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[77613] 2011年 2月 7日(月)22:02:40oki さん
役所前の駅
ところで駅に一番近い市役所・町村役場・特別区の区役所(本庁舎、またはメインの役場所在地)ってどこなんでしょう?

私が知る限りでもっとも役所に近いのは、その名も「板橋区役所前」駅。都営三田線の駅出口が板橋区役所に直結しています。
また、都営大江戸線「春日」駅も、文京区役所に直結する出口を持っています。この距離になると、どちらが近いかは定義によっても異なるでしょうが(駅と役所の中心点間の距離か、もっとも近接する部分間の距離か、など)、文京区役所の方に若干分がある、かな?

この種のものは、鉄道駅の多い大都市の方が有利でしょうね。
[77607] 2011年 2月 6日(日)15:29:03oki さん
電子国土基本図(は使えない)
今日は、休日だというのに朝からお仕事。少し飽きてきたので、軽く書き込みを。

[77603] hmt さん
国土地理院の発表 によると、2月1日から、「電子国土基本図(地図情報)」が正式公開の運びになったとのことです。

「電子国土」や「基盤地図情報」は、提供された当初から興味を持って見てきましたが、現時点での評価は「使えない」の一言です。

「電子国土」の利用法には、「基盤地図情報」をGISのデータとして使用する場合と、「電子国土ポータル」を「紙の1/25000地形図」の代替となる閲覧可能地図として利用する場合の二つが考えられます。
まずデータとしての「基盤地図情報」ですが、その大半はGISデータとしては使えません。大きな理由は、そのフォーマットと仕様にあります。「基盤地図情報」のファイルフォーマットは「JPGIS」と呼ばれるXMLファイルですが、極端に冗長な構成を取っており、ファイルサイズが巨大になります。たとえば、地図上の3点を結ぶ線分を示すのに、20行もの記述が必要になります。1つの点(経緯度)を示すのに、次のような5行を費やし、その他ヘッダを入れると3点で20行が必要です。
<jps:column>
<jps:direct>
<jps:coordinate>36.40388495 139.610253106</jps:coordinate>
</jps:direct>
</jps:column>
行政区域、鉄道、道路など、あらゆる地物についてこれをやるのですから、ファイルサイズは馬鹿馬鹿しいほど大きくなります。
しかも、ArcGISやGRASSなど通常のGISソフトは、このフォーマットのファイルを読めません。JPGISファイルを読めるのは国土地理院が提供する「基盤地図情報閲覧コンバートソフト」だけで、このソフトを使ってGISで一般的な「シェープファイル」に変換する必要があります。この変換の過程で、JPGISが持つ属性情報は失われます。つまり、これだけ冗長な構成を取りながら、変換後に得られるのは、ただの経緯度の連なりだけなのです。
さらに、道路に関しては、基盤地図情報が提供するのは「道路縁」の情報で、「道路中心線」ではありません。もちろん、交差点(他の道路との接続)に関する情報もありません。鉄道の方は、線路の本数だけ情報があります。つまり、複線なら2本、複々線の場合は4本の線路に関する情報です。代わりに、線路と駅との関係に関する情報は得られません。
このような状況なので、基盤地図情報のデータを用いて、GISで重要なネットワーク分析を行うことはできません。特定道路の周辺100mに住んでいる人口を求めるようなバッファ分析もできません。
要は、基盤地図情報はただの白地図、つまり白紙の上の線分情報に過ぎないのです。今までの紙の地図上に描かれていた線分に、経緯度情報を与え、経緯度の連なりとして示したもの、それが基盤地図情報です。それ自体としては必要なものでしょうが、少なくとも、私が期待していたような、GISでの分析に利用できるデータではありません。これなら、以前に提供されていた「数値地図(25000および2500)」の方がよほどマシです。

ただ一つ、基盤地図情報で使えるのは「DEM(標高)データ」です。現在、1/25000地図の等高線を元に作成された全国の「10mメッシュDEM」と、航空レーザスキャナ測量で取得された、都市部を中心とした「5mメッシュDEM」があります。私は、「10mメッシュDEM」をすべてDLし、全国の「赤色立体地図」を作成しました。「赤色立体地図」はこういうもので、従来の段彩図に比べ、地形の凹凸が格段に立体的に把握できます。通常はリンク地図のような赤色の地図なのですが、これに彩色し、「彩色立体地図」と名付けました。この「彩色立体地図」をGoogle Earthに貼付け、その上に「ウォッちず」の地形図を被せて全国の地形を観察するのが、現在の私の大きな楽しみなっています。この点については、「基盤地図情報」とそれを提供する国土地理院に感謝しています。

次に、閲覧できる地図としての「電子国土ポータル」ですが、私にとっては、これも従来の「ウォッちず」の方が上です。
一つの問題は、「電子国土ポータル」の地図表示面があまりに狭いこと。「電子国土ポータル」では、地図の表示枠は画面全体の7~8割程度の面積しかありません。そして私の環境では、地図表示枠のうち右側および下側の1/5の範囲がグレーの空白部分になっています。地図が表示されるのは残りの4/5の範囲です。したがって、地図表示面積は画面の半分にも足りません。何度もプラグインをインストールし直していますが、まったく修正されません。ですので、「電子国土ポータル」は使いません(不思議なことに、「オルソ画像」だと表示枠の全体に地図が表示されるのですけどね)。
で、今回「ウォッちず」の「電子国土基本図」を見てみたのですが、重大な難点があります。1/25000地形図では、大字と小字は文字の大きさで判別可能でしたが、「電子国土基本図」では両者とも同じ大きさで、まったく判別できません。これでは非常に困る。
また、「樹木に囲まれた居住地」の記号がなくなっています。「建物」の記号が従来より淡彩で表示されていることもあり、地方(田園地帯)での集落の状況が非常に分かりにくくなった、というのが正直な感想です。
「ウォッちず」では、1/25000地形図は7月末まで閲覧可能と注記していますが、つまり8月以降は閲覧できなくなると言うことでしょう。そうなるととても困ります。今のうちに、国土地理院から「ウォッちず」のすべての地図画像をDLしローカルで使えるようにしようと、本気で考えているところです。
[77598] 2011年 2月 5日(土)01:31:28oki さん
巻き寿司と海苔巻き など
[77590] Issie さん
河童巻きや鉄火巻きのような細巻きと,でんぶや卵焼きを巻いた太巻きとの間の「中間の巻き寿司」ってのがあるのかしら。

ここの海苔屋さんの説明では、海苔巻きには太巻き、中巻き、細巻きの3種があり、その大きさは次のようになるようです。
太巻き : 海苔を1枚或いはそれ以上使用するため、必要な分の海苔を付け足して使用しています。
中巻き : 海苔を1枚そのまま使用しています。
細巻き : 海苔を横半分(店によっては縦半分)に切って使用しています。

30年以上前の徳島には、細巻きや太巻きは存在せず、私が知っていたのは海苔1枚を使う「巻き寿司」だけでした。これは関東の「中巻き」に当たります。ですので、「通常の巻き寿司より太いのを太巻、細いのを細巻」と思いこんだのですね。

[77595] 右左府 さん
私からしてみれば大豆(食べ物)を撒く(そして処分する)なんて罰が当たる!という感覚で、それに比べて落花生は合理的に感じるのですが……。

落花生の元締めであるこちらの協会のサイトでも
雪の多い地域で使う割合が高いのは、雪の中に撒いた豆を拾うのは落花生の方が楽ですし、後で食べることを考えると殻に入った豆の方が衛生的である等の合理的な理由が伴っていると考えられます。
という記述があります。

ここで疑問があります。
大豆を撒く場合、拾って食べるのは外から家の中に向かって投げた豆で、外に撒いた豆は食べません。外の豆は、土(またはアスファルト・雪など)の上に転がっている、と言うこともありますが、そもそも鬼を払うために撒いた豆なので食べる対象ではない、と考えていました。家の中の豆は、「福は内」で入ってきた豆で縁起が良いから食べるのだと思っていたのですが。
落花生節分地域では、鬼を払うために撒いた落花生も、食べる対象にするのでしょうか?

外に落ちている豆は、しばらく放っておけば、季節柄エサ不足に悩んでいる野鳥が飛んで来て片付けてくれるので、別に食べ物を無駄にすることでもないと思うのですが、いかがでしょう。
[77589] 2011年 2月 4日(金)09:41:09oki さん
巻き寿司
[77588] 白桃 さん
節分で「巻きずし」を丸かじりをしたかもしれませんが、覚えてないなぁ~。なんせ50年も前だし、あの頃しょっちゅう「巻きずし」食べてたから・・・。

私も、徳島にいた頃は「巻きずし」を結構食べました。その時代の巻き寿司は、花祭りとか、端午の節句とか、秋祭りとか、学校の遠足などという、ちょっとしたハレの日の食べ物で、しかも店で買うものではなく、自宅でつくるものでした(稲荷ずしと一緒につくることが多かったですね)。目の前でクルクルと巻き上がるのが、とても待ち遠しかった思い出があります。

東京に出てきた頃は、お店に太巻と細巻しか並んでいないのを見て、通常の巻き寿司より太いのを太巻、細いのを細巻と呼ぶのだと思いこんでいました。

節分は、豆を撒く以外は普通の日と同じなので、巻き寿司を食べた記憶はまったくありません。まして恵方巻きなどというものは見たことも聞いたこともない。徳島は文化的には関西圏の一部ですから、恵方巻きは関西圏でも一部の地域で、それも戦後のかなり遅い時期から始まった風習ではないでしょうか。
恵方巻きの概要については、ここにある「食卓の縁起に関する研究」と称する論文が、比較的良くまとまっています。
[77579] 2011年 2月 2日(水)11:51:41oki さん
0.1.1.0.0.0=305
[77576] にまん さん
[77573] ぺとぺと さん

気になったので、「0.1.1.0.0.0」の並びになる町域を抽出したところ、全国で305ヶ所ありました(現在参照しているのは、2010年4月30日付のデータです)。煩雑なので全部は示しませんが、以下のような市に多数存在します。
豊川市(55ヶ所)、山形市(24)、弘前市(21)いわき市(12)、亀岡市(11)、盛岡市(10)。

実際の状況を検証したところ、青森市幸畑、弘前市大清水、金沢市浅野本町、徳島市南二軒屋町では、[77576] でにまん さんが指摘されたように、「町域の一部だけに「丁目」が置かれていて、かつ番地が小字起番の場合」でした。
しかし、横浜市港北区高田西、豊川市西香ノ木町などのように、丁目地域だけが存在し、小字起番の番地地域は存在しないところもあります。該当する市町村は東北、愛知など小字起番地域に多く存在するので、以前は町域の一部だけに丁目が置かれていて現在は全域に丁目が設定されたものの、郵便番号簿の内容が修正されていない、と言うことかもしれません。
ただ、にまん さんが挙げられた4地域については、吉川市保・木売=0.0.0.0.0.0(小字起番でなく丁目もない)、三郷市上口・番匠免=0.0.1.0.0.0(小字起番でないが丁目はある)なので、一体どうなっているのか、と思いますね。
[77488] で88 さん が仰っているように、「私が地元香川県を見た限りでも「一町域」や地番区域については正確ではなく、精査は必要です。」と考えた方が良さそうです。

と言うことなので、[77570] 千本桜 さん 「栗原市築館芋埣の謎」は、郵便番号簿の誤記、と考えるのが妥当だと思います。
ところで、興味を持たれると思いますので、小字まで含めた全国の住所データを一覧できる資料をご紹介したいと思います。「自動車登録関係コード検索システム」という、国土交通省が運用しているサイトなのですが、ここに運輸局ごとの住所ファイルがあり、小字起番地域については、小字までの住所が掲載されています。
PDFファイルなのでデータの加工・分析が難しい、丁目に関する情報がない、ネット地図の小字情報と必ずしも一致しない、といった欠点もありますが、全国レベルで小字を一覧できる資料はあまりないと思われるので、ご覧になられてはいかがでしょうか。
[77557] 2011年 1月 30日(日)17:19:44oki さん
さらに、小字について
[77547] 千本桜 さん
なぜ「大字が分解されてかつての小字が市町村の直下に組み込まれると小字が大字扱いになってしまう」と考えておられるのか不思議でした。
私の記述が舌足らずであったため、誤解を招いてしまったようです。
正確に表現すると、「小字が大字扱いになってしまう」ではなく、[77486]の表で「大字」としてある地域のうちには、大字が分解された小字も含まれる、とすべきでした。小字が大字になったと考えているわけではありません。
[77486]で意図したのは、小字起番の地域が地理的に極端に偏っていること、したがって、mapionなどのネット上の地図で検索する場合も、抽出される小字地名が特定の県に偏在すること、を示すことでした。その点さえ理解してもらえばいいので、データの詳細な正確性にはこだわっていませんでした。
資料として郵便番号簿を使ったのは、小字起番の地域を簡単に抽出できる資料がそれしかないからで、このデータに、千本桜 さんがご指摘されたような欠陥があることは承知の上です。
ただ、[77486]で私が使った「大字」という用語は、明らかに誤解を招く表現です。正確には「市区町村の直下の地域区分」であり、それには近世村に由来する大字のほか、城下町等の町に由来する町、明治以降に新たにつくられた町、そして大字が分解された結果市区町村の直下に位置することになった小字、などが含まれています。
スペースが限られる表頭部分に、「市区町村の直下の地域区分」などという長たらしい表示をしたくなかったので単純に「大字」と表現したのですが、以上の説明を丁寧にしておくべきでした。誤解を与えてしまい申し訳ありません。

宮城県の大字数が2848個というのは納得できません。この数字は大字の他に住居表示実施で発生した町と多数の小字を含んでいるはずです。
住居表示された丁目地名は小字起番があり得ないので除去しているとのことですが、丁目がない住居表示済みの町も同様に扱うべきだと思います。
これも、千本桜 さんの意見は正論です。
ただ、「住居表示された丁目地名」は、郵便番号簿から簡単に分かるのですが、「丁目がない住居表示済みの町」を機械的操作によって知る方法はありません。つまり、その地域区分が「丁目がない住居表示済みの町」であるかどうかを確認するためには、10万件近い地名について、その住居表示適用の有無をチェックする必要があります。それには相当の手間と時間がかかるはずで、[77486]でお示ししたデータについては、そこまでの時間を費やしていません。
また、「大字」として示した中に多数の「小字」が含まれるのは先にも示したとおりですが、これも機械的に判別する方法がなく、いちいち確認する必要があります。徳島県内や宮城県の一部については事前に知っていたのですが、東北地方の他の県などの実情はよく分かりません。で、詳しくは調べずに、「大字が分解された小字の存在を考慮すると、小字起番率はさらに高まる」という注釈を入れておいたのですが、こちらも誤解を招いたようです。

今後は、できるだけ誤解を招かない表現、説明をするようにいたしますので、ご容赦ください。

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と言うだけでは言い訳ばかりになってしまうので、大字・小字に関係する別のデータをご紹介しておきます。
基礎とした資料は「数値地図25000(地名・公共施設)」です。これは、25000分の1地形図(全部で4000枚以上あるはずですが)に記載されている地名等の注記約47万件のデータベースです。上記のサイトによると、2002年4月刊行の世界測地系に基づく版もあるようですが、私が持っているのは2000年1月発行の日本測地系版です(定価で買うと7500円なのですが、ヤフオクで1000円で入手しました)。当然、2000年もしくはそれ以前のデータです。
このデータでは、約47万件の注記のうち居住地名が約30万件あり、それが次の3つに区分されています。
・総称する名称~580件
・包括する名称(大字及び住居表示)~141,574件
・個々の名称(字及び通称)~153,025件

とりあえず、「総称する名称」は無視し、「大字及び住居表示」と「字及び通称」の件数を都府県別に集計したのが次の表です。

大字及び住居表示字及び通称「字及び通称」比率
03岩手県1771769394640.81
45宮崎県1150397251220.78
07福島県300910342133510.77
37香川県885271435990.75
46鹿児島県1828542872560.75
32島根県1496413356290.73
36徳島県963263535980.73
05秋田県1707456962760.73
44大分県1929498569140.72
20長野県2362580681680.71
41佐賀県979235933380.71
35山口県1955461965740.70
04宮城県2445575281970.70
33岡山県2916676796830.70
43熊本県2342536377050.70
39高知県1810327650860.64
38愛媛県2138382159590.64
10群馬県1937328852250.63
34広島県3479555990380.62
09栃木県2377372861050.61
42長崎県2022289249140.59
08茨城県3654513587890.58
02青森県1995263446290.57
06山形県2245293251770.57
19山梨県1138148026180.57
21岐阜県2759316059190.53
30和歌山県1576175533310.53
40福岡県4963464796100.48
22静岡県3521321967400.48
31鳥取県1483123427170.45
24三重県2745227850230.45
12千葉県5392388192730.42
47沖縄県97067916490.41
11埼玉県4857312779840.39
26京都府181686126770.32
15新潟県5360224376030.30
01北海道130915549186400.30
14神奈川県4092145555470.26
23愛知県7188248096680.26
17石川県222564328680.22
29奈良県215962327820.22
28兵庫県7778172595030.18
25滋賀県201436523790.15
13東京都508452956130.09
18福井県222820624340.08
16富山県259123228230.08
27大阪府715025274020.03
上記計1318331525412843740.54
(「字及び通称」比率=「字及び通称」/(「大字及び住居表示+「字及び通称」))

「大字及び住居表示」には、大字地名のほか○○×丁目などが個別に、つまり○○1~5丁目は5つの地名として、含まれています。一方、「字及び通称」は大字の下位地名で、小字のほかいわゆる「通称」と称するものが含まれています。大字起番地域では大半が通称ですが、小字起番地域でも、通称が記載されている場合があると思われます。
また、このデータには重大な欠陥があります。25000分の1地形図の注記をそのままデータ化したものなので、地形図の端に位置する地名は、複数の地名図にまたがって記載されます。最大で4つの地形図に記載され、4回カウントされている地名があります。このような地名がどのくらいの割合にのぼるかはよく分かりません(スクリプトを書いて重複データを除去することは、ある程度まで可能ですが、そこまでやっていません)。
以上のような性格のデータだということを念頭に置いて見ていただきたいのですが、全国には大字等の地名が約13万件、小字・通称が15万件程度あることが分かります(先の欠陥のため、実際の地名数はこれより少なくなります)。
また、「字及び通称」比率が高い県には、小字起番地域である東北各県や徳島県のほかに、九州各県や香川県、島根県などがあがっています。一方、「字及び通称」比率が低い地域として、住居表示実施率の高い東京、大阪などの大都市があがっているのは当然として、福井、石川、富山の北陸各県、および奈良、兵庫、滋賀県といったかつての畿内近国地域が目につきます。
どうしてそのような結果になるかについては、地域による近世村の構造の違いが影響していると考えられ、仮説も持っているのですが、その紹介は今後の書き込みで行いたいと思います。

夕方になったから、今日の夕食の「おでん」を作らないといけないのですよ。
[77486] 2011年 1月 19日(水)16:36:54oki さん
再び、小字について
遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。

[77484] hmt さん
[77481]のリストを見ると、愛知県など特定の地域に 字名らしきハサマが目立ちますが、同様に 多数の字名を抱えている市町村があるとすると、日本中の地名の数は 驚くべきものになりそうです。

「大和地名大辞典」では、奈良県における小字地名の数が10万ほどだった、と言うのを読んだことがあります。北海道と沖縄を除く45都府県に同程度の小字があるとすると、全国の地名の数は450万ほど、と言うことになります。
こちらの「小字データベース」を見ても、奈良平野が条里制に由来する方形の小字で埋め尽くされていることが分かります。

ただし、これらの小字の多くは、現在のネット上の地図では検索できないと思います。前にも[74206]で触れたことがありますが、ネット上の地図では、小字単位で番地が設定されている(小字起番)地域の小字は検索されますが、大字起番地域の小字は検索できないからです。たとえば、先の小字データベースでは、御所市蛇穴に垣内、車ノ本など数十の小字があることが分かりますが、Mapionの住所一覧検索には御所市蛇穴について4~750番地が記載されているだけで、小字は一切ありません。もちろん、御所市蛇穴字垣内で検索しても出てこないし、地図上に表示されることもありません
一方、[77423] 油天神山 さん の「一宮市千秋町佐野工高前」は小字起番の小字なので(1~69番地があるようです)、検索できるし、地図上にも表示されます。
また、[77481] 油天神山 さん 「豊田市大蔵町(柳ハザマ)」は、4番地と12番地しかないようで、検索はできるものの地図表示はされません。

では、小字起番の地域はどのように分布しているのか。
日本郵便は、ほぼ毎月、全国の郵便番号簿を改定しており、ネット上からダウンロードできます。この郵便番号簿には、「小字毎に番地が起番」という欄があり、これをチェックすることで、全国の大字地域について、それが小字起番かどうかを確認することができます。昨年の2月くらいに、これを使って小字起番地域の分布を調べた結果が以下の表です。

都道府県名大字数小字起番小字起番率
青森県2244112049.9
秋田県206499348.1
福島県3711170045.8
山形県167964838.6
岩手県175960934.6
徳島県131940230.5
愛知県4699127727.2
宮城県284877327.1
石川県230029212.7
京都府65754747.2
兵庫県41261132.7
静岡県2597501.9
三重県2276421.8
岐阜県2356361.5
島根県1153151.3
熊本県169170.4
長野県149250.3
山口県62220.3
群馬県141040.3
香川県144840.3
新潟県161340.2
富山県478480.2
広島県308050.2
鳥取県131420.2
大阪府67610.1
奈良県164820.1
滋賀県162810.1
栃木県170610.1
宮崎県177810.1
北海道251510
千葉県542620
茨城県289610
福岡県168400
埼玉県130200
福井県200900
岡山県147200
長崎県200800
大分県71600
高知県159700
愛媛県81600
和歌山県218400
鹿児島県87900
神奈川県136200
山梨県178100
佐賀県59600
沖縄県227300
東京都146700
合計9957985958.6

以上で、大字とは市町村の直下にある地名で、多くの場合江戸時代の近世村ですが、そうでない場合もあります(住居表示された丁目地名やビル名は、小字起番があり得ないので除去してあります)。
全国で約10万の大字地名があるうち、小字起番なのは8595で8.6%です。地理的分布はきわめて偏っており、青森、秋田、福島県では半数の大字が小字起番で、ほかの東北各県も高率、徳島、愛知、石川各県も10%を越えています。
しかし、小字起番が多い県は少なく、1%未満が熊本など30県以上、北海道以下の18県は小字起番の大字が皆無です。
なお、徳島や宮城は小字起番の割合が30%程度になっていますが、これらの県では大字が分解されてかつての小字が市町村の直下に組み込まれる事例が少なくなく、この場合は小字が大字扱いになってしまいます。これを本来の小字と考えると、小字起番の比率はさらに高まります(他の県でも同様の事例があるかもしれませんが確認していません)。

いずれにせよ、現在のネット上の地図で検索される小字は、上に示した県に所在するものに偏ってしまうと思われます。地名コレクションで収集する地名にこのような偏在を許容するかどうかは、検討した方がよいかもしれません。
現実問題として、大字起番地域にどのような小字地名があるのかを調べるのは、非常に難しいことだとは思いますが。
[77128] 2010年 12月 28日(火)09:39:02oki さん
延長18回
[77120]ペーロケ さん
最後に、坂東英二って名古屋ではヒーローなんですね~(笑)。ローカル番組にかなりの頻度でお見かけしました。

板東英二氏は、今では(お笑い系)タレントと見られているみたいで、中日ドラゴンズの投手であった時代を知る人も少なくなったようです。しかし徳島県民には、甲子園で大活躍した徳島商業のエース、というイメージを持ち続けている人が今でも少なからずいます。魚津高の村椿投手を相手に18回を投げ抜き、翌日の再試合に完投勝利したのは、1958年の甲子園大会準々決勝、もう半世紀も前のことなのですけどね。

[77125] 伊豆之国 さん
この「バンドウ」という苗字。英二氏の故郷・徳島県に非常に多いのですが、私が以前([65687])で書き込んだように
両者の分布は(中略)お互いに入り混じっているようです
分布地域はいずれも吉野川下流地域を中心としているのですが、お互いに重なり合っており、隣同士の市町村でも分布が逆だったりして、混乱してしまいそうです
という状況で、徳島県民でも取り違えが多そうな気がするのですが‥。

「板東」の名字は、もちろん地名がもとになっています。鎌倉時代中期以降、板野郡は板東、板西の両郡に分かれており、その状態は江戸時代初めに再統一されるまで続きました。この板東、板西の郡名が、名字として広まったのだと思います。
伊豆之国 さん が「分布地域はいずれも吉野川下流地域を中心としているのですが」と仰っている吉野川下流地域が、まさしく板野郡です(言うまでもありませんが、鳴門市も旧板野郡です。というより、鳴門市周辺がかつての板東郡)。
ただし、板東郡の時代から坂東と混用しており、「坂」東郡と書かれた史料もたくさんあります。関東を表す「坂東」の語がポピュラーであったため、そちらに引きずられたのでしょう。江戸時代以前はこの種の混用に寛容ですからね。鎌倉時代の阿波守護が、東国出身の小笠原氏だったことも影響したかもしれません。
地名自体が板東と坂東で揺れていたわけで、それが名字にも影響して、「板」東さんと「坂」東さんの両方が存在する現状につながっているのだと思います。

私の同級生には板東くんしかいませんでしたが、坂東くんも同時にいれば、やはり混乱したでしょうね。
[77123] 2010年 12月 27日(月)19:11:18oki さん
西高東低のアーケード
[77120]ペーロケ さん
[77121] Issie さん

[77122] hiroroじゃけぇ さん
都心のアーケード商店街といえば、高松や岡山、倉敷もあてはまります。小さな児島でさえアーケードがあるのですから、当然大都市にはあるものだと思っていました。京都や大阪もしかり、草津もある。徳島や宮崎も記憶に残っています。

こちらのサイトに、「都市のアーケードの成立発展過程」、「アーケードの原型としての『日覆い』の成立発展過程」というページがあり、その中にアーケードに関する論文がいくつかあります。
それらを見ていると、アーケードの分布は西高東低の傾向が非常に強いようです。その要因として、西日本、特に瀬戸内海沿岸地域は夏の日照時間が長いため、商品を日焼けから守る目的で日覆いが必須だったことがあげられています。また、古くから商業集積が進んでいた反面として道路幅が狭いため、道路両側の商店が協力して道路全体を覆う天蓋型の日覆いも、早い段階(遅くとも明治期)からあったとのことです。
西日本各地には、その発展形としての天蓋型アーケードが普及し、大阪の心斎橋筋や難波、神戸三宮、岡山表町、徳島東新町など、地域の代表的商業集積として必ずアーケード型商店街が存在する、という現状につながっているようです(済みません、広島本通は有名なアーケード通りのようですが、行ったことがないので)。
一方、東日本では道路幅の広さから、Issie さんの言及された歩道上のみに設置する雁木型の片側式アーケードが主体だったようです。

さらに、戦後の一時期、アーケードが商店街近代化の切り札的な存在だった時代があり、商店街のイメージアップと一体感醸成のために盛んに設置されました。これにより、東日本の大都市郊外にも西日本型の天蓋型アーケードが普及したようです。中野、吉祥寺といった中央線沿線が典型で、私の居住地近くでは新小岩にもあります。

銀座の場合、道路幅は広いし、日本を代表する商業地でイメージアップの必要などなかったため、アーケード設置の必然性がまったくなかったのでしょうね。名古屋の場合も、アーケードに関しては東日本型に属し、中心部には設けられなかったのでしょう。対して、総曲輪などがある北陸は西日本型に分類されるようです。
[77115] 2010年 12月 26日(日)21:19:33oki さん
泣くは因幡の
[77114] 伊豆之国 さん 
「兎」の付く駅もただ一つ。山形鉄道・フラワー長井線の、その名も「白兎(しろうさぎ)」駅(山形県長井市白兎)。「旧高旧領取調帳」「天保郷帳」に「置賜郡白兎村」として出ているので([77085]YTさん)、少なくとも江戸時代から続く由緒ある地名でしょうが、由来が気になるところです。

大永2年(1521)の伊達氏の書状に「下長井之庄白菟郷之内」とあるのが史料上の初見のようです。当然、それ以前から存在した地域名のはずで、遅くとも15世紀中に成立していたのではないでしょうか。
角川の地名辞典によると、永禄9年(1566)の史料に「彼地、白兎もあつかひ候ニ付而」とあり、白兎を飼って毛皮を領主に献上するのが当郷のつとめであった、とのことです。まさしく、白ウサギと直接関係のある地名ということになります。もっとも、毛皮にされる兔にとっては、うれしくも何ともないでしょうが。
因幡のアレもそうですが、白兎というのは皮を剥がれる運命にあるのでしょうか。

ところで、「旧高旧領取調帳」による白兎村の石高は1,682石、対して「天保郷帳」では956石であり、米沢藩では明らかな二重帳簿を作成していたようです。
[77106] 2010年 12月 26日(日)03:31:44oki さん
利根川東遷以前の下総国図
[77091] hmt さん 利根川と国境・県境との関係(10)

利根川と国境・県境との関係シリーズについては、興味をもって読んでおりますので、今後も継続していただくよう、お願いいたします。
それに関連して、上記書き込みでhmt さんが引用された土木学会のサイトに、非常に面白い絵図が掲載されており、利根川東遷以前の利根川流域の状況が推測できるので、それについてちょっとご紹介しておきます。

