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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[97794]2019年5月21日
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[97342]2019年1月5日
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[97156]2018年12月23日
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[97097]2018年12月10日
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[97081]2018年12月7日
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[97079]2018年12月7日
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[97051]2018年12月2日
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[97050]2018年12月2日
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[97038]2018年11月26日
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[97012]2018年11月20日
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[97006]2018年11月18日
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[97002]2018年11月16日
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[97000]2018年11月16日
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[96951]2018年10月22日
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[96938]2018年10月18日
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[96934]2018年10月16日
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[96931]2018年10月13日
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[96927]2018年10月11日
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[96907]2018年10月4日
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[96903]2018年10月3日
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[96479]2018年9月14日
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[96468]2018年9月9日
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[96467]2018年9月9日
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[96463]2018年9月7日
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[96451]2018年9月1日
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[96450]2018年9月1日
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[96440]2018年8月26日
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[97794] 2019年 5月 21日(火)16:17:28【1】hmt さん
海と島(35)島が消えた? 北海道 猿払村沖
北海道北部の猿払村の沖合にあるはずの小島が見当たらなくなったとの情報が寄せられたことを受け、海上保安本部が 2019/5/20から 現地調査を始めました。

私が知ったのは 昨夜のテレビニュースですが、北海道北部・宗谷総合振興局管内の猿払村の沖合 約500mにあるはずの「エサンベ鼻北小島」の消失 が話題になったのは昨年秋で、各紙が一斉に報道しており、その一つを引用します。

第1管区海上保安本部(小樽)は、1987年の測量では 島の高さは平均海面から 1.4mあったが、「雨風や流氷の浸食で消失した可能性がある」と説明。
猿払村漁協によると、現在は海岸、海上のいずれからも目視で確認できない。

地元民にとっては船の通行障害物という認識で、積極的な利用価値のある島ではなかったようです。
三、四十年前の記憶では、数個の岩の列の先にあり、3人程度が上陸できた小さな陸地とか。

この「陸地の消失?」がニュースになるのは、領海やEEZに関係するからですが、領海問題がらみで「島」と評価されるようになって、地元では かえってビックリという印象。

政府は平成26年(2014)、領海の範囲を明確にしようと、名称のない 158の無人島に名前を付けました。
エサンベ鼻北小島はその一つでした。

昨年明らかにされた消失問題につき、1管の担当者は「測量の時期や手法を検討する」としていました。
昨夜のテレビニュースの内容は、これを受けた 海保の 新年度調査開始を伝えるものでした。

それで思い出したのが、[85734]海と島(6)で記した「名称不明離島の名称決定・地図等への記載」でした。
上記158離島は、同様な政策を拡張したものと思われ、内閣府のページ 領海の外縁を根拠付ける離島の地図及び海図に記載する名称の決定には、158離島のリストが示されていました。エサンベ鼻北小島は No.13。

別件:海と島(32)馬毛島買収問題[97420] その後

160億円で仮契約が結ばれ、馬毛島買収問題決着へ と書いたのですが、情勢が変りました。
2019/4/8東京地裁の仮処分決定により、島を所有するタストン社の実権が父親の 立石勲 氏に戻り、防衛省に対して交渉打ち切りを 2019/5/7付文書で通告したそうです。出典
[97698] 2019年 5月 14日(火)16:45:48hmt さん
「百舌鳥・古市古墳群」 満点評価でユネスコ世界遺産へ
文化庁の報道発表
ユネスコ世界遺産センターからの通知があり、諮問機関 ICOMOS から、日本が推薦した「百舌鳥・古市古墳群」を世界遺産一覧表に記載するのが適当との評価を得た。
6月末から開かれる第43回世界遺産委員会で世界文化遺産登録が決定する。

ICOMOSは、歴史的価値について満点に近い評価をしていたとのこと。産経

「百舌鳥(もず)・古市古墳群」について
5世紀頃、大陸航路が発着する大阪湾。平野上に築造された、巨大な前方後円墳を含む古墳群。
百舌鳥エリアは、大阪府堺市にあり、仁徳天皇陵古墳など23基。
古市エリアは、大阪府羽曳野市・藤井寺市にあり、応神天皇陵古墳など26基。

落書き帳記事を「古墳 世界遺産」で検索したがヒットせず、改めて「陵 世界 遺産」で検索。
違う場所の首里の玉陵[65905]も出ましたが、[61395]むっくんさん 文化庁公募の世界文化遺産候補に13件。
その中に「○百舌鳥・古市古墳群~仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群(大阪府)」がありました。
[83679]hmt 世界文化遺産登録を目指す 古市古墳群

「堺の三国ヶ丘」[47313]も百舌鳥古墳群付近ですが、世界遺産には言及していませんでした。最近[97671]で言及。
[64972]に登場した垂仁天皇陵は、古市古墳群の一つです。橘の話題。
[97694] 2019年 5月 12日(日)14:47:52hmt さん
Re:アルファベット入り町名登場
[97691] 油天神山さん
外来語由来町名コレクション…アルファベット入りの町名はこれまで収録されておらず、今回の高岡市ICパークが初

「IC」の説明文には ”団地の名称を「ICパーク高岡」とした”とありました。
しかし、3月市議会の議案
戸出支所の所管区域…内の字の変更に伴い、…ICパークを追加するもの
とあり、「市町村」の一部である「町丁字」の名称が 正式に変更されたものと理解します。

日常生活の中では溢れかえっているアルファベット略号。これが、町名に初登場とは予想外でした。
考えてみれば、公式地名は「日本語であること」を前提とするので「漢字【+かな】表記になる」のが原則なのでしょう。

文化審議会国語分科会の漢字小委員会(第8回)で参考配布された 市町村の名称について という資料がありました。
日付記載はないが、平成合併時代 2006/6/13 の会議です。

基本的な考え方は、自治省行政局長通知(1958/4/21)
地名の書き表し方は、さしつかえのない限り当用漢字字体表を用いる。

2001年『ぎょうせい』で紹介された質問2 
外国語を日本語(カタカナ, ひらがな等)で表記した場合を「理由が明確であればよい」と是認した回答がありました。
アルファベット略号には触れていません。
裏返せば 当時は考慮外の表記であったのかもしれません。

アルファベットを使った別の事例。
大阪市の住所表記になぜ「ABC」 という 2014年の日経記事がありました。
これは、「街区符号」として「ABC」が使われている例であり、地名とは言い難いようです。

総務省住民制度課や地図製作会社の昭文社にも確認したが「アルファベットを街区符号に使うところは、他に聞いたことがない」そうです。
1989年に大阪市南区と東区とが統合して中央区になった影響による措置で、遡れば更に10年前からの「上町1丁目」隣接に由来する本家争いとか。
[97690] 2019年 5月 11日(土)18:39:10hmt さん
白桃さんへのお願い
「都会」人口素描のシリーズを拝見しています。

都会の四条件を点数化した企画。単なる人口やDIDの比較だけでなく、昼間人口や商品販売額、それに「親父の遺言」までも加味した独自の採点による「白桃市町村人口研究所認定」の番付、全国版の完成を期待しています。

この番付の特徴は、白桃さん独自の採点基準にあり、四条件【プラスアルファ】に基づいて、数値評価がなされる点にあると思います。

そこで最初にお願いしたいのは、総合点だけでなく、配点基準とそれに基づくポイントの内訳を示していただきたいことです。

次に、こまかくなりますが、都会度を評価する基礎となる4つの数値の出所について。

DID人口と人口の昼夜比率は最新の【2015年】国勢調査データに頼らざるを得ないと思われます。
商品販売額の出典は 2016年。1年違いなので特に問題ないと思います。

過去記事によると、常住人口には 2019年3月1日現在の推計人口が用いられています。
しかし、この日付は全国の市のランキングデータで選ぶことができず、例えば[97675]に記された推計人口を確認することができません。

なお、このランキングデータでは、「2019/04/01の自治体構成で再表示」を選ぶことができます。
しかし、その結果は さいたま市 1,295,607、狭山市 150,355 であり、下記[97679]に示された推計人口とは異なる数値でした。
さいたま市が2019年4月1日現在推計人口が1,301,861人となり、
(中略)(狭山は4月1日現在推計で15万人を割り込んでいる)
この食い違いについては理解不能です。使い方が悪いのでしょうか? 教えてください。

推計人口は、国勢調査人口に住民台帳データによる短期的な人口増減を補正した値と理解しております。
都会度の評価は、やや長期的な視野によるものと考えます。
他の2つは国勢調査を利用しているのに、常住人口についてだけ、わざわざ推計人口という補正値を使う必要性があるのでしょうか? お知らせください
[97671] 2019年 5月 1日(水)16:20:28hmt さん
筑前・対馬?・筑後の三国境
[97665] かぱぷうさん
当該地域は筑紫野市の旧筑紫村・小郡市の旧三国村にまたがり…

福岡県小郡市三国が丘のことは全く知りませんでした。地名コレクション『三国』からも落ちているようです。

今更ながら…ですが この場合の「三国」の名は?

マピオンにも地理院地図にも「国界」表示はありませんが、三国境所在地は、現在の行政境界により知ることができます。

筑前国>福岡県筑紫野市大字原田【筑豊本線の終点駅で、読みの はるだ を知っていました】
筑後国>福岡県小郡市希みが丘
肥前国>佐賀県三養基郡基山町大字小倉

国道3号筑紫野バイパス沿い。筑紫野温泉アマンディ付近で 九州自動車道の下を通過するあたりのようです。
しかし、地理院地図の15スケール以上では 筑紫野市と小郡市との境界線が見当たりません。

筑紫野市教育委員会:ちくしの散歩 原田宿(3)国境の碑 では、江戸時代に建てられた国境石が解説されています。

そのひとつ「三国境石」は、当時の三国坂(現在は消滅)の峠付近に当たる険しい山の上にあり、この場所が筑前・筑後・肥前の境となっていました。
三国坂を原田側へ下ったところに「従是北筑前国」と刻まれた威風堂々たる国境石があります。
黒田藩の書家 二川相近の書。薩摩街道が通る市内馬市にもあるが、その先の国道3号左側の公園内には、東15mから移設された筑前肥前国境石があるとのこと。

これらの国境石は 別のページでも紹介されていましたが、古いページなので温泉施設は旧名のアクアフォーレとなっていました。背中合わせの国境石の背景に コンテナ列車が写っています。

そして、更に別のページには、驚きの記載。
国道三号線の原田と 基山の中間に 「三国」と言う地名があります。読んで字の如く、筑前、対馬、筑後 が一点に交わっていますが、此処が現在も 福岡県と佐賀県の県境です。

筑前・筑後と境を接する三国の一角として記された地名は、なんと長崎県の離島である「対馬」でした。
これを見た私が最初に感じたのは、「肥前」の単純誤記の疑いでした。
しかし、読み返したら、背中あわせ石碑裏面の写真はないものの、九州地方整備局の設置した説明文「国境石」があり、「従是西肥前国対州領」を根拠とした記載「対馬」であることが判明しました。

前記筑紫野市のページにも「対馬領」の記載があり、「交渉難航をうかがわせる」と記された当事者の肥前側は、佐賀藩ではなく対馬藩だったのでした。

律令制時代に設けられた地理的名称「対馬国」は離島です。
しかし、江戸時代の人が付き合わねばならない 九州本土の隣国は、地理的には肥前国の一部であるが 行政的には「対馬領」であったのでした。

堺の「三国ヶ丘」[47313] を思い出し、九州の「三国が丘」を調べていたら、意外な隣国の登場に驚いた。
お粗末の一席でした。
[97663] 2019年 4月 28日(日)13:46:46【2】hmt さん
沖縄「屈辱の日」を知ってますか?
3年前の4月28日の琉球新報の記事です。
1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効してから28日で64年となった。
敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。沖縄が日本復帰するまで米施政権下にあった27年間、本土から沖縄へ基地が移転。日本国憲法が適用されず、人権が蹂躙された。
過重な基地負担など現在の沖縄差別の源流ともなったこの日は「屈辱の日」と呼ばれる。

自民党圧勝により、現在に続く自公政権・安倍晋三内閣が成立した 2012年末の総選挙
その翌年の2013年4月28日には、安倍晋三首相が主権回復の日式典を催し、沖縄からは強い反発の声が上がった。

hmtマガジンでは、琉球の歴史に この記事を追加し、米国統治下の沖縄では、1950年国勢調査人口表へのリンクを修正します。

【追記】
「沖縄の歴史」のサイトマップ
先史時代から現代に至る 広範囲な事項が含まれ、琉球の過去を知る 有用な参考資料 と思われます。
宮古・八重山分島問題[80962]の出典から探っているうちに、このサイトマップに及びました。
[97655] 2019年 4月 24日(水)13:18:21hmt さん
改元当日発行の地形図
[97652] スナフキんさん
いま、ちょっと気にしているのは国土地理院の地形図発行年月日の表示。

[39241] 東上鉄道「上福岡駅」の由来 という古い記事を引用します。
大正13年測図 昭和元年12月25日発行の2万5千分の1地形図に、「かみふくをか」の駅名が現れます。…
#地形図の発行日は昭和の初日です。この日付が印刷されているということは、【私の手元にあるコピーの原本が】後日増刷された地形図であるという証拠でもあります。

図歴(旧版地図)与野に記された発行年月日も、改元後の日付になっており、「大正十五年…」と印刷されていたであろう初版の日付を窺うことはできません。

[97652]
(まさか平成31年5月1日とは書けないでしょうから)

「正式文書の地形図」については、後日の訂正を前提として、平成年号の初版が発行されるのではないでしょうか?

