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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[99985]2020年7月14日
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[99982]2020年7月12日
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[99978]2020年7月11日
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[99973]2020年7月9日
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[99962]2020年7月5日
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[99911]2020年6月13日
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[99890]2020年6月8日
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[99888]2020年6月7日
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[99885]2020年6月5日
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[99869]2020年5月31日
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[99866]2020年5月30日
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[99836]2020年5月24日
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[99831]2020年5月23日
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[99799]2020年5月19日
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[99985] 2020年 7月 14日(火)20:04:52【1】hmt さん
東京都島嶼部 町村がある島の名
[99984] ekinenpyouさん
東京都支廳ノ名稱等(S18.6.29 内務省告示第470号・中央下部)

リンクしていただいた文書には、管轄区域として 21村 7島の名が列挙されています。

東京都の支庁、それ自体は 「郡」とは異なり、都道府県市区町村変遷情報の対象外とされています。
現在の町村名は 大部分が「島名」と一致しているので、あまり不都合を感じないのですが、このような古い資料を見ていると、東京府の島嶼部にあった中郷村はどこ? というような疑問を抱き、八丈支庁管内をヒントに探すことになります。

「昔の村があった島」については、「村名」よりも むしろ「島名」の方が役に立つ。
これが実感です。

思えば、私達のサイト・変遷情報に記載された市町村についても、同じような問題点があるようです。

島嶼に存在する町村については、変遷情報に「島名」を記録しておく必要があると考えました。

東京都限定ですが、島嶼部地域の管轄区域表を見た機会に、市町村変遷情報の収録状況 と対比してみました。

下記の表。「島名」欄は、変遷情報内の 島名情報不足を 補う目的でを加えたものです。
小さな無人島まで含めると伊豆諸島だけでも約 100島あるらしいが[24286]、主要な島以外は記載を省略しています。

グリグリさん、これを利用して、市区町村変遷情報を補強していただけないでしょうか。

支庁名区域名村設置日__島名(面積km2)
大島元村 岡田村 泉津村 野増村 差木地村 波浮港村1908/4/1大島(90.73)
大島利島村1923/10/1利島(4.12)
大島若郷村 【新島】本村1923/10/1新島(22.97) 、式根島(3.67)
大島神津島村1923/10/1神津島(18.24)
三宅【神着村 注1】伊豆村 伊ヶ谷村 阿古村 坪田村1923/10/1三宅島(55.20)
三宅御蔵島村1923/10/1御蔵島(20.51)
八丈大賀郷村 三根村 樫立村 中郷村 末吉村1908/10/1八丈島(69.11)
八丈小島【鳥打村 宇津木村】1947/5/3八丈島の離島(3.07) 1969年無人化
八丈青ヶ島【青ヶ島村】1940/4/1八丈島の離島(5.96)
八丈鳥島【南方四島[22460]の一つ】-鳥島(4.78) 1902年噴火で無人化
小笠原小笠原島1940/4/1父島(23.45)・母島(19.88)
硫黄島は[56162]などの記事あり・硫黄島(23.73)
小笠原小笠原島その他1968/6/26日本復帰地域に小笠原村設置
小笠原西之島【噴火中】-西之島(2.89)2020年1月面積調
小笠原南鳥島(1.46)・沖ノ鳥島・中ノ鳥島 注21968/6/26
 注1:「著」は「着」の本字であるが、村名の表記は 神着村と思われる。
 注2:「中ノ鳥島」は存在しない[65212]
[99982] 2020年 7月 12日(日)18:04:23【1】hmt さん
変遷情報 小笠原(3)小笠原支庁
[99980] ekinenpyouさん
小笠原に関する情報源の紹介、ありがとうございます。
特に、これまで見落としていた 東京都小笠原支庁のサイト。2件共に多数の情報を含んでいました。

都道府県市区町村からは「仲間はずれ」にされている 中途半端な存在のように感じられる「小笠原支庁」。
しかしながら、小さな村役場だけでは人手が足りない事柄について、東京都という大組織の中で、それなりの仕事をしていることを改めて認識しました。

…というわけで、村の変遷情報には直結しないのですが、ご紹介いただいた東京都小笠原支庁の管内概要 から拾った記録を 一つ引用しておきます。

明治10年、内務卿・大久保利通により建てられた「開拓小笠原島之碑」です。

それより前、幕府による小笠原回収の翌年には 八丈島からの移民 30人が送られました。[26683]
しかし、その後で生麦事件など英国との確執があり、実質的な日本の領有・開拓・統治は休止状態に。

このような日本に対して外圧を加えたのは英国でした。再度にわたり 小笠原の所属を質問。
ここに至り明治政府は 1875年に外務省の 田辺太一らを 明治丸で小笠原に派遣。
神奈川駐在の英国領事も同行して日本側の管轄を既成事実として承認しました。

石碑の原文は 24コマ、下記の訓み下し文は 25/250コマです。【表記の一部 省略】
乃ち外務省 田辺太一等を遣し、往いて之を視さしむ。太一等還り具状を以聞す。
九年内務省 小花作助に命じて土民を勧誘し、【耕作・植林・漁業・牧畜を通じ】全島を統轄せしむ。
初め文禄二年、小笠原貞頼 始めて此の島を検出し、木標を建てて以って我が版図たるを表せり。
勿論、証拠になる木標が残っておらず、そのように言っただけでしょう。
因りて小笠原と名つく。
延宝三年、幕府島谷某を遣し其の地を巡視せしむ。
享保十二年貞頼曾孫【と自称する】貞任、祖志を紹ぎ自ずから請いて往き、漂流して還らず。
既にして内民稍々移住し、外人も亦来り駐まる者有り。
文久元年、水野忠徳を遣し、居民を撫輯し法令を頒布し、碑を建て顛末を記せり。

小笠原貞頼の名は、hmtマガジン小笠原諸島の第5回に登場しており、それ以降の数回にわたり、発見と命名に関する記事が続いています。

[78725]で「詐欺まがいの話」と書いたように、その根拠は必ずしも明確でない話なのですが、文禄2年(1593)という年代は、オランダ東インド会社による 1639年に先んじるもので、島谷探検隊 1675年の事績[68669]を補強する「先発見」の伝承として、1861年の「小笠原回収」の際に行なわれた住民に対する説得だけでなく、各国への説明にも利用されたのでしょう。

このようにして、「回収」によって「無人島」から 新時代の Frontier に変った島は、その名も「小笠原島」が定着しました。
利用された 甲斐国巨摩郡小笠原 という名については、[78750]に記してあります。

『巽無人島記』を根拠に、先祖の小笠原貞頼が南海の島を発見し、「小笠原島」と命名したという宮内貞任の話は、[78720]にも記していました。

改めてWebを調べてみると、同じような話がありました。前編後編

漂流して戻れなかったのは甥であり、貞任本人は後に罰せられたと伝えているなど、今回の石碑と少し違う結末ですが、元々の 小笠原貞頼伝説 自体が「怪しい話」なので、追求するのは無意味でしょう。
[99978] 2020年 7月 11日(土)16:21:20hmt さん
世界人口デー
今日、7月11日は「世界人口デー」World Population Day だそうです。

