都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
hmtさんの記事が10件見つかりました

… スポンサーリンク …



[91103] 2016年 8月 5日(金)17:47:50hmt さん
それは黒船から始まった (1)開港への序章
落書き帳オフ会番外編が横浜で行なわれました。
1854年まで無名の小漁村だった横浜が歴史にデビューした舞台。それは 黒船艦隊により浦賀に来航して開国を求めたペリーが、翌1854年再来して幕府との間で結んだ 日米和親条約でした。

でも、横浜にとり決定的に重要な転機となったのは、領事として下田に赴任してきたハリスとの交渉により結ばれた 日米修好通商条約 に基づく開港でした。その日付は安政6年旧暦6月2日[28611]

この1859年から 150周年にあたる 2009年に開催された博覧会の愛称は「開国博Y150」でした。
横浜での地方博覧会であるため、「日本開国150年」よりも「横浜開港150年」に重点が置かれた催しであったようです。実際、「開港博」と誤記されることもしばしば。[70310]

それはさておき、横浜オフ会を機会に hmtマガジンに横浜の記事を集め、開港場という特殊な地位から始まり 約160年の歴史を刻んだ横浜の姿を概観するシリーズを書いてみたいと思いつきました。

いまさら言うまでもないことですが、横浜の地理的特徴を一言で言えば「首都に近い港」であり、歴史的にも海外の諸国と接触する海運の拠点としての役割を果してきました。
外国人居留地、生糸の輸出、赤レンガ倉庫などのキーワードが思いつきます。かつての横浜は、華やかな客船を主役とする「日本の表玄関」でした。

時代と共に状況は変り、特に東京港の開港と空路の発達は、横浜に大きな影響を及ぼしました。
しかし、 横浜港自体は 健在です。そして、造船や鉄道貨物施設の跡地が「みなとみらい」地区へと生まれ変った横浜は、首都圏内の大都市として機能しています。

1853年の浦賀、その翌年の横浜に登場する主役は 米利堅合衆国水師提督【東インド艦隊司令官】マシュー・ペリーが率いる「黒船艦隊」でした。木造船ですが黒色塗装を施した外国軍艦は、白木の船だけを見慣れた目には異形の印象を与えたのでしょう。
それよりも日本人を圧倒したのは、旗艦「サスケハナ号」など一部の船が蒸気機関で外輪を駆動することで、黒船4隻が帆走せずに進む姿【曳航も併用】を見せ付けたのでした。まさに米国では「Steam Navyの父」と呼ばれたペリーの面目躍如です。

実は 米国からは ペリー艦隊よりも前に 帆船2隻のビッドル艦隊が派遣されています。
アヘン戦争(1840-1842)でイギリスに敗れた中国(清国)は、1844年に米国との間にも修好通商条約を結ばされており、ビッドルはこの望厦条約の批准書だけでなく、清国駐在の米国公使への対日外交折衝開始指令書も持参していました。既に公使は帰国後でしたが、ビッドルは条約締結の希望を伝えるために、弘化3年(1846)マカオから浦賀に来航しました。

日本側は 前年に老中首座が水野忠邦から阿部正弘に変った政権交代の後でした。国民の大多数は知らないことでしたが、政府当局は 阿蘭陀風説書【長崎出島のオランダ商館長による海外状況報告書】や、1844年のオランダ国書による忠告[77711]により このような海外情勢について、ある程度の知識を得ていました。

「阿部政権」のこの時の対応は、従来の拒絶姿勢を変えずに当座をしのぐというものでした。
正規の交渉権限を持っていなかったビッドルも 薪水・食料など提供を受けて引き下がりました。
間違いによるトラブルが発生しかけたが、大事には至らず。

横浜が歴史に登場する前も含めて、若干の予備知識を 開港への序章 として記してみました。

蛇足
米利堅(メリケン)という言葉は、嘉永7年に結ばれた日本国米利堅合衆国和親条約[1805]のタイトルに使われるなど、戦前には広く使われていました。
もっとも、この事例「米利堅合衆国」は 法令全書が編纂された明治20年頃の用法と推察します。
幕末の本文では「亜墨利加合衆国」となっています。

