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[96319] 2018年 7月 22日(日)19:13:41hmt さん
自然公園の面積
[96316] グリグリさん
都道府県データランキングの 自然公園面積 を拝見しました。
第1問にも関係するのですが、沢山の面積データを漠然と眺めているうちに、気になったのが「小さな面積」です。

自然公園合計面積のトップは滋賀県。琵琶湖があるにも拘らず、国立公園は存在しない。
これも注目すべきことですが、ゼロでない「小さな面積」、具体的には福岡県の国立公園:46haと、京都府の府立自然公園:128ha とを調べてみました。

福岡県の自然公園を見ると、門司の和布刈(めかり)公園を中心とする地域が、瀬戸内海国立公園に指定されており、その面積 46haがランキングのデータと一致します。
同じページに続いて紹介されている福岡県の3国定公園、5県立自然公園の面積は、すべて数千ha以上と桁違い。

瀬戸内海国立公園は、海域部を含めば日本最大の面積を持つ国立公園です。
しかし、今回の都道府県別ランキングは、その性格上、陸域の面積に限られています。
自然公園の面積に関する統計は、陸域面積に限定した値が掲載されていることが多いので、ご注意ください。

[92754]で記したように、1934年に初指定された瀬戸内海国立公園は、備讃瀬戸付近の3県でしたが、戦後大拡張されています。ブラタモリが最近訪れた関門海峡は 1956年の指定でした。

瀬戸内海国立公園に関係する県は 11府県に及んでいますが、大阪府の指定は海域のみであるため、陸域面積には含まれません。
大阪府が、[96316]の第1問のヒント「国立公園は 6府県」に含まれのは、このような事情があるためです。

ついでに、京都府立の自然公園。こちらは、僅か 128haでありながら、3公園の合計面積でした。
その中での最小面積は、笠置町にある京都府立笠置山自然公園で、その面積は 20haでした。

別件:
「やんばる国立公園」は、最も新しい33番目の国立公園です。
落書き帳では速報[90614]の後、2016/9/15の国立公園誕生を伝えています[92742]
最近のニュースによると、隣接する米軍からの返還地の大部分が 2018/6/29に 編入されたそうです。報道発表

これにより、やんばる国立公園の面積(陸域)は 17311haに拡張されました。基礎情報
ランキングの出典は未修正ですが、西表石垣国立公園 40653ha、慶良間諸島国立公園 3520ha と合計した沖縄県の国立公園面積は、61484ha となっている筈です。
[96304] 2018年 7月 16日(月)11:48:13hmt さん
偉人たちの出身地
[96299][96302] 千本桜さん
問題にされた地名自体は、「後に内閣総理大臣となるC」が「凶弾に撃たれて散った」ことが最大のヒントになりました。
最初に思い浮かんだのは五・一五事件(1932)の犠牲になった犬養木堂でしたが、これは出身地から否定。

元老の西園寺公望が犬養の後任首相として推薦したのが「C」でした。
その名は、もちろん知っていました。hmt誕生当時の首相ですが、その出身地は知りませんでした。
hmtマガジンでは 【Tcj】地域自治区(合併特例)として取り上げた町[90173]だったのですね。

「C」は 1896年にイギリスで完成した戦艦富士を、スエズ運河経由で横須賀に回航した経歴を持つ海軍軍人。
海軍穏健派の長老として「大命降下」を受けて、2大政党連立による挙国一致内閣を編成。
高橋是清蔵相による積極財政を継続。軍部とも大きな対立を起こさず、1934年まで政権を維持。
後に内大臣を勤め、昭和天皇の信頼も得ていたようですが、これが二・二六事件(1936)を起した青年将校から天皇をたぶらかす重臣として狙われる原因になりました。

「B」は有名人です。彼の事績は [74935][85218][85227]などで触れています。

落書き帳では、「A」の記事は書いていないと思いますが、
B記念館から北へ200メートルほど進むと江戸時代後期の地理学者の誕生地跡ある。
と記された箕作省吾については、世界地理・地図関係で何か書いていたかもしれないと思いました。
過去記事を探ってみたが、残念ながら、過去記事見当たらず。
[96205] 2018年 6月 17日(日)14:17:18hmt さん
日本の地震とアイスランドとの関係
[96204]とは無関係ですが、アイスランドと言えば、ユーラシアプレートと北アメリカプレートとの境界である大西洋中央海嶺が地上に現れている場所として有名です。
落書き帳にも、火山関係の記事が多数あります。

それはさておき、ちょっと気になったのが [11702] start さん による古い記事。
以前「世界ふしぎ発見」で言っていた話ですが、世界の陸地はアイスランドから発して日本に向かっていくそうです。

これだけでは理解しにくいのですが、[11720] KMKZさんが大西洋中央海嶺に言及しています。
そして 2010年 [74254] hmtの記事の追記で、大西洋を舞台にした「日本の大地震」の研究 が紹介されていました。

北大の島村さんが書かれた記事によると、1983年に起きた日本海中部地震【男鹿半島沖の海域】の余震観測で、プレートの押し合いが始まっている疑いが強まっていたそうです。
そこに1993年の北海道南西沖地震。定説がなく、地震学者にとっても不意打ちでしたが、余震観測の結果、これもプレートの押し合いによる地震と判明。

そして、本州東北部・北海道・サハリンは北アメリカプレートに乗っており、これとユーラシアプレートとが関係する「2大プレート押し合いによる地震」という現在の説に至った。そういうことのようです。

リンクされたのページには北極の両側に及ぶプレート境界を示す地図【図1】が示されています。
図1の上方(アイスランド方面)で生み出されるプレートは、シベリア北東部にある「軸」よりも手前、サハリン・北海道・秋田付近では、2つのプレートを両側から押す沈み込み帯を形成していることがわかります。

大西洋を生み出し、アイスランドでは火山を噴出した「地球の割れ目」【図2】が、日本付近では「押し合い」という別タイプの地震を引き起こしている。

これが、[11702]の記事に記された「世界の陸地はアイスランドから発して日本に向かっていく」の真意であったと理解されます。
[96202] 2018年 6月 12日(火)23:01:30【1】hmt さん
シンガポール
米朝首脳会談で話題のシンガポール。全島1市・東京23区ほどの広さの「独立国」です。
ニュースで伝えられたように、日本とは1時間の差。標準時が UTC+8。
会場は南端の「セントーサ島」。落書き帳過去記事にも登場 [48354]小松原ラガー さん。

[79492]hmt でラッフルズ以後の歴史を少し書きました。
独自の立地にある貿易港でしたが、水道の原水でさえも輸入に頼らざるを得ない資源小国。

1965年マレーシアからの分離独立以後、リー・クアンユー(李光耀)首相の統率下、どのように生きてきたか。
注目に値する国です。

今日は予告編だけですが、別記事として書いてみたいと思っています。
[96192] 2018年 6月 8日(金)18:10:37【1】hmt さん
地図情報の更新
[96190] 稚拙さん
三江線廃止(2018/4/1)から2ヶ月経過していたのですか。
三江線は 100kmを越す長距離路線で、1975年の全通後でも 40年以上 運行されていました。
しかし、利用者は少数の短距離区間客で、鉄道の特性である拠点間の大量輸送を発揮するには、ほど遠い状態でした。

