いわき 太平洋・島サミット2015の記事 で、今回の開催地を「いわき市」と書きました。
過去の開催地である沖縄の
万国津梁館や北海道のトマム
[72049]と比べて 1200km2以上もある広大な「いわき市」という表記では 大雑把すぎる と感じていたのですが、会場の詳しい情報が なかなか得られなかったのです。
いわき市 と言えば、以前は【1966/10/1~2003/3/31】全国で最も広い市として知られていました。
[2152]
最新のデータによる
市面積ランキングでは 全国の12位です。広域の市が増えたことに驚きます。
22~23両日の国際会議終了後になりましたが 改めて調べた結果、主会場は いわき市常磐の「スパリゾートハワイアンズ」であることが判りました。
時事通信
実はこの名前も ピンと来なかったのですが、昔の名は 「常磐ハワイアンセンター」だと知って なるほど。
[78445]参照。ポリネシアを含む「南の島」からの お客を招く場所としてはピッタリでした。
常磐にハワイが誕生した 1966年。その10月に 平市など5市4町5村が大合併して いわき市 になりました。
その前は 福島県常磐市。福島県だから磐城国の「磐」はわかるが「常」とは? もちろん常陸国です。
常磐市になる前の石城郡湯本町は、片寄平蔵らにより幕末に発見された「常磐炭田」【注】の中心地の一つだったので、常磐市を名乗ったのでしょう。
【注】常磐炭田
地下の石炭層は磐城国から水戸藩領の常陸国多賀郡【北茨城市】に及んでいたので 常磐炭田。
常磐線と同じ組み合わせですが、幕末の安政3年(1856)頃に発見された炭田の方が先です。
常磐炭は低品位で 掘削にも困難がありましたが、大消費地に近い立地は有利でした。
日本鉄道の海岸線
[61225]が石炭輸送の目的で輸入した蒸気機関車の車軸配置は、ボールドウィン社によって「ミカド」と名付けられました。1935-1950年に大量生産された D51 もこの車軸配置です。
石炭が最初に発見された地は
白水阿弥陀堂の近く(内郷地区)ですが、この地域の領主・湯長谷(ゆながや)藩【磐城平から延岡に移った内藤氏の支藩】の陣屋は湯本地区の南にありました。
湯本は その地名が示しているように、平安時代から知られる温泉地です。しかし、明治以降の石炭採掘は地下の温泉脈を断ち切るトラブルを起し、温泉のもたらす熱と水は採掘環境を悪化させました。
石炭と温泉とは、相性が悪かったのでした。
第二次大戦後には輸入石炭との競合、原油輸入の自由化によるエネルギー革命で、会社(常磐炭礦)は構造的な不況に見舞われ、1955年から人員整理が始まりました。1976年に閉山。1985年3月には炭鉱業から完全撤退。
1970年には常磐興産と社名を変更することになる会社。
その前に常磐炭礦が企てた新規事業が観光業への進出です。
石炭と相性の悪かった大量の温泉水を味方に引き入れ、当時の人々が憧れながら 現実には行けなかった 夢の島ハワイ を日本に作ってしまう。
「常磐ハワイアンセンター」計画は、
1963年発表。
社内からも疑問視する意見が多かったそうですが、中村豊社長が押し切って事業を進めたそうです。
現在の豊富な湯量は、1976年の炭鉱閉山後に炭鉱跡でボーリングして得た源泉から得られたものです。
泉源も市名も変ったので、温泉名も 「常磐湯本温泉」から「いわき湯本温泉」に改められました。
年表 は、昭和40年(1965)常磐音楽舞踊学院設立 から始まり、翌年1月に「常磐ハワイアンセンター」オープン。
アトラクションの目玉になるダンサーには 炭鉱労働者の家族を採用して 地元雇用を確保する。
シロウト娘を プロのフラガールに育てる養成学校は、1968年には学校教育法に基づく各種学校として認可を得ている本格的なものです。宝塚音楽学校の同類。
実話を元にした町おこし事業を描いて評判になった「フラガール」の映画化は 2006年。
常磐ハワイアンセンターは、25年目の1990年に「スパリゾートハワイアンズ」に名を変えています。
現在までの間 50年近く、経済動向の変化に対応した設備投資をしながら 順調に経営を続けているようです。
九州や北海道など、産炭地としては常磐よりも優れていた地域が無惨な状態に陥っているのと比べると、常磐における産業転換は珍しい成功例と言えるのではないでしょうか。
福島県が今回の島サミット会場に選ばれた事情。大震災の影響について言及しておく必要がありますね。
2011年3月の地震後は 安全点検の臨時休業中に原発事故発生。その後、4/11に直下型地震で被害があったようです。結局、9/30まで約半年間は全館休館。この間にフラガールたちは全国キャラバン。 2012/2/8 全面再開と共に新ホテルのモノリスタワーも加わりました。
そして、2015/5/22-23に太平洋島サミット(PALM7)の主会場として、日本の震災からの復興状況をアピールする材料にも使われました。