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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[88806]2015年9月17日
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[88800]2015年9月15日
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[88782]2015年9月10日
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[88769]2015年9月8日
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[88762]2015年9月7日
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[88753]2015年9月2日
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[88708]2015年8月26日
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[88707]2015年8月26日
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[88670]2015年8月18日
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[88659]2015年8月16日
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[88648]2015年8月14日
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[88640]2015年8月14日
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[88632]2015年8月12日
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[88614]2015年8月11日
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[88598]2015年8月9日
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[88581]2015年8月6日
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[88552]2015年8月3日
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[88550]2015年8月3日
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[88296]2015年7月25日
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[88280]2015年7月24日
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[88269]2015年7月23日
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[88260]2015年7月23日
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[88203]2015年7月20日
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[88176]2015年7月19日
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[88090]2015年7月14日
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[88071]2015年7月11日
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[88053]2015年7月9日
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[88047]2015年7月8日
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[88042]2015年7月8日
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[88004]2015年7月3日
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[87989]2015年7月1日
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[87944]2015年6月24日
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[87943]2015年6月24日
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[87931]2015年6月16日
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[87859]2015年5月24日
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[87857]2015年5月23日
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[87850]2015年5月22日
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[87846]2015年5月21日
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[87833]2015年5月19日
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[87818]2015年5月18日
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[87794]2015年5月17日
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[87785]2015年5月16日
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[87709]2015年5月8日
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[87680]2015年5月5日
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[87667]2015年5月3日
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[87504]2015年4月25日
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[87493]2015年4月22日
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[87492]2015年4月22日
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[88806] 2015年 9月 17日(木)18:55:42【2】hmt さん
国勢調査デビュー人口が3万人未満だった 34市
[88803] 白桃 さん
「三万」[88800]にお付き合いいただき ありがとうございます。
国勢調査人口3万未満を記録した市の 7パターン を拝見しました。

最初に、[88805]の訂正に加えて もう1ヶ所。パターンF:枕崎型の次に、またパターンF…。
「パターンG:羽咋型・・・ず~と十両暮らし」なんでしょうね。

さて、この羽咋型の12市とパターンB:石垣型の20市。それに安芸市と中津市を加えた 34もの市が、3万人未満の人口で国勢調査デビューをしていることに驚きました。
3万人のハードルをクリアして誕生したはずの「市」なのに何故? といのが一応の疑問です。

事前の適格審査に使われた国勢調査は、市になった後の国勢調査デビューより1回前であるのが普通だから、人口停滞又は減少傾向にある時にギリギリで3万を確保した後に市になれば 不思議な現象ではないわけです。
この予想を確かめるために、代表例として半世紀以上も十両生活を続けた羽咋市を調べてみました。

事前の 1955年国勢調査における 2町2村合計人口は 30045と ギリギリで適格審査セーフでした。
1958/7/1 羽咋市誕生市後の国勢調査デビューは1960年で、29556人と十両デビュー。
“なっちゃったもの勝ち”[584]なので、市としてデビューした時に3万を越えていたかどうかは、一応無関係ということなのでした。
G組は平成合併10市も 同様な理由でしょう。この時間差が十両デビューを生む原因の一つなんですね。

羽咋市に続いて十両生活が長いのは 1970/12/1誕生のえびの市。これは単独市制ですが、1970年国勢調査において 既に3万を割っていました。
適格審査はそれよりも前の1965年国勢調査で行なわれたのでしょう。この時の合併前3町の合計人口は 33101人ですから 悠々とパス。市になる前後10年間における人口減のため、えびの市の国勢調査デビュー人口は 27241人にまで減っていたのでした。

しかし、パターンB:石垣型【幕内に昇進】では事情が違い、十両デビューの原因も違うようです。
何よりも歴史の古い市が並んでいます。鳥取 尾道 丸亀 は明治、福山 大垣 上田 は大正、海南 飯田 熱海 舞鶴 七尾 館山 洲本 柏崎 多治見 は昭和戦前。
20市のうち、鳥取市から相生市【戦時中】までの 16市は法律「市制」の時代に誕生した市でした。

鳥取市は市制町村制施行により「町村」を経ないで市になった最古参です。「市制町村制理由」 に記されたように、「人口凡二万五千以上の【狭い】市街地」だけを「市制施行地」とする制度でした。
その後、内務省による「人口5万人以上」などの内規はあったようですが、法律上の規定はありません。[75438]
1947年、現行憲法と共に制定された地方自治法第八条により、市となるべき要件として「人口三万以上」が規定されました。[88800]では書き落していますが、これが「人口五万以上」に改められたのは 1954年です。

日本の南西端に近い八重山列島。石垣島に市が生まれたのは 1947/7/10 でした。言うまでもなく 昭和22年という言葉が通用しない米軍占領下ですから、これも地方自治法の人口三万要件とは無関係でした。
国勢調査記録には 1950年 19872人でデビューしています。琉球政府公報27号 4/5コマ
余談ですが、この表の中には 日本に返還される前の奄美 が含まれていることにもご注目ください。

なお、1964年に八重山郡大浜町を編入した石垣市は 1965年国勢調査では4万人台で幕内入り。
1972年日本復帰後の国勢調査では3万人台も記録していますが、1985年以降は4万人台を維持しています。
[88800] 2015年 9月 15日(火)18:45:16hmt さん
三万
一時期、石炭産業などに支えられて「市」になったものの、社会構造の変化により人口が減少した「市」に関する話題が出ています。[88789][88790]
その際の重要な指標になる数字が、「人口 30000人」です。

地方自治法第八条第1項は「市となるべき普通地方公共団体は、左に掲げる要件を具えていなければならない。」として、4要件【2~4号省略】を示しています。
一  人口五万以上を有すること。

それなのに、何故「人口 30000人」が指標になるのか?

言うまでもないことですが、(旧)合併特例法時代から 合併新法にかけ 2010/3/31まで継続していた「三万市特例」[40463]によって多くの「市」が誕生した。その既存事実があるからですね。

市になるための人口要件。この変化を時系列により詳細にまとめた むっくん さん の記事は、hmtマガジン 市と町の違い に収録されています。
なお、省略した4号に関連する都道府県条例については、アーカイブズ があります。

「三万」については、 祝!30000番記念地名編 という じゃごたろ さん の記事があります。
ここで紹介されている「三万谷」は、戦国大名・朝倉氏が本拠とした越前国一乗谷のある 足羽川流域で、「一乗谷」の上流側に隣接する左岸支谷です。越美北線「三万谷トンネル」は、この2つの支谷を隔てる山地を貫く形です。地理院地図

余談:歴史地名として有名な「一乗谷」は、現代の住所地名は「城戸(きど)ノ内町」となっていました。朝倉氏の栄光だけでなく、地名も消滅しているようです。
そう言えば、織田信長に滅ぼされた「一乗谷」だけでなく、織田軍団の中で越前の覇者となった柴田勝家の「北ノ庄」も、江戸時代になると「福井」[64833]に改められ、消滅地名になったのでした。

「三万」地名に戻ります。
前記[30003]の地名表記が 地名コレクションで 平成合併後の表記に改められているのはよいのですが、秋田県男鹿市「払戸三万場」は、Mapionにあるように「払戸三萬場」なのではないでしょうか。すぐ近くには 「福川三萬把」 という地名もあります。

ここで、グリグリさんへのお願いを一つ。
アーカイブズが原則として編集を中止していることは承知しているのですが、グリグリさん提案によるもの でもあり、特別に [30000][30008][30021][30025]などを追加していただけないでしょうか。
特に[30025]は、「全国の市・十番勝負」のきっかけが 落書き帳30000番台突破記念 であったことを示しており、歴史的価値があると思います。

この記事の「落ち」をつけておきます。
実は、hmt誕生30000日の記念書き込みだったのでした。次の目標は 40000日? そりゃ無理だ。
[88789] 2015年 9月 13日(日)13:58:14hmt さん
Re:「山田」考 
[88785] グリグリ さん
「山田」に関する変遷情報検索につき、各種の一覧を挙げていただき有り難うございます。特に
全国の山田郡の一覧

検索文字を入力する部分は単に「自治体名検索」となっていますが、それより前に記された「検索対象」の項目では「自治体名欄」「変更対象自治体名/変更内容欄」「郡名欄」が示されており、「郡名欄」にチェックを入れるように設計されていたのですね。この点を見落としていました。

福岡県山田市の後継・嘉麻市には(中略)上山田と下山田の住所表示(大字?)が残っています。

以下、筑豊の山田 に関する 栄枯盛衰の記録です。

[88764]にリンクされている “「山田」の変遷情報検索結果” を見ると、1889年に成立した「嘉麻郡熊田村」は廃置分合のないまま1955年に「山田市」になっています。
その後も僅かな編入だけで2006年の平成合併に至っていますから、YT さん [84549]で紹介された力作 「市区町村別人口 Ver. 0.10」を見れば、「筑豊の山田の栄枯盛衰」を人口から知ることができます。

1889年の町村制施行時に嘉麻郡上山田村・下山田村・熊ヶ畑村の3村が合併し、合成村名の「熊田村」となる。
1896年穂波郡との統合で郡名が「嘉穂郡」に変る。1898年末の日本帝国人口統計 1999人。YT人口表【このように略記します】No.19375
この時代は筑豊炭田や若松港への石炭積出用の鉄道の発展期であり、筑豊鉄道は九州鉄道への合併後の1901年には 上山田まで延伸されました。
上山田駅の隣には下山田駅もありました。いずれも現存しませんが、山田駅[88786]の仲間です。

九州鉄道[61266] 国有化後20年ほどは 上山田が 筑豊本線 の終点でした。
1929年に原田(はるだ)まで全通した線が筑豊本線になると、飯塚-上山田間は「上山田線」になりました。

時代も目的も違いますが ついでに書いてしまうと、1988年 JR九州の手で全線廃止された上山田線には 上山田-豊前川崎という区間もありました。これは筑豊の石炭を若松港でなく苅田港に輸送する計画で作られた鉄道です。
しかし、1966年という開業時には 既に筑豊炭田が衰退し、時代遅れになった鉄道が本来の目的に使われる機会はありませんでした。

石炭産業に活気があった時代に戻ります。1908年末 3535人、1913年末 8724人、1920年の国勢調査では 15569人という 熊田村の人口増加ぶりは 炭坑の発展を物語っており、熊田町(1924)を経て 1925年に嘉穂郡「山田町」として「山田」が復活した年の国勢調査は 16143人【YT人口表 No.19373】。1940年には戦前最高の 31986人。

戦後の石炭増産時代、1950年山田町の国勢調査人口は 36379人。1954年の単独市制で「山田市」になりました。
しかし、山田市になってからの人口は 1960年には辛うじて市の体面を保つ 30140人【YT人口表 No.19230】だったものの、10年後には半減。2000年国勢調査では歌志内市に次ぐワースト2の 11686人に転落しました。
宮脇俊三さん[88004]が中央公論社の現役編集者であった1975年に、『時刻表2万キロ』の旅で乗車した第3章にも、次のように記されていました。
車内は淋しすぎるほど空いている。山田市は炭坑都市であるが、いまは人口が1万5千に減ってしまい、市制返上の話もあるという。

2006年の平成合併では 稲築町【YT人口表 No.19398, やはり1950年に最大人口44514人を記録し、2000年は19823人】などとの合併により市の体面をやっと保つ形になりました。
しかし、合併の結果 市名については 「山田」から 変わらざるを得ないことになりました。
その名は、1896年統合前にこの地域の郡名であった「嘉麻」の復活でした。嘉麻市の 2010年人口 42589人【YT人口表 No.19252】。
[88788] 2015年 9月 13日(日)11:51:29hmt さん
堺の住所、「丁目」はなく「丁」
[88747] _ さん
60年近く前のことです。新卒の私は 堺の会社に就職することになり、荷物の送り先として会社から連絡された住所を見て、「目がない」ので 驚きました。
新任の日経支局長と同じような経験の記憶が、今回の記事によって甦りました。

この落書き帳では、アーカイブズ ちょっと変わった町名の雑学 に紹介されている 堺市のサイトを知りました。
リンク先のURLが変っているので、現在のページ を付けておきます。
堺市役所に取材した日経記事にも、ほぼ同じ内容が記されています。

最後に、hmt 過去記事集です。 
[88782] 2015年 9月 10日(木)18:23:06hmt さん
「山田」という地名
[88764] グリグリ さん 47都道府県すべてに存在する地名 「山田」
現自治体は岩手県の山田町のみです。

JR東日本による山田線復旧後の三陸鉄道移管については 既に関連記事[86828][87385][88294]がありました。

それはさておき、グリグリ さん による今回の調査のリストで、消滅前自治体の列を見て驚きました。
かつて山田町また山田村であった地域のうち、県内の少なくとも一つの自治体では 「山田」の地名が現代でも住所地名として残されているのですね。例外は香川県など3県のみ。

地形と土地利用の代表例を組み合わせた「山田」という地名は、考えてみれば 地名の王道でした。
市町村名の文字頻度分析でも上位を占めています。
日本中に溢れていた地名だから残ったのだ。そのような解釈もできますが、昔から馴染んだ地名が失なわれつつある現在、これはやはり「類まれな結果」なのでしょう。

しかし、かつて「山田」を代表した地名であった三重県宇治山田市[79347]の後継自治体・伊勢市には、近鉄の宇治山田駅があるものの、「山田という町名」は見当らないようです。
もっとも、[32564]グリグリさんによると、「山田」という名の自治体は 昔から存在しなかったようですが…

福岡県山田市の後継・嘉麻市には山田庁舎の所在地「上山田」などの町名がありました。
しかし、機械化した農作業に適さない「山田」が現実に失われつつあるのと並行して、地名の「山田」も多くは失われてゆくのでしょう。残念です。

三重県と言えば、かつて 山田郡山田村 もありました。
そこで、本題の「47都道府県すべてに存在する地名」からは離れるのですが、市区町村変遷情報に登場する全国の「山田郡」を検索してみようと思いました。しかし、「変遷情報検索」では うまく検索できないようです。

群馬県山田郡は 平成合併で消滅するまで 長い間存続していました。
三重県山田郡香川県山田郡とは、明治期の郡統合で消滅しました。

しかし、冒頭で例外3県とした香川県にしても、昭和合併により「山田」の名は 町名で復活しており、その自治体名が消滅した後も 高松市山田支所山田中学校などに使われています。

yamadaさん ご無沙汰ですね。地名での登場を機会に 落書き帳に書き込んで、こんな色 のタイトルバーを また見せてくださいな。
[88769] 2015年 9月 8日(火)15:27:07hmt さん
1976年に撮影された小幌駅付近のカラー空中写真
[88742] 山野 さん
Wikipediaによると、開業当時(戦時中の1943年)には民家もあり、小幌海岸海水浴場の利用客もいたとのこと
…というのがあるけど、此の当時の画像なんてのは残っているんでしょうか?

「開業当時に民家があった」ことについて、現在のWikipediaは 2015/8/14の朝日デジタル記事を出典として示しています。
既に[88766] k-ace さん のレスに紹介されていますが、そこには「【豊浦】町によると、70年代半ばごろまでに海辺の集落が消滅し」と記されています。この出典の日付8/14は 7/25に記された[88294][88296][88297]よりも後であり、当時のWikipediaには出典が示されていなかったように思われます。

それはさておき、ご質問の趣旨は当時(約40~70年前)の画像の存在です。
国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で小幌駅付近を見ると、周辺も含めて70件の画像がヒットし、小幌駅開業の翌年である1944年撮影の写真もあります。しかし、閲覧すると大部分の写真は不鮮明です。
最も鮮明であると思われた写真は1976/10/28に撮影されたカラー写真(CHO7612- C6A-31)でした。まさに海岸の集落が消滅した頃。
幸いなことに、この空中写真は Wikipediaにリンクされているので、アクセスも容易です。

山の間に挟まれた駅前には青屋根の駅舎らしい建物等が見え、海岸近くにも青屋根が2棟あります。海岸にあった民家【の残り?】でしょうか。海岸は小さいながらも砂浜らしく、これが海水浴場でしょう。
この海岸と駅との間だけは、樹木が茂っていない空間になっています。

[88294] k-ace さん によると、2011年訪問時に「獣道を歩いて海岸に行くと」と記されています。
この35年間に生い茂った樹木によって 駅前と海岸の間にあった空間も 周辺と同じような森になり、秘境駅訪問者だけが通る「獣道」状態に変化したのだと思います。
[88762] 2015年 9月 7日(月)14:52:46hmt さん
八幡製鉄 と ビハリ・ボース直伝のインドカリー
[88759] 白桃 さん
北九州市成立前から、当地の製鉄業に翳りが見え始めていたのでしょうか?