世界人口は、20世紀初頭に 約16億5000万人 であったと伝えられます。

20世紀には 二度の世界大戦があり、多くの命が失われました。
その一方で、兵士を含む 全ての人々(pandemic)を襲った疫病の蔓延もあり、これが第一次大戦を終らせるブレーキ役としても機能したというエピソードも伝えられています。

凶作による飢饉に見舞われることもあり、対象を絞った殺戮政策ホロコーストまでありました。

それでも 20世紀の間に 増加を続けた世界人口。

世界の人口が 50億人になったのは、1987年7月11日 とされています。
20世紀になって 90年足らずで 約3倍増。

世界人口の 50億人到達を機会に、世界の人々の 人口問題への関心を深める。
そのための活動として、1989年に 国連人口基金(UNFPA)が定めたのが「世界人口デー」でした。参考

限りある地球上で生きてゆく私達。

世界的には 食糧の生産や加工、医療・衛生環境の改善など 技術的進歩が期待される分野も残されています。
しかし、それ以外にも多くの問題があるようです。

このサイト内にある 市町村人口研究所 とは 研究分野が異なる問題であるとは思います。
しかし、世界人口デーを意識した日に、一筆 したためておきました。
[99973] 2020年 7月 9日(木)17:46:10【1】hmt さん
国勢調査百年(1)先駆者たち
[99914] ekinenpyouさん
牛塚虎太郎
統計局ホームページ-国勢調査100年のあゆみ【第一部の】PDF (4コマ左中ほど)に記載があります。
※大正6年提出の意見書は下記より閲覧可能です。

記事の日付を見ると 2020/6/14。少し遅くなりましたが、有用な情報と考え、フォローします。

統計局文書の第一部は下記の「講談・国勢調査はじまり物語」3題プラス付属資料でした。
その壱:国勢調査前史 日本統計【スタチスチック】のはじまり
その弐:国勢調査の実施まで 欧米諸国に於ては前世紀の初以来施行する調査なり
その参:第一回国勢調査 大正九年十月一日 国を挙げてのお祭り騒ぎ

今回は、先駆者4人の紹介です。
1 杉 亨二【すぎ こうじ】3コマ右
国勢調査先駆者の最初は、日本近代統計の祖とされる 杉亨二です。
約150年前の明治4年、徳川家に従い静岡に移っていた 元幕臣の杉亨二は、明治政府にスカウトされました。その際に、我が国が一等国になるために把握しておくべき仕事として提案したのが、国の情勢を 全数調査により実体把握すること でした。

ぬしは わがまま、わたしは きまま、国勢調査は ありのまま

これは、後の国勢調査キャンペーンで使われた都々逸ですが、納税や徴兵のための戸籍制度も整備されつつある時代に、「ありのまま」の実態を全国漏れなく把握する調査は、如何程の予算が必要になるか? 

それを知るための資料として、杉が実施したのが「甲斐国現在人別調」【明治12年(1879)12/31】でした。[76291]でも言及。

これが、明治14年(1881)の統計院設立につながりました。院長は明治政界の大物・大隈重信です。

しかし、杉の構想は 直ちに国家制度として実現するには至りませんでした。
日清戦争の頃 1894年(M27)に スイスの万国統計協会から、1900年の世界人口センサスへの参加要請がありましたが、日本は見送りでした。

それでも、明治35年(1902)には「国勢調査に関する法律」が制定されました。
1905年に最初の国勢調査を実施して、世界の人口センサスに参加することが予定されたのですが、1904年に日露戦争が始まり、流れてしまいました。

更に 10年後の機会 1915年も、欧州で始まった大戦に伴う政治情勢は 日本の参戦(1914)を招き入れることになりました。国勢調査は またも お流れ。
もっとも、第2次大隈内閣は、1916年 内閣訓令第1号「統計の進歩改善に関する件」により、国勢調査への積極姿勢を示しています。

あゆみ第一部 3コマ右に示されている「寸多 知寸 知久」という見慣れない文字。
「スタ チス チック」は、統計局の URLに使われています。stat.go.jp

2 大隈重信 4コマ右
言うまでもなく明治政府の一角である肥前出身の大物政治家[76315]で、落書き帳にも多数登場。
大隈重信関係文書を引用した記事も多数ありますが、国勢調査や統計院・内閣統計局に関連した記事では、[76291]あたりが代表的な記事でしょうか。
統計Today No.14 に、大隈重信が 明治14年(1881)に建議した 「統計院設置の件」という文書がありました。
「国勢」とは、「国の情勢」という意味で、私たちが国勢調査票に書き込む「人と世帯の実態」だけでなく、産業・経済・社会制度・軍事などより広い分野に係るデータを対象とするものと思われます。

大隈は Population Census に国勢調査という言葉を用い、統計の重要性を訴えた人物です。

3 牛塚虎太郎 4コマ左
牛塚虎太郎[99914]は、第一次大戦中の 1916年に 臨時国勢調査局次長となり、第1回国勢調査の実現にを目指しました。
大隈重信から変った寺内正毅総理に対して、「国勢調査実施に関する意見」を提出したのは 1917年5月でした。[99914]にリンクされている文書【全208コマの長文】をダウンロードしたのですが、画面が不鮮明であり、次頁以降が読めませんでした。

それはさておき、牛塚らの尽力により「国勢調査施行ニ関スル建議案」が7月に衆議院で可決され、大正9年(1920)の 第一回国勢調査 実施が決定しました。
大正7年度予算に、国勢調査に関する予算が組み入れられました。
予算案公表の日に、国勢調査の先駆者 杉亨二は、息を引き取ったとか。

なお、牛塚虎太郎が「岩手縣」への表記統一 を行った岩手県知事になったのは、国勢調査成功の後で、引き続き東京市長になるまで、府県の知事を歴任しました。

4 原敬(はら たかし) 5コマ右、4コマ右下
平民宰相、大正デモクラシーなどの言葉と関連する話題で登場する人物であり、『原敬日記』を残しています。
1885年からのパリ在勤時に フランスの国勢調査を経験し、早くから その価値を認識していた人物です。
総理大臣時代の 1920年5月に 国勢院を設置して、牛塚虎太郎に 第一回国勢調査を実施させました。
1921年11月、東京駅で暴漢に襲われ、国勢調査の結果発表を知ることができなかったのは残念でした。
[99962] 2020年 7月 5日(日)18:36:37【2】hmt さん
変遷情報 小笠原(2)1940年 東京府に設置された 小笠原諸島の旧5村
小笠原諸島の村について、変遷情報の見直しをお願いした [99957]の続編です。
前回は、1945年の敗戦から約23年間の米軍統治を経て日本に返還され、特別法により新たに設置された「東京都小笠原村」[53386]【注】に関する情報を記しました。
【注】「小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」(昭43/6/1 法律第83号)
(村の設置)
第十八条 地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第五条第一項及び第七条第一項の規定にかかわらず、この法律の施行の日に、東京都に属する小笠原諸島の区域をもつて小笠原村を置く。

