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hmtさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[92071]2016年12月9日
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[92055]2016年12月6日
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[92026]2016年12月3日
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[92002]2016年11月29日
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[91969]2016年11月20日
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[91959]2016年11月18日
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[91957]2016年11月16日
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[91956]2016年11月16日
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[91948]2016年11月14日
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[91887]2016年10月30日
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[91883]2016年10月30日
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[91804]2016年10月22日
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[91784]2016年10月19日
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[91563]2016年10月4日
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[91562]2016年10月4日
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[91561]2016年10月4日
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[91515]2016年9月26日
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[91507]2016年9月25日
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[91442]2016年9月20日
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[91406]2016年9月16日
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[91405]2016年9月16日
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[91353]2016年9月7日
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[91332]2016年9月5日
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[91329]2016年9月4日
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[91310]2016年9月1日
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[91296]2016年8月30日
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[91282]2016年8月27日
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[91229]2016年8月17日
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[91213]2016年8月15日
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[91185]2016年8月11日
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[92071] 2016年 12月 9日(金)12:40:31hmt さん
佐賀県白石町
平成合併で消滅した旧自治体で、支所的な組織 or 施設が残されていないものに関するもの。
白桃さんの質問[92049]に対し、既に[92066]菊人形さんから多数の事例を報告していただきました。

その一つですが、佐賀県白石町に関して 新庁舎が完成した頃の 佐賀新聞ニュースに、支所廃止が記されていました。変遷情報と共に その要点を補足します。

2005/1/1 佐賀県杵島郡 白石町, 福富町, 有明町の新設合併→白石町
合併時に旧白石町への新庁舎建設を決め、それまでの間は旧有明町役場を使用した。

新聞によると新庁舎の業務開始は2010年1月4日。これに伴い、福富と白石の2支所を廃止。その他組織変更。

佐賀県の地図 白石町役場の位置修正をお願いします。>グリグリさん
[92055] 2016年 12月 6日(火)21:39:11【1】hmt さん
北海道日本海側の漁港・雄冬
[92048]菊人形さん
そんな雄冬が増毛町と浜益村(当時)に跨っていたことを初めて知りました。
[92050]グリグリさん
これはかなり大物でしたね。

「大物」が何を指しているのか よく理解できなかったのですが、私が最も感動したこと。
それは30年前の「陸の孤島」時代に 酷い船酔いに苦しめられながらも訪れた高校生が 落書き帳メンバーとして活躍しており、しかも3年前にも国道231号で 再訪を果していることでした。

そこで、全く知らない土地なのですが、少し調べた結果を綴り、北の町への想いを寄せることにします。

手元にある昭和47年のJTB時刻表には載っていませんが、昭和58年頃の時刻表では航路で繋がった雄冬が載っていたように記憶もあるのですが…。

【以下追記修正あり】
[92043]k-aceさん引用の「こちら」【見落し、便宜的に 呉服屋 と呼ぶ】掲載の1978年時刻表地図にも雄冬はありませんでした。
ところが手元の『時刻表』1982年9月号には、増毛-雄冬間の 雄冬海運の定期船が掲載されていました。増毛発9:00, 雄冬発13:30の一往復。1時間15分、1000円の航路です。
呉服屋掲載の雄冬航路は、臨時便も掲載された北海道時刻表でした。

WEBを探してみたら、乗船体験の回想録がいくつかありました。
呉服屋の乗船時期は不明ですが 1980年代初頭と推測されます。菊人形さんの[91960]「30年以上前」と比較的近く、当時の雄冬の状況をよく伝えているものと考え、下記のように紹介しました。
 「石炭ストーブ」と「金たらい」が備えられた「黒光り四畳半」の船室。
 外海に出るとひどい揺れ方。これはすべての乗船記に共通。
 それでも当時の雄冬には 80戸、200人ほどが居て「雄冬小・中学校」も健在であった。
 「増毛町立雄冬へき地出張診療所」の写真。公共機関は概ね増毛町が設置したもののようです。

道路の整備により陸の孤島状態から抜け出したが雄冬の住民は激減。2013年時点で37戸、70人。小学校も2002年で閉校。増毛中心部から20分になった現在雄冬地区に小学生はいない。呉服屋はこのように伝えています。

その他の乗船記録で比較的詳しいのが 雑貨屋
これは札幌からのバスで訪れているので、1984/5/15の雄冬岬トンネル再開通の後、雄冬定期航路最終運行(1992/4/30)より前という条件から、1984-1991年の間の初秋と推定できます。
この期間の雄冬-増毛間は、定期船と増毛山道【冬季閉鎖があったが1992/10/22通年開通】の両方で通行可能でした。

1979年の雄冬
S55/3/21の乗船券 
更に前の時代 寄港地の多かった頃の雄冬航路
廃止前に毎年のように乗船

国道231号雄冬区間の概略史
浜益-増毛間は、難工事による莫大な工事費ゆえに「ダイヤモンド道路」といわれるそうです。参考までに「黄金道路」と呼ばれるのは、国道336号のえりも町~広尾町間。出典
【追記終】

地理院地図を見ると、神社・仏閣・郵便局なども増毛町。主要な産業施設である雄冬漁港も増毛町。
ところが、#15スケールで見ると、北端のオフユ川は増毛町、南端の雄冬岬は石狩市浜益区と分かれています。東方の雄冬山は境界線上。

増毛町の所属する留萌振興局と石狩市の所属する石狩振興局との境界線。
地理院地図で これを辿ると、雄冬の市街地を南端近くで分断し、「とど島」に及んでいます。
人口では圧倒的に増毛町雄冬が多数でしょうが、面積では 山地を考慮すると 石狩市浜益区雄冬の方が優位か。

[92048]菊人形さん
境界線は人間が決めたもので、何らか理由があって一部が浜益村になったのでしょうが、

とど島を通る境界線。この地の主要産業に関係する「漁業権」こそが、その理由を説明していたと思います。
雄冬漁港で水揚げされる魚は 新しい国道を通って札幌都市圏に供給されていると思います。
しかし、水揚げされた魚には「住所札」が付けられてはいないでしょう。

一方、住民の生活面は全面的に増毛町に依存していました。新聞・郵便物・米・野菜・雑貨などあらゆる物資が定期船で持ち込まれ、帰り船では魚を入れた木箱が増毛の市場に運ばれていました。
国道の開通により交通と物流の事情は大きく変りました。しかし、「遠い石狩よりも 近い増毛」への親近感は、そう簡単には変わらないでしょう。

ゴミ収集など、石狩市の行うべき住民サービスが気になりますが、増毛町に委託しているのではないかと推察。
名目上は市町村境どころか振興局境界を越える地名なのですが、行政実務上はもっと融通を利かせた扱いが行なわれ、効率化が図られているものと期待します。

道路がなかった「陸の孤島」時代の雄冬を物語る挿話。
電話回線は 雄冬を最後に北海道の自動化が完了していましたが(1878年)、敷設には海底ケーブルを使ったとか。
[92026] 2016年 12月 3日(土)22:14:21【2】hmt さん
今夜は秩父夜祭
12月3日。今夜は秩父夜祭です。祇園祭・高山祭と共に日本三大祭に数えられることもしばしば。
最近はローカルな お祭り切手 も多数発行されていますが、1964年に出たシリーズ切手の「10円」という額面が、この3つが山車屋台祭の中で占めるステータスを物語っているようです。

約1ヶ月前にユネスコの評価機関による無形文化遺産登録勧告のニュースが伝えられ、秩父鉄道の記念乗車券などの準備も進められていました。

今年話題になった「ユネスコの無形文化遺産」との関係に触れると、京都祇園祭は 2009年に既に登録済みでした。【日立風流物と共にそれぞれ単独で登録】
ところが、高山祭と秩父祭とは2011年の審査でこの既登録祭との類似性を指摘され、登録が見送られました。
そこで日本政府は方針転換し、上記4件の祭りと共通の特徴を持つ他の祭り29件を包括し「1件として提案」。

2016年に「山・鉾・屋台行事」というタイトルで登録されることになった日本の祭は、このような経過を経てユネスコ評価機関に認められた「無形文化遺産」だったのでした。

既登録案件を国レベルに拡張し再提出。これは 評価機関による勧告内容で称賛されており、「個別登録でなく一纏めにする」方針が ユネスコの意向に沿った方針転換であることが窺えます。

文化庁サイトユネスコ無形文化遺産について(2016年11月現在)には
現在22件(世界全体では336件)
と記されています。

近日中に2016年12月現在に改訂されるでしょうが、上記のような事情により、22件プラス2016年登録1件を加えた結果は「現在 21件」になると思います。

「山・鉾・屋台行事」の一覧表
その数は全国で33もありますが、せっかくの機会なので開催地と行事名の一覧表を記録しておきます。
いずれも国の重要無形民俗文化財に指定されており、文化庁サイト国指定文化財等データベースで>重要無形民俗文化財>風俗慣習>祭礼(信仰)という分類に進むと情報を得ることができます。但し「知立の…」だけは>民俗芸能>渡来芸・舞台芸に分類されていました。

*印の2件は 2009年に単独登録されていた案件でしたが、これに替えて 2016年登録「山・鉾・屋台行事」の一覧表33件の一部になりました。

青森県八戸市八戸三社大祭の山車行事---岐阜県大垣市大垣祭のヤマ(車へんに山)行事
秋田県仙北市角館祭りのやま行事---愛知県津島市と愛西市尾張津島天王祭の車楽舟行事
秋田県秋田市土崎神明社祭の曳山行事---愛知県知立市知立の山車文楽とからくり
秋田県鹿角市花輪祭の屋台行事---愛知県犬山市犬山祭の車山行事
山形県新庄市新庄まつりの山車行事---愛知県半田市亀崎潮干祭の山車行事
茨城県日立市*日立風流物---愛知県蟹江町須成祭の車楽船行事と神葭流し
栃木県那須烏山市烏山の山あげ行事---三重県四日市市鳥出神社の鯨船行事
栃木県鹿沼市鹿沼今宮神社祭の屋台行事---三重県伊賀市上野天神祭のダンジリ行事
埼玉県秩父市秩父祭の屋台行事と神楽---三重県桑名市桑名石取祭の祭車行事
埼玉県川越市川越氷川祭の山車行事---滋賀県長浜市長浜曳山祭の曳山行事
千葉県香取市佐原の山車行事---京都府京都市*京都祇園祭の山鉾行事
富山県高岡市高岡御車山祭の御車山行事---福岡県福岡市博多祇園山笠行事
富山県魚津市魚津のタテモン行事---福岡県北九州市戸畑祇園大山笠行事
富山県南砺市城端神明宮祭の曳山行事---佐賀県唐津市唐津くんちの曳山行事
石川県七尾市青柏祭の曳山行事---熊本県八代市八代妙見祭の神幸行事
岐阜県高山市高山祭の屋台行事---大分県日田市日田祇園の曳山行事
岐阜県飛騨市古川祭の起し太鼓・屋台行事---
[92002] 2016年 11月 29日(火)16:57:50hmt さん
長~い新田地名:上土新田下足洗新田川合新田請新田
[91965] グリグリさん
短い読み・長い読みの市区町村の一番最後に「新田」と称する長い読みを参考データとして掲載しています。

引用部分冒頭の記載
以下のリストの「新田」は「村」と同じ意味でもあるので、参考データとして提示します。

「新田(しんでん)」という言葉は、昔からの耕地「本田(ほんでん)」に対して「新たに開発された耕地」を意味するのが第一義でしょう。しかし、それは「地名」や「集落名」にも転用されています。

古代から営々と行なわれた新田開発は、時代により 事業主体・規模なども様々に変化してきました。
しかし、記録で目にする「新田」地名・「新田」村名の多くは、近世由来のものが多いと思います。
なお、明治以降の開発事業には「新開」という言葉が多用されました。[48709]

