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hmtさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[89954]2016年2月6日
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[89935]2016年2月4日
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[89934]2016年2月4日
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[89933]2016年2月4日
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[89925]2016年2月2日
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[89901]2016年1月30日
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[89899]2016年1月30日
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[89879]2016年1月26日
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[89541]2016年1月9日
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[89423]2016年1月2日
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[89357]2015年12月28日
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[89356]2015年12月27日
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[89353]2015年12月27日
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[89349]2015年12月26日
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[89321]2015年12月21日
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[89272]2015年12月11日
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[89267]2015年12月10日
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[89261]2015年12月9日
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[89260]2015年12月8日
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[89254]2015年12月6日
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[89249]2015年12月5日
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[89248]2015年12月5日
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[89247]2015年12月5日
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[89184]2015年11月26日
hmt
[89106]2015年11月19日
hmt
[88941]2015年10月28日
hmt
[88933]2015年10月26日
hmt
[88907]2015年10月16日
hmt
[88892]2015年10月13日
hmt
[88875]2015年10月9日
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[89954] 2016年 2月 6日(土)21:10:33hmt さん
下総
[89943] 実那川蒼さん
個人的に気になっている例を挙げます。下総(しもうさ)は下(しも)+総(ふさ)の合成と考えられますから、「追う」タイプのように見えます。ところが、JR東日本の総武本線にある下総中山駅のローマ字表記は「Shimōsa-Nakayama」になっており、発音も「王」タイプなのです。(中略)自然言語は一筋縄ではいかないものだと思いました。

「下総」のような古い歴史をもつ地名では、語源を伝える漢字表記と 現在の発音 との間には変化があります。

語源漢字1発音1漢字2発音2かな表記ローマ字表記の例
あわ/うみ(近)淡海オー/ウミ近江オーミおうみcity.omihachiman.shiga
とおつ/あわ/うみ遠淡海トーツ/オーミ遠江トートーミとおとうみstation/toutoumi
かみつ/ふさ上総カミツ/フサ上総カヅサかずさkazusa-h(上総高校
しもつ/ふさ下総シモツ/フサ下総 シモーサしもうさShimōsa-Nakayama駅[89943]
かみつ/けぬ上毛野コーヅ/ケヌ上野コーヅケこうずけ(神津島こうづしまKozu Shima)
しもつ/けぬ下毛野シモツ/ケヌ下野シモツケしもつけcity.shimotsuke

[89925]で紹介した地図表現検討会報告書で採用している「長音を表す記号の省略」方式を用いる場合、その詳細は 備考2でを示されています。
これを「下総」のケースにあてはめた場合、常識的な判断では「シモツ/フサ」の短縮により 現在の「シモーサ」という単純な長音発音が生まれたと思われます。
その場合は、ヘボン式表記「Shimōsa」【JRで現実に使用】から 長音記号省略の原則に従った「Shimosa」になります。

しかし、駅名のかな表記は「しもうさ…」です。
これだけでは、発音が「シモーサ」なのか、「シモウサ」なのか判別できません。
後者、すなわち表音ローマ字表記が「Shimousa」である場合は、
長音に対応する元の漢字が一文字の場合には「o」に短縮するが、二文字に分かれる場合には短縮しない
の前者「Shimosa」ではなく、後者「Shimousa」になります。
確かに、一筋縄ではいきません。
[89935] 2016年 2月 4日(木)20:24:40hmt さん
ローマ字表記・英語表記 (4)Ono City問題
[89927] グリグリ さん
大野市と小野市がどちらも"Ono City"と表記するのはどう考えてもおかしいと思います(佐倉市とさくら市をローマ字表記で区別できないのはやむを得ないとしても)。この問題をカッコよく解決する手段が見当たらないのが現状かと思います。

60年以上も前から完全一致の表記を続けている府中市を始めとして、多数の 同名・同音の市 があります。
当事者である市当局としては、手段が見当たらないと言って、手をこまねいていることはできません。

元々、同一の名称を排除する根拠とされた通達そのものに合理的な根拠があるわけでもなく、「別の地名であることを区別する必要がある場合」には、それに応じて「区別できる表記」を選べば済む問題です。

さしあたり問題になりそうな自治体サイトの表記を見ても、完全同一の府中市(広島県と東京都)、伊達市(北海道と福島県)では都道府県名を付しています。
正式表記の異なる 佐倉市と さくら市 の場合は、紛らわしい名称を後から名乗った方が「tochigi-sakura」として区別できるようにしています。

福井県大野市(1954/7/1)と兵庫県小野市(1954/12/1)の場合、共に「Ono」というローマ字表記を使っていながら、それが問題になるとは認識していなかったのではないかと推測されます。
でも、インターネットが普及して市のURLを定める段階になると、区別のつかないことが顕在化しました。

それに対応して「city.ono.fukui」と「city.ono.hyogo」で区別する。これは妥当な解決です。
市当局のとった解決策を代弁すると次のようになります。
国際的に用いるラテン文字表記において、日本の地名を県名で区別することは、自然なことである。
国内的な区別に使われている「長音表記」にこだわるのは、むしろ不自然である。

「Ono City問題」に関係する他の例を見ると、大野城市は「city.onojo.fukuoka」ですが、豊後大野市は「bungo-ohno」とハイフンを使うと共に、「city.minoh」にも使われた「oh」を選んでいます。

参考までに山陽小野田市は「city.sanyo-onoda」です。「ono」は当然として、「sanyo」は「サニョー」と英語読みされる おそれ があります。
でも、Pnasonicに統合される前の「SANYO」が知られていたので、心配はないのかもしれません。

町では、岐阜県揖斐郡大野町が「town-ono」を使っています。
先を越された?福島県田村郡小野町は「town-ono.fukushima」と、県名を付けて区別。

2005年に廿日市市に編入された広島県佐伯郡大野町は「ono-town」でした。WARP
なるほど、順番を変えることにより、岐阜県と広島県の大野町は共存していたのか。
2005年に豊後大野市になる前には大分県大野郡大野町がありました。大野郡5町2村合併協議会は「ohnogun-gappei」で、これが「bungo-ohno」市に引き継がれていたのでした。

函館本線渡島大野駅【2016/3/26から新函館北斗駅】の所在地は、10年前の新設合併までは北海道亀田郡大野町でした。WARPに残されている上磯町との合併協議会では、合併前の表記未発見。
その他平成合併で消えた町村の表記は、岩手県九戸郡大野村が「vill.ohno.iwate」、香川県三豊郡大野原町が「town.onohara.kagawa」、高知県高岡郡大野見村が「vill.onomi.kochi」、群馬県北群馬郡小野上村が「vill.onogami.gunma」で、宮城県加美郡小野田町は未発見でした。
[89934] 2016年 2月 4日(木)15:04:50【1】hmt さん
自治体越えの地名
[89933]の準備作業中、たまたま 郵便番号490-1323 を見たら、稲沢市平和町内に「勝幡新田」(ショバタシンデン)という地名があることに気がつきました。mapionを追記

[89930]で言及されている 愛西市勝幡町 との関係で、自治体越えの地名に該当するのではないかと考え、情報提供しておきます。
[89933] 2016年 2月 4日(木)14:28:51hmt さん
Re:愛西市平和町
[89932] N さん
ただ、素朴な疑問なんですが、郵便番号が振られているのに、実際にその住所は存在しないことってあるのでしょうか。

愛西市町名一覧 の中に、平和町が見当たりません。

念のため、愛西市のサイト内で平和町を検索すると3件出ますが、そのうち2件は隣接する稲沢市平和町【旧中島郡平和町】に関するものでした。
残る1件は平和町奉賛会への支出ですが、これも稲沢市の 国府宮はだか祭 へのご祝儀です。

郵便番号が設定された理由は不明ですが、「愛西市平和町」が実在しないことは、ほぼ確実と思われます。
[89925] 2016年 2月 2日(火)21:59:39【1】hmt さん
ローマ字表記・英語表記 (3)地名の英語表記に関する国土地理院の報告書
[89992] グリグリさん
リンクしていただいた「外国人にわかりやすい地図表現検討会」のページにより、国土地理院から 昨年9月に 地名の英語表記及び外国人にわかりやすい地図記号について-外国人にわかりやすい地図表現検討会報告書- が出ていたことを知りました。
落書き帳で話題になっている「ローマ字表記・英語表記」を考察するにあたり、この文書の第一部(p.4~22)に記されている「英語表記方法」は一読に値するものであると思われます。
なお、p.23以降は地図記号に関するものが主になっています。

[89923] N さん
単純に漢字が切れ目になっているのではないでしょうか。
「郡(kori)」「山(yama)」、「桑(ko)」「折(ori)」、「箕(mino)」「面(o)」、「直(No)」「方(gata)」
漢字ごとに区切る意味があるのかはよくわかりませんが。

箕面が「箕(mino)」と「面(o)」と別々の字で構成された複合語に由来するものであり、その発音も「みの・お」であり、歴史的仮名遣い当時から長音ではなく、別の文字に使われた母音が連続した結果「オ・オ」の発音になったものであることは [89899]で記しました。桑折も同様です。
一方、郡山の「郡」・直方の「直」は「オー」と長音で発音する漢字が使われており、これは 東京・京都・大阪[89901]・神戸と同類です。

国土地理院の 前記報告書 p.21-22には、第一部の別添文書として「表音のローマ字による表記方法」が掲載されています。
注-2(4)【長音を表す記号の省略】については、特に備考2が付けられています。
備考2
長音を表す記号は、省略することを原則とする。
ただし、50音の「い」段の長音は、「i」を重ねて表し、「えい」は「ei」と書く。
また、表音のローマ字表記が「ou」「oo」「uu」となるときに、対応する元の漢字が一文字の場合にはそれぞれ「o」「o」「u」に短縮するが、二文字に分かれる場合には短縮しない。ただし、短縮する表記が通用している場合には、短縮してもよい。
例:
瀬戸内(せとうち)市 Setouchi City
大野(おおの)町 Ono Town
桑折(こおり)町 Koori Town
善通寺(ぜんつうじ)市 Zentsuji City
勝浦(かつうら)町 Katsuura Town

青梅(おうめ)市については、「オーメ」という長音ですから、長音記号を省略した「Ome」とする原則に従っているように思われます[26231]
また、歴史的仮名遣い「あをめ」[18402]に基づき、対応する漢字を「あお/メ」【梅にはバイの他に「メ」という音があります】考えると、長音部の元の漢字は1文字になり、これも「Ome」になります。

しかし、備考2の末尾には次のように記されています。
例外の例:青梅(おうめ)市 Ome City  ※同市ページでもOme Cityとなっている。

これは、元の漢字を「あお/うめ」と見て、これに対応する「O/ume」としなかったことをもって、「例外」と扱ったのでしょうか?