今回は、戦前の 1940/4/1 の東京府時代に設置された(旧)5村です。
[78644] hmt
戦前に遡ると 1940年4月1日に 小笠原に町村制が施行され、 5村が設置 されています。
二見港のある父島北部が大村で、兄島などの離島も管轄していたと思います。父島南部は扇村袋澤村【併称地名でしょうが、村という字を2つ残しているのは珍しい】。
母島は 沖港がある南部が 沖村で、北部が北村。硫黄島には もちろん 硫黄島村[56162]です。

市区町村変遷情報東京府では、昭和15年(1940年) 4月1日 小笠原諸島,八丈島(青ヶ島) 町村制 6村設置の#2~6として5村が記録されていますが、詳細欄を開いても 父島北部【二見港所在地】などの地理的情報の記載がなく、不十分と思われます。母島2村の間に硫黄島がある順番も不自然です。

一次資料を探したら、当時の ndl官報に「島嶼町村制は之を廃止す」【昭和15年勅令238号】とありました。従って、町村制施行でOKと思います。

同じ官報の続番 勅令 昭和15-239 には、次の記載がありました。
東京府管下小笠原島中硫黄島に村の名称を附す
父島・母島の4村については、村名を確認することができませんでした。

変遷情報から離れますが、明治13年(1880)東京府移管の 50年前。
1830年 ハワイ王国のホノルルで結成された 25人の移民団。

第二次大戦後の 1946年 統治者のアメリカによって帰島を許された「欧米系島民」は、1830年移民団の子孫のようですが、「欧米系」という言葉は必ずしも正確ではないようです。
Original Settlers には クロアチア出身のイギリス人と称するマザロ団長など英米人(4人)とデンマーク人も居ましたが、ポリネシアの島々からの人が多かったとか。

マザロ等が去った後、事実上の首長になったのは アメリカ人のナサニエル・セボリーで、ペリー[26683][78654]や 1861年に 咸臨丸による「小笠原回収」に赴いた水野忠徳[78725]と面談しています。
子孫は今も父島に在住。ハローページは、瀬堀さん 4人、セーボレーさん 3人を掲載。[26683]

それはさておき、「さかのぼり小笠原史」[78654] 1830年の移民団。
英国領事が関係していたものの、英国の支援は、領有宣言(1827 ビーチー)を裏付けるには不十分。
入植者は自力で自給自足のコミュニティーを創り上げ、米英露仏の捕鯨船などに飲料水・食料を供給しながら 税金のない「南海の楽園」を夢見ました。しかし、警察力の及ばない島のままでは婦女拉致事件も起り、安心できません。

その後、小笠原をハワイのような太平洋海運の基地にする構想を抱いたペリーも登場しました。
しかし、結局のところ 小笠原に近く、1675年の島谷隊による探検実績も持つ国は 日本でした。

日本は、無人島(ぶにんじま:Bonin Islandの語源)という名で放置していながらも、小笠原の存在を西洋に知らしめた国です[26683]
1785年(天明5年) 林子平の『三国通覧図説』(無人島之図)[78665]

ペリー来航による刺激を受け、「決定せず・行動せず」の幕府も、1861年に咸臨丸による小笠原回収に踏切りました。
生麦事件の影響による一時的撤退はあったが 1875年明治丸で再回収[78654]

変遷情報から離れた 過去記事の紹介が多くなりましたが、本筋に戻ります。

1940/4/1に設置された小笠原旧5村の消滅を、変遷情報に記載してください。
[79760] 中島悟さん の末尾、[79266][79773] hmt、 [83624] むっくんさん(16)

[85063] グリグリさん に続いて、[85081][85082] hmt も意見を記しています。
[85081]に記した 「[79266]でリンクした小笠原村沿革」の代りに、現在閲覧できる同名のページ をリンクしておきますが、当時リンクしたページに巧く辿り着ける自信はありません。
[99957] 2020年 7月 3日(金)18:17:02【1】hmt さん
変遷情報 小笠原(1)東京都小笠原村
[90655] グリグリさん
残っている未処理・未使用については、小笠原関係、特別区対応、その他であり、もう少し詰めが必要です。

小笠原諸島の日本復帰52年 村長メッセージ を機会に、市区町村変遷情報・東京都#195「小笠原村」詳細前身5村設置 の見直しをお願いします。

「小笠原諸島日本復帰(返還)」という言葉は、50周年記念事業においても使われており、特に疑問を伴わずに受け入れてきました。
(返還)は、日本への復帰を実現するために行なわれた外交交渉で用いられた用語であると理解。

しかし、「都道府県市区町村の変遷を伝える」という立場で考え直してみると、小笠原のケースは、奄美や沖縄の日本復帰(返還)と異なる事情にあることが明らかです。

住民を巻き込んだ地上戦が行なわれた沖縄では、人命・財産共に大きな損害が出ました。
しかし、敗戦直後の混乱期を除けば、住民共同体である市町村は変化を伴いながらも保持されました。
沖縄県という行政組織も その名や実体を変えながらも、潜在的には存続し続けました。

鹿児島県の管轄外になっていた奄美では、1946/7/1に名瀬市が誕生。
変遷情報では「市制」と記されていますが、『名瀬市史 改訂 第一巻』によると 「市制」ではなく町村制適用であり、地方自治法上の正式の市になったのは日本復帰(1953/12/25)の際だそうです(Wikipedia)。

それはさておき、敗戦後の小笠原は 1946/1/29の SCAPIN-677 により「日本の地域から除かれる外周領域」に指定されていました。[56190]に記された 覚書第3条
(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原および火山(硫黄)列島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島

[99400]で記したように、1951年9月に 連合国51ヶ国による 対日講和会議 がサンフランシスコで開かれ、1952/4/28に 発効しました。ソ連など3国は署名せず。第2次国共内戦(1946-1949)後の中国は招聘されず。

日本は Occupied Japan を脱して独立国の立場を回復しましたが、小笠原は米国から戻りませんでした。

日本国との平和条約(昭和27年条約第5号)
第三条 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

この信託統治条項は、東西冷戦時代 米国防総省の強い意向に沿ったもので、日本は潜在主権を保持したまま返還を待ち続ける姿勢でした。
結局のところ、国連への信託統治は提案されないままで、1967年の首脳会談(佐藤・ジョンソン)により、小笠原諸島の1年以内返還が合意されました。
通称・小笠原返還協定 が結ばれ、1968/6/26の日本復帰が実現したのでした。

市区町村変遷情報東京都 #195 詳細に記された「村制」については、[53248]で問題点を指摘しました。でるでるさん[63262]、88さん[53386]からもレスをいただいていますが、
プログラム上、データの自動認識機能も含めての入力項目・表示となっているようですので、具体的な表現についてはちょっと保留させてください。
とのことでした。

「村制」という用語の使い方以外にも、【変更内容】父島, 母島, 硫黄島 にも疑問があります。
1968年の村設置時点で南鳥島・沖ノ鳥島まで拡張。その後、噴出した西之島も、小笠原村の領域になっています。

「沖縄・奄美の市町村」は【戦後の混乱期を含めて、曲りなりにも】存在し続けていた。
しかし、小笠原の5村については、戦場になった硫黄島村だけでなく、父島・母島の 「地域住民共同体」も、強制疎開によって 消滅に近い状態 になっていた」という違いがある。この点については、[99400]で既報でした。

