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[95754] 2018年 5月 8日(火)17:01:15【1】hmt さん
Re:歩いて行ける!「三県境」
落書き帳で取り上げられたテーマの一つである都道府県境。私も関心を持ち、hmtマガジンを作っています。

落書き帳オフ会関連でも 2008年【青森/秋田県境確定記念】、2009年【岡山/香川県境・石島/井島の探検】、2010年【栃木/群馬/埼玉三県境訪問】と続いた過去があります。そして 2016年は【熊本/大分 県境の宿】。

そこで、今回 久しぶりに復活した「三県境」の話題にも反応して、「明治前期の毛武三国境付近の地図」を紹介することにします。

本題の前に、futsunoおじ さんがまとめた 全国の県境の基礎データを紹介しておきます。
2004年:三県境(その1)(その2)
2010年:三県境点のまとめ[第7回オフ会記念版](その1)(その2)
いずれも、hmtマガジン・都道府県境に収録してあります。

地名コレクションにも 同じく futsunoおじさんによる 大作・『県境の交通路』があります。
その 附録:三県境点 には番号が付与され、Mapionへの地図リンクがあります。
栃木/群馬/埼玉三県境は 11番です。地図11

なお、hmtマガジンには 特集渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域があり、「鶴の嘴の先端」[76876]に位置する「THE 三県境」を対象とする記事も多数収録しています。
筑波山オフ会2010 翌日の探訪ルートは、グリグリさんの作品です。

前置きが長くなりましたが、「栃木/群馬/埼玉 三県境」の前身は、言うまでもなく「下野/上野/武蔵 三国境」、つまり毛武三国境【2つの毛野国(両毛)と武蔵国】です。

本題である 毛武三国境の地図に入ります。
リンク先は、明治前期(●明治10年代)に作成された「迅速測図」【[65097]参照、フランス式彩色の施された原図】に基いて 独立行政法人・農業環境技術研究所が作成した 歴史的農業環境閲覧システム[65091]です。

地図の位置情報は、地理院地図の「THE 三県境点」の値を利用しています。
zoom値も揃えたので、昔の川の流路と 現代の県境 とを 同じ縮尺で対比することができます。

明治の地図で北東部・下野国と西部・上野国との境界は、基本的に渡良瀬川の線です。それは[95752]で引用された群馬県板倉町のページにあるように、「海老瀬の七曲り」と呼ばれた曲流部で、1910年の大洪水後の工事により新河道に改修(1918)されました。

現在はコンクリートで固められた渡良瀬貯水池(谷中湖)によりすっかり様子が変っていますが、「七曲り」の痕跡は現代の地図で谷中湖西岸の県境線に示されています。「海老瀬」の地名は谷中湖西北端にも見えますが、鶴の嘴の先端をクリックしても、「板倉町大字海老瀬」の名が現れます。

明治の地図で海老瀬の七曲りに戻ると、川の中央に境界線が通っており、大きな曲流の左岸(東側)に下都賀郡下宮村と記されています。その左、「17,36」と記された地点が、地理院地図で「大字海老瀬」を確認した鶴の嘴の先端です。

この地点で西から合流する川の中央にも境界線が引かれています。これが西側の上野国と南側の武蔵国との国境線ですが、これを遡ると境界線は西から来る川【現・谷田川】に入らず、【旧合ノ川を遡り】南の利根川に入っています。

川俣での「会の川締切り」(1594)以後、「新川通開削」(1621)までの間、上記の旧「合の川」は利根川の主流格の存在であったと思われ、これが上武国境となり、ひいては群馬埼玉県境に引き継がれたものと考えています。[77081]

このように、明治前期の地図では広域地名は「県名」でなく、「国名」が使われています。

私は hmtマガジン 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探るの前書きで
明治19年式戸籍の書式[62667]に使用例がありますが、「府県」が地名化した決定打は、明治32年の改正府県制ではないかと思われます。
と書きました。

この法改正により、「府県」は「国の出先機関」である 単なる「行政機構」から脱皮して、(首長はまだ官選でしたが)直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具えた「自治体」の性格を強め、地理的にも「○○県」と呼ばれるに足る独自の領域を確保するに至ったのではないでしょうか[62889]

毛武三国境から「三県境」への変化。それは 20世紀になり、明治も遠くなってきた時代と思われます。
このサイトの主テーマである明治以降の地方制度。
同じ「県」という名で呼ばれていても、制度が変れば実体が変る。
「三県境」の話題から明治の地図と現代の地図とを対比しつつ、時代の変化は避けられないことを実感した hmtでした。
[95744] 2018年 5月 5日(土)14:15:45hmt さん
水戸
[95743] 白桃さん の問い合わせに関連し、グリグリさんの手間を少し省く目的で、調査してみました。
落書き帳の過去記事から得られた情報だけですが、メモしておきます。

出典:明治22年3月31日施行の茨城県町村区域名称
[76874] むっくんさん 「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」にリンクされた『茨城県令達類纂、上』収載の 県令甲第十二号による

【23コマ】東茨城郡水戸 旧町村欄に 水戸上市、水戸下市、常磐村の内【数個の字を列挙】、【以下3村の内が列挙されているが引用省略】

【24コマ】東茨城郡常磐村 旧町村欄に常磐村(の内)【数個の字を列挙】

【25コマ】東茨城郡(の末尾) ○大貫町 【旧町村欄は空白】
ここに記された東茨城郡大貫町と、変遷情報詳細に記録されている 大貫村 との関係など、私には理解不能です。
とりあえず調査結果だけを報告しておきます。
[95696] 2018年 4月 18日(水)11:25:43hmt さん
このままでは、「丹波」ブランドを丹波市に独占されてしまう!
[95695] 稚拙 さん には「ヤフーのサイトをリンクするのもなんなので」とありましたが、昨日配信のYahoo!ニュース を見ると、篠山市が抱いている危機感【この記事のタイトル】>「丹波篠山」への市名変更意欲 がよくわかります。

