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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[55259]2006年11月20日
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[55227]2006年11月18日
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[55172]2006年11月15日
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[54864]2006年11月1日
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[54385]2006年10月9日
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[54341]2006年10月5日
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[54324]2006年10月4日
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[54318]2006年10月3日
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[54293]2006年10月1日
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[54286]2006年10月1日
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[45821]2005年10月18日
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[45659]2005年10月15日
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[45635]2005年10月14日
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[45602]2005年10月12日
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[45584]2005年10月11日
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[45533]2005年10月9日
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[45532]2005年10月9日
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[45502]2005年10月8日
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[45464]2005年10月7日
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[45450]2005年10月6日
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[45437]2005年10月6日
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[45421]2005年10月5日
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[45417]2005年10月5日
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[45409]2005年10月4日
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[45400]2005年10月4日
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[45394]2005年10月4日
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[45357]2005年10月3日
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[45354]2005年10月3日
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[45339]2005年10月2日
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[45333]2005年10月2日
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[45320]2005年10月2日
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[45307]2005年10月1日
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[45272]2005年10月1日
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[45264]2005年9月30日
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[55259] 2006年 11月 20日(月)21:11:30eiji_t さん
“犬民性”&“狂犬病”
36年振りに狂犬病で死亡(1970年ネパールで感染。日本国内での感染で狂犬病による最後の死者は、1957年。犬の発生はその2年後1959年が最後)とのニュースで、新聞の切抜きを調べていたら、こんなのが出てきました。
10月29日<天声人語>に、人口あたりのイヌの数が多い都道府県は「群馬、三重、山梨、岐阜…」少ないのは「東京、大阪、山形、福井、石川…」
そこで朝日新聞群馬版が理由を分析しているのを紹介しています。東京、大阪が少ないのは判りますが、結局よくわからず、「犬民性」というダジャレで締め括っています。
天声人語を転載したブログ20061029

現在でも狂犬病に感染し発症したら致死率100%だそうです。国内では何十年も前に撲滅した病気ですから、ピンと来ないかも知れませんが世界では年間55000人も死んでいます。もし、日本で狂犬病の動物(狂犬病という名前ですが全ての哺乳動物が感染するそうです)が発見されたら、B.S.E.や鶏インフルエンザ以上の大騒ぎに?
一番危険なのは、日本海の向こうの国からくる船が、頻繁に入ってくる港だそうです。日本海の向こう側は、狂犬病の発生地域ですから。人や荷物のチェックは厳しいが、乗っている犬の検疫はしていないのだそうです(小さな港には動物検疫官がいない!)。感染した犬がひょいっと船を下りて…

厚生労働省のサイトにこんな統計が
都道府県別の犬の登録頭数と予防注射頭数等
そこの注目すべき数字は
全国
年度登録頭数予防注射頭数注射率
平成115,645,4244,578,27781.1%
平成125,779,4624,606,52779.7%
平成135,939,5954,646,04678.2%
平成146,084,7314,681,52476.1%
平成156,262,5104,741,48875.7%
平成166,394,2264,801,70975.1%
平成176,670,3274,924,12973.8%
年々登録頭数は増えていますが注射率が下がっています。

都道府県別では注射率にそうとうのバラつきが
(平成17年度)
1位、長野県94.8% 2位、山形県92.3% 3位、新潟県89.4% 
  ……
45位、岡山県61.8 46位香川県59.7% %47位、沖縄県50.5%

長野と沖縄では実に44ポイントもの差があります。香川県と岡山県以外は7年間順位は変わりません。
これも「犬民性」でしょうか。関係者の温度差?
気になるのは、香川県です。平成16~17年1年間で登録頭数は24000頭も増え、たぶん群馬県を抜いて人口当たりの飼い犬の数日本一になったようです。ところが予防注射率は平成11年の80.7%(23位)から年々下がって平成17年は上にあるように59.7%、46位です。
[55227] 2006年 11月 18日(土)09:16:56eiji_t さん
烏川碧碧さん復帰記念、銀座ネタ
[55216]烏川碧碧さん
銀座コレクションの更新も滞っているところですが、年末年始にかけて何とかするつもりです。
まずは地元ネタ
「日立銀座通り」は「ひたち銀座もーる(モール)」(なぜかひらがな、カタカナ表記両方あり)になっています。
日立市の銀座通り
ところで烏川碧碧さん銀座コレクションの日立銀座のリンク、リンク切れになっています。

銀座の標高(海抜)
*朝日新聞アスパラクラブ>A.I.C>木曜>野々村邦夫「地図一途」>アーカイブ>
2006/9/28「低くて元気な砂町銀座」

>日本で一番標高が低い銀座
>砂町銀座 標高(海抜)約-3.8mいわゆるゼロメートル地帯

この記事を読んで、すぐ一番標高(海抜)の高い銀座は?
という疑問が沸きましたが、軽井沢銀座をすぐに思いつきました。
軽井沢銀座は坂になっていますが一番低いところ(旧軽ロータリー)でも960m以上あります。
旧軽ロータリー[36873]みやこ♂さん

番外:アルプス銀座が一番標高が高い。これは反則!?
[34043]みやこ♂[みやこ]さん
表銀座”が、燕岳~槍ヶ岳のコースで、“裏銀座”が烏帽子岳~槍ヶ岳のコースです。「人が多くて銀座みたいだ」が命名の由来のようです。
現在は若者の登山ブームが去り、シーズンでも静かだそうです。以前の新聞の季節ネタで毎年夏にはアルプス銀座が取り上げられていた記憶があります。現在でも名前は残っています。

(*朝日新聞アスパラクラブ、野々村邦夫さんについては[43643]hmtさん[43552] eiji_t 参照)
[55172] 2006年 11月 15日(水)19:27:48eiji_t さん
町制施行、3通りの説あり 河原子町
最近も町制施行時期に関して、大阪府三島郡味舌町が話題になりました。
[55106]白桃さん
[55110]88さん
[55113]たもっちさん
[55115]矢作川太郎さん

私が町制施行の時期に3通りの説がある町のあることに気づいたのは去年でした。
茨城県多賀郡河原子町(昭和14年他の2村と合併し、昭和30年まで多賀郡多賀町の大字。現在ほぼ日立市河原子町あたり(出入りあり))

(1)明治22年4月1日、市町村制施行により河原子村が単独で河原子町になる
・『茨城県町村沿革誌』細谷益見、明治30(1891)年、復刻版崙書房、昭和51(1976)年
・『市町村治績録』日本自治協会、昭和4(1929)年
・『茨城県市町村合併史』茨城県、昭和33(1958)年
・『茨城県市町村総覧1958年版』茨城県、昭和33(1958)年
・『全国市町村名変遷総覧』日本加除出版、1979年
・『茨城県史料 近代政治社会編4』茨城県、1990年
・『新修日立市史;下巻』日立市、1996年
郷土史資料のほとんどがこの説で、これによると近代(市町村制施行以後)の河原子村は存在しない事になります。

(2)明治22年4月1日、市町村制施行により河原子村が単独で河原子村となり、明治24年町制施行により河原子町になる
・『角川地名大辞典 8茨城県』角川書店、1991年
・『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1993年
・『消えた市町村名辞典』廣済堂、2000年
・ISSIEさん市町村の変遷多賀郡
・行政区画変遷一覧表茨城県多賀郡 自治体成立時
角川版では近代の河原子村が存在する事になり、1項を設けて説明しています。他の資料は角川版に倣ったと思われます。

(3)明治22年4月1日、市町村制施行により河原子村が単独で河原子村となり、昭和14年他2村と合併し多賀町となるまで続く
・『茨城県史 市町村編1』茨城県、1972年の「市町村分合表 日立市」
・『日本歴史地名大系 8茨城県の地名』平凡社、1982年
これでは河原子町が存在しなかった事になります。『茨城県史 市町村編1』は「表」の中のだけ表記で、他の県編纂の資料とも矛盾。単純な誤りか?平凡社版はこれに倣った?