紹介したい絵図は、上記サイトの右下に「江戸初期 下総之国図」(船橋市西図書館蔵)となっているものですが、サイト掲載のままでは解像度が低すぎて何を示しているかよく分かりません。
そこで最初に、この絵図が何を示しているか、簡単に説明しておきます。絵図は上が北、右が東で、現在の地図と同じです。絵図のもっとも左上(北西側)にある□印が古河城で、その西を流れるのは渡良瀬川(思川)です。渡良瀬川(および権現堂川)沿いに古河城の下(南)に位置する□印が栗橋城、そのすぐ東(右)にあるのが関宿城です。ただし、この栗橋城があったのは、権現堂川西岸に位置する現在の栗橋ではなく、東岸の元栗橋(現五霞町)です。関宿城のはるか下にある□印は葛飾区青砥にあった葛西城、その斜め右(東北東)に位置するのが松戸の大谷口にあった小金城です。
栗橋城、葛西城、小金城などは、秀吉の小田原攻めの際に落城し、そのまま廃城になったはずですから、この絵図は江戸時代初期というより、後北条氏時代の下総を描いたものではないかと思います。

この絵図で、利根川は次のように流れています。まず、北西方向から流れてきて二派に分かれます。東流する細い流れはおそらく合の川で、渡良瀬川と合流しています。南東流は浅間川筋と見られ、さらに二分されていますが、東派した川は権現堂川と合流、関宿方面へ続いています。南東方向への流れが利根川の本流で、猿ヶ股(現在の葛飾区水元)で二分し、葛西城の東を通って江戸湾に注ぐ西側の流れが江戸時代の中川です。その一部(古隅田川)はさらに西派して隅田川に流入しています。猿ヶ股から東へ行く派川は当時の太日川で、現在の江戸川下流部をなす河川だと考えられます。絵図からは、(古)隅田川以東が下総国に属していることがはっきりと分かります。

この絵図には、東遷以前の利根川水系について、注目すべき点がいくつか示されています。その中で最大のものが、利根川水系と常陸川水系の連絡を明示していることです。少し分かりにくいですが、栗橋城の南を通る権現堂川は、関宿城の西側から北側を迂回し、東側の常陸川につながっています。これは近世の逆川の川筋そのもので、この絵図が正しいとすれば、後北条氏の時代に、逆川に当たる水路が既に存在したことになります。
栗橋城主北条氏照の書状により、天正4年(1576)の段階で葛西~栗橋間および佐倉~関宿間の舟運があったことが判明しているので、栗橋~関宿間が上記の水路を通じて連絡していたとすれば、江戸湾と佐倉間(さらには銚子まで)の舟運も可能だったと考えられます。

もう一つの注目点は、庄内古川に相当する河川が存在しないことです。庄内古川(この時点では庄内川ですが)は、関宿城の西側で権現堂川から分派、当時の利根川本流と並行する形で南流し、猿ヶ股から東派した太日川と合流しているはずです。しかしこの絵図では、太日川に流れ込んでいる川はありますが、権現堂川には達していません。逆に権現堂川から南流する川は、途中で利根川本流に合流してしまっています。
この南流河川は、hmt さんが
権現堂川の西側の流路は、古河から南下してきた渡良瀬川の続きで、権現堂付近から南へ大きく蛇行した河跡が地形図上で読み取れ、杉戸付近で古利根川に流入していたとされます
と書かれていた川だと思います。この絵図が正しいとすると、この時点では庄内川がなく、渡良瀬川の水も利根川本流に合流していたことになります。
迅速側図を見ると、上記の南流河川の東側に、南へ向かう広い河道跡が認められ、それは庄内古川の川筋につながっています。ひょっとすると、この絵図の時点では閉塞していた河道を改めて開き、利根川本流に集中する水流を太日川方面に流そうとしたものの、うまくいかず、改めて江戸川を開削したのかもしれません。

また、利根川水系と常陸川水系との水運が既に開かれていたとすれば、新川通や赤堀川を開削した主目的は、特に洪水時に、利根川および渡良瀬川の水を常陸川に流すことにあったと思われます。それにしては赤堀川の川幅が狭すぎ、放水路の役割を果たさなかったのではないか、とも思われるのですが、この点は今後考えてみることにします。

何にしろ、赤堀川も新川通もない時代の珍しい地図ですので、参考のために、ご覧になってください。

※ 後で捜したところ、こちらに、もう少し詳しい地図が掲載されていました。城名などの注記もあるので、より見やすいと思います。また、上記した北条氏照書状の翻文も記載されているので、そちらもご覧ください。


[77101] hmt さん  利根川と国境・県境との関係(11)中川
現在の住居は江戸川のすぐそばで、新中川辺りにもよく行きます。なので、「中川」に関する記述も、とても興味深く読みました。今後の連載は、上武国境の方に遡るのでしょうが、江戸川についても触れていただければと思います。
ご参考のために、野田市立興風会図書館にある「江戸川縁領々地図」と題された地図をリンクしておきます。幕末期(1845年以後)のものですが、江戸川沿岸地域の地図として非常に精密で、流頭部の棒出しも明瞭に描写されています。
[77088] 2010年 12月 23日(木)11:33:31【1】oki さん
置賜郡の町
[77083] 千本桜 さん
ところで、旧高旧領取調帳では羽前国置賜郡292村2町となっていますが、その2町がどこなのか、御存知でしたなら教えて頂けないでしょうか。

[77086] YT さん
『天保郷帳』では『旧高旧領取調帳』の「小国村」と「小阪村」を併せて「小国小阪町村」と称しているようです。もしかしたら「小阪村」は本当は「小阪町」で、『旧高旧領取調帳』では「関町」と「小阪町」の二つを町と判定していたのかも知れません。

旧高旧領取調帳における「町」は、「関町」だけであり、置賜郡292村「2町」という記載は誤りだと思います。
関町は関村の一部に当たる地域で、現在の米沢市関町です。関村の北端を会津街道(県道234号線)が通っており、街道沿いに成立した宿場が関町です。ただし、米沢藩から公式に認められた町ではなかったようで、天保郷帳には関村しか記載されていません。地方行政区画便覧にも関村しか載っておらず、関町を独立した存在として扱っているのは旧高旧領取調帳だけのようです。
一方、旧高旧領取調帳の「小国村」は天保郷帳の「小国町内」、「小阪村」が「小国小阪町村」で、これらは西置賜郡小国町の中心市街地に当たります。
郷帳の「小国町内」は、本来「小国町村」と表示すべき場所で、「小阪町村」と並び、米沢藩領小国郷の中心地です。小国町村、小坂町村が一体となって小都市を形成していたようで、小国町が商業地、小坂町は士族の住む陣屋町で、両者を一括して「小国町」と呼ぶこともあったようです。「○○町村」となっているのは、米沢藩が公式には町と認めていなかったからで、実態としては町であり、地域の人たちも「まち」と呼称していたと考えられます(このような例は全国至る所にあります)。
ただし、そこが実態として町か村かを判断するのは難しいので、旧高旧領取調帳では、単純に「○○町」となっている場所だけを「町」と見なしているはずです。その意味で、旧高旧領取調帳における置賜郡の町は「関町」だけであり、置賜郡292村「2町」という記載は誤記だと見なすべきです。もちろん実態としては、「関町」より「小国村」・「小阪村」の方がより都市的な場であったことは間違いありません。

「天保郷帳」にしろ「旧高旧領取調帳」にしろ、名称や石高が実態とずれている場合は少なくありません。特に天保郷帳は諸藩が幕府に提出した資料がもとになっており、外様大藩の場合は幕府向けと藩内用との二重帳簿を作成している事例がよくあります。したがって、郷帳等の記載に疑問が生じた場合には、その村の位置を特定し、現在の姿を確認するとともに、各種の資料から歴史上の実態を解明する必要があります(7万を超える郷帳記載のすべての村にそんなことをしていては、とても身が持たないのは事実ですが)。

【最後の記述を若干訂正。】
[77020] 2010年 12月 12日(日)11:52:07oki さん
「長すぎる」地名
[77004] hmt さん
エデンの園以来嫌われ者の「蛇」が使われた地名は、行政が使う公式の町名からは消されてしまいました。

確かに、東京からは「蛇」のつく地名は消えてしまいましたが、全国を見渡すとまだたくさんあります。地名コレクションにあるかなと思ったのですが、蛇はまだないようなので、調べた地名を以下に記しておきます。

所属自治体地名読み
下北郡風間浦村蛇浦へびうら
三戸郡三戸町蛇沼じゃぬま
九戸郡軽米町蛇口へびぐち
石巻市蛇田へびた
横手市蛇の崎町じゃのさきまち
由利本荘市下蛇田しもへびた
由利本荘市上蛇田かみへびた
東置賜郡高畠町蛇口じゃぐち
田村郡三春町蛇石へびいし
田村郡三春町蛇沢へびさわ
常総市上蛇町じょうじゃまち
猿島郡境町蛇池じゃいけ
富岡市南蛇井なんじゃい
佐倉市大蛇町おおじゃまち
旭市蛇園へびその
岩船郡関川村蛇喰じゃばみ
魚津市蛇田へびた
下新川郡入善町蛇沢へびさわ
南砺市蛇喰じゃばみ
下伊那郡天龍村大蛇だいじゃ
海津市蛇池じゃいけ
養老郡養老町蛇持じゃもち
下呂市蛇之尾へびのお
賀茂郡南伊豆町蛇石じゃいし
東近江市蛇溝町へびみぞちょう
福知山市蛇ヶ端へびがはな
御所市蛇穴さらぎ
八代市蛇篭町じゃかごまち
菊池市班蛇口はんじゃく

示したのは全部で29ヶ所。小字レベルまで含めると100ヶ所以上になるのですが、表示が長たらしくなるので、大字レベルの地名に絞ってあります。分布としては、東北、関東、中部に多いようで、中国、四国にはまったくありません(小字レベルの地名はあります)。
地名コレクションでは、「狸・狢」が119件、「狼」89件で、それらと同じような数です。ただし、100ヶ所というのは居住地名だけで、自然地名も100以上あるので、合計すると「狸・狢」は確実に上回り、「猫」に匹敵するだろうと思います。

hmt さんが引用されたサイトでは、蛇窪を改称すべき理由として
「由来我国民性ノ蛇ヲ嫌忌スル感情ヨリスルモ亦此ノ都市文化ノ中心タル地名ニ蛇窪ナル名称ハ恰モ山村辺輙ノ地名ノ如ク到底不適当タルヲ免レス」
とありますが、これだけ蛇を名乗る地名があるのですから、「蛇ヲ嫌忌スル国民性」とは必ずしも言えないだろうと思います。また、「恰モ山村辺輙ノ地名ノ如ク」という表現は、戦前の1932年(昭和7)だから許されたので、いまこのような文章を公表すれば、世論から袋だたきにあうでしょう。このサイトでは、「結果的に合理的だったことや長年使用される間に愛着が出てきたということになるだろう」と、「蛇窪」から現在の「豊町」、「二葉]への改称を肯定していますが、「蛇」地名の残存状況を考えれば、「蛇窪」を残しても特に問題なかったのではないかと思えます。

上記地名での「蛇」の読みは多くが「へび」または「じゃ」ですが、御所市蛇穴(さらぎ)は難読です。この地名については、こちらのサイトで柳田国男を引用しながら起源を説明してあります(確か、谷川健一氏も同じようなことを書いていたと思います)。

[77015] hmt さん
上記のように書いてから更に調べたら、蛇窪付近の地形地図 がありました。(中略)
oki さんが指摘された「谷戸」は、こちらだったことがわかりました。

私が指摘したかった谷戸はそこですが、かなり浅い谷で、分かりにくいのは事実。現在の地形図では痕跡すら見分けられません。一方、「今昔マップ」には50mのDEMから作成した彩色段彩図が付属しているので、明治42年の2万分の1地形図を見ると、立会川の谷から北側に向けて谷戸が伸びているのを確認できます。
[77010] 2010年 12月 11日(土)03:17:09oki さん
よしなしごと
今日(もはや昨日ですが)、奈良県まで出張に行ったのですが、途中、新幹線で多摩川を渡っているときに、「考えたら大きな川をたくさん越えるな」と思い、渡った大河を順に書き連ねると次のようになりました。
荒川、隅田川(渡ったのではなく、くぐったのですが)、多摩川、相模川、酒匂川、富士川、安倍川、大井川、天竜川、浜名湖(番外)、矢作川、木曽川、長良川、揖斐川、瀬田川、桂川、淀川、大和川、木津川。そのほか、中小河川、水路等は数知れず。
ま、だからどうだと言うことは別になく、川がたくさんあって、そのそばに街ができているのを再確認しただけですが。

川に注意しながら窓外を眺めていると、琵琶湖の東側で次のような看板を目にしました。
「愛荘町 ここはどこの県?」
いったい何のことかいな、と思っったのですが、しばらくして「愛知中学校」、「愛知高校」の大きな看板と、それぞれに添えられた「えち」という読仮名を見て納得しました。看板の「愛荘町」はもともと「愛知川町」だったのでしょう。確かに、滋賀県民(とここの常連)以外で、愛知高校を「えちこうこう」と読んでくれる人はほとんどいないでしょうからね(古いグーグルマップを見ていると、「愛知川図書館」に「Aichigawa Library」という英語の読みが当てられていました)。

渡った川を見れば分かるように、新幹線で新大阪まで行き、大和路快速で奈良県に入ったのですが、大阪(梅田の方がしっくりくるが)から乗ったので環状線の海側を半周して天王寺から関西本線を経由しています。途中、西九条の駅に停車したとき、反対側の車線に極彩色の電車が停まっていて、「なんじゃこれは」と思っていると、桜島線(いまは「ゆめ咲線」と呼ぶようです)を走るUSJ行きの電車でした。ディズニーリゾート線の、いかにも「リゾートムード盛り上げ」という列車はあまり好きではないのですが、USJ電車の派手というよりケバさには「ついていけんな」という感覚を持ちました。
で、西九条を出てしばらく進むと、大阪市立の「咲くやこの花中学・高校」という看板が。発想は分かるのですが、東京都が「いざ言問わん高校」をつくるかというと、大江戸線を命名した「あの」都知事でもそこまではやらないでしょう。
私はもともと、文化的には関西の影響下で育った人間で、いわゆる大阪的な発想や言動にはあまり違和感を感じないのですが、上の2件には「ついていけんな」という感想です。東京生活が長くなって、知らず知らずのうちに感性が染められているのかしらん。

しばらく前に、朝日放送の人気番組である「探偵ナイトスクープ」を東京MXで見ていたときに、奈良県に住んでいて堺市に通っている人が、電車を使うより大和川を舟で下るほうが早いのではないかと考え、実行してみたというネタがありました。確かゴムボートを使って川下りに挑んだと思いますが、川の水深が浅すぎて至るところで座礁し、容易に前進できず、結局職場に着いたのは夕方だった、とうオチだった思います。今日、阪奈県境の地峡部で大和川の流れを観察していたところでは、確かに水深は非常に浅く、とても舟で下れそうにないということを改めて確認しました。

ということで、東京から奈良県王寺に着くまで、まったく退屈することなく過ごすことができました。こういうとき、地理好きというのは得ですね(単なる暇人という声もあろうが)。


川の話のついでに。
[77004] hmt さん
おそらく目黒川水系の蛇行する窪地に由来する「蛇窪」の地名は
蛇窪が位置していたのは、目黒川ではなく立会川の谷だと思います。立会川は、かつての碑文谷村当たりに源流があり、上下蛇窪村の南を東流、現在の大井町駅のあたりで流路を南に転じて現在のように立会川駅の東側で海に注いでいたようです。
また、「窪」の地名は平地にできた窪地ではなく、両側の尾根から見て低くなっているところ、つまり谷地を意味するのではないかと思います。明治42年側図の2万分の一地形図を見ると、上蛇窪と下蛇窪の間には、立会川から北に伸びる谷地があり、その最奥部に当たる現在の戸越公園駅の近辺には、「谷戸」という小字があります。おそらく、蛇「窪」とはこの谷戸地形を表す地名だろうと思います。

ところで、この種の調べ物をするのに格好のツールに「今昔マップ」があります。その名の通り、首都圏、中京圏、関西圏の3地域について、明治(または大正)時代から現在までの地形図を閲覧できるようにした優れものです。簡易GIS「MANDARA」を開発した埼玉大学の谷謙二氏の作品で、こちらからDLできます。地図イメージの多くはネット上からDLするようになっているので、データを揃えるまでに少し時間がかかりますが、すべて完備すると非常に使いでがあります。
もしご存じでなければ、試してみてください。
[76927] 2010年 11月 29日(月)10:45:51【1】oki さん
渡良瀬川旧河道に関する若干の考察
皆様楽しいオフ会を過ごされたようで、うらやましい限りです。当方はオフ会当日も、いつもの如く仕事および家事に追いまくられていたのですが。
さて、話題になっている3県境について、思いついたことがあるので書き込んでおきます。
旧下宮村、海老瀬村、小野袋村の境界について、現在の県境が本当に渡良瀬川旧河道の中央部だったのかという疑問が呈されているようで、以下の[76876] hmt さん の意見に集約されていると思います。

そこで改めて立て札の写真を見ると、合流点の右上にある「基点」標石を境に、右端部(東側)と水路側とは植生が異なっています。現地の観察でも、昔の渡良瀬川の跡とおぼしき東側は荒地状態で、現在の水路周辺の土手を挟んで西の群馬県側は田んぼ。
どうやら地表の姿が変わっているこの線が、栃木県との境である渡良瀬川旧河道の右岸で、「群馬県」の建てた標石は、その延長上にあるようです。
(中略)
渡良瀬川の真ん中が県境だったのならば、右岸に設置された「基点」標石よりも川幅(現在の荒地幅)の半分だけ東寄りが、真の3県境なのではないかと考えています。

hmt さんは、このあたりの荒地を旧河道と考え、現在の県境が旧河道の西端ないし南端に引かれている点に疑問を持たれているのだと思います。

そこで、旧帝国陸軍が撮影した1941年時点の空中写真をご覧ください。白黒で見にくい写真ですが、注目していただきたいのは旧河道と土手沿いの道路との間、旧下宮村の飛地にある1件の農家です。この農家の敷地はかなり広く、その東西方向の幅が、すぐ西側を通る渡良瀬川旧河道とほぼ同じであることが分かります。
次に、MasAkaさんが紹介された1974年の空中写真。ここでも、件の農家の存在ははっきりと分かります。そして、渡良瀬川旧河道の幅が農家の敷地幅とほぼ同じであるのも同様です。しかし、この写真では、旧河道の中央部に線が引かれ(おそらく用水路でしょう)、2つの地域に分けられつつあるように見受けられます。また、旧河道の存在は、農家の西側(下宮村と海老瀬村との境界)では明確ですが、南側(下宮村と小野袋村との境界)でははっきり分からなくなっています。下宮村側の旧河道ははっきり見分けられますが、小野袋側は不明瞭です。

以上を踏まえた上で、改めて現在の空中写真を眺めてください。例の農家は以前と同じように存在します。しかし渡良瀬川旧河道とされる荒地の幅が、農家の敷地幅の半分程度しかないようです。すると、hmt さんが旧河道と考えられた荒地は、実は旧河道の栃木県側の部分ではないかと思われます。
海老瀬村側では、土地改良工事でも行われたようで、境界のすぐ西側に南北方向の直線道路が伸び、1941年や74年の空中写真に見られた河道跡の痕跡もありません。小野袋側の方は、以前から河道跡は不明瞭です。ということで、現在はっきりと認められる河道跡は栃木県側だけになってしまっていると考えられます。したがって、河道跡の西端ないし南端に引かれた現在の県境線は、まさに渡良瀬川旧河道の中心線ではないか、と思われます。

現地調査にも行っていない人間が、空中写真だけをもとに外野から口を出すのははなはだ心苦しいのですが、このような考え方もあるということで、ご検討の参考資料にしてください。

※「宮中」写真を「空中」写真に訂正(「宮中」写真だと、やんごとない方々のパパラッチ写真のようで)
[76809] 2010年 11月 18日(木)18:12:09oki さん
町村制施行時の千葉県県令
むっくん さん宛ての業務連絡です。

居住地域周辺についての調べ物をしていて、千葉県(正確には千葉県立図書館)が明治8年~32年の県報をウェブ上に公開しているのを見つけました。
その中に、町村制施行時の県令がありました。明治22年3月分の県報のうち、35ページが該当部分です。
町村制の根拠が明治22年3月27日付県令19号、町村の廃置分合が同20号になると思います。具体的な配置分合の状況は38ページ以下に記載されています。

[75042] の「市制町村制施行時の府令県令(ver.4)」では、千葉県分は未発見になっていたので、とりあえずご報告しておきます。
[76729] 2010年 11月 10日(水)01:40:49【1】oki さん
あなうなぎ
[76725] hmtさん
[76724] おがちゃん さん
[76721] Issie さん

辞書を見ると、「妹(いも)」←→「兄(せ)」とあります。

「妹(いも)」の原義は、男性の側から年齢の上下に関係なく姉妹を呼ぶ語で、英語のsisterと同じです。転じて、結婚相手や恋人を意味するようになっています。「いもうと」はhmtさんのご指摘通り「いもひと」が変化したもので、もともとは姉妹を意味していたものが、年下の妹だけに限定されていったようです。
「妹」の対義語が「兄(せ)」で、こちらも女性が兄弟を呼ぶ際に用いるのが原義で、夫や恋人に転じたと考えられます。「夫」、「背」の字も用います。
したがって、「妹兄(いもせ)」は兄妹、姉弟、あるいは兄弟姉妹の意に用いていたようですが、「妹背(いもせ)」となると、Issie さんの仰るとおり、もっぱら夫婦もしくはそれに準じる男女を意味します。

これだけなら良いのですが、歴史上のどこかで妹背の音に逆転が起こったようで、妹を「せ」と呼ぶ場合が生じています。備中国で発生した現象らしく、「妹尾」を「せのお」と読み(岡山市南区)また「妹(せ)」(倉敷市)もあります。倉敷市の「妹」は和名抄の「呉妹(くれせ)郷」の遺称地とされており(備中呉妹駅があります)、かなり早い段階で「いも」→「せ」の逆転が起こったようです(「背」を「いも」と読む例はないようですが)。これ以外に「妹」を「せ」と読む地名としては、北秋田市妹尾館(せおだて)があります。なぜ、備中から遠く離れた秋田の地に「妹(せ)」の音があるのかは不明です。
(「兄弟姉妹」コレクションで、「倉敷市妹山(いもうとやま)」とされているのは、「せやま」だろうと思います。)

さらに、これが日本語の摩訶不思議なところですが、「妹」は本来「いも」ですから、「妹尾」を「せのお」と読まない地名も当然存在します。私が確認しているのは、次の2つ。
和歌山県日高郡日高川町上初湯川妹尾(いもお)
鹿児島県薩摩川内市高城町妹尾(いものお)
よろしければ、地名コレクションに追加してください(読みは「地図閲覧サービス」のものなので、正しいという保証はありませんが)。

以下は四方赤良の狂歌
あなうなぎいづくの山のいもとせをさかれてのちに身をこがすとは

鰻→山の芋→妹→背→裂く→焦がすと繋ぐ、達意洒脱の芸です。

※書き込もうとしたら、Issie さんの[76727]が先にあったのですが、ま、いいかと。
[76694] 2010年 11月 7日(日)11:09:39oki さん
寒田 西寒田 西寒多
[76624] オーナー グリグリさん

臼杵市野津町大字西寒田/豊後大野市犬飼町西寒田
読みが「ささむた」と面白いですね。これはもちろん採用なんですが、大分市寒田(そうだ)とは関連があるのでしょうか? 少し離れていて読みが違いますが偶然では片付けられない何かがありそうです。

面白そうなので調べてみたら、意外な事実を発見しました。
まず先に、臼杵市野津町と豊後大野市犬飼町の西寒田について。
この地名は、1975年(明治8)に5つの近世村が合併してできた村名に由来しています。その5村とは、豊後国大野郡の寒田(そうだ)村、細口村、松原村、御霊園村、鍋田村の5つ。西寒田の村名は、寒田村にある西寒田(ささむた)神社に由来しています(西寒多神社とも表記する)。
市区町村変遷情報によれば、西寒田村は明治大合併で、鳥岳村、千塚村など大野郡の6村と一緒に戸上村を構成しました。戸上村は1955年(昭和30)に犬飼町、長谷村と新設合併して新たな犬飼町となりますが、1957年(昭和32)、一部が大野郡野津町に境界変更されます。地形図を見ると、野津町に編入されたのは元の御霊園村、鍋田村の部分のようです。
寒田、細口、松原は犬飼町に残り、結果として臼杵市野津町大字西寒田/豊後大野市犬飼町西寒田の分断地名が生じました。これ自体はよくあることです。なお、地形図から判断すると、松原は松田という集落名になっているようです。また、寒田は地図上で松田の北北東にある神社記号(これが西寒田神社です)の周りにあったはずですが、地図上に集落名が記載されておらず、無住地になっているのかもしれません。

次に、グリグリさんが指摘された大分市寒田ですが、なんと、こちらにも西寒多神社があります(読みは「ささむた」で同じです)。おっしゃる通り、この二つは偶然では片付けられません。二つの地点を結びつける説があります。
豊後大野市の西寒田神社の社伝によると、ここは延喜式内社の大野郡西寒多神社であり、応永10年(1403)もしくは応永15年(1408)に豊後国守護大友親世が大分郡植田(わさだ)に分祀し、その地を寒田と名付けた(これが大分市寒田)、というものです。
この説が成り立てば、大分市の寒田は豊後大野市から移った地名と言えるのですが、実際には延喜式内社である西寒多神社は大野郡ではなく大分郡にあったというのが通説で、そうであれば、大分市寒田の西寒多神社の方が先にあったのかもしれません。こちらの社伝では、応神天皇9年(278)に西寒多山(神社の南にあり、現在は本宮山)上に創祀され、応永15年に大友親世が現在地に遷座した、ということになっています。
どちらの説が正しいかは分かりませんが、「応永15年に大友親世が現在地に遷座」という点では一致しています。また、神社そのものが古い歴史を持つことも確かで、「日本三代実録」には貞観11年(869)に、豊後国の西寒多神を従五位下に叙したという記事があります。
いずれにせよ、寒田というあまり見られない地名と、ほかには存在しない西寒多(田)神社とがセットで存在するわけで、豊後大野市の寒田(西寒田)と大分市の寒田が無関係なはずはない、と考えられます。

なお、西寒田神社を紹介したサイトで、所在地が臼杵市野津町西寒田神尾392となっていますが、おそらくこれは間違いで、西寒田神社は豊後大野市側にあるはずです。
[76678] 2010年 11月 6日(土)15:24:41oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の拾の二
[76674]の那珂市が既出のため、再答します。

問三:姫路市

[76677] maki さん
問三の那珂市は[76671]で今川焼さんが解答されています。

わざわざご指摘いただき、まことに有難うございます。
[76674] 2010年 11月 6日(土)10:24:58oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の拾
問三:那珂市

これも、準備はしてあるのに気付かなかった口
[76668] 2010年 11月 5日(金)22:23:51oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の玖
問九:西東京市

リストは準備しておいたのに
[76667] 2010年 11月 5日(金)21:19:46oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の捌
問六:阿波市

個人的には、これしかない、という回答です
[76662] 2010年 11月 5日(金)18:07:54oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の漆
連投失礼します

問五:日立市

江戸川区民としては、せめて第一ヒントで答えたかったところ
[76661] 2010年 11月 5日(金)17:19:25oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の陸
分かった問題から答えていこう

問一:別府市
[76637] 2010年 11月 3日(水)22:17:46oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の伍
とりあえず、最初に見つけた市で

問八:釜石市

案の定、問十を間違えたので完答権をなくしてしまった。
ま、その前にほかの問題も正答できるかどうか危ないわけだが。
[76610] 2010年 11月 3日(水)00:49:28oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の肆
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の肆

問十:夕張市

これが最後の一つだと思うのですが、いまいち不安も


[76605] Issie さん
私は子供過ぎて気が付かなかったのですが,三木武夫首相も「国会」を「こっくゎい」と発音するので有名だったとか。この人は徳島の方ですが,ちょっと前までは「くゎ」という音がまだ聞けたのですね。
でも今はどのくらい残っているんでしょうね。

少なくとも徳島では、「くゎ」の発音は残っていません。三木氏は1907年(明治40)の生まれなので、この発音を保持したのは明治生まれの世代までではないでしょうか。
一方、三木さんは「しぇんしぇい(先生)」という言い方もよくしていました。こちらはまだ生きていて、私でも使うことがありますね。「今回の十番勝負はじぇんじぇん分かりません」などと。
[76601] 2010年 11月 2日(火)22:30:51oki さん
自治体越地名 ブービー賞
香川県で2件発見しました。

観音寺市本大町/三豊市豊中町本山乙・本山甲
観音寺市本大(もとだい)町と三豊市豊中町本山乙は江戸時代の本大村(もとのおおむら)、本山甲は寺家村です。この地域は、中世には周辺を含めて本山庄に属しており、本大村は江戸時代初期に本山大村(もとやまおおむら)と呼ばれていました。
本大村は財田川の両岸に広がる村で、明治合併時に、川の右岸(東側)が寺家村と合併して本山村になり、左岸地域は吉岡村などとともに一谷村を構成しました。本山甲・乙は、本山村の2つの大字を甲・乙と名付けたのだと思います。本大町と本山乙はもともと本大村で「本」の字を共有するので、分断地名と考えていいと思います。本山甲まで含めるかどうかは、判断をお任せします。

丸亀市飯野町東分/綾歌郡宇多津町大字東分
江戸時代は鵜足郡東分村です。明治合併時に西分村、東二村とともに飯野村を構成しましたが、1955年(昭和30)に飯野村が丸亀市に編入された際、大字東分の一部が宇多津町に編入されました。さらに1959年に、宇多津町東分の一部が丸亀市に編入されています。

これで空白県は鳥取だけに。
[76579] 2010年 11月 1日(月)01:50:04oki さん
自治体越え地名の検討をお願いします
十番勝負がまったく解けないので(1週間以上かかって解答がたったの2問。やはり才能の問題でしょう)、別の話題を。