八幡製鉄所の歴史を見ると、1959年(S34)からの第三次合理化では、戸畑地区での能力増強、八幡地区での高炉集約に加えて、堺・君津での一貫製鉄所実現に向けての建設開始と 旺盛な設備投資が行なわれている様子を うかがうことができます。

1960年に池田内閣が策定した「国民所得倍増計画」は、1961年からの10年間で GNPを倍増させることを目標に掲げ、実際には 10年間で約4倍の成長を達成したと言われています。
若戸大橋開通・北九州市発足と続いた時期は、この計画が走り始めた頃であり、当時の経済を支えた「重厚長大産業」の柱である製鉄業は、成長産業でした。

第四次中東戦争(1973)を端緒とする石油危機の影響によって経済成長率が急速に低下したのは昭和49(1974)年度で、わが国の産業構造が、省エネ・省資源型技術を裏付けとした「軽薄短小」路線へと転換したのは、昭和50年代でした。

マクロ的な社会背景はさておき、青桃さん?の就職先が 新宿の企業 になった という背景も 探ってみました。

戦後鉄鋼業の設備合理化期の展開という論文 のp.43(9コマ)に、当時の八幡製鐵の売上高・税引前利益が出ていました。
これを見ると、昭和37年(1962)は「岩戸景気」と「オリンピック景気」との谷間でした。

ちょっとした景気の谷間のせいで、社会人になる門出で 進路を変えられてしまったのは、ご本人にとってはショックな出来事だったと思います。
でも、これが 人生を成熟させるプロセスの中で良かったのか、悪かったのか? 
それを判断するのは、結果次第ということなのでしょうね。

思いがけず 笹塚で 美味しいカレーにありついた。
弟の白桃さんにとって ラッキーな結果をもたらしたことだけは 間違いないようです。[79360]

余談
伊賀の土豪出身の松尾芭蕉は、母が百地(桃地)氏出身と言われれており、深川で「芭蕉」を名乗る前の俳号は「桃青」でした。百地三太夫と言えば有名な伊賀忍者。
白桃さんの一族とは無関係なのでしょうが、青桃という名から 「もも」の付く人物を連想してしまいました。
[88753] 2015年 9月 2日(水)23:11:30hmt さん
佐賀県藤津郡多良町から太良町多良へ
[88731] スナフキん さん
自筆で書けない地名がありました。いや、書いたけど字を間違えたと言った方が正しいですね。
佐賀県太良町。

「釈迦に説法」であることは自覚しながらも、これを題材とした「地名」についての感想。

「佐賀県太良町」のような都道府県市区町村名は 「地名」としても使われますが、その第一義は「自治体名」です。
では ラジオ体操会場になった学校のある「地名」は何か? 
私としては、学校名にも使われている「多良」が 正統的な地名 であるように思います。
これを「佐賀県多良町」と書いた地名感覚を、簡単に「間違えたと」と捨て去るのは惜しいのではないか。

そんなことを考えながら、平凡社『日本地図帳』を確認してみたら、最も大きな字で目立つのは 自然地名の「多良岳」でした。次いで 役場の位置に記された「太良町」。
そして川の北側・海沿いにある集落「多良」は最も小さな字でした。

日本地図という観点からは、やはり「自治体名」を転用した「便宜的な地名」が、本来の居住地名よりもわかり易く、優先されるのが現実。これが実情なのでしょうか。

もちろん、スナフキん さんが 「自治体名称」を書くつもりだったのならば「字を間違えた」ことになります。
住所表記の「佐賀県藤津郡太良町大字多良」に基づけば、「多良町」は「大字多良」と表記上は違うことになります。

太良町のプロフィール にもあるように、食物が豊かで「足る」という言葉「たら」を由来とする地名のようです。
古代の発音を写した「託羅」はさておき、地名としては 意味も優れた「多良」が定着し、町村制よりもずっと前からの「多良村」を引き継いだ「多良町」は 1955年まで使われました。

それが昭和大合併の際に、「太良町」に変えられたのですね。
新設合併に際しては、相手となる大浦村に配慮する必要があった。
その結果、「大」に近い「太」を用いた「合成地名表記」を採用した。そんなところでしょうか。

このような経過を見て、思い出した類似事例が 「島根県邇摩郡仁摩町仁万」[41861] です。
こちらは「にま」の漢字表記が多数あり、町村制施行時には邇摩郡仁万村でした。
1954年の新設合併に際しては 中心となる仁万町と 郡名に使われた漢字を合成して 「仁摩町」になりました。
こちらは 記事から4ヶ月後の平成合併で 邇摩郡が消えてしまいましたが、大田市仁摩町仁万という地名も、山陰本線仁万駅も健在です。

同音地名連続の住所 と言えば、スナフキん さん ゆかりの地「船川」[15072]もあります。アーカイブズに収録されていない過去記事[15091][48562]もあります。
太良町多良についても、[43017] 佐賀県 さん からのレスをいただいていました。
[88708] 2015年 8月 26日(水)18:14:05【1】hmt さん
刷り込み
[88706] 山野 さん
今言った都市、既に現存しないよって言ったら「何時の間に無くなったの?」だってさ。

1972年秋 当時の新潟県新井市に長期出張した時に、自分でも似たような経験をしたことがあります。
ローカルニュースで上越市で起こった火事の報道。最初は「どこ?」という感じでした。

新井の隣にあるのは高田、その先は直江津。
最初の学習 による「刷り込み」は、簡単には修正されません。
上越市発足から1年半ほど経過した時期のことでした。

北九州5市 も刷り込まれた順番で覚えています。

ついでに
石炭を採掘するための「アナ」である 「炭坑」 という言葉も、最初はこの字で習ったと思います。

しかし、PCで「みいけたんこう」と入力すると、出てくるのは「三池炭鉱」なので注意が必要です。
「鉱」は本来は「未精錬の金属」なのですが、三井三池炭鉱ではこの字が使われていたのでした。
もっとも、炭坑節の歌詞ではタイトルに合せて「三池炭坑の上に出た」となっているようです。

【追記】
「三池炭鉱」の名は、明治22年(1889)の払い下げより前、官営時代からの名称を引き継いだものでした。三井の歴史
三井は神岡鉱山も一括経営したので、会社名「三井鉱山」を含めて「かねへん」の字を使うことに違和感はなかったのでしょう。その「三井鉱山」という社名も 2009年に変更されていたのでした。新聞記事【追記終】

通称「北炭」は 北海道炭礦鉄道[61271]→北海道炭礦汽船。
常磐炭礦[87859]も同じく「いしへん」の字でした。
[88707] 2015年 8月 26日(水)16:46:11hmt さん
♪月が出た出た 月が出た ◯◯◯◯の上に出た
[88702] かぱぷう さん
炭鉱節の二番にも「…心 門司門司 気は佐世保」と唄われているように、モジモジが過ぎたようです。

ふくよかな顔に黒い目。これを「顔は福岡 目は久留米」と表現し、「足は長崎 手は肥前 こころ門司門司 気は佐世保」と地名づくしで続けて「どこの人?」と問いかける替え唄があるのですか。初めて知りましたが、なかなかの出来栄えです。

それはさておき、地理に関心のある者としては、世間に流布している「炭坑節」の歌い出しが気になります。
タイトルの「◯◯◯◯」部分は「三井炭坑」や「家(うち)のお山」と唄われる場合もありますが、「三池炭鉱」の場合が多いように思われます。

折しも話題になった「伊田と後藤寺」[88704]を含む 筑豊[72220]の 田川地区。
その民謡と記憶している「炭坑節」の歌詞に、三池とは?

田川市のサイト を確認してみました。
炭坑節が広まるにつれ、そのルーツをめぐって本家争いが起こった時期もあった。幸いなことに【小野芳香氏等による明治・大正の記録に基いて】炭坑節の元唄は まがうことなく 田川の炭坑で 選炭作業に従事する選炭婦が歌った選炭唄であった。

もう少し資料を探したら、炭坑節のことなど という記事がありました。
2014/5/16 に転載されている動画では、地元のガイドさんが「伊田の竪坑の~」と唄っています。
2014/5/13-14には、『炭坑節物語』(深町純亮、海鳥社)によると、伊田尋常高等小学校の教員・小野芳香が明治43年頃に編曲した「伊田機械選炭節」が、現在の炭坑節の起源と記されており、追記の「炭坑節」歌詞では「伊田の炭坑の上に出た」となっています。
このブログには、同じく『炭坑節物語』に言及されている【大正初期の】「奈良丸くずし」を元唄とする説も紹介されていましたが、「伊田の炭鉱バージョンは明治43年頃に完成しているので、この説は誤りということになる。」という評価でした。(2014/5/14)

「奈良丸くずし」3番の歌詞「月が出た出た月が出た/セメント会社の上に出た/東京にゃ煙突が多いから/さぞやお月様煙たかろう」が元唄とする説については Wikipediaにも記されています。しかし大正2年とのことなので、やはり明治43年の小野芳香より後になります。
Wikipediaには、戦後の大流行の中で、一部の出版物や歌詞カードの誤記から、三井三池炭鉱で生まれたという誤解が広がった と記されています。三井炭坑→三池炭鉱は、いかにもありそうな誤記と思われますが、誤記とする根拠の記載は見当たりません。

落書き帳の 地名の入った歌コレクション を見たら、「赤坂小梅/三池炭坑節」と、三池の地名【大牟田市】が2回収録されていました。
赤坂小梅と言えば福岡県田川郡川崎町出身で、小倉から上京した鶯芸者です。お座敷唄「炭坑節」をレコードに吹き込んだのは1940年近くでしょうか。音源の年代は不明ですが、『正調炭礦節』では「三井炭坑の上に出た」と唄われています。

田川出身の小梅が、紅白歌合戦(第1回は1951年正月ラジオ)の際に唄ったのが『三池炭坑節』。
「三池炭鉱の上に出た」という歌詞が普及した謎を解く鍵は、この辺にありそうだ。私はこのように考えました。

お座敷唄と紅白との間にあったもの。それは戦後間もない時期の炭坑節大流行に関係する 1948年のレコード4社の競作でした。Wikipediaによると、この競作で 小梅の座敷唄を新たな伴奏で再吹込みしたコロムビア以外の3社では、現在盆踊りで唄われている節が採用され、結果的には小梅のレコードは他社に水をあけられてしまったそうです。
「後に小梅も盆踊り向きの節で再度ステレオ録音にて吹き込んでおり、その音源は盆踊りで盛んに用いられた。」と続いています。その際に、節だけでなく 歌詞の方にも「三池炭鉱」が採用され、従来の【田川発祥】お座敷唄と区別するために『三池炭坑節』としたのではないでしょうか。

レコード4社の競作によって もたらされた 商業ベースでの成否。
田川由来の民謡『正調炭礦節』と、マスコミを通じて全国に拡散した『(三池)炭坑節』との分岐点はこれだったのではないか?

「炭坑節」は全国に知れ渡りました。
しかし、【誤記にもとづく?】歌詞のために、本家の筑豊・田川市の影が薄くなってしまった。
この不本意な結末がもたらされた「いきさつ」について、私はこのように推測しています。

田川市の人口については白桃さんの続編があるでしょうが、1955年国勢調査では10万人を越えました。
しかし、その後のエネルギー事情の変化による炭鉱の閉山があり、市の人口は半減しています。

失われたものと言えば、石炭産業と人口以外にもあります。
炭坑節で「一山 二山 三山越え」と歌われていた三連峰の香春岳【田川郡香春町】。
この山の姿も、石灰石採掘により変貌しています。一ノ岳が平らに削られてしまった姿の 地理院地図

最後になりましたが、田川市サイト内の『正調炭坑節』 をリンクしておきます。
「月が出た出た…」は 1番ではなく、3番とは知りませんでした。
[88670] 2015年 8月 18日(火)13:12:35【2】hmt さん
Re:百千家満&地方銀行
【追記2】を機会にタイトルを改め、記述の順番も それに合せました。

[88665] 千本桜さん 難読地名・「百千家満」【おちやま】[88659]関係
八百屋はポピュラーで、地名好きには八百津もポピュラー。

なるほど。自分でも [88550]で八百津のことを書いたばかりでしたね。
大修館新漢和辞典には、「百」の訓読みとして、「お」の他に次のような言葉が挙げられていました。
--------
と、はげむ、も、もも、百千万億(つもる)、百女木(どめき)、百目木(どうめき、どめき)、百百(ささ、どうど、どど)、百足(むかで、ももたり)、百草(もぐさ)、百済(くだら)、百槻(どうつき)
--------

二百、七百、九百については、「お」と読むかどうか不明です。

「十九百」と書いて「つづお」と読む名字があるそうです。出典

【追記1】
大和言葉の数詞 というページに、次の記載がありました。
100(もも)  百田光治→ももたこうじ(あの力道山の本名)、百恵も・・
二百以降は(お)で、二百(ふたお )みお よお いお むお ななお やお ここのお ・・となる。
         八百屋→やおや
【追記1終】


[88665] 千本桜さん 地方銀行の支店のある市[88660]関係
なんでこの都市に支店が?と感じたもの   横浜銀行の桐生支店

横浜と桐生とは 「関東シルクロード」で つながっていました。直接の言及ではないが、関係記事
[30342]で言及した 初等科地理

【追記2】
横浜銀行桐生支店
「桐生」では検索されませんが、既に ぺとぺとさんによる 昨年の記事[86217]で 言及されていました。
【横浜銀行は】世界遺産となった製糸場とも人的、資金面でのつながりが深かったようで、経済圏の異なる遠く離れた県に3支店(もうひとつはノコギリ屋根の織物工場で有名なK市)を有する理由もなんとなく頷けます。

阿波銀行横浜支店
[88660]の表は「支店のある市」を対象としているので、横浜が東日本で唯一の支店に見えるのですが、東京23区内に4支店があることを考えれば 横浜に支店があっても不思議はないと思います。

秋田銀行いわき支店
沿革 を見ると、東京支店は戦後の1956年なのに、福島県内には 1931年という古い時期に複数の支店で進出しています。何か特別の関係がある地域と思われますが、それ以上は不明。

スルガ銀行仙台支店
1895年に日本最小の銀行(資本金1万円)として設立した銀行ながら、独自の活動が注目される銀行です。創業期の1900年に早くも東京進出。第二次大戦中には政府による一県一行の方針を断固として拒否。沼津は戦後早々に湘南電車で東京と結ばれたこともあり、50年ぶりに東京に再進出。京橋方面から望むと真正面という絶好の位置にある[75365] 日本橋北詰のスルガ銀行東京支店。仙台支店は、全国を見据えた広域店舗と位置付けられているようです。

地方銀行の支店所在地については、1年前にも話題になりました。関係記事
【追記2終】
[88659] 2015年 8月 16日(日)16:41:49hmt さん
災害を連想する文字を嫌って 表記を変えた村
[88656] 瀬戸家さゞなみ さん
城山トンネルではないのですが、初投稿の記事[21334]に記されていた難読地名に関係したレスを書きます。
兵庫県宍粟郡一宮町【10年前から宍粟市一宮町】「百千家満」

「宍粟市」も なかなかの難読ですが、「百千家満」を「おちやま」と読むのには脱帽です。
百千家満自治会 には、江戸時代には「落山」と書かれていたが、風水害による落石を嫌い、「百千家満」の表記が現れたと記されています。
「ちやま」に「千家満」を宛てたのはよいとして、「お」を「百」に変えたのは荒療治。

災害を連想する文字を嫌って改めた事例は、私の地元にもあります。埼玉県入間郡南畑村、現在の富士見市南畑地区。
ふじみ・発見No.27
『新編武蔵風土記稿』には、「村名は元 難畑 或は 難波田 と書せしが、當村は荒川と新河岸川の下流に添し地にて、屢水災に罹りしを、土人憂ひて 村名の文字悪き故ならんと 改めたき由、安永元(1772)年 御代官久保田十左衛門が支配たりし時、公に訴しかば 松平右近將監より下知ありて、今の如くに書改めしと云、」とあり、この地が 水難を受けることが多かったことを憂いて 現在の文字に改めたとされています。

こちらは幕府の代官に願い出て、公式に改名した記録が残っているようです。
その結果、読みやすい村名になりましたが、もちろん改名したから 水害がなくなる というわけではありません。
明治43年8月の水害では、宗岡村のすぐ上流にあたる南畑村の小学校沿革にも大洪水が記されています。
現代になってからは、治水事業がようやく実を結び、殆んど水害のない南畑地区が実現しています。
[88648] 2015年 8月 14日(金)22:18:03hmt さん
造園業
[88640]で「国勢調査と農林業センサスとは 調べ方が違う」と書いた時には、単純に事業規模の違いではと思っていたのですが、[88644] ぺとぺと さん により、もっと根本的な「農業」の意味を指摘していただきました。

改めて、農林業センサス における用語の解説を調べました。
p.146の記載を見ると、一定規模以上の栽培面積で農林産物の生産を行う「花き栽培」事業を行う者は農林業経営体に該当するようです。
しかし、統計表 を見ると、浦安市は「-」となっています。
東京ディズニーリゾートとしては 花き栽培「事業」をしていないようです。

一方、国勢調査における従業者の職業データとしては、ご指摘のように 農業従事者に該当する のでしょう。
[88640] 2015年 8月 14日(金)12:27:55hmt さん
浦安にいる農業従事者
[88639] 白桃 さん
ご存知のことと思いますが、EMM さん の記事[56616] を リンクしておきます。
国勢調査と農林業センサスとは 調べ方が違う。それだけの問題だと思います。
[88632] 2015年 8月 12日(水)18:55:16hmt さん
北陸?
[88627] N さん
上のページで気になったのですが、なぜ岐阜の聖徳学園が北陸に入っているんでしょう?