WEB地図の更新遅れに関しては、営業終了後の残存地物の可能性コメントがありました[96193]
いずれにせよ、大きな実害をもたらす問題ではないように思われます。

情報伝達技術が現在のように発達していない時代の地図の更新は、現在ではとても考えられないほど 遅れていました。
実例を思い出しので、昔の記事を一つ挙げておきます。

[67608] hmt
手元にあった昭和24年(1949)発行の1/25000地形図「上溝」。
これは行政区画資料修正により、戦時合併[37842]で生まれた 相模原町 の名前だけは辛うじて載っているのですが、1931/4/29【厚木-橋本間延伸】開業の相模線でさえ入っていないという、地物に関しては大正10年(1921)測図当時の状態を残しているシロモノです。

[94765] ekinenpyouさん に教えていただいた Stanfordの外邦図に収録されている 25000地形図の索引図
Sagamihara と記されている Sheet Number 17-10 を開くと、大正10年測図(陸地測量部)と記された「上溝」図幅が現れますが、発行日、定価などの記載がありません。
市販品とは別に内務省が調製した政府内部の資料と思われます。
右肩に「二万五千分一地形図八王子近傍十号(共14面)」と記されています。
「図番 17-10」とは、全国的には未整備で一部地域だけ作られていた当時の 25000図特有の 図番だったのですね。

現在は全国整備が済んでいる 旧版地図リストと対照すると、外邦図に収録されていた図は、【相模原町になる前の】1925/2/28発行 リスト番号76-11-4-1 に対応することが分かります。
hmt手元の 1949年発行の版[67608]は 76-11-4-3 でした。

このリストによると、25000地形図「上溝」の 1949年よりも後で、線路の位置が地図に書き込まれたと思われる「改測」が実施されていた版は、実に 1966年です。その地形図の発行は1967年10月(76-11-4-5)。相模線全列車の気動車化【併用は戦前から】とされる 1958年より ずっと後のことです。
地形図「上溝」に描いてもらえなかった「SL時代の相模線」。名称の使い回しに注目。
1921年:相模鉄道が茅ヶ崎-川寒川間で開業。相模川の砂利採取事業[41660]
1926年:倉見、厚木と北に延伸。同年、神中鉄道[28910]も厚木-二俣川間開業
1931年:相模鉄道が厚木-橋本間を延伸開業 
1943年:東急グループ内で、相模鉄道が神中鉄道を合併【相模線の名称は変化なし】
1944年:国有化により運輸通信省相模線となる【残った旧神中線が相模鉄道の社名を継承】
1949年:日本国有鉄道相模線となる

外邦図収録 Sheet Number 17-10「座間」を見れば、1927年新規開業の小田原急行鉄道に「昭和4年鉄道補入」とあります。【76-12-1-4鉄補】
同様に、鉄道開通がいかに軍事的に重要な情報であるからといっても、1931年厚木駅【注】から北への延伸開業をした相模鉄道についても、隠蔽工作などがなされたとは、到底思われません。

25000地形図の「改測」が戦後20年以上も行われずにいたとすると、その事情は何故か? 不思議です。
1949年の「資修」は鉄補でないことを確認していますが、ひょっとすると、1955年発行の 76-11-4-4「資修」で処理された可能性もあるのではないか?

【注】厚木駅[41660]
外邦図の「座間」図幅では、小田急河原口駅との交差点【現在の厚木駅】より少し北に、神中鉄道と相模鉄道との共用ターミナルである「厚木駅」が見えます。神中線が小田急ルート【下記】になり、相模線の旅客駅が河原口に移った後も貨物駅として使われ、混合列車が停車していました。
現在の相模鉄道が小田急と接続している海老名駅と連絡線とは、この地形図には まだ現れていません。
しかし、神中鉄道は 1941年からこのルートで相模川を越え、相模厚木駅【本厚木駅】への乗り入れを開始しました。
[96178] 2018年 6月 3日(日)16:02:45hmt さん
江戸川区菅原橋交差点の歴史
昨日のブラタモリ・下田で登場したのが、静岡県最南端の神子元島。[85781] hmt と同じ頃の記事に登場した北杜市須玉町若神子の「九差路もどき?」[85778]伊豆之国さん からの連想で、七差路コレクションを開いてみました。

江戸川区菅原橋交差点:「[26273]烏川碧碧さんからは「最大十叉路説」の情報提供」と記載されていました。

2004年のこの記事から14年も経ていることでもあり、新たに検索してみました。
その結果、江戸川区郷土資料室による「菅原橋交差点の成り立ち」という 解説シート(2014/10/21更新)が存在することを発見しました。

現在は 国道14号 千葉街道と呼ばれている古くからの幹線道路に存在する複雑な交差点。
菅原橋交差点は、都内でも珍しく右記【地図】のように道が交差する 11差路となっています。

江戸川区が示した【地図】は、マピオンに道路名などを書き込んだもので、国道の北東=千葉県方面(1番)から時計回りの番号を付与。
江戸川区資料には「11差路」と記されています。しかし、9番とは水路を隔てた南側にある8番の道路は、菅原橋交差点から外れていると思われます。これを除外すれば、[26273]の10差路ということになります。

1番 千葉街道NE     2番 旧上八幡道     3番 昭和初期頃の小路
4番 鹿骨街道SE     5番 仲井堀通りS     6番 同潤会通り
7番 千葉街道SW     8番・9番 小松境川親水公園沿いの街道
10番 鹿骨街道NW     11番 仲井堀通りN

文化2年(1805)の『葛西御場絵図』には、「元佐倉道中」(7番/1番)が中井堀を渡る「菅原橋」が描かれています。
橋名の由来となった菅原道真公を祀る天満宮【現在は本一色北野神社】は、『明治38年(1905)の地図』に描かれ、橋の北側から【葛飾の】新宿(にいじゅく)に至る中井堀沿いの道(11番)には、小松川道と記されています。
参考までに 葛飾新宿の更に北は、灌漑用水の水源である 水元・小合溜[82206]です。
この地形図には、菅原橋の東に上八幡道(2番)も記載されています。葛飾八幡宮(かつしかはちまんぐう)の所在地は市川市八幡4丁目ですが、地名の読みは「やわた」ですね。上八幡道も同じかな?

