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hmtさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[87328]2015年2月22日
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[87319]2015年2月19日
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[87309]2015年2月17日
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[87304]2015年2月16日
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[87273]2015年2月10日
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[87268]2015年2月9日
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[87262]2015年2月7日
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[87258]2015年2月6日
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[87250]2015年2月2日
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[87242]2015年2月1日
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[87239]2015年1月31日
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[87238]2015年1月31日
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[87237]2015年1月31日
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[87236]2015年1月31日
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[87233]2015年1月31日
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[87185]2015年1月21日
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[87184]2015年1月21日
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[87139]2015年1月16日
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[86827]2014年12月22日
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[86813]2014年12月20日
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[86812]2014年12月20日
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[86788]2014年12月12日
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[86778]2014年12月9日
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[86777]2014年12月9日
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[86748]2014年12月4日
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[86747]2014年12月4日
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[86741]2014年12月1日
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[86738]2014年11月30日
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[86735]2014年11月28日
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[86730]2014年11月25日
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[87328] 2015年 2月 22日(日)13:39:55hmt さん
「荒子」という地名
「荒子」という地名は、前田利家の出身地 として知られています。名古屋市中川区役所の東には あおなみ線の荒子駅があり、西に行けば新前田橋です。
1889年町村制施行(愛知県は10/1)で合成村名の万須田村になる前には 海東郡前田村 がありました。

こんなことを書き始めた動機は、「自治体越えの地名」の話題に同じ愛知県(但し尾張でなく三河)で、西尾市と安城市に跨る地名「荒子」が登場した [87274][87322]機会に、付近の「荒子」地名を調べてみたからです。

Mapionの住所一覧を使って荒子を含む町字の数を調べると名古屋市中川区が12。
荒子と荒子町の他に荒子町(地蔵前)などを列挙。荒子町の中に、小字毎の地番区域が多数あるようです。
小字単位の地番区域であることは 三河の荒子 も同様ですが、三河の荒子は小字として使われているようです。
旧明治村が分割された3市について町字数を調べると、碧南市には荒子町、安城市は城ケ入町(荒子)など7町。
そして西尾市には、南中根町(荒子)など なんと28町もありました。隣接関係を問わない総数ですが、町名の一部に荒子を使っている事例が、これほど多数あることには驚きました。

そもそも「荒子」とは如何なる土地なのか? 
名古屋の地名と由来には、次のように記されていました。
【前田氏】分家の進出した荒子は「荒処」で、未開地だったところを指す。

明治用水などの開発事業によって、未開地が新田に変貌し、三河デンマークと呼ばれる酪農地帯[75096]になった姿。
これを見ると、荒子という名が付けられた未開地を克服した近代土木技術の恩恵を感じます。
明治村という自治体名も、荒野を沃野に変えた時代を記念するものだったのでした。

しかし、よいことばかりではありません。明治用水完成から50年余を経た第二次大戦最後の冬、三河地震に襲われたのです。
1945年1月の真夜中、1ヶ月余の東南海地震でぐらついていた家屋は 大被害を受けました。ただでさえ物不足の戦時中に報道管制が重なり、救援物資も集まらず。10年後には災害を語り継ぐべき村の名も消滅[55569]。こんな悲しい歴史もありました。

ともかく、狭い範囲に別々の町字に属する28もの小字「荒子」が密集しているというのは、予想外でした。

なお、西尾市南中根町荒子が 碧海郡南中根村であったのは、1889年の町村制施行以前のことです。
町村制施行時には碧海郡米津村大字南中根字荒子になって城ケ入村字荒子と隣接状態になりました。
明治用水の完成は1890年ですから、2つの村の未開地は ほぼ同じ頃、沃野へと変貌していったのでしょう。

そして、1906年の 明治村成立によって自治体境界は、一旦消滅しました。
そして 昭和合併期の1955年には、明治村の3分村組み換えにより復活した自治体境界により、今度は 西尾市/安城市の境界を越える地名として復帰した という次第です。
[87319] 2015年 2月 19日(木)21:54:10【1】hmt さん
遅い旧正月
今日、2015年2月19日は旧正月、中国では「春節」という祝日です。
もちろん毎年巡って来るのですが、今年は少し遅いような気がしました。
そこで 2015年暦要項 で確認してみました。【日時は日本の中央標準時】
「雨水」 太陽黄経330度 2月19日8時50分
「朔」【新月】 2月19日8時47分 

ご承知のように、旧暦【太陰太陽暦】では 朔日【ついたち】から次の朔日の前日までが 「ひと月」 です。
そして、雨水がある月を「正月」とします。
雨水は太陽暦では毎年2月19日頃ですが、朔日の日付は毎年変化します。
今年は、偶々雨水の日付が旧暦の朔日だったのでした。

年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ
今年2月4日の立春は、旧暦では師走の16日。これは早い方ですが、年内立春自体はそんなに珍しいことではありません。
この歌が有名なのは、古今和歌集の冒頭を飾っていたためでしょうか。

その逆のケース。2012年の朔は1月23日、2月22日…でした。雨水は今年と同じ2月19日ですから1月23日から2月21日の30日間が正月ということになります。このように、雨水が次の朔の少し前【旧暦の日付で正月の晦日(みそか)近く】になる年には旧暦の元日が早まり、太陽暦2月4日の立春より前になります。

要するに、太陽の運行で決まる「雨水」と、月の運行で決まる「朔」との兼ね合いで生じる現象です。
そこで気がついたのが、2ヶ月前に書いた「朔旦冬至」[86827]と同じ 19年7閏 の仕組みだということです。

そうか、19年毎に巡ってくる朔旦冬至の2ヶ月後には、雨水と朔とが同日になり、遅い旧正月になるのか。
旧正月の日付を調べると、確かに19年後の2034年、更に19年後の2053年も旧正月は2月19日。

旧正月行事は日本の大部分では廃れたものの、中国・台湾・韓国・北朝鮮・シンガポール・ベトナムなど 中華文明圏の国では重要な祝祭日として健在なようです。
マレーシア・インドネシア・ブルネイなど イスラムの国でも旧正月が祝われるとか。

そう言えば、大切なことが一つ抜けていました。
最初に掲げた暦要項の中に注記した、【日時は日本の中央標準時】という部分。
二十四節気(雨水)も朔望月も世界中に共通する天文現象ですが、その「時刻」は各国の標準時によって異なります。
従って旧正月の日付が各国で同じになるとは限らないわけです。

更に言えば、朔と冬至の時刻が近接する19年目でも、両者の間で日付が変ってしまえば「朔旦冬至」に成り損ねるわけです。2014年は朔旦冬至でしたが、19年後の2033年は朔旦冬至にならないそうです。
[86827]では、このことを書き落としていました。
[87309] 2015年 2月 17日(火)19:04:06hmt さん
ルビ
[87304]の中で、使った言葉
南毛利村には「ミナミモリ」とルビが振ってあった

「ルビ」とは、小さい活字で印刷された振り仮名のことですね。
元々印刷業界でルビーと呼ばれていた7号活字のことだったようですが、私達が使うのは、活字自体ではなくて、それを使って印刷された振り仮名です。
印刷屋さんの解説 によると、手書き文書の振り仮名はルビでないので間違えないようにとのこと。

宝石のルビーが語源であることは、国語辞典にも出ています。ダイヤモンドはルビーより小粒。
活字のサイズに使う宝石名には、パール、アゲート【瑪瑙】などもあるようですが、国によって サイズはまちまち であるとのこと。レファレンス事例詳細

地理とは無関係の雑学でした。ご容赦ください。
[87304] 2015年 2月 16日(月)20:46:27【1】hmt さん
自治体名と地名
[87302] 白桃さん なんぎょう
南行徳の場合は明治の町村制施行時に生まれた自治体名ですから、そこそこ長い歴史を持っていますが、

「なんぎょう」に関連して、千葉県東葛飾郡南行徳村と同じように 町村制施行時に生まれた村名 を思い出しました。
一つは 群馬県南勢多郡→勢多郡 北橘村 です。2006年の新設合併により、現在は 渋川市北橘町になっています。

自治体消滅前の北橘村公式ページでは、「きたたちばなむら」を正式名称としながらも、中学校名にも使われている「ほっきつ」に、かなりの愛着を示していました。[48812]
そして[37082]で紹介されたように、合併後の町名には「ほっきつ」が採用されることになりました。

最初から漢字2文字である「北橘」は、省略形である「南行」の類例として適切なものではありません。
ただ、「南行北橘」と並べると「南船北馬」のような四字対句になりそうなので、この場を借りたというのが実際です。

もう一つ、1946年に hmtが入学した 旧制中学校の所在地だった 神奈川県愛甲郡 南毛利村 も 思い出しました。
この村は 1955年の新設合併で 厚木市になり、村の存続期間 約66年。学校名・駅名の省略という話題からは更に離れます。

…ということで、今回論じたいテーマは、「自治体名」と「地名」との関係です。
都道府県名・市町村名などの自治体名は、住所を記す時に使うので「地名」の典型例のように思われがちです。
しかし、「地名」本来の姿は、山・川・原などの自然地名や、人が住み着いた集落などの居住地名です。
離れた土地の人々の交流が盛んになると、いくつかの集落を総称する必要が生まれ、町村名ができました。
統一国家ができる過程で、更に広域の支配体制もでき、それが管轄する郡や国という広域地名もできました。
日本全国に県ができたのは明治4年でしたが、この時の「県」は行政組織つまり役所【今の言葉では県庁】の意味でした。

現行の地方自治法でも下記のように、都道府県や市町村の第一義は、「地方公共団体」の名称であることを明らかにしています。
普通地方公共団体は、都道府県及び市町村とする。
地方公共団体は権利・義務の主体となる資格を認められた「法人」であり、場所を表す目的の「地名」とは違います。

元々「○○県管内」と読んでいた行政区域を、単に「○○県」と呼び、「府県名」が地名にも転用されるようになったのは 明治32年の改正府県制以後のことと思われます。つまり、19世紀まで広域地名として普通に使われていた「国」がすたれ、代わりに「府県」が使われるようになったのは、20世紀からでした。hmtマガジン 参照。

このような「自治体名」と「地名」との関係を頭に置いて、「北橘」の事例を考察すると、次のように理解できます。
合併前の勢多郡「北橘村」【きたたちばなむら】は、法人格のある「自治体名」であった。
合併後の渋川市内に新たに画された10町名 「北橘町◎◎」【ほっきつまち◎◎】は、「居住地名」である。
「北橘町」単独の町名は存在しないが、北橘中学校 の名として使われてきた「ほっきつ」の読みが、北橘町真壁など旧北橘村内10町に使われた。

同じように、「南毛利」の読み方問題も再考察してみます。
2006年まで存在し、公式ページで「きたたちばな村」であると意思表示していた北橘村と違い、消滅後60年の南毛利村は、多くの資料に採用されている「みなみもり村」と、現実に使われていた「なんもうり村」とのギャップを埋めるのに、別の困難がありました。

3年前に書いた[80304]では、2005年の[44059]以来の数年間に記した疑問をとりまとめて提示し、MI さんが 神奈川県立公文書館で複写した資料 の確認をお願いしました。
[80306] MI さん からいただいた回答によると、南毛利村には「ミナミモリ」とルビが振ってあったとのこと。

これにより、神奈川県当局の意図する読み方を確認することができ、その後に編纂された多くの資料が「みなみもり」を採用していることも納得できました。
[44065]では“「正式の読み方」など存在しなかったのかもしれない”と書きました。[48812]で記したように、正式に定められていたのは「書き言葉」であり、読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよかったのではないかと思ったからです。

しかし、現実に「ミナミモリ」というルビが確認されると、「自治体名」としてはこの読み方を無視できません。
しかし、この読みは 地元に定着せず、「なんもうり」と呼ばれていたのは、注目すべき事実です。
公式の?「自治体名」と「地名」との関係を理解する上で、貴重な材料であると思われます。

「なんもうり」と読む施設名[44065][80309]
南毛利中学校 南毛利小学校
南毛利公民館 南毛利保育所 南毛利スポーツセンター 南毛利柔道スポーツ少年団 

現実に使われている「地名」の読み方が「なんもうり」であったのは何故か?
「なんもうり小学校」で学んだ人ならば「なんもうり」を使うのは当然でしょう。
そして、崇立館→長谷学校が南毛利小学校になったのは明治25年。 学校の沿革
関係者が 3年前の県令による「ミナミモリ」を知らない筈はない と思われるのですが、
学校名の読みを村名の読みに合わせる必要はないから、「立派に聞こえる」音読みを採用したのかもしれません。[80309]
参考までに、[75329]の末尾に 明治時代の学校名が並べてあります。大部分が音読み2文字の立派な名です。

学校名がある限り、地名としての「南毛利」【なんもうり】が使い続けられることは保証されていると思います。
しかし、役場・学校と共に村の代表的な施設であった郵便局でさえ、南毛利の名が消えているのです。
南毛利郵便局は、読みが「なんもうり」から「みなみもうり」へと変った後[44059]、更に愛甲石田駅前郵便局[58485]
局名に使う地名自体が変ってしまいました。

