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hmtさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[88762]2015年9月7日
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[88753]2015年9月2日
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[88708]2015年8月26日
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[88707]2015年8月26日
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[88670]2015年8月18日
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[88659]2015年8月16日
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[88648]2015年8月14日
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[88640]2015年8月14日
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[88632]2015年8月12日
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[88614]2015年8月11日
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[88598]2015年8月9日
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[88581]2015年8月6日
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[88552]2015年8月3日
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[88550]2015年8月3日
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[88296]2015年7月25日
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[88280]2015年7月24日
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[88269]2015年7月23日
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[88260]2015年7月23日
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[88203]2015年7月20日
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[88176]2015年7月19日
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[88090]2015年7月14日
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[88071]2015年7月11日
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[88053]2015年7月9日
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[88047]2015年7月8日
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[88042]2015年7月8日
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[88004]2015年7月3日
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[87989]2015年7月1日
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[87944]2015年6月24日
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[87943]2015年6月24日
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[87931]2015年6月16日
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[88762] 2015年 9月 7日(月)14:52:46hmt さん
八幡製鉄 と ビハリ・ボース直伝のインドカリー
[88759] 白桃 さん
北九州市成立前から、当地の製鉄業に翳りが見え始めていたのでしょうか?

八幡製鉄所の歴史を見ると、1959年(S34)からの第三次合理化では、戸畑地区での能力増強、八幡地区での高炉集約に加えて、堺・君津での一貫製鉄所実現に向けての建設開始と 旺盛な設備投資が行なわれている様子を うかがうことができます。

1960年に池田内閣が策定した「国民所得倍増計画」は、1961年からの10年間で GNPを倍増させることを目標に掲げ、実際には 10年間で約4倍の成長を達成したと言われています。
若戸大橋開通・北九州市発足と続いた時期は、この計画が走り始めた頃であり、当時の経済を支えた「重厚長大産業」の柱である製鉄業は、成長産業でした。

第四次中東戦争(1973)を端緒とする石油危機の影響によって経済成長率が急速に低下したのは昭和49(1974)年度で、わが国の産業構造が、省エネ・省資源型技術を裏付けとした「軽薄短小」路線へと転換したのは、昭和50年代でした。

マクロ的な社会背景はさておき、青桃さん?の就職先が 新宿の企業 になった という背景も 探ってみました。

戦後鉄鋼業の設備合理化期の展開という論文 のp.43(9コマ)に、当時の八幡製鐵の売上高・税引前利益が出ていました。
これを見ると、昭和37年(1962)は「岩戸景気」と「オリンピック景気」との谷間でした。

ちょっとした景気の谷間のせいで、社会人になる門出で 進路を変えられてしまったのは、ご本人にとってはショックな出来事だったと思います。
でも、これが 人生を成熟させるプロセスの中で良かったのか、悪かったのか? 
それを判断するのは、結果次第ということなのでしょうね。

思いがけず 笹塚で 美味しいカレーにありついた。
弟の白桃さんにとって ラッキーな結果をもたらしたことだけは 間違いないようです。[79360]

余談
伊賀の土豪出身の松尾芭蕉は、母が百地(桃地)氏出身と言われれており、深川で「芭蕉」を名乗る前の俳号は「桃青」でした。百地三太夫と言えば有名な伊賀忍者。
白桃さんの一族とは無関係なのでしょうが、青桃という名から 「もも」の付く人物を連想してしまいました。
[88753] 2015年 9月 2日(水)23:11:30hmt さん
佐賀県藤津郡多良町から太良町多良へ
[88731] スナフキん さん
自筆で書けない地名がありました。いや、書いたけど字を間違えたと言った方が正しいですね。
佐賀県太良町。

「釈迦に説法」であることは自覚しながらも、これを題材とした「地名」についての感想。

「佐賀県太良町」のような都道府県市区町村名は 「地名」としても使われますが、その第一義は「自治体名」です。
では ラジオ体操会場になった学校のある「地名」は何か? 
私としては、学校名にも使われている「多良」が 正統的な地名 であるように思います。
これを「佐賀県多良町」と書いた地名感覚を、簡単に「間違えたと」と捨て去るのは惜しいのではないか。

そんなことを考えながら、平凡社『日本地図帳』を確認してみたら、最も大きな字で目立つのは 自然地名の「多良岳」でした。次いで 役場の位置に記された「太良町」。
そして川の北側・海沿いにある集落「多良」は最も小さな字でした。

日本地図という観点からは、やはり「自治体名」を転用した「便宜的な地名」が、本来の居住地名よりもわかり易く、優先されるのが現実。これが実情なのでしょうか。

もちろん、スナフキん さんが 「自治体名称」を書くつもりだったのならば「字を間違えた」ことになります。
住所表記の「佐賀県藤津郡太良町大字多良」に基づけば、「多良町」は「大字多良」と表記上は違うことになります。

太良町のプロフィール にもあるように、食物が豊かで「足る」という言葉「たら」を由来とする地名のようです。
古代の発音を写した「託羅」はさておき、地名としては 意味も優れた「多良」が定着し、町村制よりもずっと前からの「多良村」を引き継いだ「多良町」は 1955年まで使われました。

それが昭和大合併の際に、「太良町」に変えられたのですね。
新設合併に際しては、相手となる大浦村に配慮する必要があった。
その結果、「大」に近い「太」を用いた「合成地名表記」を採用した。そんなところでしょうか。

このような経過を見て、思い出した類似事例が 「島根県邇摩郡仁摩町仁万」[41861] です。
こちらは「にま」の漢字表記が多数あり、町村制施行時には邇摩郡仁万村でした。
1954年の新設合併に際しては 中心となる仁万町と 郡名に使われた漢字を合成して 「仁摩町」になりました。
こちらは 記事から4ヶ月後の平成合併で 邇摩郡が消えてしまいましたが、大田市仁摩町仁万という地名も、山陰本線仁万駅も健在です。

同音地名連続の住所 と言えば、スナフキん さん ゆかりの地「船川」[15072]もあります。アーカイブズに収録されていない過去記事[15091][48562]もあります。
太良町多良についても、[43017] 佐賀県 さん からのレスをいただいていました。
[88708] 2015年 8月 26日(水)18:14:05【1】hmt さん
刷り込み
[88706] 山野 さん
今言った都市、既に現存しないよって言ったら「何時の間に無くなったの?」だってさ。

1972年秋 当時の新潟県新井市に長期出張した時に、自分でも似たような経験をしたことがあります。
ローカルニュースで上越市で起こった火事の報道。最初は「どこ?」という感じでした。

新井の隣にあるのは高田、その先は直江津。
最初の学習 による「刷り込み」は、簡単には修正されません。
上越市発足から1年半ほど経過した時期のことでした。

北九州5市 も刷り込まれた順番で覚えています。

ついでに
石炭を採掘するための「アナ」である 「炭坑」 という言葉も、最初はこの字で習ったと思います。

しかし、PCで「みいけたんこう」と入力すると、出てくるのは「三池炭鉱」なので注意が必要です。
「鉱」は本来は「未精錬の金属」なのですが、三井三池炭鉱ではこの字が使われていたのでした。
もっとも、炭坑節の歌詞ではタイトルに合せて「三池炭坑の上に出た」となっているようです。

【追記】
「三池炭鉱」の名は、明治22年(1889)の払い下げより前、官営時代からの名称を引き継いだものでした。三井の歴史
三井は神岡鉱山も一括経営したので、会社名「三井鉱山」を含めて「かねへん」の字を使うことに違和感はなかったのでしょう。その「三井鉱山」という社名も 2009年に変更されていたのでした。新聞記事【追記終】

通称「北炭」は 北海道炭礦鉄道[61271]→北海道炭礦汽船。
常磐炭礦[87859]も同じく「いしへん」の字でした。
[88707] 2015年 8月 26日(水)16:46:11hmt さん
♪月が出た出た 月が出た ◯◯◯◯の上に出た
[88702] かぱぷう さん
炭鉱節の二番にも「…心 門司門司 気は佐世保」と唄われているように、モジモジが過ぎたようです。

ふくよかな顔に黒い目。これを「顔は福岡 目は久留米」と表現し、「足は長崎 手は肥前 こころ門司門司 気は佐世保」と地名づくしで続けて「どこの人?」と問いかける替え唄があるのですか。初めて知りましたが、なかなかの出来栄えです。

それはさておき、地理に関心のある者としては、世間に流布している「炭坑節」の歌い出しが気になります。
タイトルの「◯◯◯◯」部分は「三井炭坑」や「家(うち)のお山」と唄われる場合もありますが、「三池炭鉱」の場合が多いように思われます。

折しも話題になった「伊田と後藤寺」[88704]を含む 筑豊[72220]の 田川地区。
その民謡と記憶している「炭坑節」の歌詞に、三池とは?