備考2を含む長音の取り扱い。これは、ローマ字表記・英語表記の中で 最も難しいところのようです。
[89901] 2016年 1月 30日(土)15:09:54hmt さん
ローマ字表記・英語表記 (2)Osaka
箕面市[89899]があるのは、言うまでもなく大阪府です。
Minoh市を問題にするからには、何故 Osaka府なの? という疑問も出てきます。

文化庁の現代仮名遣いを見ると、原則と特例があることがわかります。
長音に関しては、アイウエの各列については同じ母音字(あいうえ)を添えるが、オ列の長音だけは「う」を添えるというのが原則で、おとうさん 灯台 若人 おうむ 買おう 遊ぼう お早う 扇 などの例が示されています。

原則に従えば「大阪」は「おうさか」になりますが、「おおさか」になるのは 表記の慣習による特例が定められているからです。
助詞の「を」「は」「へ」動詞の「いう」など自然に身についている表記の他、「ぢ」「づ」の使い方があります。

そして6番目に記されているのが、「オ列仮名+お」のケースであり、例示の中に「おおきい(大)」があります。
これに従って「大阪」の表記は「おおさか」になります。
その先の説明文によると、これらは歴史的仮名遣いでオ列の仮名に「ほ」又は「を」が続くものであり、その発音には次の2種類があるが、表記は共に「オ列仮名+お」となるとのことです。
1 オ列の長音として発音される
2 オ・オ、コ・オのように発音される

「大きい」は歴史的仮名遣いでは「おほきい」と書きました。対照表参照。
従って「大阪」は歴史的仮名遣いでは「おほさか」であったが、現代仮名遣いで「おおさか」になったということのようです。地名ではないが、「ほのほ(炎)→ほのお」などが2の事例でしょうか。

ここまでは、「おほさか」だった大阪が、「おうさか」でなく「おおさか」となった仮名遣いの説明でした。
本題の ローマ字 に移ります。
「ローマ字」という言葉は、日本語を書き表す文字として「漢字・仮名」との対比で使われています。
文字自体の名はローマ帝国時代にラテン語の表記に使われた「ラテン文字」ですが、これを使って日本語を書き表すルールを含むシステム全体を「ローマ字」と呼んでいるようで、訓令式とかヘボン式とかいう名でルールを区別しています。

日本政府が昭和29年12月9日の内閣告示第一号「国語を書き表わす場合に用いるローマ字のつづり方」 として定めているのは、一般には訓令式を踏襲した第1表で、国際関係その他従来の慣例を改めがたい事情にある場合に限定してヘボン式を踏襲した第2表も許容されています【両者の違いは し、つ、ち、ふ、… 等】。

「そえがき」にも重要なルールが示されており、長音に関わる部分は次の通りです。
4 長音は母音字の上に ^ (山形の長音符号)をつけて表わす。
なお、大文字の場合は、母音字を並べてもよい。

ルールには示されていませんが、「ローマ字のつづり方」は日本語の発音を書き表わす規則であり、現代仮名遣いで書き記された仮名文字をラテン文字に直す規則ではありません。
従って、「大阪→おおさか→Oosaka」ではなく、「大阪の発音(オーサカ)→O^saka」となります。
のばす母音字Oが大文字なので、Oosakaも許容されるように思われますが、見たことがありません。

私達の使うPCは、このルールより後に生まれた製品であるにもかかわらず、母音字の上に符号を付ける仕組みになっていないし、仮にできたとしても面倒です。
実際問題としては、PCが普及する前の手書き時代から、山形であれマクロンであれ、母音の上に長音符号を付けるローマ字ルールは嫌われ、「Osaka」という表記が使われていました。

では、この「Osaka」は 如何なる性格の言葉なのか? 
訓令式にせよヘボン式にせよ長音符号の省略を認めるルールはないので、「日本語のローマ字つづり」ではない。
それは、英語のような外国語の中で、大阪を意味するものとして通用している地名、要するに「英語そのもの」なのでしょう。
「Tokyo」、「Kobe」など有名地名はすべて同様ですが、更に英語化を進めてゆくと、「Tokio」になってしまうのでしょうか。東京海上
[89899] 2016年 1月 30日(土)12:20:16hmt さん
ローマ字表記・英語表記 (1)Minoh市
同一アルファベットが連続する市が今回十番勝負の問十で出題されたことを契機に、市名のローマ字表記・英語表記が話題となっています。
既に[89893] N さん により市町村名に拡張したデータを含む考察がなされていますが、「ヘボン式」という言葉が最初のフォロー記事[89857]以降たびたび使われていることも考慮し、今回のシリーズは更に対象を拡張して 「日本語表記に用いるローマ字表記」 とすることを最初にお断りしておきます。

このシリーズを書く動機になったのは、[89857]で紹介された 箕面市長の下記説明です。
箕面の表記の問題ですが、実は私も気になっているところです。私は正しくは、「minoh」だと思っています。ヘボン式ローマ字だと最後を「オー」とのばすのは、ohで終わるのが正しい表記です。「minoo」だと外国人は「ミヌー」と読んでしまうのです。ですからこれは間違いだと思います。市ではこのohで統一していますが、…

「ヘボン式ローマ字」とは、美国(米国)平文(J.C.Hepburn)先生が著した通称『ヘボン辞書』、『和英語林集成』に発祥する表記法で、第三版で確立し 更に現在までに多少の変化はあるようですが、「オ」の長音を「oh」とする表記が使われたことはないようです。
明治学院大学図書館>和英語林集成各版ローマ字対照表の下にある「ヘボン式ローマ字」への変遷 表 にも「oh」表記はありません。
表の注4に記されているように、のばす音はその母音を表わす文字に「長音符号」を付けるのがヘボン式ルールです。

参考までに、「mino」の検索結果
→「ミノ 蓑」の次に「ミナフ 未納」の項目があり、長音符号としてマクロンが付いています。

便宜上ヘボン式の長音表記の件から入りましたが、市長の発言には それ以前の問題があると思います。
そもそも「箕面」は「長音」に該当しないのではないでしょうか。

「箕面」は、本来は「みの」と「おも」の短縮形と思われる「お」と別々の字で構成された複合語であり、その発音も「みの・お」です。1912年の資料では豊能郡箕面(ミノオ)村と記されており、長音である宮崎県児湯郡三納(ミナフ)村と発音が区別されています。

阪急の駅名は、現在も「みのお」です。路線図には「Mino-o」とハイフン付きで駅名が表示され、長音でないことが示されていました。

このような考察は、箕面は「ミノー」と伸ばす長音で発音され、それを「minoh」と表記するのがヘボン式であるという市長の結論と全く相反するように思われます。

もちろん、当事者である市長がこだわる「minoh」については、それなりに尊重したい気があります。
地名も時代により変化するものです。「箕面」という漢字表記は変化しなくとも、文字が表している地名の由来【注】は忘れられ、住民の世代が変れば、発音も母音オが衝突する「ミノオ」から長音の「ミノー」へと変ることはあり得るでしょう。
【注】
地名は山谷にかかる大滝の流水が「箕のおもて」に似ることによったという。(滝安寺文書/箕面市史)
「箕面(みのお)」の地名のいわれは?にも同じ趣旨。

新潟県刈羽郡千谷沢村→チャーザー村[1750][7573]に例示されるような長音化は、現実に箕面市で起っているのか?
若い世代が対象の 大阪府立箕面高等学校学校説明会 のポスターには「Minoh High School」とありました。
しかし、そのURLには「minoo」が使われています。混乱しているようですね。
[89879] 2016年 1月 26日(火)18:52:22hmt さん
南の島に雪が降る
[89856] 山野 さん 奄美で「雪」
[89868] k-ace さん 沖縄本島で初の霙(みぞれ)観測
[89870] 山野 さん 
「初雪の観測ならず」って、じゃぁ何になるんでしょうね?単に「珍しく雪が降りました」ってだけの話?

[89868]に引用されていたウェザーマップ記事【下記】の意味は、私も気になりました。
久米島での雪の観測は1977年以来39年ぶり、名護市では初めてとなる。なお、両観測地点とも自動観測となっているので、初雪の観測とはならない。

気象観測統計の解説 のp.32に、「表 3.4-6 観測の自動化に伴う統計の切断年月日と地点」があり、最も早い初雪に関する統計が切断された日付が示されていました。

p.31末尾に記された本文の一部【要旨】と共に、名護・久米島に関する日付を再録します。
-------------------
1997(平成 9)年から順次、…自動観測(無人観測)に変更した。
このため、…統計開始からの極値・順位値(雪の最早・最晩)の統計を切断する。
表 3.4-6 統計の切断年月日と地点 
2002(平成 14)年 3 月1日 (名護)
2004(平成 16)年 10 月 1 日(久米島)
()で示す地点については積雪の観測廃止
-------------------

この情報に基づいて、少し舌足らずであったウェザーマップ記事を補うと、次のような趣旨になると思われます。

【公式発表ではないが】久米島での雪の観測は1977年以来39年ぶり、名護市では初めてとなる。
なお、両観測地点とも自動観測となって【積雪の観測が再開されているが、2002年以降に積雪の観測が廃止された時期があり、過去の統計とは切断されている。従って、公式には】両観測地点とも初雪の【最早記録を更新した】観測とはならない。

奄美大島の名瀬は、この表の中にありません。従って、名瀬については 長く続いていた雪なし記録統計が切断されることなく、[89856]で引用された「名瀬で115年ぶりに雪を観測」という記事にすることができました。
ところが、名護と久米島については記録が切断されているので、公式に「観測史上初」とか「39年ぶり」とか言うことができない。
どうやら、このような違いがあるようです。

「初雪」については、正式の用語は「その季節になって雪を観測した初日」らしいが、慣用になっている「初雪」を使って問題ないようです。気象観測統計の解説p.5及び9。
富士山では、2004年の無人化で初雪の観測が終了し、その後も各地の測候所が無人化または廃止されていることから、以前と比較すると、初雪を観測する地点は減少しています。
現地でなく、麓から見たのが「初冠雪」

