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[75252] 2010年 6月 3日(木)22:49:15【1】千本桜 さん
東北地方の自治体を越える地名
青森県上北郡六戸町大字犬落瀬/青森県三沢市大字犬落瀬
青森県三戸郡五戸町大字上市川/青森県八戸市大字市川町
岩手県花巻市成田/岩手県北上市成田
宮城県大崎市田尻北小牛田/宮城県美里町南小牛田
宮城県大崎市鹿島台木間塚/宮城県遠田郡美里町木間塚
宮城県黒川郡富谷町明石台○丁目/宮城県仙台市泉区明石南○丁目
宮城県黒川郡富谷町東向陽台○丁目/宮城県仙台市泉区向陽台○丁目
宮城県仙台市泉区南中山○丁目/宮城県仙台市青葉区中山○丁目
宮城県仙台市青葉区小田原○丁目/宮城県仙台市宮城野区小田原○丁目
宮城県仙台市青葉区花京院○丁目/宮城県仙台市宮城野区花京院通
宮城県仙台市青葉区五橋○丁目/宮城県仙台市若林区五橋○丁目
宮城県仙台市青葉区土樋一丁目/宮城県仙台市若林区土樋一丁目
宮城県仙台市青葉区茂庭/宮城県仙台市太白区茂庭
宮城県仙台市若林区四郎丸/宮城県仙台市太白区四郎丸
秋田県仙北郡美郷町金沢/秋田県横手市金沢・金沢本町・金沢中野
山形県新庄市大字本合海/山形県最上郡大蔵村大字合海
山形県尾花沢市大字五十沢/山形県村山市大字五十沢
福島県伊達郡国見町大字西大枝/福島県伊達市梁川町東大枝
福島県福島市松川町下川崎/福島県二本松市下川崎
福島県田村郡三春町大字南成田/福島県田村市船引町成田
福島県双葉郡大熊町大字小良浜/福島県双葉郡富岡町大字小良ケ浜

秋田県の美里町を美郷町に訂正。
[75196] 2010年 5月 27日(木)20:43:27千本桜 さん
市場統合
河北新報の報道によると、今年9月ごろをめどに大河原町地方卸売市場、白石市地方卸売市場、角田市地方卸売市場の3市場が統合。白石市、角田市の市場を閉鎖し、大河原町の市場に機能を集約するとのことです。またしても市町逆転。市の都市機能が町に引き寄せられる不思議な地域の、地味なローカルニュースでした。
[75176] 2010年 5月 23日(日)08:07:24千本桜 さん
♪ウミはステキだな~
大磯がハズレだとすると、あとはアソコしかないと思うのですが、人口資料を持ち合わせていないので確認できません。そこで推測ですが、1920年当時に人口1万超の町になっていた要因は炭坑にあり、1960年当時2万人超の町になっていた要因は母都市Fの膨張によるベッドタウン化にあると考えてよろしいでしょうか。すると答えはウミ。
[75169] 2010年 5月 22日(土)20:59:20千本桜 さん
大忙し
[75167] 白桃 さん
これの正解はもちろん音更町なんですが、実は、全国でいうと、もうひとつだけあるのです。
昭和35年には既に人口集中地区を形成していた あの町だと思いますが確認できません。なぜなら、私はいま大忙しだから。
[75156] 2010年 5月 22日(土)02:38:17千本桜 さん
四国旅行
[74078]で書いた四国旅行の件、先週実行して参りました。個人の自由が利かない団体旅行でしたが、晴天に恵まれ、穏やかな瀬戸内の風景を久しぶりに眺めることができました。伊丹空港を出発したバスは中国池田IC→(中国自動車道経由)→神戸JCT→(山陽自動車道経由)→神戸西IC→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路ICのルートを走行して淡路夢舞台へ。夢舞台を全部見るには3時間ほど欲しいのですが、許された滞在時間は40分だけ。我が家のジギタリスやラベンダーはまだ蕾さえ付けていないのに、淡路島では もう咲いているのですね。広い園内の一画だけを見て回り、昼食のため旧東浦町の海鮮料理屋へ急ぎました。このあたりは40年ほど前に自転車で走り抜けていますから、久しぶりの再訪問になります。

昼食後は淡路島の北辺をなぞるように岩屋経由で海辺の道を走り、研修先の旧北淡町のとある施設へ向かいました。研修終了後は北淡ICから鳴門北ICまで神戸淡路鳴門自動車道を走行して大鳴門橋架橋記念館へ。記念館の展望台から眺める風景は明るい日差しを浴びて美しく、海上遊歩道「渦の道」のガラス床から覗き込んだ海もスリルがあって良かったです。この日の宿は大毛島にある大きなリゾートホテル。阿波踊りのショーを見ながらの宴会でした。

翌日は7時30分にホテルを出発。バスガイド嬢によると徳島県には市が4つあるそうな・・・。「徳島市、鳴門市、阿南市、えーと、あと1つは、小松島市ですね。」と言っていました。バスは神戸淡路鳴門自動車道、高松自動車道、徳島自動車道を乗り継ぎ、8時30分には美馬市の脇町に到着しました。平日の朝、まだ観光客がいない静かなうだつの町並みを目にして、私は正直舞い上がりました。宮城県では こんな素晴らしい町並みを見ることができません。でも、脇町観光に割り振られた時間はたった30分。ガイド嬢は300mほど先を指し、「あそこまで行ったら戻って来て下さい」と案内していましたが、それを無視して500m先の脇町劇場オデオン座、そして中心街の県道12号沿線商店街を見て回りました。

脇町観光の次は金比羅参りです。金刀比羅宮へは脇町→(県道12号を西へ走行)→美馬町→(国道438号経由)→琴平のルートで行きました。国道438号を進むにつれて高度が上がり、眼下に吉野川流域の風景が広がって、遠くに貞光の町が見えました。琴平の滞在予定は昼食を含めて2時間弱ですからハードスケジュールです。本宮まで登るのを諦めて途中で引き返し、参道新町商店街JR琴平駅琴電琴平駅神明町商店街→参道の順で町歩きをしました。琴平は町なのに田舎の市より都会的。昔も今もスーパータウンです。参道の食堂で早めの昼食を済ませ、松山へ向って出発。善通寺ICから先は松山自動車道を ひた走るだけなのでガイド嬢も一休み。車内はお昼寝タイムに入って静かになりました。

午後2時に松山のとある施設に到着。そこで研修交流会を済ませて子規堂へ。再びガイド嬢の出番到来です。ガイド嬢によると松山市は人口46万、四国一の大きな都会だそうな・・・。人口にうるさい人がいなかったのはガイド嬢にとって幸いでした。みんなの関心は人口よりも土産品選びにあるようです。個人的には中心商店街の銀天街と大街道を歩きたかったのですが願いは叶わず、バスは子規堂から市役所、県庁、三越前を通過して松山城ロープウェイのりばへ移動。松山は2度目ですが、松山城に登るのは初めてです。天守閣から見渡す市街地の規模は、宇都宮と同じ程度かなと感じました。ロープウエイの下り最終運行が午後5時ということで、早めに下山して道後温泉に向かいました。

その夜の宿は温泉街のどまんなか、あの有名な道後温泉本館の近くでした。平日なのに道後温泉本館の周りは観光客で賑わっていました。こんなふうに賑わっている温泉街を見るのは、3年前に見た草津温泉以来のことです。この道後温泉と宮城県の秋保温泉は年間宿泊客数がほぼ同数ですが、景観は道後の方がずっと大きな温泉場に見えます。秋保は施設が充実した大規模旅館が多く、遊びも買物も旅館内で済ませてしまうので温泉街が育たないようです。秋保って、そんなに大規模旅館が多いのか?と訝る方のために、秋保と道後の旅館規模を比較をしてみます。宿泊収容人数100人以上の旅館を対象に規模別分布を調べると次のようになります。
宿泊収容人数秋保温泉道後温泉
900人以上2軒0軒
700~899人3軒1軒
500~699人1軒1軒
300~499人3軒9軒
100~299人4軒6軒
宿泊した旅館は道後温泉の中でもハイクラスの旅館でしたが、秋保温泉の大規模旅館に慣れてしまった身には少々物足りなさを感じました。私はこれを秋保症候群と呼んでいます。旅館の中に各種施設が整っていないと、どのようにして時間を過ごせば良いのか分からなくなる症候群です。たぶん、仙台周辺には秋保症候群に陥っている人が他にもいると思います。

翌朝は5時に起きて温泉街を散歩しました。道後温泉駅前のからくり時計を眺めていると、「昨夜は明かりがついて綺麗でしたよ」と背後から声をかけられてびっくり。ふりむくと左手にお酒、右手にカップラーメンを持ったホームレスのおじさんが優しい まなざしで こっちを見ています。おじさんは一定の土地にとどまっていられない病気なのだそうです。ひとつ どうです、と酒をすすめられましたが遠慮しました。7年前に隅田川の川べりで博識なホームレス氏にビールを御馳走になりましたが、今度のホームレス氏もなかなかで、「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の・・・・」と茂吉の歌を投げてくるではありませんか。それならこっちも茂吉でと、道後温泉宝厳寺の歌碑に刻まれた「あかあかと一本の道通りたり・・・・」を返しました。ホームレス氏との不思議な時間が流れます。聞けば、望まれずに生まれてきた身とか。でも、そんな優しい目をして身の上話をするのは良くないよ。つい、ほろりとするじゃないか。コンビニで牛乳を買った時の釣銭を、そっとホームレス氏の手に渡しました。

朝食をすませて8時に旅館を出発。石手寺に向かいました。実は、今度の旅行まで石手寺の存在を知りませんでした。想像以上に大きな寺で、朝から観光客やお遍路さんで賑わっていました。ガイド嬢の説明によると、四国八十八ヶ所めぐりの中で一番に参拝客が多い寺だそうです。でも、先を急ぐ旅なので滞在時間は30分だけでした。バスは国道317号を走行して今治へ。そして、しまなみ海道に入ります。来島海峡大橋から今治市街を遠望すると、1棟だけ周囲の建物より突き出た高層ビルが見えました。あれが有名な今治国際ホテルなのだろうか?。絶好の行楽日和のなか、大島、伯方島、大三島と進んで愛媛県とはお別れです。

多々羅大橋を渡って広島県に入りました。しまなみ海道を生口島南ICで下りて一般道へ。生口島の南海岸を回って耕三寺に向かいました。サンセットビーチあたりで、「あれが因島です」とガイド嬢。え!、それはあり得ない。あれは三原市の海岸のはず。でも、それは観光旅行にとってたいした問題ではないのでしょう。バスはちゃんと予定どおり耕三寺に着いたのですから。耕三寺の評価は分かれますね。同行者の話を聞くと、石手寺にはまたいつか来てみたいが耕三寺はもういいだろうという人もいて。瀬戸田の食事処で昼食とお買物です。2泊3日の旅もここが最後の立寄り場所とあって、みんなお土産を買い込んでいました。因島、向島と進んで新尾道大橋にさしかかりました。そこから尾道の美しい風景を眺めることができました。でも不思議です。風景に色がないのです。千光寺山も向島も町並みも、そして青いはずの海までもが水墨画のように白黒です。しかも、反射して光っています。力強いタッチで描かれた水墨画のような尾道。あれは太陽光線のいたずらか、それとも幻影か。新尾道大橋を渡るほんの一瞬ですが、絵になる構図の尾道の美しい風景を見ることができたのは幸いでした。

尾道からは山陽自動車道を走って伊丹空港へ。ハードスケジュールな旅でしたが無事帰宅できました。なお、文中ではバスガイド嬢と書きましたが、本当は“嬢”と言ったら失礼なくらい人生を積み重ねた大ベテランガイドさんでした。ガイドさんは3つ間違いました。徳島県の市数、松山市の人口、三原と因島の取り違えです。でも、それを補って余ある巧みな話術と心配り。素晴らしかったです。あのガイドさんが落書き帳を見ているとは思えませんが、この場を借りて御礼申し上げます。
[74447] 2010年 3月 26日(金)20:44:03千本桜 さん
石巻
[74412] 牛山牛太郎 さん
お久しぶりです。
3月8日には石巻市の市役所が移転を開始し、22日に完了しました。
移転した石巻市役所は雰囲気が良さそうですね。某町の町役場のように、外壁の色が暗くて いかにも役所らしい造りだと訪庁するのも気が重くなります。その点、元デパートの建物を利用した石巻市役所は外観がピンク系、1階がスーパー、6階まで全階エスカレーターあり、映画館だったスペースが議場という変わりものですが、気軽に立寄れそうで好感が持てそうです。ただ、気になったのは駐車場の料金です。大河原駅前ビルの駐車場は60分未満が無料で以降1時間ごとに100円ですが、石巻駅前の市役所駐車場は60分未満が無料で以降30分ごとに150円です。30分ごとに150円は大河原の3倍、仙台市役所の二日町駐車場の1.5倍です。石巻の地価の安さを思えば少し料金が高すぎるように感じます。ちなみに石巻市役所前の路線価は、高知県いの町の中心街から離れた山の際を走る町道と同額の1平米50,000円です。いの町の路線価が高すぎるのか、それとも石巻の路線価が低すぎるのか・・・どっちもみたいですね。そんな訳でまたまた懲りもせずに路線価の話に入ります。路線価は都市の規模を評価したものではないことを承知の上で、都市規模と路線価を照合しながら そのギャップを楽しんでいるわけですから、地価関係者の皆さんは気になさらないでください。

[74322]では釧路・石巻・滝川と徳島県諸都市の路線価を比較しましたが、今回は石巻に焦点を絞ってみます。石巻の中心街を歩いていると岩手県の一関や水沢とそれほど変わらない規模に見えたりしますが、実際の規模は見た目より もっと大きな都市だと思います。そこで、石巻と同じような規模の市を選出し、それらの市との比較を通じて石巻の路線価を考えてみることにします。石巻は都市圏人口221,282人、市域人口161,192人、DID人口97,637人で、市域人口は減少しています。それを踏まえて下記の条件に当てはまる市を類似規模の市とします。
条件1・都市圏人口が15万から25万人(2005年都市雇用圏)
条件2・市域人口が10万から20万人(2009年10月1日推計)
条件3・DID人口が5万から15万人(2005年国勢調査)
条件4・人口増加率がマイナス数値(2005年国勢調査と2009年10月1日推計の市域人口比)
以上の4条件をクリアした市を「類似規模の市」とします。これに該当するのは、鳥取会津若松宇部都城米子大牟田三条石巻伊勢桐生今治酒田岩国鶴岡八代の15市です。ただし、特例として次の市を加えたいと思います。条件1の「都市圏人口」が規定の15万人に満たないものの、条件2、条件3および条件4をクリアした延岡北見新居浜。条件3の「DID人口」が規定の5万人に満たないものの、条件1、条件2および条件4をクリアした飯塚上田の5市です。これで類似規模の市は20市になりました。以上の20市については、最高路線価の位置をセンターにして航空写真をリンクしています。最高路線価は各市とも概ね中心街に位置していますが、伊勢と三条だけは異色です。伊勢の最高路線価は中心街の伊勢市駅周辺ではなく、町並みの どん詰まり伊勢神宮内宮の入口付近。三条の最高路線価は中心街の本町ではなく、新興の燕三条駅前にあります。また、心情的には苫小牧、室蘭、小山、足利、太田、上越、松阪、尾道、山口も類似規模の市とみなしたいのですが、条件に合致しない点があるので外します。では、類似規模20市の都市圏人口(2005年都市雇用圏)、市域人口(2009年10月1日推計)、DID人口(2005年国勢調査)、人口増加率(2005年国勢調査に対する2009年10月1日推計市域人口)、製造品出荷額(2006年)、|卸売販売額(2007年)、小売販売額(2007年)、人口比小売額(小売販売額を市域人口で除した数値)を表形式にまとめてみます。表作成の都合で会津若松を「若松」と表記します。

順位都市圏人口市域人口DID人口人口増加率製造品出荷額卸売販売額小売販売額人口比小売額
(万人)(万人)(万人)(%)(百億円)(百億円)(百億円)(万円)
1位鳥取 25鳥取 20大牟田 10米子 -1.0今治 73北見 38鳥取 22北見 136
2位若松 25宇部 17石巻 10新居浜 -1.0新居浜 69三条 34米子 19米子 129
3位宇部 25今治 17若松 9都城 -1.4上田 59今治 32都城 19若松 127
4位都城 24都城 17延岡 9飯塚 -1.6鳥取 57宇部 29石巻 18伊勢 121
5位米子 24石巻 16北見 9鳥取 -1.7宇部 54鳥取 29上田 18上田 115
6位大牟田 23上田 16鳥取 8伊勢 -2.0石巻 35上田 28宇部 17石巻 115
7位三条 23米子 15桐生 8上田 -2.3伊勢 34米子 25北見 17飯塚 114
8位上田 22岩国 14新居浜 8三条 -2.5若松 33酒田 20若松 16都城 113
9位石巻 22鶴岡 14宇部 8北見 -2.5三条 31都城 20今治 16鳥取 113
10位飯塚 20八代 13米子 7宇部 -2.6岩国 31石巻 20伊勢 16酒田 111
11位伊勢 18伊勢 13都城 6若松 -2.8延岡 29新居浜 17飯塚 15新居浜 102
12位桐生 18飯塚 13今治 6今治 -3.0都城 29岩国 16岩国 14三条 101
13位今治 17延岡 13岩国 6八代 -3.1大牟田 28若松 15鶴岡 14宇部 100
14位酒田 16若松 13八代 6鶴岡 -3.2鶴岡 28伊勢 15酒田 13岩国 99
15位岩国 15北見 13鶴岡 6延岡 -3.3桐生 27飯塚 13新居浜 12鶴岡 99
16位鶴岡 15大牟田 12酒田 6岩国 -3.4米子 26八代 13大牟田 12大牟田 97
17位八代 15新居浜 12伊勢 5石巻 -3.7八代 24延岡 11八代 12今治 95
18位延岡 14桐生 12三条 5酒田 -4.1酒田 23大牟田 10延岡 12八代 91
19位北見 13酒田 11飯塚 5桐生 -4.5飯塚 18鶴岡 8桐生 10延岡 89
20位新居浜 12三条 10上田 4大牟田 -4.8北見 15桐生 5三条 10桐生 84

石巻は都市圏人口9位、市域人口5位、DID人口2位、製造品出荷額6位、卸売販売額10位、小売販売額4位、人口比小売額6位ですから、都市景観の貧弱さとは裏腹に結構高い位置に付けています。しかし、人口増加率は17位と低迷。さらに、1平米当りの最高路線価は鳥取185千円、岩国185千円、伊勢170千円、米子145千円、上田140千円、今治140千円、宇部115千円、新居浜97千円、三条92千円、延岡91千円、都城90千円、飯塚82千円、会津若松81千円、大牟田73千円、桐生69千円、北見67千円、八代62千円、酒田61千円、石巻54千円、鶴岡53千円の順で、石巻は19番目に低落しています。最高路線価が低いのは人口減少が原因かというと、そうでもなさそうです。もっと大きな要因は商業の郊外立地による中心街の空洞化のようです。石巻は商業の郊外立地が著しい都市で、昭和の終わりごろには中心街の橋通りアイトピア立町大通りが寂びれはじめ、郊外の中里地区が活発な商業地になっていたと記憶しています。あれから20年以上を経た今では、中里地区がさらに郊外の蛇田地区にその座を奪われています。現在、商圏人口36万をかかえる宮城県第2の商都石巻の商業活動は、郊外の蛇田地区に完全移転してしまったようです。蛇田地区は、店鋪面積33,000平米を超すイオンSCや11,000平米超のイトーヨーカドーをはじめ、大型のホームセンター、家電店、ドラッグストア、ファッションショップ、さらには銀行、ホテルなども進出して急激な変ぼうを遂げています。その小売店の合計店鋪面積は十日町、大和高田、日南など人口6万人クラスの1市まるごと分の店鋪面積に匹敵し、愛媛県内子町の小売店全部を束ねて4倍してもまだ足りない面積に達しているだろうと推測されます。これほどの店鋪面積が半径わずか500mの区域に集積しているのですから、さぞ地価は熱く跳ね上がるだろうと思うのですが、なぜか路線価の評価額は冷めていて、内子町の国道から1本裏に入った用水堀とおぼしき水路に沿った小道よりも1,000円安い1平米49,000円ですから驚きです。こんなことを書いてると、路線価図の使用目的を間違えてるぞと叱られそうですが、都市規模を念頭において路線価図を眺めると新鮮な驚きが沢山あって面白いものです。
[74322] 2010年 3月 11日(木)07:52:26【1】千本桜 さん
徳島県諸都市vs釧路・石巻・滝川
平成21年分の路線価を見ていて釧路、石巻、滝川3市の最高路線価が低いと感じました。都市の大きさというか、地域の中で占めている都市としての役割の重さに比して、低いと感じるのです。徳島県の諸都市と対比すると、その低さが明確になります。人口集中地区を形成していない藍住町、石井町、美馬市の一等地より、釧路市の一等地の地価が安いなんて・・・。最高路線価(平成21年分)、DID人口(平成17年国勢調査)、行政人口(平成17年国勢調査)、事業所従業者数(平成18年事業所・企業統計)、年間小売販売額(平成19年)を表形式にまとめました。

都市最高路線価DID人口行政人口事業所従業者数年間小売販売額
徳島県 徳島市440,000円189,975人267,833人139,412人30,177,566万円
徳島県 阿南市94,000円5,604人78,002人31,506人6,529,878万円
徳島県 小松島市89,000円19,296人42,115人15,366人3,792,090万円
徳島県 吉野川市86,000円6,547人45,782人15,303人3,381,167万円
徳島県 藍住町82,000円32,286人10,417人3,954,153万円
徳島県 石井町81,000円26,068人8,755人2,370,478万円
徳島県 鳴門市80,000円21,695人63,200人24,291人4,682,792万円
徳島県 三好市80,000円5,410人34,103人13,070人2,163,911万円
徳島県 北島町79,000円11,866人20,703人8,495人2,811,262万円
徳島県 美馬市76,000円34,565人11,472人2,956,786万円
北海道 釧路市66,000円165,175人190,478人84,024人18,721,195万円
徳島県 松茂町65,000円14,926人8,675人1,766,759万円
宮城県 石巻市54,000円97,637人167,324人71,400人18,484,583万円
北海道 滝川市28,000円33,564人45,562人18,748人5,248,671万円

北海道釧路市の最高路線価・北大通五丁目の北大通りは、人口集中地区を形成しない徳島県美馬市の拝原地区を走る県道と同額の1平米66,000円。
宮城県石巻市の最高路線価・鋳銭場の石巻駅前通りは、徳島県阿南市学原町の国道を逸れて奥まった袋小路と同額の1平米54,000円。
北海道滝川市の最高路線価・本町一丁目の国道451号通りは、徳島県美馬市脇町の農地の中を走る市道より1,000円安い1平米28,000円。

書込み訂正。阿南市大字学原を阿南市学原町に訂正しました。
[74255] 2010年 3月 4日(木)00:14:07千本桜 さん
愛媛県内子町VS北海道釧路市
愛媛県内子町(人口18,546)と、その10倍の人口を持つ北海道釧路市(人口184,492)の路線価を単純比較します。人口は2008年10月1日の推計人口。路線価は平成21年分の評価額です。
内子町で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり79,000円。町外れの農地と家屋が入り混じるこの場所では66,000円です。一方、釧路市で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり66,000円。内子町の町外れと釧路市の中心街が同額とは・・・。

[74252]小松原ラガー さん
この町の中心駅?
その駅は、北島三郎♪「終着駅は始発駅」ですか?
[74203] 2010年 2月 22日(月)20:56:39【1】千本桜 さん
飫肥駅
[74200] Issie さん
もしかしたら酒谷川を渡って飫肥町の領域に乗り入れていたのかもしれません。ただ,今町も本町(飫肥1~10丁目)も川のそばから市街地が密集していそうで,それならどこに突っ込めたのか。
軽便鉄道は昭和6年、吾田村大字星倉から飫肥町大字本町まで400mほど延伸しています。酒谷川を渡ったのですね。でも、どのようなルートで走っていたのかは不明です。 Issieさんがおっしゃるとおり、市街地が密集しているので鉄道を突っ込む余地がなさそうです。また、Yahoo! の地図や写真を見ても、鉄道跡らしき形状が見つかりません。酒谷川に鉄橋を架けたのなら、両岸にルートの痕跡が残っているはずなのに、その痕跡が無いのが不思議です。ここから先は推測で書きます。推測と言っても全くの当てずっぽうではなく、むかし大河原駅前通りを走っていた軽便鉄道を念頭に置いての推測です。思いますに、吾田村星倉の飫肥駅から飫肥町本町の新駅までは、現在の国道222号と同じルートを走っていたのではないか。道路橋の稲荷下橋を利用して酒谷川を渡り、そのまま本町通りの路上に突っ込んだのではないか。400m延伸ですから、新駅の位置は現在の飫肥一丁目と二丁目を区切る本町通りの道ばたではないか。軽便鉄道ですから、道路の上を走れたのではないか。鉄道ルートの痕跡が無いのは、道路上を走っていたからではないか。そのようなことを考えてみました。間違っていなければ良いのですが、また、はらはらドキドキです。推測することを楽しむお遊びですので、間違っていたら笑って許して。

書込み訂正機能を使って書込みです。
直前に今川焼さんからの書込みがありました。軽便鉄道の新駅は本町通りの少し南になるのですね。間違いまして失礼しました。実際のところ、本当は酒谷川をどのようにして渡ったのだろうと気になっていました。大河原の軽便鉄道は道路橋の尾形橋を使って白石川を渡りましたので、「飫肥 稲荷下橋 軽便鉄道」で検索しましたところ、日南の今昔というサイトにヒットしました。これを見ると、稲荷下橋に沿って鉄橋が架けられていたようです。サイト内の昔と今の写真を見比べて思ったのですが、本町通りは拡幅されていますね。昔の家並は残されているのでしょうか。素朴な疑問です。
[74167] 2010年 2月 16日(火)08:22:37千本桜 さん
温泉ランキング。日南市。
宮城県の温泉クイズの答えです。年間宿泊客数50,000人以上のランキングと温泉名は次のとおりです。
順位温泉名平成20年平成15年
1位秋保温泉834,000人996,000人
2位鳴子温泉488,000人390,000人
3位遠刈田温泉346,000人411,000人
4位作並温泉276,000人326,000人
5位南三陸温泉166,000人0人県の資料では志津川湾温泉
6位中山平温泉103,000人141,000人
7位東鳴子温泉85,000人141,000人
40年ほど前の雑誌「旅」の記事を書きとめていたノートを見ると、当時の宮城県では鳴子温泉がトップでした。温泉地の盛衰も浮き沈みが激しいですね。個人的な感想ですが、遠刈田温泉が意外に頑張っていると感じました。また、2年前に松島でも温泉を掘りあてて松島温泉を名乗るようになりましたから、今後の統計には「松島温泉」の名も登場することになるでしょう。

ついでに、40年ほど前の雑誌「旅」に掲載してあった温泉ランキングも書いておきます。日本を東西に分けて相撲番付ふうに書いてありますが、ランキングの上位から下位に向って30位までを羅列します。
【東日本】
熱海、川湯、洞爺湖、鬼怒川、伊東、登別、湯ノ川、中禅寺、修善寺、小涌谷、定山渓、下田、小涌谷、片山津、中山、熱川、飯坂、層雲峡、下呂、宇奈月、日光湯元、東山、西浦、那須、和倉、草津、伊香保、温根湯、浅虫、芦原
【西日本】
雲仙、別府、白浜湯崎、観海寺、指宿、勝浦、霧島、内牧、道後、玉造、城崎、湯田、皆生、有馬、小浜、嬉野、三朝、長門湯本、鳥取、日奈久、湯ノ山、長島、雄琴、牧ノ戸、湯之児、戸下、二日市、鉄輪、宝塚、湯原
西日本のトップは「雲仙」ですが、狭義の別府に観海寺・鉄輪など広義の別府を加えると、やはり西日本最大の温泉地は別府になります。牧ノ戸温泉や戸下温泉のランクインが何とも奇異ですが、真偽のほどは分かりません。

[74142] 伊豆之国 さん
私が初めてみちのくに足を踏み入れた、その思い出の温泉(過去に書き込んでいます)。
みちのく初体験は作並温泉でしたか。私も伊豆之国さんと同じ旅館に泊まっています。また、奈良の今井町に行かれたとか。今井は未訪ですが、歩いてみたい街の一つです。


[74136] 白桃 さん
合併により成立した市の市役所の位置というのも、その後の人口推移に大きな影響を与えるもんですな・・・。
[74137] Issie さん
両者に優劣はつけられず,恐らくは妥協の結果 吾田 に市役所が置かれ

この手の話題に乗りたくなる癖があります。飫肥と油津の人口が減少し、市役所所在地の吾田が一人勝ちしていることをネタに、あれこれ調べながら遊んでみました。

まず最初に飫肥、吾田、油津の境界線チェックです。すると、飫肥駅は飫肥ではなく吾田(大字星倉)にあることが判明。飫肥市街を一歩出れば吾田(大字星倉)の領域です。油津駅周辺にも吾田(大字平野)の領域が伸びていて、油津市街を出るとすぐ吾田(大字平野)になります。どうやら飫肥と油津は領域内に市街地を広げる適地に恵まれていないようです。ことさら面積の狭い油津は既に可住地が満杯状態で、人口増加を望むのは絶望的です。開発余地のある吾田が人口受皿になるのは自然の成り行きだったようです。

油津と吾田の関係はミステリアスで、油津市街の中にも吾田(大字平野)の領域臭が漂っています。地図上で油津を歩いているはずが、実はここは吾田(大字平野)ではないかという疑念が湧いて来たのです。きっかけは、あるサイトの日南郵便局に関する次の記述です。
1951年(昭和26年)日南市大字油津町から同市大字平野に移転するとともに、日南郵便局に改称。
上記をストレートに解釈すれば、大字平野は近世村の平野村で、平野村は明治22年に星倉村などと合併して吾田村になりましたから、日南郵便局の場所は吾田ということになります。でも、そこは明らかに油津市街の真ん中です。いったい、油津市街は油津なのか吾田(大字平野)なのか。謎を解かずにいられません。

