろう,というのが第一の印象だったのですが,今はだいぶ減っている様子で。
それでも,原町田こそが“政令指定都市・相模原”の商業中心地であることに変わりはありません。…市内にない情けなさ。

[77123] oki さん
戦後の一時期、アーケードが商店街近代化の切り札的な存在だった時代があり

私は,アーケードに“昭和30~40年代”のイメージを強く感じます。ずっと前に書き込んだことがあるのですが,時代に取り残されたような東京タワーのビルを訪れた時に感じたような。私が「昭和」という区切りで感じるイメージ。

※これも以前に表明したことがあるように,“62年と2週間”もあり,それぞれの時期も多様で一括りにできないはずの時代を「昭和」という言葉で振り返ってしまうのは,私は本来適当ではないと考えています。「昭和だよね…」って言ったとき,それは“いつの「昭和」”ですか? まさか,「バブル」じゃないですよね? 違う,戦争の時代。 いや,もっと前の「モボ」の時代。…っていう風に,同じ言葉でお互いに全く違うものを連想しあっているかもしれない。だから,やっぱり適当じゃない。
でもあえて「昭和」というなら,私には自分がよく知っている40年代後半以降ではなくて,そのちょっと前の30~40年代前半かな,って感じです。

話戻して…

銀座の場合、道路幅は広いし、日本を代表する商業地でイメージアップの必要などなかったため

まさしく“目抜き通り”である旧電車通り(四丁目で交わる中央通り(東海道)と晴海通り)にアーケードをかけるわけにはいかないでしょうが,裏に入った みゆき通り や すずらん通り なんかは大阪の心斎橋筋に対応しそうなものだけど,アーケードはかからないのですね。商店街としての性格が違うのか,文化が違うのか。

でも,仙台の中心商店街もアーケードですよね。商店街としては崩壊寸前ですが,秋田の駅前にもあります。大都市ではないけれど,熱海や清水にもあります。
大都市の「町の中心」と言うと,どうも南関東だけがスコンと抜けているような気がします。
[77124] 2010年 12月 27日(月)20:27:51Issie さん
名にし負はば
とあるところで見つけた記事ですが,
東武伊勢崎線の「業平橋」駅が,例のものの完成・開業にあわせて2012年から「とうきょうスカイツリー」駅に改称するのだとか。
…まあ,“地主”だし,営業上の観点からすれば当然ではあるけれど,何かもったいない気が。

駅名が変わるからと言って,「言問橋」も「業平橋」自体もなくなるわけではないんですけどね。
[77121] 2010年 12月 27日(月)09:49:02【2】Issie さん
アーケード
[77120] ペーロケ さん
大きな都市の中心には必ずアーケードがあるものだ

そう言えば,学生時代に初めて広島へ行って(ちょうど広島カープの優勝を祝う花電車が走っていました)地元の学生に飲みに連れて行かれた時,街の真ん中に延々とアーケードが続くのを見てものすごくビックリしたことを記憶しています。
言われてみれば,新潟の 古町 や富山の 総曲輪(そうがわ) もそうですね。少し規模が小さいですが,長野の 権堂(ごんどう) もそうです。以前は、松本の 六九(ろっく)商店街 もアーケード街でした(今は中心商店街の地位から脱落して,アーケードも撤去されているようですが)。

「言われてみれば」と書いたのは,私自身にとっては都心にこういうアーケード街があるということの方がむしろ珍しいから。
ここでいう「アーケード」とは,(少なくとも買い物時間中は)自動車を締め出して道路全体に屋根をかけるものですよね。で,それが数百メートルから数キロも続く…。
私の知る南関東3都県では,このようなアーケード街が“都心”にある,というのはあまりないように思います。

まず,東京。
都心の商店街…とは,銀座,日本橋でしょうが,…ないですね。ここにアーケードをかける,なんて言ったら大きな騒ぎになるんじゃないかしら。
新宿,渋谷,池袋などという「場末」は措いておいて,古くからの繁華街である 浅草 にはまとまったものがあります。有名な 武蔵小山 のように“郊外”には規模の大きなものがたくさんありますね(中央線や常磐線などの沿線各市は「東京郊外」の延長ということで…)。

横浜。
伊勢佐木町や元町。アーケードがかかってそうな雰囲気もありますが,かかっていません。都心を離れた 六角橋 や 横浜橋 には有名なアーケード街があります。
で,川崎にはあるんですね。都心の 銀柳街。横須賀にもあります,ちょっとだけ。
私が子どもだったころにはとても「大都市」などとは呼べなかった千葉には“全天型”のアーケードはなかったはず。ただし,国鉄と京成の千葉駅移転にともなって整備された国鉄千葉駅-京成千葉(現千葉中央)駅間の高架下商店街がそれ近い風景をしていました。

ビルの間の,せいぜい数十メートルの長さに屋根をかけて…,という小規模なアーケードなら,たとえば秋葉原などにも散在するのですが,規模の大きなものは“都心”というよりも“郊外”のもの,というのが私のイメージです。
「名ばかり政令市」の相模原にもありますよ。半世紀くらい前からある 西門商店街 と,こちらは最近(20年ほど前)できた 相模大野。どちらも,都心ではありません(…というより,相模原に「都心」など存在しない)。

ただし,車道を残したまま,雪国の雁木のように店の軒先の歩道に屋根をかけるタイプのアーケードなら珍しくありません。千葉銀座や船橋の 本町通り など,このタイプは枚挙に暇がない。けれども,このタイプのアーケードは最近は撤去される傾向にあるようで,たとえば私が学生の頃は長野駅から延々と続いていた 長野中央通り(善光寺参道) のアーケードはオリンピックの時に撤去されてしまいました。東京の神保町界隈などもそうですね。
[77117] 2010年 12月 26日(日)22:13:59Issie さん
[77111] k-ace さん
卯の付く地名

[77114] 伊豆之国 さん
「兎」の付く駅

“くさかんむり”のついた「菟」というのも「うさぎ」という字ですね。
現在の地名というよりは割と古い表記で用いられていて,兵庫県(摂津国)にあった「菟原(うばらぐん)郡」(現神戸市東部・芦屋市付近)もその1つ。京都府の「宇治」の古い表記も「菟道」ですが,こちらは小学校の名前に現在も生きています。

「兎の楽園」

人間の持ち込んだ動物が野生化,繁殖して島の主人になってしまった,というのは「環境論」的には“楽園”などと喜んでいられないことなのでしょうが,まぁ,好きな人には言うだけ野暮なのかもしれませんね。
[77077] 2010年 12月 21日(火)00:28:17【1】Issie さん
元は自動車関連工場
[77073] 白桃 さん
その市の市役所の隣には、大きなイオン(ジャスコ)があって、その隣にはよりによってイトーヨーカドーがあるのです。

ぺとぺと さんの推理([77074])のとおりであるなら,実はお隣の「なんちゃって政令指定都市」に先行事例があります。
もう20年ほど前,近くを走るJR線上に新しい駅が設置されるのに合わせた開発事業に関連して国道脇の企業グランド跡地に大規模ショッピングセンターが作られ,そこにジャスコとイトーヨーカドーが出店してきました。こちらは,どちらかというとジャスコの方がメジャーで,ヨーカドーの方はマイナーな印象を受けますが。
十数年の時を隔てて工場跡地に開設されたお題の所では,両者対等のような感じを受けますね。もっとも,私はイトーヨーカドーの方にしか行ったことがなく,その先にジャスコが出店しているなんて知りませんでした。

だからね,両方の大型スーパーが隣り合っていても,私は別にビックリしないよ,というお話でした…。

※スカイツリーの足元や,大手町の辺りから乗り換えなしで来れる市ではありますね。
[77039] 2010年 12月 18日(土)09:42:10Issie さん
サンダーバード
[77038] 大龍エクスプレス さん
新鳥栖と久留米のどちらか一方にも停車

他線との接続の件だけでなく,何より筑後地方の中心都市を通過するというのはあり得ないし,佐賀県にも停まるという実績を残しておきたい,という事情を両立させなくてはならない点もあるのでしょう。
駅間6キロ足らずなら両駅を統合できなかったのか,とも思うのですが,やっぱ無理だったんでしょうね。なぜ停まるのか今一つ理解できない 筑後船小屋 とは違って,鳥栖 も 久留米 も停車させるべき駅ではあります。

ところで,同じ3月の改正で北陸線の「雷鳥」で国鉄以来使用していた特急電車が引退し,これを機会に列車名を「サンダーバード」に統一するというニュースもありました。ううう~ん,こちらに統一しちゃうのか…。
某ポータルサイトのコメント欄には,北陸新幹線に「雷鳥」を,なんて書き込みがあるのですが,「雷鳥」は対京阪神の看板列車ですよね。私は北陸新幹線にはぜひ「白山」の復活を,と願っています。

※某所で見かけた,わが国の外相とロシア大統領のツーショットがサンダーバッドそっくり,という話,笑っちゃいました。
[77024] 2010年 12月 12日(日)18:17:10【1】Issie さん
蛇は嫌われているのか?
[77020] oki さん
東京からは「蛇」のつく地名は消えてしまいましたが

町丁字レベルの行政地名としては消えてしまったかもしれませんが,もっと小さなレベルの地名では決して少なくないのでは? たとえば,谷中には「へび道」と呼ばれる街路がありますね。昔の川の跡で,蛇のようにノタくっているから。[77021](伊豆之国 さん)にも出てくる 「へび坂」なんていうのも,割とよく聞くように思います。
ただ,大字以上の地名となっているのは少ないので,「ウォッちず」のような地名検索には引っかかりにくい。

ところで,どうも「蛇は嫌われ者」という前提で話が進んでいるような気がしますが,本当に蛇は嫌われているのでしょうか。
確か,“白い蛇”はおめでたいものとして珍重する風習があったし,全国の神社の中には蛇を信仰の対象とするところが多くありますよね。「お金が貯まる」なんて言って,蛇の抜け殻を財布に入れたりしませんでした?
まあ,積極的に好かれてはいないかもしれませんが,必ずしも忌み嫌われているわけではないのでは…(「蛇蝎のように」という表現がありますが,これは漢文由来ですね)。信仰の対象として崇めつつ,「敬して遠ざけ」ているのかもしれませんが。ヤマタノオロチも,恐れられてはいても敬いの対象であり,嫌われているのではないと思います。

日本の農耕社会では蛇は少なくとも身近な存在ではあり,日常生活に非常に身近なレベルでの小地名でも「蛇」は意外に身近にあるような気がします。
「由来我国民性ノ蛇ヲ嫌忌スル感情」というのは本当なのか。むしろ,そのあとに続く「都市文化ノ中心タル地名ニ蛇窪ナル名称ハ恰モ山村辺輙ノ地名ノ如ク到底不適当タルヲ免レス」という表現に現れているような,農耕を離れた都会の,もしかしたら「アダムとイブ」の説話を持つキリスト教の価値観の影響を(少なからず)受けた人々の勝手な思い込みなんじゃないかな,という気がします。

※NHKの「ブラタモリ」。少し以前に放送された「住宅」の回で,空襲にも耐えた深川の鉄筋コンクリートのアパートで毎年 田中邦衛…,もとい,アオダイショウの抜け殻を集めているおじさんが登場してきました。「ええっ,東京の真ん中の深川で?」と思ったのですが,アパートの裏側は清澄庭園なのですね。後ろに見えていた高い木(ケヤキ?)は庭園の木だったのか。

[77019] 白桃 さん
水戸黄門の主題歌

「あゝ人生に涙あり」というタイトルだそうです。
木下忠司お得意のマーチ調。現在放送中のシリーズでは 東幹久(助さん)・的場浩司(格さん) の2人が歌っています。今回,善光寺宿をあっさり通過してしまって,ちょっぴり不満。
[77012] 2010年 12月 11日(土)11:30:06【1】Issie さん
地上39階の眺め
新幹線ネタ,つづき。
考えてみれば,新幹線は既に 八戸 段階で青森県,そして“青森領南部”には到達しているのですね。今回の 新青森 延伸は,ようやく津軽(の東端) に到達した,ということ。ならば,津軽に偏っていても,まあいいのかな,と思い直してみました。

以下,こちらが本題。
昨日は,県内高校の地理教員の勉強会で野外巡検に行ってきました。対象地は武蔵小杉。
朝,東横線の新丸子駅に集合して,午前中は中原街道を歩いて“昔の小杉”を探索。ここは,今話題の「武蔵小杉」とは違って,もちろん多くの建物がビルに変わっているのだけど,結構古い建物が残っています。「本来の小杉」と「武蔵小杉」は別物なのですね。

ちなみに,このあたり「中原区」といいますが,この「中原」という地名は元からここにあったものではありません。「中原街道」という名は“川崎市の中原”を通るからそう呼ばれるようになったのではなく,徳川将軍の宿舎である「中原御殿」に由来します。で,小杉にもその「御殿」があったのですが,名前は「小杉御殿」。中原御殿があったのは現在の平塚市で,この街道がその御殿の方まで続いているので「中原街道」となった次第。
川崎市のこちらの地名は,1889年の明治の大合併で 小杉村 その他が合併して新しい村を編成するに当たり,ここを中原街道が通ることから「中原村」という呼称が採用されたことによるもの。だから,「中原区」は“交通由来地名”なのでした。

午後は“今の武蔵小杉”に行って再開発地区の中のNECの新オフィスビルを見学をしました。で,先方の御厚意で37階建てビルの屋上ヘリポートに上がらせてもらいました。屋上に出てからさらに階段を上がるので39階相当。
天気がよく,風も弱かったのでよかった。実に見事な眺望でした。ここまで上がると見る角度が変わって,距離感が地上とは全く違うものになってしまうのですね。そこで撮った写真のうちの1枚をうちのHPの表紙に貼っておきました。ただし,サイズを縮小したので,ややわかりにくくなってしまいましたが。

[77010] oki さん
今日、阪奈県境の地峡部で大和川の流れを観察していたところでは、確かに水深は非常に浅く、とても舟で下れそうにないということを改めて確認しました。

水運が主であった時代と,洪水の際にできるだけ早く水を吐くことを主題とする現代とでは川の管理のしかたが根本的に違うそうですね。同じ水量でも,かつては船を通すために一定の水深が確保されるように流れをコントロールしていたけど,今はそうではないので“普通の川”では舟下りができない,ということなのだろうと思います。
[77007] 2010年 12月 10日(金)19:33:13Issie さん
青森県東半の南部
[77006] k-ace さん
三浦さんと泉谷さんはCMで名乗っているので分かるんですが。

そうなんですか。私はテレビでは未見で,毎朝乗ってる京浜東北線電車の扉上のディスプレイに映る“無声CM”で見てるんですよ。で,あのCMにはもう1人,“若い車両整備士”もキャラクターでいるみたいなんですが,あれは誰なんでしょうね。

※CMソングも聞いていないので,私の中では八戸開業時の井上陽水(秋田開業時だっけ?)がBGMに聞こえてきます。井上さん,九州ですね。

でも、津軽に偏ってるような…。

よその地方では,「青森県=津軽」ってイメージが強いんじゃないでしょうか。
この話題,ずっと以前にもやった記憶があるのですが…,
「南部」というと,今では岩手県と反射的につながるのだけど,江戸時代の初めに 盛岡 に本拠地を移すまでは 八戸 や 三戸 が南部氏の本拠だったんですよね。さらに「津軽藩」は,その「南部」から“独立”して成立したわけで。
なのに,「青森県の“南部”」は「津軽」と「岩手県の“南部”」の間に落ち込んでしまって,何か影が薄いですね。あるいは,「南部」の一部である「下北」や「恐山」のキャラが立ちすぎているのかも。
[76996] 2010年 12月 8日(水)21:40:59【2】Issie さん
あかつき
オペレーションセンターが我が家の近くなので,地元の話題。

残念でしたね,「あかつき」。
でも,なぜ「6年後」なんだろうと思っていたら,“金星の衛星”にはなれなかったけど,現時点では金星に近い軌道を周回する“惑星”なのですね。で,金星の公転周期と「あかつき」の“公転”周期が同調してお互いに再接近するのが6年後で,その時にまた逆噴射に挑戦するのだとか。
…なるほど。

それにしても,「のぞみ」「はやぶさ」…と,国鉄/JRの特急の名前のオンパレード。「あかつき」と聞くたびに,数年前まで京阪神地区と長崎の間を走っていた寝台特急の方を連想します。
どうも金銭面の厳しさも“6年後の再挑戦”の理由の1つらしくて,次の打ち上げもなかなか難しそうですが,さて,次に宇宙に行く“特急”は何でしょうか。

[76994] ぺとぺと さん
関係自治体にとって事業継続に向けた利用者の拡大は急務だと思われます。新線開業がその起爆剤になることを期待したいと思います。

しなの鉄道の例を見ると,長距離客が新幹線に移行した後の三セク線に残るのは比較的に短距離のローカル輸送で,そこへわざわざ観光客を呼び込むのは容易ではないようですね。「旧東北本線」である 青い森鉄道 の場合は,貨物輸送や北海道への寝台列車があるけれど,これは通過するだけで沿線に貢献することはほとんどないし。そもそも,JRは寝台列車の運行にどこまで真剣なんだか…。
新幹線のお客をうまく下北半島へ呼び込めれば,八戸からでも新青森からでも 青い森鉄道 の列車に乗ってもらえるのですが(ついでに大湊線にも),今JR東日本がやっているキャンペーンは,どうも津軽に偏っているような気がして。だって,メインキャラクター,“助役”の 吉幾三 はもちろん,“駅長”の 泉谷しげる も青森市生まれだそうで(もう1人の“若い駅員”は誰?)。
新青森から津軽へ,JR線には乗ってもらえるけど,青い森鉄道方面は,だめじゃん。
一応,「せんべい汁」の宣伝もしているんですけどね。

※「逆噴射」と聞くと,いまだ条件反射的に「機長!」という反応をしてしまうのでした。
[76968] 2010年 12月 5日(日)10:21:38Issie さん
飛び地だらけ
[76961] MasAka さん
今の整備計画区間に限って言えば、それほど大きく増えることはなさそうです。

もう少し先まで考えて…,と言っても実はそれほど対象は多くないようですね。

九州新幹線の長崎ルート。嬉野温泉経由で,かつて長崎本線が開通した当初の“大村廻り”の復活ですね。どうも「フリーゲージトレイン」の扱いその他を含めて未確定な部分が多いみたいですが,嬉野温泉-諫早間は新線を建設するけれども,ほかの区間は在来線を利用する,ということのようですね。並行在来線の扱いについても何かすっきりしていない部分があるのですが,少なくともJR九州が運営する,という合意はなされているようで。
そもそも長崎本線自体が「盲腸線」ですから,既に松浦線を切り捨てた今,問題となるとなるのは佐世保線の末端区間かもしれません。

北海道新幹線。計画は小樽経由で,こちらも室蘭本線・千歳線ルートに主役の座を奪われた函館本線・山線区間の復活ですね。で,新幹線開業となれば,“山線区間”(長万部-小樽間)が切り離されるのは確実でしょう。あとは函館本線の(新)函館-長万部間。こちらも切り離されれば,江差線が孤立することになりますね。木古内で新幹線と接続しますが。
…それより,江差の“檜山支庁”が“振興局”になってしまった今(一応,総合振興局と“同格”とは言っているけれど),江差線そのものの存続が心配ですが。

リニア新幹線。現時点では私はまだ実現について半信半疑ですが,これは言ってみればJR東日本の“縄張り”である関東甲信地方にJR東海が“殴り込み”をかけるようなものですから,東日本の方から三セク化することはないのではないか,と。そもそも南アルプスをぶち抜くルートなら,「並行」しないし。
もし中央東線が三セク化されたなら,小海線は両端駅(小淵沢,小諸)で三セク鉄道と接して,中間駅の佐久平で辛うじて他のJR線(北陸新幹線)と接続する,という形になるのですが。

そもそも,そんな遠い遠い未来,JRも三セクも今のままの姿でいられるのだか…。

こういった飛び地路線は私鉄・3セクだとそれほど珍しくもないですね。

1970年代前半まで,地方にまだたくさん残っていた私鉄の多くがそうでしたよね。そもそも,その頃までの私鉄網の骨組みは1938年の「陸上交通事業調整法」で,元々は省線(国鉄)の各駅から別個に伸びていた中小鉄道をエリア内で統合して成立し,さらに戦後の統合も加わったものだから,飛び地だらけであるのは当然です。
たとえば,石川県内の私鉄は 北陸鉄道 に統合されたわけだけれども,バラバラの短い路線の集合体で,金沢近郊の2路線を除いて(この2路線もつながっていない)70年代前半の“地方私鉄大淘汰”を生き残れなかった。この時期,多くの県から私鉄が姿を消しましたが,多くがこのパターンであるように思います。短小な路線がバラバラに国鉄駅から伸びているだけでは,1960年代まではバスとの競合,そして70年代以降のモータリゼーションには勝てないのですね。

