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hmtさんの記事が50件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[90652]2016年6月28日
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[90622]2016年6月23日
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[90619]2016年6月22日
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[90613]2016年6月21日
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[90607]2016年6月20日
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[90606]2016年6月20日
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[90600]2016年6月19日
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[90597]2016年6月19日
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[90585]2016年6月15日
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[90584]2016年6月15日
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[90580]2016年6月14日
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[90578]2016年6月12日
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[90577]2016年6月11日
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[90564]2016年6月7日
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[90556]2016年6月4日
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[90548]2016年5月29日
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[90545]2016年5月27日
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[90538]2016年5月25日
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[90536]2016年5月24日
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[90534]2016年5月22日
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[90517]2016年5月18日
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[90506]2016年5月12日
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[90503]2016年5月11日
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[90483]2016年5月5日
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[90473]2016年5月3日
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[90463]2016年5月1日
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[90443]2016年4月26日
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[90433]2016年4月24日
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[90388]2016年4月21日
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[90362]2016年4月19日
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[90339]2016年4月17日
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[90315]2016年4月15日
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[90274]2016年4月12日
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[90189]2016年4月9日
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[90183]2016年4月8日
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[90178]2016年4月7日
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[90173]2016年4月4日
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[90171]2016年4月4日
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[90167]2016年4月3日
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[90148]2016年3月31日
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[90145]2016年3月30日
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[90136]2016年3月29日
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[90105]2016年3月24日
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[90100]2016年3月23日
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[90093]2016年3月21日
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[90091]2016年3月20日
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[90083]2016年3月17日
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[90076]2016年3月15日
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[90071]2016年3月14日
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[90064]2016年3月12日
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[90652] 2016年 6月 28日(火)19:06:07hmt さん
変遷情報あれこれ (8)埼玉県【新座郡→】北足立郡保谷村
17世紀の中頃、大都市化を続ける江戸の水需要をまかなうべく、11里上流の羽村から多摩川の水を引くべく開削された玉川上水[58728]
玉川兄弟の他に松平伊豆守信綱の家臣・安松金右衛門の名も伝えられています[39526]
大袈裟に言えば、江戸時代だけでなく、現代に至るまで 首都東京の生命線です。

玉川上水の主たる導水先は 言うまでもなく江戸ですが、その途中で南北に分水することを可能にするために、その流路は 武蔵野台地の尾根筋を選んで設計されました。[72799]
落書き帳記事には野火止用水[39526]や千駄ヶ谷付近[48334][48626]の分水路も現れますが、変遷情報関係で今回取り上げたいのは、境橋で分水する「千川上水」です。

「千川」というと地下鉄副都心線の駅名になっていますが、落書き帳では[12707] KMKZさんの記事で「小石川」「谷端川」という別名と共に神田川水系の支流の名として登場します。なんだか玉川上水とは無関係の方角に来た感じがしますが、実は「千川上水」によって結ばれているという関係があります。

[41575]で書いたように、玉川上水から分水した「千川上水」は石神井川と谷端川との間の尾根筋を通って本郷台地に達し、白山御殿、湯島聖堂、東叡山寛永寺、浅草寺御殿という将軍立寄先の飲料水を供給しました。
そして、台地上を流れる多摩川由来の分水は、田畑の灌漑にも利用された谷端川(千川)の水量を補完する機能もあることから「千川上水」と呼ばれたのでした。

玉川上水から千川上水が分かれる分水口があった境橋付近は、神奈川県武蔵国多摩郡と境を接する埼玉県武国新座郡上保谷村地先。これが明治22年の町村制施行によって埼玉県新座郡保谷村になりました。
明治4年11月の3府72県体制では入間県でしたが、明治9年に埼玉県になっています。埼玉県の先端部が南に突出した地域にあります。神奈川県多摩郡の方は明治12年施行の郡区町村編制法で北多摩郡になり、更に明治26年の三多摩移管で東京府北多摩郡と、変遷履歴を重ねます。

なお、この境橋付近は後に境浄水場【1924通水】も作られる重要地点ですが、少し東に行くと 現在の東京特別区の最高地点付近で、昔は東京府・神奈川県・埼玉県の境界でした。[75152]

玉川上水沿いの保谷村も、最終的には東京府に編入されましたが、それが実現したのは 三多摩移管より 14年も後の1907年でした。当然のことですが、特別法も三多摩とは別に制定されています[47106]

ところが、この14年間に 全国的な地方制度整備の一環である「新・郡制施行に先立つ郡再編」があり、保谷村の所属する郡は、埼玉県新座郡→埼玉県北足立郡→東京府北多摩郡 と変遷することになりました。

[90631] グリグリさん
西東京市の変遷はルーツが神奈川県と埼玉県にあることが明確になりました。

その通りなのですが、保谷市のルーツを遡ってゆくと、1907(M40).4.1の「変更対象自治体名 埼玉県北足立郡保谷村」の前に相当する変遷自治体が、1889(M22).4.1【埼玉県新座郡】保谷村となっています。
この間に存在する 郡変更 が欠落し、情報の連続性が失われています。
1896(M29).4.1 埼玉県北足立郡 保谷村 郡変更 埼玉県新座郡 保谷村
[90622] 2016年 6月 23日(木)20:19:54hmt さん
変遷情報あれこれ (7)(微)と記されていても 侮れない規模の場合がある
[90618] グリグリさん
(1) 変更対象自治体名にある「○○○の一部」「○○○(本)」「○○○(微)」の扱い
「○○○の一部」「○○○(本)」については「○○○」と同じ扱いとし変遷情報の遡りトレースを続けるが、「○○○(微)」についてはこれ以上遡らない。ただし、「○○市の一部」についても遡りトレースはしない。

解析プログラムでの扱いついてのご参考までに、これらの表記が使われている実体の一端をお知らせしておきます。

昭和合併のさなか、1955/12/1に福岡県八女郡下広川村の3分村・消滅。
変遷情報は、広川町への編入区域を 下広川村(本)、筑後市と筑邦町編入区域を それぞれ 下広川村(微)と表記しています。そのように扱った根拠と推察するのは、詳細欄に記されている 告示文を写したと思われる記載です。
八女郡下広川村を廃し、大字一条の一部の区域を筑後市に、大字藤田の一部の区域を三潴郡筑邦町に、その他の区域を八女郡広川町に編入する

(微)が使われた2区域は いずれも大字の一部であり、変遷情報採用基準【近世村】に及ばないように思われます。
境界変更だったら無視されるところでしたが、3分村により下広川村が消滅したので、筑後市と筑邦町への編入も 下広川村(微)という表記を使って 廃置分合として記録されました。

国勢調査こは、この3分村に伴う人口異動が記録されています。調査手法は[90607]で説明しました。

昭和35年国勢調査 付表2「市区町村の廃置分合, 境界変更, 名称変更一覧表」【60ah02b.pdf】福岡県の末尾【37/41コマ】に記された 注です。
2) 30.12.1 八女郡下広川村(5070)の一部(1093)が筑後市に、一部(502)が三潴郡筑邦町に、残りの部分(3415)が八女郡広川町にそれぞれ編入。

先に引用した変遷情報の詳細欄とほとんど同じ表現ですが、3区域の人口という定量的な記載により、(微)(本)という定性的な記載に比べて情報の価値が増しています。
(微)と言っても、1000人、500人という規模の人口異動であることも分かりました。

(微)と記されていても侮れない規模の変遷であることを知ったので、昭和合併時代の九州限定ですが、更に調べてみました。

佐賀県では 1955/3/1 藤津郡七浦村、1955/4/1 神埼郡蓮池町、1956/4/1 杵島郡橋下村、1956/9/30 小城郡砥川村の4組。
砥川村は一部(本)(3451)が牛津町新設に加わり、残り(微)(363)が江北町に編入。S35国勢調査の佐賀県注3。
橋下村は一部(本)(2070)が北方町に編入、残り(微)(1026)が白石町に編入。S35国勢調査の佐賀県注5。
蓮池町は一部(本)(3266)が佐賀市に編入、他の一部(微)(1188)は千代田村になる。S30国勢調査の佐賀県注1。
七浦村は一部(本)(6878)が鹿島市に編入、他の一部(微)(970)が太良町に編入。S30国勢調査の佐賀県注2。

大分県では、1954/3/31 東国東郡安岐町新設に奈狩江村(微)が加わっています。国勢調査で見ると人口異動は 52人であり、これは文字通りの(微)ですが、廃置分合の一部として堂々と記録されています。
2番目に 1955/7/1 大分市への境界変更が記録されているのが、大分郡挟間町(微) です。人口異動は 391人で 奈狩江村(微)よりも大きいのですが、これも同じように (本)と対になっていない「単独の(微)」として記録されています。

大分県の3番目。変遷情報では 1956/4/1 速見郡南端村(本)が別府市に、南端村(微)が日出町に編入と記録されています。
ところが…
国勢調査60ah02b.pdfの39/41コマ 大分県の注1 を見ると、
31.4.1 速見郡南端村の一部(477)が別府市に編入し、残りの部分(897)が速見郡日出町に編入

変遷情報詳細の記載。
速見郡南端村を廃止し、その区域のうち大字天間及び大字南畑の一部を別府市に編入し、その他の区域を速見郡日出町に編入する

大字単位を含んでいる別府市編入区域を南端村の (本) と思ったが、実は南端村人口の 65%は日出町編入区域であった。
こんなミスもありました。やはり人口異動のデータを無視するわけにはゆかないようです。

追々調査範囲を広げるつもりですが、とりあえず 本州からも一つ挙げておきます。

1955/3/31 広島県世羅郡吉川村の分村を含む 廃置分合において、世羅西町新設に加わった区域を「吉川村(本)」としている点にも問題があると思われます。
吉川村から豊田郡豊栄町に編入された区域は「大字吉原の一部」と表現されているので 吉川村(微) とされたのも無理からぬことと思われるのですが、国勢調査で明らかになった人口異動は、昭和25年国勢調査人口3329人の過半数でした。
このケースでは、ほとんど半々に分村されているので、(本)と(微) で区別すること自体が不適当だったのでした。
[90619] 2016年 6月 22日(水)18:12:28【1】hmt さん
昼間人口比率の低い市
[90616] 白桃さん
市の都会度(その3) ◎基礎的指標 4.昼間人口比率
【ポイントの】低い市は 富士見(-2.8)、流山、狛江、大網白里(-2.6)、鎌ヶ谷、阪南、白岡(-2.4)

なるほど。というわけで、調べてみたら 富士見市の人口等の動向分析 という資料がありました。
平27年度 第2回富士見市 まち・ひと・しごと創生総合戦略審議会 の配布資料でした。

昼夜間人口比率を県内 40 市と比較すると、富士見市は最も低くなっており、市外への通勤・通学者が極めて多い状況にあります。
1990年 1995年 2000年 2005年 2010年 
昼夜間人口比率63.6%64.3%67.5%70.4%72.4%

県内40市のうち 39市が100%未満 という埼玉県でも、もちろん最下位。
お隣のふじみ野市は 31位、83.2%でした。
昼間人口流出先の目立つの 三芳町、川越市、ふじみ野市、豊島区、千代田区とありました。

それでも上記のように比率が増加傾向にあるのですが、その理由として挙げられていたのが、高齢化と ららぽーと富士見の開業でした。

高齢化による昼間人口の増加とは自分のことか。
確かに2000年国勢調査の少し前までは 千代田区に通っていたが、近頃は電車に乗ることが少なくなった。

マクロの状況を伝える記事を読みながら、極めて個人的な感想を抱いてしまった hmt でした。
[90613] 2016年 6月 21日(火)20:16:12hmt さん
変遷情報あれこれ (6)国勢調査によって変遷情報の誤記に気づいた事例
YTさんは大作「47todofuken01.lzh」を 2013年12月にアップされています。[84549]
そのフォローとして、国勢調査人口の修正箇所の検討と共に 変遷情報の要修正箇所 も報告。[85243]
群馬県北甘楽郡小幡町の町制実施の年月日 修正前 1926(T15).5.10 修正後 1925(T14).5.10
これについては、その直後から 反響記事が続き、関心を集めました。

更に半年後、グリグリさん宛メールで伝えられた情報もあり、寄せられていた多くの情報と共に変遷履歴情報更新の備忘録に入り、町制日訂正の情報は、既に記録されています。

今回のシリーズの中で国勢調査に及んできたので、国勢調査が変遷情報の誤記に気づく「きっかけ」になった事例として利用しました。
しかし これを取り上げた真意は、次のことを再認識する機会として利用したかったのです。
落書き帳に寄せられている多くの情報。
それに一つ一つ対応しているオーナーの努力。
これによって 変遷情報のメンテナンスが支えられている。

おまけとして、誤記の原因が群馬県統計書のミスプリントに起因するのではないか という推理[85248]も盛り込みました。
「人のなせる業」は 無味乾燥な数字の正誤という問題だけでない ことです。
他人の失敗から学んだ知識を活かし、人生を楽しむ材料になれば と思いながら「あれこれ」雑談も書き込みます。

「あれこれ」ついでに、「調べてもわからなかった」変遷情報の例も挙げておきます。
岡山県和気郡英保町→吉永町の改称日
関係記事
[90607] 2016年 6月 20日(月)17:26:52【2】hmt さん
変遷情報あれこれ (5)国勢調査に記録された「市町村廃止情報」
国勢調査には 現在の変遷情報で知ることのできない人口異動情報が記録されています。
昭和30年以降の国勢調査、つまり「昭和25年10月以降に行なわれた廃置分合、境界変更」に使えます。
残念ながら「あらゆる年度で適用される、例外を完全に排した基準」[90579]というわけには行きません。
しかし「地方自治法施行以降」に かなり近い 65年間に使える基準になりそうな 有望な情報です。

具体的には、「市区町村の廃置分合, 境界変更, 名称変更一覧表」というファイルを使います。
既に[80458] 栃木県田沼町から群馬県桐生市へと境界変更した入飛駒の結果を紹介してあるのですが、今回は 前回「編入の意味」で使ったものと同じ事例を使います。

長野県北安曇郡池田町。現存です。経歴を見ると、村の頃から「池田町」でした。町制は大正。昭和合併では会染村と新設合併。というようなことが分かりますが、今回調べるのは、やはり最後の行に記された 昭和31年度末【昭和合併の時限立法が終って半年後】の「編入」です。

境界変更でなく「編入」だから、陸郷村と広津村とは 池田・陸郷・広津以外の町村も関係する処分が行なわれた結果、 1957/3/31に廃止されたことが分かります。

変遷情報と対応させた結果を見ると、生坂村の詳細に記されている3件の告示に基づいて行なわれた処分【下記5行】が記されているようです。
この表において 「行」は便宜上付与した行番号であり、「#」は変遷情報に付けられている#に対応します。

告示種別内容
182S32-116編入陸郷村を廃し、その一部を生坂村に編入
179と180116の一部編入 (陸郷村の残余は明科町及び池田町へそれぞれ編入)
182S32-117新設広津村及び生坂村を廃し、広津村の一部と生坂村の区域をもって(新)生坂村を設置
180と181117の一部編入 (広津村の残余は池田町及び八坂村へそれぞれ編入)
なしS32-118郡所属生坂村の属すべき郡を東筑摩郡とする

前置きが長くなりましたが、昭和35年国勢調査 付表2「市区町村の廃置分合, 境界変更, 名称変更一覧表」【60ah02b.pdf】長野県の内【19/41コマ】S32.3.31の分と、末尾の注の一部を抜き書きします。

町村○記号 異動地域昭和30年人口
1東筑摩郡明科町○併 北安曇郡陸郷村 11)の一部 186
2 ○境 一部の地域が北安曇郡池田町へ-924
3東筑摩郡生坂村○新 東筑摩郡生坂村 11)3734
4    北安曇郡広津村 12)の一部1635
5北安曇郡池田町 (S30.10.1旧池田町の区域)9011
6 ○併 北安曇郡陸郷村 11)の一部 702
7 ○併 同 広津村 12)の一部1355
8 ○併 東筑摩郡明科町の一部 924
9北安曇郡八坂村 (S30.10.1旧八坂村の区域)3264
10 ○併 北安曇郡広津村 12)の一部 46

11) 32.3.31 北安曇郡陸郷村(2535)の一部(186)が東筑摩郡明科町に、一部(847)が生坂村に、残りの部分(702)が北安曇郡池田町にそれぞれ編入。
12) 32.3.31 北安曇郡広津村(3036)の一部(1635)が他1村の区域と東筑摩郡生坂村になり、一部(1355)が北安曇郡池田町に、残りの部分(46)が八坂村にそれぞれ編入。

2回の国勢調査(昭和30年と35年)の間に分村して消滅した陸郷村と広津村は 本表に記載されず、このような注によって 分村先【昭和35年国勢調査時の所属】と昭和30年国勢調査時の人口とが示されています。
また、「残りの部分が…に編入」という句が使われ、この2村に存続部分がないという「廃止情報」になっています。

【追記】
行3に記されている生坂村の昭和30年人口 3734は、旧・生坂村由来の 2887と、陸郷村から編入された 847とに分けて記される方が わかり易い と思われます。

この表を眺めているうちに、○記号で示されている変更種別が 行2では境界変更なのに、行8では編入【○併は併合由来の記号と推察。記号の説明文は60ah02a.pdf】と異なっていることに気がつきました。統計局の誤記?
明科町の一部が池田町に組み入れられた 昭和30年人口 924人 の異動です。

池田町50年のあゆみの記載。
昭和32年3月31日 明科町中之郷・鵜山両地区と陸郷村・広津村の各一部を編入合併。

この記載からは、変遷情報に記載されている「編入」が正しいように思われます。
変遷情報の記載(変更対象自治体名)から 924人もの異動元である明科町が脱落していることを含め、告示による確認が望まれます。【追記終】
[90606] 2016年 6月 20日(月)17:19:00hmt さん
変遷情報あれこれ (4)変遷情報における「編入」の意味
今回のシリーズで最初に使った言葉は、「昔あった市町村」でした。
市区町村変遷情報【以下 変遷情報】トップページには、市制町村制施行時の情報数 15335という数字が記されています。現在は 790市745町183村、合計1718 (合併資料集)ですから、127年間に1万3千以上の市町村が廃止されたものと推測されます。

四文字熟語「廃置分合」。その冒頭にも「廃」という文字が使われています。
ところが、現実の 変更種別 では、「廃止」が使われていません。

その最大の理由は、「廃止」という言葉が 他の変更種別の説明中で使われており、大部分の廃止は その種別に該当するから「敢えて 廃止という結果を強調する 必要がない」からです。
新設  新設合併(合体):二以上の市町村を廃止し、その区域をもって新たな一の市町村を置くこと
編入  編入合併(編入):ある市町村を廃止し、その区域を他の市町村の区域に加えること
分割  ある市町村を廃止し、その区域を分けて二以上の市町村を置くこと

例えば、変遷情報 長野県 の 1957(S32).3.31 の記録
#変更種別郡名等自治体名変更対象自治体名/変更内容
179編入東筑摩郡明科町東筑摩郡 明科町, 北安曇郡 陸郷村の一部
180編入北安曇郡池田町北安曇郡 池田町, 陸郷村の一部, 広津村の一部
181編入北安曇郡八坂村北安曇郡 八坂村, 広津村の一部
182編入/新設東筑摩郡生坂村東筑摩郡 生坂村, 北安曇郡 陸郷村の一部, 広津村の一部