民間の地図については、大正改元後の事例[33296]を挙げておきます。
明治45年9月20日13版「最新番地入東京市全図」。(中略)
#「明治45年9月20日」は、本当は大正元年です。明治天皇崩御は7月30日。
[97637] 2019年 4月 18日(木)18:20:22【1】hmt さん
国際姉妹都市に関係した雑感
[97634] サク佐久ぱんだ さん
佐久市はエストニアにあるサク市と友好都市の関係にあります。(中略)
名前が同じだ!って理由で仲良くなる自治体は外国にも多いのかもしれません。

姉妹都市って何だろう?!というページの冒頭には、世界最初の姉妹都市として 1893年に結ばれた 米国のノースカロライナ州ニューベルンと スイスの首都ベルンとの提携関係が示されています。ニューベルンは 1770年にスイスのベルンから来た移民たちによって作られた町だったので、姉妹都市の提携を結ぶ前から、移民元のベルンとは自然な交流があったそうで、姉妹都市はこのような形で自然発生的に生まれたと説明されています。
Wikipediaによると ニューバーン(New Bern, North Carolina)への欧州移民入植は 1710年で、指導者の故郷にちなんだ名であるとのこと。

国際姉妹都市が広く行われるようになったのは、ずっと後の第二次大戦後でした。
秦野市の解説文では、現在行われている都市提携の始まりとして、大戦後に 米国のダンケルク市民がフランスの同名市・ダンケルク市【1940年英仏軍40万人の撤退戦場】に差し伸べた友情の手を、戦後の都市提携の始まりとしています。

日本での姉妹都市第1号は長崎市で、お相手は米国の ミネソタ州セントポール市でした。
12月7日は 1941年の真珠湾攻撃、長崎は 1945年の原爆投下という痛みを伴う歴史を思い出させます。
しかし セントポールは、太平洋を結ぶ日米航路が出るシアトルに通じるグレート・ノーザン鉄道の起点でした。
3つのキーワードは、過去の失敗を反省し、平和な未来への希望を盛り込む出発点であったと理解します。
都市提携運動は、アイゼンハワー米国大統領による提唱(1956)を経て、全国各地に広まりました。

長崎の姉妹都市には、「現在、日本と海外との姉妹都市提携の数は、1577件にものぼるそうだ(財団法人 自治体国際化協会調べ 【年不明】5月31日現在)」と記されていました。

それはさておき、落書き帳過去記事を「姉妹都市」で検索したところ、ムンバイと横浜[86250] MasAkaさん など、外国絡みの記事がありました。

十番勝負では、第四十九回問六は 外国と無関係でしたが、第二十八回問四で 国際姉妹都市 に関係した問が出題されていました。

特に注目した記事は、グリグリさんの [76014] 国際姉妹都市提携の解消方法が分らない? でした。
問四の想定解の一つである柳川市は、オランダのブレーデルウィーデ市と姉妹都市提携をしているのですが、今年1月に開かれた第3回柳川地域審議会の会議録(pdf)の4/13頁から5/13頁に掛けて面白いやり取りが行われています。面白いので全文引用します。

おまけ
福井県小浜市と米国大統領になったオバマ氏。
2008年に「オバマを勝手に応援する会」があったことを思い出しました。
Obama City は日本だけで「国際同名市」には該当しなかったようですが…
[97625] 2019年 4月 13日(土)16:13:43【1】hmt さん
湖沼と その分割
ボーッと(笑)テレビを見ていたら、霞ヶ浦が登場していました。
今回のテーマではなかったものの、淡水湖なのに何故「…湖」という名でなく、「…浦」なのか?

「香取海」[65806]【注】という名も登場しませんでしたが、日本で2番目に大きな湖の前身は入り海でした。
【注】
 10年前の記事のため、「約1千年前の水系図」へのリンクが切れていました。
 現在のサイトにある対応する地図です。【霞ヶ浦の変遷>昔はどうなっていたか/約1千年前】

…という訳で、hmtマガジン「湖沼の分割」に、湖沼と海域との関係3記事を追加し、タイトルも微修正しました。
[97606] 2019年 4月 1日(月)10:28:02【1】hmt さん
1889年 地方自治体【市町村】の誕生から 130年
来月から使われる年号の公表で賑わう平成31年度初日。
このサイトの読者として記憶しておきたいことを一つ。
それは、明治22年4月1日に「市町村」という名の「地方自治体」が誕生した記念日であることです。

130年前の 明治22年(1889)というと、2月11日(紀元節)に大日本帝国憲法発布。

地方制度については、明治4年の廃藩置県による3府302県から間もなく、3府72県へのリセット。そして 明治9年の府県統合やその後の手直しなどの再編成を経て、明治21年までに 47都道府県の前身【3府43県と北海道庁】が出揃いました。
46「府県」は 自治体としての性格も少しは得ていたものの【明治11年地方三新法】、官選知事の下に置かれた地方官庁としての性格が強い存在でした。

立憲君主国家になってから最初の地方制度として施行されることになった 明治21年法律第1号の末尾には、参考として「市制町村制理由」が付されており、ごく一部ですが引用します。【条文の本体は 市制(2コマ)・町村制(17コマ)】
本制の旨趣は自治及分権の原則を実施せんとするに在りて…必先つ地方自治の区を造成せざる可からず…自治区は法人として財産を所有し…又其区域内は自ら独立して之を統治するものなり
【61頁3行】現今の制…区町村は稍自治の面を存すと雖も…府県は素と行政の区画にして…悉く完全なる自治体と為すを必要なりとす 即府県郡市町村を以て三階級の自治体と為さんとす【61頁5行】

現行の地方自治法を含めて法律の条文には「地方公共団体」が使われており、「自治体」という言葉を見出すことはできませんが、わざわざ付けられた市制町村制理由によって、上記のように「自治」を目指していたことが明らかであり、印象的でした。

市区町村変遷履歴情報日付順一覧を見ると、1889/4/1に 35府県の市制町村制施行が列挙されています。
明治22年度中に東京府と9県が続き、1890年2月の香川県で 45府県が出揃いました。

市制町村制施行初年度に新設された自治体数は、合計 40市721町12796村でしたが、130年を経た現在まで同名・同法人で続いている自治体は幾つあるのだろうか? 
# 市制町村制が明治22年度に施行されなかった北海道、沖縄県、島嶼部[83646]参照】は対象外です。

ふと、そんなことを考えてみました。

とりあえず 40市だけ調べました。*印は、市制施行日が5月以降になった県に所在した市です。

同じ市名で、法人格も変わらずに存続していたのは 29市でした。 【追記あり】
 盛岡 仙台 秋田 山形 米沢 水戸 横浜 新潟 金沢 福井
 京都 大阪 堺 神戸 和歌山 広島 高知 福岡 久留米 長崎 熊本 
 *岡山 *甲府 *岐阜 *名古屋 *鳥取 *徳島 *松山 *高松

【追記】
形式的には 29市ありましたが、いわゆる「三市特例法」[53890]によって 東京市と共に 事実上骨抜き になっていた京都市と大阪市を除けば 27市です。
三市特例法廃止により、三市が市長や吏員を持つ「本来の市」の地位を獲得したのは 1898年でした[33692]
【追記終】

新設合併によるリセットで失格:9市
 弘前 富山 高岡 静岡 津 姫路 松江 佐賀 鹿児島 
改称で失格: 赤間関(下関になった後に新設合併もあり)
都制による失格: *東京

町村については調べていませんが、同名の市になってもOKとすべきか?

蛇足
目を海外に向けると、1889年は フランス大革命(1789年)の百周年で、パリ万国博覧会が開かれました。
博覧会のシンボル企画に選ばれたのが、鉄橋建設で高評価を得ていたエッフェル社による 300mの鉄塔でした。
2年2月の短い工期で契約し、万博にて間に合わせた竣工式は 1889/3/31。偶然ですが、明治22/4/1の前日でした。
工事費の大部分はエッフェルが調達し、完成後の入場料で返済したとか。
[97596] 2019年 3月 29日(金)13:53:14hmt さん
揺れた駅名
[97594] デスクトップ鉄 さん
【TBS】番組の後半では、土屋武之氏のコメントがあった…(中略)何を語ったかも興味あります。

私も番組を見ていないのですが、土屋さんが ネーミングの重要性を再認識させた「京急の駅名改称」というページを 先月発表されていたので、参考までにリンクしておきます。

これによると、駅名改称の最大の動機は 大師線の連続立体交差化で廃止された「産業道路踏切」地元からの要請であったようです。
大師線だけでなく 京急線全線の駅名見直し に進んだ事情は、京急創立120周年記念事業との兼ね合いによる、小・中学生からの「わがまち駅名募集」(昨秋)でした。
応募は 1000件以上あり、これを参考には したものの、2020年3月に駅名改称が実現するのは僅かに4駅でした。

小・中学生は 現在の京急線利用者と意識も違い、あまり参考にならなかったのかもしれません。

鉄道会社にとっての駅名。これは 鉄道会社がその役務を提供する主要な場所であり、有形商品の商標に対応する役務標章【サービスマーク】として、本業に使われるのが本来の役目であり、「鉄道会社の財産」でもあります。

とは言え、その近くに住まい、毎日利用している地域住民にとっての鉄道駅名は、「アイデンティティ」でもあるデリケートな存在でもあります。昨今の駅名を巡る動きにより、このことを再確認できたと感じる。

土屋さんは、コメントをこのように結んでいましたが、「逗子・葉山駅」への改称については、言及していなかったようなので、更に調べました。

逗子葉山経済新聞から引用。
----------
 逗子市には、1930(昭和5)年4月1日に開業した湘南電気鉄道が、終着駅として「湘南逗子」を設置。1931(昭和6)年、「湘南逗子」の先約400メートルの位置に「湘南逗子葉山口」駅を新設、既存の「湘南逗子」駅は「湘南逗子沼間口」駅と名称を変更。1942(昭和17)年8月には「湘南逗子沼間口」駅廃止。同年9月1日、「湘南逗子葉山口」駅を再び「湘南逗子」と名称変更、あらためて終着駅になった。

 1948(昭和23)年7月、「湘南逗子葉山口」駅が「逗子海岸」の名称で復活。そのため、今回の駅名変更時に、「逗子海岸」の駅名復活を望む逗子市民の声もあった。1963(昭和38)年11月には、「湘南逗子」駅の名称が「京浜逗子」に。現在の「新逗子」開業は1985(昭和60)年3月2日。「京浜逗子」と「逗子海岸」の両駅が統合された。
----------

「湘南逗子葉山口」を含めて、呼び名が揺れた過去がある駅のようですね。Wikipediaに空中写真。
[97582] 2019年 3月 21日(木)19:37:03hmt さん
見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う 桜木を…
強風ですが暖い今日の東京。気象庁は 10時すぎに サクラ開花の目安にしている靖国神社の標本木【ソメイヨシノ】で5輪以上の花が咲いているのを確認。「東京でのサクラ開花」を発表。

10数年前には、春爛漫 桜を見に行こうと題する落書き帳アーカイブズも作られ、各地の桜を話題にしています。
日本だけでなく外国の桜も話題になるところはさすがです。
尾崎行雄[65669]が東京市長時代に贈ったポトマック川の桜並木[10964]は有名ですが、少年時代のワシントンが誤って切った桜の木[11034]は、花見用ではなく「さくらんぼ」用だったのでしょうね。
サハリンのユジノ=サハリンスク(豊原)には日本統治時代に植えた桜が残り、ロシアで唯一桜が咲くとか[11090]

国内の桜の名所は多々ありますが、現代の桜の名所は、白石川堤の一目千本桜[25609]を始めとして、品種的にはソメイヨシノが主流でしょう。
葉が出る前に花だけが咲き誇るこの品種を 江戸郊外染井の植木屋が売り出した時には、古くから有名な桜の名所を流用した「吉野桜」の名が使われました。しかし、吉野山のヤマザクラは花と葉とが同時に付いており、明らかな別品種です。「ソメイヨシノ」と改名されたのは、明治になってからでした[27015]

[74415] JOUTOU さん
とある都心の公園で花弁ごと落ちているたくさんの花びらを見てソメイヨシノそのものの寿命が心配に感じた…

接ぎ木により日本全国に広まったソメイヨシノですが、遺伝的には同一のクローン生物です。
戦後の復興期に日本中に植樹されて数十年を経過。
ソメイヨシノは 根を踏み荒らされ続けただけでなく、伝染病の脅威にも襲われ、ピンチを迎えています。

桜の苗木を生産している 日本花の会 研究員・西山正大さんのお話 2017年放送のTBSラジオ

うちの農場では、もうソメイヨシノの苗木は生産していません!!

同じクローンなので「テング巣病」と言う伝染病にかかりやすい。ソメイヨシノらしい景観を残しつつ、テング巣病を広めないために、「ジンダイアケボノ」をソメイヨシノの代替品種とする方針を進めている。
開花の時期も1日2日の差で、花を咲かした後に葉を展開するので、ソメイヨシノとほとんど同じように見られる。

ワシントンに贈ったソメイヨシノから実生で育てた「Akebono」という桜。これを日本に逆輸入して、神代植物公園に植えたところ、神代生まれの変種ができ、1991年に新品種として認定された。
「ジンダイアケボノ」と命名された新品種は、母のソメイヨシノ【父の素性は不明】と比べると少し小ぶりで、花のピンク色は少し濃いがよく似ているとのこと。
既に千鳥ヶ淵など各地に植えられているようです。
ソメイヨシノは病気問題だけでなく、大木になりすぎる。これも街路樹としては敬遠される理由のようです。

蛇足:
「Akebono」が使われているタイトルは、武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲の名曲「花」の2番から。
この歌曲は、東京都墨田区「区民の愛唱歌」。
[97575] 2019年 3月 15日(金)19:03:39hmt さん
大きな地名?
「都道府県名」は「市区町村名」よりも大きな地名。もっと大きな地名は「国名」。
住居地名や行政地名を離れた自然地名ならば、「太平洋」のような大きな地名もあります。

地球表面を離れると、本来の「地名」の意味から離れるようですが、月・木星・太陽などの天体や、恒星の大集団である銀河やその集団の名も、地名の延長線上に位置づけることができそうです。

こんなことを考えたのは、昨夜見たBS3に登場した「ラニアケア超銀河団」の巨大さが契機です。
番組タイトルに使われた「5億光年の宇宙地図」という直径を km単位に換算すると、5*10^21km。
比較にもなりませんが、太陽地球間の距離を基準にすると30兆天文単位という大きさ。

私達の地球が属している太陽系は、直径約10万光年の天の川銀河の第3腕(オリオン腕)に所在。
比較的近いアンドロメダ銀河などと共に 約40の銀河が集まり フィラメント構造の局部銀河群を構成。その大きさは約650万光年。
2014年9月に発表されたハワイ大学の研究により、この付近の局部銀河群は、その特異運動から より大規模な「ラニアケア超銀河団」に属していることが、発見されました。
この「超銀河団」の直径は5億2000万光年。10万個の銀河があり、質量は太陽の10京=10^17【10の17乗】倍。
「ラニアケア Laniakea」とは、ハワイ語で「無限の天空」を意味する言葉とか。
2019年1月には範囲を広げた新しい宇宙地図が発表され、昨夜のテレビ放送素材として使われました。

巨大なラニアケア超銀河団も、宇宙のほんの一部にすぎません。
宇宙は、観測可能な範囲だけでも、900億光年以上の広がりがあり、ラニアケア超銀河団は更に巨大なシャープレー集団に引っ張られている?