タイトルについて
過酷な状態に置かれたニューギニア島[79420][83592]の戦場。そこに従軍していた加東大介【注】は、上官からの命令で演芸分隊を作り、ジャングルの中で芝居を上演しました。もちろん紙吹雪。その経験に基づく手記(1961)はテレビドラマや映画にもなりました(本人主演)。
戦後70年の2015年。前進座公演もありました。
【注】加東大介
戦前は歌舞伎(前進座)、戦後は映画(七人の侍など)で活躍した俳優。沢村国太郎、沢村貞子の弟という役者一家。長門裕之や津川雅彦は甥です。
[89541] 2016年 1月 9日(土)14:43:33【1】hmt さん
「新湊」の由来
[89540] EMM さん
「新湊」は単独の港を示しておらず、複数の港町を統合するために明治初期に新造された瑞祥地名と言えるものである

オフ会で訪れた際に記した[89242]では、古代からの伏木港との対比から「新湊」と呼ばれたものと思っていました。
落書き帳では、既に2011年の記事 [78880] EMM さん によって詳細に説明されていること。
明治4年という意外に新しい時代に作られた地名であること。
明治前期の「新湊」は 伏木までを含んでいたこと。
3つの重要なポイントを指摘していただき、ありがとうございました。

せっかくの機会なので、当時の資料における「新湊」の記載状況を確認してみました。

最初に、幕末の状態を記録した
旧高旧領取調帳データベース により、越中国射水郡に存在した村名を検索。
確かに「新湊」は検出されず、江戸時代には「新湊」という港の名が無かった[78880]ようです。
六渡寺村, 放生津村, 伏木村, 古府村は出るが、国府は出ません。高岡の金屋村は出るが、馬出は出ません。氷見町は出るので、「町」は出ないということではないようです。

明治8年12月共武政表
越中国射水郡に「新湊」が存在することを確認できます。
「湊」という文字は、高岡駅の「駅」や氷見町の「町」に対応する言葉でしょうか?

明治12年12月 郡区町村一覧 富山県越中国射水郡の記載
右ページ最後付近などを列挙。小矢部川左岸らしき「新湊町元伏木村」などの町名に注目。
…中伏木村, 中伏木新村, 六渡寺新村…新湊町元六渡寺村…新湊放生津町…新湊放生津新町…新湊町元伏木村…新湊町元古府村,新湊町元古国府【その他にも新湊町◯◯村あり】…高岡◯◯町(68)…氷見◯◯町(18)…

[78880] EMM さん
地名大辞典の地名編と地誌編のところで合併した町村の名が違っているのは気になりますが

地誌編には伏木を合併したと記してあるのに地名編では脱落。しかし明治12年の町名を見れば、少なくとも郡区町村編制法施行の時点では小矢部川左岸の伏木地区まで新湊になっていたことは確かなようです。

明治19年1月 地方行政区画便覧
この便覧は、伏木町が新湊町から分離する直前です。
富山県越中国射水郡の記載中から戸長役場所在地単位で記すと、小矢部川左岸の新湊伏木村, 新湊古国府【町村がついていない】は、氷見中町, 氷見御座町と同じ 389コマに記されています。
そして、その後に高岡の戸長役場所在地である高岡片原町, 高岡御馬出町, 高岡木町が記され、小矢部川右岸にある新湊六渡寺村, 新湊放生津新町, 新湊放生津町は 390コマと、既に離れて記されています。

庄川の河口を小矢部川河口と分離して現在の位置に移した工事は明治末期と思われますが[89248]、明治19年の便覧や伏木町分離は、それを先取りしているようです。

最後に、変遷情報に記録されている町村制施行時点での新旧町村名をリンクしておきます。
富山県射水郡 新湊町、同 伏木町
[89423] 2016年 1月 2日(土)18:26:03hmt さん
スタートダッシュ
新規登録メンバーを迎えた2016年。おめでとうございます。

元日に最初の記事。翌日には10件を記録して登録達成。これは新記録だろうと思います。
メンバー登録関係で私の記憶に残る記録は、10件未満での登録申請制度[37188]を獲得した たもっち さんのものであり、初記事の翌々日に登録されました[37205]

参考までに、初記事日と登録日との差が小さいメンバーを列挙すると、遠州太郎さん、たもっちさんに次ぐ第3位は Zzzさん、カッパーさんの3日。以下、太白さん 4日、えっすさん、がんす横丁ままさんが5日、KMKZさん 7日、JOUTOUさん 9日です。
登録日に関しては グリグリさんの記事によりました。
調査不十分で見落としがあればご指摘願います。

なお、[89419]記載の登録日は誤記です。
[89357] 2015年 12月 28日(月)13:14:23【2】hmt さん
海と島 (25)1世帯70人の海栗島(うにじま)
[89351] にしさん21号 さん
過去に世帯当たり41人もいた記録を私も知りませんでしたし

2003年の落書き帳記事[17003]には、海栗島【当時は 長崎県上対馬町】世帯数1、人口62と記されています。
この島は全部が航空自衛隊レーダー基地として利用されています[17864]
国勢調査における「世帯」の扱いについては てへへ さん の記事 [17875] があります。ご参照願います。

参考までに、長崎のしま紹介では 世帯数1、人口70人 となっており、これは 2010年国勢調査の確定値です。

本題の「世帯」から外れますが、「長崎県の島」の話題になった機会を利用し、[85748]の続編を記します。

[17003]では 1世帯の島が5つ示されていましたが、最近の資料によれば 自衛隊施設世帯の2島【対馬島の北側にある海栗島と 壱岐島の北側にある若宮島】を除けば、野崎島を残すのみです。

その野崎島は 新上五島町・中通島が北に長く伸びた半島の先にあります。地図で見ると五島列島の一部と思われるのですが、野崎島の本島とされるのは 小値賀島であり、ここは行政的には「五島列島」に含まれず[26554]、平戸地区に属しています。

野崎島は落書き帳では早くも[10913]【注】で登場します。
[10930]に記されているように、縄文時代からの歴史がある島で、江戸時代には隠れキリシタンが住んでいました。
禁教が解かれた明治時代に建造された赤煉瓦造りの 旧野首教会 も有名です。
しかし、キリスト教と神道とが混在[33529]した3つ集落(最盛期の人口648人)は、自給自足の生活が維持できなくなり[65125]、1971年の集団移住で廃村になりました。
無人島になった時代もあるかと思いますが、現在は宿泊施設の管理関係者がいるようです。

おしどり夫婦が守っていた壱岐の妻ヶ島も、西海市西彼町の 前ノ島も無人島になりました。

【注】
[10913]には【壱岐の】勝本町妻ヶ島が「世帯数が1なのに人口が24」と記されています。
しかし、これは勝本町若宮島の誤記と思われます。こちらは海上自衛隊基地で、2010年人口は14人です。
[89356] 2015年 12月 27日(日)23:29:15hmt さん
海を隔てた自治体の隣接? 橋梁隣接と送電線隣接
削除した[89350]で筆が及んでいた 橋梁隣接と送電線隣接を [89353]から分割しました。

橋梁による隣接事例は、海底トンネルより数多く存在します。
固定資産税の課税区分という観点ならば、海底トンネルと同じように考えてよさそうですが、青函トンネルの事例で使われた「◯◯に係る未所属地域」と同様に「地域」と言えるかどうか。
橋は「大地」と離れて架けられているので、そもそも地方自治法第七条の二の対象外という気がします。

[66799]を見ていたら、海を隔てた自治体を隣接させる可能性のある固定構造物は、海底トンネル・橋梁以外にもまだまだありそうだと思われました。

その一例として、送電線による隣接の可能性を挙げておきます。
香川県に属していながら 中国電力からの送電を受ける 小豆島[63537]
地理院地図で送電線をたどると、島伝いの海底ケーブルにより本州から送電されている模様です。
送電線が県境を越える箇所は石島/井島です。これは、もちろん 市町村隣接関係一覧に離島隣接として収録済みです。
その先は、直島町井島と土庄町豊島(てしま)との間が海底ケーブル送電線により隣接しているようです。
送電ケーブルが着地している「海底」は、固定資産税の課税境界となる「地域」と言えるかもしれません。

香川郡直島町 の電力も、中国電力から供給されています。
玉野市と直島町とを隔てる海面に設けられているのは 架空送電線のようです。
これは橋梁にも増して「地についていない」存在ですから、「未所属地域」を編入して隣接する対象にはなり得ないでしょう。

瀬戸内海をずっと西に行くと燧灘にある四阪島[83592]。ここは元々5つの無人島の総称で、別子銅山で産出された銅鉱石を原料とする製錬所で知られていました。
所属する自治体は 2005年に越智郡宮窪町から今治市になりました。
新居浜-四阪島間 約20kmの海底送電線は1922年に敷設され、製錬所の動力が電化されたとのことです。出典
銅精錬所は1976年に閉鎖されましたが、無人島ながら 現在も亜鉛回収工場が稼働しており、住友共同電力の海底送電線は使われていると思われます。
従って、新居浜市と今治市とが この送電線が着地している海底で隣接する可能性があります。
[89353] 2015年 12月 27日(日)16:20:26【1】hmt さん
海を隔てた自治体の隣接 固定資産課税の境界点かと思ったが…
昨日投稿した[89350]を修正した結果、要旨が変ってしまいました。前報を削除し、別記事とします。

自治省昭和63年告示23号「青函ずい道に係る未所属地域を市町村の区域に編入する処分」が[63789]で紹介されている。このことを、[89330] k-aceさん の記事で知りました。
私はこの告示を [66057]で知り、hmtマガジン 自治体の海上境界 にも収録していました。
しかし、88さんの記事よりも半年前に 花笠カセ鳥さんの記事があったのですね。
この機会に マガジンに補足し、併せて青函トンネルによる隣接対象について言及のあった[63778]も加えておきました。

2008年に告示全文の紹介があったことはさておき、この処分があったという事実について最初に触れたのは 更に前、2005年の記事でした。
[46750] LFB さん
固定資産税の課税のため、海底部については昭和63年2月16日の閣議決定で北海道松前郡福島町、青森県東津軽郡三厩村(当時)にそれぞれ編入されたとのことです。

私がここで注目したのは、「固定資産税の課税のため」という目的が記されていることでした。
この編入処分が行なわれ、「津軽海峡を隔てた自治体の隣接」が現実になったのは、その結果だったのです。

なるほど、自治体の区域[66802]が存在するのは、本来は住民の居る陸部【付属する陸水部を含む】のはずである。
それを海の下で「隣接」させることになったのは、税収の確保という無視できない動機があったからか。
最初はそのような理解で納得しました。

この境界点。実は普通の海ではありません。津軽海峡における領海の範囲は「基線から12海里」という原則よりも狭い3海里。
トンネル内に境界点が存在する場所の真上の海面は、どこの国の船も自由に航行できる「公海」なのです。
平たく言えば「日本ではない!」。
青函トンネル開通直前。
このタイミングを利用して、公海の下にある日本領土の存在を世界に知らしめた知恵者がいたのか?

