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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[89260]2015年12月8日
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[88782]2015年9月10日
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[88769]2015年9月8日
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[88762]2015年9月7日
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[88753]2015年9月2日
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[88708]2015年8月26日
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[88707]2015年8月26日
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[88670]2015年8月18日
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[88659]2015年8月16日
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[88648]2015年8月14日
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[88640]2015年8月14日
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[88632]2015年8月12日
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[88614]2015年8月11日
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[88598]2015年8月9日
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[88581]2015年8月6日
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[88552]2015年8月3日
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[88550]2015年8月3日
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[88296]2015年7月25日
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[88280]2015年7月24日
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[88269]2015年7月23日
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[88260]2015年7月23日
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[88203]2015年7月20日
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[88176]2015年7月19日
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[88090]2015年7月14日
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[88071]2015年7月11日
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[88053]2015年7月9日
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[88047]2015年7月8日
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[89260] 2015年 12月 8日(火)18:24:53【1】hmt さん
あいの風
氷見オフ会については 事前記事[88176]の後、およその旅程に沿って高岡[89247]、氷見[89248]、新湊[89249]をテーマにした記事を並べました。
今回も他のメンバーの行動に便乗しながら動いています。22日はJOUTOU号に同乗[89157]
23日の氷見漁港-富山新港間はEMM号、その前後はラガー号に乗せていただきました。
[89148]で海王丸パークでの昼食後拉致された人質(笑)は3名で、hmtは YASUさんと共に 高岡駅で開放されました。
[89249]の訂正です。越ノ潟の渡船の乗客になったのは グリグリさん1人 という推測は違っていました。
熊五郎さん[72972]は、 富山ライトレール、バス、県営渡船、万葉線の乗り継ぎで 高岡入りをしたとのこと。[ML00088]

それはさておき、ラガー号で高岡駅まで送っていただいたので、帰路の新幹線までに余裕時間ができました。
高岡には 重要伝統的建造物群保存地区に選定されている 山町筋 と 金屋町 とがあります。私の好みからすれば、高岡の町を散策しながらそこまで行くのが筋でしょう。
そう思いながらも 体力不足で実現できませんでした。

高岡市立博物館常設展だけでも覗いておけば よかったのかもしれませんが、それも実行せずに 高岡駅から乗車して富山駅に向かったのが 「あいの風とやま鉄道」です。

JR北陸本線の富山県内区間が、北陸新幹線の 並行在来線として分離され、富山県、市町村、経済団体が出資する第三セクターで運営されることになったのは、ご承知の通りです。

「あいの風とやま鉄道」の路線図を[87384]で追記した際に、区間の表示が境界駅に及んでいないことに疑問を投げかけました。
しかし、よく見るとそこでリンクしたのは運賃表示目的の路線図であり、会社情報>路線についてでは別の図が示され、管理駅数19駅(石動駅~越中宮崎駅)と表示されていました。この表示ならば妥当です。

実は「あいの風」という言葉も知らなかったのですが、社名の由来に説明がありました。
「あいの風」とは、春から夏にかけて吹く北東のさわやかな風で、古く万葉集の時代から豊作、豊漁等「幸せを運ぶ風」として県民に親しまれています。

局地風を指す言葉と解ったので調べてみたら、だんな さん の記事 があり、落書き帳アーカイブズに収録されていました。おなじみ、大伴家持の作品で、「東風」に万葉仮名の注釈を付けて「あゆのかぜ」と読ませています。高岡市万葉歴史館

さわやかな風というよりも、日本海を吹く激しい風のようですね。
家持の歌にも「いたく吹くらし」とあります。
菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花」は「こち」と読み、春の到来を告げる風ですが、「あいの風」は夏の季語になっており、東風と言っても別のようです。

いしかり市民カレッジ講座13によると、「あい風」は 北海道から山陰まで日本海の各地にある局地風です。
海陸の温度差が原因になって発生する海陸風である「あい風」の風向は、地域により 北、北東、東と違います。しかし、西廻り航路の上り【上方行き】船にとって順風であることは共通するようです。
なお、下り船は対馬海流によって蝦夷地に向うことができます。

北前船の時代は終わりましたが、「あいの風」は、氷見の漁業にとって、現在でもブリなどの豊漁をもたらす恵みの風なのでしょう。
[89254] 2015年 12月 6日(日)12:28:13【1】hmt さん
★祝★ 役チャン さん 「公共交通機関による役場巡り」目標達成
10年以上前、[42077] 2005年6月8日 役チャン さん の記事です。
私は「公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」を行っています。
対象を平成の合併前の市町村+東京23区の3259としており(中略)
役所・役場めぐりについては100%達成を目指し今後とも進めて行くつもりです。

朝日新聞2015/11/30夕刊で 大目標を達成されたことを知りました。おめでとうございます。
大合併前の役所役場 3259カ所訪問 公共交通機関使い、29年かけ

電子版では省略されている部分があり、以下の引用部分は紙面に基づくものです。

>合併前の東京23区、671市、1990町、575村をすべて回ると決めた。

671市、1990町との記載から、基準時点が 1999年4月 篠山市合併 の後であることがわかります。
ひとつ解せないのが 575村でした。総務省資料 に示されているように、当時は568村だった筈です。【訪問不可能であり、地方自治法の対象外である北方6村を除外した数字】

それはさておき、旅を始めてから29年、目標設定から23年での成果に拍手。

>1年間に100カ所程度のペースだったが、退職翌年の05年は最多の331カ所を訪れた。

最初に引用した落書き帳デビュー記事は この頃だったのですね。

続いて、「公共交通機関では行けない役場」と題した、難件の岡山県旧中和村の事例紹介[42127]
3件目の[42478]で、著書『地理が面白い』のご紹介がありました。そのうちに続編が出るのでしょうか。

>最後の訪問は今年9月。船で片道26時間かけた東京都小笠原村だった。

役場巡りの仕上げは 飛び切りの舞台でしたね。
『時刻表2万キロ』の宮脇さん[88851]は、国鉄全線完乗の最後になった足尾線の冒頭で、もう少し情緒のある線区にならなかったことを悔いていました。

hmtとして印象に残っている記事は、[57874]で紹介いただいた和歌山県湯浅町の望楼を備えた庁舎です。
「稲むらの火」 [36355]で知られる安政南海地震津波に関係する話題でした。スレッド[57891][57904]

この安政南海地震発生は、 安政元年11月5日【天保暦】でした。
日本政府は、これにちなんで11月5日を「世界津波の日」という共通記念日にすることを各国に働きかけていました。
最新の報道によると、12月4日の国連総会第2委員会で この決議が採択されたとのことです。
[89249] 2015年 12月 5日(土)16:13:35hmt さん
越中国射水郡(3)新湊
昔の氷見には「布勢水海」と呼ばれた広い潟湖があり、大伴家持もしばしば訪れて遊覧したり、都人を接待したりしたようですが、新田開発・乾田化などに伴って水系も変り、現在は 十二町潟水郷公園として一部に痕跡を残すのみとなっているようです。

…というわけで、オフ会第2日の遊覧船は氷見漁港です。
強風のため短縮された港内コースでしたが、みなさんと共に楽しむことができました。

下船後に集合写真。その後は海王丸見学組ということで、EMM号に乗車。
特にお願いしたわけではありませんが、伏木港を経由していただいたようです。
同じく富山新港を目指したラガー号は先に到着し、3人は既に海王丸でした。

地図を見ると、戦時合併とその解体で話題になった高岡市牧野地区[15592][74310][79475][80421]も近くでしたが、こちらは経由していないようです。

係留されている海王丸の見学も、船内のあちこちを上下しながら巡り、充実したものでした。
その後、今回の旅行では特に意識させられた斜張橋の中でも最大規模の新湊大橋へ。タンカーが橋の下を通って入港する様子を眺めることもできました。

この富山新港、正式名称は「国際拠点港湾 伏木富山港(新湊地区)」だそうです。
2011年の法律で特定重要港湾から改められた国際拠点港湾は、国際戦力港湾の5港【京浜3、阪神2】に次ぐランクで、全国で18港が指定されていますが、本州以北の日本海では新潟港と伏木富山港との2つだけです。

富山新港は、オフ会でスナフキんさんから紹介のあった昭和32年(1957)の地形図に見るように、昔は 浅い【深度最大1.5m、平均0.5m】放生津潟でした。
ここに港を作る計画は大正時代にもあったようですが、第一次大戦後の不況で実現せず。昭和戦前の大築港計画も技術上の問題と戦争で挫折。戦後の高度成長期になり、1960年に運輸省の承認が得られ翌年着工、1968年に開港し、工業港湾として整備されています。

戦後にできた新しい港だから富山「新港」でよいのですが、その場所が「新湊市」となると 文字づかい が気になります。
1889年の町村制から1951年の市制までの間は 射水郡新湊町で、その前身にも新湊放生津町・新湊六渡寺村など「新湊」の付く町村がありました。要するに「新湊」というのは、庄川と小矢部川とが合流していた時代、古代から左岸にあった伏木港に対して右岸に作られた「新しい湊」を意味するのでしょう。現在の地図でも庄川河口右岸(射水市港町)を見ると漁港があります。

それはさておき、掘り込み式の富山新港建設に伴い、港口の航路になる越の潟・堀岡間の陸地は分断され、道路および鉄道の代替として1967年11月から富山県営渡船、通称 越ノ潟フェリーがが運行されました。1986年からは地元住民だけでなく、一般客も無料化しています。今回のオフ会で この県営渡船の乗客になったのは グリグリさん1人だけではないかと思います【ML00132】。
2012年の 新湊大橋 開通後も、渡船は健在なんですね。

渡船の説明に「道路および鉄道の代替」とあるように、海岸経由で富山と高岡とを結んでいた富山地方鉄道射水線も分断されました。
高岡側の越ノ潟-新湊【現・六渡寺】間は、高岡軌道線・伏木線を営業していた加越能鉄道に譲渡され、1980年に万葉線の愛称が付けられました。2002年からは第三セクター鉄道の会社名にもなっています。
乗客の半減した富山側の鉄道は 廃止されました(1980)。
[89248] 2015年 12月 5日(土)16:03:53hmt さん
越中国射水郡(2)氷見と伏木
オフ会会場の富山県氷見市は初めて訪れる地でした。
氷見市の概要 によると、日本海側有数の氷見漁港で有名とのことで、大伴家持ゆかりの史跡や近年湧出した温泉にも触れていました。
氷見(ひみ)という地名の由来は諸説あり、同じ地名は 四国の石鎚山登山道の道筋にある愛媛県西条市にあるとのこと。

万葉集に現れる氷見は 大伴家持の長歌「都奈之取る比美の江過ぎて…」一首だけだそうです。都奈之(ツナシ)とはコノシロの古名だそうで、漁業関連の言葉が枕詞のように使われています。

大伴家持が越中国司として赴任したのは天平18年(746)でした。
能登国は養老2年(718)に成立していますが、家持が赴任する5年前には越中国に併合されており、家持は能登にも しばしば赴いています。渤海国[87470]と日本との交流も始まった頃であり、対岸交易も頭にあったでしょう。

国府は小矢部川が日本海に注ぐ伏木【高岡市伏木古国府・勝興寺付近】にありました。…というか、伏木港は元々庄川の河口であり、現在の庄川の河口は、明治末期の分離工事によって造成されたものでした。
伏木は翌日通過しただけですが、便宜上ここで記します。

左大臣橘諸兄[64972][84084]と親しい関係にあった 青年政治家・大伴家持は 前途洋々の思いを抱いて この越中に赴任したはずです。
しかし、越中勤務の5年間に中央政界の権力は藤原氏に移ってしまい、政治の名門・大伴一族としてではなく、万葉歌人として名を残すことになりました。

北陸道を奥州に落ちた源義経。雨晴岩の伝説は有名ですが、伏木の河口にあった如意の渡しで検問に遭い、 弁慶に扇で打たれた という話が『義経記』にあり、これが 加賀の安宅の関に場所を変えて 伝えられたのが歌舞伎の『勧進帳』だそうです。

変遷情報で確認すると、射水郡伏木町は戦時合併で高岡市の一部になり、市町村名から姿を消しましたが、北前船で賑わった時代を含めて日本海側有数の港町でした。
現在でも伏木地区・新湊地区・富山【東岩瀬】地区より成る 「伏木富山港」 の一部として、新潟と共に日本海の国際拠点港湾を構成しています。

家持のいた伏木から氷見に戻ると、こちらは大きな川が流れる富山平野を主体とする射水郡の他の地域とは少し様子が違うようです。だから、一時的にせよ氷見郡として独立していた時代があるのでしょう。海岸も南部は砂浜ですが、オフ会会場になった九殿浜温泉のある北部は岩石海岸が主になります。

九殿(くでん)というのは、氷見市大字姿の下のレベルの小字名であり、地図では確認できませんでしたが、「ひみのはな」の南にある谷間に九殿遺跡があり、1974年の調査で7世紀初めの製塩遺跡が確認されているようです。平凡社の歴史地名体系p.809中。
九殿浜の沖 約1kmの虻ガ島は、小さいながらも富山県最大の島[87262]

地図で氷見の北方を見ると 石動山があります。山頂は氷見市の領域から少し外れた 石川県鹿島郡中能登町になります。
ここは 山岳仏教の霊峰として、一時は三千人もの山伏がいる大勢力だったようです。
石動山の石は 「天より星落ちて、石となり、天漢石と号す」 とされているが、隕石ではないようです。
石動 いしゆるぎ→いするぎ。
難読駅で有名な北陸本線>とやま鉄道石動駅の所在地は 1962年に小矢部市になるまでは、富山県西礪波郡石動町でした。
前田利家の時代に、家臣の前田利秀が能登の石動山の伊須流岐比古神社を城下町に移し、「今石動」と名付けたのが由来とされます。
[89247] 2015年 12月 5日(土)15:55:07【1】hmt さん
越中国射水郡(1)高岡
第12回になる落書き帳オフ会。今年も参加することができました。
少し遅くなりましたが、例により関連記事を記します。

最初に タイトルを説明しておきます。少し長いです。
北陸新幹線での富山県入りに利用した富山市は別として、今回の行程は 高岡・氷見・射水の3市でした。
変遷情報を遡ると、2005年の平成合併により新湊市と合併して 射水市を形成した4町村が所属した 射水郡 が現れます。
更に遡り「越中四郡」と呼ばれた時代の射水郡は、現在の射水市域よりもずっと広い領域でした。

郡制施行直前の明治29年に射水郡から分離したのが 氷見郡 で、その区域は、1952年から1954年にかけて全域が氷見市になりました。

高岡は、市制町村制施行の少し前【明治22年(1889)2月】に 最初に指定された 36の「市制施行地」[34434]【注】の一つです。当時【郡区町村編制法時代】の行政区画では 「射水郡高岡町」でした。

そして近世以前、越中四郡の頃の「射水郡」は、凡そ現在の3市に対応する行政区画であった ということになります。
「射水」という 地名の由来
富山県を代表する大河である神通川・庄川の間に広がる平野を、水の湧出をあらわす「出水」(イミズ)と呼んだと考えられます。

「射水郡」の頭に富山県でなく「越中国」を冠した理由。それは、改正府県制の影響により「府県」が「地名」に使われるのが一般的になった20世紀 よりも 古い時代の領域を意識して用いた「射水郡」だからです。

【注】最初の市
市制町村制は府県別に施行されたので、最初の市の発足はこれに影響され、1889/4/1より遅れた府県もあります。
また 市制町村制施行前に、佐賀・岐阜・甲府・鳥取が 市制施行地に追加指定されています。
「最初の市」は36ではなく、45府県の市制町村制施行が完了時(1890/2/15)までに発足した40市であると言ってよいでしょう。詳細は[62660]をご覧ください。
参考までに、資料は 明治22年末日における39市の現住人口で、県庁所在地でない市は 高岡の他に 堺・姫路・弘前・米沢・赤間関・久留米の各市がありました。

ようやく、本文に入ります。
当日は北陸新幹線富山駅の改札口前で、グリグリさんから JOUTOU さんの レンタカーへの同乗を誘われ、もちろん 渡りに船と 同行させていただきました[89157]
富山の市街から西へ進むと県民公園太閤山ランドで、このあたりから先は射水市になります。射水市というと、以前の新湊市 という観念が頭に入っていましたが、平成合併で南の旧小杉町まで領域が広がっていることを 改めて認識しました。

庄川を渡ると高岡市。北上して曹洞宗の高岡山瑞龍寺へ。高岡に隠居城を築いた第2代加賀藩主・前田利長は 1614年に亡くなりました。第3代藩主の異母弟の利常は、利長の戒名・瑞龍院殿聖山英賢大居士にちなんで この寺を瑞龍寺と改称し、1645年から1663年【50回忌】にかけて大改築しました。

伽藍配置図。日本最古の寺院建築様式を示す 四天王寺 と同じように、本尊を祀る仏殿を中心として 回廊を巡らせた 左右対称の配置です。仏舎利を収める塔がないのが、最大の違いです。

仏殿というのは禅宗の呼び方で、普通には金堂、本堂と呼ばれる建物に対応します。法堂【はっとう】は講堂ですが、瑞龍寺の法堂は とても大きな建物でした。仁王が安置された山門を含めて 3つの堂が国宝に指定されています。
「浴室」、「東司」【とうす、便所】、「僧堂」【座禅や食事の場】、「庫裏」【くり、台所】と、修行に取り入れる日常生活の場が七堂伽藍に含まれているのは、禅宗様伽藍の特徴です。

創建当時の七堂伽藍が 現代まで完全に保存されているように思われたのですが、よく調べたら、幕末や明治初期の廃仏毀釈により縮小された伽藍の復元工事が近年まで続けられ、その成果があるようです。
幕末に三分の一に縮小されていた僧堂が 創建当時の禅堂に復元されたのも近年のようです。
大庫裏についても、向拝を含む復元改修工事の説明板がありました。向拝とは 神社の拝殿に見られるように屋根の一部が 庇のように張り出した部分 と思っていましたが、瑞龍寺の向拝は 画像 のように独立した屋根でした。もっとも、現地では工事用の幕で隠れていました。