「新田」は「村」と同じ意味に使われると共に、「新田村」単独 又は「○○新田村」という複合形で「村」と併用されることもありました。
変遷情報検索で「新田村」を検索すると 253件が抽出され、その大部分は背景赤色の旧村です。

町村制の「○○新田村」は10件【1889年と廃止年と2回抽出されるので、実質5件】で 1889年から昭和合併までの約66年間を存続したのは、長野県の「五郎兵衛新田村」[16828]と静岡県の池新田村【→池新田町】だけでした。

これに対して旧村を含まない条件で「新田」を検索すると30件です。明治合併のなかった岐阜県の事例が示すように新田数は抽出件数より多く、「○○新田村」という表現は例外的であり、村と同じ意味で使われるのが普通であったと思われます。

それはさておき、「長~い読みの新田地名」で、ぜひ紹介しておきたい事例があります。
それは 町村制施行前の 旧村名 なのですが、今尾恵介さんの著書『地名の社会学』(角川選書, 2008)p.58に掲載されていた「上土新田 下足洗新田 川合新田 請新田」という長い連称名です。
現在は静岡市葵区流通センター付近、巴川の左岸・諏訪神社方面からの支流が合流するあたりです。
昔は沼地だったが、これを 周辺にあった村人たちの力で 耕地に変えたものと推察します。Mapion

「あげつちしんでん しもあしあらいしんでん かわいしんでん うけしんでん」「読み」が 32かな文字、漢字で 16文字という大記録の旧村名は、明治合併後も千代田村の大字名として残り、静岡市編入後も 1977年の町名変更まで存続しました。

同類で現存する大字、静岡県藤枝市にある 久兵衛市右衛門請新田 は 16かな文字、10漢字です。

今尾さんは、この「上土新田 下足洗新田 川合新田 請新田」という地名を 次のように説明しています。
上土【あげつち】村が開発した上土新田、下足洗村が開発した下足洗新田、川合村が開発した川合新田の3つの新田村があり、これらが更に 新しい村請新田 を開発したところ、こんな寿限無ばりの長名となったのだろうが、さすがに日常的に呼ぶのに不便なので「三請新田」という通称があったという。(中略)これが昭和52年(1977)まで存続していたというのは なかなか驚異的だ。

変遷情報で確認すると、町村制施行の前月に行なわれた明治合併前の旧村です。
読みは32音で変わらないが、「上土…」が「上ヶ土…」となっていました。

市区町村の変遷 静岡県より抜粋
M22/3/1【明治合併】 静岡県安倍郡上ヶ土新田下足洗新田川合新田請新田が安倍郡上ヶ土新田, 川合新田, 川合村など7村、有渡郡下足洗村, 下足洗新田など5町村他と合併→安倍郡千代田村【旧村】
M22/4/1【町村制】 安倍郡千代田村【旧村】→安倍郡千代田村【明治合併前の12町村は大字となる】
S9/10/1【編入】 安倍郡千代田村など5村→静岡市に編入
【Wikipedia:静岡市の町名の変遷より抜粋】
S49/10/1 【分割・新設・住居表示】上土新田下足洗新田川合新田請新田の一部【支流東岸】→流通センター
S52/3/9 【分割・新設】上土新田下足洗新田川合新田請新田の各一部【支流西岸】→牛田、野丈

いろいろな「○請新田」
先に「事業主体も様々」と書きました。新田開発は 幕藩体制側 自らの開発計画に基づく「代官見立新田」や「藩営新田」もありました。落書き帳記事番号4桁の時代からお馴染みの 三富新田はその一例です。

民間で資金を出し合い事業を進める「百姓寄合新田」の代表的なものが「村請(むらうけ)新田」でしょう。
複数の村の共同事業となると連称になり、その一員が新田村の場合、孫会社のような地位になる新田は「○○新田 ☓☓新田 請【=請負】新田」という長い名前になります。

地元資本がその土地の有力者の場合は「土豪開発新田」。信州の「五郎兵衛新田村」は一人でしたが、駿河国の「久兵衛市右衛門請新田」は二人の連名。
都市で蓄財した投資家による「町人請負新田」、「寺社請新田」など外部資本による新田もあります。
[91969] 2016年 11月 20日(日)17:47:27【2】hmt さん
Re:市区町村名とは?
[91965]グリグリさん
椿郷東分村(「つばきごうひがしぶん」ではなく「つばきごうひがし」がより妥当なのでは?)

私はこの村名を「椿郷/東/分村」と解しました。形式的には「椿郷/東分/村」と解釈する余地もあったのかもしれませんが、分村の「分と村の間を分ける」のは不自然であると考えました。

そして、「分村」という部分も「町村名」を構成する必須要素ですから、これを省くわけにはゆきません。
残された道は、町村名が「椿郷東分村」であると考えるしかありません。

「まち」と「ちょう」で「かな表記」の字数が変ってしまいますが、「市町村名」は あくまでも「漢字かな混じりを基本とする日本語の正書法」によるべきであると思います。

「かな表記」はあくまでも便宜上のものであり、「かな表記の字数」に囚われるのは本末転倒です。
「短い読み・長い読みの市区町村」を考える場合、長短を決める基準を「かな」字数でなく、「日本語の音数」【促音・拗音は1、長音は2と数える】に改めてもよいわけです。

長野県北安曇郡にあった自治体「大町」について説明すると、「おおまち」と発音する自治体名の中に、既に町であることを示す部分が含まれているので、屋上屋を架す「大町町」とする必要がなかっただけです。

1954年の「新設合併」に際しては、当然のことながら「新しい自治体名」を定めることになりました。
この場合、慣れ親しんだ「大町」という「地名」を語幹に残し、しかも市になったことを示す語尾を加えた「大町市」を「自治体名」を選んだのは、ごく自然なことと思われます。

山梨県南都留郡谷村の場合。明治22年山梨県令第40号には 「本年7月1日より県下甲府に市制を其他の町村に町村制を施行す」と記されています。西山梨郡の甲府には郡区町村編制法時代からの「町」が多数存在したのですが、甲府以外の地域には町が存在せず、町村制施行地域は245村になりました。南都留郡谷村も当然のように 町村制の「谷村」になりました。その際の分合・改称はなく、従って 明治22年山梨県令第41号の記載事項もありません。

その後、北巨摩郡河原部村→韮崎町(M25)、東山梨郡勝沼村→勝沼町(M29)に続いて谷村も3番目の町になることになりました。
この場合、慣れ親しんだ「地名」の「谷村」を残し、更に町になったことを示す語尾を付した「谷村町」が「自治体名」として選ばれました。

参考までに、大町・谷村と同様に 語幹部が漢字1字である自治体名 に関して、「もとの地名」を論じた過去記事を示しておきます。

[34770] hmt
【神奈川県中井町は】中村と井ノ口村の合併により成立ですから、「井ノ口」に対応する「もとの地名」は「中村」でなく、「中」になるのでしょうか。
[34776] Issieさん
どのような基準にのっとって解釈するかはそれぞれ,だと思うのですが,私は「中村」で1つの地名とみなとしてよいと考えています。「六日町」を「六日」と「町」に,「荒川」を「荒」と「川」に分解できないことはないけれど,それでは地名としては意味がないのと同じように。(中略)
地名としては,「中+村」と分解することはできず,「中村」という一塊の名前なのだと考えます。
[91959] 2016年 11月 18日(金)19:18:20【2】hmt さん
市制町村制施行当時の自治体名称
[91958] 白桃さん
それはさておき、とりあえず基本的な質問をさせていただきたいのですが、

最初は 真面目に答えず、「2件のご質問にお答えすべき当事者の立場にない。」…と交わそうかと考えました。
Q1は 「わかりきったこと」であり、Q2は 私にとっては関心外で、基本的とは考えていない質問だからでした。
でも心を改め、私の知る限りを 真面目にお答えすることにしました(笑)。

Q1 明治の市制町村制度においては、ドコが当該地を市あるいは町村と決定したのか

白桃さんはご存知の上で質問されているのだと思いますが、[34434] Issieさんの記事にあるように「内務省」です。
1889年2月2日付の 明治22年内務省告示第1号で,最初に「市制」が施行される 36市が指定されました。
これに遅れて 佐賀・岐阜・甲府・鳥取の4市が指定されているので、この制度で「最初の市制施行地」と決められた地は 合計40 になります。
その結果、市制施行地を除く3府42県【北海道・沖縄県・島嶼など法律・市制町村制の対象外とされた地域を除外】は、自動的に「町村制施行地」になりました。

内務省の中で「どのように」決めたのか? 
ずっと後ですが、[86139]むっくんさん の記事に、S18.4.17 内務省発地第三六號「市制施行詮議内規」という資料が登場しています。
その前身というか これに類する内規は、おそらく明治時代から 存在したものと推察しますが、情報公開が不十分な時代ですから、調査するのは困難と思います。

Q2 さらに言えば、町と村の名称上の区別を下したのかドコなのか

マガジン 町と村の違いの冒頭に記したことの繰り返しになりますが、「町と村の違い」 はずっと不明確です。

「市制町村制理由」に記録されている当時の考え方の要点は、[63912] okiさんの記事に引用されています。
この記事は、町村制第3条の規定「凡町村ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セズ」の存在も指摘しています。
町と村とは、「従来の区域に応じて、その名称も継続された」と考えるのが自然なようです。

実際には「区域ヲ存」せずに合併した町村の方が多いですし、従来町であったところが町村制の適用後に村になった場合【注】もありますが、農村の数に比べて町は非常に少なかったのが実態ですから(おおむね、村が約60000に対し旧城下町内を除いた町は600くらい)、旧来の町の多くがその名称を保存したでしょう。
【注】
合併に伴う例ですが、近くの埼玉県入間郡大井町他3ヶ村→大井村[78812]を挙げておきます。

okiさんの記事に示されている 大阪府西成郡難波村 明治24年の人口 26405人。これは、姫路市の 24608人より多い。
「元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同ジクセザルモノアリテ、細カニ之ヲ論ズレバ均一ノ準率ニ依リ難キモノナキニ非ズト雖モ」という建前論や人口の多寡には目もくれていません。

「町村制」という同一制度の中なのだから、実体は町場化していた難波村についても、旧名称の継続で良いではないか。
このような安易な区別が使われた実例のように思われます。
[91957] 2016年 11月 16日(水)18:04:08hmt さん
名所地名を利用した自治体名 (1)妙高
[91948]に続き、過去に存在した長い読みの市町村から題材を得た記事です。
異彩を放っているのが、リストの中で3行を占めている「みょうこうこうげん」の「妙高」です。
1955/4/10 新潟県中頸城郡妙高々原村→1956/9/30 妙高々原町→1969/10/1 妙高高原町→2005/4/1 妙高市

言うまでもなく、長野から直江津に向かう車窓の左側に特異な山容を示す成層火山・妙高山に由来する自治体名です。
妙高山は 北信五岳の筆頭に挙げられていますが、信濃ではなく越後の山ですね。
赤倉・池の平などの温泉やスキーで知られた名所・行楽地です。

この「妙高」という名を利用した自治体名称が 町村制施行の1889年に 南の長野県境近くで誕生し、100年以上かけ、その範囲を北へと拡大してきた歴史をまとめてみます。

最初は、変遷情報検索により「妙高」を調べた結果です。

異なる漢字を使った「名香山(なかやま)村」を含めて7件の自治体名が抽出されました。
何れも新潟県・越後国中頸城郡の領域にありますが、2つの妙高村は時代も場所も異なるので、以下の文では便宜上 妙高村1と妙高村2に書き分けます。

