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[75187] 2010年 5月 25日(火)20:45:53【1】ニジェガロージェッツ さん
大阪都20区の区割り構想
今日の産経新聞朝刊に,“大阪維新の会の「大阪都」構想”と題して,20区の区割り案の地図が出ていました。大阪市24区を8特別区に,堺市7区を3特別区に,周辺9市を9特別区に再編して20特別区を設置する構想ですが,以下に紹介させていただきます。区割りだけでは面白味がないので,かなり適当ですが区名も勝手に考えてみました。

区割り人口面積人口密度テキトーにつけた区名
(大阪市)中央区,北区,都島区,旭区378,67331.5611998.51上方区
(大阪市)福島区,此花区,西区,港区293,61234.148600.23西区
(大阪市)西淀川区,淀川区,東淀川区446,18340.1211121.21淀川区
豊中市388,54436.3810680.15豊中区
吹田市355,08336.119833.37吹田区
摂津市83,71114.885625.74摂津区
守口市146,63212.7311518.62守口区
門真市128,32812.2810450.16門真区
(大阪市)東成区,城東区,鶴見区355,43421.1316821.30東成区
大東市125,51818.276870.17大東区
東大阪市505,415 61.818176.91東大阪区
(大阪市)平野区,生野区334,80423.6814138.68平野区
八尾市271,49041.716508.99八尾区
松原市124,59716.667478.81松原区
(堺市)北区,東区,美原区279,96039.307123.66大泉区
(堺市)中区,南区277,04558.384745.55泉北区
(堺市)堺区,西区280,84852.315368.92堺区
(大阪市)住吉区,東住吉区289,83519.0915182.56住吉区
(大阪市)住之江区,大正区,浪速区257,62434.577452.24浪花区
(大阪市)西成区,天王寺区,阿倍野区305,53518.1416843.16天王寺区
大阪20特別区合計5,628,871623.259031.48
1特別区あたりの平均281,44431.16
(人口,面積ともに2009年10月1日のもので,今日現在の市区町村一覧(大阪府)に掲載のデータを用いています)

実際に地図で見ると,どうも大阪市内の区割り案が難儀な様子が伺え,特に浪速区,大正区,住之江区の合区は歪に感じます。この区は大阪市域8特別区では最低人口で,何となくですが,どこにも引っ付け難かったのをまとめてしまったような印象さえ受けます。このように大阪市内都心部では無理をして合区しているのに対し,一方で周辺9市はそのままの形で特別区に移行させているので,北東部に人口規模の小さな区(摂津,守口,門真,大東)がかたまっているのが特徴です。

こうなると,パズル感覚で合区の組み合わせ案を別に考えてみたくなりました。また稿を改めます。
[75138] 2010年 5月 19日(水)12:19:42【1】ニジェガロージェッツ さん
標高など
[75137] futsunoおじ さん
市の最高点
神戸市 六甲山 931m 東灘区,北区

もちろん,行ったことがあります。六甲最高峰の震災前の標高が931.13m,震災後には931.25mと,地震による隆起で12センチ標高が高くなりました。
以前は一般人の立ち入ることが出来ないところでしたが[69053],今では自由に行けるようになりました。

ちなみに,住んでいる長田区の最高点は高取山山頂で328.8m,三日前の朝にも登りました。

東京都区部 愛宕山 26m 港区愛宕1
新宿方面に標高40mを超える山があったと記憶していたので,新宿区のサイトを調べると,区内最高地点として都立戸山公園内箱根山の標高44.6mと記されています。新宿区のあらまし
小生は関東には土地勘がないので,この地点が区部の最高点かどうか判断できませんが,詳しい方はフォロー下さい。


さて,「思います」について,[75128] JOUTOU さん,フォロー有難うございました。

商談後の“考えさせてもらいます”という表現は、日本人の感覚で大概は「上司と相談のため保留」という意味になると推測します
関西で「考えさせてもらいま」と言えば,おおよそ断り文句です。(人にもよるでしょうが)
そうとも知らず「あの件,考えてもらいましたか?」と聞けば,もう断って済んだ話なので「何のことや?」と怪訝な顔をされます。
「断る!」とキッパリと言い切ってしまえば角が立つので,これからの付き合いも含めて取引関係を円滑に進める商文化とでも言いましょうか。こういう文化のない地域の人からみると,ただの嘘つきに思えて不可解かもしれません。

いつも一言多い御仁に「一言多いぞ」と苦言を呈するときに,自らも軽い笑いのニュアンスで一言多く言い,それによって,相手の一言多いことをやんわりと許す,これも関西風ですが,こういう文化のない地域の人の反応は,じゃこたろさんの言葉を借りれば
他者に対して「一言多い」といいながら、ご自身が一言多い書き込みをする。しかもそれボケつっこみという形にしてうやむやにする。しかしそれも関西流とういうものと解釈してふれないこととしました。
となります。誤解を与えないためにも,関西人同士の会話に限定したほうが良いのかも。

「思います」については,これも日本の文化でしょうか。Issieさんの言葉を借りれば,
自分の感覚と違うものが横行して,もどかしく感じることもあるのですが
テレビを見ていても「~したいと思います」の連発で,それが婉曲表現であっても,意思の表明であっても,あまりに続くとこれが耳障りで,ついテレビに向かって「思います言うな!」とか「思うだけでやめとけ!」と叫んでしまうのですが,テレビという機械に向かって文句をいうのは老化現象のひとつらしいので,傍に居る人にはこれこそ耳障りですね。

【1】40mを越える を 40mを超える に訂正など。いつも訂正が多くて恥ずかしい・・・
[75126] 2010年 5月 17日(月)10:38:55【3】ニジェガロージェッツ さん
思う
[75125] MasAka さん,レス有難うございます。

日本語の「思う」には多種多様な用法があり,使う場合には非常に使いやすい言葉です。
「思う」にはいろいろな意味があるからこそ便利に使えてしまうので、私も話し言葉ではかなり多用してしまいます
確かにその通りですが,私の場合はだからこそ,その使用を極力控えています。
使うのは使いやすいのだけれども,聴き手,読み手にとっては,いちいち「思います」の用法を判定しなければならず,「参加したいと思います」のように,その判断が難しい場合もあります。話し手,書き手には便利でも聴き手,読み手の側に負担をかける言葉であり,最近の私の場合は,「推測します」「感じます」のような言葉に出来る限り意識して置き換えています。

子供(「子ども」ではない)の頃はあまり経験しないでしょうが,社会に出ると上司や顧客から「『思う』では困るんだよ」と突っ込まれた経験は誰にでもあることと思います(←推測)。
もちろん,言っている当方はあやふやな憶測で「思います」と言っているのではなく,考察の根拠ある結論としての「思う」だったり,ある場合には確固たる意思の表明の「思う」,また丁寧な言葉使いで「思います」と付け足したりしているのですが,相手はそこまで汲み取って解釈してくれるかといえばそうではなく,逆に「思う」という言葉に不安を感じて懸念を表明されているということでしょう。

「頑張りたいと思います」「感謝したいと思います」「謝罪したいと思います」は決意・決心の意味にとらえるべきで、推測や願望という意味でとらえるのは誤りだということになります。
引用した部分の前半には同意できますが,後半は同意できません。
確かに,インタビューで高校球児やゴルフの石川さんが「これからも頑張りたいと思います」と言えば,それは決意や決心を表明していると解釈できます。そのように捉えるべきです。
しかし,私のような中途半端な人間が「頑張りたいと思います」と言っても,取り敢えず(その場では)そう言っておこうという,逃げ口上が見え隠れします。その場合,願望という意味で捉えるのは誤りだとまでは言い切れません。

感謝や謝罪の場合については,素直に「感謝(謝罪)します」と言い切ったほうが相手に伝わります。意思の表明で「思います」を付けたにしても,それが余計で,折角の意思表明が薄れてしまいます。
場合によっては「個人的には謝罪したいのだけれども,本当に謝罪してしまうといろいろ関係者がうるさいんだよ。だから今の時点では謝罪はしないぞ」という意味で「謝罪したいと思います」と言っているのかもしれません。

では,「参加したいと思います」はどうでしょうか。
決意や決心を表明して「参加するぞ」と言っているようにも,「参加したいのだけれども,まだ日程などの調整もあり思案中です」と言っているようにも,どちらにも聞こえます。
これを聞かされた幹事さんは,「はて,この人は来るのだろうか?」と人数のカウントに困ってしまいます。
決意の表明で「参加したいと思います」と言っている人に,「まだ思案中ですよね? 早く出欠を決めてください」と言えば,相手はむかつくでしょう。しかし,幹事としては尋ねないわけにはいかず,気まずい雰囲気になってしまいます。

読者は文章を瞬間的に全部読むわけではなく
ほとんど瞬間的に全部読めてしまう場合にも使われています。
「それでは解答したいと思います。 ○○市」

ただ,いずれにしましても,「思います」の多用が,文法的に間違っているわけではないので,人それぞれ,自由に使えばよいことです。
誤解してもらいたくないのは,ここで他人が「思います」と書くことを非難しているのではなく,「ニジェはこう考えている」と表明しているに過ぎません。書くのも自由,冒頭に「思います」で始めている記事を読み飛ばすのも,これまた自由です。
[75122] 2010年 5月 16日(日)20:01:48【2】ニジェガロージェッツ さん
奇妙な日本語
地理には無関係の話題にて申し訳ございません。
この掲示板でもしばしば(というより頻繁に)見受けられる表現で,以前より違和感ありありで気になって仕方が無かったのですが,ほとんどの人は気にもしていないようで,問題提起というほどのものではありませんが,書かせていただきます。もちろん,特定の個人を非難する意図は持ち合わせていません。

その1
(書き込みの冒頭に)
書きたいと思います
発表したいと思います

もうすでに書き終えて,プレビューで確認して,書き込みボタンをクリックするんでしょう。
どうして「したいと思います」なのでしょうか。

世の中にはこの表現が氾濫していて,どこもかしこも「~したいと思います」のオンパレードです。
確かに,「○○を×日に始めたいと思います」など,「×日に始めたいのだけれども,皆さんよろしいでしょうか」という意味合いで用いられるのであれば,確認の意味合いを含んでいる表現で納得できます。
しかし,自分のことで,「頑張りたいと思います」「感謝したいと思います」「謝罪したいと思います」は,なぜスッキリと「頑張ります」「感謝します」「謝罪します」と言わないのか。
スポーツで活躍した選手(特に若手)が「頑張りたいと思います」と言っているのを毎日のように耳にしますが,十分に頑張った結果良い成績に結びついているのですから,「思います」が余分に感じます。将来頑張れないような状況の発生に保険を掛けているのでしょうか。
選挙で当選して,選挙事務所でバンザイしながら「支援者の皆様に感謝したいと思います」とは,その大勢の支援者を正に目の前にして「思っているだけかい」と突っ込みたくなります。
「謝罪したいと思います」と言われても,もし私が被害者ならば謝っていただいた気分になりません。「したい」という願望を「思います」と推測されたところで,「それならさっさと謝罪を済ませてくれ」と言いたくなります。

その2
子ども

5年前に[42057]で書いたことがありますが,「子供」という表記は子が大人のお供のような印象を与えるので差別語だと捕らえる人々がいるようで,「子ども」と書くのが好ましいのだとか。
しかし,「子供」は「大人」と同じく,漢字二文字で書かれるもので,その一方をかなで書くのは好ましくないのでは。少なくとも「大人」は一字をかなで書かない(書けない)ものです。「子供」または「こども」が本来の表記では。

また「子ども」と書くと「ども」が複数形に見えてしまう。
「私ども」とか「我々男どもは~」など,自分のサイドを謙譲しての表現ならば,複数形語尾「ども」に問題はないが,他人に対して言う場合は「虫けらども」とか「貧乏人ども」とか多分に侮蔑的に使われる。ならば「子ども」は子を見下して「ガキども」と言う複数形で,これこそ差別語である。


「思います」にしろ,「子ども」にしろ,何気なく使っている表現だとは承知しています。見たところ特に攻撃的な表現ではなく,むしろ柔らかい表現に感じられそうです。
どのように表現しようと個人の自由で,私にはどうのこうのという権限はありません。ただ,何気なく使われている表現だからこそ,敢えてこのような見方もあるのだぞと,書き込みさせていただきました。
[74463] 2010年 3月 27日(土)23:37:42【1】ニジェガロージェッツ さん
ソフガワニ港
[74459] Issie さん
「浦塩」は日本限定。「ウラジオ」と言っても,恐らくロシア語では何の意味もなさないでしょう。

逆にロシア語の略称と日本での略称が一致しているものに,間宮海峡に面する港湾都市「ソフガワニ」があります。
正式名称はソヴィエツカヤ・ガヴァニ(ソビエツカヤ ガワニ とも)で,ロシア語では Советская Гавань
(英転字でSovetskaya Gavan')
ロシア語での略称は Сов. Гавань(英字でSov. Gavan') ,形容詞「ソビエトの」を冠する地名はソ連各地にあり,これを一般には Сов. と略していましたが,おそらく日本語での略称もこれをカナに置き換えて「ソフ」としたものと推察します。
#実際のロシア語での発音では Sov の後が G なので[ソヴ] と濁るのだが,Sov を単独の単語のように語末で濁らない[ソフ]となっている細かなブレはこの際置いといて。

なお,ソヴィエツカヤ・ガヴァニの「ガヴァニ」は港湾を意味し,「ソビエト」が付いているから如何にもソ連時代に開発された港のように感じられ,実際にその通りなのだけれども,帝政ロシア時代の名称は「インペラートルスカヤ・ガヴァニ」。その当時は本格的な築港はまだだったろうから「皇帝の港」というより,「皇帝の入江」といったところだろうか。
[74441] 2010年 3月 26日(金)00:09:23ニジェガロージェッツ さん
(あまり気乗りはしませんが)関西での略称
[74439] 小松原ラガー さん
モトコー(本当は「モト」の部分は漢字かな?)は別にしても、関西の場合は、「むさこ」、「のくち」、「もとはち」などのような略称はあまり市民権を得ていないような・・・。気のせいかな?

小生の子供の頃に「天六ガス爆発事故」などありましたが,大阪には「天六」(天神橋筋六丁目)や「上六」(上本町六丁目),「谷四」(谷町四丁目)など一般に広く使われている略称は多くあります。
翻って,私たちの住む神戸でも,「モトコー」(元町高架下)以外に,「ポーアイ」(ポートアイランド)とか,「西鈴」(西鈴蘭台),「北鈴」(北鈴蘭台)などは使いませんか?
[74381] 2010年 3月 20日(土)14:30:36ニジェガロージェッツ さん
神戸市16区
タイトルのふざけた本題に入る前にレスを一つ。

[74360] 油天神山 さん
要はMapionの改訂を待っているうちにズルズルと更新が滞ってしまったのですね。
やはりそうでしたか。私も[74332]で地図をリンクするのに油天神山さんのコレクションに合わせてMapionで探したのですが,地図情報が古いままになっていたので,Yahooの地図で代用しました。それでコレクションへの登録を見送っておられるのかなと薄々感じていました。
ただ,それを明確に記しておられた[72948]は見逃してしまっており,大変失礼致しました。


さて,ここから本題。
最近神戸の街情報を当たっているうちに,神戸市の区が次のように16もあるページを複数目にしました。
神戸市 (灘区 葺合区 神戸区 湊東区 湊区 湊西区 林田区 須磨区 兵庫区 生田区 長田区 垂水区 東灘区 北区 中央区 西区)
(例えば,こことか,こことか,こことか)

これはねぇ,地元では絶対にやらない間違いですから,どこかの一覧のようなものを張り付けての結果だと推測するのですが,もしかしたら,昔に廃止された区を現存するかのようにズラズラ並べて悦に浸っているニジェのような変態が居るのかもしれません。
ただ,本当にこんな区割りをしたらどうなるのか,いろいろ連想していると面白くなり,つい遊んでしまいました。

16の区から成るパラレルワールドの神戸市は,現行世界と同じように周辺の町村を編入していきましたが,区政だけが狂っています。次のような変遷を辿りました。

昭和6年9月1日 神戸市に区設置。灘区,葺合区,神戸区,湊東区,湊区,湊西区,林田区,須磨区の8区
そして早くもその翌月,湊西区の衛生組合から兵庫区への改称の陳情が寄せられる。ここまでは現行世界でも同じ。並行世界ではこの対応から狂いが生じる。

昭和8年1月1日 湊西区より旧兵庫津地区を兵庫区として分区。9区制に。

昭和16年4月1日の明石郡垂水町の須磨区への編入を皮切りに,昭和33年2月1日の美嚢郡淡河町の編入まで神戸市域は西,北,東の3方向に拡張するがそれも同じ,但し北神各町村の編入先は兵庫区ではなく湊区へ。

昭和20年5月1日 神戸区より旧生田宮村,北野村,中宮村,花熊村,宇治野村の範囲を生田区として分区し,林田区のうち旧長田村,池田村,須磨区のうち旧西代村の範囲に長田区を新設する。11区制に。

昭和21年11月1日 須磨区より垂水区を分区。12区制に。
昭和25年4月1日 東部新市域に東灘区を新設。13区制に。
昭和47年5月1日 埋立て中のポートアイランドを港島として神戸区に編入
昭和47年6月1日 湊区,灘区,東灘区にまたがる六甲山上を六甲山町とし,灘区に移管。
昭和48年8月1日 湊区より北神地域を北区として分区。14区制に。
昭和52年6月1日 垂水区名谷団地を須磨区に移管
昭和55年5月1日 北区に摩耶山町を新設し,灘区に移管
昭和55年12月1日 ポートアイランドを中央区として神戸区より分区。15区制に。
昭和58年8月1日 垂水区より西神地域を西区として分区。16区制に。
昭和60年2月1日 垂水区より総合運動公園,流通業務団地を須磨区に移管
平成4年5月20日 西区,垂水区,須磨区間の境界変更

こうして,現行の変遷に出来る限り合わせながらも,分区を連発すると16区の頭数は揃う。
そうなると,その人口規模が気になってくるので,平成17年国勢調査の町丁別人口をもとに各区の人口を計算してみた。

神戸市1,525,393
16区
東灘区206,037
灘区128,050
葺合区59,503
中央区14,423
神戸区4,802
生田区29,210
湊東区23,016
兵庫区14,399
湊西区35,872
湊区30,571
北区225,945
長田区73,707
林田区43,455
須磨区170,037
垂水区222,729
西区243,637

あ~あ,あり得ん!
[74332] 2010年 3月 13日(土)18:05:09ニジェガロージェッツ さん
外来語由来町名の新設
油天神山 さんへ
2007年10月に岐阜県各務原市で起立し,外来語由来町名に登録されているテクノプラザ1~2丁目ですが,今月3~4丁目が追加となっているのが財団法人国土地理協会の地名変更情報に掲載されています。

また,コレクションに登録されている町名で一番新しいものが2008年10月に起立した滋賀県湖南市サイドタウン1~4丁目でしたので,その後の新設町がないか過去の変更情報を見たところ,3件ありましたのでお知らせします。

2009年3月起立
富山県高岡市グリーンパーク 地図
#近くにあるオフィスパークは既に登録済み

2009年5月起立
宮城県黒川郡大和町テクノヒルズ 地図

2009年8月起立
広島県三原市須波ハイツ1~4丁目 地図


個人的には北海道に「オホーツク」を名乗る町名でもあれば,ロシア語なので間違いなく外来語由来なのですが,今のところなさそうです。
[73515] 2010年 1月 1日(金)15:43:41ニジェガロージェッツ さん
初日の出
平成二十二年 明けましておめでとうございます

今朝,夜明け前の薄暗い山道を登り,神戸市長田区の高取山頂(標高328.8m)にある高取神社に参拝してきました。西空は分厚い雲に覆われていたものの,幸い日の出の南東方向は雲が切れておりましたが,西風が強く,雲が流れて来ました。
気温マイナス3度の山頂で待つこと半時間,日の出の時刻に遅れること15分で雲の上に出たご来光を拝むことが出来ました。
長田区の人口は減少続きですが,山頂は初日の出を拝む人々でごった返していました。神戸っ子の1年はこうして始まります。

さて,今日の朝刊には厚生労働省が昨日公表した平成21年人口動態統計の年間推計についての記事が出ており,それによると日本在住の日本人人口は7万5千人の自然減だとか。小生のような子孫を残さない(残せない)不埒者が増えれば人口増加は望めませんが,これも時代の流れでしょう。

一方,1993年ごろをピークに人口減少を向かえた“先進国”ロシアでは,ここ数年のうちに減少幅が大幅に縮小してきました。
ロシア連邦の人口減少数の推移(含,外国人)
年間人口増減(人)うち,自然増減社会増減
2003年-795,445-888,526+93,081
2004年-693,986-792,925+98,939
2005年-720,668-846,558+125,890
2006年-532,583-687,066+154,483
2007年-212,130-470,323+258,193
2008年-104,859-362,008+257,149
この調子で行けば,もしかしたら昨2009年の1年間は人口増に転じていたかもと思えるほどです。2007年,2008年の社会増はロシアの好況によるところが大きいと推測できますが,昨年は世界同時不況の影響がどうであったか。
翻って昨日厚労省発表の日本のデータは出生と死亡による自然減のみのもので,社会増減や外国人人口は扱われていないので,日本国の全人口ではそれほどの減少はなかったかもしれませんが,人口減少幅が縮小したロシア連邦との対比は今後の日本の人口推移を占う上でも面白いかも知れません。

[73506] 白桃 さん
南砺(ママ)言っても
国勢調査の年であります。
こちらも,2002年以来8年振りの国勢調査が楽しみです。
[73484] 2009年 12月 31日(木)14:42:27【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:見やすい表示
[73481] inakanomozart さん
神戸市や茨木市の住居表示の街区表示板(街区符号を記載した縦型のもの)が街区の建物の壁や塀ではなく、電柱や外灯などの柱につけてあるものが多いのが目に付きました。

こちらも思いつきの反応にて失礼いたします。
住居表示の街区表示板については私も興味のあるところですが,その設置場所についてはあまり気に留めていませんでした。
面白い視点のご紹介ありがとうございます。
ただ,神戸のどの辺りでお見かけになったのか分かりませんが,震災の影響があるかも知れません。
建物そのものがなくなっている(なくなっていた)とか,復興過程で仮設などを頻繁に建て替えたとかの事情を抱えた街区が非常に多く,その場合は電柱くらいしか恒久的な設置場所がないように推察します。
いずれにせよ,私の考察ではなく,被災と復興過程の実感からくる単なる思いつきですが。

またウォーキングのときには設置場所を注視して歩くようにします。
[73479] 2009年 12月 31日(木)13:28:08【3】ニジェガロージェッツ さん
大晦日の落書き
いよいよ今年も残すところ半日を切りました。石島・岡山オフ会をはじめ,今年も落書き帳の皆様には大変お世話になりました。
有難うございます。

昨年の平成二十年はウォーキングと山歩きで18kgの減量を記録しましたが,今年はそれほどではなく,一方で落書き帳の書き込みにも貢献できず,自分のホームページさえも稀に更新する程度と,何とも無気力な一年でした。
ウォーキングでは,今年の4月30日から札幌ウォーキングに参加しています。最初は札幌市内を巡り,次に北海道1周を終えて,米大陸に飛ばされました。246日目の今日現在はソルトレイクシティー辺りをうろついています。
メタボが気になる皆様,チャレンジされてはいかがですか?結構楽しめますよ。

とはいえ,無理な山歩きや早朝のジョギングが祟り,年末になって足首を痛めてしまい,昨年4月8日から続いた連続1万歩越えの記録が629日で途絶えてしまいました。札幌ウォーキングの月間ランキングでは20位以内につけていましたが,一気に50位ぐらいまで落ちています。来年は一から仕切り直しです。

さて,レスを少々。

[73321] hmt さん
ニジェガロージェッツさん ゆかりの ニジニノヴゴロド[8116] 生まれの作家 マクシム・ゴーリキーも ペンネームで、1932年から1990年までの間、ゴーリキー市が存在しました。

懐かしの第二の故郷へのご言及,ついつい反応させていただきます。
現地ニジニ・ノヴゴロドでの「ゴーリキー」名称は結構残っています。確かにゴーリキー州ゴーリキー市は改称されましたが,鉄道ターミナル駅はゴーリキー・モスコフスキー駅のままで,市のシンボル企業“GAZ”ことゴーリキー自動車工場ゴーリキー鉄道などなど。もちろん,市内にはマクシム・ゴーリキー通りマクシム・ゴーリキー広場も健在です。

なお,ロシアにおける現存するペンネーム由来の都市名としては,
キーロフ州キーロフ市(セルゲイ・ミロノヴィチ・キーロフ=本名コストリコフ/政治家,革命家),人口464,069人
ヴォルゴグラード州セラフィモヴィチ市(アレクサンドル・セラフィモヴィチ・セラフィモヴィチ=本名ポポフ/小説家),人口9,471人
があります。
(名前は名・父称・姓の順。本名は姓のみを記した。人口は2009年1月1日現在)

[73367] ペーロケ さん
せっかくなんで児島湖締め切り堤防周辺にニジェさんを案内したいと思い、岡南飛行場経由で向かいました。
その折はお世話になりました。
途中通過した岡山市浦安の地図上の印象が,千葉県の浦安と似ていたので,地名由来で何か共通点でもあるのかと話題になりましたね。
それにしても,岡山市内の交差点の地名標識が小さくて分かりにくかったですね。「地元の人間だけに分かれば良い」と言わんばかりで,(岡山の人には悪いけど)まだまだ一地方都市だなと感じました。

余談ですが,標識としては91年に新潟市内でよく見かけた新潟の「潟」の字を「さんずいに写」で書かれたものが多く新鮮に感じました。「潟」の字は書き難いですからね。地元では自然と略してしまうのでしょうか。
ただし,中国語での「さんずいに写」は全く別の字「瀉」を表し,その意味するところが決して好印象を与えないので,中国との関わりが深くなった今日では「さんずいに写」を書かないようにしていると聞きます。
[73393] 2009年 12月 25日(金)01:11:13ニジェガロージェッツ さん
JR最多画数駅?
[73391] 大龍エクスプレス さん
問題:jrの駅名で、一番総画数が多い駅はどこでしょう?

うちの近所にも一駅。
須磨海浜公園(山陽本線・JR神戸線)64画

他に
上越国際スキー場前(上越線)も64画か。さて,JR最多画数駅はどこに?
[73356] 2009年 12月 20日(日)00:30:36【1】ニジェガロージェッツ さん
第六回公式オフ会への御礼
第六回公式オフ会閉幕から早くもひと月が経とうとしていますが,未だにその余韻に浸っています。困ったものです。
時系列で言えば石島(井島)探検を終えた[72971]に続く形となりますが,第六回公式オフ会についての御礼かたがた,オフ本会を振り返えらせて頂きます。

当日の昼,石島を後にして宇野港に到着後,ペーロケさんのお車に同乗させていただきオフ会会場の苫田温泉「乃利武」へ向かいました。後続にはあっちゃんさんを乗せたfutsunoおじさん車が続き,途中,児島湖締切堤防経由で岡南飛行場を見学しました。隣県とはいえ,私には行く機会のなかった所だけに貴重な経験でした。ペーロケさんには深く感謝申し上げます。

飛行場で時間を取った分,乃利武へは少し遅れての到着です。グリグリさん,いっちゃんさんが受付で向かえてくれましたが,グリグリさんによれば当初は誰だか分からなかったとのこと。余程過去のオフ会でのニジェの印象が薄かったのかと思いきや,JOUTOUさんのお言葉を借りれば「もっとも変貌を遂げた男」
同室には最年長のhmtさん,第四回福岡オフ会幹事かぱぷうさん,石島探検隊長88さん,そして初参加のソーナンスさんと錚々たる面々。残る室長は皆勤の方とのことで誰だろう?と思いきや,何とグリグリ御大。見事な部屋割りにはただただ脱帽です。([73154] いっちゃんさん)

配られたのが今川焼さんの「クイズ ここはどこ?」。高砂などひと目で分かる市もいくつかあったがこれには大苦戦。参考に手持ちのソ連製世界地図帳の日本のページを見るものの分かる訳なし。

一次会を前に大浴場へ。これがまた迷路の連続。斜行エレベータで7階から3階へ「上がった」り,訳の分からない構造。とはいえ,浴場で石島の雨で冷えた汗を流し気分爽快に。さすがは温泉です。大変良いお湯でした。
一風呂浴びて体重を量ると68kg,2年前の福岡オフ当時とでは23kgの減。(500ml飲料に換算して46本分か。大袈裟な表現)
大浴場をあとにして,参加者が一同に会した一次会場「ニュー桃太郎」では石島ツアー行状記の発表の大役がありましたが,探検隊一同のご協力のもと良い報告が出来,これでひとまず「お役御免」。88隊長をはじめ,石島(井島)探検隊のメンバーの皆様には改めて感謝。
お題変って一次会「クイズ ここはどこ?」の答えあわせでは結局6問の正解。景品「地図中心 北極特集」をゲット。

二次会は喫煙可能な309号室,通称「不良部屋」にて全員集合。らるふさんの「日本のバルト海」を筆頭に秀作「ヘンテコ地図」の謎解きに夢中に。
続いて談笑の中で始まった岡山十番勝負では景品にイタリアの地図をゲット。今回のオフ会も地図三昧になりました。

ところで今回の幹事役のいっちゃんさんは裏方の準備に徹しておられたようで,酒類の飲めない小生に何度もコーラを持ってきて頂くなど,本当に畏れ多いことでした。そのときは雑談に夢中で,今にして何か手伝えることがあったのではと,後悔しております。次回こそいっちゃんさんにも楽しみの輪の中に入っていただくよう,気を配らなければなりません。

夜中1時30分ごろ散会,そして就寝。翌朝6時過ぎには目覚め,朝の大浴場から朝食会場へ。朝食の後はスナフキんさんの部屋でデジタル地図の実データ展示にお邪魔し,地図製作のご苦労の極々一端を垣間見たようで,いつも見て楽しむばかりの地図の裏側には,製作者の苦心が一杯詰まっている現実を知り勉強になりました。とはいえ,私などは「見てるだけ」の門外漢ですから,一枚の地図を見て製作者の「手抜き」や完成図の「粗」などは一生かかっても見抜けないことだと認識しました。

さて,いよいよ散会となり,次回での再会を誓いつつ旅館を後にして行きと同じくペーロケさんのお車で岡山駅へ。
ふと万歩計を見ると既に1843歩も歩いている。あの旅館,一体どういう構造しているんだと一同爆笑。

ああ,楽しかったオフ会も過ぎ去ること1ヶ月。今回のオフ会開催に尽力されたグリグリさん,いっちゃんさんをはじめ,ご参加された皆様,そして無念の参加断念にもかかわらずヨーグルトの差し入れを下さった中島悟さんにはこの場を借りて深く感謝を申し上げます。
次回も参加できるといいなあと願いつつ,次に皆さんにお会いする時に福岡オフ会に現れた過去の「ニジェガロージェッツ」が再登場するようでは,私としては健康の破綻を意味しています。どちらのニジェが現れるか,楽しみにしておいて下さい。
[73241] 2009年 12月 9日(水)00:22:07ニジェガロージェッツ さん
オフ会関連レス
[73211] 88 さん
石島(井島)訪問 事前準備手配編
隊長を差し置いて石島/井島探検記を記し恐縮しておりましたが,読み応えのある事前準備手配編を有難うございました。
石島/井島探検メンバーの中には,ペーロケさんのようにケータイGPSを持ち込んでいたり,それぞれの楽しみもあって,様々な印象があったことと存じます。
それもこれも,88さんの綿密な準備があってのことでした。改めて感謝しております。

[73218][73229] グリグリ さん
岡山十番勝負@オフ会二次会
どなたがどれを正解したかよく覚えていないんですよね。
問三を正解したのは小生でした。これは即効で解かりました。
実は瞬時に浮かんだのは2都市で,広島市以外の“それ(共通項)”は昭和18年に設置され,現在でも鐘路区と龍山区の間に存在していますが,当時は「市」ではなく,2年後には外国領土になりましたから,こちらではなかろうと,残り解の広島市を回答しました。

[72966] グリグリ さん
岡山オフ会、私の周辺での話題はもっぱら十番勝負でしたが、それにしても、ちょっと入れ込み過ぎで大丈夫かなぁと思われる方が何人もいて
入れ込み過ぎなのは結構ですが,その中の一人が
「十番勝負の話をしてるんだから,関係のない話をするやつは出て行け!」
と,明らかにこちらを向いて怒鳴りました。
泥酔した上での発言かと察しますが,同じ部屋とはいえ,こちらも決して真隣りで騒いでいた訳でもなく,全く別の話題の輪を形成していましたので,正直なところ一瞬カチンときました。
親しき仲にも礼儀ありですよ,酔っぱらいさん!(覚えてないかも知らんけど)

[73137] 白桃 さん
カタカナの「ニ」ではなく漢数字の「二」
そう返してきますか(笑)
それはさておき
秀秋死後に生まれた「羽柴秀行」という側室の子がおり、叔父の木下勝俊(備中足守藩主)に預けられたとのこと
やはり何らかの形で秀秋の子孫は続いていた可能性があったのですね。ご教示有難うございました。
じゃごたろさんの書き込み[73067]もあり,どこまでが創作かを確認したかったので,不躾とは思いましたが質問させていただきました。
[73118] 2009年 11月 30日(月)09:50:44【1】ニジェガロージェッツ さん
なりすましにご注意を(笑)
雪だるま式メタボに丸刈と髭がトレードマークのニジェガロージェッツ(別名チャーリー・チャップマン)です。
第六回岡山オフ会は盛況のうちに終えたようで,ご同慶の至りです。
小生は極貧生活が続き,昨年に続き,今回も参加を見送りました。ところが,岡山には隠密の偽ニジェ[72972]が現れて一騒動起こしたらしく,わたくしのもとに抗議メールが寄せられて困っています。
石島? どこにあるんですか,そんな島。

[73112] MasAka さん
ニジェさんの顔だけは2年前の福岡オフの時と全然違っていて最初戸惑いました(大変失礼ですが)。
一次会場で貴殿の隣りに陣取っていたhennaおっさんは私ではありませんので,どうぞ御気になさらないよう。

[72972] 白桃 さん
小松帯刀 小松原ラガー 祖父は小早川秀秋
小早川秀秋は二十歳そこそこの若くして亡くなっていましたが,孫がいたんですか!
まあ,子さえ作っておけば後の時代に孫が出来てもおかしくないのですが,本当ですか?

