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千本桜さんの記事が100件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[79784]2011年12月29日
千本桜
[79736]2011年12月14日
千本桜
[79658]2011年11月21日
千本桜
[79657]2011年11月21日
千本桜
[79591]2011年11月2日
千本桜
[79312]2011年9月6日
千本桜
[79289]2011年8月31日
千本桜
[79282]2011年8月30日
千本桜
[79249]2011年8月27日
千本桜
[79092]2011年8月14日
千本桜
[79055]2011年8月12日
千本桜
[78879]2011年8月7日
千本桜
[78803]2011年7月21日
千本桜
[78772]2011年7月16日
千本桜
[78768]2011年7月14日
千本桜
[78767]2011年7月13日
千本桜
[78751]2011年7月10日
千本桜
[78732]2011年7月9日
千本桜
[78712]2011年7月5日
千本桜
[78599]2011年6月20日
千本桜
[78578]2011年6月18日
千本桜
[78559]2011年6月14日
千本桜
[77851]2011年4月1日
千本桜
[77614]2011年2月7日
千本桜
[77608]2011年2月6日
千本桜
[77591]2011年2月4日
千本桜
[77582]2011年2月3日
千本桜
[77570]2011年1月31日
千本桜
[77547]2011年1月29日
千本桜
[77407]2011年1月12日
千本桜
[77119]2010年12月27日
千本桜
[77093]2010年12月23日
千本桜
[77083]2010年12月22日
千本桜
[77082]2010年12月22日
千本桜
[76288]2010年10月2日
千本桜
[76196]2010年9月16日
千本桜
[75500]2010年7月19日
千本桜
[75490]2010年7月17日
千本桜
[75322]2010年6月8日
千本桜
[75311]2010年6月7日
千本桜
[75271]2010年6月4日
千本桜
[75252]2010年6月3日
千本桜
[75196]2010年5月27日
千本桜
[75176]2010年5月23日
千本桜
[75169]2010年5月22日
千本桜
[75156]2010年5月22日
千本桜
[74447]2010年3月26日
千本桜
[74322]2010年3月11日
千本桜
[74255]2010年3月4日
千本桜
[74203]2010年2月22日
千本桜
[74167]2010年2月16日
千本桜
[74115]2010年2月8日
千本桜
[74112]2010年2月7日
千本桜
[74078]2010年1月30日
千本桜
[74046]2010年1月25日
千本桜
[73486]2009年12月31日
千本桜
[73406]2009年12月27日
千本桜
[73392]2009年12月25日
千本桜
[73386]2009年12月24日
千本桜
[73371]2009年12月21日
千本桜
[73357]2009年12月20日
千本桜
[73340]2009年12月17日
千本桜
[73280]2009年12月13日
千本桜
[73208]2009年12月5日
千本桜
[72957]2009年11月26日
千本桜
[72894]2009年11月20日
千本桜
[72228]2009年10月21日
千本桜
[72164]2009年10月12日
千本桜
[72073]2009年9月26日
千本桜
[71771]2009年8月23日
千本桜
[71763]2009年8月23日
千本桜
[71735]2009年8月20日
千本桜
[71254]2009年8月1日
千本桜
[71220]2009年7月31日
千本桜
[70939]2009年7月25日
千本桜
[70914]2009年7月22日
千本桜
[70855]2009年7月18日
千本桜
[70841]2009年7月16日
千本桜
[70836]2009年7月16日
千本桜
[70779]2009年7月11日
千本桜
[70774]2009年7月10日
千本桜
[70767]2009年7月9日
千本桜
[70753]2009年7月8日
千本桜
[70746]2009年7月7日
千本桜
[70733]2009年7月6日
千本桜
[70611]2009年6月27日
千本桜
[70593]2009年6月25日
千本桜
[70535]2009年6月18日
千本桜
[70341]2009年5月30日
千本桜
[70235]2009年5月20日
千本桜
[70221]2009年5月19日
千本桜
[69243]2009年4月16日
千本桜
[69171]2009年4月10日
千本桜
[69022]2009年3月26日
千本桜
[68973]2009年3月22日
千本桜
[68954]2009年3月21日
千本桜
[68874]2009年3月19日
千本桜
[68681]2009年2月23日
千本桜
[68664]2009年2月21日
千本桜
[67800]2008年12月31日
千本桜

[79784] 2011年 12月 29日(木)17:36:48千本桜 さん
ここはどこ?解答
問題1(島名を答えてください)

解答1

こんなふうに答えればよいのでしょうか。
[79736] 2011年 12月 14日(水)08:59:43千本桜 さん
地番と住居表示
地番を住所にしている区域は「1番地1」と表し、住居表示実施区域は「1番1号」と表すものと思っていました。でも、住居表示を実施しても「1番地1」と表す場合もあるのでしょうか?
と申しますのは、[79728]でグリグリさんがご紹介されている第8回落書き帳公式オフ会記録・ミニ十番勝負・問1の解説を読むと、日光、銚子、茂原、市原、流山、武蔵村山、藤沢、笠岡、日南各市の市役所住所が「1番地」「1番地1」または「1番地の1」になっているのに住居表示に○が付いています。変だなと思いました。ちなみに、wikipediaの流山市には
流山市では住居表示は行っていないが、土地区画整理事業に合わせて地番整理を行っている。
と書いてあり、藤沢市の住居表示実施区域を見ると、市役所がある藤沢駅北側が住居表示されていない区域になっています。確認したのは2市だけですが、このことから推測すると、ほかの市の市役所所在場所も住居表示されていない可能性があると思います。
[79658] 2011年 11月 21日(月)08:23:17千本桜 さん
仙台区から仙台市に移行する時点での町名・まとめ2
88さんへ。[79657] の続きです

[79282] でも書きましたが、もう一度、明治41年発行「仙台市史」を引用しながら仙台区の町について書きます。なお、仙台市史は町数を載せていないので、私が町名を追いながら計算しています。

【ステップ1】郡区町村編成法が発布された明治11年から始めます。仙台市史は次のように書いています。
明治11年7月22日布告第17号を以て郡区町村編成法を発布せられ、庁下を仙台区と称し、区長一員を置かる、是に於いて仙台は一の独立行政区となれり、此年11月区内を5部に分ち毎部町場持4人乃至6人を置き、部内を4分又は6分して布告布達等の事務を取扱はしむ、之を区行政の区画とする
と記述して、第1部(河原町など31町)、第2部(片平丁など74町)、第3部(南町など50町)、第4部(国分町など59町)、第5部(八幡町など39町)を挙げ、計253町を掲出しています。しかし、この町数は要注意です。延長の長い町は2つの部に分割され、双方の部に町名が載っているからです。つまり重複記載です。このような重複記載が25ありますから、253-25=228で実際は228町になります。

【ステップ2】次に、市史は明治14年に行われた区画変更の記述に進みます。
明治14年4月15日、仙台区と宮城郡南目、荒巻、小田原各村の内、地所交換、区は差引6町1反7畝15歩余を増せり、同年10月24日、1名称にして数町に亘る市街区分を左の如く定めらる
と記述して、140の町名を掲出し、各町を幾つかの丁目に細分しています。具体的には、国分町(1丁目より5丁目まで)、北二番丁(1丁目より14丁目まで)のように書いてあり、丁目の合計数は402になります。この丁目区分は、本当に明治14年に定められたのかは疑わしい。なぜなら、明治13年出版の宮城県仙台区全図に既に丁目が表示されているからです。この区分は、市制直前の町名解決に繋がらないようなので思いきって無視します。

【ステップ3】次に、市史は明治15、18、19年に行われた行政組織と区画更正の記述に進みます。その全文を引用します。
同15年10月行政区画を改めて、各町組合を設け組毎に組長1人を置き、18年4月1日之を更正して140組とし、同時に組長設置規則を改め、組長は満25歳以上にして組内に不動産を所有するものより選挙し、任期を3ヶ年として専ら組内の布告回達、納税注意、戸籍方並に篤行者、極貧者の取調を司り兼ねて共同の事件に関係せり、其筆紙墨料は1ヶ年1戸に付拾銭を徴せり、明治18年10月15日追廻組を中ノ町組に合併、19年2月13日更に改めて56組とし、翌月29日北七番丁(堤通東)を北二、三、四、五、六番丁東組に、北七、八、九番丁(通町東 堤通西)を通町組に変更せり、其名称及区画は左の如し
として、八幡町組(八幡町、坊主町ほか3町)、花京院通組(花京院通、空堀丁ほか6町)など56組207町の名称を掲出しています。207町の名称は下記のとおりです。207町を原文のまま書き出せれば良いのですが、誤字脱字があったり、複数の組に跨がる町については重複記載の調整が必要なことから、私が手を加えています。[79282] に記載した207町をもう一度掲載します
河原町, 新河原町, 新河原町東丁, 南石切町, 新弓ノ町, 八軒小路, 南染師町, 南鍛冶町, 南材木町, 穀町, 三百人町, 五十人町, 六十人町, 畳屋丁, 保春院前丁, 成田町, 表柴田町, 裏柴田町, 元茶畑, 椌木通, 木ノ下, 西新丁, 東新丁, 荒町, 連坊小路, 清水小路, 北目町, 上染師町, 田町, 南町, 柳町, 大町一丁目頭, 大町一丁目, 大町二丁目, 大町三丁目, 大町四丁目, 大町五丁目, 大町五丁目新丁, 新伝馬町, 名掛丁, 二十人町, 榴ヶ岡, 舟丁, 堰場, 石名坂, 弓ノ町, 土樋, 猿牽丁, 姉歯横丁, 石垣町, 米ヶ袋上丁, 米ヶ袋中丁, 米ヶ袋下丁, 米ヶ袋十二軒丁, 米ヶ袋広丁, 米ヶ袋鍛冶屋前丁, 七軒丁, 鉄砲横丁, 桜小路, 道場小路, 伊勢屋横丁, 六軒丁, 片平丁, 本荒町, 良覚院丁, 狐小路, 袋町, 中ノ町, 琵琶首丁, 琵琶首新丁, 花壇, 花壇川前丁, 霊屋下, 越路, 越路六軒丁, 越路路地町, 宮沢, 川内大橋通, 川内柳丁, 川内中ノ瀬町, 川内大工町, 川内川前丁, 川内明神横丁, 川内元支倉, 川内澱橋通, 川内元支倉通, 川内新横丁, 川内数寄屋丁, 川内亀岡町, 川内亀岡北裏丁, 川内三十人町, 川内山屋敷, 肴町, 立町, 立町新丁, 本柳町,元櫓丁, 定禅寺通櫓丁, 元鍛冶町, 常盤町, 北材木町, 本材木町, 跡付町, 木町末無, 立町通, 定禅寺通, 南町通, 南光院丁, 教楽院丁, 薬鑵小路, 裏五番丁, 柳町通, 北目町通, 新寺小路, 国分町, 二日町, 北鍛冶町, 通町, 北田町, 堤町, 支倉町, 木町通, 新坂通, 土橋通, 支倉通, 半子町, 伊勢堂下, 神子町, 北山町, 八幡町, 坊主町, 江戸町, 覚性院丁, 石切町, 中島丁, 切通, 十二軒丁, 北五十人町, 滝前丁, 角五郎丁, 角五郎新丁, 澱町, 勾当台通, 表小路, 外記丁, 堤通, 外記丁通, 同心町通, 中杉山通, 光禅寺通, 二本杉通, 杉山通, 元寺小路, 茂市ヶ坂, 掃部丁, 末無掃部丁, 大仏前, 同心町中丁, 元貞坂, 空堀丁, 新名懸丁, 新小路, 花京院通, 長丁, 長刀丁, 北六軒丁, 鉄砲町, 車町, 小田原山本丁, 小田原裏山本丁, 小田原車通, 小田原宮町東裏丁, 小田原東丁, 小田原袖振丁, 小田原遣水丁, 小田原長丁通, 小田原高松通, 小田原金剛院丁, 小田原広丁, 小田原大行院丁, 小田原牛小屋丁, 小田原清水沼通, 小田原弓ノ町, 小田原北一番丁通, 小田原北二番丁通, 小田原北三番丁通, 宮町, 東一番丁, 東二番丁, 東三番丁, 東四番丁, 東五番丁, 東六番丁, 東七番丁, 東八番丁, 東九番丁, 東十番丁, 北一番丁, 北二番丁, 北三番丁, 北四番丁, 北五番丁, 北六番丁, 北七番丁, 北八番丁, 北九番丁, 北十番丁

【ステップ4】次に、市史は明治22年3月に行われた区域変更の記述へ進みます。仙台区消滅直前の区域変更です。
而して区は22年3月31日更に区域を変更すること左の如し
と述べて、宮城郡荒巻村の一部(字山上清水, 字滝前, 字宮裏, 字上郡山, 字中丿沢)、宮城郡小田原村の一部(字小野田, 字杉山)、宮城郡南目村の一部(字柳沢, 字二軒茶屋)、宮城郡南小泉村の一部(字八軒小路, 字行人塚, 字五ツ谷, 字桃源院東, 字鍛冶屋敷, 字広瀬川橋下)、名取郡長町村の一部(字窪谷地の一部)を仙台区に編入。また、仙台区宮沢の一部を名取郡茂ヶ崎村に編入し、仙台区北六番丁の一部を宮城郡原町に編入したと記しています。

以上のことから、88さんが纏めておられる市区町村変遷情報に載せるべき仙台の町は、【ステップ3】で掲載した207町および【ステップ4】で掲載した周辺村との区画変更だと思いました。しかしその後、市史に町名書き漏れの疑念をいだき、各種資料を突き合わせてチェックしました。チェックの方法は[79312]に書いたとおりです。その結果、上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町が書き漏れとして浮上しました。
しかし、大聖寺裏門通(現在の青葉区本町二丁目錦町公園付近)で頭を抱えてしまいました。地籍があっても家屋が消滅して無人になっていた可能性が見え隠れするからです。大聖寺裏門通という地籍があったとする根拠は歴史的町名復活検討委員会の29ページ「旧城下の町名(住居表示実施直前の町名)一覧」と36ページ右側の地図に大聖寺裏門通の表記があるからです。また、明治22年当時は無人になっていたかも知れないという根拠は、36ページ右側の地図に線引きされた大聖寺裏門通の区域が非常に狭いことに加え、明治後期の地図には家屋のない更地ふうに描かれているからです。
大聖寺裏門通が無人か有人かで引っ掛かり、前進できないでおりましたが、これ以上考えるのは止めましょう。仙台区から仙台市に移行する時点で、上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町は存在していたと決着をつけます。そうしないと埒があきません。

上記を踏まえ、明治22年仙台区消滅直前の町数は、【ステップ3】に掲げた207町に上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町を加え、211町に訂正したいと思います。【ステップ3】に掲げた207町のうち、六軒丁を南六軒丁に修正し、宮沢と北六番丁に(微)を付し、新たに加える上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通は、それぞれ適宜な位置に挿入しました。はたして判断が正しいのか否か自信はありませんが、自分なりに出した結論に従い仙台211町5村を掲出しますので、市区町村変遷情報を下記のように修正してください。

河原町, 新河原町, 新河原町東丁, 南石切町, 新弓ノ町, 八軒小路, 南染師町, 南鍛冶町, 南材木町, 穀町, 三百人町, 五十人町, 六十人町, 畳屋丁, 保春院前丁, 成田町, 表柴田町, 裏柴田町, 元茶畑, 椌木通, 木ノ下, 西新丁, 東新丁, 荒町, 連坊小路, 清水小路, 北目町, 上染師町, 田町, 南町, 柳町, 大町一丁目頭, 大町一丁目, 大町二丁目, 大町三丁目, 大町四丁目, 大町五丁目, 大町五丁目新丁, 新伝馬町, 名掛丁, 二十人町, 榴ヶ岡, 舟丁, 堰場, 石名坂, 弓ノ町, 土樋, 猿牽丁, 姉歯横丁, 石垣町, 米ヶ袋上丁, 米ヶ袋中丁, 米ヶ袋下丁, 米ヶ袋十二軒丁, 米ヶ袋広丁, 米ヶ袋鍛冶屋前丁, 米ヶ袋中ノ坂, 米ヶ袋鹿子清水通, 七軒丁, 鉄砲横丁, 桜小路, 道場小路, 伊勢屋横丁, 南六軒丁, 片平丁, 本荒町, 良覚院丁, 狐小路, 袋町, 中ノ町, 琵琶首丁, 琵琶首新丁, 花壇, 花壇川前丁, 霊屋下, 越路, 越路六軒丁, 越路路地町, 宮沢(微), 川内大橋通, 川内柳丁, 川内中ノ瀬町, 川内大工町, 川内川前丁, 川内明神横丁, 川内元支倉, 川内澱橋通, 川内元支倉通, 川内新横丁, 川内数寄屋丁, 川内亀岡町, 川内亀岡北裏丁, 川内三十人町, 川内山屋敷, 肴町, 立町, 立町新丁, 本柳町,元櫓丁, 定禅寺通櫓丁, 元鍛冶町, 常盤町, 北材木町, 本材木町, 跡付町, 木町末無, 立町通, 定禅寺通, 南町通, 南光院丁, 教楽院丁, 薬鑵小路, 裏五番丁, 柳町通, 北目町通, 新寺小路, 国分町, 二日町, 北鍛冶町, 通町, 北田町, 堤町, 支倉町, 木町通, 新坂通, 土橋通, 支倉通, 半子町, 伊勢堂下, 神子町, 北山町, 八幡町, 坊主町, 江戸町, 覚性院丁, 石切町, 中島丁, 切通, 十二軒丁, 北五十人町, 滝前丁, 角五郎丁, 角五郎新丁, 澱町, 勾当台通, 表小路, 外記丁, 堤通, 外記丁通, 上杉山通, 同心町通, 中杉山通, 光禅寺通, 二本杉通, 杉山通, 元寺小路, 茂市ヶ坂, 掃部丁, 末無掃部丁, 大仏前, 同心町中丁, 元貞坂, 大聖寺裏門通, 空堀丁, 新名懸丁, 新小路, 花京院通, 長丁, 長刀丁, 北六軒丁, 鉄砲町, 車町, 小田原山本丁, 小田原裏山本丁, 小田原車通, 小田原宮町東裏丁, 小田原東丁, 小田原袖振丁, 小田原遣水丁, 小田原長丁通, 小田原高松通, 小田原金剛院丁, 小田原広丁, 小田原大行院丁, 小田原牛小屋丁, 小田原清水沼通, 小田原弓ノ町, 小田原北一番丁通, 小田原北二番丁通, 小田原北三番丁通, 宮町, 東一番丁, 東二番丁, 東三番丁, 東四番丁, 東五番丁, 東六番丁, 東七番丁, 東八番丁, 東九番丁, 東十番丁, 北一番丁, 北二番丁, 北三番丁, 北四番丁, 北五番丁, 北六番丁(微),, 北七番丁, 北八番丁, 北九番丁, 北十番丁, 宮城郡 荒巻村(微), 小田原村(微), 南目村(微), 南小泉村(微), 名取郡 長町村(微)
[79657] 2011年 11月 21日(月)08:13:39【2】千本桜 さん
仙台区から仙台市に移行する時点での町名・まとめ1
苦めのコーヒー飲みながら独り言。国土地理院地形図の集落名は地籍の字名・町名とは限りません。地籍があっても家屋がなければ字名を載せないし、家屋があれば地籍に関係なく通称地名でも載せています。内務省地理局は国土地理院の前身だから発想は似ていたかも知れない。内務省地理局編纂の郡区町村一覧、地方行政区画便覧が掲出した「仙台の町名」には、町名らしからぬ名称が多数混入しているようです。それを基に編纂したであろう新旧対照市町村一覧、幕末以降市町村名変遷系統図総覧もまた然り。ほかの都市については目を通していないので何とも言えませんが、「仙台の町名」を見ていると、郡区町村一覧、地方行政区画便覧、新旧対照市町村一覧、幕末以降市町村名変遷系統図総覧は、やはり要注意のようです。

88さんへ
[78879] [79092] [79249] [79282] [79289] [79312]のまとめです。仙台区から仙台市へ移行する際の町名確認は戸惑いの連続でした。資料によって記述がまちまちだからです。そんなこんなで時間が経ちましたが、私なりの結論を出さなくてはなりませんね。でも、ちょっと気が重いです。これまで見てきた資料10点・AからJまでを振り返ります。

A・【宮城県仙台区全図 復刻版 解説書】
平成17年に復刻出版された宮城県仙台区全図(明治13年 宮城県地理課編集)に関する解説書です。その一部分を引用します。
本図右上部に、「町数305、戸数12,151、人口55,170」と、当時の市勢を掲出している。この町数305には、村落の小字にあたる地区名称(例えば川内中ノ坂通、追廻山下丁、小田原袖振丁など)、及び地区内にある小道(例えば梅原前丁、石名坂横丁、八幡町三丁目横丁)なども加えられていて、県の布例等に記載されている数値とは大きな差がある。ちなみに、明治9年中の県の記録に残された町数は、次のとおりとなっている。
1・明治9年「陸前国仙台区各村町調書」町数280→県公文書館蔵
2・明治9年12月2日「県甲160号」町数137→県公文書館蔵
3・明治9年国史「内閣文庫59022号」町数137→県図書館蔵
なお、史料3に掲載されている「町名」のすべてを、本図発行以降の町名変遷の原点とみなし、原文のまま採録しておく。
と記述して、明治9年国史「内閣文庫59022号」の137町を列記しています。その町数と町名は、B・仙台の大小区変遷およびC・更正区画とまったく同じです。文献A・B・Cから分かることは、明治9年および明治11年3月に宮城県第三課地籍係が確認した町数は137町だったということです。ただし、この解説書に書いてある、明治9年「陸前国仙台区各村町調書」町数280という記述は誤りで、正しくは、発行年不明「陸前国仙台区各村町調書」町数254です。原本を見て町数を数えましたから間違いありません。

B・【1876(明治9)年 仙台の大小区変遷 宮城県史】
明治9年11月の町名が掲載されています。小六区に属するものが58町、小七区が35町、小八区が49町で計142町です。しかし、東一番丁、東二番丁、東三番丁、東四番丁、元寺小路の5町は、2つの小区に跨がっているため重複記載されています。この重複を差し引くと142-5=137になります。つまり、明治9年11月の町数は137ということです。


C・【1878(明治11)年  更正区画 宮城県第三課地籍係】
この文献は図書館に蔵書がないので、知人から複写版を拝借しました。原本は毛筆和綴本で、裏表紙には「明治十一年三月改正方記録係ニテ取調 改正セシヲ写而地籍方定備トス」と書いてありますが、なぜか表紙には「明治九年 更正區畫 第三課 地籍係」と書いてあります。この文献に書いてある町名は、B・仙台の大小区変遷の町名と全く同じです。つまり、明治11年3月の町数は137ということです。問題は、137町のまま仙台区へ移行したかどうかですが、仙台区発足時点(明治11年7月)の明確な町名記録がないので何ともいえません。ところが、下に掲げる資料D・E・Fでは305町に増え、資料G・Hでは297町となっています。1つずつ資料に目を通してみましょう。まず、D・明治13年 宮城県地理課編集 宮城県仙台区全図からです。

D・【1880(明治13)年9月14日出版 宮城県仙台区全図 宮城県地理課編集】
出版は明治13年ですが、調査はそれ以前で、明治11、12年ごろの仙台を描いていると推察します。この地図には、A・復刻版解説書で述べたように、「町数305、戸数12,151、人口55,170」と書いてあります。江戸期の絵図と違い、一定の図式に基づいて表示された実測図で、横丁や袋小路の小道も描かれ、その小道には名称(例えば角五郎川前丁ヨコ丁、北材木町一丁目末ナシなど)も付されています。これらの小道名も町名と見なしているので、町数は305に跳ね上がっています。E・郡区町村一覧と密接に連動しているようです。

E・【1881(明治14)年  郡区町村一覧 内務省地理局】
この文献はネット閲覧できます。明治12年12月調査に基づき305町を掲載しています。掲載してある町名は、D・宮城県仙台区全図の町名と一致します。ただし、Dはヨコ丁、末ナシ、サクラ小路などカタカナ表記も交えて自由奔放。対して、Eは「丁」と表記すべきもの(例えば北一番丁、片平丁など)も、「町」を用いて北一番町、片平町と表記しています。仙台の慣例を無視した誤記といえるでしょう。さらに、木町通を誤って本町通と表記しています。これらの誤記は、後に発行されるF・地方行政区画便覧に遺伝し、G・新旧対照市町村一覧とH・幕末以降市町村名変遷系統図総覧にも伝染していきます。余談ですが、郡区町村一覧は宮城県の最後に「伊達郡湯原村」という珍郡村名を掲出しています。誤記にしてはあまりに大胆。

F・【1887(明治20)年10月刊行 地方行政区画便覧 内務省地理局編纂】
この文献はネット閲覧できます。内容はE・郡区町村一覧の流れを汲んでいて、Eの誤記をそっくり誤記しています。さらに本荒町を木荒町、新寺小路を新小寺小路と誤記したほか、町名記入欄に記入漏れがあり、1マス空白になっています。この空白マスに記入すべき町名は北九番丁です。町数は305町でEと同数ですが、経年変化で町名が入れ替わっています。Eに記載された榴ヶ岡梅原前町、榴ヶ岡二十人町通、榴ヶ岡神明脇町は、榴ヶ岡という名称に1本化されて2町減。新たに有巴沢町一丁目、有巴沢町二丁目が加わって2町増。奇しくも差し引きゼロで、町数はEと同数の305になっています。ところで、当時の内務省地理局は、町の消滅や発生をどのように捉えていたのでしょうか。例えば、町が消滅するとは、地籍が消えることか、住民がいなくなることか?。どちらでしょう。

G・【1889(明治22)年11月15日 新旧対照市町村一覧 東京和泉橋警察署著】
この文献はネット閲覧できます。内容はF・地方行政区画便覧の流れを汲んでいて、Fの誤記をそっくり誤記しています。この文献に記載された町村数は297町4村(南小泉村ノ内、荒巻村ノ内、小田原村ノ内、南目村ノ内)です。Fの305町から1町増加し、9町減少して297町です。増加した1町は古城。減少した9町は川内追廻西町、川内追廻山下町、川内追廻川前町、川内追廻中町、川内追廻九軒町、川内追廻東町、川内追廻通、薬缶小路、大聖寺裏門通です。川内追廻を冠称する町々が消えたのは、この地が軍用地となり、かつての町並みが消滅したからです。それなのに、川内追廻川前町末無だけは新旧対照市町村一覧の中に残っています。川内追廻川前町が消えたのに、そこから枝分かれした袋小路の川内追廻川前町末無だけが存続するのは地理的に絶対無理です。記載ミスの可能性があります。また、薬缶小路、大聖寺裏門通については、本当に消滅したのか否か半信半疑です。

H・【1995(平成7)年8月発行 幕末以降市町村名変遷系統図総覧 太田孝 編著】
誤字を無視すれば、掲載された町名はG・新旧対照市町村一覧の町名と一致します。町村数も297町4村で同数です。この幕末以降市町村名変遷系統図総覧には以下の問題点があります。
1つ目。掲載された297町の中には、自治体町名にあらず、町の中を通る小道(横丁・袋小路)の名称が混在しています。例えば、東九番町一丁目横町、角五郎川前横町、北材木町末無、元材木町横町末無など、その他多数です。たとえこの横丁や袋小路に家屋が張り付いていたとしても、自治体を形成するほどの規模に達していたか疑問です。地図で北材木町末無を見てみましょう。はたして、この小道に戸数が何戸張り付くことができたでしょう。これらの小道が江戸期の市廛を起源とする明らかな自治体町(例えば大町、南町、国分町など)と同等に扱われていることが不思議です。これはE・F・G・Hに共通した問題点です。
2つ目。仙台は「丁」と「町」を使い分ける習わしがあります。「丁」を用いる例として、小田原山本丁、片平丁、東一番丁、北十番丁など、その他多数あります。しかし、E・郡区町村一覧はこの習わしに反して小田原山本町、片平町、東一番町、北十番町と書き表わし、画一的に「町」で統一しました。これは表記の「揺れ」や「おおらかさ」では済まないことで、明らかに誤記でしょう。これもまたE・F・G・Hに共通した問題点です。
3つ目。単純ミスによる誤字が散見されます。カッコ外が誤、カッコ内が正です。大町二丁目櫓町(大町二丁目横町)、川内裏下馬町(川内裏下馬通)、小田原振袖町(小田原袖振町)、新小寺小路(新寺小路)、外記通(外記町)、本町通(木町通)、立町新前通(立町新町通)。本来なら「丁」と「町」を使い分けるべきですが、原文のまま「町」で統一しました。

I・【作成年不明  陸前国仙台区各村町調書 宮城県地籍係】
毛筆和綴本の原本を宮城県公文書館で閲覧しました。調書には作成年が書いておらず、蔵書整理の上では明治9年の文献として扱われています。しかし、赤鉛筆で「明治9年村町調書は内容を見ると明治11年以降と思われる」と注意書きしてあります。また、この調書を原典とするJ・角川日本地名大辞典4宮城県 資料編 小字一覧は、調書の作成年を明治17、8年と推定しています。H・幕末以降市町村名変遷系統図総覧は297町を掲出していますが、この調書が掲出しているのは254町です。その差、43町。その差の主因は、この調書が横丁、末無の大部分(例えば竹屋横町、川内新横町末無、北目町末無など)を掲出していないからです。やはり、横丁、末無の多くは町名にあらず、小道の名称なのだという思いが深まります。

J・【角川日本地名大辞典4宮城県 資料編 小字一覧】
この小字一覧の原典は、I・陸前国仙台区各村町調書です。原典の町数は254ですが、小字一覧では1町少なく253です。薬缶小路という町名を書き漏らしているからです。さらに、河原町東裏町を河原町東新町、新坂通を新坂町と誤記しているほか、片平丁を片平町と表記するなど、「丁」を「町」と記した誤りが散見されます。日本地名大辞典4宮城県をお持ちの方は、どうぞチェックしてみてください。

以上、AからJまで10点の資料を挙げました。これを原典別に3グループに分類します。

グループ1:明治9年国史「内閣文庫59022号」または宮城県第三課地籍係更正区画を根拠とするもので、A・B・Cが該当します。掲出町数はいずれも137町です。

グループ2:宮城県地理課または内務省地理局を根拠とするもので、D・E・F・G・Hが該当します。掲出町数はD・E・Fが305町、G・Hが297町です。町数305と297の違いは経年変化で発生したものです。

グループ3:宮城県地籍係「陸前国仙台区各村町調書」を根拠とするもので、I・Jが該当します。掲出町数はIが254町、Jが253町です。Jが1町記載漏れしているので町数に違いが生じています。

ここまで書いても仙台市制直前の町名に結論が出せません。どの資料を信じて良いのやら、はっきり言って分かりません。やはり、頼りは仙台市史でしょうか。頁をあらため、仙台市史の記述に移ります。

書込訂正機能で、下から3行目、「D・Eが305町、F・G・Hが297町」を「D・E・Fが305町、G・Hが297町」に訂正しました。
書込訂正機能で、C・【1878(明治11)年  更正区画 宮城県第三課地籍係】の記述中、「仙台市発足時点(明治11年7月)」を「仙台区発足時点(明治11年7月)」に訂正しました。
[79591] 2011年 11月 2日(水)06:37:47千本桜 さん
漢字三文字の繁華街、東山温泉、メディアテーク
[79572] ペーロケ さん
なんとなく漢字三文字の繁華街ってカッコいいな?と。
大阪で漢字三文字の繁華街なら、心斎橋と道頓堀を思い出します。でも道頓堀は繁華街よりも盛場とか歓楽街の類いでしょうね。路上の空中をフグが泳いだりして、一年中お祭りをしている感じ。♪今夜も泣かせるネオン川・・・はるみちゃん。

[79575] 伊豆之国 さん
それから20数年を経て再び作並温泉に
私も先月、50年を経て再び会津の東山温泉に泊まってきました。平均年齢70ん歳の団体旅行で、みなさん、歩くのが大嫌い。観光スポットを見て歩く気持ちが薄れてしまった方々ばかりです。でも私には東山に着いたら立ち寄りたい場所がありました。それは、50年ほど前に修学旅行で泊まった小さな旅館です。宿泊ホテルを抜け出して、その小さな旅館を見つけたとき、思わず込み上げるものがありました。なんなの、この感情は。
東山温泉の現状ですが、宿泊したホテルには原発事故から避難してきた方々も身を寄せていて、避難児童はランドセルを背負ってホテルから登校し、腰の曲がった避難老人はホテル玄関で虚ろにデイサービスの車を待っています。この避難生活はいつまで続くのか、つらい現状を目の当たりにしました。

[79576] Issie さん [79582] N-H さん [79587] みかちゅう さん
六角橋
六角橋は初耳なので地図で確認してみました。地図を通して受けた印象は、昭和の匂いのするようなレトロ調。特にこの細い道。両側に小規模家屋がびっしり連なっていて、周囲の町並みとは明らかに異なる雰囲気。アーケード商店街のようですね。家族経営の商店や飲食店が並んでいて、白い割烹着姿のオバさんがサンダル履いて買物カゴぶらさげて歩いてもおかしくない感じ。ところで、横浜で漢字三文字の繁華街といえば中華街が浮かんできますが、これは論外ですかね?。ついでに、どうでもいい話ですが、真夏の真夜中、♪本牧メルヘンを口ずさみながら一人でドライブすると青春時代に戻った気がします。というわけで、横浜で好きな地名は本牧。

[79590] いろずー さん
若干離れたところには「メディアワーク」なる建物もあります。
メディアテークでしょう。ケヤキ並木が美しい定禅寺通に面したガラス張りのビルで、仙台市民図書館が入居しています。1階には、いろずー さんが喜びそうなオープンカフェがあってランチも食べられます。でも、私はこのカフェで昼食をとるとき、しゃれたメニューは要らないからカツ丼を置いてくれと、いつも思うのです。
[79312] 2011年 9月 6日(火)08:44:13千本桜 さん
市制直前の仙台区の町名
[79289]千本桜
[79282] で書き込んだ207町の名称は明治41年発行の仙台市史を見て書きました。しかし、市史に町名記載漏れの疑いを感じています。私は、仙台区廃止時に「上杉山通」という町名があったはずだ、あって当然だ、と思っているのですが、仙台区末期の町名リストに「上杉山通」がありません。なぜ「上杉山通」があって当然だと思うのか。

仙台の街は奥州街道に並行して勾当台通堤通外記丁通上杉山通同心町通中杉山通光禅寺通二本杉通杉山通などの街路が走っています。
以上の9街路名は同時に町名でもあります。この9町は仙台市史の中の町名リストすべて(明治11年、明治14年、明治22年市制直前、明治22年市制直後のリスト)に記載されており、陸前国仙台区各村町調書(明治17?18年頃のものと推定)にも載っています。ただ一つ、明治22年市制直前の町名リストに上杉山通が見あたらないことを除いては・・・。市制間近になって上杉山通だけが消滅し、市制直後に再び登場するのは不自然です。これは、仙台市史が市制直前の町名リストに上杉山通を書き忘れた可能性が非常に高いと推察します。ほかにも記載漏れがないか、市制直前と市制直後の町名リストを照合して確認します。