----------(記事抜粋)----------
かつては、兵庫県と京都府にまたがって丹波国が存在していました。
時代が変わった今でも「丹波栗」や「丹波黒豆」など丹波の冠がついた特産品が販売されていて、日本全国に通じるブランドとなっているのです。 
ところが、この丹波を使うことである問題が。
実は、2004年篠山市の隣に丹波市が誕生しました。
ふるさと納税では篠山市も丹波市も「丹波ブランド」の食材を返礼品にしていますが、名前のややこしさが原因なのか、篠山市への納税額は、丹波市の半分以下だということです。
「このままでは丹波ブランドが奪われる」と危機感を募らせた地元の商工会などは、市名を「丹波篠山市」に変更するよう市に要望書を提出。
4月17日に篠山市から発表された 市名変更に伴う影響などの調査結果
丹波篠山のブランド低下による経済的損失が23億3000万円、市名変更による経済の波及効果額が28億7000万円以上  合わせて52億円以上の経済効果
----------(記事抜粋終)----------

神戸新聞記事にあった「現在の混乱状態が続くと、丹波篠山産の優位性が低下し」に関して
何がどうして「混乱状態」なのか、今ひとつ記事からはわかりにくいです。

千年以上も使われてきた広域地名「丹波」に基づくブランドが、21世紀に誕生した「丹波市」に起因する限定解釈を引き起こしている現状。
これを「このままでは丹波ブランドが奪われる」と感じて「混乱状態」と表現した篠山市の気持ち。
私にはよく理解できます。

本来は広域地名である旧国名。これを、一部の地域を表す市名として独占・僭称した事例。
楠原祐介『こうして新地名は誕生した!』(ベスト新書2008)第4章 大増殖した「旧国名僭称」型新市名 にまとめられています。

丹波篠山市への改名問題についての過去記事 もご覧ください。
[95690] 2018年 4月 16日(月)11:42:08hmt さん
Re:白桃@in東北スーパータウン
毎年、春になると一目千本桜を見に千葉県浦安市から飛んでくる
と紹介された渡り鳥でも、気象の変化を読みきれず、渡りの時を間違える結果になってしまったのですね。

平成30年一目千本桜開花状況によると、今年の満開は4月5日から8日でしたが、4月12日午後からの強風で一気に散ってしまったとあります。

過去10年間の開花状況と比較すると、開花日 3/31、満開日 4/5、散り始め 4/9の何れについても、最も早い日付が記録されたようです。
[95633] 2018年 4月 1日(日)17:31:21hmt さん
呉市の変遷履歴

この記事は、[94959]白桃さん へのレスとして1月に書き始めたのですが、未投稿のまま4月になっていました。
しかし、今日 [95629]に記された下記の一言に刺激され、投稿することにしました。
これだと「呉町」が隠れてしまい

私が書きたかったのは、明治21年の法律に基づく「市制施行地・呉町」の存在についての記事です。
長いイントロが付いていますが、本論は5です。
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[94958] むっくんさんによる 衝撃的な記事「呉町は存在しなかった」がありました。

この問題に関心を持っていたのは、落書き帳メンバーの中でも一部だけだと思われますが、当サイトの重要な資産である市区町村変遷情報に深く関わっていることでもあり、この機会に過去の経緯を含めて少しまとめてみました。

最初に、呉市の変遷関係関係する過去記事集とを示しておきます。

【お断り】
「市区町村の変遷」ページは「市区町村変遷情報」のデータからの自動作成を目指していますが[95583]、工事中の現在はそれが実現していません。上記リンクによって現在表示される「呉市の変遷」も、おそらく昨年の変遷情報に基づくものでしょうが、今回の記事の説明としては かえって好都合なので、そのまま使わせてもらいます。

「呉市の変遷」には平成合併で編入された安芸灘諸島に属する島々に関する情報が多数含まれ、膨大なものになっています。しかし 今回の話題に関係するのは、1902年の画面 赤文字の呉町【新設合併】と緑背景の呉市【市制】との2行だけです。

両者の日付は1ヶ月ずれていますが、実は両方共 1902/10/1であり、事実上
呉町は存在しなかった
それ故、「新設/市制」という1行として記載されるべきである。
これが[94958]の要旨でした。
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市制施行日については明治35年内務省告示に明記されており、最初から1902/10/1に異論なし。
そして、呉市のサイトにも4町村が合併して呉市誕生と記されていたので、これを信用した変遷情報も、2010年9月迄は、「新設/市制」1行の記載になっていました。

話を面倒にした張本人は hmtの[74500]でした。
統計局の 郡市町村廃置分合一覧表を見ていたら、偶然にも「4町村→呉町 明治35年9月1日実施」という廃置分合記録を発見し、1ヶ月だけ「呉町」が存在したのではないかと?という疑問が出てしまったのです。

約半年後の[76230]で88さんの検討結果が出て、1902年9月の合併、10月の市制という「二段階で間違いないと判断」され、変遷情報は修正されました。

前記過去記事集の冒頭に掲げた Issieさんの記事[123]にも記されているように、市の設置については 戦前の制度下でも内務省告示があったものの、町村の廃置分合については 全国的な情報入手に困難がありました。

呉市の場合について言えば、市制自体に関する情報である内務省告示M35-63号[62661]55番は、ndl官報を閲覧することもでき、また呉市の例規集にも収録されています。落書き帳では[74518]の末尾に告示原文が引用されています。今回の資料『呉市史』では 85コマ。
明治21年法律第1号市制第126条ニ依リ広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定シ明治35年10月1日ヨリ市制ヲ施行ス

ところが、明治時代 広島県内の町村合併情報が収録されていると思われる 広島県報となると、アクセスはぐっと困難です。

そこで二次資料で代用することにして 頼りにしたのが 前記統計局資料でしたが、この段階で見落とされたのが 呉町の発足日検証 であったようです。

なお、変遷情報が「1ヶ月だけ存在した呉町」に修正された2010年[76230]の翌年にも、「1ヶ月の呉町はあったのかしら」と植物的カンによる疑いの目で見ていた白桃さんの記事が記録されていました[79512]
統計局の資料の間違いは過去にもあったのですが、本件については疑うことを すっかり忘れていました。
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「呉町は存在しなかった」と題する[94958]で紹介された『呉市史』には、市制実施の準備と題した節があり、詳細な説明がなされています。その中から注目すべき記載を抜粋します。

