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[75945]2010年8月11日
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[75941]2010年8月11日
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[75930]2010年8月8日
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[75507]2010年7月20日
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[75449]2010年7月7日
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[75443]2010年7月5日
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[75442]2010年7月5日
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[75415]2010年6月28日
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[75398]2010年6月24日
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[75395]2010年6月24日
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[75354]2010年6月15日
ニジェガロージェッツ

[87282] 2015年 2月 12日(木)02:07:18【2】ニジェガロージェッツ さん
中一里山
いろいろとレスをしなければならないのですが、それらは後日に別稿を起こすことにして、今日は情報提供を先にさせていただきます。
自治体越え地名の話題が続いていますが、字まで見ていくと神戸にも複数の区にまたがるデカイのがあります。

神戸市北区山田町下谷上の字に「中一里山」というのがあるのですが、小字にもかかわらずその範囲が広大で、同じ神戸市の区で接していないのは東灘区と垂水区のみという、実に灘区六甲山町中一里山との境から、西区伊川谷町布施畑との境まで、直線距離で10キロに及ぶ東西に細長い領域を持ちます。
Googleの地図による領域の図示では、東は再度公園あたりで切れていますが、実際には灘区六甲山町中一里山との境である、通称「まむし谷」と呼ばれる沢に達しています。
(pdfファイル神戸市地番参考図を見ると中一里山だけではなく、シャクナゲも両区に跨っている)
東隣の灘区六甲山町中一里山も、元々は山田町下谷上中一里山の一部だったところを、昭和47年5月の六甲山町新設によって下谷上より切り離され、当時の兵庫区(北区は昭和48年8月設置)より灘区に移管された部分です。

この中一里山については、12年前の拙稿[15879]に「一里山論争」として書き込みした場所です。
江戸期より「一里山論争」という六甲山脈南の神戸(兵庫)側と、北の山田側に、両者の境界を巡っての紛争が起きています。
これは、神戸の背山である六甲山脈に属する一連の山域を、南から一里ごとに「口一里山」「中一里山」「奥一里山」と称して三つに分け、それぞれがどちら側の所領かを争ったものですが、結局「口」と「中」は旧兵庫と神戸側の村々が入会権を持ち、「奥」は山田村の所属になり、互いに他を侵せない取り決めになったようです。

[15879]を補足すると、入会権(共同で利用する権利)こそ兵庫と神戸側の村々に認められましたが、中一里山の領域は山田に属しており、それが現在の山田町下谷上中一里山に至っています。
長田区雲雀ヶ丘の大部分も元は山田町下谷上中一里山に属し、昭和40年の町の起立と同時に兵庫区より長田区に移管しています。同様に昭和55年に町の設定と同時に灘区に移管した摩耶山町も北区山田町下谷上でしたから、ここも中一里山だったのでしょう。もちろん、北区南部の町々、ひよどり台(昭和50年起立)、ひよどり北町(昭和53年起立)、ひよどり台南町(平成16年起立)、中里町(平成元年起立)は元々中一里山の一部でした。

一方、中一里山の南に連なる「口一里山」については、現在残っているものでは「中央区神戸港地方口一里山」があります。中央区で町の起立していない山間部のうち、旧生田区(旧神戸区)の部分が神戸港地方ですが、そのうち、堂徳山、市章山、碇山を結ぶ稜線の北側一帯の北区との境界までが(字)口一里山で、唯一大龍寺の敷地周辺のみ(字)再度山となっています。
また、長田区には「一里山町」が存在し、この町は昭和16年に林田区長田村(字)口一里山の一部に起立した町で、兵庫区の里山町もまた、昭和24年に兵庫区夢野村(字)口一里山に起立した町名です。

コレクション「自治体越えの地名」にこれらが該当するかの判断は、ご収集のグリグリさんにお任せするとして、「中一里山」と「口一里山」を、その歴史的な背景を踏まえて別々の地名と捉えた場合では、
北区山田町下谷上中一里山/灘区六甲山町中一里山
のみの該当になり、
「一里山」でひとつの地名として捉えた場合には、
北区山田町下谷上中一里山/中央区神戸港地方口一里山
北区山田町下谷上中一里山/長田区一里山町
も該当します。
また、中一里山と同じく、昭和47年5月の六甲山町新設により分割された兵庫区山田町上谷上(字)シャクナゲについては、
北区山田町上谷上シャクナゲ/灘区六甲山町シャクナゲ
が該当しますが、上谷上側のシャクナゲについては、pdfファイル神戸市地番参考図しか見つかりませんでした。

なお、12年前の拙稿[15879]には、訂正すべき部分がありました。
大正11年に「神戸都市計画区域」が設けられ、その区域に当時の神戸市全域(現在の中央、兵庫、長田、須磨区)に、武庫郡8カ町村(現在の灘、東灘区)と山田村(北区南部)のうち「奥一里山」と呼ばれる神戸の背山が加えられました。
このうち、「奥一里山」は「中一里山」の間違いです。

「神戸港地方 こうべこうじがた」ですが、(中略)神戸区の区域となった「口一里山」「中一里山」の部分に付けられたようです。
この文章より「中一里山」は削除し、「口一里山」のみ該当します。

間違いがあり、それに12年間も気がつかなかったこと、謹んでお詫び申し上げます。

【2】長田区雲雀ヶ丘、灘区摩耶山町の記述を追加
[87158] 2015年 1月 18日(日)02:15:10ニジェガロージェッツ さん
文化
日付が変わりましたが、小生の自宅を全壊させ、店と仕事場を全焼させたあの忌まわしい記憶から、早くも20年の1・17を迎えました。神戸市のサイトには、昨12月より阪神・淡路大震災「1.17の記憶」と題して、震災当時の写真画像をオープンデータとして公開しています。小生の住む長田区だけでも264件もの画像が出てくる膨大なものです。
それよりも目が釘付けになったのが、関連サイトとしてリンクの張ってある震災写真アーカイブマップです。このサイトでは、長田区の新長田駅の南北と、その西に隣接する鷹取東、野田北部の、震災前後の町並みと現在の街並みが閲覧できるもので、20年、あるいは20数年前の失われた新長田界隈が鮮明に蘇ってきます。
しかしながら、雑な言い方をしてしまえば、今も昔も新長田は新長田なもので、そこに暮らしている者としては、どちらも「我が街」に違いはなく、同じ空気が流れているようにさえ感じていました。もちろん、その変貌振りは事実として認識していても、改めて当時の街並みに接してみると、あまりもの違いに驚愕します。建物が違うのは当然ですが、まず道路が違う。同じ道路が昔はこんなにも道幅が狭かったのかと気づかされます。

さて、新長田界隈は大規模な再開発事業が展開されて街並みは一新されましたが、震災では長田区全体が焼け野原になったわけでも、全滅したわけでもありません。区の北部の丸山地区や中部の高取山周辺、東部の名倉、長田天神町界隈などは、震災が原因かと推測される空き地こそちらほら目にしますが、比較的震災前の街並みが残っているところです。
震災関連の報道ではあまり取り上げられませんが、長田区を隅々歩いていると、むしろこういった以前の街並みが残っている地域が、復興の影で衰退の一途を辿っているのではと強く感じます。

表題の「文化」という言葉、語頭にアクセントを置いて「ぶンカ」と読めば「カルチャー」の意味ですが、関西方言で「ブんカ」と読めば全く意味が違ってきます。これは「文化住宅」を意味しますが、[54539] Issieさんのおっしゃる関東など標準語でのモダンな文化住宅とも違って、当地では木造2階建てで4~10世帯程度が入居できるアパートのことを言い、その多くが昭和30年代から45年ぐらいまでの高度経済成長時代に建てられたものです。何が文化なのか良く分かりませんが、それまでの長屋などの集合住宅には浴室がなく、小さいながらも風呂場があるのが「文化的」だろうと言ったという説、などを聞きます。

その当時の神戸市では重工業が盛んな都市として人口は増加の一途を辿っており、一方で須磨区北部や現在の西区(当時は垂水区西神地区)のニュータウン群は開発前のことで、増加する神戸市人口の受け皿として、長田区では既存市街地の新長田界隈からは距離のある、高取山周辺の山麓部や丸山や名倉など北部の、坂道の多い丘陵地帯が所狭しと開発され、文化住宅も数多く建てられました。震災前にはこれらの文化住宅でも空き家となっているのは少なかったように記憶しています。
しかし、今では多くの文化住宅がまるで廃墟の如くになっています。神戸市を覆う不況もあるでしょうが、震災からの復興過程で新長田駅周辺などの便利なところに大規模な再開発があり、一方で郊外の西区などには広い一戸建て住宅の多いニュータウン群が出来、文化住宅の需要が急減したのでしょう。坂道の多さ、交通アクセスの見劣りなども不利に働いていることでしょう。とはいえ、解体するのも多額の経費かかり、更地にした後の土地利用などのことで、潰すに潰せないと放置しているのが現状でしょうか。
長田区の空き家率は18%を超え、市内9区の中では最も高くなっているようです。(神戸の住宅
特に文化住宅での空き家の問題、復興の影となった神戸特有の問題なのか、全国的な問題なのかは分かりません。
時代遅れの文化住宅など、確かに見劣りはするでしょうが、ライフスタイルに合わせれば、家賃も安く、魅力があるとも聞きます。これらの空き家を活用していくのか、それとも空き家のまま社会問題化してしまうのか、本格的に人口減少時代を迎えた神戸市、特に兵庫区以西の各区で非常に気になるところです。
[86682] 2014年 11月 17日(月)00:12:41【3】ニジェガロージェッツ さん
湊川隧道
地元ネタにて恐縮です。
土木の日(11月18日)を記念し、その直近の日曜日である昨日は、湊川隧道が10時から15時まで特別に一般公開され、ここを通り抜けることができ、去年につづいて今年も行ってきました。あまりにもローカルな話題にて、まず「湊川隧道とは何ぞや?」からご説明しなければならないでしょうか。詳しくは湊川隧道保存友の会のサイトや、兵庫県の関連ページをご覧ください、と言ってしまえば身も蓋もないので、ここでは明治30年代の神戸の街との湊川との関係を主に述べてみます。

湊川といえば、楠木正成が大往生を遂げた古戦場(湊川の合戦)としても有名で、兵庫の市街地を流れ、明治期にはその西側を湊西区、東側を湊東区として兵庫の市街地を二分していました。しかし、20世紀以降の神戸には「湊川」という河川はもはや存在せず、現在流れているのは「新湊川」と呼ばれています。
日清日露の両戦間期の神戸市に於いては、急速な市街地の発展が見られ、神戸区、湊東区はすでに発展の余地はなく、早々に狭い市内は飽和状態となることは明白でした。明治29(1896)年には西隣の湊村4か村全村(平野、石井、烏原、夢野)、林田村8か村全村(今和田新田、吉田新田、御崎、東尻池、西尻池、長田、駒ヶ林、野田)、須磨村10か村のうち1村(池田)を編入し、旧市内の4区会(葺合区、神戸区、湊東区、湊西区)に湊区、林田区を加えて6区会が設けられました。
この新市域を加えた神戸市では、湊西区出在家町の新川運河より林田区東尻池村の浜辺に至る兵庫運河の開削(明治32年完成)以外に、「3大土木工事」と呼ばれるプロジェクトが行われ、東から葺合区葺合町の山間部に五本松堰堤を築堤し布引貯水池の建設(明治33年完成)、湊区烏原村に立ヶ畑堰堤を築堤し烏原貯水池の建設(明治38年完成)、そして湊西区兵庫港地方から林田区長田村に至る湊川の付け替え工事(明治34年竣工)で、いずれも水利工事でした。

従来の湊川は湊区湊川町1丁目と湊西区東山町1丁目(湊川町、東山町ともに当時はなく大正期に起立した町名で、正しくは湊区石井村、湊西区兵庫港地方と書くべきですが、現況と照らしてわかりやすいので、ご容赦のほど)に架かる洗心橋より下流は、今の東山商店街、から新開地本通り,川崎本通りを流れ神戸港に注いでおり、当時の神戸市都心部を貫き、今ある湊川公園があたかも橋上公園に見える(下を通る道路は歴とした「湊川トンネル」)ことからも分かるように、天井川を形成し大雨の度に洪水を引き起こす暴れ川で、市街地への被害だけでなく、この土砂の流入による神戸港の埋没が問題視されていました。
多くの河川がそうであるように、上流より運ばれる土砂は河口沖合いへ堆積され、海岸線は沖へ突き出た形になります。湊川河口も兵庫津の沖合いへと成長し、江戸時代初期には「川崎町」の町名が付けられています。その後はさらに東に突き出し、河口右岸は兵庫津の出町となり、こちらは「東出町」「西出町」、左岸は「東川崎町」と名づけられました。いずれも江戸時代に出現した町名で、現在に至っています。
明治のはじめには河口の東出町や東川崎町にアメリカ人が製鉄所を建造したり、加賀藩が造船所を造ったりしたものの後に官営の兵庫造船所となり、それを薩摩出身の川崎正蔵氏が明治19年に払い下げを受けて開業したのが川崎造船所です。地名の湊川川崎と創業者の川崎姓が偶然の一致を見たものです。
新開地本通りに続く現在の国道2号線以南の旧湊川跡地は「川崎本通り」と呼ばれていますが、こちらは川崎重工業正門に向かう道であることから、東川崎町からの地名由来というよりも、企業名のにおいがプンプンします。
なお、河口の湊川川崎は明治時代の地図上では「湊岬」と表記されています。

さて、付け替えられることになった湊川は洗心橋からは西へ向かい、林田区長田村を流れる苅藻川に合流させるのですが、途中に標高85mの会下山が立ちはだかります。同じく明治4年に付け替えとなり、紀州人の加納宗七が請け負った新生田川の付け替え工事(旧生田川は現在の加納町)では、葺合村の開削工事でことが足りましたが、時を経ること30年の土木技術の進歩もあり、会下山にトンネルを打ち抜くことになりました。これが湊川隧道です。しかし、それでも人力掘りにレンガ積みですから、相当な難工事であったことは想像に難くありません。全長600mにおよぶ湊川隧道は、当時では河川トンネルとしては世界最大規模のものだったそうで、明治中期の土木技術を窺い知る、貴重な歴史土木遺産です。

一方、付け替えられて新たに市街地「新開地」と命名された旧湊川については、洗心橋から下流へは金比羅橋(現在の湊川公園辺り)、新橋(現在の新開地駅辺り)、湊橋(湊町1丁目辺り)、土橋(東出郵便局辺りか?)の4つの橋が架かり、総じて天井川で、湊橋の少し下流を通った山陽本線(現在のJR線)の線路も川底をトンネルで抜いて敷かれていました。
現在の新開地商店街を歩くと、神戸高速新開地駅を出て北側(新開地1・2丁目)は結構勾配のある坂道となり湊川公園に至ります。この勾配は、この坂道を境に、下流の土手は兵庫神戸の市街地と同じレベルにまで削剥し平坦にしたことを物語っています。

最後に話は湊川隧道に戻りますが、この隧道は永らく「会下山トンネル」または「会下山隧道」と呼ばれており、地図にもそのように表記されていました。角川書店昭和63年発刊の「兵庫県地名大辞典」にも「会下山トンネル」の項目で出ています。
しかし、平成7年の大震災に隧道が被災した際、その修復工事で構内より「湊川隧道」と書かれた建設当時の銘板が発見されたことにより、現在ではこれが正式名称として認められることとなりました。「会下山・・」としたのは、前出の湊川公園の下を走る道路を「湊川トンネル」と呼ぶことから、これとの混同を避けたのかと推測します。
平成12年12月には、北側に新たに倍の断面積をもつ「新湊川トンネル」が竣工、通水し、明治時代から100年に渡って流れた湊川隧道は河川トンネルとしての役目を終えることとなりました。

【2】川崎本通りに関する記述を追加
【3】訂正(誤)夢野村→(正)石井村 湊川町1丁目の明治時代の大字名
[86454] 2014年 10月 13日(月)14:11:32ニジェガロージェッツ さん
パナフィジン島
[85818] グリグリさん
地図の作成お疲れ様です。7月13日についに47都道府県が出揃ったこと、大変遅くなりましたが謹んでお祝い申し上げます。
小生もいつも楽しく拝見させていただいております。