[72956] かすみ さん
ニジェさんの嘘にはだまされません。
はて? 何のことでしょう?
[72974] 2009年 11月 28日(土)07:36:15ニジェガロージェッツ さん
上空からの写真
[72973] 笠津前浜 さん
あれは大槌島だったのか…。ハテどれが石島だったのだろう…。

ウィキペディアの直島諸島のページにある空撮写真が分かりやすく,臨場感があります。
岡山県側の石島と,香川県側の井島との植生状況の違いもくっきり。
[72971] 2009年 11月 28日(土)00:09:30【1】ニジェガロージェッツ さん
石島探検(後編) 県境到達
我々探検隊9名を乗せた「アルバトロス」は高速で海上をぶっ飛ばし直島諸島の合い間を抜け,石島港へ到着した![72921]
(気分はもう,完全に川口浩です)

石島集落はひっそりと時代に取り残されたような佇まいで,今にも雨が降り出しそうな曇天の中,寂しく私たちを迎え入れてくれました。
さて,感傷に浸っている間はなく,石島滞在に与えられた時間は正味2時間。
予定通り,まずは集落を西へ抜け,南西方向に伸びる「旧送電線管理道」を進みます。事前に地図を(何度も)作成したことから,島の地形と送電線の位置関係はしっかりと頭に入力済みです。そして実際に島に入ると,事前に地図上で変更が確認された送電線が,旧送電線と新送電線の両方が存在していました。新旧の鉄塔の位置もだいたい予想通りです。
いつの間にか,私は列の先頭を歩き,突撃役「捨て駒のニジェ」になり,88隊長は全体を纏める役に回っていました。仮に道が途絶えていても,9人も居るのだから,道を造りながら進めば良いなどと大きな気分です。
集落から後背地に伸びる徒歩道も幾つか発見しましたが,「おかやま全県統合型GIS」地図上に描かれている徒歩道を選び,忠実に辿ります。懸念されていた池は,沢筋に沿って開かれた田畑が耕作放棄地となっており,そこに水溜め場のような状態で幾つか存在していました。徒歩道はその脇を通っており,歩行の支障はありません。勾配は緩く道筋もしっかりしており,楽々と南へ進みます。
集落から歩くこと20分足らずで早くもに出ました。今まで歩いた「岡山県石島」は豊かな森に覆われた地でしたが,峠から南に見える光景は岩肌が所どころ露出した荒れた「香川県井島」の画でした。ついに県境到達を確信しました。([72923]EMMさん)
四国4県には経県のないでるでるさんにとってはここが初めて訪れる「四国」となりました。

県境到達を確認した後,「県境尾根」を西へ向かいました。次に目指すは県境上を西へ開けた「展望岩」からの瀬戸内の絶景ポイント[72627]hmtさん)です。そして約5分ほどでその場所に到達しました。
切り立った岩肌が露出したスリル満点の尾根の先端にあり,瀬戸内の島々が見渡せる絶景がそこにはありました。
歓声が沸きました。大の大人が大はしゃぎです。
「こんなとこで滑り落ちたらアカンで,(両県警の)管轄でもめるで」
「そっちの心配かい!」

88探検隊長が「岡山県」「香川県」と印字されたプラカートと,県境具現用にビニール紐を用意しており,いよいよ全員で県境を跨いで記念撮影です。

この頃には,そろそろ雨がポツリポツリと降り始めていたので,絶景を満喫しながらしばし食事休憩。小生とfutsunoおじさんはそこから少し西へと探索しましたが,あとは下り道が続くばかりとなり引き返し,20分ほどで「展望岩」を退散,全員で次の目的地,井島の最高峰「石島山」標高156mを目指し,県境縦走路を東へ進みました。
この道はあまり整備されたものではなく,人の通った形跡も稀なのか,先頭を行く突撃役の小生は蜘蛛の巣との戦いでした。尾根筋の急な露岩を登るようなところもあり,山歩きに慣れていないメンバーにはちょっと抵抗があったかも知れません。島の頂上に到達すると東の豊島方面の景色が確認できましたが,不気味な巨大な獣糞もあり,小雨とはいえ雨も降ってきました。そのまま島の東側へ縦走するのも良いのですが,先には尾根がまだ長々と続き,ここは安全策を取り,引き返すことにしました。
滑る岩肌を下るのは要注意ですが,ひとりの転倒もなく無事に通過。「送電線管理道」に戻り,そのまま石島集落へと戻りました。
休憩時間も入れて合計1時間半の行程で,歩数は10000歩を数えていました。

以上が石島(井島)探検の顛末です。
探検は大成功に終わりました。

今回の石島(井島)ツアーを企画から手配まで一手に引き受けてくださった88さんをはじめ,参加メンバーの皆様,本当に楽しい探検でした。そして,当日は石島行きが叶わなかったにもかかわらず,様々な情報ご提供やご支援をくださったメーリングリストおよび「落書き帳」の皆様,有難うございました。
最近の小生は毎週日曜日に神戸背山の山歩きをしているので,「突撃役」として少しでも先の状況を把握するために気忙しくハイペースで歩いていましたが,それにも合わせてついて来てもらう格好になってしまい,申し訳なくも感じております。
天候さえ良ければもっと凄い快感が味わえたのかとも思いますが,今回の行程でも十分素晴らしい体験になりました。

島を後にする時,集落の飼い犬がなついてきました。
「また来るからね~」とワンちゃんに別れを告げ,「アルバトロス」に乗船。

「ホンマにまた来るンかい!」
[72970] 2009年 11月 27日(金)21:51:39【1】ニジェガロージェッツ さん
石島探検(前編) 事前調査
探検隊長の88さんからもご報告があるかと察しますが,石島への誘い[72840]を書き込んだ小生からも石島(井島)探検の始末記を綴らせていただきます。

岡山オフ会に際して,有志により石島(井島)ツアーを敢行することとなり,ここ「落書き帳」にも石島関連の記事で賑わいました。
それにつれて参加表明メンバーも増え,当初3名の参加で練り始めた企画がいつしか6名に,当日には9名に膨れ上がり,石島の全人口の1割にも及ぶ「大探検隊」となりました。
石島に渡るには定期便がなく,決してお安くない海上タクシー([70899]星野彼方さん)を宇野港からチャーターすることになるのですが,人数で割ると随分と「お手頃価格」となり,大きな難関がひとつ消えました。

石島(井島)の最大の魅力はそこに岡山香川県境が存在することであり,この島に渡る限り,島の北部にある東西に伸びる尾根上に引かれた県境に到達するのが,探検隊に課せられた最低限のノルマとなります。
[70899]星野彼方さん
島には県境を跨げるような所はないそうです。行ける範囲はすべて岡山県で、香川県側に通じる道はない。
88さんも電話での事前調査にて島民から
県境は子供のころに山に登ったが、何十年も前で、よく覚えていない。
地元民はわざわざは登らない。
途中までは道はあるが、その先は道はなかったと思うし、
ため池(らしきもの)は砂防ダムで、そこからは上がるのは無理だろう。
西側へ回って行けばよいのでないか。
と聞かれていました。
確かに,国土地理院のウォッちず2万5千分の1地形図を見ても県境に通じる徒歩道の存在は記されていません。しかし,この地図には石島(井島)を南北に貫く送電線が島の南北尾根に沿って描かれています。これがあると言うことは,送電線や鉄塔などの設置物を保守,点検するための管理道の存在が推測できます。
また,私は石島の載っている古い昭和55年発行の2万5千分の1地形図「豊島」を所有しており,これには送電線とそれに並行して伸びる管理道らしき徒歩道が図示されていました。但し,送電線の位置が今とは違っており,南北の尾根よりは西寄りの,海岸線に近いところを通っていました。
そこで,今あるウォッちずの地形図を標高に沿って色を塗って島の雰囲気を出し,送電線鉄塔の場所を推測し,さらに昭和55年の旧送電線の位置と,その管理道と思しき旧道の位置を書き加えた地図を作成し,オフ会のメーリングリストに流しました。(11月16日)
当日の探検のポイントとして
1) 旧道を辿ることが可能か?
2) 旧道の痕跡がない場合,現在の送電線の管理道は存在するか?
3) 島民の話として88さんが聞かれた「西側へ回われ」とは,送電線の管理道のことか?

グリグリさんをはじめ今川焼さんや,地図のご専門のスナフキんさんからも地図を読図していただきましたが,皆さんの考察をお聞きしているうちに,旧道上に出現した池さえ越えられれば,何とか県境へと辿り着けそうだと楽観視するようになって来ました。こういう情報や交換意見を広く共有できるメーリングリストの「威力」と,メンバーのキャラクターの「魅力」には改めて感服です。

また,らるふさんからは玉野市のサイト内の胸上小学校石島分校のページにリンクのある「おかやま全県統合型GIS」の石島の詳しい地図が提示され,これにははっきりと県境へ通じる徒歩道の存在が「件の旧送電線管理道」と同じ沢筋に描かれています。この地図も探検用に加工してメーリングリストに流しました。([72898]グリグリさん)

さて,前日には88探検隊長との連絡で,上陸後は沢筋を緩やかに登る旧送電線管理道を辿ることを確認し,石島探検当日の朝を迎えました。
岡山方面へ向かう乗り換え駅の兵庫県相生駅で星野彼方さん,でるでるさんと,宇野への乗り換え駅の茶屋町駅であっちゃんさんと合流し,宇野駅ではそれぞれの車などで先に到着していた88探検隊長,futsunoおじさん,YASUさん,EMMさん,ペーロケさんと合流し,海上タクシー「アルバトロス」に乗船し,正午を過ぎていよいよ石島へと出港です。
[72840] 2009年 11月 14日(土)10:41:12ニジェガロージェッツ さん
石島,そして井島へ
いよいよ,第六回公式オフ会まであと1週間を残すばかりとなりました。
さて,[72627]hmtさんよりアナウンスがあったように,オフ会の当日に“0次会”とも言うべき,石島ツアーを敢行することとなりました。

実際,個人的に行くとなれば,[70899]星野彼方さんが丁寧に調べてくださったように,非常に困難な所です。
今回は「半地元」の88さんの企画のもと,現在のところ小生を含めて6名の参加が見込まれています。
[70899]星野彼方さんの記事にあるように,アクセスは10人乗りの水上タクシーをチャーターしますから,あと4人の空席がございます。
島の北端にある岡山県石島集落に上陸した後,県境を目指し南下,徒歩で県境を越えて香川県井島へ入りますが,今のところ道が地図上で確認できず,「探検」の要素も加わります。
本州,四国,九州以外の島で県境を越えるというのが地理好きの関心をそそりますが,写真[72627]hmtさん)のような瀬戸内の絶景を満喫できるのも大きな魅力です。

現時点での企画では,鉄道経由では10:53岡山駅発「マリンライナー23号」で茶屋町駅乗換えで宇野駅に11:35分に到着し,車での参加予定者と合流する案が有力です。集合時間がお昼前と結構遅めで,これなら(特に関西や広島など近県の人には)気軽に参加できるのではないかと察します。
石島(井島)島内には,約2時間半ほどの滞在が予定され,15時ごろには宇野を後にして,公式オフ本会へと向かいます。

まだオフ会参加をご検討の方は是非,石島へと足を伸ばしてみませんか?
泊り掛けのオフ会への参加は無理でも,日帰りの石島だけなら行けそうだという方のご参加も歓迎です。
オフ会のメーリングリストに登録をお待ちしております。
[72130] 2009年 10月 3日(土)19:04:14ニジェガロージェッツ さん
改善を望む
[72129]
爆弾投下
記事の内容については私も常々感じていたことであり,「よくぞ言って下さった!」と感謝申し上げたいところですが,「爆弾投下」というタイトルは,「手の届かないところから」または「衆人より高い位置から」ものを言っている印象を強く受け,極めて不快です。
[72076] 2009年 9月 27日(日)08:49:09【1】ニジェガロージェッツ さん
総人口と総石高のバランス
[72075]を投稿したあと,よくよく考えてみれば,1石=1人分の1年間の消費量([39982]中島悟さん)ですから,人口と石高が大体同じ様な数であれば,バランスが取れているということでした。

[72071] hmt さん
入間県(現在の埼玉県の西半分)は、人口41万人、石高約40万石でした。当時は1人が1年に1石を食べていたとすると、この県ではほぼバランスがとれていたことになります。

幕末期の人口と石高は[67156]YTさんの記事によれば,人口26,907,625人に対して石高30,435,170石でした。
返還前の沖縄を含む昭和45(1970)年の国勢調査によると104,665,171人に対して[72075]では93,427,000石(米だけの石高)ですから,こちらも釣り合いが取れています。
日本人の食生活が変わったとはいえ,2008年人口127,931,339人(都道府県の基本データ)に対して58,093,000石では,「まかない率」45.4%でちょっと怖い数字です。ニュースなどでは米の自給率は100%と言われていますが・・・。
[72075] 2009年 9月 27日(日)00:26:25【1】ニジェガロージェッツ さん
最盛期石高
[72066] oki さん
[72071] hmt さん
個人的な思いつきによる,お遊びにお付き合いいただき,恐縮です。
[72052]については,それを書きながらも,あまりにもふざけた記事になり,okiさんをはじめ過去記事を引用させていただいた諸兄にも失礼な気がして,少しばかり恥ずかしく感じておりました。
単純に米の生産高を150で割ると言う,極めて低レベルのデータ処理ですが,やってみたところ結構面白い結果が出てきたので投稿させていただいたのですが,[72066]okiさんには幕末の石高を現在の都道府県の区画にあわせて算定の上(かなりの手間であったと推測します),分析していただきました。
また[72071]hmtさんからもご考察とフォローを加えていただきました。
深く感謝申し上げます。

1石 = 150kg という換算式が,精白工程の歩合の考慮を含め,どこまで正しいものかは,残念ですが,私には証明の術を持たないので,ここは本当に「お遊び」と割り切って信用するしかありません。ですが,たまにはこういうデータ遊びも楽しいもので,息抜きには持って来いです。
和歌山県の07年米石高が24万9千石とは,紀州徳川藩56万石に比べて少ない気がしたのですが,紀伊国が今の三重県南部(東紀州地域)を含むばかりか,紀州徳川藩は更に北の伊勢国南部まで領有していたので納得。[72066]okiさんのデータには和歌山県の幕末石高は40万8千石とあり,和歌山県といえば稲作以外にも柑橘類や梅が名産で知られ,水産まで含めば捕鯨さえも無視できない数値かとも推測します。

[72060] JOUTOU さん
引越しお疲れ様です。我が家も震災以降,避難生活から再建だ,再開発の立ち退きだ,仮設だ,・・の近所での細かな引越しを毎年のようにやらされました。「細かな引越し」とは言え,家財の持ち運びに程度の差は無く,まあ,身の回りの整理にはなりましたが
人口1200万人余も有しながら小大名にも及ばない“旗本”東京都民ですが・・・(笑)
[39973]kenさんの「1万石=1000人」説から逆算すると,東京1億2千万石?

[72066] oki さん
ところで皆さんは、普段どの地域の米を食べられてますか。
私は元々北海道の「キララ397」が好みですが,最近はスーパーで安く売られている播但淡3国に摂丹2国の一部,備作の極々々一部を加えた地域で収穫された米が結構おいしく,日々味わっております。(ストレートに「兵庫米」とか「兵庫129万石」と表記しようものなら,播州,特に姫路周辺の住民から激烈なる敵意を買いそう)

幕末(1870年頃)から2007年までおよそ140年の間に、全国の石高は7割増加
「米食離れ」とか「減反政策」とか,大体の察しはついていたのですが,水稲の生産量のピークは40年以上前の過去にあります。具体的には昭和42年の1426万トンです。農林水産基本データ集
小生が中学校の社会科の授業で使っていた当時の帝国書院地図帳の巻末に,ピーク時に近い昭和44(1969)年の都道府県別水陸稲の生産量が載っていました。[72052]と同様に石高を計算し,平成19(2007)年の米の石高と比較してみます。分かっているとはいえ,結構ショッキングなデータです。
都道府県収穫高(t)69年石高(万石)07年石高(万石)石高増減増減率%
全国14,014,0009342.75809.3-3533.4-37.82
北海道933,800622.5402.1-220.4-35.40
青森489,400326.3199.4-126.9-38.88
岩手468,300312.2206.3-105.9-33.91
宮城605,400403.6272.0-131.6-32.61
秋田638,700425.8366.3-59.5-13.97
山形574,300382.9279.7-103.2-26.95
福島546,000364.0296.8-67.2-18.46
茨城501,900334.6269.3-65.3-19.51
栃木453,600302.4240.5-61.9-20.48
群馬173,200115.560.0-55.5-48.04
埼玉288,600192.4116.8-75.6-39.29
千葉396,900264.6219.1-45.5-17.21
東京11,6007.70.5-7.2-93.27
神奈川47,90031.910.7-21.2-66.39
新潟868,000578.7433.7-144.9-25.05
富山353,300235.5141.0-94.5-40.14
石川241,600161.191.3-69.7-43.29
福井222,300148.293.9-54.3-36.66
山梨56,50037.719.9-17.8-47.26
長野381,500254.3149.6-104.7-41.18
岐阜242,200161.579.8-81.7-50.58
静岡190,300126.962.1-64.8-51.08
愛知296,600197.7106.7-91.0-46.02
三重269,700179.8104.2-75.6-42.05
滋賀290,500193.7117.1-76.6-39.55
京都133,30088.954.5-34.3-38.63
大阪70,00046.720.5-26.2-56.14
兵庫342,700228.5129.3-99.1-43.39
奈良98,30065.533.1-32.5-49.54
和歌山82,70055.124.9-30.2-54.78
鳥取137,80091.944.7-47.2-51.38
島根219,800146.564.2-82.3-56.19
岡山333,400222.3116.1-106.2-47.78
広島301,800201.292.4-108.8-54.08
山口273,500182.377.5-104.9-57.51
徳島111,70074.544.3-30.1-40.47
香川154,500103.049.4-53.6-52.04
愛媛173,300115.552.5-63.1-54.59
高知131,80087.941.4-46.5-52.88
福岡447,900298.6129.3-169.3-56.69
佐賀277,600185.194.4-90.7-48.99
長崎124,20082.845.9-36.9-44.52
熊本380,600253.7140.2-113.5-44.75
大分232,500155.085.1-69.9-45.08
宮崎194,400129.652.1-77.5-59.83
鹿児島238,100158.777.1-81.6-51.41
沖縄10,9007.31.9-5.3-73.58

何これ?と言うような,恐ろしい数字が並んでいます。関が原で敗れた西軍諸大名家も愕然とするほどの大減俸です。幕末の日本一国分が吹っ飛んでいます。あまり米を食べなくなった日本人が最大の原因でしょうが,ちょっと考えさせられる数字です。ねぇ,G民党さん。

訂正【1】
全国の1969年収穫高(t)は上記表の47都道府県を合計すると14,012,900tになりますが,データの出所である帝国書院「中学校社会科地図」-昭和48年発行- には全国計14,014千tと記されていましたので訂正しました。石高以右の全国値も同様に修正しておきました。
[72052] 2009年 9月 23日(水)22:27:56ニジェガロージェッツ さん
石高
「石高」
良く聞く言葉です。
時代劇,特に「戦国もの」を見ていると必ずと言ってよいほど出てきます。
一方,ここ「落書き帳」では,YTさん[67156]幕末の国別の石高に対する興味深いデータが提示されるなど,江戸期の藩政期のものが論議の主体でしょうか。
石高と言えば「米の収穫量」とのイメージがありますが,米だけではなく,畑作や水産業,宅地までも米の生産量に換算して算定された,その地の「経済力」を総合的に表したものだとの説明がありました。

[58062] oki さん
石高の基礎となるのは水田、畑地、宅地の面積で、この面積に石盛と呼ばれる単位当たり収量(1反当たり1石など)を乗じ、これらを総計して石高が決定されます。
(中略)
重要なのは宅地も石高に組み入れられることで、結果として農耕収穫のない漁村、港町、宿場町などにも村高が付されます

そして,幕末から明治初期にかけての日本全国の総石高は約3000万石強だったと教えて頂きました。
[67156]YTさん
30,435,170
[58109]okiさん
31017135 府県概表(東京・有隣堂)

では,具体的に1石とはどの程度の量か。この解説には
[39982] 中島悟 さん
米1石は茶碗1000杯にして1人分の1年間の消費量。
と解説いただき,また都市人口との関係も指摘されていました。
[10633]ken さん
幕末の都市人口は石高と強い比例関係があります。
[39973]ken さん
1万石=1000人、というあたり、証明できると面白いのですが。
との仮説もありました。

何だか他人の記事をつなぎ合わせたものになってしまいましたが,つまり私は門外漢で,石高に関しての知識も無ければ,特別のデータも持ち合わせていない訳で・・・。
ただ,「戦国もの」のテレビドラマなどを見て,手持ちの日本史の資料を調べると,当時の越後が39万石,佐渡が2万石(太閤検地)で,一方で巷では今の米どころ新潟県の石高は600万石だと聞くと,毎日ご飯を食べながら今の日本の石高はどのぐらいかと常々気になっていました。

「石高とは米の収穫量だけではない」と分かりつつも,今の時代の米の収穫量を石高に換算すると,どの程度になるのか,実際に計算してみました。
政府統計の総合窓口には平成19年産作物統計の一覧があり,水陸稲計の都道府県別の収穫量を知ることができます。
それによると,平成19年の米の収穫量は871万4千トンで,1石=150kg相当で換算すると,5809万石になりました。
お遊びで都道府県別の「米だけの石高」も算出してみました。時代劇で「蝦夷400万石」と言えば大問題ですが,今の状況は時代劇とはまったく違います。個人的には北海道の「キララ397」が気に入っています。
都道府県米の収穫量(t)米だけの石高(万石)
全国8,714,0005,809.3
北海道603,200402.1
青森299,100199.4
岩手309,500206.3
宮城408,000272.0
秋田549,500366.3
山形419,500279.7
福島445,200296.8
茨城404,000269.3
栃木360,700240.5
群馬90,00060.0
埼玉175,200116.8
千葉328,600219.1
東京7810.5
神奈川16,10010.7
新潟650,600433.7
富山211,500141.0
石川137,00091.3
福井140,80093.9
山梨29,80019.9
長野224,400149.6
岐阜119,70079.8
静岡93,10062.1
愛知160,100106.7
三重156,300104.2
滋賀175,600117.1
京都81,80054.5
大阪30,70020.5
兵庫194,000129.3
奈良49,60033.1
和歌山37,40024.9
鳥取67,00044.7
島根96,30064.2
岡山174,100116.1
広島138,60092.4
山口116,20077.5
徳島66,50044.3
香川74,10049.4
愛媛78,70052.5
高知62,10041.4
福岡194,000129.3
佐賀141,60094.4
長崎68,90045.9
熊本210,300140.2
大分127,70085.1
宮崎78,10052.1
鹿児島115,70077.1
沖縄2,8801.9

繰り返しになりますが,1石=150kg で計算しました。
参考サイト「山代慶長一揆」,石高とは より
[71999] 2009年 9月 19日(土)22:34:37ニジェガロージェッツ さん
震災により上層階撤去
[71994] Issie さん
「…68年の十勝沖地震で3階部分が倒壊し、2階建てとして使用されたきた」
さらっと書いているけれど,すごい話ですね。

震災を経験している身としては・・・神戸っ子なら誰でも知っている(?)ことで,特にすごくもない感じますが,どこでもありそうな「天晴れ」な例というところでしょうか。

拙稿[54365]にも書きましたが,8階建だった神戸市役所2号館は6階部分が倒壊し,5階建てとして使用されています。写真
[71967] 2009年 9月 16日(水)00:14:22【1】ニジェガロージェッツ さん
オフ会とニックネーム関連
いよいよ岡山オフ会に向けてメーリングリストの開設など,雰囲気が出てきました。昨年は涙を飲んでの不参加でしたので,今年は楽しみにしています。
ところで,今回の岡山開催決定は岡山市の政令指定都市移行記念([69188]グリグリさん)でした。だとすれば,開催地の苫田温泉は「岡山県岡山市北区」と表記するようにご留意下さい(笑)

さて,実に5年ぶり(38833記事ぶり)に登場になった[71954]えっすさん,1年ぶりの登場で大学生宣言の[71952]あっちゃんさん,
おかえりなさい!

そういえば,ご両人ともかつてはオフ会を楽しみにしておられたと記憶しています。
(当時は大阪在住だった)えっすさん[19397],(現在は京都在住の)あっちゃんさん[10129][11668],今年は岡山です。いかがですが。若いご両名のご参加の実現を期待しております。あっちゃんさんはまだ未成年かと推察しますが,「酒が飲めないからダメだ」などは無関係で気にする必要はありません。おっさんでも小生は酒が一滴も飲めません。

そういえば,[70808]油天神山さんの記事に
関西プチオフ会をぜひやりましょう!
とありました。こちらも「関西ご帰還記念」など機会があれば是非。
最近はめっきり書き込みに貢献できていない小生まで名を挙げていただき恐縮しております >油天神山さん

[71938] おがちゃん さん
ニックネームご変更,私は積極的に支持します。
また,今まで「日本人」と言う,重いニックネームを背負い,その名に恥じずよく頑張ってこられたことは多くの方々が敬服していることと推察します。
2年前の拙稿[61343]を変更の理由の背景に挙げられていますが,あれは単なる数字遊びですから,お気になさらないで下さい。ただ,その後に続いた[61426]は底意地悪く感じられたかも知れません。
しかしながら,「日本人」と言う重いニックネームであったが故に,「落書き帳」デビュー以来のおがちゃんさんの驚異的なご成長もあったのかなと,肯定的に捕らえることも出来ましょう。これからは,肩の荷を降ろしてご活躍いただければと願います。

ニックネームご変更については私自身も考えたことがあります。
小生のデビュー当時はロシアのニジニ・ノヴゴロドという,神戸と同じ位の規模の街より帰国してまだ数年,その気分も抜けておらず,また女房(当時)がニジェガロートカ(露:нижегородка 「ニジニノヴゴロドっ子」の女性単数形)だったこともあり,ニジェガロージェッツ(露:нижегородец 「ニジニノヴゴロドっ子」の男性単数形)と名乗ったのですが,その後は状況が一変し,今ではニジニは縁のない遠い存在になってしまいました。
しかし「落書き帳」ではいつの頃からか親しみをこめて(??)「ニジェさん」と呼んで下さる方もおられ,オフ会では皆さんそのように呼んで下さっています。(実際には“нижегородец”の発音が難しいだけかもしれませんが)
「ニックネームのニックネーム」を頂戴したことで,幸せ者だと感謝しています。
私としては,変更願いこそ出してはいませんが,ニックネームは新しく「ニジェ」に変更した気分でいます。本当に変更すると,小生のメインである過去記事のタイトルバーが
ニジェ[ニジェガロージェッツ] さん
となり,非常に長ったらしくなります。これは避けたいところです。
因みにニジェ(ниже)とは,ロシア語で「低い」(низкий)の比較級で,「より低い」転じて「より低級,下劣」などの意味も含まれ,個人的にあまりにも的を射た表現で大層気に入っています。
正式な変更願いこそ出しませんが,これからも「ニジェ」でお願い致します。

【1】記事リンク訂正
[71128] 2009年 7月 28日(火)09:59:33ニジェガロージェッツ さん
Re: 真意
ご無沙汰しています。オフ会関連など,いろいろレスしなければならないところですが,最近は無気力でいけません。

「落書き帳」とも付き合いが長くなってくると,気に入らない表現や憤慨したくなる書き込みに出会うケースの一度や二度は,誰にでもあることと察します。かといって,いちいち噛み付くことはなくやり過ごすというのが大人の対応でしょう。
私事ですが,このような場合は,すぐには書き込みをせず,背山登山に出かけて,ひと山登って汗をかき,頭を冷やすことにしています。自分の好きな物しか置いていない自室にこもって書き込みをしていると,どうしても視野が狭くなりがちで,思い込みや偏見から相手に対して詰問調の書き込みになってしまっては恥ずかしい限りです。行き交うハイカーと「おはようございます!」と挨拶を交わして爽快な山の空気と自然に触れると,書き込みかけた反論レスなどがいちいち馬鹿らしくなり,相手にする必要なしと無視を決め込むことができます。

そんな小生ですが(今日も朝から一汗かいたところですが),これはいかがなものかと書き込みさせていただきます。

[71110][71123] 熊虎 さん
あの文脈での「ここは日本だぞ!」では、中国風の地名を付けることへの反感と取れます
私には,そのように感じられませんでした。
単純に「蘇陽峡」という地名が漢語風であることを強調している表現に感じました。
第一,チャッピーさんが中華人民共和国に対して抵抗なり悪感情なりを持っているというのも熊虎さんの推測でしかありません。「誤解を招きかねない表現」だと一方的に指摘したうえで,勝手に感情を邪推するのはいただけません。
仮に「誤解を招きかねない表現」であったとしても,オーナーのグリグリさんからも[69131]にあるように,
記事を読む場合は「懐の深さ」を最大限発揮して柔らかく受け止めてください。
と,常日頃から再三にわたって同様の趣旨の発言を重ねておられます。

港に人工島を築き「ポートアイランド」という地名を与えたのに対し,他から「ここは日本だぞ!」とつっ込まれても,確かに好い気はしないだろうが,いちいち額面通りに捉えてカリカリ来る神戸市民は少ないのではと推測します。まあ「それもそうだね」と笑ってやり過ごすぐらいのことでしょう。

[71110]だけなら「毎度のこと」とスルーしていました。大目にみて「誤解を招きかねない表現への警笛を鳴らした書き込み」と善意に解釈することもできましたが,真意を問う[71123]まで書かれると,行き過ぎの対応に感じます。
[70421] 2009年 6月 7日(日)20:14:34ニジェガロージェッツ さん
パラムシル島
お久しぶりです。気象通報の話題が出てくると,黙っているわけには参りません。

[70401] Issie さん
聴いてて「おやっ?」と思ったのが,「セベロクリリスク」。
自分のページ で確認したら,旧日本名は“幌筵島”の「柏原」。私が毎晩聴いていた30年ほど前は「パラムシル島」の名で“定例通報地点”の「マツワ島」に対する代替地点とされていたように記憶しています。

確かに,2001年12月3日までのNHKラジオ気象通報では,マツワ島の代替地点としてパラムシル島がありました。
同じ千島列島ではウルップ島の代替地点としてシムシル島がありましたが,いずれの地点も1997年頃を最後に「入電ナシ」が続き,定例地点と代替地点のどちらも入電の無い場合には両地点を続けて「入電ナシ」と読み上げていたので,「ウルップ島,シムシル島,マツワ島,パラムシル島からは入電なし」を1日3回,2001年12月3日の地点改訂まで5年間連続となると,5000回ほど毎回同じことを放送していたという珍記録になります。

2001年12月の地点改訂では,拙稿[28888]にもあるとおり,永らく入電の途絶えた上記の千島4地点(代替地点を含む)を削除して,新たに定例地点をパラムシル島北部の都市「セベロクリリスク」とし,その代替地点をカムチャツカ半島の南端に近い「オゼルナヤ」に変更し,結果1地点の減少となるため,新たに「南鳥島」の追加となりました。

つまり,旧来の「パラムシル島」と,現在の「セベロクリリスク」は全くの別地点であり,国際式通報式 "synop" の地点番号で言えば「パラムシル島」は32217番でパラムシル島南部の千倉岳付近の温祢古丹海峡沿岸部に,「セベロクリリスク」は32215番でパラムシル島北部の柏原で幌筵海峡沿岸に位置しています。

ところで,(ものすごくマニアックですが)ラジオ短波の気象通報(日本時間09時のデータで12時20分から15分間の放送。船舶の報告と漁業気象との間にコマーシャルが入る)がかつて存在していたことをご存知ですか。
ここでは「パラムシル島」は定例地点の一つでしたが,「ホロムシロ」と読まれていました。


追記:
[70399] hmt さん
[70310] hmt さん 「伊能図」について
書いた本人が忘れているような,過去記事のフォローまで有難うございます。
常に多くの過去記事にさり気無くスポットを当ててくださり,詳細に論理を展開されていくお姿には本当に頭が下がります。
[69277] 2009年 4月 18日(土)11:29:23ニジェガロージェッツ さん
"Ш" или "С"? (「シャー」それとも「エス」?)
[69233] Issie さん
はじめから シャー だったのでは。

否定するわけではありませんが,俄かに賛同もできません。
この理屈だと,北海道にあるアイヌ語起源の知名でさえ,ロシア語で表記する場合は日本語名を気にすることはなく,たとえば積丹は Шакотан, 知床は Ширетоко との表記に なってしまうかも知れません。公式(測地および地図作成連邦局など)の表記では,日本語発音に沿って積丹は Сякотан, 知床は Сиретоко と書かれています。
アイヌの土地であったのを(他国の領土を経ず)直接ロシア帝国領に組み入れた北・中千島とはちがい,北海道色丹島の場合は1945年まではロシア(ソ連)の支配が及んだことはありません。(彼の国では占領後,都合のよい歴史を捻出して,色丹も「ロシア固有の領土」だなどと宣っているのは置いといて)

もっとも外国の地名など,自国の言語表記では正確には表せないのは当たり前のことで,巷では実際には積丹や知床でも Ш で書かれているものも散見されるのは致しかたありません。Ш(シャー)にしろ С(エス)にしろ,どちらを使うかはその人の感性でもあり,少なくとも間違いではありませんので。

ところで,ロシア語の地名位置検索サイトВсе города Российской Федерации(見る場合は文字化けするので,エンコードを「キリル言語-windows」に設定)には, Сахалин(サハリン)の Ш を引くと,Шакотан(シャコタン)も Ширетоко(シレトコ)も出てきます。北海道ではなく樺太の地名です。現行のロシア地名だけでなく日本時代の地名が出てくるのは面白い所です。

[69271] Issie さん
1889年に明治政府が「千島国」を設置した
数字の打ち間違いと推察しますが,これでは1875年のサンクトペテルブルク条約(千島樺太交換条約)の後になってしまいますから,1869年の間違いでしょう。[67072]hmtさんの記事にも明治2(1869)年の文書がリンクされています。

[69269] 紅葉橋律乃介 さん
「瑤」という名前を付けた方に伺ってください(笑)。
ご存知のとおり,「伺う」は自分の動作に対する謙譲語です。“「瑤」という名前を付けた方”を立てている表現とすればおかしくないかもしれませんが,他人(興田小さん)に対して「伺ってください(笑)」とは,瞬間的に違和感を覚えます。