まず、市制直前の字・町数は旧市街の町が207町、周辺5村から編入した字が16字です。次に市制直後の町数ですが、仙台市史は下のように記述しています。
明治22年市制を仙台区に施行し、4月1日を以て仙台市と改称せり、(中略)区域内の字名称226即ち左の如し
市史は市制直後の字数を226と書いています。内訳は旧市街の町が210町、周辺5村から編入した字が16字になるものと思われますが、字・町名を点検すると228になりました。226とする市史の数と合いません。合わないのは、あやまって重複記載された町名が1つあるためですが、もう1つの原因は分かりません。仙台市史を編纂する際に数え間違えたかもしれません。記録とは、かくも危うきものなのです。ここでつまずいてはいられません。市制直前の町名リストに上杉山通が漏れているのではないか。ほかにも漏れている町があるのではないか。その問題解決に向かって進むことにします。

まず、町を3つに分類します。A:市制直前・直後双方のリストに記載された町。B:市制直前リストに記載があって、市制直後リストに記載がない町。C:市制直前リストに記載がなくて、市制直後リストに記載がある町。以上3種類です。ここで重要なのはCです。Cに属する町は上杉山通、米ヶ袋中ノ坂など14町です。Cに属する町を表形式で表します。表の凡例は次の通りです。
M11=明治11年の町名リスト。M14=明治14年の町名リスト。M17頃=陸前国仙台区各村町調書の町名リスト。市制直前=仙台区末期の町名リスト。市制直後=仙台市発足当時の町名リスト。以上、5つのリストを対象に、町名が記載してあれば○、なければ×を付します。

町名M11M14M17頃市制直前市制直後
上杉山通×
米ヶ袋中ノ坂×
米ヶ袋鹿子清水通×
大聖寺裏門通××
新河原町行人塚××××
越路瑞鳳寺門前丁××××
二十人町通××××
八幡町崖下××××
通町北裏××××
堤通東××××
堤町土手下××××
穴田下堤××××
北七番丁明神××××
北八番丁雨宮××××
上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町は市制直前の町名リストに記載されていませんが、市史編纂時に書き漏れした可能性が非常に高いと推察します。大聖寺裏門通が明治14年の町名リストに記載されないのは、当時、元寺小路周辺の小規模町(大仏前、同心町中丁、元貞坂、大聖寺裏門通など)が、一括して元寺小路の名に包含されていたからだと推測します。大仏前、同心町中丁、元貞坂は市制直前の町名リストで復活していますから、同時に大聖寺裏門通も復活していたはずです。記載がないのは書き漏れでしょう。新河原町行人塚~北八番丁雨宮の10町については、市制直前に公的な町として存在しなかったとみて良いはずです。

念のために、上記14町に関する角川地名大辞典の記述を読んでみました。14町は明治41年発行仙台市史に市制直後の町名として記載されています。それなのに地名大辞典は、北七番丁明神を昭和初期~45年の仙台市の町名、北八番丁雨宮を大正期~昭和45年の仙台市の町名と書いています。あくまでも勘ですが、この件に関しては地名大辞典の記述が正しいように感じます。昭和初期や大正期に成立した町が明治41年発行仙台市史に記載されているのは不思議でなりません。これ以上追求しても新たな資料を得ることはできないでしょうから諦めますが、一体、何が真実なのか。何を信じれば良いのか。たかが120年ほど前のことなのに、底なしの泥沼です。
上杉山通:江戸期~昭和45年の町名。
米ヶ袋中ノ坂:江戸期~昭和45年の町名。
米ヶ袋鹿子清水通:江戸期~昭和45年の町名。
大聖寺裏門通:江戸期~昭和45年の町名。
新河原町行人塚:⇒行人塚
越路瑞鳳寺門前丁:⇒霊屋下
二十人町通:明治22年~現在の仙台市の町名。
八幡町崖下:昭和21年以降~42年の町名。
通町北裏:明治期~昭和53年の町名。
堤通東:昭和初年~45年の仙台市の町名。
堤町土手下:江戸期~昭和53年の町名。
穴田下堤:昭和期の仙台市の町名。
北七番丁明神:昭和初期~45年の仙台市の町名。
北八番丁雨宮:大正期~昭和45年の仙台市の町名。

88さんへ
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等に記載すべき「仙台区の町名」に関する私的結論はまた後日書き込みます。
[79289] 2011年 8月 31日(水)06:34:38千本桜 さん
仙台
[79288] 88さん

[79282] で千本桜は次のように書きました。
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等ですが、この表組を普通に読めば、「明治22年(1889年) 3月31日に仙台区, 仙台区新河原町, 新弓ノ町,(以下省略)が合併して仙台区が新設された。」になります。表組作成にもう一工夫必要かなと思いました。
これに対し、[79288] で88さんから下記の返答をいただきました。
・ M22.2.9付け(宮城)県令第8号の107コマにより、M22.3.31付けで、仙台区、仙台区の中の207町、宮城郡荒巻村ほか計5村のそれぞれ一部が新設合併して郡区町村編制法下の「仙台区」となる(207町は自治体としては消滅)
・ M222.9付け(宮城)県令第10号によりM22.4.1付けで仙台区が法律「市制」による仙台市となる
ということでよいのですね?
それとも、M22.3.31付けでは仙台区と宮城郡荒巻村ほか計5村のそれぞれ一部との境界変更であり、207町は自治体としてまだ存続し、M22.4.1付けで仙台区と207町との合併により仙台市となったのでしょうか。
どうやら、[79282]千本桜の書き込みはうまく伝えることができなかったようです。もう一度、簡単に書きます。仙台区は明治11年7月22日に発足し、明治22年3月31日に廃止されました。しかし、明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等には、変更種別:新設、自治体名:仙台区と書いてありますから、この表組を見た人は「明治22年3月31日に仙台区が新設された」と誤解するのではないか。88さんの伝えたかったことが伝わらないでしまうのではないか。そんな心配をしておったのです。

[79282] で書き込んだ207町の名称は明治41年発行の仙台市史を見て書きました。しかし、市史に町名記載漏れの疑いを感じています。私は、仙台区廃止時に「上杉山通」という町名があったはずだ、あって当然だ、と思っているのですが、仙台区末期の町名リストに「上杉山通」がありません。なぜ「上杉山通」があって当然だと思うのか。それを説明すると長くなるので、単に地理好きな人間の勘ぐりと受け止めてください。仙台市発足直前に「上杉山通」が有ったか無かったか。これを確認するには、どうすれば良いのでしょう。仙台市発足直後の町名リストを調べる必要がありますね。少し時間を下さい。ひょっとして、記載漏れは「上杉山通」にとどまらず、ほかにもあるかもしれません。もしかすると207町あらため210町などということになる可能性もあります。仙台市史に誤りがなければ良いのですが、誤りがあるとすると何を信じて良いのやら。
[79282] 2011年 8月 30日(火)06:43:52千本桜 さん
仙台区町名
明治41年発行「仙台市史」を引用しながら仙台区の町について書き込みます。仙台市史は「行政組織及び区画の沿革」について
明治11年7月22日布告第17号を以て郡区町村編成法を発布せられ、庁下を仙台区と称し、区長一員を置かる、是に於いて仙台は一の独立行政区となれり、此年11月区内を5部に分ち毎部町場持4人乃至6人を置き、部内を4分又は6分して布告布達等の事務を取扱はしむ、之を区行政の区画とする
として、5部(5つの地域ブロック)と253の町名を記載しています。この数字は要注意です。東西に長く延びた北一番丁などは町域が2つのブロックに跨がっていて、各々のブロックに北一番丁が載っいています。つまり重複記載です。このような町名が25ありますから、253-25=228で実際は228町になります。なお、仙台市史は町数の合計を記載していないので、私が町名を追いながら算出しました。検算していますが2、3の漏れがある可能性も考えられます。

明治14年4月15日、仙台区と宮城郡南目、荒巻、小田原各村の内、地所交換、(中略)同年10月24日、1名称にして数町に亘る市街区分を左の如く定めらる
として、町名と各々の町を細分した丁目を記載しています。町の延長が短い南町などは1丁目から2丁目まで。延長が長い北二番丁などは1丁目から14丁目まであります。これに記載された町の名称は140。丁目の合計は402です。この場合、町数を140とするか402とするか迷いますが、私は140町とするのが自然だと思います。

明治15年10月行政区画を改めて、各町組合を設け組毎に組長1人を置き、
明治18年4月1日之を更正して140組とし、(中略)
明治18年10月15日追廻組を中ノ町組に合併、
明治19年2月13日更に改めて56組とし、
明治19年3月29日北七番丁(堤通東)を北二、三、四、五、六番丁東組に、北七、八、九番丁(通町東 堤通西)を通町組に変更せり、其の名称及区画は左の如し
として、56組207町の名称を記載しています。207町の名称は次のとおりです。
河原町, 新河原町, 新河原町東丁, 南石切町, 新弓ノ町, 八軒小路, 南染師町, 南鍛冶町, 南材木町, 穀町, 三百人町, 五十人町, 六十人町, 畳屋丁, 保春院前丁, 成田町, 表柴田町, 裏柴田町, 元茶畑, 椌木通, 木ノ下, 西新丁, 東新丁, 荒町, 連坊小路, 清水小路, 北目町, 上染師町, 田町, 南町, 柳町, 大町一丁目頭, 大町一丁目, 大町二丁目, 大町三丁目, 大町四丁目, 大町五丁目, 大町五丁目新丁, 新伝馬町, 名掛丁, 二十人町, 榴ヶ岡, 舟丁, 堰場, 石名坂, 弓ノ町, 土樋, 猿牽丁, 姉歯横丁, 石垣町, 米ヶ袋上丁, 米ヶ袋中丁, 米ヶ袋下丁, 米ヶ袋十二軒丁, 米ヶ袋広丁, 米ヶ袋鍛冶屋前丁, 七軒丁, 鉄砲横丁, 桜小路, 道場小路, 伊勢屋横丁, 六軒丁, 片平丁, 本荒町, 良覚院丁, 狐小路, 袋町, 中ノ町, 琵琶首丁, 琵琶首新丁, 花壇, 花壇川前丁, 霊屋下, 越路, 越路六軒丁, 越路路地町, 宮沢, 川内大橋通, 川内柳丁, 川内中ノ瀬町, 川内大工町, 川内川前丁, 川内明神横丁, 川内元支倉, 川内澱橋通, 川内元支倉通, 川内新横丁, 川内数寄屋丁, 川内亀岡町, 川内亀岡北裏丁, 川内三十人町, 川内山屋敷, 肴町, 立町, 立町新丁, 本柳町,元櫓丁, 定禅寺通櫓丁, 元鍛冶町, 常盤町, 北材木町, 本材木町, 跡付町, 木町末無, 立町通, 定禅寺通, 南町通, 南光院丁, 教楽院丁, 薬鑵小路, 裏五番丁, 柳町通, 北目町通, 新寺小路, 国分町, 二日町, 北鍛冶町, 通町, 北田町, 堤町, 支倉町, 木町通, 新坂通, 土橋通, 支倉通, 半子町, 伊勢堂下, 神子町, 北山町, 八幡町, 坊主町, 江戸町, 覚性院丁, 石切町, 中島丁, 切通, 十二軒丁, 北五十人町, 滝前丁, 角五郎丁, 角五郎新丁, 澱町, 勾当台通, 表小路, 外記丁, 堤通, 外記丁通, 同心町通, 中杉山通, 光禅寺通, 二本杉通, 杉山通, 元寺小路, 茂市ヶ坂, 掃部丁, 末無掃部丁, 大仏前, 同心町中丁, 元貞坂, 空堀丁, 新名懸丁, 新小路, 花京院通, 長丁, 長刀丁, 北六軒丁, 鉄砲町, 車町, 小田原山本丁, 小田原裏山本丁, 小田原車通, 小田原宮町東裏丁, 小田原東丁, 小田原袖振丁, 小田原遣水丁, 小田原長丁通, 小田原高松通, 小田原金剛院丁, 小田原広丁, 小田原大行院丁, 小田原牛小屋丁, 小田原清水沼通, 小田原弓ノ町, 小田原北一番丁通, 小田原北二番丁通, 小田原北三番丁通, 宮町, 東一番丁, 東二番丁, 東三番丁, 東四番丁, 東五番丁, 東六番丁, 東七番丁, 東八番丁, 東九番丁, 東十番丁, 北一番丁, 北二番丁, 北三番丁, 北四番丁, 北五番丁, 北六番丁, 北七番丁, 北八番丁, 北九番丁, 北十番丁

而して区は22年3月31日更に区域を変更すること左の如し
として、下記の5村から各々土地の一部を編入したとしています。
宮城郡荒巻村の一部(字山上清水, 字滝前, 字宮裏, 字上郡山, 字中丿沢)
宮城郡小田原村の一部(字小野田, 字杉山)
宮城郡南目村の一部(字柳沢, 字二軒茶屋)
宮城郡南小泉村の一部(字八軒小路, 字行人塚, 字五ツ谷, 字桃源院東, 字鍛冶屋敷, 字広瀬川橋下)
名取郡長町村の一部(字窪谷地の一部)
また、
仙台区宮沢の一部を名取郡茂ヶ崎村に編入
仙台区北六番丁の一部を宮城郡原町に編入
とあります。

以上のことから、仙台区の町村として市区町村変遷情報に乗せるべきは、掲載した207の町名および明治22年3月31日に行われた区画変更の情報だと思います。

(注):207町について。原文のまま書き出せれば良いのですが、
1・誤字脱字が見受けられること。
2・複数の組に跨がる町は重複して町名が記載されていること。
3・同名の町名があり、それを区別表記をしなければならないこと。
そのような理由があり、私が手を加えています。

88さん
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等ですが、この表組を普通に読めば、「明治22年(1889年) 3月31日に仙台区, 仙台区新河原町, 新弓ノ町,(以下省略)が合併して仙台区が新設された。」になります。表組作成にもう一工夫必要かなと思いました。
[79249] 2011年 8月 27日(土)08:27:28【1】千本桜 さん
仙台区の町名と町数
[79130] むっくん さん
仙台区に関する疑問解決にお付き合い下さいまして感謝申し上げます。私の方でも新たな情報を入手しましたのでお伝えします。と言っても、仙台市発足直前の仙台区における町村名と町村数が解明したわけではありません。

【市区町村変遷情報 仙台区の不思議】
M22.3.31 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等(以後、「仙台区情報」と書きます)で仙台区の町村名を見たとき、何か不思議なものに出合った感じがしたものです。理由は
1):「丁」と「町」の使い分けがされておらず、すべて「町」で表記されていることへの違和感。住居表示が実施される前の仙台を知る者には「丁」と「町」の使い分けは当然のことで、特に東一番丁や北一番丁の「番丁」を「番町」と表すことは非常に違和感を感じるものです。
2):宮城県史に掲載された宮城県の市町村変遷(3コマ掲載のうち3コマ目)によると、明治9年における仙台の町村数は137。ところが仙台区情報では、明治22年3月31日の町村数が295町3村。町数の開きの大きさに驚きました。なぜ、こんなに増えたのだろう。
3):仙台区情報には 姉歯横町末無, 北材木町末無のように「末無:スエナシ」を付す町名が多数掲載されています。「○○末無」のうち、木町末無と末無掃部丁(別称 掃部丁末無)は昭和40年代まで住所地名でしたから良く憶えています。しかし、ほかの「○○末無」は聞き覚えがありません。本当に、明治22年3月に存在していた自治町名なのだろうか。本当は町名ではなく街路名ではないだろうか。そんな疑問を感じているのです。

【明治13年 宮城県地理課編集「仙台区全図」】
仙台区情報に掲載された町名と符合するものはないだろうかと いろいろ書物を調べましたが、姉歯横町末無, 北材木町末無など「○○末無」に関する記述が見つかりません。仙台区の時代に自治体として存在していた町なら少しは書物に書きとめられていそうなものですが、変ですね。書物がだめなら地図を見ようということで、江戸期~明治末期の地図を手当りしだい見てみました。すると、仙台区情報新旧対照市町村一覧と連動していそうな地図を発見しました。明治13年 宮城県地理課編集「仙台区全図」の復刻版です。この地図はまるで強迫観念にかられたかのように、小さな横丁や末無(袋小路)の形状と名称まで丹念に描いています。道路延長30mほどの袋小路まで描き、そこが北材木町末無であることを表す文字を添えています。でも、これって町名なのでしょうか。自治町が成立するほどの広がりは感じられません。あくまでも推測ですが、北材木町末無は街路名で、地籍は北材木町に含まれていたのではないかと思うのです。この地図には、このように小さな末無や横丁が全部描かれています。地図の中の地名と仙台区情報の町名を全て照合してみました。すると、一部を除いてぴったんこ合致するではありませんか。仙台区情報、もとを正せば新旧対照市町村一覧の仙台区を構成する町名の情報源は宮城県地理課の可能性がありますね。もちろん、これも推測の域を出ませんが。

【復刻図の解説書】
明治13年 宮城県地理課編集「仙台区全図」復刻版には解説書が付いています。その一部分を引用します。
本図右上部に、「町数305、戸数12,151、人口55,170」と、当時の市勢を掲出している。この町数305には、村落の小字にあたる地区名称(例えば川内中ノ坂通、追廻山下丁、小田原袖振丁など)、及び地区内にある小道(例えば梅原前丁、石名坂横丁、八幡三丁目横丁)なども加えられていて、県の布例等に記載されている数値とは大きな差がある。

【陸前国仙台区各村町調書】
小道の中には末無も含まれます。仙台区情報新旧対照市町村一覧には約300の町名が記載されていますが、横丁、末無を除外すると仙台区の町数は大きく変わってしまいます。いったい、何が本当なのか。そこで、県の公文書館へ行き「陸前国仙台区各村町調書」をコピーしてきました。それを分析しているところですが、ますます底なしの泥沼にはまり込んで行きそうです。仙台区の町は難しい。今日は村の鎮守の夏祭りです。これから祭りの準備に入りますので、続きは後日にします。

●脱字追加訂正
旧対照市町村一覧→新旧対照市町村一覧
[79092] 2011年 8月 14日(日)23:56:42【1】千本桜 さん
仙台区の町
88さん、むっくん さん。
[78879]でお約束したとおり、宮城県の「明治11年更正区画」を入手し、仙台区を構成する町について分析しているところです。しかし、その前に

1)・88さんが明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等を作成する際に資料とした新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)は何を資料にして編纂された物なのか。

2)・仙台区は郡区町村編成法により誕生し、明治11年から同22年まで存在しました。その間、仙台区に属した町、つまり88さんがまとめられた市制町村制施行前の町村名等に列記された町々はそれぞれが明治22年まで独立した自治町でありえたのか。

上記の事柄を明確にしておかないと意味のない分析になるような気がして空しいのです。和泉橋警察署編「新旧対照市町村一覧」は、誤字や記載漏れを単発的に指摘しても済まない問題を抱えているように感じます。どうか、1)と2)の答えを教えてください。

●誤記訂正
参考にした資料をそのままに、冒頭で「明治11年更正区書」と書きましたが、入手したコピーには手書きで「更正區畫」と書いてあります。いまふうに書けば「更正区画」になりますね。「区書」を「区画」に訂正しました。
[79055] 2011年 8月 12日(金)13:00:27千本桜 さん
近郊の正しい使いかた
熱くなっている方々への息抜きクイズです。実態に即しているのはA・Bどちらでしょう。難問です。
A:角田市近郊の大河原町では・・・
B:大河原町近郊の角田市では・・・
[78879] 2011年 8月 7日(日)12:21:06千本桜 さん
仙台
88さん、むっくん さん
仙台区を構成する町についてお尋ねします。私は法令とか条例に疎いので頓珍漢な質問をするかもしれませんが大目に見てください。市制町村制施行時の情報 宮城県によると、明治22年3月31日時点で仙台区を構成する町はおよそ300町。明治9年の仙台は137町でしたから2倍以上に増えたわけです。明治22年仙台市発足時の面積はおよそ17km2、戸数およそ16,800戸でした。1町あたりの平均面積はざっと570m2、平均戸数は56戸です。たとえば、名称から判断して元材木町横町末無という町は、元材木町の横丁の袋小路に面した町ということでしょうから、面積、戸数ともかなり小規模のはずです。幅30m×長さ40mの面積で、戸数は10数戸程度だったかもしれません。こまかい数字にこだわる必要はありません。これで自治体として機能できたのでしょうか。機能していたとして、どの範囲までの自治を行っていたのでしょうか。私は上染師町東末無, 畳屋町末無, 滝前町末無, 川内追廻川前町末無などの羅列を見て、これって自治体なの?、規模からすれば村社会の契約講と変わらないじゃないかと考えてしまうのです。

お手数でも宮城県の市町村変遷をご覧ください。3コマ掲載のうち一番下の表組です。明治9年に137あった仙台の町村数は、明治11年には1になっています。ということは、仙台市街を形成していた137の町々は仙台区が発足した時点で自治体としての役目を終え、単に地名としての町名になったと解釈していいのでしょうか?。でも市制町村制施行時の情報 宮城県を見ると、仙台市街の約300におよぶ町々は明治22年3月31日まで自治体として存続したようにも受けとれるし、どちらなんでしょう。

[78859] 88さん
何か、具体的な資料等をお示しいただけると助かります。

88さんご提示の新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)「大日本市町村名鑑」(星野文三編、博聞社,明26.11)では「丁」はことごとく「町」に置き換えられているのですね。驚きました。「ホンマでっか!?」という感じです。「ホンマでっせ!」と、本間千代子さんが現れるよりもっと驚きです。済みません。落書き帳でこんな話は受けませんよね。今年66歳になられた永遠の青春スター本間千代子さんに反応できる感性の持ち主は、落書き帳ではあの方だけでしょうから。

私は「新旧対照市町村一覧」における仙台の情報を黒だと感じています。濃度95%のブラックかな。仙台には江戸期から今日まで「町」と「丁」があることは多様な人によって伝え継がれていますから、疑いようのない事実です。例えば、日本地図センターは「地図と空中写真で見る昔と今」で
市街の大部分は侍の住むまちで「丁」と呼ばれ、足軽・小人・職人・商人等の住む「町」と区別された。
と、記述しています。まず、地図で確認してみます。江戸期の資料として天保4(1833)年の御城下町割絵図をあげます。国分町や南町の「町」と、東一番丁や永丁などの「丁」が読みとれます。次に明治22年発行の仙台中心街をご覧ください。探しやすいように町名に赤線を引いておきます。国分町、南町などの「町名」と、東一番丁、東二番丁などの「丁名」が書き分けられています。国分町は仙台を代表する夜の盛場。東一番丁は仙台を代表する昼の繁華街です。かつて武士が居住した東一番丁がなぜハイセンスな商店街に成長したかは、先を急ぎますので触れないでおきます。次に現代の地図をご覧ください。仙台市は昭和40年から始まった住居表示の実施で多くの「丁名」が消えましたが、住居表示が進まなかった区域には今も「丁名」が残っています。小田原山本丁、名掛丁、東七番丁などがそれです。このように、江戸期から今日まで一貫して「町」と「丁」が使い分けられ、「丁」を廃して「町」とした時代はなかったはずです。

次に地図以外の文献で確認します。まずwikipedia仙台都心部は「丁」と「町」と題し、
侍町の名掛丁や東二番丁には丁を付け、他方、町人町の国分町や大町などには町を付けた。
と記述し、また
丁と町の使い分けに関しては、和歌山城下町でも同様
とも書いています。早速88さんの市制町村制施行時の情報 和歌山県に飛びます。お!やっぱり一番丁, 二番丁, 三番丁, 四番丁と「丁名」が連なっていますね。wikipediaでは心もとない方のために、手持ち資料の中から「宮城県の市町村変遷」「仙台の大小区変遷」を貼ります。これは、宮城県史からコピーしたはずですが、記憶が朧になってしまいました。たぶん、むっくんさんも同じ物をお持ちではないかと推測します。仙台旧市内における「町」と「丁」の使い分けが見てとれます。私が仙台の街と深く関わったのは昭和40年代のことで、江戸期からの町名がたくさん残っていた時代です。好きな町名は角五郎丁、末無掃部丁、保春院前丁、琵琶首丁などでした。懐かしがっている場合ではありませんね。先へ急ぎます。地図と文献から判断して「町」と「丁」の使い分けは明らかです。

[78859] 88さん
どこが「町」でどこが「丁」か、の別も個別に示していただけるとありがたいです。

これがやっかいです。どの資料も「丁」の使い方がアバウトで、明らかに侍町で「丁名」の代表格である「片平丁」が「片平町」になっていたりして、どの資料を信頼したら良いのか苦しみました。手許に「仙台地図さんぽ」という出版物があります。その中に「おもな旧町名・通名 索引」というページがあって、これがなかなかよくできています。この本には大正元年の地図がそのまま復刻され、その地図に記載された地名を
1・明治11年の更正区書はどのように表記していたか。
2・明治22年の市制施行当時の表記はどうであったか。
3・昭和40年代の住居表示実施直前の表記はどうであったか。
以上3つの時点から調べてある優れものです。編集者の熱意が感じられて信憑性があります。
実例をあげると次のようになっています。
畳屋町------大正元年の地図表記
疊屋町------明治11年(更正区書の表記)
疊屋丁------明治22年(市制施行時の町名)
畳屋丁------昭和40年代(住居表示実施直前の表記)
ただし、これは主な旧町名を対照にしているため、約300ある旧仙台市街の旧町名すべてが網羅されたものではないことが残念です。

88さんの「市制町村制施行前の町村名等」を丸ごとコピーし、「仙台地図さんぽ」の明治22年(市制施行時の町名)と照合してみました。
●は私が訂正を加えたものです。○は88さんのデータがイキです。※は「地図さんぽ」では道路・ヨコ丁扱いしています。無印は「地図さんぽ」では触れていないために照合できなかったものです。
 
仙台区, 仙台区 ○新河原町, ○新弓ノ町, ○河原町, ○南材木町, ○穀町,○ 南鍛冶町, ○荒町, ●疊屋丁, ●六十人町, ○連坊小路, ○石垣町, ●船丁,○ 堰場, ○成田町,○ 南染師町, ○南石切町, ○八軒小路, ●三百人町, ●保春院前丁, ●五十人町, ○土樋, ○表柴田町, ○椌木通, ○木ノ下, ○元茶畑, ○裏柴田町, ●西新丁, ●東新丁, 新河原町西町, ※姉歯横丁, 猿牽町, ※東街道, 長町通, ●米ヶ袋廣丁, ○米ヶ袋鹿子清水通, ●米ヶ袋鍛冶屋前丁, ●米ヶ袋下丁, ●米ヶ袋中丁, ○米ヶ袋中ノ坂通, ●米ヶ袋十二軒丁, ●米ヶ袋上丁, ○弓ノ町, ○石名坂, ●南六軒丁, ●片平丁, ●櫻小路,● 鐵砲横丁, ○道場小路, ●伊勢屋横丁, ○袋町, ○元鍛冶町, ○本荒町, ○狐小路, ●良覺院丁, ○大町一丁目, ○大町二丁目, ○大町三丁目, ○大町四丁目, ○大町五丁目, ○肴町, ○立町, ●本櫓丁, ●定禪寺通櫓丁, ○北材木町, ○本材木町, ○本柳町, 立町新町, ●川内川前丁, ○川内大工町, 川内数寄屋町, ○川内元支倉, 川内元支倉通, 川内新横町, ●川内明神横丁, ○川内澱橋通, 川内亀岡通, 川内中ノ坂通, 川内大堀通, ○川内亀岡町, ○川内三十人町, 川内大橋通, 川内柳町, 川内筋違橋通, 川内山屋敷中町, 川内山屋敷北町, 川内山屋敷南町, 川内山屋敷町, 川内山屋敷上町, 川内山屋敷横町, 川内三十人町通, 川内亀岡北裏町, 大町二丁目櫓町, 中ノ町川前町, 中ノ町, ●琵琶首丁, 琵琶首新町, ○花壇, ●花壇川前丁,※ 細横丁, 七軒町, ○川内中ノ瀬町, 川内裏下馬町, 川内亀岡杉町, 米ヶ袋新町, ○田町, ○上染師町, ○北目町, ○柳町, ●東一番丁, ●東二番丁, ●東三番丁, ●東四番丁, ●東五番丁, ●東六番丁, ●東七番丁, ●東八番丁, ●東九番丁, ●東十番丁, ●教樂院丁, ●南光院丁, ○南町通, ○清水小路, ○二十人町,● 鐵砲町, ○小田原車通, ●小田原振袖丁, ●小田原遣水丁, ●小田原山本丁, ●小田原裏山本丁, ●小田原金剛院丁, ●小田原牛小屋丁, ○小田原弓ノ町, ●小田原大行院丁, ●小田原廣丁, ○小田原清水沼通, 小田原宮町東裏町, ●小田原北一番丁通, ●小田原北二番丁通, ●小田原北三番丁通, ○小田原高松通, ●小田原東丁, ●小田原長丁通, ○車町, ○柳町通, ○北目町通,● 新寺小路, ○榴ヶ岡, ※長泉寺横丁, 年徳神横町, 五ツ橋通, ※和光明神横丁, ※於多福横丁, ●新傅馬町, ●名掛町, ○立町通, 赤井横町, ○元寺小路, ●末無掃部丁, ●大佛前, ○同心町通, ●同心町中丁, ○元貞坂, ●國分町, 表小路, ●定禪寺通, ●勾當臺通, ○堤通, ●外記丁, ●外記丁通, ○花京院通, ○中杉山通, ○茂市ヶ坂, ●光禪寺通, ●掃部丁, ●長丁, ●長刀丁, ●空堀丁, ●新名懸丁,●六軒丁, 二軒町, ○宮町, ○北田町, ○堤町, ●北一番丁, ●北二番丁, ●北三番丁, ●北四番丁,● 北五番丁, ●北六番丁(本), ●北七番丁, ●北八番丁, ●北九番丁, 北十番町, ○二本杉通, ○杉山通, ○上杉山通, ※虎屋横丁, ○新小路, ○二日町, ○北鍛冶町, ○通町, ●跡附丁, ○神子町, ○北山町, ●木町通, ○支倉町, ○支倉通, ○新坂通, ○切通町, ●十二軒丁, ○石切町,● 覺性院丁, 伊勢堂下, ○半子町, ○坊主町, ●中島丁,○ 江戸町, ○北五十人町, ○八幡町, ●瀧前丁, 有巴沢一丁目, 有巴沢二丁目, 角五郎新町, ※荒井横丁, ○澱町, ○土橋通, 角五郎表町, 角五郎裏町, 角五郎川前町, 中島町新坂, 中ノ横町, 大願寺前町, 大願寺横町, ●裏五番丁, 新河原町東町, 東九番町一丁目横町, 東九番町二丁目横町, 川内元支倉通一丁目横町, 松源寺前町, 誓願寺通, 西坊主町, 東坊主町, 角五郎川前横町, 大橋通, 小田原宮町三丁目裏町, 新坂通一丁目横町, 八幡町三丁目横町, 石屋横町, 桃源院前町, 沖ノ村通, 東桜小路, 茶畑町, ※竹屋横丁, 椌木前町, ※加川横丁, 鉄砲町三丁目横町, 立町新前通, ※閻魔堂横丁, 石名坂横町, 北山古街道, 大町三丁目横町, 川内亀岡南町, 中島新町, 常磐町, 北五十人町新町, ●大町五丁目新丁, 元材木町横町, 北材木町末無, 十二軒町上末無, 十二軒町下末無, 上染師町西末無, 上染師町東末無, 畳屋町末無, 滝前町末無, 川内新横町末無, 川内追廻川前町末無, 土樋二丁目西末無, 土樋二丁目東末無, 土樋四丁目末無, 姉歯横町末無, 霊屋下新町, ●霊屋下, 宮沢(本), 北六番町九丁目末無, 元材木町横町末無, 覚性院町末無, 北目町末無, 元誓願寺前町, ●越路, 河原町東裏町, 越路路地町, ●越路六軒丁, 霊屋下疣田町, 霊屋下四谷町, 古城, 宮城郡 ○小田原村(微), ○南目村(微), ○南小泉村(微)

結果としてまだまだ不備ですが、「新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)を鵜呑みにはできないぞという思いです。で、どうすればいいのか。「仙台地図さんぽ」に書かれている明治11年(更正区書の表記)なるものを見てみる必要がありそうです。仙台市に行けばあるのかどうか。いつまでとは約束はできませんが、あたってみようと思います。ところで88さん、「仙台地図さんぽ」必要とあらば差し上げますよ。必要なときはお知らせください。それから、「市制町村制施行前の町村名等」に「南町」が漏れているようです。「新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)の段階で漏れていますね。「南町」は絶対外せないはずです。直感でそう思います。
[78803] 2011年 7月 21日(木)22:09:26千本桜 さん
都市計画道路
[78802] k-aceさん
八雲町の道道202号に3・4・4富士見通というのがありましたが、この「3・4・4」って何の数字なんだろう?