先日オフ会が行われた茨城県の県南地域。
ここには4つの私鉄がありました。常総鉄道(取手-下館),竜崎鉄道(佐貫-竜ヶ崎),筑波鉄道(土浦-岩瀬),鹿島参宮鉄道(石岡-鉾田)の4つ。
戦時中に行われた企業統合では,常磐線を境に西側2つ(常総+筑波)で常総筑波鉄道,東側2つ(鹿島参宮+竜崎)で鹿島参宮鉄道。これが1965年に京成電鉄の影響下で対等合併して 関東鉄道 となり“地方私鉄大淘汰時代”を生き残ったものの,1980年前後の“第2次淘汰”で今度は南半分の 常総+竜ヶ崎 が関東鉄道に残って,北半分の 筑波・鉾田(鹿島) が1979年にそれぞれ分離することになりました。戦時中の 西・東 から 南・北 という組み合わせの変換。で,結局は“北”の2路線が最近までに消滅して,今の関東鉄道は“本体である常総線”に“飛び地の竜ヶ崎線”という体制に見える,というわけです。
[76958] 2010年 12月 4日(土)11:27:35Issie さん
JR線の飛び地
[76956] おがちゃん さん
これから「飛地区間」が増えていくのか、注目したいところです。

三セクに移管される並行在来線ともども,今後の経営に大きな不安が残りますから,無邪気に楽しんでもいられないのですけどね。
今のところ,2014年度の 長野“行”新幹線…,もとい,晴れて名乗れる「北陸新幹線」の金沢延長で 長野-直江津-金沢 間の切り離しと三セク移管が予定されているので,七尾線(津幡-和倉温泉)が孤立することになります。もっとも,七尾線の列車は金沢に直通していますから,「孤立感」は少ないかと思います。
在来線としては,以前にも話題のあった 大糸(北)線(南小谷-糸魚川) が「JR西日本」の路線として孤立しますが,北陸新幹線自体は 上越(脇野田) 以西が西日本の路線となりますから,糸魚川で接続するという点でこれは八戸線と同じパターン。
高岡では城端線上に「新高岡駅」が設けられるので,路線としては 氷見線 が孤立しますが,これは 高岡 で城端線と接続,さらに 氷見・城端線 として孤立する路線が 新高岡 で北陸新幹線と接するので「飛び地」となることは免れることができますね。この 氷見・城端線 という“ひとつづきの路線”は,国有化(1920年)以前の「中越鉄道」が復活するようにも見えます。

1945年6月19日までの旧宇和島線

実は,こちらに注目。
予讃本線の 八幡浜-卯之町 間延長で 宇和島線 が孤立状態から脱したのが,この日。予讃本線が八幡浜まで来たのが 1939年2月6日 で,宇和島側の 北宇和島-卯之町 間が「宇和島線」の名で開業したのが 1941年7月2日。時期の遅さもそうなのですが,何ともすごい時期に工事が行われていたわけです。
[76941] 2010年 12月 1日(水)00:17:32【1】Issie さん
京成電車で初詣
[76940] 紅葉橋律乃介 さん
「お寺」は毛がないから「発毛で」は行かないでしょう

一瞬納得しそうになったけど,初詣に行きますよ,お寺。
関東地方で人気の初詣ポイントの 成田山 も 川崎大師 もお寺です。私は今年のお正月,ラーメンを食べに行くついでに 善光寺 に初詣に行きました。
それに,最近のお坊さんは“発毛”している人も多いし…。少数派だけど,神社でお葬式,というのもあるし,お寺で結婚式ってのもあるようです。

[76939] 白桃 さん
「お寺」と「神社」の違いを判らないヒトがいた

ご利益(りやく)を求めるだけだったら,どっちだっていいんでしょうけどね,お寺とと神社とではとりあえず“お参りのお作法”から違いますから,一応は違いを知っていた方がよいのは確かでしょうね。
大きいお寺や神社の場合,明治の初めに無理やり分離させられるまでは両方一緒にあるっていうパターンも多かったのですが,それでも「お寺部分」と「神社部分」には分かれていることが多かったようです。一応,役割が違いますから。
でも「神主の総元締め」である天皇が,譲位した後に出家して「お坊さん」になる,というのは明治以前ではよくある光景でしたよね。跡継ぎ以外の天皇の子どもは,早いうちからお寺に入ってお坊さんになりました。後醍醐天皇なんか,譲位も出家もしない“天皇”のまま,幕府を倒すために仏教式のお呪い(調伏)をしたりもしていたとても熱心な仏教信者でした。
難しいことを言い出せばそれなりの精密な理屈があるのですが,普通の人にとっては「お寺」であれ「神社」であれ,願いをかなえてくれればそれでいい,というのが一般的な日本人の感覚でしょう。
ま,それでよろしいのではないか,と。あとは「常識」に則ってそこにふさわしいお参りができれば。
[76910] 2010年 11月 28日(日)10:56:05Issie さん
ととりべ
[76905] 白桃 さん
鳥取、名張、安来なんかもそうでしょうか?

「なばり」って,「とりとり(鳥取)」と同じように動詞の連用形から派生した名詞のように見えますね。ただ,「名張」という漢字表記はそれほど絶対的なものではなくて,日本書紀の壬申の乱の下りでは「隠」と表記されています。「隠」がどうすると「なばり」と読めるのか,よくわかりませんが。

「鳥取」の古い時代の読み方は「ととり」で,これは「鳥を取る→とりとり」という動詞に由来するのでしょうが,地名としての「鳥取」(因幡=鳥取県だけでなく,和泉=大阪府などにも分布)は,“鳥を取る”という行為(動詞)そのものから直接名づけられたというよりも,6世紀の“部民制”の下で鳥を取ることを生業とする専門家集団として編成された「鳥取部(ととりべ)」に由来するものと思われます。「鳥飼」「猪飼」「犬飼」「玉造」などもそうでしょう。「服部・羽鳥」も現在の漢字表記ではわからないけれども,由来は「機織(はたおり)部」ですね。

動詞から直接…というと,これは集落名でもないですが,千葉県勝浦市の海岸に「おせんころがし」という地名があります。“おせん”という女性が転げ落ちた,というのが事実かどうかはわかりませんが,これなどは「転がす」という動詞から直接地名化したものと思っていいでしょう。「杖突峠」などというのも,このタイプかも知れませんね。

で,「安来」はどうか? …というと,とりあえず漢字表記(“来”という字)は無視しておいた方がいいように思いますが。

ところで、「博多」の語源は???

あの辺り,古く後漢の時代から「な」という地名であったわけで,遥かに時代を下って 小早川秀秋 の「名島城」や現代の西鉄「名島駅」につながるわけですが,その港(奴の大津)に付けられた「博多」という地名も古くて,だから語源はよくわからないみたいですね。
“金印”の時代から半島や大陸に対する玄関口であり続けたから,というわけで,中国語の「博多」が日本語の発音に訛って「はかた」になった…,なんてことはまさかないとは思うけど。
とりあえず,「博多」と表記しないまでも「はかた」という地名自体はほかの地方の沿岸部にも多く分布しますから,語源はそちらに求めた方がいいと思います。
[76899] 2010年 11月 27日(土)10:51:41Issie さん
起こしてお呉れ
動詞・形容詞地名のつづき
そういえば,動詞そのもの(に見える)地名がありましたね。

 「起(おこし)」…愛知県一宮市
 「呉(くれ)」…広島県呉市

ただし,「呉」の場合は動詞(呉れる<呉る)からの派生というよりも,中国の「呉」に由来する元からの名詞であるように思います。
「起」の由来は何だか。

ただ,一般に流布している地名の由来は,たいてい語呂合わせであったり,牽強付会であったり,要は「伝説」であって,ほとんど信用ならないものですが。
[76897] 2010年 11月 27日(土)02:05:31【2】Issie さん
相楽郡
[76892] 白桃 さん
日本の地名というか自治体名に形容詞とか動詞から派生した例

自治体名に限定すると例を探し出すのが面倒くさそうなので,とりあえず地名一般。

動詞由来の地名(直接派生したものに限らず,派生名詞によるもの含む,…というよりほとんどがこのパターンだと思われるが)は,結構多そうです。思いつくだけで,

 追分,沓掛,矢作(←他表記多し),須走,石打,相生・相老,鳥飼,杵築,板付,……

本来は動詞そのものなのに,(たまたま用いられている)漢字表記のせいで全く無関係の名詞に見えている例も多いかもしれません(逆も真)。

形容詞だと,たとえば

 白井,黒井,赤井,高井,若井,…

などの「×井」シリーズ。この「…い」というのを“音便形”(口語体形容詞の終止形語尾)とみなすか,あるいは文字表記を馬鹿正直に信じて「井戸」と解釈するか。もちろん「井」は本来「ゐ」で,音便形の「い」とは別の音のはずですが,少なくとも現在の地名に直接連続する“村”が成立・編成された中世末から近世初期には相当に混同が進んでいたようですから,違いを気にする必要はないでしょう。
文語体連体形を思わせる「荒木」「黒木」などの「…き」シリーズも,たくさんありますね。
形容詞の語幹だけの「荒(あら)」「高(たか)」という地名もあるかも知れません。全国各地に存在した「たか郡」(多可,多賀,…)も,もともとは「高」だったかも(語源を「正しく」伝えるという点で,漢字表記はほとんどアテになりませんから)。ただ,たとえば「赤」「白」などになると,形容詞語幹だか名詞だか区別がつきません(区別する意味もないのだが)。

気になるのが,山城南端の「相楽郡」。近世以降の読みは「そうらく」ですが,古代の読みは「さがらか」。何か,形容動詞っぽいですね。
[76867] 2010年 11月 23日(火)21:24:45Issie さん
紀勢
[76865] k-ace さん
「紀勢」の範囲は特定できない?

ね?
私は,伊勢のうち紀勢本線沿いの区域,というほどの意味なのかな,と思っています。

あくまでも気象注意報や警報を出すための単位ですから,別に県の行政区分と一致しなくてはならないものでもないし,ましてや「郡」などという苔が生え消滅しかかっている過去の遺物にこだわる必要もないと思っています。ただ,伝統的な区分とあまりにかけ離れていると,それはそれで混乱の元になるとも思いますが。

気象庁予報警報規程に「紀勢・東紀州」という地域単位(二次細分区域)が登場したのは1997年5月20日に公布された改正告示(施行は6月3日)です。この時に一次細分区域の「北中部」と「南部」の境界が北に移動し,新たに設置された二次細分区域の「伊勢志摩」が「北中部」から「南部」に編入されました。その際,多気郡大台町と宮川村だけが「伊勢志摩」には含まれずに,従前の「南部」の区域と合わせて「紀勢・東紀州」となりました(詳しくは こちら)。
明らかに「紀州」ではないこの区域,「南勢」と呼ぼうにもそれが「伊勢志摩」と「北中部」のうちの「中部」にもまたがっていて,この2町村だけを「南勢」と呼ぶわけにはいかない。さらに従来から「南部」であった 度会郡大宮町・紀勢町・大内山村 も(一部を除いて)「紀州」ではないわけで(やはり「南勢」の一部),そこでとりあえず紀勢本線沿線だから「紀勢」と呼んでおこう…,そんなストーリーでしょうかね。

東紀州(Wikipedia)

私が Wikipedia を根拠としたくないそもそもの理由が,長野県の「北信地方」について 大北地域(大町市+北安曇郡) を含むという記述があった,ということにあります。確かに長野オリンピック関連の開発で特に白馬地区と長野市のつながりが格段に強まり,あるいは松本の影響力が薄まったかもしれないというのは事実だけれど,それが「北信」「中信」という地域区分の変更にまで及ぶのか。その後,記述は少し改善されたけど,「水内地方」なんて言うのだろうか。逆に,私が知らないだけなのかもしれないけれど。
特に地理関係の記事については,どうもそれを書いた人の思い込みが払拭しきれていないような疑念があって(ある地域の“コアな”ことがらについては,他者が直しづらいものがあります),信用しきれないものがあるのです(中には基本的なところで“明らかな間違い”があります。気が付いたところでは私も直すのですが,とても直しきれません)。
[76864] 2010年 11月 23日(火)18:12:28【1】Issie さん
東紀州対策室
何か(やっぱり)昔も同じようなこと言ってますね,あたし。

[76861] グリグリ さん
Issieさんの最初の記事番号は[54]であることを全員が記憶した

私は全く記憶いたしておりませぬ。でも,なぜ?

[76857] グリグリ さん
東紀州ってあまり馴染みがなかったなぁ。

三重県庁の行政組織 を見ると 東紀州対策室 というセクションが設けられているようですね。県行政上,特別な地域単位呼称として「東紀州」が用いられているのでしょうね。これがたとえば長野県の「東信・北信・中信・南信」のように,お役所の外の一般県民にどれほど浸透しているか,県外の私にはわからないのですが(長野県の4区分だって,元々は筑摩県を合併した後の大・長野県の行政上の区分があってのことで,そんなに古い時代にさかのぼるとは思わないのですよ)。

ちなみに,うちのサイトで10年ほど前に作った (出典は三重県の当時の条例)では,三重県は県内を7地区に区分して「県民局」を設けています(以下の順序は条例上の正式なものではありません)。

 伊賀(上野市),北勢(四日市市),津(津市),松阪(松阪市),南勢(伊勢市),紀北(尾鷲市),紀南(熊野市)

管轄区域は当該ページを見てください。現行の「県民センター」は「北勢」を「桑名・四日市・鈴鹿」に3分割して,地域名でなく所在地名を冠するようになっています。

私は 気象区分 で「東紀州」という地域呼称に初めて出会ったのですが,ここでは「紀勢」というという呼称も用いられていて,それが「紀勢・東紀州」という1つのまとまりになっています。では,「紀勢」と「東紀州」の境目はどこなのでしょうね。

 
[76856] 2010年 11月 23日(火)11:36:35Issie さん
腐った…
[76853] 白桃 さん
関東の人だのにコレが嫌いだとは・・・

私は温泉でもないのに出てくる温泉卵が嫌いなのですが(温泉でも嫌い),やっぱりアレなんですかね。
でも何でなのか,わからない…。
[76854] 2010年 11月 23日(火)11:20:31【1】Issie さん
東海東山地方
[76852] 伊豆之国 さん
岐阜県(美濃・飛騨)は東山道、三重県の紀伊の部分は南海道なのですが‥。逆に山梨県(甲斐)はなぜ東海道なのか、今思うと不思議なのですが‥。きっと昔は富士川の水運で駿河と深くつながっていたのでしょうか?)。

たとえば飛騨の北端の白川郷や神岡鉱山(カドミウムは日本海側へ流れて行ってしまった)で考えると,何でここが「東海」なのか不思議に思ってしまうのですが,やはり岐阜・名古屋間地域の濃密な関係から,こちらに引っ張られるのでしょうね。
鉄道網も,結局は美濃(関ヶ原)~上野(碓氷峠)間で中山道(旧東山道)とは別のルートになってしまいましたから,近代以降「東山地方」としての括りは成立しにくくなったのでしょう。東海道本線も東海道新幹線も高速道路(名神高速)も関ヶ原を通過する今,国道1号線だけが鈴鹿峠を越えることの方が不思議なのかもしれません。
私たちは,東海道と東山道(中山道)を比べて前者がメインで後者が迂回路,のような感覚を持っているのですが,古代では東山道の方がメインで,東海道はワンランク下のローカル線という位置づけだったようです。陸奥があるのは“東山道の果て”ですね。東海道が浮上するのは,海沿いルートの上に位置する鎌倉が東国の中心として勃興し,次いで小田原,江戸が関東の中心として繁栄してからのことだと思います。

さて,ここ に掲載されている「全国七道駅路図」を見ると,甲斐国府(現在の石和町,…ぢゃなくて,笛吹市)が思っているよりも東海道本道に近いことわかります。
古代の東山道は伊那谷廻りで善知鳥(うとう)峠を越えて信濃国府のある松本平へ入っていたようですが,このルートだと伊那谷から諏訪盆地を抜けて富士見高原を越え…,と意外に面倒だし遠い。となれば,甲斐国は東海道に所属する方が自然かな。
※この地図をよく見ると,甲斐国府へのアプローチは富士川沿いではなくて,富士山の東側から甲斐に入っていますね。足柄経由であった東海道の御殿場付近から籠坂峠と御坂峠を越えて甲府盆地へ入るルート。ほぼ同じルートを現在も富士急バスが走っています(富士吉田で分断されていますが)。

なお,この地図は平安時代のものであるようで(延喜式によるのでしょうか),相模国余綾郡(よろぎ。現在の大磯町付近)以東が内陸経由になっていて,武蔵国府(現府中市)へは東海道からアプローチするようになっています(だから武蔵国は東海道に所属)。けれども既にご案内のように,東海道は当初,湘南海岸沿いに横須賀の走水に向かい,浦賀水道を渡って 安房→上総→下総→常陸 の順に進み,武蔵国府へは上州の高崎付近から後の鎌倉街道と同じようなルートで北からアプローチしていたのですよね。だから,武蔵国は初めのうちは東山道。
[76831] 2010年 11月 21日(日)02:01:27Issie さん
粟島とは?
[76821] YT さん
沖縄島 / 計羅摩島 / 戸無島 / 久米島 / 粟島 / 伊恵島 / 伊是那島 / 恵平屋島
喜界島 / 大島 / 徳之島 / 永良部島 / 与論島
宮古島 / 八重山島
(スペースの都合で島名だけ抽出して改行を省略しました。)

私が興味深く感じたのは,薩摩藩が直接支配下に置いた奄美と首里王府支配下の沖縄および先島をまとめて一括りにしていることでした。もちろん以前に話題になったように,奄美(大島郡)が「大隅国」に編入されたのは明治になってからですから,「琉球(国)」の中に括らざるを得ないのでしょうが。

一部の島の名前の表記が現在と違いますが,

 計羅摩島=慶良間諸島,戸無島=渡名喜島,伊恵島=伊江島,伊是那島=伊是名島,恵平屋島=伊平屋島

ということでしょうかね。「粟島」は 粟国島?
「イヘヤ島」の表記,「エ」と「イ」が混同されていますね。それ以前に「ゑ(恵)」と「え」の区別がありません。もっとも,ウチナーグチの「標準語」であろうところの首里・那覇方言では本来,wi(ヰ)と i (イ),wee(ヱー)と ee(エー)はそれぞれ区別されるようです。ただし,よく知られているようにヤマト(本土)の言葉の“短いエ”はウチナーグチでは“短いイ”に合流して,だから「恵平屋/伊平屋」という表記の混同が起きるのですね。
首里・那覇方言には,さらに ア行・ヤ行・ワ行 について音節のはじめで“喉をつめる/つめない”というヤマトの言葉にはない区別があって,これはカナで表記することが(そのままでは)できません。ウチナーグチではなく,実際に通用している「ウチナーヤマトグチ」で区別されているかどうか,ヤマト人の私には聞き分けられませんが。

それはともかく,

[76816] YT さん
郷帳の方では完全に日本に組み込まれており、琉球が日本に組み込まれた時期について考えさせられます。

ここは少し慎重にとらえた方がいいように思います。
少なくとも,“ヨーロッパ標準”で彼らが勝手に構築した(でも近代以降の世界では誰もが従わなければならない)「国際法」に基づく“近代国家”の概念としての「領域(領土)」という感覚で「組み込まれた」と捉えるのであれば。
[76830] 2010年 11月 21日(日)01:20:06【1】Issie さん
水高もあるでよ…
[76829] おがちゃん さん
旧制高校とオフ会の関係
は完全に無くなってしまいましたね。こじつけるのも難しそうですし・・・。

大丈夫。
「ナンバースクール」(一高~八高)というシバりをはずせば,茨城県には「(旧制)水戸高等学校」がありました。そこの代打ということで。

ちなみに,「九高」所在地となるはずだったのが 松本 か 新潟。お互いの熾烈な誘致合戦が加熱しすぎて絞り切れず,結局,両校同時開校。どちらかを「九高」とすることもできず,ナンバースクールの時代は終わってしまいました。
松本の不倶戴天のライバルは長野だけではなかったのですね。
その悔しさをまぎらすためか,旧制松本高等学校の校章には放射状の線が「9本」あしらわれています。

というわけで,「九高」所在地の 松本 or 新潟 はいかが?
[76727] 2010年 11月 10日(水)00:57:43【2】Issie さん
弟の橘姫
[76725] hmt さん
妹背

親族呼称というのは,どの言語でも体系立っているように見えて結構複雑ですね。日本語の場合もそうで,本来列島内でできあがった“ピュアなやまとことば”の体系らしきものの上に,全く違った体系を持った中国語由来の漢字語が入って来て,それらが混じりあった上で改めて親族呼称の体系が再構築(中には見当違いの思い込みによる類推も含む)されたもので,やっぱり複雑です。

