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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[88874]2015年10月9日
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[88873]2015年10月9日
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[88852]2015年10月5日
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[88851]2015年10月5日
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[88843]2015年10月1日
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[88837]2015年9月29日
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[88832]2015年9月28日
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[88808]2015年9月20日
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[88806]2015年9月17日
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[88800]2015年9月15日
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[88789]2015年9月13日
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[88788]2015年9月13日
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[88782]2015年9月10日
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[88769]2015年9月8日
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[88762]2015年9月7日
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[88753]2015年9月2日
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[88708]2015年8月26日
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[88707]2015年8月26日
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[88670]2015年8月18日
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[88659]2015年8月16日
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[88648]2015年8月14日
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[88640]2015年8月14日
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[88632]2015年8月12日
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[88614]2015年8月11日
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[88598]2015年8月9日
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[88581]2015年8月6日
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[88552]2015年8月3日
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[88550]2015年8月3日
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[88296]2015年7月25日
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[88280]2015年7月24日
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[88874] 2015年 10月 9日(金)20:02:10【1】hmt さん
東京駅の改札口 (2)東京駅東口から八重洲口へ
東京駅は、大日本帝国の威光を示すように 宮城【注】の正面に作られました。1914年のことです。
そのため、千代田城に面した西側が表で、中央区【35区時代は日本橋区と京橋区】に面した東が裏側になっています。
【注】宮城
江戸城(千代田城)は明治維新後に東京城や皇城になった後、1888年 明治宮殿落成後は「宮城」と呼ばれました。
言わずもがなですが、読みは「きゅうじょう」です。「みやぎ」と読まないでください。
戦後の1948/7/1からは「皇居」と呼ばれるようになっています。

東京駅の所在地は「千代田区丸の内一丁目」ですが、丸の内側の駅前には丸の内二丁目があり、更に鍛冶橋通りの南【新宿に移転する前の都庁所在地】に 丸の内三丁目があります。3つを合わせた「丸の内」の範囲は、西の日比谷通りと東の外堀通りとの間にあり、元々は 千代田城の内壕と外壕とに囲まれた 大名屋敷地帯でした。

明治になってから付けられた町名は、北側が東京府麹町区永楽町、その南が八重洲町で、東京府庁・東京市役所の所在地は有楽町の一部でした。
その後東京市麹町区時代の1929年に「丸ノ内」になりました。現在は「丸の内」です。千代田区 町名由来板

丸の内二丁目の昔の町名が「麹町区八重洲町」だったと聞くと、現在の東京駅八重洲口前にある「中央区八重洲」との関係が気になります。
「八重洲」という地名が、東京駅を挟んで北東に約1km離れた、別の区に引っ越してしまったのは何故か?

実はこの件、[35062]でちょっと触れたのですが【北東を北西と誤記】、八重洲口を記す機会に 新たな材料を加えて再論します。

中央区の町名由来にあるように、ヤン・ヨーステンの邸は内壕沿い【千代田区】でした。では、外壕沿い【中央区】に「八重洲」という地名が生まれた「きっかけ」は?

それは、明治17年に外壕に架けられた 初代 八重洲橋 でした。
日本橋・京橋の市街地から、内壕沿い丸の内にある「麹町区八重洲町」に行くための橋という意味だったのですね。
日本橋から出発して京都に通じる東海道の最初の橋は「京橋」、次の橋は芝への入り口なので「芝口橋」【後に新橋[74436]】と命名されていました。八重洲という地名を内壕から外壕に移動させた そもそもの原因は、行先の地名を付ける流儀で命名された橋の名だったのでした。

それはさておき、明治の中央停車場計画には裏口がなく、駅の東側は車両基地として使われることになりました。
こうなると、八重洲橋は撤去して部外者の立ち入りを防ぐ方がよい。…当局はそう考えたのでしょう。
人文社の資料により明治の地図を調べると、『明治41年調査 麹町区全図』に描かれていた【初代】八重洲橋は、明治45年の『最新番地入り 東京市全図』では消えています。

外壕沿いの八重洲【麹町区・日本橋区・京橋区の境界地帯】が動き出すのは、関東大震災後の復興事業です。
日本橋区と京橋区の境界に広い八重洲通が作られ、外壕には面目を一新した【2代目】八重洲橋が新設されて、日本橋・京橋と東京駅とを直結することになりました。

東京駅南側の乗車通路から 長い木造跨線橋を仮設して 「東京駅東口」が開設されたのは1929/12/16でした。
もっとも、東口で発売する切符は電車区間のみというローカル駅で、いわば東京駅開業前に存在した呉服橋駅[35062]復活の形ですから、今日の姿とは比べものになりません。
東口跨線橋は 1939年から北口通路接続に変更された後も仮設の木造で、1952年まで使用されました。

「東京駅東口」という名は、牛込に住んでいた頃[41218]に 青バスの行先表示で覚えた記憶があります。
1952年に大学生として上京した時には、既に「八重洲口」の名が使われていたように記憶していました。
しかし、鉄道歴史地図 都電土橋線を用いて 駅前の停留所名を調べたら、1952年までは東京駅東口で、1953年から東京駅八重洲口となっていました。

戦後になると、戦災瓦礫処理により呉服橋の外壕が埋め立てられ、1951年に戦後初の高層ビルである第一鉄鋼ビルが完成するなど、新たな動きが出てきました。
それより前、1948年には東京駅八重洲口新駅舎ができて、木造2階建ながら好評を得たいたのですが、失火により半年で焼失しています。

1952年は鉄道創業80周年で、その記念事業として 高層ビルによる八重洲口新駅舎が推進されることになりました。
百尺という高さ制限の存在した時代ですが、規制緩和を見越して計画されたのが 地上12階の鉄道会館です。
1954年に6階までが完成し、上層階には大丸百貨店などが入居しました。
駅施設と民間施設とが同居する民衆駅の「はしり」になりました。
第2期工事で12階になったのは1966年です。
このビルは、八重洲口の再開発に伴って2008年に解体されました。
[88873] 2015年 10月 9日(金)19:47:15hmt さん
東京駅の改札口 (1)百年前、開業間もない頃の東京駅に入る改札口の数はいくつ?
[88863] にまん さん
東京駅の改札口ですが、在来線があと4つあります。
ということは、合計で改札口が24か所、はっきり言って迷路ですね。

JR東海の東京駅構内図には番号が付けられているので、このシリーズでは、この番号を利用します。
1番から23番まで。一つ少ないので調べたら、銀の鈴広場に通じる「八重洲地下中央口」が落ちていました。
専門家でも見落とすくらいの複雑さなのでした。

JR東日本サイトの全体図でも地下中央通路一帯が隠れていますが、地下一階平面図には示されています。

24ヶ所には新幹線乗換口6ヶ所含まれます。在来線と東海道新幹線の間が中央の7番と南の9番、東北新幹線と東海道新幹線の間が6番と8番、在来線と東北新幹線の間が11番と12番です。従って改札口は18ヶ所。内訳は在来線改札が12【13~24番】、東海道新幹線改札5【1~5番】、東北新幹線改札1【10番】。
改札で分離された3種類の鉄道の複合駅であり、在来線も地上駅に加えて地下駅と京葉線があるため複雑さを増しています。

ここで 100年前、開業(1914/12/20)間もない頃の東京駅に思いを馳せます。
中央停車場という名で準備が進められていたこの駅の名が、正式に「東京」になったのは開業直前の大正3年12月5日で、開業式典は「京浜線」と呼ばれた電車線[39140]の開業を兼ねて 12/18に約1500人の招待者を相手に行なわれました。
つまり、新たに東海道本線の起点になった東京駅に乗り入れていた鉄道路線は、蒸気機関車牽引の本線列車の他に、電車線を使った京浜線電車と品川から乗り入れていた山手線電車があるだけでした。

これら3路線の乗客が入場した改札口は何箇所設けられていたのでしょうか?
驚くことに1ヶ所だけです。その名もズバリ「乗車口」。現在の「丸の内南口」です。

東京駅構内は、一方通行の動線で設計されていたのでした。対応する「降車口」が今の「丸の内北口」。
皇室用や郵便用・手荷物用は別として、改札口はこの2つだけ? と思ったら、「電車降車口」がありました。
2~3両の編成だった電車ホームは短いので 降車口通路に届かず、中央の皇室口の北側に電車降車口を設け、1919年からは乗降兼用の「電車口」になったとか。
戦後の1948年には、現在のように いずれの改札口からも乗降できるようになりましたが、「乗車口」・「降車口」という名は 1959年まで使われ続けたので、学生時代には馴染んでいました。

次は、新幹線の時代になってから東京駅の表のような顔になった八重洲口の来歴を探ります。
[88852] 2015年 10月 5日(月)18:06:40hmt さん
「~改札」と「~口」との使い分け
[88850] グリグリ さん
新橋駅の改札口名称です。正式には烏森改札、汐留改札、銀座改札、日比谷改札です。

5年前に[74436]を書いた当時の駅構内図では烏森口、汐留口、銀座口、日比谷口となっていたので、次のように記しました。
「新橋駅○○口」というのは、駅構内への出入口ではなく、改札口の名として使われており、自由通路に面した南側唯一の地上改札口が「烏森口」で、「汐留口」は1976年 横須賀線の地下移設時にできた東側の地下改札口でした。

同じURLを参照したのですが、その後「~口」から「~改札」へと呼び名が変ったようです。

新橋駅烏森口を出て、自由通路を西の烏森方面に出ても、東の汐留方面に出ても「新橋烏森口駅前」?
そんなバカな。 やはり、この表記はおかしいのかもしれません。

こんな「つぶやき」がJRに届いたのか、「南側自由通路の西側が烏森口、東側が汐留口……と思っていた」人が多数いたせいなのか、南側の改札口は「烏森改札」という名称に改められ、「~改札」と「~口」とを使い分けることにしたものと推察します。