本論から外れますが、この機会に触れておきたいのが、秋田県大潟村です。

ゼロに近い状態から再出発し、村長や村議会のない状態で設置された「戦後の小笠原」。
これは、沖縄や奄美よりも、むしろ干拓で新規に造成された 秋田県大潟村 と対比される状況であったと言えそうです。

過去記事の中に、秋田県能代市出身・右左府さんの [53892]がありました。
・大潟村も小笠原村同様、「村設置」から暫くの間、通常の地方公共団体ではない状態が続いた。
・但し、その間の議会の代替機関の役割は県知事が担うなど、違いも見られる。
・大潟村と小笠原村では、国と都県の関係の強さに差が見られる。

右左府さん による [76285] 大潟村の特異性 という記事もありました。
「昼夜間人口比率 121.9%」、第1次産業従業者(%)77.9【全国トップ】
[92604]近況報告など 過去1年間の書き込みは存在しないものの、高校時代からの落書き帳メンバーは 健在の御様子です。

話は変りますが、右左府さんの名から、「偉人名を音読みする理由」を書いたことを思い出しました。
音読み有名人

能代の最新の話題と言えば、バスケ名門「能代工業」の校名変更、OBから惜しむ声
[99936] 2020年 6月 26日(金)15:17:32【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (4)「中防」への 新ルート・東京港海の森トンネル
最初に、このシリーズについての言い訳です。

「東京臨海部の陸地化」シリーズの連載は、10年前に「水に囲まれた江東区」という副題の第1回 [75307]から始め、江戸時代末期の [80264]「品川台場」で 10回シリーズを締め括りました。
引き続き明治以後の続編を記す予定でしたが、なかなか着稿できない間に東京ゲートブリッジが完成し、番外編として hmtマガジン にも収録。

続編に着手する次の機会は、中央卸売市場が築地から豊洲に移転した 2018年でした。
埋立地の歴史としては 幕末から かなり飛んでしまうものの、前歴のガス工場なども含めて 話題にはこと欠かない埋立地。しかし、筆を進める気力が衰えており、[96927]の後が続きませんでした。

それでも、気持ちだけは 第2シリーズを続けたい。
そこに現れたのが、東京湾「中央防波堤埋立地」の帰属争い決着へというニュースです。

「中防」は「中央防波堤内側【or 外側】埋立地」という長い埋立地名を省略した通称地名ですが、その帰属に争いがあり、長い間「所属未定」のま 落書き帳の話題になっていました。

コロナ騒動がなければ、2020年東京オリンピックを機に盛んに話題になっている筈の場所です。
しかし、拡大を続ける大都市・東京の物流基地として、重視される場所でもあります。

参考までに、「中防」の検索結果【長い名称は対象外】を古い順に示しておきます。

東京地裁判決を江東区・大田区双方が受け入れた結果、ようやく帰属先が決定[98525]
昨年末には、テレビで「東京リボーン」の 第3集「輸送革命 果てなき欲望との闘い」が放送され、[98765]で紹介しました。

新しい町名も誕生[99880][99885]。大田区の「令和島」、江東区の「海の森」。

以上、シリーズに関連した過去記事の紹介が、主になりました。

ところで、落書き帳トップに掲載されている NEWS欄により、水底トンネルコレクションの更新を知りました。

開いてみると、東京港の埋立地・有明から「中防」への 新ルートである「東京港海の森トンネル」2459..5m が、2020/6/20 に開通したことを伝える内容でした。[98765]で紹介した輸送革命の主役です。

乗りものニュース [が伝えるように、従来の青海縦貫線の東側に並行する都心側ルートの増強で、トレーラーなどによる大型貨物輸送の 隘路解消が目的です。トンネルの命名は昨年末でした。
トンネルの先、内側埋立地と外側埋立地の間は 250mの架橋です。

青海と並行する有明ルートの開通で、東京港臨海道路西端の臨海トンネル、東側の東京ゲートブリッジと合わせて「中防」へのルートは4本に増強され、私達の「果てなき欲望」に奉仕することになりました。
[99933] 2020年 6月 25日(木)15:29:27hmt さん
朝鮮戦争 70年
1950/6/25の「朝鮮戦争勃発」から 70年を経過しました。
朝日新聞の朝刊を開いてみたところ、北朝鮮が 開城工業地区の南北共同連絡事務所(2018)を爆破した件に関する解説記事はありましたが、1950年からの約3年間、激しく行なわれた戦争についての言及は、全くありませんでした。

朝鮮半島を南北に分断する 事実上の国境線である「軍事境界線」。
1945年、日本の敗戦後に行なわれた 分割占領に基づく「北緯38度線」は、地理的には現在でも存在します。
しかし、戦争の結果 南へ、北へ、また南へと半島内を移動した結果としての停戦ラインや、その南北 2kmを無人とした「非武装地帯 DMZ」は「38度線」と一致していません。

この食い違いを端的に示しているのが、開城(ケソン)です。
地理的には「北緯38度線」より南側に残された唯一の大都市。
北緯37度58分14秒 東経126度33分15秒
停戦ラインよりも北西側にあるので 北朝鮮領内。

落書き帳で「朝鮮戦争」の過去記事を検索したら、[56950]から[99400]の7件は hmtの記事。
他の方の記事は、3万台以前でした。

高校生だった hmt[78506]の記憶に残る朝鮮戦争。

その朝鮮戦争は、現在も まだ「休戦状態」です。
南北間の「平和」は 70年後の現在も回復しておらず、核兵器とミサイルで身を守る「隣人」は健在?です。
拉致問題も 全く進展せず。

時間だけでは解決しない現実が残されていることを実感した 70年前。
ラジオから流れるニュースにかじりついていた高校2年生、日曜日の記憶でした。
[99927] 2020年 6月 23日(火)15:51:04【1】hmt さん
さとうきび畑
沖縄戦が終結してから 75年経過した(沖縄県)慰霊の日です。 

糸満の摩文仁にあった日本軍の司令部が壊滅し、組織的戦闘が終結した 1945(昭和20)年の日付に基づくものですが、1965年の改正により 6月22日から変更されたものです。
正確な日付の確定が困難なくらいの状況であったことは、[80990]に記しました。

一般住民も巻き込んだ悲惨な地上戦により、日本側だけで推定約 19万人の生命が失われたと伝えられています。
沖縄県外出身の戦死者 7万人弱を差し引くと、沖縄県民の死者は 推定 12万人余となります。
これは 沖縄県(先島諸島以外の2市3郡)の人口の 1/4 にも相当します。

「鉄の暴風」に例えられる沖縄戦は、「人のいのち」だけでなく、琉球文化にも壊滅的打撃を与えました。
最近の東京新聞日曜版「大図解」シリーズ。No.1462 失われた文化財-沖縄戦-

私が今回の記事のタイトルに選んだのは、「ざわわ ざわわ ざわわ」というリフレインで知られる『さとうきび畑』という歌です。
1964年、復帰前の沖縄を訪れた作曲家の寺島尚彦が作詞・作曲した 11連の歌。
1967年初演とされていますが、1970年代に沖縄返還への関心が高まり、流行したとのことです。
森山良子の歌がよく知られていますが、その他にも多数の歌手が歌っています。