年代を追ってみると、3期に分けると理解しやすいようです。

第1期は、町村制施行の1889年から 昭和合併の1955年までの 66年間です。
妙高を使った自治体は、妙高山のお膝元である長野県境付近【旧・妙高高原町】に限られていました。

検索結果の1番:妙高村1は 明治合併で旧5村の合併により成立。存続期間約12年半。
検索結果の2番:名香山村は 妙高村1の南側・関川村との合併により成立。存続期間約53年半。通算66年。
語源的には妙高山の古名である「越の中山」が、地名二字化[84087][37482]の影響で「名香山」と表記されるようになり、これが「みょうこう」と音読され、「妙高」の字を当てる現在の名になったと考えられます。
# 妙高から北に流れる頸城の関川は濁音ですが、同じ新潟県内の岩船郡に現存する関川村は清音です。

第2期は昭和合併の1955年から平成合併の2005年までの50年間です。
妙高を名乗る自治体の範囲は北に拡大し、「妙高高原町」と「妙高村2」との二本立てになりました。

戦後の経済復興を背景にした観光産業が盛んになり、田切川より北側の自治体もブランド力のある「妙高」を名乗るようになりました。時代も場所も違うので、妙高村2と表示して区別することにします。

検索結果の3番:妙高村2は 関山駅【信越本線がスイッチバック停車】のある関山村などの 昭和合併で成立。
平成合併までの50年間存続しました。
検索結果の4番:妙高々原村は 名香山村からの改称。こちらが 本家・妙高村を名乗りたかったのだと思いますが ブランド自治体名争い に遅れをとった結果でしょう。妙高々原村の存続期間は約1年半。
検索結果の5番:妙高々原町は 関川の上流・杉野沢村との合併を機会に町になった結果です。13年存続。
検索結果の6番:妙高高原町は踊り字「々」を廃して「高」を連ねた結果です。信越本線の駅名も「田口」から「妙高高原」に改められました。
「妙高高原町」は平成合併まで35年半存続したので、昭和合併と平成合併の間の通算50年が「みょうこうこうげん」時代ということになります。

そして第3期が 10年を越えた平成合併以後の期間です。山岳ブランド「妙高」を名乗る自治体の領域は、合併により高田平野の一角にまで拡大しました。

検索結果の7番:平成合併は妙高高原町・妙高村2を新井市に編入する形になりましたが、名前はブランド力のある「妙高」を使うことになり、全国的にも珍しい「編入/改称」となりました。

妙高山のお膝元の「妙高村1」から始まった「妙高名自治体」の領域は、116年の間に 上越市と境を接する平野部にまで拡大し、更に 10年後の北陸新幹線延伸(2015)では 自治体範囲を越えた「上越妙高駅」も実現しました。
[91956] 2016年 11月 16日(水)12:18:58hmt さん
Re:大町は村?
[91951] グリグリさん
Wikiのこちらのページに、長野県の大町に関して次のような記述があります。
>1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
>4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。
(中略)
この情報の根拠を確かめることはできないでしょうか。

長野県における公文書館機能を担っているのは 長野県立歴史館です。町村制施行時の県令等の原本は、ここに保管されているものと推測します。
収蔵資料検索から『本県令達目録(明治3年~大正15年)』などの存在を確認しましたが、明治22年4月10日 大町の町制施行 を裏付けることができそうな県令・告示などの原資料名を発見するには至りませんでした。

原資料の代用となる二次資料について。
[76874] むっくんさん の労作「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」に引用されているように、『長野県現行令達類聚』(明治26年)という本の 上巻741コマ以下に 明治22年長野県令第18号 町村区域名称が収録されています。
問題の北安曇郡大町は 760コマであり、中段の新町村名には「大町」と明記されています。

これで問題解決か?
…そう簡単には問屋が卸しません。『長野県現行令達類聚』の凡例をご覧ください。
此書は明治4年11月置県以来明治25年12月迄の発布に係る本県諸令達中現行のものを類聚…
此書専ら専ら簡約を主とす 故に…改正増補の文字に改め旧文を存せず 欄外に於て其沿革のみを記載す

この『長野県現行令達類聚』は、発行時の現行実務に供することを目的とするものであり、そこに収録された「明治22年県令18号」は発令当時の内容ではなく、明治25年12月迄の改正が盛り込まれているのでした。

例えば 町村制施行 約2年後に町になった 諏訪郡上諏訪町は、明治26年発行の『長野県現行令達類聚』では 当然のように 上諏訪町として掲載されています。

但し 凡例に記されていたように、上部の欄外に「24年告示第27号を以て上諏訪村を上諏訪町と改称」との記載があり、「後発の町」であることが注記されています。

そこで、もう一度 760コマの 北安曇郡大町に戻ります。こちらには、上諏訪町に記されていたような上部欄外の記載が見当たりません。

私の調べた上記の状況から判断した結論。【グリグリさんの問に対する直接の返事にはなっていません。】

現状では、「大町は 1889/4/1に村制を施行した」と信ずるに足る証拠が証拠が 具体的に示されていない。
従って、大町は 1889/4/1に町制を施行した生まれながらの町である」とする趣旨の変遷情報を 改める必要はない。

余談:村と町との区別について

上記の本文では、便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いました。
しかし、実はこれは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
上に引用したように、「上諏訪村を上諏訪町と改称」と記されており、「町制の施行」とは表現されていません。
現行の「町になる要件」などという区別は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。
町村制施行当初、呼び名としては 宿・駅・町・村・新田・浦などを適当に使い分けていました。
しかし これは「便宜的な呼び分け」に過ぎず、制度的な区別は 本来無意味なことであると思っています。
[91948] 2016年 11月 14日(月)18:46:58hmt さん
四日市次郎丸村 過去記事紹介
11月に入ってから休眠状態だった hmt ですが、落書き帳のトップに掲げられた新規メニュー 短い読み・長い読みの市区町村を拝見して、少し眠りから覚めたので書き始めました。

最初は ウォーミングアップとして、四日市次郎丸村の過去記事紹介から。

この村の名は、読みの長さもさることながら、連称自治体名として記憶に残っています。
大網白里市誕生が期待された5年前にシリーズ記事を書いたことがあり、そこから手繰ったところ[79392]に 更に3年以上前に むっくんさん と okiさん による先行記事を引用していました。

今回の「長い読み」と合わせた記事集に仕立てましたので、関心のある方はどうぞ。

記事集 四日市次郎丸村

記事集 連称自治体名

蛇足ですが、新規メニュー:長い読みの市区町村 の中に、「1989(M22)」という誤記が多数あるようです。修正をお願いします。>グリグリさん
[91887] 2016年 10月 30日(日)22:57:21hmt さん
了解:中土佐/四万十
[91885]白桃さん
[91886]グリグリさん
(異動人口は)今回の確定地で7人に訂正されたと言うことでよろしいと思います。

私は[91872]の最後の文章を正しく理解することができなかったために、余計な記事[91883]を書いてしまったようです。
シロウトにとっては「ひねった表現」でなく、[91886]のように ストレートに書いていただいた方が有り難いのでした。
[91883] 2016年 10月 30日(日)15:02:45hmt さん
四万十川上流の町での境界修正・境界変更 これに伴う人口異動の不思議
[91872] 白桃さん
[90443]hmtさんの次の記事があります。【記事番号を修正、引用部分を省略】
[90077]【人口異動を伴う境界変更データ2011/5/18】と確報値の組替人口差は14人。これが、hmtさんの記事と関係有るのか無いのか考えているうちに頭が痛くなってきました。(笑)

書いた当人もすっかり忘れていました。改めて過去記事により経過を再録してみると、高知県高岡郡中土佐町大野見野老野(ところの)と同郡四万十町上秋丸との境界に関する問題であり、地籍簿【明治初年?】の記載と、自治体・住民を含めた地元の認識との間にズレが存在したことに起因するようです。

[76944][76945]の伝えるYomiuri Online 2010/12/2を要約
【A】中土佐町は1990年と2008年とに町境を調査。測量や公図などを基にした本来の境界線は、一般の地図に示された境界線よりも、最大で約200m東側【西側の誤記と推察】(中土佐町側)だったことが判明。これに従うと、大野見野老野地区4世帯7人の住所は上秋丸地区となる。中土佐町は2010年5月、7人に対して四万十町への住民登録変更を勧めた。

[90443]の伝える東京新聞 2010/12/16を要約
【B】7人は長らく中土佐町民として暮らし、住民税も中土佐町に納めていたが、2010年5月までに全員が四万十町に住民登録をし直した。
【C】だが「これまでの地域生活を変えたくない」などと町側に要望。両町議会は以前考えられていた通り【4世帯の東側】に境界を変更する議案を9月に可決、県議会も12月下旬に可決する運びだ。来年夏には国が新しい境界とし認める見通し。→2011/5/18総務省告示により境界変更 下記【D】(1)

【D】 平成23年面積調 p.102, 103
39401中土佐町 -0.05境界修正(2), +0.02境界変更(1)
39412四万十町 +0.05境界修正(2), -0.02境界変更(1)
境界修正(2) H23.3.18 高岡郡中土佐町長と同郡四万十町長の申請
境界変更(1)(H23.5.18総務省告示188号)高岡郡四万十町の一部を同郡中土佐町に編入

境界変更(1)の対象である2haは、Yomiuri Onlineの伝える「最大で200m」という境界線のズレと矛盾しない面積と思います。そして両町長の申請に基いて行なわれた境界修正(2)の区域5haはマスコミ報道には全く登場していない無人地帯であろうと推察します。
マスコミ報道【A】【B】が一致して伝える「7人」が正しいとすると、2011/5/18の境界変更の結果四万十町から中土佐町に異動した人口は7人のはず。
ところが、既に[90077]グリグリさんにより紹介されているように異動人口21人。
更に白桃さんの14人説[91872]も登場。
7人の住民票が中土佐町→四万十町→中土佐町と動いている間に増殖する筈もないのに…謎ですね。
[91804] 2016年 10月 22日(土)15:01:55hmt さん
道路標識の謎
[91798] じゃごたろさん
[91800] グリグリさん

茅野市中河原交差点。国道20号から県道16号へと入った先に設置されている106系標識に記された3つの行先地名。
解説と関連画像を示していただき、ありがとうございます。

今回の問題により私が認識した最も重要な知識は、「交差点に設置されている108系標識」と「交差点を過ぎた先に設置されている106系標識」との役割分担でした。
[91800]のリンク画像を借りると、国道20号中河原交差点南側案内標識には、問題の地点への左折路が案内されており、「国道152号・高遠」と記されています。
この標識は古いままで、「県道16号・岡谷」という新しい表記に変更するのが遅れているようです。

左折した先には問題の答えとなる「大鹿・長谷・高遠」という106系標識が設置されています。
中河原交差点で108系標識に従い左折した「進路が誤っていないことを確認する標識」としては、まさに「高遠」という地名が記されていなければなりません。

「交差点の後の106系標識は、交差点(手前)の108系標識の進路を確認する従属的な存在である。」

このように理解すれば、交差点前後の行先地名が高遠方面で統一されているという現実に 納得することができます。

しかし、後者の画像を見ると、進路を示す矢印に示された路線番号だけは 岡谷に至る「県道16号」に改められています。
左側の矢印に示された県道路線番号16は岡谷方面を意味し、右側の3つの行先地名は国道152号 高遠方面を意味する。
全く別の情報を共存させた標識は、利用者を惑わせるものではないか? いささか疑問を感じました。

ところで、大鹿・長谷・高遠という3地名、何れも一覧表に掲載されていない地名、つまり「一般地」です。
長野県の南部で中央構造線破砕帯を通り、通行止め箇所のある国道152号
原則として用いる重要地・主要地を選ぼうととしても思うに任せない。
その事情はよくわかるのですが、道路標識のルール3に示された原則が、空虚に感じられてしまうのでした。
[91784] 2016年 10月 19日(水)18:28:37hmt さん
Re:行き先はどこ?
[91760]じゃごたろ さん
先の地図リンクの場所に、岡谷市方面に向かう向きに106系の案内標識が設置されています。この案内標識の行き先には三つの地名が記載されているのですが、その地名とはどこでしょうか?

