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hmtさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[93634]2017年9月1日
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[93622]2017年8月31日
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[93581]2017年8月27日
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[93101]2017年8月11日
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[93095]2017年8月10日
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[93088]2017年8月8日
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[93080]2017年8月6日
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[93077]2017年8月4日
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[93067]2017年8月2日
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[93055]2017年7月31日
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[93053]2017年7月30日
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[93051]2017年7月29日
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[93043]2017年7月28日
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[93020]2017年7月24日
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[92995]2017年7月19日
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[92992]2017年7月19日
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[92981]2017年7月14日
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[92979]2017年7月14日
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[92972]2017年7月12日
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[92968]2017年7月10日
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[92966]2017年7月9日
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[92958]2017年7月4日
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[92952]2017年7月2日
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[92950]2017年7月2日
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[92933]2017年6月27日
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[92922]2017年6月25日
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[92916]2017年6月23日
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[92899]2017年6月13日
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[92880]2017年6月2日
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[92858]2017年5月15日
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[93634] 2017年 9月 1日(金)14:47:25hmt さん
政令指定古都・斑鳩町
[93596] 全角2文字 さん
ご承知のように、この辺の生駒郡4町+北葛城郡3町で広域合併を行おうとしていたのですが、斑鳩町と王寺町が…反対し、…この話はご破算、となってしまいました。

法隆寺がある町に住む中学2年生[91244]という自己紹介をしていただいたのは、1年前の夏休みでした。
私も、中学2年生時代のこと[93581]を書く機会が近頃ありましたが、それはなんと 70年前のことでした。

それはさておき、これを機会に、落書き帳で「斑鳩町」の過去記事を調べてみる気になりましたが、以前は簡単に検索できた全記事対象検索が 大きな負荷要因とされ、現在はできません。[93345]
ブツブツ言いながら地図を眺めていたら、[21047]と書き込んだメモが目に留まりました。この番号を頼りに落書き帳を開いてみるとTN さんの記事で、大津市が全国で10番目の古都保存法指定市町村になったことを伝える内容でした。

実は、「古都保存法」については殆んど知りませんでした。正式名称は昭和41年法律第1号 古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法です。
後代の国民に継承されるべき古都における歴史的風土を保存するために 1966年に公布されたこの法律。
立法の背景にあったもの。それは 京都タワー建設計画、奈良県庁舎建設計画、鎌倉の八幡宮裏山宅地造成計画、京都双ヶ岡のホテル建設計画などによる 歴史的環境の破壊が社会問題化したこと でした【世界大百科事典】。

法律に具体的に記されている「古都」は 上記の時代背景にも登場した 京都市、奈良市、鎌倉市 だけでしたが、これに「政令で定めるその他の市町村」が加えられています。

古都保存法に基づく「政令指定市町村」とはどこか?
上記法律の施行令とは別に、古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の市町村を定める政令があり
古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の政令で定める市町村は、天理市、橿原市、桜井市、奈良県生駒郡斑鳩町、同県高市郡明日香村、逗子市及び大津市とする。
と記されていました。

詳しく言うと、昭和41年7月4日の政令第232号に記されていたのは奈良県の5市町村で、逗子市は平成12年政令第4号、大津市は平成15年政令第456号で追加されたものでした。
[21047]は、法定3市(京都 奈良 鎌倉)に政令指定7市町村を加えた 10市町村になった時でした。

最も多数を占める奈良県のサイトから、奈良県の歴史的風土の保存 というページをリンクしておきます。

余談:
ご存知「政令指定都市」もどきの名「政令指定古都」を 勝手にタイトルに使いました。
でも、地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令には、1956年指定の旧五大都市に続いて、1963年以降に追加された15市が 区別なしに並んでいます。
一方、政令指定古都のリストは 法定3市を含まず、追加7市町村のみ。少し様子が違います。
[93622] 2017年 8月 31日(木)18:02:25【1】hmt さん
昭和の大合併
[93619] Takashi さん
落書き帳メンバーの中で、昭和の大合併当時に生きていた少数派でもあり、少し発言しておきます。

出身地については、昭和30年の合併で 本籍地の表記が変更されました。
しかし、「実生活への影響は 殆んどなかった」と言って良いでしょう。
昭和合併当時の私【学生→新卒】の居住地については、合併と無関係でした。

数十年を経過。落書き帳のメンバーになってから、現在の居住地が 昭和合併を経験した村 であることを知りました。
そして 2006年、埼玉県入間郡富士見村誕生から50年ということで 地元の資料館で 展示会が開かれました。
それを機会に記した記事[55364]があります。先ず これを紹介します。

私自身は全くの別世界で暮らしていたのですが、昭和合併当時の実情が少しは推察できると思います。

「昭和合併」が実行された最初のきっかけは、1949年に占領軍から出された「シャウプ勧告」でした。
その基本理念は、国と地方公共団体の間の事務の再配分を実現した上で、地方公共団体の財政を強化することにありました。

国力の衰えた敗戦国・日本の自治体にとり、1947年度発足の義務教育延長(6+3制)は大きな負担でした。
市および人口5000人以上の市街的町村は、公安委員会や自治体警察も負担することになりました。
(警察制度については、1951年から1955年にかけての改正で現行制度に移行。)

時代は異なるが、豊玉小学校[59567]や 越県合併までした大泉村[62334]の時代から、学校経営の費用で地元は苦労していました。

とにかく、小さな町村では財政のやり繰りが大変です。
合理的な自治体運営を可能にする適正規模「人口8000人」の実現。これが昭和合併の大目標でした。

でも 実務となると、どのような組合せで合併するのか 議論百出。その一例を紹介してあります。
埼玉県入間郡の鶴瀬ブロックは 県の試案5村に始まり、福岡村を加えた6村となるも反りが合わず。鶴瀬は南畑の他に水谷も抱き込み、三芳とも交渉。しかし、土壇場に近く登場した 三芳・鶴瀬両村長の名による「誓約書」(の案?)も実らず、「町村合併促進法」最終期限 1956/9/30 の3村合併による 富士見村へ。


そして 別の記事[55377]では、町村合併促進法の枠から外れた後の 三芳村を記しています。

「新市町村建設促進法」に基づく県知事の合併勧告は返上。
上富地区は所沢市への編入を望んでおり、分村の結果として三芳村消滅か?という危機もありました。
しかし、1959年に至り 分村合併取消議案が可決され、三芳村の昭和合併騒動は ようやく白紙に戻りました。

1960年代になると独立の道を守った三芳村に追い風。工場や倉庫の進出で農村の風景が変りはじめました。
余談:今年2月の火災で話題になったアスクルの物流倉庫も三芳町所在。但しこの倉庫は、近年のものでした。

いずれにせよ、昭和合併が目標にした「人口8000人規模」は、合併することなく実現しました。
1977年には最寄りの東上線「みずほ台駅」【町内ではない】も開業し、団地もできています。

埼玉県入間郡三芳町は、財政力指数が1を超える豊かな自治体であり[80514]、昼間人口比率の低い富士見市からの人口流出先[90619]などの落書き帳記事もあります。

昭和合併により人口だけは増えて、1972年から「市」という看板を掲げている富士見市。
昭和合併を拒んだ結果、未だに「郡部」ですが、自治体としての実質は 隣接する「市」よりも上位にある三芳町。

落書き帳の記事を紹介し、昭和合併で異なる対応をした2つの村の現状を見比べてしまいました。
[93581] 2017年 8月 27日(日)17:22:52hmt さん
「明治節」から「文化の日」へ
[93568] デスクトップ鉄さん
武蔵野市の市制施行は、1947年11月3日。(中略)hmtさん、この日学校が休みだったか、記憶にありませんか。

6・3制発足の昭和22年度は 「(旧制)中等学校併設(新制)中学校」という奇妙な学校[22066]の2年生でした。
その年の 11月3日については、残念ながら定かな記憶が残っていません。
下記のように、制度上は 休日である「明治節」が存在したことは確かです。
しかし、学校では 敗戦前のような式典があったのか? その考察は後回しにします…

[93571] グリグリ さん
戦前の祝祭日を規定した「休日ニ関スル件」の勅令廃止のタイミングを念のためネットでいろいろ調べてみましたが、確実なところはわからないのですが、昭和23年に入ってからのようですね。

日本国憲法は、第二次大戦が終った翌年の昭和21年(1946)11月3日【明治節の日】に公布され、半年後の昭和22年(1947)5月3日に施行されました。
これが国民の祝日・憲法記念日の由来ですが、11月3日も国民の祝日・文化の日になっています。
日本国憲法の中で使われた「文化」という言葉は1ヶ所だけ(第二十五条)ですが、戦争放棄・主権在民・基本的人権を宣言した日本国憲法の目指した国つくりの基本理念は 平和と文化 にあり、それ故に公布の日を「文化の日」にしたと思われます。

日本国憲法が施行された翌年、昭和23年の官報に掲載された 昭和23年法律第178号 国民の祝日に関する法律を示します。
1948/7/20 公布当時の 祝日は、僅かに年間9日でしたが、第二条には次のような趣旨が記されています。
文化の日 11月3日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。

第三条に 「国民の祝日」は休日とする。…従来の勅令と同様に、政府機関の休日という意味でしょう。
続く附則の2には、「昭和二年勅令第二十五号は、これを廃止する。」とあります。
これにより、昭和2年の勅令で定められていた「明治節」は 1948/7/20 に廃止されたと判明します。

順序が逆になりますが、11月3日の「明治節」が新設された 昭和2年勅令第25号 休日に関する件改正を示しておきます。

この時の改正内容について:
天皇の代替わりに伴う改正ですから、当然のことながら天長節の日付変更。
先帝祭【先代天皇の命日を祭る】が 明治天皇祭から大正天皇祭になり、日付も変更。
そして明治節の新設。日本の近代化を進めた明治天皇の遺徳を 明治天皇祭廃止後も継続させるため。
ほぼ同じ季節に存在した天長節祝日#(10/31)の廃止で、休日数 12 は変化せず。

明治天皇の誕生は、当時使われていた天保暦の嘉永5年9月22日でしたが、明治6年以降使われているグレゴリオ暦に換算して「天長節」は 11月3日とされました。この日は 明治時代から「晴天の特異日」として知られていました。

代替わりした大正時代。前の天皇を偲ぶ日は、命日・7月30日の明治天皇祭になりました。
大正元年勅令第19号 休日に関する件を見ると、入れ違いに廃止された旧規定は、明治6年太政官布告第344号であり、天長節11/3、孝明天皇祭1/30など若干の変更はあるものの、明治初年以来ほぼ同内容の規定であったことが知れます。なお、明治5年以前のできごとに関わる日付、例えば紀元節[49122]は、すべてグレゴリオ暦換算です。

# 大正時代には、天長節の盛暑を避けた2月後遅れの天長節祝日という休日が存在しました。Wikipedia

それはともかくとして、「四大節」の一つと数えていた1月1日(四方拝)。
大正元年と昭和2年の勅令「休日に関する件」の記載に基づけば、この日は【S23年までずっと】休日でなかった!

この衝撃的な情報は、私にとって初耳でした。象徴天皇になった現在はともかく、国家元首だった時代の天皇にとり、正月元日は伊勢神宮を始めとする天下四方の神々へのご挨拶から始まる「仕事始めの日」であり、「休日ではない」ことを思い知りました。

武蔵野市を追加[93571]していただいたリストですが、四方拝の日に市制施行した5市をどのように扱うのか。
千葉市1921, 足利市1921, 直方市1931, 高槻市1943, 新発田市1947。

現代の常識からすれば、「休日に市制施行した市」 と考えるのが自然であるように思われます。
勅令には従っていませんが、現在のままで良いと思うのですが、いかがでしょうか?