さて、[85731] にてリリースのご案内のあった東京都の地図のうち、鳥島が小笠原村の所管になっています。確かに、小笠原村の母島列島の妹島に付随する小島で「鳥島」という島は存在しますが、地図に描かれている鳥島は、形状と大きさから、これはどの町村にも属していない東京都直轄で八丈支庁が管理する鳥島のことでしょう。この鳥島に合わせてベヨネース列岩、須美寿島、孀婦岩の四島については、hmtさん[22460]の「南方四島」問題にて
これら「南方四島」につき、青ヶ島を飛び越えたかたちで八丈町が領有権を主張し、青ヶ島村が強く反発した結果、わが国で唯一どこの市町村にも帰属しない地域として東京都八丈支庁が管理している。
と記述があります。また他の「鳥島」と区別するためか「八丈鳥島」とも「伊豆鳥島」とも呼ばれているらしいです。明治期には島のアホウドリ捕獲のため、移住者があったものの、1902(明治35)年8月の大噴火で住民125人全員死亡(気象庁)という、恐ろしい火山災害がありました。

#鳥島の件、地図のリリース直後から気になっていたのですが、すぐに誰か常連さんからのご指摘があるだろうと推察し、発言は控えていたのですが、記事検索したところ無さそうなので、時期を逸してしまいましたがご報告まで。既にご指摘があったのであればご容赦のほど。

ところで、何気なくソ連製の日本地図を眺めていると、パナフィジン島(остров Панафидина)と書かれていました。すぐ横にトリシマ(Торисима)と括弧書きで注釈がありましたから、件の八丈支庁鳥島のことです。
気になって調べてみても詳細なものはなく、ただロシア語版のウィキペディアでは「パナフィジン島」で出ていました。ロシア帝国の海軍士官で欧露部トヴェリ県出身のパナフィジン・ザーハル・イヴァノヴィチ(1786~1830)という人物が1819~20年にヴォロジノ号にて地球一周に出た際に、日本南方の太平洋上に島を発見し、これを「三丘島(остров Трех Холмов)」と名づけ、その後、クルーゼンシュテルン海軍大将により「パナフィジン島」と改称したようです。

日本領土で他国に日本名以外で呼ばれている地名、結構あるのかな?
[85092] 2014年 2月 12日(水)09:05:54ニジェガロージェッツ さん
США[スシャー]
久しぶりに落書き帳を閲覧しています。なんだか懐かしい気分です。
出勤前の取り急ぎ指摘のみにて失礼いたします。

[85076]hmtさん
アメリカ合衆国は、United States of America の翻訳で、S に相当する С の部に入っています。

この一文を見ると States の S かと誤解を与えるので、補足しておきます。
アメリカ合衆国はロシア語で
Соединённые Штаты Америки [サイヂニョーンヌィェ シタートゥイ アメーリキ]と言い、
一般には США と略されています。
つまり、S(ロシア語で С)に相当するのは United です。
なお、語順も英文そのままなのですが、ロシア語で Америка[アメーリカ]が、「アメーリキ」に変化しているのは、英文of 「~の」と同じで格変化(生格)しているからです。
[84150] 2013年 9月 28日(土)00:23:38ニジェガロージェッツ さん
早速の修復作業ありがとうございました
[84146] グリグリさん
『区』以外にも同様の不具合があったとのことで、膨大な作業であったと推測します。いつもながらのサイト管理作業へのご尽力、頭が下がります。
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
[84143] 2013年 9月 26日(木)20:26:55ニジェガロージェッツ さん
「区」が壊れている
[84108]グリグリ さん
Mapionの地図リンク変換作業お疲れ様です。拙『区』コレクションの地図リンクまで更新していただき、有難うございます。

ところで、この『区』コレクションですが、久しぶりに訪れてみると内容が壊れています。
いつから、何が原因でこうなった(掲載地名数206→31、都道府県名は出鱈目)のかは分かりませんが、小生『区』上奏から8年が経ち、当時のバックアップデータも手元になく、今では一から復旧作業する根気もございません。
誠に勝手で申し訳ありませんが、復旧が難しいようでしたら、コレクションごと削除していただければありがたいです。
[83134] 2013年 4月 18日(木)20:49:58ニジェガロージェッツ さん
壮大な独り言
北海道
樺太
[83131] 2013年 4月 18日(木)12:38:01ニジェガロージェッツ さん
独り言
舳倉島と竹島とでは,大して緯度が変わらないのを知った
[82423] 2013年 1月 3日(木)00:01:13ニジェガロージェッツ さん
初日の出
何とか2012年を乗り越えることができ、2013年を迎えました。皆様はいかが新年をお迎えでしょうか。
昨年はこちらには楽しい書き込みができず、ご迷惑をお掛けしました。

もうこの歳になると子供の頃ウキウキしていたお正月気分などはとうに昔の話。日銭稼ぎの自営業ですから、休みの間は無収入になる訳で、日々のやり繰りが苦しいだけです。1月といえばあの神戸の震災の記憶が蘇るので、「おめでとう」という気にもなれず、年賀状もすっかり書かなくなりました。

こんな小生ですが、ここ数年は初日の出を見に高取山頂(神戸市長田区と須磨区の最高地点)に登っています。私にとっては唯一の正月らしい恒例行事です。今年も朝6時前に起きて、6時10分に新長田の自宅を出て、普段は50分かかる道のりをセカセカと40分で登りきり、6時50分には標高329mの山頂に立っていました。日の出までまだ20分ほどありますが、もうこの時点で山頂付近は元旦を拝む人、ひと、ヒトでいっぱいでした。前日の天気予報では兵庫県南部や大阪府といった大阪湾周辺地域は良い天気とのことでした。
さて、この山頂から拝む初日の出は、ちょうど金剛山(奈良・大阪府県境)あたりに昇ってきます。天気の良い日には更に背後の奈良県の大峰山系が見えますから、実際には太陽は大峰山系に連なる山上ヶ岳(標高1719m)を越えて現れます。ところが、この大峰山系や大台ヶ原といった奈良県南東部は雨の多い地方で知られ、たとえ大阪湾周辺が快晴でも、そこだけは雲が発生している場合が多く、はっきりとした初日の出が拝めることは珍しいことです。
今年も神戸は快晴ながらも、大峰山系あたりは薄雲が出ており、ちょっぴりぼやけた日の出を7時13分に拝みました。これはこれで結構絵になる美しい景色ですが。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
[82407] 2012年 12月 31日(月)10:15:11ニジェガロージェッツ さん
蟠屈(わだかま)りなく淡然(さっぱり)と
[82406]グリグリさん
グリグリさんのご心情に接し、ただただ自分の不明を恥じております。
今日はこの1年半の蟠屈が完全に取れ、淡然といたしました。ありがとうございました。

[78693]における当該メール文はお送りいただく必要がございませんので、どうぞご容赦願います。お手数をお掛けして申し訳ございませんでした。
そして、今は閲覧不能となっている[82346]については、88さんにとっては非常に厳しい返信となっていましたが、この件についても88さんとの決別を意図したものではないとのお言葉を頂戴し、安心いたしました。

さて、88さんにおかれましては、11月以来警笛を鳴らし続けた著作権抵触についてのご懸念は、その後のメンバーからのフォローや数々の対処方法のご提示、そして何よりグリグリさんにそのご意志がないことが確認され、今では完全に解消されたのではないかと推測します。
今年起こったことは年内に、とまでは言いませんが、なるべく早く落書き帳にて挨拶なり書き込み頂ければと存じます。
#頭を冷やさないと巧く纏らないようでしたら、気分転換に六甲山にでもご案内いたしますので、いつでもご連絡ください。(小生の番号は石島の打ち合わせでお知らせした当時のままです)

[82389]JOUTOUさん
約8カ月ぶりに“ニジェの兄貴”が登場した
ありがとうございます。ネタ切れながらも、何か面白いことがあればちょくちょくと顔をださせて頂きます。次こそは地理ネタを投稿します。
#「兄貴」ってのは、ほとんど誤差の違いですよ。一足先に大台に乗りましたが。ううっ

それでは皆様、良いお年をお迎えください。
[82373] 2012年 12月 24日(月)10:45:19【1】ニジェガロージェッツ さん
Re^2:何のための確認だったのか
[82364]グリグリさん
表題の件について、率直なところをお話いただき、貴殿への不信が少し解消されました。有難うございました。
ただ、・・・

[82348]グリグリさん
ニジェさんの書き込みに助けられたとも言えます。
の部分と[82364]を合わせて読むと、ニジェ[82341]を受けて88さんと決別する決心[82346]がついたとも取れます。鷹揚に、出来るだけ好意的に捉えたとしても、衆人環視の「衆人」のうちの何割かは、そのように解釈することでしょう。
正直、そんなことを言われても困ります。

今更蒸し返すつもりは毛頭ないのですが、去年7月3日のグリグリさんの書き込み[78693]にて私は誹謗を受けました。おそらく、書いたご本人のグリグリさんはお気づきではないと推察します。
記事の当該部分は「わざわざ触れる必要のない部分」としていつの間にか消されています。誹謗とはいっても、その時点のニジェに対してではなく、更に遡ること8年以上前の2003年6月ごろまでの私の書き込みについてでした。しかしながら、それ以降は指摘される同様の書き込みは行なわないことを順守しており、なんでいつまでもそのような古い事象を「過去の悪例」として引き合いに出されなければならないのか。
また、元々の当該部分は問い合わせメールへの返信として書かれており、同様の問い合わせには、いちいちニジェの過去の悪例が紹介されていたのかと類推すると、もはや「落書き帳」に私の居場所はないと感じました。

[82341]は、そういった背景で、新たに発生した88さんとの確執をうけて、「石島探検を共に企画した」88さんに寄った見解で投稿しています。
今回の件、一見では著作権解釈による食い違いから発生したもののように見えますが、もっと別の深いところで、グリグリさんさえお気付きでないところで88さんとのコミュニケーションに行き違いがあったのではと思料しています。
昨日リリースされた岐阜オフ会の写真を拝見して、グリグリさんの傍で明るく微笑む88さんの「図ぅ」を見ていると悲しくなります。

この記事、書くべきか随分悩みました。既に当事者同士で解決するとのことで、横から口を挟むべきでないことは承知しております。また、メールでも良かったのではと思われるかもしれませんが、私は「落書き帳」で起こったことは「落書き帳」で議論するのを基本に心がけており、メールでコソコソするのは、ある意味卑怯であると考えています。

[82361]中島悟さん
オフ会の状況をお知らせいただき有難うございました。
中島さんが来られると知り、何としても参加したかったのですが、今回は叶いませんでした。またの機会を楽しみにしております。

訂正【1】中傷→誹謗(2箇所)
「中傷」とは、根も葉もない情報のために傷つけられることなので、当該事例は当たらない。
[82355] 2012年 12月 20日(木)09:54:25ニジェガロージェッツ さん
ひとつ言い忘れたこと
[82346]グリグリさん
何故皆さんが私を悪人扱いしようとするのか

この「皆さん」とは,誰のことを述べておられますか?
当事者の88さんはともかく,誰もグリグリさんのことを悪人扱いしてはおられないと推察しますが,人の真意はわかりませんので,ただ,自分の[82341]については明確に否定しておきます。
「悪人」などという,物騒な言葉はご使用にならないように願います。

約10年前に,私がグリグリさんから叱られた時の言葉ですが,そのままお返しするとして,ここに貼り付けておきます。
[8933]
書き込みによるコミュニケーションは、リアルのコミュニケーションと違ってどうしても理解できない部分も出てくるのはやむを得ないと思います。その分、鷹揚に構えていただけるといいなと。

かく言う今の私も,グリグリさんの2度に渡る確認に対して「見識を試されたみたいで、不愉快」と書いてしまっているくらいですから,とても「鷹揚に構えて」を実践できていません。ネットという衆目環視の中では,普通の地理ネタの記事にしても,88さんの[82329]にしても,貴職の[82346]にしても,見識は常に試されています。
[82354] 2012年 12月 20日(木)02:40:17【1】ニジェガロージェッツ さん
私なりの連想
[82349]JOUTOUさん、[82350]中島悟さんからのオフ会でのやり取りの書き込みから、当日の状況が何となく想像できました。
JOUTOUさんに於かれては、88さん、グリグリさんの取持ち役を夜明け前からしておられたようで、大変にお気遣いされたことと察します。小生もその場に居れば何か少しはお力添え出来たのではなかったかと悔やまれます。(過去のオフ会ではJOUTOUさんと行動を共にすることが多かったので)

過去のオフ会で直接お会いした印象では、グリグリさんは頭の回転が早く、社会的な地位もある方で、非常に弁が立つ御人です。一方の88さんは、どちらかと言えば寡黙な方で、粛々と実務をこなす「裏方の力持ち」のような御人のようにお見受けしました。もちろん、過去数回のオフ会でお会いした程度で人のことなど判る筈がありませんので、あくまでも私のいだいた第一印象でしかありませんが。
#因みに、仲の良いJOUTOUさんのニジェへの第一印象は「わぁ、本物のヤクザだ!」だったそうです。なんでかなあ???

さて、このお二人が会談を持った時、その連想できる「図ぅ」は、グリグリさんが多くを語り、88さんは聞き役に回るような場が頭に浮かびます。実際にJOUTOUさんの[82349]には
単なる建前で相槌を打っていたに過ぎないのでしょうか?
とあり、88さん自身も「大半を聞き流して」いたと述べておられます。
これでは、88さんにとって会談の成果はないばかりか、逆にグリグリさんを始め、その場に立ち会ったメンバーとしては、大した反論もなかったことから88さんもおおよそのグリグリさんの主張は了解したと解釈されても仕方ありません。
[82256]グリグリさん
オフ会翌日の今朝は、お風呂が開く5時半に大浴場に行き、88さんやJOUTOUさんと湯船の中でいろいろなお話をさせて頂きました。その後、ロビーに移り、白桃さん、スナフキんさん、Hiro_as_Fillerさん、中島悟さん、N-Hさんも加わり、都道府県市区町村の今後の進め方や、これまでの進め方に関していろいろご意見をいただき有意義な時間を持つことができました。
[82350]中島悟さん
11月24日の朝に、皆で忌憚無く話し合い、齟齬を取り払い、問題点を洗い出し、
これからの方向性や手法、分担などで共通した認識を持てたと思っていたのですが、
一体どうしちゃったんでしょうねえ?

ただ、宿泊2日目(最終日)の朝というものは、じっくりと双方が納得行くまで話ができるかといえば、朝食や帰宅時の慌ただしさが控えていて、案外難しいような気がします。やはり1日目の二次会あたりで話し合った方が望ましかったかも知れません。その場ではうまく伝えられなかった事柄も、寝床であれこれ思案しているうちに整理ができ、翌朝に改めて伝えられるといったこともあったでしょうから。

いずれにしましても、オフ会での会談が有意義に終えれた筈にもかかわらず、[82329]での88さんの発言は、グリグリさんのみならず、オフ会参加メンバーにとって理解し難いものであったことは想像に難くありません。グリグリさんが[82332]にて他のメンバーに確認をとられたのも、主にオフ会参加メンバーに対して発せられたものだったのでしょう。

しかし、JOUTOUさんが[82334]を書かれた以外は、オフ会参加メンバーからの「常識的な」フォローは得られず、しびれを切らして[82340]にて再確認を取られたと、今では私はそのように理解しています。

[82329]88さん、[82346]グリグリさん、サイト・掲示板のオーナーと、オーナーに協力して「市区町村変遷情報」の編集に多大な努力と功績を残した編集者が、今や互いに「犯罪者」呼ばわり。
そして岐阜のオフ会に参加してコトの経緯を知っていながらも、mixi辺りで「怖くてモノが言えない」と呟いて尻込みする中堅メンバーたち。
これが「10年以上に渡って培ってきた落書き帳のコミュニケーション」の実態としては悲しくなると言うか、歯痒い限りですが、その一方で、[82337]にまんさんや[82353]油天神山さんからの建設的なご意見もあります。まだまだ捨てたものではありません。
さすがは「落書き帳」だと見直されるように、二人とももう一度頭を冷やして、大人の対応を取られてはどうでしょうか。

グリグリさんに於かれても、貴台の[82332][82340]の公開質問には幾つもの回答が寄せられています。私に対しては[82348]で十分ですが、「的外れ」とか「常識的な反応でない」と切り捨ててしまわず、ひとつひとつの記事に「ふぉろ~」を付けるよう、努力を望みます。人にモノを尋ねておいて、無視はいただけません。

桜通り十文字さんの質問[82345]にも、ちゃんと答えたげなはれ。

ところで、88さんは「犯行声明」ちゅう単語を使ぅとうけど、何かの間違いとちゃう?
「犯行声明」は、犯行を行った後に、犯人から発せられるもんでっせ。

訂正【1】モノを訪ねて → モノを尋ねて
[82347] 2012年 12月 18日(火)22:16:07ニジェガロージェッツ さん
何のための確認だったのか
[82346]グリグリさん
まったくひどい話です

