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hmtさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[94719]2017年12月17日
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[94680]2017年12月8日
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[94133]2017年11月5日
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[94132]2017年11月5日
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[94126]2017年11月4日
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[94082]2017年10月25日
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[94036]2017年10月19日
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[93977]2017年10月10日
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[93949]2017年10月6日
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[93947]2017年10月5日
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[93865]2017年9月24日
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[93863]2017年9月24日
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[93859]2017年9月24日
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[93824]2017年9月20日
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[93802]2017年9月19日
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[93788]2017年9月18日
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[93763]2017年9月15日
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[93740]2017年9月12日
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[93713]2017年9月8日
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[93710]2017年9月8日
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[93667]2017年9月4日
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[93634]2017年9月1日
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[93622]2017年8月31日
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[93581]2017年8月27日
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[93101]2017年8月11日
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[93095]2017年8月10日
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[93088]2017年8月8日
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[93080]2017年8月6日
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[93077]2017年8月4日
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[93067]2017年8月2日
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[94719] 2017年 12月 17日(日)18:09:00【1】hmt さん
Re:1934年7月30日発行50000分の1地形図「東京西南部」
[94708] Takashi さん
印刷日は1934年7月25日で、発行日は1934年7月30日なのですが、現在の東京都品川区、目黒区、大田区、世田谷区、渋谷区にあたる地域がまだ町あるいは村のままの状態で残っております。(ちなみにこの地域の町村が東京市に編入されたのは1932年10月1日)
(中略)この地図が発行されている頃には当然この地域は東京市の一部になっているわけですから実態を反映していないことになるですけど、当時の地形図というか測量を実施した帝国陸軍としてはそのあたりが実態を反映していなくても問題なかったものなのでしょうか?

先ず 5万地形図東京西南部の図歴を確認しました。 

1934年7月30日発行の図はリスト番号76-7-26という末尾になっており、リストへの追加は近年と推察します。
発行年月日の近い図を拾い出して、発行日順に並べると次の通りです。
リスト番号測量年更新履歴発行年月日備考
76-7-51929修正1931/6/30
76-7-261932要修1934/7/30Stanfordによる公開図
76-7-71932要修1946/9/30
76-7-81932要修1947/10/30
76-7-91948資修1948/10/30
76-7-101951資修1951/5/30
76-7-111952資修1952/6/30hmtの手元にあった図

Stanfordによる公開図は「戦前最後に発行された東京の地形図」という位置付けができますが、東京市35区体制発足(1932/10/1)から2年近くも後の発行であるにもかかわらず、行政区画変更が反映されていません。
しかも戦後の1946年まで次回の新版が発行されていません。

念のため、2.5万地形図【東京南部、東京国際空港、東京西南部、川崎】の図歴を見ると、戦前最後の発行は1932/10/30で、これも東京35区が反映されているとは思われません(未確認)。

1932年というと 日米戦争になるのは まだ9年も先のことです。東京市が35区になったことは、日本人にとっては知らぬ人はない公然たる情報なのですが、仮想敵国を抱える「その筋」としては、軍事情報の観点から地形図の更新や公開にまで気を使っていたようです。

もちろん世の中には「大東京35区」の地図が出回っているのですから、地形図だけに このような情報統制をしても実効は全くないと思うのですが、「防諜」という錦の御旗を掲げた「その筋」の圧力を感じることにより「地形図の更新や公開さえも ままならない」という状況が既に発生しかけていたのではないかと推測されます。
今年のニュースで忖度という言葉が話題になりました。
権力者の何気ない行動が あらぬ結果を招いてしまう。そのような気風は、戦前からのものでしょう。

それはさておき、地形図の更新履歴 用語説明を抜粋しておきます。
修正:修正測量の略。時代の変化に対応して、空中写真や現地調査を元に変化した部分を地図の全範囲について修正すること。
要修:要部修正の略。鉄道、道路、埋め立て地など、大きな変化ではあるが面積的には狭い範囲を修正すること。
資修:資料修正の略。市町村の合併や鉄道の新設など、比較的大きな変化のあった場合、その項目だけを官報や関係機関からの資料だけで修正すること。現地調査は行ってない場合が多く、特定の項目しか修正していない。

偶々hmtの手元に リスト番号76-7-11の図【地理調査所発行】があったので、図外左側に記載されていた更新履歴も確認しておきました。
明治42年測図 昭和4年第2回修正測図 同7年要部修正測図 同27年資料修正(行政区画 鉄道 主要道路)

民間の地図でなく、「国の作った地形図」において 東京35区が出現したのは何時からか?

日本図誌大系関東I(朝倉書店)p.48に掲載された地形図に「世田谷区」の表示を見つけました。
戦後になった1945年から早速に修正作業が行なわれ、1947年に発行された 2.5万地形図に至り、ようやく東京35区、…いや既に【22区を経て】23区か…の名が地形図に掲載されたのではないか?
私はこのように考えています。
[94680] 2017年 12月 8日(金)18:50:31【2】hmt さん
Re:篠山市は「丹波篠山市」になるのか?
[94670] 今川焼さん
平成の大合併では嚆矢となった篠山市ですが、此処へ来て頭に丹波の2文字をつけるべしという具体的な動きが出てきました。(中略)
最近になって農産物の生産地に関する表示方法が厳格化され、これまでのように篠山市産だからといって丹波篠山産と簡単に表示できなくなってきました。

引用された神戸新聞記事に登場する産品は「丹波篠山黒大豆」でしたが、兵庫県の発言が気になりました。
-------------
丹波篠山産の表記は直ちに違反であるというわけではないが、消費者の誤解を招かないようにすることが最も重要
都道府県や市町村の名前のほか、旧国名など「一般に知られている地名」が認められている。ただ、丹波篠山が篠山市以外を指す例も見られるため、消費者が誤解しないよう県は「丹波篠山産」ではなく「兵庫県篠山市産」にするよう求めているという。
-------------

原産地表示に関して詳しいわけではありませんが、この問題を巡る世間の情勢について、少し記しておきます。
原産地問題については、伝統的にヨーロッパが先進地です。

明治時代の日本、外人宅で「ポートワイン」を口にした鳥井信治郎は、その甘味が日本人の口に合うことを知り、いろいろ工夫した結果 日本人向けの葡萄酒製品を作り出しました。110年前のことです。
ポルトと言えば 発酵途中のワインにブランデーを加えた独特の製法により 糖分やアルコールを多く含む 保存性のよいポルトガルワインの輸出港で、ヨーロッパでは知らぬ者なき存在だったのですが、極東の日本ではそのような事情も知らぬまま「甘い葡萄酒」とぐらいの意味だと思って「赤玉ポートワイン」という商標を付けてしまったのでしょう。

この名は60年以上も使われてしまったのですが、さすがに本家筋・ポルトガルからの抗議もあり、1973年には「赤玉スイートワイン」に変更しました。サントリー
余談ですが、三ツ矢サイダーも「シャンペンサイダー」という名だった時代がありました。この名は、現在は飲料でなく駄菓子に残っているようです。

昔話はさておき、篠山市問題とも関係ありそうな 現在の国際貿易関係として、EU(ヨーロッパ共同体)主導で進められている「地理的表示(GI:Geographical Indication)保護制度」があります。ジェトロ

地理的表示とは、ある製品が特定の国や地域を原産地としており、その品質や評判等の特性がその原産地と結びつきがある場合に、その原産地を特定する表示を指しています。世界的に広く認知されている例:シャンパンやパルマハム。

EUは、2国間の自由貿易協定(FTA)で GI保護条項を含むよう交渉しており、2013年から行なわれていたEUと日本との間の経済連携協定EPAの交渉は、2017年7月6日大枠合意に達しています。
これを伝える 財務省サイト は長文ですが、その中から地理的表示に関連する部分を抜粋します。「2 日EU・EPAの大枠合意のポイント」の中にある〈GIの相互保護:日本産品の魅力発信・輸出促進〉という部分です。
-------------
EU由来の制度である地理的表示(GI:Geographical Indication)*9【末尾近く】は、EU側の関心事項だが、日本側も既に法整備し【下記参照】日本GIの保護を強化している中、日EUが互いの農産品及び酒類GIを保護し合うことに合意した*10。今回の合意によって、日本のGIの生産者が、EU側に直接申請手続を行わなくとも、EUにおいて保護されることになる。これにより、日本GIの国際的保護の確立だけでなく、日本産品の輸出の促進にもつながることが期待される。
今後、国内法に基づいて公示手続を行い、相互に保護を求めるGI産品が確定される予定である。保護する産品や具体的な保護のルールは、公示手続の結果も踏まえて決めることになる。
-------------
*9) 地理的表示制度は、産品の確立した品質や社会的評価がその産品の産地と本質的な繋がりがある場合において、その産地名を独占的に名乗ることができる制度。欧州を中心に古くから国際貿易の主要産品として取引されてきたワインの原産地呼称制度が起源であり、EUは、農産品、ワイン、蒸留酒について独自のGI制度がある。日本は、ぶどう酒と蒸留酒について、国税庁が1995年にWTO協定の一部である「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS協定)の範囲内でGI制度を施行し、2005年に清酒、2015年に全酒類に対象を拡大。農林水産省が2015年に農産品全般を対象とする独自のGI制度を導入。

上記のように、今回の大筋合意に先立って 特定農林水産物等の名称の保護に関する法律(平成26年法律第84号)が制定され、2015/6/1から運用が開始されています。出典
今回の合意により、国内でのGI登録だけでEU域内で保護されることになります。

登録産品一覧  更新日:平成29年11月10日 担当:食料産業局 知的財産課
丹波篠山の黒大豆についても登録出願中であると思われますが、未登録状態であり、どのような名称や産地を特定して出願されているのか 私は知りません。
しかし、適正に選定した「名称と産地の組合せ」による登録が実現すれば、市の名称まで変える必要はないのではないか?
私はこのように考えています。

酒類の登録については、別に国税庁の資料がある筈ですが、未調査です。
[94133] 2017年 11月 5日(日)14:13:47【2】hmt さん
自治体庁舎の標高
[94131]稚拙さん
こういう重箱の隅の日本一をさがせる人は尊敬します。

驚くほど多種多様なデータについて、日本一だけでなく、都道府県の順位までグラフ化して示してくれているのが、都道府県データランキングです。

その中の「地理・気象系」には「最高点」もありますが、自治体庁舎標高は まだ対象になっていないようです。
でも、futsunoおじさんの『自治体の最高点』コレクションには、庁舎標高も記録されています。群馬県

グリグリさんならば、新聞記事よりも ずっと見易い形で、自治体庁舎標高を示してくれるでしょう。
(…と、横から勝手に期待する)
[94132] 2017年 11月 5日(日)13:07:02hmt さん
世界津波の日 
今日 11月5日は、2015年末の国連総会本会議決議で制定された「世界津波の日」です。外務省

我が国では 大きな津波被害を受けた 2011年の東日本大震災の後で「津波対策の推進に関する法律」が制定され、この法律で毎年11月5日を「津波防災の日」とすることとしているのですが、国連の場も利用して全世界への啓発活動を進めるために「世界津波の日」を制定したというわけです。

