都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
hmtさんの記事が50件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[94082]2017年10月25日
hmt
[94036]2017年10月19日
hmt
[93977]2017年10月10日
hmt
[93949]2017年10月6日
hmt
[93947]2017年10月5日
hmt
[93865]2017年9月24日
hmt
[93863]2017年9月24日
hmt
[93859]2017年9月24日
hmt
[93824]2017年9月20日
hmt
[93802]2017年9月19日
hmt
[93788]2017年9月18日
hmt
[93763]2017年9月15日
hmt
[93740]2017年9月12日
hmt
[93713]2017年9月8日
hmt
[93710]2017年9月8日
hmt
[93667]2017年9月4日
hmt
[93634]2017年9月1日
hmt
[93622]2017年8月31日
hmt
[93581]2017年8月27日
hmt
[93101]2017年8月11日
hmt
[93095]2017年8月10日
hmt
[93088]2017年8月8日
hmt
[93080]2017年8月6日
hmt
[93077]2017年8月4日
hmt
[93067]2017年8月2日
hmt
[93055]2017年7月31日
hmt
[93053]2017年7月30日
hmt
[93051]2017年7月29日
hmt
[93043]2017年7月28日
hmt
[93020]2017年7月24日
hmt
[92995]2017年7月19日
hmt
[92992]2017年7月19日
hmt
[92981]2017年7月14日
hmt
[92979]2017年7月14日
hmt
[92972]2017年7月12日
hmt
[92968]2017年7月10日
hmt
[92966]2017年7月9日
hmt
[92958]2017年7月4日
hmt
[92952]2017年7月2日
hmt
[92950]2017年7月2日
hmt
[92933]2017年6月27日
hmt
[92922]2017年6月25日
hmt
[92916]2017年6月23日
hmt
[92899]2017年6月13日
hmt
[92880]2017年6月2日
hmt
[92858]2017年5月15日
hmt
[92850]2017年5月10日
hmt
[92847]2017年5月8日
hmt
[92844]2017年5月7日
hmt
[92843]2017年5月7日
hmt

[94082] 2017年 10月 25日(水)17:44:53【1】hmt さん
明治18年 葱畑?に作られた 大阪ミナミの鉄道ターミナル
[94063] ekinenpyou さん
明治39年、帝国議会における鉄道国有法審議に関する詳細な議事録を紹介していただき、ありがとうございます。
そして、同時にご紹介いただいた南海鉄道の『開通五十年』(昭和11年)に記された 阪堺鉄道開業当時の難波界隈も 興味深く読ませていただきました。

難波の名産であった葱【注】の畑に作られたという難波駅。南海線の前身・阪堺鉄道による用地買収は、私鉄でありながらも「公用土地買上規則」による評価で行なわれたことなど、政府の手厚い保護があったことを知りました。
予定地内の人家立退料として記された地名が「六番町」と「難波村」でした。
【注】ねぎ
だから、葱を使った料理のことも「なんば」という。しかし、この説には 疑問もあるようです。

六番町とは、大阪に市制が施行される前の 郡区町村編制法による大阪府4区の一つ「南区」にあった 難波新地六番町を指し、私が[83142]のタイトルとして記した 
「なんば」が まだ「大阪」でなかった頃
が不正確な表記であったことは ご指摘の通りです。
難波新地も元は難波村でしたが、明治初期に大阪の市街地が拡大して難波新地一番町から六番町への再編成となったようです。

なお、難波村の方は大阪府西成郡の4つ目に記されており、明治22年の町村制施行によって新制度の 西成郡難波村 になりました。
# ふりがなに用いられた「ば」という文字が読めますか? 現在では殆ど使われていない変体仮名です。

買収地価や立退料が六番町と難波村とで差が付けられてないところをみると、難波駅建設当時には市街地と郡部の区別がつかないほどになっていたのかもしれません。

西成郡難波村の大阪市編入は明治30年。変遷情報を見ると「西区に編入」となっています。難波新地の南区とは異なる区になったのでしょうか? 
その後 浪速区への編入や境界変更があり、南区だった難波駅の住所も 現在は中央区になっています。

hmtマガジン市街地乗り入れに成功した鉄道の冒頭では、1972年の初代新橋駅を「例外的に市街地に入り込んだ 形」と書きましたが、市制施行よりもずっと前の明治18年に「区部(市街地)の鉄道駅」となっていた難波駅も、市街地駅の先駆として特筆に値する存在なのかもしれません。
難波という地名も、駅施設の所在地も市街地と郡部との境界に跨っていますが、「駅の住所」は確かに大阪市です。

[94063]ekinenpyouさんクイズの答えに付け加える蛇足
この記事で挙げていただいた明治32年の官報附録 全国各鉄道停車場名称及位置並哩程表の時点になると、大阪市の第一次市域拡張後なので、「大阪駅」の所在地であった曽根崎村も 既に北区に編入されています。大阪市域拡張図(1)
[94036] 2017年 10月 19日(木)19:58:35hmt さん
沖縄県島尻郡伊平屋村の分村
[94000] ekinenpyou さん
なお「分割」ですが、新設自治体名に従来と同じものが継続して使用された場合
「分立」と区別し難く混同されるケースがあるので注意を要します、

例示していただいた昭和14年の伊平屋村分村の件を少し調べてみました。

初めに、この村が存在する特異な位置を確認する目的で、北緯27度を中心とする地理院地図を示します。
一口で言えば、鹿児島県南端の奄美群島与論島と同緯度、沖縄県最北の村です。無人の硫黄鳥島[28741]は別。

沖縄本島 本部(もとぶ)半島の北方に見える群島がそれで、南の伊是名島は前地(メーヂ)、北の伊平屋島は後地(クシヂ)と呼ばれます。小さな無人島まで数えると7島ある「伊平屋の七離」です。有人島は野甫島を含めて3島だけ。

琉球王朝第一尚氏発祥の地と伝えられる伊平屋島と伊是名島とは古くから「伊平屋島」と総称される一つの行政地域になっており、琉球王府の番所は伊是名島に置かれていました。
1879年の琉球処分により沖縄県になった後もその状態で、前地・後地にそれぞれ4村がありました。

そして、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行で 島尻郡伊平屋村(いへやそん)という自治体が発足しました。
沖縄県でも、本土と同様に これに合わせた明治合併が行なわれました。旧村は後地(伊平屋島)に属する旧4村(我喜屋村, 田名村, 島尻村, 野甫村)と前地(伊是名島)に属する旧4村(伊是名村, 仲田村, 諸見村, 勢理名村)の8村でしたが、沖縄では 旧村は末尾を【ムラ】と読み、新制度による自治体の読み【ソン】と区別されています。

町村制施行時の変遷情報には旧村名が記されていません。
神奈川県などいくつかの県で行なわれたのと同様に、制度変更に先んじて直前の合併を行ない、その後で 新制度を施行するという2段階の処置が行なわれたのでしょうか?
それとも、単なる旧村の記載漏れか? 私には何れが正しい関係を示すものか判断できません。

前置きが長くなりましたが、1908年の新制度から31年後の1939年に実現した 前地と後地との分村 が本題です。

沖縄県が官報広告・村廃置に記載した文面には「島尻郡伊平屋村を廃し」伊是名村・伊平屋村を置く とあり、確かに 旧伊平屋村の法人格を引き継がない「分割」であると判断されます。

伊平屋村の歴史には、伊平屋村分村の動機として「村役場が伊是名島にあったので不便」であることが挙げられていました。
------引用文-------
村役場が伊是名島に設置されていたため、諸会議、役員吏員、一般民衆の不利不便は想像を絶するものがあり、村議会に分村問題を提起も取り上げ採択されず、民衆は苦境になげく状況が続きました。しかし、分村熱はますます高まり、大正5年伊平屋島(後島)有志が伊是名村との分村請願書を沖縄県に提出。伊平屋においては「分村期成会結成会」も結成され、住民の意向をうけた村議会、村当局も国、県に請願したことで、分村が実現の方向に進み県当局、県議会の調査決議を経て、ついに昭和14年5月23日、内務省令により分村許可、百有余年の懸案であった伊平屋島(後島)住民の嘆願が実現のものになりました。
------引用終-------

ここに記されているように 主な分村動機があったのは 後地側であったようです。
もっとも、これは 後地が前地と同じ村になっているのを嫌った とかいうことではなく、一つの行政地域として統治するならば必須である筈の「交通手段が整えられていなかった」ことに根本原因があるのだろうと思います。

当時の経済事情からして、前地と後地とを結ぶ村営渡船を実現することが困難ならば、解決手段は「分村」です。
役場で代表される公共機関から隔絶されており、分村を希望した 後地側を 伊平屋村のまま「分立」とし、残留する前地側は 同名回避を兼ねて 伊是名村への「改称」で処理する。これが妥当な処理であるように思われます。
前地が多数を占める分村後の国勢調査人口も「後地分立」説を支持しているようなのですが、歴史が関係する「名称の維持」が決め手になって、「分割」に落ち着いたのでしょうか。なお、面積は後地>前地でした。

地域村名面積194019501955196019651970197519802000200520102015
前地伊是名村15.42365255745689503743873279228621441897176215891517
後地伊平屋村21.82271039854008363130832254133815011530154713851238
1939分村km21940琉球琉球琉球琉球琉球1972復帰19802000200520102015

それにしても、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行で名乗ったのが、何故「伊平屋村」だったのか? など疑問は残ります。歴史的価値から伊平屋が上位だったのでしょうか。

役場支所を作るなど別の解決法もあったように思うのですが、それだけではなく、他の地域格差もあったのでしょう。「百有余年の懸案」との記述は、この分村問題には 役場以外の理由も潜んでいるように思われます。

せっかく手に入れた役場庁舎を分村後間もない 1941年に失火で失うなど、思わぬ災難もありました。
更に大きな災難は、言うまでもなく沖縄県が戦場になったことです。伊平屋島にも 艦砲射撃・空襲・米軍上陸。
住民は捕えられて、米軍に命じられた強制労働に使役されました。
1945/11/22米軍が伊平屋から引き揚げて、収容所から開放され、焼土になった集落に帰ることができました。

話を変えます。
伊平屋村と伊是名村との違いの問題でなくて共通の問題ですが、沖縄県の北部にありながら「島尻郡」に帰属している点があります。
実は、上記人口表で琉球と記した期間は米軍統治下ですが、当時は国頭郡に相当する「北部地区」に含まれ、そのために 1970年に日本で使っているものに準じるコードが採用された際にも316と317が付けられました。
これについては、[27598] Issieさんの記事があります。

最初に示した地図から明らかなように、地理的には沖縄県の最北部にある村なのに、琉球王国時代・戦前の日本・戦後の日本復帰後を通じて「島尻」所属である理由。これを明らかにした資料を紹介したのが、[69111] hmtの記事です。

最後に問題の発端となった分割と分立との区別について。

用語としては法人格を受け継ぎ方により厳密に区別されていると思います。
しかし 分村の実務にあたり処理の対象となるのは 法人格だけでなく、名称・役場・人事・財産など多岐にわたります。
分村手続における分割・分立。これに基づいて、単純に「分村の実態」を推察することはできないようです。
沖縄県北部の事例を調べた結果、このような結論を得たことを この記事の結びとして記しておきます。
[93977] 2017年 10月 10日(火)19:56:02【1】hmt さん
分属・分裂の使用事例 そして トカラのこと など
[93971] ekinenpyou さん
1 若い方向け?のクイズ
 これは、対象者から除外されていると思われるので、パスします。(笑)

2 分属・分裂の使用事例
 明治19年茨城県における「分属」の使用例、同年長崎県における「分裂」の使用例を拝見しました。

 郡区町村編制法の時代なので、普通ならば「長崎県肥前国東彼杵郡大村を分裂し大村町を置かれたり」と書くところが、『駅逓局報』なので わざわざ「…大村郵便区市内大村を分裂…」という表記になっていると解釈しました。

この大村「分裂」が現在の用語では「分割」なのか「分立」なのか?
3年先の明治22年町村制施行時には、(旧)大村から村制で「大村」と「西大村」が生まれ、(旧)大村町から町制で「大村町」が生まれています。
この結果を参照すると、明治19年の旧制度における廃置分合は、農村と市街とを含んでいた(旧々)大村から市街地が大村町として「分立」し、農村部は(旧)大村として存続したと解釈されます。

「地所幾分を裂き」の使用例として示していただいた富山県の事例は、「一部を分けて」という程度の意味で使われており、「分裂」が「分割」を意味することまでは示していないと思われます。

3 戦前の鹿児島県大島郡十島村【じっとうそん】から現在の鹿児島県鹿児島郡十島村【としまむら】と三島村へ

[93971]で提供していただいたこの地域の「格差」を示す羽原論文。指示していただいた 15コマを見たら
太平洋戦争の終結すら、その年の11月になってはじめて知ったという。
離島であることは承知していた筈ですが、この「情報格差」には驚きました。

日付や表記など 問題もあったようですが、トカラにとって大きな転機だった 1952年の日本復帰と分村とを中心とした動きは、変遷情報一覧表によって 一応辿ることができます。
これを肉付けする 主な落書き帳過去記事をまとめておきました。ご参考まで。

【追記】
この記事集を見ていたら、敗戦後間もない頃の占領軍指令により北緯30度以南の施政権が失われた結果、当時の十島村【じっとうそん】の領域が上三島に限定されることになったことを告げる 内務省告示昭和21-22が記されていることに気がつきました[82237]

村の面積が縮小する事例は多数ありますが、主なものは他の自治体への一部編入によるものであり、軽微な場合は境界変更の手続きによります。
1946年の十島村のケースでは、有人島数が10から3に減少し、人口もそれに応じて3分の1になる。
この大きな変動が、廃置分合でも境界変更でもない手続きで行なわれた事例。これは珍しいと思いました。

官報(右上)によりその名目を確認したところ、「(地方事務所の)管轄区域改正」という名で告示されていました。
鹿児島県大島郡十島村の内 黒島、竹島、硫黄島

変遷情報に収録すべきか否かはグリグリさんにお任せするとして、珍しい事例だと思うので紹介しました。
[93949] 2017年 10月 6日(金)17:48:17【1】hmt さん
♪汽笛一声新橋を… 鉄道唱歌(1900年)334番の旅の終着駅はどこでしょうか?
間もなく10月14日。「鉄道の日」です。

10年前の秋の落書き帳で、100年前、国有化の頃の鉄道というシリーズ記事を連載しました。

事の起こりは、Issieさんが「鉄分いっぱい」に書いた[61073]中の1句「なぜかその南海が国有化されなかったにもかかわらず」に反応した単発記事だったのですが、記事を2つ書いているうちに欲が出て、タイトルを変更してシリーズ化してしまったのです。
その対象も 五大私鉄買収を中心とした 1906年から1907年にかけての国有化に留まらず、買収されなかった私鉄や、鉄道とは別物と考えられていた 軌道や電車などにも及び、自分でも予想外の長編になりました。

最終回は「明日、2007年10月14日「鉄道の日」は、新橋横浜間鉄道の正式開業[49808]から135周年になります。
大宮に 鉄道博物館 が開館します。」と結んでいます。

5年前には日本の鉄道創業 140周年を機会に hmtマガジンに 鉄道特集号 を作り、創業期の鉄道と共に 上記シリーズも収録しました。

鉄道創業145周年になる今年は、お馴染み「鉄道唱歌」を取り上げることにします。

この歌は、明治33年 西暦1900年に世に出ました。日清戦争と日露戦争との間です。
東京【駅名は新橋】神戸間の鉄道は既に1889年に開通していますが[61303]【名称の東海道線はM27年[87465]】、山陽鉄道のような幹線でさえ 未だに建設途上という時代でした。

車内放送のチャイム音しか聞いたことがないという方もあるかもしれませんが、1番の歌詞が「♪汽笛一声新橋を…」で始まることは、広く知られています。

作詞者は大和田建樹。七五調4句の歌詞に付けられた 調子の良い ヨナ抜き ピョンコ節のメロディーは 覚えやすく、今も歌われていますが、それは冒頭のごく一部に限られています。

レコードもラジオもなかった時代、歌をビジネスに結びつけたのは、版権を買った大阪の楽器店主・三木佐助です。
楽団を乗せた列車を走らせるなどの 奇抜な広告宣伝が成功・大流行した結果、明治33年内に第五集まで出版された 歌本はベストセラーになり、十数年間に約2000万部を売ったと伝えられています。

歌詞はすべて大和田建樹作詞ですが、各編2種類の曲を用意して 読者の好みに合わせる趣向も用意されました。
しかし ヒットしたのは多梅稚(おおのうめわか)作の曲であり、これが現在に歌い継がれています。

リンクした資料は明治44年発行の訂正版でした。よく見たら明治33年発行の初版から変っている箇所が 気になりました。電車ソング集で使われている歌詞の方が オリジナルに近いので、こちらも付けておきました。

日本各地の名所を含めて巡る汽車の旅を綴った長い歌詞が存在したことは、現在では忘れられています。
第一集 東海道を見ても、【6番】横須賀行は乗り換えと 呼ばれて降るる大船の 次は鎌倉鶴ヶ岡 源氏の古跡や訪ね見ん という具合に10番まで寄り道します。琵琶湖・京都・大阪・神戸と 寄り道を重ねながら 66番で東海道の旅を終えます。

その後、第二集は「♪夏なお寒き布引の 滝の響きを後にして 神戸の里を立ち出ずる 山陽線路の汽車の道」とスタートするのですが、25番の三田尻【防府】で「山陽線路の終にて 馬関【下関】に伸ばす汽車の旅」。
そこで少し戻って「徳山港を船出して 二十里行けば豊前なる 門司の港に着きにけり」となります。
鉄道は未完成ですが、日清戦争後という時代を反映して馬関条約にも言及。
31番から九州の旅。宇佐・箱崎・太宰府・熊本。八代から鳥栖に戻り佐世保・長崎に進み68番で終りますが、「あとは鉄道一筋に 瞬く暇よ青森も」。

…というわけで、第三集の東北・磐城が 64番まで、第四集の(上野から信越を経て)北陸編が 72番まで。
2003年の落書き帳[8880]に、鉄道唱歌第三集 1番と62番 の歌詞が引用されていました。

そして、明治33年の内に第五集(関西・参宮・南海)までが発表されました。これが 64番まであるので、累計334番になります。

全国を巡った鉄道の旅の終着駅こそ、南海鉄道の難波駅だったのでした。
♪治まる御代の天下茶屋 騒がぬ波の難波駅 勇みて出る旅人の 心は跡に残れども

これで、難波駅の昔話[93908][93912]にも関連した記事になりました。

おまけ
1 北海道唱歌・南の巻は明治39年に、北の巻も明治40年に作られました。大和田建樹の作詞で鉄道唱歌334番に40番まである北海道を加えると374番になります。
「千里の林万里の野 四面は海に囲まれて 我が帝国の無尽庫と 世に名ざさるる北海道」
函館から北海道を巡った終着駅は室蘭で、「青森までは海一つ」と歌われています。