後回しにした、70年前の 11月3日。学校での明治節式典について。
「旗日」という言葉も生き残っていた時代ですが、「日の丸」を掲げたり「君が代」を歌うのには、若干の憚りが感じられる雰囲気もあった OCCUPIED JAPAN でした。
式典など行なわず、「ただの休日」として、無難に過ごしていたのかもしれません。
[93101] 2017年 8月 11日(金)17:02:48hmt さん
手賀沼の干拓
込み入った隣接関係の話題・根戸新田[93095]は 手賀沼西端でしたが、マピオン 14スケール図で もっと広い範囲を見ているうちに、手賀沼の東側が気になりました。

画面の右半分に整然と並んだ耕地割。昔は利根川水運[1643]で賑わった布佐[65861]付近迄続く、広大な沼だったことがわかります。
柏市東端付近・浦部村新田にある手賀沼の文字も、広かった沼の名残を示しています。

明治10年代のフランス式迅速測図に基づく歴史的農業環境閲覧システム[65097]によって、布佐付近まで広がっていた頃の手賀沼を確認することができます。

千葉県東葛農業事務所>土地改良の歴史の中に 「手賀沼干拓の歴史」があり、小さいが新旧地図が掲載されていました。

そのページによると、手賀沼干拓は 江戸時代から何度も 挑戦の歴史がありました。かいつまんで記すと…

享保4年(1729)には 井沢弥惣兵衛[67664]の指導による工事が完成。千間堤を築いて下沼と上沼を分けて別々に排水して下沼に新田を作ったが、洪水で千間堤が決壊し、完成から10年で失敗に終る。
田沼意次による工事の効果も大きく、手賀沼新田は復興の兆しを見せたが、これも未完成のまま中止。

明治以降も再三の計画が着手に至らず、洪水の被害は深刻。
第2次世界大戦後の深刻な食糧危機から、農林省直轄工事で本格的な干拓が始まり、手賀沼の東部分を干拓して 435haの農地がつくられました。西に残る水域650ha(上沼)は貯水池化し用水を確保、25km2を灌漑。
この事業は、昭和43(1978)年に完成しました。

戦前の地図帳を見ると 手賀沼は面積 12km2で、「主なる湖沼」の一角に位置していました。
ところが、現在の調査実施湖沼一覧には 手賀沼が 掲載されていません。
しかし、東半分の干拓により生まれた耕地と、農業用貯水池として残った西半分の手賀沼とは、我が国の乏しい食料自給源としての役割を 立派に果しているのでした。

おまけ
少し下流の印旛沼の地図です。手賀沼より大きいので、13スケールで示します。
干拓により分断された現在の印旛沼
明治時代の印旛沼

もちろん、印旛沼干拓についても、江戸時代から戦後まで、干拓の歴史が積み重ねられています。
[93095] 2017年 8月 10日(木)12:42:57【1】hmt さん
手賀沼西端の 根戸新田
[93091] 通りすがりさん
4
飛び地コレクションの中に、グレートジャンクションもどきがありました。
関係市町村は柏市、我孫子市、柏市、我孫子市です。
マピオン

示された場所は、北柏ふるさと公園の一部、30m四方ほどの小さな土地で、手賀沼西端の埋立地のようです。
公園は その名が示すように 大部分は柏市なのですが、この小さな土地だけが 我孫子市根戸新田となっており、2点で点接触しているのですが一応は我孫子市の飛び地です。
しかもその東に100mほど伸びる細長い土地は 柏市根戸新田(の2点接触飛地)。
地図を見ながらでないと 言葉で説明しても判り難い 奇妙な隣接関係です。

我孫子市も柏市も 母体(点隣接)飛び地(点隣接)母体 という関係なので、4自治体が関係する普通の点隣接と違い、関係自治体は2市だけとなっており、面積と共に「グレート」とは程遠い「ジャンクション」です。こんな市町村境があることは初めて知りました。

この小さな場所に、2点の「グレートジャンクションもどき」だけでなく、「飛び地」や 「自治体越えの地名」【注】までも盛り込まれた複雑な土地です。

【注】我孫子市根戸新田/柏市根戸新田
参考までに、近くの呼塚新田(よばつかしんでん)は[87252]で情報提供され、コレクション収録済みです。

複雑な隣接関係になった由来を解明することはできませんでしたが、合併時の住民意向が関係したようです。
参考ページを紹介しておきます。

(手賀沼を)干拓し埋め立てたのが「根戸新田」。だから、柏市(にも根戸新田、あります。ここら辺は、合併時に地区毎の投票で柏市に付くか、我孫子市に着くか決めたところですので、飛び地があったり、市境が入り組んでいたり…)に接するところから、我孫子駅から下って来る手賀沼公園のところまで、全部「根戸新田」。
[93088] 2017年 8月 8日(火)16:05:11【1】hmt さん
なぜ「グレート」なのか
[93085]の問いかけに関して、[93084]の検索結果よりも更に古い記事に求めた[93086]
その方向は正しいのですが…
「検索範囲」を「全記事」にするだけでなく、「検索順序」にも配慮する方がよかったのです。

表示件数はともかくとして、このサイトで話題になった古い記事の調査ですから、先ずは「検索順序」を「古い記事から」に変えて検索しましょう。
「グレートジャンクション」という言葉が、落書き帳に最初に登場した 2004年の記事が出てきます。

[23953] みやこ♂[みやこ] さん 日本のグレートジャンクション
アメリカには「グレートジャンクション」というのがあって,両手両足で4つの州を股にかける(?)ことができるそうですが,県レベルでは我が国にはありませんよね。(中略)
ところでこれを市町村まで広げたらどうなんでしょう。どこかに4つ以上の市町村が交叉しているポイントってないのでしょうか。(中略)個人的には,「北海道の後方羊蹄山頂がそうだ!」と睨んでいるのですが。

アメリカの「フォーコーナーズ」[11033]に類似した 特異的境界点 なのですが、「グレートジャンクション」は
日本の市町村境界における用例として、このサイト内で すっかり定着している言葉 なのです。
そのように ご承知ください。

【追記】
[93086]の検索結果は新しい方から10件だけが表示されているので、見掛けは[93084]の結果とあまり変りません。
しかし、末尾の指示に従って「次の50件」を検索すれば、「全記事」から抽出された多数記事の末尾に上記[23953]が現れます。
この点が、範囲7000番以降で検索した[93084]と違っており、「貼り直し」は全く無意味ではなかったのでした。
[93080] 2017年 8月 6日(日)17:49:59hmt さん
遠距離通勤
白桃さんの全国的視野に立つ「広域都市圏設定」[93066]と直接の関係があるわけではありませんが、
2015年国勢調査の就業・就学者のデータ
を使えば、遠距離通勤の一端を知ることができるのではないかと考え、とりあえず埼玉県のデータを眺めてみました。
平成27年国勢調査 従業地・通学地による人口・就業状態等集計 00302_11.csv

埼玉県に常住する就業者・通学者 3858637人【100%とする】。 この内、自宅を含む自市区町村で従業・通学するのは 1394941【36.2%】であり、他市区町村への通勤通学 2256143【58.5%】の方がずっと多いようです。
両者を加えた自他市区町村合計が常住従業通学者数にも合わないのは、従業地・通学地「不詳」が 207553【5.4%】もいるため。
「仕事先の市区町村」を問われて、外国出張中の場合「答えられない」のは当然ですが、国内であっても 家族が従業地を答えられない場合が 意外に多数あるようです。

通勤通学距離の判定には直結しませんが、埼玉県内の他市区町村 1049615と、他県 1066918とは ほぼ同数。
これは、930050【24.1% 埼玉県常住就業通学者数に対する%、以下同じ】と圧倒的な通勤通学者数を占める東京都 に隣接する 埼玉県ならではの特徴でしょう。

東京都に次ぐのは千葉県42850【1.1%】、群馬県【0.8%】、神奈川県28067【0.7%】で、やはり隣接県優勢。
その先は茨城県【0.37%】栃木県【0.26%】で、遠距離通勤と言っても この辺が限度なのでしょう。
通勤の実態があるかどうか疑わしい点もありますが、一応 0.1%未満0.01%以上の数値が出た県を多い順に並べておきます。
福島県【0.03】愛知県【0.03】大阪府【0.03】宮城県【0.03】静岡県【0.03】長野県【0.02】新潟県【0.02】山梨県【0.02】北海道【0.01】福岡県【0.01】

県単位のデータだとこんな結果でしたが、市町村単位ならば、もっと詳しい様子を知ることもできます。
例えば富士見市常住就業通学者数 57680【以下これを100%とする】を対象にすると、富士見市内での就業通学者は僅かに 13883【24%】であり、自治体内での就業通学は埼玉県全体よりも更に低下しています。これは、就職先・通学先が市内に整えられていない住居地域であることを物語っています。

…で、就業通学の受入先を見ると予想通り東京都17950【31.1%】が圧倒的です。特別区【28.9%】の中では池袋のある豊島区【4.0%】がトップであり、千代田区・新宿区・板橋区・港区・渋谷区・中央区と続く姿からは、鉄道の威力が見えます。

タイトルの遠距離通勤からは離れますが、巨大な東京特別区の存在は別格として、近隣市町への就業通学状況を見ると、入間郡三芳町【6.34%】が川越市【5.0%】・ふじみ野市【3.9%】を抑えて首位になっていることが注目されます。これに続くのは新座市・朝霞市・志木市・所沢市で 2.8%~2.1%の範囲。

三芳町については、財政力指数で注目していた[80514]だけでなく、昼間人口比率の低い富士見市からの流出先としても記事になっていました[90619]
「市」という看板こそ名乗っていませんが、自治体としてのランクは 上位にあると評価しています。
[93077] 2017年 8月 4日(金)20:44:46【1】hmt さん
町を母体とする村(3)北海道釧路村のケース
[93051] hmt 神奈川県高座郡渋谷村のケースでは、取り留めのない状態で長文を記し、失礼しました。
変更種別の詳細説明に記されている現在の定義には合っている。
としながらも、
渋谷町廃止なのに「分立」とは、言葉として違和感があるのではないか? 
という疑問を捨てきれず、「変更種別についての考えは迷走状態」を続けてしまいました。ところが…

[93065] グリグリさん
町から同一名の村が分立した例として、C.(4)【誤記】 8の釧路村と33の渋谷村があります。
を見たことを契機に、「C.(3) 町からの分立で村」に収録されている事例 1920/7/1「釧路町→釧路区と釧路村」の当時の記録を、1980年に町の名を取り戻した釧路町のサイトによって調査することにしました。

釧路町のあゆみに収録されていた 北海道庁告示大正9年第447号
-----------
釧路郡釧路町ヲ分割シ2級町村トシテ釧路村ヲ置キ大正9年7月1日ヨリ施行ス
其ノ境界左ノ如シ【引用省略】但シ区域図ハ関係町村役場ニ置ク
大正9年6月27日
北海道庁長官 佐上信一
-----------

釧路市の参考資料では、分割で釧路村が置かれたのを大正9年6月27日としていましたが、これは誤って告示日を記したものであり、施行日は大正9年7月1日、つまり 釧路に 北海道区制(明治30年勅令第158号)[74376]が施行されたのと 同日です。

余談ですが、釧路区発足日について:
最初に行なった変遷情報検索にミス【デフォルトにない「区制」を入れ忘れ】があったので、念のために原典の 大正9年6月24日内務省告示第52号も確認しました。
北海道区制第3条に依り大正9年7月1日より北海道釧路郡釧路町を釧路区と為す
大正9年6月24日 内務大臣 床次竹二郎

本筋に戻ります。
釧路村を置く告示文には、「分立」でなく 「分割」と明記してありました。
こちらのサイトの変遷情報では「分立」となっているのですが、変更種別の詳細説明の「分割」は
ある市町村を廃止し、その区域を分けて二以上の市町村を置くこと
ですから、釧路区も市町村の同類であるとと拡大解釈すれば、変遷情報における この説明に合いそうです。

一方、分立の説明には「ある市町村の区域の一部を分け」という言葉を使い、この説明にも合いそうです。

このように紛らわしい「分割と分立」をどのように使い分けるのか?
釧路のケースについて言えば、告示文に従い「分割」としたいところです。

基本姿勢としては、母体と分体とが「同時に存在」した時期があれば「分立」、なければ「分割」でしょう。
グリグリさんも、この姿勢に基づき、【瞬間的にせよ】同時に存在した可能性を考えて、[93065]では
釧路町/釧路村、渋谷町/渋谷村が同時に存在しました。
渋谷町から渋谷村が分立し、同日に渋谷町は藤沢市に編入されたという現在の分類が一番分かり易くすっきりしていると思いました。
としたのだと思われます。

しかし、告示文で「分割」と明記された釧路の事例を前にすると、瞬間的同時存在説を信じてよいのかどうか迷います。
類似する高座渋谷の事例。こちらに「分割」の可能性はないか? …と もう一度粘ってみます。

[32467] Issie さん
1955年4月に 神奈川県高座郡渋谷町 が「分割」されて,北半分が「高座郡渋谷村」という“新しい”自治体に,南半分が藤沢市に編入される,というできごとがありました。
という記載は、分立・分割の厳密な区別を意識したものではないかもしれませんが、事実上は「分割」であるという見方を正直に伝えています。

もちろん、母体の行先は釧路区設置と違い藤沢市への編入ですから、同日に効力が発生する2件の告示[32478]であっても、「二以上の市町村を置くこと」には該当しません。だから釧路村が「分割」であっても、渋谷村は「分立」。
そう言われれば、引き下がる他ありません。

