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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[104780]2022年6月1日
鰯山
[99187]2020年2月18日
hmt
[97606]2019年4月1日
hmt
[93776]2017年9月17日
むっくん
[90709]2016年7月21日
デスクトップ鉄
[90451]2016年4月28日
伊豆之国
[83708]2013年7月21日
hmt
[83624]2013年6月21日
むっくん
[79735]2011年12月13日
hmt
[78433]2011年5月25日
hmt
[77129]2010年12月28日
hmt
[76083]2010年8月23日
hmt
[75410]2010年6月27日
hmt
[74867]2010年4月11日
hmt
[74466]2010年3月28日
Issie
[74335]2010年3月13日
hmt
[74320]2010年3月10日
hmt
[71730]2009年8月20日
Issie
[65266]2008年5月26日
88
[64890]2008年4月26日
hmt
[45560]2005年10月10日
Issie
[18510]2003年7月21日
ありがたき
[16831]2003年6月15日
ありがたき
[10264]2003年3月3日
まがみ
[7689]2003年1月14日
ken
[7626]2003年1月12日
般若堂そんぴん
[7623]2003年1月12日
蘭丸
[3779]2002年10月11日
蘭丸
[2497]2002年8月11日
ニジェガロージェッツ
[228]2001年5月3日
Issie

[104780] 2022年 6月 1日(水)16:20:00鰯山 さん
質問
昭和18年(1943)7月1日東京府と東京市を統合廃止され東京府の区域をもって
新たに東京都として発足したそうですがどういうことですか。
[99187] 2020年 2月 18日(火)16:58:23hmt さん
東京都制の「特別な区」 と 地方自治法の「特別区」
[99173] グリグリさん 「全国の市区町村数の推移」リリース!
項目の並びの並びは次のようにしました。 市、区/特別区、町、村、市区町村(計)、…政令区
市と同格の区は単に「区」とし、政令指定都市以前の市の区は「行政区」の表記としました。

最初に、hmtマガジン「区制度の変遷」の まえがき から引用します。
「区」の根拠となる法律ごとに、A1~A2(郡区町村編制法など)、B1~B3(明治21年市制町村制)、C1~C2(沖縄県と北海道の区制)、D1~D6(明治44年市制と東京都制)、E1~E6(地方自治法)、F1~F3(合併特例法など)の記号をつけて、制度の概略を説明しました。
この記号の多さからも、市町村とは違う「区」の多様性を窺うことができると思います。

今回のリストは 1889年 法律「市制」の施行以降であり、郡区町村編制法時代の区【市の前身:上記区分のA[74334]】は対象外です。
リストの最初に登場する区は法律「市制」による「行政区」であり、京都2, 大阪4の翌月には東京15区が加わり、三大都市の21行政区(B1)時代がしばらく続きました[74335]

「市と同格の区」は 沖縄県と北海道の区制ですが、1896年出現後 1922年には「市」になり消滅。

さて、今回のリストでは 1943/7/1【法律「東京都制」の施行日】に 35特別区が出現 とあります。
この35区は、東京市が廃止された結果「東京都に直属する区」になったという意味では 確かに「特別な区」です。

しかし、その根拠となった東京都制第140条[74793]には「特別区」という名称は使われておらず、行政区の地位を引き継いだまま、東京市35区(D1)から東京都35区(D4)に移行しただけでした。

参考 [99155] hmt
「東京都制」時代は、府県制時代の東京市も 地方自治法の特別区も存在しなかった空白期です。
長期系列データに倣って(当時の東京都区域【35区>22区】を)仮に1市と扱い【要注釈】、「市町村数」を集計すればよいのではないかと思います。

1945年 終戦。Occupied Japan時代到来。地方制度についても敗戦直後の大都市改革[74935]が開始。
日本国憲法・地方自治法施行(1947年5月3日)に先んじて公布(1946/9/97)された地方制度改革4法です。
その1つである東京都制改正により、東京都の区民には参政権が与えられ、官庁の性格の濃い東京都庁の出先という立場になっていた東京都35区(D4)は、区条例・区規則の制定、課税や起債の権利が認められ、公選の区長を持つ いわば「市に準じる区」(D5)に変身しました。

実質的には、この戦後変化(D5)こそ「特別区」の前身と評価することもでき、この状態で 22区への統合(D6, 1947/3/15)もなされたのですが、形式的には行政区のままとして扱うしかないでしょう。

今回のリストに戻ると、1947/5/3 地方自治法施行日【法律・東京都制の廃止日】こそ 22特別区の発足日です。
[75012] hmt 制定当初の地方自治法による区
E1 特別区【特別地方公共団体】(83コマ)
第281条  都の区は、これを特別区という。【第2項省略】
第283条  政令で特別の定めをするものを除く外、第二編中 市に関する規定は、特別区にこれを適用する。
特別区には、原則として市に関する規定が適用され、区長も1946年の35区(D5)、1947年の22区(D6)[74935]に引き続き公選でした。1947年8月1日に板橋区から練馬区が分離し 23区になりました。

今回のリストについて言えば、23区になった後の特別区には統計上の数値変化がないものの、その中身は大きく変化しています。1952年の地方自治法改正による「都の内部的な部分団体」との位置付けを最低として、2000年施行の基礎自治体入りまでの回復を、過去記事の引用で綴っておきます。

[75018] 特別区の中身が変った 1952年
完全に市と同格とは言えない点があるものの、基礎自治体にかなり近い存在になっていた特別区ですが、発足後5年で逆コースをたどることになります。
当時、地方分権に対する逆風が吹いた理由は、特別区が強力な基礎自治体として存在すると、戦災復興など、大都市東京の経営に支障があると考えられたからでしょうか。(中略)1952年に基礎自治体の地位を失った特別区を、「E4」と記号で区別しておきます。