田川市のサイト を確認してみました。
炭坑節が広まるにつれ、そのルーツをめぐって本家争いが起こった時期もあった。幸いなことに【小野芳香氏等による明治・大正の記録に基いて】炭坑節の元唄は まがうことなく 田川の炭坑で 選炭作業に従事する選炭婦が歌った選炭唄であった。

もう少し資料を探したら、炭坑節のことなど という記事がありました。
2014/5/16 に転載されている動画では、地元のガイドさんが「伊田の竪坑の~」と唄っています。
2014/5/13-14には、『炭坑節物語』(深町純亮、海鳥社)によると、伊田尋常高等小学校の教員・小野芳香が明治43年頃に編曲した「伊田機械選炭節」が、現在の炭坑節の起源と記されており、追記の「炭坑節」歌詞では「伊田の炭坑の上に出た」となっています。
このブログには、同じく『炭坑節物語』に言及されている【大正初期の】「奈良丸くずし」を元唄とする説も紹介されていましたが、「伊田の炭鉱バージョンは明治43年頃に完成しているので、この説は誤りということになる。」という評価でした。(2014/5/14)

「奈良丸くずし」3番の歌詞「月が出た出た月が出た/セメント会社の上に出た/東京にゃ煙突が多いから/さぞやお月様煙たかろう」が元唄とする説については Wikipediaにも記されています。しかし大正2年とのことなので、やはり明治43年の小野芳香より後になります。
Wikipediaには、戦後の大流行の中で、一部の出版物や歌詞カードの誤記から、三井三池炭鉱で生まれたという誤解が広がった と記されています。三井炭坑→三池炭鉱は、いかにもありそうな誤記と思われますが、誤記とする根拠の記載は見当たりません。

落書き帳の 地名の入った歌コレクション を見たら、「赤坂小梅/三池炭坑節」と、三池の地名【大牟田市】が2回収録されていました。
赤坂小梅と言えば福岡県田川郡川崎町出身で、小倉から上京した鶯芸者です。お座敷唄「炭坑節」をレコードに吹き込んだのは1940年近くでしょうか。音源の年代は不明ですが、『正調炭礦節』では「三井炭坑の上に出た」と唄われています。

田川出身の小梅が、紅白歌合戦(第1回は1951年正月ラジオ)の際に唄ったのが『三池炭坑節』。
「三池炭鉱の上に出た」という歌詞が普及した謎を解く鍵は、この辺にありそうだ。私はこのように考えました。

お座敷唄と紅白との間にあったもの。それは戦後間もない時期の炭坑節大流行に関係する 1948年のレコード4社の競作でした。Wikipediaによると、この競作で 小梅の座敷唄を新たな伴奏で再吹込みしたコロムビア以外の3社では、現在盆踊りで唄われている節が採用され、結果的には小梅のレコードは他社に水をあけられてしまったそうです。
「後に小梅も盆踊り向きの節で再度ステレオ録音にて吹き込んでおり、その音源は盆踊りで盛んに用いられた。」と続いています。その際に、節だけでなく 歌詞の方にも「三池炭鉱」が採用され、従来の【田川発祥】お座敷唄と区別するために『三池炭坑節』としたのではないでしょうか。

レコード4社の競作によって もたらされた 商業ベースでの成否。
田川由来の民謡『正調炭礦節』と、マスコミを通じて全国に拡散した『(三池)炭坑節』との分岐点はこれだったのではないか?

「炭坑節」は全国に知れ渡りました。
しかし、【誤記にもとづく?】歌詞のために、本家の筑豊・田川市の影が薄くなってしまった。
この不本意な結末がもたらされた「いきさつ」について、私はこのように推測しています。

田川市の人口については白桃さんの続編があるでしょうが、1955年国勢調査では10万人を越えました。
しかし、その後のエネルギー事情の変化による炭鉱の閉山があり、市の人口は半減しています。

失われたものと言えば、石炭産業と人口以外にもあります。
炭坑節で「一山 二山 三山越え」と歌われていた三連峰の香春岳【田川郡香春町】。
この山の姿も、石灰石採掘により変貌しています。一ノ岳が平らに削られてしまった姿の 地理院地図

最後になりましたが、田川市サイト内の『正調炭坑節』 をリンクしておきます。
「月が出た出た…」は 1番ではなく、3番とは知りませんでした。
[88670] 2015年 8月 18日(火)13:12:35【2】hmt さん
Re:百千家満&地方銀行
【追記2】を機会にタイトルを改め、記述の順番も それに合せました。

[88665] 千本桜さん 難読地名・「百千家満」【おちやま】[88659]関係
八百屋はポピュラーで、地名好きには八百津もポピュラー。

なるほど。自分でも [88550]で八百津のことを書いたばかりでしたね。
大修館新漢和辞典には、「百」の訓読みとして、「お」の他に次のような言葉が挙げられていました。
--------
と、はげむ、も、もも、百千万億(つもる)、百女木(どめき)、百目木(どうめき、どめき)、百百(ささ、どうど、どど)、百足(むかで、ももたり)、百草(もぐさ)、百済(くだら)、百槻(どうつき)
--------

二百、七百、九百については、「お」と読むかどうか不明です。

「十九百」と書いて「つづお」と読む名字があるそうです。出典

【追記1】
大和言葉の数詞 というページに、次の記載がありました。
100(もも)  百田光治→ももたこうじ(あの力道山の本名)、百恵も・・
二百以降は(お)で、二百(ふたお )みお よお いお むお ななお やお ここのお ・・となる。
         八百屋→やおや
【追記1終】


[88665] 千本桜さん 地方銀行の支店のある市[88660]関係
なんでこの都市に支店が?と感じたもの   横浜銀行の桐生支店

横浜と桐生とは 「関東シルクロード」で つながっていました。直接の言及ではないが、関係記事
[30342]で言及した 初等科地理

【追記2】
横浜銀行桐生支店
「桐生」では検索されませんが、既に ぺとぺとさんによる 昨年の記事[86217]で 言及されていました。
【横浜銀行は】世界遺産となった製糸場とも人的、資金面でのつながりが深かったようで、経済圏の異なる遠く離れた県に3支店(もうひとつはノコギリ屋根の織物工場で有名なK市)を有する理由もなんとなく頷けます。

阿波銀行横浜支店
[88660]の表は「支店のある市」を対象としているので、横浜が東日本で唯一の支店に見えるのですが、東京23区内に4支店があることを考えれば 横浜に支店があっても不思議はないと思います。

秋田銀行いわき支店
沿革 を見ると、東京支店は戦後の1956年なのに、福島県内には 1931年という古い時期に複数の支店で進出しています。何か特別の関係がある地域と思われますが、それ以上は不明。

スルガ銀行仙台支店
1895年に日本最小の銀行(資本金1万円)として設立した銀行ながら、独自の活動が注目される銀行です。創業期の1900年に早くも東京進出。第二次大戦中には政府による一県一行の方針を断固として拒否。沼津は戦後早々に湘南電車で東京と結ばれたこともあり、50年ぶりに東京に再進出。京橋方面から望むと真正面という絶好の位置にある[75365] 日本橋北詰のスルガ銀行東京支店。仙台支店は、全国を見据えた広域店舗と位置付けられているようです。

地方銀行の支店所在地については、1年前にも話題になりました。関係記事
【追記2終】
[88659] 2015年 8月 16日(日)16:41:49hmt さん
災害を連想する文字を嫌って 表記を変えた村
[88656] 瀬戸家さゞなみ さん
城山トンネルではないのですが、初投稿の記事[21334]に記されていた難読地名に関係したレスを書きます。
兵庫県宍粟郡一宮町【10年前から宍粟市一宮町】「百千家満」

「宍粟市」も なかなかの難読ですが、「百千家満」を「おちやま」と読むのには脱帽です。
百千家満自治会 には、江戸時代には「落山」と書かれていたが、風水害による落石を嫌い、「百千家満」の表記が現れたと記されています。
「ちやま」に「千家満」を宛てたのはよいとして、「お」を「百」に変えたのは荒療治。

災害を連想する文字を嫌って改めた事例は、私の地元にもあります。埼玉県入間郡南畑村、現在の富士見市南畑地区。
ふじみ・発見No.27
『新編武蔵風土記稿』には、「村名は元 難畑 或は 難波田 と書せしが、當村は荒川と新河岸川の下流に添し地にて、屢水災に罹りしを、土人憂ひて 村名の文字悪き故ならんと 改めたき由、安永元(1772)年 御代官久保田十左衛門が支配たりし時、公に訴しかば 松平右近將監より下知ありて、今の如くに書改めしと云、」とあり、この地が 水難を受けることが多かったことを憂いて 現在の文字に改めたとされています。

こちらは幕府の代官に願い出て、公式に改名した記録が残っているようです。
その結果、読みやすい村名になりましたが、もちろん改名したから 水害がなくなる というわけではありません。
明治43年8月の水害では、宗岡村のすぐ上流にあたる南畑村の小学校沿革にも大洪水が記されています。
現代になってからは、治水事業がようやく実を結び、殆んど水害のない南畑地区が実現しています。
[88648] 2015年 8月 14日(金)22:18:03hmt さん
造園業
[88640]で「国勢調査と農林業センサスとは 調べ方が違う」と書いた時には、単純に事業規模の違いではと思っていたのですが、[88644] ぺとぺと さん により、もっと根本的な「農業」の意味を指摘していただきました。

改めて、農林業センサス における用語の解説を調べました。
p.146の記載を見ると、一定規模以上の栽培面積で農林産物の生産を行う「花き栽培」事業を行う者は農林業経営体に該当するようです。
しかし、統計表 を見ると、浦安市は「-」となっています。
東京ディズニーリゾートとしては 花き栽培「事業」をしていないようです。

一方、国勢調査における従業者の職業データとしては、ご指摘のように 農業従事者に該当する のでしょう。
[88640] 2015年 8月 14日(金)12:27:55hmt さん
浦安にいる農業従事者
[88639] 白桃 さん
ご存知のことと思いますが、EMM さん の記事[56616] を リンクしておきます。
国勢調査と農林業センサスとは 調べ方が違う。それだけの問題だと思います。
[88632] 2015年 8月 12日(水)18:55:16hmt さん
北陸?
[88627] N さん
上のページで気になったのですが、なぜ岐阜の聖徳学園が北陸に入っているんでしょう?

