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hmtさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[99400]2020年4月28日
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[99374]2020年4月18日
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[99370]2020年4月16日
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[99368]2020年4月14日
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[99364]2020年4月12日
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[99356]2020年4月10日
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[99352]2020年4月6日
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[99340]2020年4月5日
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[99312]2020年3月29日
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[99293]2020年3月24日
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[99288]2020年3月23日
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[99271]2020年3月19日
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[99257]2020年3月15日
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[99256]2020年3月15日
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[99248]2020年3月11日
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[99244]2020年3月5日
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[99239]2020年3月1日
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[99232]2020年2月28日
hmt
[99231]2020年2月28日
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[99227]2020年2月26日
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[99207]2020年2月23日
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[99187]2020年2月18日
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[99164]2020年2月12日
hmt
[99155]2020年2月9日
hmt
[99143]2020年2月1日
hmt
[99125]2020年1月28日
hmt
[99086]2020年1月17日
hmt
[99079]2020年1月16日
hmt
[98765]2019年12月25日
hmt
[98756]2019年12月21日
hmt

[99400] 2020年 4月 28日(火)16:06:08【1】hmt さん
1952/4/28 平和条約発効に伴う市町村の変遷 戦前の小笠原5村廃止
4月28日 今日は何の日でしょうか?
1952年というと昭和27年ですから、メンバーの中で当時の記憶があるのは hmt くらいのものと思いますが、日本にとって新時代の始まる年でした。
個人的には大学生になった年であり、直接の関係はないものの メーデー騒擾事件 も記憶に残ります。
東京の市街地道路には、至る処に 英文の標識が立っていました。Occupied Japan のシンボルです。

その前年 1951年9月に 連合国51ヶ国による 対日講和会議 がサンフランシスコで開かれました。
もっとも、事前に来日した米国のダレス国務長官顧問が 吉田茂首相との間で実務的な合意を成立させており、会議の実態は「平和条約」に署名する調印式に近いものでした。
とはいうものの、会議ではソ連のグロムイコ外相が反対論を展開、ソ連、ポーランド、チェコの3国は署名せず。
当時は朝鮮戦争中で、中華人民共和国は米国と対立していました。会議主催者の米国は、東西対立を考慮し、中華人民共和国と中華民国(台湾)との両国 いずれも講和会議に招聘しませんでした。

会議において吉田全権が読み上げた受諾演説は、30m近い巻紙に毛筆で記されたもの。裏話1 裏話2 

講和会議では、後に首相になった池田勇人など全権5人全員が署名しました。
しかし、同日に調印された 日米安全保障条約の署名者は、吉田首相1人でした。

講和条約は1952/4/28寄託により発効し、日本国との平和条約(昭和27年条約第5号) として公布されました。

この落書き帳の中で多用している「Occupied Japan」という用語が過去の存在になったのは、この日でした。
そこで、都道府県市区町村 履歴情報1952年 を開いてみたのですが、4月28日の記載がありません。

実は、昨年の4月28日に[97663]を記した際に、 沖縄「屈辱の日」と書いたのですが、今日は 小笠原への影響について記します。

1952年の平和条約発効時点での小笠原。
潜在主権の存在は認められたものの、日本復帰が実現していなかった点では、沖縄と共通の事情にあります。

違うのは、「地域住民共同体を構成する市町村」が【戦後の混乱期を含めて、曲りなりにも】存在し続けていた 沖縄・奄美に対して、小笠原では 消滅に近い状態 になっていたことでした。

戦前の小笠原5村については、市制町村制施行時の状況東京都の下の方に 1940/4/1 設置が記録されていますが、その後の変遷が記録されない状態になっています。

[79760] 中島悟さん の末尾
小笠原諸島の【中略】これらの5村が消滅していることを書き加えたほうが良いと思います。
[83624] むっくんさん
(16)小笠原5村(大村、扇村袋沢村、北村、硫黄島村、沖村)の廃止の記載をすること
に対する [85063] グリグリさん の意見
こちらの変更種別については「廃止」が妥当でしょうか。
に続いて、[85081][85082] hmt も意見を記しています。
[85081]に記した 「[79266]でリンクした小笠原村沿革」の代りに、現在閲覧できる同名のページ をリンクします。

その中の 1952年(昭和27年)の記載
対日平和条約の発効により、小笠原はアメリカの施政権下になる。小笠原支庁及び各村役場が廃止される。父島に米海軍施設(U.S. Naval Facility, ChiChi Jima)が設立される。

言葉が少し増えていますが、わざわざ「各村役場が廃止」と書かれた表現は変りません。
やはり【事実上の村の廃止はもっと前だが、“村の廃止”が(1952年に)手続上でも完了した】と理解します。

事実上の廃止日は、硫黄島地上戦と父島などへの空襲とは 条件が異なり、村により相違するでしょう。
変遷情報としては、手続的に旧村の廃止が完了した 1952年【日付を入れるならば、平和条約発効に伴い、戦前の行政機構から《自動的に縁が切れた》4月28日です。】を記録するのがよいと思います。
[99374] 2020年 4月 18日(土)13:48:08hmt さん
明治22年4月1日 「町村制」施行により 長野県北安曇郡に設置された自治体 「大町」
[99372] MI さん
数年前に県立長野図書館で確認していただいた調査の詳細報告をいただき、ありがとうございます。

從來ノ町村ヲ分合シ其區域別册之通來ル四月一日ヨリ編制ス
【別冊】【新町村区域の郡名】北安曇郡、【新町村名】大町、【舊町村名】大町
朱書による訂正なし。さらに【同年】4月10日 - 町制施行 の記載もなし。

これにより、明治22年(1889年) 4月1日 長野県 町村制施行 16町375村設置の #252 に記されている情報は、正しい裏付けを得たと判断します。

詳細ではピンク地で示されている 旧・大町 が、Wikipediaに記載されているように
1882年(明治15年)3月20日 - 大町村が村格のまま、「大町」に改称
された状態を継続していたのか 否かは 未確認のままですが、新制度とは無関係のことでしょう。


いずれにせよ、明治22年当時に使われていた制度用語は「町村制」「町村名」で、町と村とを区別するのは、個別の名称だけです。
従って、「変更種別」も「町制」ではなく、「町村制」と記録するのが正しいように思われます。

制度としては「町村制」であり、村から町への呼称変更は 別の制度による「町制」を施行したのではなく、「町村制」の制度内での「改称」に過ぎない。
「24年告示第27号を以て上諏訪村を上諏訪町と改称」[91956]

このような慣行から、「町制施行」という言葉が使われる慣行に移行したのは、何時のことか?
戦後の地方自治法? いや、もっと根が深いのではないか?

その答を持っていない私としては、根拠不詳ながらも 変遷情報 上諏訪町 における「変更種別:町制」を受け入れざるを得ない、中途半端な状態なのです。
[99370] 2020年 4月 16日(木)17:09:51【1】hmt さん
hmtマガジン「町と村の違い」更新
2016年11月、グリグリさんの疑問 [91951]「大町は村?」を発端に、[91971]種別名 に至る一連の記事9本がありました。

大町・谷村の同類。つまり語幹部が漢字1字である自治体名。
このタイプの「もとの地名」を論じた最初の記事は[34776]の「中村」でした。
しかし、[91969]に引用してあるので 省略し、特集 町と村の違い の末尾には 2016年の9本の記事を 追加しました。

[91951]で引用された Wikipediaには、現在でも次の記載があり、町村制施行当初「大町は村だったのか?」という疑問が生じたのでした。
1882年(明治15年)3月20日 - 大町村が村格のまま、「大町」に改称する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
【同年】4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。

この疑問に答えようとしたのが[91956]ですが、明治22年4月10日 大町の町制施行 を裏付けることができそうな県令・告示などの一次資料を発見するには至りませんでした。

[76874] むっくんさん に引用された『長野県現行令達類聚』に掲載された 明治22年長野県令 第18号(3月19日)には、「新町村名:大町」が明記されているのですが、明治25年12月迄の改正が盛り込まれており、「明治22年の原文そのままではない」という問題点がありました。
此書専ら専ら簡約を主とす 故に…改正増補の文字に改め旧文を存せず 欄外に於て其沿革のみを記載す

結局、[91956]の結論は グリグリさんの問に対する返事としては物足りないが、次の通りでした。 
現状では、「大町は 1889/4/1に村制を施行した」と信ずるに足る証拠が 具体的に示されていない。
従って、大町は 1889/4/1に町制を施行した生まれながらの町である」とする趣旨の変遷情報を 改める必要はない。

[91956]の末尾、余談:村と町との区別について より抜粋
便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いましたが、これは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
現行の「町になる要件」【地方自治法第8条第2項】は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。

「生まれながらの町」論争はさておき、グリグリさんは [91965]で、「町村名」に「まち・ちょう・むら・そん」なども含めるべきかどうかというテーマに舵を切りました。

例示された山口県阿武郡椿郷東分村。
私も 椿郷/東/分村 だろうと思っていましたが、にまんさん[91970]から 椿郷/東分/村 という指摘がありました。
大きな村の「西半分」「東半分」といった意味合いが強いと思われます。

椿郷西分村→1910年椿村、椿郷東分村→1921年椿東村、1923年両村他1村萩町に編入、1932年萩市

現在は統合された市町村名で単純化されましたが、履歴を遡ると「町村名」からも複雑な過去が現れるのでした。
[99368] 2020年 4月 14日(火)16:16:30【1】hmt さん
役場巡りの菊人形さん
[99366] 菊人形さん
全国の市町村役場を一通り巡りましたが、庁舎が新しくなると再訪しているので、ゴールは永遠に来ないかもしれないです(笑)。【中略】
さて、新型コロナの影響で各地で自粛空気の中で、本日(4月13日)に3つの市役所の新庁舎が開庁しました。