ところで、「11月5日」を選んだ理由は?
安政元年(1854)の南海地震発生日です。その前日には安政東海地震が発生しています。
160年余を経過した現在も 日本の南にある駿河トラフ・南海トラフを震源とする 連続巨大地震津波の脅威が語られていることは、ご承知の通りです。

日本海溝を震源とする三陸など、他にも大きな津波被害地がある日本で、何故 安政南海地震津波が教訓とされるのか?
それを解くキーワードが「稲むらの火」です。
1944年に国民学校5年生だった私が使った 初等科国語6 をリンクしておきます。
稲むらに放った火を目印に 低地に住む村人を高台に誘導した行為は、緊急時の防災活動の教訓として、多くの日本人の心に染み付いていました。

この教科書自体は戦後に廃止されましたが、防災教育の一環として この話を現在に復活 という声も聞きます。

小学生のマガジン編集者誕生を祝い、昔の教科書の紹介と併せて、関係過去記事を収録した 記事集を提供しておきます。

世界津波の日に関しては、[89254]の末尾に記してあります。

最後になりましたが 特急とりあたま さんに 伝えておきたいこと。

 何時か必ず来るぞ!! 東海地震にご用心。
[94126] 2017年 11月 4日(土)20:34:34【2】hmt さん
沖縄県での明治合併
沖縄県最北部に位置する伊平屋村で 1939年に行なわれた分村[94036]について記した際に気づいたこと。
それは、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行時の変遷情報に記された 変更前の村名が、既に前地・後地8村統合後の「伊平屋村」になっていたことでした。

ご承知のように本土3府42県の大部分では、市制町村制という新制度施行と同時に「旧制度=郡区町村編制法に基づく区町村」の統合が行なわれ、新たな「市町村」に再編されました。
下記の5県で市制町村制施行に先立って行なわれた統合[78760]。これは例外的な事例と思っていました。
宮城県(区への境界変更を含む)、茨城県、千葉県、神奈川県 明治22年3月31日(新制度施行の前日)
静岡県(町村) 明治22年3月1日(新制度施行の1ヶ月前)

1908年の沖縄県における新制度施行。変更前の村名は統合後のものだ。沖縄も5県と同様の「2段階処理」? 
この疑問に答えてくれたのが、[94107] ekinenpyouさんの記事で、次のように記されていました。
従来は旧村名が記されていたようですが [69110][69541]むっくんさんの記事などを参考とした上で、「旧村はM41.1.1に従来の間切・島が村へ名称を変えた際に字となり消滅しているため、M41.4.1に合併は行われず」という認識のもと記載しない形で修正が行われたようです。

いやー、hmtマガジンに特集 琉球の歴史を作っておきながら、落書き帳過去記事を見逃しており お恥ずかしい次第。

ポイントになる [69541] むっくんさんの記事も、マガジンに追加収録します。
この記事は沖縄県の2区5郡設置(1986/4/1)以降の年表になっており、1899(M32)/1/1施行の 明治31年勅令352号(沖縄県間切島規程)にも言及されています。

実は私は「間切」という言葉にはあまり馴染みがなく、この規程を読んだのも初めてかと思っていました。
しかしこの規程を読んでみると、間切は法人格や課税収入・間切島会などを持ち、自治体と呼んでもよいような地方団体であることを知り、[84179]でも同じようなことを書いていました。
注意すべきなのは、私の記憶力のようでした。

具体的に存在する間切や島の名称は、明治26年の沖縄旧慣地方制度に収録されていました。
これを使って、1908/1/1に行なわれた「沖縄県での明治合併」を検証してみることにしました。

沖縄本島の南部地区である島尻には 後に那覇区・首里区となる市街地の外に 15間切が存在しました。
この15間切が1908/1/1に15村【ソンと読む】になり、その中の兼城村の一部から糸満町が分立[84179]したので、1908年の新制度発足時には 本島島尻郡に1町15村。離島の慶良間島と久米島にあった各2間切、そして間切ではなかったが伊平屋島・粟国島・渡名喜島の3島も それぞれ島尻郡所属の村になったので、島尻郡の町村数は1町22村という結果になりました。

これを [69541]でむっくんさんが列挙してくれた島尻郡23町村と対比してみると、ほとんど一致しています。
つまり、間切島規程が制定されるより前から存在した間切や島の名が【糸満町だけは例外として】そっくりそのまま 1908年新制度の自治体に移行したことが分かりました。

同様に本島中頭の11間切→中頭郡11村。本島国頭の9間切+伊江島→国頭郡10村。
先島諸島や大東島は別として、沖縄本島 + 近接した島々 = 沖縄列島 については、旧慣地方制度に記された間切主体の区分から 1908年の沖縄県及島嶼町村制への移行が、ほぼ完全な形で実現したことを確認できました。

参考までに、旧慣地方制度に記録された村【ムラ】を数えておくと、次の通りでした。【注】
本島島尻 161, 伊平屋島・粟国島・渡名喜島 40, 本島中頭 157, 本島国頭 130 + 伊江島 5 = 135. 合計 493
【注】
[69542]に引用されている IssieさんのHP「市町村の変遷 沖縄県」に記されていた解説はリンク切れです。
村は旧区画における間切内の区分としては「むら」,町村制(沖縄及島嶼町村制)施行による旧間切については「そん」と読む.

沖縄県の変遷履歴情報の将来
沖縄県についても、宮城・茨城・千葉・神奈川・静岡各県について示されている「市制町村制施行直前の廃置分合等」と同様の「一面真っ赤リスト」が作成されるのが理想だろうと思います。
むっくんさんも[69541]で当面 1908/4/1時点の表記としては 統合された村【ソン】段階での記載を示しましたが、将来は統合前の村【ムラ】が記載されることを期待しています[69110]

しかし、今回の一連の検討により、沖縄本島近くに関する限り、明治合併による大きな変化がないことを確認することができました。
これにより、昔の間切主体の旧慣時代から現代までの変遷を概ね把握できるようなので、現状の変遷情報でも ある程度満足できる。そのように思っています。
[94082] 2017年 10月 25日(水)17:44:53【1】hmt さん
明治18年 葱畑?に作られた 大阪ミナミの鉄道ターミナル
[94063] ekinenpyou さん
明治39年、帝国議会における鉄道国有法審議に関する詳細な議事録を紹介していただき、ありがとうございます。
そして、同時にご紹介いただいた南海鉄道の『開通五十年』(昭和11年)に記された 阪堺鉄道開業当時の難波界隈も 興味深く読ませていただきました。

難波の名産であった葱【注】の畑に作られたという難波駅。南海線の前身・阪堺鉄道による用地買収は、私鉄でありながらも「公用土地買上規則」による評価で行なわれたことなど、政府の手厚い保護があったことを知りました。
予定地内の人家立退料として記された地名が「六番町」と「難波村」でした。
【注】ねぎ
だから、葱を使った料理のことも「なんば」という。しかし、この説には 疑問もあるようです。

六番町とは、大阪に市制が施行される前の 郡区町村編制法による大阪府4区の一つ「南区」にあった 難波新地六番町を指し、私が[83142]のタイトルとして記した 
「なんば」が まだ「大阪」でなかった頃
が不正確な表記であったことは ご指摘の通りです。
難波新地も元は難波村でしたが、明治初期に大阪の市街地が拡大して難波新地一番町から六番町への再編成となったようです。

なお、難波村の方は大阪府西成郡の4つ目に記されており、明治22年の町村制施行によって新制度の 西成郡難波村 になりました。
# ふりがなに用いられた「ば」という文字が読めますか? 現在では殆ど使われていない変体仮名です。

買収地価や立退料が六番町と難波村とで差が付けられてないところをみると、難波駅建設当時には市街地と郡部の区別がつかないほどになっていたのかもしれません。

西成郡難波村の大阪市編入は明治30年。変遷情報を見ると「西区に編入」となっています。難波新地の南区とは異なる区になったのでしょうか? 
その後 浪速区への編入や境界変更があり、南区だった難波駅の住所も 現在は中央区になっています。

hmtマガジン市街地乗り入れに成功した鉄道の冒頭では、1972年の初代新橋駅を「例外的に市街地に入り込んだ 形」と書きましたが、市制施行よりもずっと前の明治18年に「区部(市街地)の鉄道駅」となっていた難波駅も、市街地駅の先駆として特筆に値する存在なのかもしれません。
難波という地名も、駅施設の所在地も市街地と郡部との境界に跨っていますが、「駅の住所」は確かに大阪市です。

[94063]ekinenpyouさんクイズの答えに付け加える蛇足
この記事で挙げていただいた明治32年の官報附録 全国各鉄道停車場名称及位置並哩程表の時点になると、大阪市の第一次市域拡張後なので、「大阪駅」の所在地であった曽根崎村も 既に北区に編入されています。大阪市域拡張図(1)
[94036] 2017年 10月 19日(木)19:58:35hmt さん
沖縄県島尻郡伊平屋村の分村
[94000] ekinenpyou さん
なお「分割」ですが、新設自治体名に従来と同じものが継続して使用された場合
「分立」と区別し難く混同されるケースがあるので注意を要します、

例示していただいた昭和14年の伊平屋村分村の件を少し調べてみました。

初めに、この村が存在する特異な位置を確認する目的で、北緯27度を中心とする地理院地図を示します。
一口で言えば、鹿児島県南端の奄美群島与論島と同緯度、沖縄県最北の村です。無人の硫黄鳥島[28741]は別。

沖縄本島 本部(もとぶ)半島の北方に見える群島がそれで、南の伊是名島は前地(メーヂ)、北の伊平屋島は後地(クシヂ)と呼ばれます。小さな無人島まで数えると7島ある「伊平屋の七離」です。有人島は野甫島を含めて3島だけ。

琉球王朝第一尚氏発祥の地と伝えられる伊平屋島と伊是名島とは古くから「伊平屋島」と総称される一つの行政地域になっており、琉球王府の番所は伊是名島に置かれていました。
1879年の琉球処分により沖縄県になった後もその状態で、前地・後地にそれぞれ4村がありました。

そして、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行で 島尻郡伊平屋村(いへやそん)という自治体が発足しました。
沖縄県でも、本土と同様に これに合わせた明治合併が行なわれました。旧村は後地(伊平屋島)に属する旧4村(我喜屋村, 田名村, 島尻村, 野甫村)と前地(伊是名島)に属する旧4村(伊是名村, 仲田村, 諸見村, 勢理名村)の8村でしたが、沖縄では 旧村は末尾を【ムラ】と読み、新制度による自治体の読み【ソン】と区別されています。

町村制施行時の変遷情報には旧村名が記されていません。
神奈川県などいくつかの県で行なわれたのと同様に、制度変更に先んじて直前の合併を行ない、その後で 新制度を施行するという2段階の処置が行なわれたのでしょうか?
それとも、単なる旧村の記載漏れか? 私には何れが正しい関係を示すものか判断できません。

前置きが長くなりましたが、1908年の新制度から31年後の1939年に実現した 前地と後地との分村 が本題です。

沖縄県が官報広告・村廃置に記載した文面には「島尻郡伊平屋村を廃し」伊是名村・伊平屋村を置く とあり、確かに 旧伊平屋村の法人格を引き継がない「分割」であると判断されます。