[76567] オーナー グリグリ さん
[75921]で更新して以来、滞っていた自治体越えの地名を更新しました。

更新したすぐのところを申し訳ないのですが、以下の自治体越え地名について、ご検討をお願いします。

まずは現状で登録のない徳島県から2件。
徳島市国府町桜間/名西郡石井町高川原桜間
板野郡上板町第十新田/名西郡石井町藍畑第十

石井町の桜間、第十とも小字の扱いですが、高川原、藍畑という明治合併村が大字を構成しているためで、両方とも江戸時代には独立した村でした。
桜間は古代からある地名で、本来は阿波国名方郡桜間郷でしたが、寛平八年(896)、名方郡が名東・名西の2郡に分割されたとき、郡境に位置していた桜間郷も両郡に分かれました。以来幾星霜、江戸時代は名東郡桜間村と名西郡桜間村、明治以降の町村合併でも、片方は名東郡国府町から徳島市、他方は名西郡高川原村から石井町と、常に自治体を異にし、1100年にわたって分裂状態が続いているという「自治体越え地名の権化」ともいうべき地名です。
第十新田はもともと第十村と一体でしたが、洪水で吉野川の河道が現在の流れに変わったときに本村から切り離されました(地図を縮小すると、吉野川の北岸に第十新田の本体があります)。ただ、第十新田のごく一部が南岸に取り残され、本村の第十と隣接しています。

次に、「大物?」の(都)県境を2件。
東京都江戸川区堀江町/千葉県浦安市堀江(1~5丁目)
埼玉県吉川市大字三輪野江/千葉県流山市三輪野山

堀江町は江戸川に沿ってわずかな面積が残るだけなので、地図を拡大しないと分からないかもしれません。本来は、西側に広がる南葛西1~7丁目の全域が堀江町だったのですが、住居表示によって変えられています。
この地域が堀江を名乗っていたのは、浦安市堀江の飛地であったから。江戸時代、下総国葛飾郡堀江村は江戸川左岸の河口に位置する村で、目の前にできた中州を自村に組み込み、堀江新田を開発していました。堀江新田は、明治大合併で堀江村が当代島・猫実村と一緒に浦安村を形成してからも大字堀江の一部でしたが、1895年(明治28)の「東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法」で江戸川両岸の飛地が整理されたとき、南葛飾郡葛西村に編入されています。また、現在の堀江町の対岸は浦安市富士見(1~5丁目)ですが、これは住居表示後の地名で、元は大字堀江の一部です。したがって、住居表示前は江戸川を挟んで堀江が向かい合っていたはずです。

江戸川両岸の「自治体越え地名」は、上記の堀江を除くと江戸川の河道開削に伴うものが多いのですが、吉川市の大字三輪野江と流山市三輪野山は別の起源を持っています。吉川の三輪野江は、江戸時代初期の開発時に、対岸三輪野山に鎮座する三輪明神を移し祀ったために三輪野江の村名を名付けたことが、新編武蔵風土記稿に書かれています。神社を機縁として、共通の名前が江戸川両岸に存在するわけです。
もっとも、三輪野山の三輪明神は現在「茂侶神社」と改名しているので、地図を見ただけでは気づかないかもしれません。
[76574] 2010年 10月 31日(日)23:57:38oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の参
誤答したくないので手堅く

問四:国分寺市

前回の回答から中5日。何をやっておるのやら
[76429] 2010年 10月 23日(土)21:34:40oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の弐
想定解数もチェックしたので、間違いないと思います。
四国が売り切れているので。

問七:淡路市

今回の目標は、できるだけ多く正答すること。
[76422] 2010年 10月 23日(土)19:35:14oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の壱
ご無沙汰しております。

問四:大垣市

小千谷市が?だったのですが、とりあえず自分を納得させました。
[74769] 2010年 4月 8日(木)01:50:43oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の伍
問二:小松市

今日は久しぶりに都心に行き、その車中で分りました。
2問ほど失敗したので、想定解を数えてから解答することにします。左にないと駄目、と理解したのですが・・・
これで、完答の権利は確保したはずですが、残り7問なんですよね。先は遠い

久しぶりに良い機嫌で電車に乗ったので、乗り過ごして本八幡まで行ってしまいました。タクシーで篠崎駅まで戻ったのですが、運転手さんに「もとはち」って言いますかと確認したら、「聞いたことがない」とのことでした。江戸川と荒川の間でのみ通用する略語ではないかという気もします。
[74636] 2010年 4月 3日(土)14:41:38oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の肆
問三:茂原市

想定解数が若干合わないのですが。
これも安全を見込んで。
[74632] 2010年 4月 3日(土)14:14:20oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の参
問九:四国中央市

お題には合う。非該当市も説明がつく。
ただ、想定解のリストアップが大変なので、安全そうなところで見切り発車。
[74627] 2010年 4月 3日(土)13:22:05oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の貳
問六:小松島市

想定解ピッタリ。
[74624] 2010年 4月 3日(土)12:59:40oki さん
第二十七回全国の市十番勝負 解答其の壱
問七:鳴門市

今回も参戦します。目標は完答。
[74550] 2010年 4月 3日(土)03:04:58oki さん
リニューアルで困ったが2件
Yahoo!地図の件:

[74528] 2010 年 4 月 1 日 (木) 23:49:21 EMM さん
かなり困るのは、「大字の境界の表示がすべて無くなってしまったこと」。
町名系のコレクションに関してはかなり深刻な情況です。

[74535] 2010 年 4 月 2 日 (金) 00:50:33【2】 k-ace さん
地名コレクション担当者である私としては、今回の変更は、エイプリルフールのネタと思いたいのですが、ここまで壮大なエイプリルフールのネタはまずないでしょうから、正直残念です。嗚呼、嘘だと思いたい、けど事実。

[74543] 2010 年 4 月 2 日 (金) 19:46:17 油天神山 さん
Yahoo!地図のリニューアル、参りましたねえ。私も町名系コレクションを多数抱えてるもので、今回の件は切実です。

私は別にコレクションを抱えているわけではありませんが、今回のYahoo!地図のリニューアルには参りました。近世村は概ね現在の大字に継承されているので、Yahoo!地図を参考にするとかつての近世村の範囲が分ったのですが、それが不可能になるからです。

とりあえず、マピオンのアンケートで、「マピオンを利用しているのは町丁目・大字範囲の塗り分けてを行なっているからなので、今後も続けてほしい」旨の回答をしておきました。お時間のある方はご協力下さい。
Yahooにも、もとの形式の地図に戻すよう、メールで要請をしましょうか?


近代デジタルライブラリの件:
[74545] 2010 年 4 月 2 日 (金) 21:54:43 88 さん
確かに今まで拡大縮小は不便でしたから、大きな改善ですね。しかし、URLの変更の件・・・私も手元の資料整理では、今後のため(投稿時のリンク設定の便宜のため)にも、URLもあわせて保存するようにしていたので、これは一大事です。

[74542] 2010 年 4 月 2 日 (金) 18:23:12 むっくん さん
国立国会図書館近代デジタルライブラリも4月1日にリニューアルされて拡大縮小がマウスで出来るようになり、かなり便利になりました。またこれに伴い、書籍のURLリンク先が今までとすべて変わってしまったというのも一大出来事です。

近代デジタルライブラリのURLは私も結構ため込んでいるので、これを変更するのは大変です。
リニューアル前後のURLを検証してみたのですが、リニューアル前のURLを、リニューアル後のそれに機械的に変換するのは不可能なようで、一つ一つ手作業でやるしかないようです。
ま、やるとしても十番勝負の後になるでしょうが。
[74509] 2010年 4月 1日(木)01:00:02oki さん
「下ノ関」に関する資料
[74498] hmt さん
[74499] hmt さん  「下ノ関市」の謎

実際問題として、「下ノ関市」が存在したのはごく短期間だったのでないかと推測します。
だから下関市民は明治35年6月から「下関市」になったと信じている。
この状況では、「ノ」が取れて「下関市」になった日付を明らかにすることは、新発見の有力な資料がない限り困難でしょう。

「下ノ関」の名称が記載された資料をご紹介します。税務署の名称と管轄地域に関する勅令、およびその関連資料計4件で、国立公文書館のデジタルアーカイブで見つけました。
資料名称は次の通り。

1-A:
1902(明治35)年1月16日付「明治三十五年勅令第二号」
同年2月1日付で、「長府」税務署が「下ノ関」税務署に名称変更
1-B:
1901(明治34)年12月28日付上記勅令「案」

2-A:
1902(明治35)年6月14日付「明治三十五年勅令第百六十二号」
同年7月1日付で、「下ノ関」税務署が「下関」税務署に名称変更。同時に、下関税務署の管轄区域を赤間関市から「下関」市に改称
2-B:
1902(明治35)年6月4日付上記勅令「案」

まず資料1-Aから、1902(明治35)年2月1日付で、「長府」税務署が「下ノ関」税務署に名称変更されていることが分ります。言うまでもありませんが、この時点で存在するのは「下ノ関」市でも「下関」市でもなく、赤間関市です。
次に、2-Aにより、同年7月1日付で、2月に改称されたばかりの「下ノ関」税務署が再度「下関」税務署に改称され、同時に下関税務署の管轄区域が赤間関市から「下関」市に変更されています。
2-Bの3コマには、これが同年6月1日付で施行された赤間関市から「下関」市への改称に伴うものであることが明記されています。

以上の資料から判断すると、赤間関市が「下ノ関」市を経て「下関」市と改称された可能性は薄いと思います。資料2-A・Bは、いずれも「下ノ関」税務署から「下関」税務署への改称に関するもので、「下ノ関」と「下関」との相違を充分に理解した上で作成されています。したがって、いったん「下ノ関」市に改称された上で「下関」市になったのだとすれば、資料2-Bにその旨が明記されてるはずです。それがない以上、1902(明治35)年6月1日に、直接「下関」市になった、と判断する方が妥当ではないでしょうか。
なお、資料2-Bには「赤間関市を下関市と改むる件」について「明治35年4月許可、同6月1日より施行」とあり、「府県及北海道境域沿革一覧」に記載された「明治35年4月5日」は、この「許可」の日付だろうと推測されます。

ただ、以上が正しいとしても、まだ疑問は残ります。資料2-Aで「長府」税務署から「下ノ関」税務署に改称されたのはなぜか、また、「府県及北海道境域沿革一覧」や内閣統計局による「明治36年12月31日現在の市町村別現住人口」で「下ノ関」市という市名が使用されている理由は何か、が分らないからです。
で、以下は推測です。
まず、「長府」税務署から「下ノ関」税務署への改称は、税務署が当時の長府村から赤間関市に移転したためだと考えられます。「赤間関」税務署にしなかったのは、その時点(遅くとも1-Bの発行時点である1901年年末段階)で、「下ノ関」市への改称が規定方針であったからでしょう。しかし、実際には「下ノ関」市ではなく「下関」市になった。そのため、改めて「下関」税務署に名称変更する必要が生じたのだと思います。
また、「府県及北海道境域沿革一覧」や「明治36年12月31日現在の市町村別現住人口」で「下ノ関」市が使われているのは、もともと「下ノ関」市に改称されるはずであったのが「下関」市になってしまったため、政府部内に混乱が生じ、一部資料に「下ノ関」市の表現が残ったためではないかと考えます。
以上、あくまで推測ですが、ご参考になれば。

上記を投稿しようとしたところで、、
[74506] 2010 年 4 月 1 日 (木) 00:24:53 Issie さん
「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!
を目にしましたが、そのまま書き込みます。
大蔵省(税務署関係)は「下ノ関」と「下関」の相違に厳格に対応したのに対し、他のお役所は「ノ」の有無にこだわらなかったのかもしれません。
[74482] 2010年 3月 28日(日)12:42:07oki さん
西の「ホンマチ」、東の「ホンチョウ」
[74475] Issie さん
[74472] 白桃 さん

「本町」に関しては、以前に郵便番号簿をもとに全国の地名を整理したデータがあるので以下にお示しします。

都道府県地名数(件)ホンマチ(%)ホンチョウ(%)モトマチ(%)
北海道12287814
青森県8137513
岩手県508020
宮城県1405743
秋田県8136325
山形県1414797
福島県215095
茨城県1301000
栃木県176940
群馬県1331628
埼玉県287867
千葉県130928
東京都3116840
神奈川県2401000
新潟県4611854
富山県3610000
石川県2110000
福井県159370
山梨県301000
長野県580200
岐阜県2510000
静岡県3318820
愛知県829820
三重県1610000
滋賀県989110
京都府269280
大阪府7310000
兵庫県539460
奈良県1610000
和歌山県510000
鳥取県310000
島根県710000
岡山県2210000
広島県3310000
山口県339730
徳島県1217830
香川県1080200
愛媛県989110
高知県1310000
福岡県299703
佐賀県810000
長崎県199550
熊本県239640
大分県1610000
宮崎県710000
鹿児島県188966
合計105762335

ファイルの日付が2006年なので、それ以前のデータです。資料が郵便番号簿ですから、本町1~5丁目などは1つの地名としてカウントされています。「本町」のほか、「上本町」、「平等本町」などの合成地名を含めています。逆に、「山本町」、「松本町」など、「○本+町」と解される地名は除外しました。沖縄には対象地名が存在しないので割愛しています。

以上の前提で、全国の「本町」地名は1057ヶ所、うちホンマチ62%、ホンチョウ33%、モトマチ5%という結果です。

フォッサマグナを境にして、西側ではホンマチ優位、東側はホンチョウ優位で、福島県を中心として東北にモトマチが比較的多い、という分布が明確に表われています。
その中で徳島だけは、ホンチョウが圧倒的に優位。12件のうち8割ですが、これらはすべて徳島市で、「徳島本町」など10地名のすべてがホンチョウです。何か理由があるのかしら。

なお、上本町の読みは以下の通りです(合併以前の自治体名を含みます)。
カミホンチョウ:
酒田市、瀬戸市、
ウエホンマチ:
蒲郡市、名張市、大阪市天王寺区
カミホンマチ
羽島郡笠松町、船井郡園部町、高槻市、小野市、新宮市、北九州市門司区、北九州市八幡東区、田川市、鹿児島市

近鉄の上本町駅って天王寺区だったのですね。すっかり中央区だと思いこんでましたが。
[74430] 2010年 3月 24日(水)23:14:17【1】oki さん
西の元八 東の本八
[74428] むじながいり さん
[74401] みかちゅう さん

私が「もとはち」から連想するのは、新宿線の起点(終点?)である千葉県の駅。最寄駅の隣駅なので、けっこう出かけています。わが家では日常的に「もとはち」と呼んでいますが、首都圏全体で知名度があるかどうかはいささか疑問。
同じく新宿線の馬喰横山も「ばくよこ」と略称してますが、こちらも都営線の利用者以外には知られていない可能性が強いですね。

逆に、かなり知られているはずなのに、今までに出ていない駅名は次の通り。
「ばば」-「にしおぎ」-「ジョージ」-「にしこく」

実は、これは何十年か前の通学ルート。改めて口にすると懐かしいものがあります。
[74368] 2010年 3月 17日(水)18:43:01【1】oki さん
RE:浜名湖境界確定?
[74367] 小松原ラガー さん
なぜか神戸新聞にこんな記事が出ていたのですが、本当なのでしょうか。

国土地理院の発表で確認できます。

浜松市北区と西区との境界も湖面上に引かれることになるのですね。
[74321] 2010年 3月 11日(木)00:07:16oki さん
柏崎市上輪の奇妙な遍歴
[74311] 山野 さん
[74315] じゃごたろ さん
[74316] hmt さん

話題になっている、かつて柿崎町の飛地であった柏崎市上輪、蕨野等ですが、調べてみると、とても奇妙な編入経緯を経ていることが分りました。

関係する地域の、近世村(天保国絵図)時点からの変遷を示すと次のようになります。

近世村明治大合併1901(明治34)年1956.12.191957.01.011989.04.01
上輪村米山村米山村柏崎市柿崎町柏崎市
上輪新田村
笠島村
青海川村
鉢崎村(現在の米山町)鉢崎村
(高畔)柿崎町
大平村
大平村のうち蕨野村柿崎町
小萱村柿崎町
大清水村
大清水村のうち竹ヶ花村柿崎町

関係しているのは8村(+枝村など)ですが、明治大合併期には、上輪村~青海川村の4村が合併して米山村、鉢崎村以下の4村が鉢崎村を形成します。
蕨野村、竹ヶ花村(現在は竹鼻)は天保国絵図では枝村になっていますが、明治合併期には大平村、大清水村に含まれていたようです。また、鉢崎村(現在の柏崎市米山町)の中心集落は日本海沿いに位置していますが、高畔の集落はそこからオガチ川を遡った場所にあり、近世の高畔は鉢崎村の小名だったと考えられます。
米山村と鉢崎村は1901(明治34)年に合併し、新たな米山村が誕生します。そして、この米山村全域が、1956年12月19日に柏崎市に編入されます。ここまではよくある話です。

ところが、編入直後の1957年1月1日、大字上輪、小萱の全域と、大清水、鉢崎、大平の各一部が分離し、柿崎町に編入されているのです。われらが「市区町村変遷情報」では、次のように記述され、
1957.01.01 境界変更 中頸城郡 柿崎町 中頸城郡 柿崎町, 柏崎市の一部
詳細な注記が入っています。
88さんの注記では、大清水、鉢崎、大平の各一部は多数の「字」からなっていますが、現在の大字名などから、近世村段階で上記の表のような位置づけにあった地域、と考えて構わないと思います。

この、大字上輪等の柏崎市からの分離、柿崎町への編入は、非常に奇異に感じられます。柿崎町に隣接する小萱、竹鼻はともかく、上輪、蕨野は完全な飛地。高畔も小萱に接してはいますが、接触部分は山間地で、盛んな交流があったとは思えません。
歴史的に見ても、近世において上輪は上輪新田の親村であり、蕨野、高畔も大平、鉢崎の一部でした。明治以降も、米山村や鉢崎村の一部として隣接地域と密接な関係があったと考えられます。それがどうして柿崎と飛地合併したのか、しかも柏崎への編入から2週間もたたない時に、というのはよく理解できないところです。
さすがに、この飛地合併に無理があったのか、小萱、竹鼻を除く上輪、蕨野、高畔の3地域は柏崎市に再編入されていますが、それはじゃごたろ さんが確認してくれたように1989年4月1日で、飛地編入から30年以上後のことになります。
30年以上たってから出戻るなら、どうして柿崎に出て行ったのか、その理由が知りたいところです。
[74277] 2010年 3月 7日(日)04:46:42oki さん
武州入間郡川越領福岡村の石高に関する若干の補足
最初に御礼を。
[74211] hmt さん
ご質問のあったデジタルギャラリーの「天保国絵図」の件。
IE環境で JPEG2000版の国絵図が 正常に閲覧できています。
遅くなりましたが、ご回答有難うございます。hmt さんが正常に閲覧できている以上、私のPC環境に問題があることははっきりしているのですが、まだ原因を突き止めることができません。そのため、相変わらずJPEG2000の画像が閲覧できないのですが、国立公文書館はJPEG版が高機能化したので、そちらで閲覧するようにしています。

さて本題。

川越領福岡村の土地と年貢 [74245][74271]  hmt さん

貴重な資料のご提供有難うございます。ただ、補足した方が良いと思われる点が2つほどありますので、以下に述べておきます。

まず、福岡村の石高です。
[74271]
冒頭に記載されているように、松平美濃守こと柳沢保明(吉保)時代の元禄検地で、福岡村は 525.07石になっています。
この数字でも信綱の慶安検地(元禄の50年前) 345.79石[74245]の 1.5倍ですが、詳しく調べるとそれ以上なのです。
とありますが、慶安時点での福岡村の石高は345.79石ではありません。
これは川越藩領だけの数値で、ほかに相給で旗本榊原氏(200石)・同布施氏(188石)の石高があります。また、この時点で中福岡村、福岡新田は分村しておらず、すべて福岡村の石高に含まれています。慶安検地とほぼ同時点の「武蔵田園簿」以降における福岡村関連の石高を整理すると次のようになります。

 田園簿元禄郷帳天保郷帳旧高旧領
福岡村742.1683.9836.8525.1
中福岡村上に含む上に含む上に含む311.7
福岡新田上に含む115.3182.4182.4
742.1799.21019.21019.2
指数100108137137

ここに見るように、慶安時点で川越藩領および旗本2家の石高を合計すると742.1石で、元禄郷帳(1699年)時点では福岡新田を合わせて799.2石ですから、この間の増加率は8%ということになります。
天保郷帳(1834年)では、福岡村だけで837石、福岡新田を合わせれば1000石を越えていますが、この場合でも慶安時点からの増加率は4割に達しません(実際には、この石高に達したのは天保時よりかなり前のはずですが)。
なお、天保郷帳時点では中福岡村が分村していたと思われますが、中福岡村が全国資料に現われるのは明治維新後の旧高旧領取調帳を待たねばなりません。

次に、ご紹介いただいた福岡村の耕地面積、村高、年貢等に関する表ですが、私自身よく理解できない点があったので、少し考えて次のように再整理してみました。

種別反別(反)石盛(石/反)石高(石)租率(石/反)金納租率(文/反)租額(石)租額(両)
上田44.91.2053.900.500022.4500.42
中田33.91.0033.900.400013.5600.40
下田43.30.8034.640.350015.1600.44
下々田86.50.6051.900.300025.9500.50
田合計208.60.84174.340.370077.1200.44
上畑111.20.8088.960.27511030.5812.230.34
中畑111.30.6066.780.2259025.0410.020.37
下畑153.10.4061.240.1757026.7910.720.44
下々畑486.40.2097.280.1004048.6419.460.50
屋敷36.51.0036.460.27511010.044.010.28
畑合計898.50.39350.730.15763141.0956.440.40
合計1107.00.47525.070.1970218.2100.42
(※四捨五入の関係で数値が合わない場合があります)

基本になるのは反別(耕地面積)で、水田が上田~下々田まで合わせて20町8反6畝、畑が上畑~下々畑+屋敷地で89町8畝5畝で、計110町7反あります([74271]の表では、上畑~下々畑の計と畑合計とが合わないので、差は屋敷地と考えて補足しておきました)。
上田、上畑などの種別を決めるのは石盛、つまり1反当たりの米の生産高で、上田の場合1石2斗、下々田では6斗などとされています。
前にも石高に関して議論がありましたが、石盛とは1反当たりの玄米生産量です。したがって、本来なら水田にしか適用できないのですが、畑にも石盛が割り当てられています。上畑で8斗と下田並みの水準であり、畑地の生産水準が低く見積もられていることが分ります。もっとも、畑では米が生産できないのですから、そこに無理やり米の石盛を付けているのは、村高を算定するためのバーチャルな操作、と考えた方が良いかもしれません。
福岡村全体の石高である村高は、Σ(反別×石盛)で算定されます。米が174石余、畑地の高が351石で、計525石です。繰り返しますが、畑地で米は取れませんから、この村高は一種のフィクションです。

次は年貢高(租額)の算定です。西国であれば、村高に免(年貢率)を掛ければ年貢高が算定できます。例えば、以前に話題にした富来地頭町村の場合、村高が330石、免は九ツ(90%~極端な高率です)ですから、330×0.9=297石が年貢高になります(このような年貢の算定法を厘取法といいます)。
しかし、関東では反取法という異なる算定法が適用されます。具体的には、1反当たりの租率を直接に決めます。上記の表では、上田で0.5石/反、下々田で0.3石等となっています。
年貢高は反別×租率であり、上田なら44.9反×0.5石=22.45石、これを各種別ごとに積算すると、77.12石が米の年貢と言うことになります。

少しややこしいですが、水田の年貢は以上のように算定できます。では畑地の年貢はどのように計算されるか。これを考えるためには、「永」という概念を理解する必要があります。

「永」と書いてあるのは永楽銭が通用していた時代からの公式通貨の呼び名で、実際に用いられたのは寛永通宝でしょう。
[74245] に以上のようにありますが、「永」とは寛永通宝ではありません。後北条氏が所領の生産高を測るのに永楽銭を用いたことを起源とするもので、永楽銭の通用は江戸初期に禁止されましたが、「永」という概念、考え方は、関東を中心とする東日本各地で幕末まで残りました。
「永」というのは、畑作年貢を金額に換算するための、一種のバーチャル通貨です。実際に「永」という名の貨幣が存在するわけではありません。金貨との換算では、永1貫文(1000文)=1両と設定されています。また、永1貫文=畑作年貢2.5石です。
上の表では、上畑の金納租率が110文/反となっていますが、この110文は実際には「永110文」です。2.5石=永1貫文(1000文)ですから1石=永400文になります(つまり、hmt さんの指摘されたように、1斗=40文です)。この換算率で永110文を石高に直すと0.275石と計算できます(永110文×(1石÷永400文)=0.275石)。
実は、これは計算が逆で、水田と同様に上畑に対しても1反当たり0.275石という租率を決め、それを「永」に換算したのが110文という金納租率だと考えた方が良いと思います。水田の場合、下々田でも租率が0.3石で、上畑より高いですから、畑地の年貢率が非常に低く設定されていることが分ります。

いずれにせよ、畑地の年貢は米でも麦でもなく貨幣であり、上畑では111.2反×永110文/反=永12,234文と計算できます。つまり永12貫234文=金12.234両です。すべての畑地にこの計算を適用して積算すると、畑地からの年貢は金56.44両となります。

以上から、名目上525石の村高を持つ福岡村からの年貢が、米77石、金56両だとということが分ります。(上記の表では、上畑の租率0.275石/反などを使って畑地からの石高年貢を141石、米と合わせた年貢合計を218石と計算していますが、これは単なる計算値で、実際にこのような年貢を取られたわけではありません)。
[74245] における寛文4年の年貢割付状に、村高345石の福岡村(川越領のみ)の年貢が、定納分で米72石、永31貫929文(=31.929両)とありますが、これも以上のような計算から導き出されたものだと思います。
村高から予想されるより、実際に生産される、もしくは領主が収納できる米の量がかなり少なくなりますが、関東のように耕地面積に占める畑地の割合が高い地域では、名目上の石高に比べ、実際に得られる米は少ない、と考えるべきなのでしょう。
[74209] 2010年 2月 23日(火)18:55:32oki さん
国立公文書館デジタルアーカイブ・システム
[74207] hmt さん
この記事を書く作業を通じて、国立公文書館デジタルアーカイブ・システムの検索により、多くの法令にアクセスできることを実感しました。
それは良いのですが、検索→閲覧では、画面にあるURLボタンが有効になっていません。
[74182] むっくんさん の記事で使われたURLを得る方法を教えていただきたいと思います。

本来はむっくんさんから回答があるのでしょうが、私もこのシステムを使っているので、私自身が採用している方法をご紹介します。

hmt さんがやったように、「地方自治法第百五十五條第二項」をキーワードとして検索すると、「地方自治法第百五十五条第二項の市の指定に関する政令」について2つの書類が該当します。一つは「公文類聚」所載のもの、もう一つは前天皇の御名御璽が入った政令原本です。
どちらも画像での閲覧が可能になっているので、例えば公文類聚の方を選んで「閲覧」ボタンを押すと、5ページ建ての閲覧画像が立ち上がります。これはJPEG2000の画像ですが、hmt さんが仰るように、URLボタンが有効になっておらず、国会図書館の近代デジタルライブラリーのようにはリンクが張れません。
そこで、右上にある「PDF」というボタンを押すと、PDF画像がDL可能なページに切り替わります。このページには次のような記載があります。

このPDFファイルは4143KBあります。
ブロードバンド環境でも、ダウンロードに数分から数十分かかることがあります
ダウンロードを開始してもよろしいですか?(「はい」または「いいえ」)をクリックしてください。
はい いいえ
ここで、「はい」を左クリックすればPDFファイルがDLできます。
一方、「はい」の上で右クリックすると、いくつかのポップアップメニューが表示され、その中に「ショートカットのコピー」があります。これを左クリックすればURLがクリップボードにコピーされるので、エディタなどにペーストできます。例えば以下のように。
http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S57B0307620000/071200458359.pdf

以上はIEでの手順ですが、ほかのブラウザでも同様だと思いますので、お試し下さい。

国立公文書館デジタルアーカイブ・システムからは、近代デジタルライブラリーに掲載されていない資料が得られるので、時によって非常に有用です。
私は今のところ、明治維新から市制町村制施行時までの廃置分合に関するデータを入手するためにいろいろ作業を行なっています。ある程度まとまれば、こちらで公開する予定なのですが、いつになることやら。
また、このシステムに含まれる資料は、すべてがネット上に公開されているわけではなく、現時点で閲覧不可のものも多数あります。ただ、それらの資料も、竹橋にある国立公文書館に出向けばマイクロフィルムで閲覧可能です。また、ネットに公開される資料は順次拡大されているので、今後も閲覧可能な資料が増えていくものと思われます。


それから、国立公文書館の資料に関して皆さんにご質問があります。
「天保国絵図」は国立公文書館のデジタルギャラリーで公開されているのですが、私の環境では、2~3ヶ月前からJPEG2000版の国絵図が閲覧できなくなりました。閲覧しようとすると、ブラウザがフリーズしてしまいます。IE、サファリなど、ブラウザを問わず同じ現象が生じます。国絵図以外の画像も同様です。異なるPCでも同じ現象が起きます(もちろん、プラグインはインストール済みです)。
一方、JPEG版だと問題なく表示されます。ただ、JPEG2000版の方が何かと便利なので、こちらで見たいと思っているのです。皆さんの環境でも同様の現象が生じているか、教えていただければ有り難いです。
[74206] 2010年 2月 23日(火)03:34:35oki さん
小字について
[74199] 右左府 さん

