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hmtさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[90033]2016年3月2日
hmt
[90029]2016年3月1日
hmt
[90023]2016年2月29日
hmt
[90008]2016年2月25日
hmt
[90002]2016年2月20日
hmt
[90000]2016年2月20日
hmt
[89994]2016年2月17日
hmt
[89991]2016年2月15日
hmt
[89989]2016年2月15日
hmt
[89983]2016年2月13日
hmt
[89967]2016年2月11日
hmt
[89954]2016年2月6日
hmt
[89935]2016年2月4日
hmt
[89934]2016年2月4日
hmt
[89933]2016年2月4日
hmt
[89925]2016年2月2日
hmt
[89901]2016年1月30日
hmt
[89899]2016年1月30日
hmt
[89879]2016年1月26日
hmt
[89541]2016年1月9日
hmt
[89423]2016年1月2日
hmt
[89357]2015年12月28日
hmt
[89356]2015年12月27日
hmt
[89353]2015年12月27日
hmt
[89349]2015年12月26日
hmt
[89321]2015年12月21日
hmt
[89272]2015年12月11日
hmt
[89267]2015年12月10日
hmt
[89261]2015年12月9日
hmt
[89260]2015年12月8日
hmt

[90033] 2016年 3月 2日(水)17:29:16【1】hmt さん
Re:国勢調査データをよろしく!
[90032] グリグリ さん
【リリース当初から自治体コードが表示されていたのは】国勢調査データです。

早速のお返事ありがとうございます。
発端となった[90023]の指摘【このサイトの中でコード自体の表示がなかった旨の発言】は、ご推察のとおり、国勢調査データ 全体が今回初めてリリースされたと勘違いしたことに基づくものでした。

確かに、面積データに関連して書いた[84563]の中で、「グリグリさんも、データベース検索や国勢調査データなど関連メニューの再編成を視野に入れる必要性に言及」と発言しているのですが、実はその5ヶ月前に「国勢調査データ」が現実に発足していたこと[83734]に気づかないまま、まだ計画中のメニューと思っての発言だったのです。

国勢調査そのものについては、落書き帳の中でかなり多くの発言を残している hmtですが、各回の個別データ比較となると関心度が薄いというのが正直なところです。
「国勢調査データ」発足の2013年夏には、頭が御母衣や松江の方に行っており、国勢調査から離れていたようです。

そのようなわけで、2013/7/28「国勢調査データ」のリリース当初から、自治体コードが表示されていた。
そのことを、今回初めて理解しました。
[90023]の指摘は勘違いであり、[90029]はそれを引きずった疑問でした。

それにしても、元のデータベースとしては自治体コードを含めて整備されているのに、市区町村プロフィールにはコードが表示されておらず、データベース検索の表示項目にもなっていない。
この現状は、宝の持ち腐れではないでしょうか。

「都道府県市区町村」サイト利用者全体のことを考え、国勢調査データ以外のページからも 自治体コードを探しだすことができるよう、ご一考いただけないかと思います。

リクエストを頂いていた振興局の表示を北海道の市に対しても入れてみました。

早速のご採用ありがとうございます。

例えば、人口順の表示では若干違和感がありますけど(北海道の市にだけ表示が追加されるという点で)

「(総合)振興局」という表示自体が「住所の表示」【郡を使用】と違うので、若干の違和感は当然です。
この表は、住所とは関係ない「行政的な所属区分」を表わしたものであると割りきって考えましょう。
そのように割り切れば、知事の権限の一部が支庁長【(総合)振興局長】に委ねられている北海道だけに、道と市町村との間に独自の区分ができていることが理解できるでしょう。北海道行政組織規則[71706]
[90029] 2016年 3月 1日(火)21:47:02hmt さん
自治体コードが表示されているのは どこでしょうか
[90026] グリグリさん
自治体コードはリリース当初から表示しており滝沢市誕生時にも更新対応しています。

自治体コードが表示されるページとして 真っ先に思い浮かぶのは 市区町村プロフィール です。
しかし、例えば “滝沢市誕生時に更新対応” されたという新設コード「03216」。
市区町村プロフィールには、コードを表示すべき 列 自体が存在していません。

市町村一覧表の下に設けられ、県旗をクリックすることにより開く「岩手県のデータ」。
その中にも、自治体コードに関する項目は見当たりません。

リリース当初から自治体コードが表示されていたのは どこでしょうか?
[90023] 2016年 2月 29日(月)21:58:08【1】hmt さん
国勢調査データ(比較ページ)
[90022] グリグリさん
公表された平成27年国勢調査の速報値を受け、平成合併前からの国勢調査人口との増減比較表を示していただきました。
膨大なデータにもかかわらず、見易い表を早々と作り上げていただいた処理能力に感心するばかりです。

さて、本筋の人口増減に関するコメントではないのですが、この表に接しての感想を少々記します。

1 市区町村コード
この「都道府県市区町村」サイトの中で、「市区町村プロフィール」を始めとする多くの表では、地方自治体コード順の配列が行なわれてていたものの、コード自体の表示がありませんでした。
例外はありますが、市コードの数字は県内で生まれた市の順番を示し、欠番は消滅した市への思いを誘います。町村のコードも、県内の位置や県庁所在都市からの遠近など、なかなか示唆的であり、単なる順番付け以上の役目を果たしています。
このサイトの表の中に地方自治体コードが登場したことは、歓迎すべきことだと思っています。

付言すると、市区町村コードを含む地方自治体コードは、1968年に自治省が導入した6桁の「全国地方公共団体コード」以来3種類がありますが、最も普通に使われているのは、今回の表にも使われている5桁の 「統計に用いる標準地域コード」 で、2009年に総務省統計局所管の現在の名称になりました。

上記のリンクで得られる最新のコード一覧表【2014年滝沢市】は、hmtマガジン 自治体コード の説明文からのリンクでも得ることができたのですが、今回提供された 人口比較表【市町村】により、このサイト内で直接に見ることができるようになりました。

2 北海道の(総合)振興局
上記の「人口比較表【市町村】」を見ると、市については「(総合)振興局/郡」の列が空欄になっています。
明治時代に制定された法律「市制」の時代に「郡」から独立した存在として発足した「市」ですが、こと北海道に関する限り「(総合)振興局」の列を空欄にしておくのが適切かどうか、問題があるように思われます。

北海道支庁設置条例によると、「市」は形式的には「支庁」に含まれず、これが現在の「(総合)振興局」にも持ち越されています。
しかし、条例の他に「北海道行政組織規則」が制定され、そこでは市の区域に係る事務であって支庁長において処理することとされているものが定められました。

(総合)振興局が所掌する事務は広範なものであり、これにより、実務上 では、北海道の市は(総合)振興局の管内と位置付けられています。

このような実態から考え、今回の人口比較表においても、北海道各市の所属する(総合)振興局が記載されることが望ましく、これは各市の地理的な位置を認識するのにも役に立つと思われます。
ご一考いただけないでしょうか。
[90008] 2016年 2月 25日(木)17:49:07【1】hmt さん
伊豆が「関東」だった頃
[90003] 伊豆之国さん 熱海は関東ではない
「伊豆」にルーツを持つ人として大いに違和感を抱かざるを得ません。第一、熱海が属する伊豆国は「関八州」の中には入りません。

ごもっともな意見ですが、せっかくの機会なので、伊豆と関東との昔の関係を少し考えてみました。

「関八州」という言葉は、江戸時代に広く使われていた言葉と思います。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、「関西38国」「関東28国」という日本60余州を二分する用例 建仁3年8月27日の記事がありました。歴史背景 
このような「広義の関東」の用例もあり、その場合、伊豆はもちろん関東の域内です。

江戸時代の「関八州」は、いざという時の江戸防衛を担うべき 箱根関・小仏関・碓氷関を意識した範囲です。
もっとも、戊辰戦争に際しての防衛線としては、全く機能しませんでした。
この地理意識では、防衛線西側の伊豆・駿河・甲斐・信濃は「関八州」の外であり、結果的には、これが 明治以降の「関東地方」に持ち越されていると思われます。

夏目漱石『坊っちゃん』(1906)の記述は、「箱根が境界」という江戸っ子の地理意識を裏付けています。
四国辺のある中学校の数学教師として東京を立つ 三日前に清(きよ)婆さんを見舞い、
おれの行く田舎は「西の方だよ」と云うと「箱根のさきですか 手前ですか」と問う。

しかし「都道府県」に関心をもつ私達としては、明治初期に導入された地理区分にも注目したいと思います。
明治4年11月14日の太政官布告第584号は、それを示しています。
今般関八州 群馬県を除くの外 並に伊豆国 従来の府県被廃 更に左の通 府県被置候事
足柄県 県庁 小田原
相模国 足柄上郡 足柄下郡 高座郡 大住郡 愛甲郡 陶綾郡 津久井郡 
伊豆国一円

この足柄県の後、神奈川県 東京府 入間県 埼玉県 木更津県 印旛県 新治県 茨城県 栃木県 宇都宮県と続きます。
余談:神奈川県,東京府,木更津県,栃木県,宇都宮県に県庁所在の都市名が記されていない理由がわかりますか?
都市名を名乗った府県では、県庁所在地が自明であるために、記す必要がなかったものと理解されます。
少し先立って出された 群馬県第559号を加えると、関東9ヶ国(伊豆を含む)は 1府11県[36047]になります。

高座郡が神奈川県でなく足柄県に記載され、淘綾(ゆるぎ)郡の表記にも疑問点があります。しかし明治4年11月の「3府72県体制」では、この布告により明らかなように、伊豆国は相模国の大部分と共に「足柄県」に編制されました。