確かに岐阜聖徳学園高校の北陸所属には違和感があります。
しかし、分野により「北陸」の意味する範囲は異なるのでしょうね。
浄土真宗本願寺派の学校 という前提で考えれば理解できるのかもしれません。

私もこの分野に詳しいわけではありませんが、北陸と言えば真宗王国です。
越前から飛騨へ、更に分水嶺を越えた美濃へと布教活動が行なわれ、岐阜も北陸の延長と認識されるに至ったのではないでしょうか。

余談ですが、行政区分としての「北陸」。
昔の行政区分・五畿七道の7ヶ国は 現在の北陸4県であり、北陸農政局などの範囲もこれを踏襲しています。
しかし、富山・石川・福井の3県を北陸とする用法も広く使われています。国の行政機関では北陸財務局(新潟県は関東)、北陸総合通信局(新潟県は信越)。

新潟市にある 北陸地方整備局 は、管轄区域内の関係県が 新潟、富山、石川、山形、福島、長野、岐阜、福井に及ぶと記していますが、新潟県に流れ込む川の流域はすべて含み、群馬県の一部に及んでいるようです[42945]

北陸信越運輸局、東海北陸厚生局のように複合地域名で使われる事例もあります。

民間でも、北陸ガスは新潟市ですね。
さすがに、岐阜市に本拠地があって「北陸」を名乗る事例にはお目にかかっていません。
[88614] 2015年 8月 11日(火)13:40:27【1】hmt さん
市町村の隣接
[88609] グリグリ さん
十番勝負においては従来からマピオンをベースに判断していることもあり

十番勝負は外野席から眺めているだけで、従来からの慣行を知りません。
一般的な意味での地理情報への関心に基づいて、特別な慣行が存在する問題に口を挟んでしまったのかもしれません。
それにもかかわらず、詳細な調査に基づく回答をいただき有難うございます。

◎葛城市の位置と地勢 【引用省略】河南町する記載されていません。

責任ある立場で書かれた記載にも、このようなことがあるという実例。これほど明白な事例でない場合、「資料には隣接に挙げられていないから非隣接である」と決めつける虞があり、このような解釈が危険であることを教えています。参考:尽く書を信ぜば…

資料の「隣接」の意味が、場合によっては境界線上の直接隣接だけではなく、…

資料中での記載環境を考慮する必要があるでしょうね。
例えば[87857]資料Cで挙げた千早赤阪村地域防災計画。p.5 村の位置を示す小縮尺の略図に示されている自治体名は、隣接3府県の他に、千早赤阪村と隣接する5市1町に限られています。自治体の防災という見地から、隣接と認識している範囲を示しているのだと思います。問題の葛城市は点接触による隣接自治体になっています。

県境の交通路 には大阪府・奈良県境54.6km地点に、千早赤阪村・葛城市のペアが記録されています。同じく54.6kmの香芝市は誤記でしょう。>futsunoおじさん

地理院地図やマピオンは大縮尺から小縮尺まで各種の図があり、小縮尺では4市町村の点接触に見えていた部分を拡大することができます。マピオンでは 14スケール【2万5千図相当】になると、河南町南東にぶら下がった盲腸部が見えてきて、葛城市と千早赤阪村との接触を妨害しています。

4自治体の他、国土地理院、マピオンなどに問い合わせてみようと思います。どんな回答になるか楽しみです。

同感。
[88598] 2015年 8月 9日(日)12:40:16【3】hmt さん
葛城市は千早赤阪村と隣接しているのでは?
[88596] グリグリ さん
現時点ではマピオン他の地図表記や河南町公式HPの記述などから、【葛城市は千早赤阪村と】隣接はしていないと判断しています。

既に[87857]において、資料Aと資料Cとを示して、葛城市と千早赤阪村との隣接、つまり御所市・河南町を含む4市町村の点接触の可能性を論じています。
【追記】
「4市町」になっていたので、「4市町村」に訂正しました。
貴重な存在の「村」を落すとは何事か! と重箱の隅をつつかれる前に気がついてよかった。【追記終】

資料Aは、葛城市発足前の資料だったので無視されたのかもしれませんので、出題の趣旨に沿う最近の資料を改めて提示します。

葛城市のサイト内を検索すると、資料Aやその改訂版(葛城市発足後)を含む複数の資料がヒットしますが、最近のものとして平成27年3月資料 のp.42記載を示しておきます。
葛城市は葛城山々の麓に位置し、奈良県の西北部、北葛城郡の西南部にあり、北は香芝市、東は大和高田市、南は御所市、西は大阪府南河内郡太子町、河南町、千早赤阪村と隣接しています。

河南町サイト【資料D】には 御所市との隣接が記されていますが、4市町村の点接触を否定するものではありません。

マピオンでは確かに葛城市と千早赤阪村との間に河南町が入り込んでいます。

地理院地図の#14図【2万5千相当】では点接触に見えるのですが、2段階拡大した#16図では 僅かな長さですが 葛城市と千早赤阪村との「境界線」が存在して、御所市と河南町との隣接を阻んでいるように見えます。

【更に追記】
今回記事の最後の部分【WEB地図関係】は、【第三回】北陸新幹線金沢開業記念 ペアシティ七番勝負問三【村のみでつながる市のペア(直接隣接していない)】想定解の答え合わせ記事中に事実上記されていました。
[87828][87838] グリグリ さん
Nさんが挙げられた次の3ペア【千早赤阪村と隣接する3市と葛城市のペア】は千早赤阪村と葛城市は非隣接なので該当しません。
[87834] N さん
【千早赤阪村と葛城市は】Google MapやMapion、Yahoo地図では明らかに隣接していないのですが、地理院地図【#17図】やMapFanでは隣接しているように見えます。
[88581] 2015年 8月 6日(木)23:41:57【2】hmt さん
Re:被曝70年
[88574] ペーロケ さん
当時、「今後70年間は草木が生えない」と言われたそうです。その70年という数字の出所は分かりませんが、実際は2、3年後には雑草が生えて生物が戻ってきたとか。

「70年不毛説」は、残留する放射性物質汚染への警告としては なかなかインパクトがある言葉です。
それ故かもしれませんが、事実と違うことが広く知れた後まで 語り継がれています。

基本的には、植物の逞しい生命力を過小評価した誤りが大きいと思いますが、広島について言えば、被曝翌月の枕崎台風による豪雨で「除染」されたことも無視できないようです。

枕崎台風による土石流は 被爆者治療にあたっていた 大野町の陸軍病院を直撃し、呉市でも急傾斜地崩壊で多数の死者を出しています。その一方で、この台風による豪雨は汚染物質の多くを洗い流し、被曝地に戻った人々への放射線による健康被害も 軽減したものと思われます。
ヒロシマの記憶 は、被曝2ヶ月後に撮影されたフィルムが、爆心地周辺に芽吹いた、様々な命をとらえていることを伝えています。

「70年という数字の出所」ですが、1945/8/8の新聞に掲載されたINS取材記事で、コロンビア大学のハロルド・ヤコブソン博士の談話にあった「四分の三世紀近く」が不毛期間の出所であり【注】、日本に伝えられているうちに 75年や70年になったようです。
【注】
Google Booksにある『From Hiroshima to the Hydrogen Bomb: American Artists Witness the Birth of the Atomic Age』のp.42を見るとDr. Harold Jacobsen となっており、p.58の注61には【for nearly three-quarters of a century】と記されていました。

マンハッタン計画に参画した科学者による 放射能の危険性を強調した警告が新聞に出ると、陸軍省【グローヴズ将軍やJ.R.オッペンハイマー博士】は「残存放射能はその後急激に消滅したと信ずるにたる十分な根拠がある」と直ちに反論し、ヤコブソン博士も翌日自説を撤回したとのことです。広島の視線 
原爆が日本に多大の被害をもたらしたことは勿論ですが、加害者側の米国内にも心を傷めた人がいました。
「75年不毛説」のヤコブソン博士はその1人だったようです。資料

建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々

8月6日に疎開作業の勤労動員当番で広島に行き被曝した人。大竹に住んでいた時に近隣の人から聞きました。

被曝4日後のヒロシマ、360度パノラマ写真をリンクしていただき、有難うございます。
撮影地点は京橋川の稲荷橋西詰。1945/8/10当時の下柳町(現・中区銀山町)にあった3階建の旧広島東署の屋上。
それを元に10年前に作成されたパノラマ写真を高画質化した新作なのですね。朝日デジタル
現状のパノラマ写真も、ほぼ同一位置からの撮影のようです。

撮影地点は爆心地直下の産業奨励館より1km以上東側です。
象徴的なドームは 福屋百貨店の後になっているようで、確認することができません。
爆心地と反対の東側を見ると猿猴川に架かる広電の軌道のぐにゃりと曲がった姿。
灼熱地獄を想像させるものは、燃えないで残った残骸だったのでした。

【追記2】
ヤコブソン/Jacobsen などの修正を追記した後で、[88584] じゃごたろ さんの記事に気づきました。
コピペでなく直接入力したのは、短いタイトルではその方が楽だと考えたからなのですが、ご指摘のように「被爆」と「被曝」では意味が違っていましたね。

広島の場合、高空で炸裂した原子爆弾を「被爆」した結果、地上では 先ず通常兵器では想定外であった強力な熱線【ピカドンの「ピカ」】を主体とする「被曝」が起こり、続く圧力波【ピカドンの「ドン」】による建物倒壊、地上に降下してきた放射性物質からの放射線による「被曝」などにより被害が拡大したものと推察します。

全体を総括する言葉として、一般的には「被爆」が適切だったのだろうと思います。
それだけならば、「Re:被爆70年」の誤記だったとして修正することも考えられます。
しかし、ご指摘のように 原子爆弾を被爆したことにより被る被害は、通常爆弾や焼夷弾による「被爆」と異なり、熱線を含む放射線による「被曝」が重要な要素になっています。

せっかくご指摘いただいたことでもあり、新たな意味付けを加え、誤記を生かしたままのタイトルを残しておきたいと思います。
[88552] 2015年 8月 3日(月)19:21:13hmt さん
県道の起点・終点
[88454] じゃごたろ さん
川上村と秩父とを結ぶ道路についての話題。説明を加えて頂き有難うございます。関係記事

別の場所で撮影した案内標識に「秩父」が表記されているものがありました。
設置場所は 長野県道68号の起点・川上村梓山ながら、「県道とは逆に 東の山の中に分け入る林道」の 案内標識
そこには、「右の千曲川源流方面:行き止まり、左の秩父方面:通行注意」と大きく表示されていたのですね。
これならば納得できます。

県道の名前は「梓山海ノ口線」といい、川上村「梓山」が起点で南牧村「海ノ口」が終点になっています。

[88203]は、長野県から埼玉県に通じる道という視点で書いていたので、つい「林道に入る手前、県道の終点付近」と書いてしまいました。「長野県道68号」としては、梓山が「起点」であるということ。承りました。

県道の命名規則に関する過去記事[70793]を示し、道路法の規定や路線名のつけ方に関する通達について教えていただきました。
都道府県道を規定した道路法第七条では、「主要地」という言葉が、「市又は人口五千以上の町」と定義されており、道路標識の経路案内で用いる ルール2の「主要地」 とは別の意味で使われていることを知りました。
例えば上高地・志賀高原などは道路標識では「主要地」とされていますが、もちろん市でも町でもないので道路法の「主要地」ではありません。2010年に長野市に編入された信州新町や、現存する自治体の野沢温泉村も道路法の「主要地」失格です。

本題の起点・終点の区別に戻ると、「長野上田線」のような主要地間を連絡する路線【道路法第七条第一号に該当する路線】は、人口の多い主要地が起点とされています。これは、[70793]が「岡谷茅野線」を例示して指摘しているような人口逆転問題が存在するとしても、常識的に なんとなく理解できる規則のように思われます。

もっとローカルな県道、例えば川上村から秩父に通じている中津川林道と接続している「梓山海ノ口線」を考えてみます。
この場合は、川上村梓山も南牧村海ノ口も「主要地」ではなく、道路法第七条第1項の中で該当するのは第六号だけであると思われます。
前各号に掲げるもののほか、地方開発のため特に必要な道路

この法律だけでは、起点・終点の選びようがない。そこで通達が参考にされるのでしょう。
[70793]に紹介された(1)~(4)を見ると、交通上の拠点になる側を「終点とする」という考え方が見えます。
梓山は案内標識に示されたように、通行注意の中津川林道と行き止まりの山道に接続するのみ。
これに対して海ノ口は 佐久と甲州とを結ぶ国道141号が通じている。だから、こちらが「終点」になる。これで納得。

わからないのが、第六号に該当するローカル県道における「辺境から中心へ」という方向付けと、第一号に該当する幹線県道における「中心地から地方へ」という方向付けとが逆になっていることです。
第二号から第五号に該当する県道。これらも港湾・停車場など県道を設ける目的地を起点としているような気がします。
第一号の幹線県道だけは別として、「大部分の県道の起点は 県道を設定した目的地である」と考えてよいのではないでしょうか。

実は、先月 津久井の道[88047] を書いた際に、神奈川県道510号長竹川尻線や、同513号鳥屋川尻線の起点がいずれも西側【津久井町】で、相模原に近い【城山町】川尻でないことに気が付き、不思議に思っていたところでした。
今回の事例で、ローカル県道における「辺境から中心へ」という方向付けが 全国的なもの であることを知り、合点した次第です。
[88550] 2015年 8月 3日(月)13:23:59【1】hmt さん
伊岐津志を調べてみたが…
[88543] ぺとぺと さん
岐阜県加茂郡八百津町伊岐津志×××-×  伊岐津志は「いぎつし」と読むようです。
この地名、県名、郡名、町名、大字名がいずれも漢字とよみで文字数が一致しているところもすごくクールではないですか。

名称と読みの文字数が同じ市区町村については、第十六回・十番勝負の問八関連で k-aceさんの[75084]がありました。

それはさておき、「いわれ」のありそうな地名なので少し調べてみました。
岐阜県神社庁 には 4 件の神社がありましたが、残念ながら 有力な情報は発見できませんでした。

地図を見ると、酢の醸造元は木曽川の南岸です。現在は兼山ダムにより水没していますが、この付近は「八百津」という地名が示す木曽川舟運基地地帯として、古くから栄えたと思われます。
舟運から鉄道へと輸送手段が変化した後、名鉄の支線も通っていました。
末期は電車でなくレールバスに変っていましたが[77832]、これも 2001年に廃止されています。

八百津町は木曽川の両岸を占めていますが、伊岐津志のある南岸の 兼山ダムから下流は 可児市兼山になります。
2005年の編入前は可児郡兼山町(かねやまちょう)で、面積の狭い市町村ランキングの第2位[39317]であり、「長命な町名」[34842]としても名を馳せていました。

平成合併では、この地域の合併協議はすんなりと行かず、その痕跡が「飛地合併」という形で地図に残っています。
この地の城主が森蘭丸であったことは花笠カセ鳥 さんの記事をきっかけに知りました。
そして、地図を眺めて 木曽川北岸に複雑な境界線があり、こちらは昭和合併の傷跡であることを知りました[79299]

伊岐津志の由来調査は不成功でした。
しかし、落書き帳に蓄積された過去記事を紐解くことで、この地域についての情報を復習でき、理解を深めることができたのでした。

【追記】
四文字地名の過去記事
[88296] 2015年 7月 25日(土)14:54:49【2】hmt さん
室蘭本線小幌駅
[88293] 山野 さん
室蘭本線上にある秘境駅「小幌駅」も廃止される事に。

室蘭本線の室蘭-岩見沢間は、北海道炭礦鉄道が1892年(M25)に開通させた歴史ある鉄道です。
しかし、小幌駅の属する長万部-東室蘭間は国有化後に「長輪線」【輪=輪西】として建設された線で、1928年(S3)全通。
石炭輸送から始まった室蘭本線が、千歳線を併用して函館-札幌間のメインルートになったのは、「Occupied Japan」時代であり[54787]、その後 複線化も進みました。

問題の小幌。これは単線時代に 2つの長大トンネルの間の僅かな明かり部分で 列車の行き違いをするための信号場 として設置された施設ですが、仮乗降場として海水浴客などの利用に供されていたようです。正式の駅になったのは、国鉄からJR北海道になった1987年。
10年前には廃止を免れたという記事がありました[47613]

落書き帳メンバーが誰か訪問しているのではないかと思い、検索したら [78802] k-ace さん の記事がありました。
秘境駅の小幌駅(豊浦町・長万部町)を探訪
と記されているように、この駅は 胆振管内虻田郡豊浦町と 渡島管内山越郡長万部町との境界にありますが、廃止を打診された関係自治体は豊浦町だけなのでしょうかね。地図
もちろん、近隣に住家は皆無。駅自体の住所を確認しようと、JR北海道のサイトで調べたがみつからず。

内浦湾(噴火湾)海岸には岩屋観音の洞窟があるが、海岸に続く道には 夏場は草木が生い茂り 通行しにくい状態とか。
k-ace さん、探訪の結果は いかがでしたか?