そこで、油津市街の古い地名を追ってみました。すると、光明院という寺名からも、岩崎という町丁名からも、昔は平野村または吾田村大字平野に属していた形跡が見つかったのです。さらには、日南市 大字油津平野 字古奥という変な地名まで出てきて迷は深まるばかり。明治22年に油津村が単独で油津町になったのだから、大字油津平野という名の大字はありえないはず。大字油津平野とは何者か。ここには、88さんが纏めて下さっている市区町村変遷情報に書かれていない区画変更が隠れているぞと思っていたら、わりあい簡単に謎が解けました。油津と平野は下記のように複雑な関係にあったようです。
江戸時代、油津は平野村の一部だった。
明治15年、平野村から油津村が分立し、油津村以外の区域は平野村として継続。
明治22年、油津村は単独で油津町になり、平野村は星倉村, 隈谷村, 戸高村, 西弁分村と合併して吾田村になる。
明治41年、油津町が吾田村大字平野の一部を編入。
油津市街の中に漂う吾田(大字平野)の臭いの正体は、油津町の「吾田村大字平野の一部編入」にあったのですね。平凡社や角川の地名辞典があれば一発で解明できる事柄でしょうが、あいにく所持していないので、ここに辿り着くまで結構遠回りしました。でも、この遠回りが楽しいのですよ。

では、吾田村大字平野の一部を編入する以前の油津町はどこかというと、現在の油津一丁目から四丁目にあたる狭い範囲だったようです。この狭い領域では市街地の拡張に対応しきれないのは当然で、明治41年の油津町による吾田村大字平野の一部編入は必然だったのでしょう。現在、誰もが油津そのものだと思っている市街(油津駅・山形屋・油津小学校などのエリア)は、かつての吾田村大字平野に形成されたことになります。間違っていなければ良いけど・・・少し、はらはらしてます。

どこが中心???昆明、混迷深まるばかり・・・
路線価を見て感じたまま書くと、昭和の頃の中心は油津で、A地点の山形屋・宮崎銀行前からB地点のアーケード街にかけてでしょう。今もA地点が日南市の最高路線価を保持しています。しかし、都市機能の郊外移転が進んだ現在では、A地点よりも路線評価額は低いものの、長い区間に亘って水準以上の評価額が続く吾田地区の国道222号沿道C地点が実質的な中心になっていると思います。でも見た目はやっぱりA・B地点でしょうね。お遊びですので間違っていたら笑って許して。
[74115] 2010年 2月 8日(月)23:50:46千本桜 さん
温泉クイズ
[74113] 白桃 さん
A温泉:読み方が試験に良く出る温泉ですか?
ありふれた漢字二文字ですが、なぜ、あの字が「う」なのか、「読み」は確かに難解ですね。

B温泉:「こけし」で有名ですか?
C温泉も「こけし」で有名ですが、B温泉の「こけし」は首を回すとキイキイ鳴ります。

C温泉:帰り道は近かった?
まだマイカーを保有していなかったころ、C温泉まで何度か自転車で行ったことがあります。向う時は遠がったなぁ。でも帰り道は近かった。これ、ほんとの実感です。自転車というのは微妙な地形の変化を体感させてくれるのですね。

D温泉:松本清張「山峡の章」に出てきますか?
ここは「山峡の章」の舞台でしたね。A温泉と共に「仙台の奥座敷」と言われていましたが、近年ではA温泉に水をあけられてしまいました。

E温泉:人口17,441人(1月1日現在推計)の町にありますか?
いまでは本吉郡も1郡1町になってしまいました。温泉とは無縁に思える地域でも掘れば温泉が涌くのですね。この温泉を掘り当てた「ホテルK」からの眺め。何が凄いかというと、ホテルに入ったとたん、延長160メートルにも及ぶロビーの窓から、○○○湾の風景が丸ごと目に飛込んで来るのです。何に感動するかは人それぞれでしょうが、私はこのオーシャンビューに感動しました。

[74114] YT さん
一方E温泉は食事も景色も最高でした。
ホテル関係者ではありませんが、お褒めいただいて感謝します。食事は値段に左右されて当たり外れがあるとは思いますが、あの素晴らしい景色は、低額料金で宿泊した人も、高額料金で宿泊した人も、みんな平等に眺めることのできる最高のサービスですよね。
[74112] 2010年 2月 7日(日)23:28:14千本桜 さん
宮城県の温泉クイズ
宮城県内の温泉に関するクイズです。年間宿泊客数が5万人を超える温泉をまとめてみました。ランキングは平成20年の宿泊客数を基準にしていますが、参考までに平成15年の宿泊客数も掲載しました。数値は敢えて千人未満を四捨五入しています。宮城県内にはこの他にも多数の温泉がありますが、年間宿泊客数が5万人に満たないために残念ながらランクインできなかった主な温泉として、北から順に鬼首温泉、川渡温泉、青根温泉、鎌先温泉、小原温泉をあげておきます。さて、ここで問題です。1位から5位までの温泉名を伏せてあります。A・B・C・D・Eにあてはまる温泉名をお答え下さい。いずれも宿泊客数の多い著名な温泉ですから、旅行好きな人には簡単すぎるかもしれません。でも、5位のE温泉だけは難問のはずです。

宮城県の温泉・年間宿泊客数50,000人以上の温泉ランキング
順位温泉名平成20年平成15年
1位A温泉834,000人996,000人
2位B温泉488,000人390,000人
3位C温泉346,000人411,000人
4位D温泉276,000人326,000人
5位E温泉166,000人0人
6位中山平温泉103,000人141,000人
7位東鳴子温泉85,000人141,000人

A温泉のヒント:大規模な高級旅館が多く、500人以上の宿泊客を収容できる旅館だけでも6軒あります。年間の宿泊客数で比較すると四国の道後温泉と同等規模の温泉になりますが、湯の街歩き楽しむほどの街並みはありません。そもそも、A温泉には温泉街など有るのかしら?といった雰囲気です。遊興も買物も大規模旅館内で完結するので、温泉街が不要なんでしょうね。ちょっと淋しい。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「S」。

B温泉のヒント:A温泉と違って湯のまち歩きが楽しめます。宮城県で最も大きな温泉街を形成していますが、観光機能だけの街並みではなさそうです。周辺集落にとっては日常生活圏の中心で、4年前までは町役場もありましたが、合併で総合支所になりました。最大規模の旅館は収容力およそ600人の「Nホテル」。

C温泉のヒント:背後に控えた山岳観光地への基地としての性格を有し、近くには県内最大規模のスキー場もあります。B温泉より小規模ですが、整った街路形態をした温泉街があります。温泉街としては宮城県で二番目に大きな街並みでしょう。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「ZRホテル」。

D温泉のヒント:旅行計画で宿泊地を設定する際に、A温泉と競合関係になりやすい地理的位置にあります。歓楽街などとは無縁の温泉地ですが、老舗旅館の有名な露天風呂と、その露天風呂まで下る長い長い木造の階段は趣があります。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「ホテルG」。

E温泉のヒント:温泉とは無縁の海沿いに建つ一軒宿が増改築し、それまで最大だった福島県のホテルハワイアンズの宿泊収容力を抜いて東北最大規模でグランドオープンしたのは1997年のことでした。そのホテルが温泉を掘り当てて6年ほど前に開湯したのが、この温泉です。旅館は収容力およそ1,300人の「ホテルK」だけです。ただ、温泉名が不確かです。県の資料には「○○○湾温泉」と記載されていて、○○○は平成17年に合併消滅した旧町名と同名です。しかし、当事者のホテルは「×××温泉」を名乗っていて、×××は合併で誕生した新町名と同名です。ですから、解答は「○○○湾温泉」、「×××温泉」どちらを答えても正解にします。
[74078] 2010年 1月 30日(土)20:11:36千本桜 さん
淡路・四国の御礼。人口減。
[74047] 小松原ラガー さん
[74048] 今川焼 さん
[74049] 88 さん
[74051] futsunoおじ さん
皆様、ありがとうございました。たぶん、小松原ラガーさんあたりが書き込んで下さると思っておりましたが予想通りでした。淡路・四国への旅行は私も参加しますが、実際に計画を練っているのは幹事さんや旅行会社です。しかし、「何か良い案はないか」と意見を求められたので行程表を見せてもらったところ、観光スポットごとの発着時刻は書いてあるものの、ルートが大雑把で不明確なものでした。車窓からの眺めも観光の一部と思っている私は、事前にルートをつかんでいないと不安になるのです。そこで、自分なりに行程を検討してみることにした次第です。私案が実際の旅行に反映される保証はありませんが、旅行計画を練ること自体がとても楽しくて、気分はすでに空想の旅へ出発しています。しかし、地図を見ると神戸周辺では高速道路の他に六甲北道路などの一般有料道路が何本も走っていて、それらが同じ色で印刷されているものですから、どの道路(路線)を繋げて走れば良いのか判断がつかない状態でした。そこで、路線別に色分け着色してみたところ、1・山陽自動車道経由。2・阪神高速7号北神戸線経由。3・阪神高速3号神戸線経由の三案が浮んだわけですが、これはやはり小松原ラガーさんはじめ皆さんの御意見どおり、1か2の選択になりそうですね。
個人的には、今川焼さんの「神戸港や六甲山を眺めてみたいという方が多ければ3を」に惹かれますが、我を通すわけにもまいらず、残念だけど諦めざるをえないようです。今川焼さんに関しては、[71819]で綴られた富来のくだりが凝縮された短編紀行文を読むようで素晴らしく、とても感心しておりました。目の前に現れた現象を地理的にとらえる感覚が身に付いておられるのですね。今回の書込みでも随所にそれを感じました。淡路・四国の旅は仰せのとおりバスの最前部に陣取り、飛込んでくる風景を地勢図や地形図と対比しながら眺めることにするつもりです。また、脇町観光のアドバイスは実にリアルで参考になりました。ただ心配なのは、時間の都合で脇町観光がカットされる可能性があることです。その時は、鳴門から高松自動車道を走行し、東讃の中心都市・三本松を横目で追いながら琴平に向うことになりますが、三本松市街はビルが林立しているので(笑)見のがさずに済みそうです。
琴平からは善通寺ICで四国自動車に上がって松山に行きます。個人的には、88さんがお住まいの高松をもう一度見たいのですが団体旅行では自由が利きません。松山までは時間の都合でどこにも立寄らないで走るだけです。川之江も三島も新居浜も横目で見ながら通過するだけ。そして、小学校の同級生の「みよちゃん」が住んでいる西条も通過するだけです。これって、街歩きを趣味にしている人間にはストレスが溜まりますね。ましてや、防音壁で視界が遮断されて市街地遠望もできなかったりすると、変な理屈だけれど「通行料をただにして」と言いたくなります。それは勿論冗談ですが、見たい所を見れずに横目で過ぎるのは実際にストレスが溜まります。
だいぶ前のことですが、「どなたかインターチェンジの利用車台数ランキングを御存知でしたら教えていただけませんか?」と問いかけたところ、futsunoおじさんに道路公団のサイトを紹介していただいたことがありました。今度も道路時刻表のサイトへリンクを貼っていただきまして、ありがとうございました。私はインターネットが苦手で、検索の活用方法も分からないまま原始的に市販の道路地図帳を見ながら電卓で区間距離を弾き出しておりました。紹介していただいたサイトはこれからも活用させていただきます。ありがとうございました。

[47072]白桃 さん
三大都市圏への人口集中にブレーキ
[74074]Issie さん
大阪圏の人口減少にもブレーキ?
大都市圏の話題に田舎の情報を突っ込んで申しわけありませんが、こちらは人口減少にブレーキがかかりません。全国的には、もっともっと人口減に悩んでいる地方もありますから話題にするほどではないかもしれませんが、なぜか気になります。
仙南圏ビッグ4の平成17年10月1日~平成22年1月1日の人口と人口増減数
市町名2005年10月1日2010年1月1日増減数
白石市39,492人37,763人-1,729人
角田市33,199人31,927人-1,272人
柴田町39,809人39,162人-647人
大河原町23,335人23,470人135人
かつて、町としては東北一の人口を誇った柴田町も4万人を目前に足踏みし、ついに人口減に転落。仙南圏2市7町の中では、かろうじて大河原町だけが人口増を保っています。でも、もうだめみたい。昨年1年間だけを取りあげると減少組の仲間入りをしています。

仙南圏ビッグ4の1年間(平成21年2月1日~平成22年1月1日)の人口増減数
市町名純増減自然増減社会増減
白石市-447人-213人-234人
角田市-391人-177人-214人
柴田町-154人4人-158人
大河原町-52人27人-79人
軒並み社会減というのが辛いですね。みんな、どこへ行ってしまったのでしょう。千昌夫さんも「あんた」という曲で、♪「どこへ行ったのよ 戻って来てよ ねえあんた」と唄っていますが、戻って来ても仕事がないんですよね。
[74046] 2010年 1月 25日(月)07:06:45【1】千本桜 さん
淡路&四国についてのお尋ね。ややこしい涌谷町。
ちょっとお尋ねします。大型バスで伊丹空港から淡路島の淡路ICまで行きたいのですが、いろいろなルートが浮かんできて迷っています。下記の三ルートを考えてみましたが最短時間で到達できるのは、どのルートでしょうか。途中で観光はしません。ただ走るのみです。有料道路の通行料金は気にしません。
1・伊丹空港→中国池田IC→(中国自動車道経由)→神戸JCT→(山陽自動車道経由)→神戸西IC→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC
2・伊丹空港→中国池田IC→(中国自動車道経由)→西宮山口JCT→(阪神高速7号北神戸線経由)→布施畑JCT→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC
3・伊丹空港→(阪神高速11号池田線経由)→豊中IC→(名神高速道路経由)→西宮IC→(阪神高速3号神戸線経由)→月見山出入口→(第二神明道路経由)→垂水JCT→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC

同じように、大型バスで徳島県の脇町うだつの町並みから香川県琴平町の金刀比羅宮まで行きたいのですが最短時間で到達できるのは、どのルートでしょうか。
1・脇町うだつの町並み→(県道12号を西へ走行)→美馬市美馬町→(国道438号経由)→琴平
2・脇町うだつの町並み→(県道12号を東へ走行)→脇町IC→(徳島自動車道経由)→美馬IC→(国道438号経由)→琴平
3・脇町うだつの町並み→(県道12号を東へ走行)→脇町IC→(徳島自動車道経由)→井川池田IC→(国道32号経由)→琴平
4・脇町うだつの町並み→(県道12号を西へ走行)→美馬IC→(徳島自動車道経由)→井川池田IC→(国道32号走行)→琴平

[74025] 白桃さん
ややこしや、津山東町と加茂町
宮城県の涌谷町もややこしいです。涌谷市街は江合川を挟んで両岸に展開していますが江戸期の自治体区分では左岸が涌谷村、右岸が馬場谷地村になります。市街の重心は馬場谷地村の方にあります。しかし、地籍上は別々の村でも二つの村は一体となって城下町を形成していましたから、地理的には一つの都市集落と解釈して良いだろうと思います。この涌谷村と馬場谷地村の関係が少しややこしい。
まず、馬場谷地村から。江戸期には馬場谷地村に涌谷町と呼ばれる宿場町が置かれ、それを取り囲むように伊達氏家中小路が配置されました。当時の人がこの地理空間を馬場谷地という名でとらえていたか、それとも涌谷という名でとらえていたか非常に気になるところですが、答えは町村制施行時の町村名にありそうです。明治22年、馬場谷地村は単独で町制を敷き涌谷町に改称しました。隣に涌谷村があるのを承知で涌谷町を名乗るとは身勝手にみえますが、たぶん地籍上の村名「馬場谷地」よりも町場名「涌谷」の方が広く知られていたからだろうと思われます。馬場谷地村が単独で町村制下の町になった涌谷町(明治22年~昭和23年の自治体)の区域には大字がありません。現在、この区域の住所は自治体名+小字名で涌谷町字○○と表記します。
次に涌谷村です。涌谷村には涌谷城があって城下の家並みが広がっていました。明治22年、涌谷村は上郡村、下郡村、小塚村と合併して元涌谷村になりました。角川地名大辞典には「隣村の馬場谷地村が江戸期の宿場町名の涌谷町を継承し涌谷町と改称したので、涌谷村に元の字を冠した。」と書いてあります。隣村に名前を奪われた恰好ですが、当時の人がどのように感じたかは不明です。元涌谷村(明治22年~昭和23年の自治体)は旧4村の名を大字として残しましたから、江戸期の涌谷村の区域は元涌谷村大字涌谷になりました。住所は自治体名+大字名+小字名で元涌谷村大字涌谷字○○と表記します。昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して現行涌谷町になりました。現在、住所の上で涌谷町涌谷と表記される区域は江戸期の涌谷村の内にあるでしょうか、それとも馬場谷地村の内にあるでしょうか。くだらないクイズで済みません。

訂正
朝の忙しい時間に書込みしましたので安易に端折りすぎた箇所がありました。昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して現行涌谷町になりました。と書きましたが、正しくは、昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して涌谷町になり、その後、昭和30年に涌谷町と箆岳村が合併して現行の涌谷町になりました。が正しいので訂正します。
[73486] 2009年 12月 31日(木)16:29:36千本桜 さん
宇多津、日和佐、富士川
[73420] 蒼の狼 さん
閉まってる店が多いのはわかってましたし、遊ぶんだったら宇多津まで行きましたからね。
それも商店街が寂れる一つの要因かと思いますが、いかがでしょう。
私が坂出の商店街を見たのは40年も前のことです。でも、白桃さんが書かれた「坂出:この商店街のシャッターはいつ開くのだろう・・・」という坂出の現状は想像できます。また、私が見た宇多津町は昔からの市街地で、蒼の狼さんが闊歩されたのは宇多津町の新しい市街地でしょう。新しい宇多津町は凄いらしいですね。市に至らない町としては、沖縄県北谷町などと共に超スーパータウンの部類に入ることでしょう。東北のスーパータウンo町は間違いなく宇多津より地味です。平成16年調査の香川県商圏調査報告書をネットで見ることができますのでリンクします。買回商圏における宇多津町の凄さが見えてきますね。丸亀商圏が西に向かって及ぶ範囲は三豊市までなのに、宇多津商圏はそれを乗り越えて観音寺市まで延びているのですから驚きです。

[73445] oki さん
美波町のHPではウミガメ博物館の住所が「日和佐字浦370-4」となっていましたが、「日和佐字浦」という住所はなく、近世村の名称をそのまま残す「日和佐浦」です。
とあるHPには、うみがめ博物館の住所が「〒779-2304 海部郡美波町大浜海岸」と書いてあります。大浜海岸に面した観光施設ですし、天然記念物に指定された名称も「大浜海岸のウミガメ及びその産卵地」ですから、「日和佐浦」より「大浜海岸」の方が場所の特定も安易になり効果的なのでしょう。しかし、「住所」と銘打打ち、郵便番号まで記載しているのですから、ちゃんとした住所地名で「〒779-2304 美波町日和佐浦」と書いて欲しかったと思うのは私だけなのだろうか。大浜海岸に位置することを伝えるためなら、もっと別の表現方法があるはずですね。さて、本題に入ります。美波町役場の住所は大字+小字の形式で「美波町奥河内字元村18番地」と表しますが、日和佐郵便局の住所は小字なしで「美波町日和佐浦119番地」と表します。明治22年以来、奥河内も日和佐浦も同一自治体として一緒に歩いてきたわけですが、奥河内は小字を地番区域とし、日和佐浦は大字を地番区域とするように別々の道をとったのは、いつ頃からなのでしょう。

[73473] inakanomozart さん
もっと遠く離れた県の町だったら抵抗がなかったかもしれませんが・・・
静岡県民ではありませんが、静岡県富士川町がなくなって山梨県富士川町ができることに戸惑いを感じています。なにしろ、静岡県への第一歩が岩渕駅でしたから。

今年もきょうが最後。それでは皆様、佳いお年をお迎えください。
[73406] 2009年 12月 27日(日)09:04:18千本桜 さん
自治体の改称。DIDと都市地域。
[73387] Issie さん
生見尾村は,1921年に単独で町になりました。その際に改称して「鶴見町」。
やはり、同様の例は全国的にあるようですね。
鹿児島県では、明治22年に枕崎村など4村が合併して「東南方村」を名乗りましたが、大正12年に単独で町制に移る際に「枕崎町」に改称しています。
宮崎県では、明治22年に妻町など9村が合併して「下穂北村」を名乗りましたが、大正13年に単独で町制に移行して「下穂北町」になるやいなや、数ヶ月後には「妻町」に改称しています。
大分県では、明治22年に香々地村と見目村が合併して「岬村」を名乗りましたが、大正8年に単独で町制に移る際に「香々地町」に改称しています。
こうしてみると、新しい自治体名を名乗ってはみたものの馴染めず、むしろ藩政村名(ただし、都市機能を備えた町場集落のある藩政村)の方が通用しやすかったのではないかと思われます。宮城県でこのような例に当てはまるのは下記の町村です。
明治22年、長町村と郡山村が合併して茂ヶ崎村になる。大正4年、茂ヶ崎村は単独で町になり長町に改称。
明治22年、閖上浜など5村が合併して東多賀村になる。昭和3年、東多賀村は単独で町になり閖上町に改称。
明治22年、雄勝浜など12村が合併して十五浜村になる。昭和16年、十五浜村は単独で町になり雄勝町に改称。
明治22年、矢本村など3村が合併して鷹来村になる。昭和15年、鷹来村は単独で町になり矢本町に改称。
明治22年、志津川村など3村が合併して本吉村になる。明治28年、本吉村は単独で町になり志津川町に改称。
明治22年、柳津村と黄牛村が合併して麻崎村になる。明治39年、麻崎村は単独で町になり柳津町に改称。
明治22年、津谷村など3村が合併して御嶽村になる。昭和16年、御嶽村は単独で町になり津谷町に改称。
以上は町制に移行する際に改称したケースですが、下記の一件は、村制を継続するのに、それでも改称しています。
明治22年、根白石村など6村が合併して泉嶽村になる。明治30年、泉嶽村は根白石村に改称。

[73398] rigst さん
仙台ホテルで初めてフランス料理を食べた時の感激よりも、初めてDID人口を見たときの感激が何十倍も大きかった。わなわなと震える感じと言いましょうか。でも、仕方ないことですが、DIDをもって都市地域とするには矛盾もつきまといますね。たとえば、代表的な例をあげると登米市迫町佐沼。たぶん平成17年時点でもそうだと思うのですが、市役所や商業施設が立地する新市街はDIDの区域外。DID区域は都市施設が抜け出してしまった旧市街。時代にそぐわなくなって来ているのでしょうね。
[73392] 2009年 12月 25日(金)00:16:24千本桜 さん
都市雇用圏
[73386] 千本桜
都市雇用圏では勝山町・久世町が落合圏に含まれるのですね。
rigstさん、ごめんなさい。上記の件、勘違いして書きました。落合圏(落合町、勝山町、久世町、美甘村、富村:39,611人)は、金本・徳岡両氏が提唱した「都市雇用圏」に該当するものではなく、「都市雇用圏」の定義から「DID>10000」および「昼夜比>1.0」の条件を除いた上で、rigstさんご自身が編み出した圏域だったのですね。こういう独自の発想による圏域設定、大好きです!。ところで「DID>10000」ですが、南陽市のように2つのDID(赤湯地区と宮内地区)を合算して10,000人超とみなすことに抵抗を感じるのですよ。それなら10,000人以下でも迫や六日町を都市雇用圏の中心自治体として認めて欲しいと思ってしまう。たぶん、rigstさんも同じ考えでおられるものと思います。北海道、近畿、九州もよろしくお願いします。

[73388] 桜トンネル さん
人口も2000人以上増加しているようです
悩まされている人もいると思うので取り急ぎ。12,000人以上の間違いじゃない?
[73386] 2009年 12月 24日(木)08:08:05千本桜 さん
町並み歩き、徳島県、都市圏
[73342] 伊豆之国 さん
町並み歩きが話題にならなかった頃
町並み歩きが流行り出したのは、国鉄のディスカバージャパン・キャンペーンによるところが大きいと思いますが、それ以前から西日本の萩・津和野などは観光客を集めていましたよね。どうも、町並み歩きは西日本が優勢で東北地方などは劣勢に感じます。角館や大内宿は萩や妻籠宿に比べたら後発だし、宮城県の白石・岩出山・登米なども趣が有るにはありますが、観光客を集めるほどの古い家並が連続しているわけでもないし。それで、蔵の町村田をおすすめしたいのですが、景観未整備の現状では「通」の人たちに喜んでもらえても、普通の観光客からは「何だ、こんな街」と言われそうで怖い。本当は良い町並みなんです。これからでしょう。

[73362] oki さん
江戸時代の阿波国で「町」を名乗った地域は数少なく、脇町のほかは川島、富岡くらいです。
なるほど・・・。川島は古く江戸期からの町場だったのですね。私は長年、何故に税務署・警察署などの公的機関が鴨島ではなく川島に置かれているのを不思議に思っていました。これで疑問が解けたような気がします。ありがとうございます。下に、主な国機関の設置場所を一覧表にしてみます。
徳島市鳴門市小松島市阿南市牟岐町鴨島町川島町脇町池田町
法務局
税務署
労働基準監督署
公共職業安定所
地方裁判所
簡易裁判所
農政事務所
ところで、1889年に麻植郡 川島町, 桑村, 宮ノ島村, 山田村, 東山村の一部が合併して桑川村になりましたが、その桑川村は18年後の1907年に、単独で川島町に改称して町政施行しています。合併ではなく単独で町政に移行するだけですから、誰憚らず桑川町にすれば良さそうなものですが、川島町に改称したのは何故でしょう。


[73363] 白桃 さん
注目の脇町ですが、吉野川中下流域における首邑の座は次第に鴨島に奪われていったようです。
昭和31年改訂発行の徳島県新誌(初版は昭和26年発行)は川島町について「旧川島町は吉野川南岸の一地方的中心地
」と記述し、鴨島町については「最近中央橋の架橋によって吉野川北岸との交通が便利になり、町の成長発展をきたしつつある」と記述してあります。鴨島が「成長発展をきたしつつある」という記述。このことから、昭和20年代はまだ川島の中心性が高く、鴨島が(急激に)追い上げているように感じ取れます。中心性の点で逆転した時期は分かりませんが、いずれにしても昭和10年代・20年代の吉野川中流域では脇町・川島・鴨島が都市間競争を展開していたのでしょうね。[15425]で白桃さんが書かれた三本松~鴨島間の国鉄バスも、中央橋で吉野川を渡っていたのだと思います。昔なら三本松が鴨島を引っ張ったのでしょうが、今もバスが走っていたなら鴨島が三本松を引っ張る関係になっていたのでしょうか?。

[73365] suikotei さん
合併時の本庁舎は最も新しく延床面積も広い穴吹町役場
そういう事情があったのですか。今後、脇町と穴吹の関係がどのように変化するか気になりますね。

[73384] rigst さん
新たな都市圏定義方法に胸をはせながら過ごす師走の夜でしたとさ。
はじめまして rigstさん。私も都市圏に興味があります。都市雇用圏では勝山町・久世町が落合圏に含まれるのですね。新鮮な驚きです。種々の最新統計を見たいのですが、現在、Excelを開けない環境にあります。それで、手持ちの本の中では最新(1998年、古すぎ!)の東洋経済地域経済総覧を見ているのですが、微妙なところなんでしょうね。とくに落合と久世の関係は。
[73371] 2009年 12月 21日(月)20:16:59千本桜 さん
スーパータウン
昭和31年12月改訂版発行、日本書院の「○○県新誌」によると、昭和30年10月1日における「○○町」の面積は137.7平方キロメートルで、人口は41,343人だそうです。昭和30年に4万人を超していた、このスーパータウンはどこでしょう。当時の町名と現在の市名をお答えください。落書帳メンバーの中には、あ!なんだ、と即答できる方がいらっしゃいます。
[73357] 2009年 12月 20日(日)08:35:30【1】千本桜 さん
頑張れワッキー
[73331] 白桃 さん
自分でもわかりませんが、吉野川の北側に鉄道が走っていたら、(鍛冶屋原線は無視)、脇町は遅くとも昭和の合併時に市制施行をしていたのではないか、
美馬郡の人口分布変遷と徳島本線の関連性を調べるのも面白そうですね。そのためには、明治期からの人口推移が分かればベストでしょうが、あいにく古い年代の資料を持ち合わせていませんので、昭和45年以降の国勢調査人口だけを表にしてみました。(昭和50年以降は確定値ですが、昭和45年の数値は速報値かも知れません)
調査年脇町美馬町穴吹町貞光町半田町一宇村木屋平村
昭和45年19,06110,47211,6438,8129,4065,0923,622
昭和50年19,02610,08110,3858,1218,4573,7323,098
昭和55年19,19410,2309,8788,0137,9152,9292,340
昭和60年19,33110,1489,2607,5287,2832,5301,950
平成2年19,1329,9348,4916,8996,7712,1241,602
平成7年19,0649,4838,1506,5296,3411,7441,505
平成12年18,3769,3107,6325,9635,5901,5471,314
意外にも、鉄道が走っていない脇町・美馬町より、鉄道が走っている穴吹町・貞光町・半田町の人口減が激しいのですね。脇町に焦点を当ててみます。資料がないので推測で書きますが、間違っていたら教えてください。たぶん、脇町の人口ピークは昭和20年代後半で、2万5千人程度いたのではないでしょうか。その後、急激に減少したはずですが、昭和45年から平成7年までは横這いで持ちこたえています。徳島市のベッドタウンに成り得ない距離に位置し、しかも、鉄道が走っていない環境での人口横這いは敢闘賞ものでしょう。工場誘致の賜でしょうね。ところが、何が原因か分かりませんが、平成12年には少し目立つ人口減になっています。
美馬郡の機能的センターが脇町なら、サブセンターは貞光でしょうね。平成の合併で、美馬市(脇町・美馬町・穴吹町,木屋平村)とつるぎ町(貞光町・半田町・一宇村)に分かれて合併したのは、そのような力関係が影響したからでしょうか?。でも、そうだとすると、貞光グループと関係が深そうな美馬町が脇町グループに組込まれていたり、美馬市の市役所が脇町にあらず穴吹だったり、ちょっと理解しにくいところがありますね。
脇町は未訪ですが、貞光・穴吹は自転車で走りました。ウン十年前の8月20日(晴れ)、高知市から徳島市まで走行。大歩危・小歩危の風景と、池田の町の繁華街を見たいという思いが強かったですね。川島か鴨島あたりで薄暗くなり、徳島市に着いたときは夜だったような。その夜は徳島駅で寝ました。元来めんどくさがりで記録するのが苦手ですが、自転車旅行中は気になった場所だけ、短いメモを書き残していました。たとえば次のように。小野田=中心となる所がない。宇部=変な街。小郡=大河原より上。山口=静かだ。福山=情緒全くない街。笠岡=小さい。倉敷=大原美術館(100円)に入る。ゴッホの「アルプスへの道」とゴーガンの「タヒチにて」に感激す。岡山=整った街。宇野=バス待合所に寝る。坂出=商店街安っぽい。丸亀=葉書に丸亀城をスケッチ。等々です。宇部が変な街とか、笠岡が小さいとか、坂出の商店街が安っぽいとか、いろいろ書いてますが、それは、笠岡はもっと大きな街で、坂出の商店街はもっと立派だろうと想像していたからにほかなりません。なので関係者の皆さん、気にしないでください。