確かに岐阜聖徳学園高校の北陸所属には違和感があります。
しかし、分野により「北陸」の意味する範囲は異なるのでしょうね。
浄土真宗本願寺派の学校 という前提で考えれば理解できるのかもしれません。

私もこの分野に詳しいわけではありませんが、北陸と言えば真宗王国です。
越前から飛騨へ、更に分水嶺を越えた美濃へと布教活動が行なわれ、岐阜も北陸の延長と認識されるに至ったのではないでしょうか。

余談ですが、行政区分としての「北陸」。
昔の行政区分・五畿七道の7ヶ国は 現在の北陸4県であり、北陸農政局などの範囲もこれを踏襲しています。
しかし、富山・石川・福井の3県を北陸とする用法も広く使われています。国の行政機関では北陸財務局(新潟県は関東)、北陸総合通信局(新潟県は信越)。

新潟市にある 北陸地方整備局 は、管轄区域内の関係県が 新潟、富山、石川、山形、福島、長野、岐阜、福井に及ぶと記していますが、新潟県に流れ込む川の流域はすべて含み、群馬県の一部に及んでいるようです[42945]

北陸信越運輸局、東海北陸厚生局のように複合地域名で使われる事例もあります。

民間でも、北陸ガスは新潟市ですね。
さすがに、岐阜市に本拠地があって「北陸」を名乗る事例にはお目にかかっていません。
[88614] 2015年 8月 11日(火)13:40:27【1】hmt さん
市町村の隣接
[88609] グリグリ さん
十番勝負においては従来からマピオンをベースに判断していることもあり

十番勝負は外野席から眺めているだけで、従来からの慣行を知りません。
一般的な意味での地理情報への関心に基づいて、特別な慣行が存在する問題に口を挟んでしまったのかもしれません。
それにもかかわらず、詳細な調査に基づく回答をいただき有難うございます。

◎葛城市の位置と地勢 【引用省略】河南町する記載されていません。

責任ある立場で書かれた記載にも、このようなことがあるという実例。これほど明白な事例でない場合、「資料には隣接に挙げられていないから非隣接である」と決めつける虞があり、このような解釈が危険であることを教えています。参考:尽く書を信ぜば…

資料の「隣接」の意味が、場合によっては境界線上の直接隣接だけではなく、…

資料中での記載環境を考慮する必要があるでしょうね。
例えば[87857]資料Cで挙げた千早赤阪村地域防災計画。p.5 村の位置を示す小縮尺の略図に示されている自治体名は、隣接3府県の他に、千早赤阪村と隣接する5市1町に限られています。自治体の防災という見地から、隣接と認識している範囲を示しているのだと思います。問題の葛城市は点接触による隣接自治体になっています。

県境の交通路 には大阪府・奈良県境54.6km地点に、千早赤阪村・葛城市のペアが記録されています。同じく54.6kmの香芝市は誤記でしょう。>futsunoおじさん

地理院地図やマピオンは大縮尺から小縮尺まで各種の図があり、小縮尺では4市町村の点接触に見えていた部分を拡大することができます。マピオンでは 14スケール【2万5千図相当】になると、河南町南東にぶら下がった盲腸部が見えてきて、葛城市と千早赤阪村との接触を妨害しています。

4自治体の他、国土地理院、マピオンなどに問い合わせてみようと思います。どんな回答になるか楽しみです。

同感。
[88598] 2015年 8月 9日(日)12:40:16【3】hmt さん
葛城市は千早赤阪村と隣接しているのでは?
[88596] グリグリ さん
現時点ではマピオン他の地図表記や河南町公式HPの記述などから、【葛城市は千早赤阪村と】隣接はしていないと判断しています。

既に[87857]において、資料Aと資料Cとを示して、葛城市と千早赤阪村との隣接、つまり御所市・河南町を含む4市町村の点接触の可能性を論じています。
【追記】
「4市町」になっていたので、「4市町村」に訂正しました。
貴重な存在の「村」を落すとは何事か! と重箱の隅をつつかれる前に気がついてよかった。【追記終】

資料Aは、葛城市発足前の資料だったので無視されたのかもしれませんので、出題の趣旨に沿う最近の資料を改めて提示します。

葛城市のサイト内を検索すると、資料Aやその改訂版(葛城市発足後)を含む複数の資料がヒットしますが、最近のものとして平成27年3月資料 のp.42記載を示しておきます。
葛城市は葛城山々の麓に位置し、奈良県の西北部、北葛城郡の西南部にあり、北は香芝市、東は大和高田市、南は御所市、西は大阪府南河内郡太子町、河南町、千早赤阪村と隣接しています。

河南町サイト【資料D】には 御所市との隣接が記されていますが、4市町村の点接触を否定するものではありません。

マピオンでは確かに葛城市と千早赤阪村との間に河南町が入り込んでいます。

地理院地図の#14図【2万5千相当】では点接触に見えるのですが、2段階拡大した#16図では 僅かな長さですが 葛城市と千早赤阪村との「境界線」が存在して、御所市と河南町との隣接を阻んでいるように見えます。

【更に追記】
今回記事の最後の部分【WEB地図関係】は、【第三回】北陸新幹線金沢開業記念 ペアシティ七番勝負問三【村のみでつながる市のペア(直接隣接していない)】想定解の答え合わせ記事中に事実上記されていました。
[87828][87838] グリグリ さん
Nさんが挙げられた次の3ペア【千早赤阪村と隣接する3市と葛城市のペア】は千早赤阪村と葛城市は非隣接なので該当しません。
[87834] N さん
【千早赤阪村と葛城市は】Google MapやMapion、Yahoo地図では明らかに隣接していないのですが、地理院地図【#17図】やMapFanでは隣接しているように見えます。
[88581] 2015年 8月 6日(木)23:41:57【2】hmt さん
Re:被曝70年
[88574] ペーロケ さん
当時、「今後70年間は草木が生えない」と言われたそうです。その70年という数字の出所は分かりませんが、実際は2、3年後には雑草が生えて生物が戻ってきたとか。

「70年不毛説」は、残留する放射性物質汚染への警告としては なかなかインパクトがある言葉です。
それ故かもしれませんが、事実と違うことが広く知れた後まで 語り継がれています。

基本的には、植物の逞しい生命力を過小評価した誤りが大きいと思いますが、広島について言えば、被曝翌月の枕崎台風による豪雨で「除染」されたことも無視できないようです。

枕崎台風による土石流は 被爆者治療にあたっていた 大野町の陸軍病院を直撃し、呉市でも急傾斜地崩壊で多数の死者を出しています。その一方で、この台風による豪雨は汚染物質の多くを洗い流し、被曝地に戻った人々への放射線による健康被害も 軽減したものと思われます。
ヒロシマの記憶 は、被曝2ヶ月後に撮影されたフィルムが、爆心地周辺に芽吹いた、様々な命をとらえていることを伝えています。

「70年という数字の出所」ですが、1945/8/8の新聞に掲載されたINS取材記事で、コロンビア大学のハロルド・ヤコブソン博士の談話にあった「四分の三世紀近く」が不毛期間の出所であり【注】、日本に伝えられているうちに 75年や70年になったようです。
【注】
Google Booksにある『From Hiroshima to the Hydrogen Bomb: American Artists Witness the Birth of the Atomic Age』のp.42を見るとDr. Harold Jacobsen となっており、p.58の注61には【for nearly three-quarters of a century】と記されていました。

マンハッタン計画に参画した科学者による 放射能の危険性を強調した警告が新聞に出ると、陸軍省【グローヴズ将軍やJ.R.オッペンハイマー博士】は「残存放射能はその後急激に消滅したと信ずるにたる十分な根拠がある」と直ちに反論し、ヤコブソン博士も翌日自説を撤回したとのことです。広島の視線 
原爆が日本に多大の被害をもたらしたことは勿論ですが、加害者側の米国内にも心を傷めた人がいました。
「75年不毛説」のヤコブソン博士はその1人だったようです。資料

建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々

8月6日に疎開作業の勤労動員当番で広島に行き被曝した人。大竹に住んでいた時に近隣の人から聞きました。

被曝4日後のヒロシマ、360度パノラマ写真をリンクしていただき、有難うございます。
撮影地点は京橋川の稲荷橋西詰。1945/8/10当時の下柳町(現・中区銀山町)にあった3階建の旧広島東署の屋上。
それを元に10年前に作成されたパノラマ写真を高画質化した新作なのですね。朝日デジタル
現状のパノラマ写真も、ほぼ同一位置からの撮影のようです。

撮影地点は爆心地直下の産業奨励館より1km以上東側です。
象徴的なドームは 福屋百貨店の後になっているようで、確認することができません。
爆心地と反対の東側を見ると猿猴川に架かる広電の軌道のぐにゃりと曲がった姿。
灼熱地獄を想像させるものは、燃えないで残った残骸だったのでした。

【追記2】
ヤコブソン/Jacobsen などの修正を追記した後で、[88584] じゃごたろ さんの記事に気づきました。
コピペでなく直接入力したのは、短いタイトルではその方が楽だと考えたからなのですが、ご指摘のように「被爆」と「被曝」では意味が違っていましたね。

広島の場合、高空で炸裂した原子爆弾を「被爆」した結果、地上では 先ず通常兵器では想定外であった強力な熱線【ピカドンの「ピカ」】を主体とする「被曝」が起こり、続く圧力波【ピカドンの「ドン」】による建物倒壊、地上に降下してきた放射性物質からの放射線による「被曝」などにより被害が拡大したものと推察します。

全体を総括する言葉として、一般的には「被爆」が適切だったのだろうと思います。
それだけならば、「Re:被爆70年」の誤記だったとして修正することも考えられます。
しかし、ご指摘のように 原子爆弾を被爆したことにより被る被害は、通常爆弾や焼夷弾による「被爆」と異なり、熱線を含む放射線による「被曝」が重要な要素になっています。

せっかくご指摘いただいたことでもあり、新たな意味付けを加え、誤記を生かしたままのタイトルを残しておきたいと思います。
[88552] 2015年 8月 3日(月)19:21:13hmt さん
県道の起点・終点
[88454] じゃごたろ さん
川上村と秩父とを結ぶ道路についての話題。説明を加えて頂き有難うございます。関係記事

別の場所で撮影した案内標識に「秩父」が表記されているものがありました。
設置場所は 長野県道68号の起点・川上村梓山ながら、「県道とは逆に 東の山の中に分け入る林道」の 案内標識
そこには、「右の千曲川源流方面:行き止まり、左の秩父方面:通行注意」と大きく表示されていたのですね。
これならば納得できます。

県道の名前は「梓山海ノ口線」といい、川上村「梓山」が起点で南牧村「海ノ口」が終点になっています。

[88203]は、長野県から埼玉県に通じる道という視点で書いていたので、つい「林道に入る手前、県道の終点付近」と書いてしまいました。「長野県道68号」としては、梓山が「起点」であるということ。承りました。

県道の命名規則に関する過去記事[70793]を示し、道路法の規定や路線名のつけ方に関する通達について教えていただきました。
都道府県道を規定した道路法第七条では、「主要地」という言葉が、「市又は人口五千以上の町」と定義されており、道路標識の経路案内で用いる ルール2の「主要地」 とは別の意味で使われていることを知りました。
例えば上高地・志賀高原などは道路標識では「主要地」とされていますが、もちろん市でも町でもないので道路法の「主要地」ではありません。2010年に長野市に編入された信州新町や、現存する自治体の野沢温泉村も道路法の「主要地」失格です。

本題の起点・終点の区別に戻ると、「長野上田線」のような主要地間を連絡する路線【道路法第七条第一号に該当する路線】は、人口の多い主要地が起点とされています。これは、[70793]が「岡谷茅野線」を例示して指摘しているような人口逆転問題が存在するとしても、常識的に なんとなく理解できる規則のように思われます。