鹿骨街道(4番)の前身らしき道は明治38年の地形図にもありますが、その名は未登場。
鹿骨(ししぼね)は難読地名。この道が整備されたのは、新小岩駅開業後の昭和戦前期のようです。

6番の道路に名付けられた「同潤会」[83708]という言葉は、関東大震災後の被害を受けた後、東京の都市圏が拡大した 昭和戦前時代を象徴しているようですが、この道が菅原橋交差点に接続され、航空写真(1963)のような姿になったのは、戦後の昭和29年(1954)頃であったようだと記されています。
この航空写真では中井堀の南側が完全な水路で残されていますが、それが徐々に暗渠化されて、仲井堀通り(5番)になったのは、1970年代前半とのことです。
[96160] 2018年 6月 1日(金)19:04:21【1】hmt さん
賽の河原
[96080][96118]では、関西「カンサイ」という読みの例外として話題になった「カンセイ」を題材にして、「呉音から漢音へ」という順序で日本に導入された漢字の歴史を概観し、併せて発音において混乱しやすい「アイ」と「エイ」との関連についても触れました。

今回は、京都市右京区の「西院」という地名から始めます。
阪急京都線の西院駅。バス停名は座標方式の交差点「西大路四条」、住所は右京区西院高山寺町。

京都西院駅が新京阪鉄道の地上仮駅として開業したのは 1928/11/1でした。 [20843]太白さん
四条大宮の京阪京都駅まで開通した 1931/3/31 には地下の「西院駅」となり、”関西最初の地下鉄”と謳ったということである。[17211]般若堂そんぴん さん

これよりもずっと前の 1910/3/25に 神戸の川崎財閥により 嵐山電車軌道が開通しています。
これが京都電燈の経営になり、戦時中には 電力企業から分離されて、京福電気鉄道になりました(1942)。

夜の繁華街を持つ京都と繊維工場などを持つ福井県とは、以前から両者を結ぶ送電線によって電力需給バランスを図っていた筈です。
しかし、戦時体制による電力国家管理[28941][61349]は、思わぬところで「京福」という組み合わせの意義を表面化することになりました。

それはさておき、新京阪>阪急の駅名は普通の読み方「サイイン」なのに、先輩格の嵐電>京福の駅名は「西院」と書いて「サイ」と読みます。[33039]ありがたきさん、[33569]なかなかさん
これは、如何なる事情によるものか?

右京区西院高山寺町の由来である高山寺は 淳和天皇[27426][27454]の離宮でした。
御所の西にあるお寺だから「西院」で不思議はありません。
ところが…

[59769]伊豆之国 さん
京都市の「西院」の駅名の読み方が阪急(さいいん)と嵐電(さい)で異なることについて、昔見たテレビ番組で、「元は西院(さい)村と呼ばれ、『賽の河原』からきている、と言う。阪急が『さいいん』と読みを変えたのは、『賽の河原』では縁起が悪いからだ」ということを聞いたことがあります。果たしてこれは本当のことなのでしょうか、読者の中でこの事情がお分かりの方は教えてください。

落書き帳過去記事には、上記の問い掛けに対するレスが見当たらなかったので、調べてみたところ、偶々手元にあった柳田國男『先祖の話』68話「さいの川原」に出会いました。
終戦直前の執筆、1946年発行の粗悪な印刷物ですが、京都五三昧【注】の一つであった「佐比」という川原に由来するということが記されていました。
【注】京都五三昧とされる火葬場
あみだが峯、舟岡山、鳥部山、西院(さい)、竹田(中山)の5ヶ所とされる。出典
参考までに江戸五三昧は[71932]で登場しています。

京都の魔界伝説にも、
西院の地名の由来は、現在の佐井通りに該当する「道祖(さい)大路」に接していたので「さい」と呼ぶようになったと思われる。
と記されていました。

テレビ番組で紹介された「賽の河原」>西院(さい)村 という説は正しいように思われます。
現在の漢字に騙されて、「御所の西だから西院」と単純解釈してはいけなかったのですね。

現在まで伝えられる空也上人の『西院河原地蔵和讃』。
空也が不幸な子どもたちの供養した平安時代はもちろんのこと、柳田國男が『先祖の話』を残した敗戦前後の時代に比べても、私達が当然のように享受している栄養状態や医療環境は格段の進歩を遂げています。
恵まれた時代に生きることができるのを感謝しながら、賽の河原の不幸な子どもたちへの思いを馳せたのでした。

余談ですが、嵐電・西院駅付近にある電鐘。
[91964] 伊豆之国さん
現在進んでいる阪急西院駅の改良工事(中略) どうなるかが気になります…

2018/4/5のお知らせによると、電鐘のある踏切には表示灯が設置され、信号機と警報音だけではなく、歩行者の目線でも電車接近をわかりやすくなっている模様です。ご安心ください。
[96118] 2018年 5月 25日(金)20:12:53hmt さん
関西(かんせい)の読み方(2)スペインの雨
[96080]で記した「呉音から漢音へ」の続編です。
日本語全体の流れの要約
 5世紀から本格化した南朝呉音文化の導入>
 7世紀から直面した隋唐帝国の影響による初期漢音文化>>【宋音の伝来など中間は省略】
 江戸時代・明治時代を経て変質したが、現在も漢音文化が優勢。
但し、仏教用語を中心として 呉音文化も一部に根強く残る。

このような認識を踏まえて、数年前の発言に関係する「地域差」を考えてみました。
[76598] Issieさん
「西:セイ(漢音)/サイ(呉音)」では,「関西大学」と「関西学院」のペアーが有名です。どちらが「かんさい」で,どちらが「かんせい」か,“東夷”(あずまえびす)には区別できません。

関東育ちの hmtとしては、漢音を使った「SEIBU」ブランド[61836]に親しんできました。
しかし、九州には呉音読みの西部(サイブ)ガス【登記上の称号は西部瓦斯】があり、大手都市ガス4社の一角を占めていることを知りました。

このことから、地域による呉音・漢音の使用傾向の違いがあるかと思い、調べてみました。
市町村雑学によると、現存市町村について西の出現は31回ありますが、訓読みの「にし」が多数で、音読みは10件でした。
その中では、呉音「サイ」7市(印西市/湖西市/愛西市/加西市/西条市/西海市/西都市)に対して漢音「セイ」は筑西市・西予市の他に高知県安芸郡芸西(げいせい)村の3つだけ。
地域による違いについては、印旛郡/浜名湖の西にある市が「サイ」で、筑波山の西の市が「セイ」という調子であり、西国/東国の地域差は見出されないように思われます。

福島県西白河郡西郷村は「にしごう」と訓読みでした。
ついでに、NHKドラマのタイトル「西郷どん」の読みは「SEGODON」。

[43834]
明治5年5月の太政官布告で、「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」になり、通称か名乗かどちらかを一つだけを選んで戸籍に記すことになりました。西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人が間違えて父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。名乗がほとんど使われていなかったという現実を窺がわせる逸話です。

…というわけで、幕末には「吉之助どん」という呼び名が一般的でした。
名字で呼ぶ現在の習慣もまだなく、「SEGODON」と呼ばれたとすれば、それは没後のことか? 
この呼名がドラマ中に登場する機会があるとすれば、それは年末近くのことと推測します。

それはさておき、呉音のサイゴウどん から 漢音のセイゴーどん に変化し、更に セーゴーどん→セゴどん となる変化は、口の開閉が少なく、口語では起りやすい音韻変化と思われます。

呉音サイ→漢音セイ とは逆向きの変化ですが、エイ→アイ と変化する有名な例についても、言及しておきます。

バーナード・ショーの戯曲『Pygmalion』…と言うよりも、それをミュージカル化した『マイ・フェア・レディ』。
ロンドン東部の下層階級で育ったイライザに正しい英語の発音を教え込み、レディに仕立てようとする言語学者の ヒギンズ教授。
彼が教材として与えた 有名な「スペインの雨」には「エイ」の音が5回出てきます。

The rain in Spain stays mainly in the plain.