そこまではっきりと[82329]の書き込みをご自身への誹謗中傷であると断定されるおられるのであれば、[82346]と同様の内容をご説明をなされた上で、さっさと当該記事を削除すればよかったのではないでしょうか。

いったい何のために
[82332]グリグリさん
ぜひ多くの皆さんも意見を述べてください。
[82340]グリグリさん
再度皆さんに確認します。

などとしつこく、他の落書き帳メンバーへの確認作業が必要だったのか。
まるで見識を試されたみたいで、不愉快です。
[82341] 2012年 12月 18日(火)12:22:52【2】ニジェガロージェッツ さん
回答
[82340]グリグリ さん
再度皆さんに確認します。
「皆さん」の中に,小生のようなものが含まれているのか甚だ疑問ですが,問題の著作権等に関する法的知識は当方持ち合わせていないので,確認事項についてのみの回答とさせていただきます。

確認事項について,最後の3行の文末が「ですか。」で終わられているので,この3文が確認事項に該当すると推察しますが,3文目はみかちゅうさんに対して発せられたものですから,1文目と2文目に対してのみの回答と致します。

(1)
削除せずに残したこの書き込みを皆さんは容認されるのですか。

「容認」どころか,落書き帳への貴重なご意見です。
オフ会前日に88さんより[82230][82231][82232][82233]の問題提起が為されましたが,問題の[82329]はその延長にあります。オフ会前日にはグリグリさんも[82242]にて
88さんも書き込むには相当の勇気を持ってのことだと推察します。あれだけの内容をスルーせずに書いて頂いたことを真摯に受け止めなければいけないと思っています。
と評価されています。[82329]に対しても鷹揚に同様の評価ができないものでしょうか。

話の流れとしましては,([18384]たけもとさんの表現を借りれば)
[82230][82233]に,さらにオフ会での直接対話という流れの中でも一向に意見が伝わらない状況に加え,[82329]という言葉を88さんから言わせてしまった認識の甘さこそが問題です。

ここで私の述べる「認識の甘さ」とは,88さんがおっしゃる法への認識の甘さのことではありません。落書き帳のコミュニケーションの場において,[82242]で述べられた「真摯に受け止めなければいけないと思っています」の真摯さが88さんに伝わっていないこと,そして,その結果が落書き帳から88さんという得難い功労メンバーを失うという危機感に対する認識の甘さをいっています。88さんがいなくなって困るのはグリグリさんだけではありません。

(2)
10年以上に渡って培ってきた落書き帳のコミュニケーションの場において、許される書き込みだと考えておられるのですか。

許される書き込みだと考えます。
それは,[82329]の終わりの
あくまで、趣旨はグリグリさんを犯罪者に仕立てることではなく、犯罪を未然に防ぐことです。
が,文末の付け足ではなく,やはり88さんの趣旨だと感じるからです。確かに「犯罪者」とか「グリグリ帝国」とか,行き過ぎと感じられる表現もありますが,そこまで書かなければ伝わらないというもどかしさから出た表現かと推察します。
「10年以上に渡って培ってきた落書き帳のコミュニケーションの場」とおっしゃいますが,その歳月の中で,多くの常連さんが去っていきました。
もちろん,その多くは書き込みネタが尽きたといった程度のもので,今でも毎日のように落書き帳を読み,楽しんでおられる方々でしょう。常連として投稿を続けた過去の日々についても楽しい想い出となっているに違いありません。しかし,一方で,何らかの確執を抱えたまま去ってしまい,中には悪意のようなものを持ち,何かあれば「酷い目にあわせてやろう」と狙っている輩がいないとも限りません。
事が起こってから「まさか落書き帳メンバーにしてやられるとは想定外」は,まさしく想定不足でしかありません。もちろん,グリグリさんに於かれては十分想定しておられることでしょうけれども。

また,88さんの書き込み[82230][82233]の翌日にはオフ会がありました。私は今回のオフ会は缺席したので状況はわかりませんが,前日の書き込みでしたから,当然オフ会参加メンバーを交えての討論になったことと推察します。ここではグリグリさん,88さん以外の18名からの意見や取持ちもあったことでしょう。何ゆえ関係がここまで拗れたのか腑に落ちません。88さんに於かれてはオフ会の雰囲気を壊したくなかったのかもしれませんが,「大半を聞き流して」仕舞わず,しっかりと反論するのが望ましかったのではと愚考します。

訂正【1】88 を 88さん に訂正(1箇所)
訂正【2】「認識の甘さ」についての説明文を追加
[80539] 2012年 4月 19日(木)10:29:52【1】ニジェガロージェッツ さん
想定外は想定不足と言い換えるべき
[80527] グリグリ さん
石巻,南三陸町の写真拝見しました。
震災から一年を経て,瓦礫が除けられ(取り除かれ・・・ではない),震災前には市街地であったところが何もない更地のようになったままの現状について,連日報道されているので知ったつもりでおりましたが,改めて写真画像を見るとショックを受けました。

グリグリさんに於かれましては,被災地での支援活動に取組まれておられるようで,本当に頭が下がります。それに引き換え,私は17年前の震災で多くのご支援を受けながらも,東日本大震災には何の支援もお返しすることができず,全く無力で申し訳がない限りです。
南三陸町の仮設商店街の写真もありましたが,この店舗には神戸の震災直後の焼け跡に仮設商店街「パラール」を立ち上げた,新長田大正筋からのアイデアなどの支援があったと聞きます。同じ新長田に居ながらも,活動される人もおられることが地元として嬉しく,私に出来ることと言えば,この大正筋で買い物をすることくらいです。

さて,昨日東京都から想定する首都直下型地震についての被害予想状況が発表され,それによれば死者9700名に上り,その甚大な想定被害に「衝撃的な数字が並んだ」などと報道されています。
東京湾北部地震ではマグニチュード7.3,震源深さ10kmと,平成7年兵庫県南部地震(M7.3,深さ14km)に良く似た想定です。あの地震では6434名が亡くなり,うち神戸市9区では4571名を数えました。
しかし,今回の想定では,その最大の被害が予想されている人口69万人の大田区で24%焼失,死者1073人とされ,それを「最悪の場合」としています。
私の住んでいた神戸市長田区では,震災直前の人口が129,978(1995年1月1日推計)で,震災では921名の死者が出ました。単純計算で人口の0.7%が犠牲になった格好です。これを大田区69万人に当てはめると,5千人近くの被害になるのですが,何をもって「最悪の想定被害」としているのか,私には理解できません。
確かに,「近畿地方に大地震は来ない」という,訳の分からない迷信を鵜呑みにして日ごろの地震対策を怠ったという側面はありました。逆に言い換えれば,東京から見て神戸の被害は「防災意識の低い土地に起こった例外現象」に映るのでしょうか。
阪神・淡路大震災の発生は真冬の午前5時46分と,まだ街が動き出す前の時間帯です。壊滅的な建物被害を出した中心街の三宮周辺にも,まだ人は疎らな状況でした。新幹線線路も崩落していましたが,新幹線事故も発生していません。もちろん,あの時間に地震が発生したからこそ,命を失ったという人々が大勢おられる訳ですから,それをして「不幸中の幸い」などとのたまうつもりはありません。しかし,あと2時間遅く,7時46分にあの地震が襲ってきたなら,通勤でごった返す三宮ターミナル周辺の被害を連想しただけでぞっとします。

わずか17年程度前の神戸の震災の被害状況(実数)に学ぶことはこの程度なのかと,私にとっては逆の意味で衝撃的な数字が並んでいます。
[78633] 2011年 6月 26日(日)02:47:00【1】ニジェガロージェッツ さん
大阪2題
[78597] futsunoおじ さん
都道府県の山
選定本題にはコメントなしで,事実確認のみにて失礼します。
大阪府 金剛山 1125m
金剛山頂1125m周辺は奈良県御所市に属しています。
確かに大阪府最高地点(標高1053m)は金剛山にあるので,大阪で一番高い山には違いなく,登山アクセスも大阪府千早赤阪村側からの登山本道,金剛山ロープウエイが整備されているので,大阪の山として一般に認識されてはいるところです。
#ただこの話題,futsunoおじさんも[52918]にて,[52900]北の住人さんとの会話にありました。

余談ですが,麓の千早赤阪村では東日本大震災後に減少した外国人観光客呼び戻しの一策として,韓国人観光客招致の目玉として「憧れの金剛山に日本で登ろう」とPRしていく方針を決めた,とか。
韓国の人々に気に入ってもらえれば良いが,「クムガンサン」ではなく「コンゴウサン」だし,雄大な奇岩群がシンボルの景勝地クムガンサンとは山容が全く異なっているし,ガッカリさせないことを祈ります。

[78602] 2011 年 6 月 21 日 (火) 00:10:44【1】 白桃 さん
♪ようこそここへ、クッククック私の青い鳥
当然、このオヤジギャグは受けません。
小生はオヤジではありませんが,たまにはオヤジギャグに付き合いましょう。
桜田淳子さんが衝撃的だったのは,自身が大阪市の一部であると歌の冒頭で告白しています
まったく受けません!
[78531] 2011年 6月 11日(土)12:13:55ニジェガロージェッツ さん
打止めに
今回の騒動?
最初のきっかけとなったのは白桃さんの記事でしたが,それを騒動にまで発展させたのは小生です。特に今回の話題とは無関係な,所謂「白桃化」なる市名駄洒落を持ち出して問題を対比させた手法には行き過ぎがあり,申し訳ございませんでした。

先の拙稿[78518]では,単なる「親父ギャグ」をどう組み立てたって「地理」はおろか,「地理雑学」にはならんと言い切ってしまいましたが,これも考えようで,それを楽しんだ当時の,特に小学生や中学生にとっては,結構夢中になれる地理パズルのようなものだったのかなぁとも思い至りました。市名を探し当てて実際に地図を見て,その位置関係や地理背景の連想など「空想の旅」に思いを馳せていくと,それはもう立派な地理雑学になり得ます。その発想の豊かさは私には持ち合わせておりませんでした。ちょっと恥ずかしい限りです。
とはいえ,ここに出入りしているあの子たちに掛かれば,難問揃いの十番勝負でも臆することなくスラスラと解いてしまうのだから,それはもう,朝飯前いぜんのことだったかな。

[78522]般若堂そんぴん さん
単なる「親父ギャグ」
でもかまわない,と思います.
同感です。私は原理主義者ではないので,「親父ギャグ」のような見苦しいことはやめてほしい,とまでは言うつもりはありません。余興として,ちょっと合間に顔を出すぐらいは微笑ましいことです。

[78519]YASU さん
宴の席では楽しくお話しできるのに、文字にすると刺々しくなり残念に思う次第です。
残念な思いをさせて申し訳ございません。
ただ,宴の席でのことは,そこでのこと。「落書き帳」の書き込みでは傍目には角を突き合わせて緊迫した関係に見えても,実際に会ってみると意外なほど打ち解けて和気藹々と談笑できる,それがオフ会の良いところです。
(まだ参加されたこののない皆さんも一度「だまされた」と思ってでも参加してみてください。書き込みでの印象とは違った一面が見えます)
一方で,お互いがリアルに親しくなりすぎると,「これぐらいのことは言っても許されるだろう」と宴の席と同じノリでものを言う書き込みをしてしまう。今回の騒動も,こういったお互いの甘えが背景にあるのかなとも推測しています。

それとは別ですが,最近のニジェの記事は全般にぶっきらぼうな印象を持たれているのではないかとちょっと気になっています。
実は最近,自分の投稿記事にNGワードを2つ設定し,それを出来る限り実践しています。「思います」と「~ですね」です。
「思います」については,以前に申し上げたこともあり,ここでは繰り返しません。
「~ですね」は以前は私も多用しており,今でも実生活の会話ではついつい言ってしまいます。しかし,これを文章にして特に段落末の度に「~ですね」「~ですね」と繰り返した自分の記事には,読んでいて鬱陶しく,後味の悪さを感じていました。
[17876]雑魚さんの問答表の一文
37)「~ですね。」 という呼びかけの語尾を伴う書込みが最近増えた。
に接して,ああ,やっぱりみっともないなと感じました。

「思います」を用いた婉曲な表現も,「~ですね」という文末も,これらの言葉使いが掲示板という媒体に於ける円滑なコミュニケーションを促すツールのようなものだと理解し使い続けていましたが,わざわざ自分の好みではないこの2つの言葉をいやいやながら書くこともなかろうと割り切っています。「~ですよね」と確認を伴う呼びかけは,過去に比喩に用いた一度だけでした。
しかし,文章が断定的で硬くなってしまうのは否めないので,今後はあまりこだわらずに適当にします。

[78529]白桃 さん
落書き帳が「生活の一部分」どころか「生活の殆ど全部」になる予定です
ご同慶の至りです。
長年のお勤めの多大な労苦はあったのだろうけれども,こういう時ばかりは羨ましい。自営業の小生には,一生手に出来ない贅沢です。
[78518] 2011年 6月 8日(水)09:47:25【2】ニジェガロージェッツ さん
謙虚さを忘れるのは恥ずかしい
「白桃様」のつもりで書いてます
ほう。ならばその白桃様であれば,[57177][78510]のような書き込みが許されるのでしょうか。
他人の投稿への何の敬意もない,むしろ喧嘩を売るような比喩まで出して,反論が出れば「白桃様」だという。

[78516] 白桃様
「地理雑学の領域」にこだわりを持っています。
こだわりは誰もが持っていることであり,結構なことです。しかし,そのこだわりを押し付けるのはいただけません。
どうしてもというのであれば,御自身が地理雑学の掲示板を開設され,そちらで好きなように権力を振るうことをおすすめします。

首長の年齢や性別については、単なる「情報」であって、それらをどう組み立てたって「地理」はおろか、「地理雑学」にはならないと思います。
私も白桃様と同じ意見です。私の「地理雑学」の領域にも入りません。しかし,[78512]Issieさんや,[78517]JOUTOUさんのおっしゃるように,地理の好きな人には,人それぞれの「地理雑学の領域」があって然りです。
しつこく言いますが,私の「地理感」からすれば,言葉尻を市名に当てて漢字変換するのは,単なる「親父ギャグ」であって,それらをどう組み立てたって「地理」はおろか,「地理雑学」にはなりません。
だからと言って,「それをいっちゃあ,おしまいだよ!」

落書き帳三大聖地だの,十番勝負四天王だと言われ,毎日のように些細なことまで書き込みを続けていくほど,落書き帳が生活の一部分になってしまうと,つい自分がそこの主のように錯覚してしまうのではないか。その上での物言いでしょうか。性格のひねくれたニジェにはそのように見受けられます。
問題意識として議論されたいのであれば,最低限,他排的なものの言い方は控えてもらいたい。

やはり,謙虚さを忘れるのは恥ずかしい。
[78515] 2011年 6月 8日(水)01:43:33ニジェガロージェッツ さん
Re^2:それがどうしたの?
私も[78512]Issieさんとまったく同意見です。よくもこれほど的確に理路整然と「地理」について定義付けできたものだと感服します。さすがはプロの説得力。

正直なところ,小生も首長の年齢や性別といった情報には,興味を持っていません。
しかし,オーナー自らが進んでされていることでもあり,多くの反応が寄せられ,それぞれに多大な労力を重ねて検証されたデータであることは傍目にも容易に想像がつき,それを自分に関心のない,またはご自身の持つ「地理」の領域から逸脱しているからといって,「それがどうしたの?」と一言で切って捨てるかのような物言い[78510]は,何様のつもりでしょうか。

(今まで黙っていましたが)感じるトコロを率直に述べれば,言葉尻を市名に当てて漢字変換するようなものよりは,ずっと地理っぽい有用なデータです。近頃は幾分減ってきていますが,そういう親父ギャグが受けに受けて,子供たちまでもが「落書き帳」で得意顔で真似をするような状況こそ,私には「最近の書き込みはヒドイ」と感じていた頃がありました。
[78329] 2011年 5月 16日(月)16:29:20ニジェガロージェッツ さん
【第三十一回】震災復興祈念 全国の市十番勝負
問一:栗原市
[77805] 2011年 3月 17日(木)13:57:21【1】ニジェガロージェッツ さん
避難生活でのちょっとした工夫
神戸市のサイト内,東灘消防署のページに 震災時のサバイバルパッケージとして,実際の神戸での震災で役立った知恵を応募し,まとめたコーナーがあります。