2012年4月1日に 中城郡読谷村の さとうきび畑 の一角に この歌の 歌碑 が建てられたそうです。

読谷村(よみたんそん)は 人口約4万人で、日本最多の村。
東シナ海岸の村で、南は嘉手納町と隣接。沖縄戦の当時は読谷【当時の名は 読谷山村 ゆんたんざそん】にも 嘉手納にも飛行場がありました。

読谷村の戦跡によると、閣議決定に基づき1944年7月から「足手まといになる老人と子どもを戦闘地域から移し、食糧を確保する」ということを目的とする「県外疎開」が実施されました。しかし、疎開者を乗せた対馬丸がトカラ列島を航行中に潜水艦の魚雷攻撃により沈没[56250]。読谷山村民90人も犠牲になりました。

1944/10/10の空襲などを経て 1945/4/1に比謝川河口から米軍が上陸。
日本軍の守備は手薄であり、米軍は 当日中に2つの飛行場を占領。4/5頃には米軍が宜野湾以北の中部一帯を制圧。
その後、首里を攻め落された守備軍司令部が糸満の摩文仁に後退、6月23日に最後の抵抗も終了。

読谷村の歌碑に戻ると、基金募集のコンサートなど、草の根運動で集めたお金で、完成に至ったとのこと。
この歌にふさわしいエピソードです。歌碑に刻まれた「ざわわ」は、各連6回で合計 66回。

歌詞の主人公に見立てられた少女は、「大図解」で知った ウチナーグチを使えば
カンポーヌ クェヌクサー【艦砲射撃の 喰い残し】

【2連】昔 海のむこうから いくさがやってきた 夏の陽ざしの中で
【3連】あの日 鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしの中で
【4連】そして わたしの生まれた日に いくさの終わりがきた 夏の陽ざしの中で
[99921] 2020年 6月 19日(金)17:35:53【2】hmt さん
北アルプスの超火山
登山にも地質学にも無縁の hmtですが、最近放送された Nスペ『ジオ・ジャパン』シリーズ2第1回「列島大隆起」。
300万年前の 北アルプスに、1万m?のスーパー火山が存在した可能性を知り、驚いて投稿します。

地質探偵ハラヤマとして世界的にも著名な地質学者・原山智さん(信州大学名誉教授 67)の発見に基づくもの。

巡検案内書を引用してみると、「くるりんぱ」した隆起年代は 1.6-0.6Ma【百万年前】とされていました。

北アルプスの北部に位置する鹿島槍ヶ岳から爺ヶ岳, 蓮華岳一帯には, 第四紀前期更新世の火山-深成コンプレックスの断面が広く露出している.この一帯では火山活動と花崗岩マグマの上昇定置の直後にあたる 1.6-0.6Ma の間に傾動を伴う隆起が生じており,これらコンプレックスが 80°前後の直立に近い状態まで南北水平軸回転していることが判明している(原山ほか,2003、2010)
参考までに、原山さんの講演記録(2005)特別寄稿

テレビでは、300万年前に始まるこの時期を、プレートの動きによって説明していました。
北上してきたフィリピン海プレートが太平洋プレート・ユーラシアプレートに押し負けた結果、150kmもの深みに潜り込み、進路は 北か北西へと 45度変化しました。

海水の影響によりマグマが生成した結果、飛騨山脈に、世界一若い露出花崗岩ができます。

爺ヶ岳の西側では黒部峡谷の割れ目ができ、割れ目は カルデラ花崗岩の下に伸びてきます。
そして、東からの圧力【45度カックン】で、カルデラ火山の噴出物と 地下の花崗岩塊とは 西向きに隆起します。
【幻の】超火山形成は、こんなシナリオと理解しました。

爺ヶ岳で火山岩が分布する範囲は 南北18km・東西10kmだそうです。
この火山が、東からの圧力に押されて 垂直に立ち上がれば、計算上の高さは 10000mになります。
しかし、垂直移動と同時に、崩壊も進行してゆきます。10000mの火山 は、やはり実現しないでしょう。

爺ヶ岳と同様のカルデラと変動とは、南側の槍穂高連峰でも観察されます。
こちらは垂直でなく、水平面から 20度の傾きだそうです。

「列島大隆起」は、巨大火山の他にも、関東平野ができた話もあり、興味深い番組でした。
6月21日・日曜日に再放送が予定されていたようだが、変更された?

同日、午後9時からは「列島大分裂」と題する第2回です。
中央構造線など西日本の変化によって、現在の日本列島が形成される物語に期待。
[99916] 2020年 6月 14日(日)19:25:18hmt さん
岩手県への表記統一(2)
[99914] ekinenpyou さん

複雑な謎解きの解説をいただき、ありがとうございます。

実は、[99914]を拝見する前に、[99907]で示された【その1】は改印届であることが明記されているが、
【その2】は単純な欠損改刻であることに気付き、[99911]の修正 or 別記事化【出直し】を検討していました。

公文録に残されたM9.10.9届出当時の原本を示します。

明治9年の改印届は「巌手縣」であったこと。そして

※法規分類大全の印影「岩手縣」は同書がM24年刊行であり、
「巖」を「岩」に置き換えた可能性があると推測しております。
という 落し穴 には全く気付いていませんでした。

…というわけで、[99907]の謎解きについては 完敗でした。
[99911] 2020年 6月 13日(土)13:35:09hmt さん
岩手県への表記統一
[99907] ekinenpyou さん

公文雑纂を示していただいた 県名の文字に関する件照会
日付は大正12年9月10日。100年近く前、関東大震災から間もない頃です。
この一次資料に接することで、当時の雰囲気を味わうことができました。

用紙枠には「巌手縣」と印刷されています。
「岩手縣知事 牛塚虎太郎」と記された冒頭の「岩」には、通常の邦文タイプ活字(明朝風字体)でなく、清朝風字体の活字が特別に使われています。そして、氏名の下の知事公印に記されていた文字は「岩手縣知事之印」。

[99907]では、テーマが「県名」から「県印」に変り、M9.10.9 岩手県届けによる印鑑の印影【その1】【その2】が提示されています。

【その1】は「当県印鑑欠損に付」と理由が記され、別紙の通相改 「岩手縣」
 上部欄外に明治5年正月5日 盛岡県>岩手県 を記載
【その2】も同じ理由が記されており「巌手縣」に改刻
 上部欄外の付箋は読み取れない 件名:諸県県印彫刻・九条とあるが、その内容は不詳

明治9年当時は 正式の「岩手縣」と慣用の「巌手縣」とが共に使われており、旧印鑑の欠損を機会に、慣用している「巌手縣」の印鑑も彫刻し、届出をしたのでしょうか? よくわかりません。

時代は進んで、大正12年に 名称を統一した知事。
牛塚虎太郎の名は初耳だったのですが、後の東京市長時代【1933-1937年】に、水源確保・し尿処理などの実績を残した大物官僚政治家でした。
[99889]で紹介していただいたように射水市の名誉市民になっているのですね。