どれが正しいのでしょうか?「誤りの連鎖」の可能性があり、多数決でというわけには…
原資料に当たるのが一番だと思われます。それが出来なければ限りなく原資料に近い資料に当たるのが次善の策だと思います。
その可能性が高いのが(1)の『茨城県資料 近代政治社会編4』です。「傍訓茨城縣官令全報;第53号」と「傍訓茨城縣官令全報;第54号」(共に明治22年)を写したものです。
これとて写し誤りの可能性が完全には否定できません。そこで明治時代の「県報」のマイクロフィルムを所蔵している茨城県立歴史館に出掛けてきました。
そこでマイクロフィルムを複写し製本した「傍訓茨城縣官令全報」を閲覧し必要部分をコピーする事ができました。

「傍訓茨城縣官令全報;第53号」の「茨城縣令甲第12号」に「左表の通り明治22年3月31日に施行す」とあり
「傍訓茨城縣官令全報;第54号」にある「左表」に「河原子町」とありました。

『茨城県史料 近代政治社会編4』に書いてある通りでした。
(1)の「明治22年4月1日、市町村制施行により河原子村が単独で河原子町になる」
を信じます。これで「県報」に誤りがあればお手上げです。

角川版も平凡社版も郷土の歴史地理の権威が監修に当たっています。それでも全部に目が行き届くとは限らないという、教訓を得ました。
[55149] 2006年 11月 14日(火)12:00:39【1】eiji_t さん
県内のバスが千円で2日間乗り放題
昨日11月13日は茨城県民の日でした。今日は埼玉県民の日ですね。
<『茨城県民の日』記念フリー乗車券>が発売されていました。1000円で12,13日の二日間有効、県内の12社の路線バスが自由に乗り降りできました。去年から実施で、全国的に見ても独特の試みだそうです。
私がこれを知ったのは2日前の事で、去年は知りませんでした。急遽乗車券を購入して、計画も余り立てられずミニ路線バスの旅をしてきました。

11月12日
日立駅―東河内(日立電鉄交通サービス)運賃往復1420円分
前から気になっていた日立市内の小さな水力発電所を見学してきました。
里川発電所、中里発電所
茨城県北には水力発電所が13箇所あって、ほとんどは小さな規模の発電所です。
東京電力
歴史の古い発電所も多く、6箇所が国の有形文化財に登録されています。乗換えを事前に調べられれば里川水系の他の発電所にも行けたでしょうに……来年への課題です。

11月13日
常陸多賀駅―常陸太田駅―水戸駅―県歴史博物館 運賃往復3420円分
(日立電鉄交通サービス、茨城交通、茨城オート)
日立、水戸間の直通の路線バスが何年も前に廃止しになった為に、JRでは30分位のところ、乗換えもふくめ2時間以上、運賃も2.6倍。こういう機会でなければ試みられないルートです。県歴史博物館は県民の日のため無料で見学できました。また明治期の市町村合併の疑問点を博物館にしかない資料で調べ物をしてきました。その結果は別に報告します。

路線バスの旅は、事前に調べていかなければ効率的に回れません。来年はしっかり計画を立てて行こうと思います。

鉄道も11月26日まで土・日・祝日に県内のJR線と、接続する私鉄が1日間2000円で自由に乗降りできる「ときわ路パス」を発売しています。これを利用して、廃止が計画されている鹿島鉄道や茨城交通湊線に乗りに行こうかなと思っています。
[55114] 2006年 11月 12日(日)18:13:27eiji_t さん
最後の有人灯台が…
最後の有人灯台であった長崎県・男女群島の女島(めしま)灯台が本日11月12日に自動化され無人化されます。
最後の有人灯台が自動化

このニュースを最初に知ったのは、1ヶ月ぐらい前の新聞だったと思います。灯台にまつわる個人的想い出が走馬灯のように自分の中で駆け巡りました。最初に灯台に登った当時のこと、その同じ灯台で叔父が…

「おいら岬の灯台守は…」の主題歌で知られる木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年)を見たのはリアルタイムでは有りませんでしたが、印象に残っています。
「灯台守」という言葉は完全に死語になってしまうようです。
[54929] 2006年 11月 3日(金)00:13:19eiji_t さん
茨城県議選、区割は合併の前のまま
11月2日の朝日新聞茨城版に12月10日投票の県議選が、今回に限り合併前の区割で実施されることが載っていました。それに伴い、14の合併市で選挙区が分断される形になりました。
特に旧御前山村地区(常陸大宮市)や旧内原町地区(水戸市)は「ひずみ」が目立ちます。また、鹿島郡区の神栖・鉾田市は選挙区が飛び地になってしまいます。アサヒコム
また分断14市のうち12市は開票を一つの会場で集計するそうです。混乱は起きないのでしょうか?

茨城県を除く関東6都県のうち、大規模合併の無かった東京、神奈川では区割の変更は予定しないそうですが、他の4県は4月の統一選の県議選に向け、合併に合わせた変更を県議会で決議あるいは検討しているそうです。茨城県だけが突出している感じです。「現職議員の都合」という意見もあるそうです。

他の地方の選挙区の区割はどの様になっているでしょうか?
[54882] 2006年 11月 1日(水)22:19:58【1】eiji_t さん
人口減少
[54847] 小松原ラガー さん
日本の人口についても当初から「人口減に転じるのでは?」との状態から、いざ国勢調査の結果が明らかになってくるに連れて、その値が現実に、そして想像以上に大きくなった
問題は人口減少そのものより、高齢化が急速に進んでいることだと思います。そしてその原因は現在進行中の出生率低下ではなく、昭和20年代のベビーブームの直後の急激な出生率の低下によるものなのです。(1947年出生率4.54→1960年同2.00)
今となっては過去に遡って出生率を回復することはできませんから、高齢化をじたばたせず受け入れるしかないと思います。

10月19日と26日の朝日新聞・夕刊の文化欄「人口学は少子化にどう向き合うのか」が参考になります。それによりますと一部の人口学者は60年代後半から出生率の低下を警戒していたそうです。しかし大勢は出生抑制を推し、少子化が社会問題とされるようになったのは、ようやく1989年の「1.57ショック」からです。
学者も政治家も「目の前の現象にとらわれ過ぎ」ていた、顕著な例でしょう。

日本の人口減少問題への対策ですが、一つには移民政策か。
私も良く分からないのですが、移民政策を採ってもやはりそれに伴う社会問題がおこるのは目に見えているでしょう。そうなると高齢化問題と現在のヨーロッパで起きているような移民問題との事の重大さの比較になるでしょうか。

*一箇所訂正
[54864] 2006年 11月 1日(水)08:56:52eiji_t さん
マンホール&道路標識
[54776] miki さん
[54782] N-H さん
前に[45272]に書きましたが、去年の9月時点でマンホールのデザインを変えた自治体は198市町中13だそうです。でも東かがわ市以外は一斉に取り替えることはないでしょうから、暫くは新旧のデザインのマンホールが混在するでしょう。
現在の事情は判りません。新しい情報で無くてごめんなさい。マンホールコレクション・サイトが沢山存在する様ですから丹念に調べると新しくデザインをした自治体の情報が分かると思います。

[54784] じゃごたろ さん
道路標識や地点名板は素早く取替えて欲しいですね。
茨城県では筑西市や笠間市で、旧市町の道路標識や地点名板を無償で提供しました。応募が沢山で抽選で提供されたようです。他の都道府県ではどうでしょう?
[54798] 2006年 10月 30日(月)18:48:14eiji_t さん
RE:鵜飼、鷹飼
[54628] 笠津前浜 さん
素早い対応、ありがとうございます。こんなに早く採用されるとは思っていませんでした。驚いています。

職業由来地名は、特に古い地名の場合"由来"まで調べなくてはならないから難しいですね。

「鷹飼」地名は昔は有ったそうですが、現在では滋賀県近江八幡市の他には、web上の地図で検索するとMapFanほかで、徳島県勝浦郡上勝町生実「鷹飼野」が引っ掛かるのですが、クリックすると地図上には名前が有りません。もちろん由来も不明です。想像するにここで鷹狩をしていた?

「鵜飼」は以前に挙げた他にも残っている所は有るのですが、由来がハッキリしなくて…「鵜飼」氏から来ている地名も有るようです。でもその氏名を辿れば職業に行き着く?
山梨県笛吹市の「鵜飼」は謡曲「鵜飼」の舞台になった由緒ある地なのですが、現在の地図上では「鵜飼橋」ぐらいしか残っていません。

「鵜飼」「鷹飼」は共通点が多く共に律令、平安時代は天皇の庇護下にあり、後には戦国大名が庇護します。例えば岩手県岩手郡滝沢村鵜飼は南部利家が鷹狩の時の休み所に鵜を飼養させたのが始まりとか。「生類憐みの令」以後すたれ、復活は明治に入ってからです。

「鵜飼」のことは地元、日立市十王町が全国唯一鵜飼に使う海鵜の認可された捕獲場所であり、「地名コレクション」を離れても調べたいものですが…
[54603] 2006年 10月 26日(木)23:21:11eiji_t さん
職業由来地名?「鵜飼」、「鷹飼」
鵜飼 うかい
岩手県岩手郡滝沢村 鵜飼、中鵜飼、下鵜飼
石川県珠洲市 宝立町鵜飼
岐阜県岐阜市 下鵜飼
岐阜県加茂郡川辺町 鵜飼
兵庫県揖保郡太子町 鵜飼
岡山県小田郡矢掛町 鵜飼
広島県府中市 鵜飼町

鷹飼 たかかい
滋賀県近江八幡市 鷹飼町、鷹飼町東、鷹飼町南、鷹飼町北
「鷹飼」鷹狩に使う鷹を飼育し、鷹狩に随行する下級役人。のちに一般に鷹匠のこと。
「鷹匠(町)・鷹師」「餌指町」が職業由来地名コレクションに入っているのであればこれも?

