都道府県市区町村
白桃研究所長による人口テーマ専門誌

各地の都市圏談義

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記事数=34件/登録日:2013年7月16日

「都市圏」と言う語句を本落書き帳で検索してみると、あ〜あること、あること。
その中でも、圧倒的に多いのは、「大都市圏」と「三大都市圏」
三大都市圏、それは、♪ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー・・・
違った、これはビールの名産地。
では、お酒はというと、会津、伏見、灘、西条(東広島市)、ちょっとマイナーなところで、高知の佐川。
イカン、イカン。大脱線。

とにかく、ここでは三大都市圏のみならず、各地のいわば、“都市圏地誌”について、その地にゆかりある方を中心に、現場からお伝えして頂きます。(※「伊東都市圏」については後ほど、伊東ゆかりさんからお伝えいただく予定は・・・ありません。)

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[2850]2002年8月31日
らるふ
[3758]2002年10月10日
YSK
[3926]2002年10月16日
TN
[4238]2002年10月28日
Issie
[7169]2002年12月31日
YSK
[8882]2003年2月7日
YSK
[9601]2003年2月22日
ニジェガロージェッツ
[17768]2003年7月4日
琉球の風
[18966]2003年8月11日
YSK
[19900]2003年9月14日
実那川蒼
[20554]2003年10月2日
深海魚
[24056]2004年1月23日
ペーロケ
[24085]2004年1月24日
YSK
[39345]2005年4月3日
YSK
[40121]2005年4月20日
トライランダー
[40523]2005年5月2日
トライランダー
[41770]2005年5月31日
hmt
[44435]2005年8月23日
かぱぷう
[51928]2006年7月1日
矢作川太郎
[52955]2006年8月3日
矢作川太郎
[52975]2006年8月3日
YASU
[53140]2006年8月7日
打吹
[53819]2006年9月5日
hiroroじゃけぇ
[61313]2007年9月26日
ソーナンス
[66806]2008年9月17日
小松原ラガー
[81187]2012年7月26日
hmt
[81195]2012年7月28日
hmt
[81262]2012年8月6日
hmt
[81275]2012年8月8日
hmt
[81296]2012年8月11日
hmt
[81304]2012年8月12日
hmt
[81502]2012年8月16日
hmt
[83026]2013年3月24日
伊豆之国
[83028]2013年3月25日
白桃

[2850] 2002年 8月 31日(土)11:20:58らるふ さん
仮想:中国地方
中国地方に3つの支店がある企業を仮想してみます。

広島支店/広島県の大部分と山口県全域を統括。
岡山支店/岡山県全域と広島県の福山近辺を統括。
米子支店/鳥取・島根両県全域を統括。

広島・岡山は中国地方の2大都市なので当然として、
風土の異なる山陰地方にも独自のサービス展開ができように支店を配置。
山陽への窓口で山陰の中央に位置する米子は理想的な立地であった。
3支店の中では、米子支店は市場規模が小さく、広島支店がやや岡山支店を上回る。
よって、常に広島支店が中国地方のリーダー的存在だった。

20XX年。鳥取自動車道が開通した。
米子支店の重要地域のひとつである鳥取市に岡山からのアクセスがぐっと短縮されたのである。
米子支店のスタッフは、商品の流通が効率よくなるので鳥取市での売上増を目標にかかげた。
一方、企業のトップはもっと合理的に考えた。
「もともと、松江・米子は岡山からのアクセスが良かった。鳥取も同様になったのだから、山陰に支店がなくても競合に負けないだろう。」
「浜田・益田はアクセスのいい広島支店で見ればいい。米子支店の主力メンバーは岡山支店に移せばいい。」
このような議論の末、鳥取自動車道開通からわずか半年で米子支店は閉鎖となった。
その結果、中国地方は広島・岡山両支店がほぼ均等に2分割して統括することとなった。

なんだか、近未来小説の紹介文みたいになってしまいましたが、
地域の風土やサービスより、合理化や競合対策を優先するとありえない話でもないでしょう。(本当はこんな優先順位はおかしいと思いますが)
すでにここ数年でも、地方都市の営業所を中心都市の支店に併合、なんて言う話をよく聞きます。

ある程度の都市圏を持つ地方都市達は互いに距離を保ちながら発展して来ました。
そこに交通網が発達して、実質的な距離が短くなると、
経済力の強い都市の影響力がひろがってしまいます。
かつては、「地方から三大都市圏への人口移動」だったのに加えて、
「地方都市から地方中心都市への人口移動」の傾向が出てきているのではないでしょうか。
福岡市と北九州市の人口推移もそのあたりに関係あるかもしれません。
[3758] 2002年 10月 10日(木)18:38:47YSK さん
茨城県西、栃木県南
[3751]
土浦とつくば、どちらかが一方を押しのけて成長するという将来よりは、ともに補完しあって「茨城県南のツートップ」となって発展していく未来を期待したいですね。
しかし、今後つくばエクスプレスの開通などで、ますますつくば市の拠点性は強まっていくことが予想されます。
卸売業にしても、市街中心部の伝統的な「問屋街」が時代遅れとなって久しいですからね。多くの大都市では、郊外に巨大な卸商センターが発達していることですし。
土浦とつくばが共存していく道は何なのでしょう。当地域での生活観の分からない私にとっては難しい問題です。

下妻市は、主要鉄路から外れてしまったこと、周辺の需要量が相対的に少なかったこと、そしてご指摘の小山市や下館市などの、栃木南部から茨城県西にかけての都市地域の影響などもあり、停滞を余儀なくされてしまったのですね。
茨城県南、茨城県西、栃木県南にかけての一帯は、大小の都市が互いに都市圏をオーバーラップさせつつ、ゆるやかな結びつきを介した生活圏がつくられている地域ですよね。

主要鉄路から外れたというと、小山と栃木もその影響を受けた都市です。
東北線の開通前は、栃木県南部で最大の町といえば栃木でした。このことは、宇都宮県と合併する前の旧栃木県の県庁が栃木にあったこと、そして現在の県名にその名がつけられていることからも裏付けられます(栃木市内には、かつての県庁跡地周辺の水路に、「県庁堀」と名づけられているところがあります)。

ところが、栃木は、鉄路を市街地に引くことを拒否し、東北線は現在のルートを取るようになりました。その後、皆さんが十分ご承知のとおり、小山は、両毛線、水戸線の結節点となっただけでなく、新幹線の停車駅にもなり、急激に拠点性を高めています。足利市を抜いて、栃木県第二位の都市になるのも時間の問題ではないでしょうか。
[3926] 2002年 10月 16日(水)16:23:14TN さん
北九州市
[3921]雑魚さん
どうもありがとうございます。

[3922]ユタロさん
北九州市に関する私見を述べますと、決して影の薄い大都市ではない、ということが言えそうです。当市の成り立ち等は他にも詳しい方がおられると思いますので、それらについては割愛させていただきますが、今や山口県下関市なども包含しつつ、県都福岡市へ連なる響灘、玄界灘に沿う地域は東京、大阪、名古屋に続く第四番目の大都市圏になるべく奮闘しているように見受けられますよ。たしかに、経済構造の転換による重厚長大産業の斜陽化からなのか人口は減少基調になっているようですが、お隣苅田町との境界の沖合い5キロの周防灘上には2005年開港をめざして新北九州空港の建設が真っ盛りですし、JR筑豊本線・篠栗線は「福北ゆたか線」の愛称のもと電化されました。
最も、これらが必ずしも明るい話題なのかといえば、新福岡空港の建設に固執する福岡市の動きや、電化開業の結果、飯塚あたりからの通勤流動などが以前にも増して福岡市に向くなど「大福岡市」の様相を呈している、などの理由から一概には断言できないでしょう。
これは、私が以前立てた仮説を基に実地踏査したことなのですが、100万都市の中枢地区は半径500メートルにだいだい収まる、というもので 100万人あたりに直径1キロの円が1つ といったものです。人口に比例して若干飛び出したりしますが、例えば横浜ですと横浜駅周辺・みなとみらい・関内伊勢崎町の3つで300万人、その他戸塚、新横浜、港北NT、日吉、上大岡、たまプラーザ、青葉台などの副都心を端数とする。などと調べてみたものの、うまく論文にはまとまりませんでした。ですが、小倉駅南口周辺は「そごう」撤退後は地元百貨店玉屋が入居するなど依然として200万都市圏の中枢ですし、私の拙い直径1キロ説(?)をとれば100万都市としては十分耐え得ると考えたのですが・・・。北口の港湾再開発が好影響を与えるかの推移を見守っていく必要もあると思います。「そごう」といえば、副都心の黒崎からも撤退したでしょうか・・・。
それはさておき、北九州国定公園のカルスト台地・平尾台や門司港駅近辺のノスタルジックな雰囲気、小倉城、都市モノレールは、少なくともさいたま市から見ればかなり羨ましい要素ですね。

追記:東京湾岸のマンション建設ラッシュによって人口は急増しているものの、急激な児童増加に学校建設が追いつかず、マンション建設を事実上制限している東京都江東区の例もあります。人口増も良し悪しということでしょうか。
[4238] 2002年 10月 28日(月)21:49:46Issie さん
Re:広島vs岡山
[4230]
>私見では 「アデュー」 らしき状況かと推察されます。

ならば「プラッシャーイ Proshchai !」がニュアンスとしては近いかな。
原形動詞の prostit'(プラスチーチ)は「許す」という意味だから,派生形の「プラッシャーイ」を直訳すれば「御免なすって!」ってところかしら。
直接には“永の別れ”を意味しないのは日本語の「さらば(=それじゃぁ)」と同じですね。

>「Д」

ギリシア文字だと“デルタ(Δ)”ですね。ところがロシアで一般的な筆記体になると小文字は英語の g と同じ形になってしまいます。他にも T の小文字の筆記体が英語の m と同じだったり,Π(P)の小文字の筆記体が英語の n と同じだったり,キリル文字(ロシア文字)とローマ字との混同は活字体以上に複雑なものになって行きます。

ところで,広島と岡山。
ある都市の発展には当たり前すぎることですが様々な要素が絡み合うわけで,1つの要因だけを過大評価することはできないのですが,地勢的な面について言えば,

>太田川河口の三角州地帯を除いて平坦地が少ない広島周辺

これに尽きるかな,とも思います。
ここまでは太田川三角州とその前面の干拓地ないし埋立地を埋めて発展してきたわけだけど,すでに飽和状態であることは否めないですね。そこで周辺の丘陵地帯を崩して造成しているけれども,そのコストはどれほどか。また,どこまで多面的な利用が可能か。
備後地方の尾三(尾道・三原)地区や福山はもちろん,隣接する呉や大竹・岩国地区とも陸上では地形的に連続した市街地を形成し得ないという点,相当な弱点になりそうではあります。
概して言えば,太田川三角州への集中度(集積度)は極めて高いものがあるけれども,都市圏としては孤立的であることは否めない。

その点,備前・備中にまたがる吉備平野(岡山平野)の中にある岡山には,まだかなりの余裕があるように見えます。
水運という点では,直接に海に面する広島に一歩譲るとしても(これも,膨張した広島市街が宇品を呑み込んだ結果です。岡山の場合,児島湾に面する岡山港があるにはあるが),そこは隣接する玉野(宇野)や倉敷(水島)と一体化した都市圏を形成すれば十分に補えそうですね。
何より「岡山・倉敷・(児島)・玉野」という都市圏の一体化を展望できる点で,孤立的な広島よりは有利と言えるかもしれません。

ともかく都市の発展には多くの要素が関わって,場合によっては予想もしない形での動きも起こり得ますから一概には言えないのですが,案外,岡山都市圏が広島を追い抜くという将来像はあるかもしれない,という可能性は捨てきれないだろうなぁ,と思っています。