関東あたりの町名地番整理未実施の住所表示は「大字-地番」のみで、小字は日常生活では用いない……というのが通例だと思います。

確かに、小字を使うことはあまりないと思いますが、まったくないわけではありません。私は、業務または趣味で、住所データのアドレスマッチングを行なうことがたま~にあります。要は、番地レベルの住所データを収集し、既存の地図データをもとにその経緯度を求める作業です。
この作業を行なう際、住所に字(または小字)が付いていると、往々にしてアドレスマッチングに失敗します。というより、東北各県や徳島県といった小字単位での番地起番が一般的な地域以外の都道府県では、ほとんどの場合失敗します。
マッチングに使う地図はグーグルマップ(アース)もしくはヤフーマップなのですが、これらに番地レベルの経緯度情報を提供しているゼンリンやアルプス社のデータベースで、大字単位で起番している地域では字レベルの情報を受け付けない仕様になっているのではないかと思います。

逆に言うと、大字単位で起番している地域で、住所の確定に必要がないにもかかわらず、(小)字単位の地名を記入している事例が少なからず存在する、ということです。
手元に千葉県の宗教法人名簿があるのですが、そこに掲載されている6648件の住所のうち、字地名のあるものが10件あります。比率にして0.15%ですが、その程度は大字起番の住所でも字地名を記載することがある、ということになります。
なぜ、必要もないのに字地名を記載するのかはよく分りません。上の宗教法人名簿でも、字地名を記入している住所について、同じ大字に所在する他の住所を見ると字は記載していません。たぶん、どこかの時点で字のついた住所が採用され、それが修正されることなく使い続けられているのだろうと思います。
ご指摘の「印西市草深字原」に関しては、千葉ニュータウンで商業施設の管理等を行なっている株式会社千葉ニュータウンセンターという会社があり、その印西牧の原地区担当である牧の原モア管理事務所の住所が印西市草深「字原」2029―3になっています。おそらく、テナント入居している店舗の一部が、これをそのまま踏襲して「字原」を付した住所を採用しているのだろうと思います。


宮古島の方は、沖縄の地名変遷について不勉強なので、何も言えません。
ただ、1908年(明治41)の沖縄県及島嶼町村制の時点で、以前の「間切」が「村」、「村」が「字」とされたようですが、実質的には、島嶼町村制以前の沖縄の村はヤマトの近世村と同等の存在と考えて良いと思います。したがって、字(かつての村)の下に小字に当たる地名があっても不思議ではないでしょう。
実際には、宮古島市のサイト内を検索して見つけた小字は、「城辺字比嘉にある野加那泉(ヌガナガー)が小字野加那佐事に所在する」という記事だけなので、小字が正式の住所として存在するとは考えにくいと思いますが。
なお、右左府 さんの行かれた「史跡 マムヤの墓」の所在地が「城辺字保良1221-1(小字平安名)」だったということですが、「平安名」はかつて保良村の東隣にあった「平安名村」のことだろうと思います。歴史地名大系によれば、平安名村は1873年(明治6)の「琉球藩雑記」には存在するものの、1880年(明治13)の「県統計概表」には村名が記されていないということで、この間に廃村になったのでしょう。ただ、正式なものかどうかは分りませんが、地名としては残存し、使われる場合もあるのだと思います。
[74175] 2010年 2月 18日(木)03:19:43oki さん
高松-宇野間の流動人口
[74170] hiroroじゃけぇ さん
四国と本州をつなぐ役割は他のどの連絡航路よりも大きかったと思っています。そして、その航路が廃止というのは、四国の歴史にとっては大きなニュースであると思ったのですが・・・。そうでないとすると、やはり「過去の幻想」なんでしょうね。

宇高航路が、四国と本州をつなぐ路線として他のどの連絡航路より大きな役割を果たしてきたのは紛れもない事実です。しかし、それに寄せる思いが、岡山・香川県民と、他の四国3県とで差があるのも否めないようです。
高知・愛媛県にとって、宇高航路は何よりも本州への連絡ルートでしたから、瀬戸大橋によってその機能が維持されていれば、現行の宇高フェリーが廃止されてもさほど痛痒を感じないようです。徳島に至っては、国鉄の時代から本州への連絡は南海フェリーが主であり、現在は明石海峡大橋がその機能を担っていますから、宇高フェリーの廃止を聞いてもほとんど感慨も抱かないでしょう。
一方、岡山・香川県民にとって、宇高航路は本四連絡ルートであるとともに、両県を相互に(たぶんもっとも安い価格で)結びつける「生活航路」としての機能を持ってきたのだと思います。宇高フェリーの廃止は、この「生活航路」の切断であるため、その直接関係者には見過ごせない事態であり、hiroroじゃけぇさんのように、過去にこの路線を利用されていた人たちにも衝撃として受け止められたのではないかと思います。

そこで、現行の宇高航路が、岡山・香川県間の日常生活でどの程度の役割を果たしているかを探るために、2005年国勢調査の流出入人口をもとに、次のような表を作ってみました。

    就業者通学者
岡山市366215151
倉敷市1147143
玉野市43385
その他281711
 計 551341210
岡山市491309182
倉敷市411215196
玉野市1067432
その他1235667
 計 1131654477
 岡山市857524333
倉敷市525286239
 玉野市14911237
その他1517378
  計 1682995687

宇高フェリーの特性を考えて、対象としたのは高松市と岡山県内各市との流出入人口です。
分りにくい表で恐縮ですが、「高松→宇野」の欄にあるのは、高松市に住んでいて岡山・倉敷・玉野その他の岡山県内に通勤通学する人の数で、計551人です。「宇野→高松」は岡山市等に居住して高松市に通勤通学している人で、計1,131人になります。両者を合計すると1,682人で、これが宇高フェリーを使って通勤通学している可能性がある人の最大限の数です。
最初は、岡山市や、倉敷でも玉野から遠い地域では宇高フェリーを使わないだろうと思っていたのですが、このフェリーの運賃が宇野-高松間で大人片道390円と信じられないほど低額なため(JRだと岡山-高松間1,470円)、会社が定期代を払ってくれる就業者(通勤者)はともかく、687人の通学者はすべて宇高フェリーを利用している可能性があります。玉野市関係の就業者112人も当然利用者でしょうから、合わせて800人程度は、通勤通学で毎日宇高フェリーを利用しているのではないかと思われます(往復で1,600人ですね)。

本来であれば、少なくともこの通勤通学者に対しては代替交通手段の提供が必要なのだと思います。トラックを含めた車両輸送の激減がフェリー廃止の主因ですから、代替交通手段は高速船のような旅客専用船が求められるだろうと思います。しかしこの航路では、1988年の瀬戸大橋開通後も残されたJRの高速艇が、90年に廃止されており、旅客専用船の運航は難しいでしょう。であれば、現在の通学生が卒業するまで、朝夕の通勤通学時のみ、現行のフェリーを自治体の補助金で運航させる、くらいのことしかできないのではないでしょうか(それもかなり難しいことでしょうが)。
なお、hiroroじゃけぇさんの指摘された宇高フェリーの物流機能に関しては、ほぼ考慮の余地はないでしょう。先のように、フェリー廃止の理由がトラックを含めた車両輸送の激減ですし、重機の輸送は現在でも内航海運が担っていると思います(そうでなければ、高松に本社を置く重機メーカーのタダノが、今回の件に沈黙を通すはずはありません)。

-----------------------------------------
話変わって、横断と縦断のことなのですが、ふと思い立って辞書を引いたところ、「横断」について「横にたち切ること。平行方向に区切ること」などのほかに「ある地域や海域を東西の方向に通ってゆくこと」という説明がありました(日本国語大辞典)。え~そうなの、と思って「縦断」を見ると、「縦または南北の方向に断ち切ること」となっています。
念のために広辞苑を確認したところ、やはり横断に東西、縦断に南北方向に通り抜けるとの意味があると書いてあります。
春秋戦国期の中国ならともかく、現代日本語で、横断=東西、縦断=南北の意味があるとは今の今まで知らなかったのですが、皆さんはいかがですか?
[74154] 2010年 2月 13日(土)23:55:34oki さん
宇高航路、もしくは本四間の海上交通と陸上交通について
[74152] Issie さん
[74151] hiroroじゃけぇ さん
[74148] みかちゅう さん

hiroroじゃけぇ さんには申し訳ないですが、宇高航路の廃止を聞いても、「相当な衝撃」を受けたわけではありません。ただ、一昨年玉野に行ったときに30分間隔で運行していたのを見て、「宇高フェリーは頑張ってるな」と思っていたので、南海の徳島~和歌山航路より先に廃止するのはちょっと意外、というのが実感です。
徳島県民は、明石大橋の開通以前から宇高航路はほとんど利用せず、本州との連絡には南海フェリーを使うのが通例でした(県西部の池田周辺は別ですが)。私自身も、国鉄時代の宇高航路に数回乗船した程度です。
また、マスコミの反応を見ても、地元の四国新聞山陽新聞では相当な話題になっていますが、高知新聞は「高知県への影響 限定的」と冷静ですし、徳島新聞や愛媛新聞に至っては、ネット上には記事すらありません。あくまで、香川~岡山間に限定された話題に留まっているようです。
もっとも、問題の構図から影響が宇高航路だけに限定されるとは考えられず、早晩南海フェリーにも同様の事態が生じるでしょうから、関心は強く持っています。
そこで、まず事実を把握するため、宇高航路の利用動向の推移を整理してみました。

  高松 ~ 宇野      徳島 ~ 阪神    
年度航送台数指数輸送人員指数航送台数指数輸送人員指数
1987年度1872933100.03968221100.0463763100.02399414100.0
1989年度132154070.6211523453.345723598.6227432094.8
1993年度126526067.6189251447.740754587.9224377893.5
1998年度108437257.9159493940.220859345.0114035447.5
1999年度104846656.0149692437.717995338.885691935.7
2000年度104939656.0150704438.018931640.866518327.7
2001年度105814056.5159138540.119173141.366120327.6
2002年度108669258.0162434940.919389141.860056625.0
2003年度102378354.7149005037.519054841.157970624.2
2004年度97782752.2138268734.818597440.155814223.3
2005年度96425951.5132977833.518569440.056723323.6
2006年度95291050.9131222533.118153839.154139522.6
2007年度93984750.2129910032.718105239.052657021.9
2008年度85131345.5119965530.216994536.649729020.7
                  
2008年度第2四半期23956233776350259150445
2009年度第2四半期137975-42.4227719-32.66862536.518117520.4

表の初年度である1987年度は、瀬戸大橋が開通した1988年4月の前年度です。参考のために徳島阪神航路の推移も示しています(阪神航路といっても、本州側の発着地は和歌山で、徳島側発着地は1999年4月に小松島港から徳島港に移っています。ちなみに明石海峡大橋の開通は1998年4月です)。
(※データは四国運輸局のこのページ所載のファイルから抜き出しています。車両の航送台数はトラックと乗用車、バスとの合計値です)

表から明らかなように、宇高航路の利用者は瀬戸大橋の開通に伴って大きく減少しています。ただ、08年度の旅客輸送人員が87年度の30%の水準であるのに対し、車両航送台数は46%に踏み止まっています。両者の差をもたらした主因が、瀬戸大橋の通行料金の高さにあることは言うまでもないでしょう。
徳島阪神航路の場合は航送台数が87年度の37%、旅客輸送に至っては21%という水準ですから、これと比べても宇高航路が健闘していたことは間違いありません。この記事によれば、88年以降も航路収支は黒字だったそうですから立派なものです。その影には相当な企業努力があったと思います。

問題は高速道路の1000円政策が導入された09年度4月以降です。年度を通しての数字はまだ出ていませんから、最新統計である第2四半期(7~9月)の数値で代用します。
09年度第2四半期における宇高航路の車両航送台数は、前年同期に比べ、実に▲42%も激減しています。旅客輸送人員も▲33%の減少です。おそらく、09年度を通じてこのような数値なのでしょう。
87年から08年までの20年をかけて▲55%の減少であったものが、たった1年で▲40%も減少すれば、普通の私企業が対応できないのは無理もありません。今後も高速道路料金を抑える国の方針に変更がないとすれば、傷が大きくならないうちに事業撤退を選択するのは当然と言えます。

では、明かな総選挙目当ての人気取りであった前内閣の高速料金値下げ政策が悪いのか、それとも現政権のそれが原因か。しかし、非常に高額である瀬戸大橋(のみならず本四架橋全体)の通行料金を値下げしてほしいというのは、四国4県こぞっての願望だったはずです。
先の表からも分るように、宇高航路の航送台数が08年までの水準を維持し得ていたのは高速道路の料金が高かったからで、それを値下げすれば自動車が本四架橋に流れ、フェリー会社の経営を圧迫し、最悪の場合航路廃止に至ることは自明だったはずです。もしも、フェリー会社の経営維持のため、他の高速道路の料金を引き下げても本四架橋だけは従来通り維持する、などという政策が採用されれば、四国各県の行政も住民も黙ってはいないでしょう。
結局、あちらを立てればこちらが立たずです。しかし、きわめて冷徹な言い方をすると、行政と住民が本四架橋の建設を選択した時点でフェリー会社の命運は尽きていたのであり、開通後は地域経済や利用者、そして従業員に与える悪影響を最小限に保ちながら、一定の時間をかけて会社の安楽死を図るのが、Issie さんの仰る「総合的な交通政策」というものではなかったかと思います。本州と四国との連絡を陸上交通化するのが本四架橋の本来的役割であり、それが両者間の海上交通を無用のものにするのは当然ですから。
今回の航路廃止が突然に思えるのは、昨年3月からの唐突な高速料金引き下げ政策が引き金になったからですが、四国の行政や住民が高速料金の引き下げを望んでいるのであれば、フェリー航路の廃止はそれに伴う犠牲として甘受するしかないでしょう。あとは、激変緩和措置として、自治体段階の補助金で廃止期日を若干引き延ばすくらいの対応しかないと思います。

個人的なことを言えば、私は港町の生まれであり、自分では自動車を運転しないので、高速道路が伸びるより海上航路が維持された方がよっぽど良いと思っています。本四架橋に関しても、四国と本州の間に3本の橋を架ける必要などまったくなかったと思います(別に瀬戸大橋だけでも私は構いません。南海を利用すれば良いだけのことです)。しかし、現実に3本の橋をつくってしまった以上、これを活用する方策を見つけるしかないでしょうし、それが本四間の海上交通を圧迫するのは必然です。本四架橋は、四国の行政と住民が強く望んだ結果建設されたものです。その果実を享受するなら、マイナス面も併せて引き受けるしかないと思います。
結果として、徳島阪神航路も早晩廃止されるでしょう、残念ではありますが。
[74139] 2010年 2月 11日(木)17:27:59【1】oki さん
市町村の一部区域にかかる廃置分合の表記方法
[73436] [73497] [74035] [74123] 88さん
[73753] [73754] [73755] [73756] むっくん さん

しばらく本業が疾風怒濤でROM状態になっていましたが、上記の点は気になっていました。遅くなりましたが、私の考えを述べておきます。

最初の前提として、88さんが市区町村変遷情報を整理・入力されている基本的な目的は、「確実な資料をもとに、全国の自治体の廃置分合の変遷を明らかにする」ことだと思います。そして、現時点では明治大合併期が起点になっていますが、全国統一の史料が存在する天保郷帳(天保国絵図)の時点までは遡ることが可能である、と考えています。
この場合、常に天保郷帳時点の近世村に立ち戻って考えることが可能な状態にしておく、ことがベストであると思っています(これはかなり難しいことですが)。

以上を前提とした場合、第一に、市制町村制施行時とそれ以降とで分けて考える必要があると思います。第二に、市制町村制施行時に関しては、1.「本体と飛地等に分かれる場合」と、2.「本体が複数部分に分割される場合」を区別することが必要と考えます。

まず市制町村制施行時について。
1.本体と飛地等に分かれる場合:
「飛地等」としたのは、、むっくんさんが引用された徳島県の「差込地」などの例があるためです。飛地とは限らないので、一般化して「微少部分」と表現した方が良いと思っています。
いくつかの府県令を見ましたが、「微少部分」は、「番地単位」、「反別面積」、「字単位」で記載されることが多く、あるいは徳島のように「飛入地、差込地」等の表現をとっているため、本体と混同することはまずないと考えられます。
また、山梨県の場合、「山梨県令達全書」に「飛地ハ各其所在市町村ノ地籍ニ編入ス」とだけあって、飛地の具体的な記載がありません。この場合、飛地情報は不明なわけです。これから考えれば、微少部分の情報は県令等に記載のある場合、とせざるを得ないと考えます。
市区町村変遷情報での表現は次のようになるでしょうか。

香川郡多肥村:香川郡 出作村(本), 上多肥村, 下多肥村
(詳細情報で「出作村のうち字松ノ上、松ノ下、下町を除く」と記述)
香川郡百相村:香川郡 百相村, 出作村(微)
(詳細情報で「出作村(微少部分)は、字松ノ上、松ノ下、下町」と記述)

(本)は本体、(微)は微少部分の略です。(本体)、(微少部分)と記述しても構いませんが、見た目がうるさくなるので簡略な記載とし、どこかに注を付けておけばいいと思います。後でも示しますが、微少部分と「○○村の一部」との混同を避けたいので、(一部)などの記述には賛成できません。

市制町村制施行時により問題となるのは、微少部分ではなく、本体が分割されてそれぞれが「一部」となる場合で、これには主に次の2つの要因があると思います。
1)近世村そのものがいくつかの集落からなっており、町村制施行にあたって近世村の範囲が分割される場合
2)明治維新~町村制施行までに複数の近世村が合併して1つの村になっていたが、町村制施行にあたって元の近世村単位で分割される場合

1)の事例は少なからずあると思います。実際のところ、近世村が1つの集落から成る事例というのは畿内やその周辺を除くとあまり多くなく、複数の集落から成っているのが通例だからです(枝村が分割される場合もこれに含めます)。
事例を挙げます。現在の八戸市にあった浜通村ですが、明治合併時に、浜通村のうち湊、白銀の部分が大久保村と合併して湊村に、鮫、持越沢などが金浜村と一緒になって鮫村を構成しています(県令はこちら)。
現在は八戸市大字湊町、大字鮫町などに当たる場所です。

近世村県令の記載明治合併村現在の住所
浜通村浜通村ノ内湊湊村八戸市大字湊町など
同上浜通村ノ内白銀同上八戸市大字白銀町など
大久保村大久保村同上八戸市大字大久保
浜通村浜通村ノ内鮫鮫村八戸市大字鮫町
同上浜通村ノ内持越沢同上
同上浜通村ノ内二子石同上
同上浜通村ノ内白浜同上鮫町白浜の地名あり
同上浜通村ノ内深久保同上
同上浜通村ノ内種差同上八戸市大字鮫町字種差
同上浜通村ノ内法師浜同上鮫町法師浜の地名あり
同上浜通村ノ内大久喜同上鮫町大久喜の地名あり
金浜村金浜村同上八戸市大字金浜

浜通村は、湊、鮫など複数の集落からなる広大な村でしたが、これらの集落は実際上それぞれが村であり、浜通村はその総称と考えられています。
この場合、変遷情報での表現としては次のような形態をとれば良いと思います。

湊村:浜通村の一部、大久保村
(詳細情報で「浜通村のうち湊、白銀」と記述)
鮫村:浜通村の一部、金浜村
(詳細情報で「浜通村のうち鮫、持越沢、二子石、白浜、深久保、種差、法師浜、大久喜」と記述)

次に2)の事例では、先にも話題になった八幡浜浦があります。県令の記載では、西宇和郡八幡浜浦が「字本浦」、「字栗野浦」、「字向灘浦」に三分され、字本浦は単独で八幡浜町になり、字栗野浦は矢野町などと合併して神山村、字向灘浦は大平村などとともに矢野崎村を構成したことになっています。ところが、天保郷帳では栗野浦、向灘浦は八幡浜浦とは別の独立した村です(国絵図はこちら)。(※向浦ではなく向灘浦です)。
時期は特定できませんが、明治合併期までに八幡浜浦、栗野浦、向灘浦が合併して八幡浜浦を構成し、合併時に分かれたようです。
町村制施行時までに先行して合併が進められた山梨、岡山、宮城などの諸県では、このような事例が少なくないと思います(明治大合併期に下九一色村と上九一色村に分裂した九一色村もそうですね)。
この場合には、基本的に近世村単位で分割がなされるはずで、それぞれを「○○村の一部」とし、詳細欄にそこに含まれる地域(=近世村)を記述すればよいと思います。例えば次のように。

八幡浜町:八幡浜浦の一部
(詳細情報で「八幡浜浦のうち字本浦」と記述)
神山村:矢野町, 八代村, 五反田村, 国木村, 八幡浜浦の一部
(詳細情報で「八幡浜浦のうち字栗野浦」と記述)
矢野崎村:大平村, 高野地村, 八幡浜浦の一部
(詳細情報で「八幡浜浦のうち字向灘浦」と記述)

この場合、どこが八幡浜浦の本体か、にこだわる必要はなく、すべて「○○村の一部」とすればいいと思います。もともと独立した村だったわけですから。

以上の考え方で問題が生じるとすれば、「微少部分」が比較的大きい場合、あるいは微少部分なのか上記1)のような近世村内集落なのか区別できない場合はどうするか、です。端的に言うと、「分らない場合はすべて『○○村の一部』の表現をとる」ということで良いと思います。
詳細な歴史的経緯を調べているのでは、88さんに非常な負担がかかります。88さんが分る範囲で判断し、判断がつかない場合は「○○村の一部」としておいた上で、その旨を落書き帳に明記しておく。その部分は他の人が調べて88さんに報告する、とすれば良いと思います。
もちろん、私も調べて報告するようにします。現在、自発的に市区町村変遷情報をチェックされているむっくん さんも、これまで同様にフォローしてくれるでしょうし、ほかの方からの情報も入ると思いますので、それらをもとに88さんが判断して必要な場合に修正を加える、という仕組みにするのはいかがでしょうか。

以上のようにする場合、本体分割(または分割区分不明)を意味する「○○村の一部」と、「本体 対 微少部分」との混同は避けたいところです。したがって、「本体」の表現は常に「微少部分」との対の形で使用し、[74123]で88さんが提起された「○○村(一部)」の表現は使用しない方が良いと考えます。


次に市制町村制施行時以降の変遷ですが、本質的には上記と同様です。ただ、明治合併期以降は近世村が複数集まって一つの市町村が構成されているのが原則ですから、「微少部分とは近世村の範囲が分割された地域」と定義しておけば良いと思います。
つまり、大合併期以降の市町村が分割される場合、「近世村の範囲以下の部分とそれ以外」になる場合は「○○村(微)と○○村(本)」とし、それ以外(近世村単位で分割される場合)はすべて「○○村の一部」の表現でよいと考えます。例えば、徳島県の次の事例のように。

「○○村(微)と○○村(本)」の例
1954.03.31
新設 那賀郡富岡町:那賀郡 中野島村, 富岡町, 宝田村, 長生村, 大野村(本)
(詳細に「大野村は字妙見を除く」と記述)
編入 那賀郡羽ノ浦町; 那賀郡 羽ノ浦町, 大野村(微)
(詳細に「大野村(微少範囲)は字妙見」と記述)
※字妙見は、大野村を構成する3つの近世村(上・中・下大野村)のうち下大野村の小字で、那賀川以北の部分です

「○○村の一部」の例
1955.01.01
編入 徳島市:徳島市, 名西郡 入田村の一部, 名東郡 新居町
(詳細に「入田村の一部は大字入田」と記述)
編入 名東郡国府町:名東郡 国府町, 名西郡 入田村の一部
(詳細に「入田村の一部は大字矢野」と記述)

また、ここでも「判断がつかない場合は『○○村の一部』」の原則を適用します。つまり、[74035]で88 さんが事例にあげた仲多度郡象郷村は次の通り。

1958.03.31
編入 仲多度郡琴平町:仲多度郡 琴平町, 象郷村の一部
(詳細に次のように記述
「象郷村のうち次の部分を含む:
 大字苗田の全域
 大字上櫛梨の本体(字川西の一部を除く部分)
 大字下櫛梨の一部(字船磐、川原、平石、泉田、上新田の各一部を除く部分)
 大字上櫛梨、下櫛梨の残余は善通寺市へ」
編入 善通寺市:善通寺市, 仲多度郡 象郷村の一部
(詳細に次のように記述
「象郷村のうち次の部分を含む:
 大字上櫛梨の微少部分(字川西の一部)
 大字下櫛梨の一部(字船磐、川原、平石、泉田、上新田の各一部)
 大字上櫛梨、下櫛梨の残余は琴平町へ」

象郷村の場合は分割形態が複雑なので、琴平町に編入された部分を象郷村(本)、善通寺市部分を象郷村(微)とするより、上記のように両方とも象郷村の一部とし、それぞれの範囲を「詳細」に記述する方が良い、と私は考えます。が、皆さん色々な意見があると思いますので、決着がつくまではとりあえず「象郷村の一部」にしておけば良いのでは、という意味を含めています

かなりゴチャゴチャして分りにくい記述になってしまったので、もう一度簡潔に書きます。

明々白々に微少部分と本体に分かれる場合は「○○村(微)と○○村(本)」に。
それ以外はすべて「○○村の一部」
詳しいことは「詳細情報」に記述。

以上、ご参考になればと思います。
[74023] 2010年 1月 23日(土)15:48:47oki さん
第二十六回十番勝負 感想戦
遅くなりましたが、第二十六回十番勝負の感想を。

今回は帰省後からの参加ということもあり、目標は次の3つでした。
1.完答  →  達成
2.(できれば)誤答なし  →  誤答2問
3.(できるだけ多く)ヒント前に解答  →  第一ヒント前解答3問

実際には、完答はできたものの誤答2問、第一ヒント前に解答できたのが3問ということで、自己評価としては目標の半分くらい達成、というところです。

では、解答順に簡単に振り返り。

問八:根室市
■市名に関連する半島がある市(半島コレクション登録が対象)
お題を見ただけで「半島」が浮かびました(私にしては珍しいことです)。解答したのが1月5日の夕方ですからメダルとは無関係ですが、売り切れる前にこれに答えておいたおかげで全問完答できました。

問十:流山市
■市名誕生日が1月1日の市
グリグリ さんの第0ヒント?「開催日、都道府県市区町村内各メニュー、過去記事などは重要なポイントです。」と、糸島市から分りました。

問三:大洲市
■読みに同じ字が連続する市(濁音・促音も許容する)
解答順位が29位で、さすがにこれだけ並べば私でも分ります。しかし、お題の5市だけから閃く方々は凄い、としか言いようがない。

ここで第一ヒント

問七:宇和島市
■都道府県で一番最近市制施行した市(新設合併を含む)
第一ヒント「さいきんのがっぺい」で分りました。

問五:市川市
■市名が苗字ランキング300位以内の市
簡単な漢字の市名が並んでいたので「市名の普通度」を考えたのですが、除外市の松山市がよく分らず。
第一ヒント「珍しくない名」を睨んでいた結果、名字と気が付きました。しかし、グリグリさんがサービス(?)でお題に首相を2人も並べてくれていたのだから、もっと早く思い至るべきでした。

問六:西条市(誤答)→鴻巣市
■1市2町で合併(新設・編入)した市(直近の合併)
問六・八・十に共通する糸島市が一つのポイントなのは分っていましたが、第一ヒント「1足す2は1」まで気が付きませんでした(それも、最初は「1足す1は2」と解凍してました)。
西条市の誤答は四国の市から答えたいな~、という気持ちが強すぎたための錯覚でした。

ここで第二ヒント

問二:藤岡市
■ダム湖百選がある市
第一ヒント、第二ヒントともに解凍できず。第一ヒントの答え「治水と利水に益」を示してもらってやっと分りました。
長年首都圏に住んでいるのだから、東大和市、相模原市で何らかのリアクションが欲しいところ(>自分)。

ここで第三ヒント

問九:松江市
■東京23区の住所地名になっている市(部分一致を含む)
いっちゃんさんの記事は目を通していましたが、まさかそのまま出題されるとは思わず。完全に北上市に騙されました。
第一ヒントの「どこかの住所」を「自市以外の自治体に市名と同じ地名がある」と解釈し、郵便番号簿をもとに調査しましたが、文字および読みが完全一致する地名でも、全国で2400件以上、市名にして340市あったので、さすがに間違いに気づきました(「きたかみ」と読む「北上」は新潟市秋葉区に1ヶ所だけあるようです)。
結局、気が付いたのは第三ヒントの「23区」の後でした。

問四:高松市(誤答)→中津川市
■同時に7市町村以上で合併(新設・編入)した市(直近の合併)
第一ヒント「沢山の市町村」で、こちらの方面であることは分っていたのですが、美濃市の確認に手間取りました。
除外市の高松市を誤答する大ポカは、問題を細かいところまで詰め切れていない証拠と言えます。

問一:今治市
■松竹梅を含む市に隣接する市(島隣接、架橋隣接を含む)
第一ヒントの「三種類ある」から「一富士、二鷹、三茄子」を連想し、第二ヒント「目出たい物」、第三ヒント「隣は目出たい」が出た後も、意識がそちらに引きずられていました(浜松市中区に「茄子町」という地名があったので、しつこくそっちにこだわったのですね)。
気が付いたのは、解答市に徳島市と阿南市があり、両者の間の小松島市が浮かんだからです。

-------------------------------------------------------------------
という具合で、今回の解答順は21位。完答者の中では最後から3番目ですが、意識して最後の解答を狙ったりはしていないので、実質的には最下位でしょう。ま、実力から言って妥当なところ。
第二十四回に次いで二回目の参加ですが、今回も楽しませていただきました。有難うございます。
次回以降は、誤答なし完答が達成できるよう、もう少し精進したいと思っております(ヒント前の完答はちょっと無理だろうなぁ)。
[73936] 2010年 1月 15日(金)22:12:04oki さん
第二十六回十番勝負 解答その九 _訂正
問四:中津川市

除外市を答えるという大ポカ。
これで本当に最後、のはず。
[73926] 2010年 1月 15日(金)07:11:36oki さん
第二十六回十番勝負 解答その十
連答失礼いたします。

問一:今治市

やっと完答か?