男から見て女のきょうだいを意味する「妹」の訓は、「いも」が本来の形で

辞書を見ると、「妹(いも)」←→「兄(せ)」とあります。

ここも年長/年少を区別する現代語の あに/おとうと,あね/いもうと とは違って,「せ」(男きょうだい)も「いも」(女きょうだい)も長幼の区別はなかったようです。必要に応じて elder/younger で区別しなくてはならない英語の brother, sisiter と似ているかもしれません。そして,これは hmt さんのご説明にある通り,異性のきょうだいに対する呼び方。「いも」は男から女のきょうだい(現代語の姉または妹),「せ」というのは,女から男のきょうだい(現代語の兄または弟)を呼ぶときの名前です。
同性のきょうだいの間では,年長者(elder)つまり 妹から見た姉,弟から見た兄 は「え」,年少者(younger)つまり 姉から見た妹,兄から見た弟 を「おと」と呼びます。
「え」という呼称は,たとえば 中大兄皇子 の「大兄:おほえ」という呼び名に見ることができます。あるいは干支(えと)の「え」(きのえ:甲,ひのえ:丙,つちのえ:戊,かのえ:庚,みづのえ:壬)。
「おと」には男女の区別なく「弟」という字が充てられました。だから,女性なのに「弟橘媛(おとたちばなひめ)」という名前が成立するのです。「おと」には「乙」という字も当てられました。「乙姫(おとひめ)」とは本来,年長の「大姫(おほひめ)」に対する“年少の娘”という意味です。そして,干支の「と」もこれに由来。
現代語の「いもうと」が「いもひと(妹人)」の転訛であるように,「おとうと」は「おとひと(弟人)」の転訛であると考えることができそうですが,この「いも」と「おと」は元は別の系列の呼称だったのですね。

さらに,「あに」「あね」は別の系列から,この体系に加わったようです。そしてこれらが混じりあい,再構築されて現代語の あに(兄)/おとうと(弟)・あね(姉)/いもうと(妹) という体系ができあがりました。その間に中国語由来の「きょうだい(兄弟)」という語が,“男用”の漢字しか使っていないのに,(日本語では)“男だけ”でなく,“女どうし”あるいは“男女混合”の場合にも使われるようになりました。その場合,「兄弟」という表記が何となくしっくりこないので,「きょうだい」と かな書き するしかない…。

そして古代に立ち戻って,お互いの間を“契(ちぎ)り合った”男女間で互いに「いも(妻)」,「せ(夫)」と呼ぶのは,このきょうだい間の呼称から派生したものなのでしょうね。で,現代の地名に現れる「妹背(いもせ)」というのは,語源である「きょうだい」ではなくて,もっぱら「夫婦」という派生的意味で使われているものだと思います。

「妹尾」の場合は「せのお」

ここで「妹」を「せ」と読ませるのも,このあたりの“複雑な事情”に由来するものなのかもしれませんね。
[76721] 2010年 11月 9日(火)19:39:10【1】Issie さん
讃美歌430番
[76711] おがちゃん さん
「兄弟姉妹」コレクション

大龍エクスプレス さんからのお知らせ([76720])にある「妹背橋」ほかの「妹背」地名ですが,具体的に「いもうとせ」と読む証拠があるのでしょうか。
というのも,普通この字は「いもせ」と読むからです。
プロテスタント系の教会で結婚式をやると必ず歌われる 讃美歌430番 がこの言葉で始まります。
「妹背(いもせ)をちぎる家のうち…」

「いもせ(妹背)」というのは万葉時代の古い言葉で「夫婦」(いも=妻,せ=夫 だから正しくは「婦夫」)という意味。古事記の“黄泉の国”のくだりでも,お互いの絶縁と対立が明らかになったイザナキ(夫)とイザナミ(妻)が,それでも互いに「愛(うつく)しき我(あ)が汝背(なせ)の命(みこと)」(イザナミがイザナキを),「愛しき我が汝妹(なにも)の命」(イザナキがイザナミを)と呼び合っています(読みと表記は岩波文庫版『古事記』倉野憲司校注による)。
これを「いもせ」と読むから,「妹背牛」を「もせうし」と読めるのですね。

だから,普通は「いもせ橋」だったり,「いもせ山」だったり,「いもせ滝」などと読むのではないかと思うのですが。
[76618] 2010年 11月 3日(水)10:26:13Issie さん
「せ」の方が“訛って”いた
今日は「憲法公布記念日」です。昔は天皇誕生日でありましたが。

[76614] 白桃 さん
夕刊紙

そのうちの1つはグループ内の朝刊紙も含めてもともと「勇まし」くて,最近はその勇ましさが結構人気あるみたいですからね。しかも,ウチだけでなく,まわりみんなが勇ましいので困ったものです。太平洋の向こうの“ねずみの親玉”も…。今日の午後には大勢が判明するようですが。

[76610] oki さん
少なくとも徳島では、「くゎ」の発音は残っていません。

チャーザァ村でも「くゎ」を発音し,しかも「か」と区別していたのは ばあちゃん だけでした。伯父・伯母の世代(大正生まれ)では,もう怪しかったと思います。
方言関係の本で,越後方言には「“開合”の区別」がある,とよく書いてあります。/アウ/由来の/オー/(開)と,/オウ/由来の/オー/(合)とを区別するもので,16世紀後半のキリシタン文献のローマ字表記でも区別して表記されている,というもの。越後方言では,前者について口を開いた“広いオー”で発音して,普通の「オー」で発音する後者と区別する,ということになっています。実際,ウチのいとこは,この“広いオー”で「なごーか(長岡)」などと発音しています(チャーザァ村は,今や「長岡市」です)。
でも,いとこや,その子どもたちはもっぱら“広いオー”ばかり使っていて,逆に“狭いオー”は使っていないように感じます。つまり,共通語の“標準的発音”と違う母音を使っているだけで,“開合の区別”はもはや行われていない,…らしい。で,さらにその“広いオー”も,“標準的なオー”に吸収されつつある。

「しぇんしぇい(先生)」

/se/ という音節については,たとえばキリシタン文書などの時代には「シェ」と発音するのが“標準的”で,「セ」と発音するのは“関東訛り”とされていたようですね。日本の中心が西の方にあった時代ですから。
いつでも「シェ」と発音している,あるいは「シェ」と「セ」が(時と気分によって)入り混じって区別が行われていない,というのなら“違う文字”で書き分ける必要はなく,「せ」と書いて俺ん所ではそう発音するんだ,と強弁してしまえばそれで済みますね。
でも,単語によってきちんと「シェ」と「セ」を使い分けているのなら,それを書き分けなければなりません。昔,ウチのばあちゃんが「クヮ」と「カ」を使い分けていたように。

ところで,

[76579] oki さん
東京都江戸川区堀江町/千葉県浦安市堀江(1~5丁目)

これは私も紹介しようと思って,思いとどまったことがあります。
江戸川区側が全部「南葛西」になってしまった,と思ったからです。改めて地図を見ると,旧江戸川の堤外に「堀江町」が残っていたのですね。
[76605] 2010年 11月 2日(火)23:07:58【1】Issie さん
まっと くゎし くえ
「清」
気になって確認してみたら,「シン」は清朝よりも早く“唐音”で入って来ているのですね。
「唐」の時代ではなく,「宋」の時代以降の発音ですが。これも仏教,というより禅宗臭い。

さらに正式には「くゎんせい」

もう四半世紀前に亡くなってしまいましたが,うちのチャーザァ村のばあちゃんは,一緒にお茶を飲んでいると,よく「まっと くゎし くえ(もっと菓子食え)」と言っていました。語頭の イ と エ の区別がなかったり,ユ と ヨ の区別のない中越方言ですが,「クヮ (kwa)」という音が残っていたのです。
私は子供過ぎて気が付かなかったのですが,三木武夫首相も「国会」を「こっくゎい」と発音するので有名だったとか。この人は徳島の方ですが,ちょっと前までは「くゎ」という音がまだ聞けたのですね。
でも今はどのくらい残っているんでしょうね。

そのような発音が行われていないとすると,これは表記上の問題ということになります。すでに現代仮名遣いでは認められていない表記ですね。でも,固有名詞だから許されるのかな。
現代仮名遣いのルールに従えば“普通名詞”では許されない「あづま」「あづみの」も固有名詞だから許されるわけで。

※…でも,本当は「個々人の(名前の)表記」について許されているのであって(「現代仮名遣い」前書き3),公的機関による公式名称,つまり地方自治体による公式地名には許されないと思うのですよ。だって「法令,公用文書」(同前書き1)に正しく準ずるものなんだから。本当は「あづみの」を「正しい」とするなど,“お役所”としては許されないはず…,なんじゃないかなぁ。
でもまぁ,現行の「現代仮名遣い」はあくまでも「よりどころ」(同前書き2)だから…。
[76598] 2010年 11月 2日(火)21:31:37【2】Issie さん
冬の元気なご挨拶
[76597] ぺとぺと さん
「せいしん」が一般的な呼び名なのだと認識を改めていたからです。

「清」を「シン」と読むのは伝統的な日本語の“音”にはないイレギュラーな読み方ですから,奈良時代以来の“漢音読みを公式の読みとする”という原則からすれば「せいせい」であるべきなのでしょうけどね。でも,この「原則」には数えきれないほどの例外があって,そもそも「平城京:へいじょうきょう」というのが漢音ではありません。ただし,「平城時代」(奈良時代)に「へいじょうきょう」ないしは「へいじやうきやう」と読んだかどうかは,わからないのですが。
「シン」という読み方は,やはりお隣にあった「清国」「清朝」でなじんだおかげなのでしょう。学校で教わる戦争の名前から,油屋さんやラーメン屋さんの名前でも親しんでいますから。それでわざわざ「せいしん」を選んだのか,いつの間にかそうなっちゃったのか,どちらなんでしょう。

洛西(「らくせい」と「らくさい」)

清朝がらみで,私は永らく「西大后」を「さいたいごう」と読むのか「せいたいごう」と読むのか悩んでいました。
「西:セイ(漢音)/サイ(呉音)」では,「関西大学」と「関西学院」のペアーが有名です。どちらが「かんさい」で,どちらが「かんせい」か,“東夷”(あずまえびす)には区別できません。
[76361] 2010年 10月 22日(金)00:00:29【3】Issie さん
がんばれ,がんばれ,スワローズ!
今日は,土曜日の部活の振り替えで午後お休み。そこで横浜駅ビルでお昼を食べた後,京急の「空港急行」(←正式名称忘れた)に乗って羽田に行ってみました。ところが,肝心の京急蒲田の前後で寝てしまって…。せっかく快特をやりすごして急行に乗り,蒲田の折り返しを体験しようと思ったのに。気を取り直して,本日開業の新駅で下車。本日オープンの施設へ。
電車から降りてエスカレーターに乗り,施設の3階(出発フロアー)に行くまでは人少なめ,と思ったのですが,3階にあがったらやっぱり人がたくさんいました。平日とは言え,初日だからでしょうかね。
4階のレストラン・売店フロアーは「江戸風」の街並み。日本料理のメニューに併記されている説明的な英語が面白いですね。ここは人でいっぱい。でも,高い。超円高の昨今,安いドルを持って日本に来たあちらの方,手が出せるのかしら。
…なんて思いつつ歩いていたら,カメラを従えた着物・おしろい姿の若い女性が…。でも,どうもよく見ると舞妓さんみたいなんですよね。江戸だったら,「おいらん」か,せめて「ゲイシャ」の方が,欧米人のステレオタイプなエキゾチシズムにアピールすると思うんですけどね。今日はまだ,欧米方面からの便は乗り入れていませんが。

というわけで,12チャンネルの番組も東京モノレール([76357] k-ace さん)。

[76357] k-ace さん
多くの鉄道ファンも同じように感じているはず

私は別に感じないんですけどねぇ。
「つばめ」が東海道の看板列車から九州南端の特急列車になって久しい今さら,「さくら」の“格”を語られてもねえ。「みずほ」だって,それなりに重みのある名前だと思いますよ。「はやぶさ」が“北”にとられてしまったこともあるのでしょうが。
「さくら < みずほ」を問題にするなら,何で「つばめ < さくら」状態に文句を言わないのか。ただの「特別急行」に過ぎない「桜」(←どんどん“現代表記”に改めましょう。同じ漢字です)に比べて,「燕」は「超特急」ですよ。どっちの方が“格”が上だか。
地元の異論は尊重しても,「おたく連中」の訳知り顔な“雑音”は放っといていいよ…なんて,私はこの「異論」の方に反発を覚えます。
[76355] 2010年 10月 21日(木)00:52:32【1】Issie さん
エロイムエッサイム まわれ地獄の魔法瓶
[76354] 伊豆之国 さん
Day Dream Believer

何か言い訳めくのですが,私はリアルタイムでは知らないのですよ。後から聴いて知ったのです。
ちょうど我が家にテレビがなかった(であろう)頃に放送された「宇宙少年ソラン」や「レインボー戦隊ロビン」を再放送で知っているように。先ごろNHKで話題になった「悪魔くん」も…。
それにしても,"Day Dream Believer" はどうも何年か周期で町に聞こえてくるようですね。最近もCMで流れていたような。

ご当地グルメ

私はSAを全く考慮しないで,「ローメン」の伊那市を連想しました。食べたことはありません。ザザ虫なら食べましたが。ソースカツ丼は,駒ケ根市ならぬ望月町(現佐久市)で食べました。蛇足ながら,みそカツは「県副都」の学食の定番メニューでした。一応,名古屋圏でもあるのですね。某大学の“第n公用語”は名古屋弁でした(当時)。

島崎藤村の故郷・中津川市

これ,違和感ありますね,思い切り。
そもそも第1回目の越県合併(1958年)で旧神坂村が中津川市に編入されたとき,馬籠地区が長野県に残って山口村に編入されたのは,藤村の故郷(馬籠)を岐阜県に渡したくない,という声が強かったから,なんて言われています。藤村は「信州人」。時代が新しすぎて「信濃の国」の5番で歌ってもらえませんでしたが(←当たり前!)。
その山口村が,今回まるごと中津川市に編入されてしまったので,いかんともし難いのですよね。でも,同じ文学者でも一応はあった(?)当時の知事は,まだこだわっていましたっけ。
[76353] 2010年 10月 20日(水)19:38:32【1】Issie さん
[76349] 白桃 さん
F市

市長選や合併話には関心がないので私にはヒントにならないのですが,後の説明文を読むと,きっと「ねずみの町」だと思いますよ。
位置関係上,「隣市」というのは1つしかありませんね。遥かな昔から合併話はあったはずで,それでも独立を保ってきて,あんな姿になっちゃったんですけどね。
「隣市」も文豪や文化人に人気で,一瞬「G市」かと思ったんですが,市長さんはもっと月給をもらってそうです。

ところで,ねずみの町。大阪の類似施設にも行ったことがありますが,私はどちらも好きになれません。アトラクションに余計な情報が大杉。何で物語の中に入らなければならないのか。もっとのどかに遊んでいたいのに。
これは,ねずみの町と引き換えに,なじみの遊園地が閉園されたことへの恨みでもあります。
[76344] 2010年 10月 19日(火)01:57:20【2】Issie さん
181
何でも,京葉線にはまだ201系が残っているようですね。「水色の電車」として。
やはり,あのニュースは「中央線から一時代を築いた赤い電車が引退する」というものなのでしょう。…でも,101系でも103系でもない,“次の世代”の電車だから。

[76343] 星野彼方 さん
11月6日にはNHKで盛大に取り上げていただけると信じています。なんてったってこっちは全国で最後ですから。

これは「おたく度」が高すぎて,無理なんじゃないでしょうか。
「はまかぜ」がなくなってしまうならともかく,新型車両(※)になってそのまま走っているのだから,“カタギの方々”には区別がつかないのでは…。

実は私も正直,ディーゼルカーの181系には思い入れがありません。これが電車の181系なら,思いっきり思い入れがあるのですが。ディーゼル特急なら,やっぱり80系(キハ81形か82形)。所詮,181系は80系の亜流,なんて思っちゃったりしてますから。

同じころ,電車化された「はつかり」が1日だけ復活した,なんてニュースもありました。これが81系ディーゼルカーならね…。
やっぱり,新青森行きの(超)特急は「はつかり」の方がよかったな,なんて思うのでした。

※後で調べてみたら,「はまかぜ」に投入されるのは本当に新しい形式なのですね。でも,やっぱり普通の人には大した違いではないと思います。山陰線からディーゼル特急が姿を消す,という話なら普通の人にもアピールすると思いますが。
[76337] 2010年 10月 17日(日)20:14:48【2】Issie さん
「赤い国電」ラストラン?
鉄ネタ。

数日前に朝日新聞(東京本社版)に掲載されて,むしろ「まだ走っていたのか」という感想の方が強かったのですが,中央線を走っていた「赤い電車」(201系)がいよいよ引退するという話。今日がその日だったのですね。豊田から松本まで臨時列車として走るのだけど,実はこれは回送兼用。そのまま長野工場(←今は何と呼ぶのか?)まで走って解体されるのだとか。
で,それをNHKの7時のニュースで伝えていました。
なぜか泣いている若者は置いておいて,毎日通勤で乗っていたという年配の方は感慨深げでしたね。また「時代」が1つ回った…,というわけ。

でもねえ,大阪に行ったら201系どころか,環状線を103系が走ってますよね。たかだか30年前に登場したばかりの新参者の201系よりも年季の入った正真正銘の「赤い国電」。オリジナルからだいぶ姿が変わっていて,関東人としては非常に違和感があるのですが。
6時45分の関東ローカルニュースならともかく,7時の全国ニュースでとは,今に始まったことではないけれど,相変わらず東京の価値観による東京中心の情報発信です。
まあ,「モハ90系」として登場した後の101系が“赤く”塗装されて最初に中央線に投入されてから50年余り。その中央線から引退,というのはそれなりにニュースバリューのあることではあるのでしょうが。
[76325] 2010年 10月 12日(火)21:37:11【1】Issie さん
経済とは反対に,サッカーの実力では日本の方が「新興国」のような気がするのですが(歴史はともかく),「頂上」なんでしょうかねぇ。まあ,工業力では今やあちらも「互角」ですから,こちら側のサッカーもそうなのかしら。

[76324] 伊豆之国 さん
Day Dream Believer

「湖」のまわりで行われる大イベント。前回は甲子園の某球団に関連する年(実は今年)。次回はこのタイトルに関連する年ですね。
[76309] 2010年 10月 9日(土)23:20:39【4】Issie さん
厩戸皇子 ナザレのヨシュア(イエス)
[76308] hmt さん
「ルカによる福音書」

聖書はユダヤ教とキリスト教,さらにイスラム教でも教義の根本とされる経典ですが,同時に“歴史書”としての性格も持ちます(特に旧約は)。もちろん,わが国の「正史」である日本書紀の記述をそのまま“歴史的事実”として読むことができないのと同じく,あるいはそれ以上に“事実”との照合が必要なのですが。

わが国の国勢調査のマスコットは センサスくん。今年で20歳の成人だとか。この名前は国勢調査の英語名 census (センサス)に由来するわけですが,その語源はラテン語の「ケンスス」(綴り同じ)です。わが国の世界史界では「戸口調査」と訳されることの多いこの名詞,さらにさかのぼると censeo という動詞に至り,手許の "Pocket Oxford Latin Dictionary" には count という英語の訳語が真っ先に載っています。要するに「数えた」のですね。このケンススの実施を担当したローマの行政官が cencor(ケンソル)。現代英語では同じ綴りで「検閲官」という意味になっています。

では,ケンソルが何を“数えた”かと言うと,ローマの市民権保持者の数を数えて,元老院議員や騎士の名簿を改訂していたのだとか。市民の身分や地位の付与・剥奪にかかわる権限を持っていたことから,共和制ローマにおいてはコンスル(執政官)経験者が任命されるものであったそうです。で,その選出が5年ごと。

イエスが生まれたとされる頃のパレスチナは紀元前1世紀末にローマの支配下に入り,ローマの宗主権の下,ヘロデ王が統治をしていました。カエサル暗殺後の権力闘争に勝ち残ったオクタヴィアヌスが「アウグストゥス」(←八月 August の語源)として初代ローマ皇帝となって(ただし彼を「皇帝」と呼ぶのは後の時代からの解釈であり,彼の称号である Principatus(プリンキパトゥス)は「ローマ市民の首位者」というほどの意味です。後から「元首」という意味が肥大化したのですね )下した勅令により,ヘロデ統治下のパレスチナでも戸口調査が行われたのですね。
このページ (pdfファイル)の p.23 によれば,この時の戸口調査は「土地税と人頭税からなる統一的な財政組織」を設定するためのものだったようです。どちらかというと徴税目的であったらしい。ローマ市民権を持たない植民地人は徴兵の対象ではなかったかもしれません。
ただ,戸口調査に当たって「本籍地」に戻らなければならないというのは,ローマによる征服以前から,エジプトやシリア(パレスチナを含む)で(当時から数えて)2000年,あるいはそれ以上前から行われていたものだそうです(弓削達『世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教』河出書房新社,p.16)。