追記
なかなか古い記憶が抜けなくて徳島本線と書きましたが、民営化後の1988年にJR四国は徳島本線を徳島線に改称していたのでした。
[73340] 2009年 12月 17日(木)18:49:01千本桜 さん
ハーヌ民国 チョンホワ民国
[73329] 興田小 さん
かつては教えていたが現在は避ける傾向にある表現はほかにもあるのでしょうか?
わたしが思いついたのは「旧大陸」と「新大陸」や「支那」です。
最近は「南朝鮮」も耳にしなくなりましたね。

[73330] Issie さん
学校で(公式に)教わったとなると
記憶が定かではないのですが、中学校で教わったのは「北朝鮮」「南朝鮮」だったような。「北朝鮮」は工業国で、「南朝鮮」は農業国という教えられ方をしたような・・・。ところが、姉が残して行った昭和29年発行開成館の中学社会科地図には、南北ひっくるめて「ハーヌ民国(韓国)」と記載されているのですよ。ちなみに、中国の名称については、ページによって「中国」だったり、チョンホワ(中華)民国だったりしています。もちろん、私の時代はハーヌ民国とかチョンホワ民国という教えられ方はしていませんけど。
[73280] 2009年 12月 13日(日)08:44:24千本桜 さん
国機関の統廃合
宮城県内における国機関の統廃合の話題を二つ。仙台法務局は、県北部の築館支局(栗原市)を来年2月、古川支局(大崎市)に統合して廃止する方針を決めました。これで、面積800平方キロメートル、人口77,000人の栗原地域から法務局がなくなります。栗原地域の中心機能が集まる築館は、平成17年9月実施の消費購買動向調査で商圏消失が判明。その後も商圏回復ができないままです。そして、今度の法務局支局廃止と、なにかと寂しい状況にあります。一方、県南部では昨年4月、白石公共職業安定所(白石市)が大河原公共職業安定所(大河原町)に統合されて大河原公共職業安定所白石出張所になりました。白石市・角田市より人口が多い柴田町。白石市・角田市より中枢機能の集積が進む大河原町。また一つ、仙南地域の市町逆転現象が進んだようです。どうして、「市」「町」「村」などと、面倒くさい3種類に分けなければならないのかとボヤキながら今年も終わろうとしています。
[73208] 2009年 12月 5日(土)21:20:47千本桜 さん
国土地理院発行地図販売代理店
[73205] hmt さん
地図販売店一覧 を見ると、そのすべてを取り揃えているのは、東京でも、日本橋の ぶよお堂、駿河台下の 内外地図[73200]、それに渋谷から1km余先の青葉台にある 日本地図センター だけのようですね。
(財)日本地図センター は国土地理院の外郭団体ですから性格が異なりますが、(株)武揚堂と内外地図(株)に日本地図共販(株)を加えた3社は国土地理院発行地図の元売捌所ですから、品揃えが多いというか、揃えて置かなければならない立場にあるのでしょう。武揚堂、内外地図、日本地図共販の元売捌所3社を通じて、全国の国土地理院発行地図販売代理店(書店など)に流れる仕組みになっていますので。
[72957] 2009年 11月 26日(木)06:54:28千本桜 さん
井原
[72944]白桃 さん
特に井原市では、白桃としては珍しく結構時間をかけて歩きました。
井原は未訪地ですが、恩ある人の生まれ故郷ということもあって興味がありました。それに、旧市街(小田川沿いの谷口集落)を置き去りにしたまま、大胆に新市街(井原駅前地区)を造成している点でも関心がありました。旧市街を置き去りにしたまま新市街を造成したというのは、あくまで地形図や空中写真を見ての印象です。つまり、真上から見下ろした印象です。これを横からの目線で見て、どんな印象を受けられましたか。井原の規模の街で駅前通りが片側二車線(両側で四車線)というのは、ゆとりある空間に感じませんでしたか。たぶん、旧市街と新市街のコントラストが明確な都市だろうと想像しますが、いかがでしたか。それに、旧市街(谷口集落)の区域は旧山陽道から少し逸れているのですね。微妙な逸れ方。なんで?、と考え込んでしまいそうな逸れ方です。
[72894] 2009年 11月 20日(金)13:01:57千本桜 さん
八女郡福島町
[72893]Issie さん
福岡 八女郡福岡町 ほか →1954. 4. 1 福岡市 →八女市
県名に釣られた誤打だとは思いますが、正しくは、福岡 八女郡福島町 ほか →1954. 4. 1 福島市 →八女市ですね。
[72228] 2009年 10月 21日(水)08:15:15【1】千本桜 さん
町場名と藩政村名、公称と通称
[72164]で、古くからの町場名が明治期の新町村名に引き継がれた事例を挙げましたが、もう少し詳しく書いてみます。町場の規模はさまざまで、菅生宿下戸沢宿のように戸数50戸あるかないかの町並みでも町場は町場です。ちなみに、いまも菅生の町場の通称は「町」。そして下戸沢の町場の小字名も「町」です。しかし、このように小規模な町場ですと、その名が明治22年の新町村名に影響を及ぼした可能性は低くなります。影響を及ぼすには、それなりの規模と都市機能の集積が必要になります。そこで、江戸期の仙台藩で商業活動が許されていた町場を選出し、それを便宜上の「町場」とします。商業活動を許された町場は、おおむね規模の大きな町場でもあります。宮城県史は仙台藩の在方商業の統制について次のように記述しています。
藩指定の町場以外では原則として在方の商業は禁ぜられ、農民の商人化はもとより厳重に取り締まられた。領内の町場は、中期において77、享保19年(1734)に89、幕末に96に増加しており、ここで定期に日市が開かれ、商業取引が行われた。
として、江戸中期における77の町場名と市日を紹介しています。町場の内訳は、現在の岩手県に属するものが一関、水沢など31町場。宮城県に属するものが古川、気仙沼など46町場です。では、宮城県に属する46の町場名と明治期の新町村名の関わりを見てみましょう。まず、町場が属した藩政村名と明治22年の新町村名を調べ、次の5つに分類します。

【類型1】町場と藩政村が異名なものの内、町場名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)町場=川崎。藩政村=前川村。明治22年新町村=川崎村

【類型2】町場と藩政村が異名なものの内、藩政村名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)該当するものがありません。

【類型3】町場と藩政村が異名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=金津。藩政村=尾山村。明治22年新町村=藤尾村

【類型4】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=高城。藩政村=高城本郷。明治22年新町村=松島村

【類型5】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に絡んでいると思われるケース。
(例)町場=白石。藩政村=白石本郷。明治22年新町村=白石町

【類型1のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
川崎前川村川崎村(柴田郡)なし
亘理小堤村亘理町(亘理郡)なし
吉岡今村吉岡町(黒川郡)なし
松山千石村松山村(志田郡)なし
小牛田南小牛田村小牛田村(遠田郡)なし
涌谷馬場谷地村涌谷町(遠田郡)なし
宮野下宮野村宮野村(栗原郡)明治8年下宮野村など3村が合併して宮野村
佐沼北方村佐沼町(登米郡)なし
登米寺池村登米町(登米郡)明治6年寺池村など4村が合併して登米村
飯野川相野谷村飯野川村(桃生郡)なし
類型1は、藩政村名を採らずに、町場名を採って明治期の新町村名にしたケースです。小堤村・今村・馬場谷地村は明治22年、合併しないで単独で町村制の町に移行し、町場名をもって亘理町・吉岡町・涌谷町に改称しました。佐沼は北方村に属する宿場町(通称佐沼町)ですが明治22年、北方村から分離して自治体の佐沼町になりました。明治22年に前川村など5ヶ村が合併して発足した川崎村は、前川村の町場名「川崎」を新村名にしています。松山村・小牛田村・宮野村・登米町・飯野川村も町場名が新町村名に繋がっています。

【類型2のリスト】
類型2は、町場名を採らずに、藩政村名を採って明治期の新町村名にしたケースです。しかし、該当するものがありません。町場名と藩政村名が異なる場合は、【類型1】のように町場名が引き継がれるか、【類型3】のように双方とも引き継がれずに新名称が立てられています。江戸期に商業取引を許されたほどの町場は、ネームバリューもステータスも藩政村より勝っていたのでしょう。仙台藩では、町場名が藩政村名を抑えて新町村名に引き継がれることはあっても、藩政村名が町場名を抑えて新町村名に引き継がれることはありませんでした。勿論これは、それなりの規模と都市機能を有した町場があった場合の話です。有効な町場がない場合は藩政村名を新町村名にしている例も多々あります。

【類型3のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
金津尾山村藤尾村(伊具郡)なし
米岡西野村米山村(登米郡)なし
横川福地村大川村(桃生郡)なし
類型3は、町場・藩政村・新町村の名称が全て異なります。町場名・藩政村名とも新村名に引き継がれなかったケースです。明治22年、尾山村と藤田村が合併し、新村名は旧村名から1文字ずつ採って藤尾村になりました。旧村はその大字になりましたが、通称町場名「金津」は今も健在で、公称大字名の尾山や藤田よりも汎用されている感じさえします。江戸期からの町場名「金津」「米岡」「横川」が明治期の新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。

【類型4のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
高城高城本郷松島村(宮城郡)なし
真坂真坂村一迫村(栗原郡)明治8年真坂村と清水村が合併して真坂村
狼河原狼河原村米川村(登米郡)明治8年狼河原村と鱒淵村が合併して米川村
釜谷釜谷浜大川村(桃生郡)なし
柳津柳津村麻崎村(本吉郡)明治8年柳津村と黄牛村が合併して麻崎村
志津川志津川村本吉村(本吉郡)明治8年志津川村など3村が合併して本吉村
津谷津谷村御嶽村(本吉郡)明治8年津谷村など3村が合併して御嶽村
馬籠馬籠村御嶽村(本吉郡)明治8年馬籠村など3村が合併して御嶽村
類型4は、町場と藩政村が同名なのに、双方とも新村名に引き継がれなかったケースです。新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。ただし、志津川についてのみ感想を記します。志津川村は明治8年に周辺2村と合併して本吉村になりました。なぜ志津川ほどの町場が、その名を捨てて本吉村になったのだろう。たぶん、本吉郡の中心としての自負および中心でありたいという願望が込められていると推測します。しかし、そこには「本吉」と言う名の町場はありません。本吉村を名乗ってみたものの、そこにあるのは「志津川」と言う名の町場です。おそらく、どこか不安定でおさまりが悪かったのでしょう。明治28年に志津川町に改称しています。明治期に成立した亘理郡亘理町や登米郡登米町は、そこに「亘理」「登米」と呼ばれる町場があるから、ぶれないのです。しかし、昭和の合併で成立した柴田郡柴田町や牡鹿郡牡鹿町(現・石巻市)などは、いまだに地名としての定着がぶれているように感じられます。

【類型5のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
白石白石本郷白石町(刈田郡)なし
大河原大河原村大河原町(柴田郡)なし
船岡船岡村船岡村(柴田郡)なし
村田村田郷村田村(柴田郡)なし
角田角田本郷角田町(伊具郡)なし
丸森丸森村丸森村(伊具郡)なし
金山金山本郷金山村(伊具郡)なし
岩沼岩沼郷岩沼町(名取郡)なし
中新田中新田村中新田町(加美郡)なし
宮崎宮崎村宮崎村(加美郡)なし
古川古川村古川町(志田郡)なし
三本木三本木村三本木村(志田郡)なし
岩出山岩出山本郷岩出山町(玉造郡)明治5年岩出山本郷が岩出山村に変更
田尻田尻村田尻村(遠田郡)なし
高清水高清水村高清水村(栗原郡)なし
築館築館村築館村(栗原郡)明治8年築館村と成田村が合併して築館村
岩ヶ崎岩ヶ崎村岩ヶ崎町(栗原郡)なし
沢辺沢辺村沢辺村(栗原郡)なし
金成金成村金成村(栗原郡)明治8年金成村と畑村が合併して金成村
若柳若柳村若柳町(栗原郡)なし
石森石森村石森村(登米郡)なし
米谷米谷村米谷村(登米郡)明治8年米谷村と楼台村が合併して米谷村
小野小野本郷小野村(桃生郡)なし
鹿又鹿又村鹿又村(桃生郡)なし
気仙沼気仙沼本郷気仙沼町(本吉郡)なし
類型5は、町場・藩政村・新町村が共に同名のケースです。藩政村と新町村が同名のため、一般には藩政村名を継承したと思われているようです。それを否定するつもりはありませんが、町場名も大きく影響しただろうと私は思うのです。なぜなら、ここで取り上げた46ヶ所の町場は商業活動を許された町場ですから、大なり小なり都市性格を有しています。このような町場のネームバリューは、藩政村の名を上回っていたのではないでしょうか。それは、類型1から推測できます。類型1は町場名と藩政村名が異なりますが、すべて藩政村名を捨てて町場名を新町村名に採用しています。その逆に、町場名を捨てて藩政村名を新町村名に採用した自治体はありません。類型5で風変わりなのは古川です。通称「古川」と呼ばれる町場は、藩政村でいうと古川村・大柿村・稲葉村・中里村に跨がっていました。新幹線古川駅の開業で中心街が駅前に移動するまで、古川の中心街は七日町でした。しかし、この七日町は地籍上は古川村ではなく大柿村の内にあったのです。でも、江戸期や明治期の人は七日町界隈に行くことを、「大柿村に行く」とは言わずに「古川に行く」と言っていたと思うのです。

近年、地図や道路案内板やネットを見ていると、公称が本流で、通称は傍流に押しやられ過ぎていると感じます。住所に対する感覚が昔と変わってきたので仕方ないのでしょうが・・・。

誤字を1文字訂正しました。
[72164] 2009年 10月 12日(月)09:57:07【1】千本桜 さん
明治期の市町村名に影響を及ぼした町場名
角川地名大辞典は富来町の町名由来を中世以来の院名によるとしています。しかし、明治22年に町村制施行で誕生した富来村の村名決定にあたっては、院名「富来」よりも町場名「富来」が強く影響しているのではないかと思います。中世富来院の区域に位置する藩政村は明治22年、下記のようにA~Gの7村に統合されました。
合併前の藩政村町村制による合併後の新村名
A地頭町村・領家町村など7村富来村
B今田村・東小室村など16村稗造村
C相神村・八幡村など11村東増穂村
D酒見村・大福寺村など4村西増穂村
E風無村・風戸村など3村西海村
F鹿頭村・赤崎村など6村西浦村
G西谷内村・藤瀬村など9村釶打村
過去に富来院に属していたことを理由に富来村を名乗れるなら、A~Gの7村はいずれも富来村を名乗れたはずです。しかし、富来村を名乗ったのはAであり、Bは稗造村、Cは東増穂村、Dは西増穂村、Eは西海村、Fは西浦村、Gは釶打村を名乗りました。なぜAは富来村を名乗り、B~Gは富来村を名乗らなかったのでしょう。それは、すでにAの区域内に「富来」と呼ばれる町場が存在していたからだと思います。推測ですが、Fの鹿頭村やGの西谷内村の人たちは、Aの地頭町・領家町に形成された町場へ行くことを「富来に行く」と言っていたのではないでしょうか。地頭町村や領家町村は地籍上の名称で、これを公称というのでしょう。しかし、それと同等またはそれ以上に「富来」という通称が汎用されていたのだろうと思います。それは、天保国絵図が地頭町村を富木村と表記していることや、正保郷帳が地頭町村の代わりに富木村を用いて「富木村 領家町 町本江村」として高付していることからも推測できます。

公称と通称の混用はどこにでもあることで、能登国でも公称の村名と通称の町場名が混用されています。そもそも、七尾・輪島・穴水という町場はあっても、七尾村・輪島村・穴水村という藩政村はありませんでした。七尾は藩政期の所口村や府中村などに跨がって展開する町場の名称です。江戸期や明治初期の能登の村人にとって、七尾の町に遊びに行くのは楽しみだったはずです。そのとき彼等は「七尾に行く」という言い方を多用し、「所口に行く」という言い方は少なかったと推測します。地名の汎用性としては、公称の村名「所口」より通称の町場名「七尾」が勝っていたように思います。明治22年、所口村・府中村・小島村・藤橋村が合併して町村制下の七尾町になります。同じように、輪島も藩政期の風至町・河井町に跨がる町場の通称です。この通称の町場名「輪島」が明治22年に発足した輪島町に繋がっています。また、穴水も藩政期の大町村・川島村に跨がって形成された町場の通称です。この穴水と言う町場の名が、明治22年発足の穴水村の村名決定に大きく影響していると思います。そして、富来もまた同じだと思います。

公称村名とは異なる通称町場名を持つものとして、[71220]で原ノ町宿(現・福島県南相馬市)、登米宿(現・宮城県登米市)、水沢宿(現・岩手県奥州市)をあげました。以上は、なじみの深い東北地方の中から3例をピックアップしたものです。このような事例は東北地方や能登地方以外にもたくさん転がっています。たとえば美作国の真庭郡(現・真庭市)では、藩政期の垂水村に通称「落合」と呼ばれる川舟港町があり、その名が明治22年に発足した落合村の村名に影響しています。同じく、藩政期の高田村に通称「勝山」と呼ばれる城下&宿場があり、その名が明治22年発足の勝山村に直接結びついています。しかも、高田村は他村と合併せずに単独で町村制の村に移行したのに、あえて勝山村に改称しています。と言うことは、当時すでに藩政村「高田」よりも町場「勝山」の名が地名として勝っていたのでしょう。勝山・落合と並ぶ真庭郡の拠点町場に「久世」がありますが、こちらは藩政村名も「久世」、町場名も「久世」ですから問題はなかったようです。

公称村名より通称町場名が勝っていたために改称したと思われる事例は宮城県にもあります。藩政村の小堤村は単独で町村制の町に移行したのに、町場名をとって亘理町に改称。同じく今村は吉岡町に改称。馬場谷地村は涌谷町に改称しています。岩手県の遠野や広島県の竹原もそうですね。藩政村の岩手県横田村は単独で町村制の町になり遠野町に改称。広島県下市村も単独で町村制の町になり竹原町に改称しています。亘理、吉岡、涌谷、遠野、竹原の共通点は、明治期に警察署が置かれたことからも分かるように、地域の中心性を担った町場だということです。このような場合、公称の村名より通称の町場名の方がステータスが高くなるのでしょう。小堤村、今村、馬場谷地村、横田村、下市村がそれまでの公称村名を捨て、通称町場名の亘理、吉岡、涌谷、遠野、竹原を新自治体名に採用したのは、そのような背景があってのことではないでしょうか。もっとも、亘理、遠野、竹原については、郡名、通名、荘名などの広域地名も絡んでいますから、それらと町場名の複合由来とすることもできます。しかし、直に影響を及ぼしたものは何かをつきつめれば、江戸期の町場名が明治期の町村名に影響している可能性は非常に高いのです。角川地名大辞典は宮城県亘理町の項で下記のように記述しています。
明治22年~現在の亘理郡の自治体名。小堤村の街衞地域を古くから亘理駅と称していたことから町名に採用。
小堤村の町場が古くから亘理駅と呼ばれていたので、新自治体名は「小堤」を用いず「亘理」にしたと言うことです。郡名、荘名、郷名などの広域地名と同じ名称の市町村については、その名称由来を郡名、荘名、郷名にあるとするだけでなく、域内に郡、荘、郷と同名の町場が存在していないかを確認する必要があると思うのです。

城下町、宿場町、港町、在郷町といった町場は、元来それ自体が一つの施設だろうと感じています。施設ですから名称が必要になります。その名称が地籍上の村名と同名の場合もあれば、異なる場合もあったのでしょう。

書込み訂正機能で下記のとおり訂正しました。
明治22年発足の穴水町の町名決定→明治22年発足の穴水村の村名決定
[72073] 2009年 9月 26日(土)11:09:40千本桜 さん
富来・西海の冠称
志賀町に移行した旧富来町域の住所は、自治体+大字+小字+番地で機能しますから、理論的には地区名(明治22年から昭和29年までの村名)を付さなくても住所として成り立ちます。しかし、実態は地区名を付す地区もあれば付さない地区もあって、統一されていません。。
1・富来地区は大字名の前に地区名「富来」を付す
2・西海地区は大字名の前に地区名「西海」を付す
3・福浦地区は地区名を付さない
4・熊野地区は地区名を付さない
5・稗造地区は地区名を付さない
6・東増穂地区は地区名を付さない
7・西増穂地区は地区名を付さない
8・西浦地区は地区名を付さない
富来地区は大字名の前に地区名「富来」を付けます。西海地区も大字名の前に地区名「西海」を付けます。しかし、福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区は大字名の前に地区名を付けません。どうして、こんなふうになったのでしょう。それが話題の発端でしたね。これに関しては、EMMさんとokiさんが「富来」「西海」の冠称を考察しておられますが、いずれも現段階では推測の域を出ておらず、明確な答えに至っていないようです。お二方にしてそうなのですから、私などには難しすぎて分かるはずもありません。思いますに、合併がらみの住所取り扱いは、往々にして論理よりも情緒に左右されたりするものです。情緒に左右されて決定したものを当事者不在のままあれこれ考えても、結局は推測の域を出ないで終わるでしょう。いっそのこと、当事者の町役場に問い合わせてみたらいかがでしょう。たった4年前のできごとですから、いきさつを憶えている方もおられるはずです。ただし、「富来」「西海」の冠称理由が明らかになったとしても、なぜ他の地区は地区名を冠称しないのかという疑問が残ります。それに対しては、「他の地区からは地区名の冠称要望がなかったから」という、あっさりした他人事のような答えが返ってきて肩透かしを喰らいそうな気がします。ですから、仮説→検証→考察などと堅苦しいことを言わずに肩の力を抜いて、もっと自由に地域を考えることを楽しみましょう。私は、そのようにします。

「富来・西海地区」と「他の地区」の扱いが異なるということは、両者に何らかの地理的相違があってのことかも知れません。地形図を用いて相違点を探してみたいと思います。最初に、次の手順で五万分の一地形図に各種境界線を描き入れます。
1・五万分の一地形図4面「剣地」「穴水」「富来」「七尾」を接合して1枚の地形図にします。
2・地形図に描いてある旧富来町の境界線を太く赤い線でなぞります。
3・Yahoo! 地図などを参照して、地形図に大字の境界線を細く赤い線で描き込みます。
4・富来・西海・福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区の境界を太く赤い線でなぞります。
5・各大字の機能中心地点を探し出し、それぞれの位置に赤い点を落します。
こうして、地形図に自分の手で境界線を描き進むうちに、大字の領域と集落の関係が見えてきます。小さな村落が多い中、小規模ながら町並みを形成している集落も見られます。赤崎、風無風戸、酒見、地頭町領家町高田、福浦港などです。このうち、赤崎、酒見、福浦港の町並みは、それぞれの帰属大字にすっぽり収まって、他の大字にハミ出ていません。ところが、風無と風戸の町並みは途切れることなく連続し、大字界を跨いで一つの町並みになっています。同じように、地頭町、領家町、高田の町並みも連担して、三つの大字に跨がって一つの市街地を形成しています。このような場合、藩政村や大字と言ったククリではククリ切れない別種のククリ感覚が生まれるはずです。

町の場末の縄のれんで、鳥羽一郎さん、金井克子さん、瀬川瑛子さん、ちあきなおみさんが、「浦霞」「一ノ蔵」を注ぎながら、「富来」の話で盛り上がっています。三重県出身の鳥羽さんが、宮城県の酒を呑んでも、富来の話をしても、よそ者が出過ぎるな、などと言う人は誰もいません。ちょうちん一つ、椅子五つ、他人の肩も気にならぬ。そんな小さな居酒屋での会話です。
【鳥羽一郎】俺は、♪「兄弟船」を唄うたび、風無と風戸の村を思い出すんだ。
【金井克子】♪「波の谷間に 命の花が ふたつ並んで 咲いている」という歌でしょう。「命の花」ってなに?。
【鳥羽一郎】「命の花」とは、風無と風戸ことさ。二つは兄弟のように繋がって海辺に張り付いているだろう。
【瀬川瑛子】ほんとだわ。風無と風戸の家並は連続しているのね。
【ちあきなおみ】そーね。風無と風戸は二つで一つなのね。もう切り離せないという感じ。タンスにゴンだわ。
【鳥羽一郎】だから、風無・風戸を一つにまとめて表わす呼び名が必要なんだ。それが西海さ。
【瀬川瑛子】私はね、♪「命くれない」を唄っていると、地頭町と領家町が浮かんでくるのよ。
【鳥羽一郎】♪「生まれる前から 結ばれていた そんな気がする 紅の糸」か。地頭町と領家町を表わしてるね。
【金井克子】地頭町と領家町も二つ併せて一つの町場になってるわ。まるで夫婦の関係ね。
【鳥羽一郎】♪「だから死ぬまで ふたりは一緒」というわけか。
【ちあきなおみ】そーね。地頭町と領家町も二つで一つよね。高田を加えると三つで一つ。タンスにゴンだわ。
【鳥羽一郎】だから、地頭町・領家町・高田を一つにまとめて表わす呼び名が必要なんだ。それが富来さ。
【ちあきなおみ】私の歌に♪「さだめ川」というのがあるけど、知ってる?。
【瀬川瑛子】♪「あなたの愛に 次の世までも ついて行きたい 私です」という歌でしょう。
【鳥羽一郎】「次の世までも・・・」って、富来町が消滅して志賀町に移行することを暗示してるね。
【ちあきなおみ】そーね。富来町がなくなっても、風無と風戸は西海というククリの中で結ばれていたいのね。
【瀬川瑛子】そーよ。志賀町になっても、地頭町と領家町は富来というククリの中で結ばれていたいのよ。
【鳥羽一郎】もしもだよ、風無と風戸の町並みが山で断絶されていたなら、どうなるだろう。
【金井克子】そのときは、♪「他人の関係」よ。♪「あなたはあなた そして私はわたし」という感じね。
【鳥羽一郎】風無は風無、風戸は風戸か。すると「西海」というククリ感が弱まるだろうな。
【瀬川瑛子】地頭町と領家町の町並みが農地や山林で分断されていたなら、どうなるの。
【金井克子】もちろん、♪「他人の関係」よ。♪「地頭は地頭 そして領家は領家?」という感じね。
【ちあきなおみ】そーね。地頭町や領家町の前に「富来」を付けたいという気持も薄らぐわね。
【瀬川瑛子】結局、「富来」「西海」を付けたのは、大字と集落の関係にも原因がありそうね。
【鳥羽一郎】まあ、少しはね・・・。そんなところだろう。
こうして、地理談義に盛り上がりながら、場末の縄のれんの夜は更けて行くのでした。もちろん、これはフィクションです。どのように受けとめるも、読み手の皆さん次第です。ただ、私がはっきり言えることは、大字と集落の関係の処理がお粗末になってしまった町が東北地方の某所にあるということです。そして、旧富来町は、まだそのような事態におちいっていないので救われるということです。

ついでに、旧富来町(石川県志賀町)と旧河北町(宮城県石巻市)の大字を比較してみます。両町を比較するのは、面積が同じで人口も似通っているからです。面積と人口は1965年の数値です。
【旧富来町】
面積=124平方km、人口=15,000人、大字数=59、大字の平均面積=2平方km、大字の平均人口=254人、中心になる大字=地頭町・領家町、中心になる町場名=富来。
【旧河北町】
面積=124平方km、人口=19,000人、大字数=17、大字の平均面積=7平方km、大字の平均人口=1,118人、中心になる大字=相野谷、中心になる町場名=飯野川。
両町を比較すると、旧富来町の大字は旧河北町の大字に比べて小規模なことに気が付きます。人口の少ない大字とその人口を書き出します。人口は角川地名大辞典を参照しました。
【旧富来町の人口の少ない大字、人口100人以下の大字】
深谷0人、大鳥居3人、六実8人、灯9人、八千代10人、中泉13人、江添20人、香能20人、日用23人、楚和30人、入釜47人、地保52人、日下田53人、阿川55人、切留65人、生神67人、豊後名73人、八幡座主74人、牛下77人、栢木77人、広地77人、草江80人、大西85人、荒屋86人、小窪87人、尊保89人、田中93人、谷神93人。
【旧河北町の人口の少ない大字、人口1,000人以下の大字】
北境241人、尾の崎312人、馬鞍406人、東福田448人、成田520人、中野566人、皿貝634人、中島697人、長面762人、福地870人、針岡870人、釜谷891人、三輪田940人、大森954人。
旧富来町には人口100人以下の大字が28ありました。現在ではもっと増えていると思われます。それに対し、旧河北町には人口100人以下の大字がありません。大字の規模が明らかに異なっています。旧富来町深谷は人口0人ですから集落はありません。能登の大字は歴史的に一大字一集落とはいうものの、現実において大鳥居、六実、灯、八千代、中泉、江添、香能、日用、楚和などが単独の集落として成り立っているのだろうか?と、ふと思うのです。

[71891] oki さん
「富来」が冠称された理由が過去へのノスタルジアだとすれば、
富来院、富来郷といった遠い過去へのノスタルジアより、合併で消滅しようとしている富来町への惜別の思いが「富来」を冠称させたのだと思います。まして、富来地区住民にすれば、西海・福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区の住民よりも、その思いは強かったことでしょう。

[71997] oki さん
(※陸奥国信夫郡伊達郷、武蔵国新座郡志木郷は上記集計から除いています。
伊達は信夫郡から分郡した伊達郡が名称の由来と考えられることが理由。
とすると、[71947] で今川焼さんが紹介して下さった陸奥国白河郡石川郷も除外対象になると思います。中世に白河郡から石川郡が分郡してますので。また、現行石川町の名称由来が石川郡にあるのかと言うと、一概にそうとも言い切れません。明治7年に藩政村下泉町村、内槇村、外槇村、高田町村が合併して石川村が生まれましたが、すでに江戸期より下泉町村、高田町村に跨がる町場は「石川町」と呼ばれていました。明治7年発足(明治22年町制)の石川村は江戸期の町場名「石川町」に由来し、昭和30年発足の石川町は明治22年町制施行の「石川町」に由来しているとも考えられるからです。もし、昭和30年発足の石川町の名称が郡名由来だとすると、同じ石川郡に属していた浅川町、平田村、玉川村、大東村が、なぜ石川町または石川村を名乗らなかったのかと言う疑問が残ります。