【翌日追記】
[88294]を知らずに無視してしまったことをお詫びします。
更に[88297]の説明も加えていただき、有難うございます。
Wikipediaによると、開業当時(戦時中の1943年)には民家もあり、小幌海岸海水浴場の利用客もいたとのこと。
現在の写真の雰囲気からは海水浴など想像もつかず、大変な変わり様であることを感じます。
写していただいた東側の礼文華山トンネル入り口。単線時代には、現在は坑口がふさがれた中線も含めて 左側の2線で行き違いを行なっており、一見すると古そうに見える右側が 1967年開通の新トンネルなのですね。

礼文華(れぶんげ)峠越えの道は、蝦夷地の三大難所の一つだったそうです。
江戸時代から、明治27年(1894)に完成した準地方費道 長万部停車場室蘭線【旧国道】を経て 現在の国道37号 までの道について語る 江戸期に開かれた礼文華越えの道 をリンクしておきます。
【追記終】

落書き帳の初期、[832] Issie さんの記事に紹介されたように、この付近【小幌駅の少し西】は 太平洋側と日本海側とを分ける分水界まで 最短部では 250mほど という場所で、東に向う胆振国道(国道37号)も 一旦は 日本海側斜面(朱太川上流部)の 後志管内寿都郡黒松内町を経由するほどの地形です。

私も、この「くびれ」地形に注目した記事[72049]を書いたことがありますが、小幌駅には言及していませんでした。
[88280] 2015年 7月 24日(金)20:35:05【2】hmt さん
道路案内標識に使われる地名
[88270] futsunoおじ さん
[88174]の案内標識の「秩父」についてですが単純に考えれば大滝村が秩父市などと合併(2005年)して新・秩父市になったことで、元は「大滝」とあった案内が「秩父」に書き換えられただけのように思うのですがいかがでしょう。

確かに、市町村合併によって、道路案内標識の地名が 影響を受けるケースは存在すると思います。
極端な事例ですが、合併の結果「大宮← →浦和」という標識が「さいたま← →さいたま」になってしまい、ビックリしたという記事もありました。[37066]
私の考えでは「さいたま市」は「行政管理用の名称」であり、「地名」としての「浦和」や「大宮」に取って代わるような性格のものではないのですが、現実には道路標識の行先をわざわざ「さいたま」に書き換えてしまい、人々を困惑させる結果になったのでした。
この件については 行政苦情救済推進会議で検討が行なわれ、一応は解決しました。[42974]

本題に戻り、川上村の村道?に設置された標識にあった「秩父」という行先地名。
これは、合併前には「大滝」だったのでしょうか?
「さいたま」の例を見ると、案内標識に記す地名は 自動的に「市町村名」で決まってしまうようにも思われるのですが、本当にそうでしょうか?
川上駅近くの標識の実例[88179]を見ると「梓山」が使われています。これは字名でしょう。
「川上駅」や「川上村役場」にしても市町村名ではないし、市町村名に限定されているとは思われません。

「大滝村」という標識だったのならば、村の消滅後には改める必要があるかもしれません。
しかし、「大滝」という地名ならば そのままの形で残して差し支えないし、「奥秩父に通じる山道」であるという情報も残せます。

そんなことを考えているうちに、案内標識に記される地名を決めるルールが気になり、国土交通省のサイトを調べてみたところ、案内標識のしくみ-1(案内標識に表示される地名) というページがあり、4つのルールが示されていることを知りました。

何はともあれ、ルール2 経路案内に用いる地名はあらかじめ決められています を見ましょう。

経路案内に用いられる地名は、
1.基準値【おおむね1県1都市】、
2.重要地【地方生活圏の中心都市など】、
3.主要地【二次生活圏の中心になっている市や町など】、
4.一般地【2、3以外の市町村、その他沿道の著名な地点など】であり、

「各都道府県において表示される基準地・重要地・主要地一覧表(平成19年3月末時点)」 が示されています。
8年も前なのが少し気になりますが、内容は極めて具体的で 参考になります。

埼玉県を見ると、早速「さいたま」が登場して市町村名なのかと思わせますが、「大宮」「浦和」も健在です。記載位置が最後になっているのは、前記苦情救済の結果追加された結果かもしれません。「さいたま」と「浦和」は同じ位置を呼び分けています。

東京都を国道1号に沿って眺めると、道路元標[65682]のある日本橋[75365]を始めとして、大手町、日比谷、祝田橋、桜田門、赤羽橋、五反田、馬込 と著名な地点が並んでいます。
重要地・主要地とは道路交通上のポイントであり、特別区名など自治体名とは明らかに違う捉え方であることが読み取れます。

勝沼バイパスのイラストを見ると、鷺堂に「主要地点標識」があります。
右方、勝沼町に入った地点にある市町村標識(カントリーサイン)が「自治体名」を示しているのと違い、こちらは「地名」です。でも、前記の表に示された主要地点は「笛吹」ですね。「鷺堂」は一宮町時代の主要地点名で、更新されていないのかもしれません。

一般地とは表外の地名で、「川上村役場」「梓山」など適宜選んだ地名を使うことができるようです。

このような地名が記された案内標識は、ルール1に示された3種類あり、ルール3 の方法で地名が表示されるとのこと。

[88179]k-aceさんが、信濃川上駅近くの交差点手前で記録した 案内標識の写真 を見ると、距離が示されておらず、交差点手前なので「108系標識」ですね。
【追記】
ここで、いきなり聞き慣れない言葉を使ってしまいましたが、ルール1示された説明文によるものです。
「交差点手前」という表現については、[88294]で指摘されたような問題がありましたが、「交差点を通過する手前から見える位置にある」と解釈してください。
もっとも、その後で 案内標識のしくみ-2の使用区分を見たら、大きな交差点に使われる標識のようなので、今回のケースのような小さな交差点で使われている標識を 108系としたのが正しいか否か自信がなくなりました。
詳しくは、『道路標識設置基準・同解説』 (日本道路協会)という本に書いてあると思いますが、読んでいません。【追記終】

国土交通省の説明は、幹線道路【ルール3に記された3分類に該当する道】を対象としているようなので、これに該当しない村道では 少し様子が違うようです。しかし、上段の「小諸」と「秩父」が遠距離にある「重要地」であり、下段の「川上駅」と「梓山」が近距離にある「一般地」であることは理解できました。

[88174]で挙げられた標識の「秩父」が、合併前の「大滝」を形式的に修正したものだったのか、どのような位置付けで記されていたのか、私には詳しいことは判りません。

しかし、信濃川上駅前の標識と同様に、遠距離にある「重要地」という位置付けでドライバーを秩父に案内していたのならば、「まともに信じて行ったら大変な目にあうだろうな」という感想を持たれたのは当然という気がします。
道路利用者から 標識の改善についての意見については、意見箱 が設けられているそうです。ご参考まで。
[88269] 2015年 7月 23日(木)23:04:18【1】hmt さん
「中年の星」は 星空が美しいレタス畑で育った
国際宇宙ステーションでの長期滞在が始まった油井亀美也さん。
長野県南佐久郡川上村のレタス農家出身だそうです。

落書き帳で[88174][88203]と川上村が話題になった折、これも何かのご縁なので、日経の記事を紹介しておきます。
レタス畑で夢見た宇宙 「中年の星」油井さん飛び立つ

川上村のレタス畑と言えば、白桃さんの記事もありました。
この夏はどうなっているのでしょうか。
[88260] 2015年 7月 23日(木)14:00:25hmt さん
月まで3km
[88203]に続いて 道路案内標識 の話題です。
さいたま市広報課のブログに、面白い写真がありました。
2014さいたま市ユーモアフォトコンテスト の最優秀賞 「ムーンロード」。

天竜川の河口から30km、佐久間ダムで有名なこの川の中でも最も下流に位置する 船明(ふなぎら)ダム湖
東岸を遡る国道152号から分かれて 伊砂(いすか)橋を渡り 西岸を北上する県道360号。
なかなかの難読地名ですね。地理院地図

それはさておき、3km先にある「月」という集落を示す標識。

実は一昔前、「トリビアの泉」放送後に写された 画像 もあったのですが、矢印の先に「本物」を写し込んだ今回の作品は、さすがでした。
[88203] 2015年 7月 20日(月)18:35:18hmt さん
長野・埼玉県境の道
[88174] じゃごたろさん
長野県南佐久郡川上村内で遭遇した案内標識の表記が、「川上村役場」と「秩父」であったとのこと。

線路は続くよどこまでも という歌がありますが、道路の行く先も「どこまでも」続いており、役場も秩父も間違いではない。
しかし、設置場所も考慮した上で、利用者にとり適切な案内なのだろうか? そういう問いかけですね。

設置場所は村内の主な集落を結ぶ 村営バスが通る県道から少し外れた交差点です。
設置位置から判断すると、「役場」という言葉が最も適切な案内機能を果たしているように思われます。
役場付近の地名は「大深山」なのでしょうが、村外からの訪問者にこの付近が「川上村」であり、この道を進めば村内の中心集落に至ることを教えている「川上村役場」の方が役に立ちます。

問題の「秩父」。この道を東に進めば確かに秩父に通じる道路があるにしても、この案内でよいのか?
ドライバーが「秩父」という言葉から受け取るのは、「秩父山地」ではなく、秩父盆地の中心にある市街地なのでしょう。
市街地を意味する「秩父」に行くならば、有名な悪路らしい 中津川林道 [46698]よりも、遠回りになっても 雁坂トンネルが選択肢になる。
こちらも トンネル開通前には 酷道 だったようですが[36094]

道路の案内標識は、この道がどこに続いているかという単純な地理的情報ではなく、ドライバーが道を選ぶための情報である。このような趣旨を込めた指摘であると理解しました。

折角の機会なので、落書き帳メンバーによる 三国峠越え を紹介しておきます。
futsunoおじさんは、40年以上前に「旧・中津川林道」を3~4回は通過。
バイク乗りの ただけんさん も、10数年前?
じゃごたろ さんは、11年前に 長野県から埼玉県への越境に成功。
JOUTOU さんも、その2年後には 念願の三国峠越え。 所要11時間 通過自治体数は 実に 57。

[88179] k-ace さん
信濃川上駅で同様の案内標識…右折(東)すると秩父、梓山となっています。その下に、町田市自然休暇村、三鷹市川上郷自然の村、武蔵野市立自然の村は右折と東京都の市名が並び、ここは一体どこなんだ?と思わせます。

梓山というのは、三国峠越えの林道に入る手前、県道の終点付近の集落ですが、少し戻った秋山から南下すると川端下(かわはけ)という集落があります。武蔵野市立自然の村は、この川上村最奥部の集落の先にあります。

hmtは、この川端下という地名に記憶がありました。戦時中に親しんだ岩波書店「少国民のために」シリーズの1冊『トンネルを掘る話』。
急病のわが子を秩父の病院に連れてゆく父親と、十文字峠で会った話が紹介されていたのですが、それが川端下の人でした。

千曲川沿いに下った岩村田【佐久市】の病院という選択肢もあったが、「時間的に有利と聞いて秩父を選んだ」という山越えの理由が記されていました。
十文字峠 は現在でも山道です。県境の交通路
救急医療体制は現在でも完備とは言い難いでしょうが、一応は救急車の恩恵に浴している私達からは、想像もできない時代だったのでした。
[88176] 2015年 7月 19日(日)17:36:01hmt さん
氷見オフ会2015
1998年2月の冬季オリンピック開催前に長野までの第1期区間が開業した新幹線。
懸案となっていたその延長がようやく実現して「北陸新幹線」の名に恥じないものになった2015年、私達の落書き帳の第12回公式オフ会も氷見市で開かれることになりました。
北陸でのオフ会は2006年の金沢以来ですが、2008年以降定着している宿泊形式では初めてです。

富山県での開催は新幹線から自然の成り行きと理解できますが、氷見が選ばれた理由は何だったのかな?
昨年の記事[86778]で思い出そうとしたのですが、
hmtは 白熱した議論の中で沈没
と書いてありました。これでは思い出せるはずがありません。

予想外のことでしたが、最近になって「氷見プレミアム付き宿泊券」[88064]利用の可能性が出て、既にグリグリさんにより手配していただいています。
宿泊会場も決めていただいたようであり、リーゾナブルな値段で利用できそうです。

こうなったら、なるべく多くの形に参加していただき、落書き帳オフ会を盛り上げるようにしたいと思います。
北陸旅行の情報その他、皆さんに書き込んでいただいたらと思います。

とりあえず、落書き帳の過去記事を見たら、富山県氷見市の 虻ガ島 に言及した記事を書いていました。
小さな島ですが富山県最大で、地図を見ると、会場である灘浦地区のすぐ近くに見えそうです。

リンクしたページは 富山県:歴史・観光・見所 というサイトの中にあり、氷見市高岡市伏木射水市など多くの見所が、地域別に紹介されています。

射水市と言えば、放生津潟を掘り込んだ富山新港。かつては海岸の砂州の上に富山地方鉄道射水線と道路が通っていたが、富山新港の建設で分断されました。その救済策として富山県が県営フェリーを開設したのが 1967年ですから 半世紀近く前のことでした。
数年前に なると金時さんが万葉線・渡船・バス・ライトレールの乗り継ぎをした記事[62923]がありました。記事には道路建築中で渡船の将来が危ういように記されていましたが、2012年新湊大橋開通後も県営渡船の運行は継続しているようです。

渡船と言えば、2007年の福岡オフ会の際に、たもっち さん[62490]が 北九州市営と福岡市営の2つの渡船を利用しています。
前者は戸畑・若松間の若戸渡船です。洞海湾には、1962年の若戸大橋[66904]に加えて沈埋トンネル工法による新若戸道路【2012年開通】ができていますが、渡船も健在なようです。
最後は、富山県から離れてしまいましたが、道路に負けない公営渡船の健在ぶりを伝えておきます。
[88090] 2015年 7月 14日(火)19:13:47【1】hmt さん
函館付近の鉄道貨物輸送
[88085]白桃さん
亀田駅は明治の終わりに廃駅となっていたのですね。

初代函館駅の所在地は今・・・には、明治35年(1902)に函館市海岸町20-1に開設された初代函館駅は、南側の若松町に函館駅が移転した明治37年に「亀田駅」と改称され、明治41年に焼失を経て明治44年に廃駅と記されています。

【以下修正】
上記の番地を現在の地図で調べたところ、若松町に作られた現・函館駅と隣接した位置でした。
昨日の記事は、これを根拠に初代新橋駅→汐留駅を類推し、函館における貨物駅の話に発展させてしまいました。

実際には、この駅は 北海道鉄道 開業時の便宜的な事情により設けられた始発駅であり、最初から予定していた若松町の函館駅が開業した結果、あまり役に立たない中間駅になっただけ だったようです。

白桃さんの観察による「五稜郭駅に着くほんの手前に」あった遺物とは違う場所とか、「明治44年に亀田駅と入れ替わりに開業した五稜郭駅」という部分的な記述は正しかったものの、函館付近の貨物取扱拠点という視点からこじつけた「亀田駅→五稜郭駅」の後継関係は完全に誤りでした。

五稜郭駅がらみで、函館付近の鉄道貨物輸送について記した部分は残しておきますが、きっかけとなった亀田駅が主役から外れたので、タイトルを変えました。
【修正終】

本州・北海道間の輸送を長く担っていたのは青函航路でした。
旅客については新千歳空港発着の飛行機にその座を譲りましたが、青函トンネルの貨物列車が通る函館(五稜郭)は 物流結節点の地位を保っています。

ヤード系貨物列車と青函航路によって北海道・本州間の物流が維持されていた 1976年(昭和51年)。
五稜郭駅付近の航空写真 には、駅の南【写真の下方】で
函館方から左へ90°カーブして分岐しているのは明治40年から敷かれている日産化学工業函館工場(当時)への専用線。写真中央下側の道路立体交差付近から南東寄りへ真直ぐ向かう軌道は、函館駅までの本線が海岸側に移動するまでの旧線の一部が北海道ガスの専用線として残されたもの
というような説明があります。
白桃さんが五稜郭駅の手前でご覧になった遺物は、これらの貨物線に関係したものではないでしょうか。