都市計画道路の番号ではないでしょうか。都市計画図を作る時にそのような番号を貼り込みました。「貼り込み」はアナログ時代の作業ですね。今はパソコンだから「入力」と言うのでしょうか。愛知県知多市のHPが都市計画道路について分かりやすく説明しています。
[78772] 2011年 7月 16日(土)08:48:49【1】千本桜 さん
成田山、新月村
[78769] 伊豆之国さん

比叡山の場合は、延暦寺の山号「比叡山」と自然地形の山名「比叡山」が同時に思い浮かんできます。でも、個人的には自然地形の山名「比叡山」の方を強く意識しているようです。高野山の場合は金剛峯寺の山号「高野山」と自然地形の山名「高野山」があると仮定して、個人的には金剛峯寺の山号「高野山」の方を強く意識しています。成田山となると、意識するのは新勝寺の山号「成田山」ですね。こうして考えると、難しいものですね。でも、面白い。
長野県の美ヶ原は山名なのでしょうか。国土地理院は王ヶ頭、王ヶ鼻を山名を意味する文字で表記し、美ヶ原は山名を意味しない文字で表記しています。でも、美ヶ原は日本百名山に入っているのですね。

[78770]むっくんさん
本吉郡新月村についてですが、明治8年に合併してその後分離して明治22年に再度合併した可能性はないのでしょうか。

そこに着眼されましたか。さすがに、むっくんさんです。明治8年に合併したけれど、2、3年後には元の新城村と月館(月立)村に分離した可能性は大ありです。ただし、確信は持てません。確信が持てないのは、そのことについて文章化された記述を見たことがないからです。しかし、表組化された市町村変遷表から推測すると、2村間で合併→分離→合併を繰り返した可能性があることを見てとれます。

ここに、宮城県の「明治5年~22年市町村変遷表」があります。昔のことなので記憶は不確かですが、宮城県史からコピーしたように憶えています。この変遷表によると、本吉郡の藩政時代の村数は33村。明治9年は18村。明治11年は19村。明治14年は19村。明治17年は19村。明治22年の大合併直前は19村。明治9年から11年の間に1村増えています。変遷表を読み進むと、明治9年の欄に新月村の名があるのに、明治11、14、17、22年大合併直前の欄には新月村の名がなく、新城村と月立村の名が記載されています。そして、明治22年の町村制を迎えるに当たり新城村と月立村が合併。新月村誕生。このことから推測すると、合併→分離→合併の可能性が大きいですね。

この変遷表は所々に誤字が目につきますが、表から判断する限りでは、「明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等」の合併後名称新月村の参加自治体
本吉郡 新城村, 月館村
の月館村は、月立村と表記すべきかな?と思われます。いずれにしても、誤字が目につく文献ですから真偽のほどは分かりません。ちなみに、現代に通用する地名は「月立」です。「月館」は藩政時代に通用した書き方ではないかと私は思っています。

訂正機能で追加書き込み。
投稿の後で読んでみると、88さんの「市制町村制」施行時の都道府県別一覧に誤記が多い、と受け止められかねない文章になっていました。誤記が目につくのは、私が所持している宮城県の「明治5年~22年市町村変遷表」ですので、誤解なさらないでください。
[78768] 2011年 7月 14日(木)23:05:01千本桜 さん
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等
宮城県関係で気が付いた点です。

合併後の名称・宮城郡七北田村について。参加自治体の七木田村は、正しくは七北田村ではないでしょうか。
合併後の名称・宮城郡松島村について。参加自治体に手樽村,幡谷村,北小泉村,竹谷村が漏れているようです。
合併後の名称・宮城郡原町について。参加自治体の仙台区北六番町(微)は、正しくは仙台区北六番丁(微)ではないでしょうか。
合併後の名称・加美郡鳴瀬村について。参加自治体の雑色目村は、正しくは雑式目村ではないでしょうか。
合併後の名称・栗原郡姫松村について。参加自治体の玉沢村は、正しくは王沢村ではないでしょうか。
合併後の名称・桃生郡二股村について。参加自治体の福田村は、正しくは東福田村ではないでしょうか。
合併後の名称・本吉郡十三浜村について。参加自治体に十三榎とあるのが理解できません。十三浜ではないでしょうか。

亘理郡荒浜村について。明治22年、高須賀村が改称して荒浜村になったはずですが「市制町村制施行直前の廃置分合等」の一覧表に荒浜村の記載がありません。単なる漏れでしょうか、それとも「直前の廃置分合等」には該当しないのでしょうか。

本吉郡新月村について。「市制町村制施行直前の廃置分合等」の一覧表に新月村が記載されています。ということは、新城村と月館村が合併して新月村になったのは、明治22年3月31日と判断して良いのでしょうね。ところが、角川地名大辞典には次のような記述があります。原文のまま書き写します。
同8年気仙沼村(気仙沼本郷を改称)・鹿折村・大島村を除く8か村が次のように統合された。
新月村=新城村・月立村
松岩村=赤岩村・松崎村
階上村=長磯村・最知村・波路上村・岩月村
同8年とは明治8年のことです。ところが、同じ辞典の中に明治22年合併らしき記載もあったりして不可解です。結構迷いますね。明治8年にしろ22年にしろ、そんなに遠い昔のできごとではないはずなのに、過ぎてしまったことは曖昧になってしまうものなのですね。
[78767] 2011年 7月 13日(水)22:01:36千本桜 さん
私からも “祝” 市区町村変遷情報(市制町村制施行時の情報) 完成
[78761] 88 さん
今後とも、市区町村変遷情報をよろしくお願いいたします。

大事業、本当におつかれさまでした。感謝申し上げます。早速、宮城県の市制町村制施行時の情報を拝見いたしました。ひとつ、確認をお願いしてよろしいでしょうか。仙台市の市制町村制施行前の町村名等で、片平町、東一番町、教楽院町など(その他、多数あり)は片平丁、東一番丁、教楽院丁と表記するのが正しいはずですので、参考にされた資料との照合をお願いします。仙台の場合、町人の区域は「町」、武家の区域は「丁」と書き表す慣しがありました。

仙台区を構成する市制町村制施行前の町村名等の中頃にある
田原長町通, 車町, 柳町通, 北目町通, 新小寺小路, 榴ヶ岡, 長泉寺横
の「新小寺小路」は正しくは「新寺小路」のはずですので、ご確認おねがいします。

福島県の市制町村制施行時の情報で、田村郡の「三春町」を「三春村」と誤打されているようです。
[78751] 2011年 7月 10日(日)19:12:50【1】千本桜 さん
都道府県を代表する山と川 「高野山」
[78715] futsunoおじさん
「山」には宗教的修行の場等の意味もありますので純粋な山岳を選択したい場合、判断は難しくなりますが「都道府県を代表する山」ではどう考えるべきでしょうか。

futsunoおじさんの問いかけに応えなければと思っているのですが、考えがまとまらず前進できないでおりました。高野山には複数の意味があります。住所地名の大字高野山、金剛峯寺の山号高野山、自然地形の山名高野山などです。この中で、高野山は自然地形の山名に値するのだろうかと迷っているのです。[78715]で提示していただいた Wikipediaを読んでみました。確かに
高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称
と書いてありました。しかし、読み進むと
なお、高野山という名称の山は無い
とも書いてあります。山々の総称名「高野山」はあるが、個々の山名「高野山」はないと受け止めれば済むのでしょうが、高野山のメインは山頂をもった山々ではなく、それらに囲まれた平坦地形にあるのではないかと感じる私としては、「高野山は山々の総称」という表現に違和感を感じるのです。普通一般に山を思うとき、少なからず山頂を意識するはずですが、私的イメージの高野山は山頂がなくても高野山なんです。自分の中にあるイメージを上手く文章化できなくて辛いのですが、私はそんな風に高野山を捉えています。

さらに Wikipediaで金剛峯寺を調べると
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する
と書いてあります。高野山は山ではなく、山に囲まれた平坦地を指すと受けとれます。国土地理院の地形図注記に当てはめるなら、ゴシック体で表記される山には該当しない地形と考えられます。お断りしておきますが、私は全てを知った上で書いている訳ではありません。勉強のつもりで試行錯誤しながら書いています。ですから、間違った考えをしているかもしれないし、途中で考えが変わるかもしれません。以下、いろいろ調べた結果を書き出します。

河出書房の日本歴史大辞典(昭和48年発行)には次のように書かれています。
(高野山は)和歌山県伊都郡高野町にあり、略して野山といい、また南山・南岳ともいい、山の形より八葉峰ともいう。
やはり、高野山は山を指す名称なのかと考えがぐらついてきます。

平凡社の世界大百科事典(1972年発行)には次のように書かれています。
(高野山は)和歌山県伊都郡高野町にあり、紀伊山脈の1支長峰山地の東部、陣ガ峰、楊柳山、弁天岳など標高1,000m前後の山々の間に横たわる平たん面(東西6km,南北3km)一帯の総称。
おぉ。やはり高野山は山名ではなく、平坦部を中心とした場所名ではないかと、またまたぐらつきます。

角川日本地名大辞典には次のように書かれています。
(高野山は)伊都郡高野町に所在。平安初期、空海が真言宗の根本道場として創建した金剛峯寺の別称として知られる。固有の山名としてではなく長峰山脈の東部、陣ヶ峰・楊柳山・摩尼山・弁天岳など標高1,000m前後の山々とそれに囲まれた盆地状の平坦地を含んだ総称で、平坦地は標高800mほど、東西6km・南北3kmの広がりをもつ。
「標高1,000m前後の山々とそれに囲まれた盆地状の平坦地」と書いてあるけれど、山々の全ての斜面を高野山と言うのだろうか?。ひょっとして、高野山に該当するのは盆地に向いた斜面だけで、反対斜面は高野山ではないのではないか?。そこが一般の山と異なるところではないか。そんな思いが湧いてきました。

いろいろ探しているうちに、私のイメージを言い当てたようなHPに遭遇しました。高野山の地形と自然環境というHPには、次のように書いてあります。
和歌山県伊都郡の紀ノ川西南高地に位置する高野町。高野山はその主要部に広がる東西約5km南北約3kmの山上盆地をしめします。一般に◯◯山と言われる時、頂上の有る山を想像しますが、高野山の場合「高野山」と呼ばれる頂上はなく、周囲の峰々と、それらに囲まれた盆地部分全体を含めた地域が、いわゆる「高野山」です。
そうだ、これだ、と思いました。私がイメージする「高野山」は、これなのです。

次に、国土地理院は高野山の名称をどのように扱っているか見てみます。参照した地図はだいぶ以前に発行されたものですが、高野山を判断するのに支障なしと思います。
2.5万分の1地形図(ウォッちず)、5万分の1地形図(昭和54年発行)、20万分の1地勢図(昭和49年発行)、50万分の1地方図(昭和57年発行)いずれも、「高野山」を集落名または場地名として読取れるように表記し、山名としては扱っていません。ですから、これらの地理院図を基に編集発行した民間図には、自然地形の山名「高野山」はありません。S社の3万分の1県別道路地図、Z社の10万分の1道路地図、B社の20万分の1道路地図、S社の50万分の1地方図、どれにも自然地形の山名「高野山」は記載されていません。知名度では下位にあるはずの飯野山(香川県)が記載されているのにですよ・・・。こうしてみると、高野山は山名に値しないように思えてきました。

ところがです。地理院の100万分の1日本(平成2年発行)には、高野山が山名として記載されているのです。標高数値は記載されていませんが、文字に斜体が掛けられていますから、間違いなく自然地形の山を意識した注記です。50万分の1に記載がなくて100万分の1に記載があるのはなぜだろう。あらら、困りました。やはり高野山は自然地形の山名なのでしょうか。そこで、T社発行の110万分の1社会科地図帳をみると、高野山(弁天岳)985と記載されているではありませんか。ごく一般の人が見たら、高野山は別名を弁天岳と言い、標高は985mであると判断するのでしょうね。なんだか、私には納得できないものがありますが、これで良いのでしょうか。

futsunoおじさんの問いかけに応えたことにはならない書き込みで申し訳ありません。私自身、高野山をどのように捉えたら良いのか分からない状態です。

書込訂正。誤記2ヶ所、弁天山を弁天岳に訂正しました。
[78732] 2011年 7月 9日(土)00:43:51【1】千本桜 さん
2大
[78730] 白桃 さん
「2大」は納得できないです

「2大スター夢の共演」の会場を覗いてみたら、大下八郎と大木伸夫がデュエットしていたなんて許せないっすよ! 演歌ファンとしては、おんなの宿で涙の酒なんて最高にシビれるけど。
演歌が似合う北海道2大港町。釧路、苫小牧、小樽、函館がノミネートされました。苫小牧は演歌っぽくないので落選確実ですが、釧路、小樽、函館は激戦でしょうね。

女の宿を、おんなの宿に訂正
[78712] 2011年 7月 5日(火)22:18:37千本桜 さん
Re:都道府県を代表する山と川 (改訂版)
[78710] futsunoおじ さん

宮城県を代表する山が蔵王山。これには同感です。ただし、蔵王山の最高峰である熊野岳 (1841m)は山形県に属していますから、山頂が他県に属する山に該当します。

宮城県を代表する川については、北上川、鳴瀬川、名取川、阿武隈川で迷っておられるご様子ですが、鳴瀬川、名取川に代表性を持たせるのは苦しい。やはり、北上川/阿武隈川と連記するか、または一つに絞って北上川とするのが良いと思います。もし、宮城県の輪郭だけが描かれた白地図があったとして、そこに一つだけ都市名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「仙台」を書きます。一つだけ山名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「蔵王山」、一つだけ川名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「北上川」、一つだけ観光地名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「松島」、一つだけ桜名所を入れて宮城県たらしめよと言われたら「一目千本桜」を書き入れます。私の場合。
 
ところで、[78710]
和歌山県 ☆高野山 985m
を見て思うのですが、「高野山」と言う名の山はあるのでしょうか?。私は高野山に行ったことがなく、日常的に高野山を意識することも全くありません。早い話が、高野山に対して知識がありません。ですから、「高野山」と聞いて思い浮かぶのは、集落、居住地、町並み、金剛峯寺などの建造物といった類いのものであり、山が連想できないのです。標高985mは弁天岳を指しているのでしょうが、地元の人は弁天岳を「高野山」と呼んでいるのでしょうか?。ちなみに、国土地理院の2.5万分の1地形図には、集落名「高野山」はありますが、山名「高野山」は記載されていません。したがって、5万分の1地形図や20万分の1地勢図にも記載されていません。
[78599] 2011年 6月 20日(月)07:28:49千本桜 さん
Re:都道府県を代表する山と川
futsunoおじさんが山形県を代表する山に「蔵王」を選ばれたことに同調します。ただ、昔(私がまだ、まじまじと山形盆地の風景を見ることがなかった頃)、山形市在住の方に「山形市民にとっての山はどこですか」とお尋ねしたところ、即座に「月山」と答が返ってきて驚いたのを憶えています。「蔵王」じゃなかったのですね。あくまでも山形市民にとってですが。
ところで[78597]の富士山3376mは、正しくは3776mでしょうね。
[78578] 2011年 6月 18日(土)17:50:22千本桜 さん
富山県出町、五百石と宮城県槻木、金ヶ瀬の共通点
[77087] 88 さん
富山県の市制町村制施行時の情報を上梓予定ですので、引き続きご活用いいただければ、と思います。

市制町村制施行時の情報を見て、富山県の出町(砺波市)と五百石(立山町)は、宮城県の槻木(柴田町)と金ヶ瀬(大河原町)に似た経緯を辿って来たことを知りました。

共通点・第1段階(江戸期)
槻木は入間野村に形成された町場の名。
金ヶ瀬は平村に形成された町場の名。
出町は杉木新村に形成された町場の名。
五百石は松本開(開は村と同義)に形成された町場の名。
ということで、いずれも「村名と異なる名称を持つ町場だった」ことで共通します。宮城県にはこれに類する町場が数多くあります。
ここで素朴な疑問が生じます。江戸期の入間野村に槻木と言う名の宿場町が開設されました。入間野村にあるなら入間野宿でよかろうに、なぜ槻木宿を名乗るのか。なぜ入間野宿を名乗れなかったのか。地名由来を追っても解決しない問題です。柴田町のその道に詳しい人にお尋ねしても、やはり分からないとのことでした。

共通点・第2段階(明治22年 町村制施行時)
入間野村など10村が合併。新自治体は入間野村の町場名をもって槻木村とし、それまでの入間野村は槻木村大字入間野になりました。
平村など3村が合併。新自治体は平村の町場名をもって金ヶ瀬村とし、それまでの平村は金ヶ瀬村大字平になりました。
杉木新村など8村と杉木村の一部が合併。新自治体は杉木新村の町場名をもって出町とし、それまでの杉木新村は出町大字杉木新になりました。
松本開など8村が合併。新自治体は松本開の町場名をもって五百石町とし、それまでの松本開は五百石町大字松本開になりました。
ということで、いずれも「村名を抑えて町場名が自治体名に出世した」ことで共通しています。「入間野の槻木」から「槻木の入間野」へ逆転したわけです。宮城県にはこの類の町場が結構あります。

共通点・第3段階(昭和の合併時)
槻木町は船岡町と合併して消滅。しかし、大字入間野を大字槻木に改称することで、槻木の名を残しました。
金ヶ瀬村は大河原町と合併して消滅。しかし、大字平を金ヶ瀬(大字の字句を冠しないが実態は大字)に改称することで、金ヶ瀬の名を残しました。
出町は周辺5村と合併して消滅。しかし、大字杉木新を大字出町に改称することで、出町の名を残しました。
五百石町は槻木町、金ヶ瀬村、出町より少し複雑な経緯を辿りますが、結果的に大字松本開の区域は大字五百石に改称されています。
宮城県には、第1段階から第2段階へ進展した町場は結構ありますが、第3段階まで進展したのは槻木と金ヶ瀬だけです。くしくも出町、五百石はその仲間でした。通称町場名に由来する地名が生き残る中、公称村名に由来する地名が消されて行く。この現象をどう解釈すれば良いのでしょうか。町場名は強いですね。自分が帰属していた村名を消滅させ、その区域を自分の名に書き換えてしまうのですから。

ここで、村名と町場名が同名の場合はどうなのかという疑問が涌いてきます。例えば、富山県の上市は江戸期の村名が上市で、そこに形成された町場も上市のはずです。現在私たちが上市と呼んでいるのは、村名を引きずった上市なのか、町場名を引きずった上市なのか。どっちなんでしょう。
なんだか疲れてきました。話題を砺波地方の都市間競争に切り替えます。

砺波地域(砺波市、南砺市、小矢部市の範囲を想定)と仙南地域は地勢こそ似ていませんが、どちらも小規模都市がドングリの背比べをしている点で似ています。砺波地域の中心都市って、どこなんでしょう。やはり今でも出町、石動、福光がビッグ3でしょうか。井波、福野がビッグ5にしてくれと言いたげですが、我慢してもらいましょう。

平成17年の人口集中地区または準人口集中地区比較
都市人口数
石動7,625人
福光4,331人
出町3,691人
出町が石動の半分。やはりDID人口は都市の賑わいや中心性の判断基準になりにくいようです。

平成22年分の路線価より、各都市の1平方メートル当り最高評価額比較
都市評価額
出町56,000円
福光50,000円
石動49,000円
こちらの方が判断基準になりそうな気配です。
[78559] 2011年 6月 14日(火)23:22:25千本桜 さん
赤道
[78555] 山野 さん
どれが「町道」(地区内)か分かる方、居られますか?
一番手っ取り早くて初歩的な解決策は、町役場で道路台帳を閲覧することだと思います。私も赤道で悩まされている住民です。(ごめんね、ニジェさん。「思います」を使って。)
話は少し逸れますが、昨年の秋、南三陸町に一泊旅行しました。宿は町の中心部から遥かに離れた漁村の高台にありました。翌日、日の出と共に目が覚めてしまい、ぶらぶらと坂を下って港の辺りを早朝散歩。まだ朝早いのに、港の周りは牡蠣むき仕事をしている人や漁船の出入りで活気づいていました。道ばたで、漁から帰る船を待つおばさんと立ち話。地元の人との立ち話も旅の楽しみの一つです。つい話し込んでいるうちに、宿の朝食時間が近くなっていました。
わたし:○○旅館へ帰るんですが近道はないですか。
おばさん:ほら、そこを入って行けばいいよ。
わたし:でも、あそこは民家の庭ではないですか。
おばさん:いいの、あそこは赤線だから。
わたし:え!赤線?
こんな岬の外れの小さな漁村に赤線だなんて。たぶん0.5秒くらいは私の顔が固まっていたはずです。もちろん、おばさんが言う赤線は赤道のことだと直ぐに推測がつきましたけど・・・。道路か庭か区別のつかない赤線を通って漁村の坂道を登った日から5ヶ月後、あの漁村も大津波に呑まれてしまいました。美しい風景だったのに。おばさん、助かっただろうか。
[77851] 2011年 4月 1日(金)20:40:07千本桜 さん
亘理町荒浜の高須賀
[77841] hmt さん
宮城県岩手県の沿岸部を主とした 浸水範囲概況図 が、国土地理院HPに発表されています。
浸水範囲概況図11を見て亘理町高須賀集落の状況に感じるものがありましたので書込みます。単調な海岸線が続く宮城県南部も津波で大きな被害を受けました。亘理町では海岸から5kmほど内陸にまで津波が押し寄せた様子が図から読みとれます。そのような中、赤く塗られた浸水区域にぽっんと着色していない区域があります。浸水を免れた高須賀集落です。高須賀とは、洪水などで水が押し上げることのない高い砂丘の地形からきた地名です。まるで今回の震災で津波から免れることを予見したかのような的確な地名ですね。先人が残してくれた地名の重みを感じた次第です。
この高須賀は藩政期の自治村で、高須賀村と呼ばれていました。阿武隈川河口の港町荒浜を端郷にかかえていましたが、いつしか荒浜の方が大きな集落になり、明治22年の町村制で荒浜村に改名してしまいました。江戸期には「高須賀村の中の荒浜」だったものが、明治22年以降は「荒浜村の中の高須賀」に逆転したわけです。
[77614] 2011年 2月 7日(月)22:46:04千本桜 さん
Re:新幹線に踏切が・・・
[77610] YASU さん
高架橋の表示がなくなった代わりでしょうか?
そのようですね。「橋および高架部」の表示を止めたことで、平面交差と立体交差の判別がつかなくなった。そこで、平面交差部には踏切記号を付すことにしたのだと思います。でも、やはり所々に間違いがあるようです。東北新幹線を東京から北に向ってチェックしてみたところ、栃木県那須町、福島県白河市で各1ヶ所、福島県桑折町で2ヶ所、宮城県大河原町で1ヶ所、新幹線の踏切記号を見つけました。あら~~~、これは有り得ないと思って、それ以上チェックするのを止めたところです。
[77608] 2011年 2月 6日(日)20:46:43千本桜 さん
ウォッちずの1/25000地形図と電子国土基本図
[77607] oki さん
今回「ウォッちず」の「電子国土基本図」を見てみたのですが、重大な難点があります。1/25000地形図では、大字と小字は文字の大きさで判別可能でしたが、「電子国土基本図」では両者とも同じ大きさで、まったく判別できません。これでは非常に困る。
同感です。しかし、これはどうも居住地名だけでなく、島や山の自然地名にも及んでいるようです。松島湾に浮かぶ個々の島々の名称と、それらを総称する松島群島という文字が同じ大きさで表されています。個々名の茶臼岳と総称の那須岳も同じ大きさで表されているところをみると、最初から「個々の名称」と「総称」の区別は考慮していないようです。
また、「樹木に囲まれた居住地」の記号がなくなっています。「建物」の記号が従来より淡彩で表示されていることもあり、地方(田園地帯)での集落の状況が非常に分かりにくくなった、というのが正直な感想です。
これも同感です。植生界や送電線や橋の表示もなくなりましたね。時代とともに地図に求められる物が変わってきたと受け止めるべきなのでしょうか。それにしても建物の色は淡すぎますね。文字情報が見やすくなる利点はありますが、少し淡すぎたようです。そのため、相対的に水部の藍色が強くなりすぎたようです。水田地帯では一条河川と水田記号がうるさく感じるでしょう。ちょっと目が疲れます。でも、電子国土基本図に踏切が表示されるようになったのは良案ですね。
[77591] 2011年 2月 4日(金)21:00:55千本桜 さん
海苔巻き、かんぴょう
[77588] 白桃さん
ウチのパソコンはどういうわけか「和田紫波志木の那珂出羽市場ん春日須木です。」となってしまいます。
私のパソコンは自動的に東北訛りに変換してくれるので「和田諏訪・・・」になります。滝川と打てば立川が出てくるし、桐生と打てば知立が出てくる。静岡などは珠洲男鹿に変換ですよ。

なんせ50年も前だし、あの頃しょっちゅう「巻きずし」食べてたから・・・。
あの頃にしては結構贅沢ですね(笑)。ただ、ナニで巻いていたかで贅沢の度合いが変わりますね。舌で巻いて食べてたりして(冗談ですよ!)。私が子供の頃、海苔はちょっと贅沢品だったようで、遠足や運動会のおにぎりは紫蘇の葉っぱで巻いてありました。卵焼きだって、うどん粉を混ぜて増量し、ふくらし粉でボリュームアップして食べたんですから。砂糖の代わりにサッカリンでしたね。サッカリンとか赤チンキ、DDTに込み上げてくるものを感じませんか。そんなわけで恵方巻など食べたことはないし、この地域にその風習がありませんでした。昔、富山県大沢野町の小さな神社に野宿した時、近所のおばさんに、とろろ昆布を巻いたおにぎりを頂いて感激しました。見た目もきれいで高級品に思えたのですが、北陸地方では普通に食べているらしいですね。

[77590] Issie さん
かんぴょう もさることながら,その原料である夕顔の実もあまり見ないなあ。
我が家では栃木からかんぴょうを貰うこともあって、たまに煮物で食べますね。この辺りでは栃木と違ってかんぴょう栽培している家はあまりないはずですが、ときどき夕顔の花を見かけることはあります。花の美しさに大味とか小味って有るのか無いのかよく分かりませんが、夕顔を見るたび、何とまあ大味なと感じますね。まじまじと見ればきめ細やかな美しさも宿しているのでしょうが。
[77582] 2011年 2月 3日(木)01:49:49【1】千本桜 さん
郵便番号
[77573] ぺとぺと さん 郵便番号データの誤収録について
[77576] にまん さん 0.1.1.0.0.0
[77579] oki さん 0.1.1.0.0.0=305
[77580] ぺとぺと さん 0.1.1.0.0.0の一部確認結果

皆さんのご意見通り、栗原市築館芋埣の件は郵便番号簿の誤記だと解釈することにします。郵便番号簿を信じていましたから、自分の方が間違っているのではないかと本気で悩んでいたのです(笑)。あれだけ膨大なデータですから誤記があっても不思議ではありませんよね。だとすると、宮城県には他にも所々に誤記らしきものが見受けられます。
[77570]で私は下記のように書きました。
変則的なところでは、大崎市鳴子温泉赤這や鳴子温泉赤湯が0.0.0.0.0.0ではなく0.1.0.0.0.0になる理由も理解できたつもりでいます。
「理解できたつもり」というのは、郵便番号簿を正当化して自分を押し殺してしまった結果です。赤這や赤湯は小字ですから直下に番地がぶらさがっています。なので0.0.0.0.0.0になるはずですが、郵便番号簿には0.1.0.0.0.0と記載されています。これは変だと思いながらも、赤這や赤湯に冠してあった大字大口が平成の合併時に廃止されたことと関連があるのかも知れないと、無理矢理自分を納得させてしまいました。気仙沼市二ノ浜や三ノ浜もそうです。本来0.0.0.0.0.0になるはずが0.1.0.0.0.0と記載されています。これもやはり郵便番号簿を正当化して自分を無理に納得させています。二ノ浜は俗に梶ヶ浦、三ノ浜は俗に鶴ヶ浦と呼ばれています。公称の字名と通称の集落名が共存しているところに、私の知らない郵便番号簿の事情が潜んでいるのかなと無理に納得したものです。郵便番号簿の誤記だと分かれば悩む必要がなかったわけですね。

なお、okiさんが0.1.1.0.0.0に該当する町域を全国で305ヶ所と弾き出しておられますが、その内の10%は宮城県に所在するものですね。仙台市、名取市、多賀城市、大崎市などに分布し、私としては小字起番の大字である(大崎市古川)稲葉と住居表示された稲葉○丁目が隣接している姿を、ごく普通のことと捉えていました。全国的に見ると意外に少ないのですね。いま再度郵便番号簿を見ているのですが、0.1.1.0.0.0と記載されて当然の仙台市の田子、福室、袋原、名取市の閖上が0.1.0.0.0.0と誤記されているのが目につきました。

書込訂正機能を使って追加書込みします。
「郵便番号データ」と書くべきところを、私が不用意にも「郵便番号簿」と書いてしまったため、皆様に誤解を抱かせているのではないかと心配になってきました。誤記が見つかったのは皆様がお使いになっている「郵便番号簿」ではなく、ネット上の「郵便番号データ」ですのでお詫びして訂正します。詳しくは郵便番号データダウンロードをご覧下さい。取り急ぎお詫びいたします。
[77570] 2011年 1月 31日(月)22:59:11【1】千本桜 さん
栗原市築館芋埣の謎
[77557] oki さん
スペースが限られる表頭部分に、「市区町村の直下の地域区分」などという長たらしい表示をしたくなかったので単純に「大字」と表現したのですが、以上の説明を丁寧にしておくべきでした。
ですよね。たぶん、そのような事情かと思いながらも、本気で宮城県に2848個の大字があると思われたらいやだなと、つい老婆心が働いてしまったものです。これで安心しました。そしてokiさんにお手間を掛けさせてしまったことをお詫びします。

[77486] でokiさんが話題にするまで、私はネット上で郵便番号簿を調べることは滅多にありませんでした。ところが日本郵便の郵便番号簿を見て、これは結構おもしろい!と、はまってしまいました。と言っても、時間の都合から目を通しているのは徳島県の一部と宮城県の全部だけですが・・・。宮城県は「"仙台市青葉区","以下に掲載がない場合"」から始まって「"本吉郡南三陸町","戸倉"」まで、3,320個の番号が割り振られています。小字毎に番地が起番されている町域の表示は0.1.0.0.0.0。丁目を有する町域の場合の表示は0.0.1.0.0.0になりますね。この番号と地名を照合し、仙台市青葉区青葉町が0.0.0.0.0.0。同じく旭ヶ丘が0.0.1.0.0.0。同じく芋沢が0.1.0.0.0.0になる理由は理解できています。変則的なところでは、大崎市鳴子温泉赤這や鳴子温泉赤湯が0.0.0.0.0.0ではなく0.1.0.0.0.0になる理由も理解できたつもりでいます。しかし、どうしても理解できない場所が1ヶ所だけあります。栗原市築館芋埣です。

芋埣周辺は宮城県で最も複雑な合併と分離を繰り返した地域で、その行政区画変遷を理解するのには大変苦労した地域です。現在と違って簡単に資料を入手できなかった時代でしたから泣かされました。現在の栗原市築館芋埣は次のような変遷を経てきました。
明治8年、芋埣村は渡丸村、泉沢村、嶺崎村と合併し宝沢村の一部となる。
明治22年、宝沢村は王沢村、片子沢村と合併して姫松村の大字となる。
昭和30年、姫松村のうち宝沢地区と片子沢地区は岩ヶ崎町などと合併して栗駒町姫松となる。王沢地区は一迫町などと合併し一迫町王沢となる。
昭和31年、栗駒町姫松芋埣の一部が分離して築館町芋埣となる。したがって栗駒町芋埣と築館町芋埣が存在する。
この複雑な変遷が関係しているのかどうか分かりませんが、郵便番号簿では築館芋埣の扱いがどうも変なのです。

マピオンで住所検索をすると、築館芋沢の下部に日照田や沼ヶ崎などの小字が出てきます。日照田4番地沼ヶ崎4番地があることから判断すれば、築館芋埣は「小字毎に番地が起番されている町域」に該当し、その表示は0.1.0.0.0.0になるはずなのに0.0.0.0.0.0と表されています。これが全く理解できない。お手上げです。ちなみに、隣接する栗駒芋埣は0.1.0.0.0.0と表示されています。

わ~~、全くお手上げです。築館芋埣日照田4番地をちゃんとリンクしたのに、地図は栗駒芋埣を指している。何かが変です。

書込訂正機能を使って追加書込みします。
マピオンだと栗駒芋埣を指してしまうので、ヤフー地図で築館芋埣を表示します。築館芋埣日照田4と入力して検索すると、築館芋埣地内の地図が表れてきました。やはり築館芋埣の下部には日照田や沼ヶ崎などの小字があって、それぞれの小字ごとに起番されているようです。そのような区域は0.1.0.0.0.0となるはずなのに、なんで0.0.0.0.0.0なのか悩ましい。
[77547] 2011年 1月 29日(土)19:49:02千本桜 さん
Re:再び、小字について
[77486] oki さん
日本郵便は、ほぼ毎月、全国の郵便番号簿を改定しており、ネット上からダウンロードできます。この郵便番号簿には、「小字毎に番地が起番」という欄があり、これをチェックすることで、全国の大字地域について、それが小字起番かどうかを確認することができます。昨年の2月くらいに、これを使って小字起番地域の分布を調べた結果が以下の表です。
都道府県名 大字数 小字起番 小字起番率
宮城県    2848   773    27.1
レスのタイミングがずれてしまって失礼します。okiさんのネット検索の高い能力には毎度感心しています。郵便番号簿のように有益なサイトを提示して頂けて大変ありがたく思っています。しかし宮城県の大字数が2848個というのは納得できません。この数字は大字の他に住居表示実施で発生した町と多数の小字を含んでいるはずです。明治22年当時の大字数をベースにその後の廃止や新設による変動を加減すれば、宮城県の現況大字数は700前後になるのではないかと推測しているところです。

大字とは市町村の直下にある地名で、多くの場合江戸時代の近世村ですが、そうでない場合もあります(住居表示された丁目地名やビル名は、小字起番があり得ないので除去してあります)。
住居表示された丁目地名は小字起番があり得ないので除去しているとのことですが、丁目がない住居表示済みの町も同様に扱うべきだと思います。仙台市国分町には一丁目、二丁目、三丁目があるから小字起番があり得ず、従って大字ではない。しかし立町春日町には丁目がないから大字扱いにするというのはまずいでしょう。

徳島や宮城は小字起番の割合が30%程度になっていますが、これらの県では大字が分解されてかつての小字が市町村の直下に組み込まれる事例が少なくなく、この場合は小字が大字扱いになってしまいます。
宮城県では大字の分割や廃止でかつての小字が市町村の直下に組み込まれても、小字は小字のままなのが普通だと思います。2006年に[51948]EMMさん、[51966] 矢作川太郎さん、[51973] EMMさん、[51988] 千本桜が話題にしている宮城県登米郡南方町(現・登米市南方町)を例に出します。南方町は昭和53年に大字を廃して自治体+大字+小字の住所を自治体+小字に改めました。現在、日本郵便はその小字一つ一つに異なる郵便番号を付して南方町を159個の番号で区分けしています。oki さんはその159個を大字数と数えておられるようですが本当の大字数は0です。同じように刈田郡七ヶ宿町も小字ごとに105個の郵便番号が設定してあって大字はありません。気仙沼市本吉町も104個すべて小字で大字なし。栗原市高清水町も99個すべて小字で大字はありません。こうして数えて行くと宮城県の大字数2848はあり得ない数字になります。これは宮城県に限らず徳島県でも同じだと思います。例えば徳島県吉野川市山川町の区域は121個の郵便番号で区分けされていますが、この121個を大字の数とするのは感覚的に受け入れにくいことです。もともと旧山川町は大字を編成していませんでしたから、合併して吉野川市山川町になった現在も大字なしの小字地帯であることに変わりはないと思うのです。

okiさんがなぜ「大字が分解されてかつての小字が市町村の直下に組み込まれると小字が大字扱いになってしまう」と考えておられるのか不思議でした。この謎を解く鍵は okiさんの故郷にあるのではないかと思い徳島県阿南市に飛んでみました。国土地理院地形図、角川日本地名大辞典、郵便番号簿、マピオン地図、Yahoo!地図の航空写真を用いてのバーチャル旅行です。一夜漬けの勉強ですが少し阿南市のことが解った気がします。そして okiさんの発想の原点らしきものに触れたような気もします。確かに阿南市には大字が分解されて、かつての小字が大字扱いされているような事例がありました。
明治22年、富岡町、石塚村、領家村、覚原村、西路見村、七見村、日開野村、黒津地浦、辰己新田村、原ヶ崎村、豊益村、芥原村の12ヶ町村が合併して富岡町が成立。富岡、石塚、領家、学原、西路見、七見、日開野、黒津地、辰己、原ヶ崎、豊益、芥原の12大字を編成。この地域は現在、富岡町、領家町、学原町、西路見町、七見町、日開野町、黒津地町、辰己町、原ヶ崎町、豊益町、住吉町、向原町、出来町、畭町、福浦町の15大字に変化しています。大字芥原が住吉町に改称。大字富岡が大字石塚を統合。大字西路見が西路見町、向原町、出来町、畭町、福浦町に分解。ざっとこんな流れでしょうか。 大字小字を語る上で少なからず大字西路見の分解がokiさんを左右していたのではないかと想像しています。間違っていたらごめんなさい。
[77407] 2011年 1月 12日(水)12:56:57千本桜 さん
宮城県の国勢調査速報が出ました
宮城県の国勢調査速報が出ました。仙台市が予想を超える頑張りで20,804人の増加。
不景気風が吹く仙南地域の中にあってスーパータウンは201人の増加。敢闘賞!
[77119] 2010年 12月 27日(月)00:33:18千本桜 さん
卯名沢は小字
[77111] k-ace さん
町名・大字名のみを対象とし、小字名は割愛。
気仙沼市本吉町卯名沢