落書き帳内では「アメリカ」を意味する用例は少数で、最も多い使用例は神戸のメリケンパークで7件でした。

私の記憶に残っているのは、国産の「うどん粉」と異なる高品質の小麦粉を誇示する「メリケン粉」という言葉でした。真っ白で細粒の小麦粉。家庭でケーキを焼く薄力粉が主だったように思います。参考
なお、食用とは無関係の「メリケンを食らわせる」という用法もありました。参考
[90716] 2016年 7月 22日(金)15:11:36【1】hmt さん
Re:消滅市
[90709] デスクトップ鉄さん
「与野」の名は さいたま市の行政区に残されていません。
なお、与野市の区域を事実上引き継いでいる行政区は、さいたま市中央区です。

【追記】
過去記事を検索したら、こんな記事がありました。
[232] グリグリさん
制令都市になった場合、区割りはどうなるのでしょうね。与野区は間違いないように思いますが、浦和、大宮の名前は復活するでしょうか。浦和東区、浦和西区、浦和北区、浦和南区。なんか、JRの駅みたいですね。浦和武蔵区なんてのもできたりして(笑)。

ところが、区名選定委員会が選んだ最終案は かなり意外なものでした[3440]。与野市を主とするE区については、大方の予想や公募結果[1911]・市民投票[3353]で最有力と思われた与野区でなく、中央区でした[3438]
TNさんの記事[3485]が、舞台裏の事情を語っているようです。

それにしても、さいたま市の区名問題では 合併資料室に4つ、新区名で3つ、合計7つものアーカイブズが作られており、当時の熱気が推察されます。
見沼区と共に、中央区も話題を集めており、[10093]など未収録記事も多数あるようです。

最後に、本筋の「消滅市の残影」に戻り一言。
京浜東北線が停車する与野駅は東北本線に存在しますが、その所在地は旧・浦和市でした。現・さいたま市浦和区。
旧・与野市の残影を伝える駅名としては、さいたま市中央区の与野本町駅等3駅【埼京線が停車】を挙げた方が適切かもしれません。
[90688] 2016年 7月 12日(火)19:33:31hmt さん
海と島 (27)香川県の島
[90684] 白桃さん
香川県の有人島の人口(2010年国勢調査)です。結構、謂れのある島が多いです。
今では島ではなくなりましたが、屋島、瀬居島、沙弥島にも人は住んでいます。

今更なのですが、屋島も昔は「島」だったことを再認識しました。
正直なところ、日本の島 約500を選んだ時[86275]にも、全く念頭にありませんでした。
1968年の番の州埋立で 四国本土の一部に取り込まれた 沙弥島・瀬居島[86062]は hmtが選んだ「島list500」に含めています。人工島や本土と地続きになった島でも社会的に重要な地位を占める「島」はできるだけ対象に含めるという趣旨で桜島なども含めたのですが、屋島は考えていませんでした。
屋島を四国本土から隔てていた海。完全に陸地化した現在との間には、塩田時代もあるのでしょうか?

それはさておき、[86275]に記した趣旨で選定した 「島list500」 の集計表を、5大島・離島(47都道府県別)・北方領土の 順に示した集計表が作ってあるので、示しておきます。[86311]
香川県を見ると島の人口 38257 となっています。[90684]との差は 沙弥島96+瀬居島763。有人島数27は この2島の他に備考に記した井島の一部を算入していますが、石島の香川県部分【井島】は無人です。

データがあるので、香川県の島面積を島群別に集計しておきます。面積単位はkm2
小豆島と付属島:小豆島153.35+沖之島0.19+小豊島1.09+豊島14.50=169.13
直島諸島:井島1.82+直島7.82+向島0.74+屏風島0.12+牛ヶ首島0.33=10.83
高松市:大島(庵治大島)0.69+男木島1.38+女木島2.68=4.75
備讃瀬戸:櫃石島0.93+岩黒島0.17+与島1.10+小与島0.26+瀬居島0.91+沙弥島0.28=3.65
塩飽諸島:牛島0.84+本島6.77+広島11.66+手島3.41+小手島0.53+高見島2.33+佐柳島1.83+粟島3.68+志々島0.59=31.64
燧灘:伊吹島1.05
合計:28島 221.05km2【[86311]には算入していなかった元々の瀬居島・沙弥島面積を加えました。】