銀河の多いフィラメントと、銀河の少ないボイドとから成る宇宙の大規模構造。
その研究が進むことにより、宇宙論の2大ミステリーである 暗黒物質と暗黒エネルギーとを解明するのに寄与するだろうと期待されています。
[97554] 2019年 2月 27日(水)16:18:08【1】hmt さん
海に沈んだ炭鉱の島・横島(長崎市香焼)
西彼杵炭田に始まる長崎県の海と島とに関する記事の後、昨夜のニュースで偶然知った「海に沈んだ炭鉱の島」です。
長崎の市街地に近い「香焼」で、その炭鉱名は[97534]で列挙した8炭鉱のうちにありました。

三菱重工業の大造船所で知られる香焼(こうやぎ)。
かつては島でしたが、現在は本土と地続きです[57361][86062]

地図 の左下の岩礁に「横島」と記されています。
昔は 更に西側の小さな岩礁との間が繋がっており、横島炭鉱があったようです。

明治27年(1894)に三菱が炭鉱開発に着手。海面埋立もあり 1898年出炭開始。
発電所も稼働して電灯がついた横島は海に浮かぶ夢の島のようだったそうです。
最盛期には人口700人、社宅だけでなく、病院や小学校もできた賑わいとか。

しかし、約12万トンを出炭したところで、地圧で坑道が押し潰され、1902年閉山。
僅か4年半で操業を断念した短命の鉱山でした。【注1】
閉山後、護岸の石垣を取り外して軍艦島などに再利用したために、埋立土砂も流失し、岩礁に戻ったとのこと。

その後、1965年頃に西側の岩礁が徐々に水没。東側の一部も水没して現在の2岩礁が残るだけに。
以上の出典資料【注2】の末尾に、中の島[97509]?など「4ヵ所の炭鉱の島が写っている」という写真が紹介されていますが、遠景の3島は、よくわかりませんでした。

今回のNHKニュースは、島が沈んだ原因を探る調査の開始を報じるものでした。
岩盤の地滑りによってできたと思われる大きな崖があるようです。

【注:追記】

 三菱の横島坑とは別に、香焼島の南部・安保地区には別会社による香焼炭鉱があり、1960年頃に活動していました。
こちらは 1964年閉山とのこと。廃墟検索地図

 このページが属するサイト隼にあった写真から、珍しい 明治23年 三菱が買収した頃の端島 のあるページをリンクしておきます。肥後の石工の護岸技術に言及。
 注1に記した香焼炭鉱のアパート群写真もありました。
[97543] 2019年 2月 22日(金)19:04:50hmt さん
長崎2題
1 さるく
[97534]から続いた長崎県の島の話題に関する調査の中で、偶然「さるく」というページを知りました。

「さるく」とは、まちをぶらぶら歩くという意味の長崎弁だそうです。

ブラタモリの長崎版が放送されると「さるくタモリ」になる?…と思ったら、2015年度からのブラタモリ全国版のトップで放送されていたのですね。NHK
しかも、#2は池島炭鉱も訪れている。全く記憶なし。見落としたのか?

それはさておき、「おすすめさるく」「通さるく」「学さるく」出典 の他に、無料アプリの 長崎さるくナビ があるようです。

2 本石灰町(もとしっくいまち)
[28741] hmt
【元素由来地名で】試みに「石灰」を調べてみたら長崎市本石灰町、北海道石灰川、愛媛県石灰山
[93579] 駿河の民さん
本石灰は地名コレクション【職業由来地名】にありませんでした. 

同じ意味の「漆喰」から 「石灰」を「しっくい」と読むのですね。
くんち塾フォーラムには、唐人ことばが訛った「唐音」と説明しています。
長崎では天川シックイという。天川はアマカワ、マカオのことである。
[97542] 2019年 2月 22日(金)15:42:35hmt さん
大角力・小角力
[97534] hmt
池島は 本土側の合併前境界線を角力灘に延長した線の南側になるので…

角力灘(すもうなだ)という地名が珍しかったので 地図を拡大したら、池島の南東に大角力、母子島(はこしま)、小角力という小島がありました。

調べると 角力灘に浮かぶ兄弟島の物語 というページに、大角力の写真と共に、旧・長崎県西彼杵郡外海(そとめ)町史に掲載されていた原文が紹介されていました。

兄弟げんかをする子どもたちへの教訓として創作されたとしても、荒々しい ドメスティック・バイオレンス。
現代には通用しない話ですが、美しい風景と共に、池島炭鉱坑道見学ページへのリンクもあり、紹介しておきます。
[97535] 2019年 2月 14日(木)17:41:15【1】hmt さん
海と島(34)西彼杵炭田(2)崎戸 松島 大島 池島
高島/端島炭鉱に続いて、同じ三菱の崎戸炭鉱に移ります。

蛎浦島(かきのうらしま)は昔は沿岸捕鯨、その後は崎戸炭鉱で栄えた島です。
[75121]には書いてありませんでしたが、「崎戸島」は炭鉱のある島の西隣にある別の島です。
廃墟検索地図崎戸炭鉱をスクロールすると、県道の終点が崎戸島。

廃墟賛歌から要約。
崎戸炭鉱は 1907年から九州炭鉱汽船により採掘が本格化。1940年三菱鉱業崎戸鉱業所。戦時中の1943年には100万トン以上を産出。従業員7500人の日本有数の炭鉱となった。しかしその裏には強制連行による中国人・朝鮮人を含む労働者に対する過酷な処遇。
「一に高島、二に端島、三に崎戸の鬼ヶ島」と恐れられた時期もあったとか。

落書き帳では 15年近く前の記事ですが、1960年代の崎戸炭鉱での貴重な居住体験が残されています。
[34246] 2004/10/16 地球人さん
私は40年ほど前、まだ、炭鉱が盛んだったころの崎戸町に住んでいたことがあります。長屋暮らしで、上水道がなかったのか、水瓶がありました。公衆浴場は炭鉱が設置し、無料だったこと。映画館があったことなどを思い出します。以前、猫使いさんにも書き込みましたが[32514]、当時のアパート群が廃墟となってしまっていて、郷愁を誘われます。

高島/端島炭鉱や崎戸炭鉱は三菱の経営でしたが、西彼杵炭田には三井系列の炭鉱もありました。

三井系列と言っても、九州本土に 田川炭鉱や三池炭鉱という大炭鉱を持っていた三井鉱山(株)ではなく、中小炭鉱出自の三井松島グループです。

三井が地場資本の松島炭鉱に経営参加したものの、1917年の坑内火災、1929年の海底陥没、1934年の坑内出水と事故に見舞われ、松島鉱山は閉山しました。
そのような経営難の中で大島坑【大島は崎戸炭鉱のある蛎浦島の本土側の島】を開き、その利益で戦後開発したのが池島坑でした。
このように、松島>大島>池島と場所を変えなが 2001年まで採炭事業を続けたこの会社が、九州での石炭採掘事業の最終ランナーになりました。

松島炭鉱沿革
松島炭鉱(株)大島鉱業所沿革
松島炭鉱(株)池島炭鉱沿革

このグループの創業の地・松島の炭鉱跡には 1977年に電源開発(Jパワー)が進出して火力発電所を建設し、1981年には出力100万KW(50万2基)が運転を始めました。
三井松島産業は 輸入炭供給を通じて、現在も石炭の仕事を続けています。

また、日本で培われた炭鉱技術を海外に広めるため、1997年に設立された三井松島リソーシスは、2002年度からは国の「炭鉱技術移転五カ年計画」を受け、アジア諸国研修生に技術を教える研修施設に特化し、技術移転を推進しています。

石炭や三井系資本とは無関係ですが、大島には造船所ができており、1974年操業開始。

最後に DIDに戻り、[96482] 白桃さん が締めくくり。 
あとは落ち目の三度笠。中でも、高島、大島、崎戸の石炭で潤ったところの凋落ぶりは目もあてられない・・・
[97534] 2019年 2月 14日(木)17:31:23【2】hmt さん
海と島(33)西彼杵炭田(1)総論と高島/端島炭鉱
約2週間前に白桃さんが出題した DIDなぞなぞ[97508] と かぱぷうさんの解答[97509]
ひょっとして ここ のことですか?

話題の本筋の DID から離れてきますが、この機会に長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡の島々にあった炭鉱の記事を書きました。石炭採掘が盛んだった頃には すべて西彼杵郡 でしたが、現在の所属は長崎市と西海市です。

長崎から南に伸びる長崎半島の沖にあった高島/端島などの炭鉱跡は 2005年に長崎市に編入されました。

かつて炭鉱で賑わった崎戸・大島などの町々や、石炭火力発電所に変身していた松島(大瀬戸町)も、同年の平成合併で、すべて西海市になりました。西海橋で知られる針尾瀬戸までの西彼杵半島北部と五島列島の近くの平島に及ぶ島々ですが、炭鉱があった島は本土に近い幾つかに限られています。

炭鉱の系譜で言えば松島や大島の後継である池島。地理的にも松島に近いのですが、池島は 本土側の合併前境界線を角力灘に延長した線の南側になるので、この島は外海町でした。従って平成合併では長崎市に編入されました。

広い範囲に存在する島々なので、1枚にすると端島などが見えにくなります。南北に分けた同縮尺(#12)の地理院地図。
西彼杵の島々(北部)
西彼杵の島々(南部)

さて、かぱぷうさんの解答[97509]にリンクされた地理院地図・中ノ島には、注記「史跡【記号】高島炭鉱跡 中ノ島炭坑跡」が付けられています。
この地図を#17から#16へと1段階縮小したスケールにすると、隣の端島(はしま)【通称・軍艦島】が現れ、こちらには、「史跡・高島炭鉱跡 端島炭抗跡」とあります。

高島炭鉱・中ノ島炭坑・端島炭抗と3種類の表記がありますが、端島炭抗は端島炭坑の誤記と思われます。

それはさておき、「炭鉱」は 山や海底など 採炭区域を示す名称です。
複数の炭鉱を含む 広い石炭埋蔵区域 を示す言葉として、「炭田」という用語もあります。

これに対して 「炭坑」は、炭鉱内に作られた 採炭用の坑道【竪坑、横坑、斜坑など】のことです。
石炭産業が衰退した現在、使われる機会も少なくなったので、用語について 一応の説明をしておきました。

中ノ島から 地図を北にスクロールすると、端島や中ノ島より大きい高島が現れ、その北部にも「史跡・高島炭鉱跡 高島北渓井坑(ほっけいせいこう)跡」があります。

3つの国指定史跡は 長崎市のページ で紹介されているように、幕末の佐賀藩・グラバー商会による外国資本・外国技術導入に始まり、明治・大正・昭和にかけて 近代日本の石炭産業が成立し、発展した跡を知る貴重な文化遺産です。

長崎市のページによると、中ノ島炭坑が稼働したのは 明治16年から明治26年まで(1883-1893)でした。
島嶼部に開発された近代海底炭坑の遺跡が残る島ですが、激しい出水で廃坑になったのは、僅かに10年後でした。

昭和35年国勢調査当時の西彼杵郡高島町の人口が、高島(DID人口15,879人)と端島(同5,059人)だけであり、「DID以外【中ノ島】には誰も住んでいなかった」[97508]状態になっていたのは、なんと 19世紀という昔に、廃坑→無人化されたという歴史があったからでした。

参考までに、この高島町は、DID制定5年前の 1955年に(旧)高島町【高島】と西彼杵郡高浜村大字端島名の区域との合併によって新設された自治体でした。[71965]
推測ですが、「大字端島名の区域」は、有人島の端島の他に 無人島の中ノ島を含んでいたのではないでしょうか。

冒頭に記したように、ここで 高島とその2属島を含む高島/端島炭鉱から 視点を広げて、「西彼杵郡に広がる炭鉱の島々」を対象にします。

Wikipediaを見ると、「西彼杵炭田」という言葉がありました。
初耳でしたが、「長崎県西部、西彼杵半島西部及に点在した海陸、島嶼の炭鉱群の通称である。代表的な炭鉱として高島炭鉱、池島炭鉱、端島炭鉱、崎戸炭鉱、松島炭鉱などがあった。」と説明されています。

前記史跡関係の資料においては「高島炭鉱」の一部とされていた端島が、独立の「端島炭鉱」とされており、少し相違します。以下、早期に廃坑になった中ノ島は省いて、「高島/端島炭鉱」という総称を使います。

「西彼杵炭田」は 学術文献にも使われている用語のようで、長崎県の炭鉱のうち 北松炭田は別として、蛎浦島や大島より南の島々にあった炭鉱を指すようです。2枚に分けた地理院地図を冒頭に示しました。

広島大学HPの炭田には 鉱山探訪2011/5【リンク切れ】から引用した長崎県の鉱山分布の地図がありました。同じ地図(Google画像検索結果)で、石炭鉱山の印である■を拾うと 西彼杵半島以南には 前記5炭鉱を含む8炭鉱が存在していました。崎戸[75121] 大島 松島 池島 伊王島 香焼 高島 端島です。

なお、島群コレクションには西彼諸島があり、8島の名が記されています。
この名については、2004年に[30575]を書いて疑問を提示してありましたが、それは 15年も前のことでした。
その際に、かつて炭鉱で栄えた高島や端島(軍艦島)が選ばれていないことを記しましたが、今回 長崎のしま紹介【西彼】を再確認したところ、平島 江島 松島 池島 伊王島/沖之島 高島 が地図で示され、端島についての言及もあり、だいぶ改良されていました。

余談:半島南端の樺島や橘湾の牧島も対象外となっており、コレクション記載の島名修正が必要であると思います。
私の考えでは 松島の北に位置する大島と蛎浦島(かきのうらじま)も、「西彼諸島」に加えておきたいと思います。
九州本土との間が架橋で結ばれ、現在の行政では離島扱いされていない「架橋島」ですが、本来的には「島の炭鉱」であることを強調したいのです。
[97519] 2019年 2月 9日(土)16:22:06hmt さん
ゲートウェイ
[97060] グリグリさん 他多数

英語の gate と way を連ねた「ゲートウェイ」が、日本語として どの程度に通用しているのかは知りません。
上記の過去記事から探したら…
[97069] グローバルゲートウェイ品川という再開発エリアのコンセプト名
[97086]の【以下蛇足】と断った引用
 コンピュータ―のネットワークを、プロトコルの異なるネットワークと接続するノードを意味します。
 例外としては、ホテルの名称など固有名詞がある程度。(中略)一方、横文字で「gateway」を引くと…
[97115] 道の駅「伊豆ゲートウェイ函南」