2 大和田建樹(宇和島出身)は、明治41年に伊予鉄道創立20周年を記念して作られた 伊予鉄道唱歌も作詞しています。
[93947] 2017年 10月 5日(木)16:20:42【1】hmt さん
ようこそ ekinenpyou さん
ekinenpyou さんのお名前は 2014年11月のグリグリさんの記事[86602]で初めて紹介され、その直後には最初の落書き帳記事[86631]がありました。
2014年に2件、2016年に3件の書き込みがあった後、先日(2017/10/2)メンバー登録が実現しました。

5件でのメンバー登録実現は、2005年の たもっちさん(7件で登録)を上回る快挙だろうと思いますが、これも ekinenpyouさん の調査実績が グリグリさんに買われての結果であろうと 推察しています。
これから、よろしくお願いします。

メンバー登録の翌日に、私がギブアップした明治時代の変遷記録調査について、早速のレスポンスを頂きました。
その御礼を兼ねて、落書き帳への歓迎の辞と共に、明治の分村事例2題に関する記事をまとめてみました。

[93942] ekinenpyou さん

1 明治37年実施 木造町関係の分村手続
1903(M36).10.3青森県告示第308号ですが下記(右下)にて確認できます。

明治44年編纂の青森県例規に掲載されていた青森県告示M36-308を教えていただき ありがとうございました。
西津軽郡木造町を廃し 大字木造の区域を以て 更に木造町を置き
この告示原文前半により「(旧)木造町の廃止」を再確認しました。
後半の部分は、私が[93802]で提案した「縮小再置」という変遷種別を裏付ける記載です。

近隣の4村に引き取られた7大字については、下記のように [93802]記載の復元文では予想していなかった「分」という文字が使われていました。
大字△△を○○村に分属せしめ
しかし、これは 変更種別の「分割」に該当するものではありません。
「分属」とは、実質的に複数の「編入」を意味しているものと理解することができます。

官報は 告示日の10/3でなく 10/8の広告欄に「町廃置分合」として掲載されていました。
告示という言葉が使われず、告示番号や告示日もないのは、「広告」という性格によるものなのでしょうか。

参考までに、明治37年分村の結果生まれた1町4村のうち1町2村は昭和合併の木造町として復縁し、残る2村も平成合併でつがる市に復縁しています。

2 熊本県市町村合併史
2.1 第六章 三新法と地方制度 
44コマ(200頁)に記された「下野村の分村」。郡区町村編制法時代・明治12年の記録は「肥後国阿蘇郡河陽村分裂之儀に付伺」で「カワキタ」のフリガナがあります。
そして、私の関心がそそられたのは、「分裂」という言葉が使われていたことでした。
語感は が汎用的な「分割」に対して「分立」は親子のような関係に限定、「分裂」というと「喧嘩別れ」のような激しい印象です。
結局のところ町村制の時代になれば「長陽村」に統合されるのですが、明治初年にはこのような前史もあったということを知りました。

2.2 第七章 帝国憲法発布後の地方制度と町村大合併
12コマ(p.224)に「新町村名選定の事由」という項目がありました。
しかし、残念ながら阿蘇郡の町村については「記録なし」でした【17コマ】。
[93865] 2017年 9月 24日(日)19:00:14hmt さん
阿蘇いろいろ
[93824][93859][93863]に続き、熊本地震の報道でお馴染みになった南阿蘇村あたりのことを中心として、阿蘇の地理に関することを いろいろと記します。

1 立野火口瀬
[93822]で引用された毎日新聞記事には、熊本地震で崩落した国道325号阿蘇大橋の 架け替え工事で削られてしまった 柱状節理の所在地が「立野峡谷」と記されていました。このあたりについては「立野火口瀬」と表記された資料もあったが、火口瀬という言葉は初耳でした。そこで辞書で調べたら、火口やカルデラの縁の一部が切れて、火口湖内の水が流れ出した谷のことでした。

[92668]で言及した、十和田湖から奥入瀬川が流れ出る「子ノ口」。これも火口瀬の一例でした。
立野火口瀬については、博物館の解説もありました。
阿蘇谷からの黒川と南郷谷からの白川が合流する戸下(とした)から白川の流れに沿って西に延びています。

豊肥本線の立野駅は標高270m付近に描かれていますが、東の阿蘇谷方面に向かう線路は いきなりの急勾配なので、スイッチバックにより山登りするようになっています。南阿蘇鉄道【旧・高森線】の通る南郷谷も登り勾配ですが、こちらは徐々に高度を上げてゆきます。
地図の少し東側には、白川の鮎返しの滝、黒川の数鹿流(すがる)ヶ滝という名が見え、いずれの川も急流を流れ下っていることが知れます。

立野は現在では南阿蘇村の大字ですが、市区町村の変遷で見るように、明治合併の町村制で合志郡立野村から瀬田村になった後、新郡制施行準備で菊池郡に変更、昭和合併で阿蘇郡長陽村に編入、平成合併で南阿蘇村という前歴です。

2 黒川と白川
阿蘇山地域を大別すると、中心にある阿蘇五岳、その周囲のカルデラ、更に外側の外輪山になります。

最初に人が住みついて 拠点を作った主な場所は 水利の良いカルデラ内の山麓と火口原です。
その筆頭に挙げられるのが、古代からの有力氏族で 現在も阿蘇神社大宮司である阿蘇氏の本拠地と言えるでしょう。
その名も阿蘇市「宮地」付近。阿蘇谷東部のこの地は 現在の阿蘇市の中心地でもあり、黒川の流れの近くです。

黒川流域の阿蘇谷は 内牧など温泉地帯でもあるようです。
ここで思い出したのが 杖立オフ会の際には道路の関係で利用できなかった高速バスの行先「黒川温泉」[91229][91408]でした。でも 外輪山外側の黒川温泉は、阿蘇谷の黒川とは無関係でした。

白川の流れる南郷谷に移ります。阿蘇谷に比べて高低差のある南郷谷は 古代・中世の技術では開発が困難だったようで、中心地となる高森が台頭したのは近世以降のようです。南郷谷西側の開発は更に遅れて 阿蘇神社領の広い原野が残り、神事の狩場に用いられたようです。

3 南阿蘇村
平成合併の結果、南郷谷の西側に成立した南阿蘇村ですが、村の中央を北西に向って白川が流れており、ここで河川を隔てた「ひなた・ひかげ地名」のペアを見ることができます。

白川の北岸が合併前の長「陽」村、白川の南岸が合併前の久木野村【明治合併前に河「陰」村】であり、今年になってから村役場が河陰から河陽に移ったことは [93859]で記しました。
マピオンは、南阿蘇鉄道の長陽駅と河陰にあった南阿蘇村役場【旧位置】が出るようにセットしました。

そして、白川の北岸で長陽村下田よりも上流側にあるのが、平成合併に関係する第三の村・白水(はくすい)村で、南阿蘇鉄道には「南阿蘇水の生まれる里白水高原」という長い名の駅から始まる5駅があります。この辺が南郷谷のほぼ中部です。明治合併前の旧村名に由来する「両併(ふたあい)」という難読地名もあります。

南阿蘇鉄道を西に引き返すと、鮎返しの滝の先は外輪山を戸下トンネルで抜けて立野峡谷に出ます。長陽村に併合される前には別の郡だった前歴があることは、立野火口瀬の項で既に記しました。

4 白川県
阿蘇から離れますが、市制町村制よりずっと前の明治初年に 短期間存在した「白川県」に触れておきます。
阿蘇の南郷谷を流れ、黒川との合流後も「白川」として熊本に至る川の名が県名に使われた時代がありました。

法令全書 明治5年6月14日 太政官布告第178号
熊本県を白川県と改称し県庁を飽田郡二本樹村に被置候事

県庁が熊本から移転するので、県名も移転先の近くの川の名を使い「白川県」とする。
表面的にはこれだけですが、やはり移転先が気になります。

熊本県のサイト内では 二本木移転関係の適切な資料を発見することができなかったのですが、熊本市西区の広報紙2014/4により、白川の河口近くであることが判明しました。

マピオンを見ると熊本駅の近くで、現在の常識では「熊本ではない」という「県名を変えた理由」が とても理解できません。

ついでに 太政官布告の上部欄外を見ると、「【明治】9年第19号【太政官】布告を以て 県庁を飽田郡熊本に移し 熊本県と改称」とあります。
前記の西区広報紙によると、明治6年 八代県との統合【これにより、白川県は現在の熊本県域に近い管轄区域を持つことになった】により手狭になった上、水害にも悩まされ、明治8年には古城(ふるしろ)に移転し、翌明治9年に熊本県の名に戻したとのこと。
明治初期の慌ただしい制度変更の一幕でした。
[93863] 2017年 9月 24日(日)14:38:30【3】hmt さん
旧村・河陽村の読み
[93682] グリグリさん
河陽は「カワキタ」ではないでしょうか。河陰の「カミナミ」とセット。

再読してみると 郡区町村一覧のフリガナは「カハキタ」ですね。「河」の右にふられた2字目を見落としていました。
平凡社の日本歴史地名大系 熊本県p.358 長陽村の項目にも、明治22年 河陽(かわきた)村、長野(ながの)村、下野(しもの)村の合併であることが 振仮名付きで記されていました。
同書p.367 久木野(くぎの)村の項目に記された旧村・河陰村の振仮名は、「かみなみ」ではなく「かいん」でした。

読みは対象外になっていますが、変遷情報詳細の修正結果【河湯村→河陽村】も確認しました。
[93859] 2017年 9月 24日(日)10:18:14【5】hmt さん
明治合併時に長陽村の大字になった 旧村・河陽村について
[93826] k-ace さん
[93851] グリグリさん
むっくんさんの労作[76874]に基づいて、明治22年熊本県令第10号を確認したところ、予想外の記述を発見しました。
熊本県令達類纂巻上(明治26年7月編纂)
各郡町村の内左の通分合改称し来る(明治22年)4月1日より実施す【この部分は33コマ】
(中略)
下野村 長野村 河湯村
  合併長湯村と改称す

なんと「河湯村」だけでなく、合併後も「長湯村」という記載には驚きました。両方共「さんずい」です。
出典は明治26年の編纂なのですが、欄外上部にも訂正が記されていませんでした。

とりあえず、[62816] M12の 郡区町村一覧[62817] M19調の 地方行政区画便覧が「河陽村」となっていることを確認しました。
現在の住所地名を含めて、「こざとへん」が正しく、「さんずい」は誤記と思われます。

長陽村から逸脱しますが、余談も含めた補足事項を記します。

郡区町村一覧には「フリガナ」がありましたが不明瞭でした。河陽は カヤウ? 河陰は カミナミ?

「陰」には確かに「河川の南岸」の意味があり、中国の「淮陰」の例を挙げた記事[38328]を書いたこともあります。しかし日本では「陰」を使った村そのものが少なく[70882]、この字を「ミナミ」と読む実例があったとすれば初の知見です。

参考までに、南阿蘇村役場は2017年4月から新庁舎【大字河陽1705、地図】に統合されましたが、地理院地図、マピオン共に未修正です。
それまで存在した 久木野庁舎【旧久木野村役場】の所在地は南阿蘇村大字河陰145-3でした。
「河陰」の現在の読み方は マピオンに示されているように「かいん」なのでしょう。

熊本県の地図の役場位置も旧位置のようです。修正の検討をお願いします。>グリグリさん
[93824] 2017年 9月 20日(水)19:33:00hmt さん
熊本県阿蘇郡長陽村
[93822] じゃごたろ さん
南阿蘇村の柱状節理が、熊本地震の復興で壊されたという報道がありましたね。

所在地を検索すると南阿蘇村戸下と出ました。出典
阿蘇長陽大橋付近のようです。

長陽とか河陽とかいう地名から思い出したのが、阿蘇にあった長陽村や蘇陽町です[70893]
河川の北や阿蘇の南という由来は解るが「長陽」の由来は?

外輪山の影響で日照時間の短い阿蘇で、「西日が長くあたる」という説【Wikipedia長陽駅の由来】もありました。
しかし、市区町村の変遷を見たら、明治合併時の合成地名である長陽村【平成合併で南阿蘇村】に由来することが知れました。
[93802] 2017年 9月 19日(火)17:09:54hmt さん
明治37年に区域を縮小して再置された 青森県西津軽郡木造町
[93790] グリグリさん
【1911年に区域を縮小して再置された神奈川県屏風浦村は、】青森県木造町の分割、新潟県松島村の分割が同様の事例になるのかなと思います。いかがでしょうか。

青森県木造町については、[93006]で「変更種別が「分割」の変遷情報一覧」を示していただいた時から気になり、「境界変更でもよかったのでは? と思わせる内容です」[93020]と記していました。

変更種別:分割と明記されていたので、それ以上 立ち入ることをしませんでしたが、今回見直すと、詳細に青森県告示【明治36年】第308号が示され、「西津軽郡木造町を廃し大字木造の区域をもって木造町を置く」という「廃置」情報が明記されていました。
しかし、この「廃置」が手続的に「分割」であることは記されていませんでした。

そこで、この点を確認しようと 告示文を探したのですが、1903/10/3の官報には見出すことができませんでした。青森県サイト探索も不成功。
しかし、関係する1町4村の変遷情報詳細から重複部分を除いたら、次のような記述に復元されました。
西津軽郡木造町を廃し 大字木造の区域をもって木造町を置く。大字上相野及び大字下相野の区域を森田村に編入する。大字広須及び大字玉水の区域を柏村に編入する。大字蓮花田及び下遠山里の区域を出精村に編入する。大字濁川の区域を柴田村に編入する。

このように、複数の大字が存在した旧・木造町は 大字木造の区域のみに「縮小再置」され、残る7つの大字は近隣の4村に引き取られた。上記の復元文には、これを記述するのに必要かつ十分な情報が盛り込まれており、「分けて」「分割」「分立」などの言葉を必要としていません。

「分割」という用語が使われたのは、88さん【or参照資料の著者】が「これは木造町の実質的な分割だ」と考えたからであり、変更種別の詳細説明に使われている定義に合っていることを保証するものではないでしょう。

そもそも「分割」は、それ自身の中に「廃止」と「二以上の市町村の設置」を含む 完結したプロセスです。
市制・町制などとの併記はありとしても、「分割/編入」という併記には馴染まないと考えられます。

[93006]で示された多数の例の中で「分割/編入」が見られるのは、木造町関係の4村と新潟県沼垂町だけです。
いずれもケースも近隣で行なわれ廃置分合の結果無所属となった地域の 単純な「編入」として扱うだけで、特に問題ないように思われます。
横浜市域拡張に伴う 屏風浦村・大岡川村の一部編入[93788]は、その一例です。

事実上の分村だが、「二以上の市町村を置く」分割に該当しない 木造町、屏風浦村、大岡川村の残存部。
その変更種別案として、「縮小再置」はどうでしょうか。
[93788] 2017年 9月 18日(月)17:36:23hmt さん
変遷履歴の中での「新設分村?」
変遷履歴情報については、むっくんさんから多数の情報をいただいており、感謝しています。
最近も[93775][93776]で多数の情報をいただいたところですが、これに掲載された昔の告知文を眺めているうちに、類例の少なそうなタイプの廃置分合があったので、少し考察してみました。

それは[93776]の神奈川県#26からのリンク先 官報第8327号広告 に掲載されていました。
横浜市の第二次市域拡張(1911/4/1施行)に関係する「村廃置及市境界変更」を告知する文の2番目でした。
一 久良岐郡屏風浦村を廃し 大字滝頭、磯子、岡を横浜市に編入し 其他の区域を以て 新に屏風浦村を置く
# 3番目は大岡川村に関するもので、村名と編入区域が違うだけで、これも同型式の処分です。

告示の中央部は「村の一部を横浜市に編入」するという何の変哲もない告示なのですが、その前後が問題です。
「母体の村を廃し【編入以外の】区域を以て 新に【母体と同名の】村を置く」

何の目的で、このような手続にしたのでしょうか?
「村の一部を横浜市に編入」するだけならば、「境界変更」だけの手続でも足りるはずです。
わざわざ「廃置分合」という型式を選んだのは、横浜市編入となった「村の一部」こそが、「母村の主要部」であったためと推察しました。

現在の地図を見ると、屏風浦村の領域であった現在の磯子区には 滝頭や岡村を名乗る学校、磯子を名乗る警察署があります。大岡川村の領域であった現在の南区にも弘明寺・井土ヶ谷など著名な地名があります。
国勢調査より前ですが、現住人口表を用いて編入前後の人口比を計算すると、屏風浦村が60%、大岡川村が46%です。横浜市に編入された区域は村の約半分の人口を占める、市街化しつつある区域 であったと推察されます。

杉田などの大字は屏風浦村として残るものの、それは母村と同じものではなく、実質的には「分村」です。
そんな気持ちが、単純な「境界変更」でなく、母村を「廃」し、一部を新村として設「置」し、他の一部を「分」けて、横浜市に「合」併する という手続に結実したものと思われます。

変遷情報に戻り、編入対象外の一部【杉田など】による新村設置を、どのように表示したらよいのか?