青函トンネル内の土地編入により増加した面積はどれだけだったのか?
その確認を試みたのですが、昭和63年面積調に前年との比較がなく 不成功でした。
青函が駄目ならば、1997年12月開通の東京湾アクアライン。
このルートの 海ほたる-風の塔間のトンネル内。ここに 課税区分となる自治体境界が設けられているだろう。木更津市の面積変化を調べれば、海ほたるやトンネル内の土地を編入した面積が判明するはず。

しかし、木更津人工島の面積6haとあるが、着工した1989年以降の木更津市面積を調べても、0.06km2以上の面積増加は記録されていませんでした。

海ほたるの住所は「木更津市中島地先」です[46757]。独立した町名が付与されていません。
どうやら、海の頃から事実上木更津市に付属する領域と認識されているようです。
正式の編入手続きのないままになっているが、人工島を木更津市扱いすることに異論をはさむ者はいない。
川崎人工島【風の塔】についても事情は同じであり、両人工島の間のトンネルの固定資産税も山分けで異論なし。
アクアラインの他にも、東京ガス【江東区-袖ケ浦市】と東京電力【川崎市-富津市】の東京湾横断海底トンネルがあります[66799]。こちらにも、海底の自治体隣接が隠れている可能性があるのですが、木更津人工島さえも記録されていないとなると、関係自治体の面積を調べる気にもなりません。

要するに、ほとんどの問題は「地先の海」[66853] という便利な言葉を使えば解決できる。
青函トンネルの自治体隣接事例は「公海の下の日本領土」という極めて特殊なケースの例外だったのではないか。

そこで、もう一度自治省告示S63-23[66057]を読み返すと、「地方自治法第七条の二第一項の規定により」と書いてあります。
この条項によれば 「法定外での編入必要性があると認めて内閣が定めた場合」であり、やはり例外的な特殊ケースのようです。
固定資産税の課税境界というような一般的な目的ならば その目的で法定すればよく、この条項は異例です。

既にちょっと触れましたが、自治省告示S63-23の意味とするところは、
公海の下の部分があるが「青函トンネル内は すべて わが国の領土である」。
国内向けの姿をした告示ながら、実は世界に向けて このことを発信することが 目的だったのではないでしょうか。

青函トンネルと一見すると類似するような「海を隔てた自治体の固定構造物による隣接事例」は他にもある。
しかし、特殊ケースだからこそ 青函トンネル内地域の編入 が告示された。
一般の海底トンネルや海上架橋による隣接事例についての告示が 発見されていないのは 当然のことである。
これが 私の到達した結論でした。
[89349] 2015年 12月 26日(土)14:48:01【1】hmt さん
筑後川のデ・レーケ導流堤
[89344] 有明つばめ さん
疑問に答えていただき、有り難うございます。

明治政府が招いた御雇外国人土木技術者 デ・レーケは 30年も日本に滞在して、各地の河川改修・築港などで多くの成果を残しました。農林水産省
木曽三川分流工事・淀川水系の改修などで落書き帳過去記事にも記録されています。
記事には記されておりませんが、立山砂防 に関連する常願寺川の治水も 彼の計画が発端でした。
そして、筑後川でも 導流堤に名を残していました。

有明海沿岸道路の筑後川架橋の際、一部が解体される
工事中の道路は、地形図中央のジャンクション予定地から西に進み、筑後川西岸の大野島にICを作る計画ということですね。
[89321] 2015年 12月 21日(月)18:40:49hmt さん
筑後川河口部の隣接関係
[89318] デスクトップ鉄 さん
柳川市・佐賀市のように、河川をはさんで対面しているが、架橋がないのは隣接関係がないのでしょうか。

境界線がmapionには記載されていませんが、地理院地図では 河口まで描かれています。
ちょっと気になるのが大川市大野島の東にある実線です。
佐賀市大詫間の東にある県境線と重なっていますが、何を示す線なのでしょう?

筑後川河口部の中洲【佐賀市大詫間】は16世紀頃には存在し、所属争いはありながらも 筑後国(柳川藩)と肥前国(佐賀藩)との国境としての実績があり、隣接関係は 現在の境界に引き継がれているようです。
[79662]では、元々は別々の中洲であった 大野島(福岡県)と大詫間(佐賀県)が、砂の堆積により陸続きになったことに言及しています。
[89272] 2015年 12月 11日(金)19:56:26hmt さん
Re:未確定
[89270] グリグリ さん
#15図以上の縮尺では、境界線が道路に架かる場合は道路の下に隠れるように描かれるのがルールのようです。

これは知りませんでした。
なるほど、境界線は水路や道路のような地物に沿って定められている場合も多く、図化に当っては 処理するルールが必要なのですね。

少し前のページのようですが、地図記号を表示する位置の 優先順位 に触れた解説がありました。
長文ですが引用しておきます。
これらの対象物は、真位置に表示するのが原則ですが、道路と鉄道、河川などが接近して存在し表示すると記号が重なってしまう場合は、少しずらして表示します。それを転位といいますが、双方ずらして表示するのではなく、どちらを真位置に表示し片方をずらして表示するよう優先順位が決められています。
平成14年式図式では、電子基準点・三角点>海岸線、一条河川>道路>鉄道>二条河川・がけ等自然物>建物・構造物等の人工物>植生>行政界・注記等の無形物の順と定められています。
道路と鉄道の場合は、道路を真位置に、鉄道を転位して表示することとなっています。

行政界は最低順位なのですね。
「境界線優先」で描かれているように思われるmapionに対して 地理院地図では「地物優先」。
#15図以上の大縮尺図では 境界線の位置をずらすどころか 道路の下に隠れてしまうとは驚き。

地理院地図【#15図 #16図 #17図】における 谷中湖堤防以南の栃木・群馬県境のまとめ

境界が見えない部分があるが、その理由は描画優先順位の関係であり、境界未確定ではない。
mapionに記された県境線を参照して、#17図で示す。
谷中湖堤防から栃木市藤岡町下宮集落付近までは、道路の下に隠れている。
下宮集落付近よりも南では、渡良瀬川旧河道の名残である小水路【mapionは無視】の下に隠れている。

県境線が水路の下に隠れているので、終点の三県境位置が示されていないが、小水路合流点付近【図の中心十字線】と思われる。
小水路合流点より数十m南に描かれている埼玉県境線の位置には 疑問がある[89267]
[89267] 2015年 12月 10日(木)21:08:27【1】hmt さん
久しぶりの渡良瀬川旧河道3県境
筑波山オフ会2010の翌日 17人で訪問し、hmtマガジンも編集した栃木・群馬・埼玉3県境が久しぶりに話題になりました。情報源は読売で、次のように記されています。
“境界点”を確定させるため、県境に接する3市町村が年明けにも測量調査に乗り出す。

さて、“境界点”を測量によって確定させることができるのか? また、その目的は?
私たちは野次馬ですから、落書き帳で議論すること自体が楽しみでした。
しかし、公費による測量事業実施となると、期待される経済効果を含めた、それなりの理由が存在するのでしょう。

それはさておき、3県境を話題にする以上は、ここを地図で再確認しておくことから始めましょう。

2010年当時に比べて最大の違いは地理院地図の登場です。
2万5000図に対応する #14図 を見ると、以前と同じような3県境が描かれています。
ところが、これを拡大して #15図にすると、栃木・群馬県境線の一部が消えてしまい、#16図 #17図 でも同様です。#18図には県境線がありません。

mapionで見ると、栃木市藤岡町下宮の集落付近で 県境線が 道沿いから【描かれていない】水路沿いに移行している箇所がありますが、このあたりの県境が不明確なのかもしれません。
[89266] グリグリ さんは、面積調の境界未定地域に記されていないことから 否定的な見方ですが、地理院地図に境界線が記されていないことは、「未確定」[89264]の可能性があるのかもしれません。

[89266] グリグリ さん
ゼンリン地図では公図などを実際に確認して境界線をプロットしたのではないかと思います。

葛城山の事例のような山間部はともかく、住宅地図については 私もゼンリンの調査を信頼しており、このご意見には、私も同じような感を抱きました。
mapionで 加須市小野袋943 という番地を調べると、3県境に最も近い家が出ます。
3県境探訪ルート写真集 10番で 写真の下に隠れている家です。
この家を含む数軒が群馬県側になっている地理院地図の県境線は、南に寄り過ぎていると思われます。
Google mapでは、この部分の県境線がありません。やはり怪しいと思われているのでしょうか。

3市町村が年明けにも測量調査に乗り出すとのニュース。
群馬県によって建てられた標石の由来なども、自治体が調査に乗り出すことで 解明されるかもしれません。
合流点 の近くにある「基点」標石。これが本当に 「鶴の嘴の先端」 を示すものなのか?
調査の成果に注目したいと思います。
[89261] 2015年 12月 9日(水)14:27:31hmt さん
日本一の私道
[89245] YASU さん
【オフ会の】直前になって(中略)急遽参加しました。(中略)
こちらの目玉は日本一の私道(延長31.9km)の走行でした。
宇部興産専用道路については、10年以上前に[28586]を書いたことがありますが、観光バスツアーが開催されている とは知りませんでした。
なるほどオフ会前日ですが、なかなか体験できない貴重な機会を活かすことができてよかったですね。

落書き帳を検索したら、2002年に [6613] TN さん の記事がありましたが、リンク切れでした。
[28613] まるちゃんさんによると、以前は許可証を出して通勤に使われたこともあるが、普通車は原則通行不可になったとのこと。

検証:近未来交通地図によると、産業観光ツアーは 2008年7月から本格実施されたとのことです。
参考までに別のサイトにより、道路と車両の情報を加えておきます。距離が違うのは西沖の山起点となっているためで、専用道路は その先 海上架橋の興産大橋を経て 沖の山地区に通じています。沖の山地区の専用道路には、一般道路と交差する「線路のない踏切」があるそうです。
[89260] 2015年 12月 8日(火)18:24:53【1】hmt さん
あいの風
氷見オフ会については 事前記事[88176]の後、およその旅程に沿って高岡[89247]、氷見[89248]、新湊[89249]をテーマにした記事を並べました。
今回も他のメンバーの行動に便乗しながら動いています。22日はJOUTOU号に同乗[89157]
23日の氷見漁港-富山新港間はEMM号、その前後はラガー号に乗せていただきました。
[89148]で海王丸パークでの昼食後拉致された人質(笑)は3名で、hmtは YASUさんと共に 高岡駅で開放されました。
[89249]の訂正です。越ノ潟の渡船の乗客になったのは グリグリさん1人 という推測は違っていました。
熊五郎さん[72972]は、 富山ライトレール、バス、県営渡船、万葉線の乗り継ぎで 高岡入りをしたとのこと。[ML00088]

