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[91563] 2016年 10月 4日(火)19:09:04hmt さん
杖立オフ会(3)佐賀・吉野ヶ里
日田彦山線が分れる夜明から先になると、熊本県で杖立川>大分県で大山川>三隈川と名を変えてきた川も福岡県に入って いよいよ「筑紫次郎」の本名の「筑後川」を名乗ることになり、車窓から少し北に離れます。久留米で乗り換えた後、再会した筑後川を渡ると佐賀県。9月19日は佐賀泊りです。

佐賀では 大浴場のあるホテルを選んで 予約しておきました。浴場で声をかけてきた 70代のオジサンは 運転好きで、全国を走っており、もう少し若い時には 九州から北方領土の見える地までドライブした と自慢していました。私が明日の飛行機で帰ると話したら、やはり「板付」という地名[91561]を口にしていました。

翌20日朝。ホテルのPCで空路の運行状況を確認し、無事に帰路途中であることを落書き帳に書き込み[91442]
外に出ると風は強いが、降雨なし。予定通り 吉野ヶ里歴史公園に向かうことにします。
19日に吉野ヶ里を訪れたスナフキんさんは、運悪く本降りの雨に見舞われたのですね。ML[off:00282]

体力と時間に余裕があれば、広い園内を巡りたいところですが、クニの首長を埋葬したと思われる 北墳丘墓 など限られた対象以外は バス車窓からの遠望だけで済ませ、後は想像の翼に任せることにしました。

おまけ:「ヶ里」地名について

地名コレクションの対象にはならないと思いますが、「ヶ里」地名の変遷情報検索結果です。

1889/4/1市制町村制施行時の旧村【合計17ヶ里村】の内訳:
佐賀県神埼郡神埼村の旧村:神埼郡田道ヶ里【1ヶ里】現・神埼市
佐賀県小城郡三日月村の旧村:小城郡 三ヶ島ヶ里, 長神田ヶ里, 織島ヶ里, 道辺ヶ里, 金田ヶ里, 樋口ヶ里, 久米ヶ里, 石木ヶ里, 甲柳原ヶ里【9ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡牛津村の旧村:小城郡 勝ヶ里, 乙柳ヶ里【2ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡三里村の旧村:小城郡 池上ヶ里, 栗原ヶ里, 船田ヶ里【3ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡晴田村の旧村:小城郡 畑田ヶ里【1ヶ里】現・小城市
佐賀県杵島郡錦江村の旧村:杵島郡 戸ヶ里村【1ヶ村】現・白石町

最後の杵島郡「戸ヶ里村」を例外として、「ヶ里」の後には「村」が付いていません。
旧村の「ヶ里」は地名の一部というよりも、「村」「町」「宿」などと同様に「集落の性格?」を示す接尾語であるように思われます。

村名ではありませんが、白石町・廻里江川(めぐりえがわ)付近の 戸ヶ里の他にも 現役の「戸ヶ里」を見付けました。それは 筑後川の河口近く、佐賀市の早津江川[91405]沿いの 戸ヶ里港で、佐賀県道313号 飯盛(いさがい【難読】)戸ヶ里港線が通じています。

また、神埼警察署の所在地は神埼市神埼町枝ヶ里です。
探せば、まだまだ「ヶ里」地名がありそうです。
[91562] 2016年 10月 4日(火)18:56:29hmt さん
杖立オフ会(2)ひぜんや・杖立から日田へ
「ひぜんや」の館内案内に、杖立川右岸に立ち並ぶホテルの写真があります。このページの一番下にある立面図と対比すると、写真左中程の玄関のある階が5階で、立面図は山を背にした道路側からの図【川沿いの写真と左右逆】であることがわかります。
写真の最も右側に見える建物が私達の泊った熊本館であり、高いエレベーターとその左の大分館【屋上に機械室】との隙間に、記念撮影をした両国橋があるものと推察します。両国橋の下を流れて杖立川に合流する小川が県境でしょうが、合流点の存在を推察させるものは、護岸の僅かな隙間だけです。地理院地図

この写真を見ると、入口・フロントを含む「ひぜんや」の大部分は大分県側であるように見えるのですが、ホームページに記された住所は、「〒869-2503 熊本県阿蘇郡小国町大字下城4223番地」となっています。この番地で住所検索(mapion、いつもNAVI)して地図上に示される位置に存在するのは、「ひぜんや」の上流側にある和風別館「大自然」でした。温泉街全体としては「熊本県の杖立温泉」で通用しているようであり、このことが住所表記にも反映しているのでしょう。

多忙なお仕事の中からぎりぎりの時間を作って参加された中島悟さんを含め 17人全員が揃い、大分県で宴会。
熊本県宿泊は学生時代の1954年以来62年ぶり【大分県は45年ぶり】。後に公害病で有名になった化学会社のクラブで、水俣湾の魚料理を御馳走になったことなど、近況でない報告をしたようです。

その後、熊本県に移っての二次会。デスクトップ鉄さんからJR駅三番勝負[91443]の賞品【原田勝正著:駅の社会史(中公新書)他】をいただきました。

最初に答えたのが問二の三鷹[91474]であったのは、出題駅・国分寺から出ていた東京競馬場前への支線【砂利鉄道[41599]由来】を思い出し、その近くにあり、戦後の短期間だけ存在した武蔵野競技場前への支線[75152]をすぐに連想した結果です。
もちろん、他の出題駅に関係する広島-宇品間[61378]などの条件も考慮した解答です。
…というわけで、単に鉄道路線に関する知識というよりも、その社会的背景も考察した上での 落書き帳記事に裏付けされた解答 でした。この機会に関連記事をリンクしておきました。
共通項に含まれていた「戦後廃止」とか「盲腸線」とかいう条件は、意識外のままセーフでした。

宿泊した熊本館2階からは、杖立川を間近に見ることができました。と言っても、それを実感したのは翌朝。

大分館6階の朝食の席で、ソーナンスさんに声を掛け、途中までの同乗をお願いしました。
ソーナンスさんは、個人的には阿蘇から熊本市内方面へ抜けて帰ろうかなとも思っておられたようでしたが、結局のところ hmt・デスクトップ鉄・EMMの3人が日田まで送っていただくことになりました。

前日は通過しただけの天領日田の街。町並み保存が行われている 日田市豆田町伝統的建造物群保存地区に行くには、市内循環バス(ひたはしり号)が運賃100円の実験運行中。これを使って駅前から豆田上町通りに出て、北へと歩きました。小雨気味ながら、傘を使うほどでもなし。花月川まで行き、一つ下流の御幸橋から豆田御幸通りを南下。

何気なく 日田醤油の 天領ひな御殿 に入ってみましたが、三千体以上という その量に圧倒されました。
醤油屋さんが無料で公開していた展示物から、天領日田に蓄積された財力と文化を感じた次第です。但し、チラシでは有料300円となっていたので、入場無料は期間限定だったようです。

いずれにせよ、じっくり探せば いろいろな宝を見ることができる街という印象を抱いた日田です。
平成の大修理中の重要文化財 草野家住宅も、公開スケジュールと合えば見たいところでしたが、これはダメ。
バスの時刻に合わせて 天領日田資料館を出て駅に戻ります。久留米行きのDCに乗ると、YASUさんに出会いました。
[91561] 2016年 10月 4日(火)18:44:47hmt さん
杖立オフ会(1)杖立への道
熊本大分県境の杖立温泉(ひぜんや)。ここが今年のオフ会開催地の有力候補として グリグリさんから提示されたのは 2016/6/6、メーリングリスト[off12:00162]によるものでした。
熊本大分地震被災地支援の目的で、開催地を被災地にしてはどうかという話が出ました。

私としては 杖立温泉は その名を聞いたことがあるという程度で、2県に跨る「ひぜんや」の名も初めて知ったのですが、被災両県の県境にある宿での開催については もちろん大賛成。当選確実を信じて さっそく自分なりに調べた情報も落書き帳に書き込みました。

これが 杖立オフ会事前書き込み の第1号なのですが、正式のアンケート告示[90573]よりも先走った記事になってしまいました。

[90564]
「肥後国と豊後国」に跨るのに 何故か「ひぜんや」。

既に和倉温泉の加賀屋については、[73144]白桃さん:能登にあるのに加賀屋とはこれいかに・・・
[73164]EMMさん:創業者が加賀国の出身
という問答がなされており、その逆の組み合わせである粟津温泉「のとや」旅館にも言及されています。
今回、現地で「ひぜんや」の由来を尋ねていませんが、この疑問は解けているのでしょうか?