…とは言え,いまさら「水島コンビナート」はないよな。クラボウ(倉敷紡績)の時代ではもちろんあるまいし,何が牽引役となることやら。
(その点,苦しそうな「マツダ」も同じ。ましてや,呉の「海軍工廠」なんてはずもないよね。)
[7169] 2002年 12月 31日(火)00:39:12【1】YSK さん
宮城県の生活圏雑感
宮城県の生活圏と、合併の枠組みに関しての書き込みがありましたので、若干の感想を。

まず、柴田町と大河原町、というよりは槻木と船岡と大河原についてですが(私は中心地単位であの辺を捉えておりますので・・・)、確かに仙台都市圏の南端で、交通の要衝性も認められ、1つの自治体(市)として歩んでいった方がこの地域にはプラスになることの方が多いのかもしれませんね。場合によっては、北の村田町もこの枠組みに加わることも想定されているようですが。

ただ、槻木、船岡、大河原と、同規模の中心地が鼎立する状況から、まちづくりの構想を十分に検討しておく必要があるようですね。偏りなく資本投下を行うのか、拠点を設けてそこをメインに地域をつくっていくのか・・・。さらに村田がここに入っていくと、この議論はより複雑になりますよね。

次に、話題になった鹿島台町ですが、確かに[7105]にてTNさんが指摘されているように、鹿島台町は古川広域圏ではなく、仙台広域圏に含まれるべきであり、町の将来は、古川の辺縁になるよりは仙台都市圏の一部としてベッドタウン化が唯一の生き残る道だ、という論調が感じられましたね。地図を確認すると、古川圏でも、仙台圏でも、ともに縁辺に位置してしまうというジレンマが伝わってきます。同じ縁辺になるのなら、より成長度・知名度の高い仙台圏を選択したい、ということでしょうか。私は、鹿島台町の今後について、適切な回答を導くことはできませんが、このお話を拝見した時に、ふと仙台市との合併協議会設置を否決した名取市のことを思い出しました。

最後に、瀬峰町にみる古川(大崎)圏と栗原圏の関連ですが、このあたりも明確に自然境界のない、平地での生活圏の変遷なので、判断に困るところですね。
この地域では、過去にも越境分村など、細かい生活圏などの違いから1つの村が分かれて別の自治体に合併されるといった事例が多いのです。

旧敷玉村  → 1954.8.1に古川市と小牛田町(青生地区を編入)にわかれて合併。
旧伊場野村 → 1955.3.31に松山町(下伊場野地区を編入)と三本木町(伊場野地区を編入)にわかれて合併

いずれにしても、地域の生活圏構造、住民の意向、インフラや施設配置の効率性などを十分に考慮した合併を望みたいところですね。
[8882] 2003年 2月 7日(金)21:57:10【3】YSK さん
分散型の地域の、分散的な町に育った私の地域観
つくば市を中心とした県西地域についてのお話を興味深く拝見しています。

私は、茨城県の県西地域については、片手で数えるくらいしか訪問歴がなく、しかもほとんどが自動車で通過しただけですので、この地域について語ることはできません。しかしながら、県西地域が中小規模の中心地が互いに鼎立しながら、それらが肩を並べて都市圏をオーバーラップさせつつ分散的な生活圏を形成しているであろうという類推のもとで考察させていただくと、この地域の場合、平坦な地勢であることもあり、その生活圏の分散化にモータリゼーションが大きく寄与していることは十分推察し得ることであろうと思われます。

この掲示板で再三話題にして、またかよという常連の方も多いと思いますが、私の住む両毛地域も、似たような規模の町が平坦地で肩を並べた分散的な地域構造です。モータリゼーションが最も高度に、かつ最も早い時期(1970年代中葉あたり)から進んだ地域でして、ロードサイド型商店や大型ショッピングセンターが小売業のメインとなり、中心商店街が停滞するという状態になってから久しい地域であります。私も、物心ついたときから近く、遠く距離に関わらず移動手段は自動車で、通学も専ら徒歩、自転車で、バスや電車などの公共交通機関は、大学に入って仙台に住むようになるまで、日常生活ではほとんど使ったことはありませんでした。仙台でバスにはじめて乗ったとき、バスに乗ることになれていなかったため、最初は両替等にかなり手間取っていましたね。

このことを考えますと、つくば市における谷田部地域の相対的な停滞という現象も、つくば市に合併したために相対的に縁辺に位置してしまったからということに加えて、こういったモータリゼーションの進展等に起因する、中心商店街の停滞、生活圏の分散化によるものとも考えられるような気がいたします。

なお、私の地元太田市もまた、突出した中心地を持たない、分散的な都市構造です。1948.5.3に旧新田郡太田町は、他の自治体と合体あるいは編入することなく単独で市制施行をしたのですが、この太田町自体も、戦中の中島飛行機の大規模化に伴う都市建設計画の一環で、もとの太田町と新田郡九合村、同沢野村、山田郡韮川村を1930.4.1に、少し遅れて新田郡鳥之郷村を1943.11.1に、それぞれ編入して成立した、当初から分散性を内包した町域を基礎とした市でした。その後、1957.4.1に新田郡強戸村と山田郡休泊村が、1960.7.1に山田郡矢場川村の一部が(残りの村域は足利市へ越県編入されました)、1963.4.1に新田郡宝泉村が、そして1963.12.1に山田郡毛里田村が、それぞれ太田市に編入されて、ほぼ現在の市域が確定しました。
#太田市は、実は新田郡と山田郡にまたがってできた市なんです。

現在でも、太田市民が自分の住所を話題にする時、以上に紹介した9つの旧村名(太田、九合、沢野、韮川、鳥之郷、強戸、休泊、宝泉、毛里田;矢場川は編入分があまり広くないので、韮川に含められています)で紹介しあうのが日常で、市の施策などもこの9つの地区が基礎地域単位として用いられており、地区行政センターや児童館などの公共施設もこの地域単位で建設されているなど、太田の地域を語る上で切っても切れない地域単位となっています。

太田市の場合、中心市街地はこの太田地区ということになりますが、ここの停滞は定常的になっていまして、この中心市街地を取り巻く環状線や熊谷に至る国道407号線沿いが、主要な商業集積地となっています。朝夕、休日の夕方など、幹線である南北の407号の信号待ちの間に東西の環状道路に負けないくらいの自動車が終結して、渋滞は慢性的です。しかしながら、分散的な商業構造になってしまったこの地域では、自動車なしに日常生活は成り立ちません。現在、太田駅周辺において東武線の連続立体交差事業が進み、それに期を一にした土地区画整理事業、再開発住宅建設事業が進捗するなど、中心市街地の再開発が実行に移されつつありますが、求心性が乏しくなってしまったあの町が生まれ変われるか・・・、先行きは決してよいものではないでしょう。

さらに、国道122号線と内環状線とが交差する丁字路の南側一帯に、北関東最大級のショッピングセンターの建設が進んでいます。今年秋には、オープン予定です。ただでさえ渋滞するその環状線が、更に渋滞するであろうことは容易に想像できます。

以上、分散的な地域の中の、分散的な都市構造を持つわが町のレポートでした。
[9601] 2003年 2月 22日(土)00:18:15ニジェガロージェッツ さん
段々わからんよーなってきた
[9570]地域研究家 さん
「何してんねん!」と「何しとんねん!」は大阪と神戸で、そないにはっきり使い分けるものなんですか?
阪神地区は両方が入り交じるんでしょうか。
大阪で「何しとんねん!」が現在使われているかは詳しくは存じませんが、小生が大阪府下の大学に通っていた頃はあまり耳にしませんでした。
で、小生が住んでいる神戸市西部では専ら「何しとんねん!」です。
で、阪神地区、特に西宮ですが、詳しくは存知ませんでしたが、西宮に在住経験をお持ちのuttさん[9572]、らるふさん[9582]が詳しくレス下さっており、参考になりました。
思うに、つまるところ西宮は大阪都市圏になるのか神戸都市圏に属するのかの問題ですが、恐らく両者でしょう。武庫川を挟んで尼崎や伊丹は兵庫県ではありますが、はっきり大阪都市圏です。結局、昭和時代、それも戦後・高度経済成長期に顕著となった東(大阪)西(神戸)からの阪神都市連担が西宮辺りで繋がったということでしょう。ですから、西宮市民にとって地の宮っ子か、ルーツは浪花っ子か、それとも神戸っ子か、ということで市民の間でも言葉使いに若干の違いがあったのでしょうか。

震災の時、大阪府知事(ノックの前の官僚知事)が「被災者は自分らで炊き出しすればいい」と言ったりしたのも、大阪と神戸の仲の悪さの証明だ、と聞いたことがありますが。
あの発言、水道も燃料も場所も失った中で聞き、今だに中川大阪府知事(当時)が許せません。
震災の数年前に某機械整備技能試験を大阪府下で受験し、その認定状が大阪府知事中川・・となっているのに気付き「破ってほかしてもたろかー!」と毒づいた程です。

大阪と神戸の仲の悪さですが、大阪と京都ほどではありませんが、やはり悪いです。
件の知事の発言と言い、物を無くした被災者に何の変哲もない生活必需品を、足元を見て法外な価格で売りつけた大阪商人と言い、ごく少数とはいえ、如何にえげつない連中が居たことか。(もちろん、大多数の大阪の皆さんは親切でした。感謝しております。)
その神戸が壊滅した直後に、大阪では官が大はしゃぎでオリンピックの誘致活動を始め、神戸市民の顰蹙を買っていました。同じくオリンピックを誘致していた遠くの横浜でさえ、「同じ港町の神戸が苦しんでいる時に・・・」と半ば自粛されていたにも拘らず、です。
後に大阪がオリンピックへの協力を神戸に打診してきた時、当然神戸は冷淡で、「神戸空港に賛成してくれたら手ぇ貸したってもええけどなぁ」ぐらいの態度だったそうで、モスクワで大阪オリンピックが散った時も、神戸では話題にさえなりませんでした。

[9581]YJ3 さん
「ごうわくのぉ」を姫路の人から聞いたことがあったので、それが加古川から、と初めて知りました。
いや、ひょっとしたら姫路発かも知れません。しかし加古川で定着している表現であることは事実です。

私の知人は、自分のことを神戸っ子と言ってました。だから○○っ子のときに、どうしてニジェガロージェッツさんが言及されないのかなと思っていたのですが、もしかして、それは知人の個人的な造語だったのでしょうか?
「神戸っ子」は、れっきとした呼称です。決して個人的な造語ではありません。
「神戸っ子」については拙稿[8057]で言及しております。ご参考までに。

[9582]らるふ さん
「居ない」が「いーひん(神戸)」「おらへん・おれへん(大阪)」
(中略)
「見ない」が「みーひん(神戸)」「みーへん(大阪)」
この言い回しが神戸弁だとは小生もuttさん[9593]同様に全く意識しておらず、初耳でした。
ただ、年配の方は神戸っ子でも使っていないと思います。
寧ろ、大阪の同級生がよく使っていました。
[17768] 2003年 7月 4日(金)11:09:06琉球の風[てつ(沖縄の)] さん
那覇市の都市規模
[17766]kenさん
那覇市は、今回初めて訪れて、非常に立派な町並みに驚きました

[17739]地理好きのケンさん
那覇市は人口30万人でありながら政令市並の都市規模を持っていると思います

沖縄県民である私は飛行機に乗って他県に出向かない限り、他の30万都市との比較が出来ませんので、あまり大きな事は言えないのですが、確かに那覇市の都市規模は一般的な30万都市よりは大きい気がします。那覇市の都市圏人口(どこめで含むのかは未確認)は70万人、中心から30km圏内の人口は102万人とのことなので、それを支える中核である那覇市はそれなりの都市規模を有することになるのでしょう。あと、一般的に地方ごとに置かれるような各省庁や企業の支所や支社のビルが那覇市に集中しているせいもあるのかも知れません(福岡は遠いですから)。また、来月開通するモノレールや、那覇新都心開発区、旭橋駅周辺再開発地区(まだ『駅』を使うのに馴染めません・・・・)などの計画も進行中ですので、これからも那覇市から目が話せませなくなりそうです(?)。
[18966] 2003年 8月 11日(月)02:06:43YSK[両毛人] さん
仙南地方
[18959]太白さん
除かれた地域は仙南なのか?
引用していただき、ありがとうございます。
[16851]の範囲は、仙台の都心地域と日常的に密接に結びついた、仙台都市圏の範囲をイメージしております。