伊平屋村の歴史には、伊平屋村分村の動機として「村役場が伊是名島にあったので不便」であることが挙げられていました。
------引用文-------
村役場が伊是名島に設置されていたため、諸会議、役員吏員、一般民衆の不利不便は想像を絶するものがあり、村議会に分村問題を提起も取り上げ採択されず、民衆は苦境になげく状況が続きました。しかし、分村熱はますます高まり、大正5年伊平屋島(後島)有志が伊是名村との分村請願書を沖縄県に提出。伊平屋においては「分村期成会結成会」も結成され、住民の意向をうけた村議会、村当局も国、県に請願したことで、分村が実現の方向に進み県当局、県議会の調査決議を経て、ついに昭和14年5月23日、内務省令により分村許可、百有余年の懸案であった伊平屋島(後島)住民の嘆願が実現のものになりました。
------引用終-------

ここに記されているように 主な分村動機があったのは 後地側であったようです。
もっとも、これは 後地が前地と同じ村になっているのを嫌った とかいうことではなく、一つの行政地域として統治するならば必須である筈の「交通手段が整えられていなかった」ことに根本原因があるのだろうと思います。

当時の経済事情からして、前地と後地とを結ぶ村営渡船を実現することが困難ならば、解決手段は「分村」です。
役場で代表される公共機関から隔絶されており、分村を希望した 後地側を 伊平屋村のまま「分立」とし、残留する前地側は 同名回避を兼ねて 伊是名村への「改称」で処理する。これが妥当な処理であるように思われます。
前地が多数を占める分村後の国勢調査人口も「後地分立」説を支持しているようなのですが、歴史が関係する「名称の維持」が決め手になって、「分割」に落ち着いたのでしょうか。なお、面積は後地>前地でした。

地域村名面積194019501955196019651970197519802000200520102015
前地伊是名村15.42365255745689503743873279228621441897176215891517
後地伊平屋村21.82271039854008363130832254133815011530154713851238
1939分村km21940琉球琉球琉球琉球琉球1972復帰19802000200520102015

それにしても、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行で名乗ったのが、何故「伊平屋村」だったのか? など疑問は残ります。歴史的価値から伊平屋が上位だったのでしょうか。

役場支所を作るなど別の解決法もあったように思うのですが、それだけではなく、他の地域格差もあったのでしょう。「百有余年の懸案」との記述は、この分村問題には 役場以外の理由も潜んでいるように思われます。

せっかく手に入れた役場庁舎を分村後間もない 1941年に失火で失うなど、思わぬ災難もありました。
更に大きな災難は、言うまでもなく沖縄県が戦場になったことです。伊平屋島にも 艦砲射撃・空襲・米軍上陸。
住民は捕えられて、米軍に命じられた強制労働に使役されました。
1945/11/22米軍が伊平屋から引き揚げて、収容所から開放され、焼土になった集落に帰ることができました。

話を変えます。
伊平屋村と伊是名村との違いの問題でなくて共通の問題ですが、沖縄県の北部にありながら「島尻郡」に帰属している点があります。
実は、上記人口表で琉球と記した期間は米軍統治下ですが、当時は国頭郡に相当する「北部地区」に含まれ、そのために 1970年に日本で使っているものに準じるコードが採用された際にも316と317が付けられました。
これについては、[27598] Issieさんの記事があります。

最初に示した地図から明らかなように、地理的には沖縄県の最北部にある村なのに、琉球王国時代・戦前の日本・戦後の日本復帰後を通じて「島尻」所属である理由。これを明らかにした資料を紹介したのが、[69111] hmtの記事です。

最後に問題の発端となった分割と分立との区別について。

用語としては法人格を受け継ぎ方により厳密に区別されていると思います。
しかし 分村の実務にあたり処理の対象となるのは 法人格だけでなく、名称・役場・人事・財産など多岐にわたります。
分村手続における分割・分立。これに基づいて、単純に「分村の実態」を推察することはできないようです。
沖縄県北部の事例を調べた結果、このような結論を得たことを この記事の結びとして記しておきます。
[93977] 2017年 10月 10日(火)19:56:02【1】hmt さん
分属・分裂の使用事例 そして トカラのこと など
[93971] ekinenpyou さん
1 若い方向け?のクイズ
 これは、対象者から除外されていると思われるので、パスします。(笑)

2 分属・分裂の使用事例
 明治19年茨城県における「分属」の使用例、同年長崎県における「分裂」の使用例を拝見しました。

 郡区町村編制法の時代なので、普通ならば「長崎県肥前国東彼杵郡大村を分裂し大村町を置かれたり」と書くところが、『駅逓局報』なので わざわざ「…大村郵便区市内大村を分裂…」という表記になっていると解釈しました。

この大村「分裂」が現在の用語では「分割」なのか「分立」なのか?
3年先の明治22年町村制施行時には、(旧)大村から村制で「大村」と「西大村」が生まれ、(旧)大村町から町制で「大村町」が生まれています。
この結果を参照すると、明治19年の旧制度における廃置分合は、農村と市街とを含んでいた(旧々)大村から市街地が大村町として「分立」し、農村部は(旧)大村として存続したと解釈されます。

「地所幾分を裂き」の使用例として示していただいた富山県の事例は、「一部を分けて」という程度の意味で使われており、「分裂」が「分割」を意味することまでは示していないと思われます。

3 戦前の鹿児島県大島郡十島村【じっとうそん】から現在の鹿児島県鹿児島郡十島村【としまむら】と三島村へ

[93971]で提供していただいたこの地域の「格差」を示す羽原論文。指示していただいた 15コマを見たら
太平洋戦争の終結すら、その年の11月になってはじめて知ったという。
離島であることは承知していた筈ですが、この「情報格差」には驚きました。

日付や表記など 問題もあったようですが、トカラにとって大きな転機だった 1952年の日本復帰と分村とを中心とした動きは、変遷情報一覧表によって 一応辿ることができます。
これを肉付けする 主な落書き帳過去記事をまとめておきました。ご参考まで。

【追記】
この記事集を見ていたら、敗戦後間もない頃の占領軍指令により北緯30度以南の施政権が失われた結果、当時の十島村【じっとうそん】の領域が上三島に限定されることになったことを告げる 内務省告示昭和21-22が記されていることに気がつきました[82237]

村の面積が縮小する事例は多数ありますが、主なものは他の自治体への一部編入によるものであり、軽微な場合は境界変更の手続きによります。
1946年の十島村のケースでは、有人島数が10から3に減少し、人口もそれに応じて3分の1になる。
この大きな変動が、廃置分合でも境界変更でもない手続きで行なわれた事例。これは珍しいと思いました。

官報(右上)によりその名目を確認したところ、「(地方事務所の)管轄区域改正」という名で告示されていました。
鹿児島県大島郡十島村の内 黒島、竹島、硫黄島

変遷情報に収録すべきか否かはグリグリさんにお任せするとして、珍しい事例だと思うので紹介しました。
[93949] 2017年 10月 6日(金)17:48:17【1】hmt さん
♪汽笛一声新橋を… 鉄道唱歌(1900年)334番の旅の終着駅はどこでしょうか?
間もなく10月14日。「鉄道の日」です。

10年前の秋の落書き帳で、100年前、国有化の頃の鉄道というシリーズ記事を連載しました。

事の起こりは、Issieさんが「鉄分いっぱい」に書いた[61073]中の1句「なぜかその南海が国有化されなかったにもかかわらず」に反応した単発記事だったのですが、記事を2つ書いているうちに欲が出て、タイトルを変更してシリーズ化してしまったのです。
その対象も 五大私鉄買収を中心とした 1906年から1907年にかけての国有化に留まらず、買収されなかった私鉄や、鉄道とは別物と考えられていた 軌道や電車などにも及び、自分でも予想外の長編になりました。

最終回は「明日、2007年10月14日「鉄道の日」は、新橋横浜間鉄道の正式開業[49808]から135周年になります。
大宮に 鉄道博物館 が開館します。」と結んでいます。

5年前には日本の鉄道創業 140周年を機会に hmtマガジンに 鉄道特集号 を作り、創業期の鉄道と共に 上記シリーズも収録しました。

鉄道創業145周年になる今年は、お馴染み「鉄道唱歌」を取り上げることにします。

この歌は、明治33年 西暦1900年に世に出ました。日清戦争と日露戦争との間です。
東京【駅名は新橋】神戸間の鉄道は既に1889年に開通していますが[61303]【名称の東海道線はM27年[87465]】、山陽鉄道のような幹線でさえ 未だに建設途上という時代でした。

車内放送のチャイム音しか聞いたことがないという方もあるかもしれませんが、1番の歌詞が「♪汽笛一声新橋を…」で始まることは、広く知られています。

作詞者は大和田建樹。七五調4句の歌詞に付けられた 調子の良い ヨナ抜き ピョンコ節のメロディーは 覚えやすく、今も歌われていますが、それは冒頭のごく一部に限られています。

レコードもラジオもなかった時代、歌をビジネスに結びつけたのは、版権を買った大阪の楽器店主・三木佐助です。
楽団を乗せた列車を走らせるなどの 奇抜な広告宣伝が成功・大流行した結果、明治33年内に第五集まで出版された 歌本はベストセラーになり、十数年間に約2000万部を売ったと伝えられています。

歌詞はすべて大和田建樹作詞ですが、各編2種類の曲を用意して 読者の好みに合わせる趣向も用意されました。
しかし ヒットしたのは多梅稚(おおのうめわか)作の曲であり、これが現在に歌い継がれています。

リンクした資料は明治44年発行の訂正版でした。よく見たら明治33年発行の初版から変っている箇所が 気になりました。電車ソング集で使われている歌詞の方が オリジナルに近いので、こちらも付けておきました。

日本各地の名所を含めて巡る汽車の旅を綴った長い歌詞が存在したことは、現在では忘れられています。
第一集 東海道を見ても、【6番】横須賀行は乗り換えと 呼ばれて降るる大船の 次は鎌倉鶴ヶ岡 源氏の古跡や訪ね見ん という具合に10番まで寄り道します。琵琶湖・京都・大阪・神戸と 寄り道を重ねながら 66番で東海道の旅を終えます。

その後、第二集は「♪夏なお寒き布引の 滝の響きを後にして 神戸の里を立ち出ずる 山陽線路の汽車の道」とスタートするのですが、25番の三田尻【防府】で「山陽線路の終にて 馬関【下関】に伸ばす汽車の旅」。
そこで少し戻って「徳山港を船出して 二十里行けば豊前なる 門司の港に着きにけり」となります。
鉄道は未完成ですが、日清戦争後という時代を反映して馬関条約にも言及。
31番から九州の旅。宇佐・箱崎・太宰府・熊本。八代から鳥栖に戻り佐世保・長崎に進み68番で終りますが、「あとは鉄道一筋に 瞬く暇よ青森も」。