瑞龍寺の後は高岡大仏。カーナビの指示するままにグルグルと回った結果、車窓からその姿を見ることができました。
銅器で名高い高岡ですが、昔の大仏は木造で、1900年の高岡大火までに何回も焼失しているそうです。銅像として再建されたのは昭和8年(1933)と意外に新しい。
余談ですが、仏像は別として人物の銅像第一号とされるのは、兼六園の日本武尊像であるとか。もちろん高岡製です。一番多く作られて全国の学校に普及したのは、昭和戦前にブームとなった「二宮金次郎像」。鐵瓶屋

それよりも、高岡古城公園。
豊臣政権のの五大老として徳川家康と対抗する勢力に担がれる立場にされた前田利家の病死後、約27万石の金沢領を継いだのは、『利家と まつ』 の嫡男・前田利長でした。豊臣から徳川へと政権が交代する難しい時代、家康の加賀征伐を回避して加賀藩の基礎を築くことができたのは、母・芳春院の尽力もありました。
関ヶ原の戦いの後で、前田家は加賀・越中・能登3ヶ国 120万石。異母弟の利常を養子として跡を継がせ 富山城に隠居したが、慶長14年(1609)富山城が焼失し、射水郡関野に築城しました。
北西側から見ると名前の通り小高い岡です。『詩経』の一節「鳳凰鳴矣 于彼高岡」に由来するとか。2012年オフ会の開催地・岐阜の由来[82224]を思い出しました。
エレベーターで岡に上り、中島のある水濠など紅葉の園内を散策、秋の景色を楽しむことができました。

台地の西側は千保川の流れる低地で、ここを碁盤目状に区画して商人町、職人町とし、千保川の対岸には鋳物師(いもじ)を集めて金屋町が開かれました。名高い高岡銅器の始まりです。
しかし、城主・利長の死(1614)で家臣団は金沢に引き揚げ、城下町体制は終りました。
更に一国一城令による廃城が追い打ちとなり、高岡は急速にさびれる危機に直面。
しかし、前田利常は転出を規制して高岡の町を残す保護政策をとり、商工業都市への転換を図ることによって高岡を発展させました。
[89184] 2015年 11月 26日(木)19:47:33hmt さん
斜張橋ことはじめ
斜張橋コレクション には 366件もの橋が収録されています。ざっと眺めたところ、平成以降の架設が多いように感じました。
世界的には西ドイツ【当時】のライン川などが「斜張橋のふるさと」として有名なようです。
そこで、デュッセルドルフの テオドール・ホイス橋の写真 を見たら、1958年竣工・最大支間 260mと書いてありました。
先進地でもまだ60年になっておらず、日本では ここ30年が主であることも頷けます。

コレクションから古い架設年が記録されたものを探してみました。
北海道神納橋の 1963年が最古で、次位が神戸の摩耶大橋 1966年。1968年には尾道大橋と 浜松市の鹿島橋歩道橋が挙げれれていました。1960年代はこれで全部。

ここで「現存しないもの」もコレクション対象になっていることに気がつき、記憶をたどった結果、相模川の相模湖流入口に架けられていた 2代目勝瀬橋 が 「日本最初の斜張橋」である[88047]ことを思い出しました。
かながわの橋100選 によると、初代勝瀬橋(吊橋)の塔を利用し、1959年に橋桁を架け変え。支間長 130m出典
この橋【幅員4m】はコレクションに収録されている3代目勝瀬橋【幅員7.5~10.25m】が開通する 2006年まで使用されました。

廃物利用の塔を用いたあたり、いかにも新形式の橋のテストであることを窺わせます。

神納橋に触れたページを見ると、旭川市神居古潭と深川市納内町を結ぶ道道が通る石狩川の橋ですが、斜張橋と並んで1987年に増設された箱桁橋が架けられています。支間は80.4mと短いものです。
上流側の橋には斜張橋が採用されておらず、短い支間長であることと共に、これもテストという感じです。

1966年の摩耶大橋になると、支間約140m、幅員14mの橋です。これで ようやく本格的な斜張橋の登場か と思いましたが、これと並行して1975年に架けられた 第二摩耶大橋は、これも箱桁で建設されました。やはり、この程度の支間では斜張橋構造にする必要はなかったのでしょうか。
その後、2本の橋は 1995年の阪神淡路大震災に遭遇しました。第二摩耶大橋の方は主橋脚に大きな被害を生じたようです。出典

1968年1月竣工の尾道大橋は 最大支間長 215m。わが国で初めて支間長 200mを超えた本格的な斜張橋です。有料道路として開通後、2013年に無料開放されました。
並んで架けられた新尾道大橋は、「しまなみ海道」を構成する自動車専用橋で、ここで初めて2本の斜張橋が並ぶことになりました。
2本の斜張橋が近接しているので、耐風安定性の工夫などが施されているとか。

最後に「斜張橋ことはじめ」と無関係の余談を少々。

尾道大橋関係に関連して斜張橋の耐風対策に言及しましたが、「新湊大橋の耐風対策」と題する講演会資料 を見付けました。
本題は専門的な内容ですが、その前に 「橋の歴史」・「橋のタイプ」・「橋の大事故」に関する画像がたくさん収録されています。

「橋の大事故」と言えば、日本では文化4年(1807)の永代橋落下事故[75315] がありますが、この事故は収録されていません。参考:落語
死者約1500とも伝えられる大事故の直接原因には交通規制の不備などもありますが、根本原因は 江戸幕府の財政難>永代橋の民営化>メンテナンス作業の不備による構造物の老朽化 だったようです。2012/12/2の中央道笹子トンネル天井板落下事故に通じる問題点があるようです。
[89106] 2015年 11月 19日(木)15:26:20hmt さん
インカ遺跡の麓で 村おこしをした 野内与吉
先月のことですが、福島県安達郡大玉村が、ペルー共和国のマチュピチュ村との間で 友好都市協定を締結した(2015/10/26)というニュースがありました。

世界遺産「マチュピチュの歴史保護区」【1983年登録・複合遺産】。
尖った山を背景にして、尾根に築かれた遺跡の写真は、誰でも見た覚えがあるでしょう。
アンデス山脈中のこの遺跡は、100年ほど前までは 人に全く知られない状態で眠っていました。

インカ帝国の伝説による最後の都・ビルカバンバを求めて イェール大学のペルー探検隊を組織した 米国人 ハイラム・ビンガム。彼が植物の生い茂った西側の急斜面を登りきって、ここにある石組みの遺跡をみつけたのは 1911年7月24日でした。ビルカバンバはこの地ではなかったし、マチュピチュ遺跡もビンガムより少し前に地元民に知られていたようです。
しかし、この遺跡の学術調査を最初に実施し、『ナショナル・ジオグラフィック』誌などの出版物を通じて世界に広くその存在を知らしめた人物として、ビンガムの名は記憶されています。

文字による記録を残さずに滅びた 15世紀のインカ帝国。
写真では 謎に包まれた「天空の都市」というイメージですが、標高2430mというと インカ帝国の首都だった クスコ(3400m)よりも ずっと低いことがわかります。
遺跡があるのは尾根ですが、アンデス山地の大きな地形としては アマゾン川の源流のひとつ、ウルバンバ渓谷沿いであり、麓の村まで鉄道が通じているのも そのためでしょう。

マチュピチュ村は、マチュピチュ遺跡の麓にあり、人口約3000人だそうです。
年間200万人の遺跡観光客は「マチュピチュ村」まで列車で来て、シャトルバスに乗り換えて山上のインカ遺跡に向かいます。

一方の 大玉村 は、昭和30年に玉井村と大山村との合併で成立。平成合併では単独の村として生き残り、全国に先駆けて独自の定住政策を進め、人口が増加し続けています[86365]
安達太良山を望み「大いなる田舎」を自認する農村。「日本で最も美しい村」連合[86495]に加盟しています。

2つの村を「都市」と呼んでよいかどうか? それはさておき、マチュピチュ村と大玉村との間で 世界初の友好関係が成立した背景には、このアンデス山中で、村起こしに尽力した日本人がいました。

それが、福島県大玉村【当時は玉井村】に生まれた 野内与吉(1895-1969)です。
富農の次男ですが 長子相続の時代なので、成人した彼は 契約移民としてペルーに移住して成功する夢を持ちました。しかし、先方の条件が違うので1年で辞めて放浪。ペルーに戻ってからはペルー国鉄に勤務。

野内セサル良郎によれば、1929年にクスコ・マチュピチュ間の線路完成後に、野内与吉はマチュピチュ村の最初の定住者になりました。
飲用や灌漑用の水路、水力発電、機械修理など彼の創意工夫を伴う尽力は村に大いに貢献し、1935年には村で初の本格的な建築物「ホテル・ノウチ」(3階建、21部屋)を建て、一部を郵便局や交番に提供しました。
1939年には村の事実上の責任者である行政官になった彼は村人の信頼を集めていました。

「アグアス・カリエンテス(熱い水)村」(現マチュピチュ村)という名の由来になった温泉も、木材伐採の際に彼が発見したという話もあり、現地では弘法大師のような伝説的英雄になっているのかもしれません。
木材と言えば、彼は材木商としての経験からマチュピチュ付近のジャングルに目をつけており、先住民4家族のみが住んでいたこの村に住み始めた と伝える別の資料もあります。こちらによれば 鉄道開通は1923年。温泉発見の話もあります。

1941年に始まった日米戦争により、ペルーにとっても「日本は敵国」という関係になりました。
野内与吉も、戦時中は公的な活動はできず、監視される状況になったと思われます。しかし、彼を信頼する村人によって 安全は守られていたようです。
前妻と別れたのもこの頃と思われますが、後妻との間も5人の子に恵まれました。

戦後は1947年の土砂災害に際しても働き、1948年には復興のために村長に任命されました。
災害復旧の仕事を片付けた彼は 古巣の鉄道に戻り、クスコに移住して 定年まで勤めて引退したようです。
鉄道の仕事を引き継いだのが ノウチ・セラル・モラレスで、先に引用した野内セサル良郎の父です。

マチュピチュ遺跡が 日本で有名になったのは 1983年の世界遺産登録後でしょう。
しかし、考古学に詳しい三笠宮さまは、早くも 1958年のペルー訪問で見学に訪れ、野内与吉の長女・オルガから花束を贈られました。

日本の新聞にその記事が出た結果、野内家の親類が与吉の健在を知り、大使館を通じて連絡することができました。野内家の人達は 10年かけて100万円を集めると そのお金で与吉を日本に呼び、歓迎会を開くことになりました。このようにして、1968年に野内与吉の大玉村への帰郷が実現しました。52年ぶりのことです。

日本に着いた今浦島・野内与吉の第一声は「電気はついたか?」。

彼は翌年まで日本に滞在しましたが、11人の子供が待っているからと、日本の家族と別れペルーに戻りました。しかし、その2ヶ月後にクスコで亡くなり、家族と村人が見守られながら ペルーに骨を埋めることになりました。日本から持ち帰った玉手箱を開いたので------という記事は みつかりませんでした。

前妻との間にできた次男のホセ・ノウチは マチュピチュ村でホテルを経営。1981年から1983年まで村長に就任。

友好都市の話は以前からあったようですが、お金もかかることなので実現に至らずにいました。
平成27年度になり、日本での支援事業による予算措置が実現。
大玉村からマチュピチュ村を訪問し、マチュピチュ遺跡で友好都市締結式が行なわれたとのことです。
[88941] 2015年 10月 28日(水)16:30:54hmt さん
北九州空港近くの羽島
[88936] グリグリ さん
羽島の所属に関する情報が、Webでもほとんど見当たらないですねぇ。

リンクしていただいたブログの写真からの判断ですが、特殊な趣味的視点をもつ私達は別として、常識的な社会生活を行っている人々の間では、ほとんど無価値と思われる島であるために、Web情報が少ないのではないかと推測します。

では、北九州空港開港という周辺環境の変化をふまえてなされた 訂正の原因は?

これは、表面的には 平成25年面積調 p.104 の記載に尽きます。
訂正(5) 所属未定に訂正(羽島)
(北九州市長(H20.3.19)と京都郡苅田町長(H20.3.24)の申請)

…というわけで、申請内容を境界訂正とした[88936]の下記部分は、事実誤認によるものではないでしょうか。
苅田町との間に所属争論があるように見えます。(中略)との説明から、苅田町からの 羽島を苅田町に含める という公文書による境界申請に基づいて、平成25年の面積調で所属未定となったように考えられます。

先に、北九州空港開港という周辺環境の変化ということを記しました。
私にも、この辺の昔のことはわからないのですが、工業地帯になる前は漁業が盛んで、魚の集まる島や浅瀬には、それなりの価値があったのではないかと考えてみました。

地図を見ると、羽島の近くには毛無島、間島があり、現在空港島になっている付近にも岩礁・浅瀬などがあったと思われます。
漁場という視点に立てば、羽島も 門司の漁村の貴重な漁場として確保される価値があった。

しかし、工業地帯と空港に変貌して漁業が衰え、門司も北九州市の一部になってしまっている現在では、羽島を「門司の領土」として確保する意義は小さくなった。
かくして、周防灘の羽島を 北九州市にも苅田町にも属さない区域【所属未定地】とすることで合意が得られた。
こんな筋書きを想像してみました。

実は、漁業に関係して、「漁業 門司 羽島」で検索すれば、何か情報が得られるかも…と考えましたが、Webでは古い記録は見当たらず。門司審判所の海難記録が2件ありましたが、周防灘ではなく、いずれも日本海にある山口県萩市の羽島でした。この島には昔は人が住んでいましたが、1971年無人化。
[88933] 2015年 10月 26日(月)21:19:35hmt さん
市町村隣接
[88841] [88931] グリグリ さん
大和葛城山北方の4市町村境界隣接に関する国土地理院からの回答を紹介していただき、ありがとうございます。
境界隣接に関する疑問を通じて得られた、自治体の地理的範囲についての認識を、私なりに整理してみます。

基本的に、各自治体が自認する地理的範囲は独自のものであり、隣接自治体の意見が合わないことがある。
隣り合う自治体間で意見が合わない場合は 地理院地図への表示は行いませんので、未確定の行政界が地理院地図に表示されることはありません。

国土地理院の今回の回答によると、関係する自治体から
「国土地理院への境界訂正の申請について、検討はしているが結論はまだ出ていない」
と返答したところ【単数か複数かは不明】があるようです。

現在では、マピオンなど異なる意見の表記も存在し、これに近い意見を持つに至った自治体があるのかもしれません。
現在の地理院地図には、陸地測量部時代からの境界が残っており、そこに示されている隣接関係が、「すべて隣接自治体の合意に基づき確定したもの」と迄は言えないかもしれません。
しかし、問題の4市町村境界について、国土地理院に対して訂正を求める正式の手続きは、現在のところなされていないものと理解されます。
関係する自治体の間で 意見が一致するようならば、正式の境界訂正手続に動くことになるでしょう。

要するに、問題の4市町村隣接関係について、境界線が「今後変更される可能性」はある。
しかし、変更の有無、境界未定になるのか、新たな隣接関係に変更されるのか を含めて、現状では何とも言えない。

私は、国土地理院の回答を このように読みました。

[88931]
この回答からすると、地理院地図はどうやら訂正が必要で、河南町と御所市は隣接していて千早赤阪村と葛城市は隣接していないというマピオンなどの表記が現状として正しいようです。

国土地理院の回答を、そこまで深読みしてよいものでしょうか?

以下、参考までに過去記事を少し拾っておきます。
境界は誰が決めて、地図を作る人はそれをどのように確認しているのか?
この基本的な問い掛け[87841] に対する私の考えは、既に[87846]でも記し、
残念ながら、記された境界が絶対に正しい地図を期待するのは、無い物ねだりではなかろうか?
と書いていました。

富士山を始めとし、地元自治体の意見の相違に基づく境界未定地は各地にあります。
東京の近くでも、平成2年面積調で「境界未定」になった小合溜について、地元意見は江戸時代以来の不一致があったことも記されており、境界問題の根が深いことを窺わせます。[87846]でURLを更新したコラム15「小合溜と都県境」参照。

「境界変更」など国土地理院面積調で使われている用語に関しては、落書き帳過去記事があります。国土地理院からは、「面積調の概要」第I章の末尾に別記Iとして掲載されていますが、そのURLは毎年変ります。最新
[88907] 2015年 10月 16日(金)17:56:09hmt さん
視覚障害者を支援する音響信号機
[88901] 稚拙 さん
得体の知れない「国際標準化」ということばが出てきました。【中略】
一生かかっても理由のわからないことってたくさんありますから、これからも1つ1つ知識を増やしていきたいです。

視覚障害者用信号機の「国際標準化」とは、2007年に制定された ISO 23600 を指していると思います。

その内容は 私もよく理解していないのですが、それよりも、この分野に関係する基礎的な知識を得るために 私が読んでみたのは、国際交通安全学会誌に掲載された解説です。視覚障害者の誘導について

これは 20年以上前の文献で、ISOにおける国際規格化の動向が触れているのは、第2章の いわゆる点字ブロックに関するものでした。5/8コマからの第3章音響信号機については、まだ国際標準化に言及されていませんでした。

音響信号機設置の経緯については、1955年 最初にベル式の音響信号機信号機が設置され、振動式信号機、メロディー式などが開発されたと記されています。
参考までに、メロディー式は 1960年 名古屋でテストされたのが最初。音響信号機ってなあに?