「新設」だけでは「新設合併(合体)」を指す 現在の定義に合いません。
「分割」の定義には合わないので、その言葉こそ使っていませんが、実質は 村の分割【分村】です。
タイトルに使った「新設分村?」という新語【珍語?】は、苦し紛れの一案ですが、気に入りません。
告知文に記されていた言葉を素直に使い、「廃置/境界変更」のままでよいのか?
グリグリさんは どのような言葉を使うでしょうか?
[93763] 2017年 9月 15日(金)17:21:43【2】hmt さん
東京都練馬区も、「そのまま」存続
[93756] グリグリさん
分立後、現在も全く同じ市町村が存続している自治体を調べてみました(分立後、市制、町制、改称、合併をしていない)。以下の2町11村になります。

最近の分立に関する記事を思い出すために「分立」で記事検索してみたところ、渋谷村や釧路村の記事だけでなく、「板橋区からの練馬区の分立」に触れた記事[93619]がありました。

そこで、練馬区の変遷情報を確認したところ、変更種別は「分割」となっています。
どちらが誤記らしい。変遷情報に分割の根拠が示されていれば これを信頼したいのですが、それが示されていません。
そこで、関係する板橋区・練馬区のサイトを見ました。

板橋区の歴史年表:1947年8月1日 当区面積の60パーセントを分離して練馬区誕生。

練馬区の歴史 練馬区独立小史(練馬区史より抜粋)
これによると、旧制度(東京都制)時代の末期から 地元の板橋区では 練馬区独立の動きがあった。しかし(東京都には無視された形で)1947年3月15日に 35区から22区への再編が実施されたことを知りました。
同年5月3日の地方自治法への切り替え後に、新制度による板橋区議会が、練馬区新設を満場一致で可決。
これにより、ようやく 8月1日からの練馬区独立 が実現しました。

地方制度の変革時期に、このような一幕があったのは、それなりに有用な初知見でした。
しかし 抜粋された記載だけでは、分離独立の手続が「板橋区を分割し、改めて(新)板橋区と練馬区とを設置した」のか、「板橋区の一部を分けて 練馬区を分立した」のか、何れかを判断することができませんでした。

そこで、正攻法の官報を調べることにしました。幸い練馬区発足は、国立国会図書館デジタルコレクションにより無料で閲覧できる範囲【1952(昭和27)年4月まで】に入っています。
検索画面で、キーワード:練馬区、刊行年月日:西暦1947年 を入力するだけで、簡単に 官報第6163号に到達しました。

昭和22年内務省告示第253号
地方自治法第283条において準用する同法第7条第1項の規定により、昭和22年8月1日より東京都板橋区の中 練馬及び石神井 両支所の所管区域を分け、その区域を以て 練馬区を置く。
昭和22年7月31日 内務大臣 木村小左衛門

このように、母体Aの法人格存続を「AのうちBを分け」という言い方で表すのが、「分立」です。[55654]

「分割」と「分立」との混乱については、志紀町から分立?[55649]、栗橋町[80441]、釧路村[93077]などでも問題にしてきました。
今回、その続編の練馬区のケースでは、内務省告示によりそれが「分立」であることを初めて知ったというわけです。
実は hmtの過去記事[74935]でも、「板橋区から練馬区が分離して」という 曖昧な言い方をしていた のでした。

…というわけで、市区町村変遷情報の修正をお願いします。
板橋区の詳細:【分割とそれに伴う再置の情報なので】削除
練馬区の詳細: 変更種別を分立に改め、その根拠を示す。
この修正により、2種類の一覧表【東京都と1947年】は自動的に更新されるものと思っています。

[93756]の対象について
「市町村」ではありませんが、同類である「都の区」【地方自治法第281条第1項により特別区という】を対象に含めることにすれば、東京都練馬区も、「そのまま」存続している自治体の仲間です。

もっとも 練馬区70年の歴史を振り返ると、名前は変らなくても その実体が大きく変化した制度変更がありました。
hmtマガジン区制度の変遷に収録した記事では、制度変更に応じて記号を付けています。
練馬区誕生時の特別区(E1)は、1952年に東京都の内部団体(E4)になり、その自治権が揺らぎました。
「平成12年改革」で基礎自治体の地位を回復しましたが、まだ「市」とは違う「特別区」(E6)です。

詳しくは、[75018][75410]参照。

分立以来70年を迎えた練馬区。分立後、市制、町制、改称、合併をせずに「そのまま」存続していることは確かです。
しかし 実体に踏み込むと、「そのまま」という表現には、少し問題があるのかもしれません。
[93740] 2017年 9月 12日(火)13:38:00hmt さん
栗きんとん
[93733] シノレパシクソさん
中津川市は栗きんとんが有名なのですか?

中津川の「栗きんとん」のことは、2012年の落書き帳で知りました。[80118]ひぃ さん
リンクされた中津川栗きんとんめぐりを開くと、いきなり現れるのは 和菓子の写真です。
潰した栗の実と砂糖だけを煮て作った純粋の栗餡を 茶巾絞りで成形した菓子のようです。

おせち料理の重箱に入っている、栗の実の粒が入った ねばねばした【水飴由来?】「きんとん」とは 別物です。

Issieさんは 信州の小布施にも 中津川のものと ほぼ同じ菓子があると書いていました[80113]
栗100%ということで 私が[80114]で紹介した桜井甘精堂の 「純栗かの子」は、成形した和菓子ではない別物でした。

蛇足
小布施の 「楽雁」は「栗落雁」ではない[62829]
外観が 栗の形をしているだけの「栗まんじゅう」[80106]
[93713] 2017年 9月 8日(金)23:14:37【1】hmt さん
hmt出身地の表記 7年遅れの再修正
[93710]を書いた後で、改めて hmtの出身地を確認しました。
[(相模原市)津久井町」となっており、これは 平成合併に伴う変化【2006/3/20】に対応した修正でした。

その後、2010/4/1の政令指定都市化、行政区設置の際の変化には未対応でした。

そこで、表記が話題になった機会に 7年遅れの再修正: 「(相模原市緑区)津久井町」を検討しました。

これによる影響 その1:リンク先の自治体ページが自動的に緑区のページに変更されるのは当然です。
その2 出身地としては、現在の住所表記から消えている「津久井」という地名[73423]を残ておきたいが、可能か?

幸い、編集画面の冒頭説明は
出身地は 登録者が「出身地と思っているところ」とお考えください。
となっており、出身地として 「過去に存在した自治体名を含む地名」 を書くことが許容されているようです。

テスト結果は OKであり、上記案のように再修正を施しました。
[93710] 2017年 9月 8日(金)19:55:32【1】hmt さん
静岡県駿東郡」に該当する自治体がない その理由
[93709] 特急とりあたま さん
僕は最初は居住地を「静岡県駿東郡」にしようと思ったのですが、

オーナーの説明があると思いますが、偶々目についてしまったので、私が心得ている事項を記しておきます。

落書き帳メンバー紹介編集画面説明文の冒頭部 便宜上箇条書きに修正
1 居住地・出身地には、自治体名称を記入してください。その自治体の公式HPへのリンクを設定します。
2 都道府県名、郡名など省略しても構いません。また、都道府県名のみ、郡名までなど自治体名の省略も可能です。
3 詳しくは[22211]を参照してください。

私としては、原則は 1項であり、2項と3項は補足説明であると承知しています。

1 最初に、居住地としての「静岡県駿東郡」に「該当する自治体がない」理由です。

「静岡県駿東郡」は住所の一部になっている地名なのですが、【現在の】自治体ではありません。
明治後期[62662]から大正時代にかけては「自治体」【現在の法令用語では地方公共団体】だったのですが、大正10年(1921)の「郡制廃止に関する法律」で廃止されました。総務省サイト
なお、郡制廃止の施行は大正12年(1923/4/1)で、郡長や郡役所の廃止は更に後の1926年です。

2 
どこかに「県名+郡名」もOKと書いてあった気がします。

確かに、上記[22211]の例の中に (4)都道府県名+郡名 があります。
自治体名ではないが、例外的に現在も許容されているのでしょうか? 
その後の変更で現在は NG になっており、説明文3項の修正が必要なのか?
[93667] 2017年 9月 4日(月)15:44:37【1】hmt さん
海と島(29)四国近海2題
1 岩礁 「碆(はえ)」地名
[93662] そらみつ さん
ハエは西日本に多く見られる型なので、それだけで一つのコレクションとする方が良さそうです。碆という漢字を使う地域が多いですが、カタカナのハエや礁の表記もあるようです。

「ハエ」地名については、[80231]で言及したことがあります。
Issieさんが PC画面上に表示できるのか? と危惧していましたが、JIS第二水準で表示可能。
会意文字を見ると、「波」頭(かしら)が「石」(岩礁)の上を越えています。

[92092]で言及した稀少地名漢字リストには、孀婦岩[19728]の「孀」のような漢字も収録されていました。
しかし「碆」は収録対象外であるようです。
「碆、ハエ」等の地名は それだけ数が多く、「稀少ではない」ということかもしれませんが、考え様によっては、かえって「やりがいがあるコレクション対象」なのかもしれません。【修正1】

地名に関心がある若い方に、ちょっとだけですが、過去の情報をお知らせしました。

2 日振島
「碆地名」に関連して、宇和島付近の地図を眺めていたら、日振島中央部の 架橋 が気になりました。
古い地勢図には「堺」という地名が記されて地続きのように見え、現在も単一の有人島として扱われています。

平安時代の藤原純友を扱った海音寺潮五郎『海と風と虹と』に記されているように、この「堺」は、かつて日振島にあった4港の一つでした。
現在、この港は放棄されているようですが、歴史的には、やはり単一の有人等として扱うのが正しいようです。

現在の地図では狭い海で2島に分かれているように見えます。
現地訪問記によると、橋の下に海水は全くなかったとのことですが、満潮になれば海水がくるのでしょう。
[93634] 2017年 9月 1日(金)14:47:25hmt さん
政令指定古都・斑鳩町
[93596] 全角2文字 さん
ご承知のように、この辺の生駒郡4町+北葛城郡3町で広域合併を行おうとしていたのですが、斑鳩町と王寺町が…反対し、…この話はご破算、となってしまいました。

法隆寺がある町に住む中学2年生[91244]という自己紹介をしていただいたのは、1年前の夏休みでした。
私も、中学2年生時代のこと[93581]を書く機会が近頃ありましたが、それはなんと 70年前のことでした。

それはさておき、これを機会に、落書き帳で「斑鳩町」の過去記事を調べてみる気になりましたが、以前は簡単に検索できた全記事対象検索が 大きな負荷要因とされ、現在はできません。[93345]
ブツブツ言いながら地図を眺めていたら、[21047]と書き込んだメモが目に留まりました。この番号を頼りに落書き帳を開いてみるとTN さんの記事で、大津市が全国で10番目の古都保存法指定市町村になったことを伝える内容でした。

実は、「古都保存法」については殆んど知りませんでした。正式名称は昭和41年法律第1号 古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法です。
後代の国民に継承されるべき古都における歴史的風土を保存するために 1966年に公布されたこの法律。
立法の背景にあったもの。それは 京都タワー建設計画、奈良県庁舎建設計画、鎌倉の八幡宮裏山宅地造成計画、京都双ヶ岡のホテル建設計画などによる 歴史的環境の破壊が社会問題化したこと でした【世界大百科事典】。

法律に具体的に記されている「古都」は 上記の時代背景にも登場した 京都市、奈良市、鎌倉市 だけでしたが、これに「政令で定めるその他の市町村」が加えられています。

古都保存法に基づく「政令指定市町村」とはどこか?
上記法律の施行令とは別に、古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の市町村を定める政令があり
古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の政令で定める市町村は、天理市、橿原市、桜井市、奈良県生駒郡斑鳩町、同県高市郡明日香村、逗子市及び大津市とする。
と記されていました。

詳しく言うと、昭和41年7月4日の政令第232号に記されていたのは奈良県の5市町村で、逗子市は平成12年政令第4号、大津市は平成15年政令第456号で追加されたものでした。
[21047]は、法定3市(京都 奈良 鎌倉)に政令指定7市町村を加えた 10市町村になった時でした。

最も多数を占める奈良県のサイトから、奈良県の歴史的風土の保存 というページをリンクしておきます。

余談:
ご存知「政令指定都市」もどきの名「政令指定古都」を 勝手にタイトルに使いました。
でも、地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令には、1956年指定の旧五大都市に続いて、1963年以降に追加された15市が 区別なしに並んでいます。
一方、政令指定古都のリストは 法定3市を含まず、追加7市町村のみ。少し様子が違います。
[93622] 2017年 8月 31日(木)18:02:25【1】hmt さん
昭和の大合併
[93619] Takashi さん
落書き帳メンバーの中で、昭和の大合併当時に生きていた少数派でもあり、少し発言しておきます。

出身地については、昭和30年の合併で 本籍地の表記が変更されました。
しかし、「実生活への影響は 殆んどなかった」と言って良いでしょう。
昭和合併当時の私【学生→新卒】の居住地については、合併と無関係でした。

数十年を経過。落書き帳のメンバーになってから、現在の居住地が 昭和合併を経験した村 であることを知りました。
そして 2006年、埼玉県入間郡富士見村誕生から50年ということで 地元の資料館で 展示会が開かれました。
それを機会に記した記事[55364]があります。先ず これを紹介します。

私自身は全くの別世界で暮らしていたのですが、昭和合併当時の実情が少しは推察できると思います。

「昭和合併」が実行された最初のきっかけは、1949年に占領軍から出された「シャウプ勧告」でした。
その基本理念は、国と地方公共団体の間の事務の再配分を実現した上で、地方公共団体の財政を強化することにありました。

国力の衰えた敗戦国・日本の自治体にとり、1947年度発足の義務教育延長(6+3制)は大きな負担でした。
市および人口5000人以上の市街的町村は、公安委員会や自治体警察も負担することになりました。
(警察制度については、1951年から1955年にかけての改正で現行制度に移行。)

時代は異なるが、豊玉小学校[59567]や 越県合併までした大泉村[62334]の時代から、学校経営の費用で地元は苦労していました。

とにかく、小さな町村では財政のやり繰りが大変です。
合理的な自治体運営を可能にする適正規模「人口8000人」の実現。これが昭和合併の大目標でした。

でも 実務となると、どのような組合せで合併するのか 議論百出。その一例を紹介してあります。
埼玉県入間郡の鶴瀬ブロックは 県の試案5村に始まり、福岡村を加えた6村となるも反りが合わず。鶴瀬は南畑の他に水谷も抱き込み、三芳とも交渉。しかし、土壇場に近く登場した 三芳・鶴瀬両村長の名による「誓約書」(の案?)も実らず、「町村合併促進法」最終期限 1956/9/30 の3村合併による 富士見村へ。


そして 別の記事[55377]では、町村合併促進法の枠から外れた後の 三芳村を記しています。

「新市町村建設促進法」に基づく県知事の合併勧告は返上。
上富地区は所沢市への編入を望んでおり、分村の結果として三芳村消滅か?という危機もありました。
しかし、1959年に至り 分村合併取消議案が可決され、三芳村の昭和合併騒動は ようやく白紙に戻りました。

1960年代になると独立の道を守った三芳村に追い風。工場や倉庫の進出で農村の風景が変りはじめました。
余談:今年2月の火災で話題になったアスクルの物流倉庫も三芳町所在。但しこの倉庫は、近年のものでした。

いずれにせよ、昭和合併が目標にした「人口8000人規模」は、合併することなく実現しました。
1977年には最寄りの東上線「みずほ台駅」【町内ではない】も開業し、団地もできています。

埼玉県入間郡三芳町は、財政力指数が1を超える豊かな自治体であり[80514]、昼間人口比率の低い富士見市からの人口流出先[90619]などの落書き帳記事もあります。

昭和合併により人口だけは増えて、1972年から「市」という看板を掲げている富士見市。
昭和合併を拒んだ結果、未だに「郡部」ですが、自治体としての実質は 隣接する「市」よりも上位にある三芳町。

落書き帳の記事を紹介し、昭和合併で異なる対応をした2つの村の現状を見比べてしまいました。
[93581] 2017年 8月 27日(日)17:22:52hmt さん
「明治節」から「文化の日」へ
[93568] デスクトップ鉄さん
武蔵野市の市制施行は、1947年11月3日。(中略)hmtさん、この日学校が休みだったか、記憶にありませんか。

6・3制発足の昭和22年度は 「(旧制)中等学校併設(新制)中学校」という奇妙な学校[22066]の2年生でした。
その年の 11月3日については、残念ながら定かな記憶が残っていません。
下記のように、制度上は 休日である「明治節」が存在したことは確かです。
しかし、学校では 敗戦前のような式典があったのか? その考察は後回しにします…

[93571] グリグリ さん
戦前の祝祭日を規定した「休日ニ関スル件」の勅令廃止のタイミングを念のためネットでいろいろ調べてみましたが、確実なところはわからないのですが、昭和23年に入ってからのようですね。

日本国憲法は、第二次大戦が終った翌年の昭和21年(1946)11月3日【明治節の日】に公布され、半年後の昭和22年(1947)5月3日に施行されました。
これが国民の祝日・憲法記念日の由来ですが、11月3日も国民の祝日・文化の日になっています。
日本国憲法の中で使われた「文化」という言葉は1ヶ所だけ(第二十五条)ですが、戦争放棄・主権在民・基本的人権を宣言した日本国憲法の目指した国つくりの基本理念は 平和と文化 にあり、それ故に公布の日を「文化の日」にしたと思われます。

日本国憲法が施行された翌年、昭和23年の官報に掲載された 昭和23年法律第178号 国民の祝日に関する法律を示します。
1948/7/20 公布当時の 祝日は、僅かに年間9日でしたが、第二条には次のような趣旨が記されています。
文化の日 11月3日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。

第三条に 「国民の祝日」は休日とする。…従来の勅令と同様に、政府機関の休日という意味でしょう。
続く附則の2には、「昭和二年勅令第二十五号は、これを廃止する。」とあります。
これにより、昭和2年の勅令で定められていた「明治節」は 1948/7/20 に廃止されたと判明します。

順序が逆になりますが、11月3日の「明治節」が新設された 昭和2年勅令第25号 休日に関する件改正を示しておきます。

この時の改正内容について:
天皇の代替わりに伴う改正ですから、当然のことながら天長節の日付変更。
先帝祭【先代天皇の命日を祭る】が 明治天皇祭から大正天皇祭になり、日付も変更。
そして明治節の新設。日本の近代化を進めた明治天皇の遺徳を 明治天皇祭廃止後も継続させるため。
ほぼ同じ季節に存在した天長節祝日#(10/31)の廃止で、休日数 12 は変化せず。

明治天皇の誕生は、当時使われていた天保暦の嘉永5年9月22日でしたが、明治6年以降使われているグレゴリオ暦に換算して「天長節」は 11月3日とされました。この日は 明治時代から「晴天の特異日」として知られていました。

代替わりした大正時代。前の天皇を偲ぶ日は、命日・7月30日の明治天皇祭になりました。
大正元年勅令第19号 休日に関する件を見ると、入れ違いに廃止された旧規定は、明治6年太政官布告第344号であり、天長節11/3、孝明天皇祭1/30など若干の変更はあるものの、明治初年以来ほぼ同内容の規定であったことが知れます。なお、明治5年以前のできごとに関わる日付、例えば紀元節[49122]は、すべてグレゴリオ暦換算です。

# 大正時代には、天長節の盛暑を避けた2月後遅れの天長節祝日という休日が存在しました。Wikipedia

それはともかくとして、「四大節」の一つと数えていた1月1日(四方拝)。
大正元年と昭和2年の勅令「休日に関する件」の記載に基づけば、この日は【S23年までずっと】休日でなかった!

この衝撃的な情報は、私にとって初耳でした。象徴天皇になった現在はともかく、国家元首だった時代の天皇にとり、正月元日は伊勢神宮を始めとする天下四方の神々へのご挨拶から始まる「仕事始めの日」であり、「休日ではない」ことを思い知りました。

武蔵野市を追加[93571]していただいたリストですが、四方拝の日に市制施行した5市をどのように扱うのか。
千葉市1921, 足利市1921, 直方市1931, 高槻市1943, 新発田市1947。

現代の常識からすれば、「休日に市制施行した市」 と考えるのが自然であるように思われます。
勅令には従っていませんが、現在のままで良いと思うのですが、いかがでしょうか?