では、仙南地方はどうなのか、といいますと、やはり「仙南地方」=「仙台(地方)の南部」ということで、さらに宮城県内の部分地域名というニュアンスがありますから、仙南地方とは、宮城県内のうち、仙台(地方)以南の部分ということになるのは、みなさんに共通した理解であると思います。したがって、太白さんのご指摘のとおり、仙台地方をどのように画定するかによって、仙南地方の範囲が確定することになります。

しかし、これは難しい問題です。今までも述べてきましたが、地方の区分はそれ自体に意味があるわけではなく、人によって、また分析する事象によって様々に画定が可能です。また、「ここからここまでがA地方、それ以外はB地方」などと排他的な画定をしなければならないわけではなく、1つの町が2つの地方区分にまたがるような画定方法だって可能なわけです。

まあ、そんなカタいことをいってもおもしろくないですから、今回は通勤・通学の流れとか、中心地間の結びつきの度合いとか、そういった人々の生活行動の傾向(以下、「仙台の生活圏」のいう表現も使います)を私の主観から、お話します。

私としては、
仙台地方=「仙台大都市圏周辺地域広域行政圏」の範囲
仙南地方=「仙南地域広域市町村圏」の範囲
(※具体的な市町名は[14240]を参照くださいね)
という感覚ですね。[18374]軒下提灯さんの指摘する「狭義の仙南」にあたるでしょうか。

仙台市内の長町や六郷、西多賀、秋保などや、名取市、岩沼市は日常的な生活行動の面では仙台市街地を志向する割合が高いですし、亘理郡は岩沼市との結びつきが強いと思われますが、その岩沼市自体が仙台との結びつきが強いですから、仙台の生活圏に含めてもよいように思います(亘理郡自体、仙台市街地を志向する傾向が強まっているようにも感じられます)。

一方の仙南ですが、こちらは宮城県南部のうち、仙台市街地との間よりも、域内の中心地間の結びつきの方がより強いと思われる地域的範囲を想定します。この地域でも、仙台市の影響は少なからず及んでいますので、判断は難しいのですが、軒下提灯さんが常々ご指摘されていらっしゃるとおり、仙南地域は大河原町から柴田町にかけての地域に商業集積が著しく、かつ大河原町に「狭義の仙南」を管轄する行政機能の集積も見られることなどから、これらの地域を扇の要としながらも、村田や白石、角田、丸森といった複数の有力な中心地が並立した生活圏「仙南」が、仙台市街地を中心とした生活圏「仙台」よりも相対的に独立した圏域として画定し得るのではないか、という所感を持っております。

しかしながら、上記は仙南地域の範囲を明確に規定しようという趣旨ではありません。地域区分はさまざまに画定可能なものです。あくまでいろいろな地域の見方のうちから、私の主観の中で、生活圏域を描き出してみると、こんな感じかな、という意思表示です。その程度にご覧いただけますと幸いです。

[18374]軒下提灯さん
たぶん若い世代は、太白区や若林区を仙南地方じゃないと言うかもしれない。でも年配者は、かつて名取郡に属した秋保・生出・西多賀・長町・中田・六郷(いずれも現在は仙台市太白区・若林区)を仙南地方の一部と認識しているかもしれない。
一般的な傾向として、より若い世代ほど、仙台(地方)をより広い範囲で捉えるのではないかと私は感じます。それは、とりもなおさず、戦後における仙台市街地を中心とした都市化の急速な拡大と期を同じくするものであると言えるのでしょうね。
[19900] 2003年 9月 14日(日)19:47:52【1】実那川蒼[あんどれ] さん
京都都市圏
[19816](まがみさん)
ところで、「京都」というとどうしても「京都市」のイメージが強くなりがちで、ここまでの文章でも、無意識に京都=京都市、という感覚で書いてしまっています。京都府内の政治・経済・文化の、京都市への集中度はものすごいです。いや、京都府内に限らず滋賀県をも勢力下に収めているのですから。

[19856](今川焼さん)
無意識に京都=京都市、という感覚で書いてしまっています。
そうでした、私もこれまで「京都」と書いたものもすべて「京都市」を指しています。でも私の経験上では「京都」と言って、京都市以外を指すことってほとんどないように思います。

京都府内に限らず滋賀県をも勢力下に収めているのですから。
京都市内に住んで、京都新聞を読んでいると同じ京都府北部の丹後地方あたりより、むしろ滋賀県の方が身近に感じられました。(京都新聞って“京滋新聞”みたいですから)それに京都市は水道水を滋賀県(琵琶湖)に依存していますから。

全国を商圏などを加味した都市圏に分ける分け方がありますが、「京都都市圏」は滋賀県南部のいくつかの市町村が入っている一方、京都府北部の市町は含まれていません。
http://www.kyoto-toshiken.jp/
京都府南部と滋賀県は水系を同じくしている(琵琶湖淀川水系)こともあり、京都府北部と南部のつながりよりも深いです。
逆に京都府北部はつながりが浅いわけで、京都府北部の6町が合併して誕生する「京丹後市」に私が違和感を感じるのもここにありそうです。滋賀県中主町と野洲町が合併後の新市名を募集したら、「東京都市」という応募(おそらく1票)もありました。こちらのほうが違和感が少ないのは気のせいでしょうか(笑)。

[19855](uttさん)
 これが実現したら、ある意味、人名自治体名の誕生ですね(苦笑)。しかし、[14976][18687]はやいちさん情報による「ゴジラ市」のようなノリですね。いや、本人にゆかりがある土地という意味では、「ゴジラ市」の方がマシでしょうか。。。(もしかして、「あやや」もゆかりがあるのかな?)

[19842](暁緑桜公@させぼさん)
「松浦亜弥市」、「松浦あやや市」が各1票あったそうな…。

[19864](カッパーさん)
もっと市名は真剣に決めて欲しいものです。

話を滋賀県中主町・野洲町合併協議会の話に戻しますが、当地出身のT.M.Revolutionの西川貴教氏にちなんだ「西川市」の応募(やはり、おそらく1票)もありました。
それ以上に応募があった(7票)のが、鳥取県倉吉市を中心とした天神川流域合併協議会にも新市名として応募されていたものなのですが、これは宿題にしておきます。ヒントを挙げるならば、この名前は天神川流域には縁があるとはいえますが、中主町・野洲町にはあまり縁がありません。また、滋賀県内の別の合併協議会でも新市名候補として応募されていました。最終的に、その合併協議会ではそれに近い名前を新市名として採用しました。
[20554] 2003年 10月 2日(木)17:47:20深海魚 さん
広島談義
[20551] スナフキんさん
芸備線で何の前触れもなくいきなり三次までの快速が終日走り始めたのにはびっくりしました。
それだけ広島の都市圏が三次寄りに拡大して、速達便需要が高まったという事でしょうか。(数年前の道路地図を見る限り、狩留家以遠の沿線で大規模な宅地開発が行なわれている様な雰囲気は見当たりませんが。) 利用客が大きく一段落する狩留家を境に、何れの側が快速区間となるか、列車名別に逆転している陣容や、津山線と同様、急行と快速を併置させた体制も独特ですね。旧運輸省の意向の延長か、自社管内の急行が軒並み快速化されたJR東日本とは対照的です。

それにしても、広島の経済圏に江の川水系の街が含まれるというのも、何か不思議な感じがします。分水界と思しき一帯は向原町の中心地区なので、清水峠や碓氷峠の様に、明らかに一線を画する様な雰囲気からは程遠いのでしょうけれど。

芸備線といえば、かつては木次線と併せ陰陽連絡線の印象が強く、最盛期には夜行急行も運転されたものですが、徐々に運転区間を縮小、広島県内のみの運転になった後も松江城に因んだ 「ちどり」 を名乗っていたのは不思議でした。しかし、こうした名が体を表さない例は、那須塩原折返しの 「あおば」、甲府折返しの 「あずさ」、大分折返しの 「にちりん」、末期は確か天橋立あたりで折り返していた 「大社」 など、探せば結構あるもので、現行では、青森発着時代の名残を引き摺りつつ新潟で折り返す 「きたぐに」 が挙げられるでしょうか。「新潟 = 北国」 ……… これは問題無いかな?

あの長椅子車両に速達使命を負わせるのはちと役がでかい気もしますが
いやいや、現行愛称が付く以前に利用した呉線快速も、長椅子仕様にして、セカンド・ギアで バイパスを怪走するかの如き猛々しい走りでしたからね。(笑) 現況は存じませんが、あれだけ瀬戸内海の眺めが見事な呉線に横掛け仕様車両充当は勿体無いと思います。瀬戸大橋線の中古車は、むしろ呉線、特に三原側で活用して欲しいですね。(切実)

公共交通機関である鉄道をその 1年前に失うことが、影を落としそうな気がしますね。
既に高速道が通じている地域でもあるし、広島市街での渋滞を回避する意味で、熊本電鉄の御代志駅よろしく、可部駅での電車とバスの連絡性に工夫すれば、区間廃止の影響は小さく済む様にも思えます。バスか列車かという形態ではなく、移動手段として便利か否かという視点の下、今後は案内軌条対応 バスの様に ハイブリッド感覚の形態も増えて来るのでしょう。戦前の軍用 トラックよろしく、タイヤの ゴム部分を外すと線路走行が可能な バスなどが登場したら豪気ですね。(笑)
[24056] 2004年 1月 23日(金)01:26:24ペーロケ[愛比売命] さん
県境を超えたつながりのある地域って、地味に多い
[24050]両毛人さん
非大都市圏地域で、県境をまたいだつながりがある地域は、北関東内陸ほどのスケールのものは日本では他にないのではとも思えます。
 非大都市圏では、福山から笠岡、井原あたりもなかなかの規模のケースだと思いますよ。といっても両毛のような分散型ではなく、福山の一極集中的で市街地が拡大した結果、たまたま岡山県との県境がる、というような感覚でしょうが。。。
 そういえば、ミクロ的には既出の例が多いのですが、マクロ的に見ても中国地方と九州地方の特に海の近くの県境って、県境に跨ってつながりが深い地域が多いと思いませんか?