「~口の改札を出たところ」と言うように指定しないと、改札付近なのか駅構内出口付近なのか紛らわしい

汐留改札と言えば地下、汐留口と言えば烏森口を出て東に出た地上。待ち合わせするなら、きちんと指定しないと…

新橋駅よりも複雑な上野駅でも「~改札」と「~口」とを使い分けているようです。
上野駅は、中央改札、不忍改札、公園改札、入谷改札の4か所でちょっと惜しい

上野駅構内図を見ると、「~改札」は4ヶ所でも、「~口」は9ヶ所?あるようです。
中央改札に通じるのが正面玄関口と左右の広小路口・浅草口、更に東上野口。不忍改札に通じるのが山下口と不忍口。マピオンには西郷口というのも記されていました。公園改札の前には公園口。入谷改札の近くにはパンダ橋口があり、それと別に 長~い 入谷通路を隔てて入谷口。
[88851] 2015年 10月 5日(月)16:06:17hmt さん
時刻表
[88848] グリグリ さん
Googleロゴが、時刻表発行121周年を記念した仮想の時刻表画像になっています。

鉄道時刻表そのものは、もちろん明治5年の開業時から存在しました。[80065]汽車運転之時限並賃金表
冊子形式としては、1889/7/1の東海道本線全通の翌月、明治22年8月に大阪の忠雅堂が刊行した 日本全国汽車時間表 があります。
今日121周年を迎えたのは、月刊時刻表の元祖『汽車汽船旅行案内』(庚寅新誌社)です。[23129]

『汽車汽船旅行案内』は大正4年(1915)に庚寅新誌社・交益社・博文館3社の合同事業となり、創刊号は前身の号数を引き継いだ第244号から始まりました。筑波山オフ会のページを開き、オフ会企画の中の『公認汽車汽船旅行案内』の部分をクリックすると、3社を象徴する三本松の新しい表紙【245号】の画像が出ます。

時刻表と言えば思い出すのが 中央公論社の編集者というよりも退職後の鉄道エッセイの分野で知られた宮脇俊三さん[88004]です。
『時刻表昭和史』の中で父が愛用していたポケット版時間表の表紙にも触れています。
私の記憶にある最初の「時間表」の表紙には、そんな色刷りの絵が載っていた。護岸も路盤もなく、自然のままのやわらかい砂の上を汽車が走っているように見えるのはおかしいが、旅心をそそる絵ではある。

付言すると、小学生だった宮脇さん本人は 丹那トンネル開通を機に 母にせがんで自分用を買ってもらいました。
それはポケット版ではなく、現在のJTB時刻表の前身である『鉄道省編纂・汽車時間表』【1925年創刊】でした。
絵本のように大きな時刻表であった。こんな立派な「汽車の時間表」があったのかと私は思った。算用数字で組まれ、左開きであることも、父のよりよほど上等な時刻表に見えた。【時刻表昭和史】

ところで、Googleロゴとして使われた仮想時刻表画像。
NAVERまとめ を見たら、画像クリックで拡大できるようになっていました。
参考までに駅名を列挙 足柄山 しょうじょう寺 かっぱ石 稲穂? かちかち山 ある山里 鬼ヶ島 竜宮城 丹後の国 大江山 八郎潟 イーハトーブ 月の都

列車名は特急ぶんぶく2号に始まり、かめ(6号 12号)うさぎ(14 16 18号)まで。
色分けは列車種別ではなく、GOOGLEの文字になっています。

足柄山から月の都まで「かめ」の所要時間約2時間に対して「うさぎ」は約1時間半と俊足で、かめ12号の後で発車した うさぎ14号が月の都に先着。これは順当です。
ところが、月の都から先、終着駅の隠れ里までの所要時間を見ると、面白いことに気がつきます。
かめ12号は2h20mと、特急に劣らないスピードを出しているのに、うさぎ14号は3時間近くを要しています。
自分の俊足におごった うさぎ14号は、どこかで40分も停車し、かめ12号より30分も遅れて終着駅に到着。
ちゃんと物語の筋書き通りの結末になっていました。
[88843] 2015年 10月 1日(木)18:52:30hmt さん
城南五山
[88842] グリグリ さん
御殿山にも繋がる台地と言うことでググってみたところ、こんなページが見つかりました。

リンクされたのは 品川区の御殿山台地の箇所です。徳川将軍家の御殿があったと言われるのは 北品川3丁目付近で、昔は品川の海を望む景勝地だったようです。しかし、品川台場造成に際して山が崩されて地形が変り[80264]、更に東京港の工事があって 現在の海は更に遠ざかっています。

品川区の地盤図を見ると、上方桃色の淀橋台に、高輪台・白金台などの駅名が見え、台地コレクションに収録されている 淀橋台地・高輪台地・白金台地 に対応することがわかります。

淀橋台南側の緑色は目黒川の谷で、山手線は目黒までこの低地を走ります。
港区・品川区の境界線、つまり1932年までの東京市と荏原郡との境界線は、これよりも少し台地側にずれています。
ここには、南東から御殿山・八ツ山・島津山・池田山・花房山、総称して「城南五山」という地名があります。
明治時代に存在した島津邸・池田邸・花房邸が地名の由来。
城南五山の探訪ルートは、東京凸凹地形案内 に紹介されています。

ついでに、御殿山に関する疑問点を一つ
[88842]のリンクと同じページの下の方には、港区の御殿山台地も記されていました。
「柘榴坂は御殿山台地の南東部分にあたる高輪台を東から上る坂」と書いてあり、島津山の北に別の御殿山台地がある地図が示されています。どうやら、高輪警察署付近を指しているようですが、その存在は不詳。
地図を見ると文久元年に英国公使のオールコックが襲撃された東禅寺が近くにあります。
翌年の御殿山英国公使館焼き討ち事件と混乱しているのかもしれません。

こちらのページに、この付近の台地と低地の地勢が描かれています(どこまでが独自名称なのかはっきりしませんが)。

品川・大井・入新井 の地形ですね。
台地名は、御殿山台地・三ツ木台地・広町台地・戸越台地・大井台地・山王台地・西大井台地・馬込台地で
低地・台地名は独自に付けた。
と書いてあるので、[88840]で採用していただいた荏原台の山王台地も独自名称になりそうです。

まあ地名というのは、こんな具合に必要に応じて独自名称が付けられ、不適切なものでなく、追随者が多くなれば定着する。そういう性格のものかもしれません。
[88837] 2015年 9月 29日(火)11:57:36hmt さん
山王台地・星が岡
[88830] EMM さん
国会議事堂の西側に山王日枝神社がありますが、この日枝神社がある付近の高台のことを「山王台地」または「星が岡」というようです。

「星が岡」という名は、古き東京の名所として記憶に残されていました。
明治時代の政界人・財界人の社交場となった「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)。元々は 日枝山王社の境内地であり、街の明かりで東京の星空が失われてしまう前には、小高い岡の上から星空の美しい景勝地だったのでしょう。

明治10年代後半の社交場というと 政府が作った洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)[49243] が知られていますが、同じ頃に三井などの民間資本で作られた和風の高級サロンが 星岡茶寮でした。

鹿鳴館は西洋式のパーティーや社交ダンスを通じて外国要人に文明化した日本の姿を伝え、条約改正[54388][62517]を実現しようという狙いでしたが、星岡茶寮の方は、国内の要人が「赤坂の料亭で 飲みながら 腹を割って話し合う」という伝統的な交渉の場として使われたものと思われます。

デジタル標高地形図を見ると、鹿鳴館の位置は千代田城の南・現在の日比谷公園東側で 内幸町と記されています。
一方、星岡茶寮のあった山王台地は お城の西側の麹町台地が 南に続く先端で、日枝神社の文字が読めます。
内幸町の鹿鳴館と星ヶ岡との距離は、東西に1.5kmほどでしょうか。

山王台地の下は濃い緑色になっています。元々この地にあった溜池は 東に流れる汐留川の水源でしたが、明治10年に干上がって湿地化し、後に埋め立てられました[33199]。東京高速鉄道(後の銀座線)は このような過去を持つ土地の地下を 戦前(1938)から通っていましたが、溜池付近には 60年近くも 駅がありませんでした。
1997年南北線延伸によって、銀座線と交差するこの地に 開設された駅の名は、溜池低地側の港区と 山王台地側の千代田区と 双方の顔を立てた「溜池山王駅」になりました。

星岡茶寮に戻ると、関東大震災後の北大路魯山人による料亭を経て 1945年に空襲で焼失しました。
戦後は五島慶太による東京ヒルトンホテルが作られ、ホテル内に「スターヒルズ」というレストランがあったように記憶します。
そのホテルも老朽化し、21世紀になってから建て替えられました。[88830]の写真6。

キャピトル東急内の 中国料理「星ヶ岡」 は、この地を記憶する名を 今に伝えていました。

参考までに、大森駅前にも 日枝神社 があり、その付近も 山王台地 と呼ばれるようです。
[88832] 2015年 9月 28日(月)16:28:38【1】hmt さん
日を数える
第2次安倍内閣発足からの在任期間が 9/21に 1000日 になったニュースが報じられました。毎日2015/9/21
一覧表から拾い出してみたら、明治18年(1885)の内閣制度発足以来130年、96代の内閣のうち 1000日を越えた内閣は 戦前・戦中の60年間にも5回しかありませんでした。第1次桂、第2次伊藤、第2次桂、原、東條の各内閣。
そして、戦後70年にも 第3次吉田、第2次池田、第2次佐藤と3回だけ。
【以下修正】
今回の第2次安倍内閣は、戦後4代目で戦前からの通算でも僅か9代目という長寿内閣でした。
…と続けたら、「現在は第3次安倍内閣」とのご指摘[88833]を受けました。
リンクした一覧表をよく見たら、現在の内閣を含まない歴代内閣であることに気がつきました。
問題にされた1文は、主語に誤りがあったことを認め、これを削除します。
【修正終】

この数字は 日本の内閣が いかに短命であるかを示していますが、数え方にも問題があります。
小泉内閣のように連続している内閣は、通算した方がよいでしょう。
このように改められた、戦後長寿内閣の順番。
佐藤(1-3次)2798日、吉田(2-5次)2248日、小泉(1-3次)1980日、中曽根(1-3次)1806日、池田(1-3次)1575日。