 参考
風俗博物館鵜飼と鷹飼
宮内庁HP御料鵜飼
[54588] 2006年 10月 25日(水)07:17:24eiji_t さん
次の政令指定都市は?
[54573]アルバトロスさん
[54528]futsunoおじさん ほか
今日の朝日新聞 「新潟市」「浜松市」の来年4月政令指定都市移行、24日閣議で正式決定の記事。
次に政令指定都市を目指す都市の事も出ていました。
この動きは人口要件が「80万人以上将来100万人に増加見込み」だったのが、政府が01年に出した「合併支援プラン」で要件緩和し、これが05年人口70万程度の静岡市の指定で、同程度の自治体で加速したみたいですね。
・岡山市 09年4月の指令都市移行を目指す
・静岡県東部(沼津市、三島市など5市4町)おおむね10年を旨に
・熊本市 24日から市民説明会を始めた
「相模原市」のことは載っていませんでした。
[54556] 2006年 10月 23日(月)12:47:32【1】eiji_t さん
市区町村雑学「郡の入った市」
市区町村雑学に都道府県・市町村の入った市(野々市ってあったっけ?)がありますが、何故ここに「郡の入った市」を入れないのかなと素朴な疑問。
福島県 郡山市
岐阜県 郡上市
愛知県 蒲郡市
奈良県 大和郡山市
福岡県 小郡市

ここに「○○市町」を加えると一つの所で市・郡・町・村の入った地名が考えられます。
福島県郡山市田村町*  (*以下旧・田村町の字名)
福島県郡山市西田町木村
富山県中新川郡上市町稲村
富山県中新川郡上市町新村
富山県中新川郡上市町中村
以上小字までは調べられませんでした。他にもあるかな?

・1箇所削除
[54536] 2006年 10月 22日(日)16:27:51eiji_t さん
群馬、埼玉県境変更続き
[52705] KMKZ さん
[53313] いっちゃん さん
[54252][54264]hmt さん
東京新聞10月21日のなぜか茨城版に群馬、埼玉県境問題が出ていました。群馬、埼玉版にも載っているかな?
太田市の南前小屋地区は皆さんが書いているように、3年後の編入への動きが本格化の模様。
[54252hmt さん
少し下流の熊谷市妻沼小島地区(利根川北岸)の場合では、住民の足並みの乱れと熊谷市の消極的態度とがあいまって、太田市への編入運動は、実現性が薄いようです。
住民の足並みの乱れというのは「土地改良事業」が絡んでいるようです。これでは難しいか?

また新聞には、東京都町田市と神奈川県相模原市の境川沿いの飛び地解消作業についても書いてあります。各種変更手続きが面倒で作業は難航しているみたいです。
[54521] 2006年 10月 21日(土)01:53:25eiji_t さん
MAXコーヒー、東京進出開始は7月
茨城県民の私は割合最近までMAXコーヒーは全国発売のものと思っていました。
尤も甘いの苦手の私は最初1本飲みきれなくて、それ以来飲んでませんが…

ウィキペディアによりますと、都内進出は今年の7月からのようです。その他の一部の地区でも発売の模様。
[54432] 2006年 10月 14日(土)20:32:21【1】eiji_t さん
平和通り
日立市の平和通りは、太平洋戦争での米軍の空爆や艦砲射撃で市街地の70%が焼け、戦後の復興事業の一つとして延長1km幅員36mの道路を計画し、市民公募でこの名が決まったものです。完成は1952年12月です。
全国各地の平和通りも似たような経緯で作られor既存の道路に命名されたものでしょうか?以下の表はweb地図で私の調べられた範囲です。(地図上に通りの名が無く、「**平和通り店」とだけ有るものも含まれています)
遺漏が多々あると思うので、ご指摘を

北海道札幌市白石区平和通 地名
北海道札幌市厚別区 厚別平和通
北海道函館市杉並町 平和通
北海道旭川市 平和通買物公園 [16201]NSさん
北海道三笠市 平和通
北海道釧路郡釧路町 貝塚平和通
秋田県横手市 平和通
山形県米沢市 平和通り  [24488][52073]般若堂そんぴんさん
福島県福島市 平和通り
茨城県日立市 平和通り  [4770][10907]深海魚[雑魚]さん
茨城県土浦市 平和通り
群馬県太田市 平和通り
埼玉県さいたま市浦和区 仲町平和通
東京都品川区 ジュネーブ平和通り 友好都市提携を結んだジュネーヴ市(スイス)から
東京都目黒区目黒 平和通り
東京都豊島区池袋 平和通り
東京都北区赤羽 志茂平和通り
東京都武蔵野市吉祥寺 平和通り
東京都三鷹市 平和通り
東京都府中市 平和通り
東京都武蔵村山市 平和通り
東京都西東京市保谷町 平和通り
神奈川県横浜市栄区 平和通商店街
神奈川県川崎市川崎区 平和通り
富山県富山市 平和通
山梨県甲府市 平和通り(新、新々) [23567]じゃごたろさん
岐阜県岐阜市平和通 地名
岐阜県関市平和通 地名
静岡県熱海市 平和通り
静岡県浜松市 平和通り
静岡県志太郡大井川町 平和通
愛知県半田市 平和通
岡山県岡山市 平和通
広島県広島市広島 平和大通り  [25044]ペーロケ[愛比売命]さん[25243]花の東京都民さん
山口県周南市平和通 地名
愛媛県松山市平和通り  地名 [10412]ペーロケ[utt]さん[10804][11195]まがみさん
愛媛県新居浜市 平和通り  [18817] [31338] SANUKI-Impact[TACO],[讃岐の民]さん
福岡県北九州市小倉 平和通り [43812]かぱぷう さん
佐賀県佐賀市 平和通り
長崎県長崎市城山 平和通り
大分県豊後高田市 平和通り
鹿児島県指宿市 平和通り
沖縄県那覇市 平和通り

他に平和のついた地名など
平和、平和町、平和(大)橋、平和(の、ノ、之)塔、平和台、平和駅、平和(記念、祈念)公園、平和島、平和川、平和が丘、平和の森 …

平和の読みが「ひらわ 」
栃木県小山市平和(ひらわ)
静岡県浜松市平和(ひらわ)
福岡県田川郡福智町平和台(ひらわだい)

1箇所訂正
[54423] 2006年 10月 13日(金)23:43:43eiji_t さん
街の映画館
[54355]EMMさん
約1年ぶりに通った香林坊の旧映画街(下見時には通らず)の元映画館が全部取り壊されて駐車場に変貌していたのはショック大でしたが。
[54389]ぺとぺと さん
水戸では駅前の映画館で夜のピクニックを鑑賞しましたが、ご当地(モデルとなった高校&ロケ地が水戸)にもかかわらず、客は私含めたったの8名。
映画館の行く末が気になってしまいました。
1958年には11億2000万人いた映画人口は減少しつづけ、1996年には過去最低の1億2000万人。しかし翌1997年から増加に転じています。しかしその増加はいわゆるシネコンが負っていて、街の映画館は相変わらず減少し続け、全国で年間120館が閉館しているそうです。
これは消費者のライフスタイルが変わり、客が郊外型のショッピングセンター(S.C.)に流れ、街の中心の商店街が廃れる事に、丁度重なる現象でしょう。

東京新聞6月12日最終面<TOKYO発>より
日立市の映画館・日立セントラル劇場が今年1月休館に追い込まれるが、経営者は自宅を売却してまで再開を目指す(7月29日に再開)。一度休館しながら営業再開するのは「極めて珍しい」そうです。この記事が出てから、NHKが首都圏特報で取り上げたり、映画雑誌が取材したりしているそうですが、地元ではさほど話題になっていません。
私は中高生時代この映画館に良く通いましたがその後全く行っていません。この新聞記事を読むまでとっくに閉館していると思い込んでいたので驚きました。
JR日立駅から徒歩10分余りの「日立銀座通り」(銀座コレクション)現・日立銀座モールはやはりシャッター通り、そこから一歩裏にある日立セントラルは典型的な街の映画館。再開しても経営は苦しいでしょう。
[54416] 2006年 10月 12日(木)21:44:45eiji_t さん
献血手帳~献血カード
本日2ヶ月ぶりに献血してきました。今月から全国的に献血カードに変更になりました。
[53211]熊虎 さん
各都道府県の血液センターのスタンプを集めるのも、面白そうですよね。
スタンプが無くなって(カードの裏に過去3回分の記録が印刷されます)旅血愛好家の楽しみが一つ減ってしまったようです。

献血ルームの愛称
[53114]夜鳴き寿司屋さん
広島市の献血ルームの愛称が「もみじ」で福山市のものが「ばら」だったと思います。やはり、全国の献血ルームもご当地に因んだ名称がついているのでしょうね。
自分が献血している日立市の献血ルームの名称が「さくら」(市の花)なので、やはり全国的に因んだ名称がついているのかなと思っていました。日本赤十字社HPで見たら全国の113の献血ルームでご当地に因んだ名称は以下の7ヶ所だけでした(残りは地名、献血ルームが入っているビル名、抽象的愛称など)。