落書き帳の過去記事に「ひぜんや」が登場するのは、10年以上前の [47510] 有明つばめ さん が最初でした。
「熊本館」「大分館」…はて、どちらの建物に泊まったかいな…その辺がよく思い出せません。

オフ会開催地としては、「今年はとは言わないですが」と断りながらも、早くも 2009年に 熊虎さん[69927]が提案。

余談ですが、2009年オフ会は 岡山市の政令指定都市移行を記念して苫田温泉・乃利武で開催。
斜行エレベータで7階から3階へ「上がった」り,訳の分からない構造[73356]の温泉大旅館でしたが、MasAkaさん[91459]により その後を知り、再び驚愕。
乃利武の公式サイトを探そうと思ったら、何と2013年に自己破産申請により閉館していたことが判明。嗚呼……)。

2009年オフ会では、有志9人による「岡山県石島・香川県井島 県境踏破」もありました。落書き帳のスターである この「県境の島」も 2011年8月の山火事で被災[79053]。過去のオフ会を振り返ることにより、改めて歳月の経過を実感しました。

そう言えば、岡山オフ会では、落書き帳の歴史に残る名作・グリグリ劇場も誕生しています。

岡山のことはさておき、今年の計画に戻ると、アンケートの結果、圧倒的な支持により杖立に決定。
時期は例年より早い9月18日支持が多数票となり、「ふっこう割」が利用できることになりました。
会場近くの国道通行止めに伴う迂回ルートとか、台風シーズン只中などが心配のタネ。
グリグリさんにとっては 準備や対策に大変だったことと察しますが、こちらは成り行き任せ。

独り暮らしご隠居の身は、日程の自由度が大きいのですが、それでも大まかな計画を立てます。
九州応援の趣旨を込めて、往復共にスターフライヤーの福岡空港便を利用。先ず航空券を確保。
杖立の後、九州のどこかで一泊となると、やはり唯一宿泊していない佐賀県を選択することになります。
体力の衰えを自覚し、欲張らずに旅をすることにしましょう。

福岡から日田・杖立・黒川温泉を結ぶ高速バスは、結局のところ杖立経由の本来のルートで運行することができませんでしたが、片側交互通行ながら、乗用車とローカルバスの通行が可能な状態にまで復旧し、広域農道経由の迂回ルートに頼らないで済むことになったのは 幸いでした。
こちらが「杖立への道」確保に気を揉んでいた割には、当の旅館側は 公共交通機関の運行事情のことなど あまり心配せず、悠然と客を待っていたようですね。

オフ会開催の9月18日。羽田からの飛行は順調。但し窓から見えたのは雲だけでした。
現在では専ら「福岡空港」と呼ばれているようですが、九州とは縁の薄い私でも、1972年に米軍から返還される前には「板付基地」と呼ばれていた飛行場であったことを覚えています。

「板付」の名は、弥生時代を主とする遺跡の存在でも知られていますが、板付遺跡は 飛行場から少し離れた南の方にあるようです。板付基地のあった場所は、1933年に福岡市に編入する前は【席田(むしろだ)郡[91558]>】筑紫郡席田村で、1944年(戦時中)に陸軍が作った「席田飛行場」が前身だそうです。街ネタ 福岡空港
#
厚木も横田も基地から少し離れた「よその地名」[22152]でしたが、板付も同類のようです。

それはさておき、福岡空港からは日田行きの高速バスがほぼ定刻に発車。しかし、間もなく豪雨の洗礼。
いよいよ台風16号の影響と直面することになりましたが、旅程が飛行機でなくバスに移ってからだったのは幸いでした。九州道から大分道とずっと大降り。
杷木で高速道路外に出て停車。ここでデスクトップ鉄さんと同じバスに乗車していたことに気がつきました。

大雨もこの頃になると収まっています。日田から同乗をお願いしてあるスナフキん号は16時頃なので、1時間以上の余裕がある。日田市内を少し見ることができるかと思っていたのですが、鉄さんのアドバイスに従い下車は取りやめ。
通信手段を持たないhmtは知りませんでしたが 鉄道が遅れており、日田駅を先発するJOUTOU号に変更することになり、かすみさん、鉄さんに加えて、3人目の同乗者として杖立に向いました。
報知されていたように工事中の区間もありましたが、それでも「ひぜんや」に早く着き、ゆっくり入浴することができました。
これも、鉄さんに出会い、JOUTOUさんに乗せていただいたおかげと感謝しております。

オフ会の都度、皆さんのクルマに同乗させていただいているhmtですが、JOUTOUさんには会津[79711]、石和[86778]、氷見[89247]、杖立と4回もお世話になりました。ありがとうございます。
[91515] 2016年 9月 26日(月)18:52:19hmt さん
謎の駅名・中部天竜(続続編)
[91511] デスクトップ鉄 さん
「大事典」によると、「なかっぺ」から「ちゅうぶ」への改称は、三信鉄道買収時(1943/08/01)となっています(鉄道省告示204号)。
(中略)
#鉄道省告示204号は、国会図書館のデジタルアーカイブで読めます。
官報(昭和18年7月26日)のコマ番号3からの記事で、買収した飯田線の営業開始の告示です。中部天龍にちゆうぶてんりうとフリガナを振っています。ここでまた新たな疑問が。「大事典」も中部天竜としていますが、天龍が天竜に変わったのはいつなのか。

昭和18年7月26日鉄道省告示第204号により、私鉄買収【飯田線関係4社、千歳線関係1社】と昭和18年8月1日からの運輸営業開始が告示され、飯田線の中部天龍(ちゅうぶてんりゅう)駅が 4/15コマに記載されていることを確認しました。

これにて、[43937]で記した 三信鉄道の中部天龍(なかっぺてんりゅう)→鉄道省線の中部天龍(ちゅうぶてんりゅう)という変化を 公式文書で確認することができました。感謝。

さて、天龍→天竜については、『時刻表名探偵』(石野哲 1979)p.240-【字体の話】にあるように、昭和29年(1954年)の当用漢字補正資料に基いて国鉄が字体を変更した結果であると思われます。
少し長文ですが、石野さんの本を そのまま引用しておきます。
------------------
「條」は「条」の旧字体である。四条畷駅と五条駅の開業したのは戦前だから、鉄道公報は当然「條」で出ている。戦後の昭和21年11月16日「当用漢字表」が告示されたが、これが新字体となるのは24年4月28日の「当用漢字字体表」の告示によってで、国鉄の駅名も、当用漢字にある漢字は、自動的に新字体に読み替えられた(公報を出し直してはいない)。四條畷、五條も、四条畷、五条となった。さて市名の方だが、五條市の市制は昭和32年、四條畷市は45年で、新字体以後のことである。従って、意識的に「條」の字で市名を決めたことになる。中條、東條という苗字もあるから、「條」と「条」を別字と意識する気持ちもわからないではない。
戦後の開業なのに、意識的に旧字体を使っているのは山陰本線餘部(あまるべ)(餘は余の旧字体)。同じ兵庫県の姫新線余部駅と区別するためで、例外中の例外である。(余部=昭和5年、餘部=昭和34年)。
「竜」は当用漢字ではないが、当用漢字補正資料(昭和29年3月15日)で、将来当用漢字に追加すべきものとされた字=通称「補正漢字」(告示までいかなかったので法律上の効力はない)の一つ。これによれば、「竜」の旧字体が「龍」となっている。国鉄ではこれにならい、戦前に開業した、天龍川、中部天龍、天龍峡、龍王、龍野、本龍野、龍田、肥前龍王、潜龍、龍田口、龍ケ水は、すべて龍の字を竜に読み替えた。戦後開業の「竜」のつく駅は三つあるが、これは鉄道公報を尊重して、龍岡城、龍ケ森、九頭竜湖と使い分ける。結局、「竜」12対「龍」2。
------------------

前述のように、1934年三信鉄道開業時は佐久間駅で、所在する佐久間村からの命名です。なぜ、これを中部天竜に改称したのかも疑問です。中部(なかっぺ)村は、1989年3月の市町村制施行時に佐久間村を構成した旧村ですが、25000分の1地形図の 図幅名に使われるくらい著名な地名だったのでしょうか。

確かに、三信鉄道の駅が最初にできた地名は静岡県磐田郡佐久間村半場であり、初代佐久間駅は村名に基づくものだったでしょう。
しかし、鉄道は近々延伸され、第2の駅を佐久間にも作ることを考えると「佐久間」の駅名に固執することは賢明でない。
改称するとなると旧村名の「半場」か? 地形図を見ると 天竜川右岸の半場は大部分が山地で、平地は限られている。
駅のある半場の対岸・天竜川曲流部にある中部(なかっぺ)も広い平地とは言えないが、佐久間・浦川と結ぶ街道が通っており、拠点性がある。そんなことから駅名に選ばれたのではないでしょうか。

このようにして、1935年5月には早々と中部天龍駅への改称が実現。でも1936年11月の延伸時に佐久間に作られたのは佐久間水窪口停留場という名でした。これが1941年2月に貨物も扱う一般駅に昇格後、2代目佐久間駅を名乗るようになったのは、1941年11月でした。

混乱した過去記事整理の意味も含め、この駅と隣駅に関係する変化を年表に記し、まとめとします。

1934/11/11 三信鉄道延伸開業:三信三輪【現・東栄】- 佐久間【現・中部天竜】間 (11.1km)
1935/05/24 改称:【初代】佐久間→中部天龍(なかっぺてんりゅう)
1936/11/10 延伸開業:中部天竜-天龍山室【1955廃止】間(7.2km)
  この時佐久間村佐久間に佐久間水窪口停留場開業
1937/08/20 大嵐-小和田間 (3.1km) を最後に三信鉄道全通。私鉄4社により豊橋-辰野間全通。
1941/11/15 改称:佐久間水窪口→【現】佐久間
1943/08/01 伊那電気鉄道・三信鉄道・鳳来寺鉄道・豊川鉄道を買収国有化。鉄道省飯田線
  4/15コマ:中部天龍ちゅうぶてんりゅう、佐久間さくま
1949/04/28 当用漢字字体表【該当する文字は、これに基づく新字体に変更】
1953/04/16 電源開発【Jパワー】佐久間発電所着工
1954/03/15 当用漢字補正資料に基づく新字体への変更:中部天龍→中部天竜
1955/11/11 佐久間ダムで水没する 旧線・佐久間-天龍山室-大嵐間 (13.3km) を廃止
  東側の水窪谷を遡り大原トンネルで戻る新線・佐久間-水窪-大嵐間 (17.3km) が開業
1956/04/23 佐久間発電所運用開始
1991/04/21 東海旅客鉄道が佐久間レールパーク開館
2009/11/01 佐久間レールパーク閉館
[91507] 2016年 9月 25日(日)23:54:30hmt さん
謎の駅名・中部天竜(続編)
[91503] Takashiさん
駅名の接頭語ではないのですが、飯田線「中部天竜駅」の「中部」が登場したので、フォローしておきます。
タイトルに続編と書いたのは、2005年の過去記事[43937]を踏まえたものだからです。

