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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[96430]2018年8月23日
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[96343]2018年7月28日
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[96333]2018年7月24日
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[96319]2018年7月22日
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[96304]2018年7月16日
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[96205]2018年6月17日
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[96192]2018年6月8日
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[96160]2018年6月1日
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[96080]2018年5月23日
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[95633]2018年4月1日
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[95556]2018年3月18日
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[95543]2018年3月15日
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[95531]2018年3月11日
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[95530]2018年3月11日
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[95525]2018年3月8日
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[95508]2018年3月1日
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[95490]2018年2月26日
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[95484]2018年2月25日
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[95470]2018年2月21日
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[95468]2018年2月20日
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[95441]2018年2月15日
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[95432]2018年2月13日
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[95415]2018年2月9日
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[95403]2018年2月7日
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[95385]2018年2月4日
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[95368]2018年2月2日
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[95339]2018年1月26日
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[95324]2018年1月23日
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[95314]2018年1月22日
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[94784]2017年12月27日
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[94763]2017年12月25日
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[94759]2017年12月24日
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[94736]2017年12月20日
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[94730]2017年12月19日
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[94723]2017年12月18日
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[96430] 2018年 8月 23日(木)19:12:11hmt さん
台東区はお台場の東?
台東区。ekinenpyouさんの記事を発端になり、その読み方が話題になっています。記事集

中心になっている中国語の読み方については、私は全くの無知であり、議論に加わることができません。
そこで 初心に戻り?、落書き帳の古い記事を検索してみました。

その結果、とんでもない 誤解記事を発見してビックリ。
[1933] mikiさん 地名+方角の区
東京都...江東区(江戸川の東)、台東区(お台場の東)

さすがに、投稿直後に Issieさんによる修正意見[1996]が出ていました。
「江東区」は“隅田川の東”,「台東区」は“台地(具体的には本郷台かな)の東”という意味です。

台東区には上野公園になっている台地があり、「上野の山」と呼ばれています。
江戸時代は、この台地の全域が 東叡山寛永寺の境内でした。
戊辰戦争では、江戸で唯一の戦場になりました。新政府軍の指揮官は西郷隆盛。銅像は何故か着流し姿。
「台東」の意味は、“台地の東”よりも、“上野の台地と、その東に広がる低地【下谷・浅草】”と理解するのが適切ではないでしょうか?

下谷区と浅草区とが統合されて台東区になったのは、敗戦直後の大都市改革[74935]の一環でした。
具体的には 1947年3月15日に 都心部の区を中心に統合が行われて、35区が「22区」になりました。
昭和22年東京都告示第127号
左側に3月5日施行とありますが、ごれは誤記で、右側の昭和二十二年三月十五日施行が正しい。

台東区について言うと、既に当用漢字表は1946/11/26に公布されているのですが、これが新字体になる「当用漢字字体表」の告示は1949/4/28ですから、「臺東区」で告示されていると推察します。
告示の原文を確認したいと思いましたが、不成功。

[96417]伊豆之国 さん
「台」と「臺」は、本来はそれぞれ別の字で、どちらも中国に古くからある漢字です。

…というわけで、Wikipedia台東区>名称由来に記された
康煕字典にめでたい意味で載る瑞祥地名でもある。
のは、「臺東区」であろうと推察しました。

そこで、ekinenpyouさんに存在を教えていただいた康煕字典で、至部8画の「臺」を覗いてみました。
東という字は末尾から3行目にありましたが、「臺東」という地名は未発見。
念の為、略字の 「台」にも「台東」は見当たらず。

あまりパッとしないレポートですが、読み方とは無関係に「台東」を調べた結果でした。
[96402] 2018年 8月 19日(日)11:26:02hmt さん
海と島(31)ユルリ島の馬
時折綴っている「海と島」シリーズです。島の人口とか無人島とか居住者の有無に関係したトピックスも多いのですが、今回の「居住者」は 人ではありません。

日曜日朝のNHK「さわやか自然百景」。今朝のテーマは、根室沖3kmに浮かぶ双子の無人島、ユルリ島とモユルリ島でした。

「鵜の島」を意味するアイヌ語と根室沖という場所から連想するのは歯舞群島ですが、歯舞群島の勇留島(ゆりとう)は根室半島の東にあります。
これに対して、ユルリ島【2km2】と より小さなサイズのモユルリ島【0.3km2】とは、根室半島の南にあり、いずれも周囲を断崖で囲まれた平坦な台地の島です。地理院地図

遠目には同じように見える平らな無人島ですが、上陸してみると草の丈が大違いです。
ユルリ島には、以前に昆布漁師が持ち込んだ馬が野生化して、背丈の高い草を食べるため充分な光を浴びた花々が草原に咲き乱れます。

昆布漁が盛んだった1950年代のユルリ島には人が住み込み、馬を使って昆布を引き上げた断崖上の平地を、昆布干場として使っていました。

時代が変わり干場としての利用が終わると、人々は島を去りました。
しかし、馬は食肉として売られることなく、積雪も少なく、水と草の豊富なユルリ島に残されました。山のない島ですが、ミズゴケによる貯水能力があり、雪の下で 馬の命を支える環境があったのですね。
最盛期には30頭にも増殖した馬。近親交配を防ぐためにオス馬の入れ替えも行われたそうです。

2006年、漁師の高齢化に伴い全てのオス馬を引き上げ、14頭のメス馬が残され、馬の数は少しずつ減少。
北海道ファンマガジンによると、2011年8月に12頭いたのが、2014年2月に6頭と2年半で半減。そして、2018年の今回取材時には3頭。

人間の都合で連れて来られ、野生化への道をたどった居住者の馬がゼロになるのは時間の問題でしょう。
そうなると 当然ですが、植生への影響があります。
海鳥たちとオジロワシとの攻防も、その行方は如何。
島という限定された世界でも、自然の姿は移り変わっているようです。
[96393] 2018年 8月 17日(金)17:30:10【1】hmt さん
横綱朝潮の出身地
[96392] うっかりじゅうべえ さん
兵庫県   8 朝潮太郎(初代)
鹿児島県  5

スポーツは不得意分野なのですが、1953年のクリスマスに、鹿児島県への復帰が実現した奄美群島[56304]のことにも関係するので、ちょっと口を出しておきます。

1956年から1961年までの間の大相撲で、幕内優勝5回を記録した朝潮太郎。
本名の「米川」から始まり「朝汐」も使ったようですが、太い眉毛と立派な胸毛の大柄な姿で記憶に残る力士。
その名は「朝潮太郎」です。大阪場所での活躍が特に目立つ力士でした。

1959年の大阪場所後に 46人目の横綱に昇進。深川・富岡八幡宮境内の「横綱力士碑」にその名が刻まれる際、既存のスペース満席のため、初の 「張出横綱」にされてしまった。そんなエピソードを新聞で見た記憶があります。

問題になるのは、この朝潮の出身地です。
Wikipedia は、その冒頭に「鹿児島県徳之島出身(出生地は兵庫県武庫郡、現在の神戸市)」と記しています。
そして、来歴の箇所の記載。「1948年(昭和23年)10月場所、本名の米川で初土俵。当時奄美は米軍の占領下にあったので兵庫県の親戚、大沢徳城を頼って貨物船に忍び込み密航、奄美が返還されるまで兵庫県(神戸)出身と番付に書かれていた。」と記しています。

奄美が鹿児島県に返還される前には、出身地を兵庫県と名乗っていた時代もあったのかもしれません。
Wikipediaの出生地:兵庫県など、古い情報の影響が残っているのかもしれない説の真偽はさておき、朝潮が奄美の徳之島で育ち、日本復帰後は「鹿児島県徳之島出身」であることを公称していたことに間違いはないと思われます。

してみると、出身地:兵庫県に該当するのは、増位山(父:大相撲では姫路市)2回と貴闘力1回の合計3回だけ。
出身地:鹿児島県に該当するのは、[96392]の5回【注】に朝潮5回を加え、合計10回ということになると思います。
【注】私なりの理解では、次の通りです。
若嶋津 2回(1984/3と1984/7)、霧島(1991/1)、30代横綱で西囎唹郡西国分村(現・霧島市)出身の三代目西ノ海嘉治郎(1925/5)、25代横綱で種子島出身の二代目西ノ海嘉治郎(1916/1)。
【追記】
16代横綱初代西ノ海嘉治郎の記事[96397] ekinenpyouさん を見て、西ノ海嘉治郎の代数と、三代目出身地を追記。
[96390] 2018年 8月 15日(水)21:44:57hmt さん
「山の日」に思う(2)
[96381] MasAka さん
山の日ということで、とりあえず近所の山にと思い立ち、今住んでいる川崎市の最高地点を目指して

都市化されつつある猛暑の多摩丘陵を脳裏に描きながら、「山」に関する 47都道府県ランキングを眺めてみる。
これが、体力のない hmtにとっては、精一杯の夏課題でした。

2016年の第1回「山の日」に作った表を少し修正。
傾斜地【山地+丘陵地】vs 平坦地【台地+低地+内水域】という対比で作ってみた結果が[96384]です。

山地と丘陵地とで約93%を占める高知県を筆頭に、42府県は 50%以上という山国の日本。
平坦地が半分以上を占めた「平坦県」は、大阪府50.8%、東京都53.2%、埼玉県61.5%、千葉県61.7%、茨城県69.1%だけでした。

茨城県は、台地率37%で首位、低地率27%も4位。これに 霞ヶ浦・北浦の内水域が加わっています。
[91185]では数値を挙げていませんでしたが、山地率23.7%の茨城県は、実は千葉県(7.6%)に次ぐ下から2番目だったのでした。
それでも、富士山の反対側から関東平野を見守る筑波山を擁し、お盆の墓参では稲田石の世話になっています。

石材、石炭、金属など特殊な「山の恵み」はさておき、最も一般的な資源は森林です。
前報の末尾にも記しましたが、都道府県データランキング 可住地面積の中に「森林面積」があり、首位の高知県83.30%と、末尾5都府県の顔ぶれは、偶々ですが[96384]と一致していました。

まんざら無関係でもないと思われるので、このリストの 森林面積(2009)と、前報の検討で用いた傾斜地【山地+丘陵地】面積との比率を都道府県別に求めてみました。

その結果、ランキング上位は 殆ど1。
北海道が1.048と1を越えている理由は、平地林の存在でしょう。以下 秋田 福井 茨城 青森 京都 岐阜 宮崎 山形 富山(0.927)。

注目したのは、今回も ランキング下位の都府県。
47位の大阪符0.631 を始めとして、45位 神奈川県0.725、44位 福岡県0.764、42位 東京都0.784。40位 愛知県0.791 は、大都市の領域が平坦地だけでなく 傾斜地に及び、丘陵地が 森林以外の都市施設に利用されつつあることを示しています。

そんな中で 41位 熊本県0.790を見ると、阿蘇の草千里のような、都市とは異なる利用形態も目に浮かびます。
そして、43位 広島県0.781と 39位 愛媛県0.796、そして 36位 山口県0.813 と並ぶと、先日の西日本豪雨災害との関連を考えたくなります。

森林面積が小さいデータが示している花崗岩の禿山。
森林保全によるメンテナンスが十分でない山は、豪雨により恐ろしい牙を向けてくる。
ごく大雑把なデータランキングですが、こんな教訓の材料にも。
「山の日」を機会に、そんなことを考えた次第です。
[96384] 2018年 8月 12日(日)18:53:46hmt さん
「山の日」に思う(1)
「海だ山だ、祝日多すぎる」慎重論もあった「山の日」 

引用した記事は、祝日法改正が行なわれた4年前に 産経新聞上で発表されたもので、「根拠が薄い」、「日航機墜落事故【今日で33年目】を考えると祝日に違和感」などの慎重論もあった「山の日」について、その意義をいかに浸透させるかが、今後の課題としています。

2016年の第1回には 私も[91185]の記事を書き、昨年夏には十番勝負[93880]にも取り上げられました。
しかし、課題と指摘された「山の日」の意義について、社会の議論は進んでいるでしょうか?

言うまでもなく、「山」はレジャーの対象や健康保持の場として役立つだけでなく、国土保全・林業を始めとする産業上の利用など、多目的の社会的意義があります。
日本の国土は、地形的な要因から「山」抜きでは語ることができません。

日本の「山」はその気候条件と相俟ち、世界的には稀とも言える量の水資源を恵んでいます。
この水資源の利用と防災とは、この国土で社会生活を営む私達にとり欠かすことのできないものです。

都道府県データランキングでは、地理・気象系に 総務省統計局の [可住地面積、森林面積、自然公園面積、田面積、畑面積、宅地面積が示されており、森林面積については 林野庁が実施している森林資源の現況調査のデータもあります。

利用目的を離れた 都道府県別の自然条件については、少し古いデータですが、日本統計年鑑に掲載された「昭和57年度国土数値情報作成調査」による [地形・傾斜度別面積:www.stat.go.jp/naruhodo/dl/zuhyou/c1s_origin/y0108000.xls] の表があり、[91185]では これを利用し、「山地の多い県」のランキングを作ってみました。

山地、丘陵地、台地、低地、内水域等の5種に分け、47都道府県ごとの面積がkm2単位で示されていますが、北方領土は未分類のままなので、計算から除外。また「内水域等」にも問題がありそうでした。

それはさておき、[96381]を拝見した機会に、山地だけでなく、つまり丘陵地の区別に拘らず、47都道府県別のランキングを作ってみることにしました。

1位から3位は 山地と丘陵地で 90%以上を占める県で、高知県、広島県、奈良県の3つ。
4位から10位は 85-90%が山地・丘陵地の県。島根 和歌山 愛媛 山口 鳥取 岐阜 山梨。
11位から18位が 80-85%で、 岩手 長野 徳島 岡山 大分 宮崎 福島 群馬。
19位から23位が 75-80%で、石川 熊本 静岡 京都 山形。 
24位から31位が 70-75%で、福井 兵庫 新潟 秋田 富山 三重 長崎 鹿児島。
32位から36位が 60-70%で、佐賀 北海道 青森 宮城 栃木。 
37位から42位が 50-60%で、福岡 沖縄 滋賀 香川 神奈川 愛知。

山岳と丘陵を合わせても50%に満たない少数派は僅かに5都府県のみでした。
大阪 東京 が40%代、埼玉 千葉の後、約31%は茨城県で、これは5%近い内水域が効いていました。

台地・低地・内水域で半分になる利根川の中・下流域4県は、山国の日本では珍しい地域であることを再確認しました。

次回は、地形だけでなく、都道府県データランキングの森林面積データも利用してみます。
[96375] 2018年 8月 10日(金)19:45:02hmt さん
港湾地区の橋
[96374] 今川焼さん
江島大橋に関して、多くの情報をいただき有難うございました。
2009年撮影の写真、ダイハツのCM、大根島最高地点からの遠望写真など、興味深く拝見しました。

遠望写真には、江島大橋の奥に 境水道大橋も写されています。
じゃごたろさんによる [96370]の紹介文で
境港市の 0m地帯から 松江市美保関の丘陵部に繋がるこの橋も かなりかなりの勾配
と記された 白いトラスの片勾配 が目を惹きます。
このトラス橋も、航路確保のために 中央部が下路構造 になっており、東京ゲートブリッジ[80265]との共通点がありました。

[96374] 今川焼さん は、更に記しています。
大阪市大正区・港区の間に架かる〝大阪のベタ踏み坂〟こと「なみはや大橋」へ今年の春行ってきました。

早速 WEB記事 で見学したところ、
西側に目を転じると赤色の塗装が鮮やかな世界最大級のゲルバートラス橋である港大橋(全長982m)
とあり、リンク先が変更されてしまった[80265]の代りとなる港大橋の写真もありました。

「港湾地区の橋」と言えば、これも日本海側の 2015年氷見オフ会のことも、ふと思い出しました。
この時は、新湊大橋を始めとする 斜張橋 が話題になりました。
[96369] 2018年 8月 8日(水)10:49:01【1】hmt さん
天に昇るような急勾配の坂
先ずは 写真をご覧ください。
島根県松江市江島の八束町と鳥取県境港市渡町とを結ぶ「江島大橋」です。

「ベタ踏み坂」と名付けられた急坂が有名で、テレビCMにも登場したそうです。
中海の水面から最上部までの高さは 45m。5千トン級の船が下を通ることができます。

側面図【中国地方整備局】からでは、なかなか想像することができませんが、松江側正面からの写真を見るとビックリしますね。

鳥取県観光案内 には、撮影地点【島根県側】を3箇所変えた写真がありました。
冒頭の写真は、大根島の海岸からの正面遠望により、坂道の距離感を失わせた作品 ということでしょうか。
[96361] 2018年 8月 5日(日)17:51:12【1】hmt さん
駿河
久しぶりのメンバー登録名変更[96337]を機会に、「駿河」という地名についての雑談を記します。

言うまでもなく、「駿河」は 東海道に属する旧国名です。
ごく初期の落書き帳[82]でも、旧国名を漢字一字で表記する場合「駿」という字を使うと記されています。「駿州」。
「駿」は 「すぐれた」【つまり足の速い】馬ですから、富士川の急流を当てた文字使いでしょうか?

