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hmtさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[87418]2015年3月21日
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[87415]2015年3月21日
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[87413]2015年3月20日
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[87405]2015年3月17日
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[87384]2015年3月13日
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[87380]2015年3月10日
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[87373]2015年3月8日
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[87358]2015年3月2日
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[87357]2015年3月2日
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[87349]2015年2月28日
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[87328]2015年2月22日
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[87319]2015年2月19日
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[87309]2015年2月17日
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[87304]2015年2月16日
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[87273]2015年2月10日
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[87268]2015年2月9日
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[87262]2015年2月7日
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[87258]2015年2月6日
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[87250]2015年2月2日
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[87242]2015年2月1日
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[87239]2015年1月31日
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[87238]2015年1月31日
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[87237]2015年1月31日
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[87236]2015年1月31日
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[87233]2015年1月31日
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[87185]2015年1月21日
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[87184]2015年1月21日
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[87139]2015年1月16日
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[86827]2014年12月22日
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[86813]2014年12月20日
hmt

[87418] 2015年 3月 21日(土)23:15:51hmt さん
みどりかわ
[87415]で質問した緑川の読み方ですが、地名集日本 の1812番に「緑川 みどりかわ Midorikawa」という河川名が掲載されていました。

その他の情報
2万5千分1地形図名に 「緑川 みどりかわ」がありました。

河川名そのものではありませんが、緑川ダム で形成されたダム湖の名も「肥後みどりかわ湖」でした。
[87415] 2015年 3月 21日(土)15:55:59hmt さん
Re:「がわ」と「かわ」
[87414] デスクトップ鉄さん
ほかに一級水系の本流河川の「かわ」は、鵡川…白川があります。(中略)すべて1音か2音です。

熊本県の緑川は「みどりかわ」と読むのではないかと思い、国土交通省のサイトなどを検索したが、結論が出ませんでした。

「がわ」と「かわ」の読み方については、まとまった資料を発見できていません。
参考になる情報源をご存知ならば、ご教示いただければ幸いです。

ついでに、河川名の重複について。

長良川の支流の犀川は さいかわ ですが、千曲川の上流と石川県の犀川は さいがわ ですね。

「一級河川犀川」が、岐阜県と長野県とに存在し、読みが違うという同名異音は面白いと思いました。

一級水系名称の重複は、二十九 荒川水系(東京都・埼玉県)と 三十三 荒川水系(新潟県・山形県)だけです。
しかし、支流を含む「一級河川名」という枠組みならば 重複事例は 多数ありそうです。
その同名一級河川群の中で、「がわ」と「かわ」の読み分け事例が、犀川に続いて出るかどうか?
[87413] 2015年 3月 20日(金)23:16:20hmt さん
「とよがわ」右岸の「とよかわ」市
[87411] 白桃さん
ところが、市名になると 「がわ派」の16市に対して 「かわ派」11市、なかなか健闘している

消滅した秋川市、古川市、石川市、具志川市を加えると 17対14と 更に拮抗してきますね。

市になった年代順に並べると
旭川、市川、立川、豊川、田川  戦前・戦中は「かわ」が圧倒的に優位。
石川、加古川、古川、寝屋川、中津川、柳川  戦後になると「がわ」が逆転。
滑川、須賀川、掛川、渋川、大川、糸魚川  昭和合併期は拮抗。
滝川、砂川、深川、具志川、桶川、鴨川、秋川、吉川  「がわ」がやや多い。
吉野川、菊川、桜川、紀の川、平川、木津川  平成合併も引き続き「がわ」が多い。

そういえば岡山にいた頃、あさひがわ or あさひかわ・・・どう呼んでいたっけ???

資料 によると、国土交通省河川局は「あさひがわ」と呼んでいるようですね。

ところで、リストを見て気になったのは、河川名と市名との関係です。

旭川市に「旭川」という河川はあるの? というような市が多い中で、木津川市、紀の川市、吉野川市など いかにも 「河川名を名乗りました」 とい印象を受ける市が 逆に目立ちます。

加古川市のような例外もありますが、中心市街地名を欠き、市名を河川名に求めざるを得なかった平成合併の産物でしょうか?

「豊川」市は、河川の名でもありますが、それよりも豊川稲荷の門前町として知られた地名であると思います。
河川名は「とよがわ」なのに、地名は「とよかわ」と読むのは、このような事情を反映しているのでしょうか。

三河湾の豊川(とよがわ)河口部にある 六条潟 は、急流が供給する大粒の砂によりアサリが湧く海として知られています。
しかし、この豊かな海を脅かす開発計画が進行中で、日本のアサリがピンチ に陥りつつあるとか。
[87405] 2015年 3月 17日(火)20:01:31hmt さん
国土面積統計の変遷 (17)都道府県別面積の歴史 (明治16年から大正9年)
先日(2015/3/6)発表された平成26年全国都道府県市区町村別面積調[87371]は、測地技術の進歩による結果を取り入れた 26年ぶりの大修正でした。

前年との間で面積の増減のあったデータは多数あるのですが、その中には全く異なる原因による変動が混在しています。
北方領土改測に基づく 北海道面積の減少事例[87373]、諫早湾干拓地をカウントした 長崎県面積の増加事例[87374]
[87387]で言及された陸前高田市の松原も、測地衛星画像に基づいて岩手県面積減少にカウントされている可能性があります。
残念ながら、発表されたデータだけでは、これらを分離して考察することはできません。

最初に、面積データの26年ぶりの大修正と書きましたが、その前の大修正は何時なのか?
そもそも、面積データは どこまで遡ることができるのか?

近代国家としての日本が国土面積を公表した最初に資料は、明治15年(1882)の『第一回日本帝国統計年鑑』[66993]であると思われます。[66996] YT さんが、そこに記載された「面積及周囲」を紹介し、国別面積の存在にも触れています。府県別面積は明治16年版以降とのこと。

この面積データの根拠は[76997]に追記されたように、原則として
伊能忠敬の大図 [三万六千分の一] を本として算出
したものです。翌年の統計年鑑からは、内務省地理局の実測値も用いられたことが記されています。
伊豆相模武蔵安房上総の五ヶ国は内務省地理局の実測を用ゆ

私がアクセスできる次に古い資料は、大正元年12月刊行の 『日本帝国第三十一統計年鑑』の14コマ で、ここに「道府県面積」の表があります。
3府43県の順番は現在と違いますが、2種類の面積が方里単位で記されています。
一つは第二回に記された「伊能大図+地理局」ですが、もう一つの面積は「参謀本部に於て調製したる面積」です。

この明治31年に始まった「参謀本部の面積」こそが、現在の「国土地理院の面積」の原型となるものです。
但し大正元年の表の脚注に記されているように改訂中であり、面積の決定版になっていません。

面積データは地図に基づいて測るわけですから、参謀本部によって遂行されつつあった 測地>五万分一地形図作成 事業と深い関係にあります。五万分一地形図は大正5年(1916)に全国整備が完了したとあるので、これに基礎を置く面積データも、大正年間には だいたい整備されたと思われます。

大正11年刊行の統計年鑑では 既に伊能大図に基づく面積は姿を消して「参謀本部の面積」に一本化されています。しかし、北海道、鹿児島県、沖縄県のみは未訂正で、明治31年当時の実測面積であると注記されています。

その次の 第四十二統計年鑑 に至り、「府県別面積」表の脚注から「3道県未訂正」の記載がなくなりました。タイトルの後に「大正九年十月一日」と記されています。
つまり、第一回国勢調査の行なわれた日から、「府県別面積」も完全に新版になったものと理解されます。

五万分一地形図作成事業の成果をふまえた「大正九年版の府県別面積」なのですが、この表には少し問題があります。
面積の単位が「方里」なのですね。そのあたりの事情を少々記しておきます。

実は日本のメートル条約加盟は かなり早い方で、加盟手続が行なわれたのは1885年でした。
翌 明治19年4/20には勅令無号『メートル条約』 が公布され、1890年には副原器が日本に到着しました。 
もっとも、明治24年(1891)に制定された 『度量衡法』 は尺と貫をメートル原器に基いて定義したもので、間接的なメートル法に留まっていました。
国内単位をメートル法に改める 度量衡法の改正は 大正10年 (1921)でした。

このようなわけで、統計年鑑に記された府県別面積は従来の年鑑を踏襲した「方里」単位だったのですが、大正九年から新たに始まった国勢調査報告書では、もちろん km2(方キロ)単位になっています。
大正九年国勢調査統計表 の表2が「面積及人口-府県」となっています。
[87384] 2015年 3月 13日(金)22:35:36【1】hmt さん
北陸新幹線金沢開業関連
2015/3/14に北陸新幹線が金沢駅まで延長開業し、名実共に 東京から「北陸」へのメインルートになります。

この機会に、hmtマガジンの特集 ★祝★ 北陸新幹線金沢開業 を作りました。
2013年10月に「かがやき」など列車名が発表された当時の記事が中心ですが、新幹線とは直接関係のない北陸本線に関する記事の一部も収録しました。

さて、新幹線開業の陰で大きな影響を受けるのが「並行在来線」です。
とりあえず、2015/3/14からの新規開業や、大きな影響を受ける第三セクター鉄道のページをリンクしておきます。

石川県 IRいしかわ鉄道 http://www.ishikawa-railway.jp/ 路線図
富山県 あいの風とやま鉄道 http://ainokaze.co.jp/ 路線図
新潟県 えちごトキめき鉄道 https://www.echigo-tokimeki.co.jp/ 路線図
  北陸本線→日本海ひすいライン
  信越本線→妙高はねうまライン
長野県 しなの鉄道 http://www.shinanorailway.co.jp/
  信越本線長野・妙高高原間の経営を引き受け、 北しなの線 とする

「並行在来線」とは立場が少し違いますが、特急「はくたか」の運転がなくなる 新潟県の北越急行も、経営への影響が大。
新ダイヤトンネルだらけの路線断面図

【追記】
各社の路線図を追記しましたが、その際に気になったのが、富山県の「あいの風とやま鉄道」の区間です。
倶利伽羅-市振 間でなく、石動-越中宮崎 間となっていました。

確かに境界駅の倶利伽羅は IRいしかわ鉄道が、市振は えちごトキめき鉄道が管理する駅です。
しかし、普通は境界駅までを含めて自社路線区間を表示すると思います。異例と思われる表示になっているのは何故?
[87380] 2015年 3月 10日(火)22:17:15hmt さん
悩める番地の物語
[87378] 山野さん
岐阜市鷺山1769-2。230世帯あるが住所が全部一緒だとか。