現内閣は 戦後6位の現状から 更なる長期政権を狙っています。
連続しない第1次安倍内閣を加算しても、今のところ順位は変りません。

こんな政局をよそ目に、私的な日数を数えていたのが 楽隠居の hmtです。
地名の山田が話題になった機会に 筑豊の山田市に目を向け、その人口減少に注目しつつ「三万」と題した記事で 誕生30000日という私的な情報に言及してしまいました。

落書き帳の中で お祝いの言葉をいただくことになり、恐縮しつつ御礼申し上げます。関係記事

グリグリさんのプレゼント 私の記念日 を見て思い出したこと。
50年前の新婚時代、妻の生誕10000日を祝ったことがあります。自分の記念日は過ぎていました。
PCのなかった当時のこととて もちろんエクセルの日付関数を使うこともなく、手計算で日付を求めたのでした。
[88808] 2015年 9月 20日(日)15:20:24hmt さん
Re:御所市・葛城市・河南町・千早赤阪村
[88007] グリグリ さん
確認後の【国土地理院】回答が楽しみになりました。

大和葛城山北方の4市町村境界隣接関係で、地図の違いを最初に示したのは、[87834] N さん の記事だったでしょうか。
【千早赤阪村と葛城市は】Google MapやMapion、Yahoo地図では明らかに隣接していないのですが、地理院地図やMapFanでは隣接しているように見えます。

2系統の情報源があるように思われましたが、[88616]によると 前者グループの旗頭と思われる ゼンリンの「いつもNAVI」では、ズームによる相違があるとのこと。これは意外。
マピオンからの返信はゼンリンに丸投げでした。

2万5千の地形図を元に進化した 地理院地図と、1500分の1?の市内住宅案内地図から出発した ゼンリンとの違い?
その後、自治体からの回答[88690][88748]もありましたが、独自の情報は得られず。

ズーム13の根拠はゼンリンに聞きたいところです。ゼンリンの得意分野とも思われない山岳地帯の独自調査?
私としては、国土地理院から最終的に責任の持てる見解が得られるものと期待しています。
国土地理院は、境界未定箇所については境界線をあえて表示することなく処理するなど【注】、責任ある態度を取っています。


【注】
大和葛城山北方から離れますが、よく似た高千穂峰西方の 4市町【都城市・高原町・小林市・霧島市】境界の事例を示します。
[87838] グリグリ さん には、Google Map, Mapion, Yahoo!地図, 地理院地図, MapFan がリンクされています。

高千穂峰付近は 都城市と高原町との境界の一部が未定で【面積調の a】、地理院地図【リンクが間違っていたので貼り直し】には これが示されています。

しかし、他の地図では 高千穂峰の南側に 都城市と高原町との境界線が記載されています。
Yahoo!地図 や Google Mapでは、高千穂峰付近の登山道がごく一部しか記載されていないなど、地図による違いは かなりあります。
更に細かく見ると、Google Mapでは 宮崎県高原町と鹿児島県霧島市との境界にある短い県境線【高千穂峰と お鉢 の中央】が脱落していることにも気がつきました。
[88806] 2015年 9月 17日(木)18:55:42【2】hmt さん
国勢調査デビュー人口が3万人未満だった 34市
[88803] 白桃 さん
「三万」[88800]にお付き合いいただき ありがとうございます。
国勢調査人口3万未満を記録した市の 7パターン を拝見しました。

最初に、[88805]の訂正に加えて もう1ヶ所。パターンF:枕崎型の次に、またパターンF…。
「パターンG:羽咋型・・・ず~と十両暮らし」なんでしょうね。

さて、この羽咋型の12市とパターンB:石垣型の20市。それに安芸市と中津市を加えた 34もの市が、3万人未満の人口で国勢調査デビューをしていることに驚きました。
3万人のハードルをクリアして誕生したはずの「市」なのに何故? といのが一応の疑問です。

事前の適格審査に使われた国勢調査は、市になった後の国勢調査デビューより1回前であるのが普通だから、人口停滞又は減少傾向にある時にギリギリで3万を確保した後に市になれば 不思議な現象ではないわけです。
この予想を確かめるために、代表例として半世紀以上も十両生活を続けた羽咋市を調べてみました。

事前の 1955年国勢調査における 2町2村合計人口は 30045と ギリギリで適格審査セーフでした。
1958/7/1 羽咋市誕生市後の国勢調査デビューは1960年で、29556人と十両デビュー。
“なっちゃったもの勝ち”[584]なので、市としてデビューした時に3万を越えていたかどうかは、一応無関係ということなのでした。
G組は平成合併10市も 同様な理由でしょう。この時間差が十両デビューを生む原因の一つなんですね。

羽咋市に続いて十両生活が長いのは 1970/12/1誕生のえびの市。これは単独市制ですが、1970年国勢調査において 既に3万を割っていました。
適格審査はそれよりも前の1965年国勢調査で行なわれたのでしょう。この時の合併前3町の合計人口は 33101人ですから 悠々とパス。市になる前後10年間における人口減のため、えびの市の国勢調査デビュー人口は 27241人にまで減っていたのでした。

しかし、パターンB:石垣型【幕内に昇進】では事情が違い、十両デビューの原因も違うようです。
何よりも歴史の古い市が並んでいます。鳥取 尾道 丸亀 は明治、福山 大垣 上田 は大正、海南 飯田 熱海 舞鶴 七尾 館山 洲本 柏崎 多治見 は昭和戦前。
20市のうち、鳥取市から相生市【戦時中】までの 16市は法律「市制」の時代に誕生した市でした。

鳥取市は市制町村制施行により「町村」を経ないで市になった最古参です。「市制町村制理由」 に記されたように、「人口凡二万五千以上の【狭い】市街地」だけを「市制施行地」とする制度でした。
その後、内務省による「人口5万人以上」などの内規はあったようですが、法律上の規定はありません。[75438]
1947年、現行憲法と共に制定された地方自治法第八条により、市となるべき要件として「人口三万以上」が規定されました。[88800]では書き落していますが、これが「人口五万以上」に改められたのは 1954年です。

日本の南西端に近い八重山列島。石垣島に市が生まれたのは 1947/7/10 でした。言うまでもなく 昭和22年という言葉が通用しない米軍占領下ですから、これも地方自治法の人口三万要件とは無関係でした。
国勢調査記録には 1950年 19872人でデビューしています。琉球政府公報27号 4/5コマ
余談ですが、この表の中には 日本に返還される前の奄美 が含まれていることにもご注目ください。

なお、1964年に八重山郡大浜町を編入した石垣市は 1965年国勢調査では4万人台で幕内入り。
1972年日本復帰後の国勢調査では3万人台も記録していますが、1985年以降は4万人台を維持しています。
[88800] 2015年 9月 15日(火)18:45:16hmt さん
三万
一時期、石炭産業などに支えられて「市」になったものの、社会構造の変化により人口が減少した「市」に関する話題が出ています。[88789][88790]
その際の重要な指標になる数字が、「人口 30000人」です。

地方自治法第八条第1項は「市となるべき普通地方公共団体は、左に掲げる要件を具えていなければならない。」として、4要件【2~4号省略】を示しています。
一  人口五万以上を有すること。

それなのに、何故「人口 30000人」が指標になるのか?

言うまでもないことですが、(旧)合併特例法時代から 合併新法にかけ 2010/3/31まで継続していた「三万市特例」[40463]によって多くの「市」が誕生した。その既存事実があるからですね。

市になるための人口要件。この変化を時系列により詳細にまとめた むっくん さん の記事は、hmtマガジン 市と町の違い に収録されています。
なお、省略した4号に関連する都道府県条例については、アーカイブズ があります。

「三万」については、 祝!30000番記念地名編 という じゃごたろ さん の記事があります。
ここで紹介されている「三万谷」は、戦国大名・朝倉氏が本拠とした越前国一乗谷のある 足羽川流域で、「一乗谷」の上流側に隣接する左岸支谷です。越美北線「三万谷トンネル」は、この2つの支谷を隔てる山地を貫く形です。地理院地図

余談:歴史地名として有名な「一乗谷」は、現代の住所地名は「城戸(きど)ノ内町」となっていました。朝倉氏の栄光だけでなく、地名も消滅しているようです。
そう言えば、織田信長に滅ぼされた「一乗谷」だけでなく、織田軍団の中で越前の覇者となった柴田勝家の「北ノ庄」も、江戸時代になると「福井」[64833]に改められ、消滅地名になったのでした。

「三万」地名に戻ります。
前記[30003]の地名表記が 地名コレクションで 平成合併後の表記に改められているのはよいのですが、秋田県男鹿市「払戸三万場」は、Mapionにあるように「払戸三萬場」なのではないでしょうか。すぐ近くには 「福川三萬把」 という地名もあります。

ここで、グリグリさんへのお願いを一つ。
アーカイブズが原則として編集を中止していることは承知しているのですが、グリグリさん提案によるもの でもあり、特別に [30000][30008][30021][30025]などを追加していただけないでしょうか。
特に[30025]は、「全国の市・十番勝負」のきっかけが 落書き帳30000番台突破記念 であったことを示しており、歴史的価値があると思います。

この記事の「落ち」をつけておきます。
実は、hmt誕生30000日の記念書き込みだったのでした。次の目標は 40000日? そりゃ無理だ。
[88789] 2015年 9月 13日(日)13:58:14hmt さん
Re:「山田」考 
[88785] グリグリ さん
「山田」に関する変遷情報検索につき、各種の一覧を挙げていただき有り難うございます。特に
全国の山田郡の一覧

検索文字を入力する部分は単に「自治体名検索」となっていますが、それより前に記された「検索対象」の項目では「自治体名欄」「変更対象自治体名/変更内容欄」「郡名欄」が示されており、「郡名欄」にチェックを入れるように設計されていたのですね。この点を見落としていました。

