戸数一千以上を擁する
「1880年の都市リスト」 には、324の地名が挙げられていました。
これに対応する現在の自治体の数は、225市20町ですから
[81146]、79地名が「都市圏の一部になった地名」という計算です
[81154]。
そこで、京都近くの柳原・伏見に始まり、大阪付近
[81176]・東海
[81182]・東京付近
[81187]と、都市圏の一部になった地名を巡ってきました。済んだのは、畿内13、東海道20の合計 33ですから、まだ 79の半分にもなりません。少し先を急ぎましょう。
…とか言いながら、東山道諸国に足を踏み入れたら、最初に現れたのが「岐阜」と「加納」でした。
美濃国厚見郡 を見ると、上加納を含めて3つの町が並んでいます。戸数は、岐阜町1596, 上加納村725, 加納駅1073。
岐阜町だけに「官庁6」とあり、ここが行政中心地であると知れます。明治4年に笠松に置かれた岐阜県庁は、今泉村
[4082]の西本願寺仮庁舎を経て明治7年には小熊村
[20742]に 2代目の県庁舎が開庁。現在の岐阜市司町で、共武政表では「岐阜町」に含まれていますが、町村制施行前の正式行政地名では、まだ岐阜51町ではなく“隣接4村”
[79386]に県庁があったのですね。木造畳敷きの庁舎で、下記3代目県庁舎の南側にありました。
大正13年に鉄筋3階建で建設された3代目県庁舎(現・岐阜総合庁舎)までは市役所の北の司町にありました。
しかし、昭和41年に移転した現在の4代目岐阜県庁舎は、岐阜市内とはいうものの、岐阜市役所から遠い郊外の「薮田」にあり、多くの都道府県が 便利な市内中心地に庁舎を置いている中で 特異的です。
県庁舎の歴史 参照。
落書き帳記事
岐阜・加納 は、県庁舎だけでなく、3つの町に関する Issieさんの記事も収録しています。
戦国大名・斎藤氏の支配拠点として現れた 城下町の井ノ口
[39531]→織田氏の岐阜
[4082]。
関ヶ原の戦で西軍に与した織田秀信【清州会議では秀吉に抱かれ、信長の嫡孫であることをアピールされた 幼名三法師】の改易により 岐阜城が破却された後は、城下町ではなくなったものの、長良川水運の拠点である岐阜は、近世にも 商業都市として生き続けました
[39561]。
その稲葉山下・長良川南岸の市街地・岐阜は、明治4年の新政府による府県統合で、美濃国を管轄する「県の名」に使われ、行政中心としての地位回復が約束されました。
暫定的に笠松
[75944]に置かれた県庁も、明治6年には岐阜(今泉仮庁舎)に来ました。
戦国時代の山城である岐阜城を廃した徳川家康は、中山道の要衝を放置しておいたわけではなく、亀姫の夫の奥平信昌をして、岐阜の南の加納に築城させました。その後は譜代大名の城下町として、濃尾平野北部に重きをなした加納。
[4082] Issie さん
【明治6年岐阜県庁が今泉村に移転した】この段階で「岐阜」と「加納」とはお互いに独立した都市でした。
長良川の「岐阜」と中山道の「加納」との間を取り持ったのは、第3の交通機関・鉄道でした。
文明開化の世になり計画された中山道幹線鉄道。明治15年にできた敦賀港(金ヶ崎)・長浜間の路線によって建設資材を送り込みながら、明治20年には加納に到達しました
[61303]。
明治20年に加納停車場のできた地が「上加納村」で、加納城と城下町とが作られた「下加納村」よりも岐阜寄りの北側にありました。その2年後の市制町村制施行時の変遷情報を見ると、“上加納村の一部”が岐阜市内に編入されていますが、これが Issieさんの
[20736]上加納村岐阜駅前というタイトルの地名なのでしょう。
[79395]によると、最初に作られた当時から加納にあった岐阜駅は、大正になってから、更に南に動いたとのことです。
岐阜と加納の間の上加納に鉄道の停車場ができて、互いに独立していた2つの町場の間が市街化し、その岐阜駅が南に動いたことが駅前市街地の南側への拡大を更に進めというプロセスで、加納の町は岐阜都市圏の一部として飲み込まれていったように思われます。
先を急ごうと言った舌の根も乾かぬまま、オフ会最有力候補地
[80767] の意識も手伝い、思わず長文。