もう一つの方に意識が固着して、こっちに気が回らなかった。まったく・・・
[73925] 2010年 1月 15日(金)06:45:59oki さん
第二十六回十番勝負 解答その九
問四:高松市
[73901] 2010年 1月 14日(木)10:05:29oki さん
第二十六回全国の市十番勝負 解答その八
地元から。

問九:松江市
[73877] 2010年 1月 13日(水)22:04:25oki さん
第二十六回十番勝負 解答その七
問二:藤岡市

これはヒントが解凍できなかったのですが。
[73814] 2010年 1月 11日(月)10:04:15oki さん
第二十六回十番勝負 解答その六_訂正
バカなミスをしてしまった。

問六:鴻巣市
[73810] 2010年 1月 10日(日)22:00:58oki さん
RE:平泉
[73804] YT さん
早速目を通してみましたが、残念ながら
政治的にも奥羽の中心となた平泉であり、十万に近い人口が集中していたはずである。
今日、平泉町全体の人口は約一万人である。しかし八百年前には十数万人と推定されている。
とあるばかりで、根拠も参考文献も全く示されていませんでした。

余計な手数をお掛けさせたようで、申し訳ありません。
すでにご存じかもしれませんが、改めて平凡社の「日本歴史地名大系 岩手県」を見たところ、さすがに平泉古図の信憑性は否定するものの、平泉の人口そのものについては次のような記述しかありません。
「多くの大寺・堂塔が甍を競い,禅坊は中尊寺三〇〇余・毛越寺五〇〇余、平泉館・伽羅御所など藤原氏の居館があり、北奥特産物の集散地でもあったことを考慮すると、平泉の人口はゆうに数万を超えよう。」

これでは、表現こそ異なるものの、YTさんの御覧になった「政治的にも奥羽の中心となった平泉であり、十万に近い人口が集中していたはずである。」と、記述内容としてはほぼ同一です。文献史学の側は、平泉の人口を推定する確実な史料を持ち合わせていないような感じもします。

いずれにせよ、今後は平泉の人口について気に留めておいて、大きな図書館に行ったときなどに確認してみるようにします。何か新しいことが分ればお知らせいたしますので。
[73803] 2010年 1月 10日(日)15:10:01oki さん
第二十六回十番勝負 解答その六
長浜市×の理由がよく分らないので、いささか不安なのですが。

問六:西条市
[73801] 2010年 1月 10日(日)12:16:04oki さん
第二十六回十番勝負 解答その五
問五:市川市

やっと五答目。完答まで匍匐前進。
[73776] 2010年 1月 9日(土)18:53:09oki さん
第二十六回十番勝負 解答その四
こういうことですか。

問七:宇和島市
[73764] 2010年 1月 9日(土)10:28:46oki さん
第二十六回十番勝負 解答その三
やっと分りました。
まだ三答目。完答まで先は長い。

問三:大洲市

しかし、お題の5市だけからこれが分る人たちというのは、一体どういう・・・
[73688] 2010年 1月 5日(火)20:53:57oki さん
第二十六回 全国の市十番勝負 解答その弐
四国がなくなっているので、とりあえず近くの市を。

問十:流山市

さっきははご挨拶を忘れていました。

新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
[73683] 2010年 1月 5日(火)18:41:45oki さん
【第二十六回】全国の市十番勝負
先ほど、やっとこさ帰省先から戻って来ました。

今回は参戦するつもりなので。まずは売り切れ寸前のところを。

問八:根室市
[73447] 2009年 12月 30日(水)07:43:10oki さん
昔の飛地と来年の勝負
三回連続投稿で申し訳ないのですが、見過ごせない書き込みがあったもので。

[73436] 88 さん 市制町村制施行時等における飛地・入会地等の表記方法について

88さま。市区町村変遷情報の入力、誠に、誠にご苦労様です。
私も、徳島などで天保郷帳~明治合併期の町村変遷について整理をはじめたことがあるので、この作業にどれだけの時間と労力が必要かは分ります。あれだけのデータを入力・整理されていることには、ただただ感謝、との思いだけです。
その上で、あえて言わせていただくのですが(この点については前々から考えていたのです)、少なくとも明治合併期に関しては、本村部分、飛地部分の両方について同じように「○○村の一部」とする現在の表現方法は、改めた方が良いと思います。各村がどのように合併したのかが非常に分りにくくなる場合があるからです。
実例を挙げます。私が現在住んでいる東京都江戸川区(当時は南葛飾郡)における3村の事例です。

小松川村:
西小松川村の一部, 逆井村, 東小松川村の一部
松江村:
西一ノ江村の一部, 東小松川村の一部, 西小松川村の一部
船堀村:
西船堀村, 東船堀村, 西宇喜田村の一部, 桑川村の一部, 西一ノ江村の一部, 東小松川村の一部, 西小松川村の一部

以上挙げた3村のいずれにも、「西小松川村の一部」、「東小松川村の一部」が出現しており、「西一ノ江村の一部」は2村にあります。
落書き帳のメンバーの皆さんであれば、小松川村は西小松川村と逆井村の合併村、松江村は西一ノ江村と東小松川村、船堀村は東西船堀村で、ほかはすべて狭小な飛地だろうと見当がつくと思います。しかし、市区町村変遷情報を閲覧しているのは常連メンバーだけではないはずで、この種の情報にあまり詳しくない人が見た場合、以上のような表記法だと、東小松川村や西小松川村がどのように合併したのか、混乱を来す畏れが強いのではないでしょうか。
そのような事態を回避するには、例えば次のような表記が求められるのではないかと思います(あくまで例です。実際の表記法はさらに工夫する必要があります)。

小松川村:
西小松川村(本体), 逆井村, 東小松川村(飛地)
松江村:
西一ノ江村(本体), 東小松川村(本体), 西小松川村(飛地)
船堀村:
西船堀村, 東船堀村, (以下すべて飛地 西宇喜田村, 桑川村, 西一ノ江村, 東小松川村, 西小松川村)

あるいは、変遷情報の表にはあえて飛地の村を表示せず、「本体」の表記も省略して、これらを「詳細」部分だけに記述してもいいのかもしれません。いずれにせよ、現在の表記法は改善した方が良い、と考えます。
なお、ここには例がありませんが「どちらが本体か、という判断を迫られる」微妙な場合は、その場合に限って「○○村(一部)」などの表現を使えばいいと思います。
また、関連して言うと、変遷情報の参考文献としては「幕末以降総覧」などの刊本しかあげられていませんが、少なくとも明治合併時のデータについては、府県令でのチェックを行なっているのですから、その旨を明記するとともに、デジタルライブラリーの該当府県令へのリンクを張っておいた方が良いのではないでしょうか。「飛地」が現在のどの地域に該当するのか気になる人には、元データである府県令を見てもらうことにしても良いですし。

もちろん、これ以上88さんの負担を増やすのは本意ではないので、ご自身がもっともやりやすい手法をとっていただければと思いますが、以上の点も考慮してもらえれば有り難いです。

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本日、ネット環境のない実家に帰省しますので、今年の書き込みはこれが最後です。いろいろと楽しませていただいて有難うございました。来年もよろしくお願いいたします。
前回の十番勝負は見送りましたが、今回は参加したいと思っています。帰京してからの参戦なので、完答できれば御の字でしょうが。

では、皆様良いお年を。
[73446] 2009年 12月 30日(水)06:31:45oki さん
さまざまなレス
手短に、と言いながら長くなってしまい、連続投稿です。

[73423] hmt さん
由来が一番わからないのが「藤野」です。
1955年に命名された「藤野町」は、中央本線藤野駅に由来するとして、1943年当時の津久井郡小淵村に設けられたこの駅の名を「藤野」とした理由がよくわかりません。
[62419] スピカさん には、次のように記してあります。
「藤野」の名は駅所在地である小原(小渕の誤記)の小字で、合併時の新町名に町の中心地にある駅の名前を採ったものです。
「藤野 = 小字」説は検証していませんが、この駅の立地は 甲州街道の関野宿(小淵村)と吉野宿(吉野町)との中間であり、駅名とするのに適した著名な集落があったとは思われません。

木村礎氏の「日本村落史」によると、江戸時代の津久井郡小淵村に「藤野」という小名(≒小字)があったとのことです。藤野駅のそばに「藤野」という小字レベルの地名がありますが、これが小名藤野の名残と考えて良いのでは。したがって、スピカさんが仰るように、小字藤野が鉄道駅の名称に採用され、さらに藤野町の自治体名まで成り上がったのは間違いないだろうと思います。
なお、元史料は「新編相模国風土記稿」ということなので、念のために、大きめの図書館で小淵村の項を確認しておいた方が良いとは思います(「新編武蔵風土記稿」と違って、近代デジタルライブラリーには収録されていないのです)。

[73420] 蒼の狼 さん
脇町出身の友人に尋ねてみたのですが、
見事に「わきまち」って答えてくれました。
ちなみに、その人いわく脇町地区だから「わきまち」で
岩倉地区だったら「わきちょう」って答えるかもと言ってましたが…どうでしょう??
わざわざ調べていただいて有難うございます。
これは、町民には町名が「わきちょう」であることが周知されているため、旧岩倉や旧江原の出身者なら「わきちょう」と答えるものの、ご友人は旧脇町(脇町、猪尻、北庄)の出身であるため、プライドにかけても「わきまち」と呼ぶ、と理解して良いのでしょうか。ますます、分らなくなる気もしますが。

[73314] なると金時さん
前からずっと思っているのですが、鳴「戸」と誤記される例が恐ろしく多い気がします。
上の名望家はそう書いてました(笑)
約100年前くらいのですが、その時も「鳴門」だった筈なんですがね…。

もともとは鳴「戸」や鳴「渡」の表記が行なわれており、近世後期以降に鳴「門」が優勢になってきたようです。大相撲の年寄名跡である「鳴戸」や「大鳴戸」は、江戸時代中期頃の表記の名残ではないかと。
明治以降の自治体名等にはもっぱら鳴「門」が使われていますが、100年前なら表記は十分に揺れていたはずで、その名望家には「鳴戸」が正しいと意識されていたのかもしれません。

[73424] YT さん
いつも貴重な人口データをご提供いただき、有難うございます。
あれらのデータを地図上に分りやすく表示してみたいと思っているのですが、なかなか実現できません。

平安末期の平泉の人口を10万人以上と推定した書物について御存じの方がおりましたら教えてください。
次のようなサイトを見つけました。
「奥州平泉黄金の世紀」(荒木伸介 角田文衛 他著)新潮社 1987年5月25日刊に、「今日、平泉町の人口は約一万人である。しかし八百年前には十数万人と推定されている。」という記述があるようです。
実際に書籍を見たわけではないので断言できませんが、人口算定の根拠を記してあるか、もしくは基礎となる資料を明記してある可能性があります。佐貫利雄氏の著作より出版年が早いので、参考になるかもしれません(区立レベルの図書館にもあるようです)。
[73445] 2009年 12月 30日(水)06:08:18oki さん
美波町「日和佐」奥河内
今年分の仕事は何とかやっつけました。帰省前なので、あれこれ手短にレスを。

[73411] hmtさん  なぜ「日和佐」という地名を使わないのか?

「日和佐」の地名があまり使われていない(ように見える)理由として、2つの要因があると思います。
一つは、一般に「日和佐」と認識されている場所に比べ、「日和佐」の住所を名乗る地域が非常に狭いこと。二つめは合併して美波町になった由岐町への配慮だろうと思います。
まず第一の要因について。[73385]で「日和佐は薬王寺の門前町兼漁師町」と書きましたが、これが日和佐に関する一般的な認識で、要するにJR日和佐駅の周辺、日和佐川の河口部に開けた小都邑です。
もともとは日和佐川左岸(北岸)に位置する「日和佐浦」が中心だったと思われますが、ここは面積狭小な漁師町のため、江戸時代から隣接する奥河内に市街地が広がり(奥河内字本村と呼ばれる地域です)、一体的な町場になっていたようです。薬王寺やその門前集落は川の右岸にありますが(奥河内字寺前)、こちらも左岸の集落と一体的な存在だったはずです。さらに明治以降は、薬王寺の南側に牟岐線の日和佐駅が開設され、その周辺にも市街地が広がりました(奥河内字弁財天)。これらの地域を含んだ町場が「日和佐」です。千本桜さん流に言えば、「日和佐へ行く」と言った場合に対象として意識される地理範囲、ということになります(旧赤河内村は「日和佐」ではない)。
「富来」と地頭町、領家町との関係と同じく、日和佐浦と奥河内を併せた一体的市街地が「日和佐」なのですが、富来との大きな違いは、面積で見て奥河内が圧倒的に大きく、駅、町役場、各級の学校など主要施設の大半が奥河内にあることで、日和佐浦に位置するのは大浜海岸とうみがめ博物館(カレッタ)くらいです。それでも、今回の合併前はずっと日和佐町(村)奥河内だったので問題はなかったのですが、合併後は美波町奥河内になってしまったため、駅も役場も日和佐を名乗る地域にはなく、「日和佐」という地名が使われていない、という印象を与える結果になっているのだと思います。
この事態を避けるためには、富来と同様に美波町「日和佐」奥河内のような冠称を着ければ良かったのかもしれませんが、片方が「日和佐」日和佐浦になってしまうので、そうもいかなかったのでしょう。奥河内だけに日和佐を冠称するのも妙な話ですしね。

明治合併以後だけでも 100年以上も使い、売り込んできた地名を捨て去るのは、もったいないことであると思います

私もそう思うのですが、以上の状況からいかんともしがたい、というのが実態だったと思います。ただ、「日和佐」の名は鉄道や道路に残っているだけでなく、人々の意識に深く染み込んでいるので、「美波」が取って代わるまでには1世代以上の時間が必要だと思います。少なくとも、私たちの世代の人間があの町を「美波」などと呼ぶことは、絶対にないでしょう。
なお、美波町のHPではウミガメ博物館の住所が「日和佐字浦370-4」となっていましたが、「日和佐字浦」という住所はなく、近世村の名称をそのまま残す「日和佐浦」です。なぜ町のHPが間違っているかは謎です。

もう一つ、由岐町への配慮という点は私の推測です。前にも書いたように、気恥ずかしいので「ウエルかめ」はあまり見ていないのですが、横目で眺めているところでは、主な舞台は日和佐と徳島市内で、美波町に合流した由岐町はまったく出てこないようです。この状況で、ドラマに関連して「日和佐」を強調した場合、旧由岐町民の日和佐側を見る目が非常に微妙になり、合併町内での旧町民同士の融和に大きな齟齬が生じる畏れがあります。
実際にそういう動きがあるかどうかは分りませんが、昭和合併時に、誰がどう考えても日和佐町による赤河内村の吸収合併であるにもかかわらず、町制施行した赤河内村が(旧)日和佐町を編入した上で(新)日和佐町に改称するという3段階の変更を行なって赤河内に花を持たせた(それ以外に理由はない)日和佐町ですから、今回も由岐側に気を遣ってわざと「日和佐」を目立たせず、「美波」を強調している、としても不思議ではないと思います。あくまで推測ですけどね。

[73413] hmt さん
注目すべきは、藩政村についての6回シリーズを上梓された okiさん が、[71198]以降は「近世村」を使うようになり、既に5つもの記事があることです。
「近世村」の用語は意識して使っています。理由はお察しの通り。私自身は、江戸時代を通じて全県が徳島藩領だった地域の出身ですので「藩政村」でも別に構わないのですが、違和感を感じるという方がいらっしゃる以上、特にこだわるほどのものでもありません。「近世村」なら、藩領、幕領、旗本領、寺社領、公家領、皇室領など、すべてが含まれますからね。
[73385] 2009年 12月 24日(木)04:47:31oki さん
脇町 富岡 橘
現在、年末進行で尻に火がついた状態ですが、これだけ徳島県の話題が出ているのに反応しないわけにはいきません(オッサン仕事大丈夫か?)。

[73370] hmt さん 地方公共団体名称末尾における「町」の読み方 徳島県美馬郡脇町の事例から
いつもながらのお見事な考証、恐れ入ります。
要するに、「わきまち」か「わきちょう」かについて、「町村制」でも現行の「地方自治法」でも法的な根拠は何もないし、「谷保・国立」の関係と違って「わきまち・わきちょう」では改称の対象にすらならない、ということですね。
おそらく、明治大合併期の読みは「わきまち」であったはずで、「わきちょう」が採用されたのは、hmtさんの仰るようにかなり後年、戦後も相当年数が過ぎてからだろうと思います。それも、一部の行政関係者の間の了解事項に過ぎず、町職員の間にすら徹底されていなかったのだろうと推測されます(国勢調査ですら、「わきちょう」は二回だけで最新の2000年調査も「わきまち」ですからね)。
「わきちょう」の読みが「点々」と残っている理由はもう少し追究したいと思いますが、当サイトデータベースの脇町の読みを「わき・ちょう」に変更する必要はないようですね。

[73382] 伊豆之国 さん  美馬さん、穴吹さん
okiさんの故郷・阿南市ではベスト100には惜しくも入りませんが、それでも30数件見られます。
小学校~高校を通じ、「美馬」という名字の同級生が一人だけいました。とても可愛い女の子でしたね、当時は。

[73383] hmt さん  徳島県人の北海道移住
徳島県立文書館の開館10周年記念特別展・北海道の開拓と徳島県人 を見ると、明治4年の稲田家臣団による静内地方移住がその先駆だったようですが、その後も 徳島県から北海道内各地への移住が行なわれています。
稲田家臣団による静内移住は、hmt さんの引用された展示図録pdfにもあるように、いわゆる庚午事変(稲田騒動)が原因です(この間の経緯は、「北の零年」という映画にもなったはずです)。
稲田氏は、徳島藩への淡路加増以降、洲本城代を勤めた藩の筆頭家老ですが、洲本に引っ越す前は脇城を預かっていました(それだけ脇が重要な場所だったということですね)。
徳島藩は、幕末に至るまで実効性のある地方知行を維持した藩で、淡路移住後の稲田氏も美馬郡を中心に多数の給知を持ち、それを支配するため脇町の隣の猪尻村に猪尻役所と言われる屋敷を置いていました。当然、そこには稲田氏の家臣がいましたが、「農民の出自で農業兼務するものが多かった(日本歴史地名大系)」ということですから、美馬姓の人もいたはずです。北海道の美馬さんには、「永山兵村」との関係のほか、このような稲田氏関係の人もかなり存在するのではないかと考えられます。

[73371] 千本桜 さん スーパータウン
[73373] 白桃 さん 名探偵アナン

人口は41,343人だそうです。昭和30年に4万人を超していた、このスーパータウンはどこでしょう。当時の町名と現在の市名をお答えください。落書帳メンバーの中には、あ!なんだ、と即答できる方がいらっしゃいます。
ではズバリ、香川県のお隣にある県の富岡町。(現在は阿南市)
私も前々から不思議だったのですが、富岡はなぜこの時点で市制施行しなかったのでしょうか?
(お二人まとめて引用してすみません)

ん~、当時の富岡町があの大河原にも匹敵するような「スーパータウン」であったとは、地元民ながら想像しなかったですね。
もっとも、1955年(昭和30)10月1日における富岡町は、54年3月に中野島村、、宝田村、長生村、大野村、55年1月加茂谷村、そして同3月に見能林村を合併した上での人口で、しかも58年5月には橘町と合併して阿南市が誕生しており、短い期間の水増しスーパータウンと言うべきかもしれませんね。
富岡町自体は、脇町などと並ぶ江戸時代からの町場です。脇と同じく小城下町で、蜂須賀氏の阿波入部直後、脇町の稲田氏に対し、こちらは賀島氏という家老が配置されています。城は本来牛岐城と呼ばれていましたが、賀島氏によって富岡と改名されています。
富岡町は、江戸時代を通じて阿波南方(みなみがた)の政治・商業の中心地でした。阿波南方とは、現在の阿南市を含む那賀郡、海部郡です。阿南市というのは、「阿」波「南」方を略した呼び方なのです。
阿波南方の中心地という富岡町の在り方は明治以降もそのまま維持され、現在に至っています。と言っても、阿南市を含む那賀・海部両郡の人口は、もっとも多いときでも15万人を超えたことがないという状態で、その面積は1500平方キロもありますから、人口密度は100人に達しません。

[73373] 白桃 さん
この富岡の街、1974年頃歩いたのですが、商店街は結構長かったです。ただ、アーケードはありませんでした。そして、言っちゃなんですが、なんとなく野暮ったい。

白桃さんが富岡の街を歩かれた1年後に、私はこの街の高校に入り、3年間を過ごしました。ま、白桃さんが仰るとおり、野暮ったいのは確かですね。上記のように阿波南方は人口希薄な地域で、徳島市や脇町など北方(きたがた)からも田舎扱いされているので、垢抜けていないのは紛れもない事実です。
で、誠に残念なことですが、白桃さんが歩かれた、長いけれどもアーケードのない、野暮だけれどもそれなりに活気のあった富岡の商店街は、現在壊滅状態です。街の東側、新しくできたバイパス沿いに2件の大型店が開業したため、駐車場のない旧来の商店街は顧客を奪われてシャッター通りと化しています。この商店街がかつての賑わいを取り戻すことは、まず望み薄です。まことに残念ながら。

私も前々から不思議だったのですが、富岡はなぜこの時点で市制施行しなかったのでしょうか?
群馬県に同名の市があるから???、まさかね・・・。橘との合併を待って、おもむろに、いや一挙に五万人超の市を目指したのでしょうか?

橘は1955(昭和35)年3月に福井村、椿町、新野町という阿南市南部の町村を合併しています。おそらく、富岡と橘が合併して新市をつくるのは規定の方針で、富岡単独で市制を敷かなかったのはそれが原因だと思います(この点は今回帰省した際に確かめておきます)。
私の出身地は、富岡ではなく橘の方です(狭い町なので、ここまで言うと町民にはほぼ正体がバレてしまいますが、この掲示板を見ている人は居ない、でしょう)。結構古い港町で、室町時代には橘船籍の船が兵庫港に出入りしている記録が残っています。私が子供の頃も港町・漁師町で、5000人の人口が山と海の間の狭小な平地に密集する、それなりの町場でした。
今は、あまり口にしたくない惨状を呈しています。子供の頃に500人いた小学校の在校生が、現在は200人を切っているというだけで一端が分ると思います。5000人の人口が3000人台に減り、減少したのは若い世代、ということです。

以下は、個人的な愚痴なので読み流してください。
この町に、3箇所の火力発電所があります。昭和40年代にできた四国電力阿南発電所と、2000年に完成した四電の橘湾発電所、電源開発の橘湾火力発電所です。後の2つは小勝島という離島を埋立てた石炭火力発電所で、発電した電力はすべて、紀伊水道の海底に敷設したケーブルを通して近畿地方に送電しています。
江戸時代の近世村の範囲に3箇所の発電所がある町というのは、全国的にも例がないだろうと思います。それで町が発展するなら我慢もしますが、30年前と比べて人口が4割近く減っているわけで、発電所の誘致がわが橘町にとっては何の役にも立っていなのは明らかです。阿南市と徳島県のアホ役人、この惨状をどないしてくれるんじゃ。
あくまで個人的な愚痴です。読み流してください(私自身が現在は町を離れているわけで)。

日和佐、牟岐は行ったことが無いのでわかりません。「ウエルかめ」の日和佐は風光明媚だし、薬王寺さんもあるし、一度は行ってみたいです。
日和佐も牟岐も良い町です。日和佐は薬王寺(地元民は「おやくっさん」と呼びます)の門前町兼漁師町で、活気のある町でした(過去形です。残念ながら)。「ウエルかめ」はたまに見ているのですが、出演者の喋る阿波弁のアクセントが微妙にずれていて、気恥ずかしくなるのですぐに消してしまいます。でも、これで徳島の南方を多くの人が知って、訪れる人が増えればいいなとは思っています。
宮脇俊三氏が書いていたのですが、四国というのは、全国を行き尽し世界各国にも足を伸した旅人が「そういえば四国には行ったことがないな」と、ふと気づく地域だそうです(宮脇さんは香川が本貫なので、悪口ではなく実感でしょう)。
その四国の中でも、もっとも観光客が行かない地域が、阿波の南方と高知県東部です。大した観光地がないのと、室戸岬周辺は鉄道がなかったことが主因でしょう。したがって、日本国内でもっとも観光客の少ない地域、ということができるのではないかと思います。「ウエルかめ」の放送で、全国の皆様にこの地域を知ってもらい、観光客が増えることを切に願っております。
落書き帳の皆様も、暇な折には牟岐線と阿佐海岸鉄道に乗ってやって下さい(お前は徳島県観光課か?)。

愛郷心あふれるokiでした。今から仕事にかかります。
[73362] 2009年 12月 20日(日)18:15:01oki さん
脇町関連レス
少しサボった間に脇町関係の書き込みが沢山。申し訳ありませんが、まとめてレス。

[73358] 美馬をみて美馬しょう 白桃さん
[73357] 頑張れワッキー 千本桜さん
[73352] ふと思い出して なると金時さん
[73342] うだつが上がらぬ話ですが‥ 伊豆之国さん
[73331] ワッキー 白桃 さん
[73326] 脇町 なると金時さん

脇町の地名の由来は、脇町市街の北にあった脇城です。元々は西隣の岩倉村に岩倉城があり、戦国時代、その東脇に築かれた支城に脇の名が付けられました。城下の町場をつくったのは、織田信長登場以前に畿内を制覇した三好長慶のようです。
最初は、「脇」と「町」が一体であったわけではありませんが、江戸時代を通じて吉野川中流部北岸における商業の中心地として発展し、その間に「脇町」が固有地名として定着したと考えられます。
白桃さんの仰るとおり、
徳島県は、高知県ほどではないいにろ、首邑の「一人勝ち県」だった
ため、江戸時代の阿波国で「町」を名乗った地域は数少なく、脇町のほかは川島、富岡くらいです。ほかに、池田にも村の一部に町場がありました(白桃さんご指摘の撫養は、村や町の名称ではなく、現鳴門市中心部にあった製塩地帯の総称です)。
これらの地域は明治以降も地域の中心で、各種の公共機関が置かれましたが、なると金時さんが言われるように
脇町の脇町地区にある高校だから、脇高校ではなく、脇町高校なわけですね
ほかの町場にできた高校は池田高校、川島高校、富岡西・東高校という具合で、「町」がついているのは脇町だけです。裁判所、警察署などの名称も同様で、江戸時代に定着した「脇町」地名の一体性は現在も強固に残っています。この場合の読みは、言うまでもなく「わきまち」です。

それだけに、町長自らが「わきちょう」と称しているのにいささか驚いたわけなのですが、公的な資料も含めてほとんどが「わきまち」なので、自分でも本当かいな、と思っている部分はあります。しかも、すべてが「わきまち」ではなく、「わきちょう」とする資料もポツポツあるので、判断に迷います。真鶴町のように官報か何かで確認できれば良いのですが。

ところで、恥ずかしながら、私自身は脇町に行ったことはないのですね。
私の育った徳島の県南地域と、脇町など県西部との間には直接の連絡ルートがなく、鉄道はもちろん自動車で行くとしても、いったん徳島市を経由する必要があります。そのため、両者間の交流が薄いことが一つの要因。
もう一つは、伊豆之国 さんが書かれているように、現在の脇町は「うだつ」で有名ですが、私が県人であった頃は県内でも知る人が少ない状態であったこと。当時、県内の小学生は、脇町の東隣、阿波町にある「阿波の土柱」は必ず遠足で行きましたが、脇町まで足を伸すことは皆無でした。「うだつ」が有名になったのは、おそらくは1980年以降で、全国的な知名度を得たのは1988年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されて以降だと思います。

[73357] 千本桜さん
たぶん、脇町の人口ピークは昭和20年代後半で、2万5千人程度いたのではないでしょうか。その後、急激に減少したはずですが、昭和45年から平成7年までは横這いで持ちこたえています。徳島市のベッドタウンに成り得ない距離に位置し、しかも、鉄道が走っていない環境での人口横這いは敢闘賞ものでしょう。工場誘致の賜でしょうね。ところが、何が原因か分かりませんが、平成12年には少し目立つ人口減になっています。
丁寧な考証、恐れ入ります。確かに、脇町の人口が横這いを維持し得たのは、工場誘致、具体的には松下寿電子工業(現パナソニック四国エレクトロニクス)の脇町工場を誘致できたからのようです。
1970年以降、脇町には多いときで2,000人以上の工場従業者が存在しました。その多くが松下寿や関連工場の従業者でしょう。就業者総数が8,000人程度の町ですから、波及効果を含めて工場の影響力はきわめて大きい。穴吹、貞光、美馬など周辺諸町の工場従業者は1,000人に届かない状態でしたから、その相違が人口増減の差に連動したと考えられます。
ただ、1990年以降、その工場従業者が急速に縮小をはじめ、2004年には935人まで減っています。原因は言うまでもなく、製造業の海外展開に伴う「空洞化」でしょう。平成12年の「少し目立つ人口減」はこれが主因と考えられます。今後も、国内製造業が雇用を増やす事態は予想しにくいですから、脇町地区も急激な人口減少に見舞われるかもしれません(とても悲しいことですが)。
[73320] 2009年 12月 16日(水)11:55:35oki さん
みまぐんわきちょうおおあざわきまち
[73316] 白桃 さん
美馬郡脇町大字脇町→みまぐんわきまちおおあざわきまち
美馬市脇町大字脇町→みましわきまちおおあざわきまち
ではないのでしょうか。
脇町は行ったことが無いのですが、「ちょう」と呼ばれるところが多い中で、いつも「まち」と呼ばれていたのを覚えております。