メロディー方式は 21曲が存在。その他に擬音や単純音などの各種方式が存在することになりました。
1975年に全国統一化の要望を受けて整備基準作成に取り掛かり、1996年に擬音への統一方針が出されたようです。
警察庁は 2000年度に調査研究委員会を設置。方角を知りたいという視覚障害者意見調査結果を受けて、擬音の「ピヨ」「カッコー」への統一化。

警視庁交通規制課コーナーに 音響信号機に関するQ&A があり、「擬音式の異種鳴き交わし方式の整備を進めている」と記されていました。

要するに、利用者である視覚障害者の立場で考えれば、個性的ではあるが 多種類が乱立した メロディー方式は、実用的には ベストのものでなかった。
そして、利用者の望む全国統一化と普及とを視野に、仕組みが単純な 擬音式への統一 が行なわれつつある。

私は このように理解し、自分の知識を一つ増やすことにしました。
[88892] 2015年 10月 13日(火)22:48:15【1】hmt さん
10進法の分、60進法の分、4進法の分
[88886] あきすて さん
基本的に、”分”は1/10、”厘”は1/100(”分”の1/10)という認識

漢数字の数詞体系については、落書き帳の初期に[2153] Issie さんの記事があり、1/10の「分」から始まって、厘(りん)・毛(もう)・糸(し)・忽(こつ)・微(び)・…という系列が示されています。
出典は 17世紀の算術書・吉田光由著『塵劫記』や、インドから中国経由で伝来した『華厳経』が挙げられています。
その後、カッパーさんの[9927]もありますが、その内容は難解。

実用的には分(ぶ)・厘(りん)・毛(もう)迄を知っていれば十分と思います。
ここで『単位の辞典』で紹介されている『塵劫記』の原文を見たら、分(ふん)・厘(り)・…となっています。
世間に通用している読み方と違います。

「分」は 文字通り「分ける」という意味です。そこで、基本の数を いくつに分けるのか?

私の理解するところでは、分・厘・毛と分けてゆくのは、インド由来の基本的な数え方である 10進法です。
その場合【日本語の】読み方は「分(ぶ)」です。

天文学の発達したメソポタミアでは、円周を360度【1年の日数】に分け、1度を60に分ける60進法が生まれました。
日本語では、1/60 度の「分」を「ふん」と読んで、10進法の「分(ぶ)」と区別します。
英語では degree, minute(細分), second(2段階細分)と60進法独自の言葉を使います。

天体観測分野での角度測定の歴史は古いが、時間測定の単位として使われる「分」(ふん)や「秒」が測れる 精密な時計 ができたのは、ずっと後のことでしょう。
最初は「1日」という時間を細分して示す目的で作られた「分」や「秒」でしたが、科学技術の発達に伴い制定された現在のSI単位系[86490]の中で、「秒」は一番正確な定義がなされている「基本単位」に出世しています。

余談ですが、10進法を推進したフランス革命[45385]では、時間にも10進法を採用しました。
1週は10日、1日は10時間、1時間は100分。角度についても 直角の1/100の「グラード」を使ったとか。

話が変って、度量衡の「衡」です。これは天秤を使って測定する質量の分野です。
ここでは、分銅の数を最小にできる2進法に利点があり、実用的には2の2乗の4進法や、4の2乗の16進法単位ができました。
質量の基本単位は1両【= 10匁】であり、その 1/4の1分(ぶ)、1分の 1/4の1朱は貨幣の単位として使われました。[33573]
16両【160匁 = 600g】は「斤」という単位です。現在でも食パン1斤などと使われていますが、実際は370g前後であり 340g以上あればOK とのことです。

辞書による いろいろな「分」 の解説
[88888]には既に三省堂国語辞典、大辞林、新明解国語辞典が示されていますが、コトバンクにも 6つの辞書の解説文が載っていました。【大辞林は重複】
確かに、上記の原則論に示した「◯進法」による分け方 以外に いろいろな「分」 の使い方が示されています。

中でも驚いたのが、四分音符は二分音符の半分の長さ という使い方です。
こういう逆の見方もあるのか というのは、計量単位としての「分」に慣れてしまった者の感想で、実は
この語釈の使い方は『ぶ(分)』の原点なんでしょうね。[88888]
一筋縄では解説しきれないほどの「分」の用法があることに感心しました。

【追記】「三分坂」の読み方と、江戸時代の金銭価値
[88891] 伊豆之国 さん
急坂の割増賃金は、銀の重さ三分(さんぷん)=0.3匁を意味しているという横関氏の説。興味深く拝見しました。
お金のことだから4進法だろう。単純にそう考えたら大違いなのですね。
10進法と4進法とでは結果が2.5倍違うことになりますが、それ以上に影響が大きい因子があることを認識しました。

「分」という言葉を使う際には、何を基準にした「分」なのか が明らかにされなければならない。
そのような観点が基本であることを、「三割三分三厘」という用法[88883]に続いて 再認識しました。

金本位と銀本位
「金一両を銀60匁として、『銀三分』は20文に相当し」という記述から判るように、同じ重さでも価値に6倍の違い。

基準が貨幣単位の「両」か 重量単位の「匁」か
金本位の貨幣制度の基準単位は 1両(重量単位では 10匁に相当)。
銀は丁銀として通用した秤量貨幣。従って基準単位は「匁」。従って「銀三分」は 0.3匁の銀の価値。

金と銀で6倍、両と匁で10倍、4進法と10進法とで2.5倍。このすべての相乗になるので、同じ「三分」という表記でも150倍の違いになります。
貨幣の三分(さんぶ)ならば3000文という非常識な高額になるが、三分(さんぷん)の重さの銀なので 実は20文。
この説明に納得しました。
[88875] 2015年 10月 9日(金)20:23:41hmt さん
東京駅の改札口 (3)新幹線・地下新線の駅
これで、東京駅の本格的な駅舎は西側の丸の内と東側の八重洲とに出揃いました。
しかし、両側の北口・中央口・南口を数えても改札口は6ヶ所です。

東京駅改札口を一気に増加させたのは 1964/10/1に開業した「東海道新幹線」です。
全部の改札口・乗換口が当初から存在したわけではなく、名称も変化していますが、現在のJR東海による改札口番号で数えると、1番から5番の5改札口。他に6~9番の4乗換口があります。

その次に出てきたのは「五方面作戦」の一つとして新設された 総武快速線の「東京地下駅」です。
これは、15両編成の電車を丸の内口駅前広場地下5階に乗り入れるものです。
関東大震災後の1925年から行なわれてきた東京の地下鉄工事の中でも、前例のない規模でした。

総武快速線開業は 1972/7/15。
改札口番号 19, 20, 21が関係する この地下駅は、品川への地下線も延長され(1976)、1980年から横須賀線・総武線直通運転となっています。

これも東京駅か と言いたくなるほど離れているのですが、成田新幹線のターミナルとして計画された駅を転用した京葉線の東京駅が、平成2年(1990/3/10)に開業しています。
改札口番号で言うと、鍛冶橋近くの22番と東京国際フォーラム付近の23番。

ここまでの改札口を累計すると、3+3+5+3+2 = 16 です。あと2ヶ所。

東北新幹線の日本橋口(改札口番号10番)は2003年開業。【既に数えている東海道新幹線の1番も同時】
[88859] グリグリ さん
※在来線改札を通らずにJR東の新幹線に直接行ける改札はこの一箇所のみ

最後に、今回も数え落とした八重洲地下中央口。
これは1975年から順次着手された中央通路拡幅工事の一環で、地下八重洲側にありますが、4代目銀の鈴と共に2007/10/25に設けられたのではないかと思います。
[88874] 2015年 10月 9日(金)20:02:10【1】hmt さん
東京駅の改札口 (2)東京駅東口から八重洲口へ
東京駅は、大日本帝国の威光を示すように 宮城【注】の正面に作られました。1914年のことです。
そのため、千代田城に面した西側が表で、中央区【35区時代は日本橋区と京橋区】に面した東が裏側になっています。
【注】宮城
江戸城(千代田城)は明治維新後に東京城や皇城になった後、1888年 明治宮殿落成後は「宮城」と呼ばれました。
言わずもがなですが、読みは「きゅうじょう」です。「みやぎ」と読まないでください。
戦後の1948/7/1からは「皇居」と呼ばれるようになっています。

東京駅の所在地は「千代田区丸の内一丁目」ですが、丸の内側の駅前には丸の内二丁目があり、更に鍛冶橋通りの南【新宿に移転する前の都庁所在地】に 丸の内三丁目があります。3つを合わせた「丸の内」の範囲は、西の日比谷通りと東の外堀通りとの間にあり、元々は 千代田城の内壕と外壕とに囲まれた 大名屋敷地帯でした。

明治になってから付けられた町名は、北側が東京府麹町区永楽町、その南が八重洲町で、東京府庁・東京市役所の所在地は有楽町の一部でした。
その後東京市麹町区時代の1929年に「丸ノ内」になりました。現在は「丸の内」です。千代田区 町名由来板

丸の内二丁目の昔の町名が「麹町区八重洲町」だったと聞くと、現在の東京駅八重洲口前にある「中央区八重洲」との関係が気になります。
「八重洲」という地名が、東京駅を挟んで北東に約1km離れた、別の区に引っ越してしまったのは何故か?

実はこの件、[35062]でちょっと触れたのですが【北東を北西と誤記】、八重洲口を記す機会に 新たな材料を加えて再論します。

中央区の町名由来にあるように、ヤン・ヨーステンの邸は内壕沿い【千代田区】でした。では、外壕沿い【中央区】に「八重洲」という地名が生まれた「きっかけ」は?

それは、明治17年に外壕に架けられた 初代 八重洲橋 でした。
日本橋・京橋の市街地から、内壕沿い丸の内にある「麹町区八重洲町」に行くための橋という意味だったのですね。
日本橋から出発して京都に通じる東海道の最初の橋は「京橋」、次の橋は芝への入り口なので「芝口橋」【後に新橋[74436]】と命名されていました。八重洲という地名を内壕から外壕に移動させた そもそもの原因は、行先の地名を付ける流儀で命名された橋の名だったのでした。

それはさておき、明治の中央停車場計画には裏口がなく、駅の東側は車両基地として使われることになりました。
こうなると、八重洲橋は撤去して部外者の立ち入りを防ぐ方がよい。…当局はそう考えたのでしょう。
人文社の資料により明治の地図を調べると、『明治41年調査 麹町区全図』に描かれていた【初代】八重洲橋は、明治45年の『最新番地入り 東京市全図』では消えています。

外壕沿いの八重洲【麹町区・日本橋区・京橋区の境界地帯】が動き出すのは、関東大震災後の復興事業です。
日本橋区と京橋区の境界に広い八重洲通が作られ、外壕には面目を一新した【2代目】八重洲橋が新設されて、日本橋・京橋と東京駅とを直結することになりました。

東京駅南側の乗車通路から 長い木造跨線橋を仮設して 「東京駅東口」が開設されたのは1929/12/16でした。
もっとも、東口で発売する切符は電車区間のみというローカル駅で、いわば東京駅開業前に存在した呉服橋駅[35062]復活の形ですから、今日の姿とは比べものになりません。
東口跨線橋は 1939年から北口通路接続に変更された後も仮設の木造で、1952年まで使用されました。

「東京駅東口」という名は、牛込に住んでいた頃[41218]に 青バスの行先表示で覚えた記憶があります。
1952年に大学生として上京した時には、既に「八重洲口」の名が使われていたように記憶していました。
しかし、鉄道歴史地図 都電土橋線を用いて 駅前の停留所名を調べたら、1952年までは東京駅東口で、1953年から東京駅八重洲口となっていました。

戦後になると、戦災瓦礫処理により呉服橋の外壕が埋め立てられ、1951年に戦後初の高層ビルである第一鉄鋼ビルが完成するなど、新たな動きが出てきました。
それより前、1948年には東京駅八重洲口新駅舎ができて、木造2階建ながら好評を得たいたのですが、失火により半年で焼失しています。

1952年は鉄道創業80周年で、その記念事業として 高層ビルによる八重洲口新駅舎が推進されることになりました。
百尺という高さ制限の存在した時代ですが、規制緩和を見越して計画されたのが 地上12階の鉄道会館です。
1954年に6階までが完成し、上層階には大丸百貨店などが入居しました。
駅施設と民間施設とが同居する民衆駅の「はしり」になりました。
第2期工事で12階になったのは1966年です。
このビルは、八重洲口の再開発に伴って2008年に解体されました。
[88873] 2015年 10月 9日(金)19:47:15hmt さん
東京駅の改札口 (1)百年前、開業間もない頃の東京駅に入る改札口の数はいくつ?
[88863] にまん さん
東京駅の改札口ですが、在来線があと4つあります。
ということは、合計で改札口が24か所、はっきり言って迷路ですね。

JR東海の東京駅構内図には番号が付けられているので、このシリーズでは、この番号を利用します。
1番から23番まで。一つ少ないので調べたら、銀の鈴広場に通じる「八重洲地下中央口」が落ちていました。
専門家でも見落とすくらいの複雑さなのでした。

JR東日本サイトの全体図でも地下中央通路一帯が隠れていますが、地下一階平面図には示されています。

24ヶ所には新幹線乗換口6ヶ所含まれます。在来線と東海道新幹線の間が中央の7番と南の9番、東北新幹線と東海道新幹線の間が6番と8番、在来線と東北新幹線の間が11番と12番です。従って改札口は18ヶ所。内訳は在来線改札が12【13~24番】、東海道新幹線改札5【1~5番】、東北新幹線改札1【10番】。
改札で分離された3種類の鉄道の複合駅であり、在来線も地上駅に加えて地下駅と京葉線があるため複雑さを増しています。

ここで 100年前、開業(1914/12/20)間もない頃の東京駅に思いを馳せます。
中央停車場という名で準備が進められていたこの駅の名が、正式に「東京」になったのは開業直前の大正3年12月5日で、開業式典は「京浜線」と呼ばれた電車線[39140]の開業を兼ねて 12/18に約1500人の招待者を相手に行なわれました。
つまり、新たに東海道本線の起点になった東京駅に乗り入れていた鉄道路線は、蒸気機関車牽引の本線列車の他に、電車線を使った京浜線電車と品川から乗り入れていた山手線電車があるだけでした。

これら3路線の乗客が入場した改札口は何箇所設けられていたのでしょうか?
驚くことに1ヶ所だけです。その名もズバリ「乗車口」。現在の「丸の内南口」です。

東京駅構内は、一方通行の動線で設計されていたのでした。対応する「降車口」が今の「丸の内北口」。
皇室用や郵便用・手荷物用は別として、改札口はこの2つだけ? と思ったら、「電車降車口」がありました。
2~3両の編成だった電車ホームは短いので 降車口通路に届かず、中央の皇室口の北側に電車降車口を設け、1919年からは乗降兼用の「電車口」になったとか。
戦後の1948年には、現在のように いずれの改札口からも乗降できるようになりましたが、「乗車口」・「降車口」という名は 1959年まで使われ続けたので、学生時代には馴染んでいました。

次は、新幹線の時代になってから東京駅の表のような顔になった八重洲口の来歴を探ります。
[88852] 2015年 10月 5日(月)18:06:40hmt さん
「~改札」と「~口」との使い分け
[88850] グリグリ さん
新橋駅の改札口名称です。正式には烏森改札、汐留改札、銀座改札、日比谷改札です。

5年前に[74436]を書いた当時の駅構内図では烏森口、汐留口、銀座口、日比谷口となっていたので、次のように記しました。
「新橋駅○○口」というのは、駅構内への出入口ではなく、改札口の名として使われており、自由通路に面した南側唯一の地上改札口が「烏森口」で、「汐留口」は1976年 横須賀線の地下移設時にできた東側の地下改札口でした。

同じURLを参照したのですが、その後「~口」から「~改札」へと呼び名が変ったようです。

新橋駅烏森口を出て、自由通路を西の烏森方面に出ても、東の汐留方面に出ても「新橋烏森口駅前」?
そんなバカな。 やはり、この表記はおかしいのかもしれません。

こんな「つぶやき」がJRに届いたのか、「南側自由通路の西側が烏森口、東側が汐留口……と思っていた」人が多数いたせいなのか、南側の改札口は「烏森改札」という名称に改められ、「~改札」と「~口」とを使い分けることにしたものと推察します。

「~口の改札を出たところ」と言うように指定しないと、改札付近なのか駅構内出口付近なのか紛らわしい

汐留改札と言えば地下、汐留口と言えば烏森口を出て東に出た地上。待ち合わせするなら、きちんと指定しないと…

新橋駅よりも複雑な上野駅でも「~改札」と「~口」とを使い分けているようです。
上野駅は、中央改札、不忍改札、公園改札、入谷改札の4か所でちょっと惜しい

上野駅構内図を見ると、「~改札」は4ヶ所でも、「~口」は9ヶ所?あるようです。
中央改札に通じるのが正面玄関口と左右の広小路口・浅草口、更に東上野口。不忍改札に通じるのが山下口と不忍口。マピオンには西郷口というのも記されていました。公園改札の前には公園口。入谷改札の近くにはパンダ橋口があり、それと別に 長~い 入谷通路を隔てて入谷口。
[88851] 2015年 10月 5日(月)16:06:17hmt さん
時刻表
[88848] グリグリ さん
Googleロゴが、時刻表発行121周年を記念した仮想の時刻表画像になっています。

鉄道時刻表そのものは、もちろん明治5年の開業時から存在しました。[80065]汽車運転之時限並賃金表
冊子形式としては、1889/7/1の東海道本線全通の翌月、明治22年8月に大阪の忠雅堂が刊行した 日本全国汽車時間表 があります。
今日121周年を迎えたのは、月刊時刻表の元祖『汽車汽船旅行案内』(庚寅新誌社)です。[23129]

『汽車汽船旅行案内』は大正4年(1915)に庚寅新誌社・交益社・博文館3社の合同事業となり、創刊号は前身の号数を引き継いだ第244号から始まりました。筑波山オフ会のページを開き、オフ会企画の中の『公認汽車汽船旅行案内』の部分をクリックすると、3社を象徴する三本松の新しい表紙【245号】の画像が出ます。

時刻表と言えば思い出すのが 中央公論社の編集者というよりも退職後の鉄道エッセイの分野で知られた宮脇俊三さん[88004]です。
『時刻表昭和史』の中で父が愛用していたポケット版時間表の表紙にも触れています。
私の記憶にある最初の「時間表」の表紙には、そんな色刷りの絵が載っていた。護岸も路盤もなく、自然のままのやわらかい砂の上を汽車が走っているように見えるのはおかしいが、旅心をそそる絵ではある。