大部分の島は離島振興対策実施地域に指定されています。
具体的には、本土と地続きの瀬居島・沙弥島、無人の井島、近年無人になった牛ヶ首島の4島を除く24島で、自治体・面積・人口を含む一覧表になっています。
地域名は普通の用法と少し違う場合もあるようなのでご注意ください。

実は、離島指定基準は1964年以来約半世紀ぶりの 2013年に見直しが行なわれ、小豆島などが新指定されました。
国立療養所[90684]のある大島(庵治大島)も この際に検討されたのですが、船便や就業者数の多さから広島県厳島と共に指定が見送られたと伝えられ【出典】、[85202]でリンクした当時の最新版一覧表も そのようになっていました。
ところが今回確認したところリンクが切れており、再検索して得た上記平成27年7月13日現在の一覧表では大島が指定されていました。再見直しがあったようです。

…というわけで、離島振興法の有人離島数ランキングで、香川県は、堂々全国第3位の離島県でした。
長崎県51 愛媛県32 香川県24 山口県21 鹿児島県20 岡山県16 広島県13 宮城県9 東京都9 福岡県8

オヤ? 沖縄県がない… と思ったら、沖縄39島、奄美8島、小笠原2島は別の法律でした。[85802]

有人離島の数ではなく、都道府県の面積に占める 島嶼部の割合[85769]
沖縄県46.2% 長崎県44.4% 鹿児島県28.3% 東京都18.2% 熊本県11.8% 香川県11.3% 兵庫県7.3% 愛媛県7.0%

都道府県の人口に占める 島嶼部の割合[86311]
長崎県13.64% 鹿児島県10.99% 沖縄県9.64% 熊本県7.08% 広島県4.56% 山口県4.17% 香川県3.84% 島根県3.59% 兵庫県3.27% 新潟県2.66% 愛媛県2.60%

[90684]
男木島 高松市 162 かつては女木島とともに雌雄島村

昭和合併最終日[88364][73411][90105]に高松市に編入するまで存在したのですね。香川県香川郡雌雄島村
読み方が気になったので調べてみました。
しおじま メオシマ シヲジマ
昔は「雄」を「お」と読んだようです。

村の名を伝えている雌雄島海運のフェリーの名は「めおん2」 ですが、Wikipediaによると男木小学校の児童による命名だそうで、昔の村の呼び名に基づくものではないようです。
Wikipediaは しゆうじまむら となっています。

村が消えて60年も経てば、船会社の名を普通に読む「しゆうじま」が広く通用するようになってしまうのでしょう。
[90660] 2016年 6月 30日(木)10:21:07hmt さん
変遷情報あれこれ (11)1918/2/1 「自治体でない旧村」との 合併? により誕生した室蘭区 
[90655] グリグリさん 市区町村の変遷 開発記録(未処理:11件/未使用:6件)
[90657]で記した 未処理事例に続き、今回は 6件が残された 未使用事例を題材とします。

実は 受取先のなかった市区町村(6件)の意味が よく理解できませんでした。
例えば東京市と榑橋村との関係。東京市から開始して変遷情報内を過去に遡ろうとした場合、「東京市時代には練馬区が存在しなかった」ために榑橋村に到達できず、未使用で残った。最初は、そのような意味かと思いましたが、この解釈は違っていたようです。

東京市の変遷 を見ても、1891年の大泉村新設に関係した自治体として、埼玉県榑橋村の名は記録されています。
「受取先」とは榑橋村そのものではなく、ピンク地で示された町村制施行前の旧村のことではないか?
やっと気がついて確認してみたら、1889/4/1埼玉県の記録が未使用でした。未使用になった原因は 県境の壁 らしいと分かり、納得。