北海道帯広市 すずらん (道の花ハマナス、市の花クロユリ)でも北海道の印象?
茨城県日立市 さくら (市の花)
岡山県岡山市 ももたろう (県に因む昔話)
広島県広島市 もみじ (県木、県花)
広島県福山市 ばら (市の花)
香川県高松市 オリーブ (県木、県花)
高知県高知市 ハートピアやまもも (県花)
[54405] 2006年 10月 11日(水)00:28:05eiji_t さん
水郡線、ご当地映画
[54389]ぺとぺと さん
水郡線不通にならなくて良かったですね。今回の低気圧通過は、雨より海岸沿いの風が強く、常磐線の方が影響が大きかったですね。ところで水郡線では来年1月に新車両を導入するそうですが、どんな車両でしょうかね。

夜のピクニックを鑑賞しましたが、ご当地(モデルとなった高校&ロケ地が水戸)にもかかわらず、客は私含めたったの8名。
天候の影響でしょうかね?検索すると映画を見た人の意見では辛口が多いです。私としては、全編茨城県でロケ、エキストラ千人全員地元民という所に興味があります。
偶然、上映時期が重なって「夜ピク」側がライバル視しているという、お隣福島県いわき市がご当地の映画「フラガール」も一部のロケは茨城県北茨城市、高萩市、湊鉄道那珂湊駅で行われたようです。
今月の8日の茨城新聞では1面で>「ロケ適地茨城」浸透 映画、ドラマ撮影4年で745作品
とあり、茨城県のフィルムコミッション(F.C.)※が一応成功しているようです。

全国フィルム・コミッション連絡協議会
によりますと全国にF.C.が都道府県から市町村レベルまで94もあります。皆地域起しを狙っているのでしょうね。映画が成功し、ロケ地に観光客が増えて、それも一時的でなく定着して始めて大成功と言えると思います。NHKの大河ドラマでは放送時期にご当地に観光客が押し寄せるものの翌年からは元に戻るパターンだと思います。

ぺとぺと さんが言及していた街の映画館の事も書こうと思いましたが、長くなるので別項で…

※映画、テレビドラマ、CMなどのあらゆるジャンルのロケーション撮影を誘致し、実際のロケをスムーズに進めるための非営利公的機関
[54399] 2006年 10月 10日(火)14:32:34eiji_t さん
RE:茨城の公共交通事情
[54393]みかちゅう さん
私の簡単な記事に、精細なレス有難うございます。そこで私も補足を。

・茨城交通
赤字の要因の一つにかつては終着駅の近くの阿字ヶ浦海岸の海水浴客が県内一、関東でも有数だったのが現在は激減した事にあります。一年分を一夏で稼ぐと言われたとか…原因は海岸侵食で2kmに渡った砂浜が細り、砂利や石が露出しかつてのビーチの見る影もありません。(海岸侵食の問題は全国規模で、茨城県でも阿字ヶ浦だけではありませんので別立てで…何時になるか?)

・鹿島鉄道線
自衛隊百里飛行場の燃料輸送という安定した収入源があったからでした。これも平成13年に打ち切られ、その時にも鉄道廃止の話が持ち上がったとのことです。
東京新聞茨城版5月29日に、救済案として行方市長が百里基地への燃料輸送を米軍再編問題に絡めて提案した、とありました。しかしこの記事にフォローが無く、立ち消え?
また、この間に沿線自治体の市町村合併があり沿線から遠い旧町村との温度差で保存の足並みが揃わないという事もあったようです。

・その他
関東鉄道常総線の取手~水海道と竜ヶ崎線を除くと利益が上がっているとは言えない状況
朝日新聞茨城版2005/10/14の「乗って残すぞ竜ケ崎線」と言う記事で、
>県内の私鉄が苦境に立たされている。竜ケ崎線も例外でない。竜ケ崎市では「竜ケ崎線ルネサンス会議」を立ち上げた。
現在かろうじて黒字でも、乗客の減少傾向が続けば経営危機は避けられないそうです。
一方で県南には路線バスの空白地帯も目立ちます。…最低限の交通手段の確保すら怠っている
県南の事情に暗い私は、この事を最近新聞で知って、ショックを受けました。
[54385] 2006年 10月 9日(月)16:40:58eiji_t さん
廃線、廃線、廃線?
茨城県ではTXの開通の一方で
2005年に日立電鉄線が廃止、2007年春には鹿島鉄道線が廃止になるか、10月中にも結論が出るというのを見守っていたら…
9月の各新聞の茨城版で、茨城交通湊鉄道線の廃止を茨城交通がひたちなか市に打診していた事が分かったとの報道がありました。早ければ2008年春。
これが実現すると前身の湊鉄道の開通が1913年ですから95年余りで茨城交通は完全に鉄道事業から撤退という事になります。因みに茨城交通水浜線は1966年、茨城交通茨城線は1971年廃線。

こうも連鎖反応のように廃線が打ち出されると鉄分の少ない私でも沈んでしまいます。車社会の前に詮方ないことなのでしょうか?何か妙案は……思いつきません。
[54367] 2006年 10月 8日(日)05:15:24eiji_t さん
RE:食パンの切り厚
[53851]ニジェガロージェッツさん
関東では8枚切がよく売られているそうですが
[54366]ニジェガロージェッツさん
オフ会にて「今や関東でも6枚切が主流で、8枚切はあまり見かけない」とお聞きしました。

私のところは北関東ですが、6枚切と8枚切の割合は6:4ぐらいで、まだまだ8枚切見られますよ。そういえば昔は8枚切りが主流でしたね。段々と6枚切りの割合が増えてきたような気がします。関西で主流だと言う5枚切りもボチボチ見かけます。これも関西の文化が流れ込んできたのでしょうかね?
自分では朝食に6枚切り1枚が丁度いい分量なので6枚切りを買っています。前は8枚切り2枚でした。
[54341] 2006年 10月 5日(木)21:21:55eiji_t さん
デジタル標高地形図
1:25,000デジタル標高地形図(東京、大阪、名古屋)が作成されたそうです。
“航空レーザ測量によって整備した「数値地図5mメッシュ(標高)」の標高データを用いて作成した陰影段彩図の上に2万5千分の1地形図を重ねた地図”だそうで、“現況としてみても歴史的な目で見ても非常に興味を引かれる”とあります。

http://www.jmc.or.jp/map/jmc/digital_hyoko.html

のサイトでサンプルを見るとモニター上のせいか凹凸が逆転して見える(特に東京)のは私だけでしょうか?
実物を見たいけれど、近所の書店では取り寄せとの事。
どなたか、実物を見た、又は購入されたという方、ご感想をお聞かせください。
[54324] 2006年 10月 4日(水)07:34:34eiji_t さん
復帰の挨拶&御礼
10月1日にほぼ1年ぶりに復帰しましたが、過去記事を見てみますと以前私が提案したアーカイブや地名コレクションが採用されていたり追加されていたり、私の過去記事に言及されていたりしたのを見つけ、遅ればせながら御礼申し上げます。
[49129]YSKさん
[49925]EMMさん
[49972]SANUKI-Impact[讃岐の民]さん
[51618]右左府さん

落書き帳は私にとって常連客で盛り上がっているお店のようで、一寸行きそびれると敷居が高い感じになってしまうのです。これからはあまり意識せずちょくちょく覗いて、ゆるゆる参加させていただきたいと思います。暫くは亀レスばかりになる予感…
これからもよろしくお願いします。
[54318] 2006年 10月 3日(火)15:27:25eiji_t さん
県境を2度越える橋
[54312]Hiro(&TOKO)さん
(岐阜)→「合掌大橋」→(富山)→「合掌大橋」→(岐阜)というような感じになります。
早速の回答有難うございます。
やはりそうでしたか。そうすると次の疑問が沸いてきました。

「合掌大橋」の他に県境を2度越える橋はあるのでしょうか?

Hiro(&TOKO)さん
あの記事を書かれた方と友人でしたか。「Excite Bit コネタ」は好きで時々見ています。実はあそこに注目している記者がもう一人います。
[54293] 2006年 10月 1日(日)22:19:28eiji_t さん
飛越七橋
亀レスです(何せ、落書き帳に訪れるのが久しぶりなので)

[53787]稲生さん
岐阜・富山県境は飛越七橋と言って、庄川沿いに6つの県境が次々とめぐってくるという素晴らしいものでした。(マニアならではの視点です。※七橋のうち1橋は県境ではありません。)

下記のエントリーでは7回県境をまたいでいるとあります。そこの地図を見ると7橋全部が県境を越えるように見えますが、もしかして地図の一番下の合掌大橋は一つで県境を2回越えて、県境を越えない7番目の橋が地図の上か下にあるのでしょうか?
そうだとすると、合掌大橋は珍しい橋になりますね。

参考:Excite Bitニュース/コネタ/橋を渡るたびに県境を越える場所
http://www.excite.co.jp/News/bit/00091105958228.html
[54286] 2006年 10月 1日(日)10:53:17eiji_t さん
水戸市、茨城町の合併情報
お久しぶりです。ほぼ1年ぶり。

茨城県の合併速報
>9月29日、水戸市と茨城町の合併問題で、水戸市と茨城町との幹部による話し合いがもたれ、茨城町より水戸市長らに合併条件が提示されました。
>茨城町側は、水戸市に編入合併する、合併期日は2007年12月8日とする
>10月にも開催する次回の法定合併協議会で合意される見通し