付言すると、小学生だった宮脇さん本人は 丹那トンネル開通を機に 母にせがんで自分用を買ってもらいました。
それはポケット版ではなく、現在のJTB時刻表の前身である『鉄道省編纂・汽車時間表』【1925年創刊】でした。
絵本のように大きな時刻表であった。こんな立派な「汽車の時間表」があったのかと私は思った。算用数字で組まれ、左開きであることも、父のよりよほど上等な時刻表に見えた。【時刻表昭和史】

ところで、Googleロゴとして使われた仮想時刻表画像。
NAVERまとめ を見たら、画像クリックで拡大できるようになっていました。
参考までに駅名を列挙 足柄山 しょうじょう寺 かっぱ石 稲穂? かちかち山 ある山里 鬼ヶ島 竜宮城 丹後の国 大江山 八郎潟 イーハトーブ 月の都

列車名は特急ぶんぶく2号に始まり、かめ(6号 12号)うさぎ(14 16 18号)まで。
色分けは列車種別ではなく、GOOGLEの文字になっています。

足柄山から月の都まで「かめ」の所要時間約2時間に対して「うさぎ」は約1時間半と俊足で、かめ12号の後で発車した うさぎ14号が月の都に先着。これは順当です。
ところが、月の都から先、終着駅の隠れ里までの所要時間を見ると、面白いことに気がつきます。
かめ12号は2h20mと、特急に劣らないスピードを出しているのに、うさぎ14号は3時間近くを要しています。
自分の俊足におごった うさぎ14号は、どこかで40分も停車し、かめ12号より30分も遅れて終着駅に到着。
ちゃんと物語の筋書き通りの結末になっていました。
[88843] 2015年 10月 1日(木)18:52:30hmt さん
城南五山
[88842] グリグリ さん
御殿山にも繋がる台地と言うことでググってみたところ、こんなページが見つかりました。

リンクされたのは 品川区の御殿山台地の箇所です。徳川将軍家の御殿があったと言われるのは 北品川3丁目付近で、昔は品川の海を望む景勝地だったようです。しかし、品川台場造成に際して山が崩されて地形が変り[80264]、更に東京港の工事があって 現在の海は更に遠ざかっています。

品川区の地盤図を見ると、上方桃色の淀橋台に、高輪台・白金台などの駅名が見え、台地コレクションに収録されている 淀橋台地・高輪台地・白金台地 に対応することがわかります。

淀橋台南側の緑色は目黒川の谷で、山手線は目黒までこの低地を走ります。
港区・品川区の境界線、つまり1932年までの東京市と荏原郡との境界線は、これよりも少し台地側にずれています。
ここには、南東から御殿山・八ツ山・島津山・池田山・花房山、総称して「城南五山」という地名があります。
明治時代に存在した島津邸・池田邸・花房邸が地名の由来。
城南五山の探訪ルートは、東京凸凹地形案内 に紹介されています。

ついでに、御殿山に関する疑問点を一つ
[88842]のリンクと同じページの下の方には、港区の御殿山台地も記されていました。
「柘榴坂は御殿山台地の南東部分にあたる高輪台を東から上る坂」と書いてあり、島津山の北に別の御殿山台地がある地図が示されています。どうやら、高輪警察署付近を指しているようですが、その存在は不詳。
地図を見ると文久元年に英国公使のオールコックが襲撃された東禅寺が近くにあります。
翌年の御殿山英国公使館焼き討ち事件と混乱しているのかもしれません。

こちらのページに、この付近の台地と低地の地勢が描かれています(どこまでが独自名称なのかはっきりしませんが)。

品川・大井・入新井 の地形ですね。
台地名は、御殿山台地・三ツ木台地・広町台地・戸越台地・大井台地・山王台地・西大井台地・馬込台地で
低地・台地名は独自に付けた。
と書いてあるので、[88840]で採用していただいた荏原台の山王台地も独自名称になりそうです。

まあ地名というのは、こんな具合に必要に応じて独自名称が付けられ、不適切なものでなく、追随者が多くなれば定着する。そういう性格のものかもしれません。
[88837] 2015年 9月 29日(火)11:57:36hmt さん
山王台地・星が岡
[88830] EMM さん
国会議事堂の西側に山王日枝神社がありますが、この日枝神社がある付近の高台のことを「山王台地」または「星が岡」というようです。

「星が岡」という名は、古き東京の名所として記憶に残されていました。
明治時代の政界人・財界人の社交場となった「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)。元々は 日枝山王社の境内地であり、街の明かりで東京の星空が失われてしまう前には、小高い岡の上から星空の美しい景勝地だったのでしょう。

明治10年代後半の社交場というと 政府が作った洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)[49243] が知られていますが、同じ頃に三井などの民間資本で作られた和風の高級サロンが 星岡茶寮でした。

鹿鳴館は西洋式のパーティーや社交ダンスを通じて外国要人に文明化した日本の姿を伝え、条約改正[54388][62517]を実現しようという狙いでしたが、星岡茶寮の方は、国内の要人が「赤坂の料亭で 飲みながら 腹を割って話し合う」という伝統的な交渉の場として使われたものと思われます。

デジタル標高地形図を見ると、鹿鳴館の位置は千代田城の南・現在の日比谷公園東側で 内幸町と記されています。
一方、星岡茶寮のあった山王台地は お城の西側の麹町台地が 南に続く先端で、日枝神社の文字が読めます。
内幸町の鹿鳴館と星ヶ岡との距離は、東西に1.5kmほどでしょうか。

山王台地の下は濃い緑色になっています。元々この地にあった溜池は 東に流れる汐留川の水源でしたが、明治10年に干上がって湿地化し、後に埋め立てられました[33199]。東京高速鉄道(後の銀座線)は このような過去を持つ土地の地下を 戦前(1938)から通っていましたが、溜池付近には 60年近くも 駅がありませんでした。
1997年南北線延伸によって、銀座線と交差するこの地に 開設された駅の名は、溜池低地側の港区と 山王台地側の千代田区と 双方の顔を立てた「溜池山王駅」になりました。

星岡茶寮に戻ると、関東大震災後の北大路魯山人による料亭を経て 1945年に空襲で焼失しました。
戦後は五島慶太による東京ヒルトンホテルが作られ、ホテル内に「スターヒルズ」というレストランがあったように記憶します。
そのホテルも老朽化し、21世紀になってから建て替えられました。[88830]の写真6。

キャピトル東急内の 中国料理「星ヶ岡」 は、この地を記憶する名を 今に伝えていました。

参考までに、大森駅前にも 日枝神社 があり、その付近も 山王台地 と呼ばれるようです。
[88832] 2015年 9月 28日(月)16:28:38【1】hmt さん
日を数える
第2次安倍内閣発足からの在任期間が 9/21に 1000日 になったニュースが報じられました。毎日2015/9/21
一覧表から拾い出してみたら、明治18年(1885)の内閣制度発足以来130年、96代の内閣のうち 1000日を越えた内閣は 戦前・戦中の60年間にも5回しかありませんでした。第1次桂、第2次伊藤、第2次桂、原、東條の各内閣。
そして、戦後70年にも 第3次吉田、第2次池田、第2次佐藤と3回だけ。
【以下修正】
今回の第2次安倍内閣は、戦後4代目で戦前からの通算でも僅か9代目という長寿内閣でした。
…と続けたら、「現在は第3次安倍内閣」とのご指摘[88833]を受けました。
リンクした一覧表をよく見たら、現在の内閣を含まない歴代内閣であることに気がつきました。
問題にされた1文は、主語に誤りがあったことを認め、これを削除します。
【修正終】

この数字は 日本の内閣が いかに短命であるかを示していますが、数え方にも問題があります。
小泉内閣のように連続している内閣は、通算した方がよいでしょう。
このように改められた、戦後長寿内閣の順番。
佐藤(1-3次)2798日、吉田(2-5次)2248日、小泉(1-3次)1980日、中曽根(1-3次)1806日、池田(1-3次)1575日。

現内閣は 戦後6位の現状から 更なる長期政権を狙っています。
連続しない第1次安倍内閣を加算しても、今のところ順位は変りません。

こんな政局をよそ目に、私的な日数を数えていたのが 楽隠居の hmtです。
地名の山田が話題になった機会に 筑豊の山田市に目を向け、その人口減少に注目しつつ「三万」と題した記事で 誕生30000日という私的な情報に言及してしまいました。

落書き帳の中で お祝いの言葉をいただくことになり、恐縮しつつ御礼申し上げます。関係記事

グリグリさんのプレゼント 私の記念日 を見て思い出したこと。
50年前の新婚時代、妻の生誕10000日を祝ったことがあります。自分の記念日は過ぎていました。
PCのなかった当時のこととて もちろんエクセルの日付関数を使うこともなく、手計算で日付を求めたのでした。
[88808] 2015年 9月 20日(日)15:20:24hmt さん
Re:御所市・葛城市・河南町・千早赤阪村
[88007] グリグリ さん
確認後の【国土地理院】回答が楽しみになりました。

大和葛城山北方の4市町村境界隣接関係で、地図の違いを最初に示したのは、[87834] N さん の記事だったでしょうか。
【千早赤阪村と葛城市は】Google MapやMapion、Yahoo地図では明らかに隣接していないのですが、地理院地図やMapFanでは隣接しているように見えます。

2系統の情報源があるように思われましたが、[88616]によると 前者グループの旗頭と思われる ゼンリンの「いつもNAVI」では、ズームによる相違があるとのこと。これは意外。
マピオンからの返信はゼンリンに丸投げでした。

2万5千の地形図を元に進化した 地理院地図と、1500分の1?の市内住宅案内地図から出発した ゼンリンとの違い?
その後、自治体からの回答[88690][88748]もありましたが、独自の情報は得られず。

ズーム13の根拠はゼンリンに聞きたいところです。ゼンリンの得意分野とも思われない山岳地帯の独自調査?
私としては、国土地理院から最終的に責任の持てる見解が得られるものと期待しています。
国土地理院は、境界未定箇所については境界線をあえて表示することなく処理するなど【注】、責任ある態度を取っています。


【注】
大和葛城山北方から離れますが、よく似た高千穂峰西方の 4市町【都城市・高原町・小林市・霧島市】境界の事例を示します。
[87838] グリグリ さん には、Google Map, Mapion, Yahoo!地図, 地理院地図, MapFan がリンクされています。

高千穂峰付近は 都城市と高原町との境界の一部が未定で【面積調の a】、地理院地図【リンクが間違っていたので貼り直し】には これが示されています。

しかし、他の地図では 高千穂峰の南側に 都城市と高原町との境界線が記載されています。
Yahoo!地図 や Google Mapでは、高千穂峰付近の登山道がごく一部しか記載されていないなど、地図による違いは かなりあります。
更に細かく見ると、Google Mapでは 宮崎県高原町と鹿児島県霧島市との境界にある短い県境線【高千穂峰と お鉢 の中央】が脱落していることにも気がつきました。
[88806] 2015年 9月 17日(木)18:55:42【2】hmt さん
国勢調査デビュー人口が3万人未満だった 34市
[88803] 白桃 さん
「三万」[88800]にお付き合いいただき ありがとうございます。
国勢調査人口3万未満を記録した市の 7パターン を拝見しました。

最初に、[88805]の訂正に加えて もう1ヶ所。パターンF:枕崎型の次に、またパターンF…。
「パターンG:羽咋型・・・ず~と十両暮らし」なんでしょうね。

さて、この羽咋型の12市とパターンB:石垣型の20市。それに安芸市と中津市を加えた 34もの市が、3万人未満の人口で国勢調査デビューをしていることに驚きました。
3万人のハードルをクリアして誕生したはずの「市」なのに何故? といのが一応の疑問です。

事前の適格審査に使われた国勢調査は、市になった後の国勢調査デビューより1回前であるのが普通だから、人口停滞又は減少傾向にある時にギリギリで3万を確保した後に市になれば 不思議な現象ではないわけです。
この予想を確かめるために、代表例として半世紀以上も十両生活を続けた羽咋市を調べてみました。

事前の 1955年国勢調査における 2町2村合計人口は 30045と ギリギリで適格審査セーフでした。
1958/7/1 羽咋市誕生市後の国勢調査デビューは1960年で、29556人と十両デビュー。
“なっちゃったもの勝ち”[584]なので、市としてデビューした時に3万を越えていたかどうかは、一応無関係ということなのでした。
G組は平成合併10市も 同様な理由でしょう。この時間差が十両デビューを生む原因の一つなんですね。

羽咋市に続いて十両生活が長いのは 1970/12/1誕生のえびの市。これは単独市制ですが、1970年国勢調査において 既に3万を割っていました。
適格審査はそれよりも前の1965年国勢調査で行なわれたのでしょう。この時の合併前3町の合計人口は 33101人ですから 悠々とパス。市になる前後10年間における人口減のため、えびの市の国勢調査デビュー人口は 27241人にまで減っていたのでした。

しかし、パターンB:石垣型【幕内に昇進】では事情が違い、十両デビューの原因も違うようです。
何よりも歴史の古い市が並んでいます。鳥取 尾道 丸亀 は明治、福山 大垣 上田 は大正、海南 飯田 熱海 舞鶴 七尾 館山 洲本 柏崎 多治見 は昭和戦前。
20市のうち、鳥取市から相生市【戦時中】までの 16市は法律「市制」の時代に誕生した市でした。

鳥取市は市制町村制施行により「町村」を経ないで市になった最古参です。「市制町村制理由」 に記されたように、「人口凡二万五千以上の【狭い】市街地」だけを「市制施行地」とする制度でした。
その後、内務省による「人口5万人以上」などの内規はあったようですが、法律上の規定はありません。[75438]
1947年、現行憲法と共に制定された地方自治法第八条により、市となるべき要件として「人口三万以上」が規定されました。[88800]では書き落していますが、これが「人口五万以上」に改められたのは 1954年です。

日本の南西端に近い八重山列島。石垣島に市が生まれたのは 1947/7/10 でした。言うまでもなく 昭和22年という言葉が通用しない米軍占領下ですから、これも地方自治法の人口三万要件とは無関係でした。
国勢調査記録には 1950年 19872人でデビューしています。琉球政府公報27号 4/5コマ
余談ですが、この表の中には 日本に返還される前の奄美 が含まれていることにもご注目ください。

なお、1964年に八重山郡大浜町を編入した石垣市は 1965年国勢調査では4万人台で幕内入り。
1972年日本復帰後の国勢調査では3万人台も記録していますが、1985年以降は4万人台を維持しています。
[88800] 2015年 9月 15日(火)18:45:16hmt さん
三万
一時期、石炭産業などに支えられて「市」になったものの、社会構造の変化により人口が減少した「市」に関する話題が出ています。[88789][88790]
その際の重要な指標になる数字が、「人口 30000人」です。

地方自治法第八条第1項は「市となるべき普通地方公共団体は、左に掲げる要件を具えていなければならない。」として、4要件【2~4号省略】を示しています。
一  人口五万以上を有すること。

それなのに、何故「人口 30000人」が指標になるのか?

言うまでもないことですが、(旧)合併特例法時代から 合併新法にかけ 2010/3/31まで継続していた「三万市特例」[40463]によって多くの「市」が誕生した。その既存事実があるからですね。

市になるための人口要件。この変化を時系列により詳細にまとめた むっくん さん の記事は、hmtマガジン 市と町の違い に収録されています。
なお、省略した4号に関連する都道府県条例については、アーカイブズ があります。

「三万」については、 祝!30000番記念地名編 という じゃごたろ さん の記事があります。
ここで紹介されている「三万谷」は、戦国大名・朝倉氏が本拠とした越前国一乗谷のある 足羽川流域で、「一乗谷」の上流側に隣接する左岸支谷です。越美北線「三万谷トンネル」は、この2つの支谷を隔てる山地を貫く形です。地理院地図

余談:歴史地名として有名な「一乗谷」は、現代の住所地名は「城戸(きど)ノ内町」となっていました。朝倉氏の栄光だけでなく、地名も消滅しているようです。
そう言えば、織田信長に滅ぼされた「一乗谷」だけでなく、織田軍団の中で越前の覇者となった柴田勝家の「北ノ庄」も、江戸時代になると「福井」[64833]に改められ、消滅地名になったのでした。

「三万」地名に戻ります。
前記[30003]の地名表記が 地名コレクションで 平成合併後の表記に改められているのはよいのですが、秋田県男鹿市「払戸三万場」は、Mapionにあるように「払戸三萬場」なのではないでしょうか。すぐ近くには 「福川三萬把」 という地名もあります。

ここで、グリグリさんへのお願いを一つ。
アーカイブズが原則として編集を中止していることは承知しているのですが、グリグリさん提案によるもの でもあり、特別に [30000][30008][30021][30025]などを追加していただけないでしょうか。
特に[30025]は、「全国の市・十番勝負」のきっかけが 落書き帳30000番台突破記念 であったことを示しており、歴史的価値があると思います。

この記事の「落ち」をつけておきます。
実は、hmt誕生30000日の記念書き込みだったのでした。次の目標は 40000日? そりゃ無理だ。
[88789] 2015年 9月 13日(日)13:58:14hmt さん
Re:「山田」考 
[88785] グリグリ さん
「山田」に関する変遷情報検索につき、各種の一覧を挙げていただき有り難うございます。特に
全国の山田郡の一覧

検索文字を入力する部分は単に「自治体名検索」となっていますが、それより前に記された「検索対象」の項目では「自治体名欄」「変更対象自治体名/変更内容欄」「郡名欄」が示されており、「郡名欄」にチェックを入れるように設計されていたのですね。この点を見落としていました。

福岡県山田市の後継・嘉麻市には(中略)上山田と下山田の住所表示(大字?)が残っています。

以下、筑豊の山田 に関する 栄枯盛衰の記録です。

[88764]にリンクされている “「山田」の変遷情報検索結果” を見ると、1889年に成立した「嘉麻郡熊田村」は廃置分合のないまま1955年に「山田市」になっています。
その後も僅かな編入だけで2006年の平成合併に至っていますから、YT さん [84549]で紹介された力作 「市区町村別人口 Ver. 0.10」を見れば、「筑豊の山田の栄枯盛衰」を人口から知ることができます。