実は、「南毛利」という「地名」は、既に厚木市の居住地名の本筋である「町名」の地位も失っています。
温水、長谷、愛名、愛甲、恩名、船子、戸室などの旧村名は 大字として生きていますが、明治合併で生れた自治体名「南毛利」は、60年前の自治体消滅を機に 居住地名の地位さえも失いかけているようです。

江戸時代からの旧村名は大字としてしぶとく生き続けている。
しかし明治合併で生れた「自治体名」が自治体でなくなった後は、「地名」として存続する前途に、一抹の不安がある。

そう言えば、荏原に始まって明治の合成村名に言及した シリーズ記事 の末尾でも、同じような趣旨を書いていました。
[87273] 2015年 2月 10日(火)23:02:54hmt さん
海と島(24)地方自治法の規定で青森県所属になった 久六島
[87270] グリグリさん
第二海堡、海ほたる等の追記ありがとうございます。

秋田県は山形県の飛島を記載

これを見て、久六島 を思い出しました。
青森県の西端・久六島は、舮作崎から西に 30 km沖の日本海にある岩礁群で、青森県西津軽郡深浦町の一部になっています。

惜しいところで秋田県の領域から外れてしまった島 ということでは 山形県の飛島と共通しているのですが、こちらはずっと小さな無人島で、灯台のある上ノ島が53m×13mで最大。

深浦町史によると、久六島は天正年間には発見されていたようですが、旧岩崎村の大屋家所蔵の記録によると、船問屋の大屋久六が天明6年発見となっています。

江戸時代から、深浦・艫作・岩崎など弘前藩領海岸の漁民だけでなく、秋田藩領の村(岩館・八森)からも入漁していましたが、「石高」に関係しない岩礁は所属未定のままだったようです。

明治時代は青森県・秋田県ですが、当時の新聞は両県の間での過当競争を報道。

この状態で、明治以来も どちらの県にも所属しない状態が持ち越されたものの、1953年10月13日の閣議により所属未定地域の青森県編入が決まり、昭和28年総理府告示第196号で 久六島が正式に青森県西端になりました。

参考までに記しておくと、この措置の根拠とされた地方自治法第七条の二は 前年の法改正 により追加されたもので、本事案がその適用第1号であったと思われます。
[87268] 2015年 2月 9日(月)16:12:30【2】hmt さん
貴賓室があった 武蔵高萩駅
[87263] 伊豆之国 さん
西側の川越~高麗川間(中略)士官学校の最寄り駅であり、皇族方のために貴賓室が設けられていた武蔵高萩駅の駅舎も、改築により惜しくも取り壊されてしまいました([70706]スナフキん さん)。

連載された十番勝負関連テーマである「市駅」とは無関係ですが、かねて私が抱いていた小さな疑問が、この記事をきっかけに解明されたと思い、飛び付いてこの記事を書きました。
しかし、書いた後で再検討したら、根拠としたサイトの記載を文字通り信じることができなくなりました。
私の小さな疑問は未解明のままですが、地元 入間郡域 の歴史1コマとして、記事を残しておきます。

失礼ながら「こんな駅」と言いたくなる 武蔵高萩駅【埼玉県日高市高萩、1956年までは入間郡高萩村】。
こんな駅に 何故 貴賓室があったのか?

世間に伝えられていたのは、陸軍航空士官学校【修武台】の存在です。例えば Wikipediaには、かつて近くに存在した「航空士官学校の卒業式に臨席した昭和天皇が利用した貴賓室」との記載があります。
私自身も、1941~44年の「修武台」への行幸は川越線の武蔵高萩駅から行なわれたと記していました[34701]

脇道にそれますが、修武台という名について一言説明。
明治7年(1874)から東京の 市ヶ谷台 にあった陸軍士官学校が 神奈川県の座間に移転したのが 昭和12年(1937)で、昭和天皇から「相武台」の名が与えられました[19684]。この時代になると航空兵科の将校を養成する必要が増してきて、所沢飛行場内に士官学校の分校ができ、豊岡町への移転後 陸軍航空士官学校として独立しました(1938/12)。
「修武台」の名を下賜されたのは 昭和16年(1941)とのこと。参考

その航空士官学校があった地は 現在の航空自衛隊入間基地です。滑走路など広い敷地の大部分は 西武池袋線と西部新宿線とに挟まれた 狭山市入間川ですが、(本部の)所在地は 西武池袋線西側の 狭山市稲荷山 となっています。その他、入間市に属する地域もあります。
戦後は米軍のジョンソン基地だった時代がありました。更に遡った航空士官学校の発足時には 陸軍士官学校豊岡分校 という名でした。入間郡豊岡町【現在の入間市】の部分に 正門があったのでしょう。

武蔵高萩駅が 航空士官学校への行幸に使われたという通説について、私が抱いていた小さな疑問。
それは、お召し列車を大宮・川越経由で運転して、目的地の北北西(数km)にあるこの駅を使うのは、いかにも回り道であり、不自然だということでした。

ところが、リンクしていただいた[70706]により、この付近に詳しかった スナフキん さんが、
(陸軍女影原演習場所在を存在理由とした)皇室専用貴賓室
と説明していることを知りました。

女影原を手掛りに探したら、「武蔵高萩の里山を歩く」という探訪記に行き当たりました。
この 探訪記 の後半部分に
戦前高萩にあった陸軍の飛行場に昭和天皇が行幸したことを伝える昭和14(1939)年の新聞のコピー
が、高萩公民館に展示されている という記載がありました。

この探訪記によれば、1939年に女影原【高萩村、現・日高市】への行幸があり、その際に作られた貴賓室ということになります。
明治29年統合前の入間郡と高麗郡との関係で言うと、入間川右岸・武蔵野台地にあった修武台は 元からの入間郡域で、入間川左岸・飯能台地[55628]にあった女影原は 旧・高麗郡の領域です。
航空士官学校以外の行幸目的地があったのならば、駅に貴賓室を設けられた理由も納得できます。

これにて一件落着
…と思ったのですが、再検討の結果、致命的な問題点を発見してしまいました。

川越線の開業は昭和15年(1940)7月ではないか!! 
行幸を伝える「昭和14(1939)年の新聞」に、武蔵高萩駅の利用が記されていた筈がない。
Webに示された新聞では小さい字が読めず、日付や記事の詳細の不明ですが、どうも航空士官学校の卒業式への行幸を伝えるもののようです。

では、航空士官学校への行幸に使われた交通路は何だったのか?
それこそ 推測になりますが、学校敷地内を通過していた 武蔵野鉄道【西武池袋線の前身】 を使う可能性もあります。
目的地である航空士官学校敷地内に「臨時乗降場」を設ける。これが最も合理的です。

もっとも、国有鉄道【鉄道省線】優位の時代に、私鉄を使うことができたのか? とか、武蔵高萩駅の貴賓室の謎が解けていないなど、問題を残したままです。
参考までに、相武台への行幸には、私鉄の小田急や相模線【国有化前の相模鉄道】は使われず、省線【横浜線】原町田駅が使われました。原町田にあった宮廷ホーム[34522]は 私の記憶にあります。
引用した探訪記に記された「高萩にあった陸軍の飛行場」の裏付けも取れていません。

新聞記事が昭和14年というのが誤記かもしれず、開業前の川越線を特別に使ったのかもしれず、…
妄想は尽きることがないので、このへんでやめておきます。
[87262] 2015年 2月 7日(土)17:28:41hmt さん
海と島 (23)富山県・千葉県・神奈川県の島
[87259] グリグリさん
千葉県と富山県の地図にも島の表記を行いました。

富山県氷見市の 虻ガ島。初めて知った小さな無人島でしたが、それでも富山県最大なんですね。2島合計で0.1ha余。富山県指定名勝・天然記念物。能登半島国定公園特別保護地域。
いきなり深くなる富山湾で希少な島です。5万分の1地形図の図名では 「虻島」となっていた時もありました。

千葉県鴨川市の仁右衛門島。落書き帳では、早くも2003年に小さな有人島として登場[15942][16236]
面積は 2haとも 3haとも。平野仁右衛門を代々名乗る個人の所有で、自然島としては千葉県最大の島のようです。

人工島ですが、富津市の「第二海堡」[26174]。この島は 仁右衛門島よりも大きな島であるというだけでなく、千葉県の西端[83154]という重要な地位を占めています。是非とも 千葉県の地図に描いていただきたいと思います。神奈川県の地図にも。
少し立場が違いますが、千葉県と神奈川県とを結びつけている「海ほたる」も 地図に描かれる対象として考慮されてよいのではないでしょうか。>グリグリさん

海堡に戻ると、東京湾海堡の歴史では、品川台場にも言及しています。1914完成の第二海堡は 4.13ha。隣の第一海堡も富津市で、2.31ha 1890完成。参考までに第三海堡所在地は横須賀市でしたが、航路確保のため 2007年までに撤去されました。

神奈川県の地図に移ります。富津岬の西、第一海堡・第二海堡の対岸・横須賀に記されているのが吾妻島です。
この島は知らなかったのですが、横須賀市箱崎町の面積は82.5haで、海堡など数haの島よりも1桁以上大きな「島」です。
元々は「箱崎」という地名が示すように半島だった地形でした。1889年に付け根に開削された水路で切り離されたとのことですが、大正の地形図ではまだごく狭い水路で、「島らしい島」ではありません。
全島が米国海軍の倉庫地区になっており、一般人は立ち入ることができません。

吾妻島のすぐ北にあるのが「夏島」です。ここは元は風光明媚な金沢八景を望む天然の島でした。
海軍の軍用施設を作るための埋立で本土と地続きになりましたが、「夏島」という地名は残っています。
横須賀市夏島町の面積は288.8haもあるので 大きな島かと思ったのですが、古い地形図で確認すると 自然島の夏島は 一桁小さな島でした。現在の夏島町は大部分が埋立地であることがわかりました。

…というわけで、「神奈川県の地図」にその名を記してもらう資格はないのですが、調べてみると なかなか由緒のある島です。

夏島貝塚。その存在は戦前から知られていましたが、要塞地帯や米軍占領のために調査不能。しかし占領軍の将校の協力が得られ、明治大学による調査が実現。放射性炭素14による年代測定が日本で最初に使われ、縄文土器の年代が5000年前から9500年前まで倍近くに遡ることがわかり、考古学に大転換をもたらす。
写真の小山が本来の「夏島」で、その周囲に埋立で作られた平地が広がっていることがわかります。

落書き帳読者のみなさんは 明治22年(1889)と聞くと、反射的に「1889/4/1市制町村制施行」となると思いますが、その少し前 1889/2/11 大日本帝国憲法発布(施行1890/11/29) こそが 近代日本の統治制度を仕上げる重要なステップでした。

夏島は、その憲法発布の準備作業が行なわれた地として その名を残しているのです。
明治維新三傑亡き後の明治政府で力を持った伊藤博文は、明治15年(1882)に憲法調査の目的でヨーロッパで学んでいました。明治18年の内閣制度への移行に際しては、初代首相に就任し、ここでも憲法発布前の下準備。具体的な憲法草案の作成作業は、明治20年(1887/6)から夏島にあった伊藤の別荘で、伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らと共に行なわれた検討会で始まり、8月に一応の成果を得ました。この 夏島草案が 枢密院での審議を経て、明治22年の憲法発布に至ります。

ここまでは自然島だった夏島ですが、大正7年(1918)に横須賀海軍航空隊などの軍用施設を作るための埋立が行なわれた結果、島の様子は一変します。
大正10年修正の地形図では、島の西側に大きな埋立地が現れ、追浜飛行場と記されています。ここで追浜(おっぱま)という地名が現れましたが、相模国三浦郡と武蔵国久良岐郡との境界線がこの中を通っています。埋め立てた海の大部分が久良岐郡金沢村野島の地先だったからです。このことが、戦後飛行場跡地の帰属について横浜・横須賀両市間の係争の因になったとのことです。

敗戦後、追浜飛行場の後は、占領軍の巨大なスクラップヤードになり、南方の戦場で壊れたトラックやジープが大量に運び込まれ、その修理・解体・再利用が行なわれました。引き続き、1950年に始まった朝鮮戦争もスクラップ車両の供給源になりました。

このような過渡期を経て、現在の夏島で最大の面積を占めている施設は、日産自動車追浜工場です。
1961年操業開始 。工場が完成し、ブルーバード生産開始は 1962年3月(Wikipedia)。

夏島には、海洋研究開発機構JAMSTEC もあります。「しんかい6500」の母船は「よこすか」ですが、その前に運用されていた「しんかい2000」の母船は「なつしま」でした。現在は「ハイパードルフィン」の母船に改造され活躍しているとのことです。研究船
[87258] 2015年 2月 6日(金)19:04:36hmt さん
「○丁目」・「第○地割」におけるアラビア数字表記
初めにお断りです。昨日同じテーマの記事を書いたのですが、大幅な訂正を加えました。
訂正が許される限界を越えると判断したので、新規の投稿とします。
同じ記事番号にならないように、投稿後 昨日の記事を削除します。