参考:
ほっとメール@ひたち/茨城県議会議員の井手よしひろの活動記録blog版
http://blog.hitachi-net.jp/archives/50297468.html
[45821] 2005年 10月 18日(火)13:56:17eiji_t さん
ひたちなか市の水戸工場の由来と「軍需合併」
[45093]eiji_t
水戸工場の名の由来だけは判りましたが、戦争に絡んでいて少々重いので別に…
と予告して、延び延びになっていましたが、やっと纏まりました。

水戸工場の由来には[45417]eiji_t で述べた「多賀工場」と「多賀町」との関係と密接な繋がりがあります。
違いは、その期間にあります。多賀町の場合は昭和10年に地元に打診があり地元も工場の誘致と新町合併に動き、反対派をなだめ工場の新設と新町の誕生までまで3年以上掛けています。

昭和十年代初め軍需産業に傾斜した日立製作所は手狭の上に電力不足の安来工場(兵器用特殊鋼の生産工場)の分工場用地を探します。始めは工場用地を多賀工場の隣(桜川)に求めますが、地元の反対で断念します。
そこで現在のひたちなか市の一部、当時の勝田村,川田村,中野村に跨る広大な農地に目を付けます。
ここで方針の転換があります。分工場ではなく独立した工場として製品を軍に納入する陸軍管理工場として計画し直されます。昭和14年8月のことでした。
またこの地域一帯を水戸市を中心に軍需工場地帯として水戸市に合併する構想が生まれそれに沿って新工場の名も「水戸工場」と決定します。これが水戸工場の名の由来です。
事態が切迫していた事もあり、日立製作所は昭和14年9月工場用地取得に乗出します。降って湧いた農地買収に地元は反対しますが、強制収用をちらつかせ国策の名の下に強引に工場用地を低価格で買収します。12月には百万坪に及ぶ用地買収を完了します。水戸工場完成は翌15年9月です。

平行して日立製作所は県に働きかけ合併を画策します。新工場が3村に跨っていてはその操業に支障をきたす為です。水戸市も将来の編入を視野に入れて合併を促進します。県主動でで進められた3村の合併は昭和15年4月に成ります。新町名は3村が提案した合成名「中田町」ではなく、当時の軍事色を反映して「勝った!」に繋がる「勝田町」に決定します。
勝田町の水戸市への編入の話は翌年には何故か萎み、戦後も周辺の村と合併し勝田市となった後那珂湊市と合併しひたちなか市となる道を選びます。

[37842]hmt さん
戦時(1937.7.7~1945.9.2)合併は、全国で合併合体208(関係町村661)、編入合併188(関係町村341)とされています。
勝田町もこの一例でしょう。勝田町のような例を私は勝手に「軍需合併」と名付けています。
全国には似た例が沢山あることでしょう。
[45659] 2005年 10月 15日(土)10:19:22eiji_t さん
茨城県レス二つ
[45634]白桃 さん
茨城県人口2位都市は?
平成16年1年間の人口増加数が最も多かったのはつくば市で1,869人の増,減少数が最も多かったのは日立市で1,450人の減でした。
国勢調査で逆転しているかもしれませんね。今後再逆転はないでしょう。
日立市は工業製品出荷額でもいつの間にか神栖町(神栖市)に抜かれました。
日立の名の由来からすると言語矛盾ですが「沈みゆく日立」「黄昏、日立」がピッタリです。
日立に生まれ育ち、現在も住んでいる私はこの現実に……悲観していません。

[45647]futsunoおじ さん
人口による茨城県の分析、有難うございます。新鮮でした。
ま、「適度に田舎」と言うところでしょうか。
気候条件なども含めて考えたら、生活の場としては理想的かなとも思えます。
これは褒め過ぎでしょう。
茨城県は良い所も沢山ありますが、欠点も沢山。
私の主観で言えば、保守的というより排他的で、よそ者を排除する傾向にあると思います。
[45635] 2005年 10月 14日(金)07:49:34eiji_t さん
アーカイブ提案 地球を測った人々
hmt さん
「地球を測った人々」(1)~(10)の長期連載、ご苦労様です。
これを纏めて読みたいので、アーカイブの提案をします。
[45147]hmt さんの「シュトルーヴェの測地弧」の内容が関連していますので、これを最初に加えました。

地球を測った人々
[45602] 2005年 10月 12日(水)18:26:09eiji_t さん
東海村+「夜のピクニック」
[45585]KK さん
亀下の由来は未だ判らないのです。私の直感が誤りで、昔近くに「亀」地名が存在しその「下」という可能性も考えられます。
[44849]eiji_t で述べたように日立市留町と昔は地続きで関係が緊密でしたから、もしかしたら留町に「亀」地名があったかもしれません。
亀下の「輪中堤」は現在では失われていますが、約1km上流の竹瓦地区の西側に「輪中堤」の自然堤防が残っており、昔の姿を忍ばせます。

東海村は原子力施設が林立する一方、[44949] [45041] で取り上げた阿漕ヶ浦や真崎浦跡の水田など昔の田園風景を彷彿させる光景が残っていて、気になる存在です。

[45586]稲生 さん
「夜のピクニック」の件
[5776]雑魚さんの記事と、稲生 さんのHPのBBS読ませていただきました。雑魚さん説では戦前派ですね。
近いうちに、そちらのBBSにお邪魔させて下さい。雑魚さんに直接お尋ねしたい事もありますので。その時はよろしく。

追記:[45464]eiji_tで募集した
修学旅行の伝説(武勇伝)ありましたら、およせ下さい。
ARC 修学旅行で、どこに行きましたか?
を読みましたが、雑魚さん以外、武勇伝の書き込みありませんでした。
[45584] 2005年 10月 11日(火)22:54:30eiji_t さん
小泊村
[45455]いっちゃん さんの「木綿のハンカチーフ」に始まる70年代の歌のレスの数々。
で振り返ってみると70年代自分は青春していたということ(当時は「青春なんて」とおもってましたが)。

その中で思い出したのは、三上寛の「夢は夜ひらく」※
"生れ故郷の小泊"は"現金書留きたといい走る妹"(出稼ぎで老人と子どもばかりの寒村)を"行くというのならこの包丁で母さんを刺してから行け"と言う親を振り切って都会へ出ても、やることは"四畳半のアパートで""飛び散ったカルピスふくことよ""ひらく夢などあるじゃなし"という都会の現実……という歌。

小泊村(現・北津軽郡中泊町小泊地区)はこの歌といつか見たモノクロ写真の荒んだ漁村の風景で、私のイメージは固定してしまっています。実際の小泊村はどうなんでしょうか?

※「夢は夜ひらく」は歌詞の異なる曲が32種。有名なのは園まり、藤圭子など。
[45533] 2005年 10月 9日(日)09:57:02eiji_t さん
故郷と東京の歌レス
[45500]稲生 さん
歌声広場というHPに出会ったのですが、40代以降の中年に、心地よい曲が満載です。
参考までに「歌声広場」より多数の曲を集めているサイトです。
ふくちゃんの音楽室

[45529]Issie さん
マイペースの「東京」
「最終“電車”」なんですね。
「電車」だと,“上野駅”ではなくて“東京駅”のイメージかな。
重要なキーワード「電車」見落としていました。有難うございます。
自分で検索してみたら1974年の曲ですね。これもヒントになりますかね。

「なごり雪」
東京での“なごり雪”だから,「故郷」に雪が降らないとは限らないとも思います。
はい、私もそのつもりで、
雪の降らない南国以外
と書いたのですが、書き方が悪くて誤解をさせたようですね。すみません。
郷里での結婚が決まって、郷里に戻る女性を見送る曲(だから「今春が来て君はきれいになった」)深読みしすぎですかね?

参考:早稲田大学の社会学の先生の講義記録
「東京ソング」
音楽メディアにおける「東京の物語」すなわち「東京」をめぐる戦後の流行歌に着目し、そこで歌われている「東京」イメージの変容について
[45532] 2005年 10月 9日(日)08:33:30eiji_t さん
「夜のピクニック」レス
[45514]右左府 さん
この行事の始まりは、私の学校の場合戦前・戦中のどちらかだったはずです。「十里強歩」という名前も当時は軍事色漂うものでした。
それでは水戸一高より歴史は古いんですね。水戸一高も前身は戦中の「鍛錬行軍」だった様ですが、戦後「歩く会」が始まったのは1949年ですから。
『夜のピクニック』は読んでいないのでお奨めする訳ではないのですが、読む本には「時期」があると思います。自分も十代の頃読みそびれて、いまだに読んでいない『ライ麦畑でつかまえて』(村上春樹の新訳では『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)があります。もし今読んでも十代の頃と読後感が全く違うと思います。
読み出したら一気だと思いますよ。