福岡県山田市の後継・嘉麻市には(中略)上山田と下山田の住所表示(大字?)が残っています。

以下、筑豊の山田 に関する 栄枯盛衰の記録です。

[88764]にリンクされている “「山田」の変遷情報検索結果” を見ると、1889年に成立した「嘉麻郡熊田村」は廃置分合のないまま1955年に「山田市」になっています。
その後も僅かな編入だけで2006年の平成合併に至っていますから、YT さん [84549]で紹介された力作 「市区町村別人口 Ver. 0.10」を見れば、「筑豊の山田の栄枯盛衰」を人口から知ることができます。

1889年の町村制施行時に嘉麻郡上山田村・下山田村・熊ヶ畑村の3村が合併し、合成村名の「熊田村」となる。
1896年穂波郡との統合で郡名が「嘉穂郡」に変る。1898年末の日本帝国人口統計 1999人。YT人口表【このように略記します】No.19375
この時代は筑豊炭田や若松港への石炭積出用の鉄道の発展期であり、筑豊鉄道は九州鉄道への合併後の1901年には 上山田まで延伸されました。
上山田駅の隣には下山田駅もありました。いずれも現存しませんが、山田駅[88786]の仲間です。

九州鉄道[61266] 国有化後20年ほどは 上山田が 筑豊本線 の終点でした。
1929年に原田(はるだ)まで全通した線が筑豊本線になると、飯塚-上山田間は「上山田線」になりました。

時代も目的も違いますが ついでに書いてしまうと、1988年 JR九州の手で全線廃止された上山田線には 上山田-豊前川崎という区間もありました。これは筑豊の石炭を若松港でなく苅田港に輸送する計画で作られた鉄道です。
しかし、1966年という開業時には 既に筑豊炭田が衰退し、時代遅れになった鉄道が本来の目的に使われる機会はありませんでした。

石炭産業に活気があった時代に戻ります。1908年末 3535人、1913年末 8724人、1920年の国勢調査では 15569人という 熊田村の人口増加ぶりは 炭坑の発展を物語っており、熊田町(1924)を経て 1925年に嘉穂郡「山田町」として「山田」が復活した年の国勢調査は 16143人【YT人口表 No.19373】。1940年には戦前最高の 31986人。

戦後の石炭増産時代、1950年山田町の国勢調査人口は 36379人。1954年の単独市制で「山田市」になりました。
しかし、山田市になってからの人口は 1960年には辛うじて市の体面を保つ 30140人【YT人口表 No.19230】だったものの、10年後には半減。2000年国勢調査では歌志内市に次ぐワースト2の 11686人に転落しました。
宮脇俊三さん[88004]が中央公論社の現役編集者であった1975年に、『時刻表2万キロ』の旅で乗車した第3章にも、次のように記されていました。
車内は淋しすぎるほど空いている。山田市は炭坑都市であるが、いまは人口が1万5千に減ってしまい、市制返上の話もあるという。

2006年の平成合併では 稲築町【YT人口表 No.19398, やはり1950年に最大人口44514人を記録し、2000年は19823人】などとの合併により市の体面をやっと保つ形になりました。
しかし、合併の結果 市名については 「山田」から 変わらざるを得ないことになりました。
その名は、1896年統合前にこの地域の郡名であった「嘉麻」の復活でした。嘉麻市の 2010年人口 42589人【YT人口表 No.19252】。
[88788] 2015年 9月 13日(日)11:51:29hmt さん
堺の住所、「丁目」はなく「丁」
[88747] _ さん
60年近く前のことです。新卒の私は 堺の会社に就職することになり、荷物の送り先として会社から連絡された住所を見て、「目がない」ので 驚きました。
新任の日経支局長と同じような経験の記憶が、今回の記事によって甦りました。

この落書き帳では、アーカイブズ ちょっと変わった町名の雑学 に紹介されている 堺市のサイトを知りました。
リンク先のURLが変っているので、現在のページ を付けておきます。
堺市役所に取材した日経記事にも、ほぼ同じ内容が記されています。

最後に、hmt 過去記事集です。 
[88782] 2015年 9月 10日(木)18:23:06hmt さん
「山田」という地名
[88764] グリグリ さん 47都道府県すべてに存在する地名 「山田」
現自治体は岩手県の山田町のみです。

JR東日本による山田線復旧後の三陸鉄道移管については 既に関連記事[86828][87385][88294]がありました。

それはさておき、グリグリ さん による今回の調査のリストで、消滅前自治体の列を見て驚きました。
かつて山田町また山田村であった地域のうち、県内の少なくとも一つの自治体では 「山田」の地名が現代でも住所地名として残されているのですね。例外は香川県など3県のみ。

地形と土地利用の代表例を組み合わせた「山田」という地名は、考えてみれば 地名の王道でした。
市町村名の文字頻度分析でも上位を占めています。
日本中に溢れていた地名だから残ったのだ。そのような解釈もできますが、昔から馴染んだ地名が失なわれつつある現在、これはやはり「類まれな結果」なのでしょう。

しかし、かつて「山田」を代表した地名であった三重県宇治山田市[79347]の後継自治体・伊勢市には、近鉄の宇治山田駅があるものの、「山田という町名」は見当らないようです。
もっとも、[32564]グリグリさんによると、「山田」という名の自治体は 昔から存在しなかったようですが…

福岡県山田市の後継・嘉麻市には山田庁舎の所在地「上山田」などの町名がありました。
しかし、機械化した農作業に適さない「山田」が現実に失われつつあるのと並行して、地名の「山田」も多くは失われてゆくのでしょう。残念です。

三重県と言えば、かつて 山田郡山田村 もありました。
そこで、本題の「47都道府県すべてに存在する地名」からは離れるのですが、市区町村変遷情報に登場する全国の「山田郡」を検索してみようと思いました。しかし、「変遷情報検索」では うまく検索できないようです。

群馬県山田郡は 平成合併で消滅するまで 長い間存続していました。
三重県山田郡香川県山田郡とは、明治期の郡統合で消滅しました。

しかし、冒頭で例外3県とした香川県にしても、昭和合併により「山田」の名は 町名で復活しており、その自治体名が消滅した後も 高松市山田支所山田中学校などに使われています。

yamadaさん ご無沙汰ですね。地名での登場を機会に 落書き帳に書き込んで、こんな色 のタイトルバーを また見せてくださいな。
[88769] 2015年 9月 8日(火)15:27:07hmt さん
1976年に撮影された小幌駅付近のカラー空中写真
[88742] 山野 さん
Wikipediaによると、開業当時(戦時中の1943年)には民家もあり、小幌海岸海水浴場の利用客もいたとのこと
…というのがあるけど、此の当時の画像なんてのは残っているんでしょうか?

「開業当時に民家があった」ことについて、現在のWikipediaは 2015/8/14の朝日デジタル記事を出典として示しています。
既に[88766] k-ace さん のレスに紹介されていますが、そこには「【豊浦】町によると、70年代半ばごろまでに海辺の集落が消滅し」と記されています。この出典の日付8/14は 7/25に記された[88294][88296][88297]よりも後であり、当時のWikipediaには出典が示されていなかったように思われます。

それはさておき、ご質問の趣旨は当時(約40~70年前)の画像の存在です。
国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で小幌駅付近を見ると、周辺も含めて70件の画像がヒットし、小幌駅開業の翌年である1944年撮影の写真もあります。しかし、閲覧すると大部分の写真は不鮮明です。
最も鮮明であると思われた写真は1976/10/28に撮影されたカラー写真(CHO7612- C6A-31)でした。まさに海岸の集落が消滅した頃。
幸いなことに、この空中写真は Wikipediaにリンクされているので、アクセスも容易です。

山の間に挟まれた駅前には青屋根の駅舎らしい建物等が見え、海岸近くにも青屋根が2棟あります。海岸にあった民家【の残り?】でしょうか。海岸は小さいながらも砂浜らしく、これが海水浴場でしょう。
この海岸と駅との間だけは、樹木が茂っていない空間になっています。

[88294] k-ace さん によると、2011年訪問時に「獣道を歩いて海岸に行くと」と記されています。
この35年間に生い茂った樹木によって 駅前と海岸の間にあった空間も 周辺と同じような森になり、秘境駅訪問者だけが通る「獣道」状態に変化したのだと思います。
[88762] 2015年 9月 7日(月)14:52:46hmt さん
八幡製鉄 と ビハリ・ボース直伝のインドカリー
[88759] 白桃 さん
北九州市成立前から、当地の製鉄業に翳りが見え始めていたのでしょうか?

八幡製鉄所の歴史を見ると、1959年(S34)からの第三次合理化では、戸畑地区での能力増強、八幡地区での高炉集約に加えて、堺・君津での一貫製鉄所実現に向けての建設開始と 旺盛な設備投資が行なわれている様子を うかがうことができます。

1960年に池田内閣が策定した「国民所得倍増計画」は、1961年からの10年間で GNPを倍増させることを目標に掲げ、実際には 10年間で約4倍の成長を達成したと言われています。
若戸大橋開通・北九州市発足と続いた時期は、この計画が走り始めた頃であり、当時の経済を支えた「重厚長大産業」の柱である製鉄業は、成長産業でした。

第四次中東戦争(1973)を端緒とする石油危機の影響によって経済成長率が急速に低下したのは昭和49(1974)年度で、わが国の産業構造が、省エネ・省資源型技術を裏付けとした「軽薄短小」路線へと転換したのは、昭和50年代でした。

マクロ的な社会背景はさておき、青桃さん?の就職先が 新宿の企業 になった という背景も 探ってみました。

戦後鉄鋼業の設備合理化期の展開という論文 のp.43(9コマ)に、当時の八幡製鐵の売上高・税引前利益が出ていました。
これを見ると、昭和37年(1962)は「岩戸景気」と「オリンピック景気」との谷間でした。

ちょっとした景気の谷間のせいで、社会人になる門出で 進路を変えられてしまったのは、ご本人にとってはショックな出来事だったと思います。
でも、これが 人生を成熟させるプロセスの中で良かったのか、悪かったのか? 
それを判断するのは、結果次第ということなのでしょうね。