4.1 広島県安芸郡長より関係町村役場への訓令
 本郡荘山田村 和庄町 宮原村 二川町を廃し其区域を以て呉市とし市制を施行せんとするに付 本月【M35/6】23日迄に其町村会の意見を徴し差出すべし【→各町村から異議なしの答申】

4.2 明治35年広島県告示第305号【落書き帳初出の重要な変遷情報】
 本年10月1日より安芸郡和庄町 荘山田村 宮原村 二川町を廃し其区域を以て呉町を置く
 明治35年9月2日  広島県知事 江木千之

4.3 (説明文、便宜上 文頭にabcを挿入)
 a 斯くて市制施行の希望は保証せられたり b 既に4ヶ町村は統一せられて呉町となれり c 呉町の出現は即ち市制施行に必要なる前提たり d 何となれば個々の独立せる町村が直に一躍して市となるは手続上之を許さざるのみならず自治体進歩の順序にも循わざればなり e 既に4ヶ町村が1町に統合せられたる以上は其の財産の処分を為さざるべからず【以下略】

この説明文を見ると、6月の郡長訓令(4.1)では4町→呉市と1段階だった合併が、9月の広島県告示(4.2)によって呉町を経由する2段階方式へと変化し、この間の事情を説明したものが 4.3の説明文であると理解できます。

4.4 明治35年内務省告示第63号 番号は[62661]、条文は[74518]の末尾等に既出
 明治21年法律第1号市制第126条に依り広島県安芸郡呉町を市制施行地に指定し 明治35年10月1日より市制を施行す
 明治35年9月1日  内務大臣 内海忠勝【[74518][94958]の内野は誤記】
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ようやく、この記事の本論である「市制施行地・呉町」に入ります。
「市制施行地」という言葉は、旧・市制【注】という法律の 第七章附則 第126条に基づく用語です。
第126条 此の法律は明治22年4月1日より地方の状況を裁酌し府県知事の具申に依り内務大臣指定する地に之を施行す

【注】旧・市制とその残影
「市制」と「町村制」との2つの部分から成る明治21年法律第1号の一部であり、明治44年全面改正後の 明治44年法律第68号「市制」と区別して「旧・市制」と通称する。

「旧・市制」時代に誕生した市は[62661]にリストアップされている。
64番目の新潟県高田市【現・上越市】誕生後の 1911/10/1に明治44年改正「市制」が施行され、「市制施行地」という法律上の概念はなくなった。
しかし、住所表記は現在でも「市部・郡部」で区別され、国勢調査にも残存している。

それはさておき、[62661]に挙げられた64市の内、63市は「単独市制」です。
唯一の例外はどこか? それが「呉市」だったのですね。

「新設合併/市制」という現代では普通に思われるパターンに最初に挑戦したのが呉地区でした(4.1)。
ところが、内務大臣の指定による「市制施行地」を前提とする当時の法律(旧・市制)は、必ずしもこれに合うものではありませんでした。
明治35年よりも少し前、明治31年末のデータになりますが、安芸郡和庄町の現住人口は21553人でした。近隣の町村との合併後は市の基準値2万5千に合わせるとしても、これでは合併前に「市制施行地」になれない。

苦し紛れに繰り出した一手が、合併→即日市制という「瞬間の呉町」を市制施行地として認めてもらうこと。
これが成功した結果を示すのが明治35年内務省告示第63号(4.4)であったのでした。

「呉町は存在しなかった」などと冷たくあしらうのではなく、(技能賞か敢闘賞かはともかく)呉市実現への努力を讃え、「市制施行地・呉町」が公認されていた事実を 変遷情報にも記録してほしい。これが私の感想でした。

一見しただけでは「呉町」が無視され、1段階の「新設/市制」に見える変遷履歴情報一覧表。hmtも白桃さんが声を挙げた[95629]に同感できます。
それは ともかくとして、変遷情報詳細まで見れば、「呉町設置」や「広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定」の告示が きちんと示されていました。
hmtとしては、このことを確認して一安心しました。
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蛇足ですが、「市制施行地」制度が廃止された明治44年改正法の下で、正式に誕生した「新設合併/市制」の最初の事例は1916年の尼崎市でした。
そして、1921年になると山口県厚狭郡宇部村の単独市制による宇部市が誕生します。
時代と共に増殖する「市」は、『呉市史』の説明文(4.3d)が記された「旧・市制時代の市」とは確実に変ってきたことを感じます。
[95556] 2018年 3月 18日(日)13:13:53hmt さん
浮間舟渡
[95554] 特急とりあたま さん
東京都板橋区舟渡/埼玉県川口市舟渡町

この記事を最初に見た時に、私は板橋区舟渡の対岸に舟渡町という地名があるものと誤解して、
「埼玉県舟渡の一部が東京都になった由来……それは 1950年に荒川を舟で渡ったからなのです。」
というレスを書き始めてしまいました。
ところがリンク地図を見ると、新荒川大橋付近の地名は 川口市「舟戸町」であることが判明し、この冗談は不成立。

文字違いのことはさておき、例えば[90145]を見ると、1950/4/1に、埼玉県戸田町舟渡が東京都板橋区に移ったことが記録されています。[79523]には地名「舟渡」は記されていませんが、1番に記された総理府告示による境界変更です。
「舟渡」という地名は、河川改修により 都県境の荒川を越えた結果 なので、立派な「自治体越えの地名」と思われたが、そもそも埼玉県側に「舟渡」が残っていなければ話になりません。

参考までに舟渡の記事集  誤記で「船渡」となっていた記事もあります。

「都道府県市区町村」サイトとしては、自治体越え地名集めもさることながら、変遷情報の充実が大切です。
とんだ失敗の副産物ですが、[90145]を再読した機会に 改めて気になった点を記しておきます。

1 舟渡に隣接する地域名を「浮間」に訂正【[90145]の表】
舟渡の下流側隣接地も、舟渡の境界変更より前 1926/10/1 に 埼玉県から東京府に境界変更されました。
その地域名ですが、当時の北豊島郡「岩淵」町よりも、現在の北区町名でもある「浮間」とするのが適切と思われます。
浮間の地名は 変遷情報詳細に記されており、[36159][65713][79661]などで使っています。