後回しにした、70年前の 11月3日。学校での明治節式典について。
「旗日」という言葉も生き残っていた時代ですが、「日の丸」を掲げたり「君が代」を歌うのには、若干の憚りが感じられる雰囲気もあった OCCUPIED JAPAN でした。
式典など行なわず、「ただの休日」として、無難に過ごしていたのかもしれません。
[93101] 2017年 8月 11日(金)17:02:48hmt さん
手賀沼の干拓
込み入った隣接関係の話題・根戸新田[93095]は 手賀沼西端でしたが、マピオン 14スケール図で もっと広い範囲を見ているうちに、手賀沼の東側が気になりました。

画面の右半分に整然と並んだ耕地割。昔は利根川水運[1643]で賑わった布佐[65861]付近迄続く、広大な沼だったことがわかります。
柏市東端付近・浦部村新田にある手賀沼の文字も、広かった沼の名残を示しています。

明治10年代のフランス式迅速測図に基づく歴史的農業環境閲覧システム[65097]によって、布佐付近まで広がっていた頃の手賀沼を確認することができます。

千葉県東葛農業事務所>土地改良の歴史の中に 「手賀沼干拓の歴史」があり、小さいが新旧地図が掲載されていました。

そのページによると、手賀沼干拓は 江戸時代から何度も 挑戦の歴史がありました。かいつまんで記すと…

享保4年(1729)には 井沢弥惣兵衛[67664]の指導による工事が完成。千間堤を築いて下沼と上沼を分けて別々に排水して下沼に新田を作ったが、洪水で千間堤が決壊し、完成から10年で失敗に終る。
田沼意次による工事の効果も大きく、手賀沼新田は復興の兆しを見せたが、これも未完成のまま中止。

明治以降も再三の計画が着手に至らず、洪水の被害は深刻。
第2次世界大戦後の深刻な食糧危機から、農林省直轄工事で本格的な干拓が始まり、手賀沼の東部分を干拓して 435haの農地がつくられました。西に残る水域650ha(上沼)は貯水池化し用水を確保、25km2を灌漑。
この事業は、昭和43(1978)年に完成しました。

戦前の地図帳を見ると 手賀沼は面積 12km2で、「主なる湖沼」の一角に位置していました。
ところが、現在の調査実施湖沼一覧には 手賀沼が 掲載されていません。
しかし、東半分の干拓により生まれた耕地と、農業用貯水池として残った西半分の手賀沼とは、我が国の乏しい食料自給源としての役割を 立派に果しているのでした。

おまけ
少し下流の印旛沼の地図です。手賀沼より大きいので、13スケールで示します。
干拓により分断された現在の印旛沼
明治時代の印旛沼

もちろん、印旛沼干拓についても、江戸時代から戦後まで、干拓の歴史が積み重ねられています。
[93095] 2017年 8月 10日(木)12:42:57【1】hmt さん
手賀沼西端の 根戸新田
[93091] 通りすがりさん
4
飛び地コレクションの中に、グレートジャンクションもどきがありました。
関係市町村は柏市、我孫子市、柏市、我孫子市です。
マピオン

示された場所は、北柏ふるさと公園の一部、30m四方ほどの小さな土地で、手賀沼西端の埋立地のようです。
公園は その名が示すように 大部分は柏市なのですが、この小さな土地だけが 我孫子市根戸新田となっており、2点で点接触しているのですが一応は我孫子市の飛び地です。
しかもその東に100mほど伸びる細長い土地は 柏市根戸新田(の2点接触飛地)。
地図を見ながらでないと 言葉で説明しても判り難い 奇妙な隣接関係です。

我孫子市も柏市も 母体(点隣接)飛び地(点隣接)母体 という関係なので、4自治体が関係する普通の点隣接と違い、関係自治体は2市だけとなっており、面積と共に「グレート」とは程遠い「ジャンクション」です。こんな市町村境があることは初めて知りました。

この小さな場所に、2点の「グレートジャンクションもどき」だけでなく、「飛び地」や 「自治体越えの地名」【注】までも盛り込まれた複雑な土地です。

【注】我孫子市根戸新田/柏市根戸新田
参考までに、近くの呼塚新田(よばつかしんでん)は[87252]で情報提供され、コレクション収録済みです。

複雑な隣接関係になった由来を解明することはできませんでしたが、合併時の住民意向が関係したようです。
参考ページを紹介しておきます。

(手賀沼を)干拓し埋め立てたのが「根戸新田」。だから、柏市(にも根戸新田、あります。ここら辺は、合併時に地区毎の投票で柏市に付くか、我孫子市に着くか決めたところですので、飛び地があったり、市境が入り組んでいたり…)に接するところから、我孫子駅から下って来る手賀沼公園のところまで、全部「根戸新田」。
[93088] 2017年 8月 8日(火)16:05:11【1】hmt さん
なぜ「グレート」なのか
[93085]の問いかけに関して、[93084]の検索結果よりも更に古い記事に求めた[93086]
その方向は正しいのですが…
「検索範囲」を「全記事」にするだけでなく、「検索順序」にも配慮する方がよかったのです。

表示件数はともかくとして、このサイトで話題になった古い記事の調査ですから、先ずは「検索順序」を「古い記事から」に変えて検索しましょう。
「グレートジャンクション」という言葉が、落書き帳に最初に登場した 2004年の記事が出てきます。

[23953] みやこ♂[みやこ] さん 日本のグレートジャンクション
アメリカには「グレートジャンクション」というのがあって,両手両足で4つの州を股にかける(?)ことができるそうですが,県レベルでは我が国にはありませんよね。(中略)
ところでこれを市町村まで広げたらどうなんでしょう。どこかに4つ以上の市町村が交叉しているポイントってないのでしょうか。(中略)個人的には,「北海道の後方羊蹄山頂がそうだ!」と睨んでいるのですが。

アメリカの「フォーコーナーズ」[11033]に類似した 特異的境界点 なのですが、「グレートジャンクション」は
日本の市町村境界における用例として、このサイト内で すっかり定着している言葉 なのです。
そのように ご承知ください。

【追記】
[93086]の検索結果は新しい方から10件だけが表示されているので、見掛けは[93084]の結果とあまり変りません。
しかし、末尾の指示に従って「次の50件」を検索すれば、「全記事」から抽出された多数記事の末尾に上記[23953]が現れます。
この点が、範囲7000番以降で検索した[93084]と違っており、「貼り直し」は全く無意味ではなかったのでした。
[93080] 2017年 8月 6日(日)17:49:59hmt さん
遠距離通勤
白桃さんの全国的視野に立つ「広域都市圏設定」[93066]と直接の関係があるわけではありませんが、
2015年国勢調査の就業・就学者のデータ
を使えば、遠距離通勤の一端を知ることができるのではないかと考え、とりあえず埼玉県のデータを眺めてみました。
平成27年国勢調査 従業地・通学地による人口・就業状態等集計 00302_11.csv

埼玉県に常住する就業者・通学者 3858637人【100%とする】。 この内、自宅を含む自市区町村で従業・通学するのは 1394941【36.2%】であり、他市区町村への通勤通学 2256143【58.5%】の方がずっと多いようです。
両者を加えた自他市区町村合計が常住従業通学者数にも合わないのは、従業地・通学地「不詳」が 207553【5.4%】もいるため。
「仕事先の市区町村」を問われて、外国出張中の場合「答えられない」のは当然ですが、国内であっても 家族が従業地を答えられない場合が 意外に多数あるようです。

通勤通学距離の判定には直結しませんが、埼玉県内の他市区町村 1049615と、他県 1066918とは ほぼ同数。
これは、930050【24.1% 埼玉県常住就業通学者数に対する%、以下同じ】と圧倒的な通勤通学者数を占める東京都 に隣接する 埼玉県ならではの特徴でしょう。

東京都に次ぐのは千葉県42850【1.1%】、群馬県【0.8%】、神奈川県28067【0.7%】で、やはり隣接県優勢。
その先は茨城県【0.37%】栃木県【0.26%】で、遠距離通勤と言っても この辺が限度なのでしょう。
通勤の実態があるかどうか疑わしい点もありますが、一応 0.1%未満0.01%以上の数値が出た県を多い順に並べておきます。
福島県【0.03】愛知県【0.03】大阪府【0.03】宮城県【0.03】静岡県【0.03】長野県【0.02】新潟県【0.02】山梨県【0.02】北海道【0.01】福岡県【0.01】

県単位のデータだとこんな結果でしたが、市町村単位ならば、もっと詳しい様子を知ることもできます。
例えば富士見市常住就業通学者数 57680【以下これを100%とする】を対象にすると、富士見市内での就業通学者は僅かに 13883【24%】であり、自治体内での就業通学は埼玉県全体よりも更に低下しています。これは、就職先・通学先が市内に整えられていない住居地域であることを物語っています。

…で、就業通学の受入先を見ると予想通り東京都17950【31.1%】が圧倒的です。特別区【28.9%】の中では池袋のある豊島区【4.0%】がトップであり、千代田区・新宿区・板橋区・港区・渋谷区・中央区と続く姿からは、鉄道の威力が見えます。

タイトルの遠距離通勤からは離れますが、巨大な東京特別区の存在は別格として、近隣市町への就業通学状況を見ると、入間郡三芳町【6.34%】が川越市【5.0%】・ふじみ野市【3.9%】を抑えて首位になっていることが注目されます。これに続くのは新座市・朝霞市・志木市・所沢市で 2.8%~2.1%の範囲。

三芳町については、財政力指数で注目していた[80514]だけでなく、昼間人口比率の低い富士見市からの流出先としても記事になっていました[90619]
「市」という看板こそ名乗っていませんが、自治体としてのランクは 上位にあると評価しています。
[93077] 2017年 8月 4日(金)20:44:46【1】hmt さん
町を母体とする村(3)北海道釧路村のケース
[93051] hmt 神奈川県高座郡渋谷村のケースでは、取り留めのない状態で長文を記し、失礼しました。
変更種別の詳細説明に記されている現在の定義には合っている。
としながらも、
渋谷町廃止なのに「分立」とは、言葉として違和感があるのではないか? 
という疑問を捨てきれず、「変更種別についての考えは迷走状態」を続けてしまいました。ところが…

[93065] グリグリさん
町から同一名の村が分立した例として、C.(4)【誤記】 8の釧路村と33の渋谷村があります。
を見たことを契機に、「C.(3) 町からの分立で村」に収録されている事例 1920/7/1「釧路町→釧路区と釧路村」の当時の記録を、1980年に町の名を取り戻した釧路町のサイトによって調査することにしました。

釧路町のあゆみに収録されていた 北海道庁告示大正9年第447号
-----------
釧路郡釧路町ヲ分割シ2級町村トシテ釧路村ヲ置キ大正9年7月1日ヨリ施行ス
其ノ境界左ノ如シ【引用省略】但シ区域図ハ関係町村役場ニ置ク
大正9年6月27日
北海道庁長官 佐上信一
-----------

釧路市の参考資料では、分割で釧路村が置かれたのを大正9年6月27日としていましたが、これは誤って告示日を記したものであり、施行日は大正9年7月1日、つまり 釧路に 北海道区制(明治30年勅令第158号)[74376]が施行されたのと 同日です。

余談ですが、釧路区発足日について:
最初に行なった変遷情報検索にミス【デフォルトにない「区制」を入れ忘れ】があったので、念のために原典の 大正9年6月24日内務省告示第52号も確認しました。
北海道区制第3条に依り大正9年7月1日より北海道釧路郡釧路町を釧路区と為す
大正9年6月24日 内務大臣 床次竹二郎

本筋に戻ります。
釧路村を置く告示文には、「分立」でなく 「分割」と明記してありました。
こちらのサイトの変遷情報では「分立」となっているのですが、変更種別の詳細説明の「分割」は
ある市町村を廃止し、その区域を分けて二以上の市町村を置くこと
ですから、釧路区も市町村の同類であるとと拡大解釈すれば、変遷情報における この説明に合いそうです。

一方、分立の説明には「ある市町村の区域の一部を分け」という言葉を使い、この説明にも合いそうです。

このように紛らわしい「分割と分立」をどのように使い分けるのか?
釧路のケースについて言えば、告示文に従い「分割」としたいところです。

基本姿勢としては、母体と分体とが「同時に存在」した時期があれば「分立」、なければ「分割」でしょう。
グリグリさんも、この姿勢に基づき、【瞬間的にせよ】同時に存在した可能性を考えて、[93065]では
釧路町/釧路村、渋谷町/渋谷村が同時に存在しました。
渋谷町から渋谷村が分立し、同日に渋谷町は藤沢市に編入されたという現在の分類が一番分かり易くすっきりしていると思いました。
としたのだと思われます。

しかし、告示文で「分割」と明記された釧路の事例を前にすると、瞬間的同時存在説を信じてよいのかどうか迷います。
類似する高座渋谷の事例。こちらに「分割」の可能性はないか? …と もう一度粘ってみます。

[32467] Issie さん
1955年4月に 神奈川県高座郡渋谷町 が「分割」されて,北半分が「高座郡渋谷村」という“新しい”自治体に,南半分が藤沢市に編入される,というできごとがありました。
という記載は、分立・分割の厳密な区別を意識したものではないかもしれませんが、事実上は「分割」であるという見方を正直に伝えています。

もちろん、母体の行先は釧路区設置と違い藤沢市への編入ですから、同日に効力が発生する2件の告示[32478]であっても、「二以上の市町村を置くこと」には該当しません。だから釧路村が「分割」であっても、渋谷村は「分立」。
そう言われれば、引き下がる他ありません。

やはり母体の長後地区でさえも自治体としての地位を失った高座郡渋谷町は、分割に値せず……ということか。

変遷情報に関して、有益な追加情報の記事番号を追記することは [80446]で提案され、最近も その事例があります[93064]
話題になった変遷の告示文を紹介した[32478]やこの記事の番号も、変遷情報への追記により、その信頼性確保に役立つことと思われます。今回の事例で告示文の重要性を感じた機会に、一言付け加えました。
[93067] 2017年 8月 2日(水)20:37:38hmt さん
「山冠に品」という文字 = 山にあるゴツゴツと角張った大きな岩
[93061] 通りすがり さん
大蛇ぐら(奈良県吉野郡上北山村)
くらは山冠に品です。表示できないみたいです。

この落書き帳の中で、稀少地名漢字リストというサイトが紹介されています。関係記事

奈良県を開いてみます。「山冠に品」という文字【注】は後半に出ており、 [JIS第3水準], Unicode: 5D53 であることと共に、多数の用例も示されています。
【注】以下 落書き帳の文中では この字を [山/品] と表記します。読みは 連濁「グラ」が多数。

リンク先の大部分は地理院地図であり、その中から主な「○○[山/品]」地名を拾ってみます。

大台ヶ原山関係
日出ヶ岳の西方、熊野川の源流に臨む岸壁に千石[山/品]・蒸篭[山/品]・大蛇[山/品]が並んでいます。
地理院地図では山頂を「日出ヶ岳」とし、「大台ヶ原山」は 「原」を意識した意味で使われています。

マピオンの表記は、山頂に「大台ヶ原山」を使い、「大台ヶ原」は もっと広い山塊に使っているようです。千石ぐら・蒸篭(せいろ)ぐらの表示はあるものの、何故か大蛇(だいじゃ)ぐらは無視されています。

分水嶺を越えた三重県の大杉谷には宮川が流れ、平等[山/品]・大日[山/品]・そして宮川ダムより下流に天狗[山/品]。
余談ですが、大台ケ原ドライブウェイの北側・川上村は紀伊水道に注ぐ紀の川水系。まさに近畿の屋根です。

東日本にも[山/品]地名があります。尾瀬の燧ヶ岳(福島県檜枝岐村)には俎[山/品]と柴安[山/品]。
少し離れますが群馬・新潟県境を関越トンネルが抜ける上には尾瀬と同名の俎(まないた)[山/品]。

【クラ/連濁でグラ】という訓読みの由来は知りません。
しかし、この文字の意味するところは「山にある角張った(品)大きな岩塊・岩壁(いわお=巌)」でしょう。
元々「岩」は「巌」の俗字であったとも言われます。「山」と「品」との組合せなら、上下どちらでも同字です。
地名に使われるのは「山/品」ですが、元々は[品/山]と思われ、「癌」という漢字の音符に使われています。

ジオジャパンの第2集では、日本列島を作った3番目の大事件として、1400万年前の巨大噴火で作られた紀伊半島を取り上げていました。
大蛇ぐらなどがある「大台」の山も、同じ時期の巨大噴火によるもののようです。
紀伊半島の巨石をテーマにした番組。タイトルの象形文字を思い浮かべながら、興味深く視聴しました。
[93055] 2017年 7月 31日(月)16:23:47【1】hmt さん
武蔵国小山田城主伊豆守さん
[93054] 伊豆之国 さん
「戦国市盗り合戦」でその昔「出羽国仁賀保一夜城主」を名乗ったこともある、武蔵国小山田城主伊豆守

「小山田城」の存在は全く知らなかったのですが、所在を調べてみました。
意外にも、私の母の実家・武蔵国【南】多摩郡小野路村【鶴川村を経て町田市小野路町】[33902]の西隣。

そこで興味をそそられて調べてみたら、「初代城主」は 12世紀の源平時代 この地の別当(馬牧の管理者)として赴任した小山田有重という東国武士でした。

地名の小山田も、武蔵国【南】多摩郡下小山田村>忠生村>町田市下小山田町として、現在に伝えられています。

そして歴史の記録に残る「小山田」は、16世紀の戦国時代末期、武田氏滅亡に関係した 郡内【甲斐国都留郡】の有力武将・小山田信茂でした。

Webを調べたら、戦国武将を研究されている方による 小山田城、小山田氏に関するページがありました。
現代の城主・伊豆之国 さん は既にご存知のことと思いますが、せっかくの機会なので紹介しておきます。

小山田城の訪問記(町田市の大泉寺)~自然豊かな多摩の伝承地

小山田記~ 現認・小山田氏400年の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
 副題にある「まとめ」から、多数のリンク記事を見ることができます。
 「全部見るとかなりの時間を要する」と断ってありますが、なかなかの力作のようです。

私も一部分しか読んでいませんが、小山田有重の子で 同じく多摩丘陵の稲毛荘に進出した 小山田(稲毛)重成は 源頼朝が落馬した馬入川事故[42974] の関係者でもあったとか。
[93053] 2017年 7月 30日(日)11:50:38hmt さん
秋田県にかほ市 象潟町
今朝のテレビ・小さな旅。「水鏡の郷 潤う~秋田県 にかほ市」というタイトルでした。

1689年 芭蕉が 浅い海に浮かぶ九十九島を舟で巡った 象潟(きさかた)。
松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し (奥の細道)

その後の象潟地震(1804)で潟湖の底は隆起し、松島と対比された景観は失われました。
水田化した土地ですが、田植え時に水が張られると、かつての多島海を彷彿とさせる面影になるとか。
国指定天然記念物「象潟」(九十九島)。

番組のテーマは鳥海山起源の冷たい湧き水【海底にも湧出し、岩牡蠣を育てる】であり、昔の名勝と直接関係なし。
でも、「九十九島」が度々使われていたのに、「象潟」という地名が 一度も登場していなかった。
そのことが気になりました。

2005年の平成合併で「にかほ市」になり、旧町名でもあった有名地名「象潟」は使われなくなったのか?
羽越本線象潟駅は健在ですが、住所地名は?