[75410] ようやく基礎自治体になったが、まだ「特別」区
1952(昭和27)年改正は、大都市地域 東京23区の統一性・一体性を確保しようとしたものでしたが、その 10年後の 1962年に人口1千万になった東京都は、「市」としての事務の重圧で 行財政が麻痺し、大都市問題(Tokyo Problem)が激化しました。

このような環境の変化により、その後は、特別区に権限を委譲する方向に向かい、1998年の法改正により、ようやく「基礎的な地方公共団体」になりました。【施行は2000/4/1】
「基礎的な地方公共団体」になったので、新しい記号「E6」を付けましょう。
1878年 東京府15区(A1)>1889年 東京市発足・その領域内に移行(A2)>1898年 三市特例法廃止で事実上東京市15区(B1)>1911年 勅令指定都市・東京市15区(明治44年市制)(D1)>1932年 市域拡張・東京市35区(D1のまま)>1943年 東京都35区(D4)>1946年 市に準じる35区(D5)>1947年3月 統合により22区(D6)>1947年5月 地方自治法による特別区22区(E1)>1947年8月 23区(E1のまま)>1952年 特別区は東京都の内部団体となる(E4)>2000年 基礎自治体の23特別区(E6)

蛇足
「特別区」には地方自治法で規定されている東京都の区部の他に、2012年に成立した「大都市地域における特別区の設置に関する法律」(平成24法律80号)が施行されています。
大阪市に代え特別区を設置することの賛否を大阪市民に問う2015年の住民投票は否決[87810]
その後も、「全国の市区町村数の推移」に登場するに至っていないことは、ご承知の通りです。
[97606] 2019年 4月 1日(月)10:28:02【1】hmt さん
1889年 地方自治体【市町村】の誕生から 130年
来月から使われる年号の公表で賑わう平成31年度初日。
このサイトの読者として記憶しておきたいことを一つ。
それは、明治22年4月1日に「市町村」という名の「地方自治体」が誕生した記念日であることです。

130年前の 明治22年(1889)というと、2月11日(紀元節)に大日本帝国憲法発布。

地方制度については、明治4年の廃藩置県による3府302県から間もなく、3府72県へのリセット。そして 明治9年の府県統合やその後の手直しなどの再編成を経て、明治21年までに 47都道府県の前身【3府43県と北海道庁】が出揃いました。
46「府県」は 自治体としての性格も少しは得ていたものの【明治11年地方三新法】、官選知事の下に置かれた地方官庁としての性格が強い存在でした。

立憲君主国家になってから最初の地方制度として施行されることになった 明治21年法律第1号の末尾には、参考として「市制町村制理由」が付されており、ごく一部ですが引用します。【条文の本体は 市制(2コマ)・町村制(17コマ)】
本制の旨趣は自治及分権の原則を実施せんとするに在りて…必先つ地方自治の区を造成せざる可からず…自治区は法人として財産を所有し…又其区域内は自ら独立して之を統治するものなり
【61頁3行】現今の制…区町村は稍自治の面を存すと雖も…府県は素と行政の区画にして…悉く完全なる自治体と為すを必要なりとす 即府県郡市町村を以て三階級の自治体と為さんとす【61頁5行】

現行の地方自治法を含めて法律の条文には「地方公共団体」が使われており、「自治体」という言葉を見出すことはできませんが、わざわざ付けられた市制町村制理由によって、上記のように「自治」を目指していたことが明らかであり、印象的でした。

市区町村変遷履歴情報日付順一覧を見ると、1889/4/1に 35府県の市制町村制施行が列挙されています。
明治22年度中に東京府と9県が続き、1890年2月の香川県で 45府県が出揃いました。

市制町村制施行初年度に新設された自治体数は、合計 40市721町12796村でしたが、130年を経た現在まで同名・同法人で続いている自治体は幾つあるのだろうか? 
# 市制町村制が明治22年度に施行されなかった北海道、沖縄県、島嶼部[83646]参照】は対象外です。

ふと、そんなことを考えてみました。

とりあえず 40市だけ調べました。*印は、市制施行日が5月以降になった県に所在した市です。

同じ市名で、法人格も変わらずに存続していたのは 29市でした。 【追記あり】
 盛岡 仙台 秋田 山形 米沢 水戸 横浜 新潟 金沢 福井
 京都 大阪 堺 神戸 和歌山 広島 高知 福岡 久留米 長崎 熊本 
 *岡山 *甲府 *岐阜 *名古屋 *鳥取 *徳島 *松山 *高松

【追記】
形式的には 29市ありましたが、いわゆる「三市特例法」[53890]によって 東京市と共に 事実上骨抜き になっていた京都市と大阪市を除けば 27市です。
三市特例法廃止により、三市が市長や吏員を持つ「本来の市」の地位を獲得したのは 1898年でした[33692]
【追記終】

新設合併によるリセットで失格:9市
 弘前 富山 高岡 静岡 津 姫路 松江 佐賀 鹿児島 
改称で失格: 赤間関(下関になった後に新設合併もあり)
都制による失格: *東京

町村については調べていませんが、同名の市になってもOKとすべきか?