余談
射水市の名誉市民には、読売新聞の 正力松太郎[35062] も 名を連ねていました。
戦後は、プロ野球や日本テレビに加え、原子力政策でも活躍した 記憶に残る人物です。
[99890] 2020年 6月 8日(月)10:31:30【2】hmt さん
慣用されていた 巌手県 から 正式の 岩手県 に統一する手続
[99889] ekinenpyou さん
このような変更手続は法的には行われていないという見解を多くの方がお持ちだと思います。

レファレンス協同データベース に、大正12年発行の岩手県報彙報欄掲載の、「今後は「岩」の字に統一する」旨の記事が紹介されていました。

--------------
『岩手県報 第847号』(大正12年9月22日発行)
⇒p.3「縣名ノ文字ニ關スル件」
“従来本縣名ニハ巌又ハ岩ノ二様ノ文字使用セラレ今日ニ於テハ官記辭令等一般ニ巌ノ文字ヲ使用スルニ至レリ【中略】
今回内閣書記官長ノ諒解ヲ得テ爾今官記法令其ノ他公文書等ニハ總テ明治五年一月改稱ノ際太政官ヨリ通達有リタル通岩ノ文字ヲ使用スルコトトセリ。”
--------------

【2】追記
太政官布告(明治5年正月8日)
仙台県を宮城県 盛岡県を岩手県 と改称候事
[99888] 2020年 6月 7日(日)14:10:09hmt さん
虎ノ門ヒルズ駅「静かに」開業
昨日 東京メトロ 日比谷線に 開業以来 56年ぶりの 新駅誕生。
朝日デジタルのタイトルが示すように、コロナ禍の最中、新駅開業恒例の出発式もなく、静かな船出であったとか。

それはともかく、1.3kmしか離れていない 既存の霞ヶ関・神谷町両駅の間に設置された新駅は、再開発が進んでいる この地域の「交通の結節点」としての役割が 期待されているようです。

落書き帳では、2018年に[97081] hmt 「虎ノ門ヒルズ」駅 を書いていますが、その前にも 2014年の[85227]で、東京の環状二号線 地下部分開通(新橋-虎ノ門)を伝えています。

日比谷線の新駅は、この道路と 地下鉄との交点 に設けられたもので、銀座線虎ノ門駅との乗換駅になっています。
両駅は 約400m離れており、改札外地下道経由。
参考までに、東京メトロは 改札外乗換適用時間を 60分に拡大しました。改札外の店舗への立寄便宜もあるようです。

「芝の金毘羅さま」東京都港区虎ノ門は 丸亀藩主京極家の上屋敷内にあり、江戸市民の要望に応えて毎月十日に参拝が許されていました。

hmtが 隣接する 外濠跡のオフィス に勤務していたのは 20年以上前ですが、毎月十日の縁日は賑わっていました。
私が退職し、会社が移転した結果 OB会開催地も変化したので、この付近とは すっかりご無沙汰になっています。
しかし、新駅誕生の機会に、過去記事を材料にして、虎ノ門のことを振り返ってみました。
[99885] 2020年 6月 5日(金)17:23:53hmt さん
Re:新地名「令和島」
[99880] 鳴子こけし さん
大田区が獲得した埋立地南西部の区域に、去る6月1日、町名として「令和島(れいわじま)」という地名が誕生

大都市・東京から発生するゴミの処理。埋立処理による活用は江戸時代から続けられてきました。
営々として続けられてきたこの手法が、江戸・東京の土地問題に役立ってきたことは、hmtマガジン 東京臨海部の陸地化 で ご紹介してきました。

マガジン・東京臨海部の陸地化の第一部は、江戸時代末期で終っていますが、番外編として収録した 2012年の[80265]には「中央防波堤埋立地」を登場させています。

3本目のルートとして新しい橋ができる「中央防波堤地区」には何があるのか。
産業用施設としては、当面のところ中央防波堤外側埋立地地の 新国際海上コンテナターミナル整備事業 があります。

帰属問題に関して 江東区と大田区との争い[98525]
令和元年になった 2019年、東京地裁の判決を両者が受け入れ、説明図 に示される 104.2haの土地を手に入れた大田区が命名した町名が(東京都大田区)「令和島一丁目・二丁目」でした。
# 大田区には、昭和島一丁目・二丁目もあります。

落書き帳には 登場していなかったので、埋立地の前に、中央防波堤から概略を記しておきます。

…と書いたのですが、お台場の沖に作られた この東京湾防波堤が何時作られたのか? 年代不詳。

現状は、防波堤北側の「中央防波堤内側埋立地」と一体化しており、「中防」と略称されるこの地域は、防波堤そのものよりも、埋立地として認識されています。

最初からこの形で工事が進められたものならば、東京港第2次改定港湾計画(昭和41-50年度)の時代である 1973年に着工し、1986年に終了したと思われます。

昨年末の江東区町名募集の結果、内側埋立地は(東京都江東区)「海の森一丁目~三丁目」と命名されました。

今回、水路南側の大田区「令和島一丁目・二丁目」が決まりましたが、江東区の外側埋立地は、町名未定らしい。

2015年からの第8次改訂版概要を含む東京港の港湾計画は、東京湾の埋立と開発の歴史について に収録。

町名から離れますが、中央防波堤外側地区の 国際海上コンテナターミナルの整備工事
[99869] 2020年 5月 31日(日)14:02:41hmt さん
Re:岐阜県「明治大合併」と「郡の再編成」
[99867] MI さん
フォロー記事に感謝します。

「郡の再編成」と「明治大合併」の順序を入れ替えました。

岐阜県において同日に施行された「郡の再編成」と「明治大合併」。
#36 「編入/郡変更」 という形で まとめられている 変遷情報は、「/」により順序付けされていたのですね。

「郡の再編成」は 1年近く前の「法律」で公布されていたのに、羽島郡に関する言及は
岐阜県美濃国羽栗郡及中島郡を廃し 其の区域を以て羽島郡を置く
だけでした。

新しい羽島郡の姿は、何時になったら知ることができたのか? それは、

法律施行日の前日 M30/3/31 に至り ようやく発せられた 岐阜県告示第58号 を待たなければならない

という状態でした。

そして注意しなければならないのは、この告示による廃置分合は「従前の郡」で行われているということなのです。

この告示を収録した岐阜県令達全書_明治30年 を見ると、羽栗郡と中島郡とに関する記載は 約1頁分ありますが、八神村に関する部分は その区域の増減に関する2ヶ所だけであることを確認しました。
中島郡大須村の一部(字平太島)の区域を八神村に合併す
中島郡小藪村及び午南新田を合し(中略)と八神村の一部(字名列挙)との区域とを以て小藪村を置く

記載がないということで 中島郡八神村の 法人格は維持され、郡変更法律の対象に残った と理解します。

ところで、M30/3/31の 明治大合併告示は、どのようにして岐阜県民に伝えられたのでしょうか?
当時の通信事情からすると、役場の掲示板が精一杯?