この他に私が気付いた 体験型英語学習の施設名 TOKYO GLOBAL GATEWAY
アクセスを見ると、所在地は江東区青海で、最寄り駅は ゆりかもめ テレコムセンター駅。芝浦ではない。

芝浦の「ゲートウェイ」への入り口(笑)を探ろうと思ったのですが、なかなか 辿り着くことができません。


初心に戻り、第1報の出典と思われる JR東日本のプレスリリースを確認しました。
この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり、明治時代には地域をつなぐ鉄道が開通した由緒あるエリアという歴史的背景を持っています。
という記載はあるものの、「江戸の玄関口」を「高輪ゲートウェイ」に変形した理由は発見できません。

グローバルゲートウェイ品川という再開発エリアのコンセプト名[97069]

再開発事業に使われた地名は「品川」なんですね。
正式名は「品川駅北周辺地区土地区画整理事業 」、通称が 「品川開発プロジェクト」で、実施前に発表された2015/8/31の基本概要において、既にゲートウェイと組み合わせた「グローバルゲートウェイ品川」の名が見えます。

公募トップの「高輪」と組み合わせた新駅名により、突然登場した感のある「ゲートウェイ」に違和感を覚えたのは私だけではなかったでしょう。

しかし、再開発事業関係者【特にJR東日本】にとっては、3~4年使ってきた名でした。新駅名発表よりも前の JR東日本発表にも使われていました。

今更…なのですが、品川開発プロジェクトの主体である UR都市機構による品川駅北周辺地区土地区画整理事業(施工面積 14.7ha)、実施期間 2016~2031年 のページへのリンクです。

「コンセプト」の発言は 筆頭地権者のJR東日本のみでした。
「ゲートウェイ」は URではなく「JRの造語である」と理解しました。

交通の便利さから、JR東日本は「グローバルゲートウェイ品川」をまちづくりのコンセプトに掲げている。「都心の新しい玄関口にふさわしい国際交流拠点にしたい」とJR東日本総合企画本部品川・大規模開発部の村上祐二副課長は言う。
[97503] 2019年 1月 27日(日)14:21:30【2】hmt さん
「スーパーK」連続殺人事件
昨夜のフジテレビで見た報道ドキュメンタリー番組で取り上げられた 2016年初夏の事件です。
「スーパーK」と呼ばれた加害者は 人間を襲い、人肉を味わうことを覚えてしまったツキノワグマで、秋田県鹿角市に由来するニックネームでした。

鹿角市と言えば、2008年11月に湯瀬温泉で開催された 第5回落書き帳公式オフ会の開催地で、以後恒例になった温泉宿泊型落書き帳オフ会の発祥地として印象に残っています。
[67641]に記したように、秋田県なのに「羽後国」でなく「陸中国」鹿角郡【現・鹿角市+小坂町】であるのが特異的です。

報道された鹿角市十和田大湯付近の 地理院地図を見ると、青森県との境界をなす十和利山の南西斜面で、「熊取平(くまとりたい)」付近に「熊取牧場」があり、ここから流れ出た「熊取沢」が 秋田街道沿いの大湯川となって毛馬内【十和田南】付近で米代川に合流しています。

花輪や湯瀬は米代川本流の上流になりますが、「スーパーK」事件の現場は支流域で、十和田湖に近い秋田県北東端付近であると知れました。
この付近は戦中・戦後の食糧増産のために国有のブナ林を切り開いて開設された牧草地が広がっており、その外周の沢に沿って笹原という状態になっているようです。

笹原に自生するネマガリダケのタケノコ採りは、地元の高齢者にとってよい現金収入源です。
しかし、タケノコは クマの好物でもあります。
2016年はタケノコが不作で、タケノコ採りの高齢者とクマが笹原に集中してしまい、不幸な出会いが生じたようです。

秋田県庁で自然保護行政を経験し、現在は広島県廿日市市にNPO法人「日本ツキノワグマ研究所」を設立している米田(まいた)一彦さんは「スーパーK」の名付け親です。
この事件の後で記した3回続きの緊急報告が 読売新聞に掲載されていました。

ツキノワグマも食肉目に分類されているが、ふだんはタケノコやドングリを食べているベジタリアン。
積極的に人間を襲うことは稀であり、偶発的な出会いを避けるための「クマ除けの鈴」が有効とされている。
どんな状況で人肉を食う習慣をつけてしまったのか?

人間と野生動物との付き合いに関して、考えさせられる記事と思います。この機会に ご紹介しておきます。

【追記2】
米田さんの続報がありました。
そのタイトルに ズバリ
「食べる選択肢」に人間が加わっただけ
[97438] 2019年 1月 11日(金)18:30:37【1】hmt さん
海と島 (2.1)瀬戸内海の (10)番目の海域
hmtマガジン 海と島に新しい記事を追加した機会に見直したところ、瀬戸内海の海域を挙げた[82879]に、誤解に基づく記載を発見しました。
古い記事なので訂正はできませんが、下記の部分を削除し、補足記事を加えて修正したいと思います。

[82879]記載のうち、誤解しており削除する部分
付属した図も(1)~(9)の9海域になっているのですが、“10区分”と書いてある理由は?
実は(後略)の部分に“広島湾は安芸灘の一部で…”という文があります。
(1)~(9)の9海域に広島湾【安芸灘の西部】も加えて、10区分としているのかもしれません。

海保の付属図が(1)~(9)の9海域になっていたのが誤解の原因でしたが、領海法施行令と対照させてみたら、(1)~(9)の9海域は、南東の境界【紀伊水道の南】と南西の境界【豊予海峡】とを反映していますが、この他に関門海峡の西側に「北西の境界」が存在しました。
北西の境界:竹ノ子島台場鼻(ダイバハナ)から若松洞海(ドウカイ)湾口防波堤灯台まで引いた線となっています。(付図参照)

なるほど、
領海法では 彦島付近の台場鼻と若松の洞海湾口を結ぶ線の内側は、瀬戸内海の一部として扱われていたのでした。

前記削除部分に変えるべき、新しい記述です。
付属した図は(1)~(9)の9海域になっていますが、 (10)番目の海域は、台場鼻と洞海湾口とを結ぶ線を北西の境界とする「関門港西部」です。

瀬戸内海というと、自然地理的には 関門海峡を西端とする。これが私の常識でした。
しかし、領海法という法律で定めた瀬戸内海は、自然地理の考えとは違っていたのでした。
海保の付図には台場鼻と洞海湾口が示されていましたが、スペースの都合で、 (10)番目の海域範囲は図示されていません。
[97420] 2019年 1月 9日(水)22:45:54【1】hmt さん
海と島(32)馬毛島買収問題決着へ
馬毛島は種子島の西隣12kmの東シナ海にある島ですが、落書き帳では「大きな無人島」として登場していました。

2016年 [91213]の記載
馬毛島 面積 8.17km2 鹿児島県西之表市 島を手に入れた企業が有人島化 その狙いは? 

疑問符付きで記してありますが、その答えはリンクしたページに記されていました。
島を国有化して米軍空母艦載機の陸上離着陸訓練(FOLP)に用いる計画関連。2008年から内々の打診が進行。
しかし、防衛省が提示した評価額は、高値での売却を狙う所有者の希望金額と一桁異なり、物別れの状態でした。

そこで所有者が利用したのが、地権者の言い値で国有化したという尖閣諸島と、中国企業の動きでした。
2012年になると、「中国の企業が何社か接触してきている。日本の対応次第では売ってもいい」という地権者発言。

日米両国政府による在日米軍再編合意(2006)をふまえ、厚木の艦載機部隊は2018年迄に岩国に移動しました。
日本側としても、近くなった馬毛島の整備は、待ったなしの状態に追い込まれた形です。

今朝の読売新聞は、「米軍機訓練 馬毛島を買収/安保重視 官邸主導」という見出しで決着を報じていました。

問題になっていた対価については、島としての単純な資産価値の45億円から滑走路用地や関連施設を加味した100億円に増加され、更に地権者の希望で60億円上積みした 160億円で仮契約に漕ぎ着けたと伝えられます。


【2019/1/10 追記】馬毛島の人口 産業利用の概要

渡島大島に次ぐ「日本で2番目に広い無人島」であった馬毛島。所有者の企業による土地に付加価値を付けるための工事で有人島化[91213]したが、最近の調査では 無人島に戻っているようです。日本の島へ行こうによる国勢調査人口。
0人(H27)・11人(H22)・15人(H17)・0人(H12)・0人(H7) 国勢調査

それ以前の産業利用の概略。種子島第一の西之表港の対岸にあり、種子島家が漁業基地として利用。
蛇足:種子島と言う地名からは 16世紀大航海時代「鉄砲伝来」の門倉岬や 種子島宇宙センターを連想します。
しかし、それらの地は 島の南端近い南種子町で、馬毛島からはずっと離れています。

馬毛島は、明治期の牧畜業を経て、戦時中は一時無人島にもなりました。
戦後の 1951年から馬毛島入植が再開され、1959年には 113世帯、528人を記録して小中学校も開校。
しかしその後は 旱魃・風害・食害などによる農業不振と製糖工場閉鎖で 1980年に全島民離島。無人島に。

その後は実質的な利用のないまま、土地投機の対象として翻弄される運命をたどりました。
[97343] 2019年 1月 5日(土)19:40:23hmt さん
嫦娥(じょうが)4号 と 鵲橋(じゃっきょう)
[97342]で平成31年暦要項を眺めて気がついたこと。
東京の日出入 1月11日 日出6時51分 10日間隔のデータだが、最も遅い日出は今頃
朔(新月)1月6日10時28分 地球/月/太陽 が一直線上に並ぶのが朔  旧暦12月1日
部分日食 1月6日 東京の最大食は 10時6分 日食も地球/月/太陽 が一直線上に並ぶ時

それはさておき、中国の無人探査機が、世界で初めて 2019/1/3に「月の裏側」南極付近に着陸したとのこと。朝日

タイトルは探査機の名。嫦娥は中国神話に登場する人物。Wikipediaを見ると、もとは仙女。夫から不死の薬を盗んで月宮殿に逃げた。供え物をする月見の由来とも関係。道教では嫦娥を月神とし、中秋節に祀る。
日本での竹取物語や三保松原の天女と似たところもあるようだが、蟇蛙になったというから、イメージが違う?

月の裏側は、アボロ計画での周回で写真が撮られているが、軟着陸は初めて。
月の裏側は 地球との直接交信ができず、クレーターも多く、裏側への着陸は野心的な挑戦とか。
地球との交信を中継するのは「鵲橋(じゃっきょうQueqiao)という衛星。
かささぎの橋:男女が良縁で結ばれる橋。七夕の日に織姫と彦星が出会うために天の川にできるという橋。

技術的困難があるが、中国は将来の資源開発などを視野に置き、優位に立つつもりらしい。
最終目標は月面基地の建設など、やや詳しい情報が英国の WIREDに紹介されている。
[97342] 2019年 1月 5日(土)17:57:37hmt さん
2019年の暦
十番勝負の最中に異質の書き込みで失礼します。

2019年の新年。最初に確認しておきたいと思ったものは、やはり「暦」です。
本年限りの特徴は、5月1日が新しい天皇の即位日ということで 今年限りの祝日になったことです。

しかし、これにより 昭和の日(4/29)と憲法記念日(5/3)との間の 「架橋 pont 休日」【ポン休】も発生し、2019/4/27(土曜日)から 2019/5/6(こどもの日の振替休日の月曜日)までの間の「10連休」が実現します。
【もちろん、この期間にも働いて、社会を支えている人たちが大勢います。】

即位の日付により、政府が 10連休の方針を決めた というニュースが流れたのは 2018年6月末頃だったようです。
しかし正式手続、つまり 2019/5/1(即位の日)と 2019/10/22(即位を国内外に正式に示す戴冠式の日)とを祝日扱いとする 特別法(平成30年法律第99号)の公布は 、2018/12/14でした。

そこで、平成30年2月1日 官報に掲載された 国立天文台 平成31年暦要項 で「国民の祝日」を確認してみました。
ご覧のように、上記特別法に基づく事項が 枠外4行に亘り【最近】追加記載されています。

Web暦要項は、平成30年2月1日という日付のまま、年末の特別法による修正を加えたpdf文書に改められていました。
官報の訂正は簡単でしょうが、市中に出回っているカレンダーは、簡単に訂正することができません。
手元の 12枚もの の5月1日には 赤い小文字で「即位の日」が入れてありましたが、大きな「1」の文字は黒字のままです。平成30年法律第99号の公布前には、赤文字で印刷するわけにゆかなかったのでしょう。
【シートの4月末に、"暦の内容は2018年4月3日の情報に基づくものです。" という注記が入れてありました。】
1枚ものや手帳には 「即位の日」という注記すらありませんでした。
【祝日は何れも2018年7月現在】【手帳末尾の翌年予定表に2020/2/23 天皇誕生日、24振替休日】

2019/5/1以降に使われる元号については、4/1に発表するというニュースだけです。
新元号の早期公表に反対していたのは「保守派」だそうです。記事
しかし、これは かえって国民をして「元号の使用から遠避ける」結果をもたらすだけではないでしょうか。

2019年の暦。暦屋さんの苦心の跡を偲びながらも、休日について 改めて要注意 を感じた次第でした。
[97168] 2018年 12月 28日(金)17:02:58【1】hmt さん
岩国空港国道
[97165] じゃごたろさん
昭和二十八年に(中略)これらの「重要な飛行場」や「国際観光上重要な地」が二級国道の起点して指定されています。
羽田飛行場・・・国道131号
岩国飛行場・・・国道189号

二級国道の起点として指定された重要な飛行場。岩国飛行場が 羽田と共に挙げられていたことに驚きました。

昭和28年(1953)という時代:1951年にサンフランシスコで調印された平和条約が 1952/4/28に発効し、Occupied Japanからの 独立を回復した翌年です。

時刻表 昭和27年12月号[74163]によると、当時の民間航空路は すべて外国航空で、日本から世界各地への国際線を合計しても週39便でした。
これを根拠に、1945年の敗戦から 日本航空による国際線再開(1954年)までの間、日本に飛来する民間航空国際線飛行機の発着地は「すべて羽田」と思っていました。

岩国の錦帯橋の下を流れる錦川が流れくだった河口部。三角州に海軍飛行場が建設されたのは、戦前の 1938年。
1945年の敗戦後 連合軍に接収され、1952年の占領終結後は 米軍基地→自衛隊との共用基地を経て、6年前の 2012/12/13に 民間機の定期便が就航。2013年5月には 早速利用する機会がありました。

この程度の認識でしたが、どうも戦後間もない頃の状況について認識不足があったようなので、改めて調査しました。

岩国錦帯橋空港の沿革には、民間空港の実績として、昭和26年(1951)に国際飛行場として指定され、1952年日本航空の国内航空幹線の中継寄港と記されていました。

国際線の具体的な記載はないものの、「昭和27年5月 羽田とともにわが国で2か所の国際空港」とあり、これが国道の起点になる「決め手」だったのでした。

しかし、旧広島空港【広島市西区】の供用開始(1961)後は 岩国便が衰退。
1964/12の変更で岩国への民間機定期便の就航はなくなり、48年間の空白期になっていました。

推測ですが、特に記載すべき国際空港としての実績はなく、「建前上の国際空港」に基づく国道189号か?