そこで、にかほ市のサイトを調べてみたら、町名一覧は見出だせなかったのですが、
どうして合併したのに『象潟』の名前が強調されるようなイベントや物事が多いのですか?
住所も象潟だけ、秋田県にかほ市象潟町~と『町』が付くし、…
という意見があり、市の回答は次のようでした。『象潟』について
住所については、「にかほ市」の後の大字名は旧町ごとに町内会の代表が決定したことで、旧象潟町の町内会の代表の中で「象潟町」を残したいと決定し、旧金浦町、仁賀保町では旧町名は残さないと決定したことです。

どうやら私が気にしたことは杞憂だったようです。
改めて「象潟」と「にかほ」について、地名の由来を調査。

コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
象潟という地名は、かつてこの地で蚶貝(きさがい)が多くとれたことに由来し、蚶方(きさかた)から象潟に変わったといわれる。

仁賀保の名前の由来 合併前の仁賀保町史を引用

変遷情報詳細
2004/12/20 新市役所の位置を変更(金浦町役場→象潟町役場)
新市名最終候補6点:にかほ,象潟(きさがた),このうら,しらせ,仁賀保(にかほ),日本海
新市名:にかほ市
市役所:象潟町役場

市役所を象潟に譲り、前町長時代は合併に消極的だった象潟町復帰を確実にし、市名は「ひらがな」で決着?

【おまけ】
新市名候補に挙げられていた「しらせ」の由来は、由利郡金浦町出身の南極探検隊長・白瀬矗です[42889]
[93051] 2017年 7月 29日(土)17:33:55hmt さん
町を母体とする村(2)神奈川県高座郡渋谷村のケース その変更種別は「分立」なのか?
[93020]の末尾で予告した「高座渋谷」に着手できない間に、「町を母体とする村」スレッドの発端とも言える 明治39年愛知県幡豆郡での3町降格事件? について、興味深い記事が [93031][93041] YT さん により紹介されました。
『一色町誌』 (1970年)に基づき、郡制施行時代における財政負担軽減という動機を示したものです。

府県と町村との間に 「地方自治体である郡」が存在した時代のこと。
地方行政に関する権限の所在は 現在と大きく異なっていました。20世紀初頭の 1906年と言えば、3段階[51042]で整備されてきた郡制度の完成形と言える「新・郡制」が施行されていた時代です。

郡立の学校があったり、郡による干拓・埋立事業が行われたり。形骸化した 現在の郡とは大違いです。
実例1:大住・淘綾(ゆるき)・足柄上三郡共立学校[4939] 神奈川県立秦野高校の前身です。
実例2:稗貫郡立(花巻)農学校[51042] 宮沢賢治が教員をしていました。
実例3:熊本県八代郡 郡築新地→郡築村[85117] 「郡築」という名称自体が印象的です。

その一方で、独自の「郡税」がなかった郡役場の収入源として存在した「町村分賦金」[83665][93041]
その負担を和らげる手段として使われたのが「合併を機会に、町という看板を降ろして村になること」。
なるほど。

本筋から外れていますが、参考までに 郡の末路を記しておきます。
わが国の産業構造・社会構造が大きく変ってゆき、地方行政機関としての郡制度は時代に合わなくなってゆきます。
「郡会廃止」により郡が地方自治体の地位を失ったのは 1923年でした。
郡長や郡役所は県の出先機関として残されましたが これも大正と共に終りを告げ、郡は単なる地域区分に戻りました。


明治時代の愛知県幡豆郡を離れて、昭和の神奈川県高座郡に移動し、変遷情報検索で渋谷を調べます。結果

「高座渋谷」は小田急江ノ島線の駅名です。1929年江ノ島線開通当時の郡名を冠しています。現在は大和市。
東京の郊外電車なので、【東京の】渋谷駅と区別できる駅名にしたのは当然のことです。
余談ですが、1940年に小田急が帝都電鉄を合併し、その後 1942年大東急になり、1948年大東急解体。この間の江ノ島線は、東京の渋谷をターミナルとする井の頭線と同一会社内でした。
小田原・江ノ島・井の頭の3線が描かれている昔の地図式車内補充券。渋谷と高座渋谷が同居しています。

それはさておき、自治体名は 1889年の高座郡渋谷村から 1944年に渋谷町になっていました。
注目すべきは、昭和合併時代の動きです。
最終的には大字長後など南部地区の藤沢市編入(1955/4/5)と、大字福田など北部地区の大和町編入(1956/9/1)との2段階の手続で【実質的に】分割されるのですが、この間の5ヶ月弱、北部地区には「2度目の高座郡渋谷村」が存在することになりました。

変遷情報詳細 によると、「高座郡渋谷町の一部」を「分立」し、「渋谷村」とした となっていますが、その渋谷町は 同日に藤沢市に編入され、消滅しています。一部【北部】を分立した以上、藤沢市に編入されたのは南部だけの筈であり、これが変遷情報詳細に「渋谷町(同日付けで分立した(新)渋谷村を除く渋谷町全部(大字長後, 大字高倉))を編入」と記した根拠になっています。

「分立」を前提とすれば、この記述はそれなりに筋が通っているようです。
しかし、「分立した(新)渋谷村を除く渋谷町全部を編入」という持って回った表現が少し気になります。

分立後もそのまま存続する筈の母体が編入によって消滅するのならば、そもそも「母子共に健在」を前提とする「分立」という変更種別を使ったのが不適当なのではないか?

余計なお世話かも知れませんが、「分立」でない可能性も考えてみました。

変遷情報には記録されていませんが、落書き帳内を「渋谷村」で検索すると、[32478] 林檎侍[花笠カセ鳥]さん の記事「渋谷町から渋谷村へ」があり、昭和30年に出された2件の総理府告示が示されています。

総理府告示 S30-909  S30/3/30 市町村の廃置分合 Aを廃し、A1の区域を藤沢市に編入
総理府告示 S30-1112 S30/4/ 4 町村の廃置分合  Bを廃し、B1の区域をもって渋谷村を置く
告示日付は違いますが、効力発生は 共に S30/4/5 であり、前後関係はありません。

渋谷町関係分は A=渋谷町、B=渋谷町 であり、2つの告示の前半は同内容【渋谷町の全域廃止】です。

B1の区域は、先に【北部】と略記した区域です。告示 S30-1112 の廃置分合により(新)渋谷村設置。
ここで注目したいのは、この告示が「渋谷町のうちB1の区域を分けて」という言い方をしていないことです。
「分立」ならば、「分け」と記した筈ではないのか?

[55654] 88さん は、「分立」 or 「分割」を論じた記事の中で、戦時合併した栗橋町の分立告示を例示し、 
「埼玉県北葛飾郡栗橋町のうち、○○を分け」というのが、「分立」の表現です。つまり、栗橋町そのものの法人格は存続する、ということです。
と説明し、「母体の一部が分かれ、母体の法人格も存続」が「分立」を裏付けているとしているようです。

「渋谷町を廃し」で始まる告示 S30-1112 の廃置分合は、「分立」ではないのかもしれない。
変更種別の詳細説明に記されている現在の定義には合っている。
しかし、分立した母体が廃止される 渋谷町のようなケースは 想定外 だったのではないか?
そもそも、母体の法人格が残るからこそ、「分かれる」のであり、渋谷町廃止なのに「分立」とは、言葉として違和感があるのではないか? 渋谷村の場合は、もちろん「分割」でもない。

総理府告示 S30-1112 に基づく(新)渋谷村のケースは「一廃一置」です。これに適用すべき変更種別は?

現在の変遷情報では「分立」となっていますが、変更種別の詳細説明の中から、他の候補を強いて選べば、「村制」になってしまいそうです。
「一廃一置」の代表例は 単独「市制」です。
法人格継承は別として、単独「町制」も これに近い。
渋谷町とは別法人の渋谷村を作るプロセスを「村制」と呼んでも、言葉としての違和感はなさそうです。

もっとも、既存自治体の廃止を伴わない「設置だけの村制」事例[85102]とは、明らかに異なります。
別の変更種別を作るべきかもしれません。
…と、変更種別についての考えは迷走状態が続きます。

[1756][32467] Issie さん の考え方も、分立のような「継承関係」を否定し、たまたま同じ名前の「別個の存在」と理解しているようです。
以前この地域に存在した自治体の名を採って「渋谷村」としたけれども,形式上は昔の「渋谷町」をチャラにし上で,「全然関係のない」新自治体が編成された,ということになるのです。
もちろん,現実には旧渋谷町の組織を引き継いでいるのでしょうが。

新しく設けられた「渋谷村」はこの「渋谷町」を直接継承したものではなくて,これを分割して【引用者注】「新・渋谷村」と「藤沢市」のそれぞれに“引き取られた”と理解したらいいのだろう,と考えています。
【引用者注】もちろん制度としての自治体分割ではなく、実質的な分割という意味です。

取り留めのない状態ですが、これで渋谷村設置に関する問題点指摘?の長文を終え、失礼します。
[93043] 2017年 7月 28日(金)15:00:23hmt さん
文字数逆転 甲州市塩山の「かわだ」という地名
[93024] 通りすがりさん 訂正のお願い

甲州市教育委員会による地名の由来です。出典
昔、重川の西に西広門田(にしかわだ)、東に東広門田(ひがしかわだ)と呼ばれる二つの村があった。重川の度重なる氾濫によってある時、東広門田が流され西広門田が残った。その後、西広門田(にしかわだ)を「かわだ」と呼ぶようになった。
広門田(かわだ)は鎌倉時代の1274(文永11)年に建立されたという『広門田山(かわださん)法伝寺』の山号に由来するとされる。

これに基づいて解釈すれば、「かわだ」は「広門田」という山号の読みであり、元々は文字数逆転ではなかった。
笛吹川の支流である重川(おもかわ)と塩川との合流点付近の氾濫により東広門田が失われ、残された「西広門田」が 漢字4文字の地名「西広門田」 と 「かわだ」という3音の呼び方 とを継承した結果、文字数逆転が生じた。

ネットで軽く検索しても「東広門田」で「やまだ」と読むという情報はここ以外には見つかりませんでした。

ネット検索で現れるのは、ベコヤマベコタロウさん[20521]ご本人の記事[32838]だけですね。
※地名にはありませんが、「東広門田」は「やまだ」と読むらしいです。[32838]参照。
でも、塩川の東側の地形は 「かわだ」に対応する「やまだ」にふさわしくないように見えます。
出典が定かでなければ、備考欄の「やまだ」説を紹介した部分は削除しておくのが無難なように思われます。
[93020] 2017年 7月 24日(月)16:01:45hmt さん
町を母体とする村(1)新設合併・分割・分立
1906年 愛知県で行なわれた町村再編に際して 幡豆郡で起きた珍らしい出来事。
それは「町を含む新設合併による村の誕生」でした。しかも1村だけでなく 3村も。何故か[92993]

こんな質問に端を発して提供された 一群の調査データがあります。[93006] グリグリさん。

「町が村になるのは珍しい」という常識は 誰でも抱いていたことと思われますが、変遷情報の立場で整理された今回の調査結果を見せられ、改めて私の感想を記します。

最初は、「町を母体とする村」として「3種類があり、それぞれの数を知った」ことです。

1 町を含む新設合併による村

新設合併による 9800村 のうち、これに該当するのは 僅かに9村でした。
しかも、内5件は母体の町の一部だけの関与であり、佐渡の新町村?も除けば、残るは幡豆郡の3村だけ。

町村制初期には 町と村との区別が さほど意識されておらず、町となるべき要件【地方自治法地方自治法第8条第2項】も未制定でした。種別を示す文字は、「適当に選ばれていた」と思われます。。
それでも、町の全部を含む合併によって生まれた3自治体を「村」にした 幡豆郡の事例は、珍しかったのでした。

2 町の分割により生まれた村

「分」も「割」も意符に「刀」が使われています。
「町村の分割」とは、多少の無理は承知の上で、力づくに頼っても 別の自治体になるのだ。
そのような決意を感じさせる言葉です。
[93006]の「分割情報一覧」で示された 163事例の大部分は、村の分割→複数の村 でした。

「町の分割」となると それ自体が少数であり、町の分割により生まれた村を数えると、15村でした。

分割情報一覧 #1~#2 網走町→網走市と東藻琴村への分割。
市と村に分割するという組合せ。いかにも異例ですが、それだけに 異質な存在であったことが窺えます。

#3~#7 青森県木造町の事例は、分割手続でなく、境界変更でもよかったのでは? と思わせる内容です。
実質的に新町村は誕生していないので、町の分割により生まれた村にはカウントしていません。

埼玉県の事例。3組15町村 #40~#54 は 戦時合併解体の典型例【[80464] No.5. 6, 8-10】です。
カウントした全国15村の内、12村が ここに集中していましたが、もちろん戦時合併前の旧村の復活です。

興味深いのが、これも戦時合併がらみですが、1950年に熊本県三和町の分割で #152 高橋村が誕生した事例です。
1889/4/1【生まれながらの町】飽田郡高橋町。戦時合併で池上村、城山村と合併し三和町となっていました。

[53580] むじながいり さんの記事があります。ここでは「高橋村として分立」と記されていますが、変遷情報によると、1949年 池上村分立の後、1950年に城山村と高橋村に分割 となっていました。
いずれにせよ、高橋町→(戦時合併時代の三和町を経て) →高橋村 という変遷です。

3 町を母体とする分立により生まれた村

[93006]の「分立情報一覧」には244件のデータが示されています。これだけでも「分割」より多いのですが、実質的には「分立母体」となった町村も影響を受けているので、これを加えれば更に多数になります。

「町を母体とする村」という見地で最も有名であり、しかも現存している自治体は、長野県上伊那郡宮田村【分立情報一覧の #124】です。
[93006]末尾に紹介されているように、直接に宮田町→宮田村の変遷があったわけではなく、
駒ヶ根市を経由していますが、宮田村 → 宮田町 → (駒ヶ根市) → 宮田村、と町から村へ実質的に戻った例
です。

次に、[93006]の「分立情報一覧」 #102 として記録された 神奈川県高座郡渋谷村 について記したいのですが、長くなりそうなので、別記事にします。
[92995] 2017年 7月 19日(水)23:54:04【1】hmt さん
幡豆郡1906年5月1日の変
[92993] 通りすがり さん
一色町、横須賀町、平坂町の三町が合併後に村制を敷いた
なぜ幡豆郡のみでこのような現象がおきたのか

このサイトでは、記事検索により過去の事情をある程度知ることができます。
参考までに、昨年の私の記事など いくつかの記事を示しておきます。

[84183] YT さん 愛知県幡豆郡平坂村→平坂町→平坂村→平坂町に関する市区町村変遷情報の要修正案件
[90129] 白桃さん 幡豆郡1906年5月1日の変(事務連絡も兼ねて)
[90136] hmt 明治39年 愛知県における町村再編成
合併は人口の絶対数を増やすが、同時に市街地的な印象が希釈され、「農漁村的」になってしまいます。
1906年愛知県幡豆郡の3事例は、この仕組を素直に受け止めた結果だったのではないでしょうか。
[90137] 白桃さん Re:明治39年 愛知県における町村再編成

# 「郡」を対象にした白桃さんの記事から、タイトルを借用しました。

【追記】[90136]で紹介した中島論文へのアクセス方法
記事には リンクが付けられていませんが、タイトル名からGoogleなどで検索した結果を選択すると、pdfファイルがダウンロードされます。
[92992] 2017年 7月 19日(水)19:10:49hmt さん
市町村界一点交差(3)「微妙隣接」扱いの市町村接点
最初に
[92968]は「新調査方法」という標題で、グレートジャンクション調査の手法を発見したような書き方をしました。

しかし、グリグリさんの 市区町村隣接関係一覧 の冒頭説明文をよく読んだら、「点隣接(赤背景)」の説明として、「四つ以上の自治体が一点で隣接」すなわち【グレートジャンクションである という趣旨】が既に示されており、ポップアップにより関係市町村名も示される仕組みになっていました。
なお、羊蹄山 Jct【北海道#58-63】の赤背景から出るポップアップ説明文の「6町村が点隣接」は誤記と思われます。留寿都村は無関係であり「5町村が点隣接」です。

ジャンクション主体の見方と、自治体主体の見方で 言葉の使い方が違っていたことから、私が勘違いしたのでしたが、[92968]は 実質的には先行した隣接調査の一部を拾い出しただけの内容であり、「新調査方法」と誇るほどのものではなかったわけです。
お詫びと共に、点隣接の「ピンクの彩色」という用語も、今後は「赤背景」に揃えたいと思います。

今回は「橙背景」の「微妙隣接」事例を検討します。

1 富士山 Jct

[92968]にも登場した 山梨県市町村隣接 を 再び使います。
微妙隣接とされているのは、富士吉田市と静岡県富士宮市。そして【山梨県南都留郡】鳴沢村と【静岡県駿東郡】小山町との2対です。

その小山町の領域内を 東から富士山須走口登山道が通じています。Mapionを見ると 五合目小富士の手前で、北側の富士吉田市との境界線が途切れ、山頂までの間は正式には境界未定と示しているようです。もっとも、色分けによって 推測境界? が示されています。

色分けや登山道の情報が見易い 15スケール図 をリンクしておきます。
この図は、山頂付近を中心にしているので、山頂西側の県境線の途切れは見えますが、東側の前記小富士付近を見るためにはスクロールする必要があります。

北側・吉田口登山道のある富士吉田市から ポインターを時計回りに動かし、示される地名を読んでみます。
概ね お鉢めぐりルートの外側では、富士吉田市→小山町→(御殿場市、御殿場口登山道)→富士宮市(富士宮口登山道、最高峰の剣ケ峰)→鳴沢村を経て 白山岳で富士吉田市に戻ります。

このポインターや色分けを根拠として Mapionが暗示するところによると、富士山 Jct の位置にあるのは、白山岳ということになります。
この位置には、相対する点隣接?自治体として、A富士吉田市とC富士宮市、B小山町とD鳴沢村の2対が存在。
しかし、「境界線が描かれていない推測境界?」であるという理由で、「微妙隣接」と表現されました。

鳴沢村に微妙隣接するとされた「橙背景 小山町」のポップアップ説明文には、次のようにありました。
富士山頂で富士吉田市、鳴沢村、富士宮市、小山町の境界が未定のため、鳴沢村と小山町の隣接関係はあいまいであるが、隣接の可能性が高いと判断(富士吉田市と御殿場市、鳴沢村と御殿場市の隣接の可能性は低いと判断)

ここで御殿場市が登場したので Mapionを見直すと、御殿場市の境界線は 富士山頂郵便局を頂点としてシッカリ描かれています。仮に鳴沢村の領域が色分けと異なり富士山頂に達していたとしても 御殿場市との隣接はあり得ません。

それは良いのですが、この地図を見ていたら、少し南に見える「富士市の領域」が気になりました。

futsunoおじ さん 自治体の最高地点コレクション静岡県 によると、富士市の最高点は 富士山南面 3680m地点 です。
これは、先の御殿場市北限頂点【郵便局付近】に かなり近い場所です。
しかし、Mapion【等高線間隔50m】が示す 富士市最高点は 富士宮口登山道九合目より下の 3350m地点付近 です。
2つの地図の縮尺は #16スケールに合せておきました。

境界未定により境界線が途切れた「微妙隣接」とは無関係ですが、両図の示す富士市北限は異なる位置です。
このような山岳地域については、やはり 地理院地図を信頼したい。そのような事例として示してみました。