…というわけで、第三集の東北・磐城が 64番まで、第四集の(上野から信越を経て)北陸編が 72番まで。
2003年の落書き帳[8880]に、鉄道唱歌第三集 1番と62番 の歌詞が引用されていました。

そして、明治33年の内に第五集(関西・参宮・南海)までが発表されました。これが 64番まであるので、累計334番になります。

全国を巡った鉄道の旅の終着駅こそ、南海鉄道の難波駅だったのでした。
♪治まる御代の天下茶屋 騒がぬ波の難波駅 勇みて出る旅人の 心は跡に残れども

これで、難波駅の昔話[93908][93912]にも関連した記事になりました。

おまけ
1 北海道唱歌・南の巻は明治39年に、北の巻も明治40年に作られました。大和田建樹の作詞で鉄道唱歌334番に40番まである北海道を加えると374番になります。
「千里の林万里の野 四面は海に囲まれて 我が帝国の無尽庫と 世に名ざさるる北海道」
函館から北海道を巡った終着駅は室蘭で、「青森までは海一つ」と歌われています。

2 大和田建樹(宇和島出身)は、明治41年に伊予鉄道創立20周年を記念して作られた 伊予鉄道唱歌も作詞しています。
[93947] 2017年 10月 5日(木)16:20:42【1】hmt さん
ようこそ ekinenpyou さん
ekinenpyou さんのお名前は 2014年11月のグリグリさんの記事[86602]で初めて紹介され、その直後には最初の落書き帳記事[86631]がありました。
2014年に2件、2016年に3件の書き込みがあった後、先日(2017/10/2)メンバー登録が実現しました。

5件でのメンバー登録実現は、2005年の たもっちさん(7件で登録)を上回る快挙だろうと思いますが、これも ekinenpyouさん の調査実績が グリグリさんに買われての結果であろうと 推察しています。
これから、よろしくお願いします。

メンバー登録の翌日に、私がギブアップした明治時代の変遷記録調査について、早速のレスポンスを頂きました。
その御礼を兼ねて、落書き帳への歓迎の辞と共に、明治の分村事例2題に関する記事をまとめてみました。

[93942] ekinenpyou さん

1 明治37年実施 木造町関係の分村手続
1903(M36).10.3青森県告示第308号ですが下記(右下)にて確認できます。

明治44年編纂の青森県例規に掲載されていた青森県告示M36-308を教えていただき ありがとうございました。
西津軽郡木造町を廃し 大字木造の区域を以て 更に木造町を置き
この告示原文前半により「(旧)木造町の廃止」を再確認しました。
後半の部分は、私が[93802]で提案した「縮小再置」という変遷種別を裏付ける記載です。

近隣の4村に引き取られた7大字については、下記のように [93802]記載の復元文では予想していなかった「分」という文字が使われていました。
大字△△を○○村に分属せしめ
しかし、これは 変更種別の「分割」に該当するものではありません。
「分属」とは、実質的に複数の「編入」を意味しているものと理解することができます。

官報は 告示日の10/3でなく 10/8の広告欄に「町廃置分合」として掲載されていました。
告示という言葉が使われず、告示番号や告示日もないのは、「広告」という性格によるものなのでしょうか。

参考までに、明治37年分村の結果生まれた1町4村のうち1町2村は昭和合併の木造町として復縁し、残る2村も平成合併でつがる市に復縁しています。

2 熊本県市町村合併史
2.1 第六章 三新法と地方制度 
44コマ(200頁)に記された「下野村の分村」。郡区町村編制法時代・明治12年の記録は「肥後国阿蘇郡河陽村分裂之儀に付伺」で「カワキタ」のフリガナがあります。
そして、私の関心がそそられたのは、「分裂」という言葉が使われていたことでした。
語感は が汎用的な「分割」に対して「分立」は親子のような関係に限定、「分裂」というと「喧嘩別れ」のような激しい印象です。
結局のところ町村制の時代になれば「長陽村」に統合されるのですが、明治初年にはこのような前史もあったということを知りました。

2.2 第七章 帝国憲法発布後の地方制度と町村大合併
12コマ(p.224)に「新町村名選定の事由」という項目がありました。
しかし、残念ながら阿蘇郡の町村については「記録なし」でした【17コマ】。
[93865] 2017年 9月 24日(日)19:00:14hmt さん
阿蘇いろいろ
[93824][93859][93863]に続き、熊本地震の報道でお馴染みになった南阿蘇村あたりのことを中心として、阿蘇の地理に関することを いろいろと記します。

1 立野火口瀬
[93822]で引用された毎日新聞記事には、熊本地震で崩落した国道325号阿蘇大橋の 架け替え工事で削られてしまった 柱状節理の所在地が「立野峡谷」と記されていました。このあたりについては「立野火口瀬」と表記された資料もあったが、火口瀬という言葉は初耳でした。そこで辞書で調べたら、火口やカルデラの縁の一部が切れて、火口湖内の水が流れ出した谷のことでした。

[92668]で言及した、十和田湖から奥入瀬川が流れ出る「子ノ口」。これも火口瀬の一例でした。
立野火口瀬については、博物館の解説もありました。
阿蘇谷からの黒川と南郷谷からの白川が合流する戸下(とした)から白川の流れに沿って西に延びています。

豊肥本線の立野駅は標高270m付近に描かれていますが、東の阿蘇谷方面に向かう線路は いきなりの急勾配なので、スイッチバックにより山登りするようになっています。南阿蘇鉄道【旧・高森線】の通る南郷谷も登り勾配ですが、こちらは徐々に高度を上げてゆきます。
地図の少し東側には、白川の鮎返しの滝、黒川の数鹿流(すがる)ヶ滝という名が見え、いずれの川も急流を流れ下っていることが知れます。

立野は現在では南阿蘇村の大字ですが、市区町村の変遷で見るように、明治合併の町村制で合志郡立野村から瀬田村になった後、新郡制施行準備で菊池郡に変更、昭和合併で阿蘇郡長陽村に編入、平成合併で南阿蘇村という前歴です。

2 黒川と白川
阿蘇山地域を大別すると、中心にある阿蘇五岳、その周囲のカルデラ、更に外側の外輪山になります。

最初に人が住みついて 拠点を作った主な場所は 水利の良いカルデラ内の山麓と火口原です。
その筆頭に挙げられるのが、古代からの有力氏族で 現在も阿蘇神社大宮司である阿蘇氏の本拠地と言えるでしょう。
その名も阿蘇市「宮地」付近。阿蘇谷東部のこの地は 現在の阿蘇市の中心地でもあり、黒川の流れの近くです。

黒川流域の阿蘇谷は 内牧など温泉地帯でもあるようです。
ここで思い出したのが 杖立オフ会の際には道路の関係で利用できなかった高速バスの行先「黒川温泉」[91229][91408]でした。でも 外輪山外側の黒川温泉は、阿蘇谷の黒川とは無関係でした。

白川の流れる南郷谷に移ります。阿蘇谷に比べて高低差のある南郷谷は 古代・中世の技術では開発が困難だったようで、中心地となる高森が台頭したのは近世以降のようです。南郷谷西側の開発は更に遅れて 阿蘇神社領の広い原野が残り、神事の狩場に用いられたようです。

3 南阿蘇村
平成合併の結果、南郷谷の西側に成立した南阿蘇村ですが、村の中央を北西に向って白川が流れており、ここで河川を隔てた「ひなた・ひかげ地名」のペアを見ることができます。

白川の北岸が合併前の長「陽」村、白川の南岸が合併前の久木野村【明治合併前に河「陰」村】であり、今年になってから村役場が河陰から河陽に移ったことは [93859]で記しました。
マピオンは、南阿蘇鉄道の長陽駅と河陰にあった南阿蘇村役場【旧位置】が出るようにセットしました。

そして、白川の北岸で長陽村下田よりも上流側にあるのが、平成合併に関係する第三の村・白水(はくすい)村で、南阿蘇鉄道には「南阿蘇水の生まれる里白水高原」という長い名の駅から始まる5駅があります。この辺が南郷谷のほぼ中部です。明治合併前の旧村名に由来する「両併(ふたあい)」という難読地名もあります。

南阿蘇鉄道を西に引き返すと、鮎返しの滝の先は外輪山を戸下トンネルで抜けて立野峡谷に出ます。長陽村に併合される前には別の郡だった前歴があることは、立野火口瀬の項で既に記しました。

4 白川県
阿蘇から離れますが、市制町村制よりずっと前の明治初年に 短期間存在した「白川県」に触れておきます。
阿蘇の南郷谷を流れ、黒川との合流後も「白川」として熊本に至る川の名が県名に使われた時代がありました。

法令全書 明治5年6月14日 太政官布告第178号
熊本県を白川県と改称し県庁を飽田郡二本樹村に被置候事

県庁が熊本から移転するので、県名も移転先の近くの川の名を使い「白川県」とする。
表面的にはこれだけですが、やはり移転先が気になります。

熊本県のサイト内では 二本木移転関係の適切な資料を発見することができなかったのですが、熊本市西区の広報紙2014/4により、白川の河口近くであることが判明しました。

マピオンを見ると熊本駅の近くで、現在の常識では「熊本ではない」という「県名を変えた理由」が とても理解できません。

ついでに 太政官布告の上部欄外を見ると、「【明治】9年第19号【太政官】布告を以て 県庁を飽田郡熊本に移し 熊本県と改称」とあります。
前記の西区広報紙によると、明治6年 八代県との統合【これにより、白川県は現在の熊本県域に近い管轄区域を持つことになった】により手狭になった上、水害にも悩まされ、明治8年には古城(ふるしろ)に移転し、翌明治9年に熊本県の名に戻したとのこと。
明治初期の慌ただしい制度変更の一幕でした。
[93863] 2017年 9月 24日(日)14:38:30【3】hmt さん
旧村・河陽村の読み
[93682] グリグリさん
河陽は「カワキタ」ではないでしょうか。河陰の「カミナミ」とセット。

再読してみると 郡区町村一覧のフリガナは「カハキタ」ですね。「河」の右にふられた2字目を見落としていました。
平凡社の日本歴史地名大系 熊本県p.358 長陽村の項目にも、明治22年 河陽(かわきた)村、長野(ながの)村、下野(しもの)村の合併であることが 振仮名付きで記されていました。
同書p.367 久木野(くぎの)村の項目に記された旧村・河陰村の振仮名は、「かみなみ」ではなく「かいん」でした。

読みは対象外になっていますが、変遷情報詳細の修正結果【河湯村→河陽村】も確認しました。
[93859] 2017年 9月 24日(日)10:18:14【5】hmt さん
明治合併時に長陽村の大字になった 旧村・河陽村について
[93826] k-ace さん
[93851] グリグリさん
むっくんさんの労作[76874]に基づいて、明治22年熊本県令第10号を確認したところ、予想外の記述を発見しました。
熊本県令達類纂巻上(明治26年7月編纂)
各郡町村の内左の通分合改称し来る(明治22年)4月1日より実施す【この部分は33コマ】
(中略)
下野村 長野村 河湯村
  合併長湯村と改称す

なんと「河湯村」だけでなく、合併後も「長湯村」という記載には驚きました。両方共「さんずい」です。
出典は明治26年の編纂なのですが、欄外上部にも訂正が記されていませんでした。

とりあえず、[62816] M12の 郡区町村一覧[62817] M19調の 地方行政区画便覧が「河陽村」となっていることを確認しました。
現在の住所地名を含めて、「こざとへん」が正しく、「さんずい」は誤記と思われます。

長陽村から逸脱しますが、余談も含めた補足事項を記します。

郡区町村一覧には「フリガナ」がありましたが不明瞭でした。河陽は カヤウ? 河陰は カミナミ?