[24127] Issie さん
伊豆国は相模国西半部(当初は境川以西。実際は相模川以西)とともに「足柄県」に編成され,県庁を相模国足柄下郡小田原に置きました。
ここでは,紛れもなく「伊豆は関東の一部」となりますね。

[24127]にも記されているように、「韮山代官」支配地は、江戸時代から関東と結びついていました。その一例:江川代官所経由で幕府に提出された相模国津久井県「青山村御林絵図」弘化4年[55523]
江川代官所支配地域は、伊豆だけでなく 武蔵・相模・駿河・甲斐の各国に及んでいました[59110]

代官である江川氏の本拠地・韮山の役所は 支配地の分布からすると 南西部に偏った場所ですが、韮山代官は通常は江戸役所【武蔵・相模・甲斐を担当】にて勤務し、冬だけは韮山代官所に入ったとされます。参考
江戸(本所)と韮山と2つの役所の他に、伊豆国三島、甲斐国郡内地方の谷村、駿河国富士郡の松岡【東海道の富士川東岸付近】にも陣屋が存在。
これら幕府直轄領には、版籍奉還よりも前に 韮山県 が設置されています。

ここで注意したいのは、韮山県が 明治4年11月に 足柄県に統合されたのではない ことです。
韮山を始め伊豆国内の管轄地は足柄県になりましたが、韮山県でも武蔵国多摩郡所在の村の多くは東京府に、一部は入間県にという具合に所在地に応じて異なる府県になります。旧田安家領など甲斐国にあった韮山県所属地も(甲府県経由で)山梨県になるなど、複雑な動きがあるようです。
明治4年11月の変更が、同年7月の廃藩置県 及びそれ以前に作られた県の「統合」ではなく、所在する郡を単位として県を再構成する整理(リセット)であったことは、[76179]で記した通りです。

もっとも、府県の整理作業はこれで完了したわけではありません。伊豆国だけを見ても、明治9年(1876)4月18日に静岡県に移管され、更に明治11年(1879)1月11日に伊豆七島が東京府に移されます。
伊豆半島の存在故に細長い足柄県は、好一対の能登半島を持つ石川県と違い、短命に終りました。
当時は関東地方、中部地方という区分は存在しなかったし、「関八州」に属していない伊豆七島を「関東」と呼ぶのにも少し抵抗を感じますが、伊豆の島々は 関東の足柄県から中部の静岡県へ、再び関東の東京府へ と流転することになりました。

時代は戻りますが、武家政権を樹立し、自らの支配地域を「関東」と呼び始めた東国武士団。
鎌倉政権の最有力武士として、政子の実家・北条氏がありました。北条とは、伊豆国田方郡にあった地名のようです。歴史的視点からすれば、伊豆は間違いなく「関東」であったと思われます。

そして室町幕府が設けた鎌倉府。その長官は「鎌倉公方」または「関東公方」と呼ばれ、関八州に伊豆国と甲斐国とを加えた10ヶ国を支配しました。鎌倉公方の当初の役職名は「関東管領」だったようですが、後には執事の上杉氏【足利尊氏の母の家系】が「関東管領」と呼ばれるようになりました。
扇谷上杉家の家宰・太田道灌が1457年に江戸城を築いた頃の関東。既に関東公方や関東管領が入り乱れた内戦が始まり、鎌倉公方は古河に逃げ出したので「古河公方」。公方の後任も鎌倉入りできず「堀越公方」。
結局のところ 堀越御所の支配地は伊豆国だけとなり、最後は「伊豆国討入り」をした北条早雲に滅ぼされました(1493)。
1495年に小田原城を奪取し、戦国時代の関東経営で知られた後北条氏の起点も、伊豆国だったのでした。
蛇足:江戸時代にも喜連川【栃木県さくら市】の藩主になっていたのは、古河公方の後裔のようです。

熱海を含む伊豆国が「関東地方」の域外扱いされるのは、現在の都道府県に基づく地方区分をとる限り、やむを得ないことでしょう。
しかし、歴史的観点からは どうも「伊豆と関東とは切っても切れぬ縁にある」と考えた方がよさそうです。

伊豆七島【現在は伊豆諸島】のことはさておき、伊豆国が「関東」であるか否かという問題は、結局のところ その時々の地方制度次第 と思われます。
それにしても、明治9年4月に「伊豆国は静岡県」という形になり、そのまま定着した真の理由は何だったのでしょうか?

明治9年(1876)、この年には4月18日と8月21日の2回に分けて所謂「第2次府県統合」が行なわれました。太平洋側では 4月に足柄県が分割され神奈川県と静岡県とに分れただけでなく、8月には浜松県も静岡県に統合されました。
そして日本海側でも、石川県が 4月に新川県を、8月に敦賀県の嶺北も統合して「大石川県」になりました。

足柄県が分県・消滅という貧乏くじを引いた直接原因は、府県を再編成する試行錯誤の一過程における「3府35県体制」でした。しかし、嶺北が石川県へ、嶺南が滋賀県へと分県・消滅の道をたどった敦賀県の方は、明治14年(1881)に「福井県」という名で復活しています。越中国も明治16年には富山県として分立再置。

これらの復活組と比べると、静岡県の一部として定着した伊豆国・遠江国はどこが違っていたのでしょうか。
伊豆/駿河について言えば、三島と沼津との関係が伊豆を静岡県に引き止めるように働いたのでしょうか?

現状の伊豆。これは「府県」とは別の枠組みである「伊豆・箱根」の方が 収まりがよいように感じます。

最後に、現代生活に欠かせない電力で使われた「関東」。
50Hz東京電力管内は、伊豆にとどまることなく、駿河国の一部に及んでいます。
戦時体制下では富士川の東・現在の東京電力管内に電気を供給していたのは、「関東配電」という会社でした。「関東電気保安協会」という名は、現在もこの地域で使われています。
[90002] 2016年 2月 20日(土)12:16:41hmt さん
都道府県と市町村の役割分担
[90001] ぺとぺとさん
これは、平成24年3月31日以前の旧法においては「知事」が告示することになっていたためです。

早速のご教示、ありがとうございます。

「地方分権一括法」と呼ばれる平成11年法律第87号は、平成大合併にも深く関係するものであり、落書き帳の記事でも何回か言及していました。最近では[82018]

しかし、都道府県から市町村への権限委譲政策はその後も進められているのですね。 内閣府
その代表的なものとして、平成23年に成立した「第2次一括法」。

この一括法が落書き帳に登場したのは初めてのことと思いますが、法律専門家でない者にとっては、700頁以上に及ぶ膨大な新旧対照表には 目を奪われるばかりです。
[90000] 2016年 2月 20日(土)08:43:56【1】hmt さん
愛西市平和町
地名変更情報
[89999] おっ、次は90000番だ。

では、折角与えられた機会を生かし、若干のフォローを。

愛知県中島郡平和町は 2005/4/1に その全域が稲沢市に編入されて消滅しました。

市区町村変遷情報の方は 1行で済んでいるのですが、郵便番号・住所での「愛西市平和町」が『自治体越えの地名』を裏付ける根拠として出され、話が複雑化しました。記事集

私は愛西市町名一覧を根拠に、【現状での】否定的結論に肩入れしただけだったのですが、その後の記事により、過去の一時期には愛西市平和町が実在したらしい情報が示されました。
そして、[89962]で正攻法と思われる公報により確認する道筋が示され、[89997]によって、愛西市平和町の誕生から消滅に至る経過の確認が示されたわけです。
すっきりと解決していただき、感謝します。

この機会に、市町村区域内の町字変更手続と、その効力発生公示に関する 地方自治法の条文を 改めて確認しておきます。
----------------
第二百六十条第1項 市町村長は、政令で特別の定めをする場合を除くほか、市町村の区域内の町若しくは字の区域を新たに画し若しくはこれを廃止し、又は町若しくは字の区域若しくはその名称を変更しようとするときは、当該市町村の議会の議決を経て定めなければならない。
第2項 前項の規定による処分をしたときは、市町村長は、これを告示しなければならない。
第3項 第一項の規定による処分は、政令で特別の定めをする場合を除くほか、前項の規定による告示によりその効力を生ずる。
----------------
効力発生は、法律では「市町村長の告示」が原則になっています。
[89997]で紹介された愛知県知事告示に効力発生日が記されていることは、愛西市平和町の勝幡町編入の件が「政令(地方自治法施行令第百七十九条)で特別の定めをする場合」であったということでしょうか。

[89997] ぺとぺとさん
愛西市平和町誕生の記録はあるのに消滅の記録がなかったのは、個人的に少し疑問に感じています。

市や県の告示記録が存在するとしても、閲覧が容易でない情報も多いことです。国土地理協会情報には掲載してほしいですね。
郵便番号。こちらも地名廃止で実体を失ったゴミ番号は 廃棄処分してほしいと思います。

ところで、石川県の4自治体に東西南北が分散する事例[75173]から始まった『自治体越えの地名』。
1府3県5郡【誤記訂正】に及ぶ広域にまたがる「葛飾」[75350]まで 話を広げたこともあるのですが、今回の愛西市平和町では、ずいぶん細かい話になってきたと思っています。
それでも、市町村区域内の町字変更情報というものについて改めて考えさせられ、有益な経験を得ることになりました。
[89994] 2016年 2月 17日(水)17:15:24hmt さん
海と島 (26)長崎県小値賀町・野崎島
BS JAPANの『空から日本を…』で 「長崎県五島列島」が放送されました。
第1回 は、宇久島から中通島まで。