最近の記事に「駿河小山」という駅名【御殿場線】[96345]が登場しました。
この駅の経歴を少し記します。

駿河小山駅は、明治22年の開業時[61303]には「小山駅」を名乗りましたが、日本鉄道[61225][61304]の国有化により栃木県の小山駅との同名回避[39241]が必要になり、1912年東海道本線「駿河駅」に改称しました。

駅付近には、富士絹で知られた紡績工場もでき、大正時代を中心に それなりに繁盛した 駿東郡小山町でした。
しかし、1934年に丹那トンネルが開通すると、御殿場回りのルートは ローカル線に転落。

そんな「駿河駅」の存在を知ったのは約70年前。
中学生時代の私は、神奈川県管内図を眺めているうちに、県境を越えた静岡県側に発見しました。

駿河国には相違ないが、静岡から遠く東に離れた地の「駿河駅」に違和感を覚えながらも、そのまま。

落書き帳に出入りするようになってから知ったのが
[39351] Issieさん の記事でした。
「駿東郡」というのは近世以降の呼称で,古代には「駿河郡」という呼称であったようです。
本来はこちらの「駿河」から「駿河国」という国名が起こったのであって…

国名の起源が駿東郡にあったのならば、御殿場線に駿河駅があったことも納得できます。
でも、1952年には 既に駿河駅→駿河小山駅への再改称が行なわれていました。

「駿河」の起源が、7世紀 珠流河(スルガ)国造の根拠地> 後の駿東郡であるとすると、「奔馬に見立てた急流」も富士川ではなく、酒匂川の上流・鮎沢川かもしれません。


2005年に静岡市が政令指定都市になり、旧静岡市の南部に「駿河区」が誕生しました。
区名候補公募を見ると、A区に駿河、B区に駿河、するが が選ばれていました。
旧国名由来の「駿河」の他に、もう一つの「駿河」が誕生して、ややこしくなりました。

2年後の2007年には、次のような記事が落書き帳に登場。
[59305] inakanomozartさん
最近は「駿河」を「静岡市駿河区」又は「駿河区役所」を指す人(狭い範囲の人か?(笑))が出現しているようです。

[59308] YASU さん
危惧されていたことが。葛飾と同じ道を歩んでしまいそうな・・。
ただ「スルガ銀行」の本店が沼津にある限り、大丈夫でしょうね。

別件
「駿河の民」さん というニックネームから自然に思い出したのが「讃岐の民」さんです。
高校生時代の2005年度[50103]までに多数の記事があり、2006年度は SANUKI-Impact と改名。
最終記事[58438]では地名コレクション作業再開の意思表示をしていたが、続報なし。
[96348] 2018年 8月 1日(水)20:11:48【1】hmt さん
ふるさと納税 「黄色い会社」のある忍野村の事例
[96342] グリグリさん
都道府県データランキングの政治・行政系に示されている「ふるさと納税」の説明文が、誤記されています。

それはさておき、市町村版の記事[96341][96342]も拝見しました。
確かに、「ふるさと納税」の性格からして、都道府県よりも市区町村が相応しい分野のようですね。

グリグリさんの記事を読み、私が特に着目したのは、寄付受領側を主とした市町村[96341]ではなく、この制度を支えている納税者側の自治体【区市町村】です。

納税者の負担を示す「差引赤字額」トップ50の中に 20区もランクインている東京都23特別区に敬意を払うために、あえて慣れない言葉を使いましたが、これは東京都用語です[75424]
政令指定都市は、20市中 17市もランクインしており、上位独占に近い状態。これも立派です。

この2種を除くと、残るは 23位の西宮以下、吹田、豊中、市川、船橋、川口、藤沢、八王子、松戸、浦安、町田、姫路、武蔵野の 13市ですが、いずれも限られた大都市圏の市です。

ところが[96324]を見たら、大都市圏外であるにも拘らず、ふるさと納税の多い町村が登場していました。
山梨県忍野村や京都府精華町。(中略)自治体の中で ふるさと納税を促進する何らかの動きがあるのではと思われます。

「自治体当局」が自らの財務体質に不利な動きをするとは考えにくいので、ご指摘の動きは、「自治体の住民」による自主的なものと推察されます。

山中湖畔の山梨県南都留郡忍野村。その自然環境[43001]はさておき、経済環境として注目に値するのは、何と言っても 黄色い会社 FANUC の存在です。
工場自動化 Factory Automation に使われる「NUmerical Control(数値制御)による工作機械装置」のメーカーとして定評があります。

富士通の1部門として始まり 1972年に分社。1980年代に約10年の歳月をかけて、東京都日野市から現在地への移転が行なわれたとか。
言わば 何もなかった富士山麓 に新設された ハイテクの会社です。

忍野村のハイテク会社で、それに相応しい収入を得ているこの会社の社員たち。
「ふるさと納税制度」は、忍野村住民として所得のあるファナック社員たちにとり、彼らが生まれ育った日本各地の「ふるさと」と、忍野村とを結ぶ絆として 活用する価値のある制度であると評価されているようです。

データランキングの出典として記された 平成30年度ふるさと納税に関する現況調査から、各自治体のふるさと納税に係る住民税控除額等の excel表【市町村税額控除一覧】で、山梨県忍野村のデータ【862行】を拾ってみました。
 
私は制度もよく理解していないなので、膨大な表の中から拾った数値やその処理が妥当か否かの自信はないのですが、右端6列【BAからBF】の数値【千円未満記載省略】を使いました。

人数【ふるさと納税者数】(BA=BD列)462人【総人口の約5%】、寄付金額(BB=BE列) 1億1645.7万円、村民税控除額(BC列) 5032.1万円、県民税控除額(BF列) 3354.7万円
寄付金額から村民税と県民税との控除額を引いた 3258.8万円を差引赤字額【納税者にとっての実質的なコスト】と考えました。

忍野村に居住するふるさと納税者1人あたりの平均値を計算してみます。
ふるさと自治体への年間寄付金額は 25万円。[96350]によると 全国で 24位とのこと。
寄付したことによる減税額は 村税 11万円と県税 7万円を合わせて 18万円。
差引 ふるさと納税のコスト 7万円をかけていますが、それよりも大きな満足を得ていると思われます。

小さな村ですから、[96341]の赤字総額が番外になるのは当然です。
しかし、「1人当り赤字(円)」を総人口概数9000人で計算してみると、3621円で[96342]の 8623円と大きく異なります。計算違いが出た原因は不詳です。

[96342]の ふるさと納税者率 10.12%について。
私は、村民税(BA列)と県民税(BD列)の 462人を同一人と考え、上記のように計算しました。
従って、ふるさと納税者率は 忍野村総人口約9000人の 約5%と考えています。
しかし、これを別々に数えれば、総人口に対する割合としては 約10%になります。
[96343] 2018年 7月 28日(土)19:10:20hmt さん
間違って「隆盛」になる前の「西郷隆永」のサイン
85歳になった hmt が記す 約13年前の落書き帳記事への自己レスです。
先日、脳梗塞で入院しましたが 生還し、[96304]で落書き帳に復帰しています。

本題に入ると、2018/7/27放送のBS3・新日本風土記【明治維新への旅1】の一部で、西郷隆盛と庄内藩との絆が取り上げられていました。
そのTV画面中に、「西郷隆永のサインがある文書」がチラリと出現したのを見かけました。

「西郷隆永」と言えば、[43834]で言及した西郷吉之助の「名乗」【実名】ではありませんか。
明治5年5月 太政官布告第149号による「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」への対応。

[43834]では、
西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人【吉井友実】が間違えて 父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。
と記しています。

本人の自筆と思われるサイン「西郷隆永」が記された書類は、彼の生涯のどんな時代だったのか?
どうでもよいことですが、気になって調べた結果を記します。

出羽庄内国際村で行なわれた 2017年の講座記録の中に、次のようなことを伝える記載がありました。

明治4年9月に菅実秀が庄内に帰る際の送別会。西郷から贈られた漢詩が記されたメモ。
落款はないが、“西郷隆永拝”とあり、「西郷隆永と本名で書かれた非常に珍しい書です」というナレーションが付けられていました。

「…自今一名タルベキ事」という前記布告は明治5年でしたから、対応を間違って「隆盛」になってしまう前のサインだったことが確認できました。

仕事上では役職名なども使われていたかもしれませんが、口語では通称の「吉之助」を使っていた時代です。
西郷隆永という本名で書かれた書類が残っているとすれば、借金証文などが考えられますが、やはりナレーションにあったように、「非常に珍しい書」なのでしょう。

「おなまえ」に便乗した雑談レスはこれだけです。
しかし、ここは地理のサイトなので、山形県メールマガジンから「西郷どんと山形県」の前編後編をリンクしておきます。

前編には、漢詩が記されたサイン入りのメモを贈られた 庄内藩の菅実秀の事績以外にも、西郷銅像のモデル、なぜ西郷は庄内藩に寛大だったのか? などが記されています。
後編は、南洲神社、兄弟都市関係、鹿児島の山形屋百貨店、三島通庸[79710]のことなど。
[96333] 2018年 7月 24日(火)23:45:14【1】hmt さん
暑いぞ 江川崎
[96331] 伊豆之国 さん
【熊谷が】皮肉にも「暑いぞ」をやめた途端に最高気温記録を更新、「日本一暑い町」に返り咲くとは…。

観測史上の最高気温記録から、日本一のデータを古い方から拾ってみました。
1927年 宇和島* 40.2度、6年後の 1933年 山形* 40.8度、更に74年後の 2007年 多治見アメダス 40.9度【熊谷*も40.9度[60620]】、更に6年後の 2013年 江川崎アメダス 41.0度、更に5年後の 2018年 熊谷* 41.1度 となります。

データが集められた観測地点は、気象台等(*印、統計開始年まちまち)とアメダス(無印、1976年)とで、設置状況を含めた観測装置や統計開始年に違いがあります。

74年間日本一の記録を保持した山形*の大記録は、観測点の数を飛躍的に増したアメダスにより、多治見・江川崎と更新されることになりました。今回の熊谷により、気象台がチャンピオンに復帰。

2007年に記録を出した[60619] 多治見アメダスは、設置場所に問題があったという指摘がなされており、堺や京田辺のアメダスでも 観測環境の悪化があったようです。

そのようなわけで、江川崎アメダスのデータについても 疑惑が出ていました。
四万十川の中流域、旧幡多郡西土佐村・江川崎は 内陸の盆地で、涼しい海風が届きにくい地形のようです。
各地のアメダスに比べて周辺環境は良好のようですが、ここ江川崎アメダスが 地域を代表する気温を観測していることを検証する目的で、予備観測による検討が行なわれました。報告

0.1度単位での最高気温チャンピオンに関係するとなると、アメダス設置環境も、熱い【暑い?】研究対象になる。
そんなことを感じた研究報告でした。

なお[60621]では、気象庁以外の参考記録にも言及しています。
[96319] 2018年 7月 22日(日)19:13:41hmt さん
自然公園の面積
[96316] グリグリさん
都道府県データランキングの 自然公園面積 を拝見しました。
第1問にも関係するのですが、沢山の面積データを漠然と眺めているうちに、気になったのが「小さな面積」です。

自然公園合計面積のトップは滋賀県。琵琶湖があるにも拘らず、国立公園は存在しない。
これも注目すべきことですが、ゼロでない「小さな面積」、具体的には福岡県の国立公園:46haと、京都府の府立自然公園:128ha とを調べてみました。

福岡県の自然公園を見ると、門司の和布刈(めかり)公園を中心とする地域が、瀬戸内海国立公園に指定されており、その面積 46haがランキングのデータと一致します。
同じページに続いて紹介されている福岡県の3国定公園、5県立自然公園の面積は、すべて数千ha以上と桁違い。

瀬戸内海国立公園は、海域部を含めば日本最大の面積を持つ国立公園です。
しかし、今回の都道府県別ランキングは、その性格上、陸域の面積に限られています。
自然公園の面積に関する統計は、陸域面積に限定した値が掲載されていることが多いので、ご注意ください。

[92754]で記したように、1934年に初指定された瀬戸内海国立公園は、備讃瀬戸付近の3県でしたが、戦後大拡張されています。ブラタモリが最近訪れた関門海峡は 1956年の指定でした。

瀬戸内海国立公園に関係する県は 11府県に及んでいますが、大阪府の指定は海域のみであるため、陸域面積には含まれません。
大阪府が、[96316]の第1問のヒント「国立公園は 6府県」に含まれのは、このような事情があるためです。

ついでに、京都府立の自然公園。こちらは、僅か 128haでありながら、3公園の合計面積でした。
その中での最小面積は、笠置町にある京都府立笠置山自然公園で、その面積は 20haでした。

別件:
「やんばる国立公園」は、最も新しい33番目の国立公園です。
落書き帳では速報[90614]の後、2016/9/15の国立公園誕生を伝えています[92742]
最近のニュースによると、隣接する米軍からの返還地の大部分が 2018/6/29に 編入されたそうです。報道発表

これにより、やんばる国立公園の面積(陸域)は 17311haに拡張されました。基礎情報
ランキングの出典は未修正ですが、西表石垣国立公園 40653ha、慶良間諸島国立公園 3520ha と合計した沖縄県の国立公園面積は、61484ha となっている筈です。
[96304] 2018年 7月 16日(月)11:48:13hmt さん
偉人たちの出身地
[96299][96302] 千本桜さん
問題にされた地名自体は、「後に内閣総理大臣となるC」が「凶弾に撃たれて散った」ことが最大のヒントになりました。
最初に思い浮かんだのは五・一五事件(1932)の犠牲になった犬養木堂でしたが、これは出身地から否定。

元老の西園寺公望が犬養の後任首相として推薦したのが「C」でした。
その名は、もちろん知っていました。hmt誕生当時の首相ですが、その出身地は知りませんでした。
hmtマガジンでは 【Tcj】地域自治区(合併特例)として取り上げた町[90173]だったのですね。

「C」は 1896年にイギリスで完成した戦艦富士を、スエズ運河経由で横須賀に回航した経歴を持つ海軍軍人。
海軍穏健派の長老として「大命降下」を受けて、2大政党連立による挙国一致内閣を編成。
高橋是清蔵相による積極財政を継続。軍部とも大きな対立を起こさず、1934年まで政権を維持。
後に内大臣を勤め、昭和天皇の信頼も得ていたようですが、これが二・二六事件(1936)を起した青年将校から天皇をたぶらかす重臣として狙われる原因になりました。

「B」は有名人です。彼の事績は [74935][85218][85227]などで触れています。

落書き帳では、「A」の記事は書いていないと思いますが、
B記念館から北へ200メートルほど進むと江戸時代後期の地理学者の誕生地跡ある。
と記された箕作省吾については、世界地理・地図関係で何か書いていたかもしれないと思いました。
過去記事を探ってみたが、残念ながら、過去記事見当たらず。
[96205] 2018年 6月 17日(日)14:17:18hmt さん
日本の地震とアイスランドとの関係
[96204]とは無関係ですが、アイスランドと言えば、ユーラシアプレートと北アメリカプレートとの境界である大西洋中央海嶺が地上に現れている場所として有名です。
落書き帳にも、火山関係の記事が多数あります。

それはさておき、ちょっと気になったのが [11702] start さん による古い記事。
以前「世界ふしぎ発見」で言っていた話ですが、世界の陸地はアイスランドから発して日本に向かっていくそうです。

これだけでは理解しにくいのですが、[11720] KMKZさんが大西洋中央海嶺に言及しています。
そして 2010年 [74254] hmtの記事の追記で、大西洋を舞台にした「日本の大地震」の研究 が紹介されていました。