「陰」には確かに「河川の南岸」の意味があり、中国の「淮陰」の例を挙げた記事[38328]を書いたこともあります。しかし日本では「陰」を使った村そのものが少なく[70882]、この字を「ミナミ」と読む実例があったとすれば初の知見です。

参考までに、南阿蘇村役場は2017年4月から新庁舎【大字河陽1705、地図】に統合されましたが、地理院地図、マピオン共に未修正です。
それまで存在した 久木野庁舎【旧久木野村役場】の所在地は南阿蘇村大字河陰145-3でした。
「河陰」の現在の読み方は マピオンに示されているように「かいん」なのでしょう。

熊本県の地図の役場位置も旧位置のようです。修正の検討をお願いします。>グリグリさん
[93824] 2017年 9月 20日(水)19:33:00hmt さん
熊本県阿蘇郡長陽村
[93822] じゃごたろ さん
南阿蘇村の柱状節理が、熊本地震の復興で壊されたという報道がありましたね。

所在地を検索すると南阿蘇村戸下と出ました。出典
阿蘇長陽大橋付近のようです。

長陽とか河陽とかいう地名から思い出したのが、阿蘇にあった長陽村や蘇陽町です[70893]
河川の北や阿蘇の南という由来は解るが「長陽」の由来は?

外輪山の影響で日照時間の短い阿蘇で、「西日が長くあたる」という説【Wikipedia長陽駅の由来】もありました。
しかし、市区町村の変遷を見たら、明治合併時の合成地名である長陽村【平成合併で南阿蘇村】に由来することが知れました。
[93802] 2017年 9月 19日(火)17:09:54hmt さん
明治37年に区域を縮小して再置された 青森県西津軽郡木造町
[93790] グリグリさん
【1911年に区域を縮小して再置された神奈川県屏風浦村は、】青森県木造町の分割、新潟県松島村の分割が同様の事例になるのかなと思います。いかがでしょうか。

青森県木造町については、[93006]で「変更種別が「分割」の変遷情報一覧」を示していただいた時から気になり、「境界変更でもよかったのでは? と思わせる内容です」[93020]と記していました。

変更種別:分割と明記されていたので、それ以上 立ち入ることをしませんでしたが、今回見直すと、詳細に青森県告示【明治36年】第308号が示され、「西津軽郡木造町を廃し大字木造の区域をもって木造町を置く」という「廃置」情報が明記されていました。
しかし、この「廃置」が手続的に「分割」であることは記されていませんでした。

そこで、この点を確認しようと 告示文を探したのですが、1903/10/3の官報には見出すことができませんでした。青森県サイト探索も不成功。
しかし、関係する1町4村の変遷情報詳細から重複部分を除いたら、次のような記述に復元されました。
西津軽郡木造町を廃し 大字木造の区域をもって木造町を置く。大字上相野及び大字下相野の区域を森田村に編入する。大字広須及び大字玉水の区域を柏村に編入する。大字蓮花田及び下遠山里の区域を出精村に編入する。大字濁川の区域を柴田村に編入する。

このように、複数の大字が存在した旧・木造町は 大字木造の区域のみに「縮小再置」され、残る7つの大字は近隣の4村に引き取られた。上記の復元文には、これを記述するのに必要かつ十分な情報が盛り込まれており、「分けて」「分割」「分立」などの言葉を必要としていません。

「分割」という用語が使われたのは、88さん【or参照資料の著者】が「これは木造町の実質的な分割だ」と考えたからであり、変更種別の詳細説明に使われている定義に合っていることを保証するものではないでしょう。

そもそも「分割」は、それ自身の中に「廃止」と「二以上の市町村の設置」を含む 完結したプロセスです。
市制・町制などとの併記はありとしても、「分割/編入」という併記には馴染まないと考えられます。

[93006]で示された多数の例の中で「分割/編入」が見られるのは、木造町関係の4村と新潟県沼垂町だけです。
いずれもケースも近隣で行なわれ廃置分合の結果無所属となった地域の 単純な「編入」として扱うだけで、特に問題ないように思われます。
横浜市域拡張に伴う 屏風浦村・大岡川村の一部編入[93788]は、その一例です。

事実上の分村だが、「二以上の市町村を置く」分割に該当しない 木造町、屏風浦村、大岡川村の残存部。
その変更種別案として、「縮小再置」はどうでしょうか。
[93788] 2017年 9月 18日(月)17:36:23hmt さん
変遷履歴の中での「新設分村?」
変遷履歴情報については、むっくんさんから多数の情報をいただいており、感謝しています。
最近も[93775][93776]で多数の情報をいただいたところですが、これに掲載された昔の告知文を眺めているうちに、類例の少なそうなタイプの廃置分合があったので、少し考察してみました。

それは[93776]の神奈川県#26からのリンク先 官報第8327号広告 に掲載されていました。
横浜市の第二次市域拡張(1911/4/1施行)に関係する「村廃置及市境界変更」を告知する文の2番目でした。
一 久良岐郡屏風浦村を廃し 大字滝頭、磯子、岡を横浜市に編入し 其他の区域を以て 新に屏風浦村を置く
# 3番目は大岡川村に関するもので、村名と編入区域が違うだけで、これも同型式の処分です。

告示の中央部は「村の一部を横浜市に編入」するという何の変哲もない告示なのですが、その前後が問題です。
「母体の村を廃し【編入以外の】区域を以て 新に【母体と同名の】村を置く」

何の目的で、このような手続にしたのでしょうか?
「村の一部を横浜市に編入」するだけならば、「境界変更」だけの手続でも足りるはずです。
わざわざ「廃置分合」という型式を選んだのは、横浜市編入となった「村の一部」こそが、「母村の主要部」であったためと推察しました。

現在の地図を見ると、屏風浦村の領域であった現在の磯子区には 滝頭や岡村を名乗る学校、磯子を名乗る警察署があります。大岡川村の領域であった現在の南区にも弘明寺・井土ヶ谷など著名な地名があります。
国勢調査より前ですが、現住人口表を用いて編入前後の人口比を計算すると、屏風浦村が60%、大岡川村が46%です。横浜市に編入された区域は村の約半分の人口を占める、市街化しつつある区域 であったと推察されます。

杉田などの大字は屏風浦村として残るものの、それは母村と同じものではなく、実質的には「分村」です。
そんな気持ちが、単純な「境界変更」でなく、母村を「廃」し、一部を新村として設「置」し、他の一部を「分」けて、横浜市に「合」併する という手続に結実したものと思われます。

変遷情報に戻り、編入対象外の一部【杉田など】による新村設置を、どのように表示したらよいのか?

「新設」だけでは「新設合併(合体)」を指す 現在の定義に合いません。
「分割」の定義には合わないので、その言葉こそ使っていませんが、実質は 村の分割【分村】です。
タイトルに使った「新設分村?」という新語【珍語?】は、苦し紛れの一案ですが、気に入りません。
告知文に記されていた言葉を素直に使い、「廃置/境界変更」のままでよいのか?
グリグリさんは どのような言葉を使うでしょうか?
[93763] 2017年 9月 15日(金)17:21:43【2】hmt さん
東京都練馬区も、「そのまま」存続
[93756] グリグリさん
分立後、現在も全く同じ市町村が存続している自治体を調べてみました(分立後、市制、町制、改称、合併をしていない)。以下の2町11村になります。

最近の分立に関する記事を思い出すために「分立」で記事検索してみたところ、渋谷村や釧路村の記事だけでなく、「板橋区からの練馬区の分立」に触れた記事[93619]がありました。

そこで、練馬区の変遷情報を確認したところ、変更種別は「分割」となっています。
どちらが誤記らしい。変遷情報に分割の根拠が示されていれば これを信頼したいのですが、それが示されていません。
そこで、関係する板橋区・練馬区のサイトを見ました。

板橋区の歴史年表:1947年8月1日 当区面積の60パーセントを分離して練馬区誕生。

練馬区の歴史 練馬区独立小史(練馬区史より抜粋)
これによると、旧制度(東京都制)時代の末期から 地元の板橋区では 練馬区独立の動きがあった。しかし(東京都には無視された形で)1947年3月15日に 35区から22区への再編が実施されたことを知りました。
同年5月3日の地方自治法への切り替え後に、新制度による板橋区議会が、練馬区新設を満場一致で可決。
これにより、ようやく 8月1日からの練馬区独立 が実現しました。

地方制度の変革時期に、このような一幕があったのは、それなりに有用な初知見でした。
しかし 抜粋された記載だけでは、分離独立の手続が「板橋区を分割し、改めて(新)板橋区と練馬区とを設置した」のか、「板橋区の一部を分けて 練馬区を分立した」のか、何れかを判断することができませんでした。

そこで、正攻法の官報を調べることにしました。幸い練馬区発足は、国立国会図書館デジタルコレクションにより無料で閲覧できる範囲【1952(昭和27)年4月まで】に入っています。
検索画面で、キーワード:練馬区、刊行年月日:西暦1947年 を入力するだけで、簡単に 官報第6163号に到達しました。

昭和22年内務省告示第253号
地方自治法第283条において準用する同法第7条第1項の規定により、昭和22年8月1日より東京都板橋区の中 練馬及び石神井 両支所の所管区域を分け、その区域を以て 練馬区を置く。
昭和22年7月31日 内務大臣 木村小左衛門

このように、母体Aの法人格存続を「AのうちBを分け」という言い方で表すのが、「分立」です。[55654]

「分割」と「分立」との混乱については、志紀町から分立?[55649]、栗橋町[80441]、釧路村[93077]などでも問題にしてきました。
今回、その続編の練馬区のケースでは、内務省告示によりそれが「分立」であることを初めて知ったというわけです。
実は hmtの過去記事[74935]でも、「板橋区から練馬区が分離して」という 曖昧な言い方をしていた のでした。

…というわけで、市区町村変遷情報の修正をお願いします。
板橋区の詳細:【分割とそれに伴う再置の情報なので】削除
練馬区の詳細: 変更種別を分立に改め、その根拠を示す。
この修正により、2種類の一覧表【東京都と1947年】は自動的に更新されるものと思っています。

[93756]の対象について
「市町村」ではありませんが、同類である「都の区」【地方自治法第281条第1項により特別区という】を対象に含めることにすれば、東京都練馬区も、「そのまま」存続している自治体の仲間です。

もっとも 練馬区70年の歴史を振り返ると、名前は変らなくても その実体が大きく変化した制度変更がありました。
hmtマガジン区制度の変遷に収録した記事では、制度変更に応じて記号を付けています。
練馬区誕生時の特別区(E1)は、1952年に東京都の内部団体(E4)になり、その自治権が揺らぎました。
「平成12年改革」で基礎自治体の地位を回復しましたが、まだ「市」とは違う「特別区」(E6)です。

詳しくは、[75018][75410]参照。

分立以来70年を迎えた練馬区。分立後、市制、町制、改称、合併をせずに「そのまま」存続していることは確かです。
しかし 実体に踏み込むと、「そのまま」という表現には、少し問題があるのかもしれません。
[93740] 2017年 9月 12日(火)13:38:00hmt さん
栗きんとん
[93733] シノレパシクソさん
中津川市は栗きんとんが有名なのですか?