蛇足
目を海外に向けると、1889年は フランス大革命(1789年)の百周年で、パリ万国博覧会が開かれました。
博覧会のシンボル企画に選ばれたのが、鉄橋建設で高評価を得ていたエッフェル社による 300mの鉄塔でした。
2年2月の短い工期で契約し、万博にて間に合わせた竣工式は 1889/3/31。偶然ですが、明治22/4/1の前日でした。
工事費の大部分はエッフェルが調達し、完成後の入場料で返済したとか。
[93776] 2017年 9月 17日(日)15:32:19【1】むっくん さん
市区町村変遷情報(南関東・北陸)
>グリグリさん

市区町村変遷情報に誤りがありましたので、以下の修正をお願いします。

◎東京府
M22.5.1
#34 新設/村制 南豊島郡「千駄谷村」 南豊島郡 千駄ヶ谷村(本), 穏田村, 原宿村(本)
は、正しくは
#34 新設/村制 南豊島郡「千駄ヶ谷村」 南豊島郡 千駄ヶ谷村(本), 穏田村, 原宿村(本)
ではないでしょうか。
参考:府令第25号(PDF)(M22.4.11)13コマ

#16 1907(M40).4.1 町制 豊多摩郡「千駄谷町」 豊多摩郡 「千駄谷村」
は、正しくは
#16 1907(M40).4.1 町制 豊多摩郡「千駄ヶ谷町」 豊多摩郡 「千駄ヶ谷村」
ではないでしょうか。
東京府告示第60号(M40.3.21)では
豊多摩郡千駄ヶ谷村を町と改称
とあります。

#85 1932(S7).10.1 編入 東京市 東京市, 荏原郡 品川町, (中略), 代々幡町, 「千駄谷町」, 大久保町, (中略) , 小岩町
は、正しくは
#85 1932(S7).10.1 編入 東京市 東京市, 荏原郡 品川町, (中略), 代々幡町, 「千駄ヶ谷町」, 大久保町, (中略) , 小岩町
ではないでしょうか。
東京府告示第310号(S7.5.24)では
東京府告示第三百十号
左記町村ヲ廃シ其ノ区域ヲ廃東京市ニ編入シ昭和七年十月一日ヨリ之ヲ施行ス
昭和七年五月二十四日 東京府知事 藤沼庄平

荏原郡 品川町 (中略) 羽田町
豊多摩郡 大久保町 (中略) 代々幡町 千駄ヶ谷町 中野町 (中略) 高井戸町
北豊島郡 南千住町 (中略) 大泉村
南足立郡 千住町 (中略) 伊興村
南葛飾郡 小松川町 (中略) 砂町
とあります。

#11 「1897(M30).2.1」 町制 豊多摩郡中野町 豊多摩郡 中野村
とありますが、正しくは
#11 「1897(M30).2.5」 町制 豊多摩郡中野町 豊多摩郡 中野村
ではないでしょうか。
官報第四〇七七号(明治三十年二月五日)では
○警視庁及東京府公文
東京府第八号告示
豊多摩郡中野村を中野町と改称す
明治三十年二月五日 東京府知事 侯爵久我通久
とあります。

#15 「1901(M34).4.1」 新設 南多摩郡日野町 南多摩郡 桑田村, 日野町
とありますが、正しくは
#15 「1901(M34).3.31」 新設 南多摩郡日野町 南多摩郡 桑田村, 日野町
ではないでしょうか。
日野市史史料集近代1行財政編(編・発行:日野市史編さん委員会、S51.6.30)34頁には出典は東京府公報とした上で
南多摩郡日野町桑田村ヲ合シテ日野町ヲ置ク
 明治三十四年三月三十一日 東京府知事 男爵 千家尊福
とあります。

#59 1925(T14).8.6 「町制/改称」 南葛飾郡金町 南葛飾郡 金町村
とありますが、正しくは
#59 1925(T14).8.6 「改称/町制」 南葛飾郡金町 南葛飾郡 金町村
ではないでしょうか。
官報第三九〇一号(大正十四年八月二十四日)では
○町村変更
南葛飾郡金町村は内務大臣の許可を受け本月六日よりその名称を金(かな)と改め且つ村を町と為せり
大正十四年八月 東京府
とあります。

◎神奈川県
#12 1901(M34).4.1 「編入」 横浜市 横浜市, 久良岐郡 戸太町, 中村, 根岸村, 本牧村, 橘樹郡 神奈川町
とありますが、正しくは
#12 1901(M34).4.1 「編入/境界変更」 横浜市 横浜市, 久良岐郡 戸太町, 中村, 根岸村, 本牧村, 橘樹郡 神奈川町, 「保土ヶ谷町の一部(字岡野新田)」
ではないでしょうか。
官報第五二三七号(明治三十三年十二月十四日)では
○市町村境界変更
久良岐郡戸太町、中村、本牧村、根岸村、橘樹郡神奈川町、保土ヶ谷町字岡野新田及同町字岩間ノ内小字久保山大谷林越大丸(自九百十一番至九百九十六番分を除く)を明治三十四年四月一日より横浜市に編入す
明治三十三年十二月 神奈川県
とあります。
#字岡野新田は、天保4年から開発されたところで、旧国旧高取調(明治2年ころ)からは一自治体として記載されています。