同年 五稜郭駅より先(北側)の航空写真 もあります。
こちらには [88086] ペーロケさん ご紹介の五稜郭貨物線【図の左下】や大きな操車場などの設備が写っています。
五稜郭貨物線の先の有川埠頭には青函連絡船貨物便の岸壁があり、戦時中に使用を開始しました。
日本国有鉄道になった後の 1950年、有川埠頭に五稜郭貨物駅【2011年 函館貨物駅と改称】設置。

1980年になると函館駅のコンテナ貨物取扱を五稜郭に移転。
1984年には五稜郭操車場、有川での貨車航送廃止と、物流システムはコンテナ列車へと移行してゆきます。
そして 1988年3月には 津軽海峡線開業で、本州・北海道間の輸送を担ってきた青函航路が廃止されました。

更に平成27年度末(2016年3月)には 北海道新幹線 149kmの開通が予定されています。
新幹線の接続駅は 函館本線の起点から17.9kmにある渡島大野駅。駅名の 新函館北斗昨年6月に発表 されていました。
貨物列車は 木古内から従来通りの江差線で 五稜郭へ。

北海道新幹線は厳しい自然環境だけでなく、青函トンネルを含む 82kmの区間が標準軌の新幹線列車と在来線軌間の貨物列車との 共用走行 になるために大きな課題があるようです。JR北海道
早い話、新幹線との共用となると、架線電圧も信号システムも変るために、従来から北海道の物流を担っていた貨物列車が使っていた電気機関車に代る 新機関車が必要になります。

もっと大きな問題。速度が大違いの新幹線は、先行した貨物列車にすぐに追いついてしまい、せっかくの高速を発揮できません。トンネル内ですれ違う時の乱気流による荷崩れを防ぐためにも、140キロ程度への減速が必要とか。参考
在来線コンテナ列車を 丸ごと新幹線貨車に乗せてしまう 減速運転の解消策も検討されているようです。共用走行の 資料6-8
[88071] 2015年 7月 11日(土)20:03:06hmt さん
ニックネーム
[88062] グリグリ さん
落書き帳では、できる限り半角と全角は正確に使い分けていただけると幸いです。
半角と全角により別ニックネームと認識されているニックネームもかなりあります。

ミス防止の実務としては、既に N さん [88061]で補足されているように、ニックネームをコピペするのが適切と思いますが、せっかくの機会なので 全角/半角問題も含めて ニックネームについて少し記しておきます。

見た目だけで、アルファベット(英数文字)の 全角/半角 を区別できるか?
1文字だけを見ただけでは 困難な場合が多い と思います。
2文字以上が並んでいる場合は、間隔が少し開いていることで判別できそうです。

登録メンバーのニックネームで 英数1文字は、半角の G さん と、全角の N さん。
私には 単独で全角/半角を区別することは殆んどできず、誤記しないように 最初から注意していました。

登録メンバー以外では、半角の f さん(記事数80)と全角の f さん(記事数16)とがあります。

短いニックネームを挙げたついでに、長いニックネームです。
現在は全角換算10文字以内に制限されていますが、初期には 長いニックネームが使われた例もあります。
ニックネーム検索で [1425][1426]の長い文字列を入力すると、長すぎると拒否されます。
【参考までに、修正された事例[40371][40387]

「ケロにゃんポポン」の後にも使われていたスペース。
「前田 宏治」さんと「前田宏治」さんとは別人扱いになり、注意が必要です。
「ただの地理好き」さんも、頭にスペースの付いた記事が1件あるようですが、うまく検索できません。

スペースと言えば、登録メンバー名で唯一使われているように見えるのが、「オーナー グリグリ」の半角スペースです。
今更のことですが、「オーナー」はニックネームの一部ではなく、接尾語の「さん」の代りに使われている接頭語らしいことに気がつきました。
ニックネーム検索の際はスペースのみならず、「オーナー」を抜いても大丈夫です。
私の記事でも、従来は「グリグリ さん」と「オーナー グリグリ さん」とを混用していましたが、これから前者に統一します。

ニックネームからは外れますが、[88062]で示していただいた「これまでの全書込のランキング」。
書込文字数=2という記録を検索した結果。[49018]
[88053] 2015年 7月 9日(木)22:25:44【1】hmt さん
津久井の道 (3)信玄道
相模原ICの開業を機会に、圏央道など首都圏高速道路の概況[88042]、圏央道と連絡する部分が開業した津久井広域道路[88047]について記しました。
津久井の道。将来への展望だけでなく、少し昔のことも振り返っておきます。

『(仮称)城山インターチェンジ周辺新拠点 まちづくり基本構想(金原・串川地区)』 p.34串川地区の図を見ると、予定されている津久井広域道路が描かれた南側、山地と緩斜面との間に「信玄道」と記されています。

甲斐の武田信玄と言えば 好敵手は越後の上杉謙信です。有名な川中島の戦いは10年以上に及び、永禄4年(1561)に行なわれた第四次合戦は、その中でも最大規模の戦いでした。
もちろん武田の領地は上杉以外にも多くの勢力に囲まれており、戦争だけでなく、政略結婚を含む外交交渉を駆使して 上手に処理する必要があります。関東方面に注目すると、河越夜戦[58848](天文15年=1546)の結果扇谷上杉などの旧勢力が衰え、小田原を本拠とする北条氏康の勢力が増しつつあります。

信玄は相模北条氏とは和睦政策を進め、1553年には娘を北条氏康の息子・氏政に嫁がせています。翌天文23年(1554)には北条氏康の娘が今川義元の息子に嫁ぐことにより、今川から武田への嫁入り(1552)と合せて駿河・甲斐・相模三国間の婚姻同盟(善徳寺の会盟)が成立しました[43558]

ところが、桶狭間の戦い(永禄3年 = 1560)によってその一角が崩れた後は同盟関係に亀裂が入り、武田信玄は1568年に駿河侵攻。北条氏康は駿河に援軍を出し、甲相の同盟関係は崩壊しました。

永禄12年(1569)になると、武田信玄は北条領内に遠征し小田原城を包囲し、挑発ました。しかし、上杉謙信の攻撃にも耐えた堅固な城から出てこない北条氏には信玄も手を出せず、撤退することになりました。
ところが 甲斐に戻る途中、相模国愛甲郡の三増峠【地理院地図の右下】で 北条勢の後詰と遭遇し 激戦になりました。
両軍大きな損害を被ったものの、最終的には武田軍が追撃を阻止し、甲斐に戻ることができました。

串川の流れに近い国道よりも高い山麓に位置する信玄道。
戦国時代より更に前にも、このルートで西に向った人物の遺跡がありました。
後醍醐天皇の皇子で、南朝側の武将として戦った大塔宮護良親王。その側室・雛鶴姫に関する言い伝えです。
父の天皇と不仲になった大塔宮は、身柄を足利方に引き渡された後、鎌倉で殺害されました。雛鶴姫は、足利の目を逃れながら大塔宮の遺骨を葬ると共に、みごもった体で京を目指したものの、相州青山村で病に伏し、甲州秋山村で病没したと伝えられます。

私は 2010年、信玄道の南側に崩れかけて残された千部塚宝篋印塔を訪れ、応安4年(1371)亥年2月願主蓮明敬白と刻まれた台座を確認することができました。大塔宮の33回忌に hmtの先祖が建てた最古の遺物と考えています。
蓮明は同年に諏訪大明神【現在の青山神社】も勧請しています。約200年後に三増峠から帰国途上の武田軍の陣中に居た信玄の息子・諏訪【母の氏】四郎勝頼は この神社に立ち寄って、戦勝を感謝して祈願したことと思われます。

林産物に頼って細々と暮らしていた中世の山麓道。
近世以降は、荒川番所の運上[65669]を免れるルートの串川沿いに発達した集落。水運や水車動力を利用。
そして自動車や電力の利用により再び山麓に活気を与えようとしている津久井広域道路。
社会環境の変化も考えながら 身近な地理の一端を綴ってみました。

「津久井の道」と題しながら地理的には偏っており、「串川の道」になってしまったきらいもあることをお断りしておきます。
[88047] 2015年 7月 8日(水)19:44:19【1】hmt さん
津久井の道 (2)津久井広域道路
相模原市の [津久井広域道路 によると、この道路は橋本五差路から相模湖IC付近まで延長約20kmの広域的な幹線道路となっています。
しかし、全線が都市計画道路として整備中というわけではなく、構想路線に留まっている区間もあります。

相模原市 新道路整備計画(H22/4)p.47 にある計画図を見ると、圏央道の西、津久井湖の南に 5, 6, 7 と付番された青線があります。
# 何故かテキストリンクが効かないので、URLを別に記します。
http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/dbps_data/_material_/localhost/doboku/632500/pdf/new-road_seibi.pdf

p.43の表により、都市計画道路城山津久井線になっている津久井広域道路であり、5 の区間【今回開通区間】は 確かにH26年度完了予定。しかし、6 の区間【土沢の県道513号接続部まで】は優先順位が後で5~10年後の完成。7 の区間【国道412号新屋敷付近まで】は更に後で、区間7 の西は構想路線となっています。国道412号に代る幹線道路として相模湖との間を結ぶのは、当分の間は夢でしょう。

計画図に戻り更に西に進むと、相模湖の南側に27と9 との2区間があります。表を参照すると、プレジャーフォレスト【寸沢嵐(すわらし[81137]グリグリさん)鼠坂(ねんざか[63022]Issieさん)付近の国道412号沿いにあるレジャー施設】から相模湖南岸経由勝瀬橋までの区間で、優先順位は6と同じでした。
相模川が相模湖に流入する地点に架けられた勝瀬橋は、新小倉橋などと共に津久井広域道路の既存区間だったのでした。

参考までに、初代の勝瀬橋は勝瀬部落が水没した相模ダム建設の際に架けられた 1944年製の補剛トラス付き木造吊橋でした。1959年の2代目は 日本最初の斜張橋ですが、初代の主塔を再利用して作られました。3代目の現・勝瀬橋(2005)で幅は広くなりましたが、これも斜張橋。

津久井広域道路全体に及ぶ概要を済ませ、今回訪問した区間の詳報に移ります。

最新の情報となると、個人サイト・あおまる の 祝! 相模原IC&新510号開通 が詳しく、動画も掲載されています。
今回の開通区間は新小倉橋西側からインターチェンジ接続区間を経て西に進み、県道65号と交差する東金原の少し先、串川ひがし会館付近、市道(沼荒久根小屋金原)との合流点【あおまる は(仮)根小屋変電所前と表示】迄の 2.8kmです。「新510号」というのは、小倉橋から串川橋まで串川の流れに沿って遡る 従来の県道510号に対応する新ルートを意味しているようです。

東金原交差点には信号機がないまま開通し、危険が指摘されていました。ようやく設置予定とか。

今回の開通区間は僅かな距離であり、三ケ木・相模湖に通じる国道412号に出るには、前記市道を経て長竹三差路に出る必要があります。新設道路の4車線化も未完成ですが、私の出身地への道は、従来のバスルートに比べて確かに短縮されたことを感じました。

参考までに バスルートのうち鳥屋行き(橋07)は小倉橋・串川橋経由の県道510号ルートです。
三ケ木行き(橋03) は 新小倉橋を渡った後、根小屋中野まで串川沿いの県道510号を走り、西中野からは県道65号の坂を登って東金原に出ていました。こちらのバスは 新小倉橋-東金原間が開通した広域道路にルート変更され、所要時間短縮が図られることになるものと推測します。

相模原市が2012年3月に発表した 『(仮称)城山インターチェンジ周辺新拠点 まちづくり基本構想(金原・串川地区)』 という資料がありました。
金原(根小屋)地区p.27と、串川(関・長竹)地区p.34とにつき、それぞれ基本構想範囲とまちづくりの考え方が示されていました。

この図と共に 地理院地図 も参照すると、金原は 城山375m の南山麓緩斜面です。根小屋という地名からして、「城山の麓の居館」という意味です。そして関・長竹も、根小屋の金原ほどではないにしても、串川流域を相模川本流(中野)と隔てている山(平代山405m・津久井堂所山 370.6m)の 南山麓にある緩斜面と言えるでしょう。
このような緩斜面は、津久井という山地の中にありながら、相模原という台地に比較的近い条件の土地と評価されます。
水を必要とする農地としては必ずしも好適ではなかったが、道路整備等により産業立地が整えられた相模原台地と類似の手法による開発が考えられるのは、自然の成り行きでしょう。

水のことで一言。串川流域の地下を走り抜ける リニア中央新幹線工事は、津久井の水に影響する可能性もあります。
酒造用の水質に影響するかもしれないと心配する 根小屋の蔵元や、長竹の豆腐メーカーの声を 新聞で見たことがあります【朝日2014/12/18夕刊】。

参考までに、鳥屋に作る関東車両基地に通じる分岐線は、津久井堂所山付近の地下で本線から分れるようです。資料
予測困難な地下は、工事による地元への悪影響だけでなく、良質な湧水や温泉資源を提供する[87859]可能性もあります。

それはさておき、進歩した土木技術が使われることにより、山地である津久井の一角では「相模原化」が進行し始めているのではないか?
2.8kmという僅かな道路開通を機会に、そんなことを考えてしまいました。
[88042] 2015年 7月 8日(水)12:20:37hmt さん
津久井の道 (1)圏央道・相模原インターチェンジ
先月末、3年ぶりに津久井を訪れ、この地域の道路事情に 3ヶ月前からの変化があったことを知りました。
すなわち、2015/3/29 圏央道「相模原インターチェンジ」開業と、連絡する「津久井広域道路」の一部開通です。

本題から少し外れますが、関連調査で知った 首都圏における道路交通ネットワーク整備の変遷 から、高速道路整備の概要をメモしておきます。

骨格となる高速道路ネットワーク「3環状9放射」が計画されたのは 1963(昭和38)年でした。
3環状【外側から】:
首都圏中央連絡自動車道(圏央道)、東京外かく環状道路(外環)、首都高速道路中央環状線(中央環状)
9放射【右回り】:
湾岸道路、第三京浜、東名高速、中央道、関越道、東北道、常磐道、東関東道(水戸線)、東関東道(館山線)

この1963年は、名神高速道路最初の開通があり、全国で本格的な高速道路時代の幕が開いた時期でした。
首都圏でもその前から供用が開始されていた京葉道路・首都高に続いて、東名高速・中央道の着工命令がなされ、9放射が次々に開通してゆきました。
首都圏9放射の骨格は、1987年の東北自動車道全線開通で概ね完成しました。

一方、環状高速道路の整備は 放射道路よりも遅れ、東京外郭環状道路の和光IC-三郷IC間が開通したのが 1992(平成4)年でした。
圏央道の最初の区間は1996年、首都高中央環状線も2002年以降の開通で、すべて平成になってからです。3環状開通目標年度図

整備中の環状高速道路以外に 既設の環状道路もあります。しかし、代表的な一般道である国道16号では 混雑による遅れが多発しています

圏央道という名前について
正式名称は「首都圏中央連絡自動車道」ですが、首都圏3環状道路の「中央」に位置するわけではありません。
位置的には 「外環」 が中にあり、外側と内側の道が「中央」を名乗る。不思議な命名です。
圏央道は国道468号という名もありますが、番号で呼ばれることは少ないのでしょうね。外環道の国道298号は一般道部分?