2 「浮間」に隣接する「舟渡」の境界変更が変遷情報未収録となっていることも気になります。
埼京線浮間舟渡駅が設けられている現在では、北区と板橋区に跨る両地域は一体的に理解されているようです。
人口異動289人は前小屋【収録済】の2倍以上の規模。[90145]末尾の【注】に記した「入飛駒」だけでなく、できるだけ変遷情報収録範囲を広げてほしい。ご検討をお願いします。>グリグリさん
[95543] 2018年 3月 15日(木)19:43:25hmt さん
北緯35度
[95542] リトルさん
大津駅の「北緯35度モニュメント」

地理院地図で確認してみたら、現在の北緯35度線は大津駅の南方を通っていました。
言うまでもなく、2002年に世界測地系に移行した結果です。[45617]

北緯35度に位置する最も有名な都市は京都です。
日本測地系時代の地勢図では 中央の北緯35度線が四条通の上に描かれていました。
現在は四条通と五条通=国道1号、9号との中間です。

南房総市が設置した「北緯35度最東端」の 標識 がありました。

北緯35度から少し広げますが、参考までに 経緯度時刻に関する過去記事を拾っておきます。
[95531] 2018年 3月 11日(日)15:48:04【1】hmt さん
「3・11」 と 「3・10」
「3・11」と言えば、2011/3/11に発生した 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震。[77760][77767][77775]など。
12都道県での死者1万5,859人,行方不明者3,021人。出典
大規模な地震と津波という天災だけでなく、それに起因する原子力発電所の事故に伴う人災により、その影響が長期化したことは報道されている通りです。

日付が1日だけ早い「3・10」は 1945/3/10の 東京下町大空襲。
落書き帳には記事を書いていませんでしたが、戦争という人の行為に基づく「人災」です。
参考 2017/8/13放送のドキュメンタリー 左から3人目が、空襲を指揮したカーチス・ルメイ[43161]です。

空襲は戦争中全国の都市に及び、東京だけでも何回も繰り返されました。
しかし、1945/3/10の焼夷弾攻撃による約10万人という死者数は、特筆に値する人数でした。
1945/5/25の 山の手大空襲 も甚大な被害を及ぼしました。宮城【皇居の呼び名です。読みは きゅうじょう】や新聞社が焼け落ち、「共同新聞」が発行されたことが記憶に残っています。しかし、こと死者数に関する限りは、下町大空襲より ずっと少数でした。

都道府県別の空襲被害死者数を見ると、原子爆弾攻撃を受けた広島・長崎と並んで、東京が抜群のトップ3に入っています。これは3月10日【注】の空襲が、「通常兵器」であっても、核兵器に匹敵する大きな力を発揮する場合があった ことを示しています。
【注】偶然にも、1905/3/10に奉天大会戦[59385]が行なわれた陸軍記念日でした。

それはさておき、別の「3・11」に関するお話。
神奈川県津久井郡城山町と藤野町とは、2007/3/11に相模原市に編入されました。変遷情報詳細
これにより津久井郡は自然消滅。

平成合併の時代には郡の自然消滅など珍しくないこと。何を今更?

でも「津久井」は 落書き帳では有名な地名です。[86752]
元禄4年(1991)には 津久井領から 「津久井県」という名になりました[41805]
これは近世唯一の「県」として明治3年まで存続[1196]太政官布告M3-131

hmtは、出身地だった津久井郡の命日?を偲ぶために、マガジン津久井マガジン相模川とを新設しました。
その他、マガジン海と島の記事も追加。

結局のところ、書きたかったのはマガジンの「お知らせ」だったのでした。
[95530] 2018年 3月 11日(日)12:23:10hmt さん
海と島(30)石狩湾挽歌
[95528] 白桃 さん 後志挽歌
この曲は「後志挽歌」とすべきではないか・・・
小樽の前にある海は石狩湾なので、それでいいじゃないの、幸せならば…。

ニシン漁で賑わった海…と言っても、作詞者・なかにし礼 の少年時代、小樽に住んだ頃よりも前の時代の海。
それを偲ぶ歌なのでしょう。

海がテーマなのだから、地理的な立場からすれば 「石狩湾挽歌」 が適切でしょう。

「石狩」という地名から連想するのは平野の中を蛇行する大河です。
松浦武四郎の命名した「後志」に至っては後方羊蹄山に由来する「陸の地名」です。

それはさておき、Webを探っていたら、歌詞にある「沖を通るは 笠戸丸」に着目した ページ がありました。

移民船や豪華客船としての笠戸丸の存在は、私も辛うじて知っていた程度。
偶々出会った今回のページで、帝政ロシア時代の病院船>旅順港で接収され呉軍港所属になる。
船名の由来は山口県の笠戸島。移民船・豪華客船・台湾航路などの時代を経て、昭和になってからは北方漁場に出漁。
第二次大戦末期にソ連軍に接収され爆沈。…数奇な一生の船でした。

なかにし礼が満州から小樽に引き揚げてきたのは8歳の時で、笠戸丸は既に存在せず。
それでも、成人していた兄が一攫千金を狙ったニシン漁が存在した時代でした。
大きな賭けが成功かと思われたが、輸送中に船が沈没。一家離散という結末でした。

歌のことなど知らないのですが、笠戸を含めて、地名にまつわる雑多なことを書き連ねてしまいました。
[95525] 2018年 3月 8日(木)21:05:01【1】hmt さん
組合村のデータ
【冒頭ですが 追記】
この記事を投稿した後で[95514]ekinenpyouさんの記事をを読み返し、自治年鑑1948に関する次の注意書きの存在に気づきました。
組合町村名が少々わかりづらい箇所があり(福島県など)補完としてこちらなども参照のこと

参照用にリンクされていたのは 1949年発行の「全国市町村便覧」であり、表記は異なるが 神奈川県足柄下郡蘆湯(アシノユ)村 の部分に
箱根町、元箱根村と組合村役場位置箱根町
であることが明記されていました。

注意書きに気づかず、自治年鑑の記載不備を中心に長々と記す結果になってしまいました。
hmtの記事内容は、直接に訂正を必要とするわけではないと考え、そのまま残しておきます。
しかし、投稿時に考えていたほどの価値がある指摘ではなかったようです。
ekinenpyouさん、むっくんさん、読者の皆さんにお詫びします。【追記終】