[99867]に紹介されたように、官報附録「庁府県公報欄」にも掲載されました。
しかし、それは 明治大合併の施行から 2ヶ月も経過した 明治30年6月になってからでした。

町村廃置分合
町村制第四条に依り各郡町村中 本年4月1日より左記の通 廃置分合す
明治30年6月 岐阜県
細かい文字で2頁4段余。1件毎の改行は省略され、「、」で繋げて記載。
[99866] 2020年 5月 30日(土)14:49:30hmt さん
明治30年 岐阜県羽島郡設置に伴い「新設?された」 15村
[99836]で 岐阜県市町村合併等経過一覧表【岐阜県合併一覧図 又は単に 一覧図 と略称】 を思い出しました。
一覧図 23-24コマの羽島市を眺めながら、当サイトの変遷情報と比較してみました。

その結果、一覧図と年代表と2つの資料につき、それぞれの特徴が見えたような気がしました。
参考までに ご報告しておきます。
関連して、変遷情報岐阜県の #28 と #192 について、軽微な修正意見も記してあります。

具体的には、一覧図 24コマ末尾付近に掲載されている 八神村と小藪村とに関する情報に関するものです。
一覧図の単位段に使われている「旧村単位」で数えると 2+3=5村の関係になります。

岐阜県合併一覧図から明らかなように、町村制施行の初日【1889/7/1】に 八神村は2村が合併して新発足しました。
他県と違い、岐阜県では 町村制初日の合併は例外的で、小藪村側の3村は 旧村規模のまま約8年を経過し、1897/4/1に 岐阜県特有の「郡の再編成と同時の明治大合併」を迎えました。

この地域が所属していた中島郡が、羽栗郡と合併して羽島郡になったことが 無視されていること[99836]はさておき、一覧図の特徴は、明治から昭和に至る合併の大勢を把握することができる点です。

旧区分の 2+3=5村は 【ほぼ】その区分のままで 八神村と小藪村に移行し、1927年(昭和2年)に至り合併。
その桑原村は、戦後 1954年の 10町村合体で、羽島市になった。これが明治から昭和への合併履歴概要です。

しかし、当サイトの変遷情報を調べてみると、明治30年の組換は、もっと複雑であったことが解ります。

岐阜県変遷情報 #28【新設/郡変更】 の詳細の記載。【便宜的な記号を括弧内に補って引用】
【#28-1】中島郡【b1】小藪村,【c1】午南新田,【d1】大須村及び【a1】八神村を廃し【#28-2】【b2】小藪村,【c2】午南新田, 【d2】大須村の内 字平太島を除く区域並びに【a2】八神村の内 字前野,字法六,字尾崎及び字外ニ等の区域 をもって 【b3】小藪村を置く
【#28-3】郡廃置により羽島郡小藪村とする

同じく #36【編入/郡変更】 の詳細の記載。
【#36-1】中島郡【d3】大須村を廃しその内【a3】字平太島の区域を八神村に編入する
【#36-2】郡廃置により羽島郡八神村とする

村単位で整理すると、最も単純な午南新田は、【c1】で廃止、【c2】【b3】で小藪村新設。
大須村は分村消滅。【d1】で廃止。【d3】により一部は八神村に編入。残りは【d2】で小藪村新設。
その小藪村は、中島郡の村が【b1】での廃止を受け、【#28-2】で4村の区域を集めて、【b3】で新設。
【#28-3】羽島郡小藪村として新発足しました。

最も複雑怪奇なのは、八神村の変遷です。中島郡八神村が【a1】で廃止された後、最終的には【#36-2】で羽島郡八神村になるのですが、変遷情報の変遷種別は「編入/郡変更」となっています。

変遷情報によると、#28 の【a2】で 八神村の一部は 新しい小藪村の一部になり縮小しました。
しかし、八神村には 分村消滅した大須村から 【a3】字平太島の区域を編入することによる 区域の拡大もあり、これが「編入」と記されています。

変遷情報には、勿論同日付の「八神村新設」記録はなく、【a1】の 八神村廃止 は 誤解と思われます。
この記事の冒頭に記した 変遷情報岐阜県の #28 の軽微な修正意見がこれです。

羽栗郡・中島郡→羽島郡の郡変更について、岐阜県変遷情報 #192 には、次の記載があります。
羽栗郡, 中島郡 の区域をもって 羽島郡 を設置することに伴い 羽栗郡 川島村, 笠松町, 竹ヶ鼻町, 柳津村, 中島郡 堀津村 と 新設された 15村を 羽島郡 所属とする【1897/4/1】

この中に中島郡八神村の名が見当たりません。では「新設された 15村」に含まれているのか?

Issieさんの 市町村の変遷で調べようと思ったが、多数の県のデータへのリンクが消失しており、愕然としました。

気を取り直して、Wikipedia 羽島郡 を見たら、M30/4/1 郡制施行に備える 羽島郡発足の記事中に「新設された 15村」と覚しき村々が列挙されていました。
しかし、最後に記された八神村は、記号←を用いた 14村と異なり、文章で「編入」と説明しています。
中島郡八神村の残部が大須村の残部(字平太島)を編入して羽島郡八神村となる。

つまり、「新設された 15村」という表現に使われた「新設」は「新設合併」に限定されたものでなく、広く「編入」を含む領域変更を意味するものと理解されます。

変遷情報岐阜県 #192 の表記も、同様の問題点を含んでいると思われるので、例えば次のような注記を加えたら如何でしょうか。
注【15村の内訳】:新設合併 14村と 八神村【編入】

これが、この記事の冒頭に記した 変遷情報岐阜県の #192 の軽微な修正意見です。
[99836] 2020年 5月 24日(日)14:59:18【1】hmt さん
岐阜県市町村合併等経過一覧表(PDF)
[99832] MI さん
フォロー記事をいただき、ありがとうございます。
ウェイバックマシンへの収録を紹介していただいた 「岐阜県市町村合併等経過一覧表(PDF)」について。

この資料については、私も[81240]で言及したことがあります。少し長いですが引用します。
-----------------
【白桃さんの】[81239]でご紹介いただいた資料は、岐阜県全域にわたる明治以来の行政区域変遷を表形式で集大成したものです。
[81236]で例示された個別情報とは毛色が違う集積情報ですが、「変遷情報図書室」には、このような資料もぜひ 収録していただきたい と思います。
この『岐阜県の市町村変遷』は、以前に【平成合併最中】むっくんさんから紹介していただいた資料 『岐阜県市町村合併等経過一覧表』 と同じものではなかろうか というのが、私の推測です。
[66845][66846]において言及されたコマ数が、今回のファイルと一致しているのが 推測の根拠ですが、記事が岐阜県HPに付けたリンクは現在では切れており、個人的な保存もしていなかったので、ファイルの比較ができません。
このように、Webから消えていなくても、ホームページの組替などにより、資料の行方が不明になることはしばしばあります。
変遷情報図書室に保存されていれば安心して利用できます。
-----------------

今回のご指摘に基づき、改めて 旧・川小牧村が掲載されている 64コマを閲覧してみました。

武儀郡と加茂郡の境界【津保川】に接する地域であること。明治28年~大正2年には、東岸【表では下の加茂郡側】が西岸【表では上の武儀郡側】に突出していることが読み取れます。
明治30年の4村合体以後に名乗った「富岡村」の村名表示について。
合併を示す明治30年の縦線の近くには表示なし。遥か左方の富岡村末期(昭和30年近く)のみに記載。
この表示方式は、長期間存続した町村にとっては分かり難い。スペースが許せば始期と末期との重複記載が望ましい。
…と今更望んでみても、編成合併当時 この表を作った担当者に届くわけがない無理注文。

