[61420] 2007 年 9 月 30 日 (日) 20:47:34 千本桜さん
大字って面白いでしょう。
…面白いです(笑。
そのような観点に立つと、榎下が新治の名を継承したのは妥当だったのだろうか?と疑問を感じてしまうのです。
新治村が横浜市に編入された当時、新治村役場が置かれたのは大字中山で、編入後は港北区役所新治出張所となって行政機能を残しました。村内唯一の横浜鉄道(現在の横浜線)の駅、中山が置かれたのは大字寺山(注)です。恩田川対岸にある都筑郡唯一の町であった川和町への最寄り駅も中山だったので新治地区で一番栄えているのは、昔も今も中山・寺山です(横浜線の快速電車は鴨居にも停車します)。また、中原街道が通り南北への交通の拠点であり、鶴見川と恩田川が合流する点でもあります。
注:所在地は大字寺山ですが、大字中山との境界付近です。なお、鴨居駅は昭和37年、十日市場駅は昭和54年の設置です。
手に入れることができた人口データですが、
村名 | 現在の町名(概) | 『新武』(軒) | 明治 | 人口 | 明治24年人口 | 昭和44年人口 |
上菅田村 | (保)上菅田町 | 44 | | | 349 | 11,132 |
十日市場村 | (緑)十日市場町 | 58 | M2→ | 336 | 558 | 11,084 |
中山村 | (緑)中山町 | 35 | M3→ | 216 | 233 | 6,561 |
新井新田 | (保)新井町 | 14 | | | 90 | 5,282 | 下略の改称 |
寺山村 | (緑)寺山町 | 17 | M3→ | 143 | 159 | 3,745 |
本郷村 | (緑)東本郷町 | 48 | M2→ | 268 | 372 | 3,528 | 同名回避の改称 |
鴨居村 | (緑)鴨居村 | 85 | M3→ | 450 | 585 | 3,372 |
久保村 | (緑)三保町 | 74 | M5→ | 480 | 495 | 3,198 | 同名回避の改称 |
台村 | (緑)台村町 | 28 | | | 252 | 2,390 | 同名回避の改称 |
榎下村 | (緑)新治町 | 46 | M2→ | 233 | 326 | 1,365 | 改称 |
猿山村 | | 70 | M3→ | 384 | | | 明治の初めに上下に分かれる |
上猿山村 | (緑)上山町 | | | | 182 | 1,360 | 旧称忌避の改称 |
下猿山村 | (緑)白山町 | | | | 327 | 713 | 旧称忌避の改称 |
※「新武」…天保年間に成立した「新編武蔵国風土記」による家の軒数
※明治2,3,5年人口は「横浜農村明細帳」によるもの
※昭和44年の人口は横浜市が国勢調査人口を基準に算出したもの
これを見るところでは、明治期までは各村間で人口の開きは大きくないですが、その後は横浜線の沿線や開発が進めやすい鶴見川・恩田川の氾濫原を中心に人口が伸びています。昭和の人口で白山町が少ないのは平地部に工場が多く立地しているためです。
この編入と同日に鎌倉郡川上村も編入し、こちらも大字後山田を川上町に置き換えていますが、こちらも後山田に拠点性はなく、川上川の最上流部と云う意味合いだけで、無理矢理藩政村の地名を抹消している感も否めません。対照的なのが都筑郡中川村で、大字大棚を大棚町と中川町に分割することで、直前までの村名と藩政村の両方の名前を残しました。また、西谷(保土ケ谷区)や中和田(泉区)のように明治の村が後年に復活して、あたかも大字であったかのように居座り、混乱させられました。
[61433]でみかちゅうさんが挙げている「榎下城」ですが、
こちらのHPによれば、
榎下城は室町時代前半に上杉重兼の次男憲清によって築城された。やがて永享の乱(1438~39)勃発すると城主の上杉憲直(憲清の子)は鎌倉公方足利持氏に加担して幕府軍に敗れ、持氏は自害、憲直は持氏が出家した金沢称名寺を守るところを攻められて自害した。その後関東管領上杉氏は榎下城よりさらに堅固な小机城に拠点を移していったものと考えられる。