これをイライザがコックニー訛りで発音すると、「エイ」が「アイ」になってしまいます。
ザ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリー・イン・ザ・プライン

オーストラリアの英語にも、today→トゥダーイなど、同様の訛りがあるようですね。
ドイツ語では「ei」と書いて「アイ」と読みます。

呉音・漢音から出発しましたが、発音は時代と地域が異なれば変化するものである。
当然のことでしょうが、いろいろと調べてみて、改めてこのことを実感した次第です。
[96080] 2018年 5月 23日(水)19:02:53hmt さん
関西(かんせい)の読み方(1)呉音から漢音へ
1
思いがけず話題になった「関西」の読み方。
私も関係ありそうな話題を、思いつくままに 幾つか記してみます。

「関西」には「近畿」など類似する概念の用語もありますが、言うまでもなく「関西」は「関東」と対比される広域地名として認識されます。関西国際空港などの新しい用例もありますが、近畿より限定された範囲、例えば独自の歴史をもつ都市圏や風土などが背景にある地域という印象を受けます。

机上の『大辞林』により見出し語「かんさい」【関西】を確認。関西大学などの派生語も掲載されています。
ところが、「かんせい」を引くと、寛政・慣性など多数の言葉が出ますが「かんせい」【関西】は出ません。「かんせいがくいんだいがく」【関西学院大学】まで進み、ようやく単独項目で登場。

2
日本語における漢字の常識。「西」の読みは 漢音「セイ」 呉音「サイ」 訓読み「にし」。

この中で「訓読み」とされる「にし」は、「西」という漢字の意味する「やまとことば」。言わば翻訳です。

3
日本への本格的な漢字文化流入は「呉音」を通じて始まりました。
「西」という漢字と共に入ってきたのは「サイ」という「呉音」だったのです。

これは、統一帝国の隋・唐が華北に成立する前の「南北朝時代」に長江下流域の国から伝えられた読み方でした。
建康(建業)【南京】に都を置いた王朝は三国時代の呉を含めて6つあったので「六朝時代」とも呼びます。
呉音の「呉」は王朝名ではなく 地域名と理解してください。

5世紀に「倭の五王」と接触した本格的な記録を残しているのは、南朝の宋王朝でした。
【10-13世紀の北宋・南宋とは別です。】

『宋書倭国伝』 に記録された「倭王武の上表文」(478年)。百済などからの渡来人の専門家を雇っていたにせよ、この時代になると、日本も立派な漢文による外交文書を作成できる段階に達していたことを示しています。
日本国内でも、「呉音」という形で華南の言葉に親しむようになりました。

仏教が公式に日本に伝わった6世紀。この頃になると、衰微した南朝に代り、文化流入は百済経由となっています。
このようにして、日本への本格的中国文化流入は、内容的には仏教が中心になりましたが、媒体としてはそれ以前と同様に「呉音」を媒体として行なわれました。

4
ここで、日本を取り巻く国際情勢が一変します。
中国が 長い分裂時代を脱して、華北に統一帝国の隋・唐が成立したのです。
日本からも推古朝の遣隋使(607)を経て、遣唐使(630-)によって直接外交関係を結ぶことになりました。

これまで「呉音」によって漢字文化に接してきた日本も、長安を首都とする統一中国帝国が「正統的な読み方」としている「漢音」と向き合うことになります。

長安【西安】がある渭水盆地は、秦・前漢の時代にも帝国の首都であり、「関中」と呼ばれる地域です。
「関西学院」から始めたこの記事として見過ごせない地名。東の函谷関と西の隴関との中間にある平野部。

5
さて、「西」という漢字を「セイ」と読む「漢音」について。

百済と組んで唐に反抗した白村江の戦(663)。それでも どうにか 生き残ることができた敗戦日本。

そして 百済滅亡の結果、百済の人々が逃れて多数来日。日本の「漢音文化」に貢献することになりました。
『日本書紀』(720)は、初期の「漢音文化」が日本にもたらした代表的成果と思われます。

しかし、遣唐使が学んだ「漢音」は、正統的中国語の発音に拘っており、日常語として定着していた「呉音」を完全に置き換えるものではなかったようです。

現代語として普及している「漢音」には、江戸時代の研究に基づく日本語音としての漢音や、明治の文明開化時代の必要から生れた和製漢語などの成果が盛り込まれ、初期のものから変質しているようです。

6
冒頭に記したように、大辞林では「かんせい【関西】」が見出し語になっていませんでした。

どうやら、現代日本語において 「かんせい」という読みは「固有名詞の一部」として存続しているが、広域地名としての“かんせい【関西】”という「漢音読み」は 事実上消滅している。
このように受け止めました。

ところが、大修館新漢和辞典の【関西】を見たら、読みが「カンセイ/カンサイ」と漢音優位で、「1 函谷関よりも西の地…」という説明文が付されていました。さすが、漢和辞典。

7
落書き帳過去記事における「関西 かんせい」の使用例を調べたところ、結果は僅かに4件でした。

関西学院大学の前身は 1889年設立。当時の日本では、東京を「とうけい」というように漢音読みにすることが多く【[75459]参照】、「かんせい」学院と読む校名も、このような歴史によるものと説明されています。出典

落書き帳に現れている他の事例である国有化前の 関西(かんせい)鉄道[61246]も、まさに漢音読み全盛であった同時代に誕生した社名です。急行用の「早風」、短距離用の「池月」など、優雅な形式名称の蒸気機関車に付けられていた「KANSEI」の社名を、写真で見た記憶があります。

8
「呉」と「漢」とは王朝名ではなく、中国の地域名と理解してください。
「呉」は長江下流域の水田地帯、「漢」は黄河中流域の畑作地帯というイメージで、「南船北馬」という四字熟語で知られているような異なる風土に、それぞれの文化が育まれてきました。
中国の南部と北部にある二つの地域の中で、気候に恵まれた華南と遊牧民族からの脅威と刺激を受けやすい華北。
歴史は華北に生れた強い王朝が覇権を握り、それが衰えて外敵を防ぎきれなくなると南部に避難して文化を守る。
そのようなパターンを繰り返しているようです。

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参考までに、呉音から漢音へというページを紹介しておきます。
多数の文字について、呉音と漢音の違いの具体例が示されており、参考になります。
[95754] 2018年 5月 8日(火)17:01:15【1】hmt さん
Re:歩いて行ける!「三県境」
落書き帳で取り上げられたテーマの一つである都道府県境。私も関心を持ち、hmtマガジンを作っています。

落書き帳オフ会関連でも 2008年【青森/秋田県境確定記念】、2009年【岡山/香川県境・石島/井島の探検】、2010年【栃木/群馬/埼玉三県境訪問】と続いた過去があります。そして 2016年は【熊本/大分 県境の宿】。

そこで、今回 久しぶりに復活した「三県境」の話題にも反応して、「明治前期の毛武三国境付近の地図」を紹介することにします。

本題の前に、futsunoおじ さんがまとめた 全国の県境の基礎データを紹介しておきます。
2004年:三県境(その1)(その2)
2010年:三県境点のまとめ[第7回オフ会記念版](その1)(その2)
いずれも、hmtマガジン・都道府県境に収録してあります。

地名コレクションにも 同じく futsunoおじさんによる 大作・『県境の交通路』があります。
その 附録:三県境点 には番号が付与され、Mapionへの地図リンクがあります。
栃木/群馬/埼玉三県境は 11番です。地図11