北大の島村さんが書かれた記事によると、1983年に起きた日本海中部地震【男鹿半島沖の海域】の余震観測で、プレートの押し合いが始まっている疑いが強まっていたそうです。
そこに1993年の北海道南西沖地震。定説がなく、地震学者にとっても不意打ちでしたが、余震観測の結果、これもプレートの押し合いによる地震と判明。

そして、本州東北部・北海道・サハリンは北アメリカプレートに乗っており、これとユーラシアプレートとが関係する「2大プレート押し合いによる地震」という現在の説に至った。そういうことのようです。

リンクされたのページには北極の両側に及ぶプレート境界を示す地図【図1】が示されています。
図1の上方(アイスランド方面)で生み出されるプレートは、シベリア北東部にある「軸」よりも手前、サハリン・北海道・秋田付近では、2つのプレートを両側から押す沈み込み帯を形成していることがわかります。

大西洋を生み出し、アイスランドでは火山を噴出した「地球の割れ目」【図2】が、日本付近では「押し合い」という別タイプの地震を引き起こしている。

これが、[11702]の記事に記された「世界の陸地はアイスランドから発して日本に向かっていく」の真意であったと理解されます。
[96202] 2018年 6月 12日(火)23:01:30【1】hmt さん
シンガポール
米朝首脳会談で話題のシンガポール。全島1市・東京23区ほどの広さの「独立国」です。
ニュースで伝えられたように、日本とは1時間の差。標準時が UTC+8。
会場は南端の「セントーサ島」。落書き帳過去記事にも登場 [48354]小松原ラガー さん。

[79492]hmt でラッフルズ以後の歴史を少し書きました。
独自の立地にある貿易港でしたが、水道の原水でさえも輸入に頼らざるを得ない資源小国。

1965年マレーシアからの分離独立以後、リー・クアンユー(李光耀)首相の統率下、どのように生きてきたか。
注目に値する国です。

今日は予告編だけですが、別記事として書いてみたいと思っています。
[96192] 2018年 6月 8日(金)18:10:37【1】hmt さん
地図情報の更新
[96190] 稚拙さん
三江線廃止(2018/4/1)から2ヶ月経過していたのですか。
三江線は 100kmを越す長距離路線で、1975年の全通後でも 40年以上 運行されていました。
しかし、利用者は少数の短距離区間客で、鉄道の特性である拠点間の大量輸送を発揮するには、ほど遠い状態でした。

WEB地図の更新遅れに関しては、営業終了後の残存地物の可能性コメントがありました[96193]
いずれにせよ、大きな実害をもたらす問題ではないように思われます。

情報伝達技術が現在のように発達していない時代の地図の更新は、現在ではとても考えられないほど 遅れていました。
実例を思い出しので、昔の記事を一つ挙げておきます。

[67608] hmt
手元にあった昭和24年(1949)発行の1/25000地形図「上溝」。
これは行政区画資料修正により、戦時合併[37842]で生まれた 相模原町 の名前だけは辛うじて載っているのですが、1931/4/29【厚木-橋本間延伸】開業の相模線でさえ入っていないという、地物に関しては大正10年(1921)測図当時の状態を残しているシロモノです。

[94765] ekinenpyouさん に教えていただいた Stanfordの外邦図に収録されている 25000地形図の索引図
Sagamihara と記されている Sheet Number 17-10 を開くと、大正10年測図(陸地測量部)と記された「上溝」図幅が現れますが、発行日、定価などの記載がありません。
市販品とは別に内務省が調製した政府内部の資料と思われます。
右肩に「二万五千分一地形図八王子近傍十号(共14面)」と記されています。
「図番 17-10」とは、全国的には未整備で一部地域だけ作られていた当時の 25000図特有の 図番だったのですね。

現在は全国整備が済んでいる 旧版地図リストと対照すると、外邦図に収録されていた図は、【相模原町になる前の】1925/2/28発行 リスト番号76-11-4-1 に対応することが分かります。
hmt手元の 1949年発行の版[67608]は 76-11-4-3 でした。

このリストによると、25000地形図「上溝」の 1949年よりも後で、線路の位置が地図に書き込まれたと思われる「改測」が実施されていた版は、実に 1966年です。その地形図の発行は1967年10月(76-11-4-5)。相模線全列車の気動車化【併用は戦前から】とされる 1958年より ずっと後のことです。
地形図「上溝」に描いてもらえなかった「SL時代の相模線」。名称の使い回しに注目。
1921年:相模鉄道が茅ヶ崎-川寒川間で開業。相模川の砂利採取事業[41660]
1926年:倉見、厚木と北に延伸。同年、神中鉄道[28910]も厚木-二俣川間開業
1931年:相模鉄道が厚木-橋本間を延伸開業 
1943年:東急グループ内で、相模鉄道が神中鉄道を合併【相模線の名称は変化なし】
1944年:国有化により運輸通信省相模線となる【残った旧神中線が相模鉄道の社名を継承】
1949年:日本国有鉄道相模線となる

外邦図収録 Sheet Number 17-10「座間」を見れば、1927年新規開業の小田原急行鉄道に「昭和4年鉄道補入」とあります。【76-12-1-4鉄補】
同様に、鉄道開通がいかに軍事的に重要な情報であるからといっても、1931年厚木駅【注】から北への延伸開業をした相模鉄道についても、隠蔽工作などがなされたとは、到底思われません。

25000地形図の「改測」が戦後20年以上も行われずにいたとすると、その事情は何故か? 不思議です。
1949年の「資修」は鉄補でないことを確認していますが、ひょっとすると、1955年発行の 76-11-4-4「資修」で処理された可能性もあるのではないか?

【注】厚木駅[41660]
外邦図の「座間」図幅では、小田急河原口駅との交差点【現在の厚木駅】より少し北に、神中鉄道と相模鉄道との共用ターミナルである「厚木駅」が見えます。神中線が小田急ルート【下記】になり、相模線の旅客駅が河原口に移った後も貨物駅として使われ、混合列車が停車していました。
現在の相模鉄道が小田急と接続している海老名駅と連絡線とは、この地形図には まだ現れていません。
しかし、神中鉄道は 1941年からこのルートで相模川を越え、相模厚木駅【本厚木駅】への乗り入れを開始しました。
[96178] 2018年 6月 3日(日)16:02:45hmt さん
江戸川区菅原橋交差点の歴史
昨日のブラタモリ・下田で登場したのが、静岡県最南端の神子元島。[85781] hmt と同じ頃の記事に登場した北杜市須玉町若神子の「九差路もどき?」[85778]伊豆之国さん からの連想で、七差路コレクションを開いてみました。

江戸川区菅原橋交差点:「[26273]烏川碧碧さんからは「最大十叉路説」の情報提供」と記載されていました。

2004年のこの記事から14年も経ていることでもあり、新たに検索してみました。
その結果、江戸川区郷土資料室による「菅原橋交差点の成り立ち」という 解説シート(2014/10/21更新)が存在することを発見しました。

現在は 国道14号 千葉街道と呼ばれている古くからの幹線道路に存在する複雑な交差点。
菅原橋交差点は、都内でも珍しく右記【地図】のように道が交差する 11差路となっています。

江戸川区が示した【地図】は、マピオンに道路名などを書き込んだもので、国道の北東=千葉県方面(1番)から時計回りの番号を付与。
江戸川区資料には「11差路」と記されています。しかし、9番とは水路を隔てた南側にある8番の道路は、菅原橋交差点から外れていると思われます。これを除外すれば、[26273]の10差路ということになります。

1番 千葉街道NE     2番 旧上八幡道     3番 昭和初期頃の小路
4番 鹿骨街道SE     5番 仲井堀通りS     6番 同潤会通り
7番 千葉街道SW     8番・9番 小松境川親水公園沿いの街道
10番 鹿骨街道NW     11番 仲井堀通りN

文化2年(1805)の『葛西御場絵図』には、「元佐倉道中」(7番/1番)が中井堀を渡る「菅原橋」が描かれています。
橋名の由来となった菅原道真公を祀る天満宮【現在は本一色北野神社】は、『明治38年(1905)の地図』に描かれ、橋の北側から【葛飾の】新宿(にいじゅく)に至る中井堀沿いの道(11番)には、小松川道と記されています。
参考までに 葛飾新宿の更に北は、灌漑用水の水源である 水元・小合溜[82206]です。
この地形図には、菅原橋の東に上八幡道(2番)も記載されています。葛飾八幡宮(かつしかはちまんぐう)の所在地は市川市八幡4丁目ですが、地名の読みは「やわた」ですね。上八幡道も同じかな?

鹿骨街道(4番)の前身らしき道は明治38年の地形図にもありますが、その名は未登場。
鹿骨(ししぼね)は難読地名。この道が整備されたのは、新小岩駅開業後の昭和戦前期のようです。

6番の道路に名付けられた「同潤会」[83708]という言葉は、関東大震災後の被害を受けた後、東京の都市圏が拡大した 昭和戦前時代を象徴しているようですが、この道が菅原橋交差点に接続され、航空写真(1963)のような姿になったのは、戦後の昭和29年(1954)頃であったようだと記されています。
この航空写真では中井堀の南側が完全な水路で残されていますが、それが徐々に暗渠化されて、仲井堀通り(5番)になったのは、1970年代前半とのことです。
[96160] 2018年 6月 1日(金)19:04:21【1】hmt さん
賽の河原
[96080][96118]では、関西「カンサイ」という読みの例外として話題になった「カンセイ」を題材にして、「呉音から漢音へ」という順序で日本に導入された漢字の歴史を概観し、併せて発音において混乱しやすい「アイ」と「エイ」との関連についても触れました。

今回は、京都市右京区の「西院」という地名から始めます。
阪急京都線の西院駅。バス停名は座標方式の交差点「西大路四条」、住所は右京区西院高山寺町。

京都西院駅が新京阪鉄道の地上仮駅として開業したのは 1928/11/1でした。 [20843]太白さん
四条大宮の京阪京都駅まで開通した 1931/3/31 には地下の「西院駅」となり、”関西最初の地下鉄”と謳ったということである。[17211]般若堂そんぴん さん

これよりもずっと前の 1910/3/25に 神戸の川崎財閥により 嵐山電車軌道が開通しています。
これが京都電燈の経営になり、戦時中には 電力企業から分離されて、京福電気鉄道になりました(1942)。

夜の繁華街を持つ京都と繊維工場などを持つ福井県とは、以前から両者を結ぶ送電線によって電力需給バランスを図っていた筈です。
しかし、戦時体制による電力国家管理[28941][61349]は、思わぬところで「京福」という組み合わせの意義を表面化することになりました。

それはさておき、新京阪>阪急の駅名は普通の読み方「サイイン」なのに、先輩格の嵐電>京福の駅名は「西院」と書いて「サイ」と読みます。[33039]ありがたきさん、[33569]なかなかさん
これは、如何なる事情によるものか?

右京区西院高山寺町の由来である高山寺は 淳和天皇[27426][27454]の離宮でした。
御所の西にあるお寺だから「西院」で不思議はありません。
ところが…

[59769]伊豆之国 さん
京都市の「西院」の駅名の読み方が阪急(さいいん)と嵐電(さい)で異なることについて、昔見たテレビ番組で、「元は西院(さい)村と呼ばれ、『賽の河原』からきている、と言う。阪急が『さいいん』と読みを変えたのは、『賽の河原』では縁起が悪いからだ」ということを聞いたことがあります。果たしてこれは本当のことなのでしょうか、読者の中でこの事情がお分かりの方は教えてください。

落書き帳過去記事には、上記の問い掛けに対するレスが見当たらなかったので、調べてみたところ、偶々手元にあった柳田國男『先祖の話』68話「さいの川原」に出会いました。
終戦直前の執筆、1946年発行の粗悪な印刷物ですが、京都五三昧【注】の一つであった「佐比」という川原に由来するということが記されていました。
【注】京都五三昧とされる火葬場
あみだが峯、舟岡山、鳥部山、西院(さい)、竹田(中山)の5ヶ所とされる。出典
参考までに江戸五三昧は[71932]で登場しています。

京都の魔界伝説にも、
西院の地名の由来は、現在の佐井通りに該当する「道祖(さい)大路」に接していたので「さい」と呼ぶようになったと思われる。
と記されていました。

テレビ番組で紹介された「賽の河原」>西院(さい)村 という説は正しいように思われます。
現在の漢字に騙されて、「御所の西だから西院」と単純解釈してはいけなかったのですね。

現在まで伝えられる空也上人の『西院河原地蔵和讃』。
空也が不幸な子どもたちの供養した平安時代はもちろんのこと、柳田國男が『先祖の話』を残した敗戦前後の時代に比べても、私達が当然のように享受している栄養状態や医療環境は格段の進歩を遂げています。
恵まれた時代に生きることができるのを感謝しながら、賽の河原の不幸な子どもたちへの思いを馳せたのでした。

余談ですが、嵐電・西院駅付近にある電鐘。
[91964] 伊豆之国さん
現在進んでいる阪急西院駅の改良工事(中略) どうなるかが気になります…

2018/4/5のお知らせによると、電鐘のある踏切には表示灯が設置され、信号機と警報音だけではなく、歩行者の目線でも電車接近をわかりやすくなっている模様です。ご安心ください。
[96118] 2018年 5月 25日(金)20:12:53hmt さん
関西(かんせい)の読み方(2)スペインの雨
[96080]で記した「呉音から漢音へ」の続編です。
日本語全体の流れの要約
 5世紀から本格化した南朝呉音文化の導入>
 7世紀から直面した隋唐帝国の影響による初期漢音文化>>【宋音の伝来など中間は省略】
 江戸時代・明治時代を経て変質したが、現在も漢音文化が優勢。
但し、仏教用語を中心として 呉音文化も一部に根強く残る。

このような認識を踏まえて、数年前の発言に関係する「地域差」を考えてみました。
[76598] Issieさん
「西:セイ(漢音)/サイ(呉音)」では,「関西大学」と「関西学院」のペアーが有名です。どちらが「かんさい」で,どちらが「かんせい」か,“東夷”(あずまえびす)には区別できません。

関東育ちの hmtとしては、漢音を使った「SEIBU」ブランド[61836]に親しんできました。
しかし、九州には呉音読みの西部(サイブ)ガス【登記上の称号は西部瓦斯】があり、大手都市ガス4社の一角を占めていることを知りました。

このことから、地域による呉音・漢音の使用傾向の違いがあるかと思い、調べてみました。
市町村雑学によると、現存市町村について西の出現は31回ありますが、訓読みの「にし」が多数で、音読みは10件でした。
その中では、呉音「サイ」7市(印西市/湖西市/愛西市/加西市/西条市/西海市/西都市)に対して漢音「セイ」は筑西市・西予市の他に高知県安芸郡芸西(げいせい)村の3つだけ。
地域による違いについては、印旛郡/浜名湖の西にある市が「サイ」で、筑波山の西の市が「セイ」という調子であり、西国/東国の地域差は見出されないように思われます。

福島県西白河郡西郷村は「にしごう」と訓読みでした。
ついでに、NHKドラマのタイトル「西郷どん」の読みは「SEGODON」。

[43834]
明治5年5月の太政官布告で、「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」になり、通称か名乗かどちらかを一つだけを選んで戸籍に記すことになりました。西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人が間違えて父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。名乗がほとんど使われていなかったという現実を窺がわせる逸話です。

…というわけで、幕末には「吉之助どん」という呼び名が一般的でした。
名字で呼ぶ現在の習慣もまだなく、「SEGODON」と呼ばれたとすれば、それは没後のことか? 
この呼名がドラマ中に登場する機会があるとすれば、それは年末近くのことと推測します。

それはさておき、呉音のサイゴウどん から 漢音のセイゴーどん に変化し、更に セーゴーどん→セゴどん となる変化は、口の開閉が少なく、口語では起りやすい音韻変化と思われます。

呉音サイ→漢音セイ とは逆向きの変化ですが、エイ→アイ と変化する有名な例についても、言及しておきます。

バーナード・ショーの戯曲『Pygmalion』…と言うよりも、それをミュージカル化した『マイ・フェア・レディ』。
ロンドン東部の下層階級で育ったイライザに正しい英語の発音を教え込み、レディに仕立てようとする言語学者の ヒギンズ教授。
彼が教材として与えた 有名な「スペインの雨」には「エイ」の音が5回出てきます。

The rain in Spain stays mainly in the plain.