北安曇郡陸郷村と同郡広津村とが3分村された処分ですが、その変更種別はすべて「編入」となっており、この2つの村が「廃止された」ことを示しています。

これと対照的なのが、変遷情報 福井県 1955/7/15 の記録です。
#変更種別郡名等自治体名変更対象自治体名/変更内容詳細
89境界変更坂井郡金津町坂井郡 金津町, 芦原町の一部詳細
90境界変更坂井郡三国町坂井郡 三国町, 芦原町の一部詳細

「詳細」ページには 境界変更処分の対象地名が記されています。その他の地名は記載されていませんが、実際には芦原町の大部分が そのまま残りました。
処分後も「芦原町が存続こと」は、変遷種別【「編入」でなく「境界変更」】により分かります。
もちろん、2004年「あわら市」の新設/市制情報でも、それまで芦原町が存続していたことが分かります。

[90584] 桜江村は、このような「変遷情報の読み方」を踏まえた上て、下記解釈も可能な例外的な事例であったことを示したものでした。
桜江村の一部→江津市の処分については、境界変更であるから、この時には桜江村が存続していた。
しかし、【同日だが】その後で旭村の「新設」という順序であったのならば、桜江村は那賀郡4村と共に消滅した可能性がある。

…と、ここまで いかにも「変遷情報の読み方」が分かっているような姿勢で書いてきました。
しかし 過去記事を見たら、当時の自分は理解不足で、読み方を誤っていたことが露呈されていました。

2年前に書いた[85089]。この時は志紀町新設と美笹村への編入が行なわれた埼玉県内間木村が「廃止されたのか【中略】残っているのか不明」であると誤解して、「内間木村の廃止」という結果を、「その原因である編入や新設とは別情報として 明記しておく」ことを提案していました。

「変更種別の詳細説明」をよく読めば、美笹村への「編入」という処分は、自治体の廃止を伴ったものであり、廃止されたのれは内間木村以外にはあり得ない と解釈することができた筈でした。

反省を込めて、自らの誤解原因を明らかにし、皆さんが変遷情報を正しく読む資としたいと思います。

言い訳ですが、「編入」という言葉に「2つの用法がある」ことを 意識していなかったことが原因 でした。

一般的な用法:
団体や組織などに後から組み入れること。「編入試験」、「市に編入する」(大辞林)
地方自治法第六条第2項を見ると、「市町村の区域に編入」という用法は、廃置分合・境界変更を問わずに使える一般的な言葉であると理解できます。

しかし 地方自治分野の専門家たちが使う 業界用語 としては、次のような慣行があるように思われます。

「編入」という言葉は 廃置分合 の一種である 編入合併 に限定して用いる。
市町村の廃止を伴わない部分的な組み入れは「境界変更」として、「編入」と区別する。

# 境界変更であるか否かを決める市町村廃止の有無は、境界を変更する市町村だけでなく、同一告示に現れる市町村の範囲内で判断される。例えば[90585]において、#2は旭村新設で廃止される村があるので、組み入れられるのが 桜江村の一部に過ぎないものであっても、「境界変更」として告示に現れることはない。
同日の#4は別の告示であり、桜江村の一部組み入れということでは同じであるが「境界変更」になる。

このような仕組みになっているので、変遷情報における「編入」とは 最初に引用したように
ある市町村を廃止し、その区域を他の市町村の区域に加えること
という意味で使われていたのでした。
[90600] 2016年 6月 19日(日)22:55:48hmt さん
変遷情報あれこれ (3)鶏が先か? 卵が先か?
タイトルに使ったシリーズの(3)。下記2件の続編と位置付けたからです。ご了承ください。
[90584] 変遷情報あれこれ (1)「昔あった市町村が現在どうなっているのか」も知りたい
[90585] 変遷情報あれこれ (2)Re:「昔あった市町村が現在どうなっているのか」も知りたい

それはさておき、[90598] グリグリさん 郡再編と新設合併のタイミング について

2年前にも [85063] で同様の問いかけをされたことがあります。
この例で悩ましいのは、能登町新設と鳳珠郡設置の順序です。法的順序が明確であればそれに従いますが、そうでなければ上記の順序が自然かなと思います。いかがでしょうか。

その際の hmt[85071]は、受け皿である鳳珠郡の設置を先にするのが実務上自然なことと理解するとしていました。
しかし、地方自治法の趣旨からすると能登町新設が「主」であり、受け皿の郡は「従」にすぎないとも思われます。
なにやら、「鶏が先か? 卵が先か?」のようで迷い、3段階説も有力なように思われます。

ここはやはり「法的順序」、つまり告示番号順に従うのが正しいのではないでしょうか?
88さんは告示を確認していたと思われますが、変遷情報には告示番号が残されていません。

類例を求めて、三重県安芸郡と芸濃町、福井県三方上中郡と若狭町、岡山県加賀郡と吉備中央町、北海道二海郡と八雲町、北海道日高郡と新ひだか町も調べてみましたが、いずれの変遷情報にも告示番号が残されておらず、判断できませんでした。

ここは、官報情報にアクセス可能な環境にある方のご協力により、告示がどのようになっているか【2段階か3段階かと、その順番】を確認すべきではないかと思います。
[90597] 2016年 6月 19日(日)13:23:25hmt さん
明治30年前後、「旧・郡制」施行の準備として行なわれた「郡再編」
[90594][90595][90596]の各記事の対象になった「郡再編」の日付。
普段疎遠にしている「郡」が久方ぶりに登場しました。
誤記訂正・再訂正だけで終わらせるのも勿体ないと思い、過去記事を紹介しつつ、制度の変遷を復習しておきます。

国・郡制度の時代から使われていた「郡」という区画は、明治の大区小区制時代になるとその影が薄れてきましたが、明治11年制定の 郡区町村編制法で「府県」の下の「行政区画」となりました。
市制町村制や旧・府県制が制定された明治20年代になると、「郡」にも 府県の出先の行政区画だけでなく、「自治体」としての役割も与えよう とする動きが始動しました。

具体的には 1890年に 明治23年法律第36号「郡制」【以下、旧・郡制】が公布され、翌年には 11県では従来の区画のまま旧・郡制が施行されました。翌々年(1892)には宮城県にも旧・郡制施行。
地方自治体を目指すには小さ過ぎる郡を抱えていた22府県では、1896(M29)/4/1 に「郡再編」を行ないました。
大阪府を初めとする多くの府県ではかなり大規模な再編成になりましたが、3年前に三多摩移管をしたばかりの東京府のように小規模の例もありました。【東京府、神奈川県、京都府では旧・郡制施行なし。】
そして 1年遅れ(1897/4/1)で 7県も「郡再編」を実施し、旧・郡制も施行【岩手県など5県は即日】。
その後は、広島県、香川県【共に旧・郡制施行なし】、岡山県【旧・郡制施行後になった唯一の例】で、郡再編成は終りました。

旧・郡制の施行日は、同時期の旧・府県制施行日や郡再編の日付と共に、88さんが[62672]にまとめています。
[79688] hmt は、今回話題になった「郡再編」が実施された順番について 分類しつつ記載しています。

このような紆余曲折を経て1府(大阪府)39県に施行された旧・郡制ですが、明治32年(1899)には全面改正した 新・郡制 になり、これは45府県に施行されました[58745]

[51042] Issieさん
この「郡制」によって 郡 には“府県の出先機関”という性格に,議決機関たる「郡会」が設置されて“地方自治体”としての性格が加わりました。従来の「“官”の最末端」としての性格と,「“民”の共同体」(現実には,地主に代表される地方名望家が指導する共同体)としての性格の2面性を共有するものとなりました。前者を代表するのが「郡長」であり,後者を代表するのが「郡会」です。

しかし、地主階級を主体とするこの郡会は、結局のところ地方自治としては中途半端な存在で、大正12年(1923)に廃止。
その後、県の出先機関の「郡長」と「郡役所」も廃止されました(1926)。
戦時中に設けられた「地方事務所」はこの郡役所復活に近いものですが、例えば埼玉県埼葛地方事務所【南埼玉郡と北葛飾郡の2郡を管轄】の「埼葛」という名[59317]が示すように、郡そのもの ではありません。

そして戦後の地方自治法。
第259条第1項  郡の区域をあらたに画し若しくはこれを廃止し、又は郡の区域若しくはその名称を変更しようとするときは、都道府県知事が、当該都道府県の議会の議決を経てこれを定め、総務大臣に届け出なければならない。

要するに、現行法は a prioriな「郡という区域」の存在は認めているが、その機能については何も決めていません。
国として「郡」に積極的な役割を期待するものではないが、慣習の範囲内で使われるのは認めているという消極的支持でしょうか。
広域地方行政の役割は 専ら総合振興局/振興局が担い、行政当局からは 郡が事実上無視されているように見える北海道[71695]でさえ、二海・日高2郡の新設だけは行なわれ、戸籍事務や住所表示に使われています [73408]
[90585] 2016年 6月 15日(水)18:53:39【2】hmt さん
Re:「昔あった市町村が現在どうなっているのか」も知りたい
自己レスです。
[90584]を書いた時は、頭の中が「分村」に占領されていたので、それに関連した希望を長々と書いてしまいました。
投稿直後に読み直しているうちに、タイトルに書いた件に絞れば、現在の表でも、過去→現在の道の大筋を辿ることができると 気がつきました。

以下、グリグリさんのレス[90586]を受けた修正版です。

桜江村の例で記しておきます。
市町村の変遷 島根県[90586]の修正後】を開く。
Ctrl+F で 桜江 を入力→【修正後の検索結果は】下記の7件
#1 浜田市 1954/4/1 桜江村 新設 邑智郡5村
#2 浜田市 1954/10/1 旭村 新設 那賀郡5村、邑智郡桜江村の一部
#3 江津市 1954/4/1 桜江村 新設 邑智郡5村【#1と同じ】
#4 江津市 1954/10/1 江津市 境界変更 江津市、邑智郡桜江村の一部
【対象とする変遷種別に境界変更が加わったことで、この変遷が検索結果に加えられた。】
#5 江津市 1956/1/1 桜江町 町制 【#6】邑智郡桜江村
#7 江津市 2004/10/1 江津市 編入 江津市、邑智郡桜江町

改称や複雑な分岐があると、桜江で検索するという単純な調べ方では十分な結果は得られません。
上記#1、2には、桜江村の一部が旭村になった後、旭町を経て浜田市になったという経過が示されていません。
[90586]の ん? に答える追記】
浜田市の変遷にはその経過が示されているが、それは Ctrl+F 桜江 の検索結果外であった という意味です。

しかし、大筋の結果が得られるようです。
過去→現在の連続性確保という長期的目標は別として、とりあえずは これで満足することにしましょう。
[90584] 2016年 6月 15日(水)17:59:41【2】hmt さん
「昔あった市町村が現在どうなっているのか」も知りたい
[90582] グリグリ さん
とりあえず仮のページができました。

さっそく拝見しました。すばらしい。プログラム解析でこれだけのものを作れるのは さすがです。

あくまでも現状は非公開の暫定ページであり、作業全体への感想やご意見は歓迎しますが、【中略】表記項目への改善要望などは、当面は静観していただければと思います。

後半部の注意書きに反しているかもしれませんが、前半部の感想や意見のつもりで、将来に踏み込んだ希望を 少し記させていただきます。

現在の市区町村から明治の市制・町村制までの変遷データの連続性を確保することを目標に
とありましたが、現在から明治への「遡及」連続性だけでなく、【適切な言葉が思い浮かびませんが】時を進める前進的?関係の連続性確保も 目標とすることができないものか、検討していただければ有り難い と思います。

平たく言えば、「現在の市町村の過去」だけでなく、
「昔あった市町村が現在どうなっているのか」も知りたい ということです。

例を挙げて説明しますが、過去→現在の連続性を確保するためには、解析の対象とする変更種別に【分村などの限定的なケースですが】「旧村の存廃」を考慮する必要があるのではないかと考えています。

変遷情報には 1954(S29)/10/1に 島根県邑智郡桜江村の一部を含む新設合併があったことが記録されています。
同日には 桜江村の一部を江津市にする境界変更 も記録されています。
このような「分村」があった場合、多くのケースでは分村された村は消滅します。

例えば、落書き帳の古い話題である矢場川村[14616]のケース。
1960(S35)/7/1 群馬県山田郡矢場川村の一部区域は栃木県足利市へ境界変更【告示S35-1】
1960(S35)/7/1 群馬県山田郡矢場川村(境界変更の残余)全部が群馬県太田市に編入【告示S35-2】
変遷情報の記載を確認すると、変更対象自治体は太田市と矢場川村だけで、変更種別が【廃置分合の1種である】「編入」となっているので、「編入合併による矢場川村の廃止」を確認することができます。

ところが、1954/10/1 桜江村のケースとなると少し事情が違い、矢場川村のように分村された村が廃止されたことを示す決定的記載がありません。
そして、邑智郡桜江村が1956/1/1に桜江町になり、2004/10/1江津市に編入されるまで存続していたことから、「2件の分村があっても、元の村が廃止されたわけではない」ことがわかりました。

後で国勢調査55ah02dにより人口異動を調べたら、1954年に成立した桜江村の人口(1950年当時の5村合計)は9526人、この内 1954年に江津市に境界変更されたのは 490人、旭村【後に浜田市】の新設合併に加わった一部は 171人で、合計しても桜江村の 7%にしかなりませんでした。
つまり、変遷情報に記録された2件の変遷は、いずれも文字通り「桜江村の一部」に関するものであり、人口の93%を占める「大部分」は桜江村のまま存続していたのでした。

分村の後、更に村が存続していた事例は比較的稀であると思うのですが、過去→現在の連続性確保には、このような問題も存在します。

一般的には、分村による複数の一部編入が「廃置分合として記されていれば」、それは元の村の「廃止」を伝える情報として扱えるので、変遷情報に記す内容として「旧村の存廃」を明らかにしておく必要のあるケースは、ごく少数でしょう。
【追記】
桜江村の類例を思い出したので記録しておく。新潟県西蒲原郡岩室村【昭和30年人口 7587】
1960/4/1 新潟県西蒲原郡岩室村の一部を巻町に境界変更【人口異動 355】
1960/4/1 新潟県西蒲原郡岩室村の一部を吉田町に境界変更【人口異動 285】
岩室村の大部分【1955年人口6947】は 2005/3/21に新潟市に編入されるまで存続した。【追記終】

これに対して、多数の分村事例では 現在の変遷情報の記載のままで旧村の存廃を判断できます。
その一例に過ぎませんが、参考までに手元のメモ【国勢調査65ah03c.pdfの村名誤記】から分村データの例を示しておきます。
1962(S37)/4/1 宮崎県児湯郡東米良村の一部 西都市に編入 【1960年国勢調査人口異動 4421人】
1962(S37)/4/1 宮崎県児湯郡東米良村の一部 木城村に編入 【1960年国勢調査人口異動 810人】

1950/10/1以降の分村に関する国勢調査データは整理中であり、改めて落書き帳記事にしたいと思っています。
[90580] 2016年 6月 14日(火)20:23:42hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (7)昭和の境界変更で 柿崎町飛び地ができたが 32年後に柏崎に復帰
市の変遷・新潟県 柏崎市には 境界変更による組み入れが4件記録されています。このうち 平成元年の境界変更は 昭和合併時代の大きな境界変更で生まれてしまった飛び地の後始末となっており、2010年に落書き帳の話題になりました。
平成はともかく、昭和境界変更では かなりの人口異動があったので、今回のシリーズに再登場させます。関係記事集1

今回の事例のポイントは変遷情報に記録された奇妙な遍歴[74321]です。

1956/12/19  柏崎市が中頸城郡米山村を編入
#1 昭和合併の期限日(1956/9/30)に間に合わなかった。
1957/1/1  柏崎市の一部【大字小萱、大字上輪など】を中頸城郡柿崎町に境界変更
#2 この時の人口異動は 912人。かなり多い。小萱などは柿崎町の地続きで問題なかったが、米山の北にある 上輪・高畔・蕨野の3地区は柿崎町の飛び地になった。

【そして、飛び地状態が32年間継続した後で】
1989/4/1 柿崎町大字上輪あげわ, 大字高畔たかぜ及び大字蕨野の区域を柏崎に境界変更【飛び地解消】
#3 この時の人口異動は 178人と記録されていた。小萱などを含まないので #2より少ないのは当然であったが、飛び地の人口は予想外に少なかった。地名コレクションには「過去の飛び地」が残されていないので、代りに倉田昆布さんのページを付けておく。

1956年に消滅した米山村があった地域は、郡区町村編制法の8村時代から中頸城郡でした。1889年の町村制では南の4村が鉢崎村、北の4村が米山村になりました。1901年の新潟県内町村再編成[90141]で2村が合併して新たな米山村になりましたが、旧鉢崎村にあった駅の名は「鉢崎」のままで、「米山」への改称はずっと後(1961年)でした。
この地域は、米山を主峰とする山地が海岸まで迫っている地形で、文献史料上「米山以北」という表現で知られる「上越」と「中越」との境界地帯です。新潟県文書館

昭和合併当時の米山村は、行政境界である中頸城郡からすれば 柿崎側の「上越」ということになります。
しかし、自然地理的な境界は刈羽郡との境界よりもずっと南側にあり【鉄道や道路のトンネルは米山(鉢崎)―笠島間】、住民の意識としては「中越」つまり柏崎寄りの人々も多かったと思われます。

[74321] oki さん
30年以上たってから出戻るなら、どうして柿崎に出て行ったのか、その理由が知りたいところです。

むじながいり さんの [74348]は このあたりの事情を伝えています。
柏崎派と柿崎派との対立。合併は先送りされていたが、【昭和合併の期限が迫って】県議会は条件付きで柏崎との合併を議決。分離請求の住民投票を経て、上輪などが柿崎を、鉢崎などが柏崎を選んだ。
飛び地になってまで柿崎を選んだのは、昭和の住民投票の結果でした。

このようなケースでは、米山村を分村して 柏崎市と柿崎町とに編入合併する形の「廃置分合」を行うのが通常の処理方法と思われます。しかし、ここでは 先ず米山村全体を柏崎に編入合併し、2週間後に「境界変更」する という2段階処理になりました。国や県から昭和合併を迫られた時間的な制約が、その背景にあったように思われます。

昭和の住民は中頸城郡時代の隣村・柿崎を編入先に選んだ。
しかし、世代も変った平成の住民。柏崎に溶け込み、飛び地の不便を解消する道を選んだのでしょう。

なお、今年になってから グリグリさんによる国勢調査の新ページ作成に際して、平成境界変更の告示と面積調との日付が相違していることが問題になりました。その解明に至る経過も関係記事集2 に集めておきます。
[90578] 2016年 6月 12日(日)11:10:12【3】hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (6)人口異動と変遷情報採否の問題 西宮市田近野
「人口異動を伴う境界変更」をテーマにした検討の背景には、都道府県市区町村サイトの大プロジェクトである 市区町村変遷情報【以下単に 変遷情報 と記載】への採否問題があります。
10年近く前の記事ですが、当時担当されていた88さんの考え方を示しておきます。