鳥取-島根米子市~安来市(松江市も入れた出雲文化圏)
島根-山口津和野町~阿東町(萩市・山口市とセットにされる例も)
山口-広島岩国市~大竹市(広島文化圏)
広島-岡山福山市~笠岡市・井原市
山口-福岡下関市~北九州市(関門海峡)
福岡-佐賀福岡市~唐津市(唐津線を結ぶ繋がり)
佐賀-長崎伊万里市~松浦市(△松浦郡繋がり?)
福岡-熊本大牟田市~荒尾市(炭鉱)
熊本-鹿児島水俣市~出水市(九州新幹線の駅誘致合戦?)
鹿児島-宮崎志布志町~串間市(志布志線が宮崎方面から志布志港まで)
曽於郡北部一帯~都城市(都城文化圏?)
大分県-福岡県中津市~豊前市(もとは同じ豊前の国)

 このエリアの中では、他の地方に見られるような、県境らしい地形上隔絶と言えそうなのは大分・宮崎県境くらいと言ったら強引でしょうか??もちろん内陸部では険しい地形が隔絶していますが。。。

[24038]まるちゃん さん
山口県は気象の分野でも,地域によってずいぶんと違うものだと変に感心してしまった,今日この頃です.
 県西部は積もったそうですが、岩国は早朝7時ごろは屋根にうっすらと化粧した程度でしたが、広島市内、横川の方から来たとある業者さんの話では、意外なことに広島の方が雪が多いとのこと。広島は湾の奥なので海の保温効果が岩国より小さいのか、それとも太田川は寒気の通り道なのかは分かりませんが。。。一方、海の向こうの松山でもかなりの積雪があったようで、逆に言えばこの周辺で積雪がそんなに無かったのが周南~岩国の局所的な区域と言えるかもしれません。
[24085] 2004年 1月 24日(土)00:33:29YSK[両毛人] さん
ボーダレスな地域
[24056]愛比売命さん
そうですね、九州では比較的県境をあまり意識しないで生活圏が形成されているところが多いですね。

鳥栖市~小郡市あたりも、ボーダレスですね。

先日ご紹介した朝日新聞社の「民力」では、マーケティングが対象とする「地域コミュニケーション社会を前提とする地域流通経済圏」を「エリア」として設定しています。そのエリアは、大規模な都市圏を除けば、以下のエリアが県境を越えて設定されています。

八戸エリア久慈市、二戸市周辺を含む
秋田能代エリア岩崎村を含む
気仙沼エリア大船渡市、陸前高田市、気仙沼市へと至るエリア
小山エリア結城市、下館市、下妻市周辺を含む
両毛エリア説明は省略します・・・
銚子エリア波崎町を含む
前橋・高崎エリア両毛を除く群馬県全体+神泉村のエリア
中津川エリア木曽地域南部を含む
豊橋エリア湖西市を含む
舞鶴・福知山エリア高浜町を含む
熊野灘エリア新宮市~熊野市~尾鷲市のエリア
豊岡エリア丹後西部を含む
鳥取エリア浜坂町を含む
浜田・益田エリア田万川町付近を含む
岡山・倉敷エリア直島町を含む
福山エリア井原市、笠岡市周辺を含む
唐津・伊万里エリア松浦市を含む
久留米・大牟田エリア鳥栖市周辺、荒尾市を含む
中津エリア豊前市周辺を含む
都城エリア曽於郡北部周辺を含む

などがリストアップできました。なお、大都市圏地域として省いた中では、関門エリア(下関市周辺+北九州市周辺)が、海峡を挟んだエリアとして特徴的な存在です。

まあ、これは地域マーケティングの分析材料として、地域の生活圏を仮に分析してみると、こんな結果だった、というくらいに理解したほうがよいでしょうね。地域は、多様な視点から捉えたほうがよいと私は思っています。
[39345] 2005年 4月 3日(日)21:44:41YSK[両毛人] さん
首都圏雑感
法律の話だけでは何ですので、もう少し考察してみようと思います。

アーカイブズ首都圏の範囲はどこまでですか?にまとめましたとおり、一般的に、「首都圏」の持つ語感は、「首都である東京の直接的な都市勢力の及ぶ範囲」であるように思われます。

そもそも、「首都圏」という言葉がはじめて使用されたのはいつ頃なんでしょう。いろいろ調べたのですが、明快な回答は得られませんでしたので、類推してみます。

既出「首都圏整備法」が施行されたのは、1956(昭和31)年のことです。時代は高度経済成長が始まろうとする頃でして、規制市街地への過密が顕在化し、人口の郊外化が始まろうとしている時期でありました。首都圏整備法はこうした都市の過密を解消しつつ、諸機能の適切な再配置を促進し、首都に関わる地域の一体的な整備を図ろうとするものでした。法では、首都圏内の地域に「既成市街地」「近郊整備地帯」及び「都市開発区域」を設定し、首都圏の一体的かつ均衡ある整備を図ろうとしています(詳しくは、拙稿[4296]の真ん中あたりをご覧ください)。

高度成長期を経て、東京を中心とする中枢都市地域とその住宅都市群という一大都市圏域が次第に顕在化していく中で、その範囲を指す便宜的な言葉として、「首都圏」という言葉がもてはやされ、一般化していくようになります。その一方で、「既成市街地における過密の解消」や「全国的な地域格差の是正」を掲げていた「全国総合開発計画」などの流れを汲んだ首都圏整備法では、経済的に結びつきの強い関東地方プラス山梨県という範囲を「首都圏」と規定し、その目標を果たそうとしたように見えます。

というわけで、法律上公的に規定された「首都圏」と一般的な語感における「首都圏」とで、その範囲に齟齬が生じているわけです。とはいえ、常々申し上げますように、地域の捉え方は指標やとらえようとする人の主観等によりそれぞれですから、何が正しくて、何が間違い、ということはないと思います。ただ、公式に「首都圏の範囲は?」と問われれば、それは首都圏整備法に定める1都7県の範囲である、と答えざるを得ないということであるのだと思います。
[40121] 2005年 4月 20日(水)18:28:25【1】トライランダー さん
古い話題で恐縮ですが
「アーカイブス」の県境を越えて生活圏のつながりが大きい地域 を読んでいましたが
[24085] 両毛人 さん
 ボーダレスな地域
鳥栖市~小郡市あたりも、ボーダレスですね

鳥栖・久留米・小郡は「中九州テクノポリス?」とかなんとか、新産業都市? かなんかに指定されていたと思いますが、実際の生活圏としてはあまり活発ではないように思えます。少なくとも、公共交通機関においては、鳥栖ー小郡を結ぶバスは日に数本しかありません。
郊外型大型店は鳥栖、久留米それぞれにありますし、小郡には大型店は全くありません(市内の商業小売額が全国の市で最下位に近いぐらい商業は悲惨な状況です・・・)が、小郡の場合はむしろ筑紫野ゆめタウンや、筑紫野東急に行く人が多いようです。公共交通機関での買い物は殆どが福岡・天神に出るといっても過言ではないでしょう。
小郡~久留米の流動は、公立高校の通学生が大部分で、商業的、人的交流もあまりありません。
小郡は広域市町村圏では筑後地区に分類されますが、人の流れは圧倒的に福岡を向いています。新聞も福岡都市圏版を取る人が多いです。
 同じく筑後川北の大刀洗町、旧北野町も流動は8:2ぐらいで福岡のほうが圧倒的に多いようです。北野町は久留米市に合併しましたが、筑後川を挟んで、住民の気質や方言もかなり違います。筑後川南は熊本弁に近い(例:どぎゃんすっと?=どうするの、~せらす=~する)ですが、北岸は福岡に近い(例:どげんすると=どうするの、や、~しよる=~する)です。
[40523] 2005年 5月 2日(月)22:16:20【1】トライランダー さん
当時の筑豊について
[40517] 2005 年 5 月 2 日 (月) 19:38:44 miki さん
 
なお、宮田町以外の当時30,000人以上の筑豊の町は次の通りです。
稲築町(→嘉麻市)42,612人
川崎町 38,974人
穂波町(→飯塚市)36,857人
参考:当時の春日市...22,794人

実は、当時は中間・遠賀郡も筑豊でした。広域市町村圏が筑豊から北九州に移ったのは、昭和47年頃と記憶しております。
ですから、水巻町も筑豊でした。水巻町は平成初頭まで、人口密度が1平方キロメートル当たり3000人、北九州市の隣でしかも鹿児島本線の駅がある住宅密集地であるにもかかわらず、過疎地域に指定されており不思議な感じがしました。
90年代初頭頃に筑豊広域市町村圏を見直し、直方・鞍手地区(直鞍)と田川市郡を北九州に、飯塚市、山田市、嘉穂郡(嘉飯山)を福岡都市圏に分割するという話が西日本新聞に載ったことがありました。いつの間にか立ち消えになってしまいましたが。
[41770] 2005年 5月 31日(火)14:11:04hmt さん
「この汽車は浦和に止まりますか?」
[41761] JOUTOU さん
都道府県庁所在地にあって、特急が全く停車しないのは、さいたま市となる前の浦和市(浦和駅)だけだったように思うのですが?

1985年以来、「新特急」という名の、あまり特急らしくない「特急」が停車していると思うのですが。
大津駅も、長い間、特急の止まらない県庁所在都市代表駅でした。雷鳥の一部が停車した時代もあったが、湖西線に移りました。ア! 西大津駅があるから、県庁所在都市としては、停車していたのか。

浦和駅と大津駅とは、構内にポイントがない点でも、県庁所在都市代表駅としては特異てすね。

中距離の普通電車すら止まらないもの(新宿湘南ライン)があります。

昔の東北本線、高崎線の「汽車」は、浦和通過が原則でした。門田勲「日本拝見」にも、“汽車の止まらない県庁所在地”と紹介されています。

タイトルの文章は、中学1年の英語教科書にあった和文英訳です。当時、例外的に「浦和停車」の汽車があったのだと思いますが、なぜ、こんな文章が「国定教科書」に載り、また、そのことを60年近く後まで覚えているのだろうか?

浦和駅自体は、1883年7月、上野熊谷間仮営業以来の由緒ある駅です。
上野・王子・浦和・上尾・鴻巣・熊谷ですから、2年後の3月に品川線開通による赤羽駅、続いて同じ1885年7月の東北線開通を前に3月に、これも分岐点に開設された大宮駅よりも先輩格。

それが、「汽車が止まらない駅」になってしまったのは、1932年に、東北・京浜線電車が大宮まで延長されて、「電車区間」になってから。昭和の初期に、「地方都市」から脱却し、本格的に東京の都市圏に組み込まれた浦和を象徴しています。それにしても、埼玉県内からの輸送を目的とする熊谷発の汽車まで浦和通過とは。

新宿湘南ラインの通る東北貨物線は、高架化と浦和駅ホーム設置工事が進行中で、2009年頃には湘南新宿ラインも停車できるようになる予定だそうです。

[41767] ふぁいん さん の記事と、一部重複しましたね。
1985年以降、再び浦和駅にも特急が止まっていますね。
それ以前にも特急停車はないので、”再び”ではなく、”はじめて”なんです。
[44435] 2005年 8月 23日(火)09:33:44かぱぷう さん
超極私的レスあれこれ
[44434] スナフキん さん
ただ今、小郡の某ビジネスホテルからです。
小郡の駅前にビジネスホテルなぞあったっけ?近くにもないよね…なんて考えてたら
以上、「新山口」からでした(汗)。
なるほど、合点がいきました。『小郡=西鉄小郡』と思い込んでしまう、元・福岡都市圏生活拠点西鉄沿線系住民の悲しい性。
小郡と聞いて、新山口を思い浮かべないひと、西鉄沿線では9割を軽く超えるのではないかと。いや、統計を取ったわけではないので真偽のほどはわかりませんが…西鉄沿線の住民に現・新山口の小郡を説明するときに、えらく苦労することは確かです。
私が現在居住の北九州では、いや、福岡都市圏でも普段は西鉄電車を使わない人は、逆に100%に近い人が『小郡=現・新山口』と答えるでしょう。新山口に改称されたのを知らない人も結構多いはず。

連れ合いが郵便貯金ヲタなので、今日はこれから山陽線を東進し、駅前に近い郵便局を点々と訪ねながら広島空港を目指します。
これはうらやましい!かぱぷう家では、一緒に行動していて未訪の郵便局があったときは、まず山の神に丁重にお伺いを立てなければなりません。一局、二局はいいのですが調子に乗ってくると暗雲が立ち込めます。ですから旅先では、私の大好物である『○○(←ビルや行政機関などの名称がはいります)内郵便局』に食指を定め「そこにいくと偶然バッタリ郵便局がありました。で、行っていい?」という見え透いた嘘をつくための下調べが求められます。