なお、hmtマガジンには 特集渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域があり、「鶴の嘴の先端」[76876]に位置する「THE 三県境」を対象とする記事も多数収録しています。
筑波山オフ会2010 翌日の探訪ルートは、グリグリさんの作品です。

前置きが長くなりましたが、「栃木/群馬/埼玉 三県境」の前身は、言うまでもなく「下野/上野/武蔵 三国境」、つまり毛武三国境【2つの毛野国(両毛)と武蔵国】です。

本題である 毛武三国境の地図に入ります。
リンク先は、明治前期(●明治10年代)に作成された「迅速測図」【[65097]参照、フランス式彩色の施された原図】に基いて 独立行政法人・農業環境技術研究所が作成した 歴史的農業環境閲覧システム[65091]です。

地図の位置情報は、地理院地図の「THE 三県境点」の値を利用しています。
zoom値も揃えたので、昔の川の流路と 現代の県境 とを 同じ縮尺で対比することができます。

明治の地図で北東部・下野国と西部・上野国との境界は、基本的に渡良瀬川の線です。それは[95752]で引用された群馬県板倉町のページにあるように、「海老瀬の七曲り」と呼ばれた曲流部で、1910年の大洪水後の工事により新河道に改修(1918)されました。

現在はコンクリートで固められた渡良瀬貯水池(谷中湖)によりすっかり様子が変っていますが、「七曲り」の痕跡は現代の地図で谷中湖西岸の県境線に示されています。「海老瀬」の地名は谷中湖西北端にも見えますが、鶴の嘴の先端をクリックしても、「板倉町大字海老瀬」の名が現れます。

明治の地図で海老瀬の七曲りに戻ると、川の中央に境界線が通っており、大きな曲流の左岸(東側)に下都賀郡下宮村と記されています。その左、「17,36」と記された地点が、地理院地図で「大字海老瀬」を確認した鶴の嘴の先端です。

この地点で西から合流する川の中央にも境界線が引かれています。これが西側の上野国と南側の武蔵国との国境線ですが、これを遡ると境界線は西から来る川【現・谷田川】に入らず、【旧合ノ川を遡り】南の利根川に入っています。

川俣での「会の川締切り」(1594)以後、「新川通開削」(1621)までの間、上記の旧「合の川」は利根川の主流格の存在であったと思われ、これが上武国境となり、ひいては群馬埼玉県境に引き継がれたものと考えています。[77081]

このように、明治前期の地図では広域地名は「県名」でなく、「国名」が使われています。

私は hmtマガジン 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探るの前書きで
明治19年式戸籍の書式[62667]に使用例がありますが、「府県」が地名化した決定打は、明治32年の改正府県制ではないかと思われます。
と書きました。

この法改正により、「府県」は「国の出先機関」である 単なる「行政機構」から脱皮して、(首長はまだ官選でしたが)直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具えた「自治体」の性格を強め、地理的にも「○○県」と呼ばれるに足る独自の領域を確保するに至ったのではないでしょうか[62889]

毛武三国境から「三県境」への変化。それは 20世紀になり、明治も遠くなってきた時代と思われます。
このサイトの主テーマである明治以降の地方制度。
同じ「県」という名で呼ばれていても、制度が変れば実体が変る。
「三県境」の話題から明治の地図と現代の地図とを対比しつつ、時代の変化は避けられないことを実感した hmtでした。
[95744] 2018年 5月 5日(土)14:15:45hmt さん
水戸
[95743] 白桃さん の問い合わせに関連し、グリグリさんの手間を少し省く目的で、調査してみました。
落書き帳の過去記事から得られた情報だけですが、メモしておきます。

出典:明治22年3月31日施行の茨城県町村区域名称
[76874] むっくんさん 「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」にリンクされた『茨城県令達類纂、上』収載の 県令甲第十二号による

【23コマ】東茨城郡水戸 旧町村欄に 水戸上市、水戸下市、常磐村の内【数個の字を列挙】、【以下3村の内が列挙されているが引用省略】

【24コマ】東茨城郡常磐村 旧町村欄に常磐村(の内)【数個の字を列挙】

【25コマ】東茨城郡(の末尾) ○大貫町 【旧町村欄は空白】
ここに記された東茨城郡大貫町と、変遷情報詳細に記録されている 大貫村 との関係など、私には理解不能です。
とりあえず調査結果だけを報告しておきます。
[95696] 2018年 4月 18日(水)11:25:43hmt さん
このままでは、「丹波」ブランドを丹波市に独占されてしまう!
[95695] 稚拙 さん には「ヤフーのサイトをリンクするのもなんなので」とありましたが、昨日配信のYahoo!ニュース を見ると、篠山市が抱いている危機感【この記事のタイトル】>「丹波篠山」への市名変更意欲 がよくわかります。

----------(記事抜粋)----------
かつては、兵庫県と京都府にまたがって丹波国が存在していました。
時代が変わった今でも「丹波栗」や「丹波黒豆」など丹波の冠がついた特産品が販売されていて、日本全国に通じるブランドとなっているのです。 
ところが、この丹波を使うことである問題が。
実は、2004年篠山市の隣に丹波市が誕生しました。
ふるさと納税では篠山市も丹波市も「丹波ブランド」の食材を返礼品にしていますが、名前のややこしさが原因なのか、篠山市への納税額は、丹波市の半分以下だということです。
「このままでは丹波ブランドが奪われる」と危機感を募らせた地元の商工会などは、市名を「丹波篠山市」に変更するよう市に要望書を提出。
4月17日に篠山市から発表された 市名変更に伴う影響などの調査結果
丹波篠山のブランド低下による経済的損失が23億3000万円、市名変更による経済の波及効果額が28億7000万円以上  合わせて52億円以上の経済効果
----------(記事抜粋終)----------

神戸新聞記事にあった「現在の混乱状態が続くと、丹波篠山産の優位性が低下し」に関して
何がどうして「混乱状態」なのか、今ひとつ記事からはわかりにくいです。

千年以上も使われてきた広域地名「丹波」に基づくブランドが、21世紀に誕生した「丹波市」に起因する限定解釈を引き起こしている現状。
これを「このままでは丹波ブランドが奪われる」と感じて「混乱状態」と表現した篠山市の気持ち。
私にはよく理解できます。

本来は広域地名である旧国名。これを、一部の地域を表す市名として独占・僭称した事例。
楠原祐介『こうして新地名は誕生した!』(ベスト新書2008)第4章 大増殖した「旧国名僭称」型新市名 にまとめられています。

丹波篠山市への改名問題についての過去記事 もご覧ください。
[95690] 2018年 4月 16日(月)11:42:08hmt さん
Re:白桃@in東北スーパータウン
毎年、春になると一目千本桜を見に千葉県浦安市から飛んでくる
と紹介された渡り鳥でも、気象の変化を読みきれず、渡りの時を間違える結果になってしまったのですね。

平成30年一目千本桜開花状況によると、今年の満開は4月5日から8日でしたが、4月12日午後からの強風で一気に散ってしまったとあります。

過去10年間の開花状況と比較すると、開花日 3/31、満開日 4/5、散り始め 4/9の何れについても、最も早い日付が記録されたようです。
[95633] 2018年 4月 1日(日)17:31:21hmt さん
呉市の変遷履歴