[87253] 右左府 さん
私も同様に【「字」の一種と】理解していたのですが、ちょっと引っかかる出来事がありました。
岩手県滝沢市 の方の…「戸籍全部事項証明」…数字の部分が アラビア数字 で表記されていたのです。
この戸籍を見て以来 「『地割』 は『字』の類ではないのか?『字』とはまったく異なる独自の要素なのか?」 という疑問

疑問が生じた根拠
1 町字名の一部をなす数字の正式な表記は漢数字である。
2 戸籍の表示などで使われるのは、この“正式な表記”である。

市町村長の告示(地方自治法第260条第2項)で用いられた表記が、唯一の“正式な表記”であるか否かについても疑問があるのですが、告示の表記自体にアラビア数字が使われている市町村もあるようです。Wikipediaには札幌市の告示表記がアラビア数字であると記されていました。

漢数字表記を正式とする市町村であっても、アラビア数字の使用を認めて公式に採用している事例は多数あるようです。
戸籍の事例ではありませんが、住民票の住所の表記に関しては、先例があるようです(Wikipedia)。
『二丁目』は固有名詞と解されるが、横書の場合は便宜2丁目と記載してさしつかえない
という大分地方法務局長の見解が、法務省民事局長からも是認されたとのこと(1963年)。

これ以後、多数の市町村で、住民票における「丁目」の記載がアラビア数字になっているようです。

「霞が関一丁目」を「…itchôme」でなく、「Kasumigaseki 1 chôme」と表記するという自治省行政局長通知(1965)もありました。

自分の住所に戻って、富士見市長の発行した住民票を見ると確かに「富士見市ふじみ野西4丁目」とアラビア数字表記です。

ところが、2010/5/1実施の 新旧・旧新住所対照表に先立って 都市計画事業で定めた 新旧・旧新地番対照表 では漢数字表記です。

この辺が ややこしい ところです。
新町名を定めた告示を確認しようと探したが不成功。
富士見市のウェブサイトではアラビア数字に統一されていました。例規集にある 出張所設置条例 を見ても同様にアラビア数字。

ところが、街角にある 街区表示板 を調べたら「ふじみ野西四丁目」と漢数字。
縦書のせいかと思って、「ふじみ野西」地域の案内地図[75049]を見たら、横書きなのに漢数字。
市の仕事の中でもアラビア数字と漢数字が混在しています。

このような状況を見ると、告示で用いられた表記が何れであれ、それが唯一の“正式な表記”であるとする見解には疑問を抱かざるを得ません。

「丁目」を主とする記事になりましたが、「地割」も同じことだと思います。
滝沢市が発行した
戸籍謄本(正確には、電算化された横書きの 「戸籍全部事項証明」)
に使われていたアラビア数字表記に拘らず、条例で定めた地割の表記は漢数字であった可能性があります。
そして、いずれの表記であっても、それを根拠に「地割は字の一種」という理解を覆すことは困難と思われます。

おまけ
今尾恵介『住所と地名の大研究』p.200-208には『「丁目」とは何か』という節があります。
同じ本のp.93-100には『北海道の条・丁目』という節もあります。
落書き帳アーカイブズには、町名、字名(大字、小字、字)、丁目とは何か? があります。
[87250] 2015年 2月 2日(月)20:24:20【1】hmt さん
「第○地割」
[87245] N さん
2014/11/25に八幡平市役所が移転しました。

業務開始を知らせるWebページ の下端部に記された住所は「岩手県八幡平市 野駄 21-170」となっています。
「八幡平市」に続く「野駄」は大字でしょうが、その後に略記された「21-170」は何を表す番号か?

住所地名における最もありふれた番号は「丁目-番地」のペアですが、「21」は丁目の数字としては大きすぎます。
「番地-枝番」の事例も多数ありますが、今度は「170」が大きすぎるようです。

正解は 広報はちまんたい にありました。
住所: 〒028-7397 八幡平市 野駄 第21地割 170番地
# 例規集も確認しましたが、まだ「八幡平市大更第35地割62番地」【旧西根町役場の位置】のままでした。

「野駄」という大字【1889年の町村制で松尾村になる前の野駄村】と「170番地」との間にあったのは、「第21地割」という地名階層でした。
この例では大字と番地の間ですから、「字」の一種、いわゆる「小字」に相当するものと思われます。
しかし、小字に普通使われているような「地名」ではなく、「第21」という番号を使った階層は珍しく思われました。

「第○地割」は、本当に「小字相当」の階層なのか? [48333]で紹介されている種市の事例も「小字相当」ですが、更に調べてみると、必ずしもすべての「第○地割」がそうであるとは言えないようです。
例えば盛岡城址を史跡に指定した昭和12年文部省告示212号を見ると、所在地は「岩手県盛岡市第一地割字内丸○番地」となっており、この場合の「第一地割」は、「字」の上位階層である「大字」に対応するように思われます。

滝沢市の 供養塔 の事例を見ると、これが建てられていた旧位置は「鵜飼村第24地割字笹森」、現在地は「滝沢第3地割字高屋敷72番地2」とあります。鵜飼村や滝沢は1889年の町村制で滝沢村が成立する前の旧村、つまり「大字」レベルの地名。そして字笹森や字高屋敷は旧村時代からの「字」【いわゆる小字】であり、「第○地割」は旧村【即ち大字】と「字」との中間に作られた階層であることがわかります。

供養塔自体は幕末のものですが、もちろん所在地が刻まれているわけではありません。
「第○地割」という地名は役場の人が位置の記錄に使っただけです。
いずれにせよ「地割」とは、市町村と番地との中間階層である「字」の一種であり、番号を使った点が特異的です。
使用事例は専ら岩手県のようですが、九戸郡に至る北の方に多くの事例を見ることができます。

私の勝手な推測。明治5年から明治9年にかけて存在した旧岩手県が設けた階層が生き残っているのではないでしょうか?
この時代は、大区・小区を設けて戸籍制度の整備をしていた時代です。
地名についても従来の「字」にとらわれず、便宜上当時の「村」の中を「番号で地割した」ことが考えられます。

それはさておき、珍しい「第○地割」という住所に惹かれて、落書き帳の過去記事を調べてみました。
地割には直接言及していないが、「字」や「地番」に関する記事も一部加えてあります。記事集地割

考えが纏まらないままの結語。
「第○地割」は「○丁目」や「○街区」[19560]、北海道の「条丁目」・「線号」[48808]などの同類で、「地名を使わないで番号による地区割」の一種と思われます。
千代田区「三番町」なども元々は同類だったのかもしれませんが、現在では普通の町名として定着しています。
地名コレクションにも「数字系」や「合併数地名」などがあります。
多様な「地名」。「第○地割」もその中の一つの存在と言えば、それまでのような気もします。
[87242] 2015年 2月 1日(日)12:26:42hmt さん
宮古島から開通した道路の西端にあるのは 下地島空港
[87240] k-aceさん
本日16時に宮古島市の宮古島と伊良部島を結ぶ、国内最長の無料で通行できる橋「伊良部大橋」(3540m)が開通しました。

伊良部大橋を含む道路は、沖縄県道252号で、その路線名は「一般県道平良下地島空港線」です。
沖縄県サイト 事業経緯によると、伊良部島の生活環境の改善・活性化などが図れる他に、下地島空港の利用促進に寄与するものと期待されています。

宮古島から新たに開通した陸路を 航空写真 で眺めてみます。
伊良部大橋は未完成ながら、画面右下の海上に特徴ある弧状の姿を見せ始めています。橋の東詰に県道252号の表示がありました。

目立つのは、やはり画面西端の 下地島空港にある 3000mの立派な滑走路です。落書き帳では、[83592]の末尾で僅かに言及。
以前は民間航空のパイロット訓練用に利用していましたが、日本航空(-2011)全日空(-2014)共に訓練を終了しているそうです。訓練用シミュレーターが進歩した結果でしょうか。
とにかく、現在は殆ど活用されていない状況のようです。

自衛隊の利用も検討されている筈ですが、政治問題がからみ 実現していません。
尖閣諸島に近い立地ということもあり、今後の動向に注目。

下地島と伊良部島との間の水路は狭く、航空写真では殆ど1つの島のように見えますが、県道の国仲橋を含む6本もの橋で結ばれていました[82809]
子ども達が飛び込みをしていた乗瀬(ヌーシ)橋【南端】は老朽化して解体されましたが、新しい橋に架け替えられるようです。

以下余談
「上地・下地」という地名は 沖縄では一般的に使われているようです。
[83592]では八重山の新城島に言及しました。干潮時には珊瑚礁が顕れて上地と下地の2島が連結します。
大字・小字名は、もっと近くにあります。宮古島市役所下地庁舎の所在地は 宮古島市下地字上地です。

念の為に記しておくと、平良市との合併が琉球政府告示後に撤回されたという 珍しい事例[71753]が紹介された 宮古郡下地町。これは勿論 空港の下地島ではなく、宮古島南部の「下地」です。本土復帰前のこと。
[87239] 2015年 1月 31日(土)12:59:31hmt さん
絹の話(6)楫取素彦と速水堅曹
NHKテレビの連続ドラマ『花燃ゆ』に、準主役として小田村伊之助という人物が登場しています。
主役の女性とこの人との関係はドラマに任せるとして、最初に「都道府県市区町村」との関係を説明しておくと、明治9年に群馬県の初代県令になった 楫取素彦(かとり・もとひこ)の若い頃の名が小田村伊之助でした。

名前が幕末に使われた通称の「伊之助」から変っているのはともかく、姓も小田村から楫取へと変化しています。
生家は松島家であり、養子に入った時に小田村に改姓。これは養子制度が多用された昔なら 珍しいことではありません。
楫取素彦への変更は、慶応3年(1867)に藩主の側近に取り立てられた時に、毛利敬親の命によるものだそうです。
楫取は「舵取り」の意味で、小田村家の先祖の仕事。山口藩の舵取りへの期待が込められている苗字のようです。

桂小五郎→木戸孝允、村田蔵六→大村益次郎などの例もあり、長州ではよく行なわれたことなのでしょうか?

富岡製糸場は明治5年(1872)操業開始ですが、明治政府の官僚になっていた楫取素彦が 足柄県参事から上野国に転勤してきた時期は 明治7年のようです。当時の役職は熊谷県権令、つまり副知事でしょうか。
熊谷県は明治4年に設置された第一次群馬県[54888]と入間県[36047]とを明治6年に統合したものです[36081]
熊谷県は富岡製糸場に代表される絹だけでなく、狭山茶の産地でもあり、当時の代表的な輸出産業を支える県でした。

明治9年(1876)、熊谷県の北半分【第一次群馬県域】は 明治4年から栃木県に属していた3郡【山田・新田・邑楽】を統合して 現在と同様に上野国一円を管轄する【第二次】群馬県になりました。

楫取素彦は、初代の県令(知事)になり、引き続き上野国の地方行政の責任者を務めることになりました。
県庁は最初は高崎でしたが、楫取の在任中に前橋に移りました。産業振興にも尽力した彼を讃えて、「県都前橋の父」という碑 が建てられているそうです。
なお、この時に熊谷県の南半分【旧入間県域】を編入した埼玉県は、ほぼ現在に近い県域になっています。

2012年の上毛新聞ニュース に、富岡製糸場が閉場の危機に陥った明治14年(1881)に、県令の楫取素彦が 官営存続を国に強く訴えたという資料が紹介されていました。

明治初期に全国で展開した官営の模範工場。西南戦争による財政危機に見舞われた政府は、財政的負担の軽減の見地から、官営事業払下げの方針に転換しました。藤田伝三郎が小坂鉱山を手に入れたのは、少し後の明治17年でした[67425]
しかし、大規模な富岡製糸場は買い手がつかず、請願人がなければ閉場との方針も出されました。
これに反対して 楫取素彦県令が農商務省と掛け合い、官営存続となったとのことです。

振り返ってみれば、富岡に製糸技術を輸出したのは、普仏戦争の敗戦により第二帝政【ナポレオン3世 在位1852-1870】から第3共和制に移った頃のフランスでした。

時は移り 復興したフランスは、1878年にパリ万国博覧会を開きました。
日本では明治11年ですが、この時に勧農局長だった 松方正義は 富岡の生糸の品質低下をフランスから指摘されました。
そして、松方が富岡製糸場の改革を任せるべく、第3代所長に任命したのが 前橋藩士時代の 1870年に 小規模ながら 日本初の器械製糸所を立ち上げた速水堅曹でした。
かねがね速水が唱えていた民営化を含む抜本的改革に松方が賛同したわけです。

速水は、明治13年 官営工場払下概則 制定の頃に 富岡製糸場の所長を辞任して民間人となり、その立場で富岡製糸場を借り受け経営するプランを立てていたようです。
しかし、前記のように楫取素彦群馬県令の反対で実現せず、官営事業継続となりました。
日本の産業資本が未成熟の時代には、やはり民間の手に余る大規模工場だった…ということなのでしょうか。