番地の本来の目的は不動産登記や課税に使う土地の符号でした。
元々が住居表示を目的とするものではなかったので、家が番地の順に並んでいる保証はありません。
でも、住所を示す仕組みがなかった時代には、住居表示には番地を流用するのが普通でした。
戦後、都市部については 住居表示制度 が作られましたが、その普及は一部に留まっています。

というわけで、明治になって郵便制度が普及しても、宛先の番地にうまく届かないという悩みは数多くありました。
今尾恵介『住所と地名の大研究』p.52には「悩める番地の物語」という節があり、事例が紹介されています。
その代表例として挙げられるのが、夏目漱石など有名人も住んでいた東京市本郷区西片町10番地[62635]でした。
6万坪もある大名屋敷跡の単一番地が貸地になり、多数の住宅が作られていました。

今回紹介された岐阜市鷺山の事例は市営住宅を分譲したとのことです。分譲対象に土地が含まれていれば分筆が行なわれると思いますが、境界が未確定のために分筆作業が完成していないのでしょうか。
年月が経過すると、相続関係が発生したりして、ただでさえ複雑な事務量が増します。
土地境界の画定を後回しにしても、新たな住居表示の実施を早急におこなうのが大多数の住民の利益ではないかと感じましたが、どうなるのでしょうか。
[87373] 2015年 3月 8日(日)12:01:18【1】hmt さん
国土面積統計の変遷 (16) 2014/10/1以降の面積データは リセットされました
[87371] MasAka さん 平成26年全国都道府県市区町村別面積調
今回から計測方法を大きく変更したことが影響
(中略)前年との面積に増減があった自治体が多数出ているようです。

平成26年計測方法変更により、全国の面積データは昭和63年(1988)以来26年ぶりにリセットされました。参照
そのためか、今回発表の成果は 例年のような 前年との対比形式踏襲を避け、平成26年単独で示しています。

今回の発表は、都道府県市区町村サイト内の面積データすべてに影響が及びます。
オーナーグリグリさんのお手数をかけることになりますが、よろしくお願いします。

hmtとしては、とりあえず都道府県面積について、平成25年との増減を調べました。
最も目立ったのは、北海道の減少 -33.26km2 と、長崎県の増加 +26.44km2 です。
以下 愛知県 +7.24km2、福岡県 +6.98km2、増加4km2以上が兵庫県、熊本県、沖縄県、増加3km2以上が大阪府。
減少3km2以上は岩手県、宮城県で、三重県がこれに続いていました。

北海道の大幅減少という結果を見て、思い出した過去記事があります。
[86284] 右左府さん
これにより、択捉島含め北方領土の島々の面積にも変更がしょうじるのでしょうか。
[86293] hmt
【JAXAの陸域観測技術衛星「だいち」の撮影画像により】改測された地形図に基づく北方領土の島々の面積が、平成26年面積調として(中略)発表されることを期待しています。

例年に比べて ひと月余遅れた発表でしたが、択捉島・国後島・色丹島の6村プラス根室市の面積を合計して比較すると、平成26年の値は平成25年の値よりも34.46km2減少しており、上記北海道の減少値とほぼ一致しました。

長崎県については、市町村別に比較したところ、諫早市が +20.56km2、雲仙市が +7.35km2でした。
面積調には増加した面積のある場所についての手掛りはありませんでした。諫早湾干拓事業や雲仙普賢岳噴火の影響が地形図に反映されていなかった分を修正したのか? とも思いましたが、この大きな数字はうまく説明できません。

そう言えば、目立った増減を記録した県の顔ぶれを見ていると、中部国際空港、北九州空港、神戸空港、東日本大震災などとの関連が推測されるのですが、これも果して当たっているでしょうか。
[87358] 2015年 3月 2日(月)19:31:08【2】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (3)上越市の事例を見る
2006年の記事[48758]にリンクされた「地域審議会・地域自治区・合併特例区の全国設置状況」をクリックしたら、2014年度初日の情報が得られました。
普通の用途ならば、これは歓迎すべきサービスと言えるのでしょう。

例えば 2006/3/20~2010/3/31の間、相模原市の中に津久井町・相模湖町という地域自治区が存在した という過去の情報は、相模原市緑区になった現在ではさほど価値があるものとは思われません。
地域自治区に関する情報は、現状を知ることができるだけで十分である。そう考える人は多数いるでしょう。

しかし、例えば上越市に設けられた28地域自治区【Cj】(9コマ)の住所表記に関して、次の疑問があります。
住所に含まれない高田区など15区と、住所に含まれる安塚区以下の13区。これが共存しているのは何故か?
これを解くには、地域自治区の履歴情報が必要です。

安塚区以下の 13地域自治区 [33723]は、2005/1/1の合併時から設置された「合併特例法に基づく地域自治区」【Tcj】(期間は5年間)でした。先に記したように、期間限定の制度ながら、この場合は地域自治区名、つまり旧町村名を住所に冠することになりました(旧・合併特例法 第五条の七)。

高田・直江津など上越市旧市内は そのままの住所なので、一見すると不統一のようです。
しかし、これは実情に合ったものであり、市民もこの表記に慣れてきたと思います。
ところが、【Tcj】の区名は5年しか使えない。どうするのか?

これに対する答えは、新市域の13区を、期限のない一般制度による地域自治区【Cj】に移行することでした。
私はこれまで【Tcj】から【Cj】に移行しても 住所に区名を使える とは知りませんでした。しかし、法律を見ると確かにOKです。

…ということで、【Tcj】の期間を少し短縮して 2008/3/31に満了させ、平成20年度(2008/4/1)から一般制度の地域自治区【Cj】に移行したのですね。

そして、2009/10/1からは 高田や直江津の旧市内にも 15区が設置されました[75709]
これにより、一見同じ【Cj】なのに、新・旧市域で 区名を冠するか否か が別れるということになりました。
[87357] 2015年 3月 2日(月)18:46:41hmt さん
地域自治区 合併特例区 (2)制度の概要 総務省の合併資料集
[87349]の続きです。
最初に、平成合併に際して設けられた地域自治区・合併特例区の制度について、基礎知識を復習します。

総務省の 市町村合併資料集の中には、 制度の概要 というページがあり、地方自治法による一般制度の改正(H16)によって定められた「地方自治区」【Cj】と、合併時の特例である2種類の制度【Tcj】【Gt】、合計3種類が示されています。便宜上、【略号】を付与しました。

落書き帳でも [48804] suikoteiさんが下記のように列挙しています。
1.改正地方自治法に基づく「地域自治区」(いわゆる「一般制度としての地域自治区」)【Cj】
2.合併特例法(及び地方自治法)に基づく「地域自治区」(いわゆる「地域自治区の合併特例」)【Tcj】
3.合併特例法に基づく「合併特例区」【Gt】

[73443]では、右左府さんが 法律の根拠条文を示して説明しているので、こちらもご参照ください。
「一般制度としての地域自治区」【Cj】:地方自治法 第二百二条の四
「地域自治区の合併特例」【Tcj】:旧・合併特例法 第五条の五、合併新法 第二十三条~
「住居表示の特例」:旧・合併特例法 第五条の七、合併新法 第二十五条
「合併特例区」【Gt】:旧・合併特例法 第五条の八~、合併新法 第二十六条~

総務省の説明ではピンクの図により「地域自治区」を説明しています。すなわち、地域協働活動の要として存在するのは 地域の意見をとりまとめる「地域協議会」ですが、その身近な事務を処理するために区を設け、「区の事務所」を置くものが一般制度としての地域自治区【Cj】です。

この制度【Cj】には 設置期間の規定がなく、資料3 によると、大半の団体で設置期間を設けていないとのことですから、長期間利用される可能性があります。
上記資料3には、特色ある事例や、地域自治区制度によらない協議会等の設置事例も紹介されていました。

合併時の特例として定められた2つの制度(【Tcj】【Gt】)は、平成合併に伴う移行期間の事務処理に特化しています。
期間限定の制度ですが、住所の表記にその名称を冠することになっているので日常生活に直接の影響があります。
特に合併特例区【Gt】は 特別職の区長、法人格などの規定で律せられた特別地方公共団体で、市町村に準ずる存在のように思われます。その一方、設置期間は5年以下に限定されています【31条2項】。

落書き帳における「地域自治区」の初出は[27999]でした。これは、でるでるさんが近く成立見込みの合併関連3法案について解説した記事です。
具体的な地名を伴った記事は、[31669]浜松市、[33723]上越市、[34201]兵庫県香美町、[48391]相模原市などの事例がありました。
そして、[48758]では 総務省のサイトにあった地域自治組織の設置状況一覧表(平成17年3月31日現在)が紹介されていました。

ところが…
今川焼さんの記事[48758]のリンク部分を、現時点でクリックして出てくるのは、「地域審議会・地域自治区・合併特例区の設置状況(平成26年4月1日現在)」でした。総務省は、同じURLのままで、内容を現年度初日の情報に更新していたのです。
[87349] 2015年 2月 28日(土)23:00:11【1】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (1)序論 平成合併の最盛期から 10年
平成26年度も残すところ約1ヶ月。そこで、10年前の年度替り、平成合併の最盛期を回想してみました。

平成17年度初日を迎え、[39216]グリグリさんは 44件の合併を伝えています。
但し、これは平成合併最多ではなく、半年後の 2005/10/1 の50件が最多で、3位の 2006/1/1 も43件で続いていました。
参考までに、昭和合併最多の記錄については [55364]をご覧ください。

件数はさておき、この年度変りは 平成合併を 法律上前期6年間と後期5年間とに2分する節目でもありました。
[39203] M.K.さん 2005/3/31 とりあえず塗り納め(特例法期限当日)
[39228] でるでる さん 2005/4/1
昨日3月31日に合併特例法による合併真正の期限を迎え、(中略)一方で、本日付(4/1)で新たに法定協議会を設置するなど、既に合併新法による合併を目指して動き始めたところもあります。

そうです、
「市町村の合併の特例に関する法律」(昭和40年法律第6号)・通称「合併特例法」は平成16年度限りで失効し、平成17年度からの5年間は 1文字違いの「市町村の合併の特例等に関する法律」(平成16年法律第59号)・通称「合併新法」に切替えられたのでした。

年度別合併件数と関係市町村数、年度末全国市町村数とその減少値を示します。
【☆H02~H07年度は 所謂「平成合併」開始前ですが、参考までに記しました。】
【★H23, ★H26は 合併新法が事実上満了した後の合併ですが、参考までに記しました。】
年度西暦合併件数関係市町村年度末減少備考
☆H0219901432413熊本市
☆H0319913732374北上市浜松市水戸市
☆H0419921232361盛岡市
☆H0519931232351飯田市
☆H0619941232341ひたちなか市
☆H0719952432322鹿嶋市あきる野市
H1119991432293篠山市平成合併第1号
H1220002432272新潟市西東京市
H1320013732234潮来市さいたま市大船渡市
H142002617321211
H15200330110313280
H1620042158262521611
H17200532510251821700
H1820061229180417
H192007617179311
H2020081228177716
H2120093080172750 H11~H21年度の累計減少数1505市町村
★H23201161417198http://uub.jp/upd/2011.html
★H2620141217181栃木市