そのうち,
救出 救援活動編
避難生活編
には,今すぐにでも役立ちそうな情報があると思われます。ご参考までに。
[77803] 2011年 3月 16日(水)23:56:52【1】ニジェガロージェッツ さん
大震災に際して
東日本大震災の発生から早くも金曜日で1週間になります。被災地では地獄図絵の中,私たちが16年前に味わった苦しみ以上の,想像を絶する苦しみと悲観が覆っていることと察します。言葉がありません。心よりお見舞い申し上げます。

[77769] オーナー グリグリ さん
この都道府県市区町村というサイトにおいても、何かの役に立つことができないかと思います。皆さんにも考えていただければ幸いです。

神戸の震災からの生活復旧に際して,被災者の視点で役立った事や物や考え方などがうまく纏められていたサイトがあれば良いのですが,探しておくように心掛けておきます。ご存じの方は,紹介してあげて下さい。
ただ,今はまだ救助の段階であり,生活復旧の段階ではなく,こういった情報が生かされてくるのはもう少し先のことであろうような気がします。
私が経験した神戸の震災とは規模も状況も性質も異なっているので,東日本各地で置かれている状況とは比べるべくもありません。ですから,以下のことは書き込むべきかどうか,的外れではないかと悩みます。神戸の一被災者の戯言として聞き流していただいた方が良いかもしれませんが,ちょっと書いておきます。

確かに,現地では物資が極端に不足しているようで,非常に苦しい状況にあると報道されています。しかし,震災後の20日や30日くらいの不便や苦労は,そんなものは,・・・そんなものは,震災後20年や30年は続くであろう復興と再建の苦に比べれば,「あの時の思い出」にしかならないでしょう。
被災地外からは,次々と個人宅に飲料水などの生活物資が「ゆうパック」などで大量に送られています。私の身内が神戸の郵便局で荷捌きの仕事をしており,これは(震災を理解している筈の神戸市民からでさえ)現実です。
これを受け取った被災者にとっては,大変有り難く,勇気付けられる善意に違いありません。しかし,この善意を享受できるのは,住所どおりの所に家があり,受取人が無事である家族,つまり,被災度の軽微な人に限られます。それを配達する人々も現地の被災者である可能性が高く,交通不便の中,届ける当てはなく,荷物は捨てるわけにもいかずと,それに費やされる労力を考えただけでも,迷惑な行為です。
一方で,震災後の20日や30日間でさえ,負傷,疾病や苦労の中で体力の限界に陥り,避難所などで失われていく命も出るでしょう。そういった人々に,一刻も早く公的支援が届くように,物流を必要以上に混乱させるようなことはしないでほしい。そう願います。

さて,被災者にとっても,いつまでも避難所に居れるものではありません。
冒頭に申し上げたように,今はまだその段階ではありませんが,2~3ヶ月もすれば,生活再建に立ち上がる住民も出てくるでしょう。
阪神大震災後の西宮市では,震災後2ヶ月で甲子園で選抜高校野球が行われました。全国の人が野球観戦に訪れるこの契機に,飲食業など地元の商店は復興を託して立ち上がりました。しかし,被災地外から来る人々は,まさか被災地でモノが手に入るとは想像もせず,弁当など身の回りのものは現地で買わずにあらかじめ被災地外で調達して西宮に入り,観戦が終わるとゴミだけを西宮に捨てて帰っていったと聞きます。もちろん悪気はないのでしょうが,結果的には西宮の人がいちばん嫌がることをしました。

なんだか,纏まりのない,ただのぼやきのようになってしまい,うまく言えないのがもどかしいのですが,想うところを述べました。
[77647] 2011年 2月 13日(日)14:09:15【1】ニジェガロージェッツ さん
日本との国境形成 (ロシアの地理教科書から)
ご無沙汰しております。[77620]JOUTOUさんに続いて,小生も今年の初書き込みです。

[77643]グリグリさん
「樺太地図解説」 ※独自のページに作り直しました
文字数だけが多い駄文を,とっても綺麗なページに仕上げていただき感激しております。
写真まで添えていただき,オフ二次会での異様な光景が蘇ってきます。ありがとうございました。

と,これだけで今年の初書き込みを済ませてしまうのも味気ないので,この地図にも関連し,ちょうど2月7日の北方領土の日もあって,時期的な話題として少し。

文章中に「千島列島と北方四島」と表現しましたが,もちろん,ロシアの地図にはこのように得撫島以北の千島列島と,択捉島以南の北方四島といった区別はなく, 両者ともに「クリル諸島」と一括りしています。 歯舞諸島と色丹島も「小クリル列島」と呼び,クリル諸島に含めています。
なお,日本で言う「北方領土問題」は,ロシア語で Проблема северных территорий (カナ転字:プロブレマ セヴェルヌィフ テリトリー ,原音[プラブリェーマ セーヴェルヌィフ チリトーリー])と言い,直訳すると「北方の領土の問題」ですから,日本での呼称に倣っています。

昨年,ロシア人の知人からロシア土産として地理の教科書を頂きました。9学年用の教科書で,日本の中学3年生用に相当します。288ページもある堅表紙の分厚い教科書で,その3分の1はロシア全体の地理事項(農業,生態,植生,産業,交通など)を扱い,残り3分の2で国土を9つの地域に区分して,地域ごとの詳細が述べられています。多くの写真と図葉を添えて,見やすく構成されており,読んでいて面白そうな美しい教科書です。

そして,この教科書の「極東地域」の冒頭には日本との国境の形成の推移について,その概説が書かれているので全文(教科書ではページの半分,15行で記述)を紹介します。
「全クリル諸島はロシア固有の領土」だと紋切り型の自説を述べていると思いきや,日本とは無関係であるクリミア戦争への言及など,ちょっとおかしなところがあるものの,概ね淡々と事実関係のみの記述にとどめています。

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露日国境の形成には長い歴史がある。1855年,初めての露日条約《通商と国境について》(調印された時期はロシアにとってクリミア戦争によって不成功)において,サハリン島は《ロシアと日本で分割せず》と承認し,クリル諸島南部は日本領と承認した。1875年,条約《領土の交換について》では,ロシアは全クリル諸島を日本に与え,その代わりに日本はサハリン島への請求権を,完全にロシア固有のものとして公式に放棄した。1905年のポーツマス講和条約では,ロシアにとっては露日戦争と始まったロシア革命の諸事情によって不成功だったが,サハリン南部(北緯50度まで)を日本に割譲した。最後に,1945年の終戦後にサハリン南部および,今回は全クリル諸島がソ連に移った。しかし,クリル諸島南部がソ連,現在ではロシアに属することを日本が争っているために,日本との間では平和条約が調印されていない。
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クリミア戦争(1853~56,主に英仏土 VS 露)は,日本は無関係で,特に千島列島とは無関係でした。それが当該地域の問題としてロシアに与えた影響としては,当時のロシアの南下政策で,樺太(サハリン)の実効支配の確立を目指して,1853年より陸戦隊を上陸させて樺太各地に軍哨所を建設し始めたものの,ロシア軍基地ということで交戦国の特に英国にこれを攻撃されて占拠されてしまうと,まだロシア領として確定していない樺太やアムール河口部が英国の支配下に置かれてしまうことへの懸念から,相次いで樺太から撤兵したことでしょうか。

訂正【1】 誤字訂正:通称→通商
[76924] 2010年 11月 28日(日)23:40:37【1】ニジェガロージェッツ さん
Re^2: 筑波山登山
[76923]スナフキん さん
紅葉の時期と重なったオフ当日朝に筑波山を目指すには渋滞の泥沼ハマリのリスク、決して低くなかった点はご理解いただきたく。
なるほど。筑波山登山そのものの難度よりも,登山口までの交通の渋滞のご懸念から慎重に行動計画を立てられてのことでしたか。それには気がつかずに失礼しました。
確かに,オフ当日に私が乗った路線バスは筑波山口までは快調に進み,筑波山口から登山口である筑波山神社入口まではちょっと渋滞気味でした。バスは更に標高500mのつつじヶ丘まであるのですが,次の便(?)に乗られた小松原ラガーさんの記事[76836]にはここが渋滞していた様子が書かれています。

ただ,スナフキんさんがメーリングリストに送信された一連の筑波山登山に関する行動計画が,小生を筑波山に登る気にさせたことには,率直に感謝しています。実際に登ってみると,その景色の雄大なことと,険しくもなく緩くもない程よい登山で気持ちが良く,下山後の青木屋では温泉を更に深く味わえました。
直前までは福島県に行こうとか,美味しい蕎麦の話を聞くとそちらへ行こうとしたり,要するに何も考えていませんでした。本当に筑波山に登って良かったと実感しています。

摩耶山や六甲山など、深刻な道路渋滞に登山計画が翻弄されるといったことはあるのでしょうか?
ありません。
一般に六甲山上と言えば標高880mほどの凌雲台地区ですが,そこでさえニジェ[68456]に書いたように
JRの六甲道駅より鶴甲―油コブシ登山道を経て凌雲台まで,休憩なしで歩き続けてちょうど2時間,歩数で12070歩でした。
神戸西部の須磨アルプスや,神戸背山などはもっと手軽です。今日の夕方も[76915]を投稿したあとで高取山登山をして夕食前には帰宅しています。
今日は高取山頂から小豆島の島影がはっきりと見え,更にその向こう側にはかすかに香川県の白鳥あたりの山並みが見えましたが,視界の良いときには向こうからも神戸の山が見えているのだろうか。

P.S オフ会で誰かに似ていると話題にした近畿南部某県の知事が今日の知事選で再選を果たした。
[76915] 2010年 11月 28日(日)15:40:43ニジェガロージェッツ さん
筑波山登山
もうオフ閉会から一週間,早いものです。
オフ閉会当日に投稿したニジェ[76842]の筑波山登山のデータに,恥ずかし過ぎる算数の間違いがありました。
筑波山登山のタイム計算において,
ガイドにある所要時間
225分(2時間45分)
自己所要時間
158分(1時間38分)
いずれもひと目で判る計算間違いです。
正しくは,225分(3時間45分)と,158分(2時間38分)です。謹んでお詫び申し上げます。

ところで,オフ会参加者で何人の人が筑波山に登頂されたのでしょうか?
私が知っている限りですが,
小松原ラガーさんとEMMさんがケーブルカーとロープウエイで往復の登頂,下山([76836]小松原ラガーさん)
futsunoおじさんがケーブルカーで登頂,徒歩で下山。
スナフキんさんがつつじヶ丘から徒歩で登頂,ケーブルカーで下山。
小生の徒歩登下山を含めて5名だけだった??

[76911] スナフキん さん
前泊して余裕の筑波登頂を目指していたにもかかわらず宿側の都合でドタキャン
(中略)
メーリングリストでは前日~当日の行程を二転三転させる
私は関東についての土地勘はなく,筑波山についても全く知らなかったので,一連のメーリングリストでの貴記事からは,前泊しないと徒歩での登頂は難しいほどの山かと理解しました。
ですが,筑波山の観光を扱っているサイトの情報から判断すると,所要4時間とみれば十分自力での登頂は出来ると踏み,13時までに筑波山神社前に着いていれば良しとして,自力登山に臨みました。
もちろん,山をなめて掛かるのは危険ですが,実際に登ってみると神戸の摩耶山程度の山で(むしろ摩耶のほうがきついかも),スナフキんさんと比べて年齢でも体重でもハンディのある私でさえ,3時間で登下山ができたのですから,ちょいと大騒ぎし過ぎではないかい。
[76898] 2010年 11月 27日(土)02:42:24【2】ニジェガロージェッツ さん
2枚の樺太地図
第7回オフ会において,一次会クイズの景品として2004年に再版のあったサハリン州地図を提供しました。もちろんロシア語のみの表記にて,ロシア語の読めない人には訳の解からない「怪しい紙切れ」に過ぎません。それでも地図です。文字が読めなくとも,オフ会に集まってくるような御人の中には,物好きな人が居るかもしれません。

この地図はロシアの「測地および地図作成連邦局」によって作製された,ロシアの州や共和国,地方などの連邦構成体ごとに出版されているもので,サハリン州地図は樺太を50万分の1で,千島列島と北方四島が100万分の1の縮尺で描かれています。

また,景品としては提供しませんでしたが,今秋に同シリーズの2008年版を入手していたのでこれも持ち込んでいたところ,二次会で2枚の地図を広げて比較してみましょうということになりました。

オフ会では2004年版と2008年版の地図として説明しましたが,地図に書かれている出版情報は

【1】景品として提供した地図
「サハリン州 50万分の1」
1995年にロシア測地および地図作成連邦総局(ロスカルトグラフィア)より出版用として製作,極東航空測地社より2004年再版

【2】景品ではない持ち込み地図
「サハリン州 50万分の1」 2008年
2001年に極東航空測地社より出版用として製作,2007年校正

と書かれています。
2枚の地図の変化としては
・2004年に行われたサハリンの行政組織の変更(28都市が村へ改組,後述)
・2009年より樺太南部亜庭湾北岸のコルサコフ(大泊)の東にあるプリゴロドノエ(女麗)に液化天然ガス(LNG)プラントが稼動しており,これを地図【2】では[生産工学コンプレックス]との記載。なお,地図【1】ではプリゴロドノエ[無人]と書かれている。
・地図【1】では行政区画(地区,日本の郡に相当)の境界線が表記されているが,【2】では書かれていない。
・地図【1】では採用されていた山岳地形の陰影ぼかし表記が,【2】ではなくなっている。
・所どころ道路が伸びている箇所が発見できる。
・1990年代中ごろには廃線となった南部横断線(豊真線[3199][3245])が両図とも記載されたままである。
・その一方で新場―留多加間[3322],落合―栄浜間[3218]の鉄道線が【1】では記載されていたが,【2】では消されている。

ところで,グリグリさんがオフ会記録ページを作成する際のデータとしてこの2葉の地図の出版データを上記【1】【2】のように提供したところ,樺太地図は「1995年と2007年の地図比較」が正しいのでは? との疑問がメーリングリストで問われることとなりました。
そこで,ちょっと丁寧に地図を見てみました。

まず,新しい方の地図【2】は表紙に2008と明記(宣伝)されているので,2008年のものとして捉えてよいでしょう。

問題はもう一方の景品として提供した地図【1】です。
表紙には年を明記していないものの,2004年に再版されたものであることから「2004年版」といえるのですが,実際の内容はそれよりは数年古いものです。

サハリン州では,2004年に樺太の3市25町が村に降格され(参考:拙ページ),北海道の一部を含む州全体の都市数が48(18市30町)から20(15市5町)に激減しています。
しかし,地図の内容は2004年のこれらの降格前のものです。このことから「2004年版」とすると,3市25町の村への降格を反映したものかと誤解を与えるかもしれません。
なお,ロシアにおいて都市とは「市」と「町」のことを言い,その要件は,就業構成として総人口の85%以上が労働者・勤労者(非農業従事者)とその家族であること,人口規模としては「市」が1万2千人以上,「町」が3千人以上とされています。また,「町」にも「労働町」や「保養町」などの種類があり,保養町の場合は2千人以上と言われています。ただし,あまり厳密なものではないようで,ロシア全土には人口5千人に満たない市や数百人の町も数多く存在しています。就業構成や人口規模以外にも行政上の意義,産業や文化,生活施設網の発展度も考慮されるようですが,その州や共和国によってまちまちです。
サハリン州で2004年に降格された3市25町の場合,2002年10月9日国勢調査結果によれば人口最大のものは旧内幌町のゴルノザヴォーツク市6,051人,最小のものがオハ地区コレンド町38人でした。
#「降格」と言う表現はあまり好ましいものではありませんが,分かりやすいのでここではこの表現をします。

そして地図の年代を絞る手段として,地図に都市名の書かれ方と人口データを見比べる方法があります。町の場合は都市名の文字を人口2000人以上のものと,以下のものとで大きさに差をつけています。この線上に掛かりそうなのが,
都市1989国調2000推計2002国調2004推計地図【1】の文字
ヤブロチヌイ町(蘭泊)2,7132,5002,1912,100
オジョルスキー町(長浜)2,5082,2001,7851,700
ウグレザヴォーツク町(東内淵)2,2711,7001,7111,700
ヴォストーチヌイ町/オハ地区2,1171,500994900

2004年版【1】の地図では,2002年10月の国勢調査人口が反映されておらず,人口減少により実際には2002年国調時点で2000人を割り込んでいた町が,2000人以上の町として書かれています。一方,1995年の人口データまで遡ると,その頃はサハリン州では人口70万人を上回った最盛期(1989~93年頃)に近く,当時は人口2000人を超えていたと推測される町が地図では2000人以下の表記となっています。
町の人口データで言えば,2000年1月推計人口[9178]に整合しており,また地図の別表にある行政区画の一覧が2001年7月のものと明記されていることから,地図は2001年のものと捉えてよいでしょう。