お久しぶりです。
菊人形さんとの初対面は、2012年の岐阜オフ会。例会翌日にも、金華山行きなどで助けていただきました[82265]
その後も 2016年の杖立まで 5年連続してオフ会同席。
2013年の松江では、富士山世界文化遺産登録を記念して 富士見市が作成した団扇[83633] を菊人形さんがゲット[84496]

2015年 氷見を訪れる往路では、思わぬハプニングもあった[89225]とか。
hmtも 2008年 湯瀬オフ会への往路で訪れた八戸駅(当時は新幹線終着駅、記事なし)で、同様の失敗を経験。

庁舎訪問の趣味は 特にありませんが、『広報かわぐち』で川口市新庁舎の外観4/13_使用開始を閲覧。

菊人形さんの過去記事を眺めていたら、4年前に 北海道石狩湾北端の 雄冬に関する記事があることを発見。

関連記事には、
30年前の「陸の孤島」時代に 酷い船酔いに苦しめられながらも訪れた高校生が 落書き帳メンバーとして活躍しており、しかも3年前にも国道231号で 再訪を果していること
に感動した hmtの記事[92055]も 含まれていました。

楽しからざるニュースが溢れている昨今です。
しかし、久方ぶりのメンバー登場を機に、一つの地名「雄冬」を選んで、過去記事を発掘してみました。
その結果、普段は忘れていた地域や その過去を再認識して、歴史の中に生きている実感を味わうことができました。
[99364] 2020年 4月 12日(日)15:18:34【1】hmt さん
チバニアン補足
[99356]の補足です。
これまで「中期更新世」と仮に呼んでいた77万4000年前から12万9000年前の地質時代

シロウトですが、学問の進展により変化している 地質時代の名称について、少し記しておきます。

最初に 第一紀・第二紀・第三紀・第四紀と呼ばれた区分の基準は、古生物化石の変化【大量絶滅】でした。
しかし、研究が進んだ結果、第一紀には6紀が、第二紀には3紀が含まれることになり、古生代・中生代と命名。
これに伴い、恐竜に代り哺乳類と鳥類が陸と空の動物代表になった第三紀以降は、新生代と命名。

第三紀 Tertiary。これは 長く使われてきた用語であり、現在でも「K-T境界層」などの用例を見かけます。
K-Tの「K」は、ドイツ語の Kreide 白亜紀 です。
現在では 古第三紀 Paleogene と 新第三紀 Neogene とに分けられており、「K-T」は「K-Pg」になりました。

第四紀 Quaternary だけは、大量絶滅とは無関係に、「人類の時代」として使われてきましたが、2004年に Neogene に併合する提案がなされました。
しかし、この提案には 反対論が多く、第四紀を存続し、その始期【新第三紀との境界】を ジェラシアンの基底年代である 258万年前とすることになりました。2009年6月です。

2010年の 地質時代区分を見ると、0.78-0.126Mya は「更新世中期*2」と記され、「*2:Ionian が提案」という注記により「チバニアン案」は未申請であったことが解ります。【イオニア海に由来するイタリアの提案】

最新の 国際年代層序表v2020/01

この表の左上 第四紀更新統/更新世の2番目に 「チバニアン」0.774-0.129Mya があります。

日本の地名に由来する チバニアン が、国際年代層序表に 新たに採用されたのは 快挙であるように思われます。
それは「地磁気逆転」研究分野に関して、松山教授を先駆者とする日本人が貢献した成果を背景とするものでした。

しかし、今回の命名に至る段階では 日本国内の反対論・反対活動もあったと伝えられています。出典


新第三紀 中新世に「アキタニアン」があります。これは 秋田… ではなく、フランス南西部 Aquitaine 由来です。
[99356] 2020年 4月 10日(金)19:06:11hmt さん
心配事の材料は、コロナウイルスだけではない
現時点で世間を騒がしている心配事の材料と言えば 何と言っても コロナウイルス です。
感染の原因とされる 他人との濃厚接触 を避けることは、もちろん必要でしょう。
幸い、免疫というシステムが存在し、免疫に関する研究も進みつつあるので、人類滅亡という段階になることはあるまい。

悪疫対策や老衰への備えは常識となっていますが、発生の時期も、社会に対する影響も不明であり、如何なる対処が求められるのかわからず、不明のまま放置されているに等しいリスクもあります。

「無視していたリスク」の一つに気付かされた材料に、4月1日の記事 [99325]チバニアン がありました。

改めてチバニアンを検索してみた結果、この地は 地磁気の逆転(ポールシフト)に関する研究にゆかりのある地であることを知りました。

2020年1月、ついに「チバニアン」という時代が誕生することになりました。これまで「中期更新世」と仮に呼んでいた77万4000年前から12万9000年前の地質時代、その時代の始まりを告げる痕跡が千葉県市原市の地層にあったことから、日本の研究者たちが時代の名前としてチバニアンを申請していました。

方位磁石は古くから航海に利用されていましたが、ギルバートが地球は大きな磁石であるとしたのは1600年。
ガウスが地磁気の研究を始めたのは 19世紀であり、ブリュンヌが現在とは逆向きに磁化された岩石を発見したのは、1906年でした。
京大の松山基範教授は、1926年の玄武洞以後に行なった逆向き磁化の研究により、「地磁気逆転の可能性」を示す論文を 1929年に発表しました。

最近 500万年澗を見ると、ギルバート, ガウス, 松山, ブリュンヌと4人の先駆者の名で大別された4期間の中で、更に細別された逆転を繰り返していたことがわかります。

2015年5月作成の 第四紀とは 2/4コマの図では横向きになっていますが、同様の図が日射量、海水準、人類と共に示されています。海水準の上った間氷期もありますが、概ね氷期であったことがわかります。

ネアンデルタール人、ホモ・サピエンス共に、地磁気逆転を経験したのは 人類の文明段階が低かった「氷河時代」ですから、私達文明人にとり、地磁気逆転は COVID19とは比較にならない 全くの未経験の事態です。

楽観的観測もありますが、メカニズムが解明されていない磁極逆転の時期とその影響。
私達の生きている間に、そのような事態になることはないだろう。

そんな気休めを唱えながら、幸運を祈るばかりです。参考
[99352] 2020年 4月 6日(月)20:14:16hmt さん
Re:連鎖循環クイズ
解いてみた結果、私として最も感心したヒントは、下記の部分でした。
A市と同一年月日に市制施行した兵庫県の市はB市です。
[99340] 2020年 4月 5日(日)17:18:38【1】hmt さん
琉球処分
昨日4月4日は 1879年に 沖縄県が設置された日 でした。明治12年太政官布告第14号
ローカル祝日とされている県も多い「県の誕生日」ですが、沖縄県の受け止め方は、様子が違うようです。

【追記】
公式書類上では日本全国に布告された M12/4/4とされている「第二次琉球処分の日付」ですが、沖縄の人たちの心に深い傷跡を残した日付は、突然に 武力による威嚇を伴って 知らされた 「M12/3/27」 であったようです。【追記終】

沖縄県公文書館のページ あの日の沖縄をご覧ください。
沖縄県の誕生は、琉球人の視点では、500年余の歴史を持つ琉球王朝の 事実上滅亡。
その厳しい変化を実感した出来事でした。

琉球の歴史 を遡ると、江戸時代初期の 1609年に 日本の薩摩に征服され、奄美を失いましたが、沖縄と先島については 首里の王府が存続しました。
鹿児島による間接支配を受けながらも、対外的には【“中国の服属国”たる「琉球王国」として】外交・貿易権を行使し、稼いでいました。

明治になると、その影響は琉球にも及びます。
明治4年 廃藩置県の結果 一旦鹿児島県管轄になった「琉球国」[76021]は、明治5年には 政府(外務省)直轄の琉球藩になりますが、その
明治5年正月に 鹿児島県が琉球に派遣した 伊地知貞馨らが 明治維新の変革を説明したのが、琉球処分に至る公式手続の最初でしょう。ここで 琉球の置かれた状況 を確認させたつもりでしたが、現実には 琉球側は 政権交代の意味を 十分には認識しなかった と思われます。

琉球藩王・尚泰王の名で 最後の清国進貢船を送ったのは 明治9年(1876)[4027]

前記「あの日の沖縄」には、次のように記されていました。
この琉球藩設置から沖縄県設置までの一連の措置は、政府の公文書にちなんで「琉球処分」と呼ばれます。

「琉球処分」という言葉について。
当時の公文書にズバリの例は未発見でしたが、松田本人の使用した言葉であるようです。参考
後に生まれた呼び方かもしれませんが、内務大書記官の彼は、「琉球処分官」松田道之 という 肩書により呼ばれるようになったようです。その時、沖縄は

明治12年4月4日の変化は、形式的には 日本本土で明治4年に行なわれた「廃藩置県」と同様です。
しかし、武力による威嚇を伴い実行され、「処分」にふさわしい厳しさを伴う変化であったようです。