やがて戦国時代に入って武蔵国が後北条氏の支配になると、榎下城は小机城の支城として本格的な改修を行い、城主には山田右京進をおいて守らせたとされる。
ということですので、
[61373]でIssieさんが
私たちが「城下町」という言葉で連想するような都市が成立するのは早くても戦国末期,そのほとんどは江戸時代初期のことです
と言われているように、大きな「城下町」は形成されなかったのではないでしょうか。
また、この城は「榎下城」と言いながら実際は三保町(久保村)に位置しています(そんな名前のバス停も…)。
地図を見ていただくと「旧城寺」という寺がありますが、正に城跡に建てられた寺です。角川では慶長(1596-1614)年間にとありますから、その頃には既に城はなかったと思います。
「榎下村」は1650年に成立した「武蔵田園簿」では「榎本村」と書かれています。(「日本の地名による」)
大分逸れてしまいました。
先日気になることがと言いましたが、「郷」の存在が出てきたのです。「郷」とは奈良時代後半に郡の下に置かれた行政区画で、その後は広域名称としての漠然とした区画になったそうです。(恥ずかしながら、昨日知った事なので覚束ないのです)
室町時代―戦国時代に掛けて都筑郡に「榎下(荏下)郷」という郷があったそうです。この時の範囲は分りませんが、江戸時代には久保、寺山、台、中山、十日市場、小山(明治の合併で中里村)を表していたようで、新治村を形作る12村のうち5村を含み、且つ中心部を含む広域名称だったことになります。
大区小区制では上の5村に猿山村を合わせて第7大区第4小区(このままなら榎下村でも良かった?)、そして、町村制にあたって新村名を決める事になります。12村を束ねるには当然「榎下村」では批判が出たでしょうからいわゆる瑞称地名の「新治」を選びました。
横浜市に編入されるにあたって「新治」の自治体名が消える時、“ある意味”その土地の中心であった榎下を新治に変えたのでしょうか。しかしそれまで親しんできた「榎下」の名を抹消してしまう事は、矛盾が生じています。
藩政村時代の中心的地名を見ると妥当、新治村になってからの勢力を見るとグレーゾーンと言えましょうか。
しかし、
藩政村の平、堤、新寺から成る金ヶ瀬村は、大河原町との合併に際し、消え行く金ヶ瀬村の名を平に託して平を金ヶ瀬に改めました。その代償として平の地名が消えました。このことを思うとき、平には平の地名が消えることへの抵抗感が。堤、新寺には金ヶ瀬の名を継承できないことへの抵抗感がなかったかと あれこれ思いがめぐります。
という「抵抗感」を考えると「榎下」を消してしまう事に対しての抵抗感がなかったのか、そう思います。
結局答えは導き出せずに。…端から答えなんぞ用意されてはいないのでしょうけれども。
[61458] 2007 年 10 月 2 日 (火) 01:59:48 音無鈴鹿さん
下猿山→下山→白山 ってシモをシロにしたわけかぁ。
白山市の白山比 口+羊 神社を総本山とする白山神社がある事に由来します。(
此処)
それについては、色々あるのかもしれないですし、音無さんも知っていてぼかしているのかもしれないので、取り敢えずこれ以上の言及は避けます。
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以下は決して未来を先読みした書き込みではありません。
[61498] 2007 年 10 月 3 日 (水) 21:36:45 千本桜さん
大塚本町界隈については
[60656]に少し書いたのですが、改めて考えてみると可笑しな点もあるので調査、再報告(違う視点から)したいと思います。イトコがあのあたりど真ん中に住んでいるので土地勘もあるのです♪ 大山街道の宿場は下鶴間宿(大和市)-国分宿(大和市)では…?(
川崎国道事務所の大山街道の解説)
知らず知らずのうちに最初の頃の勢いでの書き込みから、ちゃんと下調べをするような書き込みになっていました。間違った事を流してしまう怖さですかね。
【1】-以下を追加。