これにより,オフ会記録ページとしては「2001年と2008年の地図比較」との説明が採られています。

#ニジェ[9178]において,ウグレザヴォーツクの日本名を「落合町川北」と書いているが,「東内淵」がより正確である。
[76842] 2010年 11月 21日(日)22:14:27ニジェガロージェッツ さん
オフ会と筑波山登山
オフ会参加の皆様お疲れ様でした。
相変わらずの馬鹿騒ぎに終始したニジェです。

家計の制約上,遠出の出来ない小生ですが,茨城県へは2003年に両毛の旅[20929]で渡良瀬遊水地の県境巡りで古河市域を両毛人(当時)さんの車でかすめただけの実質「未経県」だったことや,神戸空港から茨城への便があることから,ちょっと無理して参加しました。
同じく完全に未経県な福島県に足を延ばすことも考えましたが,結構時間の制約があり,これは断念しました。その分,早目に筑波入りをして,筑波山登山をすることにしました。

ほぼ毎週六甲山や神戸背山の山歩きをしているので,結局のところ普段の休日と同じ事をしたことになりますが,ひとつ贅沢なことは山歩きのあとで,オフ会場のホテルの温泉にのんびりと浸れること。まあ神戸にも,山の疲れを癒してくれるおねえちゃんたちがいる福原という温泉街が,ん?こらこら。金もないくせに。

こうして,昨日は同じ飛行機で茨城入りをした小松原ラガーさんとつくばセンターまでご一緒し,ここで豪華な正餐[76836]を予定していた氏とは別行動をとり,筑波山神社の青木屋へ直行。当然,まだ誰もオフ会メンバーは居ません。
観光案内所では筑波山ハイキングのお勧めルートとして,筑波山神社・標高約280mから白雲橋コースで一気に女体山頂・標高877mへ登り(所要110分),筑波山上を御幸ヶ原へ(所要15分)を経て,男体山頂・標高871mへ移動(更に15分)した後,ふたたび御幸ヶ原へ(所要15分)へ戻りケーブルカーにそった御幸ヶ原コースを筑波山神社へ下る(所要70分)ルートを教えてもらい,昼食を済ませて早速登ることにしました。
ガイドにある上記所要時間を合計すると225分(2時間45分)となり,山上でちょっと時間をとっても十分明るいうちに戻ってこれる計算です。

実際にこのコースで登ってみると,
筑波山神社(12時48分)→女体山頂(13時56分)→男体山頂(14時18分)→御幸ヶ原で休憩(14時30分~35分)→筑波山神社(15時26分),合計所要時間158分(1時間38分)でした。因みにこの間の歩数は13,327歩。
御幸ヶ原ではケーブルカーで先に到着していた小松原ラガーさん,EMMさんと遭遇[76836]
登山道の状況は六甲の登山道によく似ており,MasAkaさんの解説によると,筑波も六甲も花崗岩の山だから似ているだろうとのこと。私には特に摩耶山(神戸市灘区,標高702m)の青谷道登山コースに非常に良く似ていると感じました。あまりにいつもと同じ光景なので,道中で振り返えればポートアイランドが見えそうな錯覚さえも。

さて,15時30分に青木屋へ入ると,すでに白桃さんやグリグリさんの一行が到着済み。
記録すべきは,今回のオフ会で通算のオフ回参加経験者の合計は60名の大台に。
第1回参加28名+第2回新規参加14名+第3回新規参加3名+第4回新規参加6名+第5回新規参加3名+第6回新規参加4名+第7回新規参加2名=合計60名
(60名で書き込みから受ける印象と実際にオフで会った印象との一致ランキングと,ギャップランキングの投票でもしたらおもろいかも)
それと,もう一つ。落書き帳誕生日11月21日に初めて掛かった目出度いオフ会となりました。

オフ会会場での顛末については,他の参加者からの書き込みにお任せするとして,(というより,私からはとてもとても・・・)開催に尽力された幹事のいっちゃんさんのお骨折りと,オーナー・グリグリさんを中心とした暖かい輪に感謝感謝!
朝風呂で入った屋上の露天風呂から眺める景色は,まさに「雲上の湯」。絶景でした。

帰りの飛行機から見た富士山の絶景に見とれながらも,早くも次のオフ会に思いを馳せて。
[76793] 2010年 11月 15日(月)19:11:27ニジェガロージェッツ さん
渡辺は番地にあらず
[76789]EMM さん
全国の渡辺さんが起こした運動により大阪市中央区久太郎町4丁目の「番地」として残っています。

「 」付きで「番地」などという,なんとでも解釈できるいい加減な表記はやめましょう。
一般に番地というと,地番を連想します。
細かい指摘で恐縮ですが,大阪市中央区久太郎町四丁目の「渡辺」は,新住居表示における街区符号です。
[76277] 2010年 10月 1日(金)10:31:25【3】ニジェガロージェッツ さん
近江俊郎 伊藤久男
[76267] 白桃 さん
逃亡先国の人口データにつきましては、(中略)コチラをご参照されることをお勧めいたします。(笑)
どこかと思えばうちですか(汗)。いつもご愛顧ありがとうございます。
最近はまともな運営を滞らせており,白桃さんのご宣伝通りのサイトには程遠い状態で申し訳ございません。
2009年1月1日も2010年1月1日の人口データも入手しておりながら,データの更新作業をサボっています。ということで,この場をお借りしてフォローさせていただきます。

[76266] 淡水魚 さん
この州は(中略)人口は約143万人
2010年1月1日現在の州(地方/クライ)の人口は1,400,426人です。丁度奈良県人口と同じくらいです。面積は日本国の約2倍強ありますが。

この州は17郡と7都市で構成
郡(地区/ラヨン)と都市(市/ゴーラト)の数としてのデータとしては間違いありませんが,行政区画構成を述べるのであれば誤解を招く表現です。
正しくは17郡と6都市です。7市のうちの1市は郡に属しています。

人口は578,000人だそうです。ガイドさんの説明では、物騒な名前の市より多いとのこと。
確かに,物騒な名前の軍港都市の人口をわずかに上回っていますが,これはここ2年前あたりからのことです。両市はこの地域(日本面積の16倍)の双璧をなす二大都市で,歴史的にも人口争いを続けています。今月行われる国勢調査の結果では逆転しているかも知れません。その程度の微妙な差です。そう言えば区の数も共に5区です。
以下,両市(便宜上,淡水魚さんの逃亡先を「大河市」,もう一方を「軍港市」と記す)の人口推移です。
日付大河市人口軍港市人口備考
1897年2月9日14,97128,933国勢調査
1939年1月17日207,347206,432国勢調査
1959年1月15日322,744290,608国勢調査
1970年1月15日435,962440,889国勢調査
1979年1月17日552,848554,789国勢調査
1989年1月12日597,678631,015国勢調査(常住人口)
2002年10月9日583,072594,701国勢調査
2005年1月1日579,047586,829国家統計局発表
2006年1月1日578,060583,673国家統計局発表
2007年1月1日577,409580,821国家統計局発表
2008年1月1日577,345578,800国家統計局発表
2009年1月1日579,168578,619国家統計局発表
2010年1月1日580,665578,213国家統計局発表
以上,市単独での人口です。
日本の市町村制度とは違うので分かりにくいですが,大河市は市と市域が一致している一方,軍港市の場合は市域が市外の農村人口26,613人(2010年1月1日)を含み,市行政区域全体の人口は604,826人(同)です。なお市行政区域の面積は大河市386km2,軍港市562km2です。

また,1939年1月17日の国勢調査結果については全国的に水増しの可能性が指摘されています。実はその2年前の1937年1月6日にも国勢調査がありましたが,「人口が予想外に少ない」と鋼鉄の男の逆鱗に触れ,関係者が処刑されたと聞きます。その「やり直し」調査が1939年の国調ですが,最近では幻となった1937年調査こそが実態に近いのではないかと言われています。国の体制が違えば国勢調査も命がけです。(平成22年国勢調査当日の書き込みに因み)

ところで,もうそろそろきちんとした都市名を挙げてみてはどうでしょうか。
こういう推測を好む人も多いことは間違いありませんが,読み難いことで好まない人もおられるでしょう。私はどちらかと言えば後者です。


追伸:
メンバー紹介のニジェ名義の変更有難うございました。なんだか照れくさいですが,メンバー紹介文にたがわぬように引き締めなければなりません。早速の更新作業に感謝申し上げます。
大変お手数をお掛けいたしました。
[76255] 2010年 9月 27日(月)21:57:46【1】ニジェガロージェッツ さん
世界史的な大事件の日など
[76254]Issie さん
私が首都に滞在したちょうど1年後(同じ日付)に,世界史的な大事件が発生しました。
私の場合は,その事件発生の当日に淡水魚さんの逃亡先に居て,その日の便で新潟空港に着きました。空港に着くと報道陣に囲まれてしまいましたが,私たちの乗った飛行機が事件から一番早いあの国からの便だったとか。
しかし,事件そのものは遠い首都や保養地半島でのお話で,離陸時はまだ今回の淡水魚さんの逃亡先の都市では何も起こっていませんでしたから,私たちは新潟に着いてから事件の勃発を知りました。新潟駅前で新潟日報の号外を入手して,今でも記念に持っています。

[76251]淡水魚 さん
この国の東海岸と首都を結ぶとても長い鉄道
この鉄道,以前[76254]Issieさんが行かれた頃とは違うルートで走っており,近年はうちの街を通っています。
[76249] 2010年 9月 26日(日)20:21:27【1】ニジェガロージェッツ さん
自分色変更
[76245]グリグリ さん
自分色変更についての勝手なお願いでお手数をお掛けしました。

今まで慣れ親しんだ自分色を変えるのはちょっと抵抗もあったのですが,旧自分色の登録[3052]から既に8年が経過し,あの時はまだパソコンを購入した直後のことで,まだまだ(今でもそうですが)PCを使いこなしておらず,色鉛筆でニジニ・ノヴゴロド市のクレムリ城壁や森や市街地をイメージしてメモ用紙に彩色し,それをネットで適当に見つけた色見本のRGB値をつけてお願いしたものでした。で,お願いした自分色が「落書き帳」に現れるや「あ~!やってしまった!!」と叫びたくなるぐらい,空気を読めていない弩派手な色彩に自分自身が引いてしまいました。因みに当時の落書き帳は「限りなく黒に近い濃紺」の背景に,書き込み文字は白でした。なお,まだ事前に確認画面で色を確認する機能はなかったように記憶しています。
[21240]グリグリさん
ニジェさん色登場の際は結構衝撃的だったんですが。(笑

ようやくまともに見れるようになったのが現在の背景色に変更になってからのことで,
[7515]グリグリ さん
明るい背景だと、いわさんや ニジェガロージェッツさん、Firoさんなどのちょっと明るめ濃いめの色がよく映えますね。

とはいえ,やはり自分色が拙かったというのは今に至るまで感じていたことで,同じニジニ・ノヴゴロドをテーマにしたにしても,もっと大人しい配色に変えるとか,雪に覆われた冬のニジニをイメージしてみようとか,あれこれ思案していたところです。
メンバー登録ページには
必要性の低い変更や頻繁な変更申請は回避していただければ幸いです。
と注意書きがあり,何度か変更を考える度にこの一文に引っ掛かり思いとどまっていましたが,今回はもう8年も我慢(自業自得ですが)したんだからいいだろうと,甘えさせていただきました。

[76245]グリグリ さん
これまでのオフ会記録ページの自分色は当時の色のままとします。
有難うございます。旧自分色については今でも結構愛着を持っているので,オフ会記録ページで形跡が残っているのは助かります。というより,過去に自分色変更をされたメンバーがオフ会ページに古い自分色で出ているのを確認したので,今回の自分色変更をお願いしたところです。
それで,新しい自分色については,こじつけて見れば冬の夜のニジニに見えなくもないですが,いつまでもニジニ・ノヴゴロドもないだろうということで,本当のところはこういった地理とは何の関係もありません。ミクシィかどこかで知っている方にはそれと分かるかもしれませんが,猫使いさんと同じ系統の配色です。

新自分色は地理と無関係ですので,以前にまがみさんが書いて下さったメンバー紹介文の自分色に言及しておられる部分が整合性が取れなくなってしまいました。メンバー紹介文を編集しておられるご担当の方にはお手数をお掛けすることになってしまいますが,おついでの時で結構ですので変更していただければありがたく存じます。もちろん,当該箇所のみの削除でまがみさんの紹介文そのままでも構いません。

それでは皆様,今後ともどうぞ宜しく御願い申し上げます。
[76228] 2010年 9月 23日(木)09:41:04ニジェガロージェッツ さん
なんと心強い
[76222]グリグリ さん,[76223]JOUTOU さん
お車のお申し出,ありがとうございます。本当に心強い限りです。安心して飛行機の手配ができました。[76224]小松原ラガーさんと同じく,皆様の帰路(または翌朝の余韻)の邪魔にならない程度で,筑波山口のバス停まででも結構ですので,お送り頂ければ大いに助かります。

翻って5年前の神戸オフ会の際に,神戸在住のものとして,遠くから参加された皆様に何のフォローも出来ずにいたことが恥ずかしく感じるところです。

[76224]小松原ラガー さん
安い切符がどんどんなくなっているようで
情報ありがとうございます。昨晩私も手配しましたが「安い切符=通常料金でない切符」にもいくつかのランクがあるようで,そのうち最安値のものは既に売り切れだそうで,行きは次点のものが2席,帰りはこれも売り切れになっていました。

#私はネットで切符を手配するのが未だに抵抗があって,旅行社で購入して少々高くついても「安心料」だと割り切る時代遅れな人間ですが,実際はどんなものだろうか。旅行社で手配すると損をするのでしょうか。

[76222]グリグリ さん
皆さんの目に触れるようにして参加者を増やす施策の一つ
オフ会の情報交換は,現地情報などそれだけでも結構な地理ネタになり,仮にオフ会そのものに参加ができなくても,同じ方面へ出かける際には有用な情報が多いと推測します。どんどん書き込みしましょう。
まだ2ヶ月先ですが,オフ会関連の書き込みが多くなってくると触発されるメンバーもいるのでは。
#茨城県か。あの弩臭い委員長はどうしているだろうか。

[76226]グリグリ さん
都道府県の面積イメージ
小生の地元では,兵庫県がものすごく広い県だとの認識が共有されていて,うちの父などは「北海道の次に広い」という変な思い込みがあります。実際にはそんな訳はなく,東北6県のうち宮城県の除く各5県より狭く,同じ瀬戸内にあっても広島県よりも狭いのですが,それを言っても「そんなばかな」と信じてくれません。
千葉県の面積については,小学校の壁に貼ってあった北方領土のポスターに「千葉県の面積とほぼ同じ」と書かれていたのが頭に刷り込まれており,5000平方キロ程度だと数値が浮かびます。
[76220] 2010年 9月 22日(水)00:00:12ニジェガロージェッツ さん
わかりにくい
オフ会参加への情報交換について,本来ならばメーリングリストに書く内容ですが,[76198]グリグリさんからの「書き込みで情報交換しませんか」に甘えてここに書き込んでいます。
オフ会参加をお考えでない閲覧者には目障りかもしれませんがご容赦の程。

[76218] 小松原ラガー さん
ホテルから筑波山口までバスで行って、そこで乗り換えて、という方法で8:30のバスに乗れる

土地勘のない地方の状況は分かり難いのですが,この文面からはつくばセンター8:30のバスが筑波山口に寄るのかと解釈し,この1時間ほどいろいろと調べ回ったのですが,結局そのような路線ない。
では,8:30分に間に合うようにつくばセンターへ出るのだろうと調べたところ,「つくバス」の北部シャトル7便の筑波山口発7:35→つくばセンター着8:10に乗らないとだめなようです。
いや,その筑波山口へ出るのが,[76219]油天神山さんのご注進により,ホテル最寄の筑波山神社入口→筑波山口の登山バスで間に合う便が休日ダイヤには無いとのこと。油天神山さん,地元からのフォローありがとうございます。