やはり母体の長後地区でさえも自治体としての地位を失った高座郡渋谷町は、分割に値せず……ということか。

変遷情報に関して、有益な追加情報の記事番号を追記することは [80446]で提案され、最近も その事例があります[93064]
話題になった変遷の告示文を紹介した[32478]やこの記事の番号も、変遷情報への追記により、その信頼性確保に役立つことと思われます。今回の事例で告示文の重要性を感じた機会に、一言付け加えました。
[93067] 2017年 8月 2日(水)20:37:38hmt さん
「山冠に品」という文字 = 山にあるゴツゴツと角張った大きな岩
[93061] 通りすがり さん
大蛇ぐら(奈良県吉野郡上北山村)
くらは山冠に品です。表示できないみたいです。

この落書き帳の中で、稀少地名漢字リストというサイトが紹介されています。関係記事

奈良県を開いてみます。「山冠に品」という文字【注】は後半に出ており、 [JIS第3水準], Unicode: 5D53 であることと共に、多数の用例も示されています。
【注】以下 落書き帳の文中では この字を [山/品] と表記します。読みは 連濁「グラ」が多数。

リンク先の大部分は地理院地図であり、その中から主な「○○[山/品]」地名を拾ってみます。

大台ヶ原山関係
日出ヶ岳の西方、熊野川の源流に臨む岸壁に千石[山/品]・蒸篭[山/品]・大蛇[山/品]が並んでいます。
地理院地図では山頂を「日出ヶ岳」とし、「大台ヶ原山」は 「原」を意識した意味で使われています。

マピオンの表記は、山頂に「大台ヶ原山」を使い、「大台ヶ原」は もっと広い山塊に使っているようです。千石ぐら・蒸篭(せいろ)ぐらの表示はあるものの、何故か大蛇(だいじゃ)ぐらは無視されています。

分水嶺を越えた三重県の大杉谷には宮川が流れ、平等[山/品]・大日[山/品]・そして宮川ダムより下流に天狗[山/品]。
余談ですが、大台ケ原ドライブウェイの北側・川上村は紀伊水道に注ぐ紀の川水系。まさに近畿の屋根です。

東日本にも[山/品]地名があります。尾瀬の燧ヶ岳(福島県檜枝岐村)には俎[山/品]と柴安[山/品]。
少し離れますが群馬・新潟県境を関越トンネルが抜ける上には尾瀬と同名の俎(まないた)[山/品]。

【クラ/連濁でグラ】という訓読みの由来は知りません。
しかし、この文字の意味するところは「山にある角張った(品)大きな岩塊・岩壁(いわお=巌)」でしょう。
元々「岩」は「巌」の俗字であったとも言われます。「山」と「品」との組合せなら、上下どちらでも同字です。
地名に使われるのは「山/品」ですが、元々は[品/山]と思われ、「癌」という漢字の音符に使われています。

ジオジャパンの第2集では、日本列島を作った3番目の大事件として、1400万年前の巨大噴火で作られた紀伊半島を取り上げていました。
大蛇ぐらなどがある「大台」の山も、同じ時期の巨大噴火によるもののようです。
紀伊半島の巨石をテーマにした番組。タイトルの象形文字を思い浮かべながら、興味深く視聴しました。
[93055] 2017年 7月 31日(月)16:23:47【1】hmt さん
武蔵国小山田城主伊豆守さん
[93054] 伊豆之国 さん
「戦国市盗り合戦」でその昔「出羽国仁賀保一夜城主」を名乗ったこともある、武蔵国小山田城主伊豆守

「小山田城」の存在は全く知らなかったのですが、所在を調べてみました。
意外にも、私の母の実家・武蔵国【南】多摩郡小野路村【鶴川村を経て町田市小野路町】[33902]の西隣。

そこで興味をそそられて調べてみたら、「初代城主」は 12世紀の源平時代 この地の別当(馬牧の管理者)として赴任した小山田有重という東国武士でした。

地名の小山田も、武蔵国【南】多摩郡下小山田村>忠生村>町田市下小山田町として、現在に伝えられています。

そして歴史の記録に残る「小山田」は、16世紀の戦国時代末期、武田氏滅亡に関係した 郡内【甲斐国都留郡】の有力武将・小山田信茂でした。

Webを調べたら、戦国武将を研究されている方による 小山田城、小山田氏に関するページがありました。
現代の城主・伊豆之国 さん は既にご存知のことと思いますが、せっかくの機会なので紹介しておきます。

小山田城の訪問記(町田市の大泉寺)~自然豊かな多摩の伝承地

小山田記~ 現認・小山田氏400年の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
 副題にある「まとめ」から、多数のリンク記事を見ることができます。
 「全部見るとかなりの時間を要する」と断ってありますが、なかなかの力作のようです。

私も一部分しか読んでいませんが、小山田有重の子で 同じく多摩丘陵の稲毛荘に進出した 小山田(稲毛)重成は 源頼朝が落馬した馬入川事故[42974] の関係者でもあったとか。
[93053] 2017年 7月 30日(日)11:50:38hmt さん
秋田県にかほ市 象潟町
今朝のテレビ・小さな旅。「水鏡の郷 潤う~秋田県 にかほ市」というタイトルでした。

1689年 芭蕉が 浅い海に浮かぶ九十九島を舟で巡った 象潟(きさかた)。
松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し (奥の細道)

その後の象潟地震(1804)で潟湖の底は隆起し、松島と対比された景観は失われました。
水田化した土地ですが、田植え時に水が張られると、かつての多島海を彷彿とさせる面影になるとか。
国指定天然記念物「象潟」(九十九島)。

番組のテーマは鳥海山起源の冷たい湧き水【海底にも湧出し、岩牡蠣を育てる】であり、昔の名勝と直接関係なし。
でも、「九十九島」が度々使われていたのに、「象潟」という地名が 一度も登場していなかった。
そのことが気になりました。

2005年の平成合併で「にかほ市」になり、旧町名でもあった有名地名「象潟」は使われなくなったのか?
羽越本線象潟駅は健在ですが、住所地名は?

そこで、にかほ市のサイトを調べてみたら、町名一覧は見出だせなかったのですが、
どうして合併したのに『象潟』の名前が強調されるようなイベントや物事が多いのですか?
住所も象潟だけ、秋田県にかほ市象潟町~と『町』が付くし、…
という意見があり、市の回答は次のようでした。『象潟』について
住所については、「にかほ市」の後の大字名は旧町ごとに町内会の代表が決定したことで、旧象潟町の町内会の代表の中で「象潟町」を残したいと決定し、旧金浦町、仁賀保町では旧町名は残さないと決定したことです。

どうやら私が気にしたことは杞憂だったようです。
改めて「象潟」と「にかほ」について、地名の由来を調査。

コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
象潟という地名は、かつてこの地で蚶貝(きさがい)が多くとれたことに由来し、蚶方(きさかた)から象潟に変わったといわれる。

仁賀保の名前の由来 合併前の仁賀保町史を引用

変遷情報詳細
2004/12/20 新市役所の位置を変更(金浦町役場→象潟町役場)
新市名最終候補6点:にかほ,象潟(きさがた),このうら,しらせ,仁賀保(にかほ),日本海
新市名:にかほ市
市役所:象潟町役場

市役所を象潟に譲り、前町長時代は合併に消極的だった象潟町復帰を確実にし、市名は「ひらがな」で決着?

【おまけ】
新市名候補に挙げられていた「しらせ」の由来は、由利郡金浦町出身の南極探検隊長・白瀬矗です[42889]
[93051] 2017年 7月 29日(土)17:33:55hmt さん
町を母体とする村(2)神奈川県高座郡渋谷村のケース その変更種別は「分立」なのか?
[93020]の末尾で予告した「高座渋谷」に着手できない間に、「町を母体とする村」スレッドの発端とも言える 明治39年愛知県幡豆郡での3町降格事件? について、興味深い記事が [93031][93041] YT さん により紹介されました。
『一色町誌』 (1970年)に基づき、郡制施行時代における財政負担軽減という動機を示したものです。

府県と町村との間に 「地方自治体である郡」が存在した時代のこと。
地方行政に関する権限の所在は 現在と大きく異なっていました。20世紀初頭の 1906年と言えば、3段階[51042]で整備されてきた郡制度の完成形と言える「新・郡制」が施行されていた時代です。

郡立の学校があったり、郡による干拓・埋立事業が行われたり。形骸化した 現在の郡とは大違いです。
実例1:大住・淘綾(ゆるき)・足柄上三郡共立学校[4939] 神奈川県立秦野高校の前身です。
実例2:稗貫郡立(花巻)農学校[51042] 宮沢賢治が教員をしていました。
実例3:熊本県八代郡 郡築新地→郡築村[85117] 「郡築」という名称自体が印象的です。

その一方で、独自の「郡税」がなかった郡役場の収入源として存在した「町村分賦金」[83665][93041]
その負担を和らげる手段として使われたのが「合併を機会に、町という看板を降ろして村になること」。
なるほど。

本筋から外れていますが、参考までに 郡の末路を記しておきます。
わが国の産業構造・社会構造が大きく変ってゆき、地方行政機関としての郡制度は時代に合わなくなってゆきます。
「郡会廃止」により郡が地方自治体の地位を失ったのは 1923年でした。
郡長や郡役所は県の出先機関として残されましたが これも大正と共に終りを告げ、郡は単なる地域区分に戻りました。


明治時代の愛知県幡豆郡を離れて、昭和の神奈川県高座郡に移動し、変遷情報検索で渋谷を調べます。結果

「高座渋谷」は小田急江ノ島線の駅名です。1929年江ノ島線開通当時の郡名を冠しています。現在は大和市。
東京の郊外電車なので、【東京の】渋谷駅と区別できる駅名にしたのは当然のことです。
余談ですが、1940年に小田急が帝都電鉄を合併し、その後 1942年大東急になり、1948年大東急解体。この間の江ノ島線は、東京の渋谷をターミナルとする井の頭線と同一会社内でした。
小田原・江ノ島・井の頭の3線が描かれている昔の地図式車内補充券。渋谷と高座渋谷が同居しています。

それはさておき、自治体名は 1889年の高座郡渋谷村から 1944年に渋谷町になっていました。
注目すべきは、昭和合併時代の動きです。
最終的には大字長後など南部地区の藤沢市編入(1955/4/5)と、大字福田など北部地区の大和町編入(1956/9/1)との2段階の手続で【実質的に】分割されるのですが、この間の5ヶ月弱、北部地区には「2度目の高座郡渋谷村」が存在することになりました。

変遷情報詳細 によると、「高座郡渋谷町の一部」を「分立」し、「渋谷村」とした となっていますが、その渋谷町は 同日に藤沢市に編入され、消滅しています。一部【北部】を分立した以上、藤沢市に編入されたのは南部だけの筈であり、これが変遷情報詳細に「渋谷町(同日付けで分立した(新)渋谷村を除く渋谷町全部(大字長後, 大字高倉))を編入」と記した根拠になっています。

「分立」を前提とすれば、この記述はそれなりに筋が通っているようです。
しかし、「分立した(新)渋谷村を除く渋谷町全部を編入」という持って回った表現が少し気になります。

分立後もそのまま存続する筈の母体が編入によって消滅するのならば、そもそも「母子共に健在」を前提とする「分立」という変更種別を使ったのが不適当なのではないか?

余計なお世話かも知れませんが、「分立」でない可能性も考えてみました。

変遷情報には記録されていませんが、落書き帳内を「渋谷村」で検索すると、[32478] 林檎侍[花笠カセ鳥]さん の記事「渋谷町から渋谷村へ」があり、昭和30年に出された2件の総理府告示が示されています。

総理府告示 S30-909  S30/3/30 市町村の廃置分合 Aを廃し、A1の区域を藤沢市に編入
総理府告示 S30-1112 S30/4/ 4 町村の廃置分合  Bを廃し、B1の区域をもって渋谷村を置く
告示日付は違いますが、効力発生は 共に S30/4/5 であり、前後関係はありません。

渋谷町関係分は A=渋谷町、B=渋谷町 であり、2つの告示の前半は同内容【渋谷町の全域廃止】です。

B1の区域は、先に【北部】と略記した区域です。告示 S30-1112 の廃置分合により(新)渋谷村設置。
ここで注目したいのは、この告示が「渋谷町のうちB1の区域を分けて」という言い方をしていないことです。
「分立」ならば、「分け」と記した筈ではないのか?