琉球処分時代に見られた人口の異常な変化についての記事もありました。[72118]
[72124] YT さん
第二次琉球処分の前後の2年間(明治11年~明治13年)で、ほぼ本籍人口が倍増しています。いくらなんでも2年間で人口(しかも本籍人口)が倍増することは、たとえ本土から集団移住があったとしてもありえないので、解釈は一つしかあり得ません。つまり本土からの役人が介入したことにより、それまで隠されていた人口が明らかにされたということです。
人口が隠蔽された原因ですが、おそらく税の主体が人頭税であったことが考えられます。これに対し本土では地租が税金の主体であり、人頭税が敷かれた藩は余り多くありません。そのため比較的本土の本籍人口は実態を反映していると考えられています。
[99312] 2020年 3月 29日(日)17:57:36hmt さん
1854年 御台場を舞台としてペリー艦隊と戦ったら?
高輪ゲートウェイ駅が暫定開業(2020/3/14)したと思ったら、今度はコロナウイルス感染症対策で東京封鎖の動き。

慌ただしい動きを示す首都の「玄関口」ですが、170年近く前の「御台場築造」も、東海道封鎖を伴う大工事でした。

ことの起こりは、ペリーが率いて嘉永6年(1853)浦賀に来航した艦隊による アメリカからの開国要求でした。

江戸幕府は、どのように対処したのか?
とりあえずは、通商条約を拒否。
しかし、アヘン戦争の二の舞だけは回避しなければならない。そこで、日米和親条約を締結[91104]

「品川台場」[80264]を築造し、急拵えながらも、翌年には数を増して再来航し 江戸湾に入った米国艦隊に対し、辛くも日本の「海防体制」を示すことができました。
1854年の日米和親条約締結については [77711]に記しましたが、条約調印の場所に 江戸から少し離れた横浜が選ばれた背景には、品川台場の威嚇効果も多少は寄与していたのかもしれません。

最近 NHK 歴史探偵で「黒船来航」と題して、品川台場を舞台とする「黒船迎撃作戦シミュレーション」が放送されました。
もちろん、現実には 日米和親条約で妥結した外交交渉により、結果的には避けることができた決戦でした。
しかし、御台場からの集中砲火能力、アメリカ側のボート・ホイッツル砲の活用、ペリーの再訪が予定より早くて御台

場築造工事が間に合わず 3砲台では負けてしまうという結果、日本側が用意できる多数の小舟、武士の気概と戦闘能力、日米問題に留まらず ロシア・イギリスなど他国が動く可能性など、多方面の視点からの言及があり、なかなか興味深い番組でした。
…と、一応はシミュレーションを褒めておきます。

しかし、番組で取り上げていなかった重要な因子として、アメリカの国内事情があります。

ペリーは日本に対して通商を求める 第13代大統領フィルモアの国書を持参しました。
しかし、「これを日本に拒否された場合、直ちに開戦に直結させる権限」など与えられていません。
日米戦争に発展する可能性など、全くなかったのではないでしょうか。

これを言い出すと、番組の主軸である「黒船迎撃作戦」が成り立ちませんが、テレビの娯楽番組なんて こんなもの なのでしょうか。

参考までに、ペリーの持参した国書【翻訳文】を発行したフィルモア大統領の任期は、ペリー来航より前に切れて、第14代ピアース大統領に引き継がれています。第15代ブキャナン大統領を経て、第16代大統領がご存知・リンカーン大統領です。

通信技術が発達していなかった時代というだけでなく、南北戦争前で米国内の対立も存在した時代です。
そもそも、捕鯨船への物資補給を頼るために 日本開国を求めたアメリカ。
兵站のことだけを考えても、太平洋を隔てた遠い日本との戦争など、アメリカが考えるはずはなかったのでした。

1854年の騒ぎから4年後、ハリスとの交渉により通商条約も調印。もちろん、
阿片の輸入厳禁たり
という一文が、罰金額と共に第二則の末尾に記されていたのでした。出典

幸い実戦に使わずに済んだ御台場ですが、今回の記事を記すための調査により、江戸の守りは品川台場でというページを知り、参考になりました。
[99293] 2020年 3月 24日(火)18:44:35【1】hmt さん
明治12年当時の北海道 北見国網走郡と釧路国網尻郡
[99288] hmt  
そのつもりで 【公文録の】2コマに続く編制を見ると、疑問点があるようです。

一例を挙げると、リンク文書の16コマには、北見国網走郡8村があり、17コマにも同網走郡6村があります。
村名を見ると重複はないので、北見国網走郡が2群に分かれて記録されたのは単なる集計の不手際でしょう。

見逃せない本格的な疑問点として挙げておきたいのは、釧路国に存在したとされる「網尻郡」です。
この郡について 少し記します。

日本の北辺が騒がしくなった19世紀初頭。幕府により釧路国庶路から北見国に向かう「網走越」ルートが開通しました。
釧北峠【阿寒湖の西側】の北は 網走川沿い になりますが、現在の津別町・美幌町のあたりまでは釧路国の領域とされ、北見国とは同音異字の「網尻(あばしり)郡」とされたようです。

明治12年「公文録」では、釧路国に置かれた郡は 15-16コマに記され、網走越ルートの起点である 白糠郡庶路村や阿寒郡各村の名も見えます。しかし、網尻郡の存在は無視された状態です。

[99290]で紹介されたばかりの資料ですが、 府県及北海道境域沿革一覧第一編沿革図表 の 15コマ 左下付近を拡大してみると、北見国網走郡と釧路国網尻郡とが隣接していました。

大きな表を 境界線に沿って 上方に移動すると、明治14年の段に至り、「7月8日両郡の合併による網走郡」と記され、明治12年当時は「釧路国網尻郡」が存在していたことを確認できました。

最近落書き帳に紹介された資料の試用は この程度にして、北見国網走郡については、従前からの変遷情報も利用してみました。

今回の記事の冒頭に記したように、公文録の集計で2群に分かれていた村々。

16コマの 北見国網走郡8村
これは 1902年北海道二級町村制で網走町藻琴村最寄村が施行される前の旧村群でした。

そして、17コマ記載の同網走郡6村
こちらは 1915年北海道二級町村制で美幌村設置前の旧町村でした。

こんな具合で、郡区町村編制法>北海道二級町村制を経て現在の市町村への変遷ルートが追跡できるようです。

ここで新たな疑問が生まれました。
変遷情報検索で「網走」を検索すると、二級町村時代に網走町であった【ピンク地色の】北見町が出ます。
検索結果

明治35年の北海道二級町村制で誕生した「網走町」を構成した旧町村の一つである「網走郡北見町」です。この町は、明治12年の公文録に記載されておらず、その実体が不詳でしたが、網走町の市街地部分でしょうか?

記載がなかった原因を推測すると、明治12年から35年の間に【例えば】網走村からの分割 or 分立により誕生していたのか? それとも、公文録の記載漏れか?


ここで、変遷情報検索を使った お遊び。
北見市と、「その前身ではない北見町」を並んで出せるか?

普通に「北見」を検索すると、【ピンク地色時代の】北見町は hit しません。
苦し紛れに、「自治体種別:指定しない」 を外し 市町村だけにして 「北見」で検索を試みました。

結果オーライで、ピンクの網走郡北見町と【元・常呂郡野付牛町】現在の北見市とが 並んで hit しました
[99288] 2020年 3月 23日(月)11:20:05hmt さん
公文録
KUMON式とは無関係です(笑)。
太政官が明治元年から明治18年に授受した公文書を整理編集した資料です。
落書き帳では、最近になり ekinenpyouさんによる 具体的な事例紹介に利用されています。
私自身は検索手段も知らず、利用するに至っていない入門者ですが、一筆したためておきます。
レファレンス協同データベースの解説

[99279] ekinenpyouさん
開拓使 乙第4号布達 M12.7.23 M12.7.23
[99259]リンク先のもの【府県…沿革一覧】は本文が大幅に省略されておりますので
こちら(2コマ)も参考になるかと思います。

開拓長官 黒田清隆の名で「郡区町村 別冊の通り編制」という結果が、乙第4号として布達されたのは、明治12年7月23日であることは、資料「公文録」の 2コマによって よくわかりました。

リンク資料冒頭の 簿冊表題に続く部分をクリックすると、表紙と目録 が現れます。

5番目に挙げられている「郡区編制の件」ですが、[99279]でリンクしていただいた本体の第1コマには、何故か明治12年7月28日付の上申書(乙第82号と朱書)が付けられています。

昨年(明治11年甲第22号)伺済であり、上記のように人民に対する布達も済んでいるのに、編制実施の際に重ねて上申を出した理由は何か?
私にはよく理解できないので推測になりますが、いざ実施段階になったら、決済を得ていた編制から少し変更していたので、改めて上申したのではないでしょうか。

北海道における 郡区町村編制法の実際の施行日は、M12/7/28? との疑惑。

そのつもりで 2コマに続く編制を見ると、疑問点があるようです。
せっかく詳細な編制を 公文録によって知ることができたと思ったのに、あらぬ疑惑を生じたのは残念ですが、とりあえず記しておきます
[99271] 2020年 3月 19日(木)13:04:35【2】hmt さん
大学の敷地面積
[99269] シノレパシクソ さん
昔、「東大の関連施設の敷地面積は国土の1%にもなる」なんて都市伝説を聞いたことがあるのですが、実際どれくらいなんでしょうね……。

おめでとうございます。大学の広い構内を楽しんでください。

Webによると、東京大学の総敷地面積は、およそ 320km2。出典
国土面積の 0.1%弱ですから、都市伝説は1桁違っていたようです。
北海道大学は 660km2で、国土面積の 0.17%。