[44427] 88 さん
[43869] 星野彼方 さん、[43879]ぐりゅん さん、[43891] inakanomozart さん
企画きっぷ(青春18きっぷ)と代行輸送について
これは18きっぷを愛するものにとって、永遠のテーマですね。
私がこれまでで一番いい思いをした救済経験は、2000年の春に新潟から新宿にむけて乗車した“ムーンライトえちご”です。
雪の影響で新潟を20分遅れで発車、長岡についたのを確認して眠りにつきました。翌朝5時前に目が覚めると比較的大きな駅に停車中。「大宮か?大雪で遅れてるのなら高崎かも…」
「ン!!!」…現在地、長岡。
5時30分ごろ、上越線が大雪で不通で復旧のめどがたたないことと、18きっぷでの新幹線への振り替え乗車を認める、との車内放送がありました。
そんな夢みたいな話があるもんかい、と半信半疑で車掌にもう一度確認すると間違いなし。それはおろか、自らの名札を指差して「もし何か途中で言われたら私の名前を出してください」とまで言っていただきました。

こんな臨機応変な対応をしてもらえることは滅多にないでしょう。
同じく18きっぷで東京ネズミの国へ向かっていたふうの高校生が、「着くの遅くなったよね」とふくれていたので、「贅沢言うんじゃない」と説教して18きっぷの本来のルールを説明しときました。それでもまだふくれたままでしたが。
[51928] 2006年 7月 1日(土)01:08:02【1】矢作川太郎 さん
ダンゴ4兄弟~♪(愛知県4強都市-名古屋を除く!!)
[51890]白桃さん

人口調査の父と呼ばれている(少なくとも私から。)白桃様からレスが頂けるなんて天にも昇る思いです。本当にどうし(以下エンドレスにつき略させて頂きます・・・)

いや、本当に面白いモノを見せて頂き恐縮です。名古屋の(第1位の)盤石さの影でこの様な順位争いがあった事は特筆すべき事柄であり、私の地理人生?(都市人口人生?)の永遠のテーマでもあります。僭越ながらその要因を考察してみます。

一度おさらいとして順位を再掲しておきます。
1940 名古屋-豊橋-岡崎-一宮-半田  -瀬戸
1950 名古屋-豊橋-岡崎-一宮-半田  -豊川
1955 名古屋-豊橋-一宮-岡崎-半田  -西尾
2003 名古屋-豊橋-豊田-岡崎-春日井-一宮
2006 名古屋-豊田-豊橋-一宮-岡崎  -春日井

いやぁ、本当に面白い!!名古屋の一位は変わらないものの他はずっと一定だった市が一つもありません。(笑)

それぞれの市に対してコメントを書きます。

名古屋市:尾張名古屋は城で持つ!強さは揺るがない!!

豊橋市:三河国・吉田から明治時代に改称してから、東三河の中心拠点として、また豊橋港を擁する都市として名古屋とは一定の距離をとって(実際離れているが・・・)独自の都市圏を形成して完全では無いにしろ盤石さを保っている。

岡崎市:家康の出生地(本当に出生しただけの所だが・・・幼少期までは居たらしいが。)また、東海道最大の宿場及び内陸部の水運の拠点だったが、確固たる産業を誘致出来ず(マキタや三菱ぐらい)、某自動車会社の社員や在名企業社員などのベットタウンとして歩む。あと、桜の開花時期や花火大会の時だけ中心街に凄い人数の人が押し寄せる。(伝統産業:花火・墓石・味噌製造 昔の一時期:紡績業など・・・但しどれも頭打ち感が拭えない様な・・・)

一宮市:門前町として歩み始めたが、昭和初期から毛織物王国として全国に名を馳せる。名古屋から近距離のため人口が増えているらしい。平成の大合併では、ウールの尾西で著名だった尾西市と合併し一挙に4位に躍り出る。

半田市:ミツカンなどの醸造業で著名・戦前からは軍需産業が盛んだったが現在13位に甘んじている。しかし、名古屋の通勤圏として、また碧南市と共に衣浦港を擁する市として堅実に発展している。

瀬戸市:陶都として早くから市制されたが重工業都市や新興都市には勝てず現在12位。

豊川市:妙厳寺(豊川稲荷・一応寺院です。)の門前町で有ったが、豊川海軍工廠が所在した事に依って人口が一時増加する?戦後、市内に日本車輌製造などが誘致され現在11位となる。

西尾市:古くから綿織物の産地として三州産地と呼ばれる(だから人口増加?)また、抹茶用の茶葉栽培は全国トップクラスと言われ、西尾茶として著名。小京都とも言われる。現在14位。

春日井市:名古屋近郊のニュータウンでも有名な高蔵寺ニュータウンを擁する。また、市内に王子製紙の工場も所在する。人口が次第に増え、名古屋を除くと五本指に入る規模となる。

豊田市:様々な意味で他の都市とは別格。コメントの必要も無い程の著名度。

私はこの中でも豊田-豊橋-一宮-岡崎の順位の変動に注目しています。(今回の合併だけで順位が大変動した程僅差なので。)意外と他地域の人にとって、人口ハイアンドローゲームの鬼門と成り得る人口帯かも知れません。人口分布(都道府県)の人口帯別(人数)に依る全国比較の良い調査対象だと私は思います。(例えば、何々県には人口の差が近い人口帯が何万人~何万人の間にある等。)

【1】そう言えば今日はわが市の市制記念日だったか・・・(因みに90周年)
[52955] 2006年 8月 3日(木)03:29:21【1】矢作川太郎 さん
豊田のTOYOTA?日立のHITACHI?そして豊田市の情け・・・
[52948]BEANさん
興味深い話題ですよね。確かに
豊田が名古屋と呼ばれるとすれば、
と言う話は地元にいても良く聞く事ができます。

では、ナゼこの様に言われるのかを推察してみます。私としては「会社名と本社所在自治体名←(ココが肝心!)の一致」では無いかと思います。そう言えば会社名が自治体名に転用された例として良く引き合いに出される自治体に「日立市」があります。実際は全くの逆で自治体名または鉱山名(厳密には地名では無い)から企業名に転じたモノです。(日立村=明治の大合併時に多賀郡-宮田村・滑川村の合併により成立。因みに日立の本社は東京都内らしい。)そう言えば、地元の新聞に日立市が豊田市とは由来が違うことがそれなりに書かれていて少し感心した事が有ります。まあ、それは置いておいて、本題に入ろうと思います。

ズバリ「豊田(市)のトヨタ」と聞いて耳に残るかと言うと私は疑問に思います。ですから、近くの大都市の名前を”代表して”「名古屋(経済圏?)のトヨタ」と呼ばれて居るのだと確信します。まあ、豊田市が挙母と言う地名から解放されると同時に「豊田」と言う自治体名から著しく地名特定性が損なわれた結果所在地として「名古屋」を代表とせざる負えなくなったのだと推測します。

あと、補足として「豊田市に残る挙母(衣)」をご紹介したいと思います。例えば市章などはその代表でしょう。改称前の昭和26年11月に制定されたもので、余り知られてはいません。(個人的にはどうせ変わるんだったらトヨタマークに変更してしまえ、なんて思ったりしましたが、特定の企業のマークは制定しにくい(出来ない)ですからね。)あと市内中心部には「挙母町」が存在します。挙母神社を中心とした一帯なので残ったのかも知れません。(因みにTOYOTA本社所在地は言わずと知れた「トヨタ町」です。)

加えて、
名古屋から遠く離れた地域の人たちに名古屋周辺の詳しい地理的知識を求めるのは酷でしょう。
も良く頷けます。例えばこんな資料があったりします。(中程の都市圏を構成する市町村一覧と言うアドビファイル)私は一時期コレを見て色々データをいじって楽しんでいました。(ある意味恐ろしい資料ですけどね。)コレに依ると名古屋都市圏は南知多町を除く尾張地域と岐阜県東濃の一部と三重県北部の一部となっています。まあ、都市圏として独立していないと単独の都市という認識と一定の知名度は得られにくいでしょうね。だから、
大府とか春日井とか稲沢とか言っても通じないので、あえて「名古屋から来た」と言うこともあるはずです。詳しく説明しようとしても「名古屋の近くの西春」のように、やはり名古屋が出て来ることになると思います。
と言う事態が発生するのでしょうね。

(因みに前の愛知万博が「トヨタ万博」だの「名古屋万博」と揶揄なのかどうか分からない呼び方をされた事もありましたっけ。←私は別に仕方がないと思っていますが。あと、私は県外に出れば「岡崎」または「愛知県」から来たとしか言いません。「間違っても名古屋なんておこがましい・・・」と家族共々思っていますから。実を言うと私は愛知郡にとても所縁のある人物ですが、これは名古屋出身と思われてしまうのでしょうか?私としては愛知郡出身の矜持?を大切にしたいと思っています。←あと何年続くやら・・・愛知郡2町がそれぞれ単独市制したとしてもか・・・)

【1】どうでも良いデータを追加
[52975] 2006年 8月 3日(木)22:45:39YASU さん
名古屋≠愛知の微妙な関係
[52948] BEANさん
[52955] 矢作川太郎さん
[52966] U-4 さん
[52969]ほか 雪の字 さん
名古屋周辺の友人(複数)とよく話す(飲む)のですが、なんとなく雰囲気がわかります。

春日井在住(豊橋出身):高蔵寺に住み名古屋に通勤しているので、名古屋の住民という意識、ただ出身は豊橋(三河)であり決して名古屋ではないそうである。
三好町在住:名古屋在住と言いたいようだが、車のナンバーが三河なので若干の違和感があるようである。知多半島が名古屋ナンバーなのがちょっと気に入らない。
一宮在住:近県の人には尾張または一宮、遠方の人には名古屋在住とのことである。
豊田在住:ご他聞に漏れず他県からの移住者なので、三河と尾張の区別もわからないようである。きっと名古屋または豊田に住んでいると言うんだろうなあ。
豊橋在住:豊橋でわからなければ、愛知県と言っている。
各務原在住:他県に旅行に行くと、岐阜県なのに「名古屋から来た」と言っている。名古屋に通勤しているので、親しみがあるようである。

とりとめもない話ですが、名古屋の影響圏が暗黙のうちにわかるような気がします。

都市圏一覧表

湖西市はともかく、新居町まで豊橋都市圏に入っている点、袋井都市圏、掛川都市圏が独立している点、旧蒲原町が富士都市圏に入っている点など確かに不思議な所があります。

hiroroじゃけぇさん
はじめまして、メンバー登録おめでとうございます。
私も訪問した時の雰囲気などから、児島と倉敷は別の街という意識があります。商工会議所も別々だし。その辺の事情も教えてくださいね。ジーンズ工房めぐりのバスができたようだし、再訪しようかなあ(こっちの趣味もあるので)。
[53140] 2006年 8月 7日(月)21:16:17打吹 さん
自分の出身地を説明せよ
先日ある人に「どこの出身?」と聞かれました。
私の場合プロフィールにもある通り出身を聞かれると『日南町』と答えたいのですが、詳しくない人にどう伝えればいいのか全然分かりません。
『日南米』『石霞渓』『おろちマラソン』大抵知名度が非常に微妙です。『松本清張の父の実家』だとすぐ近くの亀嵩(奥出雲町)と混ざるしなぁ。

山陰で無い人にはハナっから「鳥取出身です」と答えます。
「砂丘のある?」とか「梨の?」と聞かれても「そうです」と答えてしまいます。
『鳥取なんだけど鳥取の南西の端にある~』と説明してもそもそも鳥取市の位置さえ曖昧でしょうから最初からこの誤差を諦めます。

ただ山陰の人相手、特に鳥取県内の人だと『鳥取』でははっきり『鳥取市』と意識されてしまいます。
ちなみに西伯の人以外はどうも日野郡の位置が曖昧な人も多いようです。
私は昔逆に八頭郡が曖昧だったから分かるんですが(3つの都市圏がはっきりしすぎているのが問題なのかも)。