私としては 「自然地理的観点」からして、今回のタイトルに異議を唱える気は全くありません。
小値賀町プロフィールにも、「五島列島の北部に位置し」と書いてあります。

しかし「行政的観点」からすると、佐世保市の宇久島や、北松浦郡小値賀町の小値賀島・野崎島などは「平戸諸島」であり、「五島列島」とは別の指定地域として扱われています。離島振興対策実施地域一覧(H27/7/13) p.5参照。

広大な肥前国松浦郡が東西南北4郡に分割されたのは 郡区町村編制法に基づく 太政官布告明治13年第22号別冊 でした。この時に 宇久島・小値賀島は北松浦郡になり、南松浦郡の五島列島と分離しました。
しかし、藩政時代の小値賀島は平戸藩領でした。また 島の数から判断しても、宇久島・小値賀島は、中世以降ずっと「五島」に含まれていなかったのかもしれません[26554]

町の沿革の最後に記されているように、「小値賀町(おぢかちょう)」という仮名遣いを採用していますが、URLに使われた表記は「ojika」です。
2005年に石巻市と合併した宮城県牡鹿町は「おしかちょう」でした。

それはさておき、長い歴史を持ちながら現在の人口は施設管理人1人という野崎島は、落書き帳に何回も登場しています。最近では[89357]

今回 空から眺めて知ったことは、野崎島の中央部に 「ダム湖」が作られていることでした。
事実上の無人島であっても、この島の山に降る雨は貴重な水源として ダム湖 【mapionでは無視されている】に集められ、人口は多いが 水源に恵まれない 小値賀島に 送られているとのことです。野崎島水源の森

その小値賀島。火山島ですが 概ね平坦。ご多分に漏れずの高齢化ですが、それでも島外からの若い移住者もあり、子供も生まれて賑わっていたようなので、一安心しました。
野崎島の水が、この人達を支えているのですね。

野崎島の南に隣接するのは細長い中通島。新上五島町の主島です。
今回の番組動画には、集落ごとに26も作られた教会の分布図がありました。

次回2月23日の放送は 五島列島の第2回で、五島列島最大の 福江島が登場します。
亀の子模様の「三井楽の円畑」を 空から見ることができることを期待しています。
[82801] [82804] [82810] グリグリさん、hmt 参照。
[89991] 2016年 2月 15日(月)19:53:04【1】hmt さん
hmtマガジンの更新 と 利根川歴史地図の修正リンク先
[89986] まなちゃん さん
具体的には「uub.jp/hmt/hmt??.hmtl」→「uub.jp/hmt/hmt??.html」と直していただくようお願いします。

あらあら。ニックネームに紛らわしい略号を使ったのが原因で、誤記に誘導してしまったのですね。
ご迷惑をかけて ごめんなさい。
そして、hmtマガジンをご愛読いただき 有難うございます。

これだけでは単純すぎるので、hmtマガジンの更新を1件入れておきます。【2016/2/16再更新】

群馬埼玉県境の主要部は、昔で言えば「上武国境」をなす利根川に沿っていますが、現在の利根川本流と完全に一致しているわけではありません。

最近の投稿のいくつかは関東平野中央部に関係するものですが、話題が復活している 三県境を始めとして、この地域は 多くの河川による複雑な流れの影響を受けて形成された歴史を持っています。
hmtマガジンの 渡良瀬遊水地利根川と国境・県境との関係に収録された記事は、そのような歴史を理解するのに役立つものと思います。

現在は大河の面影を全く残していない「三県境」。
しかし、歴史を遡って調べると、利根川の分流の一つである「合の川」が「渡良瀬川」と合流していた時代があり、当時の流れに沿って上野国と武蔵国、上野国と下野国、下野国と武蔵国という三国の境界が定められた。
そして、川の流れが変り農地になってしまった現在でも、全国唯一の存在 「歩いて訪れることができる平地の三県境」 として珍重されている。

関連地図を引用しながら 利根川流路変遷図という記事 をまとめたのは、5年前でした。
その少し後、okiさん から『下総国之図』に関する解説記事[77106]をいただきました。
これに対するレスは、既に マガジン に収録していたのですが、okiさん の記事そのものは収録から洩れていました。
遅れ馳せながら今回追加更新しておきます。

マガジンのメンテナンス。これで 一応は済ませた つもりだったのですが、WEBの変化は激しく、見直したらリンク切れが続出していました。
とりあえず、主なリンク先の現在のURLを記しておきます。

URBAN KUBOTA 19号 特集「利根川」 大熊論文の図3はp.21、図4はp.22-23です。
利根川東遷概史
隅田川少考
「下総之国図」収録500年前の江戸川の流れ 変更なし
[89989] 2016年 2月 15日(月)18:12:55hmt さん
三県境の標柱
[89928] グリグリさん
測量が行われる前に写真撮影に行こうかな。
ということで、2016/2/7再訪時[89961]の写真を[89972]で紹介していただき、興味深く拝見しました。
2010/11/21に行なわれたオフ会3県境探訪会の時には水路周辺の地表は雑草や枯草で覆われていたのですが、今回の写真では その大部分が取り除かれ、露地状態になっている。第一印象は、この変化でした。
私なりの感想を記し、それから派生した新しい知見を記しておきます。

2枚目と3枚目が水路合流点です。「土管のような」[89928] 円筒形の杭も確認できますが、それよりも注目に値するのは、その左下に頭を覗かせている標柱です。

これは、毎日電子版記事[89961]で「目印の標柱」として紹介された物であろうと思われます。
用水路の接点で、積み重なった泥を取り除いて目印の標柱をあらわにし、3県の接点と確認した。

オフ会探訪時には大勢で合流点付近を視察したのですが、誰も「目印の標柱」の存在につき発言をしていません。水中に堆積していた泥や草によって 目に触れにくい状態だったのでしょうか。

そんなことを考えながら オフ会探訪ルート写真集を見直してみました。

ルート図には、丸数字1番から20番までの他に、左部に2列、下部に1行の写真が収録されています。
下部右から3枚目に水路合流部の写真があり、確かに枯草のために今回の写真よりも見えにくい状態です。
しかし、よく見ると埼玉県という紙の先に標柱の頭らしきものがあるように思われ、その位置も前記円筒形の杭の左下に見えた標柱の先端と一致するようです。

そのような目で見ると、群馬県領の先端、栃木県領の先端にも柱状構造が見えますが、こちらは細すぎます。
埼玉県側にある柱は、次の4枚目の写真で カメラをかざした手の下方にも見え、やはり人工物のようです。
私達一行は、決定的な証拠を見逃していたのかもしれません。

オフ会探訪ルート写真集に記録されている その他の標石についても記しておきます。
ルート図左部2列目上から7番目は「基点」標石の写真です。地上に現れているのが文字(基点)だけなので、[76876]では標石という言葉を使いましたが、地下に埋められている部分を含めれば、「標柱」の形をしていると思います。最初に挙げた2016/2/7の写真では緑色の看板柱の背後に見えている柱がそれであると思われます。草だけでなく表土の一部が除かれたらしく、見た目が高くなっています。

ルート図上で 11番のすぐ北にある「基点」標石から水路に沿って少し北に進むと、ルート図 12番の「群馬県」標石です。これも 1980年の群馬県区画整理事業([88961]毎日記事)によるものと思われますが、栃木県側の岸に設置されています。その事情については、88さんが[76925]で考察を加えています。

もう一つ、私が知らなかったもので その位置も意味も不明ですが、ルート図左部2列目上から6番目に「板巾」と読める標石がありました。

2016/2/7の1枚目の写真は看板でした。
朝日デジタルの記事によると、栃木市の古沢さんが手作りの看板を立てたのは約20年前とのこと。風雨に晒された手書きの看板は何度も書き換えられたと思われます。
一見すると今回撮影された写真はWEBにある2014年埼玉県民の日(11/14)に撮影された 写真と同じように見えます。しかし、栃木市藤岡町下宮(旧谷中村)・邑楽郡板倉町間田・加須市小野袋の3つの字名に振られた読み仮名が平仮名から片仮名に変更されており、新版であることがわかります。

2014年の写真には「基点」標石の写真もありますが、杭の文字がかすれていて読めなかったと記されています。2010年撮影のオフ会ルート図掲載写真と比べると、不明瞭な文字の下に露出した部分が長くなっているようです。

2014年の写真では、合流点付近が綺麗に整備され、はっきりと直線状の水路である様子が注目されます。
草に覆われていた2010年とは大違いの印象です。
管状の柱も既に立てられていますが、その横には今回掘り出されたとされる標柱らしきものが見えません。

謎は深まるばかりですが、この写真により、右側(北)からの水路と、東に向う左下側の水路との中心線が少し食い違っている様子がわかります。北の栃木群馬県境線と東の栃木埼玉県境線との食い違いが見えるmapionは、この水路に沿って描かれているものと理解されます。

88さんの[76925]には
元は三尺(≒90cm)の土羽(どは、盛り土で作ったの斜面)の水路であり、それを、「群馬縣」の境界柱付近では、コンクリート構造物の水路に改修したものでしょう。3県境付近では「土羽」のままでした。
と記されていましたが、2014年の写真では群馬県側だけでなく、埼玉県側のコンクリート構造物も はっきりと見えます。してみると、「埼玉県」の標柱も見えて当然と思われるのですが、どうしたのでしょうか?