[72059] 白桃 さん
岡山、倉敷周辺は「小都邑」が一杯あって複雑怪奇、結構面白いですよ
それが、岡山県東部の海寄りの地域になると、片上、伊部、牛窓、長船、邑久など「小都邑」というよりも「小小都邑」ばかりで、なかなかのみこめません。特に、藩政村「尾張」を中心とした自治体が、郡名と同名の邑久町を名乗っていたのが複雑怪奇。和気を知りたい。それにしても牛窓って、「窓」がつくから覗き見したくなりますね。一度はぶらり町歩きをしたくなるような旅情をかき立てられる地名です。
[71771] 2009年 8月 23日(日)20:32:25千本桜 さん
了解しました
[71767] オーナー グリグリさん
了解しました。グリグリさんにまでご心配をおかけいたしまして申し訳ございませんでした。
[71763] 2009年 8月 23日(日)00:11:23千本桜 さん
不思議
[71737] EMM さん
そして[71240]については「削除→再投稿」と言うことは誓って行っていないと言うことは明言いたします。
話をそらさないで下さい。削除した上で再投稿したのかを質問しているのではありません。EMMさんは[71240]に訂正の手を加えていますね。はっきり言えば、千本桜を貶める非常に幼稚な発言をした後に、その部分を削除しています。それなのに、書込み訂正回数を示す【数字】がタイトルバーに表示されていない。とても無気味です。私が問題視しているのは、千本桜を貶めたかどうかではなく、書込み訂正をした痕跡を隠していることにあります。
[71735] 2009年 8月 20日(木)23:31:45千本桜 さん
酷すぎる手口
[71198] EMM さん
千本桜さんの「中途半端な資料による中途半端な考察」
上記の書込みはEMMさんの誤解と邪推の産物です。私は、ただ単にピンポイント富来の存在を確認したかっただけ。そういう段階でした。それなのに、中途半端な考察と決めつけられても何のことだかさっぱり分かりません。
EMMさんは[70838]
「富来」という地名は、歴史上出現して以来徹頭徹尾広域地名である…明治以前に富来村(富木村)なんてものが実在したことはなかった
と書込んでいますから、ピンポイント富来の存在を否定したい気持ちが先走るのでしょう。でも、他の人の意見を拒絶するのは良いことではありません。
もしかして互いの書込みの中に誤解を誘発する書込みは無かったかと再度読み直してみました。そこで、EMMさんが大幅な書込み訂正をしていることを知りました。[71239][71240][71427]を訂正していますね。訂正前の文を私は読んでいます。小学生でも「これは変だぞ」と思うくらい酷い個人攻撃が書いてありましたね。大幅に訂正するなら、訂正機能を使わずに新たな項を立てて書込むのが道理かと思います。自分に都合の悪いことを隠してしまおうとするのは良くないことです。これだけなら本日あえて書込みするつもりはありませんでした。しかし、どうしても書込まなければならない重大なことに気がついてしまったのです。EMMさんは[71240]を書込み訂正しているのに、【1】や【2】という訂正記録が表示されていません。 EMMさんは、ご自身に都合の悪くなった書込みを人に知られず訂正する裏技をお持ちなのですね。落書き帳の信頼に係わる出来事です。
[71254] 2009年 8月 1日(土)21:59:40千本桜 さん
富来
[71239] EMM さん
今日は非常に疲れています。多くを書く気力もありません。

私は[70836]
富来の名を存続させながら全ての地区を自治体名+大字名の形式で統一できないものだろうか・・・。そんなことを模索したいと思ったわけです。
と書いています。しかし、私はこの結論をまだ出していません。それなのに、EMMさんは私が結論を出したと決めつけている。辛いですね。こんな受け止め方をされて、一方的に言いたい放題さんざん避難されて・・・。やはり今は苦しくて書き続けられません。でも、旧富来町の中にピンポイントの「富来」が存在したことを確認できて安心しました。この確認なしには前へ進めません。場所が地籍上の地頭町村であれ領家町村であれ、形態が城下町であれ宿場町であれ、どちらでも構わないのです。地頭町村、領家町村、高田村の区域の中に富来と呼ばれる場所があったことを確認できればよかったのです。そのことだけ、お伝えしておきます。
[71220] 2009年 7月 31日(金)07:49:48千本桜 さん
富来
[71199] EMM さん
千本桜さんの「中途半端な資料による中途半端な考察」を見てかなり頭に血が上った状態で書いてしまっています。
ずいぶん失礼な書き方をしますね。よく考えてから物を書きましょう。

[70940] EMM さん
また、「仮説」も飛躍しすぎでないか、予備検証してますか?
飛躍していません。地道に積み重ねたものの上に成り立つ仮説です。
藩政期の南新田村に原ノ町宿の町場があり、その名が明治22年発足の原町村(現・福島県南相馬市)に繋がっていること。藩政期の寺池村に登米宿の町場があり、その名が明治22年発足の登米町(現・宮城県登米市)に繋がっていること。藩政期の塩釜村に水沢宿の町場があり、その名が明治22年発足の水沢町(現・岩手県奥州市)に繋がっていること。このような事例を多々ふまえた上で、藩政期の地頭町村には富来宿と呼ばれる町場があり、その名が明治22年発足の富来村(現・石川県志賀町)に繋がったのではないかという仮説をたてています。
さしあたり、そこに富来宿なるものがあったと言っていい証拠は提示できますか?(少なくとも角川・平凡社両辞典にそう言うものは出てきません)
平凡社の辞典に書いてあるじゃないですか。富来町の項に「地頭町村には外浦街道の富来駅が置かれ、領家町村とともに富来地方の物資の集散地として栄えた」とあります。また、地頭町村の項にも「外浦街道の宿駅富来駅が置かれ、駅馬15疋を常備」と書いてあります。やはり、富来という名の宿駅は存在したのです。重要な部分ですから宮城県図書館に行って調べてきました。

EMMさんの「富来考」発表までは書込みしないつもりでいましたが、あまりにも無礼な書込みを目にしたものですから書込みました。
[70939] 2009年 7月 25日(土)21:13:29千本桜 さん
富来考・富来と言う名の町場
[70838] EMM さん
「富来」という地名は、歴史上出現して以来徹頭徹尾広域地名である…明治以前に富来村(富木村)なんてものが実在したことはなかった、じゃあ富来って何?どこが富来?
地形図を見ていると、富来は地頭町村の一部、または地頭町村の別称ではないかと思えてなりません。地形図に描かれた地頭町の市街地が、「ここが富来だ」と主張しているように感じられるのです。天保国絵図には富来村があって地頭町村がありません。それを見て、富来村の中に地頭町という町場が形成されていたのではないかと考えましたが、富来村という藩政村が存在しなかったとなれば話は別です。そこで、地頭町村の中に「富来宿」または「富来町」と呼ばれる町場があったと、考えを変えてみます。明治22年の町村制で発足した富来村の村名は、地頭町村の中の「富来宿」または「富来町」に由来するのではないかと考えます。十番勝負が始まりますね。続きは十番勝負が終わった後で。
[70914] 2009年 7月 22日(水)08:04:35千本桜 さん
おはようございます
[70901] 伊那谷 さん
和泉橋警察署編の新旧対照市町村一覧、まだほんの一部ですが興味深く見せていただきました。これは参考になる資料ですね。

[70910] 白桃 さん
「青」が入る市、あなたは幾つ言えますか。青梅、青森、静岡、清須、清瀬、土佐清水・・・、これぐらいですか???
縦でも横でもいいじゃないとサバ読めば、あそこも仲間。老眼鏡かけてます?
[70855] 2009年 7月 18日(土)01:59:31千本桜 さん
ばなな漁港と富来漁港
[70844] EMM さん
昨日は西海地区の漁港を富来漁港と呼ぶ大胆さを笑いましたが、もっと笑える大胆なネーミングの漁港が宮城県にありました。恥ずかしくなるネーミングなんですが、関係者のみなさんは本気だったのでしょう。その名は「ばなな漁港」といいます。平成14年の水産政策審議会議事録の一部を引用します。
名足漁港と馬場漁港の合併でございます。これを合併して「ばなな漁港」という名前にしようとするものでございます。これは馬場漁港と名足漁港が隣接しておりまして、これを合併して、中核的な漁業基地として整備したいと考えているものでございます。名足漁港がこれでございます。馬場漁港はこれでございまして、この辺を中山地区と言うそうでございますので、馬場の「ば」、中山の「な」、それから名足の「な」を取りまして、合併後の名称は「ばなな漁港」としたいということでございます。
おもしろいでしょう。これなら、まじで富来漁港あらため能登金剛漁港もありかも。この、ばなな漁港から富来漁港の謎の一部が解明できそうです。

(水産庁HP内で検索して出てきたPDFファイルからすると、昭和26年に富来漁港という名で第4種漁港の指定を受けた可能性有り)
水産庁HP内のPDFファイルでは「ばなな漁港」を、漁港名「ばなな」、指定年月日「S26.12.13」、区域変更年月日「H17.9.14,」としています。漁港の区域と名称の変更を平成14年に審議しているのに、指定年月日「S26.12.13」は一見すると変ですね。でも、この年月日は、ばなな漁港の前身である名足漁港、馬場漁港が漁港に指定された日なんですね。ばなな漁港になったのは平成17年9月14日なんでしょう。富来漁港は、指定年月日「S26.7.28」、区域変更年月日「H17.9.1」と書いてあります。あくまでも推測ですが、昭和26年7月28日に指定されたのは富来漁港の前身であろう風無漁港と風戸漁港ではないかと思います。そして、当時は両港とも第1種漁港だったのではないかと推測します。西海村が富来町と合併したのは昭和29年ですから、昭和26年に西海村の漁港に隣町の名である富来を付すとは考えにくいのです。富来漁港と呼ばれるようになったのは、どう考えても昭和29年以降ではないでしょうか。
[70841] 2009年 7月 16日(木)21:10:55千本桜 さん
富来漁港
[70838] EMM さん
富来漁港がどこかは調べればすぐに分かりますが、これまた千本桜さんを惑わすにふさわしい代物なのです。
まったく想定外でした。風無・風戸に西海ではなく富来をもってくるとは石川県農林水産部もなかなか大胆(笑)。地元ではそれほど違和感を感じないネーミングなんでしょうね。大衆受けを狙って能登金剛漁港でも良かったような・・(冗談です)。でも、なんといってもミステリーなのは明治以前に富来村は存在しなかったということです。すると、あの天保国絵図に描かれた富来村や、地形図の図名の富来は何なんだろうと謎は深まるばかり。予告編に続く本編の書き込みを期待しています。あまり夜更ししてはだめよ。ゆっくりで良いのです。
[70836] 2009年 7月 16日(木)04:42:01千本桜 さん
富来
EMM さん
[70774]で「富来に関する考察。私も参加させて下さい」と書きましたが、考察したい事柄をもっと具体的に書くべきだったことに気が付きました。私は次のようなことを考えていたのでした。
富来地区、西海地区については大字名の前に地区名(昭和29年までの村名)を付して志賀町富来地頭町、志賀町西海風無のように表しますが、熊野地区、稗造地区、東増穂地区、西増穂地区、西浦地区については地区名を付さずに志賀町三明、志賀町酒見のように表します。自治体名+地区名+大字名の区域と自治体名+大字名の区域が混在して不揃いですね。これを、自治体名+大字名に統一できないかと考えた次第です。そうすると富来の名が消えることになりますが、富来の名を残したいと願う人たちから反対される可能性があります。そこで、富来の名を存続させながら全ての地区を自治体名+大字名の形式で統一できないものだろうか・・・。そんなことを模索したいと思ったわけです。
【事例からの発想】
明治22年、宮城県柴田郡では入間野村、四日市場村、船迫村など藩政10ヶ村が合併し、藩政入間野村の宿駅名「槻木」にちなんで槻木村(後に町に昇格)になりました。藩政村はそのまま槻木村の大字に継承され、槻木村大字入間野、槻木村大字四日市場、槻木村大字船迫などになりました。昭和31年、槻木町は船岡町と合併して柴田町になりました。槻木町の大字は柴田町に引き継がれ、柴田町大字四日市場、柴田町大字船迫などになりました。槻木の名は消える運命にあるのだろうか・・・。しかし、槻木町は中心部の大字入間野を大字槻木に改称して柴田町大字槻木とすることにしました。様々な受け取り方があるとは思いますが、槻木町はその名を大字入間野の区域に託して消えて行ったのだと思います。こうして入間野の名は消えましたが槻木の名は残りました。入間野を残すか槻木を残すか、苦しい選択を迫られたことでしょう。
同じく明治22年、平村、堤村、新寺村の藩政3ヶ村が合併。藩政平村の宿駅名「金ヶ瀬」にちなんで金ヶ瀬村になりました。藩政村は金ヶ瀬村の大字に継承され、金ヶ瀬村大字平、金ヶ瀬村大字堤、金ヶ瀬村大字新寺になりました。昭和31年、金ヶ瀬村は大河原町と合併。金ヶ瀬村の大字は大河原町に引継がれ、大河原町堤、大河原町新寺になりましたが、このままでは金ヶ瀬の名が消えてしまいます。しかし、金ヶ瀬村は中心部の大字平を金ヶ瀬に改称して大河原町金ヶ瀬とすることにしました。こうして平の名は消えましたが金ヶ瀬の名は残りました。
私はこの2例の大字名改称を肯定的に受け止めています。理由は、町村制で誕生した槻木村の名は藩政村入間野に形成された町場名「槻木」に由来し、昔から入間野=槻木、槻木は入間野の別称という雰囲気があったと考えられるからです。平と金ヶ瀬の関係も同様です。もう1つの理由は、周辺大字との統合や境界変更を伴わず、単に入間野を槻木に、平を金ヶ瀬に変えただけですから、同名小字が発生せず、地番組替えの必要もなかったことにあります。ですから、入間野を槻木に、平を金ヶ瀬に改めることに大きな抵抗感はなかったものと思われます。これを富来に当てはめることはできないだろうか。どれか1つの大字を富来という名に改称し、志賀町と合併して消滅する富来の名を残すという方法です。たぶん、志賀町富来七海を志賀町七海にできても、志賀町富来にはできないでしょう。では、志賀町富来地頭町はどうでしょう。志賀町地頭町にもできるし、志賀町富来にもできそうな予感がします。ただし、明治から今日までの合併を含む社会変化を思えば、地頭町を富来に改称するのは不可能になっているかもしれません。
【地形図からの推測】
ウォッちずは既に現在の地名に修正されているのであまり参考になりませ。そこで、たまたま手許にあった平成3年発行の5万分の1地形図「富来」を見てみました。牛下、生神、七海、領家町、高田、東小室の地名は記載されていますが、なぜか地頭町がありません。それに、自治体名の富来町はあるのですが、集落名の富来がありません。地形図の図名は、その図に出てくる代表的な集落・居住地名を採用するのですから、富来という名の集落があるはずです。富来はどこへ行ってしまったのでしょう。思いますに、以前は現在の地頭町にあたる区域に富来という集落名が記載されていたのではないか?。現在の地頭町こそ昔の富来ではないかと思えてくるのです。槻木が入間野村の町場名であったように、地頭町は富来村の町場名だったのではないかと・・・。
【百科事典からの推測】
1972年発行の百科事典の次のような記述があります。
南部の福浦港をはじめ、富来、赤崎、領家、七海などの港は漁業が盛んで、また富来は商業の地方的中心で
ということは、富来領家でも富来七海でもない富来富来があるのですね。それは現在の富来地頭町ではないだろうか。
【天保国絵図からの推測】
やはり富来村は存在したのですね。位置から推測すると現在の地頭町の区域だろうと思います。
私、今回の事例に付いて千本桜さんは2つの事を見逃している(あるいは見ないようにしている)のではないか、と思っています。
具体的には
「富来と言う地名自体の歴史を追う事」
「○○村内××村と言うのが富来の2例に特異な話か」
と言う事です。
的を絞ります。地頭町を富来と言う名に置き換えることはできないかと発想した場合、最も効果的なのは、藩政村名と町村制発足時の大字名およびその区域界を知ることだと思います。ですから、あまり古い時代に遡る地名由来は考えていないのです。また「○○村内××村と言うのが富来の2例に特異な話か」については、まったく特異な例ではなく、身近な宮城県にもたくさん転がっています。中には時代経過とともに本村と端郷の関係が逆転しているものもあります。現在は石巻市の一部になっていますが、江戸期の根岸村ノ内の渡波村は第1回人口集中地区調査で1万人を超す市街地に発展しているのに対し、本村の根岸は渡波市街地の在郷にあたる村落になりました。昔は根岸の中の渡波だったのに、今では渡波の中の根岸です。[70779] で端郷の領家町村と高田村を引っ張り出したのは別の疑問あったからです。富来村が住所の上で地頭町村と領家町村に分離したのはいつか。小室村の中の高田村が小室と分かれて、地頭、領家と一緒になったのはいつか。これが判らなかったから釈然としなかっただけです。

[70786] むっくん さん
県令第23号(M22.3.8)によれば、牛下村、生神村、領家七海村、七海村、地頭町村、領家町村、高山村の7村が合併して富来村が発足しました。
ありがとうございました。明治22年の富来村発足直前には富来村がなかったのですね。すると、天保国絵図に描かれた富来村は、いつ、どこへ行ってしまったのでしょうか。ミステリーもまた楽しい。

[70834] EMM さん
うーん、結局富来の話に到達できなかった…書く内容はだいたい頭の中でまとまったんですが…
急を要するものでもないし、急がなくていいですよ。私も書き始まったら止められなくなって、こんな時間に・・・。
[70779] 2009年 7月 11日(土)00:07:13千本桜 さん
天保国絵図の冨来
平成17年に志賀町と合併して消滅した富来町には、富来と呼ばれる特定の区域があったのではないか?という思いが頭をよぎります。平成17年まで存在した旧富来町ではなく、昭和29年まで存在した旧旧富来町でもない別種の富来です。もっと古くからの富来です。そこで天保国絵図能登国を開いてみました。そこには福浦村、牛下村、生神村,七海村、冨来村などの村名が記載され、冨来村の隣には冨来村之内領家町が記載されています。江戸期には冨来村があったようです。そして、冨来村には枝郷というか端郷というか正式な呼称はわかりませんが、領家町村という村が存在したらしいのです。天保国絵図の冨来村とは、現在の地頭町のことではないかと仮説を立ててみました。同じように、小室村にも小室村之内高田村というのがあったらしいのです。で、何を知りたいのかというと、明治22年に町村制下の富来村が発足したわけですが、そのとき何村と何村が合併して富来村が発足したのか。そして何という名の大字を設置したのかということです。書いているうちに文章がくどくなっているのに気が付きました。申し訳ありません。これから晩飯食べます。
[70774] 2009年 7月 10日(金)08:19:12千本桜 さん
Re:富来町関係レス
[70771] EMM さん
おはようございます。富来に関する考察。私も参加させて下さい。遠く離れた地域ですので、こまやかな住民感情までは理解できませんが、住所の在り方の基本においては共通するものが多いと思います。天保国絵図、国土地理院地形図、新志賀町設立以前の郵便番号簿、ネット上の地図、ネット上の住所一覧などを見ながら「富来」へのイメージを膨らませているのですが、大事な「角川地名大辞典・石川県版」を持ち合わせていません。その辞典を読むことで「富来」へのイメージを一層膨らませることができるはずなのに残念です。EMMさんは「石川県版」をお持ちですよね。そこに、「地頭町と領家町の関係」、「東小室と高田」の関係がどのように記述されているのかご覧になっていただけますか。急がなくても良いことですから、時間に余裕があるときで結構です。謎めいた書き方をしますが、ちょっと複雑な地頭町と領家町の関係が原因して、七海、生神、牛下が引きづりこまれたのではないかと、私は思っているところです。
[70767] 2009年 7月 9日(木)20:05:46【1】千本桜 さん
覚えやすい地理雑学辞典
「スーパーシティはニューヨーク、スーパータウンはオーガワラ」

北海道中標津町、奈良県王寺町、沖縄県北谷町などからクレームがつきそうですが・・・。
[70753] 2009年 7月 8日(水)02:15:45千本桜 さん
石川県志賀町西海風無
[70743] EMM さん
ただ、千本桜さん的には特に「富来町○○」→「志賀町西海○○」は「きわめて喜ばしい事例」かも?
いいえ、喜ばしくありません。同じ運命共同体を辿ってきた地域は、同じ住所形式で新自治体に移行して欲しいというのが基本的な考えです。富来町風無地区が明治22年から昭和29年まで属していた村名「西海」を付して志賀町西海風無になるなら、富来町酒見地区も同じく昭和29年までの所属村名「西増穂」を付して志賀町西増穂酒見とするのが良し。富来町酒見地区が何も付さずに志賀町酒見になるなら、富来町風無地区も何も付さずに志賀町風無になるのが良しと考えます。で、「志賀町富来風無」が良いのか、「志賀町西海風無」が良いのか、それとも「志賀町風無」が良いのかはっきりさせてとEMMさんに迫られたら、ふるえながら(?)「志賀町風無」が良いと答えます。なぜなら、住所は自治体名と大字名と小字名と番地があれば、それで機能するからです。風無って下層に「へ」とか「レ」とかの小字がぶらさがっているのでしょう。「へ1番地」だけでは場所が特定できないけれど、頭に風無が付いて「風無へ1番地」だと特定できますね。明治22年から昭和29年までの村名「西海」は無くてもOK。昭和29年から平成17年までの町名「富来」も無くて0Kでしょう。平成の合併では足並みが揃わずに住所の地名階層がばらばらで新自治体に移行する例が目立ちますね。でも、昭和の大合併でも同様例はありました。宮城県南部ですと名取市です。高舘村、愛島村は村名を生かして名取市高舘熊野堂字飛鳥1番地(新自治体名+旧村名+大字名+小字名+番地)。館腰村は村名を生かさず名取市植松字宮島1番地(新自治体名+大字名+小字名+番地)で旧村名は消えました。増田町、閖上町、下増田村も町村名を生かさないで名取市手倉田字箱塚屋敷1番地(新自治体名+大字名+小字名+番地)としましたが、それぞれに町村名と同名の大字がありましたから、増田、閖上、下増田の名称は残りました。
EMMさんは私が書いた[70733]
美川町は「美川」の地域範囲を忘れないでいて良かったですね。
を誤解されているのですね。と言うよりも説明不足な書き方をしてしまったようなので、もう一度書きます。「美川」の地域範囲を忘れないでいて良かった、と書いたのは何故か。美川町は「美川」の領域を知っているから、湊町や長屋町を指して「そこは美川だ」と言わなかった。周辺の大字(町)を侵蝕しなかった。傷つけなかった。相手の存在を無視しなかったからです。もし、「美川」の領域を知らない人が大字をいじると、湊町も長屋町も美川と市街地続きだから、そこも美川だということにしていたかも知れません。「大字大河原」の領域を忘れた大河原町は、周辺の大字大谷、大字金ヶ瀬の区域を指して「そこも大河原だ」と言うのです。合併して自治権を失った大谷、金ヶ瀬は言葉を発することができません。悲鳴を上げるだけです。
[70746] 2009年 7月 7日(火)01:58:08千本桜 さん
宮城県の商圏
宮城県が平成20年に調査した消費購買動向調査が今年4月に公表され、その報告書「宮城県の商圏」が発売されているので購入してきました。この調査は平成の大合併以前の市区町村を単位にしています。それによりますと、前回調査(平成17年)では商圏を形成していた旧南方、角田、亘理が要件を満たせず脱落。代わって旧中新田商圏が復活し、旧志波姫商圏が新参入してきました。現在、宮城県には15商圏が形成されています。この商圏調査は昭和53年から3年毎に実施されていますが、過去に商圏を形成しながら現在は商圏を喪失している都市を挙げると次のようになります。塩釜、旧築館、旧若柳、涌谷、岩沼、柴田、大和、旧栗駒、旧志津川、旧矢本、旧小牛田、旧鹿島台、旧南方、角田、亘理の15都市です。それでは、今回の調査で形成が確認された商圏を吸引人口の多い順に並べてみます。ただし、これは買回品(衣料品・書籍・家具.家電など)を対象にしたもので、最寄品(食料品・日用雑貨品など)は対象外になっています。
順位商圏名吸引人口商圏人口地元購買率
1位仙台青葉348,569人1,622,690人69.7%
2位仙台泉302,526人1,068,498人78.5%
3位旧石巻218,765人364,819人92.1%
4位仙台太白213,420人672,277人67.1%
5位旧古川157,344人311,906人83.2%
6位名取144,085人662,966人59.1%
7位旧気仙沼89,608人177,039人86.5%
8位利府85,504人397,415人63.3%
9位大河原74,807人188,313人67.8%
10位旧迫72,471人170,763人72.6%
11位多賀城71,394人341,578人53.2%
12位富谷41,108人295,090人40.4%
13位白石17,591人54,012人38.5%
14位旧中新田14,272人47,499人35.3%
15位旧志波姫9,593人69,529人31.6%
県は上記15商圏を次のように分類しています。
超広域型:仙台青葉
広域型:仙台泉、仙台太白、名取、旧石巻、旧古川
地域型:利府、多賀城、富谷、大河原、旧気仙沼、旧迫
地区型:旧志波姫、白石、旧中新田

県の分類を自分なりの発想で分類しなおします。
1・仙台市を区単位に分割するのは馴染めないので仙台市を1つの単位とする。
2・仙台市への依存度が高い市町は商圏中心都市から除外する。仙台市への買回品購買依存率が高いのは富谷町56.6%、名取市38.8%、利府町29.7%、多賀城市23.7%です。富谷、名取、利府、多賀城は仙台商圏の一部とみなして振るい落とします。
3・吸引人口2万人以下の市町は商圏中心都市から除外する。これで、白石市、旧中新田町、旧志波姫町が振るい落とされました。
残ったのは6商圏中心都市です。この6つを分類すれば、(超広域型:仙台市)、(広域型:旧石巻市、旧古川市)、(地域型:旧気仙沼市、大河原町、旧迫町)になります。すっきりしましたね。これが私の頭の中にある現時点での宮城県の商業拠点都市です。
[70733] 2009年 7月 6日(月)02:46:15千本桜 さん
七ヶ宿、誉君、白山市、美川町、聖地
[70602] hmt さん
○=漢数字である青森県上北郡六ヶ所村・宮城県刈田郡七ヶ宿町・宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町の3町村の「ヶ」は、「が」でなく「か」と読むのでした。
七ヶ宿町の正式読みが「しちかしゅく」だと発覚してからかれこれ10年経つでしょうか(まだ6、7年かも)。それまでは町当局も住民も「しちがしゅく」だと思っていたわけです。今でも住民は「しちがしゅく」で通していますが、テレビは「しちかしゅく」と言うようになりました。ところが、これが私の耳には非常に聞きにくいのです。なんか、顎の辺りがむずがゆくなる感じです。地元民にとって「しちかしゅく」は、言いにくいし、聞きにくいし、正式呼称だなんて言われても困ってしまうのですが、よその地方の人には「しちかしゅく」って、すんなり発音できて、すんなり耳に入る音なのでしょうか。

[70615]Issie さん
お忙しいでしょうに、私の疑問に応えて下さいましてありがとうございました。
[70645]Issie さん
同級生に「誉(ほまれ)」君という子がいて
誉君で思い出したことがあります。あれはもう35年以上も前のこと。羽田空港でアンカレジ行きの飛行機を待っていたときのことです。公衆電話に10円玉を入れても戻ってきます。壊れているんだなと諦めて電話するのを止めました。そこに、あの勝呂誉さんがやってきました。誉さんは何も知らず公衆電話に10円玉を入れました。普段なら「その電話、壊れてますよ」と教えてあげるですが、相手は人気俳優さん。声をかけることもできずに、じっと誉さんのすることを見ていました。私は10円玉が3回落ちたところで諦めましたが、誉さんはなかなか諦めません。落ちてくる10円玉を拾っては入れ、拾っては入れ、何回くりかえしたと思いますか?。それは秘密にしておきますが、どうしても電話したかったんでしょうね。電話先は大空真弓さんだったのだろうか・・・。どうやら、登場人物が古すぎたようですね。

[70634] futsunoおじ さん
だれか不敵な人物が偏見を持って三本松・金沢・両毛を三大聖地としたものが発端のようです。ただ近年強烈なインパクトを持つ大河原を加え両毛を外そうという考えもあるようであり、今後の両毛地域メンバーの動向が注目されます。
身に余るお言葉、ありがとうございます。しかし、○河○は地理の聖地に向かない「いかれぽんち」の世界です。不成立でしたが、合併に向けての字名取り扱いを通じて思い知らされました。でも、桜が咲く季節の一週間だけ聖地と思っていただけたら嬉しいです。