それはさておき、ラガー号で高岡駅まで送っていただいたので、帰路の新幹線までに余裕時間ができました。
高岡には 重要伝統的建造物群保存地区に選定されている 山町筋 と 金屋町 とがあります。私の好みからすれば、高岡の町を散策しながらそこまで行くのが筋でしょう。
そう思いながらも 体力不足で実現できませんでした。

高岡市立博物館常設展だけでも覗いておけば よかったのかもしれませんが、それも実行せずに 高岡駅から乗車して富山駅に向かったのが 「あいの風とやま鉄道」です。

JR北陸本線の富山県内区間が、北陸新幹線の 並行在来線として分離され、富山県、市町村、経済団体が出資する第三セクターで運営されることになったのは、ご承知の通りです。

「あいの風とやま鉄道」の路線図を[87384]で追記した際に、区間の表示が境界駅に及んでいないことに疑問を投げかけました。
しかし、よく見るとそこでリンクしたのは運賃表示目的の路線図であり、会社情報>路線についてでは別の図が示され、管理駅数19駅(石動駅~越中宮崎駅)と表示されていました。この表示ならば妥当です。

実は「あいの風」という言葉も知らなかったのですが、社名の由来に説明がありました。
「あいの風」とは、春から夏にかけて吹く北東のさわやかな風で、古く万葉集の時代から豊作、豊漁等「幸せを運ぶ風」として県民に親しまれています。

局地風を指す言葉と解ったので調べてみたら、だんな さん の記事 があり、落書き帳アーカイブズに収録されていました。おなじみ、大伴家持の作品で、「東風」に万葉仮名の注釈を付けて「あゆのかぜ」と読ませています。高岡市万葉歴史館

さわやかな風というよりも、日本海を吹く激しい風のようですね。
家持の歌にも「いたく吹くらし」とあります。
菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花」は「こち」と読み、春の到来を告げる風ですが、「あいの風」は夏の季語になっており、東風と言っても別のようです。

いしかり市民カレッジ講座13によると、「あい風」は 北海道から山陰まで日本海の各地にある局地風です。
海陸の温度差が原因になって発生する海陸風である「あい風」の風向は、地域により 北、北東、東と違います。しかし、西廻り航路の上り【上方行き】船にとって順風であることは共通するようです。
なお、下り船は対馬海流によって蝦夷地に向うことができます。

北前船の時代は終わりましたが、「あいの風」は、氷見の漁業にとって、現在でもブリなどの豊漁をもたらす恵みの風なのでしょう。
[89254] 2015年 12月 6日(日)12:28:13【1】hmt さん
★祝★ 役チャン さん 「公共交通機関による役場巡り」目標達成
10年以上前、[42077] 2005年6月8日 役チャン さん の記事です。
私は「公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」を行っています。
対象を平成の合併前の市町村+東京23区の3259としており(中略)
役所・役場めぐりについては100%達成を目指し今後とも進めて行くつもりです。

朝日新聞2015/11/30夕刊で 大目標を達成されたことを知りました。おめでとうございます。
大合併前の役所役場 3259カ所訪問 公共交通機関使い、29年かけ

電子版では省略されている部分があり、以下の引用部分は紙面に基づくものです。

>合併前の東京23区、671市、1990町、575村をすべて回ると決めた。

671市、1990町との記載から、基準時点が 1999年4月 篠山市合併 の後であることがわかります。
ひとつ解せないのが 575村でした。総務省資料 に示されているように、当時は568村だった筈です。【訪問不可能であり、地方自治法の対象外である北方6村を除外した数字】

それはさておき、旅を始めてから29年、目標設定から23年での成果に拍手。

>1年間に100カ所程度のペースだったが、退職翌年の05年は最多の331カ所を訪れた。

最初に引用した落書き帳デビュー記事は この頃だったのですね。

続いて、「公共交通機関では行けない役場」と題した、難件の岡山県旧中和村の事例紹介[42127]
3件目の[42478]で、著書『地理が面白い』のご紹介がありました。そのうちに続編が出るのでしょうか。

>最後の訪問は今年9月。船で片道26時間かけた東京都小笠原村だった。

役場巡りの仕上げは 飛び切りの舞台でしたね。
『時刻表2万キロ』の宮脇さん[88851]は、国鉄全線完乗の最後になった足尾線の冒頭で、もう少し情緒のある線区にならなかったことを悔いていました。

hmtとして印象に残っている記事は、[57874]で紹介いただいた和歌山県湯浅町の望楼を備えた庁舎です。
「稲むらの火」 [36355]で知られる安政南海地震津波に関係する話題でした。スレッド[57891][57904]

この安政南海地震発生は、 安政元年11月5日【天保暦】でした。
日本政府は、これにちなんで11月5日を「世界津波の日」という共通記念日にすることを各国に働きかけていました。
最新の報道によると、12月4日の国連総会第2委員会で この決議が採択されたとのことです。
[89249] 2015年 12月 5日(土)16:13:35hmt さん
越中国射水郡(3)新湊
昔の氷見には「布勢水海」と呼ばれた広い潟湖があり、大伴家持もしばしば訪れて遊覧したり、都人を接待したりしたようですが、新田開発・乾田化などに伴って水系も変り、現在は 十二町潟水郷公園として一部に痕跡を残すのみとなっているようです。

…というわけで、オフ会第2日の遊覧船は氷見漁港です。
強風のため短縮された港内コースでしたが、みなさんと共に楽しむことができました。

下船後に集合写真。その後は海王丸見学組ということで、EMM号に乗車。
特にお願いしたわけではありませんが、伏木港を経由していただいたようです。
同じく富山新港を目指したラガー号は先に到着し、3人は既に海王丸でした。

地図を見ると、戦時合併とその解体で話題になった高岡市牧野地区[15592][74310][79475][80421]も近くでしたが、こちらは経由していないようです。

係留されている海王丸の見学も、船内のあちこちを上下しながら巡り、充実したものでした。
その後、今回の旅行では特に意識させられた斜張橋の中でも最大規模の新湊大橋へ。タンカーが橋の下を通って入港する様子を眺めることもできました。

この富山新港、正式名称は「国際拠点港湾 伏木富山港(新湊地区)」だそうです。
2011年の法律で特定重要港湾から改められた国際拠点港湾は、国際戦力港湾の5港【京浜3、阪神2】に次ぐランクで、全国で18港が指定されていますが、本州以北の日本海では新潟港と伏木富山港との2つだけです。

富山新港は、オフ会でスナフキんさんから紹介のあった昭和32年(1957)の地形図に見るように、昔は 浅い【深度最大1.5m、平均0.5m】放生津潟でした。
ここに港を作る計画は大正時代にもあったようですが、第一次大戦後の不況で実現せず。昭和戦前の大築港計画も技術上の問題と戦争で挫折。戦後の高度成長期になり、1960年に運輸省の承認が得られ翌年着工、1968年に開港し、工業港湾として整備されています。

戦後にできた新しい港だから富山「新港」でよいのですが、その場所が「新湊市」となると 文字づかい が気になります。
1889年の町村制から1951年の市制までの間は 射水郡新湊町で、その前身にも新湊放生津町・新湊六渡寺村など「新湊」の付く町村がありました。要するに「新湊」というのは、庄川と小矢部川とが合流していた時代、古代から左岸にあった伏木港に対して右岸に作られた「新しい湊」を意味するのでしょう。現在の地図でも庄川河口右岸(射水市港町)を見ると漁港があります。

それはさておき、掘り込み式の富山新港建設に伴い、港口の航路になる越の潟・堀岡間の陸地は分断され、道路および鉄道の代替として1967年11月から富山県営渡船、通称 越ノ潟フェリーがが運行されました。1986年からは地元住民だけでなく、一般客も無料化しています。今回のオフ会で この県営渡船の乗客になったのは グリグリさん1人だけではないかと思います【ML00132】。
2012年の 新湊大橋 開通後も、渡船は健在なんですね。

渡船の説明に「道路および鉄道の代替」とあるように、海岸経由で富山と高岡とを結んでいた富山地方鉄道射水線も分断されました。
高岡側の越ノ潟-新湊【現・六渡寺】間は、高岡軌道線・伏木線を営業していた加越能鉄道に譲渡され、1980年に万葉線の愛称が付けられました。2002年からは第三セクター鉄道の会社名にもなっています。
乗客の半減した富山側の鉄道は 廃止されました(1980)。
[89248] 2015年 12月 5日(土)16:03:53hmt さん
越中国射水郡(2)氷見と伏木
オフ会会場の富山県氷見市は初めて訪れる地でした。
氷見市の概要 によると、日本海側有数の氷見漁港で有名とのことで、大伴家持ゆかりの史跡や近年湧出した温泉にも触れていました。
氷見(ひみ)という地名の由来は諸説あり、同じ地名は 四国の石鎚山登山道の道筋にある愛媛県西条市にあるとのこと。

万葉集に現れる氷見は 大伴家持の長歌「都奈之取る比美の江過ぎて…」一首だけだそうです。都奈之(ツナシ)とはコノシロの古名だそうで、漁業関連の言葉が枕詞のように使われています。

大伴家持が越中国司として赴任したのは天平18年(746)でした。
能登国は養老2年(718)に成立していますが、家持が赴任する5年前には越中国に併合されており、家持は能登にも しばしば赴いています。渤海国[87470]と日本との交流も始まった頃であり、対岸交易も頭にあったでしょう。

国府は小矢部川が日本海に注ぐ伏木【高岡市伏木古国府・勝興寺付近】にありました。…というか、伏木港は元々庄川の河口であり、現在の庄川の河口は、明治末期の分離工事によって造成されたものでした。
伏木は翌日通過しただけですが、便宜上ここで記します。

左大臣橘諸兄[64972][84084]と親しい関係にあった 青年政治家・大伴家持は 前途洋々の思いを抱いて この越中に赴任したはずです。
しかし、越中勤務の5年間に中央政界の権力は藤原氏に移ってしまい、政治の名門・大伴一族としてではなく、万葉歌人として名を残すことになりました。