私も勢いでポカをやらかすことがしばしばですから,過去ログを見れば大概の間違いが見つかるでしょう。特に敬語については二重敬語などを頻繁にやらかしています。実生活でも「各位様」など恥ずかしくなることの連続です。元々「ものを書く」ということに縁の薄かった小生ですが,ここ「落書き帳」に出会ってからは,かなり勉強になりました。
[69234] 2009年 4月 15日(水)00:41:17ニジェガロージェッツ さん
念のため
[69233] Issie さん
(一応,私もロシア語の知識はあるので念のため。)
存じ上げております。
ロシア製の同じ地図帳もお持ちだったとも記憶しておりますが,出先の携帯からの書き込みでは,地図の確認が出来なかったことと推測します。
ただ, たとえIssieさんへのレスの形をとっているとしても,掲示板に書く以上はロシア語の知識のない閲覧者にも分かるように説明するのを心掛けております。貴殿にはちょっとしつこいレスになって恐縮ですが,一応,こちらも念のため。
[69232] 2009年 4月 14日(火)23:04:33ニジェガロージェッツ さん
遅きに失した纏めレス
子供の頃から変なニジェは,小学校の国語の授業で初めて「温故知新」という四字熟語に接した瞬間,中千島の地図が脳裏に浮かんで離れませんでした。(オッサンになった今でも温祢古丹島と新知島を連想します)
そんな小生には,一般の北方領土の認知度の低さが信じられません。

横レスながら,ひとつだけ。
[69221] Issie さん
シコタン島 はロシア語でも「シコタン」(ローマ字に転写すると Sikotan )。
色丹島はロシア語では остров Шикотан ですから,これをローマ字に転字すると ostrov Shikotan です。
Sikotan だと Сикотан でなければなりません。
ロシア語アルファベットのローマ字翻字は,使用する機関や通信する相手国言語により数種ありますが,ロシア文字の「С:エス」は「S」に,「Ш:シャー」は「Sh」に対応するのが一般です。
日本語の「し」をロシア語で表す場合は「ши(=shi)」ではなく「си(=si)」と書きます。このことから,あくまでも推測ですが,1945年まではロシア(ソ連)でも Сикотан と表記していたのを,占領を機に Шикотан に改称したのかも知れません。

さて,タイトルの通りの遅きに失した纏めレスにて恐縮ですが,諸々。

[68464] ペーロケ さん
「大きな街区番号」について
岩国市南岩国町2丁目も欠番があるものの、江別市美晴台と同じく、112番まであります。
情報ありがとうございます。南岩国町2丁目には欠番(42,43,44,45,66)がある分,江別市美晴台の次点の感はありますが,取り敢えずの暫定最高街区番号です。
また,同じ岩国市内の牛野谷町3丁目、平田3丁目、室の木町4丁目などリンクしていただいた地図からは,画一的な市街地ではなく,複雑な地形状況のもとで,ある所は自然な市街地拡大,またある所は虫食い開発のような所も含めて,旧来の地名と境界を尊重して一つの丁目にまとめて住居表示したような感じを受けました。

[68478] inakanomozart さん
「十」の読み方について
関東経済産業局でいっとじゅっけんという月刊広報誌を発行しています。
情報ありがとうございます。リンクしていただいた広報誌のタイトル,「十県」は「じっけん」だとする文部科学省の国語審議会も閉口では?
もっとも、国の機関は他の省庁のいうことなどあまり関心を示さず、常用漢字音訓表など眼中にないのかもしれませんが・・・(笑)
案外,そんなところかと納得できる話です。

[69190] 白桃 さん
拙HPについてさりげないコメント,恐れ入ります。まだまだ工夫不足にもかかわらず,ページ数だけが結構多くなってしまい,今更なにかしようという根気が失せつつあります。ところで拙稿[69159]にて自分のホームページ運営を「遊び半分でやっている」と書いてしまいましたが,これは大きな間違いで,実際は「混じりっけなしの純粋100%遊び」です。
そんなこんなで,これからは「白桃市町村人口研究所」に期待です。

[69204] YT さん
今のスピードでは、おそらく完成に1年間かかります。
それだけのデータを1年で纏める見積もりとは,かなりのハイペースではと察しております。仮に作業をされるとして,時間をかけても無理のなきように。実際,1年などあっと言う間です。

[69188] グリグリ さん
「第六回公式オフ会」について「岡山案」「首都圏案」の二案どちらでも万難を排して駆けつける所存です。今から楽しみにしております。
[69165] 2009年 4月 9日(木)00:39:53ニジェガロージェッツ さん
デザイン変更など
[69139] オーナー グリグリ さん
サイトデザインの変更構想ご苦労様です。(案外,結構楽しんでおられるのでは?)
当初は背景色を明るくする変更を念頭に構想されていたものが,最終的には背景色はそのままでフォントサイズとページ幅の変更に落ち着きそうで,現在のデザインが概ね好評であることを考慮されてのご決断かと推察します。
グリグリさんのご本心ではもっとドラスチックに変更して,あっ!と驚かせるようなデザインにしたかったのかもと邪推しているところです。前回2003年のリニューアルの時の変更にはびっくりしました。
なお,2003年正月のリニューアル直前の落書き帳がInternet Archiveに保存されています。
http:// の後に www.glin.org/prefect/pforum/ を入れて検索すると,「Aug 19, 2002」「Nov 18, 2002」「Dec 31, 2002」が出てきます。 但し,背景色はもっと黒っぽい単色に近かったように記憶しています。
#保存された「落書き帳」へ直接リンクしたかったのですが,アドレスに http:// が2つ重なるためか,うまくいきません

ところで,拙[68908]にて,当時のオーナーのニックネームを「管理人グリグリ」さんと間違えて表記してしまいましたが,正しくは「グリグリ(管理人)」さんでした。オーナーのニックネームを間違えるとは記憶も曖昧なもので,申し訳ございませんでした。
#ニックネームを間違えるな,と拙[68947]にて偉そうなことを言っておきながらドツボでございます。

さて,ご提示くださった
サイトの背景色とフォントサイズについて(最終案)
「サンプル800小」に一票を投じます。
最初は「サンプル可変小」が理想的と感じましたが,表形式の簡易入力機能との関連では表示幅固定は捨てられないと考えます。可変の場合,モニターの表示幅を小さくして見る場合には表が崩れてしまう懸念があります。今後のことだけなら兎も角,過去ログも変更対象ですから切実です。また,[69157]futsunoおじさんは逆に,大きな表示幅を前提にした表作成へのご懸念も書かれていましたが,これも確かに言えることです。また,futsunoおじさんの検証によると
(800pixでは現状より約1文字減る。)
とのことであれば,ちょっと半端ですが820~830pixelぐらいが結構妥当なところかも知れません。
900pixelだと,うちのPCのように全体の1024pixel幅から「お気に入り」表示で左端が削られると,確実にオーバーしてしまいます。
以上,勝手なことばかり書き綴り,申し訳ございません。古いPCを使っている者の一意見としてお流し下さい。


[69131] グリグリ さん
書込訂正機能と書込みスタイルの件
[68873]つきましては,出すぎた真似にて恐縮です。
既に治まった件につき,[68873]を投稿するに至った個々の経緯については差し控えますが,書込訂正機能の利用法については,それほどの懸念は持っていませんでした。(本件とは別の話ですが)むしろ以前より問題に感じているのは記事削除の方です。

記事を書く場合は「相手への配慮」を最大限に発揮してください。
との願いですが・・・
相手に対して苦言のつもりで“きつい書き込み”をして,(相手が目にしたと思われる)数時間後にそれを削除する行為を見かけることがあります。書き込みの内容そのものについては概ね正論を述べている場合がほとんどですが,相手への配慮を感じさせる文言は不足していると感じることがしばしばです。
相手に対して「キズ」を残さない記事削除こそが配慮であるとの考えもあるかもしれませんが,掲示板上での文字は削除されても相手の心にはしっかりと「キズ」が残り,多くの閲覧者の記憶にも残ります。むしろ傍目には,言いたいことを言ってそれを削除するなど,無責任な行為に思えてなりません。これでは,せっかく(勇気を出して)述べられた“正論”も台無しになってしまいます。
もっとも,読む側も
「懐の深さ」を最大限発揮して柔らかく受け止めてください。
と鷹揚にならなければなりませんが,このあたりの「苦言」と「配慮」のバランスは実に難しいものです。
[69159] 2009年 4月 8日(水)01:41:30【1】ニジェガロージェッツ さん
データ系書き込み (自戒も込めて・・その2)
[69144] YT さん
日頃よりYTさんの妥協を許さない正確な人口データを楽しく拝見しておりました。あまり目にすることの無い江戸期や明治期などの過去のデータを発掘し収集するだけでなく,合計値などで数値の整合性を検証する作業,一筋縄ではいかない大変な作業であることが容易に想像できました。また,当時とは「行政区画」の定義そのものも変わっており,データひとつひとつに地理的な検証や考察も要求され,ここまで来ると個人の趣味というよりは,完成の暁には国家的な価値さえあるのではと感じておりました。

個々のデータ書き込みについては,拝見するだけでコメントは控えておりましたが,グリグリさんからの[69135]
皆さんのご意見をお願いします
を受けて,常日頃YTさんの「データ系書き込み」に接して感じたことをお伝えしたく(今更ながらですが,興味深いデータへの御礼も兼ねて)はじめてのレスを書かせていただきます。

率直な感想としては,先に述べたように国家的な価値さえありそうな貴重なデータを,たとえ人気サイトとはいえ,他人(グリグリさん一個人)の掲示板の過去ログに埋もれさせてしまって,何と「もったいない」ことを・・・という点がひとつ。
それに加えて,データの膨大さから,その発表の場として掲示板に投稿を重ねるのでは,やはり場違いであると感じておりました。

私は,折角の貴重なデータには,それに応じた「土俵」を用意してこそ,価値が出てくると確信しています。
それには,ご自身でサイトを立ち上げるのが一番ではないだろうかと考えます。
Wikipediaの編集方法はどうなっているのか小生は部外者なので存じ上げませんが,それなりのルールがあるものと推察します。一方で自分自身がサイトを運営する場合は,自分の好きなように,最もデータが効果的に提示できると思われる方法で,いかようにも自由に工夫が出来ます。
今では各プロバイダーが用意している無料で運営できるホームページの容量も結構大きく,特に写真画像などを多用しなければ十分活用できるかと推測します。もし,積極的にデータを集めて,それを公表しようとお考えでしたら,是非チャレンジしてみてはいかがでしょうか。

実は,(ここに出入りされているほとんどの方は知っていることですが)これは小生自身がアドバイスを受けたことでもあります。
今から思い出しても恥ずかしい話ですが,6年前の2003年春まで小生は日本に近いロシアの極東地域とシベリア地域限定で,地理状況と都市の人口データを手探りで集めて「落書き帳」に発表していたことがありました。それが完了したときに頂いたアドバイスで,今でも忘れられないのが
[16077] 2003 年 5 月 28 日 (水) 21:31:09【1】 ken さん
ニジェガロージェッツさんお疲れ様でした
と,[17815] 2003 年 7 月 5 日 (土) 06:10:59 グリグリ さん
ふぉろ~ ふぉろ~ XVII
でした。結果,今では自分でロシアの人口データサイトを立ち上げて6年近く経ちました。
もちろん,YTさんが探求分析されているデータと,小生が遊び半分でやっていることでは,その性質が違うことは理解しているつもりです。ですが,kenさんとグリグリさんより6年前に頂戴したメッセージが,YTさんにも何かの一助になるのではと察します。

あまり自分のページへリンクするのは気が引けるのですが,過去の「落書き帳」拙稿(恥ずかしい悪例)との比較の例として提示しておきます(内容的にはほとんど変わりません)。ご参考まで。
[9178] サハリン州
拙HPより サハリン州

これからもYTさんのご活躍を期待しております。
[69053] 2009年 3月 29日(日)23:11:37ニジェガロージェッツ さん
六甲の米軍基地
今日の神戸は晴天に冷たい風が心地よく,絶好の山登り日和でした。いつもは神戸の背山を歩くのですが,JRで灘駅まで行き,今日はちょっと東へ遠出して六甲山へ。
摩耶山の南東に突き出す山寺尾根は「摩耶最強」と言われる急峻な登り道で,神戸市発行の六甲全山マップにも記載が無く,どおりでハイカーの少ない登山道でした。麓の長峰堰堤から山上の掬星台まで55分と,休むことなく快調に登りましたが,ただ一人,ジャック・バウアー似の西洋人が体力任せにもの凄い勢いで通り抜けて行きました。何か見てはいけないものを見たような。(笑)
摩耶山掬星台からは六甲全山縦走コースを東へ進み,凌雲台を経由し六甲最高峰へ行き,南へ下山し,住吉川上流に沿った「住吉道」を下り,JRの住吉駅まで歩き通しました。

凌雲台へは拙稿[68456]以来2か月ぶりの訪問です。2か月前には
「回る十国展望台」の跡地は工事中のハゲ山で立入禁止
でしたが,今では跡地の整備工事は完了しており,展望広場として開放されていました。ですがここからも神戸方面の見晴らしは「六甲ガーデンテラス」のカフェの建物が邪魔でした。

六甲最高峰(標高931m)には1985年以来24年ぶりの訪問となりました。学生時代には趣味の六甲登山で頻繁に足を運んだ六甲最高峰でしたが,最高峰山頂は米軍に占領されており,両耳形の「ミッキーマウス」と呼んでいた巨大な米軍基地のパラボラアンテナが特徴的でした。我々が言う「最高峰」とは,基地外に設置された最高峰を示す石碑の立つ「仮の頂上」です。今日もそこを目指しました。
ところが,最高峰に近づくにつれ見慣れた威圧するかのようなミッキーマウスの形が違っていることに気が付きました。しかし,まあ見る角度によって違っているのだろうと軽く考えていたところ,最高峰に到着してみると,あまりの変化にただただ「唖然」。

米軍基地が・・・・無い!!!

神戸市の標高最高地点でありながらも,決して立つことの許されなかった六甲最高峰頂上。そこに,あまりにも呆気なく立っている。頂上でハイカーや最高峰近くの茶屋で米軍基地について尋ねると,「とうの昔の震災前」には撤去されたとのこと。今ある頂上よりちょっと下に建っているアンテナは震災後に設置された自衛隊の通信施設だそうな。

帰宅後,ネットで検索すると米軍基地は1992年に撤去され,六甲最高峰頂上は神戸市に返還されたようです。
「六甲山 米軍」で検索すると結構面白いページが多くヒットします。
「神戸市に返還」といっても,山頂が米軍に占拠されたのは終戦直後で,当時あそこは神戸市域ではなかったですがね。まあ,細かいことはさて置き,初めての最高峰登頂に感動しつつ,時代の流れと自分の無知をしみじみと思い知り・・(笑)
[68947] 2009年 3月 21日(土)10:01:06【2】ニジェガロージェッツ さん
地理
[68938] 高崎ダルマ さん
はじめまして。
「地理」とはどのようなテーマかちょっと分かりづらいのですが,人それぞれによって,その捉え方は様々で,これほど掴みどころのないテーマは少ないのではと感じています。
小生は「地理」という学問を専攻したことはなく,学科として「地理」を学んだのは高校1年生での授業が最後でした。私自身,サブタイトルに「地理雑学」などと称したサイトを立ち上げて運営していますが,あんなものが地理と呼べるのかどうか正直に言って自信はありません。
ここ「落書き帳」でも地名さえ書かれていればそれが「地理ネタ」と言えるのか,とか,いろいろ感じることはあります。
ですが,学問としての「地理」はせておき,私のような,この分野では門外漢にもかかわらず単に「地理好き」と称するものにとっては,地理とは極論すれば「この地球上何でもあり」のように解釈しています。
地理の本筋から若干ずれていても,鉄道を含む交通,おもしろ地名,こんなところへ行って来たという話題,市町村合併などの行政,各地の歴史,気候,建築学科で勉強する都市計画学さえも,広く捉えれば「地理」と関連性はないでしょうか。

大半が鉄道の話題。そのほかも地理とは関係ない内容が多い
確かに。ただこれは,たまたま直近にブルートレインの引退や阪神なんば線の開業など,世間のニュースで鉄道絡みの出来事が続き,それがここでも話題として取り上げられて盛り上がったという側面もあります。ただ,そんな中で「駅名に連続する地名」の話題が続いてしまったことは,タイミング的に鉄道に興味のない方にはまずかったような気もします。
とはいえ,ここは掲示板です。そのようなことは気にせず,ご自身の関心のある地理の話題をどんどん書き込みしていけば良いのです。きっと反応されるかたがいらっしゃることでしょう。

[68943] オーナー グリグリ さん
はじめてご訪問される方のお名前を間違えてはいけません。貴兄の時代に流通していた五十円じゃないんだから。
[68908] 2009年 3月 20日(金)21:29:23【1】ニジェガロージェッツ さん
背景色
若干,過去を振り返りつつ・・・

[68895] オーナー グリグリ さん
現在の状態にリニューアルされたのは2003年1月(予告[6844],開始[7285][7296],完了[7910])のことでしたか。早いものでもう丸6年経ちましたが,現在の背景色については
[7303] 松戸 さん(当時)
掲示板もなんだか爽やかな感じで良いです☆
[7337] 蘭丸 さん
それにしても、この明るく清涼感溢れる色使い、グリグリさんのセンスには敬服いたします。
などなど,好評でした。それまでは背景色は限りなく黒に近い濃紺,文字は白であったように記憶しています。以前はページの幅もちょっと狭めであったような気がします。
私も今の落ち着いた色合いが大層気に入っており,「都道府県市区町村」にアクセスしてこの背景色を見ると,我が家に帰ってきたような気分になります。
さて,当時のリニューアルのきっかけにも,
[7285] 管理人グリグリ さん(当時)
(1) より見易くするため(最近年のせいか画面の文字が見辛くなってきました)
がありました。
かくいう小生も,当時のグリグリさんの歳に近くなり,今のところ生活に不都合はありませんが徐々に老眼を意識するようになりました。これが6~7年後となると,はっきりと「老眼です」といってしまうようになるかも知れません。その時には今の背景色がどう見えるのかは想像できないのですが,現時点の小生の目には変更の必要性を感じません。

変更の[68895]にて提示していただいたサンプルから,小生の個人的好みを述べさせていただければ,30%から50%くらいの明るさUPが見やすくて良いのではと感じます。
あまり背景を白っぽくしてしまうと,逆に目がチカチカして,読んでいて疲れそうな気がします。背景を白く,フォントを大きくというのも考えられますが,フォントを大きくするとレイアウト(特に表形式の書き込み)が崩れてしまい,不細工な気がします。
明るさのUPより,例えば背景色そのものを変える手もあるでしょうが,それも今以上のものとなると,ちょっと想像がつきません。

以上,「意見」というより,個人的な好みばかりですが,どうでしょうか。
[68873] 2009年 3月 19日(木)00:48:13ニジェガロージェッツ さん
スタイルの問題か?
ここ数日,自分の運営するサイトの人口データ更新作業に没頭しています。
それに伴って,2008年1月1日までの1年間にロシア全土で行われた市町村行政単位の変更状況も合わせて整理しているのですが,これが奇妙。2005~06年に各地で行われた町の村への格下げなどの多くを撤回し,また元に戻しています。
何でも05~06年の変更は法令に沿ったものであったのだが,ロシア語の略称で“ОКАТО”と呼ばれる,直訳すると「全ロシア行政区画分類」への変更が受理されていなかったとかいう,訳の分からないものでした。
その中で,2005年に町から村へ格下げとなったサハ共和国アルダン地区の2町(ボリショイ・ニムヌィル町,ウィルルィマフ町:拙稿[9741]に記述あり)が復活しています。ですが,両町の2008年1月1日現在の人口はともに0人。無人です。
まったく,ロシア人のやることは分からん!


さて,こちらにはデータにうるさい御仁達が控えておられるので,小生の出る幕はなかろうと見守っておりましたが,お気付きでないのか,スルーされているのか・・・
勘違いか読み違いの類かと推測しますが,いずれにしろ,33年と76年を間違えてはいけません。
[68850] 山野 さん
大分県で県人口が76年振りに120万人割れ
リンクを出されておられる大分合同新聞の記事によれば,1976年以来33年振りに120万人割れです。
何気なく落書き帳を読んでいて,[68850]を見て「へえ~」と思ったものの,76年前と言えば昭和8年。まだ日本人の人口そのものが現在とは比較にならないほど少なく,朝鮮などの外地にも多くの日本人が移住していた時代です。大分県はそんな時代の人口にまで減少しているのかと素朴に疑問に感じ,リンクされている記事を読み,山野さんの間違いに気づいた次第です。1976年ならば昭和51年。これなら納得です。


話は変わって,[68848] 紅葉橋律乃介さんの指摘が物議を醸していますが,その後の流れの「書き込みスタイル」云々は,論点がずれているように感じます。確かに[68848]の最後の2行の書き方は,熊虎さんへの礼を失したもの言いにも感じられなくもないですが,加筆訂正機能の利用については厳しいことを書かれているようには思えません。
整理するため二つの文を提示します。

A文
誤字や勘違いの訂正・削除を、30時間以内に限り、本人に例外的に認めているもので、大幅な加筆修正を認めているものではありません。

B文 #実際にガイドライン(8)に書かれている文章ですが,『 』はニジェの挿入です
誤字や勘違い『など』の訂正・削除を、30時間以内に限り、本人に例外的に認めているもので、『混乱を招くような大幅な』加筆修正を認めているものではありません。

このA文とB文の違いをどのように受け取られるでしょうか。
私には両文の意味するところは,ほとんど同じものだと考えます。本来はA文で良いところを,これでは味気なく,B文の『』で括った部分は掲示板の運営上若干の幅を持たせたものと推測します。グリグリさんの懐の深さのようなものを感じます。

ところが,中にはB文で『』で括った部分を都合の良いように解釈して,日常的に加筆訂正機能の利用を前提に書き込みをされる方がいる。それが時間的な競争のようなものに使われるとしたら,やはりそれは行き過ぎでしょう。私にはこれを「スタイル」の問題だとは感じられず,
結局のところ、多様なスタイルを許さない方も少なくはないように思えます。
と結論づけされてしまうと,それは違うのではないかと,むしろ掲示板のモラルなりエチケットのような問題ではないかと考える次第です。
たまたま[68859]小松原ラガーさんの記事に
いろんなスタイルがあってもよいのではないでしょうか
と書かれていますが,ここでの「スタイル」とは,[68856]熊虎さんの「ニュースサイトだけにした方がいいんじゃないでしょうか」という極論に対してのものであり,加筆訂正機能の利用法までのことを仰っているようには感じられません。

[68856] 熊虎 さん
合併情報以外に書き込む話題が少ない私にとって、これは深刻な問題です。
私にとっては人口関連や地元神戸関連の話題しかありませんが,人口については白桃さんを筆頭に諸先生方がおられ,その上,神戸は落書き帳常連の密集地域の一つです。ゆえに小生の出番はほとんどありません。ですが自分にとっては,他人が書き込んでくれることを「手間が省ける」と喜んでおり,また40年以上住んでいる神戸について自分と違った見解が述べられたりすると新鮮な喜びを感じています。
[68456] 2009年 1月 25日(日)22:25:16ニジェガロージェッツ さん
回る十国展望台 など
[68432][68440] Issie さん
「十丁目」の読みについて,古代の日本語まで遡った詳細な解説ありがとうございます。

表記と現実の発音,そして個々人の「思い込み」が一致しないことは幾らでもあることです。
あるいは,「標準語」では「正しい」はずの読み方と地元での理解とがズレていることも。

確かに。小生も(40年近くも前のことだけど)小学校では十個は「じっこ」と読むように習ったかもしれません。ですが全く記憶になく,また十丁目については,生活圏内に「十丁目」のある町が数多あり,いずれも「じゅっちょうめ」と発音されているので,完全に何の疑問もなくそのように「思い込んで」いました。
とはいえ,そうと知った限りは「区コレクション」の「十区」については放置できず,「じゅっく」ではなく「じっく」である論拠についてはIssieさんのように理路整然とは説明できないまでも,訂正を急ぎました。
早速に理論的な裏づけをしていただき,深謝いたします。

[68434] 敷守ほむら さん
まだ検討中のようですが、「十区」を「じゅっく」と読んでも正しくなる日は近いようです。
現在審議中の「新常用漢字表」に関する試案に「十」の読み方に「ジュッ」を加えるとのことですが,正に言葉は刻々と変化しているなと感じました。それにしても,拙稿[68427]の前日のニュースとは,何ともタイムリーな。

[68438] inakanomozart さん
現在では「じゅっ・・」と発音することも容認されているようで、現在はそういう読み方をするアナの方が主流となっているようです。
何か変な楽しみ方ですが,次の衆議院選挙が待ち遠しい限りです。

[68441] 小松原ラガー さん
今は六甲ガーデンテラスとなっているこの場所、昔は「十国展望台」なるものがありました
正確には「回る十国展望台(まわるじっこくてんぼうだい)」でしたね。床が回る構造になっていて,腰を下ろしたまま360度の展望を楽しめる施設でした。ですが,小松原ラガーさんの記事を見るまでそれが廃止になっていたとは露とも知りませんでした。神戸の名所がだんだんと少なくなっていくようで寂しい限りです。80年代には「六甲全山縦走大会」だけでなく,毎週のように六甲登山をしていましたから,回る十国展望台のあった六甲山上の凌雲台地区は馴染みのある懐かしい場所です。
小生は昨夏以来,日曜日には「神戸背山」登山が習慣になっていますが,敢えて「六甲登山」とは言っていないのは,同じ六甲山系には違いがないですが,歩くエリアが六甲山上からは西に偏っているためで,そのニュアンスの違いは地元の方には理解できることと察します。
ですが,今日は凌雲台が懐かしくなり,回る十国展望台の跡地なども見てみたかったので,六甲登山をしてまいりました。
JRの六甲道駅より鶴甲―油コブシ登山道を経て凌雲台まで,休憩なしで歩き続けてちょうど2時間,歩数で12070歩でした。
途中の油コブシについては,6年前にも[11426]に書いたように,東から神戸市街を見おろす展望が良く,あの時は夜景についてのレスにて暗くなってから上るのは脇道も多く遭難の危険もあるかのような記事にしていましたが,明るいうちでは登山道も整備がされており,一般向けの上りやすいお勧めのハイキングコースです。油コブシを過ぎたあたりからは,昨日今日の寒波の影響で雪道と化していました。雪道を歩いていると,初めて雪道を歩き続けたモスクワが懐かしい。

さて,凌雲台に着くと余りの変貌振りに唖然でした。「凌雲荘」というこの地区のシンボル的な宿泊施設があったのですが,それが跡影もなく,「凌雲荘」の跡地は「六甲ガーデンテラス」に代わっていました。「回る十国展望台」の跡地は工事中のハゲ山で立入禁止に。以前からあったジンギスカンパレスやビューパレスが健在なのと,近くの無線中継所の施設が,かつてここが「凌雲台遊園地」と呼ばれた所だと物語っていましたが,いやいや残念。
この一帯からの展望は,阪神間や大阪方面に開けており,神戸方面は「六甲ガーデンテラス」の諸施設に隠れて展望が良くありません。「六甲ガーデンテラス」の中ほどに「見晴らしの塔」という,高さ11mの展望塔が建っています。確かに塔上からは神戸や明石海峡・淡路方面が見えますが,それでも,「六甲ガーデンテラス」のカフェの建物が邪魔。
一番の展望ポイントは,そのカフェの内部のテラスからの眺めで,ここからだと神戸方面も抜群の展望でしたが,カフェに入らないと駄目で,商魂逞しいと言うか,まあ,ラズベリーココアは美味しかったですけど。笑)
ところで,「回る十国展望台」の「十国」の中身は何だろうかと検索してみると,「山城、大和、摂津、河内、和泉、紀伊、丹波、播磨、淡路、阿波」だとのこと。
しかし,いくら視界が良い日にでも阿波国は淡路島の諭鶴羽山地に隠れて見えづらいのでは。逆に播磨灘の向こうに小豆島が見えるはずで,小豆島なら讃岐(古くは備前―[2474]たけもとさん)に取って替えるべきかと。
2002年11月に廃止となった「回る十国展望台」については,当時の神戸新聞の記事が残っていました。

凌雲台からの帰路は,住吉方面に下りるハイキングコース「石切道」を通り,ここも雪道が続いていましたが,滑る危険は下山時のほうが大きく,このような所では登山靴を履くなど,しっかりした足ごしらえが必要です。
東灘区の市街に下りた後は,[68402]小松原ラガーさんの記事にあった昨年11月に新住居表示で町名が付いた御影郡家,御影を歩いてきました。

御影町御影、御影町郡家、御影町石屋とありますが、地図では表示されていない御影町西平野と合わせて昨年11月に町名変更をしております。
新調された住居表示板が新鮮でした。東灘区では,住吉川以西のJR線と阪急線に挟まれた区域が新住居表示未実施地域として残され,住吉部分では昭和60年に「住吉本町」が起立し,最後まで残された部分が今回の「御影郡家」「御影」の起立で決算されました。
郡家は残り,石屋についても石屋川の名や,「御影石町」の名に名残が残りました。
ですが西平野は消滅しました。元々西平野は御影町には属さず,西隣の六甲村の一部でした。1929年に六甲村が神戸市に編入された際,西平野は六甲から分かれて御影町に編入されました。そんなところが既存の「御影山手」に加え,新たに起立した町名「御影」に完全に吸収となりました。
東灘区の徹底した地名整理については,拙稿[15018] にも書きましたが,もう少し柔軟な町名の付け方がなかったものかと感じます。今回は「郡家」が残っただけまだマシな方ですか。
西平野の灘区との境界に「ケジメ」という字がありました。近藤マッチが「♪け~じ~め~」と歌っていたのを聞いたとき,石屋川に沿った街並を連想したのは,もう昔話になってしまいました。
[68427] 2009年 1月 22日(木)22:42:49【1】ニジェガロージェッツ さん
2題(大きな街区符号,「十丁目」を何と読む)
今更になって,今年の初書き込みになってしまいました。
小雪がちらほらと舞う神戸・高取山頂より初日の出を拝んでから(とはいえ,当日は日の昇る紀伊半島上に厚い雲があり,初日の出そのものは見えず)もう22日も経ったとは・・・。
いつもながらの亀レスにて,大変恐縮です。

[67811] 油天神山 さん
「町名の○○台」の編集作業中に見つけました。江別市見晴台は大台を突破して、112番街区まであります。
さあ、最大値は果たしてどこに?
ついに「桁外れ」の登場ですね。北海道の雄大さというか何と言うか・・・
大きな街区番号が出現するのは,東京の滝野川や神戸の荒田町のような,下町で路地の多い所をイメージしていたのですが,江別市見晴台は整然としているようでも近くに市役所もあり,市街地としては結構古いのかも知れません。本来ならば幾つかの丁目に分割するのでしょうが,この辺りで新住居表示されている各町は丁目を設けていないところも特徴的です。南隣の新栄台も95番まであり,規格外れの規模に感じます。
見晴台112番を超えるのはさすがに探すのは難しいでしょう。


話は変わって,今朝のテレビで漢字の読み方が話題になっていて,ほとんどの人が間違う例として「十個」が挙げられていました。「じゅっこ」ではなく,正しくは「じっこ」とのこと。
十個が「じっこ」ならば,十匹は「じっぴき」,十階は「じっかい」・・・
では十丁目は「じっちょうめ」か? ・・んなアホな・・と思っていたら,どうやら本当に「じっちょうめ」が正しい読みのようです。
手持ちの広辞苑(ちょっと古い昭和58年版だが)で「じゅっ」の項目を見ても「十」で始まる単語は収録されておらず,一方「じっ」の項目では,十戒,十界,十干・・・(以下,列挙していくとキリがないので省略)と続きます。
もちろん,数量として「じっちょう」「じっく」「じっし」と言おうが,「じゅっちょう」「じゅっく」「じゅっし」と言おうが,要は「十町」「十区」「十市」と分かれば良い事であって,一方が正しく,他方が間違いだと言い切る性質のものではないのでしょう。
しかし,固有名詞として箱根の十国峠に「JUKKOKU TOGE」の立て札があるような所は,「じゅっこくとうげ」と読むべきでしょうか。
「十丁目」の場合は,街区符号のような番号ではなく,「○○十丁目」で一つの地名であるとすれば,固有名詞の一部と考えられます。固有名詞である以上,仮に長田区若松町十丁目は「じっちょうめ」で,南隣の長田区大橋町十丁目では「じゅっちょうめ」という変則例も有り得るかも知れません。実際にはそのようなことはなく,またそのようなことに拘る人もいないでしょう。
とはいえ,日本語として「正しい読み方」の基準がそうなっているのであれば,たとえ固有名詞でもことわりのない場合は「十丁目」は「じっちょうめ」,「十区」は「じっく」が,より正しい読み方と推測します。
とりあえず,小生が編集した「区」コレクションの項目にある「十区」の読みは「じっく」に統一し,修正しておきました。
[67799] 2008年 12月 31日(水)19:46:51【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:大きな街区符号
[67793] inakanomozart さん
早速,静岡の街区情報ありがとうございます。

全国的にはもっと大きな街区符号があるのでしょうか?
ちょっと東京の地図を見たところ,荒川区や北区では各丁目が凄過ぎる一帯があります。70番街区など当たり前のように存在しています。
特に北区滝野川一丁目には,93番街区が存在しています。他にも三丁目88番,六丁目86番街区と,滝野川恐るべしです。

【1】「号」を「番」に訂正
[67792] 2008年 12月 31日(水)15:23:36ニジェガロージェッツ さん
大晦日の落書き
ついに2008年も大晦日を迎えました。
今年は20数年振りに神戸の背山登山を復活させた1年になりました。先月[67311]にて,背山の兵庫区鵯越駅の外れにて「湊西区」の石碑を大量に発見しましたが,先日の日曜日には「神戸區」と「葺合區」の石碑を大量に発見しました。場所は中央区神戸港地方(旧神戸市神戸区)と中央区葺合町(旧神戸市葺合区)と北区山田町下谷上(旧武庫郡山田村)の境界をなす標高475.6mの高雄山頂一帯です。ここもハイキング用の地図には載っているものの,通常のハイキングコースから外れた,ほとんど立ち入る者のいない,山道としては荒れ果てた所です。