本吉町は大字を編成していませんので、卯名沢は小字として扱うのが妥当かと思われます。当然ですが、近隣の中島下宿今朝磯などもすべて小字で、敢えてそれらを総称する大字相当の地名を挙げるなら小泉(藩政期の小泉村)になります。旧小泉村の中心となる小字は。藩政期の小泉村は明治22年(1889)に他村と合併せずに単独で町村制下の小泉村になりましたから、大字を置く必要がなかったのです。昭和30年に小泉村、津谷村、大谷村が合併して本吉町が成立しましたが、やはり大字は置かずに、自治体名(本吉町)の後ろに直接 小字名を書くことになっています。
[77093] 2010年 12月 23日(木)19:21:14千本桜 さん
引綱から唐琴へ、平から金ヶ瀬へ
[76203] hiroroじゃけぇ さん
落ち着いて書き込みする時間がとれず、ご返事が遅くなって申し訳ありませんでした。
唐琴は明治22年まで存在した引網村のことではないかと推察します。もし、地理範囲に変わりがないなら、今も引綱と呼ばれて良いはずなのに、どうして唐琴に改称したのでしょうか。
という私の問い掛けに
人口が集中する「唐琴」を採用したのではと推測しています。
との回答を頂きましてありがとうございました。私も人口や居住空間(集落)が少なからず作用しているだろうと感じています。そこで、私なりに藩政期の引綱村が現在の倉敷市児島唐琴町に変化する過程を追ってみました。
明治22年、引綱村と田ノ口村が合併して町村制下の田ノ口村が発足。引綱村の区域は田ノ口村大字引綱となる。
明治40年、田ノ口村と鴻村が合併して琴浦村が発足。田ノ口村大字引綱の区域は琴浦村大字引綱となる。
大正4年、琴浦村が町制施行。琴浦村大字引綱の区域は琴浦町大字引綱となる。
昭和31年、琴浦町と児島市が合併して(新)児島市が発足。琴浦町大字引綱の区域は児島市唐琴町となる。
昭和42年、児島市と倉敷市、玉島市が合併して(新)倉敷市が発足。児島市唐琴町の区域は倉敷市児島唐琴町となる。
昭和46年、倉敷市児島唐琴町に住居表示が実施されて倉敷市児島唐琴1~4丁目となる。住居表示が未実施の区域は倉敷市児島唐琴町のまま残留。
昭和31年に大字引網を唐琴町に改称したようですね。ここまでは調べることができたのですが、なぜ引綱ではダメだったのかについては分からずじまいです。実は、宮城県でも昭和31年に大字平(藩政期の平村)が金ヶ瀬という地名に改められています。あまり参考にならないかとは思いますが、平が金ヶ瀬に変化して行く経緯を紹介します。
【第1段階】
寛永14年(1637)、6月23日朝より大雨。24日雨止まず。25日雨止まず。26日洪水。この洪水で刈田郡宮村(現・蔵王町)の金ヶ瀬宿は流出して河原と化した。同じ場所での再建は方策がたたず、領主の片倉重長は伊達藩主に請願して柴田郡平村(現・大河原町)の畑地を拝領し、そこに屋敷割りを実施して、侍1、町足軽27、百姓修験1、百姓16、計45軒を移転させることにしました。
【第2段階】
寛永19年(1642)、金ヶ瀬宿が平村の南西部に移転して宿駅業務を再開する。この時に形成された町並みは、後に増設される金ヶ瀬新町に対して金ヶ瀬本町と呼ばれます。
【第3段階】
享保6年(1721)、金ヶ瀬宿の貨客増加に伴い、平村の村落部に住む農民90軒を強制移住させて金ヶ瀬宿を拡張する。この時に増設された町並みは金ヶ瀬新町と呼ばれます。金ヶ瀬本町と金ヶ瀬新町は途切れのない一連の町並みになっていて、安永風土記には、本町 長サ三丁拾弍間 家数四十五軒。新町 長サ八丁 家数九十三軒と書いてあります。この時点で平村の村落部に住む住民と金ヶ瀬町場に住む住民の比率が完全逆転しましたから、平とは金ヶ瀬のことという感覚が生まれ始めてもおかしくないと思います。対外的な知名度は、地籍上の村名「平」よりも町場名「金ヶ瀬」の方が勝ってしまったのではないかと想像します。
【第4段階】
明治22年(1889)、平村、堤村新寺村が合併。平村の町場名をもって金ヶ瀬村になりました。旧3村は、平村が金ヶ瀬村大字平、堤村が金ヶ瀬村大字堤、新寺村が金ヶ瀬村大字新寺となりました。
【第5段階】
昭和31年(1956)、金ヶ瀬村は大河原町に合併。村内の旧3大字は、大字平が大河原町金ヶ瀬、大字堤が大河原町堤、大字新寺が大河原町新寺となりました。この段階で大字平(藩政期の平村)は金ヶ瀬という名に置き換えられて消滅しました。
こうしてみると、平は金ヶ瀬に庇を貸して母屋を取られた格好ですが、私としてはあまり抵抗感がないんですよね。リアルタイムのできごとではなく、昔のできごとだからというのも少しはあります。しかし、何よりも大きいのは、へんちくりんな大字のエリア変更がなかったこと。過去の歴史が見えなくなるような大字の領域変更がなかったこと。天保郷帳や安永風土記などの古い書物に書かれている「平村」をそっくりそのまま「金ヶ瀬」に置き換えれば意味が通じる状態に保たれたこと。それが一番の理由です。大字の変更で私が一番恐れるのは、無感心なるが故に安易な領域変更に走る行政による歴史破壊です。これがリアルタイムで目の前で行われたなら、たまったもんじゃありません。
[77083] 2010年 12月 22日(水)19:38:07千本桜 さん
市区町村変遷情報および『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』
[76590]88 さん
静岡県(336件)、長野県(391件)の計1,257件(いずれも町村のみ)の一括登録をしていただきました。
いつも感謝しながら市区町村変遷情報を利用させていただいております。ところで、市制町村制施行時の情報の静岡県ですが、「市制町村制施行前の町村名等」を記載する欄に「施行後の町村名」が掲載されているようです。88さんが間違う筈はないという前提で見ていますから、もしかして私の方が見方を誤っているのかな?と少々頭が混乱していますが、念のため御確認おねがいします。

[76822]YT さん
『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』 東北編
天保郷帳では陸前国栗原郡92村ですが、旧高旧領取調帳では1つ増えて93村になっています。どうしてかなと調べたところ、明治4年(1871)に真坂村から北沢村が分村したことによる増加のようですね。北沢村は江戸期の昔より独立した1個の自治村だと思い込んでいましたが、YTさんの『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』の村数比較を見て、勘違いしていたことに気がつきました。ありがとうございました。ところで、旧高旧領取調帳では羽前国置賜郡292村2町となっていますが、その2町がどこなのか、御存知でしたなら教えて頂けないでしょうか。
[77082] 2010年 12月 22日(水)19:26:40千本桜 さん
鈍感都市
[76095] 白桃 さん
その市の郊外?にあるバス停に到着
そのバス停は大内バスストップのことだと推察しますが、そこで下車した人の数が気になりました。そして仮に、利用客が少ないことを理由にバス会社が大内バスストップへの停車をやめると通告してきたなら、東かがわ市の行政や住民はどんな行動に出るのだろうと考えてしまいました。A・バス会社に停車継続を働きかける。B・行政も住民も無関心のままやりすごす。さあ、東かがわ市はA・Bどちらをとるでしょう。
こんなことを書きますのも、昨年2月から岩沼、大河原、白石に東京行き夜行バスが停車しなくなり、宮城県南部は長距離バスの空白地帯になってしまったからです。私は訳あって大河原、白石両バス停の乗客数を時折チェックしていましたが、乗車する人が非常に少なく、バス会社が停留所を廃止したくなるのも分からないわけではありませんでした。しかし、地域には地域の側の論理があって当然で、東京行きのバスは地域にとって必要、交通機関は都市戦略に欠かせないアイテム、だから通過措置は回避して欲しいと、ダメもと承知で行政が声をあげるのを期待していましたが、その声も聞かれないまま実質バス停廃止に至りました。こうして大河原は東京と直結する交通手段を失ったのですが、それでも平然としていられるのは都市として鈍感すぎ。なにしろ、18万人圏域の中心地としての役目を背負っているのですから、もっと敏感にならなくちゃと思うのです。
そこで、国の出先機関配置から見た東北地方の拠点都市を書き出します。対象となる役所は「地方裁判所またはその支部」、「法務局またはその支局」、「国税局の税務署」の3つに絞ります。東北地方の都市で3機関がすべて設置されているのは青森、五所川原、弘前、十和田、八戸、盛岡、二戸、宮古、花巻、水沢、一関、仙台、気仙沼、石巻、古川、大河原、秋田、大館、能代、本荘、大曲、横手、山形、酒田、鶴岡、新庄、米沢、福島、会津若松、郡山、白河、相馬、いわきの32市1町です。平成の大合併後の自治体にまだ馴染めないので、合併前の自治体を念頭に置いて書きました。このそうそうたるメンバーの中に名を連ねながら、東京との直結交通手段もなければホテルもない大河原町って、やっぱり異色ですね。
[76288] 2010年 10月 2日(土)08:19:57千本桜 さん
児島、日比、水城の御礼
[76203] hiroroじゃけぇさん
[76204] かぱぷうさん
[76205] 中島悟さん
[76263] hiroroじゃけぇさん
私の疑問にお応え下さいましてありがとうございました。拝読いたしましたのに、御礼の書込みが遅れて申し訳なく思っております。実は[76196]を書込んだ後に、敬老会、同級会などの準備や種々の会合が重なって舞い込み、落ち着いて書込みをする時間がとれない状態に陥っておりました。この後も、村の鎮守の秋祭りやカラオケフェステバルに追われますが、それらが終われば書込み可能な状態に戻れると思います。塩生・通生・宇野津をまとめて本荘と呼ぶ習慣はないのだろうか?など、お尋ねしたい事はまだまだあるのですが、取り敢えず御礼まで。
[76196] 2010年 9月 16日(木)08:22:18千本桜 さん
児島、玉野市日比、太宰府市水城
[59333] hiroroじゃけぇ さん
地元における一般的な区分は、
児島(味野・小川・琴浦・田ノ口・唐琴・赤崎・由加をまとめて)
下津井
塩生(しおなす)・通生(かよう)(リンク先は塩生)
郷内
と分かれています。自治体の変遷とは必ずしも一致していませんので分かりづらいでしょう。大まかに言えば、山に囲まれ東側または南側が海の地域が児島、それ以外は別々と言うことです。
児島に関して幾つかお尋ねします。
1・公的な行政区分ではなく、世間の一般的な人々の地理意識を知りたいので教えてください。琴浦から少し離れた地域の人々、例えば下津井や日比の人は琴浦の地理範囲をどのように捉えているのでしょう。A・下の町・上の町の区域を琴浦と呼んでいる。B・下の町・上の町・田ノ口・唐琴・由加・白尾の全域を琴浦と呼んでいる。捉え方は世代によって違いがあるかもしれません。そこで、1つはhiroroじゃけぇさん世代の感覚で捉えた琴浦。もう1つは70才以上の高齢者の感覚で捉えた琴浦。二者の立場からの琴浦を解説いただけたなら幸いです。
2・唐琴は明治22年まで存在した引網村のことではないかと推察します。もし、地理範囲に変わりがないなら、今も引綱と呼ばれて良いはずなのに、どうして唐琴に改称したのでしょうか。
3・塩生(しおなす)・通生(かよう)で1つの区域とした場合、宇野津はどこへ行ってしまうのでしょう。塩生に含まれるのでしょうか。
4・次に、現在の公的な住所地名の話に移ります。旧児島市の区域では、大字に相当する町丁名のほとんどが児島を冠して倉敷市児島○○と表記するのに、郷内村、下津井町および味野町の菰池だけは児島を冠称しません。何故でしょうか。後に児島市に編入された郷内村の区域が児島を冠称しないのは理解できますが、児島市発足当初から児島市に組込まれていた下津井町と味野町の菰池地区が児島を冠しない理由がわかりません。児島を冠せず、いきなり倉敷市下津井、倉敷市菰池になるのが不可解なのです。赤崎が倉敷市児島赤崎ですから、菰池は倉敷市児島菰池になるのが一般的だと思うのですが・・・。
5・さらに不可解なのは下津井の大畠です。明治22年以前、下津井町の区域は下津井村、吹上村、田ノ浦村、大畠村に分かれていました。現在の住所表記は、下津井村の区域が倉敷市下津井、吹上村の区域が倉敷市下津井吹上、田ノ浦村の区域が倉敷市下津井田ノ浦なのに、大畠村の区域は下津井を付さずに倉敷市大畠です。大畠村の区域が児島も下津井も冠称しないのはなぜでしょうか。

玉野市やその周辺に住む世間の人は、日比の地理範囲をどのように捉えているのでしょう。
A・日比という地名を耳にすると、藩政期の日比村に相当する区域を思い浮かべる。
B・日比という地名を耳にすると、日比に渋川和田を加えた区域を思い浮かべる。
C・日比という地名を耳にすると、日比、渋川、和田にを加えた区域を思い浮かべる。
私の関心は、今も日比という地名が玉を包含する力を持っているかどうかにあります。

かぱぷうさんへ
太宰府市近隣、例えば筑紫野市や大野城市の人たちは、水城という地名が及ぶ地理範囲をどのように捉えているか知りたいので教えてください。
1・太宰府市水城あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、と言い習わしている。
2・太宰府市坂本あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、C・坂本へ行くと言い習わしている。
3・太宰府市通古賀あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、C・通古賀へ行くと言い習わしている。

明治22年、藩政期の水城村, 国分村, 坂本村, 観世音寺村, 通古賀村, 片野村, 吉松村, 向佐野村, 大佐野村の9村が合併して町村制下の水城村が誕生しました。これら旧9村は水城村の大字に引継がれ、後に太宰府町の時代を経て、太宰府市の大字・町丁名に継承されています。ところが、旧9村のうち片岡村の名称だけは現在の太宰府市の住所地名に見当たりません。ここから先は推測で書きますが、大字片岡(旧片岡村)は住居表示が実施されて朱雀○丁目になり、住所地名としては消滅してしまったのでしょう。私の関心は、この片岡という地名が世間の人に今も使われているかどうかにあります。かぱぷうさんは片岡という地名を口にしたり耳にしたことはありませんか。もし、かぱぷうさん世代になじみのない地名だとしても、住居表示が実施される以前に物心がついていた人たちは今も片岡という地名を使っているかもしれません。高齢者が片岡を口にしているのを耳にしたことはありませんか。
[75500] 2010年 7月 19日(月)18:13:52千本桜 さん
田老森崎
[75493] 2010 年 7 月 17 日 (土) 22:55:15 しんちゃん さん
岩手県宮古市田老森崎(郵便番号0270354)という所があります。しかし地図検索しても指示点はありますが、どの地図にも字名が書かれていません。どんな所なんですか。

宮古市田老森崎の名称と字界はちず丸で確認できます。ただし、字界の精度は保証できません。マピオンで田老森崎43番地を検索するとこの場所が表示されますが、ちず丸は そこを田老末前の領域にしています。どちらかがズレているわけですが、この場合に限って判断するなら、ちず丸の字界線がズレている可能性が高いと思います。また、ちず丸やマピオンの他に国土地理院ウォッちず2万5千分の1地形図併用をおすすめします。2万5千分の1地形図には森崎の表記がなく、字界も表示されていませんが、地形や集落への想像をかきたててくれます。

森崎は町村制が敷かれる明治22年以前は末前村の字(あざ)でした。角川地名大辞典によると、末前村の字(あざ)は七滝・青倉・立腰・日影山・森崎・末前・和山・鈴子沢の8字です。ただし、日影山は現在、日影と呼ばれているようです。ちず丸は この8字名を全部表示していまが、ウォッちず2万5千分の1地形図は森崎・日影・和山の3字名を表記していません。2万5千分の1地形図の集落名表記は、地籍の上で存在するかどうかではなく、地図の上で集落としての図形が確認できるかどうかで決まります。ですから、家屋が存在しない字(あざ)の名称は表記されず、家屋が少ない字(あざ)も名称表記がされないことがあります。また、ひとかたまりの集落に見えても、複数の字(あざ)に跨がっているものが多々あります。この場合、すべての字名を表記すると繁雑になり、等高線・河川・道路・家屋・植生などの表示に悪影響をおよぼすので、代表的または総称的な地名のみを表記し、他は省略します。

森崎が2万5千分の1地形図に表記されなかった理由は、家屋が少ないことに加え、中心集落の末前と ひとかたまりの集落とみなされ、省略されたからではないかと思います。世に出回っている多くの地図は、国土地理院の地図を基にして作られています。地理院2万5千分の1地形図に記載されない地名は、他の地図にも記載されないことが多くなります。森崎もその例でしょう。

末前村の字だった森崎は明治22年、末前・田老・乙部・摂待の4村合併で田老村(後に田老町となる)が成立すると、田老村大字末前の小字になりました。住所は昭和59年まで田老町大字末前第5地割字森崎○○番地と表記していたようです。昭和59年に字(あざ)の名称変更があり、大字末前第5地割の字句を外して田老町字森崎になりました。この名称変更に関する資料が見つかりましたので貼っておきます。その後、平成17年に田老町は宮古市・新里村と合併し、田老町字森崎は宮古市田老森崎となって現在に至っています。
[75490] 2010年 7月 17日(土)17:05:46千本桜 さん
間違い探し
[75488] 白桃 さん
東かがわ市の合併等の経過図ですが、一部が間違っていますね。
横レスをお許しください。福栄村を構成する入野山村が記載もれですね。

三本松高校の同級生だった市長に言っとこう・・・
この系統図を東かがわ市の市長に見せて、間違い探しをしてもらいましょう。ヒントなしで一瞬に間違いを探し当てたら、頭をなでなでしてあげて下さい。そのとき、ついでに次のことを市長に質問して下さい。
「中筋地区と三本松地区の家並は連続状態ですから、中筋○○番地を三本松○○番地に改めましょうよ。中筋なんて田舎臭い大字名を捨て、都会的な三本松を名乗らせてやれば住民は喜びますからね」。これに対して「いいアイディアだ!」などと乗って来たなら、頭をゴッツンしてやりましょう。藩政村が大字として継承されてきた歴史の重みを認識させましょう。
東北地方の某町では、住所政策担当者にこの認識が足りません。藩政村とか大字の歴史を知っている住民はいないから、大字の名称や領域を変更しても良いのだそうです。変な理屈ですね。
[75322] 2010年 6月 8日(火)22:02:35千本桜 さん
サントス生まれの編集者が選ぶ福岡県の三都市
茨城県:水戸、土浦、日立
(たとえ時代遅れといわれても、まだ この3都市に執着します。“つくば”をいまいち理解できていないからかな)
埼玉県:さいたま、熊谷、川越
(さいたまは浦和それとも大宮?、それが第3位選びに少し影響しますが、川越が伝統の重みで所沢を押し倒し)
千葉県:千葉、銚子、館山
(千葉県の形状を思うと銚子、館山を配置したときが最も安定感を感じます。柏、船橋ごめんなさい)
新潟県:新潟、長岡、上越
(第2位長岡、第3位上越、ともに順当かと思います)
岐阜県:岐阜、高山、大垣
(第2位は岐阜の勢力が及ばない高山。第3位は大垣と多治見が決戦して大垣に)
静岡県:静岡、浜松、沼津
(沈丁花は枯れても香しという諺は沼津のためにあるような)
愛知県:名古屋、豊橋、岡崎
(第2位はすんなり豊橋に決定。第3位は岡崎と豊田が決戦の末に岡崎の判定勝ち)
兵庫県:神戸、姫路、豊岡
(第2位は迷わず姫路。第3位は独自の都市圏を形成し小粒でもピリリと辛い豊岡。尼崎、西宮ごめんなさい)
福岡県:福岡、北九州、久留米
(サントス生まれでトスマニア島育ちの編集員は福岡、北九州、鳥栖を選びました。いくらトスマニアでも、やりすぎでしょう。でも鳥栖は福岡県三都市の一つに選ばれて喜んだそうです。唐津は福岡県三都市から漏れてがっかり。佐賀県って・・・)
[75311] 2010年 6月 7日(月)08:35:41千本桜 さん
Re:県下三都市決定戦
[75271]で書いた
広島県には3つの都市を記載して広島県であることを伝えようとしています。広島、福山、もう1つはどこでしょう。
答えは廿日市でした。

[75306] 白桃 さん
以下の9県で3つの都市をお選びください。
時間がないので取り敢えず、番外・大阪府の「酒の肴編」です。
市りとりマニアの編集者は大阪府の地図に大阪、門真、松原の3都市を表記しました。これにクレームをつけたのは先輩編集者でした。3都市が近くに固まりすぎているというのです。そこで先輩編集者は手本を示しました。いいか、よく見ておけ。大阪府全体を見渡して摂津、和泉、河内の3国にそれぞれ1都市ずつ配置するのがベストなんだ。そして大阪、貝塚、河内長野を選びました。どうやら、この先輩も市りとりマニアだったみたいですね。こんな末期症状の地図編集現場を見て、堺、岸和田、高槻、枚方の面々は、あまりのばかばかしさに第2都市、第3都市に立候補するのをやめたそうです。
[75271] 2010年 6月 4日(金)20:57:10千本桜 さん
Re:イバラキの市に突っ込みを入れてみる
[75263] 白桃 さん
孤軍奮闘しているようなので援軍参加します。さっき、本屋で立ち読みしたプレジデント別冊、なかなか面白かったです。内容が「出世・結婚・お金は県民性で9割決まる」とかで、各県ごとに、ものすごく簡単な地図が載っているわけです。どんな地図かというと、県の輪郭と主要都市が3つ4つ載っているだけで、他の情報は一切なし。たぶん、こういう簡略な地図を真剣に見る人は少ないと思うのですが、主要都市の選択が実に面白い。たとえば、鳥取県は県の輪郭の中に鳥取、米子、倉吉の3都市をプロットして鳥取県であることを表しています。これは順当な選択ですね。山形県は山形、酒田、米沢を選択。3都市だけで山形県を伝えるなら、これも順当。新潟県にも3都市がプロットされています。新潟、長岡とくれば残り1つはあの都市だと思うでしょう。ところが、あの都市ではなく糸魚川を選択しています。なんでやねん。宮崎県も延岡を外して、宮崎、都城、日向を記載。肩透かしを喰らいました。福島県には4都市をプロット。福島、郡山、いわき、そして喜多方!。なんで喜多方?。会津若松が怒るで。ここでクイズです。広島県には3つの都市を記載して広島県であることを伝えようとしています。広島、福山、もう1つはどこでしょう。思わず、うにゃ~とするような都市が選択されています。
では本題の茨城県に突っ込みます。こういう簡略な地図の場合、水戸、土浦、日立の3都市を記載すれば済むだろうと考えるのは、どうやら時代遅れの男たちの感覚みたいです。この地図では水戸、日立、つくば、取手を選択し、土浦を外しています。つくばが土浦に取って代わる。これも時代の流れかなと納得しようと努力してはいるのですが、どうにも納得できないのは、つくばに県都のマークが付され、水戸はその他の一般都市と同じマークで扱われていることです。関東あたりでは水戸って、そんなに影が薄いんでしょうか。(笑)
[75252] 2010年 6月 3日(木)22:49:15【1】千本桜 さん
東北地方の自治体を越える地名
青森県上北郡六戸町大字犬落瀬/青森県三沢市大字犬落瀬
青森県三戸郡五戸町大字上市川/青森県八戸市大字市川町
岩手県花巻市成田/岩手県北上市成田
宮城県大崎市田尻北小牛田/宮城県美里町南小牛田
宮城県大崎市鹿島台木間塚/宮城県遠田郡美里町木間塚
宮城県黒川郡富谷町明石台○丁目/宮城県仙台市泉区明石南○丁目
宮城県黒川郡富谷町東向陽台○丁目/宮城県仙台市泉区向陽台○丁目
宮城県仙台市泉区南中山○丁目/宮城県仙台市青葉区中山○丁目
宮城県仙台市青葉区小田原○丁目/宮城県仙台市宮城野区小田原○丁目
宮城県仙台市青葉区花京院○丁目/宮城県仙台市宮城野区花京院通
宮城県仙台市青葉区五橋○丁目/宮城県仙台市若林区五橋○丁目
宮城県仙台市青葉区土樋一丁目/宮城県仙台市若林区土樋一丁目
宮城県仙台市青葉区茂庭/宮城県仙台市太白区茂庭
宮城県仙台市若林区四郎丸/宮城県仙台市太白区四郎丸
秋田県仙北郡美郷町金沢/秋田県横手市金沢・金沢本町・金沢中野
山形県新庄市大字本合海/山形県最上郡大蔵村大字合海
山形県尾花沢市大字五十沢/山形県村山市大字五十沢
福島県伊達郡国見町大字西大枝/福島県伊達市梁川町東大枝
福島県福島市松川町下川崎/福島県二本松市下川崎
福島県田村郡三春町大字南成田/福島県田村市船引町成田
福島県双葉郡大熊町大字小良浜/福島県双葉郡富岡町大字小良ケ浜

秋田県の美里町を美郷町に訂正。
[75196] 2010年 5月 27日(木)20:43:27千本桜 さん
市場統合
河北新報の報道によると、今年9月ごろをめどに大河原町地方卸売市場、白石市地方卸売市場、角田市地方卸売市場の3市場が統合。白石市、角田市の市場を閉鎖し、大河原町の市場に機能を集約するとのことです。またしても市町逆転。市の都市機能が町に引き寄せられる不思議な地域の、地味なローカルニュースでした。
[75176] 2010年 5月 23日(日)08:07:24千本桜 さん
♪ウミはステキだな~
大磯がハズレだとすると、あとはアソコしかないと思うのですが、人口資料を持ち合わせていないので確認できません。そこで推測ですが、1920年当時に人口1万超の町になっていた要因は炭坑にあり、1960年当時2万人超の町になっていた要因は母都市Fの膨張によるベッドタウン化にあると考えてよろしいでしょうか。すると答えはウミ。
[75169] 2010年 5月 22日(土)20:59:20千本桜 さん
大忙し
[75167] 白桃 さん
これの正解はもちろん音更町なんですが、実は、全国でいうと、もうひとつだけあるのです。
昭和35年には既に人口集中地区を形成していた あの町だと思いますが確認できません。なぜなら、私はいま大忙しだから。
[75156] 2010年 5月 22日(土)02:38:17千本桜 さん
四国旅行
[74078]で書いた四国旅行の件、先週実行して参りました。個人の自由が利かない団体旅行でしたが、晴天に恵まれ、穏やかな瀬戸内の風景を久しぶりに眺めることができました。伊丹空港を出発したバスは中国池田IC→(中国自動車道経由)→神戸JCT→(山陽自動車道経由)→神戸西IC→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路ICのルートを走行して淡路夢舞台へ。夢舞台を全部見るには3時間ほど欲しいのですが、許された滞在時間は40分だけ。我が家のジギタリスやラベンダーはまだ蕾さえ付けていないのに、淡路島では もう咲いているのですね。広い園内の一画だけを見て回り、昼食のため旧東浦町の海鮮料理屋へ急ぎました。このあたりは40年ほど前に自転車で走り抜けていますから、久しぶりの再訪問になります。

昼食後は淡路島の北辺をなぞるように岩屋経由で海辺の道を走り、研修先の旧北淡町のとある施設へ向かいました。研修終了後は北淡ICから鳴門北ICまで神戸淡路鳴門自動車道を走行して大鳴門橋架橋記念館へ。記念館の展望台から眺める風景は明るい日差しを浴びて美しく、海上遊歩道「渦の道」のガラス床から覗き込んだ海もスリルがあって良かったです。この日の宿は大毛島にある大きなリゾートホテル。阿波踊りのショーを見ながらの宴会でした。

翌日は7時30分にホテルを出発。バスガイド嬢によると徳島県には市が4つあるそうな・・・。「徳島市、鳴門市、阿南市、えーと、あと1つは、小松島市ですね。」と言っていました。バスは神戸淡路鳴門自動車道、高松自動車道、徳島自動車道を乗り継ぎ、8時30分には美馬市の脇町に到着しました。平日の朝、まだ観光客がいない静かなうだつの町並みを目にして、私は正直舞い上がりました。宮城県では こんな素晴らしい町並みを見ることができません。でも、脇町観光に割り振られた時間はたった30分。ガイド嬢は300mほど先を指し、「あそこまで行ったら戻って来て下さい」と案内していましたが、それを無視して500m先の脇町劇場オデオン座、そして中心街の県道12号沿線商店街を見て回りました。

脇町観光の次は金比羅参りです。金刀比羅宮へは脇町→(県道12号を西へ走行)→美馬町→(国道438号経由)→琴平のルートで行きました。国道438号を進むにつれて高度が上がり、眼下に吉野川流域の風景が広がって、遠くに貞光の町が見えました。琴平の滞在予定は昼食を含めて2時間弱ですからハードスケジュールです。本宮まで登るのを諦めて途中で引き返し、参道新町商店街JR琴平駅琴電琴平駅神明町商店街→参道の順で町歩きをしました。琴平は町なのに田舎の市より都会的。昔も今もスーパータウンです。参道の食堂で早めの昼食を済ませ、松山へ向って出発。善通寺ICから先は松山自動車道を ひた走るだけなのでガイド嬢も一休み。車内はお昼寝タイムに入って静かになりました。

午後2時に松山のとある施設に到着。そこで研修交流会を済ませて子規堂へ。再びガイド嬢の出番到来です。ガイド嬢によると松山市は人口46万、四国一の大きな都会だそうな・・・。人口にうるさい人がいなかったのはガイド嬢にとって幸いでした。みんなの関心は人口よりも土産品選びにあるようです。個人的には中心商店街の銀天街と大街道を歩きたかったのですが願いは叶わず、バスは子規堂から市役所、県庁、三越前を通過して松山城ロープウェイのりばへ移動。松山は2度目ですが、松山城に登るのは初めてです。天守閣から見渡す市街地の規模は、宇都宮と同じ程度かなと感じました。ロープウエイの下り最終運行が午後5時ということで、早めに下山して道後温泉に向かいました。

その夜の宿は温泉街のどまんなか、あの有名な道後温泉本館の近くでした。平日なのに道後温泉本館の周りは観光客で賑わっていました。こんなふうに賑わっている温泉街を見るのは、3年前に見た草津温泉以来のことです。この道後温泉と宮城県の秋保温泉は年間宿泊客数がほぼ同数ですが、景観は道後の方がずっと大きな温泉場に見えます。秋保は施設が充実した大規模旅館が多く、遊びも買物も旅館内で済ませてしまうので温泉街が育たないようです。秋保って、そんなに大規模旅館が多いのか?と訝る方のために、秋保と道後の旅館規模を比較をしてみます。宿泊収容人数100人以上の旅館を対象に規模別分布を調べると次のようになります。
宿泊収容人数秋保温泉道後温泉
900人以上2軒0軒
700~899人3軒1軒
500~699人1軒1軒
300~499人3軒9軒
100~299人4軒6軒
宿泊した旅館は道後温泉の中でもハイクラスの旅館でしたが、秋保温泉の大規模旅館に慣れてしまった身には少々物足りなさを感じました。私はこれを秋保症候群と呼んでいます。旅館の中に各種施設が整っていないと、どのようにして時間を過ごせば良いのか分からなくなる症候群です。たぶん、仙台周辺には秋保症候群に陥っている人が他にもいると思います。

翌朝は5時に起きて温泉街を散歩しました。道後温泉駅前のからくり時計を眺めていると、「昨夜は明かりがついて綺麗でしたよ」と背後から声をかけられてびっくり。ふりむくと左手にお酒、右手にカップラーメンを持ったホームレスのおじさんが優しい まなざしで こっちを見ています。おじさんは一定の土地にとどまっていられない病気なのだそうです。ひとつ どうです、と酒をすすめられましたが遠慮しました。7年前に隅田川の川べりで博識なホームレス氏にビールを御馳走になりましたが、今度のホームレス氏もなかなかで、「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の・・・・」と茂吉の歌を投げてくるではありませんか。それならこっちも茂吉でと、道後温泉宝厳寺の歌碑に刻まれた「あかあかと一本の道通りたり・・・・」を返しました。ホームレス氏との不思議な時間が流れます。聞けば、望まれずに生まれてきた身とか。でも、そんな優しい目をして身の上話をするのは良くないよ。つい、ほろりとするじゃないか。コンビニで牛乳を買った時の釣銭を、そっとホームレス氏の手に渡しました。

朝食をすませて8時に旅館を出発。石手寺に向かいました。実は、今度の旅行まで石手寺の存在を知りませんでした。想像以上に大きな寺で、朝から観光客やお遍路さんで賑わっていました。ガイド嬢の説明によると、四国八十八ヶ所めぐりの中で一番に参拝客が多い寺だそうです。でも、先を急ぐ旅なので滞在時間は30分だけでした。バスは国道317号を走行して今治へ。そして、しまなみ海道に入ります。来島海峡大橋から今治市街を遠望すると、1棟だけ周囲の建物より突き出た高層ビルが見えました。あれが有名な今治国際ホテルなのだろうか?。絶好の行楽日和のなか、大島、伯方島、大三島と進んで愛媛県とはお別れです。

多々羅大橋を渡って広島県に入りました。しまなみ海道を生口島南ICで下りて一般道へ。生口島の南海岸を回って耕三寺に向かいました。サンセットビーチあたりで、「あれが因島です」とガイド嬢。え!、それはあり得ない。あれは三原市の海岸のはず。でも、それは観光旅行にとってたいした問題ではないのでしょう。バスはちゃんと予定どおり耕三寺に着いたのですから。耕三寺の評価は分かれますね。同行者の話を聞くと、石手寺にはまたいつか来てみたいが耕三寺はもういいだろうという人もいて。瀬戸田の食事処で昼食とお買物です。2泊3日の旅もここが最後の立寄り場所とあって、みんなお土産を買い込んでいました。因島、向島と進んで新尾道大橋にさしかかりました。そこから尾道の美しい風景を眺めることができました。でも不思議です。風景に色がないのです。千光寺山も向島も町並みも、そして青いはずの海までもが水墨画のように白黒です。しかも、反射して光っています。力強いタッチで描かれた水墨画のような尾道。あれは太陽光線のいたずらか、それとも幻影か。新尾道大橋を渡るほんの一瞬ですが、絵になる構図の尾道の美しい風景を見ることができたのは幸いでした。