北陸道を奥州に落ちた源義経。雨晴岩の伝説は有名ですが、伏木の河口にあった如意の渡しで検問に遭い、 弁慶に扇で打たれた という話が『義経記』にあり、これが 加賀の安宅の関に場所を変えて 伝えられたのが歌舞伎の『勧進帳』だそうです。

変遷情報で確認すると、射水郡伏木町は戦時合併で高岡市の一部になり、市町村名から姿を消しましたが、北前船で賑わった時代を含めて日本海側有数の港町でした。
現在でも伏木地区・新湊地区・富山【東岩瀬】地区より成る 「伏木富山港」 の一部として、新潟と共に日本海の国際拠点港湾を構成しています。

家持のいた伏木から氷見に戻ると、こちらは大きな川が流れる富山平野を主体とする射水郡の他の地域とは少し様子が違うようです。だから、一時的にせよ氷見郡として独立していた時代があるのでしょう。海岸も南部は砂浜ですが、オフ会会場になった九殿浜温泉のある北部は岩石海岸が主になります。

九殿(くでん)というのは、氷見市大字姿の下のレベルの小字名であり、地図では確認できませんでしたが、「ひみのはな」の南にある谷間に九殿遺跡があり、1974年の調査で7世紀初めの製塩遺跡が確認されているようです。平凡社の歴史地名体系p.809中。
九殿浜の沖 約1kmの虻ガ島は、小さいながらも富山県最大の島[87262]

地図で氷見の北方を見ると 石動山があります。山頂は氷見市の領域から少し外れた 石川県鹿島郡中能登町になります。
ここは 山岳仏教の霊峰として、一時は三千人もの山伏がいる大勢力だったようです。
石動山の石は 「天より星落ちて、石となり、天漢石と号す」 とされているが、隕石ではないようです。
石動 いしゆるぎ→いするぎ。
難読駅で有名な北陸本線>とやま鉄道石動駅の所在地は 1962年に小矢部市になるまでは、富山県西礪波郡石動町でした。
前田利家の時代に、家臣の前田利秀が能登の石動山の伊須流岐比古神社を城下町に移し、「今石動」と名付けたのが由来とされます。
[89247] 2015年 12月 5日(土)15:55:07【1】hmt さん
越中国射水郡(1)高岡
第12回になる落書き帳オフ会。今年も参加することができました。
少し遅くなりましたが、例により関連記事を記します。

最初に タイトルを説明しておきます。少し長いです。
北陸新幹線での富山県入りに利用した富山市は別として、今回の行程は 高岡・氷見・射水の3市でした。
変遷情報を遡ると、2005年の平成合併により新湊市と合併して 射水市を形成した4町村が所属した 射水郡 が現れます。
更に遡り「越中四郡」と呼ばれた時代の射水郡は、現在の射水市域よりもずっと広い領域でした。

郡制施行直前の明治29年に射水郡から分離したのが 氷見郡 で、その区域は、1952年から1954年にかけて全域が氷見市になりました。

高岡は、市制町村制施行の少し前【明治22年(1889)2月】に 最初に指定された 36の「市制施行地」[34434]【注】の一つです。当時【郡区町村編制法時代】の行政区画では 「射水郡高岡町」でした。

そして近世以前、越中四郡の頃の「射水郡」は、凡そ現在の3市に対応する行政区画であった ということになります。
「射水」という 地名の由来
富山県を代表する大河である神通川・庄川の間に広がる平野を、水の湧出をあらわす「出水」(イミズ)と呼んだと考えられます。

「射水郡」の頭に富山県でなく「越中国」を冠した理由。それは、改正府県制の影響により「府県」が「地名」に使われるのが一般的になった20世紀 よりも 古い時代の領域を意識して用いた「射水郡」だからです。

【注】最初の市
市制町村制は府県別に施行されたので、最初の市の発足はこれに影響され、1889/4/1より遅れた府県もあります。
また 市制町村制施行前に、佐賀・岐阜・甲府・鳥取が 市制施行地に追加指定されています。
「最初の市」は36ではなく、45府県の市制町村制施行が完了時(1890/2/15)までに発足した40市であると言ってよいでしょう。詳細は[62660]をご覧ください。
参考までに、資料は 明治22年末日における39市の現住人口で、県庁所在地でない市は 高岡の他に 堺・姫路・弘前・米沢・赤間関・久留米の各市がありました。

ようやく、本文に入ります。
当日は北陸新幹線富山駅の改札口前で、グリグリさんから JOUTOU さんの レンタカーへの同乗を誘われ、もちろん 渡りに船と 同行させていただきました[89157]
富山の市街から西へ進むと県民公園太閤山ランドで、このあたりから先は射水市になります。射水市というと、以前の新湊市 という観念が頭に入っていましたが、平成合併で南の旧小杉町まで領域が広がっていることを 改めて認識しました。

庄川を渡ると高岡市。北上して曹洞宗の高岡山瑞龍寺へ。高岡に隠居城を築いた第2代加賀藩主・前田利長は 1614年に亡くなりました。第3代藩主の異母弟の利常は、利長の戒名・瑞龍院殿聖山英賢大居士にちなんで この寺を瑞龍寺と改称し、1645年から1663年【50回忌】にかけて大改築しました。

伽藍配置図。日本最古の寺院建築様式を示す 四天王寺 と同じように、本尊を祀る仏殿を中心として 回廊を巡らせた 左右対称の配置です。仏舎利を収める塔がないのが、最大の違いです。

仏殿というのは禅宗の呼び方で、普通には金堂、本堂と呼ばれる建物に対応します。法堂【はっとう】は講堂ですが、瑞龍寺の法堂は とても大きな建物でした。仁王が安置された山門を含めて 3つの堂が国宝に指定されています。
「浴室」、「東司」【とうす、便所】、「僧堂」【座禅や食事の場】、「庫裏」【くり、台所】と、修行に取り入れる日常生活の場が七堂伽藍に含まれているのは、禅宗様伽藍の特徴です。

創建当時の七堂伽藍が 現代まで完全に保存されているように思われたのですが、よく調べたら、幕末や明治初期の廃仏毀釈により縮小された伽藍の復元工事が近年まで続けられ、その成果があるようです。
幕末に三分の一に縮小されていた僧堂が 創建当時の禅堂に復元されたのも近年のようです。
大庫裏についても、向拝を含む復元改修工事の説明板がありました。向拝とは 神社の拝殿に見られるように屋根の一部が 庇のように張り出した部分 と思っていましたが、瑞龍寺の向拝は 画像 のように独立した屋根でした。もっとも、現地では工事用の幕で隠れていました。

瑞龍寺の後は高岡大仏。カーナビの指示するままにグルグルと回った結果、車窓からその姿を見ることができました。
銅器で名高い高岡ですが、昔の大仏は木造で、1900年の高岡大火までに何回も焼失しているそうです。銅像として再建されたのは昭和8年(1933)と意外に新しい。
余談ですが、仏像は別として人物の銅像第一号とされるのは、兼六園の日本武尊像であるとか。もちろん高岡製です。一番多く作られて全国の学校に普及したのは、昭和戦前にブームとなった「二宮金次郎像」。鐵瓶屋

それよりも、高岡古城公園。
豊臣政権のの五大老として徳川家康と対抗する勢力に担がれる立場にされた前田利家の病死後、約27万石の金沢領を継いだのは、『利家と まつ』 の嫡男・前田利長でした。豊臣から徳川へと政権が交代する難しい時代、家康の加賀征伐を回避して加賀藩の基礎を築くことができたのは、母・芳春院の尽力もありました。
関ヶ原の戦いの後で、前田家は加賀・越中・能登3ヶ国 120万石。異母弟の利常を養子として跡を継がせ 富山城に隠居したが、慶長14年(1609)富山城が焼失し、射水郡関野に築城しました。
北西側から見ると名前の通り小高い岡です。『詩経』の一節「鳳凰鳴矣 于彼高岡」に由来するとか。2012年オフ会の開催地・岐阜の由来[82224]を思い出しました。
エレベーターで岡に上り、中島のある水濠など紅葉の園内を散策、秋の景色を楽しむことができました。

台地の西側は千保川の流れる低地で、ここを碁盤目状に区画して商人町、職人町とし、千保川の対岸には鋳物師(いもじ)を集めて金屋町が開かれました。名高い高岡銅器の始まりです。
しかし、城主・利長の死(1614)で家臣団は金沢に引き揚げ、城下町体制は終りました。
更に一国一城令による廃城が追い打ちとなり、高岡は急速にさびれる危機に直面。
しかし、前田利常は転出を規制して高岡の町を残す保護政策をとり、商工業都市への転換を図ることによって高岡を発展させました。
[89184] 2015年 11月 26日(木)19:47:33hmt さん
斜張橋ことはじめ
斜張橋コレクション には 366件もの橋が収録されています。ざっと眺めたところ、平成以降の架設が多いように感じました。
世界的には西ドイツ【当時】のライン川などが「斜張橋のふるさと」として有名なようです。
そこで、デュッセルドルフの テオドール・ホイス橋の写真 を見たら、1958年竣工・最大支間 260mと書いてありました。
先進地でもまだ60年になっておらず、日本では ここ30年が主であることも頷けます。

コレクションから古い架設年が記録されたものを探してみました。
北海道神納橋の 1963年が最古で、次位が神戸の摩耶大橋 1966年。1968年には尾道大橋と 浜松市の鹿島橋歩道橋が挙げれれていました。1960年代はこれで全部。

ここで「現存しないもの」もコレクション対象になっていることに気がつき、記憶をたどった結果、相模川の相模湖流入口に架けられていた 2代目勝瀬橋 が 「日本最初の斜張橋」である[88047]ことを思い出しました。
かながわの橋100選 によると、初代勝瀬橋(吊橋)の塔を利用し、1959年に橋桁を架け変え。支間長 130m出典
この橋【幅員4m】はコレクションに収録されている3代目勝瀬橋【幅員7.5~10.25m】が開通する 2006年まで使用されました。

廃物利用の塔を用いたあたり、いかにも新形式の橋のテストであることを窺わせます。

神納橋に触れたページを見ると、旭川市神居古潭と深川市納内町を結ぶ道道が通る石狩川の橋ですが、斜張橋と並んで1987年に増設された箱桁橋が架けられています。支間は80.4mと短いものです。
上流側の橋には斜張橋が採用されておらず、短い支間長であることと共に、これもテストという感じです。