人数さえ揃えばホテルに筑波山口バス停までの送迎を頼めるかもしれませんが,う~ん,やはり帰りの神戸行き飛行機は難しいか。
[76207] 2010年 9月 19日(日)21:42:24ニジェガロージェッツ さん
Re:オフ会
[76206] 小松原ラガー さん
スカイマーク&茨城空港体験談を現地生中継できるかと思います。
私は現地生中継するつもりはありませんが,同じく神戸―茨城のスカイマークを利用しようと計画しています。
オフ会毎に各々の経県値が話題になっていますが,私の場合,過去の参加オフ会に関しては経県値の上昇に寄与しませんでしたが,今回の茨城県へは両毛人(当時)さん運転のお車で古河市域をかすめた通過のみで,実質無経県です。北に隣接する福島県へはかすりもしていません。参加が叶えば,それだけで3点増,福島県まで足を延ばせば更に3点増が期待できます。

スカイマークの神戸―茨城便の11月時刻は,神戸発8時25分→茨城着9時40分ですから,ちょっと無理すれば福島県いわき市への寄り道は出来そうです。しかし・・・

ただ、帰りがどうやっても日曜日の神戸行きのスカイはムーリーなので、
帰りの便は茨城発10時40分→神戸着12時05分ですから,この10時40分に搭乗するのが無理だということでしょうか?
[76146] 2010年 9月 4日(土)13:21:21ニジェガロージェッツ さん
ペーロケさんへ
[76134]
「区」コレクションの条件は満たしませんが、番外編としていかがでしょうか?
折角のご提案ですが,謹んでお断り申し上げます。

この件については,[76137]まかいのさん,[76138]右左府さん,[76141]グリグリさんが「自治会の区」として,類例を挙げてくださったように,全国的に決して珍しいものではないと断じます。フォロー有難うございます。

このことは,区コレクションを立ち上げた当初より,EMM編集長より[51003]
実際の住所以外で「区」が使われる例として、自治会組織名があります。
(中略)
このような「正式な住所ではない“区”」はほかにも色々事例があると思います。
ひっくり返せばキリがないと言う事でもあります。
とアドバイスくださり,重ねて[51185]にて
やはり自治会組織名としての「区」は対象としては扱いにくそうですから、郵便番号が付与されている事例とかでなければ対象としない方が良さそうです。
と述べておられるように,郵便番号簿への記載の有無を採用基準とすることで結論としています。そこから更に発展させるつもりはありません。
もちろん,「そこまでやってやろう」という漢が現れれば,喜んで編集をバトンタッチさせていただきます。

hmtさんが[75709]の記事で解説されている上越市旧市域に設定された「地域自治区」でさえ,住所に用いられず,郵便番号簿に記載がないので採用を見送っていますが,上越市の新市域の13ある「地域自治区」は住所になっているので,この対比が面白いところです。

なお,神戸においては,東灘区住吉に「だんじりの区」が存在しています。
神戸・住吉/茶屋区だんじりのページには,それらの区は神戸市編入(1950年)以前の旧住吉村の行政単位として設置されたものを継承したことが書かれています。


別件で(スルーするつもりでいましたが),ついでが出来たのでもう一件。
[75952]
ニジェさんが「北方領土は決して行けない所ではない」とおっしゃっていますが
そのように理解されるのは仕方がないかもしれませんが,直接的にそう書いてはいません。
ニジェ[75941]
千島といえども冷戦時代のように決して行けない所ではない
が直接該当する表現ですが,「北方領土」と「千島」の違いは留意願います。
確かに,広義の「北方領土」には北方四島,千島列島に南樺太まで含まれますが,一般に用いられる「北方領土」とは北方四島に限定されるはず。
[75941]にある千島とは,北方領土への渡航に関する制限の範囲外にある中千島,北千島を含んで書いています。具体的にはカムチャツカからヘリコプターで北千島の幌筵島へ渡ることを想定しています。
[75987] 2010年 8月 14日(土)16:23:10ニジェガロージェッツ さん
経県値(旧国版,政令市版)
経県値の旧国版および政令指定都市版についてやってみました。

旧国版については[44780]にて投稿済みでしたが,山城国での宿泊が記憶になく,一方で伊勢国には小学校の修学旅行で宿泊していました。訂正も兼ねて再投稿させてください。
その後のオフ会参加などで宿泊国が増加しているが,06年の金沢オフで始発電車まで同志と夜明かししたのも宿泊にカウントしています。フォーマットは[75922]伊豆之国さんのものを一部改変して使用させて頂きます。

【畿内】
山城● 大和● 摂津◎ 河内○ 和泉●
【東海道】
伊賀● 伊勢○ 志摩○ 尾張● 三河○ 遠江▲ 駿河▲ 伊豆▲ 甲斐× 相模▲ 武蔵○ 下総○ 上総× 安房× 常陸×
【東山道】
近江● 美濃○ 飛騨△ 信濃○ 上野○ 下野● 磐城× 岩代× 陸前● 陸中● 陸奥○ 羽前○ 羽後○
【北陸道】
若狭○ 越前● 加賀○ 能登○ 越中○ 越後● 佐渡×
【山陰道】
丹波● 丹後● 但馬○ 因幡○ 伯耆○ 出雲○ 石見○ 隠岐×
【山陽道】
播磨◎ 備前○ 備中● 美作○ 備後○ 安芸● 周防● 長門○
【南海道】
紀伊○ 淡路○ 阿波● 讃岐○ 伊予○ 土佐○
【西海道】
筑前○ 筑後● 豊前● 豊後○ 肥前○ 壱岐× 対馬× 肥後○ 日向○ 薩摩× 大隅×
【北海道】
渡島× 後志● 石狩○ 胆振● 日高× 天塩● 北見○ 十勝× 釧路× 根室× 千島×
【国が設置されなかった地域】
琉球× 小笠原× 樺太○

居住◎5点-2,宿泊○4点-38,訪問●3点-22,接地△2点-1,通過▲1点-4,未踏×0点-20,計233点

政令指定都市についても神戸市の順位を上げる目的でやっておきましょう。
【制度創設時1956年に指定】
大阪市○ 名古屋市● 横浜市● 京都市● 神戸市◎
【1960~70年代に指定】
北九州市● 札幌市○ 川崎市▲ 福岡市○
【1980~90年代に指定】
広島市● 仙台市● 千葉市○
【2000年以降に指定】
さいたま市× 静岡市▲(×) 堺市○(▲) 新潟市●(×) 浜松市▲(×) 岡山市○ 相模原市×
【未指定=計算外】
熊本市●

居住◎5点-1,宿泊○4点-6,訪問●3点-7,接地△2点-0,通過▲1点-3,未踏×0点-2,計53点
( )で書いたものは政令市指定以降の訪問歴による。 それによると8減点で合計は,計45点
[75960] 2010年 8月 12日(木)14:41:48【1】ニジェガロージェッツ さん
千島
[75947] 実那川蒼 さん
千島の件に関するお詫び

了解です。
こちらもちょっときつい書き込みになってしまい,お恥ずかしい限りです。
[75940,75942]については,正直なところ頭にきていました。しかし,極力感情を抑えてレスしたつもりで,ましてや実那川蒼さんとは昔のあんどれさん頃に何度かレスを交わしたこともあり,ある意味安心して議論できると踏んでいました。それだけに,当該2稿が全文削除されてしまったのは残念です。

落書き帳の皆さんにご迷惑をおかけすることになってしまいました。
削除2稿には名指しこそ無かったものの,明らかに私に対してだけに向けられたものでしたから,「落書き帳の皆さん」と大風呂敷を広げる必要は無いでしょう。確かに拙稿を含めて見苦しいといえばそうかもしれませんが,傍目には結構おもしろく読んでいたかもよ。

さて,話を千島に戻して
単なるお遊びが国際問題にも発展しかねません。だから、私は千島国を除くのが適当であると考えます。
日本政府からの「国民各位の理解と協力を要請」に反して,千島国経県値を稼ぐためにロシア経由で北方領土へ渡航するというのは,ロシア語を習得したり,サハリン現地での手続き等に掛かる労力や手間を考慮しても割りに合わない「お遊び」です(お前ならやり兼ねんな・・というのは無しよ)。そこまでのケースを想定して懸念なされるのであれば,私からは別のケースを提示します。
日本の旧国を舞台にした遊びですが,別に「経県値」を計算して楽しむのは日本国民だけに許されるものではありません。ビザなし交流の受入事業に沿って日本各地を訪問する北方領土在住のロシア人が楽しんでも良いでしょう。

更に,戦前の千島でそこを故郷として育った旧島民の方々もいらっしゃいます。また,千島列島で軍務についた旧陸軍第91師団(北千島),第89師団(南千島),独立混成第129旅団(得撫島),独立混成第41連隊(松輪島)に属しておられた方もおられます。
ゆえに,私は千島国を含めるのが妥当と考えます。

誤解して欲しくないのは,千島国について意見を求められた場合に「含めるのが妥当」と考えているだけであって,千島について何も書かれていないものに「千島国を含めるべきだ主張」するものでも,「千島を除くのはけしからん」と噛み付くものでもないことは留意願います。

むしろ私は「書き足した部分」が「千島国を加えるべき」という説の補強に見えて
[75930]にて書き足した部分は,中段の「ところで,先のリンクした・・」で始まる部分以降ですが,今何度読み返しても千島と北方4島の人口データしか書かれていません。この数字の羅列がどうして「千島国を加えるべきという説の補強」になり,政治的に悪い印象を与えてしまったのか理解に苦しみます。というより,先入観が入って読まれると,どのように受け取られてしまうかの怖さをまざまざと見せつけられた気がします。
私が地理ネタとして千島のロシア側の人口経年データで提供したかったのは,

1)国後島の人口増加
ロシア,特に極東部では人口減少が顕著で(例外としてヤクーツク市域のように2002年人口246,279→2009年284,115と激増しているところも),サハリン州の人口減少も酷いものがあります。その中で,国後島の古釜布(ユジノ=クリリスク)の堅実な人口増加が目立つ
2)択捉島の人口減少
3)北千島での人口減少と,得撫島以北ではセヴェロ=クリリスク以外は無人
4)人口2千人程度のクリリスクと,セヴェロ=クリリスクに「市」の称号が与えられているが,6千人を超えるユジノ=クリリスクは「町」である。

といった程度で,「千島国を加えるべき」の主張はどこにも盛り込んだつもりはありません。

以上,千島の話はおしまい。

ところで,旧国版経県値で「難しい」と感じるのは,旧国の国境(くにざかい)がどこであったか。これが時代時代で結構動いているような気がします。昨年のオフ会で石島に行きましたが,あのあたり一帯の島々は小豆島も含めて元々は備前国でした。東京の葛飾区だって元は下総国だったのでは。墨田区にある「両国橋」ってそういう意味だっけ→[75315]hmtさん
これは千島国にセヴェロ=クリリスクを含めるかどうかにも通じる議論ですが,いや,いかん,また千島の話に戻っとる。
どの時代の国境で判断するのかはそれぞれの参加者が独自の主観に基づいて判定すれば良い事と割り切る他はないのかも。

話題転換。
「経県値」で用いる「県」の字。日頃何気なく使っているが,この字は切断した生首を吊るした象形文字では。「首」の字を逆さにして糸で吊るして血が垂れている。旧字「縣」も同じ。
「民」の字は「目」に鋭い針を突き刺して眼球を潰したもの。つまり県民とは・・・。


[75953] オーナー グリグリ さん
居住経験のあるところから。既出だったら申し訳ありませんが,神戸市のサイトに市域変遷図があります。
加古川市のサイト内を検索するとpdfファイルで年表と地図が見られます。

【1】訂正1箇所 江東区(誤)→墨田区(正),ほか格助詞の訂正,記事リンク追加
[75945] 2010年 8月 11日(水)10:39:10ニジェガロージェッツ さん
Re: 令制国版経県値
[75942]
いちいちほじくり出して目くじらを立てる
誰が?

整合性がとれていなくても結構。あくまでお遊びですから。「旧国」とは令制国のことだけれども,私も含めてそのように表現していません。「旧国」と書いています。整合性がないことも,現在は令制国は存在していないことも承知の上で楽しんでいる。
むしろ,[75940]小笠原のことや,[75942]令制国時代に訪問している人は皆無などと,予想外の方向に論議を展開して目くじらを立てているのは実那川蒼さんでは。そのような印象を私は持ちます。

令制国版経県値に千島国を含めるべきだという主張
そのように主張するつもりはありません。そのことは[75930]の冒頭に,「千島国の存在に気付かず表を作成されたのならば,大して気にもならない」と書いています。
わざわざ (千島を除く) と除外されているので,なんで除外したのか聞いているだけです。
単純に それだけ の書き込みで終わらせれば,ただのいんねんにも聞こえますから,千島国の沿革と,現状として千島は訪問に制限がかけられているものの,決して訪問不可能な土地ではないことの説明を加えて投稿しました。
それでも,やはり「千島を除くのはけしからん!」とだけのレスにも見えるので,訂正機能を使ってロシア側の人口資料や現状などを書き足した「地理ネタ」としてバランスを取ったつもりです。
結果として更に千島国を含めるべきと躍起になっている印象を与えてしまったとすれば,[75941]に「書き方が悪いからだろうから,不徳の致すところ」と自分の非を認めています。

[75922]にて伊豆之国さんが千島を除かれたことについては,大体見当はつきます。「北海道は11箇国に分割されているのは史実。しかしそのうちの千島国は全域が事実上ロシア領となっており行けない」といったところでしょう。
しかし,それは当方の邪推でしかありませんから,他に考えがあってのことかもしれないので「なんで」と確認したかっただけです。
もちろん,回答していただかなくとも結構です。そこまでは求めません。
[75941] 2010年 8月 11日(水)02:30:00ニジェガロージェッツ さん
旧国
[75940]
憤慨
誰が?
千島についてあれこれ書いたのは[75930]だから,私のことを言っているのだろうけれども,違いますな。
まあ,そのように受け取られるのは書き方が悪いからだろうから,不徳の致すところではあるが,わざわざ千島を除いたことについて「なんで」と疑問に感じたから書き込んだまでのこと。私の知人(ロシアとは何の関連もない港湾技術者)に,仕事で国後島へ行った人もいます。

旧国に「行った/行ったことが無い」という話題については,その領域について「経県」とやらを判定するものであるから,「国」が設置された当時と今とでは状況が違うので,現在の日本国の統治範囲は基本的に無関係。逆に言えば,現在では日本国外となってしまった北千島については旧国の一つ「千島国」に入っていたのだから,例えばセヴェロ=クリリスクに行ったことがあれば「千島国の経県」として可でしょう。

その一方で残念なところですが,小笠原諸島については旧国が設置されたり,どこかの旧国に編入されたこともなく,ゆえに考察の範囲外になり,目が行かないのは当たり前です。
そういう意味では,本来ならば琉球も含めるべきではなく,しかしながら現在沖縄県として1県を成しているので,お遊びと割り切って「琉球国」と見なして付け加えるのも,これまた妥当なところでしょう。

私に言わせれば,旧国を現在の日本国の統治の及ぶ範囲に合せて「小笠原はどうだ」とか,それに漏れるからといって現実に存在したものを除外したりするほうが,それこそ単なる「お遊び」に政治的問題を持ち込んでいると感じます。
先に[75930]にしつこく書いたように,千島といえども冷戦時代のように決して行けない所ではないのだから。
[75930] 2010年 8月 8日(日)22:57:46【2】ニジェガロージェッツ さん
千島国
[75922] 伊豆之国 さん
北海道10ヶ国(千島を除く)
千島国の存在に気付かず表を作成されたのならば,大して気にもならないのですが,はっきりと千島国の存在を知った上で除かれています。なんで千島を除かれたのでしょうか。ロシアに占拠されているとはいえ,日本の領土です。

ここで千島国の範囲について確認しておきます。といっても,既に[67072][67073]のhmtさんの記事に詳細が書かれています。
千島国の沿革について要約すると,1869(明治2)年の設置当初は国後島と択捉島をその範囲とし,1875(明治8)年の千島樺太交換条約で得た得撫島から占守島までを1876(明治9)年に編入,1886(明治19)年には根室国花咲郡に属していた色丹島を千島国色丹郡として編入しています。これにより,千島国の範囲は,色丹島を含めた「千島31島」になりました。

「行った-行ったことがない」という話題の範囲を日本国内に限定するのであれば,千島樺太交換条約で得た得撫島から占守島までは,サンフランシスコ平和条約で放棄しているので対象外ですから,この場合は千島国の範囲は択捉,国後,色丹の3島ということになります。

この地域に行かれたことがないのであれば,単純に 千島× とすれば良いだけのことです。
ロシアに占拠されている現実から,千島国への入域は絶望的ですが,四島交流や墓参,自由訪問の枠組みが存在し,不可能という訳ではありません。
敢えて想像を働かせて穿った見方をすれば,本当は行ったことがあるのだが,望ましい訪問の仕方ではなく,我が国国民の北方領土への訪問について(平成11年9月10日閣議了解)にある,「国民各位の理解と協力を要請する」に反した方法で入域した。具体的にはロシア国内で入域ヴィザを得て訪問した,とはさすがに想像に過ぎるでしょう。