ところで,キリスト教的には イエス・キリスト の「誕生日」(←これ,本当は正しくありません。詳しくは後述)は西暦紀元1年の12月25日(パレスチナをはじめとする西アジアの習慣では暦の1日は前日の日没後から始まる。だから,キリストの降誕ミサ=クリスマスは12月24日の日没後から始まる)ですが,現在では一般にイエスの生年は 紀元前4年 とされています(念のために,「紀元0年」はありません。紀元1年の前年は紀元前1年です)。根拠の1つは「ルカ伝」にある戸口調査が紀元前4年に行われたとされていることにあるのですが,実はこれには歴史的な裏付けはないようです。ただ,その他の情報も突き合わせると,どうも「紀元前4年」でああるらしい,ということ。ヘロデ王の没年とイエスの生年が同じ年で,その没年が紀元前4年であるとされていることも,根拠とされています。
しかし,「紀元前7年」説もあります。要するに,たかだか植民地人の「大工の息子」の正確な「戸籍」が残されるはずもないので,“歴史的事実”がわかるはずもないのでしょう。
ちなみに 12月25日 という日付にも根拠はありません。キリスト教以前の冬至の祭りとの関連が多く指摘されています。そして,1月1日は12月25日の1週間後(8日め)。これはユダヤ教の決まりで生まれたばかりの男の子が割礼を行う「8日め」に相当します(イエス自身,そしてそれ以上にイエスの両親(ヨセフ,マリア)は「ユダヤ教徒」として行動しています。イエスはやがて「異端」に走るのですが)。
1年が「January 1st」から始まるのは,December 25 がクリスマスとして確定したからですね。8世紀のこととされています。もともと,ローマの暦では December が「10番目の月」という意味であるように2ヵ月遅く March 1st を年初としていたのは,よく知られていますよね。
そして,キリスト教では「クリスマス」は「キリストの降誕を祝う日」であって,「誕生日」と認定しているわけではない,というのが“公式見解”なのだとか。別にこの日に誕生したわけでなくてもよくて,とにかく(いつだか別に詮索はしないけれども)この世界に降誕したことを祝うのが12月25日,ということみたいです。
[76305] 2010年 10月 7日(木)23:57:59【1】Issie さん
長作町飛地
[76301] 伊豆之国 さん
千葉市花見川区長作町の飛地

1970年代までにあらかた整理されたと思っていたのですが,まだ残っていたのでしょうかね。

Mapionでは「千葉長作局」の文字が邪魔でわかりにくい箇所があるのですが、YAHOO地図でははっきり飛地と判断できます。

国土地理院の 数値地図2500(空間データ基盤) ではこの「飛地」は無視されています。どうも,この数値地図の行政区分に関するデータの詳細さは市町村によってバラつきがあるようで,やたら細かい「飛地」を拾っているところがある一方で,結構大雑把に処理しているように思われるところもあります。

見たところ,問題の飛地は畑なんでしょうかね。市境となっている道路は元々千葉市に(次いで習志野市に)編入される前の幕張町(村)内の大字実籾と長作の境,さらにさかのぼって明治の大合併以前の実籾村と長作村の境で,おそらくかなり以前からあった道なのではないかと思うのですが,道を越えた村の領域の出入りというものもあったのでしょうか。まさか,道幅半分だけ実籾村,などという芸の細かいことは明治時代に行われたとは思わないのですけど。

小学校に上がったばかりの1970年ごろ,初めて習志野市の市街図(昭文社の都市地図シリーズ)を買ってもらったのですが,当時の地図には習志野市の屋敷町と花咲 対 千葉市幕張町の市境のあたりで相互に飛地が幾らか残されていました。旧幕張町が千葉市と習志野市に分割されたときに,元は1つの大字(明治の大合併以前の1つの村)であった 馬加 を無理やりに分割したからですね。以前に紹介したことのある,農地の所有関係で 千葉・習志野 のいずれの市に帰属するかを決定する,という“但し書き”の主たる対象はこの区域だったと思います。
元は1つだった村(大字)を2つに分ける,というのは難しいのですよね。座間市の 座間・座間入谷,鎌倉市の 腰越・津 のように相互の領域が極端に錯綜しているのには,このようなパターンが多いようです。
話題の 実籾村(幕張町大字実籾) 対 長作村(同大字長作) の場合は,元々別の村でしたから,もう少しスッキリしていると思うのですが。

さて,改めて地図を見ながら現地の様子を想像してみるに,私が自転車で走り回っていた35年前とずいぶん変わってしまっているようですね。当たり前のことではありますが。
一方で,私の住んでいた埋立地の辺りはあまり大きく変わっていないようです(我が家の前の海が陸地になった,という大変化がありますが,それは私が住んでいた時にすでに始まっていたことでした)。
…先頃話題になった 阿武松部屋 なんてものもありませんでしたが,それは蛇足。

今度,久しぶりに見に行って見ましょうか。
[76298] 2010年 10月 4日(月)01:18:54【1】Issie さん
緊急地震速報
最近,福島,新潟と,関東の周辺で(関東自体ではない)やや大きめの地震が続いています。
某ポータルサイトのコメント欄なんかでは,最近の「異常気象」とあわせて(ついでに政治状況も)何か天変地異の前触れではないか,なんて不安が語られたりしていますが,そこはどうだかわからない。ただ,たかだか120年しか生きられない私たちと,誕生以来46億年の地球とでは時間のスケールが違うのではないか,と…。

さて,9月29日17時頃の福島県の地震では,私の携帯電話も「緊急地震速報」を受信しました。何か電話が鳴ってるな,と思ったら…。久しぶりのことなので,呼び出し音を忘れていました。
「久しぶり」…ってのは,前に2度ほど受信していて,これが確か3度目だから。
初めて受信したときは直後に本当に地震が来て,携帯電話の有用性を初めて実感した,なんてことをここにも書かせていただきました。2度目は悪評高い“打ち間違い”。地震は来ませんでした。

今回の速報でも,受信後しばらくたっても職場(横浜市)では揺れが来ず,気象庁のページを見たら最大震度は「4」。これは,今回も打ち間違いか,と思っていたら,後から現地調査をしてみたら,実は震源の近くでは「震度5弱相当」の揺れだったらしい,というニュースが流れてきました。「天栄村」の震度は「3」と発表されているのですが,これは村役場のある辺りでの揺れ。震源に近い 湯本地区 が地震計の空白地域であるために,それが記録に現れなかった。で,公式発表で最も揺れたのが,郡山市や須賀川市などの(市役所ではなく)合併された旧町村役場付近で記録した「4」,ということになるらしい。

ところでこの地震,最初に「福島」と聞いたとき,私は震源を福島県沖と考えたのですが(緊急地震速報が出されるくらいだから,プレート境界型の大地震と思いました),震源は内陸部でした。その日のお昼にも前触れの地震があって,翌日(30日)も余震があったらしい。…と思ったら,30日の夜には,今度は「福島県沖」で地震が発生しているのですね。しかし,29日の地震は“直下型”。本当に揺れのひどかった場所には間に合ったのでしょうか(理論上,直下型地震の震央付近では間に合わないような気もするのですが,これはやむを得ない限界だと思います)。

昨日(10月3日)は新潟県上越地方で地震がありました。今回は,こちら(相模原市)には緊急地震速報は届きませんでしたが,最大震度が「5弱」と気象庁の発表にも記録されてNHKの番組が中断しました。今回は“地震計の網”に引っかかったのですね。5弱を記録したのは,上越市牧区柳島と清里区荒牧でした。元の牧村と清里村の役場の位置です。
ところがNHKが映像を映していたのは 直江津港 と思しき風景でした。そして,「各地の震度」画面の地図で「5弱」の赤丸が打ってあったのは,たぶん 春日山 の市役所のあたり。
確かに,最大震度を記録したのが上越市であるのは確かで,それを市役所の位置で代表させるのも「あり」だと思うし,短時間で旧牧村や清里村まで入るのは無理だから,直江津や高田の風景を使うのも「あり」だと思うのですが,でも何となく釈然としない気持ちがあるのも事実です。何か,どこかに齟齬があるような。
ちなみに,気象庁発表の上越市中心部(高田大手町)の震度は「4」でした。
[76272] 2010年 9月 30日(木)01:15:01Issie さん
いはくにまりふ
[76265] 白桃 さん
岩国(対:麻里布)

[76270] にまん さん
稼ぎ(人口)はあっても所詮は息子

私も にまん さんに同意見です。

1897年に山陽本線(山陽鉄道)が開業した時,海岸沿いを走る鉄道を河口の上流にある岩国市街まで引き込むことができなかったので,やむなく 麻里布 に駅を設置したのですが,駅名は「岩国」としました。現に駅が所在する場所の名前でなく,近隣の大邑の名前を称してその玄関口となるのは,“川向う”の厚木駅,新潟駅,そして三田駅と,きわめてありふれた話です。

ところが岩国の場合は,大正・昭和期に山を越えて徳山への短絡線が建設されることとなり,第一弾として岩国市街の最寄までの路線が1929年に開業しました。こちらが本線になることが予想されていたから,市街地最寄りの新線の方に「岩国」の名を譲り,従来の岩国駅はその所在地から「麻里布駅」に改称しました。短絡線は1934年に徳山まで全通し,こちらが 山陽本線,従来の海岸経由が 柳井線 と改称されました。

それなのに,山陽線の特急・急行列車は山越えを嫌ってせっかくの短絡線(山陽本線)を通過せず,従来のまま海岸(柳井線)経由で運転され,「岩国駅」には停車せず(通らないのだから),「麻里布駅」にばかり停車していました。
列車運行上は,完全に 麻里布 にお株を奪われていたのですね。
結局,1942年に 麻里布駅 が再び「岩国駅」を名乗ることとなり,短絡線上のそれまでの 岩国駅 は「西岩国駅」と改称しました。さらに,1944年には「山陽本線」自体が元通りに海岸(柳井)経由となり,短絡線は「岩徳線」と改称されました。

「麻里布駅」が「岩国駅」に戻れた背景の1つに,1940年に 麻里布町 と 岩国町 が合併して「岩国市」が発足したこともあるようです。
この合併で「麻里布市」が選ばれることは,…まず選択肢にはなかったでしょう。要は人口(稼ぎ)だけで物事が決まるのではなく,言ってみれば“格”の面で明らかな開きがあっただろうと思います。「麻里布駅」を,わざわざ「岩国駅」に戻したくなるほどの…。
[76264] 2010年 9月 28日(火)22:35:16【1】Issie さん
館山
[76262] 白桃 さん
しかし、安房のもとは阿波だったとは・・・アワワ・・・

馬琴さんもそう言っているし,古代にこの地を支配した「阿波国造」の由来もそのようになっている,とても古い時代からの言い伝えなのですが,それが歴史上の「事実」かどうかは必ずしも定かではありません。
もちろん,過去に hmt さんが何度も紹介されているように,たとえば紀州と房総の間に密接なつながりがあったであろうことは多く指摘されていることですから,さらに足を延ばして四国の阿波とのつながりがあっても不思議ではないのですが。

[76253]
「市制施行前に館山北条町を名乗っており、しかも当時は旧北条町の人口が多かったのに、どうして館山市と言う名前になったの?」

館山駅も当初は「安房北条駅」という名前でした。北条にありますからね。1946年に「館山駅」と改称されたようです。「館山北条町」が「館山市」になるのが1939年だから,戦争をはさんで7年(正確には6年半)のタイムラグがありますね。

なぜに「北条」ではなく「館山」が選ばれたか,という問いに対する館山市の公式の答えがあればいいのですが,私はそれを知らないので勝手な憶測をすると,たぶん,「北条」よりも「館山」の方が知られた地名だったのではないか,と考えます。

まず,館山は戦国時代の里見氏の城下町でした。「里見」などというローカルな戦国大名,普通はみんな知らないはずですが,それを馬琴さんが空前のベストセラーで世間にあまねく知らしめてくれました。ただし,「南総里見八犬伝」はあくまでもフィクションであって,史実とはだいぶかけ離れているようです。でも,史実をフィクションが凌駕することはよくある話で,少なくとも「八犬伝ゆかりの地」として「館山」はそれなりに知られていたのではないか,と思います。あくまで,南房総ローカルな中心地である「北条」よりも。
ちなみに,戦国末期に房総の覇者であった里見氏は豊臣・徳川の両者から支配圏を狭められて安房一国に押し込められ,江戸時代最初の年号(慶長)が変わらないうちに改易されてしまったので,館山が近世城下町であった期間は最初期のごく短い間だけでした。田沼時代の天明年間に「館山藩」が復活しますが,それは1万石ほどの極小藩(里見氏の時代は安房一国で12万石)。これが廃藩置県まで続くけど,“城下町館山”とは言い難いものがあります。

もう1つ。「館山」は海軍航空隊の基地として知られていました。時代が時代ですから,こちらの要素の方が大きかったかもしれません。
航空隊が設けられたのが1930年。その後も館山には海軍の施設の集積が進んでいきました。北条ではなく,もっぱら館山に。
そんなわけで,むしろこちらとの関連で「館山」の地名が広く知られていたものと思います。

「館山市」の誕生は,実は中国で苦戦していた陸軍に比べて,まだ海軍は無傷で元気だった1939年。「名」という点では,館山の方が北条よりもずっと上を行っていたのではないか,と推測しています。
[76256] 2010年 9月 27日(月)22:27:58【1】Issie さん
太田裕美 または 大瀧詠一
[76255] ニジェガロージェッツ さん
この鉄道,以前[76254]Issieさんが行かれた頃とは違うルートで走っており,近年はうちの街を通っています。

そうでしたか。確かに私が乗った時には首都の終着駅と同じ名前の町を通過しました。
世界地図上ではやたらと目立つけど,実際に越えてみるとそれほどでもない山脈(話題の町から湖の近くの町までの区間で越える山の方がはるかに険しい)のあたりから西でルートがいくつかあるみたいですね。

実は私はこの鉄道を利用した時,どこを通過するのかよくわからないままに乗車していました。
事典などではよく,この鉄道の西側の起点を山脈東麓の町としていて,それならば今は「別の国」になっているところを通過するのかな,と期待していたのですが(この掲示板的には「連邦構成共和国の“経県値”」が1ポイント増える?),残念なことに地理の教科書に昔はよく出てきた石油の町を通って,結局は同じ共和国内を通過しただけに終わりました。
もっとも,こちら側を通過しても車内で寝ているか,せいぜい駅のホームに降り立って,ヒマワリの種か,ギョーザみたいな肉饅頭などを買うぐらいで,“▲”としても怪しいものではあったでしょうが。
[76254] 2010年 9月 27日(月)21:00:40Issie さん
近江俊郎 または 三波春夫
[76251] 淡水魚 さん
逃亡先

前にも話題にしたことがあるかも知れませんが,私も行ったことがあります。国の名前が今のようになる前に。8月の初めでしたが,気温は30度くらいありました。全然涼しくない。首都に行って初めて気温9度という寒さを経験しました。天気の回復した翌日は首都も暑かったですが。私が首都に滞在したちょうど1年後(同じ日付)に,世界史的な大事件が発生しました。

川の下をくぐるトンネル

調べてみるまで,トンネルがあるなんて知りませんでした。有名な独裁者が掘らせたんですね。私がこの河を渡った時には単線の鉄橋を両方向で共用していたように記憶しています。この町を出たばかりの列車が鉄橋の手前で停まってしまい,しばらく待たされたんじゃなかったかしら。これは大きなボトルネックだな,と思っていたのですが。

緯度のためか夏時間のためなのか

この国はもともと年中“夏時間”で,まわりの国より時計の針が1時間進んでいます。その上,夏には“本当の夏時間”を実施しているので,都合,夏時間を実施していない国と同じ経度帯で2時間の時差が生じます。さらに緯度が高いので…,というわけですね。
この町から新潟または成田空港への飛行機の出発時刻と到着時刻を見ると,ビックリしますね。
[76242] 2010年 9月 25日(土)10:38:15Issie さん
津久井郡
[76240] を書いていて改めて思っこと。

ご案内の通り,4月の相模原市政令指定都市移行・区制実施で旧津久井郡4町の区域は旧市域北部の橋本・大沢地区といっしょに「緑区」となりました。住居表示から旧町名が省かれ,行政上は緑区の下位区分として 城山・津久井・相模湖・藤野 という単位は残るものの,日常生活の上で意識される場面は減るでしょう。特に新住民にとっては。
緑区役所の所在地は橋本。明治以来,津久井郡役所→地方事務所→…→県政総合センター所在地として郡の中心であった 中野 は,旧津久井町の中心としては機能し続けるでしょうが,郡全体の中心としての地位を取り戻すことはないでしょう。
市郡の境界がなくなった今,旧城山町は橋本との一体化を一層深めていくものと思われます。もっとも,相模川を越えた上に地形上開発の余地がほとんどない「湘南」地区は微妙ですが。旧相模湖・藤野2町の区域は元々八王子方面,さらに中央線・中央道を介して東京方面への指向が強いし,相模原市編入で旧市域へのつながりが従来より少しは強まったとしても,中野は素通りしてしまうだろうと思います。

こうして考えると,「旧津久井町」という単位は今後も残るでしょうが,旧4町全体の総称としての「津久井(郡)」という地理的な単位は急速に薄れて消えていく,今がちょうどその始まりの時点なのではないかと,ふと思い立ったのでした。
[76240] 2010年 9月 25日(土)01:24:06【3】Issie さん
立川駅前
[76238] k-ace さん
立川駅前

駅前の景観という点では,やはりモノレールという巨大な構造物の有無が大きな決め手になるのかもしれませんね。
北口側はモノレールの開業以前と以後で,目の前をふさぐモノレールそのもの(と,旧立川基地跡地南東隅の再開発地区)を除けば実はそれほど大きな景観の変化はないのですが,南口側は激変しました。元は「裏口」然として,ロクな大きさの広場もなかったこちら側に,バスターミナルを備えた駅前広場が整備され,広場をめぐって大きなビルが林立するようになったのですから。

※本来,立川の古くからの中心は駅の南側にあるのですが,駅の出口は永らく北口側がメインでした。何より,旧陸軍施設,次いで米軍基地を抱えた“基地の町”として,戦前・戦後を通じた「昭和」の時代,立川の実際の中心は駅の北側だったのでしょう。

実は,南口の駅前広場はモノレールの開業時点ではまだ整備が完了していませんでした。JRの南口とモノレールの立川南駅との間の区画の用地買収が完了しておらず,まだ立ち退きが済まずに営業を続けている店舗がある区画のそばをすり抜けるように両駅間のペデストリアンデッキを先に作ってしまうなんて,けっこう乱暴なやり方をしたりもしていました。今ではきれいに撤去されて,そこに建物が建っていたことが想像しにくくなってしまいましたが。

立川駅前だけみるととても17~18万人都市とは思えません。30~50万人都市に見えます。

唯一の例外を除いて“昭和の大合併”以来全く合併の行われていない…どころか,昭和の大合併でもあまり合併の進んでいない北多摩地域のことですから,個々の市の規模は小さいですよね。立川駅前の景観も,やはり“立川市単独”のものではないでしょう。日野市の北部(浅川以北)や武蔵村山市,何より青梅線を介した昭島・福生・羽村市,さらに青梅市やあきる野市まで“引力”は及んでいるでしょうか。それらを後背地とした上での“あの景観”なのだろうと思います。

対する八王子の場合,同じ市内の由木(堀之内・南大沢)地区は,編入当時はともかく現在では多摩市(多摩センター,聖蹟桜ヶ丘)の勢力圏に組み込まれているように感じます。さらに,かつては都県境を越えて力を及ぼしていた相模原市北部(橋本地区)や津久井南部(城山・津久井)も八王子から離れて,橋本が独自の商業中心として成長してきました。今,八王子駅前の引力が働いているのは八王子市の,それも分水嶺を越えた(どちらも多摩川水系なのだけど)由木地区を除いた区域のみ,という印象があります。かつてのような「多摩地方の中心」(もっと以前は「神奈川県北部の中心」)ではなく,八王子市のローカルな中心,という感覚。
昔は勢力圏内にあった立川,橋本,町田(原町田)などが次々と“独立”していった今,南口再開発でどれだけ盛り返すことができるか…。

ところで,モノレール。
客観的なデータに基づくものではなくて,あくまでも私の感覚による独断によるものなのですが,立川駅の北側はいいとして,南側の日野市南部(浅川以南)や多摩市の住民を立川に呼び込むことに成功しているかというと,どうなんだろう? という疑問があります。
元多摩市民であった感覚でいうと,山を1つと川を2つも越えたところにある立川,モノレールが結んでくれても,やはり「遠い」という感覚は消えません。それにあのモノレール,遅い(ように感じる)し…。

おまけ。

経県値の「宿泊」の定義

睡眠をとろうがとるまいが,そこに“滞在”して一夜を過ごせば,私は「宿泊」と数えます。ただし,交通機関で移動しつつ一夜を過ごしたら,それは「宿泊」とは数えない。
こんな感じです。
[76215] 2010年 9月 21日(火)00:03:12【3】Issie さん
しか
[76214] いっちゃん さん
う~ん、わたしゃ高架駅だと思うのですが・・・。