思いがけず 笹塚で 美味しいカレーにありついた。
弟の白桃さんにとって ラッキーな結果をもたらしたことだけは 間違いないようです。[79360]

余談
伊賀の土豪出身の松尾芭蕉は、母が百地(桃地)氏出身と言われれており、深川で「芭蕉」を名乗る前の俳号は「桃青」でした。百地三太夫と言えば有名な伊賀忍者。
白桃さんの一族とは無関係なのでしょうが、青桃という名から 「もも」の付く人物を連想してしまいました。
[88753] 2015年 9月 2日(水)23:11:30hmt さん
佐賀県藤津郡多良町から太良町多良へ
[88731] スナフキん さん
自筆で書けない地名がありました。いや、書いたけど字を間違えたと言った方が正しいですね。
佐賀県太良町。

「釈迦に説法」であることは自覚しながらも、これを題材とした「地名」についての感想。

「佐賀県太良町」のような都道府県市区町村名は 「地名」としても使われますが、その第一義は「自治体名」です。
では ラジオ体操会場になった学校のある「地名」は何か? 
私としては、学校名にも使われている「多良」が 正統的な地名 であるように思います。
これを「佐賀県多良町」と書いた地名感覚を、簡単に「間違えたと」と捨て去るのは惜しいのではないか。

そんなことを考えながら、平凡社『日本地図帳』を確認してみたら、最も大きな字で目立つのは 自然地名の「多良岳」でした。次いで 役場の位置に記された「太良町」。
そして川の北側・海沿いにある集落「多良」は最も小さな字でした。

日本地図という観点からは、やはり「自治体名」を転用した「便宜的な地名」が、本来の居住地名よりもわかり易く、優先されるのが現実。これが実情なのでしょうか。

もちろん、スナフキん さんが 「自治体名称」を書くつもりだったのならば「字を間違えた」ことになります。
住所表記の「佐賀県藤津郡太良町大字多良」に基づけば、「多良町」は「大字多良」と表記上は違うことになります。

太良町のプロフィール にもあるように、食物が豊かで「足る」という言葉「たら」を由来とする地名のようです。
古代の発音を写した「託羅」はさておき、地名としては 意味も優れた「多良」が定着し、町村制よりもずっと前からの「多良村」を引き継いだ「多良町」は 1955年まで使われました。

それが昭和大合併の際に、「太良町」に変えられたのですね。
新設合併に際しては、相手となる大浦村に配慮する必要があった。
その結果、「大」に近い「太」を用いた「合成地名表記」を採用した。そんなところでしょうか。

このような経過を見て、思い出した類似事例が 「島根県邇摩郡仁摩町仁万」[41861] です。
こちらは「にま」の漢字表記が多数あり、町村制施行時には邇摩郡仁万村でした。
1954年の新設合併に際しては 中心となる仁万町と 郡名に使われた漢字を合成して 「仁摩町」になりました。
こちらは 記事から4ヶ月後の平成合併で 邇摩郡が消えてしまいましたが、大田市仁摩町仁万という地名も、山陰本線仁万駅も健在です。

同音地名連続の住所 と言えば、スナフキん さん ゆかりの地「船川」[15072]もあります。アーカイブズに収録されていない過去記事[15091][48562]もあります。
太良町多良についても、[43017] 佐賀県 さん からのレスをいただいていました。
[88708] 2015年 8月 26日(水)18:14:05【1】hmt さん
刷り込み
[88706] 山野 さん
今言った都市、既に現存しないよって言ったら「何時の間に無くなったの?」だってさ。

1972年秋 当時の新潟県新井市に長期出張した時に、自分でも似たような経験をしたことがあります。
ローカルニュースで上越市で起こった火事の報道。最初は「どこ?」という感じでした。

新井の隣にあるのは高田、その先は直江津。
最初の学習 による「刷り込み」は、簡単には修正されません。
上越市発足から1年半ほど経過した時期のことでした。

北九州5市 も刷り込まれた順番で覚えています。

ついでに
石炭を採掘するための「アナ」である 「炭坑」 という言葉も、最初はこの字で習ったと思います。

しかし、PCで「みいけたんこう」と入力すると、出てくるのは「三池炭鉱」なので注意が必要です。
「鉱」は本来は「未精錬の金属」なのですが、三井三池炭鉱ではこの字が使われていたのでした。
もっとも、炭坑節の歌詞ではタイトルに合せて「三池炭坑の上に出た」となっているようです。

【追記】
「三池炭鉱」の名は、明治22年(1889)の払い下げより前、官営時代からの名称を引き継いだものでした。三井の歴史
三井は神岡鉱山も一括経営したので、会社名「三井鉱山」を含めて「かねへん」の字を使うことに違和感はなかったのでしょう。その「三井鉱山」という社名も 2009年に変更されていたのでした。新聞記事【追記終】

通称「北炭」は 北海道炭礦鉄道[61271]→北海道炭礦汽船。
常磐炭礦[87859]も同じく「いしへん」の字でした。
[88707] 2015年 8月 26日(水)16:46:11hmt さん
♪月が出た出た 月が出た ◯◯◯◯の上に出た
[88702] かぱぷう さん
炭鉱節の二番にも「…心 門司門司 気は佐世保」と唄われているように、モジモジが過ぎたようです。

ふくよかな顔に黒い目。これを「顔は福岡 目は久留米」と表現し、「足は長崎 手は肥前 こころ門司門司 気は佐世保」と地名づくしで続けて「どこの人?」と問いかける替え唄があるのですか。初めて知りましたが、なかなかの出来栄えです。

それはさておき、地理に関心のある者としては、世間に流布している「炭坑節」の歌い出しが気になります。
タイトルの「◯◯◯◯」部分は「三井炭坑」や「家(うち)のお山」と唄われる場合もありますが、「三池炭鉱」の場合が多いように思われます。

折しも話題になった「伊田と後藤寺」[88704]を含む 筑豊[72220]の 田川地区。
その民謡と記憶している「炭坑節」の歌詞に、三池とは?

田川市のサイト を確認してみました。
炭坑節が広まるにつれ、そのルーツをめぐって本家争いが起こった時期もあった。幸いなことに【小野芳香氏等による明治・大正の記録に基いて】炭坑節の元唄は まがうことなく 田川の炭坑で 選炭作業に従事する選炭婦が歌った選炭唄であった。

もう少し資料を探したら、炭坑節のことなど という記事がありました。
2014/5/16 に転載されている動画では、地元のガイドさんが「伊田の竪坑の~」と唄っています。
2014/5/13-14には、『炭坑節物語』(深町純亮、海鳥社)によると、伊田尋常高等小学校の教員・小野芳香が明治43年頃に編曲した「伊田機械選炭節」が、現在の炭坑節の起源と記されており、追記の「炭坑節」歌詞では「伊田の炭坑の上に出た」となっています。
このブログには、同じく『炭坑節物語』に言及されている【大正初期の】「奈良丸くずし」を元唄とする説も紹介されていましたが、「伊田の炭鉱バージョンは明治43年頃に完成しているので、この説は誤りということになる。」という評価でした。(2014/5/14)

「奈良丸くずし」3番の歌詞「月が出た出た月が出た/セメント会社の上に出た/東京にゃ煙突が多いから/さぞやお月様煙たかろう」が元唄とする説については Wikipediaにも記されています。しかし大正2年とのことなので、やはり明治43年の小野芳香より後になります。
Wikipediaには、戦後の大流行の中で、一部の出版物や歌詞カードの誤記から、三井三池炭鉱で生まれたという誤解が広がった と記されています。三井炭坑→三池炭鉱は、いかにもありそうな誤記と思われますが、誤記とする根拠の記載は見当たりません。

落書き帳の 地名の入った歌コレクション を見たら、「赤坂小梅/三池炭坑節」と、三池の地名【大牟田市】が2回収録されていました。
赤坂小梅と言えば福岡県田川郡川崎町出身で、小倉から上京した鶯芸者です。お座敷唄「炭坑節」をレコードに吹き込んだのは1940年近くでしょうか。音源の年代は不明ですが、『正調炭礦節』では「三井炭坑の上に出た」と唄われています。

田川出身の小梅が、紅白歌合戦(第1回は1951年正月ラジオ)の際に唄ったのが『三池炭坑節』。
「三池炭鉱の上に出た」という歌詞が普及した謎を解く鍵は、この辺にありそうだ。私はこのように考えました。

お座敷唄と紅白との間にあったもの。それは戦後間もない時期の炭坑節大流行に関係する 1948年のレコード4社の競作でした。Wikipediaによると、この競作で 小梅の座敷唄を新たな伴奏で再吹込みしたコロムビア以外の3社では、現在盆踊りで唄われている節が採用され、結果的には小梅のレコードは他社に水をあけられてしまったそうです。
「後に小梅も盆踊り向きの節で再度ステレオ録音にて吹き込んでおり、その音源は盆踊りで盛んに用いられた。」と続いています。その際に、節だけでなく 歌詞の方にも「三池炭鉱」が採用され、従来の【田川発祥】お座敷唄と区別するために『三池炭坑節』としたのではないでしょうか。

レコード4社の競作によって もたらされた 商業ベースでの成否。
田川由来の民謡『正調炭礦節』と、マスコミを通じて全国に拡散した『(三池)炭坑節』との分岐点はこれだったのではないか?