こんなことばかりして,兵庫県から「動かざること山の如し」ではありませんが,一昨日現在の今年の経験値は,見事に5点でした。ところが,年末になり悪友連中から「年忘れに鶴橋(大阪市天王寺区,生野区)のホルモン屋に集まるから出てこいや!」との誘いを受け,急遽大阪へ行くことになり,結局は8点に。
出来るだけ金を使いたくないので交通費をケチることにして,自宅から徒歩で1時間を費やし阪神本線元町駅へ。西大阪線の終点西九条で降りて鶴橋まで(所要1時間半)歩きました。片道290円で鶴橋に到着です。とはいえ,阪神「西大阪線」に乗るのはおそらく生涯最後になるでしょう。帰路も鶴橋から谷町筋を経て梅田まで歩きました。
此花区西九条から西区九条の間には安治川が流れ,道路は続いていませんが,古びた同じビルが両岸に建っており,ビルのエレベータを降りると川底を貫く昭和19年開通の歩行者用の「安治川トンネル」があり,こういうモノがそのまま生きているところが大阪下町の良さです。
九条の商店街を抜け,堀江,周防町,上本町筋を経由して鶴橋までの散策ですが,九条や千代崎にはやたらとオリックス・バッファローズのポスターが目に付きました。知識としてはオリックス球団が本拠地を大阪に移したことは知っていましたが,感情的には神戸の球団とのイメージを未だに持っており,大阪の球団となった事実をまざまざと見せ付けられると,ちょっとショックでした。ホルモン屋で話題にすると,
・ ニジェ「オリックスが大阪に取られてしもた」
・ 大阪人「オリックスが近鉄騙して乗っ取ったんやんけ」
・ ニジェ「そのオリックスを大阪が神戸から奪い取ったんやんけ」
・ 大阪人「それはオリックスが悪い。(大阪と神戸の)共通の敵はオリックスや!」
何か言い負かされたような(笑)

さて,歩いて実感したのは(新住居表示実施地域での)大阪の「丁目割」の長さです。丁目割りについては以前にも話題になっていましたが,一辺100mほどの長さで丁目割されている神戸の下町出身[60826]の小生には,例えば西区南堀江四丁目の一辺は500mもあり,歩いていて「まだ四丁目か」と,どうも馴染めませんでした。ニュータウンや工業地帯は別にして,細い路地が縦横に入り組む昔ながらの旧市街地に於いて丁目割が広いとなると,当然ながら街区番号も大きな数字が出現する訳で,大阪の地図を見ると街区30号を越える丁がざらにあります。
一体,日本の(新住居表示実施地域での)街区番号の最高番号はどれくらいなのでしょうか。
[42223]inakanomozartさんの記事には,
街区番号の付番をやや変則的にしてまで、「4番街区」を公園や公共施設のみの街区に当てたりするなどは、常とう手段としてよく使われていますね。「42番街区」が欠番になる例も多いようです。
のようなものや,大阪市のように符号にしてしまうような変則的な例もありますが,大きい番号が出現する条件としては,先ほどの繰り返しになりますが
1)丁目割が広い
2)細い路地が入り組み,街割りが細かい
の2つに尽きるでしょうか。
丁目割が狭いと言った神戸にも例外はありまして,兵庫区荒田町三丁目には83番街区が存在します。


最後に反応が遅くなり恐縮ですが,地図関連のレスを少し。

[67367] まかいの さん
今回はソウルの本屋で入手した見所満載の韓国10万分の1道路地図を持ち寄りたかったのですが、これも来年に持越しです。
これは楽しみです! 次のオフ会を鶴首しております。

[67422] 笠津前浜 さん
…引き込まれています(^_^; すっかり捉われてしまいました。
[67445] ペーロケ さん
私もハマってしまいました。
喜んでいただいたようで光栄です。小生は昔の「区」に拘っていますので,今では完全に変化してしまった大都市の地図を中心に見ています。4区制時代の名古屋市など興味は尽きません。
[67345] 2008年 11月 23日(日)21:59:10ニジェガロージェッツ さん
嗚呼!オフ会
湯瀬温泉での第五回公式オフ会,今頃は宴もたけなわでしょうか。大盛会が目に見えるようです。
小生も第二回神戸オフ会以降の連続出席を目指していましたが,今回は不況の影響をもろに受け,家族にも貧乏生活を強いている以上,ひとり東北旅行に出掛けるなど論外のことで,断腸の思いで参加を断念しました。
嗚呼!皆に会いたかったなあ...,持ち寄りの面白い地図が見たかったなあ...,JOUTOUさんと軍人将棋がしたかったなあ...,白桃さんの...,などなど,不参加を決意した悔いしか残りません。
ご参加の皆さん!楽しい思いをして,風邪などひいてきたら承知しませんよ!
こんな思いをするなら,生保の契約者貸付でも利用(要するに借金)して,周囲の顰蹙など無視して行くべきだったなあ。

まあ,とはいえ,毎年開催されるオフ会ですから,また来年以降のお楽しみにということで。
皆様からのオフ会報告をやっかみ半分,もとい!,楽しみにお待ちしております。

ということで,今日もひとり寂しく神戸背山を朝からやけ歩きで40000歩です。
[67311] 2008年 11月 19日(水)22:33:39【1】ニジェガロージェッツ さん
湊西区石碑
ご無沙汰にて恐縮です。
最近は「メタボ対策」で早寝早起きを心掛け,早朝からのウォーキングが日課となりました。[67154]futsunoおじさんの記事にもありますが,わが兵庫県は男女とも全国第2位の歩行数とのこと。データによると兵庫県男子の平均は1日8281歩で,予想外によく歩いているとの印象を受けました。手前味噌にて恐縮ですが,小生の場合は拙稿[66862]にちょっと書いたように休日の神戸背山ハイキングも加わり,1日平均歩数は8月以来20000歩を越え,先月は22754歩,今月は19日までの平均で24487歩です。その「成果」もあって,目標の体重20kg減量達成まであと4kgです。

さて,本題に入る前に一つ訂正がございます。
拙稿[66896]にて,
衆目監視
と書いてしまいましたが,これは間違いです。正しくは「衆目環視」または「衆人環視」です。
間違った日本語はよろしくありません。謹んでお詫び申し上げます。

ここからが本題。
先日,神戸背山の長田区(旧神戸市林田区)・兵庫区(旧神戸市湊区)・北区(旧武庫郡山田村)の境付近のハイキングコースからちょっと外れた山中を探策していると,この辺りに「神戸市界」と書かれた石碑を見つけました。拙稿[66862]に書いた黒岩尾根の標高606mピークの旧神戸市葺合区と旧武庫郡山田村の境界にある標石と同じものです。ただ,これらは神戸市発行の登山地図「六甲全山縦走マップ」にもしっかりと記載されているもので,特に驚くほどのものではありません。
ところが,びっくりしたのは今回見つけた「神戸市界」,つまり当時の神戸市湊区と武庫郡山田村の境界付近一帯に,この境界標石よりちょっと小さめの古い石碑があちらこちらに点在しており,いずれもその天部に「湊西区」と彫られていたことです。これらは随分と古い石碑で,かなり朽ち果てており,天に書かれた「湊西区」(因みに『區』ではなく,当時としては略字の『区』です)以外は,何が書かれているか判読不能でした。

この石碑“群”がある一帯は,湊区と山田村の境界であって,湊西区ではありません。当時の湊西区の北限は現在の兵庫区中部の会下山町と東山町までで,湊川町以北は湊区です。湊西区は兵庫区の前身とはいえ,現在の兵庫区とは全く違います。「日文研」の所蔵地図データベース内に収録されている,實地踏測神戸市街全圖(昭和10年)を見れば戦前の兵庫区の範囲(緑色)が分かりますが,これが湊西区の範囲です。
・・・・・日文研さんの所蔵地図の数々を見ていると,ついつい夜更かしの世界に引き込まれそうですが,そこは我慢我慢!

この「湊西区」は1931年9月1日に神戸市が行政区(8区)を設置したものの一つですが,早くも1933年1月1日に「兵庫区」と改称されてしまい,存在期間は僅か1年4ヶ月です。
とはいえ,神戸市が行政区を設ける以前にも「区」という組織は存在しました。行政区ではないために区役所はなく,また住所にも書かれませんでしたが,神戸市域を地理的に区分しており,地図にも区名が書かれていました。
#参考:神戸市地圖 付西灘村(大正13年) なお,地図や統計には「部」と表記されているものもあります。
「ながたの歴史」(長田区役所 1977年発行)によると,1896年の林田村(+須磨村内の池田村)の編入による「林田区の成立」の項目に,これら「区」については「区会」と述べられており,主に共有財産の管理にあたるものであり,また学校区を兼ねており学校運営に任じなければならなかったと説明されています。
林田区は共有財産を有していない区であったのに対し,湊西区には共有財産が存在していたそうですから,この湊区と山田村境界付近の一連の石碑がある山林は,湊西区の「区有財産」であったのかも知れません。
刻々と変化する市街地にあっては失われていくこのような無名の過去の遺産が,山中では突如現われるなど,神戸背山はちょっとしたミステリーゾーンです。
[66896] 2008年 10月 1日(水)09:02:06【1】ニジェガロージェッツ さん
メール利用の問題を提起する
[66893] 2008 年 10 月 1 日 (水) 00:32:21 熊虎 さん
鳴子こけしさんに対するアドバイス,大筋では小生も同意見ですが,ひとつだけ納得できない部分があります。

直接メールで質問をぶつけてみてはいかがでしょう。
これはどうでしょう。いささか行き過ぎたアドバイスではありませんか?
確かに,EMMさんはメールアドレスを公開されています。しかしながら,EMMさんご自身が「これ以上のことは落書き帳に書かずにメールでお願いします」とおっしゃるのであれば問題ないですが,そうでない場合は迷惑になりませんか?
もちろん,直接メールで気になっている疑問を相手にぶつけることは,相互に理解を深め,早期に結論がでることもありましょう。ですが,「落書き帳」に書かない分,(メールという衆目監視のない)見えない部分で,更に的外れな,いや,攻撃的な内容になったりする可能性だってあるわけです。
その場合は,真面目なEMMさんには更なる手数や苦痛をかけることになります。

はっきり申し上げて,仮に「私(ニジェ)へ」でしたら,お断り申し上げます。
「落書き帳に書けない内容であれば,ろくなものではない。」というのが,いままでの経験上,率直な感想です。
私の場合は「落書き帳」ではメールアドレスを公開していません。ですが,自分が運営するサイトには,サイト管理人(ニジェ)への連絡用にメールへのリンクを貼り付けていますから,ニジェへメールを送ることは可能です。
ですが,あくまで自分のサイトに対する「ご意見,お問い合わせ用」のものであり,(拙サイトには無関係の)落書き帳の議論の延長上で利用されると,あまりうれしいものではありません。

ここで延々と埒の明かない返答を続けているのも、傍から見ていて正直見苦しい
というのは,(本当に悩んでいるかもしれない)鳴子こけしさん,EMMさんに対しても失礼な気もします。
ご両名のここでのやりとりはコレクション編集について,示唆に富んだ有益なものに感じ,「見苦しい」どころか,私は何度も読み返しています。
[66862] 2008年 9月 24日(水)22:33:23ニジェガロージェッツ さん
稜線規制
神戸は震災(平成7年1月17日)から数えて今日で5000日目を迎えました。
「え! もうそんなに?」と言うのが率直な感想ですが,被災後の生活は一向に好転しません。というより,被災直後の方が,将来の復興など,夢のある生活をしていたような気がします。

さて,神戸についての話題を少々。

[66805] 小松原ラガー さん
景観条例
神戸の特徴である六甲山脈(神戸背山)の海からの景観を保護するために建物の高さを規制する,具体的には兵庫区の北にある菊水山(標高459m―山頂は北区)から灘区西端の摩耶山(標高702m)までの稜線が「ポーアイしおさい公園」から見えるように,云わば「稜線規制」ですが,これだと生田・葺合の市街地のほとんどが規制の範囲に掛かる一方で,西隣の兵庫区,東隣の灘区の市街地は範囲外になります。
そのうちリンク切れになるでしょうが,神戸新聞のニュースに起点からの景観の画像が出ています。ご参考まで。
小松原ラガーさんは記事の最後に東灘区の御影に建設の47階をリンクされていますが,今回の景観条例には全く無関係ですのでご安心の程。

ところが,引っ掛かりそうな計画がひとつ。
三ノ宮駅の東に近接する,葺合の旭通4丁目に54階建ての再開発ビルが計画されています。神戸市のサイトにも旭通4丁目地区第一種市街地再開発事業のページが公開されています。現場を見ると現在は広大な更地となっており,一部にこれを利用して駐車場が営業していたり,一部では「雲井遺跡」なる遺跡調査が行われており,再開発用地全域で遺跡調査が平成21年9月頃まで予定されており,ビルの建設作業はそれ以降になることでしょう。建物の高さは176mだそうですから,三宮で160m以上が規制となれば,もろに「稜線規制」に抵触します。
ただ,三宮からやや東にずれている分だけ,背景の稜線は,より標高の高い摩耶山に近くなり,微妙なところです。

そこで,実際に25000分の1の地形図に線を引いて確かめてみました。
景観の起点を「ポーアイしおさい公園」の北端に取ると,そこから旭通4丁目の再開発計画地区までは2.7kmです。その延長上の背景の稜線は「布引ハーブ園」のある世継山(標高417m)から摩耶山に至る尾根にあり,ちょうど六甲全山縦走路の「稲妻坂」の途中に当たります。ここでポーアイの起点からの距離は5.6km―標高は450mです。更に「ポーアイしおさい公園」からだと稲妻坂よりもっと奥にある,(地蔵谷の北側に聳える)「黒岩尾根」が見えるはずです。旭通4丁目の背後では,ちょうど黒岩尾根の途中の標高606mのピークにあたり(ここには昔の神戸市境界標石があります),距離は6.45kmです。
そこで,基点の公園を標高0m,旭通4丁目標高20mと仮定して
「稲妻坂」を守れば 196m
「黒岩尾根」を守れば 233m
の高さまで建設可能となります。
さて,再開発計画がどのように進むかが楽しみです。

話は変わって,小生個人的なことですが,最近の休みの日は神戸背山歩きに興じています。昨日はJR元町駅を出発して→再度公園→黒岩尾根→摩耶山→六甲山上→アイスロード→鶴甲→JR六甲道まで歩いてきました。先週は新長田→高取山→菊水山→鍋蓋山→再度公園→JR元町,2週間前はJR元町→大竜寺→市が原→稲妻坂→天狗道→摩耶山→新神戸など,このように毎週違う好きなコースで気軽に登山道を選べる,しかもそれらが都心に近接したところにある神戸という街のロケーションの贅沢さが地元ながら嬉しくなります。
6月頃から背山歩きを始めましたが,この3ヶ月の間に体重の1割を削ぎ落としました(笑
[65940] 2008年 8月 5日(火)23:28:28ニジェガロージェッツ さん
Re:グーグルマップのストリートビュー
[65938] オーナー グリグリ さん
これは凄い!
もう形容する言葉もないくらいです。うちの家というか店もモロに映っています。店の前に止めている自転車までもはっきりと。
こんなの公開して,ソ連が攻めてきたらどうするのだろうか・・・
[65937] 2008年 8月 5日(火)21:53:27ニジェガロージェッツ さん
宝塚
宝塚の「塚」の字が話題になっていますが,落書き帳では5年前にもspecial-weekさんが[14857]にて話題にされていました。
小生も[15608]にて反応しておりました。どちらもアーカイブ愛ヒメと書く訳 ―地名は当用漢字を超える―にも収録していただいております。

宝塚市の場合は,「塚」の字に「丶のある塚」を正式なものとしていました。震災の数年前の平成2~3年ごろだったかと記憶していますが,神戸新聞に宝塚の「塚」の字を話題とする記事があり,宝塚市役所としては「丶のある塚」を正しい字体とする見解が述べられていました。ただし,市民が「丶のない塚」を使用するのも間違いとはしない旨の付記がありました。

当時知人に宝塚市民がおり,彼が住所に「丶のある塚」を書いていたのを見たので尋ねてみると,「書く『塚』の字を見れば,本物の宝塚の人間かどうかが判る」と言っていました。落書き帳でも,地元のだいてんさんが[56558]にて
塩竈の「竈」すら表示できるんですから、いろいろ表示できるようにしておいてもらいたいものですがねえ。
特に宝塚市民としては、切実な願いです(笑)
とおっしゃっておられることから,やはり宝塚では『塚』の字には「丶」を書くのに,ひとかたならぬ拘りがあるのでは,と感じた次第です。

ところが,[65930]Issieさんの記事には,
市民はともかく,少なくとも“宝塚市役所”では「丶のない塚」を“公式”の表記としているものと思われます。
とあり,私が一昔以上前に読んだ神戸新聞の記事とは正反対の考察を述べられています。
市民のネット利用に便宜を図って公開している「戸籍関係証明交付申請書」のpdfファイルだけからでは結論付けるのは無理があるようにも感じますが,神戸新聞の記事が書かれた(ネット利用など一般ではなかった)時代からは市長も変わっており,広報(になるのかな?)の担当者も変わっていることでしょう。
時代背景や自治体の担当者が変わることで,注意しないと気づかないような「塚」の字程度では,その表記についての公式見解が変わることがあるのかもしれません。
(地方自治や,その法的な事柄には全く疎いもので・・・)


話は変わって,うちの近所に神戸市長田区腕塚町なる町名があります。
「塚」の字が気になったので,その1丁目から10丁目までを歩いてみました(ヒマかい!)
神戸市が電柱などに設置している縦長の大きな町名街区表示板には全て「丶のある塚」でした。また各戸の表札脇などに設置している小さな住居表示板にまで「丶のある塚」を書く拘りようです。
腕塚町一帯は平成7年の震災で壊滅的被害をうけたところですから,これらの表示板は震災後の新しいものです。「塚」の字が「丶のない塚」として常用漢字に加わった昭和56年以降のものであることは疑いありません。神戸市も何かこだわりがあるのか(笑
こうなると,長田区大塚町や兵庫区塚本通,中央区割塚通,旗塚通,東灘区御影塚町も行って見てこんとアカンかな?
[65891] 2008年 7月 29日(火)20:51:39【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸の気象
[65883] 小松原ラガー さん
自宅から程遠くない川では鉄砲水による死亡事故が発生した模様。

酷暑続きの中,街の整備され開放された小川でひと時の水浴びに興じる子供たちと引率の大人たちを襲った,突然の雷雨による予想外の鉄砲水による惨事。胸が痛み,言葉もありません。
事故発生後,ニュースで頻繁に報じられている通り,この川は灘区の都賀川で,以前に落書き帳でも話題になったことがありました。([49081] 小松原ラガーさん)

都賀川は摩耶山の東側に切り込む谷間の杣谷(そまたに)を源流とし,阪急線を北に越えたあたりで六甲川を合わせ,灘区の真ん中をほぼ一直線に南の大阪湾へ流れています。灘区内市街地の西端部は青谷川へ,東端部は石屋川へ排水しますから,都賀川の排水域は旧灘区(六甲山町新設による兵庫区・東灘区の六甲山域の灘区編入-昭和47年6月-以前の区域)の六甲山域および市街地中央部ということになり,面積は20平方キロに満たないものです。

ここで神戸(旧市街地=六甲山脈南麓)の地形による気象条件が問題になります。
#以下に語る内容は,具体的な気象データに裏付けられたものではなく,長年神戸に住み続けての雑感ですが,一口に「神戸では」と言っても西と東では随分違うと感じる話です。

神戸旧市街地(東灘区から須磨区までの大阪湾岸の6区,要するに垂水区と西区と北区の除く残り全部,この話題の場合は須磨アルプス以北の須磨区北須磨も除外対象ですが,東の芦屋市や西宮市の一部を加えても良い)の背後には急峻な六甲山脈が壁のように聳えています。ここに南から湿った空気が吹き込むと,六甲山脈の「壁」に当たり地形性上昇気流となり雲を発生させて,しばしば激しい降雨を伴う場合があります。
ですが,同じ神戸旧市街地とはいえ,その東部(灘区,東灘区,芦屋市など)と西部(須磨区,長田区)とでは随分状況が違っています。第一,山の高さが違います。灘区・東灘区では700~900m級の山々が続くのに対し,須磨区・長田区ではその3分の1程度の200~300m級に留まっています。更に東部では六甲山脈の稜線が途切れることなくつながっているのに対し,西部では長田区の丸山市街地や須磨区の妙法寺川のような切れ目が目立ちます。
つまり,東神戸で上昇気流による乱雲が発生しても,西神戸では空気の抜け目があるために雲は発生せず,東は雨でも西は晴天といったことが珍しくありません。
また,神戸の冬の風物詩でもある「六甲颪」も西神戸では馴染みがありません。

昨日の雷雨の場合は神戸に限定した局地的なものではなく,北陸から近畿地方にかけての全体的な前線の活動によるものですが,それでも小生の住む長田区では,曇り空が掛かってから激しい降雨まではしばしの時間差があり,降雨時間も量も東部のそれに比べれば少なめだったのではないかと感じています。

夏季の局地的な降雨には,特に東神戸の場合は要注意ですが,かくいう私も,仮に同じ都賀川で川辺の涼を楽しんでいたとしたら,あれ程の急激な鉄砲水の来襲はすぐには予測できず,積乱雲の出現から即避難の対応が出来たかどうかは,甚だ疑問です。
今の段階では尚早ですが,犠牲になられた皆様のご冥福をお祈りするしかありません。
[65753] 2008年 7月 13日(日)22:29:14【2】ニジェガロージェッツ さん
バイカル湖の汚染源
お久しぶりです。しばらく留守にしている間に,書いた本人が忘れているような古い記事や,うちのフォトアルバムにリンクを張っていただき,何やら嬉しい様やら恥ずかしいようやら・・・ 有難うございました。

さて,バイカル湖の汚染について話題になっているようですが,その直接の汚染源として名が挙がっているのは,湖南岸のイルクーツク州バイカリスク市(人口15,210―2007.01.01現在,以下同じ)にある「バイカル紙パルプコンビナート БЦБК」(写真)があります。シベリア鉄道のサイトで見つけたこの写真(古いかも知れませんが)からは,結構お盛んな印象を受けます。今年5月22日付けロシアDV-NEWSの記事(ロシア語)の見出しには「5月20日,イルクーツク州調停裁判所は『ロシア自然監視団』の『バイカル紙パルプコンビナート』に対する,無許可での水使用稼動よるバイカル湖の環境損害への補償金としての40億4千万ルーブルの支払い要求に対する訴訟の審議を,6月17日まで延期する」とありますから,地元でも環境被害の甚大さが指摘されているようです。
更に,そのコンビナートだけではなく,バイカル湖に流入する最大河川でブリャート共和国とモンゴルを流域に抱えるセレンガ川の汚染も湖の汚染原因です。湖岸の河口から約50キロのところにあるブリャート共和国セレンギンスク町(人口15,687)にも紙パルプ工場があり,更に河口から約130キロにはブリャート共和国の首都ウラン=ウデ市(人口342,980)があり,この都市の存在もバイカル湖の主要汚染源の一つです。

イルクーツク州の州都イルクーツク市(人口575,869)は,今川焼さんが[65751]にておっしゃるように,バイカル湖からは「川下」になりますから,この都市の排水の影響は直接湖の汚染にはなりそうもありませんが,それでもイルクーツクからの大気汚染は当然バイカル湖の水質に影響します。今川焼さんが大阪と琵琶湖の距離でイルクーツクとバイカル湖をご説明されているのに倣うと,詳しいデータは持ち合わせていませんが,阪神工業地帯の大気汚染がどれほど琵琶湖の水質に影響するか,そして京阪神大都市圏とイルクーツク都市圏の人口差,琵琶湖とバイカル湖の水量差を考慮すると,まあどれほどのものになるのか。
[65328] 2008年 5月 30日(金)22:03:56ニジェガロージェッツ さん
句読点の設定
[65316] 般若堂そんぴん さん
日本語入力メソッドの環境設定で変更するのではないか,と思います.
[65323] Issie さん
MS-IME でも,(中略) ATOK でも「プロパティ」画面で句読点の組み合わせを変更することができます。読点(、)とコンマ(,),句点(。)とピリオード(.)で,都合4つの組み合わせが選択できます。

「うっわー,できた,できた !!!」
いいおっさんが年甲斐もなく,無邪気に喜びはしゃいでいます。何たって6年前のIssieさんの[3402]を見て以来,ずっと引っかかっていましたから。
設定の変更など,多分に面倒くさい作業だと思っていたところ,MS-IMEに関して句読点を「、」「。」以外のものにしたいと題したページに詳しく(しかも至って簡単)設定方法が書かれていました。
[65320]hmtさんより,「公用文作成の要領」についての歴史的経緯の検証を頂きました。いつもながら,大変勉強になります。
さすがに,リンクしてくださった文化庁のサイトも読点コンマ(,)と句点マル(。)の組み合わせで書かれています。

以前は横書きに於いても日本語の伝統的な読点テン(、)と句点マル(。)の組み合わせを何の疑いもなく正しい表記と思っており,一方で読点コンマ(,)との組み合わせで書かれている出版物を見たとき,「これ日本語とちゃうやんけ。どこの出版社や」と無知にもくさしていた頃もありましたが,実際に横書きした印刷物やウエブを見たとき,多分に好みの問題で,小生の主観ですが,どうもこのほうが文章が締まって読みやすく感じます。
情報有難うございました。
[65315] 2008年 5月 30日(金)10:12:37ニジェガロージェッツ さん
レス2題
[65310] 白桃 さん
Issie さんって、文章区切るの「、」ではなく「,」ですよね。

この件については、Issieさんご自身より[3402]にて、
一応ね,これは「公文書作成の要領」(1952年4月4日付)に従っています。つまりここでは,左横書き文書の“読点”は「コンマ」,“句点”は「まる」で表記することになっているのです。
と、実に明快にご説明されています。
もう6年も前の記事で、白桃さんのデビュー以前ですが、この記事は小生にとっては新鮮な情報で、今でも記憶に残っています。この読点をコンマにする書式に賛同して、それを倣おうとしたのですがどうも巧くいきません。キーボードの設定を変える必要があるのか、今でもそのままにして書いています。


[65053] ペーロケ さん
「岡」についてのレス、有難うございます。今行われている常用漢字表の見直しでは、「岡」が常用漢字に追加されるのは確定のようですが、小生は既存の「丘」との違いにこだわります。
ところでこの件は5年も前に小生自身が[15608]にて同じようなことを書いていることが判明しました。(恥)
岡山市の政令市入りなど、最近はどうも「岡」の字を見ることが多かったので気になっていたのですが、同じことの繰り返しになりちょっと恥ずかしく感じているところです。
[65047] 2008年 5月 10日(土)01:25:55【1】ニジェガロージェッツ さん
丘岡
最近の落書き帳を拝読していると、特命課本郷功次郎とGメン若林豪の両警部が大活躍している様子が浮かび、読んでいて楽しい限りです。(何のことか分かっていただかなくても結構ですよ)

[64996]小松原ラガーさんの記事にある北野坂でのイベント、その前日に小生も見てきました。人混みは疲れるだけなので普段はこのようなイベント会場などには行かないのですが、当日は神戸で暮らし始めたモスクワのご婦人の案内役を買って出てのことでした。このご婦人は神戸在住1ヶ月で、まだ海を見たことがないとのこと。神戸が海に面した都市とは想像できないと仰るので、それではと、北野坂を登り抜けて新神戸ロープウエイに乗り、布引ハーブ園からの神戸港と大阪湾の絶景を案内しました。布引の滝などハイキングコースを歩き、街に下りての夕食は2005年神戸オフ会の二次会場となった市役所24階の展望レストランにて。一日中ロシア語で通しましたが、こちとら数年来ロシア語を喋っていなかったので、簡単な言葉が出なかったり、もちろん滑舌も悪くていけません。外国語など使わないと錆び付くのは早いものです。ご婦人が神戸の景色を大層気に入ってくれたのが唯一の収穫でした。

前置きが長くなりましたが本題です。以下、文学には縁のない無学な小生のちょっとした疑問です。
日本語には同じ意味合いの漢字二文字を合わせた熟語を結構日常生活で目にします。地図に関係ある言葉でも「山岳」「河川」「海洋」とか、「道路」もそうです。ですが「丘岡(きゅうこう)」はどうでしょうか。「丘陵」は使いますが「丘岡」は広辞苑にも出ていません。Yahoo国語辞書によれば「土地の小高い所。おか。」とありますが、そもそも「岡」の字が常用漢字には入っていませんでした。平地や山岳に対しての低山や小山を言う場合のオカには「丘」、海に対してのオカの場合は「陸」、岡目八目のようにカタワラを表すオカには「傍」があり、言葉として「岡」の字は必要がなかったのでしょう。オカッピキは「岡っ引き」と書くところから、この字を「オカッピキの岡」なんて苦しい説明をすることもあります。

ところが「福岡」や「岡山」など「岡」の字は頻繁に出てきます。言葉としての日本語としてはおおよそ必要としない「岡」が、地名や人名では欠かせない最も基本的な字のひとつになっています。一方、「丘」の字は人名で見かけることは稀で、地名としても「○○が丘」以外にはあまり例が浮かびません。札幌の空港に「丘珠空港」がありますが、初めてこの地名を見た(というより稚内経由で樺太へ向かった際にこの空港を利用した)時には、何かものすごく斬新な地名に出くわしたような気さえしました。

同じ意味合いの漢字二文字として「山岳」「河川」「海洋」と言っても、「山・川・海」と「岳・河・洋」とでは、何だかニュアンスが違いますね。個人的感想ですがどちらかと言えば後者の方が雄大というか。では「丘」と「岡」ではどうでしょうか。同じ訓読みで「オカ」と読む両字は果たして同じ地形を表すことばでしょうか。「丘」が小山を表すのに対し、「岡」を漢和辞典で引くと「山の背」との字義があることから、尾根のような所を表すのでしょうか。

長々と個人的な雑感を書き綴りましたが、疑問点は2点です。
1)地名(人名を含めて)において、なぜ「丘」ではなく「岡」が多く用いられるのか。
2)地形としての「丘」と「岡」の違い。
皆様はどうように感じられるでしょうか。

#小生には記憶がないのですが以前に話題になっていたかも知れません。検索しても「丘」と「岡」では膨大な無関係の記事がヒットしますから(笑)
[64939] 2008年 5月 1日(木)23:44:05ニジェガロージェッツ さん
20年5月1日
― 20年5月1日 ― と聞いて、真っ先に浮かぶのは「神戸市行政区再編成のあった日」です。
市内8区を6区に再編(神戸区、湊東区、湊区、林田区を廃止し、生田区と長田区を新設)した日ですが、これは昭和20年5月1日のことでした。
そう言えば神戸市神戸区のように市名と区名が一緒というのは神戸区がはじめてでした。神戸市神戸区の廃止以降は、川崎市が政令市になって川崎区が設置された昭和47年4月1日まで市名と区名の一致を見るものはなく、次に現われるのは堺市堺区で平成18年4月1日と、つい2年前のこと。
話を神戸に戻して神戸駅は神戸区ではなく湊東区。神戸区が廃止されてこの現象は解消されましたが、神戸区に代わって設置された生田区には生田町(葺合区)が含まれていないと、新たなねじれが生じました。中央区(昭和55年12月1日)となって久しい現在では古い地図に埋もれてしまった話です。
そういえば平成17年の神戸オフ会で「生田区あんない地図」を景品にしましたがあれはどなた様に渡ったことやら(笑)

[64924] 小松原ラガー さん
姫路バイパスのことを「ひめばい」、加古川バイパスのことを「かこばい」と略して使っていました。う~む、お初だ・・・。
平成元年より11年まで加古川で商売を営んでおり、現に震災後は5年間加古川市民(NN市在住期間は除く)でした。加古川から姫路市東部までは縁浅からぬ所ですが、そんな小生でさえ同じく「お初」です。
[64932]星野彼方さんのお言葉にもありますが、敢えて略すのなら「バイパス」です。
「ひめばい」「かこばい」と言うのは、個人的な略し方か、或いは例えば運送業界などの一部の業界用語または社内用語ではないかと推測します。「バイパス」と並行して走る明姫幹線道路は「めいかん」と略すのは一般的ですが。
私などテレビのCMで「ひ~めせん」と歌っているのを聞いて、それが「姫路セントラルパーク」のこととは咄嗟に浮かびませんでした。
妙な略し方をするのも善し悪しです。

#私の場合は「503」対策として、電子メールの下書きに文章を保存してからプレビューや投稿ボタンを押すようにしていますから、敢えて悩むほどの不自由やストレスを感じてはいません。もちろん、エラーの改善ができるようであればそれに越したことはありませんが、グリグリさんの(お人柄を存じ上げているだけに)ご負担にならないかと察しております。
「つながった時に書き込みが出来ればそれで良い。」それだけです。
[64795] 2008年 4月 18日(金)23:06:47ニジェガロージェッツ さん
外国でもやらかす鉄壁構造
[64790] Issie さん
日本語では“2音でひと組”という単位がとても安定していて,中でも「2+2」という組み合わせが“鉄壁”なのですね。「国鉄(こく・てつ)」という昔ながらの略語から,「鉄オタ(てつ・おた)」などという“その筋”で使われる言葉を並べてみれば,その鉄壁ぶりは明らかです。

話をお聞きして大層腑に落ちたことがあります。
これ、日本人は外国の地名でもしばしばこの調子で「やらかして」います。
例えば、小生が以前滞在していた欧露部で、そこの三大都市を日本人が

モスクワ ― サンクト ― ニジノブ

と言っていたのを耳にしたことがあります。
「モスクワ」はそれそのままだから良いのですが、サンクト・ペテルブルクのことを「サンクト」と略すのにはものすごい違和感を覚えました。
普通我々でも略す場合は「ペテルブルク」と言いません? 「サンクト」だと、まるで大韓民国を略して「大」と言うほどの違和感です。
ロシア人はサンクト・ペテルブルクを略す場合は[ピチルブルク]、或いは親愛をこめて[ピーチェル]と言っています。
それと・・・

「ニジノブ」って言うなぁぁぁぁぁ!!!!