中津川の「栗きんとん」のことは、2012年の落書き帳で知りました。[80118]ひぃ さん
リンクされた中津川栗きんとんめぐりを開くと、いきなり現れるのは 和菓子の写真です。
潰した栗の実と砂糖だけを煮て作った純粋の栗餡を 茶巾絞りで成形した菓子のようです。

おせち料理の重箱に入っている、栗の実の粒が入った ねばねばした【水飴由来?】「きんとん」とは 別物です。

Issieさんは 信州の小布施にも 中津川のものと ほぼ同じ菓子があると書いていました[80113]
栗100%ということで 私が[80114]で紹介した桜井甘精堂の 「純栗かの子」は、成形した和菓子ではない別物でした。

蛇足
小布施の 「楽雁」は「栗落雁」ではない[62829]
外観が 栗の形をしているだけの「栗まんじゅう」[80106]
[93713] 2017年 9月 8日(金)23:14:37【1】hmt さん
hmt出身地の表記 7年遅れの再修正
[93710]を書いた後で、改めて hmtの出身地を確認しました。
[(相模原市)津久井町」となっており、これは 平成合併に伴う変化【2006/3/20】に対応した修正でした。

その後、2010/4/1の政令指定都市化、行政区設置の際の変化には未対応でした。

そこで、表記が話題になった機会に 7年遅れの再修正: 「(相模原市緑区)津久井町」を検討しました。

これによる影響 その1:リンク先の自治体ページが自動的に緑区のページに変更されるのは当然です。
その2 出身地としては、現在の住所表記から消えている「津久井」という地名[73423]を残ておきたいが、可能か?

幸い、編集画面の冒頭説明は
出身地は 登録者が「出身地と思っているところ」とお考えください。
となっており、出身地として 「過去に存在した自治体名を含む地名」 を書くことが許容されているようです。

テスト結果は OKであり、上記案のように再修正を施しました。
[93710] 2017年 9月 8日(金)19:55:32【1】hmt さん
静岡県駿東郡」に該当する自治体がない その理由
[93709] 特急とりあたま さん
僕は最初は居住地を「静岡県駿東郡」にしようと思ったのですが、

オーナーの説明があると思いますが、偶々目についてしまったので、私が心得ている事項を記しておきます。

落書き帳メンバー紹介編集画面説明文の冒頭部 便宜上箇条書きに修正
1 居住地・出身地には、自治体名称を記入してください。その自治体の公式HPへのリンクを設定します。
2 都道府県名、郡名など省略しても構いません。また、都道府県名のみ、郡名までなど自治体名の省略も可能です。
3 詳しくは[22211]を参照してください。

私としては、原則は 1項であり、2項と3項は補足説明であると承知しています。

1 最初に、居住地としての「静岡県駿東郡」に「該当する自治体がない」理由です。

「静岡県駿東郡」は住所の一部になっている地名なのですが、【現在の】自治体ではありません。
明治後期[62662]から大正時代にかけては「自治体」【現在の法令用語では地方公共団体】だったのですが、大正10年(1921)の「郡制廃止に関する法律」で廃止されました。総務省サイト
なお、郡制廃止の施行は大正12年(1923/4/1)で、郡長や郡役所の廃止は更に後の1926年です。

2 
どこかに「県名+郡名」もOKと書いてあった気がします。

確かに、上記[22211]の例の中に (4)都道府県名+郡名 があります。
自治体名ではないが、例外的に現在も許容されているのでしょうか? 
その後の変更で現在は NG になっており、説明文3項の修正が必要なのか?
[93667] 2017年 9月 4日(月)15:44:37【1】hmt さん
海と島(29)四国近海2題
1 岩礁 「碆(はえ)」地名
[93662] そらみつ さん
ハエは西日本に多く見られる型なので、それだけで一つのコレクションとする方が良さそうです。碆という漢字を使う地域が多いですが、カタカナのハエや礁の表記もあるようです。

「ハエ」地名については、[80231]で言及したことがあります。
Issieさんが PC画面上に表示できるのか? と危惧していましたが、JIS第二水準で表示可能。
会意文字を見ると、「波」頭(かしら)が「石」(岩礁)の上を越えています。

[92092]で言及した稀少地名漢字リストには、孀婦岩[19728]の「孀」のような漢字も収録されていました。
しかし「碆」は収録対象外であるようです。
「碆、ハエ」等の地名は それだけ数が多く、「稀少ではない」ということかもしれませんが、考え様によっては、かえって「やりがいがあるコレクション対象」なのかもしれません。【修正1】

地名に関心がある若い方に、ちょっとだけですが、過去の情報をお知らせしました。

2 日振島
「碆地名」に関連して、宇和島付近の地図を眺めていたら、日振島中央部の 架橋 が気になりました。
古い地勢図には「堺」という地名が記されて地続きのように見え、現在も単一の有人島として扱われています。

平安時代の藤原純友を扱った海音寺潮五郎『海と風と虹と』に記されているように、この「堺」は、かつて日振島にあった4港の一つでした。
現在、この港は放棄されているようですが、歴史的には、やはり単一の有人等として扱うのが正しいようです。

現在の地図では狭い海で2島に分かれているように見えます。
現地訪問記によると、橋の下に海水は全くなかったとのことですが、満潮になれば海水がくるのでしょう。
[93634] 2017年 9月 1日(金)14:47:25hmt さん
政令指定古都・斑鳩町
[93596] 全角2文字 さん
ご承知のように、この辺の生駒郡4町+北葛城郡3町で広域合併を行おうとしていたのですが、斑鳩町と王寺町が…反対し、…この話はご破算、となってしまいました。

法隆寺がある町に住む中学2年生[91244]という自己紹介をしていただいたのは、1年前の夏休みでした。
私も、中学2年生時代のこと[93581]を書く機会が近頃ありましたが、それはなんと 70年前のことでした。

それはさておき、これを機会に、落書き帳で「斑鳩町」の過去記事を調べてみる気になりましたが、以前は簡単に検索できた全記事対象検索が 大きな負荷要因とされ、現在はできません。[93345]
ブツブツ言いながら地図を眺めていたら、[21047]と書き込んだメモが目に留まりました。この番号を頼りに落書き帳を開いてみるとTN さんの記事で、大津市が全国で10番目の古都保存法指定市町村になったことを伝える内容でした。

実は、「古都保存法」については殆んど知りませんでした。正式名称は昭和41年法律第1号 古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法です。
後代の国民に継承されるべき古都における歴史的風土を保存するために 1966年に公布されたこの法律。
立法の背景にあったもの。それは 京都タワー建設計画、奈良県庁舎建設計画、鎌倉の八幡宮裏山宅地造成計画、京都双ヶ岡のホテル建設計画などによる 歴史的環境の破壊が社会問題化したこと でした【世界大百科事典】。

法律に具体的に記されている「古都」は 上記の時代背景にも登場した 京都市、奈良市、鎌倉市 だけでしたが、これに「政令で定めるその他の市町村」が加えられています。

古都保存法に基づく「政令指定市町村」とはどこか?
上記法律の施行令とは別に、古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の市町村を定める政令があり
古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の政令で定める市町村は、天理市、橿原市、桜井市、奈良県生駒郡斑鳩町、同県高市郡明日香村、逗子市及び大津市とする。
と記されていました。

詳しく言うと、昭和41年7月4日の政令第232号に記されていたのは奈良県の5市町村で、逗子市は平成12年政令第4号、大津市は平成15年政令第456号で追加されたものでした。
[21047]は、法定3市(京都 奈良 鎌倉)に政令指定7市町村を加えた 10市町村になった時でした。

最も多数を占める奈良県のサイトから、奈良県の歴史的風土の保存 というページをリンクしておきます。

余談:
ご存知「政令指定都市」もどきの名「政令指定古都」を 勝手にタイトルに使いました。
でも、地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令には、1956年指定の旧五大都市に続いて、1963年以降に追加された15市が 区別なしに並んでいます。
一方、政令指定古都のリストは 法定3市を含まず、追加7市町村のみ。少し様子が違います。
[93622] 2017年 8月 31日(木)18:02:25【1】hmt さん
昭和の大合併
[93619] Takashi さん
落書き帳メンバーの中で、昭和の大合併当時に生きていた少数派でもあり、少し発言しておきます。

出身地については、昭和30年の合併で 本籍地の表記が変更されました。
しかし、「実生活への影響は 殆んどなかった」と言って良いでしょう。
昭和合併当時の私【学生→新卒】の居住地については、合併と無関係でした。

数十年を経過。落書き帳のメンバーになってから、現在の居住地が 昭和合併を経験した村 であることを知りました。
そして 2006年、埼玉県入間郡富士見村誕生から50年ということで 地元の資料館で 展示会が開かれました。
それを機会に記した記事[55364]があります。先ず これを紹介します。

私自身は全くの別世界で暮らしていたのですが、昭和合併当時の実情が少しは推察できると思います。

「昭和合併」が実行された最初のきっかけは、1949年に占領軍から出された「シャウプ勧告」でした。
その基本理念は、国と地方公共団体の間の事務の再配分を実現した上で、地方公共団体の財政を強化することにありました。

国力の衰えた敗戦国・日本の自治体にとり、1947年度発足の義務教育延長(6+3制)は大きな負担でした。
市および人口5000人以上の市街的町村は、公安委員会や自治体警察も負担することになりました。
(警察制度については、1951年から1955年にかけての改正で現行制度に移行。)

時代は異なるが、豊玉小学校[59567]や 越県合併までした大泉村[62334]の時代から、学校経営の費用で地元は苦労していました。

とにかく、小さな町村では財政のやり繰りが大変です。
合理的な自治体運営を可能にする適正規模「人口8000人」の実現。これが昭和合併の大目標でした。

でも 実務となると、どのような組合せで合併するのか 議論百出。その一例を紹介してあります。
埼玉県入間郡の鶴瀬ブロックは 県の試案5村に始まり、福岡村を加えた6村となるも反りが合わず。鶴瀬は南畑の他に水谷も抱き込み、三芳とも交渉。しかし、土壇場に近く登場した 三芳・鶴瀬両村長の名による「誓約書」(の案?)も実らず、「町村合併促進法」最終期限 1956/9/30 の3村合併による 富士見村へ。


そして 別の記事[55377]では、町村合併促進法の枠から外れた後の 三芳村を記しています。

「新市町村建設促進法」に基づく県知事の合併勧告は返上。
上富地区は所沢市への編入を望んでおり、分村の結果として三芳村消滅か?という危機もありました。
しかし、1959年に至り 分村合併取消議案が可決され、三芳村の昭和合併騒動は ようやく白紙に戻りました。