[55654] 88さん は、「分立」 or 「分割」を論じた記事の中で、戦時合併した栗橋町の分立告示を例示し、 
「埼玉県北葛飾郡栗橋町のうち、○○を分け」というのが、「分立」の表現です。つまり、栗橋町そのものの法人格は存続する、ということです。
と説明し、「母体の一部が分かれ、母体の法人格も存続」が「分立」を裏付けているとしているようです。

「渋谷町を廃し」で始まる告示 S30-1112 の廃置分合は、「分立」ではないのかもしれない。
変更種別の詳細説明に記されている現在の定義には合っている。
しかし、分立した母体が廃止される 渋谷町のようなケースは 想定外 だったのではないか?
そもそも、母体の法人格が残るからこそ、「分かれる」のであり、渋谷町廃止なのに「分立」とは、言葉として違和感があるのではないか? 渋谷村の場合は、もちろん「分割」でもない。

総理府告示 S30-1112 に基づく(新)渋谷村のケースは「一廃一置」です。これに適用すべき変更種別は?

現在の変遷情報では「分立」となっていますが、変更種別の詳細説明の中から、他の候補を強いて選べば、「村制」になってしまいそうです。
「一廃一置」の代表例は 単独「市制」です。
法人格継承は別として、単独「町制」も これに近い。
渋谷町とは別法人の渋谷村を作るプロセスを「村制」と呼んでも、言葉としての違和感はなさそうです。

もっとも、既存自治体の廃止を伴わない「設置だけの村制」事例[85102]とは、明らかに異なります。
別の変更種別を作るべきかもしれません。
…と、変更種別についての考えは迷走状態が続きます。

[1756][32467] Issie さん の考え方も、分立のような「継承関係」を否定し、たまたま同じ名前の「別個の存在」と理解しているようです。
以前この地域に存在した自治体の名を採って「渋谷村」としたけれども,形式上は昔の「渋谷町」をチャラにし上で,「全然関係のない」新自治体が編成された,ということになるのです。
もちろん,現実には旧渋谷町の組織を引き継いでいるのでしょうが。

新しく設けられた「渋谷村」はこの「渋谷町」を直接継承したものではなくて,これを分割して【引用者注】「新・渋谷村」と「藤沢市」のそれぞれに“引き取られた”と理解したらいいのだろう,と考えています。
【引用者注】もちろん制度としての自治体分割ではなく、実質的な分割という意味です。

取り留めのない状態ですが、これで渋谷村設置に関する問題点指摘?の長文を終え、失礼します。
[93043] 2017年 7月 28日(金)15:00:23hmt さん
文字数逆転 甲州市塩山の「かわだ」という地名
[93024] 通りすがりさん 訂正のお願い

甲州市教育委員会による地名の由来です。出典
昔、重川の西に西広門田(にしかわだ)、東に東広門田(ひがしかわだ)と呼ばれる二つの村があった。重川の度重なる氾濫によってある時、東広門田が流され西広門田が残った。その後、西広門田(にしかわだ)を「かわだ」と呼ぶようになった。
広門田(かわだ)は鎌倉時代の1274(文永11)年に建立されたという『広門田山(かわださん)法伝寺』の山号に由来するとされる。

これに基づいて解釈すれば、「かわだ」は「広門田」という山号の読みであり、元々は文字数逆転ではなかった。
笛吹川の支流である重川(おもかわ)と塩川との合流点付近の氾濫により東広門田が失われ、残された「西広門田」が 漢字4文字の地名「西広門田」 と 「かわだ」という3音の呼び方 とを継承した結果、文字数逆転が生じた。

ネットで軽く検索しても「東広門田」で「やまだ」と読むという情報はここ以外には見つかりませんでした。

ネット検索で現れるのは、ベコヤマベコタロウさん[20521]ご本人の記事[32838]だけですね。
※地名にはありませんが、「東広門田」は「やまだ」と読むらしいです。[32838]参照。
でも、塩川の東側の地形は 「かわだ」に対応する「やまだ」にふさわしくないように見えます。
出典が定かでなければ、備考欄の「やまだ」説を紹介した部分は削除しておくのが無難なように思われます。
[93020] 2017年 7月 24日(月)16:01:45hmt さん
町を母体とする村(1)新設合併・分割・分立
1906年 愛知県で行なわれた町村再編に際して 幡豆郡で起きた珍らしい出来事。
それは「町を含む新設合併による村の誕生」でした。しかも1村だけでなく 3村も。何故か[92993]

こんな質問に端を発して提供された 一群の調査データがあります。[93006] グリグリさん。

「町が村になるのは珍しい」という常識は 誰でも抱いていたことと思われますが、変遷情報の立場で整理された今回の調査結果を見せられ、改めて私の感想を記します。

最初は、「町を母体とする村」として「3種類があり、それぞれの数を知った」ことです。

1 町を含む新設合併による村

新設合併による 9800村 のうち、これに該当するのは 僅かに9村でした。
しかも、内5件は母体の町の一部だけの関与であり、佐渡の新町村?も除けば、残るは幡豆郡の3村だけ。

町村制初期には 町と村との区別が さほど意識されておらず、町となるべき要件【地方自治法地方自治法第8条第2項】も未制定でした。種別を示す文字は、「適当に選ばれていた」と思われます。。
それでも、町の全部を含む合併によって生まれた3自治体を「村」にした 幡豆郡の事例は、珍しかったのでした。

2 町の分割により生まれた村

「分」も「割」も意符に「刀」が使われています。
「町村の分割」とは、多少の無理は承知の上で、力づくに頼っても 別の自治体になるのだ。
そのような決意を感じさせる言葉です。
[93006]の「分割情報一覧」で示された 163事例の大部分は、村の分割→複数の村 でした。

「町の分割」となると それ自体が少数であり、町の分割により生まれた村を数えると、15村でした。

分割情報一覧 #1~#2 網走町→網走市と東藻琴村への分割。
市と村に分割するという組合せ。いかにも異例ですが、それだけに 異質な存在であったことが窺えます。

#3~#7 青森県木造町の事例は、分割手続でなく、境界変更でもよかったのでは? と思わせる内容です。
実質的に新町村は誕生していないので、町の分割により生まれた村にはカウントしていません。

埼玉県の事例。3組15町村 #40~#54 は 戦時合併解体の典型例【[80464] No.5. 6, 8-10】です。
カウントした全国15村の内、12村が ここに集中していましたが、もちろん戦時合併前の旧村の復活です。

興味深いのが、これも戦時合併がらみですが、1950年に熊本県三和町の分割で #152 高橋村が誕生した事例です。
1889/4/1【生まれながらの町】飽田郡高橋町。戦時合併で池上村、城山村と合併し三和町となっていました。

[53580] むじながいり さんの記事があります。ここでは「高橋村として分立」と記されていますが、変遷情報によると、1949年 池上村分立の後、1950年に城山村と高橋村に分割 となっていました。
いずれにせよ、高橋町→(戦時合併時代の三和町を経て) →高橋村 という変遷です。

3 町を母体とする分立により生まれた村

[93006]の「分立情報一覧」には244件のデータが示されています。これだけでも「分割」より多いのですが、実質的には「分立母体」となった町村も影響を受けているので、これを加えれば更に多数になります。

「町を母体とする村」という見地で最も有名であり、しかも現存している自治体は、長野県上伊那郡宮田村【分立情報一覧の #124】です。
[93006]末尾に紹介されているように、直接に宮田町→宮田村の変遷があったわけではなく、
駒ヶ根市を経由していますが、宮田村 → 宮田町 → (駒ヶ根市) → 宮田村、と町から村へ実質的に戻った例
です。

次に、[93006]の「分立情報一覧」 #102 として記録された 神奈川県高座郡渋谷村 について記したいのですが、長くなりそうなので、別記事にします。
[92995] 2017年 7月 19日(水)23:54:04【1】hmt さん
幡豆郡1906年5月1日の変
[92993] 通りすがり さん
一色町、横須賀町、平坂町の三町が合併後に村制を敷いた
なぜ幡豆郡のみでこのような現象がおきたのか

このサイトでは、記事検索により過去の事情をある程度知ることができます。
参考までに、昨年の私の記事など いくつかの記事を示しておきます。

[84183] YT さん 愛知県幡豆郡平坂村→平坂町→平坂村→平坂町に関する市区町村変遷情報の要修正案件
[90129] 白桃さん 幡豆郡1906年5月1日の変(事務連絡も兼ねて)
[90136] hmt 明治39年 愛知県における町村再編成
合併は人口の絶対数を増やすが、同時に市街地的な印象が希釈され、「農漁村的」になってしまいます。
1906年愛知県幡豆郡の3事例は、この仕組を素直に受け止めた結果だったのではないでしょうか。
[90137] 白桃さん Re:明治39年 愛知県における町村再編成

# 「郡」を対象にした白桃さんの記事から、タイトルを借用しました。

【追記】[90136]で紹介した中島論文へのアクセス方法
記事には リンクが付けられていませんが、タイトル名からGoogleなどで検索した結果を選択すると、pdfファイルがダウンロードされます。
[92992] 2017年 7月 19日(水)19:10:49hmt さん
市町村界一点交差(3)「微妙隣接」扱いの市町村接点
最初に
[92968]は「新調査方法」という標題で、グレートジャンクション調査の手法を発見したような書き方をしました。

しかし、グリグリさんの 市区町村隣接関係一覧 の冒頭説明文をよく読んだら、「点隣接(赤背景)」の説明として、「四つ以上の自治体が一点で隣接」すなわち【グレートジャンクションである という趣旨】が既に示されており、ポップアップにより関係市町村名も示される仕組みになっていました。
なお、羊蹄山 Jct【北海道#58-63】の赤背景から出るポップアップ説明文の「6町村が点隣接」は誤記と思われます。留寿都村は無関係であり「5町村が点隣接」です。

ジャンクション主体の見方と、自治体主体の見方で 言葉の使い方が違っていたことから、私が勘違いしたのでしたが、[92968]は 実質的には先行した隣接調査の一部を拾い出しただけの内容であり、「新調査方法」と誇るほどのものではなかったわけです。
お詫びと共に、点隣接の「ピンクの彩色」という用語も、今後は「赤背景」に揃えたいと思います。

今回は「橙背景」の「微妙隣接」事例を検討します。

1 富士山 Jct

[92968]にも登場した 山梨県市町村隣接 を 再び使います。
微妙隣接とされているのは、富士吉田市と静岡県富士宮市。そして【山梨県南都留郡】鳴沢村と【静岡県駿東郡】小山町との2対です。

その小山町の領域内を 東から富士山須走口登山道が通じています。Mapionを見ると 五合目小富士の手前で、北側の富士吉田市との境界線が途切れ、山頂までの間は正式には境界未定と示しているようです。もっとも、色分けによって 推測境界? が示されています。

色分けや登山道の情報が見易い 15スケール図 をリンクしておきます。
この図は、山頂付近を中心にしているので、山頂西側の県境線の途切れは見えますが、東側の前記小富士付近を見るためにはスクロールする必要があります。

北側・吉田口登山道のある富士吉田市から ポインターを時計回りに動かし、示される地名を読んでみます。
概ね お鉢めぐりルートの外側では、富士吉田市→小山町→(御殿場市、御殿場口登山道)→富士宮市(富士宮口登山道、最高峰の剣ケ峰)→鳴沢村を経て 白山岳で富士吉田市に戻ります。

このポインターや色分けを根拠として Mapionが暗示するところによると、富士山 Jct の位置にあるのは、白山岳ということになります。
この位置には、相対する点隣接?自治体として、A富士吉田市とC富士宮市、B小山町とD鳴沢村の2対が存在。
しかし、「境界線が描かれていない推測境界?」であるという理由で、「微妙隣接」と表現されました。

鳴沢村に微妙隣接するとされた「橙背景 小山町」のポップアップ説明文には、次のようにありました。
富士山頂で富士吉田市、鳴沢村、富士宮市、小山町の境界が未定のため、鳴沢村と小山町の隣接関係はあいまいであるが、隣接の可能性が高いと判断(富士吉田市と御殿場市、鳴沢村と御殿場市の隣接の可能性は低いと判断)

ここで御殿場市が登場したので Mapionを見直すと、御殿場市の境界線は 富士山頂郵便局を頂点としてシッカリ描かれています。仮に鳴沢村の領域が色分けと異なり富士山頂に達していたとしても 御殿場市との隣接はあり得ません。

それは良いのですが、この地図を見ていたら、少し南に見える「富士市の領域」が気になりました。

futsunoおじ さん 自治体の最高地点コレクション静岡県 によると、富士市の最高点は 富士山南面 3680m地点 です。
これは、先の御殿場市北限頂点【郵便局付近】に かなり近い場所です。
しかし、Mapion【等高線間隔50m】が示す 富士市最高点は 富士宮口登山道九合目より下の 3350m地点付近 です。
2つの地図の縮尺は #16スケールに合せておきました。