ご覧のように、合併は切替え前後の2004~2005年度に集中し、この2年で1311市町村が減少しました。

平成合併の最盛期から 10年になる。
…ということは、通常5年から最大でも10年程度の期間限定で設けられた地域自治区の大部分が期間満了を迎えるということではないか。

過去記事を調べると、確かに 地域自治区の廃止を報じる記事 が散見されます。

その多くは地域自治区の名称が「○○区」であり、その廃止が住所の表記に影響を及ぼすために特に注目された事例ですが、この他に「○○区」を名乗らなかった地域自治区の消滅例も多数あるし、「地域自治区」を名乗りながらも、その存在根拠が 期間限定の合併特例法・合併新法から 期間の定めのない地方自治法へと変更された事例もあります。

ところが、この間の地域自治区の変遷をまとめた資料は、Webを見回しても適当なものが見当たりません。
平成合併と深い縁を持つ当サイトとして、何らかの形で資料をまとめて発表しておくべきではないか。
これが、平成合併の最盛期から 10年 という現時点で、このシリーズを記すに至った動機です。
[87328] 2015年 2月 22日(日)13:39:55hmt さん
「荒子」という地名
「荒子」という地名は、前田利家の出身地 として知られています。名古屋市中川区役所の東には あおなみ線の荒子駅があり、西に行けば新前田橋です。
1889年町村制施行(愛知県は10/1)で合成村名の万須田村になる前には 海東郡前田村 がありました。

こんなことを書き始めた動機は、「自治体越えの地名」の話題に同じ愛知県(但し尾張でなく三河)で、西尾市と安城市に跨る地名「荒子」が登場した [87274][87322]機会に、付近の「荒子」地名を調べてみたからです。

Mapionの住所一覧を使って荒子を含む町字の数を調べると名古屋市中川区が12。
荒子と荒子町の他に荒子町(地蔵前)などを列挙。荒子町の中に、小字毎の地番区域が多数あるようです。
小字単位の地番区域であることは 三河の荒子 も同様ですが、三河の荒子は小字として使われているようです。
旧明治村が分割された3市について町字数を調べると、碧南市には荒子町、安城市は城ケ入町(荒子)など7町。
そして西尾市には、南中根町(荒子)など なんと28町もありました。隣接関係を問わない総数ですが、町名の一部に荒子を使っている事例が、これほど多数あることには驚きました。

そもそも「荒子」とは如何なる土地なのか? 
名古屋の地名と由来には、次のように記されていました。
【前田氏】分家の進出した荒子は「荒処」で、未開地だったところを指す。

明治用水などの開発事業によって、未開地が新田に変貌し、三河デンマークと呼ばれる酪農地帯[75096]になった姿。
これを見ると、荒子という名が付けられた未開地を克服した近代土木技術の恩恵を感じます。
明治村という自治体名も、荒野を沃野に変えた時代を記念するものだったのでした。

しかし、よいことばかりではありません。明治用水完成から50年余を経た第二次大戦最後の冬、三河地震に襲われたのです。
1945年1月の真夜中、1ヶ月余の東南海地震でぐらついていた家屋は 大被害を受けました。ただでさえ物不足の戦時中に報道管制が重なり、救援物資も集まらず。10年後には災害を語り継ぐべき村の名も消滅[55569]。こんな悲しい歴史もありました。

ともかく、狭い範囲に別々の町字に属する28もの小字「荒子」が密集しているというのは、予想外でした。

なお、西尾市南中根町荒子が 碧海郡南中根村であったのは、1889年の町村制施行以前のことです。
町村制施行時には碧海郡米津村大字南中根字荒子になって城ケ入村字荒子と隣接状態になりました。
明治用水の完成は1890年ですから、2つの村の未開地は ほぼ同じ頃、沃野へと変貌していったのでしょう。

そして、1906年の 明治村成立によって自治体境界は、一旦消滅しました。
そして 昭和合併期の1955年には、明治村の3分村組み換えにより復活した自治体境界により、今度は 西尾市/安城市の境界を越える地名として復帰した という次第です。
[87319] 2015年 2月 19日(木)21:54:10【1】hmt さん
遅い旧正月
今日、2015年2月19日は旧正月、中国では「春節」という祝日です。
もちろん毎年巡って来るのですが、今年は少し遅いような気がしました。
そこで 2015年暦要項 で確認してみました。【日時は日本の中央標準時】
「雨水」 太陽黄経330度 2月19日8時50分
「朔」【新月】 2月19日8時47分 

ご承知のように、旧暦【太陰太陽暦】では 朔日【ついたち】から次の朔日の前日までが 「ひと月」 です。
そして、雨水がある月を「正月」とします。
雨水は太陽暦では毎年2月19日頃ですが、朔日の日付は毎年変化します。
今年は、偶々雨水の日付が旧暦の朔日だったのでした。

年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ
今年2月4日の立春は、旧暦では師走の16日。これは早い方ですが、年内立春自体はそんなに珍しいことではありません。
この歌が有名なのは、古今和歌集の冒頭を飾っていたためでしょうか。

その逆のケース。2012年の朔は1月23日、2月22日…でした。雨水は今年と同じ2月19日ですから1月23日から2月21日の30日間が正月ということになります。このように、雨水が次の朔の少し前【旧暦の日付で正月の晦日(みそか)近く】になる年には旧暦の元日が早まり、太陽暦2月4日の立春より前になります。

要するに、太陽の運行で決まる「雨水」と、月の運行で決まる「朔」との兼ね合いで生じる現象です。
そこで気がついたのが、2ヶ月前に書いた「朔旦冬至」[86827]と同じ 19年7閏 の仕組みだということです。

そうか、19年毎に巡ってくる朔旦冬至の2ヶ月後には、雨水と朔とが同日になり、遅い旧正月になるのか。
旧正月の日付を調べると、確かに19年後の2034年、更に19年後の2053年も旧正月は2月19日。

旧正月行事は日本の大部分では廃れたものの、中国・台湾・韓国・北朝鮮・シンガポール・ベトナムなど 中華文明圏の国では重要な祝祭日として健在なようです。
マレーシア・インドネシア・ブルネイなど イスラムの国でも旧正月が祝われるとか。

そう言えば、大切なことが一つ抜けていました。
最初に掲げた暦要項の中に注記した、【日時は日本の中央標準時】という部分。
二十四節気(雨水)も朔望月も世界中に共通する天文現象ですが、その「時刻」は各国の標準時によって異なります。
従って旧正月の日付が各国で同じになるとは限らないわけです。

更に言えば、朔と冬至の時刻が近接する19年目でも、両者の間で日付が変ってしまえば「朔旦冬至」に成り損ねるわけです。2014年は朔旦冬至でしたが、19年後の2033年は朔旦冬至にならないそうです。
[86827]では、このことを書き落としていました。
[87309] 2015年 2月 17日(火)19:04:06hmt さん
ルビ
[87304]の中で、使った言葉
南毛利村には「ミナミモリ」とルビが振ってあった

「ルビ」とは、小さい活字で印刷された振り仮名のことですね。
元々印刷業界でルビーと呼ばれていた7号活字のことだったようですが、私達が使うのは、活字自体ではなくて、それを使って印刷された振り仮名です。
印刷屋さんの解説 によると、手書き文書の振り仮名はルビでないので間違えないようにとのこと。

宝石のルビーが語源であることは、国語辞典にも出ています。ダイヤモンドはルビーより小粒。
活字のサイズに使う宝石名には、パール、アゲート【瑪瑙】などもあるようですが、国によって サイズはまちまち であるとのこと。レファレンス事例詳細

地理とは無関係の雑学でした。ご容赦ください。
[87304] 2015年 2月 16日(月)20:46:27【1】hmt さん
自治体名と地名
[87302] 白桃さん なんぎょう
南行徳の場合は明治の町村制施行時に生まれた自治体名ですから、そこそこ長い歴史を持っていますが、

「なんぎょう」に関連して、千葉県東葛飾郡南行徳村と同じように 町村制施行時に生まれた村名 を思い出しました。
一つは 群馬県南勢多郡→勢多郡 北橘村 です。2006年の新設合併により、現在は 渋川市北橘町になっています。

自治体消滅前の北橘村公式ページでは、「きたたちばなむら」を正式名称としながらも、中学校名にも使われている「ほっきつ」に、かなりの愛着を示していました。[48812]
そして[37082]で紹介されたように、合併後の町名には「ほっきつ」が採用されることになりました。

最初から漢字2文字である「北橘」は、省略形である「南行」の類例として適切なものではありません。
ただ、「南行北橘」と並べると「南船北馬」のような四字対句になりそうなので、この場を借りたというのが実際です。

もう一つ、1946年に hmtが入学した 旧制中学校の所在地だった 神奈川県愛甲郡 南毛利村 も 思い出しました。
この村は 1955年の新設合併で 厚木市になり、村の存続期間 約66年。学校名・駅名の省略という話題からは更に離れます。

…ということで、今回論じたいテーマは、「自治体名」と「地名」との関係です。
都道府県名・市町村名などの自治体名は、住所を記す時に使うので「地名」の典型例のように思われがちです。
しかし、「地名」本来の姿は、山・川・原などの自然地名や、人が住み着いた集落などの居住地名です。
離れた土地の人々の交流が盛んになると、いくつかの集落を総称する必要が生まれ、町村名ができました。
統一国家ができる過程で、更に広域の支配体制もでき、それが管轄する郡や国という広域地名もできました。
日本全国に県ができたのは明治4年でしたが、この時の「県」は行政組織つまり役所【今の言葉では県庁】の意味でした。

現行の地方自治法でも下記のように、都道府県や市町村の第一義は、「地方公共団体」の名称であることを明らかにしています。
普通地方公共団体は、都道府県及び市町村とする。
地方公共団体は権利・義務の主体となる資格を認められた「法人」であり、場所を表す目的の「地名」とは違います。

元々「○○県管内」と読んでいた行政区域を、単に「○○県」と呼び、「府県名」が地名にも転用されるようになったのは 明治32年の改正府県制以後のことと思われます。つまり、19世紀まで広域地名として普通に使われていた「国」がすたれ、代わりに「府県」が使われるようになったのは、20世紀からでした。hmtマガジン 参照。

