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hmtさんの記事が20件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[86812]2014年12月20日
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[86788]2014年12月12日
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[86778]2014年12月9日
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[86777]2014年12月9日
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[86748]2014年12月4日
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[86747]2014年12月4日
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[86741]2014年12月1日
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[86738]2014年11月30日
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[86735]2014年11月28日
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[86730]2014年11月25日
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[86719]2014年11月23日
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[86697]2014年11月19日
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[86495]2014年10月26日
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[86494]2014年10月26日
hmt
[86482]2014年10月23日
hmt
[86460]2014年10月15日
hmt
[86458]2014年10月14日
hmt
[86456]2014年10月13日
hmt
[86455]2014年10月13日
hmt
[86447]2014年10月8日
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[86812] 2014年 12月 20日(土)17:25:42hmt さん
かみゆき 上雪 神雪
[86804] じゃごたろさん
長野県では通常の冬型の気圧配置では日本海に近い北信地方に雪が多くなるのに対し、日本列島の南岸を通過する低気圧に寒波が押し寄せた場合には中南部に雪を降らせるのですが、これを「上雪(かみゆき)」といいます。

「上雪 or かみゆき」を検索した落書き帳記事を添付していただき ありがとうございます。「上雪」単独では不十分なのですね。
落書き帳過去ログはかなり読んでいるつもりの hmtですが、「かみゆき」のことは知りませんでした。

…で、やはり気になったのは 「かみ」とは何を指しているのか? です。

「上方」の「上」であろうと推察したものの、念の為「神雪 長野」で Web検索してみたら、Yahoo!知恵袋に質問がありました。
地元でも「上雪」「紙雪」「神雪」と様々な表記がされていたようですが、ベストアンサーは やはり「上雪」説でした。
TBSテレビでお馴染みの気象予報士森田さんも、長野県の中で京都に近い南部を「上」としたと思うとのこと。なお、2008年の回答にリンクされたTBSのページはリンク切れです。

落書き帳アーカイブズは 地名における「上」と「下」 なので 「上雪」は対象外でした。

折角の機会なので、約10年前、私が落書き帳に参入して間もない頃に盛んに話題にした「上下地名」の虫干しをしておきます。

上福岡は 単独でアーカイブズになっていますが、新河岸川に臨む段丘周辺に形成された本村は「福岡村」でした。
「上福岡」という名は、後にできた下福岡、更に後の中福岡よりも上流側にあることから生れたで通称であったと考えられます。
18世紀の文書に「上福岡村」の使用例がありますが、正式名称は 明治大合併の前後を通じて福岡村でした。
世間に知られるようになったのは、1914年開業の東上鉄道「上福岡駅」でした。
自治体名に「上」が加えられたのは「上福岡市」誕生の 1972年でした。記事

福岡だけでなく、近くを流れる小河川について 上下ペアの地名を多数挙げました。石神井・老袋・古谷・新河岸・南畑・奥富・寺山・赤坂・松原等。このグループは、川上・川下に由来するので「かみ・しも」と読みます。

同じく自然地形由来ですが、台地の「うえ」と「した」。これは読みも「かみ・しも」でなく、「うえ・した」なので容易に区別できます。
最近では上野原[86777]を書きましたが、全国的にも知られたペア地名は、東京都台東区の「上野・下谷」です。

実数としては河川の上流・下流に由来する「かみ・しも」地名よりもずっと少ないのでしょうが、よく知られた官製の広域地名や有名地名が存在するのが、「京都基準の上下地名」です。
東山道の上野・下野、旧東海道の上総・下総、瀬戸内海の上関・中関・下関 (記事)。
地名ではありませんが、今回の「上雪」も「京都基準」に基いて「上」が使われた事例です
なお、ありがたきさん[18505]は 鈴木理生氏の著書に基き、高井戸・井草・板橋・連雀・北沢につき京都側が「上」としています。
しかし、これらの地名は川上・川下でも説明できます。

「上」の基準点は京都だけでなく、少数ながらローカルセンター基準の地名もあります[39305]。「関東公方」時代の鎌倉街道では鎌倉に近い方に「上宿」がありました[39526]。同じ記事では、近世の川越基準による上下地名の事例にも言及。

いろいろな上下地名がありましたが、最後に残った特異な事例が「上諏訪」と「下諏訪」でした。[36757]
諏訪大社の「上社」「下社」に由来することは確かでしょうが、社の上下関係は何に基いて決められたのでしょう。
「御神渡」により上社から下社に渡ると伝えられる男神(建御名方神)が上位とされているのでしょうか。

諏訪に降った「かみゆき」[86804]から始め、思いを巡らすうちに諏訪に戻りました。
あまり使われていないのかもしれませんが、「神雪」もなかなか味わいがある表記かな などと感じた次第です。
[86788] 2014年 12月 12日(金)23:49:42【1】hmt さん
明治村
[86786] EMMさん
[86754]で試しに検索した「地名」は「明治」でありました。【引っかかったのが 3952件】
細かく見てはいませんが、使用事例のかなりの割合が年号としての使用だと思われます。

改めて「明治村」で検索すると 69件でした。うち「博物館 明治村」が8件あり、博物館が省略されている記事もあります。
更に『正保・元禄・天保・明治村高比較表』も8件あるので、地名としての使用事例は 実質 50件以下?

それはさておき、この機会に hmtマガジン特集 明治村・大正村・昭和村 を作りました。
市町村雑学 年号の入った市町村 に記されている記事集の増補版といったところです。

【念の為に追記】
[86786] EMMさん
大正と昭和は条件1で除外されるため【以下略】

“条件1”は [86750]白桃さん に記されています。
1.現役の都道府県市区町村の名称に使用されていないもの(×の例:東京、渋谷、博多)

例示された福岡市博多区のように、政令指定都市の行政区に使われた地名は、今回のクイズの対象外です。
従って 今回のクイズでは、大阪市大正区の「大正」や 名古屋市昭和区の「昭和」は除外されます。

一方、市区町村変遷情報が対象としている「自治体」は 「市」の中に設けられた行政区を含んでいません。
東京都の特別区と違い、区議会がない区ですから 当然の扱いと思われます。
変遷情報では全く無視されているわけではなく、例えば昭和7年【大正ではない!】に行なわれた 大阪市大正区の設置 が記録されています。しかし、自治体名は あくまでも大阪市であり、変更内容欄が“港区から大正区が分区”となっています。

雑学年号の入った市町村は、このような変遷情報検索に基いて作成されているので、大阪市大正区、名古屋市昭和区が含まれていません。
このような事情により、大阪市大正区が 現存市区町村を示す太字で記載される状態になっていない ことをご承知ください。

なお、むじながいりさんの パラパラ地図 は 行政区も対象としており、大阪市大正区が「大正」の唯一の生き残りであることが示されています。
[86778] 2014年 12月 9日(火)19:53:46【1】hmt さん
甲州へ (2)石和温泉
上野原から大月まで乗った電車は、銀色塗装ながら115系でした。
駅前案内所でパンフレットなど見ていたら、富士山を眺めるスポットを教えてくれましたが、雲がありそうだったのでトライせず。

石和温泉駅で下車。駅前に足湯があったので一休みしているうちに白桃さんの姿を見たので声を掛け、ホテルに同行。
珍しくも一番乗りで到着? 受付時間前なので、ホテルの前の温泉通を散策。中央に水路【近津用水】のある真っ直ぐな桜並木の道路ですが、明治40年(1907)の洪水前には 笛吹川の流路だったことを思い、俳句など眺めながら歩きました。

明治40年の洪水が流れ込んだ鵜飼川は、更に古い時代の笛吹川だった時もあったことでしょう。
宿場町の南と北とにある2本の流れ。自然の力は、笛吹川の本流を何度も変えたのでしょうが、大正年間の工事によって、本流は現在の南側に確定したものと理解します。

かつての鵜飼川や鵜飼橋【笛吹市役所付近】の名が示すように、夏には 石和鵜飼 が催されるのですが、船上からでなく鵜匠が水中を歩いて鵜を操る「徒歩鵜(かちう)」なのですね。

温泉湧出は 1961年(昭和36年)とのことですから、この地が温泉地に変貌してから 約50年の歴史です。

くせのないお湯にゆっくり浸かった後は、恒例の一次会。

近況報告の中で私が注目したのは、MasAkaさんが 東京都を通らずに横浜から会場に来たルートでした。
橋本からバスを2本乗り継いで相模湖に出たとのことでしたが、この2本目のバスこそ、96年前に hmtの母が人力車で旅した道[86777]をなぞるものでした。

道志橋[85669]は 川底から橋床まで 100m という高層橋 と説明されています。そして 相模ダム[43001] の堤高は 58.4m。
1918年当時の橋は 道志川・相模川の水面のすぐ上に架けられていたはずですから、人力車はこれだけの深さの谷を降り、そして登らなければならなかったのでした。

宴会の後、会場いっぱいに広げられた自治体パンフレット[86773]は壮観でした。
とても選びきれませんでしたが、いくつかいただきました。後でゆっくり拝見するつもりです。

中国雑技を30分見た後は、これも恒例の二次会です。掘りごたつに座を占めました。
「40問○×クイズ」の中に、キリ番関連の質問がありました。
[30000]【注】をゲットした当人は もちろん覚えていたのですが、質問の意味を誤解したらしく、何故か誤答。
こんな調子で、かなり当てずっぽうに解答。まあ平均的な成績だったようです。
【注】数字の付く島群
この機会に収録洩れの四十島[67135]を記しておきます。

希望者募集に応じて 手を挙げて頂戴したのが、一次会で紹介のあった 富山県作成「環日本海・東アジア諸国図」です。

佐渡市作成による 「東アジア交流地図」 が落書き帳オフ会で紹介されたのは、昨年だったでしょうか。
類似した企画ですが、今年紹介された富山県版の方が先輩で、落書き帳記事 もあります。

富山県と言えば、来年のオフ会開催地の第一候補。hmtは白熱した議論の中で沈没。ごめんなさい。

翌日朝食は和食の膳。揃って朝食は第9回岐阜以来の2度目。

帰路は、JOUTOUさんのクルマに3人が便乗したものの、あまりの好天気に2人は勝沼ぶどう郷駅で下車。
新宿まで送ってもらったのは私だけでした。
[86777] 2014年 12月 9日(火)19:42:15【2】hmt さん
甲州へ (1)上野原
第11回の落書き帳公式オフ会開催地は 山梨県でした。
hmtの住む埼玉県とは隣接しており、県境の交通路 にあるように 雁坂トンネル有料道路も通じています。
しかし 公共交通機関に頼る身なので、直行することは叶いません。