尾道からは山陽自動車道を走って伊丹空港へ。ハードスケジュールな旅でしたが無事帰宅できました。なお、文中ではバスガイド嬢と書きましたが、本当は“嬢”と言ったら失礼なくらい人生を積み重ねた大ベテランガイドさんでした。ガイドさんは3つ間違いました。徳島県の市数、松山市の人口、三原と因島の取り違えです。でも、それを補って余ある巧みな話術と心配り。素晴らしかったです。あのガイドさんが落書き帳を見ているとは思えませんが、この場を借りて御礼申し上げます。
[74447] 2010年 3月 26日(金)20:44:03千本桜 さん
石巻
[74412] 牛山牛太郎 さん
お久しぶりです。
3月8日には石巻市の市役所が移転を開始し、22日に完了しました。
移転した石巻市役所は雰囲気が良さそうですね。某町の町役場のように、外壁の色が暗くて いかにも役所らしい造りだと訪庁するのも気が重くなります。その点、元デパートの建物を利用した石巻市役所は外観がピンク系、1階がスーパー、6階まで全階エスカレーターあり、映画館だったスペースが議場という変わりものですが、気軽に立寄れそうで好感が持てそうです。ただ、気になったのは駐車場の料金です。大河原駅前ビルの駐車場は60分未満が無料で以降1時間ごとに100円ですが、石巻駅前の市役所駐車場は60分未満が無料で以降30分ごとに150円です。30分ごとに150円は大河原の3倍、仙台市役所の二日町駐車場の1.5倍です。石巻の地価の安さを思えば少し料金が高すぎるように感じます。ちなみに石巻市役所前の路線価は、高知県いの町の中心街から離れた山の際を走る町道と同額の1平米50,000円です。いの町の路線価が高すぎるのか、それとも石巻の路線価が低すぎるのか・・・どっちもみたいですね。そんな訳でまたまた懲りもせずに路線価の話に入ります。路線価は都市の規模を評価したものではないことを承知の上で、都市規模と路線価を照合しながら そのギャップを楽しんでいるわけですから、地価関係者の皆さんは気になさらないでください。

[74322]では釧路・石巻・滝川と徳島県諸都市の路線価を比較しましたが、今回は石巻に焦点を絞ってみます。石巻の中心街を歩いていると岩手県の一関や水沢とそれほど変わらない規模に見えたりしますが、実際の規模は見た目より もっと大きな都市だと思います。そこで、石巻と同じような規模の市を選出し、それらの市との比較を通じて石巻の路線価を考えてみることにします。石巻は都市圏人口221,282人、市域人口161,192人、DID人口97,637人で、市域人口は減少しています。それを踏まえて下記の条件に当てはまる市を類似規模の市とします。
条件1・都市圏人口が15万から25万人(2005年都市雇用圏)
条件2・市域人口が10万から20万人(2009年10月1日推計)
条件3・DID人口が5万から15万人(2005年国勢調査)
条件4・人口増加率がマイナス数値(2005年国勢調査と2009年10月1日推計の市域人口比)
以上の4条件をクリアした市を「類似規模の市」とします。これに該当するのは、鳥取会津若松宇部都城米子大牟田三条石巻伊勢桐生今治酒田岩国鶴岡八代の15市です。ただし、特例として次の市を加えたいと思います。条件1の「都市圏人口」が規定の15万人に満たないものの、条件2、条件3および条件4をクリアした延岡北見新居浜。条件3の「DID人口」が規定の5万人に満たないものの、条件1、条件2および条件4をクリアした飯塚上田の5市です。これで類似規模の市は20市になりました。以上の20市については、最高路線価の位置をセンターにして航空写真をリンクしています。最高路線価は各市とも概ね中心街に位置していますが、伊勢と三条だけは異色です。伊勢の最高路線価は中心街の伊勢市駅周辺ではなく、町並みの どん詰まり伊勢神宮内宮の入口付近。三条の最高路線価は中心街の本町ではなく、新興の燕三条駅前にあります。また、心情的には苫小牧、室蘭、小山、足利、太田、上越、松阪、尾道、山口も類似規模の市とみなしたいのですが、条件に合致しない点があるので外します。では、類似規模20市の都市圏人口(2005年都市雇用圏)、市域人口(2009年10月1日推計)、DID人口(2005年国勢調査)、人口増加率(2005年国勢調査に対する2009年10月1日推計市域人口)、製造品出荷額(2006年)、|卸売販売額(2007年)、小売販売額(2007年)、人口比小売額(小売販売額を市域人口で除した数値)を表形式にまとめてみます。表作成の都合で会津若松を「若松」と表記します。

順位都市圏人口市域人口DID人口人口増加率製造品出荷額卸売販売額小売販売額人口比小売額
(万人)(万人)(万人)(%)(百億円)(百億円)(百億円)(万円)
1位鳥取 25鳥取 20大牟田 10米子 -1.0今治 73北見 38鳥取 22北見 136
2位若松 25宇部 17石巻 10新居浜 -1.0新居浜 69三条 34米子 19米子 129
3位宇部 25今治 17若松 9都城 -1.4上田 59今治 32都城 19若松 127
4位都城 24都城 17延岡 9飯塚 -1.6鳥取 57宇部 29石巻 18伊勢 121
5位米子 24石巻 16北見 9鳥取 -1.7宇部 54鳥取 29上田 18上田 115
6位大牟田 23上田 16鳥取 8伊勢 -2.0石巻 35上田 28宇部 17石巻 115
7位三条 23米子 15桐生 8上田 -2.3伊勢 34米子 25北見 17飯塚 114
8位上田 22岩国 14新居浜 8三条 -2.5若松 33酒田 20若松 16都城 113
9位石巻 22鶴岡 14宇部 8北見 -2.5三条 31都城 20今治 16鳥取 113
10位飯塚 20八代 13米子 7宇部 -2.6岩国 31石巻 20伊勢 16酒田 111
11位伊勢 18伊勢 13都城 6若松 -2.8延岡 29新居浜 17飯塚 15新居浜 102
12位桐生 18飯塚 13今治 6今治 -3.0都城 29岩国 16岩国 14三条 101
13位今治 17延岡 13岩国 6八代 -3.1大牟田 28若松 15鶴岡 14宇部 100
14位酒田 16若松 13八代 6鶴岡 -3.2鶴岡 28伊勢 15酒田 13岩国 99
15位岩国 15北見 13鶴岡 6延岡 -3.3桐生 27飯塚 13新居浜 12鶴岡 99
16位鶴岡 15大牟田 12酒田 6岩国 -3.4米子 26八代 13大牟田 12大牟田 97
17位八代 15新居浜 12伊勢 5石巻 -3.7八代 24延岡 11八代 12今治 95
18位延岡 14桐生 12三条 5酒田 -4.1酒田 23大牟田 10延岡 12八代 91
19位北見 13酒田 11飯塚 5桐生 -4.5飯塚 18鶴岡 8桐生 10延岡 89
20位新居浜 12三条 10上田 4大牟田 -4.8北見 15桐生 5三条 10桐生 84

石巻は都市圏人口9位、市域人口5位、DID人口2位、製造品出荷額6位、卸売販売額10位、小売販売額4位、人口比小売額6位ですから、都市景観の貧弱さとは裏腹に結構高い位置に付けています。しかし、人口増加率は17位と低迷。さらに、1平米当りの最高路線価は鳥取185千円、岩国185千円、伊勢170千円、米子145千円、上田140千円、今治140千円、宇部115千円、新居浜97千円、三条92千円、延岡91千円、都城90千円、飯塚82千円、会津若松81千円、大牟田73千円、桐生69千円、北見67千円、八代62千円、酒田61千円、石巻54千円、鶴岡53千円の順で、石巻は19番目に低落しています。最高路線価が低いのは人口減少が原因かというと、そうでもなさそうです。もっと大きな要因は商業の郊外立地による中心街の空洞化のようです。石巻は商業の郊外立地が著しい都市で、昭和の終わりごろには中心街の橋通りアイトピア立町大通りが寂びれはじめ、郊外の中里地区が活発な商業地になっていたと記憶しています。あれから20年以上を経た今では、中里地区がさらに郊外の蛇田地区にその座を奪われています。現在、商圏人口36万をかかえる宮城県第2の商都石巻の商業活動は、郊外の蛇田地区に完全移転してしまったようです。蛇田地区は、店鋪面積33,000平米を超すイオンSCや11,000平米超のイトーヨーカドーをはじめ、大型のホームセンター、家電店、ドラッグストア、ファッションショップ、さらには銀行、ホテルなども進出して急激な変ぼうを遂げています。その小売店の合計店鋪面積は十日町、大和高田、日南など人口6万人クラスの1市まるごと分の店鋪面積に匹敵し、愛媛県内子町の小売店全部を束ねて4倍してもまだ足りない面積に達しているだろうと推測されます。これほどの店鋪面積が半径わずか500mの区域に集積しているのですから、さぞ地価は熱く跳ね上がるだろうと思うのですが、なぜか路線価の評価額は冷めていて、内子町の国道から1本裏に入った用水堀とおぼしき水路に沿った小道よりも1,000円安い1平米49,000円ですから驚きです。こんなことを書いてると、路線価図の使用目的を間違えてるぞと叱られそうですが、都市規模を念頭において路線価図を眺めると新鮮な驚きが沢山あって面白いものです。
[74322] 2010年 3月 11日(木)07:52:26【1】千本桜 さん
徳島県諸都市vs釧路・石巻・滝川
平成21年分の路線価を見ていて釧路、石巻、滝川3市の最高路線価が低いと感じました。都市の大きさというか、地域の中で占めている都市としての役割の重さに比して、低いと感じるのです。徳島県の諸都市と対比すると、その低さが明確になります。人口集中地区を形成していない藍住町、石井町、美馬市の一等地より、釧路市の一等地の地価が安いなんて・・・。最高路線価(平成21年分)、DID人口(平成17年国勢調査)、行政人口(平成17年国勢調査)、事業所従業者数(平成18年事業所・企業統計)、年間小売販売額(平成19年)を表形式にまとめました。

都市最高路線価DID人口行政人口事業所従業者数年間小売販売額
徳島県 徳島市440,000円189,975人267,833人139,412人30,177,566万円
徳島県 阿南市94,000円5,604人78,002人31,506人6,529,878万円
徳島県 小松島市89,000円19,296人42,115人15,366人3,792,090万円
徳島県 吉野川市86,000円6,547人45,782人15,303人3,381,167万円
徳島県 藍住町82,000円32,286人10,417人3,954,153万円
徳島県 石井町81,000円26,068人8,755人2,370,478万円
徳島県 鳴門市80,000円21,695人63,200人24,291人4,682,792万円
徳島県 三好市80,000円5,410人34,103人13,070人2,163,911万円
徳島県 北島町79,000円11,866人20,703人8,495人2,811,262万円
徳島県 美馬市76,000円34,565人11,472人2,956,786万円
北海道 釧路市66,000円165,175人190,478人84,024人18,721,195万円
徳島県 松茂町65,000円14,926人8,675人1,766,759万円
宮城県 石巻市54,000円97,637人167,324人71,400人18,484,583万円
北海道 滝川市28,000円33,564人45,562人18,748人5,248,671万円

北海道釧路市の最高路線価・北大通五丁目の北大通りは、人口集中地区を形成しない徳島県美馬市の拝原地区を走る県道と同額の1平米66,000円。
宮城県石巻市の最高路線価・鋳銭場の石巻駅前通りは、徳島県阿南市学原町の国道を逸れて奥まった袋小路と同額の1平米54,000円。
北海道滝川市の最高路線価・本町一丁目の国道451号通りは、徳島県美馬市脇町の農地の中を走る市道より1,000円安い1平米28,000円。

書込み訂正。阿南市大字学原を阿南市学原町に訂正しました。
[74255] 2010年 3月 4日(木)00:14:07千本桜 さん
愛媛県内子町VS北海道釧路市
愛媛県内子町(人口18,546)と、その10倍の人口を持つ北海道釧路市(人口184,492)の路線価を単純比較します。人口は2008年10月1日の推計人口。路線価は平成21年分の評価額です。
内子町で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり79,000円。町外れの農地と家屋が入り混じるこの場所では66,000円です。一方、釧路市で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり66,000円。内子町の町外れと釧路市の中心街が同額とは・・・。

[74252]小松原ラガー さん
この町の中心駅?
その駅は、北島三郎♪「終着駅は始発駅」ですか?
[74203] 2010年 2月 22日(月)20:56:39【1】千本桜 さん
飫肥駅
[74200] Issie さん
もしかしたら酒谷川を渡って飫肥町の領域に乗り入れていたのかもしれません。ただ,今町も本町(飫肥1~10丁目)も川のそばから市街地が密集していそうで,それならどこに突っ込めたのか。
軽便鉄道は昭和6年、吾田村大字星倉から飫肥町大字本町まで400mほど延伸しています。酒谷川を渡ったのですね。でも、どのようなルートで走っていたのかは不明です。 Issieさんがおっしゃるとおり、市街地が密集しているので鉄道を突っ込む余地がなさそうです。また、Yahoo! の地図や写真を見ても、鉄道跡らしき形状が見つかりません。酒谷川に鉄橋を架けたのなら、両岸にルートの痕跡が残っているはずなのに、その痕跡が無いのが不思議です。ここから先は推測で書きます。推測と言っても全くの当てずっぽうではなく、むかし大河原駅前通りを走っていた軽便鉄道を念頭に置いての推測です。思いますに、吾田村星倉の飫肥駅から飫肥町本町の新駅までは、現在の国道222号と同じルートを走っていたのではないか。道路橋の稲荷下橋を利用して酒谷川を渡り、そのまま本町通りの路上に突っ込んだのではないか。400m延伸ですから、新駅の位置は現在の飫肥一丁目と二丁目を区切る本町通りの道ばたではないか。軽便鉄道ですから、道路の上を走れたのではないか。鉄道ルートの痕跡が無いのは、道路上を走っていたからではないか。そのようなことを考えてみました。間違っていなければ良いのですが、また、はらはらドキドキです。推測することを楽しむお遊びですので、間違っていたら笑って許して。

書込み訂正機能を使って書込みです。
直前に今川焼さんからの書込みがありました。軽便鉄道の新駅は本町通りの少し南になるのですね。間違いまして失礼しました。実際のところ、本当は酒谷川をどのようにして渡ったのだろうと気になっていました。大河原の軽便鉄道は道路橋の尾形橋を使って白石川を渡りましたので、「飫肥 稲荷下橋 軽便鉄道」で検索しましたところ、日南の今昔というサイトにヒットしました。これを見ると、稲荷下橋に沿って鉄橋が架けられていたようです。サイト内の昔と今の写真を見比べて思ったのですが、本町通りは拡幅されていますね。昔の家並は残されているのでしょうか。素朴な疑問です。
[74167] 2010年 2月 16日(火)08:22:37千本桜 さん
温泉ランキング。日南市。
宮城県の温泉クイズの答えです。年間宿泊客数50,000人以上のランキングと温泉名は次のとおりです。
順位温泉名平成20年平成15年
1位秋保温泉834,000人996,000人
2位鳴子温泉488,000人390,000人
3位遠刈田温泉346,000人411,000人
4位作並温泉276,000人326,000人
5位南三陸温泉166,000人0人県の資料では志津川湾温泉
6位中山平温泉103,000人141,000人
7位東鳴子温泉85,000人141,000人
40年ほど前の雑誌「旅」の記事を書きとめていたノートを見ると、当時の宮城県では鳴子温泉がトップでした。温泉地の盛衰も浮き沈みが激しいですね。個人的な感想ですが、遠刈田温泉が意外に頑張っていると感じました。また、2年前に松島でも温泉を掘りあてて松島温泉を名乗るようになりましたから、今後の統計には「松島温泉」の名も登場することになるでしょう。

ついでに、40年ほど前の雑誌「旅」に掲載してあった温泉ランキングも書いておきます。日本を東西に分けて相撲番付ふうに書いてありますが、ランキングの上位から下位に向って30位までを羅列します。
【東日本】
熱海、川湯、洞爺湖、鬼怒川、伊東、登別、湯ノ川、中禅寺、修善寺、小涌谷、定山渓、下田、小涌谷、片山津、中山、熱川、飯坂、層雲峡、下呂、宇奈月、日光湯元、東山、西浦、那須、和倉、草津、伊香保、温根湯、浅虫、芦原
【西日本】
雲仙、別府、白浜湯崎、観海寺、指宿、勝浦、霧島、内牧、道後、玉造、城崎、湯田、皆生、有馬、小浜、嬉野、三朝、長門湯本、鳥取、日奈久、湯ノ山、長島、雄琴、牧ノ戸、湯之児、戸下、二日市、鉄輪、宝塚、湯原
西日本のトップは「雲仙」ですが、狭義の別府に観海寺・鉄輪など広義の別府を加えると、やはり西日本最大の温泉地は別府になります。牧ノ戸温泉や戸下温泉のランクインが何とも奇異ですが、真偽のほどは分かりません。

[74142] 伊豆之国 さん
私が初めてみちのくに足を踏み入れた、その思い出の温泉(過去に書き込んでいます)。
みちのく初体験は作並温泉でしたか。私も伊豆之国さんと同じ旅館に泊まっています。また、奈良の今井町に行かれたとか。今井は未訪ですが、歩いてみたい街の一つです。


[74136] 白桃 さん
合併により成立した市の市役所の位置というのも、その後の人口推移に大きな影響を与えるもんですな・・・。
[74137] Issie さん
両者に優劣はつけられず,恐らくは妥協の結果 吾田 に市役所が置かれ

この手の話題に乗りたくなる癖があります。飫肥と油津の人口が減少し、市役所所在地の吾田が一人勝ちしていることをネタに、あれこれ調べながら遊んでみました。

まず最初に飫肥、吾田、油津の境界線チェックです。すると、飫肥駅は飫肥ではなく吾田(大字星倉)にあることが判明。飫肥市街を一歩出れば吾田(大字星倉)の領域です。油津駅周辺にも吾田(大字平野)の領域が伸びていて、油津市街を出るとすぐ吾田(大字平野)になります。どうやら飫肥と油津は領域内に市街地を広げる適地に恵まれていないようです。ことさら面積の狭い油津は既に可住地が満杯状態で、人口増加を望むのは絶望的です。開発余地のある吾田が人口受皿になるのは自然の成り行きだったようです。

油津と吾田の関係はミステリアスで、油津市街の中にも吾田(大字平野)の領域臭が漂っています。地図上で油津を歩いているはずが、実はここは吾田(大字平野)ではないかという疑念が湧いて来たのです。きっかけは、あるサイトの日南郵便局に関する次の記述です。
1951年(昭和26年)日南市大字油津町から同市大字平野に移転するとともに、日南郵便局に改称。
上記をストレートに解釈すれば、大字平野は近世村の平野村で、平野村は明治22年に星倉村などと合併して吾田村になりましたから、日南郵便局の場所は吾田ということになります。でも、そこは明らかに油津市街の真ん中です。いったい、油津市街は油津なのか吾田(大字平野)なのか。謎を解かずにいられません。

そこで、油津市街の古い地名を追ってみました。すると、光明院という寺名からも、岩崎という町丁名からも、昔は平野村または吾田村大字平野に属していた形跡が見つかったのです。さらには、日南市 大字油津平野 字古奥という変な地名まで出てきて迷は深まるばかり。明治22年に油津村が単独で油津町になったのだから、大字油津平野という名の大字はありえないはず。大字油津平野とは何者か。ここには、88さんが纏めて下さっている市区町村変遷情報に書かれていない区画変更が隠れているぞと思っていたら、わりあい簡単に謎が解けました。油津と平野は下記のように複雑な関係にあったようです。
江戸時代、油津は平野村の一部だった。
明治15年、平野村から油津村が分立し、油津村以外の区域は平野村として継続。
明治22年、油津村は単独で油津町になり、平野村は星倉村, 隈谷村, 戸高村, 西弁分村と合併して吾田村になる。
明治41年、油津町が吾田村大字平野の一部を編入。
油津市街の中に漂う吾田(大字平野)の臭いの正体は、油津町の「吾田村大字平野の一部編入」にあったのですね。平凡社や角川の地名辞典があれば一発で解明できる事柄でしょうが、あいにく所持していないので、ここに辿り着くまで結構遠回りしました。でも、この遠回りが楽しいのですよ。

では、吾田村大字平野の一部を編入する以前の油津町はどこかというと、現在の油津一丁目から四丁目にあたる狭い範囲だったようです。この狭い領域では市街地の拡張に対応しきれないのは当然で、明治41年の油津町による吾田村大字平野の一部編入は必然だったのでしょう。現在、誰もが油津そのものだと思っている市街(油津駅・山形屋・油津小学校などのエリア)は、かつての吾田村大字平野に形成されたことになります。間違っていなければ良いけど・・・少し、はらはらしてます。

どこが中心???昆明、混迷深まるばかり・・・
路線価を見て感じたまま書くと、昭和の頃の中心は油津で、A地点の山形屋・宮崎銀行前からB地点のアーケード街にかけてでしょう。今もA地点が日南市の最高路線価を保持しています。しかし、都市機能の郊外移転が進んだ現在では、A地点よりも路線評価額は低いものの、長い区間に亘って水準以上の評価額が続く吾田地区の国道222号沿道C地点が実質的な中心になっていると思います。でも見た目はやっぱりA・B地点でしょうね。お遊びですので間違っていたら笑って許して。
[74115] 2010年 2月 8日(月)23:50:46千本桜 さん
温泉クイズ
[74113] 白桃 さん
A温泉:読み方が試験に良く出る温泉ですか?
ありふれた漢字二文字ですが、なぜ、あの字が「う」なのか、「読み」は確かに難解ですね。

B温泉:「こけし」で有名ですか?
C温泉も「こけし」で有名ですが、B温泉の「こけし」は首を回すとキイキイ鳴ります。

C温泉:帰り道は近かった?
まだマイカーを保有していなかったころ、C温泉まで何度か自転車で行ったことがあります。向う時は遠がったなぁ。でも帰り道は近かった。これ、ほんとの実感です。自転車というのは微妙な地形の変化を体感させてくれるのですね。

D温泉:松本清張「山峡の章」に出てきますか?
ここは「山峡の章」の舞台でしたね。A温泉と共に「仙台の奥座敷」と言われていましたが、近年ではA温泉に水をあけられてしまいました。

E温泉:人口17,441人(1月1日現在推計)の町にありますか?
いまでは本吉郡も1郡1町になってしまいました。温泉とは無縁に思える地域でも掘れば温泉が涌くのですね。この温泉を掘り当てた「ホテルK」からの眺め。何が凄いかというと、ホテルに入ったとたん、延長160メートルにも及ぶロビーの窓から、○○○湾の風景が丸ごと目に飛込んで来るのです。何に感動するかは人それぞれでしょうが、私はこのオーシャンビューに感動しました。

[74114] YT さん
一方E温泉は食事も景色も最高でした。
ホテル関係者ではありませんが、お褒めいただいて感謝します。食事は値段に左右されて当たり外れがあるとは思いますが、あの素晴らしい景色は、低額料金で宿泊した人も、高額料金で宿泊した人も、みんな平等に眺めることのできる最高のサービスですよね。
[74112] 2010年 2月 7日(日)23:28:14千本桜 さん
宮城県の温泉クイズ
宮城県内の温泉に関するクイズです。年間宿泊客数が5万人を超える温泉をまとめてみました。ランキングは平成20年の宿泊客数を基準にしていますが、参考までに平成15年の宿泊客数も掲載しました。数値は敢えて千人未満を四捨五入しています。宮城県内にはこの他にも多数の温泉がありますが、年間宿泊客数が5万人に満たないために残念ながらランクインできなかった主な温泉として、北から順に鬼首温泉、川渡温泉、青根温泉、鎌先温泉、小原温泉をあげておきます。さて、ここで問題です。1位から5位までの温泉名を伏せてあります。A・B・C・D・Eにあてはまる温泉名をお答え下さい。いずれも宿泊客数の多い著名な温泉ですから、旅行好きな人には簡単すぎるかもしれません。でも、5位のE温泉だけは難問のはずです。

宮城県の温泉・年間宿泊客数50,000人以上の温泉ランキング
順位温泉名平成20年平成15年
1位A温泉834,000人996,000人
2位B温泉488,000人390,000人
3位C温泉346,000人411,000人
4位D温泉276,000人326,000人
5位E温泉166,000人0人
6位中山平温泉103,000人141,000人
7位東鳴子温泉85,000人141,000人

A温泉のヒント:大規模な高級旅館が多く、500人以上の宿泊客を収容できる旅館だけでも6軒あります。年間の宿泊客数で比較すると四国の道後温泉と同等規模の温泉になりますが、湯の街歩き楽しむほどの街並みはありません。そもそも、A温泉には温泉街など有るのかしら?といった雰囲気です。遊興も買物も大規模旅館内で完結するので、温泉街が不要なんでしょうね。ちょっと淋しい。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「S」。

B温泉のヒント:A温泉と違って湯のまち歩きが楽しめます。宮城県で最も大きな温泉街を形成していますが、観光機能だけの街並みではなさそうです。周辺集落にとっては日常生活圏の中心で、4年前までは町役場もありましたが、合併で総合支所になりました。最大規模の旅館は収容力およそ600人の「Nホテル」。

C温泉のヒント:背後に控えた山岳観光地への基地としての性格を有し、近くには県内最大規模のスキー場もあります。B温泉より小規模ですが、整った街路形態をした温泉街があります。温泉街としては宮城県で二番目に大きな街並みでしょう。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「ZRホテル」。

D温泉のヒント:旅行計画で宿泊地を設定する際に、A温泉と競合関係になりやすい地理的位置にあります。歓楽街などとは無縁の温泉地ですが、老舗旅館の有名な露天風呂と、その露天風呂まで下る長い長い木造の階段は趣があります。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「ホテルG」。

E温泉のヒント:温泉とは無縁の海沿いに建つ一軒宿が増改築し、それまで最大だった福島県のホテルハワイアンズの宿泊収容力を抜いて東北最大規模でグランドオープンしたのは1997年のことでした。そのホテルが温泉を掘り当てて6年ほど前に開湯したのが、この温泉です。旅館は収容力およそ1,300人の「ホテルK」だけです。ただ、温泉名が不確かです。県の資料には「○○○湾温泉」と記載されていて、○○○は平成17年に合併消滅した旧町名と同名です。しかし、当事者のホテルは「×××温泉」を名乗っていて、×××は合併で誕生した新町名と同名です。ですから、解答は「○○○湾温泉」、「×××温泉」どちらを答えても正解にします。
[74078] 2010年 1月 30日(土)20:11:36千本桜 さん
淡路・四国の御礼。人口減。
[74047] 小松原ラガー さん
[74048] 今川焼 さん
[74049] 88 さん
[74051] futsunoおじ さん
皆様、ありがとうございました。たぶん、小松原ラガーさんあたりが書き込んで下さると思っておりましたが予想通りでした。淡路・四国への旅行は私も参加しますが、実際に計画を練っているのは幹事さんや旅行会社です。しかし、「何か良い案はないか」と意見を求められたので行程表を見せてもらったところ、観光スポットごとの発着時刻は書いてあるものの、ルートが大雑把で不明確なものでした。車窓からの眺めも観光の一部と思っている私は、事前にルートをつかんでいないと不安になるのです。そこで、自分なりに行程を検討してみることにした次第です。私案が実際の旅行に反映される保証はありませんが、旅行計画を練ること自体がとても楽しくて、気分はすでに空想の旅へ出発しています。しかし、地図を見ると神戸周辺では高速道路の他に六甲北道路などの一般有料道路が何本も走っていて、それらが同じ色で印刷されているものですから、どの道路(路線)を繋げて走れば良いのか判断がつかない状態でした。そこで、路線別に色分け着色してみたところ、1・山陽自動車道経由。2・阪神高速7号北神戸線経由。3・阪神高速3号神戸線経由の三案が浮んだわけですが、これはやはり小松原ラガーさんはじめ皆さんの御意見どおり、1か2の選択になりそうですね。
個人的には、今川焼さんの「神戸港や六甲山を眺めてみたいという方が多ければ3を」に惹かれますが、我を通すわけにもまいらず、残念だけど諦めざるをえないようです。今川焼さんに関しては、[71819]で綴られた富来のくだりが凝縮された短編紀行文を読むようで素晴らしく、とても感心しておりました。目の前に現れた現象を地理的にとらえる感覚が身に付いておられるのですね。今回の書込みでも随所にそれを感じました。淡路・四国の旅は仰せのとおりバスの最前部に陣取り、飛込んでくる風景を地勢図や地形図と対比しながら眺めることにするつもりです。また、脇町観光のアドバイスは実にリアルで参考になりました。ただ心配なのは、時間の都合で脇町観光がカットされる可能性があることです。その時は、鳴門から高松自動車道を走行し、東讃の中心都市・三本松を横目で追いながら琴平に向うことになりますが、三本松市街はビルが林立しているので(笑)見のがさずに済みそうです。
琴平からは善通寺ICで四国自動車に上がって松山に行きます。個人的には、88さんがお住まいの高松をもう一度見たいのですが団体旅行では自由が利きません。松山までは時間の都合でどこにも立寄らないで走るだけです。川之江も三島も新居浜も横目で見ながら通過するだけ。そして、小学校の同級生の「みよちゃん」が住んでいる西条も通過するだけです。これって、街歩きを趣味にしている人間にはストレスが溜まりますね。ましてや、防音壁で視界が遮断されて市街地遠望もできなかったりすると、変な理屈だけれど「通行料をただにして」と言いたくなります。それは勿論冗談ですが、見たい所を見れずに横目で過ぎるのは実際にストレスが溜まります。
だいぶ前のことですが、「どなたかインターチェンジの利用車台数ランキングを御存知でしたら教えていただけませんか?」と問いかけたところ、futsunoおじさんに道路公団のサイトを紹介していただいたことがありました。今度も道路時刻表のサイトへリンクを貼っていただきまして、ありがとうございました。私はインターネットが苦手で、検索の活用方法も分からないまま原始的に市販の道路地図帳を見ながら電卓で区間距離を弾き出しておりました。紹介していただいたサイトはこれからも活用させていただきます。ありがとうございました。

[47072]白桃 さん
三大都市圏への人口集中にブレーキ
[74074]Issie さん
大阪圏の人口減少にもブレーキ?
大都市圏の話題に田舎の情報を突っ込んで申しわけありませんが、こちらは人口減少にブレーキがかかりません。全国的には、もっともっと人口減に悩んでいる地方もありますから話題にするほどではないかもしれませんが、なぜか気になります。
仙南圏ビッグ4の平成17年10月1日~平成22年1月1日の人口と人口増減数
市町名2005年10月1日2010年1月1日増減数
白石市39,492人37,763人-1,729人
角田市33,199人31,927人-1,272人
柴田町39,809人39,162人-647人
大河原町23,335人23,470人135人
かつて、町としては東北一の人口を誇った柴田町も4万人を目前に足踏みし、ついに人口減に転落。仙南圏2市7町の中では、かろうじて大河原町だけが人口増を保っています。でも、もうだめみたい。昨年1年間だけを取りあげると減少組の仲間入りをしています。

仙南圏ビッグ4の1年間(平成21年2月1日~平成22年1月1日)の人口増減数
市町名純増減自然増減社会増減
白石市-447人-213人-234人
角田市-391人-177人-214人
柴田町-154人4人-158人
大河原町-52人27人-79人
軒並み社会減というのが辛いですね。みんな、どこへ行ってしまったのでしょう。千昌夫さんも「あんた」という曲で、♪「どこへ行ったのよ 戻って来てよ ねえあんた」と唄っていますが、戻って来ても仕事がないんですよね。
[74046] 2010年 1月 25日(月)07:06:45【1】千本桜 さん
淡路&四国についてのお尋ね。ややこしい涌谷町。
ちょっとお尋ねします。大型バスで伊丹空港から淡路島の淡路ICまで行きたいのですが、いろいろなルートが浮かんできて迷っています。下記の三ルートを考えてみましたが最短時間で到達できるのは、どのルートでしょうか。途中で観光はしません。ただ走るのみです。有料道路の通行料金は気にしません。
1・伊丹空港→中国池田IC→(中国自動車道経由)→神戸JCT→(山陽自動車道経由)→神戸西IC→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC
2・伊丹空港→中国池田IC→(中国自動車道経由)→西宮山口JCT→(阪神高速7号北神戸線経由)→布施畑JCT→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC
3・伊丹空港→(阪神高速11号池田線経由)→豊中IC→(名神高速道路経由)→西宮IC→(阪神高速3号神戸線経由)→月見山出入口→(第二神明道路経由)→垂水JCT→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC

同じように、大型バスで徳島県の脇町うだつの町並みから香川県琴平町の金刀比羅宮まで行きたいのですが最短時間で到達できるのは、どのルートでしょうか。
1・脇町うだつの町並み→(県道12号を西へ走行)→美馬市美馬町→(国道438号経由)→琴平
2・脇町うだつの町並み→(県道12号を東へ走行)→脇町IC→(徳島自動車道経由)→美馬IC→(国道438号経由)→琴平
3・脇町うだつの町並み→(県道12号を東へ走行)→脇町IC→(徳島自動車道経由)→井川池田IC→(国道32号経由)→琴平
4・脇町うだつの町並み→(県道12号を西へ走行)→美馬IC→(徳島自動車道経由)→井川池田IC→(国道32号走行)→琴平

[74025] 白桃さん
ややこしや、津山東町と加茂町
宮城県の涌谷町もややこしいです。涌谷市街は江合川を挟んで両岸に展開していますが江戸期の自治体区分では左岸が涌谷村、右岸が馬場谷地村になります。市街の重心は馬場谷地村の方にあります。しかし、地籍上は別々の村でも二つの村は一体となって城下町を形成していましたから、地理的には一つの都市集落と解釈して良いだろうと思います。この涌谷村と馬場谷地村の関係が少しややこしい。
まず、馬場谷地村から。江戸期には馬場谷地村に涌谷町と呼ばれる宿場町が置かれ、それを取り囲むように伊達氏家中小路が配置されました。当時の人がこの地理空間を馬場谷地という名でとらえていたか、それとも涌谷という名でとらえていたか非常に気になるところですが、答えは町村制施行時の町村名にありそうです。明治22年、馬場谷地村は単独で町制を敷き涌谷町に改称しました。隣に涌谷村があるのを承知で涌谷町を名乗るとは身勝手にみえますが、たぶん地籍上の村名「馬場谷地」よりも町場名「涌谷」の方が広く知られていたからだろうと思われます。馬場谷地村が単独で町村制下の町になった涌谷町(明治22年~昭和23年の自治体)の区域には大字がありません。現在、この区域の住所は自治体名+小字名で涌谷町字○○と表記します。
次に涌谷村です。涌谷村には涌谷城があって城下の家並みが広がっていました。明治22年、涌谷村は上郡村、下郡村、小塚村と合併して元涌谷村になりました。角川地名大辞典には「隣村の馬場谷地村が江戸期の宿場町名の涌谷町を継承し涌谷町と改称したので、涌谷村に元の字を冠した。」と書いてあります。隣村に名前を奪われた恰好ですが、当時の人がどのように感じたかは不明です。元涌谷村(明治22年~昭和23年の自治体)は旧4村の名を大字として残しましたから、江戸期の涌谷村の区域は元涌谷村大字涌谷になりました。住所は自治体名+大字名+小字名で元涌谷村大字涌谷字○○と表記します。昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して現行涌谷町になりました。現在、住所の上で涌谷町涌谷と表記される区域は江戸期の涌谷村の内にあるでしょうか、それとも馬場谷地村の内にあるでしょうか。くだらないクイズで済みません。