このような「自治体名」と「地名」との関係を頭に置いて、「北橘」の事例を考察すると、次のように理解できます。
合併前の勢多郡「北橘村」【きたたちばなむら】は、法人格のある「自治体名」であった。
合併後の渋川市内に新たに画された10町名 「北橘町◎◎」【ほっきつまち◎◎】は、「居住地名」である。
「北橘町」単独の町名は存在しないが、北橘中学校 の名として使われてきた「ほっきつ」の読みが、北橘町真壁など旧北橘村内10町に使われた。

同じように、「南毛利」の読み方問題も再考察してみます。
2006年まで存在し、公式ページで「きたたちばな村」であると意思表示していた北橘村と違い、消滅後60年の南毛利村は、多くの資料に採用されている「みなみもり村」と、現実に使われていた「なんもうり村」とのギャップを埋めるのに、別の困難がありました。

3年前に書いた[80304]では、2005年の[44059]以来の数年間に記した疑問をとりまとめて提示し、MI さんが 神奈川県立公文書館で複写した資料 の確認をお願いしました。
[80306] MI さん からいただいた回答によると、南毛利村には「ミナミモリ」とルビが振ってあったとのこと。

これにより、神奈川県当局の意図する読み方を確認することができ、その後に編纂された多くの資料が「みなみもり」を採用していることも納得できました。
[44065]では“「正式の読み方」など存在しなかったのかもしれない”と書きました。[48812]で記したように、正式に定められていたのは「書き言葉」であり、読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよかったのではないかと思ったからです。

しかし、現実に「ミナミモリ」というルビが確認されると、「自治体名」としてはこの読み方を無視できません。
しかし、この読みは 地元に定着せず、「なんもうり」と呼ばれていたのは、注目すべき事実です。
公式の?「自治体名」と「地名」との関係を理解する上で、貴重な材料であると思われます。

「なんもうり」と読む施設名[44065][80309]
南毛利中学校 南毛利小学校
南毛利公民館 南毛利保育所 南毛利スポーツセンター 南毛利柔道スポーツ少年団 

現実に使われている「地名」の読み方が「なんもうり」であったのは何故か?
「なんもうり小学校」で学んだ人ならば「なんもうり」を使うのは当然でしょう。
そして、崇立館→長谷学校が南毛利小学校になったのは明治25年。 学校の沿革
関係者が 3年前の県令による「ミナミモリ」を知らない筈はない と思われるのですが、
学校名の読みを村名の読みに合わせる必要はないから、「立派に聞こえる」音読みを採用したのかもしれません。[80309]
参考までに、[75329]の末尾に 明治時代の学校名が並べてあります。大部分が音読み2文字の立派な名です。

学校名がある限り、地名としての「南毛利」【なんもうり】が使い続けられることは保証されていると思います。
しかし、役場・学校と共に村の代表的な施設であった郵便局でさえ、南毛利の名が消えているのです。
南毛利郵便局は、読みが「なんもうり」から「みなみもうり」へと変った後[44059]、更に愛甲石田駅前郵便局[58485]
局名に使う地名自体が変ってしまいました。

実は、「南毛利」という「地名」は、既に厚木市の居住地名の本筋である「町名」の地位も失っています。
温水、長谷、愛名、愛甲、恩名、船子、戸室などの旧村名は 大字として生きていますが、明治合併で生れた自治体名「南毛利」は、60年前の自治体消滅を機に 居住地名の地位さえも失いかけているようです。

江戸時代からの旧村名は大字としてしぶとく生き続けている。
しかし明治合併で生れた「自治体名」が自治体でなくなった後は、「地名」として存続する前途に、一抹の不安がある。

そう言えば、荏原に始まって明治の合成村名に言及した シリーズ記事 の末尾でも、同じような趣旨を書いていました。
[87273] 2015年 2月 10日(火)23:02:54hmt さん
海と島(24)地方自治法の規定で青森県所属になった 久六島
[87270] グリグリさん
第二海堡、海ほたる等の追記ありがとうございます。

秋田県は山形県の飛島を記載

これを見て、久六島 を思い出しました。
青森県の西端・久六島は、舮作崎から西に 30 km沖の日本海にある岩礁群で、青森県西津軽郡深浦町の一部になっています。

惜しいところで秋田県の領域から外れてしまった島 ということでは 山形県の飛島と共通しているのですが、こちらはずっと小さな無人島で、灯台のある上ノ島が53m×13mで最大。

深浦町史によると、久六島は天正年間には発見されていたようですが、旧岩崎村の大屋家所蔵の記録によると、船問屋の大屋久六が天明6年発見となっています。

江戸時代から、深浦・艫作・岩崎など弘前藩領海岸の漁民だけでなく、秋田藩領の村(岩館・八森)からも入漁していましたが、「石高」に関係しない岩礁は所属未定のままだったようです。

明治時代は青森県・秋田県ですが、当時の新聞は両県の間での過当競争を報道。

この状態で、明治以来も どちらの県にも所属しない状態が持ち越されたものの、1953年10月13日の閣議により所属未定地域の青森県編入が決まり、昭和28年総理府告示第196号で 久六島が正式に青森県西端になりました。

参考までに記しておくと、この措置の根拠とされた地方自治法第七条の二は 前年の法改正 により追加されたもので、本事案がその適用第1号であったと思われます。
[87268] 2015年 2月 9日(月)16:12:30【2】hmt さん
貴賓室があった 武蔵高萩駅
[87263] 伊豆之国 さん
西側の川越~高麗川間(中略)士官学校の最寄り駅であり、皇族方のために貴賓室が設けられていた武蔵高萩駅の駅舎も、改築により惜しくも取り壊されてしまいました([70706]スナフキん さん)。

連載された十番勝負関連テーマである「市駅」とは無関係ですが、かねて私が抱いていた小さな疑問が、この記事をきっかけに解明されたと思い、飛び付いてこの記事を書きました。
しかし、書いた後で再検討したら、根拠としたサイトの記載を文字通り信じることができなくなりました。
私の小さな疑問は未解明のままですが、地元 入間郡域 の歴史1コマとして、記事を残しておきます。

失礼ながら「こんな駅」と言いたくなる 武蔵高萩駅【埼玉県日高市高萩、1956年までは入間郡高萩村】。
こんな駅に 何故 貴賓室があったのか?

世間に伝えられていたのは、陸軍航空士官学校【修武台】の存在です。例えば Wikipediaには、かつて近くに存在した「航空士官学校の卒業式に臨席した昭和天皇が利用した貴賓室」との記載があります。
私自身も、1941~44年の「修武台」への行幸は川越線の武蔵高萩駅から行なわれたと記していました[34701]

脇道にそれますが、修武台という名について一言説明。
明治7年(1874)から東京の 市ヶ谷台 にあった陸軍士官学校が 神奈川県の座間に移転したのが 昭和12年(1937)で、昭和天皇から「相武台」の名が与えられました[19684]。この時代になると航空兵科の将校を養成する必要が増してきて、所沢飛行場内に士官学校の分校ができ、豊岡町への移転後 陸軍航空士官学校として独立しました(1938/12)。
「修武台」の名を下賜されたのは 昭和16年(1941)とのこと。参考

その航空士官学校があった地は 現在の航空自衛隊入間基地です。滑走路など広い敷地の大部分は 西武池袋線と西部新宿線とに挟まれた 狭山市入間川ですが、(本部の)所在地は 西武池袋線西側の 狭山市稲荷山 となっています。その他、入間市に属する地域もあります。
戦後は米軍のジョンソン基地だった時代がありました。更に遡った航空士官学校の発足時には 陸軍士官学校豊岡分校 という名でした。入間郡豊岡町【現在の入間市】の部分に 正門があったのでしょう。

武蔵高萩駅が 航空士官学校への行幸に使われたという通説について、私が抱いていた小さな疑問。
それは、お召し列車を大宮・川越経由で運転して、目的地の北北西(数km)にあるこの駅を使うのは、いかにも回り道であり、不自然だということでした。

ところが、リンクしていただいた[70706]により、この付近に詳しかった スナフキん さんが、
(陸軍女影原演習場所在を存在理由とした)皇室専用貴賓室
と説明していることを知りました。

女影原を手掛りに探したら、「武蔵高萩の里山を歩く」という探訪記に行き当たりました。
この 探訪記 の後半部分に
戦前高萩にあった陸軍の飛行場に昭和天皇が行幸したことを伝える昭和14(1939)年の新聞のコピー
が、高萩公民館に展示されている という記載がありました。

この探訪記によれば、1939年に女影原【高萩村、現・日高市】への行幸があり、その際に作られた貴賓室ということになります。
明治29年統合前の入間郡と高麗郡との関係で言うと、入間川右岸・武蔵野台地にあった修武台は 元からの入間郡域で、入間川左岸・飯能台地[55628]にあった女影原は 旧・高麗郡の領域です。
航空士官学校以外の行幸目的地があったのならば、駅に貴賓室を設けられた理由も納得できます。

これにて一件落着
…と思ったのですが、再検討の結果、致命的な問題点を発見してしまいました。

川越線の開業は昭和15年(1940)7月ではないか!! 
行幸を伝える「昭和14(1939)年の新聞」に、武蔵高萩駅の利用が記されていた筈がない。
Webに示された新聞では小さい字が読めず、日付や記事の詳細の不明ですが、どうも航空士官学校の卒業式への行幸を伝えるもののようです。

では、航空士官学校への行幸に使われた交通路は何だったのか?
それこそ 推測になりますが、学校敷地内を通過していた 武蔵野鉄道【西武池袋線の前身】 を使う可能性もあります。
目的地である航空士官学校敷地内に「臨時乗降場」を設ける。これが最も合理的です。

もっとも、国有鉄道【鉄道省線】優位の時代に、私鉄を使うことができたのか? とか、武蔵高萩駅の貴賓室の謎が解けていないなど、問題を残したままです。
参考までに、相武台への行幸には、私鉄の小田急や相模線【国有化前の相模鉄道】は使われず、省線【横浜線】原町田駅が使われました。原町田にあった宮廷ホーム[34522]は 私の記憶にあります。
引用した探訪記に記された「高萩にあった陸軍の飛行場」の裏付けも取れていません。

新聞記事が昭和14年というのが誤記かもしれず、開業前の川越線を特別に使ったのかもしれず、…
妄想は尽きることがないので、このへんでやめておきます。
[87262] 2015年 2月 7日(土)17:28:41hmt さん
海と島 (23)富山県・千葉県・神奈川県の島
[87259] グリグリさん
千葉県と富山県の地図にも島の表記を行いました。