武蔵野線で西国分寺に出るつもりが、事故の影響で新宿経由に変更。赤い電車は特別快速だったのに、高尾【注】に着いたら少し前に甲府行が発車したばかり。ま、急ぐ旅ではないので次を待ちましょう。
【注】[86779]の指摘により誤記訂正
ついでに、高尾山と同様に紅葉の名所である京都の「高雄」は「高尾」とも書くのですね。だから槇尾・栂尾と総称して「三尾」。

「ぎん色の電車」で、山梨県に入って最初の駅である上野原で下車しました。

上野原で下車した理由の一つは鉄道地理の観点なのですが、その他に極めて個人的な理由がありました。
その理由というのが、「1918年中央線乗り越し事件」の現場を見ておきたいということです。

1918年秋に hmtの長兄hmfが誕生しました。場所は落書き帳に300回以上登場したという津久井[86752]です。
hm家の跡継ぎ誕生ということで御目出度いのですが、あいにく父は東京の病院に入院中でした。
退院を待てなかった父は、母子が旅行できるようになったら 病院に連れてくるようにと手紙で伝えました。

当時の交通事情。神奈川県津久井郡の北西部をかすめる中央本線は、官設鉄道時代の1901年に開業しており、与瀬駅【現在の相模湖駅】が設けられていました。もちろん単線ですが、蒸気列車は八王子-飯田町間の甲武鉄道と直通運転しました。鉄道国有化を経た 1918年当時も、基本的には同じことです。

1925年の『汽車時間表』を利用して、旅程を組んでみます。
自宅・与瀬駅間の交通。現在は国道412号で約10 km、バスもありますが、当時の道路は、道志川や相模川を越えるためにつづら折りの道で 谷を降りてはまた登る という難路。ここを人力車で通り抜けるのには、どのくらいの時間を要したのでしょうか。

与瀬発の飯田町ゆき列車は、1101, 1329, 1605, 1906【便宜上24時間制で表示】、所要時間は2時間10~15分。
36.5マイルの三等運賃は93銭、二等車【グリーン】は倍額でした。

東京での仕事は、父子対面と写真撮影くらいですから、一泊二日の旅程でOKでしょう。
問題になった帰路は 日暮れの早い冬であることを考えると、飯田町発 1216発に乗車したいところです。その次は3時間後ですから夜にかかってしまいます。

母子に同行してくれたのが祖母【安政生まれ!】ですが、自力での旅行経験ゼロという点では同レベルです。
それでも往路は無事。待望の父子対面を果たし、お宮参りの衣装で記念写真も撮影。
大任を果たして心も軽く帰途についた3人を待っていたのは思わぬアクシデントでした。

小仏トンネルを抜けて汽車を降りようと2等客室【グリーン車】からデッキに出るドアを開けようとしたが開かない!
嫁と姑は あれこれ試みたが 扉はビクともせず。客室内に1組だけいた乗客【話に夢中だった新婚さん】の助けを借りて、ようやくドアを開いた時には、発車ベルを残して汽車が動き出しました。

お迎えの人力車夫が待つ与瀬駅を後にし、心が動転したお上りさんが着いたのが上野原駅でした【藤野駅は未開業】。
事情を話したら 早速 与瀬駅に電話して 車夫達に待ってもらうように手配し、次の列車で戻るよう 案内してくれました。
「あの時の駅員さんは本当に親切で良い人だった。地獄に仏とはこの事だ。」
語り継がれたこの事件により、「上野原駅」は hm家の人々にとり 忘れられないものになったのでした。

個人的な無駄話を書いたのは、旅行の機会が少なかった1世紀前の人にとっては、近距離の旅行でも大冒険であったことを伝えることで、何かの参考になるかと思ったからです。

さて、現在の 上野原。ここは地理的観点としては 桂川【相模川の上流】が作った河岸段丘地形で知られています。

駅は幅の狭い段丘【等高線190mと180mの間】上にあり、プラットホームにある待合室のような建物が駅舎です。地理院地図 の鉄道は 記号化されているので、駅舎が中心からずれているように見えますが、プラットホーム中心線上に駅舎があります。

改札口を通って駅舎東側の跨線橋から北口に出ると、バス停のある駅前です。ここは、線路や駅舎のある段【等高線190mと180mの間】よりも1段上ですが、200m等高線【やや太い】と190m等高線の間にある幅の狭い段で、バスが方向転換するのがやっとのスペースしかありません。
「市の代表駅」という言葉から想像される駅前の賑いとは全く無縁の存在でした。

中央道のインターチェンジは250m等高線【やや太い】の南側、その北には市街地のある260m前後の上位段丘が広がっています。これこそが名前のとおりの上野原でした。

駅の南口。こちらは、折角登った跨線橋からすぐに続く長い下り階段です。ここを降りれば180mより下にある桂川の沖積面です。新田地帯であったことは、地名にも残されています。桂川橋付近の水溜りに島田湖という名があることは[43357]で触れました。
[86748] 2014年 12月 4日(木)20:45:36hmt さん
津の守坂 (7)敗れた容保・慶喜の名誉回復
戊辰戦争敗戦後の会津藩は、明治2年11月にまだ赤子だった容保の嫡男・容大による家名存続が許されました。三戸県内に3万石の斗南藩が成立し、残りは江刺県に編入されました。記事
容保個人について言うと、明治5年 38歳で自由の身になり、翌年六男の恒雄が会津の邸で誕生しました。
明治23年に陸軍省から鶴ケ城跡を払下げられています(56歳)。

会津の御薬園[79710]で誕生した松平恒雄は 外交官試験を首席で合格し、ロンドン海軍軍縮会議(1922)首席全権など活躍。
昭和3年に松平恒雄の長女と昭和天皇の弟である秩父宮との御成婚が決定しました。
皇太后【貞明皇后】の強い意向があったと伝えられますが、元会津藩関係者にとっては、これが“朝敵”から完全に名誉回復した出来事として 喜びをもって受け止められたことと思います。

八重の桜の主人公・新島八重(84)の喜びの1首。
いくとせか みねにかかれる 村雲の はれて嬉しき 光をそ見る 

秩父宮妃の名は、読みは異なるものの 貞明皇后【さだこ】と同じ「節子」という字であったため、「勢津子」と改められました。
皇室ゆかり「伊勢」と、「会津」とを結びつけた名だそうです。

松平恒雄は、戦後の新憲法による第1回参議院議員選挙で、福島地方区から当選。初代参議院議長に選ばれました。
なお、福島県との関係を言うと、1976年から12年間福島県知事を務めた松平勇雄は、松平恒雄の甥【容保の次男の子】です。

松平恒雄の孫【長男一郎の子】は徳川恒孝(つねなり)として宗家を継いでします。
家達の後を継いだ家正の子が24歳で早世したためです。
徳川家の当主:初代家康、2代秀忠、3代家光、4第家綱、5代【館林】綱吉、6代【甲府】家宣、7代家継、8代【紀州】吉宗、9代家重、10代家治、11代【一橋】家斉、12代家慶、13代家定、14代【紀州】家茂、15代【(水戸→)一橋】慶喜、16代【田安】家達、17代家正、18代【会津】恒孝。

15代慶喜から16代田安亀之助への相続は[86730]で触れ、8歳の家達が静岡藩知事だった明治3年の蓬萊橋視察は[85225]に記しました。

徳川慶喜は 静岡から東京に移り住んだ翌年、明治31年(1898)に皇居に参内して明治天皇に拝謁しました。勝海舟の下工作があったのでしょうが、有栖川宮威仁親王【熾仁親王の弟】の仲介により大政奉還以来の顔合わせが実現したとされます。

こうして徳川宗家のご隠居だった慶喜は、明治35年(1902)に宗家とは別の「徳川慶喜家」を興すことを認められ、「公爵」を授けられ、貴族院議員になりました。
[43497]では“長~い長~い余生”と書きましたが、公爵家を七男慶久に譲って再び隠居するまでの8年間は政界復帰していました。

慶喜の小石川第六天町[70277]の宏壮な屋敷には、孫の喜久子【慶久の次女で 後の高松宮妃】、喜佐子【『徳川慶喜家の子ども部屋』の著者】など 大勢の家族が暮らしていました。

高須四兄弟と従兄弟の徳川慶喜とが登場する雑情報。思いがけず長い連載になりました。
書きながら気を使わされたのが、「実名」(じつみょう)または「名乗」(なのり)です。

4兄弟の徳川慶勝と一橋茂栄。「慶」は 12代将軍家慶、「茂」は 14代将軍家茂の偏諱ですから「よし」・「もち」と読めますが、茂栄の「はる」は読めません。松平容保は有名なので「かたもり」と読めますが、普通なら無理。松平定敬の「あき」も読めません。

慶喜も「慶」は 12代将軍の偏諱だからよいが、「喜」を「のぶ」と読めるのは有名人だから。
[43834]には、よしひさ」という別の読み方も一般的に知られていたと記しました。Wikipediaによると、将軍在職中の幕府公式文書に記錄が残る他、本人の署名や英字新聞に「Yoshihisa」の表記が残っているそうです。
[86747] 2014年 12月 4日(木)20:25:50hmt さん
津の守坂 (6)錦の御旗
[86742] グリグリさん
幕末の幕府と朝廷と諸藩の勢力関係はなかなか理解が難しいのですが、

この勢力関係に決定的な影響力を及ぼした「切り札」が、鳥羽伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」ではないかと思います。
国立公文書館デジタルアーカイブの絵巻物にある「戊辰所用錦旗及軍旗真図」の解説によると、その起源は承久の乱(1221年)に際して後鳥羽上皇が官軍の将に授与した旗で、赤地錦に金銀で日像・月像を刺繍したり、描いたりと伝えられます。