この記事は、[94959]白桃さん へのレスとして1月に書き始めたのですが、未投稿のまま4月になっていました。
しかし、今日 [95629]に記された下記の一言に刺激され、投稿することにしました。
これだと「呉町」が隠れてしまい

私が書きたかったのは、明治21年の法律に基づく「市制施行地・呉町」の存在についての記事です。
長いイントロが付いていますが、本論は5です。
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[94958] むっくんさんによる 衝撃的な記事「呉町は存在しなかった」がありました。

この問題に関心を持っていたのは、落書き帳メンバーの中でも一部だけだと思われますが、当サイトの重要な資産である市区町村変遷情報に深く関わっていることでもあり、この機会に過去の経緯を含めて少しまとめてみました。

最初に、呉市の変遷関係関係する過去記事集とを示しておきます。

【お断り】
「市区町村の変遷」ページは「市区町村変遷情報」のデータからの自動作成を目指していますが[95583]、工事中の現在はそれが実現していません。上記リンクによって現在表示される「呉市の変遷」も、おそらく昨年の変遷情報に基づくものでしょうが、今回の記事の説明としては かえって好都合なので、そのまま使わせてもらいます。

「呉市の変遷」には平成合併で編入された安芸灘諸島に属する島々に関する情報が多数含まれ、膨大なものになっています。しかし 今回の話題に関係するのは、1902年の画面 赤文字の呉町【新設合併】と緑背景の呉市【市制】との2行だけです。

両者の日付は1ヶ月ずれていますが、実は両方共 1902/10/1であり、事実上
呉町は存在しなかった
それ故、「新設/市制」という1行として記載されるべきである。
これが[94958]の要旨でした。
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市制施行日については明治35年内務省告示に明記されており、最初から1902/10/1に異論なし。
そして、呉市のサイトにも4町村が合併して呉市誕生と記されていたので、これを信用した変遷情報も、2010年9月迄は、「新設/市制」1行の記載になっていました。

話を面倒にした張本人は hmtの[74500]でした。
統計局の 郡市町村廃置分合一覧表を見ていたら、偶然にも「4町村→呉町 明治35年9月1日実施」という廃置分合記録を発見し、1ヶ月だけ「呉町」が存在したのではないかと?という疑問が出てしまったのです。

約半年後の[76230]で88さんの検討結果が出て、1902年9月の合併、10月の市制という「二段階で間違いないと判断」され、変遷情報は修正されました。

前記過去記事集の冒頭に掲げた Issieさんの記事[123]にも記されているように、市の設置については 戦前の制度下でも内務省告示があったものの、町村の廃置分合については 全国的な情報入手に困難がありました。

呉市の場合について言えば、市制自体に関する情報である内務省告示M35-63号[62661]55番は、ndl官報を閲覧することもでき、また呉市の例規集にも収録されています。落書き帳では[74518]の末尾に告示原文が引用されています。今回の資料『呉市史』では 85コマ。
明治21年法律第1号市制第126条ニ依リ広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定シ明治35年10月1日ヨリ市制ヲ施行ス

ところが、明治時代 広島県内の町村合併情報が収録されていると思われる 広島県報となると、アクセスはぐっと困難です。

そこで二次資料で代用することにして 頼りにしたのが 前記統計局資料でしたが、この段階で見落とされたのが 呉町の発足日検証 であったようです。

なお、変遷情報が「1ヶ月だけ存在した呉町」に修正された2010年[76230]の翌年にも、「1ヶ月の呉町はあったのかしら」と植物的カンによる疑いの目で見ていた白桃さんの記事が記録されていました[79512]
統計局の資料の間違いは過去にもあったのですが、本件については疑うことを すっかり忘れていました。
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「呉町は存在しなかった」と題する[94958]で紹介された『呉市史』には、市制実施の準備と題した節があり、詳細な説明がなされています。その中から注目すべき記載を抜粋します。

4.1 広島県安芸郡長より関係町村役場への訓令
 本郡荘山田村 和庄町 宮原村 二川町を廃し其区域を以て呉市とし市制を施行せんとするに付 本月【M35/6】23日迄に其町村会の意見を徴し差出すべし【→各町村から異議なしの答申】

4.2 明治35年広島県告示第305号【落書き帳初出の重要な変遷情報】
 本年10月1日より安芸郡和庄町 荘山田村 宮原村 二川町を廃し其区域を以て呉町を置く
 明治35年9月2日  広島県知事 江木千之

4.3 (説明文、便宜上 文頭にabcを挿入)
 a 斯くて市制施行の希望は保証せられたり b 既に4ヶ町村は統一せられて呉町となれり c 呉町の出現は即ち市制施行に必要なる前提たり d 何となれば個々の独立せる町村が直に一躍して市となるは手続上之を許さざるのみならず自治体進歩の順序にも循わざればなり e 既に4ヶ町村が1町に統合せられたる以上は其の財産の処分を為さざるべからず【以下略】

この説明文を見ると、6月の郡長訓令(4.1)では4町→呉市と1段階だった合併が、9月の広島県告示(4.2)によって呉町を経由する2段階方式へと変化し、この間の事情を説明したものが 4.3の説明文であると理解できます。

4.4 明治35年内務省告示第63号 番号は[62661]、条文は[74518]の末尾等に既出
 明治21年法律第1号市制第126条に依り広島県安芸郡呉町を市制施行地に指定し 明治35年10月1日より市制を施行す
 明治35年9月1日  内務大臣 内海忠勝【[74518][94958]の内野は誤記】
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ようやく、この記事の本論である「市制施行地・呉町」に入ります。
「市制施行地」という言葉は、旧・市制【注】という法律の 第七章附則 第126条に基づく用語です。
第126条 此の法律は明治22年4月1日より地方の状況を裁酌し府県知事の具申に依り内務大臣指定する地に之を施行す

【注】旧・市制とその残影
「市制」と「町村制」との2つの部分から成る明治21年法律第1号の一部であり、明治44年全面改正後の 明治44年法律第68号「市制」と区別して「旧・市制」と通称する。

「旧・市制」時代に誕生した市は[62661]にリストアップされている。
64番目の新潟県高田市【現・上越市】誕生後の 1911/10/1に明治44年改正「市制」が施行され、「市制施行地」という法律上の概念はなくなった。
しかし、住所表記は現在でも「市部・郡部」で区別され、国勢調査にも残存している。

それはさておき、[62661]に挙げられた64市の内、63市は「単独市制」です。
唯一の例外はどこか? それが「呉市」だったのですね。

「新設合併/市制」という現代では普通に思われるパターンに最初に挑戦したのが呉地区でした(4.1)。
ところが、内務大臣の指定による「市制施行地」を前提とする当時の法律(旧・市制)は、必ずしもこれに合うものではありませんでした。
明治35年よりも少し前、明治31年末のデータになりますが、安芸郡和庄町の現住人口は21553人でした。近隣の町村との合併後は市の基準値2万5千に合わせるとしても、これでは合併前に「市制施行地」になれない。

苦し紛れに繰り出した一手が、合併→即日市制という「瞬間の呉町」を市制施行地として認めてもらうこと。
これが成功した結果を示すのが明治35年内務省告示第63号(4.4)であったのでした。