富山県氷見市の 虻ガ島。初めて知った小さな無人島でしたが、それでも富山県最大なんですね。2島合計で0.1ha余。富山県指定名勝・天然記念物。能登半島国定公園特別保護地域。
いきなり深くなる富山湾で希少な島です。5万分の1地形図の図名では 「虻島」となっていた時もありました。

千葉県鴨川市の仁右衛門島。落書き帳では、早くも2003年に小さな有人島として登場[15942][16236]
面積は 2haとも 3haとも。平野仁右衛門を代々名乗る個人の所有で、自然島としては千葉県最大の島のようです。

人工島ですが、富津市の「第二海堡」[26174]。この島は 仁右衛門島よりも大きな島であるというだけでなく、千葉県の西端[83154]という重要な地位を占めています。是非とも 千葉県の地図に描いていただきたいと思います。神奈川県の地図にも。
少し立場が違いますが、千葉県と神奈川県とを結びつけている「海ほたる」も 地図に描かれる対象として考慮されてよいのではないでしょうか。>グリグリさん

海堡に戻ると、東京湾海堡の歴史では、品川台場にも言及しています。1914完成の第二海堡は 4.13ha。隣の第一海堡も富津市で、2.31ha 1890完成。参考までに第三海堡所在地は横須賀市でしたが、航路確保のため 2007年までに撤去されました。

神奈川県の地図に移ります。富津岬の西、第一海堡・第二海堡の対岸・横須賀に記されているのが吾妻島です。
この島は知らなかったのですが、横須賀市箱崎町の面積は82.5haで、海堡など数haの島よりも1桁以上大きな「島」です。
元々は「箱崎」という地名が示すように半島だった地形でした。1889年に付け根に開削された水路で切り離されたとのことですが、大正の地形図ではまだごく狭い水路で、「島らしい島」ではありません。
全島が米国海軍の倉庫地区になっており、一般人は立ち入ることができません。

吾妻島のすぐ北にあるのが「夏島」です。ここは元は風光明媚な金沢八景を望む天然の島でした。
海軍の軍用施設を作るための埋立で本土と地続きになりましたが、「夏島」という地名は残っています。
横須賀市夏島町の面積は288.8haもあるので 大きな島かと思ったのですが、古い地形図で確認すると 自然島の夏島は 一桁小さな島でした。現在の夏島町は大部分が埋立地であることがわかりました。

…というわけで、「神奈川県の地図」にその名を記してもらう資格はないのですが、調べてみると なかなか由緒のある島です。

夏島貝塚。その存在は戦前から知られていましたが、要塞地帯や米軍占領のために調査不能。しかし占領軍の将校の協力が得られ、明治大学による調査が実現。放射性炭素14による年代測定が日本で最初に使われ、縄文土器の年代が5000年前から9500年前まで倍近くに遡ることがわかり、考古学に大転換をもたらす。
写真の小山が本来の「夏島」で、その周囲に埋立で作られた平地が広がっていることがわかります。

落書き帳読者のみなさんは 明治22年(1889)と聞くと、反射的に「1889/4/1市制町村制施行」となると思いますが、その少し前 1889/2/11 大日本帝国憲法発布(施行1890/11/29) こそが 近代日本の統治制度を仕上げる重要なステップでした。

夏島は、その憲法発布の準備作業が行なわれた地として その名を残しているのです。
明治維新三傑亡き後の明治政府で力を持った伊藤博文は、明治15年(1882)に憲法調査の目的でヨーロッパで学んでいました。明治18年の内閣制度への移行に際しては、初代首相に就任し、ここでも憲法発布前の下準備。具体的な憲法草案の作成作業は、明治20年(1887/6)から夏島にあった伊藤の別荘で、伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らと共に行なわれた検討会で始まり、8月に一応の成果を得ました。この 夏島草案が 枢密院での審議を経て、明治22年の憲法発布に至ります。

ここまでは自然島だった夏島ですが、大正7年(1918)に横須賀海軍航空隊などの軍用施設を作るための埋立が行なわれた結果、島の様子は一変します。
大正10年修正の地形図では、島の西側に大きな埋立地が現れ、追浜飛行場と記されています。ここで追浜(おっぱま)という地名が現れましたが、相模国三浦郡と武蔵国久良岐郡との境界線がこの中を通っています。埋め立てた海の大部分が久良岐郡金沢村野島の地先だったからです。このことが、戦後飛行場跡地の帰属について横浜・横須賀両市間の係争の因になったとのことです。

敗戦後、追浜飛行場の後は、占領軍の巨大なスクラップヤードになり、南方の戦場で壊れたトラックやジープが大量に運び込まれ、その修理・解体・再利用が行なわれました。引き続き、1950年に始まった朝鮮戦争もスクラップ車両の供給源になりました。

このような過渡期を経て、現在の夏島で最大の面積を占めている施設は、日産自動車追浜工場です。
1961年操業開始 。工場が完成し、ブルーバード生産開始は 1962年3月(Wikipedia)。

夏島には、海洋研究開発機構JAMSTEC もあります。「しんかい6500」の母船は「よこすか」ですが、その前に運用されていた「しんかい2000」の母船は「なつしま」でした。現在は「ハイパードルフィン」の母船に改造され活躍しているとのことです。研究船
[87258] 2015年 2月 6日(金)19:04:36hmt さん
「○丁目」・「第○地割」におけるアラビア数字表記
初めにお断りです。昨日同じテーマの記事を書いたのですが、大幅な訂正を加えました。
訂正が許される限界を越えると判断したので、新規の投稿とします。
同じ記事番号にならないように、投稿後 昨日の記事を削除します。

[87253] 右左府 さん
私も同様に【「字」の一種と】理解していたのですが、ちょっと引っかかる出来事がありました。
岩手県滝沢市 の方の…「戸籍全部事項証明」…数字の部分が アラビア数字 で表記されていたのです。
この戸籍を見て以来 「『地割』 は『字』の類ではないのか?『字』とはまったく異なる独自の要素なのか?」 という疑問

疑問が生じた根拠
1 町字名の一部をなす数字の正式な表記は漢数字である。
2 戸籍の表示などで使われるのは、この“正式な表記”である。

市町村長の告示(地方自治法第260条第2項)で用いられた表記が、唯一の“正式な表記”であるか否かについても疑問があるのですが、告示の表記自体にアラビア数字が使われている市町村もあるようです。Wikipediaには札幌市の告示表記がアラビア数字であると記されていました。

漢数字表記を正式とする市町村であっても、アラビア数字の使用を認めて公式に採用している事例は多数あるようです。
戸籍の事例ではありませんが、住民票の住所の表記に関しては、先例があるようです(Wikipedia)。
『二丁目』は固有名詞と解されるが、横書の場合は便宜2丁目と記載してさしつかえない
という大分地方法務局長の見解が、法務省民事局長からも是認されたとのこと(1963年)。

これ以後、多数の市町村で、住民票における「丁目」の記載がアラビア数字になっているようです。

「霞が関一丁目」を「…itchôme」でなく、「Kasumigaseki 1 chôme」と表記するという自治省行政局長通知(1965)もありました。

自分の住所に戻って、富士見市長の発行した住民票を見ると確かに「富士見市ふじみ野西4丁目」とアラビア数字表記です。

ところが、2010/5/1実施の 新旧・旧新住所対照表に先立って 都市計画事業で定めた 新旧・旧新地番対照表 では漢数字表記です。

この辺が ややこしい ところです。
新町名を定めた告示を確認しようと探したが不成功。
富士見市のウェブサイトではアラビア数字に統一されていました。例規集にある 出張所設置条例 を見ても同様にアラビア数字。

ところが、街角にある 街区表示板 を調べたら「ふじみ野西四丁目」と漢数字。
縦書のせいかと思って、「ふじみ野西」地域の案内地図[75049]を見たら、横書きなのに漢数字。
市の仕事の中でもアラビア数字と漢数字が混在しています。

このような状況を見ると、告示で用いられた表記が何れであれ、それが唯一の“正式な表記”であるとする見解には疑問を抱かざるを得ません。

「丁目」を主とする記事になりましたが、「地割」も同じことだと思います。
滝沢市が発行した
戸籍謄本(正確には、電算化された横書きの 「戸籍全部事項証明」)
に使われていたアラビア数字表記に拘らず、条例で定めた地割の表記は漢数字であった可能性があります。
そして、いずれの表記であっても、それを根拠に「地割は字の一種」という理解を覆すことは困難と思われます。

おまけ
今尾恵介『住所と地名の大研究』p.200-208には『「丁目」とは何か』という節があります。
同じ本のp.93-100には『北海道の条・丁目』という節もあります。
落書き帳アーカイブズには、町名、字名(大字、小字、字)、丁目とは何か? があります。
[87250] 2015年 2月 2日(月)20:24:20【1】hmt さん
「第○地割」
[87245] N さん
2014/11/25に八幡平市役所が移転しました。

業務開始を知らせるWebページ の下端部に記された住所は「岩手県八幡平市 野駄 21-170」となっています。
「八幡平市」に続く「野駄」は大字でしょうが、その後に略記された「21-170」は何を表す番号か?