[56539] 市区町村変遷情報 苦悩日記 No.8 境界変更について、さらには市区町村変遷情報の対象について

この記事では、変遷情報の対象を4段階に分け、従来からの持論である(2)を念頭に、更に進みたい姿勢を示しています。
(1) 廃置分合まで 市町村の増減を主とし、あわせて改称、郡・区設置等を記載
(2) 境界変更(大)まで 実質的に「藩政村」【近世村】の変遷を記載
(3) 境界変更(小)まで 地方自治法第7条にいう「境界変更」すべてに対応
(4) 所属未定地の編入・埋立まで 自治体の範囲が変わるものはすべて網羅

2007年当時は変更種別に含まれていなかった境界変更。その1年後には 正式に変更種別の一つとして追加され[63303]、「大きな境界変更」について変遷情報に追加される道が開けたように思われました。

その後、山奥の独立集落である入飛駒[79559]【面積5.65km2、人口557人】や、村の面積の過半(2.22km2)が市街地化して富山市に編入された 桜谷村[79560]について、変遷情報収録に値する「大きな境界変更」なのではないかという意見が出されました。

しかし、上記2つの意見によって 「近世村」を基礎とする88さんの考え方を崩すことは できませんでした。
[79660]末尾を見ると 88さんは「大字単位であれば変遷情報に収録する」編集方針を見直して、収録対象範囲を少し縮小させることも考えていたようです。

変遷情報への採否が揺れた具体例として、1969年に行なわれた尼崎市・西宮市間の境界変更 を示します。
一旦は下記の2件が変遷情報に記録されましたが、 #2の田近野町は削除され、武庫川河口の #1 が残っています。
#1 1969/4/1 西宮市→尼崎市 平左衛門町【1965年国勢調査人口異動 35人】 変遷情報存続
#2 1969/4/1 尼崎市→西宮市 田近野町 【1965年国勢調査人口異動 553人】 変遷情報削除

#2が削除された理由[65812]
ご指摘の尼崎市西昆陽字田近野の区域を西宮市に境界変更するものは、確かに小規模で他の情報との整合がとれていないことから、今回、情報から外しました。

このコメントを読んだ2008年当時は気がつかなかったのですが、上記補足データ【1965年国勢調査人口異動数】から 境界変更 #2 は 境界変更 #1 の10倍以上の人口異動を伴うものであったことを知り(2012年)、#2 が削除されたことに疑問を抱きました。

変遷情報への採否を決める境界変更範囲の大小を決めるのは、近世村が存在した時代の村落規模なのか?
それとも境界変更が実行された現代の集落規模なのか?
問うまでもなく後者が正解でしょう。
こんな考えに基づいて「近世村でないという理由だけで差別したくない」と訴えたのが[81934]でした。

しかし、[81934]は88さんへの直接問いかけという形を整えておらず、しかも折悪しく 88さんの変遷情報作業が中断していた時期[82239]でした。
そして、ご意見を聞くことができないまま 88さんの落書き帳退去という事態になってしまったのは残念です。

余談ですが、田近野に関しては、居住経験のあるuttさん【敢えて懐かしい旧旧名で引用】の記事[9524]があり、「領土交換条約」という呼び方で 上記2件の境界変更にも言及しています。
田近野町って変な町です。【中略】平行に並んでいるアパートを【西宮市と宝塚市の】市境が串刺しにしています。
なんでも昔は尼崎だったらしく、西宮と尼崎で領土交換条約(…)を結んで西宮市になったそうです。

【追記】数棟のアパートを串刺しにしている 西宮市と宝塚市の境界線
[90577] 2016年 6月 11日(土)16:44:50hmt さん
「青森県」を省略して「青森」と表記すると…
八戸市の中核市指定[90575]と直接の関係はないのですが、これを伝える NHK NEWS WEB の見出し表記が気になりました。
青森 八戸が中核市に 来年1月1日から移行

「その道に詳しい人」ならば 青森市は10年前に中核市に指定済みなので、正規の表記「青森県八戸市が中核市に」を省略したものであると理解するでしょう。
しかし、「青森」の本来の意味は都市名です。

明治4年9月に6県の統合により誕生した弘前県。「弘前」にあった県庁が「青森」に移ると共に青森県と改称されました。[76243]
「○○県」という言葉が、現在慣れ親しんでいる「県の領域」ではなく、「行政組織」とか「役所」の名前という感覚で使われていることがわかります。 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る 参照。

現在では県名と市名の両方に使われているので、自明でなければ正規の「青森県」又は「青森市」という表記で区別すべきです。
区別することなしに「青森 八戸が中核市に」と並べられたら、「普通の人」ならば「青森市と八戸市とが中核市に移行する」と理解してしまうのではないでしょうか。

多数の県や市を列挙する場合ならばともかく、正規の表記「青森県八戸市が中核市に」に比べて僅か2文字の短縮です。
新聞の見出しならば「スペースの都合で」という 言い訳もあり かもしれません。
しかし、音声やWEBでは 新聞見出しでの「必要悪」とも言える 省略表記の存在意義は 薄れているはずです。
NHK NEWS WEBに掲載されたテレビ画面の右上の字幕にしても、十分に正規の表記を収容できるスペースがあります。

今回の件は、3年前に記した[84067]と 同じ意見の繰り返しになるのですが、不必要と思われる省略表記を行なっているマスコミに対して このサイトから警告を発することは 意味があると考えたので、機会をとらえて再論しました。
マスコミで耳にする“大阪岸和田市”などという言い方は、どうも気になります。
「誰のための省略表記なのか?」ということ考えましょう ということです。
[90564] 2016年 6月 7日(火)14:51:53【1】hmt さん
肥後と豊後とに跨る温泉
今年のオフ会開催地の候補として、熊本大分県境の杖立温泉(ひぜんや)が登場したようですね。
館内の渡り廊下「両国橋」に設けられた県境標識にあるように「肥後国と豊後国」に跨るのに 何故か「ひぜんや」。

杖を手放すことができなくなったhmtとして、「杖」という文字で変遷情報検索をしてみたら、奈良県宇陀郡御杖村の他に旧4村がありました。しかし 杖立という村名を見出すことはできませんでした。
…ということで、大字レベルの地名にもなっていないようで、杖立を 自治体越えの地名として扱うには 問題がありそうです。

何はともあれ 地図で確認してみると、阿蘇外輪山の北側で、熊本県北端の近くでした。
1970年頃に 大分県の天ヶ瀬温泉で 台風に遭遇してしまった経験があるが、その少し南か。

熊本県北端から リンクしてある地理院地図を少し東に進むと 熊本県小国町・大分県玖珠町・同九重町の境界点になり、そこで 拡大すると、 西に麻生鶴、北と東に麻生釣がありました。

これも大字レベル以上の地名ではありませんが、一応地理院地図に掲載されているので、自治体越えの地名として扱えるかもしれません。審査をお願いします。
「つる」の漢字表記が2種ありますが、本質的には同じ地名が県境により分断されたものと思われます。なお 麻生(あそ)も 阿蘇と同根でしょう。

敷地が熊本・大分両県に跨る温泉旅館ということでは 杖立と共通しますが、麻生釣の方は 広大な敷地内に分散した離れ造りであり、ホテル式の「ひぜんや」の建物とは全く違うようです。
旅館の住所は熊本県阿蘇郡小国町西里麻生釣と表記されていましたから、字名としては 熊本県側・大分県側 共に「麻生釣」であろうと推測されます。 麻生釣温泉・亀山の湯>アクセス【この節、追記により修正】

九重町菅原の麻生釣には、1984年に廃止されるまで宮原線に麻生釣(あそづる)駅がありました。

地図上で杖立温泉に戻り 杖立川を少し下ると大山川との合流点になり、付近は松原ダムのダム湖(梅林湖)になっています。
大山川側を遡ると「下筌ダム・蜂の巣湖」の文字があり、1960年頃に新聞を賑わせた 蜂の巣城の攻防戦 や「肥後モッコス」という言葉を思い出しました。

以上、熊本・大分県境に関係する雑談でした。
[90556] 2016年 6月 4日(土)18:13:00【1】hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (5)1960年代と1970年代
このサイトの「都道府県市区町村変遷情報」は「廃置分合」が盛んに行なわれた平成合併時代の「市町村合併情報」からスタートしており、「廃置分合」情報を柱として進んで来ました。
しかし、次第に「境界変更」情報の重要性も認識され、その方面の情報充実も課題になってきました。

改めて言うまでもないことですが、「境界変更」とは何か? その確認から復習します。
「境界変更」が自治体【市町村、特別区、都道府県】の区域の変化を伴う変更であることでは「廃置分合」と同じです。
「廃置分合」と「境界変更」との違いは、法人格の変動【新設や廃止】の有無。それだけです。

「廃置分合」は、複数の自治体の合体などにより新たな自治体を設置する「置」と、編入合併などの形による「合」を中心に実施されています。これに少数例である「分」【分割と分離】も含め、市制町村制施行(1889年)以降の変遷情報が ほぼ洩れなく集積されています。

唯一 配慮が十分に及んでいないと思われる「廃置分合」情報は、町村廃止の情報です。
新設合併や編入合併という形で町村が「丸ごと」移行する場合は、特別の記録表示がなくても、旧自治体の廃止を伴うものであることは自明です。
記録しておく必要があるのは、分村編入による消滅です。
実は分村編入の大多数は消滅につながっているのですが、少数ながら複数の分村があっても、なお母村が残るケースがあります。従って、分村編入については消滅か存続かの区別の記録が必要です。

変遷情報記録を語るうちに 話が少し逸れましたが、本題の境界変更情報に戻ります。
2016/3/21にグリグリさんから 人口異動を伴う境界変更一覧がリリースされました[90092]。現在のところ、その対象は1980年代以降です。正確に言えば、昭和55年国勢調査の行なわれた 1980/10/1より後の35年間に実施された「境界変更」のうち、人口異動を伴うもの 77組が記録されています。

このシリーズの第1回[90100]で取り上げた「入間市と狭山市」は77組の中で最大の人口異動を伴った事例でしたが、その数は数百人止まりでした。しかし、これに触発されて過去の事例を探しているうちに、昭和合併時代には数千人規模の人口異動を伴う境界変更事例があったことを改めて認識しました。例えば 西武町[90105]や 東葛市[90517]

こうなると、過去に数百人、数千人という大きな人口異動を伴った境界変更事例を具体例で集めたくなります。
幸い、グリグリさんが統計局に問い合わせた結果得られた資料[81919]が、情報源として利用できます。
これによると、「人口異動を伴う境界変更」の情報は昭和30年国勢調査分以降について入手可能であり、昭和55年国勢調査までがPDFで公開されています。

国勢調査に基づく境界変更/人口異動データのまとめ。ご隠居仕事として挑戦してみるか。
先ずは 既にリリースされている1980年代以降につながる 1970年代と1960年代の20年間から。

自治体Aの「一部」の地域が その「人口」と共に 自治体Bに変更される 境界変更
これを「国勢調査報告書付表3 市区町村の廃置分合境界変更名称変更一覧表」から抽出する作業手順:
1. 一覧表を目視しつつ異動地域の中の「一部」という語句に注目し、人口変化がゼロでない記録を抽出する。
A→Bの異動があると、Aには負、Bには正の人口変化が記録されているので見落し防止に役立つ。
2.抽出結果は変遷情報と対比し、廃置分合に該当しないものを境界変更とする。
例えば、1962/4/1に宮崎県児湯郡東米良村5231人は 西都市に4421人、木城村に810人が編入されて消滅した【人口は1960年国勢調査人口】。「一部」というKWからの抽出結果には含まれているが、これは廃置分合の一種である「編入」として記録されており、境界変更には該当しない。

結果を集計すると、20年間の境界変更は175組でした。
人口異動最大は 1961/4/1 兵庫県美方町→村岡町の 4506人。[90315]末尾に記載したように、1955年までは射添村だった地域です。
以下 岡山県日生町→兵庫県赤穂市の 1640人、青森県弘前市→大鰐町の1430人、長崎県時津町→長崎市[81913]の 1087人、埼玉県杉戸町→庄和町 993人、高知県本山町→土佐村 706人と続きます。
リンクから知れるように、長崎の事例以外の5件は変遷情報にも「境界変更」と入力されています。
175組のうち、変遷情報入力済みは僅か13組でしたが、5組がトップクラス入賞は立派でした。

昭和合併と平成合併との中間にあって、変遷情報が少ないと思われた20年間ですが、それでも境界変更175組が存在するということは、リリース済みの35年間を上回るペースです。
最初は、大きな人口異動のものだけでも変遷情報に収録していただきたいと思っていたのですが、後に控えている昭和合併を含む10年間(1950年代)のことを考えると、とても変遷情報への入力をお願いできる分量ではないことがわかりました。

せっかく集めたデータなので、後日エクセルファイルの形でグリグリさんにお送りし、その処置を委ねたいと思います。
人口異動の大きさで線引きするのも難しいと思われるので、やはりリリース済みの35年間と同様に、変遷情報とは別の簡易な形式を採用し、データを皆さんに開示していただくのが現実的なのではなかろうかと思っています。
[90548] 2016年 5月 29日(日)22:59:07hmt さん
八箇村
[90530] k-ace さん
市役所からそれほど離れていない井口新田は J【小出】町ではなく K【湯之谷】村という。

変遷情報によると、町村制施行の1889年に 井口新田など 旧・8ヶ村が合併して成立した自治体は 八箇村 でした。

旧村名を見ると、小出に隣接する井口新田から佐梨川沿いに東に伸びる村であったことがわかりますが、合成数値名そのものであることを、面白いと感じました。
もちろん 地名コレクション に収録されています。
1901年の新潟県内町村再編成[90141]で湯之谷村と合併。

ところで「八箇」(はっか)という地名が、少々気になりました。

2012年5月、八箇峠トンネル工事中に4人が死亡する 天然ガス爆発事故がありました。
同じ魚沼地方の出来事ながら、小出市街地に近い八箇村とは地形が違う山中です。調べてみると、こちらは上越市と南魚沼市【関越道六日町IC】とを結ぶ道路で、町村制施行前は中魚沼郡八箇村だった所でした。

過去記事でも信濃川発電所のある中魚沼郡津南町三箇(さんが)[87461]という地名に遭いました。
変遷情報検索で「箇」を検索してみたら 全国に分布しています。検索結果
そして、新潟県の「○箇村」は 20件(内11件が魚沼地方)で 全国一でした。
[90545] 2016年 5月 27日(金)23:15:08hmt さん
奥只見ダムに通じる道
[90542] 千本桜さん 
今回の旅行で、じいさんたちが一番喜んでくれたのは、奥只見ダムへ向かうシルーバーラインです。

「シルバー」の皆さんが喜んだ道路。もちろん電源開発[84025]が 奥只見発電所建設のために作った道路です。
現在でもダム・発電所の管理用道路として機能していますが、1969年に会社から新潟県に譲渡された2年後には、観光有料道路「奥只見シルバーライン」として利用されることになりました。
1977年には無料開放され、「新潟県道50号 小出奥只見線」になっていますが、「シルバーライン」の名は引き続き使われているのですね。

この呼名の由来である「銀山平」は、水没地域にあった唯一の集落で 越後高田藩の銀山があったそうです。
水没後の銀山平は 現在地に移転。
ダム湖の名は「奥只見湖」が広く通用していますが、「銀山湖」の名もあります[36922]

地図を見ると、国道352号とシルバーラインの明神トンネルとを結ぶ連絡道路があります。トンネルの中に丁字路の交差点があるのは、極めて珍しい事例と思われます。信号機も付いているそうです。
シルバーラインは、20km以上の殆んどがトンネルと言ってもよいほどですが、特にこの付近は 17号(明神トンネル)、18号(荒沢トンネル)が僅かに10m間隔で連続しており、実質的に7kmのトンネル区間です。
長大トンネル技術が現在ほど進んでいなかった時代ですが、電力不足解消のために、かなり無理して作った道路なのですね。銀山平まで並行する既存の道路(国道352号)は、急勾配で狭い枝折峠という難所を越えなければならなかったのでした。

この「もぐら街道」。素掘りの部分もかなりあり、湧水により路面が濡れているそうです。
全線にわたり二輪車進入禁止。歩行者も軽車両も禁止。
WEBには そんな道を二輪車で走った疑似体験?がありました。
「あくまでもフィクションです」と断ってありますが、極めて詳細で、迫力があります。山行が

[90524] 千本桜さん
この谷を流れるのは水量豊富なF川で大蛇のように蛇行する。ちなみに、この川を見るのは無料です(笑)。

hmtにとり 最大のヒントになったのは、1963年9月に「混合列車」【注】で初めて訪れた 只見川 でした。
【注】
混合列車とは蒸気機関車・貨車・客車を連結した列車で、会津若松から只見まで乗車した当時は会津線の一部であり、会津川口-只見間は この年の 8月に開通したばかりでした。小出側は只見線を名乗っていたものの新潟県内止まりで、六十里越トンネルで県境を越えて只見までが開通し、全線が只見線になったのは 1971年でした。
余談ですが、只見で泊った宿のマッチには、「祝 只見線開通」の文字と共に「電話 只見八番」と記されており、時代の違いを感じます。

田子倉発電所前では「群馬幹線第1号鉄塔」、「只見幹線第1号鉄塔」などが並んでいるのをを発見。
前者は勤務先(当時の埼玉県大井村)前を通り、後者も比較的近くを通る見慣れた送電線でした。それぞれの特徴を備えた鉄塔は、只見川の電力が首都圏に送られていることを実感させてくれました。

じいさん7名の目的地は、この川の上流にある巨大なG【奥只見】ダムなのだが、谷が険しくて道がない。

遊覧船で田子倉湖上を遡りましたが、もちろん奥只見まで行くことはできません。
その名は「只見」ですが、奥只見は広い只見町の領域外(福島県側は檜枝岐村)です。
[90538] 2016年 5月 25日(水)13:08:57hmt さん
美鈴湖
[90537] 伊豆之国 さん
スケート場の中に長野県にある「美鈴湖」というのが載っていたのを覚えているのですが

かつての美鈴湖には 30cmもの厚さの氷が張り、昭和50年代までは滑走できたようです。人工のリンクでは浅間温泉国際スケートセンターがあり、日本で一番良く滑る高速リンクとして定評があったようです。
しかし 湖畔の国民宿舎「レイクサイド美鈴」は経営不振のため閉鎖。浅間温泉国際スケートセンターも 2011年に42年の歴史を閉じたとのことです。

スケートセンター跡地には、2015年6月に美鈴湖自転車競技場が完成しています。朝日デジタル
松本市のセールスポイント。日本一標高(1000m)の高い自転車競技場。気圧が低く、小さい空気抵抗で好記録が期待できる。

江戸時代から存在した農業用溜池で 「芦の田池」と呼ばれていた。デイラボッチ(巨人)の足跡という伝説がある。地図
昭和になって大改修。1953年に美鈴湖と改称。
ダム湖コレクション 未収録。信濃川水系【女鳥羽川>奈良井川>犀川>千曲川】です。

地図を見ると新婚旅行先の浅間温泉・里山辺の近くでしたが、記憶は全くありません。
松本市内には「美須々」という地名もあり、意味と結びつきにくい「みすず」の 多様な表記の存在を思わせます。
[90536] 2016年 5月 24日(火)15:17:48【1】hmt さん
水篶刈る 信濃の真弓 吾が引かば…
[90510] 伊豆之国 さん
上田土産「みすヾ飴」の名として使われた「みすず」について少し調べてみました。