境界未定により境界線が途切れた「微妙隣接」とは無関係ですが、両図の示す富士市北限は異なる位置です。
このような山岳地域については、やはり 地理院地図を信頼したい。そのような事例として示してみました。

2 蔵王 Jct

[92966]では、蔵王も2県4市町にまたがる境界未定地域であり、宮城県側の柴田郡川崎町と刈田郡蔵王町の間では Mapionの境界線に途切れがある【約 2km】ことを記しました。

市区町村隣接関係一覧を見ると、確かに 橙背景の4市町【A山形市/B川崎町/C蔵王町/D上山市】が 町境線の途切れと関係しており、ポップアップ説明文には 何れの組み合わせも
隣接の可能性が高いと判断(点隣接の可能性もある)
と記されていました。

このように、蔵王 Jctに関係する 橙背景市町 ABCDの説明文には、括弧付きですが「点隣接の可能性」と、グレートジャンクションについての言及があります。
前記 富士山 Jct の関係市町村の説明文についても、同様の言及があって よいのではないでしょうか。

3 北信野々海 Jct

このJctは、A上越市/B十日町市/C下水内郡栄村/D飯山市 が関係していますが、Mapionでは、長野県側の栄村と飯山市の間の境界線が描かれていません。その色分けはキャンプ場に近い深坂峠がBCD境界となっており、境界線で明示されている DAB境界とは約1km離れています。
つまり、この 北信野々海 Jctのケースは、境界線が欠けた「微妙隣接」ではあるが、4自治体ABCDの点隣接【グレートジャンクション】の可能性はなく、富士山や蔵王とは異なる隣接状態であると思わます。
[92981] 2017年 7月 14日(金)22:57:34hmt さん
杉並区今川
[43558] hmt
家康よりも前に「海道一の弓取り」だったのが、今川義元だったのですね。「東海の巨人」とも呼ばれたようです。

[11744][11752] KMKZ さん
今川義元の子、今川氏真は江戸幕府に高家として召抱えられ若干の領地を拝領しています。
高家今川氏は、江戸時代には、武州多摩郡井草村(現在の東京都杉並区北部)を領地としています。

昔の記事を思い出したのは、テレビ画面に 杉並区今川 が映されたからです。
東京都水道の水源の一つに使われている善福寺[58728]の池からも近い 武蔵野の湧き水の一つ、妙正寺池の近く。

桶狭間の戦いで不覚にも織田信長に討ち取られた今川義元。
今日の 番組のテーマは、敗者になってしまった戦国の雄・今川家の跡取り・今川氏真夫妻による、敗者復活戦物語でした。

徳川家康配下になったものの 牧野城主を解任され、武将を諦めて京都で第二の人生。
武の世界から文化路線への転身が成功。幕末の今川家は老中に次ぐ地位である若年寄にまで出世しました。

今川焼き さん。十番勝負以外の記事も お待ちしています。
[92979] 2017年 7月 14日(金)17:53:37hmt さん
南極は冬なのに…と思ったが
[92977] 山野さん
南極で「棚氷」から分離して、その重さがなんと「1兆t」という桁違いの氷山が誕生しました。

ロイターは「欧州宇宙機関が冬季を通じて衛星を駆使して氷上の割れ目を監視しており」と伝えており、一瞬、南極は冬なのに…と思ってしまいましたが、その後に「数カ月にわたり分離寸前の状況にあった」とありました。
BBCによると 「亀裂の拡大は2014年以来加速していたため、近く分離する確率は高いと言われ続けてきた。」
…10年以上前からの観察で、短期間の話ではなかったのですね。

面積5800km2 三重県の面積とほぼ同じで、観測史上最大級の氷山(NHK)。
「A68」と命名される見通し(CNN)。

以下、主として BBCの報道から拾った情報を 補足します。
厚さ200メートル以上、記録中トップ10に入る大きさ。衛星時代に観測された過去最大の氷山は、2000年にロス棚氷から分離した「B-15」と呼ばれるもので、面積は約1万1000平方キロだった。
1956年には米海軍の砕氷艦が、約3万2000平方キロ級の氷山に遭遇したという報告もある。これはベルギーより大きい。残念ながら当時は衛星による追跡調査で確認することはできなかった。

この地域【ラーセンC棚氷】から出る氷山の多くは、英領サウス・ジョージア島周辺の浅い大陸棚に乗り上げ、やがて溶けてなくなることもある。

…ということで、少し前に書いた サウス・ジョージア島[92785][92786]に再会しました。
[92972] 2017年 7月 12日(水)18:31:02【2】hmt さん
市町村界一点交差(2)選外になったジャンクション
[92966]新調査方法で得られた グレートジャンクション の数は僅かに9ヶ所。意外に少数でした。

1 合併の影響

2004年の[95592]当時は 当選編に挙げられていたジャンクションですが、その後の合併によって境界線が消滅して失格した接点を列挙しておきます。

記事番号:[25592]-1 都道府県:北海道 Jct名称:オホーツク JCT 当時の関係市町村【北→東→南→西と時計回り】:A北見市/B訓子府町/C置戸町/D留辺蘂町 合併の影響:AとDが合併→北見市

以下、項目名を省略し、同じ順番で列挙します。
[25592]-4 秋田・山形 仁賀保 Jct A矢島町/B遊佐町/C象潟町/D仁賀保町 CとDが合併→にかほ市  
[25592]-5 千葉 印旛沼 Jct A栄町/B成田市/C印旛村/D本埜村 CとDが合併→印西市
[25592]-11 三重・奈良・京都 月ヶ瀬三県境 Jct A阿山郡島ヶ原村/B上野市/C添上郡月ヶ瀬村/D相楽郡南山城村 AとBが合併→伊賀市 
[25592]-12 広島 西城川 Jct A口和町/B庄原市/C三次市/D君田村 AとBが合併, CとDが合併 備考:西城川は江の川の支流
[25592]-14 香川 高松空港 Jct A香南町/B香川町/C綾上町/D綾南町 AとBが合併→高松市, CとDが合併→綾川町
[25592]-16 大分 彦岳 Jct A津久見市/B上浦町/C佐伯市/D弥生町 BCDが合併→佐伯市
[25592]-17 宮崎・鹿児島 霧島韓国岳 Jct Aえびの市/B小林市/C霧島町/D牧園町 CとDが合併→霧島市
 今年になってからも [92702]で言及し、地理院地図をリンクしていました。

2 判定に用いた地図の影響

[95592]で当選編に挙げられた18Jctのうち、[92968]の生き残り組 8、上記合併失格組 8でした。
残るは、2004年には Yahoo!地図で合格したが、今回 判定基準に用いたMapionを大縮尺にしたら 点隣接でなかった2件です。

[25592]-7 長野県の 信州犀川被岸沢 Jct は、Mapion 16スケール に拡大したら、A長野市/B東筑摩郡麻績(おみ)村/C筑北村/D生坂村のうち、「BとDとが隣接していない」ことが判明し、惜しくも選外と判定されました。
但し、地理院地図で判定すれば、#17スケール まで拡大しても明らかに点隣接であり、地図種類の選定による問題が残ります。

[25592]-18は、鹿児島県の 霧島烏帽子岳から西に伸びる尾根にある Jctです。A薩摩郡さつま町/B霧島市/C姶良市/D薩摩川内市祁答院町。Mapionでは、スケール15図 でも AとCが非隣接であることが明らかで、当然ながら選外になりました。
ところが、地理院地図では スケール#17図 でさえも、この地点をAとCとが点隣接しているように描いています。

2004年の[25588]「残念編」について、私は現在の Mapionによる検討を加えていませんが、もしも点隣接している事例があれば、グリグリさんが市町村隣接関係一覧用の再検討をされた際に、拾い出されているものと思います。[89308]参照
[25588]-30で残念編に入れられていた奥多摩/郡内 Jct[92966]の点隣接を、既に[82209]で指摘されていることからも、このことが推察できます。

3 金剛山地葛城 Jct

残念編について一つだけ補足しておきたいのは、[25588]-57に記録されていた A葛城市/B御所市/C南河内郡千早赤阪村/D河南町 が関係するジャンクションです。今回 「金剛山地葛城 Jct」 と命名します。

「金剛山地葛城 Jct」は、最終的には グレートジャンクションに の地位を獲得できませんでした。
しかし、[87857]の問題提起に始まり、十番勝負との関連を含む若干の議論の中で、グリグリさんから[88596]
自治体の隣接一覧ページの整備を進めたい
との発言があり、後に[89308]「市区町村隣接関係一覧」という形で集大成されたデータベースが提供されました。
このJctは、そこに至る「きっかけ」として 記念すべき題材でした。

…私はそのように評価しております。関連記事

2004年に投稿された当時と同じ地図である保証はないのですが、[25588]-57にリンクされたYahoo!地図を見ると、虫垂状にぶら下がっている河南町平石の先端部(南北200m弱)が認められます。
これは現在の Mapionでも同様であり、「市町村隣接関係一覧」でも「AとCとは非隣接」になっています。

地理院地図(スケール#17)は、前記「虫垂」がなく、そのために AとCとが隣接【BとDとは非隣接】という全く逆の隣接関係になります。
問題の「虫垂」があるとすれば、地理院地図の「金剛」という文字の右側、県境線沿い左側ということになります。

[87841] N さん
地理院地図が、あえて河南町と御所市を隣接させていない、というのは何かあるのでは?と勘繰ってしまう
根本的な疑問ですが、あのような山の中の境界は誰がどのように決めて、地図を作る人間はそれをどのように確認しているのでしょうか?

Mapionにデータを提供しているゼンリンは、住宅地図の更新[92922]については、実地調査に基づく実績を何十年も積み重ねている会社だと理解しています。しかし、このジャンクションは、地図から読み取れるように、住宅など全く存在しない山の中であり、街なか とは事情が違うでしょう。

河南町平石の領域からぶら下がった「虫垂」。国土地理院も知らない その情報 をゼンリンが独自に得たとすれば、それは役場又は登記所の図面か?

国土地理院は登記所まで手が回らず、役場からの情報がなければ、地名調書[56419]にも記録されない。
こんな事情が、河南町の「虫垂」の有無、ひいては地図の種類によって異なる隣接関係 に及んでいるのかもしれません。

当サイトの「市区町村隣接関係一覧」では、B御所市とD河南町との隣接は グレーの「説明付隣接」として、地理院地図境界線の扱いに関するポップアップ説明があります。しかし、A葛城市とC千早赤阪村との関係については、非隣接とした説明抜きです。【適切な場所がなかった? 】

おまけ1:地理院地図に基づく判断でも、「金剛山地葛城 Jctは、グレートジャンクション選外」の結論は不変。

おまけ2:金剛山地葛城 Jctは 無人地帯なので まだ良いのですが、間違っていた境界の変更でも、これが人口移動を伴うとなると大騒ぎ という 過去記事
[92968] 2017年 7月 10日(月)16:56:43【1】hmt さん
市町村界一点交差(1)新調査方法
[92966]の末尾で、蔵王が グレートジャンクション候補であったこと[25889]に触れました。

地名コレクションに関しては、2006年に みやこ♂ さん が手を挙げ[55632]、早速「市町村界一点交差」コレクションの名で 事前登録が行なわれました[55637]
しかし、平成合併の影響など諸事情の影響もあった故でしょうか、残念ながら 未だにデビューしていません。

グリグリさんが十番勝負関連資料として作ってくれた 市区町村隣接関係一覧[89308]が、このコレクション作りに役立つことに気がつきました。

奥多摩/郡内接点【…と勝手に命名】を Mapionで例示し、説明します。

ご覧のように三頭山の山頂西側にある4市町村の接点。このジャンクションを「奥多摩/郡内 Jct」と記すことにします。甲州の呼び方では、甲府盆地の「国中」と対比して、都留地方を「郡内」と呼びます。
関係市町村は、時計回りに A:東京都西多摩郡奥多摩町、B:同檜原村、C:上野原市、D:山梨県北都留郡小菅村です。

「市区町村隣接関係一覧」の山梨県を見ると、上野原市と奥多摩町、小菅村と檜原村とが「点隣接」であることが ピンクの彩色によって 示されています。【当然のことながら、東京都を見ても同じ結果が得られます。】
これは、地図から得られる AとC、BとD の関係と同じ情報を伝えており、この2対の点隣接情報が すなわち グレートジャンクション情報 であることを示しています。

この手法で47都道府県を閲覧すれば、全国のグレートジャンクションを簡単に集めることができます。

補足説明
Mapion地図は 最大縮尺のスケール19まで拡大しても 4市町村の接触が1点に集中していることを別に確認していますが、周辺情報がわかるように スケール15で示してあります。
地理院地図の最大縮尺はスケール#18でしたが、境界線はスケール#17までであり、しかも不明瞭であり、 AとCとが普通に隣接しているようにも見えます[87841]

国土地理院は、面積調・地名調書などを通じて各自治体との接触を持っており、隣接関係に関しても 最も信頼できるデータを持っている筈と思われます。現に、Mapionに描かれている境界線の一部が、境界未定のために地理院地図では示されていない例が多数あります。[92966]で記した蔵王における 上山市・蔵王町間の県境線 は、その一例です。

このように一長一短があるのですが、境界線が見易いことは 何と言っても Mapionの持つ利点です。
そして、【全くの想像ですが、】「厳密には境界未定」であることを知りながらも、実用的な見地から 何らかの処置で対応しているのではないでしょうか?