住所地名における最もありふれた番号は「丁目-番地」のペアですが、「21」は丁目の数字としては大きすぎます。
「番地-枝番」の事例も多数ありますが、今度は「170」が大きすぎるようです。

正解は 広報はちまんたい にありました。
住所: 〒028-7397 八幡平市 野駄 第21地割 170番地
# 例規集も確認しましたが、まだ「八幡平市大更第35地割62番地」【旧西根町役場の位置】のままでした。

「野駄」という大字【1889年の町村制で松尾村になる前の野駄村】と「170番地」との間にあったのは、「第21地割」という地名階層でした。
この例では大字と番地の間ですから、「字」の一種、いわゆる「小字」に相当するものと思われます。
しかし、小字に普通使われているような「地名」ではなく、「第21」という番号を使った階層は珍しく思われました。

「第○地割」は、本当に「小字相当」の階層なのか? [48333]で紹介されている種市の事例も「小字相当」ですが、更に調べてみると、必ずしもすべての「第○地割」がそうであるとは言えないようです。
例えば盛岡城址を史跡に指定した昭和12年文部省告示212号を見ると、所在地は「岩手県盛岡市第一地割字内丸○番地」となっており、この場合の「第一地割」は、「字」の上位階層である「大字」に対応するように思われます。

滝沢市の 供養塔 の事例を見ると、これが建てられていた旧位置は「鵜飼村第24地割字笹森」、現在地は「滝沢第3地割字高屋敷72番地2」とあります。鵜飼村や滝沢は1889年の町村制で滝沢村が成立する前の旧村、つまり「大字」レベルの地名。そして字笹森や字高屋敷は旧村時代からの「字」【いわゆる小字】であり、「第○地割」は旧村【即ち大字】と「字」との中間に作られた階層であることがわかります。

供養塔自体は幕末のものですが、もちろん所在地が刻まれているわけではありません。
「第○地割」という地名は役場の人が位置の記錄に使っただけです。
いずれにせよ「地割」とは、市町村と番地との中間階層である「字」の一種であり、番号を使った点が特異的です。
使用事例は専ら岩手県のようですが、九戸郡に至る北の方に多くの事例を見ることができます。

私の勝手な推測。明治5年から明治9年にかけて存在した旧岩手県が設けた階層が生き残っているのではないでしょうか?
この時代は、大区・小区を設けて戸籍制度の整備をしていた時代です。
地名についても従来の「字」にとらわれず、便宜上当時の「村」の中を「番号で地割した」ことが考えられます。

それはさておき、珍しい「第○地割」という住所に惹かれて、落書き帳の過去記事を調べてみました。
地割には直接言及していないが、「字」や「地番」に関する記事も一部加えてあります。記事集地割

考えが纏まらないままの結語。
「第○地割」は「○丁目」や「○街区」[19560]、北海道の「条丁目」・「線号」[48808]などの同類で、「地名を使わないで番号による地区割」の一種と思われます。
千代田区「三番町」なども元々は同類だったのかもしれませんが、現在では普通の町名として定着しています。
地名コレクションにも「数字系」や「合併数地名」などがあります。
多様な「地名」。「第○地割」もその中の一つの存在と言えば、それまでのような気もします。
[87242] 2015年 2月 1日(日)12:26:42hmt さん
宮古島から開通した道路の西端にあるのは 下地島空港
[87240] k-aceさん
本日16時に宮古島市の宮古島と伊良部島を結ぶ、国内最長の無料で通行できる橋「伊良部大橋」(3540m)が開通しました。

伊良部大橋を含む道路は、沖縄県道252号で、その路線名は「一般県道平良下地島空港線」です。
沖縄県サイト 事業経緯によると、伊良部島の生活環境の改善・活性化などが図れる他に、下地島空港の利用促進に寄与するものと期待されています。

宮古島から新たに開通した陸路を 航空写真 で眺めてみます。
伊良部大橋は未完成ながら、画面右下の海上に特徴ある弧状の姿を見せ始めています。橋の東詰に県道252号の表示がありました。

目立つのは、やはり画面西端の 下地島空港にある 3000mの立派な滑走路です。落書き帳では、[83592]の末尾で僅かに言及。
以前は民間航空のパイロット訓練用に利用していましたが、日本航空(-2011)全日空(-2014)共に訓練を終了しているそうです。訓練用シミュレーターが進歩した結果でしょうか。
とにかく、現在は殆ど活用されていない状況のようです。

自衛隊の利用も検討されている筈ですが、政治問題がからみ 実現していません。
尖閣諸島に近い立地ということもあり、今後の動向に注目。

下地島と伊良部島との間の水路は狭く、航空写真では殆ど1つの島のように見えますが、県道の国仲橋を含む6本もの橋で結ばれていました[82809]
子ども達が飛び込みをしていた乗瀬(ヌーシ)橋【南端】は老朽化して解体されましたが、新しい橋に架け替えられるようです。

以下余談
「上地・下地」という地名は 沖縄では一般的に使われているようです。
[83592]では八重山の新城島に言及しました。干潮時には珊瑚礁が顕れて上地と下地の2島が連結します。
大字・小字名は、もっと近くにあります。宮古島市役所下地庁舎の所在地は 宮古島市下地字上地です。

念の為に記しておくと、平良市との合併が琉球政府告示後に撤回されたという 珍しい事例[71753]が紹介された 宮古郡下地町。これは勿論 空港の下地島ではなく、宮古島南部の「下地」です。本土復帰前のこと。
[87239] 2015年 1月 31日(土)12:59:31hmt さん
絹の話(6)楫取素彦と速水堅曹
NHKテレビの連続ドラマ『花燃ゆ』に、準主役として小田村伊之助という人物が登場しています。
主役の女性とこの人との関係はドラマに任せるとして、最初に「都道府県市区町村」との関係を説明しておくと、明治9年に群馬県の初代県令になった 楫取素彦(かとり・もとひこ)の若い頃の名が小田村伊之助でした。

名前が幕末に使われた通称の「伊之助」から変っているのはともかく、姓も小田村から楫取へと変化しています。
生家は松島家であり、養子に入った時に小田村に改姓。これは養子制度が多用された昔なら 珍しいことではありません。
楫取素彦への変更は、慶応3年(1867)に藩主の側近に取り立てられた時に、毛利敬親の命によるものだそうです。
楫取は「舵取り」の意味で、小田村家の先祖の仕事。山口藩の舵取りへの期待が込められている苗字のようです。

桂小五郎→木戸孝允、村田蔵六→大村益次郎などの例もあり、長州ではよく行なわれたことなのでしょうか?

富岡製糸場は明治5年(1872)操業開始ですが、明治政府の官僚になっていた楫取素彦が 足柄県参事から上野国に転勤してきた時期は 明治7年のようです。当時の役職は熊谷県権令、つまり副知事でしょうか。
熊谷県は明治4年に設置された第一次群馬県[54888]と入間県[36047]とを明治6年に統合したものです[36081]
熊谷県は富岡製糸場に代表される絹だけでなく、狭山茶の産地でもあり、当時の代表的な輸出産業を支える県でした。

明治9年(1876)、熊谷県の北半分【第一次群馬県域】は 明治4年から栃木県に属していた3郡【山田・新田・邑楽】を統合して 現在と同様に上野国一円を管轄する【第二次】群馬県になりました。

楫取素彦は、初代の県令(知事)になり、引き続き上野国の地方行政の責任者を務めることになりました。
県庁は最初は高崎でしたが、楫取の在任中に前橋に移りました。産業振興にも尽力した彼を讃えて、「県都前橋の父」という碑 が建てられているそうです。
なお、この時に熊谷県の南半分【旧入間県域】を編入した埼玉県は、ほぼ現在に近い県域になっています。

2012年の上毛新聞ニュース に、富岡製糸場が閉場の危機に陥った明治14年(1881)に、県令の楫取素彦が 官営存続を国に強く訴えたという資料が紹介されていました。

明治初期に全国で展開した官営の模範工場。西南戦争による財政危機に見舞われた政府は、財政的負担の軽減の見地から、官営事業払下げの方針に転換しました。藤田伝三郎が小坂鉱山を手に入れたのは、少し後の明治17年でした[67425]
しかし、大規模な富岡製糸場は買い手がつかず、請願人がなければ閉場との方針も出されました。
これに反対して 楫取素彦県令が農商務省と掛け合い、官営存続となったとのことです。

振り返ってみれば、富岡に製糸技術を輸出したのは、普仏戦争の敗戦により第二帝政【ナポレオン3世 在位1852-1870】から第3共和制に移った頃のフランスでした。

時は移り 復興したフランスは、1878年にパリ万国博覧会を開きました。
日本では明治11年ですが、この時に勧農局長だった 松方正義は 富岡の生糸の品質低下をフランスから指摘されました。
そして、松方が富岡製糸場の改革を任せるべく、第3代所長に任命したのが 前橋藩士時代の 1870年に 小規模ながら 日本初の器械製糸所を立ち上げた速水堅曹でした。
かねがね速水が唱えていた民営化を含む抜本的改革に松方が賛同したわけです。

速水は、明治13年 官営工場払下概則 制定の頃に 富岡製糸場の所長を辞任して民間人となり、その立場で富岡製糸場を借り受け経営するプランを立てていたようです。
しかし、前記のように楫取素彦群馬県令の反対で実現せず、官営事業継続となりました。
日本の産業資本が未成熟の時代には、やはり民間の手に余る大規模工場だった…ということなのでしょうか。

一度は富岡を離れていた速水も明治18年(1885)には所長に復帰しました。
速水は、明治26年の民営化実現で退任した後までも、技術スペシャリストとして全国に製糸技術を指導したとのことです。
[87238] 2015年 1月 31日(土)12:42:10hmt さん
絹の話(5)官営富岡製糸場
4つの資産の中心的な存在である富岡製糸場に移ります。明治5年(1872)開場の少し前の状況から始めます。
工場の名前は 官営時代から「富岡製糸所」と呼ばれた時期が多く、民営化後もいろいろ変化しています。
この記事では、便宜上 最初の名でもあり、世界遺産でも使われている「富岡製糸場」に統一しておきます。

シルク産業は、養蚕つまり繭の生産で完結するわけではありません。農産物である繭から生糸にする製糸工程、その絹糸を更に加工する織布・染色などの工程、更には裁縫等を経て私達が日常接する製品が完成します。
幕末に輸出が急増した日本の生糸ですが、粗製濫造の結果はたちまち評価の下落になりました。
それだけでなく、旧来の座繰りによる生糸は太さが揃いにくいという本質的な欠点がありました。
生糸の付加価値を高めるためには、器械製糸への転換が必要です。

小規模ながら日本最初の器械製糸所は、前橋藩の速水堅曹により明治3年(1870)に作られました。イタリア技術の導入です。
前橋藩については、転勤大名・松平大和守をテーマにした記事で触れたことがあります[72830]
1749年に姫路から前橋に移されたものの、利根川の侵食で前橋城は崩壊の危機。幕府に頼み込んで空き城の川越に緊急避難。川越で約100年を経過して幕末・松平直克の時代になりました。

松平直克が親藩【越前分家】の藩主でありながら 政事総裁という幕府要職に就任したのは 幕末の非常体制を示しています。
その一方で、宿願の前橋城再建により、100年ぶりの前橋復帰をも果しました。前橋復帰を実現できた背景には 利根川河川改修があったのは勿論ですが、資金的裏付けとしては横浜開港後の生糸の輸出により得られた前橋商人の財力がありました。
日本初の前橋器械製糸場の開設は、このような背景から実現したものであり、前橋城再建には直克側近の速水も関わったことと思います。

前橋藩に製糸場ができた頃、明治政府も外国資本でなく、官営の模範工場を建設する方針を決めました。
そこで御雇外国人として選ばれたのが、フランス人のポール・ブリューナでした。
彼が日本側の所長・尾高惇忠と共に選んだ立地は、前橋にも近い 上野国富岡 で、ここに外国でも例を見ない、繰糸器300釜という大規模な器械製糸所が作られることになりました。

器械はもちろんフランスから輸入しますが、それを設置する建物が必要です。倉庫その他の付属建物も必要です。
短期間に主要な建物を完成させるのに役立ったのが、横須賀製鉄所[77630]の建築を担当したバスチャンの経験でした。