それはさておき、今回の主役は
室蘭市<室蘭区<北海道輪西村など3村 です。

1918/2/1 の 室蘭区(新設/区制) に伴う変遷情報の表記については、過去記事で議論がなされています。

発端は [67215] むっくんさん の記事です。変遷情報記載に関する将来的な問題点指摘を含むので、少し長いですが そのまま引用しておきます。
--------------
279 1918.02.01 区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町
は正しくは
1918.02.01 区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町, 輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村
ではないでしょうか。
参考:郡市町村廃置分合表(大正3年1月1日-大正7年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大9)5コマ、室蘭市HP(PDF)1コマ
#室蘭町には北海道一級町村制が既に施行されていますが、輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村の3村は未だ町村制が施行されていない地域です。そのため、将来的に北海道においても市区町村変遷履歴情報市制町村制施行時の情報に分離して記載するとき、記載方法にどのように記載するのが良いのやら。。。
--------------
これに対する88さんのレス[67671]
--------------
■T7(1918).2.1付け室蘭区 区制施行時の従前の町村について
「総覧」「便覧」・・・室蘭町
「幕末以降総覧」「辞典」・・・室蘭町,輪西村,千舞鼈村,元室蘭村
そもそも「総覧」「便覧」は、全国的に市制町村制施行以前の町村名はまったく記載されておりません。「辞典」は、ご丁寧に「非自治体の室蘭郡3村」とも書いてあります。
室蘭区区制施行の件は、内務省令?を確認できていないのですが、おそらく、ご紹介の郡市町村廃置分合表(大正3年1月1日-大正7年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大9)5コマ、室蘭市HP資料(pdfファイル)からも、室蘭町(一級町)と3村(非自治体)により発足した、と記述があると推測して間違いないでしょう。このため、室蘭町+3村と修正しました。
【上記[67215]の # 以下3行を引用し 】まさしく、心配していただいたとおりで悩ましいのですが、これはそのときまでにじっくり考えることとしたいと思います(つまりは「先送り」)。
--------------

ここで修正入力された輪西村以下の3村は、[78865]むっくんさんの記事引用文で確認できます。
しかし、[78869]紅葉橋律乃介さんが「( )は紅葉橋が勝手に付けたものですが」と記しているように、未施行の“村”との合併(?)が記載されていることに違和感を抱かれた方もあったようです。
[79760]中島悟さんは、ストレートに「3村は旧村なので削ったほうが良いと思います。」と発言しています。

これらの経過を踏まえた上で、「まとめ」的な むっくんさんの発言[83624](5)がありました。
#現状では何もなされていません。[79760]中島悟さんの町村制未施行3村を削除する案もありますが、一応、町村制未施行とは雖も3村は自治体であるのでこの提案は現実的には難しそうです。
私見ですが、色で区別したり、詳細欄で対応するというのが現実的なところでしょうか。もしくは(2)【一級、二級などの区別を記載する提案】を実行して
73 1918(T7).2.1 新設/区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町【一級】, 輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村
の形で市制町村制施行時の情報の方に記載すれば、意外と問題がないのかもしれません。

ここに示されているように、せめて変遷情報詳細
「輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村は 旧村であるが便宜上掲載」
というコメントを付けておけば、「先送り」[67671]のツケが今頃になって回ってくることはなかったろう。
過去記事を掘り返しただけですが、これが私の感想です。

室蘭の旧3村と同様に、正式の自治体でないのに、変遷情報の「変更対象自治体名」に記されているのが、
岡山県藤田村 村制 の前身である 「児島湾干拓地第二区」です。

東京23区【前身35区+練馬区で36回登場】<東京市  もちろん頭に付いている語句のなせる悪戯です。

結局のところ、 榑橋村は別として 「未使用の市区町村」とは「市制町村制以降の正規の自治体」でないものでした。
[90657] 2016年 6月 29日(水)12:16:12【1】hmt さん
変遷情報あれこれ (10)1906/4/1 北海道当縁郡廃止
[90655] グリグリさん 市区町村の変遷 開発記録(未処理:11件/未使用:6件)