すなわち、推測にある程度の自信がある境界については、境界線を描いてしまう。
自信度合いが低いが、ある程度推測できる境界は、色分けにより暗に示しておく。
権利がらみの争いなどには使えないとしても、地理趣味の私達にとっては有り難いサービスです。

このように、Mapionは お役所の地図とは一味違う 民間地図だと思われます。
その最大縮尺図により隣接状況を確認した「市区町村隣接関係一覧」は、実用的に妥当なデータであると考えられ、「市町村界一点交差コレクション」も、このデータを利用して完成させたいと考えます。

方法論の能書きが長くなりましたが、[25592] みやこ♂ さん を改訂したグレートジャンクションのリストです。

我が国で唯一の存在。5町村が関係する「羊蹄山 Jct」から始めます。
No.1 都道府県:北海道 名称:羊蹄山 Jct 関係市町村:【後志】A倶知安町/B京極町/C喜茂別町/D真狩村/Eニセコ町 記事番号:[25592]-3

以下、4市町村のジャンクションです。
No.2 北海道 阿寒奥春別 Jct 【釧路】A弟子屈町/B標茶町/C鶴居村/D釧路市 [25592]-2
No.3 福井 越前今立 Jct a福井市/B今立郡池田町/C越前市/D鯖江市 [25592]-8
No.4 東京・山梨 奥多摩/郡内 Jct A西多摩郡奥多摩町/B檜原村/C上野原市/D北都留郡小菅村 [82209]
No.5 長野 斑尾山 Jct A飯山市/B中野市/C上水内郡飯綱町/D信濃町 [25592]-6
No.6 京都 木津川 Jct A綴喜郡井手町/B木津川市/C相楽郡精華町/D京田辺市 [25592]-9
No.7 奈良 吉野口芋ケ峠 Jct A高市郡明日香村/B吉野郡吉野町/C大淀町/D高市郡高取町 [25592]-10
No.8 徳島・香川 讃岐/阿波 Jct A東かがわ市/B阿波市/C美馬市/Dさぬき市 [25592]-13
No.9 佐賀 筑紫天山 Jct A佐賀市/B小城市/C多久市/D唐津市厳木町 [25592]-15

各行の末尾に記した記事番号からわかるように、9件中8件は 2004の当選編にあった18件の生き残りです。
当選編の約半数は、平成合併により失格しました。
1件だけ、残念編[25588]-30から昇格。
これ以外にも多くの候補が提案されましたが、最終審査まで通ったジャンクションは皆無でした。

【追記】ジャンクションの名称について
No.1 羊蹄山 Jct のように有名地名の場合は、そのまま使えます。
No.4 の三頭山となると、聞いただけで場所を知ることは困難です。そこで、知名度のある奥多摩を用い、甲州側の地域名・郡内も併用しました。
No.2 阿寒奥春別 のように冠称も使いました。
No.3 の地図には 付近の地名も記されていないので、国名の越前と・郡名の今立で代表させました。
No.7 の吉野口は、飛鳥時代の吉野への入口という趣旨です。
No.8 も、最初は地形の「日開谷(ひがいだに)川」を使ったのですが、知名度がないので 国名連称の讃岐/阿波で間に合わせました。
それぞれのジャンクションについて、適切な名称を考えてみるのも、なかなか興味のあることでした。
[92966] 2017年 7月 9日(日)17:22:07hmt さん
蔵王山(2)「蔵王」は地域名 「山」を付けない呼び方に改めるのがよいのでは…
「さおうざん」という読み方。
違和感ありという批判は 御尤もですが、それ以前に問題にしたい点があります。

山地=山岳地域 の名称である「蔵王」に 「山」という字を付加して呼ぶこと。その是非です。

世間に知られていない地名ならば、山岳地域であること を示すために やむを得ない…という事情も考慮したいが、蔵王の場合は その必要がないでしょう。

箱根・熊野・雲仙・霧島 など、有名な山岳地域名は「山」という字を付けないでも通用しています。
# もちろん、「山」を付ける場合もあります。例:獅子文六の小説「箱根山」[71783]

地形由来の単純な自然地名というよりも、歴史・宗教を含む人生密着/文化的背景を持つ「地域名」なのでしょう。
赤石山脈など「山」を使った地域名もありますが、新参の「南アルプス」。自治体名にも使われました。

「地域名」について、1981年の池田論文[53057]は、「国土地理院が 国内の主要な自然地域名(山地・平野など)について標準化を試み、20万分の1地勢図などの小縮尺図に適用している」と記しています。

しかし 1962年に実施されたと思われる「標準地名表」には、既に「地域名」とは言い難い単独の山が 種別:山 で記載されています。例えば 主峰を剣山(つるぎさん 徳島県)で掲載。山地の剣山地は未発見。
地名標準化の対象は、標準地名第一報発行時には 既に「地域名」【山地】だけでなく、「単独の山」に及んでいたようです。[92958]参照。

現在、標準地名の影響は 5万分の1地形図、2万5千分の1地形図、、『地名集日本』は勿論のこと、他の分野【例えば放送を通じて社会への影響力の大きい気象庁発表】などにも及んでいるものと思われます。

『標準地名集』は 1971年に刊行されており、1973年、1980年に改訂版が出ており[53057]、1996年には『決定地名集』が作成されているとか。(国土地理院時報No.100,p.56-57)[53461]

要望によって「よみ」が変更された 硫黄島を示しておきます。参考:小笠原諸島地名事典
国土地理院の発表 でも、“地元で旧島民が「いおうとう」と呼んでいた背景”に基づく、小笠原村からの修正要望に応じたもの

[92955] inakanomozart さん
地名の読み(さらにはそのアクセントを含め)は 地域のそれが尊重されるべきであり、地域の大切な財産

この考えはよく理解することができ、標準地名表に掲載されていても、現状に照らして不適当ならば、改めようと発言するのは意義のあることです。山形市議会による可決[92945]は、その第一歩でしょう。

「山地と山」問題から外れますが、佐渡で「島の呼称」について討論会がありました[65109]

…で、標準地名表(3) を見たら、地域名:佐渡(さど)、島名:佐渡島(さどしま)とありました。
日常生活に密着した「地域名:佐渡」については、全く問題がなく、「島名の読み」だけに問題ががありそうです。

「統一が遅れるほど問題がこじれ広がる。」の趣旨は、国際的に通用している読みの存在を排除したいのか?
世界地図のスタンダード版や離島振興法の地域名「さどがしま」 参考:明和海運

市井の人々が地名をどう読むか 基本的に自由[92957]です。
自然地名標準化は 「国民全体に対する強制力のあるルール」ではありません。
地形種別で特化された「佐渡島」。それは 地域名「佐渡」や自治体名「佐渡市」に比べて使う機会も少ない地名です。
「さどしま」という読みを全国的に強制するのでなく、多様な答えを許容しましょう。
「正しい答は一つだけ」は思い込みに過ぎません。これが私の意見です。

話が脱線気味ですが、本題は地図による「蔵王山」の確認です。

国土地理院による 日本の主な山岳標高の索引図。その山形県をクリックすると、蔵王山に該当するのは 蔵王山<熊野岳>1841m 一つだけです。宮城県をクリックすると 蔵王山<刈田岳>1758m, 蔵王山<屏風岳>1825m, 蔵王山<不忘山(御前岳)>1705m と3山が出ます。 読みはいずれも「ざおうざん」と濁音で統一されています。

「蔵王山」は単一のピークを持つ「峰」ではなく、象形文字「山」が示すような複数のピークを抱えた「山岳地域」であると理解できます。しかし、広い「地域名」と狭い「単独峰」の両者を共に「○○山」と表記するのでは、「蔵王山」と聞いただけで どちらなのか 区別できません。

純粋の自然地名というよりも、文化的な意味も含む「地域名」であることを示すためには、地形種別名「山」で特定された「蔵王山」よりも、それを含まない地域名「蔵王」として扱う方が適切なのではないかと思います。 

以下は、地図等における この地域の表記状況です。
地名集日本
「蔵王山 ざおうざん Zao Zan 分類:Mountain」 示されている経緯度を 地理院地図で確認すると、地蔵岳山頂【山形市と上山市の境界】付近です。
地理院地図の「蔵王山」という注記文字は、それより1km以上南東の山形・宮城県境付近にあり、Mapionも同様です。

Mapionを眺めると、宮城県内で東から伸びてきた境界線【刈田郡蔵王町と柴田郡川崎町】が県境に達せずに途切れています。
地理院地図では 上山市・蔵王町間の県境線、地蔵岳付近の市境線にも途切れがあり、結局のところ、山形県側の上山市・山形市を含む4市町 1045.83km2が 都道府県にまたがる境界未定地域に該当するのでした。

Mapionの最高拡大図では、2市2町が「点隣接」しているように見えます。但し前記のように宮城県2町の境界は線で示されておらず、色分けで判断した結果です。

昔のYahoo!地図による調査ですが、[25889] 湾岸太陽族 さん が 報告しています。
思いがけず、またもやグレートジャンクション残念編らしきものを発見してしまいました。
いかがでしょう。上山市と川崎町がほんの少し接しちゃっているように見えるので×っぽいんですが。
それと、県境や町境が一部消えているのが気にかかりますが…。

ここで、グリグリさんが十番勝負用に作成した市区町村隣接関係一覧を思い出しました。
宮城県を見ると蔵王町は山形市との間が「微妙隣接」、川崎町は上山市との間が「微妙隣接」になっています。
色分けされているが、境界線が記載されていない部分は「微妙」という表現で処理していたのですね。
地理院地図の「蔵王山」という文字の右上、上山市・蔵王町間の県境線欠落部分と地蔵岳付近の市境線欠落部分とは、面積調には影響するものの、隣接関係判断には影響なし。
[92958] 2017年 7月 4日(火)19:52:22hmt さん
蔵王山(1)「ざおうざん」は「標準地名表」に記載された「よみ」 と確認できたが…
[92945] ピーくん さん が紹介してくれた新聞記事がきっかけになり、自然地名、特にその読み方についての議論が起っています。

その背景には、[87440] 般若堂そんぴん さん の「地名標準化? 蔵王山と出羽三山の場合」という記事の存在があります。
そして、日付を確認していただけば明らかなように、これは一昨年の「4月1日ネタ」です。

すぐ後の[87443]で明らかにされているように、事実に基づいた部分もあるのですが、
このように,地名標準化の一環として「さん」から「ざん」への切替が粛々と進められているというのです.
の部分、特に「粛々と進められている」というあたりについては、誤解される虞れもあるのではないかと思われるので、この記事で説明を加えることにします。

確かに気象庁発表の「ざおうざん」という文言は、地元でない私にも気になります。
下記のように現在の山形市民にも違和感があり、宮城県では「山」をつけずに「蔵王」と呼ぶらしい[87443]ならば、「蔵王」に改めるのがよいのではないかと思います。

[92945]で引用された河北新報2017/7/1の記事【現自治体名を補足】
-------------------
蔵王山は山形、宮城両県にまたがる熊野岳、刈田岳、地蔵岳などからなる山並みの総称。
(山形)市都市政策課によると、1931(昭和6)年、関係自治体だった山形県の旧堀田【山形市】、中川【上山市】両村、宮城県の旧川崎【川崎町】、宮【蔵王町】両村が国土地理院に「ざおうざん」の呼び名で申請し、表記登録された。
今回、蔵王山の呼び方が話題になったのは、気象庁が2015年4月に火口周辺警報を発令したのがきっかけ。連日、テレビやラジオのニュースで「ざおうざん」と読まれ、市民から「違和感がある」などの問い合わせが相次いだという。
-------------------