もう違和感を通り越して殺意さえ覚えました(笑)
ニジニ・ノヴゴロドのことは[ニジニ]って言ってくださいね。ニジニですよ。

それもこれも、Issieさんの「鉄壁構造」理論から察すると、日本語の略語構造からすれば当然起こりうる略語だったのかと、今になって深く納得したした次第です。
[64773] 2008年 4月 17日(木)02:22:31【1】ニジェガロージェッツ さん
鶴見区諸口五丁目浜
[64732] TN さん
早速の鴻巣実地踏査お疲れ様でした。実際に本町一丁目宮本町、本町一丁目本一町の存在を現地入りしてご確認されるとは、いつもながらの探究心、敬服いたしております。
確かにWeb埼玉の記事にある現地の写真と、地図で見た駅前再開発地区のイメージが一致しませんでした。TNさんの調査で再開発のメイン地区A1とは道一つ隔てた細い三角地が件の公園とはちょっと意外でした。面白い情報ありがとうございました。

さて、今回の町名復活劇の先達となった大阪の「東区渡辺町」を「中央区久太郎町四丁目渡辺」として保存した例には、「鶴見区諸口五丁目浜」にその伏線があったのかなと感じています。
私事ですが「久太郎町四丁目渡辺」を拙稿[7175]にてご紹介した際には「鶴見区諸口五丁目浜」の事例を知らず、これを認識したのは[7379]てへへさんの記事にありますが、後にまがみさんとお会いした際に地図で教えていただいてからのことでした。([61016] に関連)
拙稿[64704]にご紹介したように、新住居表示実施による現在の浜(1~5丁目)、諸口(1~6丁目)が起立する前の町名は茨田浜町(マッタハマチョウ)と茨田諸口町(マッタモロクチチョウ)でした。手元に昭和56年と昭和60年の大阪市の区分地図があるのですが、56年版は茨田浜町と茨田諸口町、60年版では既に浜1~5丁目、諸口1~6丁目、緑地公園に分かれていますから、ここではこの間に新住居表示が実施されたようです。一方で東区渡辺町は両地図ともに健在です。
旧茨田浜町南端と茨田諸口町の境界は府道23号大阪生駒線よりやや南の市街地に食い込んでいましたが、新住居表示に際しては大阪生駒線を境界とし、同線より南にはみ出した茨田浜町南端部分は諸口五丁目に組み込まれました。「諸口五丁目浜6~浜14」との街区符号が打たれた部分はその一部分です。しかしながら、そこまでしてここに旧茨田浜町の一角である名残を残す必要があったのならば、大阪生駒線の南の街区を「浜六丁目」として「諸口五丁目」から分離した町割りが出来なかったのかが疑問です。「浜6~浜14」とは何か変則的と言うか、姑息と言うか。
その数年後に大阪の都心では久太郎町の新設による渡辺町廃止の問題が持ち上がるわけですが、「諸口五丁目浜」の実績から「久太郎町四丁目渡辺」につながったのではないかと想像しております。
もしも「浜六丁目」を作る英断をしていれば、「久太郎町四丁目渡辺」という発想は出ずに終わり、鴻巣の「本町一丁目宮本町、本町一丁目本一町」誕生もなかったのかも知れません。
傍目には姑息な手段とも映る大阪市の地名街区符号の苦心が生んだ怪我の巧妙でしょうか。

なお、茨田は大阪湾岸から遠く離れた内陸の旧河内国に属していますが、そこに茨田浜町という「浜」が付く地名があるのは、古代の「難波の入江」が大阪平野の奥深くまで達していた頃の名残といわれています。

【1】地名街区符合を地名街区符号に訂正
#この原稿を書き始めた頃、久しぶりに「悪夢の揺れ」がありました。ここ長田区では震度3とか。規模はあの時と比べられないぐらい小さなものでしたが、揺れる方向は同じようなものに感じられたので気味が悪かったです。
[64704] 2008年 4月 14日(月)01:39:32【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:2例目の地名街区(鴻巣)
[64671] TN さん
鴻巣での旧町名復活の面白いお話有難うございます。
リンクしていただいたWeb埼玉の「40年ぶりに町名復活」記事には、先例となった大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺街区の誕生を「十年前」としていますが、これは間違いです。拙稿[7175]の繰り返しになりますが、実際に誕生したのは平成元(1989)年2月13日に行われた行政区再編による中央区の誕生(東区と南区の合区)に合わせて実施された住居表示変更によるものですから、もう19年も前のことです。

今回の鴻巣の場合は、再開発で整備された駅前の公園とのことで旧町名の復活が容易だったことが挙げられていますが、それにしても市の粋な計らいには拍手を送りたいところです。
加えて、旧大阪市東区渡辺町の町名由来となっていた嵯峨源氏の渡辺綱が鴻巣出身ですか。何かお話が出来すぎているような。千年の時を経て町名復活劇の話題としてその名が取り沙汰されるとは、平安時代の武将も想像だにしなかったことでしょう。

なお、大阪市内の地名街区として渡辺の他には鶴見区に諸口五丁目浜6~浜14街区があります。
現在の鶴見区浜(1~5丁目)、諸口(1~6丁目)の領域には、住居表示変更前には茨田浜町と茨田諸口町がありましたが、「諸口五丁目」となった区画には旧茨田浜町の一部が含まれており、その部分の街区に「浜」を冠して番号を付けたと推測できます。
[64113] 2008年 3月 24日(月)01:49:25ニジェガロージェッツ さん
灘目
[64099] 蒼の狼 さん
江戸時代の灘という地名は今のどのあたりにあたるのでしょうか。

今川焼さんより、[64108]にて明確に
武庫川河口から神戸市の生田川河口までの海岸地区名。【別称】摂津灘。東西20km。
とのご説明がありましたが、小生からも説明と言うほどではありませんが少しばかり灘についての雑感を述べてみます。

まず、江戸期の「灘」についてですが、当時は正確には「灘目(なだめ)」と呼ばれていたようです。
これも古代の「灘辺(なだべ)」が転じた呼び名で、灘とは海のことですから、地名は海辺のことを言い、京の都より山陽道(西国街道)を西へ下ってここで初めて海(灘)が見えるところからこのように呼ばれたようです。西宮までの西国街道は現在の国道171号線に相当しますから、やはり「灘辺」は西宮市の海沿いの地域から西側の地域、当時の武庫郡、菟原郡の海岸線一帯の総称のようなものではなかったでしょうか。このあたりの経緯は神戸東灘まちづくり文化のルーツのサイトに詳しく述べられています。

とはいえ、村落名や行政区画名として「灘」を名乗るものはありませんでした。初めて村名として灘が現われるのは、明治28(1895)年に菟原郡都賀野村が西灘村(現在の灘区西部、但し大石は都賀浜村→西郷町の一部)に改称したときでした。

「灘五郷」とは、地名というよりはこの地域の地場産業である酒造地の酒蔵を纏めた名称で、江戸期には東から、今津郷、魚崎郷、御影郷、西郷、下灘郷であり、明治時代になると下灘郷が抜けて、代わって西宮郷が入って現在に至っているようです。
(出典:gallery 灘五郷

しかしながら、これも酒造業の業界でのお話で、「灘の酒」がよく売れるとのことで、元来の「灘」の範囲外にあっても「灘ブランド」を得るために「灘に入った」との見方もあります。
下灘郷は現在の神戸市中央区・兵庫区の一角にあったようですが、江戸期と言えども地名としての灘(或いは灘目)に現在の兵庫区までは含まれていなかったと推察します。
[64045] 2008年 3月 16日(日)23:14:23【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸は公園だらけ
昨日はおおさか東線の開業を筆頭にJR西日本ではいくつかの新駅の開業があり、神戸市内にも新駅「須磨海浜公園」駅が開業しました。昨年の駅名決定に際しては[61238]k-aceさんの記事がありましたが、小生は以前に新駅の名称について散々ケチをつけた覚えがあり[25385]、もう4年も前の書き込みでした。時が経つのは早いものです。

さて、須磨海浜公園駅の誕生で神戸市内には「公園駅」を名乗る駅が9駅になりました。
戦前の旧神戸市内には「公園駅」はなく、現在の市域に広げれば(当時は)市外の明石郡垂水町に山陽電鉄の「舞子公園駅」が存在するのみでした。廃止された神戸市電の停留所には「湊川公園」がありましたが。
以下、神戸市内の「公園駅」について古い順に開業(改称)時期まとめてみます。
駅名路線開業または改称日備考
舞子公園山陽電鉄本線昭和10年8月1日舞子駅を改称
須磨浦公園山陽電鉄本線昭和23年9月30日新駅設置
中公園神戸新交通ポートアイランド線昭和56年2月5日ポートライナー開業
南公園神戸新交通ポートアイランド線昭和56年2月5日ポートライナー開業
湊川公園神戸市営地下鉄山手線昭和58年6月17日山手線開業
王子公園阪急電鉄神戸線昭和59年6月1日西灘駅を改称
総合運動公園神戸市営地下鉄西神線昭和60年6月18日西神延伸線開業
御崎公園神戸市営地下鉄海岸線平成13年7月7日海岸線開業
須磨海浜公園JR神戸線平成20年3月15日新駅設置

ここ数年というより、もっと長い期間で「公園駅」が人気のようにも感じますが、神戸の場合は実在する(または一般にそのように呼ばれている)公園が近くに存在し、やはり他に良い名称がなかったのかも。ポートアイランドの中公園そのものは駅開業後に「原口記念公園」に改称されたようにも記憶しています。
個人的には、阪急の「西灘駅」が「王子公園駅」に改称されたときは喝采しましたが。
[63864] 2008年 2月 29日(金)22:29:23ニジェガロージェッツ さん
旧神明
[63860] 小松原ラガー さん
この道ではないでしょうか?地図の中央に鉄拐山トンネルとありますが、まさにその道こそが第一神明というか旧神明というか、「神明道路」だったと思います。
(中略)
大蔵谷から先も神明と称していたような気もするし・・・。
はい、現在で言うところの「旧神明」こと「神明道路」は小松原ラガーさんのリンクされた地図にあるとおり、「鉄拐山トンネル」を通る道路がそれです。現在の第二神明道路の「名谷出入口」から「大蔵谷出入口」までの区間は、旧神明道路を踏襲したもので、大蔵谷以西はこの道路が神明道路でした。この道を更に進むと、西明石の小久保交差点を超えて明姫幹線道路に入りますが、この小久保までは神明道路だったと記憶しています。
一方、かつての神明道路の東の起点ですが、小生もリアルタイムで通ったことがある筈ですが、幼少のため記憶が定かではありません。
現在地元で「旧神明」と呼ばれている道路は須磨離宮公園南側のここ以西です。日本地図センターから出ている「地図で見る神戸の変遷」に収録されている「昭和44年頃の神戸5万分の1」には、今の阪神高速3号神戸線月見山出入口あたりから「神明道路」が出ているように描かれています。いずれにせよ、やはり離宮公園あたりが起点だったかと推測します。
[63729] 2008年 2月 14日(木)00:26:37【1】ニジェガロージェッツ さん
神戸の町名
[63705] 油天神山 さん
[63703] EMM さん
神戸市中央区港島について、「外来語由来町名」コレクションへの採用を真剣にご検討いただき、恐縮しております。
おそらく、油天神山さんの「外来語由来町名」のイメージからは離れているとは察しておりましたが、小生、子供の頃に読んだ[63695]に引用した「神戸の町名」(昭和50年)に紹介されている解説文が印象に残り、外来語由来町名として真っ先に思い浮かぶのがポーアイの「港島」「港島中町」でした。[63705]油天神山さんの
「どうぞご勘弁を」という気持ちだったんですが、一夜明けた今、「町名由来系カテゴリーに名を連ねる以上はやらんといかん!」と覚悟を決めました。
とのご英断に深謝いたします。

この「港島」の場合、地名「ポートアイランド」との順序が問題で、人工島ポートアイランドの造成着工が始まったのが昭和41年のことで、埋立が進み新たに生じた陸地に町名をつけてコンテナ埠頭を「港島」としたのが昭和47年5月、都市機能・居住地区を「港島中町」としたのが昭和49年4月でした。「港島南町」に至っては昭和61年にポートアイランド2期工事が始まってから生じた土地に出来たもので、町名としては恐らく平成になってからのものかと記憶しています。
もし、順序が逆で、既存の「港島」という地名を愛称として「ポートアイランド」と英語に洒落て命名されたのであれば、これでは「外来語由来町名」にはならないでしょう。
これを採用すると大変な道に足を踏み入れることになりそうです。
とのご懸念は、この順序の検証が難しいことと推察します。
とはいえ、浦安市の舞浜の例([63703]EMMさん)もありますが、先に英語で地名を付けるなど、極めて特異な例だと思います。

さて、この「神戸の町名」という33年前に発行された冊子は既に絶版であることは言うまでもありませんが、数年前にその新版を見たことがあり、昨日改めて本屋に行ってみると、昨年末に「第三版」となる「神戸の町名 改訂版」が神戸新聞総合出版センターより発行されたところでした。
思えば旧版の昭和50年当時とでは神戸においても市街地の範囲が拡大し、それに伴い郊外では新町名が続々と誕生しているので(その一方で今後の神戸市街地の拡大は、既にやり尽くした感があり、それほど期待できない)、旧版にはなかった新町名の由来が知り得て、思わず買ってしまいました。
嬉しいのは市販の地図では確認出来ない地名として拙稿[45136]に紹介した兵庫区の5つの町名が全て収録されているところ。
そのうちの一つ「東尻池村」については、旧版の解説文を[43133]に引用していましたが、今回の改訂版では
==========
【東尻池村】 ひがししりいけむら
神戸市内で残っている二つの“村”の一つで、御崎村と並んで兵庫区内にある。昔の村は行政区画や町名改正によって多くの町に分割されたが、旧東尻池村のほとんどは長田区内に含まれる。由来についてはそこでふれらているので省略するが、兵庫区では一部の国有地が、人家や建て物もないまま、旧村名として続いている。
==========
と紹介されています。
昭和50年の旧版にあった、「しかし、この“村”も近く消える運命にある。」の一文が削除されているのも面白いところです。
[63695] 2008年 2月 10日(日)21:18:28ニジェガロージェッツ さん
港島=Port Island
[63693] 油天神山 さん
「外来語由来町名コレクション」の完成、おめでとうございます。

早速で恐縮ですが、神戸市中央区の人工島ポートアイランドに起立している町名
「港島一~九丁目」「港島中町一~八丁目」「港島南町一~七丁目」
も候補にご検討いただければ幸いです。
神戸新聞社編「神戸の町名」(昭和50年)によれば、
「先に英語で地名をつけ、その直訳を町名にした珍しい例だ。」とあります。
「港」も「島」も純然たる日本語ですが、その由来は和製英語地名の「ポートアイランド」を起源としており、貴コレクションの
(2)表記はカタカナに限定せず、外来語をひらがな・漢字表記したものも含める。
(3)和製英語・造語等も対象に含める。
に合致しているように感じられます。
[63030] 2008年 1月 3日(木)19:18:26ニジェガロージェッツ さん
レス3題(単行・湯郷・イオヌイ島)
[63021] hiroroじゃけぇ さん
「単行」という言葉が最も似合うかもしれませんね。
ご教示ありがとうございます。
実は今日も「単行」に乗って着ました。といっても姫新線のそれではなく、[62638]k-aceさん他の記事にある三木鉄道ですが。
丁度、加古川へ行く所用が出来たので、普段ならばJR神戸線(山陽本線)に乗って直行するのですが、今日はわざわざ神戸電鉄粟生線、三木鉄道、JR加古川線を経由しました。
神戸電鉄はガラ空きでしたが、今年3月末で廃線になる三木鉄道は満員でした。明らかに「鉄」と分かる鉄道愛好家で賑わっており、沿線の各駅でもそれらしき人々がカメラを構えていました。因みに私は「鉄」ではありませんが、同じく駅や車両を写してきました。(笑)

湯郷ベルの選手たちは、日中湯郷温泉のどこかで働いているようですよ。
湯郷温泉街には宿泊者へのサービスで、宿泊ホテル以外の各館の浴場を巡ることが出来るようになっていて、私もいくつか廻ったのですが、女子サッカーリーグの選手のような若い女性は見かけませんでした。日頃の激務から年末年始くらいは休んでおられるのでは。

[63025] 笠津前浜 さん
これはまさしくオホーツク海の孤島ですね…。今頃は氷の海の上へ頭を出しているところでしょうか。
訳の分からない妄想にお付き合い頂いて恐縮です。あの辺り一面の北部オホーツク海は冬には氷結しますから、恐らく笠津前浜さんのおっしゃるような幻想的な光景であろうと推測します。
また、わざわざマップをお探し下さり有難うございました。Googleマップを見ても同じような島が表示されますが、航空写真からは(下表参照)そこに何かあるようでなさそうな不明瞭な「点」になっています。
手持ちの帝国書院の地図帳では、2007年の「地歴高等地図」には載っておらず、1987年の「サミットワールドアトラス」には載っていました。

リンクされた先のページには、とても美しい写真が揃っていますね。
「ふた昔」前であれば、鉄のカーテンの奥に隠されたような謎の島々の画像が手軽に家庭で楽しめるとは、ネット時代の醍醐味のひとつですね。
ロシア語のページですが、リンク先のページの島の画像の一覧を和名を添えて書いておきます。千島列島の島々が多いので、参考までに千島列島の地図(昭和5年)を出しておきます。
ロシア名和名場所Googleマップ
о. Парамушир幌筵島/パラムシル島北千島衛星写真
о. Анциферов志林規島/シリンキ島北千島衛星写真
о-ва Ловушки牟知列岩/ムシル列岩中千島衛星写真
о. Райкоке雷公計島/ライコケ島中千島衛星写真
о-ва Среднего宇志知諸島北島/スレドネワ島中千島衛星写真
о-ва Братья Черные智理保以島/チリポイ島中千島衛星写真
о. Ионыイオヌイ島オホーツク海北西部衛星写真
о-ва Ямскиеヤムスク諸島オホーツク海北東部衛星写真
о. Берингаベーリング島コマンドル諸島衛星写真
о. Медныйメードヌイ島コマンドル諸島衛星写真
[63011] 2008年 1月 1日(火)17:41:41【1】ニジェガロージェッツ さん
年始めに最果ての島を妄想する
平成二十年になりました。旧年中はいろいろとお世話になりました。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

平成十九年最後の二日間、岡山県美作市の湯郷温泉に行ってまいりました。温泉のお話をしても「いい湯でしたよ」と、日頃の雑多を離れてのんびりと温泉浴を楽しんだと月並みの言葉しか出ませんが、地理的なことで印象的だったのは、まず姫新線に18年振りに乗ったこと。
兵庫県姫路市と岡山県新見市を結ぶ姫新線に以前乗ったときは姫路から津山まで直通で行った記憶があるのですが、今やそれは昔の話。佐用での乗り継ぎに42分の時間待ち。それも津山へは一両編成。電化されていないから「電車」ではないし、一両だから「列車」でもない。これを何と言えばよいのか? 中国山地の山中を細い狭軌の単線鉄道が縫うように一両で走る様は「植民地の軽便鉄道やんけ~!」と言いたくなるような(笑)
温泉の最寄り駅は林野駅で、この林野が平成の大合併で成立した美作市の市役所が置かれた、云わば「市の中心集落」になるのですが、どう見ても「市」の面影はどこにもない田舎の小集落でした。福岡オフ会の時にネットで見た、市街地だけを「市」とした明治の福岡市の範囲が頭にあっただけに(拙稿[62579])、時代が変われば「市」の感覚も変わるもんだと実感した次第です。
しかしながら、古谷一行氏ふんする金田一耕助が下駄履きでいても全く違和感のないような、のんびりとした懐かしい昭和を思わせる街並みは、嬉しく感じました。短いながらも味わいのある楽しい旅でした。

さて、新年に年始めにあたり、日本列島周辺の地図を眺めていると、ユーラシア大陸の東縁に弓状に連なるその姿は、いつ見ても「カッコいい」形をしています。
ところで、列島の最北端は北方領土択捉島の北端であるカモイワッカ岬(北緯45度33分)ですが、北方領土を含めない最北端は宗谷岬弁天島(北緯45度31分)とのこと。しかしこれは「日本列島」を日本の領土の限定した極めて政治的な話。戦前であれば台湾も南樺太も千島列島も日本列島の一部と見なしていたようで、そうなれば列島は北海道の北で樺太と千島の二股に分かれていたことになります。
そうではなく、日本の統治範囲の枠を外し、視点を「ユーラシア大陸の東縁に連なる弓状列島」に戻し「弓」を伸ばしてみると、北は樺太こそが列島の一部になるのではないかと妄想します。
となればその北端はサハリン州最北端のエリザヴェータ岬(北緯54度24分)になり、この岬で列島はオホーツク海に没します。この北には北部オホーツク海の大海原が広がるばかりなり・・・。

エリザヴェータ岬のほぼ真北540キロには大陸のオホーツク町があります。今では人口5,054人(2007年1月1日)の小さな町ですが、大きな海洋の名称として世界に知られた名となりました。ですが、この町の名もオホータ川という小さな河川名を由来としています。
そのオホーツク町とサハリンのエリザヴェート岬の間のほぼ中間点、広がるは大海原ばかりなり・・・と思われる所に、正に絶海の孤島が存在します。どうしてこんな所に島があるのかと首を傾げたくなるような、サハリン北端の北250キロの北緯56度24分、東経143度23分にその島は存在します。まるでビリケンさんの頭が海中から突き出したような、標高300mの点のような小島です。その名をイオヌイ島(または実際には「ヨーヌイ」と発音するかも)と言いますが、この島こそが弓状列島最北の島ではと妄想を続けております。
人を寄せ付けない海岸にトドの群生。一度は訪れてみたい最果ての島です。
皆様お持ちの地図には、この島が描かれているでしょうか?
[62865] 2007年 12月 16日(日)17:26:41ニジェガロージェッツ さん
アライグマがブタに化ける神戸の話
先月のオフ会での「荒ゴミ」や「別勉」という神戸の言葉についての[62579]へ沢山のレスをいただいておりながら、返事が(いつもながら)遅くなってしまい、申し訳ございません。最近はどうも無気力でいけません。

今月一日に港則法施行令の改正による3港の合併により阪神港が誕生しました。神戸市街地の南に広がる大きな港は、既に「神戸港」ではなく堺泉北から須磨に広がる巨大な港のうちの「阪神港神戸区」になりました。従来は神戸港、尼崎西宮芦屋港、大阪港の3港でそれぞれで入港税や書類手続きの負担が求められていたのが阪神港に一元化されたことで、入港船舶の増加や競争力の強化が期待されているところです。東京、川崎、横浜3港を合体した京浜港については[57385]hmtさんが触れておられます。 阪神港の開港は京浜港の例にならったものでしょう。
港則法でのお話ですが、神戸港が消えるのは地元の神戸っ子としてはちょっと寂しい気もします。

[62583] 桜トンネル さん
「荒ゴミ」について
阪神地区全域はすべて通じると思っていました。最近、僕がよく行く尼崎市では使われないとは驚きです。一体、どこが線引きとなっているのでしょうね。
通じるのは原則として神戸市域のみだと推測します。但し、住民の移動がありますから、他市民であっても神戸に一時期でも居住した経験のある人や、神戸に通勤している人などは「荒ゴミ」を知っていて当然で、また、神戸周辺を営業範囲としているゴミ収集業者では「荒ゴミ」という言葉を使っている場合もありますから、神戸市に隣接する地域では、通じる可能性が高いと思われます。また「荒ゴミ」を検索すると、稀ですが神戸とは無関係のところでも用いる所があるようです。
私事ですが、震災後、一時期加古川市に居住したことがありました。町内の人に「この辺りの荒ゴミの日はいつですか」と尋ねても要領を得ませんでした。それもその筈で「荒ゴミの日」など存在せず、加古川市ではゴミの細分化が既に徹底されていました。
今では神戸市のゴミ区分からも「荒ゴミ」は廃止されましたが、元来、神戸市の場合は西区(布施畑)や北区(長尾山)に広大な埋立処分場を有し、「荒ゴミ」として一括で埋立処分する用地に恵まれていたために不燃ごみを細分する必要が薄く、それが震災によって生じた瓦礫や引越しゴミなどの膨大な量を処分したために埋立処分地の余裕がなくなり、いよいよゴミの細分化、リサイクルに対応した区分を導入したというところでしょうか。
ゴミの細分化を啓蒙するキャラクターとして神戸弁の「分けとん」から、豚の「ワケトン君」が採用されています。因みにワケトンの敵キャラ「ワケヘン」と「ヤラヘン」も存在します。
以前の荒ゴミ置場こと「荒ゴミステーション」のキャラクターは荒の字からか、アライグマだったことは知る人ぞ知る話。

「荒ゴミ」の他にも代表的な例としては「日番」があります。
小生が小学校1年生のときも「日番」でした。昭和40年代の前半の話ですから、随分古い言葉です。というより、桜トンネルさんの[62583]を読むまで、これが神戸独特の言葉だったとは知りませんでした。子供の頃はセロハンテープなどの日用品で有名な「ニチバン」も日番絡みの社名かと思っていたほどでしたが、こちらは絆創膏のほうの「バン」のようです。
面白いお話、有難うございました。

[62633] たもっち さん
「荒ゴミ」という言葉が出て来た場面をよく見ると、電柱の「芦屋金持町一丁目」という標示が描き込まれていますので、実は、神戸周辺で使われている言葉を考証のうえでセリフを書いたのではないか、という可能性も・・。
とりあえず芦屋市のHPから「荒ゴミ」を探しましたが、見つかりませんでした。(笑
少なくとも、現在の芦屋市のゴミ収集区分には「荒ゴミ」はありません。但し、一部のゴミ収集業者が「荒ゴミ」とう言葉を使う場合もありますから、やはり、いしい氏が考証したうえで書いている可能性は高いと思います。

神戸から来た同級生も何人かいて、彼らが、表紙にポートタワーあたりの風景写真が載っているノートを持っていたことを覚えています。表紙全体の背景に薄緑のモノクロ(?)で刷り込まれていたように記憶していますが、これって、神戸の小学生の間で広く使われていたものだったのでしょうか。あるいは、世代が限られるのかもしれませんが、どなたかご存じないですか?
神戸市指定の学習ノートで、関西ノート(株)が製作しているもので、国語帳(緑)、算数帳(水色)、理科の記録(黄)、社会科(橙)、自由帳(桃)、連絡帳(紫)、百字練習帳(青)、二百字練習帳(青)があり、他にも音楽ノートやRomazi Renshu-tyo がありました。
もちろん、昭和40年代(いや、もっと以前から?)存在していました。
表紙は神戸市内の景色の写真がそれぞれの色のモノカラーで印刷されています。風景写真は時代によって変わっていますが、百時練習帳のそれは小生が使用していた当時の写真のままで、ポートタワーの建つ中突堤を写したものですが、現在の風景とは比べ物にならない、昭和40年代中頃のもので、今では「歴史的写真」と言えるものです。
ネットでは「神戸ノート」と呼ばれているようですが、文房具好きにはちょっとした人気だそうです。(記事
[62757] 2007年 12月 2日(日)21:48:20ニジェガロージェッツ さん
Re^2:唐太の子供列車
[62755] 伊豆之国 さん
[62756] Issie さん
今日の番組は見逃してしまいましたが、豊原の子供鉄道については過去に何度かメディアや書籍でも取り上げられておりました。
日本のテレビドラマでは、役所公司主演で1991年に放送された東芝日曜劇場スペシャル「サハリンの薔薇」のひとコマで、現地の少女が役所氏を子供鉄道に誘う場面がありました。

サハリン州20万分の1地形図にもユジノ・サハリンスク市街地の東北東、ピオネールスカヤという所に小さな環状鉄道が描かれており、駅も2つあります。
場所はガガーリン文化公園で、旧豊原公園(本当は、「旧」なんて書きたくないのですが)に当たります。

ソ連の子供鉄道については、こんなに沢山の都市で運行されていました。豊原のそれは、1954年6月6日の開業のようです。
写真1 写真2
[62753] 2007年 12月 2日(日)18:32:34【1】ニジェガロージェッツ さん
唐から樺へ
カラフト(北蝦夷)について「唐太」と表記したことのある歴史について、[61689] 伊豆之国さんへのレスの形で投稿させていただきましたが、その後も[62464]伊豆之国さんをはじめ、多くの反響をいただきながらも、3週間以上を経てしまい、いつもながらの亀レスにて失礼しておりました。

[62467] 笠津前浜 さん
カラフトの字に漢字をあてる際に「樺」を選んだ理由は何なのでしょうね。あるいは樺が多く生えていたのでしょうか。訓読みですから如何様にも読めるのですが、樺を「から」と読ませる例も少ないのではないでしょうか。

カラフトの「カラ」も部分に「樺」の字を充てた所以は、[62501]北の住人さんより、
江戸時代を通じ一般的なものは「唐太」です。一時的に「北蝦夷」が使われますが、幕末からまた「カラフト」と称され、「柄太」「柯太」が多く使われ、明治2年以降は「樺太」に定まりました。
「樺太」については、「樺が多いから」という松浦武四郎の意見が採られたようです。
とフォローいただきましたが、正に樺太は白樺の木の多いところです。現地で飲んだ白樺ジュースのおいしかったこと。サハリンの名産だと聞きましたが、ロシアのほとんどの地域で白樺の木は多く、全国的に生産されていたようです。ソ連時代の末期、ヴォルガ沿岸のゴーリキー市でも食料品店の棚には品薄で何もなかったような時でさえ、白樺ジュースだけは入手が容易だったと聞きました。ソ連解体後はコーラなど西側の飲料が大量に流入し、それに反比例して白樺ジュースは人気薄となり、これを売っている店を探すのはロシアでも容易ではありません。
話が逸れましたが、その白樺の「樺」の字を「カラ」と読ませるのはちょっとした無理があり、後世「カバフト」と読み改められる恐れがあるから「柯太」と表記すべしとの議論もあったと聞きます。

北の住人さんの記事にあるように「樺太」の表記が松浦武四郎の意見により採られた明治2年のことですが、では江戸期において「樺太」との表記があったのかどうかの検証も必要になってくることと思われます。以下、結論には達しませんが、メモ代わりに画像へのリンクも添えて続けます。

北海道大学付属図書館北方古地図高精細画像電子展示のコーナーには、1801年に普請役・中村小市郎と小人目付出役・高橋次太夫の調査による「樺太見分図」とのタイトルで2葉(離島説、半島説)出ていますが、こちらにも地図色分けの凡例部分に「唐太山」の表記があることから、タイトルの「樺太」は後に付けられたもののようにも思われます。
また、別に近藤重蔵が1802年に作製した2葉(1離島説、2半島説)の地図を「蝦夷及樺太ノ図」とのタイトルが付けられていますが、実際に地図を見るとカラフトには「唐太」と表記されており、北海道大学の「江戸時代における日本北辺地図(講演要旨)」には同じものが離島説・半島説を併記した形で「近藤重蔵「蝦夷地図式 乾」1802年として紹介されていますから、こちらも「樺太表記」を裏付けるものではありません。
なお、船越昭生著「北方図の歴史」(講談社―1976年)には「蝦夷及樺太ノ図2半島説」と同じものが『近藤重蔵「蝦夷地図式」乾』として載せられています。

さて、船越氏の「北方図の歴史」などに収録されている諸図や解説によると
図名作者など時代カラフトについての表記リンク
蝦夷風俗人情之沙汰最上徳内1790年唐太画像
蝦夷地図式 乾近藤重蔵1802年唐太画像
享和元年樺太見分図中村小市郎・高橋次太夫1801年唐太山画像
辺要分界図考近藤重蔵1804年カラフト画像
唐太島図松田伝十郎・間宮林蔵1809年
北蝦夷島図間宮林蔵1810年
日本辺界略図高橋景保1809年北蝦夷画像
蝦夷闔境輿地全図藤田良・橋本蘭斎1854年画像
官板 実測日本地図(北蝦夷)幕府開成所1867年北蝦夷画像

以上、手持ちの書籍やウエブの画像で読めそうなものを集めてみましたが、これだけでは江戸期に「樺太」の表記が存在したことの裏づけにはあまりにも不十分、というより、否定的な感触です。江戸期においては「樺太」との表記はおおよそ用いられておらず、「唐太」または「北蝦夷」の表記が一般であったことは言えると推察します。


[62501] 北の住人 さん
ところで、全国樺太連盟のサイト(中略)のURLを見ると「kabaren」の文字があり、連盟の略称として「樺」を「かば」と読んでいるようです。実際、「樺太」の読みとして「かばふと」も書いている辞書もありました。
樺連「かばれん」だけではなく、一般に樺太を略して「樺」の一文字で表す場合の読みは大概が「かば」です。1941年に樺太庁鉄道に吸収されましたが、落合駅から分岐してオホーツク海岸に沿って敷香まで建設された「樺太鉄道」も「かばてつ」と呼ばれていました。
大泊―豊原間の貝場駅から分岐して。留多加に至る私鉄線「南樺鉄道」は「なんかてつどう」のようですが。

また、「樺太」を「かばふと」と呼ぶ人も少なくはなく、「からぷと」と呼ぶ人も居たとか。


[62471] むっくん さん
モンゴル帝国の支配地域の拡がりに伴い(中略)、具体的な侵略の歴史を初めて知りました。
拙稿[62450]に書いた「1286年の樺太上陸にはじまる元軍の侵攻で1308年には樺太の諸種族の抵抗を排除」の部分の資料としては、M.S.ヴィソーコフ著、板橋政樹訳「サハリンの歴史」(北海道撮影社―2000年)に基づきました。ロシア側から見たサハリン史です。
アイヌ側からの歴史を紹介したページ「アイヌ民族の歴史年表」というページを見つけましたが、樺太アイヌ(骨嵬)の元帝国との戦いとして、その経緯が詳しく述べられています。
一方、ヴィソーコフ著「サハリンの歴史」には、中国の史料の伝えとして、モンゴル軍がアムール下流に現われ、サハリン北部のニヴフ(ギリヤーク)族を支配下に置いたのが1263年。しかしサハリンアイヌの大多数の種族は頑強に服従を拒んでおり、1286年、強力な武装部隊1万人がサハリンに上陸し各所に配置され、1308年に軍は諸種族の抵抗を排して毎年の貢物を上納させるに至った、とあります。
[62579] 2007年 11月 20日(火)02:05:04【1】ニジェガロージェッツ さん
オフ会での雑談
福博オフ会から早くも十日が経ちました。[62566]グリグリさん、第四回オフ会の記録ページ早速のアップ有難うございます。
ついに実現した参加者全員の集合写真、壮観です。ところで撮影場所の福博であい橋の西詰は、拙稿[61426]でご紹介した明治43年の福岡市地図を見ると福岡市外になっています。今ではすっかり都心のど真ん中と思える場所で、以前の県庁のすぐ傍に当たりますが、明治時代の福岡市域がいかに狭かったか、と言うより、当時の「市」というもののあり方が伺えて面白いところです。