一度は富岡を離れていた速水も明治18年(1885)には所長に復帰しました。
速水は、明治26年の民営化実現で退任した後までも、技術スペシャリストとして全国に製糸技術を指導したとのことです。
[87238] 2015年 1月 31日(土)12:42:10hmt さん
絹の話(5)官営富岡製糸場
4つの資産の中心的な存在である富岡製糸場に移ります。明治5年(1872)開場の少し前の状況から始めます。
工場の名前は 官営時代から「富岡製糸所」と呼ばれた時期が多く、民営化後もいろいろ変化しています。
この記事では、便宜上 最初の名でもあり、世界遺産でも使われている「富岡製糸場」に統一しておきます。

シルク産業は、養蚕つまり繭の生産で完結するわけではありません。農産物である繭から生糸にする製糸工程、その絹糸を更に加工する織布・染色などの工程、更には裁縫等を経て私達が日常接する製品が完成します。
幕末に輸出が急増した日本の生糸ですが、粗製濫造の結果はたちまち評価の下落になりました。
それだけでなく、旧来の座繰りによる生糸は太さが揃いにくいという本質的な欠点がありました。
生糸の付加価値を高めるためには、器械製糸への転換が必要です。

小規模ながら日本最初の器械製糸所は、前橋藩の速水堅曹により明治3年(1870)に作られました。イタリア技術の導入です。
前橋藩については、転勤大名・松平大和守をテーマにした記事で触れたことがあります[72830]
1749年に姫路から前橋に移されたものの、利根川の侵食で前橋城は崩壊の危機。幕府に頼み込んで空き城の川越に緊急避難。川越で約100年を経過して幕末・松平直克の時代になりました。

松平直克が親藩【越前分家】の藩主でありながら 政事総裁という幕府要職に就任したのは 幕末の非常体制を示しています。
その一方で、宿願の前橋城再建により、100年ぶりの前橋復帰をも果しました。前橋復帰を実現できた背景には 利根川河川改修があったのは勿論ですが、資金的裏付けとしては横浜開港後の生糸の輸出により得られた前橋商人の財力がありました。
日本初の前橋器械製糸場の開設は、このような背景から実現したものであり、前橋城再建には直克側近の速水も関わったことと思います。

前橋藩に製糸場ができた頃、明治政府も外国資本でなく、官営の模範工場を建設する方針を決めました。
そこで御雇外国人として選ばれたのが、フランス人のポール・ブリューナでした。
彼が日本側の所長・尾高惇忠と共に選んだ立地は、前橋にも近い 上野国富岡 で、ここに外国でも例を見ない、繰糸器300釜という大規模な器械製糸所が作られることになりました。

器械はもちろんフランスから輸入しますが、それを設置する建物が必要です。倉庫その他の付属建物も必要です。
短期間に主要な建物を完成させるのに役立ったのが、横須賀製鉄所[77630]の建築を担当したバスチャンの経験でした。

2014/12/10の官報で 旧富岡製糸場の建物3棟が 国宝建造物に指定されました。文化庁報道発表
群馬県は 県内初の国宝誕生 と報じています。
参考までに、近代建築で国宝になったのは 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)に次いで 全国で2件目です。

国宝になった繰糸所は 桁行 140mと 長大な木骨煉瓦造で 高い天井とガラス窓で 明るい大空間を実現しています。
東置繭所・西置繭所は繰糸所と直交する配置で、桁行104mの2階建。明治五年と記された東置繭所の要石。

建物や繰糸器械のように有形の遺産として残されてはいませんが、工場建設に何よりも重要だったのは 従業員の確保です。
その女子作業員が「工女」ですが、前例のない西洋式の大工場で働く数百人の工女を確保するのは大仕事でした。

所長の尾高惇忠の娘を始めとして、旧士族階級出身の工女が多かったようですが、その労働環境は 1日8時間の週休制。
年末年始や盆休み。福利厚生など当時としては優れたものでした。
それでも騒音など作業環境問題もあって中途退職する工女も多く、熟練工を育てられないことによる非効率は経営上の問題点になっていたようです。

経営上の問題点と言えば、御雇外国人に支払う高給も赤字の原因で、日本人だけになった明治9年度に初黒字が出ました。
[87237] 2015年 1月 31日(土)12:26:17hmt さん
絹の話(4)養蚕技術関係の3資産
2014年春に 富岡製糸場の世界文化遺産登録を記念して、絹の話 を書き始めました。
これは、日本が近代化する過程で大きな役割を果たした絹関連産業を見据えたシリーズですが、産業構造が一変した現代の落書き帳読者に対する解説的な意味合いもあります。

…と、先輩ぶった書き方をしたのは、私が過ごした少年時代の環境には、大部分の皆さんの周囲よりも、桑の木がたくさん生えていたからです。とはいうもの、私自身も養蚕業に触れた経験はなく、受け売りの知識にすぎません。ごめんなさい。

構想だけは大きなシリーズ。3回で中断していましたが、少し書き続けます。

前回までの記事は 世界文化遺産登録が確実視される状況になった 2014年4月の ICOMOS勧告時点での紹介でした。
その後2014/6/21に Doha,Qatarで開かれた委員会において Tomioka Silk Mill and Related Sites の名で 世界文化遺産リストへの記載が正式に決まりました。

この文化遺産を構成する資産は、富岡製糸場に加えて養蚕技術関係の3資産があり、合計4資産です。

富岡製糸場【富岡市】 フランスの技術を導入した明治5年設立の官営器械製糸場。木骨煉瓦造の繰糸場や繭倉庫など。
田島弥平旧宅【伊勢崎市】 近代養蚕農家の原型になった文久3年(1863)の建物。通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」。
高山社跡【藤岡市】 通風と温度管理を調和させた「清温育」は、日本の標準的な養蚕技術として全国及び海外に普及。
荒船風穴【下仁田町】 天然の冷風を利用した蚕の卵の低温貯蔵施設。これにより1年間に何回もの養蚕が可能になった。

日本の養蚕は 古い歴史があったものの、その技術は長い間停滞していました。
江戸時代後期になると、中国からの輸入生糸による貿易不均衡を是正する必要から、ようやく技術改良が進み始めました[85527]。その成果を示す資産が「清涼育」の蚕室を具えた田島弥平旧宅でした。

幕末の黒船来航を契機とする開国で外国貿易が開始された頃、ヨーロッパにおける絹の主産地であったフランスやイタリアでは蚕の微粒子病が蔓延しました。そして清王朝下の中国も太平天国の乱などで混乱状態に陥り、蚕種や生糸は世界的な不足状態になりました。これが日本の輸出品の花形として生糸を登場させる背景になりました。

一方で日本の養蚕技術は、「清涼育」と東北地方の「温暖育」とを調和させた「清温育」により確実な繭生産が可能になりました。この技術を全国に普及させた教育機関が 高山社 でした。
高山は旧村名です。都道府県市区町村変遷情報を見ると、1889年の町村制で 緑野郡高山村等9村が 美九里村合併数地名コレクション収録済み】となり、1896年の郡統合による多野郡を経て 昭和合併時代の1954年に藤岡市になったことがわかります。

そして、荒船風穴による蚕種の冷蔵により年1回だけだった養蚕が複数回実施可能になり、増産を実現。
一代雑種(F1)の利用も 1914年に実用化しました。

このようにして、明治から大正にかけて日本の養蚕業が大発展した背景を探ると、そこに先人たちの努力があったことは勿論なのですが、時の運に恵まれたことも否定できません。
[87236] 2015年 1月 31日(土)12:06:05hmt さん
2人の「鳩山首相」の出身地
[87232]で紹介していただいたサイトを見て、ちょっと気になったので メモしておきます。
東京都 5人 高橋是清・近衛文麿・東条英機・鳩山一郎・菅直人【サイトの誤記を訂正】
京都府 3人 西園寺公望 、芦田 均、東久邇稔彦
北海道 1人 鳩山由紀夫

東久邇宮家が創設されたのは明治後期ですが、京都府出身を自認しておられたのですね。西園寺首相も京都。
対照的なのが近衛首相。藤原氏→近衛家と言えば歴史的には京都の公卿の代表ですが、現実には東京出身。

2人の「鳩山首相」の出身地も分かれていました。

鳩山家の出自を探る目的で、鳩山一郎の父・鳩山和夫を調べてみました。首相ではないが、衆議院議長の経歴あり。
美作国勝山藩士の出身ですが、親の勤務地の関係で江戸生まれ。
子供時代に勝山に戻ったこともあるが、本拠地はずっと東京で、音羽に居を構えたのは1890年で、34歳。

政治家・教育者であると共に、北海道開拓にも尽力。
岩見沢の南に位置する 栗山町鳩山地区

落書き帳メンバー紹介でもそうですが、「出身地」は本人の主観で決められます。
衆議院選挙区を意識した「北海道出身」の首相というのも「アリ」なのでしょう。

高橋是清首相は江戸町人の家に生まれたが、生後間もなく仙台藩の足軽の養子となる。
東條英機首相の出自は盛岡藩南部氏に仕えた能楽師。父は軍人。
2人共に、江戸・東京に勤務していた家で育った「東京出身者」であると思われます。
[87233] 2015年 1月 31日(土)10:33:52hmt さん
岩手県出身の横綱・宮城山
[87231] じゃごたろさん
岩手県にも横綱がいたことは驚きでした。

その横綱の しこ名が、宮城山であることを知り、また驚きました。
出身地は岩手県西磐井郡山目村【1948年一関市】で、元は仙台藩領だったようですが…
[87185] 2015年 1月 21日(水)17:40:31hmt さん
hmtマガジン更新のお知らせ
2015年になってからの更新状況をお知らせします。

2015/1/1 特集「日本の海と島」に、追加記事を収録しました。
日本の島の面積・人口集計表 や、架橋による「連島」を考慮した面積・人口の上位ランキングも含まれています。

2015/1/12 津の守坂のタイトルで連載した 高須四兄弟 をマガジン化しました。

2015/1/20 これまで収録していなかった「郡」や「支庁」についても、マガジンに収録するつもりで新規テーマを作りました。
その第1号として取り上げたのは、 hmtの居住地である 埼玉県入間郡域 です。
[87184] 2015年 1月 21日(水)16:07:10hmt さん
埼玉県植木村が関係する 明治29年の郡統合情報
1889年の町村制施行当時、植木村は 比企郡に属していました。
1896年に(旧)比企郡は横見郡と統合されて (新)比企郡 になりました。
ところが、1938年に 入間郡芳野村 と 入間郡古谷村への分割編入によって消滅した植木村は、入間郡所属となっています。

比企郡から入間郡に移ったのは何時か? この疑問を解く鍵は、1896年の「郡設置」情報に記されています。
「(旧)比企郡の一部」から設置された郡は、比企郡だけでなく入間郡もあったのです。

詳しく言うと、(旧)比企郡の大部分である2町22村は(新)比企郡に受け継がれたのですが、植木村だけは入間郡に移ったのでした。

…, 比企郡の一部 の区域をもって◎◎郡を設置
という現在の表記【◎◎=入間、比企】は、植木村だけが比企郡から外されたという現実を伝えるには不満足です。

修正案:対象となる町村名を「○○村」でなく、具体的に列挙する。
88さんはこの方針であったかもしれません。埼玉県下国界変更及郡廃置法律 も列挙しています。

別の案:次のように記載して 植木村の所属変更を伴う郡統合情報 であることを明示する。

入間郡, 高麗郡 及び 比企郡植木村 の区域をもって入間郡を設置
横見郡, 比企郡(植木村を除く) の区域をもって比企郡を設置

後者は非公式な簡略記載です。
しかし、変遷情報の本質からすると、修正に手間がかからず、利用者にわかりやすい この簡潔な表記が好ましい。
hmtとしては、そのように思うのですが、よろしくご検討願います。>グリグリさん

付言
この郡境変更は、町村制施行よりも【ずっと?】前に行なわれた河川改修の事後フォローと推測 [79671]
[87139] 2015年 1月 16日(金)16:46:37【3】hmt さん
大阪市を廃止し5特別区とする案の可否を問う 最大規模の住民投票
大阪府・大阪市特別区設置協議会 の第21回会議が2015/1/13に開かれました。
この会議によって事実上決められたのが、タイトルに掲げた住民投票です。

最初に、落書き帳では [87116]の二番煎じになることを承知で、敢えて長目のフォロー記事を書いた理由を説明します。
それは「都道府県市区町村」メンバーとして
大阪市がなくなるかもしれない!
という節目を見逃せなかったからです。
もっとも、公明党は住民に反対を呼びかけるし、5ヶ月も先の住民投票結果は予断を許しません。

今回の協議会の正式議事録は未公表です。そのため、朝日デジタル など新聞種に頼りながら、このニュースを眺めます。
忘れてはいけない資料もまとめて置きましょう。落書き帳の過去記事 です。 

2010年に立ち上げた大阪維新の会は、2011年春の統一地方選挙と同年秋の大阪府知事・大阪市長のダブル選挙で勝利しました。2012年には中央政界主要政党の賛成も得て成立した 大都市地域における特別区の設置に関する法律[81306] が成立し、翌年早々には大阪府・大阪市特別区設置協議会発足と、ここまでは極めて順調な滑り出しでした。

しかし、2013年に議論が始まると 当初は協力的だった公明党が 維新の会との対決姿勢を強め、2014年1月には決裂状態。7月に維新単独で決めたプランが10月の大阪府・大阪市の両議会で否決され、暗礁に乗り上げました。