これをイライザがコックニー訛りで発音すると、「エイ」が「アイ」になってしまいます。
ザ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリー・イン・ザ・プライン

オーストラリアの英語にも、today→トゥダーイなど、同様の訛りがあるようですね。
ドイツ語では「ei」と書いて「アイ」と読みます。

呉音・漢音から出発しましたが、発音は時代と地域が異なれば変化するものである。
当然のことでしょうが、いろいろと調べてみて、改めてこのことを実感した次第です。
[96080] 2018年 5月 23日(水)19:02:53hmt さん
関西(かんせい)の読み方(1)呉音から漢音へ
1
思いがけず話題になった「関西」の読み方。
私も関係ありそうな話題を、思いつくままに 幾つか記してみます。

「関西」には「近畿」など類似する概念の用語もありますが、言うまでもなく「関西」は「関東」と対比される広域地名として認識されます。関西国際空港などの新しい用例もありますが、近畿より限定された範囲、例えば独自の歴史をもつ都市圏や風土などが背景にある地域という印象を受けます。

机上の『大辞林』により見出し語「かんさい」【関西】を確認。関西大学などの派生語も掲載されています。
ところが、「かんせい」を引くと、寛政・慣性など多数の言葉が出ますが「かんせい」【関西】は出ません。「かんせいがくいんだいがく」【関西学院大学】まで進み、ようやく単独項目で登場。

2
日本語における漢字の常識。「西」の読みは 漢音「セイ」 呉音「サイ」 訓読み「にし」。

この中で「訓読み」とされる「にし」は、「西」という漢字の意味する「やまとことば」。言わば翻訳です。

3
日本への本格的な漢字文化流入は「呉音」を通じて始まりました。
「西」という漢字と共に入ってきたのは「サイ」という「呉音」だったのです。

これは、統一帝国の隋・唐が華北に成立する前の「南北朝時代」に長江下流域の国から伝えられた読み方でした。
建康(建業)【南京】に都を置いた王朝は三国時代の呉を含めて6つあったので「六朝時代」とも呼びます。
呉音の「呉」は王朝名ではなく 地域名と理解してください。

5世紀に「倭の五王」と接触した本格的な記録を残しているのは、南朝の宋王朝でした。
【10-13世紀の北宋・南宋とは別です。】

『宋書倭国伝』 に記録された「倭王武の上表文」(478年)。百済などからの渡来人の専門家を雇っていたにせよ、この時代になると、日本も立派な漢文による外交文書を作成できる段階に達していたことを示しています。
日本国内でも、「呉音」という形で華南の言葉に親しむようになりました。

仏教が公式に日本に伝わった6世紀。この頃になると、衰微した南朝に代り、文化流入は百済経由となっています。
このようにして、日本への本格的中国文化流入は、内容的には仏教が中心になりましたが、媒体としてはそれ以前と同様に「呉音」を媒体として行なわれました。

4
ここで、日本を取り巻く国際情勢が一変します。
中国が 長い分裂時代を脱して、華北に統一帝国の隋・唐が成立したのです。
日本からも推古朝の遣隋使(607)を経て、遣唐使(630-)によって直接外交関係を結ぶことになりました。

これまで「呉音」によって漢字文化に接してきた日本も、長安を首都とする統一中国帝国が「正統的な読み方」としている「漢音」と向き合うことになります。

長安【西安】がある渭水盆地は、秦・前漢の時代にも帝国の首都であり、「関中」と呼ばれる地域です。
「関西学院」から始めたこの記事として見過ごせない地名。東の函谷関と西の隴関との中間にある平野部。

5
さて、「西」という漢字を「セイ」と読む「漢音」について。

百済と組んで唐に反抗した白村江の戦(663)。それでも どうにか 生き残ることができた敗戦日本。

そして 百済滅亡の結果、百済の人々が逃れて多数来日。日本の「漢音文化」に貢献することになりました。
『日本書紀』(720)は、初期の「漢音文化」が日本にもたらした代表的成果と思われます。

しかし、遣唐使が学んだ「漢音」は、正統的中国語の発音に拘っており、日常語として定着していた「呉音」を完全に置き換えるものではなかったようです。

現代語として普及している「漢音」には、江戸時代の研究に基づく日本語音としての漢音や、明治の文明開化時代の必要から生れた和製漢語などの成果が盛り込まれ、初期のものから変質しているようです。

6
冒頭に記したように、大辞林では「かんせい【関西】」が見出し語になっていませんでした。

どうやら、現代日本語において 「かんせい」という読みは「固有名詞の一部」として存続しているが、広域地名としての“かんせい【関西】”という「漢音読み」は 事実上消滅している。
このように受け止めました。

ところが、大修館新漢和辞典の【関西】を見たら、読みが「カンセイ/カンサイ」と漢音優位で、「1 函谷関よりも西の地…」という説明文が付されていました。さすが、漢和辞典。

7
落書き帳過去記事における「関西 かんせい」の使用例を調べたところ、結果は僅かに4件でした。

関西学院大学の前身は 1889年設立。当時の日本では、東京を「とうけい」というように漢音読みにすることが多く【[75459]参照】、「かんせい」学院と読む校名も、このような歴史によるものと説明されています。出典

落書き帳に現れている他の事例である国有化前の 関西(かんせい)鉄道[61246]も、まさに漢音読み全盛であった同時代に誕生した社名です。急行用の「早風」、短距離用の「池月」など、優雅な形式名称の蒸気機関車に付けられていた「KANSEI」の社名を、写真で見た記憶があります。

8
「呉」と「漢」とは王朝名ではなく、中国の地域名と理解してください。
「呉」は長江下流域の水田地帯、「漢」は黄河中流域の畑作地帯というイメージで、「南船北馬」という四字熟語で知られているような異なる風土に、それぞれの文化が育まれてきました。
中国の南部と北部にある二つの地域の中で、気候に恵まれた華南と遊牧民族からの脅威と刺激を受けやすい華北。
歴史は華北に生れた強い王朝が覇権を握り、それが衰えて外敵を防ぎきれなくなると南部に避難して文化を守る。
そのようなパターンを繰り返しているようです。

9
参考までに、呉音から漢音へというページを紹介しておきます。
多数の文字について、呉音と漢音の違いの具体例が示されており、参考になります。
[95754] 2018年 5月 8日(火)17:01:15【1】hmt さん
Re:歩いて行ける!「三県境」
落書き帳で取り上げられたテーマの一つである都道府県境。私も関心を持ち、hmtマガジンを作っています。

落書き帳オフ会関連でも 2008年【青森/秋田県境確定記念】、2009年【岡山/香川県境・石島/井島の探検】、2010年【栃木/群馬/埼玉三県境訪問】と続いた過去があります。そして 2016年は【熊本/大分 県境の宿】。

そこで、今回 久しぶりに復活した「三県境」の話題にも反応して、「明治前期の毛武三国境付近の地図」を紹介することにします。

本題の前に、futsunoおじ さんがまとめた 全国の県境の基礎データを紹介しておきます。
2004年:三県境(その1)(その2)
2010年:三県境点のまとめ[第7回オフ会記念版](その1)(その2)
いずれも、hmtマガジン・都道府県境に収録してあります。

地名コレクションにも 同じく futsunoおじさんによる 大作・『県境の交通路』があります。
その 附録:三県境点 には番号が付与され、Mapionへの地図リンクがあります。
栃木/群馬/埼玉三県境は 11番です。地図11

なお、hmtマガジンには 特集渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域があり、「鶴の嘴の先端」[76876]に位置する「THE 三県境」を対象とする記事も多数収録しています。
筑波山オフ会2010 翌日の探訪ルートは、グリグリさんの作品です。

前置きが長くなりましたが、「栃木/群馬/埼玉 三県境」の前身は、言うまでもなく「下野/上野/武蔵 三国境」、つまり毛武三国境【2つの毛野国(両毛)と武蔵国】です。

本題である 毛武三国境の地図に入ります。
リンク先は、明治前期(●明治10年代)に作成された「迅速測図」【[65097]参照、フランス式彩色の施された原図】に基いて 独立行政法人・農業環境技術研究所が作成した 歴史的農業環境閲覧システム[65091]です。

地図の位置情報は、地理院地図の「THE 三県境点」の値を利用しています。
zoom値も揃えたので、昔の川の流路と 現代の県境 とを 同じ縮尺で対比することができます。

明治の地図で北東部・下野国と西部・上野国との境界は、基本的に渡良瀬川の線です。それは[95752]で引用された群馬県板倉町のページにあるように、「海老瀬の七曲り」と呼ばれた曲流部で、1910年の大洪水後の工事により新河道に改修(1918)されました。

現在はコンクリートで固められた渡良瀬貯水池(谷中湖)によりすっかり様子が変っていますが、「七曲り」の痕跡は現代の地図で谷中湖西岸の県境線に示されています。「海老瀬」の地名は谷中湖西北端にも見えますが、鶴の嘴の先端をクリックしても、「板倉町大字海老瀬」の名が現れます。

明治の地図で海老瀬の七曲りに戻ると、川の中央に境界線が通っており、大きな曲流の左岸(東側)に下都賀郡下宮村と記されています。その左、「17,36」と記された地点が、地理院地図で「大字海老瀬」を確認した鶴の嘴の先端です。

この地点で西から合流する川の中央にも境界線が引かれています。これが西側の上野国と南側の武蔵国との国境線ですが、これを遡ると境界線は西から来る川【現・谷田川】に入らず、【旧合ノ川を遡り】南の利根川に入っています。

川俣での「会の川締切り」(1594)以後、「新川通開削」(1621)までの間、上記の旧「合の川」は利根川の主流格の存在であったと思われ、これが上武国境となり、ひいては群馬埼玉県境に引き継がれたものと考えています。[77081]

このように、明治前期の地図では広域地名は「県名」でなく、「国名」が使われています。

私は hmtマガジン 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探るの前書きで
明治19年式戸籍の書式[62667]に使用例がありますが、「府県」が地名化した決定打は、明治32年の改正府県制ではないかと思われます。
と書きました。

この法改正により、「府県」は「国の出先機関」である 単なる「行政機構」から脱皮して、(首長はまだ官選でしたが)直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具えた「自治体」の性格を強め、地理的にも「○○県」と呼ばれるに足る独自の領域を確保するに至ったのではないでしょうか[62889]

毛武三国境から「三県境」への変化。それは 20世紀になり、明治も遠くなってきた時代と思われます。
このサイトの主テーマである明治以降の地方制度。
同じ「県」という名で呼ばれていても、制度が変れば実体が変る。
「三県境」の話題から明治の地図と現代の地図とを対比しつつ、時代の変化は避けられないことを実感した hmtでした。
[95744] 2018年 5月 5日(土)14:15:45hmt さん
水戸
[95743] 白桃さん の問い合わせに関連し、グリグリさんの手間を少し省く目的で、調査してみました。
落書き帳の過去記事から得られた情報だけですが、メモしておきます。

出典:明治22年3月31日施行の茨城県町村区域名称
[76874] むっくんさん 「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」にリンクされた『茨城県令達類纂、上』収載の 県令甲第十二号による

【23コマ】東茨城郡水戸 旧町村欄に 水戸上市、水戸下市、常磐村の内【数個の字を列挙】、【以下3村の内が列挙されているが引用省略】

【24コマ】東茨城郡常磐村 旧町村欄に常磐村(の内)【数個の字を列挙】

【25コマ】東茨城郡(の末尾) ○大貫町 【旧町村欄は空白】
ここに記された東茨城郡大貫町と、変遷情報詳細に記録されている 大貫村 との関係など、私には理解不能です。
とりあえず調査結果だけを報告しておきます。
[95696] 2018年 4月 18日(水)11:25:43hmt さん
このままでは、「丹波」ブランドを丹波市に独占されてしまう!
[95695] 稚拙 さん には「ヤフーのサイトをリンクするのもなんなので」とありましたが、昨日配信のYahoo!ニュース を見ると、篠山市が抱いている危機感【この記事のタイトル】>「丹波篠山」への市名変更意欲 がよくわかります。

----------(記事抜粋)----------
かつては、兵庫県と京都府にまたがって丹波国が存在していました。
時代が変わった今でも「丹波栗」や「丹波黒豆」など丹波の冠がついた特産品が販売されていて、日本全国に通じるブランドとなっているのです。 
ところが、この丹波を使うことである問題が。
実は、2004年篠山市の隣に丹波市が誕生しました。
ふるさと納税では篠山市も丹波市も「丹波ブランド」の食材を返礼品にしていますが、名前のややこしさが原因なのか、篠山市への納税額は、丹波市の半分以下だということです。
「このままでは丹波ブランドが奪われる」と危機感を募らせた地元の商工会などは、市名を「丹波篠山市」に変更するよう市に要望書を提出。
4月17日に篠山市から発表された 市名変更に伴う影響などの調査結果
丹波篠山のブランド低下による経済的損失が23億3000万円、市名変更による経済の波及効果額が28億7000万円以上  合わせて52億円以上の経済効果
----------(記事抜粋終)----------

神戸新聞記事にあった「現在の混乱状態が続くと、丹波篠山産の優位性が低下し」に関して
何がどうして「混乱状態」なのか、今ひとつ記事からはわかりにくいです。

千年以上も使われてきた広域地名「丹波」に基づくブランドが、21世紀に誕生した「丹波市」に起因する限定解釈を引き起こしている現状。
これを「このままでは丹波ブランドが奪われる」と感じて「混乱状態」と表現した篠山市の気持ち。
私にはよく理解できます。

本来は広域地名である旧国名。これを、一部の地域を表す市名として独占・僭称した事例。
楠原祐介『こうして新地名は誕生した!』(ベスト新書2008)第4章 大増殖した「旧国名僭称」型新市名 にまとめられています。

丹波篠山市への改名問題についての過去記事 もご覧ください。
[95690] 2018年 4月 16日(月)11:42:08hmt さん
Re:白桃@in東北スーパータウン
毎年、春になると一目千本桜を見に千葉県浦安市から飛んでくる
と紹介された渡り鳥でも、気象の変化を読みきれず、渡りの時を間違える結果になってしまったのですね。

平成30年一目千本桜開花状況によると、今年の満開は4月5日から8日でしたが、4月12日午後からの強風で一気に散ってしまったとあります。

過去10年間の開花状況と比較すると、開花日 3/31、満開日 4/5、散り始め 4/9の何れについても、最も早い日付が記録されたようです。
[95633] 2018年 4月 1日(日)17:31:21hmt さん
呉市の変遷履歴

この記事は、[94959]白桃さん へのレスとして1月に書き始めたのですが、未投稿のまま4月になっていました。
しかし、今日 [95629]に記された下記の一言に刺激され、投稿することにしました。
これだと「呉町」が隠れてしまい

私が書きたかったのは、明治21年の法律に基づく「市制施行地・呉町」の存在についての記事です。
長いイントロが付いていますが、本論は5です。
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[94958] むっくんさんによる 衝撃的な記事「呉町は存在しなかった」がありました。

この問題に関心を持っていたのは、落書き帳メンバーの中でも一部だけだと思われますが、当サイトの重要な資産である市区町村変遷情報に深く関わっていることでもあり、この機会に過去の経緯を含めて少しまとめてみました。

最初に、呉市の変遷関係関係する過去記事集とを示しておきます。

【お断り】
「市区町村の変遷」ページは「市区町村変遷情報」のデータからの自動作成を目指していますが[95583]、工事中の現在はそれが実現していません。上記リンクによって現在表示される「呉市の変遷」も、おそらく昨年の変遷情報に基づくものでしょうが、今回の記事の説明としては かえって好都合なので、そのまま使わせてもらいます。

「呉市の変遷」には平成合併で編入された安芸灘諸島に属する島々に関する情報が多数含まれ、膨大なものになっています。しかし 今回の話題に関係するのは、1902年の画面 赤文字の呉町【新設合併】と緑背景の呉市【市制】との2行だけです。

両者の日付は1ヶ月ずれていますが、実は両方共 1902/10/1であり、事実上
呉町は存在しなかった
それ故、「新設/市制」という1行として記載されるべきである。
これが[94958]の要旨でした。
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市制施行日については明治35年内務省告示に明記されており、最初から1902/10/1に異論なし。
そして、呉市のサイトにも4町村が合併して呉市誕生と記されていたので、これを信用した変遷情報も、2010年9月迄は、「新設/市制」1行の記載になっていました。

話を面倒にした張本人は hmtの[74500]でした。
統計局の 郡市町村廃置分合一覧表を見ていたら、偶然にも「4町村→呉町 明治35年9月1日実施」という廃置分合記録を発見し、1ヶ月だけ「呉町」が存在したのではないかと?という疑問が出てしまったのです。