1960年代になると独立の道を守った三芳村に追い風。工場や倉庫の進出で農村の風景が変りはじめました。
余談:今年2月の火災で話題になったアスクルの物流倉庫も三芳町所在。但しこの倉庫は、近年のものでした。

いずれにせよ、昭和合併が目標にした「人口8000人規模」は、合併することなく実現しました。
1977年には最寄りの東上線「みずほ台駅」【町内ではない】も開業し、団地もできています。

埼玉県入間郡三芳町は、財政力指数が1を超える豊かな自治体であり[80514]、昼間人口比率の低い富士見市からの人口流出先[90619]などの落書き帳記事もあります。

昭和合併により人口だけは増えて、1972年から「市」という看板を掲げている富士見市。
昭和合併を拒んだ結果、未だに「郡部」ですが、自治体としての実質は 隣接する「市」よりも上位にある三芳町。

落書き帳の記事を紹介し、昭和合併で異なる対応をした2つの村の現状を見比べてしまいました。
[93581] 2017年 8月 27日(日)17:22:52hmt さん
「明治節」から「文化の日」へ
[93568] デスクトップ鉄さん
武蔵野市の市制施行は、1947年11月3日。(中略)hmtさん、この日学校が休みだったか、記憶にありませんか。

6・3制発足の昭和22年度は 「(旧制)中等学校併設(新制)中学校」という奇妙な学校[22066]の2年生でした。
その年の 11月3日については、残念ながら定かな記憶が残っていません。
下記のように、制度上は 休日である「明治節」が存在したことは確かです。
しかし、学校では 敗戦前のような式典があったのか? その考察は後回しにします…

[93571] グリグリ さん
戦前の祝祭日を規定した「休日ニ関スル件」の勅令廃止のタイミングを念のためネットでいろいろ調べてみましたが、確実なところはわからないのですが、昭和23年に入ってからのようですね。

日本国憲法は、第二次大戦が終った翌年の昭和21年(1946)11月3日【明治節の日】に公布され、半年後の昭和22年(1947)5月3日に施行されました。
これが国民の祝日・憲法記念日の由来ですが、11月3日も国民の祝日・文化の日になっています。
日本国憲法の中で使われた「文化」という言葉は1ヶ所だけ(第二十五条)ですが、戦争放棄・主権在民・基本的人権を宣言した日本国憲法の目指した国つくりの基本理念は 平和と文化 にあり、それ故に公布の日を「文化の日」にしたと思われます。

日本国憲法が施行された翌年、昭和23年の官報に掲載された 昭和23年法律第178号 国民の祝日に関する法律を示します。
1948/7/20 公布当時の 祝日は、僅かに年間9日でしたが、第二条には次のような趣旨が記されています。
文化の日 11月3日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。

第三条に 「国民の祝日」は休日とする。…従来の勅令と同様に、政府機関の休日という意味でしょう。
続く附則の2には、「昭和二年勅令第二十五号は、これを廃止する。」とあります。
これにより、昭和2年の勅令で定められていた「明治節」は 1948/7/20 に廃止されたと判明します。

順序が逆になりますが、11月3日の「明治節」が新設された 昭和2年勅令第25号 休日に関する件改正を示しておきます。

この時の改正内容について:
天皇の代替わりに伴う改正ですから、当然のことながら天長節の日付変更。
先帝祭【先代天皇の命日を祭る】が 明治天皇祭から大正天皇祭になり、日付も変更。
そして明治節の新設。日本の近代化を進めた明治天皇の遺徳を 明治天皇祭廃止後も継続させるため。
ほぼ同じ季節に存在した天長節祝日#(10/31)の廃止で、休日数 12 は変化せず。

明治天皇の誕生は、当時使われていた天保暦の嘉永5年9月22日でしたが、明治6年以降使われているグレゴリオ暦に換算して「天長節」は 11月3日とされました。この日は 明治時代から「晴天の特異日」として知られていました。

代替わりした大正時代。前の天皇を偲ぶ日は、命日・7月30日の明治天皇祭になりました。
大正元年勅令第19号 休日に関する件を見ると、入れ違いに廃止された旧規定は、明治6年太政官布告第344号であり、天長節11/3、孝明天皇祭1/30など若干の変更はあるものの、明治初年以来ほぼ同内容の規定であったことが知れます。なお、明治5年以前のできごとに関わる日付、例えば紀元節[49122]は、すべてグレゴリオ暦換算です。

# 大正時代には、天長節の盛暑を避けた2月後遅れの天長節祝日という休日が存在しました。Wikipedia

それはともかくとして、「四大節」の一つと数えていた1月1日(四方拝)。
大正元年と昭和2年の勅令「休日に関する件」の記載に基づけば、この日は【S23年までずっと】休日でなかった!

この衝撃的な情報は、私にとって初耳でした。象徴天皇になった現在はともかく、国家元首だった時代の天皇にとり、正月元日は伊勢神宮を始めとする天下四方の神々へのご挨拶から始まる「仕事始めの日」であり、「休日ではない」ことを思い知りました。

武蔵野市を追加[93571]していただいたリストですが、四方拝の日に市制施行した5市をどのように扱うのか。
千葉市1921, 足利市1921, 直方市1931, 高槻市1943, 新発田市1947。

現代の常識からすれば、「休日に市制施行した市」 と考えるのが自然であるように思われます。
勅令には従っていませんが、現在のままで良いと思うのですが、いかがでしょうか?

後回しにした、70年前の 11月3日。学校での明治節式典について。
「旗日」という言葉も生き残っていた時代ですが、「日の丸」を掲げたり「君が代」を歌うのには、若干の憚りが感じられる雰囲気もあった OCCUPIED JAPAN でした。
式典など行なわず、「ただの休日」として、無難に過ごしていたのかもしれません。
[93101] 2017年 8月 11日(金)17:02:48hmt さん
手賀沼の干拓
込み入った隣接関係の話題・根戸新田[93095]は 手賀沼西端でしたが、マピオン 14スケール図で もっと広い範囲を見ているうちに、手賀沼の東側が気になりました。

画面の右半分に整然と並んだ耕地割。昔は利根川水運[1643]で賑わった布佐[65861]付近迄続く、広大な沼だったことがわかります。
柏市東端付近・浦部村新田にある手賀沼の文字も、広かった沼の名残を示しています。

明治10年代のフランス式迅速測図に基づく歴史的農業環境閲覧システム[65097]によって、布佐付近まで広がっていた頃の手賀沼を確認することができます。

千葉県東葛農業事務所>土地改良の歴史の中に 「手賀沼干拓の歴史」があり、小さいが新旧地図が掲載されていました。

そのページによると、手賀沼干拓は 江戸時代から何度も 挑戦の歴史がありました。かいつまんで記すと…

享保4年(1729)には 井沢弥惣兵衛[67664]の指導による工事が完成。千間堤を築いて下沼と上沼を分けて別々に排水して下沼に新田を作ったが、洪水で千間堤が決壊し、完成から10年で失敗に終る。
田沼意次による工事の効果も大きく、手賀沼新田は復興の兆しを見せたが、これも未完成のまま中止。

明治以降も再三の計画が着手に至らず、洪水の被害は深刻。
第2次世界大戦後の深刻な食糧危機から、農林省直轄工事で本格的な干拓が始まり、手賀沼の東部分を干拓して 435haの農地がつくられました。西に残る水域650ha(上沼)は貯水池化し用水を確保、25km2を灌漑。
この事業は、昭和43(1978)年に完成しました。

戦前の地図帳を見ると 手賀沼は面積 12km2で、「主なる湖沼」の一角に位置していました。
ところが、現在の調査実施湖沼一覧には 手賀沼が 掲載されていません。
しかし、東半分の干拓により生まれた耕地と、農業用貯水池として残った西半分の手賀沼とは、我が国の乏しい食料自給源としての役割を 立派に果しているのでした。

おまけ
少し下流の印旛沼の地図です。手賀沼より大きいので、13スケールで示します。
干拓により分断された現在の印旛沼
明治時代の印旛沼

もちろん、印旛沼干拓についても、江戸時代から戦後まで、干拓の歴史が積み重ねられています。
[93095] 2017年 8月 10日(木)12:42:57【1】hmt さん
手賀沼西端の 根戸新田
[93091] 通りすがりさん
4
飛び地コレクションの中に、グレートジャンクションもどきがありました。
関係市町村は柏市、我孫子市、柏市、我孫子市です。
マピオン

示された場所は、北柏ふるさと公園の一部、30m四方ほどの小さな土地で、手賀沼西端の埋立地のようです。
公園は その名が示すように 大部分は柏市なのですが、この小さな土地だけが 我孫子市根戸新田となっており、2点で点接触しているのですが一応は我孫子市の飛び地です。
しかもその東に100mほど伸びる細長い土地は 柏市根戸新田(の2点接触飛地)。
地図を見ながらでないと 言葉で説明しても判り難い 奇妙な隣接関係です。

我孫子市も柏市も 母体(点隣接)飛び地(点隣接)母体 という関係なので、4自治体が関係する普通の点隣接と違い、関係自治体は2市だけとなっており、面積と共に「グレート」とは程遠い「ジャンクション」です。こんな市町村境があることは初めて知りました。

この小さな場所に、2点の「グレートジャンクションもどき」だけでなく、「飛び地」や 「自治体越えの地名」【注】までも盛り込まれた複雑な土地です。

【注】我孫子市根戸新田/柏市根戸新田
参考までに、近くの呼塚新田(よばつかしんでん)は[87252]で情報提供され、コレクション収録済みです。

複雑な隣接関係になった由来を解明することはできませんでしたが、合併時の住民意向が関係したようです。
参考ページを紹介しておきます。

(手賀沼を)干拓し埋め立てたのが「根戸新田」。だから、柏市(にも根戸新田、あります。ここら辺は、合併時に地区毎の投票で柏市に付くか、我孫子市に着くか決めたところですので、飛び地があったり、市境が入り組んでいたり…)に接するところから、我孫子駅から下って来る手賀沼公園のところまで、全部「根戸新田」。
[93088] 2017年 8月 8日(火)16:05:11【1】hmt さん
なぜ「グレート」なのか
[93085]の問いかけに関して、[93084]の検索結果よりも更に古い記事に求めた[93086]
その方向は正しいのですが…
「検索範囲」を「全記事」にするだけでなく、「検索順序」にも配慮する方がよかったのです。

表示件数はともかくとして、このサイトで話題になった古い記事の調査ですから、先ずは「検索順序」を「古い記事から」に変えて検索しましょう。
「グレートジャンクション」という言葉が、落書き帳に最初に登場した 2004年の記事が出てきます。

[23953] みやこ♂[みやこ] さん 日本のグレートジャンクション
アメリカには「グレートジャンクション」というのがあって,両手両足で4つの州を股にかける(?)ことができるそうですが,県レベルでは我が国にはありませんよね。(中略)
ところでこれを市町村まで広げたらどうなんでしょう。どこかに4つ以上の市町村が交叉しているポイントってないのでしょうか。(中略)個人的には,「北海道の後方羊蹄山頂がそうだ!」と睨んでいるのですが。