国道189号の終点は 麻里布の国道2号合流点ですが、大部分は柳井経由の国道188号との共用区間です。
単独区間は 0.36kmに過ぎず、神戸港の国道174号に次ぐ短距離国道とのこと。

蛇足:2013年岩国空港利用時のバス経路。民間便用入口が変更されており、国道189号は通過せず。
[97156] 2018年 12月 23日(日)18:24:02hmt さん
浜松市浜北区
[97154] 稲生さん
8年ぶりに投稿という稲生さんを歓迎して、一筆記します。
2007年の発足時から7区体制の浜松市が、新3区案を提示。
そして、2019年4月の統一地方選挙の際に住民投票実施とのこと。
政令指定都市としては人口の少ない 浜松市にとって、区役所削減による経費節減は 理解できる施策と思います。
区役所の削減により、住民の利便はある程度損なわれるかもしれませんが、止むを得ないようにも思われます。

私は幸いにも浜北区在住ですので、単独区は温存され、…

部外者なので、ブログに記された事情などには疎いのですが、C案にならず、F案が有力になったことに安堵する気持ちは、理解できるような気がします。

…ということで、これまで殆ど知ることのなかった「浜北区」について、調べた初歩的なことを記します。

浜北区の沿革(Wikipedia)によると、1889年の町村制では7ヶ村。現在の地図で浜北区の中心地と目される区役所付近は、長上郡小野田村・平貴村あたりと思われますが、1896年には浜名郡に編入されました。
その後、小野田村と平貴村(平口+貴布祢)は小野口村と北浜村に組み換えられ、1926年には日清紡績の工場が貴布祢に進出しました。
戦後の1951年には 小野口村が浜名町になり、昭和合併の1956年には 浜名町、北浜村を含む1町4村で「浜北町」になる。
「合併時点での人口52,561人は、町の人口として当時日本最大」と記されています。

浜北区南西部の現在の地図を見ると、小松・内野・平口・貴布祢などの大字地名を発見することができます。
明治時代にできた合成村名に使われた 1889年以前の旧村名ですね。

話 変わって
2010年頃にフェードアウトしてから、8年も経ってしまいました。

前回の記事の日付は 2010/6/17。「hmtマガジン」発足のご挨拶 2010/6/20 の直前でした。
[25159][58458][65372]など、稲生さんの記事も収録されています。訪問をお待ちしています
[97097] 2018年 12月 10日(月)12:24:42hmt さん
平塚市須賀
[97093] ぺとぺとさん
左岸の基本単位区が右岸に組み込まれているとしか思えないのですが、そうだとすると右岸と左岸では町名(大字名)が異なっており(右岸は千石河岸、左岸は須賀)、釈然としません。

平塚の「須賀」と言えば、相模川河口(馬入川)右岸の港町[77631]と心得ていたので、「左岸は須賀」に驚きました。

地図を確認すると、確かに左岸にも須賀がありますが、右岸にもあります。ひらつかタマ三郎漁港を中心とする地域で、河岸沿いに河口まで続いています。

湘南大橋の南側は、人家が「連担」した状態とは見えませんが、左右両岸共に「(大字)須賀」です。
歴史ある漁港地域から連続した大字須賀は相模川の両岸に広がっており、これが「人口密集地域」として扱われているものと思われます。
河口の南、相模湾に突き出た平塚漁港(新港)は DID区域外になっています。

# もともと DIDでいう人口「密集」の対象は地域です。建築用語である「連担」の対象物は人家(建築物)です。
「地域の連続」と「建築物の連担」。両者のモノサシは、本質的に違うのではないか?

千石河岸と大字須賀との関係【住居表示と地籍について】
相模川河口の両側が「大字須賀」だったので、「右岸は千石河岸」問題はなくなったのですが、「千石河岸」は 1965年に実施された住居表示に基づき、「大字須賀」の一部を対象に設置された町名【一部は1981年編入】です。
日常使われる住居表示町名とは別に、札場町など付近の町を含めて、地籍としての「大字須賀」は残っているのではないかと思われますが、この点は未調査。

DID設定範囲に関して、住居表示町名と地籍の大字町丁名とは、どのように考慮されるのか?
[97081] 2018年 12月 7日(金)19:58:11hmt さん
「虎ノ門ヒルズ」駅
[97077] ぺとぺとさん
そういえば、東京メトロ日比谷線の新駅の名称もカタカナつきの「虎ノ門ヒルズ」になったみたいですね。

2020年東京オリンピックまでに供用開始。関連事業の最終完成は2022年度。UR都市機構と東京メトロ

現在の森タワー(2014年開業)北隣にビジネスタワー、南隣にレジデンシャルタワー、そして桜田通り西側にステーションタワーができます。
配置図が示すように、銀座線の通る外堀通りから、南側の「新虎通り」【環状二号線】への移動。

hmtがこの地帯を訪れる機会も遠退きましたが、思い起こせば、通勤先が「芝の金毘羅さま」[73150]の隣のビルだったのは 20年以上前のことでした。

それはさておき、森ビル御用達の「ヒルズ」も出世して、駅名になります。

Akasaka Roppongi Knot から名付けた ARKヒルズ(開業は1986年)に始まり、2003年の六本木ヒルズを経て 、虎ノ門ヒルズ(2014)が開業。その頃に、環状二号線の記事[85227]を書きました。

本家のビバリーヒルズは、丘が連なった住宅地でしょうが、東京の「ヒルズ」は地形とは無関係。

例えば、六本木ヒルズになった港区六本木6丁目の旧名称は麻布日ケ窪町。
江戸時代には長府藩邸があった場所で、日露戦争で有名な乃木希典はこの地で誕生とか。
でも「日ケ窪」という名では、高級マンションは売りにくいのでしょうね。
人工的な高層ビルの町が「ヒルズ」という名になるのも止むを得ないか。

蛇足
[85227]には、虎ノ門ヒルズは「高さは247メートルと都内2位の超高層複合ビル」と記しました。
港区のミッドタウン・タワーより 1m低いのは、実はヘリポートの高さ。普通に使われる最高所の値を使うと 255.5mで都内1位になるのだが それを避けています。なぜ?
謎解き:公共事業の計画変更に必要な審議会の承認を回避するため(開業日2014/6/11の朝日新聞)。
[97079] 2018年 12月 7日(金)14:49:32hmt さん
大田区の最高点
[97065] EMM さん
大田区の最高点は改めて探す必要があります。
ただ、大田区の高い所ってビミョーなでこぼこがある大地の上なので、真の最高点を見つけるのはなかなか難しそうです。

大田区内町丁目別標高一覧によると、田園調布五丁目の最高標高 43.7m が最高のようです。
地理院地図上での位置:私には特定できませんでした。
[97051] 2018年 12月 2日(日)18:19:24hmt さん
柳瀬川から飯能まで連続するDID(2)
前報[97050]で示した連続DID【川越地区】の来歴を記します。
YTさんが昔まとめて投稿した連続DID情報[97027]により、DIDの履歴の大筋が判明したので、登場順に列挙します。

1960年 DID初年に設定されたのは川越市だけで、DID人口全国順位は98位の48,403人、面積は 4.6km2と、今とは比較にならない小規模でした。
1970年になると、川越市DIDは 連続した福岡町と大井町(鶴ヶ岡)に拡大し、42位 142,075人/15.6km2

1975年になると、川越地区の連続DIDは、人口194,318人で全国 30位、面積21.5km2
そして西武鉄道沿線に、狭山市I・入間市・所沢市II(狭山ヶ丘)という名の3つのDIDが連続状態で登場します。
これを【西武地区】と仮称しておきます。全国66位 109,045人、面積 21.6km2
同じ1975年、東上線沿いにも 富士見市Iと三芳町(藤久保)の連続が登場。
【富士見地区】は 104位 61,455人 面積 5.6km2

2つのギャップ:ふじみ野と新狭山【いずれも駅名に基づく仮称】による分断状態ですが、現在の連続DIDの原型である3地区は 1975年に形成されたようです。

1980年 新狭山の工業地域がDIDに組み込まれ、川越地区の連続DID人口は全国 12位 441,360人に躍進しました。1975年の川越地区・西武地区合計に対する増加率 45%。面積 61.3km2の増加率は 42%。
富士見地区は全国91位 4,360人 面積 7.2km2

その後、川越地区DIDには 1985年に飯能市、1990年に鶴ヶ島町II【鶴ヶ丘】のDIDとも連続状態になり、2000年のデータは 川越地区が 全国11位の 人口703,759人 面積89.23km2になりました。
富士見地区は 全国78位の人口 118,402人で、面積 10.01km2

このデータを前報で示した2015年のデータと比較すると、ふじみ野付近の市街地化などで少し増加したのは当然ですが、ふじみ野IIの人口は DID指定から10年以内に ほぼ飽和状態に近づいているように思われます。
年別DID連続地区市町人口面積-全国順位
2000年【富士見地区】1市2町11840210.0178
2000年【川越地区】7市1町7037599.2311
2000年【合計】8市2町82216199.24-
2015年【川越地区】8市1町856050103.96?

[97027]を見ると、2000年のギャップ【DID途切れ】状況が次のように記されていました。
志木市(京浜地区)~富士見市I(富士見地区) 約50 m (接するのは時間の問題?)
大井町I(川越地区)~大井町II(富士見地区) 約30 m (接するのは時間の問題?)

前者【柳瀬川ギャップ】は[97046]のリンク地図で示されるように現存していますが、後者は消滅しています。
後者の「約30 m」というギャップ。その位置は当時のDID地図がないので不明ですが、ふじみ野市誕生と同日の 2005/10/1国勢調査において 旧上福岡市と旧大井町にあった3つのDIDも合体し、一つになったものと推察します。
いずれにせよ、現在のふじみ野の市街地が形成される前に存在していた原野状態(耕作放棄地?)に因むギャップという意味で、ふじみ野ギャップと仮称しておきます。

この2005年国勢調査に際して、ふじみ野駅所在地を含む勝瀬原の区画整理地域にも DID 富士見市II が設定され、それに伴って新河岸川沿いにある水谷東のDID【志木市DIDに隣接】は 富士見市IIIと番号が改められました。

脱線ですが、水谷東は、1961年頃からの高度成長期に志木方面から開発された住宅地です。何度も水害を受けていますが、元々新河岸川沿いの遊水地であったとのこと。
住所は富士見市ですが、浦所道路の東にあり、DIDは以前から【京浜地区】の一部になっていました。
[97050] 2018年 12月 2日(日)17:15:32【1】hmt さん
柳瀬川から飯能まで連続するDID(1)
[97046] YT さん
2015年現在も、柳瀬川を境とするDIDの途切れは健在で、富士見市~ふじみ野市~川越市~狭山市~入間市~飯能市と続く、DID上の隠れ大都市川越は今なお健在

巨大な赤地により DID地図の中で存在感を示す京浜地区から、道路・鉄道沿い四方八方に伸びる触手。
東京の北西に伸びる赤い触手には、御指摘のように 現在も柳瀬川の DIDギャップがあります。

大正9年の国勢調査からずっと使われている「市部」という言葉は、元々は「市街地そのもの」であったのでしょうが[79563]、昭和30年代以降の市町村合併を経た現在、行政上の「市部」は、本来の意味であった「市街地」から乖離しました。

その対策として、都市的地域の特質を明らかにする統計上の地域単位として,昭和35(1960)年国勢調査から新たに設定されたのが「人口集中地区(DID;Densely Inhabited District)」です。

個別自治体や市部の連続に代えて、「DIDの連続」を指標にすれば、柳瀬川の先、飯能まで連続する赤い触手【川越地区】は、最大の「DID衛星都市」なのですね。

「DIDが富士見から飯能まで続いている」と言われても実感はないのですが、それでも 連続DID【川越地区】の住人として関心をそそられ、調べてみました。
2015年国勢調査データで該当する連続DIDを集計した結果は、8市1町に跨る 11個のDID【下記】で、合計すると 人口約 85万6千人、面積約 104km2でした。

冒頭の引用文6市【枝を含めると8市1町】に関係する 連続DID【川越地区】の 2015年版を示します。
DIDを並べる順番は、「柳瀬川ギャップ」を起点として、東上線・西武線沿いに幹を並べ、枝は1文字下げて記しました。右側3列は 来歴関係のデータ[97051]です。

DID公式名参考地名人口-面積2000年DID連続地区登場年-順位
2015年【川越地区】856050103.96
富士見市I鶴瀬・みずほ台823217.31富士見1975104
 三芳町II竹間沢73390.69富士見
 三芳町I藤久保215291.66富士見1975104
ふじみ野市上福岡1039789.33川越/富士見1970福岡町, 大井町
 富士見市IIふじみ野駅126790.76【注】
川越市28065034.53川越196098位
 鶴ヶ島市II鶴ヶ丘209782.12川越1990(11)
狭山市入間川13008622.01川越197566
入間市I豊岡11844914.77川越197566
 所沢市II狭山ヶ丘325213.02川越197566
飯能市I455207.76川越1985(12)

【注】2000年は未指定 指定後の人口:2005年5923、2010年12412なので、指定後10年でほぼ飽和?
[97038] 2018年 11月 26日(月)20:05:38hmt さん
宝塚に関する情報3題
1 初代市長

[97035] グリグリさん
なお、宝塚市の初代市長は田中九右衛門(S29.5.8就任)です。

初代宝塚市長の就任日は リンクされた水道事業資料の 3/17コマにもありますが、宝塚市>選挙の統計情報の中に、候補者別得票数や投票状況の記録がありました。
それによると、昭和29年5月8日執行の宝塚市長選挙は、立候補者4人で、65%と高い投票率。
当選者と次点者とはかなりの接戦でした。

