[51028] YSK さん
今では市部と郡部(町村)とアプリオリに理解していますが、近代の行政機構としての市町村が出来上がったときに市部を郡部から独立させるというルールはどうして決まったのでしょうか。
法律条文上の根拠は、Issie さんが
[51045]で引用されたとおりで、下記の文言に基づきます。
明治21年(1888)「市制」第1条 “…市街地ニシテ郡ノ区域ニ属セス別ニ市ト為スノ地…”
それでは、このように市部を郡部と分離するようにした理由は?
やはり、農林業・水産業が経済活動の中心となっていた郡部と異なり、商業・工業・サービス業による経済活動を主とする地域を統治するための別の体制が必要だったからでしょう。
市制町村制よりも10年前の郡区町村編制法(1878)における「区」が「市」の前身であることは、既に
[51030]で指摘されていますが、ここで用いられた“三府五港其他人口輻湊ノ地ハ別ニ一区トナシ”という言葉が、このような「経済特区」を表わしています。
このような都市部における流動的な経済活動の存在は、明治4年の戸籍法においても考慮され、寄留制度が設けられています。
明治4年10月の「新聞雑誌」によると、今秋中東京府下の寄留人員は109674名、土着人員672747名とあります。
明治11年、明治21年と時代が下るにつれて、都市部における寄留人口はますます増え、人口輻湊、市街地形成の傾向は、ついに地方都市を含めて市部と郡部を区別するに至ったものと思われます。
明治21年6月27日の朝野新聞には、どんなところが「市」になるのだろうかという記事がありました(明治ニュース事典)。
“その筋にて昨今それらの取調べをなし居る由なり”としながら、“或者の云う処にてはおよそ二万五千戸以上とか、いやそれ以下でもその土地の模様によるとか、現在区を設けてありて郡とその経済を別にし居る処のみ”とか、この落書き帳を見ているようです。
結果的には、明治22年4月1日に31市、1年以内を含めると40市と、従来の「区」に比べてかなり多数の「市」が誕生しました。
付言すると、明治11年の郡区町村編制法の第4条では、上記のように「別ニ」という言葉は使って「特別の区域である」ことは示しているものの、郡と重複して設けられたものか、郡を排除して「区」が設けられたものか、いずれとも判断できません。
この点については、15区6郡時代の東京府に関して、tkshさんから“制度上は「郡と重複して区は存在する」が、実質的にはフレキシブルな運用である「東京府布達」により、郡と区の分離が行なわれた”旨のご教示をいただいています。
[33692]
明治21年の「市制町村制」では、経済上の理由から市部を郡部から区別したわけですが、その一方では、郡部一般の経済力にも及ばない離島については、明治22年1月16日の勅令で「町村制を施行せざる島嶼」が指定されています。
東京府管下 小笠原島、伊豆七島、 長崎県管下 対馬国、 島根県管下 隠岐国
鹿児島県管下 大隅国大島郡 大島, 徳之島,喜界島,沖永良部島,与論島、薩摩国川辺郡 硫黄島,黒島,竹島,口之島,臥蛇島,平島,中之島,悪石島,諏訪ノ瀬島,宝島
明治21年の「市制町村制」では、北海道と沖縄も対象外の地域でした。
それはさておき、最初の明治21年「市制」条文に戻ると、
第3条 凡市ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セス
とあります。アレ? 「市」はこの時に初めてできたと思われるのに、「従来ノ区域」などあったのですかね?
長崎区、金沢区など「区」のあった区域はもちろんのことですが、以前は町々を統合する行政区域が存在しなかった?城下町にも、「従来からの市街化区域」自体はは存在していたということなのでしょう。
# この「市制町村制」という法律(明治21年法律第1号)には、「市制」(第1章~第7章)と「町村制」(第1章~第8章)とが含まれていて、それぞれが第1条から始まっています。1911年の全文改正の際に別々の法律になりました。