それはさておき、水路と県境の位置関係についても、[76925]は詳細に論じています。要点を記すと
水路の中心線が県境ではなく、この水路【水流だけでなく護岸を含む】が属する県は、3県境から北方向が群馬県、東方向が埼玉県の所属と推定しています。
従って、標石のある護岸までが群馬県である という推測でした。

でも最後に記された言葉は次のようになっていました。3市町による今回の作業は、これなのでしょう。
土地の境界というものは、当該土地の所有者(及び機能管理者ら)が、現地で、境界確定協議の上、測量し、境界確定書(民法上の契約にあたる)を交わすことが必要、となってしまいます。
[89983] 2016年 2月 13日(土)15:44:25【1】hmt さん
女子高生が卒業する3月 石北本線の「旧白滝駅」は廃止
[89971] 桜トンネルさん
JR北海道全453駅のうち、(中略)1日平均で乗車人員が1人以下の駅も58駅あるとのことでした。
参照記事には58駅が列挙され、「※」の駅は2016年3月26日(土)のダイヤ改正と同時に廃止が予定と記されています。廃止駅を数えると7駅です。
北海道新幹線開業を伝える 平成28年3月ダイヤ改正 のp.10で明らかにされている廃止駅は8駅ですから1駅少ない。突き合わせると、石北本線「旧白滝駅」が落ちていました。
【追記】
たびたび話題になった 小幌駅 の「当面1年間存続」も記されていました。
今後の状況を見ながら、1年ずつ更新検討とか。

「旧白滝駅」については、7年前の冬に [67564]で言及したこともあります。下りローカル列車の停車は1日に1本だけ。
ところが調べてみたら、最近 海外メディアで大きく取り上げられた話題と関係していることを知りました。

発端は中国中央テレビ(CCTV)の英語Facebookで、上白滝駅と唯一の利用者である女子高生の物語を写真付きで投稿したものでした。元の記事には 駅名の誤報など正しくない部分もあるようですが、全体として見れば、北海道ローカル駅の置かれた厳しい現状を伝える記事です。

その中で 地元住民や鉄道会社の努力の甲斐あって 駅を3年間存続させることができ、通学の足が確保された物語は、何かほっとさせるものがあります。

この落書き帳で紹介しておくに値する内容であると思われるので、日本の検証記事をリンクしておきます。
[89967] 2016年 2月 11日(木)20:05:40【1】hmt さん
板倉町・栃木市・加須市と地権者との合同による、3県境界確認調査
[89961] グリグリ さん
関東平野の真ん中「平地の3県境」。昨年末から復活していた 落書き帳の話題ですが、2月9日の合同調査で陽の目を見た「泥に埋まっていた標柱」の存在により、事実上異議なく決着したようです。

毎日新聞配信の記事によると、この標柱は「1980年に群馬県が終えた区画整理事業に際し、県境の確認用に据えた」ものであるとか。
これが標柱に記されていた文字により直接確認できたものか、別の資料によるものかはわかりませんが、三県境の位置を示す有力な証拠でしょう。

朝日デジタル には 短いながら確認作業の一部が動画で示され、「水路の底から3県境を示したとみられる杭も見つかった。」と記されています。
このことから、2010年訪れた際に既に地上に現れていた「基点」と記されていた標石[76876]とは別に存在した、新発見の証拠であると考えられます。

3市町が補正予算を組むという措置までして 年度末に実現した今回の調査。
水路合流点の底に埋もれていた新証拠が得られたことは、確かに大きな成果であると思われます。
新聞では、これに基づく公式の手続きは3月上旬までかかると報じています。
しかし、88さんが[76925]で示されているように、水路に関する法的問題はなかなか複雑なようです。

新発見の標柱に基づいて単純に現在の水路を県境と認定すると、水路の左岸に既に存在していた標石との関係が問題になるでしょう。[76929]
「基点」や「群馬県」という標石がある地点は、渡良瀬川を前身とする水路の左岸だから栃木県である。
そのように単純に認定してよいものなのでしょうか?
このような矛盾を生じないようにしながら、3月までという短期間のうちに、間違いのない結論が得られるのか、今後も注目してゆきたいと思います。
[89954] 2016年 2月 6日(土)21:10:33hmt さん
下総
[89943] 実那川蒼さん
個人的に気になっている例を挙げます。下総(しもうさ)は下(しも)+総(ふさ)の合成と考えられますから、「追う」タイプのように見えます。ところが、JR東日本の総武本線にある下総中山駅のローマ字表記は「Shimōsa-Nakayama」になっており、発音も「王」タイプなのです。(中略)自然言語は一筋縄ではいかないものだと思いました。

「下総」のような古い歴史をもつ地名では、語源を伝える漢字表記と 現在の発音 との間には変化があります。

語源漢字1発音1漢字2発音2かな表記ローマ字表記の例
あわ/うみ(近)淡海オー/ウミ近江オーミおうみcity.omihachiman.shiga
とおつ/あわ/うみ遠淡海トーツ/オーミ遠江トートーミとおとうみstation/toutoumi
かみつ/ふさ上総カミツ/フサ上総カヅサかずさkazusa-h(上総高校
しもつ/ふさ下総シモツ/フサ下総 シモーサしもうさShimōsa-Nakayama駅[89943]
かみつ/けぬ上毛野コーヅ/ケヌ上野コーヅケこうずけ(神津島こうづしまKozu Shima)
しもつ/けぬ下毛野シモツ/ケヌ下野シモツケしもつけcity.shimotsuke

[89925]で紹介した地図表現検討会報告書で採用している「長音を表す記号の省略」方式を用いる場合、その詳細は 備考2でを示されています。
これを「下総」のケースにあてはめた場合、常識的な判断では「シモツ/フサ」の短縮により 現在の「シモーサ」という単純な長音発音が生まれたと思われます。
その場合は、ヘボン式表記「Shimōsa」【JRで現実に使用】から 長音記号省略の原則に従った「Shimosa」になります。

しかし、駅名のかな表記は「しもうさ…」です。
これだけでは、発音が「シモーサ」なのか、「シモウサ」なのか判別できません。
後者、すなわち表音ローマ字表記が「Shimousa」である場合は、
長音に対応する元の漢字が一文字の場合には「o」に短縮するが、二文字に分かれる場合には短縮しない
の前者「Shimosa」ではなく、後者「Shimousa」になります。
確かに、一筋縄ではいきません。
[89935] 2016年 2月 4日(木)20:24:40hmt さん
ローマ字表記・英語表記 (4)Ono City問題
[89927] グリグリ さん
大野市と小野市がどちらも"Ono City"と表記するのはどう考えてもおかしいと思います(佐倉市とさくら市をローマ字表記で区別できないのはやむを得ないとしても)。この問題をカッコよく解決する手段が見当たらないのが現状かと思います。

60年以上も前から完全一致の表記を続けている府中市を始めとして、多数の 同名・同音の市 があります。
当事者である市当局としては、手段が見当たらないと言って、手をこまねいていることはできません。

元々、同一の名称を排除する根拠とされた通達そのものに合理的な根拠があるわけでもなく、「別の地名であることを区別する必要がある場合」には、それに応じて「区別できる表記」を選べば済む問題です。

さしあたり問題になりそうな自治体サイトの表記を見ても、完全同一の府中市(広島県と東京都)、伊達市(北海道と福島県)では都道府県名を付しています。
正式表記の異なる 佐倉市と さくら市 の場合は、紛らわしい名称を後から名乗った方が「tochigi-sakura」として区別できるようにしています。

福井県大野市(1954/7/1)と兵庫県小野市(1954/12/1)の場合、共に「Ono」というローマ字表記を使っていながら、それが問題になるとは認識していなかったのではないかと推測されます。
でも、インターネットが普及して市のURLを定める段階になると、区別のつかないことが顕在化しました。

それに対応して「city.ono.fukui」と「city.ono.hyogo」で区別する。これは妥当な解決です。
市当局のとった解決策を代弁すると次のようになります。
国際的に用いるラテン文字表記において、日本の地名を県名で区別することは、自然なことである。
国内的な区別に使われている「長音表記」にこだわるのは、むしろ不自然である。

「Ono City問題」に関係する他の例を見ると、大野城市は「city.onojo.fukuoka」ですが、豊後大野市は「bungo-ohno」とハイフンを使うと共に、「city.minoh」にも使われた「oh」を選んでいます。

参考までに山陽小野田市は「city.sanyo-onoda」です。「ono」は当然として、「sanyo」は「サニョー」と英語読みされる おそれ があります。
でも、Pnasonicに統合される前の「SANYO」が知られていたので、心配はないのかもしれません。

町では、岐阜県揖斐郡大野町が「town-ono」を使っています。
先を越された?福島県田村郡小野町は「town-ono.fukushima」と、県名を付けて区別。

2005年に廿日市市に編入された広島県佐伯郡大野町は「ono-town」でした。WARP
なるほど、順番を変えることにより、岐阜県と広島県の大野町は共存していたのか。
2005年に豊後大野市になる前には大分県大野郡大野町がありました。大野郡5町2村合併協議会は「ohnogun-gappei」で、これが「bungo-ohno」市に引き継がれていたのでした。

函館本線渡島大野駅【2016/3/26から新函館北斗駅】の所在地は、10年前の新設合併までは北海道亀田郡大野町でした。WARPに残されている上磯町との合併協議会では、合併前の表記未発見。
その他平成合併で消えた町村の表記は、岩手県九戸郡大野村が「vill.ohno.iwate」、香川県三豊郡大野原町が「town.onohara.kagawa」、高知県高岡郡大野見村が「vill.onomi.kochi」、群馬県北群馬郡小野上村が「vill.onogami.gunma」で、宮城県加美郡小野田町は未発見でした。
[89934] 2016年 2月 4日(木)15:04:50【1】hmt さん
自治体越えの地名
[89933]の準備作業中、たまたま 郵便番号490-1323 を見たら、稲沢市平和町内に「勝幡新田」(ショバタシンデン)という地名があることに気がつきました。mapionを追記