[91503]に記されているように、「中部」は駅の対岸にある地名です。
地名としての読み方は、現在では「なかべ」が普通に通用しているようですが、元々は[43384]で示されている「なかっぺ」が現地での正式の読み方であったようで、25000分の1地形図の 図幅名は 「なかっぺ」となっています。

開業当初は「なかっぺ」と読んでいたらしいのですが、

Wikipediaにあるように、1934年に三信鉄道が開業したした当初は、【初代の】佐久間駅で、翌年に中部天竜駅(なかっぺてんりゅうえき)に改称したようです。
訓読みの「なかっぺ…」から音読みの「ちゅうぶ…」に改称した時期について、[43937]では戦時買収に伴うものと記しましたが、Wikipediaによると 1942年【買収の前年】届出とあり、出典も記されていました。

タイトルは、落書き帳にも度々登場している『時刻表名探偵』(石野哲 1979)p.218から借りたものです。
この本には、逆順のように思われる 中部【地名】天竜【修飾語】の語順の謎が示されていますが、名探偵も「…謎は残る」と結んでいます。
[91442] 2016年 9月 20日(火)08:05:21hmt さん
無事に帰路途中
hmtです。
帰路途中、佐賀のホテルでPCが使えたので無事を連絡しておきます。
午後に空路帰宅する予定ですが、たぶん問題ないでしょう。
[91406] 2016年 9月 16日(金)19:05:48hmt さん
地域創造に挑戦する大山町
[91405] 杖立川 を書く過程で眺めていた地図で、杖立と日田の間にある一つのダム湖が、なんとなく目に止まりました。

ダム便覧で 調べてみると、大分県日田郡大山町は 村起こしで有名な「一村一品運動」発祥の地でした。

大山町の立地は山間部で稲作の好適地ではない。でも頭を使って特色ある農作物を創造すれば、豊かな未来を実現できるのではないか。
50年以上前の話になりますが、1961年に始めたのが「ウメ・クリ植えてハワイへ行こう」というキャッチフレーズで始めた特産物の栽培、加工による村起こし運動でした。その成功を見た当時の大分県知事平松守彦により、「一村一品運動」は大分県全体に広がりました。

このような実績のある地域ですが、筑後川水系は1953年の大水害(梅雨前線)を始めとする治水問題もかかえ、国土利用を計画するにあたってのダムのあり方など、解決すべき問題が残されていました。
赤石川沿いの谷間にあった大山町が選んだ方策は、地域を良くする手法として国の事業を取り入れること。町としてはダム造りが目的なのではなく、地域振興のためのダム建設。

こうして 1979年には ポスト「ウメ・クリ運動」としての水資源対策活動がスタートしました。
1991年の台風による風倒木被害に教えられた水源林づくりを長期計画で推進。大山町の水の最大利用者である福岡市との協力体制。ユニークな発想による「おおやま生活領事館イン福岡」を実現。
河川維持流量を確保して、響き鮎の育つ大山川を再生。ウメ・クリ運動の原点とも言える「梅文化」をテーマにした観光施設を運営する会社組織。そして次世代の育成。

杖立訪問を機に調べた結果、偶然出会った 三笘町長の講演を題材にした 大山町の地域作りの概要です。
私の理解は未熟ですが、各地での地域振興の参考になれば幸いと考え、記事にしてみました。
末尾の まとめページをリンクしておきます。関心のある方は、全文にあたってみてください。

落書き帳関連ではダム湖コレクションへの情報提供>美濃織部さん
ダム湖の名は「烏宿湖」です。出典は冒頭付近でリンクしたダム湖便覧。
烏宿湖 うしゅくこ 筑後川水系赤石(あかし)川 大分県日田市大山町 大山ダム

もう一つ、熊本県側で偶々目についたダム湖
斑蛇口湖 はんじゃくこ 菊池川水系迫間川 熊本県菊池市龍門 竜門ダム
[91405] 2016年 9月 16日(金)15:19:05【1】hmt さん
杖立川
オフ会を前にして、天気を気にしながら、開催地付近の地理の「にわか勉強」を始めた hmtです。

「杖」を頼りに歩行する身としては、「杖立」という地名が 気になります。
甲州や四国には「杖立峠」があるようだが、九州の杖立の由来は?
温泉の薬効で寝たきりの人が杖で立てるようになったとか、各地に残る弘法大師の逸話とかもあるようだが、どうも温泉の宣伝くさい。

私が自分勝手に尤もらしいと思っている自説を紹介してみます。

大分県豊後国日田郡。東でなく、西の有明海に注ぐ筑後川の流域という異色の位置。
日田盆地には、大別して3方向から川が集まっています。一つは久住山北麓から日田へと西流する玖珠川で、かつては 流路の長いこの川が 筑後川の本流とされていたようです。

現在の本流は、阿蘇外輪山北側から 熊本県内を北西へと流れる杖立川です。
杖立川の上流を辿ると、南小国町東端付近から国道442号沿いに 田の原川 という名で流れており、小国町宮原で 志賀瀬川 を合流した後で 杖立川 という名になります。杖立温泉の少し先で 津江川 を合流していましたが、松原ダム完成後の合流点付近は 梅林湖 になっています。
松原ダムを過ぎると 大山川 という名になり、途中で大山ダムから流れてくる 赤石川 と合流し日田盆地に集まります。
川の本流の選び方はいろいろあるようです。阿賀野川の記事[67150]では 勾配説を支持しましたが、筑後川の場合は 流域面積の広さから 大山川・杖立川が本流に選ばれたようです。

3番目は、主として津江山と呼ばれた日田郡南西部の山地の水を集めてくる 津江川 です。その上流は鯛生金山[91329]のあった中津江村や、上津江村の 川原川 などで、下筌(しもうけ)ダムの蜂の巣湖[91229]を経て 前記松原ダムの手前で杖立川に合流します。

その 丁字形合流点の姿に基づいて、阿蘇の北から流れてきた方を「津江(つえ)竪川(たてかわ)」と呼んだのではないでしょうか。
参考までに、川の「たて・よこ」については、[75307]の末尾に説明してあります。

「杖立」に関する詮索はさておき、筑後川の範囲を国土交通省の地図で確認してみました。
筑後川河川事務所によると、「その源を熊本県阿蘇郡 瀬の本高原 に発する筑後川」と記されています。

つまり、筑後川とは 南小国町東端付近の高原から発する「延長143kmの幹線流路全体が筑後川である」ということのようです。
筑後川管内図indexは4段5列に分割されており、 杖立温泉は3段4列目の14図になります。
管内図 14を開いて見ると、その右下付近、赤丸「小国」の上流側に「筑後川」の名が明記されていました。普通の地図に記されている名は、田の原川→杖立川→大山川→三隈川→筑後川と変ってゆくのですが、河川管理上は一貫して「筑後川」ということなのでしょう。
【追記】
管内図の凡例(10図):赤丸は雨量観測所、緑丸は名所旧跡

三隈川→筑後川はアーカイブズ 場所によって名前の変わる川にも収録されていますが、日田の上流で更に3種類もの違う名前が使われているのは、特筆に値すると思います。

なお、管内図の筑後川源流部は3段5列目 15図の下方、南小国町東端付近です。少し西の国道442号沿いには赤丸「黒川」があり、こちらが福岡からの高速バス終点と推察します。【14図右端の緑丸「黒川温泉」は誤記?】

今回は日田盆地よりも上流部を話題にしました。
そこには、下流部の平野を蛇行する常識的な「筑後川」とは 大きく違う  林業地帯が広がっていることを認識しました。
国土交通省の 明日を拓く川~筑後川 には、歴史・地域・自然・災害の4章に亘る解説がありました。
最後に、本来の?筑後川に関する余談を2項目だけ付属しておきます。

1 早津江川【管内図11】  河口近くにも津江川の仲間がある? [42269] 2県にまがたる中州

2 ちっこ川 かぱぷうさんのメーリングリスト[off:00066]により、この呼び方を知りました。
[91353] 2016年 9月 7日(水)18:25:59hmt さん
品川新駅(仮称)
昨日、JR東日本から「品川開発プロジェクトにおける品川新駅(仮称)の概要について」の 発表がありました。

ニュースでは駅舎デザインが話題になっているようですが、オリンピックを考慮した 2010年春の仮開業、品川開発プロジェクトの街びらき時の 2024年頃の本開業 というスケジュールも、今回発表の目玉でしょう。