ところが、昨年末頃から風向きが変ったようです。
橋下市長・松井知事と対立する野党の立場の公明党は、「あまりにも ずさん で問題点が多い」として特別区設置協定書内容を批判しながらも、「議論の収束をはかる」として、住民投票実施に同意する方向に動きました。

…というわけで、今年3月の府・市議会では、昨年否決された案と大きくは変わらない最終案が可決され、統一地方選挙後の2015年5月17日に 「大阪市」を対象とする住民投票[87116] が実施される見通しです。

住民投票の有権者、つまり大阪市に住む20歳以上の日本国民は約215万人にのぼり、わが国では最大規模の住民投票になるようです。と言っても、大阪市以外の 大阪府32市・9町・1村の住民【人口で70%】は蚊帳の外です。念の為。

最近の協議会で事実上決まったと伝えられるのは、大阪市に代え特別区を設置することの賛否を大阪市民に問う住民投票の実施です。
[87119]ピーくんさんが記されたように
2017年から大阪都になって大阪府と大阪市がなくなる
ことが決められたわけではありません。

【追記】[87140]へのレス
ご指摘を受けた部分の原文は、住民投票が大阪府全体でなく大阪市だけであることにその意義を認め、そのことを最初に指摘したのが山野さんの記事であることを明示し、讃える趣旨でした。しかし、記事引用の不手際から山野さんに不愉快と感じさせる逆効果になったことをお詫びします。誤解の原因部分の表現は修正しました。
  
マスコミの影響かもしれませんが、「大阪都構想」という言葉が “独り歩き” しているような気がします。
住民投票実施を決めた協議会の名に示されているように、地方行政制度として現在検討されているのは、「大都市地域における特別区の設置」です。
これが 橋下さんの掲げる「大阪都構想」と関係するものであることは間違いないでしょうが、大阪だけのものではありません。

このテーマを、市区町村変遷情報に どのように反映させるべきか?
オーナーグリグリさんは 既に[77728]以来 検討されていると思いますが、現実には 予定情報一覧 には収録されていません。
大阪府の区域内での特別区設置案は、大阪市との協定書も確定し、住民投票という段取りに到達した機会でもあり、予定情報として収録しておくべき項目であると考えます。

今回変遷情報に収録する内容。これは、もちろん大阪府か大阪都かという名称の問題ではありません。
都道府県の名称変更には特別法を必要としますが、その手続は 現実問題になっていないので、変遷情報に収録するには時期尚早でしょう。
収録すべきテーマは、やはり「特別区」という言葉で表された その中身です。

「特別区」という言葉は、従来 地方自治法第281条第1項で、「都の区」と同じ意味に使われていました。
長年使われてきた この用法から、大阪府内に「特別区」を作るのならば、それは即ち「大阪都」になることではないか? そのように考える人がいたのが、「大阪都問題」のきっかけかもしれません。

2012/8/10の衆議院で可決され[81306]、2012/8/29の成立後[81731]、平成24年9月5日法律第80号として公布され、2013/3/1から全面施行されている 大都市地域における特別区の設置に関する法律
この法律の第3条では、地方自治法の例外として、道府県の区域内における特別区の設置を認めています。
従って、大阪府のままで特別区を設置しても支障はないわけです。特別区設置は大阪都に直結しません。

それよりも注目すべきは、第1条(目的)、第2条(関係市町村の定義)に記されている「道府県の区域内」です。
新たな特別区制度は、人口200万以上の都市圏を対象にしています。
しかし、どんなに頑張っても 府県境を超えた範囲は対象外という限界があります。

[81306]で想定された8地域の中で、現実に動き出したのは2013/2/1に設置された 大阪府・大阪市特別区設置協議会 だけと思います。
この協議会の 特別区設置協定書 は膨大なものです。
到底読みきれるものではありませんが、その冒頭から要点を記してみます。

特別区設置の日 平成29年(2017)4月1日
特別区の名称及び区域
 北区   大阪市都島区、北区、淀川区、東淀川区及び福島区
 湾岸区 大阪市此花区、港区、大正区、西淀川区及び住之江区の一部(南港)
 東区   大阪市城東区、東成区、生野区、旭区及び鶴見区
 南区   大阪市平野区、阿倍野区、住吉区、東住吉区及び住之江区(南港を除く)
 中央区  大阪市西成区、中央区、西区、天王寺区及び浪速区
特別区と大阪府の事務の分担
 特別区は35~70万の人口をかかえ、中核市レベル以上の事務処理機関となるようです。

結局のところ、大阪市内は5区になりました。 2013/9/27の堺市長選挙では大阪維新の会の候補が敗れている現実も含め、2010年に報道された大阪都構想[75187]とは様変わりしています。

参考までに、頓挫していた特別区設置案が 公明党の住民投票容認により 俄に復活した政治背景に言及した 毎日新聞社説 をリンクしておきます。
依然として制度案には反対だが、決着をつけるために住民投票実施には協力するという公明党の態度については、読売 でも報道されていました。
[86827] 2014年 12月 22日(月)19:27:20【1】hmt さん
朔旦冬至
今日は「冬至」です。冬至・小寒・大寒・立春・(中略)・立冬・小雪・大雪を経て冬至に戻る二十四節気。
旧暦の名残のような印象をもつ人もいるかもしれませんが、その本質は太陽暦そのものです。

明治5年まで使われていた旧暦では、月(太陰)の満ち欠けにより日付を決めていました。
電灯のない時代には、日付によって月夜か闇夜かを判断できる太陰暦にもそれなりの利点がありました。
しかし、農業にとっては日付と季節のずれが生じることは致命的な欠点でした。
そのために閏月を設けることにより日付をできるだけ季節に近づける折衷方式【太陰太陽暦】になったのですが、これだけでは農事暦としては不十分。
そこで日付表記の旧暦と併用する目的で採用されたのが純粋の太陽暦です。こちらは、何月何日という太陰方式の「日付」と混乱しないように、数字を使わないで 太陽が一年の道程の何処にいるかを表す指標としました。

日差しが最小となり日照時間も短い冬至と、日差し最大で昼が長い夏至とが 最初に作られた指標であることは容易に推察できます。続いてその中間点であり、昼夜等分の春分と秋分。以上まとめて「二至二分」。
もっとも、古い時代の名称は「日短至」「日長至」「日夜分」など異なるものであったようです。

二至二分の中間点に定めた指標が立春・立夏・立秋・立冬の「四立」。
合計8つの指標【八節】を更に3分割し、春夏秋冬の四季に各6つを配したものが「二十四節気」です。
名称を見ただけで、北半球農業地帯の中国で成立した文化であることが理解できます。

旧暦【太陰太陽暦】の時代には、満ち欠けする太陰優先の日付と、植物相手の農作業に必須である二十四節気とを使い分ける必要がありました。日付も太陽暦になった現在では二十四節気の名称を使わなくても日常の用は足ります。しかし、二至二分と四立は 単に過去の文化を尊重する趣旨だけでなく、季節の推移を示す便利な指標として、現在も使われています。

冬至の習俗と言えば、柚子湯 冬至粥 唐茄子(かぼちゃ)など。
星祭というと七夕が一般的ですが、北斗七星を神格化した 妙見さまの星祭 は冬至。
Webで、「冬至 習俗」を検索したら、中国語のページが多数出ました。あちらで盛んなようです。

平成26年(2014)歴要領 2コマを見ると、冬至は 太陽の黄経270度で 中央標準時12月22日8時3分と記されています。
現代天文学の体系では 起点が春分になっているので、太陽の周囲りを4分の3周した 黄経270度 になっています。
しかし、前記のように 二十四節気の由来を考えれば、その起点は冬至であったと思われます。冬至は 北半球で日差しが最も少なくなる時ですが、これは「太陽の復活」が始まる日と考えることができます。

衰えていた太陽が冬至を境に勢力を増してゆく、つまり「陰が極まって陽が生ずる」転換点ですから、中国の古典『周易本義』では 冬至を「一陽来復」と言いました。
この季節には 伊勢神宮宇治橋の大鳥居中央から 朝日が昇り、冬至祭 の行事が行なわれます。古代から太陽に関係する暦の節目でした。

ここで思い出したのがストーンヘンジですが、これは夏至の日差しでした。そこで、「冬至 巨石」で検索した結果、冬至の前後に日差しが入るという岐阜県下呂市の 金山巨石群 の存在を知りました。なお アブシンベル神殿の日差しは ラムセス2世の誕生日。

ここまでは毎年巡ってくる冬至ですが、今年の冬至は 19年に一度の特別な冬至です。
タイトルの「朔旦冬至」がそれです。

歴要領の3コマに示されている月の満ち欠けを見ると、今年の12月22日10時36分が「朔」になっています。
この朔は 天球上を西の方(さそり座)から動いてきた月が いて座 で太陽を追い抜く(黄経が一致する)時刻です。
完全に同一方向の朔ならば日食が起りますが、普通は少しずれたコースで追い抜くので、月は一旦消失した後で再び生れてくるように見えます。これが「月立ち」、すなわち旧暦十一月の「ついたち」です。

先に記したように、暦学的には二十四節気の原点は冬至であり、冬至は暦の原点でもあると思われます。
その一方で、新年を祝う行事は 冬至と春分の中間点である立春付近 を用いることが多くなったようで、最終的には「冬至を含む月を十一月とする」というルールに落ち着きました。

今年のように「冬至」と「朔」とが同じ日になること。【旧暦十一月一日が冬至】
それは太陽と月とが同日に復活するわけで、たいへんお目出度いことであると考えられました。
冬至の朝、見えないお月様【新月】と共に昇ってくるお日様。そんなイメージでしょうか。

朔旦冬至は 19年周期で起ります。
BC433年にアテナイのメトンが 235朔望月が6940日で、19年と同じであることを発見。
現代のデータを使ってメトン周期を計算すると 19太陽年=365.2422日*19 = 6939.60日。
太陰太陽暦で19年に7回の閏月を入れると、19*12+7閏月 = 235朔望月=29.5306日*235 = 6939.69日。

伊勢神宮の式年遷宮20年周期も、朔旦冬至の19年周期に由来するという説があるそうです。
[86813] 2014年 12月 20日(土)18:25:52hmt さん
双頭の黒鷲
[86808] オーナー グリグリ さん
久しぶりに、メンバーの方のニックネーム変更と自分色変更の依頼があり修正を行いました。

新しいニックネームは、バルカン半島で国旗に使われている双頭の黒鷲の名ですね。
それなりの理由があると思われるので、ご本人による紹介を待ちましょう。
[86812] 2014年 12月 20日(土)17:25:42hmt さん
かみゆき 上雪 神雪
[86804] じゃごたろさん
長野県では通常の冬型の気圧配置では日本海に近い北信地方に雪が多くなるのに対し、日本列島の南岸を通過する低気圧に寒波が押し寄せた場合には中南部に雪を降らせるのですが、これを「上雪(かみゆき)」といいます。

「上雪 or かみゆき」を検索した落書き帳記事を添付していただき ありがとうございます。「上雪」単独では不十分なのですね。
落書き帳過去ログはかなり読んでいるつもりの hmtですが、「かみゆき」のことは知りませんでした。

…で、やはり気になったのは 「かみ」とは何を指しているのか? です。

「上方」の「上」であろうと推察したものの、念の為「神雪 長野」で Web検索してみたら、Yahoo!知恵袋に質問がありました。
地元でも「上雪」「紙雪」「神雪」と様々な表記がされていたようですが、ベストアンサーは やはり「上雪」説でした。
TBSテレビでお馴染みの気象予報士森田さんも、長野県の中で京都に近い南部を「上」としたと思うとのこと。なお、2008年の回答にリンクされたTBSのページはリンク切れです。

落書き帳アーカイブズは 地名における「上」と「下」 なので 「上雪」は対象外でした。

折角の機会なので、約10年前、私が落書き帳に参入して間もない頃に盛んに話題にした「上下地名」の虫干しをしておきます。

上福岡は 単独でアーカイブズになっていますが、新河岸川に臨む段丘周辺に形成された本村は「福岡村」でした。
「上福岡」という名は、後にできた下福岡、更に後の中福岡よりも上流側にあることから生れたで通称であったと考えられます。
18世紀の文書に「上福岡村」の使用例がありますが、正式名称は 明治大合併の前後を通じて福岡村でした。
世間に知られるようになったのは、1914年開業の東上鉄道「上福岡駅」でした。
自治体名に「上」が加えられたのは「上福岡市」誕生の 1972年でした。記事

福岡だけでなく、近くを流れる小河川について 上下ペアの地名を多数挙げました。石神井・老袋・古谷・新河岸・南畑・奥富・寺山・赤坂・松原等。このグループは、川上・川下に由来するので「かみ・しも」と読みます。

同じく自然地形由来ですが、台地の「うえ」と「した」。これは読みも「かみ・しも」でなく、「うえ・した」なので容易に区別できます。
最近では上野原[86777]を書きましたが、全国的にも知られたペア地名は、東京都台東区の「上野・下谷」です。