#26 1911(M44).4.1 編入 横浜市 横浜市, 久良岐郡 屏風浦村の一部, 大岡川村の一部, 橘樹郡 子安村の一部
とありますが、正しくは
# 1911(M44).4.1 分割/編入 横浜市 横浜市, 久良岐郡 屏風浦村の一部, 大岡川村の一部, 橘樹郡 子安村の一部
# 1911(M44).4.1 分割 久良岐郡屏風浦村 久良岐郡 屏風浦村の一部
# 1911(M44).4.1 分割 久良岐郡大岡川村 久良岐郡 大岡川村の一部
ではないでしょうか。
官報第八三二七号(明治四十四年三月二十九日)では
○村廃置及市境界変更
市制第四条及町村制第四条に依り左の通処分し来る四月一日より之を施行す
明治四十四年三月 神奈川県
一 橘樹(たちばな)郡子安(こやす)村を分割し大字子安(こやす)を横浜市に、大字白幡(しらはた)を橘樹郡大綱(おほつな)村に、大字西寺尾(にしてらお)を同郡旭(あさひ)村に編入す
一 久良岐(くらき)郡屏風浦(びょうぶうら)村を廃し大字滝頭(たきがしら)、磯子(いそご)、岡(おか)を横浜市に編入し其他の区域を以て新に屏風浦(びょうぶうら)村を置く
一 同郡大岡川(おほかがは)村を廃し大字堀内(ほりのうち)蒔田(まいた)、井戸(いど)ヶ谷(や)、下大岡(しもおほか)(大岡川中心以西大字中里地籍に接続する部分及大字上大岡地内に点在する飛地を除く)、弘明寺(ぐみようぢ)(大字引越(ひつこし)及中里(なかざと)地内又は其地先に点在する飛地を除く)及上大岡(かみおほか)地籍にして大字下大岡(しもおほか)地内又は其地先大岡川(おほかがは)中心以東に点在する飛地並に大字中里地籍にして大岡川中心以東大字下大岡(しもおほか)地籍に接続する部分を横浜市に編入し其他の区域を以て新に大岡川(おほかがは)村を置く
一 橘樹(たちばな)郡保土(ほど)ヶ谷(や)町大字岩間ノ内字寺下(自千五百八番至千五百二十一番部分を除く)、宮下(みやした)、殿田(とのだ)、反町(そりまち)、塩田(しほた)、関面(せきめん)、道上(みちのうへ)(千五百二十二番千五百二十四番千五百二十五番二号の乙を除く)、東台(ひがしだい)、池(いけ)ノ上(うへ)、久保山下(くぼやました)、外荒具(そとあらぐ)、大丸(おほまる)を横浜市に編入す


#29 1911(M44).4.1 「新設」 足柄上郡川西村 足柄上郡 湯触村, 川西村
とありますが、正しくは
#29 1911(M44).4.1 「編入」 足柄上郡川西村 足柄上郡 湯触村, 川西村
ではないでしょうか。
官報第八三二九号(明治四十四年三月三十一日)では
○村合併
足柄上(あしがらかみ)郡湯触(ゆぶれ)村を廃し同郡川西(かはにし)村に合併し来る四月一日より施行す
明治四十四年三月 神奈川県
とあります。

# 1925(T14).4.1 境界変更 橘樹郡日吉村 橘樹郡 日吉村, 住吉村の一部(大字北加瀬)
が抜けているのではないでしょうか。
官報第三七八〇号(大正十四年四月一日)では
○村界変更
橘樹郡住吉村の内大字北加瀬を同郡日吉村に編入し本月一日より施行す
大正十四年四月 神奈川県
とあります。


◎新潟県
#19 「1893(M26).4.1」 分立 北魚沼郡高倉村 北魚沼郡 高根村の一部
#21 「1893(M26).7.1」 編入 北魚沼郡入広瀬村 北魚沼郡 入広瀬村, 高根村
とありますが、正しくは
#19 「1893(M26).4.7」 分立 北魚沼郡高倉村 北魚沼郡 高根村の一部
#21 「1893(M26).4.7」 編入 北魚沼郡入広瀬村 北魚沼郡 入広瀬村, 高根村の一部
ではないでしょうか。
根拠は新潟県告示第197号(M26.4.7)で、官報第二九四一号附録(明治二十六年四月二十二日)においても
○庁府県公報
○分合村及村役場位置変更
新潟県北魚沼郡高根村を廃し大字横根を入広瀬村へ合併し大字高倉を以て更に高倉(たかくら)村を新設せり此段公告す
明治二十六年四月 新潟県
とあります。

#29 「1897(M30).11.15」 境界変更 中頸城郡明治村 中頸城郡 明治村, 東頸城郡 末広村の一部
法的根拠は新潟県告示第240号(M30.11.5)で、1897(M30).11.5境界変更ではないでしょうか。

#40 「1900(M33).11.6」 町制 南魚沼郡塩沢町 南魚沼郡 塩沢村
法的根拠は新潟県告示第287号(M33.11.16)で、1900(M33).11.16町制ではないでしょうか。

#287 1919(T8).8.1 境界変更 新潟市 新潟市, 中蒲原郡 石山村の一部
官報第二〇九九号(大正八年八月四日)によりますと、
○市村境界変更
新潟市と中蒲原郡石山村の境界を左の通変更し本月一日より施行せり
大正八年八月 新潟県
(略)
とあり、境界変更(微)よりこれは収録対象外となるのではないでしょうか。

# 1921(T10).11.20 境界変更 南蒲原郡三条町 南蒲原郡 三条町, 大島村の一部(大字島田)
が抜けているのではないでしょうか。
官報第二七九三号(大正十年十一月二十二日)では、
○町村境界変更
南蒲原郡三条町、大島村境界を左の通変更し本月二十日より施行せり
大正十年十一月 新潟県
一 大島村大字島田を三条町に編入
とあります。

# 1924(T13).1.1 境界変更 南蒲原郡三条町 南蒲原郡 三条町, 本成寺村の一部(大字四日市・西本成寺の全部と大字新保の一部)
が抜けているのではないでしょうか。法的根拠は新潟県告示第16号(T13.1.18)です

#293 1925(T14).7.1 「新設」 中蒲原郡亀田町 中蒲原郡 早通村, 亀田町
とありますが、正しくは
#293 1925(T14).7.1 「編入」 中蒲原郡亀田町 中蒲原郡 早通村, 亀田町
ではないでしょうか。
法的根拠は新潟県告示第487号(T14.7.10)で、官報第三八五八号(大正十四年七月三日)でも、
○村廃止町区域変更
中蒲原郡早通村を廃し其区域を同郡亀田町に合併の件本月一日より施行せり
大正十四年七月 新潟県
とあります。