未処理として挙げられた11件のうち、 1906/4/1 の当縁郡廃止に係る変遷情報です。

根拠である明治39年勅令第23号 [63738] には 編入先の郡名だけが記され、村名が記されていません。
変遷情報詳細もこれに基づいて記載されていたので、受入側の情報がなかったというわけですね。

落書き帳には、[63736]紅葉橋律乃介さんの記事がありました。
当縁郡当縁村の西部・歴舟村・大樹村、広尾郡茂寄村→広尾郡茂寄村
十勝郡大津村・長臼村・鼈奴村・十勝村、中川郡旅来村、当縁郡当縁村の東部→十勝郡大津村

関係する変遷情報は、北海道二級町村制施行に関するもので、その詳細は次の通りです。
広尾郡茂寄村新設/村制
十勝郡大津村新設/村制

なお、十勝郡編入に関し、「広尾郡に編入」と誤記されています。

ついでに 他の9件についても 短いコメントを。
埼玉県新座郡榑橋村は、[90653]に記したように 1891年6月【日付不明】東京府大泉村新設。

東京府小笠原旧5村の取り扱いについては、過去記事がたくさんあります。
比較的新しい記事を挙げると、[85063] [85081] [85082]

東京都35区 
そのような自治体は存在しません。変遷情報詳細の自治体名を「東京都」に改めるだけでよいのではないでしょうか。

新潟県湯ノ谷村  湯之谷村の誤記。

鹿児島県大島郡 大島郡に「沖縄県及島嶼町村制」が施行される前の郡変更なので、○○村を削除。
[90654] 2016年 6月 28日(火)19:20:16hmt さん
Re:神奈川県平塚市の飛び地
[90641] 水城珠洲 さん
平塚市大神 です。周りを厚木市長沼、下津古久、戸田に囲まれております。

久しぶりに飛び地の話題。
発見された場所は、東名高速道路厚木ICの少し南にあり、飛び地の南側と西側は 厚木流通団地になっています。

Mapionでは 南側が平塚市大神の地続きとして表示されているのですが、そこにある 日本通運厚木引越センターの住所は 厚木市長沼 となっており、[90641]でリンクされた MapFan が正しいように思われます。

ついでに、水城珠洲 さん[48502]で投稿していただいた平塚市の飛び地も見ました。
相模川の下流・馬入川の東岸にある茅ヶ崎市隣接地です。
『自治体の飛び地』コレクション にも収録されており、リンク地図の Mapionでは飛び地になっているのですが、投稿記事にリンクされた MapFan は、現在では飛び地になっていません。

この2つの事例から軽々しく決めつけることはできませんが、MapFan が 小まめな修正により、現状を正確に表示しているのではなかろうか と感じました。
[90653] 2016年 6月 28日(火)19:15:52【1】hmt さん
変遷情報あれこれ (9)埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村
難読地名ですが 保谷村の北東に接しており、こちらは石神井川の谷を越えた白子川流域です。
町村制が施行された明治22年(1889)の2年後、同じ新座郡の新倉村長久保[4111]と共に、白子川の南岸、東京府に属する豊島郡石神井村上土支田[36159]と越境合併[37980]しましたが、その理由は小学校の統合による経費節減でした[62334]ねりま区

1891年6月 東京府北豊島郡大泉村を新設した合併により、埼玉県新座郡榑橋村は消滅しました。

大泉村新設の日付について、[85068] むっくんさんが 東京府令M24年第57号を挙げて、【当時の変遷情報に記されていたM24/6/15ではなく】M24/6/9であると指摘し、その後の変遷情報は 6/9に訂正されています。
この府令は「施行日」について触れていませんが、府令公布と同日に施行と解釈したものと思われます。

比較の為に2年前の東京府令M22年第26号を見ると、下記のように施行日が明記され、施行日の約3週間前 M22/4/11 の公布 と、施行までに 多少の時間的余裕を持たせた周知手続 であったことがわかります。
東京府令 明治22年4月11日 第26号
明治22年5月1日より当府管下東京に市制を施行し 荏原郡外5郡町村に町村制を施行す