もっとローカルな県道、例えば川上村から秩父に通じている中津川林道と接続している「梓山海ノ口線」を考えてみます。
この場合は、川上村梓山も南牧村海ノ口も「主要地」ではなく、道路法第七条第1項の中で該当するのは第六号だけであると思われます。
前各号に掲げるもののほか、地方開発のため特に必要な道路

この法律だけでは、起点・終点の選びようがない。そこで通達が参考にされるのでしょう。
[70793]に紹介された(1)~(4)を見ると、交通上の拠点になる側を「終点とする」という考え方が見えます。
梓山は案内標識に示されたように、通行注意の中津川林道と行き止まりの山道に接続するのみ。
これに対して海ノ口は 佐久と甲州とを結ぶ国道141号が通じている。だから、こちらが「終点」になる。これで納得。

わからないのが、第六号に該当するローカル県道における「辺境から中心へ」という方向付けと、第一号に該当する幹線県道における「中心地から地方へ」という方向付けとが逆になっていることです。
第二号から第五号に該当する県道。これらも港湾・停車場など県道を設ける目的地を起点としているような気がします。
第一号の幹線県道だけは別として、「大部分の県道の起点は 県道を設定した目的地である」と考えてよいのではないでしょうか。

実は、先月 津久井の道[88047] を書いた際に、神奈川県道510号長竹川尻線や、同513号鳥屋川尻線の起点がいずれも西側【津久井町】で、相模原に近い【城山町】川尻でないことに気が付き、不思議に思っていたところでした。
今回の事例で、ローカル県道における「辺境から中心へ」という方向付けが 全国的なもの であることを知り、合点した次第です。
[88550] 2015年 8月 3日(月)13:23:59【1】hmt さん
伊岐津志を調べてみたが…
[88543] ぺとぺと さん
岐阜県加茂郡八百津町伊岐津志×××-×  伊岐津志は「いぎつし」と読むようです。
この地名、県名、郡名、町名、大字名がいずれも漢字とよみで文字数が一致しているところもすごくクールではないですか。

名称と読みの文字数が同じ市区町村については、第十六回・十番勝負の問八関連で k-aceさんの[75084]がありました。

それはさておき、「いわれ」のありそうな地名なので少し調べてみました。
岐阜県神社庁 には 4 件の神社がありましたが、残念ながら 有力な情報は発見できませんでした。

地図を見ると、酢の醸造元は木曽川の南岸です。現在は兼山ダムにより水没していますが、この付近は「八百津」という地名が示す木曽川舟運基地地帯として、古くから栄えたと思われます。
舟運から鉄道へと輸送手段が変化した後、名鉄の支線も通っていました。
末期は電車でなくレールバスに変っていましたが[77832]、これも 2001年に廃止されています。

八百津町は木曽川の両岸を占めていますが、伊岐津志のある南岸の 兼山ダムから下流は 可児市兼山になります。
2005年の編入前は可児郡兼山町(かねやまちょう)で、面積の狭い市町村ランキングの第2位[39317]であり、「長命な町名」[34842]としても名を馳せていました。

平成合併では、この地域の合併協議はすんなりと行かず、その痕跡が「飛地合併」という形で地図に残っています。
この地の城主が森蘭丸であったことは花笠カセ鳥 さんの記事をきっかけに知りました。
そして、地図を眺めて 木曽川北岸に複雑な境界線があり、こちらは昭和合併の傷跡であることを知りました[79299]

伊岐津志の由来調査は不成功でした。
しかし、落書き帳に蓄積された過去記事を紐解くことで、この地域についての情報を復習でき、理解を深めることができたのでした。

【追記】
四文字地名の過去記事
[88296] 2015年 7月 25日(土)14:54:49【2】hmt さん
室蘭本線小幌駅
[88293] 山野 さん
室蘭本線上にある秘境駅「小幌駅」も廃止される事に。

室蘭本線の室蘭-岩見沢間は、北海道炭礦鉄道が1892年(M25)に開通させた歴史ある鉄道です。
しかし、小幌駅の属する長万部-東室蘭間は国有化後に「長輪線」【輪=輪西】として建設された線で、1928年(S3)全通。
石炭輸送から始まった室蘭本線が、千歳線を併用して函館-札幌間のメインルートになったのは、「Occupied Japan」時代であり[54787]、その後 複線化も進みました。

問題の小幌。これは単線時代に 2つの長大トンネルの間の僅かな明かり部分で 列車の行き違いをするための信号場 として設置された施設ですが、仮乗降場として海水浴客などの利用に供されていたようです。正式の駅になったのは、国鉄からJR北海道になった1987年。
10年前には廃止を免れたという記事がありました[47613]

落書き帳メンバーが誰か訪問しているのではないかと思い、検索したら [78802] k-ace さん の記事がありました。
秘境駅の小幌駅(豊浦町・長万部町)を探訪
と記されているように、この駅は 胆振管内虻田郡豊浦町と 渡島管内山越郡長万部町との境界にありますが、廃止を打診された関係自治体は豊浦町だけなのでしょうかね。地図
もちろん、近隣に住家は皆無。駅自体の住所を確認しようと、JR北海道のサイトで調べたがみつからず。

内浦湾(噴火湾)海岸には岩屋観音の洞窟があるが、海岸に続く道には 夏場は草木が生い茂り 通行しにくい状態とか。
k-ace さん、探訪の結果は いかがでしたか?

【翌日追記】
[88294]を知らずに無視してしまったことをお詫びします。
更に[88297]の説明も加えていただき、有難うございます。
Wikipediaによると、開業当時(戦時中の1943年)には民家もあり、小幌海岸海水浴場の利用客もいたとのこと。
現在の写真の雰囲気からは海水浴など想像もつかず、大変な変わり様であることを感じます。
写していただいた東側の礼文華山トンネル入り口。単線時代には、現在は坑口がふさがれた中線も含めて 左側の2線で行き違いを行なっており、一見すると古そうに見える右側が 1967年開通の新トンネルなのですね。

礼文華(れぶんげ)峠越えの道は、蝦夷地の三大難所の一つだったそうです。
江戸時代から、明治27年(1894)に完成した準地方費道 長万部停車場室蘭線【旧国道】を経て 現在の国道37号 までの道について語る 江戸期に開かれた礼文華越えの道 をリンクしておきます。
【追記終】

落書き帳の初期、[832] Issie さんの記事に紹介されたように、この付近【小幌駅の少し西】は 太平洋側と日本海側とを分ける分水界まで 最短部では 250mほど という場所で、東に向う胆振国道(国道37号)も 一旦は 日本海側斜面(朱太川上流部)の 後志管内寿都郡黒松内町を経由するほどの地形です。

私も、この「くびれ」地形に注目した記事[72049]を書いたことがありますが、小幌駅には言及していませんでした。
[88280] 2015年 7月 24日(金)20:35:05【2】hmt さん
道路案内標識に使われる地名
[88270] futsunoおじ さん
[88174]の案内標識の「秩父」についてですが単純に考えれば大滝村が秩父市などと合併(2005年)して新・秩父市になったことで、元は「大滝」とあった案内が「秩父」に書き換えられただけのように思うのですがいかがでしょう。

確かに、市町村合併によって、道路案内標識の地名が 影響を受けるケースは存在すると思います。
極端な事例ですが、合併の結果「大宮← →浦和」という標識が「さいたま← →さいたま」になってしまい、ビックリしたという記事もありました。[37066]
私の考えでは「さいたま市」は「行政管理用の名称」であり、「地名」としての「浦和」や「大宮」に取って代わるような性格のものではないのですが、現実には道路標識の行先をわざわざ「さいたま」に書き換えてしまい、人々を困惑させる結果になったのでした。
この件については 行政苦情救済推進会議で検討が行なわれ、一応は解決しました。[42974]

本題に戻り、川上村の村道?に設置された標識にあった「秩父」という行先地名。
これは、合併前には「大滝」だったのでしょうか?
「さいたま」の例を見ると、案内標識に記す地名は 自動的に「市町村名」で決まってしまうようにも思われるのですが、本当にそうでしょうか?
川上駅近くの標識の実例[88179]を見ると「梓山」が使われています。これは字名でしょう。
「川上駅」や「川上村役場」にしても市町村名ではないし、市町村名に限定されているとは思われません。

「大滝村」という標識だったのならば、村の消滅後には改める必要があるかもしれません。
しかし、「大滝」という地名ならば そのままの形で残して差し支えないし、「奥秩父に通じる山道」であるという情報も残せます。

そんなことを考えているうちに、案内標識に記される地名を決めるルールが気になり、国土交通省のサイトを調べてみたところ、案内標識のしくみ-1(案内標識に表示される地名) というページがあり、4つのルールが示されていることを知りました。

何はともあれ、ルール2 経路案内に用いる地名はあらかじめ決められています を見ましょう。

経路案内に用いられる地名は、
1.基準値【おおむね1県1都市】、
2.重要地【地方生活圏の中心都市など】、
3.主要地【二次生活圏の中心になっている市や町など】、
4.一般地【2、3以外の市町村、その他沿道の著名な地点など】であり、

「各都道府県において表示される基準地・重要地・主要地一覧表(平成19年3月末時点)」 が示されています。
8年も前なのが少し気になりますが、内容は極めて具体的で 参考になります。

埼玉県を見ると、早速「さいたま」が登場して市町村名なのかと思わせますが、「大宮」「浦和」も健在です。記載位置が最後になっているのは、前記苦情救済の結果追加された結果かもしれません。「さいたま」と「浦和」は同じ位置を呼び分けています。

東京都を国道1号に沿って眺めると、道路元標[65682]のある日本橋[75365]を始めとして、大手町、日比谷、祝田橋、桜田門、赤羽橋、五反田、馬込 と著名な地点が並んでいます。
重要地・主要地とは道路交通上のポイントであり、特別区名など自治体名とは明らかに違う捉え方であることが読み取れます。

勝沼バイパスのイラストを見ると、鷺堂に「主要地点標識」があります。
右方、勝沼町に入った地点にある市町村標識(カントリーサイン)が「自治体名」を示しているのと違い、こちらは「地名」です。でも、前記の表に示された主要地点は「笛吹」ですね。「鷺堂」は一宮町時代の主要地点名で、更新されていないのかもしれません。