こういう時、とりあえず「米子」と言ってしまいます。米子なら山陰人は誰でも知ってるんで。
親しくなってから『米子っつーても厳密には山奥の岡山の方で~』と説明するわけです。
その為今でも私が米子市出身だと思っている人は多いはずです(最近だとHNから倉吉出身だと思われてるかもしれない)。
まあ小さい頃から関わりが深いので「米子について教えて」と言われて多少説明できるほどの知識はありますし、生まれたのは米子市の病院だし、間違いじゃないやと。

米子の人相手だと「日南町出身です」で大抵通じますが、意外なのは松江・出雲の人。
「日南町出身です」ではまず通じませんが、特急列車の関係で「生山出身です」だとたまに通じます。
私は集落としては生山の出身ではないんですが最近この「生山出身」を割と使うようになりました(「日南出身」だと「宮崎?」ってなるのもある)。

ちなみに大学に入って一番キツいのは『米子出身なのになんで松江の高校に通ってたの?』と聞かれることです。
あんたら引っ越しというものをしたことはないんかい……


どうでも良いですが鳥取県日野郡の市町村は『~町出身です』と言わないと誤解される町ばかりでして……
日南町⇒宮崎県日南市
日野町⇒東京都日野市
江府町⇒山梨県甲府市(音が同じ)
どれも相手の市の方はかなり有名な市ばかりですからねぇ。
[53819] 2006年 9月 5日(火)01:35:15hiroroじゃけぇ さん
政令指定都市の産業型別区分の経緯について
[53806]矢作川太郎 さん
昔は港湾施設を中心とした都市構造だった様なので、コレで新潟市に新たな側面が出てきたとも取れます。

なるほど、旧新潟市にはそのような一面もあったのですね。でも、この面も今度の広域合併で薄れちゃったようですね。

[53815]futsunoおじ さん

政令指定都市の産業型別区分を行った理由なのですが、先も書いたとおりレポート作成のためです。そう、例の岡山都市圏についてのレポートです。では、なぜこのような区分をレポートでしたのかというと、産業構造が都市の発展に(特に人口の増減)関係しているからです。一般的に、労働集約型産業である二次産業型が人口を支え、その人口を相手にする三次産業型はその需要分の人口を必要とします。しかしながら、これらの全てを規定しているのは、実は一次産業型都市の規模で、ここがそれなりに大きくないと発展できないことになります(東京や大阪などの日本の大都市は、海外にこれを求めていることになります)。これを、岡山都市圏に当てはめると、「岡山市と倉敷市がお互いに補っているので、都市圏内の人口移動は起きても、都市圏内の人口が均衡している要因である」という結論に結び付けられたからでした。つまり、岡山都市圏の人口を増やすためには、二次産業型の周辺都市の取り込みが必要ということを導き出すためのツールでした。

小松原ラガー さん
がっくん さん
矢作川太郎 さん

現在四国に政令指定都市要件に見合う人口(70万人以上)の都市がないのは、「一次産業型であった都市を活かすだけの二次産業型の都市が存在しなかったため」と考えられないでしょうか。特に、松山市や高松市は対岸の岡山市や広島市などに比べ、大きな二次産業型都市を都市圏内または隣接して持てなかったことが要因でしょう。もし、坂出市が水島並の二次産業型であったなら、人口は10万人を超えていたでしょうから、自然と高松市の人口も増えていたはずです。しかし、四国には水島や福山、徳山のようなコンビナートは建設できなかったのも事実です。コンビナートは大量の工業用水を必要とします。それが、四国では夏の渇水対策を必要不可欠ですから、自然と規模は規定されてしまいました。こうなると、松山市も高松市も四国内の人口で考えると、三次産業型で発展するのは現状が限界であると思われます。
[61313] 2007年 9月 26日(水)06:03:26ソーナンス さん
京奈ねぇ…
突っつかれてしまったので出てきました。

[61297] 伊豆之国さん
[61300] ドラえもんさん
[61301] 小松原ラガーさん
[61309] 桜トンネル さん

「京奈」と聞くとやはり皆さんの言うとおり『京奈和自動車道』しか出てきませんね。
国道24号線も「ニーヨン」って言いますし。
(Wikipediaには京奈和自動車道の一部区間ことを京奈道路というようですが)


というわけで「京奈」という言葉がないのか考えてみました。

それはやはり京都と奈良の結びつきの弱さがあるのではないかと思います。
確かに路線等は直通されてますが、両都市共に大阪との繋がりが強いですからねぇ。
だからこそ「京阪」や「阪奈」は存在しても「京奈」はその2つにかき消されてしまったのではないでしょうか?

また二つの都市を合わせたと言っても両都市の間が、ずっと市街地というわけではないですし。
近鉄京都線に乗車すれば分ると思いますが、京都の都市圏の南端は城陽市辺りまでで、
それから奈良市内に至るまではぶっちゃけ田舎ですし。

まとめると京都と奈良では結び付きが弱く、また都市間が離れているために、
「京奈」という一括りで形容する必要性がなかったのだと思います。


それから『京奈和自動車道』も起点の京都と終点の和歌山を結ぶので「京和自動車道」でもいいと思うのですが…
[66806] 2008年 9月 17日(水)23:59:11小松原ラガー さん
日吉津村
小松原ラガーです。

[66804] 熊虎 さん
原発関連以外では、山口県和木町が今年から交付団体になっているのも目に付くところです。
ここは石油会社からの収入があり、潤っていると聞いていますし、そのために小さい町ながら合併しなかったのでしょうけど。

電力や石油、すなわちエネルギー関係以外で言えば、日吉津村なんかが該当することになりますね。将来大丈夫だろうか・・・。って、統計数値だけでは計り知れない(?)泣く子も黙る「大」米子都市圏だから大丈夫?^^; ジャスコもあるでよぅ!^^;^^;

#そういえば、かつて部下に「出身は?」と聞かれると必ず「大都会米子!」と答える者がいたなぁ・・・。
[81187] 2012年 7月 26日(木)13:17:34【1】hmt さん
明治13年共武政表を眺める (9)都市圏の一部になった地名 関東編
明治 13年共武政表を眺める を続けます。

「1880年の都市リスト」 に記録された 324の町場のうち、関八州で 他の都市の一部になった地名は 11あります。
地域としては[81118]などと重複しますが、近くの大物が核となって都市圏を広げたために、現在はその一部になっている地名という視点で再度記します。

海防の重要性が認識された幕末以来、江戸防衛の拠点として重要視されていた 相模国三浦郡 浦賀 は、横須賀と拮抗する約6000の人口を持つ町でした。
Issieさん[81097]によると、三浦按針が仕えた徳川家康の時代に 海外貿易の候補地にもなったとか。
共武政表の時代には まだ横浜にあった 東海鎮守府[29190] が横須賀に移転してから後は、軍都・横須賀が発展。
戦時中の 1943年には 浦賀町も 横須賀市に編入 されました。

武蔵国4郡に跨る 東京十五区 に隣接する 荏原郡北品川宿・南品川宿、北豊島郡下板橋宿と金杉村、南豊島郡内藤新宿、南足立郡千住中組・千住北組。
もちろん拡大する東京都市圏に飲み込まれましたが、このうち、内藤新宿[38354]だけは 一足先の 1920年に 東京市四谷区に編入 されました。
北豊島郡金杉村は、町村制で 日暮里村(1913日暮里町) になっています。これを含めた6つの町場は、1932年の 隣接5郡一括編入で ようやく東京市内になりました[74867]

東京が 周辺の町場を飲み込むよりも ずっと前の明治34年(1901)に 横浜市内に編入されたのが、武蔵国橘樹郡 神奈川駅(町村制前に神奈川町) です。
県の名になった 「神奈川」 は、市の名にはなれませんでした。
神奈川区を含む横浜市で最初の5区が誕生したのは 昭和2年(1927)になってからでした。

武蔵国南埼玉郡岩槻。これは一度は「独立の市になることができた」地名ですが、現在は さいたま市岩槻区 と区名になっているので、「他の都市圏の一部になった地名」の仲間に加えておきます。
さいたま市の核となっている 北足立郡 の浦和宿(902戸)・大宮宿(405戸)・与野町(274戸)は 1000戸未満のためリストから落ちています。

関東の最後に、常陸国東茨城郡 上市と下市
統合後の自治体名は、もちろん明治22年の市制で最初の市として誕生した水戸市です。

東海道諸国では、伊勢の松崎から常陸の下市(水戸市の核は上市とする)まで 20の町場が他の都市圏の一部になりました。
[81195] 2012年 7月 28日(土)19:04:11hmt さん
明治13年共武政表を眺める (10)岐阜都市圏に飲み込まれた 加納
戸数一千以上を擁する 「1880年の都市リスト」 には、324の地名が挙げられていました。
これに対応する現在の自治体の数は、225市20町ですから[81146]、79地名が「都市圏の一部になった地名」という計算です[81154]

そこで、京都近くの柳原・伏見に始まり、大阪付近[81176]・東海[81182]・東京付近[81187]と、都市圏の一部になった地名を巡ってきました。済んだのは、畿内13、東海道20の合計 33ですから、まだ 79の半分にもなりません。少し先を急ぎましょう。

…とか言いながら、東山道諸国に足を踏み入れたら、最初に現れたのが「岐阜」と「加納」でした。
美濃国厚見郡 を見ると、上加納を含めて3つの町が並んでいます。戸数は、岐阜町1596, 上加納村725, 加納駅1073。

岐阜町だけに「官庁6」とあり、ここが行政中心地であると知れます。明治4年に笠松に置かれた岐阜県庁は、今泉村[4082]の西本願寺仮庁舎を経て明治7年には小熊村[20742]に 2代目の県庁舎が開庁。現在の岐阜市司町で、共武政表では「岐阜町」に含まれていますが、町村制施行前の正式行政地名では、まだ岐阜51町ではなく“隣接4村”[79386]に県庁があったのですね。木造畳敷きの庁舎で、下記3代目県庁舎の南側にありました。

大正13年に鉄筋3階建で建設された3代目県庁舎(現・岐阜総合庁舎)までは市役所の北の司町にありました。
しかし、昭和41年に移転した現在の4代目岐阜県庁舎は、岐阜市内とはいうものの、岐阜市役所から遠い郊外の「薮田」にあり、多くの都道府県が 便利な市内中心地に庁舎を置いている中で 特異的です。県庁舎の歴史 参照。

落書き帳記事 岐阜・加納 は、県庁舎だけでなく、3つの町に関する Issieさんの記事も収録しています。

戦国大名・斎藤氏の支配拠点として現れた 城下町の井ノ口[39531]→織田氏の岐阜[4082]
関ヶ原の戦で西軍に与した織田秀信【清州会議では秀吉に抱かれ、信長の嫡孫であることをアピールされた 幼名三法師】の改易により 岐阜城が破却された後は、城下町ではなくなったものの、長良川水運の拠点である岐阜は、近世にも 商業都市として生き続けました[39561]
その稲葉山下・長良川南岸の市街地・岐阜は、明治4年の新政府による府県統合で、美濃国を管轄する「県の名」に使われ、行政中心としての地位回復が約束されました。
暫定的に笠松[75944]に置かれた県庁も、明治6年には岐阜(今泉仮庁舎)に来ました。

戦国時代の山城である岐阜城を廃した徳川家康は、中山道の要衝を放置しておいたわけではなく、亀姫の夫の奥平信昌をして、岐阜の南の加納に築城させました。その後は譜代大名の城下町として、濃尾平野北部に重きをなした加納。
[4082] Issie さん
【明治6年岐阜県庁が今泉村に移転した】この段階で「岐阜」と「加納」とはお互いに独立した都市でした。