[97002]で引用した『近代宝塚歴史紀行』(ウイルキンソン・タンサン)にも「合併問題の渦」という言葉が使われており、市長選挙が 1954/4/1の合併期日に間に合わず、宝塚市発足当初は、旧・良元村女性村長の岡田さんが「市長職務代理者」を務めたことなどが記されています。
このことから、合併そのものは成立したが、市長の選定問題は難航したことが窺えます。

なお、初代宝塚市長は4年の任期を全うすることなく、2年後に第2回の市長選挙が行われました。

2 行政地名:兵庫県武庫郡良元村宝塚町

[97013] ekinenpyouさん
武庫郡良元村大字伊孑志村の一部を分離してT4.11.10より(大字)宝塚町を設置とありました。

1954年に発足した「宝塚市」は武庫川の両岸に跨っているが、自治体名になったのは左岸の「川辺郡宝塚町」で、1951年のことでした。そのことから派生した疑問「"宝塚"が地名になったのは何時からか?」[97002]に答える調査結果をいただき、ありがとうございます。

今回、1915年まで遡った行政地名「宝塚」のルーツ。それは「宝塚旧温泉」の所在地・武庫川右岸の「武庫郡良元村宝塚町」でした。
1915年(大正4年)11月13日の官報広告欄に記された兵庫県の通知 大字区域変更 并(ならびに)大字新設
武庫郡良元村大字伊孑志(イソシ)の内 左の区域を分離し 来月十日より(大字)宝塚(タカラヅカ)を設置せり  大正4年11月  兵庫県  塚原など7字の全部と3字の一部

宝塚が加わり5大字になった大正7年市町村名鑑
「孑」というのは、珍しい字ですね。漢和辞典では「子部」に「ゲツ」という音で収録されていました。
使用例:「孔」の左側。ぼうふら「孑孑」。

3 近代的な「新」温泉と 伝統的な「旧」温泉

[97013]にリンクしていただいた「宝塚温泉物語第2章」も興味深く拝見しました。
後に炭酸泉に溶食【溶蝕】された新温泉大理石浴室[97002]の写真もありました。
向かい合う武庫川の両岸は 共栄を願いながらも、新・旧温泉で発展への競争。
1915年の「武庫郡良元村宝塚町」と 1951年の「川辺郡宝塚町」という地名争い?も、両岸の温泉が関係。
[97012] 2018年 11月 20日(火)14:47:17【1】hmt さん
女性首長
[97010] グリグリさん
女性首長一覧の更新漏れ:兵庫県良元村の岡田幾村長(1951年就任1954年廃村)[97002]

参考文献:「レジーム再編と女性首長」という論文です。その 6コマに女性町村長の経歴一覧表がありました。
しかし、岡田幾さんの年齢は記載は見当たらず。

なお、この表では 千葉県安房郡神戸村早川村長の初当選が 1947年となっていますが、これはグリグリさんの 女性首長の一覧・冒頭説明にあるように、1948年が正しいようです。[91257]参照

余談ですが、第1回統一地方選挙で当選した前任の村長は、強権発動による米の強制的供出割当がらみにより、僅か1年で失脚辞任。
食料不足時代ならではの事件でしたが、これが5人目の女性首長誕生につながったようです。[91257]の資料(1)参照

上記参考文献(選挙研究29巻 2013年)には、女性町村長だけでなく、女性知事や女性市長の一覧表もあります。
[97006] 2018年 11月 18日(日)17:35:02hmt さん
五重塔
五重塔コレクションのリリース[97001]を知り、真っ先に記憶に甦ったのが、「女人高野」と呼ばれた室生寺の五重塔でした。

大戦後間もない 1949(昭和24年)/1/26の法隆寺金堂火災をきっかけに、作家の山本有三らによる参議院議員立法による文化財保護法が、翌1950年に制定されました。毎日新聞

この法律に基づく基準により 第一次の国宝指定(1951/6/9日)を受けた 181件の中で、法隆寺金堂などの建造物は 37件ありました。

このうち、屋外にある五重塔は、コレクションに収録されているように、法隆寺・室生寺・醍醐寺の3件です。
海龍王寺五重小塔は 屋内にある建造物ですが、これも第一次指定。

「五重塔」ではないので、今回のコレクション対象外ですが、国宝の第一次として指定された「塔」を拾い出してみると、フェノロサが「凍れる音楽」と讃えた西の京の薬師寺東塔(三重塔)、法隆寺と同じく斑鳩の里にある法起寺三重塔、石山寺多宝塔と有名な塔が並びます。

・三重塔や十三重塔はどうするか?多宝塔(事実上の二重塔)は?
というコメント [96947] EMM さん もあります。対象拡張を検討していただければ有り難い と思いますが、「石造」の五重塔までを含んでいる現在の対象のまま 十三重塔に拡張すると、多くなりすぎる?

私としては、「木造」限定でよいのですが、多武峰(とうのみね)の談山神社[13109][76112]にある、世界唯一の木造十三重塔は、この種のコレクション対象としては、是非加えておきたい珍品であると思っています。

室生寺の五重塔に戻ります。
私がこの 小ぶりながら 魅力的な美しさで 人を惹きつける天女 の姿を見たのは 何十年も前ですが、台風で倒れた巨木の下敷きになって大破した というニュースを記憶しています。

その後を気にしながらも そのまま年月が過ぎましたが、今回のコレクション収録で健在を知り、調べました。
被害をもたらしたのは 平成10年(1998)台風7号。なぎ倒された巨木が小さな塔に倒れかかり、初層から五層までが損壊した無残な姿。宮大工たちも言葉を失うような惨状だったとのこと。
重さ6トンもの塔をジャッキで持ち上げ、桧皮葺の屋根の修理には、室生山のヒノキ500本の樹皮7.5トンを使用。修理の際の調査により、塔の建立年代を 800年頃とする従来の定説が裏づけられた。

室生寺の五重塔は、無事に再生できてよかったのですが、幸田露伴の名作『五重塔』のモデルになった東京・谷中・天王寺の五重塔は、1957年焼失したままで、コレクションの対象になりません。

文学作品だけに残る「谷中の五重塔」を作った大工の名は のっそり十兵衛
[97002] 2018年 11月 16日(金)18:54:02【1】hmt さん
地名ではなく、温泉名だった「宝塚」
「宝塚」を話題にした機会に、この名が「地名になった」のは意外に新しいことを記しておきます。

[96956]で紹介されたFAQの回答には、「その近くで物を拾った人には幸運が舞い込むと信じられていた古墳」があり、これが市名の由来という説が記されています。

自治体名としての「宝塚」が出現したのは、宝塚市成立の約3年前、1951/3/15の町制/改称でした。
兵庫県川辺郡小浜村→宝塚町。
変遷情報を明治合併の 1889年まで遡っても、「宝塚」という旧村名は見当たりません。
「宝塚」が地名になったのは何時からか?

古墳の呼び名から地名になる間を繋ぐ名前としては、「宝塚駅」が思い浮かびます。
阪鶴鉄道宝塚駅(国鉄>JRの前身)は 1897年12月開業。阪急の前身・箕面有馬電気軌道の開業は 1910年。

駅名より更に古いのが温泉名でした。阪急の創業者・小林一三が、宝塚音楽学校創設【1913年】の頃を回顧した『宝塚生い立ちの記』を 青空文庫で読んでみると、「四十年前の宝塚風景」として次のように記されていました。
宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近…武庫川の岸にささやかな湯小屋…。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のこと…。
その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げたが、1910/3/10 【阪急の】電車開通当時は、武庫川の東岸【左岸】すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。

その宝塚温泉も、明治時代に栄えたのは武庫川西岸の旧温泉側【武庫郡良元村】であったようです。
駅側の 新温泉は、阪急が乗客誘致のために明治末の 1911年に開業したものです。
私は 1950年代末期頃 大理石を使った豪華な大浴場を利用した経験がありますが、炭酸泉に溶食されていました。
炭酸カルシウムの大理石が炭酸水に溶けるのは、ケミストならずとも常識でしょう。
小林一三さんは偉大な事業経営者ですが、材質選定が不適切と実感したのでした(笑)。

それはさておき、宝塚温泉としては、広く事業を展開した新温泉が栄えました。
小林さん本人は「無理にこしらえた新都会」と記していました。
蒸気加熱設備のない室内プールで失敗しても、これを温泉客寄せの 少女歌劇場に転用し、花嫁学校につなげるなど、事業展開の才能には舌を巻きます。

「タカラヅカ」の名は温泉から脱皮し、新しい舞台芸術として 広く知られる名前になりました。
新温泉のある東岸側・川辺郡小浜村が 1951年に「川辺郡宝塚町」を名乗ることになったのも当然でしょう。

変遷情報を見ると、昭和合併時代の 1954/4/1に 宝塚市が誕生しています。
1950年国勢調査人口では、武庫川右岸の武庫郡良元村 21687人、左岸の川辺郡小浜村 15090人で、居住者は良元村の方が多いのですが、新市名は、一足先に小浜村から改名していた 全国区の「宝塚」になりました。

突然ですが、ここで女性首長の情報です。

宝塚市になって消滅した兵庫県武庫郡良元村の 最後の村長は女性でした。
岡田幾(おかだ いく) 1951/7/5当選 1954/4/1良元村消滅 

岡田指月(しげつ)の名で俳誌「白扇」を共宰する女性俳人でした。
合併問題の渦中にあった村長就任時の句:身をすててゆくや茨の夏の道
宝塚市誕生を喜ぶ句:春光に産声高し宝塚
安堵して村長職を辞任する時の句:戦ひは終りて安き日永かな
出典 近代宝塚歴史紀行

【追記】
この記事は小林一三『宝塚生い立ちの記』の冒頭文「宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく」に基づいて書いたものです。
その後、1672年の検地記録に「川面村の小字として宝塚東・宝塚南・宝塚北が記されている。」という異説が記されていることを、Wikipediaで発見しました。しかし、この点については 未修正です。ご承知ください。
[97000] 2018年 11月 16日(金)18:02:09【1】hmt さん
「塚」という字の来歴
「塚」という字の来歴
hmtマガジンに 特集 地名漢字(1)塚 を作りました。
[96956]で 雑学 市区町村名の画数 がリリースされ、賑っている地名漢字記事へのフォローです。

現存する市町村名の中で「塚」が使われているのは4市1村、横浜市戸塚区を加えても僅か6件[65927]ですが、話題になった地名漢字の代表として「塚」を選びました。

「塚」を選んだ理由は、常用漢字に採用されている 12画の「塚」[65972]の他に 13画の旧字体、いわゆる「ひげ塚」が存在するということだけでなく、平塚市など多くの自治体が 常用漢字使用に移行している中で、宝塚市が強い愛着を持って旧字体を使用しているように思われる点に注目したためです。

今回の特集に収録された記事から「塚」という字の来歴を要約しておきます。

[65948] 土偏と「丶」のある「塚」【13画の旧字体】:中国では「冢」zhong という字の“異体字
[65962] 漢字の本筋としては、「つちへん」がなく「丶」がある「冢」という字A が“正字”
[65964] 「冢」は、土を盛り上げた大きな墓 を意味する
 足を縛られた【丶】 いけにえ【豕】を埋め、土【俗字の土偏】で覆う【ワ冠】
[65962] 土偏のある「塚」という字B【13画の旧字体】を(日本では)普通に使用
 平塚市(1932)や宝塚市(1954)が誕生した時代には、当然この字を使用
[65903][65972] 1946年当用漢字1850字制定 塚は慣用正字13画Bも「丶」なし俗字12画C 共に「表外字」
[65972] 1977/1/21「新漢字表試案」1900字の中に「丶」がない「塚」Cが登場【12画の新字体】
[65962] 「常用漢字表」制定(1945字 1981/10/1)で公式に認められた C【12画の新字体】
[96995] (引用記事)宝塚市は1985年に市名に「丶」を入れることで見解統一【現在も13画を徹底】
参考: 宝塚市トップページの冒頭画像B 【1】誤記訂正

更に、平成合併によって自治体名ではなくなったが 市内の地名として存在する 藪塚本町の「塚」。
これについても、現在の大田市HPに正式表記は旧字体Bであることが記されています。【1】誤記訂正

「ひげ塚」のような字体問題は、宝塚市のような 現存市町村名 に留まる問題ではないようです。
[96951] 2018年 10月 22日(月)19:08:53hmt さん
明治150年
今年 2018年は、「明治」という言葉が登場した 1868年から 150年になります。

政府は、明日 10月23日に 憲政記念館で 記念式典を開催します。
明治150年記念の銀貨も既に発行されているようです。裏面は、明治初期の20円金貨の紋様。
額面千円ですが、財務省の販売価格は 9000円とのこと。日経2018/5/25

50年前・明治百年の時の大蔵省は、こんな「商売」をしなかったように思うのですが…

それはさておき、「一世一元制度」と共に「明治」という新元号を定めた 明治改元の詔書が 第726号として行政官から布告されたのは、九月八日でした。
10月23日は、この旧暦【天保暦】日付を、グレゴリオ暦【明治6年採用の太陽暦】に換算[21976][49122]した日付なのです。

上からは 明治だ などというけれど、「治明」【おさまるめい】と下からは読む

新しい政治体制を引き継いでいる政府としては、150年の成果を誇らしげに宣伝したいところですが、この狂歌[75516]に示されているように、庶民からは 横暴な田舎侍(おはぎ・おいも)への反発があったようです。

戊辰戦争で負けた側にとっては、「明治150年」というよりも「戊辰(ぼしん)150年」なのかもしれません。
でも、干支(えと)は 60年周期なので、150年は2周期半。今年は「戊辰」でなく「戊戌(ぼじゅつ)」です。

既に[75457]で書いたことですが、改元の遡及効果について。
慶応四年を改め明治元年と為す
明治改元までは、このように 年初に遡って歴史に記録する のが正式でした。

しかし、当時使っていた日付を そのまま使う現在方式の方が解り易く、落書き帳の記載には、便宜上、新方式の表記を多用しています。ご了承ください。

明治150年というニュースに接し、取り留めのない記事を書いてしまいました。
私としては、「都道府県市区町村」というサイトなので、約150年前の「府県」を再認識する機会と捉えています。

150年前というと、まさに「府県」が誕生しつつある時代でした。
詳しくは、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県までをご覧ください。
[96938] 2018年 10月 18日(木)18:16:37hmt さん
MIさんにお礼
[96936]の御教示、有難うございます。
例示により、urlの「&extent=」以下の記述による 経緯度指定を知りました。
[96934] 2018年 10月 16日(火)19:25:21【2】hmt さん
五千分一東京図測量原図
[96933] MI さん
これ【永田町の富士見坂】については url が変わっており、千代田区内の坂の14.に説明があります。