そのようなことから、周知期間なしの「公布即日の施行」に疑問を抱き【注】、調べた結果が [85095]です。
最終的に埼玉県から東京府に移管する手続きが終了したのは、明治24年6月16日頃と思われました。
演説書など 榑橋村引継に関する埼玉県からのアクション に対する返事として、東京府知事から埼玉県知事宛に出された「了承」を伝える文書には、明治24年6月16日の日付があり、それは6月15日を修正したものでした。
-----------------
【注】法例の公布日や告示日と施行日との関係
法令とその施行日との関係については、[65445]むっくんさんの記事があります。
法律については特に定めのない限り、法例(明治31年法律第10号)(M31.6.21)により、公布の日から起算して満20日を経過した日から施行されることになり、勅令や省令についても満二十日という規定があったようです。今回問題になった東京府令については言及なし。

告示日と施行日との関係については、[69366]むっくんさんの記事があります。
それによると、県令については公布の後七日というような期限を定めている府県が大半とのこと。
そして、告示についてまで施行期限を記している事例は大部分の府県で未発見とありました。

[69558] 88さんの記事もあり、佐藤達夫編:「法制執務提要<第2次改訂新版>」を引用しています。
法律については、この規定【法例第一条】によることになることは疑いがない。(中略)地方自治体の条例、規則等についても、同様の規定があり、ただ、この期間を十日としている(地方自治法十六条三項・五項)。しかるに、その他の政令や省令等については何ら規定がないので、解釈上問題を生ずる。

前記の「法例」は全部改正されて 平成18年6月21日法律第78号 法の適用に関する通則法 になっていますが、「法律は 公布の日から起算して20日を経過した日から施行する」という原則は変っていません。[84174]
-----------------

変遷情報に戻り、日付の確定困難はともかくとして、榑橋村が廃止されたことは 間違いありません。
変遷情報詳細に記さている郡変更【新座郡→北足立郡】の中に「榑橋村」が記されているのは、誤記と思われます。
[90652] 2016年 6月 28日(火)19:06:07hmt さん
変遷情報あれこれ (8)埼玉県【新座郡→】北足立郡保谷村
17世紀の中頃、大都市化を続ける江戸の水需要をまかなうべく、11里上流の羽村から多摩川の水を引くべく開削された玉川上水[58728]
玉川兄弟の他に松平伊豆守信綱の家臣・安松金右衛門の名も伝えられています[39526]
大袈裟に言えば、江戸時代だけでなく、現代に至るまで 首都東京の生命線です。

玉川上水の主たる導水先は 言うまでもなく江戸ですが、その途中で南北に分水することを可能にするために、その流路は 武蔵野台地の尾根筋を選んで設計されました。[72799]
落書き帳記事には野火止用水[39526]や千駄ヶ谷付近[48334][48626]の分水路も現れますが、変遷情報関係で今回取り上げたいのは、境橋で分水する「千川上水」です。

「千川」というと地下鉄副都心線の駅名になっていますが、落書き帳では[12707] KMKZさんの記事で「小石川」「谷端川」という別名と共に神田川水系の支流の名として登場します。なんだか玉川上水とは無関係の方角に来た感じがしますが、実は「千川上水」によって結ばれているという関係があります。

[41575]で書いたように、玉川上水から分水した「千川上水」は石神井川と谷端川との間の尾根筋を通って本郷台地に達し、白山御殿、湯島聖堂、東叡山寛永寺、浅草寺御殿という将軍立寄先の飲料水を供給しました。
そして、台地上を流れる多摩川由来の分水は、田畑の灌漑にも利用された谷端川(千川)の水量を補完する機能もあることから「千川上水」と呼ばれたのでした。

玉川上水から千川上水が分かれる分水口があった境橋付近は、神奈川県武蔵国多摩郡と境を接する埼玉県武国新座郡上保谷村地先。これが明治22年の町村制施行によって埼玉県新座郡保谷村になりました。
明治4年11月の3府72県体制では入間県でしたが、明治9年に埼玉県になっています。埼玉県の先端部が南に突出した地域にあります。神奈川県多摩郡の方は明治12年施行の郡区町村編制法で北多摩郡になり、更に明治26年の三多摩移管で東京府北多摩郡と、変遷履歴を重ねます。