一般地とは表外の地名で、「川上村役場」「梓山」など適宜選んだ地名を使うことができるようです。

このような地名が記された案内標識は、ルール1に示された3種類あり、ルール3 の方法で地名が表示されるとのこと。

[88179]k-aceさんが、信濃川上駅近くの交差点手前で記録した 案内標識の写真 を見ると、距離が示されておらず、交差点手前なので「108系標識」ですね。
【追記】
ここで、いきなり聞き慣れない言葉を使ってしまいましたが、ルール1示された説明文によるものです。
「交差点手前」という表現については、[88294]で指摘されたような問題がありましたが、「交差点を通過する手前から見える位置にある」と解釈してください。
もっとも、その後で 案内標識のしくみ-2の使用区分を見たら、大きな交差点に使われる標識のようなので、今回のケースのような小さな交差点で使われている標識を 108系としたのが正しいか否か自信がなくなりました。
詳しくは、『道路標識設置基準・同解説』 (日本道路協会)という本に書いてあると思いますが、読んでいません。【追記終】

国土交通省の説明は、幹線道路【ルール3に記された3分類に該当する道】を対象としているようなので、これに該当しない村道では 少し様子が違うようです。しかし、上段の「小諸」と「秩父」が遠距離にある「重要地」であり、下段の「川上駅」と「梓山」が近距離にある「一般地」であることは理解できました。

[88174]で挙げられた標識の「秩父」が、合併前の「大滝」を形式的に修正したものだったのか、どのような位置付けで記されていたのか、私には詳しいことは判りません。

しかし、信濃川上駅前の標識と同様に、遠距離にある「重要地」という位置付けでドライバーを秩父に案内していたのならば、「まともに信じて行ったら大変な目にあうだろうな」という感想を持たれたのは当然という気がします。
道路利用者から 標識の改善についての意見については、意見箱 が設けられているそうです。ご参考まで。
[88269] 2015年 7月 23日(木)23:04:18【1】hmt さん
「中年の星」は 星空が美しいレタス畑で育った
国際宇宙ステーションでの長期滞在が始まった油井亀美也さん。
長野県南佐久郡川上村のレタス農家出身だそうです。

落書き帳で[88174][88203]と川上村が話題になった折、これも何かのご縁なので、日経の記事を紹介しておきます。
レタス畑で夢見た宇宙 「中年の星」油井さん飛び立つ

川上村のレタス畑と言えば、白桃さんの記事もありました。
この夏はどうなっているのでしょうか。
[88260] 2015年 7月 23日(木)14:00:25hmt さん
月まで3km
[88203]に続いて 道路案内標識 の話題です。
さいたま市広報課のブログに、面白い写真がありました。
2014さいたま市ユーモアフォトコンテスト の最優秀賞 「ムーンロード」。

天竜川の河口から30km、佐久間ダムで有名なこの川の中でも最も下流に位置する 船明(ふなぎら)ダム湖
東岸を遡る国道152号から分かれて 伊砂(いすか)橋を渡り 西岸を北上する県道360号。
なかなかの難読地名ですね。地理院地図

それはさておき、3km先にある「月」という集落を示す標識。

実は一昔前、「トリビアの泉」放送後に写された 画像 もあったのですが、矢印の先に「本物」を写し込んだ今回の作品は、さすがでした。
[88203] 2015年 7月 20日(月)18:35:18hmt さん
長野・埼玉県境の道
[88174] じゃごたろさん
長野県南佐久郡川上村内で遭遇した案内標識の表記が、「川上村役場」と「秩父」であったとのこと。

線路は続くよどこまでも という歌がありますが、道路の行く先も「どこまでも」続いており、役場も秩父も間違いではない。
しかし、設置場所も考慮した上で、利用者にとり適切な案内なのだろうか? そういう問いかけですね。

設置場所は村内の主な集落を結ぶ 村営バスが通る県道から少し外れた交差点です。
設置位置から判断すると、「役場」という言葉が最も適切な案内機能を果たしているように思われます。
役場付近の地名は「大深山」なのでしょうが、村外からの訪問者にこの付近が「川上村」であり、この道を進めば村内の中心集落に至ることを教えている「川上村役場」の方が役に立ちます。

問題の「秩父」。この道を東に進めば確かに秩父に通じる道路があるにしても、この案内でよいのか?
ドライバーが「秩父」という言葉から受け取るのは、「秩父山地」ではなく、秩父盆地の中心にある市街地なのでしょう。
市街地を意味する「秩父」に行くならば、有名な悪路らしい 中津川林道 [46698]よりも、遠回りになっても 雁坂トンネルが選択肢になる。
こちらも トンネル開通前には 酷道 だったようですが[36094]

道路の案内標識は、この道がどこに続いているかという単純な地理的情報ではなく、ドライバーが道を選ぶための情報である。このような趣旨を込めた指摘であると理解しました。

折角の機会なので、落書き帳メンバーによる 三国峠越え を紹介しておきます。
futsunoおじさんは、40年以上前に「旧・中津川林道」を3~4回は通過。
バイク乗りの ただけんさん も、10数年前?
じゃごたろ さんは、11年前に 長野県から埼玉県への越境に成功。
JOUTOU さんも、その2年後には 念願の三国峠越え。 所要11時間 通過自治体数は 実に 57。

[88179] k-ace さん
信濃川上駅で同様の案内標識…右折(東)すると秩父、梓山となっています。その下に、町田市自然休暇村、三鷹市川上郷自然の村、武蔵野市立自然の村は右折と東京都の市名が並び、ここは一体どこなんだ?と思わせます。

梓山というのは、三国峠越えの林道に入る手前、県道の終点付近の集落ですが、少し戻った秋山から南下すると川端下(かわはけ)という集落があります。武蔵野市立自然の村は、この川上村最奥部の集落の先にあります。

hmtは、この川端下という地名に記憶がありました。戦時中に親しんだ岩波書店「少国民のために」シリーズの1冊『トンネルを掘る話』。
急病のわが子を秩父の病院に連れてゆく父親と、十文字峠で会った話が紹介されていたのですが、それが川端下の人でした。

千曲川沿いに下った岩村田【佐久市】の病院という選択肢もあったが、「時間的に有利と聞いて秩父を選んだ」という山越えの理由が記されていました。
十文字峠 は現在でも山道です。県境の交通路
救急医療体制は現在でも完備とは言い難いでしょうが、一応は救急車の恩恵に浴している私達からは、想像もできない時代だったのでした。
[88176] 2015年 7月 19日(日)17:36:01hmt さん
氷見オフ会2015
1998年2月の冬季オリンピック開催前に長野までの第1期区間が開業した新幹線。
懸案となっていたその延長がようやく実現して「北陸新幹線」の名に恥じないものになった2015年、私達の落書き帳の第12回公式オフ会も氷見市で開かれることになりました。
北陸でのオフ会は2006年の金沢以来ですが、2008年以降定着している宿泊形式では初めてです。

富山県での開催は新幹線から自然の成り行きと理解できますが、氷見が選ばれた理由は何だったのかな?
昨年の記事[86778]で思い出そうとしたのですが、
hmtは 白熱した議論の中で沈没
と書いてありました。これでは思い出せるはずがありません。

予想外のことでしたが、最近になって「氷見プレミアム付き宿泊券」[88064]利用の可能性が出て、既にグリグリさんにより手配していただいています。
宿泊会場も決めていただいたようであり、リーゾナブルな値段で利用できそうです。

こうなったら、なるべく多くの形に参加していただき、落書き帳オフ会を盛り上げるようにしたいと思います。
北陸旅行の情報その他、皆さんに書き込んでいただいたらと思います。

とりあえず、落書き帳の過去記事を見たら、富山県氷見市の 虻ガ島 に言及した記事を書いていました。
小さな島ですが富山県最大で、地図を見ると、会場である灘浦地区のすぐ近くに見えそうです。

リンクしたページは 富山県:歴史・観光・見所 というサイトの中にあり、氷見市高岡市伏木射水市など多くの見所が、地域別に紹介されています。

射水市と言えば、放生津潟を掘り込んだ富山新港。かつては海岸の砂州の上に富山地方鉄道射水線と道路が通っていたが、富山新港の建設で分断されました。その救済策として富山県が県営フェリーを開設したのが 1967年ですから 半世紀近く前のことでした。
数年前に なると金時さんが万葉線・渡船・バス・ライトレールの乗り継ぎをした記事[62923]がありました。記事には道路建築中で渡船の将来が危ういように記されていましたが、2012年新湊大橋開通後も県営渡船の運行は継続しているようです。

渡船と言えば、2007年の福岡オフ会の際に、たもっち さん[62490]が 北九州市営と福岡市営の2つの渡船を利用しています。
前者は戸畑・若松間の若戸渡船です。洞海湾には、1962年の若戸大橋[66904]に加えて沈埋トンネル工法による新若戸道路【2012年開通】ができていますが、渡船も健在なようです。
最後は、富山県から離れてしまいましたが、道路に負けない公営渡船の健在ぶりを伝えておきます。
[88090] 2015年 7月 14日(火)19:13:47【1】hmt さん
函館付近の鉄道貨物輸送
[88085]白桃さん
亀田駅は明治の終わりに廃駅となっていたのですね。

初代函館駅の所在地は今・・・には、明治35年(1902)に函館市海岸町20-1に開設された初代函館駅は、南側の若松町に函館駅が移転した明治37年に「亀田駅」と改称され、明治41年に焼失を経て明治44年に廃駅と記されています。

【以下修正】
上記の番地を現在の地図で調べたところ、若松町に作られた現・函館駅と隣接した位置でした。
昨日の記事は、これを根拠に初代新橋駅→汐留駅を類推し、函館における貨物駅の話に発展させてしまいました。

実際には、この駅は 北海道鉄道 開業時の便宜的な事情により設けられた始発駅であり、最初から予定していた若松町の函館駅が開業した結果、あまり役に立たない中間駅になっただけ だったようです。

白桃さんの観察による「五稜郭駅に着くほんの手前に」あった遺物とは違う場所とか、「明治44年に亀田駅と入れ替わりに開業した五稜郭駅」という部分的な記述は正しかったものの、函館付近の貨物取扱拠点という視点からこじつけた「亀田駅→五稜郭駅」の後継関係は完全に誤りでした。