御指摘を受けて、[96931]【追記2】で対応した際に 記事番号を誤記し 失礼しました。こちらが正しい番号でした。

今回の本題は、同じ[96933]で教えていただいた「五千分一東京図測量原図」を使ってみた報告です。

1884(明治17)年に作成された「五千分一東京図測量原図」は復刻版もありますが、農研機構の所蔵するものが公開されており、閲覧することが出来ます。「マップビューアーで開く」をクリックすると地図が開きますので…

デフォルト地図は、皇居を中心とした都心部の縮小地図でした。
ズームとスクロールによって、皇居の西側に移り、右に桜田濠【内濠】、左に弁慶堀【外濠】という配置にします。

明治の地図では弁慶堀の岸に赤坂区役所があり、少し東の赤坂門【赤坂見附、明治の地図の表記は南坂門?】まで伸びている濠(現存)と共に、よい目印になっています。

地図の右(東)方を見ると、桜田濠に沿った広大な敷地に陸軍の施設があります。
その中でも東京市麹町区永田町一丁目一番地。
三宅坂交差点に面するこの地については、地図の元締め 陸地測量部の住所に関する記事[94784]を書いたことがありますが、それよりも前の五千分一図には、陸軍省、その南に参謀本部と記されていました。

【追記1】
五千分一図が作られたのは東京市発足以前ですから、[94784]記載のまま書いた上記の番地は少し不適切でした。

それはさておき、この東京五千分一測量は、先進的な技術・機器を持つ内務省地理局の測量部門を併合した 参謀本部測量局による 本格的な地図作りの始まりでした[44653]
地図がフランス式彩色図から、ドイツ式一色図に変ったのも同じ時代ですが、明治17年に測量が完了した参謀本部の五千分一東京図も、フランス式彩色図で作られた原図があり、そのWEB公開が 今回落書き帳に登場したのでした。

なお、参謀本部と同じ測量結果を共有して作成された 内務省地理局の五千分一「東京実測図」15面(明治19-21刊行)についても、[44653]で言及しました。カラー印刷ではありませんが、参謀本部の地図よりも 範囲が少し広く、およそ東京府15区の範囲をカバーしているようです。柏書房の復刻地図集だけでなく、人文社の「明治の東京」(1996)に記された溜池の話[33199]も、この地図の説明でした。【追記1終】

話を永田町の富士見坂に戻すと、この坂は 赤坂見附と三宅坂との間に位置するわけですが、明治16-17年の五千分一図には、まだ姿を見せていません。

以上が、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」を眺めた結果です。

MIさん[96933]が記載してくれた情報。
これを個人的に確認するだけならば、マップビューアー上の前記操作の報告だけでよかったのです。
しかし、多くの読者に伝えるには、作業結果を地図で示したい。そのように思いました。

2万分の1の歴史的農業環境閲覧システムのように「Permalink」が付いていれば有り難いのですが、今回の五千分一図では、この状態の地図を示す方法がわかりません。

そこで、農業土地利用変遷マップを使い、東京5千分の1を表示してみました。

このマップのデフォルト地図は 新常盤橋付近の zoom=17図でした。
これをスクロールして永田町の富士見坂の位置にして、 永続リンクを表示させたた結果 です。

ここで得た地図は、「参謀本部の五千分一東京図」に現代の基盤地図情報/地名【青字】を重ねたものです。
だから、後者のレイヤーを透明にすることで、国道246号【現代の富士見坂】などを消去すれば、明治前期の地図に戻ります。

赤坂区役所。赤坂門【南坂門?】。坂名の記載がないこと。三宅坂までの道路はまだつながっていないこと。
そして、汐留川上流になる小川の周囲に 湿地状態で残る「溜池」[33199]

地図の扱いをよく理解できていませんが、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」。
どうやら、有用な資料として使いこなす手がかりを得たような気がします。

【追記2】
五千分の一東京図の礼賛記事 がありました。
残念ながら東京の中心部しかカバーしていないこの地図は 上記の基準【正確さ、使いやすさ、美しさ、歴史的価値】を全て満点で満たす最高の地図である.

この地図を自由にWEB閲覧できる時代が到来。農研機構だけでなく、教えてくれた[96933]にも感謝。【追記2終】
[96931] 2018年 10月 13日(土)18:08:09【2】hmt さん
永田町の富士見坂
きっかけは、WEBを眺めているうちに AERAdotで偶々見つけた 55年前の「永田町」 という写真です。
鉄道写真家の 諸河久さんの名は雑誌で存じ上げていたのですが、「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」を連載中であることは知りませんでした。

これだけなら、こちら都道府県市区町村落書き帳への投稿に繫がることはないのですが、次ページの記載が気になりました。
この界隈。学生時代から疑問だったのだが、赤坂見附から平河町に続く坂道の名称が不明だった。(中略)
現地踏査しても不明だったので、赤坂見附の交番にお邪魔して、お巡りさんに質問
したが、解決せず。
ご存知の方からのご教示をお待ちしたい。
とのことでした。

東京の坂道について 特に詳しいわけではありませんが、問題の坂が「富士見坂」であることは知っていました。
埼玉県ですが「富士見市ふじみ野」の住民でもあり、そのまま放置しておくことが できなくなり、教えてあげたい。
ツイッターを使えば連絡できそうです。でも 私は使ったことがなく、手を出せません。

慣れ親しんでいる こちらのページを利用すれば、何らかの情報仲介も期待できのではないか? 
というのが、この記事を書き込んだ趣旨です。

落書き帳過去記事で「富士見坂」を検索すると、[71914] 江戸の坂道 と題する記事がありました。
これによると、江戸に富士見坂が多数あったことは書いているが、永田町の富士見坂には触れておらず。
[22911] KMKZさん では http://www.t3.rim.or.jp/~kuri/fujimi/ 東京の富士見坂 が紹介されており、そのサイトの千代田区には、永田町・富士見坂 を紹介したページへのリンクもありました。

千代田区の坂(3)~平河町・麹町方面 には 地図リンク もつけられていますが、説明文を見ると【標識なし】と記されています。

【追記2】[96033] MI さん の御指摘に基づき、【追記1】を再修正しました。
この説明文には千代田区ウェブサイト【url変更】からの引用文がありました。

首都高速道路の下になって、現実の景観と外れてしまった「富士見坂」という名称の取り扱いについて。

ウェブサイトの説明文や標識が見当たらなかったことから、千代田区としては「富士見坂」の地名を放棄したいのかと疑ってしまいましたが、説明文urlの変更でした。
富士山の眺望が失われて久しい「永田町の富士見坂」ですが、地名ファンとしては「過去の景観を伝える文化遺産である地名自体は残したい」と考えます。
諸河さんやお巡りさん、そして多くの地名ファンの隠れた希望も考えていただきたい。
「富士見坂」の地名消滅に通じるようなことはせず、標識も建てていただけないものでしょうか。

余談ですが、三宅坂[94784]交差点から西に進む青山通りには、富士見坂の坂上付近の南側に 全国町村会館があります(千代田区永田町1-11-35)。
富士見坂を西に下った青山通り北側には、都道府県会館があります(千代田区平河町2-6-3)。
富士見坂を離れ、都道府県会館から右(北)に進めば、都市センターホテルの先が 全国都市会館です(千代田区平河町2-4-2)。【追記終】
[96927] 2018年 10月 11日(木)19:42:41【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (1)東京都中央卸売市場 「ターレ」の行列
我が国最大の規模を持つ生鮮食品市場が、再出発しました。
豊洲市場が開場 2年遅れ、築地継承の中核市場始動 日経2018/10/11

「東京のローカルニュース」と言えば それまで なのですが、大きな胃袋を抱えた大都市の台所。
産地直送、インターネット販売など、従来と異なる商品流通システムが稼働しつつある中で、これまで流通の中心になっていた市場の役割も見直されつつあるようです。
巨額の投資を伴った豊洲の新設備の将来が注目されます。

築地市場から豊洲市場へ。落書き帳の初期。‎[5229]蘭丸さんの「中央区」と題する記事がありました。
この区は銀座や日本橋といった日本を代表する商都を抱えており、東京都中央卸売市場築地市場も預かっています。
戦後、日本橋区と京橋区が統合されて誕生した中央区ですが、銀座・日本橋の賑わいは今や新宿や渋谷に押され気味、築地市場も、都は地元の反対を振り切って江東区豊洲へ移転計画を進行中です。

「中央」と言えば卸売市場法に「中央卸売市場」という制度があり、特に重要な都市地域における生鮮食料品等の卸売の中核的拠点と位置づけられています。

3都府県と37市とが 64市場を開設しており、Wikipediaに一覧表がありました。
これによると、東京都には 11市場が存在し、2010年度取扱金額は、青果5296、水産4571、食肉978、花卉856、合計11701億円で、東京の総額は1兆円を越えていました。

10月6日に廃止された 築地市場のデータを見ると、2014年1日当りの取扱金額(百万円)が、水産: 1611、青果:323となっていました。合計金額 1934百万円/日を260倍すると 約5000億円になります。【11市場で45億/日、260日計算で2010年度の金額とほぼ一致】

築地は、東京にある 11の中央市場の中でもダントツの知名度を持つ市場ですが、取扱金額を見ても、全体の 半分近くを占める日本一の巨大市場だったのでした。
この大市場が 中央区から江東区の豊洲に引越したわけです。

参考までに、11市場の中で築地に次ぐ大田市場【大井埠頭】は青果の他に花卉と水産の扱いもあり、合計1196百万円/日。
取扱規模の3番目は、品川駅港南口【芝浦】にある食肉市場で 495百万円/日。
以下、淀橋【大久保】、北足立【舎人】、葛西【臨海】、板橋【高島平】という順で、豊島【巣鴨】、世田谷【砧】、足立(水産)【千住】、多摩ニュータウン【永山】はその下位。【括弧内は参考までに記した地名】

江戸から東京へ 主な市場の歴史:
水産物市場(魚河岸)は、江戸以来の日本橋から 築地の83年を経て 今回 豊洲移転が実現。
開国による肉食の普及により 市内各地に作られた屠場。1938年 芝浦の施設ができ、これに統合。
最も長い歴史を重ねたのは 青物市場で、巣鴨とげぬき地蔵に近い 豊島市場の起源は 16世紀頃に遡るとか。
江戸時代以来、江戸の青物市場としては [51822]神田多町(たちょう)の名が有名で、関東大震災で焼失後も、神田の秋葉原駅北口で復興。戦後の 1989年 大井埠頭埋立地の大田市場が開場し、移転。


築地から豊洲への引越作業も大仕事だったようです。
冒頭の日経にもありましたが、朝日2018/10/7の記事を引用します。
7日は早朝から、市場で使われる小型運搬車「ターレット」(ターレ)やフォークリフト300台以上が、使用開始前の環状2号線を走って豊洲へ移った。

「Turret」という言葉は、欧州の城郭に由来する円筒形砲塔が起源で、戦車や軍用機の砲塔・銃座、更には消防車・旋盤・顕微鏡のメカなどにも使用。ここに登場するのは、市場の狭い構内を走り回る運搬用車両。円柱状の動力部と、荷台とが合体した立ち乗物で、動力部自体がハンドルの役目をしています。
昔は内燃機駆動でしたが、その後登場した電動車に置き換えられているようです。築地市場を走りまわる「ターレ」の謎に迫る

今回の 東京都中央卸売市場引越 に際しては、築地から豊洲の区間について、公道化する直前の環状2号線[85227]をターレット・トラックの行列が走り、とても珍しい光景が動画に収められていました。
[96907] 2018年 10月 4日(木)15:52:20hmt さん
上五島連島
[96903] 白桃さん
新上五島町の残りの有人島である頭ケ島、桐ノ小島、日ノ島も中通島と橋で繋がっているようです。

ご指摘の通り、4年前に[86425]で書いた<上五島連島>には見落しがありました。

この機会に、架橋により連なる8島と、主島である中通島との架橋関係を まとめて記載しておきます。

中通島 面積168.31km2, 2015年国勢調査人口 18113人 北端の津和崎鼻に至る長い半島があり、南北約39km。
頭ケ島 1.86km2, 15人 五島列島最東端の島の山頂に標高80mの上五島空港。世界遺産。頭ケ島大橋[82809]
桐ノ小島 0.04km2, 8人 中通島南部 桐古里郷の西側。ごく短い橋
上中島 無人 中通島と若松島を結ぶ県道46号 中通島との間の短い橋の名称不明[82809]
若松島 31.13km2, 1402人 中通島と若松島を結ぶ県道46号の若松大橋[82809]
漁生浦島 0.65km2, 30人 若松島の北西部 漁生浦橋[82809]
有福島 2.97km2, 112人 若松島北西にある架橋3島中最大の島 堤防道路疑惑[82877]
日ノ島【地図は日島】 1.39km2, 38人 堤防道路[82877]

参考:中通島から離島への行き方案内
[96903] 2018年 10月 3日(水)18:32:23【2】hmt さん
突然の航路休止に驚く中通島
日経2018/10/3
五島列島と長崎市や長崎県佐世保市などを結ぶ旅客船を運航する五島産業汽船(長崎県新上五島町)が全4航路を休廃止したことが2日、明らかになった。年間19万人前後の乗客が利用していたもようで、日常の足として使っていた五島市や新上五島町の住民の生活に影響を与えそうだ。

私が五島列島に関する記事を書き始めたのは、14年前の[26554]であり、その記事で最初に問題にしたのが、範囲の異なる2つの「五島列島」でした。
自然地名としての五島列島は、私より前に地球人さんの記事[17147]に記されているように 「下五島+上五島+宇久小値賀 という構図があり」、「北は、宇久島から南は、福江島まで連なる列島です。」

ところが、「行政上の五島列島」は長崎県五島支庁管内【注】に限られ、自然地名としての「五島列島」と異なります。
【注】この文を[26554]で記した5年後に、下五島【五島市】と上五島【新上五島町】、つまり遡れば南松浦郡であった区域を管轄していた長崎県五島支庁は廃止されました[71553]

宇久氏から改名した五島氏が福江島に本拠を移す前の発祥の地である宇久島【2006年佐世保市】と、その南の小値賀島とは 1878年以来北松浦郡です。小値賀島は江戸時代から平戸藩領で五島氏の領域外。
このような歴史的経緯もあり、宇久島と小値賀島【野崎島などの付属島を含む】は、「行政上の五島列島」には含まれず、「平戸諸島」に含まれています。離島振興対策実施地域一覧

前置きが長くなってしまいましたが、本題は上五島の主島であり、北端に位置している中通島です。
五島市のある福江島と長崎とを結ぶ航路は、長崎市の九州商船が運行しているので、大丈夫だろうと思います。

中通島は、4年前の[86425]で示したように【前回国勢調査では】人口2万人を越える大きな島でした。
【追記】
2015年国勢調査人口は 18113人に減少。橋で結ばれている若松島1402+漁生浦島30+有福島112を加えた「上五島連島」の人口も 19657人で、2万人に届かず。やはり、離島の人口は減っていますね。【追記終】

離島の公共交通として航路の重要性は言うまでもないことですが、船会社が突然の休止宣言。
新上五島町の役場も急に知らされたようで、会社都合による一方的な通知に、困惑しているようです。

【追記】
海上運送法第15条を見ると、航路の休止・廃止は30日(指定区間は6月)前までの届け出が必要なようです。
資金繰りの悪化など経営破綻の兆候の一部は、それより前から顕れていたのかもしれません。
情報が溢れているように思われる社会の中で、突然の航路休止騒ぎ。
もう少し早く情報を得て、必要な対策をとることはできなかったのでしょうか?