[70685] 星野彼方 さん
河内○○(旧鶴来町や旧美川町はこうですね)
[70693] 癒しの白山麓ファン さん
石川県白山市の住所表記を見ると、松任・美川・鶴来では新町、今町など、同地名の場合など含め鶴来新町、美川今町と旧町名が付いていますナ。
松任と鶴来については詳しく見ていないので分かりませんが、美川について思うことをひとつ。美川○○、美川今町などの「美川」は、白山市に移行して消滅した美川町の「美川」ではなく、別の意味がこもった「美川」だと思うのです。もし、白山市美川今町や白山市美川永代町の「美川」が平成17年まで存在した美川町を意味する「美川」なら、その「美川」は当時の美川町全域に付されて然るべきです。しかし、湊町や長屋町には「美川」が付されず白山市湊町、白山市長屋町になっています。これは、美川町には「美川」と認識される区域と「美川」ではないと認識される区域があったからでしょう。1869年、本吉町と湊村が合併して美川町誕生。1871年、美川町(旧本吉町)と湊村に分離。1889年、美川町は単独で町村制下の美川町になり、湊村も単独で町村制下の湊村になりました。1954年、美川町、湊村、蝶屋村が合併して新・美川町発足。以上が美川町の歴史です。白山市に移行するにあたり、1889年当時の美川町域だけに「美川」を付し、湊村域(現・白山市湊町)と蝶屋村域(現・白山市長屋町・手取町など)には「美川」を付さなかったようです。当たりまえと言えばそれまでですが、美川町は「美川」の地域範囲を忘れないでいて良かったですね。それに対し、大河原町は「大河原」の範囲を忘れてしまった。忘れてはならない立場の人たちまで忘れてしまって反省せず、知らなかったことを正当化するために詭弁を使います。大河原町は新しい住民が多い町だから地域の歴史にはこだわらないんですと!。ワオ~~~、おったまげました。
[70611] 2009年 6月 27日(土)09:55:26千本桜 さん
チンギスハン
[70596]なきら さん
[70598]淡水魚 さん
[70599]右左府 さん
[70600]Issie さん
淡水魚さんは今でも3時のおやつに美味しいお茶とお菓子を戴いているのでしょうか。藪北の深蒸し茶などお召し上がりなのでしょうね。静岡の美味しいお茶を飲みたい!。私は珈琲の味が分からないのにお茶の味にはそれなりに敏感なのです。
皆様から教えていただきましたイムジン河、リムジンガン。大変勉強になりました。つにでにというとなんですが、かねてより疑問に思っていたことをもう1つ質問していいですか。漢江はハンガン、武漢三鎮の漢口はハンカオ。ということは漢(カン)は「ハン」なのね?。そして韓国の韓(カン)も「ハン」。チャガタイ汗国の汗(カン)も「ハン」。そして成吉思汗(チンギスカン)も「チンギスハン」となります。いずれも「カン」であり「ハン」であることで繋がっています。これは偶然の一致なのでしょうか?。偶然にしては地域的に繋がっているようにも思えるし、どちらも「ハン」だからといって韓国とチンギスハンを結び付けるのも飛び過ぎ!という感じがしないでもありません。何と何が繋がっていて何と何が繋がっていないのか。整理して考えれば分かるのでしょうが、すこし苦手な分野です。きょうは朝から暑いですね。庭の草むしりをしなければならないし、お墓の草も生えてるだろうから心配だし。
[70593] 2009年 6月 25日(木)01:16:47千本桜 さん
いろいろ
[70536]なきら さん
詩子さん
詩子さんを忘れていました。昭和は遠くなりにけりと言ったところでしょうか。松島トモ子、松島アキラ、松島詩子と言うことで、千本桜家いとこ会の開催場所は、なきらさんご推察のとおり松島でした。ところで、いとこ会の派手な余興ですが、あれは遠方から集まってくる「いとこ」たちを「おもてなし」するためのもので、本人が楽しむためのものではありません。ほんとは恥ずかしくて嫌々ながらやってるの(笑)。

[70556]リトル さん
画像で見せて頂いて以来、頭から離れません。
リトルさんがご覧になったのは、どのバージョンだったでしょうか。自分で貼っておきながら、どの画像をお見せしたのか忘れてしまいました。今回は、新旧バージョン入り乱れ、50、60のおじさんたちが舞台の上で乱舞してました。恥ずかし。
クイズ関係は苦手なのですが、今回はちゃんと解りました。
リトルさんご正解です。
「A:奥○○」→奥松島
「B:○○○市」→東松島市
「C:○○渓」→嵯峨渓
「D:○○市」→石巻市
「E:○○島」→宮戸島
「F:○○森」→大高森
「G:◎浜」→里浜
海辺の小さな集落は絵になりますね。とくにリアス式海岸の漁村は。丹後あたりにも絵になる漁村がたくさんありそうですね。

[70548]オーナー グリグリ さん
主要地方道と一般地方道
細かいことを突つくようで済みません。東京都には特例都道というものもあって複雑ですが、一般的に都道府県道は主要地方道と一般都道府県道に大別されます。ですから、主要地方道に相対する用語は一般都道府県道でしょうね。一般地方道は聞き慣れない用語です。
「京都府道・兵庫県道2号宮津養父線」の場合だと「県道○○□□線」という言い方ができないですね。それとも「府県道宮津養父線」という言い方をするのかな。
結局、路線名は道路管理者のためにあるのだと思います。管理者間または管理者(都道府県)と国との間で通じればそれで良し、なのではないでしょうか。京都府域では京都府道宮津養父線と呼び、兵庫県域では兵庫県道宮津養父線と呼んでいる。国県にはそれで通じ合えているのだと思います。地理好き人間からすれば、もっと我々のことも考えてよと言いたくなりますが、たぶん考えてはいないでしょう(笑)。たとえば、富岡停車場線という同名の一般県道が2路線あります。1つは福島県道163号富岡停車場線。もう1つは群馬県道206号富岡停車場線です。路線名の前に福島県道、群馬県道を冠することで識別できますから混乱は起きません。白石停車場線も北海道と宮城県の双方にあります。

[70558]じゃごたろ さん
都道府県道の起点・終点には法則があるのでしょうか。例えば、岩手県道沖田渋民線の場合、起点が沖田で終点が渋民ですが、渋民を起点にして沖田を終点にしなかったのは何故か。起点となるか終点となるかには何らかの法則があるのかな?と思いますが、宮城県道を見ている限りでは法則なしに見えます。

[70567]えすあい さん
私は都市や街並みに興味・関心が有り
私も同じです。とくに、市街や集落の核心地点(へそ)を探したりするのが好きですね。

[70576]熊虎 さん
直江兼続は「チクカン・ギョムソク(Jik-gang Gyeom-sok)」となります。
韓国語と言うのか朝鮮語と言うのか、私には分からない世界ですが、「江」は「カン」と発音されるのですね。もしかして「ガン」と濁ることはないでしょうか。私がまだ髪の毛ふさふさだった頃、巷の若人の間では「イムジン河」という歌が流行っていました。「イムジン河 水清く~」と唄い始めます。ところが、別バージョンの歌詞もあって、それは「リムジンガン 水清く~」で始まります。今日まで、リムジンガンの「ガン」は「河」のことだと思っていましたが、ひょっとして「江」のことなのでしょうか。
[70535] 2009年 6月 18日(木)21:23:28千本桜 さん
ここはどこでしょう
今月某日、とある場所で千本桜家いとこ会が開催されました。参加者は、仙台市、名取市、大河原町、白石市、水戸市、栃木市、桐生市、さいたま市、足立区、横浜市、富士市、静岡市、京都市から集まった40名です。江東区、島田市にもいとこがいますが、この方たちは欠席でした。こうしてみると「町」に住んでいるのは本当に少数派になりましたね。この会は2年に一度開かれ、前回は群馬県草津温泉、4年前は茨城県日立、6年前は宮城県遠刈田温泉で開催されました。今年の会場はトモ子やアキラに出逢えそうな有名観光地の大ホテルです。このホテルは当観光ゾーン最大のリゾートホテルで、一度に千人以上の宿泊客を収容できるそうです。宴会は千本桜家いとこ会恒例の派手な余興で盛り上がりましたが、他人様の目には間違いなく異様な光景に映ったことでしょう。
翌日は「A:奥○○」と呼ばれるエリアを観光しました。宿泊したホテルから直線距離で9キロ。車を走らせて15分で小さな船乗場に着きました。行政上は「B:○○○市」に属しています。ここから「C:○○渓」めぐりの小型船に乗り、40分間の海上遊覧に出発です。白い岩肌の断崖や岩礁が織りなす○○渓の景色は、どこか仏ヶ浦や浄土ヶ浜の景色に似ています。東方遠くに立ち上る煙は「D:○○市」にある製紙工場の煙です。船乗場に戻って再び車を走らせます。船乗場前の小さな橋を渡れば、そこは1,100人が暮らす陸繋島の「E:○○島」です。この島で一番の観光スポットは360度の風景を見渡せる「F:○○森」。標高100mほどの山ですが、私は坂道を登ると背中が苦しくなるので残念ながら登れません。○○森展望台までハイキングするいとこたちを見送り、ひとり麓の集落「G:○浜」を散策することにしました。この○浜には国史跡「○浜貝塚」があります。海辺の小さな村は私にとって非日常の世界。潮の匂いがする集落の家並みや細い路地に心が吸い寄せられて行きます。のどかな初夏の、ちょっと幸せなひとときでした。
A~Gに当てはまる文字を入れてください。
[70341] 2009年 5月 30日(土)08:59:31千本桜 さん
鎌倉
[70333]じゃごたろ さん
鎌倉といったら何を真っ先に思い浮かぶんでしょうかね。

「鎌倉」で思い浮かぶ地名、施設名を思いつくまま順位付けすると、こんな感じです。大船地区は除きます。
1.鶴岡八幡宮、2.鎌倉駅、3.由比ガ浜、4.北鎌倉、5.鎌倉大仏、6.建長寺、7.乱橋材木座、8.紫陽花寺、9.縁切寺、10.雪ノ下、11.扇ガ谷、12.朝比奈切通し、13.江の電、14.小町通り、15.化粧坂、16.鎌倉アルプス、17.七里ガ浜、18.長谷観音、19.円覚寺、20.稲村ガ崎

好きな場所は「佐助」、「十二所」などの静かな隠れ里。好きな地名は何と言っても「乱橋材木座」。地名ではありませんが「段葛」も好きな名称です。鎌倉アルプスをもう一度ハイキングしたいのですが、もう体力的に無理でしょう。貸し自転車で鎌倉めぐりをしたことがあります。
[70235] 2009年 5月 20日(水)23:48:42【1】千本桜 さん
初体験
本日、大河原町の某店で商品購入の申込書にサインをしました。住所欄が少々狭かったので、県郡名を省いた住所を書いて渡しました。でも、県郡名も書いて欲しかったようなのです。店員さんは、私が記入した申込書に「宮城県」と追記しはじめました。そして次に、「大河原って柴田郡ですかぁ?」と質問してきたのです。予想外の質問に、私の脳ミソは一時停止してしまったようです。「はい」とか「そうです」と答えたはずなのに、さっぱり憶えていません。どこから通勤してくる店員さんか存じませんが、大河原の商店の店員さんに「大河原って柴田郡ですかぁ?」と質問されたのは初めてなんです。
その足でマクドナルドに向かい、シェイクをすすりながら考えました。これって、「大河原って柴田郡ですかぁ?」と質問してくる店員さんよりも、こんな時代になっても「郡名」を書けという住所の在りかたの方がおかしいのじゃないのか。そして、末端自治体を「市」「町」「村」の3種類の文字で分類することも時代にそぐわないのではないかと。すべての自治体を「市」にすると、誰か困るのでしょうか。
合併破談で「市」になれなかったから言っているのではありません。合併破談には、むしろ胸を撫で下ろしています。合併したなら馬鹿げた字名変更が実施されることになっていたからです。何が馬鹿げているかと言うと、地番と住所の違いも分らずに、住居表示で新町丁を画するがごとき感覚で大字の境界と名称を変更しようとしていることです。はやい話が、金ヶ瀬字○○の一部を土地区画整理して都市化すると、そこは大河原字○○に変化するのだそうです。都市化すると金ヶ瀬から大河原に変わるって何たるこっちゃ。これでは歴史が許しません。金ヶ瀬字○○の金ヶ瀬(旧名・平)は、かつてその区域が金ヶ瀬(旧名・平)村だった証です。それを大河原字○○に変更したなら、そこはかつて大河原村だったことになります。おお、いやだ。何で地域を嘘で塗り替えて次の世代に引き渡そうとするのか。その根底にあるのは無知と無関心です。今回の合併破談の本当の理由は他にあるでしょうが、私個人の胸の中では、大字大河原に呑込まれそうになり、存在した歴史までが消されようとした大字大谷および大字金ヶ瀬のご先祖様たちが許さなかったが故の破談だと思っています。

マクドナルドのシェークをシェイクに訂正しました。ファーストフード店のメニューって、ほんとに分りにくい。大字小字の方がずっと楽。
[70221] 2009年 5月 19日(火)07:43:17千本桜 さん
県道
[70203]ペーロケ さん
主要地方道として呼ぶ場合は「主要地方道佐野古河線」と呼び、路線番号である「9号」の入る余地がありませんが、県道として呼ぶ場合は「栃木県道9号佐野古河線」と、何故か9号が入ってしまいます。
「主要地方道9号佐野古河線」と呼ぶことに違和感を感じておられるのですね。これは、呼び方の「慣れ」のせいだと思います。県道は主要地方道と一般県道に大別され、主要地方道には1桁、2桁番号が付され、一般県道には3桁番号が付されています。中縮尺の路線図(一般の人は目にする機会の少ない役所用の地図です)作成にあたっては、「主要地方道14 一関大東線」、あるいは「(主)14 一関大東線」、または○の中に主を入れて「○主14 一関大東線」のような表わし方で、路線番号と路線名を主要地方道のルートに沿わせて貼り込んだものです。ですから私は、「主要地方道9号佐野古河線」と呼ぶことに違和感を感じません。主要地方道以外の県道は一般県道ですから、「一般県道123 保原伊達崎桑折線」や「(一)123 保原伊達崎桑折線」などと表わします。また、一般的は主要地方道と一般県道に分けずに、「県道14 一関大東線」、「県道123 保原伊達崎桑折線」でも一向に差し支えないと思います。

「県道」となるとせいぜい県単位の話なので「9号」で通るものが、「主要地方道」となると県をまたぐ広域的なものになってしまうため、そのレベルでの路線番号の統一がなされていない、つまり、あちこちに「主要地方道9号」がある、ということなんでしょうかねえ?
宮城県を例にとると、県内で完結せずに他県に跨る県道は、主要地方道が11路線、一般県道が16路線あります。複数県に跨る一般県道は結構多いものなのです。本題の「路線番号の統一がなされていない」については、[70179]でじゃごたろさんが書いておられるように、ほぼ統一されています。例えば、宮城県気仙沼市と岩手県陸前高田市を結ぶ「主要地方道気仙沼陸前高田線」は、宮城県でも県道34号ですし、岩手県でも県道34号です。そして、両県とも他の路線には34号を付さないように調整してあります。たぶん、ペーロケさんはこのことが不思議なんでしょう。私も当初は、どのように調整しているのだろうと不思議でした。宮城岩手両県に跨る路線番号と同じものが、宮城福島両県に跨る路線にも使われているのではないかと心配になったものです。ちなみに、福島県の県道34号は宮城県に跨らないように、県内で完結する「相馬浪江線」に付されています。
[69243] 2009年 4月 16日(木)06:46:20千本桜 さん
お花見の人出ランキング
[69174]リトル さん
[69237]興田小 さん
今年の一目千本桜は、一気に咲いてあっという間に散り始めました。あれ~、という感じ。もう、山田五十鈴さん状態です。2008年、東北地方の桜名所の人出ランキングです。どのようにして人出を確認するのか分りませんので、あまり信用はしていないのですが・・・。なんとなく目安になりそうです。

桜の名所所在地2008年の人出
弘前公園青森県弘前市2,000,000人
角館秋田県仙北市1,160,000人
展勝地公園岩手県北上市550,000人
三春滝桜福島県三春町300,000人
千秋公園秋田県秋田市260,000人
白石川堤一目千本桜宮城県大河原町250,000人
芦野公園青森県五所川原市250,000人
霞城公園山形県山形市219,000人
鶴ヶ城福島県会津若松市200,000人
船岡城址公園宮城県柴田町200,000人
天童公園山形県天童市200,000人
弘前公園、角館、展勝地公園がベスト3です。この三ヶ所は、花見時がゴールデンウィークと重なって人出が多くなるのだとは思いますが、200万人を集める弘前公園はさすがです。
[69171] 2009年 4月 10日(金)12:56:55千本桜 さん
桜情報
ただいま白石川堤の一目千本桜まつり会場から戻ってきました。花見客が結構繰り出していました。3、4日前に蕾がほころんだばかりで堀北真希ちゃんみたいだったのに、今朝は何と沢口靖子さんになっているではありませんか!。今度の日曜(12日)は松坂慶子さんのように満開になるでしょう。次の日曜(19日)には山本富士子さんを通り越して山田五十鈴さんになっている可能性がありますので要注意です。それにしても松坂慶子さんみたいな満開桜が8キロにわたって連なっているなんて、悩ましくて悩ましくて、見に行かずにはいられない。
[69022] 2009年 3月 26日(木)08:58:13千本桜 さん
湊村、大区小区、市坊
[68834]白桃さん
でも、それなら何故「日本地誌提要」の湊村の人口が2,221人になっているのか。(湊村は、明治22年に石巻町と稲井村に分割されていますが、これと関連するのか・・・)
[68874]千本桜
推測するに、湊村の井内・磯田地区は時に、湊村本体とは別の地域として取扱われていた可能性が無きにしも非ずです。すると、「日本地誌提要」の湊村の人口2,221人は、井内・磯田地区を除いた人口ではないかという推測が生まれます。勿論あくまでも推測です。
井内・磯田地区が湊村本体と切り離されて別の地域として扱われていた可能性があると推測したのは、古い地形図の読図を通してのことでした。町場を成す湊村本体と井内集落の間には、人家の無い非居住区間があって隔絶感がありましたからね。どうやら、その推測が当たっている可能性が濃厚になりました。大小区制の資料を見ているうちに、それを決定づけるような記述を目にしました。
明治5年の大小区制では、幾つかの藩政村を併せて1つの小区にしているのが一般的です。しかし、人口の多い村は単独で1つの小区になりました。石巻村、門脇村、湊村は人口の多い村なので、それぞれ単独で1つの小区です。牡鹿郡は第13大区で、その1小区は石巻村。2小区は門脇村。4小区は湊村です。ですから、1小区の欄には石巻村、2小区の欄には門脇村、4小区の欄には湊村と記載すれば済むことなのに、1小区「石巻村、石巻村の内 墨廼江、石巻村の内 袋谷地」、2小区「門脇村、門脇村の内 釜」、4小区「湊村、湊村の内 井内」と書いてあります。このことから、石巻村は石巻本体墨廼江袋谷地に、門脇村は門脇本体に、湊村は湊村本体井内に区分される慣習があったのではないかと推測できます。石巻村の本体は共武政表で言うところの石巻港駅、門脇村の本体は門脇港に当たると考えて良いのではないでしょうか。
井内が湊村と分れて稲井村になったのは明治22年のことですが、湊村はそれ以前から湊本体地区と井内地区(磯田を包含)に分けて扱う慣習もあったということになるでしょう。明治8年共武政表での人口2,599人は井内を含み、日本地誌提要の人口2,221人は井内を含まないものと考えてはいかがでしょう。たまには墨廼江も呑んで下さい。

[68958]YTさん
「市坊を置かず」とは大区小区制が制定されていない地域で、小区に所属する町村の数が確定していなかったのだと理解しています。
でも、東北地方で「市坊を置かず」と記載された名邑は、羽前の長瀞、羽後の大曲および百三段新屋の3名邑ですが、それらは大区小区に組みこまれていたのではないですか?。鹿児島とか仙台のような大城下町以外のありふれた小名邑においては、市坊と大小区制の関連は無いのではないかと感じています。明確な裏づけの無い、ただの勘ですが。長瀞、大曲、百三段新屋を結びつける共通点って何だろう。新たな謎ですね。
[68973] 2009年 3月 22日(日)21:20:31千本桜 さん
Re:日本地誌提要の「名邑」で抜けた名邑中の名邑はどこか?
[68970]白桃さん
さて皆様、予告通りクイズを行いますので、御用とお急ぎでない方はお付き合いください。
今夜もブンブンなんだから
[68954] 2009年 3月 21日(土)16:16:34千本桜 さん
名邑・市坊
[68890]YTさん
YTさんの書込みを引用
名邑市坊戸口人口備考
石巻122,23410,325宮城県支庁
湊村65092,221石巻より北上川を隔つ
教えてください。名邑の人口とは何なのか分らなくなってきました。上記YTさんの書込みからは、湊村には6つの市坊があって、その人口が2,221人とも受取れるのですが、名邑の人口とは市坊だけの人口なのでしょうか?、それとも村落部を含んだ自治村全域のものなのでしょうか。
市坊とは日常的に使われない言葉ですが、私なりに次のように解釈していました。「市坊」とは、多くの人が集まる賑やかな町場で、村落とは異なる場所。つまり、市街地という言葉に置き換えることができる場所で、しかも、「お上」が認定?した町場を指すのかな?と思っていました。上手く伝えられなくて済みません。
そのような考えを基に、幾つかの名邑の市坊を想定してみました。間違っていたらごめんなさい。
名邑 旧国 郡 戸口 人口 市坊・備考
棚倉 磐城 白河郡 476 2,250 市坊4,伊野上・伊野下2村を総称す
角田 磐城 伊具郡 258 1,575 市坊3
桑折 岩代 伊達郡 536 2,333 市坊3
棚倉の市坊は新町古町鉄炮町下町の4町と想定しました。現在の住所は大字名「棚倉」を冠し、棚倉町棚倉字新町、棚倉町棚倉字古町、棚倉町棚倉字鉄炮町、棚倉町棚倉字下町となっています。
角田の市坊は本町仲町天神町の3町と想定しました。現在の住所は大字名「角田」を冠して角田市角田字町となっています。本町、仲町、天神町は正式住所ではありませんが、今でも通称名として頻用されています。
桑折の市坊は西町本町北町の3町と想定しました。現在の住所は大字なしの桑折町字西町、桑折町字本町、桑折町字北町となっています。
勘違いしているかもしれませんが、このようにして市坊を特定してみると、城下の武家屋敷は市坊に含まれないのかな?、武家屋敷の住人は名邑の人口に含まれないのかな?などの疑問が涌いてきました。いずれにしても市坊とは何なのか?。名邑の人口は市坊だけの人口か?。それとも武家町と町人町の双方を含んだ市街地全体の人口か?などなど、思うこと多々あります。ご存知でしたら教えてください。

[68897]白桃さん
井内・磯田地区の人口が2,221人だったという説は成り立たないでしょうか。
一瞬、ドキッとしました。でも、やはり無理だと思うのです。角川地名大辞典によれば石巻市大字井内(旧湊村の井内・磯田地区)の人口は886人です。この人口は、稲井町が石巻市に合併した昭和40年代のものか、辞典が編集された昭和50年代のものか定かではありません。しかし、これから推測すると明治6年頃の人口は200人か300人程度だったと考えられます。

明治22年の人口が6,440人(内務省告示)ですが、これはかなりの人口規模です。もちろん8村プラス井内・磯田ですので、それぐらいは当然と言えば当然かもしれませんが、稲井村の中心は井内(「いうち」ではなく「いない」)ですよね。
稲井村の中心(役場所在地)は井内ですが、井内は井内でも湊村から分かれた井内・磯田地区、つまり大字井内ではなく、大字大瓜の字井内です。昭和20年代に測量された5万分の1地形図を見てみます。この辺りを川が流れています。たぶん、真野川の旧流路だと思います。左岸(地図上では右側)には大字井内の集落、右岸には大字大瓜字井内の集落があります。どちらも町場と言うには寂しすぎる集落で、名邑に値しない村落です。YTさんは、明治6年1月1日調「名邑」の人口 (4)の中で、湊村の市坊が6と書いておられます。井内には市坊らしきものが見当たりませんから、市坊6、人口2,221の湊村は井内・磯田のことではなさそうです。

ところで、日本地誌提要になぜ採用されなかったかわからない「名邑」がいくつかありますが、その最たる名邑だと私が思っているところについて、YTさんの連載が終わりましたらクイズ形式で言及したいと思います。
たぶん、高度なひねりが入ったクイズになりそうですね。クイズには差障りがないと思いますので、深く考えずにパッと見て「何でここが名邑に採用されないの?」と感じたものをいくつか発表します。○河国の○原、同じく○宮(現在名は○○宮)、相○国の○塚、上○国の○原、下○国の○田、美○国の○治○、○野国の○川、越○国の○附など結構ありますね。
[68874] 2009年 3月 19日(木)06:51:09千本桜 さん
湊村
[68834]白桃さん
「日本地誌提要」の湊村と「共武政表」の湊村は同一のものかな・・・???
同一の村ではないかと思います。

でも、それなら何故「日本地誌提要」の湊村の人口が2,221人になっているのか。(湊村は、明治22年に石巻町と稲井村に分割されていますが、これと関連するのか・・・)
関連の有無について確かなことは分りませんが、あれこれ推察してみます。
関連があるとする場合の根拠。明治22年に湊村(井内・磯田地区を除く)は石巻村、門脇村と合併して石巻町になり、石巻町大字湊となりました。同年、湊村の井内・磯田地区は大瓜村、真野村などと合併して稲井村になり、稲井村大字井内となりました。こうしてみると、井内は元々湊村に属していたように見受けられますが、大瓜村にも湊村井内に隣接して井内という字があり、さらに江戸時代には、湊村にも大瓜村にも属さない別個の井内村(湊村井内・磯田と大瓜村井内の区域か?)があったようなのです。推測するに、湊村の井内・磯田地区は時に、湊村本体とは別の地域として取扱われていた可能性が無きにしも非ずです。すると、「日本地誌提要」の湊村の人口2,221人は、井内・磯田地区を除いた人口ではないかという推測が生まれます。勿論あくまでも推測です。
次に、関連がないとする場合の根拠です。もともと「日本地誌提要」の人口は、町場・市街地の人口統計だとします。思うに、井内・磯田地区は明治の始めごろ、町場・市街地を形成していたとは思えない。ですから、はじめから人口集計の対象外区域であったとします。すると、湊村から井内・磯田地区を除外しても人口数値は変わらないことになります。

また、石巻村の「港駅」以外の人口と門脇村の「港」以外の人口はどこに行ってしまったのか・・・???
村落部の人口は最初から問題視されていなかったのではないかと考えます。あくまでも推測ですが・・・。

話は変わります。石巻も門脇も湊も人口が増えて市街化が進み、住居表示実施区域が増えて大字区域が狭まっています。大字石巻の居住区域はすべて住居表示が実施されて、住所の上からは大字石巻が消滅しています。大字湊の居住区域もほとんど住居表示され、牧山一帯の非居住地区この辺りに湊字滝尻などのように大字名+小字名の住所形式が残っているだけです。平成の大合併で石巻市は周辺町と合併し、新しい石巻市になりました。もし、この時、「石巻市」ではなく「東宮城市」という市名になったと仮定します。すると、石巻市湊字滝尻の住所はどのように変わっていたでしょう。下記の中からお好みのものをお選びください。
1・東宮城市石巻町湊字滝尻
2・東宮城市石巻湊字滝尻
3・東宮城市湊字滝尻
4・東宮城市石巻町字滝尻
5・東宮城市石巻字滝尻
6・東宮城市字滝尻
私は1、2、3のいずれかを選びます。特に3が好みです。でも、断じて4、5は選びません。それなのに・・・。
[68681] 2009年 2月 23日(月)22:11:16【1】千本桜 さん
ホテルがない19万人圏域の中心都市
平成18年事業所・企業統計調査結果によると、宮城県で宿泊業の従業者数が最も多いのは仙台市で、その後に鳴子温泉郷を抱える大崎市、名勝「松島」を抱える松島町が続いています。では、従業者数が少ないのはどこか。県内36市町村のうち、下位の10町村を抜き出します。

順位市町村名従業者数事業所数
27位丸森町337
28位富谷町312
29位美里町308
30位涌谷町276
31位山元町274
32位七ヶ宿町126
33位大郷町112
34位大衡村84
35位色麻町42
36位大河原町31
案の定、マイナーな自治体が名を連ねる結果となりましたが、最下位はなんと大河原町。従業者3人の旅館が1軒あるだけ。これで19万人圏域の中核って、♪ほんきかしら。どうしてこの町にホテルが立地しないのか、その原因が今も分らない。

「従業員3人」を「従業者3人」に訂正しました
[68664] 2009年 2月 21日(土)20:20:40千本桜 さん
飲食業の集積
柴田町・村田町・大河原町合併協議会が実施した住民アンケート調査によると、柴田町・村田町では「レストランや喫茶店」の快適性に不満を感じている住民が多く、相対的に大河原町では不満度が低いという結果が出ています。飲食店の数や種類の少なさからくる不満だと思います。そこで、平成18年事業所・企業統計調査から仙南地域2市7町の「一般飲食業+遊興飲食業」の従業者数および事業所数を抜き出し、平成17年国勢調査人口で除して人口千人当たりの飲食業従業者数を算出してみました。

市町名従業者数事業所数人口人口千人当たりの従業者数
大河原町86915123,33537
白石市73918739,49219
柴田町64514139,80916
角田市53313633,19916
蔵王町2716313,31820
川崎町1523610,58314
村田町1473712,74012
丸森町1003716,7926
七ヶ宿町3681,87119
人口では4番目の大河原町が飲食業従業者数ではトップに躍り出ます。圏域における中心性のあらわれだとは思いますが、事業所統計を見るたびに思うのは大河原町の宿泊業の貧弱さです。宿泊業の事業所数1、従業者数3人って、19万人圏域の中心にしてはお粗末で歪な構造。最近、郊外型ホテルチェーンとして成長しているホテルルートインなどが進出してくれると嬉しいのですが・・・。
[67800] 2008年 12月 31日(水)19:48:36千本桜 さん
この一年
2006年の暮れに、「この一年」と題して下記の書き込みをしました。
この一年、私の中で大きな比重を占めていた物の一つに、とある町が合併に向けて決定した町名・字名の取扱問題が有ります。
今年もやっぱり、私の中で大きな比重を占めていたのは この問題です。O町絡みの合併協議会は平成17年に破談解散しましたが、また再び同じ枠組みで再開して協議進行中です。市名は「柴田市」に決定しました。さあ、市名の後に続く住所はどうなるのでしょう。心配です。字名の取扱いについては、先の合併協が結審したものをそのまま生かす考えでいるような空気がひたひたと伝わってきます。もう、タイムリミットです。合併したならO町域の大字は嘘っぱちになってしまいそうで怖い。書込みしないでいようと思いましたが、自分の考えを再確認する意味も含めて、許せないO町の大字改悪というHPを作りました。いま作り終えたばかりの、できたてほやほやです。もう直ぐ今年も終わりですね。では皆様、ほやほやの新年をお迎えください。ほやほや。
[67514] 2008年 12月 5日(金)20:49:38千本桜 さん
分岐の注記
[67502]Issie さん
「ニューエスト」の記載も照らし合わせると,まだ記載されているかもしれませんね。

2万5千の分岐を見つけました。集落は消滅しても「分岐」の名称は残っています。推測ですが、図葉名が「分岐」ですから、集落がなくなっても「分岐」の注記を消すことができない(消せば、図葉名を変更しなければならない)。または、注記密度が疎らですから残しておいても差し支えない。あるいは、場地名としての必要性が高い。そんなこんなの理由があったのかな、と思います。ヤフー地図に記載された「分岐」は、地理院2.5万が基になっていると考えます。
[67497] 2008年 12月 4日(木)21:00:48千本桜 さん
二万五千分の一地形図「分岐」
[67495]ペーロケ さん
その中でも極めつけが「分岐」という図名。ウォッ地図で見る限り、「分岐」という集落が見当たらず、それどころか、集落というものが一つも見当たらないんです。名づけられそうな著名な山岳や名所なども無さそうで、名前に困ったのでしょうか。図の北の方に、どこにでもあるような川の分岐が見られます。本当に「単に川が分岐しているから」という単純な理由で分岐と付けられたんでしょうか?謎です。