[89930]で言及されている 愛西市勝幡町 との関係で、自治体越えの地名に該当するのではないかと考え、情報提供しておきます。
[89933] 2016年 2月 4日(木)14:28:51hmt さん
Re:愛西市平和町
[89932] N さん
ただ、素朴な疑問なんですが、郵便番号が振られているのに、実際にその住所は存在しないことってあるのでしょうか。

愛西市町名一覧 の中に、平和町が見当たりません。

念のため、愛西市のサイト内で平和町を検索すると3件出ますが、そのうち2件は隣接する稲沢市平和町【旧中島郡平和町】に関するものでした。
残る1件は平和町奉賛会への支出ですが、これも稲沢市の 国府宮はだか祭 へのご祝儀です。

郵便番号が設定された理由は不明ですが、「愛西市平和町」が実在しないことは、ほぼ確実と思われます。
[89925] 2016年 2月 2日(火)21:59:39【1】hmt さん
ローマ字表記・英語表記 (3)地名の英語表記に関する国土地理院の報告書
[89992] グリグリさん
リンクしていただいた「外国人にわかりやすい地図表現検討会」のページにより、国土地理院から 昨年9月に 地名の英語表記及び外国人にわかりやすい地図記号について-外国人にわかりやすい地図表現検討会報告書- が出ていたことを知りました。
落書き帳で話題になっている「ローマ字表記・英語表記」を考察するにあたり、この文書の第一部(p.4~22)に記されている「英語表記方法」は一読に値するものであると思われます。
なお、p.23以降は地図記号に関するものが主になっています。

[89923] N さん
単純に漢字が切れ目になっているのではないでしょうか。
「郡(kori)」「山(yama)」、「桑(ko)」「折(ori)」、「箕(mino)」「面(o)」、「直(No)」「方(gata)」
漢字ごとに区切る意味があるのかはよくわかりませんが。

箕面が「箕(mino)」と「面(o)」と別々の字で構成された複合語に由来するものであり、その発音も「みの・お」であり、歴史的仮名遣い当時から長音ではなく、別の文字に使われた母音が連続した結果「オ・オ」の発音になったものであることは [89899]で記しました。桑折も同様です。
一方、郡山の「郡」・直方の「直」は「オー」と長音で発音する漢字が使われており、これは 東京・京都・大阪[89901]・神戸と同類です。

国土地理院の 前記報告書 p.21-22には、第一部の別添文書として「表音のローマ字による表記方法」が掲載されています。
注-2(4)【長音を表す記号の省略】については、特に備考2が付けられています。
備考2
長音を表す記号は、省略することを原則とする。
ただし、50音の「い」段の長音は、「i」を重ねて表し、「えい」は「ei」と書く。
また、表音のローマ字表記が「ou」「oo」「uu」となるときに、対応する元の漢字が一文字の場合にはそれぞれ「o」「o」「u」に短縮するが、二文字に分かれる場合には短縮しない。ただし、短縮する表記が通用している場合には、短縮してもよい。
例:
瀬戸内(せとうち)市 Setouchi City
大野(おおの)町 Ono Town
桑折(こおり)町 Koori Town
善通寺(ぜんつうじ)市 Zentsuji City
勝浦(かつうら)町 Katsuura Town

青梅(おうめ)市については、「オーメ」という長音ですから、長音記号を省略した「Ome」とする原則に従っているように思われます[26231]
また、歴史的仮名遣い「あをめ」[18402]に基づき、対応する漢字を「あお/メ」【梅にはバイの他に「メ」という音があります】考えると、長音部の元の漢字は1文字になり、これも「Ome」になります。

しかし、備考2の末尾には次のように記されています。
例外の例:青梅(おうめ)市 Ome City  ※同市ページでもOme Cityとなっている。

これは、元の漢字を「あお/うめ」と見て、これに対応する「O/ume」としなかったことをもって、「例外」と扱ったのでしょうか?

備考2を含む長音の取り扱い。これは、ローマ字表記・英語表記の中で 最も難しいところのようです。
[89901] 2016年 1月 30日(土)15:09:54hmt さん
ローマ字表記・英語表記 (2)Osaka
箕面市[89899]があるのは、言うまでもなく大阪府です。
Minoh市を問題にするからには、何故 Osaka府なの? という疑問も出てきます。

文化庁の現代仮名遣いを見ると、原則と特例があることがわかります。
長音に関しては、アイウエの各列については同じ母音字(あいうえ)を添えるが、オ列の長音だけは「う」を添えるというのが原則で、おとうさん 灯台 若人 おうむ 買おう 遊ぼう お早う 扇 などの例が示されています。

原則に従えば「大阪」は「おうさか」になりますが、「おおさか」になるのは 表記の慣習による特例が定められているからです。
助詞の「を」「は」「へ」動詞の「いう」など自然に身についている表記の他、「ぢ」「づ」の使い方があります。

そして6番目に記されているのが、「オ列仮名+お」のケースであり、例示の中に「おおきい(大)」があります。
これに従って「大阪」の表記は「おおさか」になります。
その先の説明文によると、これらは歴史的仮名遣いでオ列の仮名に「ほ」又は「を」が続くものであり、その発音には次の2種類があるが、表記は共に「オ列仮名+お」となるとのことです。
1 オ列の長音として発音される
2 オ・オ、コ・オのように発音される

「大きい」は歴史的仮名遣いでは「おほきい」と書きました。対照表参照。
従って「大阪」は歴史的仮名遣いでは「おほさか」であったが、現代仮名遣いで「おおさか」になったということのようです。地名ではないが、「ほのほ(炎)→ほのお」などが2の事例でしょうか。

ここまでは、「おほさか」だった大阪が、「おうさか」でなく「おおさか」となった仮名遣いの説明でした。
本題の ローマ字 に移ります。
「ローマ字」という言葉は、日本語を書き表す文字として「漢字・仮名」との対比で使われています。
文字自体の名はローマ帝国時代にラテン語の表記に使われた「ラテン文字」ですが、これを使って日本語を書き表すルールを含むシステム全体を「ローマ字」と呼んでいるようで、訓令式とかヘボン式とかいう名でルールを区別しています。

日本政府が昭和29年12月9日の内閣告示第一号「国語を書き表わす場合に用いるローマ字のつづり方」 として定めているのは、一般には訓令式を踏襲した第1表で、国際関係その他従来の慣例を改めがたい事情にある場合に限定してヘボン式を踏襲した第2表も許容されています【両者の違いは し、つ、ち、ふ、… 等】。

「そえがき」にも重要なルールが示されており、長音に関わる部分は次の通りです。
4 長音は母音字の上に ^ (山形の長音符号)をつけて表わす。
なお、大文字の場合は、母音字を並べてもよい。

ルールには示されていませんが、「ローマ字のつづり方」は日本語の発音を書き表わす規則であり、現代仮名遣いで書き記された仮名文字をラテン文字に直す規則ではありません。
従って、「大阪→おおさか→Oosaka」ではなく、「大阪の発音(オーサカ)→O^saka」となります。
のばす母音字Oが大文字なので、Oosakaも許容されるように思われますが、見たことがありません。

私達の使うPCは、このルールより後に生まれた製品であるにもかかわらず、母音字の上に符号を付ける仕組みになっていないし、仮にできたとしても面倒です。
実際問題としては、PCが普及する前の手書き時代から、山形であれマクロンであれ、母音の上に長音符号を付けるローマ字ルールは嫌われ、「Osaka」という表記が使われていました。

では、この「Osaka」は 如何なる性格の言葉なのか? 
訓令式にせよヘボン式にせよ長音符号の省略を認めるルールはないので、「日本語のローマ字つづり」ではない。
それは、英語のような外国語の中で、大阪を意味するものとして通用している地名、要するに「英語そのもの」なのでしょう。
「Tokyo」、「Kobe」など有名地名はすべて同様ですが、更に英語化を進めてゆくと、「Tokio」になってしまうのでしょうか。東京海上
[89899] 2016年 1月 30日(土)12:20:16hmt さん
ローマ字表記・英語表記 (1)Minoh市
同一アルファベットが連続する市が今回十番勝負の問十で出題されたことを契機に、市名のローマ字表記・英語表記が話題となっています。
既に[89893] N さん により市町村名に拡張したデータを含む考察がなされていますが、「ヘボン式」という言葉が最初のフォロー記事[89857]以降たびたび使われていることも考慮し、今回のシリーズは更に対象を拡張して 「日本語表記に用いるローマ字表記」 とすることを最初にお断りしておきます。

このシリーズを書く動機になったのは、[89857]で紹介された 箕面市長の下記説明です。
箕面の表記の問題ですが、実は私も気になっているところです。私は正しくは、「minoh」だと思っています。ヘボン式ローマ字だと最後を「オー」とのばすのは、ohで終わるのが正しい表記です。「minoo」だと外国人は「ミヌー」と読んでしまうのです。ですからこれは間違いだと思います。市ではこのohで統一していますが、…

「ヘボン式ローマ字」とは、美国(米国)平文(J.C.Hepburn)先生が著した通称『ヘボン辞書』、『和英語林集成』に発祥する表記法で、第三版で確立し 更に現在までに多少の変化はあるようですが、「オ」の長音を「oh」とする表記が使われたことはないようです。
明治学院大学図書館>和英語林集成各版ローマ字対照表の下にある「ヘボン式ローマ字」への変遷 表 にも「oh」表記はありません。
表の注4に記されているように、のばす音はその母音を表わす文字に「長音符号」を付けるのがヘボン式ルールです。