なお、この境橋付近は後に境浄水場【1924通水】も作られる重要地点ですが、少し東に行くと 現在の東京特別区の最高地点付近で、昔は東京府・神奈川県・埼玉県の境界でした。[75152]

玉川上水沿いの保谷村も、最終的には東京府に編入されましたが、それが実現したのは 三多摩移管より 14年も後の1907年でした。当然のことですが、特別法も三多摩とは別に制定されています[47106]

ところが、この14年間に 全国的な地方制度整備の一環である「新・郡制施行に先立つ郡再編」があり、保谷村の所属する郡は、埼玉県新座郡→埼玉県北足立郡→東京府北多摩郡 と変遷することになりました。

[90631] グリグリさん
西東京市の変遷はルーツが神奈川県と埼玉県にあることが明確になりました。

その通りなのですが、保谷市のルーツを遡ってゆくと、1907(M40).4.1の「変更対象自治体名 埼玉県北足立郡保谷村」の前に相当する変遷自治体が、1889(M22).4.1【埼玉県新座郡】保谷村となっています。
この間に存在する 郡変更 が欠落し、情報の連続性が失われています。
1896(M29).4.1 埼玉県北足立郡 保谷村 郡変更 埼玉県新座郡 保谷村
[90622] 2016年 6月 23日(木)20:19:54hmt さん
変遷情報あれこれ (7)(微)と記されていても 侮れない規模の場合がある
[90618] グリグリさん
(1) 変更対象自治体名にある「○○○の一部」「○○○(本)」「○○○(微)」の扱い
「○○○の一部」「○○○(本)」については「○○○」と同じ扱いとし変遷情報の遡りトレースを続けるが、「○○○(微)」についてはこれ以上遡らない。ただし、「○○市の一部」についても遡りトレースはしない。

解析プログラムでの扱いついてのご参考までに、これらの表記が使われている実体の一端をお知らせしておきます。

昭和合併のさなか、1955/12/1に福岡県八女郡下広川村の3分村・消滅。
変遷情報は、広川町への編入区域を 下広川村(本)、筑後市と筑邦町編入区域を それぞれ 下広川村(微)と表記しています。そのように扱った根拠と推察するのは、詳細欄に記されている 告示文を写したと思われる記載です。
八女郡下広川村を廃し、大字一条の一部の区域を筑後市に、大字藤田の一部の区域を三潴郡筑邦町に、その他の区域を八女郡広川町に編入する

(微)が使われた2区域は いずれも大字の一部であり、変遷情報採用基準【近世村】に及ばないように思われます。
境界変更だったら無視されるところでしたが、3分村により下広川村が消滅したので、筑後市と筑邦町への編入も 下広川村(微)という表記を使って 廃置分合として記録されました。

国勢調査こは、この3分村に伴う人口異動が記録されています。調査手法は[90607]で説明しました。

昭和35年国勢調査 付表2「市区町村の廃置分合, 境界変更, 名称変更一覧表」【60ah02b.pdf】福岡県の末尾【37/41コマ】に記された 注です。
2) 30.12.1 八女郡下広川村(5070)の一部(1093)が筑後市に、一部(502)が三潴郡筑邦町に、残りの部分(3415)が八女郡広川町にそれぞれ編入。

先に引用した変遷情報の詳細欄とほとんど同じ表現ですが、3区域の人口という定量的な記載により、(微)(本)という定性的な記載に比べて情報の価値が増しています。
(微)と言っても、1000人、500人という規模の人口異動であることも分かりました。