2012年の新駅計画発表時から議論沸騰が伝えられる「駅名」については、今回の発表では全く触れておらず、「品川新駅(仮称)」と呼んでいます。

参考までに、この新駅開設に関係する過去の「いきさつ」を簡単に記しておきます。

上野以北と東京駅以南に直通する中・長距離旅客列車の運転は、占領下の専用列車[51787]に始まり、その後「湘南日光」などの観光列車や高崎線・東海道線の中距離電車なども運転されました。しかし、線路容量の制限から極めて不十分な状態のままで、東北新幹線の上野・東京間延伸工事を迎えることになり、1970年代には事実上この区間の直通列車はなくなりました。
その後、東北新幹線も東京駅に達し(1991/6/20)、乗換は必要なものの、新幹線による長距離列車の南北連絡を実現しました。
在来線の中距離電車も、【東京・上野は通らないものの】湘南新宿ライン開通により南北間直通を実現しました(2001/12/1)。

新幹線工事前に細々と行なわれていた上野・東京間の中距離電車直通。これの再開ではなく、改めて本格的な直通を初めて実現させたのが、2015/3/14に開業した上野東京ラインです。
その影響の及ぶところは、乗客の利便向上【旧始発駅利用者の利便は低下】だけではありません。

東海道の湘南電車と東北(宇都宮)・高崎線の中距離電車をスルー化する事業の一環で,田町-品川間に広がる車両基地が不要になるのでここを再開発するのに関連した計画
この点が重要なわけです。
2012年正月の第1報を伝える 落書き帳記事をご覧ください。
その後で発表された「特定都市再生緊急整備地域」[80215]に指定された品川地区は勿論のこと、上野の地位にも影響します。
[91332] 2016年 9月 5日(月)15:36:18【1】hmt さん
小田原市・南足柄市の将来のあり方に関するアンケート
[91331] 山野さん
此処を見て変遷(予定)情報見るも・・(中略)
小田原市・南足柄市の将来のあり方に関するアンケート
既に結果が公表されてはいるものの、誰も書いてない様なので載せて置きます。(中略)
(合併等が必要:41.01%)
(どちらかと言えば:32.22%)

最初は、「誰も書いてない様なので」について。
変遷情報の詳細に未成立の合併情報が記載されているのですが、発見されていなかったようです。
これは誰でもやる見落としですが、順序として 一応 所在を明らかにしておきます。

【追記】山野さんにお詫び
[91333] グリグリさんの記事により、山野さん自身により既に削除されている記事[91331]は、アンケート結果の公表を記した「2016/8/16付変遷情報」の更新よりも先であったことを知りました。従って、上記の部分に記した「発見されていなかった」「見落とし」は事実でなかったようであり、これにより気分を害されたことをお詫びします。
更新履歴は見ていなかったので、[91331]と同日であることに気付きませんでした。>グリグリさん
【追記終】

市区町村変遷予定情報都道府県別一覧に次の項目あります。
18 神奈川県 (日付:なし)変更種別:未定 ○○市 小田原市, 南足柄市, 8町村を列挙 詳細

詳細の 2016/2/3 に「合併を含め広域連携の可能性を探る2市協議会を10月に設置する」記事があり、最後の 2016/8/16 にアンケート結果の公表が記録され、次のような表現になっています。
合併、中核市移行、広域行政について両市で検討協議することに賛成する意見が多数を占めた。

ここでは「賛成多数」と簡略化されています。詳しく知りたい読者のために、敢えてアンケート結果の一部を小田原市の資料に基づいて再録すると 次のようです。
-------------
問3 「合併」「中核市移行」「広域連携」について検討協議することについてどう思いますか
1 必要である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 41.01%
2 どちらかといえば必要である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32.22%
3 どちらかといえば必要ない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5.30%
4 必要ない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4.99%
5 わからない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14.97%
※ 未回答・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1.51%
-------------

情報は 詳しく伝えた方がよい というものではなく、読者の為を考え、簡略化して伝えることも必要です。
しかし、簡略化したために、誤解を与えることになっては困ります。

今回のアンケートについて言えば、そののポイントは「賛否の数字」よりも、市民が要否について回答した「設問3の対象」にありました。
[91331]で記された「合併等が必要:41.01%、どちらかと言えば:32.22%」という表現では、「等」を見落とした読者により、「合併賛成が7割もあったのか」と 誤解されるおそれがあります。

「合併」「中核市移行」「広域連携」について検討協議すること
という設問3の対象を安易に簡略化するのは危険です。

これから先、簡略化した情報提供をしていただく際の参考になればと考え、敢えて一筆を記しました。ご了承ください。
[91329] 2016年 9月 4日(日)16:33:32hmt さん
金山
[91324] 伊豆之国さん
[91327] Takashiさん

「金メダル」がランキング最高位を示す言葉であることは、この落書き帳の十番勝負などでも使われています。
金メダルの元祖?であるオリンピックの金メダルは、銀製メダルの表面に6g以上の金メッキしたものと定められているとか(規則70 付属細則2-2)。

それはさておき、金属としての素材価格は金と同水準の貴金属【白金やロジウム】もあるのに、それらを遥かに凌ぐ人気を集めているのは、金独特の「黄金色」と、金貨や工芸品として親しまれてきた?歴史の重さがあるためと思われます。

その金を産出する国と言えば…反射的に南アフリカと答えてしまうのは、10年前の知識でした。
金の国別産出量の推移を見たら、中国が躍進していることに驚きました。
世界全体の生産量も年間3000tで、白金の200t、ロジウムの30tとは桁違いの規模であり、旺盛な需要に応えています。

では、マルコポーロが 黄金の国ジパング と紹介した日本の現状は?
2013年の世界ランキングを見ると、金の生産量は世界40位の 7.4tでした。
生産量には廃棄物リサイクルや輸入鉱石からの生産量も含まれるでしょうから、国内金山からの産出量は これより少ないと思います。

その中で年間約7tの金を算出しているのが、鹿児島県伊佐郡菱刈町から 2008年に伊佐市になった菱刈鉱山です。規模は外国の鉱山よりも小さいながら、鉱石1tに平均40gの金を含む 高品位の鉱石を産出しています。

住友金属鉱山の特設ページには、日本の主要金山における産金量累計値(2015年3月末現在)がありました。
これによると、菱刈は長い歴史を持つ佐渡が閉山までに算出した金の2倍半以上を産出して稼働中。
3位の鴻之舞鉱山(北海道オホーツクの紋別市)も住友で、1955年の約3tが最高。
4位も鹿児島県で、三井串木野鉱山は、2009年に採掘再開とあり、また薩摩半島南端に近い知覧町【2007年南九州市】に赤石鉱山を操業し、金鉱石の採掘を行ない、国内の銅製錬所に販売しているそうです。

5位の鯛生(たいお)金山も、昭和初期の全盛期には東洋一の金産出量で、従業員3000人の大金山だったそうです。
1972年閉山となった鯛生金山跡は、佐渡鉱山と共に経済産業省による 近代化産業遺産群33 の一つ「19.金山」として認定されました。
鯛生金山の年間産金量は1938年に2.3tを記録し、佐渡を上回る日本一の金山になった記録もあります。リンクの 68/121コマ。

鯛生金山の跡は、地底博物館・鯛生金山 として公開されています。
その所在地は日田市中津江村[91229]。9/18にオフ会が開かれる杖立温泉から梅林湖・蜂の巣湖沿いに遡り、国道442号に出た地点から西に進んだ大分・福岡県境付近です。

ここで会うたも何かの縁 遊んでいってくんなまし
オフ会にクルマで参加する方の中で、翌日に 鯛生金山跡を地底探検してみる気になった方が出現するようならば、ぜひとも連れて行っていただきたい。そんな下心も含めての金山紹介でした。
[91310] 2016年 9月 1日(木)19:19:45hmt さん
固有名詞の表記
今年からマイナンバー制度の利用が始まっています。…と言っても、これまでのところ、生命保険会社から通知カードのコピー送付を依頼された程度だったのですが、最近 銀行取引に関連し、口座名義人、即ち「人名表記」の変更を求められる事態を経験しました。
これが、マイナンバー制度開始に伴うもののようなのです。

もちろん、こちらのサイトの対象である「地名表記」の問題ではないのですが、固有名詞としては同類なので、無関係とは言えないように思われたので、これを機会にご紹介しておきます。
全国銀行業界のページによると、ある種の取引を行う際に「マイナンバーの提示を伴った本人確認」が求められており、それに対応する趣旨のようです。

私の場合、もちろん偽名やニックネームで口座を作っているわけでなく 本名の口座なのですが、その中の1文字が戸籍に記載された旧字体でなく、新字体【当用漢字→常用漢字】で通帳に印字されていました。
何十年も前に開いた口座であり、当時の通帳に使われた字体の確認はしていませんが、銀行業務が電算化した初期には 使える漢字が限られており、戸籍【昔は手書き文字】と同じような旧字体が使えなかったので、世の中に広く使われている当用漢字体による印字が 自然に採用された可能性が大きいものと推察します。

その後、電算機の性能とそれが利用される社会環境は大きく変りました。住民基本台帳や戸籍簿の電算化だけでなく、国語政策にも変化がありました。そして訪れたのが、マイナンバー制度による一元管理【名寄せ】への動きです。