参考までに、「mino」の検索結果
→「ミノ 蓑」の次に「ミナフ 未納」の項目があり、長音符号としてマクロンが付いています。

便宜上ヘボン式の長音表記の件から入りましたが、市長の発言には それ以前の問題があると思います。
そもそも「箕面」は「長音」に該当しないのではないでしょうか。

「箕面」は、本来は「みの」と「おも」の短縮形と思われる「お」と別々の字で構成された複合語であり、その発音も「みの・お」です。1912年の資料では豊能郡箕面(ミノオ)村と記されており、長音である宮崎県児湯郡三納(ミナフ)村と発音が区別されています。

阪急の駅名は、現在も「みのお」です。路線図には「Mino-o」とハイフン付きで駅名が表示され、長音でないことが示されていました。

このような考察は、箕面は「ミノー」と伸ばす長音で発音され、それを「minoh」と表記するのがヘボン式であるという市長の結論と全く相反するように思われます。

もちろん、当事者である市長がこだわる「minoh」については、それなりに尊重したい気があります。
地名も時代により変化するものです。「箕面」という漢字表記は変化しなくとも、文字が表している地名の由来【注】は忘れられ、住民の世代が変れば、発音も母音オが衝突する「ミノオ」から長音の「ミノー」へと変ることはあり得るでしょう。
【注】
地名は山谷にかかる大滝の流水が「箕のおもて」に似ることによったという。(滝安寺文書/箕面市史)
「箕面(みのお)」の地名のいわれは?にも同じ趣旨。

新潟県刈羽郡千谷沢村→チャーザー村[1750][7573]に例示されるような長音化は、現実に箕面市で起っているのか?
若い世代が対象の 大阪府立箕面高等学校学校説明会 のポスターには「Minoh High School」とありました。
しかし、そのURLには「minoo」が使われています。混乱しているようですね。
[89879] 2016年 1月 26日(火)18:52:22hmt さん
南の島に雪が降る
[89856] 山野 さん 奄美で「雪」
[89868] k-ace さん 沖縄本島で初の霙(みぞれ)観測
[89870] 山野 さん 
「初雪の観測ならず」って、じゃぁ何になるんでしょうね?単に「珍しく雪が降りました」ってだけの話?

[89868]に引用されていたウェザーマップ記事【下記】の意味は、私も気になりました。
久米島での雪の観測は1977年以来39年ぶり、名護市では初めてとなる。なお、両観測地点とも自動観測となっているので、初雪の観測とはならない。

気象観測統計の解説 のp.32に、「表 3.4-6 観測の自動化に伴う統計の切断年月日と地点」があり、最も早い初雪に関する統計が切断された日付が示されていました。

p.31末尾に記された本文の一部【要旨】と共に、名護・久米島に関する日付を再録します。
-------------------
1997(平成 9)年から順次、…自動観測(無人観測)に変更した。
このため、…統計開始からの極値・順位値(雪の最早・最晩)の統計を切断する。
表 3.4-6 統計の切断年月日と地点 
2002(平成 14)年 3 月1日 (名護)
2004(平成 16)年 10 月 1 日(久米島)
()で示す地点については積雪の観測廃止
-------------------

この情報に基づいて、少し舌足らずであったウェザーマップ記事を補うと、次のような趣旨になると思われます。

【公式発表ではないが】久米島での雪の観測は1977年以来39年ぶり、名護市では初めてとなる。
なお、両観測地点とも自動観測となって【積雪の観測が再開されているが、2002年以降に積雪の観測が廃止された時期があり、過去の統計とは切断されている。従って、公式には】両観測地点とも初雪の【最早記録を更新した】観測とはならない。

奄美大島の名瀬は、この表の中にありません。従って、名瀬については 長く続いていた雪なし記録統計が切断されることなく、[89856]で引用された「名瀬で115年ぶりに雪を観測」という記事にすることができました。
ところが、名護と久米島については記録が切断されているので、公式に「観測史上初」とか「39年ぶり」とか言うことができない。
どうやら、このような違いがあるようです。

「初雪」については、正式の用語は「その季節になって雪を観測した初日」らしいが、慣用になっている「初雪」を使って問題ないようです。気象観測統計の解説p.5及び9。
富士山では、2004年の無人化で初雪の観測が終了し、その後も各地の測候所が無人化または廃止されていることから、以前と比較すると、初雪を観測する地点は減少しています。
現地でなく、麓から見たのが「初冠雪」

タイトルについて
過酷な状態に置かれたニューギニア島[79420][83592]の戦場。そこに従軍していた加東大介【注】は、上官からの命令で演芸分隊を作り、ジャングルの中で芝居を上演しました。もちろん紙吹雪。その経験に基づく手記(1961)はテレビドラマや映画にもなりました(本人主演)。
戦後70年の2015年。前進座公演もありました。
【注】加東大介
戦前は歌舞伎(前進座)、戦後は映画(七人の侍など)で活躍した俳優。沢村国太郎、沢村貞子の弟という役者一家。長門裕之や津川雅彦は甥です。
[89541] 2016年 1月 9日(土)14:43:33【1】hmt さん
「新湊」の由来
[89540] EMM さん
「新湊」は単独の港を示しておらず、複数の港町を統合するために明治初期に新造された瑞祥地名と言えるものである

オフ会で訪れた際に記した[89242]では、古代からの伏木港との対比から「新湊」と呼ばれたものと思っていました。
落書き帳では、既に2011年の記事 [78880] EMM さん によって詳細に説明されていること。
明治4年という意外に新しい時代に作られた地名であること。
明治前期の「新湊」は 伏木までを含んでいたこと。
3つの重要なポイントを指摘していただき、ありがとうございました。

せっかくの機会なので、当時の資料における「新湊」の記載状況を確認してみました。

最初に、幕末の状態を記録した
旧高旧領取調帳データベース により、越中国射水郡に存在した村名を検索。
確かに「新湊」は検出されず、江戸時代には「新湊」という港の名が無かった[78880]ようです。
六渡寺村, 放生津村, 伏木村, 古府村は出るが、国府は出ません。高岡の金屋村は出るが、馬出は出ません。氷見町は出るので、「町」は出ないということではないようです。

明治8年12月共武政表
越中国射水郡に「新湊」が存在することを確認できます。
「湊」という文字は、高岡駅の「駅」や氷見町の「町」に対応する言葉でしょうか?

明治12年12月 郡区町村一覧 富山県越中国射水郡の記載
右ページ最後付近などを列挙。小矢部川左岸らしき「新湊町元伏木村」などの町名に注目。
…中伏木村, 中伏木新村, 六渡寺新村…新湊町元六渡寺村…新湊放生津町…新湊放生津新町…新湊町元伏木村…新湊町元古府村,新湊町元古国府【その他にも新湊町◯◯村あり】…高岡◯◯町(68)…氷見◯◯町(18)…

[78880] EMM さん
地名大辞典の地名編と地誌編のところで合併した町村の名が違っているのは気になりますが

地誌編には伏木を合併したと記してあるのに地名編では脱落。しかし明治12年の町名を見れば、少なくとも郡区町村編制法施行の時点では小矢部川左岸の伏木地区まで新湊になっていたことは確かなようです。

明治19年1月 地方行政区画便覧
この便覧は、伏木町が新湊町から分離する直前です。
富山県越中国射水郡の記載中から戸長役場所在地単位で記すと、小矢部川左岸の新湊伏木村, 新湊古国府【町村がついていない】は、氷見中町, 氷見御座町と同じ 389コマに記されています。
そして、その後に高岡の戸長役場所在地である高岡片原町, 高岡御馬出町, 高岡木町が記され、小矢部川右岸にある新湊六渡寺村, 新湊放生津新町, 新湊放生津町は 390コマと、既に離れて記されています。

庄川の河口を小矢部川河口と分離して現在の位置に移した工事は明治末期と思われますが[89248]、明治19年の便覧や伏木町分離は、それを先取りしているようです。

最後に、変遷情報に記録されている町村制施行時点での新旧町村名をリンクしておきます。
富山県射水郡 新湊町、同 伏木町
[89423] 2016年 1月 2日(土)18:26:03hmt さん
スタートダッシュ
新規登録メンバーを迎えた2016年。おめでとうございます。

元日に最初の記事。翌日には10件を記録して登録達成。これは新記録だろうと思います。
メンバー登録関係で私の記憶に残る記録は、10件未満での登録申請制度[37188]を獲得した たもっち さんのものであり、初記事の翌々日に登録されました[37205]

参考までに、初記事日と登録日との差が小さいメンバーを列挙すると、遠州太郎さん、たもっちさんに次ぐ第3位は Zzzさん、カッパーさんの3日。以下、太白さん 4日、えっすさん、がんす横丁ままさんが5日、KMKZさん 7日、JOUTOUさん 9日です。
登録日に関しては グリグリさんの記事によりました。
調査不十分で見落としがあればご指摘願います。

なお、[89419]記載の登録日は誤記です。
[89357] 2015年 12月 28日(月)13:14:23【2】hmt さん
海と島 (25)1世帯70人の海栗島(うにじま)
[89351] にしさん21号 さん
過去に世帯当たり41人もいた記録を私も知りませんでしたし

2003年の落書き帳記事[17003]には、海栗島【当時は 長崎県上対馬町】世帯数1、人口62と記されています。
この島は全部が航空自衛隊レーダー基地として利用されています[17864]
国勢調査における「世帯」の扱いについては てへへ さん の記事 [17875] があります。ご参照願います。