2014/12/10の官報で 旧富岡製糸場の建物3棟が 国宝建造物に指定されました。文化庁報道発表
群馬県は 県内初の国宝誕生 と報じています。
参考までに、近代建築で国宝になったのは 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)に次いで 全国で2件目です。

国宝になった繰糸所は 桁行 140mと 長大な木骨煉瓦造で 高い天井とガラス窓で 明るい大空間を実現しています。
東置繭所・西置繭所は繰糸所と直交する配置で、桁行104mの2階建。明治五年と記された東置繭所の要石。

建物や繰糸器械のように有形の遺産として残されてはいませんが、工場建設に何よりも重要だったのは 従業員の確保です。
その女子作業員が「工女」ですが、前例のない西洋式の大工場で働く数百人の工女を確保するのは大仕事でした。

所長の尾高惇忠の娘を始めとして、旧士族階級出身の工女が多かったようですが、その労働環境は 1日8時間の週休制。
年末年始や盆休み。福利厚生など当時としては優れたものでした。
それでも騒音など作業環境問題もあって中途退職する工女も多く、熟練工を育てられないことによる非効率は経営上の問題点になっていたようです。

経営上の問題点と言えば、御雇外国人に支払う高給も赤字の原因で、日本人だけになった明治9年度に初黒字が出ました。
[87237] 2015年 1月 31日(土)12:26:17hmt さん
絹の話(4)養蚕技術関係の3資産
2014年春に 富岡製糸場の世界文化遺産登録を記念して、絹の話 を書き始めました。
これは、日本が近代化する過程で大きな役割を果たした絹関連産業を見据えたシリーズですが、産業構造が一変した現代の落書き帳読者に対する解説的な意味合いもあります。

…と、先輩ぶった書き方をしたのは、私が過ごした少年時代の環境には、大部分の皆さんの周囲よりも、桑の木がたくさん生えていたからです。とはいうもの、私自身も養蚕業に触れた経験はなく、受け売りの知識にすぎません。ごめんなさい。

構想だけは大きなシリーズ。3回で中断していましたが、少し書き続けます。

前回までの記事は 世界文化遺産登録が確実視される状況になった 2014年4月の ICOMOS勧告時点での紹介でした。
その後2014/6/21に Doha,Qatarで開かれた委員会において Tomioka Silk Mill and Related Sites の名で 世界文化遺産リストへの記載が正式に決まりました。

この文化遺産を構成する資産は、富岡製糸場に加えて養蚕技術関係の3資産があり、合計4資産です。

富岡製糸場【富岡市】 フランスの技術を導入した明治5年設立の官営器械製糸場。木骨煉瓦造の繰糸場や繭倉庫など。
田島弥平旧宅【伊勢崎市】 近代養蚕農家の原型になった文久3年(1863)の建物。通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」。
高山社跡【藤岡市】 通風と温度管理を調和させた「清温育」は、日本の標準的な養蚕技術として全国及び海外に普及。
荒船風穴【下仁田町】 天然の冷風を利用した蚕の卵の低温貯蔵施設。これにより1年間に何回もの養蚕が可能になった。

日本の養蚕は 古い歴史があったものの、その技術は長い間停滞していました。
江戸時代後期になると、中国からの輸入生糸による貿易不均衡を是正する必要から、ようやく技術改良が進み始めました[85527]。その成果を示す資産が「清涼育」の蚕室を具えた田島弥平旧宅でした。

幕末の黒船来航を契機とする開国で外国貿易が開始された頃、ヨーロッパにおける絹の主産地であったフランスやイタリアでは蚕の微粒子病が蔓延しました。そして清王朝下の中国も太平天国の乱などで混乱状態に陥り、蚕種や生糸は世界的な不足状態になりました。これが日本の輸出品の花形として生糸を登場させる背景になりました。

一方で日本の養蚕技術は、「清涼育」と東北地方の「温暖育」とを調和させた「清温育」により確実な繭生産が可能になりました。この技術を全国に普及させた教育機関が 高山社 でした。
高山は旧村名です。都道府県市区町村変遷情報を見ると、1889年の町村制で 緑野郡高山村等9村が 美九里村合併数地名コレクション収録済み】となり、1896年の郡統合による多野郡を経て 昭和合併時代の1954年に藤岡市になったことがわかります。

そして、荒船風穴による蚕種の冷蔵により年1回だけだった養蚕が複数回実施可能になり、増産を実現。
一代雑種(F1)の利用も 1914年に実用化しました。

このようにして、明治から大正にかけて日本の養蚕業が大発展した背景を探ると、そこに先人たちの努力があったことは勿論なのですが、時の運に恵まれたことも否定できません。
[87236] 2015年 1月 31日(土)12:06:05hmt さん
2人の「鳩山首相」の出身地
[87232]で紹介していただいたサイトを見て、ちょっと気になったので メモしておきます。
東京都 5人 高橋是清・近衛文麿・東条英機・鳩山一郎・菅直人【サイトの誤記を訂正】
京都府 3人 西園寺公望 、芦田 均、東久邇稔彦
北海道 1人 鳩山由紀夫

東久邇宮家が創設されたのは明治後期ですが、京都府出身を自認しておられたのですね。西園寺首相も京都。
対照的なのが近衛首相。藤原氏→近衛家と言えば歴史的には京都の公卿の代表ですが、現実には東京出身。

2人の「鳩山首相」の出身地も分かれていました。

鳩山家の出自を探る目的で、鳩山一郎の父・鳩山和夫を調べてみました。首相ではないが、衆議院議長の経歴あり。
美作国勝山藩士の出身ですが、親の勤務地の関係で江戸生まれ。
子供時代に勝山に戻ったこともあるが、本拠地はずっと東京で、音羽に居を構えたのは1890年で、34歳。

政治家・教育者であると共に、北海道開拓にも尽力。
岩見沢の南に位置する 栗山町鳩山地区

落書き帳メンバー紹介でもそうですが、「出身地」は本人の主観で決められます。
衆議院選挙区を意識した「北海道出身」の首相というのも「アリ」なのでしょう。

高橋是清首相は江戸町人の家に生まれたが、生後間もなく仙台藩の足軽の養子となる。
東條英機首相の出自は盛岡藩南部氏に仕えた能楽師。父は軍人。
2人共に、江戸・東京に勤務していた家で育った「東京出身者」であると思われます。
[87233] 2015年 1月 31日(土)10:33:52hmt さん
岩手県出身の横綱・宮城山
[87231] じゃごたろさん
岩手県にも横綱がいたことは驚きでした。

その横綱の しこ名が、宮城山であることを知り、また驚きました。
出身地は岩手県西磐井郡山目村【1948年一関市】で、元は仙台藩領だったようですが…
[87185] 2015年 1月 21日(水)17:40:31hmt さん
hmtマガジン更新のお知らせ
2015年になってからの更新状況をお知らせします。

2015/1/1 特集「日本の海と島」に、追加記事を収録しました。
日本の島の面積・人口集計表 や、架橋による「連島」を考慮した面積・人口の上位ランキングも含まれています。

2015/1/12 津の守坂のタイトルで連載した 高須四兄弟 をマガジン化しました。

2015/1/20 これまで収録していなかった「郡」や「支庁」についても、マガジンに収録するつもりで新規テーマを作りました。
その第1号として取り上げたのは、 hmtの居住地である 埼玉県入間郡域 です。
[87184] 2015年 1月 21日(水)16:07:10hmt さん
埼玉県植木村が関係する 明治29年の郡統合情報
1889年の町村制施行当時、植木村は 比企郡に属していました。
1896年に(旧)比企郡は横見郡と統合されて (新)比企郡 になりました。
ところが、1938年に 入間郡芳野村 と 入間郡古谷村への分割編入によって消滅した植木村は、入間郡所属となっています。

比企郡から入間郡に移ったのは何時か? この疑問を解く鍵は、1896年の「郡設置」情報に記されています。
「(旧)比企郡の一部」から設置された郡は、比企郡だけでなく入間郡もあったのです。

詳しく言うと、(旧)比企郡の大部分である2町22村は(新)比企郡に受け継がれたのですが、植木村だけは入間郡に移ったのでした。

…, 比企郡の一部 の区域をもって◎◎郡を設置
という現在の表記【◎◎=入間、比企】は、植木村だけが比企郡から外されたという現実を伝えるには不満足です。

修正案:対象となる町村名を「○○村」でなく、具体的に列挙する。
88さんはこの方針であったかもしれません。埼玉県下国界変更及郡廃置法律 も列挙しています。

別の案:次のように記載して 植木村の所属変更を伴う郡統合情報 であることを明示する。

入間郡, 高麗郡 及び 比企郡植木村 の区域をもって入間郡を設置
横見郡, 比企郡(植木村を除く) の区域をもって比企郡を設置

後者は非公式な簡略記載です。
しかし、変遷情報の本質からすると、修正に手間がかからず、利用者にわかりやすい この簡潔な表記が好ましい。
hmtとしては、そのように思うのですが、よろしくご検討願います。>グリグリさん

付言
この郡境変更は、町村制施行よりも【ずっと?】前に行なわれた河川改修の事後フォローと推測 [79671]
[87139] 2015年 1月 16日(金)16:46:37【3】hmt さん
大阪市を廃止し5特別区とする案の可否を問う 最大規模の住民投票
大阪府・大阪市特別区設置協議会 の第21回会議が2015/1/13に開かれました。
この会議によって事実上決められたのが、タイトルに掲げた住民投票です。

最初に、落書き帳では [87116]の二番煎じになることを承知で、敢えて長目のフォロー記事を書いた理由を説明します。
それは「都道府県市区町村」メンバーとして
大阪市がなくなるかもしれない!
という節目を見逃せなかったからです。
もっとも、公明党は住民に反対を呼びかけるし、5ヶ月も先の住民投票結果は予断を許しません。

今回の協議会の正式議事録は未公表です。そのため、朝日デジタル など新聞種に頼りながら、このニュースを眺めます。
忘れてはいけない資料もまとめて置きましょう。落書き帳の過去記事 です。 

2010年に立ち上げた大阪維新の会は、2011年春の統一地方選挙と同年秋の大阪府知事・大阪市長のダブル選挙で勝利しました。2012年には中央政界主要政党の賛成も得て成立した 大都市地域における特別区の設置に関する法律[81306] が成立し、翌年早々には大阪府・大阪市特別区設置協議会発足と、ここまでは極めて順調な滑り出しでした。

しかし、2013年に議論が始まると 当初は協力的だった公明党が 維新の会との対決姿勢を強め、2014年1月には決裂状態。7月に維新単独で決めたプランが10月の大阪府・大阪市の両議会で否決され、暗礁に乗り上げました。