# 1936(S11).8.1 境界変更 北魚沼郡小千谷町 北魚沼郡 小千谷町, 城川村の一部(大字土川)
が抜けているのではないでしょうか。
法的根拠は新潟県告示第816号(S11.8.1)で、官報第二八七八号(昭和十一年八月五日)でも、
○町村境界変更
北魚沼郡城川村大字土川の区域全部を同郡小千谷町に編入し本月一日より施行せり
昭和十一年八月 新潟県
# 1936(S11).8.1 境界変更 北魚沼郡 小千谷町, 城川村の一部(大字土川)→北魚沼郡小千谷町
とあります。

# 1939(S14).7.1 境界変更 古志郡栃尾町 古志郡 栃尾町, 荷頃村の一部(大字大野)
が抜けているのではないでしょうか。
法的根拠は新潟県告示第634号(S14.7.1)で、官報第三七四三号(昭和十四年六月二十九日)でも、
○町村境界変更
古志郡荷頃村大字大野の区域全部を同郡栃尾町に編入し来る七月一日より施行す
昭和十四年六月 新潟県
とあります。

◎富山県
#14 1917(T6).5.15 編入 高岡市 高岡市, 射水郡 掛開発村
とありますが、正しくは
# 1917(T6).5.15 編入 高岡市 高岡市, 射水郡掛開発村の一部(湶分、大坪町、散地子、向野、開発)
# 1917(T6).5.15 編入 射水郡能町村 射水郡能町村, 掛開発村の一部(江尻、荻布、米島)
# 1917(T6).5.15 編入 射水郡二上村 射水郡二上村, 掛開発村の一部(城光寺)
ではないでしょうか。
官報第一四五四号(大正六年六月七日)では、
○廃村並市廃境界変更
射水郡掛開発村を廃し其地域を左の通高岡市及射水郡能町村、二上村に編入し並に同郡佐野村及高岡市の境界を変更し佐野村区域中左の地域を高岡市に編入し去月十五日より施行せり
大正六年六月 
 掛開発村区域中高岡市編入地域
  湶分(全部)
  大坪町(全部)
  散地子(全部)
  向野(左記を除く外全部)
   (略)
  開発(左記を除く外全部)
   (略)
  荻布の内
   (略)
  米島の内
   (略)
以上の外編入地域の内に介在する官有地並に処分後市村の境界に介在する官有地
 掛開発村区域中能町村編入地域
  開発の内
   (略)
  向野の内
   (略)
  江尻(左記を除く外全部)
   (略)
  荻布(左記を除く外全部)
   (略)
  米島(左記を除く外全部)
   (略)
  城光寺の内
   (略)
以上の外編入地域の内に介在する官有地
 掛開発村区域中二上村編入地域
  城光寺(左記を除く外全部但し能町村との境界は小矢部川の中心とす)
   (略)
以上の外編入地域の内に介在する官有地
 佐野村区域中高岡市編入地域
   (略)
とあります。

## 1937(S12).4.5 境界変更 富山市 富山市, 上新川郡山室村の一部(大字中市、長江、西長江、石金、清水、館出、西公文名)
が抜けているのではないでしょうか。
官報第三〇八〇号(昭和十二年四月十二日)では、
○市村境界変更
市制第四条及町村制第三条に依り上新川郡山室村に属する中市、長江、西長江、石金、清水、館出、西公文名の全部及石金地内に介在する秋吉四難田割全部の地域を富山市に編入し市村の境界を変更し本月五日より施行せり
昭和十二年四月 富山県
とあります。


◎福井県
#6 「1896(M29).4.8」 分立 大野郡石徹白村 大野郡 下穴馬村の一部
とありますが、正しくは
#6 「1896(M29).5.1」 分立 大野郡石徹白村 大野郡 下穴馬村の一部
ではないでしょうか。
法的根拠は福井県告示第71号(M29.4.8)ですが、官報第三八七五号附録(明治二十九年六月一日)では、
○庁府県公報
○村分割
本県に於て今回町村制第四条に依り内務大臣の許可を受け県下越前国大野郡下穴馬村を左の通分割し去月一日より施行せり此段公告す
明治二十九年六月 福井県
石徹白一大字を以て一村とし村名を石徹白村とす
長野、鷲、角野、下大納、上大納、下山、板倉、朝日、貝皿、川合、伊月、後野、角野前坂、朝日前坂の十四大字を以て一村とし村名を下穴馬村とす
とあります。これは法律上の原則の県告示の日付の通りではなく、内部事情で分立が延期された事例だと考えられます。

#11 「1906(M39).__.__」 境界変更 足羽郡酒生村 足羽郡 酒生村, 吉田郡 岡保村の一部
とありますが、正しくは
#11 「1899(M32).1.14」 境界変更 足羽郡酒生村 足羽郡 酒生村, 吉田郡 岡保村の一部
ではないでしょうか。
法的根拠は福井県告示第5号(足羽郡酒生村ト吉田郡岡保村トノ境界変更)(M32.1.14)で、官報第四七四三号附録(明治三十二年四月二十九日)でも
○庁府県公報
○境界変更
足羽郡酒生村、吉田郡岡保村の境界を左記の通変更せり
明治三十二年四月 福井県
吉田郡岡保村大字荒木を足羽郡酒生村に編入す
(略)
とあります。