訂正
朝の忙しい時間に書込みしましたので安易に端折りすぎた箇所がありました。昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して現行涌谷町になりました。と書きましたが、正しくは、昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して涌谷町になり、その後、昭和30年に涌谷町と箆岳村が合併して現行の涌谷町になりました。が正しいので訂正します。
[73486] 2009年 12月 31日(木)16:29:36千本桜 さん
宇多津、日和佐、富士川
[73420] 蒼の狼 さん
閉まってる店が多いのはわかってましたし、遊ぶんだったら宇多津まで行きましたからね。
それも商店街が寂れる一つの要因かと思いますが、いかがでしょう。
私が坂出の商店街を見たのは40年も前のことです。でも、白桃さんが書かれた「坂出:この商店街のシャッターはいつ開くのだろう・・・」という坂出の現状は想像できます。また、私が見た宇多津町は昔からの市街地で、蒼の狼さんが闊歩されたのは宇多津町の新しい市街地でしょう。新しい宇多津町は凄いらしいですね。市に至らない町としては、沖縄県北谷町などと共に超スーパータウンの部類に入ることでしょう。東北のスーパータウンo町は間違いなく宇多津より地味です。平成16年調査の香川県商圏調査報告書をネットで見ることができますのでリンクします。買回商圏における宇多津町の凄さが見えてきますね。丸亀商圏が西に向かって及ぶ範囲は三豊市までなのに、宇多津商圏はそれを乗り越えて観音寺市まで延びているのですから驚きです。

[73445] oki さん
美波町のHPではウミガメ博物館の住所が「日和佐字浦370-4」となっていましたが、「日和佐字浦」という住所はなく、近世村の名称をそのまま残す「日和佐浦」です。
とあるHPには、うみがめ博物館の住所が「〒779-2304 海部郡美波町大浜海岸」と書いてあります。大浜海岸に面した観光施設ですし、天然記念物に指定された名称も「大浜海岸のウミガメ及びその産卵地」ですから、「日和佐浦」より「大浜海岸」の方が場所の特定も安易になり効果的なのでしょう。しかし、「住所」と銘打打ち、郵便番号まで記載しているのですから、ちゃんとした住所地名で「〒779-2304 美波町日和佐浦」と書いて欲しかったと思うのは私だけなのだろうか。大浜海岸に位置することを伝えるためなら、もっと別の表現方法があるはずですね。さて、本題に入ります。美波町役場の住所は大字+小字の形式で「美波町奥河内字元村18番地」と表しますが、日和佐郵便局の住所は小字なしで「美波町日和佐浦119番地」と表します。明治22年以来、奥河内も日和佐浦も同一自治体として一緒に歩いてきたわけですが、奥河内は小字を地番区域とし、日和佐浦は大字を地番区域とするように別々の道をとったのは、いつ頃からなのでしょう。

[73473] inakanomozart さん
もっと遠く離れた県の町だったら抵抗がなかったかもしれませんが・・・
静岡県民ではありませんが、静岡県富士川町がなくなって山梨県富士川町ができることに戸惑いを感じています。なにしろ、静岡県への第一歩が岩渕駅でしたから。

今年もきょうが最後。それでは皆様、佳いお年をお迎えください。
[73406] 2009年 12月 27日(日)09:04:18千本桜 さん
自治体の改称。DIDと都市地域。
[73387] Issie さん
生見尾村は,1921年に単独で町になりました。その際に改称して「鶴見町」。
やはり、同様の例は全国的にあるようですね。
鹿児島県では、明治22年に枕崎村など4村が合併して「東南方村」を名乗りましたが、大正12年に単独で町制に移る際に「枕崎町」に改称しています。
宮崎県では、明治22年に妻町など9村が合併して「下穂北村」を名乗りましたが、大正13年に単独で町制に移行して「下穂北町」になるやいなや、数ヶ月後には「妻町」に改称しています。
大分県では、明治22年に香々地村と見目村が合併して「岬村」を名乗りましたが、大正8年に単独で町制に移る際に「香々地町」に改称しています。
こうしてみると、新しい自治体名を名乗ってはみたものの馴染めず、むしろ藩政村名(ただし、都市機能を備えた町場集落のある藩政村)の方が通用しやすかったのではないかと思われます。宮城県でこのような例に当てはまるのは下記の町村です。
明治22年、長町村と郡山村が合併して茂ヶ崎村になる。大正4年、茂ヶ崎村は単独で町になり長町に改称。
明治22年、閖上浜など5村が合併して東多賀村になる。昭和3年、東多賀村は単独で町になり閖上町に改称。
明治22年、雄勝浜など12村が合併して十五浜村になる。昭和16年、十五浜村は単独で町になり雄勝町に改称。
明治22年、矢本村など3村が合併して鷹来村になる。昭和15年、鷹来村は単独で町になり矢本町に改称。
明治22年、志津川村など3村が合併して本吉村になる。明治28年、本吉村は単独で町になり志津川町に改称。
明治22年、柳津村と黄牛村が合併して麻崎村になる。明治39年、麻崎村は単独で町になり柳津町に改称。
明治22年、津谷村など3村が合併して御嶽村になる。昭和16年、御嶽村は単独で町になり津谷町に改称。
以上は町制に移行する際に改称したケースですが、下記の一件は、村制を継続するのに、それでも改称しています。
明治22年、根白石村など6村が合併して泉嶽村になる。明治30年、泉嶽村は根白石村に改称。

[73398] rigst さん
仙台ホテルで初めてフランス料理を食べた時の感激よりも、初めてDID人口を見たときの感激が何十倍も大きかった。わなわなと震える感じと言いましょうか。でも、仕方ないことですが、DIDをもって都市地域とするには矛盾もつきまといますね。たとえば、代表的な例をあげると登米市迫町佐沼。たぶん平成17年時点でもそうだと思うのですが、市役所や商業施設が立地する新市街はDIDの区域外。DID区域は都市施設が抜け出してしまった旧市街。時代にそぐわなくなって来ているのでしょうね。
[73392] 2009年 12月 25日(金)00:16:24千本桜 さん
都市雇用圏
[73386] 千本桜
都市雇用圏では勝山町・久世町が落合圏に含まれるのですね。
rigstさん、ごめんなさい。上記の件、勘違いして書きました。落合圏(落合町、勝山町、久世町、美甘村、富村:39,611人)は、金本・徳岡両氏が提唱した「都市雇用圏」に該当するものではなく、「都市雇用圏」の定義から「DID>10000」および「昼夜比>1.0」の条件を除いた上で、rigstさんご自身が編み出した圏域だったのですね。こういう独自の発想による圏域設定、大好きです!。ところで「DID>10000」ですが、南陽市のように2つのDID(赤湯地区と宮内地区)を合算して10,000人超とみなすことに抵抗を感じるのですよ。それなら10,000人以下でも迫や六日町を都市雇用圏の中心自治体として認めて欲しいと思ってしまう。たぶん、rigstさんも同じ考えでおられるものと思います。北海道、近畿、九州もよろしくお願いします。

[73388] 桜トンネル さん
人口も2000人以上増加しているようです
悩まされている人もいると思うので取り急ぎ。12,000人以上の間違いじゃない?
[73386] 2009年 12月 24日(木)08:08:05千本桜 さん
町並み歩き、徳島県、都市圏
[73342] 伊豆之国 さん
町並み歩きが話題にならなかった頃
町並み歩きが流行り出したのは、国鉄のディスカバージャパン・キャンペーンによるところが大きいと思いますが、それ以前から西日本の萩・津和野などは観光客を集めていましたよね。どうも、町並み歩きは西日本が優勢で東北地方などは劣勢に感じます。角館や大内宿は萩や妻籠宿に比べたら後発だし、宮城県の白石・岩出山・登米なども趣が有るにはありますが、観光客を集めるほどの古い家並が連続しているわけでもないし。それで、蔵の町村田をおすすめしたいのですが、景観未整備の現状では「通」の人たちに喜んでもらえても、普通の観光客からは「何だ、こんな街」と言われそうで怖い。本当は良い町並みなんです。これからでしょう。

[73362] oki さん
江戸時代の阿波国で「町」を名乗った地域は数少なく、脇町のほかは川島、富岡くらいです。
なるほど・・・。川島は古く江戸期からの町場だったのですね。私は長年、何故に税務署・警察署などの公的機関が鴨島ではなく川島に置かれているのを不思議に思っていました。これで疑問が解けたような気がします。ありがとうございます。下に、主な国機関の設置場所を一覧表にしてみます。
徳島市鳴門市小松島市阿南市牟岐町鴨島町川島町脇町池田町
法務局
税務署
労働基準監督署
公共職業安定所
地方裁判所
簡易裁判所
農政事務所
ところで、1889年に麻植郡 川島町, 桑村, 宮ノ島村, 山田村, 東山村の一部が合併して桑川村になりましたが、その桑川村は18年後の1907年に、単独で川島町に改称して町政施行しています。合併ではなく単独で町政に移行するだけですから、誰憚らず桑川町にすれば良さそうなものですが、川島町に改称したのは何故でしょう。


[73363] 白桃 さん
注目の脇町ですが、吉野川中下流域における首邑の座は次第に鴨島に奪われていったようです。
昭和31年改訂発行の徳島県新誌(初版は昭和26年発行)は川島町について「旧川島町は吉野川南岸の一地方的中心地
」と記述し、鴨島町については「最近中央橋の架橋によって吉野川北岸との交通が便利になり、町の成長発展をきたしつつある」と記述してあります。鴨島が「成長発展をきたしつつある」という記述。このことから、昭和20年代はまだ川島の中心性が高く、鴨島が(急激に)追い上げているように感じ取れます。中心性の点で逆転した時期は分かりませんが、いずれにしても昭和10年代・20年代の吉野川中流域では脇町・川島・鴨島が都市間競争を展開していたのでしょうね。[15425]で白桃さんが書かれた三本松~鴨島間の国鉄バスも、中央橋で吉野川を渡っていたのだと思います。昔なら三本松が鴨島を引っ張ったのでしょうが、今もバスが走っていたなら鴨島が三本松を引っ張る関係になっていたのでしょうか?。

[73365] suikotei さん
合併時の本庁舎は最も新しく延床面積も広い穴吹町役場
そういう事情があったのですか。今後、脇町と穴吹の関係がどのように変化するか気になりますね。

[73384] rigst さん
新たな都市圏定義方法に胸をはせながら過ごす師走の夜でしたとさ。
はじめまして rigstさん。私も都市圏に興味があります。都市雇用圏では勝山町・久世町が落合圏に含まれるのですね。新鮮な驚きです。種々の最新統計を見たいのですが、現在、Excelを開けない環境にあります。それで、手持ちの本の中では最新(1998年、古すぎ!)の東洋経済地域経済総覧を見ているのですが、微妙なところなんでしょうね。とくに落合と久世の関係は。
[73371] 2009年 12月 21日(月)20:16:59千本桜 さん
スーパータウン
昭和31年12月改訂版発行、日本書院の「○○県新誌」によると、昭和30年10月1日における「○○町」の面積は137.7平方キロメートルで、人口は41,343人だそうです。昭和30年に4万人を超していた、このスーパータウンはどこでしょう。当時の町名と現在の市名をお答えください。落書帳メンバーの中には、あ!なんだ、と即答できる方がいらっしゃいます。
[73357] 2009年 12月 20日(日)08:35:30【1】千本桜 さん
頑張れワッキー
[73331] 白桃 さん
自分でもわかりませんが、吉野川の北側に鉄道が走っていたら、(鍛冶屋原線は無視)、脇町は遅くとも昭和の合併時に市制施行をしていたのではないか、
美馬郡の人口分布変遷と徳島本線の関連性を調べるのも面白そうですね。そのためには、明治期からの人口推移が分かればベストでしょうが、あいにく古い年代の資料を持ち合わせていませんので、昭和45年以降の国勢調査人口だけを表にしてみました。(昭和50年以降は確定値ですが、昭和45年の数値は速報値かも知れません)
調査年脇町美馬町穴吹町貞光町半田町一宇村木屋平村
昭和45年19,06110,47211,6438,8129,4065,0923,622
昭和50年19,02610,08110,3858,1218,4573,7323,098
昭和55年19,19410,2309,8788,0137,9152,9292,340
昭和60年19,33110,1489,2607,5287,2832,5301,950
平成2年19,1329,9348,4916,8996,7712,1241,602
平成7年19,0649,4838,1506,5296,3411,7441,505
平成12年18,3769,3107,6325,9635,5901,5471,314
意外にも、鉄道が走っていない脇町・美馬町より、鉄道が走っている穴吹町・貞光町・半田町の人口減が激しいのですね。脇町に焦点を当ててみます。資料がないので推測で書きますが、間違っていたら教えてください。たぶん、脇町の人口ピークは昭和20年代後半で、2万5千人程度いたのではないでしょうか。その後、急激に減少したはずですが、昭和45年から平成7年までは横這いで持ちこたえています。徳島市のベッドタウンに成り得ない距離に位置し、しかも、鉄道が走っていない環境での人口横這いは敢闘賞ものでしょう。工場誘致の賜でしょうね。ところが、何が原因か分かりませんが、平成12年には少し目立つ人口減になっています。
美馬郡の機能的センターが脇町なら、サブセンターは貞光でしょうね。平成の合併で、美馬市(脇町・美馬町・穴吹町,木屋平村)とつるぎ町(貞光町・半田町・一宇村)に分かれて合併したのは、そのような力関係が影響したからでしょうか?。でも、そうだとすると、貞光グループと関係が深そうな美馬町が脇町グループに組込まれていたり、美馬市の市役所が脇町にあらず穴吹だったり、ちょっと理解しにくいところがありますね。
脇町は未訪ですが、貞光・穴吹は自転車で走りました。ウン十年前の8月20日(晴れ)、高知市から徳島市まで走行。大歩危・小歩危の風景と、池田の町の繁華街を見たいという思いが強かったですね。川島か鴨島あたりで薄暗くなり、徳島市に着いたときは夜だったような。その夜は徳島駅で寝ました。元来めんどくさがりで記録するのが苦手ですが、自転車旅行中は気になった場所だけ、短いメモを書き残していました。たとえば次のように。小野田=中心となる所がない。宇部=変な街。小郡=大河原より上。山口=静かだ。福山=情緒全くない街。笠岡=小さい。倉敷=大原美術館(100円)に入る。ゴッホの「アルプスへの道」とゴーガンの「タヒチにて」に感激す。岡山=整った街。宇野=バス待合所に寝る。坂出=商店街安っぽい。丸亀=葉書に丸亀城をスケッチ。等々です。宇部が変な街とか、笠岡が小さいとか、坂出の商店街が安っぽいとか、いろいろ書いてますが、それは、笠岡はもっと大きな街で、坂出の商店街はもっと立派だろうと想像していたからにほかなりません。なので関係者の皆さん、気にしないでください。

追記
なかなか古い記憶が抜けなくて徳島本線と書きましたが、民営化後の1988年にJR四国は徳島本線を徳島線に改称していたのでした。
[73340] 2009年 12月 17日(木)18:49:01千本桜 さん
ハーヌ民国 チョンホワ民国
[73329] 興田小 さん
かつては教えていたが現在は避ける傾向にある表現はほかにもあるのでしょうか?
わたしが思いついたのは「旧大陸」と「新大陸」や「支那」です。
最近は「南朝鮮」も耳にしなくなりましたね。

[73330] Issie さん
学校で(公式に)教わったとなると
記憶が定かではないのですが、中学校で教わったのは「北朝鮮」「南朝鮮」だったような。「北朝鮮」は工業国で、「南朝鮮」は農業国という教えられ方をしたような・・・。ところが、姉が残して行った昭和29年発行開成館の中学社会科地図には、南北ひっくるめて「ハーヌ民国(韓国)」と記載されているのですよ。ちなみに、中国の名称については、ページによって「中国」だったり、チョンホワ(中華)民国だったりしています。もちろん、私の時代はハーヌ民国とかチョンホワ民国という教えられ方はしていませんけど。
[73280] 2009年 12月 13日(日)08:44:24千本桜 さん
国機関の統廃合
宮城県内における国機関の統廃合の話題を二つ。仙台法務局は、県北部の築館支局(栗原市)を来年2月、古川支局(大崎市)に統合して廃止する方針を決めました。これで、面積800平方キロメートル、人口77,000人の栗原地域から法務局がなくなります。栗原地域の中心機能が集まる築館は、平成17年9月実施の消費購買動向調査で商圏消失が判明。その後も商圏回復ができないままです。そして、今度の法務局支局廃止と、なにかと寂しい状況にあります。一方、県南部では昨年4月、白石公共職業安定所(白石市)が大河原公共職業安定所(大河原町)に統合されて大河原公共職業安定所白石出張所になりました。白石市・角田市より人口が多い柴田町。白石市・角田市より中枢機能の集積が進む大河原町。また一つ、仙南地域の市町逆転現象が進んだようです。どうして、「市」「町」「村」などと、面倒くさい3種類に分けなければならないのかとボヤキながら今年も終わろうとしています。
[73208] 2009年 12月 5日(土)21:20:47千本桜 さん
国土地理院発行地図販売代理店
[73205] hmt さん
地図販売店一覧 を見ると、そのすべてを取り揃えているのは、東京でも、日本橋の ぶよお堂、駿河台下の 内外地図[73200]、それに渋谷から1km余先の青葉台にある 日本地図センター だけのようですね。
(財)日本地図センター は国土地理院の外郭団体ですから性格が異なりますが、(株)武揚堂と内外地図(株)に日本地図共販(株)を加えた3社は国土地理院発行地図の元売捌所ですから、品揃えが多いというか、揃えて置かなければならない立場にあるのでしょう。武揚堂、内外地図、日本地図共販の元売捌所3社を通じて、全国の国土地理院発行地図販売代理店(書店など)に流れる仕組みになっていますので。
[72957] 2009年 11月 26日(木)06:54:28千本桜 さん
井原
[72944]白桃 さん
特に井原市では、白桃としては珍しく結構時間をかけて歩きました。
井原は未訪地ですが、恩ある人の生まれ故郷ということもあって興味がありました。それに、旧市街(小田川沿いの谷口集落)を置き去りにしたまま、大胆に新市街(井原駅前地区)を造成している点でも関心がありました。旧市街を置き去りにしたまま新市街を造成したというのは、あくまで地形図や空中写真を見ての印象です。つまり、真上から見下ろした印象です。これを横からの目線で見て、どんな印象を受けられましたか。井原の規模の街で駅前通りが片側二車線(両側で四車線)というのは、ゆとりある空間に感じませんでしたか。たぶん、旧市街と新市街のコントラストが明確な都市だろうと想像しますが、いかがでしたか。それに、旧市街(谷口集落)の区域は旧山陽道から少し逸れているのですね。微妙な逸れ方。なんで?、と考え込んでしまいそうな逸れ方です。
[72894] 2009年 11月 20日(金)13:01:57千本桜 さん
八女郡福島町
[72893]Issie さん
福岡 八女郡福岡町 ほか →1954. 4. 1 福岡市 →八女市
県名に釣られた誤打だとは思いますが、正しくは、福岡 八女郡福島町 ほか →1954. 4. 1 福島市 →八女市ですね。
[72228] 2009年 10月 21日(水)08:15:15【1】千本桜 さん
町場名と藩政村名、公称と通称
[72164]で、古くからの町場名が明治期の新町村名に引き継がれた事例を挙げましたが、もう少し詳しく書いてみます。町場の規模はさまざまで、菅生宿下戸沢宿のように戸数50戸あるかないかの町並みでも町場は町場です。ちなみに、いまも菅生の町場の通称は「町」。そして下戸沢の町場の小字名も「町」です。しかし、このように小規模な町場ですと、その名が明治22年の新町村名に影響を及ぼした可能性は低くなります。影響を及ぼすには、それなりの規模と都市機能の集積が必要になります。そこで、江戸期の仙台藩で商業活動が許されていた町場を選出し、それを便宜上の「町場」とします。商業活動を許された町場は、おおむね規模の大きな町場でもあります。宮城県史は仙台藩の在方商業の統制について次のように記述しています。
藩指定の町場以外では原則として在方の商業は禁ぜられ、農民の商人化はもとより厳重に取り締まられた。領内の町場は、中期において77、享保19年(1734)に89、幕末に96に増加しており、ここで定期に日市が開かれ、商業取引が行われた。
として、江戸中期における77の町場名と市日を紹介しています。町場の内訳は、現在の岩手県に属するものが一関、水沢など31町場。宮城県に属するものが古川、気仙沼など46町場です。では、宮城県に属する46の町場名と明治期の新町村名の関わりを見てみましょう。まず、町場が属した藩政村名と明治22年の新町村名を調べ、次の5つに分類します。

【類型1】町場と藩政村が異名なものの内、町場名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)町場=川崎。藩政村=前川村。明治22年新町村=川崎村

【類型2】町場と藩政村が異名なものの内、藩政村名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)該当するものがありません。

【類型3】町場と藩政村が異名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=金津。藩政村=尾山村。明治22年新町村=藤尾村

【類型4】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=高城。藩政村=高城本郷。明治22年新町村=松島村

【類型5】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に絡んでいると思われるケース。
(例)町場=白石。藩政村=白石本郷。明治22年新町村=白石町

【類型1のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
川崎前川村川崎村(柴田郡)なし
亘理小堤村亘理町(亘理郡)なし
吉岡今村吉岡町(黒川郡)なし
松山千石村松山村(志田郡)なし
小牛田南小牛田村小牛田村(遠田郡)なし
涌谷馬場谷地村涌谷町(遠田郡)なし
宮野下宮野村宮野村(栗原郡)明治8年下宮野村など3村が合併して宮野村
佐沼北方村佐沼町(登米郡)なし
登米寺池村登米町(登米郡)明治6年寺池村など4村が合併して登米村
飯野川相野谷村飯野川村(桃生郡)なし
類型1は、藩政村名を採らずに、町場名を採って明治期の新町村名にしたケースです。小堤村・今村・馬場谷地村は明治22年、合併しないで単独で町村制の町に移行し、町場名をもって亘理町・吉岡町・涌谷町に改称しました。佐沼は北方村に属する宿場町(通称佐沼町)ですが明治22年、北方村から分離して自治体の佐沼町になりました。明治22年に前川村など5ヶ村が合併して発足した川崎村は、前川村の町場名「川崎」を新村名にしています。松山村・小牛田村・宮野村・登米町・飯野川村も町場名が新町村名に繋がっています。

【類型2のリスト】
類型2は、町場名を採らずに、藩政村名を採って明治期の新町村名にしたケースです。しかし、該当するものがありません。町場名と藩政村名が異なる場合は、【類型1】のように町場名が引き継がれるか、【類型3】のように双方とも引き継がれずに新名称が立てられています。江戸期に商業取引を許されたほどの町場は、ネームバリューもステータスも藩政村より勝っていたのでしょう。仙台藩では、町場名が藩政村名を抑えて新町村名に引き継がれることはあっても、藩政村名が町場名を抑えて新町村名に引き継がれることはありませんでした。勿論これは、それなりの規模と都市機能を有した町場があった場合の話です。有効な町場がない場合は藩政村名を新町村名にしている例も多々あります。

【類型3のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
金津尾山村藤尾村(伊具郡)なし
米岡西野村米山村(登米郡)なし
横川福地村大川村(桃生郡)なし
類型3は、町場・藩政村・新町村の名称が全て異なります。町場名・藩政村名とも新村名に引き継がれなかったケースです。明治22年、尾山村と藤田村が合併し、新村名は旧村名から1文字ずつ採って藤尾村になりました。旧村はその大字になりましたが、通称町場名「金津」は今も健在で、公称大字名の尾山や藤田よりも汎用されている感じさえします。江戸期からの町場名「金津」「米岡」「横川」が明治期の新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。

【類型4のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
高城高城本郷松島村(宮城郡)なし
真坂真坂村一迫村(栗原郡)明治8年真坂村と清水村が合併して真坂村
狼河原狼河原村米川村(登米郡)明治8年狼河原村と鱒淵村が合併して米川村
釜谷釜谷浜大川村(桃生郡)なし
柳津柳津村麻崎村(本吉郡)明治8年柳津村と黄牛村が合併して麻崎村
志津川志津川村本吉村(本吉郡)明治8年志津川村など3村が合併して本吉村
津谷津谷村御嶽村(本吉郡)明治8年津谷村など3村が合併して御嶽村
馬籠馬籠村御嶽村(本吉郡)明治8年馬籠村など3村が合併して御嶽村
類型4は、町場と藩政村が同名なのに、双方とも新村名に引き継がれなかったケースです。新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。ただし、志津川についてのみ感想を記します。志津川村は明治8年に周辺2村と合併して本吉村になりました。なぜ志津川ほどの町場が、その名を捨てて本吉村になったのだろう。たぶん、本吉郡の中心としての自負および中心でありたいという願望が込められていると推測します。しかし、そこには「本吉」と言う名の町場はありません。本吉村を名乗ってみたものの、そこにあるのは「志津川」と言う名の町場です。おそらく、どこか不安定でおさまりが悪かったのでしょう。明治28年に志津川町に改称しています。明治期に成立した亘理郡亘理町や登米郡登米町は、そこに「亘理」「登米」と呼ばれる町場があるから、ぶれないのです。しかし、昭和の合併で成立した柴田郡柴田町や牡鹿郡牡鹿町(現・石巻市)などは、いまだに地名としての定着がぶれているように感じられます。

【類型5のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
白石白石本郷白石町(刈田郡)なし
大河原大河原村大河原町(柴田郡)なし
船岡船岡村船岡村(柴田郡)なし
村田村田郷村田村(柴田郡)なし
角田角田本郷角田町(伊具郡)なし
丸森丸森村丸森村(伊具郡)なし
金山金山本郷金山村(伊具郡)なし
岩沼岩沼郷岩沼町(名取郡)なし
中新田中新田村中新田町(加美郡)なし
宮崎宮崎村宮崎村(加美郡)なし
古川古川村古川町(志田郡)なし
三本木三本木村三本木村(志田郡)なし
岩出山岩出山本郷岩出山町(玉造郡)明治5年岩出山本郷が岩出山村に変更
田尻田尻村田尻村(遠田郡)なし
高清水高清水村高清水村(栗原郡)なし
築館築館村築館村(栗原郡)明治8年築館村と成田村が合併して築館村
岩ヶ崎岩ヶ崎村岩ヶ崎町(栗原郡)なし
沢辺沢辺村沢辺村(栗原郡)なし
金成金成村金成村(栗原郡)明治8年金成村と畑村が合併して金成村
若柳若柳村若柳町(栗原郡)なし
石森石森村石森村(登米郡)なし
米谷米谷村米谷村(登米郡)明治8年米谷村と楼台村が合併して米谷村
小野小野本郷小野村(桃生郡)なし
鹿又鹿又村鹿又村(桃生郡)なし
気仙沼気仙沼本郷気仙沼町(本吉郡)なし
類型5は、町場・藩政村・新町村が共に同名のケースです。藩政村と新町村が同名のため、一般には藩政村名を継承したと思われているようです。それを否定するつもりはありませんが、町場名も大きく影響しただろうと私は思うのです。なぜなら、ここで取り上げた46ヶ所の町場は商業活動を許された町場ですから、大なり小なり都市性格を有しています。このような町場のネームバリューは、藩政村の名を上回っていたのではないでしょうか。それは、類型1から推測できます。類型1は町場名と藩政村名が異なりますが、すべて藩政村名を捨てて町場名を新町村名に採用しています。その逆に、町場名を捨てて藩政村名を新町村名に採用した自治体はありません。類型5で風変わりなのは古川です。通称「古川」と呼ばれる町場は、藩政村でいうと古川村・大柿村・稲葉村・中里村に跨がっていました。新幹線古川駅の開業で中心街が駅前に移動するまで、古川の中心街は七日町でした。しかし、この七日町は地籍上は古川村ではなく大柿村の内にあったのです。でも、江戸期や明治期の人は七日町界隈に行くことを、「大柿村に行く」とは言わずに「古川に行く」と言っていたと思うのです。

近年、地図や道路案内板やネットを見ていると、公称が本流で、通称は傍流に押しやられ過ぎていると感じます。住所に対する感覚が昔と変わってきたので仕方ないのでしょうが・・・。

誤字を1文字訂正しました。
[72164] 2009年 10月 12日(月)09:57:07【1】千本桜 さん
明治期の市町村名に影響を及ぼした町場名
角川地名大辞典は富来町の町名由来を中世以来の院名によるとしています。しかし、明治22年に町村制施行で誕生した富来村の村名決定にあたっては、院名「富来」よりも町場名「富来」が強く影響しているのではないかと思います。中世富来院の区域に位置する藩政村は明治22年、下記のようにA~Gの7村に統合されました。
合併前の藩政村町村制による合併後の新村名
A地頭町村・領家町村など7村富来村
B今田村・東小室村など16村稗造村
C相神村・八幡村など11村東増穂村
D酒見村・大福寺村など4村西増穂村
E風無村・風戸村など3村西海村
F鹿頭村・赤崎村など6村西浦村
G西谷内村・藤瀬村など9村釶打村
過去に富来院に属していたことを理由に富来村を名乗れるなら、A~Gの7村はいずれも富来村を名乗れたはずです。しかし、富来村を名乗ったのはAであり、Bは稗造村、Cは東増穂村、Dは西増穂村、Eは西海村、Fは西浦村、Gは釶打村を名乗りました。なぜAは富来村を名乗り、B~Gは富来村を名乗らなかったのでしょう。それは、すでにAの区域内に「富来」と呼ばれる町場が存在していたからだと思います。推測ですが、Fの鹿頭村やGの西谷内村の人たちは、Aの地頭町・領家町に形成された町場へ行くことを「富来に行く」と言っていたのではないでしょうか。地頭町村や領家町村は地籍上の名称で、これを公称というのでしょう。しかし、それと同等またはそれ以上に「富来」という通称が汎用されていたのだろうと思います。それは、天保国絵図が地頭町村を富木村と表記していることや、正保郷帳が地頭町村の代わりに富木村を用いて「富木村 領家町 町本江村」として高付していることからも推測できます。

公称と通称の混用はどこにでもあることで、能登国でも公称の村名と通称の町場名が混用されています。そもそも、七尾・輪島・穴水という町場はあっても、七尾村・輪島村・穴水村という藩政村はありませんでした。七尾は藩政期の所口村や府中村などに跨がって展開する町場の名称です。江戸期や明治初期の能登の村人にとって、七尾の町に遊びに行くのは楽しみだったはずです。そのとき彼等は「七尾に行く」という言い方を多用し、「所口に行く」という言い方は少なかったと推測します。地名の汎用性としては、公称の村名「所口」より通称の町場名「七尾」が勝っていたように思います。明治22年、所口村・府中村・小島村・藤橋村が合併して町村制下の七尾町になります。同じように、輪島も藩政期の風至町・河井町に跨がる町場の通称です。この通称の町場名「輪島」が明治22年に発足した輪島町に繋がっています。また、穴水も藩政期の大町村・川島村に跨がって形成された町場の通称です。この穴水と言う町場の名が、明治22年発足の穴水村の村名決定に大きく影響していると思います。そして、富来もまた同じだと思います。

公称村名とは異なる通称町場名を持つものとして、[71220]で原ノ町宿(現・福島県南相馬市)、登米宿(現・宮城県登米市)、水沢宿(現・岩手県奥州市)をあげました。以上は、なじみの深い東北地方の中から3例をピックアップしたものです。このような事例は東北地方や能登地方以外にもたくさん転がっています。たとえば美作国の真庭郡(現・真庭市)では、藩政期の垂水村に通称「落合」と呼ばれる川舟港町があり、その名が明治22年に発足した落合村の村名に影響しています。同じく、藩政期の高田村に通称「勝山」と呼ばれる城下&宿場があり、その名が明治22年発足の勝山村に直接結びついています。しかも、高田村は他村と合併せずに単独で町村制の村に移行したのに、あえて勝山村に改称しています。と言うことは、当時すでに藩政村「高田」よりも町場「勝山」の名が地名として勝っていたのでしょう。勝山・落合と並ぶ真庭郡の拠点町場に「久世」がありますが、こちらは藩政村名も「久世」、町場名も「久世」ですから問題はなかったようです。

公称村名より通称町場名が勝っていたために改称したと思われる事例は宮城県にもあります。藩政村の小堤村は単独で町村制の町に移行したのに、町場名をとって亘理町に改称。同じく今村は吉岡町に改称。馬場谷地村は涌谷町に改称しています。岩手県の遠野や広島県の竹原もそうですね。藩政村の岩手県横田村は単独で町村制の町になり遠野町に改称。広島県下市村も単独で町村制の町になり竹原町に改称しています。亘理、吉岡、涌谷、遠野、竹原の共通点は、明治期に警察署が置かれたことからも分かるように、地域の中心性を担った町場だということです。このような場合、公称の村名より通称の町場名の方がステータスが高くなるのでしょう。小堤村、今村、馬場谷地村、横田村、下市村がそれまでの公称村名を捨て、通称町場名の亘理、吉岡、涌谷、遠野、竹原を新自治体名に採用したのは、そのような背景があってのことではないでしょうか。もっとも、亘理、遠野、竹原については、郡名、通名、荘名などの広域地名も絡んでいますから、それらと町場名の複合由来とすることもできます。しかし、直に影響を及ぼしたものは何かをつきつめれば、江戸期の町場名が明治期の町村名に影響している可能性は非常に高いのです。角川地名大辞典は宮城県亘理町の項で下記のように記述しています。
明治22年~現在の亘理郡の自治体名。小堤村の街衞地域を古くから亘理駅と称していたことから町名に採用。
小堤村の町場が古くから亘理駅と呼ばれていたので、新自治体名は「小堤」を用いず「亘理」にしたと言うことです。郡名、荘名、郷名などの広域地名と同じ名称の市町村については、その名称由来を郡名、荘名、郷名にあるとするだけでなく、域内に郡、荘、郷と同名の町場が存在していないかを確認する必要があると思うのです。

城下町、宿場町、港町、在郷町といった町場は、元来それ自体が一つの施設だろうと感じています。施設ですから名称が必要になります。その名称が地籍上の村名と同名の場合もあれば、異なる場合もあったのでしょう。