1966年の摩耶大橋になると、支間約140m、幅員14mの橋です。これで ようやく本格的な斜張橋の登場か と思いましたが、これと並行して1975年に架けられた 第二摩耶大橋は、これも箱桁で建設されました。やはり、この程度の支間では斜張橋構造にする必要はなかったのでしょうか。
その後、2本の橋は 1995年の阪神淡路大震災に遭遇しました。第二摩耶大橋の方は主橋脚に大きな被害を生じたようです。出典

1968年1月竣工の尾道大橋は 最大支間長 215m。わが国で初めて支間長 200mを超えた本格的な斜張橋です。有料道路として開通後、2013年に無料開放されました。
並んで架けられた新尾道大橋は、「しまなみ海道」を構成する自動車専用橋で、ここで初めて2本の斜張橋が並ぶことになりました。
2本の斜張橋が近接しているので、耐風安定性の工夫などが施されているとか。

最後に「斜張橋ことはじめ」と無関係の余談を少々。

尾道大橋関係に関連して斜張橋の耐風対策に言及しましたが、「新湊大橋の耐風対策」と題する講演会資料 を見付けました。
本題は専門的な内容ですが、その前に 「橋の歴史」・「橋のタイプ」・「橋の大事故」に関する画像がたくさん収録されています。

「橋の大事故」と言えば、日本では文化4年(1807)の永代橋落下事故[75315] がありますが、この事故は収録されていません。参考:落語
死者約1500とも伝えられる大事故の直接原因には交通規制の不備などもありますが、根本原因は 江戸幕府の財政難>永代橋の民営化>メンテナンス作業の不備による構造物の老朽化 だったようです。2012/12/2の中央道笹子トンネル天井板落下事故に通じる問題点があるようです。
[89106] 2015年 11月 19日(木)15:26:20hmt さん
インカ遺跡の麓で 村おこしをした 野内与吉
先月のことですが、福島県安達郡大玉村が、ペルー共和国のマチュピチュ村との間で 友好都市協定を締結した(2015/10/26)というニュースがありました。

世界遺産「マチュピチュの歴史保護区」【1983年登録・複合遺産】。
尖った山を背景にして、尾根に築かれた遺跡の写真は、誰でも見た覚えがあるでしょう。
アンデス山脈中のこの遺跡は、100年ほど前までは 人に全く知られない状態で眠っていました。

インカ帝国の伝説による最後の都・ビルカバンバを求めて イェール大学のペルー探検隊を組織した 米国人 ハイラム・ビンガム。彼が植物の生い茂った西側の急斜面を登りきって、ここにある石組みの遺跡をみつけたのは 1911年7月24日でした。ビルカバンバはこの地ではなかったし、マチュピチュ遺跡もビンガムより少し前に地元民に知られていたようです。
しかし、この遺跡の学術調査を最初に実施し、『ナショナル・ジオグラフィック』誌などの出版物を通じて世界に広くその存在を知らしめた人物として、ビンガムの名は記憶されています。

文字による記録を残さずに滅びた 15世紀のインカ帝国。
写真では 謎に包まれた「天空の都市」というイメージですが、標高2430mというと インカ帝国の首都だった クスコ(3400m)よりも ずっと低いことがわかります。
遺跡があるのは尾根ですが、アンデス山地の大きな地形としては アマゾン川の源流のひとつ、ウルバンバ渓谷沿いであり、麓の村まで鉄道が通じているのも そのためでしょう。

マチュピチュ村は、マチュピチュ遺跡の麓にあり、人口約3000人だそうです。
年間200万人の遺跡観光客は「マチュピチュ村」まで列車で来て、シャトルバスに乗り換えて山上のインカ遺跡に向かいます。

一方の 大玉村 は、昭和30年に玉井村と大山村との合併で成立。平成合併では単独の村として生き残り、全国に先駆けて独自の定住政策を進め、人口が増加し続けています[86365]
安達太良山を望み「大いなる田舎」を自認する農村。「日本で最も美しい村」連合[86495]に加盟しています。

2つの村を「都市」と呼んでよいかどうか? それはさておき、マチュピチュ村と大玉村との間で 世界初の友好関係が成立した背景には、このアンデス山中で、村起こしに尽力した日本人がいました。

それが、福島県大玉村【当時は玉井村】に生まれた 野内与吉(1895-1969)です。
富農の次男ですが 長子相続の時代なので、成人した彼は 契約移民としてペルーに移住して成功する夢を持ちました。しかし、先方の条件が違うので1年で辞めて放浪。ペルーに戻ってからはペルー国鉄に勤務。

野内セサル良郎によれば、1929年にクスコ・マチュピチュ間の線路完成後に、野内与吉はマチュピチュ村の最初の定住者になりました。
飲用や灌漑用の水路、水力発電、機械修理など彼の創意工夫を伴う尽力は村に大いに貢献し、1935年には村で初の本格的な建築物「ホテル・ノウチ」(3階建、21部屋)を建て、一部を郵便局や交番に提供しました。
1939年には村の事実上の責任者である行政官になった彼は村人の信頼を集めていました。

「アグアス・カリエンテス(熱い水)村」(現マチュピチュ村)という名の由来になった温泉も、木材伐採の際に彼が発見したという話もあり、現地では弘法大師のような伝説的英雄になっているのかもしれません。
木材と言えば、彼は材木商としての経験からマチュピチュ付近のジャングルに目をつけており、先住民4家族のみが住んでいたこの村に住み始めた と伝える別の資料もあります。こちらによれば 鉄道開通は1923年。温泉発見の話もあります。

1941年に始まった日米戦争により、ペルーにとっても「日本は敵国」という関係になりました。
野内与吉も、戦時中は公的な活動はできず、監視される状況になったと思われます。しかし、彼を信頼する村人によって 安全は守られていたようです。
前妻と別れたのもこの頃と思われますが、後妻との間も5人の子に恵まれました。

戦後は1947年の土砂災害に際しても働き、1948年には復興のために村長に任命されました。
災害復旧の仕事を片付けた彼は 古巣の鉄道に戻り、クスコに移住して 定年まで勤めて引退したようです。
鉄道の仕事を引き継いだのが ノウチ・セラル・モラレスで、先に引用した野内セサル良郎の父です。

マチュピチュ遺跡が 日本で有名になったのは 1983年の世界遺産登録後でしょう。
しかし、考古学に詳しい三笠宮さまは、早くも 1958年のペルー訪問で見学に訪れ、野内与吉の長女・オルガから花束を贈られました。

日本の新聞にその記事が出た結果、野内家の親類が与吉の健在を知り、大使館を通じて連絡することができました。野内家の人達は 10年かけて100万円を集めると そのお金で与吉を日本に呼び、歓迎会を開くことになりました。このようにして、1968年に野内与吉の大玉村への帰郷が実現しました。52年ぶりのことです。

日本に着いた今浦島・野内与吉の第一声は「電気はついたか?」。

彼は翌年まで日本に滞在しましたが、11人の子供が待っているからと、日本の家族と別れペルーに戻りました。しかし、その2ヶ月後にクスコで亡くなり、家族と村人が見守られながら ペルーに骨を埋めることになりました。日本から持ち帰った玉手箱を開いたので------という記事は みつかりませんでした。

前妻との間にできた次男のホセ・ノウチは マチュピチュ村でホテルを経営。1981年から1983年まで村長に就任。

友好都市の話は以前からあったようですが、お金もかかることなので実現に至らずにいました。
平成27年度になり、日本での支援事業による予算措置が実現。
大玉村からマチュピチュ村を訪問し、マチュピチュ遺跡で友好都市締結式が行なわれたとのことです。
[88941] 2015年 10月 28日(水)16:30:54hmt さん
北九州空港近くの羽島
[88936] グリグリ さん
羽島の所属に関する情報が、Webでもほとんど見当たらないですねぇ。

リンクしていただいたブログの写真からの判断ですが、特殊な趣味的視点をもつ私達は別として、常識的な社会生活を行っている人々の間では、ほとんど無価値と思われる島であるために、Web情報が少ないのではないかと推測します。

では、北九州空港開港という周辺環境の変化をふまえてなされた 訂正の原因は?

これは、表面的には 平成25年面積調 p.104 の記載に尽きます。
訂正(5) 所属未定に訂正(羽島)
(北九州市長(H20.3.19)と京都郡苅田町長(H20.3.24)の申請)

…というわけで、申請内容を境界訂正とした[88936]の下記部分は、事実誤認によるものではないでしょうか。
苅田町との間に所属争論があるように見えます。(中略)との説明から、苅田町からの 羽島を苅田町に含める という公文書による境界申請に基づいて、平成25年の面積調で所属未定となったように考えられます。

先に、北九州空港開港という周辺環境の変化ということを記しました。
私にも、この辺の昔のことはわからないのですが、工業地帯になる前は漁業が盛んで、魚の集まる島や浅瀬には、それなりの価値があったのではないかと考えてみました。

地図を見ると、羽島の近くには毛無島、間島があり、現在空港島になっている付近にも岩礁・浅瀬などがあったと思われます。
漁場という視点に立てば、羽島も 門司の漁村の貴重な漁場として確保される価値があった。

しかし、工業地帯と空港に変貌して漁業が衰え、門司も北九州市の一部になってしまっている現在では、羽島を「門司の領土」として確保する意義は小さくなった。
かくして、周防灘の羽島を 北九州市にも苅田町にも属さない区域【所属未定地】とすることで合意が得られた。
こんな筋書きを想像してみました。

実は、漁業に関係して、「漁業 門司 羽島」で検索すれば、何か情報が得られるかも…と考えましたが、Webでは古い記録は見当たらず。門司審判所の海難記録が2件ありましたが、周防灘ではなく、いずれも日本海にある山口県萩市の羽島でした。この島には昔は人が住んでいましたが、1971年無人化。
[88933] 2015年 10月 26日(月)21:19:35hmt さん
市町村隣接
[88841] [88931] グリグリ さん
大和葛城山北方の4市町村境界隣接に関する国土地理院からの回答を紹介していただき、ありがとうございます。
境界隣接に関する疑問を通じて得られた、自治体の地理的範囲についての認識を、私なりに整理してみます。

基本的に、各自治体が自認する地理的範囲は独自のものであり、隣接自治体の意見が合わないことがある。
隣り合う自治体間で意見が合わない場合は 地理院地図への表示は行いませんので、未確定の行政界が地理院地図に表示されることはありません。

国土地理院の今回の回答によると、関係する自治体から
「国土地理院への境界訂正の申請について、検討はしているが結論はまだ出ていない」
と返答したところ【単数か複数かは不明】があるようです。

現在では、マピオンなど異なる意見の表記も存在し、これに近い意見を持つに至った自治体があるのかもしれません。
現在の地理院地図には、陸地測量部時代からの境界が残っており、そこに示されている隣接関係が、「すべて隣接自治体の合意に基づき確定したもの」と迄は言えないかもしれません。
しかし、問題の4市町村境界について、国土地理院に対して訂正を求める正式の手続きは、現在のところなされていないものと理解されます。
関係する自治体の間で 意見が一致するようならば、正式の境界訂正手続に動くことになるでしょう。

要するに、問題の4市町村隣接関係について、境界線が「今後変更される可能性」はある。
しかし、変更の有無、境界未定になるのか、新たな隣接関係に変更されるのか を含めて、現状では何とも言えない。

私は、国土地理院の回答を このように読みました。

[88931]
この回答からすると、地理院地図はどうやら訂正が必要で、河南町と御所市は隣接していて千早赤阪村と葛城市は隣接していないというマピオンなどの表記が現状として正しいようです。

国土地理院の回答を、そこまで深読みしてよいものでしょうか?