長良川の「岐阜」と中山道の「加納」との間を取り持ったのは、第3の交通機関・鉄道でした。
文明開化の世になり計画された中山道幹線鉄道。明治15年にできた敦賀港(金ヶ崎)・長浜間の路線によって建設資材を送り込みながら、明治20年には加納に到達しました[61303]

明治20年に加納停車場のできた地が「上加納村」で、加納城と城下町とが作られた「下加納村」よりも岐阜寄りの北側にありました。その2年後の市制町村制施行時の変遷情報を見ると、“上加納村の一部”が岐阜市内に編入されていますが、これが Issieさんの [20736]上加納村岐阜駅前というタイトルの地名なのでしょう。

[79395]によると、最初に作られた当時から加納にあった岐阜駅は、大正になってから、更に南に動いたとのことです。
岐阜と加納の間の上加納に鉄道の停車場ができて、互いに独立していた2つの町場の間が市街化し、その岐阜駅が南に動いたことが駅前市街地の南側への拡大を更に進めというプロセスで、加納の町は岐阜都市圏の一部として飲み込まれていったように思われます。

先を急ごうと言った舌の根も乾かぬまま、オフ会最有力候補地[80767] の意識も手伝い、思わず長文。
[81262] 2012年 8月 6日(月)14:45:47【1】hmt さん
明治13年共武政表を眺める (11)東山道で都市圏の一部になった地名の残りは 松代と土崎
1880年に戸数一千以上だった 324都市 を現在の226市20町と対比し、都市圏の一部になった78地名を確認しています。

下記[81146]の記載と1市違っています。
合併などで名前が変った事例も含め、「市」の数は全国で 225市ありました。
これは、この段階になって「桐生市」が抜けていたことに気がついたからです。
その原因は1880年の上記リストにおいて、「上野国山田郡桐生新町」とあるべき箇所が「…相生新町」になっていたからです。
「桐生」の近く(渡良瀬川の西)に紛らわしい字の「相生」という地名【相老とも書く】が実在することも手伝い、共武政表の誤記を見落して、桐生市を数え落としていました。

…というわけで、岐阜市の一部になった加納[81195]に続いての町場は、長野市の一部になった 信濃国埴科郡松代
真田氏の城下町から昭和大合併の時代までは独立の松代町を保っていましたが、1966年に長野市・篠ノ井市などと新設合併して、拡大された長野市の一部になりました。

松代と言えば ♪象山佐久間先生も皆此国の人にして♪(信濃の国)と共に思い出すのが「松代大本営」。
67年前に原爆攻撃を受けた後、本土決戦ということになり、これが役立つ事態に至らなかったのは幸いでした。

その次はずっと北に飛んで、羽後国南秋田郡土崎。土崎湊町 2309戸の物産は「茶」とあります。これは意外。
久保田城下町を支えた雄物川河口の港町。北前船関連で落書き帳アーカイブズにも少し登場。
南秋田郡土崎港町が秋田市に編入されたには1941年(昭和16年)ですが、これは大正から昭和初期にかけて行なわれた大規模な河川改修と関係するものなのでしょう。城下町秋田 新旧地形図の比較考察
[81275] 2012年 8月 8日(水)13:15:27hmt さん
明治13年共武政表を眺める (12)都市圏の一部になった地名 北陸道編
タイトルの「都市圏の一部になった地名」とは、1880年に戸数一千以上だった234都市 の中で現存する 229市【注】20町 の中核になっていない町場のことです。
【注】[81262]で225→226に改めたばかりですが、数え落しを発見して再修正。
東山道では 加納[81195]・松代・土崎[81262]と3つしかなかったが、北陸道については 13もありました。

若狭国遠敷(おにゅう)郡 西津
明治13年当時は滋賀県でしたが、明治14年2月には福井県。都に近い日本海側の要港・小浜の隣接地です。
例の“但西津村湊村…合1234戸6272人 土俗西津と唱ふ”に現れる地名を見ると、南川・北川などを隔て 小浜の北に隣接した市街地 の総称であったことが分かります。町村制施行時には、これが雲浜村と西津村になり、小浜町に編入されたのは1935年。
現在の写真 川の右側が西津です。

越前国阪井郡 阪井港 2037戸
九頭竜川河口の 三国港を指していると思われます。[81263] 白桃さん により福井の外港として挙げられています。
共武政表では 丸岡 1022戸より大きな町になっていますが、現在の坂井市の中心市街地は 丸岡であろうと考え、阪井港はこちらに分類しました。

加賀国石川郡 美川町と金石町
金沢の外港・金石(かないわ)も [81263]にあります。金石町は戦時合併[80427]で金沢市に編入(1943)。
美川町は平成大合併で白山市新設(2005)。
「美川」という地名については、[70733] 千本桜 さんのコメントがあります。

越中国 婦負郡八尾 2005年に新設合併した富山市[79563]の一部になりました。おわら風の盆

越中国 上新川郡 水橋と東岩瀬
東岩瀬は富山の外港[81264]でもあります。そして、表に名を連ねた「滑川・水橋・東岩瀬」から私が思い出したものは 越中富山の薬売り(配置薬) でした。しかし、リストの物産欄には 何故か「売薬」の記載はありません。
富山の薬と直接の関係はなく、共武政表とは時代も違うのですが、陸軍に関連した薬と言えば、日露戦争における装備品の「征露丸」が有名です。

越後国中蒲原郡 沼垂・白根・村松
かつては信濃川と阿賀野川とが合流していた河口の 沼垂(ぬったり)は 難読地名ですが、左岸の新潟よりもずっと古い港町で、町村制の時代になっても新潟市とは別の町でした[889]。新潟市に編入されたのは大正3年(1914)です。

大凧合戦 が行なわれる 白根(しろね)の 中ノ口川は 中蒲原郡と西蒲原郡との境界でした。
1933年から 1999年まで存在した 新潟交通白根駅は、中蒲原郡白根町>白根市の対岸にありました。ここは西蒲原郡味方村でしたが、その前身も白根村でした[7507]。つまり、白根は 「自治体越えの地名」 であったわけです。
2005年に白根市と味方村とを編入した新潟市では、両岸地名(白根と西白根)は 共に南区に属しています。

越後国三島郡 与板と寺泊
直江兼続が城主だった与板は、信濃川の河港でした。寺泊は、佐渡への旅の出航地。寺泊の魚市場は、現在も海の幸を求める客を集めていますが、共武政表の物産欄にも水産物が並んでいます。
与板町も寺泊町も、共に 2006年長岡市に編入。

越後国中頸城郡 直江津
直江津は 越後国府や国分寺のあった地で、高田よりも先に開けた土地でしょうが、近世以降は頸城(くびき)地方の中心は城下町の高田になり、直江津は その外港[81269] という関係になりました。明治時代(1911)に市制を施行した高田に対して、直江津市の誕生は戦後(1954)と遅れています。昭和46年(1971)2市合併で、伝統ある2つの地名は「市名リスト」から消えました。

上越市「直江津区」も存在するのですが、住所地名としては使われていないので、その存在は地元以外には殆んど知られていないでしょう[75709]
「直江津駅」は鉄道の拠点でもありましたが、新幹線ルートから外れてしまいました。
このようにして、直江津の知名度が次第に薄れてゆくとしたら、残念なことと思います。
[81296] 2012年 8月 11日(土)14:14:35hmt さん
明治13年共武政表を眺める (14)都市圏の一部になった地名 山陽道編
1880年に戸数一千以上だった234都市 の中で、現存する 229市20町 の中核になっていない町場は、山陽道に 10ありました。

播磨国印南郡 大塩と伊保崎
伊保崎>町村制で伊保村は 1954年に高砂市に新設合併しています。現在の荒井川が加古川本流となっている 明治の地図 が示しているように、ここから西が印南郡という 加古郡との境界に位置する村でした。

同じく印南郡の大塩村は、名前通りの 塩田地帯で、共武政表の物産欄にも食塩とあります。
パラパラ地図 の 1958年を見ると、大塩町は 高砂市にほぼ囲まれていました。しかし、1959年に姫路市への編入を選んだのは、塩作り仲間である的形との関係が深かったからでしょう。

播磨国飾東郡 飾磨津
皇紀2600年の紀元節の日[74036]に飾磨市になったが、戦後1946年のラモート合併[21922]で姫路市の一部になった飾磨。
もちろん姫路の外港[81263]です。物産欄には魚類とありました。

播磨国赤穂郡 尾崎村
[81260] 千本桜 さん
リストに尾崎があって赤穂(加里屋・ 上仮屋)がないのですね。ちょっと奇異に感じましたが、当時の赤穂はその程度の町だったのでしょうか。

共武政表には記載されていませんが、次のように考えれば、実質的には「赤穂」も「1880年の都市リスト」の仲間に入る実力を具備していたと推察します。「土俗○ト唱フ」方式は、隣接した集落を統合して認識するのに役立ちますが、匙加減で結果が変ってしまいます。
但 加里屋町814戸3677人 上仮屋町311戸1445人 中村407戸2249人 合1532戸7371人 土俗赤穂と唱ふ

東に隣接した尾崎村と新浜村(合算すれば1600戸、物産はもちろん食塩)は 町村制では単独の村になりましたが、1937年赤穂町に編入。1951年赤穂市。

備前国児島郡 下津井港
現在では瀬戸大橋の本州側という立地になりますが、古くから瀬戸内海の要となっていた港の1つでした。
下津井町は戦後の1948年に味野町などと合併して児島市。1967年に倉敷・児島・玉島の3市合併で倉敷市。

備中国浅口郡 玉島港
内陸の高梁にあった備中松山藩の外港として整備された港でした。現在は 水島港 の一部として、玉島ハーバーアイランドが造成され、貿易港の整備が行なわれています。
1889年玉島村>1897年玉島町>1952年玉島市>1967年倉敷市。

備後国沼隈郡 鞆町
古くは万葉集に詠まれた潮待ち港として繁栄したようです。近世以降の舟の出入りは尾道に移ったものの、風光明媚な鞆の浦。鞆町は1956年福山市に編入。
福山市の埋立・架橋計画に対する景観保全活動。地裁判決を受けた広島県は、2012年6月に工事免許撤回を表明。

周防国大島郡 東安下庄村
周防大島では、北岸の久賀村(1951戸)に続いて南岸の東西安下庄村が 1000戸前後。町村制で東西2村統合後 1955年の橘町を経て 2004年の4町合併で周防大島町。一応久賀を中核と見て[81146]に挙げたので、東安下庄はこちらに分類しました。
しかし、2000年国勢調査の最大人口は大島町で、合併後の役場も小松です。
周防大島町の中核は、小松(共武政表では小松開作と合せて927戸)とすべきだったのかもしれません。

周防国都濃郡 福川
戦時合併で徳山市になり、戦後の特別措置を使って分立[80421]、更に南陽町>新南陽市>2003年周南市と変遷した町です。
近世には 福川本陣 が置かれた山陽道の宿駅でした。徳山 1097・富田 586・福川 1069という戸数を見ると、現在は周南コンビナートの中心になっている富田よりもずっと大きく、徳山に匹敵する町であったことが知れます。

長門国阿武郡 須佐村
萩の北東約 30kmを隔てた 準飛び地の須佐。2005年平成大合併の産物です。
須佐のホルンフェルス[27577] という地質名所の存在は、今回 落書き帳過去記事を検索して 初めて知りました。
[81304] 2012年 8月 12日(日)13:00:46【3】hmt さん
明治13年共武政表を眺める (15)都市圏の一部になった地名 南海道編
山陽道[81296]に続く南海道は、6ヶ国の中 紀伊・讃岐は該当する町場がなく、淡路の1浦と四国の6町につき記します。

淡路国 津名郡由良浦と 三原郡福良浦
友ヶ島水道に面する由良と 鳴門海峡に近い福良とは、淡路島では洲本に次ぐ港町。
1955年の昭和大合併で 由良町は洲本市に編入。福良町は 同年沼島と合併して南淡町>2005年南あわじ市。

阿波国名東郡 佐古村
徳島の城下町は、吉野川とその分流、南にある鮎喰川・園瀬川による複合三角州に作られました。佐古と呼ばれた地は、城下町西側の自然堤防上を西に向う街道沿いの町並みとその周辺の農村部とから成っていました。佐古今昔

市制町村制施行時の徳島市を見ると、変更前自治体としては名東郡徳島町以下多数の町村名が並び、最後に「佐古村, 佐古町, 南佐古村」とあり、この時点で佐古全体が徳島市内になったようです。
共武政表では 徳島10129戸と別に 佐古村1298戸。街道沿いの佐古町は 前者の一部、周辺の農村部は後者か?