約半年後の[76230]で88さんの検討結果が出て、1902年9月の合併、10月の市制という「二段階で間違いないと判断」され、変遷情報は修正されました。

前記過去記事集の冒頭に掲げた Issieさんの記事[123]にも記されているように、市の設置については 戦前の制度下でも内務省告示があったものの、町村の廃置分合については 全国的な情報入手に困難がありました。

呉市の場合について言えば、市制自体に関する情報である内務省告示M35-63号[62661]55番は、ndl官報を閲覧することもでき、また呉市の例規集にも収録されています。落書き帳では[74518]の末尾に告示原文が引用されています。今回の資料『呉市史』では 85コマ。
明治21年法律第1号市制第126条ニ依リ広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定シ明治35年10月1日ヨリ市制ヲ施行ス

ところが、明治時代 広島県内の町村合併情報が収録されていると思われる 広島県報となると、アクセスはぐっと困難です。

そこで二次資料で代用することにして 頼りにしたのが 前記統計局資料でしたが、この段階で見落とされたのが 呉町の発足日検証 であったようです。

なお、変遷情報が「1ヶ月だけ存在した呉町」に修正された2010年[76230]の翌年にも、「1ヶ月の呉町はあったのかしら」と植物的カンによる疑いの目で見ていた白桃さんの記事が記録されていました[79512]
統計局の資料の間違いは過去にもあったのですが、本件については疑うことを すっかり忘れていました。
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「呉町は存在しなかった」と題する[94958]で紹介された『呉市史』には、市制実施の準備と題した節があり、詳細な説明がなされています。その中から注目すべき記載を抜粋します。

4.1 広島県安芸郡長より関係町村役場への訓令
 本郡荘山田村 和庄町 宮原村 二川町を廃し其区域を以て呉市とし市制を施行せんとするに付 本月【M35/6】23日迄に其町村会の意見を徴し差出すべし【→各町村から異議なしの答申】

4.2 明治35年広島県告示第305号【落書き帳初出の重要な変遷情報】
 本年10月1日より安芸郡和庄町 荘山田村 宮原村 二川町を廃し其区域を以て呉町を置く
 明治35年9月2日  広島県知事 江木千之

4.3 (説明文、便宜上 文頭にabcを挿入)
 a 斯くて市制施行の希望は保証せられたり b 既に4ヶ町村は統一せられて呉町となれり c 呉町の出現は即ち市制施行に必要なる前提たり d 何となれば個々の独立せる町村が直に一躍して市となるは手続上之を許さざるのみならず自治体進歩の順序にも循わざればなり e 既に4ヶ町村が1町に統合せられたる以上は其の財産の処分を為さざるべからず【以下略】

この説明文を見ると、6月の郡長訓令(4.1)では4町→呉市と1段階だった合併が、9月の広島県告示(4.2)によって呉町を経由する2段階方式へと変化し、この間の事情を説明したものが 4.3の説明文であると理解できます。

4.4 明治35年内務省告示第63号 番号は[62661]、条文は[74518]の末尾等に既出
 明治21年法律第1号市制第126条に依り広島県安芸郡呉町を市制施行地に指定し 明治35年10月1日より市制を施行す
 明治35年9月1日  内務大臣 内海忠勝【[74518][94958]の内野は誤記】
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ようやく、この記事の本論である「市制施行地・呉町」に入ります。
「市制施行地」という言葉は、旧・市制【注】という法律の 第七章附則 第126条に基づく用語です。
第126条 此の法律は明治22年4月1日より地方の状況を裁酌し府県知事の具申に依り内務大臣指定する地に之を施行す

【注】旧・市制とその残影
「市制」と「町村制」との2つの部分から成る明治21年法律第1号の一部であり、明治44年全面改正後の 明治44年法律第68号「市制」と区別して「旧・市制」と通称する。

「旧・市制」時代に誕生した市は[62661]にリストアップされている。
64番目の新潟県高田市【現・上越市】誕生後の 1911/10/1に明治44年改正「市制」が施行され、「市制施行地」という法律上の概念はなくなった。
しかし、住所表記は現在でも「市部・郡部」で区別され、国勢調査にも残存している。

それはさておき、[62661]に挙げられた64市の内、63市は「単独市制」です。
唯一の例外はどこか? それが「呉市」だったのですね。

「新設合併/市制」という現代では普通に思われるパターンに最初に挑戦したのが呉地区でした(4.1)。
ところが、内務大臣の指定による「市制施行地」を前提とする当時の法律(旧・市制)は、必ずしもこれに合うものではありませんでした。
明治35年よりも少し前、明治31年末のデータになりますが、安芸郡和庄町の現住人口は21553人でした。近隣の町村との合併後は市の基準値2万5千に合わせるとしても、これでは合併前に「市制施行地」になれない。

苦し紛れに繰り出した一手が、合併→即日市制という「瞬間の呉町」を市制施行地として認めてもらうこと。
これが成功した結果を示すのが明治35年内務省告示第63号(4.4)であったのでした。

「呉町は存在しなかった」などと冷たくあしらうのではなく、(技能賞か敢闘賞かはともかく)呉市実現への努力を讃え、「市制施行地・呉町」が公認されていた事実を 変遷情報にも記録してほしい。これが私の感想でした。

一見しただけでは「呉町」が無視され、1段階の「新設/市制」に見える変遷履歴情報一覧表。hmtも白桃さんが声を挙げた[95629]に同感できます。
それは ともかくとして、変遷情報詳細まで見れば、「呉町設置」や「広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定」の告示が きちんと示されていました。
hmtとしては、このことを確認して一安心しました。
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蛇足ですが、「市制施行地」制度が廃止された明治44年改正法の下で、正式に誕生した「新設合併/市制」の最初の事例は1916年の尼崎市でした。
そして、1921年になると山口県厚狭郡宇部村の単独市制による宇部市が誕生します。
時代と共に増殖する「市」は、『呉市史』の説明文(4.3d)が記された「旧・市制時代の市」とは確実に変ってきたことを感じます。
[95556] 2018年 3月 18日(日)13:13:53hmt さん
浮間舟渡
[95554] 特急とりあたま さん
東京都板橋区舟渡/埼玉県川口市舟渡町

この記事を最初に見た時に、私は板橋区舟渡の対岸に舟渡町という地名があるものと誤解して、
「埼玉県舟渡の一部が東京都になった由来……それは 1950年に荒川を舟で渡ったからなのです。」
というレスを書き始めてしまいました。
ところがリンク地図を見ると、新荒川大橋付近の地名は 川口市「舟戸町」であることが判明し、この冗談は不成立。

文字違いのことはさておき、例えば[90145]を見ると、1950/4/1に、埼玉県戸田町舟渡が東京都板橋区に移ったことが記録されています。[79523]には地名「舟渡」は記されていませんが、1番に記された総理府告示による境界変更です。
「舟渡」という地名は、河川改修により 都県境の荒川を越えた結果 なので、立派な「自治体越えの地名」と思われたが、そもそも埼玉県側に「舟渡」が残っていなければ話になりません。

参考までに舟渡の記事集  誤記で「船渡」となっていた記事もあります。

「都道府県市区町村」サイトとしては、自治体越え地名集めもさることながら、変遷情報の充実が大切です。
とんだ失敗の副産物ですが、[90145]を再読した機会に 改めて気になった点を記しておきます。

1 舟渡に隣接する地域名を「浮間」に訂正【[90145]の表】
舟渡の下流側隣接地も、舟渡の境界変更より前 1926/10/1 に 埼玉県から東京府に境界変更されました。
その地域名ですが、当時の北豊島郡「岩淵」町よりも、現在の北区町名でもある「浮間」とするのが適切と思われます。
浮間の地名は 変遷情報詳細に記されており、[36159][65713][79661]などで使っています。

2 「浮間」に隣接する「舟渡」の境界変更が変遷情報未収録となっていることも気になります。
埼京線浮間舟渡駅が設けられている現在では、北区と板橋区に跨る両地域は一体的に理解されているようです。
人口異動289人は前小屋【収録済】の2倍以上の規模。[90145]末尾の【注】に記した「入飛駒」だけでなく、できるだけ変遷情報収録範囲を広げてほしい。ご検討をお願いします。>グリグリさん
[95543] 2018年 3月 15日(木)19:43:25hmt さん
北緯35度
[95542] リトルさん
大津駅の「北緯35度モニュメント」

地理院地図で確認してみたら、現在の北緯35度線は大津駅の南方を通っていました。
言うまでもなく、2002年に世界測地系に移行した結果です。[45617]

北緯35度に位置する最も有名な都市は京都です。
日本測地系時代の地勢図では 中央の北緯35度線が四条通の上に描かれていました。
現在は四条通と五条通=国道1号、9号との中間です。

南房総市が設置した「北緯35度最東端」の 標識 がありました。

北緯35度から少し広げますが、参考までに 経緯度時刻に関する過去記事を拾っておきます。
[95531] 2018年 3月 11日(日)15:48:04【1】hmt さん
「3・11」 と 「3・10」
「3・11」と言えば、2011/3/11に発生した 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震。[77760][77767][77775]など。
12都道県での死者1万5,859人,行方不明者3,021人。出典
大規模な地震と津波という天災だけでなく、それに起因する原子力発電所の事故に伴う人災により、その影響が長期化したことは報道されている通りです。

日付が1日だけ早い「3・10」は 1945/3/10の 東京下町大空襲。
落書き帳には記事を書いていませんでしたが、戦争という人の行為に基づく「人災」です。
参考 2017/8/13放送のドキュメンタリー 左から3人目が、空襲を指揮したカーチス・ルメイ[43161]です。

空襲は戦争中全国の都市に及び、東京だけでも何回も繰り返されました。
しかし、1945/3/10の焼夷弾攻撃による約10万人という死者数は、特筆に値する人数でした。
1945/5/25の 山の手大空襲 も甚大な被害を及ぼしました。宮城【皇居の呼び名です。読みは きゅうじょう】や新聞社が焼け落ち、「共同新聞」が発行されたことが記憶に残っています。しかし、こと死者数に関する限りは、下町大空襲より ずっと少数でした。

都道府県別の空襲被害死者数を見ると、原子爆弾攻撃を受けた広島・長崎と並んで、東京が抜群のトップ3に入っています。これは3月10日【注】の空襲が、「通常兵器」であっても、核兵器に匹敵する大きな力を発揮する場合があった ことを示しています。
【注】偶然にも、1905/3/10に奉天大会戦[59385]が行なわれた陸軍記念日でした。

それはさておき、別の「3・11」に関するお話。
神奈川県津久井郡城山町と藤野町とは、2007/3/11に相模原市に編入されました。変遷情報詳細
これにより津久井郡は自然消滅。

平成合併の時代には郡の自然消滅など珍しくないこと。何を今更?

でも「津久井」は 落書き帳では有名な地名です。[86752]
元禄4年(1991)には 津久井領から 「津久井県」という名になりました[41805]
これは近世唯一の「県」として明治3年まで存続[1196]太政官布告M3-131

hmtは、出身地だった津久井郡の命日?を偲ぶために、マガジン津久井マガジン相模川とを新設しました。
その他、マガジン海と島の記事も追加。

結局のところ、書きたかったのはマガジンの「お知らせ」だったのでした。
[95530] 2018年 3月 11日(日)12:23:10hmt さん
海と島(30)石狩湾挽歌
[95528] 白桃 さん 後志挽歌
この曲は「後志挽歌」とすべきではないか・・・
小樽の前にある海は石狩湾なので、それでいいじゃないの、幸せならば…。

ニシン漁で賑わった海…と言っても、作詞者・なかにし礼 の少年時代、小樽に住んだ頃よりも前の時代の海。
それを偲ぶ歌なのでしょう。

海がテーマなのだから、地理的な立場からすれば 「石狩湾挽歌」 が適切でしょう。

「石狩」という地名から連想するのは平野の中を蛇行する大河です。
松浦武四郎の命名した「後志」に至っては後方羊蹄山に由来する「陸の地名」です。

それはさておき、Webを探っていたら、歌詞にある「沖を通るは 笠戸丸」に着目した ページ がありました。

移民船や豪華客船としての笠戸丸の存在は、私も辛うじて知っていた程度。
偶々出会った今回のページで、帝政ロシア時代の病院船>旅順港で接収され呉軍港所属になる。
船名の由来は山口県の笠戸島。移民船・豪華客船・台湾航路などの時代を経て、昭和になってからは北方漁場に出漁。
第二次大戦末期にソ連軍に接収され爆沈。…数奇な一生の船でした。

なかにし礼が満州から小樽に引き揚げてきたのは8歳の時で、笠戸丸は既に存在せず。
それでも、成人していた兄が一攫千金を狙ったニシン漁が存在した時代でした。
大きな賭けが成功かと思われたが、輸送中に船が沈没。一家離散という結末でした。

歌のことなど知らないのですが、笠戸を含めて、地名にまつわる雑多なことを書き連ねてしまいました。
[95525] 2018年 3月 8日(木)21:05:01【1】hmt さん
組合村のデータ
【冒頭ですが 追記】
この記事を投稿した後で[95514]ekinenpyouさんの記事をを読み返し、自治年鑑1948に関する次の注意書きの存在に気づきました。
組合町村名が少々わかりづらい箇所があり(福島県など)補完としてこちらなども参照のこと

参照用にリンクされていたのは 1949年発行の「全国市町村便覧」であり、表記は異なるが 神奈川県足柄下郡蘆湯(アシノユ)村 の部分に
箱根町、元箱根村と組合村役場位置箱根町
であることが明記されていました。

注意書きに気づかず、自治年鑑の記載不備を中心に長々と記す結果になってしまいました。
hmtの記事内容は、直接に訂正を必要とするわけではないと考え、そのまま残しておきます。
しかし、投稿時に考えていたほどの価値がある指摘ではなかったようです。
ekinenpyouさん、むっくんさん、読者の皆さんにお詫びします。【追記終】

【以下本文】
町村事務組合。市町村が広域した現在では、消防や廃棄物処理など限られた分野で使われるのが常識になっています。
しかし、1889(M22)年の町村制施行当時は、弱小の村が多く、事情が異なりました。

埼玉県の例を拾うと、現在白岡市の一部になっている地域に南埼玉郡日勝村という村がありました。1895(M28)に前身9ヶ村【1889年発足】の 合併によって成立した村です。

余談ですが、合併日は 日清戦争 講和条約【注】会議の直前であり、村名には「日本の勝利」が高らかに付けられています。
【注】 現在では「下関条約」が普通ですが、当時の地名は「赤間関市」でした。地名の通称により「馬関条約」の呼び名もあります。

それはさておき、9ヶ村合併後でも面積 12km2弱、人口約 4000人という農村地域です。
経済データなどなくても、役場・学校その他の地域役務を行う資金が潤沢にあるわけがない。
必然的に近隣の9ヶ村による共同事業ということになった。その結果が「組合村」。

こうして発生した組合村が合併により統合され、更に戦時合併、戦後の教育改革による中学校新設に伴う課題解決、など種々の要請がからみ、昭和大合併に至りました。

昭和大合併による自治体規模拡大によって ほぼ全滅するまで ある程度利用されていた「組合村役場制度」。
市町村の歴史に関心を持つメンバーとして、その実態を知りたい。
かねて抱いていたこの思いですが、落書き帳に取り上げられないまま、現在に至りました。

古くは[39940]ひげねこ さんの記事がありましたが、フォロー記事が続かず。

しかし、最近になって [95463]の末尾の1行を きっかけとして、むっくんさん・ekinenpyouさんによる 解説・調査が行なわれ、知識を深めることができました[95495]

その後、具体的な材料として、自治年鑑(1948年版)の町村長氏名における組合表示の存在が示され[95514]、これに基いて [95517]では戦前・戦後における府県別一覧表を示していただきました。

ここまで具体的なデータを見せていただいた結果、私の目についたのが次の1行です。
神奈川県 足柄下郡 【S21】箱根町, 元箱根村, 芦之湯村 【自治年鑑1948】箱根町のみ記載

「芦之湯村」から hmtが思い出したのが「直接民主制」「町村総会」というキーワードであり、[35747][35748][65174][92819][92835][92877]などの記事でした。

芦之湯村が1950年代まで存在していたことは知っていました。人口が極めて少ないこの村が組合村から外れ、独立していた筈はない。自治年鑑1948の記載に不備な点が存在するようだ。このことに気がつきました。

芦之湯村消滅時期だけならば変遷情報で確認するのが簡単ですが、折角なので YTさんの表[84549]を使って 1950年国勢調査人口を確認したところ 120人。箱根町826人、元箱根村1050人でした。
国勢調査人口表には組合関係が示されていませんが、1954/1/1合併の前まで存在していた元箱根村と芦之湯村(の村長名)を欠く自治年鑑1948の記載は、不備であることが確かです。神奈川県足柄下郡では、真鶴町組合の首長名についても同様です。

同じ手法で、多数の組合村データが記された自治年鑑1948の福島県【59-61コマ】も調べたところ、[95517]で「○○村のみ記載」と指摘された例は、箱根町の場合と類似不備多数(…のおそれ)。
石城郡澤渡三阪村のように、組合でなく連称表示にしている例もある。なお、沢渡村と三阪村は1955年まで存続し永戸村と共に三和村を新設。永戸村と組合だった箕輪村は同時に分村消滅。
石城郡小川村も、国勢調査や変遷情報の上下2村が正しいようです。勝手に作った村?