以下、参考までに過去記事を少し拾っておきます。
境界は誰が決めて、地図を作る人はそれをどのように確認しているのか?
この基本的な問い掛け[87841] に対する私の考えは、既に[87846]でも記し、
残念ながら、記された境界が絶対に正しい地図を期待するのは、無い物ねだりではなかろうか?
と書いていました。

富士山を始めとし、地元自治体の意見の相違に基づく境界未定地は各地にあります。
東京の近くでも、平成2年面積調で「境界未定」になった小合溜について、地元意見は江戸時代以来の不一致があったことも記されており、境界問題の根が深いことを窺わせます。[87846]でURLを更新したコラム15「小合溜と都県境」参照。

「境界変更」など国土地理院面積調で使われている用語に関しては、落書き帳過去記事があります。国土地理院からは、「面積調の概要」第I章の末尾に別記Iとして掲載されていますが、そのURLは毎年変ります。最新
[88907] 2015年 10月 16日(金)17:56:09hmt さん
視覚障害者を支援する音響信号機
[88901] 稚拙 さん
得体の知れない「国際標準化」ということばが出てきました。【中略】
一生かかっても理由のわからないことってたくさんありますから、これからも1つ1つ知識を増やしていきたいです。

視覚障害者用信号機の「国際標準化」とは、2007年に制定された ISO 23600 を指していると思います。

その内容は 私もよく理解していないのですが、それよりも、この分野に関係する基礎的な知識を得るために 私が読んでみたのは、国際交通安全学会誌に掲載された解説です。視覚障害者の誘導について

これは 20年以上前の文献で、ISOにおける国際規格化の動向が触れているのは、第2章の いわゆる点字ブロックに関するものでした。5/8コマからの第3章音響信号機については、まだ国際標準化に言及されていませんでした。

音響信号機設置の経緯については、1955年 最初にベル式の音響信号機信号機が設置され、振動式信号機、メロディー式などが開発されたと記されています。
参考までに、メロディー式は 1960年 名古屋でテストされたのが最初。音響信号機ってなあに?

メロディー方式は 21曲が存在。その他に擬音や単純音などの各種方式が存在することになりました。
1975年に全国統一化の要望を受けて整備基準作成に取り掛かり、1996年に擬音への統一方針が出されたようです。
警察庁は 2000年度に調査研究委員会を設置。方角を知りたいという視覚障害者意見調査結果を受けて、擬音の「ピヨ」「カッコー」への統一化。

警視庁交通規制課コーナーに 音響信号機に関するQ&A があり、「擬音式の異種鳴き交わし方式の整備を進めている」と記されていました。

要するに、利用者である視覚障害者の立場で考えれば、個性的ではあるが 多種類が乱立した メロディー方式は、実用的には ベストのものでなかった。
そして、利用者の望む全国統一化と普及とを視野に、仕組みが単純な 擬音式への統一 が行なわれつつある。

私は このように理解し、自分の知識を一つ増やすことにしました。
[88892] 2015年 10月 13日(火)22:48:15【1】hmt さん
10進法の分、60進法の分、4進法の分
[88886] あきすて さん
基本的に、”分”は1/10、”厘”は1/100(”分”の1/10)という認識

漢数字の数詞体系については、落書き帳の初期に[2153] Issie さんの記事があり、1/10の「分」から始まって、厘(りん)・毛(もう)・糸(し)・忽(こつ)・微(び)・…という系列が示されています。
出典は 17世紀の算術書・吉田光由著『塵劫記』や、インドから中国経由で伝来した『華厳経』が挙げられています。
その後、カッパーさんの[9927]もありますが、その内容は難解。

実用的には分(ぶ)・厘(りん)・毛(もう)迄を知っていれば十分と思います。
ここで『単位の辞典』で紹介されている『塵劫記』の原文を見たら、分(ふん)・厘(り)・…となっています。
世間に通用している読み方と違います。

「分」は 文字通り「分ける」という意味です。そこで、基本の数を いくつに分けるのか?

私の理解するところでは、分・厘・毛と分けてゆくのは、インド由来の基本的な数え方である 10進法です。
その場合【日本語の】読み方は「分(ぶ)」です。

天文学の発達したメソポタミアでは、円周を360度【1年の日数】に分け、1度を60に分ける60進法が生まれました。
日本語では、1/60 度の「分」を「ふん」と読んで、10進法の「分(ぶ)」と区別します。
英語では degree, minute(細分), second(2段階細分)と60進法独自の言葉を使います。

天体観測分野での角度測定の歴史は古いが、時間測定の単位として使われる「分」(ふん)や「秒」が測れる 精密な時計 ができたのは、ずっと後のことでしょう。
最初は「1日」という時間を細分して示す目的で作られた「分」や「秒」でしたが、科学技術の発達に伴い制定された現在のSI単位系[86490]の中で、「秒」は一番正確な定義がなされている「基本単位」に出世しています。

余談ですが、10進法を推進したフランス革命[45385]では、時間にも10進法を採用しました。
1週は10日、1日は10時間、1時間は100分。角度についても 直角の1/100の「グラード」を使ったとか。

話が変って、度量衡の「衡」です。これは天秤を使って測定する質量の分野です。
ここでは、分銅の数を最小にできる2進法に利点があり、実用的には2の2乗の4進法や、4の2乗の16進法単位ができました。
質量の基本単位は1両【= 10匁】であり、その 1/4の1分(ぶ)、1分の 1/4の1朱は貨幣の単位として使われました。[33573]
16両【160匁 = 600g】は「斤」という単位です。現在でも食パン1斤などと使われていますが、実際は370g前後であり 340g以上あればOK とのことです。

辞書による いろいろな「分」 の解説
[88888]には既に三省堂国語辞典、大辞林、新明解国語辞典が示されていますが、コトバンクにも 6つの辞書の解説文が載っていました。【大辞林は重複】
確かに、上記の原則論に示した「◯進法」による分け方 以外に いろいろな「分」 の使い方が示されています。

中でも驚いたのが、四分音符は二分音符の半分の長さ という使い方です。
こういう逆の見方もあるのか というのは、計量単位としての「分」に慣れてしまった者の感想で、実は
この語釈の使い方は『ぶ(分)』の原点なんでしょうね。[88888]
一筋縄では解説しきれないほどの「分」の用法があることに感心しました。

【追記】「三分坂」の読み方と、江戸時代の金銭価値
[88891] 伊豆之国 さん
急坂の割増賃金は、銀の重さ三分(さんぷん)=0.3匁を意味しているという横関氏の説。興味深く拝見しました。
お金のことだから4進法だろう。単純にそう考えたら大違いなのですね。
10進法と4進法とでは結果が2.5倍違うことになりますが、それ以上に影響が大きい因子があることを認識しました。

「分」という言葉を使う際には、何を基準にした「分」なのか が明らかにされなければならない。
そのような観点が基本であることを、「三割三分三厘」という用法[88883]に続いて 再認識しました。

金本位と銀本位
「金一両を銀60匁として、『銀三分』は20文に相当し」という記述から判るように、同じ重さでも価値に6倍の違い。

基準が貨幣単位の「両」か 重量単位の「匁」か
金本位の貨幣制度の基準単位は 1両(重量単位では 10匁に相当)。
銀は丁銀として通用した秤量貨幣。従って基準単位は「匁」。従って「銀三分」は 0.3匁の銀の価値。

金と銀で6倍、両と匁で10倍、4進法と10進法とで2.5倍。このすべての相乗になるので、同じ「三分」という表記でも150倍の違いになります。
貨幣の三分(さんぶ)ならば3000文という非常識な高額になるが、三分(さんぷん)の重さの銀なので 実は20文。
この説明に納得しました。
[88875] 2015年 10月 9日(金)20:23:41hmt さん
東京駅の改札口 (3)新幹線・地下新線の駅
これで、東京駅の本格的な駅舎は西側の丸の内と東側の八重洲とに出揃いました。
しかし、両側の北口・中央口・南口を数えても改札口は6ヶ所です。

東京駅改札口を一気に増加させたのは 1964/10/1に開業した「東海道新幹線」です。
全部の改札口・乗換口が当初から存在したわけではなく、名称も変化していますが、現在のJR東海による改札口番号で数えると、1番から5番の5改札口。他に6~9番の4乗換口があります。

その次に出てきたのは「五方面作戦」の一つとして新設された 総武快速線の「東京地下駅」です。
これは、15両編成の電車を丸の内口駅前広場地下5階に乗り入れるものです。
関東大震災後の1925年から行なわれてきた東京の地下鉄工事の中でも、前例のない規模でした。

総武快速線開業は 1972/7/15。
改札口番号 19, 20, 21が関係する この地下駅は、品川への地下線も延長され(1976)、1980年から横須賀線・総武線直通運転となっています。

これも東京駅か と言いたくなるほど離れているのですが、成田新幹線のターミナルとして計画された駅を転用した京葉線の東京駅が、平成2年(1990/3/10)に開業しています。
改札口番号で言うと、鍛冶橋近くの22番と東京国際フォーラム付近の23番。

ここまでの改札口を累計すると、3+3+5+3+2 = 16 です。あと2ヶ所。

東北新幹線の日本橋口(改札口番号10番)は2003年開業。【既に数えている東海道新幹線の1番も同時】
[88859] グリグリ さん
※在来線改札を通らずにJR東の新幹線に直接行ける改札はこの一箇所のみ

最後に、今回も数え落とした八重洲地下中央口。
これは1975年から順次着手された中央通路拡幅工事の一環で、地下八重洲側にありますが、4代目銀の鈴と共に2007/10/25に設けられたのではないかと思います。


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