五稜郭駅がらみで、函館付近の鉄道貨物輸送について記した部分は残しておきますが、きっかけとなった亀田駅が主役から外れたので、タイトルを変えました。
【修正終】

本州・北海道間の輸送を長く担っていたのは青函航路でした。
旅客については新千歳空港発着の飛行機にその座を譲りましたが、青函トンネルの貨物列車が通る函館(五稜郭)は 物流結節点の地位を保っています。

ヤード系貨物列車と青函航路によって北海道・本州間の物流が維持されていた 1976年(昭和51年)。
五稜郭駅付近の航空写真 には、駅の南【写真の下方】で
函館方から左へ90°カーブして分岐しているのは明治40年から敷かれている日産化学工業函館工場(当時)への専用線。写真中央下側の道路立体交差付近から南東寄りへ真直ぐ向かう軌道は、函館駅までの本線が海岸側に移動するまでの旧線の一部が北海道ガスの専用線として残されたもの
というような説明があります。
白桃さんが五稜郭駅の手前でご覧になった遺物は、これらの貨物線に関係したものではないでしょうか。

同年 五稜郭駅より先(北側)の航空写真 もあります。
こちらには [88086] ペーロケさん ご紹介の五稜郭貨物線【図の左下】や大きな操車場などの設備が写っています。
五稜郭貨物線の先の有川埠頭には青函連絡船貨物便の岸壁があり、戦時中に使用を開始しました。
日本国有鉄道になった後の 1950年、有川埠頭に五稜郭貨物駅【2011年 函館貨物駅と改称】設置。

1980年になると函館駅のコンテナ貨物取扱を五稜郭に移転。
1984年には五稜郭操車場、有川での貨車航送廃止と、物流システムはコンテナ列車へと移行してゆきます。
そして 1988年3月には 津軽海峡線開業で、本州・北海道間の輸送を担ってきた青函航路が廃止されました。

更に平成27年度末(2016年3月)には 北海道新幹線 149kmの開通が予定されています。
新幹線の接続駅は 函館本線の起点から17.9kmにある渡島大野駅。駅名の 新函館北斗昨年6月に発表 されていました。
貨物列車は 木古内から従来通りの江差線で 五稜郭へ。

北海道新幹線は厳しい自然環境だけでなく、青函トンネルを含む 82kmの区間が標準軌の新幹線列車と在来線軌間の貨物列車との 共用走行 になるために大きな課題があるようです。JR北海道
早い話、新幹線との共用となると、架線電圧も信号システムも変るために、従来から北海道の物流を担っていた貨物列車が使っていた電気機関車に代る 新機関車が必要になります。

もっと大きな問題。速度が大違いの新幹線は、先行した貨物列車にすぐに追いついてしまい、せっかくの高速を発揮できません。トンネル内ですれ違う時の乱気流による荷崩れを防ぐためにも、140キロ程度への減速が必要とか。参考
在来線コンテナ列車を 丸ごと新幹線貨車に乗せてしまう 減速運転の解消策も検討されているようです。共用走行の 資料6-8
[88071] 2015年 7月 11日(土)20:03:06hmt さん
ニックネーム
[88062] グリグリ さん
落書き帳では、できる限り半角と全角は正確に使い分けていただけると幸いです。
半角と全角により別ニックネームと認識されているニックネームもかなりあります。

ミス防止の実務としては、既に N さん [88061]で補足されているように、ニックネームをコピペするのが適切と思いますが、せっかくの機会なので 全角/半角問題も含めて ニックネームについて少し記しておきます。

見た目だけで、アルファベット(英数文字)の 全角/半角 を区別できるか?
1文字だけを見ただけでは 困難な場合が多い と思います。
2文字以上が並んでいる場合は、間隔が少し開いていることで判別できそうです。

登録メンバーのニックネームで 英数1文字は、半角の G さん と、全角の N さん。
私には 単独で全角/半角を区別することは殆んどできず、誤記しないように 最初から注意していました。

登録メンバー以外では、半角の f さん(記事数80)と全角の f さん(記事数16)とがあります。

短いニックネームを挙げたついでに、長いニックネームです。
現在は全角換算10文字以内に制限されていますが、初期には 長いニックネームが使われた例もあります。
ニックネーム検索で [1425][1426]の長い文字列を入力すると、長すぎると拒否されます。
【参考までに、修正された事例[40371][40387]

「ケロにゃんポポン」の後にも使われていたスペース。
「前田 宏治」さんと「前田宏治」さんとは別人扱いになり、注意が必要です。
「ただの地理好き」さんも、頭にスペースの付いた記事が1件あるようですが、うまく検索できません。

スペースと言えば、登録メンバー名で唯一使われているように見えるのが、「オーナー グリグリ」の半角スペースです。
今更のことですが、「オーナー」はニックネームの一部ではなく、接尾語の「さん」の代りに使われている接頭語らしいことに気がつきました。
ニックネーム検索の際はスペースのみならず、「オーナー」を抜いても大丈夫です。
私の記事でも、従来は「グリグリ さん」と「オーナー グリグリ さん」とを混用していましたが、これから前者に統一します。

ニックネームからは外れますが、[88062]で示していただいた「これまでの全書込のランキング」。
書込文字数=2という記録を検索した結果。[49018]
[88053] 2015年 7月 9日(木)22:25:44【1】hmt さん
津久井の道 (3)信玄道
相模原ICの開業を機会に、圏央道など首都圏高速道路の概況[88042]、圏央道と連絡する部分が開業した津久井広域道路[88047]について記しました。
津久井の道。将来への展望だけでなく、少し昔のことも振り返っておきます。

『(仮称)城山インターチェンジ周辺新拠点 まちづくり基本構想(金原・串川地区)』 p.34串川地区の図を見ると、予定されている津久井広域道路が描かれた南側、山地と緩斜面との間に「信玄道」と記されています。

甲斐の武田信玄と言えば 好敵手は越後の上杉謙信です。有名な川中島の戦いは10年以上に及び、永禄4年(1561)に行なわれた第四次合戦は、その中でも最大規模の戦いでした。
もちろん武田の領地は上杉以外にも多くの勢力に囲まれており、戦争だけでなく、政略結婚を含む外交交渉を駆使して 上手に処理する必要があります。関東方面に注目すると、河越夜戦[58848](天文15年=1546)の結果扇谷上杉などの旧勢力が衰え、小田原を本拠とする北条氏康の勢力が増しつつあります。

信玄は相模北条氏とは和睦政策を進め、1553年には娘を北条氏康の息子・氏政に嫁がせています。翌天文23年(1554)には北条氏康の娘が今川義元の息子に嫁ぐことにより、今川から武田への嫁入り(1552)と合せて駿河・甲斐・相模三国間の婚姻同盟(善徳寺の会盟)が成立しました[43558]

ところが、桶狭間の戦い(永禄3年 = 1560)によってその一角が崩れた後は同盟関係に亀裂が入り、武田信玄は1568年に駿河侵攻。北条氏康は駿河に援軍を出し、甲相の同盟関係は崩壊しました。

永禄12年(1569)になると、武田信玄は北条領内に遠征し小田原城を包囲し、挑発ました。しかし、上杉謙信の攻撃にも耐えた堅固な城から出てこない北条氏には信玄も手を出せず、撤退することになりました。
ところが 甲斐に戻る途中、相模国愛甲郡の三増峠【地理院地図の右下】で 北条勢の後詰と遭遇し 激戦になりました。
両軍大きな損害を被ったものの、最終的には武田軍が追撃を阻止し、甲斐に戻ることができました。

串川の流れに近い国道よりも高い山麓に位置する信玄道。
戦国時代より更に前にも、このルートで西に向った人物の遺跡がありました。
後醍醐天皇の皇子で、南朝側の武将として戦った大塔宮護良親王。その側室・雛鶴姫に関する言い伝えです。
父の天皇と不仲になった大塔宮は、身柄を足利方に引き渡された後、鎌倉で殺害されました。雛鶴姫は、足利の目を逃れながら大塔宮の遺骨を葬ると共に、みごもった体で京を目指したものの、相州青山村で病に伏し、甲州秋山村で病没したと伝えられます。

私は 2010年、信玄道の南側に崩れかけて残された千部塚宝篋印塔を訪れ、応安4年(1371)亥年2月願主蓮明敬白と刻まれた台座を確認することができました。大塔宮の33回忌に hmtの先祖が建てた最古の遺物と考えています。
蓮明は同年に諏訪大明神【現在の青山神社】も勧請しています。約200年後に三増峠から帰国途上の武田軍の陣中に居た信玄の息子・諏訪【母の氏】四郎勝頼は この神社に立ち寄って、戦勝を感謝して祈願したことと思われます。

林産物に頼って細々と暮らしていた中世の山麓道。
近世以降は、荒川番所の運上[65669]を免れるルートの串川沿いに発達した集落。水運や水車動力を利用。
そして自動車や電力の利用により再び山麓に活気を与えようとしている津久井広域道路。
社会環境の変化も考えながら 身近な地理の一端を綴ってみました。

「津久井の道」と題しながら地理的には偏っており、「串川の道」になってしまったきらいもあることをお断りしておきます。
[88047] 2015年 7月 8日(水)19:44:19【1】hmt さん
津久井の道 (2)津久井広域道路
相模原市の [津久井広域道路 によると、この道路は橋本五差路から相模湖IC付近まで延長約20kmの広域的な幹線道路となっています。
しかし、全線が都市計画道路として整備中というわけではなく、構想路線に留まっている区間もあります。

相模原市 新道路整備計画(H22/4)p.47 にある計画図を見ると、圏央道の西、津久井湖の南に 5, 6, 7 と付番された青線があります。
# 何故かテキストリンクが効かないので、URLを別に記します。
http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/dbps_data/_material_/localhost/doboku/632500/pdf/new-road_seibi.pdf

p.43の表により、都市計画道路城山津久井線になっている津久井広域道路であり、5 の区間【今回開通区間】は 確かにH26年度完了予定。しかし、6 の区間【土沢の県道513号接続部まで】は優先順位が後で5~10年後の完成。7 の区間【国道412号新屋敷付近まで】は更に後で、区間7 の西は構想路線となっています。国道412号に代る幹線道路として相模湖との間を結ぶのは、当分の間は夢でしょう。