先ずはタイトルに記した万葉集の歌ですが、みすヾ飴本舗 飯島商店の 説明ページでは、「み薦刈る…」となっています。
賀茂真淵が「水薦苅(みこもかる)」は「水篶苅(みすずかる)」の誤りとしている【コトバンク参照】ことでもあり、この記事のタイトルでは「みすず」の表記を「水篶」としました。

飯島商店の説明によると、信濃国の枕詞に使われて親しまれてきた「みすヾ」は 、ササの一種の スズタケ(篠竹)であり、ブナ林の下に群生する植物となっています。【別名】スズ。ミスズダケ。

私が「みすず」という言葉に出会ったのは 60年前で、『アフリカの内幕』[70231]を出版した みすず書房であったと記憶します。

長野県上伊那郡美篶村(みすずむら)という自治体があったことを知ったのは 最近のことです。
調べてみると、明治8年 当時の筑摩県に 伊那郡美篶村として誕生しており、翌年には長野県。
郡区町村編制法>町村制の施行により上記の自治体になり、昭和合併で伊那市美篶になるまで存続しました。伊那市中心部と高遠との間です。

明治生まれの村名「みすず」について 洞泉寺 のお話も紹介しておきます。
遠方の人に住所を伝えるときに苦労する「美篶」という字の由来。 高遠藩の学者に頼んだところ、万葉集から拾って 水篶を美篶と表記したとのこと。
「水篶」という表記から、「みすず」は水と関係のある湿地の植物であるように思われてきました。

「みすず」の利用法について、これがスズタケならば、その同類であるネマガリタケのように筍を 食用とするのかと思っていました。
しかし、調べてみると「水篶刈る」という作業の目的は全く違うもののようです。

意外なことに 植物由来の「みすず」は、古代製鉄の原料として利用された褐鉄鉱であり、その植物もササではなく、ヨシなど水辺の植物のようです。

未読ですが、真弓常忠:古代の鉄と神々という本があるようで、その本を引用したページを元に 記してみます。

それによると 「み」は美称。「すず」はヨシなど 水辺の植物の根に付着した褐鉄鉱の塊で、砂鉄たたら製鉄 よりも低い温度で精錬する 原始的な製鉄技術に利用された。

褐鉄鉱の正体は、水中の鉄イオンを集めて酸化エネルギーを得る 鉄バクテリアの代謝生成物で、中空の鉄鉱塊を振ると、その中に残された小さな塊が音を出す。これが本来の「すず(鈴)」でした。
根元に「すず」が付着した植物を刈り取るから「みすず刈る」信濃…ということのようです。
スズタケ説が出たのは「みすず」という言葉から でしょうが、水辺で褐鉄鉱を作る植物としてはヨシの他にマコモ等の可能性もあり、「水薦(みこも)」が誤りとは言い切れないような気もします。

信濃以外にも同様の植物由来褐鉄鉱があります。有名なのは 豊橋市高師が原台地の 高師小僧 で、愛知県指定天然記念物になっています。

信濃からは更に離れますが、この古代製鉄技術に関する資料・ 古代褐鉄鉱精錬の可能性もリンクしておきます。
一口に枕詞と片付けてしまえばそれまでですが、「みすず刈る」という言葉には、意外な背景があるようなので、書き留めた次第です。

上田の「みすヾ飴」本舗に戻り、飯島商店の歴史の概略。
明治初期までは北国街道沿いの米屋。屋号は「油屋」。明治21年鉄道開通。駅に近い現在地に移転。
明治33年に東京深川近郊の洪水。大量の冠水米が発生した農家を救済するために澱粉に精製して水飴を製造することを考えました。その水飴を森永太一郎が創業したばかりのミルクキャラメルに販売。
米屋から飴屋になった飯島は、明治の末になると水飴に信州特産の果汁と寒天とを加え、「みすヾ飴」を作り出すことにより、原料メーカーから脱却しました。

誤記訂正のついでに:
松本市の「美鈴湖」、「美須々」など「みすず」の異なる表記について[90538]で言及。
[90534] 2016年 5月 22日(日)17:44:43hmt さん
高麗郡 1300年
[90530] k-aceさん
埼玉県日高市で高麗郡建郡1300年記念祭が行われている

1300年前、716年というと奈良時代初期の遠い昔のことなのですが、そこに至った経過を調べてみると、現代世界に影を落すトラブルの前例となるような歴史が見えてくるような気がしたので、少し記してみます。

先ず、「こま」という地名について。
市区町村変遷情報・埼玉県を見ると、1896/4/1「入間郡, 高麗郡, 比企郡の一部 の区域をもって入間郡を設置」とあり、更に1955/2/11には入間郡 高麗村, 高麗川村の合体により日高町が発足しています。これが1991年には日高市になり、現在に至っています。
東京都狛江市、山梨県南巨摩郡など「こま」という地名は他にもあります。甲斐国は昔の4郡のうち西部が巨麻郡でした。
その他、河内国大県郡や若江郡にも巨麻郷があり、山城国相楽郡に大狛郷、下狛郷があります。

「高麗」は朝鮮半島の国名ですが、4~7世紀・三国時代の「こま」と 10~14世紀の王氏「こうらい」とは読み方で区別されます。高句麗と書けば前者のことであり、以下慣習に従って 高句麗(こうくり)の表記を用いますが、高麗の自称は 6世紀には 中国からも正式名と認められていたようです。
高麗神社(後出)本殿の扁額には小さく「句」の字が彫り込まれており、高句麗を示しているそうです。

高句麗は半島南部の百済・新羅と共に朝鮮の三国時代を作りました。
最盛期だった5世紀における高句麗の版図は 半島の主要部から満州南部に及ぶ大国でした。

その満州南部(現在の中国・吉林省)に広開土王碑という巨大な石碑があり、現物は 2004年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。
文字の記録がなかった時代の日本を伝える記録として比較的信頼できるのは中国の歴史書ですが、卑弥呼が登場する『魏志』倭人伝の3世紀と 倭の五王が登場する『宋書』倭国伝の5世紀の間が欠けています。
「倭」が何回も出てくるこの石碑は、4世紀の倭国の動きを伝える重要な同時代遺物として重視され、研究が進められているようです。拓本1拓本2拓本3

391年に即位した高句麗広開土王は 中国北朝と戦って遼東に勢力を伸ばし、南は百済の首都漢城近くに迫り、百済王を臣従させるなどの事蹟を挙げました。同じ391年には倭国による朝鮮進出が始まり、新羅や百済を服属させるなどしたが、404年高句麗領に攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した等のことも記されているようです。

中国南朝の『宋書』等にも5世紀以後に「任那」が登場し、倭国が半島南部に持った拠点もこの頃からと思われます。戦前の日本が 大陸進出の歴史的根拠にしようと意図した 神功皇后の三韓征伐伝説 との結びつきはともかくとして、朝鮮と日本との間には 長期間にわたり、戦争・外交・文物伝来・移民など、種々のの関係があったようです。

高句麗と日本が敵対関係にあった5世紀までは戦争捕虜、友好的になった6世紀以降は文化的交流、高句麗滅亡後は難民・亡命者といったところでしょうか。百済・新羅とはそれぞれ違いますが、これも文化交流・難民などその時々での動きがあったわけで、仏教や書物・文字だけでなく、農業や職人の技や医薬など、生活に欠かすことのできない多くの文化が朝鮮から伝えられたと思います。
一例として、高麗駅前に立っている将軍標の写真を示しておきます。

『続日本紀』には、今年から 1300年前の 霊亀2年(716年)に 武蔵国に高麗郡が置かれ、東国7ヶ国に住む高麗人1799人が当地に移住した と記されています。この時代になると、日本も歴史時代に入っており、「変遷情報」が残されているわけです。

入間郡を分断する形で設置された高麗郡について播磨坂さんが投げかけてた疑問に始まるスレッドについては、hmtマガジンを御覧ください。
その入間郡と高麗郡とは、郡制施行に先立つ明治29年に統合されました。

この時のリーダー・高麗王若光を祭神とする高麗神社は、出世明神として知られているようです。
若光の名は、その50年前の 666年に来日した高句麗国の使節の名「玄武若光」としても記録されています。高句麗滅亡で帰国できなくなった難民集団なのか? はじめ相模国に渡来して大陸の先進文化を広めたという技術集団なのか? 両者は同一なのかもしれず、よくわかりません。参考

高句麗は5世紀の最盛期を過ぎると百済・新羅に南部の領土を奪われ始め、中国北朝を牽制するための外交政策も必要になってきました。しかし、南朝の陳は北朝の隋に滅ぼされ、高句麗は 北方の強国である突厥(トルコ)と結びながら、隋の攻撃を防ぐ立場になりました。

隋は高句麗遠征に失敗して滅びたものの、今度は後継の唐が新羅と組んで百済を滅ぼし(660)、白村江の戦い(663)では百済の残存勢力を援助した倭国軍も撃破。
この敗戦により 唐からの侵攻を受ける可能性のある 危ない状態に陥った倭国。首都の内陸移転(近江京)を含む防衛体制の整備をなんとか完成。壬申の乱(672)を経て倭国から日本国への転換を進めることになりました。

唐は引き続き 高句麗に出兵し、668年には遂に高句麗滅亡。
戦後処理の間には新羅と対峙する場面もあったが和睦が成立。新羅による半島統一が実現しました。
新羅と言えば、新座市や志木市になっている旧・新座郡の前身である 新羅(しらぎ)郡は、高麗郡設置から48年後の 758年(天平宝字2年)に設置された武蔵国で最後の郡でした。

高麗郡1300年を機会に、高句麗国の歴史を振り返ってみました。
現在ここには世界中でも異彩を放つ政治体制の国があります。穏やかなプロセスで「普通の国」になってくれることを希望するのですが、下手をすると世界秩序に混乱をもたらすことになります。
戦争はもちろんですが、経済崩壊による難民発生も困ります。
中国や韓国が恐れるのも、ヨーロッパを目指すシリア難民の群れが極東で再現することでしょう。
渡航手段の乏しい時代でも、高句麗や百済の滅亡後には多数の難民が海を渡ってきました。
高麗郡の事例は昔話で済まないように思われ、こんな記事を書いてしまったのでした。
[90517] 2016年 5月 18日(水)13:09:49hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (4)東葛市の75日
東葛市という名をご存知でしょうか? 
昭和合併時代の1954年、千葉県東葛飾郡柏町など4町村の合体により登場した市ですが、由来である東葛飾郡には 既に市川・船橋・松戸・野田の4市が誕生しており、5番目なのに今更…という市名です。
そして、この名で存続した日数は僅かに75日で、市区町村雑学 短命の市 の第3位に挙げられています。

やはり曰く付きの履歴がありました。
そこには シリーズのタイトルである 大きな人口異動を伴う境界変更 が関係していました。
変遷情報を見ると 短期間に4回も登場しています。下表は変遷情報の表記をやや改めており、1950年国勢調査に基づく東葛市→柏市の人口と その増減【注】とを付け加えてあります。

日付変更種別自治体名変更対象/変更内容東葛市の人口異動
1954/9/1新設/市制東葛市←東葛飾郡 田中村, 柏町, 土村, 小金町41504
1954/10/15境界変更松戸市←東葛市の一部-7139
1954/11/1編入東葛市←東葛飾郡富勢村の一部+4108
1954/11/15改称柏市←東葛市38473

東葛市~柏市誕生ものがたり~にも 4町村合併に反対運動があった旧・小金町の帰属についての記載があります。副知事から提示された無投票分離で決着。
柏との合併を議決した議会と異なり、住民の意向は明らかに松戸志向で、投票するまでもなかったようです。
松戸市に境界変更した地域の人口【注】は 7193人で、旧・小金町【1950年国勢調査7326人】の大半でした。
【注】人口データ出典
[81919]にリンクされている昭和55年調査報告書の「PDF2」をクリックすると 55ah02b.pdf が出ます。その末尾近く31/32コマの注16) 最終行には「29.10.15 東葛市の一部(7139)が松戸市に編入」と記されています。
総務省告示に基づく変遷情報詳細と併せ、境界変更の地名と人口異動とを知ることができます。

この7139人は [90105]西武町の記事で シリーズタイトルの「極端な事例」と紹介した5155人を更に上回っており、1950年国勢調査以降に行なわれた「市町村の境界変更」の中で 史上最大の人口異動であると考えられます。
「政令指定都市の行政区改変」に関しては10万人規模の人口異動もありますが、これは考慮対象外です。念のため。

富勢村編入に伴う4108人も かなりの規模の人口異動でした。昭和合併に際して 富勢村の意見は 我孫子町と柏町とに分かれており、結局分村編入することになりました。こちらは「廃置分合」として扱われるので、「境界変更」の通常の用法からは外れます。

それはさておき、シリーズタイトルの主役である 松戸市への境界変更に話を戻します。
Web内には、公的なデータだけでなく、60年以上前から語り伝えられた話も伝えられていました。
境界変更の実態を探求する目的を持つ私達にとっても 興味ある歴史が伝えられていると思われるので、幻の東葛市をリンクしておきます。
松戸市立図書館には 詳しく書いた書物があると紹介されています。

小金町を挟んだ松戸と柏との三角関係は、地元では有名な話かと思いましたが、60年を経た現在では 人々の記憶から失われつつあるようです。千葉県議会議員をされている方【当時は幼稚園】のブログによると、家でも学校でも聞くことなく育ったようでした。
[90506] 2016年 5月 12日(木)13:19:10hmt さん
Re:県の石
[90505] MasAka さん
千葉石はあくまでも千葉石であって、当該記事でみのるさんが紹介したトベルモリー石とは全く別の鉱物です。

フォローしていただき有難うございます。
[86292]に記されていたトベルモリー石の産地(南房総市平久里)は千葉石の発見地(南房総市荒川)の近くのようですが、別の鉱物であることを理解しました。シンポジウムの『千葉石の地質環境』には 次の記載がありました。
千葉石は,現在のところ,最初に発見された南房総市荒川地域の限られた露頭でしか見いだされていないが

ついでに
『日本の新鉱物と千葉石』に記されていた都道府県名の付けられた鉱物の補足

「石川石」Ishikawaite の産出地は 福島県石川郡石川町の石川山産であり、都道府県名由来というわけではないようです。参考

「愛媛閃石」 Ehimeite という鉱物名も一度は承認されたが、命名規約の変更で短寿命で終わったとのことです。出典
和名としては「愛媛閃石」も通用しているのかもしれませんが、学名ということになると、国際ルールとの関係もあり、門外漢が軽々しく発言することができないような気がします。
[90503] 2016年 5月 11日(水)14:22:41【1】hmt さん
千葉石
[90501] MasAka さん
「県の石」が、5月10日の地質の日に合わせて日本地質学会から発表されました。

日本地質学会が昨日発表した「県の石」【47都道府県の 岩石・鉱物・化石が選ばれているので 全部で141件】をざっと眺めているうちに、 千葉県の鉱物として挙げられた「千葉石」に注目しましした。

説明文を見ると、シリカ鉱物の作るカゴ状の結晶空間の中にメタンなどの小さな分子を取り込んだ構造の物質(クラスレート)であるとのこと。
南房総市での発見に因むという「千葉石」という名も、そのような鉱物が存在が存在することも初耳でした。
しかし、メタンハイドレートのような天然の包接化合物が 時の話題になっている世の中です。
メタンを閉じ込める結晶は 氷に限ったことはなく、シリカクラスレート鉱物【クラスラシル】が存在しても不思議ではない。
単に新鉱物というだけでなく 珍しい種類の鉱物で、元・ケミストの hmtとしては関心を抱かざるを得ません。

つくば市の 地質標本館【筑波研究学園都市の建設にあわせて 地質調査所時代の 1980年に設置】のサイトにも、さっそく「県の石」のページが開設されていますが、千葉石は未展示でした。

余談ですが、地質標本館サイトの標本は 通常の都道府県コード順に並べられています。
しかし、日本地質学会のサイトにおける配列は、異なる順番になっているのが気になります。
最も著しい中部地方を例に示しますが、他の地方にも違いがあります。
地方行政の中でも分野による不統一がありますが、地質学ともなると、珍しい順番に戸惑います。

都道府県コード:新潟・富山・石川・福井・山梨・長野・岐阜・静岡・愛知
県の石一覧表 :新潟・富山・石川・福井・静岡・山梨・長野・岐阜・愛知
県の石詳細  :新潟・長野・山梨・静岡・富山・石川・岐阜・愛知・福井

それはさておき、千葉県の鉱物に戻ります。
[90501]に引用されていた[86292]みのるさんの記事には 別名で紹介されていました。
ちなみに千葉県は珍しい鉱物の産地がほとんどないそうで、選ばれたのは南房総市平久里の「トベルモリー石」。こんなの知ってる県民ほとんどいないでしょう。

調べてみると、新鉱物・千葉石が発見された2011年に、千葉県立中央博物館で シンポジウム が開かれていました。
千葉石(chibaite)は、日本語では「ちばせき」と読むのですね。

シンポジウムのページには、5件の講演が収録されいました。
その中の『日本の新鉱物と千葉石』によると、日本産鉱物リストの中で千葉石は109番目の新鉱物であり、都道府県名が付けられたものの6番目にあたるそうです。
東京石、岡山石、石川石、滋賀石、大阪石、千葉石。表には和名として使用される新潟石も。
他に南部石、多摩石、備中石、釜石石、岩代石、手稲石、尾去沢石、大隅石、青海石、糸魚川石、人形石など それらしき地名の付けられた鉱物名が見えます。
この表には、単斜トベルモリー石という名もありましたが、千葉石との関係は わかりませんでした。
[90483] 2016年 5月 5日(木)17:02:25hmt さん
大戦末期に愛知県を襲った連続地震
変遷情報に関連して、分村で消滅した村のことを書こうと過去記事を見ていました。
ところが、1955年に愛知県碧海郡明治村が分村して消滅する10年前に、村が消滅した遠因とも言える三河地震が起っていたことが気になりました。
そこで、愛知県で70余年前に起きた連続地震について、ちょっとだけ書いておきます。

2016/4/14夜に続いて2016/4/16未明の本震と、連続する強震に襲われた今回の熊本地震。
連続地震が家屋などの構造物に及ぼす影響を見せ付けられましたが、大戦末期の災害も過酷なものだったようです。

第二次大戦末期、東南海地震(1944/12/7、M8.0)の37日後、1945/1/13に三河平野を襲った直下地震(M7.1)がありました。[55569]
二度目の地震が寝込みを襲われたことは今回と共通していますが、気象条件は冬の真夜中と一層厳しいものでした。

そして何よりも違うのが、海外どころか国内からの視線さえ遮断された 戦時報道管制下の孤独な環境でした。
国際援助はもちろんのこと、行政の対策も全く期待できません。
ボランティアによる支援活動など、その言葉もなく、誰でも自分を守るだけで精一杯だった時代です。
被災者は、このような孤立無援の状況に苦しんだことと思われます。
[90473] 2016年 5月 3日(火)12:11:16hmt さん
基盤地図情報数値標高モデル
[90470] グリグリ さん
地理院地図で最高点探しは楽しい(?)のですが切りがないですよね。