#20 1935(S10).4.1 「編入」 遠敷郡小浜町 遠敷郡小浜町, 雲浜村, 西津村
とありますが、正しくは
#20 1935(S10).4.1 「新設」 遠敷郡小浜町 遠敷郡小浜町, 雲浜村, 西津村
ではないでしょうか。
法的根拠は福井県告示第39号(遠敷郡小浜町、雲浜村及西津村ヲ廃シ其ノ区域ヲ小浜町ヲ設置シ財産ハ小浜町ニ引継グ)(S10.2.5)で、官報第二四三〇号(昭和十年二月九日)でも
○町村廃置
本年四月一日より遠敷郡小浜町、雲浜村及西津村を廃し其区域を以て小浜町を設置し併せて之に伴ひ町村の財産を来る三月三十一日現在に依り小浜町に引継くの件処分せり
昭和十年二月 福井県
とあります。

訂正【1】横浜市に編入された時の種別を、以前の青森県木造町の事例の種別に合わせた。
[90709] 2016年 7月 21日(木)21:37:27【2】デスクトップ鉄 さん
消滅市
[90706] YASU さん
[90707] ぺとぺと さん
消滅市の残影の行政区・支所名、鉄道駅名を調べてみました。高校名については、どなたかにお任せします。
消滅市都道府県消滅日行政区支所等備考
赤間関市山口県下関市1902/06/01
伏見市京都府京都市1931/04/01近鉄
東舞鶴市京都府舞鶴市1943/05/27
東京市東京府都制移行1943/07/01
飾磨市兵庫県姫路市1946/03/01山陽電鉄
鳴南市徳島県鳴門市1947/05/15
忍市埼玉県行田市1949/05/03
東葛市千葉県柏市1954/11/15
福島市福岡県八女市1954/04/01
首里市沖縄県那覇市1954/09/01沖縄都市モノレール
若松市福島県会津若松市1955/01/01
宇治山田市三重県伊勢市1955/01/01近鉄山田線
宇島市福岡県豊前市1955/04/14
三本木市青森県十和田市1956/10/10三本木→十和田市(1969/05/15)
茨城市茨城県北茨城市1956/03/31
真和志市沖縄県那覇市1957/12/17
挙母市愛知県豊田市1959/01/01上挙母(名鉄三河線)
南大阪市大阪府羽曳野市1959/01/15線名にあり(近鉄南大阪線)
大湊田名部市青森県むつ市1960/08/01大湊駅。田名部駅(大畑線)は廃止
門司市福岡県北九州市1963/02/10
小倉市福岡県北九州市1963/02/10小倉北区、小倉南区
若松市福岡県北九州市1963/02/10
八幡市福岡県北九州市1963/02/10八幡東区、八幡西区
戸畑市福岡県北九州市1963/02/10
守山市愛知県名古屋市1963/02/15名古屋ガイドウェイバス(JR東海は新守山)
鶴崎市大分県大分市1963/03/10
平市福島県いわき市1966/10/01平→いわき(1994/12/03)
磐城市福島県いわき市1966/10/01
常磐市福島県いわき市1966/10/01
内郷市福島県いわき市1966/10/01
勿来市福島県いわき市1966/10/01
篠ノ井市長野県長野市1966/10/16
吉原市静岡県富士市1966/11/01
三島市大阪府摂津市1966/11/01
美陵市大阪府藤井寺市1966/11/01
松永市広島県福山市1966/05/01
布施市大阪府東大阪市1967/02/01近鉄奈良線
枚岡市大阪府東大阪市1967/02/01近鉄奈良線
河内市大阪府東大阪市1967/02/01
児島市岡山県倉敷市1967/02/01
玉島市岡山県倉敷市1967/02/01玉島→新倉敷(1975/03/10)
谷山市鹿児島県鹿児島市1967/04/29
西大寺市岡山県岡山市1969/02/18
大和市東京都東大和市1970/10/01
久留米市東京都東久留米市1970/10/01
村山市東京都武蔵村山市1970/11/03
高田市新潟県上越市1971/04/29えちごトキめき鉄道
直江津市新潟県上越市1971/04/29
長岡市京都府長岡京市1972/10/01
大野市福岡県大野城市1972/04/01
秋多市東京都秋川市→あきる野市1972/05/05
亀田市北海道函館市1973/12/01
コザ市沖縄県沖縄市1974/04/01
狭山市大阪府大阪狭山市1987/10/01南海高野線
泉市宮城県仙台市1988/03/01泉中央(仙台市営地下鉄南北線)
那珂湊市茨城県ひたちなか市1994/11/01ひたちなか海浜鉄道
勝田市茨城県ひたちなか市1994/11/01
秋川市東京都あきる野市1995/09/01
広島市北海道北広島市1996/09/01
田辺市京都府京田辺市1997/04/01新田辺(近鉄京都線)
田無市東京都西東京市2001/01/21西武新宿線
保谷市東京都西東京市2001/01/21西武池袋線
浦和市埼玉県さいたま市2001/05/01
大宮市埼玉県さいたま市2001/05/01
与野市埼玉県さいたま市2001/05/01
清水市静岡県静岡市2003/04/01
徳山市山口県周南市2003/04/21
