第12回になる落書き帳オフ会。今年も参加することができました。
少し遅くなりましたが、例により関連記事を記します。
最初に タイトルを説明しておきます。少し長いです。
北陸新幹線での富山県入りに利用した富山市は別として、今回の行程は 高岡・氷見・射水の3市でした。
変遷情報を遡ると、2005年の平成合併により新湊市と合併して 射水市を形成した4町村が所属した 射水郡 が現れます。
更に遡り「越中四郡」と呼ばれた時代の射水郡は、現在の射水市域よりもずっと広い領域でした。
郡制施行直前の明治29年に射水郡から分離したのが
氷見郡 で、その区域は、1952年から1954年にかけて全域が氷見市になりました。
高岡は、市制町村制施行の少し前【明治22年(1889)2月】に 最初に指定された 36の「市制施行地」
[34434]【注】の一つです。当時【郡区町村編制法時代】の行政区画では 「射水郡高岡町」でした。
そして近世以前、越中四郡の頃の「射水郡」は、凡そ現在の3市に対応する行政区画であった ということになります。
「射水」という
地名の由来。
富山県を代表する大河である神通川・庄川の間に広がる平野を、水の湧出をあらわす「出水」(イミズ)と呼んだと考えられます。
「射水郡」の頭に富山県でなく「越中国」を冠した理由。それは、
改正府県制の影響により「府県」が「地名」に使われるのが一般的になった20世紀 よりも 古い時代の領域を意識して用いた「射水郡」だからです。
【注】最初の市
市制町村制は府県別に施行されたので、最初の市の発足はこれに影響され、1889/4/1より遅れた府県もあります。
また 市制町村制施行前に、佐賀・岐阜・甲府・鳥取が 市制施行地に追加指定されています。
「最初の市」は36ではなく、45府県の市制町村制施行が完了時(1890/2/15)までに発足した40市であると言ってよいでしょう。詳細は
[62660]をご覧ください。
参考までに、
資料は 明治22年末日における39市の現住人口で、県庁所在地でない市は 高岡の他に 堺・姫路・弘前・米沢・赤間関・久留米の各市がありました。
ようやく、本文に入ります。
当日は北陸新幹線富山駅の改札口前で、グリグリさんから JOUTOU さんの レンタカーへの同乗を誘われ、もちろん 渡りに船と 同行させていただきました
[89157]。
富山の市街から西へ進むと県民公園太閤山ランドで、このあたりから先は射水市になります。射水市というと、以前の新湊市 という観念が頭に入っていましたが、平成合併で南の旧小杉町まで領域が広がっていることを 改めて認識しました。
庄川を渡ると高岡市。北上して曹洞宗の高岡山瑞龍寺へ。高岡に隠居城を築いた第2代加賀藩主・前田利長は 1614年に亡くなりました。第3代藩主の異母弟の利常は、利長の戒名・瑞龍院殿聖山英賢大居士にちなんで この寺を瑞龍寺と改称し、1645年から1663年【50回忌】にかけて大改築しました。
伽藍配置図。日本最古の寺院建築様式を示す
四天王寺 と同じように、本尊を祀る仏殿を中心として 回廊を巡らせた 左右対称の配置です。仏舎利を収める塔がないのが、最大の違いです。
仏殿というのは禅宗の呼び方で、普通には金堂、本堂と呼ばれる建物に対応します。法堂【はっとう】は講堂ですが、瑞龍寺の法堂は とても大きな建物でした。仁王が安置された山門を含めて 3つの堂が国宝に指定されています。
「浴室」、「東司」【とうす、便所】、「僧堂」【座禅や食事の場】、「庫裏」【くり、台所】と、修行に取り入れる日常生活の場が七堂伽藍に含まれているのは、禅宗様伽藍の特徴です。
創建当時の七堂伽藍が 現代まで完全に保存されているように思われたのですが、よく調べたら、幕末や明治初期の廃仏毀釈により縮小された伽藍の復元工事が近年まで続けられ、その成果があるようです。
幕末に三分の一に縮小されていた僧堂が 創建当時の禅堂に復元されたのも近年のようです。
大庫裏についても、向拝を含む復元改修工事の説明板がありました。向拝とは 神社の拝殿に見られるように屋根の一部が 庇のように張り出した部分 と思っていましたが、瑞龍寺の向拝は
画像 のように独立した屋根でした。もっとも、現地では工事用の幕で隠れていました。
瑞龍寺の後は高岡大仏。カーナビの指示するままにグルグルと回った結果、車窓からその姿を見ることができました。
銅器で名高い高岡ですが、昔の大仏は木造で、1900年の高岡大火までに何回も焼失しているそうです。銅像として再建されたのは昭和8年(1933)と意外に新しい。
余談ですが、仏像は別として人物の銅像第一号とされるのは、兼六園の日本武尊像であるとか。もちろん
高岡製です。一番多く作られて全国の学校に普及したのは、昭和戦前にブームとなった「二宮金次郎像」。
鐵瓶屋
それよりも、高岡古城公園。
豊臣政権のの五大老として徳川家康と対抗する勢力に担がれる立場にされた前田利家の病死後、約27万石の金沢領を継いだのは、『利家と まつ』 の嫡男・前田利長でした。豊臣から徳川へと政権が交代する難しい時代、家康の加賀征伐を回避して加賀藩の基礎を築くことができたのは、母・芳春院の尽力もありました。
関ヶ原の戦いの後で、前田家は加賀・越中・能登3ヶ国 120万石。異母弟の利常を養子として跡を継がせ 富山城に隠居したが、慶長14年(1609)富山城が焼失し、射水郡関野に築城しました。
北西側から見ると名前の通り小高い岡です。『詩経』の一節「鳳凰鳴矣 于彼高岡」に由来するとか。2012年オフ会の開催地・岐阜の由来
[82224]を思い出しました。
エレベーターで岡に上り、中島のある水濠など紅葉の園内を散策、秋の景色を楽しむことができました。
台地の西側は千保川の流れる低地で、ここを碁盤目状に区画して商人町、職人町とし、千保川の対岸には鋳物師(いもじ)を集めて金屋町が開かれました。名高い高岡銅器の始まりです。
しかし、城主・利長の死(1614)で家臣団は金沢に引き揚げ、城下町体制は終りました。
更に一国一城令による廃城が追い打ちとなり、高岡は急速にさびれる危機に直面。
しかし、前田利常は転出を規制して高岡の町を残す保護政策をとり、商工業都市への転換を図ることによって高岡を発展させました。