参考までに、長崎のしま紹介では 世帯数1、人口70人 となっており、これは 2010年国勢調査の確定値です。

本題の「世帯」から外れますが、「長崎県の島」の話題になった機会を利用し、[85748]の続編を記します。

[17003]では 1世帯の島が5つ示されていましたが、最近の資料によれば 自衛隊施設世帯の2島【対馬島の北側にある海栗島と 壱岐島の北側にある若宮島】を除けば、野崎島を残すのみです。

その野崎島は 新上五島町・中通島が北に長く伸びた半島の先にあります。地図で見ると五島列島の一部と思われるのですが、野崎島の本島とされるのは 小値賀島であり、ここは行政的には「五島列島」に含まれず[26554]、平戸地区に属しています。

野崎島は落書き帳では早くも[10913]【注】で登場します。
[10930]に記されているように、縄文時代からの歴史がある島で、江戸時代には隠れキリシタンが住んでいました。
禁教が解かれた明治時代に建造された赤煉瓦造りの 旧野首教会 も有名です。
しかし、キリスト教と神道とが混在[33529]した3つ集落(最盛期の人口648人)は、自給自足の生活が維持できなくなり[65125]、1971年の集団移住で廃村になりました。
無人島になった時代もあるかと思いますが、現在は宿泊施設の管理関係者がいるようです。

おしどり夫婦が守っていた壱岐の妻ヶ島も、西海市西彼町の 前ノ島も無人島になりました。

【注】
[10913]には【壱岐の】勝本町妻ヶ島が「世帯数が1なのに人口が24」と記されています。
しかし、これは勝本町若宮島の誤記と思われます。こちらは海上自衛隊基地で、2010年人口は14人です。
[89356] 2015年 12月 27日(日)23:29:15hmt さん
海を隔てた自治体の隣接? 橋梁隣接と送電線隣接
削除した[89350]で筆が及んでいた 橋梁隣接と送電線隣接を [89353]から分割しました。

橋梁による隣接事例は、海底トンネルより数多く存在します。
固定資産税の課税区分という観点ならば、海底トンネルと同じように考えてよさそうですが、青函トンネルの事例で使われた「◯◯に係る未所属地域」と同様に「地域」と言えるかどうか。
橋は「大地」と離れて架けられているので、そもそも地方自治法第七条の二の対象外という気がします。

[66799]を見ていたら、海を隔てた自治体を隣接させる可能性のある固定構造物は、海底トンネル・橋梁以外にもまだまだありそうだと思われました。

その一例として、送電線による隣接の可能性を挙げておきます。
香川県に属していながら 中国電力からの送電を受ける 小豆島[63537]
地理院地図で送電線をたどると、島伝いの海底ケーブルにより本州から送電されている模様です。
送電線が県境を越える箇所は石島/井島です。これは、もちろん 市町村隣接関係一覧に離島隣接として収録済みです。
その先は、直島町井島と土庄町豊島(てしま)との間が海底ケーブル送電線により隣接しているようです。
送電ケーブルが着地している「海底」は、固定資産税の課税境界となる「地域」と言えるかもしれません。

香川郡直島町 の電力も、中国電力から供給されています。
玉野市と直島町とを隔てる海面に設けられているのは 架空送電線のようです。
これは橋梁にも増して「地についていない」存在ですから、「未所属地域」を編入して隣接する対象にはなり得ないでしょう。

瀬戸内海をずっと西に行くと燧灘にある四阪島[83592]。ここは元々5つの無人島の総称で、別子銅山で産出された銅鉱石を原料とする製錬所で知られていました。
所属する自治体は 2005年に越智郡宮窪町から今治市になりました。
新居浜-四阪島間 約20kmの海底送電線は1922年に敷設され、製錬所の動力が電化されたとのことです。出典
銅精錬所は1976年に閉鎖されましたが、無人島ながら 現在も亜鉛回収工場が稼働しており、住友共同電力の海底送電線は使われていると思われます。
従って、新居浜市と今治市とが この送電線が着地している海底で隣接する可能性があります。
[89353] 2015年 12月 27日(日)16:20:26【1】hmt さん
海を隔てた自治体の隣接 固定資産課税の境界点かと思ったが…
昨日投稿した[89350]を修正した結果、要旨が変ってしまいました。前報を削除し、別記事とします。

自治省昭和63年告示23号「青函ずい道に係る未所属地域を市町村の区域に編入する処分」が[63789]で紹介されている。このことを、[89330] k-aceさん の記事で知りました。
私はこの告示を [66057]で知り、hmtマガジン 自治体の海上境界 にも収録していました。
しかし、88さんの記事よりも半年前に 花笠カセ鳥さんの記事があったのですね。
この機会に マガジンに補足し、併せて青函トンネルによる隣接対象について言及のあった[63778]も加えておきました。

2008年に告示全文の紹介があったことはさておき、この処分があったという事実について最初に触れたのは 更に前、2005年の記事でした。
[46750] LFB さん
固定資産税の課税のため、海底部については昭和63年2月16日の閣議決定で北海道松前郡福島町、青森県東津軽郡三厩村(当時)にそれぞれ編入されたとのことです。

私がここで注目したのは、「固定資産税の課税のため」という目的が記されていることでした。
この編入処分が行なわれ、「津軽海峡を隔てた自治体の隣接」が現実になったのは、その結果だったのです。

なるほど、自治体の区域[66802]が存在するのは、本来は住民の居る陸部【付属する陸水部を含む】のはずである。
それを海の下で「隣接」させることになったのは、税収の確保という無視できない動機があったからか。
最初はそのような理解で納得しました。

この境界点。実は普通の海ではありません。津軽海峡における領海の範囲は「基線から12海里」という原則よりも狭い3海里。
トンネル内に境界点が存在する場所の真上の海面は、どこの国の船も自由に航行できる「公海」なのです。
平たく言えば「日本ではない!」。
青函トンネル開通直前。
このタイミングを利用して、公海の下にある日本領土の存在を世界に知らしめた知恵者がいたのか?

青函トンネル内の土地編入により増加した面積はどれだけだったのか?
その確認を試みたのですが、昭和63年面積調に前年との比較がなく 不成功でした。
青函が駄目ならば、1997年12月開通の東京湾アクアライン。
このルートの 海ほたる-風の塔間のトンネル内。ここに 課税区分となる自治体境界が設けられているだろう。木更津市の面積変化を調べれば、海ほたるやトンネル内の土地を編入した面積が判明するはず。

しかし、木更津人工島の面積6haとあるが、着工した1989年以降の木更津市面積を調べても、0.06km2以上の面積増加は記録されていませんでした。

海ほたるの住所は「木更津市中島地先」です[46757]。独立した町名が付与されていません。
どうやら、海の頃から事実上木更津市に付属する領域と認識されているようです。
正式の編入手続きのないままになっているが、人工島を木更津市扱いすることに異論をはさむ者はいない。
川崎人工島【風の塔】についても事情は同じであり、両人工島の間のトンネルの固定資産税も山分けで異論なし。
アクアラインの他にも、東京ガス【江東区-袖ケ浦市】と東京電力【川崎市-富津市】の東京湾横断海底トンネルがあります[66799]。こちらにも、海底の自治体隣接が隠れている可能性があるのですが、木更津人工島さえも記録されていないとなると、関係自治体の面積を調べる気にもなりません。

要するに、ほとんどの問題は「地先の海」[66853] という便利な言葉を使えば解決できる。
青函トンネルの自治体隣接事例は「公海の下の日本領土」という極めて特殊なケースの例外だったのではないか。

そこで、もう一度自治省告示S63-23[66057]を読み返すと、「地方自治法第七条の二第一項の規定により」と書いてあります。
この条項によれば 「法定外での編入必要性があると認めて内閣が定めた場合」であり、やはり例外的な特殊ケースのようです。
固定資産税の課税境界というような一般的な目的ならば その目的で法定すればよく、この条項は異例です。

既にちょっと触れましたが、自治省告示S63-23の意味とするところは、
公海の下の部分があるが「青函トンネル内は すべて わが国の領土である」。
国内向けの姿をした告示ながら、実は世界に向けて このことを発信することが 目的だったのではないでしょうか。

青函トンネルと一見すると類似するような「海を隔てた自治体の固定構造物による隣接事例」は他にもある。
しかし、特殊ケースだからこそ 青函トンネル内地域の編入 が告示された。
一般の海底トンネルや海上架橋による隣接事例についての告示が 発見されていないのは 当然のことである。
これが 私の到達した結論でした。
[89349] 2015年 12月 26日(土)14:48:01【1】hmt さん
筑後川のデ・レーケ導流堤
[89344] 有明つばめ さん
疑問に答えていただき、有り難うございます。

明治政府が招いた御雇外国人土木技術者 デ・レーケは 30年も日本に滞在して、各地の河川改修・築港などで多くの成果を残しました。農林水産省
木曽三川分流工事・淀川水系の改修などで落書き帳過去記事にも記録されています。
記事には記されておりませんが、立山砂防 に関連する常願寺川の治水も 彼の計画が発端でした。
そして、筑後川でも 導流堤に名を残していました。

有明海沿岸道路の筑後川架橋の際、一部が解体される
工事中の道路は、地形図中央のジャンクション予定地から西に進み、筑後川西岸の大野島にICを作る計画ということですね。
[89321] 2015年 12月 21日(月)18:40:49hmt さん
筑後川河口部の隣接関係
[89318] デスクトップ鉄 さん
柳川市・佐賀市のように、河川をはさんで対面しているが、架橋がないのは隣接関係がないのでしょうか。

境界線がmapionには記載されていませんが、地理院地図では 河口まで描かれています。
ちょっと気になるのが大川市大野島の東にある実線です。
佐賀市大詫間の東にある県境線と重なっていますが、何を示す線なのでしょう?