川の形状をもって「分岐」という図名にしたのではなく、七ノ沢が武利川に合流する辺りの固有場地名「分岐」をもって図名にしたものと思われます。ウォッ地図には記載されていませんが、市販の二万五千分の一地形図には「分岐」という場地名が記載されている筈です。「筈です」というのは、手元に二万五千分の一地形図「分岐」が無いので確認できないからです。
[67486] 2008年 12月 3日(水)03:27:56【1】千本桜 さん
♪今夜は離さない
♪「今夜は離さない」じゃなくて、♪「今夜は眠れない」の心境です。♪そんな夜もたまにゃなァいいさ・・・よし!イクゾー

[67485]いっちゃん さん
利尻・礼文
自治体名ではないけれど、カップリング率の高さでは「巨釜・半造」、「竜串・見残し」など、♪「離れなれない~」という感じ。

後で気がつきました。「離れなれない~」って変ですね。「離れられない~」に訂正します。
[67479] 2008年 12月 2日(火)21:21:59【1】千本桜 さん
櫻の園
ただいま、ひどく落ち込み中です。行政は字(あざ)の問題を理解していない様子です。いや、逃げているのです。町史なりなんなり読んで勉強し、自信を持って住民への説明説得をすれば済むことなのに、それをしない。行政は説得できるだけの自信を身につけるべきです。勉強すべきです。とても悲しい。一目千本桜の花吹雪を見て気持ちを紛らわせています。映画「櫻の園」のHPに、ちょっとだけ一目千本桜の動画が流れます。

「自身」を「自信」に訂正しました。
[67442] 2008年 11月 29日(土)21:27:26千本桜 さん
意味の無いものをぶら下げるについて考える
モータースポーツが好きな人ならスポーツランドSUGOをご存知だろうと思います。住所は「村田町大字菅生字狢石6-1」です。有名な施設ですから、番地がなくても「宮城県村田町菅生 スポーツランド菅生」で物は配達されるはずです。友人(職業は配達業)の話だとスポーツランド菅生は、住所を「村田町菅生6-1」と書いて良いと言っているそうです。そんな馬鹿なと思いHPを見てみると、やはり「村田町菅生6-1」になっている。あ~ぁ、スポーツランド菅生さんも「わがまま」だな。もちろん、当人は「わがまま」しているつもりはないでしょう。悪意もないでしょう。でも、住所の書き方としては「わがまま&おまぬけ」です。なぜ「わがまま」かというと、大字菅生には字狢石(むじないし)の他に、字町東裏、字宮脇などいくつもの小字があって、それぞれに6番地があるからです。字狢石6番地のスポーツランド菅生さんは、字町東裏6番地の○○さんや字宮脇6番地の○○さんの存在を無視していることになります。それが「わがまま」です。また、なぜ「おまぬけ」なのかというと、6-1という番地は小字に対して振られたものだから字狢石を省略したら6-1も効力を失うはずです。小字起番地帯では大字の菅生に6-1をぶら下げても意味がありません。意味のないものをぶら下げているスポーツランド菅生さんが、私には「おまぬけ」に見えてしょうがない。同じように意味のないものをぶら下げるなら、「ぷらぷら人形」をぶら下げてワンマンショーを演じるほうが害はないと思う。
[67314] 2008年 11月 21日(金)02:53:36千本桜 さん
再び、合併協の「字名取扱い」の何がダメなのかについて。詳細地図付き・その3。
[67265]の続きです。
現行大河原町は6大字(金ヶ瀬、堤、新寺、小山田、福田、大谷)と大字なしの区域から成り立っています。大字なしは、大字大河原の廃止で大字なしになった区域、大谷から分立して大字なしになった区域、金ヶ瀬から分立して大字なしになった区域に分類できます。柴田市に移行する際は、大字大河原の廃止で大字なしになった区域にのみ「大河原」を付せば良いのですが、立案者は大谷地区および金ヶ瀬地区に分布する大字なしにも「大河原」を付してしまいました。その結果、このように大谷字○○と大河原字○○の境界が入組んでしまいました。立案者はこの入組みを解消するために、大谷を大河原に統合して消滅させることにしました。大谷が消えてなくなれば、大谷字○○と大河原字○○の境界入組みも解消するという考えです。

結審事項2-1・「大谷字○○」の名称は「大河原字○○」に変更する。を検証します。
これは、大谷を大河原に統合して消滅させることを意味します。合併協議会は、「大谷字○○」を「大河原字○○」に変更する理由として次の2つを挙げています。
1・大河原と大谷の境界が入組んで、市街地が一体化している。
2・住民から変更要望が出ている。
しかし、2つとも理由になりません。元来、大河原と大谷は白石川で分断されて境界の入組みはありません。入組んでいないものを入組ませておいて、これではだめだから大谷を消しますって、大谷はとんだとばっちりを受けたものです。また、住民は住所から大谷を外して欲しいと要望しても、大谷を大河原に改めてくれと言うはずがありません。大字大河原が廃止されて50年。ほとんどの住民は大字大河原が存在したことを知りません。立案者自身も知らなかった可能性があります。住民には大河原という名の字意識がないのですから、大河原字○○に変えてくれと要望するはずがありません。立案者が勝手に大谷を大河原に変えることにしたのです。住所から大谷を外すことと、大谷を大河原に変えることでは大きな違いがあります。では、立案者は何を根拠に大河原を付すことにしたのか。合併協議会は現行町名が大河原であることを理由に、大字なしの字の前に大河原を付すと説明しています。しかし、大字なしの字の前にだけ付して、6大字(金ヶ瀬、堤、新寺、小山田、福田、大谷)の前には付されない大河原が、現行町名の大河原であるはずがありません。立案者は、「大河原」という名称の確たる定義を持たないまま事を進めたのではないかと思います。では、大谷字○○の名称を大河原字○○に変更するとどうなるのか。文章で伝えるより地図で伝えましょう。地図をご覧下さい。境界の入組みが消えて、すっきりした大字区分になりました。しかし、大谷は大河原に呑込まれて消滅します。藩政村を継承した大字が他の大字に呑込まれて消滅する例は、市制町村制が始まって以来、宮城県では例がありません。

結審事項2-2・「大谷字下川原」及び「大谷字中川原」は「大河原大谷字下川原」及び「大河原大谷字中川原」に変更する。を検証します。
合併協議会は「大谷字○○」の名称は「大河原字○○」に変更するとした上で、ただし「大谷字下川原」及び「大谷字中川原」は「大河原大谷字下川原」及び「大河原大谷字中川原」に変更する。と決議しました。字の同名を回避するためです。大河原町には大谷字山崎福田字山崎金ヶ瀬字町大字なし字町など16種類の同名小字があります。これらの同名小字は、字の前に付される大字名の違いで場所が特定できる仕組みになっています。下川原という小字は町内に3ヶ所あります。大字なし字下川原、大谷字下川原、金ヶ瀬字下川原の3ヶ所です。
自治体名大字名小字名
A・大河原町字下川原
B・大河原町大谷字下川原
C・大河原町金ヶ瀬字下川原
立案者はまず、「大河原町字○○」は字の前に「大河原」を付すとしました。これによって、Aの大字なし字下川原が「大河原字下川原」になりました。次に、「大谷字○○」は「大河原字○○」に改めるとしました。これによって、Bの大谷字下川原も「大河原字下川原」になりました。AとBは場所が異なるのに同じ住所になりました。これではまずいので、Bの大谷字下川原を「大河原大谷字下川原」にしますよ、ということです。中川原という小字も全く同じ状況に置かれています。大谷を大河原に改めることで、無益な字の変更が誘発されようとしています。それにしても「大河原大谷字下川原」とは、随分ずさんな立案だと思いませんか。「字」の位置が変でしょう。状況から判断すれば「大河原」と「大谷」の間に「字」を置き、「大河原字大谷下川原」にするのが適切でしょう。「大河原大谷」と「下川原」の間に「字」を置くということは、「大河原大谷」なる新たな大字を新設することです。すると、地域区分はどのように変化するのか。文章で伝えるより地図で伝えましょう。地図をご覧下さい。周りを全部「大河原」にしておいて、そこだけぽつんと「大河原大谷」です。字下川原の住民は、この異常事態に気付いていません。実施されて気付いた時には手遅れです。

こうして図形にして見ると、字の区域変更と名称決定がいかにずさんであったかが見えてくるでしょう。ただただ事務的に字(あざ)をいじくっているだけです。区域変更がもたらす地域の変化をイメージしていないのです。想像力の欠如でしょう。合併協議会による字の改悪はさらに続きます。大谷字○○を大河原○○に変えたように、金ヶ瀬字丑越を大河原字丑越に変更する案が提案されたのです。それについては項を改めて後日書き込みます。
[67265] 2008年 11月 13日(木)08:19:50千本桜 さん
再び、合併協の「字名取扱い」の何がダメなのかについて。詳細地図付き・その2。
[67208]の続きです。
大河原町には、このように大字名を付す区域と付さない区域が混在しています。また、昭和31年に大字大河原を廃止したことにより、現在の大河原町には「大河原」という字(あざ)がありません。合併して大河原町が消滅すると、「大河原」という住所地名もなくなります。「大字なし」の区域をどのように整理し、どこに「大河原」の名を残して柴田市に移行するかが課題になります。私は字の履歴を根拠に、次のように変更するのが適切だと考えます。
1・大字大河原の廃止で「大字なし」になった字の前には 「大河原」を付し、「柴田市大河原字○○」とする。
2・大谷から分立して「大字なし」になった字の前には 「大谷」を付し、「柴田市大谷字○○」とする。
3・金ヶ瀬から分立して「大字なし」になった字の前には 「金ヶ瀬」を付し、「柴田市金ヶ瀬字○○」とする。以上で字(あざ)の区域と名称の変更は完結します。何の問題も起きません。この案を図化してみました。地図をご覧下さい

ところが、合併協議会の考えは異なっていました。平成17年に破談解散した柴田町・村田町・大河原町合併協議会は、大河原町に係る字の区域と名称の取扱いを次のように結審しています。
1・「大河原町字○○」の名称は字の前に「大河原」を付す。
2・「大谷字○○」の名称は「大河原字○○」に変更する。ただし、「大谷字下川原」及び「大谷字中川原」は「大河原大谷字下川原」及び「大河原大谷字中川原」に変更する。
3・「金ヶ瀬字丑越」及び「金ヶ瀬字富田」は「大河原字丑越」及び「大河原字富田」に変更する。
4・その他は現行のとおりとする。
これを見て、ある疑念が涌いてきました。これは、地域の大字変遷史を知らない人たち、または意識しない人たちが立案し、審議し、結審に至らしめたものではないかという疑念です。地域の大字変遷史を意識し、字の地理的分布を意識する人なら、1・の「大河原町字○○の名称は字の前に大河原を付す」という案を立てたりしないはずです。歴史的にも地理的にも不具合が生じるのが明白だからです。2・の「大谷字○○の名称は大河原字○○に変更する」や「大谷字下川原は大河原大谷字下川原に変更する」および、3・の「金ヶ瀬字丑越は大河原字丑越に変更する」などは、その不具合を隠すために考え出された無益な字の変更です。

結審事項1・「大河原町字○○」の名称は字の前に「大河原」を付す。を検証します。
まず、ほとんどの住民は「大河原町字○○の名称は字の前に大河原を付す」の意味を理解していません。理解していないのですから、これが実施されると地域がどのように変わるのか想像できません。想像できないのですから、誰も合併協議会の結審に異議を唱えません。「大河原町字○○」の区域には町人口の59%に相当する13,800人が住んでいます。あるとき30名ほどの住民を前に、「大河原町字○○」の区域に住んでいる方はいらっしゃいますか」と質問する機会を得ました。相手はいわゆる地域における知識層の方々です。でも、誰も挙手をしませんでした。「大河原町字○○」の意味が分らないから挙手できないのです。行政は「議会だより」や「広報」で結審事項を住民に知らせていますが、「大河原町字○○」などの字句を用いた文章では伝わらないことを知るべきです。字の区域変更と名称変更を知らせるには、系統図や地図を添付する必要があると私は思います。
「大河原町字○○」とは、「大河原町字町」「大河原町字山崎町」「大河原町字南平」などのように、「字」の前に大字名を付さない字を指します。つまり「大字なし」の区域です。「大字なし」は、大字大河原の廃止で「大字なし」になった区域、大谷から分立して「大字なし」になった区域、金ヶ瀬から分立して「大字なし」になった区域に分類できます。かつては金ヶ瀬字下川原と呼ばれていた区域が「大字なし」の字南平になったのは、たかだか十数年前のことです。まだ金ヶ瀬の記憶を引きずっている区域です。しかし、字名の取扱い立案者はそのような分類をせずに、全部まとめて「大河原」を付すことにしました。歴史と地理の背景を無視したカパカパに乾いた事務的発想による処置だと思います。「大河原町字○○の名称は字の前に大河原を付す」と、どうなるのか。文章で伝えるより地図で伝えましょう。地図をご覧下さい。「大谷字○○」と「大河原字○○」が入乱れてしまいました。このままでは柴田市に引継げません。字名の取扱い立案者はこの不具合をどのような方法で解決しょうとしたのか。それについては項をあらためて後日書き込みます。
[67208] 2008年 11月 6日(木)10:19:55千本桜 さん
再び、合併協の「字名取扱い」の何がダメなのかについて。詳細地図付き・その1。
「柴田町、村田町、大河原町合併協議会」は3年前に破談解散しましたが、また同じ枠組みで協議を再開しています。合併に漕ぎつけるかどうかは、私には分かりません。ただ、合併するとなった場合、協議事項の「字名の取扱い」については慎重に熟慮した上で決議してもらいたいと思っています。3年前に解散した合併協の決議をそのまま引継いではいけません。あんな「いい加減」な「字名の取扱い」を容認することはできません。もう一度、あの「字名の取扱い」の何がいけないのかを振り返ってみましょう。まずは、どのような経緯をたどって現在の大字区分になったのかを検証します。こういうことは文言で伝えるには無理があります。地図を付しますので参照いただければ幸です。

江戸期から明治22年まで、現在の大河原町域は平、堤、新寺、小山田、福田、大河原、大谷の7村に分かれていました。これらの村は藩政村と呼ばれています。このうち、街道沿いの平村には「金ヶ瀬宿」、大河原村には「大河原宿」が設けられて町場を形成していました。現在の地形図に藩政村の境界を描き入れました。地図をご覧下さい

明治22年4月、市制・町村制が施行されて近代的な地方制度が確立します。この時、平、堤、新寺の3村が合併して金ヶ瀬村になり、小山田、福田、大河原、大谷の4村が合併して大河原町になりました。合併して消滅する旧村は大字として新町村に引継がれました。大字とは明治22年まで存続した村のことです。地図に当時の大字区分を描き入れました。地図をご覧下さい

昭和31年、大河原町と金ヶ瀬村が合併して現行の大河原町が成立しました。この時、次の大字改編がありました。
1・大字の名称は「大字」の字句を省いて表記する。
2・大字平を金ヶ瀬に改める。
3・大字大河原を廃止する。
以上の3点です。この中で不可解なのは、大字大河原を廃止してその区域を「大字なし」にしたことです。本来、「大字なし」は藩政村が単独で町村制下の町村に移行した自治体に見られるものでしょう。例えば、亘理郡小堤村が単独で町村制下の町になった亘理町は大字を編成しませんでした。亘理町とは小堤村のことですから大字小堤を置く必要がなかったのです。同例に、藩政村馬場谷地村が単独で町村制の町になった涌谷町や、藩政村不動堂村が単独で町村制の村になった不動堂村などがあります。ですから、いまでも亘理町の旧小堤村、涌谷町の旧馬場谷地村、美里町の旧不動堂村などの区域は「大字なし」になっています。しかし、大河原町は大河原村が単独で町村制下の町になったわけではありません。小山田、福田、大河原、大谷4村の合体ですから、大字小山田、大字福田、大字大谷と共に大字大河原があって当然です。それなのに、昭和の合併時になって大字大河原だけを廃止したのはなぜだろう。町名と大字名が同名なら、大字名を省いても支障がないと思ったからだろうか。しかし、他の自治体では角田市角田村田町村田利府町利府富谷町富谷女川町女川浜のように市町村と同名の大字を廃止しないでいるところをみると、「町名と同名だから」だけでは済まされない何かがありそうです。私はそこに、当時の字取扱い担当者の公平性に欠けた地域観を見る思いがします。大字大河原の区域は大字名を省略して「大河原町字○○」と書いていいですよ。でも、他の大字に属する区域は「大河原町小山田字○○」のように、「町」と「字」の間にちゃんと大字名を付して書きなさいと言うのですから、これは差別でしょう。大河原町と同じように、昭和の合併時に白石市も大字白石本郷を廃止してその区域を「大字なし」にしています。昭和の合併時に特定の大字だけを廃止したのは、宮城県内では大河原町と白石市だけです。地図に当時の大字区分を描き入れました。地図をご覧下さい。そこで皆様にお尋ねします。大河原町と同じように昭和の合併時に特定の大字だけを廃止し、その区域を「大字なし」にした市町村をご存知でしたら教えてください。

大字大河原の廃止で「大字なし」が出現した大河原町では、その後も別の理由で「大字なし」が発生し、大谷、金ヶ瀬地区にも拡散しています。大河原町では土地区画整理事業が済んで地番整理をすると、なぜか大字名を外して「大字なし」にしてしまいます。例えば、大谷字高田と大谷字砂田の区域を地番整理して字高砂町としました。住所は大字名を付さない大河原町字高砂町になりました。でも、地番整理から外れた区域は従前どおり大字名を付して大河原町大谷字西原前と書かなければなりません。金ヶ瀬字板の前などの区域を区画整理して生まれた字緑町は、金ヶ瀬を付さない大河原町字緑町になりました。しかし、隣接する字丑越は大河原町金ヶ瀬字丑越のままです。このような字施策により、大字名を付さない区域は新しくて進んだ地区、大字名を付す区域は古くて遅れた地区というイメージが生まれてきました。西原前や丑越には、住所から大谷、金ヶ瀬を外してくれと要望する住民もいます。本当は住所の表記形式に問題があるのに、いつしか大谷、金ヶ瀬という地名が嫌われ者になってしまいました。他の市町村でも町名地番整理をしていますが、大字名を外すことはしません。例えば、角田市角田字町尻ほかを区画整理して豊町という字にしましたが、住所は角田を付したまま角田市角田字豊町にしています。それなのに、大河原町はどうしてこんな差別的偏見を生む字施策を続けてきたのでしょう。大字区域の中に「大字なし」が散在して非常に複雑です。地図に現況大字区分を描き入れました。地図をご覧下さい。そこで皆様にお尋ねします。大河原町と同じように町名地番整理区域を「大字なし」にしたために、大字区域の中に多数の「大字なし」が虫食い状態に散らばっている市町村をご存知でしたら教えてください。

さて、本題はここからです。大河原町はこのように複雑な大字区分をどのように整理して柴田市に引継ごうとしたでしょうか。このことについては項をあらためて後日書き込みます。
[67163] 2008年 10月 30日(木)08:31:33千本桜 さん
会津大内宿
[67150]hmt さん
本流(阿賀川)と支流(只見川)の関係が理解できました。ありがとうございました。hmtさんの旅行ルートを想像してみました。東北自動車道の白河ICから甲子道路を通って下郷に抜け、塔の弗、大内宿、鶴ヶ城、飯盛山を観光されたのではないでしょうか。お泊りは芦ノ牧温泉か東山温泉のような気がします。土産品を売る商店街と化した大内宿はいかがでしたか?。私は、まだ観光客が入り込まない無名時分の大内集落を見たことがあるのですが、あまりの変貌ぶりに驚いてしまいました。がっかりもしましたが、他に産業のない山間集落の生きる道かと、変に納得したりもしました。
[67134] 2008年 10月 27日(月)06:38:24千本桜 さん
町・字の区域及び名称の取扱い・岩出山町の場合
岩出山町は七つの大字(上山里、下山里、池月、下一栗、上野目、下野目、南沢)と一つの大字なし(旧岩出山村の区域)から成り立っています。大字地区の住所は「岩出山町上山里字○○」のように「町」と「字」の間に大字名を付しますが、大字なし地区は「岩出山町字○○」のように「町」と「字」が直結していて大字名がありません。地元住民が呼びあう「岩出山」とは、この大字なし地区を指します。池月、上山里、下山里などの住民は、この地区に行くことを「岩出山に行く」と言います。しかし、上山里や下山里に行く時に「岩出山に行く」と言う町民はいないでしょう。ところが、岩出山町が大崎市に移行する際に「上山里」と「下山里」が「岩出山」に化けてしまいました。旧来の「岩出山」から離れた場所に、もう一つの「岩出山」が出現してしまったのです。
「大字なし」の地区が「岩出山」になるのは当然として、「上山里」と「下山里」までもが「岩出山」になってしまったのには驚きです。「岩出山上山里」「岩出山下山里」となるところを、「上山里」「下山里」が抹消されてしまったのですね。あくまでも推測ですが、住民が「山里」の地名を嫌って削除を望んだからでしょうか。でも、消しっぱなしは良くないですね。なぜなら、地元住民はその場所を「岩出山」とは呼ばないのですから。
でも、こういうことって文言で伝えるのは難しいですね。イメージが涌かないでしょう。そこで地図に表わしてみましたのでご覧下さい。岩出山町に限らず、合併に伴う全国各地の町・字の区域及び名称の取扱いをみていると、なんだか不安になってくるのです。行政は「住民の意向」を隠れ蓑にしているような気がしてならない。住民の多くは地域の全体像を見ずに、自分に係わる住所だけを気にします。住民の望みを取り入れるのは大事なことでしょう。しかし、それを実施するとどうなるか。「このようになりますよ」ということを住民に説明しているのだろうか。区域変更を伴う字名変更に付いては、地図を通して住民説明しないと文言だけでは伝わらないのだと思います。市町村に対しては、国県がもっと指導すべきではないでしょうか。
[67051] 2008年 10月 18日(土)09:12:38千本桜 さん
道路標識、鉄道ルート、小松みどり、大都会米沢
[67041] クハ221-1 さん
岐阜県内では「↑大津」という表示は全く出てきません(滋賀県に入るとようやく「↑大津 米原」となります)。
[67049]geo さん
ふと思いましたが,「↑大津 米原市街」ではないのですね。国道21号を滋賀県内に入ると米原市なので。
現在の道路標識設置基準では、「仙台」は行政上の仙台市を指し、「仙台まで○○キロ」は仙台市役所までの距離を指すことになっています。でも、この基準に私はなじめません。道路案内板はドライバーが「とっさ」に判断するものでしょう。私の場合、「仙台」の文字を見て「とっさ」に思い浮かべるのは仙台市街であり、しかも市街地の首部です。私の感覚と国土交通省の指針には深くて暗い河があるのですね。それはさておき、指針に従えば、国道21号を西に走行して滋賀県に入ると米原市ですから、直進方向に「↑米原」は表示できなくなるはずです。あくまでも指針ですから、実際の運用は担当者次第なのでしょうが・・・。ところで、国道21号が国道8号に接続する地点の案内板には、どのような行先地名が書いてあるのでしょうか。左折「←大津 彦根」、右折「福井 長浜→」でしょうか。

[67045]笠津前浜 さん
滋賀県内の国道21号の管理は彦根維持出張所であることも関係しているのかな。
国道維持出張所の立地が行先地名の表示に影響するかは定かではありませんが、ひとつ思い当たるのは、仙台市内の国道45号における直進「↑宮古」の表示です。気仙沼、大船渡、釜石などをさておいて、「宮古」を表示するのは飛び過ぎだと感じるのですが、45号を管理する三陸国道事務所が宮古に所在するからだろうか?などと考えることもあります。

[67023]YSK さん
名掛丁(ながけちょう)を経て
重箱の隅を突っつくようですが、名掛丁は濁らずに「なかけちょう」ですよね。東北本線のルートと仙台市街の関係はYSKさんの御説の通りだと思います。駅東(駅裏)にも城下町の一角をなした小田原金剛院丁、鉄砲町、連坊小路などの町並みが広がっていますからね。ところで、一般的には既存の市街地を避けて鉄道が敷かれたわけですが、群馬県桐生は見事に既存市街地を分断して両毛線が走っています。両毛線が開通した頃は既に桐生市街の骨格(桐生新町と新宿村の連担市街地)ができあがっていたはずで、目抜き通り(現在の本町商店街)を分断してレールが敷かれた珍しいケースだと思います。両毛線に乗っていて心が一番ときめいたのは、桐生本町通りの踏み切りに差し掛かるときでした。車窓に額を押し付けて本町通の賑わいを見つめたものです。

[67012]白桃 さん
都会は緑のインクで市名を塗りつぶしております。(これは、オーナーだけが知っております。)
なんだか意味は分りませんが、オーナーゆかりの都会は金沢と小松ですから、金沢碧と小松みどり にしておきます。

[67010]般若堂そんぴん さん
吉林市出身の中国人留学生によれば,「米沢はムラです」とのことでした.
チーリンさんの話に悲観しないで。米沢は間違いなくシティです。米沢の市街地って地図(20万分の1程度の)に表わすと、人口から受けるイメージよりも大きく表わされますよね。かれこれ50年近く前のことですが、当時の地図上の市街地表示は福島より米沢の方が大きかったような・・・。二つ三つ年下の友達に地図を見せて、福島と米沢ではどっちの人口が多い?と質問したのを憶えています。いま思えば酷な話ですね。相手は地理に関心があるとは思えない普通の小学生(たぶん2年生くらいだった)。福島と米沢の人口を比較させられたって、ちっとも面白くなかったと思うのですよ。
[67005] 2008年 10月 13日(月)13:02:15千本桜 さん
やっぱりシティだそうです
さきほど、街外れのコンビニで買物をしていたら、ヤングアダルト世代の外人さんが「村田に行くのはどの道か?」と店員に尋ねている場面に遭遇してしまいました。隣町への道順など直ぐに答えられるだろうに、なぜか店員さんはしどろもどろ。普段は控えめなのに、こういう時には瞬間的に「おせっかい」になるのが私の悪い癖。「あの道を真っ直ぐ進むように教えてやって!」と、店員さんに指示を出してしまいました。駐車場で車に乗り込もうとしていると、その外人が「ありがとう」と声をかけてきました。「どちら生まれですか?」と聞くと「カナダです」と返ってきました。バンクーバー郊外の小さな町だそうです。この外人さんには大河原がどのように見えているのだろう。そこですかさず、「大河原って、シティそれともタウン?」と質問すると、「シティ。シティ。オーガワラはシティね」と即座に返してきました。やっぱりね・・・。私は心で大きくうなずいて納得しました。でも、あの外人さんには私がどんな風に映ったのだろう。変なことを質問する変なおじさんに映ったのだろうか。それとも、アカデミックな質問を投げかける素晴らしいおじさんに映ったのだろうか。答えは闇の中です。
[66947] 2008年 10月 6日(月)21:27:51千本桜 さん
逢河原
[66930]オーナー グリグリさん
大河原町はWikiによると「逢河原」からの変化とありますがどうなんでしょうね。

私も「逢河原」が転じて「大河原」になったと教えられています。大河原町史から大河原の地名由来を引用します。
往古白石川は、刈田郡境の狭隘部から大河原盆地に入り、東南方大谷の丘陵地と北西方新寺、橋本丘陵間にはさまる低地を、自由奔放に流下していた。この地方にも人煙の上りそめしころには、金ヶ瀬から二筋に分流し、一は北方の新開小山田橋本を経て小島の南方より荒川の流れを併せ船迫方面に流下、他の支流は丑越から上大谷上谷を経て西原保料北方で再び前記分流と合流して一筋となって流れていたという。このゆえをもって「合河原」「逢河原」転じて「大河原」となったと伝えられる。
と、書いてあります。
大河原町域の白石川は大正時代に大掛かりな川幅拡幅、流路変更、堤防築堤が行われています。六年半の歳月を要した河川改修は大正12年に完成し、延々と続く堤防を見上げた町民たちは、まるで万里の長城のようだと感嘆の声を発したそうです。その堤防完成を祝して植栽された桜並木は、後に一目千本桜と称せられるようになり、隣接する船岡城址公園の桜と併せて県下随一の桜名所になりました。ちなみに、町内にある藩政村(後に大字)の大谷は、谷が多いことから生まれた地名だそうです。
[66926] 2008年 10月 4日(土)22:49:37千本桜 さん
消されそうになった大字
[66921]88 さん
丸亀市土器町西五丁目△△番
一見、住居表示実施と見間違うような住所ですね。土器は藩政村の土器村が単独で町村制下の土器村に移行し、後に丸亀市土器町になったものと推察しますが、藩政村(または大字)の全域が一気に地番整理(または住居表示)されるとは凄いですね。宮城県ではそのような例はないと思います。藩政村(または大字)の面積の違いが原因でしょうか。土器町の区域は地番整理されても全域に「土器」の名称が付いて回るから、住所による不公平感は発生しませんね。ところが大河原町では、大字区域の一部分だけをポツリポツリと地番整理し、その区域を「大字なし」の字にしてしまいます。ですから、大字の区域内に「大字なし」の字が虫食い状態に散らばっています。当町の住民は、従来からある「自治体+大字+小字」より、地番整理して簡略化された「自治体+字」の住所形式を好むようです。そこで、「自治体+字」に隣接した「自治体+大字+小字」の住民は、大字名を外してくれと要求するようになります。住民は住所の表わし方に差別感を感じているのです。もっとも、こんな大々的に虫食い状態の「大字なし」を創設しているのは宮城県でも大河原町だけで、一般的には地番整理しても「大字なし」にはしません。例えば、角田市角田字町尻などを区画整理して生まれた字豊町は、町名地番整理後も大字の角田を付して角田市角田字豊町です。ですから、地域の枠組みが崩れることはありません。また、面白いというか、「なるほど」とうなるのは、迫町(現・登米市)の中江一丁目~中江五丁目です。水田地帯を区画整理して誕生したこの一画は、ちょっと見ると住居表示されたように見えますが、町名地番整理のようです。住所は登米市迫町佐沼字中江○丁目×番地です。大字に当たる佐沼を外さずに継承しているところが、歴史に無頓着な大河原町とは大違いです。小字名ではなく、大字名(あるいは大字に相当する町名)を外してくれという要求は、香川県では考えられますか?。
ここで止めれば良いのでしょうが、書き続けたくなりました。88さん、ぐちっぽい話だけれど聞いてくださいますか。大河原町に散らばる「大字なし」を丸亀市土器町に置き換えます。イメージしてください。丸亀市は土器町字高津などの区域を土地区画整理して町名地番整理し、字幸町なる字を創設しました。同じように土器町字入領などの区域も地番整理されて字緑町になりました。その他にも字旭町や字錦町などの新しい字が土器のあちこちに飛地状に出現しましたが、それらは字の前に土器町を付さない「大字(町)なし」の字になりました。土器の区域には、「土器町」を付す字と付さない字が入り乱れてしまったのです。「土器町」を付さなくなった字の住民は「ここは、もう土器ではない」と言うようになりました。「土器」でないなら「何なの?」と質問すると、答えに詰まって「丸亀じゃないかな?」などと仰るのですよ(笑)。その根拠は?と問えば、誰も答えられないのであります。土器でなくなると丸亀になる?。なんじゃこれ!。こんな丸亀市も平成の合併ブームで周辺市町と合併し、新市に移行することになりました。周辺市町と協議の結果、新市には「自治体+大字(町名)+小字」の住所形式で引継ぐことになりました。困ったのは、土器に散らばる「大字(町名)なし」の字の取扱いです。土器町を付さなくなった丸亀市字幸町や字緑町の字の前に何という大字名(町名)を付すかです。88さんならどうなさいますか。私は迷わず「土器町」を付します。ところが、丸亀市は現行市名が「丸亀」であることを理由に、「大字(町名)なし」の字の前には「丸亀町」を付すことにしたのです。その結果、旧土器村の区域は「土器町字○○」と「丸亀町字○○」がガチャガチャに入組んでしまいました。この字の入組みを解消する方法として、字名の取扱い担当者はある名案を思いつきました。「そうだ!、土器町を丸亀町に統合して消滅させれば字の入組みも消滅する!!!」。何と無謀な発想でしょう。そこには、先人から受け継いだ地域の歴史を後世に正しく伝えようとする姿が見えません。地域は「今を生きる自分たちだけの物」という思い上がりの意識がちらついています。こんなことで変えられようとしている地名や地域が不憫でなりません。♪一つ聞かそか ねんころり。
以上のたとえ話は、3年前に柴田町・村田町・大河原町合併協議会が破談解散したことにより実施に至らず終わりました。しかし、また再び同じ3町で合併協議が開始されました。今度こそ、まじめに字名の取扱いに取り組んで欲しいと思っております。余計な一言かもしれませんが、他の市町村でも「いい加減な字の取扱い」をしている所がありそうですね。
[66655] 2008年 9月 8日(月)01:00:11千本桜 さん
なぜか城之崎
[66612]ペーロケ さん
引っ掛かってしまいそうな見事な出題でした。
対照的に中心市街地はちょっと寂しい印象でした。
確かに、その第2都市の中心街は寂れてますね。ペーロケさんの地元の愛媛県今治市と対比すると、人口規模は平成の合併前も合併後も似かよっていますが、都市景観にずいぶん開きがあるでしょう。