戊辰戦争で使われたものは、明治天皇の権威に基づく真正の錦旗ではなく、岩倉具視の策謀により薩摩と長州とが勝手に作ったものでした。しかし、当時は存在しなかった「真正の錦旗」を見た人は もちろん居ませんから、「錦の御旗は天皇の旗で、我は官軍である」と新政府軍が言えば、これに反論はできません。
「十六弁八重表菊紋」が天皇専用(親王も不可)という定めは明治2年太政官布告802号でしたが、それ以前の戊辰戦争に際して、日・月像以外の 菊の紋章像の錦旗も使われたようです。

承久の乱の時の鎌倉武士は、本物の錦旗を見せられても怯むことなく、武力で朝廷側を制圧しました。
それなのに、戊辰戦争では贋物の錦旗にしてやられたのは何故か? 
それは、「錦旗」を含む尊王論という概念が 幕末の武士の中に ある程度浸透していたからです。
そして、この概念を日本中の知識人に広めた本こそ、水戸光圀が編纂を開始した『大日本史』でした。

「錦旗」は水戸黄門によって「印籠」と同じような力を持つことになりました。
しかし この「無敵兵器」が向けられた相手は、 水戸家出身の徳川慶喜 を総大将とする幕府軍であり、幕府実働部隊の司令官は 「水戸の血筋」[86714]を引く高須松平家出身の会津藩主・桑名藩主 でした。
水戸学という「教養が邪魔して」朝廷に刃向かうことができず、賊軍として敗れるに至ったとは、何とも皮肉な結果でした。

2001年の「911事件」の際、柳井駐米大使はアーミテージ国務副長官に「Show the flag」と言われたとのこと。
洋の東西を問わず、「旗」が軍事行動を目に見える形で示す重要な道具であることを、この時にも痛感しました。

それはさておき。幕末に朝敵にされたのは会津だけではありません。孝明天皇の時代には長州が賊軍で会津が官軍でした。
でも、最終的には最後に「勝てば官軍」で、贋物の錦旗もその正当性が追認され、♪宮さん、宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは、なんじゃいな、トコトンヤレ、トンヤレナ ♪あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか、トコトンヤレ、トンヤレナ という行進曲により、薩長軍が全国を席巻することになりました。
[86741] 2014年 12月 1日(月)20:59:38【1】hmt さん
津の守坂 (5)京都だけじゃない 越後・蝦夷・九州まで波瀾万丈 - 松平定敬の生涯
高須四兄弟の中で最若年の松平定敬(さだあき)は、安政6年(1859)14歳の時に伊勢桑名松平越中守家 13代を相続しました。亡くなった前藩主定猷(さだみち)の男子【後に14代となる定教】が幼少のために、これも幼い女子・初姫の婿になる約束で迎えられました。

この家は 16世紀の松平定勝を祖とする松山藩主家「久松松平氏」の分家です。説明のため、ちょっと歴史を遡ります。
定勝の母・於大の方は水野氏の出で、松平家に嫁いでいた天文11年に後の徳川家康の母になりましたが、今川氏との関係で離縁されました。再婚先の久松家で定勝の母になったのは永禄3年(1560)で、この年の桶狭間の戦いにより状況が変りました。
今川氏から自立した家康は 於大【伝通院】を母として迎え入れ、その息子【つまり家康の異母弟】の定勝に松平の姓を与えて家臣としました。この家系を久松松平家と呼びます。

桑名には、この松平隠岐守定勝が元和2年(1616)に入っています。しかしこの本家は、次の代に伊予松山に移りました。
桑名城主の後任として美濃大垣から移って来たのが松平越中守定綱【定勝の三男、分家の藩祖】です。
久松松平家【定勝系、定綱系】は家康の男系の子孫ではないので、親藩ではなく譜代大名とされるようです。

定綱系は 桑名の後、3代目が越後高田に、7代目が陸奥白河に移封されました。9代藩主が寛政の改革で知られる老中・松平定信[45967]【8代将軍吉宗の次男で田安家の始祖になった宗武の子】です。定信が老中に就任したことも、久松松平家が親藩でなく、譜代大名であることを裏付けているようです。10代定永に家督を譲った後、定信が要望していた桑名復帰が実現しました。
なお、藩主は桑名・高田・白河・桑名を問わず 通しの歴代数で表示しています。

[86738] hmt
「一会桑体制」呼ばれる一橋慶喜・松平容保・松平定敬のトリオ

「一会桑」とは、言うまでもなく「一橋・会津・桑名」のことです。
一橋慶喜が元治元年(1864)3月に将軍後見職を辞して新たに就任したのは、「禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮」という新設ポストでした。摂海というのは大阪湾のことです。

【注】この人事異動を忘れていた[86719]の訂正
西郷吉之助と組んで第一次長州征伐を決着させた征討軍総督・徳川慶勝を批判した慶喜の【将軍後見役だった】は誤記です。

その翌月に京都所司代に任命されたのが桑名藩主・松平定敬でした。
先代藩主の定猷が安政5年から高松藩・松江藩と共に命じられていた京都警衛の役目は定敬にも引き継がれていましたが、まだ 19歳であった定敬は 若年を理由に 京都所司代の重責【注】を固辞しました。しかし、兄の会津藩主・松平容保(30歳)が一旦任命された軍事総裁職から京都守護職に復帰するということでもあり 断りきれなかったようです。

【注】京都所司代
京都所司代は、幕末に新設され軍事的な組織である京都守護職などと違い、朝廷と幕府との間の連絡ルートである基本的な行政組織です。3万石以上の譜代大名が任命されていました。伊勢国の他に越後国【柏崎】に飛地がある桑名藩は6万石で、家格は十分にありました。

こうして発足した「一会桑体制」。若い定敬にとって それからの4年間は厳しい政治体験の場になりました。
幕府に属してはいるが江戸の幕閣とは距離を置き、朝廷上層部に食い入ってこれと協調。国政参加を求める諸藩の力はできるだけ排除。このような姿勢で禁門の変、長州征伐と進んできたのですが、第二次長州征伐の処理を機に「一会桑」の足並みは乱れ、この政権は崩壊しました。

孝明天皇の崩御後、京都における幕府の権力は失墜。慶喜は大政奉還で逆転を狙うも、倒幕の動きを止めることはできず、戊辰戦争に突入。
鳥羽・伏見の戦いで、桑名藩兵は会津藩兵と共に 主力として薩長軍と激突したが大敗。
その後、定敬は容保と同様に慶喜に従って江戸に同行させられました。

置き去りにされた本国の桑名では意見が割れましたが、結局先代藩主の実子定教を擁立し、新政府に恭順。無血開城しました。
慶喜に従って江戸に着いた定敬は、兄の容保と共に抗戦を主張したものの、恭順することに決めた慶喜に見捨てられました。

ここで、桑名藩飛地の越後柏崎が表に出てきました。
定敬は柏崎に移って、長岡藩の河井継之助と同盟し、北越戦争を戦ったのですね。
本国の桑名は恭順しているのに、前?藩主の定敬が柏崎で新政府軍に抗戦するという分裂状態。
しかし、結局は敗れて会津へ、更に箱館へと落ち延びました。

桑名の家老・酒井孫八郎は、藩の存続のために決意を固め、五稜郭に乗り込んで定敬を連れ出し江戸に出頭させようとしました(明治2年4月)。ところが定敬もさるもの、そのまま米国船で上海まで密航して逃亡。
それも路銀が尽きて、5月には市ヶ谷尾張藩邸に入って遂に新政府に降伏。

展覧会の図録p.64には、一橋茂栄[86730]【中立的立場】から徳川慶勝[86719]【新政府側】に宛てた明治2年7月1日付書簡が残っており、市ヶ谷邸での定敬の様子を心配していると記されていました。処分は死一等を減じ永禁錮でした。
最終的には桑名藩預けになり、明治5年正月免罪。翌月には、安政6年には3歳であった婚約者初子と結ばれました。

明治10年西南戦争。定敬は桑名の士族を募集して、今度は官軍として薩摩を討つために九州に赴きました。応募者350名。

これで定敬の長い戦いはやっと終り、翌明治11年には4兄弟の再会、銀座の写真館での記念撮影[86738]、本所横網町の慶勝邸での会食ということになりました。
明治27年から容保の後任として日光東照宮宮司に就任。

明治41年(1908) 63歳で没す。4兄弟の中で一番長生きでした【慶勝60歳、茂栄54歳、容保59歳】。
[86738] 2014年 11月 30日(日)13:12:07hmt さん
津の守坂 (4)松平容保 - 京都守護職としての栄光から戊辰戦争の敗戦へ
江戸四谷の屋敷で育ち、幕末の動乱期を生きた 高須藩四兄弟の物語 を続けます。

四兄弟の父である美濃国高須の10代藩主松平摂津守義建は 10男9女をつくり、うち6男1女が成人しました。
この6人の男子がすべて大名家の当主になったという事実は、優れた資質の家系と共に 運にも恵まれたことを思わせます。
もっとも、万延元年(1960)に最後の13代高須藩主になった十男義勇は 僅か2歳で相続しました。版籍奉還の明治2年には 11歳でした。そして石見国浜田藩を継いでいた三男武成[86730]は、義勇誕生よりも10年以上前に23歳で死んでいます。
このような事情を見ると、大名家というのは、家系を断絶させないだけでも 精一杯の努力を求めれていたようです。

その中で 立場の異なる4藩主として幕末が明治に変る時代に居合わせて 激動する世の中を生き抜き、平和が戻った明治11年(1878)実父義建の十七回忌に洋服姿で再会して、四兄弟の記念写真 を残していることは 感動的なエピソードであると思います。この時の年齢は、【右から】徳川慶勝(よしかつ)[86719] 55歳、一橋茂栄(もちはる)[86730] 48歳、松平容保(かたもり) 44歳、松平定敬(さだあき) 33歳でした。

ちょんまげ時代に戻ります。高須四兄弟の中でも最も知られているのは義建七男の松平容保です。
12歳で父の弟である会津松平家藩主容敬の養子になり、18歳で家督相続。この家は2代将軍秀忠の御落胤である保科正之[79357]を祖とする御家門です。養子に入った容保は、将軍に忠勤を励むべしという会津松平家「家訓」(かきん)を殊更に重視する姿勢を取りました。