誰しもそう考えると思います。私もずっと「わきまち」だと思っていました。しかし、ある資料によると、美馬郡脇町は「わきちょう」だったようです。
資料というのは「美馬郡東部・北部合併協議会会議録」の第12回分(2004年1月8日)。合併新市の字名に関する協議が行なわれた中で、脇町の読み方に関するやり取りがあります。少し長いですが、そのまま引用します。
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【宇山勝委員】(美馬町学識経験者)
美馬町の宇山です。脇町は「ワキマチ」と読むんですか。「美馬市脇町(ミマシワキチョウ)字脇町(ワキマチ)」とくるんではないんですか?美馬町(ミマチョウ)、穴吹町(アナブキチョウ)、木屋平(コヤダイラ)云々で脇町(ワキマチ)って今、脇町(ワキマチ)というのは大字になるんではないのですか。この徳島県は大体、町村名は「チョウ」で、まあ独立した町ではないけど。
【西正二会長】(木屋平村長)
「チョウ」だそうです。脇町(ワキチョウ)。
【宇山勝委員】
分かりました。
【事務局・西岡】
すいません失礼します。この調整方針を頂いたときに町の担当者の方とも協議いたしたわけでございますが、その時には、私が聞いておりましたのは合併後脇町の名前は「美馬市脇町(ミマシワキマチ)」でいくっていうことで一応確認はさせていただいたのですが。
【佐藤浄委員】(脇町長)
今まで公式の町名表明の時は「ワキチョウ」あるいは「脇町長(ワキチョウチョウ)」という表示をしとったんですが、住所表示の場合は今まで「ワキマチ」という住所表示をしとるようであります。今後、住所表示については「ワキマチ」で統一したいと思います。
------------------------------------------------------

当時の脇町長の発言などにより、「地方自治体としての脇町」の名称は「わきちょう」であったと思われます。したがって美馬郡脇町は「みまぐんわきちょう」。自治体の下の住所表示は「わきまち」なので、「大字脇町」は「おおあざわきまち」。
一方、美馬市に合併後は自治体としての脇町は存在しなくなるので、どのレベルでも住所表示であり、「美馬市脇町」は「みましわきまち」と言うことのようです。
ですので、問題の答えは次の通り。

美馬郡脇町大字脇町→みまぐんわきちょうおおあざわきまち
美馬市脇町大字脇町→みましわきまちおおあざわきまち

しかし実際のところは、ごく一部の行政関係者を除き、町民を含めて誰も「わきちょう」とは言ってなかったと思います(自ら解答を否定するようですが)。Wikipediaには「合併前は徳島県内の町で唯一「まち」という読み方であった」と明記されており、それが一般的な理解だったと考えられます(Wikipediaの信頼性はともかくとして)。当サイトの「データベース検索」の結果でも「わき・まち」になっていますし。
ネット上で調べると、「わきちょう」になっているサイトがいくつかあり、一つがIssie さんのここ。ふりがなとして「わきまち」、「わきちょう」が併記されていて、「わきちょう」には「国調:70,85」の注があるので、この年の国勢調査だけ「わきちょう」だったようです。

おそらく、町としては他の県内自治体に歩調を合わせて「わきちょう」の読みを採用したものの、固有地名が「わき」ではなく「わきまち」と認識されているため、誰からも「わきちょう」と読んでもらえず、実態としては自治体名も含めて「わきまち」と呼ばれていたのだと思われます。
したがって、白桃 さんのご解答は必ずしも間違いではない、とも言えます(どっちなんかはっきりせんかい)。お騒がせでした。
[73311] 2009年 12月 15日(火)13:40:13oki さん
簡単な地名の「読み」その2
[73310] N-H さん
あと、難読地名の話題になると私が必ず出すのが「大分」。
あまりに簡単な字だし、常識だから皆難読知名だとは思わないけど、これを「おおいた」と読ませるのは非常に難しいと思うのですが。

日本書紀巻七景行天皇十二年十月の条に次のような記載があります。
「冬十月。到碩田國。其地形廣大亦麗。因名碩田也。〈碩田。此云於保岐陀。〉」
同じエピソードが、豊後国風土記では次のようになっています。
「昔者 纏向日代宮御宇天皇 従豊前国京都行宮 幸於此郡 遊覧地形嘆曰 広大哉 此郡也 宜名碩田国 碩田謂大分 今謂大分」

以上から、「大分」を「於保岐陀=おほきた」と読むことが分かります。「おおいた」はイ音便の形ですね。
「分」は古語で「きだ」と読みます。白川静氏の「字訓」によれば次のような意味です。
「幾つもの部分に分れ刻まれているもの。「刻む」と同梱の語であると思われる。」
したがって「大分」とは、大分郡の地形が、低い丘陵と河川が錯綜し、多くの谷底平野と小台地からなって複雑であることを表現したもの、と考えられているようです。

同じように「分」を「きた」と読む地名として、筑前国鞍手郡新分(にひきた)郷があり、肥後国葦北郡は葦分郡と書かれることがあります。鞍手の新分は、現在新北と書かれています。

でも、良く考えるとどうして「慶喜」が「よしのぶ」なんですかね。
これは、いわゆる「名乗り訓」と呼ばれる読み方です。明治以前の公家、武家の実名に用いられる漢字を「名乗り字」と言い、名乗り字特有の読みが名乗り訓です。名乗り字以外の場合の訓とかけ離れた読みが少なくありません。
簡単なところでは、源頼朝や徳川光圀を読めない人はまずいないでしょうが、なぜ頼を「より」、光を「みつ」と読むのか、説明できる人も少ないと思います。
漢字が日本に伝わった当初は、さまざまな読みが当てられたものの、時代の変遷とともに常訓と言われる一定の読みが固定しました。名乗り訓は、常訓にならなかった古い読みが残存したものと考えられています。
詳しくはこちらの書籍をお読み下さい。
[73308] 2009年 12月 15日(火)08:27:39oki さん
簡単な地名の「読み」
次の地名は、平成の合併によって表記が変わっただけで、同じ場所を表しています。
両者の正確な読み方をひらがなでお答え下さい。

美馬郡脇町大字脇町
美馬市脇町大字脇町

ずっと読み方を間違っていました。同じ県内なのに。
[73286] 2009年 12月 13日(日)18:00:36oki さん
「立科のくびれ」の原因に関する私見
[73235] じゃごたろ さん  蓼科神社
[73238] hmt さん 長-----い参道

お二人の書き込みを受けて、いわゆる(誰が言うとるんや?)「立科のくびれ」の成因について、歴史的な観点からの私見を記しておきます。

まず話の前提として、現在の立科町を構成する近世村は、芦田村、山辺村、塩沢村、細谷村、藤沢村、牛六村、宇山村、茂田井村の八ヶ村です。中心となるのは、慶長年間に設置された中山道の芦田宿や、宿形成以前の中心地である古町を抱える芦田村です。それ以外の村々が本格的に発展をはじめたのは、江戸時代になって、[72008]でhmtさんが言及された塩沢堰や、八重原堰、宇山堰など、蓼科山を源流とする用水路が開削されて以降のことです。

次に蓼科神社は、上記の旧芦田村古町に里宮が、蓼科山頂に奥宮があります。元慶2(878)年、日本三代実録に「信濃国正六位上蓼科神」とあるのが史料上の初見とされています。里宮と奥宮があるのは日本の神社の古態ですから、元慶年間以前のきわめて古い時代から神社が存在し、里宮と奥宮を結ぶ道も確保されていたと思われます。

三番目に旧芦田村と白樺高原を結ぶ県道40号線に位置する雨境峠。ここは古くから諏訪と佐久を結ぶ交通の要地で、峠から分岐し佐久市中心部に向かう県道152号線のルートは、古代東山道設置以前に信濃国と中央とを結ぶ路線であったと見られています。戦国期に武田氏が甲府から諏訪を経て佐久、小県に軍勢を進める場合も雨境峠を経由しています。
峠には勾玉などが出る古墳時代からの遺跡もあり、蓼科山の祭祀が行なわれていたようです。

さて、ここからが本題。
蓼科山は円錐型の山容をした火山で、広い山腹斜面を有し、山麓からは地下水を源泉とする多くの沢や川が流れ出ています。下流の村々はこの川を用水として利用しており、村の形状は必然的に、川の流れに沿った細長いものになります。平成合併以前の佐久市、臼田町、佐久町などが蓼科山を中心とした縦長の形状を有していたのはそのためで、立科町もその事例の一つと言えます。
ただし、これだけでは立科町の領域は雨境峠までに留まったかもしれません。白樺高原をも領有している理由は、[72008]でhmt さんが触れた以下の点にあります。
その由来は江戸時代に遡ります。
すなわち、北部が本来の芦田村で、南部の蓼科山麓は、佐久(北)と諏訪(南)との入会地でした。

近世初期、現在の白樺高原地域は、諏訪方九ヶ村(現在茅野市)と佐久方八ヶ村(現立科町を構成する上記8村)の入会原野でしたが、半世紀以上にわたって争論が続いたあげく、延宝5(1677)年に佐久側の領有とする裁許状が出ています。
このとき決め手となったのが、上記の塩沢堰、八重原堰などがすでに引かれており、それに諏訪側から異論が出ていないことです。また、芦田村に住む(里宮の)神主が、立科山上叢祠(奥宮)の管理を行なっていることも佐久方勝訴の理由の一つとしてあがっています。
こうして、雨境峠の南側が佐久側八ヶ村の入会地と認められたのが、現在の「立科のくびれ」をもたらした直接の原因です。明文の裁許状により、この地域への諏訪側の立ち入りが禁止されて佐久側の独占に委ねられ、それが現在の自治体の境界として維持されているわけです。
もっとも、その前提として、佐久側の住民が蓼科神社奥宮の祭祀に関わっていたことがあります。そのための道を「長ーーーーーい参道」と呼ぶかどうかはともかく、芦田村などと蓼科山を結ぶルートは古い時代から確保され、またその道を通って、江戸時代の村人たちも入会地に出入りしていたわけです(入会地で採取したのは主に、刈敷と呼ばれる肥料用の草と思われます。近世の農業には必需の産物ですから、神社関係以外にも多数の村人が、雨境峠を越えて蓼科山山腹までの道を往復していたと考えられます)。

ただし、多数の村人が通っていたとしても、近世の道はけもの道に近いものであったと考えられます。本格的な道路は、六川源左衛門なる人物が、明治14年以降20年以上をかけて、ほとんど独力で開削したもので、これが現在の県道40号線の基礎になったと言われています。
上記塩沢堰を開発したのは六川長三郎勝家という武田家に仕えた元土豪で、六川家は代々、堰を契機に開村した塩沢新田の実質的な支配者でした。六川源左衛門は六川家の出身者もしくは関係者でしょう。現在のように、観光地としての白樺高原が発展するきっかけを作ったのは、この六川源左衛門氏です。
[73283] 2009年 12月 13日(日)11:34:30oki さん
地図をつくろう、など
大変ご無沙汰しています。
ここ一月ほど、久々に業務が繁忙になり、落書き帳は横目で眺めてはいるのですが、書き込むまでの時間が取れませんでした。
今日はいくつかまとめてレスを。

あ、その前に大変遅くなってしまいましたが、落書き帳十周年おめでとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

オフ会は楽しそうですね。特に石島ツアーには関心を持っていたので、[72970] [72971] 石島探検(前・後編) ニジェガロージェッツさん、などは楽しく読ませていただきました。
瀬戸内海の島つながりと言うことで、[73276] 小松原ラガー さん
島買いませんか?って言われても・・・。
みんなで買い取ってオフ会の会場にするとか・・・。あほな・・・。
正確な場所はここです(呉市音戸町渡子2丁目)。細長い、軍艦みたいな形の島ですね。干潮時には南隣の島へ歩いて渡れそうです。オフ会の会場にする場合は野宿でしょうか。飲み会の肴は廻りで泳いでいそうですが。

[73190] 播磨坂 さん
道路と等高線だけの地形図とかってないんでしょうかね?
紙の地図では難しいかもしれませんが、電子地図であれば可能です。
こちらのサイトで、基盤地図情報(精度レベル25000)をWMS(Web Mapping System)で配信しています。
配信情報には行政区画、建物、水涯線、軌道中心線、等高線、道路縁などがありますが、QGISなどWMSに対応したフリーのGISか、グーグルアースを使い、等高線と道路縁だけを表示させれば、まさに「道路と等高線だけの地形図」を見ることが可能です(グーグルアースは見にくいので、QGISの方がお勧めです)。
ただし、2万5千分1地形図レベルなので等高線は10m間隔ですし、都心部は細かい街路が多数通っているので、あまり分かりやすいとは言いかねます。
それであれば、[72797]で播磨坂さん自身が触れられた東京地形地図には等高線のレイヤもあり(もちろんご存じでしょうが)、こちらは2m間隔なので、東京の低地では見やすいでしょう。

そして、これらよりさらに推奨したいのが、自分で地図をつくってしまうこと。
現在、国土地理院の基盤地図情報では、2万5千分1地形図から作成した10m(0.4秒)間隔のDEM(Degital Elevation Model 数値標高データ)を全国レベルで整備し、東京など大都市を中心に航空レーザ測量で得られた5m(0.2秒)間隔のDEMも順次増えています。これらのDEMデータは、自由にDLし、利用することができます。
かつては、DEMからの地図作成には大変高価なGISソフトが必要で、素人には手が出しにくいものでしたが、現在は高性能のフリーGISであるGRASSがWindowsに対応するようになったので、DEMさえ入手すれば、地形を表す地図を誰でも簡単につくれます(先の東京地形地図自体も、陰影段彩図や等高線は5mDEMから作成したものです。GRASSを使ったかどうかは分かりませんが)。
このやり方だと、等高線の間隔も自由に設定できますし、傾斜図とか流域図など色々な地図も作成できます(どのような地図がつくれるかはScreenshotsをご覧下さい)。もちろん印刷もできるので、紙の地図としての利用も可能ですよ。

私は、東京の5mDEMから、赤色立体地図をつくってみました(リンク先は見本で、私が作成したものではありません)。東京の赤色立体地をグーグルアースに貼り付けた上で、東京地形地図の2m等高線を重畳すると、文京区辺りの地形と標高がよ~く分かります。例えば、播磨坂(道路の方です)は標高8m弱の地点で都道436号から分岐、等高線と直交しながら小石川台の斜面を駆け上がり、その尾根線を走る国道254号(春日通り)と標高26m強の当たりで合流しています。標高差は18m強。この間の道のりは約500mなので、平均勾配は36‰以上ということになります。箱根登山鉄道で小田原~強羅間全区間の平均勾配が35‰なので、それと同程度。相当な坂道ですね。

等高線の間隔を1mにすれば、もっと正確な標高差が出せます。挑戦なさいませんか?
[73200] Issie さん
やはり,技術の進歩は素直に評価しなくては。
技術の進歩を評価するだけでなく、自分で活用できればもっと良い、ですよね。
[72780] 2009年 11月 7日(土)04:59:58oki さん
第二十四回十番勝負 悪戦苦闘記
十番勝負は第1回から「見て」いましたが、参戦したのは今回が初めてです。回答しなかったのは、考えても分からなかったから、という単純明瞭な理由ですが、今回はつい問十に答えてしまったのを契機に参入してしまいました。
はっきり言って悪戦苦闘の毎日でしたが、最終的には完答でき、本人としては大満足です。最初の感想なのでやや長くなってしまいましたが、素人が準備もなしに参加するとどうなるか、の事例としてお読み下さい。

問十:徳島市
■幕末10万石以上の藩があった市(十万石格は除く)
今回も参戦するつもりはなかったのですが、何気なく問題を見ていて、これが「分かってしまった」のがすべての始まりです。
お題の市で、行田と柳川には城があり、金沢、岡山、萩は言わずもがな。土浦と明石にもあったはずで、これらが除外される理由は何かと考えました。行田(忍)、土浦、明石は譜代の中小藩、他は外様の大藩なので、藩の規模だろうと見当がつきました(石高談義もあったことですし)。
土浦藩と忍藩を比較し、前者が江戸時代を通じて最高9.5万石、後者が10万石に達していることから、10万石以上が対象と考えました。この時点での先行回答が久留米市(なると金時さん[72264])、高松市(おがちゃんさん[72275])だったこともあり、間違いないと判断。記念すべき最初の回答なので、徳島市を選択したところ、なんと銅メダルを獲得してしまいました。
ただし、この時点では「幕末」ではなく、江戸期を通じて、と考えていました。明石藩を調べなかったのは、大した石高ではないはずという思いこみがあったためで、初期に10万石であったことや、幕末時に10万石格であったことは気が付きませんでした。そこまで調べていたら、条件の絞り込みに手間取ってメダルには手が届かなかったと思います。

ここで、[72283]油天神山 さんから
わあい、okiさんが十番勝負に参加だ♪
という合いの手が入り、何となく引くに引けない、という感じになってしまいました。

問五:笠岡市
■市の花に菊(○○菊も含む)を制定している市
ま、当然のことですが、他の問題はいくらお題の市を睨んでいても何も思い浮かばず。
今回はすべての問題に岡山市が含まれているので、こっちの方から攻めてみようと思い、公式HPやWikimediaで岡山市のプロフィールを調べにかかりました。
市の花が菊というのが目に止まり、菊なら市花にしているところが数十あっても不思議ではないと考え、検索をかけると八戸市、武生市が引っかかってきました。山武市は野菊だったので少し手間取りましたが、お題の全市が菊ということで(菊川市は、調べる必要もないと判断)間違いないだろうと。徳島県や四国にはなさそうなので、岡山県から笠岡市を回答。

問七:旭川市
■中核市に指定された市(過去の指定も含む)
お題に重量級の市が並んでいるので、中核市はすぐに連想しましたが、岡山、静岡が政令市だからという先入観が働いて検討対象から除外。先行回答に守山市、舞鶴市などがあったのも判断に影響しました。
しかし、これら軽量級の市が誤答になっていたため、改めて中核市のリストを確認すると、政令市になった市を含めた数がちょうど46になり、これで間違いないと確信。四国もしくは中国地方の市を答えたかったのですが、残っていなかったので、リストの最初にあった旭川市で回答。

問八:総社市
■東○○駅がある市(○○は市名)
お題を見ていても何も浮かばないので、地図を眺めてみるべいか、と中間市を見ていると、筑豊本線の中間駅と筑豊電気鉄道の東中間駅を発見。瞬間的に松戸ー東松戸、府中ー東府中という連想が働き、非該当市の広島市と東広島市は同一市になければ駄目との条件だろうと考えました。他のお題の市や既出回答も検討した上で間違いないと判断、岡山県から総社市を回答しました。

ノーヒントで分かったのはこの4問。
第一ヒントのアナグラムは問九を除いてすべて解けましたが、まったく参考にできず。第二ヒントが出て次の正答をするまでに何と6日間を要したのでした。

問一:阿南市(誤答)→山陽小野田市
■市役所の住所が1-1-1の市
第一ヒントの「阿見町も該当」は分かったので同町の地図を見ると、最初に目に飛び込んできたのが「阿見町総合運動公園」。ひょっとしてこれかいなとお題の市で調べるとすべてに該当。いくつかの既出市にも当て嵌まったので間違いないだろうと考え、「南部運動公園」のある、わが阿南市から回答するも、見事に誤爆。後で確認すると運動公園はあちこちにあってとても71市では収まり切らない様子。
その後はまったく分からなかったものの、第二ヒントが「一が沢山」と解けた時点で「住所かも」と思いつき、岡山市の市役所所在地を確認したところ「北区大供1丁目1番1号」。お題の市や既出市も検討し、間違いないと判断。四国も岡山県内も残っていなかったので、中国地方から山陽小野田市を回答。

問四:玉野市
■読みの最後の文字を取ると別の市になる市
これも第二ヒントが「最後が不要」と解凍できた時点で共通項が判明。数少ない残り想定解の中から、岡山市に隣接する玉野市を回答(宇野港から直島を眺めていたことも思い出したし)。

問六:長崎市
■市制施行または新設合併後、6回以上編入合併した市(市制施行日の編入は数えない。同日の複数編入は1回と数える)
第一ヒントの「高岡市はリセット」が解けた段階で、市町村変遷情報をチェックして高岡市が最後の合併時に新設合併していることを確認。編入合併のみだということは分かったものの、合併回数の条件が分からず。第二ヒントを「九州も管内」などと解いたおかげでよけい訳が分からなくなってしまう。「何回も吸収」の解が示されて、やはり編入合併と判断し、まず回数条件を満たすだろうと思えた長崎市を回答。

問九:行田市
■「く」ではじまる市に隣接する市(架橋隣接も含む)
第一ヒントは「野田市は大神楽」もしくは「小野市は大神楽だ」、第二ヒントも「名取はきの次」と解いてしまってよく分からず。第二ヒントの解「隣はきの次」が示された時点でやっと気が付きました。
今治市がお題に含まれているので、架橋隣接もありなのだろうとは思いましたが、安全のため行田市で回答(問十でお世話になったことだし)。

問三:大洲市
■「農業高等学校」がある市
これが分かったのは、完全無欠の偶然。
第二ヒントの解「帰農傾向」から、耕地面積の増加した市など農業関係の統計データに当たるも、ことごとく外れ。仕方がないので南国市の地図を見ていて、高知大学があるのを発見。ひょっとして農学部か、と検索するとピンポーン。やったね、府中には農工大があるはずだし、総合大学たる岡山大には農学部もあるだろうと。ところがさすがに朝倉市には大学そのものがなし。
一瞬唸ったものの、農学部でなければ農業高校ということで調べると、これでビンゴ。既出回答から「農業高校」という厳格な表現が求められると判断し、四国の残っている市として大洲市を回答。

問二:鳴門市(誤答)→八王子市
■女子大学(四年制)のキャンパスがある市
お題の中で大村市が異質かな、というのは誰しも考えることだと思います。
公式HP、Wikimedia、地図で大村市を調べまくり、最初に辿りついたのは大村公園が「歴史公園100選」に該当すること。他のすべての該当市にも100選に選ばれた公園があるため、これで良いだろうと考え、ドイツ村公園のある鳴門市で回答するも、誤回答。後で精査したら、歴史公園100選には200以上の公園が選定されており、該当市は少なく見積もっても100を超えるようでした。
あとは、「文京区も該当」「減少傾向」のアナグラムは解けるものの、それがどうした状態。統計関係の問題がないため、おそらくそれだろうと即断し、岡山市が含まれているからには量的な面ではなく比率関係で減少しているデータと考え、各種数値の推移を検討するも、すべて駄目(このために「統計でみる市区町村のすがた2009」をDLし、1枚のシートにまとめた上で02年のデータと比較してみたのですが)。
結局、第三ヒントの「男は行けない」が解けた段階で、「文京区」「減少傾向」との連想でお茶の水「女子大」が浮かびました。とにかく大村市を検証しなければと思って調べたところ、活水女子大学を発見。他のお題市は検証の必要もなしということで、既出市をいくつか見た上で確信。残っていた市の中から八王子市を答え、やっと完答できました。
ところで、活水女子大学看護学部は大村市の国立長崎医療センター内に設置されていますが、09年4月の開設から日が浅いためか、マピオンには記載されているのに対し、グーグルマップ、ヤフーマップには載っていません。今回は地図としてヤフーマップを使っていたため発見できなかったのですが、マピオンならもっと早く回答できたかもしれません。
-------------------------------------------------------------------

このような次第で、今回完答できたのは偶然の連鎖による奇跡に近い、と自分では考えています。最初の回答から完答まで11日を要しており、その間は七転八倒、夢で共通項が浮かんだので検証したら間違いだったということが二回ありました。
それだけに、共通解が見つかると本当に嬉しかったですね。このような、(何の見返りもない)純粋に知的な快感を味わったのは久々のような気がします。今回の問題が過去に比べて難しかったのかどうかは判断がつきませんが、すべての問題に岡山市を入れるという条件から、作成には苦労されたのではないかと思います。楽しませていただき、まことに感謝申し上げます。

次からはどうしようかな~。本気で参入するには過去問を分析した上で「傾向と対策」が必要だろうし、各種のデータベースをすぐ使える状態で整備することも考えなくてはいけない。次回までにはとても間に合わないので、参戦するとしても完答は無理かな、と思っています。あ、地図は次からマピオンを使います。

以上、長々と駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
[72750] 2009年 11月 3日(火)23:38:04oki さん
石島の人口
[72627] hmt さん
「石島」は、8島の中で唯一の有人島で、面積も 2.72km2あります。集落のある島の北部・岡山県側の面積は約3割。人口は2008年3月末で 116人(上記岡山県HP)。[24364]の 149人に比べて減少しています。
国勢調査資料によりこのテの局部人口を調べる方法についての記事があったと記憶しますが失念。ご存知の方があれば教えてください。

岡山オフ会には行けませんが、分かる範囲のことを。

「このテの局部人口」とは、一般に町丁大字(字)別人口と呼ばれるものだと思います。玉野市だけでなく、市のレベルの自治体であれば、少なくとも1年に1回程度は町丁大字別人口を調査し、HPにも掲載しているはずです(平成大合併で新しく市になったところは危ないですが)。
玉野市の場合は、「平成21年度 玉野市の概要」があります。
石島は、江戸時代は対岸胸上村の枝郷の扱いでしたが、現在の玉野市では大字扱いになっているようで、2009年3月末における人口は110人と明記されています(「III 統計資料→2.人口・労働力人口→(17)町別人口」と辿ると、エクセルファイルが立ち上がります)。
「玉野市の概要」で確認できるもっとも古い年次の人口は、01年3月末で143人ですから、8年間で33人、2割以上減少している計算になります。
ただし、これは住民基本台帳上の人口であり(hmtさんが引用された岡山県HPの数字も同じ)、国勢調査の人口とは異なります。

国勢調査で同様の数値を入手できるサイトとして、「地図で見る統計(統計GIS)」があります(「データダウンロード」へ進むと、市区町村別に、町丁大字別人口を「小地域統計」として入手できます)。もちろん、お役所のサイトなので使い勝手は良いとは言いがたく、データそのものにも癖があるので、注意が必要です。
確認したところでは、05年調査時点の石島の人口は112人、00年が129人です。住民基本台帳では上記のように01年に143人ですから、00年の国調と10人以上の差があります。おそらく、住民票を石島に置いたまま他所で就業・就学している人がいるのだろうと思います。この国勢調査と住民基本台帳との差を考慮すると、石島の現住人口は100人を切っているかもしれません。

石島に関しては、この島が岡山・香川両県に属していることもそうですが、石島を含む直島諸島全体が香川県所属であることにも興味を引かれます。最短距離だと宇野港から2000mもない直島本島をはじめとして、玉野市の鼻先にある島々が、(石島の一部を除き)すべて香川県というのは少し不思議な気がします。
歴史的に見ると、鎌倉時代までの直島諸島は備前国児島郡に属していたものの、南北朝期に讃岐守護細川氏(これは管領家ですね)の支配下に入ったため帰属が曖昧になってしまい、江戸時代に讃岐国の所属と決定したようです。石島北部は、全島が讃岐に奪われた直島諸島のごく一部を、備前側に取り戻した地域と考えられるのかもしれません。

なお、「日本歴史地名大系」によると、石島の人口は文化年間(1804~18)に127人だったそうですから、現在の人口はそれを下回っていることになります。
[72661] 2009年 11月 1日(日)09:12:35oki さん
第二十四回十番勝負回答
問二:八王子市
やっと完答できました。

あ~大変だった。
[72609] 2009年 10月 31日(土)03:13:43oki さん
第二十四回十番勝負
問三:大洲市
分かったのは偶然。
お題である南国市を見ていたら、1ランク上のが目に止まり、検証した結果こちらと判明。
厳格な表現が求められるようなので、四国の残っているところから。

ここまで来たら完答したいと思っていますが、問二が・・・・
とりあえず、寝ます。
[72604] 2009年 10月 31日(土)01:45:00oki さん
第二十四回十番勝負
やっと分かりました。
問九:行田市
「ぐ」だから「き」だとは思ったのですが、「名取はきの次」と解いてしまい、なんのこっちゃ状態でした。
これで残り2問、だと思いますが。
[72602] 2009年 10月 31日(土)00:55:29oki さん
第二十四回十番勝負
「九州も管内」というボケたアナグラム解のため、明後日の方向をさまよっていました。
本当なら高岡リセットの時点で分かっていたはずなのに。
問六:長崎市
[72575] 2009年 10月 30日(金)16:13:38oki さん
第二十四回 全国の市十番勝負
売り切れ寸前なので、続けて回答。
問四:玉野市
[72574] 2009年 10月 30日(金)15:38:25oki さん
第二十四回 全国の市十番勝負
第二ヒントでやっと分かった。
問一:山陽小野田市
[72442] 2009年 10月 26日(月)08:43:20oki さん
第二十四回 十番勝負
アナグラムはすべて解けた、と思います。
想定数は確認していませんが、この市で答えたいので。
問一:阿南市
これでやっと5問。
先は長いか・・・
[72399] 2009年 10月 24日(土)22:18:11oki さん
第二十四回十番勝負
やっと4問目。
問八:総社市
[72388] 2009年 10月 24日(土)11:27:26oki さん
第二十四回十番勝負
想定解数が合っているので、これで良いと思います。
そう考えれば良かったのですか。
問七:旭川市
[72292] 2009年 10月 22日(木)01:43:11oki さん
第二十四回十番勝負
問二:鳴門市
想定解数の検証はしていないのですが、条件は満たしているので、とりあえず回答しておきます。自信はありません。
[72284] 2009年 10月 22日(木)00:33:32oki さん
全国の市十番勝負(第二十四回)の解答
う~ん。考えると分かるものなのですね。
問五:笠岡市
[72277] 2009年 10月 21日(水)23:54:55oki さん
第二十四回十番勝負
初めて、自力で分かったような気がするのですが。
これで良いのかどうか。
問十:徳島市
[72066] 2009年 9月 25日(金)17:21:06oki さん
石高変遷
[72052]で、ニジェガロージェッツ さん が平成19(2007)年の石高を掲載されていたので、ふと思い立って、幕末時から現在までの石高の変遷を都道府県別に計算してみました。