1889年の町村制施行時に嘉麻郡上山田村・下山田村・熊ヶ畑村の3村が合併し、合成村名の「熊田村」となる。
1896年穂波郡との統合で郡名が「嘉穂郡」に変る。1898年末の日本帝国人口統計 1999人。YT人口表【このように略記します】No.19375
この時代は筑豊炭田や若松港への石炭積出用の鉄道の発展期であり、筑豊鉄道は九州鉄道への合併後の1901年には 上山田まで延伸されました。
上山田駅の隣には下山田駅もありました。いずれも現存しませんが、山田駅[88786]の仲間です。

九州鉄道[61266] 国有化後20年ほどは 上山田が 筑豊本線 の終点でした。
1929年に原田(はるだ)まで全通した線が筑豊本線になると、飯塚-上山田間は「上山田線」になりました。

時代も目的も違いますが ついでに書いてしまうと、1988年 JR九州の手で全線廃止された上山田線には 上山田-豊前川崎という区間もありました。これは筑豊の石炭を若松港でなく苅田港に輸送する計画で作られた鉄道です。
しかし、1966年という開業時には 既に筑豊炭田が衰退し、時代遅れになった鉄道が本来の目的に使われる機会はありませんでした。

石炭産業に活気があった時代に戻ります。1908年末 3535人、1913年末 8724人、1920年の国勢調査では 15569人という 熊田村の人口増加ぶりは 炭坑の発展を物語っており、熊田町(1924)を経て 1925年に嘉穂郡「山田町」として「山田」が復活した年の国勢調査は 16143人【YT人口表 No.19373】。1940年には戦前最高の 31986人。

戦後の石炭増産時代、1950年山田町の国勢調査人口は 36379人。1954年の単独市制で「山田市」になりました。
しかし、山田市になってからの人口は 1960年には辛うじて市の体面を保つ 30140人【YT人口表 No.19230】だったものの、10年後には半減。2000年国勢調査では歌志内市に次ぐワースト2の 11686人に転落しました。
宮脇俊三さん[88004]が中央公論社の現役編集者であった1975年に、『時刻表2万キロ』の旅で乗車した第3章にも、次のように記されていました。
車内は淋しすぎるほど空いている。山田市は炭坑都市であるが、いまは人口が1万5千に減ってしまい、市制返上の話もあるという。

2006年の平成合併では 稲築町【YT人口表 No.19398, やはり1950年に最大人口44514人を記録し、2000年は19823人】などとの合併により市の体面をやっと保つ形になりました。
しかし、合併の結果 市名については 「山田」から 変わらざるを得ないことになりました。
その名は、1896年統合前にこの地域の郡名であった「嘉麻」の復活でした。嘉麻市の 2010年人口 42589人【YT人口表 No.19252】。
[88788] 2015年 9月 13日(日)11:51:29hmt さん
堺の住所、「丁目」はなく「丁」
[88747] _ さん
60年近く前のことです。新卒の私は 堺の会社に就職することになり、荷物の送り先として会社から連絡された住所を見て、「目がない」ので 驚きました。
新任の日経支局長と同じような経験の記憶が、今回の記事によって甦りました。

この落書き帳では、アーカイブズ ちょっと変わった町名の雑学 に紹介されている 堺市のサイトを知りました。
リンク先のURLが変っているので、現在のページ を付けておきます。
堺市役所に取材した日経記事にも、ほぼ同じ内容が記されています。

最後に、hmt 過去記事集です。 
[88782] 2015年 9月 10日(木)18:23:06hmt さん
「山田」という地名
[88764] グリグリ さん 47都道府県すべてに存在する地名 「山田」
現自治体は岩手県の山田町のみです。

JR東日本による山田線復旧後の三陸鉄道移管については 既に関連記事[86828][87385][88294]がありました。

それはさておき、グリグリ さん による今回の調査のリストで、消滅前自治体の列を見て驚きました。
かつて山田町また山田村であった地域のうち、県内の少なくとも一つの自治体では 「山田」の地名が現代でも住所地名として残されているのですね。例外は香川県など3県のみ。

地形と土地利用の代表例を組み合わせた「山田」という地名は、考えてみれば 地名の王道でした。
市町村名の文字頻度分析でも上位を占めています。
日本中に溢れていた地名だから残ったのだ。そのような解釈もできますが、昔から馴染んだ地名が失なわれつつある現在、これはやはり「類まれな結果」なのでしょう。

しかし、かつて「山田」を代表した地名であった三重県宇治山田市[79347]の後継自治体・伊勢市には、近鉄の宇治山田駅があるものの、「山田という町名」は見当らないようです。
もっとも、[32564]グリグリさんによると、「山田」という名の自治体は 昔から存在しなかったようですが…

福岡県山田市の後継・嘉麻市には山田庁舎の所在地「上山田」などの町名がありました。
しかし、機械化した農作業に適さない「山田」が現実に失われつつあるのと並行して、地名の「山田」も多くは失われてゆくのでしょう。残念です。

三重県と言えば、かつて 山田郡山田村 もありました。
そこで、本題の「47都道府県すべてに存在する地名」からは離れるのですが、市区町村変遷情報に登場する全国の「山田郡」を検索してみようと思いました。しかし、「変遷情報検索」では うまく検索できないようです。

群馬県山田郡は 平成合併で消滅するまで 長い間存続していました。
三重県山田郡香川県山田郡とは、明治期の郡統合で消滅しました。

しかし、冒頭で例外3県とした香川県にしても、昭和合併により「山田」の名は 町名で復活しており、その自治体名が消滅した後も 高松市山田支所山田中学校などに使われています。

yamadaさん ご無沙汰ですね。地名での登場を機会に 落書き帳に書き込んで、こんな色 のタイトルバーを また見せてくださいな。
[88769] 2015年 9月 8日(火)15:27:07hmt さん
1976年に撮影された小幌駅付近のカラー空中写真
[88742] 山野 さん
Wikipediaによると、開業当時(戦時中の1943年)には民家もあり、小幌海岸海水浴場の利用客もいたとのこと
…というのがあるけど、此の当時の画像なんてのは残っているんでしょうか?

「開業当時に民家があった」ことについて、現在のWikipediaは 2015/8/14の朝日デジタル記事を出典として示しています。
既に[88766] k-ace さん のレスに紹介されていますが、そこには「【豊浦】町によると、70年代半ばごろまでに海辺の集落が消滅し」と記されています。この出典の日付8/14は 7/25に記された[88294][88296][88297]よりも後であり、当時のWikipediaには出典が示されていなかったように思われます。

それはさておき、ご質問の趣旨は当時(約40~70年前)の画像の存在です。
国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で小幌駅付近を見ると、周辺も含めて70件の画像がヒットし、小幌駅開業の翌年である1944年撮影の写真もあります。しかし、閲覧すると大部分の写真は不鮮明です。
最も鮮明であると思われた写真は1976/10/28に撮影されたカラー写真(CHO7612- C6A-31)でした。まさに海岸の集落が消滅した頃。
幸いなことに、この空中写真は Wikipediaにリンクされているので、アクセスも容易です。

山の間に挟まれた駅前には青屋根の駅舎らしい建物等が見え、海岸近くにも青屋根が2棟あります。海岸にあった民家【の残り?】でしょうか。海岸は小さいながらも砂浜らしく、これが海水浴場でしょう。
この海岸と駅との間だけは、樹木が茂っていない空間になっています。

[88294] k-ace さん によると、2011年訪問時に「獣道を歩いて海岸に行くと」と記されています。
この35年間に生い茂った樹木によって 駅前と海岸の間にあった空間も 周辺と同じような森になり、秘境駅訪問者だけが通る「獣道」状態に変化したのだと思います。
[88762] 2015年 9月 7日(月)14:52:46hmt さん
八幡製鉄 と ビハリ・ボース直伝のインドカリー
[88759] 白桃 さん
北九州市成立前から、当地の製鉄業に翳りが見え始めていたのでしょうか?

八幡製鉄所の歴史を見ると、1959年(S34)からの第三次合理化では、戸畑地区での能力増強、八幡地区での高炉集約に加えて、堺・君津での一貫製鉄所実現に向けての建設開始と 旺盛な設備投資が行なわれている様子を うかがうことができます。

1960年に池田内閣が策定した「国民所得倍増計画」は、1961年からの10年間で GNPを倍増させることを目標に掲げ、実際には 10年間で約4倍の成長を達成したと言われています。
若戸大橋開通・北九州市発足と続いた時期は、この計画が走り始めた頃であり、当時の経済を支えた「重厚長大産業」の柱である製鉄業は、成長産業でした。

第四次中東戦争(1973)を端緒とする石油危機の影響によって経済成長率が急速に低下したのは昭和49(1974)年度で、わが国の産業構造が、省エネ・省資源型技術を裏付けとした「軽薄短小」路線へと転換したのは、昭和50年代でした。

マクロ的な社会背景はさておき、青桃さん?の就職先が 新宿の企業 になった という背景も 探ってみました。

戦後鉄鋼業の設備合理化期の展開という論文 のp.43(9コマ)に、当時の八幡製鐵の売上高・税引前利益が出ていました。
これを見ると、昭和37年(1962)は「岩戸景気」と「オリンピック景気」との谷間でした。

ちょっとした景気の谷間のせいで、社会人になる門出で 進路を変えられてしまったのは、ご本人にとってはショックな出来事だったと思います。
でも、これが 人生を成熟させるプロセスの中で良かったのか、悪かったのか? 
それを判断するのは、結果次第ということなのでしょうね。

思いがけず 笹塚で 美味しいカレーにありついた。
弟の白桃さんにとって ラッキーな結果をもたらしたことだけは 間違いないようです。[79360]

余談
伊賀の土豪出身の松尾芭蕉は、母が百地(桃地)氏出身と言われれており、深川で「芭蕉」を名乗る前の俳号は「桃青」でした。百地三太夫と言えば有名な伊賀忍者。
白桃さんの一族とは無関係なのでしょうが、青桃という名から 「もも」の付く人物を連想してしまいました。
[88753] 2015年 9月 2日(水)23:11:30hmt さん
佐賀県藤津郡多良町から太良町多良へ
[88731] スナフキん さん
自筆で書けない地名がありました。いや、書いたけど字を間違えたと言った方が正しいですね。
佐賀県太良町。

「釈迦に説法」であることは自覚しながらも、これを題材とした「地名」についての感想。

「佐賀県太良町」のような都道府県市区町村名は 「地名」としても使われますが、その第一義は「自治体名」です。
では ラジオ体操会場になった学校のある「地名」は何か? 
私としては、学校名にも使われている「多良」が 正統的な地名 であるように思います。
これを「佐賀県多良町」と書いた地名感覚を、簡単に「間違えたと」と捨て去るのは惜しいのではないか。

そんなことを考えながら、平凡社『日本地図帳』を確認してみたら、最も大きな字で目立つのは 自然地名の「多良岳」でした。次いで 役場の位置に記された「太良町」。
そして川の北側・海沿いにある集落「多良」は最も小さな字でした。

日本地図という観点からは、やはり「自治体名」を転用した「便宜的な地名」が、本来の居住地名よりもわかり易く、優先されるのが現実。これが実情なのでしょうか。

もちろん、スナフキん さんが 「自治体名称」を書くつもりだったのならば「字を間違えた」ことになります。
住所表記の「佐賀県藤津郡太良町大字多良」に基づけば、「多良町」は「大字多良」と表記上は違うことになります。

太良町のプロフィール にもあるように、食物が豊かで「足る」という言葉「たら」を由来とする地名のようです。
古代の発音を写した「託羅」はさておき、地名としては 意味も優れた「多良」が定着し、町村制よりもずっと前からの「多良村」を引き継いだ「多良町」は 1955年まで使われました。

それが昭和大合併の際に、「太良町」に変えられたのですね。
新設合併に際しては、相手となる大浦村に配慮する必要があった。
その結果、「大」に近い「太」を用いた「合成地名表記」を採用した。そんなところでしょうか。

このような経過を見て、思い出した類似事例が 「島根県邇摩郡仁摩町仁万」[41861] です。
こちらは「にま」の漢字表記が多数あり、町村制施行時には邇摩郡仁万村でした。
1954年の新設合併に際しては 中心となる仁万町と 郡名に使われた漢字を合成して 「仁摩町」になりました。
こちらは 記事から4ヶ月後の平成合併で 邇摩郡が消えてしまいましたが、大田市仁摩町仁万という地名も、山陰本線仁万駅も健在です。

同音地名連続の住所 と言えば、スナフキん さん ゆかりの地「船川」[15072]もあります。アーカイブズに収録されていない過去記事[15091][48562]もあります。
太良町多良についても、[43017] 佐賀県 さん からのレスをいただいていました。
[88708] 2015年 8月 26日(水)18:14:05【1】hmt さん
刷り込み
[88706] 山野 さん
今言った都市、既に現存しないよって言ったら「何時の間に無くなったの?」だってさ。

1972年秋 当時の新潟県新井市に長期出張した時に、自分でも似たような経験をしたことがあります。
ローカルニュースで上越市で起こった火事の報道。最初は「どこ?」という感じでした。

新井の隣にあるのは高田、その先は直江津。
最初の学習 による「刷り込み」は、簡単には修正されません。
上越市発足から1年半ほど経過した時期のことでした。

北九州5市 も刷り込まれた順番で覚えています。

ついでに
石炭を採掘するための「アナ」である 「炭坑」 という言葉も、最初はこの字で習ったと思います。

しかし、PCで「みいけたんこう」と入力すると、出てくるのは「三池炭鉱」なので注意が必要です。
「鉱」は本来は「未精錬の金属」なのですが、三井三池炭鉱ではこの字が使われていたのでした。
もっとも、炭坑節の歌詞ではタイトルに合せて「三池炭坑の上に出た」となっているようです。

【追記】
「三池炭鉱」の名は、明治22年(1889)の払い下げより前、官営時代からの名称を引き継いだものでした。三井の歴史
三井は神岡鉱山も一括経営したので、会社名「三井鉱山」を含めて「かねへん」の字を使うことに違和感はなかったのでしょう。その「三井鉱山」という社名も 2009年に変更されていたのでした。新聞記事【追記終】

通称「北炭」は 北海道炭礦鉄道[61271]→北海道炭礦汽船。
常磐炭礦[87859]も同じく「いしへん」の字でした。
[88707] 2015年 8月 26日(水)16:46:11hmt さん
♪月が出た出た 月が出た ◯◯◯◯の上に出た
[88702] かぱぷう さん
炭鉱節の二番にも「…心 門司門司 気は佐世保」と唄われているように、モジモジが過ぎたようです。

ふくよかな顔に黒い目。これを「顔は福岡 目は久留米」と表現し、「足は長崎 手は肥前 こころ門司門司 気は佐世保」と地名づくしで続けて「どこの人?」と問いかける替え唄があるのですか。初めて知りましたが、なかなかの出来栄えです。

それはさておき、地理に関心のある者としては、世間に流布している「炭坑節」の歌い出しが気になります。
タイトルの「◯◯◯◯」部分は「三井炭坑」や「家(うち)のお山」と唄われる場合もありますが、「三池炭鉱」の場合が多いように思われます。

折しも話題になった「伊田と後藤寺」[88704]を含む 筑豊[72220]の 田川地区。
その民謡と記憶している「炭坑節」の歌詞に、三池とは?

田川市のサイト を確認してみました。
炭坑節が広まるにつれ、そのルーツをめぐって本家争いが起こった時期もあった。幸いなことに【小野芳香氏等による明治・大正の記録に基いて】炭坑節の元唄は まがうことなく 田川の炭坑で 選炭作業に従事する選炭婦が歌った選炭唄であった。

もう少し資料を探したら、炭坑節のことなど という記事がありました。
2014/5/16 に転載されている動画では、地元のガイドさんが「伊田の竪坑の~」と唄っています。
2014/5/13-14には、『炭坑節物語』(深町純亮、海鳥社)によると、伊田尋常高等小学校の教員・小野芳香が明治43年頃に編曲した「伊田機械選炭節」が、現在の炭坑節の起源と記されており、追記の「炭坑節」歌詞では「伊田の炭坑の上に出た」となっています。
このブログには、同じく『炭坑節物語』に言及されている【大正初期の】「奈良丸くずし」を元唄とする説も紹介されていましたが、「伊田の炭鉱バージョンは明治43年頃に完成しているので、この説は誤りということになる。」という評価でした。(2014/5/14)

「奈良丸くずし」3番の歌詞「月が出た出た月が出た/セメント会社の上に出た/東京にゃ煙突が多いから/さぞやお月様煙たかろう」が元唄とする説については Wikipediaにも記されています。しかし大正2年とのことなので、やはり明治43年の小野芳香より後になります。
Wikipediaには、戦後の大流行の中で、一部の出版物や歌詞カードの誤記から、三井三池炭鉱で生まれたという誤解が広がった と記されています。三井炭坑→三池炭鉱は、いかにもありそうな誤記と思われますが、誤記とする根拠の記載は見当たりません。

落書き帳の 地名の入った歌コレクション を見たら、「赤坂小梅/三池炭坑節」と、三池の地名【大牟田市】が2回収録されていました。
赤坂小梅と言えば福岡県田川郡川崎町出身で、小倉から上京した鶯芸者です。お座敷唄「炭坑節」をレコードに吹き込んだのは1940年近くでしょうか。音源の年代は不明ですが、『正調炭礦節』では「三井炭坑の上に出た」と唄われています。

田川出身の小梅が、紅白歌合戦(第1回は1951年正月ラジオ)の際に唄ったのが『三池炭坑節』。
「三池炭鉱の上に出た」という歌詞が普及した謎を解く鍵は、この辺にありそうだ。私はこのように考えました。

お座敷唄と紅白との間にあったもの。それは戦後間もない時期の炭坑節大流行に関係する 1948年のレコード4社の競作でした。Wikipediaによると、この競作で 小梅の座敷唄を新たな伴奏で再吹込みしたコロムビア以外の3社では、現在盆踊りで唄われている節が採用され、結果的には小梅のレコードは他社に水をあけられてしまったそうです。
「後に小梅も盆踊り向きの節で再度ステレオ録音にて吹き込んでおり、その音源は盆踊りで盛んに用いられた。」と続いています。その際に、節だけでなく 歌詞の方にも「三池炭鉱」が採用され、従来の【田川発祥】お座敷唄と区別するために『三池炭坑節』としたのではないでしょうか。

レコード4社の競作によって もたらされた 商業ベースでの成否。
田川由来の民謡『正調炭礦節』と、マスコミを通じて全国に拡散した『(三池)炭坑節』との分岐点はこれだったのではないか?