【以下本文】
町村事務組合。市町村が広域した現在では、消防や廃棄物処理など限られた分野で使われるのが常識になっています。
しかし、1889(M22)年の町村制施行当時は、弱小の村が多く、事情が異なりました。

埼玉県の例を拾うと、現在白岡市の一部になっている地域に南埼玉郡日勝村という村がありました。1895(M28)に前身9ヶ村【1889年発足】の 合併によって成立した村です。

余談ですが、合併日は 日清戦争 講和条約【注】会議の直前であり、村名には「日本の勝利」が高らかに付けられています。
【注】 現在では「下関条約」が普通ですが、当時の地名は「赤間関市」でした。地名の通称により「馬関条約」の呼び名もあります。

それはさておき、9ヶ村合併後でも面積 12km2弱、人口約 4000人という農村地域です。
経済データなどなくても、役場・学校その他の地域役務を行う資金が潤沢にあるわけがない。
必然的に近隣の9ヶ村による共同事業ということになった。その結果が「組合村」。

こうして発生した組合村が合併により統合され、更に戦時合併、戦後の教育改革による中学校新設に伴う課題解決、など種々の要請がからみ、昭和大合併に至りました。

昭和大合併による自治体規模拡大によって ほぼ全滅するまで ある程度利用されていた「組合村役場制度」。
市町村の歴史に関心を持つメンバーとして、その実態を知りたい。
かねて抱いていたこの思いですが、落書き帳に取り上げられないまま、現在に至りました。

古くは[39940]ひげねこ さんの記事がありましたが、フォロー記事が続かず。

しかし、最近になって [95463]の末尾の1行を きっかけとして、むっくんさん・ekinenpyouさんによる 解説・調査が行なわれ、知識を深めることができました[95495]

その後、具体的な材料として、自治年鑑(1948年版)の町村長氏名における組合表示の存在が示され[95514]、これに基いて [95517]では戦前・戦後における府県別一覧表を示していただきました。

ここまで具体的なデータを見せていただいた結果、私の目についたのが次の1行です。
神奈川県 足柄下郡 【S21】箱根町, 元箱根村, 芦之湯村 【自治年鑑1948】箱根町のみ記載

「芦之湯村」から hmtが思い出したのが「直接民主制」「町村総会」というキーワードであり、[35747][35748][65174][92819][92835][92877]などの記事でした。

芦之湯村が1950年代まで存在していたことは知っていました。人口が極めて少ないこの村が組合村から外れ、独立していた筈はない。自治年鑑1948の記載に不備な点が存在するようだ。このことに気がつきました。

芦之湯村消滅時期だけならば変遷情報で確認するのが簡単ですが、折角なので YTさんの表[84549]を使って 1950年国勢調査人口を確認したところ 120人。箱根町826人、元箱根村1050人でした。
国勢調査人口表には組合関係が示されていませんが、1954/1/1合併の前まで存在していた元箱根村と芦之湯村(の村長名)を欠く自治年鑑1948の記載は、不備であることが確かです。神奈川県足柄下郡では、真鶴町組合の首長名についても同様です。

同じ手法で、多数の組合村データが記された自治年鑑1948の福島県【59-61コマ】も調べたところ、[95517]で「○○村のみ記載」と指摘された例は、箱根町の場合と類似不備多数(…のおそれ)。
石城郡澤渡三阪村のように、組合でなく連称表示にしている例もある。なお、沢渡村と三阪村は1955年まで存続し永戸村と共に三和村を新設。永戸村と組合だった箕輪村は同時に分村消滅。
石城郡小川村も、国勢調査や変遷情報の上下2村が正しいようです。勝手に作った村?

一々挙げると長くなるのでこのくらいにしますが、自治年鑑1948のデータは有用な情報が含まれている反面、国勢調査や変遷情報と矛盾する点もあるようです。
まるごと信用することはできない。そのように評価しました。
[95508] 2018年 3月 1日(木)18:45:44【1】hmt さん
一音地名コレクションに関する提案
[95502] そらみつ さん
地名コレクションは完成させるためのものではなく、収集して楽しむものだということを忘れていました。
「浜」コレクションと「一音地名」コレクションをお受けしたいです。

早速 就任決定[95506]とのこと。おめでとうございます。

この機会に、久しぶりに 一音地名コレクション を訪問しての感想です。

冒頭の説明文末尾には、一音地名集めの きっかけとなった過去記事 2件が記されています。
このような関連情報も、コレクションを編集し、読者に提供する上で大切なものと思います。

…というわけで、編集の際に、都道府県市区町村サイト内に下記のような関連情報の存在も、リンクにより提示しておくことが好ましいのではないかと思います。
検討をお願いします。

1 市区町村雑学 に収録されている 短い読み・長い読みの市区町村
 この中に「読みが一文字の市町村(五十音順)」があります。
 津市以外は過去帳入りしていますが 市制町村制施行以後だけでも 19件が収録されています。
 コレクション収録済みの一音地名の中には、1889年施行時前の旧村も含まれていると思われます。
 変遷情報検索の対象を履歴情報に拡大することにより、ある程度は旧村由来が解明されるでしょう。
 

2 落書き帳アーカイブズ 漢字・読みともに一文字の地名
 前記2件を含め、31件の記事が収録されています。

【追記】
一音地名ではありませんが、市町村雑学の類似テーマとして、一文字地名あいうえお [94018]がありましたね。
一音地名の一部は、こちらにも収録されていました。
[95490] 2018年 2月 26日(月)18:42:27【2】hmt さん
Re:面積データの更新
[95488] グリグリ さん
2016年10月1日面積から増減があった市区町村は以下の通りです。都道府県の増減はこちらをごらんください。

1km2以上の増減は東京都と長崎県のみ。長崎県の -1.32km2は、大部分が対馬市でしたが、詳細は不明。

2.96km2増加した東京都は、落書き帳の過去記事にも関係ありそうなアイテムなので、少し補足してみました。

1 特別区部 +0.78km2
落書き帳過去記事の話題対象としては、江東区と大田区との間で争われている「中央防波堤埋立地帰属問題」がありますが、[93551][94347]で紹介されているように未決着であり、今回の面積調とは無関係です。面積も、5.09km2よりもずっと小さい値です。面積調によると、新たに生じた土地。H28/10/7 東京都告示1695号。