2 蔵王 Jct

[92966]では、蔵王も2県4市町にまたがる境界未定地域であり、宮城県側の柴田郡川崎町と刈田郡蔵王町の間では Mapionの境界線に途切れがある【約 2km】ことを記しました。

市区町村隣接関係一覧を見ると、確かに 橙背景の4市町【A山形市/B川崎町/C蔵王町/D上山市】が 町境線の途切れと関係しており、ポップアップ説明文には 何れの組み合わせも
隣接の可能性が高いと判断(点隣接の可能性もある)
と記されていました。

このように、蔵王 Jctに関係する 橙背景市町 ABCDの説明文には、括弧付きですが「点隣接の可能性」と、グレートジャンクションについての言及があります。
前記 富士山 Jct の関係市町村の説明文についても、同様の言及があって よいのではないでしょうか。

3 北信野々海 Jct

このJctは、A上越市/B十日町市/C下水内郡栄村/D飯山市 が関係していますが、Mapionでは、長野県側の栄村と飯山市の間の境界線が描かれていません。その色分けはキャンプ場に近い深坂峠がBCD境界となっており、境界線で明示されている DAB境界とは約1km離れています。
つまり、この 北信野々海 Jctのケースは、境界線が欠けた「微妙隣接」ではあるが、4自治体ABCDの点隣接【グレートジャンクション】の可能性はなく、富士山や蔵王とは異なる隣接状態であると思わます。
[92981] 2017年 7月 14日(金)22:57:34hmt さん
杉並区今川
[43558] hmt
家康よりも前に「海道一の弓取り」だったのが、今川義元だったのですね。「東海の巨人」とも呼ばれたようです。

[11744][11752] KMKZ さん
今川義元の子、今川氏真は江戸幕府に高家として召抱えられ若干の領地を拝領しています。
高家今川氏は、江戸時代には、武州多摩郡井草村(現在の東京都杉並区北部)を領地としています。

昔の記事を思い出したのは、テレビ画面に 杉並区今川 が映されたからです。
東京都水道の水源の一つに使われている善福寺[58728]の池からも近い 武蔵野の湧き水の一つ、妙正寺池の近く。

桶狭間の戦いで不覚にも織田信長に討ち取られた今川義元。
今日の 番組のテーマは、敗者になってしまった戦国の雄・今川家の跡取り・今川氏真夫妻による、敗者復活戦物語でした。

徳川家康配下になったものの 牧野城主を解任され、武将を諦めて京都で第二の人生。
武の世界から文化路線への転身が成功。幕末の今川家は老中に次ぐ地位である若年寄にまで出世しました。

今川焼き さん。十番勝負以外の記事も お待ちしています。
[92979] 2017年 7月 14日(金)17:53:37hmt さん
南極は冬なのに…と思ったが
[92977] 山野さん
南極で「棚氷」から分離して、その重さがなんと「1兆t」という桁違いの氷山が誕生しました。

ロイターは「欧州宇宙機関が冬季を通じて衛星を駆使して氷上の割れ目を監視しており」と伝えており、一瞬、南極は冬なのに…と思ってしまいましたが、その後に「数カ月にわたり分離寸前の状況にあった」とありました。
BBCによると 「亀裂の拡大は2014年以来加速していたため、近く分離する確率は高いと言われ続けてきた。」
…10年以上前からの観察で、短期間の話ではなかったのですね。

面積5800km2 三重県の面積とほぼ同じで、観測史上最大級の氷山(NHK)。
「A68」と命名される見通し(CNN)。

以下、主として BBCの報道から拾った情報を 補足します。
厚さ200メートル以上、記録中トップ10に入る大きさ。衛星時代に観測された過去最大の氷山は、2000年にロス棚氷から分離した「B-15」と呼ばれるもので、面積は約1万1000平方キロだった。
1956年には米海軍の砕氷艦が、約3万2000平方キロ級の氷山に遭遇したという報告もある。これはベルギーより大きい。残念ながら当時は衛星による追跡調査で確認することはできなかった。

この地域【ラーセンC棚氷】から出る氷山の多くは、英領サウス・ジョージア島周辺の浅い大陸棚に乗り上げ、やがて溶けてなくなることもある。

…ということで、少し前に書いた サウス・ジョージア島[92785][92786]に再会しました。
[92972] 2017年 7月 12日(水)18:31:02【2】hmt さん
市町村界一点交差(2)選外になったジャンクション
[92966]新調査方法で得られた グレートジャンクション の数は僅かに9ヶ所。意外に少数でした。

1 合併の影響

2004年の[95592]当時は 当選編に挙げられていたジャンクションですが、その後の合併によって境界線が消滅して失格した接点を列挙しておきます。

記事番号:[25592]-1 都道府県:北海道 Jct名称:オホーツク JCT 当時の関係市町村【北→東→南→西と時計回り】:A北見市/B訓子府町/C置戸町/D留辺蘂町 合併の影響:AとDが合併→北見市

以下、項目名を省略し、同じ順番で列挙します。
[25592]-4 秋田・山形 仁賀保 Jct A矢島町/B遊佐町/C象潟町/D仁賀保町 CとDが合併→にかほ市  
[25592]-5 千葉 印旛沼 Jct A栄町/B成田市/C印旛村/D本埜村 CとDが合併→印西市
[25592]-11 三重・奈良・京都 月ヶ瀬三県境 Jct A阿山郡島ヶ原村/B上野市/C添上郡月ヶ瀬村/D相楽郡南山城村 AとBが合併→伊賀市 
[25592]-12 広島 西城川 Jct A口和町/B庄原市/C三次市/D君田村 AとBが合併, CとDが合併 備考:西城川は江の川の支流
[25592]-14 香川 高松空港 Jct A香南町/B香川町/C綾上町/D綾南町 AとBが合併→高松市, CとDが合併→綾川町
[25592]-16 大分 彦岳 Jct A津久見市/B上浦町/C佐伯市/D弥生町 BCDが合併→佐伯市
[25592]-17 宮崎・鹿児島 霧島韓国岳 Jct Aえびの市/B小林市/C霧島町/D牧園町 CとDが合併→霧島市
 今年になってからも [92702]で言及し、地理院地図をリンクしていました。

2 判定に用いた地図の影響

[95592]で当選編に挙げられた18Jctのうち、[92968]の生き残り組 8、上記合併失格組 8でした。
残るは、2004年には Yahoo!地図で合格したが、今回 判定基準に用いたMapionを大縮尺にしたら 点隣接でなかった2件です。

[25592]-7 長野県の 信州犀川被岸沢 Jct は、Mapion 16スケール に拡大したら、A長野市/B東筑摩郡麻績(おみ)村/C筑北村/D生坂村のうち、「BとDとが隣接していない」ことが判明し、惜しくも選外と判定されました。
但し、地理院地図で判定すれば、#17スケール まで拡大しても明らかに点隣接であり、地図種類の選定による問題が残ります。

[25592]-18は、鹿児島県の 霧島烏帽子岳から西に伸びる尾根にある Jctです。A薩摩郡さつま町/B霧島市/C姶良市/D薩摩川内市祁答院町。Mapionでは、スケール15図 でも AとCが非隣接であることが明らかで、当然ながら選外になりました。
ところが、地理院地図では スケール#17図 でさえも、この地点をAとCとが点隣接しているように描いています。

2004年の[25588]「残念編」について、私は現在の Mapionによる検討を加えていませんが、もしも点隣接している事例があれば、グリグリさんが市町村隣接関係一覧用の再検討をされた際に、拾い出されているものと思います。[89308]参照
[25588]-30で残念編に入れられていた奥多摩/郡内 Jct[92966]の点隣接を、既に[82209]で指摘されていることからも、このことが推察できます。

3 金剛山地葛城 Jct

残念編について一つだけ補足しておきたいのは、[25588]-57に記録されていた A葛城市/B御所市/C南河内郡千早赤阪村/D河南町 が関係するジャンクションです。今回 「金剛山地葛城 Jct」 と命名します。

「金剛山地葛城 Jct」は、最終的には グレートジャンクションに の地位を獲得できませんでした。
しかし、[87857]の問題提起に始まり、十番勝負との関連を含む若干の議論の中で、グリグリさんから[88596]
自治体の隣接一覧ページの整備を進めたい
との発言があり、後に[89308]「市区町村隣接関係一覧」という形で集大成されたデータベースが提供されました。
このJctは、そこに至る「きっかけ」として 記念すべき題材でした。

…私はそのように評価しております。関連記事

2004年に投稿された当時と同じ地図である保証はないのですが、[25588]-57にリンクされたYahoo!地図を見ると、虫垂状にぶら下がっている河南町平石の先端部(南北200m弱)が認められます。
これは現在の Mapionでも同様であり、「市町村隣接関係一覧」でも「AとCとは非隣接」になっています。

地理院地図(スケール#17)は、前記「虫垂」がなく、そのために AとCとが隣接【BとDとは非隣接】という全く逆の隣接関係になります。
問題の「虫垂」があるとすれば、地理院地図の「金剛」という文字の右側、県境線沿い左側ということになります。

[87841] N さん
地理院地図が、あえて河南町と御所市を隣接させていない、というのは何かあるのでは?と勘繰ってしまう
根本的な疑問ですが、あのような山の中の境界は誰がどのように決めて、地図を作る人間はそれをどのように確認しているのでしょうか?

Mapionにデータを提供しているゼンリンは、住宅地図の更新[92922]については、実地調査に基づく実績を何十年も積み重ねている会社だと理解しています。しかし、このジャンクションは、地図から読み取れるように、住宅など全く存在しない山の中であり、街なか とは事情が違うでしょう。

河南町平石の領域からぶら下がった「虫垂」。国土地理院も知らない その情報 をゼンリンが独自に得たとすれば、それは役場又は登記所の図面か?

国土地理院は登記所まで手が回らず、役場からの情報がなければ、地名調書[56419]にも記録されない。
こんな事情が、河南町の「虫垂」の有無、ひいては地図の種類によって異なる隣接関係 に及んでいるのかもしれません。

当サイトの「市区町村隣接関係一覧」では、B御所市とD河南町との隣接は グレーの「説明付隣接」として、地理院地図境界線の扱いに関するポップアップ説明があります。しかし、A葛城市とC千早赤阪村との関係については、非隣接とした説明抜きです。【適切な場所がなかった? 】

おまけ1:地理院地図に基づく判断でも、「金剛山地葛城 Jctは、グレートジャンクション選外」の結論は不変。

おまけ2:金剛山地葛城 Jctは 無人地帯なので まだ良いのですが、間違っていた境界の変更でも、これが人口移動を伴うとなると大騒ぎ という 過去記事
[92968] 2017年 7月 10日(月)16:56:43【1】hmt さん
市町村界一点交差(1)新調査方法
[92966]の末尾で、蔵王が グレートジャンクション候補であったこと[25889]に触れました。

地名コレクションに関しては、2006年に みやこ♂ さん が手を挙げ[55632]、早速「市町村界一点交差」コレクションの名で 事前登録が行なわれました[55637]
しかし、平成合併の影響など諸事情の影響もあった故でしょうか、残念ながら 未だにデビューしていません。

グリグリさんが十番勝負関連資料として作ってくれた 市区町村隣接関係一覧[89308]が、このコレクション作りに役立つことに気がつきました。

奥多摩/郡内接点【…と勝手に命名】を Mapionで例示し、説明します。

ご覧のように三頭山の山頂西側にある4市町村の接点。このジャンクションを「奥多摩/郡内 Jct」と記すことにします。甲州の呼び方では、甲府盆地の「国中」と対比して、都留地方を「郡内」と呼びます。
関係市町村は、時計回りに A:東京都西多摩郡奥多摩町、B:同檜原村、C:上野原市、D:山梨県北都留郡小菅村です。

「市区町村隣接関係一覧」の山梨県を見ると、上野原市と奥多摩町、小菅村と檜原村とが「点隣接」であることが ピンクの彩色によって 示されています。【当然のことながら、東京都を見ても同じ結果が得られます。】
これは、地図から得られる AとC、BとD の関係と同じ情報を伝えており、この2対の点隣接情報が すなわち グレートジャンクション情報 であることを示しています。

この手法で47都道府県を閲覧すれば、全国のグレートジャンクションを簡単に集めることができます。

補足説明
Mapion地図は 最大縮尺のスケール19まで拡大しても 4市町村の接触が1点に集中していることを別に確認していますが、周辺情報がわかるように スケール15で示してあります。
地理院地図の最大縮尺はスケール#18でしたが、境界線はスケール#17までであり、しかも不明瞭であり、 AとCとが普通に隣接しているようにも見えます[87841]

国土地理院は、面積調・地名調書などを通じて各自治体との接触を持っており、隣接関係に関しても 最も信頼できるデータを持っている筈と思われます。現に、Mapionに描かれている境界線の一部が、境界未定のために地理院地図では示されていない例が多数あります。[92966]で記した蔵王における 上山市・蔵王町間の県境線 は、その一例です。

このように一長一短があるのですが、境界線が見易いことは 何と言っても Mapionの持つ利点です。
そして、【全くの想像ですが、】「厳密には境界未定」であることを知りながらも、実用的な見地から 何らかの処置で対応しているのではないでしょうか?

すなわち、推測にある程度の自信がある境界については、境界線を描いてしまう。
自信度合いが低いが、ある程度推測できる境界は、色分けにより暗に示しておく。
権利がらみの争いなどには使えないとしても、地理趣味の私達にとっては有り難いサービスです。

このように、Mapionは お役所の地図とは一味違う 民間地図だと思われます。
その最大縮尺図により隣接状況を確認した「市区町村隣接関係一覧」は、実用的に妥当なデータであると考えられ、「市町村界一点交差コレクション」も、このデータを利用して完成させたいと考えます。

方法論の能書きが長くなりましたが、[25592] みやこ♂ さん を改訂したグレートジャンクションのリストです。

我が国で唯一の存在。5町村が関係する「羊蹄山 Jct」から始めます。
No.1 都道府県:北海道 名称:羊蹄山 Jct 関係市町村:【後志】A倶知安町/B京極町/C喜茂別町/D真狩村/Eニセコ町 記事番号:[25592]-3

以下、4市町村のジャンクションです。
No.2 北海道 阿寒奥春別 Jct 【釧路】A弟子屈町/B標茶町/C鶴居村/D釧路市 [25592]-2
No.3 福井 越前今立 Jct a福井市/B今立郡池田町/C越前市/D鯖江市 [25592]-8
No.4 東京・山梨 奥多摩/郡内 Jct A西多摩郡奥多摩町/B檜原村/C上野原市/D北都留郡小菅村 [82209]
No.5 長野 斑尾山 Jct A飯山市/B中野市/C上水内郡飯綱町/D信濃町 [25592]-6
No.6 京都 木津川 Jct A綴喜郡井手町/B木津川市/C相楽郡精華町/D京田辺市 [25592]-9
No.7 奈良 吉野口芋ケ峠 Jct A高市郡明日香村/B吉野郡吉野町/C大淀町/D高市郡高取町 [25592]-10
No.8 徳島・香川 讃岐/阿波 Jct A東かがわ市/B阿波市/C美馬市/Dさぬき市 [25592]-13
No.9 佐賀 筑紫天山 Jct A佐賀市/B小城市/C多久市/D唐津市厳木町 [25592]-15

各行の末尾に記した記事番号からわかるように、9件中8件は 2004の当選編にあった18件の生き残りです。
当選編の約半数は、平成合併により失格しました。
1件だけ、残念編[25588]-30から昇格。
これ以外にも多くの候補が提案されましたが、最終審査まで通ったジャンクションは皆無でした。

【追記】ジャンクションの名称について
No.1 羊蹄山 Jct のように有名地名の場合は、そのまま使えます。
No.4 の三頭山となると、聞いただけで場所を知ることは困難です。そこで、知名度のある奥多摩を用い、甲州側の地域名・郡内も併用しました。
No.2 阿寒奥春別 のように冠称も使いました。
No.3 の地図には 付近の地名も記されていないので、国名の越前と・郡名の今立で代表させました。
No.7 の吉野口は、飛鳥時代の吉野への入口という趣旨です。
No.8 も、最初は地形の「日開谷(ひがいだに)川」を使ったのですが、知名度がないので 国名連称の讃岐/阿波で間に合わせました。
それぞれのジャンクションについて、適切な名称を考えてみるのも、なかなか興味のあることでした。
[92966] 2017年 7月 9日(日)17:22:07hmt さん
蔵王山(2)「蔵王」は地域名 「山」を付けない呼び方に改めるのがよいのでは…
「さおうざん」という読み方。
違和感ありという批判は 御尤もですが、それ以前に問題にしたい点があります。

山地=山岳地域 の名称である「蔵王」に 「山」という字を付加して呼ぶこと。その是非です。

世間に知られていない地名ならば、山岳地域であること を示すために やむを得ない…という事情も考慮したいが、蔵王の場合は その必要がないでしょう。

箱根・熊野・雲仙・霧島 など、有名な山岳地域名は「山」という字を付けないでも通用しています。
# もちろん、「山」を付ける場合もあります。例:獅子文六の小説「箱根山」[71783]

地形由来の単純な自然地名というよりも、歴史・宗教を含む人生密着/文化的背景を持つ「地域名」なのでしょう。
赤石山脈など「山」を使った地域名もありますが、新参の「南アルプス」。自治体名にも使われました。

「地域名」について、1981年の池田論文[53057]は、「国土地理院が 国内の主要な自然地域名(山地・平野など)について標準化を試み、20万分の1地勢図などの小縮尺図に適用している」と記しています。

しかし 1962年に実施されたと思われる「標準地名表」には、既に「地域名」とは言い難い単独の山が 種別:山 で記載されています。例えば 主峰を剣山(つるぎさん 徳島県)で掲載。山地の剣山地は未発見。
地名標準化の対象は、標準地名第一報発行時には 既に「地域名」【山地】だけでなく、「単独の山」に及んでいたようです。[92958]参照。

現在、標準地名の影響は 5万分の1地形図、2万5千分の1地形図、、『地名集日本』は勿論のこと、他の分野【例えば放送を通じて社会への影響力の大きい気象庁発表】などにも及んでいるものと思われます。

『標準地名集』は 1971年に刊行されており、1973年、1980年に改訂版が出ており[53057]、1996年には『決定地名集』が作成されているとか。(国土地理院時報No.100,p.56-57)[53461]

要望によって「よみ」が変更された 硫黄島を示しておきます。参考:小笠原諸島地名事典
国土地理院の発表 でも、“地元で旧島民が「いおうとう」と呼んでいた背景”に基づく、小笠原村からの修正要望に応じたもの

[92955] inakanomozart さん
地名の読み(さらにはそのアクセントを含め)は 地域のそれが尊重されるべきであり、地域の大切な財産

この考えはよく理解することができ、標準地名表に掲載されていても、現状に照らして不適当ならば、改めようと発言するのは意義のあることです。山形市議会による可決[92945]は、その第一歩でしょう。

「山地と山」問題から外れますが、佐渡で「島の呼称」について討論会がありました[65109]