本人確認の際に提示するマイナンバー通知書には、旧字体【電算化により改製された戸籍簿に使われているもの】が印字されています。
銀行の口座には、常用漢字として通用している新字体が使われています。
旧字体の印字と新字体の印字は「同じ字」であるか否か? 
また、「文字の同一」と「人物の同一」との関係は? 最初に、ここらから考えます。

「同じ字であると認める」【A】ならば、本人確認は簡単でしょう。しかし「字体が違うから別の字である」【B】と考えると、少し慎重に進める必要があります。銀行協会のページにある“「通知カードおよび運転免許証などの本人確認書類」などを提示してください”という言葉は、別の字である可能性がある場合に対処する準備に役立つと受取ることができます。運転免許証の写真等を併用することにより、仮に【B】だとしても本人確認の目的を達することが期待されます。

少し戻りますが、「戸籍に使われた文字」が正しいとして、それは「手書き」から電算機による「印字体」に変更されているのですから、求められるのは「画像としての一致」ではなく、文字を認識する脳の働きをふまえた上で、手書き・印字の違い、旧字体・新字体などの書体を超越した「文字としての同一性」です。

「一点一画をも揺がせにせず」などという言葉があります。確かに「大」・「太」・「犬」のように一点の有無や位置で別の字になってしまう場合もあります。
しかし、大多数の漢字では人間の脳はもっと融通が効く、悪く言えば「いいかげん」なものです。
「森鴎外」をご存知でしょうか?
「鴎」という字の左側は本来「區」です。しかし簡略化された「区」が当用漢字に採用され、更に形声文字「駆」のパーツとしても使われました。「かもめ」の場合は当用漢字対象外なので公式の新字体は制定されていませんが、人々はこの考えに順応し、字書に存在しない「鴎」という字を自然に受け入れています。
【注意】法律上は人名漢字にもなっていませんから、出生届に「鴎」を使うことはできません。

要するに、構成要素(例:画数)に明らかな相違があっても、「同じ字」を表わす記号であることは否定されません。
特に当用漢字→常用漢字に制定されている新字体は、国家自らが約70年もにわたり「同じ字」として、使用することを奨励してきた実績があります。
そして、常用漢字のような公式の字体が制定されておらず、【B】の疑いがある場合でも、「運転免許証などの本人確認書類」の併用によって、本人確認の目的を達することが期待できます。

次に、国語政策における固有名詞の扱いを見ます。
1946/11/16の内閣告示で1850文字の当用漢字を制定した際の趣旨は「漢字の制限」が あまり無理なく行われる めやす であり、「使用上の注意」の冒頭に掲げられたのは、次の言葉でした。
この表の漢字で書きあらわせないことばは,別のことばにかえるか,または,かな書きにする。

しかし 固有名詞については、当用漢字表「まえがき」で “法規上その他に関係するところが大きいので、別に考えることとした”としており、「大阪」を「大坂」と書き換えることは実行されませんでした。

その反面、仙臺・横濱・金澤 などは、当用漢字採用時に「自動的に」当用漢字の簡易字体を使った 仙台・横浜・金沢 という表記に変りました[74082]
つまり、「同じ字」の簡易字体採用は、固有名詞であっても躊躇なく行なわれたと理解されます。
銀行の電算化に際して「同じ字」の新字体が使われたのは、社会通念上当然のことでもありますが、地名についてのこのような事例に照らしても、十分に理解できることです。

70年後の現在、当用漢字制度は常用漢字制度に変っています。
こちらでは「まえがき」改め「前書き」から「漢字の制限」という言葉がなくなり、字数も1945字(1981年)から2136文字(2010年)に増加しています。固有名詞については、更に人名用漢字も大幅に許容されており、国語行政は 70年前の漢字制限時代から 多様な表記を認める方向に変化したことを感じます。

旧字体の個人名に愛着を持つ人が多い中で、戸籍電算化を進めた背景にはそれなりの労苦もあったこととは思います。
それに基づいて実現したマイナンバー制度も、ある程度 多様な表記を個人に認めています。
だからといって、当用漢字→常用漢字制度が戦後の社会にもたらした大きな成果である「表記の平易化」・「表記の共通化」に反する結果に通じる動きには警戒を要すると考えています。

ここで、難しい漢字が使われた地名の代表格「鹽竈」について言及しておきます。
自治体名は1889年から平易な俗字を使った「塩竈」になっており、これが1941年の塩竈市に引き継がれています。そして、「竈」(かまど)とは意味が違う別の文字を使った「塩釜」さえも混用されているのが現実です。例:塩釜駅。
市役所自身は本来の「竈」を使いながらも、市民や他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解釈して受理するとしています。出典
自分の「こだわり」を持ちながらも、社会的に通用している異表記も認める。このような態度は参考になります。[74061]
「こだわり」の類例としては、わざわざ 2点しんにゅうの「蓮」に改称した蓮田市の例[77399][77400]も出ましたが、これはちょっと「やりすぎ」。

推測ですが、政府が求めているのは マイナンバーによる本人確認だけであって、字体の相違を厳密にチェックしろと言っているわけではないでしょう。制度の趣旨は 社会基盤としての共通番号であり、「名寄せ」による脱税防止は期待しているでしょうが、無用な負担を民間に負わせるものではない筈です。

今回の件で、銀行が字体の僅かな違いを気にして口座名義の変更を求めたのは、民間企業の過剰な自衛本能が働いたものであり、法的根拠に基づくものではないと推察しています。
私自身としては少し驚いたものの、手続自体 さほど面倒なこととは思っておらず、応じるつもりです。

この記事を書いているうちに感じたのは、本当に「モノ申すべき相手」は、マイナンバー制度でも銀行でもなく、字体の僅かな違いを拾い出して「別の字」と決め付けたがる社会傾向ではないかということです。

学校で経験した「書き取り」における厳密な採点から、字体の微差を許容しない習慣が身についた人々。
これに個人的な好みが結びつき、更には電算機技術の発達が多数の文字種を実現させ、それに別々のコードを付けてしまった。
こんな事情から無用な漢字が電算機で使えるようになり、検索洩れを引き起こす原因にもなっている。

世の中には「正解は一つだけ」ではなく、「どちらも正しい」ことが たくさんあると認識しましょう。
おおらかな態度で接しましょう。「いいかげん」とは「良い加減」、つまり「許容範囲が広い」ことです。
この記事で指摘した問題も、実は杞憂にすぎないものだった。そのようになる社会の実現を願っています。長文をお詫びします
[91296] 2016年 8月 30日(火)23:11:37【1】hmt さん
JR北海道 平成27年度 輸送密度
[91295] 山野さん
(廃止検討対象区間)輸送密度500人キロ未満の7線区

タビリスを見たら、下記のように記されていました。
2016年度決算【2015年度決算の誤記】で輸送密度500人未満の線区は、以下の9つです。【記載は8線区】

ご指摘のように記載洩れや誤記がありそうなので、JR北海道平成27年度決算(H28/5/9)を確認しました。

8/10コマに 利用状況のデータと 輸送密度別路線図とがありました。
これを見ると、運休している日高線が 全社平均を出している主表から除外されていますが、欄外に別記されているように、輸送密度 【注】185人/km/日です。
日高線を加えると 輸送密度500人未満の区間は 9つになります。
廃線が実質的に決った留萌~増毛と新夕張~夕張の2区間を除けば、廃止検討対象は7区間。

なお、この表には JR北海道全線区のデータが掲載されています。
全線区のデータ公表は、平成26年度からとのこと。

【注】輸送密度
1980年の国鉄再建法[85139]の時に、幹線と地方交通線とを仕分ける目的で使われた「モノサシ」では、輸送密度4000人/km/日が基準値として使われました。
JR北海道が 今後も単独で維持することを目指す(日経)という 2000人/km/日でさえ、その半分です。
状況は誠に厳しい と言わざるを得ません。
[91282] 2016年 8月 27日(土)18:43:27【1】hmt さん
米軍統治下の沖縄
[91263] グリグリさん
先週放送された NHKスペシャルを紹介していただきました。
米国統治下の沖縄に関係するこの件については、私もフォローしたいと思っているのですが、未知のことが多く、まとまった意見を記すことができません。

散発的な書き込みになってしまいますが、とりあえずのメモを記録に残しておきます。

終戦後の沖縄の市は、言わば難民キャンプと呼ばれるものでしたが、番組では収容所という表現で紹介していました。

「収容所」という表現は、琉球の風さんの[1188]を始めとして この落書き帳でも度々使われてきました。
地上戦により日本の行政機構は壊滅しており、居所を失った住民の収容施設は米軍の軍政下。
不完全ながら日本側が関与するようになったのは、戦火が収まり沖縄諮詢会が発足した後の地方行政緊急措置要綱。この要綱で「市」と呼ぶことになった住民収容所の自治組織は 1945年9月に発足。沖縄本島12市の他に 粟国,伊平屋,慶良間列島,久米島の各市があり 合計16市[1260][4680]

また、そこに収容された人々は、沖縄本島で難民となった人たちではなく、終戦前に日本本土に移動していた(疎開?徴用?)沖縄人10万人を沖縄に強制移動させた人々のことでした。

これは誤解部分があり、沖縄本島で難民となった人たちの収容所【16市】と別に、本土の「沖縄人10万人」を沖縄に強制移動させた際にできた収容所があったことを指しているように思われます。
1946年には日本から琉球への入域者が 10万人以上あったという統計があります。出典