計画図に戻り更に西に進むと、相模湖の南側に27と9 との2区間があります。表を参照すると、プレジャーフォレスト【寸沢嵐(すわらし[81137]グリグリさん)鼠坂(ねんざか[63022]Issieさん)付近の国道412号沿いにあるレジャー施設】から相模湖南岸経由勝瀬橋までの区間で、優先順位は6と同じでした。
相模川が相模湖に流入する地点に架けられた勝瀬橋は、新小倉橋などと共に津久井広域道路の既存区間だったのでした。

参考までに、初代の勝瀬橋は勝瀬部落が水没した相模ダム建設の際に架けられた 1944年製の補剛トラス付き木造吊橋でした。1959年の2代目は 日本最初の斜張橋ですが、初代の主塔を再利用して作られました。3代目の現・勝瀬橋(2005)で幅は広くなりましたが、これも斜張橋。

津久井広域道路全体に及ぶ概要を済ませ、今回訪問した区間の詳報に移ります。

最新の情報となると、個人サイト・あおまる の 祝! 相模原IC&新510号開通 が詳しく、動画も掲載されています。
今回の開通区間は新小倉橋西側からインターチェンジ接続区間を経て西に進み、県道65号と交差する東金原の少し先、串川ひがし会館付近、市道(沼荒久根小屋金原)との合流点【あおまる は(仮)根小屋変電所前と表示】迄の 2.8kmです。「新510号」というのは、小倉橋から串川橋まで串川の流れに沿って遡る 従来の県道510号に対応する新ルートを意味しているようです。

東金原交差点には信号機がないまま開通し、危険が指摘されていました。ようやく設置予定とか。

今回の開通区間は僅かな距離であり、三ケ木・相模湖に通じる国道412号に出るには、前記市道を経て長竹三差路に出る必要があります。新設道路の4車線化も未完成ですが、私の出身地への道は、従来のバスルートに比べて確かに短縮されたことを感じました。

参考までに バスルートのうち鳥屋行き(橋07)は小倉橋・串川橋経由の県道510号ルートです。
三ケ木行き(橋03) は 新小倉橋を渡った後、根小屋中野まで串川沿いの県道510号を走り、西中野からは県道65号の坂を登って東金原に出ていました。こちらのバスは 新小倉橋-東金原間が開通した広域道路にルート変更され、所要時間短縮が図られることになるものと推測します。

相模原市が2012年3月に発表した 『(仮称)城山インターチェンジ周辺新拠点 まちづくり基本構想(金原・串川地区)』 という資料がありました。
金原(根小屋)地区p.27と、串川(関・長竹)地区p.34とにつき、それぞれ基本構想範囲とまちづくりの考え方が示されていました。

この図と共に 地理院地図 も参照すると、金原は 城山375m の南山麓緩斜面です。根小屋という地名からして、「城山の麓の居館」という意味です。そして関・長竹も、根小屋の金原ほどではないにしても、串川流域を相模川本流(中野)と隔てている山(平代山405m・津久井堂所山 370.6m)の 南山麓にある緩斜面と言えるでしょう。
このような緩斜面は、津久井という山地の中にありながら、相模原という台地に比較的近い条件の土地と評価されます。
水を必要とする農地としては必ずしも好適ではなかったが、道路整備等により産業立地が整えられた相模原台地と類似の手法による開発が考えられるのは、自然の成り行きでしょう。

水のことで一言。串川流域の地下を走り抜ける リニア中央新幹線工事は、津久井の水に影響する可能性もあります。
酒造用の水質に影響するかもしれないと心配する 根小屋の蔵元や、長竹の豆腐メーカーの声を 新聞で見たことがあります【朝日2014/12/18夕刊】。

参考までに、鳥屋に作る関東車両基地に通じる分岐線は、津久井堂所山付近の地下で本線から分れるようです。資料
予測困難な地下は、工事による地元への悪影響だけでなく、良質な湧水や温泉資源を提供する[87859]可能性もあります。

それはさておき、進歩した土木技術が使われることにより、山地である津久井の一角では「相模原化」が進行し始めているのではないか?
2.8kmという僅かな道路開通を機会に、そんなことを考えてしまいました。
[88042] 2015年 7月 8日(水)12:20:37hmt さん
津久井の道 (1)圏央道・相模原インターチェンジ
先月末、3年ぶりに津久井を訪れ、この地域の道路事情に 3ヶ月前からの変化があったことを知りました。
すなわち、2015/3/29 圏央道「相模原インターチェンジ」開業と、連絡する「津久井広域道路」の一部開通です。

本題から少し外れますが、関連調査で知った 首都圏における道路交通ネットワーク整備の変遷 から、高速道路整備の概要をメモしておきます。

骨格となる高速道路ネットワーク「3環状9放射」が計画されたのは 1963(昭和38)年でした。
3環状【外側から】:
首都圏中央連絡自動車道(圏央道)、東京外かく環状道路(外環)、首都高速道路中央環状線(中央環状)
9放射【右回り】:
湾岸道路、第三京浜、東名高速、中央道、関越道、東北道、常磐道、東関東道(水戸線)、東関東道(館山線)

この1963年は、名神高速道路最初の開通があり、全国で本格的な高速道路時代の幕が開いた時期でした。
首都圏でもその前から供用が開始されていた京葉道路・首都高に続いて、東名高速・中央道の着工命令がなされ、9放射が次々に開通してゆきました。
首都圏9放射の骨格は、1987年の東北自動車道全線開通で概ね完成しました。

一方、環状高速道路の整備は 放射道路よりも遅れ、東京外郭環状道路の和光IC-三郷IC間が開通したのが 1992(平成4)年でした。
圏央道の最初の区間は1996年、首都高中央環状線も2002年以降の開通で、すべて平成になってからです。3環状開通目標年度図

整備中の環状高速道路以外に 既設の環状道路もあります。しかし、代表的な一般道である国道16号では 混雑による遅れが多発しています

圏央道という名前について
正式名称は「首都圏中央連絡自動車道」ですが、首都圏3環状道路の「中央」に位置するわけではありません。
位置的には 「外環」 が中にあり、外側と内側の道が「中央」を名乗る。不思議な命名です。
圏央道は国道468号という名もありますが、番号で呼ばれることは少ないのでしょうね。外環道の国道298号は一般道部分?

相武国道事務所が管轄する圏央道神奈川県区間の大部分は 「さがみ縦貫道路」 と呼ばれているようです。

昨2014年6月に 圏央道の相模原愛川IC・高尾山IC間の 本線が開通 したことは ニュースで知っていました。

この間の相模原市緑区・城山の麓に設置されるインターチェンジも工事中でしたが、H26年度末までに 開通していたのですね。ICの名称は、2012年に「相模原IC」に変更されていました。個人的には城山の名を使ってほしかったのですが、残念。名称変更は2012年

相模原ICと同時に「津久井広域道路」の一部が開通しました。
実は この名は 初めて認識したのですが、落書き帳を検索したら 8年も前にアルバトロスさんの記事[58974]がありました。
(新小倉橋の西)未完成の道路は、津久井広域道路として西に延ばし、2012年開通予定の圏央道城山ICと接続予定のようです。
懸念されたように開通時期は2012年から 2015/3/29 に遅れました。

序論として高速道路全般に言及し、長々と書いてしまいましたが、本題は「津久井広域道路」です。
歴史的・地理的考察を交えながら、リニア中央新幹線と共に出身地付近を走り抜ける予定の道路について、次回記します。
[88004] 2015年 7月 3日(金)16:38:40【1】hmt さん
Re:終着駅は始発駅
[88002] 白桃 さん
北島三郎の歌謡曲(1977)があったのですか。全く知りませんでした。
このタイトルから私が思い出すのは、『時刻表2万キロ』(1978)など鉄道紀行で知られる 宮脇俊三さんの著書(1982)です。参考

宮脇さんの著書を見ると、育った環境は東京の山の手・渋谷近くです。
しかし、その出自は香川県大川郡、つまり現在の 東かがわ市です。

偶然のことながら、白桃さんが宮脇さんの著作物のタイトルを使われた機会に、鉄道とは無関係の世界で、宮脇さんと縁のあった地名を少し拾い集めてみました。

香川県大内郡誉水村
宮脇俊三さんの人生のスタートは大正15年(1926)12月。この年の末には昭和が発進します。
確認したわけではありませんが、この誉水村の戸籍簿に宮脇長吉三男・俊三の誕生が登録されたものと推測します。
その理由は、次に説明します。

埼玉県川越市
宮脇さんの著書の奥付には 川越市生まれと記されています。何故 川越市なのか?
父の宮脇長吉は軍人でした。陸軍士官学校卒業後工兵少尉として日露戦争に従軍。
その少し後になると、飛行機の時代が始まります。[57213]でも記したように、現在の航空機が主流になる前には、気球・飛行船・グライダーなども試みられました。
父の宮脇長吉が航空兵科に移り、所沢気球隊長として川越に住んでいた時代に宮脇俊三さんが誕生したのですね。

余談ながら、兄の名は英一と雄二。親は「英雄俊傑」と続けるつもりだったが、弟はできなかったとのこと。
本籍地が香川県にあったとする理由は、父が転勤族であったことに基づく推測です。

ところが、制御不能になった観測用の気球が宮城【皇居のこと、きゅうじょう と読んでください】の上を飛行。
責任をとらされ、父は現役軍人を辞任。
以下、宮脇さんの父に関係した蛇足を少し綴ります。

東京府豊多摩郡渋谷町?
父の宮脇長吉は陸軍退役後に政治家になりました。長吉の兄・三土忠造[77628]の影響です。
宮脇でないのは阿野郡【坂出市】の漢学者の家に婿養子に行ったためです。香川二区選出の代議士。
長吉も出自の地・香川一区から1928年の総選挙に出馬し、目出度く当選。
このようにして、東京・渋谷に居を構え 選挙区にも頻繁に訪れる代議士の家では 「時刻表」が必需品になりました。
宮脇さんにとって、「時刻表」は 子供時代から 座右の書 になっていたわけです。