最高点探しというと、水準点や三角点のような基準点と 地図の等高線が 頼りと思っていたのですが、地図記号によると 写真測量による標高点もありました。

そして、今回の記事により 「基盤地図情報数値標高モデル」が構築されており、航空レーザー測量による標高値を 容易に得ることができる と知りました。

説明書によると、標高点格子の間隔は 約5m四方と かなり細かいので、小さな丘でも発見することができそうだ と期待しました。

さっそく、自宅近くの公園にある小高い丘を調べてみたのですが、何故か 期待した標高値を得ることは できませんでした。

標高探しの新兵器であることは確かなように思われますが、常に信頼できる結果が得られるとは限らないのかな?
[90463] 2016年 5月 1日(日)10:06:44【2】hmt さん
Re:東京都大田区の最高地点
[90459] Takashi さん
第2候補:大田区北千束1丁目付近 (40m)
すぐ北には 41m地点 もありました。

61.2mの三角点 もありましたが、これは ビルの屋上 でした。

[75146] hmt
三角点の標高は、存在する地点をよく確認しないといけないようです。

【追記】
[90462] Takashi さん
大田区のHPに大田区内町丁目別標高一覧というのが見つかりました。

津波対策事業として区内全域を2メートルメッシュに分け、その中心19,561,708地点の標高を計測したとのこと。
約 2000万に及ぶ標高データを集めたとは驚きですが、膨大なデータの中の最高標高は田園調布五丁目にある 43.7m とのこと。
それがどの地点になるなのか、何かの資料で紹介されていない限り地図上で探し出すのは困難なように思われます。

津波対策事業の中には 大田区標高図 もありました。
東京都水道局玉川浄水場は 標高の高い地点を選んで設置されたと思われ、近くには 40.8mの三角点もあります。
そのすぐ南側が田園調布五丁目11か12付近が大田区最高標高地点ではないかと推測したのですが、mapionでは40mを超える地点を発見することはできませんでした。

大田区のプロフール>大田区の地勢には 次の記載があり、このことからも 大田区の最高地点は北西部にあると推測されます。
海抜は、田園調布付近が最高で42.5メートル、南東に向かって次第に低くなり、…
[90443] 2016年 4月 26日(火)20:12:24hmt さん
Re:野老(ところ) 所沢、そして四万十川上流の野老野
[90440] k-ace さん
所沢の由来が野老(ところ)?という説も。

所沢市章 には、ご紹介のあったつる草「ところ」の葉に基づくデザインが用いられています。
地名の由来について:
在原業平説もありますが、野老は乾燥地を好む植物で「沢」が表している湿地との相性はよくないという異論も。
その他、北海道の常呂と同じアイヌ語説、ふところざわ説、とぐろざわ説など諸説があるようです。

それはさておき、2010年に落書き帳に登場した高知県高岡郡中土佐町大野見野老野(ところの)。
[76944] ほいほい さん
高知県中土佐町と四万十町の境界線が間違っていたそうです。
結局間違いを正式な境界線としたそうです。

元になった読売記事はリンク切れです。しかし [76945] グリグリさんのレスや 読売記事の引用文、東京新聞を引用したページ、議会の記録や国土地理院の面積調などの資料も併読参照することにより、「境界変更」という視点から情報を集め、フォローしてみました。

主な結果を列挙します。
「間違って地図に引かれていた境界」は百年間も放置されていたらしい。
平成になってからの地籍調査により、4世帯7人の住所が四万十町に属する土地にあることが分かった。
中土佐町の当局は、住民に対して四万十町への登録換えを指導し 住民も一度はこれに応じた(2008年)。
しかし 中土佐町に復帰したいとの要望が出て、両町が境界変更を議決。高知県議会での議決は2010/12/22。

地域社会を構成する住民による要望の結果として、「間違って地図に引かれていた境界」が 今度は「正式な境界として」認められるに至った。これは、珍しい事例であったと思います。

議会開催の2010年12月初めには、マスコミだけでなく落書き帳でも盛り上がり。[76944][76979]
[76948] こういうニュースを見ると場所を特定したくなるのは、ここに出入りしているみなさん共通の習性のようですね(笑)
[76979] [76954]ぺとぺとさんで、極めつけの証拠がでてきましたか。こういう成り行きは堪らないですねぇ。

最後に国土地理院・平成23年面積調 の出番です。
p.103の異動事項を見ると、H23/3/18に「境界修正」、H23/5/18に「境界変更」と2つの処分がなされています。
用語を説明した記事にも記したように、その規模はさまざまながら、「境界変更」は すべて総務省告示の対象になっています。
これに対して 「境界修正」の方は「中身を変えた」というよりも、「正しい表現に改めた」という性格で、告示の対象外です。

今回の事例において、地図上の境界線が真の境界とずれていたのを 正すだけならば、基本的には「境界修正」だけで十分なはずでした。
しかし、中土佐町だと思っていたのに 実は四万十町だった言われた4世帯の要望により、その家が存在する地域を四万十町の領域から中土佐町の領域へと「戻す」手続きとなると、地方議会の議決や総務省の告示を必要とする「境界変更」によらなければなりません。

面積調p.102では H23面積をH22面積と比較しており、その結果(面積単位km2)は次の通りです。
中土佐町は 境界変更(1)により+0.02, 境界修正(2)により-0.05 差引-0.03
四万十町は 境界変更(1)により-0.02, 境界修正(2)により+0.05 差引+0.03

北側で県道に面した家屋を中心としたGoogle Map と縮尺を合わせた 地理院地図 を示しておきます。
中心十字は 現在の境界線の僅かに左の 中土佐町域にあります。境界変更前の境界線は一つ西の谷線付近を南下し、その右は四万十町域でした。この付近の県道北側0.02km2が境界変更区域になります。
では、境界修正区域0.05km2はどこか? 残念ながら わかりませんでした。

2015年国勢調査結果。人口異動7人を伴った境界変更の記録は、中土佐町→四万十町→中土佐町となるのか?
それとも一時期だけでも四万十町になったことは無視されるのか?
[90433] 2016年 4月 24日(日)14:04:57【2】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (10.1)訂正:花巻市、気仙沼市、由利本荘市の地域自治区
[90173] 東北6県の地域自治組織 の中に誤りがあったので表を一部追加・訂正します。

1 花巻市 3つの地域自治区がすべて脱落していました。
2 気仙沼市 本吉町の合併日に誤記がありました。
3 由利本荘市 8つの地域自治区は、すべて廃止されていました。

これに基づいて、[90173] の表の内 関係する行を次のように追加・訂正します。

修正コード市町村種別名称現状合併日設置期限変更・満了記事
追加03205花巻市【Cj】花巻市大迫Cj存続2006/1/1無期限
追加【Cj】花巻市石鳥谷Cj存続
追加【Cj】花巻市東和Cj存続
訂正04205気仙沼市【Tcj】本吉町消滅2009/9/12016/3/31満了
訂正05210由利本荘市【Cj】注4(8区)消滅2005/3/222013/6/30廃止

3 の説明:
由利本荘市サイト内の 地域の声を行政に反映させる地域自治区・地域協議会 というページに 次の追記があることを発見しました。
☆由利本荘市地域自治区・地域協議会は、平成25年6月30日をもって廃止となりました。

総務省の一覧表(5/7コマ)からも除かれていたのですが見落としており、こちらから気付くこともありませんでした。

ともかくも、由利本荘市の8地域自治区は2013年6月末で廃止され、同年8月からは 新組織「まちづくり協議会」が発足しているようです。
制度を改めるに至った経過を知りたいと、同市のサイト、例規集、議会、合併協議会などを ざっと調べてみましたが、よくわかりません。
合併協議事項のNo.24からも合併時までに検討するということだけで、協議書も未発見です。
[90388] 2016年 4月 21日(木)15:57:36【1】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (17)九州地方
平成合併を機に設けられた地域自治組織制度。発足から10年以上を経過して「設置期間」が満了して 消滅したり延長したりする事例 が多く見受けられるようになったことから、このシリーズで全国の現状確認を始めました。

北海道から始めた地域別の現状確認。前回[90362] 山陰と山陽の後を見渡すと 四国と沖縄には該当地域がなく、残るは九州のみです。

九州の地方自治区について特筆すべきはことは、宮崎県がこの制度の利用に積極的であり、平成合併に関与した6市1町のすべてが地域自治区を設けたことです。

大部分の市町に設けられた地域自治区は 合併特例によるもの【Tcj】でしたが、宮崎市だけは違いました。
すなわち 2006年に3町を編入して 合併特例区【Gt】を設けた機会に、旧市域にも15の一般制度地域自治区【Cj】を設けました。その後も2010年の清武町編入→【Gt】を始め、【Cj】の分割、【Gt】→【Cj】という変遷を経て、宮崎市内には【上越市の28に次ぐ】22もの地域自治区が現存しており、その配置は 宮崎市サイト内の図に示されています。

集計すると九州全体で4県12市町57区に及ぶ大きな表になりますが、一気に片付けてしまいましょう。

その前に3種の制度を「設置期間」の観点から記しておきます。
1.一般制度としての地域自治区【Cj】 大部分は条例に設置期間を定めがない。無期限と表示。
2.地域自治区の合併特例【Tcj】 協議書で期間を定めるのが原則。10年が多いが延長事例もある。
3.合併特例区【Gt】 すべて設置期間5年を経過している。【Cj】に移行したものもある。

今回の九州では、地域自治区設置条例の本則で設置期間を定めている事例を初めて見ました。
玉名市地域自治区の設置等に関する条例
第3条 地域自治区の設置期間は、合併の日から平成28年3月31日までとする。
新設合併における地域自治区の設置手続としては、合併前市町村による協定項目に盛り込むのが一般的なようですが、この事例は合併後の条例により設置したケースです。

コード市町村種別名称現状合併日/設置日設置期限変更・満了記事
42207 平戸市合併 2005/10/1
【Tcj】注1(3区)存続設置 2005/10/12021/3/31延長[90057]
*43201熊本市合併 2008/10/6
【Gt】富合町Gt消滅設置 2008/10/62013/10/5満了
合併 2010/3/23
【Gt】城南町Gt消滅設置 2010/3/232015/3/22
【Gt】植木町Gt消滅
43206玉名市 合併 2005/10/3本文参照
【Cj】注2(4区)消滅設置 2005/10/32016/3/31満了
45201宮崎市合併 2006/1/1本文参照
【Cj】注3(15→18区)存続設置 2006/1/1無期限
【Gt】注4.1(3 Gt区)移行設置 2006/1/12010/12/31【Cj】に移行
【Cj】注4.2(3 Cj区)存続移行 2011/1/1無期限
合併 2010/3/23
【Gt】清武町移行設置 2010/3/232015/3/22【Cj】に移行
【Cj】清武Cj存続移行 2015/3/23無期限
45202都城市合併 2006/1/1
【Tcj】注5(4区)消滅設置 2006/1/12011/12/316年で満了
45203延岡市合併 2006/2/20
【Tcj】北方町消滅設置 2006/2/202016/3/31満了
【Tcj】北浦町消滅
延岡市合併 2007/3/31
【Tcj】北川町消滅設置 2007/3/312016/3/319年で満了
45204日南市合併 2009/3/30
【Tcj】北郷町存続設置 2009/3/302019/3/29
【Tcj】南郷町存続
45205小林市合併 2006/3/20
【Tcj】須木消滅設置 2006/3/202016/3/19満了
小林市 合併 2010/3/23
【Tcj】野尻町消滅設置 2010/3/232016/3/316年で満了
45206日向市合併2006/2/25
【Tcj】東郷町消滅設置 2006/2/252012/2/246年で満了
45431東臼杵郡美郷町合併 2006/1/1
【Tcj】注6(3区)消滅設置 2006/1/12014/3/31延長後満了 注9
46203 鹿屋市合併 2006/1/1
【Tcj】注7(3区)消滅設置 2006/1/12009/12/31満了 4年[35365]
46222奄美市合併 2006/3/20
【Tcj】注8(3区)存続設置 2006/3/202021/3/31延長[90057]

注1 平戸市の3地域自治区名称:生月町、田平町、大島村
注2 玉名市の4自治区名称:玉名自治区、岱明自治区、横島自治区、天水自治区
注3 宮崎市旧市域の15→18地域自治区名称:中央東Cj, 中央西Cj, 小戸Cj, 大宮Cj, 東大宮Cj【H21分離】, 大淀Cj, 大塚Cj, 檍(あおき)Cj, 大塚台・生目台Cj【H23分離】, 小松台Cj, 赤江Cj, 本郷Cj【H28分離】, 木花Cj, 青島Cj, 住吉Cj, 生目Cj, 北Cj
注4.1 宮崎市に 2006/1/1編入した3合併特例区の名称:佐土原町, 田野町, 高岡町
注4.2 宮崎市で 2011/1/1から移行した3地域自治区の名称:佐土原Cj, 田野Cj, 高岡Cj
注5 都城市の4地域自治区の名称:山之口町, 高城町, 山田町, 高崎町
注6 美郷町の3地域自治区の名称:南郷区、西郷区、北郷区
注7 鹿屋市の3地域自治区の名称:輝北町、串良町、吾平町
注8 奄美市の3地域自治区の名称:名瀬、住用町、笠利町
注9 美郷町の地域自治区:設置期間は当初の4年間から8年間に延長後満了。H26年度から住所の「区」が除かれた [87196]
[90362] 2016年 4月 19日(火)15:32:01hmt さん
地域自治区 合併特例区 (16)中国地方
中国地方も 関係市町村僅かに3 と少数でしたが、注目すべきトピックがありました。

出雲市の地域自治区設置条例を見ると、地方自治法に基づく一般制度により【Cj】を設けた他の自治体と同様に、条文の本体には設置期間の定めがありません。
ところが、附則を見ると2005年度からの施行の他に、2016年度限りということが定められていました。
1 この条例は、平成17年4月1日から施行する。
4 この条例は、平成29年3月31日限り、その効力を失う。

これだけならば 無期限が普通の【Cj】の中で、最初から12年という設置期間があったように見えるのですが、よく調べたら合併9年目の平成25年度から行なった 地域自治区制度の評価と見直し作業の結果として設けられた設置期限だったことが判りました。平成26年度第4回議会 108号(3/8コマ)参照。


コード市町村種別名称現状合併日/設置日設置期限変更・満了記事
32203出雲市(本文参照)合併 2005/3/22
【Cj】注1の6区存続設置 2005/4/12017/3/31本文
合併 2011/10/1
【Cj】斐川Cj 存続設置 2011/10/12017/3/31本文
32505鹿足郡吉賀町合併 2005/10/1
【Tcj】柿木村存続設置 2005/10/12020/9/30延長 注2
*33201岡山市合併 2005/3/22
【Gt】御津Gt消滅設置 2005/3/222010/3/21
【Gt】灘崎町Gt消滅設置 2005/3/222010/3/21住所表記変更
合併 2007/1/22
【Gt】建部町Gt消滅設置 2007/1/222012/1/21町の名称
【Gt】瀬戸町Gt消滅設置 2007/1/222012/1/21

注1 合併時の自治体毎に6Cj設置:出雲Cj、平田Cj、佐田Cj、多伎Cj、湖陵Cj、大社Cj
注2 10年の設置期間が終了する為、5年間延長 H27/6 町議会

岡山市のコードは合併当時を *33201 と表示 [90178]の相模原市も *14209 に訂正、[90274]も *22202
[90339] 2016年 4月 17日(日)13:14:08【1】hmt さん
熊本県の下位区分
[90337] グリグリさん
全国の振興局相当の行政機関を俯瞰整理してみたいですね。過去にそう言う煮詰めたデータはありましたでしょうか。

2009年に「支庁を考える」シリーズ記事を書き、その最終回で北海道の14支庁から名前が変った(総合)振興局【変更は2010/4/1】の存在意義に触れています。
hmtマガジン 県の下位区分 を作っておきました。
そのシリーズでも書きましたが、長崎県では北海道よりも1年前の2009年に 3支庁+2振興局から7振興局への変更がありました。
千葉県では県全域に10支庁が設けられていましたが、2004年に5県民センターに再編されました。
その一方で、山形県のように「支庁」という名を新たに採用した県もあります。2001年に地方事務所を統合して4総合支庁設置。

「県の下位区分」に関する全国のデータは Issieさんのページ にもありますが、平成合併前の2002年に改訂されたものであり、市町村名などを含めて最新のものではありません。

今回の地震を機会に話題になった熊本県の地域振興局にしても、その設置を定めた 1998年制定の熊本県条例(H10-44)は全部改正され、2013/4/1から 4広域本部10地域振興局体制なっています。
県央広域本部:宇城地域振興局、上益城地域振興局
県北広域本部:玉名地域振興局、鹿本地域振興局、菊池地域振興局、阿蘇地域振興局
県南広域本部:八代地域振興局、芦北地域振興局、球磨地域振興局
天草広域本部:天草地域振興局

47都道府県の下位区分は、行政の都合上 折にふれて改正が行なわれており、最新の状態を維持するには それなりのウオッチング体制が必要なものと推察しますが、とりあえず熊本県についてだけ報告しておきます。

【追記】地域振興局の管轄
地域振興局管轄市町村郡域
玉名地域振興局玉名市, 荒尾市, 玉東町, 和水町, 南関町, 長州町玉名
鹿本地域振興局山鹿市鹿本【山鹿, 山本】
菊池地域振興局菊池市, 合志市, 大津町, 菊陽町菊池【菊池, 合志】
阿蘇地域振興局阿蘇市, 小国町, 南小国町, 産山村, 高森町, 南阿蘇村, 西原村阿蘇
(県央広域本部)熊本市飽託【飽田, 託麻】
宇城地域振興局宇城市, 宇土市, 美里町宇土, 下益城
上益城地域振興局御船町, 嘉島町, 益城町, 甲佐町, 山都町上益城
八代地域振興局八代市, 氷川町八代
芦北地域振興局芦北町, 津奈木町, 水俣市葦北
球磨地域振興局人吉市, 錦町, あさぎり町, 多良木町, 湯前村, 水上村, 相良村,
五木村, 山江村, 球磨村八代
天草地域振興局天草市, 上天草市, 苓北町天草

平成10年から使われた地域振興局という区分。その領域は昔からの「郡域」に近いものでした。
熊本市の大部分を占める「飽託郡」や山鹿市になった「鹿本郡」は明治29年の郡再編の際に誕生した「合成郡名」でした。
平成生まれの「宇城市」も、宇土郡+下益城郡という2つの郡名を組み合わせた呼び方に由来するものでした。
[90315] 2016年 4月 15日(金)15:23:07【2】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (15)近畿
近畿地方の地域自治区はその数も少なく、話題が豊富だった東海4県[90274] から一変した地味な様相です。【参考3】
11あった地域自治区のすべてが合併特例【Tcj】で、奈良県の4区は期間満了で消滅。滋賀県の1区は設置期間内で存続中。
兵庫県の2町6区は合併特例であるにも拘らず設置期間を定めていません。( 南相馬市の同類)
なお、三重県の紀北町も同様に合併前の協議書では無期限でしたが、協議書を廃止する条例を定めることにより、10年半で地域自治区を解消しました。下記参考2を御覧ください。

【参考】東海4県の要約、補足、及び近畿との対比
1 要約:
 岐阜県と三重県では 先月末満了した3件を含め、設置期限満了により消滅した【Tcj】が5件。
 静岡県浜松市では 複雑な動きを経て 結局地域自治区は全廃。政令指定都市の行政区になっている。
 愛知県豊田市と新城市では 昭和合併前からの旧町村の区域を引き継いだ多数の地域自治区が現存。
2 補足:紀北町の地域自治区廃止
 合併前の協議書には設置期間の定めなし。2014年に紀北町の地域自治区廃止(2015年度迄)を決めた。条例
3 東海と近畿の地域自治区対比
 関係市町村数は東海7, 近畿4。地域自治区の合計数は東海52, 近畿11と開き、その人口に至っては東海約137万人, 近畿9万人(2010)。存続中の地域自治区だけを数えても東海35(52.5万人), 近畿7(5.5万人)と大差。