落書き帳には、東大演習林の中で最大の富良野演習林 230km2 に関する過去記事[68625]があります。

【追記】
大学敷地面積の出典を追加

演習林どの施設は別として、大学のキャンパス単位では 約2.5km2 以上ある下記の3キャンパスが広いようです。
しかし、市町村面積【最小の富山県船橋村でも 3.47km2】には及びません。
九州大学・伊都キャンパス
筑波大学・筑波キャンパス
広島大学・東広島キャンパス
[99257] 2020年 3月 15日(日)17:48:03【2】hmt さん
埼玉県 明治時代の変遷
2月以降のhmt投稿は、「全国の市町村数」を柱にしてきたつもりですが、実際は脱線も多いようです。
最近の[99248]も、埼玉県ローカル、しかも市町村数ではなく、郡を主役とするものでした。関係記事

[99248]を見ると、明治12年の郡区町村編制法施行時の郡名・郡役所を紹介したことだけでは、物足りません。
そこで、明治4年から9年に遡る「埼玉県の成り立ち」や、明治29年に行なわれた「郡の再編」を加えて、「明治時代における埼玉県の略歴」という形にまとめておくことにしました。

素材は落書き帳の過去記事も使いましたが、最近になって「府県及北海道境域沿革一覧」という資料の存在を知ったので、これも利用することにしました。▲ 埼玉県の境域沿革概要

日付根拠記事沿革
M4/11/141871布告594[36047]埼玉県を置く(県庁:岩槻) 埼玉、葛飾の内、足立の内
M4/11/141871布告594[36047]入間県を置き横見、入間、…高麗、多摩の内 14郡を管す
複数回?1871-1872【入間県】多摩郡の内を神奈川県管轄に属せしむ
M4/11/141871布告594印旛県を置き下総国9郡を管す
M6/6/151873布告214印旛県を千葉県に編入
M6/6/151873布告214[36081]入間県を廃し熊谷県を置く
M8/8/301875[36159]葛飾郡金杉村外42村を埼玉県に属せしむ
M8/11/101875布告167 [36159]足立郡舎人町を東京府に編入
M9/8/211876布告112[36111]熊谷県を廃し新座郡以下13郡を埼玉県に属せしむ
M9/9/281876内務省布達甲37葛飾郡の内、寄巻村の内一部東京府管下葛飾郡下小合村に編入
M10/3/21877内務省布達甲5栃木県管下内野村飛地分割→埼玉郡小野袋村と群馬県海老瀬村
M12/3/171879埼玉県達甲14[99248]郡区町村編制法施行 18郡設置
M13/5/51880布告22下総国葛飾郡の内→埼玉県中葛飾郡、
武蔵国葛飾郡の内→北葛飾郡
埼玉県埼玉郡及び足立郡の内→北埼玉郡・南埼玉郡・北足立郡
M17/7/141884埼玉県達甲43戸長役場位置及び所轄町村改定
M17/10/311884[44653]秩父事件
M23/9/251890勅令213[22470]埼玉県庁を武蔵国北足立郡浦和町に移す
M24/6/91891[54575]新座郡榑橋村→東京府北豊島郡大泉村
M28/4/11895法律24東京、埼玉、千葉、茨城の境界変更 江戸川を境界とする
M29/4/11896法律40[90597]郡の再編 北葛飾郡と中葛飾郡を統合→武蔵国北葛飾郡、
13郡→北足立, 入間, 比企, 児玉, 大里の5郡に統合】
M40/3/161907法律8[36159]北足立郡保谷村を東京府管下北多摩郡に編入

埼玉県達全書

大部分は市制町村制の施行前に行なわれた県域の変更ですが、千葉県との境界について、市制町村制施行後の変更があったことを知ったので、説明しておきます。
[36159]に記したように、1875年に下総国葛飾郡金杉村(現・松伏町)ほか42ヶ村の千葉県から埼玉県への移管は、河川がらみの埼玉県域修正の中で最大規模のものでした。
その後も呼び方の変化などはありましたが、今回の作業により、明治28の法律による再修正を知りました。
★東京、埼玉、千葉、茨城の 江戸川境界への変更

都道府県変遷情報にも収録されていない変遷の存在に驚き、調べてみました。
13項目にも及ぶ変更には「編入」という廃置分合用語が使われており、妙見島のような有名地名も含まれています。
しかし その実体は、大字規模ではない ように思われました。江戸川改修に伴う小規模地域の府県変更の集合体と理解し、都道府県変遷情報の対象から除外されている現状に、一応納得しています。

最後のあたりに記された M24年大泉村への合併、M29年の郡再編、 M40年の保谷村 は変遷情報収録済みです。
[99256] 2020年 3月 15日(日)11:59:17【1】hmt さん
「茨城県民の日」の日付
[99255] ekinenpyouさん
引用された『ロケットニュース24』は、2015年春の入試問題で ズレが発覚した と記載。

もっと古い指摘もあったことと思いますが、こちらの落書き帳では、2006年の記事で 話題にしていました。
[55178] hmt 日付が1日違う「県民の日」  ご参考まで。

【追記】
上記[55178]からのスレッド記事として、Issieさん [55181]、hmt [55199] があります。
古い日付の扱いに関して、参考になることもあると思うので、関心のある方はご一読いただければ幸いです。

蛇足:[55199]で 落書き帳の古参にとっては懐かしい言葉「げんみつ姫」[19319]を発見。(笑)
[99248] 2020年 3月 11日(水)15:36:05hmt さん
郡区町村編制法による郡の制定
[99246] MI さん
郡の変遷を拝見しました。郡区町村編制法が施行された年月日については、既に[99247]むっくんさん の記事がありましたが、参考として末尾に記されていた[76875]により、各府県における施行根拠を知ることができました。

そこで、サンプルとして埼玉県の明治12年3月17日 甲第19号布達 を取り上げ、閲覧を試みました。
記事に付けられているリンクは近代デジタルライブラリー時代のものと思われ、そのままでは Not Found。

そこで、同じ番号を利用して 国立国会図書館デジタルコレクション書式に修正することを試み、新しいURLにより、『埼玉県達全書 明治12年甲第19号』を閲覧することができました。

甲第19号 明治12年3月17日
明治11年7月第17号公布を以て郡区町村編制法被相定候付本県治下従前の区画を廃し 各郡名称郡役所の位置左の通相定候条此旨布達候事 
郡制
北足立郡、新座郡北足立新座郡役所足立郡浦和宿
入間郡、高麗郡入間高麗郡役所入間郡川越町
比企郡、横見郡比企横見郡役所比企郡松山町
秩父郡秩父郡役所秩父郡大宮郷
児玉郡、賀美郡、那珂郡児玉賀美那珂郡役所児玉郡本庄宿
大里郡、幡羅郡、榛沢郡、男衾郡大里幡羅榛沢男衾郡役所大里郡熊谷宿
北埼玉郡北埼玉郡役所埼玉郡成田町
南埼玉郡南埼玉郡役所埼玉郡岩槻町
北葛飾郡 武蔵、中葛飾郡 下総北葛飾中葛飾郡役所武蔵国葛飾郡清地村

[99246] では 郡の成立日 18781001 となっておりますが、18790317 ではないでしょうか?

当然のことながれ、埼玉県以外の府県についても、同じ手法により確認できる「郡の制定日」が多数あると思います。
お手数ですが、よろしくご検討願います。

# 郡制制定と住所表記との関係
行政区画である「郡制」が制定されても、例えば 北葛飾中葛飾郡役所の住所表記は 「武蔵国葛飾郡清地村」。
埼玉県も北葛飾郡も使われていないのですね。
[99244] 2020年 3月 5日(木)16:02:48【1】hmt さん
全国の市区町村数3
日本全国の市町村数はいくつ?

素朴な疑問を記した[99155]から4週間目、[99207]に続く3回目です。
ここで 集まったデータを紹介し、その比較を試みます。【甲】【乙】…は、便宜上付与したデータの記号です。

最初の手掛かりとして示したのが、当サイト内の【甲】 都道府県の市区町村数 でしたが、現在遡れる限度は 昭和合併後期の 1960/10/1 でした。

統計局の国勢調査に基づく「長期統計」については、存在だけ知っていた程度でした。
具体的なアクセスは ekinenpyouさんの記事を頼りに、【乙】「1-12表 都道府県別市区町村数」に到達しました。
これで、5年刻みながら 1920年まで遡及することができました。[99155]

その記事が縁となり、[99157] MI さんのレスで自作データの存在が明らかになりました。
【丙】ctv_total.xlsx と【丁】ctv_total_pref.xlsx です。最新版は[99241]
このデータは、グリグリさんの手によって 【戊】 全国の市区町村数の推移 という表になり 当サイトでリリース[99173]されています。

[99207]に記した上記経過 以外の情報:
政府統計ポータルサイト の中に【己】 市区町村数を調べる というページがあり、年月日を入力して検索することができます。
現在遡れる限界は 1970/4/1 であり、これは昭和合併終結の約9年後、平成合併事実上開始の 20年前という 市区町村数の安定した時期でした。

こうして、2月中に集めた 幾つかのデータから 1970/10/1 という日付を選び、調査結果を対比してみました。
MI さんのデータは、最終的には【戊】「全国の市区町村数の推移」に反映されるので、これに統合しました。

データにより、集められた項目や集計法に相違がありますが、項目は 概ね最新のリスト【戊】の順番に従い、特別区数 市数 町数 村数 市区町村数 政令区数 郡数 とし、参考までに 支庁数 を加えました。

1970/10/1データの 対比結果
記号データ名特別区数市数町数村数市区町村数-政令区数郡数支庁数
【甲】都道府県の市区町村数2358720207233353-72571nd
【乙】都道府県の市区町村の推移 T9-H17nd58820207233331-ndnd
【丙】ctv_total2358720207293359-7258114
【丁】ctv_total_pref
【戊】全国の市区町村数の推移2358720207293359-72ndnd
【己】e-Stat市区町村数を調べる2357820136843299-7249719