新南陽市山口県周南市2003/04/21
更埴市長野県千曲市2003/09/01
川内市鹿児島県薩摩川内市2004/10/12
上野市三重県伊賀市2004/11/01伊賀上野。上野市(伊賀鉄道)も
東予市愛媛県西条市2004/11/01
両津市新潟県佐渡市2004/03/01
川之江市愛媛県四国中央市2004/04/01
伊予三島市愛媛県四国中央市2004/04/01
福江市長崎県五島市2004/08/01
黒磯市栃木県那須塩原市2005/01/01
北条市愛媛県松山市2005/01/01伊予北条
上福岡市埼玉県ふじみ野市2005/10/01東武東上線
武生市福井県越前市2005/10/01
龍野市兵庫県たつの市2005/10/01竜野、本竜野
平良市沖縄県宮古島市2005/10/01
串木野市鹿児島県いちき串木野市2005/10/11
新湊市富山県射水市2005/11/01東新湊(万葉線)
塩山市山梨県甲州市2005/11/01
加世田市鹿児島県南さつま市2005/11/07
国分市鹿児島県霧島市2005/11/07
松任市石川県白山市2005/02/01
八日市市滋賀県東近江市2005/02/11近江鉄道
新津市新潟県新潟市2005/03/21
白根市新潟県新潟市2005/03/21
豊栄市新潟県新潟市2005/03/21
本荘市秋田県由利本荘市2005/03/22羽後本荘
大曲市秋田県大仙市2005/03/22
岩井市茨城県坂東市2005/03/22
平田市島根県出雲市2005/03/22雲州平田(一畑電車)
小野田市山口県山陽小野田市2005/03/22
下館市茨城県筑西市2005/03/28
石川市沖縄県うるま市2005/04/01
具志川市沖縄県うるま市2005/04/01
岩槻市埼玉県さいたま市2005/04/01東武野田線
尾西市愛知県一宮市2005/04/01線名にあり(名鉄尾西線)
新井市新潟県妙高市2005/04/01えちごトキめき鉄道
中村市高知県四万十市2005/04/10土佐くろしお鉄道
天竜市静岡県浜松市2005/07/01天竜二俣(天竜浜名湖鉄道)
浜北市静岡県浜松市2005/07/01遠州鉄道
原町市福島県南相馬市2006/01/01原ノ町
久居市三重県津市2006/01/01近鉄名古屋線
栃尾市新潟県長岡市2006/01/01
水海道市茨城県常総市2006/01/01関東鉄道常総線
因島市広島県尾道市2006/01/10
八日市場市千葉県匝瑳市2006/01/23
水沢市岩手県奥州市2006/02/20
江刺市岩手県奥州市2006/02/20水沢江刺(旧水沢市)
今市市栃木県日光市2006/03/20
甘木市福岡県朝倉市2006/03/20西鉄・甘木鉄道
名瀬市鹿児島県奄美市2006/03/20
佐原市千葉県香取市2006/03/27
山田市福岡県嘉麻市2006/03/27
本渡市熊本県天草市2006/03/27
牛深市熊本県天草市2006/03/27
古川市宮城県大崎市2006/03/31
大口市鹿児島県伊佐市2008/11/01
前原市福岡県糸島市2010/01/01筑前前原
蓮田市埼玉県蓮田市2011/01/04
鳩ヶ谷市埼玉県川口市2011/10/11埼玉高速鉄道
126市中、駅名として残っているのは接頭語付きや字体の異なるもの、旧市になかった駅を含めて81市。まさに「駅名が最後の砦」ですね。旧市時代に廃止になった駅としては、栃尾(越後交通)、加世田(鹿児島交通)もありました。
[90706] YASU さん
北陸新幹線延長に伴い駅名を変えそうな松任が少し心配です。
山陽新幹線開業で改称した玉島の例があります。北陸新幹線は金沢・小松間に新駅の計画はなく、地元は加賀笠間駅に新幹線白山駅を設置する運動をしているようです。松任駅は大丈夫では。
鉄道駅名は息が長いです。宇島が豊前市に改称してから61年たちますが、持ちこたえています。奥州市は水沢江刺駅を奥州駅に改称する検討をしましたが、改称コストの地元負担から断念したようです。
合併を主導した中心市に市役所が設置され、それ以外の旧市役所は支所となるのが一般的です。したがって中心市名を支所名に冠するのは、水海道庁舎や名瀬総合支所など、庁舎や総合支所となっている例が多い(佐渡市には両津支所が存在)。
# [90714] により訂正・追加
##[90716]により訂正
[90451] 2016年 4月 28日(木)22:46:31【2】伊豆之国 さん
市名+市名=駅名
今回の七番勝負・問二の共通項は、「『市名+市名=駅名』となる市名の組み合わせ」でした。
これに該当する駅は85駅(想定解となる組み合わせは87組…理由は後述)あり、五十音順に並べると下記の一覧表のようになります。また、これらの駅について、組み合わせとなる地名の由来を、次のようにグループ分けしたものを、記号で表しています。更に、その駅名が「市名+市名」のタイプになった日と、その理由も示しておきました。