アメリカの「フォーコーナーズ」[11033]に類似した 特異的境界点 なのですが、「グレートジャンクション」は
日本の市町村境界における用例として、このサイト内で すっかり定着している言葉 なのです。
そのように ご承知ください。

【追記】
[93086]の検索結果は新しい方から10件だけが表示されているので、見掛けは[93084]の結果とあまり変りません。
しかし、末尾の指示に従って「次の50件」を検索すれば、「全記事」から抽出された多数記事の末尾に上記[23953]が現れます。
この点が、範囲7000番以降で検索した[93084]と違っており、「貼り直し」は全く無意味ではなかったのでした。
[93080] 2017年 8月 6日(日)17:49:59hmt さん
遠距離通勤
白桃さんの全国的視野に立つ「広域都市圏設定」[93066]と直接の関係があるわけではありませんが、
2015年国勢調査の就業・就学者のデータ
を使えば、遠距離通勤の一端を知ることができるのではないかと考え、とりあえず埼玉県のデータを眺めてみました。
平成27年国勢調査 従業地・通学地による人口・就業状態等集計 00302_11.csv

埼玉県に常住する就業者・通学者 3858637人【100%とする】。 この内、自宅を含む自市区町村で従業・通学するのは 1394941【36.2%】であり、他市区町村への通勤通学 2256143【58.5%】の方がずっと多いようです。
両者を加えた自他市区町村合計が常住従業通学者数にも合わないのは、従業地・通学地「不詳」が 207553【5.4%】もいるため。
「仕事先の市区町村」を問われて、外国出張中の場合「答えられない」のは当然ですが、国内であっても 家族が従業地を答えられない場合が 意外に多数あるようです。

通勤通学距離の判定には直結しませんが、埼玉県内の他市区町村 1049615と、他県 1066918とは ほぼ同数。
これは、930050【24.1% 埼玉県常住就業通学者数に対する%、以下同じ】と圧倒的な通勤通学者数を占める東京都 に隣接する 埼玉県ならではの特徴でしょう。

東京都に次ぐのは千葉県42850【1.1%】、群馬県【0.8%】、神奈川県28067【0.7%】で、やはり隣接県優勢。
その先は茨城県【0.37%】栃木県【0.26%】で、遠距離通勤と言っても この辺が限度なのでしょう。
通勤の実態があるかどうか疑わしい点もありますが、一応 0.1%未満0.01%以上の数値が出た県を多い順に並べておきます。
福島県【0.03】愛知県【0.03】大阪府【0.03】宮城県【0.03】静岡県【0.03】長野県【0.02】新潟県【0.02】山梨県【0.02】北海道【0.01】福岡県【0.01】

県単位のデータだとこんな結果でしたが、市町村単位ならば、もっと詳しい様子を知ることもできます。
例えば富士見市常住就業通学者数 57680【以下これを100%とする】を対象にすると、富士見市内での就業通学者は僅かに 13883【24%】であり、自治体内での就業通学は埼玉県全体よりも更に低下しています。これは、就職先・通学先が市内に整えられていない住居地域であることを物語っています。

…で、就業通学の受入先を見ると予想通り東京都17950【31.1%】が圧倒的です。特別区【28.9%】の中では池袋のある豊島区【4.0%】がトップであり、千代田区・新宿区・板橋区・港区・渋谷区・中央区と続く姿からは、鉄道の威力が見えます。

タイトルの遠距離通勤からは離れますが、巨大な東京特別区の存在は別格として、近隣市町への就業通学状況を見ると、入間郡三芳町【6.34%】が川越市【5.0%】・ふじみ野市【3.9%】を抑えて首位になっていることが注目されます。これに続くのは新座市・朝霞市・志木市・所沢市で 2.8%~2.1%の範囲。

三芳町については、財政力指数で注目していた[80514]だけでなく、昼間人口比率の低い富士見市からの流出先としても記事になっていました[90619]
「市」という看板こそ名乗っていませんが、自治体としてのランクは 上位にあると評価しています。
[93077] 2017年 8月 4日(金)20:44:46【1】hmt さん
町を母体とする村(3)北海道釧路村のケース
[93051] hmt 神奈川県高座郡渋谷村のケースでは、取り留めのない状態で長文を記し、失礼しました。
変更種別の詳細説明に記されている現在の定義には合っている。
としながらも、
渋谷町廃止なのに「分立」とは、言葉として違和感があるのではないか? 
という疑問を捨てきれず、「変更種別についての考えは迷走状態」を続けてしまいました。ところが…

[93065] グリグリさん
町から同一名の村が分立した例として、C.(4)【誤記】 8の釧路村と33の渋谷村があります。
を見たことを契機に、「C.(3) 町からの分立で村」に収録されている事例 1920/7/1「釧路町→釧路区と釧路村」の当時の記録を、1980年に町の名を取り戻した釧路町のサイトによって調査することにしました。

釧路町のあゆみに収録されていた 北海道庁告示大正9年第447号
-----------
釧路郡釧路町ヲ分割シ2級町村トシテ釧路村ヲ置キ大正9年7月1日ヨリ施行ス
其ノ境界左ノ如シ【引用省略】但シ区域図ハ関係町村役場ニ置ク
大正9年6月27日
北海道庁長官 佐上信一
-----------

釧路市の参考資料では、分割で釧路村が置かれたのを大正9年6月27日としていましたが、これは誤って告示日を記したものであり、施行日は大正9年7月1日、つまり 釧路に 北海道区制(明治30年勅令第158号)[74376]が施行されたのと 同日です。

余談ですが、釧路区発足日について:
最初に行なった変遷情報検索にミス【デフォルトにない「区制」を入れ忘れ】があったので、念のために原典の 大正9年6月24日内務省告示第52号も確認しました。
北海道区制第3条に依り大正9年7月1日より北海道釧路郡釧路町を釧路区と為す
大正9年6月24日 内務大臣 床次竹二郎

本筋に戻ります。
釧路村を置く告示文には、「分立」でなく 「分割」と明記してありました。
こちらのサイトの変遷情報では「分立」となっているのですが、変更種別の詳細説明の「分割」は
ある市町村を廃止し、その区域を分けて二以上の市町村を置くこと
ですから、釧路区も市町村の同類であるとと拡大解釈すれば、変遷情報における この説明に合いそうです。

一方、分立の説明には「ある市町村の区域の一部を分け」という言葉を使い、この説明にも合いそうです。

このように紛らわしい「分割と分立」をどのように使い分けるのか?
釧路のケースについて言えば、告示文に従い「分割」としたいところです。

基本姿勢としては、母体と分体とが「同時に存在」した時期があれば「分立」、なければ「分割」でしょう。
グリグリさんも、この姿勢に基づき、【瞬間的にせよ】同時に存在した可能性を考えて、[93065]では
釧路町/釧路村、渋谷町/渋谷村が同時に存在しました。
渋谷町から渋谷村が分立し、同日に渋谷町は藤沢市に編入されたという現在の分類が一番分かり易くすっきりしていると思いました。
としたのだと思われます。

しかし、告示文で「分割」と明記された釧路の事例を前にすると、瞬間的同時存在説を信じてよいのかどうか迷います。
類似する高座渋谷の事例。こちらに「分割」の可能性はないか? …と もう一度粘ってみます。

[32467] Issie さん
1955年4月に 神奈川県高座郡渋谷町 が「分割」されて,北半分が「高座郡渋谷村」という“新しい”自治体に,南半分が藤沢市に編入される,というできごとがありました。
という記載は、分立・分割の厳密な区別を意識したものではないかもしれませんが、事実上は「分割」であるという見方を正直に伝えています。

もちろん、母体の行先は釧路区設置と違い藤沢市への編入ですから、同日に効力が発生する2件の告示[32478]であっても、「二以上の市町村を置くこと」には該当しません。だから釧路村が「分割」であっても、渋谷村は「分立」。
そう言われれば、引き下がる他ありません。

やはり母体の長後地区でさえも自治体としての地位を失った高座郡渋谷町は、分割に値せず……ということか。

変遷情報に関して、有益な追加情報の記事番号を追記することは [80446]で提案され、最近も その事例があります[93064]
話題になった変遷の告示文を紹介した[32478]やこの記事の番号も、変遷情報への追記により、その信頼性確保に役立つことと思われます。今回の事例で告示文の重要性を感じた機会に、一言付け加えました。
[93067] 2017年 8月 2日(水)20:37:38hmt さん
「山冠に品」という文字 = 山にあるゴツゴツと角張った大きな岩
[93061] 通りすがり さん
大蛇ぐら(奈良県吉野郡上北山村)
くらは山冠に品です。表示できないみたいです。

この落書き帳の中で、稀少地名漢字リストというサイトが紹介されています。関係記事

奈良県を開いてみます。「山冠に品」という文字【注】は後半に出ており、 [JIS第3水準], Unicode: 5D53 であることと共に、多数の用例も示されています。
【注】以下 落書き帳の文中では この字を [山/品] と表記します。読みは 連濁「グラ」が多数。

リンク先の大部分は地理院地図であり、その中から主な「○○[山/品]」地名を拾ってみます。

大台ヶ原山関係
日出ヶ岳の西方、熊野川の源流に臨む岸壁に千石[山/品]・蒸篭[山/品]・大蛇[山/品]が並んでいます。
地理院地図では山頂を「日出ヶ岳」とし、「大台ヶ原山」は 「原」を意識した意味で使われています。

マピオンの表記は、山頂に「大台ヶ原山」を使い、「大台ヶ原」は もっと広い山塊に使っているようです。千石ぐら・蒸篭(せいろ)ぐらの表示はあるものの、何故か大蛇(だいじゃ)ぐらは無視されています。

分水嶺を越えた三重県の大杉谷には宮川が流れ、平等[山/品]・大日[山/品]・そして宮川ダムより下流に天狗[山/品]。
余談ですが、大台ケ原ドライブウェイの北側・川上村は紀伊水道に注ぐ紀の川水系。まさに近畿の屋根です。

東日本にも[山/品]地名があります。尾瀬の燧ヶ岳(福島県檜枝岐村)には俎[山/品]と柴安[山/品]。
少し離れますが群馬・新潟県境を関越トンネルが抜ける上には尾瀬と同名の俎(まないた)[山/品]。

【クラ/連濁でグラ】という訓読みの由来は知りません。
しかし、この文字の意味するところは「山にある角張った(品)大きな岩塊・岩壁(いわお=巌)」でしょう。
元々「岩」は「巌」の俗字であったとも言われます。「山」と「品」との組合せなら、上下どちらでも同字です。
地名に使われるのは「山/品」ですが、元々は[品/山]と思われ、「癌」という漢字の音符に使われています。

ジオジャパンの第2集では、日本列島を作った3番目の大事件として、1400万年前の巨大噴火で作られた紀伊半島を取り上げていました。
大蛇ぐらなどがある「大台」の山も、同じ時期の巨大噴火によるもののようです。
紀伊半島の巨石をテーマにした番組。タイトルの象形文字を思い浮かべながら、興味深く視聴しました。


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