さて、小生オフ会から帰神してからというもの、先週はすっかり抜け殻のようになってしまい、第二水曜日の町内の荒ゴミの日さえ、ついうっかり荒ゴミを出すのを忘れてしまいました。
ところで、この「荒ゴミ」という言葉、日常的に使っていた言葉なので、全国どこでも通じる日本語の普通名詞だと思い込んでいたのですが、最近、神戸などの一部地域でしか通じない言葉だと知りました。
オフ一次会で隣席の皆さんに尋ねてみましたが、当たり前に通じたのは同じ神戸の小松原ラガーさんのみで、尼崎のかすみさんにさえ通じない言葉でした。らるふさんからは「荒」の字が違うとのこと。「粗ゴミ」ならば少しは通じるエリアが拡大するかも。

とはいえ、平成16年12月に神戸市のゴミ収集区分では荒ゴミが廃止され、従来であればジャムの小ビンから大型家具に至るまで、燃えないゴミは何でも荒ゴミとして廃棄していたのですが、今やそれは昔話。しかしながら、言葉としての「荒ゴミ」は今なお、神戸においては生きています。今のゴミ出し区分が徹底されれば、そのうち死語になる可能性はありますが。

一方で既に死語になった言葉としては「別勉」がありました。昭和40年代に神戸でリアル小学生だった小生より年配の人のみに通じる言葉のようです。
「別勉の横の荒ゴミ置き場にほかして来い」と言っても何のことだか。
「学習塾の横の不燃ごみ収集場所に捨てて来い」とは、些かまどろこしい。

話は変わってオフ三次会では、かぱぷうさんが白桃さんにコップ酒を一升瓶に見立てて、「これで頭を一発やってください!」と懇願するシーンがありました。何でも過去の書き込みから「都市人口トップ10」が言えなかったとかで、面白いエピソードでした。
すっかり出来上がっていた白桃さんがその場でどう対応したかはさて置いて(笑)、小生は「トップ20」ぐらいは諳んじていないといかんと思って、帰りの新幹線の中でトップ20をメモに書き出して帰宅後確認すると、80万都市の15位サラトフと16位ヴォロネジを逆にしていました。
どこの国の話やねんっっ! と言うことで、荒ゴミのような書き込み失礼いたしました。

#カラフト「樺太・唐太」について数多くのレスを有難く頂いていたのですが、また後日ということで稿を改めさせてください。
[62497] 2007年 11月 12日(月)20:54:30ニジェガロージェッツ さん
オフ会堪能して参りました
こんばんは、「兵庫県オッサンカルテット」のひとり、ニジェガロージェッツです。
福岡からは昨晩帰神いたしましたが、PCの調子が悪かったのと、旅の疲れで、本来ならば真っ先に参加者皆様への御礼などを落書き帳へ書き込むべきでしたが、一日遅れになってしまいました。

一昨日の福博オフ会(一次会は博多区、二次会以降は中央区での開催)では皆様お世話になりました。
見事な采配で、そつなく幹事役をこなされた、かぱぷうさんには何と御礼を申し上げればよいかわかりません。
小生は四次会のカラオケ店を2時に失礼したのですが、[62470]かぱぷうさんの書き込み時間ではまだ4名いらっしゃったとは、家族旅行途中の御仁もまだ粘っておられたようで、御仁の日曜日の家族内での修羅場を勝手に想像して他人事ながら血の気が失せました。

さて、当日を振り返れば、一次会では[62493]ペーロケさんのシルエットクイズで引いた紙を見て、それを「壱岐」かと直感したのですが、周りから「それは壱岐じゃないよね」と断定されると、「ああ、やっぱり違ったか~」とあっさり自説を放棄するという一貫性のなさ、そして解答をもらうとしっかり壱岐だったりして、「やった!」と自説放棄を棚に上げて喜ぶという馬鹿さ加減。

二次会ではまかいのさんが披露されていたニュージーランドの道路地図を見ながらの談笑に、また、JOUTOUさんとは軍人将棋とカルビーの「仮面ライダースナック」のお話に花を咲かせ、昭和47~48年当時に戻った感覚でした。

三次会と四次会では音痴にもかかわらず歌を2曲づつ歌ってしまいました。場違いな三次会にもかかわらず歌ったのは、
―♪つくしのきわ~み♪―で始まる「蛍の光」と、「豊原市制謳歌」でした。いったい何をやっているのやら。厚顔無恥が続きます。

最近は腹の底から笑ったことがなかったので、本当に毎年の落書き帳オフ会は日々の暮らしの気分転換だけではなく、カンフル剤にもなります。とはいえ、毎年毎年羽目の外し過ぎです。
次のオフ会に参加する時は少しは大人しくしていようと思います。

楽しいひと時を提供してくださった、幹事役かぱぷうさんをはじめ、オーナーのグリグリさん、参加者の皆様、本当に有難うございました。


#三次会で歌った「豊原市制謳歌」ですが、少し噛んでしまったのと、一部に歌詞がうろ覚えの部分があったため、この場をお借りして1~4番の歌詞を書いておきます。(音楽テープを聴くと五番まで歌われていますが、歌集には載っていないため、五番の歌詞は割愛します)

【豊原市制謳歌】昭和12年
一、
北斗を仰げ北のはて ねいき巷に満ち満ちて
ようようにみめぐみ まつところ
市民われらに希望あり おーおー おーおー
荒茫と極みなき 希望の都 豊原市

二、
鈴谷の眺め水清く 若き命を生みいずる
みいまのしおの よぶところ
市民われらに光あり おーおー おーおー
発瀬(はつらつ)とほとばしる 光の都 豊原市

三、
累々満てる天産の 光輝く朝あけて
共栄の旗 ゆくところ
市民われらに力あり おーおー おーおー
隆々と盛りあがる 力の都 豊原市

四、
日々のみいずみ潤いて 殖産興業日に進み
世紀の嵐の 吹くところ
市民われらに誉れあり おーおー おーおー
洋々と拓けゆく 誉れの都 豊原市


 
[62450] 2007年 11月 9日(金)23:35:19ニジェガロージェッツ さん
いつもながらの遅レス2題
いよいよ明日は楽しみに待った福岡オフ会です。明日は午前中いっぱい仕事で、新神戸を13時を過ぎてからの新幹線で博多を目指します。幹事役のかぱぷうさんをはじめ皆様、お世話になります。
さて、出発を前に、いつもながらの遅レスにて恐縮ですが、オフ会を心残りなく楽しむためにも、宿題を済ませておきましょう。

[61689] 伊豆之国 さん
西伊豆町の田子地区に、「唐太(からふと)」と呼ばれている地区があります。
西伊豆に「カラフト」ですか。これはこれは面白い地名をご紹介くださり有難うございました。
西伊豆の「カラフト」の由来としてリンク頂いたページによれば、岩礁(=カラ:マライ語由来など諸説あり)の先端が太くなっている地形から付けられたとのことですが、
一方の北海道の北にある大きな島を「カラフト」と呼ぶのには大きく分けて2説あるようです。このあたりは雪の字さんやIssieさんがご専門かと思いますが、ちょっとメモ代わりに書いておきます。

【アイヌ神話説】
社団法人全国樺太連盟のサイトに樺太の名前の由来として紹介されていますが、アイヌの伝説として、神が生んだ大きな島を北海道と樺太の二つに割る国造りの伝説から、それをアイヌ語で「カムイ(神)、カラ(造る)、プト(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)」と言い、その「カラプト」に「唐太」の字を当てたとする説。
なお、この説はロシア語のウィキペディアの記事Южный Сахалин(南サハリン)にも樺太の由来として引用されています。但し、出典は?で問われています。

【唐人説】
江戸時代に大層重宝がられた清国産の衣服を「蝦夷錦」と呼ばれることに代表されるように、日本と清国を結ぶ「北のルート」、山丹(現在のロシア領ニジニ・アムール地域で、元は清国領)―樺太―北海道を経由する山丹交易が存在したことから、樺太のことを「唐人」「唐太」と呼んだとする説。
更に時代を遡れば、大陸ではモンゴル系の元朝の時代、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)に続く「第3の元寇」とも言うべき、1286年の樺太上陸にはじまる元軍の侵攻で1308年には樺太の諸種族の抵抗を排除し、一部の歴史ロマンには次は北海道へ上陸する戦略があったかとも推測されている「北の元寇」の歴史もあり、この島の中国大陸とのつながりの深さを物語っています。

蝦夷地を北海道に改める際、北蝦夷地=カラフトについては「唐」の字は清国をイメージすることから国内の地名としては好ましくないとのことで、「樺」の字を与えて「樺太」としたとのこと。

どちらの説もなるほどと感じさせるものがありますが、まあ敢えて一つに絞る必要もないのかも知れません。西伊豆のカラフトと北蝦夷のカラフト、どちらも「唐太」の表記が出てくるのは、やはり偶然の一致でしょうか。

伊豆とロシアの関係といえば、幕末の伊豆近海でのロシア軍艦座礁事件と、その代替艦の建造が戸田港で行われたことです。
1854年に下田で結ばれた日露和親条約とその顛末ですが、その時のロシア側の全権代表はプチャーチン提督(Е. В. Путятин)で、安政の大地震の津波により大破し、その後沈没した船はフリゲート艦ディアナ号(фрегат Диана)でした。プチャーチン提督の肖像と津波を受けて転覆するディアナ号を描いたロシアの絵画がこちらのページに載っています。
新造したスクーナー帆船ヘダ号(шхуна Хэда)については歴史小説になっています。「ヘダ」と題したこの本はソ連時代1979年に出版されています。表紙の絵が何とも当時の伊豆の様子を表しているようで好感が持てます。
#どちらもロシア語のページですが、絵だけでも楽しんでいってください。


[62273] まがみ さん
私も地名由来?のニックネームではあります。実際とは「読み」が違いますが…。人口は、9,941人。2007年6月末現在、高槻市真上町一丁目~六丁目の合計人口
これはこれは大変なお人が漏れておりました(笑)
読み方が違うことも含めて昔どこかでお聞きした記憶はあったのですが、改めて探してみると4年半前の貴稿[13150]にしっかりと書かれていました。失敬いたしました。

拙稿[61343]には、まだまだ漏れがあるようで、いつもながらの詰めの甘さ、恐縮しております。
[62325] 2007年 11月 1日(木)01:51:09【1】ニジェガロージェッツ さん
Re:神戸市西区
[62321] 小松原ラガー さん
今期(今月?)の神戸市西区の増加って一過性のものではありませんか?(中略)
ここ2~3年程度は都心回帰というか、西区、垂水区はむしろ現状維持、もしくは人口減の方向に向かっていたかと思うのですが・・・。
酔った勢いで子供に変な先入観を植えつけてもらっては困ります(笑)
人口減少区の垂水区と、人口増加区の西区を一緒にしてはいけません。
ですが、西区についても[62320]ドラえもんさんの言うような、
30万人越えももう間もなくというところです。
は、ありえません。
「間もなく」をどの程度の年月を想定しているのかは本人に聞かなければわかりませんが、西区の直近5年間の人口増加数は修正値ベースで8,846人、年平均すると1,769人にすぎません。
仮に甘く見積もって、年平均2000人の人口増が見込まれるとしても、
(300000-248000)÷2000=26年。これって「間もなく」ですか。これを「間もなく」と言ってしまうと、私は「間もなく」71歳になってしまいます(笑)
私の勘ですが、西区の場合、人口26万(多くても27万)ぐらいで頭打ちになるのではと感じています。

震災後の各年10月1日現在の人口データを出しておきます。出典/神戸の統計
年月北区の人口垂水区の人口西区の人口データの性質
平成7年10月230,473240,203222,163国勢調査結果確定値
平成8年10月231,500235,672228,932推計人口修正値
平成9年10月230,454229,440234,118推計人口修正値
平成10年10月228,131224,711235,580被災地人口実態調査結果
平成11年10月226,781225,681235,743推計人口修正値
平成12年10月225,184226,230235,758国勢調査結果確定値
平成13年10月224,853225,361237,597推計人口修正値
平成14年10月224,775225,037239,315推計人口修正値
平成15年10月224,847224,873240,698推計人口修正値
平成16年10月225,480223,565242,117推計人口修正値
平成17年10月225,945222,729243,637国勢調査結果確定値
平成18年10月226,207221,319246,201推計人口
平成19年10月226,440220,546248,161推計人口

平成8~9年より平成11年までは震災後の仮設住宅の撤去の影響もあり、垂水区で大幅な人口減、西区でも増加の鈍化(新規開発地の人口増と仮設住宅撤去による人口減が相殺される)が見られるのが特徴です。
[62240] 2007年 10月 26日(金)22:00:23ニジェガロージェッツ さん
一桁の疑問
[62230] 千本桜 さん
興味深い出荷額と人口のデータ、有難うございます。
横レスにて申し訳ありませんが、相模原市のデータ
相模原市  140,516,349万円  703,717人  1,997万円
一桁間違っていませんか。

相模経済新聞の記事には、「1兆4千500億円」とありますから、千本桜さんの出荷額データを尊重すると、
相模原市 140,516,349万円 703,717人 200万円 が正しいのではないでしょうか。
[62005] 2007年 10月 16日(火)23:19:46ニジェガロージェッツ さん
神戸での相互乗り入れ
[62000] 小松原ラガー さん
あれ、そう言えば、阪急電鉄としては三宮から神戸市営地下鉄山手線と乗り入れて西神中央を目指していたのではなかったっけ?

むしろ、この阪急阪神HDへの株式譲渡で、阪急の神戸市営地下鉄乗り入れ構想は進みそうな気もします。

阪急としては、阪急春日野道―三宮間を地下化し、現在の阪急三宮駅を廃止。神戸市営地下鉄に連絡してニュータウンの西神中央と大阪・梅田を結ぶ構想(神戸新聞・04年7月22日付け記事)ですが、そのネックとなっていたのは、実現すれば神戸市の第三セクターである神戸高速鉄道の新開地駅まで乗り入れている阪急の撤退からの神戸市の難色にありました。
神戸市には、その他にも地下化される阪急線建設への事業費負担、阪急乗り入れによる三宮―新神戸―谷上間の運行本数の減少がありますが、この株式譲渡により、「反対勢力」たる神戸市が神戸高速鉄道から抜けることになり、すでに実現した阪急と阪神の経営統合を合わせ、いよいよ時期が熟してきつつあるとの印象を持ちました。
神戸高速鉄道線には阪神を、市営地下鉄線へは阪急、の色分けが決定付けられたように感じます。
[61873] 2007年 10月 13日(土)11:16:50ニジェガロージェッツ さん
ご自身で解決を
[61865] YSK さん
レス有難うございました。[61865]を書かれるにあたっては、よほど思うところがあってのことと察します。
拙稿[61863][61826]につづき、YSKさんには厳しい物言いになってしまい、またYSKさんならずとも、ご気分を害された方もいらっしゃることと思います。その点は、申し訳なく感じております。


思えばYSKさんとは、2003年には神戸・長田にも足をお運び頂き、また私を両毛への旅に誘っていただいたりと、本当に良い青年とお知り合いになれたと、率直に喜んでおりました。

そういう背景もあり、友人としても、今回は敢えて心を鬼にして申し上げます。

オフ会に関する書き込みだけではありませんが、他人を怒らせたり、また迷惑を掛けてしまったと思われるのであれば、まずなすべきことは、その怒りを癒してもらうように対処するのが先決です。
「申し訳ございません」と言いながらも、自分の心情を一方的に相手に吐露して理解を求めるやり方は、あまり上手な事後対応には感じられません。
また、その後も「一から出直すつもり」で、まるで何もなかったかのような今までどおりの頻度で書き込みを続けるのは、場合によっては、相手に拒否反応を増幅させるだけのものになる恐れさえあります。

「落書き帳で、自分は認められているのだろうか?仲間はずれにされていないか?」といった不安にさいなまれて、その気持ちを押しとどめられなくなると、皆さんに迷惑をおかけするような発言に至ってしまうように思います
「認められていない」と感じられるのであれば、認めていただくように精進するしかありません。また、ここはリアルの実生活の場ではありません。仮に「認められていない」としても、それがどれほどの不都合を生じるのでしょうか。
私には、YSKさんの[61865]を読んでの感想として、余りにも自己中心にしか物事を見ていないと感じざるを得ませんでした。

私がちょっと変な方向の発言をしたら、「きっとこいつは不安になっているな」と受け止めていただき、適切な方向へお導きいただければ、幸いです。
それはご自身の心の問題です。他人が立ち入れる筋合いのものではないと私は考えます。
少なくとも、私にはYSKさんを適切な方向へ導くことなど、出来ることのようには思えません。
敢えて私見を申し上げるとすれば、何か変な書き込みをしそうであれば、心が落ち着くまで、書き込みを控えていただく他はないと思っています。


皆様、本当にお見苦しい粗末な物言いを続けて申し訳ございません。
YSKさんへの地理には関係ないメッセージはこれを最後にしたく存じます。
[61863] 2007年 10月 13日(土)00:27:08【2】ニジェガロージェッツ さん
アドバイスを超えてしまったようで恐縮です
[61861] オーナー グリグリ さん
第十七回十番勝負いつもながらのご盛況、ご同慶の至りです。小生今回も参加できずにおり、申し訳なく感じているところです。
現在微力ながらも都市人口のデータの整理を続けており、都道府県の範囲を超えた某国(笑)のデータですが、ネットの世界では小生以外にこのようなことをやっている人はいないようで、思いもよらないような機関や組織から問い合わせがきたりで、何か使命感のようなものまで感じるに至っております。
そんなこんなで、今回も十番勝負は静観にて失礼いたしておりますが、機会があればそのうち参加させていただきたく思います。
(恐らく、十に一つも当たらない誤答の山を築くことになりそうですが・・・)

#らるふさん、ニジェさん、お気遣いありがとうございました。
オーナーのこの一言で、救われたような気がいたします。
実際に[61826]を投稿するに当たり迷いがありました。特に十番勝負のお祭りの盛り上がっている時期でもあり、あまり無粋なことを書くのもこの場の雰囲気に水を差すようで、気が進みませんでした。
ですが、ドラえもんさんや日本人さんに対して、アドバイスのつもりでも相当厳しい注文といいますか書き込みをしてしまい、その一方で、たとえ三十路を過ぎた青年とはいえ、明らかに変な書き込みをされる方がおられると、やはり一言お伝えしなければならないような気がして、僭越ながら投稿させていただいた次第でした。
[61822]を書かれたらるふさんも、相当嫌な思いがあったことと察しております。「ア・イ・シ・テ・ル」という言葉も度々一方的に言われると、正直なところ気味の悪いものを私も感じておりました。

さて、いよいよ第四回福岡オフ会開催までひと月を切りましたね。
幹事役をお引き受けされたかぱぷうさんが精力的に、そつなく下準備をされ、盛況が目に見えるようです。福岡行きが今から楽しみです。

厳しい注文ついでに、大きなお世話になりますが、ひとつだけお願いをしたく存じます。
第二回神戸オフ会に際しては、[44957]
関西に来ているにもかかわらずオフ会には参加しておりません。
第三回金沢オフ会に際しては、[54320]
オフ会についても参加することはないでしょう。皆さんとお会いすることももうないと思います。
などという書き込みは、今年こそ控えていただきたく思います。開催に尽力された世話役の皆様をはじめ、楽しいひと時を過ごされた参加メンバーに対して、大変に非礼な言葉です。
[61826] 2007年 10月 11日(木)03:12:01【2】ニジェガロージェッツ さん
スルーできませんでした
私は今回の一連の[61343]に始まる日本人人口の件で、初めて日本人さん、ドラえもんさんご両名とレスを交わしましたが、こちらがきちんと伝えたいことがまともに伝わらず、特にドラえもんさんには妙なところだけ変な形で引用されレスを付けられ戸惑いました。
いちいち反論するのも大人気ないこととスルーするつもりでおりましたが、やはり伝えておくべきだと考え、以下に記します。

[61501] ドラえもん さん
しかし、ニジェガロージェッツ さんは、「日本国内の日本人人口(有効数字千人まで)」と書きながら、
日本人人口=125,730,148+482,341×125,730,148÷127,285,653=126,206,595人
を書かれているので、

この部分、文面からは私ニジェが「有効数字千人まで」としているところを、1人単位の数字まで書いているのに首を傾げているかのような印象を受けます。
ですが、「日本国内の日本人人口(有効数字千人まで)」としているのは、[61343]に引用した2006年10月1日現在の推計人口であり、
「日本人人口=125,730,148+482,341×125,730,148÷127,285,653=126,206,595人」
としたのは、[61459]に引用した2005年10月1日現在の国勢調査人口に基づいての計算です。
まったく違うデータに関する備考をひっつけて、コメントするのは論外です。

そして、更に
このニジェガロージェッツ さんの算出された人口(国内)と自分の算出した、人口(国内)を比較してみると、約100万人の差が出来てしまいます。
と続きましたから、結局はドラえもんさんはご自身の導き出したデータと、[61459]にて私が導き出した126,206,595人との差についての謎を言いたかったことと読み取れます。
この謎については[61510]中島悟さんが的確にフォローしてくださったので、ここでは「謎の解明」を繰り返しませんが、この一件を見ても、また他の皆様へのレスを見ても、ドラえもんさんは他人の書いた記事の意味が理解出来ておらず、そのうえ、記事の引用の仕方も理解していないのではないかと感じました。

ですが、ドラえもんさんはまだ若年でおられることから、これからいろいろな事を学び経験していく中で、数年の時間は掛かるかもしれませんが、これらの間違いや行き違いはご成長とともに解消していくものと思われます。
ですから、他の皆様からのアドバイスにもあるように、レスを急がず、ドラえもんさんに対して書かれた記事をよく読んで理解をする習慣をつけていただきい。そして理解が出来ないのならば、記事のどの部分が分からないのかを率直に尋ねられると良いかと思います。


[61486] 2007 年 10 月 3 日 (水) 11:05:02 YSK さん
先ごろ、個人的に悲しい出来事がありまして、気持ちを察しますとかなりつらい気持ちになってしまいます・・・。今はゆっくりと休まれ、いつかまた復帰していただけることを願って止みません・・・。
大変お気の毒な内容ですが、どなた様のことをおっしゃっているのか分かりませんでした。
書き込みの時間も普通の社会人であれば勤務時間内のことでもあり、よほどの緊急事で、また「落書き帳」に書かれるからには、ここのメンバーなり関係者のことかとも思いましたが、どうやら「落書き帳」とは無関係の芸能界の方のようですね。
書き込みをするのであれば、何ゆえ誰のことかを明記されなかったのでしょうか。
誰のことかを触れたくないのであれば、そもそも書き込みをされる必要があったのでしょうか。
その一方で、[61822]らるふさんへのメッセージは「落書き帳」には投稿されず、[61825]にて言葉を濁したうえでご自身の掲示板へ誘導しようとなされる、私には理解が出来ません。
「落書き帳」に書けない内容ならば、また、メールでしか伝えられないような内容ならば、一層のこと何も書かないという選択は出来なかったのでしょうか。
ここでは「申し訳ありませんでした」としながらも、「場外」で自己弁明に終始するのは傍目に見ているだけで不愉快になります。
[61561] 2007年 10月 7日(日)19:50:12ニジェガロージェッツ さん
再決着
[61556] Issie さん
ドラえもんさん が「決着がついていない」と感じているなら,それはそれで悪いことだとは思いませんよ。

確かに、おっしゃる通りです。
ただ、例えば[61535]について、人口数についての問題だけであれば、その数値だけを書いて、出典へのリンクを添えておけばそれで済む事です。
ですが、[61535]を書くに当たっては数値そのものよりも、その数値の導き方(つまりネットでの見つけ方)と、その数値の背景(どのような性質の数値か。外務省はどうやって調査したか)に重点を置いて、ややしつこいほどの説明させていただいたつもりです。
それを、ドラえもんさんは[61537]にて、全体の数値にのみコメントなされ、さらに[61547]にて「まだ決着がついていない」とこられましたから、私としては、大人げないのですが、「いったい何が?」と感じた次第です。

ドラえもんさんへ
拙稿[61555]を受けて、訂正機能を利用して貴稿[61547]の引用部分
(まだ決着はついていないようですけど。)
を削除された上で、私へのレスを書かれておられますが、このような記事の訂正は混乱を招く恐れがあります。この場合には、Issieさんへのレスも含め、新たな記事として投稿されることをおすすめします。
なお、書き足された拙稿[61555]に対してのレスの趣旨については、了解です。
時間は掛かってもかまいませんから、急がずに、これからも頑張ってください。
[61555] 2007年 10月 7日(日)18:36:18ニジェガロージェッツ さん
まだ何か不足ですか?
[61547] ドラえもん さん
(まだ決着はついていないようですけど。)

これは人口についての話について言っていますか?
私としては、日本在住の外国人の人口については[61478]にて、海外在住の日本人人口および内外日本人総人口については[61535]にて決着をつけたつもりですが、「まだ決着がついていない」とは何についての決着がついていないのでしょうか。

それとも[61478][61535]については、大半の落書き帳のメンバーにはわかりきっていると思われる事を、できるだけ丁寧に述べたつもりですが、それでもご理解いただけないと解釈してよろしいでしょうか。

私としては、この件、これ以上の書き込みをする意志はありませんので、ご自身のご納得いく形で、ご決着をつけて頂ければと思います。
[61535] 2007年 10月 6日(土)22:26:35【1】ニジェガロージェッツ さん
内外日本人総人口
[61501] ドラえもん さん
外国在住の日本人の人口について、だいたいの結果が出たようですね。データの収集お疲れ様でした。
[61510] 中島悟 さん
適切なフォロー有難うございました。お手数をおかけしました。

小生からもこの辺りで、この件を「総括」と言うほど大袈裟ではありませんが、おさらいしておきたく存じます。

元々は拙稿[61343]に引用した「日本人人口」について、総務省統計局から公表されている平成18年10月1日現在推計人口のうち、日本人人口男女計総数 126,154千人をそのまま引用したことから、果たしてこの数値に外国に住んでいる日本人は含まれているのかどうかという疑問をドラえもんさんが持たれたことに始まりました。
そもそも「日本人人口」と言うからには、日本人は日本国内にのみ住んでいる訳ではなく、外国にも数多く住む日本人を含まないデータでは不正確ではないかと言うことでしょう。
地理好きであるならば当然の疑問で、ドラえもんさんの問いかけには敬意を表します。

で、確かにその通りなんですが、小生は[61343]を書くに当たって、それぞれの数値(人口)は一つの出典からのみのデータにしようと決めていました。
これは、国内のみを対象とした平成17年国勢調査をベースにした国内の推計人口と、外務省が各国に配置している大使館や領事館を通じて把握している在外邦人の人口数という、全く性質が異なると思われる2つのデータを合計したところで、これまた正確なデータとはいえないとの判断からでした。
*(本稿の最後に、この判断を覆します)

[61441] ドラえもん さん
その人口調査には日本人人口は外国にいる日本人の人口は含まれているんですか?
この人口調査は平成17年国勢調査をベースにした国内の推計人口ですから、外国にいる日本人の人口は含まれていません。
但し海外滞在期間が90日以内の出入国者は、外国に居る者とは見なさずに日本に常住していると見なされ、仮にその調査時点で外国に居住していても、日本国内の人口としてカウントされています。

このように、国内の日本人人口は前出の2005年10月1日現在のものは「平成17年国勢調査」、2006年10月1日現在のものは「平成18年10月1日現在推計人口」に出ています。但し平成17年国勢調査の日本人人口には[61459]にも書きましたが、年齢不詳人口が含まれていません。

では、外国に住む日本人の人口のデータはどこにあるのか。
[61501]にてドラえもんさんは外務省の平成12年の海外在留邦人数調査統計に行き着き、既にお気づきとは思いますが、外務省にデータがあります。

海外に3ヵ月以上滞在する場合は、その国にある日本外務省の出先機関である大使館や領事館に在留届を提出する義務があります。小生もロシアのニジニノヴゴロド市に住んでいたときは、そこを管轄するモスクワの在ロシア大使館に在留届を提出しておりました。
もちろん、在留届の存在を知らなかったり、届出を怠る人もいるでしょう。その人の場合は外務省の認知外のこととなってしまい、その国にその人が住んでいることは知られませんから、原則的には滞在者人口のデータには上がらないことでしょうが、外務省では調査に際して
在留届を提出していない邦人もいるので、日系進出企業、日本人会、邦人研究者・留学生が在籍する大学、研究機関、各種学校に調査票を配布し、協力を求めた。
とあり、世界各地に在留する邦人の実態について大部分を把握したと考えられています。

そのようにして推計された海外の日本人人口は、
外務省のHPから、
→「渡航関連情報」→「統計」→「海外在留邦人数統計」を辿って詳細なデータを入手することが出来ます。
それによると今現在の最新のデータは、2006年10月1日のデータで、
3ヵ月以上の長期滞在 735,378人、永住 328,317人、合計 1,063,695人と出ています。

さて、この 1,063,695人というデータは
(1)2006年10月1日のデータである。
(2)3ヵ月以上の長期滞在と永住者のもので、3ヵ月未満の短期滞在者は含まれていない

ということは、日本国内の日本人人口として[61343]にて引用した 126,154,000人というデータも
(1)2006年10月1日のデータである。
(2)海外滞在期間が90日以内の短期出入国者は、日本国内の人口

ですから、この2つのデータはその趣旨は全く異なるものの、性質としては概ね一致しており、この2つを合計してもそれほどの不都合があるようには感じられません。

ゆえに、2006年10月1日現在の内外日本人総人口は、推計人口の有効数字千人に合わせて、
国内 126,154千 + 海外 1,064千 = 127,218千人 と推測されます。


蛇足ですが、[61459]にて総務省統計局の概要を引用したように、日本の人口は
総人口は1億2777万人となっており,前年に比べ2千人(0.00%)の増加
日本人人口は1億2615万4千人で,前年に比べ5万1千人減少
とあることから、この1年前の2005年10月1日現在の内外日本人総人口は
国内 126,205千 + 海外 1,013千 = 127,218千人 と推測されます。

ということは、日本は2005年に人口減少社会に突入したと言われていますが、実際には2006年10月までの1年間では
・日本国の総人口は(国内日本人の減少があるものの外国人の増加により)2千人の増加
・内外日本人人口総数は(国内日本人の減少と海外在留者の増加が相殺され)±0
であると、ニジェ的には推測します。
[61483] 2007年 10月 3日(水)02:15:38【1】ニジェガロージェッツ さん
レス2題
[61467] 日本人 さん
外国人を含めたやつなので、日本人とは言えない人も入っているから認めていないわけですね。
どうも、解釈がずれています。
また、「外国人を含めたやつ」とか「日本人とは言えない人」という表現を外国の人が見ると、本当に気分を害されますよ。

私の言いたかったことは、[61442]Pachiさんが簡潔に仰っておられますが
統計としての性質が違うのに、軽軽しく100万人も人口が減っていますという事は宜しくないのです。
ということです。

本稿に対するレスは同じことの繰り返しになりますから、無用に願います。


[61456] ペーロケ さん
京津: 228,000 「京阪京津線」等
京津については、北京-天津を意味する場合が多い(昔は「平津 =北平-天津」の方が通りが良いかも)ですから、[61471]MasAkaさんに倣って、除外しておいた方が良いでしょう。
北京と天津を「含めない」キーワードに入れて検索すると、73,200件に激減しました。
[61478] 2007年 10月 3日(水)01:21:41ニジェガロージェッツ さん
外国人人口
[61468] ドラえもん さん
最新資料では197万人(2004年)だったので、今現在なら200万人を超えているかな?それと、ニジェガロージェッツ さんの人口とはかなりのずれが有るようですが、これは何故でしょう??