道路標識には疎い身でありながら、昨年のスレッドにも参加しているhmtです。

「106系の案内標識」と言われてもピンと来ないので、先ず 道の相談室・四国に掲載されていた案内標識LESSON で予習しました。
その結果理解したのは、交差点の手前や交差点部で見る108系案内標識とは、設置目的が違うことでした。
「106系の案内標識」は交差点を約150m過ぎた先に設置されており、進路が誤っていないことを確認する目的の標識(lesson02)であるようです。
表示される地名は、重要地・主要地・一般地にランク分けして限定(lesson03)。106系においては、上段より距離の遠い地名順。通常は市役所や町村役場正面地点までの距離(lesson04)。

出題された標識は、交差点を過ぎた後の進路確認が目的だから、直進方向の行先だけを考えればよい。
交差する道路の行先(例えば高遠[91772])を考慮する必要はない。
lesson04の例示には国道11号の表示があったが、今回の場合、長野県道16号が表示されているとは限らず、その起点「岡谷」までの地名に限定されることはないと思われる。

経路案内に用いる地名の表示方法によると、幹線道路に用いる地名は、重要地・主要地・一般地【ルール3「道路の分類と用いる地名」の表】であるが、106系標識には これに加え「基準地が最上段に表示される」とある。

一覧表から選ぶと、最も近い基準地「松本」が最上段。最も近い重要地「塩尻」が中段ということになる。諏訪市役所は直進経路上にないので、最も近い重要地は「諏訪」でない。
残る一つは、ルール3で第一ランクとされている主要地の「岡谷」を選ぶのが順当であろう。
「岡谷市街」や「諏訪大社(上社)」のような地名は、リストに示されていない「一般地」で、幹線道路に用いる地名としては第二ランクになるので、登場する余地がないように思われる。

ルールを正しく解釈しているか自信がありませんが、県道16号で「岡谷」、その先は国道20号で「塩尻」、更に国道19号で「松本」という「基準地まで直進するルート」を想定し、遠い方から「松本・塩尻・岡谷」と答えておきます。
[91563] 2016年 10月 4日(火)19:09:04hmt さん
杖立オフ会(3)佐賀・吉野ヶ里
日田彦山線が分れる夜明から先になると、熊本県で杖立川>大分県で大山川>三隈川と名を変えてきた川も福岡県に入って いよいよ「筑紫次郎」の本名の「筑後川」を名乗ることになり、車窓から少し北に離れます。久留米で乗り換えた後、再会した筑後川を渡ると佐賀県。9月19日は佐賀泊りです。

佐賀では 大浴場のあるホテルを選んで 予約しておきました。浴場で声をかけてきた 70代のオジサンは 運転好きで、全国を走っており、もう少し若い時には 九州から北方領土の見える地までドライブした と自慢していました。私が明日の飛行機で帰ると話したら、やはり「板付」という地名[91561]を口にしていました。

翌20日朝。ホテルのPCで空路の運行状況を確認し、無事に帰路途中であることを落書き帳に書き込み[91442]
外に出ると風は強いが、降雨なし。予定通り 吉野ヶ里歴史公園に向かうことにします。
19日に吉野ヶ里を訪れたスナフキんさんは、運悪く本降りの雨に見舞われたのですね。ML[off:00282]

体力と時間に余裕があれば、広い園内を巡りたいところですが、クニの首長を埋葬したと思われる 北墳丘墓 など限られた対象以外は バス車窓からの遠望だけで済ませ、後は想像の翼に任せることにしました。

おまけ:「ヶ里」地名について

地名コレクションの対象にはならないと思いますが、「ヶ里」地名の変遷情報検索結果です。

1889/4/1市制町村制施行時の旧村【合計17ヶ里村】の内訳:
佐賀県神埼郡神埼村の旧村:神埼郡田道ヶ里【1ヶ里】現・神埼市
佐賀県小城郡三日月村の旧村:小城郡 三ヶ島ヶ里, 長神田ヶ里, 織島ヶ里, 道辺ヶ里, 金田ヶ里, 樋口ヶ里, 久米ヶ里, 石木ヶ里, 甲柳原ヶ里【9ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡牛津村の旧村:小城郡 勝ヶ里, 乙柳ヶ里【2ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡三里村の旧村:小城郡 池上ヶ里, 栗原ヶ里, 船田ヶ里【3ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡晴田村の旧村:小城郡 畑田ヶ里【1ヶ里】現・小城市
佐賀県杵島郡錦江村の旧村:杵島郡 戸ヶ里村【1ヶ村】現・白石町

最後の杵島郡「戸ヶ里村」を例外として、「ヶ里」の後には「村」が付いていません。
旧村の「ヶ里」は地名の一部というよりも、「村」「町」「宿」などと同様に「集落の性格?」を示す接尾語であるように思われます。

村名ではありませんが、白石町・廻里江川(めぐりえがわ)付近の 戸ヶ里の他にも 現役の「戸ヶ里」を見付けました。それは 筑後川の河口近く、佐賀市の早津江川[91405]沿いの 戸ヶ里港で、佐賀県道313号 飯盛(いさがい【難読】)戸ヶ里港線が通じています。

また、神埼警察署の所在地は神埼市神埼町枝ヶ里です。
探せば、まだまだ「ヶ里」地名がありそうです。
[91562] 2016年 10月 4日(火)18:56:29hmt さん
杖立オフ会(2)ひぜんや・杖立から日田へ
「ひぜんや」の館内案内に、杖立川右岸に立ち並ぶホテルの写真があります。このページの一番下にある立面図と対比すると、写真左中程の玄関のある階が5階で、立面図は山を背にした道路側からの図【川沿いの写真と左右逆】であることがわかります。
写真の最も右側に見える建物が私達の泊った熊本館であり、高いエレベーターとその左の大分館【屋上に機械室】との隙間に、記念撮影をした両国橋があるものと推察します。両国橋の下を流れて杖立川に合流する小川が県境でしょうが、合流点の存在を推察させるものは、護岸の僅かな隙間だけです。地理院地図

この写真を見ると、入口・フロントを含む「ひぜんや」の大部分は大分県側であるように見えるのですが、ホームページに記された住所は、「〒869-2503 熊本県阿蘇郡小国町大字下城4223番地」となっています。この番地で住所検索(mapion、いつもNAVI)して地図上に示される位置に存在するのは、「ひぜんや」の上流側にある和風別館「大自然」でした。温泉街全体としては「熊本県の杖立温泉」で通用しているようであり、このことが住所表記にも反映しているのでしょう。

多忙なお仕事の中からぎりぎりの時間を作って参加された中島悟さんを含め 17人全員が揃い、大分県で宴会。
熊本県宿泊は学生時代の1954年以来62年ぶり【大分県は45年ぶり】。後に公害病で有名になった化学会社のクラブで、水俣湾の魚料理を御馳走になったことなど、近況でない報告をしたようです。

その後、熊本県に移っての二次会。デスクトップ鉄さんからJR駅三番勝負[91443]の賞品【原田勝正著:駅の社会史(中公新書)他】をいただきました。

最初に答えたのが問二の三鷹[91474]であったのは、出題駅・国分寺から出ていた東京競馬場前への支線【砂利鉄道[41599]由来】を思い出し、その近くにあり、戦後の短期間だけ存在した武蔵野競技場前への支線[75152]をすぐに連想した結果です。
もちろん、他の出題駅に関係する広島-宇品間[61378]などの条件も考慮した解答です。
…というわけで、単に鉄道路線に関する知識というよりも、その社会的背景も考察した上での 落書き帳記事に裏付けされた解答 でした。この機会に関連記事をリンクしておきました。
共通項に含まれていた「戦後廃止」とか「盲腸線」とかいう条件は、意識外のままセーフでした。

宿泊した熊本館2階からは、杖立川を間近に見ることができました。と言っても、それを実感したのは翌朝。

大分館6階の朝食の席で、ソーナンスさんに声を掛け、途中までの同乗をお願いしました。
ソーナンスさんは、個人的には阿蘇から熊本市内方面へ抜けて帰ろうかなとも思っておられたようでしたが、結局のところ hmt・デスクトップ鉄・EMMの3人が日田まで送っていただくことになりました。

前日は通過しただけの天領日田の街。町並み保存が行われている 日田市豆田町伝統的建造物群保存地区に行くには、市内循環バス(ひたはしり号)が運賃100円の実験運行中。これを使って駅前から豆田上町通りに出て、北へと歩きました。小雨気味ながら、傘を使うほどでもなし。花月川まで行き、一つ下流の御幸橋から豆田御幸通りを南下。

何気なく 日田醤油の 天領ひな御殿 に入ってみましたが、三千体以上という その量に圧倒されました。
醤油屋さんが無料で公開していた展示物から、天領日田に蓄積された財力と文化を感じた次第です。但し、チラシでは有料300円となっていたので、入場無料は期間限定だったようです。

いずれにせよ、じっくり探せば いろいろな宝を見ることができる街という印象を抱いた日田です。
平成の大修理中の重要文化財 草野家住宅も、公開スケジュールと合えば見たいところでしたが、これはダメ。
バスの時刻に合わせて 天領日田資料館を出て駅に戻ります。久留米行きのDCに乗ると、YASUさんに出会いました。
[91561] 2016年 10月 4日(火)18:44:47hmt さん
杖立オフ会(1)杖立への道
熊本大分県境の杖立温泉(ひぜんや)。ここが今年のオフ会開催地の有力候補として グリグリさんから提示されたのは 2016/6/6、メーリングリスト[off12:00162]によるものでした。
熊本大分地震被災地支援の目的で、開催地を被災地にしてはどうかという話が出ました。

私としては 杖立温泉は その名を聞いたことがあるという程度で、2県に跨る「ひぜんや」の名も初めて知ったのですが、被災両県の県境にある宿での開催については もちろん大賛成。当選確実を信じて さっそく自分なりに調べた情報も落書き帳に書き込みました。

これが 杖立オフ会事前書き込み の第1号なのですが、正式のアンケート告示[90573]よりも先走った記事になってしまいました。

[90564]
「肥後国と豊後国」に跨るのに 何故か「ひぜんや」。

既に和倉温泉の加賀屋については、[73144]白桃さん:能登にあるのに加賀屋とはこれいかに・・・
[73164]EMMさん:創業者が加賀国の出身
という問答がなされており、その逆の組み合わせである粟津温泉「のとや」旅館にも言及されています。
今回、現地で「ひぜんや」の由来を尋ねていませんが、この疑問は解けているのでしょうか?