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面積調から離れますが、この機会に、中央防波堤埋立地帰属問題のその後の情報です。

東京都臨海部の人工島「中央防波堤埋立地」の帰属問題で、大田区は【2017年10月】30日、同様に全島帰属を主張していた江東区を相手取り、境界画定を求めて東京地裁に提訴した(毎日日経)。

財政については調整制度があり、埋立地の所属が何れの区でも、固定資産税は東京都の財源とされるようです。
しかし、東京オリンピック2020の会場にもなる埋立地の帰属は、区のブランドイメージを世界に対して高めます。

それだけでなく、中央防波堤埋立地ので引かれる線引きは、その南側に造成している 新海面処分場 の帰属にも影響すると考えられています。参考


現在 唯一の公共交通機関は、りんかい線の東京テレポート駅前(江東区)発着の都営バスです。
大田区側から通じる道は海底トンネルだけです。その道は 2012年に 東京ゲートブリッジの開通により 江東区若洲とも結ばれています[80265]
都心側をがっしりと抑えた江東区に対し、西側の大田区は明らかに劣勢です。
何とかして、勢を回復したいという大田区の思いが、調停案を蹴り、裁判に迄持ち込ませた動機なのでしょう。
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2 市部 -0.25km2
これは相模原市との境界をなす境川に関係した境界変更・境界修正です。
関連過去記事は [81933][90145]に至るまで、多数あると思います。

3 小笠原の西之島 +2.43km2 断然トップの面積増加 0.29km2(H28)→2.72km2(H29)
山野さんの記事が [86381]から[92808]までの間に多数あります。
[95484] 2018年 2月 25日(日)15:15:05hmt さん
Re:町村組合の歴史
[95477] むっくん さん
この機会に町村組合の歴史を簡単にですが、振り返ってみます。

市町村が、その事務の一部を組合に委託する形で共同処理していることは、消防や廃棄物処理の分野で広く行なわれており、現在でも生活に密着した自治組織として承知しています。
一方、明治以来の市町村の名称を調べていると、昔は「神奈川県津久井郡青山村外1ヶ村組合」という類の組合名を、頻繁に目にします。

市町村事務の共同処理という共通項で括られる この2つの制度。
殆ど意識していなかったこの事実を認識させてくれたのが、組合村の首長職肩書に関する疑問[95463]と、その回答[95469]でした。
これまで、全部事務組合、役場事務組合という名も知らずにいましたが、一部事務組合()を含めて、それぞれの首長が存在することを再認識しました。

そして、今回更に町村組合の歴史[95477]についての説明を補足していただきました。

ありがとうございます。最後に1959年まで残った役場事務組合の名は不明ということですか。

愛知県では、村の分立がされた後に当該2村による全部事務組合を結成したところがあります。

愛知県告示M24-122により碧海郡境村から「分立」した東境村がその例ですが、告示M24-173により碧海郡重原村の「分割」により生まれた半高村と重原村も、組合になったという点では同類ですね。
なお 明治24年愛知県令達類聚目録記載の告示第182号「碧海郡半田村外一ヶ村組合の件」は「…半高村…」の誤記です。

「○○村」という村名は、分立や分割という手段を使ってでも確保したい。
しかし、事務処理の統合・合理化はそれとは別問題ということでしょうか。
名称を確保したいという村人の望み。それを考えさせられる事例と思います。
[95470] 2018年 2月 21日(水)19:40:34hmt さん
組合村消滅は昭和大合併の結果?
[95469] むっくん さん
全部事務組合と役場事務組合は1959(S34).10.1から存在しなくなりました。

hmt出身地の近くにある宮ヶ瀬ダム[43001]は、2000年竣工の巨大な多目的ダムですが、その名は 1956/9/30【昭和大合併[93622]の末日】に消滅した 神奈川県愛甲郡宮ヶ瀬村に由来します。

煤ヶ谷村との合併で生まれた清川村[83701]は、1958年から現在に至るまでの約60年も「神奈川県唯一の村」として続いていますが[83698]清川村の沿革に記されているように、1889年の町村制からの 67年半は「煤ヶ谷村外一ヶ村組合」という全部事務組合でした。

このような知識に基づき、私は 全国に残っていた組合村は 昭和大合併で消滅したのだろうと漠然と考えていました。
今回紹介された総務省のページには、昭和大合併末日の3年半後以降は、組合村が存在しないとの記載がありました。
この3年半の期間には組合村が残っていたのか否か? 少し気になりました。

…と言っても、自分で手間をかけて調べるつもりもありません。
安直にWikipediaを見ると、存続期間の末年が 1956年となっている町村組合の実施例が 6件ありました。
それ以後に存続した例が示されていないので、?付きタイトルの記事にしておきます。

この6件につき変遷情報を調べたところ、 煤ヶ谷/宮ケ瀬組合と同様に 67年半存続した組合村が、昭和合併によって統合された。そのような例が大部分でした。

しかし、静岡県駿東郡高根村→御殿場市と須走村→小山町が関係する組合だけは、日付・編入先が異なることが判明。

相方の高根村に去られた後の須走村にとっては、最後の9ヶ月の後始末が大変だったことと思われます。

組合解消の結果、村長・村議会・村役場など組織一式が新たに必要。
単独事務のための須走村役場も9ヶ月のために新設? 簡素なもので対応するにしても、大変ですね。

その他の該当5組合に関係する昭和合併記録(4件)も列挙しておきます。
神奈川県愛甲郡清川村(煤ヶ谷/宮ヶ瀬組合)
三重県安芸郡芸濃町(雲林院/河内組合+3村)
和歌山県東牟婁郡熊野川町(九重/玉置口組合+2村+)
熊本県飽託郡天明村(銭塘/内田組合+奥古閑/海路口組合+2村)
[95468] 2018年 2月 20日(火)17:11:41hmt さん
バルカン半島の内陸国・コソボが独立してから10年
バルカン半島の内陸国・コソボが独立してから10年
平昌オリンピック参加 91ヶ国のリスト[95441]に付随した雑談です。
馴染みのない小国も多い中で、新聞の【スポーツ面でなく】国際ニュース面に「久しぶり」に登場したコソボを取り上げてみます。