「炭坑節」は全国に知れ渡りました。
しかし、【誤記にもとづく?】歌詞のために、本家の筑豊・田川市の影が薄くなってしまった。
この不本意な結末がもたらされた「いきさつ」について、私はこのように推測しています。

田川市の人口については白桃さんの続編があるでしょうが、1955年国勢調査では10万人を越えました。
しかし、その後のエネルギー事情の変化による炭鉱の閉山があり、市の人口は半減しています。

失われたものと言えば、石炭産業と人口以外にもあります。
炭坑節で「一山 二山 三山越え」と歌われていた三連峰の香春岳【田川郡香春町】。
この山の姿も、石灰石採掘により変貌しています。一ノ岳が平らに削られてしまった姿の 地理院地図

最後になりましたが、田川市サイト内の『正調炭坑節』 をリンクしておきます。
「月が出た出た…」は 1番ではなく、3番とは知りませんでした。
[88670] 2015年 8月 18日(火)13:12:35【2】hmt さん
Re:百千家満&地方銀行
【追記2】を機会にタイトルを改め、記述の順番も それに合せました。

[88665] 千本桜さん 難読地名・「百千家満」【おちやま】[88659]関係
八百屋はポピュラーで、地名好きには八百津もポピュラー。

なるほど。自分でも [88550]で八百津のことを書いたばかりでしたね。
大修館新漢和辞典には、「百」の訓読みとして、「お」の他に次のような言葉が挙げられていました。
--------
と、はげむ、も、もも、百千万億(つもる)、百女木(どめき)、百目木(どうめき、どめき)、百百(ささ、どうど、どど)、百足(むかで、ももたり)、百草(もぐさ)、百済(くだら)、百槻(どうつき)
--------

二百、七百、九百については、「お」と読むかどうか不明です。

「十九百」と書いて「つづお」と読む名字があるそうです。出典

【追記1】
大和言葉の数詞 というページに、次の記載がありました。
100(もも)  百田光治→ももたこうじ(あの力道山の本名)、百恵も・・
二百以降は(お)で、二百(ふたお )みお よお いお むお ななお やお ここのお ・・となる。
         八百屋→やおや
【追記1終】


[88665] 千本桜さん 地方銀行の支店のある市[88660]関係
なんでこの都市に支店が?と感じたもの   横浜銀行の桐生支店

横浜と桐生とは 「関東シルクロード」で つながっていました。直接の言及ではないが、関係記事
[30342]で言及した 初等科地理

【追記2】
横浜銀行桐生支店
「桐生」では検索されませんが、既に ぺとぺとさんによる 昨年の記事[86217]で 言及されていました。
【横浜銀行は】世界遺産となった製糸場とも人的、資金面でのつながりが深かったようで、経済圏の異なる遠く離れた県に3支店(もうひとつはノコギリ屋根の織物工場で有名なK市)を有する理由もなんとなく頷けます。

阿波銀行横浜支店
[88660]の表は「支店のある市」を対象としているので、横浜が東日本で唯一の支店に見えるのですが、東京23区内に4支店があることを考えれば 横浜に支店があっても不思議はないと思います。

秋田銀行いわき支店
沿革 を見ると、東京支店は戦後の1956年なのに、福島県内には 1931年という古い時期に複数の支店で進出しています。何か特別の関係がある地域と思われますが、それ以上は不明。

スルガ銀行仙台支店
1895年に日本最小の銀行(資本金1万円)として設立した銀行ながら、独自の活動が注目される銀行です。創業期の1900年に早くも東京進出。第二次大戦中には政府による一県一行の方針を断固として拒否。沼津は戦後早々に湘南電車で東京と結ばれたこともあり、50年ぶりに東京に再進出。京橋方面から望むと真正面という絶好の位置にある[75365] 日本橋北詰のスルガ銀行東京支店。仙台支店は、全国を見据えた広域店舗と位置付けられているようです。

地方銀行の支店所在地については、1年前にも話題になりました。関係記事
【追記2終】
[88659] 2015年 8月 16日(日)16:41:49hmt さん
災害を連想する文字を嫌って 表記を変えた村
[88656] 瀬戸家さゞなみ さん
城山トンネルではないのですが、初投稿の記事[21334]に記されていた難読地名に関係したレスを書きます。
兵庫県宍粟郡一宮町【10年前から宍粟市一宮町】「百千家満」

「宍粟市」も なかなかの難読ですが、「百千家満」を「おちやま」と読むのには脱帽です。
百千家満自治会 には、江戸時代には「落山」と書かれていたが、風水害による落石を嫌い、「百千家満」の表記が現れたと記されています。
「ちやま」に「千家満」を宛てたのはよいとして、「お」を「百」に変えたのは荒療治。

災害を連想する文字を嫌って改めた事例は、私の地元にもあります。埼玉県入間郡南畑村、現在の富士見市南畑地区。
ふじみ・発見No.27
『新編武蔵風土記稿』には、「村名は元 難畑 或は 難波田 と書せしが、當村は荒川と新河岸川の下流に添し地にて、屢水災に罹りしを、土人憂ひて 村名の文字悪き故ならんと 改めたき由、安永元(1772)年 御代官久保田十左衛門が支配たりし時、公に訴しかば 松平右近將監より下知ありて、今の如くに書改めしと云、」とあり、この地が 水難を受けることが多かったことを憂いて 現在の文字に改めたとされています。

こちらは幕府の代官に願い出て、公式に改名した記録が残っているようです。
その結果、読みやすい村名になりましたが、もちろん改名したから 水害がなくなる というわけではありません。
明治43年8月の水害では、宗岡村のすぐ上流にあたる南畑村の小学校沿革にも大洪水が記されています。
現代になってからは、治水事業がようやく実を結び、殆んど水害のない南畑地区が実現しています。
[88648] 2015年 8月 14日(金)22:18:03hmt さん
造園業
[88640]で「国勢調査と農林業センサスとは 調べ方が違う」と書いた時には、単純に事業規模の違いではと思っていたのですが、[88644] ぺとぺと さん により、もっと根本的な「農業」の意味を指摘していただきました。

改めて、農林業センサス における用語の解説を調べました。
p.146の記載を見ると、一定規模以上の栽培面積で農林産物の生産を行う「花き栽培」事業を行う者は農林業経営体に該当するようです。
しかし、統計表 を見ると、浦安市は「-」となっています。
東京ディズニーリゾートとしては 花き栽培「事業」をしていないようです。

一方、国勢調査における従業者の職業データとしては、ご指摘のように 農業従事者に該当する のでしょう。
[88640] 2015年 8月 14日(金)12:27:55hmt さん
浦安にいる農業従事者
[88639] 白桃 さん
ご存知のことと思いますが、EMM さん の記事[56616] を リンクしておきます。
国勢調査と農林業センサスとは 調べ方が違う。それだけの問題だと思います。
[88632] 2015年 8月 12日(水)18:55:16hmt さん
北陸?
[88627] N さん
上のページで気になったのですが、なぜ岐阜の聖徳学園が北陸に入っているんでしょう?

確かに岐阜聖徳学園高校の北陸所属には違和感があります。
しかし、分野により「北陸」の意味する範囲は異なるのでしょうね。
浄土真宗本願寺派の学校 という前提で考えれば理解できるのかもしれません。

私もこの分野に詳しいわけではありませんが、北陸と言えば真宗王国です。
越前から飛騨へ、更に分水嶺を越えた美濃へと布教活動が行なわれ、岐阜も北陸の延長と認識されるに至ったのではないでしょうか。

余談ですが、行政区分としての「北陸」。
昔の行政区分・五畿七道の7ヶ国は 現在の北陸4県であり、北陸農政局などの範囲もこれを踏襲しています。
しかし、富山・石川・福井の3県を北陸とする用法も広く使われています。国の行政機関では北陸財務局(新潟県は関東)、北陸総合通信局(新潟県は信越)。

新潟市にある 北陸地方整備局 は、管轄区域内の関係県が 新潟、富山、石川、山形、福島、長野、岐阜、福井に及ぶと記していますが、新潟県に流れ込む川の流域はすべて含み、群馬県の一部に及んでいるようです[42945]

北陸信越運輸局、東海北陸厚生局のように複合地域名で使われる事例もあります。

民間でも、北陸ガスは新潟市ですね。
さすがに、岐阜市に本拠地があって「北陸」を名乗る事例にはお目にかかっていません。
[88614] 2015年 8月 11日(火)13:40:27【1】hmt さん
市町村の隣接
[88609] グリグリ さん
十番勝負においては従来からマピオンをベースに判断していることもあり

十番勝負は外野席から眺めているだけで、従来からの慣行を知りません。
一般的な意味での地理情報への関心に基づいて、特別な慣行が存在する問題に口を挟んでしまったのかもしれません。
それにもかかわらず、詳細な調査に基づく回答をいただき有難うございます。

◎葛城市の位置と地勢 【引用省略】河南町する記載されていません。

責任ある立場で書かれた記載にも、このようなことがあるという実例。これほど明白な事例でない場合、「資料には隣接に挙げられていないから非隣接である」と決めつける虞があり、このような解釈が危険であることを教えています。参考:尽く書を信ぜば…

資料の「隣接」の意味が、場合によっては境界線上の直接隣接だけではなく、…

資料中での記載環境を考慮する必要があるでしょうね。
例えば[87857]資料Cで挙げた千早赤阪村地域防災計画。p.5 村の位置を示す小縮尺の略図に示されている自治体名は、隣接3府県の他に、千早赤阪村と隣接する5市1町に限られています。自治体の防災という見地から、隣接と認識している範囲を示しているのだと思います。問題の葛城市は点接触による隣接自治体になっています。

県境の交通路 には大阪府・奈良県境54.6km地点に、千早赤阪村・葛城市のペアが記録されています。同じく54.6kmの香芝市は誤記でしょう。>futsunoおじさん

地理院地図やマピオンは大縮尺から小縮尺まで各種の図があり、小縮尺では4市町村の点接触に見えていた部分を拡大することができます。マピオンでは 14スケール【2万5千図相当】になると、河南町南東にぶら下がった盲腸部が見えてきて、葛城市と千早赤阪村との接触を妨害しています。

4自治体の他、国土地理院、マピオンなどに問い合わせてみようと思います。どんな回答になるか楽しみです。

同感。
[88598] 2015年 8月 9日(日)12:40:16【3】hmt さん
葛城市は千早赤阪村と隣接しているのでは?
[88596] グリグリ さん
現時点ではマピオン他の地図表記や河南町公式HPの記述などから、【葛城市は千早赤阪村と】隣接はしていないと判断しています。

既に[87857]において、資料Aと資料Cとを示して、葛城市と千早赤阪村との隣接、つまり御所市・河南町を含む4市町村の点接触の可能性を論じています。
【追記】
「4市町」になっていたので、「4市町村」に訂正しました。
貴重な存在の「村」を落すとは何事か! と重箱の隅をつつかれる前に気がついてよかった。【追記終】

資料Aは、葛城市発足前の資料だったので無視されたのかもしれませんので、出題の趣旨に沿う最近の資料を改めて提示します。

葛城市のサイト内を検索すると、資料Aやその改訂版(葛城市発足後)を含む複数の資料がヒットしますが、最近のものとして平成27年3月資料 のp.42記載を示しておきます。
葛城市は葛城山々の麓に位置し、奈良県の西北部、北葛城郡の西南部にあり、北は香芝市、東は大和高田市、南は御所市、西は大阪府南河内郡太子町、河南町、千早赤阪村と隣接しています。

河南町サイト【資料D】には 御所市との隣接が記されていますが、4市町村の点接触を否定するものではありません。

マピオンでは確かに葛城市と千早赤阪村との間に河南町が入り込んでいます。

地理院地図の#14図【2万5千相当】では点接触に見えるのですが、2段階拡大した#16図では 僅かな長さですが 葛城市と千早赤阪村との「境界線」が存在して、御所市と河南町との隣接を阻んでいるように見えます。

【更に追記】
今回記事の最後の部分【WEB地図関係】は、【第三回】北陸新幹線金沢開業記念 ペアシティ七番勝負問三【村のみでつながる市のペア(直接隣接していない)】想定解の答え合わせ記事中に事実上記されていました。
[87828][87838] グリグリ さん
Nさんが挙げられた次の3ペア【千早赤阪村と隣接する3市と葛城市のペア】は千早赤阪村と葛城市は非隣接なので該当しません。
[87834] N さん
【千早赤阪村と葛城市は】Google MapやMapion、Yahoo地図では明らかに隣接していないのですが、地理院地図【#17図】やMapFanでは隣接しているように見えます。
[88581] 2015年 8月 6日(木)23:41:57【2】hmt さん
Re:被曝70年
[88574] ペーロケ さん
当時、「今後70年間は草木が生えない」と言われたそうです。その70年という数字の出所は分かりませんが、実際は2、3年後には雑草が生えて生物が戻ってきたとか。

「70年不毛説」は、残留する放射性物質汚染への警告としては なかなかインパクトがある言葉です。
それ故かもしれませんが、事実と違うことが広く知れた後まで 語り継がれています。

基本的には、植物の逞しい生命力を過小評価した誤りが大きいと思いますが、広島について言えば、被曝翌月の枕崎台風による豪雨で「除染」されたことも無視できないようです。

枕崎台風による土石流は 被爆者治療にあたっていた 大野町の陸軍病院を直撃し、呉市でも急傾斜地崩壊で多数の死者を出しています。その一方で、この台風による豪雨は汚染物質の多くを洗い流し、被曝地に戻った人々への放射線による健康被害も 軽減したものと思われます。
ヒロシマの記憶 は、被曝2ヶ月後に撮影されたフィルムが、爆心地周辺に芽吹いた、様々な命をとらえていることを伝えています。

「70年という数字の出所」ですが、1945/8/8の新聞に掲載されたINS取材記事で、コロンビア大学のハロルド・ヤコブソン博士の談話にあった「四分の三世紀近く」が不毛期間の出所であり【注】、日本に伝えられているうちに 75年や70年になったようです。
【注】
Google Booksにある『From Hiroshima to the Hydrogen Bomb: American Artists Witness the Birth of the Atomic Age』のp.42を見るとDr. Harold Jacobsen となっており、p.58の注61には【for nearly three-quarters of a century】と記されていました。

マンハッタン計画に参画した科学者による 放射能の危険性を強調した警告が新聞に出ると、陸軍省【グローヴズ将軍やJ.R.オッペンハイマー博士】は「残存放射能はその後急激に消滅したと信ずるにたる十分な根拠がある」と直ちに反論し、ヤコブソン博士も翌日自説を撤回したとのことです。広島の視線 
原爆が日本に多大の被害をもたらしたことは勿論ですが、加害者側の米国内にも心を傷めた人がいました。
「75年不毛説」のヤコブソン博士はその1人だったようです。資料

建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々

8月6日に疎開作業の勤労動員当番で広島に行き被曝した人。大竹に住んでいた時に近隣の人から聞きました。

被曝4日後のヒロシマ、360度パノラマ写真をリンクしていただき、有難うございます。
撮影地点は京橋川の稲荷橋西詰。1945/8/10当時の下柳町(現・中区銀山町)にあった3階建の旧広島東署の屋上。
それを元に10年前に作成されたパノラマ写真を高画質化した新作なのですね。朝日デジタル
現状のパノラマ写真も、ほぼ同一位置からの撮影のようです。

撮影地点は爆心地直下の産業奨励館より1km以上東側です。
象徴的なドームは 福屋百貨店の後になっているようで、確認することができません。
爆心地と反対の東側を見ると猿猴川に架かる広電の軌道のぐにゃりと曲がった姿。
灼熱地獄を想像させるものは、燃えないで残った残骸だったのでした。

【追記2】
ヤコブソン/Jacobsen などの修正を追記した後で、[88584] じゃごたろ さんの記事に気づきました。
コピペでなく直接入力したのは、短いタイトルではその方が楽だと考えたからなのですが、ご指摘のように「被爆」と「被曝」では意味が違っていましたね。

広島の場合、高空で炸裂した原子爆弾を「被爆」した結果、地上では 先ず通常兵器では想定外であった強力な熱線【ピカドンの「ピカ」】を主体とする「被曝」が起こり、続く圧力波【ピカドンの「ドン」】による建物倒壊、地上に降下してきた放射性物質からの放射線による「被曝」などにより被害が拡大したものと推察します。

全体を総括する言葉として、一般的には「被爆」が適切だったのだろうと思います。
それだけならば、「Re:被爆70年」の誤記だったとして修正することも考えられます。
しかし、ご指摘のように 原子爆弾を被爆したことにより被る被害は、通常爆弾や焼夷弾による「被爆」と異なり、熱線を含む放射線による「被曝」が重要な要素になっています。

せっかくご指摘いただいたことでもあり、新たな意味付けを加え、誤記を生かしたままのタイトルを残しておきたいと思います。
[88552] 2015年 8月 3日(月)19:21:13hmt さん
県道の起点・終点
[88454] じゃごたろ さん
川上村と秩父とを結ぶ道路についての話題。説明を加えて頂き有難うございます。関係記事