容保が会津28万石の藩主になった翌年の嘉永6年(1853)は ペリー来航の年で、江戸を防衛すべく急遽築造された「品川台場」[80264]に配備されたのは 川越・会津・忍の3藩でした。彼としては、これが対外的な初仕事でしょう。
もっと大きな役目を負わされたのは、文久2年(1862)に命じられた京都守護職【注】です。家臣団からは反対されましたが、政事総裁【注】の松平春嶽らに「家訓」を引用して説得され、止むなく受諾するに至ったとか。
【注】
幕末に新設された幕府の3要職。将軍後見職 一橋慶喜、政事総裁[72830] 松平春嶽、京都守護職 松平容保

容保が藩兵千人を率いて上洛し、黒谷の金戒光明寺を本陣としたことは[86719]にも記しました。
将軍上洛の道中警護役だった壬生浪士組を会津藩の配下として、都の治安維持にあたったことはよく知られています。
# 近藤勇の浪士組に「新選組」の名を与えたのは、八月十八日の政変(後出)での働きを評価したものです。

温厚な人柄の容保は 孝明天皇からは絶大な信頼を得ており、御前で馬揃えを披露したした際の写真で着用しているのは、下賜された大和錦で仕立てた陣羽織であるとか。

雨天の中の馬揃えで体調を崩し、寝込んでいた容保にもたらされたのが、天皇が尊攘派公家への対応に苦労しているという薩摩藩からの情報でした。これにより薩摩藩と会津藩とは協力することになり、文久3年(1863)八月十八日の政変で 朝廷から長州勢力を一掃し、政局は大きく動きました。天皇は容保に感謝して 宸翰と御製を贈りました

元治元年(1864)の京阪方面は「一会桑体制」呼ばれる一橋慶喜・松平容保・松平定敬のトリオが実権を握ったように思われていました。
しかし、禁門の変の後、第一次長州征伐は生ぬるい決着に終りました。一橋慶喜は、長州征討軍総督徳川慶勝[86719]を批判し、「総督の鋭気は薄く、薩摩芋に酔うのは酒に酔うより始末が悪い」と評したそうです。

薩長同盟が成立するのは あと1年余り先のこと になりますが、時の流れはこの頃から少し変り、会津に不運が訪れてきたようです。禁門の変に際して参内した時も両側から支えられてやっと歩ける状態だったようで、どうも雨中の馬揃えで崩した体調も不安です。脱線しますが、1863年の雨中馬揃えから私が連想するのは、1943年10月に雨中の神宮外苑で行なわれた出陣学徒壮行会です。動画

決定的な不幸は、慶応2年(1866)夏に将軍家茂、その年の暮に孝明天皇と、2人のトップを相次いで失ったことでした。公武合体路線で仕事を進めてきた容保としては、頼みの綱を2本ともに断たれたも同然です。
将軍慶喜は大政奉還で逆転を狙ったものの、王政復古の大号令に始まる倒幕運動は大波になり、軍事的にも幕府軍が鳥羽伏見で大敗しました。

容保は慶喜との同道を求められて大阪城から江戸に戻り、ここで隠居して会津に戻ることを命じられました。
慶喜からも見捨てられた容保。この後で繰り広げられる会津戦争において、容保は「前藩主」として総指揮にあたったわけです。
結果はご承知のとおりの完敗ですが、容保以下の藩士一同は、武士の誇りとして戦わずに降伏することなど できなかったのでしょう。

降伏後の容保は江戸での幽閉を経て明治5年に赦免されました。
明治13年から日光東照宮などの宮司となり、藩祖の保科正之を祀る土津神社の宮司も兼任しました。
この間の明治9年、新選組の後援者であった小島鹿之助[33902]と佐藤彦五郎[78819]の求めに応じた容保は、近藤勇・土方歳三の名誉回復のための篆額を書いています。石碑は高幡不動にあります。
[86735] 2014年 11月 28日(金)13:58:25hmt さん
にしもろ(西諸)
[86732] グリグリさん
西諸地域、すなわち、西諸県郡の自治体と言うことで、えびの市、小林市、高原町の3市町の合同イベント

「にしもろ」という呼び名は知りませんでしたが、3市町をメンバーとする 西諸広域行政事務組合 が存在するのですね[14512]

諸県(もろかた)は 娘の髪長媛が応神天皇に仕えたと日本書紀に記錄された豪族の名で、古代から日向国南西部の郡名でした。
江戸時代には複数の藩が分立していた日向国は、明治4年(1871)11月に南部の都城県と北部の美々津県に属しました。
明治6年1月には統合して初代宮崎県が誕生しましたが、明治9年(1876)8月には鹿児島県に合併されました。

西南戦争後の分県運動を経て 明治16年(1883)に宮崎県が復活した際に、諸県郡の大部分は宮崎県北諸県郡になりました。
しかし、南部だけは南諸県郡として鹿児島県に残されました。
宮崎県北諸県郡からは、翌明治17年に西諸県郡と東諸県郡とが分立したので、鹿児島県南諸県郡と合せて4つの諸県郡が揃いました。

志布志を中心とする鹿児島県日向国南諸県郡は 明治30年(1897)施行の郡統合で【大隅国】囎唹郡になり消滅しました。
残った諸県郡は 宮崎県日向国の北・西・東の3郡ですが、意外にも北諸県郡がこの中で一番南にあるんですね[13215]
これは都城中心の考え方から、分立した2郡を西(郡役所:小林)と東(同:高岡)に命名したからでしょう。

ここまでは、過去記事などにより 諸県郡の沿革話を復習しました。

それはさておき、過去記事には 宮崎県・鹿児島県の4市町が関係する境界未定地域に関係する疑問も示されていました。2年も前の疑問ですが、お答えしておきます。

[82024] グリグリさん
唯一考えられるのは、湧水町と小林市の県境と、小林市と綾町の間の境界に未定部分があり、明確な小林市とえびの市の未定と合わせて4市町全体が未定になっていると言うことでしょうか。どなたかこの謎解けますか?

“湧水町と小林市の県境”は“湧水町とえびの市の県境”の誤記と思われます。
その上で、グリグリさんが見落としていると思われる境界未定部分を示します。

A:鹿児島県湧水町と宮崎県えびの市との 県境界未定部分
B:宮崎県小林市と綾町との 市町境界未定部分

A,B 2ヶ所の他に 既に指摘されている えびの市と小林市との間の境界未定部分が存在します。
3ヶ所の境界未定があるために、お説のとおり「4市町全体が未定」ということになります。

# リンクした地理院地図について。
最初は地形図本来の情報を重視して zoom=15 を使いました。
Aの西端:宮崎県西端の黒園山付近
Aの東端:肥薩線付近
Bの東端:綾北川古賀根橋ダム北の曽見川合流点付近
Bの西端:大森岳南東(綾南ダムからの地下水路付近)

ところが、この地図の境界線は見易い状態ではありません。
「ウオッちず」の頃の境界線は、着色された太い線でもっと明瞭でした。
境界線の途切れた箇所を探す目的ならば、地理院地図を少しズームアウトして zoom=13 程度にするのが適切であると知り、上のように改めました。
[86730] 2014年 11月 25日(火)23:01:47hmt さん
津の守坂 (3)高須の松平義比から尾張の徳川茂徳へ、隠居玄同から御三卿の一橋茂栄へ
徳川慶勝に続く高須松平家4兄弟の2人目は、10代義建の五男【夭折2人あり実質三男】として誕生した茂栄(もちはる)です。
幼名鎮三郎。元服後は建重・義比・茂徳・玄同・茂栄など多数の名が使われていますが、便宜上統一して使う場合は、慶応元年に最終的な名になった茂栄にします。

過去記事では 尾張藩主時代の「徳川茂徳」を使っていました。今回の御三卿当主の実名も、正式には「徳川茂栄」ですが「一橋茂栄」という形で使われることが多いと思います。

部屋住みのまま一生を過ごす可能性もあった分家の五男。それが3万石の高須藩主「松平義比」(よしちか)に始まり、約62万石の尾張藩主徳川茂徳(もちなが)へ、そして御三卿の一橋茂栄へと 3つの家を相続するに至ったのは大出世です。
それは激動の幕末の中心で活躍した人物だからですが、彼の名をあまり知らなかったのは 私だけではないと思います。

彼が高須藩11代の跡継ぎになれたのは、長兄の慶勝が名古屋の本家を継ぎ、その次の武成(たけしげ)が石見国浜田藩を継いだためでした。
なお 慶勝と武成は正妻の子ですが、茂栄は異母弟です。慶勝・茂栄・容保・定敬は4兄弟と言ってもすべて腹違いでした。

安政の大獄の時代、一橋派の兄・慶勝が戸山に謹慎させられ 尾張家15代を継いだ彼は 14代将軍家茂の偏諱を得て徳川茂徳と改名しました。慶勝に続き 四谷家は尾張家のスペアの役割を担ったわけですが、前藩主の政策を支持する家臣団の統制にも苦労があり 彼にとって 本家藩主の荷は重かったようです。
結局尾張藩の実権は 復権した やりての兄に握られてしまったようで、文久3年(1863)には 33歳で隠居。玄同はその号でした。

14代将軍家茂から再度の偏諱による 茂栄 の名を賜った慶応元年(1865)には35歳。この頃には 15歳年下の将軍と親しい関係にあったようで、第二次長州征伐で上洛した家茂の補佐役的な立場で働きました。

この年横浜に赴任してきた英国公使のパークスは、外国嫌いの孝明天皇が拒否している通商条約の批准を求め、条約4カ国(英仏米蘭)の連合艦隊を兵庫に送り込み、日本を威嚇しました。
これに対する幕府と朝廷の二元外交。対応はモタモタし、遂に家茂が辞任まで言い出して条約勅許を求める状況になり、孝明天皇も止むなく3港開港の通商条約を許すことになりました。パークスの軍事力示威作戦が成功したわけです。
茂栄は この間 苦悶する家茂と 朝廷との間の調整に尽力。家茂からは「今後親とも思う」という心情が伝えられました。

茂栄は江戸に帰った後、大阪城での日々を偲んで家茂像を描きました。
茂栄自身が撮影した写真が残されていますが、残念ながらその画像は Webで未発見です。現物は天璋院に献上後焼失。
茂栄が描いた顔に御用絵師が陣羽織の立姿の体を加えたものと考えられており、首の角度が不自然です。
和宮はこの絵を「異風」であるとして不満であり、茂栄は書き直した束帯姿の画像を贈りました。 こちらの絵は Wikipediaに掲載されています。