そういえば,牛のお寺ではなく,鹿のお寺かも知れませんね。
だったら,高架だ(あたしゃ,地平駅時代しか知らないけど)。
「北端」でもあるし。

※なぜか,タイトルが「鹿」という漢字を受け付けない。
[76213] 2010年 9月 20日(月)23:05:32Issie さん
[76212] ペーロケ さん
JRは高架駅となっており

間違っていなければ,ホームは地平にあって駅舎がそれをまたいでいる「橋上駅」ではないかしら。
[76190] 2010年 9月 14日(火)22:28:20Issie さん
山静神
[76189] inakanomozart さん
山静大会

「山静神」というのも,あるにはあります。「さんせいしん」と読むらしい。

神奈川県の松沢知事が積極的で,他の2県の知事との間で「山静神サミット」という会合を2006年からやっています。始めた頃は盛んに宣伝していたのが最近はあまり聞かなくなったなと思ったけれども,ひっそりとやっているみたいですね(去年の記事)。今年もやるんでしょうか。
もっと地道な実務レベルでは,3県の防災担当部局で「災害対策山静神連絡会議」なんてのが組織されて継続的な取り組みが行われているようです。
でも,お役所の中だけ,…でしょうかね。

「山静神」でググってみると,どうも神奈川県のページ(と,松沢さんのページ)ばかりが良くヒットします。この間に山梨県の知事も静岡県の知事も替わっているし,一番積極的そうな神奈川県の松沢さんも替わってしまったら「山静神」という呼称も自然に廃れていくのかな,なんて予感もします。

松沢さん,「知事多選禁止条例」なんてものを作ったから,私はてっきり“三選禁止”と思って来年の知事選挙に立候補しないんだろうと思い込んでいましたが(現在2期目),よく見たら「三選まではOK」という条例でした。なら,来年も立候補するのかな。
※そもそも,当選回数で立候補の権利を制限するのは憲法上疑義がある,なんて意見がついて,地方自治法の改正を待って施行,ということになっていたはずだけど,その後どうなったんだっけ?
[76118] 2010年 8月 29日(日)23:10:15【2】Issie さん
小説・琉球処分
本当は別の本を探すつもりで講談社文庫の棚を見ていたら,たまたま新刊本で表題の本が目に留まったので買って読みました。

 大城立裕 『小説 琉球処分』

講談社文庫としては新刊なのですが,もともとは1959~60年に「琉球新報」に連載された古い作品なのですね。まだ米軍統治下にあった時代の。で,1968年に講談社で単行本化される際に末尾を書き足したとのこと。それがこの時期に文庫化されたというのも,だいぶ意味深なものであるようです。文庫本解説を 佐藤優 さんが書いていることも含めて。

お話は,廃藩置県後の明治5(1872)年5月,「鹿児島県」から派遣された役人が首里近郊の村を視察しているところから始まります。

[76048] hmt さん
翌明治5年正月に 鹿児島県が琉球に派遣した 伊地知貞馨らが 明治維新の変革を説明した

この 伊地知 がこのお話の最初の登場人物の1人です。そして,

伊江王子朝直を正使とする一行は、明治5年9月14日に参朝して上表文を奉呈。これを嘉納した明治天皇から賜った 詔勅 には、「琉球藩王と為し華族に列す」という文字がありました。

ここから,琉球王府の王族・士族たちと日本政府から派遣されてくる役人(伊地知貞馨→松田道之→鍋島直彬)との“堂々巡り”(いくら繰り返しても前に進まない)の攻防の果てに1879(明治12)年の(第2次)琉球処分に至る過程が描かれています。あとがきによれば,新聞連載当時は首里城明け渡し前夜までで連載打ち切りとなり,単行本化の際に前藩王・尚泰が東京に向かうまでの(またも繰り返される全く同じ構図の)攻防から日清戦争直前までの部分が書き足されているとのこと。

当事者たる琉球の王府は、明治4年7月の廃藩置県で鹿児島藩から(理論的には)開放された(かもしれない)ことを知らず、また 11月の第一次府県統合布告により、(新)鹿児島県の管轄下になったことが明文で規定されたことも知らずに 過ごしていたと思われます。

全くこうした状態から,

国王尚泰は、「薩摩の附庸」であった地位から、「琉球藩王」として「藩屏」つまり直轄の地位になった。
従来から将軍の代替わりの時に江戸に赴いてきた慶賀使節のつもりで上京したのに、少し様子が違う。
でも、元々「ノーと言える琉球」ではないし、格が上がったと受け止めて、単純に喜んだのかもしれません。

「格が上がった」というよりも「薩摩の重し」が取れたと思って,やはり単純に喜んでいたものが,だんだん様子が違うことに気がついて戸惑いを深め,日本政府からつきつけられる要求に何も決められずに最後は警察力を伴った松田「琉球処分官」に押し切られる琉球藩高官の姿は,読んでいて実にじれったく思いました。
最初に紹介したとおり,この作品の作者は沖縄の人であり,最初に発表されたのは米軍統治下の沖縄の新聞でした。沖縄の人の側から見た琉球処分と言えるかもしれません。恐らくは,松田道之が帰任後にこの間の公文書等をまとめた「琉球処分」に多くをよっているのでしょうが。
沖縄県にようやく町村制が施行されるのが1908(明治41)年。ここまで引っ張ることに立ち至った背景がわかる気がします。

ところで,

[76048] hmt さん
結局は 外務省の漸進案 が採用され、琉球に居た伊地知を通じて、琉球王府に対して、新政府への使節派遣を 求めました(6月24日)。

とあります。このお話の中で日本側の在現地機関は 鹿児島県(旧鹿児島藩)在番奉行所 → 外務省琉球出張所 → 内務省琉球出張所 → 沖縄仮県庁 と名前を変えてゆきます。1872年に使節派遣を求める達し文を発したのは 鹿児島県参事 の大山綱良,東京で使節の応対をしたのは 外務卿 の副島種臣,そして藩王冊封後の「琉球藩」を当初管轄したのは「外務省」だったのですね。
1872年段階では「内務省」はまだありませんでした。地方行政を含めた民政一般は 大蔵省 の管轄で大蔵卿は大久保利通。ただし,大久保たちは岩倉使節団の一員として外遊中だったので,留守政府で実際に大蔵省を切り盛りしていたのは大蔵大輔の井上馨だったと思われます。この政府が1871年11月の(第1次)府県統合を進めたのですね(作業が10月末に始まってますから,路線自体は大久保大蔵卿が敷いたのかもしれませんが)。
外務省管轄だから「外国」だとは単純には言えませんが,大蔵省管轄の大隅(または鹿児島県)以北と違う扱いであったことは確かでしょう。ちなみに,北海道および(当時は日本領で“も”あった)樺太を管轄する「開拓使」は他の“省”と同格という位置づけでした。
副島外務卿と交渉をして琉球藩の「国体」についてそれなりの“言質”を得て喜んでいた琉球側は,「明治6年の政変」で副島が失脚(辞職)したことで最初の不安を抱きます。そして,大久保が内務省を創設すると琉球藩も外務省から移管されて,以後,大久保内務卿と最後には「処分官」となる松田が一方の主役となることになります。最後にコマを進めたのは大久保暗殺後に内務卿となった伊藤博文でした。

もう1つところで,このお話に登場する琉球側の人物のほとんどは,「王子」「按司」「親方(うぇーかた)」「親雲上(ぺーちん)」,「里之子(さとぬし)」,「筑登之(ちくどん)」という“位階”を持っています。極めて困窮して行商人や薩摩系寄留商人の雇用人となっている若者も含めてほとんど全員。つまり,農民などの庶民はほぼ全く登場しない。要するに,一連の過程で日本政府の方針に強く抵抗したのは,琉球人口のうちのごく一部である士族階級の者(さむれー)だけだった,という描き方をしているのですね。実際,そうだったのかもしれません。
このあたり,士族階級をどのように評価するかというのも結構重要な問題かもしれません。

琉球(沖縄)の日本への「併合」の歩みについて,これもたまたまか,意識してか,NHK教育テレビの「歴史は眠らない」シリーズ(火曜夜10:25~10:50)が7月のテーマとして取り上げていました(小森陽一「沖縄・日本400年」)。放送はもう終わってしまいましたが,テキストは今でも本屋さんで売っています。ざっと通し読みするのにちょうど良い本だと思います。
(6月のテーマ:ひろさちや「智慧の結晶 お経巡礼」と一緒の冊子。こちらも面白い。)
[76115] 2010年 8月 29日(日)21:26:22【1】Issie さん
Re:県庁所在地経県値のギャップ対策
乗ってみましょうか。

都道府県県庁所在地ギャップ対策
北海道札幌市0
青森県青森市0
岩手県盛岡市0
宮城県仙台市0
秋田県秋田市0
福島県福島市3猪苗代町
茨城県水戸市2鹿嶋市
栃木県宇都宮市2日光市,那須塩原市
群馬県前橋市2渋川市
埼玉県さいたま市0
千葉県千葉市2習志野市,市川市
東京都新宿区2多摩市
神奈川県横浜市1相模原市
新潟県新潟市0
富山県富山市0
石川県金沢市0
福井県福井市0
山梨県甲府市1鳴沢村
長野県長野市0
岐阜県岐阜市1高山市,白川村
静岡県静岡市0
愛知県名古屋市0
三重県津市0
滋賀県大津市0
京都府京都市0
大阪府大阪市0
兵庫県神戸市0
奈良県奈良市0
和歌山県和歌山市1田辺市
鳥取県鳥取市0
島根県松江市0
岡山県岡山市0
広島県広島市0
山口県山口市0
徳島県徳島市0
香川県高松市0
愛媛県松山市0
高知県高知市0
福岡県福岡市0
佐賀県佐賀市2有田町
長崎県長崎市0
熊本県熊本市0
大分県大分市0
宮崎県宮崎市0
鹿児島県鹿児島市0
沖縄県那覇市0

私,ネットで予約をするようになるまでは駅の旅行センターで宿を確保することが多かったので,県庁所在地に泊まることが多かったのですね。だから,両者であまり差がない結果になるかと思ったのですが,思い起こしてみると意外に差がつきました。
生後数ヵ月も「居住」としてカウントするなら(合併後の)長岡市も ◎ で新潟県が1ランクアップするのですけどね。でも私は「地震」は経験していないはずです。

[76108] ぺとぺと さん
落書き帳メンバーの中でも珍しいと思われる熊野市

熊野市は私も ○ です。上の田辺市(当時は本宮町)の ● もその時のもの。この時は,鳥羽市と熊野市と五條市が ○,伊勢市と志摩市と田辺市(本宮町)と十津川村ほかが ●。学生の時の“巡検”によるもの。その前の年には 土庄町:○ という実績があります。

※伊香保はいつの間にか渋川市でしたね。まるっきり失念。
[76102] 2010年 8月 27日(金)01:51:15Issie さん
サイバラ曰く「ツッツー」
[76101] suzutai さん
○姫川

私も去年この辺りに行ってきました。

中央構造線

この区間では「糸魚川・静岡構造線」(糸静線)ですね。
中央構造線は,諏訪湖から伊那谷の1本東の谷を通って伊勢湾を渡り,雲出川-紀ノ川から淡路島の南岸をかすめ,四国の吉野川をさかのぼって九州まで続いています。
厳密には 姫川の谷=糸静線 ではなくて,すこし東または西にずれています。さらに,松本盆地の西縁(北アルプス側)ではなくて,東縁(パッとしない犀川丘陵側)を通って諏訪湖から,静岡方面へのびています。

プリンスショッピングセンターへ行きましたが、こちらも凄い人。滋賀県にもアウトレットができましたが

最近できた滋賀県のアウトレットモールはたぶん関係ないと思いますが,もともと軽井沢を開発した「プリンス関係」の創業者は滋賀県ととっても関係が深いですよね。
[76099] 2010年 8月 26日(木)11:44:39Issie さん
準急
[76098] N-H さん
これ、千葉駅の配線が今の構造になる前の話ですよね?

そうですね。ところが,千葉駅が現在地に移転したのは1963年。当時,房総を走っていたのは「急行」ではなく「準急」でした。国鉄が準急を廃止して全部「急行」に格上げした時には千葉でのスイッチバックはなくなっていたけど,大網でのスイッチバックがあったので一周運転には問題がなかった,という次第。
実は私が“房総東線”改め“外房線”に初めて乗ったのは電化・改称直後の1972年夏で,土気‐大網間の旧線跡と“千葉駅にそっくり”な新・大網駅がとても印象的でした。
もちろん,私も旧・千葉駅の時代なんて知りません。

東京地下線内でのATSだかなんだかの装置の関係

「国鉄で初めての地下鉄」にはいろいろ制約があったようで,最初に房総特急用として設計された183系が,当時の特急電車では当たり前のスタイルであったボンネットを持たない理由の1つが地下乗入れにあったとか。その後の国鉄特急電車では“ボンネットなし”が標準になりましたけどね。

習志野高校が夏を全国制覇

私,優勝パレードを見に行きました。朝日新聞の紙旗を持って。
でも,今考えると少し複雑です。
あのイベントは,本質的には「運動部の全国大会」に過ぎない。それが「紙旗」が象徴するような新聞の販促活動と一体化していることが問題なのですが。とりあえず,彼らは「学校の代表」ではあっても,「郷土」を代表させる必要はないと思って,だから“少し距離を置いて見よう”と思っているのでした。
[76097] 2010年 8月 26日(木)02:06:19【1】Issie さん
ナショナル洗濯機
「うずしお」というと,私は“せんたっき”を連想します。

[76095] 白桃 さん
超有名駅から某政令指定都市までの特急、進行方向が2回も変わるんですよ!

ここんところが引っかかっていたんですが,時刻表を引っ張り出してみたら,今の「うずしお」は宇多津を経由するんですね。

[76096] 白桃 さん
ところで、岡山行きの「うずしお」は前から宇多津を経由してましたっけ?

元は岡山方面から坂出へ(どちらが短絡線?)直行していて,私もそれで記憶していたのですが,「南風」とドッキングするために宇多津を経由することになったようですね。
短時間で2度進行方向が変わるなんて,昔の“房総東線”のDC急行のようです。

ところで「某市」。私は “▲” です。ただし,「市」になる前のお話。

※おまけ
甲子園の春と夏のイベントには,私は「熱く」ならないように少し距離を置いて見ているのですが,それでも,まあ,やっぱり…。で,意外なことに神奈川県よりも千葉県の方に今でも帰属意識を持っていることを再確認してしまいました。だから,今年の「夏」は準決勝でおしまい。
[76031] 2010年 8月 16日(月)01:01:52Issie さん
相模湖町
[76028] futsunoおじ さん
間違い、訂正等ありましたら16日の23時までにお知らせいただければ訂正書込で対応します。

では,

東京都特別区と熊本市の点数は集計の対象外です。

なのですが,[76024] の県庁所在地の方で申告した通り,熊本市も ○ です。初宿泊は高校の修学旅行。この時,同時に福岡市も○になりました。ほかの宿泊地は 平戸市 と 長崎市。モスクワオリンピックの翌年の春でした。

ちなみに,いずれの市についても「平成の大合併」で膨れ上がった区域はほとんど関係ありません。どれも膨張前の旧市域について。唯一の例外は,「旧相模湖町の○」なのですが,こちらはその後,旧市域で◎となったので帳消し。
[76024] 2010年 8月 15日(日)21:52:34【1】Issie さん
旧国別経県値
関西方面に行きました。
今回のメインは,いつの間にか「近鉄」でなくなっていた 伊賀線 に乗りに行くこと。
ついでに,京都で中学校の修学旅行以来行っていない 大徳寺・金閣寺・銀閣寺 というベタな観光地に32年ぶりに訪れました。

[75933] で政令指定都市だけにしておいたのは,今回の旅行で値の変動が予定さている「国」が1つあったからです。おかげで,伊賀 が「▲:通過→●:訪問」と2ポイント上昇しました。…ちゃんと上野の町を歩き回りましたからね。

というわけで,

【畿内】
山城○ 大和○ 摂津○ 河内▲ 和泉○
【東海道】
伊賀● 伊勢○ 志摩○ 尾張○ 三河△ 遠江○ 駿河○ 伊豆○ 甲斐○ 相模◎ 武蔵◎ 下総◎ 上総○ 安房○ 常陸○
【東山道】
近江● 美濃● 飛騨○ 信濃◎ 上野○ 下野○ 磐城▲ 岩代○ 陸前○ 陸中○ 陸奥○ 羽前○ 羽後○
【北陸道】
若狭× 越前● 加賀○ 能登○ 越中○ 越後○ 佐渡○
【山陰道】
丹波△ 丹後× 但馬▲ 因幡● 伯耆△ 出雲○ 石見△ 隠岐×
【山陽道】
播磨● 備前○ 備中● 美作△ 備後○ 安芸○ 周防○ 長門○
【南海道】
紀伊● 淡路● 阿波○ 讃岐○ 伊予○ 土佐○
【西海道】
筑前○ 筑後▲ 豊前● 豊後△ 肥前○ 壱岐× 対馬× 肥後○ 日向○ 薩摩○ 大隅△
【北海道】
渡島○ 後志○ 石狩○ 胆振○ 日高● 天塩● 北見○ 十勝○ 釧路○ 根室● 千島×
【琉球】
琉球○

◎居住:4,○宿泊:51,●訪問:13,△接地:7,▲通過:4,未踏:6 --計:281点

離島の 隠岐・壱岐・対馬,もちろん 千島 は別として,若丹2州は,そう言えばまだ足を踏み入れず,もう1つの「丹」も通過しただけでした(もとい,福知山での乗り換え経験あり。この時,駅前のデパートに便所を借りに行ったけど,●に数えないでおきましょう)。トロッコ列車に乗ってくれば良かったかな。
ちなみにほかの主な「島」(国に包含されるものも含む)では,

 七島:×,小笠原:×,宮古・八重山:×
 天草:●

そもそも,沖縄県は 本島 しか行ったことがありません。

ついでに県庁所在地では

◎:長野市
○:札幌市,青森市,盛岡市,仙台市,秋田市,山形市,(東京都区部),横浜市,新潟市,富山市,金沢市,静岡市,名古屋市,津市,京都市,大阪市,神戸市,奈良市,松江市,岡山市,広島市,山口市,徳島市,高松市,松山市,高知市,福岡市,長崎市,熊本市,宮崎市,鹿児島市,那覇市
●:さいたま市,千葉市,福井市,甲府市,岐阜市,大津市,鳥取市
△:水戸市,宇都宮市,前橋市,和歌山市,大分市
▲:福島市,佐賀市
×:なし

というわけで,◎:1,○:31,●:7,△:5,▲:2,×:0 --計:162点 となりました。都区部の○を入れると 166点。

さらに,都区部について

◎:なし
○:文京,目黒,世田谷,葛飾
●:上記以外19区
△:以下なし

となるので,「都庁所在地=新宿区」とするなら,上の 162点 は 165点 となります。
[76021] 2010年 8月 15日(日)20:08:26Issie さん
琉球国
[75974] hmt さん
この記事から私が疑問に思ったのは、日本の本土で行われた「廃藩置県」が、当時まだ存在していた「琉球王国」の領域に“旧国としての琉球国を設置”することにつながるのだろうか? ということです。

[75957] で私が 沖縄 について

国設置郡設置市町村設置備考
沖縄1871年?1896年1908年島嶼町村制

と書いて,1871年に疑問符をつけたのは,全く同じ疑問を感じたからです。
何より「廃藩置県」というタイミングがいかにも変。「廃藩置県」とは文字通り「藩」と「県」に関する改革ですが,この当時の「府藩県」は国・郡とは全く別の理屈で編成された区画であって,「藩ヲ廃シテ県ヲ置」いても「国」や「郡」に関する改革ではないはずだからです。「府県」という区画と「国郡」という区画がリンクするのはこの年の10~11月に実施された府県統合からです。
で,もしかしたらこのとこを言っているのでは? と思い当たるのが,これ。

-------------------------------------------------------------------------------------
十一月十四日 (布告)
今般西海道従来ノ諸県ヲ廃シ左ノ県々被置候事
 但廃県従前管轄ノ地所当未年ヨリ物成郷村等新置ノ県々ヘ可引渡事

(中略)

鹿児島県
 大隅国
  熊毛郡 駆謨郡
 薩摩国一円
  外琉球国

(以下略)

明治4年11月14日 (太陽暦:1871年12月25日)
「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第595
-------------------------------------------------------------------------------------