[45523]稲生 さん
水戸一高の「夜のピクニック」は、今頃仮眠をとりはじめる頃でしょうね。水戸一高OBの雑魚さんが拙HP掲示板でも、教えてくれました。
「歩く会」雨で大変でしょうね。それも「想い出」になるでかな。
「雑魚さん」とは、私が落書き帳に登場する前に常連だった方ですか?お元気ですか?
稲生さんのHP覗いてみます。
[45502] 2005年 10月 8日(土)10:04:08【2】eiji_t さん
遅ればせながら、故郷と東京
故郷と東京を歌ったもの、過去ログ検索から
[6265] Issie さん
“西から上京してきた歌”太田裕美の「木綿のハンカチーフ」と海援隊の「思えば遠くへ来たもんだ」「故郷いまだ忘れがたく」あたりかな。少し性格が違うけど,村田英雄の「王将」もそうかしら。
[23171]白桃 さん
昭和30年頃から始まる東京への人口一極集中化を歌ったものに、「僕は泣いちっち」、「リンゴ村から」、「南国土佐を後にして」などなど。これは「大阪で生まれた女」?を経由して1975年頃の「木綿のハンカチーフ」あたりまで続きますね。
「木綿のハンカチーフ」は、過去にも登場していますね。

私の思い付いたものでは
マイペースの「東京」
"君の住む""花の都""もう何度も行きましたね"とありますから遠距離恋愛物?
これは昭和何年?交通の便が良くなった?歌詞からは故郷の東西不明。
東京を離れて故郷へ戻る歌は「なごり雪」
"東京で見る雪はこれで最後ね"ですから雪の降らない南国以外やはり故郷の東西不明。

やはり東京は特別なんでしょうか。かく言う私も東京に十年間住んだことがあり、故郷以外では最長です。

※2ヶ所訂正
[45464] 2005年 10月 7日(金)10:24:01eiji_t さん
『夜のピクニック』と学校伝説
茨城県立水戸第一高等学校(水戸一校)には伝統行事「歩く会」があります。毎年10月に実施され、夜通し歩きます。今年で57回目です。今年は8,9日に大子町~同校まで65km歩くそうです。

朝日新聞の茨城版で知りましが「歩く会」がモデルになった小説『夜のピクニック』が同校出身の作家によって書かれベストセラーになり、映画化も決定したそうです。
同校出身でない私は「歩く会」は知っていましたが、小説も作者も初耳でした。

同校ではその代わり修学旅行がありません。「歩く会」が始まった由来はその修学旅行の不祥事が絡んでいるそうですが、定説がなく伝説と化しています。その幾つかを…

私が高校の修学旅行前に先生から聞いたのは、団体列車が駅に着いた時、ホームの売店で買い物した同校の生徒達が突然の発車ベルで金を払わずに列車に乗り込み結果的に集団万引きになり大問題に発展した、というものです(先生の言いたかったのは、お前らも不祥事を起こすなよ)。
googleで検索してみると、
・泊まった旅館で生徒が寝煙草をして、旅館が火事になったというもの。
・やはり旅館で生徒達が大暴れして襖や畳などを目茶目茶にし。旅館組合がボイコットして以後修学旅行を実施しないというもの。
我母校でも大暴れして永久に泊まれない旅館があるそうで、上記の話が本当なら水戸一校ではそれが数年続いたのかな?
・修学旅行の不祥事は明治43年で「歩く会」は戦中の鍛錬行軍が前身だというもの。

明らかに誤りと判る伝説も見付けました。
・京都広隆寺の弥勒菩薩(国宝)に抱きついた生徒が指を折ってしまったというもの。
(この事件は昭和35年、大学生(京大生)が起こしたもので、「歩く会」は昭和24年から)
・土浦一高が学校も先に出来「歩く会」も水戸一校が真似したというもの。
(土浦一高の前身は水戸中学(水戸一校)の分校として県下で2番目。「歩く会」も水戸一校より20年ほど遅い)。
土浦一高も修学旅行がなく、上記に似た伝説もありまた。京都の金閣寺に落書きしたというもの。

皆さんの地元の高校でも「歩く会」に似た行事があるでしょうか?
私がテレビで見たのでは、東北(?)の高校で新入生歓迎の徒歩旅行があり、慣れない新入生を上級生が世話をし、親睦を深めるというものでした。

また、修学旅行にまつわる伝説も、あったらお知らせ下さい。
[45450] 2005年 10月 6日(木)21:51:30eiji_t さん
「小国民」「少国民」余波
[45445]hmt さん
私の安易な誤りに丁寧なホロー有難うございます。
大変勉強になりました。「少国民」は1940年代前半の言葉と思い込んでいました。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』は、中学生の時に読んで世界に目を開かれた想い出があります。現在でも出版されていて、超ロングセラーになっていますね。
またIssie さんに「少国民」とイタリアの繋がり、お聞きしたいですね。

追記
「産めよ殖やせよ」は1939年厚生省(当時)の『結婚十訓』の中の言葉で「国の為」が後に続きましす。当時の流行語になったそうでうす。
「産児制限」は意外にも1910年代初めに"birth control"の訳語として作られ、戦前は弾圧の対象だったそうです。

私の不用意な発言が波紋を呼んで、般若堂そんぴん さんと、ぐりゅんさんの論争に発展しそうな雰囲気です。
ここはそういう場ではないと思うので、人口問題でどうしても発言したい方は私も責任を感じますので私宛に個人メールを下さい(あて先はメンバー紹介でお調べ下さい)。
お騒がせした事をお詫びします。
[45437] 2005年 10月 6日(木)06:28:15eiji_t さん
Re:Re:人口問題に関して
[45434]ぐりゅん さん
地理ネタと外れるので、触れたくなかったのですが。
すみません。国勢調査について書いて、関連してしで人口問題に触れて、「戦後最大の政府の政策の失敗」などと書いてしまったのが始まりだと思います。

戦前・戦中の日本のことを「軍事国家」と称しているのだとすれば、
もう一度歴史や社会の勉強をしなおすことをお勧めします。
こちらもすみません。適切な言葉を想いつかなくて、自分でも「違うかな」と思いつつ、書込みして島しました。

言い訳に終始しましたが、今後とも適切なご指摘お願いします。
[45421] 2005年 10月 5日(水)18:25:16eiji_t さん
人口問題に関して
[45412]般若堂そんぴん さん
素早いレスありがとうございます。日頃からこの問題を考えている事が想像されます。
般若堂そんぴんさん は、日本の人口は減ったほうが良いとお考えのようですね。
実は私も基本的にはそう考えています。

問題は1947-1960年の急激な出生率低下です。私の[45409] は説明不足だったので、般若堂そんぴんさん に誤解を与えたようです。
戦後すぐの人口抑制政策は当然だったと思います。前に書いた理由の他に、教育の問題がありました。団塊の世代の話を聞くと、「すし詰め教室」「廊下まで児童生徒が溢れる」「代用教室」「午前と午後との二部授業」などで教室不足を補ったそうです。

急激な出生率低下が続くと、人口構成比に世代間のアンバランスが生ずるのです。
これが後に高齢化社会を齎すのです。
私が「戦後最大の政府の政策の失敗だったのでは」と書いたのは、政府が1947-1960年のどこかで政策の転換を図り、急激な出生率の低下を防ぐ手立てを打たなかった事にあります。後から人口の構成比を変えることは出来ないのです。
人口が減るにせよ増えるにせよ、急激な変化は後世に悪い影響を長く及ぼします。
過去の急激な出生率低下が生んだ高齢化社会を私たちはじたばたせず受け入れるしかないでしょう。

「戦後最大の政府の政策の失敗」と言うよりは,昭和前期の「生めよ殖やせよ」こそは「最大の失政」と思えるのです.
戦前の政策は軍事国家なら当然の政策だと思います。子どもを「小国民」と呼び、兵士の予備軍と考えていたからです。問題は軍事国家に突き進んだ事にあると思います。

労働力の不足を危惧する意見もありますが,「少子化対策」のかけ声につられてみたら,あらゆる産業分野でスリム化が要求され,職にあぶれる若者が増加,などという事態の方が深刻に思えます.
現在の政府の政策に国民は応えないと思います。政府が将来の展望を示し得ていない現状では、小手先の「少子化対策」(例えば児童手当を増やす)では、未来に子どもを託せないからです。これからも少子化は続くと思います。
[45417] 2005年 10月 5日(水)04:13:48eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(3)
[45357] [45394] の続きです。

3)昭和の大合併
昭和30年2月、1市6町村で合併し、新市名日立市。
この時の合併の重要な相手が多賀町でした。新市名で揉めたのも多賀町との間でした。

・まず多賀町の沿革から
昭和14年4月、河原子町,国分村,鮎川村が合併して多賀町が誕生します。この3町村の産業は農業を主体としていました。
この合併には軍需が絡んでいるのです。
それまで比較的軍需に消極的だった日立製作所も昭和十年代はいよいよ軍需産業に傾斜していきす。
日立製作所は新工場用地をこの地に求めます。それに平行して合併も進められます。
新工場と合併がいかに密接だったかは、合併期日と多賀工場創業が同日だったのに窺えます。
[37842] hmt さん
「大東亜戦体制合併」
私の造語では「軍需合併」、大東亜戦体制合併の一種です。
合併と新工場の密接さを窺わせるのは町の新名称にも表れます。地元では最初国分村の旧村名で、駅名にもなっている「下孫」を選んだが、日立製作所の専務が提言した新工場の名でもある「多賀」に決まります。
[2374]深海魚[雑魚] さん
常陸多賀周辺の沿革はなんだろう。郡名を名乗る以上、広域の中心地だったと思えるのだけれど。
ところが、事実は逆なのです。将来多賀郡の中心として発展することを祈ってつけられたそうです。
昭和14年10月「下孫駅」、「常陸多賀駅」に改称。
昭和16年1月「坂上村」編入。これにも日立製作所の施設(社宅)が絡みます。