コード市町村 種別地域自治区名称現状合併日/設置日設置期限変更・満了記事
25204近江八幡市合 2010/3/21
【Tcj】安土町存続設 2010/3/212020/3/31
28365多可郡多可町[90076]合 2005/11/1
【Tcj】中区存続設 2005/11/1無期限
【Tcj】加美区存続設 2005/11/1無期限
【Tcj】八千代区存続設 2005/11/1無期限
28585美方郡香美町合 2005/4/1
【Tcj】香住区存続設 2005/4/1無期限
【Tcj】村岡区存続設 2005/4/1無期限
【Tcj】小代区【注】存続設 2005/4/1無期限
29212宇陀市合 2006/1/1
【Tcj】大宇陀区消滅設 2006/1/12011/3/31満了[79452][84194]
【Tcj】菟田野区消滅設 2006/1/1
【Tcj】榛原区消滅設 2006/1/1
【Tcj】室生区消滅設 2006/1/1

【注】小代区
1955/4/1の新設合併で美方町になる前は小代村でした。50年ぶりに復活した「村名」[41848]
なお、合併した射添村(いそうそん)の区域は6年後の境界変更により村岡町(現・香美町村岡区)になりました。
[90274] 2016年 4月 12日(火)17:36:31【2】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (14)東海4県
前回迄の地域自治区一覧表は hmtマガジンに収録しました。

岐阜県、静岡県、愛知県では 地域自治区設置が 市町村合併と同日でなく、遅れてなされた事例が目立ちました。
これを考慮して、市町村の合併日と地域自治区設置日とを区別して記載することができるように、表の形式を少し変えました。

最も極端な例は2005/10/1に合併のあった新城市で、7年半後の2013年度に地域自治区が発足しました。
しかも設定された10地域自治区の大部分は、1955~56年の昭和合併以前の町村を領域としているようです。

関心のある方は、表の中の新城市という文字をクリックしたページに現れる地域自治区概念図を眺めてください。
平成合併だけでなく、昭和合併前の地域区分が根強く残っている姿が見えてきます。
赤は昭和合併により新城町(1958/11/1新城市)を作った町村です。青は同じ頃に鳳来町になりました。

歴史上有名な地名を伝えた「長篠村」は 昭和合併で消滅しましたが、鳳来中部地域自治区の字名にはその名残が見えます。
赤の新城市、青の鳳来町、緑の作手村が合体したのが 平成合併でした。
地域自治区のおかげで、[84057]以来久しぶりに この付近の地理を復習することになりました。

コード市町村 種別地域自治区の名称現状合併日/設置日設置期限変更・満了記事
21201岐阜市合2006/1/1
【Tcj】柳津町消滅設2006/1/12016/3/31満了
21202大垣市合2006/3/27
【Tcj】上石津町消滅設2006/3/272011/3/31満了
【Tcj】墨俣町消滅設2006/3/272011/3/31満了
21210恵那市合2004/10/25
【Cj】注1 旧市域8区存続設2007/4/1無期限
【Cj】注2 新市域5区存続設2005/1/25無期限
22202浜松市注3合2005/7/1[87944]
【Cj】注4 最初の12Cj消滅設2005/7/12007/3/317行政区化
22130浜松市@政令【Cj】注5消滅2007/3/314区のCj廃止
【Cj】注6 3区の12Cj消滅設2007/4/12012/3/313区の12Cj廃止
23211豊田市合2005/4/1
【Cj】注7 旧市域6区存続設2006/4/1無期限
【Cj】注8 新市域6区存続設2005/10/1無期限
23221新城市合2005/10/1
【Cj】注9 旧市域5区存続設2013/4/1無期限
【Cj】注10 新市域5区存続設2013/4/1無期限
24543北牟婁郡紀北町合2005/10/11
【Tcj】紀伊長島区消滅設2005/10/11 2016/3/31 満了[87200]
【Tcj】海山区消滅設2005/10/11 2016/3/31 満了[87200]

注1 恵那市新設時1954/4/1に合併した8町村ごと:大井Cj, 長島Cj, 東野Cj, 三郷Cj, 武並Cj, 笠置Cj, 中野方Cj, 飯地Cj
注2 2004/10/25恵那市と合併した5町村ごと:岩村Cj, 山岡Cj, 明智Cj, 串原Cj, 上矢作Cj

注3 浜松市の地域自治区制度について
注4 2005/7/1浜松市への編入合併時に、旧3市8町1村ごとに12の地域自治区設置(条例H17-40):浜松Cj, 浜北Cj, 舞阪Cj, 雄踏Cj, 細江Cj, 引佐Cj, 三ケ日Cj, 天竜Cj, 春野Cj, 佐久間Cj, 水窪Cj, 龍山Cj
注5 2007/4/1政令指定都市移行時:中区、東区、南区、浜北区の範囲では地域自治区廃止
注6 政令指定都市移行の平成19年度から5年間は 3行政区に12地域自治区が存在:浜松西Cj, 舞阪Cj, 雄踏Cj (以上西区)、浜松北Cj, 細江Cj, 引佐Cj, 三ケ日Cj(以上北区)、天竜Cj, 春野Cj, 佐久間Cj, 水窪Cj, 龍山Cj(以上天龍区)。

注7 挙母と1956~70年に編入した旧5町村、合計6地域:挙母Cj, 高橋Cj, 上郷Cj, 高岡Cj, 猿投Cj, 松平Cj
注8 2005/4/1豊田市に編入した6町村の地域ごと:藤岡Cj, 小原Cj, 足助Cj, 下山Cj, 旭Cj, 稲武Cj

注9 1955/4/15新城町新設合併時の旧5町村ごと:新城Cj, 千郷Cj, 東郷Cj, 舟着Cj, 八名Cj
注10 2005/10/1新城市と新設合併した鳳来町の4地域と作手村:鳳来中部Cj, 鳳来南部Cj, 鳳来北西部Cj, 鳳来東部Cj, 作手Cj
[90189] 2016年 4月 9日(土)13:02:43【4】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (13)甲信
[90183]北陸 に続く「甲信」つまり山梨県と長野県の地域自治区ですが、甲州市の事情が詳らかでありません。【追記参照】
毎年更新されている総務省一覧表の過年度分を調べてみると、平成23年度までは 塩山・勝沼・大和の3地域自治区(地方自治法に基づく一般制度【Cj】)が記載されていますが、平成24年度以降は記載がありません。

合併協定書の4/28コマには 地域自治組織として 地域協議会(仮称)と地域総合局(仮称)とを設け、その内容については合併時までに定めるとあります。
約半年後の合併協議会では「甲州市地域自治区設置条例(案)」が 承認されており、甲州市発足後に条例で地域自治区を設置する方向で進んでいたと理解できます。
しかし、現在の甲州市例規集を見ても それらしき条例は 見当たりません。

前記総務省一覧表からは、平成23年度までに地域自治区が廃止されたように推測されますが、その事実を裏付ける積極的な証拠は見出していません。
甲州市サイト内を検索しても、合併後に 地域自治区が存在していたことを示す痕跡は未発見です。

【追記】
[90192] _ さん から甲州市議会の会議録と広報による地域自治区廃止の情報をいただき、有難うございました。
議会広報p.6-7。この議決により3地域自治区は平成20年度から廃止されたものと判断し、下記の表を修正しました。【追記終】

松本市では、平成合併で編入した5村のうち、四賀村だけ地域自治区が設置されませんでした。
飯田市と伊那市は、平成に編入した新市域が特例自治区【Tcj】になった後、旧市域にも一般制度自治区【Cj】が設定され、更に【Tcj】設置期間後の移行により 全地区が【Cj】になるという同じパターンです。

コード市町村種別名称現状設置日設置期限変更・満了記事
19213甲州市【Cj】塩山Cj消滅2005/11/12008年度から廃止
19213甲州市【Cj】勝沼Cj消滅
19213甲州市【Cj】大和Cj消滅
20202松本市【Tcj】奈川消滅2005/4/12015/3/31満了
20202松本市【Tcj】安曇消滅2005/4/12015/3/31満了
20202松本市【Tcj】梓川消滅2005/4/12015/3/31満了
20202松本市【Tcj】波田消滅2010/3/312015/3/31満了
20205飯田市【Tcj】上村移行2005/10/12011/3/31【Cj】に移行
20205飯田市【Cj】上村存続2011/4/1無期限おまけ注4
20205飯田市【Tcj】南信濃移行2005/10/12011/3/31【Cj】に移行
20205飯田市【Cj】南信濃存続2011/4/1無期限おまけ注4
20205飯田市【Cj】注1の18区存続2007/4/1無期限
20209伊那市【Tcj】高遠町移行2006/3/312016/3/31【Cj】に移行 注3
20209伊那市【Cj】高遠町存続2016/4/1無期限
20209伊那市【Tcj】長谷移行2006/3/312016/3/31【Cj】に移行 注3
20209伊那市【Cj】長谷存続2016/4/1無期限
20209伊那市【Cj】注2の7区存続2006/10/1無期限

注1 飯田市18区:橋北Cj, 橋南Cj, 羽場Cj, 丸山Cj, 東野Cj, 座光寺Cj, 松尾Cj, 下久堅Cj, 上久堅Cj, 千代Cj, 龍江Cj, 竜丘Cj, 川路Cj, 三穂Cj, 山本Cj, 伊賀良Cj, 鼎Cj, 上郷Cj 条例

注2 伊那市の7区:伊那Cj, 富県Cj, 美篶【みすず】Cj, 手良Cj, 東春近Cj, 西箕輪Cj, 西春近Cj  条例

注3 平成27年12月伊那市議会で伊那市地域自治区条例が改正され、設置期間が満了する高遠町と長谷も【Cj】に移行することが決りました。議案書 31/60コマ。
参考:伊那市長あいさつ   平成28年度から全地区が同種の地域自治区となる
例規集【市民生活>地域振興】に収録されている伊那市地域自治区条例は未対応。

注4 地域自治区とは無関係ですが、2005年に飯田市に編入された上村と南信濃村とは「遠山郷」と呼ばれた秘境なので、この機会に過去記事[8967]を紹介しておきます。上村の下栗集落は「天と地の境界」と言われる高所集落だそうです。[39557][39656]
[90183] 2016年 4月 8日(金)15:10:01hmt さん
地域自治区 合併特例区 (12)北陸4県
[90178]関東に続いて 北陸4県の地域自治区です。

地域自治区の具体的な紹介としては初期の記事である上越市の事例[33723]では、2005年に合併した13町村が合併特例地域自治区【Tcj】13区として発足しました。協議書に記された設置期間は5年間でした。
柿崎など13の旧町村名は 「地域自治区名」として上越市の住所表示に残ることになりましたが、このままでは設置期限内という制約を受けることになり、不安定な立場に置かれています。
そこで、先手を打って2008年度から一般制度の地域自治区【Cj】へと、種別を変更することにしました。協議事項を変更する条例H17-39
これにより、柿崎区など旧町村名を使った区名は 期限に制約されることなく住所表示に残ることになりました。

更に1年半後の2009年10月からは、旧上越市の区域【遡れば高田市と直江津市】にも 新たに15の地域自治区(一般制度)【Cj】が設置されました。上越市地域自治区設置条例H20-1。高田区・直江津区など15の地域自治区名は住居表示に使われません。
同一市内・同一種別の地域自治区でありながら、新市域13区と旧市域15区とでは住所に関する扱いが異なり、 「区」コレクションでも 後者は対象外になっています。

上越市の地域自治区(13+15)は無期限で存続していますが、北陸のその他3市の地域自治区はすべて合併特例【Tcj】であり、2014年度末から2015年度末にかけて存続期間が満了しています。

コード市町村種別名称現状設置日設置期限変更・満了記事
15205柏崎市【Tcj】高柳町消滅2005/5/12015/3/31住所表記は変りません
15205柏崎市【Tcj】西山町消滅2005/5/12015/3/31
15222上越市【Tcj】注1 新市域13区移行2005/1/12008/3/31【Cj】に移行
15222上越市【Cj】存続2008/4/1無期限[33723][87358]
15222上越市【Cj】注2 旧市域15区存続2009/10/1無期限 [75709][87358] 注3
17206加賀市【Tcj】山中温泉消滅2005/10/12015/9/30満了
18210坂井市【Tcj】三国町消滅2006/3/202016/3/31満了
18210坂井市【Tcj】丸岡町消滅2006/3/202016/3/31満了
18210坂井市【Tcj】春江町消滅2006/3/202016/3/31満了
18210坂井市【Tcj】坂井町消滅2006/3/202016/3/31満了

注1 上越市の新市域13区:【東頸城郡域の】安塚区、浦川原区、大島区、牧区、【中頸城郡域の】柿崎区、大潟区、頸城区、吉川区、中郷区、板倉区、清里区、三和区、【西頸城郡域の】名立区
注2 上越市の旧市域15区:【すべて中頸城郡域の】高田区、新道区、金谷区、春日区、諏訪区、津有区、三郷区、和田区、高士区、直江津区、有田区、八千浦区、保倉区、北諏訪区、桑取・谷浜区
注3 合併前上越市の地域自治区 メリット制度案(区域図あり)
[90178] 2016年 4月 7日(木)12:24:53hmt さん
地域自治区 合併特例区 (11)関東の地域自治区は 2014年度限りで全廃
[90173] 東北6県に続き、関東7都県の地域自治組織を列挙します。…と言っても、該当対象は4市のみです。
政令指定都市になる相模原市津久井地区の4自治区は、2009年度末に消滅して緑区の一部になりました。
香取市の4自治区が、合併協議で定めた5年後の見直しにより消滅したのは、2010年度末のことでした。
4年かけて5町を合併した栃木市。設置期間は5年から1年未満まであったが、2014年度末には揃って満了。
沼田市の2自治区も2014年度末には設置期間満了。
これで関東の地域自治区は、すべて消滅しました。
種別略号:【Cj】地域自治区(一般制度)、【Tcj】地域自治区(合併特例)

コード市町村種別名称現状合併日設置期限変更・満了記事
09203栃木市【Tcj】大平町消滅2010/3/292015/3/312015年度から新制度 注1
09203栃木市【Tcj】藤岡町消滅2010/3/292015/3/31
09203栃木市【Tcj】都賀町消滅2010/3/292015/3/31
09203栃木市【Tcj】西方町消滅2011/10/12015/3/31
09203栃木市【Tcj】岩舟町消滅2014/4/52015/3/31↑ 設置から1年未満で消滅
10206沼田市【Tcj】白沢町消滅2005/2/132015/3/31注2
10206沼田市【Tcj】利根町消滅2005/2/132015/3/31
12236香取市【Cj】佐原区消滅2006/3/275年後の見直し 注3条例注4で廃止
12236香取市【Cj】山田区消滅2006/3/27
12236香取市【Cj】栗源区消滅2006/3/27
12236香取市【Cj】小見川区消滅2006/3/27
14150相模原市【Tcj】津久井町消滅2006/3/202010/3/311年短縮→緑区の一部
14150相模原市【Tcj】相模湖町消滅2006/3/202010/3/31
14150相模原市【Tcj】城山町消滅2007/3/112010/3/31
14150相模原市【Tcj】藤野町消滅2007/3/112010/3/31

注1 住居表示は変わらない
注2 地域自治区の設置期間満了に伴い字の名称変更【住居表示は変わらない】
注3  地域自治区の設置協議【4/30コマ】5年を目安に制度を評価して見直し
注4  香取市地域自治区の設置に関する条例を廃止する条例
[90173] 2016年 4月 4日(月)16:28:01【3】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (10)東北6県の地域自治組織
[90167]北海道に続き、東北6県の地域自治組織を列挙します。
県ごとの【存続+消滅】件数は、青森県【1+1】岩手県【9+8】宮城県【2+0】秋田県【17+8】山形県【0+0】福島県【7+7】合計【36+24】です。

種別略号:【Cj】地域自治区(一般制度)、【Tcj】地域自治区(合併特例)、【Gt】合併特例区

南相馬市の3区設置について:手続的には新市発足前なので合併特例法の規定による【Tcj】であり、総務省一覧表にもそのように収録されています(7/7コマ)。
しかし、既に[90071]で言及しているように 地域自治区の設置期間は協議書に定められておらず、地域自治区の実質は一般制度による【Cj】と異なるものでないと思われます。

協議書を読み返すと、冒頭に「合併特例法の規定により、下記のとおり定める。」という手続記載があり、それに続いて次のように地域自治区の設置根拠法が一般制度であることが記されていました。
地方自治法第202条の4第1項の規定に基づき、…及び原町市の区域ごとに地方自治区を設置する。

コード市町村種別名称現状合併日設置期限変更・満了記事
02201青森市【Tcj】浪岡存続2005/4/12021/3/31延長
02203八戸市【Tcj】南郷区消滅2005/3/312015/3/31満了[87199]
03201盛岡市【Tcj】玉山区消滅2006/1/102016/3/31満了[90015]
03202宮古市【Cj】注1(3区)存続2005/6/6無期限
03202宮古市【Cj】川井Cj存続2010/1/1無期限
03209一関市【Tcj】注2(6区)消滅2005/9/202008/3/31満了
03209一関市【Tcj】藤沢町消滅2011/9/262013/3/31満了
03215奥州市【Tcj】水沢区存続2006/2/202018/3/31延長[90056]
03215奥州市【Tcj】江刺区存続2006/2/202018/3/31
03215奥州市【Tcj】前沢区存続2006/2/202018/3/31
03215奥州市【Tcj】胆沢区存続2006/2/202018/3/31
03215奥州市【Tcj】衣川区存続2006/2/202018/3/31
04205気仙沼市【Tcj】唐桑町消滅2006/3/312016/3/31満了
04205気仙沼市【Tcj】本吉町消滅2006/3/312016/3/31
05202能代市【Tcj】二ツ井町存続2006/3/212021/3/31延長
05203横手市【Cj】横手区消滅2005/10/1[48804] 注9
05203横手市【Tcj】注3(7区)消滅2010/3/31注10
05210由利本荘市【Cj】注4(8区)存続2005/3/22無期限
05212大仙市【Cj】注5(8区)存続2005/3/22無期限
07205白河市【Tcj】注6(3区)消滅2005/11/72016/3/31満了 注11
07208喜多方市【Gt】注7(4区)消滅2006/1/42011/1/3満了
07212南相馬市【Tcj】原町区存続2006/1/1無期限
07212南相馬市【Tcj】小高区存続2006/1/1無期限
07212南相馬市【Tcj】鹿島区存続2006/1/1無期限
07368南会津町【Cj】注8(4区)存続2006/3/20無期限