「炭坑節」は全国に知れ渡りました。
しかし、【誤記にもとづく?】歌詞のために、本家の筑豊・田川市の影が薄くなってしまった。
この不本意な結末がもたらされた「いきさつ」について、私はこのように推測しています。

田川市の人口については白桃さんの続編があるでしょうが、1955年国勢調査では10万人を越えました。
しかし、その後のエネルギー事情の変化による炭鉱の閉山があり、市の人口は半減しています。

失われたものと言えば、石炭産業と人口以外にもあります。
炭坑節で「一山 二山 三山越え」と歌われていた三連峰の香春岳【田川郡香春町】。
この山の姿も、石灰石採掘により変貌しています。一ノ岳が平らに削られてしまった姿の 地理院地図

最後になりましたが、田川市サイト内の『正調炭坑節』 をリンクしておきます。
「月が出た出た…」は 1番ではなく、3番とは知りませんでした。
[88670] 2015年 8月 18日(火)13:12:35【2】hmt さん
Re:百千家満&地方銀行
【追記2】を機会にタイトルを改め、記述の順番も それに合せました。

[88665] 千本桜さん 難読地名・「百千家満」【おちやま】[88659]関係
八百屋はポピュラーで、地名好きには八百津もポピュラー。

なるほど。自分でも [88550]で八百津のことを書いたばかりでしたね。
大修館新漢和辞典には、「百」の訓読みとして、「お」の他に次のような言葉が挙げられていました。
--------
と、はげむ、も、もも、百千万億(つもる)、百女木(どめき)、百目木(どうめき、どめき)、百百(ささ、どうど、どど)、百足(むかで、ももたり)、百草(もぐさ)、百済(くだら)、百槻(どうつき)
--------

二百、七百、九百については、「お」と読むかどうか不明です。

「十九百」と書いて「つづお」と読む名字があるそうです。出典

【追記1】
大和言葉の数詞 というページに、次の記載がありました。
100(もも)  百田光治→ももたこうじ(あの力道山の本名)、百恵も・・
二百以降は(お)で、二百(ふたお )みお よお いお むお ななお やお ここのお ・・となる。
         八百屋→やおや
【追記1終】


[88665] 千本桜さん 地方銀行の支店のある市[88660]関係
なんでこの都市に支店が?と感じたもの   横浜銀行の桐生支店

横浜と桐生とは 「関東シルクロード」で つながっていました。直接の言及ではないが、関係記事
[30342]で言及した 初等科地理

【追記2】
横浜銀行桐生支店
「桐生」では検索されませんが、既に ぺとぺとさんによる 昨年の記事[86217]で 言及されていました。
【横浜銀行は】世界遺産となった製糸場とも人的、資金面でのつながりが深かったようで、経済圏の異なる遠く離れた県に3支店(もうひとつはノコギリ屋根の織物工場で有名なK市)を有する理由もなんとなく頷けます。

阿波銀行横浜支店
[88660]の表は「支店のある市」を対象としているので、横浜が東日本で唯一の支店に見えるのですが、東京23区内に4支店があることを考えれば 横浜に支店があっても不思議はないと思います。

秋田銀行いわき支店
沿革 を見ると、東京支店は戦後の1956年なのに、福島県内には 1931年という古い時期に複数の支店で進出しています。何か特別の関係がある地域と思われますが、それ以上は不明。

スルガ銀行仙台支店
1895年に日本最小の銀行(資本金1万円)として設立した銀行ながら、独自の活動が注目される銀行です。創業期の1900年に早くも東京進出。第二次大戦中には政府による一県一行の方針を断固として拒否。沼津は戦後早々に湘南電車で東京と結ばれたこともあり、50年ぶりに東京に再進出。京橋方面から望むと真正面という絶好の位置にある[75365] 日本橋北詰のスルガ銀行東京支店。仙台支店は、全国を見据えた広域店舗と位置付けられているようです。

地方銀行の支店所在地については、1年前にも話題になりました。関係記事
【追記2終】
[88659] 2015年 8月 16日(日)16:41:49hmt さん
災害を連想する文字を嫌って 表記を変えた村
[88656] 瀬戸家さゞなみ さん
城山トンネルではないのですが、初投稿の記事[21334]に記されていた難読地名に関係したレスを書きます。
兵庫県宍粟郡一宮町【10年前から宍粟市一宮町】「百千家満」

「宍粟市」も なかなかの難読ですが、「百千家満」を「おちやま」と読むのには脱帽です。
百千家満自治会 には、江戸時代には「落山」と書かれていたが、風水害による落石を嫌い、「百千家満」の表記が現れたと記されています。
「ちやま」に「千家満」を宛てたのはよいとして、「お」を「百」に変えたのは荒療治。

災害を連想する文字を嫌って改めた事例は、私の地元にもあります。埼玉県入間郡南畑村、現在の富士見市南畑地区。
ふじみ・発見No.27
『新編武蔵風土記稿』には、「村名は元 難畑 或は 難波田 と書せしが、當村は荒川と新河岸川の下流に添し地にて、屢水災に罹りしを、土人憂ひて 村名の文字悪き故ならんと 改めたき由、安永元(1772)年 御代官久保田十左衛門が支配たりし時、公に訴しかば 松平右近將監より下知ありて、今の如くに書改めしと云、」とあり、この地が 水難を受けることが多かったことを憂いて 現在の文字に改めたとされています。

こちらは幕府の代官に願い出て、公式に改名した記録が残っているようです。
その結果、読みやすい村名になりましたが、もちろん改名したから 水害がなくなる というわけではありません。
明治43年8月の水害では、宗岡村のすぐ上流にあたる南畑村の小学校沿革にも大洪水が記されています。
現代になってからは、治水事業がようやく実を結び、殆んど水害のない南畑地区が実現しています。
[88648] 2015年 8月 14日(金)22:18:03hmt さん
造園業
[88640]で「国勢調査と農林業センサスとは 調べ方が違う」と書いた時には、単純に事業規模の違いではと思っていたのですが、[88644] ぺとぺと さん により、もっと根本的な「農業」の意味を指摘していただきました。

改めて、農林業センサス における用語の解説を調べました。
p.146の記載を見ると、一定規模以上の栽培面積で農林産物の生産を行う「花き栽培」事業を行う者は農林業経営体に該当するようです。
しかし、統計表 を見ると、浦安市は「-」となっています。
東京ディズニーリゾートとしては 花き栽培「事業」をしていないようです。

一方、国勢調査における従業者の職業データとしては、ご指摘のように 農業従事者に該当する のでしょう。
[88640] 2015年 8月 14日(金)12:27:55hmt さん
浦安にいる農業従事者
[88639] 白桃 さん
ご存知のことと思いますが、EMM さん の記事[56616] を リンクしておきます。
国勢調査と農林業センサスとは 調べ方が違う。それだけの問題だと思います。
[88632] 2015年 8月 12日(水)18:55:16hmt さん
北陸?
[88627] N さん
上のページで気になったのですが、なぜ岐阜の聖徳学園が北陸に入っているんでしょう?

確かに岐阜聖徳学園高校の北陸所属には違和感があります。
しかし、分野により「北陸」の意味する範囲は異なるのでしょうね。
浄土真宗本願寺派の学校 という前提で考えれば理解できるのかもしれません。

私もこの分野に詳しいわけではありませんが、北陸と言えば真宗王国です。
越前から飛騨へ、更に分水嶺を越えた美濃へと布教活動が行なわれ、岐阜も北陸の延長と認識されるに至ったのではないでしょうか。

余談ですが、行政区分としての「北陸」。
昔の行政区分・五畿七道の7ヶ国は 現在の北陸4県であり、北陸農政局などの範囲もこれを踏襲しています。
しかし、富山・石川・福井の3県を北陸とする用法も広く使われています。国の行政機関では北陸財務局(新潟県は関東)、北陸総合通信局(新潟県は信越)。

新潟市にある 北陸地方整備局 は、管轄区域内の関係県が 新潟、富山、石川、山形、福島、長野、岐阜、福井に及ぶと記していますが、新潟県に流れ込む川の流域はすべて含み、群馬県の一部に及んでいるようです[42945]

北陸信越運輸局、東海北陸厚生局のように複合地域名で使われる事例もあります。

民間でも、北陸ガスは新潟市ですね。
さすがに、岐阜市に本拠地があって「北陸」を名乗る事例にはお目にかかっていません。
[88614] 2015年 8月 11日(火)13:40:27【1】hmt さん
市町村の隣接
[88609] グリグリ さん
十番勝負においては従来からマピオンをベースに判断していることもあり

十番勝負は外野席から眺めているだけで、従来からの慣行を知りません。
一般的な意味での地理情報への関心に基づいて、特別な慣行が存在する問題に口を挟んでしまったのかもしれません。
それにもかかわらず、詳細な調査に基づく回答をいただき有難うございます。

◎葛城市の位置と地勢 【引用省略】河南町する記載されていません。

責任ある立場で書かれた記載にも、このようなことがあるという実例。これほど明白な事例でない場合、「資料には隣接に挙げられていないから非隣接である」と決めつける虞があり、このような解釈が危険であることを教えています。参考:尽く書を信ぜば…

資料の「隣接」の意味が、場合によっては境界線上の直接隣接だけではなく、…

資料中での記載環境を考慮する必要があるでしょうね。
例えば[87857]資料Cで挙げた千早赤阪村地域防災計画。p.5 村の位置を示す小縮尺の略図に示されている自治体名は、隣接3府県の他に、千早赤阪村と隣接する5市1町に限られています。自治体の防災という見地から、隣接と認識している範囲を示しているのだと思います。問題の葛城市は点接触による隣接自治体になっています。

県境の交通路 には大阪府・奈良県境54.6km地点に、千早赤阪村・葛城市のペアが記録されています。同じく54.6kmの香芝市は誤記でしょう。>futsunoおじさん

地理院地図やマピオンは大縮尺から小縮尺まで各種の図があり、小縮尺では4市町村の点接触に見えていた部分を拡大することができます。マピオンでは 14スケール【2万5千図相当】になると、河南町南東にぶら下がった盲腸部が見えてきて、葛城市と千早赤阪村との接触を妨害しています。

4自治体の他、国土地理院、マピオンなどに問い合わせてみようと思います。どんな回答になるか楽しみです。

同感。
[88598] 2015年 8月 9日(日)12:40:16【3】hmt さん
葛城市は千早赤阪村と隣接しているのでは?
[88596] グリグリ さん
現時点ではマピオン他の地図表記や河南町公式HPの記述などから、【葛城市は千早赤阪村と】隣接はしていないと判断しています。

既に[87857]において、資料Aと資料Cとを示して、葛城市と千早赤阪村との隣接、つまり御所市・河南町を含む4市町村の点接触の可能性を論じています。
【追記】
「4市町」になっていたので、「4市町村」に訂正しました。
貴重な存在の「村」を落すとは何事か! と重箱の隅をつつかれる前に気がついてよかった。【追記終】