この記事にある「地元4村による申請→国土地理院による表記登録」の裏付けは取れていません。…と言うか、80数年も前には国土地理院が存在しません。
前身の陸地測量部に「地名を読みまで標準化して登録する制度」があったことなど、信じられない時代です。

[53057]で国土地理院地図管理部の池田稔さんが書かれた“地名の標準化について”という論文を紹介しました。
1981年のこの論文には 次のように記されています。
現在 日本では国内地名の統一について積極的な施策がなされていない。しかしながら 地名の実用上の利便のために 国内・国外の地名についての標準化の必要が国の行政機関 報道機関の間で認められている。とくに地図作成に関する国家機関や教育分野において関心がもたれ 各機関個別にあるいは若干の連携のもとに国内的統一への努力がなされている。

要するに、地図・海図・教科書・国土交通・放送など各機関による縦割り原則で行政が進められているが、

国土地理院・水路部間では連絡協議会をもち 日本の主要地名の書き方・呼び方について決定し 両者の地図・海図への統一的使用を図るため「標準地名集」を作成している。

標準地名表の代表的なものを示します。
明石海峡と明石瀬戸で異なっていた地名が統一されたのは昭和37年で、この頃から標準化されたようです。

安倍川・富士川[92955]の清音読みも掲載されています。[43914]で論じた秋芳洞(あきよし どう)もありました。
鹿児島湾には、一般の異称欄に「国定公園名では錦江湾」と記載。【環境行政にまで及ぼす意図なし】
愛知県の豊川(とよ がわ)には、市名(とよかわ)。【2語と1語の違いもあり、両者は別の地名】
長野県の犀川(さい がわ)には、「参考 金沢のは(さい かわ)」と記載。 

河北新報記事の「1931年」は、この地名標準化の準備が始まった可能性のある「昭和31年」かもしれません。
余談:
もし 昭和31年とすると、山形県南村山郡堀田村は「蔵王村」に改称しています。前年には宮城県刈田郡に既に「蔵王町」が誕生し、両者が共存していました。名所地名を利用した自治体名[91957][92668]の仲間です。

話の発端になった「蔵王山」は、同じ雑誌『地図』の後の号 2/8コマの左下付近ににあり、標準地名の「よみ」が「ざおうざん」と濁音になっていることを確認しました。

それよりも、標準地名を定めた昭和合併の頃。山形県だけにせよ 本当に「ざおうざん」という呼び方が使われていたのでしょうか? 地名調書[56419]に始まり、最終的な決定に至る 手続段階に不備はなかったのか?
現に、都道府県欄が「山形」となっています。これは 明らかに「宮城・山形」の誤記でしょう。

「よみ」の清濁問題だけではない? という疑いも生まれ、どうもすっきりしません。
[92952] 2017年 7月 2日(日)15:24:38【1】hmt さん
東京府荏原郡平塚村関連 併せて 落書き帳の中にある人口資料を紹介
[92947] Takashi さん
1920年から1925年という条件で調べたら面白いことになるかなと思い、検証してみました。(中略)
1920年の平塚村の人口は8522人、1925年の人口は72256人でわずか5年間で8.48倍の増加を示しています。

調査をしていただき、ありがとうございます。

[92947]を見た後で気がついたのですが、2004年のBEANさんの記事に 1920~1925年 東京市近郊5郡の町村人口増加率ランキング が出ていました。

参考までに、増加率上位の町村を再録すると共に、【1932年 東京市の区名】も併記してみます。
1 荏原郡平塚村【荏原区】 2 豊多摩郡杉並町【杉並区】 3 北豊島郡尾久町【荒川区】 
4 荏原郡碑衾村【目黒区】 5 荏原郡蒲田町【蒲田区】  6 北豊島郡長崎村【豊島区】
7 荏原郡馬込村【大森区】 8 豊多摩郡野方村【中野区】 9 南葛飾郡小松川町【江戸川区】
10 豊多摩郡和田堀内村【杉並区】

城南の荏原郡 4町村、城西の豊多摩郡 3町村 が多く、北豊島郡 2、南葛飾郡 1、南足立郡 0 と続いています。
元の記事は、落書き帳アーカイブズに収録されています。

参考までに、荏原郡を対象とした記事の一部を拾ってみました。
その中の[83708]には、戦前20年間の 平塚村(→平塚町)→荏原町→荏原区の人口 がありました。

更に [85274]右左府さんには、東京市周辺町村の人口増に関する記事集があります。


[92947] Takashi さん
あいにくながらこの時代の国勢調査のデータを私は持ち合わせていないのでこれ以上の調査はできないのですが、もしかしたら同等あるいはそれ以上の増加を示している町村があるかもしれません。

Takashiさん が落書き帳メンバーになるより前ですが、2013年に下記の記事があります。
お役に立つと思われるので、ぜひ ご検討ください。

[84549] YT さん 明治31年以降の市区町村別人口変遷の変遷
というわけで、「市区町村別人口 Ver. 0.10」として
以下に47todofuken01.lzhをアップしました(LHA圧縮、約7.3 Mb)。
解凍すると25Mbにもなります。
http://u6.getuploader.com/SR1gou/download/837/47todofuken01.lzh

[85243]に修正記事あり。
[92950] 2017年 7月 2日(日)12:25:48hmt さん
反対語コレクション 山谷
[92949]からリンクされた『反対語』コレクションを拝見し、多数の事例が集められていることに驚きました。
新収録の「大磯小磯」の次に「山谷・谷山」があります。

東京でも 代々木山谷小学校 が収録されていましたが、簡易宿泊施設などで有名な台東区から荒川区にかけての 山谷 を見出すことができなかったので、少し調べてみました。

荒川区の南千住駅から言問橋方面に南下する吉野通り。泪橋(なみだばし)で明治通りと交差した先は台東区になり、嘗ては「台東区浅草山谷1~4丁目」が存在しました。

しかし、1960年以来の山谷騒動で全国に知られた町名は、1966年の住居表示によって 清川・日本堤などに改められました。
2008年までは 旧町名に基づく浅草警察署「山谷地区交番」も存在しました。地元では マンモス交番の愛称で親しまれたようです。これも 2008年に「日本堤交番」と改名。

それでも何かの施設に 由緒ある「山谷」ゆかりの名が残っていれば、コレクションに記録しておきたい。

探したら、少し西側に 山谷堀公園 がありました。

山谷堀は 江戸時代には 新吉原にあった遊郭への水上交通路でした。山谷船を仕立てる船宿のあった日本橋箱崎町は「山谷河岸」と呼ばれたそうですが、現在のMapionでは、その痕跡を発見できません。

東京の郊外に目を向けると、私鉄の「山谷駅」が2つありました。

1901年 路面電車時代の京浜電気鉄道に山谷駅開業。線路移設・改称・休止などを経て1949年「大森山谷」駅廃止。
1952年に再開業しましたが 大森町駅という現駅名になり、駅名からは山谷が消えました。
Mapionでは 大森山谷公園 があります。

既に小学校名 がコレクションに収録されている「代々木山谷」にも駅がありました。
ここは 1927年小田急開業時に 山谷駅開業。隣接駅間が短く、大東急時代の 1946年に廃止。
[92933] 2017年 6月 27日(火)17:26:24【2】hmt さん
合併なしの5年間人口倍増レース
[922931] 白桃さん
1965/1970に合併することなく、人口が42,460人から84,919人と、倍増にたった一人だけ届かなかったB市

白桃さんのリストには、1960/1965 草加市 2.09、その次に 1965/1970 上尾市 2.02 が示されています。
これに次ぐB市は 春日部市であり、「合併なしの5年間人口倍増レース」のメダリストは 埼玉県トリオでした。

このレースで、実質倍率2.26という最高記録を出しながら 追い風参考記録になっているのが、1961年に 北河内郡 水本村を編入した 寝屋川市でした。

【1】タイトル変更
【2】追記
出場権を市に限らず、町村に拡大したら…などと考えてみましたが、調査が大変でしょうね。

市に匹敵する人口であった 1925年 東京府荏原郡平塚町 72256人 から 1930年 荏原町 132108人。
これでも「合併なしの5年間人口倍増」には及びませんでした。
でも、大都市近郊を調べれば、人口が倍増した町村を見つけ出すことができそうな気がします。

人口の少ない村では、1965年 秋田県南秋田郡大潟村 16人 から 1970年 1640人の 100倍増。
これは反則の疑いありとして除くことにするとして、1975年の大潟村は 3273人ですから 5年間でほぼ倍増。
同様の新規開村ですが、1970年 東京都小笠原村 782人 から 1975年 1507人。これも倍増に近いが及ばず。

やはり、タイトルのレースは かなりの狭き門 であることを実感しました。
[92922] 2017年 6月 25日(日)17:51:54【1】hmt さん
ゼンリン住宅地図
[92917] Takashi さん
ゼンリン住宅地図 足かけ66年「完成」

三角測量によって国土全域の地形を明らかにする 地形図整備事業は、陸軍参謀本部の陸地測量部により 1890年から行なわれ、5万分の1地形図の全国整備が 1916年(大正5年)に完了しました。足掛け27年。

より詳しい2万5千分の1地形図は、大都市・軍事施設周辺など一部の地域については、明治末期の 1910年から整備が始まりました。しかし、2万5千分の1が 全国的な長期計画になったのは 1964年でした。最後に測量された沖ノ鳥島は1983年というから、足掛け20年後、5万分の1を始めた 1890年から通算すると、足掛け94年になります。

付言すると、北方領土など一部の離島については、この計画による三角測量が実行されないまま、デジタル化された 電子国土基本図に移行しました(2011年)[77603]

住宅地図は もちろん 地形図とは調べる対象も精度も違います。
しかし、これも基本的な地図データであり、その全国な整備は 長期間に亘る大事業であることを 改めて認識します。

そして、縮尺だけで比較すると、1500分の1の住宅地図は、2万5千分の1地形図に比べて長さで 16.7倍、地図面積で 278倍という計算になります。

住宅地図の全国展開。それは、66年前の創業時には考えもつかない大仕事だったのではないでしょうか?
これが実現した背景には、物流革命による需要が存在しました。
10年前に[56610]で書いた 江戸切絵図誕生物語 を思い出しました。
ゼンリンは、その現代版を全国に普及させました。

「住宅地図の対象地域」の面積がどの程度あるのか見当もつきませんが、少し計算してみます。

「ゼンリンの住宅地図は 全国を約二千二百に分けて掲載」(東京新聞)というから、791市 23区 744町 183村の合計【1741】の1.3倍弱の冊数があるようです。

手元の1冊【富士見市】を見ると B3判で 75図あり、地図面積は 約14m2。縮尺1500分の1とすると 31.6km2という計算になり、実面積の約1.6倍です。富士見市外へのハミダシ率が大きいことは、平均的な自治体より小面積で複雑な境界線をもつ事情から納得できます。

住宅地図1冊につき、地図面積18m2(実面積40.5km2)、ハミダシ率1.5 と仮定すると 市町村内の対象面積は概算 27km2。
全国で2200冊の住宅地図がカバーする市町村面積は 約6万km2となります。
住宅地図の対象面積は、北方領土を除く全国面積 37.3万km2の 16%程度か。

全く自信はありませんが、こんな数字を出してみました。

このうち約四割を占める都市部のものは 毎年、それ以外の地域は 五年に一度 それぞれ更新している。

これだけの実績を民間の一企業で積み重ねてきたゼンリン。全国完成を機に、敬意を払いたいと思います。

…とは言うものの、人のやる仕事。更新漏れもありました。[49336]

東京の島しょ部の作成が後回しにされたのはゼンリンの本社が北九州市にあることと関係があるのでしょうか?