ところが、昨年末頃から風向きが変ったようです。
橋下市長・松井知事と対立する野党の立場の公明党は、「あまりにも ずさん で問題点が多い」として特別区設置協定書内容を批判しながらも、「議論の収束をはかる」として、住民投票実施に同意する方向に動きました。

…というわけで、今年3月の府・市議会では、昨年否決された案と大きくは変わらない最終案が可決され、統一地方選挙後の2015年5月17日に 「大阪市」を対象とする住民投票[87116] が実施される見通しです。

住民投票の有権者、つまり大阪市に住む20歳以上の日本国民は約215万人にのぼり、わが国では最大規模の住民投票になるようです。と言っても、大阪市以外の 大阪府32市・9町・1村の住民【人口で70%】は蚊帳の外です。念の為。

最近の協議会で事実上決まったと伝えられるのは、大阪市に代え特別区を設置することの賛否を大阪市民に問う住民投票の実施です。
[87119]ピーくんさんが記されたように
2017年から大阪都になって大阪府と大阪市がなくなる
ことが決められたわけではありません。

【追記】[87140]へのレス
ご指摘を受けた部分の原文は、住民投票が大阪府全体でなく大阪市だけであることにその意義を認め、そのことを最初に指摘したのが山野さんの記事であることを明示し、讃える趣旨でした。しかし、記事引用の不手際から山野さんに不愉快と感じさせる逆効果になったことをお詫びします。誤解の原因部分の表現は修正しました。
  
マスコミの影響かもしれませんが、「大阪都構想」という言葉が “独り歩き” しているような気がします。
住民投票実施を決めた協議会の名に示されているように、地方行政制度として現在検討されているのは、「大都市地域における特別区の設置」です。
これが 橋下さんの掲げる「大阪都構想」と関係するものであることは間違いないでしょうが、大阪だけのものではありません。

このテーマを、市区町村変遷情報に どのように反映させるべきか?
オーナーグリグリさんは 既に[77728]以来 検討されていると思いますが、現実には 予定情報一覧 には収録されていません。
大阪府の区域内での特別区設置案は、大阪市との協定書も確定し、住民投票という段取りに到達した機会でもあり、予定情報として収録しておくべき項目であると考えます。

今回変遷情報に収録する内容。これは、もちろん大阪府か大阪都かという名称の問題ではありません。
都道府県の名称変更には特別法を必要としますが、その手続は 現実問題になっていないので、変遷情報に収録するには時期尚早でしょう。
収録すべきテーマは、やはり「特別区」という言葉で表された その中身です。

「特別区」という言葉は、従来 地方自治法第281条第1項で、「都の区」と同じ意味に使われていました。
長年使われてきた この用法から、大阪府内に「特別区」を作るのならば、それは即ち「大阪都」になることではないか? そのように考える人がいたのが、「大阪都問題」のきっかけかもしれません。

2012/8/10の衆議院で可決され[81306]、2012/8/29の成立後[81731]、平成24年9月5日法律第80号として公布され、2013/3/1から全面施行されている 大都市地域における特別区の設置に関する法律
この法律の第3条では、地方自治法の例外として、道府県の区域内における特別区の設置を認めています。
従って、大阪府のままで特別区を設置しても支障はないわけです。特別区設置は大阪都に直結しません。

それよりも注目すべきは、第1条(目的)、第2条(関係市町村の定義)に記されている「道府県の区域内」です。
新たな特別区制度は、人口200万以上の都市圏を対象にしています。
しかし、どんなに頑張っても 府県境を超えた範囲は対象外という限界があります。

[81306]で想定された8地域の中で、現実に動き出したのは2013/2/1に設置された 大阪府・大阪市特別区設置協議会 だけと思います。
この協議会の 特別区設置協定書 は膨大なものです。
到底読みきれるものではありませんが、その冒頭から要点を記してみます。

特別区設置の日 平成29年(2017)4月1日
特別区の名称及び区域
 北区   大阪市都島区、北区、淀川区、東淀川区及び福島区
 湾岸区 大阪市此花区、港区、大正区、西淀川区及び住之江区の一部(南港)
 東区   大阪市城東区、東成区、生野区、旭区及び鶴見区
 南区   大阪市平野区、阿倍野区、住吉区、東住吉区及び住之江区(南港を除く)
 中央区  大阪市西成区、中央区、西区、天王寺区及び浪速区
特別区と大阪府の事務の分担
 特別区は35~70万の人口をかかえ、中核市レベル以上の事務処理機関となるようです。

結局のところ、大阪市内は5区になりました。 2013/9/27の堺市長選挙では大阪維新の会の候補が敗れている現実も含め、2010年に報道された大阪都構想[75187]とは様変わりしています。

参考までに、頓挫していた特別区設置案が 公明党の住民投票容認により 俄に復活した政治背景に言及した 毎日新聞社説 をリンクしておきます。
依然として制度案には反対だが、決着をつけるために住民投票実施には協力するという公明党の態度については、読売 でも報道されていました。
[86827] 2014年 12月 22日(月)19:27:20【1】hmt さん
朔旦冬至
今日は「冬至」です。冬至・小寒・大寒・立春・(中略)・立冬・小雪・大雪を経て冬至に戻る二十四節気。
旧暦の名残のような印象をもつ人もいるかもしれませんが、その本質は太陽暦そのものです。

明治5年まで使われていた旧暦では、月(太陰)の満ち欠けにより日付を決めていました。
電灯のない時代には、日付によって月夜か闇夜かを判断できる太陰暦にもそれなりの利点がありました。
しかし、農業にとっては日付と季節のずれが生じることは致命的な欠点でした。
そのために閏月を設けることにより日付をできるだけ季節に近づける折衷方式【太陰太陽暦】になったのですが、これだけでは農事暦としては不十分。
そこで日付表記の旧暦と併用する目的で採用されたのが純粋の太陽暦です。こちらは、何月何日という太陰方式の「日付」と混乱しないように、数字を使わないで 太陽が一年の道程の何処にいるかを表す指標としました。

日差しが最小となり日照時間も短い冬至と、日差し最大で昼が長い夏至とが 最初に作られた指標であることは容易に推察できます。続いてその中間点であり、昼夜等分の春分と秋分。以上まとめて「二至二分」。
もっとも、古い時代の名称は「日短至」「日長至」「日夜分」など異なるものであったようです。

二至二分の中間点に定めた指標が立春・立夏・立秋・立冬の「四立」。
合計8つの指標【八節】を更に3分割し、春夏秋冬の四季に各6つを配したものが「二十四節気」です。
名称を見ただけで、北半球農業地帯の中国で成立した文化であることが理解できます。

旧暦【太陰太陽暦】の時代には、満ち欠けする太陰優先の日付と、植物相手の農作業に必須である二十四節気とを使い分ける必要がありました。日付も太陽暦になった現在では二十四節気の名称を使わなくても日常の用は足ります。しかし、二至二分と四立は 単に過去の文化を尊重する趣旨だけでなく、季節の推移を示す便利な指標として、現在も使われています。

冬至の習俗と言えば、柚子湯 冬至粥 唐茄子(かぼちゃ)など。
星祭というと七夕が一般的ですが、北斗七星を神格化した 妙見さまの星祭 は冬至。
Webで、「冬至 習俗」を検索したら、中国語のページが多数出ました。あちらで盛んなようです。

平成26年(2014)歴要領 2コマを見ると、冬至は 太陽の黄経270度で 中央標準時12月22日8時3分と記されています。
現代天文学の体系では 起点が春分になっているので、太陽の周囲りを4分の3周した 黄経270度 になっています。
しかし、前記のように 二十四節気の由来を考えれば、その起点は冬至であったと思われます。冬至は 北半球で日差しが最も少なくなる時ですが、これは「太陽の復活」が始まる日と考えることができます。

衰えていた太陽が冬至を境に勢力を増してゆく、つまり「陰が極まって陽が生ずる」転換点ですから、中国の古典『周易本義』では 冬至を「一陽来復」と言いました。
この季節には 伊勢神宮宇治橋の大鳥居中央から 朝日が昇り、冬至祭 の行事が行なわれます。古代から太陽に関係する暦の節目でした。

ここで思い出したのがストーンヘンジですが、これは夏至の日差しでした。そこで、「冬至 巨石」で検索した結果、冬至の前後に日差しが入るという岐阜県下呂市の 金山巨石群 の存在を知りました。なお アブシンベル神殿の日差しは ラムセス2世の誕生日。

ここまでは毎年巡ってくる冬至ですが、今年の冬至は 19年に一度の特別な冬至です。
タイトルの「朔旦冬至」がそれです。

歴要領の3コマに示されている月の満ち欠けを見ると、今年の12月22日10時36分が「朔」になっています。
この朔は 天球上を西の方(さそり座)から動いてきた月が いて座 で太陽を追い抜く(黄経が一致する)時刻です。
完全に同一方向の朔ならば日食が起りますが、普通は少しずれたコースで追い抜くので、月は一旦消失した後で再び生れてくるように見えます。これが「月立ち」、すなわち旧暦十一月の「ついたち」です。

先に記したように、暦学的には二十四節気の原点は冬至であり、冬至は暦の原点でもあると思われます。
その一方で、新年を祝う行事は 冬至と春分の中間点である立春付近 を用いることが多くなったようで、最終的には「冬至を含む月を十一月とする」というルールに落ち着きました。

今年のように「冬至」と「朔」とが同じ日になること。【旧暦十一月一日が冬至】
それは太陽と月とが同日に復活するわけで、たいへんお目出度いことであると考えられました。
冬至の朝、見えないお月様【新月】と共に昇ってくるお日様。そんなイメージでしょうか。

朔旦冬至は 19年周期で起ります。
BC433年にアテナイのメトンが 235朔望月が6940日で、19年と同じであることを発見。
現代のデータを使ってメトン周期を計算すると 19太陽年=365.2422日*19 = 6939.60日。
太陰太陽暦で19年に7回の閏月を入れると、19*12+7閏月 = 235朔望月=29.5306日*235 = 6939.69日。

伊勢神宮の式年遷宮20年周期も、朔旦冬至の19年周期に由来するという説があるそうです。
[86813] 2014年 12月 20日(土)18:25:52hmt さん
双頭の黒鷲
[86808] オーナー グリグリ さん
久しぶりに、メンバーの方のニックネーム変更と自分色変更の依頼があり修正を行いました。

新しいニックネームは、バルカン半島で国旗に使われている双頭の黒鷲の名ですね。
それなりの理由があると思われるので、ご本人による紹介を待ちましょう。


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