[66644]EMM さん
真の答えと考えられるのはSD大神宮かSO大神宮ですが
ベーロケさんが行かれたのは、たぶんSO大神宮でしょう。もしかすると、SO大神宮に隣接した茶屋で「ずんだ餅」を召し上がられたのではないかと想像しています。
[66599] 2008年 9月 4日(木)07:31:38千本桜 さん
住所
[66582]88 さん
次回投稿に続きます。

お待ちしております。 特に
(2)「住所」とは何か。
について期待しております。
[66577] 2008年 9月 2日(火)06:30:46千本桜 さん
塩竈と釜石
[66570]鳴子こけし さん
釜石はどうなんだろ…

塩竈市の名称は鹽竈神社の社号に因むものです。鹽竈は、海水を煮て塩をつくる竈(かまど)のことです。竈(かまど)は、上に釜を載せて調理したり湯を沸かしたりする設備ですから、釜とは別物です。今日では台所の竈はガスコンロに変わってしまいましたね。鳴子こけしさんは、竈に薪や麦藁や豆殻をくべて風呂を沸かしたことがありますか。塩竈市のHPに竈の字の書き方というのがあります。それには、次のように書いてあります。
塩竈市役所で作成する公文書においては、「塩竈」を使用することになっています。ただし、市民の方、あるいは他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解釈して受理することとしています。
市役所で、塩竈という表記に統一するようになったのは、昭和16年(1941年)からで、それ以前には、「鹽竈」、「塩竈」、「鹽釜」、「塩釜」など、混在して用いられていました。
釜石市の地名由来は、アイヌ語説、和名説など諸説があって、どれが本当かは分りません。ただし、竈(かまど)とは無関係のようですから、やはり「釜石」と書くべきで、「竈石」と書くのはやめておいた方が良さそうです。
[66567] 2008年 9月 1日(月)19:32:27千本桜 さん
鹽竈神社
[66515]鳴子こけし さん
鹽竈なんて表記見たことありません。いったい何がためにこんな事になっているのでしょうか。

鳴子こけしさんが目にされた道路標識を私は見ていないので何とも言えない立場ではありますが、鹽竈市街← →塩竈市街って有り得ないと思うのです。ただ、塩釜では固有名詞を「鹽竈神社」、「塩竈市役所」、「塩釜警察署」のように書き分けていますから、「左折←鹽竈神社、直進↑塩釜警察署、右折→塩竈市役所」のように「塩釜」の文字を書き分けた道路標識があってもおかしくないとは思います。もちろん、実際にそのような標識が存在するか否かは別問題です。ずいぶん前に、仕事上で「塩釜」の文字を書き分けるように指示された物件があったのですが、どの施設が「塩釜」で、どの施設が「塩竈」だったのか忘れてしまいました。この頃、忘れるのが早くなりました。でも、嫌なこともすぐ忘れてしまうから気楽なものよ。
[66056] 2008年 8月 16日(土)15:05:30千本桜 さん
郵便直営店
[66055]みかちゅうさん
郵便局の検索ページでは

ちょっと違った角度からの郵便局に関する話題で失礼します。北海道では遠軽、美幌、中標津、余市、倶知安、江差など、それなりに大きな後背人口を抱えた町には郵便直営店(支店)が置いてあります。でも、なぜか日高支庁管内には一つもありません。日高地方には8万人ほどが住んでいますから、静内または浦河あたりに郵便直営店(支店)があって然るべきと思うのですが、そうならなかったのには何か訳でもあるのでしょうか。日高地方は異常に大きな郵便直営店(支店)空白地帯です。
[65597] 2008年 6月 23日(月)06:51:56千本桜 さん
ああそれなのに
[65569] 2008 年 6 月 21 日 (土) 20:55:48【3】faithさん

大河原町大字大谷(かつては…ですが、これで合っているでしょうか)にある「大河原駅」の存在がどれほど影響しているのか、私には分からないですが、大都市圏では、駅名がいつのまにか周囲の地名を置き換えている例が非常に多く見られます。
大河原駅前周辺は昭和31年以降、「大字」の字句を省いて大河原町大谷と呼ばれています。でも、大谷の後ろには小字が続いて大河原町大谷字末広などと呼ばれていますから、大谷は今でも大字です。それはさておき、地名にとって「大河原駅」の存在がどれほど大きいかとなると、かなり大きな存在になっていると思います。その意味では大河原駅前を「大河原」と呼んでも違和感はありません。でも、字(あざ)の観点からすれば、やはりそこは「大河原」ではありません。そこで、大河原町の状況を念頭において地名を大きく4種類に分類してみました。(その他の分類方法もあるとは思いますが。)
1・字名(土地と密接に関係する)
2・住居表示による町名(建物・居住地・街区と密接に関係する)
3・行政区名(集落コミュニティ・住民生活と密接に関係する)
4・地理的な市街地名(あぁ・・・う、うまく形容できません)
以上の4種に分けて考えないと整合性がつかなくなります。

2・の住居表示による町名ですが、たぶんfaithさんはこの住居表示の実施区域にお住まいなのではないでしょうか。例に挙げられた中央林間、相模大野、旗の台もみな住居表示で生まれた地名ですよね。ところが、大河原町ではまだ住居表示を取り入れていないのです。基本的には、税金を取るために画された字と地番を住所として使っているわけです。住居表示を実施すれば良いのでしょうが、合併(まだ未定ですが)を目前に控えてそれを実施するのは、時間的にも資金的にも無理です。ですから大河原町の字名問題を考える場合は、住居表示を実施して新たな町丁を画する考えは除外しなければなりません。

3・の行政区名ですが、当地方では大概の集落が複数の小字に跨っていますから、町は小字界とは別の境界線で集落を括っています。それを行政区と呼んでいます。字が土地を区画したものであるのに対し、行政区は生活コミュニティとしての集落区分ですから、住民生活に深く係わってきます。住民は大字名・小字名より、行政区名を使用する機会が多いかもしれません。では、字名をやめて行政区名を住所に用いれば良いかというと、そういうわけにもまいりません。行政区には番地がないから住所の役目を果たせません。

4・の地理的な市街地名ですが、何と言い表せば良いのか迷ってしまいますが、人にはここからここまでの区域を「大河原」と言う地名で呼び合えば通じ合えるだろうというキャッチ能力があると思うのです。それは字や行政区と異なって、明瞭な境界線を持たない感覚的な区画です。このように感覚的な捉え方をすると、大河原と大谷は一体となって大河原市街地を形成していますから、大谷の地を大河原と呼ぶのも違和感はありません。ですが、市街地が一体化したから大谷を大河原に統合して消滅させようなどど、普通の自治体は考えません。藩政村を継承した大字Aが、同じように藩政村を継承した大字Bの領域を指して、そこはBじゃない。Aのものだ。なんて恥ずかしくて言えません。礼儀と言うものがありますからね。それなのに、先の合併協は大谷を大河原に改めるとしました。なぜ、他の自治体では起こらないことが起きてしまうのか。字の失策を重ねて来たからだと私は思います。

たとえば、古川(現:大崎市)の市街地などは稲葉、大柿、古川、中里という4つの藩政村に跨って町場が形成されました。市街地の中で大字稲葉、大字大柿、大字古川、大字中里が交わっていたのです。しかし、市街地が一体化していることを理由に大字を統合して大字古川に一本化しようとはしませんでした。それが普通のやり方ではないでしょうか。もちろん、今では古川市街地も住居表示に切り替わりましたから大字は消滅しています。もし、大河原町がどうしても大谷を消滅させたいなら、住居表示を実施する時にやるべきです。住居表示を実施するわけでもないのに、大字たる大谷を大河原に統合して大字界をいじくりまわすのは、地域の履歴を複雑にするだけで百害あって一利なし。♪ああそれなのに それなに ねえ おこるのは おこるのは あたりまえでしょう♪って、古賀政男作曲なんですって。
[65553] 2008年 6月 19日(木)22:14:24千本桜 さん
字(あざ)施策の失敗
[65473] 2008 年 6 月 10 日 (火) 01:17:14【1】白桃さん
「大河原駅がある大谷地区を『大河原』という名前にしよう。」などという無粋な話が持ち上がっていることが不思議です。また、「東かがわ市三本松と街区が連担している旧誉水村大字川東の「當雀」地区の名を三本松に吸収しちまェ。」という話は三本松側からも川東・當雀側からも出てこないのに、金ヶ瀬字丑越、金ヶ瀬字富田を大河原字丑越、大河原字富田に何で変えようとするの???

このことを説明しょうとすると文言だけでは無理です。地図、系統図などのフリップを多用し、他の市町村の事例を交えながら3時間びっしりと喋り続けなければなりません。とても辛いです。でも、誰かが訴え続けなければ町は気が付きません。町は何に気付かなければならないのか。字(あざ)の施策が失敗だったことに気付かなければならないのです。町は過去に二度の失策をしています。そしていま、合併がらみで三度目の失策を犯す可能性が非常に高いのです。

一度目の失策は昭和31年に大字大河原を廃止し、その区域の小字を大字なしの小字にしたことです。地番が大字起番の地域や住居表示実施済みの地域に住んでいる方には分り難い話でしょう。また、大字なしは他にも沢山あるよと言う人もいるかもしれません。でもちょっと違います。宮城県でも大字なしの区域を持つ(持っていた)市町村は、亘理、岩沼、塩釜、岩出山その他がありますが、それらは藩政村が単独で町村制下の町になったから大字が要らないのです。ところが、大河原町は複数の藩政村が合併して町村制下の町になりました。ですから、当初は大字大河原があったのです。ところが、昭和31年に金ヶ瀬村と合併する際、ある種の思想が頭をもたげて来たようです。市町村名と大字名は別物なのに、どちらの名称も大河原なものだから、ごっちゃにしてしまったのですね。大字大河原は大河原町の本流であり主体である。だから、大河原町の名称があれば大字大河原は不要である。大河原町とは大字大河原を指すのであるという思想です。大字大河原が本流なら他の大字は支流で、大字大河原が主体なら他の大字は隷属です。そこに地域差別の種が蒔かれました。当時の担当者がどのように考えていたのか、もう分らないことですが、こんな大字の取扱いをしたのは、宮城県で白石市と大河原町だけです。角田市や村田町では自治体名と同名の大字名を今も継続させています。

その後、二つ目の失策を施しました。その失策は昭和40年代から今日まで何度も繰り返されています。大河原町は住居表示を実施せずに町名地番整理で処理しています。町名地番整理そのものを悪いとは思いませんが、町名地番整理が実施されると大字名を外して大字なしの字にしてしまいます。これが、大字地域内での差別を生みます。たとえば、(大字)大谷字高田と(大字)大谷字砂田の区域を地番整理して高砂町にしました。住所は大河原町大谷字高砂町ではなく、大河原町字高砂町になります。でも、地番整理から外れた区域は従前どおり大字名を付して大河原町大谷字西原前と書かなければなりません。大河原町では自治体名+字名は新しくて進んだ地区。自治体名+大字名+小字名は古くて遅れた地区と見る住民が多いのです。大字名を付すのが嫌な住民は、大谷を外して自治体名+字名の簡便な住所にしてくれと要望します。本当は住所の表記形式に問題があるのに、いつしか大谷と言う地名が嫌われ者になってしまいました。金ヶ瀬字丑越を大河原字丑越にするという案も同じ理由からです。今でも時々、丑越地区の住民から金ヶ瀬を外して欲しいと要望があるそうです。トップが言うのですから間違いありません。他の町でも町名地番整理をしていますが、大字名を外すことはしません。例えば、角田市角田字町尻ほかを区画整理して豊町という字にしました。住所は大字の角田を付したまま、角田市角田字豊町になります。地域内で住所形式上の差別はありません。

三つ目の失策。それは平成17年に破談解散した合併協議会が結審した字名の取扱いです。この問題はまだ終わっていません。合併協議が再開されて、この結審事項がそのまま生かされたらそれこそ大変です。基本的に、大字大河原の本流主義、主体主義丸出しの安直な字名取扱いだからです。住民は大谷、金ヶ瀬を嫌がっているんだな。それなら大谷、金ヶ瀬の代わりに大河原を付してやろう。これなら住民は喜ぶだろう。そして、大谷は消滅に追いやられ、金ヶ瀬は削り取られる。金ヶ瀬の区域を、そこは大河原だと平気で言う。こんな馬鹿げた話がありますか。単に名称が変わるだけではないのです。大字の境界線が変わるのです。それによって地域変化が引起されます。その変化が地域の将来にとってプラスになれば良いのですが、そうでないから大変なのです。ここはやはり山口百恵さんに登場願って♪「絶体絶命」を唄ってほしい。♪さぁさぁさぁさぁ”はっきりカタをつけてよ”やってられないわ♪。そういう心境です。それにしても山口百恵さんは不思議な歌手ですね。この歌を吹き込んだのは二十歳そこそこだと思いますが、なんだか三十路女が唄っているように聞こえます。声質のせいだと思いますが、嫌いじゃありません。
[65312] 2008年 5月 30日(金)07:22:55千本桜 さん
柴田3町合併、字(あざ)
[65294] 2008 年 5 月 29 日 (木) 05:14:33 揖斐の山 さん
確かこの枠組みは角田市が抜けて頓挫したのでは。
2005年に柴田町・村田町・大河原町合併協議会が破談解散した後に浮上してきたのが、角田・大河原・村田・柴田による1市3町合併構想です。この構想は角田市が抜けて不発に終わりました。2市7町合併構想と言うのは、それとは別物で仙南地域の全市町を対象にした合併構想です。合併すれば面積は約1,550平方キロメートル、人口およそ19万の大きな市になります。合併に興味のある地域住民の多くが「いつかは仙南全体が合併するだろうね」と言いながら、それがいつなのか誰も明らかにしない夢想花のようなものです。

[65296] 2008 年 5 月 29 日 (木) 09:14:56inakanomozart さん
したがって「字」という言葉は、よほどの山奥の人家もまれな地域で使うものだと思っていました。(語弊があったらごめんなさい。)
いえいえ、構いません。清水に住んでいる従姉弟に「いまでも字なんてあるの?イヤね・・・」と言われたことがあります。私の周辺に住んでいる人たちも「字」には抵抗があって、特に「大字」の字句は嫌われ者です。私も「大字」や「字」の字句が入る住所は長くて嫌なのですが、時々、これは便利と思うこともあります。例えば、白石市白川犬卒都婆小松方頭5と書くと、どこで区切ったらいいのか苦しくなりますが、白石市(旧村)白川(大字)犬卒都婆(字)小松方頭5と書くと地域が鮮明に見えてきたりします。「大字」や「字」を「の」に置き換えて、白石市の白川の犬卒都婆の小松方頭の5と読めば、何だか楽しい地誌の勉強になったような気もします。
[65279] 2008年 5月 28日(水)06:53:11千本桜 さん
町名地番整理、地番の起番など
[65276]88さん
88さんもお忙しいでしょうに、質問の一つ一つに丁寧にお答えを戴き感謝しております。多謝。
法務局に足を運ぶことは滅多にありませんでしたが、住居表示および町名地番整理の新旧対照表を無料閲覧するために、たま~に出向くようになりました。

この旧図などの写し(いずれかの地番を特定する必要あり)を正式に請求すると、確かに500円必要で、法務局の証明印がつきます。しかし、法務局にもよりますが、コインコピー機を備え付けてあり、
この方法がとれると助かります。コインコピー機の有無は憶えていませんが、近日中に法務局を再訪してみます。

町名地番整理
法務局の新旧対照表にも「町名地番整理」と書いてあり、「字名地番整理」とは書いていませんでした。ただ、個人的な慣れでしょうが、町名よりも字名がしっくりするんですよね。もしかすると、小字必須地帯に住むゆえの感覚かも知れません。町名という感覚がありません。でも、これからは「町名地番整理」という用語を使うことにしてみます。

「一村通シ番付ニスル」か、又は「大村ニテ地形ノ都合ニヨリ『幾箇ニ区別シ別段ニ番付スル』モ実地紛糺ナキ様処分スヘキ事」と、村単位を主としているように読めます。
なるほど、なるほど。ありがとうございます。このことに興味がありました。短いコメントですみません。時間が来てしまいました。これから直ぐに出かけなければなりません。
[65215] 2008年 5月 22日(木)08:32:49【1】千本桜 さん
町名地番整理
[65115]88さん
地番がないため不動産登記簿は存在しませんが、地図(不動産登記法第14条による地図等)の上では存在しています。

88さん、丁寧なご回答ありがとうございました。それで昨日、法務局に行って参りました。地図閲覧一件につき500円だそうで、閲覧するのを躊躇してしまいました。何箇所も閲覧したかったので、10万円ぐらい用意していかないとだめみたいです。単に地図上の地名を見たいだけなんですと話しましたら、備え付けの住宅地図を見てくださいと言われました。そんな訳で、知りたい箇所の地名を住宅地図から探してみたのですが、やはり釈然とせず未確認に終わりました。収穫を得られずに空戻りするのもなんですから、町名地番整理による字名と地番の新旧対照表(これは閲覧無料)をチェックしてきました。

町名地番整理といえば、隣接する角田、大河原両自治体の字(あざ)に対する方針の違いに興味を抱いておりました。両自治体とも基本的には、自治体名+大字名+小字名+番地で住所を表わす小字必須の地域です。角田市の町名地番整理で最も新しいのは豊町だと思いますが、ここは(大字)角田字町尻や(大字)梶賀字一里壇に跨る区域を土地区画整理して誕生した新しい字(あざ)です。大部分が(大字)角田の領域で、(大字)梶賀の領域は僅かです。新しく誕生した豊町の住所は角田市角田字豊町で、(大字)角田を冠しています。これに対し、大河原町で最も新しい町名地番整理区域の南平は、(大字)金ヶ瀬字下川原など複数の小字(すべて金ヶ瀬の領域)に跨る区域を土地区画整理して生まれた字(あざ)ですが、新しく誕生した字の住所は大河原町字南平で、(大字)金ヶ瀬が省かれています。ここでもう一度88さんにお願いがございます。自分の考えを再確認したいので次の点をお尋ねいたします。
1・私としては、「町名地番整理」より「字名地番整理」の方がしっくりするのですが、「字名地番整理」という用語でも通用するのでしょうか。
2・町名地番整理時に大字名を温存するか省略するかについては、国の方針・指導がなくて市町村の判断に委ねられているのでしょうか。
3・住居表示とは異なり、町名地番整理の場合は住所と登記簿の字番地は一致するんでしたよね・・・?。

ついでにもう一つ。小字必須の地域に住む者の素朴な疑問です。大字単位に地番を付す地域は、いつからそのようになったのか。これについては、明治22年市制町村制発足と同時に大字起番を採用した地域もあると思って良いのでしょうか。何か良く分らないのですが、小字必須が当たり前の地域に住んでいる者の観点からすると、場所特定を簡易にするために後になって大字起番が考えられたのであり、最初はどこも小字必須が一般的だったのではないかなどど考えているのですが、どうも分りません。

脱字一文字挿入
[65107] 2008年 5月 13日(火)06:52:10千本桜 さん
土地登記簿
おはようございます。
初歩的なことが分からず恥ずかしいのですが、ちょっと教えてください。
国有地のため、○○町大字△△字××の区域に無番地があったとします。
○○町は大字制を廃止し、「○○町大字△△字××」を「○○町字××」にしたとします。
住居表示導入によって大字区域が無くなるのではなく、単なる大字廃止です。
この場合、登記簿はどのようになるのでしょうか。

1・○○町大字△△字××のままである。
2・○○町字××に変更される。
3・無番地だから登記簿に記載されない?。
[65089] 2008年 5月 11日(日)22:03:26千本桜 さん
原町の人口急増の理由
[65064]白桃さん
下の約30年の間に、原町の人口急増の理由がよくわからないのです。

大雑把な数値ですが、相馬地域3大都市の人口です。
都市1889年1920年
中村5,6008,000
小高4,2466,200
原町2,6008,700
1889年には中村、小高よりも人口の少なかった原町村ですが、1920年には相馬地域最大の人口を抱える町に発展しています。人口急増の切っ掛けは、1898年の常磐線開通にともなう機関庫の設置に中村町(現相馬市)が反対したため、機関庫・車掌区が原町に設置されたことにあります。ちょうどこの頃、養蚕業が急速に普及し、明治末期から大正期にかけては製糸・織物の工場が進出する新興都市になっていました。
ここから先は想像で書きます。機関庫・車掌区は偶然に原町に転がり込んできたのだろうか。何か違うような気がする。そのころ既に、相馬地域は原町に中心性の集積を求めて胎動していたのではないか。そんな気がしてならないのです。相馬藩の古い本拠地・小高は平地が狭い上に地域の南に寄り過ぎている。相馬藩の居城地・中村は地域の北に寄り過ぎている。この都市配置では新しい時代にそぐわない。地域の中央部に位置し、しかも広い平地にある原町は、♪花の舞台の幕が開く~、と米倉ますみの♪「俺の出番はきっと来る」を唄いながら、この時を待っていたのではないか。そんな気がしてならないのです。ちなみに、相馬藩が北寄りの中村に城を構えたのは伊達藩を意識してのことだそうです。歴史のことは苦手ですが、相馬藩は伊達藩を恐れていたのでしょうね。ところで、南相馬市より北相馬郡が南なのは な~んでかフラメンコ、オレッ!。
[65031] 2008年 5月 8日(木)23:39:27千本桜 さん
原町
[65019]白桃さん
(旧)原町市(現:南相馬市)のように、存在感の薄い、得体のしれない街にスゴ~く興味をそそられる
後背人口約20万、DID人口2万強の都市にしては、確かに存在感が薄いですね。地方生活圏の中心都市ですから、もっとアピールするものがあってよいと思いますが、イメージがぼんやりしています。「原」も「町」もありふれた字面ですし、地域名の相馬はライバルの中村が使っているし、そんなこんなが災い?しているのでしょうか。それに、鉄道・国道の分岐点になっていないことも原因の一つかなと思います。国道網図を見る限りでは、物足りない都市に感じますよね。この原町の中心商店街は、同規模都市(同規模自治体ではない)のそれに比べ、ぼんやりして間延びした感じに見えます。では、それに代わって国道6号沿道の郊外商業地が賑わっているかと言うと、そうでもないから不思議です。むしろ、都市規模としては下位に位置する相馬(中村)の郊外商業地の方が賑わっているように感じます。とは言うものの、相双生活圏最大の都市が原町であることはまちがいありません。
「存在感」という語句は、安易に使用しない方が良いと思います。
最近よく耳にするのでは、スポーツ選手の「結果が出せなくて残念です」という言葉。まだ私には馴染まない言葉です。
[64945] 2008年 5月 2日(金)13:34:26【1】千本桜 さん
字(あざ)
[51483]YSKさん
太田市の場合は地番は「大字」単位に付番されています。「1番地」は大字の中に1つしか存在しません。したがって、わざわざ「字」を住所に書かなくとも場所は特定されます。
古い書き込みを引っ張り出して済みません。私が住んでいる地域は「小字」単位に付番されているのですが、YSKさんの地域が「大字」単位に付番されるようになったのはいつの頃でしょうか。ご負担をお掛けしますが、是非知りたい状況にあります。

[64930]牛山牛太郎さん
何故なんでしょうか?検索すると「船迫字新千代ノ川」で出ますが、どうなんでしょう?
前の合併協議会は既に解散していますが、あの合併協が結審した町名・字名取扱事項の中で「字新千代ノ川」の扱いがずーっと気になっていました。例えば、柴田市になると大字船岡字七作は柴田市船岡字七作になります。大字船迫字土平は柴田市船迫字土平です。ところが、字新千代ノ川だけは自治体名に字が直結して柴田市字新千代ノ川になります。原案立案者がそのような扱いをした理由も分かっているのですが、それが結果として良い事なのか疑問に感じています。いま、そのことに深く言及する余裕がない状態にあります。O町の字問題で手がいっぱいなんです。正念場です。

[64931]白桃さん
香川県東かがわ市の三本松も、大内町と合併することとなった「昭和の大合併」前までは、
ちょっとお尋ねします。かつての三本松町も小字ごとに番地が振られ、三本松町大字三本松字○○1番地または三本松町字○○1番地のような住所表記になっていたと思います。ところが今では小字なしで三本松1番地ですよね。いつ大字単位の付番に切り替わったか憶えていらっしゃいますか。ぎりぎりのところでリアルタイムで憶えていらっしゃるような気がするのですが・・・。

[64933]小松原ラガーさん
いつの頃からか「立花」の字が使われるようになり、その頃からの地名・名称は「立花」が使われているのかと思います。
(中略)
昔の「字XXX」という住所表記の時代には「立花」という表記は存在したのだろうか・・・。
1889年に上之島、栗山、大西、三反田、尾浜、七松、水堂、西難波、東難波、塚口、東富松の11村が合併して立花村が誕生しました。合併で消滅した村は立花村の大字として引き継がれています。住所は自治体名+大字名+小字名で構成されていた筈ですから、下記のように表わされていたものと思われます。
自治体名大字名小字名
立花村大字上之島字○○
立花村大字栗山字○○
立花村大字大西字○○
立花村大字三反田字○○
立花村大字尾浜字○○
立花村大字七松字○○
立花村大字水堂字○○
立花村大字西難波字○○
立花村大字東難波字○○
立花村大字塚口字○○
立花村大字東富松字○○
「立花」は自治体名であり、大字としての「立花」はありませんでした。また、小字にあたる字○○の中に「立花」という地名があったかどうかは資料がないので分かりません。たぶん字立花は存在しなかったと思いますが、定かではありません。
あと、もう一つ。面白いことに、立花小学校、立花西小学校、立花南小学校、立花北小学校、ならびに立花中学校ともに立花町にも西立花町にもないのですよね。
立花村の心臓部は村役場が所在した大字栗山とその周辺だったのではないかと推察します。ですから「立花」の名を冠する施設はその区域に多かったものと思われます。立花小学校(栗山)、立花南小学校(三反田)、立花北小学校(栗山)、立花中学校(上之島)などです。翻って立花駅周辺の立花町や西立花町に目をやれば、昭和10年ころまでそこは一面田畑の広がる土地でした。
JRより南側は古くからの町であり、北側はあとから開けた(といってもずいぶん前のことなのでしょうが)ということでしょうか。
これに関しては、尼崎市のHPに詳しい記述があります。東海道本線立花駅北側の立花町と南側の七松町は同時期に宅地開発されたようです。

脱字一文字挿入
[64914] 2008年 4月 29日(火)10:01:03千本桜 さん
商業統計調査結果と宮城県南部の現況
平成19年6月に実施された商業統計調査結果が発表されましたので、宮城県南部4市9町の年間小売販売額ランキング表を作ってみました。小規模な自治体がどんぐりの背比べをしている地味な地域ですが、それなりに都市間競争の火花を散らしたりもします。現在のところ、強い吸引力をもって商業の核となっているのは名取市と大河原町のようです。それは、人口1人当たりの販売額に表れています。不気味なのは名取市です。本当は下表に示した数値以上に凄いことになっているはずです。前回調査(平成16年)と比べた従業者数は、白石市マイナス15%、柴田町マイナス9.8%、角田市マイナス1.5%。そのようななか、名取市は41.7%の急上昇です。現在、名取市ではダイナミックに大型店の出店が続いています。オープンしたばかりの店舗については、従業者数をカウントできても年間販売額が跳ね返ってこない。調査時期がそのようなタイミングだったのではなかったかと思います。ですから、今現在では名取市の販売額はもっと増加し、人口当たりの販売額も大河原町に迫る勢いではないかと推測しています。地味で目立たない地域ですが、白石、角田、岩沼が商業の中心核だった明治大正時代に比べ、ずいぶん変化したものです。