ゼンリン地図の最初は 1949年の『年刊別府』という小冊子に添えられた市街地図でした。創業時には 善隣友好をモットーとする「善隣出版社」を名乗っていたようです。

Challengeというページの真ん中の窓をクリック。
その右の窓【1952】から現れるのは、『別府市住宅案内図』で、これが[92917]に記されていた「足かけ66年」のスタートです。1954年以後の本拠は小倉です。
しかし、九州の会社であることと、三宅島や小笠原がゼンリン住宅地図の最後になったこととは、無関係でしょう。

三宅島の遅れは 2000年からの火山活動による島外避難の影響が大きく、大島・八丈島以外の伊豆諸島【利島・新島・神津島・御蔵島・青ケ島】は、その遅れに付き合わされてしまったのだと思います。

小笠原諸島【と言っても、住宅地図の対象になり得るのは 父島と母島だけ】は、電話の全国自動即時化も最後になりました(1983/6/21)。電信電話のあゆみ

余談:
意外なことに、そんな小笠原にも 公衆電話が明治38年(1905)に開通していたそうです(Wikipedia)。
日本からグアムへ、そしてアメリカへと通じる海底ケーブルの中継地で、これを利用することができたのですね。
でも、この細い通信回線では、現在のように気軽に利用することはできませんでした。

戦後の銚子無線局経由になっても電話回線数は少なく、電波障害もありました。
結局、時間遅れはあるものの、通信衛星経由の回線によって 小笠原と日本各地との間のダイヤル即時通話化が実現したのが、前記のように 1983年だったのでした。
[92916] 2017年 6月 23日(金)18:55:52【2】hmt さん
獺【かわうそ】地名
[92915] 白桃さん
※獺祭(だっさい)は山口県岩国のお酒

辞書で「獺祭」を引こうと思ったのに、見つかりません。資料を部屋中に広げているせいです。
やっと探し出した『大辞林』開き、晩唐の李商隠の故事を確認しました。
9世紀の彼も、詩文を作るに際して、多くの参考書を座の左右に広げていました。
彼は自らの姿を、獺【かわうそ】が魚を岸に並べているのに例えて「獺祭魚」という号を使ったのでした。

日本でこれを真似て「獺祭書屋主人」と自称したのは 正岡子規です。

「獺祭魚」【たつ うおをまつる】は、暦の二十四節気を更に三分した七十二候の立春から4番目(2/19-23頃)である雨水初候の呼び名としても使われました。もっとも これは 遣唐使により伝えられた宣明暦が使われていた時代で、現在の暦には「土脉潤起」【つちのしょううるおいおこる】と記されています。
宣明暦:日本では1684年の貞享暦[77583]に改められるまで、長期間使われました。
日刊☆こよみのページスクラップブックにも、獺祭の記事がありました。

さて、20世紀の終頃に登場した純米大吟醸酒「獺祭」の蔵元・旭酒造は、岩国市周東町獺越にあります。
今では岩国市内…と言っても、昔は西国街道の難所の一つであった 欽明路峠を越えた先の 周防国玖珂郡川上村。
これが明治の高森村、大正の高森町、昭和の周東町を経て、平成合併で岩国市になりました。

命名の由来には、地名に使われている「獺」の字を使ったことが記されています。
「川上村に古い獺がいて、子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになった
この地名から一字をとって銘柄を「獺祭」と命名しております。

「獺越」は難読ですが 周東町では 地形図のフリガナのように「おそごえ」と読むようです。
カワオソの「おそ」ですが、別の獺越では 地形図に「うそ」とフリガナが付けられた地もあります。
「獺」の音は「タツ、タチ」で、慣用「ダツ」。…で、訓読みは? 一概には言えないようです。

この機会に、地理院地図で 獺【かわうそ】地名 を検索してみたところ、かなりありました。
カワウソは、日本人が昔から親しんでいた川の生き物であったようです。

【獺越】読みは、下記のように まちまちです。おそごえ、おぞごえ、うそごえ など
岩国市内だけ見ても、本郷町波野【はの】獺越【おそごえ】があり、隣接する周南市にも、大字鹿野上の獺【おそ】越があります。
その他、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字西中野川の獺越【おぞこし】島根県大田市山口町山口の獺【うそ】越島根県邑智郡邑南町井原の獺【おそ】越宮崎県延岡市北方町獺越【うそごえ】、鹿児島県薩摩川内市中村町獺【うそ】越。更に 岡山県玉野市宇野三丁目の獺【うそ】越鼻

【島の獺地名】
宮城県宮城郡松島町獺【かわうそ】島 千葉県鴨川市海獺島 神奈川県横須賀市海獺【あしか】島 

【水関係の獺地名】
岩手県陸前高田市小友町字獺【うそ】沢 福島県いわき市獺沢 福井県敦賀市獺河内 静岡県浜松市北区獺淵と獺淵川 兵庫県神戸市北区獺池 

【その他の獺地名】
青森県上北郡おいらせ町獺【うそ】野 秋田県能代市獺野 福島県相馬市獺庭 千葉県長生郡長生村獺【かおす】台 神奈川県藤沢市獺郷 新潟県新潟市南区獺ケ通 福井県福井市獺ケ口町 兵庫県神戸市灘区獺東谷 福岡県朝倉市獺ノ口 大分県日田市獺野尾 

地理院地図以外にも、「獺」地名の資料がありました。
地名コレクションを作る方があれば、ご利用ください。
但し、愛知県名古屋市熱田区「大獺子町(おおせこちょう)」のように、現在の熱田区の町名と異なる表記もあるので、御注意ください。
[92899] 2017年 6月 13日(火)19:05:51hmt さん
Re:消滅した自治体の所属の表記について
[92105] 白桃さん
正直申しまして私は、郡は「無用の長物」なので省略しても良いと考えており、特に消滅した町村が所属していた郡名は記載しない方が良いと考えています。

この件についての私の意見は、既に[92107]で記しており、過去にも度々論じているので「いまさら」なのですが、過去記事の中で偶々遭遇した、2つの兵庫県余部村【現・姫路市】の事例を補足しておきます。

[21916] グリグリさん
姫路市の公式HPにある姫路市の歴史のページでは、「1946年に飾磨市、白浜町、広畑町、網干町、大津村、勝原村、余部村と合併し、新しい姫路市誕生、新生姫路市議会議員選挙」となっています。一方、要覧では余部村は1954.7.1に八木村、糸引村、曽左村、太市村とともに編入されたことになっています。公式HPの方でも、1954年に「八木・糸引・曽左・余部・太市村を合併」となっています。つまり公式HPでは、余部村は二度合併したことになっています。明らかに何か混乱があったようです。

混乱の元になったと思われる公式HP・姫路の歴史の中の「姫路の歩み」という年表を確認した結果、次の記載があることを確認しました。
--------------
昭和21年(1946年) 飾磨市、白浜町、広畑町、網干町、大津村、勝原村、余部村と合併し、新しい姫路市誕生、新生姫路市議会議員選挙
昭和29年(1954年) 八木・糸引・曽左・余部・太市村を合併
--------------

市区町村変遷履歴情報 兵庫県の記載
136 1946(S21).3.1 新設 姫路市 姫路市, 飾磨市, 飾磨郡 白浜町, 広畑町, 揖保郡 網干町, 大津村, 勝原村, 余部村
172 1954(S29).7.1 編入 姫路市 姫路市, 飾磨郡 八木村, 糸引村, 曽左村, 余部村, 揖保郡 太市村

両者を比べてみれば、違いは歴然としています。
姫路市の公式HPは「消滅した町村が所属していた郡名」を省略した「余部村」で、区別できません。
変遷情報では、1946年に合併したのは「揖保郡余部村」、1954年に編入したのは「飾磨郡余部村」であることが明示されています。

郡は「無用の長物」ではなく、記載を省略すると、グリグリさんまでも 混乱させる場合があるのです。
[92880] 2017年 6月 2日(金)14:50:36hmt さん
湿原由来の「牟田」地名
[92879] 山野さん
・鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田
長い+画数が多い
両者とも.配達物の住所欄書く時、困らんのかなぁ。枠が短かったり狭かったり+ルビ記入

ご指摘の問題点が現れている典型例が、皮肉にも 薩摩川内市サイト内の 町名等新旧一覧表です。

文字が重なり、そのままでは読み取り難いのですが、判読すると、次のように記されているようです:
No.80 薩摩(さつま)川内市(せんだいし) 祁答院町(けどういんちょう)藺牟田(いむた)【旧名】祁答院町 藺牟田
No.94 薩摩(さつま)川内市(せんだいし) 鹿島町(かしまちょう)藺牟田(いむた)【旧名】鹿島村 藺牟田 

要するに、薩摩川内市には、藺牟田池のある旧・祁答院町の他に、下甑島にも旧・鹿島村藺牟田があり、旧町村名を付けて2つの大字を区別したということのようです。

大字名の一部として残された祁答院町の「祁」という字。
祁山悲秋の風吹けて、陣雲暗し五丈原……(土井晩翠:星落秋風五丈原)
という詩に登場する地名では「キ」と読みますが、日本の村名では「ケ」と読みました。難読。
奈良県都祁(つげ)村は“ネへん”に書体変更しましたが[77347]、鹿児島県祁答院町は“しめすへん”のまま。

祁答院はさておき、「藺牟田」という地名も気になりました。
「牟田」の付く地名と言えば三池炭田で有名な大牟田市。有明海の大きな干潟が広がる地です。
祁答院藺牟田は 火口湖の「藺牟田池」に 藺草(イグサ)が生い茂る 湿地帯でした。

「牟田」というのは、湿地や湿田を意味する九州特有の古い言葉で、地名や名字に多用されているようです。
変遷情報検索を試みると、町村制施行後は福岡県の大牟田・西牟田と鹿児島県の藺牟田だけでしたが、その前の旧村は大分県以外の九州各県に存在したことを確認できました。

大牟田という地名は都城市高崎町大牟田にもあります。
こちらは大淀川支流沿いの湿原で、大牟田さんという名字発祥の地だそうです。
[92858] 2017年 5月 15日(月)16:34:39【2】hmt さん
命取りの動物
テレビで見た「ゲノム編集技術」に関する番組。マラリア対策の話に関連し、人間の命を奪っている最大の動物は「蚊」であり、年間の死者は 725000人と紹介されていました。
マラリアだけでなく、ウエストナイル熱、黄熱、ジカウイルス感染症(ジカ熱)、チクングニア熱、デング熱、日本脳炎など各種の感染症が 蚊の持つ病原体によって媒介されています。蚊が媒介する感染症

「蚊」に次ぐ2位が「人」による死者 475000人で、3位の「蛇」50000人、4位の「犬」25000人を 大きくリード。

11位以下には、意外に俊足で獰猛なカバ 500人、ゾウ 100人、ライオン 100人、狼 10人 などの猛獣に加えて、鮫 10人 などもありました。5から11位にランクされている動物は よく読み取れなかったので、WEBで検索してみました。

The World's Deadliest Animals
同じデータに基づく 日本語のまとめページもあり、こちらには 10位までの殺人動物に 画像や説明が付けられていました。

2つのページから知った5位~10位の英名 (病名)、和名【説明の一部】、死者数を再録しておきます。

5位:Tsetse fly (sleeping sickness) ツェツェバエ【アフリカ睡眠病】 10000人
5位:Assassin bug (Chagas desease) サシガメ【捕食性のカメムシ】 10000人
5位:Freshwater snail (schistosomaiasis) フレッシュウォータースネイル 10000人
8位:Accaris roundworm 回虫 2500人
9位:Tapeworm サナダムシ 2000人
10位:Crocodile ワニ 1000人

この説明には 同数5位【10000人】の殺人者 「Freshwater snail」 の説明と訳語が抜けています。
この殺人者による現在の日本の死者はゼロなのですが、数十年前には、日本の一部でも風土病として恐れられた歴史があり、私も高校の保健の授業で「ミヤイリガイ」という名を知った記憶があるので、少し説明を加えます。

「snail」と言うと「カタツムリ」が知られていますが、辞書を見ると一般に「巻貝」の意味があるようで、日本住血吸虫症の病原体の中間宿主としてで被害を及ぼした ミヤイリガイの姿を見ると、「淡水産巻貝」という訳語が適切なように思われます。もっとも、アフリカマイマイも同じような姿ですから、「カタツムリ」も「でんでん虫」に限らず、陸棲巻貝の通称として広い意味に使ってよいのかもしれません。

日本住血吸虫症という名からは、 日本の風土病のような印象を受けます。しかし、この病気は 中国・フィリピン・インドネシアにもあります。命名の由来は、日本での研究による病原吸虫の発見(1904年)です。

類似の住血吸虫症は アフリカ・中東・カリブ海など世界各地に広がっています。
いずれも 淡水産巻貝を中間宿主として、人だけでなく、牛馬などの家畜にも感染します。

日本では、甲府盆地・備後・筑後川中下流域などに存在しましたが、1978年を最後に新患者はなく、1996年に終息宣言が出され、年間 10000人もの死者を出している世界の中で、唯一の「住血吸虫症を克服した国」になっています。
日本住血吸虫病(片山病)の終息と広島県の取り組み

カタツムリを中間宿主とする寄生虫は、日本住血吸虫以外にもあるようです。
地球温暖化の影響もあり、異種を含む危険動物が北上してくる可能性も指摘されているようです。
カタツムリに触れてしまったら きれいに手洗いを。この程度の注意は 心がけておきたいものです。


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