参考:昭和戦前、宮脇家にあった時刻表とは時代が違いますが、「三本松の時刻表」の名で知られた『汽車汽船旅行案内』の表紙画像を 第7回オフ会記録ページ から見ることができます。[76900]

宮脇長吉は軍人出身ながら、勢力を増してきた軍と対立する立場で行動した戦前の政党政治家でした。
陸軍省説明員の佐藤賢了を相手にした野次は「黙れ事件」を引き起こしました。

参考までに、兄の三土忠造は かなりの大物政治家で、戦後の幣原内閣では後継者を狙える地位に居たようです。
もっとも、幣原退陣後の政権は、選挙で勝利した自由党の吉田茂に移りました。

弟の宮脇梅吉【つまり宮脇俊三さんの叔父】は内務官僚で知事を歴任しています。1927年、埼玉県知事時代に提唱した大宮・浦和・与野による「一大都市圏構想」は、74年後に「さいたま市」として実現しました。
[87989] 2015年 7月 1日(水)23:03:03【1】hmt さん
特別地域気象観測所
[87987] じゃごたろ さん
長野県内の五地点の最低気温と最高気温が毎日報道されています。

答えが一致する必然性は全くありませんが、参考までに市の人口トップ5を眺めてみると、長野・松本・上田・飯田・佐久では地域的に偏りがあるように思いました。

気象という観点から考えると是非入れておきたいのが軽井沢町。
県歌「信濃の国」 に歌われた「四つの平」を代表する4市に軽井沢町を加えた五地点か? 
いや、佐久市と軽井沢町では近すぎる。

長野県内にある気象観測所の位置 を見ると、長野地方気象台の他に、特別地域気象観測所が4地点あります。
長野・松本・飯田に加えられている2地点は 諏訪 と 軽井沢。

諏訪湖の御神渡[63595]も 重要な気象観測対象でしたね。
これならば、納得できる地域分布と思われます。
いかがでしょうか。
[87944] 2015年 6月 24日(水)17:18:48hmt さん
地域自治区 合併特例区 (5)相模原市と浜松市
[87349]序論、[87357]制度概要、[87358]上越市の後 中断していた地域自治区ですが、奥州市の話題[87943]で復活しました。今回は政令指定都市の行政区設置と関係する相模原市・浜松市の事例を見ます。

「津久井町・相模湖町」という地域自治区が2011年3月まで相模原市に設置されることは[48391]に記録されています。ほぼ1年遅れで編入合併した「城山町・藤野町」も、同じ期限の地域自治区になっていました[73416]
そして「合併特例法に基づく地域自治区」の名称は、住民票の「住所」の表示に加えられます。
その根拠である「住居表示に関する法律」では 住居表示実施地域だけが対象なのですが、2004/10/19総務省自治行政局長通知により住居表示実施地域外にも拡張適用されています。[48804] suikoteiさん

そして、2010年4月1日から政令指定都市になった相模原市では、地域自治区名として編入合併後も引き続き使用されてきた旧町名が住所の表示から省かれることになりました[73416]
行政区としての「緑区」が発足するので、地域自治区名の方が廃止されるのは当然のことのようにも思われます。
相模原市のサイトで確認したところ、津久井地域の地域自治区の設置期間「合併の日から平成22年3月31日まで」と1年短縮されていることを確認できました。

相模原市の事例では、地域自治区は政令指定都市の行政区発足の前日に廃止。こちらは単純明快でした。


地域自治区と政令指定都市行政区との ややこしい関係 を示す事例・浜松市も紹介します。
浜松市は 相模原市に先んじて 2005年7月の編入合併時に旧12市町村を単位に地域自治区が作られました。
ところが、こちらの地域自治区は「合併特例法に基づく地域自治区」ではなく、「地方自治法に基づく地域自治区」なんですね。

そして 2007年に浜松市は政令指定都市になり、7つの行政区が設置されました。浜松市のサイトを見ると、旧浜松市の地域は中区・東区・南区の他に西区・北区になった部分があるのでそれぞれ別の地域自治区になり、一方では旧5市町村の地域自治区は天竜区に属しています。

地域自治区の地域協議会が7行政区になってからも残されたのは、合併時の未調整事業が残っていたためのようです。西区・北区・天竜区において、区協議会と地域協議会との複雑な2層構造が一時的に存在したものの、2011年度までに調整が終了し地域自治区は廃止されたとのことです。

何か複雑で、十分に理解できておらず、地元の方から見て誤りなどありましたらご指摘願います。
[87943] 2015年 6月 24日(水)16:08:40hmt さん
地域自治区 合併特例区 (4)奥州市での動き
[87193] 山野 さん
奥州市にある5つの「地域自治区」ですが、来年3月末の期限切れに伴い、市は廃止の意向を固めました。
[87940] ピーくん さん
奥州市議会でも6月23日に自治区の廃止関連の議案が予定されていますが、存続のほうを可決しているので否決の可能性が高いです。
岩手日報
奥州市議会は…来年3月で設置期限が切れる地域自治区を廃止するための議案を反対多数で否決した。

「来年3月末の期限切れ」が決まっている「地域自治区を廃止するための議案」を わざわざ市長が提出し、それが議会で否決される。ニュースを表面だけ読んでいるとよくわかりません。

そこで、奥州市の合併サイト の確認から始めます。
協定項目という分類に入ると、No.9 地域自治組織の取扱い がH17.1.15に提案され、H17.3.3に承認。
資料を開くと協定第14号が現れ、合併特例法に基づく地域自治区設置であり(第1条)、自治区の設置期間は、合併の日から平成28年3月31までとすることが明記されています(第3条)。

市長としては この協定書による自然消滅を待てばよく、否決される可能性の大きい廃止議案を あえて議会に出す必要はなかったのではないか?

そこで新聞記事を再読すると、否決されたのは「廃止関連3議案のうち条例制定案」とあります。
岩手日日新聞 IWANICHI ONLINE を見ると、「設置期間満了に伴う関係条例の整備に関する条例の制定」で、採決されなかった他の2件は「町・字の名称変更」と「補正予算」だそうです。

なるほど、「地域自治区の廃止」自体は10年前の当事者による合併協定で決められているが、現実の市政としては 市民に対して「地域自治区は満了しました」と通知するだけで済むわけではない。これまでの10年間住所に使われてきた旧町村名を使い続けるための「町・字の名称変更」や予算措置を含めてやることはある。

2005年の協定を尊重することにより、地域自治区を廃止し、奥州市を一体のものとし進めようとする市長。
これに対して地域自治区を存続させることにより、分権体制の継続を図る勢力も存在します。

[87960]に記されていた「存続のほうを可決」は岩手日報2015/6/17の記事
期限延長を求める議員発議案を賛成多数で可決した。

これだけでは、求めている「期限延長」の具体策は不明です。
しかし、文字通りの期限延長ならば2005年協定書の実質的改定がその道であり、市議会の議決により可能であると思われます。

地域的にも、時期的にも近い事例を挙げておきます。青森市浪岡地域自治区の設置期間は本年3月31日まででしたが、青森市議会において「…地域自治区の設置等に関する協議により定めた事項を変更する条例」が可決され、平成33年3月31まで延長されることになりました。青森市
[87931] 2015年 6月 16日(火)17:14:38hmt さん
色の入った市区町村
[87930] グリグリさん
自治体サイト政策の会社からご紹介いただきました…(中略)…最後の色がユニークで面白いですね。
青色525件、赤色36件、黄色32件…(中略)…に分類しています。

「色(カラー)からさがす」を見ると、これに加えて「橙色」という分類(45件)があります。これを加えると 合計1788件となり、収録自治体数【47都道府県、790市、745町、183村、23特別区の合計】と合います。
ページの色を分類する基準は不明ですが、青色や緑色が優勢なのですね。赤色や橙色・桃色の系統は意外に少数。

どういう基準でどう判断して分類しているのか興味があります。担当の方にお聞きしています。

分類された結果から、基準を推測してみようと考え、手始めに富士見市のサイトを調べてみました。
埼玉県市町村の一覧画像に示されたキャプチャー画像ではピンクの花が目立ちますが、現在は紫の花菖蒲。現実には桃色の42件中にも紫色の56件中にも富士見市サイトは存在せず。
…というわけで、背景写真の中で目立つ色は無視し、タイトル下にあるメインバーの色に注目。
この緑色に分類されている可能性があるが、522件もある緑色の配列中から探すのは一苦労。
それでも富士見市が緑に分類されていることが確認できました。色の基準詮索は、これで一先ず終了。

自治体と色の関係に着目したのは面白いと思ったら、色の入った市区町村 という雑学が既にありました。

雑学に登場する市町村名の最大勢力は「白」で、現存の市だけ数えても6市ありました。「しろ」と読むのが白石市と白井市(他に消滅した白根市)、「しら」が白河市・白岡市・大網白里市、それに音読みの「はく」が白山市。
でも、自治体サイトの分類では「白」に該当する市区町村なし。

赤平市・赤穂市・赤磐市を揃えた赤も目立ちます。ずっと昔1902年に下関市に改称しましたが、赤間関市もありました。でも、名称と自治体サイトとが共に「赤」だったのは、福岡県田川郡赤村 だけ。
どうやら、自治体名称に使われている色とサイトの色との関係は薄いようです。

白や赤は伝統的な2文字地名の一部として使われるケースが多いと思いますが、「緑」は単独で使われる特異な色です。
雑学のリストを見ると 2006年に誕生した群馬県みどり市と、5つの政令指定都市の「緑区」が目を引きます。もちろん行政区は自治体でないため、今回の自治体サイトの対象外です。

そう言えば、「市の色」(シンボルカラー、イメージカラー)というのもあるようですね。過去記事

改めて調べた結果。相模原市(みどり)国立市(みどり)大和市(若みどり)、厚木市(きみどり)
何やら、「みどり」が好まれている様子。

雑学の最後には、ズバリ「色」という次を使った町村がありました。
宮城県の色麻町は、奈良時代に多賀城の前進基地・色麻柵が設けられたフロンティア。
兵士の出身地・播磨国飾磨由来で、「色」の意味はなさそうです(コトバンク)。
洲本市になった五色町には 高田屋嘉兵衛[77693]出身地と五色の砂利浜があります。
三河湾の一色町は 足利の重臣一色氏の本拠地でした。
オウム事件で知られた上九一色村は分村消滅[49541] [49561] [49566]


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