[87302] 白桃さん なんぎょう
南行徳の場合は明治の町村制施行時に生まれた自治体名ですから、そこそこ長い歴史を持っていますが、
「なんぎょう」に関連して、千葉県東葛飾郡南行徳村と同じように 町村制施行時に生まれた村名 を思い出しました。
一つは 群馬県南勢多郡→勢多郡
北橘村 です。2006年の新設合併により、現在は 渋川市北橘町になっています。
自治体消滅前の北橘村公式ページでは、「きたたちばなむら」を正式名称としながらも、中学校名にも使われている「ほっきつ」に、かなりの愛着を示していました。
[48812]
そして
[37082]で紹介されたように、合併後の町名には「ほっきつ」が採用されることになりました。
最初から漢字2文字である「北橘」は、省略形である「南行」の類例として適切なものではありません。
ただ、「南行北橘」と並べると「南船北馬」のような四字対句になりそうなので、この場を借りたというのが実際です。
もう一つ、1946年に hmtが入学した 旧制中学校の所在地だった 神奈川県愛甲郡
南毛利村 も 思い出しました。
この村は 1955年の新設合併で 厚木市になり、村の存続期間 約66年。学校名・駅名の省略という話題からは更に離れます。
…ということで、今回論じたいテーマは、「自治体名」と「地名」との関係です。
都道府県名・市町村名などの自治体名は、住所を記す時に使うので「地名」の典型例のように思われがちです。
しかし、「地名」本来の姿は、山・川・原などの自然地名や、人が住み着いた集落などの居住地名です。
離れた土地の人々の交流が盛んになると、いくつかの集落を総称する必要が生まれ、町村名ができました。
統一国家ができる過程で、更に広域の支配体制もでき、それが管轄する郡や国という広域地名もできました。
日本全国に県ができたのは明治4年でしたが、この時の「県」は行政組織つまり役所【今の言葉では県庁】の意味でした。
現行の地方自治法でも下記のように、都道府県や市町村の第一義は、「地方公共団体」の名称であることを明らかにしています。
普通地方公共団体は、都道府県及び市町村とする。
地方公共団体は権利・義務の主体となる資格を認められた「法人」であり、場所を表す目的の「地名」とは違います。
元々「○○県管内」と読んでいた行政区域を、単に「○○県」と呼び、「府県名」が地名にも転用されるようになったのは 明治32年の改正府県制以後のことと思われます。つまり、19世紀まで広域地名として普通に使われていた「国」がすたれ、代わりに「府県」が使われるようになったのは、20世紀からでした。
hmtマガジン 参照。
このような「自治体名」と「地名」との関係を頭に置いて、「北橘」の事例を考察すると、次のように理解できます。
合併前の勢多郡「北橘村」【きたたちばなむら】は、法人格のある「自治体名」であった。
合併後の渋川市内に新たに画された10町名 「北橘町◎◎」【ほっきつまち◎◎】は、「居住地名」である。
「北橘町」単独の町名は存在しないが、
北橘中学校 の名として使われてきた「ほっきつ」の読みが、北橘町真壁など
旧北橘村内10町に使われた。
同じように、「南毛利」の読み方問題も再考察してみます。
2006年まで存在し、公式ページで「きたたちばな村」であると意思表示していた北橘村と違い、消滅後60年の南毛利村は、多くの資料に採用されている「みなみもり村」と、現実に使われていた「なんもうり村」とのギャップを埋めるのに、別の困難がありました。
3年前に書いた
[80304]では、2005年の
[44059]以来の数年間に記した疑問をとりまとめて提示し、MI さんが 神奈川県立公文書館で複写した資料 の確認をお願いしました。
[80306] MI さん からいただいた回答によると、南毛利村には「ミナミモリ」とルビが振ってあったとのこと。
これにより、神奈川県当局の意図する読み方を確認することができ、その後に編纂された多くの資料が「みなみもり」を採用していることも納得できました。
[44065]では“「正式の読み方」など存在しなかったのかもしれない”と書きました。
[48812]で記したように、正式に定められていたのは「書き言葉」であり、読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよかったのではないかと思ったからです。
しかし、現実に「ミナミモリ」というルビが確認されると、「自治体名」としてはこの読み方を無視できません。
しかし、この読みは 地元に定着せず、「なんもうり」と呼ばれていたのは、注目すべき事実です。
公式の?「自治体名」と「地名」との関係を理解する上で、貴重な材料であると思われます。
「なんもうり」と読む施設名
[44065][80309]
南毛利中学校 南毛利小学校
南毛利公民館 南毛利保育所 南毛利スポーツセンター 南毛利柔道スポーツ少年団
現実に使われている「地名」の読み方が「なんもうり」であったのは何故か?
「なんもうり小学校」で学んだ人ならば「なんもうり」を使うのは当然でしょう。
そして、崇立館→長谷学校が南毛利小学校になったのは明治25年。
学校の沿革
関係者が 3年前の県令による「ミナミモリ」を知らない筈はない と思われるのですが、
学校名の読みを村名の読みに合わせる必要はないから、「立派に聞こえる」音読みを採用したのかもしれません。
[80309]
参考までに、
[75329]の末尾に 明治時代の学校名が並べてあります。大部分が音読み2文字の立派な名です。
学校名がある限り、地名としての「南毛利」【なんもうり】が使い続けられることは保証されていると思います。
しかし、役場・学校と共に村の代表的な施設であった郵便局でさえ、南毛利の名が消えているのです。
南毛利郵便局は、読みが「なんもうり」から「みなみもうり」へと変った後
[44059]、更に愛甲石田駅前郵便局
[58485]。
局名に使う地名自体が変ってしまいました。
実は、「南毛利」という「地名」は、既に厚木市の居住地名の本筋である「町名」の地位も失っています。
温水、長谷、愛名、愛甲、恩名、船子、戸室などの旧村名は 大字として生きていますが、明治合併で生れた自治体名「南毛利」は、60年前の自治体消滅を機に 居住地名の地位さえも失いかけているようです。
江戸時代からの旧村名は大字としてしぶとく生き続けている。
しかし明治合併で生れた「自治体名」が自治体でなくなった後は、「地名」として存続する前途に、一抹の不安がある。
そう言えば、荏原に始まって明治の合成村名に言及した
シリーズ記事 の末尾でも、同じような趣旨を書いていました。