千島31島全体を千島国として見ても良いのであれば,北千島や中千島は「我が国国民の北方領土への訪問について」の範囲外ですから,ロシアのヴィザを取得すれば堂々と入域できます。といっても確かに交通手段の有無など入域の難しい地域ですが,カムチャツカのペトロパヴロフスク=カムチャツキーからヘリコプターで北千島へ渡ることは可能で,以前にはカムチャツカ観光とセットにしたツアーもありました。中千島については無人島ばかりで交通手段は皆無ですから,何かの取材に同行するか,学術調査団に加わるかでもない限り,入域は非常に困難でしょう。

ところで,先のリンクした「我が国国民の北方領土への訪問について」のページは,独立行政法人北方領土問題対策協会のサイト四島のかけはしにあるものですが,同サイトには2004年と2005年の1月1日現在の各島人口(ロシアの統計より)が載っています。それによれば,
2004年2005年
択捉島6,9566,904
国後島6,6226,697
色丹島3,2223,195
歯舞群島00
私の手元にもロシアの人口統計書で2005年から2009年までの各年1月1日付けの市,町および各地区のデータがあるのですが,それによれば
地区2005年2006年2007年2008年2009年
北クリル地区(北千島および中千島のうち計吐夷島以北)2,5222,4702,4222,4222,389
クリル地区(択捉島および中千島のうち得撫島から新知島まで)6,9046,7396,6026,3876,152
南クリル地区(国後島,色丹島,歯舞群島)9,8929,97010,01110,16810,189
とあり,2005年1月1日の人口データは合致しています。
因みに都市人口は
都市2005年2006年2007年2008年2009年
北クリル地区セヴェロ=クリリスク市(占守郡幌筵島柏原)2,5222,4702,4222,4222,389
クリル地区クリリスク市(紗那郡紗那村紗那)2,0772,0051,9111,7951,719
南クリル地区ユジノ=クリリスク町(国後郡泊村古釜布)5,9736,0816,1666,3316,465
セヴェロ=クリリスク市の市域(5km2とのデータもあり)が当方掴めておらず,占守島の一部を含んでいる可能性もありますが,統計上,北千島ではセヴェロ=クリリスク(柏原)以外は無人,中千島は(2005年時点で)完全無人と読めます。
[75507] 2010年 7月 20日(火)00:08:34ニジェガロージェッツ さん
1945年5月の神戸市区再編について
[75506]グリグリ さん
神戸市兵庫区および長田区の設置日についてのご回答ありがとうございました。

現在は、変遷情報の兵庫県のページの「改称する」という記述を尊重しています。
確かに神戸市史においても,1945(昭和20)年5月1日に行われた8区を6区に再編成した件について神戸区と林田区については,それぞれ有名地名である生田区,長田区に改称したとの記述があります。どちらも生田神社,長田神社と,神社の名称という共通点があります。

ただ,1933(昭和8)年1月1日に湊西区を兵庫区に改称したときは,区域の変更を伴わない単純な改称でしたが,生田・長田両区の改称については,いずれも神戸・林田両区から管轄区域に変更があり,関連する旧区で言えば神戸区,湊東区,林田区が廃止されて,新たに生田区と長田区を設置したと述べた方が適切だと考察するところです。
同時に湊区も廃止されましたが,こちらは全区域が兵庫区に吸収されていることから合区による消滅と言えます。

さて,その変遷情報の兵庫県のページに,件の区再編成については,
区設置神戸市林田区を長田区に改称する
区設置神戸市湊区, 湊東区の一部を兵庫区に編入する
区設置神戸市湊東区の一部を神戸区に編入し、神戸区を生田区に改称する
とあるだけで,詳細欄にも同じことしか書かれていません。

もちろん,編集された88さんに於かれても,事情は十分承知の上で上記のように書かれたとは推測し,小生もそれを尊重します。ただ,この文面だけでは,
1)林田区から長田区へは,過去例の湊西区→兵庫区と同じ単純な改称
2)湊東区の一部が兵庫区に編入されたことは述べられているが,実際にはその3倍近くの面積を兵庫区に提供した林田区については完全に欠落している。

そこで,もし,私に同じ事を書かせていただければ,
区設置神戸市林田区より一部を兵庫,須磨区に移管し,須磨区の一部を林田区に編入し,林田区を長田区に改称する
区設置神戸市湊区全域,林田区の一部,湊東区の一部を兵庫区に編入する
区設置神戸市湊東区の一部を神戸区に編入し,神戸区を生田区に改称する
となります。

参考のため,区再編成の前後の面積・人口データを提供します。
1944(昭和19)年2月22日人口調査
面積km2人口
神戸市115.05918,032
灘区19.48152,713
葺合区7.56107,610
神戸区7.6867,731
湊東区2.0455,106
湊区6.9650,303
兵庫区4.00132,765
林田区10.60209,446
須磨区(本区)24.74108,846
須磨区(垂水)31.9933,512

1945(昭和20)年11月1日人口調査
面積km2人口
神戸市115.05378,592
灘区19.4870,636
葺合区7.5617,914
生田区8.9327,411
兵庫区13.9470,664
長田区10.05112,992
須磨区(本区)23.1044,873
須磨区(垂水)31.9934,102

人口については,空襲による市街の破壊の影響などで昭和20年11月データでは激減していますが,こちらは無視していただいて,面積について見ていくと,区再編成の様子が読めてきます。
面積のやり取りは以下のようになります。
但し,林田・長田区と須磨区の境界については双方でやり取りがあったので,林田区から須磨区に移管された面積についてはMapionの「キョリ側β」を利用して測ってみました

灘区→灘区19.48
葺合区→葺合区7.56
神戸区→生田区7.68
湊東区→生田区1.25
湊東区→兵庫区0.79
兵庫区→兵庫区4.00
湊区→兵庫区6.96
林田区→兵庫区2.19
林田区→長田区8.25
林田区→須磨区0.16
須磨区→長田区1.80
須磨区→須磨区22.94
垂水→垂水31.99
合計115.05
[75449] 2010年 7月 7日(水)11:09:05【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:濁音で始まり濁音で終わる市人口決定戦
[75448] 白桃 さん

決勝
御殿場10:9 行田(延長10回)

その後日談では,国際大会に出た御殿場が,いきなり
御殿場 1:10 ヴォルゴグラード
で,初戦敗退だったとか。

バグダッドが強そうだが。
[75443] 2010年 7月 5日(月)22:43:50【4】ニジェガロージェッツ さん
大阪市の区を越える地名
[75442]の東尻池村のお話だけでは何の役にも立っていないので,グリグリさんが収集されている「政令指定都市の区を超える地名」を大阪市より。

7年前にまがみさんが[10425] にて紹介されていた地名より,
中央区日本橋1,2丁目/浪速区日本橋3-5丁目,浪速区には日本橋東1-3丁目,日本橋西1-3丁目もあり。
浪速区下寺1-3丁目/天王寺区下寺町1,2丁目
阿倍野区万代1丁目/住吉区万代2-6丁目,住吉区には万代東1-3丁目もあり。
住吉区東粉浜1-3丁目/住之江区粉浜1-3丁目,粉浜西1-3丁目
淀川区西中島1-7丁目/東淀川区東中島1-6丁目

[10425]には出ていませんが,他には
天王寺区上本町1-9丁目/中央区上本町西1-5丁目
おっと,諸々見落とした。【2】【3】追加
中央区難波1-5丁目,難波千日前/浪速区難波中1-3丁目
中央区本町1-4丁目,南本町1-4丁目/西区西本町1-3丁目,靭本町1-3丁目
中央区森ノ宮中央1,2丁目/城東区森之宮1,2丁目[53270]逆太郎さんなどにも記述あり。頂点隣接。
中央区玉造1,2丁目/天王寺区玉造本町,玉造元町
天王寺区勝山1-4丁目/生野区勝山北1-5丁目,勝山南1-4丁目
生野区新今里1-7丁目/東成区大今里1-4丁目,大今里西1-3丁目,大今里南1-6丁目
があります。

まがみさんが[10425]に述べておられるように,
大阪市の例は、もともと一つの市の中にあった町名を、行政運営上の都合で別々の行政区に分割しただけですから

市街地図を見ていつも思うことですが,大阪や神戸の区の境界線は直線的なものが多く,東京や横浜の地図を見てその入り組んだ区界に戸惑いを(いや,嬉しさを)感じます。
大阪市の場合は昭和18年の全市的増区(15区→22区)をやった時に,入り組んでいた区の境界線を道路に沿ったものに変えた経緯があり,地図を見てもスパッとした区割りになっています。
これは昭和20年に行政区再編成(8区→6区)をした神戸市街地にも言える事で,横浜や東京の区の境界線のように入り組んでいません。他にも地形的な条件も重なるのかも。
(街中に東尻池村のような例外“飛び地”もあるけれど)


ところで,今のところコレクションのタイトル「自治体越えの地名」に対して,そのパーツ「政令指定都市の区を超える地名」では,「越え」「超え」と異なっています。どちらでも良いのか?
いや,境界線を「越える」のであって,限度や物量を「超える」のではないのだから「越える」が正しいのでは。

ついでに,[75437] ペーロケ さん
相手が各上
これはいただけません。
[75442] 2010年 7月 5日(月)21:51:04【2】ニジェガロージェッツ さん
東尻池村を記載している地図
毎度ながら,地元の細かな話題にて失礼します。

ニジェ[75415]
兵庫区東尻池村については[45136]に記したとおり,ネット地図上での確認は難しいところです。

神戸市のサイト内に,固定資産(土地)地番参考図が公開されており,その兵庫区には東尻池村の字が三つ出ており,それぞれの位置を図示した参考図がPDFファイルで閲覧できます。
ところが,それらいずれもが長田区内のJR神戸線(山陽本線)の高架沿いに連なる,兵庫区の飛び地になっています。
Mapionにはもちろん出ていませんが,場所を提示すると次のようになります。
兵庫区東尻池村字井領田
兵庫区東尻池村字ツワヤ
兵庫区東尻池村字堂免

東尻池村の位置がそうだとすると,なぜ長田区ではなく兵庫区に属しているのかが疑問として出てきます。
あくまで私の推測ですが,林田区の南部を兵庫区と長田区に分割した昭和20年当時,町通が起立せずに残った東尻池村残存部としては,山陽本線と和田岬線の国鉄用地に多く存在し,それを一括して兵庫区に編入した。その後,兵庫区の区域になった和田岬線部分の東尻池村は隣接町通に編入されて消滅したため,長田区の山陽本線沿いの飛び地部分のみ現存することとなったのでは,と考えます。

ただし,[45136] に兵庫区の「幽霊地名」として挙げたもののうち,御崎村,吉田新田,川崎町が固定資産(土地)地番参考図に出ていません。縮尺1000分の1の図にさえ場所の提示が困難であったとも考えられず,同図はあくまで参考図としての情報だとすれば,兵庫区内部にもまだ「東尻池村」がどこかに(御崎村や川崎町も)存在している可能性は案外高いのでは?

なお,この固定資産(土地)地番参考図だけでは境界線と地番しか書かれていないので場所が分かりにくいものの,同じ図葉を用いた固定資産(土地)路線価図と見比べれば,道路が書かれているので場所が分かりやすい。因みに灘区のJR六甲道駅敷地の町名,字名は凄いことになっています。一方,東灘区では深江字繁昌通4丁目とか深江字札場通4丁目,深江字栄通4丁目,5丁目など,消滅したと思われた地名が阪神電鉄本線敷地に保存されていたり,嬉しくなります。
[75415] 2010年 6月 28日(月)01:36:17【1】ニジェガロージェッツ さん
まとめレスにて恐縮
[74466] Issie さん
“港”を意味する гавань は havan (通常の転字法では gavan' だけど)。デンマーク語の havn (コペンハーゲン=ケーベンハウン Koebenhavn の havn),ドイツ語の Hafen,そして英語の harbor に通じるのでしょうね。
コペンハーゲンの「ハーゲン」にはそういう意味でしたか! 室谷信雄氏もびっくり?
といっても,関東人のIssieさんに分かるわけないか・・・。
かつての玉葱の産地,泉佐野出身で泉州弁の「わ~れ~」で親しまれた吉本新喜劇の元祖ハゲキャラ。
関西人にとって「コペンハーゲン」で連想するのは室谷信雄,その室谷信雄氏がハゲたのはタマネギの祟り。


[75356] mul-sa さん
三重県伊賀市にある「上野市駅」は、市町村合併に伴って伊賀市になった今も、駅名がそのまま
ロシアや韓国の事例との対比で引き合いに出されたと推察しますが,以前にも[60988]にてドラえもん(当時)さんが話題にされておりました。それに対して,[61010]にて今川焼さんが
昔の市町村名で出ている駅名
として一覧にされていました。ところで,この一覧にある
小野町駅 1954.12.01 小野町→小野市
注釈に「駅名が必ずしも旧市町村名に由来するとは限りません」と書かれているように,これについては,小野町駅(おのまちえき)は合併による小野市誕生(昭和29年)以前の加東郡来住村(きしむら)の地にあり,小野町(おのちょう?,おのまち?)ではありませんから,何だろう。
駅前の大住橋を渡れば神戸電鉄小野駅周辺の旧小野藩の陣屋町だった「小野町」に通じているところから付けられた名か。この「小野町」は昭和43年に本町,本町一丁目,上本町,東本町,西本町に分解され,現在の小野市には存在しない町名です。


[75360] YASU さん
まだ駅名が変わっていなかったのですね。
書店に並んでいる地球の歩き方「A32 シベリア&シベリア鉄道とサハリン 09年~10年版」の発行は2008年11月のことで,ゴーリキー・モスコフスキー駅,スヴェルドロフスク駅については市名は変わったが駅名は古いままであるとする説明がありましたが,今となっては古い情報です。さて,次の改訂で変わっているかどうか。

郊外のウラル山脈中にヨーロッパとアジアの境界のオベリスクがあり、シベリア鉄道乗車時に目を凝らして探しました。山脈という割にはなだらかな丘で、少し残念でした。
地図を見てもウラル山脈でもシベリア鉄道の通るペルミ=エカテリンブルク間は「中ウラル」と呼ばれ,特に急峻な山脈ではなく,丘状の台地になっています。チェリャビンスク辺りの「南ウラル」に至っては現地はまるで平原のようかも。シベリア鉄道のモスクワから1777km地点にあるオベリスク《ヨーロッパ―アジア》の画像を見ても山中という感じがしませんね。大陸はスケールが違います。

なお,ニジェ[75354]
今回は駅名の変更だけで,支局名オクチャブリ(十月),ゴーリキー,スヴェルドロフスクには変更が及んでいない模様。
これはロシア鉄道の支局名であり,地名ではないので,連邦法《地理的対象の名称について》の対象外でしょう。地名ではないので会社が何と呼ぼうが勝手といったところか。


[75411] グリグリ さん
地名コレクション「自治体越えの地名」の編集ご苦労さまです。
小生の地元神戸では,昭和20年5月1日の行政区再編成で湊東区の分割による町名の分断がありました。8年前[2536]に書き込んだ所です。
兵庫区に引き継がれたところは「西」をつけています。下記の5町が分割されましたが,昭和49~55年にかけて新住居表示の実施による町の統合があり,区界を挟んでどちらも現存しているのは2例のみです。

分割前・湊東区分割後・生田区(中央区)/兵庫区の順。▲は現存しない町名を示す
古湊通1-4丁目古湊通1,2丁目/▲西古湊通1,2丁目
中町通1-6丁目中町通1-4丁目(現存2-4丁目)/▲中町西通1,2丁目
多聞通1-8丁目多聞通1-6丁目(現存1-5丁目)西多聞通1,2丁目
橘通1-6丁目橘通1-4丁目西橘通1,2丁目
上橘通1-4丁目▲上橘通1,2丁目/西上橘通1,2丁目

他にも,林田区の廃止によって林田区東尻池村と林田区東尻池町1-10丁目が,兵庫区東尻池村と長田区東尻池町1-10丁目に分かれました。どちらも現存していますが,兵庫区東尻池村については[45136]に記したとおり,ネット地図上での確認は難しいところです。