国名としてのコソボ。私としては、これまで殆ど認識していない「国」でした。
記憶に残るのは 1998~1999年のコソボ紛争です。
当初はユーゴスラビア国内にありながら民族や宗教を異にする一地域の民族紛争でした。

しかし、国際世論の動向は NATOによる空爆>セルビア軍の撤退>国連の暫定統治を経て 2008/2/17のコソボ独立宣言という結果をもたらしました。

米英仏は早速コソボを承認。影響力のあるドイツも続きましたが、EU内部にも慎重な姿勢を示す国があり、セルビアと ロシアは勿論大反対です。
日本を含めて国連加盟国の半数以上がコソボを承認しましたが、中国は不承認。
拒否権のある2国の反対で、国連加盟は実現していません。

最近の新聞の国際面にコソボが登場したのは、独立10年という節目だからです。
2/19読売の見出しは「独立10年 晴れぬコソボ 貧困、失業…漂う失望」でした。
他紙も ほぼ同様に 政情不安・経済低迷など多くの課題が残されている現状を伝えています。

以上は 現在のコソボ共和国 ですが、Webを調べると 世界飛び地領土研究会>消滅した国々 に、同名の コソボ共和国を紹介するページがあります。
こちらは 1991~1999年に自らの存在を主張した国でしたが、承認してくれたのは アルバニアだけでした。

落書き帳の読者として注目してほしいのは、リンクした上記のページに描かれている国旗です。双頭の黒鷲「スカンデルベクの鷲」の図柄は アルバニアの国旗[86819]と同じであり、
※コソボ共和国の国旗も、国連暫定統治前【の20世紀末に】はアルバニアと同じ旗が使われていたが、【2008年の独立以後は】国内6民族(アルバニア人、セルビア人、トルコ人、ゴロニ人、ロマ人(ジプシー)、ボスニアク人(ボ スニアのムスリム人)を象徴する6つの星を描いた旗を改めて制定した。
という説明が付けられていました。
[95441] 2018年 2月 15日(木)19:21:59hmt さん
平昌オリンピック開会式の入場順
2018/2/9の開会式からだいぶ遅れてしまいましたが、過去のオリンピックでは、開会式の入場行進順番に関する記事を書いたことがあります。
たぶん最初は、2004年のアテネ大会です。

2008年に北京で開催されれた「第二十九屆夏季奥林匹克運動会」の時は、「国名に使われた漢字の画数と筆順」というユニークな着目点に驚きました。
これが漢和辞典にも掲載されている正統的な方法であることを知ったのは、Issieさんのご教示の後でした。関係記事

1988年のソウルオリンピックは、落書き帳発足前でもあり、「カナダラ順」という言葉は その後の記事[31908]により伝えられるだけです。
ハングル文字は落書き帳では書き難いし、何よりも関連する知識を持ち合わせていません。

そこで、開会式入場行進の順番表だけですが、とりあえず紹介することにしました。出典
日本の五十音順に相当するものでしょうが、だいぶ違うようです。

先頭のギリシャは別として、2番がガーナ、3番がナイジェリアと続き、ナ行の後は ダ行、ラ行と続くあたりに「カナダラ順」が見えているように感じられます。
このような「行の順番」が、日本の五十音との最大の違いでしょうか?

アルファベット順でも近い「IとJ」。今回もイタリア・インド・ジャマイカなど御馴染みの国々が近くに居ました。
しかし、この仲間が揃って後半の 60番付近以降に下がっています。
これが 普段のABC順と違うな と感じるところです。

雪国だけでなく、熱帯の国からの参加もあるが、気候とは別に内戦などの問題で参加できない国もあるようです。

発音の似ているオーストラリアとオーストリア。平昌リストでは並んでおり、これは常識的な結果。
しかし、ソウル1888の順番では、大きく離れています。ソウルでは「濠洲」の音を使った?
[95432] 2018年 2月 13日(火)17:58:49hmt さん
祖父江
[95429] シノレパシクソ さん
現・愛知県稲沢市の木曽川沿いに祖父江町というところがあったのですが、岐阜県瑞穂市の南東部、墨俣一夜城のすぐそばにも「祖父江」という住所がありました。

高分子化学の 祖父江寛教授(愛知県出身)を思い出し、「祖父江」の由来を調べてみました。

変遷情報検索で祖父江を調べると、紹介された愛知県と岐阜県の系統が出てきました。
愛知県中島郡【(旧)下祖父江村>】祖父江村>祖父江町>稲沢市
愛知県中島郡上祖父江村>朝日村>一宮市
岐阜県本巣郡祖父江村>牛牧村>穂積町>瑞穂市

「そぶ」と祖父江さんによると、田圃の水中に浮いている赤錆(酸化鉄)を「そぶ」と呼び、木曽川から取水した赤茶色の農業用水「そぶ水」に含まれている。
稲沢市祖父江町の地名は、「そぶ」が多い入江ということから名付けられた。

祖父江という苗字・地名は東海地方に多く「ソブエ」と濁音で読む。
同系統である「シブ」つまり金錆(金糞)のあるところ」を意味する地名は、祖父谷、渋谷、曾布川、蘇武(そぶ)、小千谷(おじや)など。

愛知県木曽川沿いの他に、岐阜県の穂積や、養老町にもある「祖父江」地名。
これらは、分割等に由来する「自治体越え」ではなく、自然条件の類似から「赤錆」が目立ったことに由来した自然条件型地名として、同一の名になったものと推察します。
[95415] 2018年 2月 9日(金)11:50:36hmt さん
赤いシリウス
2018/1/31の皆既月食の際に、地球の「かげ」に回り込んだ光に照らされて赤く見える「ブラッドムーン」[95358]が話題になりました。

[95368]で引用した過去記事の中には、「赤い星」の代表としてオリオン座のベテルギウス【赤色巨星】を挙げていますが、他にも「赤い星」として有名な存在としては、惑星の火星や 赤色巨星のアンタレスがあります。
夏の夜空を彩る Antares は、その名からして Ares【火星】由来であり、和名は赤星です。