実数としては河川の上流・下流に由来する「かみ・しも」地名よりもずっと少ないのでしょうが、よく知られた官製の広域地名や有名地名が存在するのが、「京都基準の上下地名」です。
東山道の上野・下野、旧東海道の上総・下総、瀬戸内海の上関・中関・下関 (記事)。
地名ではありませんが、今回の「上雪」も「京都基準」に基いて「上」が使われた事例です
なお、ありがたきさん[18505]は 鈴木理生氏の著書に基き、高井戸・井草・板橋・連雀・北沢につき京都側が「上」としています。
しかし、これらの地名は川上・川下でも説明できます。

「上」の基準点は京都だけでなく、少数ながらローカルセンター基準の地名もあります[39305]。「関東公方」時代の鎌倉街道では鎌倉に近い方に「上宿」がありました[39526]。同じ記事では、近世の川越基準による上下地名の事例にも言及。

いろいろな上下地名がありましたが、最後に残った特異な事例が「上諏訪」と「下諏訪」でした。[36757]
諏訪大社の「上社」「下社」に由来することは確かでしょうが、社の上下関係は何に基いて決められたのでしょう。
「御神渡」により上社から下社に渡ると伝えられる男神(建御名方神)が上位とされているのでしょうか。

諏訪に降った「かみゆき」[86804]から始め、思いを巡らすうちに諏訪に戻りました。
あまり使われていないのかもしれませんが、「神雪」もなかなか味わいがある表記かな などと感じた次第です。
[86788] 2014年 12月 12日(金)23:49:42【1】hmt さん
明治村
[86786] EMMさん
[86754]で試しに検索した「地名」は「明治」でありました。【引っかかったのが 3952件】
細かく見てはいませんが、使用事例のかなりの割合が年号としての使用だと思われます。

改めて「明治村」で検索すると 69件でした。うち「博物館 明治村」が8件あり、博物館が省略されている記事もあります。
更に『正保・元禄・天保・明治村高比較表』も8件あるので、地名としての使用事例は 実質 50件以下?

それはさておき、この機会に hmtマガジン特集 明治村・大正村・昭和村 を作りました。
市町村雑学 年号の入った市町村 に記されている記事集の増補版といったところです。

【念の為に追記】
[86786] EMMさん
大正と昭和は条件1で除外されるため【以下略】

“条件1”は [86750]白桃さん に記されています。
1.現役の都道府県市区町村の名称に使用されていないもの(×の例:東京、渋谷、博多)

例示された福岡市博多区のように、政令指定都市の行政区に使われた地名は、今回のクイズの対象外です。
従って 今回のクイズでは、大阪市大正区の「大正」や 名古屋市昭和区の「昭和」は除外されます。

一方、市区町村変遷情報が対象としている「自治体」は 「市」の中に設けられた行政区を含んでいません。
東京都の特別区と違い、区議会がない区ですから 当然の扱いと思われます。
変遷情報では全く無視されているわけではなく、例えば昭和7年【大正ではない!】に行なわれた 大阪市大正区の設置 が記録されています。しかし、自治体名は あくまでも大阪市であり、変更内容欄が“港区から大正区が分区”となっています。

雑学年号の入った市町村は、このような変遷情報検索に基いて作成されているので、大阪市大正区、名古屋市昭和区が含まれていません。
このような事情により、大阪市大正区が 現存市区町村を示す太字で記載される状態になっていない ことをご承知ください。

なお、むじながいりさんの パラパラ地図 は 行政区も対象としており、大阪市大正区が「大正」の唯一の生き残りであることが示されています。
[86778] 2014年 12月 9日(火)19:53:46【1】hmt さん
甲州へ (2)石和温泉
上野原から大月まで乗った電車は、銀色塗装ながら115系でした。
駅前案内所でパンフレットなど見ていたら、富士山を眺めるスポットを教えてくれましたが、雲がありそうだったのでトライせず。

石和温泉駅で下車。駅前に足湯があったので一休みしているうちに白桃さんの姿を見たので声を掛け、ホテルに同行。
珍しくも一番乗りで到着? 受付時間前なので、ホテルの前の温泉通を散策。中央に水路【近津用水】のある真っ直ぐな桜並木の道路ですが、明治40年(1907)の洪水前には 笛吹川の流路だったことを思い、俳句など眺めながら歩きました。

明治40年の洪水が流れ込んだ鵜飼川は、更に古い時代の笛吹川だった時もあったことでしょう。
宿場町の南と北とにある2本の流れ。自然の力は、笛吹川の本流を何度も変えたのでしょうが、大正年間の工事によって、本流は現在の南側に確定したものと理解します。

かつての鵜飼川や鵜飼橋【笛吹市役所付近】の名が示すように、夏には 石和鵜飼 が催されるのですが、船上からでなく鵜匠が水中を歩いて鵜を操る「徒歩鵜(かちう)」なのですね。

温泉湧出は 1961年(昭和36年)とのことですから、この地が温泉地に変貌してから 約50年の歴史です。

くせのないお湯にゆっくり浸かった後は、恒例の一次会。

近況報告の中で私が注目したのは、MasAkaさんが 東京都を通らずに横浜から会場に来たルートでした。
橋本からバスを2本乗り継いで相模湖に出たとのことでしたが、この2本目のバスこそ、96年前に hmtの母が人力車で旅した道[86777]をなぞるものでした。

道志橋[85669]は 川底から橋床まで 100m という高層橋 と説明されています。そして 相模ダム[43001] の堤高は 58.4m。
1918年当時の橋は 道志川・相模川の水面のすぐ上に架けられていたはずですから、人力車はこれだけの深さの谷を降り、そして登らなければならなかったのでした。

宴会の後、会場いっぱいに広げられた自治体パンフレット[86773]は壮観でした。
とても選びきれませんでしたが、いくつかいただきました。後でゆっくり拝見するつもりです。

中国雑技を30分見た後は、これも恒例の二次会です。掘りごたつに座を占めました。
「40問○×クイズ」の中に、キリ番関連の質問がありました。
[30000]【注】をゲットした当人は もちろん覚えていたのですが、質問の意味を誤解したらしく、何故か誤答。
こんな調子で、かなり当てずっぽうに解答。まあ平均的な成績だったようです。
【注】数字の付く島群
この機会に収録洩れの四十島[67135]を記しておきます。

希望者募集に応じて 手を挙げて頂戴したのが、一次会で紹介のあった 富山県作成「環日本海・東アジア諸国図」です。

佐渡市作成による 「東アジア交流地図」 が落書き帳オフ会で紹介されたのは、昨年だったでしょうか。
類似した企画ですが、今年紹介された富山県版の方が先輩で、落書き帳記事 もあります。

富山県と言えば、来年のオフ会開催地の第一候補。hmtは白熱した議論の中で沈没。ごめんなさい。

翌日朝食は和食の膳。揃って朝食は第9回岐阜以来の2度目。

帰路は、JOUTOUさんのクルマに3人が便乗したものの、あまりの好天気に2人は勝沼ぶどう郷駅で下車。
新宿まで送ってもらったのは私だけでした。
[86777] 2014年 12月 9日(火)19:42:15【2】hmt さん
甲州へ (1)上野原
第11回の落書き帳公式オフ会開催地は 山梨県でした。
hmtの住む埼玉県とは隣接しており、県境の交通路 にあるように 雁坂トンネル有料道路も通じています。
しかし 公共交通機関に頼る身なので、直行することは叶いません。

武蔵野線で西国分寺に出るつもりが、事故の影響で新宿経由に変更。赤い電車は特別快速だったのに、高尾【注】に着いたら少し前に甲府行が発車したばかり。ま、急ぐ旅ではないので次を待ちましょう。
【注】[86779]の指摘により誤記訂正
ついでに、高尾山と同様に紅葉の名所である京都の「高雄」は「高尾」とも書くのですね。だから槇尾・栂尾と総称して「三尾」。

「ぎん色の電車」で、山梨県に入って最初の駅である上野原で下車しました。

上野原で下車した理由の一つは鉄道地理の観点なのですが、その他に極めて個人的な理由がありました。
その理由というのが、「1918年中央線乗り越し事件」の現場を見ておきたいということです。

1918年秋に hmtの長兄hmfが誕生しました。場所は落書き帳に300回以上登場したという津久井[86752]です。
hm家の跡継ぎ誕生ということで御目出度いのですが、あいにく父は東京の病院に入院中でした。
退院を待てなかった父は、母子が旅行できるようになったら 病院に連れてくるようにと手紙で伝えました。

当時の交通事情。神奈川県津久井郡の北西部をかすめる中央本線は、官設鉄道時代の1901年に開業しており、与瀬駅【現在の相模湖駅】が設けられていました。もちろん単線ですが、蒸気列車は八王子-飯田町間の甲武鉄道と直通運転しました。鉄道国有化を経た 1918年当時も、基本的には同じことです。

1925年の『汽車時間表』を利用して、旅程を組んでみます。
自宅・与瀬駅間の交通。現在は国道412号で約10 km、バスもありますが、当時の道路は、道志川や相模川を越えるためにつづら折りの道で 谷を降りてはまた登る という難路。ここを人力車で通り抜けるのには、どのくらいの時間を要したのでしょうか。

与瀬発の飯田町ゆき列車は、1101, 1329, 1605, 1906【便宜上24時間制で表示】、所要時間は2時間10~15分。
36.5マイルの三等運賃は93銭、二等車【グリーン】は倍額でした。

東京での仕事は、父子対面と写真撮影くらいですから、一泊二日の旅程でOKでしょう。
問題になった帰路は 日暮れの早い冬であることを考えると、飯田町発 1216発に乗車したいところです。その次は3時間後ですから夜にかかってしまいます。

母子に同行してくれたのが祖母【安政生まれ!】ですが、自力での旅行経験ゼロという点では同レベルです。
それでも往路は無事。待望の父子対面を果たし、お宮参りの衣装で記念写真も撮影。
大任を果たして心も軽く帰途についた3人を待っていたのは思わぬアクシデントでした。

小仏トンネルを抜けて汽車を降りようと2等客室【グリーン車】からデッキに出るドアを開けようとしたが開かない!
嫁と姑は あれこれ試みたが 扉はビクともせず。客室内に1組だけいた乗客【話に夢中だった新婚さん】の助けを借りて、ようやくドアを開いた時には、発車ベルを残して汽車が動き出しました。

お迎えの人力車夫が待つ与瀬駅を後にし、心が動転したお上りさんが着いたのが上野原駅でした【藤野駅は未開業】。
事情を話したら 早速 与瀬駅に電話して 車夫達に待ってもらうように手配し、次の列車で戻るよう 案内してくれました。
「あの時の駅員さんは本当に親切で良い人だった。地獄に仏とはこの事だ。」
語り継がれたこの事件により、「上野原駅」は hm家の人々にとり 忘れられないものになったのでした。

個人的な無駄話を書いたのは、旅行の機会が少なかった1世紀前の人にとっては、近距離の旅行でも大冒険であったことを伝えることで、何かの参考になるかと思ったからです。

さて、現在の 上野原。ここは地理的観点としては 桂川【相模川の上流】が作った河岸段丘地形で知られています。

駅は幅の狭い段丘【等高線190mと180mの間】上にあり、プラットホームにある待合室のような建物が駅舎です。地理院地図 の鉄道は 記号化されているので、駅舎が中心からずれているように見えますが、プラットホーム中心線上に駅舎があります。

改札口を通って駅舎東側の跨線橋から北口に出ると、バス停のある駅前です。ここは、線路や駅舎のある段【等高線190mと180mの間】よりも1段上ですが、200m等高線【やや太い】と190m等高線の間にある幅の狭い段で、バスが方向転換するのがやっとのスペースしかありません。
「市の代表駅」という言葉から想像される駅前の賑いとは全く無縁の存在でした。

中央道のインターチェンジは250m等高線【やや太い】の南側、その北には市街地のある260m前後の上位段丘が広がっています。これこそが名前のとおりの上野原でした。

駅の南口。こちらは、折角登った跨線橋からすぐに続く長い下り階段です。ここを降りれば180mより下にある桂川の沖積面です。新田地帯であったことは、地名にも残されています。桂川橋付近の水溜りに島田湖という名があることは[43357]で触れました。
[86748] 2014年 12月 4日(木)20:45:36hmt さん
津の守坂 (7)敗れた容保・慶喜の名誉回復
戊辰戦争敗戦後の会津藩は、明治2年11月にまだ赤子だった容保の嫡男・容大による家名存続が許されました。三戸県内に3万石の斗南藩が成立し、残りは江刺県に編入されました。記事
容保個人について言うと、明治5年 38歳で自由の身になり、翌年六男の恒雄が会津の邸で誕生しました。
明治23年に陸軍省から鶴ケ城跡を払下げられています(56歳)。

会津の御薬園[79710]で誕生した松平恒雄は 外交官試験を首席で合格し、ロンドン海軍軍縮会議(1922)首席全権など活躍。
昭和3年に松平恒雄の長女と昭和天皇の弟である秩父宮との御成婚が決定しました。
皇太后【貞明皇后】の強い意向があったと伝えられますが、元会津藩関係者にとっては、これが“朝敵”から完全に名誉回復した出来事として 喜びをもって受け止められたことと思います。