これが日本から強制移動させられた沖縄人労働力ではないかと思い 少し調べてみたのですが、その実体解明に役立つ手がかりは得られませんでした。
ちょっと気になる存在が 後に「みなと村」[1219]になった地域です。これは那覇港の荷役労働関係かと思いますが、軍事基地関係作業で必要とされた労働力を集めた収容所地域が、他にもあったのではないかなどと想像してしまいます。

この番組に対する批評も出ています。

鈴木祐司さんの記事の中に、次の記載がありました。
“空白の1年”の1年後には決定的な出来事もあった。通称「沖縄メッセージ」と呼ばれる昭和天皇からマッカーサーに宛て送られた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」である。

既に象徴の地位にあった天皇が このような意見を示したと伝える話を知り、驚きました。沖縄県公文書館, Sebald文書 , あの日の沖縄_1947/9/22

「メッセージ」に関連する矢吹晋さんの論評 ちきゅう座

テレビで報道された基地問題につながる沖縄の戦後問題。
ちょっと調べてみただけで、まだまだ知らないことが多いことを実感しました。
[91229] 2016年 8月 17日(水)18:59:19hmt さん
杖立への道
オフ会が開かれる杖立温泉に通じる道は 国道212号ですが、日田方面から向かう途中、熊本地震による通行不能箇所が生じています。
オフ会メーリングリストでは、既に 2016/7/2に かぱぷうさんの詳細な報告がありました。
福岡から日田・杖立温泉経由の黒川温泉行きの大型バス運行ルートが通行不能になり、熊本県小国町役場付近の「ゆうステーション」経由の迂回運転を余儀なくされている。
このことについては 現在も変らないのですが、乗用車の迂回ルートは、その後短縮されました。

現在の 国道212号迂回路図 には、日田IC~杖立温泉所要時間(乗用車)が1時間15分から45分へと30分短縮されたと記されています。
以前の乗用車迂回路は、杖立温泉東側の山中を広域農道経由熊本県に入るもので、小国町役場付近迄は南下しないものの、大型車迂回路に近いものでした。

もう少し詳しく記すと、日田市大山町汗入場(あせりば)地区の田北トンネル付近が9月末まで全面通行止めという状況は変わらぬものの、もう一つの規制区間である日田市天瀬町・下岩戸トンネル付近【杖立温泉のすぐ下流】は7月15日17時から片側交互通行可能になりました。これにより、乗用車は広域農道「スカイファームロードひた」(市道)と県道12号天瀬阿蘇線の一部を使って松原ダム付近の梅林湖畔に出て、開通区間の先にある杖立温泉に行くことが可能になりました。

余談ですが、梅林湖で杖立川と合流するのが津江川です。文字は違いますが、同じ「つえ」なのでしょう。
こちらの上流は下筌(しもうけ)ダムによる「蜂の巣湖」になっています。この名は 1959年ダム反対運動目的の監視小屋・「蜂の巣城」に由来しています。マクベスを戦国時代に翻案した黒澤映画は「蜘蛛巣城」。
「津江川」から思い出すのは2002年サッカーワールドカップでカメルーンのキャンプ地になった「中津江村」。落書き帳過去記事が多い有名村も日田市の一部になりました[21428]

それはさておき、大型車迂回路は、国道210号→大分県道12号→日田広域農道【スカイファームロード】→熊本県の小国広域農道→国道387号と結んだものです。

黒川温泉行き高速バスが停車する「ゆうステーション」があるのは、熊本県阿蘇郡小国町大字宮原(みやのはる)。1984年までは宮原線【久大線の支線】の終着駅がありました[90675]。東西に走る国道387号が 南北に走る国道212号と交差する少し東で、ここから212号を北上して県境に到達した地点が杖立温泉です。

宮原線は終着駅・肥後小国の先、どんな計画があったのか? 1922年の改正鉄道敷設法[79718]別表第113号
佐賀県佐賀ヨリ福岡県矢部川、熊本県隈府ヲ経テ肥後大津ニ至ル鉄道 及隈府ヨリ分岐シテ大分県森附近ニ至ル鉄道
最初の区間は佐賀線でした。矢部川=鹿児島線の瀬高【みやま市】から先を延長して豊肥線肥後大津を結ぶ線の途中、隈府【菊池市】から分岐して久大線豊後森付近の恵良に至る線の一部が宮原線だったのでした。
最後は、またも「杖立への道」と関係ない余談になってしまいました。
[91213] 2016年 8月 15日(月)12:39:47【3】hmt さん
海と島 (28)大きな無人島
[91212] 白桃さん
「面積1km2以上の無人島」ってあるのでしょうか?

過去記事[33529][85822]を参考に 上位と思われるものを列挙し、再検討してみました。
その結果によると、事情はそれぞれ異なるが、馬毛島や野崎島は 現在は再び有人島化したようです。

島名面積km2所在地コメント
渡島大島9.74北海道松前町[15328][23960]の29
馬毛島8.17鹿児島県西之表市島を手に入れた企業が有人島化 その狙いは?
兄島7.88東京都小笠原村世界遺産になる前は空港計画があった
大黒神島7.30広島県江田島市[29879][33494]黒い噂
野崎島7.11長崎県小値賀町[89994]他多数 現在は管理人が定住し宿泊できる有人島らしい
春国岱6   北海道根室市[85822]
屈斜路湖中島5.81北海道弟子屈町
枝手久島5.79鹿児島県宇検村奄美群島 開発計画
北硫黄島5.56東京都小笠原村[79266]
弟島5.20東京都小笠原村墓や小学校の門など定住遺跡あり
洞爺湖中島4.84北海道壮瞥町、洞爺湖町遊覧船で行ける
鳥島4.78東京都(市町村なし)[18943][22460]
南硫黄島3.54東京都小笠原村[74102]

なお、下記のようにまぎらわしい存在の島もあります。

硫黄島は 23.73km2もある大きな島で、戦前は1000人以上の人が暮らして賑わった島でしたが[56162]、現在は火山活動のために一般人が定住することはできません。
 # 火山と言えば、一時的な避難でしたが、三宅島 55.21km2も無人化した時がありました。
しかし、硫黄島には海上自衛隊員が常駐しています。つまり「住民がいない有人島」です。
南鳥島 1.52km2も 同様に海上自衛隊員が常駐しています。南鳥島には気象庁職員も常駐。

これに対して、「人がいる無人島」もあります。
広い意味では、住民基本台帳の住所を有する居住者も、国勢調査の常住者もいない島が「無人島」として扱われると思います。
しかし、居住者・常住者に限定して有人・無人を区別することにすると、「定住していない通勤者や旅行者」がいっぱい居るのに「無人島」という事例が たくさん出てしまいます。
その代表が「民間空港島」なのですが、その他の事例も含めて [86161]で例示しておきました。
[91185] 2016年 8月 11日(木)19:10:50hmt さん
国民の祝日「山の日」
[85642] ピーくん さん
平成28年から8月11日を「山の日」となります。
…というわけで、本日が記念すべき?第1回の「山の日」。

上高地で開かれた全国大会には 皇太子さまが 家族連れで出席されたとのことです。NHK News Web

20年前に国民の祝日になった「海の日」は、東北地方巡幸の明治天皇が海路で横浜に帰港した明治9年(1876)7月20日に因むもので、1941年制定の「海の記念日」からでも75年の歴史があります。

「山の日」制定の動きは 国会では 2013年からのようで、上記のように 2014年に早くも改正法成立。

全国大会が開かれた日本アルプスが 日本を代表する山であることに異論はありませんが、極論すれば山だらけの日本です。
…で、山地の割合が最大の都道府県はどこか? ちょっと気になりました。

都道府県データランンキング には まだ収録されていないようなので、日本統計年鑑を見たら、「都道府県,地形・傾斜度別面積)」という表がありました。

昭和57年の調査によるデータですが、そんなに変わるものではないので これでよいでしょう。
山地、丘陵地、台地、低地、内水域等の5種に分け、47都道府県ごとの面積がkm2単位で示されています。
この5分類の面積を合計した値を都道府県ごとの総面積と考え、これに対する比率を求めます。

ところが、「内水域等」に問題がありそうです。
北海道の 5,367km2には 北方領土 5033km2が未分類のまま含まれているので、実質 334km2。
そこで、北海道だけは 北方領土を計算から除外することにしました。

滋賀県や茨城県の「内水域等」面積が大きいのは当然ですが、県内の比率を求めると、なんと大阪府が17.9%で 滋賀県の14%を上回ります。東京都、長崎県、愛知県も茨城県の4.8%を上回ります。
離島や埋立地の扱いに問題があるのではと疑いましたが、よくわかりません。

このように未解明の点があるデータですが、本題の山地面積に関しては、おしなべて比率の大きいことでもあり、妥当な数字が出ているだろうと考え、以下のように「山地の多い県」ランキグングを作ってみました。

全国で山地比率が最大になった県は 鳥取県の 87.2% でした。
以下、2 高知県、3 山梨県、4 長野県、5 愛媛県、6 和歌山県、7 奈良県、8 徳島県、9 広島県、10大分県、11 岐阜県、12 群馬県、13 熊本県、14 福島県までが 75%以上。全国平均は 61%です。