一々挙げると長くなるのでこのくらいにしますが、自治年鑑1948のデータは有用な情報が含まれている反面、国勢調査や変遷情報と矛盾する点もあるようです。
まるごと信用することはできない。そのように評価しました。
[95508] 2018年 3月 1日(木)18:45:44【1】hmt さん
一音地名コレクションに関する提案
[95502] そらみつ さん
地名コレクションは完成させるためのものではなく、収集して楽しむものだということを忘れていました。
「浜」コレクションと「一音地名」コレクションをお受けしたいです。

早速 就任決定[95506]とのこと。おめでとうございます。

この機会に、久しぶりに 一音地名コレクション を訪問しての感想です。

冒頭の説明文末尾には、一音地名集めの きっかけとなった過去記事 2件が記されています。
このような関連情報も、コレクションを編集し、読者に提供する上で大切なものと思います。

…というわけで、編集の際に、都道府県市区町村サイト内に下記のような関連情報の存在も、リンクにより提示しておくことが好ましいのではないかと思います。
検討をお願いします。

1 市区町村雑学 に収録されている 短い読み・長い読みの市区町村
 この中に「読みが一文字の市町村(五十音順)」があります。
 津市以外は過去帳入りしていますが 市制町村制施行以後だけでも 19件が収録されています。
 コレクション収録済みの一音地名の中には、1889年施行時前の旧村も含まれていると思われます。
 変遷情報検索の対象を履歴情報に拡大することにより、ある程度は旧村由来が解明されるでしょう。
 

2 落書き帳アーカイブズ 漢字・読みともに一文字の地名
 前記2件を含め、31件の記事が収録されています。

【追記】
一音地名ではありませんが、市町村雑学の類似テーマとして、一文字地名あいうえお [94018]がありましたね。
一音地名の一部は、こちらにも収録されていました。
[95490] 2018年 2月 26日(月)18:42:27【2】hmt さん
Re:面積データの更新
[95488] グリグリ さん
2016年10月1日面積から増減があった市区町村は以下の通りです。都道府県の増減はこちらをごらんください。

1km2以上の増減は東京都と長崎県のみ。長崎県の -1.32km2は、大部分が対馬市でしたが、詳細は不明。

2.96km2増加した東京都は、落書き帳の過去記事にも関係ありそうなアイテムなので、少し補足してみました。

1 特別区部 +0.78km2
落書き帳過去記事の話題対象としては、江東区と大田区との間で争われている「中央防波堤埋立地帰属問題」がありますが、[93551][94347]で紹介されているように未決着であり、今回の面積調とは無関係です。面積も、5.09km2よりもずっと小さい値です。面積調によると、新たに生じた土地。H28/10/7 東京都告示1695号。

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面積調から離れますが、この機会に、中央防波堤埋立地帰属問題のその後の情報です。

東京都臨海部の人工島「中央防波堤埋立地」の帰属問題で、大田区は【2017年10月】30日、同様に全島帰属を主張していた江東区を相手取り、境界画定を求めて東京地裁に提訴した(毎日日経)。

財政については調整制度があり、埋立地の所属が何れの区でも、固定資産税は東京都の財源とされるようです。
しかし、東京オリンピック2020の会場にもなる埋立地の帰属は、区のブランドイメージを世界に対して高めます。

それだけでなく、中央防波堤埋立地ので引かれる線引きは、その南側に造成している 新海面処分場 の帰属にも影響すると考えられています。参考


現在 唯一の公共交通機関は、りんかい線の東京テレポート駅前(江東区)発着の都営バスです。
大田区側から通じる道は海底トンネルだけです。その道は 2012年に 東京ゲートブリッジの開通により 江東区若洲とも結ばれています[80265]
都心側をがっしりと抑えた江東区に対し、西側の大田区は明らかに劣勢です。
何とかして、勢を回復したいという大田区の思いが、調停案を蹴り、裁判に迄持ち込ませた動機なのでしょう。
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2 市部 -0.25km2
これは相模原市との境界をなす境川に関係した境界変更・境界修正です。
関連過去記事は [81933][90145]に至るまで、多数あると思います。

3 小笠原の西之島 +2.43km2 断然トップの面積増加 0.29km2(H28)→2.72km2(H29)
山野さんの記事が [86381]から[92808]までの間に多数あります。
[95484] 2018年 2月 25日(日)15:15:05hmt さん
Re:町村組合の歴史
[95477] むっくん さん
この機会に町村組合の歴史を簡単にですが、振り返ってみます。

市町村が、その事務の一部を組合に委託する形で共同処理していることは、消防や廃棄物処理の分野で広く行なわれており、現在でも生活に密着した自治組織として承知しています。
一方、明治以来の市町村の名称を調べていると、昔は「神奈川県津久井郡青山村外1ヶ村組合」という類の組合名を、頻繁に目にします。

市町村事務の共同処理という共通項で括られる この2つの制度。
殆ど意識していなかったこの事実を認識させてくれたのが、組合村の首長職肩書に関する疑問[95463]と、その回答[95469]でした。
これまで、全部事務組合、役場事務組合という名も知らずにいましたが、一部事務組合()を含めて、それぞれの首長が存在することを再認識しました。

そして、今回更に町村組合の歴史[95477]についての説明を補足していただきました。

ありがとうございます。最後に1959年まで残った役場事務組合の名は不明ということですか。

愛知県では、村の分立がされた後に当該2村による全部事務組合を結成したところがあります。

愛知県告示M24-122により碧海郡境村から「分立」した東境村がその例ですが、告示M24-173により碧海郡重原村の「分割」により生まれた半高村と重原村も、組合になったという点では同類ですね。
なお 明治24年愛知県令達類聚目録記載の告示第182号「碧海郡半田村外一ヶ村組合の件」は「…半高村…」の誤記です。

「○○村」という村名は、分立や分割という手段を使ってでも確保したい。
しかし、事務処理の統合・合理化はそれとは別問題ということでしょうか。
名称を確保したいという村人の望み。それを考えさせられる事例と思います。
[95470] 2018年 2月 21日(水)19:40:34hmt さん
組合村消滅は昭和大合併の結果?
[95469] むっくん さん
全部事務組合と役場事務組合は1959(S34).10.1から存在しなくなりました。

hmt出身地の近くにある宮ヶ瀬ダム[43001]は、2000年竣工の巨大な多目的ダムですが、その名は 1956/9/30【昭和大合併[93622]の末日】に消滅した 神奈川県愛甲郡宮ヶ瀬村に由来します。

煤ヶ谷村との合併で生まれた清川村[83701]は、1958年から現在に至るまでの約60年も「神奈川県唯一の村」として続いていますが[83698]清川村の沿革に記されているように、1889年の町村制からの 67年半は「煤ヶ谷村外一ヶ村組合」という全部事務組合でした。

このような知識に基づき、私は 全国に残っていた組合村は 昭和大合併で消滅したのだろうと漠然と考えていました。
今回紹介された総務省のページには、昭和大合併末日の3年半後以降は、組合村が存在しないとの記載がありました。
この3年半の期間には組合村が残っていたのか否か? 少し気になりました。

…と言っても、自分で手間をかけて調べるつもりもありません。
安直にWikipediaを見ると、存続期間の末年が 1956年となっている町村組合の実施例が 6件ありました。
それ以後に存続した例が示されていないので、?付きタイトルの記事にしておきます。

この6件につき変遷情報を調べたところ、 煤ヶ谷/宮ケ瀬組合と同様に 67年半存続した組合村が、昭和合併によって統合された。そのような例が大部分でした。

しかし、静岡県駿東郡高根村→御殿場市と須走村→小山町が関係する組合だけは、日付・編入先が異なることが判明。

相方の高根村に去られた後の須走村にとっては、最後の9ヶ月の後始末が大変だったことと思われます。

組合解消の結果、村長・村議会・村役場など組織一式が新たに必要。
単独事務のための須走村役場も9ヶ月のために新設? 簡素なもので対応するにしても、大変ですね。

その他の該当5組合に関係する昭和合併記録(4件)も列挙しておきます。
神奈川県愛甲郡清川村(煤ヶ谷/宮ヶ瀬組合)
三重県安芸郡芸濃町(雲林院/河内組合+3村)
和歌山県東牟婁郡熊野川町(九重/玉置口組合+2村+)
熊本県飽託郡天明村(銭塘/内田組合+奥古閑/海路口組合+2村)
[95468] 2018年 2月 20日(火)17:11:41hmt さん
バルカン半島の内陸国・コソボが独立してから10年
バルカン半島の内陸国・コソボが独立してから10年
平昌オリンピック参加 91ヶ国のリスト[95441]に付随した雑談です。
馴染みのない小国も多い中で、新聞の【スポーツ面でなく】国際ニュース面に「久しぶり」に登場したコソボを取り上げてみます。

国名としてのコソボ。私としては、これまで殆ど認識していない「国」でした。
記憶に残るのは 1998~1999年のコソボ紛争です。
当初はユーゴスラビア国内にありながら民族や宗教を異にする一地域の民族紛争でした。

しかし、国際世論の動向は NATOによる空爆>セルビア軍の撤退>国連の暫定統治を経て 2008/2/17のコソボ独立宣言という結果をもたらしました。

米英仏は早速コソボを承認。影響力のあるドイツも続きましたが、EU内部にも慎重な姿勢を示す国があり、セルビアと ロシアは勿論大反対です。
日本を含めて国連加盟国の半数以上がコソボを承認しましたが、中国は不承認。
拒否権のある2国の反対で、国連加盟は実現していません。

最近の新聞の国際面にコソボが登場したのは、独立10年という節目だからです。
2/19読売の見出しは「独立10年 晴れぬコソボ 貧困、失業…漂う失望」でした。
他紙も ほぼ同様に 政情不安・経済低迷など多くの課題が残されている現状を伝えています。

以上は 現在のコソボ共和国 ですが、Webを調べると 世界飛び地領土研究会>消滅した国々 に、同名の コソボ共和国を紹介するページがあります。
こちらは 1991~1999年に自らの存在を主張した国でしたが、承認してくれたのは アルバニアだけでした。

落書き帳の読者として注目してほしいのは、リンクした上記のページに描かれている国旗です。双頭の黒鷲「スカンデルベクの鷲」の図柄は アルバニアの国旗[86819]と同じであり、
※コソボ共和国の国旗も、国連暫定統治前【の20世紀末に】はアルバニアと同じ旗が使われていたが、【2008年の独立以後は】国内6民族(アルバニア人、セルビア人、トルコ人、ゴロニ人、ロマ人(ジプシー)、ボスニアク人(ボ スニアのムスリム人)を象徴する6つの星を描いた旗を改めて制定した。
という説明が付けられていました。
[95441] 2018年 2月 15日(木)19:21:59hmt さん
平昌オリンピック開会式の入場順
2018/2/9の開会式からだいぶ遅れてしまいましたが、過去のオリンピックでは、開会式の入場行進順番に関する記事を書いたことがあります。
たぶん最初は、2004年のアテネ大会です。

2008年に北京で開催されれた「第二十九屆夏季奥林匹克運動会」の時は、「国名に使われた漢字の画数と筆順」というユニークな着目点に驚きました。
これが漢和辞典にも掲載されている正統的な方法であることを知ったのは、Issieさんのご教示の後でした。関係記事

1988年のソウルオリンピックは、落書き帳発足前でもあり、「カナダラ順」という言葉は その後の記事[31908]により伝えられるだけです。
ハングル文字は落書き帳では書き難いし、何よりも関連する知識を持ち合わせていません。

そこで、開会式入場行進の順番表だけですが、とりあえず紹介することにしました。出典
日本の五十音順に相当するものでしょうが、だいぶ違うようです。

先頭のギリシャは別として、2番がガーナ、3番がナイジェリアと続き、ナ行の後は ダ行、ラ行と続くあたりに「カナダラ順」が見えているように感じられます。
このような「行の順番」が、日本の五十音との最大の違いでしょうか?

アルファベット順でも近い「IとJ」。今回もイタリア・インド・ジャマイカなど御馴染みの国々が近くに居ました。
しかし、この仲間が揃って後半の 60番付近以降に下がっています。
これが 普段のABC順と違うな と感じるところです。

雪国だけでなく、熱帯の国からの参加もあるが、気候とは別に内戦などの問題で参加できない国もあるようです。

発音の似ているオーストラリアとオーストリア。平昌リストでは並んでおり、これは常識的な結果。
しかし、ソウル1888の順番では、大きく離れています。ソウルでは「濠洲」の音を使った?
[95432] 2018年 2月 13日(火)17:58:49hmt さん
祖父江
[95429] シノレパシクソ さん
現・愛知県稲沢市の木曽川沿いに祖父江町というところがあったのですが、岐阜県瑞穂市の南東部、墨俣一夜城のすぐそばにも「祖父江」という住所がありました。

高分子化学の 祖父江寛教授(愛知県出身)を思い出し、「祖父江」の由来を調べてみました。

変遷情報検索で祖父江を調べると、紹介された愛知県と岐阜県の系統が出てきました。
愛知県中島郡【(旧)下祖父江村>】祖父江村>祖父江町>稲沢市
愛知県中島郡上祖父江村>朝日村>一宮市
岐阜県本巣郡祖父江村>牛牧村>穂積町>瑞穂市

「そぶ」と祖父江さんによると、田圃の水中に浮いている赤錆(酸化鉄)を「そぶ」と呼び、木曽川から取水した赤茶色の農業用水「そぶ水」に含まれている。
稲沢市祖父江町の地名は、「そぶ」が多い入江ということから名付けられた。

祖父江という苗字・地名は東海地方に多く「ソブエ」と濁音で読む。
同系統である「シブ」つまり金錆(金糞)のあるところ」を意味する地名は、祖父谷、渋谷、曾布川、蘇武(そぶ)、小千谷(おじや)など。

愛知県木曽川沿いの他に、岐阜県の穂積や、養老町にもある「祖父江」地名。
これらは、分割等に由来する「自治体越え」ではなく、自然条件の類似から「赤錆」が目立ったことに由来した自然条件型地名として、同一の名になったものと推察します。
[95415] 2018年 2月 9日(金)11:50:36hmt さん
赤いシリウス
2018/1/31の皆既月食の際に、地球の「かげ」に回り込んだ光に照らされて赤く見える「ブラッドムーン」[95358]が話題になりました。

[95368]で引用した過去記事の中には、「赤い星」の代表としてオリオン座のベテルギウス【赤色巨星】を挙げていますが、他にも「赤い星」として有名な存在としては、惑星の火星や 赤色巨星のアンタレスがあります。
夏の夜空を彩る Antares は、その名からして Ares【火星】由来であり、和名は赤星です。

ところが、昨夜の NHKテレビ・コズミックフロントNEXT で、約2000年前に「赤いシリウス」が観測されていたことを知り、驚きました。

シリウスと言えば、冬の夜空に君臨する 明るい白い星です。
古代エジプトでは、夏至の頃、夜明け前の太陽と共に地平線下から上昇してくるシリウスを、ナイル川の水量増加を予知させる「ナイルの星」として崇めました。
農業生産にとり重要なこの現象は、世界初の太陽暦の発明と採用、その年初決定に使われました。
古代文明発祥に深く関わっていたシリウス。
その星が「赤い時があった」とは驚きです。

もちろん、現在はシリウスBとして知られる伴星の白色矮星は、赤色巨星だった時代があるのでしょう。
でも、それは人類の歴史とは比較にならない大昔のことです。

下記の参考ページではその理由が不明なものの、恒星の進化からすれば「ごく最近」の二千年前に観測された赤いシリウスについては、過去にも 多くの謎解きが試みられたようです。

最新の説らしいのが、「ヘリウムフラッシュ」の可能性です。
日本のアマチュア天文家が 1996年に発見した桜井天体が、この新説のきっかけとか。

来週水曜日の深夜に再放送されるようです。
関心のある方はどうぞ。
[95403] 2018年 2月 7日(水)18:54:04hmt さん
まだ備前市福浦
落書き帳には、2003年の2県にまたがる島で登場した取揚島。
小さな無人島ですが、その南西部が岡山県の飛地とも思われるために[41400]などで話題になりました。

戦後の1955/3/1、国鉄山陽本線のバイパス・赤穂線が播州赤穂から日生(ひなせ)まで延長開業し、「備前福河」駅が開業しました。当時の所在地・岡山県和気郡福河村大字福浦の中で「村名」に由来する駅名ですが、「福河」とは明治合併における「福浦村と寒河(そうご)村」とを組合せた合成地名でした。

実はこの福河という村名、駅が開業した月の末日(1955/3/31)には日生町との昭和合併で消滅します。
行政関係者としては明治以来の村名を駅名に残したかったのかもしれません。しかし、江戸時代の旧村名、そして明治合併以来の大字名として住民が使ってきた「福浦」を駅名にした方がよかったかも?