【戊】「全国の市区町村数の推移」の値、すなわち
23特別区+587市+2020町+729村【北方6村を含む】 合計3359市区町村
を標準とし、これと違う数値を説明しておきます。

【甲】:北方6村除外。  
【乙】:東京都23特別区は、1市として処理。
【丙】【戊】:3359市区町村で一致。
【己】:e-Statの検索結果は、[99207]でコメントした 北方6村の取り扱い だけではなかった。
 1970年は、沖縄復帰(1972/5/15)前々年のため、沖縄県の55市町村【9市7町39村】が未算入。

【追記】
【己】で集計されていた19支庁は、内訳によると、北海道14支庁・東京都4支庁・長崎県1支庁とされています。
長崎県には 2005年度改正前には 五島・壱岐・対馬の3支庁が存在した[71553]と思うのですが、何故に1支庁?
そう言えば、変遷情報長崎県にも見当たりませんね。
[99239] 2020年 3月 1日(日)13:57:24hmt さん
明治30年11月5日に定められた北海道2区88郡
[99237] ekinenpyou さん
【おまけ疑問1件(ctv_total_pref.xlsx)】

このサイトの変遷情報は、原則として「市制町村制施行以後」を対象とし、「郡区町村編制法」などの旧制度時代の変遷は含めておりません。
変遷情報検索で、検索期間:-1900年、都道府県:北海道 を実行した結果は、下記の18件でした。
【括弧内は詳細記載事項の要点です】

#1 1899/10/1 新設/区制 函館区 【北海道区制施行】
#2 1899/10/1 新設/区制 小樽区 【北海道区制施行】
#3 1900/7/1 新設/村制 亀田郡大野村 【北海道一級町村制施行】
(中略)
#18 1900/7/1 郡変更/新設/町制 根室郡根室町 【花咲郡の一部を変更、北海道一級町村制施行】

1889年北海道区制による「札幌区」の脱落理由は不明ですが、「市制町村制施行以後」という対象範囲は文字通りではなく、「北海道区制」のような別の法律に基づく変遷も 含まれていることがわかります。
なお、変遷情報検索はオプション・メニューによる「市制町村制施行時前の履歴情報」選択も可能です。

このような事情や、1997年当時の全国的地方自治制度整備状況を考慮し、北海道庁官制に基づいて 「1897/11/5 に登場した 札幌区と函館区」も、北海道区制に先立って 全国の市区町村数の計上対象に加えておく。
これが適切であろうと考えた結果が、[99231][99232]でした。

「区の数」だけの問題ならばともかく、「郡の数」にも影響するので、グリグリさんの真意を確認した後にするのが本来であったかもしれません。
しかし、hmtマガジンの 区の分類であったので、「C pre2」は 独断で計上対象に組み入れました。

この記事を記すにあたり、全国の市区町村数の推移 1897/11/5 を確認したところ、19支庁と並んで88郡の増加も確認できました。
これにより、北海道庁官制に基づく変遷情報も 計上対象として扱うことが グリグリさんにも認められていることを確信しました。ご了承ください。
[99232] 2020年 2月 28日(金)17:34:41hmt さん
hmtマガジン「区制度の変遷」の微修正

[99231] で言及した、1897/11/5施行の北海道庁官制に基づいて設置された 札幌区と函館区に対応して、hmtマガジン「区制度の変遷」を微修正しました。

このマガジンでは、根拠となる法律に基いてABCと数字を組み合わせた記号で整理しています。
ところが、1899年施行の「C2 北海道区制」の直前、1887/11/5に施行された「北海道庁官制」による新たな「区」が存在したことが明らかになったのです。

記事[99231]を追加収録するのはよいとして、記号をどうするか?
「C2」の直前に入れたいので、「C pre2」にします。安直な対応でごめんなさい。
[99231]のタイトルには 長いシリーズ名と番号とを追加しておきます。【長さ制限ギリギリ(笑)】


[99187] 東京都制の「特別な区」 と 地方自治法の「特別区」も追加しておきます。
こちらは、タイトル変更の機会を逃ししていますが、内容的に適切な場所【(6)東京都制、(7)敗戦直後の大都市改革 の後】に入れておきます。
[99231] 2020年 2月 28日(金)14:51:01【2】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても 中身は区区(4.1)1897年 北海道庁官制施行に伴い設置された 札幌区と函館区
[99228] MI さん
1897(明治30)年11月5日は札幌区とともに函館区も設置され

[99223]でリンクしていただいた 19支庁表 を素直に読めば、
「北海道支庁の名称:北海道函館支庁」と その「管轄区域:函館区」とが定められています。

両者は 事実上同一の地域を指していますが、概念としては別個に存在しますから、[99227] hmt の
丸ごと函館支庁になった函館区は「自然消滅」し
は誤解であり、集計表から無視された原因ではなかったわけです。

本記事の冒頭でリンクしたように、北海道庁官制施行に伴い 郡区町村編制法を根拠とする 札幌区・函館区に変えて 同名の2区が設置され、「+2區」になりました。
当然のことながら、対象外の旧制度に関わる「-2區」は計上されません。

カウントから除外された原因は不明ながら、ありがちなミスと思われます。
むしろ当方が犯した「誤った深読み」をお詫びしたいところです。

【1】タイトル修正
【2】hmtマガジン収録に伴う分類【あまり使う機会はないかもしれませんが】「C pre2」にしました。[99232]
[99227] 2020年 2月 26日(水)13:59:50hmt さん
1897年 北海道庁官制施行に伴う 函館区の一時的消滅
[99223] MI さん
【北海道の郡の計上は】明治30年10月30日 勅令395号に拠っています。

同じ 1897/11/2官報に掲載された 勅令第392号 北海道庁官制により、設置された北海道庁内務部の所掌事項【20条】として
区町村の経済其の他区町村及公共組合に関する事項
が定められています。
これは、現在の 全国の市区町村数の推移では対象外とされている 郡区町村編制法 に基づく「区」でした。

このことを改めて認識した上で、本題に入ります。

1897/11/2官報掲載の 19支庁表の管轄区域を見ると、【郡区町村編成法による】札幌区と函館区とが掲載されています。
変遷情報にも同様に登場しています。変更年月日は 北海道庁官制施行日の 1897/11/5。

全国の市区町村数の推移を見ると、1897年11月5日以降の区数は 3となっています。

これは、北海道町官制の施行に伴う 例外的措置であると理解されます。
すなわち、今回のリストでは原則として対象外とされている「郡区町村編制法に基づく札幌区」を沖縄県2区に加わえ、3区と計上した結果と理解されます。

しかし、丸ごと函館支庁になった函館区は「自然消滅」し、集計表から無視される結果になりました。
函館区は、1899年の北海道区制で復活します。

このような理解でよろしいのでしょうか? 
函館区の一時的消滅。その根拠資料などありましたら、お教えください。
[99207] 2020年 2月 23日(日)18:40:36hmt さん
全国の市町村数2
2週間前に 「全国の市町村数」というタイトルで[99155]を書いたところ、早速 [99156] ekinenpyou さんと、[99157] MI さんのレスをいただきました。
更に [99159] グリグリ さんの提案、[99162] MI さんの快諾を経て [99173] グリグリ さん 「全国の市区町村数の推移」リリース! に至るまで 僅か5日間。
そのスピードに驚きました。

1889年に始まる 今回のリスト と 1960年が遡及限度であった 従来のリスト とで、【日付の範囲・詳しさを別として】異なるのは、収録対象地域の広さでしょう。

具体的に言うと、現状から出発した従来のリストは、日本の行政権の及ばない「北方6村」を対象外としています。
今回のリストは、年代が、日本の行政権が北方6村に及んでいた 1945年以前をも対象にしている関係で、収録対象が戦前の市区町村数にも及んでいます。

ここまで書いて 気になったのが、北方6村の更に北にあった 千島列島の3郡【得撫郡・新知郡・占守郡】です。
この3郡、郡の数には入っているかもしれませんが、町村制は施行されていなかったので、市町村数への影響はなさそうです。

気になる地域の もう一つは「樺太庁」が置かれていた サハリン島の北緯50度以南です。
ここには、1937/7/1に豊原町から市制が施行された「豊原市」がありましたが、今回のリストには見当たりません。
樺太は「内地」だったようです。共通法(大正7年法律第39号)・樺太の内地編入措置要綱(昭和18年)
しかし、MIさんが利用された資料には、その変遷が記録されておらず、樺太は対象外 として扱われたものと思われます。
[99187] 2020年 2月 18日(火)16:58:23hmt さん
東京都制の「特別な区」 と 地方自治法の「特別区」
[99173] グリグリさん 「全国の市区町村数の推移」リリース!
項目の並びの並びは次のようにしました。 市、区/特別区、町、村、市区町村(計)、…政令区
市と同格の区は単に「区」とし、政令指定都市以前の市の区は「行政区」の表記としました。

最初に、hmtマガジン「区制度の変遷」の まえがき から引用します。
「区」の根拠となる法律ごとに、A1~A2(郡区町村編制法など)、B1~B3(明治21年市制町村制)、C1~C2(沖縄県と北海道の区制)、D1~D6(明治44年市制と東京都制)、E1~E6(地方自治法)、F1~F3(合併特例法など)の記号をつけて、制度の概略を説明しました。
この記号の多さからも、市町村とは違う「区」の多様性を窺うことができると思います。

今回のリストは 1889年 法律「市制」の施行以降であり、郡区町村編制法時代の区【市の前身:上記区分のA[74334]】は対象外です。
リストの最初に登場する区は法律「市制」による「行政区」であり、京都2, 大阪4の翌月には東京15区が加わり、三大都市の21行政区(B1)時代がしばらく続きました[74335]