別の場所で撮影した案内標識に「秩父」が表記されているものがありました。
設置場所は 長野県道68号の起点・川上村梓山ながら、「県道とは逆に 東の山の中に分け入る林道」の 案内標識
そこには、「右の千曲川源流方面:行き止まり、左の秩父方面:通行注意」と大きく表示されていたのですね。
これならば納得できます。

県道の名前は「梓山海ノ口線」といい、川上村「梓山」が起点で南牧村「海ノ口」が終点になっています。

[88203]は、長野県から埼玉県に通じる道という視点で書いていたので、つい「林道に入る手前、県道の終点付近」と書いてしまいました。「長野県道68号」としては、梓山が「起点」であるということ。承りました。

県道の命名規則に関する過去記事[70793]を示し、道路法の規定や路線名のつけ方に関する通達について教えていただきました。
都道府県道を規定した道路法第七条では、「主要地」という言葉が、「市又は人口五千以上の町」と定義されており、道路標識の経路案内で用いる ルール2の「主要地」 とは別の意味で使われていることを知りました。
例えば上高地・志賀高原などは道路標識では「主要地」とされていますが、もちろん市でも町でもないので道路法の「主要地」ではありません。2010年に長野市に編入された信州新町や、現存する自治体の野沢温泉村も道路法の「主要地」失格です。

本題の起点・終点の区別に戻ると、「長野上田線」のような主要地間を連絡する路線【道路法第七条第一号に該当する路線】は、人口の多い主要地が起点とされています。これは、[70793]が「岡谷茅野線」を例示して指摘しているような人口逆転問題が存在するとしても、常識的に なんとなく理解できる規則のように思われます。

もっとローカルな県道、例えば川上村から秩父に通じている中津川林道と接続している「梓山海ノ口線」を考えてみます。
この場合は、川上村梓山も南牧村海ノ口も「主要地」ではなく、道路法第七条第1項の中で該当するのは第六号だけであると思われます。
前各号に掲げるもののほか、地方開発のため特に必要な道路

この法律だけでは、起点・終点の選びようがない。そこで通達が参考にされるのでしょう。
[70793]に紹介された(1)~(4)を見ると、交通上の拠点になる側を「終点とする」という考え方が見えます。
梓山は案内標識に示されたように、通行注意の中津川林道と行き止まりの山道に接続するのみ。
これに対して海ノ口は 佐久と甲州とを結ぶ国道141号が通じている。だから、こちらが「終点」になる。これで納得。

わからないのが、第六号に該当するローカル県道における「辺境から中心へ」という方向付けと、第一号に該当する幹線県道における「中心地から地方へ」という方向付けとが逆になっていることです。
第二号から第五号に該当する県道。これらも港湾・停車場など県道を設ける目的地を起点としているような気がします。
第一号の幹線県道だけは別として、「大部分の県道の起点は 県道を設定した目的地である」と考えてよいのではないでしょうか。

実は、先月 津久井の道[88047] を書いた際に、神奈川県道510号長竹川尻線や、同513号鳥屋川尻線の起点がいずれも西側【津久井町】で、相模原に近い【城山町】川尻でないことに気が付き、不思議に思っていたところでした。
今回の事例で、ローカル県道における「辺境から中心へ」という方向付けが 全国的なもの であることを知り、合点した次第です。
[88550] 2015年 8月 3日(月)13:23:59【1】hmt さん
伊岐津志を調べてみたが…
[88543] ぺとぺと さん
岐阜県加茂郡八百津町伊岐津志×××-×  伊岐津志は「いぎつし」と読むようです。
この地名、県名、郡名、町名、大字名がいずれも漢字とよみで文字数が一致しているところもすごくクールではないですか。

名称と読みの文字数が同じ市区町村については、第十六回・十番勝負の問八関連で k-aceさんの[75084]がありました。

それはさておき、「いわれ」のありそうな地名なので少し調べてみました。
岐阜県神社庁 には 4 件の神社がありましたが、残念ながら 有力な情報は発見できませんでした。

地図を見ると、酢の醸造元は木曽川の南岸です。現在は兼山ダムにより水没していますが、この付近は「八百津」という地名が示す木曽川舟運基地地帯として、古くから栄えたと思われます。
舟運から鉄道へと輸送手段が変化した後、名鉄の支線も通っていました。
末期は電車でなくレールバスに変っていましたが[77832]、これも 2001年に廃止されています。

八百津町は木曽川の両岸を占めていますが、伊岐津志のある南岸の 兼山ダムから下流は 可児市兼山になります。
2005年の編入前は可児郡兼山町(かねやまちょう)で、面積の狭い市町村ランキングの第2位[39317]であり、「長命な町名」[34842]としても名を馳せていました。

平成合併では、この地域の合併協議はすんなりと行かず、その痕跡が「飛地合併」という形で地図に残っています。
この地の城主が森蘭丸であったことは花笠カセ鳥 さんの記事をきっかけに知りました。
そして、地図を眺めて 木曽川北岸に複雑な境界線があり、こちらは昭和合併の傷跡であることを知りました[79299]

伊岐津志の由来調査は不成功でした。
しかし、落書き帳に蓄積された過去記事を紐解くことで、この地域についての情報を復習でき、理解を深めることができたのでした。

【追記】
四文字地名の過去記事
[88296] 2015年 7月 25日(土)14:54:49【2】hmt さん
室蘭本線小幌駅
[88293] 山野 さん
室蘭本線上にある秘境駅「小幌駅」も廃止される事に。

室蘭本線の室蘭-岩見沢間は、北海道炭礦鉄道が1892年(M25)に開通させた歴史ある鉄道です。
しかし、小幌駅の属する長万部-東室蘭間は国有化後に「長輪線」【輪=輪西】として建設された線で、1928年(S3)全通。
石炭輸送から始まった室蘭本線が、千歳線を併用して函館-札幌間のメインルートになったのは、「Occupied Japan」時代であり[54787]、その後 複線化も進みました。

問題の小幌。これは単線時代に 2つの長大トンネルの間の僅かな明かり部分で 列車の行き違いをするための信号場 として設置された施設ですが、仮乗降場として海水浴客などの利用に供されていたようです。正式の駅になったのは、国鉄からJR北海道になった1987年。
10年前には廃止を免れたという記事がありました[47613]

落書き帳メンバーが誰か訪問しているのではないかと思い、検索したら [78802] k-ace さん の記事がありました。
秘境駅の小幌駅(豊浦町・長万部町)を探訪
と記されているように、この駅は 胆振管内虻田郡豊浦町と 渡島管内山越郡長万部町との境界にありますが、廃止を打診された関係自治体は豊浦町だけなのでしょうかね。地図
もちろん、近隣に住家は皆無。駅自体の住所を確認しようと、JR北海道のサイトで調べたがみつからず。

内浦湾(噴火湾)海岸には岩屋観音の洞窟があるが、海岸に続く道には 夏場は草木が生い茂り 通行しにくい状態とか。
k-ace さん、探訪の結果は いかがでしたか?

【翌日追記】
[88294]を知らずに無視してしまったことをお詫びします。
更に[88297]の説明も加えていただき、有難うございます。
Wikipediaによると、開業当時(戦時中の1943年)には民家もあり、小幌海岸海水浴場の利用客もいたとのこと。
現在の写真の雰囲気からは海水浴など想像もつかず、大変な変わり様であることを感じます。
写していただいた東側の礼文華山トンネル入り口。単線時代には、現在は坑口がふさがれた中線も含めて 左側の2線で行き違いを行なっており、一見すると古そうに見える右側が 1967年開通の新トンネルなのですね。

礼文華(れぶんげ)峠越えの道は、蝦夷地の三大難所の一つだったそうです。
江戸時代から、明治27年(1894)に完成した準地方費道 長万部停車場室蘭線【旧国道】を経て 現在の国道37号 までの道について語る 江戸期に開かれた礼文華越えの道 をリンクしておきます。
【追記終】

落書き帳の初期、[832] Issie さんの記事に紹介されたように、この付近【小幌駅の少し西】は 太平洋側と日本海側とを分ける分水界まで 最短部では 250mほど という場所で、東に向う胆振国道(国道37号)も 一旦は 日本海側斜面(朱太川上流部)の 後志管内寿都郡黒松内町を経由するほどの地形です。

私も、この「くびれ」地形に注目した記事[72049]を書いたことがありますが、小幌駅には言及していませんでした。
[88280] 2015年 7月 24日(金)20:35:05【2】hmt さん
道路案内標識に使われる地名
[88270] futsunoおじ さん
[88174]の案内標識の「秩父」についてですが単純に考えれば大滝村が秩父市などと合併(2005年)して新・秩父市になったことで、元は「大滝」とあった案内が「秩父」に書き換えられただけのように思うのですがいかがでしょう。

確かに、市町村合併によって、道路案内標識の地名が 影響を受けるケースは存在すると思います。
極端な事例ですが、合併の結果「大宮← →浦和」という標識が「さいたま← →さいたま」になってしまい、ビックリしたという記事もありました。[37066]
私の考えでは「さいたま市」は「行政管理用の名称」であり、「地名」としての「浦和」や「大宮」に取って代わるような性格のものではないのですが、現実には道路標識の行先をわざわざ「さいたま」に書き換えてしまい、人々を困惑させる結果になったのでした。
この件については 行政苦情救済推進会議で検討が行なわれ、一応は解決しました。[42974]

本題に戻り、川上村の村道?に設置された標識にあった「秩父」という行先地名。
これは、合併前には「大滝」だったのでしょうか?
「さいたま」の例を見ると、案内標識に記す地名は 自動的に「市町村名」で決まってしまうようにも思われるのですが、本当にそうでしょうか?
川上駅近くの標識の実例[88179]を見ると「梓山」が使われています。これは字名でしょう。
「川上駅」や「川上村役場」にしても市町村名ではないし、市町村名に限定されているとは思われません。

「大滝村」という標識だったのならば、村の消滅後には改める必要があるかもしれません。
しかし、「大滝」という地名ならば そのままの形で残して差し支えないし、「奥秩父に通じる山道」であるという情報も残せます。

そんなことを考えているうちに、案内標識に記される地名を決めるルールが気になり、国土交通省のサイトを調べてみたところ、案内標識のしくみ-1(案内標識に表示される地名) というページがあり、4つのルールが示されていることを知りました。

何はともあれ、ルール2 経路案内に用いる地名はあらかじめ決められています を見ましょう。

経路案内に用いられる地名は、
1.基準値【おおむね1県1都市】、
2.重要地【地方生活圏の中心都市など】、
3.主要地【二次生活圏の中心になっている市や町など】、
4.一般地【2、3以外の市町村、その他沿道の著名な地点など】であり、

「各都道府県において表示される基準地・重要地・主要地一覧表(平成19年3月末時点)」 が示されています。
8年も前なのが少し気になりますが、内容は極めて具体的で 参考になります。

埼玉県を見ると、早速「さいたま」が登場して市町村名なのかと思わせますが、「大宮」「浦和」も健在です。記載位置が最後になっているのは、前記苦情救済の結果追加された結果かもしれません。「さいたま」と「浦和」は同じ位置を呼び分けています。

東京都を国道1号に沿って眺めると、道路元標[65682]のある日本橋[75365]を始めとして、大手町、日比谷、祝田橋、桜田門、赤羽橋、五反田、馬込 と著名な地点が並んでいます。
重要地・主要地とは道路交通上のポイントであり、特別区名など自治体名とは明らかに違う捉え方であることが読み取れます。

勝沼バイパスのイラストを見ると、鷺堂に「主要地点標識」があります。
右方、勝沼町に入った地点にある市町村標識(カントリーサイン)が「自治体名」を示しているのと違い、こちらは「地名」です。でも、前記の表に示された主要地点は「笛吹」ですね。「鷺堂」は一宮町時代の主要地点名で、更新されていないのかもしれません。

一般地とは表外の地名で、「川上村役場」「梓山」など適宜選んだ地名を使うことができるようです。

このような地名が記された案内標識は、ルール1に示された3種類あり、ルール3 の方法で地名が表示されるとのこと。

[88179]k-aceさんが、信濃川上駅近くの交差点手前で記録した 案内標識の写真 を見ると、距離が示されておらず、交差点手前なので「108系標識」ですね。
【追記】
ここで、いきなり聞き慣れない言葉を使ってしまいましたが、ルール1示された説明文によるものです。
「交差点手前」という表現については、[88294]で指摘されたような問題がありましたが、「交差点を通過する手前から見える位置にある」と解釈してください。
もっとも、その後で 案内標識のしくみ-2の使用区分を見たら、大きな交差点に使われる標識のようなので、今回のケースのような小さな交差点で使われている標識を 108系としたのが正しいか否か自信がなくなりました。
詳しくは、『道路標識設置基準・同解説』 (日本道路協会)という本に書いてあると思いますが、読んでいません。【追記終】

国土交通省の説明は、幹線道路【ルール3に記された3分類に該当する道】を対象としているようなので、これに該当しない村道では 少し様子が違うようです。しかし、上段の「小諸」と「秩父」が遠距離にある「重要地」であり、下段の「川上駅」と「梓山」が近距離にある「一般地」であることは理解できました。

[88174]で挙げられた標識の「秩父」が、合併前の「大滝」を形式的に修正したものだったのか、どのような位置付けで記されていたのか、私には詳しいことは判りません。

しかし、信濃川上駅前の標識と同様に、遠距離にある「重要地」という位置付けでドライバーを秩父に案内していたのならば、「まともに信じて行ったら大変な目にあうだろうな」という感想を持たれたのは当然という気がします。
道路利用者から 標識の改善についての意見については、意見箱 が設けられているそうです。ご参考まで。
[88269] 2015年 7月 23日(木)23:04:18【1】hmt さん
「中年の星」は 星空が美しいレタス畑で育った
国際宇宙ステーションでの長期滞在が始まった油井亀美也さん。
長野県南佐久郡川上村のレタス農家出身だそうです。

落書き帳で[88174][88203]と川上村が話題になった折、これも何かのご縁なので、日経の記事を紹介しておきます。
レタス畑で夢見た宇宙 「中年の星」油井さん飛び立つ

川上村のレタス畑と言えば、白桃さんの記事もありました。
この夏はどうなっているのでしょうか。
[88260] 2015年 7月 23日(木)14:00:25hmt さん
月まで3km
[88203]に続いて 道路案内標識 の話題です。
さいたま市広報課のブログに、面白い写真がありました。
2014さいたま市ユーモアフォトコンテスト の最優秀賞 「ムーンロード」。

天竜川の河口から30km、佐久間ダムで有名なこの川の中でも最も下流に位置する 船明(ふなぎら)ダム湖
東岸を遡る国道152号から分かれて 伊砂(いすか)橋を渡り 西岸を北上する県道360号。
なかなかの難読地名ですね。地理院地図

それはさておき、3km先にある「月」という集落を示す標識。

実は一昔前、「トリビアの泉」放送後に写された 画像 もあったのですが、矢印の先に「本物」を写し込んだ今回の作品は、さすがでした。
[88203] 2015年 7月 20日(月)18:35:18hmt さん
長野・埼玉県境の道
[88174] じゃごたろさん
長野県南佐久郡川上村内で遭遇した案内標識の表記が、「川上村役場」と「秩父」であったとのこと。

線路は続くよどこまでも という歌がありますが、道路の行く先も「どこまでも」続いており、役場も秩父も間違いではない。
しかし、設置場所も考慮した上で、利用者にとり適切な案内なのだろうか? そういう問いかけですね。

設置場所は村内の主な集落を結ぶ 村営バスが通る県道から少し外れた交差点です。
設置位置から判断すると、「役場」という言葉が最も適切な案内機能を果たしているように思われます。
役場付近の地名は「大深山」なのでしょうが、村外からの訪問者にこの付近が「川上村」であり、この道を進めば村内の中心集落に至ることを教えている「川上村役場」の方が役に立ちます。

問題の「秩父」。この道を東に進めば確かに秩父に通じる道路があるにしても、この案内でよいのか?
ドライバーが「秩父」という言葉から受け取るのは、「秩父山地」ではなく、秩父盆地の中心にある市街地なのでしょう。
市街地を意味する「秩父」に行くならば、有名な悪路らしい 中津川林道 [46698]よりも、遠回りになっても 雁坂トンネルが選択肢になる。
こちらも トンネル開通前には 酷道 だったようですが[36094]

道路の案内標識は、この道がどこに続いているかという単純な地理的情報ではなく、ドライバーが道を選ぶための情報である。このような趣旨を込めた指摘であると理解しました。

折角の機会なので、落書き帳メンバーによる 三国峠越え を紹介しておきます。
futsunoおじさんは、40年以上前に「旧・中津川林道」を3~4回は通過。
バイク乗りの ただけんさん も、10数年前?
じゃごたろ さんは、11年前に 長野県から埼玉県への越境に成功。
JOUTOU さんも、その2年後には 念願の三国峠越え。 所要11時間 通過自治体数は 実に 57。

[88179] k-ace さん
信濃川上駅で同様の案内標識…右折(東)すると秩父、梓山となっています。その下に、町田市自然休暇村、三鷹市川上郷自然の村、武蔵野市立自然の村は右折と東京都の市名が並び、ここは一体どこなんだ?と思わせます。

梓山というのは、三国峠越えの林道に入る手前、県道の終点付近の集落ですが、少し戻った秋山から南下すると川端下(かわはけ)という集落があります。武蔵野市立自然の村は、この川上村最奥部の集落の先にあります。

hmtは、この川端下という地名に記憶がありました。戦時中に親しんだ岩波書店「少国民のために」シリーズの1冊『トンネルを掘る話』。
急病のわが子を秩父の病院に連れてゆく父親と、十文字峠で会った話が紹介されていたのですが、それが川端下の人でした。