「呉町は存在しなかった」などと冷たくあしらうのではなく、(技能賞か敢闘賞かはともかく)呉市実現への努力を讃え、「市制施行地・呉町」が公認されていた事実を 変遷情報にも記録してほしい。これが私の感想でした。

一見しただけでは「呉町」が無視され、1段階の「新設/市制」に見える変遷履歴情報一覧表。hmtも白桃さんが声を挙げた[95629]に同感できます。
それは ともかくとして、変遷情報詳細まで見れば、「呉町設置」や「広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定」の告示が きちんと示されていました。
hmtとしては、このことを確認して一安心しました。
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蛇足ですが、「市制施行地」制度が廃止された明治44年改正法の下で、正式に誕生した「新設合併/市制」の最初の事例は1916年の尼崎市でした。
そして、1921年になると山口県厚狭郡宇部村の単独市制による宇部市が誕生します。
時代と共に増殖する「市」は、『呉市史』の説明文(4.3d)が記された「旧・市制時代の市」とは確実に変ってきたことを感じます。
[95556] 2018年 3月 18日(日)13:13:53hmt さん
浮間舟渡
[95554] 特急とりあたま さん
東京都板橋区舟渡/埼玉県川口市舟渡町

この記事を最初に見た時に、私は板橋区舟渡の対岸に舟渡町という地名があるものと誤解して、
「埼玉県舟渡の一部が東京都になった由来……それは 1950年に荒川を舟で渡ったからなのです。」
というレスを書き始めてしまいました。
ところがリンク地図を見ると、新荒川大橋付近の地名は 川口市「舟戸町」であることが判明し、この冗談は不成立。

文字違いのことはさておき、例えば[90145]を見ると、1950/4/1に、埼玉県戸田町舟渡が東京都板橋区に移ったことが記録されています。[79523]には地名「舟渡」は記されていませんが、1番に記された総理府告示による境界変更です。
「舟渡」という地名は、河川改修により 都県境の荒川を越えた結果 なので、立派な「自治体越えの地名」と思われたが、そもそも埼玉県側に「舟渡」が残っていなければ話になりません。

参考までに舟渡の記事集  誤記で「船渡」となっていた記事もあります。

「都道府県市区町村」サイトとしては、自治体越え地名集めもさることながら、変遷情報の充実が大切です。
とんだ失敗の副産物ですが、[90145]を再読した機会に 改めて気になった点を記しておきます。

1 舟渡に隣接する地域名を「浮間」に訂正【[90145]の表】
舟渡の下流側隣接地も、舟渡の境界変更より前 1926/10/1 に 埼玉県から東京府に境界変更されました。
その地域名ですが、当時の北豊島郡「岩淵」町よりも、現在の北区町名でもある「浮間」とするのが適切と思われます。
浮間の地名は 変遷情報詳細に記されており、[36159][65713][79661]などで使っています。

2 「浮間」に隣接する「舟渡」の境界変更が変遷情報未収録となっていることも気になります。
埼京線浮間舟渡駅が設けられている現在では、北区と板橋区に跨る両地域は一体的に理解されているようです。
人口異動289人は前小屋【収録済】の2倍以上の規模。[90145]末尾の【注】に記した「入飛駒」だけでなく、できるだけ変遷情報収録範囲を広げてほしい。ご検討をお願いします。>グリグリさん
[95543] 2018年 3月 15日(木)19:43:25hmt さん
北緯35度
[95542] リトルさん
大津駅の「北緯35度モニュメント」

地理院地図で確認してみたら、現在の北緯35度線は大津駅の南方を通っていました。
言うまでもなく、2002年に世界測地系に移行した結果です。[45617]

北緯35度に位置する最も有名な都市は京都です。
日本測地系時代の地勢図では 中央の北緯35度線が四条通の上に描かれていました。
現在は四条通と五条通=国道1号、9号との中間です。

南房総市が設置した「北緯35度最東端」の 標識 がありました。

北緯35度から少し広げますが、参考までに 経緯度時刻に関する過去記事を拾っておきます。
[95531] 2018年 3月 11日(日)15:48:04【1】hmt さん
「3・11」 と 「3・10」
「3・11」と言えば、2011/3/11に発生した 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震。[77760][77767][77775]など。
12都道県での死者1万5,859人,行方不明者3,021人。出典
大規模な地震と津波という天災だけでなく、それに起因する原子力発電所の事故に伴う人災により、その影響が長期化したことは報道されている通りです。

日付が1日だけ早い「3・10」は 1945/3/10の 東京下町大空襲。
落書き帳には記事を書いていませんでしたが、戦争という人の行為に基づく「人災」です。
参考 2017/8/13放送のドキュメンタリー 左から3人目が、空襲を指揮したカーチス・ルメイ[43161]です。

空襲は戦争中全国の都市に及び、東京だけでも何回も繰り返されました。
しかし、1945/3/10の焼夷弾攻撃による約10万人という死者数は、特筆に値する人数でした。
1945/5/25の 山の手大空襲 も甚大な被害を及ぼしました。宮城【皇居の呼び名です。読みは きゅうじょう】や新聞社が焼け落ち、「共同新聞」が発行されたことが記憶に残っています。しかし、こと死者数に関する限りは、下町大空襲より ずっと少数でした。

都道府県別の空襲被害死者数を見ると、原子爆弾攻撃を受けた広島・長崎と並んで、東京が抜群のトップ3に入っています。これは3月10日【注】の空襲が、「通常兵器」であっても、核兵器に匹敵する大きな力を発揮する場合があった ことを示しています。
【注】偶然にも、1905/3/10に奉天大会戦[59385]が行なわれた陸軍記念日でした。

それはさておき、別の「3・11」に関するお話。
神奈川県津久井郡城山町と藤野町とは、2007/3/11に相模原市に編入されました。変遷情報詳細
これにより津久井郡は自然消滅。

平成合併の時代には郡の自然消滅など珍しくないこと。何を今更?

でも「津久井」は 落書き帳では有名な地名です。[86752]
元禄4年(1991)には 津久井領から 「津久井県」という名になりました[41805]
これは近世唯一の「県」として明治3年まで存続[1196]太政官布告M3-131

hmtは、出身地だった津久井郡の命日?を偲ぶために、マガジン津久井マガジン相模川とを新設しました。
その他、マガジン海と島の記事も追加。

結局のところ、書きたかったのはマガジンの「お知らせ」だったのでした。
[95530] 2018年 3月 11日(日)12:23:10hmt さん
海と島(30)石狩湾挽歌
[95528] 白桃 さん 後志挽歌
この曲は「後志挽歌」とすべきではないか・・・
小樽の前にある海は石狩湾なので、それでいいじゃないの、幸せならば…。

ニシン漁で賑わった海…と言っても、作詞者・なかにし礼 の少年時代、小樽に住んだ頃よりも前の時代の海。
それを偲ぶ歌なのでしょう。

海がテーマなのだから、地理的な立場からすれば 「石狩湾挽歌」 が適切でしょう。

「石狩」という地名から連想するのは平野の中を蛇行する大河です。
松浦武四郎の命名した「後志」に至っては後方羊蹄山に由来する「陸の地名」です。

それはさておき、Webを探っていたら、歌詞にある「沖を通るは 笠戸丸」に着目した ページ がありました。

移民船や豪華客船としての笠戸丸の存在は、私も辛うじて知っていた程度。
偶々出会った今回のページで、帝政ロシア時代の病院船>旅順港で接収され呉軍港所属になる。
船名の由来は山口県の笠戸島。移民船・豪華客船・台湾航路などの時代を経て、昭和になってからは北方漁場に出漁。
第二次大戦末期にソ連軍に接収され爆沈。…数奇な一生の船でした。