[61448]中島悟さんのアドバイスもあり、ドラえもんさんご自身でデータの収集にチャレンジされておられ、結果が出つつあります。それに横槍を入れる意図はありませんが、元々は拙稿[61437]へのレスに始まったこともあり、この点だけはフォローしておきます。
この人口データのずれは、趣旨の異なるデータを比べてはいけないことの好例でもありますから。

まず、[61468]にもリンクが出されている、外国人登録者数の推移の資料として、法務省「外国人登録者統計」と、出典が明記されていることに留意ください。
(外国人の出入国を管理しているのは、法務省入国管理局です)
法務省のHPの左欄のメニューに「白書・統計」があり、それを辿ると、
「出入国管理関係」→「関連統計」→「外国人登録者統計について」
があり、「平成18年末現在における外国人登録者統計について」と題されたファイルが閲覧できます。
平成18年末現在の外国人登録者数は 2,084,919人とのデータがあります。

一方、拙稿[61459]にも引用した、平成17年国勢調査における外国人人口は 1,555,505人です。
法務省入国管理局のデータで、この国勢調査に時期的に一番近いものは、平成17年末現在の外国人登録者数で 2,011,555人ですが、45万人ほどの開きがあります。

この差については、国勢調査の対象にあります。
国勢調査の対象としては、白桃さんの[58656]にもご紹介されているように、
平成17年国勢調査は,調査時において,本邦内に常住している者について行った。ここで「常住している者」とは,当該住居に3か月以上にわたって住んでいるか,又は住むことになっている者
詳しくはこのページに書かれていますが、3か月以内の短期滞在の外国人は調査の対象になっていないということです。
また、外国の領事機関の構成員や在日米軍兵士やその家族も調査から外されています。
この国勢調査を元に算出される推計人口においても、国内滞在期間90日以内の外国人は除かれています。

このように、外国人の出入国を管理している法務省入国管理局のデータと、統計目的の国勢調査や人口推計におけるデータとでは、その目的も算出方法も異なっています。
ご参考まで。
[61459] 2007年 10月 2日(火)02:40:36【1】ニジェガロージェッツ さん
日本人人口の減少数
[61440] hmt さん
[61442][61445] Pachi さん
[61451] Issie さん
適切なフォロー有難うございます。

元々は拙稿[61343]の、「ニックネームの人口圧力」と名付けた「おふざけ」ネタでしたが、そこに日本人の人口データと、その備考として「日本人人口(有効数字千人まで)」と書いたのが誤解の元でした。
備考欄には、もう少し丁寧に「日本国内の日本人人口(有効数字千人まで)」と書いておけば、日本国総人口と日本人人口の違いが誰にでも判り、今回の百万人人口減という、とんでもない明らかに間違ったレスはつかなかったと思います。
出典を明記していた上、元々がちょっとした「おふざけ」のつもりの投稿であったために、小生の油断が生じた格好になり、その点は反省しております。

日本人さんの[61366]にて、百万人減ったというレスを見たとき、その間違いの性質は日本国総人口との混同によるものであるとの想像はついていました。
ですが、勝手に決め付けてしまうのも如何なものかとも考え、[61426]にて比較の対象となったデータの提示を求めたのですが、その間違いに気づかず[61435]にて堂々と切り返してこられましたので、[61437]の書き込みに至った次第です。

[61451] Issie さん
統計データは,ときどき人をだまします。…というよりも,統計データを利用する側がそのデータの性質をきちんと理解していないと,だまされてしまいます。

誠に的を射た、見事なご指摘です。

Issieさんと違い、小生はこの分野には学識がなく、単に趣味の範囲で人口統計を眺めているだけのことですが、できる限り複数の統計を入手し、その違いから統計の性質に注意するようにしています。

日本国総人口と、日本国内の日本人人口、外国人人口を収録した平成17年国勢調査の諸統計書では、
総人口は「第1表」「第3表」によれば 127,767,994人ですが、「第4表」では 127,285,653人となっています。
その差 482,341人。
しかし「第3表」を最後まで見ていると、年齢不詳人口として、この 482,341人が出ており、これで一つの謎が解決します。

さて、「第3表」によれば日本人人口は 125,730,148人。
「第37表」によれば外国人人口は 1,555,505人。
総人口=日本人人口+外国人人口、と思いきや、125,730,148+1,555,505=127,285,653人。
あれれ・・・、482,341人、少ない!
何のことはない、総人口=日本人人口+外国人人口+年齢不詳人口 だと判ります。

なお、利用上の注意によれば、
「年齢不詳」については,第1表,第2表及び第3表においては集計対象とし,他の表においては集計から除外した。
とあり、「謎の種明かし」がされています。

このように、「第3表」日本人と「第37表」外国人には、年齢不詳人口は含まれていませんから、不詳人口は日本人と外国人の割合で便宜上按分しましょう。そうすると、
日本人人口=125,730,148+482,341×125,730,148÷127,285,653=126,206,595人
外国人人口=1,555,505+482,341×1,555,505÷127,285,653=1,561,399人

ここまで下準備をした上で、拙稿[61343][61437]に提示した、平成18年10月1日の
総人口127,770千人と、日本人人口126,154千人
とを有効数字に合わせて比較してみましょう。
平成17年10月1日から平成18年10月1日までの人口増減は、
総人口 127,770千-127,768千=+2千人
日本人 126,154千-126,207千=-53千人

これで、すこし誤差は生じましたが、平成18年10月1日現在推計人口―概要にある、
総人口は1億2777万人となっており,前年に比べ2千人(0.00%)の増加
日本人人口は1億2615万4千人で,前年に比べ5万1千人減少
におおよそ符号します。

なお、これら統計書における「日本人」の定義は、「日本国籍を有する者」です。
ですから、大相撲で「モンゴル人力士」と総称されていても、日本国籍を取得している旭天鵬関は日本人であり、取得していない朝青龍関は外国人(モンゴル人)になります。
[61437] 2007年 10月 1日(月)09:58:14【1】ニジェガロージェッツ さん
データの取り扱いには、くれぐれもご注意下さい
[61435] 日本人 さん
データの取り扱いには、ご注意下さい。データの、それも増減の比較には、同じ趣旨で集計されたものを比較しないと、意味はありません。

2005年10月1日に実施した国勢調査(確定値)で,前年度から2万2000人割り込み、1億2776万人となりました。

それは日本の総人口です。
私が[61343]に提示したのは、日本の人口のうちの日本人の人口。当たり前のことですが日本には日本人だけが住んでいるわけではありません。
[61343]には、出典として総務省統計局による平成18年10月1日現在推計人口をリンクしておいたのですが、それをご覧になりましたか。
エクセルを装備していないPCでは閲覧できないので、その場合は仕方ありませんが、総人口127,770千人と、日本人人口126,154千人が併記されています。

安易に国勢調査における日本の総人口と、推計人口の日本人人口とを比べて
100万人以上減ってますね。
などと結論付けるのは、おやめ下さい!!!
[61426] 2007年 9月 30日(日)22:27:03【1】ニジェガロージェッツ さん
まとめレスにて恐縮
[61291] かぱぷう さん
福岡オフ会の幹事役、ご苦労さまです。まだひと月あまり先ですが、今からオフ会が楽しみです。メーリングリストで参加予定者を拝見していると、二年前の神戸オフ会にご参加くださった皆様が多く、嬉しい限りです。
「福博」についてのレス、有難うございます。
福岡と博多が合体した様子が良く分かる明治43年の福岡市地図を発見しました。この地図を見ていると、商人の街「博多」と、武家の街「福岡」の違いの名残がまだ残っていたように感じます。

これには爆笑しました!
爆笑していただいて、光栄です(爆)


[61366] 日本人 さん
2番目に多いのですね。
確かに一番は「地球人さん」に掛かる地球人人口ですが、「自分は地球人である」と意識して暮らしている人は少ないと思います。
一方、「自分は日本人である」との帰属意識を持ち、またそれを誇りにしている人は大勢おられ、そういう意味で「日本人さん」は「一番重いニックネーム」を背負っていることを肝に銘じて頂ければと思います。

私は短いとはいえ海外での在住経験があり、日本人であることを常に意識しておりました。
ですから、「日本人さん」がこの落書き帳で粗末な書き込みをされて、指摘を受けて謝罪を繰り返すのを見せられるのは、そのニックネームに対しても決して愉快なものではありません。
素直に謝罪するのは大変良いことですが、謝罪を必要とされるような書き込みは、投稿の際にご一考いただければと願います。

年の人口最高の時から1000000人も減ってしまったのですね
日本人の人口が百万人も減っているのですか!
比較の基になったデータの提示を、以下の観点から願います。
1)「年の人口最高の時」とは何年の何月のデータですか?
2)データの出所(出典)は何ですか?

この落書き帳は、ちょっとしたデータベースにもなっていると思います。
雑レスとはいえ、「落書き帳」を通じて意味不明のデータが発信されるのは看過できません。


[61370] スピカ さん
スピカ おそらく0 第12回国星調査? 全域が不可住地
いやぁ、これは完全に小生の見落としでした。一本とられました(笑)
[61363] 2007年 9月 29日(土)00:41:16ニジェガロージェッツ さん
「京」の意味する街は
[61297] 伊豆之国 さん
ところで関西在住・出身の皆さんにお伺いしたいのですが、

関西在住の皆様から、主に京都・奈良両都市の結びつきからの諸レスが続き、納得のいく説明がなされていると感じます。
同じ意見を繰り返しても面白みがないので、皆さんに続き「京奈」と言う呼称が定着していない現状について、別の側面からふと思いついたことがあります。
(ニックネームは遠くに置いていますが、一応、小生もどっぷり関西在住・出身なので)

一般に関西で「京」といえば即ち京都を指しますが、京都=平安京よりも古い歴史のある平城京を持つ奈良の人々にとって、「京」の文字が自分達の街を指すという意識は考えられないでしょうか。
三文字で「京阪奈」「京奈和」となれば(どちらも比較的新しい呼び名だと感じますが)、府県名の連名ということで奈良の人々にも受け入れられるとしても、京都との一対一で「京奈」と略されると、ちょっと心中穏やかではないところがあるのではないかとも感じます。

いずれも小生の雑感でしかありませんが、奈良に生まれ育った人は「京」の一字について何を連想するのかが気になるところです。
[61343] 2007年 9月 27日(木)23:44:27【1】ニジェガロージェッツ さん
ニックネームに掛かる人口圧力
落書き帳にメンバー登録されているニックネームに関しては、それぞれ色々な想い入れもあることと存じますが、今回は人口データから視点を当ててみたく思います。
2007年9月27日現在、登録208名のなかで、そのニックネームに関連して人口データが算出できそうなメンバーが、ざっと見たところ小生を含め約10名おられます。
人口が多いほど「大それたニックネーム」ということで、その「人口数を代表しての書き込みを心掛ける」ことを肝に銘じて・・・。(笑)

ニックネーム人口データの日付備考など
地球人さん6,628,429,9312007.09.27米国勢調査局、国連統計のデータから推計 出典
日本人さん126,154,0002006.10.01日本人人口(有効数字千人まで) 出典
花の東京都民さん12,787,9712007.09.01東京都推計人口 出典
ニジェガロージェッツ1,600,6092002.10.09露・ニジニノヴゴロド州の男性人口 出典
佐賀県さん859,0102007.08.01佐賀県推計人口 出典
ハンブルガーさん824,6861999独・ハンブルク市の男性人口 出典
伊豆之国さん426,1492007.09.01静岡県伊豆半島5市5町および三島市、函南町人口合計 出典
葵区さん262,7742007.08.31静岡市葵区住民基本台帳+外国人登録人口 出典
JOUTOUさん223,0562007.09.01東京都江東区のうち、旧城東区域の住民基本台帳人口 出典
太白さん220,7622007.09.01仙台市太白区推計人口 出典

各メンバーのニックネーム由来については精通しておらず、まだ漏れがあるかもしれません。その他、以下、ご容赦の程。

1)「ハンブルガー」さんに関しては、小生ドイツ語は分からないのですが、名詞に男女の区別があったと記憶しています。ニックネームは男性名詞と勝手に推測して男性人口のみのデータを探し、古い国連のデータにてお茶を濁しました。
なお、ハンブルク市の人口は2005年12月31日現在1,743,627人のデータがあります。 出典

2)「伊豆之国」さんについては「伊豆の国市」が存在しますが、ニックネームに敢えて「之」の字を充てておられることから、狭義の「伊豆の国市」ではなく、「伊豆国」のことと勝手ながら推察させていただきました。その「伊豆国」の範囲には、旧戸田村など現在の沼津市域を含みますが、人口データには沼津市域の人口を含んでいません。

3)12,787,971東京都民の中には、東京都に住んでいることを「花」だと思っていない人が居るかも知れません。

4)「足利人@伊勢原市民」さんについては、神奈川県伊勢原市民100,723人(2007.09.01 出典)のうち、栃木県足利市出身者の人口が該当するのでしょうか。さすがに公表外データのようで・・・

5)「三丁目」さんについては、全国津々浦々に存在する三丁目の人口を漏れなく摘出し、総合計することで人口データの算出は理論上可能ですが、どうかご容赦の程・・・・。
[61223] 2007年 9月 19日(水)16:59:02ニジェガロージェッツ さん
オフ会に行きたい^2
[61211] 2007 年 9 月 18 日 (火) 04:08:25 かぱぷう さん

ホークスが日本シリーズに出場した場合、タイガースほどではないにせよ「のぼせもん」が福博の街で大騒ぎすることが目に見えてます
福岡オフ会の幹事役ご苦労さまです。
「のぼせもん」とか「福博」とか、初めて目にする言葉が新鮮です。
こちら神戸でも「兵神」という言葉があるにはありますが、今では一部の企業名以外では完全に死語になっており、「福博」という言葉が生きている福岡・博多の歴史を感じます。

タイガース優勝には、大阪・道頓堀川への飛び込みが、恥ずかしいことですが恒例になってしまいました。福岡でも同様の「飛び込み」が発生するのでしょうか。ですが、福博の川底には投げ捨てられた使いきりのクラウンライターが堆積しているでしょうから、そのような所へ飛び込むのはいかがなものかと。

とはいえ、今から福博行きが楽しみです。
[61095] 2007年 9月 8日(土)22:19:47ニジェガロージェッツ さん
茨田
取り急ぎの事実関係のみ確認にて失礼します。

[61094] 伊豆之国 さん
この「茨田」は、「まつだ」と読むそうですが、
関西では比較的よく聞く地名ですが、読みは「まった」です。
[61016] 2007年 9月 3日(月)02:30:56ニジェガロージェッツ さん
まとめレスにて恐縮
数ヶ月前の記事へのレスもありますが、いつもながらの亀レス、まとめレスにて恐縮です。

[58258] 2007 年 5 月 3 日 (木) 00:11:22【2】 いっちゃん さん
中でもこれは感動モノです。70~80年代にそれなりの年齢だった関西人(関西系?)には堪りません
小生の名まで挙げていただいておきながら、反応出来ずにおりました。
自称「浪速のモーツァルト」ことキダ・タロー氏作曲のメドレーですが、キダ氏は今でも関西のメディアでは露出度が高く、ときどき曲を聞かされるので、特に「懐かしい」というよりは、「また相変わらず・・」というのが率直な感想でした。
70~80年代に関西に住み、その後関西を離れた方々には、確かに懐かしさがこみ上げてくるメドレーだとは思います。


[59382] 2007 年 6 月 23 日 (土) 22:26:22 雪の字 さん
ありました!「志の田うどん」が。それとは別に「きつねうどん」もありました。
(中略) 「きつね」と「しのだ」は、別物のようです。
[54256]むっくんさんのお話から、名古屋では「しのだ」はお揚げを短冊状に切って具にした饂飩、「きつね」はお揚げが一枚ものの状態で具にした饂飩のようですね。
ただ、
「このあたりは東西の中間という感じだから、店によっても差が激しいよ。二、三件のお店を見て、わかったような事を書いちゃダメだよ」
というご忠告からすると、これもお店によりけりでしょうか。(笑)
出汁の濃い淡いを含めて、名古屋では当たり外れが多いと覚悟しておかなければなりませんね。


[59578] 2007 年 7 月 1 日 (日) 22:49:53 小松原ラガー さん
北側を呼ぶ時には・・・恐らく「大池」、「唐櫃」、「花山」など、もっと細かい地名を使っているケースが多く、意外と「裏六甲」という言葉は使っていない状況です。
学生時代は六甲山系のハイキングを趣味としていて、いちいち距離を計算して付けていたのですが、二度の六甲全山縦走大会への参加を含めて4年間(昭和56~60年)の合計で1100kmほど六甲山系を歩きました。そういう経験から「裏六甲」という言葉についてですが、神戸電鉄沿線の住宅地には用いられていないと感じております。ですが、もちろん「死語」になっているとも思いません。
拙稿[42057]にも書きましたが、あくまで六甲山域(登山道関係や自動車道など)に限る、「六甲山脈の北斜面」としての意味合いのみです。
もちろん「表六甲」も同じで、山域のみの範囲で「六甲山脈の南斜面」との意味で、神戸旧市街地を表す言葉ではありません。
小生らは六甲山域を3分割して、「表六甲」「六甲山上」「裏六甲」と区分していました。あまり六甲登山に縁のない他人に説明する際には、「表六甲の油コブシ山」」とか「六甲山上の三国池」とか「裏六甲の地獄谷」といった具合に話をしていました。


[60913] 2007 年 8 月 30 日 (木) 10:06:43 稚拙 さん
ああ、「あのころの未来」っていうのは、そういうことなんだな、とわかりました。
「あのころの未来」ですか。確かに、あのころ(小生が中学生だった当時)から見た未来ですね。
しかし、そういうロマンチックな言葉は思い浮かびませんでした。稚拙さんのセンスに一本取られた感じです。


[58685] 2007 年 5 月 26 日 (土) 23:45:19 白桃 さん
[59385] 2007 年 6 月 23 日 (土) 23:55:08【1】 hmt さん
古い拙稿を思い出していただき感激しております。有難うございました。
今の小生は「書くことすべて書き尽くし」賞味期限の切れた状態を自覚しておりますが、当時はいろいろ変わったことを書いておりました。お恥ずかしい限りです。


[60942] 2007 年 8 月 31 日 (金) 20:30:39【1】 inakanomozart さん
そのほか街区符号の“渡辺”(久太郎町四丁目)とか“A・B・C”(上町)など、原則に必ずしもとらわれない大阪市の住居表示制度に対する柔軟な対応には、感心させられます。
確かに「渡辺」はユニークな回答と思います。
ですが、[7379]てへへさんの記事にもあり、まがみさんにはオフで地図を見せて教えてもらったのですが、同じ大阪市の鶴見区の焼野1丁目焼野2丁目浜5丁目諸口5丁目の街区番号の付け方は柔軟というより、奇怪です。
大阪市はどちらかと言えば、新住居表示実施に際して従来の町名を無視し、バッサリと纏めてしまったという印象があります。
神戸市は東灘区では随分派手にやりましたが(拙稿[15018]に関連記事)、旧市街地の他の区では、旧町名を出来るだけ尊重した形で柔軟に新住居表示を実施しています。


[60856] 2007 年 8 月 28 日 (火) 02:11:04 ペーロケ さん
最近は「過去ログにあることを書き込んではいけない」等、いい意味でも悪い意味でも敷居が高くなったような気がして
それは少し違うと思います。
過去ログにあることでも、別の視点からの書き込みであれば、大いに書いても良いのではないでしょうか。古い記事の投稿時点と今ではメンバーも違っていますから、全く新しい視点や別の解釈からの議論の展開も望めるかも知れません。
ただし、同じ話題であれば、過去にどのような記事のやり取りがあったかは「記事検索」で調べた上で、記事番号のリンクは最低限のマナーだと思います。その点、hmtさんなどの記事には過去ログへのタイトルまでつけてリンクしておられ、いつも感心させられます。

何につけても、書き込む場合には6万記事に及ぶ過去ログの中に「既に述べられている」と考えた方が良いと思います。最低限、キーワードとなる語句ぐらいは記事検索すべきと考えます。
記事検索には時々エラーが出る場合がありますが、うまくいくまで何度も繰り返せば良いだけのことで、記事の書き込みを急ぐ必要などはどこにも無いと思います。


[61001] 2007 年 9 月 2 日 (日) 19:12:00 グリグリ さん
第二回神戸開催でも地元のニジェガロージェッツさんに献身的な準備作業を行っていただきました。
いや、こればかりは、小生だけのことではありません。ご参加いただいた皆様のお力添えのお蔭です。第四回オフ会の成功を祈ります。


横レスになりますが、一言だけ。
[60971] 2007 年 9 月 2 日 (日) 01:17:21【1】 ペーロケ さん
そう、台湾を忘れていたんですよね。。。
台湾を忘れられると、「蛍の光」の4番が、歌えない。
[60910] 2007年 8月 30日(木)02:01:09【3】ニジェガロージェッツ さん
新住居表示実施前の大阪
いつもながら、レスが遅くなり申し訳ございません。

[60830] inakanomozart さん
また、大阪城の西に広がる東西の道沿いにつけられた町(道修町、平屋町など)も、現在の地図でみるかぎり、たしかに丁目区分は、3筋目ごとで250mほどになっていますね。
現在この辺りでは新住居表示が実施され(拙稿[7175]に関連記述あり)、以前は東区であったこのあたりの町丁目割がそれ以前のものとは違っているため、古い地図を見る必要があります。
小生の手元に昭和13年9月和樂路屋発行の「最新大大阪市街地圖」、および昭和48年1月昭文社発行の「エアリアマップ大阪区分地図」があります。昭和48年の地図も東区は新住居表示実施前で、拙稿[60826]もこれらの地図を計って書き込みしました。
東区については両地図に丁目区分の変化は無く、東横堀川の東(糸屋町、内本町、両替町など)では2筋ごとの丁目割で2丁目まで、東横堀川の西(道修町、平野町など)では1,3,4,5丁目は2筋ごとに、2丁目のみ3筋で丁目割が為されていました。なお、東横堀川は中央大通り(町名で言えば「船場中央」、但し昭和13年の地図では中央大通り開通前で「船場中央」という町名は存在せず)以南では1筋分東にずれており、唐物町より南の各町では1丁目が3筋分の長さになっています。つまり、
1丁目は東横堀川から堺筋の1つ東の筋まで。
2丁目は堺筋を跨ぎ、その1つ東の筋から2つ西の筋まで。
3丁目は堺筋の2つ西の筋から、堺筋の4つ西の筋まで。
4丁目は堺筋の4つ西の筋(=御堂筋の2つ東の筋)から御堂筋まで。
5丁目は御堂筋以西。但し西区との境界のブロックは南北に続く「横堀1~6丁目」という別の町。
となります。

なお、現在の新住居表示による町丁目割では、東横堀川の東では以前の町丁目割をおおよそ踏襲していますが、東横堀川の西ではinakanomozartさんの仰る様に、3筋ごとに改変されています。
地図を見れば東横堀川の西の丁目割を改変した理由として、
1丁目は東横堀川と堺筋の間とし、3筋(南本町以南は4筋)分に。
2・3丁目は堺筋と御堂筋の間の6筋分を2等分し、3筋ごとにする。
4丁目は御堂筋以西、西区との境界までとし、「横堀」は各町の4丁目に吸収。
と、「機械的」に「わかりやすく」したのでしょう。

この辺りの市街はこの1筋がおおよそ90mおきに通っていますから、長さの単位「町/丁=109.09m」から見れば、ちょっと短めで中途半端です。

[60843] Issie さん
これらの具体的な値は地方や時代によって違いがあるのが普通だと思います。今,私たちが知っている 1町=109.09m という値は,明治になって統一され,しかもメートル法と関連づけた値ですね。
のお話からすると、大阪ではこの90mというのが、昔の「大坂規格」だったのかも知れません。
となれば(推測の話から結論付ける、あくまでも小生の私見ですが)、大阪の丁目は距離の「1町/丁」とは関係なく付けられていると言えるかも知れません。
[60851] 2007年 8月 28日(火)00:34:09【1】ニジェガロージェッツ さん
デッドスペースには枝番を
[60824] ペーロケ さん
レスが一日遅れになり、申し訳ございません。昨夜[60826]を投稿した時点で貴稿[60824]には気付いてはおりましたが、時間と体力切れですでに限界でした。
小生は「落書き帳」レビューから5年を経ましたが、この5年間の流れをひと通り知っており、また最近の疎筆も手伝ってか、書き込みには非常に緊張します。書き込みをせずにROMしているここ数ヶ月の方が「落書き帳」とのお付き合いはずっと楽でした。そういう意味では、新しくメンバーになられた方々のほうが、良い意味でも悪い意味でも思いついたことを気軽に書いているなと感じます。

さて、本題。

ただし、街区方式による住居表示では区画整理された土地ということが必ずしも必要条件ではありませんが、この方式ではある程度区画が整理されていないと、通りに面していない「デットスペース」が発生するため、適用できる範囲はかなり限定されるでしょうが。
「街路方式」による住居表示でも、通りに面していない「デッドスペース」でも、基本的にナンバーを与えることは可能です。
極論になりますが、いかなる通りにも面していない「デッドスペース」になど、建物が存在するでしょうか。仮に建っていても、そこへどのようにして家財道具を運べば良いのでしょうか。
要するに、その建物に至るヒト一人は通れる路地なり通路が当然存在するわけで、その路地なり通路が、街路名を与えられた道路に出るところの番号を、路地なり通路に面する建物の共通番号にしたうえで、枝番を付していけば問題なしと考えます。
具体的に“うち”の近所(←神戸じゃないよ)の「実例」からご説明します。

上記「実例」にリンクした地図を見ていただければ、「デッドスペース」にも建物が建っているのが分かります。具体的には「77а」「83а」「83б」「85а」などです。このナンバーから読むと、「77а」の建物への(地図にも出ていない)通路は「77」の建物の脇にあると分かります。また「83а」「83б」への通路は共に「83」のところに入り口がある筈です。この街では、建物番号に「а(アー)」とか「б(ベー)」「в(ヴェー)」といったアルファビートの枝番を付して住居表示している訳です。
#「77」はパン屋さんでした。お菓子やインスタントラーメンまで売っていて、よく通ったものです。「79」は自動車のパーツ屋さんだったか。たまに道路地図なんか置いてあったり。う~ん、懐かしい。

なお、地図の上の方にある(南側に71~87,北側に54~68が面している)通りは「大ペチョールスカヤ通り」という、長さ1.8kmに及ぶ(一部に市電やバスが走る)大通りです。一方、下を通るのは「ノヴォソルダーツカヤ通り」という、長さ200mほどの「路地」と言ってもよいくらいの小さな通りです。
ですから、もしも「デッドスペース」内部を通る「路地」クラスの通路でも、枝番が数多く付けなければならないほどの棟数の建物が面しているのであれば、独立した「通り名」を付してやれば良いと言うことになります。
拙稿[60766]にて、ニジニの通り数をいちいち数えていったのも、そのあたりの雰囲気を表現したかったからです。

さて、これを日本に適応するとなると、日本の場合は道路と道路の間の路地に面して沢山の建物が建っています。もちろん、このクラスの路地にいちいち「通り名」を付していくのはさすがに論外です。ペーロケさんの仰る「デットスペース」とはこのことでしょう。これには、枝番の付け方に統一したルールを整備していけば、対応できると考えます。巧くいけば、碁盤の目状の街並でも、東西の通りにのみ「通り名」を与え、南北の通りには名を与えず、これに面する建物はすべて枝番で対応するなんてことも可能となり、命名の必要となる通り数の軽減につながることと思います。

神戸市役所:神戸市中央区フラワーロード八幡通上る加納町六丁目
この言い方、名状しがたい違和感があります。(笑)
というのは、「八幡通」という葺合の地名と、「加納町」という神戸の地名が混合しているからです。拙稿[54321]に書いていますが、今では同じ中央区に含まれながらも、元来は葺合と神戸は、その所属郡さえ違う全く別の区画です。
神戸市役所は居留地外に建っていますが、同じ神戸で隣接する居留地の通り名で、その延長が葺合の八幡通に通じる「北町通り」の名を借用し、「神戸市中央区フラワーロード北町通り上る加納町六丁目」とでもすれば、実情に近いと感じます。
[60826] 2007年 8月 27日(月)02:51:31ニジェガロージェッツ さん
丁目について
88さん、Issieさん、inakanomozartさん、拙稿[60790]へのレス、有難うございます。

[60791] 88 さん
「住所と地名の大研究」(今尾恵介著、新潮選書、新潮社、2004年3月20日発行)に、まさしく、そのとおりのことが書かれています。

これはこれは恐縮です。2004年発行とは比較的新しい書籍ですね。今尾氏の書籍は本屋さんで見つけたときには手にとって読むようにしているのですが、ネットに浸かって以来のここ数年は、書店で足を止めることがめっきり減りました。「住所と地名の大研究」は要チェックですね。

[60793] Issie さん
耕地での「条里制」、都城での「条坊制」から「町/丁」についての詳細なご解説ご教示、有難うございます。
「丁目」の元来の意味が、ここまで遡れるとは痛快です。

話は変わりますが、Issieさんのご説明にある、朱雀大路から始まる中国式都城の設計システムをお聞きしていると、福原遷都(1180年)における「和田京計画」を思い出しました。
今の神戸市営地下鉄山手線上沢駅から長田駅辺りにかけてが大内裏に想定され、山陽道を朱雀大路として、南西方向に都城計画がおかれていたそうです。
そうすると左京は五条で妙法寺川河口の須磨海岸に達し海に没し、右京は山谷相交わるという地形によりかなりの制約を受ける都城計画だったそうです。
「平家物語」にも
和田の松原の西の野を点じて、九城(条)の地をわ(割)られける。
一条よりしも(下)五条までは其所あって、五条よりしもはなかりけり
とあるそうです。
朱雀大路の伸びる方向こそ違いますが、和田京の復元図を現在の市街図に落として計ると1条の幅は約600mで、小路以下は不明ですが平安京と同じような構造を考えていたのかも知れません。
(参考文献 「ながたの歴史」、長田区役所、昭和52年3月発行)

[60801] inakanomozart さん
駿府城下における町割りについての具体的な例示とその後の変遷の詳細、興味深く拝読させていただきました。

駿府を例にとると、駿府城の南西面に碁盤の目状につくられた町は、正確に一丁四方(約110メートル四方)の街区でした。
小生の生まれ育った神戸市長田区の南部は碁盤の目状に街路が区切られ、丁目もそれに沿って区切られています。[60790]にて11丁目まである長さ1200mの「若松町」の例を挙げましたが、この一帯は
1200÷11=109.09
となり、正しく「1丁」の長さに一致します。
道を尋ねられた場合の会話にも、「2丁先の角を北へ1丁上がって・・・」という言い方が、言う方も聴く方も何の違和感もなく理解しています。
ところが同じ長田区でも山麓のほうへ行くとそんな尺度は全く通用せず、雅に言えば「和田京」の「左京」から「右京」へ引越し転校したときのことですが「この辺りの丁割りはインチキや!」と子供ながら思っていました。

駿府にかぎらず、江戸時代の人為的に町割れされた城下町の多くは、「字」のようなブロック単位の町ではなく、欧米の都市の住所表示方のごとく、通りに町名がつけられ、丁目は文字どおり一丁ごとだったのではないでしょうか?
江戸期の町割りが、通りに町名がつけられているのはおおよそ共通に思いますが、丁目=1町の図式は、やはり違うところもあるように感じています。
便宜上に長い通りを(1町=109mに拘らず)適当な長さに分けていると思われるのが、例えば大阪の谷町。現在の大阪市中央区谷町は新住居表示がなされていますが、新住居表示前とその町域はあまり変わりなく、丁目数も同じです。その長さ約2.6kmに9丁目ですから、1丁目平均289mになります。
谷町だけが例外と言うわけではなく、大阪の場合は新住居表示実施前の地図を見ると1丁目平均がだいたい200m前後のところが多いように感じます。
[60790] 2007年 8月 25日(土)23:11:55ニジェガロージェッツ さん
「丁目」とは元来、距離を示す単位?
[60756]だんなさんからの「とおりめい」に触れて、リンクを出して下さった国土交通省道路局の「通り名で道案内」にある、距離で住居番号を示すシステムに、これは目的地までの距離も把握できるところが便利だという書き込み[60766]をしましたが、それはそうと、「丁目」とは元来は長さを示す単位「丁」に由来するものではないかと、かなり以前より思っていました。

というのは、小生の住む神戸市の旧市街地部分、特に明治後期から昭和初期にかけて行われた耕地整理組合による市街化事業で誕生した区画の多くの「丁目」がだいたい100mで区切られています。神戸市の市街地図を見れば分かりますが、新住居表示を実施している現在でも、その多くは当時の「丁目」を踏襲しています。具体的には灘区、中央区東部(旧葺合区)、兵庫区、長田区の平野部、須磨区南東部の区域です。
現在のメートル法に換算して、1丁(町)=109.09m ですから、大体一致します。
ここで最も「丁目数」が多いのは長田区若松町で11丁目までありますから、若松町の長さを地図で計ると約1200mで、いい線が出ていると感じます。

神戸のお話は大体が明治末期から大正期に市街化していった地域ですが、[60759]千本桜さんに続き、[60787]今川焼さんのお話にある京都市東山区本町の場合は、もっと時代を遡ることが出来ると推察します。
東山区本町の場合は1丁目から22丁目まであり、その距離は約2800mで1丁平均127m。
だいたいにおいて、昔の人の感覚で「五丁目」と言えば、正に距離としての「5丁め」だったのではないかと推測できないだろうか。

しかし、一方で「丁目」とは広い(長い)「町」や「通」を距離には関係なく(便宜上)分割したもので、後の時代、特に現在の新住居表示においては、元来(?)の距離の概念としての「丁目」の性質が失われていった・・・。

ここ「落書き帳」において、「丁目」を距離の概念として述べたような記事があるか、アーカイブ「町名、字名(大字、小字、字)、丁目とは何か?」を流し読みですが一通り目を通しましたが、ちょっと見当たりませんでした。
#見落としていれば、ごめんなさい。
[60766] 2007年 8月 25日(土)02:32:12ニジェガロージェッツ さん
通りで表す住居表示
[60756] だんな さん
お久しぶりです。2年前の神戸オフ会には、お忙しいところわざわざ金沢より日帰りにてご参加され、昨年の金沢オフ会ではご事前準備にご協力くださったとのことで、だんなさんには随分お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。

要は「街区方式」の住居表示だとどこにあるのかわかりづらいので、欧米でなじみのある「道路方式」を使って所在地を案内しようというものです。

これは興味深い取り組みですね。今のところ名所や店舗の場所を案内する試みとしての、ごく限られた市街での「社会実験」とのことですが、仮にこれが定着した場合、市街地では不動産登記に使われる「地番による住所表示」、一般に住所として用いられている「街区方式による住居表示」に加え、「第三の住所」になります。

産経新聞の記事にある図によると、この「道路方式」では住所の番号を道路の起点からのメートル距離(の10分の1)に合わせるとのことで、その道路のどこかに居れば目的地までの距離も把握できるところが便利に感じます。現在の新住居表示「街区方式」による住居番号「号」も、街区「番」の角地などの起点からのメートル距離(の10分の1)ですから、この点は踏襲していることになります。

個人的に馴染みのある「道路方式」による住居表示はロシアでの住居表示ですが、その概略は拙稿[10585]に書いていますが、あちらは距離(メートル)ではなく、建物そのものの個数による表示です。ゆえに
路の起点では「1番」の向かい側に「2番」があるのが多いのですが、順に3・5・7・・・、片や4・6・8・・・、と続くに従って、一方では大きな建物や広場あったり、片側は逆に小さな建物が続いていたりすると、番号がくい違い、「35番」の向かいに「36番」があるとは限りません、というより、そのように揃う方が希です。
という風に、道路の右側と左側に食い違いが生じます。それでもそのシステムを知っていれば道路の反対側の番号は基本的に無関係ですから、目的地探しには別段不都合はありませんでした。ですが距離が分かれば更に便利だったことは言うまでもありません。

「道路方式」になると面倒になると思われるのが、いちいち通りに名を、行政側は付けて、市民側は覚えておく必要があることで、そうなると凄い数の新地名が誕生することに他なりません。
以下、市街全域に通り名を付けるとして、夢想を暴走させます。

参考までに小生が暮らしたことのあるニジニ・ノヴゴロド市にはいくつの通り名があるかといえば、1310の通りがありました。(1996年に入手した市街区分地図帳から一つ一つ数えましたから、見落としや重複もあるでしょう。正確さの保障はしません)
人口と通り(住所)数の関係を計算しました。
(人口は2006年1月1日現在)
人口通り数1通り当たり人口
自動車工場区308,8401961,576
ソルモヴォ区174,517202864
カナヴィノ区157,261204771
ソビエト区151,411162935
レーニン区148,275160927
モスクワ区130,2301151,132
ニジニ・ノヴゴロド区120,343134898
沿オカ区92,676137676
ニジニ・ノヴゴロド市計1,283,5531,310980