「市と同格の区」は 沖縄県と北海道の区制ですが、1896年出現後 1922年には「市」になり消滅。

さて、今回のリストでは 1943/7/1【法律「東京都制」の施行日】に 35特別区が出現 とあります。
この35区は、東京市が廃止された結果「東京都に直属する区」になったという意味では 確かに「特別な区」です。

しかし、その根拠となった東京都制第140条[74793]には「特別区」という名称は使われておらず、行政区の地位を引き継いだまま、東京市35区(D1)から東京都35区(D4)に移行しただけでした。

参考 [99155] hmt
「東京都制」時代は、府県制時代の東京市も 地方自治法の特別区も存在しなかった空白期です。
長期系列データに倣って(当時の東京都区域【35区>22区】を)仮に1市と扱い【要注釈】、「市町村数」を集計すればよいのではないかと思います。

1945年 終戦。Occupied Japan時代到来。地方制度についても敗戦直後の大都市改革[74935]が開始。
日本国憲法・地方自治法施行(1947年5月3日)に先んじて公布(1946/9/97)された地方制度改革4法です。
その1つである東京都制改正により、東京都の区民には参政権が与えられ、官庁の性格の濃い東京都庁の出先という立場になっていた東京都35区(D4)は、区条例・区規則の制定、課税や起債の権利が認められ、公選の区長を持つ いわば「市に準じる区」(D5)に変身しました。

実質的には、この戦後変化(D5)こそ「特別区」の前身と評価することもでき、この状態で 22区への統合(D6, 1947/3/15)もなされたのですが、形式的には行政区のままとして扱うしかないでしょう。

今回のリストに戻ると、1947/5/3 地方自治法施行日【法律・東京都制の廃止日】こそ 22特別区の発足日です。
[75012] hmt 制定当初の地方自治法による区
E1 特別区【特別地方公共団体】(83コマ)
第281条  都の区は、これを特別区という。【第2項省略】
第283条  政令で特別の定めをするものを除く外、第二編中 市に関する規定は、特別区にこれを適用する。
特別区には、原則として市に関する規定が適用され、区長も1946年の35区(D5)、1947年の22区(D6)[74935]に引き続き公選でした。1947年8月1日に板橋区から練馬区が分離し 23区になりました。

今回のリストについて言えば、23区になった後の特別区には統計上の数値変化がないものの、その中身は大きく変化しています。1952年の地方自治法改正による「都の内部的な部分団体」との位置付けを最低として、2000年施行の基礎自治体入りまでの回復を、過去記事の引用で綴っておきます。

[75018] 特別区の中身が変った 1952年
完全に市と同格とは言えない点があるものの、基礎自治体にかなり近い存在になっていた特別区ですが、発足後5年で逆コースをたどることになります。
当時、地方分権に対する逆風が吹いた理由は、特別区が強力な基礎自治体として存在すると、戦災復興など、大都市東京の経営に支障があると考えられたからでしょうか。(中略)1952年に基礎自治体の地位を失った特別区を、「E4」と記号で区別しておきます。

[75410] ようやく基礎自治体になったが、まだ「特別」区
1952(昭和27)年改正は、大都市地域 東京23区の統一性・一体性を確保しようとしたものでしたが、その 10年後の 1962年に人口1千万になった東京都は、「市」としての事務の重圧で 行財政が麻痺し、大都市問題(Tokyo Problem)が激化しました。

このような環境の変化により、その後は、特別区に権限を委譲する方向に向かい、1998年の法改正により、ようやく「基礎的な地方公共団体」になりました。【施行は2000/4/1】
「基礎的な地方公共団体」になったので、新しい記号「E6」を付けましょう。
1878年 東京府15区(A1)>1889年 東京市発足・その領域内に移行(A2)>1898年 三市特例法廃止で事実上東京市15区(B1)>1911年 勅令指定都市・東京市15区(明治44年市制)(D1)>1932年 市域拡張・東京市35区(D1のまま)>1943年 東京都35区(D4)>1946年 市に準じる35区(D5)>1947年3月 統合により22区(D6)>1947年5月 地方自治法による特別区22区(E1)>1947年8月 23区(E1のまま)>1952年 特別区は東京都の内部団体となる(E4)>2000年 基礎自治体の23特別区(E6)

蛇足
「特別区」には地方自治法で規定されている東京都の区部の他に、2012年に成立した「大都市地域における特別区の設置に関する法律」(平成24法律80号)が施行されています。
大阪市に代え特別区を設置することの賛否を大阪市民に問う2015年の住民投票は否決[87810]
その後も、「全国の市区町村数の推移」に登場するに至っていないことは、ご承知の通りです。
[99164] 2020年 2月 12日(水)14:55:53hmt さん
Re:都道府県を超える異動(変遷情報)に関する異動元都道府県へのデータ追加
[99160] グリグリさん
都道府県を超える異動について異動元のデータを30件新たに追加しました。

関連のありそうなリストが[90145]にありました。面積を削除、変遷情報を修正して ご覧に入れます。
約半数は●修正済でした。未収録を含む未修正変遷情報 12件につき、追加の可否をご検討願います。

--------------------------
都道府県境に関係する人口異動を伴う市町村変遷情報(大正9年国勢調査以降)【注】

関係自治体(数字は県code)地域名*日付人口異動 記事変遷情報
08新郷村→11川辺村伊賀袋1930/7/1144[78789]境界変更 ●
08河内村→12栄町利根川1956/1/193[79523]の6番未収録
09田沼町→10桐生市入飛駒1968/4/1557[54264] [79523]の17番[81913]未収録
09菱村→10桐生市菱村1959/1/15724[2878][14592]編入 ●
09足利市←10矢場川村矢場川1960/7/13131[2878][14616] [79523]の9番境界変更 ●
10太田市→11深谷市前小屋2010/3/1139[79438][79661]境界変更 ●
11元狭山村→13瑞穂町元狭山1958/10/152130[4049] [54264]編入
11戸田町→13板橋区舟渡1950/4/1289[65713]未収録
11横曽根村→13岩淵町岩淵1926/10/1412[65713]境界変更
13町田市→14相模原市境川1999/12/13[79523]の32番未収録
13町田市←14相模原市境川2004/12/142[79661] [79523]の35番未収録
13町田市←14相模原市境川2007/12/110[79523]の38番未収録
13町田市←14大和市境川1985/2/16[79523]の28番未収録
18石徹白村→21白鳥町石徹白1958/10/151297[31291][54264]編入 ●
20神坂村→21中津川市神坂村1958/10/151432[25925][54264]編入 ●
20山口村→21中津川市山口村2005/2/132040[46924][54264]編入 ●
21三濃村→23旭村浅谷*1955/4/11805[46981][54264] [79523]の5番境界変更
26亀岡市→27東能勢村牧・寺田*1958/4/1386[79559] [79523]の8番境界変更 ●
26樫田村→27高槻市樫田村1958/4/1889[31152][54264]編入 ●
33日生町→28赤穂市福浦1963/9/11640[41400][46914] [79523]の11番境界変更
34八鉾村→32八川村三井野原*1953/12/157[90148][79523]の2番未収録

* 地域名のうち、従来使っていた三濃村などの旧町村名は 現在ではあまり使われなくなっていました。
これを今回改め、現在の地図でも見ることのできる 浅谷(あざかい)、牧・寺田、三井野原にしました。
--------------------------
【注】に記したように、国勢調査より前の事例はこのリストの対象外でしたが、[85062]を参照すると、東京府になった埼玉県榑橋村・保谷村と三多摩、そして利根川下流域と石井村は いずれも●修正済でした。
[99155] 2020年 2月 9日(日)18:29:44hmt さん
全国の市町村数
日本全国の市町村数はいくつ?
廃置分合が頻繁な時代ならともかく、安定期に入った現在では、このサイトの読者にとり「難問」とは思われません。
しかし、過去に遡って「町村制施行以来の全国市町村数の経年データを求める」となると、意外に てこずります。

私が最初の手掛かりにしたのは、[99095] ekinenpyouさん に記されている当サイト内のページ【以下、uubデータと略す】です。
都道府県の市区町村数などをもとに調べてみると・・・

47都道府県の「市区町村数」は、「23特別区+792市+743町+183村、合計 1741 市区町村」でした。
内訳に記されているように、基礎的な地方公共団体である「市町村」の数に、特別地方公共団体ではあるが、公選制の区長、区議会、区立の小中学校などがあり、市町村に準じる自治体と認識されている 「特別区」23が加えられています。

この数字は、言うまでもなく、平成の大合併で大きく変化しました。
uubデータは、遡った年月日【各10月1日】を知ることができるので、篠山合併の前年【1998/10/1】の値を見ると、23+670+1994+568=3255 市区町村でした。
与党が平成合併の目標としていた 1000市町村【出典】には届きませんでしたが、平成大合併による 3255→1741 という数字により、自治体数が半減近くまで減少したことが解ります。

そこで、もう一段階前の昭和大合併の前、具体的には 町村合併促進法施行前の市区町村数を知りたくなります。
残念ながら、uubデータを用いて 現在遡れる限度は 1960/10/1、つまり昭和合併後期でした。

別の調査によると、1953/10/1 には 286市+1966町+7616村= 9868市町村でした。出典は総務省の説明文で、23特別区を加えると 昭和合併前は 9891市区町村で、平成合併前の約3倍、1万近い数の自治体が分立していました。