(単位は万石・%)
県名幕末石高07年石高(米)07年/幕末増減率
青森県40.7199.4389.9
岩手県47.6206.3333.4
宮城県77.2272252.3
秋田県50.7366.3622.5
山形県102.1279.7173.9
福島県125.8296.8135.9
茨城県114.5269.3135.2
栃木県76.5240.5214.4
群馬県63.660.0-5.7
埼玉県89.3116.830.8
千葉県96.2219.1127.8
東京都29.70.5-98.3
神奈川県39.010.7-72.6
新潟県128.3433.7238.0
富山県80.7141.074.7
石川県75.891.320.4
福井県77.293.921.6
山梨県31.119.9-36.0
長野県78.6149.690.3
岐阜県71.279.812.1
静岡県70.762.1-12.2
愛知県124.1106.7-14.0
三重県84.3104.223.6
滋賀県85.9117.136.3
京都府57.654.5-5.4
大阪府71.520.5-71.3
兵庫県122.8129.35.3
奈良県49.633.1-33.3
和歌山県40.824.9-39.0
鳥取県43.844.72.1
島根県48.664.232.1
岡山県80.8116.143.7
広島県62.892.447.1
山口県100.377.5-22.7
徳島県30.744.344.3
香川県29.349.468.6
愛媛県43.452.521.0
高知県49.441.4-16.2
福岡県140.9129.3-8.2
佐賀県44.994.4110.2
長崎県27.545.966.9
熊本県85.1140.264.7
大分県58.585.145.5
宮崎県39.152.133.2
鹿児島県60.877.126.8
上記計3151.15405.671.5
東北・新潟572.52054.2258.8
その他2578.63351.430.0
(※幕末の石高は、歴博の「旧高旧領取調帳データベース」を元に算定。北海道、沖縄は表に含めていない)

ニジェガロージェッツさんご提供の07年石高は水稲だけの収穫量ですが、幕末のデータは水田のほか畑作の石高等も含まれているので、本来であれば直接比較が不可能な数値です。したがって、あくまでもお遊びのデータということでご理解下さい。
お遊びのデータであることを前提として、あえて分析を加えれば、東北各県および新潟での石高の大きな増加が注目されます。幕末(1870年頃)から2007年までおよそ140年の間に、全国の石高は7割増加していますが、そのうち東北・新潟が約260%増(3.6倍)に対し、他の地域は3割増に過ぎません。明治以降、東北や新潟でいかに米の増産が図られたかを物語っています(もちろん北海道も)。
そういえば、思い浮かぶ米の品種も、ササニシキ、コシヒカリ、あきたこまち、そしてキララ397など、「北」のものばかりですし。西南日本から栽培の広がった米が、いつの間にか北日本を主産地にするようになっていたことを、改めて実感した次第。
ところで皆さんは、普段どの地域の米を食べられてますか。私はもっぱら、妻の実家から送ってもらっている阿波米ですが。
[72024] 2009年 9月 21日(月)16:49:18oki さん
「阿土」か「阿佐」か
[72022] 88 さん
ですから、土佐の「佐」が土佐を代弁すると言うのは本来ありえません。「佐」は佐渡を示します。
阿佐海岸鉄道は、この歴史を踏まえていない名称のつけ方です。

歴史的に見れば88さんのご意見が正しいです。江戸時代、吉野川の高知藩領部分を「阿土」川とも称していたようですし。
一方、「四国循環鉄道阿土海岸線敷設促進に関する陳情書」と言うのが、少なくとも第16国会(1953年)、22回国会(1955年)に徳島県議会から出されており、「阿佐海岸」鉄道はもともと「阿土海岸」線と考えられていたようです。したがって、
[72023] Issie さん
既存の(とは言っても全然一般的ではない)「阿土」と差別化するためにあえてそうしたのか,それとも何も考えていないのか。
に関しては、敢えてそうしたのだろう、と考えられます。
なぜ「阿土」を「阿佐」に変えたのかはよく分かりませんが、この鉄道(の計画線)が室戸岬を境に東線・西線に分かれていたため、発音しにくい「阿土東線(あととうせん)」を避けて「阿佐東線(あさとうせん)」を選んだのかもしれません。

ただし、「阿土」、「阿佐」のどちらも、元徳島県民の私にとってさえ馴染みの薄い表現です。山脈内部に縦貫道路が何本も走っていて伝統的に往来の繁かった阿讃国境に対し、阿波・土佐両国の関係が非常に薄かったことが反映されているのでしょう(阿土山地は初めて目にしました)。

「備」は、備前・備中・備後のどれかに当てはめるよりは、この3国に分かれる以前の「吉備」と考えた方が自然ではないでしょうか。
そうなのかもしれませんが、現代の感覚では、「両備」というと岡山県内の備前・備中の意味で、広島県に属する備後とは少し距離があるのでは、と感じられるのですが。
また、美作は吉備が3国に分かれた後、さらに備前から分かれた国ですから、この考えに立つと「備作」という表現は成り立たない、ということにならないですか。
[72021] 2009年 9月 21日(月)13:03:20oki さん
Re:旧国名の組み合わせ地名・名称
[72010] オーナー グリグリ さん

あまり知られていなさそうなのを。

阿淡(阿波・淡路)・・・阿淡交通社
藩政期はともに蜂須賀氏の領国だったので頻用され、かつては阿淡汽船という定期航路もありましたが、今はあまり聞きません。

越佐(越後・佐渡)・・・越佐人物誌(書名)
これもあまり一般的ではない様子。

備作(備前/備中・美作)・・・備作山地県立自然公園
ほかに、県立備作高校、吉井川に架かる備作大橋というのもあります。自然公園は備中、高校・大橋は備前だと思います。

雲伯(出雲・伯耆)・・・雲伯方言
雲伯方言というのは、「砂の器」のあれですね。

「国」が現役であった江戸時代以前は、隣接(近接)する国同士であらゆる組合せの表現がなされたと思いますが、現役の地理名称でなくなってから1世紀が経つ現在、一般的に使用される組合せは限定されていると思います。上のようなグレーゾーンの組合せについて、どこまでを採用するかが問題になってくると思いますが。

ところで、以下は反則でしょうか?
両毛 両総 両丹 両備 両筑
[71997] 2009年 9月 19日(土)20:49:39oki さん
古代郷と昭和自治体 その2
[71947] 今川焼 さん
古代郷と昭和自治体 追加します

大量に追加いただき、誠に有難うございます。
私が確認したのが61件、今川焼さんのが66件。うーん、これほどまで見逃しが多かったとは。昭和合併期の自治体名を知らないことを自ら暴露したようなものですね。

このままでは申し訳ないので、私のと今川焼さんのと合計125件についての簡略な集計結果を以下に示します(125件の表はお目汚しなので省略。もしもお入り用の方がいらっしゃればメールでお送りします)。

  件数構成比(%)
合計125100.0
--------------
畿内97.2
東海道1814.4
東山道1713.6
北陸道21.6
山陰道2217.6
山陽道1814.4
南海道1814.4
西海道2116.8
--------------
東北43.2
関東129.6
中部1814.4
近畿2822.4
中国2620.8
四国1612.8
九州2116.8
--------------
2419.2
32.4
8971.2
97.2
--------------
存続5040
消滅7560
(※陸奥国信夫郡伊達郷、武蔵国新座郡志木郷は上記集計から除いています。
伊達は信夫郡から分郡した伊達郡が名称の由来と考えられることが理由。
志木の場合は、本来新羅郡志楽郷で遺称地は現在の和光市白子地域、志木市は明治以降に「僭称」したものと判断しています【この種の考証をはじめると切りがないのですけどね】)

五畿七道で見ると分かりにくいのですが、現在の地方区分で見ると、近畿以西に偏っているのが明らかです。東国の場合、現在の比定地すら明らかでない古代郷が少なくありませんから、当然といえば当然の結果。
都道府県別で見ると、兵庫県12、島根県10、岡山県9がベスト3、旧国別では讃岐、出雲、土佐の3国が6郷ずつで同率首位です。
島根・出雲が非常に多いのが注目されるところ。四国、九州の多さが結構意外で、逆に北陸は予想より少ないですね。
町が7割を占めるのは、前にも触れたように、町が郷と同じように郡の一段下のレベルに位置する存在だからでしょうね。当然ながら、その半数以上が平成の大合併で消滅しています。
[71892] 2009年 9月 7日(月)03:38:15oki さん
古代郷と昭和自治体
[71891]で、富来について以下のように書いたので、このような事例がどのくらいあるのか、検証してみました。
国名や郡名であれば、古代の地名が残っていくのは珍しくもありませんが、郷名レベルの地名が、1000年以上にわたって常に使われ続け、昭和合併期の自治体名としても残存したのは、全国的に見ても珍しい例ではないかと思います(どのくらい珍しいかは、後で検証します)。

下表で道~郷は「和名類聚抄」に記載されている地名であり、郷名は9世紀初頭のものです。都道府県・市区町村は平成大合併前のもので、現在も存続する自治体名は「○」、合併で消えた名称には「×」を付しています。
古代の郷名が昭和合併期の自治体名として存続していると考えられる事例を取り上げていますが、富来のように古代~中世~近世~近現代を通じて現役地名だったとは限りません(そこまで検証していない)。また、郷名が国名・郡名と一致するものは除外しています。
和名類聚抄の底本は京大が所蔵する本居宣長旧蔵本ですが、ざっと見ただけなので、取り残しがまだあると思います(富来のように途中で地名が変わったものもあるはずです)。また誤解もあると考えますので、ご指摘いただければ幸いです。

No都道府県市区町村現存
1東山道陸奥宮城多賀宮城県多賀城市
2東山道出羽飽海遊佐山形県飽海郡遊佐町
3東海道常陸久慈大田茨城県常陸太田市
4東海道常陸行方麻生茨城県行方郡麻生町×
5東海道常陸行方板来茨城県行方郡潮来町×
6東山道下野都賀小山栃木県小山市
7東山道下野河内三川栃木県河内郡上三川町
8東山道下野芳賀氏家栃木県塩谷郡氏家町×
9東山道上野利根渭田群馬県沼田市
10東海道安房安房白浜千葉県安房郡白浜町×
11東海道武蔵多磨狛江東京都狛江市
12東海道相模高座寒川神奈川県高座郡寒川町
13北陸道能登羽咋荒木石川県羽咋郡富来町×
14東海道甲斐山梨石禾山梨県東八代郡石和町×
15東海道甲斐巨麻市川山梨県西八代郡市川大門町×
16東山道信濃更級麻績長野県東筑摩郡麻績村
17東山道美濃本巣穂積岐阜県本巣郡穂積町×
18東海道遠江敷智浜津静岡県浜松市
19東海道駿河廬原蒲原静岡県庵原郡蒲原町×
20東海道遠江蓁原相良静岡県榛原郡相良町×
21東海道参河碧海智立愛知県知立市
22東山道近江犬上甲良滋賀県犬上郡甲良町
23山陰道丹後与謝宮津京都府宮津市
24畿内山城綴喜田原京都府綴喜郡宇治田原町
25山陰道丹波天田夜久京都府天田郡夜久野町×
26畿内摂津八部長田兵庫県神戸市長田区
27山陽道播磨明石垂水兵庫県神戸市垂水区
28山陽道播磨美嚢吉川兵庫県美嚢郡吉川町×
29山陽道播磨多可加美兵庫県多可郡加美町×
30山陽道播磨多可黒田兵庫県多可郡黒田庄町×
31山陰道但馬美含竹野兵庫県城崎郡竹野町×
32山陰道但馬美含香住兵庫県城崎郡香住町×
33畿内大和城下三宅奈良県磯城郡三宅町
34畿内大和葛下當麻奈良県北葛城郡當麻町×
35南海道紀伊日高南部和歌山県日高郡南部町×
36山陰道因幡八上若桜鳥取県八頭郡若桜町
37山陰道石見美濃益田島根県益田市
38山陰道出雲能義安来島根県安来市
39山陰道出雲飯石三屋島根県飯石郡三刀屋町×
40山陰道石見邇摩湯泉島根県邇摩郡温泉津町×
41山陽道備中哲多新見岡山県新見市
42山陽道備中下道成羽岡山県川上郡成羽町×
43南海道阿波麻殖川島徳島県麻植郡川島町×
44南海道讃岐山田高松香川県高松市
45南海道讃岐三野詫間香川県三豊郡詫間町×
46南海道伊予宇和三間愛媛県北宇和郡三間町×
47南海道土佐安藝奈半高知県安芸郡奈半利町
48西海道豊前田河香春福岡県田川郡香春町
49西海道豊前京都刈田福岡県京都郡苅田町
50西海道肥前養父鳥栖佐賀県鳥栖市
51西海道肥前彼杵大村長崎県大村市
52西海道肥前松浦値嘉長崎県北松浦郡小値賀町
53西海道肥後球麻人吉熊本県人吉市
54西海道肥後葦北水俣熊本県水俣市
55西海道肥後飽田殖木熊本県鹿本郡植木町
56西海道豊後速見由布大分県大分郡湯布院町×
57西海道豊後大野緒方大分県大野郡緒方町×
58西海道大隅姶羅鹿屋鹿児島県鹿屋市
59西海道薩摩頴娃開聞鹿児島県揖宿郡開聞町×
60西海道日向諸県財部鹿児島県曽於郡財部町×
61西海道大隅姶羅串占鹿児島県肝属郡串良町×

全部で61件です。これが多いか少ないかは議論の余地がありますが、和名抄所載の郷名、昭和合併期の市町村数はともに3000を超えるので、その2%弱と言うことになります。統計学的には、5%水準で有意、つまり十分に珍しい事例と結論づけることが可能でしょう(有意性検定にあまり意味があるとは思いませんが)。
属性別に区分すると、市が17、区2、町41、村1です。町が圧倒的に多いですが、市レベルの地名は郡・国名を流用することが多かったからだろうと思います。
逆に言うと、昭和の大合併は、近世に7万以上あった「村」を古代の「郷」レベルに整理して3000強の自治体をつくったと考えられるかもしれません。

平成の大合併は、さらに郡レベル(全国で500~600)を目指し、最終的には「道」レベル、つまり道州制を志向するものなのでしょうか。
[71891] 2009年 9月 7日(月)02:40:34oki さん
富来の冠称に関する考察
今回の富来に関する議論の根源は、千本桜さんの次のような問題意識にあります。

[70836] 千本桜さん
富来地区、西海地区については、大字名の前に地区名(昭和29年までの村名)を付して志賀町富来地頭町、志賀町西海風無のように表しますが、熊野地区、稗造地区、東増穂地区、西増穂地区、西浦地区については地区名を付さずに志賀町三明、志賀町酒見のように表します。
自治体名+地区名+大字名の区域と自治体名+大字名の区域が混在して不揃いですね。これを、自治体名+大字名に統一できないかと考えた次第です。
そうすると富来の名が消えることになりますが、富来の名を残したいと願う人たちから反対される可能性があります。そこで、富来の名を存続させながら全ての地区を自治体名+大字名の形式で統一できないものだろうか・・・。そんなことを模索したいと思ったわけです。

そもそもの発端は、EMM さんの
[70743] EMM さん
旧富来町のうちで「富来○○」となっているところがあり、そうなっている字名は「旧・旧富来町」だったところのみ。
しかもそれだけでなく、旧西海村だったところが合併に際してすべて「西海○○」になってます。・・・・・・・
千本桜さん的には特に「富来町○○」→「志賀町西海○○」は「きわめて喜ばしい事例」かも?
という書き込みですが、この記述自体、大河原町などでの「地名浸食」に対する千本桜さんの考えを理解しているからこそ、出てきたものだと思います。

以上の経緯と、これまで略述してきた富来の歴史を踏まえた上で、志賀町「富来」・「西海」という冠称についての私の「解釈」を以下に述べておきます。

千本桜さんは富来、西海について、昭和29年まで(明治合併期)の村名と見ておられるようで、これは現象的にはその通りですが、実際にはさらに深い意味があるだろうと思います。

まず「富来」に関してですが、この地名は、富木院の誕生からは約1000年、前身である荒木郷を含めれば1200年以上の歴史を持っています。古代・中世・近世を通じ、常に現役の地名であり続け、明治合併期に村名になり、昭和合併後も町名として生き残りました。
国名や郡名であれば、古代の地名が残っていくのは珍しくもありませんが、郷名レベルの地名が、1000年以上にわたって常に使われ続け、昭和合併期の自治体名としても残存したのは、全国的に見ても珍しい例ではないかと思います(どのくらい珍しいかは、後で検証します)。
したがって、志賀町との合併に伴って「富来」の地名が消失することは、この地名の歴史を知る地元の人たちにとって、耐え難い事態であったと想像されます。では、富来の地名を残すにはどうすればよいか。
「地頭町」だけを「志賀町富来」に変更することはできないでしょう(領家町が黙っていないし、地頭町の名前が消えることにも猛反対が起こるはず)。また、「地頭町」、「領家町」、「高田」を合併した上で「富来」を名乗ることもできない(それが可能であれば、とっくの昔、富来宿の存在した江戸時代にそうしたはずです)。つまり、ピンポイント地名としての「志賀町富来」をつくるのは無理だと言うことです。
であれば、冠称形式を選択せざるを得ません。歴史的ないきさつを勘案すれば、かつての富来院の地域に「富来」を冠称することも考えられますが、(昭和)富来町でありながら富来院ではなかった熊野地区の存在から、それは難しいでしょう。逆に、近世の富来宿であった「地頭町」、「領家町」、「高田」だけに「富来」をかぶせることもあり得ますが、八朔祭りに富来地区として参加している七海、生神、牛下を除外するのも妙な話です。
以上のように、近世以前と近代以降のさまざまな経緯が複合した結果、志賀町との合併に伴って「富来」の冠称を付す対象は、(明治)富来村の範囲にならざるを得ないだろうと、私は思います。

一方の西海ですが、おそらく、[70771] EMM さん にあるように、志賀原発の建設に際して最後まで強硬に反対した旧・西海漁協の影響が大きかったと思います。西海漁協の沿革を示すと次のようになります。

1912年(明治45)風戸、風無、千浦の各浦に漁業組合設立
1921年(大正10)3組合を統合して西海漁業組合設立
1949年(昭和24)西海漁業協同組合に改組
1954年(昭和24)富来町(昭和)誕生
1967年~1983年(昭和42~58)能登原発への反対運動
1993年(平成5)志賀原発1号機運転開始
2000年(平成12)石川とぎ漁協発足(西浦漁協との合併による改称)
2005年(平成17)富来町が志賀町に合併
2006年(平成18)石川県漁業協同組合とぎ支所発足
2007年(平成19)とぎ支所から西海支所に改称

注目されるのは二点です。一つは、西海漁協が「富来」に対するロイヤリティーをまったく持っていないであろうこと、もう一点は、EMM さんも言及された志賀原発との関係です。
まず「富来」との関係では、(昭和)富来町が誕生したのは1954年ですが、富来漁港を抱える西海漁協が「とぎ漁協」に改称したのは半世紀近くが経過した2000年で、しかも07年には「西海支所」に戻してしまっています。西海支所への復帰を報じる北国新聞の記事にあるように、水産物のブランドとして「富来」は無意味であり、「西海」を維持した方が有利と考えたのだと思います。
志賀原発との関係では、西海漁協は、原発建設に対して周辺漁協の中で最後まで組織的な抵抗を続けたようです。原発に対する賛否はひとまず置くとして、漁民にとって、原発事故に伴う風評被害はもっとも警戒すべき事象でしょう。原発の放射能漏れは真っ先に周辺の海を汚染し、その程度にかかわらず、周辺水産物の売行きに悪影響を及ぼすはずです。
西海地区の漁民にとって、原発の名称を「能登」から「志賀」へ封じ込めたにもかかわらず、合併によって「志賀」の地名を名乗るようになったのは誤算だったろうと思います。西海漁民にとって、富来は無視すれば良い存在ですが、志賀は積極的に消し去りたい地名のはずです。それができないので、せめて「西海」を冠称する。そうすれば、北国新聞の写真にもあるように、志賀を表面に出さずに、「西海」ブランドを押し出すことができます。「富来」が冠称された理由が過去へのノスタルジアだとすれば、「西海」は現実的なブランド構築と風評被害の回避が大きな目的であったのではないか、と私は考えます。

根拠の乏しい推測が多すぎると思われるかもしれませんが、「富来」「西海」の2地区だけに冠称が付された原因は以上のようなことではないか、と考えています。少なくとも、この2地区の冠称について、明治合併村を基準にしたフォーマットから見て不揃いだから統一すべき、などと外部の人間が簡単に言うべきことではないと思います。
あまりにも当たり前の結論、と思われるかもしれませんが、「富来」に関する私の解釈は以上で終わりです。異論・反論・反証・論駁を期待したいところです。

最後に、千本桜さんにお伝えしたいこと。
千本桜さんの地名に対する愛着は十分に分かっていますし、「地名浸食」に対する憤りにも共感します。しかし、今回の件に関し、千本桜さんが事例として挙げたのはすべて東北地方のものです。対してEMMさんは、[70838]
能登の大字は基本的に1集落1大字、大字の単位=集落=祭礼の範囲…「八朔祭りの中心で、富来を叫べ」
と仰っています。東北の村の多くは1集落1大字ではないので、千本桜さんがあげた事例は、「富来宿」の存在を実証するためには無意味なのです。それが、EMMさんを苛立たせた大きな理由だろうと思います(もう一つは私が途中で割り込んだことでしょうが)。
以降で、東北(東国)の近世村と能登を含む西国(畿内近国)の近世村との相違について考察するつもりです。以前千本桜さんは、東北地方で、近世村の名称とその中に設置された宿駅の名称が違うことについて疑問を呈されていたと思いますが、その点に関しても検討するつもりですので、議論に参加いただければと思います。
[71851] 2009年 9月 3日(木)01:20:51oki さん
コンビニの出店・閉店数
[71845] みかちゅう さん
本当は、チェーンごとにこの1年で「新規オープンした店舗」と「撤退に追い込まれた店舗」の数を知りたいですね。新規オープンすら公式ホームページでは宣伝していないし、閉店なんて絶対に知らせたくないので、地道に調べるしかないですね…。

この種のデータは、各社のIR情報のページに掲載されています。当該企業に投資しようと考える場合、出店数・閉店数というのは重要な業績指標ですからね。
で、上位3社のデータから出店と閉店数の経年変化を整理したのが以下の表です。

  2004年2005年2006年2007年2008年2009年
セブンイレブン店舗数103031082611310117351203412298
 出店904891832816874 
 閉店381407407517610 
 純増523484425299264 
ローソン店舗数782180778366856485878674
 出店711717700452501 
 閉店455428502429414 
 純増2562891982387 
ファミリーマート店舗数599462846501669168917091
 出店606586520542550 
 閉店316369330342350 
 純増290217190200200 
【※店舗数は各年2月末、出店・閉店数は3~2月の1年間の数値
  ファミリーマートの店舗数は宮崎・鹿児島・沖縄・北海道を含まない
  資料出典はここ→セブンイレブン(P1)ローソン(P36)ファミリーマート(P3)

ここに見るように、上位3社とも毎年数百店の出店をしていますが、同時に少なくない数の閉店店舗があります。いわゆる「スクラップアンドビルド」を積極的に進めているわけです。
特にセブンイレブンはこのところ閉店が急増しており、それに伴って店舗数の純増が大きく減っています。逆にローソンは、閉店数はあまり変わらないものの、出店が減っているために同じく純増が急減という状況です。
コンビニ業界は、店舗数が飽和状態に達しているとの見方もあり、他社との競合だけでなく、自社店舗間の競合すら辞さないという地域も出てきています。
同業者を撤退に追い込み着々と自社の店舗数を増やしているのはどこのチェーンでしょう
どころではなく、業績の悪い店はどんどん潰し、売上と利益の見込める新店を血眼になって捜しているのが実態と言えるでしょう。


[71819] 今川焼 さん
[71738] YT さん
富来に関する情報提供、有り難うございます。さて、富来のまとめを書かなければ。
[71777] 2009年 8月 24日(月)01:43:31oki さん
富来の明治合併村と祭り
富来の明治合併村と祭り

また書き込みの間が開いてしまい、はるか昔(8/11)のことになりますが、まず御礼を。

[71594] [71596] なると金時 さん
新幹線が今止まってますよ。
運転再開したそうです。
情報提供有り難うございました。
現在、我が家ではテレビが映らない状態のため、この情報がなければ、東京駅へ行ってから右往左往するところでした。前日の地震に比べて揺れが小さかったため、新幹線が止まるなど想定外だったもので。
結局のところは、新幹線が2時間半遅れたため、予約していた高速バスには乗れなかったのですが、何とかその日のうちに帰郷することができました。感謝いたします。

さて、富来についてですが、[71678] でEMM さん から教えていただいた周辺の祭り情報と、近世村、近世郷庄、明治合併村の関係を以下のようにまとめてみました。

明治村近世村郷庄役場
富来村地頭町富木院八朔祭り
富来村領家町富木院八朔祭り
富来村高田富木院八朔祭り
富来村七海富木院八朔祭り
富来村生神熊野方郷八朔祭り
富来村牛下熊野方郷八朔祭り
東増穂村相神富木院八朔祭り
東増穂村八幡富木院八朔祭り
東増穂村里本江富木院八朔祭り
東増穂村給分富木院八朔祭り
東増穂村八幡座主富木院
東増穂村中泉富木院
東増穂村相坂富木院
東増穂村草江富木院
東増穂村大鳥居富木院
東増穂村中浜富木院中浜祭り
西増穂村酒見富木院酒見大祭
西増穂村稲敷富木院稲敷祭り
西増穂村栢木富木院栢木祭り
西増穂村大福寺富木院大福寺祭り
西海村風無藤掛郷西海祭り
西海村風戸藤掛郷西海祭り
西海村千浦藤掛郷西海祭り
西浦村鹿頭藤掛郷鹿頭祭り
西浦村赤崎藤掛郷赤崎祭り
西浦村前浜藤掛郷前浜神社
西浦村小窪藤掛郷
西浦村篠波藤掛郷
西浦村深谷藤掛郷
(※「-」は不明、「○」は明治合併村の町役場所在地です)

これから見ると、明治の富来村に合流した6村は、すべて八朔祭りに参加しています。東増穂村の村々も、多くが八朔祭りにキリコを出しているようです(祭りの状況が不明な村のうち八幡座主村はもともと八幡神社の神田で、中泉村、相坂村は神戸だったそうです)。
逆に西増穂村は、すべて八朔祭りとは別に個々の近世村単位で祭りを行なっていると考えられます。
一方、西海村に合流した3村(久喜は千浦の枝村だったと考えられます)は西海祭りをともに開催しているようですが、西浦村は西増穂村と同様、各村が個別に祭りを行なっていると見られます。

このような近世村(現在の大字)と祭りとの関係が、明治合併期以降に生じたか、それ以前からの慣行だったかは即断できません(富来地区とそれ以外で八朔祭りの開催日時が違っていた時期もあるようですし)。しかし、祭りの主体となる各神社は明治以前の創建でしょうから、江戸時代には神社(=祭り)と近世村(大字)との基本的な関係ができていた、と考えてもいいのではないかと思います。
同じ神社の祭りを共催する近世村は、日常生活の面でも密接な関係を持っていたと考えられます。その意味からすれば、この地域の明治合併村は、祭りの共催関係に象徴される相互間の関係の深さをもとに、合併の単位を決めていったと見ることができます。
ここで、富来院のうち八朔祭りに参加する村々が富来村と東増穂村に分かれたのは、前者が地頭町村などの町場、後者が農漁村だったからでしょう。熊野方郷に属していた生神、牛下両村が(明治)富来村に属したのは、外浦街道や渡海船などを通じて「富木宿」と密接な関係を持っていたためだと考えるのですが、両村が八朔祭りに参加していることからして、江戸時代にはすでに富来八幡の氏子であったのだと思います。
西増穂村になった4村は、ひょっとすると中世の酒見村の系譜を伝えるものかもしれません。
西海村と西浦村に関しては、歴史地名体系の千浦村の項に「風戸村から前浜村にいたる村々では刺網鯖漁が行われ、西海刺鯖として金沢表へ運ばれた(能登志徴)」とあるので、江戸時代にはかつての藤掛村全域が「西海」と呼ばれていたようです。位置関係から見て、西浦というのは西海のうちの西浦を意味するのではないかと思われます。また、西海村になった3村は現在西海祭りを共催していますが、風戸の松ヶ下神社、風無の西海神社、千浦の渡会社は、江戸時代にはすべて神明宮で、明治以降に改称しています。もともとは一つの神社で、集落の拡大分化とともに分祀されたのかもしれません(神明社は伊勢内宮の末社ですから、前に触れた富来御厨との関係も考えられますが、これだけでは何とも言えません)。

かなり時間がかかりましたが、私が分かる範囲での、「富来」の歴史を、古代~明治合併期にわたってまとめてみました。次回は、以上を踏まえた上で、[70743] でEMMさんが、[70753] で千本桜 さんが提起された、「富来」、「西海」の冠称に対する私の解釈を書き込みたいと思います。
また、お二人の間の行き違いについて、その背景として近世村の在り方に関する東国と西国の相違があるのではないか、との仮説を立てているので、引き続きその点についても投稿したいと考えています。

現在青森市におり、初めて自宅以外から書き込みしています。1週間ほど滞在する予定ですので、時間が取れれば三内丸山遺跡を見ておきたいと思っているところです。
[71593] 2009年 8月 11日(火)07:28:19oki さん
地頭町・領家町の歴史概(妄)説
前回から間が開きましたが、「広域地名である富木と、ピンポイント地名としての富木との関係」について。
これを考えるためには、地頭町・領家町の歴史について押さえておく必要があると思います。