順位=年間小売販売額を基準にしたランキング
販売額=平成19年6月1日現在の年間小売販売額(単位は百万円)
市町人口=平成19年10月1日現在の推計人口
1人当たり=年間小売販売額を人口で除した数値(単位は万円)

順位市町名販売額市町人口1人当たり
名取市88,20169,346127
岩沼市39,50944,45689
大河原町39,49923,631167
白石市35,97838,68893
柴田町34,30239,55387
亘理町27,53935,18178
角田市24,73132,62476
蔵王町12,66413,12696
村田町10,34512,44783
10丸森町7,76516,22948
11山元町7,34417,20043
12川崎町5,24310,26551
13七ヶ宿町6361,81835
[64907] 2008年 4月 28日(月)03:09:23千本桜 さん
加西、富士見、柴田
[64501]k-aceさん
玉丘町(富合村→加西町→加西市)に「北条」営業所があるのには違和感ありますが、「加西」営業所等に営業所名を変えるほうが混乱が大きいのでしょうか。
この場合、混乱は起きないと思います。私が玉丘町あたりに営業所をオープンするときは、北条営業所ではなく加西営業所にさせていただきます。(♪みんな夢の中)
ところで、この加西本町という交差点名表記ですが、地元の人は本当に加西本町と呼んでますか?。私は違和感を覚えます。ここはやはり、北条本町ではないかと・・・。

[64785]YSKさん
町名・字名の取り扱いでは同村の名称を「富士見町」として残し、その下に字名を付ける方向。
芳賀村は「芳賀」の名称を消滅させて前橋市に合併しましたが、富士見村は「富士見」を残すんですね。現在の富士見村田島は前橋市富士見町田島になるわけですが、もし、何らかの理由で字名の前に「富士見」の名称を付すことができなかったとします。その場合、YSKさんなら、どのようになさいますか。
1・字の前に残せない場合は、「富士見」の名称を残すことをあきらめる。
2・特定の字の名称を「富士見」に改称する。
3・字の一部を分割して(字を一つ増やして)、そこに「富士見」の名称を付す。
唐突な質問で申し訳ありません。不意にこんな質問をされても困りますよね。パスして下さっても構いません。ちなみに、私は苦渋しながらも安全を狙って1を選びます。2と3を選択するのは、その場所に「富士見」と呼ばれる集落があった場合です。でも、富士見村には富士見と呼ばれる集落がないから無理ですね。

牛山牛太郎さん
柴田町字新千代ノ川の場所をご存じないですか。名称から推測すると、大字船迫字千代ノ川から分立した新しい字で、人口0人の農地ではないかと思われます。柴田町の住所は、住居表示実施区域であれば柴田町○○一丁目。それ以外は柴田町大字○○字○○で表わされますが、新千代ノ川だけは柴田町の後に大字なしで字新千代ノ川になるようなんです。この種の住所形式は大河原町では沢山見かけますが、柴田町では非常に珍しいと思います。ここ一ヶ所だけかも知れません。なにか訳でもあるのでしょうか。
船岡のこの場所を走行中に、「直進↑船岡・大河原」、「右折→柴田」の道路案内板を見て、思わず後ずさりしてしまいました。本当に車をバックさせて案内板に見入ってしまったのです。右折の柴田ってどこなんだろうと、あれこれ推測にふけった訳です。柴田の上に国道4号マークも記載されているので、この場所を指しているのは分るのですが、柴田町船岡で「あっちに進めば柴田ですよ」と言われてもねぇ・・・。
[64905] 2008年 4月 28日(月)00:19:06【1】千本桜 さん
あなたならどうする?愛媛町の選択
つまらない作り話だけど、聞いて下さいますか。私が生まれて育ったところはどこにもあるような海辺の小さな港のある町です。名前を愛媛町と言います。明治22年に愛媛、香川、徳島、高知の4村が合併してできた町です。合併して消滅した旧村は、大字愛媛、大字香川、大字徳島、大字高知として愛媛町に引き継がれました。ところが昭和31年、愛媛町は町名と同名の大字は不要として大字愛媛を廃止します。廃止された大字愛媛の小字は大字なしの字(あざ)になりました。後に、これとは別の理由で大字香川と大字高知の一部にも大字なしの字が発生します。大字香川の区域では昭和45年ごろから次々に土地区画整理事業が進められ、今も進行中です。区画整理が済んだ区域は字名地番整理が実施されて新しい字になります。愛媛町はこのような字には大字を付さない方針ですから、大字香川に属さない大字なしの字が広く分布するようになりました。同じように大字高知でも字名地番整理が実施され、大字高知の区域内には大字高知から分立した大字なしの字が散らばっています。文言ではお伝えできないほど複雑に字界が入り組んでいます。
愛媛町は広島町、岡山町と合併して西日本市になる予定です。3町は住所の表記形式を新市名+大字名+小字名+番地にすることで合意していますから、西日本市愛媛町大字○○字○○にはできません。でも、愛媛町は消滅する町名への愛惜深く、その名をどこかに残そうと考えました。どこに「愛媛」の名を残そうとしたと思いますか。愛媛町は町内すべての大字なしの字の前に大字愛媛を付すことで「愛媛」の名を残そうとしました。大字香川や大字高知から発生した大字なしの字も、みな大字愛媛の小字だというのです。その結果、大字高知の区域に大字愛媛の飛地が散らばる複雑な境界になりました。その複雑な境界を解消すべく、大字高知を大字愛媛に統合して消滅させることにしました。藩政村を継承した大字がこのような状況に追い込まれて消滅する例は珍しいと思います。大字高知はとんだとばっちりを受けたものです。大字高知を大字愛媛に統合することで新たな問題が生まれました。大字高知の三崎も大字愛媛の三崎も、どちらも大字愛媛字三崎になって区別が付かなくなりました。そこで、愛媛町は「愛媛高知」という名の大字を新設し、大字高知の三崎を大字愛媛高知字三崎にすることで大字愛媛字三崎との同名回避を図りました。それにしても大字愛媛高知は変な大字です。属する小字は三崎だけですから小字の総称としての体をなしません。このように大字の体をなさない大字が新設された例を私は知りません。
ごめんなさいよ。こんなつまらない作り話を聞かせちゃって。でも、これは愛媛町だけの問題ではなさそうです。自治体名+大字名+小字名の表記形式と、自治体名+字名の表記形式が入り組んだ地域なら、どこでも起こりうる可能性があることだと思います。そこで皆様にお願いがございます。大字高知のように藩政村を継承した大字が、昭和の大合併以降に他の大字に統合されて消滅した例。および大字愛媛高知のように一つの小字のためだけに新しい大字が設置された例。以上の例をご存知でしたなら教えていただけないでしょうか。でも、この作り話は解りにくかったでしょう。たぶん、これは文言より図形で伝えるべき事柄なのです。そこで、あなたならどうする?愛媛町の選択と題し、事の成り行きを地図に表わしてみました。

一箇所、誤字訂正しました。
[64186] 2008年 4月 1日(火)08:10:29千本桜 さん
仙南3町合併、船岡城址公園と一目千本桜、う暗いなクイズ、寒川
[63924]揖斐の山さん
宮城県の仙南3町地区に於いて合併協設置に向け住民有志が申請書を知事宛に提出しました。
署名集めがスタートし、周りが俄然あわただしくなってきました。

[64020]千本桜
館山は360度のパノラマを楽しめる自然が造った展望山です。ところが、柴田町は柴田町側だけが見えるように見晴らし整備し、反対側は見えなくても良いだろうと言わんばかりに藪で覆って目隠ししています。
ついに、その藪の一部が切り払われ、館山(船岡城址公園)からの素晴らしい眺望が戻ってきました。頂上に上り詰めると、残雪の白い蔵王連峰がドーンと目に飛び込んできます。眼下には船岡市街に加えて大河原市街も見渡せるようになり、それまで藪に覆われて見ることができなかった大河原側の一目千本桜も見落とせるようになりました。柴田町に感謝します。でも、やっぱり自治体意識が見晴らし整備を邪魔している点はまだまだあります。眺望に優れた館山に真価を発揮させるには、三町合併して行政の垣根を取り払うしかなさそうです。頂上から景色を眺めていたオジサンに「見晴らしが良くなりましたね」と話しかけました。オジサンは「遅まきながらやっと・・・」と言いました。同感!同感!。遅まきながら、以前より眺望度をアップした今年の館山(船岡城址公園)に、皆さん、どうぞ花見に来てください。

[64129]いっちゃんさん
・大河原~船岡にかけて車窓に見えた白石川のほとりに立ち並ぶ桜の木々・・・参りました。蕾が膨らむタイミングを計っているといった感じでしたが、これらが咲きほころんだときにはものすごいのでしょうね。
そうですよ、本当にものすごいのです。私がこの桜並木をすごいと思うようになるには、一つのきっかけがありました。あれは四十年近くも前の春のこと。桜が満開の朝でした。いつものように友達と駄弁りながら仙台行きの電車に揺られていました。普段なら、主な駅の到着時刻を知らせて終わる車内アナウンスですが、あの日の車掌は違っていました。突然、窓から見える桜並木の説明を始めたのです。車内は一瞬静まり、やがて微かな笑いとどよめきに変わりました。私と友達も顔を見合わせ、はぁ?と驚いて笑いあいました。通勤通学客にとって、この桜並木は特筆するほどのものではない日常のもの。この程度の桜並木は日本全国どこにでもあるだろうと思っていたものですから、車掌のアナウンスが突拍子もなく感じられておかしかったのです。その日を境に、一目千本桜に寄せる私の思いが変わりました。桜並木を美しいと感じる心を抑えられずにアナウンスしてしまった車掌の感性に、私の心も揺り動かされたようです。

[64142]白桃さん
町村名を抹消して「人格」なき郡で止めるなど何事ぞ、と、文句を言っても仕方ありませんが、ともかく♪私はガマンできな~い~。
私もガマンできな~い!。それが伊具郡丸森町のように一郡一町の場合であれば尚更です。
1.私の職場のエライ様は海外出張中で、当然、部屋の電気は消えております。どこの国に行ってるのでしょう?
(ヒント)部屋に入った私、思わず「うっ、暗いな・・・」
和寒(わっ、さむ・・・)。ハイレベルなクイズにハリコフってしまいました。ウクライナ。
2.首都にはホテルが少なく「民宿」が多い国は?
(ノーヒント)
その国の首都と姉妹都市関係にある仙台市民が訪れた際、確かに「みんすく」に泊まったそうです。ところで、白ロシアの「白」って何なんでしょうか。

[64144]Issieさん
現在「高座郡」に唯一残る 寒川町 は,どちらの類型に属するのでしょうか。
Issieさんのことですから、既にご自身の答えをお持ちの上で書かれているのでしょうが、敢えて反応いたします。と申しますのは、かれこれ十数年前に寒川町域全般を徒歩で見て回った事があるからです。その時の印象を基にすれば、藤沢、茅ヶ崎型ではなく、やはり相模原・大和・綾瀬・座間・海老名型に分類すべきだろうと思います。歴史的には旧一之宮村に小規模な町場らしきものがあったのでしょうが、都市というには力不足ではなかったでしょうか。それに、旧一之宮村が肥大化して現在の寒川町があるようには思えないのです。寒川駅から町役場、そして寒川神社へと歩きながら、私は軽いストレスを感じていました。どうも、民家、空地、商店、農地、工場などが混在する空間にストレスを感じてしまう性分のようです。どーんと一本、明確な商店街とかビジネス街があってほしいと思うのですが、寒川にはそれがなかった。寒川で記憶に残ったことは、想像以上に大規模工場が多かったこと、農業用ビニールハウスが随分目に付いたことです。ところで、相模一の宮寒川神社が位置するのは旧宮山村ですが、その南隣の村が一之宮村と呼ばれているのは何故でしょう。一之宮が門前町だとすると、神社と門前町の間隔が離れすぎているように見えるのですが・・・。倉見にも行きましたが、どのような順路で歩いたか思い出せなくなってしまいました。
[64020] 2008年 3月 15日(土)12:55:44千本桜 さん
観光行政
釜臥山から見下ろす むつ市の夜景は美しく、その形状から夜のアゲハチョウと呼ばれています。左の羽は大湊、右の羽は田名部です。上空から見下ろす大河原、船岡も左右対称の羽を広げた蝶のように美しいものです。標高136メートルの館山を胴体に、同じ規模の市街地が左右に広がる不思議な構図をしています。館山は大河原、船岡の市街地だけでなく、角田盆地、村田盆地、そして秀麗な蔵王連峰を見渡せる自然の展望台で、観光里山として優れた資質を持った山です。でも、この山はNHK大河ドラマ「樅の木は残った」の放映を機に変わってしまいました。柴田町は山に資料館を建て、リフトカーを建設し、平和観音像を建立して観光開発に励みましたが、大切なものを忘れているように思えてなりません。そもそも、館山は360度のパノラマを楽しめる自然が造った展望山です。ところが、柴田町は柴田町側だけが見えるように見晴らし整備し、反対側は見えなくても良いだろうと言わんばかりに藪で覆って目隠ししています。この藪は行政が造った意地悪な壁です。せっかく山の頂上まで登って来てくれた観光客に360度の展望を提供せず、180度だけ見せて悦に入ってる感覚は正にナンセンス。観光事業者としてのサービス精神に欠けるのであります。3町合併したなら早くこの意地悪な壁を取り払い、館山から眺める360度のパノラマを取り戻したいと願っております。
[63998] 2008年 3月 12日(水)23:33:33千本桜 さん
一目千本桜ナビゲーション
[63970]白桃さん
なんか明るいな!と思ったら駅のポスターが桜色一色。弘前、北上、角館、三春などにまじって「船岡」という字が目に入りました。完全な間違いではないと思いますが、これじゃ大河原の立場はどうなるの・・・。
[63975]まかいのさん
大河原町と柴田町のどちらか一方を選ぶわけにもいかなさそうなので、「船岡」表記で落ち着いたのでしょうか。
[63976]熊虎さん
ツアー名に「白石千本桜」が入っています。行程を見ると「白石川堤の千本桜」になっていて、

南東北を代表する桜の名所といえば「船岡城址公園」と「白石川一目千本桜」ですが、この二つは隣接しているので一括して扱われる場合が多いようです。二つの場所を一つの地名で表わすと船岡か大河原か、はたまた白石かという、よだれが出そうな究極の地理的判断を迫られて昨夜は眠れませんでした。得意の我田引水の術を使いたいのですが、なぜか今夜は理性が邪魔して使えません。客観的に見て、一目千本桜に船岡城址公園が加わると船岡に分があると言わざるをえないようです。ただし、一目千本桜単独だと大河原に脚光を浴びせたい。もちろん大河原・船岡の連記でも良いのですが、一つに絞ればやはり大河原でしょう。理由は次の点にあります。
1・一目千本桜は白石川の土手に延々8キロも続く桜並木ですが、ざっと見て大河原町域に5キロメートル。柴田町域(船岡)に3.5キロメートルの配分です。
2・一目千本桜が今日あるのは、大正時代に大河原町出身の高山氏が苗木を寄贈したのが始まりです。
3・しばた桜まつり船岡城址公園を会場として行われ、おおがわら桜まつりは一目千本桜と銘打って白石川堤を会場に行われてきた経緯があります。
以上の点で一目千本桜は大河原に分があるのですが、花見客には行政界など関係ありませんね。ですから境界など取り払って大河原町金ヶ瀬のここから柴田町東船迫のここまで、てくてく8キロ歩いてみましょう。8キロも歩くのは苦手という人のためにハイライト区間3キロコースを紹介いたします。起点は大河原駅、船岡駅どちらでも良いのですが、ここでは大河原駅を起点にします。大河原駅を出ると徒歩3分でおおがわら桜まつり会場に着きます。河川敷には沢山の出店が並んで無料休憩所やトイレも仮設され、なぜか郵便局まで設けられています。最近人気のお花見遊覧船もここから出航します。お花見宴会には最適な場所ですが、ここで飲み食いだけして帰っちゃだめですよ。一目千本桜は桜並木の下を歩かなきゃ。直ぐそこの末広歩道橋に行ってみましょう。この橋は少し揺れたりするのですが、中央に立てば両岸の桜並木を見渡せるビュースポットです。あ、橋の下を遊覧船が行きます。韮神堰は一目千本桜随一の景勝地です。白い水しぶきを立てて流れる白石川、咲き乱れる桜並木の遠くには白い残雪の蔵王が見えます。錦絵!、そんな言葉が浮かんできます。このフォトジェニックな風景を収めにカメラマンが朝早くから集まってきます。右手に萩の月の工場が見えると大河原町ともお別れで柴田町に入ります。行く手に赤い水門が見えてきました。この辺りで地形が大きく変化します。北の韮神丘陵と南の館山丘陵が迫り、狭隘になった平地部を国道4号、白石川、東北本線、旧国道が束になって走って行きます。向こうから電車がきました。仙台発白石行の電車でしょうか。お花見サービスで徐行運転をしています。手を伸ばせば桜並木が届きそうな電車の窓から乗客が手を振れば、土手の花見客も手を振りかえす春のポエム。川端揚水場の辺りも大木の桜が多いところです。永年の風雪に耐えた老木たちは風格に満ちた樹姿をしてボリューム感あふれる満開桜になります。行く手に美しいアーチを描いたさくら歩道橋が見えてきました。行ってみましょう。この橋は一目千本桜と船岡城址公園の桜を一挙に見渡せる新名所です。船岡城址公園の館山は麓から頂上まで桜色に染まり、さくら歩道橋の花見客はため息まじりの歓声をあげています。そろそろ3キロメートルの桜散歩も終わりです。さくら歩道橋から徒歩2分で船岡駅の裏口に到着です。また来てくださいね。
[63991] 2008年 3月 12日(水)07:20:23【2】千本桜 さん
柴田郡南部3町合併構想
[63976]熊虎さん
大河原・柴田・村田3町の合併構想は、私が初めて市町村合併に関心を持った、92年4月22日の朝日新聞記事で紹介されていたもので、それだけ古くから話があるわけですが、常に村田町が足を引っ張ってきました。
先の合併協議が破綻してから僅かの年数しか経っていませんが、状況が大きく変わってまいりました。先の協議破談は大河原町の住民投票で反対が賛成を上回ったためとされていますが、それは上っ面の現象に過ぎません。合併破談の根源は、柴田、村田両町長が合併に乗り気ではなかったことにあります。ところが現在、村田町では前町長に代わって合併推進派の新町長が就任しています。これで、合併推進町長が大河原町長、村田町長の二人になり、乗り気でない町長は柴田町長の一人だけになりました。また、住民の動きについてですが、一般住民はまだまだ無関心のようです。でも、一部の住民有志たちが動き出しています。今度こその思いでおります。それにしても、合併に乗り気でないS町長。S町は単独市制ができる町だと豪語して世に出ましたが、減少が始まったS町の人口が5万人を超えるのをいつと踏んでいるのかな。世の中の人口推移を勉強せい!、と言いたい気持ちです。

変換ミスなどを訂正しました
[63981] 2008年 3月 10日(月)23:28:47千本桜 さん
村のままで消滅した大都市。加美石村。筑紫野市。
[63867]白桃さん
東讃5大都市?
引田駅4,315人、松原村2,402人、三本松村2,737人、津田駅5,083人、志度駅5,579人
仙南6大都市?
白石駅3,313人、金ヶ瀬駅1,063人、大河原駅1447人、村田村1,200人、舩岡村1,181人、角田本郷3,105人
白桃さんが挙げられた1875年(明治8年)共武政表による東讃5大都市および仙南6大都市の中で、町制を経験せずに村制のままで消滅した所が一つだけあります。それはどこでしょう。松原村は改称して白鳥本町になりましたから該当しません。すると、残るのは金ヶ瀬駅しかありませね。明治8年共武政表に記載された金ヶ瀬駅とは、当時の平村に形成された宿駅名のことです。明治8年当時には丸森、川崎、槻木などを差し置いて大河原、船岡と大差ない人口を抱えていた大都市!金ヶ瀬は、なぜかその後の発展が停滞。昭和33年には大河原町に吸収合併される始末。それだけなら、まだ我慢できます。しかし、合併して50年経つ今日、旧金ヶ瀬村の一部を指して、「そこは金ヶ瀬ではない。大河原だ。」と言われても、何のことやらチンプンカンプン。痛みも感ぜず、のほほんとしているのであります。大河原町という自治体に属することと、大河原という大字に属することは異質なことなのに、その違いが分らず、のほほんとしているのであります。平和でいいね(自虐)。合併して自治権を失うと、伝承力まで失うものなのか。児島人による児島人の英才教育を受けたhiroroじゃけぇさんが羨ましい。

[63922]okiさん
本来「賀」美石であったものの、「加」美石と書かれるのが普通になり、消滅時には、公式にも「加」美石が使用されていたのではないか、と思われます。あくまで推測ですので、間違っているかもしれませんが。
賀美石村か加美石村か。これは本当に謎です。加美石村だと思いたいのですが、小学校や駐在所が賀美石を名乗っているのが、どうしても引っ掛かります。そこで、国土地理院へ行って旧版5万分の1地形図を閲覧してきました。その結果報告です。加(賀)美石村が誕生したのは明治22年です。加(賀)美石村が登場する最も古い地形図は明治34年測図のものですが、これには加美石と記載されていました。大正3年鉄補、大正14年鉄補、昭和5年鉄補、昭和19年部修、昭和26年応修の地形図がありましたが、いずれも加美石と記載されています。こうなると、やはり加美石村が正しいと受け止めざるを得ません。それでもやっぱり、賀美石幼稚園、賀美石地区公民館など、地区内の施設がすべからく賀美石を用いているのが不思議でなりません。

[63958]かぱぷうさん
朝倉街道駅周辺が山口村であったことに対して驚きを隠せずにいます。
その周辺が二日市の一部に思えてしまうのは市街地の発展の過程からして仕方ないかもしれませんが、もうひとつは住所表記の形式にも原因があるのでしょう。かばぷうさんの辺りでは、明治から昭和にかけて存在した村名を省略して自治体名+大字名(藩政村名)+番地で表わすのが一般的なのですね。例えば、筑紫野市+山口+55番地のように。短くて良いですね。でも、宮城県白石市などでは自治体名+明治から昭和の村名+大字名(藩村名)+小字名+番地で表わすのが普通です。白石市+白川+津田+稗田+55番地のようになります。この方式ですと属していた旧村名を忘れることはありませんが、長くて書くのが面倒。ところで、どうして二日市の武蔵でもないのに、山口の立明寺に「むさしケ丘」なる団地ができちゃったんですか。現地を知らない私などは、「むさしケ丘」って「武蔵」の一画かなと思ってしまいますけど・・・。
[63914] 2008年 3月 3日(月)06:26:28千本桜 さん
宮城県の人口最小町
[63867]白桃さん
高松市の繁華街が三本松に出現したような新鮮な感じでした。確かに、町レベルでは全国でもまれに見る都会っぽい街区だったのではないかと今でも自慢したい気持ちでいっぱいです。
三本松に遅れること30年~40年。白桃さんが南新町の町並みに感じたものと同じものを、私はいま大河原バイパスの景観に感じております。

[63912]okiさん
興味深く人口データを拝見いたしました。ただ、宮城県の人口最小町の欄に福島県岩瀬郡鏡石町が記載されているのが気になりました。素晴らしい一覧表ですので、書込み訂正が可能なうちに訂正して戴けるとありがたいです。
[63895] 2008年 3月 2日(日)08:30:06千本桜 さん
何でも有田
たぶん、地理は総合学なんでしょう。
[63848] 2008年 2月 29日(金)05:25:05千本桜 さん
職安再編、三本松、国道
2月26日の新聞に「職安17ヶ所廃止」の記事が載っていました。全国で17の職安が廃止される予定だそうです。宮城県内の職安は廃止対象になっていませんが、白石職安は降格して大河原職安の出張所になるとのことです。また一つ、仙南の都市間関係を見る思いがします。顔を残して臓器がえぐり取られる「代表都市白石」と、臓器は活発化すれど名もなく顔もない「中心都市大河原」の関係です。下に平成16年10月1日現在の職安別管内人口を集計してみました。
職安名管内人口
仙台1,265,517人
石巻219,632人
古川216,660人
塩釜200,530人
大河原135,674人
気仙沼95,375人
88,254人
築館79,135人
白石54,215人
白石職安の管内人口は約5万人と少なく、大河原職安までは14キロの近さです。このような状況ですと出張所への降格は避けられないのかもしれません。市町村の再編が進み、国県の出先機関の再編が進み、そして地域における核都市の再編も進んでいるように感じます。ちなみに、宮城県内には上記職安の他に大和、青葉の2職安出張所があります。

Yahoo!地図情報で大縮尺の航空写真が見れる地域が拡大しています。東かがわ市三本松南新町の航空写真を見てショックを受けています。この街区は三本松高校の移転跡地に昭和44年に誕生した商店街だそうですが、その都会っぷりな町並みに驚いています。街区内は明らかに民家とは異なるビルらしき建物で埋め尽くされているではありませんか。昭和44年当時の三本松を宮城県に当てはめれば、涌谷、若柳、中新田などと同等規模の都市ではなかったかと推測するのですが、涌谷、若柳、中新田にはこんな都会っぽい街区はありませんでした。もちろん、これは垂直写真ですからビルの高さが判りません。ビルに見えても実は2階~4階建ての低層ビルで、街なかを歩けばそれほど迫力は無いのかも知れません。しかし、どうしてこの場所にこのような新商店街が造られるようになったのか、それが興味です。旧中心街から商店が移転してきたそうですが、当時すでに商人たちは旧中心街に商業地としての先行不安を感じ取っていたのでしょうか。いずれにしても、当時の三本松は大胆な事業を成し遂げたものだと感じました。三本松で不思議に思うことがもう一つあります。推測ですが、高徳線が開通した当時の三本松は、線路の南側よりも北側、つまり旧中心街が栄えていたのではないでしょうか。それなのに、どうして駅は北側に背を向けて南側に造られたのか?不思議です。線路のルートをもう少し南にずらして、駅舎をもっと東寄りに設置することもできたのではないかと、勝手に想像しています。

国道が話題になっていますが、宮城県南を走る国道ですと4号をヨンゴウセン、6号をロクゴウセン、286号をニーパーロクと呼ぶ人が多いようです。113号はヒャクジュウサンゴウでしょうか。でも349号は何と呼ばれているのか分かりません。そもそも、それが349号であることを知らないで走っている人が多いのでしょう。399号に至っては、それが宮城県内を走っていることさえ知らない人が多いようです。私事ですが、ずいぶん昔に当時の建設省の人から、国道には「線」を付けないでくれと言われ、それ以来、国道には「線」を付さずに4号、6号、113号と書くようにしています。でもラジオ道路交通情報のオネエさんは4号線、6号線と言っていますね。それから、国道がらみでもう一つ。どうして、仙台トヨペット株式会社大河原バイパス店 とかミスタードーナツ大河原バイパスショップのように「バイパス」という字句を入れたがるのでしょうね。仙台トヨペットもミスドも大河原に1店舗しかないのだから大河原店や大河原ショップで良いと思うのだけれど、バイパスという字句(言葉)には何か人を惹き付ける魅力があるのでしょうか。私も時おり意図的にバイパスという用語を使いますが、長ったらしくなるから基本的には使いたくありません。スペースの少ない小さな地図に、むりむり「国道4号線大河原バイパス」などと書いてあるのを見ると、これは「国道4号」でいいっちゃなや~と思うのです。町内を何種類もの国道4号が走っている訳ではないのですから。
[63791] 2008年 2月 23日(土)08:33:13【1】千本桜 さん
スーパータウン日記
宮城県をいくつかの広域ブロックに分けて集会を開くとします。その集会が特殊産業などに偏るものでなく一般的なものの場合は、気仙沼、登米(佐沼)、栗原(築館)、大崎(古川)、石巻、仙台、大河原の七ヶ所に会場が設けられるケースが多いようです。四つに絞れば大崎(古川)、石巻、仙台、大河原になる公算が高く、三つに絞ればほぼ間違いなく大崎(古川)、石巻、仙台が会場に選ばれるでしょう。ところが、蔵王おろしがピープー吹きぬける某日の集会は異色でした。なんと、会場は大崎、石巻、大河原の三会場!。県南および仙台周辺の人は大河原に集まってくれという訳です。こうして最大会場になった大河原には数百人の人々が集まり、とある会合が行われました。昼食時に弁当をいただきながら先輩の某氏にそっと耳打ちする。「こういう状況を見ていると私は大河原ってスーパータウンだと感じるんですよ」。先輩某氏も「うん」と深くうなずきました。また一人、スーパータウン大河原を実感した人が増えたようです。それにしてもこのスーパータウンはいつまでスーパータウンのままでいるつもりなのか。つがる市や八幡平市より遥かにシティだというのに・・・。再び動き出した大河原、村田、柴田の三町合併はどんなふうに進んで行くのだろう。

訳あって、会場は大崎(古川)、石巻、大河原の三会場!を、会場は大崎、石巻、大河原の三会場!に訂正。
[63668] 2008年 2月 7日(木)00:24:21千本桜 さん
市区町村変遷情報
でるでるさん、88さん、市区町村変遷情報のまとめ ご苦労様です。都道府県別一覧の宮城県を見ていて一ヶ所 気になりましたのでご連絡いたします。
1928年、角田町、館山村の一部が境界変更とありますが、藩政村だった館山村は1889年に周辺村と合併して館矢間村になりました。ですから、1928年の出来事ですと正しくは、角田町と館矢間村による境界変更と言うことになるのではないでしょうか。
ついでに、もう一ヶ所 気になる箇所がありますので お尋ねします。これは、正しいとか間違っているとかではなく、以前より私自身が判断に迷っている事柄についての質問です。市区町村変遷情報「宮城県」によると、1954年、宮崎村と加美石村が合併して宮崎町を新設とあります。この加美石村ですが、本当に この表記で良いのだろうか?。本当は賀美石村ではないのだろうかと考えながら結論を出せないでいるのであります。角川日本地名大辞典によると、賀美石村は明治22年~昭和29年の自治体名で、孫沢、米泉など9村が合併して成立。昭和29年宮崎村と合併、宮崎町成立に伴い村名は解消とあります。つまり、宮崎町成立直前まで賀美石村だったことになります。ところが同辞典の宮崎町孫沢の項目を読むと、昭和29年の成立直前までは加美石村孫沢だったと書いてあります。一つの辞典の中で賀美石になったり加美石になったりしていますが、う~~ん、本当は どっちなのだろう。まさか、表記は賀でも加でもどっちでも良いということはありませんよね。


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