そんなことを考えたのは、1963/9/1に、本土部分の福浦集落(明治合併前の旧・岡山県和気郡福浦村)ぐるみで、岡山県和気郡日生町から兵庫県赤穂市への境界変更が行なわれたからです。この境界変更の結果、
「備前」なのに兵庫県
という違和感のある状態になりました[46914]
…でも、違和感の由来は「福河駅」ではなくて「備前」を冠したことでした。備前を冠した理由は謎。

それはさておき、変遷情報岡山県では見ることができませんが、変遷情報兵庫県の詳細を見ると、境界変更対象地域は「日生町大字福浦の区域(【中略】を除く。及び福浦地先海面のうち【後略】)」と記されており、昭和38年自治省告示第106号により確認することができます。

実は、私としては【中略】の部分に記された多数の地名に注意を払っておらず、[95311]以降の福浦スレッドから脱落しています。
その後、Nさん、YTさん、ekinenpyouさんからの情報もありました。皆さんの記事により、鹿久居島の一部が福浦に含まれていたことを含め、「備前福浦」の範囲は、私が最初に考えていたような単純なものでないことを認識しました。

そして、最新の記事[95394]に記されていた 下記2件の資料を拝見して、ふと気がついたのは、A「土地に係る字の区域・名称」とB「住所表示」との違いです。
A 岡山県告示H17-214 2コマ【備前市成立時(2005/3/22)】
B 新市の住居表示

前者Aは土地に係るものであり、居住者の有無に関係なく、すべての土地に適用される。
 合併前の字:和気郡吉永町吉永中→【合併日の字】上欄:備前市吉永中→下欄:備前市吉永町吉永中
後者Bは人に係るものであり、居住者の居る土地に限定して適用される。
 合併前の住所表示:和気郡吉永町吉永中→新住所表示:備前市吉永町吉永中

この例示に従って考えると:
無人の取揚島については、A「土地に係る字の区域・名称」のみ存在し、岡山県告示H17-214により「大字」という言葉を使わなくなった 備前市日生町福浦に属する。【住居表示は当然ながら存在せず。】
合併前の字:和気郡日生町大字福浦→【合併日】上欄:備前市大字福浦→備前市日生町福浦

[95394]で存在が確認されたA「字の区域・名称」の第6欄:備前市大字福浦→備前市日生町福浦は、「大字」という言葉を使用しなくなったことの他に、遠く東に離れた取揚島まで含めた旧日生町域全部の土地の字名として「日生町」という言葉を冠するようにしたことを示しているようです。
「備前市日生町福浦」という字に取揚島以外の土地があるか否かは不明です。
しかし、旧日生町の4字名と違ってB住所表記には日生町福浦がありません。
このことは、たとえ取揚島以外にこの字名の土地があっても、居住地ではないことを示しています。
[95385] 2018年 2月 4日(日)14:21:44hmt さん
皆既月食の計算根拠
[95370] シノレパシクソさん
疑問に答えていただき、ありがとうございます。

引用記事により、下記の根拠を確認。
スーパームーンは年に4~6回【確率約0.33から0.5になりそうだが、0.25で計算】
ブルームーンは2年8ヶ月に1回【32分の1とすると確率0.03125だが、0.03で計算】
皆既月食は5.6%【確率0.056で計算】
対象は全地球、つまり「観測地域の限定なし」であると理解しました。

3条件は独立事象であると考え、0.25*0.03*0.056=0.00042 つまり0.042%=約2380分の1を算出。
定義が明確にされていないスーパームーンは、確率0.25でもよいことにしておきましょう。

問題なのはその先、
満月2380回に1度起こることになり、計算上、平均して256年に1度の出来事らしい。

約2400回の満月が起こるのに要する時間が 200年未満であることは、直感でも解ります。
[95368]の末尾は、観測値より大幅に大きかった計算値を眺め、計算根拠を疑ってのレスでした。
しかし、計算根拠の妥当性以前の問題として、この計算は間違っていませんか?

こんなこともあるので、落書き帳の書き込みについても、出典や内容のチェックに配慮する習慣をつけておいてほしいのです。
学校に出すレポートやテストの答案で失敗しない訓練としても役立ちますよ。
…と、余計な説教を付け加えたがるのは、失敗の経験を積んできた御隠居の悪癖です。ごめんなさい。
[95368] 2018年 2月 2日(金)19:22:44hmt さん
青くないのに ブルームーンとは
朔望月の平均周期29.53日(現実には少し幅がある)に対して、2月以外の暦月は30日以上であり、31日の「大の月」は 年に7回もあります。
だから、同一暦月中に2回の満月(望)が来るのは、そんなに珍しいことではない。
私はそのように考えていました。
しかし、英語では、珍しいことの譬えとして「ブルームーン」という言葉があるくらいで、珍重?されている。
…このことは知りませんでした。

天動説の表現を使えば、太陽は西から東へと1年かけて一周します。太陽の天球上の通り道が黄道です。
月は約1ヶ月で一周します。月の通り道(白道)は黄道の近くですが、完全に一致はしていません。
太陽が、前を通り過ぎる新月によって隠されるのが日食。
太陽から見ると地球の背後にできる影。満月が その中を通過する際に 暗く見えるのが月食です。
軌道面が一致していれば定期的に「食」が発生するが、実際はそうはなっておらず、人々に神秘性を感じさせました。

太陽の直径は月の約400倍ですが、約400倍遠くにあり、地球上からの「見た目」は、ほぼ同じです。
でも 地球も 月も 円軌道でなく 楕円軌道ですから 見た目が変り、時には「スーパームーン」が話題になります。
見た目よりも入射角の影響が大きい太陽。北半球の冬に スーパーサンは似つかわしくなく、使われません。

日食・月食が話題になるのは、不定期的な現象だからでしょう。特に皆既日食は珍しい現象です。
日食時 地球上に届くのは、月の本影の先端ギリギリ。観測できるのは地球上のごく限られた場所です。
その上 地球との距離の関係によっては、完全な「黒い太陽」が実現せず、金環食になることもしばしば。

これに比べて、月食の時に 地球が作る本影は 満月に比べてずっと大きく、皆既月食は はるかに起りやすい現象です。
そして、観測のチャンスとして断然有利なのは、地球の夜側で雲がなければ、どこからでもOKなこと。

…ということで、ブルームーンではないが 6年余前にも、観測条件に恵まれた皆既月食の記事がありました。

地球からこの3つが重なるのを観測できるのは35年ぶり。南北アメリカ大陸では実に150年ぶりのことだという。
出典National Geographic

[95358] シノレパシクソさん
(3つの)条件の揃った月は265年に一度(の確率)とのことで、一生に一度見られれば幸運
(中略)日本では36年ぶりです。

前記出典記載の実績とだいぶ違う年数です。
観測可能な地域など、計算条件の記載が不足しているからでしょうか?
[95339] 2018年 1月 26日(金)18:31:31hmt さん
Re:福浦
[95327] そらみつさん
岡山・兵庫県境で 1963年に行なわれた境界変更[46914]の対象である「福浦」につき再論。

[46914]の半年前の[41633]で 次のように説明しています。
明治の町村制施行時に寒河(そうご)村と合併して福河村(合成村名)になった岡山県福浦村。
地図で今昔 にも、“兵庫県内に備前福河を名乗る駅があるとは”という記事があり、福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)が、昭和合併の機運に乗じて、兵庫県赤穂市に「越県合併」したことが紹介されています。
今尾恵介さんの著書のリンク先を変更してあります。

変遷情報には、境界変更区域を示す根拠資料が「自治省告示S38-106」であることが示されていませんが、[95311]でリンクされた Wikisourceによって、両者の示す区域の同一性を確認することができます。

これによると、岡山県和気郡日生町大字福浦には「赤穂市への境界変更から除外された区域」として、取揚島以外にも東山𡽶など9字(あざ)と鹿久居島とがありました。
明治合併に際し、内務大臣訓令で旧町村の名を大字として残すことが認められました。[37482][48552][66729]
「福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)」と[41633]で書いたのは、これが頭にあったからです。
しかし 告示文を改めて見ると、境界変更対象から除外された9字2島を無視した大胆すぎる言い方であったようです。

実のところ、hmtもTakashiさんと同様に字(あざ)に関する記録調査や、東山𡽶など境界変更対象区域から除外された字の位置特定ができておらず、「これで間違いない」と胸を張ることなどできません。

自治省告示を根拠に注目したいのは、西方の鹿久居島が(その全部か一部かは不明ながら)大字福浦に含まれていたことぐらいでしょう。現在でも鹿久居島に福浦が残っていると説く人があり、字レベルの真相は不明です。 Bakusai2017/4/8
厳密には岡山県に福浦は無人だが存在する。それは取揚島と鹿久居島の東部だ。

こちらの頁も、鹿久居島と福浦との関係を伝えているようです。

hmtの記事を含めて、他人の説には疑うべき余地があります。本当に確認したいならば、自力でどうぞ。
[95324] 2018年 1月 23日(火)14:33:21hmt さん
備前市福浦の取揚島
[95315] そらみつ さん
疑問に思った点はそこではありませんでした。(中略)
なのに何故、取揚島は鹿久居島と一緒に日生に入らなかったのか、ちょっと気になったということでした。

私も[95311]記載の疑問点を誤解していました。岡山県に福浦の名が残ったわけを改めて記しておきます。

岡山県の中で取揚島だけに残る「福浦」という大字名。
寒河村との明治合併で成立した福河村の大字になり、昭和合併で日生町になるまでの66年間はそのまま。
1963年の境界変更で、福浦峠東側の旧・福浦村が兵庫県赤穂市になり、岡山県日生町に残ったのは、旧・寒河村の区域と、ずっと東の無人島・取揚島だけになりました。

2005年の平成合併で日生町は備前市と合併。
取揚島と同様に【1963年の境界変更では】日生町側に残された東山𡽶は その後【備前市】日生町寒河の字となっています。

日生町時代の大字福浦字東山𡽶は、元々が旧・寒河村でしたから、合併後の備前市の大字が「日生町寒河」に変更されるのは、不自然なことではありません。

現状を見ると、平成合併による日生地区・吉永地区の大字名には旧町名を冠するように変更されています。
しかし、これは住民のいる地域の利便のため、居住集落を対象としたルールでしょう。

取揚島はずっと東の海上にあり、旧・福浦村から見ても「東方にある無人の飛地」です。
大字福浦が取揚島(の一部)という狭い区域だけになったのも 1963年の境界変更以来のことであり、50年以上も大字福浦のままで 不都合はなかったものと思われます。
この無人島を、遥か西の地名である「日生」を冠した大字名に変更すべき理由はないでしょう。

鹿久居島は現在日生町日生鹿久居島となっています。

本題から外れますが、日生諸島の中で約10km2と最大の面積をもつ鹿久居島。
2015年に備前日生大橋で本土結ばれています。この橋は、主として頭島へのルートとして使われているのでしょうか?
それはさておき、鹿久居島が単独では大字ではなく、「備前市日生町日生」の一部であるらしいのは、大字クラスの集落がないため?
無人ながらも大字「福浦」の名を残している取揚島が、特別な存在に思われてきました。
[95314] 2018年 1月 22日(月)19:02:52【1】hmt さん
取揚島の謎
[95311] そらみつ さん
福浦……赤穂市福浦/備前市福浦
こちらを見ると、当時福浦であったことは間違いありませんが、その後なぜほかの地区と同様に寒河や日生に編入されなかったのか(それとも実はされているのか)、ちょっと不思議です。

問題になった岡山県の飛び地は、拡大した地図が示すように、「2県にまたがる島」である取揚島です。

当然、昔の記事を集めた落書き帳アーカイブズに収録されていると思い、開いて見ました。
取揚島の関係記事は、15406. 15470, 41610, 41633, 41649が収録されていました。
編集ミスと思われますが、ニジェさんの[41400] 取揚島の謎 が落ちていました。

これらの過去記事により、今回の疑問は解決すると思います。
参考までに 要点をまとめて記しておきます。

1 取揚島は兵庫県赤穂沖の播磨灘にある無人島であるが、本土の境界は別として、藩政時代から播磨だけでなく備前の住民の漁業権も存在した。廃藩置県で播磨は兵庫県、備前は岡山県の所属となったが、取揚島は2県にまたがる島になった。

2 「福浦」という地名はもともと備前国和気郡の旧村名であり、明治4年岡山県所属、明治22年の町村制では、福浦峠の西側に隣接する寒河(そうご)村との合併により福河村になった。
更に昭和合併で福河村は日生(ひなせ)町の一部となる。

3 昭和38年(1963/9/1)、岡山県日生町のうち、福浦峠の東側を兵庫県赤穂市に境界変更[46914]
この時の境界変更区域を正確に記述した告示文が [95311]で引用されたWikisourceに記されており、変遷情報もこれと同じ。

正確な詳細表記よりも、わかりやすい表記を重視して記せば、[46914]のように「福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)という記載になるのです。

詳しい境界変更区域を見れば、確かに「取揚島の区域を除く」と記されており、
岡山県が”漁業権に絡む”領海を守り抜き、赤穂市への編入から除外させた
ことを裏付けている。

まとめ:赤穂市の変遷

[95312] Takashi さんから、既に[41400]の紹介がありました。
この記事も同じ大筋ですが、やや詳しく記してあるので、併せてお読みください。
[94784] 2017年 12月 27日(水)14:54:04hmt さん
陸地測量部から地理調査所へ

[94765] ekinenpyouさん
昭和6年9月現在 陸地測量部発行地図目録

戦前における全国地形図発行状況の全容を示していただきました。
時代としては東京市15区が隣接5郡を編入して35区へと大拡張される1年前の状況ですが、[94724]で教えていただいた「旧1万分の1図」について言えば、既に大正末期から東京・大阪・神戸の近傍で発行開始されていたことも知りました。世田谷など一部については、大正末期には5色刷の豪華な地形図も現れていたことなどに驚きました。


巻末の奥付に記されている、著作権所有兼発行者である陸地測量部の住所:東京市麹町区永田町一丁目一番地。
現在は東京都千代田区に変わっていますが、同じ町名番地を受け継いだ土地が、国会前庭北地区内(憲政記念館付近)にあり、そこに設置されている日本水準原点[57343][80226]が 陸軍参謀本部陸地測量部がこの地に存在した歴史を伝えています。

そんなことを考えながら見ていたら、陸地測量部から地理調査所へという資料を見つけました。地図 52巻1号p.13(2014)

要点を一部紹介。「三宅坂」と通称された陸軍参謀本部の中枢が北側の新庁舎を新築して移転した後、陸地測量部は旧庁舎を全部使っていました。
第二次大戦の形勢が悪くなった 1944年(昭和19年)からの第一次疎開で、明治大学予科校舎(杉並区)に移転。

そして、翌1945年3月10日の東京下町大空襲の後、長野県松本盆地への再疎開を本格化しました。
しかし、残念ながら松本への再疎開は 1945/5/25の東京山の手大空襲に間に合いませんでした。
三宅坂庁舎だけでなく、新宿駅にあった疎開荷物も貨車ごと炎上し、多くの貴重な資料が焼失。

そして1945/8/15……国民に対する終戦の告知(玉音放送)。
敗戦の後、国土を復興するためには、測量関係の技術力を保持することが不可欠。
しかし、陸軍の組織として 陸地測量部が存続することは もはや不可能。
大本営で陸地測量部を管轄担当していた渡邊参謀が具申した意見が通り、平時編成の官庁に移管し、米軍進駐以前に既にその機関があることを認識させることになりました。
陸軍大臣不在の中、内務省との移管折衝は順調に成功し、1945/8/31付で陸地測量部は消滅し、内務省地理調査所の設置が決定。職員全員が一応退官した上で再雇用されました。

降伏文書調印による正式の戦争終結は 1945/9/2ですから、その前に陸軍の手を離れるという渡邊プランは辛うじて成功したわけです。

地理学関係の大学や研究所に対して、外邦図[94724]を含む大量の地図が参謀本部から放出されたのも、渡邊参謀の発案により終戦前から動いていた研究会が影響しているようです。(6コマ)

三宅坂庁舎は戦災で失われていたため、戦後に帰京した地理調査所の所在地は千葉市黒砂町の旧陸軍戦車学校跡地(稲毛庁舎)になりました。
1958年7月には目黒区の駒沢練兵場跡地[94730]に東山庁舎を新築移転。
1960年7月 建設省国土地理院と改称、1979年3月筑波庁舎に再移転しています。[94129]特急とりあたまさんの記事に登場する博物館は、その附属機関です。

三宅坂から始めた「地図の元締め」の歴史的変遷の話は、これで終ります。


[94708] Takashiさん
この地図が発行されている頃には当然この地域は東京市の一部になっているわけですから実態を反映していないことになるですけど、当時の地形図というか測量を実施した帝国陸軍としてはそのあたりが実態を反映していなくても問題なかったものなのでしょうか?