とりあえず、困った事態が発生し、2万人もの住民がいる離島だけに 影響が心配 という事件の御報告まで。
[96479] 2018年 9月 14日(金)18:40:25hmt さん
「失火の火元?」から
思いがけず、一連の記事の発端になってしまった「失火の火元?」hmtです。
再度のお詫びと併せて、記事[96463]の作成過程において ミスを発生させた「ごく個人的な事情」につき、少々釈明させていただきます。

気象庁報道発表第3報 厚真町で震度7を観測
第4報 「平成30年北海道胆振東部地震」と命名

記事[96463]の投稿動機:北海道の中で 有名とは言い難い「胆振」という地名の周知度を高めたかった という程度。
それに関連して、1960-2016年に定められた31の地震現象のリストを「列挙したつもり」でした。

ところが、PC操作ミスで 1件が脱落していました。指摘されて気付き、早速 お詫びを入れました。

しかし 火種が消えておらず、他の方に火の粉が降りかかる状況に、オロオロするばかり。
幸い、良識ある皆さんの発言により、大火にならず 鎮火の形勢となり、有り難いことです。
火元としては ホッとすると共に、私のミスから騒ぎを起したこと、改めて皆様にお詫びします。

今更ながらの言い訳ですが、「平成7年兵庫県南部地震」が消えた操作ミス の原因を推測しておきます。
6月に発症した脳梗塞[96343]の後遺症と思われる 指先の痺れ。投薬・リハビリ中ですが、未回復状態。
それでも せっせと落書き帳に投稿中。プレビューによる確認の大切さを実感しています。
[96468] 2018年 9月 9日(日)19:30:56hmt さん
Re:お伝えすべきこと
[96466] ニジェガロージェッツ さん
何かひとつ,お忘れではないですか?

ごめんなさい。
[96467] 2018年 9月 9日(日)18:55:44hmt さん
気象庁の震度観測点
北海道胆振東部地震を機会に、これまで気象観測地点ほどには話題になっていなかった 震度観測点に注目しました。

気象庁が発表する地震情報は、全国を188地域に区分した 地域名 を用いて発表されているそうです。
広い北海道は緊急地震速報が 道央(地域数9)道南(10)道北(8)道東(11)の 38地域。
その他は凡そ4~2地域よりなる府県予報区ですが、奈良県だけは全県が1地域です。
島嶼のある都県では、下記のように多数の地域が設定されています。
東京都は23区など3地域の他に 伊豆諸島(5)と小笠原(1)で9地域。長崎県は6地域。
鹿児島県は6地域と奄美群島(2)で8地域。
沖縄県が3地域と大東島・宮古島・八重山(3)で8地域。

これら 188地域に設けられた気象庁の震度観測点は 670で、全国で約1300ヶ所(約17km間隔)という アメダスの約半分の密度です。

しかし、全国には その他に、地方公共団体の 2913、防災科学技術研究所の 789と、多数の地震計が存在するようです。大学等の研究機関にも地震計があるでしょう。

[96463]では民間報道を引用して「厚真町鹿沼で震度7を観測」を伝えました。
しかし その後の調査で、2018/9/7 16時00分の報道発表・「平成30年北海道胆振東部地震」について(第6報)を知りました。
関係データ、地図、逆断層型の発震機構(速報)を含めて詳しい内容が記されていたので、改めて この pdf発表 をリンクしておきます。

震度7が観測された観測点「厚真町字鹿沼(あつまちょうしかぬま)」のデータ
地域名称:胆振地方中東部 震度観測点の所在地:勇払郡厚真町字鹿沼200-2
緯度経度:北緯42度37.4分、東経141度55.2分 地図   観測開始:2012/10/2

参考までに、胆振地方中東部で最古の観測点は、室蘭の旧気象台(大正12年6月)でした。
現存する震度観測点は、室蘭、苫小牧、登別、白老町、厚真町の5地点です。
また胆振地方西部には、現在のところ伊達市に1地点存在するだけですが、2000年頃に何ヶ所かあったのは、有珠山噴火に対応した臨時の観測点であろうと推察します。
[96463] 2018年 9月 7日(金)18:04:33hmt さん
地震に使われた地名 胆振
[96461] グリグリさん
北海道大地震(北海道胆振東部地震)に関するNHK情報ほか

北海道全域に及ぶ大停電を引き起こした昨日の地震。
ニュースを見ながら気になっていたのが、記録された最大震度と気象庁の呼び名でした。

気象庁の震度データベース検索により、「最大震度6強以上」を検索したら 2016年4月の熊本地震。
よく見ると、発生日時が2018//9/5までとなっており、昨日の記録は対象外でした。

気象庁は6日午後、北海道の胆振地方で起きた地震について、厚真町鹿沼で震度7を観測していたと発表した。
これまで気象庁は、強い揺れの影響で複数の観測点で震度の情報が送られてきていないとして、震度分布図からは震度7を観測している場所がある可能性は否定できない、としていた。
という 昨日15:25現在の報道が示しているように、正式の記録として残すデータについては、慎重な姿勢で臨んでいるようです。

参考までに、厚真町鹿沼付近の地図

気象庁の呼び名については、昨日17:30に 「平成30年北海道胆振東部地震」と決定されて発表あり。

参考までに、ウェザーニュースに紹介された 気象庁が名称を定めた地震現象のリストを列挙。

チリ地震津波   北美濃地震   宮城県北部地震   越前岬沖地震   新潟地震   松代群発地震
えびの地震   1968年日向灘地震   1968年十勝沖地震   1972年12月4日八丈島東方沖地震
1973年6月17日根室半島沖地震   1974年伊豆半島沖地震   1978年伊豆大島近海の地震  
1978年宮城県沖地震  昭和57年浦河沖地震   昭和58年日本海中部地震   昭和59年長野県西部地震   
平成5年釧路沖地震   平成5年北海道南西沖地震   平成6年北海道東方沖地震   平成6年三陸はるか沖地震
平成12年鳥取県西部地震  平成13年芸予地震   平成15年十勝沖地震   平成16年新潟県中越地震   
平成19年能登半島地震  平成19年新潟県中越沖地震   平成20年岩手・宮城内陸地震   
平成23年東北地方太平洋沖地震   平成28年熊本地震

今回は内陸でしたが、昭和57年には「浦河沖地震」というのがあったのですね。
1968年と平成15年と2回の十勝沖地震、平成5-6年の釧路沖、北海道南西沖、北海道東方沖。

「胆振」という国名は、室蘭・苫小牧という港湾都市名[78736]に比べて、知名度が低いように思われます。
せっかくの機会?なので、過去記事の中から北海道胆振国[72049]をリンクしておきます。
「胆振東部」と言えば、石勝線のトマムまでが「胆振国勇払郡」でしょうが、占冠村は胆振管内ではなく上川管内です。明治初期に鵡川を遡り到達した時代に定められた胆振国の範囲と、現状との違い。
[96451] 2018年 9月 1日(土)18:46:46hmt さん
船迫(ふなばさん)
[96448] 千本桜 さん
「船迫」は「ふなばさま」と読むのですが、昔の人は「ふなばさん」と発音していました。

これは、成田(なりた)を「なんだ」、上町(かみまち)を「かんまち」と発音する事例、すなわち 後続音のある「普通の撥音便」とは 異なるケース と考えるべきではないでしょうか?

船(ふな)迫(はざま→ばさま)という漢字の切り方を無視して、
「ふなばさま」を「ふなば さま」→「ふなば さん」と発音するのは、ありそうなこと。

そんなことを考えながら[96449]を見たら、
天神様、白桃様、とか言いづらいというか、「てんじんさん」と言った方が親しみをもってきこえる???

口語の変化です。私も 文字にとらわれない「白桃さん」説に賛成票。
[96450] 2018年 9月 1日(土)17:45:51hmt さん
多摩川の南北にある「野川」という地名
[96446] うっかりじゅうべえ さん
自治体越えの地名掲載の神奈川県川崎市「野川」が、住居表示されるようです。

自治体の境界で分断された地名として取り上げられた地名「野川」は、1889年の町村制施行より前には、神奈川県橘樹(たちばな)郡「野川村」でした。
地図を見ると鶴見川の支流・矢上川が流れています。この川の通称が「野川」だったのかもしれません。

明治合併で成立した 宮前(みやさき)村の大字になった「野川」。
関東大震災【今日は95年の記念日】の翌年に成立した川崎市は、昭和戦前時代(1927-1939)に近隣10町村【+日吉村の一部】を編入しており、宮前村野川も、1938年に川崎市野川になりました。

この付近の交通環境を大きく変えた 第三京浜道路は 1965年全線開通。
川崎市が政令指定都市になった 1972年には そのまま高津区野川になりましたが、1982年の分区で 宮前(みやまえ)区が作られた際には、第三京浜の西側一帯だけでなく、矢上川より北・神明社のある一角も宮前区になりました。
町区域の設定図を見ると、この区域が今回の住居表示で「野川本町3丁目」になるというので、どうやらこの一角が、「野川」という集落が本来存在した地であると理解できます。

地図で付近を見渡すと、第三京浜と武蔵野貨物線【地下】とが交差する地点で、ICや貨物駅の存在から物流拠点としても利用されてきたが、宅地化に対応して、今回住居表示を実施することになったものと理解されます。

この付近には、「たちばな古代の丘緑地」などもあります。
橘樹郡の由来に関係する弟橘姫の故事。そんなことを思い出しながら、橘の記事[64972]

ここで、対象の「野川」が変ります。
実は「川崎市の野川」は、その存在自体を今回初めて知りました。
[60771]で言及されていることは、本文を書いた後で、偶然知りました。

視野を川崎から少し広げると、北方には 多摩川が都県境を流れています。

その多摩川に、東京側の武蔵野台地を水源として 合流してくる支流が 「野川」です。
国分寺崖線から流出し、現在は二子玉川で多摩川に合流していますが、古い地形図では現在よりも西を流れています。戦後の六郷用水流路廃止による流路変更があったようです[79306]

こちらの「野川」は、落書き帳の初期から登場している 有名河川?です。

[19260] グリグリさん 武蔵野夫人
TNさん[19236]がご紹介されている野川の源流です。

[38583] 音無鈴鹿 さん
それら湧水を集めて国分寺崖線に沿って流れているのが野川。上流端は日立中央研究所のなかです。

川崎市の多摩丘陵にある「野川」の数km北の 多摩川対岸には、武蔵野台地から流れ出る「野川」がある。
2つの「野川」は 偶然の一致 と思われるので、地名コレクション「自治体越えの地名」の趣旨である
同一地域を表す地名が、都道府県境、市町村境、区境によって分断された地名
に該当するものでないことを お断りしておきます。

変遷情報検索で調べてみると「○野川」という村名は66件も出てくるが、単純な「野川」という村名は5村のみ。山形 福島 神奈川 滋賀 岡山 各1村

過去記事検索で「野川」を調べると、吉野川 阿賀野川 熊野川 など多数がヒットしてしまいます。
単純な文字だけで構成されているだけに、「野川」【例えば[5320]】だけを拾うのは困難でした。

このように、単純な言葉ですが、「野川」自体は「ありふれた地名」ではない。
偶然にしても、多摩川の南北に「野川」があったのは、やはり「珍しいこと」として記録しておきたい。
そんな軽い気持ちからの書き込みでした。
[96440] 2018年 8月 26日(日)16:23:43【1】hmt さん
Re:「万歳がえし」なるもの
[96439] スナフキん さん
ネット情報を鵜呑みにするならば、どうもこれは北陸地方や長野県の一部地域で行われているもののようですが

私も体験はしていませんが、普通の万歳三唱だけでなく、「お返しつき」のバージョンが存在するようですね。
既にご存知のネット情報と思われますが、参考までに 少し列挙しておきます。

砺波市 「万歳返し」の思い
「万歳返し」っていうのは少なくとも私のふるさと福井にはなかったように思う。インターネットで調べると、信州の方では結婚式や家の建て前のときに行われるようである。

長野の締めはバンザイとバンザイ返し?
長野市とくに若穂【注】(中略)主催者から参加者に向けて万歳が送られ、その後に万歳を受けた方がお返しに万歳もあります 万歳返しとでもいうのでしょうか、

【注】本筋の「万歳がえし」と無関係だが、信州の地名に関連して追記
「わかほ」は、犀川・千曲川合流点付近の東岸で、1959年合併した3村(綿内 川田 保科)由来の合成地名。
「豊科」の同類です。「しな地名」[77926]の一つで呼ばれる保科観音のお寺は、清水寺(せいすいじ)と読みます。

万歳三唱(2)
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県外から転勤などで長野県にいらして一番最初に遭遇し、戸惑うのがこの「万歳三唱」ではないでしょうか?
県民にとっては当たり前のしきたりのですが・・・
【具体的な例より】
指名された発声者の音頭で万歳三唱をし、主催者は有り難く礼をしてお受けします。
次に、主催者は上座から(或いは上座から辞して)、代表者がお客様に対して万歳唱三唱のお礼を述べ、続いて 返礼の万歳三唱をいたしたい旨 を伝え、全員の賛同を得ます。
その際、主催者側代表は全員での万歳のご唱和をお願いします。
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万歳のお返しもあります。 ちなみに富山県です。


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