茂栄への処遇として、家茂は生前に清水家相続の内命を与えていました。御三家の元当主が御三卿になるのは異例ですが、家茂は親しい茂栄を側に置きたかったようです。家茂の死によってこの話は中止されましたが、兄慶勝の請願もあり、慶喜が将軍になったために空席になった一橋家相続ということになりました。清水家を継いだのは慶喜の弟・徳川昭武[43497]でした。

そして慶応4年(1868)の戊辰戦争。その後始末の段階で、茂栄は徳川本家の総代として 嘆願活動の中心になりました。
3月には江尻まで出向いて、東征大総督の有栖川宮から朝敵になった慶喜への寛大な処分の了承を得ました。
徳川家の存続についても田安亀之助[85225]による相続が認められ、駿府70万石を確保することができました。

御三卿は将軍の家族という立場だったのですが、一橋家は田安家と共に明治元年(1868)5月に至り初めて藩屏に列し、徳川宗家から独立した藩【一橋藩・田安藩】が成立しました。
しかし、3つ目の藩主になった茂栄の「一橋藩主」時代は束の間に終りました。

翌明治2年に出願した版籍奉還願に対する新政府の回答は、諸藩と違う形の処置でした。
茂栄はそれに従い、家政に従事する家臣138人を残し、他の1432人の家臣には暇を出し最寄りの地方役所所属とすることになりました。年貢も地方役所が徴収。新政府による「廃藩」のテストケースにされたようです。

藩知事表 に続く 151コマには一橋茂栄の名が見えます。
しかし、その頭に「知事」が付けられていないことにより、一橋藩が廃藩されたことが示されています。
[86719] 2014年 11月 23日(日)22:45:16【2】hmt さん
津の守坂 (2)屋敷があった荒木町、4兄弟長兄の徳川慶勝
今回のシリーズ。そのタイトル・津の守坂(つのかみざか)は、現在の新宿区荒木町にあります。
執筆の動機は、江戸時代 この地に上屋敷を構えていた尾張徳川家の分家・松平摂津守家(四谷家=高須松平家)とその屋敷に生れた四兄弟をテーマにした特別展でした。しかし、前回[86697]は 所領であった美濃高須や、木曽三川の治水工事に筆を費やし、特別展で紹介された江戸屋敷や人物について語るには至りませんでした。

高須松平家。それは治水の面で幕府から多大の支援を得ていただけでなく、「江戸定府」で参勤交代の義務を免れていた特殊な大名でした。
江戸で育って一生を江戸で暮す定めですから、美濃でなく江戸こそが「津の守」兄弟のふるさとなのでした。

江戸の武家地には町名がないので、荒木町という地名が現れるのは明治の地図です。
『明治十一年実測東亰全図』[78145]を見ると、陸軍士官学校になった尾張徳川家の上屋敷跡【市ヶ谷台】の南西に 四ツ谷荒木町の文字と高須藩上屋敷庭園跡の泉水が見えます。
市民に開放された庭園は新しい木【アラキ】で整備され、明治時代 この付近は芝居小屋・料理屋・芸者屋のある盛り場になったようです。「策(むち)の池」の一部と津の守弁天の祠は現存。
なお、現在の新宿西口・昔の角筈村にあった高須藩下屋敷にも「策(むち)の井」があり、こちらは[44125]で触れています。

[86697]で記したように、四谷家つまり松平摂津守家の最大の責務は尾張徳川家の後継者確保なのですが、実際問題としては 実子による相続だけで続けることは困難です。
8代将軍吉宗の政策に反対して敗れた第7代尾張藩主宗春の後 第8代尾張藩主になった宗勝は、四谷家第3代でした。これは当初目論見通りのスペア役を果たしたように見えます。
しかし 実は四谷家の実子ではなく、スペアのスペアである川田久保家からの養子だったのです。

大名家というのは、こんな具合に複雑な養子関係によりようやく維持されていました。
四谷家第9代の義和(よしなり)は水戸徳川家第6代治保(はるもり)の次男でした。つまり幕末近くの四谷家は、尾張の分家ながら 水戸の血筋 になっていたわけです。

高須藩第10代の松平義建(よしたつ)は 義和の嫡男で、その正室・規姫(のりひめ)も水戸家から来た従姉妹【治保の孫、有名な徳川斉昭(水戸家第9代)の姉】でした。
この夫婦の子が 12代将軍家慶の時代に尾張家14代を継ぐことになる徳川慶恕(よしくみ)、つまり高須四兄弟の長兄・慶勝です。

彼は御三家筆頭の立場ですが尊皇攘夷派で、安政5年(1858)に 大老井伊直弼が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印すると 徳川斉昭・一橋慶喜[43497]・松平慶永【春嶽】らと共に江戸城に押しかけて(不時登城)これを糾弾しました。
しかし、この抗議行動は当局側の弾圧【安政の大獄】を招き、慶勝も戸山の下屋敷での幽閉蟄居処分を受けました。

多趣味な文化人の彼は戸山謹慎の期間も有効に活用したのではないでしょうか。
書や博物学【注】だけでなく、写真術の研究家でもあり、撮影だけでなく自ら調合した薬品で現像も行いました。
【注】博物学への傾倒
 昆虫標本の作成。植物の精密なスケッチ。 四兄弟の写真 の背景に『草花図画帖』収録の作品が使われています。

慶勝(よしかつ)という名は、万延元年(1860)の復権【注】後に改めた名で、14代将軍家茂の補佐になり、将軍上洛に先立ち文久3年(1863)から朝廷と幕府を一体とする安定体制を築くべく京都での国事周旋活動を始めます。
【注】謹慎を解かれたが慶喜・慶永との面会・文通は禁止。正式の赦免は文久2年(1862)。

京都では異母弟の会津藩主・松平容保が京都守護職として黒谷の金戒光明寺に陣を構えており、この会津と薩摩が組んだクーデターから長州追放、禁門の変、第一次長州征伐へと政局が動き、慶勝は征討軍総督を勤めました。

慶勝は参謀になった薩摩藩・西郷に交渉させ、内部対立のあった長州藩相手に戦わずして決着させました。これは将軍後見役だった慶喜から見れば生ぬるい処置であり、後に復活した長州によって徳川政権が崩壊するに至った原因であったとも言えます。

慶勝は慶応3年(1867)の大政奉還後の上洛時に新政府の議定に任命され、小御所会議に出席。徳川慶喜【母方の従兄弟】に辞官納地を催告する役目を負わされました。そして鳥羽伏見の戦い後には慶喜逃亡後の大阪城受け取り。徳川御三家の筆頭として体制を守るべき尾張家なのに、新政府側としてこのような役割になってしまったのは残念なことだったでしょう。

新政府の地方官として府県と並列する「藩」という言葉が登場したのは慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)の政体書でした。
この時点で正式の改称があったわけではないと思いますが、幕藩体制時代から慣習的に呼ばれていたと思われる「尾張藩」が、新政府の地方組織である「藩」として再発足したので、便宜上これから先は「名古屋藩」と呼ぶことにします。名古屋藩という呼び方は、明治4年の廃藩置県で「名古屋県」に改められるまで使われました。

…というわけで、幕藩体制下において大名家系を存続させるスペアとしての存在意義を失った高須藩は、明治3年12月23日に廃止され、名古屋藩に編入合併される形で幕を閉じることになりました。太政官布告 M3-979 及び 980
[86697] 2014年 11月 19日(水)19:45:33hmt さん
津の守坂 (1)美濃高須藩
丸ノ内線が通る新宿通を四谷三丁目から少し東に進むと「津の守坂入口」という交差点があります。
北の合羽坂下に向う道が途中から下り坂になり、その西側が 松平摂津守の上屋敷跡 であったことに由来する地名です。
その地点から一つ東側の通りにある新宿歴史博物館で開催中の特別展 高須四兄弟 新宿荒木町に生れた幕末維新 を先週見てきました。

高須四兄弟については、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県まで に収録した 記事 の中で、次のように紹介しています。
余談ですが、3万石の小藩ながら、高須松平家出身の4兄弟は 幕末の歴史を彩りました。尾張藩主になった徳川慶勝は、議定として慶応3年師走の小御所会議[75495]に出席し、翌年正月には、徳川慶喜逃亡後の大阪城[43497]を新政府代表として受け取りました。それより前、慶応2年末に徳川慶喜の徳川宗家相続に伴い、一橋家を継いだのが 弟の徳川茂徳です。更に下の弟の 会津藩主・松平容保と 桑名藩主・松平定敬とは 幕末京都で治安維持の役目を担い、戊辰戦争の 朝敵 にされてしまいました。戦後、慶勝と茂徳とは、容保と定敬の助命に奔走し、明治11年に4兄弟は再会を果たしたそうです。

「津の守」と呼ばれた大名の家に生まれ、それぞれ別の大名の家督を継ぎながら幕末の動乱期を生きぬいた兄弟。
落書き帳の過去記事と関連させながら、関係する地名を交えながらこの記事を書いてみます。

松平摂津守、末尾を取れば「津の守」ですが、何故に摂津の略称が「津」なのか? Issieさんの解説[21549]をご覧ください。
もちろん江戸時代の難波の津は大坂奉行管轄下の幕府直轄領であり摂津守の領地ではありません。参考[72856]
では松平摂津守とは いかなる大名で、領地はどこだったのか?