ところが、昨夜の NHKテレビ・コズミックフロントNEXT で、約2000年前に「赤いシリウス」が観測されていたことを知り、驚きました。

シリウスと言えば、冬の夜空に君臨する 明るい白い星です。
古代エジプトでは、夏至の頃、夜明け前の太陽と共に地平線下から上昇してくるシリウスを、ナイル川の水量増加を予知させる「ナイルの星」として崇めました。
農業生産にとり重要なこの現象は、世界初の太陽暦の発明と採用、その年初決定に使われました。
古代文明発祥に深く関わっていたシリウス。
その星が「赤い時があった」とは驚きです。

もちろん、現在はシリウスBとして知られる伴星の白色矮星は、赤色巨星だった時代があるのでしょう。
でも、それは人類の歴史とは比較にならない大昔のことです。

下記の参考ページではその理由が不明なものの、恒星の進化からすれば「ごく最近」の二千年前に観測された赤いシリウスについては、過去にも 多くの謎解きが試みられたようです。

最新の説らしいのが、「ヘリウムフラッシュ」の可能性です。
日本のアマチュア天文家が 1996年に発見した桜井天体が、この新説のきっかけとか。

来週水曜日の深夜に再放送されるようです。
関心のある方はどうぞ。
[95403] 2018年 2月 7日(水)18:54:04hmt さん
まだ備前市福浦
落書き帳には、2003年の2県にまたがる島で登場した取揚島。
小さな無人島ですが、その南西部が岡山県の飛地とも思われるために[41400]などで話題になりました。

戦後の1955/3/1、国鉄山陽本線のバイパス・赤穂線が播州赤穂から日生(ひなせ)まで延長開業し、「備前福河」駅が開業しました。当時の所在地・岡山県和気郡福河村大字福浦の中で「村名」に由来する駅名ですが、「福河」とは明治合併における「福浦村と寒河(そうご)村」とを組合せた合成地名でした。

実はこの福河という村名、駅が開業した月の末日(1955/3/31)には日生町との昭和合併で消滅します。
行政関係者としては明治以来の村名を駅名に残したかったのかもしれません。しかし、江戸時代の旧村名、そして明治合併以来の大字名として住民が使ってきた「福浦」を駅名にした方がよかったかも?

そんなことを考えたのは、1963/9/1に、本土部分の福浦集落(明治合併前の旧・岡山県和気郡福浦村)ぐるみで、岡山県和気郡日生町から兵庫県赤穂市への境界変更が行なわれたからです。この境界変更の結果、
「備前」なのに兵庫県
という違和感のある状態になりました[46914]
…でも、違和感の由来は「福河駅」ではなくて「備前」を冠したことでした。備前を冠した理由は謎。

それはさておき、変遷情報岡山県では見ることができませんが、変遷情報兵庫県の詳細を見ると、境界変更対象地域は「日生町大字福浦の区域(【中略】を除く。及び福浦地先海面のうち【後略】)」と記されており、昭和38年自治省告示第106号により確認することができます。

実は、私としては【中略】の部分に記された多数の地名に注意を払っておらず、[95311]以降の福浦スレッドから脱落しています。
その後、Nさん、YTさん、ekinenpyouさんからの情報もありました。皆さんの記事により、鹿久居島の一部が福浦に含まれていたことを含め、「備前福浦」の範囲は、私が最初に考えていたような単純なものでないことを認識しました。

そして、最新の記事[95394]に記されていた 下記2件の資料を拝見して、ふと気がついたのは、A「土地に係る字の区域・名称」とB「住所表示」との違いです。
A 岡山県告示H17-214 2コマ【備前市成立時(2005/3/22)】
B 新市の住居表示

前者Aは土地に係るものであり、居住者の有無に関係なく、すべての土地に適用される。
 合併前の字:和気郡吉永町吉永中→【合併日の字】上欄:備前市吉永中→下欄:備前市吉永町吉永中
後者Bは人に係るものであり、居住者の居る土地に限定して適用される。
 合併前の住所表示:和気郡吉永町吉永中→新住所表示:備前市吉永町吉永中

この例示に従って考えると:
無人の取揚島については、A「土地に係る字の区域・名称」のみ存在し、岡山県告示H17-214により「大字」という言葉を使わなくなった 備前市日生町福浦に属する。【住居表示は当然ながら存在せず。】
合併前の字:和気郡日生町大字福浦→【合併日】上欄:備前市大字福浦→備前市日生町福浦

[95394]で存在が確認されたA「字の区域・名称」の第6欄:備前市大字福浦→備前市日生町福浦は、「大字」という言葉を使用しなくなったことの他に、遠く東に離れた取揚島まで含めた旧日生町域全部の土地の字名として「日生町」という言葉を冠するようにしたことを示しているようです。
「備前市日生町福浦」という字に取揚島以外の土地があるか否かは不明です。
しかし、旧日生町の4字名と違ってB住所表記には日生町福浦がありません。
このことは、たとえ取揚島以外にこの字名の土地があっても、居住地ではないことを示しています。
[95385] 2018年 2月 4日(日)14:21:44hmt さん
皆既月食の計算根拠
[95370] シノレパシクソさん
疑問に答えていただき、ありがとうございます。

引用記事により、下記の根拠を確認。
スーパームーンは年に4~6回【確率約0.33から0.5になりそうだが、0.25で計算】
ブルームーンは2年8ヶ月に1回【32分の1とすると確率0.03125だが、0.03で計算】
皆既月食は5.6%【確率0.056で計算】
対象は全地球、つまり「観測地域の限定なし」であると理解しました。

3条件は独立事象であると考え、0.25*0.03*0.056=0.00042 つまり0.042%=約2380分の1を算出。
定義が明確にされていないスーパームーンは、確率0.25でもよいことにしておきましょう。

問題なのはその先、
満月2380回に1度起こることになり、計算上、平均して256年に1度の出来事らしい。

約2400回の満月が起こるのに要する時間が 200年未満であることは、直感でも解ります。
[95368]の末尾は、観測値より大幅に大きかった計算値を眺め、計算根拠を疑ってのレスでした。
しかし、計算根拠の妥当性以前の問題として、この計算は間違っていませんか?

こんなこともあるので、落書き帳の書き込みについても、出典や内容のチェックに配慮する習慣をつけておいてほしいのです。
学校に出すレポートやテストの答案で失敗しない訓練としても役立ちますよ。
…と、余計な説教を付け加えたがるのは、失敗の経験を積んできた御隠居の悪癖です。ごめんなさい。


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