・日立市と多賀町の合併
昭和28年の町村合併促進法に積極的だったのは日立市でした。市内に工場,住宅,学校などを増設する土地が不足しており、それを周辺の町村に求める構想があったからです。周辺の町村ではそれぞれの事情で温度差があったが、多賀町は消極的ででした。財政,都市設備も日立市に頼らなければということもなく、土地不足も特になかった。
そんななか、日立市,多賀町の首長は県知事に呼ばれ、「県北の鉱工業地帯の中心として発展する事が期待される。そのためには両者が合併する事が望ましい」と要請されました。
紆余曲折があって合併の合意にこぎつけましたが、新名称で揉めました。多賀町は「多賀」の名を残す事、あるいは「日立」の名前をはずすことを求めました。「常陸市」という名も挙がりました。
しかし結局「日立」の知名度が勝ちました。

他の5町村もそれぞれの問題を抱え、日立市との合併に関し経緯がありましたが略します。
昭和31年豊浦町編入。1年遅れたことに豊浦町の苦悩を感じます。
平成16年十王町編入。十王町は高萩市か日立市かで悩んだが日立市を選びます。

こうして3回に亘り日立市の合併の経緯を見てきますと、最初の日立村の誕生を除き日立製作所の存在がいかに大きかったか分かります。
[45409] 2005年 10月 4日(火)20:54:35eiji_t さん
今度の国勢調査は歴史に残ることなるかもしれない
[31511]白桃 さん
次の国勢調査(2005年)とその次の国勢調査(2010年)のいずれが多いか、いいかえれば、どちらが国勢調査史上最高人口となるか、は大いに気になるところであります。ピークになる年は中位推計と変わらない、ということであれば、ピークは2006年あたりでしょうか。そうなると、やはり、2005年国勢調査が最高人口となることが予測され、市町村合併の結果ともあいまって、本当に待ち遠しい国勢調査となりますね。
最近の報道ですと、どうも今回の国勢調査が人口のピークになるのは確実らしいです。
ということは日本の歴史始まって以来の事を、私たちは経験するんですね。
以前にも飢饉や戦争で一時的に人口減少することはあっても、自然減少は初めての現象でしょう。以後自然増加に転ずる可能性は非常に少ないと思います。

縄文中期26万人
弥生59万人
奈良451万人
江戸中期3,127万人
明治33(1900)4,654万人
大正09(1920)5,596万人
昭和45(1970)10,466万人
平成15(2004)12,768万人
平成17(2005)   ?
※大正,昭和は国勢調査、2004年は推計人口
(鬼塚宏・上智大教授)

「本当の「少子化」は昭和20年代」(落合恵美子・日文研助教授)
これを聞いた時は、目から鱗でした。
1947年の出生率4.54をピークに1960年には2.00と急激に下がります。以後出生率は暫くの安定期を経て、徐々に下がって現在に至ります。
この1947-1960の急激な人口低下が世代間の人口比を大きく変え、将来の急速な高齢化を約束する事になったのです。
当時の政府は人口抑制政策をとっていたのです。「将来の事より、目の前の物資不足や住宅不足」だったのでしょうが、これが戦後最大の政府の政策の失敗だったのではないでしょうか?

戦前「産めよ殖やせよ」
戦後「産児制限」
現在「少子化対策」

国策に振り回される国民の姿が目に浮かびます。
[45400] 2005年 10月 4日(火)16:24:10eiji_t さん
纏めレスなど
[45368]千本桜 さん
遜って書かれたのでしょうが、関心を広げる方法に「邪道」「正道」の区別があるのでしょうか。
「自分の身近な所から関心を広げる」方法は、「自分の主観に陥って重要な事を見落とす」、「対立する2説があると身贔屓になりやすい」「広げすぎて収拾がつかなくなる」などの欠点があると思います。それで「邪道」と書いたのです。
一方、「縁遠いと思っていた事柄が身近な事に関連があると知ると、その事柄がリアルに浮ぶび上がる」「意外な結びつきを発見する」といった長所もあると思うので、あえて「邪道」で行こうと思っています。
千本桜 さん、どしどし「絡んで」下さい。励みになります。

[45304]紫魔法師 さん
[45169]Issieさん
「鮎川」というのは偶然の一致,なんでしょうかね。
[45173]eiji_t で「全くの偶然です」と書きましたが、書き落とした事があるので…
日立市の鮎川の命名者は徳川光圀だという説があるのです。(黄門様由来説を書くのは何回目か)
昔、川の上流部の地名から「諏訪川」という名だった。そこに光圀が鮎を大量に放流して鮎川と名付けたというものです。
ともかく「鮎川」の名は江戸時代までは遡れるのは確かなようです。

[45392]笠津前浜 さん
忘れかけていました。言及ありがとうございます。
「職業名由来地名」コレクションに関係なく、「塩」地名の探求を続けたいのですが、なかなか手が回らなくて中断しています。
[45394] 2005年 10月 4日(火)07:36:42eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(2)
[45357]eiji_t の続きです。

2)日立市の誕生
昭和14年9月に日立町、助川町が合併して「日立市」誕生。まずはそこに至る経緯から。
日立村に日立鉱山(明治38)日立製作所(明治43)発足。両社の発展とともに人口も増え、大正13年町制施行「日立町」。
助川町の経緯は、明治22年の町村制施行で助川村,会瀬村が合併して「高鈴村」。村名は地区の西部にある山から取る。助川駅開設(明治30)、鉱工業の貨物が増大。また助川地区には鉱工業の従事者が住み、人口が増えて大正14年に町制施行「助川町」。町名は旧2村の内、助川地区の発展が進み、奈良時代からの歴史のある名である助川に戻したもの。
昭和5年には助川町に日立製作所海岸工場(現日立事業所)が完成。日立,助川両町は地理的にも産業的に密接な関係になり、この頃から日立町,助川町に合併の話が出る。
何度か合併問題は不調に終わるが、昭和14年ようやく同意にこぎ着ける。
しかし新自治体の名称でこじれる。助川町は「日立助川市」を提案、日立町が拒否。妥協案の「茨城市」も両者に不満。ついに県に一任となって、県は歴史のある「助川」より知名度の「日立」を選ぶ。

その後、助川地区に工場が拡充、商店街が発展し市の中心となる。助川町が企業誘致で日立市に名称変更したという、誤った説が拡がる。
[45165]に「地名学の専門家も誤解していた」と書きましたが、こんな例を見つけました。、
企業名由来の自治体名を持つ唯一の市である豊田市の改名運動に、日立市の名が利用されたそうです。
『豊田市史』(第4巻第2章)
挙母市(豊田市の旧市名)商工会議所の有志が、昭和33年に市名変更の「請願書」を市議会に提出しましたが、そこに企業名由来の自治体名の例として「日立市」が挙げられていたのです。
豊田市の場合も強い市名変更反対があり、名古屋裁判所へ行政訴訟まで起こされたそうです。
[45357] 2005年 10月 3日(月)15:36:00eiji_t さん
合併のたび名称で揉めた、日立の場合(1)
合併による新自治体の名称で揉めるのは、平成の大合併に限らず、明治,昭和と続いてきました。それを一つの市に沿って辿ってみるのも意味があるかと思います。

日立市は明治22年の町村制による合併から始まって、編入以外の3回の合併で、その都度名称で揉めました。揉めた相手も理由もその都度違います。以下その経緯を。

1)日立村の誕生
[2369]たけもと さん
元禄年間:徳川光圀が神峰山に登り「日の立ち昇ること領内一」の言葉を残す。
明治22年(1889):宮田村と滑川村が合併。日立村と名づけられる。
しかし事はそう単純じゃないらしいのです。
このとき名称で揉めた相手は、県でした。当時の県官の威力は大きく、例えば現日立市の当時「中里村」は古来縁の「撫子村」を県に拒否され、里川が中心を流れているからと中里村にされたそうです。やはり現日立市の「坂本村」「東小沢村」は名称だけではなく、合併の相手先まで地元の意向を無視されたそうです。
宮田村と滑川村の場合、県は両村から1字づつ取って合成名「宮川村」を指定しました。地元有志は3日以内に新村名を選定して報告するるといって、県指定を拒否したそうです。
地元有志が考え出したのが上記の黄門様に由来する名称だったのです。
黄門様の御威光は明治の県官を納得させるだけの力を保っていたらしいです。(明治6年には光圀を祭神とする常盤神社が水戸に創建され、後に別格官弊社になっています)。
地元の作戦勝ちでしょうか。以後黄門由来説が定着します。

光圀よりも前の江戸期の古文書に「常陸国」を「日立国」と表記する例が2つ現存しています(どちらも個人蔵)。
茨城県の東の外れの一寒村にすぎない村の有志たちに「日の出を早く望むことが出来る常陸の東方=日立という心象」が先にあって、それを光圀の伝承に結びつけたというのが真実に近いらしいです。
[45354] 2005年 10月 3日(月)07:59:56eiji_t さん
レス&アーカイブズ提案
[45335]inakanomozart さん
[45341]かすみ さん
[45342]miki さん
情報提供ありがとうございます。
かすみ さん、miki さん は 以前にもマンホールの話題がありまたね。
かすみ さんのHP拝見しました。写真のアップ期待しています。

というわけで、「マンホールの蓋」アーカイブズに提案してみました。
古い市章のマンホール発見というのと、素敵な(面白い)マンホールを見つけたという2系統に分かれますね。
前にも書きましたが、他の話題の中でマンホールに少しだけ触れた記事が多いので、アーカイブズの趣旨になじむかどうか?