伊予国和気郡 三津町
[81263] 白桃さん
外港と言えば、(中略)国内で私がスグ思い浮かべるのは土崎以外では三津浜です。

額田王が 熟田津に船乗りせむと月待てば…と詠んだ地と伝えられる三津浜。
1889年町村制により三津浜町になる前の旧自治体名を見ると、多くの町が賑やかに並んでいます。
夏目漱石が 宇品からの汽船[62621]で四国入りし、「はしけ」を使って上陸[78753]したのもこの港。

しかしその後の伊予鉄道は、高浜港に汽船の接岸できる桟橋を建設。三津浜とのライバル関係出現[67080]
更に時代は進み、三津浜町は戦時合併で松山市に編入(1940)。余談ですが、松山市は1944年に更に道後湯之町も合併。戦後の住民投票結果に基づく分離案は握り潰されました[80415]

伊予国北宇和郡 吉田町
宇和島藩の分家が 陣屋を置いた町 です。宇和島の北側にある入江の奥にあり 1109戸。
物産欄を見ると宇和島2986戸と同様の醸造品と蝋が並んでいますが、吉田騒動の原因にもなった紙が抜けています。

法花津屋 は、吉田藩の御用商人で、紙・蝋・酒などを上方に輸出した豪商です。1793年にこの地で起きた武左衛門一揆は、吉田藩が財政困難打開のために強化した紙の専売制が原因。紙の流通を独占した法花津屋の行為が、生活を圧迫された農民の怒りを買ったようです。寛政改革時代末期の事件。

表記は違いますが、ロンドンオリンピック2012に 71歳で出場して話題になった、馬術の法華津寛選手のルーツも 吉田町だそうです。吉田町法花津に戦国時代の 法華津本城跡 があり、由緒ある伊予水軍の家柄のようです。

吉田町は 2005年の合併で宇和島市の一部に。
この付近は西宇和郡(八幡浜)・東宇和郡(西予市)よりも南なのに、「北宇和郡」だったのですね。

【訂正と追記】
分類違いで入れていた淡路国三原郡福良浦を削除。
土佐国土佐郡 高知町 1575戸と同じコマに、上町1819戸, 南町1770戸, 北町2410戸があったのを書き落していたので補足します。
高知城下町が4町に記録されているものと推察しますが、この3町を「都市圏の一部になった地名」として算入するので、南海道諸国分は 合計7町になります。
[81502] 2012年 8月 16日(木)14:50:40hmt さん
明治13年共武政表を眺める (16)都市圏の一部になった地名は75で完結
1880年 戸数一千以上の324地名
このリストを頭から眺めたら、いきなり 聞いたことのない町の名が出てきました。京都の次の「柳原」。
藤原北家日野流 に柳原家があり、いかにも京都らしい地名。公卿家との関係はさておき、柳原とは何処なのか?

こんな疑問から集め始めた「都市圏の一部になった地名」[81154]ですが、75もある仲間を残らず記したら長くなりました。

西海道では、豊後国大分郡 鶴崎
戦国時代には 城を守る女武将 の活躍もありましたが、近世は熊本藩が領有する瀬戸内海の拠点。これも外港でしょうか。幕末には 勝海舟 とも縁のある地とか。

大分郡鶴崎町は、1954年に鶴崎市になっています。臨海工業地帯造成は、その少し後の 1959年に始まり、1961年に完成した埋立地には 当時の富士製鐵が進出。
1972年には 新日本製鐵になって最初の 銑鋼一貫製鉄所が稼働しますが、それよりも前の 1963年に 大分市他4町村との新設合併で 大分市が発足し、鶴崎市の名は消えています。
製鉄所の名前も大分製鐵所だし、その住所にも「鶴崎」という町名は使われていません。少し残念。

肥前国南松浦郡 富江村
五島列島福江島。長崎県南松浦郡富江町は、2004年福江市他4町との新設合併により 五島市となる。

肥後国飽田郡 川尻
名前の通り緑川の河口に近く。これも熊本藩の外港。水軍基地。刃物や赤酒は、共武政表の物産欄に見当たりません。
川尻町は、1940年同じ飽託郡の2村(力合村, 日吉村)と共に熊本市に編入。2012年の区設置で 熊本市南区。

壱岐対馬の二島、北海道11国には該当する町がなく、後は琉球国です。

明治13年というと、琉球処分・沖縄県設置 という変革が行なわれた明治12年の直後です。
共武政表 は首里・那覇という順で記しており、戸数・人口も首里が上位にあり、王都首里、その外港那覇という構図[81269]の名残が感じられます。

…で、明治12年に設置されたと思われる最初の沖縄県庁所在地は、首里だったのか那覇だったのか?
Wikipediaによると、首里に“県庁が置かれる予定であったが、旧軍が駐屯していたため敷地がなく、行政の中心は首里から那覇に移った。”とのことです。
[59112]で言及した“明治15年3月15日 …琉球国首里城ヲ陸軍省ニ受領ス”より前から陸軍が占拠?
いずれにせよ、この頃を転機に、首里と那覇との地位逆転が起こったようです。

人口一百以上輻輳地の表 に挙げられている首里の 真和志平等・南風平等・西平等が、今回のテーマに該当。

全国を集計すると、京阪神(畿内)が 13、東海道が 20 [81182][81187]、東山道 3 に北陸道 13 [81275]、山陰道 3 [81289]、山陽道 10 [81296]、南海道 7 [81304]、それに今回の西海道と琉球 6 で総計 75。

現存する市町村の中核として扱った町場は、市が 229[81275]、町が 20[81146]なので、これらを加えると 324となり、共武政表の 324都市【注】の数と合います。
【注】
[81275][81289][81296]では「234都市」と誤記しています。
[83026] 2013年 3月 24日(日)22:55:52伊豆之国 さん
西伊豆、駿豆
[83009][83017]白桃さん
「都市圏」の話題ですが、「ご当地」から相次いで出てきましたので早速反応させていただきます。

まず、「超・ご当地」親父の田舎の話[83017]から。
西伊豆 17,122 ---西伊豆町、松崎町
この地域は、明治の郡再編前の「那賀郡」にほぼ相当する区域になります。東は天城山系の西側の尾根、下田市との境のバサラ峠は、かつては砂利道でヘアピンカーブが続く難所でした。南伊豆町の間も、昭和40年代に「マーガレットライン」が開通するまでは陸路では車で行けず、バスも手前の雲見で行き止まり、南伊豆町側にある「お猿の楽園」として名高い「波勝崎」へ行くのには小ぶりな遊覧船で荒海を越えなければなりませんでした([58968])。そして旧賀茂村の北は、田方郡との境界、国道の沿道には「この先雨量が限界(1時間に何mmだったか忘れましたが)を越えたら通行止めになります」と表示がしてあったことを覚えています。そうしたことから、今でも孤立した経済圏を構成しているのでしょうか。この地域の中心は、観光の面から見ると最大のスポット・堂ヶ島を擁する西伊豆町旧町域の南部(昭和大合併前の仁科村)、交通・商業面からは一応はバスターミナルやスーパーもある松崎町の中心部ということになるのでしょうが、かつては遠洋漁業の町として栄え、今も鰹節作りで知られる西伊豆町の田子地域(HP)ではなかったかと思われます。この田子地域は、漁村でよく見られるような狭い棚田のような土地に民家が密集して立ち並び、実際の人口以上に大きな町のように見えたのを、港にぎっしり並んだ漁船の群れと共に、今もはっきり記憶に残っています。

[83009]
駿豆
「沼津圏」としても良かったのですが、三島など伊豆地方も包含するので「駿豆」としました
現在の人口で見ると、沼津が三島の2倍近くあり、その面では沼津のほうが優勢に見えますが、三島には新幹線が停まり、分岐する伊豆箱根鉄道駿豆線も、沼津で接続する御殿場線を運転本数でも利用者数でも圧倒し、駅周辺の繁栄度でも沼津とは大差がないように見え、「複眼都市圏」と見るのがよさそうな気がします。三島と沼津の人口の差は、東海道線の開通(当初は御殿場線廻り)の際に三島がルートから外れ、沼津が主要ターミナルになったことがかなり影響しているかとも思ったのですが([71790],[71779]Issieさん)、明治初年の人口でも沼津が三島の2倍前後あるので([81788]白桃さん)、それが(旧)東海道線開通で格差が広がり、その後東海道線の現ルート開通(昭和9年)、更に新幹線三島駅の開業(昭和44年)により三島がその差を詰めて見た目では沼津と対等、あるいは三島が優位に立った、と見るのもありと思うのですが、いかがでしょうか。
[83028] 2013年 3月 25日(月)08:16:08白桃 さん
Re:西伊豆、駿豆
[83026]伊豆之国 さん
この地域の中心は、-(省略)-かつては遠洋漁業の町として栄え、今も鰹節作りで知られる西伊豆町の田子地域(HP)ではなかったかと思われます。
「超・ご当地」ならではの貴重なお話有難うございます。旅行会社に勤務していた割には、伊豆自体にあんまり行った事がなく、特に西伊豆となると、ツアーの下見のときに堂ヶ島と松崎町の長八美術館を案内してもらったぐらいです。しかも、二日酔いであんまり覚えてない。(汗)
とにかく、ご当地は「西伊豆複眼都市圏」でよろしいようで。

三島には新幹線が停まり、分岐する伊豆箱根鉄道駿豆線も、沼津で接続する御殿場線を運転本数でも利用者数でも圧倒し、駅周辺の繁栄度でも沼津とは大差がないように見え、「複眼都市圏」と見るのがよさそうな気がします。
三島から新幹線通勤をしている方に住所を訊くと、長泉、という答えが返ってきたので地図を見ると・・・三島駅の“反対側”はスグ、長泉町なのですね。で、てっきり長泉の方の一番多い通勤通学先は三島市かと思ったのですが、圧倒的に沼津市でした。
2010年国勢調査から2013年3月1日現在までの人口減少率を見ますと、三島:マイナス0.4%に対して沼津:マイナス2.4%となっており、確かに沼津の斜陽化が目立つのですが、白桃が乗った「急行瀬戸」は沼津には停まりましたが、三島は素通りでした 。
そんな昔話を持ち出すまでもなく、昼夜間人口比率が96.8%の三島を、同比率107.5%の沼津と並べる事はできません。よってここは、沼津単眼の都市圏と看做します。ただ、三島の存在も大きいので、とりあえずの名称を「駿豆」とした次第です。

ついでにお騒がせしている志布志の都市圏について。
私のルール通りに都市圏の設定をいたしますと、(微妙なのですが)志布志市は曽於市の圏内に入ります。曽於なると、曽於市は隣県の都城市の完全な都市圏になりますので、志布志も都城圏になってしまうのです。こうなると、実態と大いに異なってきますので、昼夜間人口比率がマイナスの曽於と、昼間人口数では曽於に劣るものの昼夜間人口比率がプラスの志布志の関係を遮断、すなわち“掟破り”をしています。
というわけで、志布志市は隣りの大崎町を包含し、独立の都市圏を形成しております。

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