資料Aは、葛城市発足前の資料だったので無視されたのかもしれませんので、出題の趣旨に沿う最近の資料を改めて提示します。

葛城市のサイト内を検索すると、資料Aやその改訂版(葛城市発足後)を含む複数の資料がヒットしますが、最近のものとして平成27年3月資料 のp.42記載を示しておきます。
葛城市は葛城山々の麓に位置し、奈良県の西北部、北葛城郡の西南部にあり、北は香芝市、東は大和高田市、南は御所市、西は大阪府南河内郡太子町、河南町、千早赤阪村と隣接しています。

河南町サイト【資料D】には 御所市との隣接が記されていますが、4市町村の点接触を否定するものではありません。

マピオンでは確かに葛城市と千早赤阪村との間に河南町が入り込んでいます。

地理院地図の#14図【2万5千相当】では点接触に見えるのですが、2段階拡大した#16図では 僅かな長さですが 葛城市と千早赤阪村との「境界線」が存在して、御所市と河南町との隣接を阻んでいるように見えます。

【更に追記】
今回記事の最後の部分【WEB地図関係】は、【第三回】北陸新幹線金沢開業記念 ペアシティ七番勝負問三【村のみでつながる市のペア(直接隣接していない)】想定解の答え合わせ記事中に事実上記されていました。
[87828][87838] グリグリ さん
Nさんが挙げられた次の3ペア【千早赤阪村と隣接する3市と葛城市のペア】は千早赤阪村と葛城市は非隣接なので該当しません。
[87834] N さん
【千早赤阪村と葛城市は】Google MapやMapion、Yahoo地図では明らかに隣接していないのですが、地理院地図【#17図】やMapFanでは隣接しているように見えます。
[88581] 2015年 8月 6日(木)23:41:57【2】hmt さん
Re:被曝70年
[88574] ペーロケ さん
当時、「今後70年間は草木が生えない」と言われたそうです。その70年という数字の出所は分かりませんが、実際は2、3年後には雑草が生えて生物が戻ってきたとか。

「70年不毛説」は、残留する放射性物質汚染への警告としては なかなかインパクトがある言葉です。
それ故かもしれませんが、事実と違うことが広く知れた後まで 語り継がれています。

基本的には、植物の逞しい生命力を過小評価した誤りが大きいと思いますが、広島について言えば、被曝翌月の枕崎台風による豪雨で「除染」されたことも無視できないようです。

枕崎台風による土石流は 被爆者治療にあたっていた 大野町の陸軍病院を直撃し、呉市でも急傾斜地崩壊で多数の死者を出しています。その一方で、この台風による豪雨は汚染物質の多くを洗い流し、被曝地に戻った人々への放射線による健康被害も 軽減したものと思われます。
ヒロシマの記憶 は、被曝2ヶ月後に撮影されたフィルムが、爆心地周辺に芽吹いた、様々な命をとらえていることを伝えています。

「70年という数字の出所」ですが、1945/8/8の新聞に掲載されたINS取材記事で、コロンビア大学のハロルド・ヤコブソン博士の談話にあった「四分の三世紀近く」が不毛期間の出所であり【注】、日本に伝えられているうちに 75年や70年になったようです。
【注】
Google Booksにある『From Hiroshima to the Hydrogen Bomb: American Artists Witness the Birth of the Atomic Age』のp.42を見るとDr. Harold Jacobsen となっており、p.58の注61には【for nearly three-quarters of a century】と記されていました。

マンハッタン計画に参画した科学者による 放射能の危険性を強調した警告が新聞に出ると、陸軍省【グローヴズ将軍やJ.R.オッペンハイマー博士】は「残存放射能はその後急激に消滅したと信ずるにたる十分な根拠がある」と直ちに反論し、ヤコブソン博士も翌日自説を撤回したとのことです。広島の視線 
原爆が日本に多大の被害をもたらしたことは勿論ですが、加害者側の米国内にも心を傷めた人がいました。
「75年不毛説」のヤコブソン博士はその1人だったようです。資料

建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々

8月6日に疎開作業の勤労動員当番で広島に行き被曝した人。大竹に住んでいた時に近隣の人から聞きました。

被曝4日後のヒロシマ、360度パノラマ写真をリンクしていただき、有難うございます。
撮影地点は京橋川の稲荷橋西詰。1945/8/10当時の下柳町(現・中区銀山町)にあった3階建の旧広島東署の屋上。
それを元に10年前に作成されたパノラマ写真を高画質化した新作なのですね。朝日デジタル
現状のパノラマ写真も、ほぼ同一位置からの撮影のようです。

撮影地点は爆心地直下の産業奨励館より1km以上東側です。
象徴的なドームは 福屋百貨店の後になっているようで、確認することができません。
爆心地と反対の東側を見ると猿猴川に架かる広電の軌道のぐにゃりと曲がった姿。
灼熱地獄を想像させるものは、燃えないで残った残骸だったのでした。

【追記2】
ヤコブソン/Jacobsen などの修正を追記した後で、[88584] じゃごたろ さんの記事に気づきました。
コピペでなく直接入力したのは、短いタイトルではその方が楽だと考えたからなのですが、ご指摘のように「被爆」と「被曝」では意味が違っていましたね。

広島の場合、高空で炸裂した原子爆弾を「被爆」した結果、地上では 先ず通常兵器では想定外であった強力な熱線【ピカドンの「ピカ」】を主体とする「被曝」が起こり、続く圧力波【ピカドンの「ドン」】による建物倒壊、地上に降下してきた放射性物質からの放射線による「被曝」などにより被害が拡大したものと推察します。

全体を総括する言葉として、一般的には「被爆」が適切だったのだろうと思います。
それだけならば、「Re:被爆70年」の誤記だったとして修正することも考えられます。
しかし、ご指摘のように 原子爆弾を被爆したことにより被る被害は、通常爆弾や焼夷弾による「被爆」と異なり、熱線を含む放射線による「被曝」が重要な要素になっています。

せっかくご指摘いただいたことでもあり、新たな意味付けを加え、誤記を生かしたままのタイトルを残しておきたいと思います。
[88552] 2015年 8月 3日(月)19:21:13hmt さん
県道の起点・終点
[88454] じゃごたろ さん
川上村と秩父とを結ぶ道路についての話題。説明を加えて頂き有難うございます。関係記事

別の場所で撮影した案内標識に「秩父」が表記されているものがありました。
設置場所は 長野県道68号の起点・川上村梓山ながら、「県道とは逆に 東の山の中に分け入る林道」の 案内標識
そこには、「右の千曲川源流方面:行き止まり、左の秩父方面:通行注意」と大きく表示されていたのですね。
これならば納得できます。

県道の名前は「梓山海ノ口線」といい、川上村「梓山」が起点で南牧村「海ノ口」が終点になっています。

[88203]は、長野県から埼玉県に通じる道という視点で書いていたので、つい「林道に入る手前、県道の終点付近」と書いてしまいました。「長野県道68号」としては、梓山が「起点」であるということ。承りました。

県道の命名規則に関する過去記事[70793]を示し、道路法の規定や路線名のつけ方に関する通達について教えていただきました。
都道府県道を規定した道路法第七条では、「主要地」という言葉が、「市又は人口五千以上の町」と定義されており、道路標識の経路案内で用いる ルール2の「主要地」 とは別の意味で使われていることを知りました。
例えば上高地・志賀高原などは道路標識では「主要地」とされていますが、もちろん市でも町でもないので道路法の「主要地」ではありません。2010年に長野市に編入された信州新町や、現存する自治体の野沢温泉村も道路法の「主要地」失格です。

本題の起点・終点の区別に戻ると、「長野上田線」のような主要地間を連絡する路線【道路法第七条第一号に該当する路線】は、人口の多い主要地が起点とされています。これは、[70793]が「岡谷茅野線」を例示して指摘しているような人口逆転問題が存在するとしても、常識的に なんとなく理解できる規則のように思われます。

もっとローカルな県道、例えば川上村から秩父に通じている中津川林道と接続している「梓山海ノ口線」を考えてみます。
この場合は、川上村梓山も南牧村海ノ口も「主要地」ではなく、道路法第七条第1項の中で該当するのは第六号だけであると思われます。
前各号に掲げるもののほか、地方開発のため特に必要な道路

この法律だけでは、起点・終点の選びようがない。そこで通達が参考にされるのでしょう。
[70793]に紹介された(1)~(4)を見ると、交通上の拠点になる側を「終点とする」という考え方が見えます。
梓山は案内標識に示されたように、通行注意の中津川林道と行き止まりの山道に接続するのみ。
これに対して海ノ口は 佐久と甲州とを結ぶ国道141号が通じている。だから、こちらが「終点」になる。これで納得。

わからないのが、第六号に該当するローカル県道における「辺境から中心へ」という方向付けと、第一号に該当する幹線県道における「中心地から地方へ」という方向付けとが逆になっていることです。
第二号から第五号に該当する県道。これらも港湾・停車場など県道を設ける目的地を起点としているような気がします。
第一号の幹線県道だけは別として、「大部分の県道の起点は 県道を設定した目的地である」と考えてよいのではないでしょうか。

実は、先月 津久井の道[88047] を書いた際に、神奈川県道510号長竹川尻線や、同513号鳥屋川尻線の起点がいずれも西側【津久井町】で、相模原に近い【城山町】川尻でないことに気が付き、不思議に思っていたところでした。
今回の事例で、ローカル県道における「辺境から中心へ」という方向付けが 全国的なもの であることを知り、合点した次第です。
[88550] 2015年 8月 3日(月)13:23:59【1】hmt さん
伊岐津志を調べてみたが…
[88543] ぺとぺと さん
岐阜県加茂郡八百津町伊岐津志×××-×  伊岐津志は「いぎつし」と読むようです。
この地名、県名、郡名、町名、大字名がいずれも漢字とよみで文字数が一致しているところもすごくクールではないですか。