八重の桜の主人公・新島八重(84)の喜びの1首。
いくとせか みねにかかれる 村雲の はれて嬉しき 光をそ見る 

秩父宮妃の名は、読みは異なるものの 貞明皇后【さだこ】と同じ「節子」という字であったため、「勢津子」と改められました。
皇室ゆかり「伊勢」と、「会津」とを結びつけた名だそうです。

松平恒雄は、戦後の新憲法による第1回参議院議員選挙で、福島地方区から当選。初代参議院議長に選ばれました。
なお、福島県との関係を言うと、1976年から12年間福島県知事を務めた松平勇雄は、松平恒雄の甥【容保の次男の子】です。

松平恒雄の孫【長男一郎の子】は徳川恒孝(つねなり)として宗家を継いでします。
家達の後を継いだ家正の子が24歳で早世したためです。
徳川家の当主:初代家康、2代秀忠、3代家光、4第家綱、5代【館林】綱吉、6代【甲府】家宣、7代家継、8代【紀州】吉宗、9代家重、10代家治、11代【一橋】家斉、12代家慶、13代家定、14代【紀州】家茂、15代【(水戸→)一橋】慶喜、16代【田安】家達、17代家正、18代【会津】恒孝。

15代慶喜から16代田安亀之助への相続は[86730]で触れ、8歳の家達が静岡藩知事だった明治3年の蓬萊橋視察は[85225]に記しました。

徳川慶喜は 静岡から東京に移り住んだ翌年、明治31年(1898)に皇居に参内して明治天皇に拝謁しました。勝海舟の下工作があったのでしょうが、有栖川宮威仁親王【熾仁親王の弟】の仲介により大政奉還以来の顔合わせが実現したとされます。

こうして徳川宗家のご隠居だった慶喜は、明治35年(1902)に宗家とは別の「徳川慶喜家」を興すことを認められ、「公爵」を授けられ、貴族院議員になりました。
[43497]では“長~い長~い余生”と書きましたが、公爵家を七男慶久に譲って再び隠居するまでの8年間は政界復帰していました。

慶喜の小石川第六天町[70277]の宏壮な屋敷には、孫の喜久子【慶久の次女で 後の高松宮妃】、喜佐子【『徳川慶喜家の子ども部屋』の著者】など 大勢の家族が暮らしていました。

高須四兄弟と従兄弟の徳川慶喜とが登場する雑情報。思いがけず長い連載になりました。
書きながら気を使わされたのが、「実名」(じつみょう)または「名乗」(なのり)です。

4兄弟の徳川慶勝と一橋茂栄。「慶」は 12代将軍家慶、「茂」は 14代将軍家茂の偏諱ですから「よし」・「もち」と読めますが、茂栄の「はる」は読めません。松平容保は有名なので「かたもり」と読めますが、普通なら無理。松平定敬の「あき」も読めません。

慶喜も「慶」は 12代将軍の偏諱だからよいが、「喜」を「のぶ」と読めるのは有名人だから。
[43834]には、よしひさ」という別の読み方も一般的に知られていたと記しました。Wikipediaによると、将軍在職中の幕府公式文書に記錄が残る他、本人の署名や英字新聞に「Yoshihisa」の表記が残っているそうです。
[86747] 2014年 12月 4日(木)20:25:50hmt さん
津の守坂 (6)錦の御旗
[86742] グリグリさん
幕末の幕府と朝廷と諸藩の勢力関係はなかなか理解が難しいのですが、

この勢力関係に決定的な影響力を及ぼした「切り札」が、鳥羽伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」ではないかと思います。
国立公文書館デジタルアーカイブの絵巻物にある「戊辰所用錦旗及軍旗真図」の解説によると、その起源は承久の乱(1221年)に際して後鳥羽上皇が官軍の将に授与した旗で、赤地錦に金銀で日像・月像を刺繍したり、描いたりと伝えられます。

戊辰戦争で使われたものは、明治天皇の権威に基づく真正の錦旗ではなく、岩倉具視の策謀により薩摩と長州とが勝手に作ったものでした。しかし、当時は存在しなかった「真正の錦旗」を見た人は もちろん居ませんから、「錦の御旗は天皇の旗で、我は官軍である」と新政府軍が言えば、これに反論はできません。
「十六弁八重表菊紋」が天皇専用(親王も不可)という定めは明治2年太政官布告802号でしたが、それ以前の戊辰戦争に際して、日・月像以外の 菊の紋章像の錦旗も使われたようです。

承久の乱の時の鎌倉武士は、本物の錦旗を見せられても怯むことなく、武力で朝廷側を制圧しました。
それなのに、戊辰戦争では贋物の錦旗にしてやられたのは何故か? 
それは、「錦旗」を含む尊王論という概念が 幕末の武士の中に ある程度浸透していたからです。
そして、この概念を日本中の知識人に広めた本こそ、水戸光圀が編纂を開始した『大日本史』でした。

「錦旗」は水戸黄門によって「印籠」と同じような力を持つことになりました。
しかし この「無敵兵器」が向けられた相手は、 水戸家出身の徳川慶喜 を総大将とする幕府軍であり、幕府実働部隊の司令官は 「水戸の血筋」[86714]を引く高須松平家出身の会津藩主・桑名藩主 でした。
水戸学という「教養が邪魔して」朝廷に刃向かうことができず、賊軍として敗れるに至ったとは、何とも皮肉な結果でした。

2001年の「911事件」の際、柳井駐米大使はアーミテージ国務副長官に「Show the flag」と言われたとのこと。
洋の東西を問わず、「旗」が軍事行動を目に見える形で示す重要な道具であることを、この時にも痛感しました。

それはさておき。幕末に朝敵にされたのは会津だけではありません。孝明天皇の時代には長州が賊軍で会津が官軍でした。
でも、最終的には最後に「勝てば官軍」で、贋物の錦旗もその正当性が追認され、♪宮さん、宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは、なんじゃいな、トコトンヤレ、トンヤレナ ♪あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか、トコトンヤレ、トンヤレナ という行進曲により、薩長軍が全国を席巻することになりました。
[86741] 2014年 12月 1日(月)20:59:38【1】hmt さん
津の守坂 (5)京都だけじゃない 越後・蝦夷・九州まで波瀾万丈 - 松平定敬の生涯
高須四兄弟の中で最若年の松平定敬(さだあき)は、安政6年(1859)14歳の時に伊勢桑名松平越中守家 13代を相続しました。亡くなった前藩主定猷(さだみち)の男子【後に14代となる定教】が幼少のために、これも幼い女子・初姫の婿になる約束で迎えられました。

この家は 16世紀の松平定勝を祖とする松山藩主家「久松松平氏」の分家です。説明のため、ちょっと歴史を遡ります。
定勝の母・於大の方は水野氏の出で、松平家に嫁いでいた天文11年に後の徳川家康の母になりましたが、今川氏との関係で離縁されました。再婚先の久松家で定勝の母になったのは永禄3年(1560)で、この年の桶狭間の戦いにより状況が変りました。
今川氏から自立した家康は 於大【伝通院】を母として迎え入れ、その息子【つまり家康の異母弟】の定勝に松平の姓を与えて家臣としました。この家系を久松松平家と呼びます。

桑名には、この松平隠岐守定勝が元和2年(1616)に入っています。しかしこの本家は、次の代に伊予松山に移りました。
桑名城主の後任として美濃大垣から移って来たのが松平越中守定綱【定勝の三男、分家の藩祖】です。
久松松平家【定勝系、定綱系】は家康の男系の子孫ではないので、親藩ではなく譜代大名とされるようです。

定綱系は 桑名の後、3代目が越後高田に、7代目が陸奥白河に移封されました。9代藩主が寛政の改革で知られる老中・松平定信[45967]【8代将軍吉宗の次男で田安家の始祖になった宗武の子】です。定信が老中に就任したことも、久松松平家が親藩でなく、譜代大名であることを裏付けているようです。10代定永に家督を譲った後、定信が要望していた桑名復帰が実現しました。
なお、藩主は桑名・高田・白河・桑名を問わず 通しの歴代数で表示しています。

[86738] hmt
「一会桑体制」呼ばれる一橋慶喜・松平容保・松平定敬のトリオ

「一会桑」とは、言うまでもなく「一橋・会津・桑名」のことです。
一橋慶喜が元治元年(1864)3月に将軍後見職を辞して新たに就任したのは、「禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮」という新設ポストでした。摂海というのは大阪湾のことです。

【注】この人事異動を忘れていた[86719]の訂正
西郷吉之助と組んで第一次長州征伐を決着させた征討軍総督・徳川慶勝を批判した慶喜の【将軍後見役だった】は誤記です。

その翌月に京都所司代に任命されたのが桑名藩主・松平定敬でした。
先代藩主の定猷が安政5年から高松藩・松江藩と共に命じられていた京都警衛の役目は定敬にも引き継がれていましたが、まだ 19歳であった定敬は 若年を理由に 京都所司代の重責【注】を固辞しました。しかし、兄の会津藩主・松平容保(30歳)が一旦任命された軍事総裁職から京都守護職に復帰するということでもあり 断りきれなかったようです。

【注】京都所司代
京都所司代は、幕末に新設され軍事的な組織である京都守護職などと違い、朝廷と幕府との間の連絡ルートである基本的な行政組織です。3万石以上の譜代大名が任命されていました。伊勢国の他に越後国【柏崎】に飛地がある桑名藩は6万石で、家格は十分にありました。

こうして発足した「一会桑体制」。若い定敬にとって それからの4年間は厳しい政治体験の場になりました。
幕府に属してはいるが江戸の幕閣とは距離を置き、朝廷上層部に食い入ってこれと協調。国政参加を求める諸藩の力はできるだけ排除。このような姿勢で禁門の変、長州征伐と進んできたのですが、第二次長州征伐の処理を機に「一会桑」の足並みは乱れ、この政権は崩壊しました。

孝明天皇の崩御後、京都における幕府の権力は失墜。慶喜は大政奉還で逆転を狙うも、倒幕の動きを止めることはできず、戊辰戦争に突入。
鳥羽・伏見の戦いで、桑名藩兵は会津藩兵と共に 主力として薩長軍と激突したが大敗。
その後、定敬は容保と同様に慶喜に従って江戸に同行させられました。

置き去りにされた本国の桑名では意見が割れましたが、結局先代藩主の実子定教を擁立し、新政府に恭順。無血開城しました。
慶喜に従って江戸に着いた定敬は、兄の容保と共に抗戦を主張したものの、恭順することに決めた慶喜に見捨てられました。

ここで、桑名藩飛地の越後柏崎が表に出てきました。
定敬は柏崎に移って、長岡藩の河井継之助と同盟し、北越戦争を戦ったのですね。
本国の桑名は恭順しているのに、前?藩主の定敬が柏崎で新政府軍に抗戦するという分裂状態。
しかし、結局は敗れて会津へ、更に箱館へと落ち延びました。

桑名の家老・酒井孫八郎は、藩の存続のために決意を固め、五稜郭に乗り込んで定敬を連れ出し江戸に出頭させようとしました(明治2年4月)。ところが定敬もさるもの、そのまま米国船で上海まで密航して逃亡。
それも路銀が尽きて、5月には市ヶ谷尾張藩邸に入って遂に新政府に降伏。

展覧会の図録p.64には、一橋茂栄[86730]【中立的立場】から徳川慶勝[86719]【新政府側】に宛てた明治2年7月1日付書簡が残っており、市ヶ谷邸での定敬の様子を心配していると記されていました。処分は死一等を減じ永禁錮でした。
最終的には桑名藩預けになり、明治5年正月免罪。翌月には、安政6年には3歳であった婚約者初子と結ばれました。

明治10年西南戦争。定敬は桑名の士族を募集して、今度は官軍として薩摩を討つために九州に赴きました。応募者350名。

これで定敬の長い戦いはやっと終り、翌明治11年には4兄弟の再会、銀座の写真館での記念撮影[86738]、本所横網町の慶勝邸での会食ということになりました。
明治27年から容保の後任として日光東照宮宮司に就任。

明治41年(1908) 63歳で没す。4兄弟の中で一番長生きでした【慶勝60歳、茂栄54歳、容保59歳】。
[86738] 2014年 11月 30日(日)13:12:07hmt さん
津の守坂 (4)松平容保 - 京都守護職としての栄光から戊辰戦争の敗戦へ
江戸四谷の屋敷で育ち、幕末の動乱期を生きた 高須藩四兄弟の物語 を続けます。

四兄弟の父である美濃国高須の10代藩主松平摂津守義建は 10男9女をつくり、うち6男1女が成人しました。
この6人の男子がすべて大名家の当主になったという事実は、優れた資質の家系と共に 運にも恵まれたことを思わせます。
もっとも、万延元年(1960)に最後の13代高須藩主になった十男義勇は 僅か2歳で相続しました。版籍奉還の明治2年には 11歳でした。そして石見国浜田藩を継いでいた三男武成[86730]は、義勇誕生よりも10年以上前に23歳で死んでいます。
このような事情を見ると、大名家というのは、家系を断絶させないだけでも 精一杯の努力を求めれていたようです。