上位の県の多くは、国民の祝日制定前から、県独自の「山の日」を作っていました。
こうち山の日【11月11日】、やまなし山の日【8月8日】、信州山の日、えひめ山の日【11月11日】、紀州山の日【11月】、奈良県山の日・川の日、ひろしま山の日、ぎふ山の日【8月8日】ぐんま山の日【国民の祝日制定後に廃止】

16位の静岡県は富士山の日、34位の香川県が かがわ山の日【11月11日】、41位の大阪府が おおさか山の日【11月】。
そして 47位の千葉県は山地の割合が飛び抜けて少ない 7.6%で、対象は丘陵地でしょうが 里山の日があります。

歴史的な日付に因むものではないので、山の形をした「八」や樹木を象った「11」を用いた日が好まれているようです。
[91167] 2016年 8月 8日(月)18:11:12【1】hmt さん
それは黒船から始まった (4)外国人居留地
[65167] Issieさん
【修学旅行の目的地としての】横浜が 中華街だけとは,大変さびしい。

横浜を訪れて学ぶべきことは多いわけですが、幕末の開港に始まった「外国人居留地」。
中華街を通じて「外国人居留地」が存在した過去を学ぶのも大切なので、このシリーズに取り上げます。

ご存知でない方も多いと思いますが、「租界」(そかい)という言葉がありました。大辞林の説明。
19世紀後半から解放前の中国の開港場で、外国人が行政権と警察権を握っていた地域。

現在の学校では どのように習っているか知りませんが、同じ19世紀後半(幕末)の開港から、明治の条約改正[54388][62517]までの間(1859~1899)、上海など中国の都市の「租界」と同様に「外国の領事裁判権を認めていた地域」が 日本にも ありました。それが「外国人居留地」です。
外国人居留地は、開港場「五港」である 横浜・神戸・長崎・箱館(箱館は有名無実、新潟には設けず)の他に、「開市」した東京(築地)・大阪(川口)にも存在しました。

横浜居留地を示しておきます。
明治30年の地図【クリックで拡大】を見ると、 外国人居留地には 官有地・民有地と異なる色分けがされており、特殊地帯であったことが明らかです。
山下居留地という文字付近の南京町【現在の中華街】に隣接した三角形の官有地にも注目してください。
現在の地図と照合すれば すぐにわかりますが、加賀町警察署[57730]です。

言うまでもなく清国は領事裁判権を持つ国ではありませんが、清国人も居留地の住民でした。居留地内に出入りする日本人もいました。領事裁判権は認めるとしても、外国人居留地は 当然 日本の警察権を行使する地域です。
加賀町警察署の位置は、このような複雑な状況に対応するものであったのでしょう。
多数の中国人が住むようになった事情は[65179]に記しました。南京町という呼び名は長い間使われてきましたが、戦後に犯罪多発地のイメージを一掃する目的もあり、横浜中華街として再生しました。

山下居留地の30ヶ町。[65183]では明治19年の資料に基づいて山下居留地の29町名を紹介しました。
横浜市中区史地区編 第3章山手・山下地区 の11/88コマによると、花園町を加えた30ヶ町は 明治12年1月に命名され、加賀町警察署の他に薩摩町バス停、電話線の支線名に現存しているそうです。

関内の街路は基本的に海岸線基準の碁盤目(並行と直交)ですが、中華街だけは 東西南北の正しい碁盤目なので話題になりました。下記 中国の学者の発言は [65181]にリンクされています。
中華街は斜めではない。斜めなのは周りのほうだ。

この向きは、開港のひろば99号 図2に示されているように、開港より前の嘉永4年の水田畦道に遡ることが確認されています。「横浜新田」の造成時からとすると文化年間(19世紀初期)でしょう。海岸線基準の「周りの道路」は 1858年以後。
文久2年(1862)に幕府の工事が行なわれ、水田は居留地に造成され、街路も整備されました。しかし実務(高低差や補償の処理)を考慮し、農地の形は 街路の向きとしてそのまま残されたようです。「風水に基づいて中国人がこの土地を造成した」という都市伝説は否定されるが、風水の観点から優れたこの地は中国人に好まれ、中華街になった。開港のひろば100号は、このように伝えています。[65180][65183]

話が江戸時代の横浜新田造成に及んだ機会に、横浜の土地造成に少し触れておきます。
横浜市中区史地区編 第1章素顔の中区 の13/49コマによる概況。
明暦2年-寛文7年(1656-1667) 吉田新田 約120ha 江戸の商人吉田勘兵衛(最初の名は野毛新田)
宝暦-天明年間(1751-1788)  隣接の西区の区域に尾張屋新田、宝暦新田、安永新田、藤江新田
天保4年-10年(1833-1839)   岡野新田、平沼新田
文化年間(1804-1818)     横浜新田
嘉永年間(1848-1853)     太田屋新田【現在の関内】 三河出身の商人太田屋徳九郎
明治初年(1868-1871)     野毛浦【現在の桜木町付近】

地図があった方がよいですね。
[65182] Issieさん
こちら は個人のページのようですが,横浜開港以前の地図(横浜村外六ヶ村之図)が掲載されています。
小さくて見えにくいけれど,「横浜新田」と書かれているところが,今の中華街ですね。

現在の地図とほぼ逆向きで、北北東にある海を下に描かれていますが、「横浜村外六ヶ村」を数えてみます。
半島状をなす「横浜村」の南に「横浜新田」。その右(北西)の「太田屋新田」は まだ水面状態。
図の中央部は左の中村川と右の大岡川との間に大きく描かれているのが「吉田新田」で、一部は派大岡川を隔てた太田屋新田と同様の水面状態です。
大岡川の左(西)には「太田村」があり、大岡川の河口・左岸には「野毛浦」があります。現在の桜木町付近。

これに、図の右側・緑色の野毛山のある「戸部村」と、中村川右岸沿いの「石川中村」とを加えると8ヶ村になり、「横浜村外六ヶ村」より多くなってしまいます。水面だけの太田屋新田はノーカウント?

この地図の出典は記されていないのですが、前記開港のひろば99号図2と似ており、『横浜村並近傍之図』(横浜市中央図書館)に基づいて模写したものではないかと推察します。
[91105] 2016年 8月 5日(金)18:16:42hmt さん
それは黒船から始まった (3)神奈川と横浜
ハリスによる日米修好通商条約の第3条には、ペリーの時に開いた下田・箱館以外に開く4港【神奈川・長崎・新潟・兵庫】とその期日が記されています。最初の開港場は神奈川と長崎で、期日は条約調印から約15ヶ月後の 1859年7月4日。期日は米国独立記念日でしたが、実際は最恵国条項にもとづき 7月1日に開港しました[54351]。安政6年6月2日は 旧暦の日付ですが、何故か6月2日が現在の横浜開港記念日に採用されています。

それよりも問題なのは、開港を約束した「神奈川」の解釈です。
オランダ・中国との限定貿易時代からの窓口・長崎は ともかく、江戸に近い東海道の宿場町である「神奈川」に外国の商人が来て 一般の日本人と接触する。それにより 問題が起きたらどうするのか?
 
日本側は トラブル回避のために、東海道筋から外れた横浜村を神奈川の一部であると解釈して、ここを開港地とすることを画策しました。しかし、ハリスら外国側は 長崎の出島貿易の再来になることを心配し、神奈川宿付近に領事館を設けてこの動きを牽制しました。参考

両者の駆け引きはありましたが、条約発効を前に幕府は横浜村での開港場建設を開始し、既成事実化しました。結局のところ、水深の深い横浜を貿易港とする利点に 外国側も納得し、横浜開港の運びとなりました[65179]

万延元年(1860)になると、幕府は中村川から海岸までを直結する長さ580間の堀川を開削[54352]。元町・中華街駅は、堀川の地下を横断しています。
これによって居留地は、北を海、西を大岡川末端部の内海、南西を派大岡川、南東を堀川に囲まれた「出島」状態になり、派大岡川の大岡川への合流点の南側にある吉田橋などには木戸門と見張番所が設けられました。
このような関門に囲まれた内側が「関内」、外側が「関外」です[54351]
条約には「居留地の周囲に門墻を設けず出入自在にすべし」とあります。番所は日本人用で、外国人については出入自在ということなのでしょう。

「神奈川県横浜市神奈川区」というように、地名としての神奈川と横浜とは入り乱れています。
これは元々は狭域地名[6474]だった両者が、時代の流れの中でそれぞれ広域地名化してしまったことに由来します。

最初に示すのは、明治7年に水路局が発行した 海図 YOKOHAMA BAYです。
図の下方に象の鼻を中心とした開港場・横浜の市街地が描かれています。街路は海岸線に従った約40度の斜め方向ですが、中華街だけはほぼ正しく東西南北を向いています。その左の白地には外国人居留地の文字もあります。『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の遊郭[54351]は 現在の横浜公園付近にありました。