名称と読みの文字数が同じ市区町村については、第十六回・十番勝負の問八関連で k-aceさんの[75084]がありました。

それはさておき、「いわれ」のありそうな地名なので少し調べてみました。
岐阜県神社庁 には 4 件の神社がありましたが、残念ながら 有力な情報は発見できませんでした。

地図を見ると、酢の醸造元は木曽川の南岸です。現在は兼山ダムにより水没していますが、この付近は「八百津」という地名が示す木曽川舟運基地地帯として、古くから栄えたと思われます。
舟運から鉄道へと輸送手段が変化した後、名鉄の支線も通っていました。
末期は電車でなくレールバスに変っていましたが[77832]、これも 2001年に廃止されています。

八百津町は木曽川の両岸を占めていますが、伊岐津志のある南岸の 兼山ダムから下流は 可児市兼山になります。
2005年の編入前は可児郡兼山町(かねやまちょう)で、面積の狭い市町村ランキングの第2位[39317]であり、「長命な町名」[34842]としても名を馳せていました。

平成合併では、この地域の合併協議はすんなりと行かず、その痕跡が「飛地合併」という形で地図に残っています。
この地の城主が森蘭丸であったことは花笠カセ鳥 さんの記事をきっかけに知りました。
そして、地図を眺めて 木曽川北岸に複雑な境界線があり、こちらは昭和合併の傷跡であることを知りました[79299]

伊岐津志の由来調査は不成功でした。
しかし、落書き帳に蓄積された過去記事を紐解くことで、この地域についての情報を復習でき、理解を深めることができたのでした。

【追記】
四文字地名の過去記事
[88296] 2015年 7月 25日(土)14:54:49【2】hmt さん
室蘭本線小幌駅
[88293] 山野 さん
室蘭本線上にある秘境駅「小幌駅」も廃止される事に。

室蘭本線の室蘭-岩見沢間は、北海道炭礦鉄道が1892年(M25)に開通させた歴史ある鉄道です。
しかし、小幌駅の属する長万部-東室蘭間は国有化後に「長輪線」【輪=輪西】として建設された線で、1928年(S3)全通。
石炭輸送から始まった室蘭本線が、千歳線を併用して函館-札幌間のメインルートになったのは、「Occupied Japan」時代であり[54787]、その後 複線化も進みました。

問題の小幌。これは単線時代に 2つの長大トンネルの間の僅かな明かり部分で 列車の行き違いをするための信号場 として設置された施設ですが、仮乗降場として海水浴客などの利用に供されていたようです。正式の駅になったのは、国鉄からJR北海道になった1987年。
10年前には廃止を免れたという記事がありました[47613]

落書き帳メンバーが誰か訪問しているのではないかと思い、検索したら [78802] k-ace さん の記事がありました。
秘境駅の小幌駅(豊浦町・長万部町)を探訪
と記されているように、この駅は 胆振管内虻田郡豊浦町と 渡島管内山越郡長万部町との境界にありますが、廃止を打診された関係自治体は豊浦町だけなのでしょうかね。地図
もちろん、近隣に住家は皆無。駅自体の住所を確認しようと、JR北海道のサイトで調べたがみつからず。

内浦湾(噴火湾)海岸には岩屋観音の洞窟があるが、海岸に続く道には 夏場は草木が生い茂り 通行しにくい状態とか。
k-ace さん、探訪の結果は いかがでしたか?

【翌日追記】
[88294]を知らずに無視してしまったことをお詫びします。
更に[88297]の説明も加えていただき、有難うございます。
Wikipediaによると、開業当時(戦時中の1943年)には民家もあり、小幌海岸海水浴場の利用客もいたとのこと。
現在の写真の雰囲気からは海水浴など想像もつかず、大変な変わり様であることを感じます。
写していただいた東側の礼文華山トンネル入り口。単線時代には、現在は坑口がふさがれた中線も含めて 左側の2線で行き違いを行なっており、一見すると古そうに見える右側が 1967年開通の新トンネルなのですね。

礼文華(れぶんげ)峠越えの道は、蝦夷地の三大難所の一つだったそうです。
江戸時代から、明治27年(1894)に完成した準地方費道 長万部停車場室蘭線【旧国道】を経て 現在の国道37号 までの道について語る 江戸期に開かれた礼文華越えの道 をリンクしておきます。
【追記終】

落書き帳の初期、[832] Issie さんの記事に紹介されたように、この付近【小幌駅の少し西】は 太平洋側と日本海側とを分ける分水界まで 最短部では 250mほど という場所で、東に向う胆振国道(国道37号)も 一旦は 日本海側斜面(朱太川上流部)の 後志管内寿都郡黒松内町を経由するほどの地形です。

私も、この「くびれ」地形に注目した記事[72049]を書いたことがありますが、小幌駅には言及していませんでした。
[88280] 2015年 7月 24日(金)20:35:05【2】hmt さん
道路案内標識に使われる地名
[88270] futsunoおじ さん
[88174]の案内標識の「秩父」についてですが単純に考えれば大滝村が秩父市などと合併(2005年)して新・秩父市になったことで、元は「大滝」とあった案内が「秩父」に書き換えられただけのように思うのですがいかがでしょう。

確かに、市町村合併によって、道路案内標識の地名が 影響を受けるケースは存在すると思います。
極端な事例ですが、合併の結果「大宮← →浦和」という標識が「さいたま← →さいたま」になってしまい、ビックリしたという記事もありました。[37066]
私の考えでは「さいたま市」は「行政管理用の名称」であり、「地名」としての「浦和」や「大宮」に取って代わるような性格のものではないのですが、現実には道路標識の行先をわざわざ「さいたま」に書き換えてしまい、人々を困惑させる結果になったのでした。
この件については 行政苦情救済推進会議で検討が行なわれ、一応は解決しました。[42974]

本題に戻り、川上村の村道?に設置された標識にあった「秩父」という行先地名。
これは、合併前には「大滝」だったのでしょうか?
「さいたま」の例を見ると、案内標識に記す地名は 自動的に「市町村名」で決まってしまうようにも思われるのですが、本当にそうでしょうか?
川上駅近くの標識の実例[88179]を見ると「梓山」が使われています。これは字名でしょう。
「川上駅」や「川上村役場」にしても市町村名ではないし、市町村名に限定されているとは思われません。

「大滝村」という標識だったのならば、村の消滅後には改める必要があるかもしれません。
しかし、「大滝」という地名ならば そのままの形で残して差し支えないし、「奥秩父に通じる山道」であるという情報も残せます。

そんなことを考えているうちに、案内標識に記される地名を決めるルールが気になり、国土交通省のサイトを調べてみたところ、案内標識のしくみ-1(案内標識に表示される地名) というページがあり、4つのルールが示されていることを知りました。

何はともあれ、ルール2 経路案内に用いる地名はあらかじめ決められています を見ましょう。

経路案内に用いられる地名は、
1.基準値【おおむね1県1都市】、
2.重要地【地方生活圏の中心都市など】、
3.主要地【二次生活圏の中心になっている市や町など】、
4.一般地【2、3以外の市町村、その他沿道の著名な地点など】であり、

「各都道府県において表示される基準地・重要地・主要地一覧表(平成19年3月末時点)」 が示されています。
8年も前なのが少し気になりますが、内容は極めて具体的で 参考になります。

埼玉県を見ると、早速「さいたま」が登場して市町村名なのかと思わせますが、「大宮」「浦和」も健在です。記載位置が最後になっているのは、前記苦情救済の結果追加された結果かもしれません。「さいたま」と「浦和」は同じ位置を呼び分けています。

東京都を国道1号に沿って眺めると、道路元標[65682]のある日本橋[75365]を始めとして、大手町、日比谷、祝田橋、桜田門、赤羽橋、五反田、馬込 と著名な地点が並んでいます。
重要地・主要地とは道路交通上のポイントであり、特別区名など自治体名とは明らかに違う捉え方であることが読み取れます。

勝沼バイパスのイラストを見ると、鷺堂に「主要地点標識」があります。
右方、勝沼町に入った地点にある市町村標識(カントリーサイン)が「自治体名」を示しているのと違い、こちらは「地名」です。でも、前記の表に示された主要地点は「笛吹」ですね。「鷺堂」は一宮町時代の主要地点名で、更新されていないのかもしれません。

一般地とは表外の地名で、「川上村役場」「梓山」など適宜選んだ地名を使うことができるようです。

このような地名が記された案内標識は、ルール1に示された3種類あり、ルール3 の方法で地名が表示されるとのこと。

[88179]k-aceさんが、信濃川上駅近くの交差点手前で記録した 案内標識の写真 を見ると、距離が示されておらず、交差点手前なので「108系標識」ですね。
【追記】
ここで、いきなり聞き慣れない言葉を使ってしまいましたが、ルール1示された説明文によるものです。
「交差点手前」という表現については、[88294]で指摘されたような問題がありましたが、「交差点を通過する手前から見える位置にある」と解釈してください。
もっとも、その後で 案内標識のしくみ-2の使用区分を見たら、大きな交差点に使われる標識のようなので、今回のケースのような小さな交差点で使われている標識を 108系としたのが正しいか否か自信がなくなりました。
詳しくは、『道路標識設置基準・同解説』 (日本道路協会)という本に書いてあると思いますが、読んでいません。【追記終】

国土交通省の説明は、幹線道路【ルール3に記された3分類に該当する道】を対象としているようなので、これに該当しない村道では 少し様子が違うようです。しかし、上段の「小諸」と「秩父」が遠距離にある「重要地」であり、下段の「川上駅」と「梓山」が近距離にある「一般地」であることは理解できました。

[88174]で挙げられた標識の「秩父」が、合併前の「大滝」を形式的に修正したものだったのか、どのような位置付けで記されていたのか、私には詳しいことは判りません。

しかし、信濃川上駅前の標識と同様に、遠距離にある「重要地」という位置付けでドライバーを秩父に案内していたのならば、「まともに信じて行ったら大変な目にあうだろうな」という感想を持たれたのは当然という気がします。
道路利用者から 標識の改善についての意見については、意見箱 が設けられているそうです。ご参考まで。


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