[94000] ekinenpyou さん
なお「分割」ですが、新設自治体名に従来と同じものが継続して使用された場合
「分立」と区別し難く混同されるケースがあるので注意を要します、
例示していただいた昭和14年の伊平屋村分村の件を少し調べてみました。
初めに、この村が存在する特異な位置を確認する目的で、北緯27度を中心とする
地理院地図を示します。
一口で言えば、鹿児島県南端の奄美群島与論島と同緯度、沖縄県最北の村です。無人の硫黄鳥島
[28741]は別。
沖縄本島 本部(もとぶ)半島の北方に見える群島がそれで、南の伊是名島は前地(メーヂ)、北の伊平屋島は後地(クシヂ)と呼ばれます。小さな無人島まで数えると7島ある「伊平屋の七離」です。有人島は野甫島を含めて3島だけ。
琉球王朝第一尚氏発祥の地と伝えられる伊平屋島と伊是名島とは古くから「伊平屋島」と総称される一つの行政地域になっており、琉球王府の番所は伊是名島に置かれていました。
1879年の琉球処分により沖縄県になった後もその状態で、前地・後地にそれぞれ4村がありました。
そして、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行で
島尻郡伊平屋村(いへやそん)という自治体が発足しました。
沖縄県でも、本土と同様に これに合わせた明治合併が行なわれました。旧村は後地(伊平屋島)に属する旧4村(我喜屋村, 田名村, 島尻村, 野甫村)と前地(伊是名島)に属する旧4村(伊是名村, 仲田村, 諸見村, 勢理名村)の8村でしたが、沖縄では 旧村は末尾を【ムラ】と読み、新制度による自治体の読み【ソン】と区別されています。
町村制施行時の変遷情報には旧村名が記されていません。
神奈川県などいくつかの県で行なわれたのと同様に、制度変更に先んじて直前の合併を行ない、その後で 新制度を施行するという2段階の処置が行なわれたのでしょうか?
それとも、単なる旧村の記載漏れか? 私には何れが正しい関係を示すものか判断できません。
前置きが長くなりましたが、1908年の新制度から31年後の1939年に実現した 前地と後地との分村 が本題です。
沖縄県が
官報広告・村廃置に記載した文面には「島尻郡伊平屋村を廃し」伊是名村・伊平屋村を置く とあり、確かに 旧伊平屋村の法人格を引き継がない「分割」であると判断されます。
伊平屋村の歴史には、伊平屋村分村の動機として「村役場が伊是名島にあったので不便」であることが挙げられていました。
------引用文-------
村役場が伊是名島に設置されていたため、諸会議、役員吏員、一般民衆の不利不便は想像を絶するものがあり、村議会に分村問題を提起も取り上げ採択されず、民衆は苦境になげく状況が続きました。しかし、分村熱はますます高まり、大正5年伊平屋島(後島)有志が伊是名村との分村請願書を沖縄県に提出。伊平屋においては「分村期成会結成会」も結成され、住民の意向をうけた村議会、村当局も国、県に請願したことで、分村が実現の方向に進み県当局、県議会の調査決議を経て、ついに昭和14年5月23日、内務省令により分村許可、百有余年の懸案であった伊平屋島(後島)住民の嘆願が実現のものになりました。
------引用終-------
ここに記されているように 主な分村動機があったのは 後地側であったようです。
もっとも、これは 後地が前地と同じ村になっているのを嫌った とかいうことではなく、一つの行政地域として統治するならば必須である筈の「交通手段が整えられていなかった」ことに根本原因があるのだろうと思います。
当時の経済事情からして、前地と後地とを結ぶ村営渡船を実現することが困難ならば、解決手段は「分村」です。
役場で代表される公共機関から隔絶されており、分村を希望した 後地側を 伊平屋村のまま「分立」とし、残留する前地側は 同名回避を兼ねて 伊是名村への「改称」で処理する。これが妥当な処理であるように思われます。
前地が多数を占める分村後の国勢調査人口も「後地分立」説を支持しているようなのですが、歴史が関係する「名称の維持」が決め手になって、「分割」に落ち着いたのでしょうか。なお、面積は後地>前地でした。
地域 | 村名 | 面積 | 1940 | 1950 | 1955 | 1960 | 1965 | 1970 | 1975 | 1980 | … | 2000 | 2005 | 2010 | 2015 |
前地 | 伊是名村 | 15.42 | 3652 | 5574 | 5689 | 5037 | 4387 | 3279 | 2286 | 2144 | … | 1897 | 1762 | 1589 | 1517 |
後地 | 伊平屋村 | 21.82 | 2710 | 3985 | 4008 | 3631 | 3083 | 2254 | 1338 | 1501 | … | 1530 | 1547 | 1385 | 1238 |
| 1939分村 | km2 | 1940 | 琉球 | 琉球 | 琉球 | 琉球 | 琉球 | 1972復帰 | 1980 | … | 2000 | 2005 | 2010 | 2015 |
それにしても、
1908年の沖縄県及島嶼町村制施行で名乗ったのが、何故「伊平屋村」だったのか? など疑問は残ります。歴史的価値から伊平屋が上位だったのでしょうか。
役場支所を作るなど別の解決法もあったように思うのですが、それだけではなく、他の地域格差もあったのでしょう。「百有余年の懸案」との記述は、この分村問題には 役場以外の理由も潜んでいるように思われます。
せっかく手に入れた役場庁舎を分村後間もない 1941年に失火で失うなど、思わぬ災難もありました。
更に大きな災難は、言うまでもなく沖縄県が戦場になったことです。伊平屋島にも 艦砲射撃・空襲・米軍上陸。
住民は捕えられて、米軍に命じられた強制労働に使役されました。
1945/11/22米軍が伊平屋から引き揚げて、収容所から開放され、焼土になった集落に帰ることができました。
話を変えます。
伊平屋村と伊是名村との違いの問題でなくて共通の問題ですが、沖縄県の北部にありながら「島尻郡」に帰属している点があります。
実は、上記人口表で琉球と記した期間は米軍統治下ですが、当時は国頭郡に相当する「北部地区」に含まれ、そのために 1970年に日本で使っているものに準じるコードが採用された際にも316と317が付けられました。
これについては、
[27598] Issieさんの記事があります。
最初に示した地図から明らかなように、地理的には沖縄県の最北部にある村なのに、琉球王国時代・戦前の日本・戦後の日本復帰後を通じて「島尻」所属である理由。これを明らかにした資料を紹介したのが、
[69111] hmtの記事です。
最後に問題の発端となった分割と分立との区別について。
用語としては法人格を受け継ぎ方により厳密に区別されていると思います。
しかし 分村の実務にあたり処理の対象となるのは 法人格だけでなく、名称・役場・人事・財産など多岐にわたります。
分村手続における分割・分立。これに基づいて、単純に「分村の実態」を推察することはできないようです。
沖縄県北部の事例を調べた結果、このような結論を得たことを この記事の結びとして記しておきます。