1932年の東京市35区に対する陸地測量部の対応問題。
これについては、既に[94736]の末尾に hmtの推察を書いておきました。
要するに、当時から既に5万図は時代遅れの存在になりつつあり、2.5万図の加刷や1万図の新発行を考慮して、未修正のまま発行したのだろうということです。
[94766]で ekinenpyouさん からも同意していただいたものと思っています。


[94766] ekinenpyouさん 代田連絡線

地形図の話題からは外れますが、[41513]の末尾で少し言及したことがあります。
[94763] 2017年 12月 25日(月)16:10:50hmt さん
固有名詞の表記(2)文字コード国際規格書の最新版発行
[94762] Takashiさん
日本語で使用されている全漢字約6万字コード化

情報源として NHK NEWS WEB がリンクされていましたが、独立行政法人 情報処理推進機構からのプレス発表があったことを、とりあえず補足します。

「文字情報基盤整備事業」で推進していた漢字6万文字の国際規格化が完了

「行政機関では 今後、コンピュータで人名等の正確な表記を行う際にも外字登録が不要に」と記されています。

いずれは ISO改正の恩恵が国民すべてに及ぶのでしょうが、何時頃になるのでしょうね。

別件
固有名詞の表記に関し、昨年書いた過去記事に誤記があったので、これを機会に訂正します。

[91310] hmt です。長文ですが、末尾に近いあたり。蓮田市の改称に言及した部分です。

「こだわり」の類例としては、わざわざ 2点しんにゅうの「蓮」に改称した蓮田市の例[77399][77400]も出ましたが、これはちょっと「やりすぎ」。

助詞「を」を使うべき重要な箇所が助詞「に」と記されていました。

修正文:
「こだわり」の類例としては、わざわざ 2点しんにゅうの「蓮」(旧JIS書体)を1点しんにゅうの「蓮」(83JIS書体)に改称した蓮田市の例[77399][77400]も出ましたが、これはちょっと「やりすぎ」。
[94759] 2017年 12月 24日(日)17:06:41hmt さん
吉祥寺 ブラタモリ
2017/12/23放送の 吉祥寺 ブラタモリ。
ご覧になった方も 多いことと思いますが、私なりに 少々落書きを しておきます。

国分寺、高円寺、豪徳寺、祐天寺、八王子(これは違った。)
東京には○○寺という地名・駅名が多数あり、その由来となったお寺もあります。
しかし、武蔵野市の吉祥寺には 「吉祥寺」というお寺がありません。
これについては [90037]伊豆之国さんへのレスとして[90043]を書いています。

本郷元町にあった諏訪山吉祥寺の門前町は 明暦3年(1657)の大火により焼失しました。
焼け出された被災者の救済事業として、江戸から五里離れた武蔵野への入植開拓が実施されました。
玉川上水完成後間もない時で、水利が悪くて未開拓だった台地上への分水にも恵まれました。

吉祥寺自体は焼け残ったらしく 江戸に残留。その後の火災で 現在地・駒込に移転したようです。
門前にあった4寺院も罹災して武蔵野に移り、今回のブラタモリに登場しました。、

フランス式迅速測図に基づく 歴史的農業環境閲覧システム[65097]を使い、明治13年頃の 神奈川県北多摩郡吉祥寺村付近の姿を ご覧に入れます。

地図の中央部を斜めに走る五日市街道に沿って、家が並んでいます。
五日市街道の南にある井の頭池の湧き水は、江戸神田上水の水源なのですが、テレビ番組の冒頭でも紹介されたように 台地を侵食しだ谷底(低地)にあり、入植した吉祥寺村の人々の水利には使うことができません。

そこで、井の頭谷を隔てた南の台地に太い線で記されている「玉川上水」の水が頼りということになります。
具体的には 地図の左端・境村から分水して北側の台地を通る「千川用水」の水を使うことになります。

ブラタモリ一行は、五日市街道扶桑通交差点を北に進み、千川用水まで15分の直線道路を歩いたようでした。
その距離1140m(634間)。幅36m(20間)の細長い地割とすると、面積約4町2反(12000坪以上)という計算になります。

現在考えるとビックリするような広さですが、落書き帳でお馴染みの三富新田の地割も同程度でした。
上富新田の基準:間口40間、奥行375間、面積5町 出典所沢市

[90043]でも書いたように、市制町村制の前日に行なわれた「明治合併」で、武蔵野村誕生。
その10日後の 1889/4/11 新宿-立川間に甲武鉄道が開業しました。
開通当初の停車場は強い誘致のあった境【武蔵境】でしたが、東京府になった後には、吉祥寺停車場も開設されることになりました【現在電車運転の拠点駅になっている三鷹は ずっと後の昭和5年開業です】。

吉祥寺駅が新設された位置は、五日市街道との交差点ではなく、少し西になりました。
鉄道など公共用地の取得は現在でも大きな問題になっていますが、程度の違いはあれ 明治時代にもこの問題を解決せねばならず、農地提供に抵抗があった一般農家を避けて、お寺の土地を提供してもらったようです。
このお寺は、明暦大火の際に吉祥寺門前で焼け出され、住民と共に江戸から移って来た月窓寺など4寺院であり、現在でも「四軒寺」(しけんでら)と呼ばれるそうです。

吉祥寺駅開業は明治32年(1899)。甲武鉄道は既に1889年には八王子まで開業した後、新宿から飯田町へと進む市内線(1895)の延長を進めていました。
吉祥寺駅とは離れますが、1904年に飯田町➖中野間で電車運転開始[35062]。1906年 鉄道国有化。

そして、大正12年(1923)の関東大震災を経て、武蔵野村は人口急増の時代を迎えるのでした。国勢調査人口
[94736] 2017年 12月 20日(水)14:39:36【3】hmt さん
東京35区時代の地形図事情
[94731] ekinenpyouさん
昭和一桁後半から戦時中における陸地測量部作成の地図発行・発売状況などについては より具体的に実態が解説された資料(PDF)がありますので、そちらの紹介などもかねて後日再度コメントします

ありがとうございます。
真打ち登場の前に、とりあえず 実態を十分に掴めないまま綴られた疑問とレス記事を集めた 記事集 です。

【1】以下、長い追記です
1 東京35区への道

1923/9/1の関東大震災で 大被害を受けた東京は 復興と共に 郊外への大規模人口移動の時代を迎えました。

明治以来 日本の首都になった東京は何度も災害に見舞われ、これは江戸の町から近代都市に変化するきっかけになりました。
1872年(明治5年)の大火で焼失した銀座煉瓦街の復興は、東京を近代都市に改造する事業の最初でした。
市制町村制と同じ1888年(明治21年)には、東京市区改正条例[53893](勅令M21-62号)が公布されましたが、財政事情から事業は進みませんでした。現実には都市化の進展により早期実現を迫られ、その結果 縮小した新設計、日露戦争後の外債により賄われた資金 で実現したのは、皇居周辺や下町の一部での 道路の新設・拡張、河川・橋梁・公園の整備でした。
徳川慶喜の筆になる「日本橋」の名が記された石造アーチ橋ができたのは 1911年[63949]。明治から大正へと移り変わる時代で、橋の上を通る市街電車など文明開化の産物も道路拡張の動機になったようです。[33135]の【20】参照

この東京市区改正条例は大震災の5年前、1918年に 京都・大阪・神戸・名古屋・横浜に準用され、翌年には「都市計画法」になり、更に六大都市制度に進みました[53841][53893]

「市制」の改正に先立って定められた「都市計画法による 都市計画区域」は、「東京市」だけでなく、「隣接5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)、それに北多摩郡千歳村と砧村を加えた区域」になっていました。

他の六大都市に比べて行政上の市域拡張の遅れた東京市ですが、1923年に関東大震災に襲われた結果、比較的被害の少なかった郊外への人口流出が加速しました。
それがもたらした小学校関係の経費が増大は、周辺町村の財政を圧迫し、都市計画区域において町村長が施行すべき道路・上下水道整備の進捗を遅らせることになりました。

このあたりの事情に関しては[74867]で記したような事情があったのですが、ともかく 解決策が実現することになり、15区だった東京市が、35区になったのは 1932/10/1でした。 

2 記事集の要約

東京35区時代の地形図事情に関する話題は、次の指摘から始まりました。
[94708] Stanfordサイト[94706]で見ることができる5万分1地形図「東京西南部」。
東京35区時代になってからの発行であるにもかかわらず、郡部時代の表記のまま残っている。

[94719] 5万図は戦後の1946年まで新版が発行されていない。
日米戦争より9年も前だが、軍事情報の観点から地形図の更新や公開にまで気を使ったのか?
世田谷区の記載がある日本図誌大系p.48掲載の2.5万地形図は戦後の修正で、1947年発行

[94720]追記2 76-7-1-3(1932年に発行)に赤の追記あり。どの段階での追記?

[94723] 赤で加刷された仮製地形図 76-7-1-3 等は市販されたのか? これら疑問が解決できず。
【この記事は考えが足りなかった。今になってみれば次のように考えるのが自然であった。】
【現在の考え】
1932/10/1の35区に対応する2色刷りに変更され、画面に示されている通りの 1932/10/30に発行・市販された。定価はモノクロと同じ13銭。

[94724] 『外邦図』収載1万図 (世田谷区)二子の地図は S14.5.30発行(定価金13銭)。

[94730] 昭和14年(1939)に「国の作った市販地形図」が一般用に公開されていたこと了解。

3 長い追記のまとめ

陸地測量部としては、縮尺の違いにより次のように異なる対応をしたものと推察します。

2.5万図については、需要の中心であることを考慮し、既に編集作業の終っていた合併前の原図を利用した「二色刷り」を採用し、35区発足から1ヶ月というスピード作業により発行することを実現した。

1万図については、正規の編集作業により、時期としては遅れた。それでも戦時中に発行できた。

5万図をどうするか? とにかく2.5万図の作業を優先させてから考えた。
既に時代遅れということもあり、未修正のまま約2年遅れの1934年に発行した。

以上の推測。[94731]で予告された資料(PDF)で裏付けされるでしょうか?

【2】対象が戦後にまで及ぶので、タイトルを含めて東京市35区時代を「東京35区時代」に訂正
[94730] 2017年 12月 19日(火)12:53:41hmt さん
陸地測量部1万分の1地形図 
[94724] ekinenpyouさん
『外邦図』に収録されている参謀本部>陸地測量部の地形図を紹介していただき、ありがとうございます。
正直なところ、戦前の国内地形図が『外邦図』というタイトルの下に収録されていることには驚きました。
たいへん有用な資料を教えていただき、感謝しております。

「世田谷」の地図には 「一般の需要に供する為め」 の記載があるものの、「秘」と記されており、発行日や価格の記載もないので、「当局」の内部資料段階であると判断しました。
しかし、その南西 「二子」の地図になると、「秘」の表記もなくなり、発行日・発行者・定価が記された市販地形図の体裁が整えられています。 
# 図外左上に記された「仮製版」という言葉は、更新履歴用語には収録されていませんが、括弧内の説明文に「一般の需要…」とあることはご指摘の通りです。

1936/10/1に 東京府北多摩郡千歳村と砧村とが 東京市世田谷区に編入されました。
この地について、翌年修正測量がなされた後、昭和14年(1939)には「国の作った市販地形図」の形で一般用に公開されたということですね。
それは[94719]の末尾に記した戦後の1947年よりも ずっと前(戦前)のことでした。
そのことを教えられました。

例えば世田谷の地図右下(目黒区と書かれた)の広大な敷地に何が存在していたか

駒沢練兵場跡地(目黒区側)には 戦後も地形図の元締・国土地理院がありました。[67221]
この名になったのは 1960年であり、1979年筑波研究学園都市に移転しました。
この付近の青葉台にある日本地図センターの売店は、参謀本部以来の「地図作りの聖地」を伝えているのでしょう。

参考までに、駒沢練兵場跡地の左側【世田谷区側】には、防衛省技術研究本部などが現存しています。
[94723] 2017年 12月 18日(月)15:26:21hmt さん
新20区や町名などが赤で加刷された東京の地形図
[94720] Takashiさん
追記2:2.5万地形図東京西南部の図歴から各時点での地形図を確認したところ76-7-1-3(1932年に発行)では新しく編入された地域の区並びに町の境界が赤で追記されていました。これはどの段階で追記されていたものかはわからないのですが、発行された地図にはこの境界の記載は反映させていた……のですかね?

前回投稿後に思い出した昔の記事[38515]
「日本図誌大系」に収録されている2万5千分1「東京西部」(昭7要修)を見ると、郡部時代の地名に「大東京」になって付けられた町名が加筆されており、ゴチャゴチャしていますが、新旧の地名を一覧できます。

[94719]の末尾で引用した本のp.40に掲載されていた渋谷の2.5万地形図ですが、これがリスト番号:76-7-1-3の地図でした。本の引用図はモノクロであったので「ゴチャゴチャ」していましたが、新しい情報【区名・町名、道路など】が赤色で加筆されている状態が、画面によってよく分かります。

北に隣接する東京西部(76-6-2-3)も見ました。

上部左寄りに「板橋区」という赤文字が見えます。この付近は現在の練馬区ですが、35区時代には存在しなかった練馬区の表記がないのは当然です。
そのように考えて上部右隅を見ると「滝野川区」【現在は北区】もありました。これで、35区時代の区名による加刷であることが確定しました。

赤の加刷が行なわれ、欄外右肩に「仮製」の文字がある これらのカラー?地形図は市販されたのか?
市中に出回ったのならば、その時期・価格は? 
残念ながら拡大するとぼやけてしまうのですが、疑問解決の材料は示されていないようです。

2.5万地形図「東京西部」の戦後版は、測量年1945【昭20】と記されていますが 発行は1952/1/30と占領時代末期にずれ込んでいました 76-6-2-5
この地図では発見できなかったのですが、23番目の特別区として 1947/8/1に独立した練馬区[93763]が 地形図に現れた姿を探してみました。

赤羽図幅(76-6-1-5)の左端付近【成増飛行場跡[57136](光が丘)の東】にも描かれているようですが その画面は不鮮明でした。赤羽の西に隣接する地形図 志木76-6-3-4をリンクしておきます。

特色ある街路で目立つ大泉学園の南東に「練馬区」の文字を見ることができます。
この地形図で注目すべきは、測量年が練馬区誕生よりもずっと前の 1945(昭20)となっていることです。
そして、地形図発行年月日さえも 1947/7/30と練馬区誕生の前日でした。
戦争を挟んで十数年も更新がされなかった歴史と対比すると、驚くべきスピードで実現した地形図地名の更新履歴でした。


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