昔の市町村数を求めるならば、やはり統計局でしょう。
「長期統計」という分類があったと記憶していたので調べてみましたが、統計局サイトは開かず、WARPへの案内が出ました。
残念ながら、統計局では長期統計の更新を止めたようで、古い市町村数統計の存在を確認することができませんでした。

ここまで記して放置していたところ、[99152] ekinenpyouさんの記事により、新たな情報を得ました。
例えば※日本の長期統計系列(第2章人口・世帯)の2-5都道府県,男女別人口などでは(後略)

リンクされたWARP記事から、日本の長期統計系列の目次に戻り、第1章に進むと、1-12表 都道府県別市区町村数(エクセル:65KB)の存在を知ることができ、ダウンロードすることもできます。

国勢調査データを基本にしているようなので 1920年10月1日以降の5年刻みです。
昭和20年のデータが補足されており、昭和22年は無視されています。
この長期統計では、昭和合併(1953年開始)以前の 1950/10/1 全国市町村数は 10500であったことが知れます。
昭和合併前のデータとしは、前記「1万近い数の自治体」の方が、5年刻みのデータより的確なものと考えます。

参考までに、1950年の内訳は 254市+1889町+8357村= 10500市町村。但し 254市の中に 23特別区を1市として算入してありますから、uubデータと揃えると 23+253+1889+8357= 10522市区町村となります。

5年刻み、特別区の扱いなど 現在のuubデータとの相違点はありますが、長期統計系列データを利用して、全国市町村数のuubデータを 1920/10/1まで遡及して頂いたら 利用者としては ありがたいと思います。

なお、1945年の「東京都制」時代は、府県制時代の東京市も 地方自治法の特別区も存在しなかった空白期です。
長期系列データに倣って(当時の35区域を)仮に1市と扱い、集計すればよいのではないかと思います。
[99143] 2020年 2月 1日(土)16:24:26【2】hmt さん
市町村消滅情報
[99126] グリグリさん
ご指摘の点は課題と考えています。当初は、都道府県を越える変遷は異動後の都道府県にのみ変遷情報を登録していましたが、ご指摘通り、すべての都道府県異動の変遷情報の異動前都道府県への何らかのデータ登録が必要と考えています。

早速のお返事をいただき、ありがとうございます。
下記の記事のように、何年も前から 認識されている。しかし、解決には至っていない課題と承知しました。

[81928] グリグリさん
本論からは少しずれますが、都道府県単位の表示における課題として、長野県山口村の岐阜県中津川市への編入のケースがあります。どういうことかと言うと、平成の大合併の長野県と岐阜県の一覧には、岐阜県側だけに山口村の編入が表示されますが、長野県に関しても山口村が異動し消失したというのは重要な変遷記録です。何らかの記録表示が必要ですが、これも表示仕様を工夫すれば可能だと考えます。

「表示仕様」にどのような制約があるのか?
私には問題の詳細が解りませんが、変更前府県一覧表における記載が既に実現している 保谷村や三多摩移管の事例では、既に「県変更」という変更種別が使われています。

提示された 2005/2/13 長野県木曽郡山口村→岐阜県中津川市 のケースでは、変更種別:編入 です。
このような廃置分合を 長野県一覧表に掲載する場合、例えば「変更種別:編入(岐阜県)・山口村消滅」のような表記にすることが考えられます。これで、何か不都合があるでしょうか?

この 2005年山口村越県編入には、前史があります。
半世紀近く前の 昭和合併時代に行なわれた 隣接地・神坂(みさか)村の 中津川市への越県編入です。

リンクされた詳細情報を利用して、一応 昭和分村合併 の事情を説明しておきます。
当時から 長野県西筑摩郡【木曽郡の方が適切】神坂村の馬籠宿は島崎藤村の生誕地として知られていました。
神坂村を岐阜県に編入する前日に、馬籠付近を山口村に境界変更し、文豪の里を信州に残したのでした。

しかし 平成合併の時代になると、交通事情が変ったように 人々の考え方も変りました。
『夜明け前』に「木曽路はすべて山の中」と記された時代が遠くなった現代人にとっては、文豪が描いた生誕地が岐阜県になることへの抵抗感が弱まりました。中山道馬籠宿を含む山口村も、旧・神坂村の後を追い 中津川市に編入決定。

長野県の変遷情報としては、1958/10/15 にも「変更種別:編入(岐阜県)・神坂村消滅」を加えます。
昭和と平成と、2つの「消滅情報」の追加記載。
これによって、半世紀近くを隔て 岐阜県中津川市で再会した 旧・神坂村の葬式 を出すことができる形になります。

【追記2】
愛知県碧海郡明治村消滅に関する記載を削除しました。
理由:変遷情報における「編入」の意味[90606]を誤解していました。
[85089]と同様のミスを重ねており、お恥ずかしい次第です。
[99125] 2020年 1月 28日(火)12:57:34hmt さん
Re:岡山県吉野郡石井村 → 兵庫県佐用郡石井村
[99116] グリグリさん
当該データの石井村は誤記と判断しました。訂正しましたのでご確認いただければ幸いです。

今回訂正された誤記[99114]につき、その「原因」を 一つ指摘しておきます。
変遷情報岡山県の修正を検討願います。

岡山県吉野郡石井村は、1896/4/1に 兵庫県佐用郡の所属に変更されました。関連記事

しかし、岡山県石井村消滅の経歴は 変遷履歴情報岡山県一覧に掲載されていません。
岡山県の変遷だけに注目していると 英田郡に設置された町村から石井村を削除すべきことに気が付きません。

1896/4/1変更後の兵庫県変遷一覧表には、石井村の郡変更が 詳細と共に掲載されています。
しかし、昔は 変更前の県には
消滅情報が掲載されていなかった
のですね。

都道府県別の変遷情報には、「生成情報」だけでなく「消滅情報」も必要なことは 言うまでもありません。
念の為、1907/4/1の保谷村について確認してみると、東京府北多摩郡保谷村 と共に、埼玉県北足立郡保谷村の消滅も、一覧表と共に記録されています。
[99086] 2020年 1月 17日(金)17:59:35hmt さん
文明の道(2) アイアンロード後編
[99079] hmt アイアンロード前編
今回の「アイアンロード」は、西の起点を「人工の鉄」の発祥地アナトリアとし、東は漢の西域で分岐し、定住国家・中国へのルートも加えた道になっています。(中略)
万里の長城の壁を隔てた2つの国・北の匈奴と南の漢とは、紀元前3世紀から壮絶な戦いを繰り広げました。この争いの中で、スキタイの時代とは異なる革新を遂げ、鉄の物語が進みます。

匈奴が発明した強力な鉄の 鏃(やじり)

アルタイ山中に冷蔵保存されていた遊牧民スキタイのミイラ(BC5世紀)から少し後の時代です。
中国の戦国時代は 秦の始皇帝 により統一され、その後、項羽との争いを勝ち抜いた 劉邦の天下になりました。
漢の高祖です(BC202)。中国再統一と言っても、長城の北には 遊牧民の国・匈奴がありました。
BC200年、漢の高祖は 匈奴の冒頓単于を討つ北伐軍を動かしたが、白登山で包囲された。
辛うじて脱出できたものの、その後は 毎年貢物を匈奴に差し出す 屈辱的な条約を結ぶ結果に。

このような軍事的結果をもたらした武器が、匈奴で発明された 強力な鉄の 鏃(やじり) でした。
番組では復元した二段式鏃の一段目が当時の鎧に見立てた銅板を貫き、鏃の二段目で致命傷を負わせるモデルを再現。
また、匈奴の地下式製鉄炉によりスキタイから伝えられた技術の系統を示していました。
去年発見された宮殿近く。12基の製鉄炉を備えた直轄の大軍需工場があった 鉄の軍事国家・匈奴。
現代世界。核兵器や飛道具の開発で 独自の軍事強国を目指している某国が近い。これを連想させる長城の北側でした。

長城の南で 別に起きた 鉄のイノベーション 高炉と炒鋼炉

アイアンロードの行先は、草原の道を進んだ先の匈奴だけでなく、アルタイ山脈の南・天山北路から河西回廊を経由して中国に至るルートもありました。時代的にはこちらが先かもしれません。

2tもの大きな漢代の鉄塊が残されている「鉄牛村」。愛媛大学の村上さん(既出)は4mもの高さがある高炉を紹介しています。高炉による製鉄は能率が良いので鉄の大量生産に向いていますが、鉄鉱石を還元するのに用いた炭素が4%も溶け込んだ銑鉄になってしまい、鋳物には使いやすいが脆くて割れやすい欠点があります。
脆い弱点を克服して「強い鉄 = 鋼」を手に入れる「炒鋼炉」も発明されていました。
半溶融状態の鉄を捏ね回して炭素を除いて錬鉄にする「パドル法」は 1784年に英国で発明とされています。
私はシロウトなので 技術の相違点をよく理解できていませんが、漢代の「炒鋼炉」は、ずっと古い時代、既に大量の空気を使った炭素低減法を実現していたのでしょうか?