徳川家康が天下を取った後で、この国の支配権を自分の子孫に確実に伝える仕組みの一つとして、後継者の予備軍である御三家の制度を作ったことはよく知られています。徳川御三家の筆頭が尾張家ですが、尾張家としてもその役目を確実に果すためには血統を伝える分家が必要になります。このようにして尾張家にも3つの分家が作られました。それぞれの江戸屋敷の所在地【いずれも現在の新宿区内】から、四谷家・大久保家・川田久保家と呼ばれましたが2家はスペアの役割を果して消滅し、幕末期に尾張本家以外に残っていたのは四谷家だけです。

この四谷家の当主には 松平摂津守として信濃国に3万石を与えられ、元禄13年(1700)に 本拠が美濃国高須に移されました。
「高須」は岐阜県海津市役所の所在地で、約60年前の昭和合併で海津町になる前は海津郡高須町でした。
# 播磨坂に名を残す松平播磨守は水戸藩の分家で常陸府中(石岡)2万石の殿様とか[72799]

展覧会の主役は江戸四谷にあった高須藩江戸上屋敷とその地で育った4兄弟であり、美濃高須藩の所領には殆ど触れられていなかったのですが、折角の機会なので美濃国の南端である高須輪中について少し記しておきます。

高須という地名は、横須賀関連で話題にした 須賀地名 の仲間で、河岸や海岸に土砂が堆積して形成された微高地に由来します。
木曽三川が作った濃尾平野に住みついた人々は、毎年のように繰り返される洪水被害に遭いながらも、自然堤防や人工堤防を利用して水利用を進めてきました。鎌倉時代中期の文献に高洲阿弥陀寺などの記錄があります。

現在高洲輪中の中央を流れている大江川は 木曽川・長良川の旧河道でしたが、天正14年(1586)の大洪水の結果、ほぼ現在に近い東寄りの流路に変ったとのことです。
江戸時代になると、名古屋を居城とする尾張徳川家の御囲堤が慶長14年(1609)に完成。これにより尾張側は保護されたものの 美濃側の洪水は一層深刻な状態になり、水害対策に財政破綻した小笠原氏は転封を願い出る事態になりました。

木曽三川については、木曽川下流河川事務所が発行している『KISSO』という刊行物があり、1991年の創刊号から最新号(92号)まで閲覧することができます。バックナンバーリスト
歴史ドキュメントや歴史記録の長期連載もあり、読み応えのある資料ですが、その56号p.10を見ると、60余万石の美濃国のうち約20万石が幕府直轄領、約15万石が尾張藩領で、残る約25万石が大垣藩・高須藩など10藩の大名領と70余の旗本領とに細分され、錯綜状態であったと記されています。高須藩領は図示された海津町域に限っても34%に過ぎません。

美濃高須藩は3万石の小藩であり、木曽川の治水を自力で遂行できる財力も、複雑な利害関係をまとめる力もなく、幕府の力に頼らざるを得ません。
幸いなことに 幕府領になったこの地に美濃郡代として着任したが、見沼代用水[67644]でも登場した 井沢弥惣兵衛為永でした。彼は 将軍吉宗の命を受けて、享保20年(1735)笠松陣屋着任後の短期間に綿密な現地調査に基づく三川分流計画を立案しました。

この建言は為永の在世中直ちに実施されるには至りませんでしたが、1747年には奥州二本松藩による第1回の木曽川改修御手伝普請が実施されました。
二本松藩は多数の藩士を現地に派遣したものの、既に幕府により請負業者が配置されており、工事期間2ヶ月。

第2回の御手伝普請が薩摩藩による有名な 宝暦治水工事(1754-1755)です。
この時は地元農民を雇用して施工する「村方請負」が指定されました。
薩摩藩は難工事箇所を町方請負とするよう請願したが数箇所しか認められず、派遣された薩摩藩士947名、現地雇用を含めて2千人とも伝えられる大工事になりました。工事期間は2期にわたり 1年3ヶ月(実質10ヶ月)。

1766年の第3回(萩藩・岩国藩・若狭藩)工事では過酷だった宝暦の事例を踏まえた反省から、町方請負や幕府が施工する「お金御手伝」が取り入れられ、更に第4回から第16回まで続いた御手伝普請は、藩が直接施工せず費用負担だけを求めれれる方向に変質して行ったとのことです。16回の普請で御手伝(1~4回)を求められた藩の合計は48藩。
資料をリンクしておきますが、細かい字で判読困難な部分があります。56号 p.10-12, 57号 p.9-14

対象が本題の高須藩から少し拡大してしまいましたが、高須輪中付近の江戸時代の治水事業について記しました。
江戸時代の藩は独立国のように扱われる一面がある反面、美濃のような複雑な地を水害から守るためには、幕府の権威による「御手伝普請」という強制的な経済協力制度も必要でした。
江戸時代初期、金鯱の名古屋城造営の時とは制度が変っていますが、豊かな田園に恵まれることになった美濃高須藩の姿を見ると、親藩大名を優遇する政策という点では類似するように思いました。

美濃高須藩より後の時代になりますが、明治以降も国営の治水工事が引き続き実施されました。
この木曽川改修工事の時期は、1889年に全国で実施された 町村制施行と重なっていました。
これが、他の府県で行なわれた「明治大合併」を 岐阜県では同時に実施できなかった一因であろうと思われます[79347]
更に濃尾地震・日清戦争もあり、とうとう明治30年の「郡と町村とをひっくるめた再編成」[70814][70820]にずれ込みました。

岐阜県には、この明治30年再編成で、海西郡と下石津郡に由来する新郡名として「海津」 が誕生しました。
この地名は 昭和大合併での海津町に引き継がれました。
海津町誕生当時の「高須輪中」は、東の木曽川・長良川と西の揖斐川とに挟まれた“陸の孤島”に近い状態でした。
しかし、1980年以降に木曽三川の長大橋が相次いで開通し、この豊かな穀倉地帯は陸上交通も便利になりました。
鉄道は通っておらず、私には行けない場所だったのですが、2年前岐阜オフ会の翌日に EMM号に同乗する機会を得て、この地域を訪問することができました[82265]

平成大合併で市になる際に、一旦は「ひらなみ市」[9775]が選定されました。
落書き帳でも賛否両論ありましたが、結局は海津市に落ち着いた[28842]ことは、みなさんの記憶する通りです。
[86495] 2014年 10月 26日(日)16:09:40hmt さん
「日本で最も美しい村」連合
[86485] ばいちょう さん
アーカイブズ 字名としての「~村」 に名を連ねている仲間の hmtから 初めてのフォローです。よろしく。

最初に、「ばいちょう」さん というニックネームについて。
その由来は存じませんが、私がこれから連想した言葉は 「陪塚」 でした。
過去記事には「堺」という地名も登場するし、古墳時代からの由緒ある地にお住まいの方かな? などと推測しています。

“村”に関する過去記事で、三好市西祖谷山村[49890]【そんからむらへ】も拝見しました。
三好市HPへのリンクは切れていましたが、三好市住所表示案内を確認。
「三好郡西祖谷山村」を「三好市西祖谷山村」に置き換えます。
また、「字」は表示せず、三好市に続く西祖谷山村は「にしいややむら」と読みます。

hmtの出身地の神奈川県津久井町も、平成合併で まち→ちょう に変りました。
しかし、相模原市緑区になった現在は この名も消えました[73423]

[86485]に戻り
八女市星野村

2010年の合併後も大字名として「星野村」が残されているだけでなく、市役所支所前交差点の名称が、現在でも「星野村役場前」なのですね。mapion

昔の名前を大事に使っている「星野村」には、星と泊まれる天文台があり、 星空の美しさは格別 であるとのこと。
昨年のオフ会翌日に「博物館に宿泊」[84513]を試みたhmtとしては関心をそそられます。しかし、遠くなので行けません。残念。

本題に入ります。
星野村を調べてみたら、「日本で最も美しい村」連合 に加盟していることがわかりました。
「最も美しい村」という名の組織は初耳でした。日本では連合発足から10年目に入ったところですが、フランスでは2012年に30周年記念フェスティバルが開かれ、それなりの歴史や国際性のある活動のようです。沿革

連合加盟の条件 は、人口1万人以下で景観や文化などの地域資源が2つ以上あり、それを活かす活動が連合に評価されることが必要です。発起人と思われる北海道美瑛町あたりが人口の上限ですが、群馬県中之条町のように一部の地域に分けて加盟する例もあります。
加盟村一覧から、それぞれの村が未来に残したい村の特徴(地域資源)を知ることができます。
広報しらかわ2011.11 2コマには 2011年までに加盟した村の国内配置図があります。

2014年10月までに加盟した村を 加盟年と共に列挙しておきます。地方自治体とは限らず、名称も「村」とは限りません。

岐阜県白川村の「日本で最も美しい村」連合からの退会について。
連合のサイト内にある加盟村一覧を見ていたら、連合の発足メンバーであり、2010年の第6回総会開催地でもあった岐阜県白川村が掲載されていないことに気がつきました。
2014年3月末に退会したことが Wikipediaに記されていたので、裏付けを探し回った結果、広報しらかわ2014年4月号の19ページに 退会理由が記された文書を発見しました。リンク の4コマです。
過疎の危機から脱却する活動の一つとして注目したのですが、問題含みのようですね。

従って、現在の連合加盟村数は 55です。
下記の表の順番は、連合の地域区分でなく 都道府県コード順【県内は加盟順】にしてあります。

北海道上川郡美瑛町(2005) 北海道余市郡赤井川村(2005) 北海道標津郡標津町(2007) 北海道阿寒郡鶴居村(2008) 北海道虻田郡京極町(2008) 北海道寿都郡黒松内町(2011)
秋田県鹿角郡小坂町(2009) 秋田県雄勝郡東成瀬村(2009)
山形県最上郡大蔵村(2005) 山形県西置賜郡飯豊町(2008)
福島県相馬郡飯舘村(2010) 福島県耶麻郡北塩原村(2010) 福島県大沼郡三島町(2012) 福島県安達郡大玉村(2014)
栃木県那須郡那珂川町小砂(2013)
群馬県利根郡昭和村(2009) 群馬県吾妻郡中之条町伊参(2009) 群馬県吾妻郡中之条町六合(2011)
山梨県南巨摩郡早川町(2009) 山梨県南都留郡道志村(2012)
長野県下伊那郡大鹿村(2005) 長野県木曽郡木曽町開田高原(2006) 長野県上伊那郡中川村(2008) 長野県木曽郡南木曽町(2008) 長野県上水内郡小川村(2009) 長野県北安曇郡池田町(2009) 長野県上高井郡高山村(2010)
岐阜県大野郡白川村(2005, 退会2014) 岐阜県下呂市馬瀬(2007) 岐阜県賀茂郡東白川村(2011)
静岡県賀茂郡松崎町(2013)
京都府与謝郡伊根町(2008) 京都府相楽郡和束町(2013)
兵庫県美方郡香美町小代(2012)
奈良県宇陀郡曽爾村(2009) 奈良県吉野郡十津川村(2010) 奈良県吉野郡吉野町(2012)
鳥取県八頭郡智頭町(2010)
島根県隠岐郡海士町(2009)
岡山県真庭郡新庄村(2009)
徳島県勝浦郡上勝町(2005)
愛媛県越智郡上島町(2009)
高知県安芸郡馬路村(2008) 高知県長岡郡本山町(2011)
福岡県八女市星野村(2009) 福岡県朝倉郡東峰村(2012)
長崎県北松浦郡小値賀町(2009)
熊本県阿蘇郡南小国町(2005) 熊本県阿蘇郡高森町(2013) 熊本県球磨郡球磨村(2013)
大分県由布市湯布院町塚原(2011)
宮崎県西諸県郡高原町(2006) 宮崎県東諸県郡綾町(2009) 宮崎県東臼杵郡椎葉村(2014)
鹿児島県大島郡喜界町(2009)
沖縄県宮古郡多良間村(2010)
[86494] 2014年 10月 26日(日)12:08:16hmt さん
Re:アボガドロ数について
[86490] YT さん
アボガドロ数の値やSI単位系に関する最新の情報を教えていただき、ありがとう御座います。
[86482]で用いた値は 日本化学会の解説文から引用したものでしたが、2006年のCODATA推奨値だったのですね。