落書き帳の過去記事に「ひぜんや」が登場するのは、10年以上前の [47510] 有明つばめ さん が最初でした。
「熊本館」「大分館」…はて、どちらの建物に泊まったかいな…その辺がよく思い出せません。

オフ会開催地としては、「今年はとは言わないですが」と断りながらも、早くも 2009年に 熊虎さん[69927]が提案。

余談ですが、2009年オフ会は 岡山市の政令指定都市移行を記念して苫田温泉・乃利武で開催。
斜行エレベータで7階から3階へ「上がった」り,訳の分からない構造[73356]の温泉大旅館でしたが、MasAkaさん[91459]により その後を知り、再び驚愕。
乃利武の公式サイトを探そうと思ったら、何と2013年に自己破産申請により閉館していたことが判明。嗚呼……)。

2009年オフ会では、有志9人による「岡山県石島・香川県井島 県境踏破」もありました。落書き帳のスターである この「県境の島」も 2011年8月の山火事で被災[79053]。過去のオフ会を振り返ることにより、改めて歳月の経過を実感しました。

そう言えば、岡山オフ会では、落書き帳の歴史に残る名作・グリグリ劇場も誕生しています。

岡山のことはさておき、今年の計画に戻ると、アンケートの結果、圧倒的な支持により杖立に決定。
時期は例年より早い9月18日支持が多数票となり、「ふっこう割」が利用できることになりました。
会場近くの国道通行止めに伴う迂回ルートとか、台風シーズン只中などが心配のタネ。
グリグリさんにとっては 準備や対策に大変だったことと察しますが、こちらは成り行き任せ。

独り暮らしご隠居の身は、日程の自由度が大きいのですが、それでも大まかな計画を立てます。
九州応援の趣旨を込めて、往復共にスターフライヤーの福岡空港便を利用。先ず航空券を確保。
杖立の後、九州のどこかで一泊となると、やはり唯一宿泊していない佐賀県を選択することになります。
体力の衰えを自覚し、欲張らずに旅をすることにしましょう。

福岡から日田・杖立・黒川温泉を結ぶ高速バスは、結局のところ杖立経由の本来のルートで運行することができませんでしたが、片側交互通行ながら、乗用車とローカルバスの通行が可能な状態にまで復旧し、広域農道経由の迂回ルートに頼らないで済むことになったのは 幸いでした。
こちらが「杖立への道」確保に気を揉んでいた割には、当の旅館側は 公共交通機関の運行事情のことなど あまり心配せず、悠然と客を待っていたようですね。

オフ会開催の9月18日。羽田からの飛行は順調。但し窓から見えたのは雲だけでした。
現在では専ら「福岡空港」と呼ばれているようですが、九州とは縁の薄い私でも、1972年に米軍から返還される前には「板付基地」と呼ばれていた飛行場であったことを覚えています。

「板付」の名は、弥生時代を主とする遺跡の存在でも知られていますが、板付遺跡は 飛行場から少し離れた南の方にあるようです。板付基地のあった場所は、1933年に福岡市に編入する前は【席田(むしろだ)郡[91558]>】筑紫郡席田村で、1944年(戦時中)に陸軍が作った「席田飛行場」が前身だそうです。街ネタ 福岡空港
#
厚木も横田も基地から少し離れた「よその地名」[22152]でしたが、板付も同類のようです。

それはさておき、福岡空港からは日田行きの高速バスがほぼ定刻に発車。しかし、間もなく豪雨の洗礼。
いよいよ台風16号の影響と直面することになりましたが、旅程が飛行機でなくバスに移ってからだったのは幸いでした。九州道から大分道とずっと大降り。
杷木で高速道路外に出て停車。ここでデスクトップ鉄さんと同じバスに乗車していたことに気がつきました。

大雨もこの頃になると収まっています。日田から同乗をお願いしてあるスナフキん号は16時頃なので、1時間以上の余裕がある。日田市内を少し見ることができるかと思っていたのですが、鉄さんのアドバイスに従い下車は取りやめ。
通信手段を持たないhmtは知りませんでしたが 鉄道が遅れており、日田駅を先発するJOUTOU号に変更することになり、かすみさん、鉄さんに加えて、3人目の同乗者として杖立に向いました。
報知されていたように工事中の区間もありましたが、それでも「ひぜんや」に早く着き、ゆっくり入浴することができました。
これも、鉄さんに出会い、JOUTOUさんに乗せていただいたおかげと感謝しております。

オフ会の都度、皆さんのクルマに同乗させていただいているhmtですが、JOUTOUさんには会津[79711]、石和[86778]、氷見[89247]、杖立と4回もお世話になりました。ありがとうございます。
[91515] 2016年 9月 26日(月)18:52:19hmt さん
謎の駅名・中部天竜(続続編)
[91511] デスクトップ鉄 さん
「大事典」によると、「なかっぺ」から「ちゅうぶ」への改称は、三信鉄道買収時(1943/08/01)となっています(鉄道省告示204号)。
(中略)
#鉄道省告示204号は、国会図書館のデジタルアーカイブで読めます。
官報(昭和18年7月26日)のコマ番号3からの記事で、買収した飯田線の営業開始の告示です。中部天龍にちゆうぶてんりうとフリガナを振っています。ここでまた新たな疑問が。「大事典」も中部天竜としていますが、天龍が天竜に変わったのはいつなのか。

昭和18年7月26日鉄道省告示第204号により、私鉄買収【飯田線関係4社、千歳線関係1社】と昭和18年8月1日からの運輸営業開始が告示され、飯田線の中部天龍(ちゅうぶてんりゅう)駅が 4/15コマに記載されていることを確認しました。

これにて、[43937]で記した 三信鉄道の中部天龍(なかっぺてんりゅう)→鉄道省線の中部天龍(ちゅうぶてんりゅう)という変化を 公式文書で確認することができました。感謝。

さて、天龍→天竜については、『時刻表名探偵』(石野哲 1979)p.240-【字体の話】にあるように、昭和29年(1954年)の当用漢字補正資料に基いて国鉄が字体を変更した結果であると思われます。
少し長文ですが、石野さんの本を そのまま引用しておきます。
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「條」は「条」の旧字体である。四条畷駅と五条駅の開業したのは戦前だから、鉄道公報は当然「條」で出ている。戦後の昭和21年11月16日「当用漢字表」が告示されたが、これが新字体となるのは24年4月28日の「当用漢字字体表」の告示によってで、国鉄の駅名も、当用漢字にある漢字は、自動的に新字体に読み替えられた(公報を出し直してはいない)。四條畷、五條も、四条畷、五条となった。さて市名の方だが、五條市の市制は昭和32年、四條畷市は45年で、新字体以後のことである。従って、意識的に「條」の字で市名を決めたことになる。中條、東條という苗字もあるから、「條」と「条」を別字と意識する気持ちもわからないではない。
戦後の開業なのに、意識的に旧字体を使っているのは山陰本線餘部(あまるべ)(餘は余の旧字体)。同じ兵庫県の姫新線余部駅と区別するためで、例外中の例外である。(余部=昭和5年、餘部=昭和34年)。
「竜」は当用漢字ではないが、当用漢字補正資料(昭和29年3月15日)で、将来当用漢字に追加すべきものとされた字=通称「補正漢字」(告示までいかなかったので法律上の効力はない)の一つ。これによれば、「竜」の旧字体が「龍」となっている。国鉄ではこれにならい、戦前に開業した、天龍川、中部天龍、天龍峡、龍王、龍野、本龍野、龍田、肥前龍王、潜龍、龍田口、龍ケ水は、すべて龍の字を竜に読み替えた。戦後開業の「竜」のつく駅は三つあるが、これは鉄道公報を尊重して、龍岡城、龍ケ森、九頭竜湖と使い分ける。結局、「竜」12対「龍」2。
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前述のように、1934年三信鉄道開業時は佐久間駅で、所在する佐久間村からの命名です。なぜ、これを中部天竜に改称したのかも疑問です。中部(なかっぺ)村は、1989年3月の市町村制施行時に佐久間村を構成した旧村ですが、25000分の1地形図の 図幅名に使われるくらい著名な地名だったのでしょうか。

確かに、三信鉄道の駅が最初にできた地名は静岡県磐田郡佐久間村半場であり、初代佐久間駅は村名に基づくものだったでしょう。
しかし、鉄道は近々延伸され、第2の駅を佐久間にも作ることを考えると「佐久間」の駅名に固執することは賢明でない。
改称するとなると旧村名の「半場」か? 地形図を見ると 天竜川右岸の半場は大部分が山地で、平地は限られている。
駅のある半場の対岸・天竜川曲流部にある中部(なかっぺ)も広い平地とは言えないが、佐久間・浦川と結ぶ街道が通っており、拠点性がある。そんなことから駅名に選ばれたのではないでしょうか。

このようにして、1935年5月には早々と中部天龍駅への改称が実現。でも1936年11月の延伸時に佐久間に作られたのは佐久間水窪口停留場という名でした。これが1941年2月に貨物も扱う一般駅に昇格後、2代目佐久間駅を名乗るようになったのは、1941年11月でした。

混乱した過去記事整理の意味も含め、この駅と隣駅に関係する変化を年表に記し、まとめとします。

1934/11/11 三信鉄道延伸開業:三信三輪【現・東栄】- 佐久間【現・中部天竜】間 (11.1km)
1935/05/24 改称:【初代】佐久間→中部天龍(なかっぺてんりゅう)
1936/11/10 延伸開業:中部天竜-天龍山室【1955廃止】間(7.2km)
  この時佐久間村佐久間に佐久間水窪口停留場開業
1937/08/20 大嵐-小和田間 (3.1km) を最後に三信鉄道全通。私鉄4社により豊橋-辰野間全通。
1941/11/15 改称:佐久間水窪口→【現】佐久間
1943/08/01 伊那電気鉄道・三信鉄道・鳳来寺鉄道・豊川鉄道を買収国有化。鉄道省飯田線
  4/15コマ:中部天龍ちゅうぶてんりゅう、佐久間さくま
1949/04/28 当用漢字字体表【該当する文字は、これに基づく新字体に変更】
1953/04/16 電源開発【Jパワー】佐久間発電所着工
1954/03/15 当用漢字補正資料に基づく新字体への変更:中部天龍→中部天竜
1955/11/11 佐久間ダムで水没する 旧線・佐久間-天龍山室-大嵐間 (13.3km) を廃止
  東側の水窪谷を遡り大原トンネルで戻る新線・佐久間-水窪-大嵐間 (17.3km) が開業
1956/04/23 佐久間発電所運用開始
1991/04/21 東海旅客鉄道が佐久間レールパーク開館
2009/11/01 佐久間レールパーク閉館
[91507] 2016年 9月 25日(日)23:54:30hmt さん
謎の駅名・中部天竜(続編)
[91503] Takashiさん
駅名の接頭語ではないのですが、飯田線「中部天竜駅」の「中部」が登場したので、フォローしておきます。
タイトルに続編と書いたのは、2005年の過去記事[43937]を踏まえたものだからです。

[91503]に記されているように、「中部」は駅の対岸にある地名です。
地名としての読み方は、現在では「なかべ」が普通に通用しているようですが、元々は[43384]で示されている「なかっぺ」が現地での正式の読み方であったようで、25000分の1地形図の 図幅名は 「なかっぺ」となっています。

開業当初は「なかっぺ」と読んでいたらしいのですが、

Wikipediaにあるように、1934年に三信鉄道が開業したした当初は、【初代の】佐久間駅で、翌年に中部天竜駅(なかっぺてんりゅうえき)に改称したようです。
訓読みの「なかっぺ…」から音読みの「ちゅうぶ…」に改称した時期について、[43937]では戦時買収に伴うものと記しましたが、Wikipediaによると 1942年【買収の前年】届出とあり、出典も記されていました。

タイトルは、落書き帳にも度々登場している『時刻表名探偵』(石野哲 1979)p.218から借りたものです。
この本には、逆順のように思われる 中部【地名】天竜【修飾語】の語順の謎が示されていますが、名探偵も「…謎は残る」と結んでいます。
[91442] 2016年 9月 20日(火)08:05:21hmt さん
無事に帰路途中
hmtです。
帰路途中、佐賀のホテルでPCが使えたので無事を連絡しておきます。
午後に空路帰宅する予定ですが、たぶん問題ないでしょう。
[91406] 2016年 9月 16日(金)19:05:48hmt さん
地域創造に挑戦する大山町
[91405] 杖立川 を書く過程で眺めていた地図で、杖立と日田の間にある一つのダム湖が、なんとなく目に止まりました。