マンホールの蓋
[45339] 2005年 10月 2日(日)21:08:14eiji_t さん
廃線から半年、日立電鉄雑感
先月末で日立電鉄が廃線になって6ヶ月になりました。私は「鉄系」ではないのですが、子どもの頃に乗って見た窓外の風景を思い出しながら、この書き込みをしています。

廃線の1ヶ月後には、山際の線路を雉がのんびり歩いていて「雉も廃線を知っているのかな?」と思ったりしました。
線路の撤去も進んでいます。こんなに早く撤去するとは思いませんでした。
10月末までには「橋」以外は枕木も含め取り払われるそうです。この「橋」が今回の廃線の決定打でした。わずか18.5kmの路線にに橋梁が39ヶ所あるそうです。設備の老朽化の中でも特に橋は著しく、補修しながら騙し騙し使っていましたが、耐用年数が尽きかけているそうです(資材不足の時代に作られた橋は、中古品の転用だったという話もあります)。
始めは、万年赤字線を親会社の日立製作所や地元日立市・常陸太田市が見放したのかと思っていました。廃線やむなしだったのでしょうか。

資料を見ていると、昭和22年に廃止になった駅が在った事が分かりました。廃線のずっと前の廃駅、痕跡が残っているでしょうか。今度行って確かめてみようと思います(痕跡を探すのが好きなのです)。
日立港へ延びる枝線の計画が有ったことも分かりました。用地も確保していて、それが今でも残っています。こちらは現地に行ってみました。道路に沿って細長く草地が延びていました。事情を知らなかったらこの草地の意味も分からなかったでしょう。

茨城県では「鹿島鉄道」が、2006年度で沿線自治体の支援が打ち切りになるそうです。(地元の鉄道の存続に力になれなかった身でなんなんですが)がんばって欲しいです。
[45333] 2005年 10月 2日(日)17:19:43【1】eiji_t さん
四国+マンホール
[45326]YSK さん
レスありがとうございます。YSK さんのページ拝見しました。
写真じゃ判りませんね。実際に行かないと。あ-むずむずしてきた。
ここのところ四国づいていますね。
[45157]88 さんのお遍路の結願
[45321]オーナー グリグリ さん オフ会後の琴平&高知の旅
[45096][45313]かすみ さん 愛媛への旅

[45272]eiji_t のマンホールの件で
「路上観察派」は少ないかな?
と書きましたが、後で落書き帳を検索してみると19件ありました(先に検索しないといけませんね)。
特に[42261]かぱぷう さん
さりげなくマンホールの絵柄チェック
旅行貯金、旅行献血だけでなかったんですね。
[41931]かぱぷう さん
門司区内には旧門司市章のマンホールがありますし、小倉北区内には旧小倉市章がデザインされた橋の欄干がまだ生き残っていますから。合併してから40年以上の歳月が経ってるにもかかわらず、です。
他にも、「沖縄市内、旧コザ市の市章」「仙台の旧宮城町の町章、旧泉市の蓋」などなど…
旧自治体の古いマンホールが残っていて、それを発見する注意深い人も結構いるものですね。

「マンホールの蓋の絵柄」をアーカイブへ推薦したい所ですが、各記事のマンホールに関する部分は短いのでアーカイブになるかどうか?
[45320] 2005年 10月 2日(日)05:35:58eiji_t さん
レスなど
[45312]yamada さん
合成地名に登録ありがとうございました。 せっかちでなもので、すみませんでした。
[45119]eiji_t で参考にした『茨城県町村沿革誌』は、明治30年当時23歳だった細谷益見が私費を投じて著したもので、彼は36歳の若さで亡くなっています。出版社の倒産もあり僅小部数しか出版されず幻の本となってました。自宅にも残されていなかったのを、御子息が捜し出し80年振りに復刻されました。
約720頁、明治の版をそのまま使用し読み難いですが、内容は面白く、当時の県内の町村の様子が窺われます。
[45315]うるう さん
出典は「秋田県町村合併誌」(1960年発行)です。1,400頁弱もあり、県内全市町村の合併までの経緯や、新市町村の紹介などが詳しく収められていてなかなか読み応えある本です。図書館から借りてきてじっくり読み深めてます。
偶然ですが私も図書館から借りて、ぼちぼちと読んでいます。

[45313]かすみ さん
旅の話面白く拝見しました。
私が20年前「お遍路もどきの四国の旅」をしたときは、愛媛県の西南部が最も印象に残っています。名前を忘れましたが、私の感性にしっくり行く町を通り過ぎました。
現在の西予市、大洲市、内子町のどれかに合併した町じゃないかな。再び行けば思い出せる気がします(20年経ってもそんなに町並みは変わってないと想像します)。
[45307] 2005年 10月 1日(土)20:58:02eiji_t さん
Re:長久保赤水
[45242]hmt さん
長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(安永8年、1779)は、経緯線を入れた日本最初の地図であると言われていますが、これより早い森幸安の「日本分野図」(宝暦4年、1754)に既に経緯線が引かれているそうです。
ご指摘ありがとうございます。地元では「日本で最初の」で通っているので、鵜呑みしていました。一寸調べれば分かることでした。
赤水が最も参照した地図は森幸安の「日本分野図」らしいですね。
「刊行された地図では」を前文に付け加えるとより正解に近いかも知れませんね。

私は自分の身近な所から関心を広げる方向で(邪道だとは思いますが)調べています。
赤水の生母は助川村(現日立市)出身で、赤水も水戸へ通う時に日立を通ったであろうと思うと親しみを感じていました。また直系ではありませんが、一族の子孫の長久保光明氏は日立市に住んでいて、やはり地理学を学び『陸前浜街道地誌』などを著しています。

「シーボルト事件」も面白そうですね。中心人物は高橋至時の長男影保ですが、間宮林蔵も絡んでいて…

hmt さんの「地球を測った人々」シリーズ、興味深く読ませていただいています。そちらの感想は、いずれ書かせていただきたいと思います。
[45272] 2005年 10月 1日(土)07:35:00【1】eiji_t さん
マンホールにも合併の影響が
2005.9.27の朝日新聞に、合併によって下水道のマンホールのデザインを一新する自治体が13市町村あると出ていました。
東かがわ市、さいたま市、宮城県加美町、西東京市、富山県砺波市、鳥取県湯梨浜町、熊本県あさぎり町 など
東かがわ市は下水道普及率2.1%だそうで、旧町のマンホールは「路上観察派」にとって貴重な物になりそう。
このサイトを訪れる人は「路上観察派」は少ないかな?
他の合併自治体は、しばらくは旧市町村名のマンホールが残りそうです。

[45265]EMM さん
地名コレクションの件了解しました。
[45010]は見落としていました。申し訳ありません。
皆さん忙しいでしょうに、催促してすみませんでした。

※最後の行、訂正。
[45264] 2005年 9月 30日(金)23:32:39eiji_t さん
地名コレクションの事など
[45244]牛山牛太郎 さん
出典は、たしか会瀬小学校だと思います。
HP上で読みが載っていなくても、アドレスにローマ字で載っていることが多いです。
「会瀬」も「oose」となっていたので、読みを「おおせ」にしました。
早速のレスありがとうございました。出典は、我が母校会瀬小でしたか。
ただ、長音表記「おお/おう」や「じ/ぢ」「ず/づ」などの微妙な表記の区別をローマ字で確かめるのは、少々危険かと思います。「落書き帳」でも以前話題になりましたが、ローマ字表記では元々区別しないのが基本で、実際には表現が揺らいでいると思います。
会瀬の場合は公式には「おうせ」、地元では「おおせ」で、私は地元派です。

あと、催促するようでなんなんですが…
[44949]eiji_t
本家の阿漕浦はなぜ「浦」コレクションに登録されてないのでしょう?
[45119]eiji_t
「合成地名」コレクションに入っていない、一応合成地名を見つけました
茨城県那珂郡・上檜沢,下檜沢の「檜」+氷ノ沢の「沢」=「檜沢村」
のコレクションへの採否の結果をお知らせ願えないでしょうか?
「浦」コレクションの編集者の讃岐の民 さんは最近書き込みをしていないので、見ていない可能性もあると思いますが。
ここは編集長のEMM さんにお願いするしかないですかね。


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