最新の情報には疎く、SI単位系よりも 昔の「メートル法」という言葉に馴染みのあるhmtです。
今回は、日常で使われる計測に関する 過去記事 を集めてみましたが、やはり昔話が中心になっています。
[86482] 2014年 10月 23日(木)23:33:00【1】hmt さん
6022垓1417京9千兆
地理と無関係な話題なのですが、今日10月23日は「化学の日」だそうです。
日本化学会プレスリリースの日付は 2013/10/17でしたが、今年になってから知りました。

10月23日の意味付けは、1モルの物質中に含まれる粒子の数【アボガドロ定数】 N=6.02*10^23 にちなむものです。
私達としては この数字 N を直接使う機会はなく、「非常に大きな一定の数であること」を知っていれば充分です。

もともと気体が関係する研究から、水は 水素分子H2と酸素分子O2とが体積で2:1の比率で反応して体積2の水蒸気分子をつくることがわかり、「H2O」という粒子の集まりであることが解明されました。2 H2 + O2→2 H2O
水道水は立方メートル単位で、ペットボトルの水はリットル単位で取引されます。
しかし化学物質として扱う時は、「H2O」をN個含む 18gを1モル【1グラム分子】とした単位で扱います。
この 18gの水分子の集まりは 水素原子2g(2グラム原子)と酸素原子16g(1グラム原子)とから構成されています。

こんな具合に、モルとは 微細な粒子の集合を扱う化学の分野で使われる「物質量の単位」です。
モルという言葉は、語源的には分子moleculeが対象でしたが、現在は広く原子やイオンを含む物質量の単位になっています。
いずれにせよ、Nの数値そのものを化学量論的な計算に利用することはありません。

めったに使わない大きな数ですが、折角の機会なので『塵劫記』に使われた単位【注】で表記してみると
「N=6022垓1417京9千兆個の粒子を1モルとして纏めて扱う」ということになります。
【注】
寛永11年(1634)版で使われている万進法が今日でも使われています。1垓=10^20。初版の単位とは異なります。
余談ですが、大きな数については[65536]にも言及があります。

Nの数字を覚えて役に立ったとすれば高校の試験ぐらいでしょうが、思わぬところで10の23乗が使われることになりました。
アメリカでは“Mole Day”【モグラの日】と呼ばれているとのこと。参考
[86460] 2014年 10月 15日(水)15:40:41【1】hmt さん
Re^2:生見尾踏切
[86459] みのる さん
なぜここが「生麦踏切」と名付けられなかったのかというと、実は生麦踏切は別に存在していたからなのです。

最初に、昭和18年の横浜市三千分一地形図第13号 東寺尾 を閲覧して、ご指摘の3ヶ所の踏切道の存在を確認しました。
踏切の名称は書いてありませんでしたが、この3ヶ所中で最も東京寄りの踏切が「生麦踏切」だったのですね。
踏切の南、地図の端にある「生麦国民学校」の記載が戦時中の地図であることを物語っており、もちろん鶴見区になってからの地図です。

生見尾踏切が命名された時点で、既に生麦踏切は別に存在していたのか?
踏切関係の資料は持っていないので、日本図誌大系関東I に掲載された古い地形図【明治44年総持寺移転より前】を調べてみました。

地形図1:明治14-15年【生麦村、鶴見村の頃】
鶴見停車場の南西に見える生麦村の踏切道は、花月園前踏切の次が生見尾踏切となっています。
まだ無名踏切かも知れませんが[86459]の名称で呼びます。
生麦踏切など中間3踏切の位置では 南東からの道が途絶えて 北西側に通じていません。

ケース1:
このような2踏切の状態で踏切命名がなされたのならば、生見尾踏切は「村名優先」の結果と思われます。

地形図2:明治39年【生見尾村の頃】
5本の道すべてが踏切道と認められます。

ケース2:
5踏切の状態になってから同時に踏切命名ということになったのならば、ご指摘のように東京寄りに生麦踏切の名を使われてしまった結果ということになります。

結論:地形図で示された2踏切→5踏切の変化と、踏切命名時点との前後関係がわからないので、…

【追記修正】
ここまで読み返したところで、「花月園前踏切」という踏切名[86459]が持つ情報に気がつき、結論が出ました。

結論:花月園遊園地が開園したのは1914年でした。してみると、踏切命名の時点はこれよりも後のことです。
当然5踏切時代ということになるので、「生麦の名を別の踏切に使われた」から 村名由来の生見尾踏切になった というご指摘どおりのようです。

ご教示ありがとうございます。

ついでに、[65097]で紹介したフランス式の 彩色迅速測図 も閲覧しました。
驚いたことに、モノクロの地形図と異なり既に5踏切のように描かれていました。何故食い違うのかは不明です。
[86458] 2014年 10月 14日(火)19:55:33hmt さん
生麦・鶴見あたり (3)生麦の碑
「生麦」という言葉は早口言葉に使われるくらい発音しにくいはずですが、地名としては なかなかユニークです。
意味不明の合成地名「生見尾」と違い その意味は一見して明白。生麦一丁目にあるキリンビール横浜工場では大量の大麦が使われています。でもここに工場ができたのは関東大震災で 横浜の山手にあった工場 が倒壊したためで、地名の由来とは無関係でした。

Webで生麦の歴史を調べた結果、西部本宮町会HPに詳しい紹介がありました。このページのトップによると 江戸時代に「御菜八ヶ浦」の一つとされ 特権的な漁業権を持っていたようです。それに続いて2代将軍秀忠の行列通行に際しての生麦のエピソードにより 地名と漁業特権を得たと記されています。
この「地名の由来」は Webの中で広く流布されているのですが、調べてみると 根拠がはっきりしません。

実は、上記のHPで生麦町の歴史を記された 佐藤尚一さんは昨年逝去されており、本文の連載は終っています。
リンクされている本文をざっと調べてみたのですが、著者により「地名の由来」が記された箇所を発見することはできませんでした。もちろん秀忠のエピソードも。
私としては、著者は確実な資料で裏付けできない秀忠説を あえて紹介しなかった のではないかと推察しました。

手掛りとして「御菜八ヶ浦」を調べたら、多摩川の汽水域というサイトの 参考資料に『羽田史誌』に基づく江戸時代の漁業権に関する説明がありました。それによると、江戸時代の初め頃は本芝、芝金杉、品川浦が浦元で、大井御林、羽田、生麦、神奈川、新宿の5浦が追加されて8浦が漁業【当時44浦】の元締めになったのは享保年間のようです。
どうやら、生麦の漁業特権は秀忠時代ではなさそうで、生麦の「地名の由来」も怪しくなりました。

そこで更に調べたら、既にみなとみらいトンネルの記事などで落書き帳に紹介されている「はまれぽ」に、調査結果 が出ていました。

生麦事件参考館館長の浅海武夫さんによれば、麦の穂で道路整備説の他に、生貝のむき身説もあるそうです。
驚くべき第3の説は 岸谷の竜泉寺にあった「生麦の碑」という物証に基づく説の存在でした。
この碑は1601年以前にあったことが確認できるとか。

年代も古く「生麦」と書かれた物証。
明治末期に発見した研究者が東大に持ち帰った墓石は、一番信頼できるキーになりそうです。
しかし、東大に問い合わせても所在不明らしい。
…というわけで、生麦の謎は迷宮入りしているようです。残念。
[86456] 2014年 10月 13日(月)20:44:21【1】hmt さん
生麦・鶴見あたり (2)横浜市鶴見区の変遷
現在の横浜市鶴見区は、東海道の宿場で言うと川崎と神奈川との間です。
踏切名として残された生見尾[86455]を含めて、明治大合併前後の旧村名 と、この付近の 現在の地図 を示しておきます。

校歌に「生見尾の里」という言葉が出てくる東台小学校を中心にした地図を「3D風」にして眺めると、鶴見駅西口の総持寺から広がる下末吉台地と鶴見川が流れる低地とからなる地形であることが よくわかります。

そして明治大合併によって誕生した3村のうち 生見尾村は 鶴見川の右岸(西岸)であり、東海道沿いの南が生麦、東の曲流部が鶴見、その西側の台地が東寺尾という地名であることが知れます。潮田・矢向などの町田村は鶴見川の左岸(東岸)。そして、下末吉・北寺尾・獅子ヶ谷など旭村は北部です。

これらの地名の中では、やはり東海道筋に位置し 川の名でもある「鶴見」が最有力な集落で、1872年の鉄道開業当初から鶴見駅が開設されていました。1921年橘樹郡鶴見町を名乗り、1927年の横浜市編入後の区設置にあたっても横浜市鶴見区として、川崎と神奈川の間を代表する地名になっています。

台地と低地の境目には 東海道と鉄道とが 北東から南西へと通じています。鶴見の総持寺は曹洞宗大本山なのですが 永平寺のような古刹ではなく、20世紀になってから 能登の門前[58330][80281]から移転して来ました[59353]
そして、この付近から川崎にかけての海岸は、大正から昭和にかけて造成された埋立地で、浅野総一郎など実業家たちの名前や家紋由来の地名が付けられている点でも特筆に値する存在です[49270][83552]