ダム便覧で 調べてみると、大分県日田郡大山町は 村起こしで有名な「一村一品運動」発祥の地でした。

大山町の立地は山間部で稲作の好適地ではない。でも頭を使って特色ある農作物を創造すれば、豊かな未来を実現できるのではないか。
50年以上前の話になりますが、1961年に始めたのが「ウメ・クリ植えてハワイへ行こう」というキャッチフレーズで始めた特産物の栽培、加工による村起こし運動でした。その成功を見た当時の大分県知事平松守彦により、「一村一品運動」は大分県全体に広がりました。

このような実績のある地域ですが、筑後川水系は1953年の大水害(梅雨前線)を始めとする治水問題もかかえ、国土利用を計画するにあたってのダムのあり方など、解決すべき問題が残されていました。
赤石川沿いの谷間にあった大山町が選んだ方策は、地域を良くする手法として国の事業を取り入れること。町としてはダム造りが目的なのではなく、地域振興のためのダム建設。

こうして 1979年には ポスト「ウメ・クリ運動」としての水資源対策活動がスタートしました。
1991年の台風による風倒木被害に教えられた水源林づくりを長期計画で推進。大山町の水の最大利用者である福岡市との協力体制。ユニークな発想による「おおやま生活領事館イン福岡」を実現。
河川維持流量を確保して、響き鮎の育つ大山川を再生。ウメ・クリ運動の原点とも言える「梅文化」をテーマにした観光施設を運営する会社組織。そして次世代の育成。

杖立訪問を機に調べた結果、偶然出会った 三笘町長の講演を題材にした 大山町の地域作りの概要です。
私の理解は未熟ですが、各地での地域振興の参考になれば幸いと考え、記事にしてみました。
末尾の まとめページをリンクしておきます。関心のある方は、全文にあたってみてください。

落書き帳関連ではダム湖コレクションへの情報提供>美濃織部さん
ダム湖の名は「烏宿湖」です。出典は冒頭付近でリンクしたダム湖便覧。
烏宿湖 うしゅくこ 筑後川水系赤石(あかし)川 大分県日田市大山町 大山ダム

もう一つ、熊本県側で偶々目についたダム湖
斑蛇口湖 はんじゃくこ 菊池川水系迫間川 熊本県菊池市龍門 竜門ダム
[91405] 2016年 9月 16日(金)15:19:05【1】hmt さん
杖立川
オフ会を前にして、天気を気にしながら、開催地付近の地理の「にわか勉強」を始めた hmtです。

「杖」を頼りに歩行する身としては、「杖立」という地名が 気になります。
甲州や四国には「杖立峠」があるようだが、九州の杖立の由来は?
温泉の薬効で寝たきりの人が杖で立てるようになったとか、各地に残る弘法大師の逸話とかもあるようだが、どうも温泉の宣伝くさい。

私が自分勝手に尤もらしいと思っている自説を紹介してみます。

大分県豊後国日田郡。東でなく、西の有明海に注ぐ筑後川の流域という異色の位置。
日田盆地には、大別して3方向から川が集まっています。一つは久住山北麓から日田へと西流する玖珠川で、かつては 流路の長いこの川が 筑後川の本流とされていたようです。

現在の本流は、阿蘇外輪山北側から 熊本県内を北西へと流れる杖立川です。
杖立川の上流を辿ると、南小国町東端付近から国道442号沿いに 田の原川 という名で流れており、小国町宮原で 志賀瀬川 を合流した後で 杖立川 という名になります。杖立温泉の少し先で 津江川 を合流していましたが、松原ダム完成後の合流点付近は 梅林湖 になっています。
松原ダムを過ぎると 大山川 という名になり、途中で大山ダムから流れてくる 赤石川 と合流し日田盆地に集まります。
川の本流の選び方はいろいろあるようです。阿賀野川の記事[67150]では 勾配説を支持しましたが、筑後川の場合は 流域面積の広さから 大山川・杖立川が本流に選ばれたようです。

3番目は、主として津江山と呼ばれた日田郡南西部の山地の水を集めてくる 津江川 です。その上流は鯛生金山[91329]のあった中津江村や、上津江村の 川原川 などで、下筌(しもうけ)ダムの蜂の巣湖[91229]を経て 前記松原ダムの手前で杖立川に合流します。

その 丁字形合流点の姿に基づいて、阿蘇の北から流れてきた方を「津江(つえ)竪川(たてかわ)」と呼んだのではないでしょうか。
参考までに、川の「たて・よこ」については、[75307]の末尾に説明してあります。

「杖立」に関する詮索はさておき、筑後川の範囲を国土交通省の地図で確認してみました。
筑後川河川事務所によると、「その源を熊本県阿蘇郡 瀬の本高原 に発する筑後川」と記されています。

つまり、筑後川とは 南小国町東端付近の高原から発する「延長143kmの幹線流路全体が筑後川である」ということのようです。
筑後川管内図indexは4段5列に分割されており、 杖立温泉は3段4列目の14図になります。
管内図 14を開いて見ると、その右下付近、赤丸「小国」の上流側に「筑後川」の名が明記されていました。普通の地図に記されている名は、田の原川→杖立川→大山川→三隈川→筑後川と変ってゆくのですが、河川管理上は一貫して「筑後川」ということなのでしょう。
【追記】
管内図の凡例(10図):赤丸は雨量観測所、緑丸は名所旧跡

三隈川→筑後川はアーカイブズ 場所によって名前の変わる川にも収録されていますが、日田の上流で更に3種類もの違う名前が使われているのは、特筆に値すると思います。

なお、管内図の筑後川源流部は3段5列目 15図の下方、南小国町東端付近です。少し西の国道442号沿いには赤丸「黒川」があり、こちらが福岡からの高速バス終点と推察します。【14図右端の緑丸「黒川温泉」は誤記?】

今回は日田盆地よりも上流部を話題にしました。
そこには、下流部の平野を蛇行する常識的な「筑後川」とは 大きく違う  林業地帯が広がっていることを認識しました。
国土交通省の 明日を拓く川~筑後川 には、歴史・地域・自然・災害の4章に亘る解説がありました。
最後に、本来の?筑後川に関する余談を2項目だけ付属しておきます。

1 早津江川【管内図11】  河口近くにも津江川の仲間がある? [42269] 2県にまがたる中州

2 ちっこ川 かぱぷうさんのメーリングリスト[off:00066]により、この呼び方を知りました。
[91353] 2016年 9月 7日(水)18:25:59hmt さん
品川新駅(仮称)
昨日、JR東日本から「品川開発プロジェクトにおける品川新駅(仮称)の概要について」の 発表がありました。

ニュースでは駅舎デザインが話題になっているようですが、オリンピックを考慮した 2010年春の仮開業、品川開発プロジェクトの街びらき時の 2024年頃の本開業 というスケジュールも、今回発表の目玉でしょう。

2012年の新駅計画発表時から議論沸騰が伝えられる「駅名」については、今回の発表では全く触れておらず、「品川新駅(仮称)」と呼んでいます。

参考までに、この新駅開設に関係する過去の「いきさつ」を簡単に記しておきます。

上野以北と東京駅以南に直通する中・長距離旅客列車の運転は、占領下の専用列車[51787]に始まり、その後「湘南日光」などの観光列車や高崎線・東海道線の中距離電車なども運転されました。しかし、線路容量の制限から極めて不十分な状態のままで、東北新幹線の上野・東京間延伸工事を迎えることになり、1970年代には事実上この区間の直通列車はなくなりました。
その後、東北新幹線も東京駅に達し(1991/6/20)、乗換は必要なものの、新幹線による長距離列車の南北連絡を実現しました。
在来線の中距離電車も、【東京・上野は通らないものの】湘南新宿ライン開通により南北間直通を実現しました(2001/12/1)。

新幹線工事前に細々と行なわれていた上野・東京間の中距離電車直通。これの再開ではなく、改めて本格的な直通を初めて実現させたのが、2015/3/14に開業した上野東京ラインです。
その影響の及ぶところは、乗客の利便向上【旧始発駅利用者の利便は低下】だけではありません。

東海道の湘南電車と東北(宇都宮)・高崎線の中距離電車をスルー化する事業の一環で,田町-品川間に広がる車両基地が不要になるのでここを再開発するのに関連した計画
この点が重要なわけです。
2012年正月の第1報を伝える 落書き帳記事をご覧ください。
その後で発表された「特定都市再生緊急整備地域」[80215]に指定された品川地区は勿論のこと、上野の地位にも影響します。
[91332] 2016年 9月 5日(月)15:36:18【1】hmt さん
小田原市・南足柄市の将来のあり方に関するアンケート
[91331] 山野さん
此処を見て変遷(予定)情報見るも・・(中略)
小田原市・南足柄市の将来のあり方に関するアンケート
既に結果が公表されてはいるものの、誰も書いてない様なので載せて置きます。(中略)
(合併等が必要:41.01%)
(どちらかと言えば:32.22%)

最初は、「誰も書いてない様なので」について。
変遷情報の詳細に未成立の合併情報が記載されているのですが、発見されていなかったようです。
これは誰でもやる見落としですが、順序として 一応 所在を明らかにしておきます。

【追記】山野さんにお詫び
[91333] グリグリさんの記事により、山野さん自身により既に削除されている記事[91331]は、アンケート結果の公表を記した「2016/8/16付変遷情報」の更新よりも先であったことを知りました。従って、上記の部分に記した「発見されていなかった」「見落とし」は事実でなかったようであり、これにより気分を害されたことをお詫びします。
更新履歴は見ていなかったので、[91331]と同日であることに気付きませんでした。>グリグリさん
【追記終】

市区町村変遷予定情報都道府県別一覧に次の項目あります。
18 神奈川県 (日付:なし)変更種別:未定 ○○市 小田原市, 南足柄市, 8町村を列挙 詳細

詳細の 2016/2/3 に「合併を含め広域連携の可能性を探る2市協議会を10月に設置する」記事があり、最後の 2016/8/16 にアンケート結果の公表が記録され、次のような表現になっています。
合併、中核市移行、広域行政について両市で検討協議することに賛成する意見が多数を占めた。

ここでは「賛成多数」と簡略化されています。詳しく知りたい読者のために、敢えてアンケート結果の一部を小田原市の資料に基づいて再録すると 次のようです。
-------------
問3 「合併」「中核市移行」「広域連携」について検討協議することについてどう思いますか
1 必要である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 41.01%
2 どちらかといえば必要である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32.22%
3 どちらかといえば必要ない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5.30%
4 必要ない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4.99%
5 わからない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14.97%
※ 未回答・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1.51%
-------------

情報は 詳しく伝えた方がよい というものではなく、読者の為を考え、簡略化して伝えることも必要です。
しかし、簡略化したために、誤解を与えることになっては困ります。

今回のアンケートについて言えば、そののポイントは「賛否の数字」よりも、市民が要否について回答した「設問3の対象」にありました。
[91331]で記された「合併等が必要:41.01%、どちらかと言えば:32.22%」という表現では、「等」を見落とした読者により、「合併賛成が7割もあったのか」と 誤解されるおそれがあります。

「合併」「中核市移行」「広域連携」について検討協議すること
という設問3の対象を安易に簡略化するのは危険です。

これから先、簡略化した情報提供をしていただく際の参考になればと考え、敢えて一筆を記しました。ご了承ください。
[91329] 2016年 9月 4日(日)16:33:32hmt さん
金山
[91324] 伊豆之国さん
[91327] Takashiさん

「金メダル」がランキング最高位を示す言葉であることは、この落書き帳の十番勝負などでも使われています。
金メダルの元祖?であるオリンピックの金メダルは、銀製メダルの表面に6g以上の金メッキしたものと定められているとか(規則70 付属細則2-2)。