注1 宮古市の地域自治区名称:宮古Cj, 田老Cj, 新里Cj
注2 一関市の地域自治区名称:花泉町, 大東町, 千厩町, 東山町, 室根村, 川崎村
注3 横手市の地域自治区名称:増田町, 平鹿町, 雄物川町, 大森町, 十文字町, 山内, 大雄
注4 由利本荘市の地域自治区名称:本庄Cj, 矢島Cj, 岩城Cj, 由利Cj, 西目Cj, 鳥海Cj, 東由利Cj, 大内Cj
注5 大仙市の地域自治区名称:大曲Cj, 神岡Cj, 西仙北Cj,中仙Cj, 協和Cj, 南外Cj, 仙北Cj, 太田Cj
注6 白河市の地域自治区名称:表郷, 大信, 東
注7 喜多方市の合併特例区名称:熱塩加納町, 塩川町, 山都町, 高郷町
注8 南会津町の地域自治区名称:田島Cj, 舘岩Cj, 伊南Cj, 南郷Cj
注9 注3の7地域自治区Tcj終了に伴い、横手旧市街のCjも廃止されたと思われる。
注10 地域自治区終了後も住所表示に増田町等を冠することに変更なし 市報よこて2010/3/15 p.5
注11 地域自治区廃止に伴い庁舎を支所とする議案をH28/3定例会に提出
[90171] 2016年 4月 4日(月)14:46:04hmt さん
畝傍
偶々見た 新聞記事。神武天皇没後2600年にあたり、天皇陛下が橿原市の[神武天皇山陵に参拝。

そこで思い出したのが子供の頃です。新学期が始まって間もない4月3日は「神武天皇祭」の休みでした。
同じく神武天皇ゆかりの「2月11日」は 今でも祝日ですが、さすがに4月3日を覚えていたのは皇室だけ。

言うまでもなく、「当時の日付」ではなく、グレゴリオ暦換算ルール[21976][49112]を適用した結果です。
今年、グレゴリオ暦の2016年は、神武天皇紀元2676年に相当します。
日付の点では戸惑うかもしれませんが、2600年後の命日に至るまで、子孫の墓参りを受ける神武天皇。
127歳で橿原宮で崩御した「イワレヒコ」は、世にも稀なる待遇を受けている人物と言えるでしょう。

このお墓について。その名は 畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)。
橿原市役所の近くには桜井線の畝傍駅があり、近鉄では八木西口駅の一つ南に畝傍御陵前駅もあります。

日本書紀に記された山稜。Panchoによると、元禄時代に神武天皇陵探しが行われた際には 四条村の塚山とされました。
しかし 幕末になって現在地に変更され、文久の修復が行なわれたとのことです。
明治20年頃に明治政府が立派なものに作り変え、更に大正時代に現在の円墳に作り変えるなど、近代に大幅に手が加えられた「古墳」であるようです。

「畝傍」(うねび)という名は、大和三山[36823]の一つとして知られ、1928年から1956年までは自治体名にも使われていました。奈良県高市郡畝傍町は、昭和合併で八木町や今井町と合併して橿原市になりました。
落書き帳で検索すると、高校名としても かなり登場しています。

「うねうね」という言葉にも使われている、畑の中の線状の高まり。
昔は常用されていた「畝」や「畦」という言葉も縁遠くなり、「畝傍」も難読地名になりつつあるのかな。 
そんなことを考えた次第です。
[90167] 2016年 4月 3日(日)11:36:08hmt さん
地域自治区 合併特例区 (9)北海道の地域自治組織
[90165] ピーくん さん
今後の地域自治区の動向はhmt さんにお任せします。よろしくお願いします。

今後のことはさておき、[90056]で予告した準備中の記事だけは 完成させておくべきでした。

毎度のことですが、平成大合併の後始末的な地域自治組織は3種類あり、[87357]で略号を付して説明しました。
そのうち、「合併特例区」【Gt】は法人格を有し、旧町村存続に最も近い形を残したものでしたが、設置期間が5年以下に限定され、既にすべてが消滅しています。

「合併特例法・合併新法に基づく地域自治区」【Tcj】。いわゆる「地域自治区の合併特例」で、現時点が協議で定められた設置期間の満了時期に該当する事例が多く、その動向が最も注目されています。

「地方自治法に基づく地方自治区」【Cj】。いわゆる「一般制度としての地域自治区」は、設置期間に定めがないのが普通です。制度自体は平成合併を機に設けられたものですが、その区域は、上越市や新城市の例に見るように、「平成合併直前の自治体」に制約されていないものもあります。

合併特例により【Tcj】として発足した地域自治区が、設置期間満了を待たずに【Cj】に移行し、同一の市内でありながら、住所表記方式の異なる2種類の地域自治区が共存することになった事例(上越市)もあります。

概論は[90071]でも補足したので この程度にして、平成合併で設けられた地域自治組織を洗い出してみましょう。

「◯◯区」という名を持つ事例もありながら、「市区町村変遷情報」の対象外に置かれている地域自治組織。
落書き帳内に単発的な情報はありますが、まとまった情報の形でサイト内に残しておきたいという気があります。
…とは言うものの、一度に全部はできないので、先ずは北海道から。人口・面積は 2010年国勢調査です。

コード市町村種別名称現状人口面積設置日設置期限変更存続期間など
01220士別市【Gt】朝日町消滅1547522.012006/3/312011/3/30解散5年 合併は2005年
01221名寄市【Gt】風連町消滅4548220.612006/3/272011/3/27解散5年
01233伊達市【Tcj】大滝区存続1533274.032006/3/12026/3/31延長20年余
01235石狩市【Tcj】厚田区存続2217292.842005/10/12021/3/31延長15年6月
01235石狩市【Tcj】浜益区存続1655311.152005/10/12021/3/31延長15年6月
01371せたな町【Gt】大成区移行1966133.902005/9/12010/3/31【Cj】4年7月
【Cj】大成区存続2010/4/1無期限
01371せたな町【Gt】瀬棚区移行2225125.622005/9/12010/3/31【Cj】4年7月
【Cj】瀬棚区存続2010/4/1無期限
01371せたな町【Gt】北檜山区移行5399379.032005/9/12010/3/31【Cj】4年7月
【Cj】北檜山区存続2010/4/1無期限
01514枝幸町【Tcj】歌登1973606.512006/3/202016/3/1910年?
01586むかわ町【Cj】鵡川Cj存続6373166.432006/3/27無期限
01586むかわ町【Cj】穂別Cj 存続3373546.482006/3/27無期限
01610新ひだか町【Tcj】三石4554346.222006/3/312016/3/3010年?

表にまとめたように、合併特例区【Gt】5件のうち、2件は5年経過後に解散して消滅しました。
せたな町の3件は 2010年に 一般制度地域自治区【Cj】に移行し、無期限存続中です。

むかわ町の地域自治区2件は 合併を機に設定されたものですが、合併期日は地域自治区制度発足の直前(2006/3/27)です。
合併特例法に基づき旧自治体の協議により地域自治区を設ける制度[90071]は 利用されていません。
町のサイトには、「合併とともに むかわ町地域自治区の設置等に関する条例 を制定し」とあり、地方自治法に基づく無期限の一般制度地域自治区【Cj】として誕生したと思われるのですが、むかわ町例規集に この条例を見出すことができません。不思議です。
…というわけで、残念ながら その正体を確認するに至っていないのですが、総務省一覧表でも「地域自治区(地方自治法に基づくもの)に収録されています。

それより問題なのは、この3月で設置期限が到来する特例地域自治区【Tcj】5件です。
先ず 石狩市の厚田区・浜益区は、昨年7月に平成32年度まで5年の延長。資料の3/3。

次の伊達市大滝区は、平成37年度まで約10年の延長案を示して市民の意見募集。意見交換会では大滝区振興基金の残高が1億5千万円程度あり、「合併時から行ってきた基金対象事業を16年度以降続けても10年間は持つ」との発言が室蘭民報で報じられていました。
決定が遅れていましたが、昨年12月の伊達市議会で原案が可決されており、合併特例の地域自治区【Tcj】としては 前例のない長期(20年以上)に及ぶことになりました。

最後に、枝幸町歌登と新ひだか町三石。いずれも 2016年3月に設置期限が到来したはずですが、延長又は一般制度への移行の動きが聞こえていません。
何も処置せずに自然消滅と推測されますが、前記総務省一覧表(7/7コマ)はH27/4/1現在のままでした。
合併項目の 19 では、「設置期間満了後に地域自治区を設置しない場合、「歌登」を大字名とする字名改正を行う」としていますが、その動きも見えません。表の中に記した現状「?」は、このあたりの情報不足を示したものです。
[90148] 2016年 3月 31日(木)13:02:43hmt さん
中国山地の奥で 小さな県境変更があった 三井野原
大きな人口移動を伴う境界変更と題したシリーズの中に、ちょこっと忍ばせた 小さな県境変更 のお話です。
近畿以東が大部分を占める[90145] の一覧表。その末尾に広島県八鉾村から島根県八川村への境界変更が記されています。中国山地の山奥で、面積異動も人口異動もミニサイズ。

2011年 [79523]の表では 40件中の2番に記されていたのですが、村名を聞いて実感の浮かぶ地名ではなく、放置していました。今回のシリーズで国勢調査「参考6」を見た機会に 調べる気になりました。

変遷情報で追いかけると、島根県仁多郡八川村→1957斐上町→1958横田町→2005奥出雲町。
松江オフ会2013の後で訪れた地[84520]に近いことを知りました。県境ということなので 地図で木次線沿いを南下すると、島根県最後の駅が三井野原。この名ならばスキー場として知られています。
落書き帳では 付近の奥出雲おろちループや 出雲坂根スイッチバックも話題になっていました。

三井野原スキー場の沿革を調べたら、香川県からの入植者2代目という人の昔話がありました。
この時の住所は広島県、行政サービスは島根県から、という矛盾があり、昭和32年に三井野原も島根県になったんですよ。
昭和24年にスキー場は開設されました。スキー場を作ったのは、三井野原に駅がほしかったから。そして、冬季期間の収入を確保したかったからです。昭和26年に、高松宮殿下が来られた事により、三井野原は一躍有名となりました。

県境変更の年は昭和28年の記憶違いでしょう。三井野原駅の正式開業は記念写真にあるように昭和33年ですが、仮乗降場開設はスキー場と同じ昭和24年ですから、この点はOKです。
国勢調査では1955年の八川村面積61.14km2が記録されていますが、1950年がありません。
変更前は昭和10年面積調を用いると60.13km2。県境変更による面積差は1.01km2とごく僅かです。
県が変ったのは 開拓地やスキー場のあった 字「三井野」の一部だけ に限られていたと思われます。

参考までに、広島県側の比婆郡八鉾村(大部分)はS29/3/31の合併で西城町の一部になり、平成合併の結果、庄原市の一部になっています。
余談ですが、「比婆」という地名から連想するのは、イザナミノミコトが葬られたという比婆山。
そして、広島県に住んでいた1970年頃に話題になった未確認動物「ヒバゴン」です。
[90145] 2016年 3月 30日(水)19:17:43【2】hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (3)県境の事例
人数では[90105]の5000人以上に及ばないものが大部分ですが、hmtが ずっと注目して 落書き帳に書き続けてきた 県境変更の事例中には、かなりの人口異動を伴うものもあります。

大正9年以来の「都道府県間の境界変更」は、[90107]で紹介されているように 国勢調査の一覧表 参考6 に集められています。
今回は、その中から人口異動を伴うものを抽出し、面積異動や関係過去記事、変遷情報収録状況と共に示すことを試みました。

県境変更に伴う面積異動の値については、栃木県「入飛駒」のように過去記事[79559]に記した例もありますが、ほとんど未調査でした。栃木県菱村や京都府樫田村のように「村ごと」の場合は、変更前の1955年国勢調査に村の面積があるので容易に知ることができます。
2005年に県境変更した長野県山口村の場合は、国土地理院の2004年面積調の値が使えます。

では、分村のケースで面積を知るには? 
1958年に境界変更により分村し、翌日岐阜県白鳥町に編入した 福井県大野郡石徹白(いとしろ)村を例に 計算で求めてみます。

一部を福井県に残すために 前日実施した境界変更(分村)による面積異動を計算します。
1955年当時 (178.22+128.29=)306.51km2であった穴馬2村の面積が、1960年和泉村332.26km2となっていることから、福井県に残留した面積は 25.75 km2であったことが判ります。
越県合併の相手方・岐阜県郡上郡白鳥町の面積は、石徹白村併合により22.39から110.78へと88.39 km2増加しています。
合計114.14 km2は、1955年の石徹白村面積103.07km2と少し合いませんが、岐阜県に越県合併した面積が大部分であることは知れます。人口異動も1297人で、昭和30年国勢調査人口1402人の大部分です。

1955/4/1に岐阜県恵那郡三濃村から愛知県東加茂郡旭村に越境した事例の面積異動も、同様の計算で求められると思ったのですが、1950年国勢調査は人口だけであり、面積がなかったので1955年面積との比較ができません。
現在の地図で見ると豊田市浅谷町(あざかいちょう)を主とし、須渕町の部分もあるので、豊田市の町別面積人口表から両町の面積を加えて、越境合併した面積は 5.59km2と見積りました。

2010年 前小屋の県境手直しにおいては、面積調でも交換した面積異動の差0.83km2迄しかわからなかったのですが、変遷情報の詳細には深谷市への編入119.6haという値が記録されていました。

こんな具合に、いろいろなデータから面積異動の値を求めて作ったのが、下の表です。
面積異動の値が不明や、計算不一致で信頼できない結果となった地域も含まれています。ご容赦下さい。
境川を挟む領地の交換について:人口異動は国勢調査の実数(4件合計61人)が示されていますが、面積異動は「無人地帯と併せてほぼ0」の差額で発表されており、面積異動の実態は不詳です。

都道府県境に関係する人口異動を伴う市町村変遷情報(大正9年国勢調査以降)【注】

関係自治体(数字は県code)地域名*日付人口異動(人)面積異動km2記事変遷情報
08新郷村→11川辺村伊賀袋1930/7/1 144?[78789]境界変更
08河内村→12栄町利根川1956/1/1930.71[79523]の6番未収録
09田沼町→10桐生市入飛駒1968/4/15575.65[54264] [79523]の17番[81913]未収録
09菱村→10桐生市菱村1959/1/1572421.90[2878][14592]編入
09足利市←10矢場川村矢場川1960/7/131313.66[2878][14616] [79523]の9番境界変更
10太田市→11深谷市前小屋2010/3/11391.20[79438][79661] 境界変更
11元狭山村→13瑞穂町元狭山1958/10/1521303.53[4049] [54264] 編入
11戸田町→13板橋区舟渡1950/4/1289 [65713] 未収録
11横曽根村→13岩淵町岩淵1926/10/1412 [65713] 境界変更
13町田市→14相模原市境川1999/12/13[79523]の32番未収録
13町田市←14相模原市境川2004/12/142[79661] [79523]の35番未収録
13町田市←14相模原市境川2007/12/110[79523]の38番未収録
13町田市←14大和市境川1985/2/16[79523]の28番未収録
18石徹白村→21白鳥町石徹白1958/10/15129788.39[31291][54264]編入
20神坂村→21中津川市神坂村1958/10/15143236.53[25925][54264] 編入
20山口村→21中津川市山口村2005/2/13204024.67[46924][54264] 編入
21三濃村→23旭村浅谷*1955/4/118055.59[46981][54264] [79523]の5番境界変更
26亀岡市→27東能勢村牧・寺田*1958/4/13868.08[79559] [79523]の8番境界変更
26樫田村→27高槻市樫田村1958/4/188918.00[31152][54264] 編入
33日生町→28赤穂市福浦1963/9/116407.50[41400][46914] [79523]の11番境界変更
34八鉾村→32八川村三井野原*1953/12/1571.01[90148][79523]の2番未収録

* 地域名のうち、従来使っていた三濃村などの旧町村名は 現在ではあまり使われなくなっていました。
これを今回改め、現在の地図でも見ることのできる 浅谷(あざかい)、牧・寺田、三井野原にしました。

【注】
1 この表よりも前の明治時代には、特別法による県境変更が行なわれました。[85062]の前半は特別法による事例です。後半は県境にある自治体の境界変更による事例で、この記事の表の旧版と言えるでしょう。
2 この表の21件のうち、人口異動最大の菱村を始めとする6件が「編入」として変遷情報に収録されていました。いずれも元の自治体の消滅を伴うもの、すなわち廃置分合の1種としての編入です。
変遷情報に「境界変更」として収録された7件の大部分は自治体の領域が変るだけで消滅しないものですが、矢場川村と三濃村のケースは分村によって消滅しました(廃置分合)。
変遷情報未収録の8件は主として比較的小規模の境界変更ですが、入飛駒だけは未収録で残されていることを不自然と感じさせるほどの規模です。
[90136] 2016年 3月 29日(火)12:12:46hmt さん
明治39年 愛知県における町村再編成
[90129] 白桃さん
町から村へ移行する例はあまりないのですが、愛知県幡豆郡ではタイトルに記入した日に、平坂、一色、横須賀の3町がそれぞれ他村との合併により「村」に格下げ?になっています。(中略)
なぜ愛知県幡豆郡にこのような事例が集中しているのか不思議ですが・・・

町が他の村と合併して「村を新設する」のは格下げなのか?
村と町との違い については、hmtマガジンに過去記事を収録しています。
農漁村である村と「商民ノ市街ヲナス」町との違いはある。しかし、多少の違いは無視して 町村制という同じ制度を適用することにした。明治21年の「市制町村制理由」は、このように説いているようです。

だから 呼称が町であろうが 村であろうが、「格」の上下などない筈です。
しかし、現実の事例 を目にすると、やはり気になります。

1889 幡豆郡平坂村→1893 平坂町→1906新設/村制 平坂村→1924 平坂町
1889 幡豆郡一色村→1892 一色町→1906新設/村制 一色村→1923 一色町
1889 幡豆郡横須賀村→1892 横須賀町→1906新設/村制 横須賀村→1955新設 吉良町

1906年というのは 幡豆郡に限らず 愛知県の各地で大規模な町村再編成が行なわれた年だったのですね。
変遷情報を見ると、同年中に 170件もの処分が行なわれています。
問いかけに対する答えにはなっていないのかもしれませんが、幡豆郡における“格下げ?”3件も、この大規模な町村再編成の中で起こったハプニングであったように思われます。

町と近隣の村々とが合併して新たな自治体となる場合、町場の絶対的規模は不変でも 自治体内での相対的な割合は低下します。
現行法に基づく県条例で求められている要件、例えば「中心市街地の戸数が五割以上」と同様のルールが当時も存在したか否かはさておき、合併によって新設される自治体が、全体としては「農漁村的な印象」を強める結果となることは否定できないと思われます。

合併は人口の絶対数を増やすが、同時に市街地的な印象が希釈され、「農漁村的」になってしまいます。
1906年愛知県幡豆郡の3事例は、この仕組を素直に受け止めた結果だったのではないでしょうか。

参考までに、平成合併では 宮城県加美郡の3町を併せた場合の連たん戸数割合が 条例で定められた「五割以上」に届かなくなる事態が発生しました。
結果的には、条例に附則の特例が設けられて解決しています。

「明治大合併」という言葉。
これは、明治22年 町村制施行直前に行なわれた合併 を指すのが普通ですが、岐阜県のように明治30年になってから「郡と町村とをひっくるめた再編成」[70814][70820]として行なわれた地域もあります。
そして、今回の愛知県の事例により 日露戦争後の1906年に「2度目の明治大合併」があった地域もあったことを、改めて認識しました。
これほど大規模ではないにしても、明治末期になってからの合併事例は 他の県にもありました。