その中で 立場の異なる4藩主として幕末が明治に変る時代に居合わせて 激動する世の中を生き抜き、平和が戻った明治11年(1878)実父義建の十七回忌に洋服姿で再会して、四兄弟の記念写真 を残していることは 感動的なエピソードであると思います。この時の年齢は、【右から】徳川慶勝(よしかつ)[86719] 55歳、一橋茂栄(もちはる)[86730] 48歳、松平容保(かたもり) 44歳、松平定敬(さだあき) 33歳でした。

ちょんまげ時代に戻ります。高須四兄弟の中でも最も知られているのは義建七男の松平容保です。
12歳で父の弟である会津松平家藩主容敬の養子になり、18歳で家督相続。この家は2代将軍秀忠の御落胤である保科正之[79357]を祖とする御家門です。養子に入った容保は、将軍に忠勤を励むべしという会津松平家「家訓」(かきん)を殊更に重視する姿勢を取りました。

容保が会津28万石の藩主になった翌年の嘉永6年(1853)は ペリー来航の年で、江戸を防衛すべく急遽築造された「品川台場」[80264]に配備されたのは 川越・会津・忍の3藩でした。彼としては、これが対外的な初仕事でしょう。
もっと大きな役目を負わされたのは、文久2年(1862)に命じられた京都守護職【注】です。家臣団からは反対されましたが、政事総裁【注】の松平春嶽らに「家訓」を引用して説得され、止むなく受諾するに至ったとか。
【注】
幕末に新設された幕府の3要職。将軍後見職 一橋慶喜、政事総裁[72830] 松平春嶽、京都守護職 松平容保

容保が藩兵千人を率いて上洛し、黒谷の金戒光明寺を本陣としたことは[86719]にも記しました。
将軍上洛の道中警護役だった壬生浪士組を会津藩の配下として、都の治安維持にあたったことはよく知られています。
# 近藤勇の浪士組に「新選組」の名を与えたのは、八月十八日の政変(後出)での働きを評価したものです。

温厚な人柄の容保は 孝明天皇からは絶大な信頼を得ており、御前で馬揃えを披露したした際の写真で着用しているのは、下賜された大和錦で仕立てた陣羽織であるとか。

雨天の中の馬揃えで体調を崩し、寝込んでいた容保にもたらされたのが、天皇が尊攘派公家への対応に苦労しているという薩摩藩からの情報でした。これにより薩摩藩と会津藩とは協力することになり、文久3年(1863)八月十八日の政変で 朝廷から長州勢力を一掃し、政局は大きく動きました。天皇は容保に感謝して 宸翰と御製を贈りました

元治元年(1864)の京阪方面は「一会桑体制」呼ばれる一橋慶喜・松平容保・松平定敬のトリオが実権を握ったように思われていました。
しかし、禁門の変の後、第一次長州征伐は生ぬるい決着に終りました。一橋慶喜は、長州征討軍総督徳川慶勝[86719]を批判し、「総督の鋭気は薄く、薩摩芋に酔うのは酒に酔うより始末が悪い」と評したそうです。

薩長同盟が成立するのは あと1年余り先のこと になりますが、時の流れはこの頃から少し変り、会津に不運が訪れてきたようです。禁門の変に際して参内した時も両側から支えられてやっと歩ける状態だったようで、どうも雨中の馬揃えで崩した体調も不安です。脱線しますが、1863年の雨中馬揃えから私が連想するのは、1943年10月に雨中の神宮外苑で行なわれた出陣学徒壮行会です。動画

決定的な不幸は、慶応2年(1866)夏に将軍家茂、その年の暮に孝明天皇と、2人のトップを相次いで失ったことでした。公武合体路線で仕事を進めてきた容保としては、頼みの綱を2本ともに断たれたも同然です。
将軍慶喜は大政奉還で逆転を狙ったものの、王政復古の大号令に始まる倒幕運動は大波になり、軍事的にも幕府軍が鳥羽伏見で大敗しました。

容保は慶喜との同道を求められて大阪城から江戸に戻り、ここで隠居して会津に戻ることを命じられました。
慶喜からも見捨てられた容保。この後で繰り広げられる会津戦争において、容保は「前藩主」として総指揮にあたったわけです。
結果はご承知のとおりの完敗ですが、容保以下の藩士一同は、武士の誇りとして戦わずに降伏することなど できなかったのでしょう。

降伏後の容保は江戸での幽閉を経て明治5年に赦免されました。
明治13年から日光東照宮などの宮司となり、藩祖の保科正之を祀る土津神社の宮司も兼任しました。
この間の明治9年、新選組の後援者であった小島鹿之助[33902]と佐藤彦五郎[78819]の求めに応じた容保は、近藤勇・土方歳三の名誉回復のための篆額を書いています。石碑は高幡不動にあります。
[86735] 2014年 11月 28日(金)13:58:25hmt さん
にしもろ(西諸)
[86732] グリグリさん
西諸地域、すなわち、西諸県郡の自治体と言うことで、えびの市、小林市、高原町の3市町の合同イベント

「にしもろ」という呼び名は知りませんでしたが、3市町をメンバーとする 西諸広域行政事務組合 が存在するのですね[14512]

諸県(もろかた)は 娘の髪長媛が応神天皇に仕えたと日本書紀に記錄された豪族の名で、古代から日向国南西部の郡名でした。
江戸時代には複数の藩が分立していた日向国は、明治4年(1871)11月に南部の都城県と北部の美々津県に属しました。
明治6年1月には統合して初代宮崎県が誕生しましたが、明治9年(1876)8月には鹿児島県に合併されました。

西南戦争後の分県運動を経て 明治16年(1883)に宮崎県が復活した際に、諸県郡の大部分は宮崎県北諸県郡になりました。
しかし、南部だけは南諸県郡として鹿児島県に残されました。
宮崎県北諸県郡からは、翌明治17年に西諸県郡と東諸県郡とが分立したので、鹿児島県南諸県郡と合せて4つの諸県郡が揃いました。

志布志を中心とする鹿児島県日向国南諸県郡は 明治30年(1897)施行の郡統合で【大隅国】囎唹郡になり消滅しました。
残った諸県郡は 宮崎県日向国の北・西・東の3郡ですが、意外にも北諸県郡がこの中で一番南にあるんですね[13215]
これは都城中心の考え方から、分立した2郡を西(郡役所:小林)と東(同:高岡)に命名したからでしょう。

ここまでは、過去記事などにより 諸県郡の沿革話を復習しました。

それはさておき、過去記事には 宮崎県・鹿児島県の4市町が関係する境界未定地域に関係する疑問も示されていました。2年も前の疑問ですが、お答えしておきます。

[82024] グリグリさん
唯一考えられるのは、湧水町と小林市の県境と、小林市と綾町の間の境界に未定部分があり、明確な小林市とえびの市の未定と合わせて4市町全体が未定になっていると言うことでしょうか。どなたかこの謎解けますか?

“湧水町と小林市の県境”は“湧水町とえびの市の県境”の誤記と思われます。
その上で、グリグリさんが見落としていると思われる境界未定部分を示します。

A:鹿児島県湧水町と宮崎県えびの市との 県境界未定部分
B:宮崎県小林市と綾町との 市町境界未定部分

A,B 2ヶ所の他に 既に指摘されている えびの市と小林市との間の境界未定部分が存在します。
3ヶ所の境界未定があるために、お説のとおり「4市町全体が未定」ということになります。

# リンクした地理院地図について。
最初は地形図本来の情報を重視して zoom=15 を使いました。
Aの西端:宮崎県西端の黒園山付近
Aの東端:肥薩線付近
Bの東端:綾北川古賀根橋ダム北の曽見川合流点付近
Bの西端:大森岳南東(綾南ダムからの地下水路付近)

ところが、この地図の境界線は見易い状態ではありません。
「ウオッちず」の頃の境界線は、着色された太い線でもっと明瞭でした。
境界線の途切れた箇所を探す目的ならば、地理院地図を少しズームアウトして zoom=13 程度にするのが適切であると知り、上のように改めました。
[86730] 2014年 11月 25日(火)23:01:47hmt さん
津の守坂 (3)高須の松平義比から尾張の徳川茂徳へ、隠居玄同から御三卿の一橋茂栄へ
徳川慶勝に続く高須松平家4兄弟の2人目は、10代義建の五男【夭折2人あり実質三男】として誕生した茂栄(もちはる)です。
幼名鎮三郎。元服後は建重・義比・茂徳・玄同・茂栄など多数の名が使われていますが、便宜上統一して使う場合は、慶応元年に最終的な名になった茂栄にします。

過去記事では 尾張藩主時代の「徳川茂徳」を使っていました。今回の御三卿当主の実名も、正式には「徳川茂栄」ですが「一橋茂栄」という形で使われることが多いと思います。

部屋住みのまま一生を過ごす可能性もあった分家の五男。それが3万石の高須藩主「松平義比」(よしちか)に始まり、約62万石の尾張藩主徳川茂徳(もちなが)へ、そして御三卿の一橋茂栄へと 3つの家を相続するに至ったのは大出世です。
それは激動の幕末の中心で活躍した人物だからですが、彼の名をあまり知らなかったのは 私だけではないと思います。

彼が高須藩11代の跡継ぎになれたのは、長兄の慶勝が名古屋の本家を継ぎ、その次の武成(たけしげ)が石見国浜田藩を継いだためでした。
なお 慶勝と武成は正妻の子ですが、茂栄は異母弟です。慶勝・茂栄・容保・定敬は4兄弟と言ってもすべて腹違いでした。

安政の大獄の時代、一橋派の兄・慶勝が戸山に謹慎させられ 尾張家15代を継いだ彼は 14代将軍家茂の偏諱を得て徳川茂徳と改名しました。慶勝に続き 四谷家は尾張家のスペアの役割を担ったわけですが、前藩主の政策を支持する家臣団の統制にも苦労があり 彼にとって 本家藩主の荷は重かったようです。
結局尾張藩の実権は 復権した やりての兄に握られてしまったようで、文久3年(1863)には 33歳で隠居。玄同はその号でした。

14代将軍家茂から再度の偏諱による 茂栄 の名を賜った慶応元年(1865)には35歳。この頃には 15歳年下の将軍と親しい関係にあったようで、第二次長州征伐で上洛した家茂の補佐役的な立場で働きました。

この年横浜に赴任してきた英国公使のパークスは、外国嫌いの孝明天皇が拒否している通商条約の批准を求め、条約4カ国(英仏米蘭)の連合艦隊を兵庫に送り込み、日本を威嚇しました。
これに対する幕府と朝廷の二元外交。対応はモタモタし、遂に家茂が辞任まで言い出して条約勅許を求める状況になり、孝明天皇も止むなく3港開港の通商条約を許すことになりました。パークスの軍事力示威作戦が成功したわけです。
茂栄は この間 苦悶する家茂と 朝廷との間の調整に尽力。家茂からは「今後親とも思う」という心情が伝えられました。

茂栄は江戸に帰った後、大阪城での日々を偲んで家茂像を描きました。
茂栄自身が撮影した写真が残されていますが、残念ながらその画像は Webで未発見です。現物は天璋院に献上後焼失。
茂栄が描いた顔に御用絵師が陣羽織の立姿の体を加えたものと考えられており、首の角度が不自然です。
和宮はこの絵を「異風」であるとして不満であり、茂栄は書き直した束帯姿の画像を贈りました。 こちらの絵は Wikipediaに掲載されています。

茂栄への処遇として、家茂は生前に清水家相続の内命を与えていました。御三家の元当主が御三卿になるのは異例ですが、家茂は親しい茂栄を側に置きたかったようです。家茂の死によってこの話は中止されましたが、兄慶勝の請願もあり、慶喜が将軍になったために空席になった一橋家相続ということになりました。清水家を継いだのは慶喜の弟・徳川昭武[43497]でした。

そして慶応4年(1868)の戊辰戦争。その後始末の段階で、茂栄は徳川本家の総代として 嘆願活動の中心になりました。
3月には江尻まで出向いて、東征大総督の有栖川宮から朝敵になった慶喜への寛大な処分の了承を得ました。
徳川家の存続についても田安亀之助[85225]による相続が認められ、駿府70万石を確保することができました。

御三卿は将軍の家族という立場だったのですが、一橋家は田安家と共に明治元年(1868)5月に至り初めて藩屏に列し、徳川宗家から独立した藩【一橋藩・田安藩】が成立しました。
しかし、3つ目の藩主になった茂栄の「一橋藩主」時代は束の間に終りました。

翌明治2年に出願した版籍奉還願に対する新政府の回答は、諸藩と違う形の処置でした。
茂栄はそれに従い、家政に従事する家臣138人を残し、他の1432人の家臣には暇を出し最寄りの地方役所所属とすることになりました。年貢も地方役所が徴収。新政府による「廃藩」のテストケースにされたようです。

藩知事表 に続く 151コマには一橋茂栄の名が見えます。
しかし、その頭に「知事」が付けられていないことにより、一橋藩が廃藩されたことが示されています。


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