それはさておき、金属としての素材価格は金と同水準の貴金属【白金やロジウム】もあるのに、それらを遥かに凌ぐ人気を集めているのは、金独特の「黄金色」と、金貨や工芸品として親しまれてきた?歴史の重さがあるためと思われます。

その金を産出する国と言えば…反射的に南アフリカと答えてしまうのは、10年前の知識でした。
金の国別産出量の推移を見たら、中国が躍進していることに驚きました。
世界全体の生産量も年間3000tで、白金の200t、ロジウムの30tとは桁違いの規模であり、旺盛な需要に応えています。

では、マルコポーロが 黄金の国ジパング と紹介した日本の現状は?
2013年の世界ランキングを見ると、金の生産量は世界40位の 7.4tでした。
生産量には廃棄物リサイクルや輸入鉱石からの生産量も含まれるでしょうから、国内金山からの産出量は これより少ないと思います。

その中で年間約7tの金を算出しているのが、鹿児島県伊佐郡菱刈町から 2008年に伊佐市になった菱刈鉱山です。規模は外国の鉱山よりも小さいながら、鉱石1tに平均40gの金を含む 高品位の鉱石を産出しています。

住友金属鉱山の特設ページには、日本の主要金山における産金量累計値(2015年3月末現在)がありました。
これによると、菱刈は長い歴史を持つ佐渡が閉山までに算出した金の2倍半以上を産出して稼働中。
3位の鴻之舞鉱山(北海道オホーツクの紋別市)も住友で、1955年の約3tが最高。
4位も鹿児島県で、三井串木野鉱山は、2009年に採掘再開とあり、また薩摩半島南端に近い知覧町【2007年南九州市】に赤石鉱山を操業し、金鉱石の採掘を行ない、国内の銅製錬所に販売しているそうです。

5位の鯛生(たいお)金山も、昭和初期の全盛期には東洋一の金産出量で、従業員3000人の大金山だったそうです。
1972年閉山となった鯛生金山跡は、佐渡鉱山と共に経済産業省による 近代化産業遺産群33 の一つ「19.金山」として認定されました。
鯛生金山の年間産金量は1938年に2.3tを記録し、佐渡を上回る日本一の金山になった記録もあります。リンクの 68/121コマ。

鯛生金山の跡は、地底博物館・鯛生金山 として公開されています。
その所在地は日田市中津江村[91229]。9/18にオフ会が開かれる杖立温泉から梅林湖・蜂の巣湖沿いに遡り、国道442号に出た地点から西に進んだ大分・福岡県境付近です。

ここで会うたも何かの縁 遊んでいってくんなまし
オフ会にクルマで参加する方の中で、翌日に 鯛生金山跡を地底探検してみる気になった方が出現するようならば、ぜひとも連れて行っていただきたい。そんな下心も含めての金山紹介でした。
[91310] 2016年 9月 1日(木)19:19:45hmt さん
固有名詞の表記
今年からマイナンバー制度の利用が始まっています。…と言っても、これまでのところ、生命保険会社から通知カードのコピー送付を依頼された程度だったのですが、最近 銀行取引に関連し、口座名義人、即ち「人名表記」の変更を求められる事態を経験しました。
これが、マイナンバー制度開始に伴うもののようなのです。

もちろん、こちらのサイトの対象である「地名表記」の問題ではないのですが、固有名詞としては同類なので、無関係とは言えないように思われたので、これを機会にご紹介しておきます。
全国銀行業界のページによると、ある種の取引を行う際に「マイナンバーの提示を伴った本人確認」が求められており、それに対応する趣旨のようです。

私の場合、もちろん偽名やニックネームで口座を作っているわけでなく 本名の口座なのですが、その中の1文字が戸籍に記載された旧字体でなく、新字体【当用漢字→常用漢字】で通帳に印字されていました。
何十年も前に開いた口座であり、当時の通帳に使われた字体の確認はしていませんが、銀行業務が電算化した初期には 使える漢字が限られており、戸籍【昔は手書き文字】と同じような旧字体が使えなかったので、世の中に広く使われている当用漢字体による印字が 自然に採用された可能性が大きいものと推察します。

その後、電算機の性能とそれが利用される社会環境は大きく変りました。住民基本台帳や戸籍簿の電算化だけでなく、国語政策にも変化がありました。そして訪れたのが、マイナンバー制度による一元管理【名寄せ】への動きです。

本人確認の際に提示するマイナンバー通知書には、旧字体【電算化により改製された戸籍簿に使われているもの】が印字されています。
銀行の口座には、常用漢字として通用している新字体が使われています。
旧字体の印字と新字体の印字は「同じ字」であるか否か? 
また、「文字の同一」と「人物の同一」との関係は? 最初に、ここらから考えます。

「同じ字であると認める」【A】ならば、本人確認は簡単でしょう。しかし「字体が違うから別の字である」【B】と考えると、少し慎重に進める必要があります。銀行協会のページにある“「通知カードおよび運転免許証などの本人確認書類」などを提示してください”という言葉は、別の字である可能性がある場合に対処する準備に役立つと受取ることができます。運転免許証の写真等を併用することにより、仮に【B】だとしても本人確認の目的を達することが期待されます。

少し戻りますが、「戸籍に使われた文字」が正しいとして、それは「手書き」から電算機による「印字体」に変更されているのですから、求められるのは「画像としての一致」ではなく、文字を認識する脳の働きをふまえた上で、手書き・印字の違い、旧字体・新字体などの書体を超越した「文字としての同一性」です。

「一点一画をも揺がせにせず」などという言葉があります。確かに「大」・「太」・「犬」のように一点の有無や位置で別の字になってしまう場合もあります。
しかし、大多数の漢字では人間の脳はもっと融通が効く、悪く言えば「いいかげん」なものです。
「森鴎外」をご存知でしょうか?
「鴎」という字の左側は本来「區」です。しかし簡略化された「区」が当用漢字に採用され、更に形声文字「駆」のパーツとしても使われました。「かもめ」の場合は当用漢字対象外なので公式の新字体は制定されていませんが、人々はこの考えに順応し、字書に存在しない「鴎」という字を自然に受け入れています。
【注意】法律上は人名漢字にもなっていませんから、出生届に「鴎」を使うことはできません。

要するに、構成要素(例:画数)に明らかな相違があっても、「同じ字」を表わす記号であることは否定されません。
特に当用漢字→常用漢字に制定されている新字体は、国家自らが約70年もにわたり「同じ字」として、使用することを奨励してきた実績があります。
そして、常用漢字のような公式の字体が制定されておらず、【B】の疑いがある場合でも、「運転免許証などの本人確認書類」の併用によって、本人確認の目的を達することが期待できます。

次に、国語政策における固有名詞の扱いを見ます。
1946/11/16の内閣告示で1850文字の当用漢字を制定した際の趣旨は「漢字の制限」が あまり無理なく行われる めやす であり、「使用上の注意」の冒頭に掲げられたのは、次の言葉でした。
この表の漢字で書きあらわせないことばは,別のことばにかえるか,または,かな書きにする。

しかし 固有名詞については、当用漢字表「まえがき」で “法規上その他に関係するところが大きいので、別に考えることとした”としており、「大阪」を「大坂」と書き換えることは実行されませんでした。

その反面、仙臺・横濱・金澤 などは、当用漢字採用時に「自動的に」当用漢字の簡易字体を使った 仙台・横浜・金沢 という表記に変りました[74082]
つまり、「同じ字」の簡易字体採用は、固有名詞であっても躊躇なく行なわれたと理解されます。
銀行の電算化に際して「同じ字」の新字体が使われたのは、社会通念上当然のことでもありますが、地名についてのこのような事例に照らしても、十分に理解できることです。

70年後の現在、当用漢字制度は常用漢字制度に変っています。
こちらでは「まえがき」改め「前書き」から「漢字の制限」という言葉がなくなり、字数も1945字(1981年)から2136文字(2010年)に増加しています。固有名詞については、更に人名用漢字も大幅に許容されており、国語行政は 70年前の漢字制限時代から 多様な表記を認める方向に変化したことを感じます。

旧字体の個人名に愛着を持つ人が多い中で、戸籍電算化を進めた背景にはそれなりの労苦もあったこととは思います。
それに基づいて実現したマイナンバー制度も、ある程度 多様な表記を個人に認めています。
だからといって、当用漢字→常用漢字制度が戦後の社会にもたらした大きな成果である「表記の平易化」・「表記の共通化」に反する結果に通じる動きには警戒を要すると考えています。

ここで、難しい漢字が使われた地名の代表格「鹽竈」について言及しておきます。
自治体名は1889年から平易な俗字を使った「塩竈」になっており、これが1941年の塩竈市に引き継がれています。そして、「竈」(かまど)とは意味が違う別の文字を使った「塩釜」さえも混用されているのが現実です。例:塩釜駅。
市役所自身は本来の「竈」を使いながらも、市民や他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解釈して受理するとしています。出典
自分の「こだわり」を持ちながらも、社会的に通用している異表記も認める。このような態度は参考になります。[74061]
「こだわり」の類例としては、わざわざ 2点しんにゅうの「蓮」に改称した蓮田市の例[77399][77400]も出ましたが、これはちょっと「やりすぎ」。

推測ですが、政府が求めているのは マイナンバーによる本人確認だけであって、字体の相違を厳密にチェックしろと言っているわけではないでしょう。制度の趣旨は 社会基盤としての共通番号であり、「名寄せ」による脱税防止は期待しているでしょうが、無用な負担を民間に負わせるものではない筈です。

今回の件で、銀行が字体の僅かな違いを気にして口座名義の変更を求めたのは、民間企業の過剰な自衛本能が働いたものであり、法的根拠に基づくものではないと推察しています。
私自身としては少し驚いたものの、手続自体 さほど面倒なこととは思っておらず、応じるつもりです。

この記事を書いているうちに感じたのは、本当に「モノ申すべき相手」は、マイナンバー制度でも銀行でもなく、字体の僅かな違いを拾い出して「別の字」と決め付けたがる社会傾向ではないかということです。

学校で経験した「書き取り」における厳密な採点から、字体の微差を許容しない習慣が身についた人々。
これに個人的な好みが結びつき、更には電算機技術の発達が多数の文字種を実現させ、それに別々のコードを付けてしまった。
こんな事情から無用な漢字が電算機で使えるようになり、検索洩れを引き起こす原因にもなっている。

世の中には「正解は一つだけ」ではなく、「どちらも正しい」ことが たくさんあると認識しましょう。
おおらかな態度で接しましょう。「いいかげん」とは「良い加減」、つまり「許容範囲が広い」ことです。
この記事で指摘した問題も、実は杞憂にすぎないものだった。そのようになる社会の実現を願っています。長文をお詫びします
[91296] 2016年 8月 30日(火)23:11:37【1】hmt さん
JR北海道 平成27年度 輸送密度
[91295] 山野さん
(廃止検討対象区間)輸送密度500人キロ未満の7線区

タビリスを見たら、下記のように記されていました。
2016年度決算【2015年度決算の誤記】で輸送密度500人未満の線区は、以下の9つです。【記載は8線区】

ご指摘のように記載洩れや誤記がありそうなので、JR北海道平成27年度決算(H28/5/9)を確認しました。

8/10コマに 利用状況のデータと 輸送密度別路線図とがありました。
これを見ると、運休している日高線が 全社平均を出している主表から除外されていますが、欄外に別記されているように、輸送密度 【注】185人/km/日です。
日高線を加えると 輸送密度500人未満の区間は 9つになります。
廃線が実質的に決った留萌~増毛と新夕張~夕張の2区間を除けば、廃止検討対象は7区間。