手前味噌ですが 自分のページ からコピーしました。

ここにある「外琉球国」というのが,それでしょうかね。
でも,これは「廃藩置県」ではありません。「廃藩置県後の整理」ではありますが。そこまで拡大解釈して「廃藩置県で琉球国を設置」と考えますか?
けれども「外(ほか)」という書き方は,これがたとえば「薩摩国」と同列と捉えることはできないように思います。“半外国”の「琉球(王)国」がこれまで「鹿児島藩」(通称:薩摩藩)の“付庸国”とされてきたものを,そのまま(国郡単位の)「新・鹿児島県」に引き継いだ,と読むべきものではないかと考えます。
日本が正式に琉球を“自国の一部”と対外的(特に対・中国)に表明したのは1872(明治5)年の「琉球藩」の設置ですね。中国(清朝)の皇帝から「琉球国王」に封ぜられるのではなく,日本の天皇が「琉球藩王」に任命する。でも,ここで設置されたのは「藩」であって,「国」ではありません。これを「琉球国設置」と読めるだろうか。
[75967] で YT さんが紹介されている『日本地誌提要 』。目次での扱いはご紹介の通りなのですが,p.8 には

-------------------------------------------------------------------------------------
凡(およ)ソ五畿、七道、七十三国、二京、三府、六鎮、六十県。皇居ヲ東京ニ定メ、開拓使ヲ置テ、北海道十一国ヲ経理シ、琉球ヲ封ジテ藩属王国トス。
--------------------------------------------------------------------------------------

とあります(句読点は現代表記,漢字は常用漢字体,合略仮名は個別の仮名に改めました)。
そのあとに続く「建置」の節に列挙された国名によれば,“73国”とは 畿内(5)・東海道(15)・東山道(13)・北陸道(7)・山陰道(8)・山陽道(8)・南海道(6)・西海道(9)・二島(壱岐・対馬:2) と,ここまでの合計です。さらに「琉球壱国」と「北海道拾壱国」を加えて全部で“85国”としています。
ここでは「琉球国」を他の「国」と同列に扱っているようですが,説明文によれば,そのようになったのは「琉球藩王」が封ぜられた1872(明治5)年と捉えるべきでしょう。「廃藩置県」ではなく「第1次琉球処分」です。

そこに今さら「令制国」という呼称を持ってくるのもどうだか。「律令」(“現行法”として生きてきたのは「養老律令」(757年施行)ですね)が“正式な文書”で廃止されていないことは確かとしても,すでに「王政復古」「政体書」を経て律令とは全く違う根拠の上に明治政府の支配体制が構築されつつあることは明らかです。今さら「律令が根拠」などとは言えないでしょう。“適切な呼称”が見当たらないために,とりあえず何らかの呼び方をしなければならないのも,もっともなのですけどね。
 
ついでに上の「新・鹿児島県」設置の布達,「大島郡」もありません。

[75967] YT さん
どうやら明治12年の第二次琉球処分をきっかけに明治12年4月8日[48993]に大島郡が設定され、帰属が大隅になったことが決定したようです。

州南諸島、つまり奄美群島が「薩摩」の付属物として扱われていることです。

…からですね(話の都合上,順番を逆にして引用します)。
では,「大島」が属しているのは「薩摩国」? それとも「琉球国」?
[75957] 2010年 8月 12日(木)02:47:37【2】Issie さん
小笠原にも行かれなかった
今週,NHKのBSで「銀河鉄道999」の特集をやっています。で,PCに録画したものを視ていたら(我が家のテレビはすべてアナログのブラウン管なので,デジタルチューナーを入れたデジタル液晶画面のPCが最も画質が良い),こんな時間になってしまいました。ま,今週は私自身が夏休みなので大丈夫なのですが。
1980年ごろの作品ですね。リアルタイムで視ていたけど,オープニングの画面が記憶とちょっと違っていて…,まあ,そんなものではあります。今視ると,いろいろ考えるところがあって…。今,こういう内容の作品を作って電波に乗せることができるか(商業的に)とか。
1980年までの30年間で日本は大きく変わったというけれど,いつの間にか経ってしまったこの30年間も,私たちが感じている以上に変わってしまっているのでしょうね。

[75952] ペーロケ さん
小笠原は行こうと思えばいつでも行けます。

その小笠原にも行かれない時期がありました。1945年から1968年まで米軍による占領・統治下にあったためです。この間,「普通の日本人」は小笠原に行くどころか,住むことさえできませんでした。連合国軍総司令部(そして米国)が居住を許したのは,欧米系の旧島民とその家族だけ。調べてみると,旧島民の墓参が初めて実現したのは1965年。敗戦・占領開始から20年,島民が強制的に疎開させられたのが1944年だから,それから数えて21年目。
日本人が排除されたという点では,樺太や千島(南千島=北方領土も含む)と同じといえるかもしれません。米軍統治下に置かれたのは沖縄よりも4年短いだけです。
小笠原の「返還」が日米間で合意されたのは1967年。この時点では沖縄が「還ってくる」かどうかは全くわかっていませんでした。その合意前は小笠原もそうだったでしょう。「北方」だけでなく,「南方」だって本当に日本に戻ってくるかどうかわからなかったのです。
…といっても,沖縄が「還ってきた」のが私が小学校3年のとき。こちらはおぼろげな記憶があるけど(南沙織もフィンガーファイブもそんなところから来たんだ,なんて思ってました),米軍統治下の小笠原について私は全く記憶がありません。

かなり以前に似たことをやった記憶があるのですが,こんなまとめをしてみました。

国設置郡設置市町村設置備考
本州・四国・九州7~8世紀7~11世紀1889年市制・町村制
北海道・南千島1869年1869年1900年,1902年一級町村制,二級町村制
中千島・北千島1875年1875年(設置せず)(各種)町村制未施行
(南)樺太(設置せず)1915年1929年樺太町村制
伊豆諸島7世紀?(設置せず)1923年島嶼町村制
小笠原(設置せず)(設置せず)(設置せず)1968年に地方自治法施行
奄美1879年1879年1908年島嶼町村制。1879年大隅国編入
沖縄1871年?1896年1908年島嶼町村制
台湾・朝鮮(設置せず)(設置せず)(設置せず)旧所属国の制度を一部改編して適用

そろそろ面倒くさくなってきたので,とりあえず表だけ(面倒くさいので,細かいところは無視しています)。
要は,「辺境」(←という呼び方には少なからず問題があるのだけど)についての制度は一律ではないし,中心(本土)から“遠く”なるにしたがってある項目から順番に抜け落ちていく(同心円状に“本土性”が薄れていく)というわけでも必ずしもない。結局は,それぞれの地域について,そのときどきで最も適当であると思われる制度が適宜採用されていることが“示唆される”ようにも思われる,というところでしょうか。

小笠原に国も郡も設置されていないことについての考察の一助になれば幸いです。
[75933] 2010年 8月 9日(月)23:05:17【1】Issie さん
名勝の名称を改める件
文部科学省告示第130号 (PDF)

…何か面白かったので。

ついでに政令指定都市に関して:

◎:相模原市
○:札幌市,仙台市,横浜市,新潟市,静岡市,浜松市,名古屋市,京都市,大阪市,神戸市,岡山市,広島市,福岡市
●:さいたま市,千葉市,川崎市,堺市,北九州市
(以下なし)

泊まる理由がまず生じない さいたま市 はともかく,そう言えば千葉市に泊まったことはなかったなぁ。小学生の頃から行動圏に入っていたし,中学校の友達が千葉市にいっぱいいて家へ遊びに行ったりしてるんだけどねぇ。
堺市。阪堺電車の終点で降りて近くの施設に泊まったことがあるのだけど,そこは高石市でした。だから,必然的に堺市は「歩いたことがある」のですね。
[75523] 2010年 7月 24日(土)12:24:46Issie さん
幕張町一丁目地先埋立地
[75522] グリグリ さん
ちょっと分り難かったかもしれませんが

ああ,これは見落としていました。
なら,安心して…

参考「政令指定都市の区境を越える地名」

 幕張:千葉市 花見川区幕張町,幕張本郷/美浜区幕張西

幕張西一~三丁目の部分は埋め立てが完了して入居が始まった1974年に千葉市に編入されて,幕張一丁目の一部になりました(現在の四丁目の部分も一緒に編入されたように書いてあるものもあるのですが,1974年時点でこの部分はようやく埋め立てが始まったところでした)。
これが1979年に「幕張西」として独立し,1992年の区制実施で 花見川区 になった幕張・本体とは別に 美浜区 の一部となったのでした。
この辺りは千葉市に編入される前から私たちの遊び場でした。

都道府県内の自治体境を越える地名

 古市場:千葉市緑区古市場町/市原市古市場

千葉市側は元・千葉郡古市場村,市原市側は元・市原郡古市場村で,千葉郡は下総,市原郡は上総ですから,「国境を越える地名」でもあります。

で,千葉県の地図帳を引っ張り出して眺めているのですが,何ぶん古いものなので(1992年版。「区制記念版」なんて書いてある),「宮野木町」が稲毛区と花見川区,「南生実町」が中央区と緑区に分断されて描かれています。その後,花見川区宮野木町とい緑区南生実町では住居表示の際に新しい町名がつくられて“同一町名の分断”は解消していますが,
でも,これも対象になるのかな。

 千葉市 稲毛区宮野木町/花見川区宮野木台
 千葉市 中央区生実町,南生実町/緑区おゆみ野○○

相模原市で分断されている 田名 の場合,緑区部分はほとんどが畑で,しかも農地として区画整理が行われたので当分市街地化される可能性はなく,住居表示が実施される可能性もとても低いので,分断の解消はまずないでしょう。下九沢は中央区部分がすでに市街化していますから,こちらは将来の住居表示による分断の解消はあるだろうと思います。大野台三丁目はどうでしょうねえ。こここそ整理した方がいいと思うのですが。
[75517] 2010年 7月 22日(木)22:21:52【2】Issie さん
北軽井沢
もう少し「『自治体越えの地名』コレクション」ネタ。

よく見ると,これがありませんね。

 軽井沢:長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢/群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢

これはまあ,よく知られているように「軽井沢」が分割されたのではなくて,本来は「軽井沢」でも何でもなかった群馬県側が避暑地で有名な長野県側にあやかって名乗ったものであるというわけで,したがってリストアップされていないのでしょうが,実はあのリストの中にはこのパターンが結構含まれているのではないかと思われます。

たとえば

 中山 なかやま 市境隣接 市川市中山…/船橋市本中山…

[75283] 伊豆之国 さん
船橋市本中山・東中山・二子町・本郷町/市川市中山・二子飛地・本郷飛地‥市の境界線も入り組んでいるのに、町名まで複雑に交錯してますますややこしい~。二つの「飛地」町名が‥

これは「中山」が市川市と船橋市とに分割された例ではありません。
船橋市本中山の住居表示前の町名は「小栗原町」。「本中山」というのは1967年の住居表示で新設された町名です。「東中山」も同様に,(今,手許では確認できないですが)元は二子町,本郷町であった所に住居表示が実施されて新設されたもの。これは恐らく京成電鉄の「東中山駅」に由来するものではないかと思います。「東中山駅」は元々「中山競馬場」へのアクセス駅として開設されたもので,つまりは競馬場に由来するのでしょうね。しかし,中山競馬場は「中山」にはありません(旧東葛飾郡葛飾町古作)。

※調べてみたら,中山競馬場は当初は今よりも中山寄りにあって,「中山村大字若宮」を所在地としていたようですね。その後,やや北東に動いて,葛飾村(現船橋市)の所在となった…。

この辺りは元々「栗原(郷)」と呼ばれていたようです。近くの「本郷」という地名はこれと関係するのでしょうね。「小栗原(おぐりはら)」というのもこれから派生したものでしょう。徳川家康が江戸に入封したときに家臣の成瀬正成が葛飾郡内に領地をあてがわれ,栗原(小栗原)に陣屋を置き,さらにあちらこちらで領地をもらって1万石を越えたので,これを「栗原藩」と呼びます。後に正成が尾張藩の徳川義直の附家老となって犬山へ移ったので,栗原は次男の之成が継承しました。犬山の成瀬家の方はずーっと続いて最近まで「城主様」であったのですが,栗原の成瀬家は間もなく断絶して取り潰されてしまいました。中世には千葉氏の支配下で「小栗原城」というお城もあったらしいのですが,もちろん「石垣とお濠と天守閣」に象徴される近世城郭の遥かに前のものですから,遺構自体がほとんど残っていないようです。
いずれにせよ,こんなに歴史のある「小栗原」という地名を船橋市はあっさり捨ててしまいました。「中山」の方がメジャーだからなのでしょうかね。何しろ,総武線の「下総中山駅」も,京成電車の「京成中山駅」も,あるのは「中山」ではなく「小栗原」,さらに千葉街道(国道14号線)沿いの商店街も。「中山で賑やかなところ」というのは,今や市川市ではなく,船橋市の小栗原ですから。
「東中山」も「中山競馬場」も「中山」にないことは先述の通りです。

「中山」というのは,そこにある法華経寺と関係のある地名であるようです。逆に,法華経寺のある辺りが近世以来の「中山村」でした。明治の大合併で周辺の村と合併して「東葛飾郡中山村」となりましたが,村役場は木下街道沿いに置かれました。街道をはさんだ北方(←「ぼっけ」と読みます)と合わせて,この辺りが中山村の中心であったのでしょう。現在も市川市立中山小学校があります。

「中山」が明治の大合併で北方(ぼっけ)などと合併して 中山村 の一部となったのに対して,小栗原 は東側の千葉街道沿いの村と合併して 葛飾村 の一部となりました。一方,南側の 田尻 や 高谷(こうや),原木(ばらき),二俣 などは 行徳町 に合併されました。当時は江戸川(放水路)などありませんから,行徳は“川向う”ではなく陸続きです。
で,中山町 が 市川市 の一部になり,葛飾町 が 船橋市 の一部となり,さらに 行徳町 も市川市に編入された結果,あのように 小栗原(本中山) が市川市に食い込んでいるような形になったのです。

あ,久しぶりなもので,つい長々書いてしまいましたが,要するに「本中山」は「北軽井沢」と同じようなケースであるように思います。だから,「北軽井沢」を可とするか否かによって,「本中山」の扱いも決まるのではないかと思うのです。そして,そういうケースが,あのリストの中にほかにももっとあるように思われます。
[75513] 2010年 7月 20日(火)23:55:57Issie さん
郡を分ける
私がお休みしていた間の少し古い話題で,もしかしたらもう収束しているのかもしれませんが,少し蒸し返して…

[75355] mul-sa さん
ところで、一つの郡を複数に分けて「東」「西」等つけるのは、近代になってからの動きではないでしょうか。

[75357] hmt さん
中世に入間川を境に東西に分けて入東郡・入西郡と呼んだことがあったようです。

郡が一番激しく分割されたのは中世です。
とりあえず思いつくものを列挙してみましょう。

 下総国印旛郡 → 印西郡,印東郡
 下総国葛飾郡 → 葛西郡,葛東郡 ※「東葛」「葛南」は近代の呼称
 上総国夷隅郡(伊甚郡) → 伊北郡,伊南郡
 上総国市原郡 → 市西郡,市東郡
 上総国海上郡 → 海北郡  ※海南郡はあまり見られず。上総海上郡は近世に市原郡に統合。
 上総国周淮郡 → 周西郡,周東郡
 安房国安房郡 → 安西郡,安東郡  ※むしろ「安房国」を分割したとも
 武蔵国入間郡 → 入西郡,入東郡
 武蔵国多摩郡 → 多西郡,多東郡
 尾張国海部郡 → 海西郡,海東郡
 大和国曽布郡 → 添上郡,添下郡
 大和国磯城郡 → 式上郡,式下郡
 大和国葛城郡 → 葛上郡,葛下郡
 河内国丹比郡 → 丹北郡,丹南郡
 摂津国三島郡 → 島上郡,島下郡
 摂津国難波大郡 → 西生郡(西成郡),東生郡(東成郡)
 因幡国八上郡 → 八上郡,八東郡
 播磨国賀茂郡 → 加西郡,加東郡
 播磨国飾磨郡 → 飾西郡,飾東郡
 播磨国神崎郡 → 神西郡,神東郡
 播磨国揖保郡 → 揖西郡,揖東郡
 美作国勝田(かつまた)郡 → 勝北郡,勝南郡
 美作国苫田郡 → 苫東郡(→東南条郡,東北条郡),苫西郡(→西北条郡,西西条郡)
 美作国久米郡 → 久米北条郡,久米南条郡
 阿波国名方郡 → 名西郡,名東郡
 讃岐国香川郡 → 香西郡,香東郡
 筑前国朝倉郡 → 上座(かみつあさくら→かみくら→じょうざ)郡,下座(しもつあさくら→しもくら→げざ)郡
 筑後国八女郡 → 上妻(かみつやめ→かみつま)郡,下妻(しもつやめ→しもつま)郡
 豊前国三毛郡 → 上毛郡,下毛郡

ほかにももっとあると思います。
これらの中には,すでに律令制下の奈良時代末期の段階で分割されていたものもあります。しかしこれらのうち,あるものは近世初期の段階で「古の状態に戻す」という精神から元の形に統合されています。下総国印旛郡がその例。上総国市原郡は勢い余って海上郡(海北郡)まで統合してしまいました。
次に「古の姿に戻す」機会となったのが明治半ばの郡制施行です。このときに,たとえば 播磨国神崎郡 や 揖保郡 が“復活”しています。
一方で,1878(明治11)年の郡区町村編制法では中世とは別の理屈で分割された郡も多数あるわけで,下総国・武蔵国葛飾郡 が中世の 葛西郡・葛東郡 ではなく 東葛飾郡・西葛飾郡・中葛飾郡・北葛飾郡・南葛飾郡,武蔵国多摩郡 が 多西郡・多東郡 ではなく 東多摩郡・西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡 と分割されるわけです。葛飾5郡の場合は,郡制施行の際に統合されて3郡になるのですね。

中世に郡が細分化されたのには深い背景があって,話すと長くなるのでここでは控えます。
ただ,このときに国府経由の支配単位である「郡」と荘園経由の支配単位である「荘(庄)」をさらに細分する単位として多用されたのが「条」でした。上に挙げた美作国苫田郡に極端な例が見られますが,「上条・中条・下条・北条・南条・西条・東条」という地域呼称の多くがこれに由来することを申し添えておきます。
ただし,地名などというものは読み方も表記も私たちが思い込んでいるよりも遥かに「いい加減」で「適当」で「融通無碍」なものです。読みが同じならいくらでも違う漢字で表記され得るし,同じ漢字で書いてあっても読み方はいくらでもあります。そもそも「2文字の漢字」で表記することを基本とする地名は,奈良時代の有名な「縁起の良い文字2文字で書け」という命令で無理に無理を重ねた当て字に始まったものですから。

ま,そんなわけで,郡を分割するのは明治に始まったことではない,ということを再確認しておきましょう。
 
[75508] 2010年 7月 20日(火)00:55:02【1】Issie さん
何か久しぶり
前回は2ヵ月前なんですねぇ。
何か忙しくて,自分ところも桜の季節から放ったらかし。今さらながら,相模原市の政令指定都市移行とか,気象予報区関連(5月27日付の気象庁告示第7号で告示)なんて大ネタも放置していて,とりあえずは最近の参院選ネタから取りかかりましょうか。
今日1日お仕事すれば,“お客様方”は夏休みだし(あたしたちは休みじゃないんですよ。当然,通常勤務です。念のため)。

「自治体越えの地名」コレクション

参考「政令指定都市の区境を越える地名」

せっかくなので,相模原市の例,仲間に入れてやってくださいませ。

 緑区下九沢/中央区下九沢
 緑区田名/中央区田名
 中央区大野台三丁目/南区大野台三丁目

いずれも元は1つの大字(下九沢,田名)または町名(大野台三丁目)が2つの区に分断された例です(ただし,区制実施以前に別個の市役所出張所管内に分かれていました)。

少しややこしいし,だんだん元の枠から離れていくので,参考の参考程度にしていただければと思いますが,

・元は1つだったが,複数の自治体に分割されて,それが合併してまた1つの自治体内に戻ったが,町(大字)としては別扱い

 新潟県長岡市 千谷沢(旧越路町)/小国町千谷沢(旧小国町) ---例の「チャーザァ村」

古い例だと

 横浜市 西区 戸部町/西戸部町,平沼/西平沼町
 横浜市 中区吉田町/南区南吉田町

それぞれ元は 久良岐郡戸部町,平沼新田,吉田新田。それぞれ前の方が1878(明治11)年に「横浜区」の一部になり,1889(明治22)年の市制当初の横浜市域で,後ろの方は久良岐郡の町村として残り,1889年に 戸太(とだ)村 の大字戸部,平沼新田,吉田新田,1901(明治34年)に横浜市に編入されたら,先行編入区域内に 戸部町・平沼町・吉田町 があったので,しかたなく 西戸部町・西平沼町・南吉田町 となりました。西戸部町も西平沼町も南吉田町も,編入したての頃はずっと大きかったのだけど,たくさんの新町が分離して今は元のほんの一部分だけになっています。「平沼町」は住居表示で隣接町(平沼新田または西平沼町から分離した)と合併して「平沼一丁目・二丁目」。

ま,これは最初に書いた通り,趣旨から外れると思いますので,あくまでもおまけの話として…。

[75482]ペーロケさん
本当に、関東の人って「離合」という言葉を使わないのでしょうか?