相武国道事務所が管轄する圏央道神奈川県区間の大部分は 「さがみ縦貫道路」 と呼ばれているようです。

昨2014年6月に 圏央道の相模原愛川IC・高尾山IC間の 本線が開通 したことは ニュースで知っていました。

この間の相模原市緑区・城山の麓に設置されるインターチェンジも工事中でしたが、H26年度末までに 開通していたのですね。ICの名称は、2012年に「相模原IC」に変更されていました。個人的には城山の名を使ってほしかったのですが、残念。名称変更は2012年

相模原ICと同時に「津久井広域道路」の一部が開通しました。
実は この名は 初めて認識したのですが、落書き帳を検索したら 8年も前にアルバトロスさんの記事[58974]がありました。
(新小倉橋の西)未完成の道路は、津久井広域道路として西に延ばし、2012年開通予定の圏央道城山ICと接続予定のようです。
懸念されたように開通時期は2012年から 2015/3/29 に遅れました。

序論として高速道路全般に言及し、長々と書いてしまいましたが、本題は「津久井広域道路」です。
歴史的・地理的考察を交えながら、リニア中央新幹線と共に出身地付近を走り抜ける予定の道路について、次回記します。
[88004] 2015年 7月 3日(金)16:38:40【1】hmt さん
Re:終着駅は始発駅
[88002] 白桃 さん
北島三郎の歌謡曲(1977)があったのですか。全く知りませんでした。
このタイトルから私が思い出すのは、『時刻表2万キロ』(1978)など鉄道紀行で知られる 宮脇俊三さんの著書(1982)です。参考

宮脇さんの著書を見ると、育った環境は東京の山の手・渋谷近くです。
しかし、その出自は香川県大川郡、つまり現在の 東かがわ市です。

偶然のことながら、白桃さんが宮脇さんの著作物のタイトルを使われた機会に、鉄道とは無関係の世界で、宮脇さんと縁のあった地名を少し拾い集めてみました。

香川県大内郡誉水村
宮脇俊三さんの人生のスタートは大正15年(1926)12月。この年の末には昭和が発進します。
確認したわけではありませんが、この誉水村の戸籍簿に宮脇長吉三男・俊三の誕生が登録されたものと推測します。
その理由は、次に説明します。

埼玉県川越市
宮脇さんの著書の奥付には 川越市生まれと記されています。何故 川越市なのか?
父の宮脇長吉は軍人でした。陸軍士官学校卒業後工兵少尉として日露戦争に従軍。
その少し後になると、飛行機の時代が始まります。[57213]でも記したように、現在の航空機が主流になる前には、気球・飛行船・グライダーなども試みられました。
父の宮脇長吉が航空兵科に移り、所沢気球隊長として川越に住んでいた時代に宮脇俊三さんが誕生したのですね。

余談ながら、兄の名は英一と雄二。親は「英雄俊傑」と続けるつもりだったが、弟はできなかったとのこと。
本籍地が香川県にあったとする理由は、父が転勤族であったことに基づく推測です。

ところが、制御不能になった観測用の気球が宮城【皇居のこと、きゅうじょう と読んでください】の上を飛行。
責任をとらされ、父は現役軍人を辞任。
以下、宮脇さんの父に関係した蛇足を少し綴ります。

東京府豊多摩郡渋谷町?
父の宮脇長吉は陸軍退役後に政治家になりました。長吉の兄・三土忠造[77628]の影響です。
宮脇でないのは阿野郡【坂出市】の漢学者の家に婿養子に行ったためです。香川二区選出の代議士。
長吉も出自の地・香川一区から1928年の総選挙に出馬し、目出度く当選。
このようにして、東京・渋谷に居を構え 選挙区にも頻繁に訪れる代議士の家では 「時刻表」が必需品になりました。
宮脇さんにとって、「時刻表」は 子供時代から 座右の書 になっていたわけです。

参考:昭和戦前、宮脇家にあった時刻表とは時代が違いますが、「三本松の時刻表」の名で知られた『汽車汽船旅行案内』の表紙画像を 第7回オフ会記録ページ から見ることができます。[76900]

宮脇長吉は軍人出身ながら、勢力を増してきた軍と対立する立場で行動した戦前の政党政治家でした。
陸軍省説明員の佐藤賢了を相手にした野次は「黙れ事件」を引き起こしました。

参考までに、兄の三土忠造は かなりの大物政治家で、戦後の幣原内閣では後継者を狙える地位に居たようです。
もっとも、幣原退陣後の政権は、選挙で勝利した自由党の吉田茂に移りました。

弟の宮脇梅吉【つまり宮脇俊三さんの叔父】は内務官僚で知事を歴任しています。1927年、埼玉県知事時代に提唱した大宮・浦和・与野による「一大都市圏構想」は、74年後に「さいたま市」として実現しました。
[87989] 2015年 7月 1日(水)23:03:03【1】hmt さん
特別地域気象観測所
[87987] じゃごたろ さん
長野県内の五地点の最低気温と最高気温が毎日報道されています。

答えが一致する必然性は全くありませんが、参考までに市の人口トップ5を眺めてみると、長野・松本・上田・飯田・佐久では地域的に偏りがあるように思いました。

気象という観点から考えると是非入れておきたいのが軽井沢町。
県歌「信濃の国」 に歌われた「四つの平」を代表する4市に軽井沢町を加えた五地点か? 
いや、佐久市と軽井沢町では近すぎる。

長野県内にある気象観測所の位置 を見ると、長野地方気象台の他に、特別地域気象観測所が4地点あります。
長野・松本・飯田に加えられている2地点は 諏訪 と 軽井沢。

諏訪湖の御神渡[63595]も 重要な気象観測対象でしたね。
これならば、納得できる地域分布と思われます。
いかがでしょうか。
[87944] 2015年 6月 24日(水)17:18:48hmt さん
地域自治区 合併特例区 (5)相模原市と浜松市
[87349]序論、[87357]制度概要、[87358]上越市の後 中断していた地域自治区ですが、奥州市の話題[87943]で復活しました。今回は政令指定都市の行政区設置と関係する相模原市・浜松市の事例を見ます。

「津久井町・相模湖町」という地域自治区が2011年3月まで相模原市に設置されることは[48391]に記録されています。ほぼ1年遅れで編入合併した「城山町・藤野町」も、同じ期限の地域自治区になっていました[73416]
そして「合併特例法に基づく地域自治区」の名称は、住民票の「住所」の表示に加えられます。
その根拠である「住居表示に関する法律」では 住居表示実施地域だけが対象なのですが、2004/10/19総務省自治行政局長通知により住居表示実施地域外にも拡張適用されています。[48804] suikoteiさん

そして、2010年4月1日から政令指定都市になった相模原市では、地域自治区名として編入合併後も引き続き使用されてきた旧町名が住所の表示から省かれることになりました[73416]
行政区としての「緑区」が発足するので、地域自治区名の方が廃止されるのは当然のことのようにも思われます。
相模原市のサイトで確認したところ、津久井地域の地域自治区の設置期間「合併の日から平成22年3月31日まで」と1年短縮されていることを確認できました。

相模原市の事例では、地域自治区は政令指定都市の行政区発足の前日に廃止。こちらは単純明快でした。


地域自治区と政令指定都市行政区との ややこしい関係 を示す事例・浜松市も紹介します。
浜松市は 相模原市に先んじて 2005年7月の編入合併時に旧12市町村を単位に地域自治区が作られました。
ところが、こちらの地域自治区は「合併特例法に基づく地域自治区」ではなく、「地方自治法に基づく地域自治区」なんですね。

そして 2007年に浜松市は政令指定都市になり、7つの行政区が設置されました。浜松市のサイトを見ると、旧浜松市の地域は中区・東区・南区の他に西区・北区になった部分があるのでそれぞれ別の地域自治区になり、一方では旧5市町村の地域自治区は天竜区に属しています。

地域自治区の地域協議会が7行政区になってからも残されたのは、合併時の未調整事業が残っていたためのようです。西区・北区・天竜区において、区協議会と地域協議会との複雑な2層構造が一時的に存在したものの、2011年度までに調整が終了し地域自治区は廃止されたとのことです。

何か複雑で、十分に理解できておらず、地元の方から見て誤りなどありましたらご指摘願います。
[87943] 2015年 6月 24日(水)16:08:40hmt さん
地域自治区 合併特例区 (4)奥州市での動き
[87193] 山野 さん
奥州市にある5つの「地域自治区」ですが、来年3月末の期限切れに伴い、市は廃止の意向を固めました。
[87940] ピーくん さん
奥州市議会でも6月23日に自治区の廃止関連の議案が予定されていますが、存続のほうを可決しているので否決の可能性が高いです。
岩手日報
奥州市議会は…来年3月で設置期限が切れる地域自治区を廃止するための議案を反対多数で否決した。

「来年3月末の期限切れ」が決まっている「地域自治区を廃止するための議案」を わざわざ市長が提出し、それが議会で否決される。ニュースを表面だけ読んでいるとよくわかりません。

そこで、奥州市の合併サイト の確認から始めます。
協定項目という分類に入ると、No.9 地域自治組織の取扱い がH17.1.15に提案され、H17.3.3に承認。
資料を開くと協定第14号が現れ、合併特例法に基づく地域自治区設置であり(第1条)、自治区の設置期間は、合併の日から平成28年3月31までとすることが明記されています(第3条)。

市長としては この協定書による自然消滅を待てばよく、否決される可能性の大きい廃止議案を あえて議会に出す必要はなかったのではないか?

そこで新聞記事を再読すると、否決されたのは「廃止関連3議案のうち条例制定案」とあります。
岩手日日新聞 IWANICHI ONLINE を見ると、「設置期間満了に伴う関係条例の整備に関する条例の制定」で、採決されなかった他の2件は「町・字の名称変更」と「補正予算」だそうです。

なるほど、「地域自治区の廃止」自体は10年前の当事者による合併協定で決められているが、現実の市政としては 市民に対して「地域自治区は満了しました」と通知するだけで済むわけではない。これまでの10年間住所に使われてきた旧町村名を使い続けるための「町・字の名称変更」や予算措置を含めてやることはある。

2005年の協定を尊重することにより、地域自治区を廃止し、奥州市を一体のものとし進めようとする市長。
これに対して地域自治区を存続させることにより、分権体制の継続を図る勢力も存在します。

[87960]に記されていた「存続のほうを可決」は岩手日報2015/6/17の記事
期限延長を求める議員発議案を賛成多数で可決した。

これだけでは、求めている「期限延長」の具体策は不明です。
しかし、文字通りの期限延長ならば2005年協定書の実質的改定がその道であり、市議会の議決により可能であると思われます。

地域的にも、時期的にも近い事例を挙げておきます。青森市浪岡地域自治区の設置期間は本年3月31日まででしたが、青森市議会において「…地域自治区の設置等に関する協議により定めた事項を変更する条例」が可決され、平成33年3月31まで延長されることになりました。青森市
[87931] 2015年 6月 16日(火)17:14:38hmt さん
色の入った市区町村
[87930] グリグリさん
自治体サイト政策の会社からご紹介いただきました…(中略)…最後の色がユニークで面白いですね。
青色525件、赤色36件、黄色32件…(中略)…に分類しています。

「色(カラー)からさがす」を見ると、これに加えて「橙色」という分類(45件)があります。これを加えると 合計1788件となり、収録自治体数【47都道府県、790市、745町、183村、23特別区の合計】と合います。
ページの色を分類する基準は不明ですが、青色や緑色が優勢なのですね。赤色や橙色・桃色の系統は意外に少数。

どういう基準でどう判断して分類しているのか興味があります。担当の方にお聞きしています。

分類された結果から、基準を推測してみようと考え、手始めに富士見市のサイトを調べてみました。
埼玉県市町村の一覧画像に示されたキャプチャー画像ではピンクの花が目立ちますが、現在は紫の花菖蒲。現実には桃色の42件中にも紫色の56件中にも富士見市サイトは存在せず。
…というわけで、背景写真の中で目立つ色は無視し、タイトル下にあるメインバーの色に注目。
この緑色に分類されている可能性があるが、522件もある緑色の配列中から探すのは一苦労。
それでも富士見市が緑に分類されていることが確認できました。色の基準詮索は、これで一先ず終了。

自治体と色の関係に着目したのは面白いと思ったら、色の入った市区町村 という雑学が既にありました。

雑学に登場する市町村名の最大勢力は「白」で、現存の市だけ数えても6市ありました。「しろ」と読むのが白石市と白井市(他に消滅した白根市)、「しら」が白河市・白岡市・大網白里市、それに音読みの「はく」が白山市。
でも、自治体サイトの分類では「白」に該当する市区町村なし。

赤平市・赤穂市・赤磐市を揃えた赤も目立ちます。ずっと昔1902年に下関市に改称しましたが、赤間関市もありました。でも、名称と自治体サイトとが共に「赤」だったのは、福岡県田川郡赤村 だけ。
どうやら、自治体名称に使われている色とサイトの色との関係は薄いようです。

白や赤は伝統的な2文字地名の一部として使われるケースが多いと思いますが、「緑」は単独で使われる特異な色です。
雑学のリストを見ると 2006年に誕生した群馬県みどり市と、5つの政令指定都市の「緑区」が目を引きます。もちろん行政区は自治体でないため、今回の自治体サイトの対象外です。

そう言えば、「市の色」(シンボルカラー、イメージカラー)というのもあるようですね。過去記事

改めて調べた結果。相模原市(みどり)国立市(みどり)大和市(若みどり)、厚木市(きみどり)
何やら、「みどり」が好まれている様子。

雑学の最後には、ズバリ「色」という次を使った町村がありました。
宮城県の色麻町は、奈良時代に多賀城の前進基地・色麻柵が設けられたフロンティア。
兵士の出身地・播磨国飾磨由来で、「色」の意味はなさそうです(コトバンク)。
洲本市になった五色町には 高田屋嘉兵衛[77693]出身地と五色の砂利浜があります。
三河湾の一色町は 足利の重臣一色氏の本拠地でした。
オウム事件で知られた上九一色村は分村消滅[49541] [49561] [49566]
[87859] 2015年 5月 24日(日)23:19:50【3】hmt さん
石炭産業からの転換に成功した常磐
いわき 太平洋・島サミット2015の記事 で、今回の開催地を「いわき市」と書きました。
過去の開催地である沖縄の万国津梁館や北海道のトマム[72049]と比べて 1200km2以上もある広大な「いわき市」という表記では 大雑把すぎる と感じていたのですが、会場の詳しい情報が なかなか得られなかったのです。

いわき市 と言えば、以前は【1966/10/1~2003/3/31】全国で最も広い市として知られていました。[2152]
最新のデータによる 市面積ランキングでは 全国の12位です。広域の市が増えたことに驚きます。

22~23両日の国際会議終了後になりましたが 改めて調べた結果、主会場は いわき市常磐の「スパリゾートハワイアンズ」であることが判りました。時事通信

実はこの名前も ピンと来なかったのですが、昔の名は 「常磐ハワイアンセンター」だと知って なるほど。[78445]参照。ポリネシアを含む「南の島」からの お客を招く場所としてはピッタリでした。

常磐にハワイが誕生した 1966年。その10月に 平市など5市4町5村が大合併して いわき市 になりました。
その前は 福島県常磐市。福島県だから磐城国の「磐」はわかるが「常」とは? もちろん常陸国です。
常磐市になる前の石城郡湯本町は、片寄平蔵らにより幕末に発見された「常磐炭田」【注】の中心地の一つだったので、常磐市を名乗ったのでしょう。

【注】常磐炭田
地下の石炭層は磐城国から水戸藩領の常陸国多賀郡【北茨城市】に及んでいたので 常磐炭田。
常磐線と同じ組み合わせですが、幕末の安政3年(1856)頃に発見された炭田の方が先です。
常磐炭は低品位で 掘削にも困難がありましたが、大消費地に近い立地は有利でした。
日本鉄道の海岸線[61225]が石炭輸送の目的で輸入した蒸気機関車の車軸配置は、ボールドウィン社によって「ミカド」と名付けられました。1935-1950年に大量生産された D51 もこの車軸配置です。
石炭が最初に発見された地は 白水阿弥陀堂の近く(内郷地区)ですが、この地域の領主・湯長谷(ゆながや)藩【磐城平から延岡に移った内藤氏の支藩】の陣屋は湯本地区の南にありました。

湯本は その地名が示しているように、平安時代から知られる温泉地です。しかし、明治以降の石炭採掘は地下の温泉脈を断ち切るトラブルを起し、温泉のもたらす熱と水は採掘環境を悪化させました。
石炭と温泉とは、相性が悪かったのでした。

第二次大戦後には輸入石炭との競合、原油輸入の自由化によるエネルギー革命で、会社(常磐炭礦)は構造的な不況に見舞われ、1955年から人員整理が始まりました。1976年に閉山。1985年3月には炭鉱業から完全撤退。

1970年には常磐興産と社名を変更することになる会社。
その前に常磐炭礦が企てた新規事業が観光業への進出です。
石炭と相性の悪かった大量の温泉水を味方に引き入れ、当時の人々が憧れながら 現実には行けなかった 夢の島ハワイ を日本に作ってしまう。
「常磐ハワイアンセンター」計画は、1963年発表

社内からも疑問視する意見が多かったそうですが、中村豊社長が押し切って事業を進めたそうです。
現在の豊富な湯量は、1976年の炭鉱閉山後に炭鉱跡でボーリングして得た源泉から得られたものです。
泉源も市名も変ったので、温泉名も 「常磐湯本温泉」から「いわき湯本温泉」に改められました。

年表 は、昭和40年(1965)常磐音楽舞踊学院設立 から始まり、翌年1月に「常磐ハワイアンセンター」オープン。
アトラクションの目玉になるダンサーには 炭鉱労働者の家族を採用して 地元雇用を確保する。
シロウト娘を プロのフラガールに育てる養成学校は、1968年には学校教育法に基づく各種学校として認可を得ている本格的なものです。宝塚音楽学校の同類。
実話を元にした町おこし事業を描いて評判になった「フラガール」の映画化は 2006年。

常磐ハワイアンセンターは、25年目の1990年に「スパリゾートハワイアンズ」に名を変えています。
現在までの間 50年近く、経済動向の変化に対応した設備投資をしながら 順調に経営を続けているようです。
九州や北海道など、産炭地としては常磐よりも優れていた地域が無惨な状態に陥っているのと比べると、常磐における産業転換は珍しい成功例と言えるのではないでしょうか。