京急の駅名で辿ると鶴見の次は花月園前駅で、大正時代から昭和戦前には遊園地でした。戦後の競輪場も現在は廃止。
次が生麦駅。もちろん 1862年にこの地で起きた英国人殺傷事件[54415]により 幕末史を語る上で欠かせない地名です。
地名の由来については [86458]を書いたので参照願います。

次の新子安になると既に神奈川区ですが、明治19年 地方行政区画便覧の頃には、生麦村の戸長役場管内4村【生麦・子安・白幡・鶴見】に属していました。
戸数1114に達していたこの4村は、明治大合併で「生麦・鶴見」と「子安・白幡」との2村に分離しました。
「明治の大合併」とは言っても、大凡300~500戸という標準は 都市化の始まったこの地域の行政規模を 戸長役場時代よりも縮小させたようです。

「下末吉」は 関東平野の地形学では ちょっと有名な地名です。
例えば東京都地質調査業協会技術ノートNo.44中央線の 図12 を見ると、新宿駅のある淀橋台は「(S)下末吉面」であることが示されています。
関東平野の段丘の中で、武蔵野面よりも古い時代に形成された段丘に「下末吉」の名が使われているのは、最初に研究されたフィールドだからでしょう。
町名としては第二京浜新鶴見橋の西側、三ツ池公園の手前までの一帯であることがわかります。明治大合併による3村時代は旭村でした。

今回の記事では横浜市になる前の生麦付近の様子を主として記しましたが、市制町村制以後の大きな流れとしては、もちろん横浜市における市域拡張の推移があります。

こちらのサイトでは 市の変遷 により 1901年から1939年まで6次に亘る横浜市域の拡張が行なわれ、1927年に初めて設置された5区から現在の18区になった経過もわかります。
しかし、この日本一の人口を持つ市の成長記錄を示す地図となると、横浜市のサイト内を探しても適切なものを見つけることができませんでした。

特集・神奈川区の人口 の 3/12コマに「市域拡張沿革図」があったのですが、モノクロで区との関係も示されておらず満足できません。
統計キッズルームの地図もいまいち。図説横浜の歴史 第4章 横浜市域拡張と区制の施行 というページがありましたが、肝心の図が見当たりません。

結局のところ、横浜市の変遷図については、つかんぼやとさんのパラパラ地図で 神奈川県 を見ることにしています。

参考までに他の大都市を探したら、大阪市神戸市の変遷図がありました。
政令指定都市以外では、WARPに保存されていた長崎市の変遷図を紹介したこともあります[86169]
[86455] 2014年 10月 13日(月)20:24:08hmt さん
生麦・鶴見あたり (1)生見尾踏切
[86439] みかちゅう さん
鉄道の踏切とかガードでも現存しない地名が名称に使われていることもありますよね。東海道線の生見尾(うみお)踏切の由来は1889年3月末に生麦・鶴見・東寺尾の3村の合併で生見尾村が新設され、1921年4月に鶴見町に町制・改称されるまでの間に存在した地名です。

京浜間の電車で 何度となく通過した経験があるはずの踏切です。しかし、「生見尾」という地名は 記憶にありませんでした。
聞き慣れない合成地名に惹かれて、この踏切や付近の地名について調べる気になりました。

この付近は「生麦」という、一度聞いたら忘れられない地名で知られています。
それを差し置いて 読み辛く書き難い「生見尾(うみお)」が踏切の名称に採用されたのは、どのような事情があったのか? 

生見尾の由来は、橘樹郡に存在した村名以外は考えられない。このことから、命名時期は 1889年~1921年の間になります。
これが踏切のできた時期か? 私の推察は No! です。1872年に 日本初の鉄道 が開通するより前から東海道筋の漁村として栄えていた生麦村には、自然発生的な【無名の】踏切道が 最初から存在したであろう と思われます。

しかし、時代が進んで 鉄道と道路との交通量が増加した明治中期以降になると、鉄道企業としても 遮断機など防護施設を整備する 必要が生じてきました。こうなると、鉄道管理の対象設備の一つなので名前が求められます。
その時期が、たまたま橘樹郡生見尾村を名乗っていた時代だったので、生見尾が踏切名に採用されました。
これが、なぜ「生麦踏切」でなく「生見尾踏切」なのか? という疑問から発して巡らした想像の解答です。
当っているでしょうか?

その後の地名は、橘樹郡鶴見町大字生麦から横浜市鶴見区生麦町へと変化しましたが、踏切名は「生見尾」のまま現在まで使われました。
意図したわけではないが 旧自治体名を後の世に伝える機能 を発揮することになったわけです。

JRと並行する京急にも踏切があります。こちらは1905年に京浜電気鉄道として開業した当初から生麦駅が設置されており、踏切の名も生麦第一踏切だと思います。

私鉄の競合線が誕生した後の国有鉄道は、対抗して 1914年京浜間の 省線電車専用線 を開業しました[39140]
昭和初期には 品鶴線経由の貨物線 も開業しました[63856]
戦後の 1980年からは このルートが旅客用に転用されて 横須賀線電車が走るようになりました。
横須賀線と湘南電車との分離【SM分離】対応して増設された 横浜羽沢経由の貨物新線は 踏切の手前で地下に潜ったので、生見尾踏切道は3複線【注】のまま維持されました。しかし、その横断路は距離が40mもあり、路面には高低差もある状態です。
【注】
踏切道を通るのは東海道本線・京浜東北線・横須賀線ですが、その他に地下貨物線【上記】と高架でこの地点を通過する高島線[82973]とがあり、京急を含めると合計6本もの複線鉄道が並行する鉄道輻輳地帯になっています。

2001年以降の湘南新宿ラインを含めて通過する列車数は増加しており、生見尾踏切は「開かずの踏切」になってきました。
踏切道が開く時間は、歩行者の速度 5km/h を想定して計算されているということで、長い踏切道は 足弱の人にとり かなりの難所です。
近くには歩道橋も併設されていましたが、2013年8月には 5km/h の速度に足がついて行けない老人の 死亡事故発生という事態になりました。
そして 横浜市は 生見尾踏切を廃止し、大型エレベーター付きの歩道橋を新設する方針を決めました(神奈川新聞)。
その一方で、生活道路として利用している地元からは踏切の存続を望む声も多く、生見尾踏切問題は安全確保と地域分断とのジレンマで揺れているようです。参照

踏切事故ではないのですが、その50年前 1963/11/9【偶然ですが 三井三池炭鉱爆発事故と同日】には もっと大規模な 鶴見事故 がありました。
その現場は 生見尾踏切から少し先の 神奈川区との境界である滝坂踏切付近でした。下り貨物線で 脱線した貨車が 隣の東海道本線に障害を及ぼし、進入してきた横須賀線上下線電車との多重衝突を起した事故です。死者161、重軽傷120。
[86447] 2014年 10月 8日(水)16:41:07【1】hmt さん
明石地区
[86442]白桃さん独自の全国14ブロック区分
阪神:大阪府、兵庫県(摂津地区、明石市)
[86443]ペーロケさんから付けられた物言い
神戸市にも非摂津が。。。

最も簡単な解決策は「明石市」を「明石地区」と修正することでしょう。
「明石地区」とは 市制町村制施行時点において播磨国明石郡であった1町11村の地域を意味します。
この地域名が世間一般に通用しているかどうかは知りませんが、第1回国勢調査の前年に明石市になって離脱した明石町のことを考えると、これをストレートに「明石郡」と呼ぶことには憚りがあるので、会津地区に倣って明石地区と呼ぶことを提案します。

県域の変遷 に示されているように、明治9年(1876)に生れた第3次兵庫県は 3府72県時代の第2次兵庫県が 飾磨県の全部・豊岡県の西半分・名東県の淡路を統合して一気に拡大した(面積で9倍、人口で6倍)ものでした。
不自然とも思われるこの巨大な県の誕生については、当時の実力者・大久保利通の意向があったことを[54430]で記しました。

白桃さんの14ブロックでは、現在の兵庫県は3つのブロックに分属します。これを3府72県時代とおおまかに対比すれば、阪神ブロック地域が第2次兵庫県(摂津国)、白桃ブロック地域が飾磨県(播磨国)と名東県(淡路国)、畿内ブロック地域が豊岡県(丹波国と但馬国)という形です。3ブロックに分断された兵庫県は、府県制発足初期の姿を反映しているとも言えます。

その中で注目されるのは 明石地区です。

[52196]むっくんさんの記事は、国郡制度によって畿内や山陽道が作られた時代の認識を、源氏物語により説いています。
すなわち、ギリギリ畿内である摂津の須磨に流された源氏の君は、地理的にはすぐ西であるが 畿外である播磨の明石の入道が 風流を知る人であることを知り驚く という場面設定です。
みやこ人の常識としては、摂津の須磨と播磨の明石との間には 深い文化的な溝があると考えられていたのです。

しかし、近代になり 開港場として勢力を増し 六大都市の一つになった神戸の影響力は「播磨国明石郡は山陽道」という国郡制度の枠を超えて明石に及んできました。
1934年7月に運転を始めた阪神間の省線電車の運転区間は吹田-須磨間でしたが、9月にはそれが明石まで延長されており、明石が既に阪神都市圏の西端の地位を占めていたことが裏付けられます。

そして、明石郡の町村の行方を追うと 明石町は1919年に明石市として独立しました。そして、1941年の垂水町を始めとして1947年までに9町村が神戸市に編入され、1951年の大久保町・魚住村の明石市編入で明石郡が自然消滅しています。
このような経過により、過去には山陽道播磨国であった明石地区は、名実共に阪神ブロック地域に組み入れられました。

もっとも 「山陽」や「中国地方」が常に播磨国以西であったかというと、そうも言えないようです。
神戸を含む兵庫県が「近畿2府3県」に含まれず「中国地方6県」の一つになっている新聞記事(1932年~1942年)。
東海道本線と山陽本線との境界は神戸駅。新幹線では東海道と山陽との実質的区切りは新大阪駅。
元和5年(1619)に大坂の京橋まで延伸された東海道[52196]。西国街道(山陽道)との区切りは摂津大坂。
どうも境界というものは国境や県境で固定されたものでなく、「明石地区は阪神ブロック」というように、ケースバイケースで使い分ける。そのように考えるのがよいようです。

参照した過去記事


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