書込み訂正機能で下記のとおり訂正しました。
明治22年発足の穴水町の町名決定→明治22年発足の穴水村の村名決定
[72073] 2009年 9月 26日(土)11:09:40千本桜 さん
富来・西海の冠称
志賀町に移行した旧富来町域の住所は、自治体+大字+小字+番地で機能しますから、理論的には地区名(明治22年から昭和29年までの村名)を付さなくても住所として成り立ちます。しかし、実態は地区名を付す地区もあれば付さない地区もあって、統一されていません。。
1・富来地区は大字名の前に地区名「富来」を付す
2・西海地区は大字名の前に地区名「西海」を付す
3・福浦地区は地区名を付さない
4・熊野地区は地区名を付さない
5・稗造地区は地区名を付さない
6・東増穂地区は地区名を付さない
7・西増穂地区は地区名を付さない
8・西浦地区は地区名を付さない
富来地区は大字名の前に地区名「富来」を付けます。西海地区も大字名の前に地区名「西海」を付けます。しかし、福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区は大字名の前に地区名を付けません。どうして、こんなふうになったのでしょう。それが話題の発端でしたね。これに関しては、EMMさんとokiさんが「富来」「西海」の冠称を考察しておられますが、いずれも現段階では推測の域を出ておらず、明確な答えに至っていないようです。お二方にしてそうなのですから、私などには難しすぎて分かるはずもありません。思いますに、合併がらみの住所取り扱いは、往々にして論理よりも情緒に左右されたりするものです。情緒に左右されて決定したものを当事者不在のままあれこれ考えても、結局は推測の域を出ないで終わるでしょう。いっそのこと、当事者の町役場に問い合わせてみたらいかがでしょう。たった4年前のできごとですから、いきさつを憶えている方もおられるはずです。ただし、「富来」「西海」の冠称理由が明らかになったとしても、なぜ他の地区は地区名を冠称しないのかという疑問が残ります。それに対しては、「他の地区からは地区名の冠称要望がなかったから」という、あっさりした他人事のような答えが返ってきて肩透かしを喰らいそうな気がします。ですから、仮説→検証→考察などと堅苦しいことを言わずに肩の力を抜いて、もっと自由に地域を考えることを楽しみましょう。私は、そのようにします。

「富来・西海地区」と「他の地区」の扱いが異なるということは、両者に何らかの地理的相違があってのことかも知れません。地形図を用いて相違点を探してみたいと思います。最初に、次の手順で五万分の一地形図に各種境界線を描き入れます。
1・五万分の一地形図4面「剣地」「穴水」「富来」「七尾」を接合して1枚の地形図にします。
2・地形図に描いてある旧富来町の境界線を太く赤い線でなぞります。
3・Yahoo! 地図などを参照して、地形図に大字の境界線を細く赤い線で描き込みます。
4・富来・西海・福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区の境界を太く赤い線でなぞります。
5・各大字の機能中心地点を探し出し、それぞれの位置に赤い点を落します。
こうして、地形図に自分の手で境界線を描き進むうちに、大字の領域と集落の関係が見えてきます。小さな村落が多い中、小規模ながら町並みを形成している集落も見られます。赤崎、風無風戸、酒見、地頭町領家町高田、福浦港などです。このうち、赤崎、酒見、福浦港の町並みは、それぞれの帰属大字にすっぽり収まって、他の大字にハミ出ていません。ところが、風無と風戸の町並みは途切れることなく連続し、大字界を跨いで一つの町並みになっています。同じように、地頭町、領家町、高田の町並みも連担して、三つの大字に跨がって一つの市街地を形成しています。このような場合、藩政村や大字と言ったククリではククリ切れない別種のククリ感覚が生まれるはずです。

町の場末の縄のれんで、鳥羽一郎さん、金井克子さん、瀬川瑛子さん、ちあきなおみさんが、「浦霞」「一ノ蔵」を注ぎながら、「富来」の話で盛り上がっています。三重県出身の鳥羽さんが、宮城県の酒を呑んでも、富来の話をしても、よそ者が出過ぎるな、などと言う人は誰もいません。ちょうちん一つ、椅子五つ、他人の肩も気にならぬ。そんな小さな居酒屋での会話です。
【鳥羽一郎】俺は、♪「兄弟船」を唄うたび、風無と風戸の村を思い出すんだ。
【金井克子】♪「波の谷間に 命の花が ふたつ並んで 咲いている」という歌でしょう。「命の花」ってなに?。
【鳥羽一郎】「命の花」とは、風無と風戸ことさ。二つは兄弟のように繋がって海辺に張り付いているだろう。
【瀬川瑛子】ほんとだわ。風無と風戸の家並は連続しているのね。
【ちあきなおみ】そーね。風無と風戸は二つで一つなのね。もう切り離せないという感じ。タンスにゴンだわ。
【鳥羽一郎】だから、風無・風戸を一つにまとめて表わす呼び名が必要なんだ。それが西海さ。
【瀬川瑛子】私はね、♪「命くれない」を唄っていると、地頭町と領家町が浮かんでくるのよ。
【鳥羽一郎】♪「生まれる前から 結ばれていた そんな気がする 紅の糸」か。地頭町と領家町を表わしてるね。
【金井克子】地頭町と領家町も二つ併せて一つの町場になってるわ。まるで夫婦の関係ね。
【鳥羽一郎】♪「だから死ぬまで ふたりは一緒」というわけか。
【ちあきなおみ】そーね。地頭町と領家町も二つで一つよね。高田を加えると三つで一つ。タンスにゴンだわ。
【鳥羽一郎】だから、地頭町・領家町・高田を一つにまとめて表わす呼び名が必要なんだ。それが富来さ。
【ちあきなおみ】私の歌に♪「さだめ川」というのがあるけど、知ってる?。
【瀬川瑛子】♪「あなたの愛に 次の世までも ついて行きたい 私です」という歌でしょう。
【鳥羽一郎】「次の世までも・・・」って、富来町が消滅して志賀町に移行することを暗示してるね。
【ちあきなおみ】そーね。富来町がなくなっても、風無と風戸は西海というククリの中で結ばれていたいのね。
【瀬川瑛子】そーよ。志賀町になっても、地頭町と領家町は富来というククリの中で結ばれていたいのよ。
【鳥羽一郎】もしもだよ、風無と風戸の町並みが山で断絶されていたなら、どうなるだろう。
【金井克子】そのときは、♪「他人の関係」よ。♪「あなたはあなた そして私はわたし」という感じね。
【鳥羽一郎】風無は風無、風戸は風戸か。すると「西海」というククリ感が弱まるだろうな。
【瀬川瑛子】地頭町と領家町の町並みが農地や山林で分断されていたなら、どうなるの。
【金井克子】もちろん、♪「他人の関係」よ。♪「地頭は地頭 そして領家は領家?」という感じね。
【ちあきなおみ】そーね。地頭町や領家町の前に「富来」を付けたいという気持も薄らぐわね。
【瀬川瑛子】結局、「富来」「西海」を付けたのは、大字と集落の関係にも原因がありそうね。
【鳥羽一郎】まあ、少しはね・・・。そんなところだろう。
こうして、地理談義に盛り上がりながら、場末の縄のれんの夜は更けて行くのでした。もちろん、これはフィクションです。どのように受けとめるも、読み手の皆さん次第です。ただ、私がはっきり言えることは、大字と集落の関係の処理がお粗末になってしまった町が東北地方の某所にあるということです。そして、旧富来町は、まだそのような事態におちいっていないので救われるということです。

ついでに、旧富来町(石川県志賀町)と旧河北町(宮城県石巻市)の大字を比較してみます。両町を比較するのは、面積が同じで人口も似通っているからです。面積と人口は1965年の数値です。
【旧富来町】
面積=124平方km、人口=15,000人、大字数=59、大字の平均面積=2平方km、大字の平均人口=254人、中心になる大字=地頭町・領家町、中心になる町場名=富来。
【旧河北町】
面積=124平方km、人口=19,000人、大字数=17、大字の平均面積=7平方km、大字の平均人口=1,118人、中心になる大字=相野谷、中心になる町場名=飯野川。
両町を比較すると、旧富来町の大字は旧河北町の大字に比べて小規模なことに気が付きます。人口の少ない大字とその人口を書き出します。人口は角川地名大辞典を参照しました。
【旧富来町の人口の少ない大字、人口100人以下の大字】
深谷0人、大鳥居3人、六実8人、灯9人、八千代10人、中泉13人、江添20人、香能20人、日用23人、楚和30人、入釜47人、地保52人、日下田53人、阿川55人、切留65人、生神67人、豊後名73人、八幡座主74人、牛下77人、栢木77人、広地77人、草江80人、大西85人、荒屋86人、小窪87人、尊保89人、田中93人、谷神93人。
【旧河北町の人口の少ない大字、人口1,000人以下の大字】
北境241人、尾の崎312人、馬鞍406人、東福田448人、成田520人、中野566人、皿貝634人、中島697人、長面762人、福地870人、針岡870人、釜谷891人、三輪田940人、大森954人。
旧富来町には人口100人以下の大字が28ありました。現在ではもっと増えていると思われます。それに対し、旧河北町には人口100人以下の大字がありません。大字の規模が明らかに異なっています。旧富来町深谷は人口0人ですから集落はありません。能登の大字は歴史的に一大字一集落とはいうものの、現実において大鳥居、六実、灯、八千代、中泉、江添、香能、日用、楚和などが単独の集落として成り立っているのだろうか?と、ふと思うのです。

[71891] oki さん
「富来」が冠称された理由が過去へのノスタルジアだとすれば、
富来院、富来郷といった遠い過去へのノスタルジアより、合併で消滅しようとしている富来町への惜別の思いが「富来」を冠称させたのだと思います。まして、富来地区住民にすれば、西海・福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区の住民よりも、その思いは強かったことでしょう。

[71997] oki さん
(※陸奥国信夫郡伊達郷、武蔵国新座郡志木郷は上記集計から除いています。
伊達は信夫郡から分郡した伊達郡が名称の由来と考えられることが理由。
とすると、[71947] で今川焼さんが紹介して下さった陸奥国白河郡石川郷も除外対象になると思います。中世に白河郡から石川郡が分郡してますので。また、現行石川町の名称由来が石川郡にあるのかと言うと、一概にそうとも言い切れません。明治7年に藩政村下泉町村、内槇村、外槇村、高田町村が合併して石川村が生まれましたが、すでに江戸期より下泉町村、高田町村に跨がる町場は「石川町」と呼ばれていました。明治7年発足(明治22年町制)の石川村は江戸期の町場名「石川町」に由来し、昭和30年発足の石川町は明治22年町制施行の「石川町」に由来しているとも考えられるからです。もし、昭和30年発足の石川町の名称が郡名由来だとすると、同じ石川郡に属していた浅川町、平田村、玉川村、大東村が、なぜ石川町または石川村を名乗らなかったのかと言う疑問が残ります。

[72059] 白桃 さん
岡山、倉敷周辺は「小都邑」が一杯あって複雑怪奇、結構面白いですよ
それが、岡山県東部の海寄りの地域になると、片上、伊部、牛窓、長船、邑久など「小都邑」というよりも「小小都邑」ばかりで、なかなかのみこめません。特に、藩政村「尾張」を中心とした自治体が、郡名と同名の邑久町を名乗っていたのが複雑怪奇。和気を知りたい。それにしても牛窓って、「窓」がつくから覗き見したくなりますね。一度はぶらり町歩きをしたくなるような旅情をかき立てられる地名です。
[71771] 2009年 8月 23日(日)20:32:25千本桜 さん
了解しました
[71767] オーナー グリグリさん
了解しました。グリグリさんにまでご心配をおかけいたしまして申し訳ございませんでした。
[71763] 2009年 8月 23日(日)00:11:23千本桜 さん
不思議
[71737] EMM さん
そして[71240]については「削除→再投稿」と言うことは誓って行っていないと言うことは明言いたします。
話をそらさないで下さい。削除した上で再投稿したのかを質問しているのではありません。EMMさんは[71240]に訂正の手を加えていますね。はっきり言えば、千本桜を貶める非常に幼稚な発言をした後に、その部分を削除しています。それなのに、書込み訂正回数を示す【数字】がタイトルバーに表示されていない。とても無気味です。私が問題視しているのは、千本桜を貶めたかどうかではなく、書込み訂正をした痕跡を隠していることにあります。
[71735] 2009年 8月 20日(木)23:31:45千本桜 さん
酷すぎる手口
[71198] EMM さん
千本桜さんの「中途半端な資料による中途半端な考察」
上記の書込みはEMMさんの誤解と邪推の産物です。私は、ただ単にピンポイント富来の存在を確認したかっただけ。そういう段階でした。それなのに、中途半端な考察と決めつけられても何のことだかさっぱり分かりません。
EMMさんは[70838]
「富来」という地名は、歴史上出現して以来徹頭徹尾広域地名である…明治以前に富来村(富木村)なんてものが実在したことはなかった
と書込んでいますから、ピンポイント富来の存在を否定したい気持ちが先走るのでしょう。でも、他の人の意見を拒絶するのは良いことではありません。
もしかして互いの書込みの中に誤解を誘発する書込みは無かったかと再度読み直してみました。そこで、EMMさんが大幅な書込み訂正をしていることを知りました。[71239][71240][71427]を訂正していますね。訂正前の文を私は読んでいます。小学生でも「これは変だぞ」と思うくらい酷い個人攻撃が書いてありましたね。大幅に訂正するなら、訂正機能を使わずに新たな項を立てて書込むのが道理かと思います。自分に都合の悪いことを隠してしまおうとするのは良くないことです。これだけなら本日あえて書込みするつもりはありませんでした。しかし、どうしても書込まなければならない重大なことに気がついてしまったのです。EMMさんは[71240]を書込み訂正しているのに、【1】や【2】という訂正記録が表示されていません。 EMMさんは、ご自身に都合の悪くなった書込みを人に知られず訂正する裏技をお持ちなのですね。落書き帳の信頼に係わる出来事です。
[71254] 2009年 8月 1日(土)21:59:40千本桜 さん
富来
[71239] EMM さん
今日は非常に疲れています。多くを書く気力もありません。

私は[70836]
富来の名を存続させながら全ての地区を自治体名+大字名の形式で統一できないものだろうか・・・。そんなことを模索したいと思ったわけです。
と書いています。しかし、私はこの結論をまだ出していません。それなのに、EMMさんは私が結論を出したと決めつけている。辛いですね。こんな受け止め方をされて、一方的に言いたい放題さんざん避難されて・・・。やはり今は苦しくて書き続けられません。でも、旧富来町の中にピンポイントの「富来」が存在したことを確認できて安心しました。この確認なしには前へ進めません。場所が地籍上の地頭町村であれ領家町村であれ、形態が城下町であれ宿場町であれ、どちらでも構わないのです。地頭町村、領家町村、高田村の区域の中に富来と呼ばれる場所があったことを確認できればよかったのです。そのことだけ、お伝えしておきます。
[71220] 2009年 7月 31日(金)07:49:48千本桜 さん
富来
[71199] EMM さん
千本桜さんの「中途半端な資料による中途半端な考察」を見てかなり頭に血が上った状態で書いてしまっています。
ずいぶん失礼な書き方をしますね。よく考えてから物を書きましょう。

[70940] EMM さん
また、「仮説」も飛躍しすぎでないか、予備検証してますか?
飛躍していません。地道に積み重ねたものの上に成り立つ仮説です。
藩政期の南新田村に原ノ町宿の町場があり、その名が明治22年発足の原町村(現・福島県南相馬市)に繋がっていること。藩政期の寺池村に登米宿の町場があり、その名が明治22年発足の登米町(現・宮城県登米市)に繋がっていること。藩政期の塩釜村に水沢宿の町場があり、その名が明治22年発足の水沢町(現・岩手県奥州市)に繋がっていること。このような事例を多々ふまえた上で、藩政期の地頭町村には富来宿と呼ばれる町場があり、その名が明治22年発足の富来村(現・石川県志賀町)に繋がったのではないかという仮説をたてています。
さしあたり、そこに富来宿なるものがあったと言っていい証拠は提示できますか?(少なくとも角川・平凡社両辞典にそう言うものは出てきません)
平凡社の辞典に書いてあるじゃないですか。富来町の項に「地頭町村には外浦街道の富来駅が置かれ、領家町村とともに富来地方の物資の集散地として栄えた」とあります。また、地頭町村の項にも「外浦街道の宿駅富来駅が置かれ、駅馬15疋を常備」と書いてあります。やはり、富来という名の宿駅は存在したのです。重要な部分ですから宮城県図書館に行って調べてきました。

EMMさんの「富来考」発表までは書込みしないつもりでいましたが、あまりにも無礼な書込みを目にしたものですから書込みました。
[70939] 2009年 7月 25日(土)21:13:29千本桜 さん
富来考・富来と言う名の町場
[70838] EMM さん
「富来」という地名は、歴史上出現して以来徹頭徹尾広域地名である…明治以前に富来村(富木村)なんてものが実在したことはなかった、じゃあ富来って何?どこが富来?
地形図を見ていると、富来は地頭町村の一部、または地頭町村の別称ではないかと思えてなりません。地形図に描かれた地頭町の市街地が、「ここが富来だ」と主張しているように感じられるのです。天保国絵図には富来村があって地頭町村がありません。それを見て、富来村の中に地頭町という町場が形成されていたのではないかと考えましたが、富来村という藩政村が存在しなかったとなれば話は別です。そこで、地頭町村の中に「富来宿」または「富来町」と呼ばれる町場があったと、考えを変えてみます。明治22年の町村制で発足した富来村の村名は、地頭町村の中の「富来宿」または「富来町」に由来するのではないかと考えます。十番勝負が始まりますね。続きは十番勝負が終わった後で。
[70914] 2009年 7月 22日(水)08:04:35千本桜 さん
おはようございます
[70901] 伊那谷 さん
和泉橋警察署編の新旧対照市町村一覧、まだほんの一部ですが興味深く見せていただきました。これは参考になる資料ですね。

[70910] 白桃 さん
「青」が入る市、あなたは幾つ言えますか。青梅、青森、静岡、清須、清瀬、土佐清水・・・、これぐらいですか???
縦でも横でもいいじゃないとサバ読めば、あそこも仲間。老眼鏡かけてます?
[70855] 2009年 7月 18日(土)01:59:31千本桜 さん
ばなな漁港と富来漁港
[70844] EMM さん
昨日は西海地区の漁港を富来漁港と呼ぶ大胆さを笑いましたが、もっと笑える大胆なネーミングの漁港が宮城県にありました。恥ずかしくなるネーミングなんですが、関係者のみなさんは本気だったのでしょう。その名は「ばなな漁港」といいます。平成14年の水産政策審議会議事録の一部を引用します。
名足漁港と馬場漁港の合併でございます。これを合併して「ばなな漁港」という名前にしようとするものでございます。これは馬場漁港と名足漁港が隣接しておりまして、これを合併して、中核的な漁業基地として整備したいと考えているものでございます。名足漁港がこれでございます。馬場漁港はこれでございまして、この辺を中山地区と言うそうでございますので、馬場の「ば」、中山の「な」、それから名足の「な」を取りまして、合併後の名称は「ばなな漁港」としたいということでございます。
おもしろいでしょう。これなら、まじで富来漁港あらため能登金剛漁港もありかも。この、ばなな漁港から富来漁港の謎の一部が解明できそうです。

(水産庁HP内で検索して出てきたPDFファイルからすると、昭和26年に富来漁港という名で第4種漁港の指定を受けた可能性有り)
水産庁HP内のPDFファイルでは「ばなな漁港」を、漁港名「ばなな」、指定年月日「S26.12.13」、区域変更年月日「H17.9.14,」としています。漁港の区域と名称の変更を平成14年に審議しているのに、指定年月日「S26.12.13」は一見すると変ですね。でも、この年月日は、ばなな漁港の前身である名足漁港、馬場漁港が漁港に指定された日なんですね。ばなな漁港になったのは平成17年9月14日なんでしょう。富来漁港は、指定年月日「S26.7.28」、区域変更年月日「H17.9.1」と書いてあります。あくまでも推測ですが、昭和26年7月28日に指定されたのは富来漁港の前身であろう風無漁港と風戸漁港ではないかと思います。そして、当時は両港とも第1種漁港だったのではないかと推測します。西海村が富来町と合併したのは昭和29年ですから、昭和26年に西海村の漁港に隣町の名である富来を付すとは考えにくいのです。富来漁港と呼ばれるようになったのは、どう考えても昭和29年以降ではないでしょうか。
[70841] 2009年 7月 16日(木)21:10:55千本桜 さん
富来漁港
[70838] EMM さん
富来漁港がどこかは調べればすぐに分かりますが、これまた千本桜さんを惑わすにふさわしい代物なのです。
まったく想定外でした。風無・風戸に西海ではなく富来をもってくるとは石川県農林水産部もなかなか大胆(笑)。地元ではそれほど違和感を感じないネーミングなんでしょうね。大衆受けを狙って能登金剛漁港でも良かったような・・(冗談です)。でも、なんといってもミステリーなのは明治以前に富来村は存在しなかったということです。すると、あの天保国絵図に描かれた富来村や、地形図の図名の富来は何なんだろうと謎は深まるばかり。予告編に続く本編の書き込みを期待しています。あまり夜更ししてはだめよ。ゆっくりで良いのです。
[70836] 2009年 7月 16日(木)04:42:01千本桜 さん
富来
EMM さん
[70774]で「富来に関する考察。私も参加させて下さい」と書きましたが、考察したい事柄をもっと具体的に書くべきだったことに気が付きました。私は次のようなことを考えていたのでした。
富来地区、西海地区については大字名の前に地区名(昭和29年までの村名)を付して志賀町富来地頭町、志賀町西海風無のように表しますが、熊野地区、稗造地区、東増穂地区、西増穂地区、西浦地区については地区名を付さずに志賀町三明、志賀町酒見のように表します。自治体名+地区名+大字名の区域と自治体名+大字名の区域が混在して不揃いですね。これを、自治体名+大字名に統一できないかと考えた次第です。そうすると富来の名が消えることになりますが、富来の名を残したいと願う人たちから反対される可能性があります。そこで、富来の名を存続させながら全ての地区を自治体名+大字名の形式で統一できないものだろうか・・・。そんなことを模索したいと思ったわけです。
【事例からの発想】
明治22年、宮城県柴田郡では入間野村、四日市場村、船迫村など藩政10ヶ村が合併し、藩政入間野村の宿駅名「槻木」にちなんで槻木村(後に町に昇格)になりました。藩政村はそのまま槻木村の大字に継承され、槻木村大字入間野、槻木村大字四日市場、槻木村大字船迫などになりました。昭和31年、槻木町は船岡町と合併して柴田町になりました。槻木町の大字は柴田町に引き継がれ、柴田町大字四日市場、柴田町大字船迫などになりました。槻木の名は消える運命にあるのだろうか・・・。しかし、槻木町は中心部の大字入間野を大字槻木に改称して柴田町大字槻木とすることにしました。様々な受け取り方があるとは思いますが、槻木町はその名を大字入間野の区域に託して消えて行ったのだと思います。こうして入間野の名は消えましたが槻木の名は残りました。入間野を残すか槻木を残すか、苦しい選択を迫られたことでしょう。
同じく明治22年、平村、堤村、新寺村の藩政3ヶ村が合併。藩政平村の宿駅名「金ヶ瀬」にちなんで金ヶ瀬村になりました。藩政村は金ヶ瀬村の大字に継承され、金ヶ瀬村大字平、金ヶ瀬村大字堤、金ヶ瀬村大字新寺になりました。昭和31年、金ヶ瀬村は大河原町と合併。金ヶ瀬村の大字は大河原町に引継がれ、大河原町堤、大河原町新寺になりましたが、このままでは金ヶ瀬の名が消えてしまいます。しかし、金ヶ瀬村は中心部の大字平を金ヶ瀬に改称して大河原町金ヶ瀬とすることにしました。こうして平の名は消えましたが金ヶ瀬の名は残りました。
私はこの2例の大字名改称を肯定的に受け止めています。理由は、町村制で誕生した槻木村の名は藩政村入間野に形成された町場名「槻木」に由来し、昔から入間野=槻木、槻木は入間野の別称という雰囲気があったと考えられるからです。平と金ヶ瀬の関係も同様です。もう1つの理由は、周辺大字との統合や境界変更を伴わず、単に入間野を槻木に、平を金ヶ瀬に変えただけですから、同名小字が発生せず、地番組替えの必要もなかったことにあります。ですから、入間野を槻木に、平を金ヶ瀬に改めることに大きな抵抗感はなかったものと思われます。これを富来に当てはめることはできないだろうか。どれか1つの大字を富来という名に改称し、志賀町と合併して消滅する富来の名を残すという方法です。たぶん、志賀町富来七海を志賀町七海にできても、志賀町富来にはできないでしょう。では、志賀町富来地頭町はどうでしょう。志賀町地頭町にもできるし、志賀町富来にもできそうな予感がします。ただし、明治から今日までの合併を含む社会変化を思えば、地頭町を富来に改称するのは不可能になっているかもしれません。
【地形図からの推測】
ウォッちずは既に現在の地名に修正されているのであまり参考になりませ。そこで、たまたま手許にあった平成3年発行の5万分の1地形図「富来」を見てみました。牛下、生神、七海、領家町、高田、東小室の地名は記載されていますが、なぜか地頭町がありません。それに、自治体名の富来町はあるのですが、集落名の富来がありません。地形図の図名は、その図に出てくる代表的な集落・居住地名を採用するのですから、富来という名の集落があるはずです。富来はどこへ行ってしまったのでしょう。思いますに、以前は現在の地頭町にあたる区域に富来という集落名が記載されていたのではないか?。現在の地頭町こそ昔の富来ではないかと思えてくるのです。槻木が入間野村の町場名であったように、地頭町は富来村の町場名だったのではないかと・・・。
【百科事典からの推測】
1972年発行の百科事典の次のような記述があります。
南部の福浦港をはじめ、富来、赤崎、領家、七海などの港は漁業が盛んで、また富来は商業の地方的中心で
ということは、富来領家でも富来七海でもない富来富来があるのですね。それは現在の富来地頭町ではないだろうか。
【天保国絵図からの推測】
やはり富来村は存在したのですね。位置から推測すると現在の地頭町の区域だろうと思います。
私、今回の事例に付いて千本桜さんは2つの事を見逃している(あるいは見ないようにしている)のではないか、と思っています。
具体的には
「富来と言う地名自体の歴史を追う事」
「○○村内××村と言うのが富来の2例に特異な話か」
と言う事です。
的を絞ります。地頭町を富来と言う名に置き換えることはできないかと発想した場合、最も効果的なのは、藩政村名と町村制発足時の大字名およびその区域界を知ることだと思います。ですから、あまり古い時代に遡る地名由来は考えていないのです。また「○○村内××村と言うのが富来の2例に特異な話か」については、まったく特異な例ではなく、身近な宮城県にもたくさん転がっています。中には時代経過とともに本村と端郷の関係が逆転しているものもあります。現在は石巻市の一部になっていますが、江戸期の根岸村ノ内の渡波村は第1回人口集中地区調査で1万人を超す市街地に発展しているのに対し、本村の根岸は渡波市街地の在郷にあたる村落になりました。昔は根岸の中の渡波だったのに、今では渡波の中の根岸です。[70779] で端郷の領家町村と高田村を引っ張り出したのは別の疑問あったからです。富来村が住所の上で地頭町村と領家町村に分離したのはいつか。小室村の中の高田村が小室と分かれて、地頭、領家と一緒になったのはいつか。これが判らなかったから釈然としなかっただけです。

[70786] むっくん さん
県令第23号(M22.3.8)によれば、牛下村、生神村、領家七海村、七海村、地頭町村、領家町村、高山村の7村が合併して富来村が発足しました。
ありがとうございました。明治22年の富来村発足直前には富来村がなかったのですね。すると、天保国絵図に描かれた富来村は、いつ、どこへ行ってしまったのでしょうか。ミステリーもまた楽しい。

[70834] EMM さん
うーん、結局富来の話に到達できなかった…書く内容はだいたい頭の中でまとまったんですが…
急を要するものでもないし、急がなくていいですよ。私も書き始まったら止められなくなって、こんな時間に・・・。
[70779] 2009年 7月 11日(土)00:07:13千本桜 さん
天保国絵図の冨来
平成17年に志賀町と合併して消滅した富来町には、富来と呼ばれる特定の区域があったのではないか?という思いが頭をよぎります。平成17年まで存在した旧富来町ではなく、昭和29年まで存在した旧旧富来町でもない別種の富来です。もっと古くからの富来です。そこで天保国絵図能登国を開いてみました。そこには福浦村、牛下村、生神村,七海村、冨来村などの村名が記載され、冨来村の隣には冨来村之内領家町が記載されています。江戸期には冨来村があったようです。そして、冨来村には枝郷というか端郷というか正式な呼称はわかりませんが、領家町村という村が存在したらしいのです。天保国絵図の冨来村とは、現在の地頭町のことではないかと仮説を立ててみました。同じように、小室村にも小室村之内高田村というのがあったらしいのです。で、何を知りたいのかというと、明治22年に町村制下の富来村が発足したわけですが、そのとき何村と何村が合併して富来村が発足したのか。そして何という名の大字を設置したのかということです。書いているうちに文章がくどくなっているのに気が付きました。申し訳ありません。これから晩飯食べます。
[70774] 2009年 7月 10日(金)08:19:12千本桜 さん
Re:富来町関係レス
[70771] EMM さん
おはようございます。富来に関する考察。私も参加させて下さい。遠く離れた地域ですので、こまやかな住民感情までは理解できませんが、住所の在り方の基本においては共通するものが多いと思います。天保国絵図、国土地理院地形図、新志賀町設立以前の郵便番号簿、ネット上の地図、ネット上の住所一覧などを見ながら「富来」へのイメージを膨らませているのですが、大事な「角川地名大辞典・石川県版」を持ち合わせていません。その辞典を読むことで「富来」へのイメージを一層膨らませることができるはずなのに残念です。EMMさんは「石川県版」をお持ちですよね。そこに、「地頭町と領家町の関係」、「東小室と高田」の関係がどのように記述されているのかご覧になっていただけますか。急がなくても良いことですから、時間に余裕があるときで結構です。謎めいた書き方をしますが、ちょっと複雑な地頭町と領家町の関係が原因して、七海、生神、牛下が引きづりこまれたのではないかと、私は思っているところです。
[70767] 2009年 7月 9日(木)20:05:46【1】千本桜 さん
覚えやすい地理雑学辞典
「スーパーシティはニューヨーク、スーパータウンはオーガワラ」

北海道中標津町、奈良県王寺町、沖縄県北谷町などからクレームがつきそうですが・・・。
[70753] 2009年 7月 8日(水)02:15:45千本桜 さん
石川県志賀町西海風無
[70743] EMM さん
ただ、千本桜さん的には特に「富来町○○」→「志賀町西海○○」は「きわめて喜ばしい事例」かも?
いいえ、喜ばしくありません。同じ運命共同体を辿ってきた地域は、同じ住所形式で新自治体に移行して欲しいというのが基本的な考えです。富来町風無地区が明治22年から昭和29年まで属していた村名「西海」を付して志賀町西海風無になるなら、富来町酒見地区も同じく昭和29年までの所属村名「西増穂」を付して志賀町西増穂酒見とするのが良し。富来町酒見地区が何も付さずに志賀町酒見になるなら、富来町風無地区も何も付さずに志賀町風無になるのが良しと考えます。で、「志賀町富来風無」が良いのか、「志賀町西海風無」が良いのか、それとも「志賀町風無」が良いのかはっきりさせてとEMMさんに迫られたら、ふるえながら(?)「志賀町風無」が良いと答えます。なぜなら、住所は自治体名と大字名と小字名と番地があれば、それで機能するからです。風無って下層に「へ」とか「レ」とかの小字がぶらさがっているのでしょう。「へ1番地」だけでは場所が特定できないけれど、頭に風無が付いて「風無へ1番地」だと特定できますね。明治22年から昭和29年までの村名「西海」は無くてもOK。昭和29年から平成17年までの町名「富来」も無くて0Kでしょう。平成の合併では足並みが揃わずに住所の地名階層がばらばらで新自治体に移行する例が目立ちますね。でも、昭和の大合併でも同様例はありました。宮城県南部ですと名取市です。高舘村、愛島村は村名を生かして名取市高舘熊野堂字飛鳥1番地(新自治体名+旧村名+大字名+小字名+番地)。館腰村は村名を生かさず名取市植松字宮島1番地(新自治体名+大字名+小字名+番地)で旧村名は消えました。増田町、閖上町、下増田村も町村名を生かさないで名取市手倉田字箱塚屋敷1番地(新自治体名+大字名+小字名+番地)としましたが、それぞれに町村名と同名の大字がありましたから、増田、閖上、下増田の名称は残りました。
EMMさんは私が書いた[70733]
美川町は「美川」の地域範囲を忘れないでいて良かったですね。
を誤解されているのですね。と言うよりも説明不足な書き方をしてしまったようなので、もう一度書きます。「美川」の地域範囲を忘れないでいて良かった、と書いたのは何故か。美川町は「美川」の領域を知っているから、湊町や長屋町を指して「そこは美川だ」と言わなかった。周辺の大字(町)を侵蝕しなかった。傷つけなかった。相手の存在を無視しなかったからです。もし、「美川」の領域を知らない人が大字をいじると、湊町も長屋町も美川と市街地続きだから、そこも美川だということにしていたかも知れません。「大字大河原」の領域を忘れた大河原町は、周辺の大字大谷、大字金ヶ瀬の区域を指して「そこも大河原だ」と言うのです。合併して自治権を失った大谷、金ヶ瀬は言葉を発することができません。悲鳴を上げるだけです。
[70746] 2009年 7月 7日(火)01:58:08千本桜 さん
宮城県の商圏
宮城県が平成20年に調査した消費購買動向調査が今年4月に公表され、その報告書「宮城県の商圏」が発売されているので購入してきました。この調査は平成の大合併以前の市区町村を単位にしています。それによりますと、前回調査(平成17年)では商圏を形成していた旧南方、角田、亘理が要件を満たせず脱落。代わって旧中新田商圏が復活し、旧志波姫商圏が新参入してきました。現在、宮城県には15商圏が形成されています。この商圏調査は昭和53年から3年毎に実施されていますが、過去に商圏を形成しながら現在は商圏を喪失している都市を挙げると次のようになります。塩釜、旧築館、旧若柳、涌谷、岩沼、柴田、大和、旧栗駒、旧志津川、旧矢本、旧小牛田、旧鹿島台、旧南方、角田、亘理の15都市です。それでは、今回の調査で形成が確認された商圏を吸引人口の多い順に並べてみます。ただし、これは買回品(衣料品・書籍・家具.家電など)を対象にしたもので、最寄品(食料品・日用雑貨品など)は対象外になっています。
順位商圏名吸引人口商圏人口地元購買率
1位仙台青葉348,569人1,622,690人69.7%
2位仙台泉302,526人1,068,498人78.5%
3位旧石巻218,765人364,819人92.1%
4位仙台太白213,420人672,277人67.1%
5位旧古川157,344人311,906人83.2%
6位名取144,085人662,966人59.1%
7位旧気仙沼89,608人177,039人86.5%
8位利府85,504人397,415人63.3%
9位大河原74,807人188,313人67.8%
10位旧迫72,471人170,763人72.6%
11位多賀城71,394人341,578人53.2%
12位富谷41,108人295,090人40.4%
13位白石17,591人54,012人38.5%
14位旧中新田14,272人47,499人35.3%
15位旧志波姫9,593人69,529人31.6%
県は上記15商圏を次のように分類しています。
超広域型:仙台青葉
広域型:仙台泉、仙台太白、名取、旧石巻、旧古川
地域型:利府、多賀城、富谷、大河原、旧気仙沼、旧迫
地区型:旧志波姫、白石、旧中新田