福島県が今回の島サミット会場に選ばれた事情。大震災の影響について言及しておく必要がありますね。

2011年3月の地震後は 安全点検の臨時休業中に原発事故発生。その後、4/11に直下型地震で被害があったようです。結局、9/30まで約半年間は全館休館。この間にフラガールたちは全国キャラバン。 2012/2/8 全面再開と共に新ホテルのモノリスタワーも加わりました。

そして、2015/5/22-23に太平洋島サミット(PALM7)の主会場として、日本の震災からの復興状況をアピールする材料にも使われました。
[87857] 2015年 5月 23日(土)14:28:16hmt さん
隣接市町村問題
タイトルは少し変りましたが、実質的には[87846]の続編です。

これまで、市町村隣接関係の判定は 地図によって行うのが正攻法であると思っていました。
しかし、最近の記事を見て Web地図内での不一致は 無視できない問題であると認識するに至りました。

[87846]で補足追記した実例【東京都奥多摩町・檜原村・山梨県上野原市・小菅村】を挙げておきます。
なお、下記[25588]のNo. 30は、上野原町時代であり、丹波山村は小菅村の誤記です。

 2004年[25588] みやこ♂さん グレートジャンクション(残念編)No. 30 当時のYahoo!地図で非該当と判定
 Yahoo! 地図のデータは その後アルプス社からZENRINに変更され、現在の地図は4市町村が点接触
 2012年[82209] グリグリさん 問三 奥多摩町は4市町村交差【Mapion】
 2015年[87841] Nさん Mapionでは点隣接ですが、地理院地図では普通に隣接
 2015年[87846] hmt 地理院地図では「市と町と村が接する都道府県境界点」が【数十m離れて】2つ存在

地図による判定が困難な事例について、各市町村Webサイトの記載も参考になりそうです。

[87834] Nさん
御所市のホームページによると御所市と河南町が隣接しているそうなので、「千早赤阪村と葛城市は隣接していない」が正だとは思いますが、…

奈良県葛城市・御所市・大阪府千早赤阪村・河南町のWebサイトから集めてみたところ、そうでもないようです。

資料A:新庄町・當麻町合併協議会 新市建設計画 p.7 新市の概況
新市【葛城市】は、…南は御所の各市と、西は…大阪府南河内郡河南町、千早赤阪村と隣接しています。 

資料B:御所市
御所市の隣接自治体:…・葛城市…・千早赤阪村・河南町 

資料C: 千早赤阪村地域防災計画 p.5 図1-2 千早赤阪村の位置
この資料では隣接自治体についてのみ その名称が記されています。…御所市・葛城市・河南町…

資料D:河南町高齢者保健福祉計画…(素案) のうち p.2 河南町のすがた 位置
本町【河南町】は…奈良県御所市、葛城市と境をなし、…南は千早赤阪村…に隣接しています。 

ご指摘の資料Bだけでなく、資料Dでも御所市と河南町とが隣接。
しかし、資料A・資料Cによると、葛城市と千早赤阪村も隣接しています。

資料ABCDのすべてが正しいとして判定すれば、4市町村は点接触【グレートジャンクション】という結論になります。
[87850] 2015年 5月 22日(金)22:41:19【2】hmt さん
虹色の帯
今日は 東京スカイツリー展望台の開業3周年でしたが、その上空に、昼ごろ虹のような光の帯が出現したそうです。
産経ニュース 東京スカイツリー上空に、「環水平アーク」が出現

気象庁によると、「環水平アーク」とは、上空の薄い雲の中の氷の粒に太陽の光が屈折、反射することによって起きる現象であるとのことです。

虹色ですが、水滴でできる虹とは逆に 太陽の方角、高い位置にある太陽の下に、ほぼ水平な帯状で出現。
太陽の近くにかかる暈(かさ)の同類で、今日も同時に見えたと報じられています。
光の屈折の仕方が異なるため、「環水平アーク」は 大きな環の一部だけが見えるようです。

NHKニュースでは、静岡で写された画像を報じていました。

【追記】
天空博物館に 解説 がありました。
普通の暈(かさ、22度ハロ)の解説と比べると、光の経路の違いがわかります。
ついでに水滴による「虹」の解説も付けておきます。主虹副虹

【追記2】
産経ニュースに掲載された写真は 太陽より高い位置に出ており、内暈(普通の暈)の上側と思われます。
虹色の順序も、NHKニュースの写真と逆になっています。【追記2終】
[87846] 2015年 5月 21日(木)18:46:11【1】hmt さん
Re:隣接問題
[87841] N さん
そもそも、Mapion(というかZENRINの地図)が正で、地理院地図が誤とする根拠ってどこにあるのでしょう。
根本的が疑問ですが、あのような山の中の境界は誰がどのように決めて、地図を作る人間はそれをどのように確認しているのでしょうか?

なにげなく使っている地図に関する、基本的な問いかけですね。
私にも的確な答えはできないのですが、何か答えてみたくなりました。

地表を形作る山や川の位置を示す地形図は、国土地理院が責任を持って測量し、民間の地図もその成果を利用するという仕組みでしょう。
しかし、市町村の境界となると人為的な取り決めに基づくもので、国土地理院だけで決められる問題ではありません。

国土地理院は、地図つくりに際して 地元市町村の意見を聞いて、小さな居住地名までを把握するための「地名調書」を作成しています。
ところが、平成合併で市町村が広域化した結果、役所から遠い山の中の集落名などについては、自治体側の把握さえも十分でなくなり、地名調書への協力体制に 問題が出ているようです。[56419]
もちろん、過疎化により かつての居住地名が無人化して、地名が失われる問題もあります。

地名調書作成に際しては、当然 自治体の範囲の確認も行なわれるでしょう。
しかし、隣接自治体との境界線について、両側の自治体から一致した意見が得られるとは限りません。

[79063]では約100年前に実施された江戸川改修工事の結果、新流路の反対側に取り残された「境界未定地」を例示しました。
現地探訪者は 道路地図で 市川市に「河原番外地」という表示を見つけて訪れたようです。
しかし、現地にあった 国土交通省の出張所長によれば、その場所は「東京都江戸川区東篠崎」でした。
地理院地図では 東京都と千葉県との境界線が途切れて、境界未定地であることを示しています。

特別な問題が生じなければ、「境界未確定」であること自体が 認識されないままになっている地もあると思います。
ご指摘の山の中の境界なども、必ず両側の自治体の意見を確認した上で地図に描いているわけではないでしょう。
一方だけの資料に基づいて その領域として地図に記載されていても、隣接自治体がそれに気づかず異議を唱えていなければ、境界未確定地にさえなっていないでしょう。
国土地理院の面積調を見ていて、時々新たな境界未確定地が登場してくるのは、このような事情かなと思っています。

江戸時代からの治水行政がからんでいる水元公園・小合溜の都県境未確定地についても、[82206]で触れたことがあります。参照したコラム(15コマ)のURLを更新しておきます。

要するに、地理院地図といえども決められない境界があるし、情報不足で 係争地であることに気がつかない場合もあるだろう。
独自の情報入手により地理院地図の誤りを正している民間地図の事例もあることと思うが、我々には判断できない。
残念ながら、記された境界が絶対に正しい地図を期待するのは、無い物ねだりではなかろうか? 
私の結論はこんなところです。

4市町村以上の点接触境界については ご承知のように、[23953]以来 みやこ♂ さんの記事があります。
代表記事は下記の2件です。
[25588] 日本のグレートジャンクション(残念編)
[25592] 日本のグレートジャンクション(当選編)
地名コレクションにも登録されていますが[55637] 、リリース待ちの間に多数の合併があったので、変化していることと思います。

[82209] グリグリさんは 第一回クイ図五番勝負問三で 東京都奥多摩町を含む4市町村境界はグレートジャンクションですとしています【Mapion】。
しかし、参照として示された上記[25588]では「残念編」に分類されています。

【追記】
[25588]の30番が記された当時のYahoo!地図によれば、4市町村が点接触でなく「残念」な結果になったのだと思われます。
現在クリックすると その後改められたURLに飛びます。これはZENRINデータですから、[82209]で使われたMpionと同じく4市町村が点接触になっています。
そこで 地理院地図 を確認すると、奥多摩町・檜原村・上野原市の市町村境と、奥多摩町・小菅村・上野原市の市町村境とは数十m離れた別地点であるように認識できます。
つまり、地理院地図に基づけば、ここにはクイ図五番勝負問三共通項である「市と町と村が接する都道府県境界点」が2つ存在していたことになり、想定解の数にも影響すると思われます。【追記終】

地図の見方次第で こんな食い違いがあるので、
どこかで市区町村の隣接関係を明示したほうがよいと思います。
という意見([87845] デスクトップ鉄 さん)が出るのでしょう。

その方が答えやすいと思います。
しかし、終了後にいろいろと提示される問題点。これも、クイズの楽しみの一要素ではないでしょうか。

最後になりましたが、グリグリさんの米国西部写真集より 4州の点接触。Four Corners Monument
[87833] 2015年 5月 19日(火)15:50:15hmt さん
市部・郡部
都道府県データランキング 市部・郡部 の人口・面積が、最近更新されていました。
市部・郡部は、[83145]で発表された最古参 11テーマに入っていたのですね。

今更言うまでもないことですが、「市部・郡部」の区別は市制町村制施行の明治22年(1889)に始まりました。
当初は市の数が少なかっただけでなく、各市の領域は 極めて狭い範囲の市街地に限られていました。
例えば富山市の面積は 僅か 1.91km2でした[79563]。現在は 650倍の 1241.77km2です。
国土の大部分は「郡部」で占められており、「市部」は 狭いながらも 国土の中で特別な地であると認識されていたのでしょう。

「郡部」という言葉が一般に使われていた実例として、名古屋鉄道のサイトから大正元年(1912)の犬山線開通の記事を示しておきます。
名古屋電気鉄道は、名古屋市内線の拡充を進めると共に、最初の郡部線を開通させたことが記されています。
市街地内の交通機関としてスタートした電車が 郊外電車に進化して 市内線にも直通し、頻繁運転の恩恵が郡部に及び始めた。
「郡部線」という言葉は、電化した鉄道により農村地帯だった郡部が近代化してゆく様子を表していたようです。

やがて大正9年(1920)から始まった国勢調査。
国勢調査の集計には、当然のように市部・郡部という区分が使われました。
それから1世紀近くを経過した現在、市部・郡部の区分は本来の意味を失いつつあります[538]
世間使われることがめっきり減った「市部・郡部」ですが、国勢調査を拠り所として生き延びています。

時代は移り、日本全国を 黄色い「市部」で塗りまくった印象のある 平成の大合併
それでも、2010年国勢調査によると、国土面積の約43%は「郡部」だったのでした。但し郡部人口は 9.3%へと激減し、その後も減り続けています。

ここまで、郡部と市部で国土が二分されているような書き方をしました。実は 郡でも市でもない土地 があります。
ご存知、東京都の特別区。これは市部として扱われています。昔は東京市でした。
もう一つは、これも東京都の島嶼部。伊豆国時代から郡のない地域でした。[24190]
現在は大島・三宅・八丈・小笠原の4支庁管内で 郡部扱い。

市部・郡部の集計で もう一つ注意が必要なのが 所属未定地など[67286]の扱いです。
東京都の場合、中防外側4.82km2、中防内側1.96km2、荒川河口部1.12km2、合計7.9km2は、23区の何れにも属していませんが、特別区内です。
つまり、特別区の面積は23区の合計618.8km2に この値を加えた 626.7km2です。
これに26市の面積784.2km2を加えた1410.9km2が東京都の市部面積になります。

市区町村プロフィール東京都に掲載された面積は、国土地理院面積調H26に基づく上記計算と合っています。
しかし、最初に引用した都道府県データランキングの面積は数値が違います。所属境界未定地面積を市部に重複算入?
修正をご検討ください。>グリグリさん
[87818] 2015年 5月 18日(月)18:20:47hmt さん
しらさぎ、シラサギ、白鷺
[87802] ぺとぺとさん
平塚市のホームページを確認すると、【コサギは】「市の鳥」ではなく「市民の鳥」として指定されていました。
[87805] N さん
ホームページにはシラサギ(コサギ)と書かれており、例規集にもシラサギと書かれているので、コサギではなく シラサギの方に追加しました。

外野席の観客からですが、この やりとり を見ながら頭に浮かんだのが、「シラサギ」の意味と その表記法です。

平塚市 市民の木・市民の花・市民の鳥 の記載
市民の鳥 しらさぎ(コサギ)
 くちばしは長めで年間を通して黒く、足の指だけが黄色です。夏羽では、羽冠と呼ばれる白い飾り羽があり、他のシラサギ類と容易に区別できます。本州以南に留鳥として分布し、金目川や岡崎等の水田で見られます。

これを見ると、市民の鳥として指定された動物は、普通は「しらさぎ」と呼ばれているが、種の標準和名で正式に記せば 「コサギ」という名の鳥である と理解できます。いくつかの特徴を列挙した上で、わざわざ「他のシラサギ類と容易に区別できます」と断っていることからも明白です。
更に言えば、「シラサギ」と表記せずに「しらさぎ」と平仮名表記にしたのも、標準和名に使われる片仮名表記を意識して避け、「コサギ」という種に限定した「しらさぎ」であることを示すた配慮ではないかと思われます。

もちろん、指定した鳥の範囲をどの程度の厳密さで考えるかは市の姿勢次第です。
中央市 市の鳥「しらさぎ」
市内で多く見かける「しらさぎ」は、学術上「コサギ」を指しますが、「コサギ」を含めた さぎ類の内、体色の白いものの総称を「しらさぎ」と呼びます。

潟上市も、「市の鳥 シラサギ(白鷺)」を コサギやダイサギなど 白い鳥の総称 としてとらえています。
潟上市は、漢字表記との併記によっても単一種でないことを明らかにしているようですが、あわら市は「市の鳥:白鷺」と漢字単独の表記です。

漢字を使ったのはこの2市だけで、多数派は平仮名の「しらさぎ」でした。
前記平塚市、中央市の他に松戸市【水辺の鳥】、城陽市、姫路市、小郡市、玉名市が使っていました。
平塚市・姫路市のように、種の違いに言及した市もありますが、姿の白い鷺をこのように呼んで、種を気にせずに指定した市も多いようです。

「市の鳥」は学術的な分野ではないので、漢字・平仮名・片仮名の何れで表記してもよいのでしょう。
[87780][87788]が片仮名表記で統一されているのは、片仮名が用いられている標準和名の影響と理解できます。
行方市、小美玉市、津島市のように「シラサギ」を使った市もあります。

でも、種の名称として「シラサギ」とい鳥が存在するわけではない。
標準和名的な片仮名表記は、「シラサギ」という種があると誤解させる原因にならないでしょうか?

余計な心配かもしれません。私の好みでは「しらさぎ」のような平仮名表記です。但しこれにも欠点があります。
表形式ならともかく、漢字平仮名混じりの文中では 片仮名表記を使うことによって 動物名を 視覚的に浮き上がらせる効果が失われます。もちろん、意味がわかり易い漢字表記を すべての鳥名に使うことは不可能です。

姫路市鳥「しらさぎ」 と姫路市蝶「ジャコウアゲハ」
白鷺城と言えば姫路ですが、姫路市の呼び方は 姫路市鳥なのですね。こちらにも、コサギ、チュウサギ、ダイサギなどを合わせてシラサギと呼んでいる と記されていました。
姫路市の概要では「シラサギ」と表記。表記違いはあまり気にしていないようです。
それでも、市制100週年にあたり制定したとのことなので、平成元年の例規集を調べましたが見当たらず。

参考までに、いきもの通信289号 をリンクしておきます。
[87794] 2015年 5月 17日(日)15:04:20hmt さん
多摩川・稲田堤の渡し船
[87787] MasAka さん
多摩川の両岸、川崎市と調布市を結ぶ通称・競輪場の渡しは不定期航路(競輪開催日のみ運行)
[87789] いろずー さん
生まれてこの方四半世紀、京王閣は何度も行ってるがまったく存じ上げません。
[87793] ペーロケ さん
Wikiにも掲載されていますし、不定期ながら一応やっているようです。

数年前の落書き帳[66785]で 稲田堤の渡し船に言及したところ、JOUTOU さんからレポート[66847][66888]を頂いています。
それは現地スタッフからの 聞き取り調査でしたが、貸しボート屋が臨時営業していた渡し船は、当時から10年ほど前【現在から十数年前】に廃止されたとのことでした。

一方、hmtが記事にリンクした ページ によると、「通称・競輪場の渡し」は 確かに一時期存在したようです。
しかしそのページには 1999年と記載されています。

これを総合すると、20世紀末年頃に廃止されたようであり、Wikipediaには、この廃止情報が反映されていないのではないでしょうか?