(微)と記されていても侮れない規模の変遷であることを知ったので、昭和合併時代の九州限定ですが、更に調べてみました。

佐賀県では 1955/3/1 藤津郡七浦村、1955/4/1 神埼郡蓮池町、1956/4/1 杵島郡橋下村、1956/9/30 小城郡砥川村の4組。
砥川村は一部(本)(3451)が牛津町新設に加わり、残り(微)(363)が江北町に編入。S35国勢調査の佐賀県注3。
橋下村は一部(本)(2070)が北方町に編入、残り(微)(1026)が白石町に編入。S35国勢調査の佐賀県注5。
蓮池町は一部(本)(3266)が佐賀市に編入、他の一部(微)(1188)は千代田村になる。S30国勢調査の佐賀県注1。
七浦村は一部(本)(6878)が鹿島市に編入、他の一部(微)(970)が太良町に編入。S30国勢調査の佐賀県注2。

大分県では、1954/3/31 東国東郡安岐町新設に奈狩江村(微)が加わっています。国勢調査で見ると人口異動は 52人であり、これは文字通りの(微)ですが、廃置分合の一部として堂々と記録されています。
2番目に 1955/7/1 大分市への境界変更が記録されているのが、大分郡挟間町(微) です。人口異動は 391人で 奈狩江村(微)よりも大きいのですが、これも同じように (本)と対になっていない「単独の(微)」として記録されています。

大分県の3番目。変遷情報では 1956/4/1 速見郡南端村(本)が別府市に、南端村(微)が日出町に編入と記録されています。
ところが…
国勢調査60ah02b.pdfの39/41コマ 大分県の注1 を見ると、
31.4.1 速見郡南端村の一部(477)が別府市に編入し、残りの部分(897)が速見郡日出町に編入

変遷情報詳細の記載。
速見郡南端村を廃止し、その区域のうち大字天間及び大字南畑の一部を別府市に編入し、その他の区域を速見郡日出町に編入する

大字単位を含んでいる別府市編入区域を南端村の (本) と思ったが、実は南端村人口の 65%は日出町編入区域であった。
こんなミスもありました。やはり人口異動のデータを無視するわけにはゆかないようです。

追々調査範囲を広げるつもりですが、とりあえず 本州からも一つ挙げておきます。

1955/3/31 広島県世羅郡吉川村の分村を含む 廃置分合において、世羅西町新設に加わった区域を「吉川村(本)」としている点にも問題があると思われます。
吉川村から豊田郡豊栄町に編入された区域は「大字吉原の一部」と表現されているので 吉川村(微) とされたのも無理からぬことと思われるのですが、国勢調査で明らかになった人口異動は、昭和25年国勢調査人口3329人の過半数でした。
このケースでは、ほとんど半々に分村されているので、(本)と(微) で区別すること自体が不適当だったのでした。
[90619] 2016年 6月 22日(水)18:12:28【1】hmt さん
昼間人口比率の低い市
[90616] 白桃さん
市の都会度(その3) ◎基礎的指標 4.昼間人口比率
【ポイントの】低い市は 富士見(-2.8)、流山、狛江、大網白里(-2.6)、鎌ヶ谷、阪南、白岡(-2.4)

なるほど。というわけで、調べてみたら 富士見市の人口等の動向分析 という資料がありました。
平27年度 第2回富士見市 まち・ひと・しごと創生総合戦略審議会 の配布資料でした。

昼夜間人口比率を県内 40 市と比較すると、富士見市は最も低くなっており、市外への通勤・通学者が極めて多い状況にあります。
1990年 1995年 2000年 2005年 2010年 
昼夜間人口比率63.6%64.3%67.5%70.4%72.4%

県内40市のうち 39市が100%未満 という埼玉県でも、もちろん最下位。
お隣のふじみ野市は 31位、83.2%でした。
昼間人口流出先の目立つの 三芳町、川越市、ふじみ野市、豊島区、千代田区とありました。

それでも上記のように比率が増加傾向にあるのですが、その理由として挙げられていたのが、高齢化と ららぽーと富士見の開業でした。

高齢化による昼間人口の増加とは自分のことか。
確かに2000年国勢調査の少し前までは 千代田区に通っていたが、近頃は電車に乗ることが少なくなった。

マクロの状況を伝える記事を読みながら、極めて個人的な感想を抱いてしまった hmt でした。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示