千曲川沿いに下った岩村田【佐久市】の病院という選択肢もあったが、「時間的に有利と聞いて秩父を選んだ」という山越えの理由が記されていました。
十文字峠 は現在でも山道です。県境の交通路
救急医療体制は現在でも完備とは言い難いでしょうが、一応は救急車の恩恵に浴している私達からは、想像もできない時代だったのでした。
[88176] 2015年 7月 19日(日)17:36:01hmt さん
氷見オフ会2015
1998年2月の冬季オリンピック開催前に長野までの第1期区間が開業した新幹線。
懸案となっていたその延長がようやく実現して「北陸新幹線」の名に恥じないものになった2015年、私達の落書き帳の第12回公式オフ会も氷見市で開かれることになりました。
北陸でのオフ会は2006年の金沢以来ですが、2008年以降定着している宿泊形式では初めてです。

富山県での開催は新幹線から自然の成り行きと理解できますが、氷見が選ばれた理由は何だったのかな?
昨年の記事[86778]で思い出そうとしたのですが、
hmtは 白熱した議論の中で沈没
と書いてありました。これでは思い出せるはずがありません。

予想外のことでしたが、最近になって「氷見プレミアム付き宿泊券」[88064]利用の可能性が出て、既にグリグリさんにより手配していただいています。
宿泊会場も決めていただいたようであり、リーゾナブルな値段で利用できそうです。

こうなったら、なるべく多くの形に参加していただき、落書き帳オフ会を盛り上げるようにしたいと思います。
北陸旅行の情報その他、皆さんに書き込んでいただいたらと思います。

とりあえず、落書き帳の過去記事を見たら、富山県氷見市の 虻ガ島 に言及した記事を書いていました。
小さな島ですが富山県最大で、地図を見ると、会場である灘浦地区のすぐ近くに見えそうです。

リンクしたページは 富山県:歴史・観光・見所 というサイトの中にあり、氷見市高岡市伏木射水市など多くの見所が、地域別に紹介されています。

射水市と言えば、放生津潟を掘り込んだ富山新港。かつては海岸の砂州の上に富山地方鉄道射水線と道路が通っていたが、富山新港の建設で分断されました。その救済策として富山県が県営フェリーを開設したのが 1967年ですから 半世紀近く前のことでした。
数年前に なると金時さんが万葉線・渡船・バス・ライトレールの乗り継ぎをした記事[62923]がありました。記事には道路建築中で渡船の将来が危ういように記されていましたが、2012年新湊大橋開通後も県営渡船の運行は継続しているようです。

渡船と言えば、2007年の福岡オフ会の際に、たもっち さん[62490]が 北九州市営と福岡市営の2つの渡船を利用しています。
前者は戸畑・若松間の若戸渡船です。洞海湾には、1962年の若戸大橋[66904]に加えて沈埋トンネル工法による新若戸道路【2012年開通】ができていますが、渡船も健在なようです。
最後は、富山県から離れてしまいましたが、道路に負けない公営渡船の健在ぶりを伝えておきます。
[88090] 2015年 7月 14日(火)19:13:47【1】hmt さん
函館付近の鉄道貨物輸送
[88085]白桃さん
亀田駅は明治の終わりに廃駅となっていたのですね。

初代函館駅の所在地は今・・・には、明治35年(1902)に函館市海岸町20-1に開設された初代函館駅は、南側の若松町に函館駅が移転した明治37年に「亀田駅」と改称され、明治41年に焼失を経て明治44年に廃駅と記されています。

【以下修正】
上記の番地を現在の地図で調べたところ、若松町に作られた現・函館駅と隣接した位置でした。
昨日の記事は、これを根拠に初代新橋駅→汐留駅を類推し、函館における貨物駅の話に発展させてしまいました。

実際には、この駅は 北海道鉄道 開業時の便宜的な事情により設けられた始発駅であり、最初から予定していた若松町の函館駅が開業した結果、あまり役に立たない中間駅になっただけ だったようです。

白桃さんの観察による「五稜郭駅に着くほんの手前に」あった遺物とは違う場所とか、「明治44年に亀田駅と入れ替わりに開業した五稜郭駅」という部分的な記述は正しかったものの、函館付近の貨物取扱拠点という視点からこじつけた「亀田駅→五稜郭駅」の後継関係は完全に誤りでした。

五稜郭駅がらみで、函館付近の鉄道貨物輸送について記した部分は残しておきますが、きっかけとなった亀田駅が主役から外れたので、タイトルを変えました。
【修正終】

本州・北海道間の輸送を長く担っていたのは青函航路でした。
旅客については新千歳空港発着の飛行機にその座を譲りましたが、青函トンネルの貨物列車が通る函館(五稜郭)は 物流結節点の地位を保っています。

ヤード系貨物列車と青函航路によって北海道・本州間の物流が維持されていた 1976年(昭和51年)。
五稜郭駅付近の航空写真 には、駅の南【写真の下方】で
函館方から左へ90°カーブして分岐しているのは明治40年から敷かれている日産化学工業函館工場(当時)への専用線。写真中央下側の道路立体交差付近から南東寄りへ真直ぐ向かう軌道は、函館駅までの本線が海岸側に移動するまでの旧線の一部が北海道ガスの専用線として残されたもの
というような説明があります。
白桃さんが五稜郭駅の手前でご覧になった遺物は、これらの貨物線に関係したものではないでしょうか。

同年 五稜郭駅より先(北側)の航空写真 もあります。
こちらには [88086] ペーロケさん ご紹介の五稜郭貨物線【図の左下】や大きな操車場などの設備が写っています。
五稜郭貨物線の先の有川埠頭には青函連絡船貨物便の岸壁があり、戦時中に使用を開始しました。
日本国有鉄道になった後の 1950年、有川埠頭に五稜郭貨物駅【2011年 函館貨物駅と改称】設置。

1980年になると函館駅のコンテナ貨物取扱を五稜郭に移転。
1984年には五稜郭操車場、有川での貨車航送廃止と、物流システムはコンテナ列車へと移行してゆきます。
そして 1988年3月には 津軽海峡線開業で、本州・北海道間の輸送を担ってきた青函航路が廃止されました。

更に平成27年度末(2016年3月)には 北海道新幹線 149kmの開通が予定されています。
新幹線の接続駅は 函館本線の起点から17.9kmにある渡島大野駅。駅名の 新函館北斗昨年6月に発表 されていました。
貨物列車は 木古内から従来通りの江差線で 五稜郭へ。

北海道新幹線は厳しい自然環境だけでなく、青函トンネルを含む 82kmの区間が標準軌の新幹線列車と在来線軌間の貨物列車との 共用走行 になるために大きな課題があるようです。JR北海道
早い話、新幹線との共用となると、架線電圧も信号システムも変るために、従来から北海道の物流を担っていた貨物列車が使っていた電気機関車に代る 新機関車が必要になります。

もっと大きな問題。速度が大違いの新幹線は、先行した貨物列車にすぐに追いついてしまい、せっかくの高速を発揮できません。トンネル内ですれ違う時の乱気流による荷崩れを防ぐためにも、140キロ程度への減速が必要とか。参考
在来線コンテナ列車を 丸ごと新幹線貨車に乗せてしまう 減速運転の解消策も検討されているようです。共用走行の 資料6-8
[88071] 2015年 7月 11日(土)20:03:06hmt さん
ニックネーム
[88062] グリグリ さん
落書き帳では、できる限り半角と全角は正確に使い分けていただけると幸いです。
半角と全角により別ニックネームと認識されているニックネームもかなりあります。

ミス防止の実務としては、既に N さん [88061]で補足されているように、ニックネームをコピペするのが適切と思いますが、せっかくの機会なので 全角/半角問題も含めて ニックネームについて少し記しておきます。

見た目だけで、アルファベット(英数文字)の 全角/半角 を区別できるか?
1文字だけを見ただけでは 困難な場合が多い と思います。
2文字以上が並んでいる場合は、間隔が少し開いていることで判別できそうです。

登録メンバーのニックネームで 英数1文字は、半角の G さん と、全角の N さん。
私には 単独で全角/半角を区別することは殆んどできず、誤記しないように 最初から注意していました。

登録メンバー以外では、半角の f さん(記事数80)と全角の f さん(記事数16)とがあります。

短いニックネームを挙げたついでに、長いニックネームです。
現在は全角換算10文字以内に制限されていますが、初期には 長いニックネームが使われた例もあります。
ニックネーム検索で [1425][1426]の長い文字列を入力すると、長すぎると拒否されます。
【参考までに、修正された事例[40371][40387]

「ケロにゃんポポン」の後にも使われていたスペース。
「前田 宏治」さんと「前田宏治」さんとは別人扱いになり、注意が必要です。
「ただの地理好き」さんも、頭にスペースの付いた記事が1件あるようですが、うまく検索できません。

スペースと言えば、登録メンバー名で唯一使われているように見えるのが、「オーナー グリグリ」の半角スペースです。
今更のことですが、「オーナー」はニックネームの一部ではなく、接尾語の「さん」の代りに使われている接頭語らしいことに気がつきました。
ニックネーム検索の際はスペースのみならず、「オーナー」を抜いても大丈夫です。
私の記事でも、従来は「グリグリ さん」と「オーナー グリグリ さん」とを混用していましたが、これから前者に統一します。

ニックネームからは外れますが、[88062]で示していただいた「これまでの全書込のランキング」。
書込文字数=2という記録を検索した結果。[49018]
[88053] 2015年 7月 9日(木)22:25:44【1】hmt さん
津久井の道 (3)信玄道
相模原ICの開業を機会に、圏央道など首都圏高速道路の概況[88042]、圏央道と連絡する部分が開業した津久井広域道路[88047]について記しました。
津久井の道。将来への展望だけでなく、少し昔のことも振り返っておきます。

『(仮称)城山インターチェンジ周辺新拠点 まちづくり基本構想(金原・串川地区)』 p.34串川地区の図を見ると、予定されている津久井広域道路が描かれた南側、山地と緩斜面との間に「信玄道」と記されています。

甲斐の武田信玄と言えば 好敵手は越後の上杉謙信です。有名な川中島の戦いは10年以上に及び、永禄4年(1561)に行なわれた第四次合戦は、その中でも最大規模の戦いでした。
もちろん武田の領地は上杉以外にも多くの勢力に囲まれており、戦争だけでなく、政略結婚を含む外交交渉を駆使して 上手に処理する必要があります。関東方面に注目すると、河越夜戦[58848](天文15年=1546)の結果扇谷上杉などの旧勢力が衰え、小田原を本拠とする北条氏康の勢力が増しつつあります。

信玄は相模北条氏とは和睦政策を進め、1553年には娘を北条氏康の息子・氏政に嫁がせています。翌天文23年(1554)には北条氏康の娘が今川義元の息子に嫁ぐことにより、今川から武田への嫁入り(1552)と合せて駿河・甲斐・相模三国間の婚姻同盟(善徳寺の会盟)が成立しました[43558]

ところが、桶狭間の戦い(永禄3年 = 1560)によってその一角が崩れた後は同盟関係に亀裂が入り、武田信玄は1568年に駿河侵攻。北条氏康は駿河に援軍を出し、甲相の同盟関係は崩壊しました。

永禄12年(1569)になると、武田信玄は北条領内に遠征し小田原城を包囲し、挑発ました。しかし、上杉謙信の攻撃にも耐えた堅固な城から出てこない北条氏には信玄も手を出せず、撤退することになりました。
ところが 甲斐に戻る途中、相模国愛甲郡の三増峠【地理院地図の右下】で 北条勢の後詰と遭遇し 激戦になりました。
両軍大きな損害を被ったものの、最終的には武田軍が追撃を阻止し、甲斐に戻ることができました。

串川の流れに近い国道よりも高い山麓に位置する信玄道。
戦国時代より更に前にも、このルートで西に向った人物の遺跡がありました。
後醍醐天皇の皇子で、南朝側の武将として戦った大塔宮護良親王。その側室・雛鶴姫に関する言い伝えです。
父の天皇と不仲になった大塔宮は、身柄を足利方に引き渡された後、鎌倉で殺害されました。雛鶴姫は、足利の目を逃れながら大塔宮の遺骨を葬ると共に、みごもった体で京を目指したものの、相州青山村で病に伏し、甲州秋山村で病没したと伝えられます。

私は 2010年、信玄道の南側に崩れかけて残された千部塚宝篋印塔を訪れ、応安4年(1371)亥年2月願主蓮明敬白と刻まれた台座を確認することができました。大塔宮の33回忌に hmtの先祖が建てた最古の遺物と考えています。
蓮明は同年に諏訪大明神【現在の青山神社】も勧請しています。約200年後に三増峠から帰国途上の武田軍の陣中に居た信玄の息子・諏訪【母の氏】四郎勝頼は この神社に立ち寄って、戦勝を感謝して祈願したことと思われます。

林産物に頼って細々と暮らしていた中世の山麓道。
近世以降は、荒川番所の運上[65669]を免れるルートの串川沿いに発達した集落。水運や水車動力を利用。
そして自動車や電力の利用により再び山麓に活気を与えようとしている津久井広域道路。
社会環境の変化も考えながら 身近な地理の一端を綴ってみました。

「津久井の道」と題しながら地理的には偏っており、「串川の道」になってしまったきらいもあることをお断りしておきます。
[88047] 2015年 7月 8日(水)19:44:19【1】hmt さん
津久井の道 (2)津久井広域道路
相模原市の [津久井広域道路 によると、この道路は橋本五差路から相模湖IC付近まで延長約20kmの広域的な幹線道路となっています。
しかし、全線が都市計画道路として整備中というわけではなく、構想路線に留まっている区間もあります。

相模原市 新道路整備計画(H22/4)p.47 にある計画図を見ると、圏央道の西、津久井湖の南に 5, 6, 7 と付番された青線があります。
# 何故かテキストリンクが効かないので、URLを別に記します。
http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/dbps_data/_material_/localhost/doboku/632500/pdf/new-road_seibi.pdf

p.43の表により、都市計画道路城山津久井線になっている津久井広域道路であり、5 の区間【今回開通区間】は 確かにH26年度完了予定。しかし、6 の区間【土沢の県道513号接続部まで】は優先順位が後で5~10年後の完成。7 の区間【国道412号新屋敷付近まで】は更に後で、区間7 の西は構想路線となっています。国道412号に代る幹線道路として相模湖との間を結ぶのは、当分の間は夢でしょう。

計画図に戻り更に西に進むと、相模湖の南側に27と9 との2区間があります。表を参照すると、プレジャーフォレスト【寸沢嵐(すわらし[81137]グリグリさん)鼠坂(ねんざか[63022]Issieさん)付近の国道412号沿いにあるレジャー施設】から相模湖南岸経由勝瀬橋までの区間で、優先順位は6と同じでした。
相模川が相模湖に流入する地点に架けられた勝瀬橋は、新小倉橋などと共に津久井広域道路の既存区間だったのでした。

参考までに、初代の勝瀬橋は勝瀬部落が水没した相模ダム建設の際に架けられた 1944年製の補剛トラス付き木造吊橋でした。1959年の2代目は 日本最初の斜張橋ですが、初代の主塔を再利用して作られました。3代目の現・勝瀬橋(2005)で幅は広くなりましたが、これも斜張橋。

津久井広域道路全体に及ぶ概要を済ませ、今回訪問した区間の詳報に移ります。

最新の情報となると、個人サイト・あおまる の 祝! 相模原IC&新510号開通 が詳しく、動画も掲載されています。
今回の開通区間は新小倉橋西側からインターチェンジ接続区間を経て西に進み、県道65号と交差する東金原の少し先、串川ひがし会館付近、市道(沼荒久根小屋金原)との合流点【あおまる は(仮)根小屋変電所前と表示】迄の 2.8kmです。「新510号」というのは、小倉橋から串川橋まで串川の流れに沿って遡る 従来の県道510号に対応する新ルートを意味しているようです。

東金原交差点には信号機がないまま開通し、危険が指摘されていました。ようやく設置予定とか。

今回の開通区間は僅かな距離であり、三ケ木・相模湖に通じる国道412号に出るには、前記市道を経て長竹三差路に出る必要があります。新設道路の4車線化も未完成ですが、私の出身地への道は、従来のバスルートに比べて確かに短縮されたことを感じました。

参考までに バスルートのうち鳥屋行き(橋07)は小倉橋・串川橋経由の県道510号ルートです。
三ケ木行き(橋03) は 新小倉橋を渡った後、根小屋中野まで串川沿いの県道510号を走り、西中野からは県道65号の坂を登って東金原に出ていました。こちらのバスは 新小倉橋-東金原間が開通した広域道路にルート変更され、所要時間短縮が図られることになるものと推測します。

相模原市が2012年3月に発表した 『(仮称)城山インターチェンジ周辺新拠点 まちづくり基本構想(金原・串川地区)』 という資料がありました。
金原(根小屋)地区p.27と、串川(関・長竹)地区p.34とにつき、それぞれ基本構想範囲とまちづくりの考え方が示されていました。

この図と共に 地理院地図 も参照すると、金原は 城山375m の南山麓緩斜面です。根小屋という地名からして、「城山の麓の居館」という意味です。そして関・長竹も、根小屋の金原ほどではないにしても、串川流域を相模川本流(中野)と隔てている山(平代山405m・津久井堂所山 370.6m)の 南山麓にある緩斜面と言えるでしょう。
このような緩斜面は、津久井という山地の中にありながら、相模原という台地に比較的近い条件の土地と評価されます。
水を必要とする農地としては必ずしも好適ではなかったが、道路整備等により産業立地が整えられた相模原台地と類似の手法による開発が考えられるのは、自然の成り行きでしょう。

水のことで一言。串川流域の地下を走り抜ける リニア中央新幹線工事は、津久井の水に影響する可能性もあります。
酒造用の水質に影響するかもしれないと心配する 根小屋の蔵元や、長竹の豆腐メーカーの声を 新聞で見たことがあります【朝日2014/12/18夕刊】。

参考までに、鳥屋に作る関東車両基地に通じる分岐線は、津久井堂所山付近の地下で本線から分れるようです。資料
予測困難な地下は、工事による地元への悪影響だけでなく、良質な湧水や温泉資源を提供する[87859]可能性もあります。

それはさておき、進歩した土木技術が使われることにより、山地である津久井の一角では「相模原化」が進行し始めているのではないか?
2.8kmという僅かな道路開通を機会に、そんなことを考えてしまいました。


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