まず、地頭町・領家町という名称が、「下地中分」に由来することは間違いないと思います。(下地中分について、ここで詳しく説明する必要はないと思いますが、事例としては、有名な伯耆国東郷荘に関する説明を御覧下さい~歴史→中世→鎌倉・南北朝時代→東郷荘と辿っていくと下地中分についての記述が出てきます)。
富木地域での下地中分の実態を示す文書は発見されておらず、中分の対象となった荘園が富木院だったのかどうか、当事者である地頭(武士)や領家(公家・寺社)が誰だったか、時期はいつか、などについては一切不明です。
ただ、下地中分が盛んに行なわれたのは鎌倉中期(13世紀中葉)から南北朝末期(14世紀末)とされているので、この地でもその頃に実施されたのでしょう。また、建治年間(1275~77)以降、富来を名字とする武士が現われますから、その一族が地頭の任にあったのかもしれません。
いずれにせよ、下地中分に基づくものとすれば、地頭町・領家町はペアをなす地名と考えることができます。

次に各町についてですが、史料上、先に現われるのは領家町で、天正5年(1577)に「とき村領家町」とあるのが初出です。もちろん、文献に初めて現われたのがこの時だというだけで、もっと前から領家町が存在したことは確実でしょう。
地頭町はやや遅れ、慶長九年(1604)の史料に「富木之院地頭町」とあるのが初出のようです。が、こちらも、上記の事情から領家町と同様の16世紀後半、もしくはそれ以前から存在したのは間違いないでしょう。

ここで注目されるのは、史料初出時の戦国時代から、両者とも「町」と呼ばれていること。農業集落が町と呼ばれることはないでしょうから、地頭町、領家町とも、遅くとも16世紀後半の時点で、人家が密集するとともに、定期的な市が立つなど交易機能を持った場所であったと思います。江戸時代の初め、この地に外浦街道の宿駅が置かれたのも、もともとそこが交通の結節点であり、それを背景とした商業機能を有していたからだろう、と考えます。

また、もう一つ気になるのが、高田村に属する地域に、「高田遺跡」と呼ばれる弥生中期から室町期におよぶ複合遺跡が存在すること。弥生時代の土坑墓、古墳時代の祭祀遺構、奈良時代前期の鍛冶に関連する工房跡、平安時代に属する竪穴住居跡などが検出され、さらには鎌倉・室町時代の遺物として中国製陶磁器類や銅銭が発掘されたそうです。具体的な場所は統合前の富来小学校の敷地(富来高田2-41)で、富来川左岸に位置し、現在の地頭町・高田市街地の北側に隣接しています。

で、以下は推測です。
古代~中世のこの地域に、荒城郷、富木院などと呼ばれ、一定のまとまりを持った領域が存在したことは間違いありません。高田遺跡は、この領域の中心的な集落であったのではないか、そして、富来川の沖積平野が拡大するとともに、中心地がより下流部の地頭町、領家町に移っていったのではないか、と思うのです。
荒城郷=富木院の範囲が、西方海岸部の藤掛村、酒見川流域~富来川下流の富木七ヶ(富木村)、富来川上流の稗造庄、その東方に位置する鉈打村から成っていたとすれば、その中心となる場所は富来川河口部以外にありません。酒見川流域とは近く、富来川の流域は直接的な影響下に置ける。鉈打村とも、富来川支流の広地川の谷から盤谷峠を介した連絡が確保されている。河口部なので水運の拠点ともなる。これだけの条件を備えた場所が、地域の中心にならない方がおかしい。
さらに想像を逞しくすれば、荒木の遺称地が地頭町の南側にあることから考えて、荒木とは高田遺跡のことであり、荒木郷荒木里とでも呼ぶべき地であったのではないか。

何を言いたいかというと、荒木郷荒木里が富木院富木となり、それが地頭町・領家町に引き継がれた、つまり、江戸時代に富木宿(あえてこう言っておきます)が成立する以前から、富来川河口部の町場は「富木」と呼ばれていたのではないか、ということです。しかし、下地中分の区分線が富来川に引かれたため、富木院富木のうち川の左岸は地頭町と名乗り、右岸は領家町となった。地頭方、領家方の勢力がこの地域から消えた後も、両者間の対立意識は尾を引き、地頭町、領家町が一体となった富木町を名乗ることはついになく、外からは富木と呼ばれながら、内部では地頭町、領家町の区分が残った、このように想像するわけです。

もちろん、以上は史料的な裏付けがまったくない、単なる想像です。しかし、このように考えれば、江戸時代を通じて、一方では一体的な町場としての富木であり、他方では地頭町村、領家町村という別の村であった、という両者の関係がうまく説明できるような気がするのですが、いかがなものでしょうか。忌憚のないご批判を頂きたいと思っているところです。


今日から帰省するのですが、田舎でネットに繋げるかどうか分からないので、1週間くらい、追加の書き込みができないかもしれません。その間、富来の冠称について考えを巡らせたいと思います。

(追記)
書き込もうと思ったら、[71592] Issie さんの地震の記事を目にしました。これから新幹線で東海道を下り、高速バスで淡路を通って徳島まで帰省する予定なのですが、台風は来ているし、2日続けて東海地方を震源とする地震はあるし、無事に帰り着けるんやろか。
[71458] 2009年 8月 7日(金)01:18:21oki さん
富木(富来)の歴史概説
古代から戦国時代に至る、「富木」の歴史を概説しておきます。本来、EMMさんが原稿を用意されている部分だとも思いますが、とりあえず、調べたこととそれに基づく私の考えを書いておきますので、間違いがあればご指摘下さい。

「富木」に関する名称変化を時代順に一括すると次の通り。
奈良時代:荒城(荒木)郷
平安時代:富木院
戦国時代:富木村(富木七ヶ)

富木の歴史は古代の荒城郷に遡ります。和名類聚抄では荒木郷ですが(これは9世紀初頭と想定されます)、より古い形は荒城郷のようです。大日本古文書では天平勝宝2年(750)の記事に「越中國羽咋郡荒城郷」が記載されており、遅くとも8世紀には存在した地名と考えられます(東大史料編纂所データベースの正倉院文書の画像です。プラグインを入れないと見られないかもしれません)。
現在、地頭町の南に荒木隧道、荒木ヶ丘グラウンドゴルフ場などが確認されますが、この荒木が古代郷の遺称地とされています。

平安時代には富来院がありました。富来(富木)は荒木の「荒」を佳字である「富」に変えたものと考えられています。
資料上確認できるのは承久3年(1221)の「能登国田数注文」が最初ですが、富来院の成立は郷の解体後、院が置かれた11世紀初頭と推定されています(歴史地名大系による)。
「田数注文」の時点で、院から酒見村・藤懸村・釶打村が分立していることが確認されます(これらの範囲については後で触れます)。残った富木院は、資料上、南北朝期には京都の吉田社領であり、また伊勢神宮領の荘園を記載した「神鳳鈔」には貞治3年(1364)付けで「富来御厨」の記載があるようですが、いずれにせよ詳細は不明です。文明2年(1470)、総持寺文書に「富来院豊田西方町後百苅等」とあるのを最後に、所領としての「富来院」の名称は消えた、とのことです。

戦国時代には、大永六年(1526)の気多社年貢米銭納帳に「富来村七ヶ」が現われます。同様の表現として、「富木七箇・七ヶ庄」などもあったようです。そのほか、年次の明らかな資料として、天文10年(1541)の気多大宮司家文書に「富来地頭方百姓さた」、天正5年(1577)の同文書に「とき村領家町」などが確認されるということで、「富木村」の表示がかなり一般化していたと考えられます。
「と考えられます」というのは、歴史地名大系にそう書いてあるということで、自分で確認したわけではありません。申し訳ないので、「富来七ヶ」の事例を示しておきます(これもプラグインが必要かもしれません)。

さて、ここで問題は以上の富木院、富木村などがどの範囲を指すかですが、参考になるのが[71198]でも引用した三州志 図譜村籍(1819)です。この資料には、富木院26村のほか、先の能登国田数注文にも名が出た藤掛郷9村、釶打郷9村の名前が記されています。また、今回の議論に関係するものとして、稗造庄8村、熊野方郷15村も記載されています。以下に一覧表を示し、カッコ内には各村が属した明治合併村の名称も付記しておきます。

富木院26村:
地頭町、領家町、高田、七海(富来村)
東小室、広地、江添、大西、貝田、田中、和田、今田(稗造村)
八幡、八幡座主、給分、中泉、相坂、里本江、草江、大鳥居、相神、中浜(東増穂村)
酒見、稲敷、栢木、大福寺(西増穂村)
藤掛郷9村:
千浦、風無、風戸(西海村)
深谷、前浜、篠波、鹿頭、小窪、赤崎(西浦村)
釶打郷9村:
藤瀬、河内、西谷、鳥越、古江、大平、町屋、上畠、免田(釶打村)
稗造庄8村:
尊保、阿川、楚和、鵜野野、灯、入釜、地保、切留(稗造村)
 以上が、中世富木院(古代荒城郷)の範囲と考えられます

熊野方郷15村:
領家七海、生神、牛下(富来村)
三明、中畠、中山、町居、日用、草木、日下田、谷神、荒屋、豊後明(熊野村)
福浦(福浦村)
長田(上熊野村)

まず、能登国田数注文に記載された地名から片付けていくと、田数注文の藤懸村は藤掛郷9村で、明治大合併時の西海村、西浦村に対応する地域と見られます。釶打村は明治合併時に羽咋郡釶打村になった地域に該当するでしょう(現在は七尾市、平成合併前の鹿島郡中島町に属します)。酒見村は、当然酒見村(およびその周辺?)です。
ほかに富来川上流域を占める稗造庄があります。田数注文にはないので、それ以降に富木院から分立したと見られますが、この地域は天明六年(1786)に金沢藩領から幕府領に替地になったとのことで、富木院と別になっているのはそのためかもしれません。
戦国時代の富木村(富木七ヶ)は、上記の富木院、もしくはそれに稗造庄を加えた範囲と目されます。また、この富木村に藤掛郷、釶打郷を加えた範囲が平安時代の富木院で、おそらく、古代荒城郷の広がりに対応するものと考えられます。

一方、熊野方郷15村は、中世に「直海保(のうみほ)」と呼ばれていた地域の一部です。直海保は、熊野方郷と、その南に位置する旧志賀町の上熊野地区から成っていたと考えられていますが、資料上の初出が応永19年(1412)と遅く、富木院や荒城郷との関係はよく分かりません。直海保は福浦など海岸部を除いて神代川上流の米町川水系に属し、富来川・酒見川水系を主とする富木院等とは生活圏が異なると考えられるので、富木院=荒城郷には含まれなかったと思いますが、確証はありません。
ただし、[71408]でむっくんさんが触れられたように、「羽咋郡誌」には富木院、藤掛郷、釶打郷、稗造庄、熊野方郷を併せて「富木郷」と称するようになった、との記述があります。この記述が正しいとすれば、江戸時代前期には富木院などの中世以来の呼称がまだ残っており、後期にはそれが廃れて富木郷と呼ばれるようになったと思われます。

以上が、江戸時代以前の「富木」の概説です(一部江戸時代も含みますが)。富木院、富木村、富木郷など、同じような名称が出てきて、しかもその範囲が時代によって異なるのでややこしいと思いますが、ただ一つはっきりしているのは、これらの富木はすべて、[70838]でEMMさんが仰った「広域地名」だということです。江戸時代の、「地頭町および領家町から成る富木」というピンポイントの地名とは異なるものです。

[71198]
2.江戸時代に富木村がなかったことは確かです。しかし、中世後期には広域地名としての富木村があったと考えられます。
と述べたことの背景説明が以上で、戦国期に広域地名としての「富木村」があったことは明かです。

で、私の役目はここまでで、後はお任せします、とはいかないですね。
次は、広域地名である富木と、ピンポイント地名としての富木との関係について考察する必要が出てきますが、これは次回に。
最終的には、明治合併村との関係を経て、なぜ「富来」「西海」のみ冠称されているか、というそもそもの疑問に立ち返らなければならないのですが、結構道は遠そうです。


なお「羽咋郡誌」には、
「地頭町領家町は旧名は富木村といひ富木川ここに至りて海に入る」(31コマ
あるいはむっくんさんが引用されたように、
「富来は富来郷唯一の名邑なり市街は富来川を以て地頭町・領家町の二に分たれ元は二者を合せて富来駅と称へ又富来町村といへり」
など、地頭町、領家町を合わせた「富木村」ないしは「富来町村」があったかのような記述があります。しかし、後者はその典拠を示しておらず、前者の資料は「能登国田数目録解」のようですが、現物を目にしていないので、当否の判断ができません。ただし、[71224]で指摘したように、三州志来因概覧では「今富木村ナシ」と明記されていることから、少なくとも、金沢藩が認定した村としての「富木村」はなかったのではないか、と考えます。


あと、資料について。
むっくんさん、「羽咋郡誌」のご紹介有り難うございました。これは見逃していたので、参考になりました。
EMMさんが[71427]で引用された「越登賀三州誌」は、上記の「三州志」のことです。引用名称が不明確でしたね。これはデジタルライブラリーにありますが、本記、来因概覧、故墟考、本封叙次考、図譜村籍、沿革図伝からなる大冊で、ライブラリーでも6部立てになっており(1884年に出版された刊本です)、内容を確認するだけでも大変です。とりあえずは、上記で引用した来因概覧と図譜村籍の富木に関する部分だけで十分だと思います。
また、「富来町里本江および風戸に関するフィールドノート」のご紹介、有り難うございました。興味のあるところのみ拾い読みしている段階ですが、目を引いたのは、八朔祭りを行なう富来八幡神社がかつての富木院および稗造庄諸村の郷社であり、風戸を含む漁村部の藤掛郷の方は別の神社で個別の祭りをやっているらしいこと。「富来」の冠称との関係から言えば、熊野方郷に属しながら(明治)富来村に合流した生神、牛下両村が富来八幡神社を郷社としたのかどうかが気になるところですが。
[71256] 2009年 8月 2日(日)01:59:38oki さん
外では富木 内では地頭/領家
[71240] EMMさん
[71199]では大変失礼しました。
なんだか出鼻をくじかれた様な感じがして訳の分からない八つ当たりのような書き込みをしてしまいました。

とんでもありません。EMMさんが原稿の用意をしているのを分かっていながら、割り込む形で書き込んだわけですから、こちらこそ恐縮いたします。
私は気が向いたときに現われて、突然姿を消す不良メンバーで、メインイベントである十番勝負にもまったく参加しない人間ですから、気になさらないで下さい(十番勝負は、本当に、全然分からないのですよ。どうしたらあんな問題に解答できるのか、不思議でしょうがない)。
ただ、EMMさんと千本桜さんという、この掲示板の巨頭お二人の議論が、感情的なレベルになりかかっており、お二人の主張のどちらにも全面的には賛成できないので、私の集められる資料と、そこから推測できることを提示した、ということはあります。
富来に関しては、まだ書き込む予定ですので、それを含め、冷静な意見のやり取りができればいいと思っています。

時間が2時間ほどしかなかったので主に「富来院や富来郷など、富来が冠された広域地名の範囲」を書いた部分を見てきたのですが(これは別途まとめます)、江戸時代の辺りの記述中になぜか「商業集積地」としての地頭町・領家町の記述や、富木駅に関する記述が見あたらないのです。
この点に関しては、そもそも歴史地名大系に、地頭町や領家町単独の説明はあっても、両者を合わせた「富木」についての記述がまったくない、という点を含め、いささか疑問を抱いているところです。

少し参考になるかもしれない、と思う資料に、金沢大学文化人類学研究室の地頭町に関するフィールドノートがあります。
この中の「富来地区と地頭町の概要」には、富来川両岸に位置する地頭町、領家町、高田(の一部)が一体的な街区を形成し、旧富来町の中心的な商業地域であったことが記載されています。
その中でも地頭町は特別な存在で、周辺の農漁村に対する「町」であるだけでなく、領家町に対しても一段高い立場に自らを位置づけており、地頭町はダンナサマ、オヤッサマの町、領家町はシンタク(分家)の多いオッサマ(次・三男)の町、という階層意識があったようです。
今までに見た資料から得られる感覚では(感覚ですよ)、「富木」は外部向けの名称、もしくは外部からこの地域を見たときの地名という気がします(いちいち示していませんが、江戸時代や明治初期の全国・能登地域レベルの地図で、富来川河口に富木の地名を記したものがかなりあります)。一方、内部的には地頭町と領家町が厳然と区分されているのははっきりしています。金沢藩の村明細等もそうですし、郡区町村一覧以降の明治期の資料でも両者が別の村であるのは疑いがありません。

このような、外部向けの富木、内部での地頭町・領家町の峻別という事情の背景に、上記のような地頭町の特権意識があり、それが富来町史や歴史地名大系の記述に影響しているのではないか、という気もします(推測以前の想像ですね)。

以上の検証も含め、県立図書館での「富来駅年代記」などの成果を楽しみにしています、が、無理のない範囲でのご報告をお願いします。

次回は古代~戦国期の富木に関する概説を書き込む予定です。
[71225] 2009年 7月 31日(金)16:06:47oki さん
富木宿はあったか?
[71224]の続きです。

EMMさんがこだわっておられる「富木宿」について。
[71199] EMM さん
富来宿という言い方をどの程度されていたかというのは、わたしとしてはほとんど無いのではと思うのです。
それと、交通の面で富来のことを考える場合は(富来に置かれた宿駅の規模、宿と言えるまでに発達していたのか?等)は福浦との関係込みで考えた方が良いんじゃないかと思うのですが。

私が言いたいのは、[71198]であげた種々の資料から推測して、「地頭町、領家町から成る富木」が「富木宿」とも言われていた可能性がある、ということで、「富木宿と言われていた」と断言するつもりはありません。同時代の資料で「富木宿」という語を確認していませんから、断言はできないのです。
ただ、歴史地名大系の川尻村の項に、次のような記載があることは触れておきたいと思います。
「川尻宿は外浦街道一宮宿と富来宿の間にあり」

また、富木の規模については、先の資料に引用した「繁盛の地也」、「小繁華ノ地ナリ」などの形容から判断するしかありませんが、外浦街道という限定された地域内で見れば、それなりの中心性を有していたと思います。
富木と他の3つの宿駅の家数、人口は次の通りで(歴史地名大系に引用する天保年間の村明細の数値)、4つの中では富木、今浜が群を抜き、家数では富木がもっとも多かったようです。

 家数人口備考
富木2551135地頭町、領家町の合計
川尻43201
一宮179793一宮、一宮寺家の合計
今浜2131246

富木の宿駅機能と福浦とは、直接の関係はないと思います。富木が金沢藩の指定した宿駅であるのに対し、福浦は幕府が指定した西廻航路の寄港地だからです。富木は外浦街道という限定された地域における人馬(陸上)交通の小中心ですが、福浦は幕府米の回漕船や北前船が風待港とした、全国ネットワークにつながる海運の拠点で、両者の受け持つ役割はまったく違います。したがって、外浦街道の宿駅としての富木を考える場合、福浦との関係まで考慮する必要なないだろうと思います。

地頭町・領家町から南の外浦街道がどんなところだったか…と言うことも宿駅としての富来を考える上で重要なんじゃないかな、と思います。福浦・牛下・生神の集落は三方向「切り立った山」に囲まれてますし。
歴史地名大系に次のような記述があります。
「外浦街道は富来駅の南の荒木が最も難所で、風が荒く波が高い時は四~五町ほどが往来不能となり、越後の親不知に匹敵するともいわれた」
これから見ると、荒天時に荒木海岸のルートが途絶することはあったようです。しかし、全国幹線である東海道ですら大雨の際には通行止めになったのですから、その程度のことは織り込み済みだったのではないでしょうか。

近世の富木に関する考察は、とりあえず以上で終わりです。
[71199] EMM さん
私が思っていたのは、両地所では江戸時代やそれ以前の文献中に出てくる「富来村」「富木村」という記載は、「富来院」「富木院」のバリエーションだと判断されているのでは、と言うことです。
私の考えでは、戦国以前の「富木村」はEMMさんの仰る通り「富木院」のバリエーションです。しかし江戸時代(正保・天保郷帳)の「富木村」は、[71224]で述べたとおり「地頭町+領家町から成る富木」に引きずられた金沢藩の捏造もしくは勇み足だと思います。
次回は、戦国時代の「富木村」に至る富木の歴史を振り返ってみたいと思います。
[71224] 2009年 7月 31日(金)15:22:38oki さん
地頭町+領家町=富木≠富木村 その2
最初にお詫びとお礼を。
[71200] 88 さん
お名前(ニックネーム)欄に記入するのは、ニックネームではなく暗証コードです。
[71212] オーナー グリグリ さん
[71200]で、88さんがアドバイスされている通りです。[71198]の書き込みは自分色に修正しておきました。
88さん、アドバイス有り難うございます。長らく書き込みしていなかったので失念しておりました。
オーナー グリグリさん、誠に失礼いたしました。自分色への修正有り難うございます。今後は気をつけますので、よろしくお願いいたします。

で、本題の富来ですが。
[71199] EMM さん
「どういう形であれ、地頭町1集落(果たしてあそこを1集落と言っていいのかと言う問題はありますが)を指す形では富木村という表現はされていない」
この考えには全面的に賛成です。[71198]で私が提示した「富木」は、あくまで地頭町、領家町の総称で、おそらくは両村の連接する町場のみを指す語だと考えています。対して、「富木村」などというものは、江戸時代には存在しなかったと思います。

では、どうして正保郷帳や天保国絵図などに「富木村」が記載されているのか。この理由は、[70838][70940]でEMMさんが触れられた正保郷帳の作成過程にあるようです。
歴史地名大系の石川県の文献解題で、「加能越三ヶ国高辻帳原稿(正保郷帳)」に関し、金沢藩の集めた基礎資料から幕府に提出する郷帳を作成する際、「一定の加工」がなされたとの記述があります。ここでの議論に関係する分では次のようなものです。
「村高の小さな村を二または三ヵ村程度合せ、そのうちの一ヵ村に他の村高をすべて組込む加工」。その後の郷帳(元禄郷帳および天保郷帳)も、「これを基準に机上の操作を加えたもの」であったということです。
正保郷帳では、「富木村 領家町 町本江村」という記載がなされ、天保国絵図では「富木村」と「富木村之内領家町町村」が図示されていますが、これらは、以上のような加工・操作によって生まれたもので、EMMさんが仰るとおり、「前田家が作った亡霊」と言うべき存在です。
実際はどうだったかというと、歴史地名大系の記述では、寛文10年(1670)の「三箇国高物成帳(村御印)」、および天保年間(1830~44)の「村明細」に、地頭町村、領家町村が記載されていることが明記されています。
正保郷帳などは幕府に提出した、いわば外部向け文書、村御印や村明細は金沢藩の内部文書です。要するに二重帳簿を作成していたわけですが、両者の内容に差異がある場合、内部文書が正しいと見るのが当然です。したがって、この2村が別個の村として存在したことは明らかです(歴史地名大系の記述によれば、両村の間には対立もあったようです)。
なお、「富木村」が存在しなかったことに関しては、前述の三州志来因概覧(寛政11年)にも、「今富木村ナシ」と明記されています。

実際に存在したのが地頭町村、領家町村であったとして、次の問題は、なぜここに「富木村」なるものが出現するか、です。ここで、近隣で金沢藩の「加工」を受けたと考えられる村をいくつか見ると、次のようになっています(天保国絵図の記載です)。

・七海村/七海村之内領家七海村  ・小室村/小室村之内高田村
・八幡村/八幡村之内里本江村  ・鹿頭村/鹿頭村之内小窪村
・笹波村/笹波村之内前浜村

これらの例から分かるのは、金沢藩の「加工」によって親村の扱いを受けている村が、すべて実際の名で挙げられていることです。富木のように、存在しない村名を親村の名として「捏造」したものはありません。これは天保郷帳の基本的なフォーマットで、他の国についても、親村には実在する村の名が使われているはずです。
では、富木村だけが例外なのはなぜか。ここからは私の推測ですが、ごく単純に、「地頭町、領家町から成る富木」が存在したため、両者を合わせて捏造した村を「富木」と呼ぶのが自然だったからだろうと思います。天保郷帳のフォーマットに従うなら、ここは「地頭町村」と「地頭町村之内領家町村」とするのが普通です。あえてそうしなかったのは、「富木」という総称地名が存在したからだ、と考えます(あくまで推測ですが)。

長くなったので、いったん切ります。
[71198] 2009年 7月 30日(木)19:08:02oki[oki2] さん
地頭町+領家町=富木≠富木村
大変ご無沙汰しております。okiです。
久々に覗いてみたところ、付いていけそうな話題があったので、富来を巡る議論に参加させてください。
議論の流れから言って、EMMさんのご意見を伺ってから書くべきなのでしょうが、考えが若干異なるようなので、先に記述させてもらいます。

[70838] EMM さん
「富来」という地名は、歴史上出現して以来徹頭徹尾広域地名である…明治以前に富来村(富木村)なんてものが実在したことはなかった、じゃあ富来って何?どこが富来?

このご意見に対し、二点異論があります。私の考えは次の通りです。
1.富来は、歴史上広域地名であった時代が長いですが、江戸時代においては、富来川河口部の地頭町、領家町から成るピンポイントの「富木」という地名が存在したと考えます。この富木が「富木宿」と呼ばれることもあったと思います。
2.江戸時代に富木村がなかったことは確かです。しかし、中世後期には広域地名としての富木村があったと考えられます。

まず1について、「地頭町、領家町から成る富木」に言及した、江戸時代中期~明治初期の資料を以下に列挙します。
(以下の資料において、引用部分の漢字はすべて現行字体としています。助詞や句読点は適当に補いました。富木、富来の地名が混在しますが、原資料の記述に従います。「」内が引用部分です)

能登名跡志 安永六年(1777)
平凡社の日本歴史地名大系にも引用されている、江戸中期の能登の地誌です。今浜、一宮、神代川尻などに続いて「富木」が立項されており、次のような記述で、「富木」が地頭町村、領家町村の惣名(総称)であることが記されています。
「富木とは此辺の惣名にして、邑は領家町村、地頭町村川隔て、家数五百軒斗有り。市場にして商家也。川の東は地頭町、川の西は領家町也。繁盛の地也」

日本東半部沿海地図(伊能小図) 文化元年(1804)
いわゆる伊能小図(東日本部分)の写しです。リンク図葉には、地頭町、領家を併記した上で、両者について「富木共曰(とも言う)」の書き込みがあります。

三州志 図譜村籍 文政二年(1819)
三州志は加越能三国に関する江戸後期の地誌です(これも歴史地名大系に引用されています)。その図譜村籍の中に、「富木院二十六村並垣内六処」として中世富木院に属した近世村が列挙されており、地頭町、領家町も含まれます。その末尾に次のような割注があり、地頭町、領家町、高田村からなる「富木」が存在したことが明らかです。
「地頭町、領家町、高田村。之ヲ合テ富木ト云」

能登めぐり 文久元年(1861)
能登の主な町や著名な景勝に関する画文集です。「富木」の風景画もあり、地頭町と領家町の間の富木川に橋が架かり、両者が一体化していることが分かります。他の他の図葉と比較すると、富木はかなり繁華な町と見られます。

第1回共武政表 明治8年(1875)
文献紹介は不要ですね。この中に「富木駅/高田村」で人口1709人という記述があります。明治14年(1881)の第4回共武政表には「富來(地頭町村・領家町村・高田村)」で人口1821人という記載があることから、「富木駅」が地頭町村・領家町村であることは確実です。

能登地誌略その1 明治11年(1878)
明治初期の能登の地誌です(同じ名称の文献があるので、その1としています)。富木が羽咋、子浦、今浜と同レベルの一つの「邑」であること、その富木の中に地頭町が存在することが示されています。
「富木、羽咋、子浦、今浜ノ四邑ハ、共ニ小繁華ノ地ナリ。富木ハ、商家多ク、近郷諸村ノ物産皆此地ヨリ輸出ス。」
「七尾警察署分署ハ、今浜、大念寺新村、富木(地頭町~実際は割注)・・・ニ在リ」

能登地誌略その2 明治11年(1878)
「富木邑ハ、郡ノ稍北ニアリ。地頭、領家、高田村ヲ合セ称ス。」
地頭町、領家町、高田村から成る「富木邑」が存在することが示されています。

以上の資料から、江戸時代に、地頭町、領家町(場合によっては高田村)から成る「富木」が存在したことは明らかだと思います。
江戸時代初期、地頭町には、今浜、一宮、川尻と並んで能登外浦街道の宿駅が置かれました。即物的には伝馬が常備されたわけですが、当然ながら、宿屋が集まり、商家が密集する町場が形成されていたはずです。「能登めぐり」から分かるように、地頭町、領家町は橋でつながって一体的な町場となり、それが「富木」と呼ばれたと考えられます。
一般的に言って、宿駅が「宿」と「呼ばれるのは当然です。傍証を挙げると、「能登めぐり」では今浜、一宮が「宿」と記載されており、富木を「宿」と呼んでもおかしくありません。また、第1回共武政表で「駅」とされた所の多くが、一般的には「宿」と呼ばれているのはご存じの通り。さらに言えば、平凡社の歴史地名大系の「富来八幡神社」の項で「地頭町・領家町などいわゆる富来宿」という記述もなされています。
したがって、「地頭町、領家町から成る富木」は、「富木宿」と呼ばれることもあっただろう、というのが私の考えです。

長くなったので、とりあえずここで切ります。
EMMさんは完答されたようですので、十番勝負の邪魔にはならないと思いますが。

(長いこと書き込みをしていなかったためか、okiで新規書込をすると「既に他の方が使用しています」という表示が出て書き込み不能になりました。仕方がないのでニックネームをoki2としています。ご了承下さい。)


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