ところで,この昭和20年の行政区再編成と関連することで,「市区町村プロフィール」にある兵庫区と長田区の「施行日」の間違いについて,5年前の[42913]にて,それとなく
現在ある兵庫区と長田区の基となる行政組織は、1931年9月1日にそれぞれ湊西区と林田区という形で存在したとご理解なされた上で、両区の「施行日」欄に1931.9.1と打ったのだと
書きましたが,実際のグリグリさんの見解はどうでしょうか。


[75412] k-ace さん
北海道総務部行政資料室が1971年に編集した「樺太基本年表」によれば,豊原市誕生5年を迎えた1942(昭和17)年7月1日に豊原にて「第37回奥羽6県,道樺市長会議」が開催されています。何だか面白そうな「市長会議」ですが,北海道市長会の前身のようです。その沿革には
昭和16年10月には樺太豊原市の加入により奥羽六県北海道樺太市長会と改称された。続いて昭和 17年7月に北見市が加入した。
昭和18年に地方行政協議会令の公布により、地方行政協議会が東北と北海道に設置された。このため、同年に開催された第38回奥羽六県北海道樺太市長会で、市長会も奥羽と北海道に分離するよう提案され了承された。
と記されています。

豊原郡と豊原市の消滅年月日はよく分からなかったので“?”を付けたのですが。
よく分からないにもかかわらず,年月を具体的に 1942/11/--? とか,1945/8/--? と書かれたのでは,年月は特定出来たものの日にちだけが分からないと読み取ってしまいます。
私の場合は樺太にはちょっとした「思い入れ」があるので敏感に反応しただけかもしれませんが,ソ連軍による占領が始った1945年8月24日以降の豊原市役所にて,軍政下の困難のもとで業務を続けられた市職員や関係者のことを想えば,とてもではありませんが,軽々に1945/8に豊原市消滅とは言えないです。

因みに,最後の樺太庁長官,大津敏男氏の任期は1943年7月1日から1947年11月17日ですが,1945年12月30日にソ連軍により逮捕され,翌1月25日にハバロフスク刑務所に移送されています。ソ連からの帰国は1950年のことで,何をもって1947年11月17日までを任期としているのか気になるところです。
[75398] 2010年 6月 24日(木)22:23:54ニジェガロージェッツ さん
極東地方の分割
[75395]にて,k-aceさんの書かれた豊原市関連の日付の間違い指摘をしておきながら,私自身の過去記事にも間違った日付を書いていたことに最近気付きました。この場を借りて訂正させていただきます。

ニジェ[9178]にあるサハリン州のデータについてですが,その創設を
1932年9月20日
としてしましたが,正しくは1932年10月20日です。
[9178]を書いた当時,参考にしていたロシアのサイトМой Городサハリン州には1932年9月20日と書かれており,これを鵜呑みにした格好ですが,ロシア側の各種資料を多く当たっていると,どれも10月20日になっており,また同日付で極東地方(当時)の内部にはサハリン州を含めて4州設置されています。

なお,このサハリン州については,もちろん日本領土であった南樺太を含まない,北樺太だけの州です。このサハリン州が,日本から強奪し新設した「南サハリン州」を編入した経緯は前稿[75395]に記しました。ただ,前稿にちょっと触れている,今では別の行政体であるハバロフスク地方との絡みが分かり難いかもしれないので補足しておきます。

小生も永らく疑問に感じていたのが戦前の極東ソ連領の「州」についてであり,今ある「ハバロフスク地方」や「アムール州」などとは全く違っている州割りとなっていました。古い戦前の満州国周辺の地図に,「ウスリー州」とか「ゼーヤ州」など,今の地図では見られない州が多数存在しており,どのような変遷でこれらが今の行政区画になったのかが分かりませんでした。最近になっていろいろな資料を当たっているうちに,ようやくその疑問が以下のように解けてきました。

1929年当時,現在のロシア極東連邦管区の範囲にあったのは,1922年4月27日創設でヤクーツク市を首都とする「ヤクート自治共和国」(参考[9740])と,1926年4月1日創設でハバロフスク市を首都とする「極東地方(ダリネヴォストーチヌイ・クライ)」の2つでした。
今ではオホーツク海に面したハバロフスク地方およびマガダン州と,北極海に面したサハ共和国の境界は,両海の分水嶺よりもかなり北に入り込んでいますが,当時のヤクート自治共和国と極東地方は分水嶺を境界にしていました。また,極東地方には一時極東共和国の首都でもあったチタ市周辺までをも含んでいましたが,1930年7月30日にイルクーツク市を首都とする「東シベリア地方」の新設があり,チタ周辺はそちらに移管されました。

そして1930年12月10日,極東地方に含まれる形で,その北東部に次の3つの民族管区が新設されました。
「オホーツク=エヴェン民族管区」・・首都:ナガエヴォ → オホーツク
「コリャーク民族管区」(参考[9299]
「チュコト民族管区」(参考[9493]

「オホーツク=エヴェン民族管区」は,当初ナガエヴォ村(現在のマガダン市の港湾部分)を首都としていましたが,翌年オホーツク村(現在のハバロフスク地方オホーツク町)に移っています。この時,極東地方とヤクート自治共和国の境界は,現在のハバロフスク地方とサハ共和国の境界の線まで移動しています。

続いて1932年10月20日,極東地方内部に4つの州の設置がありました。
「アムール州」(参考[9125]
「サハリン州」(参考[9178])・・州都アレクサンドロフスク=サハリンスキー市
「カムチャツカ州」(参考[9299])・・既存のコリャーク,チュコト両民族管区が従属
「沿海州」・・州都ウラジオストク市

更に1934年5月7日,極東地方に含まれる形で「ユダヤ自治州」(参考[8825])が設置され,その46日後の1934年6月22日,極東地方内部に4つの州の設置がありました。
「ゼーヤ州」・・州都ルフロヴォ市(現在のアムール州スコヴォロジノ市)
「ハバロフスク州」・・州都ハバロフスク市
「ニジネアムール州」・・州都ニコラエフスク=ナ=アムーレ市
「ウスリー州」・・州都ニコリスク=ウスリースキー市(現在の沿海地方ウスリースク市)

以上,これでもって極東地方の内部は「8州,1自治州,3民族管区」に区分されました。

しかし,それも束の間,「オホーツク=エヴェン民族管区」が1934年9月15日に廃止され,その西部はニジネアムール州に,東部の現在のマガダン州に相当する領域は極東地方直轄地になりました。これには「死のコリマ街道」とも呼ばれた,マガダンに本部を置く「ダリストロイ」と呼ばれる金鉱山開発組織との関連が指摘されています。

その後,1937年9月26日に東シベリアにチタ州[11606]の設置があり,同日,極東地方のゼーヤ州はチタ州に併合され消滅しました。
そして,1938年10月20日に極東地方そのものが廃止となり,北の「ハバロフスク地方」(参考[8720])と,南の「沿海地方」(参考[8619])に2分割されました。
沿海地方には「沿海」と「ウスリー」の2州が含まれ,それ以外の5州,1自治州,2民族管区はハバロフスク地方に引き継がれました。

その後,これらの「小さな州」が相次いで廃止されたり,一方でハバロフスク地方から分離されていきます。
沿海地方では
・1939年6月5日,「沿海州」を廃止
・1943年9月18日,「ウスリー州」を廃止
・1948年,ソヴィエツカヤ・ガヴァニ周辺をハバロフスク地方に移管

ハバロフスク地方では
・1939年5月,「ハバロフスク州」を廃止
・1946年2月2日,日本からの占領地に「南サハリン州」設置[75395]
・1947年1月2日,「サハリン州」に「南サハリン州」を併せ,ハバロフスク地方より分離独立
・1948年,ソヴィエツカヤ・ガヴァニ周辺を沿海地方より編入
・1948年2月,「アムール州」にチタ州内の旧「ゼーヤ州」の領域を併せ,ハバロフスク地方より分離独立
・1953年12月3日,北部直轄地に「マガダン州」[9430]を設置し,カムチャツカ州に属していたチュコト民族管区をマガダン州に移管し,ハバロフスク地方より分離独立
・1956年1月23日,「カムチャツカ州」は「コリャーク民族管区」を併せたまま,ハバロフスク地方より分離独立
・1956年1月23日,「ニジネアムール州」を廃止

大体上記のような経緯で,ソ連末年までの行政区画が完成した訳ですが,一連の流れの中で,州界などの一部には更に細かな変更もあったことを含み置きください。異論,訂正があればお聞かせいただければ幸いです。
なお,当初の「民族管区」という呼称は,1980年に「自治管区」と改称されています。

ソ連解体に前後して以降では,
・1991年,「ユダヤ自治州」がハバロフスク地方より分離独立
・1992年4月27日,「サハ共和国」が共和国宣言
・1992年6月17日,「チュコト自治管区」がマガダン州から分離独立
・2007年7月1日,「カムチャツカ州」と「コリャーク自治管区」が合併し,「カムチャツカ地方」が成立
現在に至っています。
[75395] 2010年 6月 24日(木)00:17:25ニジェガロージェッツ さん
豊原市の誕生と消滅
[75363] 2010 年 6 月 17 日 (木) 00:17:52 k-ace さん
一覧表に樺太・豊原を加えておられるのが嬉しくてたまりません。ただし,誤記はいただけません。
#だれか詳しい人が間違いを指摘してくれるものと期待していましたが,どなたも放置のようですから,のこのこ出てきました。
表形式のまま引用したかったのですが,要点のみ分かりやすくするため表を崩しています。あしからず。

豊原郡 (郡消滅年月日)1942/11/--?
まず,豊原郡の消滅については,当方これを精査する詳しい資料を持ち合わせておらず,断言できません。
豊原郡豊原町が豊原市になった1937年7月1日,同時に(豊原町を失った)豊原郡が北に隣接する栄浜郡と統合して豊栄郡となったとする説明もしばしば散見されますが,同日付の昭和12年樺太庁告示第144号(雪の字さんのサイト「樺太日和」より)には
豊原郡の区域を左の如く改む
とあり,豊原市設置以降も豊原郡が存在していたことを示しています。
この日に「豊原→豊栄」と変更になったのは支庁名であり,前出の昭和12年樺太庁告示第144号の冒頭に
「豊原支庁」を「豊栄支庁」に改む
とあります。
その後1942年11月1日に樺太庁の8支庁が4支庁に再編成され,豊栄支庁は南の大泊支庁と合流し新たに豊原支庁となっています。k-aceさんが豊原郡消滅年月日を 1942/11/--? としておられるのは,この日に合わせてのことでしょうか。

豊原市 (市誕生日)1937/4/1 (市消滅日)1945/8/--?
豊原市の設置(豊原町を廃止し,7月1日から豊原市をおく=1937年6月29日付,昭和12年樺太庁告示第138号)は前述の通り 1937/7/1 の間違いです。落書き帳には今年に入って紅葉橋律乃介さん作成の一覧[74352]にも提示されており,私も以前[4059]に書いていました。

一方,豊原市の消滅が1945年の8月中というのは,少し早すぎます。
ウィキペディアの豊原市のページには,その廃止日を1949年6月1日とし,廃止理由として国家行政組織法の施行のため(領有権の放棄)としていますが,小生は法律に疎いのでここでは置いておきます。

1945年8月以降の現地の状況を追っていくと,豊原にソ連軍の魔の手が及んだのは,樺太各地からの避難民でごった返していた豊原駅前を8月22日15時30分から16時20分にかけて,降伏を示す白旗が各戸に翻っているのを無視して,ソ連軍機Tu-2型6機,Yak-9型3機で非情にも空爆したのに始まります。既に停戦後のことでもあり,翌23日23時にソ連軍の先遣部隊500名が列車で豊原入りし進駐を開始し,24日早朝には鉄道の踏切などに警戒の兵を展開しています。国道を南下した戦車隊が市内に入ったのはこの後のことで,NHK豊原放送局や新聞社,金融機関が接収され,ソ連軍の軍政が始まったのは8月27日のことでした。
(樺太一九四五年夏 金子俊男著 1972年講談社)

では,その時点で豊原が(ソ連側から見ても)ソ連領になっているのかと言えば,それは違います。当然,豊原市も存在しています。
北海道総務部行政資料室が1971年に編集した「樺太基本年表」によれば,「12月6日,南樺太衛戍司令官アリモフ少将,樺太庁,豊原支庁,豊原市役所視察」とあり,そして「1946年2月20日,ソ連,樺太・千島の領有宣言」と書かれています。

一方,ユジノ=サハリンスク市の公式ウエブサイトにИстория города(街の歴史)のページがあり,ここにロシア側の行政の移り変わりが述べられています。
それによれば,
=====
・1946年1月,2月,日本の行政県(ニジェ注:樺太庁のこと),市町村行政機関を廃止
・1946年2月2日,ソ連最高会議幹部会令により南サハリンおよび千島列島の領域にハバロフスク地方に属する南サハリン州を設置し,その州都をトヨハラ市とする
・1946年6月4日,トヨハラ市をユジノ=サハリンスク市に改称する
・1947年1月2日,ソ連最高会議幹部会令により南サハリン州をサハリン州(州都・アレクサンドロフスク=サハリンスキー市)に統合し,サハリン州をハバロフスク地方より除外
・1947年4月18日,サハリン州州都をユジノ=サハリンスク市に移転
=====
と書かれています。
このことから,ロシア側の情報から樺太の現地では,豊原市の廃止は1946年2月ごろ,より具体的には2月2日の南サハリン州の設置に合わせてのことと推察します。

繰り返しますが1945年8月のことではありません。
[75354] 2010年 6月 15日(火)00:51:35ニジェガロージェッツ さん
改称(露鉄の駅名)
わが国のお話ではなく恐縮ですが,自分の投稿した過去記事の内容が,その後変更になっていることでメンテナンスさせていただきます。

ニジェ[73479]
確かにゴーリキー州ゴーリキー市は改称されましたが,鉄道ターミナル駅はゴーリキー・モスコフスキー駅のまま
2009年の大晦日に書いたものですが,その3ヶ月後の2010年3月30日付けで件の駅名は「ニジニノヴゴロド・モスコフスキー駅」に改称されていました。
ロシア連邦政府決定第196号によるものです。
市名の改称から20年近くも経って,何を今更という気がしますが,それがあの国らしいところです。
上記リンク先はロシア連邦政府のサイト内にあるもので,全文ロシア語ですが,鉄道駅名の付与と改称についてのことで,鉄分豊富な諸兄の中には興味を持たれる御仁もおられるかもしれないので,参考まで微力ですが下記に逐語訳しておきます。
(因みに小生は「鉄」ではありません)

-----------------
2010年3月30日付 決定第196号
カレリア共和国における地理的対象への名称付与,およびニジニ・ノヴゴロド,スヴェルドロフスク両州における地理的対象の改称について

連邦法《地理的対象の名称について》に応じて,ロシア連邦政府は以下のように決定する:

公開株式会社《ロシア鉄道》の申し出により,国家登記、台帳および地図作成連邦局の提出に基づき:
a)カレリア共和国領内の公開株式会社《ロシア鉄道》支局,オクチャブリ鉄道のコチコマ=レドモゼロ-2線の14,39,62,83,102および121km地点に開設された鉄道駅に,《チョールヌイ・ポロク》,《クチョゼロ》,《ペトロゼロ》,《ルゴゼロ》,《チクシャ》および《レドモゼロ-2》の各名称を付与する

b)改称:
ニジニ・ノヴゴロド市内に存在する公開株式会社《ロシア鉄道》支局,ゴーリキー鉄道の鉄道駅,ゴーリキー=アフトザヴォードをニジニ・ノヴゴロド=アフトザヴォードに,ゴーリキー=モスコフスキーをニジニ・ノヴゴロド=モスコフスキーに,ゴーリキー=ソルチローヴォチヌイをニジニ・ノヴゴロド=ソルチローヴォチヌイにそれぞれ改称する。
エカテリンブルク市内に存在する公開株式会社《ロシア鉄道》支局,スヴェルドロフスク鉄道の鉄道駅,スヴェルドロフスク=トヴァールヌイをエカテリンブルク=トヴァールヌイに,スヴェルドロフスク=パッサジールスキーをエカテリンブルク=パッサジールスキーに,スヴェルドロフスク=ソルチローヴォチヌイをエカテリンブルク=ソルチローヴォチヌイに改称する

ロシア連邦首相 V・プーチン

#ニジェ注:
アフトザヴォードは自動車工場を表す名詞。また上記の場合,本来は形容詞だがソルチローヴォチヌイは操車場を,トヴァールヌイは貨物駅を,パッサジールスキーは旅客駅を名詞的に表す。

今回は駅名の変更だけで,支局名オクチャブリ(十月),ゴーリキー,スヴェルドロフスクには変更が及んでいない模様。
なんだか・・・


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