県の分類を自分なりの発想で分類しなおします。
1・仙台市を区単位に分割するのは馴染めないので仙台市を1つの単位とする。
2・仙台市への依存度が高い市町は商圏中心都市から除外する。仙台市への買回品購買依存率が高いのは富谷町56.6%、名取市38.8%、利府町29.7%、多賀城市23.7%です。富谷、名取、利府、多賀城は仙台商圏の一部とみなして振るい落とします。
3・吸引人口2万人以下の市町は商圏中心都市から除外する。これで、白石市、旧中新田町、旧志波姫町が振るい落とされました。
残ったのは6商圏中心都市です。この6つを分類すれば、(超広域型:仙台市)、(広域型:旧石巻市、旧古川市)、(地域型:旧気仙沼市、大河原町、旧迫町)になります。すっきりしましたね。これが私の頭の中にある現時点での宮城県の商業拠点都市です。
[70733] 2009年 7月 6日(月)02:46:15千本桜 さん
七ヶ宿、誉君、白山市、美川町、聖地
[70602] hmt さん
○=漢数字である青森県上北郡六ヶ所村・宮城県刈田郡七ヶ宿町・宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町の3町村の「ヶ」は、「が」でなく「か」と読むのでした。
七ヶ宿町の正式読みが「しちかしゅく」だと発覚してからかれこれ10年経つでしょうか(まだ6、7年かも)。それまでは町当局も住民も「しちがしゅく」だと思っていたわけです。今でも住民は「しちがしゅく」で通していますが、テレビは「しちかしゅく」と言うようになりました。ところが、これが私の耳には非常に聞きにくいのです。なんか、顎の辺りがむずがゆくなる感じです。地元民にとって「しちかしゅく」は、言いにくいし、聞きにくいし、正式呼称だなんて言われても困ってしまうのですが、よその地方の人には「しちかしゅく」って、すんなり発音できて、すんなり耳に入る音なのでしょうか。

[70615]Issie さん
お忙しいでしょうに、私の疑問に応えて下さいましてありがとうございました。
[70645]Issie さん
同級生に「誉(ほまれ)」君という子がいて
誉君で思い出したことがあります。あれはもう35年以上も前のこと。羽田空港でアンカレジ行きの飛行機を待っていたときのことです。公衆電話に10円玉を入れても戻ってきます。壊れているんだなと諦めて電話するのを止めました。そこに、あの勝呂誉さんがやってきました。誉さんは何も知らず公衆電話に10円玉を入れました。普段なら「その電話、壊れてますよ」と教えてあげるですが、相手は人気俳優さん。声をかけることもできずに、じっと誉さんのすることを見ていました。私は10円玉が3回落ちたところで諦めましたが、誉さんはなかなか諦めません。落ちてくる10円玉を拾っては入れ、拾っては入れ、何回くりかえしたと思いますか?。それは秘密にしておきますが、どうしても電話したかったんでしょうね。電話先は大空真弓さんだったのだろうか・・・。どうやら、登場人物が古すぎたようですね。

[70634] futsunoおじ さん
だれか不敵な人物が偏見を持って三本松・金沢・両毛を三大聖地としたものが発端のようです。ただ近年強烈なインパクトを持つ大河原を加え両毛を外そうという考えもあるようであり、今後の両毛地域メンバーの動向が注目されます。
身に余るお言葉、ありがとうございます。しかし、○河○は地理の聖地に向かない「いかれぽんち」の世界です。不成立でしたが、合併に向けての字名取り扱いを通じて思い知らされました。でも、桜が咲く季節の一週間だけ聖地と思っていただけたら嬉しいです。

[70685] 星野彼方 さん
河内○○(旧鶴来町や旧美川町はこうですね)
[70693] 癒しの白山麓ファン さん
石川県白山市の住所表記を見ると、松任・美川・鶴来では新町、今町など、同地名の場合など含め鶴来新町、美川今町と旧町名が付いていますナ。
松任と鶴来については詳しく見ていないので分かりませんが、美川について思うことをひとつ。美川○○、美川今町などの「美川」は、白山市に移行して消滅した美川町の「美川」ではなく、別の意味がこもった「美川」だと思うのです。もし、白山市美川今町や白山市美川永代町の「美川」が平成17年まで存在した美川町を意味する「美川」なら、その「美川」は当時の美川町全域に付されて然るべきです。しかし、湊町や長屋町には「美川」が付されず白山市湊町、白山市長屋町になっています。これは、美川町には「美川」と認識される区域と「美川」ではないと認識される区域があったからでしょう。1869年、本吉町と湊村が合併して美川町誕生。1871年、美川町(旧本吉町)と湊村に分離。1889年、美川町は単独で町村制下の美川町になり、湊村も単独で町村制下の湊村になりました。1954年、美川町、湊村、蝶屋村が合併して新・美川町発足。以上が美川町の歴史です。白山市に移行するにあたり、1889年当時の美川町域だけに「美川」を付し、湊村域(現・白山市湊町)と蝶屋村域(現・白山市長屋町・手取町など)には「美川」を付さなかったようです。当たりまえと言えばそれまでですが、美川町は「美川」の地域範囲を忘れないでいて良かったですね。それに対し、大河原町は「大河原」の範囲を忘れてしまった。忘れてはならない立場の人たちまで忘れてしまって反省せず、知らなかったことを正当化するために詭弁を使います。大河原町は新しい住民が多い町だから地域の歴史にはこだわらないんですと!。ワオ~~~、おったまげました。
[70611] 2009年 6月 27日(土)09:55:26千本桜 さん
チンギスハン
[70596]なきら さん
[70598]淡水魚 さん
[70599]右左府 さん
[70600]Issie さん
淡水魚さんは今でも3時のおやつに美味しいお茶とお菓子を戴いているのでしょうか。藪北の深蒸し茶などお召し上がりなのでしょうね。静岡の美味しいお茶を飲みたい!。私は珈琲の味が分からないのにお茶の味にはそれなりに敏感なのです。
皆様から教えていただきましたイムジン河、リムジンガン。大変勉強になりました。つにでにというとなんですが、かねてより疑問に思っていたことをもう1つ質問していいですか。漢江はハンガン、武漢三鎮の漢口はハンカオ。ということは漢(カン)は「ハン」なのね?。そして韓国の韓(カン)も「ハン」。チャガタイ汗国の汗(カン)も「ハン」。そして成吉思汗(チンギスカン)も「チンギスハン」となります。いずれも「カン」であり「ハン」であることで繋がっています。これは偶然の一致なのでしょうか?。偶然にしては地域的に繋がっているようにも思えるし、どちらも「ハン」だからといって韓国とチンギスハンを結び付けるのも飛び過ぎ!という感じがしないでもありません。何と何が繋がっていて何と何が繋がっていないのか。整理して考えれば分かるのでしょうが、すこし苦手な分野です。きょうは朝から暑いですね。庭の草むしりをしなければならないし、お墓の草も生えてるだろうから心配だし。
[70593] 2009年 6月 25日(木)01:16:47千本桜 さん
いろいろ
[70536]なきら さん
詩子さん
詩子さんを忘れていました。昭和は遠くなりにけりと言ったところでしょうか。松島トモ子、松島アキラ、松島詩子と言うことで、千本桜家いとこ会の開催場所は、なきらさんご推察のとおり松島でした。ところで、いとこ会の派手な余興ですが、あれは遠方から集まってくる「いとこ」たちを「おもてなし」するためのもので、本人が楽しむためのものではありません。ほんとは恥ずかしくて嫌々ながらやってるの(笑)。

[70556]リトル さん
画像で見せて頂いて以来、頭から離れません。
リトルさんがご覧になったのは、どのバージョンだったでしょうか。自分で貼っておきながら、どの画像をお見せしたのか忘れてしまいました。今回は、新旧バージョン入り乱れ、50、60のおじさんたちが舞台の上で乱舞してました。恥ずかし。
クイズ関係は苦手なのですが、今回はちゃんと解りました。
リトルさんご正解です。
「A:奥○○」→奥松島
「B:○○○市」→東松島市
「C:○○渓」→嵯峨渓
「D:○○市」→石巻市
「E:○○島」→宮戸島
「F:○○森」→大高森
「G:◎浜」→里浜
海辺の小さな集落は絵になりますね。とくにリアス式海岸の漁村は。丹後あたりにも絵になる漁村がたくさんありそうですね。

[70548]オーナー グリグリ さん
主要地方道と一般地方道
細かいことを突つくようで済みません。東京都には特例都道というものもあって複雑ですが、一般的に都道府県道は主要地方道と一般都道府県道に大別されます。ですから、主要地方道に相対する用語は一般都道府県道でしょうね。一般地方道は聞き慣れない用語です。
「京都府道・兵庫県道2号宮津養父線」の場合だと「県道○○□□線」という言い方ができないですね。それとも「府県道宮津養父線」という言い方をするのかな。
結局、路線名は道路管理者のためにあるのだと思います。管理者間または管理者(都道府県)と国との間で通じればそれで良し、なのではないでしょうか。京都府域では京都府道宮津養父線と呼び、兵庫県域では兵庫県道宮津養父線と呼んでいる。国県にはそれで通じ合えているのだと思います。地理好き人間からすれば、もっと我々のことも考えてよと言いたくなりますが、たぶん考えてはいないでしょう(笑)。たとえば、富岡停車場線という同名の一般県道が2路線あります。1つは福島県道163号富岡停車場線。もう1つは群馬県道206号富岡停車場線です。路線名の前に福島県道、群馬県道を冠することで識別できますから混乱は起きません。白石停車場線も北海道と宮城県の双方にあります。

[70558]じゃごたろ さん
都道府県道の起点・終点には法則があるのでしょうか。例えば、岩手県道沖田渋民線の場合、起点が沖田で終点が渋民ですが、渋民を起点にして沖田を終点にしなかったのは何故か。起点となるか終点となるかには何らかの法則があるのかな?と思いますが、宮城県道を見ている限りでは法則なしに見えます。

[70567]えすあい さん
私は都市や街並みに興味・関心が有り
私も同じです。とくに、市街や集落の核心地点(へそ)を探したりするのが好きですね。

[70576]熊虎 さん
直江兼続は「チクカン・ギョムソク(Jik-gang Gyeom-sok)」となります。
韓国語と言うのか朝鮮語と言うのか、私には分からない世界ですが、「江」は「カン」と発音されるのですね。もしかして「ガン」と濁ることはないでしょうか。私がまだ髪の毛ふさふさだった頃、巷の若人の間では「イムジン河」という歌が流行っていました。「イムジン河 水清く~」と唄い始めます。ところが、別バージョンの歌詞もあって、それは「リムジンガン 水清く~」で始まります。今日まで、リムジンガンの「ガン」は「河」のことだと思っていましたが、ひょっとして「江」のことなのでしょうか。
[70535] 2009年 6月 18日(木)21:23:28千本桜 さん
ここはどこでしょう
今月某日、とある場所で千本桜家いとこ会が開催されました。参加者は、仙台市、名取市、大河原町、白石市、水戸市、栃木市、桐生市、さいたま市、足立区、横浜市、富士市、静岡市、京都市から集まった40名です。江東区、島田市にもいとこがいますが、この方たちは欠席でした。こうしてみると「町」に住んでいるのは本当に少数派になりましたね。この会は2年に一度開かれ、前回は群馬県草津温泉、4年前は茨城県日立、6年前は宮城県遠刈田温泉で開催されました。今年の会場はトモ子やアキラに出逢えそうな有名観光地の大ホテルです。このホテルは当観光ゾーン最大のリゾートホテルで、一度に千人以上の宿泊客を収容できるそうです。宴会は千本桜家いとこ会恒例の派手な余興で盛り上がりましたが、他人様の目には間違いなく異様な光景に映ったことでしょう。
翌日は「A:奥○○」と呼ばれるエリアを観光しました。宿泊したホテルから直線距離で9キロ。車を走らせて15分で小さな船乗場に着きました。行政上は「B:○○○市」に属しています。ここから「C:○○渓」めぐりの小型船に乗り、40分間の海上遊覧に出発です。白い岩肌の断崖や岩礁が織りなす○○渓の景色は、どこか仏ヶ浦や浄土ヶ浜の景色に似ています。東方遠くに立ち上る煙は「D:○○市」にある製紙工場の煙です。船乗場に戻って再び車を走らせます。船乗場前の小さな橋を渡れば、そこは1,100人が暮らす陸繋島の「E:○○島」です。この島で一番の観光スポットは360度の風景を見渡せる「F:○○森」。標高100mほどの山ですが、私は坂道を登ると背中が苦しくなるので残念ながら登れません。○○森展望台までハイキングするいとこたちを見送り、ひとり麓の集落「G:○浜」を散策することにしました。この○浜には国史跡「○浜貝塚」があります。海辺の小さな村は私にとって非日常の世界。潮の匂いがする集落の家並みや細い路地に心が吸い寄せられて行きます。のどかな初夏の、ちょっと幸せなひとときでした。
A~Gに当てはまる文字を入れてください。
[70341] 2009年 5月 30日(土)08:59:31千本桜 さん
鎌倉
[70333]じゃごたろ さん
鎌倉といったら何を真っ先に思い浮かぶんでしょうかね。

「鎌倉」で思い浮かぶ地名、施設名を思いつくまま順位付けすると、こんな感じです。大船地区は除きます。
1.鶴岡八幡宮、2.鎌倉駅、3.由比ガ浜、4.北鎌倉、5.鎌倉大仏、6.建長寺、7.乱橋材木座、8.紫陽花寺、9.縁切寺、10.雪ノ下、11.扇ガ谷、12.朝比奈切通し、13.江の電、14.小町通り、15.化粧坂、16.鎌倉アルプス、17.七里ガ浜、18.長谷観音、19.円覚寺、20.稲村ガ崎

好きな場所は「佐助」、「十二所」などの静かな隠れ里。好きな地名は何と言っても「乱橋材木座」。地名ではありませんが「段葛」も好きな名称です。鎌倉アルプスをもう一度ハイキングしたいのですが、もう体力的に無理でしょう。貸し自転車で鎌倉めぐりをしたことがあります。
[70235] 2009年 5月 20日(水)23:48:42【1】千本桜 さん
初体験
本日、大河原町の某店で商品購入の申込書にサインをしました。住所欄が少々狭かったので、県郡名を省いた住所を書いて渡しました。でも、県郡名も書いて欲しかったようなのです。店員さんは、私が記入した申込書に「宮城県」と追記しはじめました。そして次に、「大河原って柴田郡ですかぁ?」と質問してきたのです。予想外の質問に、私の脳ミソは一時停止してしまったようです。「はい」とか「そうです」と答えたはずなのに、さっぱり憶えていません。どこから通勤してくる店員さんか存じませんが、大河原の商店の店員さんに「大河原って柴田郡ですかぁ?」と質問されたのは初めてなんです。
その足でマクドナルドに向かい、シェイクをすすりながら考えました。これって、「大河原って柴田郡ですかぁ?」と質問してくる店員さんよりも、こんな時代になっても「郡名」を書けという住所の在りかたの方がおかしいのじゃないのか。そして、末端自治体を「市」「町」「村」の3種類の文字で分類することも時代にそぐわないのではないかと。すべての自治体を「市」にすると、誰か困るのでしょうか。
合併破談で「市」になれなかったから言っているのではありません。合併破談には、むしろ胸を撫で下ろしています。合併したなら馬鹿げた字名変更が実施されることになっていたからです。何が馬鹿げているかと言うと、地番と住所の違いも分らずに、住居表示で新町丁を画するがごとき感覚で大字の境界と名称を変更しようとしていることです。はやい話が、金ヶ瀬字○○の一部を土地区画整理して都市化すると、そこは大河原字○○に変化するのだそうです。都市化すると金ヶ瀬から大河原に変わるって何たるこっちゃ。これでは歴史が許しません。金ヶ瀬字○○の金ヶ瀬(旧名・平)は、かつてその区域が金ヶ瀬(旧名・平)村だった証です。それを大河原字○○に変更したなら、そこはかつて大河原村だったことになります。おお、いやだ。何で地域を嘘で塗り替えて次の世代に引き渡そうとするのか。その根底にあるのは無知と無関心です。今回の合併破談の本当の理由は他にあるでしょうが、私個人の胸の中では、大字大河原に呑込まれそうになり、存在した歴史までが消されようとした大字大谷および大字金ヶ瀬のご先祖様たちが許さなかったが故の破談だと思っています。

マクドナルドのシェークをシェイクに訂正しました。ファーストフード店のメニューって、ほんとに分りにくい。大字小字の方がずっと楽。
[70221] 2009年 5月 19日(火)07:43:17千本桜 さん
県道
[70203]ペーロケ さん
主要地方道として呼ぶ場合は「主要地方道佐野古河線」と呼び、路線番号である「9号」の入る余地がありませんが、県道として呼ぶ場合は「栃木県道9号佐野古河線」と、何故か9号が入ってしまいます。
「主要地方道9号佐野古河線」と呼ぶことに違和感を感じておられるのですね。これは、呼び方の「慣れ」のせいだと思います。県道は主要地方道と一般県道に大別され、主要地方道には1桁、2桁番号が付され、一般県道には3桁番号が付されています。中縮尺の路線図(一般の人は目にする機会の少ない役所用の地図です)作成にあたっては、「主要地方道14 一関大東線」、あるいは「(主)14 一関大東線」、または○の中に主を入れて「○主14 一関大東線」のような表わし方で、路線番号と路線名を主要地方道のルートに沿わせて貼り込んだものです。ですから私は、「主要地方道9号佐野古河線」と呼ぶことに違和感を感じません。主要地方道以外の県道は一般県道ですから、「一般県道123 保原伊達崎桑折線」や「(一)123 保原伊達崎桑折線」などと表わします。また、一般的は主要地方道と一般県道に分けずに、「県道14 一関大東線」、「県道123 保原伊達崎桑折線」でも一向に差し支えないと思います。

「県道」となるとせいぜい県単位の話なので「9号」で通るものが、「主要地方道」となると県をまたぐ広域的なものになってしまうため、そのレベルでの路線番号の統一がなされていない、つまり、あちこちに「主要地方道9号」がある、ということなんでしょうかねえ?
宮城県を例にとると、県内で完結せずに他県に跨る県道は、主要地方道が11路線、一般県道が16路線あります。複数県に跨る一般県道は結構多いものなのです。本題の「路線番号の統一がなされていない」については、[70179]でじゃごたろさんが書いておられるように、ほぼ統一されています。例えば、宮城県気仙沼市と岩手県陸前高田市を結ぶ「主要地方道気仙沼陸前高田線」は、宮城県でも県道34号ですし、岩手県でも県道34号です。そして、両県とも他の路線には34号を付さないように調整してあります。たぶん、ペーロケさんはこのことが不思議なんでしょう。私も当初は、どのように調整しているのだろうと不思議でした。宮城岩手両県に跨る路線番号と同じものが、宮城福島両県に跨る路線にも使われているのではないかと心配になったものです。ちなみに、福島県の県道34号は宮城県に跨らないように、県内で完結する「相馬浪江線」に付されています。
[69243] 2009年 4月 16日(木)06:46:20千本桜 さん
お花見の人出ランキング
[69174]リトル さん
[69237]興田小 さん
今年の一目千本桜は、一気に咲いてあっという間に散り始めました。あれ~、という感じ。もう、山田五十鈴さん状態です。2008年、東北地方の桜名所の人出ランキングです。どのようにして人出を確認するのか分りませんので、あまり信用はしていないのですが・・・。なんとなく目安になりそうです。

桜の名所所在地2008年の人出
弘前公園青森県弘前市2,000,000人
角館秋田県仙北市1,160,000人
展勝地公園岩手県北上市550,000人
三春滝桜福島県三春町300,000人
千秋公園秋田県秋田市260,000人
白石川堤一目千本桜宮城県大河原町250,000人
芦野公園青森県五所川原市250,000人
霞城公園山形県山形市219,000人
鶴ヶ城福島県会津若松市200,000人
船岡城址公園宮城県柴田町200,000人
天童公園山形県天童市200,000人
弘前公園、角館、展勝地公園がベスト3です。この三ヶ所は、花見時がゴールデンウィークと重なって人出が多くなるのだとは思いますが、200万人を集める弘前公園はさすがです。
[69171] 2009年 4月 10日(金)12:56:55千本桜 さん
桜情報
ただいま白石川堤の一目千本桜まつり会場から戻ってきました。花見客が結構繰り出していました。3、4日前に蕾がほころんだばかりで堀北真希ちゃんみたいだったのに、今朝は何と沢口靖子さんになっているではありませんか!。今度の日曜(12日)は松坂慶子さんのように満開になるでしょう。次の日曜(19日)には山本富士子さんを通り越して山田五十鈴さんになっている可能性がありますので要注意です。それにしても松坂慶子さんみたいな満開桜が8キロにわたって連なっているなんて、悩ましくて悩ましくて、見に行かずにはいられない。
[69022] 2009年 3月 26日(木)08:58:13千本桜 さん
湊村、大区小区、市坊
[68834]白桃さん
でも、それなら何故「日本地誌提要」の湊村の人口が2,221人になっているのか。(湊村は、明治22年に石巻町と稲井村に分割されていますが、これと関連するのか・・・)
[68874]千本桜
推測するに、湊村の井内・磯田地区は時に、湊村本体とは別の地域として取扱われていた可能性が無きにしも非ずです。すると、「日本地誌提要」の湊村の人口2,221人は、井内・磯田地区を除いた人口ではないかという推測が生まれます。勿論あくまでも推測です。
井内・磯田地区が湊村本体と切り離されて別の地域として扱われていた可能性があると推測したのは、古い地形図の読図を通してのことでした。町場を成す湊村本体と井内集落の間には、人家の無い非居住区間があって隔絶感がありましたからね。どうやら、その推測が当たっている可能性が濃厚になりました。大小区制の資料を見ているうちに、それを決定づけるような記述を目にしました。
明治5年の大小区制では、幾つかの藩政村を併せて1つの小区にしているのが一般的です。しかし、人口の多い村は単独で1つの小区になりました。石巻村、門脇村、湊村は人口の多い村なので、それぞれ単独で1つの小区です。牡鹿郡は第13大区で、その1小区は石巻村。2小区は門脇村。4小区は湊村です。ですから、1小区の欄には石巻村、2小区の欄には門脇村、4小区の欄には湊村と記載すれば済むことなのに、1小区「石巻村、石巻村の内 墨廼江、石巻村の内 袋谷地」、2小区「門脇村、門脇村の内 釜」、4小区「湊村、湊村の内 井内」と書いてあります。このことから、石巻村は石巻本体墨廼江袋谷地に、門脇村は門脇本体に、湊村は湊村本体井内に区分される慣習があったのではないかと推測できます。石巻村の本体は共武政表で言うところの石巻港駅、門脇村の本体は門脇港に当たると考えて良いのではないでしょうか。
井内が湊村と分れて稲井村になったのは明治22年のことですが、湊村はそれ以前から湊本体地区と井内地区(磯田を包含)に分けて扱う慣習もあったということになるでしょう。明治8年共武政表での人口2,599人は井内を含み、日本地誌提要の人口2,221人は井内を含まないものと考えてはいかがでしょう。たまには墨廼江も呑んで下さい。

[68958]YTさん
「市坊を置かず」とは大区小区制が制定されていない地域で、小区に所属する町村の数が確定していなかったのだと理解しています。
でも、東北地方で「市坊を置かず」と記載された名邑は、羽前の長瀞、羽後の大曲および百三段新屋の3名邑ですが、それらは大区小区に組みこまれていたのではないですか?。鹿児島とか仙台のような大城下町以外のありふれた小名邑においては、市坊と大小区制の関連は無いのではないかと感じています。明確な裏づけの無い、ただの勘ですが。長瀞、大曲、百三段新屋を結びつける共通点って何だろう。新たな謎ですね。
[68973] 2009年 3月 22日(日)21:20:31千本桜 さん
Re:日本地誌提要の「名邑」で抜けた名邑中の名邑はどこか?
[68970]白桃さん
さて皆様、予告通りクイズを行いますので、御用とお急ぎでない方はお付き合いください。
今夜もブンブンなんだから
[68954] 2009年 3月 21日(土)16:16:34千本桜 さん
名邑・市坊
[68890]YTさん
YTさんの書込みを引用
名邑市坊戸口人口備考
石巻122,23410,325宮城県支庁
湊村65092,221石巻より北上川を隔つ
教えてください。名邑の人口とは何なのか分らなくなってきました。上記YTさんの書込みからは、湊村には6つの市坊があって、その人口が2,221人とも受取れるのですが、名邑の人口とは市坊だけの人口なのでしょうか?、それとも村落部を含んだ自治村全域のものなのでしょうか。
市坊とは日常的に使われない言葉ですが、私なりに次のように解釈していました。「市坊」とは、多くの人が集まる賑やかな町場で、村落とは異なる場所。つまり、市街地という言葉に置き換えることができる場所で、しかも、「お上」が認定?した町場を指すのかな?と思っていました。上手く伝えられなくて済みません。
そのような考えを基に、幾つかの名邑の市坊を想定してみました。間違っていたらごめんなさい。
名邑 旧国 郡 戸口 人口 市坊・備考
棚倉 磐城 白河郡 476 2,250 市坊4,伊野上・伊野下2村を総称す
角田 磐城 伊具郡 258 1,575 市坊3
桑折 岩代 伊達郡 536 2,333 市坊3
棚倉の市坊は新町古町鉄炮町下町の4町と想定しました。現在の住所は大字名「棚倉」を冠し、棚倉町棚倉字新町、棚倉町棚倉字古町、棚倉町棚倉字鉄炮町、棚倉町棚倉字下町となっています。
角田の市坊は本町仲町天神町の3町と想定しました。現在の住所は大字名「角田」を冠して角田市角田字町となっています。本町、仲町、天神町は正式住所ではありませんが、今でも通称名として頻用されています。
桑折の市坊は西町本町北町の3町と想定しました。現在の住所は大字なしの桑折町字西町、桑折町字本町、桑折町字北町となっています。
勘違いしているかもしれませんが、このようにして市坊を特定してみると、城下の武家屋敷は市坊に含まれないのかな?、武家屋敷の住人は名邑の人口に含まれないのかな?などの疑問が涌いてきました。いずれにしても市坊とは何なのか?。名邑の人口は市坊だけの人口か?。それとも武家町と町人町の双方を含んだ市街地全体の人口か?などなど、思うこと多々あります。ご存知でしたら教えてください。

[68897]白桃さん
井内・磯田地区の人口が2,221人だったという説は成り立たないでしょうか。
一瞬、ドキッとしました。でも、やはり無理だと思うのです。角川地名大辞典によれば石巻市大字井内(旧湊村の井内・磯田地区)の人口は886人です。この人口は、稲井町が石巻市に合併した昭和40年代のものか、辞典が編集された昭和50年代のものか定かではありません。しかし、これから推測すると明治6年頃の人口は200人か300人程度だったと考えられます。

明治22年の人口が6,440人(内務省告示)ですが、これはかなりの人口規模です。もちろん8村プラス井内・磯田ですので、それぐらいは当然と言えば当然かもしれませんが、稲井村の中心は井内(「いうち」ではなく「いない」)ですよね。
稲井村の中心(役場所在地)は井内ですが、井内は井内でも湊村から分かれた井内・磯田地区、つまり大字井内ではなく、大字大瓜の字井内です。昭和20年代に測量された5万分の1地形図を見てみます。この辺りを川が流れています。たぶん、真野川の旧流路だと思います。左岸(地図上では右側)には大字井内の集落、右岸には大字大瓜字井内の集落があります。どちらも町場と言うには寂しすぎる集落で、名邑に値しない村落です。YTさんは、明治6年1月1日調「名邑」の人口 (4)の中で、湊村の市坊が6と書いておられます。井内には市坊らしきものが見当たりませんから、市坊6、人口2,221の湊村は井内・磯田のことではなさそうです。

ところで、日本地誌提要になぜ採用されなかったかわからない「名邑」がいくつかありますが、その最たる名邑だと私が思っているところについて、YTさんの連載が終わりましたらクイズ形式で言及したいと思います。
たぶん、高度なひねりが入ったクイズになりそうですね。クイズには差障りがないと思いますので、深く考えずにパッと見て「何でここが名邑に採用されないの?」と感じたものをいくつか発表します。○河国の○原、同じく○宮(現在名は○○宮)、相○国の○塚、上○国の○原、下○国の○田、美○国の○治○、○野国の○川、越○国の○附など結構ありますね。
[68874] 2009年 3月 19日(木)06:51:09千本桜 さん
湊村
[68834]白桃さん
「日本地誌提要」の湊村と「共武政表」の湊村は同一のものかな・・・???
同一の村ではないかと思います。

でも、それなら何故「日本地誌提要」の湊村の人口が2,221人になっているのか。(湊村は、明治22年に石巻町と稲井村に分割されていますが、これと関連するのか・・・)
関連の有無について確かなことは分りませんが、あれこれ推察してみます。
関連があるとする場合の根拠。明治22年に湊村(井内・磯田地区を除く)は石巻村、門脇村と合併して石巻町になり、石巻町大字湊となりました。同年、湊村の井内・磯田地区は大瓜村、真野村などと合併して稲井村になり、稲井村大字井内となりました。こうしてみると、井内は元々湊村に属していたように見受けられますが、大瓜村にも湊村井内に隣接して井内という字があり、さらに江戸時代には、湊村にも大瓜村にも属さない別個の井内村(湊村井内・磯田と大瓜村井内の区域か?)があったようなのです。推測するに、湊村の井内・磯田地区は時に、湊村本体とは別の地域として取扱われていた可能性が無きにしも非ずです。すると、「日本地誌提要」の湊村の人口2,221人は、井内・磯田地区を除いた人口ではないかという推測が生まれます。勿論あくまでも推測です。
次に、関連がないとする場合の根拠です。もともと「日本地誌提要」の人口は、町場・市街地の人口統計だとします。思うに、井内・磯田地区は明治の始めごろ、町場・市街地を形成していたとは思えない。ですから、はじめから人口集計の対象外区域であったとします。すると、湊村から井内・磯田地区を除外しても人口数値は変わらないことになります。

また、石巻村の「港駅」以外の人口と門脇村の「港」以外の人口はどこに行ってしまったのか・・・???
村落部の人口は最初から問題視されていなかったのではないかと考えます。あくまでも推測ですが・・・。

話は変わります。石巻も門脇も湊も人口が増えて市街化が進み、住居表示実施区域が増えて大字区域が狭まっています。大字石巻の居住区域はすべて住居表示が実施されて、住所の上からは大字石巻が消滅しています。大字湊の居住区域もほとんど住居表示され、牧山一帯の非居住地区この辺りに湊字滝尻などのように大字名+小字名の住所形式が残っているだけです。平成の大合併で石巻市は周辺町と合併し、新しい石巻市になりました。もし、この時、「石巻市」ではなく「東宮城市」という市名になったと仮定します。すると、石巻市湊字滝尻の住所はどのように変わっていたでしょう。下記の中からお好みのものをお選びください。
1・東宮城市石巻町湊字滝尻
2・東宮城市石巻湊字滝尻
3・東宮城市湊字滝尻
4・東宮城市石巻町字滝尻
5・東宮城市石巻字滝尻
6・東宮城市字滝尻
私は1、2、3のいずれかを選びます。特に3が好みです。でも、断じて4、5は選びません。それなのに・・・。
[68681] 2009年 2月 23日(月)22:11:16【1】千本桜 さん
ホテルがない19万人圏域の中心都市
平成18年事業所・企業統計調査結果によると、宮城県で宿泊業の従業者数が最も多いのは仙台市で、その後に鳴子温泉郷を抱える大崎市、名勝「松島」を抱える松島町が続いています。では、従業者数が少ないのはどこか。県内36市町村のうち、下位の10町村を抜き出します。

順位市町村名従業者数事業所数
27位丸森町337
28位富谷町312
29位美里町308
30位涌谷町276
31位山元町274
32位七ヶ宿町126
33位大郷町112
34位大衡村84
35位色麻町42
36位大河原町31
案の定、マイナーな自治体が名を連ねる結果となりましたが、最下位はなんと大河原町。従業者3人の旅館が1軒あるだけ。これで19万人圏域の中核って、♪ほんきかしら。どうしてこの町にホテルが立地しないのか、その原因が今も分らない。

「従業員3人」を「従業者3人」に訂正しました
[68664] 2009年 2月 21日(土)20:20:40千本桜 さん
飲食業の集積
柴田町・村田町・大河原町合併協議会が実施した住民アンケート調査によると、柴田町・村田町では「レストランや喫茶店」の快適性に不満を感じている住民が多く、相対的に大河原町では不満度が低いという結果が出ています。飲食店の数や種類の少なさからくる不満だと思います。そこで、平成18年事業所・企業統計調査から仙南地域2市7町の「一般飲食業+遊興飲食業」の従業者数および事業所数を抜き出し、平成17年国勢調査人口で除して人口千人当たりの飲食業従業者数を算出してみました。

市町名従業者数事業所数人口人口千人当たりの従業者数
大河原町86915123,33537
白石市73918739,49219
柴田町64514139,80916
角田市53313633,19916
蔵王町2716313,31820
川崎町1523610,58314
村田町1473712,74012
丸森町1003716,7926
七ヶ宿町3681,87119
人口では4番目の大河原町が飲食業従業者数ではトップに躍り出ます。圏域における中心性のあらわれだとは思いますが、事業所統計を見るたびに思うのは大河原町の宿泊業の貧弱さです。宿泊業の事業所数1、従業者数3人って、19万人圏域の中心にしてはお粗末で歪な構造。最近、郊外型ホテルチェーンとして成長しているホテルルートインなどが進出してくれると嬉しいのですが・・・。
[67800] 2008年 12月 31日(水)19:48:36千本桜 さん
この一年
2006年の暮れに、「この一年」と題して下記の書き込みをしました。
この一年、私の中で大きな比重を占めていた物の一つに、とある町が合併に向けて決定した町名・字名の取扱問題が有ります。
今年もやっぱり、私の中で大きな比重を占めていたのは この問題です。O町絡みの合併協議会は平成17年に破談解散しましたが、また再び同じ枠組みで再開して協議進行中です。市名は「柴田市」に決定しました。さあ、市名の後に続く住所はどうなるのでしょう。心配です。字名の取扱いについては、先の合併協が結審したものをそのまま生かす考えでいるような空気がひたひたと伝わってきます。もう、タイムリミットです。合併したならO町域の大字は嘘っぱちになってしまいそうで怖い。書込みしないでいようと思いましたが、自分の考えを再確認する意味も含めて、許せないO町の大字改悪というHPを作りました。いま作り終えたばかりの、できたてほやほやです。もう直ぐ今年も終わりですね。では皆様、ほやほやの新年をお迎えください。ほやほや。


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