[75483] BANDALGOM さん
むーん、少なくとも教習所では習わなかったですし、日常的にも聞いたことがないですねぇ・・・。
離合という言葉自体、鉄道サイトで初めて目にしたくらいです。

まさしくその通りで,「鉄」なおたくはともかく,プロの方は“その通りの意味”で使っているのではないでしょうか。でもたぶん,プロの世界では「全国的な専門用語」だと思いますから,「新方言」という感覚は私にはないかな。
[75148] 2010年 5月 19日(水)22:32:29【1】Issie さん
三角点
[75146] hmt さん
その所在地を調べると指扇小学校付近で、地形図から読み取れる標高は10m程度です。塔の上に存在?

そうかもしれません。
たとえば,江戸川区の平井7丁目の(旧)中川の近くにある三等三角点(点名:中平井)の標高は 40.03メートル。三角点の記号の下には「海抜0メートル」の等高線が走っていて,ここの地面が標高40メートルもあるはずがありません。
どうも都営住宅の屋上にあるようで,そこの高さのようですね。

そもそも「三角点」は“位置の基準点”であって,“高さの基準点”ではありません。地図上において三角点が表しているのは三角形の記号の中にある“点の位置”であり,標高は三角点が表すべきデータではありません。言い換えると,三角点が表す 緯度・経度・標高 の3つのデータのうち,地図の上で意味があるのは 緯度・経度 の2つだけであり,そこに記載されている標高の値はその点が“現にある場所”の高さを表しているにすぎません。
多くの場合,三角点は地面に置かれているので,そこに記載されている値を地面の高さとみなしてよいのですが,たとえば「中平井」のようにビルの屋上にあることもままあります。

三角点は,かつて目視で三角測量(位置を測量する)を行っていた時代から設置されているものであって,大事なことはその場所の“高さ”を示すことではなく,位置を測量するために“目立つ”ことにあります。三角鎖を構成するほかの三角点からよく見えること。

※補足
あるいは,昔は地面の上に三角点があったのだけれども,そこに建物がたてられたために三角点の“位置”(緯度・経度)は変えることなく,そのまま屋上へ移転,なんてこともあるかもしれません。ふじみ野市役所は,この例?
もちろん,三角点そのものがほかの地点に移設されることもよくあります。たとえば,厚木市北部の丘陵にある「鳶尾山」という三角点は極めて重要な一等三角点の1つなのですが,一時期,この山を離れて中津川をはさんだ愛川町の中津小学校の校庭に置かれていました。12年ほど前に訪れたときにはまだその小学校にあったのですが,いつの間にか鳶尾山に帰ったようです。

三角点が山頂にあるとは限らないのも同じ理由です。山の高さを表すことが三角点の使命ではないからです。
したがって,“地面の高さ”を知るために三角点の標高値を用いるのはあまり適当ではありません。そこに記載されているのは地面の高さではなく,三角点のある位置の高さだからです。
「多角点」が第一義的に表すべき値も,“高さ”ではなく“位置”なのでしょう。

“高さ”についての測量は水準測量によって行われてきました。
理屈の上では,最初に東京湾の海岸で「東京湾の平均海面」の高さを確定してこれを「標高0メートル」とし,海岸から一足ずつ“高さの差”を厳密に計測してその地点の標高を厳密に求めます。そうして求められた“高さの基準点”が「水準点」です。水準点が多くの場合,明治以来の古い街道沿いにあるのは,その街道を通って一足ずつ高さを測ってきたからです。

まあ,そんなわけですから,標高に関しては三角点の数字はたぶん「参考値」としてしか使えません。
[75132] 2010年 5月 17日(月)21:59:33【1】Issie さん
相模原市の四至(しいし)
[75119] k-ace さん
皆さんは出身・居住等ゆかりの市区町村の最高低点、最東西南北端に行かれた経験ってありますか?

私が子どもの頃に住んでいたのは習志野市の埋立地。私たちの小学校の学区はその埋立地の南東半で,放課後の行動圏はもっぱら同じ市内の津田沼や鷺沼地区ではなく,市の境界を越えた千葉市の幕張地区(の埋立地)。その境界線が海岸線と交わる地点が“習志野市の南端”となりますから,ここに立つことは日常茶飯のことでした。
一方,同じ海岸線を北西へたどって,船橋市との境界線と交わる場所が“習志野市の西端”。京葉道路の花輪インターの南西方,方形の谷津干潟の北隅がそれに相当します。ここも割とよく行きました。
しかし,北端と東端は八千代市との境になる東習志野地区。こちらは行くことなく終わってしまいました。
また南端と西端についても1977年に“第2期埋立地”を編入した結果,一気に沖合に遠ざかってしまいました。こちらも結局は到達する前に習志野市を離れてしまったので,未踏。
ほかに住んだ 市川市,多摩市,松本市,長野市 のいずれの端点も未到達です。実は,乗鞍山頂の駐車場には行ったことがあって,ここは市域拡大後の松本市の現・西端に近いのですが,当時はまだ安曇村。そして,駐車場が所在するのは岐阜県の丹生川村(現・高山市)です。

現在居住の相模原市。合併以前の四端は,

 東:上鶴間本町8・9丁目の旧鶴金橋
 南:新戸の相模線・相武台下駅南西方
 西:大島の諏訪森下中州西方の相模川
 北:相原3丁目22番北側の境川

東端は境川の改修で川の左岸(東側)となってしまった地点で,町田市(東京都)との“領土交換”の対象地の1つ。しかし,ここが住居表示以前の地番表示による「上鶴間1番地」なのですね。かなりまとまった人口のある区画で,町田市への移管が難航しているようです。
南端は相武台下駅南西方の水田地帯の中にある畦道の交点。この2ヵ所へは容易に行くことができます。
西端は相模川の河道の中。北端も境川の河谷の中,というわけでその地点上に立つことは難しそうです。北端の場合,そのすぐ南側は個人宅の敷地になるようですから,これも無理。ただし,どちらも至近の位置まで行ったことがあります。

ところが,津久井郡を合併してしまった今では,東端は変わらないものの,残りは

 北:緑区佐野川・三国峠東北東方,標高約990メートル
 西:緑区青根・大室山西南西方,標高約1570メートル
 南:緑区鳥屋・丹沢山,標高1567メートル(三角点)

…本気で登山をしないと到達できません。
ちなみに3点とも 緑区 ですね。なお,東端の上鶴間本町は 南区。

※蛇足ながら「子ども」について。
私は,「子供」という表記が“差別的”であるという感覚は持ち合わせていません。特に何の主張もなく,今のところ“標準的”とされているものに合わせて「子ども」と表記しているだけです。
たとえば,「少しづつ」の「…づつ」という表記は“明らかな間違い”で,「…ずつ」と表記しなければならないというのが現代仮名遣いの規則なのですが(逆に旧仮名遣い[歴史的仮名遣い]では「…づつ」と表記すべきものです),「子供/子ども/こども」については特にきまりはありません。日本語の正書法の不完全な部分の1つです。「子ども」というのは,いわゆる“交ぜ書き”で,大新聞の中にはこれに批判的なところもありますが,とりあえずは“大勢”に従うことにします。
一応,そういうお仕事だしね。

「思う」について,私は一種の“婉曲表現”だと思いますよ(←これは婉曲でなく,そう思料または推量しています)。それが“適切”であるかどうかは,別の問題ですが。
言葉というのはお互いのキャッチボールで成り立つものであり,そうした行為が積み重ねられた総体として存在するものだと思います。中には自分の感覚と違うものが横行して,もどかしく感じることもあるのですが,私たち一人ひとりは言語に関して「全能の神」ではありません。結局は,全体の流れるところに行き着くものでしょう。
それは「人工語」であるエスペラントも例外ではなく,現在,現実に行われているエスペラント語は,百二十年ほど前にザメンホフという人が考案して発表したものとはさまざまな点で違っています。それは,この百年の間に多くの人がこの言語を使用していく中でできあがった“慣用”の積み重ねです。
これまでにとてもたくさんの「人工語」が考案され発表されてきましたが,そのほとんどはほかに広がることなく消えてゆきました。その原因は多くの場合,考案者が「全能の神」の座を捨てなかったことにあるようです。文法も単語も考案者の考えた通りに,それ以外は認めない…。
エスペラントが百年を経ても生きているのは,早い段階でザメンホフがその「神」の地位を捨て,現実に行われるままに任せたことにある,とされています。もちろん,根本原則は変えられません。そこが変わったら,エスペラントではなくなってしまいますから。

で,これは日本語のような“自然言語”でも同じ。
「規範」は規範として存在するべきですが,そこから先は何を言っても“現実に行われている”ことが「現実」。
「より良い姿」,「あるべき形」というものは当然,追及されるべきだと思いますが,大事なことはそれがどれだけの支持を集めて,現実に行われるかにあるのだと思います。

「蛇足」の追加が思いのほか長大になってしまいました。
ごめんなさい。
[75105] 2010年 5月 13日(木)01:00:25【1】Issie さん
はやぶさ
[75100] ペーロケ さん
先日、惜しまれながら引退したはやぶさが、なんと青森で復活するようですね。

私は「はつかり」がいいと思ったんですけどね。だって東北本線,だけでなく何より上野より北を走った栄光ある“最初の特急”ですから(岩沼以南は常磐線廻りでしたけど)。同じことを考える人は多くて,これが1位だったそうですが。
かつて在来線を走っていた「つばさ」「とき」「あさま」,そしてこれは新幹線ではないけれど「はくたか」と,昔親しまれた列車名の,しかもそれぞれに縁のある路線での復活が続いていたことを考えると(「つばさ」は本来,秋田行きで,山形止まりは「やまばと」だったのだけど),少し残念。

「はやぶさ」はブルートレインの代表として一時代を築いた歴史があるし,たぶん「隼人」を意識した命名であるような気もして,九州方面のイメージが強いのだけど,そもそもハヤブサは南の鳥というわけでは別にないのだから,それはそれで悪くはないのでしょう。
私は「つばめ」 や「はと」が京阪神以西の山陽本線(の在来線)を走っていた時代しか知らないけれど,元々は東海道線の特急だったわけで,新幹線の西延にともなって“棲み家”を西へ移していき,今では「つばめ」が九州に定着していますよね。
「ひかり」や「のぞみ」だって,最初は大陸や半島を走っていたんだから。
今度は1日1往復ではなく,兄弟がどっと増えて北の空にハヤブサが住み着くことになるのでしょう。

さて,そうすると心配なのが,「長野“行”新幹線」改め北陸新幹線なのですが,私個人としては「はくたか」か「白山」を推したいところ。けれども「は」で始まる名前は,もう打ち止めかもしれません。確か,「あさひ」が廃止されて「とき」が復活した理由の1つに,同じく「あ」で始まる「あさま」との混同を避ける,というものがあったような気がするし,実際,今回も「は」で始まる「はやて」がなくなるわけだから。
とすると,どんな名前になるのやら。

※それにしても,「はつね」にならなくて本当にようござんした。いや,「はつね」という名前自体には問題はないんだけど,理由が理由だから…。
[75104] 2010年 5月 13日(木)00:34:12Issie さん
旧川里町の直近人口統計
[75103] 大龍エクスプレス さん
突然ですが、鴻巣市の旧川里町の最新の人口データを教えてください。

鴻巣市のHP の中の 鴻巣市の人口 というページに 直近の人口統計(2010年5月1日現在;pdf ファイル)が掲載されています。

それによれば,「川里地域」の人口は 8,400人 と出ています(もしかしたら,この「川里地域」と旧川里町の区域とが完全に一致しないこともあり得ますけれども)。
「赤城台」という地区の人口は 0 なのですね。
[75101] 2010年 5月 12日(水)01:12:46Issie さん
チャーザァ村の雪
最近,少し忙しくてこちらでの発言が極端に少なくなっているのですが,取り急ぎ。

[75082] 星野彼方 さん
・十日町市近辺はこの時期でもちょっと山の方に行くと普通に雪が残っている。

[75083] グリグリ さん
私は十日町市は通過していませんが、関越トンネルを抜けた湯沢町や魚沼市あたりでは路肩に雪が沢山残っていました。やはり4月に降った雪ではないでしょうか。

4月に降った雪の分もあるかもしれませんが,少し多めに雪が降ったシーズンであればこの辺りは連休あたりまで雪が残っているのはやはり普通であるように思います。
チャーザァ村…,今は「長岡市」になってしまった小国町でも,5月連休にまだしっかり雪が積もっていた(道端に残っていた,ではない)ことがありました。
だから,そのつもりで4月の初めに青森方面へ行ったときに,雪が全く消えてしまっているのを見てとても意外に思ったことがあります。

ところで,ロバのパン屋と紙芝居。
どちらも本来は「都会」のものだったと思うのですが,イメージとしては高度成長期以前のものである気がします。それが1970年代前半の幕張にあって,一時代前のものを見たような気が,子どもながらにしたのでした。
ところが,“本来の幕張”(埋立地は余所の町。区だって違うし…)は今でもほとんど光景が変わっていないんですよね,40年くらい前と。
[74991] 2010年 4月 18日(日)23:25:32【1】Issie さん
あ行だけの市区町村
[74989] k-ace さん

【あ行】
相生市、葵区(静岡市)、伊江村、大井町、おおい町、大江町

それにしても、あ行以外3文字以上の市区町村は見つかりませんね。

これは現代語の発音と表記によるものですね。
これを旧仮名遣いでやってみたらどうなるか,興味を持ちました。
もっとも,発音上の区別が失われた後に生まれた地名の場合だと,書き分けようのないものを漢字の音訓の仮名表記に合わせて“復元”することになるので,本当はこのようなことを詮索してもあまり意味はないのですが,無理やりやってしまいましょう。

 あひおひ →あいおい(相生)
 あふひ →あおい(葵)
 いえ →いえ(伊江)
 おほゐ →おおい(大井)
 おほひ →おおい(大飯) ※和名抄による平安中期の「大飯郡」の読み仮名は「おほひた」。
 おほえ →おおえ(大江)

…というわけで,“あ行だけ”という条件で生き残ったのは「伊江(いえ)」だけになりました。
ところが,現在は“あ行のエ”(e)を表すカタカナの「エ」の元になった「江」は元は“や行のエ”(ye)であったと考えられています。したがって,「大江:おほえ」の発音は ofoye (f は唇を噛まない)。ちなみに,ひらがなの「え」の元になった「衣」の発音は“あ行のエ”であったと考えられています。つまり,「え」と「エ」は本来は“別の音”を表していたことになりますが,e と ye の区別は平安中期までに失われたようで,その後に成立した かな ではこの2つの「エ」を区別しないし,区別できないのですね。だから,「え」と「エ」は“おなじ音”に対する かな。なお,2つの「エ」の区別が失われたときは ye の方に統合されたようで,現在のように母音だけの e で発音するのが基本になったのは割と最近のことであるそうです。
だから,「伊江」も iye ということになると,“あ行だけ”は1つもなくなってしまいます。
もともと古い時代の日本語は母音の連続を極端に嫌っていました。現代のように母音が連続することを気にしなくなったのも,そう古いことではありません。本来的に“あ行だけ”の地名や単語は成立しづらいのです。

とはいえ,冒頭で述べたように,発音上の区別が失われた後に生まれたであろう地名について,それよりも前の時代の発音の区別を問題にしても意味はありません。だから,「伊江」を iye と言ってみても意味はないし,まして,発音に対する漢字の当て字のしかたや かな の使い方に本土とは違う独自の体系を発達させた沖縄(琉球)の地名ですから,なおさらです。

逆に,[74260] で k-ace さんがまとめられているように,“子音をはさんで同じ母音を繰り返す”ことは大昔から日本語は大好きで,特に a の繰り返しは地名に限らず一般の単語でもありふれた現象です。ただし,e の繰り返しはあまり好きではないようで,幼児語(てて:父)や俗語(ぜぜ:銭)以外にはあまり多くありません。「膳所(ぜぜ)」という地名はありますけどね。
地名ではありませんが,「法の下の平等」の母音は o だけです。旧仮名遣いだと「はふ(ほふ)のもとのびやうどう」なのですけど。
 
[74907] 2010年 4月 13日(火)10:27:02Issie さん
岡山県の長野知事
昔,長野県民だった頃,初めて岡山へ行って「長野知事」と書いてある横断幕を見たときにどこの知事のことかとても混乱したことを思い出しました。ちなみに当時の長野県知事は「ゴローちゃん」。

[74897] 白桃 さん
○なんとなくいそう・・・福島、千葉、金沢、福井、長野、岡山、広島、佐賀

民謡歌手に「金沢明子」さんという人がいましたね。いや,今でもいますが,露出は大変に減ってしまいました。

○全く思いつかない・・・札幌、青森、盛岡、仙台、前橋、さいたま、新潟、富山、甲府、岐阜、静岡、津、京都、和歌山、
鳥取、松江、徳島、福岡、熊本、大分、鹿児島、那覇

小選挙区制の導入が話題になる少し前から「福岡」さんという政治学者がタレント並みの活動をしていましたけど,この人も最近はおとなしめですね。
京都ならぬ「京唄子」さんならいるんですけど,「京都」はハードルが高いか。

“普通の人”の戸籍上の苗字なら,かなの「さいたま」は無理として「埼玉」も含めて,苗字の出所は多くの場合,郡名か,もう少し小さいレベルの地名ですからないことはないのでしょうけれど(「浦和」もある?),「札幌」「甲府」「岐阜」「静岡」のように近世(戦国末も含む)以降に“創作”された地名だとあまりなさそうですね。
逆に芸能人の芸名なら,「さいた・まんぞう」のようにもっと積極的にあってもいいような気がしますが,意外にいないものです。やはり,“普通の名前らしい芸名”としては何かしっくりこないものがあるのでしょうか。

ところで「那覇」。「小那覇」さんとか「与那覇」さんとか「我那覇」さんとかという形でなら割と沖縄ではポピュラーな姓ですけれど,そういえば素の「那覇」さんというのはあまり聞かないような気もしますね。
[74706] 2010年 4月 4日(日)23:27:43Issie さん
支庁改め…
というわけで新年度に入り,身の回りでも「中央区」だとか「緑区」という文字がチラチラと見え始めました(「南区」は生活圏外なので未見)。

[74515] 紅葉橋律乃介 さん
気象庁の予報区分では、「網走~」はそのままの模様。それはともかく、今日からは「オホーツク地方」と呼ぶべきか…。

3月30日付の 官報号外 に北海道の組織再編に関連した気象予報区分の名称変更に関する気象庁告示(「気象庁予報警報規程の一部を改正する告示」平成22年告示第4号)が掲載されています。施行は3月31日(予報区分の名称を「支庁→地方」に改める)および4月1日(担当区域の名称を「支庁→(総合)振興局」に改める)の2段階。3月31日施行分が実際に適用されるのは13時発表分からなので,天気予報の方が北海道の組織よりも11時間早く「支庁」から切り替わったことになります。
なお,「オホーツク総合振興局」管内については,天気予報では「網走・北見・紋別地方」。「オホーツク」は避けたみたいですね。

ところで,以前に話題に上っていた3月2日付の二次細分区域の調整(合併後の市町村の区域に合わせる)に関しては気象庁告示には上がってきていないようです。各地方気象台で処理してしまったのでしょうか。梅雨入り前には市区町村単位で警報・注意報を発表するということに関しても気象庁告示は出されないかもしれませんね。
ま,これも「平成の大合併」で市町村の区画が恐ろしく大雑把になってしまったおかげ,ではあるのかも。

ともかく,年度切り替えで何かとあわただしく(3月の記憶が全くありません),当HPで3月後半以降の変更に対応するのはもう少し後ということで,ご容赦を。
[74506] 2010年 4月 1日(木)00:24:53Issie さん
「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!
[74498] hmt さん
それはさておき、リンク資料の前後のコマを眺めていたら、「下ノ関市」 を発見しました。

なるほど。そういうものがありましたか。
ここまで来れば,「ノ」の有無は全く問題にならないと思います。十分,「誤差の範囲」に収まるのではないかと。

[74499] hmt さん
昔の人はおおらかですから、「ノ」の有無を気にして、注意する人もなく放置された可能性があります。

もう少し前の時代の漢文訓読に基づく表記法であれば,この場合の「ノ」は行の隅に小さく書かれるべきものであって“正規の文字”であるかどうかは甚だ曖昧。漢文の感覚が残っていれば,むしろ「ノ」がない方が“より正式”なのかもしれませんが,それほど気にすることではなかったような気がします。“かな”の形だって,ようやく学校教育の現場で統一されたばかりの時代で,日本語の「正書法」はまだ確立していません。周りを見渡せば“表記の揺れ”など,いくらでもあったであろうし,それを“揺れ”とも思わない時代であったでしょうから。
「ケ」の大小でさえ「正しい」か「正しくない」かを問題にする“潔癖症”的な現代とは感覚が違うと思います。