【追記】
図中の誤表示に気付きました。大正2年の境界変更を示す縦線【加茂郡大平賀村突出の左端】の位置です。

富岡村の郡名が加茂郡であったことは、右上のタイトルからも明白ですが、更に 17コマ関市【元は武儀郡】には 「昭和24.10.1 旧大平賀村は富田村へ編入」との記載があり、郡の境界に位置する村の遍歴は、戦後も続いていました。
現在も津保川東岸の仲間共に、加茂郡富加町所属となっています。マピオン

最後に、
大平賀村から離れますが、この大きな表は 市町村合併を対象としたものであり、明治30年4月1日 稲葉郡設置など 「郡の変遷」に関する情報は無視されています。
[99831] 2020年 5月 23日(土)15:15:55【1】hmt さん
大正2年には消滅していた 岐阜県加茂郡大平賀村
岐阜県の明治30年は、郡の再編成を伴う 「明治の大合併」 があったことで知られています。(1897/4/1)

その一環として、加茂郡でも 肥田瀬村, 鋳物師屋村, 市平賀村, 大平賀村の新設合併による 富岡村 ができ、合併した4村は廃止されました。

ところが、大正2年(1913/7/1)になってから、「大平賀村の一部」の 境界変更記録 #219 がありました。
その詳細を見ると、境界変更対象区域は 町村制施行前の「旧・川小牧村」の区域でした。

では、大正2年境界変更の対象にならなかった「大平賀村の残部」の存否。それはどうなったのか?

変遷情報岐阜県には その後の記録がなく、もちろん現存も していません。
大平賀村は、明治30年大合併の2年前に加治田村の一部との境界変更をした過去がありましたが、これは無関係。

疑問が残るのは、明治30年に富岡町になって消滅したと思われる「旧・川小牧村」区域が、大正2年境界変更の記録で「大平賀村の一部」と記されていた点です。

そこで、改めて変遷情報源の調査を試みました。
大正2年という時代から、NDLの官報・広告欄【[80444]参照】に記載されている可能性があると判断。

先ず、NDLの検索画面に 施行日1913/7/1前後の日付 10日澗を入力してみました。
「岐阜県」や「境界変更」での絞り込みはできず、この後は 力尽く の調査になりました。

たどり着いた 大正2/6/27の官報第273号本文には、「国の直轄事項」関係が多数掲載されています。
彙報【雑報】の後、21/25から広告欄になります。

地方自治体である 岐阜県の「村境界変更」が掲載されているのは、広告欄の 22/25 左頁でした。

加茂郡富岡村大字大平賀の内 黒ケ谷、小竹原、南坂、山下、川ノ上、下南坂、坂本、南大水、北大水、川平の十字を同郡同郡加治田村に編入し来る7月1日より施行す

順番は違いますが変遷情報詳細に (旧川小牧村) と記されていた 10字(あざ)との同一を確認できます。
そして、境界変更の対象が「大平賀村の一部」でなく、「富岡村大字大平賀の内」であることが明らかでした。
現在の変遷情報は、二次資料に基づく誤記を引き継いだものと推察されます。

NDL官報に基づく変遷情報の修正は、現在では 多数の事例について 利用されているようです。
最近の一例を挙げると、[99336]むっくんさん ご指摘による埼玉県 #27 の事例等の修正 [99387]

上記調査も、これに倣ったものですが、膨大な NDL官報からの検索が不手際と思われます。
変遷施行日はわかるが、必ずしも施行日付とは一致しない官報発行日を絞り込めない。
可能ならば、地名や変遷種別をキーワードとする検索が望ましいが、広告欄は検索対象になっていないようだ。
適切な手段をご存知の方があれば、ぜひご教示をお願いします。
[99799] 2020年 5月 19日(火)13:47:29【1】hmt さん
日本の西端・与那国町トゥイシ
今回の十番勝負・問六の出題は「都道府県の中で東端西端の経度差が一番大きい市」でした。[99768]
問六との直接の関係はないのですが、十番勝負終了の機会をとらえ、日本最西端の自治体として知られる沖縄県八重山郡与那国町の西端についての情報を記しておきます。

2年前の平成30年(2018)3月のことになりますが、当時の天皇・皇后ご夫妻は 与那国島を初訪問され、「日本国最西端之地」という碑石もご覧になりました。

ところが、その翌年、つまり令和元年になった直後の 2019/6/1 に、国土地理院は 与那国島にある岩礁「トゥイシ」の名を「二万五千分の一地形図」に新たに記載しました。
もっとも、岩礁か島かを決める権限は国土地理院にもないとのこと。
その結果 日本の最西端は 僅か 260mほどですが 北北西へ動いてしまったとのことです。

国土地理院の報道発表資料では、該当する資料を発見することができなかったのですが、調べてみると マスコミには多数の報道があり、その視点も多様なものでした。
その中から NHK東京新聞日経八重山毎日デイリー新潮 などのネタを利用して、下記のようにまとめてみました。

トゥイシは、もともと潮が引いた干潮時には岩が水面上に現れることがわかっており、五千分の一図では海岸線の一部。海図にも記載されており、日本の排他的経済水域(EEZ)面積への影響はないとのこと。名前の由来には「とがった石」「砥石」などの説。

二万五千分の一地形図では、原則として、満潮時に 7.5m四方以上あることを基準に 島や岩などを記載している。

従来の地形図でのトゥイシの扱い:満潮時に海面下に隠れてしまう「隠顕岩」の存在範囲を記載。名称は記載なし。
しかし、干潮時も水面上に出ている可能性があり、国土地理院のドローンチーム「ランドバード」が「陸地に該当するのか否か」を調査し、2017年7月の調査結果で、大潮の満潮時も海面上に出ていることを確認。

2019年3月、与那国町の申請により地形図に追加記載することになり、2019/6/1から国土地理院HPで公開。
与那国島の地形図については、自衛隊駐屯地の整備など更新事項が種々あり、これらを含む全面的見直しを行った結果のようです。今回追加された地名は8カ所。

国土地理院>日本の東西南北点の経度緯度から、沖縄県 ★ の 西端 をクリックすると、「トゥイシ」という地名のある地理院地図が現れます。

# 上記★を付けた東西南北端ページのurlは、「県データ/沖縄へそ」と読めます。「県のへそ」を収録する予定で名付けてあるのでしょうか? 参考[11132][11313][48636]

地名コレクション:東西南北端も修正しておきました。

日本の民間人にとり、東端・南鳥島、南端・沖ノ鳥島、北端・択捉島は訪問不可能。
唯一 民間人訪問が可能だった最西端が 与那国町西崎(いりざき)から無人のトゥイシになった現在、アクセスできる可能性はあるのか? 

デイリー新潮に掲載された回答を引用して、この記事を終ります。
「うーん、容易にアクセスはできませんよ。地図だと近いように見えるでしょうが、西崎は岬ですから、海側は断崖。ここに降りることはできません。大潮の時にでも、大きく迂回して行けば……いや、やめた方がいいですね」
「観光面では、これまで通り、最西端は西崎でいきますよ。最西端の碑も変えません。」(与那国町総務課)


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