なお、この表には JR北海道全線区のデータが掲載されています。
全線区のデータ公表は、平成26年度からとのこと。

【注】輸送密度
1980年の国鉄再建法[85139]の時に、幹線と地方交通線とを仕分ける目的で使われた「モノサシ」では、輸送密度4000人/km/日が基準値として使われました。
JR北海道が 今後も単独で維持することを目指す(日経)という 2000人/km/日でさえ、その半分です。
状況は誠に厳しい と言わざるを得ません。
[91282] 2016年 8月 27日(土)18:43:27【1】hmt さん
米軍統治下の沖縄
[91263] グリグリさん
先週放送された NHKスペシャルを紹介していただきました。
米国統治下の沖縄に関係するこの件については、私もフォローしたいと思っているのですが、未知のことが多く、まとまった意見を記すことができません。

散発的な書き込みになってしまいますが、とりあえずのメモを記録に残しておきます。

終戦後の沖縄の市は、言わば難民キャンプと呼ばれるものでしたが、番組では収容所という表現で紹介していました。

「収容所」という表現は、琉球の風さんの[1188]を始めとして この落書き帳でも度々使われてきました。
地上戦により日本の行政機構は壊滅しており、居所を失った住民の収容施設は米軍の軍政下。
不完全ながら日本側が関与するようになったのは、戦火が収まり沖縄諮詢会が発足した後の地方行政緊急措置要綱。この要綱で「市」と呼ぶことになった住民収容所の自治組織は 1945年9月に発足。沖縄本島12市の他に 粟国,伊平屋,慶良間列島,久米島の各市があり 合計16市[1260][4680]

また、そこに収容された人々は、沖縄本島で難民となった人たちではなく、終戦前に日本本土に移動していた(疎開?徴用?)沖縄人10万人を沖縄に強制移動させた人々のことでした。

これは誤解部分があり、沖縄本島で難民となった人たちの収容所【16市】と別に、本土の「沖縄人10万人」を沖縄に強制移動させた際にできた収容所があったことを指しているように思われます。
1946年には日本から琉球への入域者が 10万人以上あったという統計があります。出典

これが日本から強制移動させられた沖縄人労働力ではないかと思い 少し調べてみたのですが、その実体解明に役立つ手がかりは得られませんでした。
ちょっと気になる存在が 後に「みなと村」[1219]になった地域です。これは那覇港の荷役労働関係かと思いますが、軍事基地関係作業で必要とされた労働力を集めた収容所地域が、他にもあったのではないかなどと想像してしまいます。

この番組に対する批評も出ています。

鈴木祐司さんの記事の中に、次の記載がありました。
“空白の1年”の1年後には決定的な出来事もあった。通称「沖縄メッセージ」と呼ばれる昭和天皇からマッカーサーに宛て送られた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」である。

既に象徴の地位にあった天皇が このような意見を示したと伝える話を知り、驚きました。沖縄県公文書館, Sebald文書 , あの日の沖縄_1947/9/22

「メッセージ」に関連する矢吹晋さんの論評 ちきゅう座

テレビで報道された基地問題につながる沖縄の戦後問題。
ちょっと調べてみただけで、まだまだ知らないことが多いことを実感しました。
[91229] 2016年 8月 17日(水)18:59:19hmt さん
杖立への道
オフ会が開かれる杖立温泉に通じる道は 国道212号ですが、日田方面から向かう途中、熊本地震による通行不能箇所が生じています。
オフ会メーリングリストでは、既に 2016/7/2に かぱぷうさんの詳細な報告がありました。
福岡から日田・杖立温泉経由の黒川温泉行きの大型バス運行ルートが通行不能になり、熊本県小国町役場付近の「ゆうステーション」経由の迂回運転を余儀なくされている。
このことについては 現在も変らないのですが、乗用車の迂回ルートは、その後短縮されました。

現在の 国道212号迂回路図 には、日田IC~杖立温泉所要時間(乗用車)が1時間15分から45分へと30分短縮されたと記されています。
以前の乗用車迂回路は、杖立温泉東側の山中を広域農道経由熊本県に入るもので、小国町役場付近迄は南下しないものの、大型車迂回路に近いものでした。

もう少し詳しく記すと、日田市大山町汗入場(あせりば)地区の田北トンネル付近が9月末まで全面通行止めという状況は変わらぬものの、もう一つの規制区間である日田市天瀬町・下岩戸トンネル付近【杖立温泉のすぐ下流】は7月15日17時から片側交互通行可能になりました。これにより、乗用車は広域農道「スカイファームロードひた」(市道)と県道12号天瀬阿蘇線の一部を使って松原ダム付近の梅林湖畔に出て、開通区間の先にある杖立温泉に行くことが可能になりました。

余談ですが、梅林湖で杖立川と合流するのが津江川です。文字は違いますが、同じ「つえ」なのでしょう。
こちらの上流は下筌(しもうけ)ダムによる「蜂の巣湖」になっています。この名は 1959年ダム反対運動目的の監視小屋・「蜂の巣城」に由来しています。マクベスを戦国時代に翻案した黒澤映画は「蜘蛛巣城」。
「津江川」から思い出すのは2002年サッカーワールドカップでカメルーンのキャンプ地になった「中津江村」。落書き帳過去記事が多い有名村も日田市の一部になりました[21428]

それはさておき、大型車迂回路は、国道210号→大分県道12号→日田広域農道【スカイファームロード】→熊本県の小国広域農道→国道387号と結んだものです。

黒川温泉行き高速バスが停車する「ゆうステーション」があるのは、熊本県阿蘇郡小国町大字宮原(みやのはる)。1984年までは宮原線【久大線の支線】の終着駅がありました[90675]。東西に走る国道387号が 南北に走る国道212号と交差する少し東で、ここから212号を北上して県境に到達した地点が杖立温泉です。

宮原線は終着駅・肥後小国の先、どんな計画があったのか? 1922年の改正鉄道敷設法[79718]別表第113号
佐賀県佐賀ヨリ福岡県矢部川、熊本県隈府ヲ経テ肥後大津ニ至ル鉄道 及隈府ヨリ分岐シテ大分県森附近ニ至ル鉄道
最初の区間は佐賀線でした。矢部川=鹿児島線の瀬高【みやま市】から先を延長して豊肥線肥後大津を結ぶ線の途中、隈府【菊池市】から分岐して久大線豊後森付近の恵良に至る線の一部が宮原線だったのでした。
最後は、またも「杖立への道」と関係ない余談になってしまいました。
[91213] 2016年 8月 15日(月)12:39:47【3】hmt さん
海と島 (28)大きな無人島
[91212] 白桃さん
「面積1km2以上の無人島」ってあるのでしょうか?

過去記事[33529][85822]を参考に 上位と思われるものを列挙し、再検討してみました。
その結果によると、事情はそれぞれ異なるが、馬毛島や野崎島は 現在は再び有人島化したようです。

島名面積km2所在地コメント
渡島大島9.74北海道松前町[15328][23960]の29
馬毛島8.17鹿児島県西之表市島を手に入れた企業が有人島化 その狙いは?
兄島7.88東京都小笠原村世界遺産になる前は空港計画があった
大黒神島7.30広島県江田島市[29879][33494]黒い噂
野崎島7.11長崎県小値賀町[89994]他多数 現在は管理人が定住し宿泊できる有人島らしい
春国岱6   北海道根室市[85822]
屈斜路湖中島5.81北海道弟子屈町
枝手久島5.79鹿児島県宇検村奄美群島 開発計画
北硫黄島5.56東京都小笠原村[79266]
弟島5.20東京都小笠原村墓や小学校の門など定住遺跡あり
洞爺湖中島4.84北海道壮瞥町、洞爺湖町遊覧船で行ける
鳥島4.78東京都(市町村なし)[18943][22460]
南硫黄島3.54東京都小笠原村[74102]

なお、下記のようにまぎらわしい存在の島もあります。

硫黄島は 23.73km2もある大きな島で、戦前は1000人以上の人が暮らして賑わった島でしたが[56162]、現在は火山活動のために一般人が定住することはできません。
 # 火山と言えば、一時的な避難でしたが、三宅島 55.21km2も無人化した時がありました。
しかし、硫黄島には海上自衛隊員が常駐しています。つまり「住民がいない有人島」です。
南鳥島 1.52km2も 同様に海上自衛隊員が常駐しています。南鳥島には気象庁職員も常駐。

これに対して、「人がいる無人島」もあります。
広い意味では、住民基本台帳の住所を有する居住者も、国勢調査の常住者もいない島が「無人島」として扱われると思います。
しかし、居住者・常住者に限定して有人・無人を区別することにすると、「定住していない通勤者や旅行者」がいっぱい居るのに「無人島」という事例が たくさん出てしまいます。
その代表が「民間空港島」なのですが、その他の事例も含めて [86161]で例示しておきました。
[91185] 2016年 8月 11日(木)19:10:50hmt さん
国民の祝日「山の日」
[85642] ピーくん さん
平成28年から8月11日を「山の日」となります。
…というわけで、本日が記念すべき?第1回の「山の日」。

上高地で開かれた全国大会には 皇太子さまが 家族連れで出席されたとのことです。NHK News Web

20年前に国民の祝日になった「海の日」は、東北地方巡幸の明治天皇が海路で横浜に帰港した明治9年(1876)7月20日に因むもので、1941年制定の「海の記念日」からでも75年の歴史があります。

「山の日」制定の動きは 国会では 2013年からのようで、上記のように 2014年に早くも改正法成立。

全国大会が開かれた日本アルプスが 日本を代表する山であることに異論はありませんが、極論すれば山だらけの日本です。
…で、山地の割合が最大の都道府県はどこか? ちょっと気になりました。

都道府県データランンキング には まだ収録されていないようなので、日本統計年鑑を見たら、「都道府県,地形・傾斜度別面積)」という表がありました。

昭和57年の調査によるデータですが、そんなに変わるものではないので これでよいでしょう。
山地、丘陵地、台地、低地、内水域等の5種に分け、47都道府県ごとの面積がkm2単位で示されています。
この5分類の面積を合計した値を都道府県ごとの総面積と考え、これに対する比率を求めます。

ところが、「内水域等」に問題がありそうです。
北海道の 5,367km2には 北方領土 5033km2が未分類のまま含まれているので、実質 334km2。
そこで、北海道だけは 北方領土を計算から除外することにしました。

滋賀県や茨城県の「内水域等」面積が大きいのは当然ですが、県内の比率を求めると、なんと大阪府が17.9%で 滋賀県の14%を上回ります。東京都、長崎県、愛知県も茨城県の4.8%を上回ります。
離島や埋立地の扱いに問題があるのではと疑いましたが、よくわかりません。

このように未解明の点があるデータですが、本題の山地面積に関しては、おしなべて比率の大きいことでもあり、妥当な数字が出ているだろうと考え、以下のように「山地の多い県」ランキグングを作ってみました。

全国で山地比率が最大になった県は 鳥取県の 87.2% でした。
以下、2 高知県、3 山梨県、4 長野県、5 愛媛県、6 和歌山県、7 奈良県、8 徳島県、9 広島県、10大分県、11 岐阜県、12 群馬県、13 熊本県、14 福島県までが 75%以上。全国平均は 61%です。

上位の県の多くは、国民の祝日制定前から、県独自の「山の日」を作っていました。
こうち山の日【11月11日】、やまなし山の日【8月8日】、信州山の日、えひめ山の日【11月11日】、紀州山の日【11月】、奈良県山の日・川の日、ひろしま山の日、ぎふ山の日【8月8日】ぐんま山の日【国民の祝日制定後に廃止】

16位の静岡県は富士山の日、34位の香川県が かがわ山の日【11月11日】、41位の大阪府が おおさか山の日【11月】。
そして 47位の千葉県は山地の割合が飛び抜けて少ない 7.6%で、対象は丘陵地でしょうが 里山の日があります。

歴史的な日付に因むものではないので、山の形をした「八」や樹木を象った「11」を用いた日が好まれているようです。


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