劉邦が冒頓単于に敗れた白登山の約70年後、漢の武帝は 革新された鉄の技術によって 匈奴に対する逆襲戦。
強い鉄による大型新兵器の代表は「戟(げき)」であり、匈奴の騎馬武者を引っ掛けて倒したようで、形勢を逆転しました。しかし 決定的打撃には至らず、漢と匈奴の戦いは 果てしなく続いたようです。

丈夫な鉄の大量生産は、もちろん平和的用途にも役立ちました。その代表が「犁[金華](りか)」という鋤で、農地を深く掘り起こすことで作物収量を倍増させる「農業革命」を実現させたとのことです。

このような経過を経て、鉄を作る技術・鉄を使う技術は弥生時代の日本にもたらされました。
「おの(斧)」や「のみ」で代表される鉄の工具は、大きな建物や船の製作に役立っただけでなく、「日本刀」という独特の文化的産物も誕生させました。
[99079] 2020年 1月 16日(木)18:10:59hmt さん
文明の道(1) アイアンロード前編
この記事の主な材料は、最近放送された Nスペのドキュメンタリー「アイアンロード」です。
直訳すると「鉄の道」ですが、鉄道Railroadとは無関係であり、手塚治虫とも関係ありません。
番組【2020/1/18土曜日深夜再放送】を紹介しつつ、関係する雑談を含めて、人類文明の伝わり方について、私なりに理解した内容で続けるつもりです。

自然の恵み・人類の知恵・そして偶然もからんで産み出された「文明」の成果。
交通・通信技術が発達した現代では、遠い世界の新製品・新技術情報を、す早く知ることができます。
しかし、歴史を遡ると、文明の伝播は 人々の移住に伴うものでした。
それは 基本的には人の歩行速度に制約されたものであると共に、緯度の違いによる自然条件の制約を受けるものでした。この制約を打破したのは、騎馬技術と外航船の発達でした。

南北に長いアフリカ大陸やアメリカ大陸は、緯度に伴う自然条件の変化が大きく、これが文明伝播を妨げました。
地球上に「東西最長の大陸」として存在するユーラシアだけは、遠く離れた地域でも帯状の自然条件で結ばれており、人類の文明伝播が可能で、壮大な歴史物語を形成しました。その一端を繙いてみます。

番組タイトル「アイアンロード」は「シルクロード」よりも古い「文明の道」として、愛媛大学アジア産業考古学研究センターの命名を用いたものと推察します。番組には、村上恭通さんなど関係者が登場しています。

遊牧民のスキタイと匈奴により、鉄が、ユーラシア大陸を はるばると東に伝えられたルートは、「草原の道(ステップ・ルート)」と呼ばれていました。
今回の「アイアンロード」は、西の起点を「人工の鉄」の発祥地アナトリアとし、東は漢のに西域で分岐し、定住国家・中国へのルートも加えた道になっています。

砂漠を通る「絹の道」より北に位置する「草原の道」は、その北側の タイガと呼ばれる亜寒帯針葉樹林地帯と接していました。このような地理的条件から、このルートは 製鉄に必要なエネルギーを得ることが可能で、「アイアンロード」になる条件を備えていました。

万里の長城の壁を隔てた2つの国・北の匈奴と南の漢とは、紀元前3世紀から壮絶な戦いを繰り広げました。この争いの中で、スキタイの時代とは異なる革新を遂げ、鉄の物語が進みます。

アルタイ地域で発見された金髪のミイラは スキタイ人

地図を眺めると、ユーラシア大陸の中央部に ロシアR、モンゴルM、中国C、カザフスタンKの4ヶ国が国境を接しているように見える場所【便宜上RMCK地帯】があります。MC国境沿いに連なるアルタイ山脈の北端。

6年前、アルタイ山脈で発見されたBC5世紀の巨大な墓で 男性の「ミイラ」を発見。
現在この地の住民は アジア系・黒髪のトゥバ人だが、聖なる山に丁重に埋葬されたミイラは「金髪」で、王族とされた。副葬された鉄製短剣の独創的なデザイン(ハート形)から、西に4000kmを隔てたウクライナの遺跡(ビルスクヒルフォート)と同じスキタイ人と判明。鉄の工具を使って制作された金の工芸品。

古代ギリシャ人からは野蛮人視されていたスキタイだが、彼らは馬を乗りこなした。
騎手の意思を正確に馬に伝える技術 のポイントは、鉄製の「はみ」(馬銜)= 轡の馬の口にくわえさせる部分。
この「移動革命」が史上初の「騎馬軍団」を生み出し、東西4000kmに及ぶ大国を作ることができた。

脱線するが、現代のアルタイ地域住民トゥバ人から思い出したのが、子供時代に見た地図にあった「ツバ人民共和国」という国の存在。18世紀に乾隆帝が緩衝国のジュンガルを滅ぼした後、ロシア人が扇動してアルタイに建国させた属国らしい。中華民国は現在でも自国領と主張しているとか。

アルタイまで進出していたスキタイから西に逆行するが、アナトリア【現在のトルコ】が「人工の鉄」の発祥地になったカギは、かの地の厳しい自然環境だったらしい。
鉄の製錬には銅よりも500度高い1200度が必要。自然のもたらす強い季節風が製鉄炉の高温維持に役立ち、ヒッタイト人【聖書のヘテ人】に最初の量産化を成功させた。ふいご送風。
ヒッタイト人は、この貴重な金属を武器に使うだけでなく、安全保障外交の切り札に活用した。
BC13世紀には、大国エジプトとのカデシュの戦いの後で、世界最古の平和条約が結ばれた。
番組では、中近東文化センター アナトリア考古学研究所長 大村幸弘さんのコメントがありました。
[98765] 2019年 12月 25日(水)14:57:17【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (3)中防を有明と結ぶ海底トンネル工事
東京湾中央防波堤埋立地(略称「中防」、約500ha)は、その所属が江東区と大田区との間で争われていましたが、先日決着しました。[98525]
判決は、中防内の施設が区境で分断されないように調整し、競技会場を江東区に、コンテナ関連施設などを大田区に帰属させた。

大田区になる中防外側埋立地で実施中の「国際海上コンテナターミナル整備事業」については、[98525]の末尾に引用したスライドに Y2ターミナルが既に示されています。

中防の基地に陸揚げされたコンテナを 都内に輸送するルートが「東京港臨港道路」です。
中防と周辺とを結ぶ現在の道路事情。青海縦貫道に直結する第二航路海底トンネル の他に、東の東京ゲートブリッジ[80265]・西の城南島へのトンネル[98525]も開通していますが、渋滞を免れません。

その対策が、前報でも言及した 中防を青海の隣の有明と直結する 東京港臨港道路(南北線)の整備ですが、最近 Nスペ「東京リボーン」の 第3集 輸送革命 果てなき欲望との闘い で、そのハイライトとも言える 沈埋函の埋設工事が放送されました。

全長約1kmの海底トンネルの工事期間。10年かかるのを 2016年からオリンピック前の4年間短縮するために採用したのが 沈埋トンネル工法です。長さ 134m、3000tものコンクリート製の函を 航路の海底に沈める計画で、函の数を7個に減らすことができました。

視界30cm 濁った海中に、巨大な函を正確な位置に沈め、接合させる。潜水できるのは1回25分で、1人が2回までなど制限が厳しい水中作業員以外にも、多くの人が知恵と力を合せた作業。

こんなに迄の苦労をして輸送革命を進めなければならない理由は、番組タイトルに示されていた「果てなき欲望」でした。

皆がコンビニで簡単に入手できる鮭のおむすび。
その欲望を満たすために、チリの養殖場で育てられた鮭が、タイで加工された形で海上コンテナに収納され、はるばると 東京港にやってきました。鮭のおむすびは、更に日本全国へと流通してゆきます。
私達の小さな欲望が、世界の人々を動かしています。

東京湾のトンネル工事も そんな世界の動きを支える人々の動きの一部でした。
それをネタに「落書き帳」を書くご隠居も健在で、平和な越年を迎えることができそうです。
[98756] 2019年 12月 21日(土)14:37:36【1】hmt さん
Re:明治の木造校舎「旧・つき米学校」
[98751] 伊豆之国さん
私がこの「舂米」の名を知ったのは、「明治の木造校舎」について書かれた本とかの記事を見て、「旧・舂米学校」というのがあったのを見たことからでした。「明治の木造校舎」というと、その代表格と言えば、やはり信州松本の「開智学校」。「超・ご当地」の伊豆松崎の「岩科学校」は、二昔以上前に見たことがあり…

本筋の難読地名から離れてしまいますが、この記事に触発されて、明治の小学校建築 を開いてみました。

まだ日本が貧しかった 明治初期ですが、松本の開智学校だけでなく、塔屋のある洋風建築が各地に建てられ、その多くが 21世紀の今日まで保存されていることを知り、教育を重視した明治の人々が、人材育成に投資した意気込みを察することができました。

塔屋から響いたと思われる授業開始・終了の合図はどんな音だったのでしょうか?
第二次大戦後に流行した電動式のウェストミンスター・チャイムによる報時システム。
それを遡ると、ドン【午砲】や 半鐘 だけでなく、太鼓も多用されたようです。
上記引用資料では、つきよね学校など 10校以上について、「太鼓楼」の記載があります。

山梨県旧増穂町にあった「舂米学校」…石橋湛山元首相や、将棋の米長邦雄元名人も、この増穂小学校のOBだったそうです。

日ソ国交回復を実現した鳩山一郎首相の退陣後、1956年暮れの自民党総裁選挙で選ばれた石橋さん。
首相就任後間もない発病のために、在任期間わずか65日で退陣しましたが、印象を残した政治家でした。参考

経済を表看板とする首相としては、大蔵省出身の池田勇人が有名ですが、石橋湛山は民間(東洋経済新報)出身の経済人でした。
石橋湛山の病気退陣がなければ、その後の岸内閣、池田内閣による官主導の政治への流れは、現在と違う姿へと変っていたのではないかという思いがあります。出典
これだけを考えても、忘れることのできない人物でした。
石橋湛山と山梨県 旧・増穂村 つきよね学校 との縁は、身延山系統の僧侶であった彼の父との関係に基づくものでした。


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