一方、街区方式を採用している日本では、例えば神戸市旧市街地のように新住居表示実施前の古い町名を出来るだけ尊重した所と、大阪市のように大きくまとめたところでは地名数の大差(実際には丁目も地名の一部ですが、ここではこれを考えない)があります。
ニジニと同様の計算をすると
(人口は2007年8月1日現在)
人口町名数1町当たり人口
神戸市長田区102,947941,095
大阪市都島区102,334156,822
大阪市旭区94,403118,582

神戸市長田区(ごく一部に新住居表示未実施の所もあります)のように町名の多い(それも通りに沿った所が多い)場所では、現町名が通り名にも活用(転用)できるでしょうが、大阪のように新住居表示による町名改正を徹底させて様なところでは、膨大な新通り名を生じることになります。
[60672] 2007年 8月 19日(日)02:54:31【1】ニジェガロージェッツ さん
地下鉄の東部新都心(HAT神戸)への延伸
[60622] 小松原ラガー さん
「昭和76の神戸市」へのレス有難うございます。
地下鉄海岸線の東部延伸について、山麓線の神戸東部部分(神戸市バス2系統路線に相当)への独自延伸構想、楽しく拝読させていただきました。

確かにラッシュ時に3分おき、ラッシュ時以外でも6分おきに運行されている市バス2系統が地下鉄化されると、多くの神戸東部市民に恩恵を与えることと思います。
ただ、これを言ってしまえば元も子もないのですが、震災以来危機的な財政状況の神戸市が、ドル箱路線の市バス2系統を廃止してまで、大枚はたいてミニ地下鉄の建設に踏み切るかと言えば、少なくとも現状ではありえないことと思います。
その頃に私が生きているか怪しいのでしょうが・・・。^^;
仰るとおり、数世代後の時代に、沿線に何か大規模な再開発などが行われるようなことでもあれば、実現への道が開けるかも知れません。

地下鉄海岸線の延伸について、最も可能性があるとすれば、小松原ラガーさんのお話にあるように、
現在の三宮・花時計前駅からそのまま東進し、東部副都心、すなわちHAT神戸方面へのアクセス路線とする。
この路線でしょう。(実は小生も[49002]にて、こっそり書いています)

その前に、HAT神戸についての事実確認を少し。
小松原ラガーさんはHAT神戸を「東部副都心」とされていますが、神戸市のプランでは「東部新都心」です。
「東部副都心」はあくまでJR六甲道駅周辺です。

神戸市のマスタープランでは、都市核について都心、副都心、衛星都心・・としていますが、「新都心」という設定は従来は存在しませんでした。
東部新都心HAT神戸については震災復興の一環として、復興事業のシンボルプロジェクトとして各種都市機能の受け皿として整備するものでした。
従来のプランにある都市の核としての都心や副都心とは次元の違う震災復興構想により整備されている、との印象を受けます。
なお、[60613][60616]にてお話させていただいた「昭和76年」の神戸市を描いた巻末地図では、現在のHAT神戸の地域は「工業地」のままです。
神戸経済の一翼を担っていた、川崎製鉄の葺合工場と神戸製鋼所の脇浜・岩屋工場が、よもや閉鎖され、この地域が遊休化することなど想像だにしなかったことでしょう。

さて、そのHAT神戸への地下鉄海岸線の延伸については、この地域を「新都心」などと言う、分かりにくい分類ではなく、文字通り「神戸の新しい顔」として、都市の核として発展させるつもりかどうかに拠るところが大きいと思います。
HAT神戸への入居募集に際して、将来的には地下鉄海岸線延伸を仄めかすような説明が為されたとの噂(あくまで「噂」ですよ)を聞いたことがありますが、現状では、鉄道関連の整備としては
(2)周辺鉄道駅における大規模改良(鉄道駅総合改善事業)
・阪神春日野道駅(平成17年度完成予定) ・阪神岩屋駅(平成13年度完成)
で十分と判断していることと推察します。

仮に近い将来に神戸市内に鉄道新線なり延伸の建設があるとすれば(それでも相当厳しいけど)、この地下鉄海岸線のHAT神戸への延伸と、神戸新交通「ポートライナー」の新神戸延伸による新幹線―神戸空港間のアクセス改善ぐらいしかないでしょう。
[60616] 2007年 8月 16日(木)01:19:54ニジェガロージェッツ さん
昭和76年の神戸市 ― (2)
前稿[60613]の続編です。
31年前の冊子「新・神戸市総合基本計画のあらまし―2001」についての雑感をお話したく、一気に書き綴るつもりでしたが、あれこれと書いているうちに話が長くなり、2稿に分割しました。
それにしても、[60613]を投稿した後で、書込ランキングで前稿の文字数を確認すると3752文字。こういうことがいちいち確認出来るグリグリさんの「落書き帳」の付加機能はホンマに凄い。楽しくなります。
但し、文字数の多さは過去の議論からオーナー様の望むところではないので注意しなければなりません。3752文字は多すぎです。個人的には、半年間に渡って[57177]「田井(ママ)して意味も無い」「紙面のムダとしか」思えない投稿や、「南濃(ママ)知的発展性も無いと」思われるような、調子に乗った雑談は控えてきたことに免じて、どうぞお赦し下さい。

さて、本題。

【鉄道】
件の冊子の巻末に収められている地図(以下[60613]と同じく、巻末地図と称します)には、[新幹線]、[国鉄]、[私鉄・その他]、[新しい交通システム]、の4種類の鉄道路線が描かれています。
そのうち、新幹線については当時と現況が変わることなく、国鉄線においても、現在のJR線(東海道本線、山陽本線、福知山線)と変わりはありません。実際に設置された甲南山手駅などJR新駅については、駅についての細かな図示がないため、ここではコメント出来ません。
ただ、現在においても廃線になることなく存続している兵庫―和田岬間の和田岬線が描かれていません。昭和76年においては廃線が見込まれていたのでしょうか。

「私鉄・その他」については、ちょっとした違いがあります。
巻末地図に描かれてれている私鉄路線は、阪急神戸線、阪神本線、山陽電鉄、神戸電鉄、神戸高速鉄道で、これらは現在神戸市内を走っている現況と(当時も含めて)同じです。
但し、実際に存在する新神戸―谷上間の北神急行電鉄(昭和63年4月1日開業)は描かれていません。
一方、神戸市営地下鉄線は現在存在する西神線(新長田―名谷:昭和52年3月13日開業)、山手線(新長田―新神戸:昭和58年6月17日部分開業、昭和60年6月18日全通)、西神延伸線(名谷―西神中央:昭和60年6月18日部分開業、昭和62年3月18日全通)に加え、実在しない東部線(布引―鶴甲)が描かれています。海岸線については、後述しますが別の記号で描かれています。
西神延伸線の山手線の新神戸駅以北、および西神中央駅以西には更なる延伸を思わせる矢印が付してあり、新神戸駅以北の矢印をそのまま延長させると谷上付近に達し、これが現在の北神急行電鉄に相当するとみなされますが、当初は山手線の一部として造るつもりだったのでしょうか。西神中央駅以西については、後に押部谷(西区)、西明石(明石市)、神野(加古川市)への延伸についての議論がありましたが、巻末地図には、いずれも図示されていません。

問題の東部線ですが、神戸市が海岸線などと一緒に当初プランしていた路線は山手線(プラン当初の終点は「布引駅」)の延長上にあり、布引―原田(現在の灘区王子公園あたり)間としていました。それが巻末地図では「原田」から更に東へ、篠原(灘区)を通り鶴甲団地(灘区)に達しています。かなり思い切ったプランですが、鶴甲の先、六甲山中へも矢印が書かれ、それをそのまま延長すると有馬方面へ抜けることになります。本当に造る気だったのでしょうか。

「新しい交通システム」については、3本の路線が引かれています。
新神戸とポートアイランドを結ぶ線、国鉄住吉と六甲アイランドを結ぶ線、および新長田―和田岬―三宮―脇浜―灘浜―住吉川口を結ぶ線の3本です。
ポートアイランドへは神戸新交通ポートアイランド線(三宮―市民広場―北埠頭―三宮:昭和56年2月5日開業)、六甲アイランドへは同六甲アイランド線(住吉―マリンパーク:平成2年2月21日開業)として現実に存在しています。
現在のポートアイランドでは、開業当初の環状運転のみではなく、神戸空港への延伸(市民広場―神戸空港:平成18年2月2日開業)がありますが、巻末地図では神戸空港はおろか、ポートアイランド2期(南公園以南の埋立地)さえ存在していません。
ただ、新神戸駅がポートアイランド線の起点になっているのは興味深いところです。
一方、六甲アイランド線の起点が住吉にある点では現行世界と同じですが、六甲アイランド内の路線がポートアイランドと同じく環状運転になっている点が違っています。

さて、「新しい交通システム」に分類された、現在の地下鉄海岸線に相当する路線ですが、実際の地下鉄海岸線(新長田―和田岬―三宮:平成13年7月7日開業)は従来の地下鉄とは規格の違う「ミニ地下鉄」だそうで、それを「新しい交通システムだ」と言うのであれば、強ち間違いではありません。昭和40年代に神戸市が描いた当初のプランでは西神線、山手線、東部線とともに「普通の」地下鉄としての構想でした。それにしても、住吉まで海岸線に沿っての建設とは、こちらも本当に造る気だったのでしょうか。

実際に開業した地下鉄路線は、都心の三宮からみて西に偏りすぎで、当初からそのように西へしか造らないつもりだったのを、それでは東部の市民が納得しないから、東部線とか海岸線の東への延伸とか、「リップサービス」のつもりで描いたのかと勘繰りたくもなります。


【埋立地】
前述しましたが、現在実際にある神戸空港やポートアイランド2期が描かれていません。南公園が海に面しているポートピア81当時のポートアイランドのままです。
そればかりか、神戸港では中突堤~メリケン波止場間の船溜りの水面を「メリケンパーク」として埋め立てたを筆頭に、摩耶埠頭、新港第五~第八突堤間、兵庫突堤の突堤間の水面を埋め立てられていますが、港内の埠頭に関しては昭和51年当時のまま埋め立てられることなく昭和76年を迎えています。
ただ、ポートアイランドと六甲アイランドの間、ちょうど摩耶埠頭の沖合いに小さいながらも現実には存在しない人工島が描かれています。また現実の六甲アイランドは東西非対称ですが、巻末地図では西側にも東側と同じように船舶のための水面が描かれています。
あと、西では垂水区の東垂水の浜に沖に突き出した「逆コの字」型の大きな埠頭が描かれています。


さて、まだまだ道路状況など(現実に存在する港島トンネルが計画されていない。兵庫・長田・須磨沖に高速道路が走っている。・・などなど)、書きたいことはいろいろあるのですが、キリがないのでこれくらいにしておきましょう。

最後に、今回話題にさせていただいた「新・神戸市総合基本計画」は昭和51年に21世紀に向けての神戸の都市としてのあり方を規定した「マスタープラン」と呼ばれるもので、このプランはその後も改正を重ね、現在のものは神戸市のサイトからも概略が閲覧できます。
震災後の平成7年10月に策定された「第4次神戸市基本計画」をみて見ると、目標年次2010年の設定人口を170万人にしていたり、「ちょっと」と感じるところはありますが、神戸市の考え方が書かれています。
[60613] 2007年 8月 15日(水)20:22:27ニジェガロージェッツ さん
昭和76年の神戸市 ― (1)
ご無沙汰を重ねております。半年振りの書き込みにもかかわらず、地元ネタにて恐縮です。

昨年、転宅した際にダンボール箱へ押し込んでいた雑誌類を今になって整理していると「新・神戸市総合基本計画のあらまし―2001」という懐かしい冊子が出てきました。
タイトルからは6年前の冊子のように感じられますが、実は31年前の1976(昭和51)年に当時の神戸市企画局総合調査課から発行されたものです。要するに、昭和50~51年当時に神戸市が夢見た21世紀初年の2001(昭和76)年の未来の神戸を、多くのイラストや地図を添えて描いたものです。
圧巻は巻末にある折込の地図で、ここには「えっ」と思うような所に地下鉄が通っていたりする一方、現実の21世紀の現在には存在するものが影も形も描かれていなかったり、今にしてみると随分面白い地図です。
昭和51年というと、既に高度経済成長時代は終わり、当時は「安定経済成長時代に入った」と言われていました。ご存知のようにその後の時代の流れは円高不況や造船不振、地価高騰やバブル経済などなど、特に神戸においては平成7年の震災による都市の破壊を経験し今日を迎えていますが、そ~んなことは一切関係なく2001(昭和76)年を迎えた神戸市の姿です。
当時小生は中学生でした。この冊子を見て25年後の昭和76年の神戸市を想像し、「ものすごい街」になると感動したのを覚えています。

この冊子は「緑と、心のふれあいと、生きがいのまち・こうべ」とサブタイトルが付けられており、都市空間のプランから福祉、市民生活など当時の神戸市の考え方などが書かれていますが、ここでは地理に関連しそうなものをいくつかつまみ出してみたく存じます。

【人口】
人口規模について、市域を北神地域(現在の北区)、西神地域(現在の西区)、既成市街地域(北区の西区を除く全て)の三つに分けて計画しています。
昭和50年 136万人(既成市街地域116万、北神地域13万、西神地域7万)
昭和60年 160万人(既成市街地域120万、北神地域23万、西神地域17万)
昭和76年 180万人(既成市街地域120万、北神地域30万、西神地域30万)

実際の人口の推移は
昭和50年 1,360,530人(既成市街地域1,156,620、北神地域135,697、西神地域68,213)
昭和60年 1,410,834人(既成市街地域1,122,839、北神地域177,221、西神地域110,774)
平成13年 1,503,480人(既成市街地域1,041,030、北神地域224,853、西神地域237,597)
平成19年 1,530,088人(既成市街地域1,056,038、北神地域226,287、西神地域247,763)
注】昭和50、60年は10月1日国勢調査人口、平成13年は10月1日の推計修正値、平成19年は7月1日推計人口

神戸市は昭和50年代前半は人口増加の停滞が生じ(拙稿[12405]にちょっと状況が分かるデータがあります)、昭和50年代後半からは再び増加に転じましたが、昭和50年代半ばには、さすがに昭和60年に「160万人」になる可能性は無いと断じ、昭和60年は146万、昭和76年は160万人に修正されました。
もともと、将来人口180万人というのも、「180万人を限度として・・・」とあり、あくまで上限値であり、それ以上の人口を市域に抱えてはいけない、という尺度ですが、現実の人口の推移を見ると・・・
論評は控えさせていただきます。


【行政区】
昭和40年代に計画された「行政区再編成」ですが、昭和51年の時点では六甲山上の灘区への移管(昭和47年6月1日)、兵庫区より北区の分区(昭和48年8月1日)は実現していましたが、垂水区名谷団地の須磨区への移管(昭和52年6月6日)以降の変更は実現していません。

昭和76年の神戸市は11の区が描かれています。(昭和51年以降の)プランとしては
1)生田区と葺合区の統合 (実現:昭和55年12月1日に中央区発足)
2)垂水区から西神地域の分区 (実現:昭和57年8月1日に西区発足)
3)北区の北部地区を分区 (実現せず)
4)須磨区・垂水本区の新規開発地を分離し新区の創設 (実現せず)

北区の北部については、1983(昭和58)年9月16日に開かれた市会本会議にて、当時の宮崎辰雄神戸市長の答弁で「今すぐではなくて、十年はかかる話」と断った上で、「北区は将来、二つに割るべきだ。山田町以南と以北で区を作りたい」と、構想を明かしていました。(1983年9月17日付、神戸新聞より)
ですが「十年」どころか、答弁から24年を経た現在においても、分区を考えていません
昭和76年の将来人口を30万人としている北区の人口は、2007(平成19)年7月1日現在 226,287人で、分区の境とされる本区(同、144,487人)と北部(同、81,800人)では、震災後は本区は緩やかな減少傾向、北部では緩やかな増加傾向にあり、区全体としては横ばいの状況が続いています。
注】本稿で北区の「北部」と表記した、当時の宮崎市長の言う山田町以北については、現在では「北区北神」と言われています。
本稿では昭和51年当時「北神」と呼ばれていたのは現在の北区全域であることから、混同を避けるために敢えて「北部」としました。

須磨区・垂水本区の新規開発地に新区を設ける話については、昭和51年当時は垂水区に属していた造成途上の名谷団地を1977(昭和52)年6月6日に須磨区に編入し、須磨区の北半分を須磨区役所北須磨支所として、須磨区は「本区・北須磨」に分けられました。
1985(昭和60)年2月1日には「垂水本区の新規開発地」の総合運動公園(緑台)、流通業務団地(弥栄台)を須磨区北須磨に編入し、その後も流通業務団地の西区へのはみ出し部分が須磨区弥栄台に統一されるなど、北須磨は拡張して現在に至っていますが、本格的な須磨区からの分区については、話題さえも存在していません。
なお、冊子に載っている区分地図には、現在の垂水区のうち、第二神明道路以北・神戸淡路鳴門自動車道以東が「北須磨区?」に入っています。


【地域中心核】
「地域中心核として、都心―副都心―衛星都心―生活都心―まち住区中心―近隣住区中心を設定し、商業・業務機能、ターミナル機能などを整備します」とあり、生活都心以上のものは、具体的に以下のように地名が列挙されています。
都心:三宮~神戸
副都心:六甲、大橋~板宿
衛星都心:二郎、西神ニュータウンの中心
生活都心:住吉、湊川、須磨、垂水、須磨ニュータウンの中心、鈴蘭台

都心については、おおよそ現在の神戸市においても大きな違いはありませんが、ただ都心の一角に含まれても良い、1992(平成4)年に神戸駅浜側に商業地としてオープンしたハーバーランド地区は巻末地図にも描かれておらず、この地域には「ウォーターフロント緑地」とされています。

副都心においては、昭和40年代ごろより「東の六甲道、西の新長田」と言われていましたが、それをちょっと拡大したようで、巻末地図を見れは「六甲」には阪神新在家~国鉄六甲道~阪急六甲周辺まで、「大橋~板宿」には国鉄新長田周辺一帯と山陽板宿駅付近が連なった商業核のように描かれています。
現在の状況を見ると、六甲道、新長田ともに平成7年の震災では壊滅的な被害を受け、それぞれ六甲道駅南地区新長田駅南地区において、震災復興市街地再開発事業が実施されており、復興途上にあります。
ただ、「六甲」においては新在家から阪急六甲に至る大規模商業核には成長しておらず、「新長田」においても地下鉄新長田駅から駒ヶ林駅にかけては再開発ビル群として復活した大正筋商店街などで一体性のある商業地にはなっていますが、板宿(須磨区)との連帯感はなく、新長田―板宿間は震災前は住工混在地域、震災後の焼け野原を経て、現在は住宅街として整備されています。

衛星都心として名が挙げられている北区の二郎については、「二郎いちご」として神戸では有名なイチゴの産地で、昭和51年当時は神戸電鉄二郎駅も人里離れた長閑な田園地帯にありました。
そうような二郎ですが、巻末地図では二郎駅より南は神鉄の東西両側に大規模な住宅街が形成され、北側には工業地帯が描かれています。そして駅の西側に商業核が計画されています。
現在の状況を見ると、実際に衛星都心として整備されているのは二郎ではなく、神鉄にして2駅南の岡場駅周辺です。岡場は藤原山を削りニュータウンとして開発された藤原台の中心駅となり、かつては地上にあった田舎駅でしたが高架駅となり、当時とは様変わりしています。

一方、「西神ニュータウンの中心」とは、現在の地下鉄西神中央駅の場所に一致しています。こちらは計画通りの実現です。

生活都心として名が挙げられている「須磨ニュータウンの中心」とは、現在の地下鉄名谷駅です。昭和51年当時は市営地下鉄開業前でした。(開業は昭和52年3月13日)
住吉、湊川、垂水、名谷、鈴蘭台は、確かに生活都心と言っても良いと思いますが、須磨だけはとても生活都心とは言えず、今日においても手付かずの状態に感じます。
[57118] 2007年 3月 2日(金)00:03:42ニジェガロージェッツ さん
海上渡橋歴など
3月に入りました。この冬、神戸(神戸海洋気象台)では最低気温の記録が2006年12月29日の0.0℃で、まだ一度も氷点下になっていません。恐ろしいほどの暖冬です。
さて、以下まとめレスにて恐縮です。

[57060] ペーロケ さん
日本が主張する領土とは裏腹に、実権を持って支配している範囲はどんどん狭くなっていますね。

そうですか? 小生など能天気なもので、横浜市内の米軍施設が返還されたりして、逆だと思っていました。

地球温暖化で沖ノ鳥島はいつまで持つのか気になります。
これは本当に怖いですね。あれは「岩だ」と言い出す国もあるようですから、領土保全のためにも何とかならないものかと思います。
ところで、「岩」と言えば、宗谷海峡にある「二丈岩」という、別名「危険岩」と呼ばれる岩があり、文字通り船舶の衝突事故が多発したために、灯台を建設したとか。
その灯台が気になって、稚内から宗谷海峡を横断した時に、その灯台を探したのですが、見当たりませんでした。

[57062] グリグリ さん
容量問題は現在はほぼないと考えていただいて結構です。時代が変わりました。(笑
有難うございます。2003年7月にあった18000番台の、あの時の議論はもう時効と考えて差し支えないですか?
とはいえ、やはり容量が無限になったわけではありませんので、書き込みの際にはあの時の議論をこころの片隅に留めおいて、望みたく思います。

[57094] まるちゃん さん
見島といえば、自衛隊とマグロです。
あの島はマグロの島でしたか。(←知らなさ過ぎ)
リンク頂いた写真は見事なマグロですね。
小生の島達度には、舳倉島や見島など、釣り好きかと思われるような島がありますが、釣り好きではないばかりか、釣りをしたこともありません。
学生時代に、夏休みには六甲登山仲間と「島へ篭る」という、変な企画を毎年やっていました。81年=友ヶ島、82年=舳倉島、83年=直島、と来て、84年に見島を選びました。

[57106] 星野彼方 さん
東二見橋は徒歩専用(現在車も渡れるように工事中)であそこを渡るのは地元民と釣り人以外では思い浮かばないような橋です。
あれは震災の前の年でしたが、自動二輪に乗って取引先へ機械の修理に行った際、予想外に早く仕事が終了し、余った時間に近辺の海岸巡りをやりました。
記憶違いでなければ、東二見橋を強引に自動二輪で突破し、南二見人工島に渡ったと思います。その後、二見大橋を通り南二見人工島を離れ、播磨大橋([57101]には「新島橋」と書きましたが、まちがい)を通り播磨町新島(人工島)に渡りました。

[57110] 小松原ラガー さん
走るたびに路面からカタカタ音がして「いかにも」という仮設の橋だったのを覚えています。
そうでした、そうでした。徒歩で歩いて仮設大橋を渡っていると、震災復旧工事の大型ダンプが通る度に橋全体が揺れ、落橋しそうなスリルがありました。
この時は、ポーアイの「バンドール」という大型商業施設(現在はありません)に旅支度に買出しに行った際に渡橋しました。今思い出したのですが、「バンドール」でスーツケースに目星を付け、後日にそのスーツケースを買いに車で再訪しました。従って[57101]の仮設大橋は○ではなく◎でした。
仮設橋を実際に歩いて渡ると、落橋のスリルも手伝ってか地図で見るよりもずっと長距離に感じました。再訪したときに写真に撮っておこうと思いましたが、その直後に神戸を離れて人口140万人の「Nという町」で暮らし、1年後神戸に帰ってきたときには既に仮設橋は撤去されており、果たせず仕舞いに終わりました。残念です。
[57101] 2007年 3月 1日(木)01:50:02【3】ニジェガロージェッツ さん
海上渡橋歴
[57062] グリグリ さん
交通整理は後回しにしてさらに加速してみましょうか。[57022]で書いた「海上架橋」です。

とりあえず地元中心ですが、思い出す限り海上渡橋歴を挙げてみます。但し、海上を通る高速道路に架かる架橋などは名称が分からないものもあり、結構適当です。
◎徒歩、交通機関利用とも渡橋歴あり、○徒歩のみ、●交通機関利用(車・自動二輪・電車)のみ

【兵庫県】 ●尼崎東海岸、●甲子園浜、●西宮港大橋、●南芦屋浜、●深江浜、●東神戸大橋、●六甲アイランド大橋(以上、阪神高速5号湾岸線)、●住吉浜渡り橋、◎六甲大橋、●六甲大橋(六甲ライナー橋)、●灘大橋、●灘浜大橋、●摩耶大橋、◎神戸大橋、●神戸大橋(ポートライナー橋)、●神戸空港連絡橋(ポートライナー橋)、○仮設大橋、●浜手バイパス、○モザイク北側、◎苅藻橋、◎明石海峡大橋、●東二見橋、●二見大橋、●新島橋(播磨町)、●高砂大橋
【兵庫県―大阪府】 ●中島川橋(阪神高速5号湾岸線)
【大阪府】 ●神崎川橋、●正連寺川大橋、●天保山大橋(以上、阪神高速5号湾岸線)、●港大橋、●南港大橋、●新浜寺大橋(以上、阪神高速4号湾岸線)、●関西国際空港連絡橋、●平林大橋
【三重県】 ●麻生の浦大橋、●的矢湾大橋(以上、パールロード)
【兵庫県―徳島県】 ●大鳴門橋
【徳島県】 ●小鳴門橋、●撫養橋
【岡山県】 ●片上大橋
【岡山県―香川県】 ●下津井瀬戸大橋(瀬戸中央自動車道・JR線)
【香川県】 ●櫃石島橋、●岩黒島橋、●与島橋、●北備讃瀬戸大橋、●南備讃瀬戸大橋(以上、瀬戸中央自動車道・JR線)
【高知県】 ●浦戸大橋、●宇佐大橋
【広島県】 ●尾道大橋、●因島大橋
【長崎県】 ●平戸大橋
【樺太】 ●大泊港連絡橋

まだあるかも知れませんが、取り敢えず以上です。このうち、仮設大橋(9ページ写真6下 神戸新港第三突堤―第四突堤)のみ現存しません。


[57099] 小松原ラガー さん
私も上記3つは全てクリアですが、実は3つとも自分の足で、というか正確には「人力で」クリアしたことがあります。
小生も同じ体験をしております。小松原ラガーさんは更に仮設大橋の渡橋歴もお持ちなのでは・・?
[57051] 2007年 2月 26日(月)20:31:09【1】ニジェガロージェッツ さん
渡島歴
続々と続くことが予想され、容量問題からオーナーさんに遠慮して[56986]に「やめとけ」と書きましたが、[57022]グリグリさんご自身より「面白そうですね」とあるので、遠慮なく書き込みさせていただきます(笑)

島の基準は[57040]太白さんご紹介のサイトに準じました。
主要五島○樺太、○北海道、◎本州、○四国、○九州
石川県●舳倉島
三重県○答志島、●賢島
滋賀県●竹生島
和歌山県●沖ノ島(友ヶ島)
兵庫県○淡路島、●家島、●坊勢島
岡山県▲頭島、▲鴻島、●大多府島、△前島、●犬島
広島県○仙酔島、●向島、●因島、●生口島
山口県○見島、●青海島
徳島県▲大毛島
香川県○小豆島、○直島、●女木島、▲櫃石島、▲岩黒島、△与島、▲鍋島
長崎県○平戸島
宮崎県●青島

ついでに、番外になりますが人工島についてもやってみました。拙稿[24523]に挙げた埋立島+神戸空港より拾い集めました。
東京都▲新木場
大阪府●関西空港島、▲高砂、▲南港南、●南港北
兵庫県-神戸を除く▲甲子園浜、▲西宮浜、▲南芦屋浜、▲南二見、▲人工島
兵庫県神戸市●東部第四工区、▲東部第三工区、●東部第二工区、●六甲アイランド、
●ポートアイランド、●神戸空港、●苅藻島

こうしてみると、先の拙稿[56966]の「港歴」から(【6】回も修正を重ねたにもかかわらず)◎鞆の浦、◎田ノ浦(仙酔島)=ともに広島県福山市、が完全に漏れていました。
また、岡山県日生諸島の頭島港を◎としていましたが、この港は寄港のみで、実際には大多府島が◎でした。
また、[57018]まるちゃんさんをびっくりさせてしまった山口県の見島の上陸港は「本村」ではなく、山を隔てた北側の「宇津」でした。島内で探検と称して、南の本村まで山越えした経験があります。 宿は宇津の民宿に確保していましたが、この島には自衛隊の基地があり、最終日は自衛隊員の集団宿泊が急遽あり、宿主の別宅のようなところへ移された記憶があります。


[56988]いっちゃん さん
疑惑の航路
私の経港歴にも該当するものが有るような、無いような・・・。
道理で・・・分からなかった筈です(笑)

小生の場合、「疑惑」というほどではありませんが、「敦賀」の相手港は「浦塩」です。
また「長田」の相手港は淡路島の「浦港」でしたが、何分にも昭和40年代前半の幼少期の経港のため、記憶が確かではありません。長田港をフェリーで出港した記憶は鮮明にありますからカウントしましたが、どこか覚えていない港は挙げようがありません。

[56996]魚熊 さん
アンカレッジ経由のヨーロッパ便がなくなりました。そのため我々の世代が
アンカレッジを知る最後の世代といえるでしょう。
当時は1ドル=280円位でしたか。とても気軽に海外へ出かけるような時代ではなかったですね。そのあたりも、アンカレッジ経由の経験が少ない理由かも。
因みに小生の初海外は、円高になった1989年8月に稚内港からソ連統治下の樺太真岡港に渡った時でした。
(ワ! 樺太を海外と言ってしまった!)
[56986] 2007年 2月 23日(金)20:27:50ニジェガロージェッツ さん
港歴雑感
空港&港の話題、盛り上がっていますね。
こうして利用した空港や港を挙げていくと、物理的に「島歴」(←やめときなはれや!)が出てしまうところが面白いところです。もっとも架橋のある島は別ですが。

○出発のみ港と●到着のみ港との関係から旅程を推理したりしていると、一瞬「この人、この港からどこへいったん?」と思うような、港が書かれていたり(小生の「敦賀」も大概ですが)、興味が尽きません。


以下、いつもながらの遅れ遅れレスにつき、御免です。

[54534] かぱぷう さん
福岡県北九州地方ならびに福岡地方の現在の売り場の占有率は「(6枚切り)6:(5枚切り)4」くらいでしょうか。でも6枚切りの方が早く売れてます。私も6枚切り派です。

レスが遅くなり、誠に恐縮です。
こちらは逆で、5枚切りが先に売り切れます。遅めにスーパーへ行くと5枚切りは売り切れ、6枚切れが極わずか、ほとんど4枚切れしか売っていません。

[56595] ペーロケ さん
5駅は横浜市が該当します。
[56597] デスクトップ鉄 さん
横浜高速鉄道(みなとみらい線)もありますので6駅になります。そしてどの駅にも接頭語がつきません。

ご教示有難うございます。「横浜」は6駅ですか。もう9年も前のことですが、休日の朝にJRの横浜駅で下車して、海側へ出て歩いたところ、なんだか寂しい所だったとの印象があり、横浜の6駅(当時は5駅?)には気が付きませんでした。

[56985] 油天神山 さん
ウラジオストクって札幌よりも南だったんですねー。今まで全然気づいていなかったので、ビックリしました。

あまり日本地図にウラジオストクなんて載ってませんからね。たまに図端にちょこっと載っているのがあって、そういう日本地図をみると個人的に感動します。
札幌とはほとんど同緯度ですが、わずかにウラジオストクが南です。
ウラジオストクは苫小牧市の真西、山口県光市の真北ぐらいのところに位置しています。
[56966] 2007年 2月 22日(木)22:38:23【6】ニジェガロージェッツ さん
港歴
[56955] いっちゃん さん
[56933][56963]ただけんさん
[56958] Issie さん
[56965] 今川焼 さん

今度は「港歴」ですか。皆さんどこまでやる御積りですかっ!
と言いつつ、小生も反応させて頂きます。
とりあえず、地図とにらめっこで思い出す限り

1.その港の発着便を利用したことがある。◎=出発、到着とも利用、○=出発のみ利用、●到着のみ利用。
南から順に
日向宮崎県日向市清水高知県土佐清水市
三角熊本県宇城市島原長崎県島原市
大分大分県大分市高知高知県高知市
苅田福岡県京都郡苅田町松山観光愛媛県松山市
北九州北九州市小倉北区鳴門徳島県鳴門市
福良兵庫県南あわじ市友が島和歌山県和歌山市
加太和歌山県和歌山市深日大阪府泉南郡岬町
洲本兵庫県洲本市関西空港大阪府泉佐野市
広島県呉市瀬戸田広島県尾道市
三原広島県三原市高松香川県高松市
女木島香川県高松市洲本兵庫県洲本市
宮ノ浦香川県香川郡直島町仙崎山口県長門市
青海島山口県長門市山口県萩市
和具三重県志摩市賢島三重県志摩市
鳥羽三重県鳥羽市答志三重県鳥羽市
宇野岡山県玉野市福田香川県小豆島町
見島本村山口県萩市仮屋兵庫県淡路市
犬島岡山県岡山市朝日岡山県岡山市
岩屋兵庫県淡路市坊勢島兵庫県姫路市
網手兵庫県姫路市(家島)真浦兵庫県姫路市(家島)
明石兵庫県明石市頭島岡山県備前市
日生岡山県備前市大阪南港大阪市住之江区
大阪大阪市港区須磨神戸市須磨区
長田神戸市長田区神戸神戸市中央区
東神戸神戸市東灘区飾磨兵庫県姫路市
長浜滋賀県長浜市竹生島滋賀県長浜市
久美浜京都府京丹後市湊宮京都府京丹後市
敦賀福井県敦賀市輪島石川県輪島市
舳倉島石川県輪島市浦塩ウラジオストク市フルンゼ区
稚内北海道稚内市大泊サハリン州コルサコフ市
真岡サハリン州ホルムスク市リストヴャンカイルクーツク州リストヴャンカ町
イルクーツクイルクーツク市十月区

尾道水道やヴォルガ河の渡船、東条湖やアムール河やウラジオ金角湾の遊覧船、神戸港内の船舶移動(六甲アイランド―ハーバーランド)などは除いています。
港域に関しては、例えば須磨港、長田港、東神戸フェリー埠頭などはいずれも神戸港の内港ですが、[56955]いっちゃんさんが大阪港を南港と天保山に分けているように、別の港として扱いました。


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