非公認くさいこの渡し船の前身が、多摩川最後の渡しであった「菅の渡し」でした。
Wikipediaに引用された 多摩川の渡し一覧表 には、かつて存在した多数の渡し場が記録されています。

これによると、昭和10年に「矢野口の渡し」と「下菅の渡し」とが統合して「菅の渡し」になり、昭和48年(1973)まで存続したとのこと。
多摩ニュータウンを通る京王相模原線は、「菅の渡し」のすぐ上手に建設された鉄橋で多摩川を渡り、1971年に京王よみうりランドまで開業しました。参照
[87785] 2015年 5月 16日(土)23:53:19【1】hmt さん
「いわき太平洋・島サミット2015」の開催と ニウエの国家承認 
閣議決定-と言っても、大きな話題になっている 安全保障法制関連11法案 のことではなく、その翌日です。
昨日(2015/5/15)の閣議で ニウエの国家承認が決定された という 外務省発表 がありました。

日本の地理には詳しい皆さんでも、ニウエ? どこだ? という方が大部分だと思うので、最初に地図を出します。
外務省・太平洋の島国

マガジンの中に 南太平洋 という特集を作っている hmtとしては 黙視するわけにゆきません。
落書き帳の話題の大勢が流れている方向とは無関係ですが、それを承知の上で、この機会をとらえて太平洋島嶼国の記事を入れます。

最初にお断り。この地図には太平洋にある14の国が示されていますが、太平洋の島はこれで全部というわけではなく、米国領、フランス領などの島もあります。
赤道より北ではグアム島・サイパン島、それに右上の表で隠れているハワイ州も米国領ですね。
サモア独立国の東の空白域にも米国領サモア【サマセット・モームの短編『雨』の舞台】があります。ニウエはその南に位置しています。

面積で比較すると、日本より大きいパプアニューギニアはずば抜けた「大国」です。
それに次ぐメラネシアの3ヶ国は1万~3万km2で、その南のフランス領のニューカレドニア島、この図に示されていないハワイと共に大きい方です。
…で、ポリネシアにある ニウエは 259km2、人口 1600人とも 1500人とも。奄美群島の 徳之島248km2と対比される面積ですが、人口は 1/17。

ニウエは国でなく地域(2015年1月1日現在)と書いてありましたが、昨日の決定に基づいて国交関係を開くことが決まったわけです。

外務省発表にはありませんでしたが、新聞報道によると ニウエから 国家承認を求める要請がなされており、今回の国家承認は いわき市で開催する 第7回太平洋・島サミット2015 に合せたもので、太平洋地域での外交強化のねらいもあるとのことでした。

キャプテン・クックは 1774年の第2回航海[45308]の際に ニウエを確認したが、上陸を阻まれました。
その後 1900年に英国の保護領、ニュージーランド領を経て、1974年に内政自治権を獲得して 事実上の独立を達成しました。

現状では内政自治権を保持しつつ、防衛と外交についてはニュージーランドが責任を負うという自由連合関係結んでいます。既にニュージーランド、オーストラリア、マレーシア、中国など 12ヶ国と外交関係を開設。国連未加盟ながら、ユネスコなど 34の国際機関には加盟済みとのこと。

わが国が承認した国は これで 195か国になりました。前回の国家承認は 2011年7月の南スーダン[81210]でしたが、2011年3月には 193番目としてクック諸島を承認していました。[78607]

ココ椰子【ニウエという国名の語源らしい】、ヤムイモ、タロイモなどの農産物輸出国ですが、地理的条件から サイクロンの直撃による被害もしばしばで、市民権を有するニュージーランドに移住する人も多いのが現実。
世界最大の隆起珊瑚礁であるという自然を活かし、ニュージーランドの援助を受けながら観光事業を開発中。

太平洋・島サミット。Pacific Islands Leadets Meeting - 略して PALM は、アブラヤシの意味になっています。
私は知りませんでしたが、日本が太平洋島嶼国との関係を強化する目的で1997年に初めて東京で開催され、以後3年ごとに日本で開催されているとのことです。
開催地は PALM2が宮崎、PALM3,4,6の3回が沖縄県名護市の万国津梁館、PALM5が北海道占冠村トマムでした。
そしてPALM7の開催地が いわき市。首脳級の国際会議が福島県内で開かれるのは初めてのこと。
地球温暖化による海面上昇。津波と違い じわじわと襲ってくる海の脅威。
太平洋の島国にとっては大問題です。キリバス
[87709] 2015年 5月 8日(金)18:26:42【1】hmt さん
奇跡の樹
[87670] グリグリ さん
あしかがフラワーパークをたった1年で再生させた樹木医としても有名な女性経営家の塚本こなみさん
[87702] G さん
樹齢100年を超える大藤を、足利市河南の旧早川農園(中略)から足利市東部の迫間町へ大移動。

先日報道ステーションでも中継放送があり、大藤の見事な姿と共に、移植された過去を知りました。画像
樹齢約150年の2本の藤の木は、移植の際に縮小されたが、現在では広さ1200畳の藤棚に広がっているとのこと。

移植不可能と言われた「大藤の引越し」に成功した物語は、『奇跡の樹』という絵本 にもなり、21世紀の子どもたちに命の大切さを伝えています。

古樹の移植に関連する過去記事
東京・日比谷公園 本多静六の 首かけイチョウ [35013] 
御母衣ダムによる水没から救われた 荘川桜


あしかがフラワーパークの所在地「足利市迫間町」は、もちろん はさまコレクション に収録されていますが、「はざま」と濁るのですね。

【追記】
大藤の移植に成功した 塚本こなみさん のインタビュー記事
[87680] 2015年 5月 5日(火)18:47:30hmt さん
三重の津
足利学校や閑谷学校などが選定された「日本遺産」について [87667]で触れたばかりですが、先輩格の「世界遺産」でも同様な傾向の事例が注目を浴びています。

昨夜のニュース によると、世界文化遺産への登録を目指している「明治日本の産業革命遺産」について、ICOMOS(ユネスコの諮問機関)が登録にふさわしいとの勧告を行なったとのこと。

“同様な傾向”と書いたのは、今回の産業遺産の事例が、8県に及ぶ地域に点在する23もの文化財を一体的にとらえ、ストーリーを組み立てたパッケージとして扱われているからです。
ICOMOSが「九州・山口と関連地域」という地域的な名称よりも「製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」という名称への変更を求めたのも、ストーリー性を重視した結果と思われます。

ところで23の文化財。程度の差はあるものの、その多くは 一度は耳にしたことがある有名文化財です。
1つだけ佐賀市の「三重津海軍所跡」 を紹介しておきましょう。
鍋島閑叟(直正)の下で、日本で最初に実用的な蒸気船が建造された場所です。
2009年に帆船修理の木造ドックが確認され、2013年に国史跡に指定されたとか。
その遺構は地中に保存され、一帯が公園として整備されているそうです。

三重県の「津」ではありません。念の為。
[87667] 2015年 5月 3日(日)22:42:35hmt さん
日本遺産
[87659] G さん
足利学校が4市(水戸市・備前市・日田市・足利市)によるシリアル型で日本遺産に認定されるという明るい話題

2015/4/24に発表された 日本遺産 の第1号ですね。おめでとうございます。
わが国の文化・伝統を語るストーリーのタイトルは、「近世日本の教育遺産群 -学ぶ心・礼節の本源-」でした。

近世日本では、武士階級だけでなく、商人・職人・百姓階級(農工商)も 読み書き・ソロバン・礼儀 を身に付けていました。
近世日本の高い教育水準は、藩校・郷学・私塾・寺子屋など様々な教育システムによって実現したものです。
江戸時代から国民の間で広く普及していた教育は、「開国」を契機とする急速な近代化の原動力になりました。
そして、現代でも学問・教育に力を入れ、礼節を重んじる日本の国民性に受け継がれています。

従来の文化財行政は個々の遺産ごとに点として指定し、保護するやりかたが主流でした。
しかし、日本の魅力を世界に伝えるためには、地域に点在する様々な遺産を面としてとらえ、ストーリーを組み立てた文化財パッケージを一体的にPRし、その魅力を観光誘致や地域起こしにも活用しようという考えになってきました。

これを具体化した政府の施策が「日本遺産」の選定事業です。
全国自治体からの 第1期募集・審査・認定が先日行なわれ、83件の応募から18件が選ばれました。

近世までの教育に関連する文化財は全国に多数あると思います。
その中で、「日本遺産」という形で 日本の魅力を世界に発信する ストーリー。
それを語る上で不可欠な文化財として今回申請し、認定されたのは、旧弘道館(水戸市)・足利学校跡(足利市)・旧閑谷学校(備前市)・咸宜園跡(日田市)でした。

シリアル型(ネットワーク型)というのは、文化財が複数の市町村に存在するからでしょうが、時代的には中世起源の足利学校を含み、地理的にも関東・中国・九州の4県に及ぶこの教育遺産群は、第1期18件の中でも、特に広範囲な文化財を包含する事例として注目されます。

落書き帳記事が最も多かったのは 閑谷学校でしたが、大部分はさらっと触れている程度でした。記事集

あまりに久しぶりのため暗証コードを失念してしまい、新規書き込みでニックネーム「G」が使えず。

久しぶりはお互い様なのですが、半角alphabetニックネーム仲間ということでもあり、一つ確認。
半角Gと全角Gとは非常に紛らわしいのですが、Gさんは最初からずっと「半角G」ですね。
実は、「久しぶり度」を確認するために、落書き帳メンバー紹介で 最新の書込(10件) をクリックしてみたのですが、正しく表示されませんでした。
記事検索>ニックネーム検索で半角の G を入力すれば、前回は2011/3/3と正しく出ます。

プログラムのどこかに、全角Gが紛れ込んだ影響ではないかと推測するのですがどうでしょうか。>グリグリさん
[87504] 2015年 4月 25日(土)15:04:27【2】hmt さん
知床半島羅臼町海岸での異変
[87500] 山野さん
海底が数10mほど隆起しているのを地元住民が発見したそうです。

住民が24日朝に発見したのは海岸の状態の変化であり、夕方には更に大きく盛り上がっていたとのこと。NHK北海道

朝日によれば 付着したウニや昆布に鳥が群がっていたとのことであり、これから山からの土砂崩れではなく、海中から隆起した岩と判断したようです。

海中・海底の調査はこれからでしょう。
しかし、朝と夕方で違いが判るほどの大きな隆起が短時間の間に起こったとすれば、その原因探求が待たれます。

釧路地方気象台によると羅臼町付近で火山や地震の活動は 24日には確認されていないとのこと。NHK北海道

スロー地震サイレント地震 などという ゆっくりした地殻変動も発見されつつあるようですね。

リンクした地理院地図は 知床半島の形が見える 20万分の1サイズを選びました。
羅臼町の幌萌町という居住地名は、これを3段階拡大した2万5千分の1サイズになると やっと現れます。

国後島を望む地で起きた今回の異変。探求の結果 何らかの形で防災に役立つ知見が得られればよい と思います。

【追記】
25日の現地調査の結果、現場周辺では がけ崩れなどの大規模な土砂災害が起きているとのこと。NHK

【追記2】
現地を調査した北見工業大学工学部の山崎新太郎助教らによると、海岸より陸側に地滑りが起きていたとのことです。
羅臼町では例年より積雪が多く、一気に雪解けが進んだことで大雨のように地面に水がしみ込み、地中の岩石と岩石の間の摩擦力が低下して滑り始めたとみられる と分析。地滑りの端が海底よりも深い部分に突っ込んで、海面下の地面が押し上げられたという見方が示されました。NHK北海道NEWS WEB
[87493] 2015年 4月 22日(水)16:04:51hmt さん
畿内と近畿
[87492] に引き続き、hmtマガジンの特集「畿内から北陸へ」に関する補足記事です。

特集名に 安易に「畿内」という言葉を使いましたが、これは都が京都に移るよりずっと前の言葉でした。
机上の『大辞林』の説明を見たら、律令国家を形成した諸氏族の居住地域【山背・大和・河内・摂津】を行政上特別扱いして四畿内(和泉の分立後は五畿内)と呼んだとのこと。つまり古代国家の「首都圏」を意味していたのですね。
なお、「畿」の意味は王城から五百里【周では200km余】。(漢和辞典)

具体的な範囲が記されている日本書紀・大化二年(646)改新の詔によると、東は名張の横河、南は紀伊の兄山【葛城】、西は赤石【明石】の櫛淵、北は近江の合坂山【逢坂山】迄でした。
都が難波や飛鳥にあった時代ですから、京都から山一つ隔てただけの近江は畿内ではなく、東山道所属なのでした。

従って、近江から越前へのルートを「畿内から北陸へ」と表したのは問題であることを認めざるを得ません。

そこで考えた屁理屈。ここでは平安時代以後を問題にしているので、畿内の範囲は改新の詔を根拠とするのでなく、「京都が都であった時代の首都圏」と解釈していただきたい。

近江は天智天皇時代に短期間ながら大津京が置かれた実績もありますが、それ以上に平安遷都以来千年以上の間に「首都圏」に組み込まれていました。
タイトルの説明だけならば、「畿内から(近江経由で)北陸へ」を短縮したもの と解釈することもできます。
しかし、「京都基準の首都圏」という形で 近江を畿内の中に取り込む解釈 の方が、むしろ適切なように思われました。

もちろん都に近い国々という意味では、「近畿」という言葉を使う方が一般的でしょう。
白桃さんは[86442]で滋賀県を含むブロックを「畿内」と名付けた後、これを適切でないとして、素直に「近畿ブロック」に修正していました。

今回の記事は、[87452]で使われていた“畿内から北陸方面へ向う街道”に影響されて、畿内と越前とを結ぶルート[87455]から戻れなくなってしまったhmtの悪あがきです。ご容赦ください。
[87492] 2015年 4月 22日(水)13:47:18hmt さん
本州横断運河
[87452] 伊豆之国さん 愛発越え に始まり、敦賀近辺の鉄道に関する記事がいくつか続きました。
そこで、2006年の鳩原ループの記事と合せて hmtマガジンの特集に仕立てることを考えました。

新しい特集の骨格は 何よりも記事 ですが、それと共に「特集のタイトル」と「まえがき」も必要です。
今回「まえがき」に据えたのは、港湾都市・敦賀が交通路の要衝になった原因である その特異な位置です。
本州日本海側で大きく湾入した若狭湾の東部、敦賀湾として更に深く入り込んだ最奥で、その先には琵琶湖。

琵琶湖と言えば 淀川の源流[67664]。ということはシロウト目にも本州横断運河構想に結びつきます。
これについては予備知識がなかったのですが、近代以前の日本ではパナマ運河のような工事は技術的に無理 ということで片付け、鉄道の話につなげて2015/4/16に 登録しました

これで「まえがき」の形は一応できたものの、やはり 本州横断運河構想 が気になります。
調査したところ、本州横断 運河計画 水運ネットワーク というページがあり、これを手掛りに調査を進めてみました。

海運・貿易によって天下を握った平清盛。その嫡男・平重盛が越前国司であった時代に 敦賀琵琶湖の運河が計画されたという伝説があるそうです。敦賀から笙の川を遡り、深坂峠を切り開いて大川で近江塩津に至るルートでした。その名も「堀止地蔵」という別名を持つ深坂地蔵が 計画断念の遺跡とのこと。参考

近世にも いくつかの計画があり、19世紀初頭に 大阪商人の資金で山中峠経由ルートの改修が行なわれ、幕末まで利用され活況を呈した と記されていました。
地理院地図を見ると、七里半越【現在の国道161号】の国境【「くにざかい」という地名らしい】には 389mと記され、付近にはスキー場が作られています。疋田で合流する笙の川の支流・五位川は 曳舟によってどこまで遡れたものか知りませんが、いずれにせよ近江側の知内川とを結ぶ全区間を 無理に舟運でつなぐというものではなく、道路による峠越えを併用した 現実的なルートであったようです。

幕末の加賀藩運河計画は実現しなかったものの、新湊博物館「高樹文庫」資料中の越前・近江関係には 越前近江糧道測量絵図 慶応三年 その他が残されています。

近代になると 1903年にアメリカが着工した パナマ運河【1914開通】に倣った 閘門式運河計画が登場。
1905年には 貴族院で 日本海から琵琶湖経由大阪までの汽船通船計画が採択されたが、日露戦争で実現できず。参考

昭和恐慌をようやく抜け出た頃の 田辺朔郎による運河計画も、5億円の工費とあって 実現は前途遼遠と伝えられています。

最後に戦後の高度経済成長時代。
海外では 外洋の航行が可能な大型船を五大湖に通じる セントローレンス海路 が1959年に開通。
今度の本州横断ルートは、伊勢湾と敦賀湾とを結ぶ計画で、三重県が熱心だったそうです。
大野伴睦氏を会長とする建設促進期成同盟会を 1962年に設立。岐阜県に港を作る構想もあったようです。中日新聞

でも、もう高速自動車道の時代が近づいており、1965年には名神高速道路が全線開通。
運河構想が日の目を見ることはありませんでした。


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