※そんなわけで日付が変わり,迷惑なことに我が家の住所が3文字分長くなってしまいました。さっそく,本日付で行われる公立学校教員人事を伝える昨日付けの新聞の折込特集では,相模原市の小中学校が「一般市町村」から離れて横浜市や川崎市と同じ扱いになっていました(←政令指定都市になると威張っていながら,横須賀市にはある「市立高校」さえ自前で持たずに,高校教育は県に全面的におんぶ)。もう,人事権が県を離れたということなのでしょうね。
まだ,新しい郵便番号をおぼえていません。
[74475] 2010年 3月 28日(日)10:32:37Issie さん
雨の御堂筋
[74472] 白桃 さん
本町

そう。これも難読地名ですね。
日本書紀の記述に由来する「六合(くに)」は,「そう読むものだ」と知ってしまえばもはや難読でも何でもないのですが,「本町」はそこらじゅうにあって,しかも読み方がまちまちだからとても難しい。自治体名にまで上がって来たものは必ずしも多くないけれど,新しい町で新しい「本町」に出会うたび,何と読むのか考えてしまいます。
東京(江戸)をはじめ,南関東では「ほんちょう」が優勢。…と思いきや,「府中本町(ほんまち)」があります。
大阪は「ほんまち」。これは欧陽菲菲のおかげだけど,やっぱり一瞬考えてしまう。

「上町」というのも難読です。
「上本町」はこの2つの合わせ技で,よそ者にはとても難しい。「うえほんまち」とは,ね。
だから,大坂の地形で登場する「上町台地」も読めません。
スカ(横須賀)では「うわまち」。
水戸では,何と読んだっけ?
[74467] 2010年 3月 28日(日)00:31:58【1】Issie さん
丈治と文治
[74465] 右左府 さん
微妙な例ですが、私の周りでは「武蔵村山」はまず「ムサムラ」と略されてますね。

元からそこに住んでいる地元の人は,たぶんそんな略し方をしないのではないかな。「武蔵小杉」や「下総中山」と同じ理由で。
[74416] で述べたとおり,恐らくそこに住民にとっては「むらやま」がデフォルトの形。初めから「武蔵村山」という長い名前で認知している“よその人”には略したくなるけれど,「むらやま」がデフォルトの人たちには略す必要はないのではないか,と思ったりもします。
それに対して,元々そこにない地名で初めから長い形で与えられた「小田急相模原」の場合は,ほかに手頃な呼び名もなかったせいで「オダサガ」が定着したのかもしれません。もっとも,これが定着したのは割と最近のことであるようです。

伊勢市の旧称「宇治山田」はどうだったんでしょう。

そもそも「宇治」と「山田」は別の町で,“2つの町”を並列して称するから「宇治・山田」となるわけで,わざわざ略すことはなかったのではないでしょうか。「宇治」は「宇治」,「山田」は「山田」。昔の「チェコスロバキア」のようなものです。
町としては内宮門前の「宇治」よりも外宮門前の「山田」の方が大きいから,全体を代表するときは江戸時代以来「山田」の方が主であったようです。「山田奉行」のように。
その意味では「伊勢市」という名前になったのは地元にとっても適切なことであったのかもしれません。

※蛇足
「チェコスロバキア」も長いので昔,日本ではこの国を普通「チェコ」と呼んでいました。「宇治・山田」全体を「山田」で代表するように。
一旦「チェコ・スロバキア」と,間に「・」が入った後,「チェコ」と「スロバキア」に完全に分離したわけだけど,本当はこの「チェコ」という呼び名は間違い。
「チェコスロバキア」Czechoslovakia というのは czech と slovak が一緒になったもので,この2つの要素を o という音で結んだもの。後半の slovak(スロバキア人)は良しとして,前半の要素は czecho ではなく czech。「チェコ(人)」ではなく「チェック(人)」が正しいのですね。でも日本では長い名前のチェコスロバキアの略称として用いられたことから,“接着剤の o ”の必要がなくなっても「チェコ」と呼ぶ習慣なのですね。むしろ,チェコスロバキアであった時代に,専門家の間では「チェック人」とか「チェック語」という言い方が行われていました。
[74466] 2010年 3月 28日(日)00:06:01Issie さん
ありあけのハーバー
[74463] ニジェガロージェッツ さん
ソヴィエツカヤ・ガヴァニの「ガヴァニ」は港湾を意味し

のどで発音する h の音を持たないロシア語では г(g) がしばしば h に対応しますから,“港”を意味する гавань は havan (通常の転字法では gavan' だけど)。デンマーク語の havn (コペンハーゲン=ケーベンハウン Koebenhavn の havn),ドイツ語の Hafen,そして英語の harbor に通じるのでしょうね。
「ハーバー」と言えば,東京ローカルでテレビを見ていた人たちには有名なコマーシャル,「♪ありあけーのぉハ~バー」。横浜を代表するお菓子だそうで,一旦製造元が倒産して消えてしまったことを多くの人が惜しんで復活したものです。

と,無理やり話を横浜に戻して…,
[74459] で言い忘れたのですが,数日前の新聞に掲載されていた記事によると,横浜市では紋章の「ハマ」マークとは別に新しいシンボルマークを検討中なのだとか。
東京都が東京府ではなく東京市から引き継いだ“亀の子”マークの紋章(一部では“安産のお守り”)とは別に“イチョウの葉っぱ”のシンボルマーク(本当は必ずしもイチョウではないのだけど)を制定したのと同じようなものであるようです。今では伝統の亀の子よりももっぱらイチョウを見る機会の方が多い印象があるけど,横浜でもこの動きに賛否があるとか。
「ハマ」のマークを惜しむ声が多いようです(別にハママークを廃止する,という話ではないのですが)。
[74459] 2010年 3月 27日(土)21:10:32【1】Issie さん
わが日の本は島国よ
[74457] 白桃 さん
辞書にも「横浜の略」と書かれており、市民権?を得ているようです。

何しろ市の紋章が「ハマ」ですからね。私は初めのうち“そろばん珠”だと思っていたのですが。
セットで「スカ」(横須賀)はいかが? 「ザキ」というのは残念ながら群馬の 伊勢崎 ではなく,横浜の中の 伊勢佐木町 のことですね。

外国の都市

Vladivostok を「浦塩」と呼んで,割と最近まで気象通報でも使っていましたね。Nikolaevsk na Amure は「尼港」。昔は「ドンバス」(Donbas ← Donetskii kamennougol'nyi bassein =ドネツ炭田),「クズバス」(Kuzbas ← Kuznetskii ugol'nyi bassein =クズネツク炭田)なんていうのが地理の教科書に載っていました。ソ連時代以来のモスクワの映画撮影スタジオを「モスフィルム」 Mosfil'm と呼ぶように,ソ連(ロシア)の人は略称を使うのが好きかも知れません。
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※ロシア語はもともと長い単語が多いせいか,略語が多いですね。地名ではありませんが,地名のパーツとして良く使われた「コムソモール」も Vsesoyuznyi Leninskii Kommunisticheskii Soyuz Molodezhi =全連邦レーニン共産主義青年同盟 の略語,地理の教科書に必ず載っていた「ソフホーズ」「コルホーズ」も,それぞれ sovetskoe khozyaistvo (ソビエト農場),kollektivnoe khozyaistvo(集団農場) の略語です。
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そして,中国や韓国でも漢字2文字の地名を1文字で表して組み合わせて使う,というのはポピュラーな手法ですね。

Los AngelesをLAあるいはロスと言ったりします。また、Kuala Lumpurのように長い名前の場合、クアラってよく耳にします。

でも,「浦塩」は日本限定。「ウラジオ」と言っても,恐らくロシア語では何の意味もなさないでしょう。そもそもロシア語では vladivo-stok と切るのではなくて vladi(支配せよ)-vostok(東方を)と切るのだから。
「ロス」もスペイン語では単なる定冠詞であって,これだけでは意味をなさない。英語で The とだけ言ったって,何のことか,どこのことか…。日本人が勝手に Rosu などと略して呼んでいるだけで,LA(エル・エー) が英語での略称ですよね。
「クアラ」もやっぱり,日本人の勝手な略称なんでしょうか。
[74449] 2010年 3月 26日(金)23:58:36Issie さん
さっさか大阪
[74441] ニジェガロージェッツ さん
大阪には「天六」(天神橋筋六丁目)や「上六」(上本町六丁目),「谷四」(谷町四丁目)など一般に広く使われている略称は多くあります。

昔,NHKの みんなのうた でそんな歌をやってましたね。
何でも略して「さっさか大阪 ええ町や」って。

[74444] JOUTOU さん
ちなみに京成の車内アナウンスでは、八幡に限らず(例えば高砂や船橋といったように)“京成”は省略されてアナウンスしているようです。

昔の京成電車が前面に掲げていた“めくり式”の行先表示板に「上野」とか「千葉」とか「成田」としか書いていなかったように,公式の駅名が「京成○○」という形でも,車内の案内放送も含めて旅客に対する案内は一貫して「京成」は付けないというのが京成の基本的なフォーマットであったように思います。例外が各駅に建てられた駅名表示板の表示だったのですが(車内掲示の停車駅案内もだったかな),10年ほど前にその駅名表示板からも「京成」が省かれた,というのが話題になりました。
唯一の例外は「京成津田沼」。新京成の「新津田沼」との混同を防ぐためか,この駅だけ「京成」を省かないままになっています。ただし,行先表示板をはじめとした京成側のアナウンスは昔から「津田沼」でした。もちろん,新京成側は「京成津田沼行」と表示しています。
[74440] 2010年 3月 25日(木)23:51:22Issie さん
はちまん様鳥居前
[74435] JOUTOU さん
「しもきた」といっても

前に書いたことがあるかもしれませんが,父方の祖母の家がここの南口商店街であるお店をやっていたので,子どもの頃はよく行ったものです。あの頃は今ほどはケバくなく,まあ,普通の商店街でした。お兄さんたちの間では“アングラ文化”が花開きつつあったようですが,子どもには関係ありませんから。
そして「しもきた」なんて言っている大人はいませんでした。元の(住居表示以前の)地名が「北沢」ですから,「きたざわ」という呼称はよく使われていましたけどね(うちの“お店”も「きたざわ」にお目出度い漢字を当てて名前にしていました)。もっとも,伯母などは私が大学生の頃でも渋谷に行くのに「帝都線」なんて呼んでいました。

某知事の意向

たとえ「知事の意向」が働いたとしても,それは最近の“作家二代”ではないですね。だって間に合わないもの。
淀橋浄水場跡地(都庁前)で分岐することは,都庁がここにやってくることが決まった,あるいは少なくともそれが具体化した頃には決まっていたのではないでしょうか。あのあたりの都市計画はそれら全部を織り込み済みの上で(少しずつ手直ししながら)行われているはずです。今はどこへ消えてしまったか,上越(あるいは東北)新幹線の新宿ターミナル用のスペースとともに。
確か当初は,放射部(光が丘方面)からの列車を環状部との接点(「新宿」)で外回り(東新宿方面)と内回り(代々木方面)に振り分ける計画ではなかったかと記憶しています。とするなら,国電の新宿駅のそばに分岐駅を設けるのは無理で,一歩下がった「都庁前」で左右に線路を振り分ける現在の形が最も合理的です。
今の作家知事が大声を上げたのは,同じところをグルグル回るわけでもないのに(当初案でも,光が丘から来て都心をグルッと一周し,また光が丘に帰ってしまう)「環状線」を名乗るなんてとんでもない,ということだったかと。

[74437] 桜通り十文字 さん
おそらく、近所にある京成八幡の影響が強いと思われます。

京成の駅なんて関係なく,地元住民にとってあそこの地名は「やわた」だから「やわた」なのです。
先に開通した総武線(総武鉄道)は両隣の 市川 と 中山 に駅を作ったけど,八幡 は素通りしちゃいました。先に「八幡駅」を作ったのは京成です。後から総武線が 八幡 にも駅を作る段になって,すでにあるよその「八幡駅」と区別するために,わざわざ「本八幡」なんて駅名を作りだしました。別に「下総八幡」でも良かったんだけどね。
ちなみに,同じ千葉県の市原郡にある 八幡 に駅を作る時,こちらは「上総八幡」とせずに「八幡宿」としています。
ところで,京成の「八幡駅」は初め,現在の位置ではなく少し船橋寄りの葛飾八幡宮前(現市川市役所の近く)にありました。現在の京成八幡駅の位置にあったのは「新八幡駅」。さすがに余りにも近過ぎるので,戦時中に統合されて 新八幡駅 が「京成八幡駅」となりました。現在,京成は「八幡駅」として一般には案内していますが,公式には現在でも「京成八幡駅」なのだそうです。「京成」を落として案内するのは,京成電鉄の企業戦略の一環なのでしょうね。

で,なぜここが「やわた」かと言えば,ここに 葛飾八幡宮(かつしか・はちまんぐう) があるからです。

※30年くらい前の京成電車はワンマンバスのようにテープで駅名の案内放送をしていたけど(その都度,車掌がスイッチを操作するので“自動放送”では全くない),駅名表示とは関係なく,「次は“やわた”です」という案内放送をしていました(この後に宣伝広告が入る)。
[74432] 2010年 3月 24日(水)23:38:16Issie さん
やぶしらず
[74430] oki さん
わが家では日常的に「もとはち」と呼んでいますが、首都圏全体で知名度があるかどうかはいささか疑問。

漢字から入ったんでしょうかねえ。
実はこの駅,私が3年間通った高校の最寄り駅で,2年間はこの駅で下車していたのですが(3年の時は隣駅の近くに引っ越したので自転車で通学した),僕らは「やわた」と呼ぶことはあっても,「もとはち」とは…。「やわた」という地名から「はち」という読み方は連想されないし。
[74401] (みかちゅう さん)で私も同じ駅を連想したのですが,でも私たちはそう呼んだことはないよ,というお話。30年前のことですが。

[74416] で述べたとおり,「下総中山」も変な略し方はせずに「なかやま」。きっと,近くへ“動物”を見に来る人にとっても(60~70年代には「にしふな」が,80年代以降は「ほーでん」が玄関口ですが)「中山」なんじゃないですかね。
「原木中山」は略したくなるほどメジャーな地名ではないし,長い駅名の宝庫の京葉線は開通していないどころか,陸とも海ともつかない状態だったりしますから…。
[74422] 2010年 3月 24日(水)01:29:44【1】Issie さん
略称
[74419] ヌオ さん
のくち

ああ,これは聞いたことがある(実は「むさこ」なんて,川崎でも城南でも多摩でも全く聞いたことがない)。
もう20年ほど前ですが,職場が田園都市線沿線にあった頃は「にこたま」「たまプラ」なんてのもよく使っていました。

ところで

[74416]
「東習志野」を「とーなら」と呼んでいました

相模原市南区(予定)の「東林間」。
同じ市内でも私は生活圏が全く違うので住民が略して呼んでいるのかどうか知らないのですが,堂々と「とうりん」と略して呼んでいる団体がありました。それは,相模原市自身。
行政上,相模大野駅の南側,小田急小田原線と江ノ島線にはさまれた区域の大部分を「東林地区」と呼び,市の東林出張所・公民館や市立東林小学校があります。
でも,民間のマンションなんかはもっぱら「東林間(ひがしりんかん)」を称する方が主流であるようです。
なお,住居表示による町名は省略しない「東林間(ひがしりんかん)」です。
[74416] 2010年 3月 23日(火)23:15:18Issie さん
「中山」と言えば?
[74415] JOUTOU さん
何せ都営地下鉄の駅名に「新宿西口」ってのがあるくらいですから。(さすがの私も他に適当な名称は無かったんかなぁとは思ってますけど)

まあ,なかったんでしょう。「東新宿」はもう少し工夫できたのでは,と思いますが,「西口」は私も思いつきません。「大ガード」って言ってもねえ。

[74400] かぱぷう さん
私はこの表記に違和感を感じます

「首都圏に住んでいる」からなのか,正直,どのような「違和感」か,ということ自体がわかりません。ごめんなさい。
無理して解釈する必要もないのですが,「西口」も「東口」もどちらも「駅前」に変りはありませんから,「新宿(駅)西口」(←駅を省略する)の「駅前」で「新宿西口・駅前」でさほどおかしくは感じないのですけれど。別に「新宿西口駅・前」という意味ではなかろうと。
「駅前」と「駅裏」がはっきりしている場合とは違って,どちら側も等しく「駅前」であるなら,こういう言い方も「あり」とは思います。もちろん,「新宿駅西口前店」でも全然変ではないですよ。

むさこ(武蔵小杉)

私は「こすぎ」かな。
もともとそこに住んでいる人にとってみれば「小杉」以外の何物でもないわけで,そこに「武蔵」その他の冠称を添えるのはあくまでも同名回避のための措置ですから,地元の人には関係ない。「こがねい」と聞いて,多摩の人が中央線の「武蔵小金井」を連想し,栃木の人が東北線の「小金井」を連想するのは,それぞれに至極当然なことでしょう。私はどちらにもなじみがないので,多摩の方は「武蔵小金井」とフルに言います。栃木の方は「下野小金井」(または「野州小金井」)…,とは言わないな。
わたしにとって「中山」とは,現住所に近い横浜線の「中山」(横浜市緑区)ではなく,子どもの頃の住所に近い総武線の「下総中山」(市川市・船橋市)のことです。

にしふな

私が習志野市民だった頃,市内の「東習志野」を「とーなら」と呼んでいました。だって,「ひがしならしの」って長いんだもん。船橋市の「北習志野」は…,関係ないので略しません。
「西船橋」は40年前から「にしふな」と呼んでいたけど,昔はなかった「東船橋」はどうなのかしら。

ところで「ブクロ」(池袋)は,「にしふな」のような“今出来”の呼び名とはちょっと位置づけが違うような。「ハマ」(横浜)とか「ノガミ」(上野)とか,“夜のお仕事”系の“その筋”の隠語,のようなものの系譜に連なるもののようにも感じます。
[74396] 2010年 3月 21日(日)22:44:52【1】Issie さん
武蔵小杉第二駅
[74395] じゃごたろ さん
黄砂

浅間山の火山灰が話題になっても黄砂が話題になることはあまりない南関東でも,今日は黄砂で景色が霞んでいました。浅間山の噴火よりも,黄砂が飛来する機会の方がずっと多いのですけどね,例年,西日本ほどひどくないから話題にならないのでしょう。
それでも太陽が直に見られるほどに霞みはしませんでしたけれど。

その黄砂降る中,先週開業した品鶴線(横須賀線・湘南新宿ライン)の武蔵小杉駅に行ってみました。一言,遠い!!!!!
東急東横線から南武線のホームを経由して横須賀線ホームに行ったのですが,実に遠い。いくら連絡通路を歩いても到達しません。新幹線をくぐってようやく品鶴線のガード下に到達してもまだ通路は続き…,つまり南武線との交点にホームがあるのではなく,さらに新川崎方向に行ったところにあるのですね。
これって,昔の横浜線・原町田駅と小田急・新原町田駅との乗り換えよりも遠いように思います(今の町田駅ではない)。
公式には「乗り換えに8分を要する」という案内があるようなのですが,これでよく「同じ駅」だと強弁できるものだ。もっとも,JRには既に「京葉線東京駅」という悪しき先例があります。
ラッチ(改札)内でつながっているから運賃計算上は利用者に都合がよいのだけど,やっぱり「別の駅」だよなぁ…。
[74373] 2010年 3月 18日(木)09:57:12Issie さん
サノヨイヨイ
[74372] MasAka さん
青函トンネル

青函トンネルは何回か通過したことがあるのだけど(もちろん列車で),夜行列車(「はまなす」)の場合はもちろん,昼間の列車でも眠ってしまうんですよね。だから,あんまり記憶がない。
少し前に話題になった宇高航路は国鉄の連絡船も国道フェリーも何度か利用したことがあるけれど,青函連絡船は間に合いませんでした。返す返すも残念。

昔の鉱山とかでもっと深いのがありそうな気もするので、実際どんなもんなんでしょう

炭鉱(炭坑)などでは深さ500メートル超というのも結構あるようですね。
たとえば ここ に紹介されている福岡の志免(しめ)炭鉱は最深600メートルだそうです。
三池炭鉱でも最も深いところは500メートルを超えるようですね。有明海の下。かつて三池闘争をテーマにした「地底(じぞこ)の歌」という合唱組曲が(どちらかというと共産党の影響の強いところで)よく歌われていましたが,「海底」の方が正しいかもしれません。
ともかく,海面高度を「0メートル」とするのか,坑口の標高を基準とするのかわかりませんが,志免にしても三池にしても低地であることには変わりありませんから,やはり海抜-500メートルは超えているのでしょう。
どちらも,もはや現役ではないし,今そこまで到達でできるのかわからないのですが。


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