大岡川河口部の内海は既に埋め立てられ、そこに開業後間もない(初代)横浜駅があります。
現在の桜木町駅ですが、その西側には野毛山・掃部山が迫っています。掃部山の県立青少年センターには神奈川奉行所跡の碑があります。
この神奈川奉行所[54388]は 慶応4年3月19日に新政府軍に接収されて横浜裁判所[75497]になりましたが、翌月には神奈川裁判所と「神奈川」の名が復活しました。
3月に横浜裁判所を名乗りながら翌月には神奈川裁判所という朝令暮改ぶりから、“開港場は横浜”と認識していた日本の新政府が、前政権が締結した条約の手前、対外的には“ここは神奈川”で押し通さなければならないことに気付き、慌てて改名した事情を読み取ることができます。[20917]
慌ただしい改称はその後も続きましたが、神奈川府を経て明治元年9月21日 神奈川県 で落ち着きました。
「県庁は横浜にあるのに神奈川県」という ねじれ現象は現在まで続いています。

なお、初代の神奈川県庁舎は明治15年に焼失、2代目は明治末期に解体。「キングの塔」で有名な4代目庁舎は、関東大震災で倒壊した3代目庁舎の後に 1928年完成したもの。開港のひろば88号
知事が執務する現役の庁舎としては、1927年竣工の大阪府庁本館に次いで全国で2番目に古いものとか。なお、群馬県昭和庁舎[55438]も 1928年の建築で、分館として使用されているようです。

庁舎のことはさておき、県名の由来「神奈川」という地名は、海図の北の方に見えています。
江戸日本橋から 1品川・2川崎と上る東海道3番目の宿場町でした。
明治末期の地形図を見ると、右上に「かながは」駅が見えます。現在の横浜駅のすぐ近くで、少し前の1901年に橘樹郡神奈川町から横浜市に編入された後でした。

昔からの郡名を調べると、東海道筋の宿場は 2川崎・3神奈川・4保土ヶ谷と武蔵国橘樹郡が続いた後、5戸塚で相模国鎌倉郡に入ります。 久良岐郡横浜は明らかに陸路の本筋から外れています。
このような横浜の位置が、鉄道の時代になってから、スイッチバックやら直通線やらを必要とした原因になったのでした[49808]

地名として全国に知られるようになった村名「横浜」とは対照的に、郡名「久良岐」は忘れられた地名になっています。調べたら久良岐橋がありましたが、中村川の上を通る高速道路の橋のようです。新吉田川が大通公園になる前は「川の十字路」でした。

また話が逸れてしまいましたが、明治末期の地形図に戻ります。明治7年の海図から30年以上後なので、陸地化が進んでいますが、それでも現在の横浜駅の西側には大きな内海が残っていました。
現在の地名では大部分が西区で、帷子川に近い南側が南幸、北側が北幸。この付近は内海橋名も残っている かつての岡野新田でした。

大まかに言えば、東海道【赤線】と横浜道【緑線】とが昔の海岸沿いです。
神奈川駅の先、弧を描く埋立地を初代横浜駅目指して進む鉄路の西端付近に 萬里橋[79942] の文字が見えます。
横浜オフ会では横浜駅から2代目横浜駅へのルートとして 万里橋経由が予定されていましたが、本隊から遅れた私が実際に渡ったのは帷子川の河口の築地橋でした。

万里橋については [49808][82973]で Old Map Roomを引用して説明していました。それによると、明治24年の 1:20,000地形図 など各時代の地形図が掲載されていたのですが、現在では残念ながらアクセスすることができません。

それはさておき、幕府が横浜開港に伴って設置した役所の名が何故「神奈川奉行所」だったのか?
条約での約束「神奈川を開港する」と辻褄を合わせるためとしか考えられません。
神奈川/横浜と同じように「兵庫を開港する」と約束して開港した神戸とペアにしたシリーズを書いたのは 10年前でした。[54297][54430]
[91104] 2016年 8月 5日(金)18:05:22hmt さん
それは黒船から始まった (2)1854年のペリー条約 と 1858年のハリス条約
さて、ビッドルから7年後のペリー。今度は清国に行く ついで というわけでなく、日本について本格的に研究し、フィルモア大統領の国書も携えた正式の使節です。

ペリーの黒船艦隊は有名ですが、太平洋を越えて日本にやってきたわけではありません。19世紀中頃の米国は 米墨戦争(1846-48)【墨西哥=メキシコ】により手に入れたカリフォルニアで金鉱が発見された頃です。サンディエゴに海軍基地ができたのは ずっと後の1907年でした。ホノルルも1900年まではハワイ王国でした。

経路はビッドルと同様に喜望峰経由。出港地は東海岸の海軍基地・ノーフォーク。[15871]太白さん
上海で4隻が集結した後、日本本土に先立ち琉球王国を訪れ、更に小笠原諸島を訪れました。これは日本遠征の目的が開国だけでなく、捕鯨基地の確保もあったからで、これについては[78654]で言及しています。

嘉永の浦賀来航は 4隻のうち2隻が蒸気軍艦。日本のことをよく研究し、大統領の国書も持参した米国の態度に接し、会見した浦賀奉行も相手が本気であることを実感したのでしょう。
12代将軍徳川家慶が病気中で【ペリー退去後、間もなく死去】、受け取った国書の返事は翌年までと先送りしたものの、「阿部政権」の対応もビッドル来航の時とは変わらざるを得ません。

「品川台場」[80264]を築造し、急拵えながらも、翌年には数を増して再来航し 江戸湾に入った米国艦隊に対し、辛くも日本の「海防体制」を示すことができました。

1854年の日米和親条約締結については [77711]に記しましたが、条約調印の場所に 江戸から少し離れた横浜が選ばれた背景には、品川台場の威嚇効果も多少は寄与していたのかもしれません。
林大学頭らの日本側全権との協議が行なわれた応接所は、神奈川宿の対岸にある砂洲の上の漁村、武蔵国久良岐郡横浜村に作られ、これが横浜の初舞台になりました。
アメリカ側の 武力を見せつけながらの協議を経て、嘉永7年(安政元年)3月3日(1854年3月31日)に、横浜村で 日米和親条約(日本国米利堅合衆国和親条約[1805])が締結されました。

でも、この時に開港したのは下田と箱館の2港だけで、条約を結んだ横浜を開港したわけではありません。
下田には米国領事館を置くことを認めたものの、自由貿易を認めたわけでもありません。日米両国が「和親」状態になったと言っても、米国捕鯨船【石油以前には鯨油ランプが使われていました】への食料・水・石炭[61271]などの補給基地として、遠隔地の港への入港を認めるという程度の段階でした。

次の大きなステップは 安政5年で、この年に実質的な開国への道が開かれました。
日米が「修好」だけでなく「通商」段階に進むのは、和親条約によって交渉の座を確保し 安政3年に来日したた米国総領事タウンゼント・ハリスの仕事でした。武力に訴えて清国と争っている英仏が日本に襲来する前に、友好的な米国との間で通商条約を締結する利益。これがハリスの強硬の主張の骨子で、消極的な態度の幕府を説得しました。その成果が 日米修好通商条約です。

ポイントであるアヘン輸入禁止条項はどこに記されているのか? 
日本開きたる港々に於て亜米利加商民貿易の章程第二則の末尾近くに、次の言葉がありました。
阿片の輸入厳禁たり 然るに密商し又其事を謀る輩は阿片一斤毎に15ドルラルの過料を日本役所に納むべし

条約調印は 安政5年(1858)6月19日 アメリカン・アンカレッジに碇泊した軍艦ポーハタン号の上で行なわれました。現在の横浜市金沢区八景島付近の海上です。

余談ですが、このポーハタン号は最大級の蒸気外輪軍艦でした。既に嘉永7年の来航時に この碇泊地に投錨し、ペリーは旗艦をサスケハナ号からポーハタン号に変更しています。日米和親条約で開港した下田では、吉田松陰の密航を拒絶しています。
ポーハタン号は、日米修好通商条約批准書【署名者は もちろん孝明天皇ではなく、14代将軍徳川家茂です】交換に渡米する日本使節団[77630]を迎えるためにも使われました。この航海にはサンフランシスコまで咸臨丸が随行しました。

この条約の結果 開港場になったのが 神奈川・兵庫・長崎・新潟・箱館 、総称して「五港」[51062]です。

…とは言っても、通商条約の調印と開港とが、すんなり実現したわけではありません。

最初のハードルは「勅許」問題でした。
17世紀以来 国政を任されている江戸幕府が 今更「勅許」を求める というのも、考えてみれば 奇妙なことです。
そもそも【19世紀の造語ですが】「鎖国」を決めた 17世紀には、勅許など考えてもいなかった筈です。
天皇のお墨付きがあれば 反対派対策に役立つ という老中首座・堀田正睦【阿部正弘の後任】の甘い見通しが 裏目に出てしまった ということでしょうか。

それはさておき、堀田の上洛中に 政権の実質トップとして 大老職に就任したのが 彦根藩主の井伊直弼です。

もともと開国に消極的だった井伊直弼が、勅許を得ないまま 「日米修好通商条約」を結んだ政権のトップ【注】になってしまったのは、歴史の運命でしょうか。政権運営に反対する浪士たちに桜田門外で襲われ、落命したのは 安政7年=万延元年(1860)3月3日でした。
日米条約に続いて、日蘭・日露・日英・日仏条約も締結されました。総称して「安政の五ヶ国条約」と呼びます。
「安政の仮条約」という呼び名は、誰が言い出したのか知りません。もちろん「仮に結んだ約束」という言い訳が国際的に通用する筈もなく、後の明治政府は 条約改正[54388]で苦労することになりました。
【注】
幕府の形式的なトップは、言うまでもなく 13代将軍徳川家定[80264]ですが、条約調印 約半月後に死去。


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