筑後川河口部の中洲【佐賀市大詫間】は16世紀頃には存在し、所属争いはありながらも 筑後国(柳川藩)と肥前国(佐賀藩)との国境としての実績があり、隣接関係は 現在の境界に引き継がれているようです。
[79662]では、元々は別々の中洲であった 大野島(福岡県)と大詫間(佐賀県)が、砂の堆積により陸続きになったことに言及しています。
[89272] 2015年 12月 11日(金)19:56:26hmt さん
Re:未確定
[89270] グリグリ さん
#15図以上の縮尺では、境界線が道路に架かる場合は道路の下に隠れるように描かれるのがルールのようです。

これは知りませんでした。
なるほど、境界線は水路や道路のような地物に沿って定められている場合も多く、図化に当っては 処理するルールが必要なのですね。

少し前のページのようですが、地図記号を表示する位置の 優先順位 に触れた解説がありました。
長文ですが引用しておきます。
これらの対象物は、真位置に表示するのが原則ですが、道路と鉄道、河川などが接近して存在し表示すると記号が重なってしまう場合は、少しずらして表示します。それを転位といいますが、双方ずらして表示するのではなく、どちらを真位置に表示し片方をずらして表示するよう優先順位が決められています。
平成14年式図式では、電子基準点・三角点>海岸線、一条河川>道路>鉄道>二条河川・がけ等自然物>建物・構造物等の人工物>植生>行政界・注記等の無形物の順と定められています。
道路と鉄道の場合は、道路を真位置に、鉄道を転位して表示することとなっています。

行政界は最低順位なのですね。
「境界線優先」で描かれているように思われるmapionに対して 地理院地図では「地物優先」。
#15図以上の大縮尺図では 境界線の位置をずらすどころか 道路の下に隠れてしまうとは驚き。

地理院地図【#15図 #16図 #17図】における 谷中湖堤防以南の栃木・群馬県境のまとめ

境界が見えない部分があるが、その理由は描画優先順位の関係であり、境界未確定ではない。
mapionに記された県境線を参照して、#17図で示す。
谷中湖堤防から栃木市藤岡町下宮集落付近までは、道路の下に隠れている。
下宮集落付近よりも南では、渡良瀬川旧河道の名残である小水路【mapionは無視】の下に隠れている。

県境線が水路の下に隠れているので、終点の三県境位置が示されていないが、小水路合流点付近【図の中心十字線】と思われる。
小水路合流点より数十m南に描かれている埼玉県境線の位置には 疑問がある[89267]
[89267] 2015年 12月 10日(木)21:08:27【1】hmt さん
久しぶりの渡良瀬川旧河道3県境
筑波山オフ会2010の翌日 17人で訪問し、hmtマガジンも編集した栃木・群馬・埼玉3県境が久しぶりに話題になりました。情報源は読売で、次のように記されています。
“境界点”を確定させるため、県境に接する3市町村が年明けにも測量調査に乗り出す。

さて、“境界点”を測量によって確定させることができるのか? また、その目的は?
私たちは野次馬ですから、落書き帳で議論すること自体が楽しみでした。
しかし、公費による測量事業実施となると、期待される経済効果を含めた、それなりの理由が存在するのでしょう。

それはさておき、3県境を話題にする以上は、ここを地図で再確認しておくことから始めましょう。

2010年当時に比べて最大の違いは地理院地図の登場です。
2万5000図に対応する #14図 を見ると、以前と同じような3県境が描かれています。
ところが、これを拡大して #15図にすると、栃木・群馬県境線の一部が消えてしまい、#16図 #17図 でも同様です。#18図には県境線がありません。

mapionで見ると、栃木市藤岡町下宮の集落付近で 県境線が 道沿いから【描かれていない】水路沿いに移行している箇所がありますが、このあたりの県境が不明確なのかもしれません。
[89266] グリグリ さんは、面積調の境界未定地域に記されていないことから 否定的な見方ですが、地理院地図に境界線が記されていないことは、「未確定」[89264]の可能性があるのかもしれません。

[89266] グリグリ さん
ゼンリン地図では公図などを実際に確認して境界線をプロットしたのではないかと思います。

葛城山の事例のような山間部はともかく、住宅地図については 私もゼンリンの調査を信頼しており、このご意見には、私も同じような感を抱きました。
mapionで 加須市小野袋943 という番地を調べると、3県境に最も近い家が出ます。
3県境探訪ルート写真集 10番で 写真の下に隠れている家です。
この家を含む数軒が群馬県側になっている地理院地図の県境線は、南に寄り過ぎていると思われます。
Google mapでは、この部分の県境線がありません。やはり怪しいと思われているのでしょうか。

3市町村が年明けにも測量調査に乗り出すとのニュース。
群馬県によって建てられた標石の由来なども、自治体が調査に乗り出すことで 解明されるかもしれません。
合流点 の近くにある「基点」標石。これが本当に 「鶴の嘴の先端」 を示すものなのか?
調査の成果に注目したいと思います。
[89261] 2015年 12月 9日(水)14:27:31hmt さん
日本一の私道
[89245] YASU さん
【オフ会の】直前になって(中略)急遽参加しました。(中略)
こちらの目玉は日本一の私道(延長31.9km)の走行でした。
宇部興産専用道路については、10年以上前に[28586]を書いたことがありますが、観光バスツアーが開催されている とは知りませんでした。
なるほどオフ会前日ですが、なかなか体験できない貴重な機会を活かすことができてよかったですね。

落書き帳を検索したら、2002年に [6613] TN さん の記事がありましたが、リンク切れでした。
[28613] まるちゃんさんによると、以前は許可証を出して通勤に使われたこともあるが、普通車は原則通行不可になったとのこと。

検証:近未来交通地図によると、産業観光ツアーは 2008年7月から本格実施されたとのことです。
参考までに別のサイトにより、道路と車両の情報を加えておきます。距離が違うのは西沖の山起点となっているためで、専用道路は その先 海上架橋の興産大橋を経て 沖の山地区に通じています。沖の山地区の専用道路には、一般道路と交差する「線路のない踏切」があるそうです。
[89260] 2015年 12月 8日(火)18:24:53【1】hmt さん
あいの風
氷見オフ会については 事前記事[88176]の後、およその旅程に沿って高岡[89247]、氷見[89248]、新湊[89249]をテーマにした記事を並べました。
今回も他のメンバーの行動に便乗しながら動いています。22日はJOUTOU号に同乗[89157]
23日の氷見漁港-富山新港間はEMM号、その前後はラガー号に乗せていただきました。
[89148]で海王丸パークでの昼食後拉致された人質(笑)は3名で、hmtは YASUさんと共に 高岡駅で開放されました。
[89249]の訂正です。越ノ潟の渡船の乗客になったのは グリグリさん1人 という推測は違っていました。
熊五郎さん[72972]は、 富山ライトレール、バス、県営渡船、万葉線の乗り継ぎで 高岡入りをしたとのこと。[ML00088]

それはさておき、ラガー号で高岡駅まで送っていただいたので、帰路の新幹線までに余裕時間ができました。
高岡には 重要伝統的建造物群保存地区に選定されている 山町筋 と 金屋町 とがあります。私の好みからすれば、高岡の町を散策しながらそこまで行くのが筋でしょう。
そう思いながらも 体力不足で実現できませんでした。

高岡市立博物館常設展だけでも覗いておけば よかったのかもしれませんが、それも実行せずに 高岡駅から乗車して富山駅に向かったのが 「あいの風とやま鉄道」です。

JR北陸本線の富山県内区間が、北陸新幹線の 並行在来線として分離され、富山県、市町村、経済団体が出資する第三セクターで運営されることになったのは、ご承知の通りです。

「あいの風とやま鉄道」の路線図を[87384]で追記した際に、区間の表示が境界駅に及んでいないことに疑問を投げかけました。
しかし、よく見るとそこでリンクしたのは運賃表示目的の路線図であり、会社情報>路線についてでは別の図が示され、管理駅数19駅(石動駅~越中宮崎駅)と表示されていました。この表示ならば妥当です。

実は「あいの風」という言葉も知らなかったのですが、社名の由来に説明がありました。
「あいの風」とは、春から夏にかけて吹く北東のさわやかな風で、古く万葉集の時代から豊作、豊漁等「幸せを運ぶ風」として県民に親しまれています。

局地風を指す言葉と解ったので調べてみたら、だんな さん の記事 があり、落書き帳アーカイブズに収録されていました。おなじみ、大伴家持の作品で、「東風」に万葉仮名の注釈を付けて「あゆのかぜ」と読ませています。高岡市万葉歴史館

さわやかな風というよりも、日本海を吹く激しい風のようですね。
家持の歌にも「いたく吹くらし」とあります。
菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花」は「こち」と読み、春の到来を告げる風ですが、「あいの風」は夏の季語になっており、東風と言っても別のようです。

いしかり市民カレッジ講座13によると、「あい風」は 北海道から山陰まで日本海の各地にある局地風です。
海陸の温度差が原因になって発生する海陸風である「あい風」の風向は、地域により 北、北東、東と違います。しかし、西廻り航路の上り【上方行き】船にとって順風であることは共通するようです。
なお、下り船は対馬海流によって蝦夷地に向うことができます。

北前船の時代は終わりましたが、「あいの風」は、氷見の漁業にとって、現在でもブリなどの豊漁をもたらす恵みの風なのでしょう。


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