…で、標準地名表(3) を見たら、地域名:佐渡(さど)、島名:佐渡島(さどしま)とありました。
日常生活に密着した「地域名:佐渡」については、全く問題がなく、「島名の読み」だけに問題ががありそうです。

「統一が遅れるほど問題がこじれ広がる。」の趣旨は、国際的に通用している読みの存在を排除したいのか?
世界地図のスタンダード版や離島振興法の地域名「さどがしま」 参考:明和海運

市井の人々が地名をどう読むか 基本的に自由[92957]です。
自然地名標準化は 「国民全体に対する強制力のあるルール」ではありません。
地形種別で特化された「佐渡島」。それは 地域名「佐渡」や自治体名「佐渡市」に比べて使う機会も少ない地名です。
「さどしま」という読みを全国的に強制するのでなく、多様な答えを許容しましょう。
「正しい答は一つだけ」は思い込みに過ぎません。これが私の意見です。

話が脱線気味ですが、本題は地図による「蔵王山」の確認です。

国土地理院による 日本の主な山岳標高の索引図。その山形県をクリックすると、蔵王山に該当するのは 蔵王山<熊野岳>1841m 一つだけです。宮城県をクリックすると 蔵王山<刈田岳>1758m, 蔵王山<屏風岳>1825m, 蔵王山<不忘山(御前岳)>1705m と3山が出ます。 読みはいずれも「ざおうざん」と濁音で統一されています。

「蔵王山」は単一のピークを持つ「峰」ではなく、象形文字「山」が示すような複数のピークを抱えた「山岳地域」であると理解できます。しかし、広い「地域名」と狭い「単独峰」の両者を共に「○○山」と表記するのでは、「蔵王山」と聞いただけで どちらなのか 区別できません。

純粋の自然地名というよりも、文化的な意味も含む「地域名」であることを示すためには、地形種別名「山」で特定された「蔵王山」よりも、それを含まない地域名「蔵王」として扱う方が適切なのではないかと思います。 

以下は、地図等における この地域の表記状況です。
地名集日本
「蔵王山 ざおうざん Zao Zan 分類:Mountain」 示されている経緯度を 地理院地図で確認すると、地蔵岳山頂【山形市と上山市の境界】付近です。
地理院地図の「蔵王山」という注記文字は、それより1km以上南東の山形・宮城県境付近にあり、Mapionも同様です。

Mapionを眺めると、宮城県内で東から伸びてきた境界線【刈田郡蔵王町と柴田郡川崎町】が県境に達せずに途切れています。
地理院地図では 上山市・蔵王町間の県境線、地蔵岳付近の市境線にも途切れがあり、結局のところ、山形県側の上山市・山形市を含む4市町 1045.83km2が 都道府県にまたがる境界未定地域に該当するのでした。

Mapionの最高拡大図では、2市2町が「点隣接」しているように見えます。但し前記のように宮城県2町の境界は線で示されておらず、色分けで判断した結果です。

昔のYahoo!地図による調査ですが、[25889] 湾岸太陽族 さん が 報告しています。
思いがけず、またもやグレートジャンクション残念編らしきものを発見してしまいました。
いかがでしょう。上山市と川崎町がほんの少し接しちゃっているように見えるので×っぽいんですが。
それと、県境や町境が一部消えているのが気にかかりますが…。

ここで、グリグリさんが十番勝負用に作成した市区町村隣接関係一覧を思い出しました。
宮城県を見ると蔵王町は山形市との間が「微妙隣接」、川崎町は上山市との間が「微妙隣接」になっています。
色分けされているが、境界線が記載されていない部分は「微妙」という表現で処理していたのですね。
地理院地図の「蔵王山」という文字の右上、上山市・蔵王町間の県境線欠落部分と地蔵岳付近の市境線欠落部分とは、面積調には影響するものの、隣接関係判断には影響なし。
[92958] 2017年 7月 4日(火)19:52:22hmt さん
蔵王山(1)「ざおうざん」は「標準地名表」に記載された「よみ」 と確認できたが…
[92945] ピーくん さん が紹介してくれた新聞記事がきっかけになり、自然地名、特にその読み方についての議論が起っています。

その背景には、[87440] 般若堂そんぴん さん の「地名標準化? 蔵王山と出羽三山の場合」という記事の存在があります。
そして、日付を確認していただけば明らかなように、これは一昨年の「4月1日ネタ」です。

すぐ後の[87443]で明らかにされているように、事実に基づいた部分もあるのですが、
このように,地名標準化の一環として「さん」から「ざん」への切替が粛々と進められているというのです.
の部分、特に「粛々と進められている」というあたりについては、誤解される虞れもあるのではないかと思われるので、この記事で説明を加えることにします。

確かに気象庁発表の「ざおうざん」という文言は、地元でない私にも気になります。
下記のように現在の山形市民にも違和感があり、宮城県では「山」をつけずに「蔵王」と呼ぶらしい[87443]ならば、「蔵王」に改めるのがよいのではないかと思います。

[92945]で引用された河北新報2017/7/1の記事【現自治体名を補足】
-------------------
蔵王山は山形、宮城両県にまたがる熊野岳、刈田岳、地蔵岳などからなる山並みの総称。
(山形)市都市政策課によると、1931(昭和6)年、関係自治体だった山形県の旧堀田【山形市】、中川【上山市】両村、宮城県の旧川崎【川崎町】、宮【蔵王町】両村が国土地理院に「ざおうざん」の呼び名で申請し、表記登録された。
今回、蔵王山の呼び方が話題になったのは、気象庁が2015年4月に火口周辺警報を発令したのがきっかけ。連日、テレビやラジオのニュースで「ざおうざん」と読まれ、市民から「違和感がある」などの問い合わせが相次いだという。
-------------------

この記事にある「地元4村による申請→国土地理院による表記登録」の裏付けは取れていません。…と言うか、80数年も前には国土地理院が存在しません。
前身の陸地測量部に「地名を読みまで標準化して登録する制度」があったことなど、信じられない時代です。

[53057]で国土地理院地図管理部の池田稔さんが書かれた“地名の標準化について”という論文を紹介しました。
1981年のこの論文には 次のように記されています。
現在 日本では国内地名の統一について積極的な施策がなされていない。しかしながら 地名の実用上の利便のために 国内・国外の地名についての標準化の必要が国の行政機関 報道機関の間で認められている。とくに地図作成に関する国家機関や教育分野において関心がもたれ 各機関個別にあるいは若干の連携のもとに国内的統一への努力がなされている。

要するに、地図・海図・教科書・国土交通・放送など各機関による縦割り原則で行政が進められているが、

国土地理院・水路部間では連絡協議会をもち 日本の主要地名の書き方・呼び方について決定し 両者の地図・海図への統一的使用を図るため「標準地名集」を作成している。

標準地名表の代表的なものを示します。
明石海峡と明石瀬戸で異なっていた地名が統一されたのは昭和37年で、この頃から標準化されたようです。

安倍川・富士川[92955]の清音読みも掲載されています。[43914]で論じた秋芳洞(あきよし どう)もありました。
鹿児島湾には、一般の異称欄に「国定公園名では錦江湾」と記載。【環境行政にまで及ぼす意図なし】
愛知県の豊川(とよ がわ)には、市名(とよかわ)。【2語と1語の違いもあり、両者は別の地名】
長野県の犀川(さい がわ)には、「参考 金沢のは(さい かわ)」と記載。 

河北新報記事の「1931年」は、この地名標準化の準備が始まった可能性のある「昭和31年」かもしれません。
余談:
もし 昭和31年とすると、山形県南村山郡堀田村は「蔵王村」に改称しています。前年には宮城県刈田郡に既に「蔵王町」が誕生し、両者が共存していました。名所地名を利用した自治体名[91957][92668]の仲間です。

話の発端になった「蔵王山」は、同じ雑誌『地図』の後の号 2/8コマの左下付近ににあり、標準地名の「よみ」が「ざおうざん」と濁音になっていることを確認しました。

それよりも、標準地名を定めた昭和合併の頃。山形県だけにせよ 本当に「ざおうざん」という呼び方が使われていたのでしょうか? 地名調書[56419]に始まり、最終的な決定に至る 手続段階に不備はなかったのか?
現に、都道府県欄が「山形」となっています。これは 明らかに「宮城・山形」の誤記でしょう。

「よみ」の清濁問題だけではない? という疑いも生まれ、どうもすっきりしません。
[92952] 2017年 7月 2日(日)15:24:38【1】hmt さん
東京府荏原郡平塚村関連 併せて 落書き帳の中にある人口資料を紹介
[92947] Takashi さん
1920年から1925年という条件で調べたら面白いことになるかなと思い、検証してみました。(中略)
1920年の平塚村の人口は8522人、1925年の人口は72256人でわずか5年間で8.48倍の増加を示しています。

調査をしていただき、ありがとうございます。

[92947]を見た後で気がついたのですが、2004年のBEANさんの記事に 1920~1925年 東京市近郊5郡の町村人口増加率ランキング が出ていました。

参考までに、増加率上位の町村を再録すると共に、【1932年 東京市の区名】も併記してみます。
1 荏原郡平塚村【荏原区】 2 豊多摩郡杉並町【杉並区】 3 北豊島郡尾久町【荒川区】 
4 荏原郡碑衾村【目黒区】 5 荏原郡蒲田町【蒲田区】  6 北豊島郡長崎村【豊島区】
7 荏原郡馬込村【大森区】 8 豊多摩郡野方村【中野区】 9 南葛飾郡小松川町【江戸川区】
10 豊多摩郡和田堀内村【杉並区】

城南の荏原郡 4町村、城西の豊多摩郡 3町村 が多く、北豊島郡 2、南葛飾郡 1、南足立郡 0 と続いています。
元の記事は、落書き帳アーカイブズに収録されています。

参考までに、荏原郡を対象とした記事の一部を拾ってみました。
その中の[83708]には、戦前20年間の 平塚村(→平塚町)→荏原町→荏原区の人口 がありました。

更に [85274]右左府さんには、東京市周辺町村の人口増に関する記事集があります。


[92947] Takashi さん
あいにくながらこの時代の国勢調査のデータを私は持ち合わせていないのでこれ以上の調査はできないのですが、もしかしたら同等あるいはそれ以上の増加を示している町村があるかもしれません。

Takashiさん が落書き帳メンバーになるより前ですが、2013年に下記の記事があります。
お役に立つと思われるので、ぜひ ご検討ください。

[84549] YT さん 明治31年以降の市区町村別人口変遷の変遷
というわけで、「市区町村別人口 Ver. 0.10」として
以下に47todofuken01.lzhをアップしました(LHA圧縮、約7.3 Mb)。
解凍すると25Mbにもなります。
http://u6.getuploader.com/SR1gou/download/837/47todofuken01.lzh

[85243]に修正記事あり。
[92950] 2017年 7月 2日(日)12:25:48hmt さん
反対語コレクション 山谷
[92949]からリンクされた『反対語』コレクションを拝見し、多数の事例が集められていることに驚きました。
新収録の「大磯小磯」の次に「山谷・谷山」があります。

東京でも 代々木山谷小学校 が収録されていましたが、簡易宿泊施設などで有名な台東区から荒川区にかけての 山谷 を見出すことができなかったので、少し調べてみました。

荒川区の南千住駅から言問橋方面に南下する吉野通り。泪橋(なみだばし)で明治通りと交差した先は台東区になり、嘗ては「台東区浅草山谷1~4丁目」が存在しました。

しかし、1960年以来の山谷騒動で全国に知られた町名は、1966年の住居表示によって 清川・日本堤などに改められました。
2008年までは 旧町名に基づく浅草警察署「山谷地区交番」も存在しました。地元では マンモス交番の愛称で親しまれたようです。これも 2008年に「日本堤交番」と改名。

それでも何かの施設に 由緒ある「山谷」ゆかりの名が残っていれば、コレクションに記録しておきたい。

探したら、少し西側に 山谷堀公園 がありました。

山谷堀は 江戸時代には 新吉原にあった遊郭への水上交通路でした。山谷船を仕立てる船宿のあった日本橋箱崎町は「山谷河岸」と呼ばれたそうですが、現在のMapionでは、その痕跡を発見できません。

東京の郊外に目を向けると、私鉄の「山谷駅」が2つありました。

1901年 路面電車時代の京浜電気鉄道に山谷駅開業。線路移設・改称・休止などを経て1949年「大森山谷」駅廃止。
1952年に再開業しましたが 大森町駅という現駅名になり、駅名からは山谷が消えました。
Mapionでは 大森山谷公園 があります。

既に小学校名 がコレクションに収録されている「代々木山谷」にも駅がありました。
ここは 1927年小田急開業時に 山谷駅開業。隣接駅間が短く、大東急時代の 1946年に廃止。
[92933] 2017年 6月 27日(火)17:26:24【2】hmt さん
合併なしの5年間人口倍増レース
[922931] 白桃さん
1965/1970に合併することなく、人口が42,460人から84,919人と、倍増にたった一人だけ届かなかったB市

白桃さんのリストには、1960/1965 草加市 2.09、その次に 1965/1970 上尾市 2.02 が示されています。
これに次ぐB市は 春日部市であり、「合併なしの5年間人口倍増レース」のメダリストは 埼玉県トリオでした。

このレースで、実質倍率2.26という最高記録を出しながら 追い風参考記録になっているのが、1961年に 北河内郡 水本村を編入した 寝屋川市でした。

【1】タイトル変更
【2】追記
出場権を市に限らず、町村に拡大したら…などと考えてみましたが、調査が大変でしょうね。

市に匹敵する人口であった 1925年 東京府荏原郡平塚町 72256人 から 1930年 荏原町 132108人。
これでも「合併なしの5年間人口倍増」には及びませんでした。
でも、大都市近郊を調べれば、人口が倍増した町村を見つけ出すことができそうな気がします。

人口の少ない村では、1965年 秋田県南秋田郡大潟村 16人 から 1970年 1640人の 100倍増。
これは反則の疑いありとして除くことにするとして、1975年の大潟村は 3273人ですから 5年間でほぼ倍増。
同様の新規開村ですが、1970年 東京都小笠原村 782人 から 1975年 1507人。これも倍増に近いが及ばず。

やはり、タイトルのレースは かなりの狭き門 であることを実感しました。
[92922] 2017年 6月 25日(日)17:51:54【1】hmt さん
ゼンリン住宅地図
[92917] Takashi さん
ゼンリン住宅地図 足かけ66年「完成」

三角測量によって国土全域の地形を明らかにする 地形図整備事業は、陸軍参謀本部の陸地測量部により 1890年から行なわれ、5万分の1地形図の全国整備が 1916年(大正5年)に完了しました。足掛け27年。

より詳しい2万5千分の1地形図は、大都市・軍事施設周辺など一部の地域については、明治末期の 1910年から整備が始まりました。しかし、2万5千分の1が 全国的な長期計画になったのは 1964年でした。最後に測量された沖ノ鳥島は1983年というから、足掛け20年後、5万分の1を始めた 1890年から通算すると、足掛け94年になります。

付言すると、北方領土など一部の離島については、この計画による三角測量が実行されないまま、デジタル化された 電子国土基本図に移行しました(2011年)[77603]

住宅地図は もちろん 地形図とは調べる対象も精度も違います。
しかし、これも基本的な地図データであり、その全国な整備は 長期間に亘る大事業であることを 改めて認識します。

そして、縮尺だけで比較すると、1500分の1の住宅地図は、2万5千分の1地形図に比べて長さで 16.7倍、地図面積で 278倍という計算になります。

住宅地図の全国展開。それは、66年前の創業時には考えもつかない大仕事だったのではないでしょうか?
これが実現した背景には、物流革命による需要が存在しました。
10年前に[56610]で書いた 江戸切絵図誕生物語 を思い出しました。
ゼンリンは、その現代版を全国に普及させました。

「住宅地図の対象地域」の面積がどの程度あるのか見当もつきませんが、少し計算してみます。

「ゼンリンの住宅地図は 全国を約二千二百に分けて掲載」(東京新聞)というから、791市 23区 744町 183村の合計【1741】の1.3倍弱の冊数があるようです。

手元の1冊【富士見市】を見ると B3判で 75図あり、地図面積は 約14m2。縮尺1500分の1とすると 31.6km2という計算になり、実面積の約1.6倍です。富士見市外へのハミダシ率が大きいことは、平均的な自治体より小面積で複雑な境界線をもつ事情から納得できます。

住宅地図1冊につき、地図面積18m2(実面積40.5km2)、ハミダシ率1.5 と仮定すると 市町村内の対象面積は概算 27km2。
全国で2200冊の住宅地図がカバーする市町村面積は 約6万km2となります。
住宅地図の対象面積は、北方領土を除く全国面積 37.3万km2の 16%程度か。

全く自信はありませんが、こんな数字を出してみました。

このうち約四割を占める都市部のものは 毎年、それ以外の地域は 五年に一度 それぞれ更新している。

これだけの実績を民間の一企業で積み重ねてきたゼンリン。全国完成を機に、敬意を払いたいと思います。

…とは言うものの、人のやる仕事。更新漏れもありました。[49336]

東京の島しょ部の作成が後回しにされたのはゼンリンの本社が北九州市にあることと関係があるのでしょうか?