関連して『中島茂:明治期愛知県の市町村再編について』という文献を紹介しておきます。
その中には、1889年と1906年の愛知県行政区画図も示されています。
[90105] 2016年 3月 24日(木)19:05:47hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (2)埼玉県入間郡東金子村 改め 西武町
[90100]を書いているうちに西武池袋線入間市【豊岡町から改称1967】と飯能の間、仏子(ぶし)・元加治という駅が続くあたりに「西武町」という自治体があったことを思い出しました。[12847][55648]

タイトルに記した関係市町村の変遷情報を もっと詳しく書くと 次のようになります。
1889/4/1(明治合併、町村制) 高麗郡(野田村+仏子村→)元加治村、飯能町、入間郡東金子村、豊岡町など成立
1896/4/1(郡再編) 入間郡・高麗郡など→入間郡【以下、郡名省略】
1943/4/1(戦時合併) 飯能町、元加治村など→飯能町新設
1954/1/1(市制) 飯能町→飯能市
1954/4/1(境界変更) 飯能市の一部【旧・元加治村の区域】が東金子村に編入
1954/4/1(町制) 東金子村→東金子町
1954/4/1(名称変更) 東金子町→西武町
1956/9/30(昭和合併最終日) 豊岡町、西武町の一部【旧旧・東金子村の区域】など→武蔵町新設
1966/11/1(改称/市制) 武蔵町→入間市
1967/4/1(編入) 西武町【旧・元加治村の区域が残っていた】→入間市に編入

複雑な変遷ですが、ポイントになる1954/4/1の境界変更に注目し、国勢調査記録によって人口異動を調べます。
[81919]には統計局からの情報が紹介されています。1954年のデータは昭和30年国勢調査です。
左端の昭和30年から統計表一覧を開き、末尾の13に掲載された「付表2…境界変更…一覧表」を見ると、注釈と県別データで合計4ファイルになっていることがわかります。これが右端の「PDF1,PDF2,PDF3,PDF4」に対応するので 埼玉県のデータは「PDF2」にあると判ります。これを開いてみると「55ah02b.pdf」というファイルで、飯能市は25/32コマに掲載されています。
29.4.1 (境)  一部の地域が入間郡東金子村へ   昭和25年人口 △5155
これで、昭和25年に飯能市として数えた人口は、境界変更により5155人減ったことが知れます。

念の為に人数の増加を東金子村のデータで確認したいところですが、昭和30年国勢調査時には既に消滅しています。そこで次コマの西武町を見ると
29.4.1 (名)  入間郡東金子町 34)が西武町になる   昭和25年人口 8627
注記の 34)【28コマ】には、東金子村イ) が東金子町になったこと、続くイ)の4行目には「飯能市の一部(5155)が東金子村に編入」が記されています。

S25の人口3472人だった【面積5.80km2の】東金子村には、【面積は4.78km2とやや小さいが、人口は1.5倍近い】旧・元加治村の区域の人口5155人が S29の境界変更により加わり、8627人【西武町境域のS25人口】になりました。
なお、面積は戦前唯一のデータである 『昭和十年全国市町村別面積調』 の値です。

このシリーズのタイトル「大きな人口異動を伴う境界変更」の極端な事例のように思われます。
[90100] 2016年 3月 23日(水)19:57:11hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (1)入間市と狭山市
「人口異動を伴う境界変更」のリリース[90092]ありがとうございます。人口のからむ境界変更に関する過去記事を検索してみたら、2012年9月[81821]から10月にかけて急増した時期があったのですね。
その頃から始まった YTさんによる情報提供も、今回の形で結実に至ったことをお祝いいたします。

このサイトにおける境界変更の取り扱いについては、それより前から 変遷情報との関連で問題にされていました。2007年の[56539]あたりが、代表的な記事と言えるでしょう。

それはさておき、人口異動と言っても、その数は 1桁と2桁が大部分です。今回示された1980年以降の国勢調査で該当するとされた77組の中で人口異動の値が100人以上になる組み合わせは僅か14組でした。
その中で突出して多かったのが、1983/4/1 入間市と狭山市との境界変更で生じた数百人の人口異動でした。

狭山市の増加887と入間市の減少877の差 10人の行方もさることながら、それ以上に「境界が変更された場所」が気になります。

数百人もの異動にもかかわらず 市区町村変遷情報からは無視されているので、自治省告示で地名を確認しました。
狭山市に編入する区域は「入間市大字黒須」の一部でした。
入間市に編入する区域の中には、「狭山市入間川字飛地」という地名もありました。

現在の地図では入間市駅の北側にある「黒須」の方が目立ちますが、線路沿いに池袋方に約2km進んだ入間基地南端付近にも大字黒須が残っています。
黒須は扇町屋と共に豊岡町の市街地を形成した地名のようです。参考:黒須銀行

航空自衛隊入間基地の前身は米軍のジョンソン基地です。
戦前にあったのは 陸軍航空士官学校(修武台)ですが、現在の入間市である豊岡町黒須で開校後に、敷地が入間川町【現在の狭山市】側に拡張され、現在では本部所在地も狭山市になっているものと思われます。[87268]参照

入間市の基地跡地利用に関する年譜には、昭和57年に「ジョンソン基地跡地内行政境界変更案」について入間・狭山両市が合意し、翌年実施されたとあります。
異動した数百人の人口は、入間基地内宿舎の住民たちであったと理解できます。
[90093] 2016年 3月 21日(月)19:17:26hmt さん
県条例の都市的施設要件(2)広島県府中町をめぐる動き
[90091]の続編ですが、広島県安芸郡府中町が「市」になる要件を整えることができるか否か。
そのポイントに触れるのは こちらの記事です。
この記事を先に書いてから、現在の条例にある「高校の数」に関する記事を書くべきだったかもしれません。

[90089] ピーくん さん
【中国新聞】紙面からです。
和多利町長は「町議会と連携し準備を重ねた上で、条例見直しへ向け県と協議したい」とした。一方で「混乱する事態は避けたい」とも述べた。

都市的施設要件を定めた「条例見直し」で思い出すのは岩手県です。
滝沢村が「市」になるためのハードルになっていた当時の岩手県条例には
1 地方事務所、税務署、公共職業安定所等の官公署が、5以上設けられていること。
などの9項目が定められていました。全文は [40484]百折不撓 さん

平成合併時代の[3217]では、滝沢村は単独市制施行も視野に入れ、岩手県に対し県条例の見直しを打診したものの、盛岡市との合併を歓迎していた県側は慎重な姿勢と報じられていました。
しかし、合併の嵐をくぐり抜けた後になると、岩手県の態度も変りました。滝沢村が2012年の岩手県議会6月定例会での条例改正を要望[79744]した結果、9月定例会で条例改正案が可決。[81981]
改正後の条例は、高等学校から病院までの5項目になっています。

広島県のケースも、関係者の「やる気」があるならば、理論的には同様の手続きで改正可能です。

現実には、町長発言にある「混乱する事態は避けたい」がポイントでしょう。

過去の経過は当サイトの 成立しなかった合併情報 広島市, 安芸郡府中町 にまとめられていますが、広島市サイト内の 府中町との経緯も参照して補足します。
和多利町長は 2000年5月初当選。7月の町議会で次の答弁。
広島市との合併については、住民が決めることですが、4分の3以上の賛成が一つの目安と見ており、私としては、自主自立の町づくりを進めたいと思います。
2001年6月議会での答弁
29年前に広島市にお誘いをいただいたが、町民の合意が得られず、その後の町長選挙等での反応も、合意を得られない状況は、ご承知のことと思います。このような状況下で町政を続けることは、活力の減退やキリンビール跡地の再整備への貢献等を考えると、遅まきながらも都市行政にすべきと判断しているところです。従って、とりあえずは単独市制をしていということです。

2002年には合併問題を問う住民投票条例が可決され、6月に実施。その結果、広島市との合併賛成49.9%を[1811]が伝えています。他の選択肢は単独市制が 28.5%、そのまま町でいるが 21.6%。

2003年3月の住民請求に基づき 12月には広島市との法定合併協議会が設置されたが、府中町は合併に慎重で協議は進展せず。2004年5月には 和多利町長が再選され、12月には合併を断念して協議会を解散しました。

今回の新聞記事によると、府中町としては 条例見直しによる市制への道 も探るようです。

安芸郡府中町が広島市に囲まれて41年 。水道などのインフラ設備を広島市に依存しているだけでなく、「衛星都市」という言葉も不適切に感じられるほど広島市の中に入り込んでいます。「ローマ市に囲まれているバチカン・シティ」とは事情が違うにしても、「市に囲まれた市」は落書き帳としては見逃せません。

その実現に必要な条例改正を審議するのが 広島県議会。その動向は如何に。
今後も、ピーくん さん による広島県からの情報が伝えられることを期待しています。
[90091] 2016年 3月 20日(日)23:00:45hmt さん
県条例の都市的施設要件
[90089] ピーくん さん
【中国新聞】紙面からです。
ただ県条例は「高校などが3校以上ある」ことなどを要件とし、【府中】町はクリアしていない。

地方自治法第八条第1項で定められた市となるべき自治体の要件。その第四号で求めているのは、
「当該都道府県の条例で定める都市的施設その他の都市としての要件を具えていること。」です。

府中町の動向については ずっと前から落書き帳でさんざん話題になっており、アーカイブズもありますが、「高校の数」が問題になったのは初めてですね。

そこで、広島県条例【昭和23年条例第28号】 を確認してみました。
二、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)に規定する高等学校若しくはこれに準ずる学校又は中等教育学校が、三以上設けられていること。
中等教育学校とは中学校のことではなく、いわゆる中高一貫校のことです。

確かに高校が3校以上を求めていますが、これって 地方自治法の求めている人口5万よりも、ずっと厳しい条件ではないでしょうか?
この条件を満たしている市は、全国的に見てどの程度の人口がある市なのか気になりました。

他県の条例にも高等学校設置に関する類似の規定はありますが、「3校以上」の県は知りません。
参考までに、平成合併終了後に単独市制のあった県を列挙しておきます。

石川県条例(S29-1)[14790]:高等学校及び公私立の図書館、博物館、公会堂又は公園等の文化施設の大部分が設けられていること。
千葉県条例(S23-24):高等学校が設けられていること。
埼玉県条例(S23-13):高等学校が設けられていること若しくは設けられる計画が確定していること又は当該普通地方公共団体に隣接する市町村に二以上の高等学校が設けられていること。
愛知県条例(S23-2):高等学校が相当数設けられていること。
岩手県条例(S23-7):高等学校が設けられていること。
[90083] 2016年 3月 17日(木)20:01:10hmt さん
公文所(くもんじょ)→公所(ぐぞ)→久所(ぐぞ)
[90079] グリグリ さん
「ABCの旅」はGの付く地名と言うことで、神奈川県足柄上郡中井町久所でした。「久所(ぐぞ=GUZO)」です。
相模原市にも同じ読みの久所がある(中略)相模原市中央区にある水郷田名の別名(旧名)だったようです。

同じ相模国ですが、武蔵国との境界である境川の西岸に「公所(ぐぞ)」という集落がありました。
現在でも大和市公所会館があり、大和市下鶴間504-1と書いてあるところから、住所表記に使われていない「(大字)下鶴間(字)公所(ぐぞ)」が現在でも残っているものと推察します。
地図を見ると、「下鶴間」が 駅名由来の「つきみ野」や「中央林間」に侵食され、分散しながらも残存している様子がわかります。
中央林間という不思議な地名[34571]が、昔は「(大字)下鶴間(字)公所新開」であったことは、[46290]で記しました。

それはさておき、「久所」という地名は小田原市にもあります。
久所の始まりには、秦野市立上小学校北側にも 久所(ぐぞ)があると記されています。
読みの違う千葉県館山市「久所(ぐじょう)」や、大分市「久所(くじょ)」は別とすると、相模だけに4ヶ所の「久所(ぐぞ)」。

「公所(ぐぞ)」も、地理院地図の検索でヒットする平塚市と厚木市を加えて3ヶ所。
全国で7ヶ所の「GUZO」が すべて相模国にあることは、偶然ではないようです。

相模原市田名の地名の水郷田名の説明文より。
昔、久所に公文所(くもんじょ)といって、今の市役所のようなものがあり、『文』の字を省略して公所と呼んでいたという。その後(中略)同音であったので久所と称したと言われる。

公文所は公文書管理の役所として古代・中世に使われた名ですが、有名なのは鎌倉幕府が 1184年に大江広元を別当として設置した公文所。これは、もちろん鎌倉にあったのでしょうが、各地の支所も公所と呼ばれており、それに由来する「GUZO」が、お膝元の相模国に地名として残っているのでしょう。

蛇足
西相模の災害地名?
中井町 久所(ぐぞ)クゾ、地崩れる場所。
という記載がありましたが、このように根拠の怪しい 「地名怪説」もあるので、ご注意を。
[90076] 2016年 3月 15日(火)18:03:45hmt さん
Re:合併アーカイブ
[90074] _ さん
総務省市町村課が「合併デジタルアーカイブ」というものを提供しています。

10年も前の2006年、平成合併最盛期に開設されており、2011年にはグリグリさんの紹介記事[79464]もあったサイトを、これまで失念していたとは…

それはさておき、さっそく利用した成果が得られたので、御礼と共に ご報告します。

兵庫県多可町の「地域自治区の設置に関する協議書(案)」
協議会の状況によると、地域自治区設置は 2004/12/16の第19回合併協議会で承認されたとのことです。
「この協議は、告示の日から施行する。」という附則が付いていました。【告示日:2005/7/7】

同じ協議会で決った合併期日2005/11/1よりも前ですから、当然 合併特例法に基づく手続ですが、リンクした協議書(案)では 「地域自治区を設置する期間」 を定めていません。
「合併関係市町村の協議で定める期間に限り」という法律 に違反しているように見えること、[90071]で記した南相馬市や香美町と同様です。

兵庫県香美町についても、第16回合併協議会会議資料の27/40に「地域自治区の設置に関する協議書(案)」がありました。その内容は [90071]で記した書類【リンク不調】と同じです。
[90071] 2016年 3月 14日(月)16:08:52【1】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (8)地域自治区制度について再び
平成合併の産物であり、平成合併の後始末という面を持つ「地域自治区」。
平成合併最盛期から10年経過という節目に始めたこのシリーズ。その1年後の現在、設置期限が近づく合併特例地域自治区【Tcj】の動向を伝えがてら、奥州市・奄美市と個別事例の話題を取り上げてきました。

その次には、地域自治区全体の動きを示すリストを提示しようと考えていました。
しかし、地域自治区制度自体に難解の部分があり、先ずこの記事を書いて、理解を深めることにしました。
このシリーズの第2回に記した一通りの説明で不足していた見解を補い、別のアプローチにしました。

「地域自治区」という名は、地方自治法の平成16年改正案で現れました。落書き帳での初出は [27999] でるでる さんの「合併関連3法案」という記事です。
しかし、引用文からも明らかなように、 地方自治法の条文に書かれているのは
市町村長の権限に属する事務を分掌させ、及び地域の住民の意見を反映させつつこれを処理させるため
であり、「合併」とか「旧市町村」とかいう言葉は直接には現れません。
いわゆる「一般制度としての地域自治区」と呼ばれる所以です。

2004年2月に合併協定が調印された南相馬市の事例で考えてみましょう。
地方自治法の規定では、合併と同時に地域自治区を発足させることができません。
「市町村は、…条例で、…地域自治区を設けることができる。」となっていますが、南相馬市は未発足であり、条例の定めようがないためです。

そこで必要になるのが、同時に成立した「地域自治区の合併特例」という規定です。こちらは、
地方自治法の【条例制定を求めている】規定にかかわらず、…協議で定める期間に限り、…地域自治区を設けることができる。
となっています。

合併(2006/1/1)前年の2005/2/28に定められた 協議書 をリンクしておきます。協議事項1によると、地域自治区は地方自治法に基づくものですが、そのように定めた根拠が合併特例法の規定によるものであることが、前文に記されています。
合併特例法が求めている「協議で定める期間」について明確な記載がなく、協議事項5(2)には「区長の設置期間は10年」とあります。
南相馬市の文書 p.3の地域自治区>設置期間 には、「設置の期間は定めません」とありました。
これで良いのでしょうか?

「地域自治区の合併特例」を用いるという点では、奥州市の合併も同じことですが、こちらの合併協議書の記載は もっと単純明快です。実際、このような事例が大多数です。
第1条 合併特例法…の規定に基づき、…を目的に、合併前の水沢市【以下列挙】…に地域自治区を設置する
第3条 自治区の設置期間は、合併の日から平成28年3月31までとする。

兵庫県美方郡香美町の場合。例規集中には合併協定書が見当たらぬものの、美方町・村岡町・香住町合併協議第63号として「地域自治区の取扱いについて」H16/9/20提出の書類がありました。
【修正】テキストリンク不調につき、URLを直接記します。
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1117450319031/html/common/other/4aaf32e8017.pdf

それには、「地方自治法第202条の4第1項及び市町村の合併の特例に関する法律【旧・合併特例法】第5条の5第2項の規定に基づき、合併前の美方町、村岡町及び香住町の区域ごとに地域自治区を設置する。」と2法を併記しています。
書き方は南相馬市と少し違いますが、合併前なので、当然のことながら「合併特例」を利用した地域自治区。
しかし、添付された全9条からなる協議書には、地域自治区の設置期間についての定めが見当たりません。
合併特例法が求めている設置期間を無視したまま10年を経過しつつある事例は、南相馬市の他にもあるようです。

同じ兵庫県で多可郡3町が合併した多可町。こちらは多可町のサイトに関係書類が見当らないので、WARPで合併協議会のページを探したが、こちらもダメでした。
【修正】合併に特化した総務省のアーカイブ[90074]には、WARPから漏れていた合併協議会サイトも保存されていました[90076]

参考:総務省の一覧表 現在はH27/4/1現在が示されていますが、そのうちにH28/4/1現在に更新されるでしょう。
設置期間の定めが見当たらない(と思われる)南相馬市、香美町、多可町の各地域自治区。いずれも最終コマ(7/7)にある「地域自治区(合併特例法等に基づくもの)の設置状況」の表に記載されています。
[90064] 2016年 3月 12日(土)13:15:33【1】hmt さん
「政令区」という呼び名
[90062] グリグリ さん
「都道府県隣接関係一覧」を最初に拝見した際には、隣接都道府県欄が長文の表示でした。
ポップアップへの修正希望を下書きに記した後で 本題を書いていたら、この記事のアップ前 既に 見易い形 に改められていました。ありがとうございます。

気になった部分は、表の下に記された注釈に使われた「政令区」という言葉でした。

「政令市」にしても正式の略称ではないが、よく知られている「政令指定都市」の略称であろうことは推察でき、許容範囲と考えています。
# 法令上の正式名は、政令のタイトルに使われていた “地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市” であり、地方自治法に記された その略称は “指定都市” なのでしょう。参考

ところが、「政令指定都市の区」は 地方自治法第252条の20を根拠として 指定都市の条例で設けられます。
では「政令区」ではなく「条例区」なのか?
これも あまり適切でないようで、現実に使われていません。

「特別区」と対比して使われている言葉は「行政区」のようです。 大阪市横浜市相模原市
しかし、「行政区」という言葉には、政令指定都市以外での 使用例もあります。

参考までに、落書き帳内に存在する多数の「政令区」使用例は、大部分が グリグリさんによるものです。


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