なかにし礼が満州から小樽に引き揚げてきたのは8歳の時で、笠戸丸は既に存在せず。
それでも、成人していた兄が一攫千金を狙ったニシン漁が存在した時代でした。
大きな賭けが成功かと思われたが、輸送中に船が沈没。一家離散という結末でした。

歌のことなど知らないのですが、笠戸を含めて、地名にまつわる雑多なことを書き連ねてしまいました。
[95525] 2018年 3月 8日(木)21:05:01【1】hmt さん
組合村のデータ
【冒頭ですが 追記】
この記事を投稿した後で[95514]ekinenpyouさんの記事をを読み返し、自治年鑑1948に関する次の注意書きの存在に気づきました。
組合町村名が少々わかりづらい箇所があり(福島県など)補完としてこちらなども参照のこと

参照用にリンクされていたのは 1949年発行の「全国市町村便覧」であり、表記は異なるが 神奈川県足柄下郡蘆湯(アシノユ)村 の部分に
箱根町、元箱根村と組合村役場位置箱根町
であることが明記されていました。

注意書きに気づかず、自治年鑑の記載不備を中心に長々と記す結果になってしまいました。
hmtの記事内容は、直接に訂正を必要とするわけではないと考え、そのまま残しておきます。
しかし、投稿時に考えていたほどの価値がある指摘ではなかったようです。
ekinenpyouさん、むっくんさん、読者の皆さんにお詫びします。【追記終】

【以下本文】
町村事務組合。市町村が広域した現在では、消防や廃棄物処理など限られた分野で使われるのが常識になっています。
しかし、1889(M22)年の町村制施行当時は、弱小の村が多く、事情が異なりました。

埼玉県の例を拾うと、現在白岡市の一部になっている地域に南埼玉郡日勝村という村がありました。1895(M28)に前身9ヶ村【1889年発足】の 合併によって成立した村です。

余談ですが、合併日は 日清戦争 講和条約【注】会議の直前であり、村名には「日本の勝利」が高らかに付けられています。
【注】 現在では「下関条約」が普通ですが、当時の地名は「赤間関市」でした。地名の通称により「馬関条約」の呼び名もあります。

それはさておき、9ヶ村合併後でも面積 12km2弱、人口約 4000人という農村地域です。
経済データなどなくても、役場・学校その他の地域役務を行う資金が潤沢にあるわけがない。
必然的に近隣の9ヶ村による共同事業ということになった。その結果が「組合村」。

こうして発生した組合村が合併により統合され、更に戦時合併、戦後の教育改革による中学校新設に伴う課題解決、など種々の要請がからみ、昭和大合併に至りました。

昭和大合併による自治体規模拡大によって ほぼ全滅するまで ある程度利用されていた「組合村役場制度」。
市町村の歴史に関心を持つメンバーとして、その実態を知りたい。
かねて抱いていたこの思いですが、落書き帳に取り上げられないまま、現在に至りました。

古くは[39940]ひげねこ さんの記事がありましたが、フォロー記事が続かず。

しかし、最近になって [95463]の末尾の1行を きっかけとして、むっくんさん・ekinenpyouさんによる 解説・調査が行なわれ、知識を深めることができました[95495]

その後、具体的な材料として、自治年鑑(1948年版)の町村長氏名における組合表示の存在が示され[95514]、これに基いて [95517]では戦前・戦後における府県別一覧表を示していただきました。

ここまで具体的なデータを見せていただいた結果、私の目についたのが次の1行です。
神奈川県 足柄下郡 【S21】箱根町, 元箱根村, 芦之湯村 【自治年鑑1948】箱根町のみ記載

「芦之湯村」から hmtが思い出したのが「直接民主制」「町村総会」というキーワードであり、[35747][35748][65174][92819][92835][92877]などの記事でした。

芦之湯村が1950年代まで存在していたことは知っていました。人口が極めて少ないこの村が組合村から外れ、独立していた筈はない。自治年鑑1948の記載に不備な点が存在するようだ。このことに気がつきました。

芦之湯村消滅時期だけならば変遷情報で確認するのが簡単ですが、折角なので YTさんの表[84549]を使って 1950年国勢調査人口を確認したところ 120人。箱根町826人、元箱根村1050人でした。
国勢調査人口表には組合関係が示されていませんが、1954/1/1合併の前まで存在していた元箱根村と芦之湯村(の村長名)を欠く自治年鑑1948の記載は、不備であることが確かです。神奈川県足柄下郡では、真鶴町組合の首長名についても同様です。

同じ手法で、多数の組合村データが記された自治年鑑1948の福島県【59-61コマ】も調べたところ、[95517]で「○○村のみ記載」と指摘された例は、箱根町の場合と類似不備多数(…のおそれ)。
石城郡澤渡三阪村のように、組合でなく連称表示にしている例もある。なお、沢渡村と三阪村は1955年まで存続し永戸村と共に三和村を新設。永戸村と組合だった箕輪村は同時に分村消滅。
石城郡小川村も、国勢調査や変遷情報の上下2村が正しいようです。勝手に作った村?

一々挙げると長くなるのでこのくらいにしますが、自治年鑑1948のデータは有用な情報が含まれている反面、国勢調査や変遷情報と矛盾する点もあるようです。
まるごと信用することはできない。そのように評価しました。
[95508] 2018年 3月 1日(木)18:45:44【1】hmt さん
一音地名コレクションに関する提案
[95502] そらみつ さん
地名コレクションは完成させるためのものではなく、収集して楽しむものだということを忘れていました。
「浜」コレクションと「一音地名」コレクションをお受けしたいです。

早速 就任決定[95506]とのこと。おめでとうございます。

この機会に、久しぶりに 一音地名コレクション を訪問しての感想です。

冒頭の説明文末尾には、一音地名集めの きっかけとなった過去記事 2件が記されています。
このような関連情報も、コレクションを編集し、読者に提供する上で大切なものと思います。

…というわけで、編集の際に、都道府県市区町村サイト内に下記のような関連情報の存在も、リンクにより提示しておくことが好ましいのではないかと思います。
検討をお願いします。

1 市区町村雑学 に収録されている 短い読み・長い読みの市区町村
 この中に「読みが一文字の市町村(五十音順)」があります。
 津市以外は過去帳入りしていますが 市制町村制施行以後だけでも 19件が収録されています。
 コレクション収録済みの一音地名の中には、1889年施行時前の旧村も含まれていると思われます。
 変遷情報検索の対象を履歴情報に拡大することにより、ある程度は旧村由来が解明されるでしょう。
 

2 落書き帳アーカイブズ 漢字・読みともに一文字の地名
 前記2件を含め、31件の記事が収録されています。

【追記】
一音地名ではありませんが、市町村雑学の類似テーマとして、一文字地名あいうえお [94018]がありましたね。
一音地名の一部は、こちらにも収録されていました。


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