ゼンリン地図の最初は 1949年の『年刊別府』という小冊子に添えられた市街地図でした。創業時には 善隣友好をモットーとする「善隣出版社」を名乗っていたようです。

Challengeというページの真ん中の窓をクリック。
その右の窓【1952】から現れるのは、『別府市住宅案内図』で、これが[92917]に記されていた「足かけ66年」のスタートです。1954年以後の本拠は小倉です。
しかし、九州の会社であることと、三宅島や小笠原がゼンリン住宅地図の最後になったこととは、無関係でしょう。

三宅島の遅れは 2000年からの火山活動による島外避難の影響が大きく、大島・八丈島以外の伊豆諸島【利島・新島・神津島・御蔵島・青ケ島】は、その遅れに付き合わされてしまったのだと思います。

小笠原諸島【と言っても、住宅地図の対象になり得るのは 父島と母島だけ】は、電話の全国自動即時化も最後になりました(1983/6/21)。電信電話のあゆみ

余談:
意外なことに、そんな小笠原にも 公衆電話が明治38年(1905)に開通していたそうです(Wikipedia)。
日本からグアムへ、そしてアメリカへと通じる海底ケーブルの中継地で、これを利用することができたのですね。
でも、この細い通信回線では、現在のように気軽に利用することはできませんでした。

戦後の銚子無線局経由になっても電話回線数は少なく、電波障害もありました。
結局、時間遅れはあるものの、通信衛星経由の回線によって 小笠原と日本各地との間のダイヤル即時通話化が実現したのが、前記のように 1983年だったのでした。
[92916] 2017年 6月 23日(金)18:55:52【2】hmt さん
獺【かわうそ】地名
[92915] 白桃さん
※獺祭(だっさい)は山口県岩国のお酒

辞書で「獺祭」を引こうと思ったのに、見つかりません。資料を部屋中に広げているせいです。
やっと探し出した『大辞林』開き、晩唐の李商隠の故事を確認しました。
9世紀の彼も、詩文を作るに際して、多くの参考書を座の左右に広げていました。
彼は自らの姿を、獺【かわうそ】が魚を岸に並べているのに例えて「獺祭魚」という号を使ったのでした。

日本でこれを真似て「獺祭書屋主人」と自称したのは 正岡子規です。

「獺祭魚」【たつ うおをまつる】は、暦の二十四節気を更に三分した七十二候の立春から4番目(2/19-23頃)である雨水初候の呼び名としても使われました。もっとも これは 遣唐使により伝えられた宣明暦が使われていた時代で、現在の暦には「土脉潤起」【つちのしょううるおいおこる】と記されています。
宣明暦:日本では1684年の貞享暦[77583]に改められるまで、長期間使われました。
日刊☆こよみのページスクラップブックにも、獺祭の記事がありました。

さて、20世紀の終頃に登場した純米大吟醸酒「獺祭」の蔵元・旭酒造は、岩国市周東町獺越にあります。
今では岩国市内…と言っても、昔は西国街道の難所の一つであった 欽明路峠を越えた先の 周防国玖珂郡川上村。
これが明治の高森村、大正の高森町、昭和の周東町を経て、平成合併で岩国市になりました。

命名の由来には、地名に使われている「獺」の字を使ったことが記されています。
「川上村に古い獺がいて、子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになった
この地名から一字をとって銘柄を「獺祭」と命名しております。

「獺越」は難読ですが 周東町では 地形図のフリガナのように「おそごえ」と読むようです。
カワオソの「おそ」ですが、別の獺越では 地形図に「うそ」とフリガナが付けられた地もあります。
「獺」の音は「タツ、タチ」で、慣用「ダツ」。…で、訓読みは? 一概には言えないようです。

この機会に、地理院地図で 獺【かわうそ】地名 を検索してみたところ、かなりありました。
カワウソは、日本人が昔から親しんでいた川の生き物であったようです。

【獺越】読みは、下記のように まちまちです。おそごえ、おぞごえ、うそごえ など
岩国市内だけ見ても、本郷町波野【はの】獺越【おそごえ】があり、隣接する周南市にも、大字鹿野上の獺【おそ】越があります。
その他、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字西中野川の獺越【おぞこし】島根県大田市山口町山口の獺【うそ】越島根県邑智郡邑南町井原の獺【おそ】越宮崎県延岡市北方町獺越【うそごえ】、鹿児島県薩摩川内市中村町獺【うそ】越。更に 岡山県玉野市宇野三丁目の獺【うそ】越鼻

【島の獺地名】
宮城県宮城郡松島町獺【かわうそ】島 千葉県鴨川市海獺島 神奈川県横須賀市海獺【あしか】島 

【水関係の獺地名】
岩手県陸前高田市小友町字獺【うそ】沢 福島県いわき市獺沢 福井県敦賀市獺河内 静岡県浜松市北区獺淵と獺淵川 兵庫県神戸市北区獺池 

【その他の獺地名】
青森県上北郡おいらせ町獺【うそ】野 秋田県能代市獺野 福島県相馬市獺庭 千葉県長生郡長生村獺【かおす】台 神奈川県藤沢市獺郷 新潟県新潟市南区獺ケ通 福井県福井市獺ケ口町 兵庫県神戸市灘区獺東谷 福岡県朝倉市獺ノ口 大分県日田市獺野尾 

地理院地図以外にも、「獺」地名の資料がありました。
地名コレクションを作る方があれば、ご利用ください。
但し、愛知県名古屋市熱田区「大獺子町(おおせこちょう)」のように、現在の熱田区の町名と異なる表記もあるので、御注意ください。
[92899] 2017年 6月 13日(火)19:05:51hmt さん
Re:消滅した自治体の所属の表記について
[92105] 白桃さん
正直申しまして私は、郡は「無用の長物」なので省略しても良いと考えており、特に消滅した町村が所属していた郡名は記載しない方が良いと考えています。

この件についての私の意見は、既に[92107]で記しており、過去にも度々論じているので「いまさら」なのですが、過去記事の中で偶々遭遇した、2つの兵庫県余部村【現・姫路市】の事例を補足しておきます。

[21916] グリグリさん
姫路市の公式HPにある姫路市の歴史のページでは、「1946年に飾磨市、白浜町、広畑町、網干町、大津村、勝原村、余部村と合併し、新しい姫路市誕生、新生姫路市議会議員選挙」となっています。一方、要覧では余部村は1954.7.1に八木村、糸引村、曽左村、太市村とともに編入されたことになっています。公式HPの方でも、1954年に「八木・糸引・曽左・余部・太市村を合併」となっています。つまり公式HPでは、余部村は二度合併したことになっています。明らかに何か混乱があったようです。

混乱の元になったと思われる公式HP・姫路の歴史の中の「姫路の歩み」という年表を確認した結果、次の記載があることを確認しました。
--------------
昭和21年(1946年) 飾磨市、白浜町、広畑町、網干町、大津村、勝原村、余部村と合併し、新しい姫路市誕生、新生姫路市議会議員選挙
昭和29年(1954年) 八木・糸引・曽左・余部・太市村を合併
--------------

市区町村変遷履歴情報 兵庫県の記載
136 1946(S21).3.1 新設 姫路市 姫路市, 飾磨市, 飾磨郡 白浜町, 広畑町, 揖保郡 網干町, 大津村, 勝原村, 余部村
172 1954(S29).7.1 編入 姫路市 姫路市, 飾磨郡 八木村, 糸引村, 曽左村, 余部村, 揖保郡 太市村

両者を比べてみれば、違いは歴然としています。
姫路市の公式HPは「消滅した町村が所属していた郡名」を省略した「余部村」で、区別できません。
変遷情報では、1946年に合併したのは「揖保郡余部村」、1954年に編入したのは「飾磨郡余部村」であることが明示されています。

郡は「無用の長物」ではなく、記載を省略すると、グリグリさんまでも 混乱させる場合があるのです。
[92880] 2017年 6月 2日(金)14:50:36hmt さん
湿原由来の「牟田」地名
[92879] 山野さん
・鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田
長い+画数が多い
両者とも.配達物の住所欄書く時、困らんのかなぁ。枠が短かったり狭かったり+ルビ記入

ご指摘の問題点が現れている典型例が、皮肉にも 薩摩川内市サイト内の 町名等新旧一覧表です。

文字が重なり、そのままでは読み取り難いのですが、判読すると、次のように記されているようです:
No.80 薩摩(さつま)川内市(せんだいし) 祁答院町(けどういんちょう)藺牟田(いむた)【旧名】祁答院町 藺牟田
No.94 薩摩(さつま)川内市(せんだいし) 鹿島町(かしまちょう)藺牟田(いむた)【旧名】鹿島村 藺牟田 

要するに、薩摩川内市には、藺牟田池のある旧・祁答院町の他に、下甑島にも旧・鹿島村藺牟田があり、旧町村名を付けて2つの大字を区別したということのようです。

大字名の一部として残された祁答院町の「祁」という字。
祁山悲秋の風吹けて、陣雲暗し五丈原……(土井晩翠:星落秋風五丈原)
という詩に登場する地名では「キ」と読みますが、日本の村名では「ケ」と読みました。難読。
奈良県都祁(つげ)村は“ネへん”に書体変更しましたが[77347]、鹿児島県祁答院町は“しめすへん”のまま。

祁答院はさておき、「藺牟田」という地名も気になりました。
「牟田」の付く地名と言えば三池炭田で有名な大牟田市。有明海の大きな干潟が広がる地です。
祁答院藺牟田は 火口湖の「藺牟田池」に 藺草(イグサ)が生い茂る 湿地帯でした。

「牟田」というのは、湿地や湿田を意味する九州特有の古い言葉で、地名や名字に多用されているようです。
変遷情報検索を試みると、町村制施行後は福岡県の大牟田・西牟田と鹿児島県の藺牟田だけでしたが、その前の旧村は大分県以外の九州各県に存在したことを確認できました。

大牟田という地名は都城市高崎町大牟田にもあります。
こちらは大淀川支流沿いの湿原で、大牟田さんという名字発祥の地だそうです。
[92858] 2017年 5月 15日(月)16:34:39【2】hmt さん
命取りの動物
テレビで見た「ゲノム編集技術」に関する番組。マラリア対策の話に関連し、人間の命を奪っている最大の動物は「蚊」であり、年間の死者は 725000人と紹介されていました。
マラリアだけでなく、ウエストナイル熱、黄熱、ジカウイルス感染症(ジカ熱)、チクングニア熱、デング熱、日本脳炎など各種の感染症が 蚊の持つ病原体によって媒介されています。蚊が媒介する感染症

「蚊」に次ぐ2位が「人」による死者 475000人で、3位の「蛇」50000人、4位の「犬」25000人を 大きくリード。

11位以下には、意外に俊足で獰猛なカバ 500人、ゾウ 100人、ライオン 100人、狼 10人 などの猛獣に加えて、鮫 10人 などもありました。5から11位にランクされている動物は よく読み取れなかったので、WEBで検索してみました。

The World's Deadliest Animals
同じデータに基づく 日本語のまとめページもあり、こちらには 10位までの殺人動物に 画像や説明が付けられていました。

2つのページから知った5位~10位の英名 (病名)、和名【説明の一部】、死者数を再録しておきます。

5位:Tsetse fly (sleeping sickness) ツェツェバエ【アフリカ睡眠病】 10000人
5位:Assassin bug (Chagas desease) サシガメ【捕食性のカメムシ】 10000人
5位:Freshwater snail (schistosomaiasis) フレッシュウォータースネイル 10000人
8位:Accaris roundworm 回虫 2500人
9位:Tapeworm サナダムシ 2000人
10位:Crocodile ワニ 1000人

この説明には 同数5位【10000人】の殺人者 「Freshwater snail」 の説明と訳語が抜けています。
この殺人者による現在の日本の死者はゼロなのですが、数十年前には、日本の一部でも風土病として恐れられた歴史があり、私も高校の保健の授業で「ミヤイリガイ」という名を知った記憶があるので、少し説明を加えます。

「snail」と言うと「カタツムリ」が知られていますが、辞書を見ると一般に「巻貝」の意味があるようで、日本住血吸虫症の病原体の中間宿主としてで被害を及ぼした ミヤイリガイの姿を見ると、「淡水産巻貝」という訳語が適切なように思われます。もっとも、アフリカマイマイも同じような姿ですから、「カタツムリ」も「でんでん虫」に限らず、陸棲巻貝の通称として広い意味に使ってよいのかもしれません。

日本住血吸虫症という名からは、 日本の風土病のような印象を受けます。しかし、この病気は 中国・フィリピン・インドネシアにもあります。命名の由来は、日本での研究による病原吸虫の発見(1904年)です。

類似の住血吸虫症は アフリカ・中東・カリブ海など世界各地に広がっています。
いずれも 淡水産巻貝を中間宿主として、人だけでなく、牛馬などの家畜にも感染します。

日本では、甲府盆地・備後・筑後川中下流域などに存在しましたが、1978年を最後に新患者はなく、1996年に終息宣言が出され、年間 10000人もの死者を出している世界の中で、唯一の「住血吸虫症を克服した国」になっています。
日本住血吸虫病(片山病)の終息と広島県の取り組み

カタツムリを中間宿主とする寄生虫は、日本住血吸虫以外にもあるようです。
地球温暖化の影響もあり、異種を含む危険動物が北上してくる可能性も指摘されているようです。
カタツムリに触れてしまったら きれいに手洗いを。この程度の注意は 心がけておきたいものです。
[92850] 2017年 5月 10日(水)18:47:09hmt さん
北アメリカのフランス領土
[92845] 中島悟 さん
例えば、フランス。(中略)
しかし、北米にあるサンピエールミケロン県はわずか1万人弱で、このため人口格差は40倍!

この記事が入口になって 歴史地理好きの私がフラフラと迷い込んだ先は、「北アメリカのフランス領土」でした。
面積最大の小選挙区[82322]の時は、まだ国政選挙に関係するコメントだったのですが、今度は格差是正問題と全く関係ない雑談です。ごめんなさい。

太白さんが「CIA factbook」から拾ってくれた[10526]海外領土の記載
仏 Saint Pierre and Miquelon サンピエール・ミクロン 46 50 N 56 20 W 北アメリカ

カナダの東端、ニューファンドランドの南にあります。世界飛び地領土研究会には、「北米に残されたフランスの漁業基地」と記され、(仏)という注記の入った2つの島は 地図の「大西洋」という文字の上部に見ることができます。[86385]でgoogle mapを付けたノバスコシアの東側。

1492年のコロンブスに始まる新世界への航海。スペイン・ポルトガルは南の方に行きましたが、北方を探ったのは 主としてフランスとイギリスで、「北方領土」獲得競争も この2国の争いになりました。
フランス国王が派遣してセントローレンス川の探検を行なったジャック・カルティエなどの名が知られており、「ヌーベルフランス」の領有が宣言されました(1534)。

それから約200年の間、北アメリカにおけるフランス領土は イギリスを圧倒する勢力になっていました。
しかし18世紀になるとスペイン継承戦争を機に イギリスへの風が吹きはじめ、1713年のユトレヒト条約によって ニューファンドランドなどのフランス領がイギリス領になりました。

1756~1763年の七年戦争も 元々はヨーロッパでの争いですが、北アメリカやインドでも英仏間の植民地戦争が行なわれました。
イギリスはこちらに力を注ぎました。フレンチ・インディアン戦争と呼ばれる北米での戦いでは、フランスの重要拠点のケベックが 奇襲されて降伏し、1763年のパリ講和条約によって「ヌーベルフランス」は 230年で幕を閉じました。

しかし、奇妙なことに この条約で「サンピエール・ミクロン」だけがフランスに戻されたのでした。
フランス漁民の避難港としての用途制限が付けられた領地のようです。

「サンピエール・ミクロン」が関係した「北方領土・ヌーベルフランス」の話はこれで終りなのですが、1776年にイギリスから独立したアメリカ合衆国との関係で、北米のフランス領土がもう一度登場します。
しかも、小さな「北方二島」、サンピエール・ミクロンと違って、超大物です。

それは、ジェファーソン大統領の時代に実現した「ルイジアナ購入」でした。売り主はナポレオン。

聖王ルイ9世に由来する地名・セントルイスからもわかるように、ミシシッピ川の西にはフランスの植民地がありました。ここは七年戦争でフランスが敗れた結果 スペイン領になっていたのですが、1800年にナポレオンが取り戻していました。

独立して日の浅いアメリカにとっては、スペイン領ならば問題ないが、強国のフランス領となると心配です。
特に物流拠点である河口のニューオリンズを手に入れたいと考え、交渉してみました。
ところが、意外にもフランスはルイジアナ全部を売ってもよいと言い出し、1803年に 210万km2以上の広さを持つルイジアナ全部について 1500万ドルで売買成立。破格の安い買い物でした[77028]

ナポレオンは、いずれイギリスと戦う覚悟であり、戦争開始でルイジアナを奪われることを防ぎ、米仏関係も改善しておくことを考えたのではないかと想像されます。
[92847] 2017年 5月 8日(月)19:49:09hmt さん
フランス大統領選挙で39歳のマクロン氏勝利
都道府県市区町村ではないので、もちろん 若年で当選した首長の一覧の対象外ですが、参考までに記録しておきます。
日本経済新聞

これで、欧州連合(EU)[41218]から 中核のフランス離脱という「まさか」の動きは、とりあえず阻止。
[92844] 2017年 5月 7日(日)15:16:46【1】hmt さん
諸説あり
BS-TBS 諸説ありという番組で 地震予知は本当に不可能なのか というテーマが取り上げられていました。

気象庁の「地震予知」に関する見解は、「直前に予知できるほど現在の科学技術が進んでいない」、つまり「できない」としている。(中略)通信工学のスペシャリストが開発した、世界で注目される画期的地震予知技術とは?(後略)

紹介された3説の中から、私が関心を抱いた「電離圏異常検知」という技術を紹介します。
実はこの先生【梅野健・京都大学教授】の専門は地震学ではなく、物理統計学分野を名乗っています。

主なオリジナル研究例の中に、「相関解析による大地震直前の電離圏電子数異常検知法」が挙げられていますが、地震については言わば「シロウト」でしょう。
だから地震発生のメカニズムには全く触れていません。

地中で既に開始し始めた岩石の破壊を いち早く情報として捉え、大きな揺れが来る前に人々に知らせる。

大地震の前に動物が見せるという異常行動。
いわばこれと同じようなことを情報技術によって実現しようとする。
このような技術であると私は理解しました。【あくまでも、個人的な感想です。】

私は知りませんでしたが、昨年秋に京都新聞などで報道され、大学の発表もありました。
マグニチュード(M)7以上の大地震の発生を、1時間~20分前に予測できる可能性のある手法を、京都大情報学研究科の梅野健教授や大学院生の岩田卓也さんのグループが開発した。震源域の上空の電離圏の異常を、国土地理院のGPS連続観測網「ジオネット」のデータを用いて検知する手法で、米国地球物理学連合の学会誌で30日発表する。

京都大学研究成果 2016/10/3

地震は複雑かつ多様な破壊現象だから、予知するのは現状では困難…
などと逃げることをせず、既存のGPS観測データを上手に利用すれば、その解析法を開発するだけで、これだけの成果が得られる。
これは素晴らしい目の付け所だと思います。

電離圏での電子数異常は、熊本地震発生の1時間ほど前からも観測されているとのこと。産経WEST

前兆となる異常発見から大揺れを予想し、警報を出すまでの時間的関係。
地震の種類・規模、太陽フレアなど外的な撹乱要因など、解決すべき問題は多々あるとは思います。
それでも百発百中ではない天気予報を頼りにして生活している私達が、地震予報も利用できるようになる日がいつか来そうだ。
このような期待を抱かせる「お話」を記してみました。
[92843] 2017年 5月 7日(日)12:45:40hmt さん
C県厳木町
[92841] 白桃さん もうすぐ100年
ましてや、C県がスグ判るとなると、危険人物、サ行変態活用者です。

B県梼原(ゆすはら)村、D県頴娃(えい)村など 特徴のある地名で覚えがある県 と違い、C県は判りませんでした。
唐津町 13,144人を抑えて2位から5位までに並んだ4つの村。その背景が気になったので、ちょこっと調査しました。

最初に調べたのは 5桁の人口を支えた産業です。
相知(おうち)・北波多(きたはた)・厳木(きゅうらぎ)の各村は東松浦郡、北方(きたがた)村は杵島郡の所属であり、いずれも炭鉱町でした。
北波多村については、唐津焼発祥の地でもあるようです。

このプロセスで気がついたのが、難読地名【サ行変態地名?】です。ピカイチは「厳木」。
唐津市のサイト内に紹介ページがありました。

「唐津市厳木町うつぼ木」という地名がありますが、コピペにより元の漢字表記を記すべく試みたら、プレビューで正しく出ません。
唐津市が使っていた漢字【竹冠に巻】が原因と思われるので、コピペを中止し、これが二重の難読地名であることを指摘するに止めておきます。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示