<想定解に該当する駅名>

番号駅名路線所在地タイプ該当となった日理由備考
1安芸津呉線広島県東広島市A21954.8.1安芸市誕生
2安芸中野山陽本線広島市安芸区A2同上同上
3安芸長浜呉線広島県竹原市A21994.10.1駅開業
4阿波池田土讃線徳島県三好市A22005.4.1阿波市誕生
5阿波海南牟岐線徳島県海陽町A2同上同上
6阿波加茂徳島線徳島県東みよし町A2同上同上
7阿波川口土讃線徳島県三好市A2同上同上
8阿波半田徳島線徳島県つるぎ町A2同上同上
9阿波福井牟岐線徳島県阿南市A2同上同上
10伊賀神戸近鉄大阪線・伊賀鉄道三重県伊賀市A22004.11.1伊賀市誕生読み方違い(…かんべ)
11石狩金沢札沼線北海道当別町A21996.9.1石狩市誕生
12石狩沼田留萌本線北海道沼田町A2同上同上
13伊豆大川伊豆急静岡県東伊豆町A22004.4.1伊豆市誕生
14伊豆長岡伊豆箱根鉄道駿豆線静岡県伊豆の国市A2同上同上
15和泉砂川阪和線大阪府泉南市A21958.7.1砂川市誕生
16和泉中央泉北高速鉄道大阪府和泉市B12006.2.20中央市誕生
17和泉鳥取阪和線大阪府阪南市A21963.4.1駅開業
18和泉橋本阪和線大阪府貝塚市A21956.9.1和泉市誕生
19和泉府中阪和線大阪府和泉市A2同上同上
20出雲大東木次線島根県雲南市A21956.4.1大東市誕生
21出雲八代木次線島根県奥出雲町A21941.11.3出雲市誕生読み方違い(…やしろ)
22伊勢柏崎紀勢本線三重県大紀町A21955.1.1宇治山田市が伊勢市に
23伊勢鎌倉名松線三重県津市A2同上同上2009.10.8より災害で運休、2016.3.26復旧・再開
24伊勢川口名松線三重県津市A2同上同上
25伊勢竹原名松線三重県津市A21958.11.3竹原市誕生「伊勢鎌倉」と同様
26伊勢松本近鉄湯ノ山線三重県四日市市A21955.1.1宇治山田市が伊勢市に
27市川大野武蔵野線千葉県市川市C1978.10.2駅開業
28伊那福岡飯田線長野県駒ヶ根市E1954.4.1伊那市誕生
29伊那八幡飯田線長野県飯田市E1977.11.1八幡市(京都府)誕生注1
30伊予大洲予讃線愛媛県大洲市A11955.1.1伊予市誕生
31伊予亀岡予讃線愛媛県今治市A21955.1.1伊予市・亀岡市誕生
32伊予小松予讃線愛媛県西条市A21955.1.1伊予市誕生
33伊予西条予讃線愛媛県西条市A1同上同上
34伊予桜井予讃線愛媛県今治市A21956.9.1桜井市誕生
35伊予立川予讃線愛媛県内子町A21986.3.3駅開業
36伊予長浜予讃線愛媛県大洲市A21955.1.1伊予市誕生
37伊予氷見予讃線愛媛県西条市A21961.6.1駅開業氷見の由来([89248] hmt さん)
38伊予三島予讃線愛媛県四国中央市A21955.1.1伊予市誕生
39越前大野越美北線福井県大野市A12005.10.1越前市誕生
40越前竹原えちぜん鉄道勝山永平寺線福井県永平寺町A2同上同上
41甲斐大和中央本線山梨県甲州市A22004.9.1甲斐市誕生
42加賀笠間北陸本線石川県白山市A21958.5.1笠間市誕生
43鹿児島中央鹿児島本線・九州新幹線鹿児島県鹿児島市B12006.2.20中央市誕生
44鹿島旭鹿島臨海鉄道茨城県鉾田市E1985.3.14駅開業旧鹿島郡旭村
45鹿島大野鹿島臨海鉄道茨城県鹿嶋市E同上同上旧鹿島郡大野村
46川西池田福知山線兵庫県川西市D11954.8.1川西市誕生府県境越え
47岐阜羽島東海道新幹線岐阜県羽島市D21964.10.1駅開業
48郡上八幡長良川鉄道岐阜県郡上市C2004.3.1郡上市誕生旧郡上郡八幡町、読み方違い(…はちまん)
49郡上大和長良川鉄道岐阜県郡上市C同上同上旧郡上郡大和町
50佐世保中央松浦鉄道長崎県佐世保市B12006.2.20中央市誕生
51上越妙高北陸新幹線・えちごトキめき鉄道新潟県上越市D12015.3.14駅名改称(新幹線駅開業)
52新宮中央鹿児島本線福岡県新宮町B32010.3.13駅開業
53関富岡長良川鉄道岐阜県関市C1986.12.11駅開業
54伊達紋別室蘭本線北海道伊達市C1972.4.1伊達市(北海道)誕生
55丹波竹田福知山線兵庫県朝来市A22004.11.1丹波市誕生読み方違い(…たけだ)
56知多半田名鉄河和線愛知県半田市E1970.9.1知多市誕生
57千歳船橋小田急小田原線東京都世田谷区E1958.7.1千歳市誕生旧北多摩郡千歳村
58千葉中央京成千葉線千葉市中央区B12006.2.20中央市誕生
59中央弘前弘南鉄道大鰐線青森県弘前市B2同上同上
60中央前橋上毛電鉄群馬県前橋市B2同上同上
61燕三条上越新幹線・弥彦線新潟県三条市D21982.11.15駅開業燕市との境界線上
62津山口津山線岡山県津山市F1929.4.10山口市誕生切れ目違い(津山/口)
63土佐一宮土讃線高知県高知市A21959.1.1土佐市誕生読み方違い(…いっく)
64土佐大津土讃線高知県高知市A2同上同上
65土佐加茂土讃線高知県佐川町A2同上同上
66土佐佐賀土佐くろしお鉄道中村線高知県黒潮町A21963.12.18駅開業当時は国鉄中村線
67土佐長岡土讃線高知県南国市A21959.1.1土佐市誕生
68戸田小浜山陰本線島根県益田市E1966.10.1戸田市誕生読み方違い(…こはま)、所在町名と隣接町名より
69西海鹿島銚子電鉄千葉県銚子市F2005.4.1西海市誕生読み方違い・切れ目違い(西/海鹿島:にし/あしかじま)
70備前一宮吉備線岡山市北区A21971.4.1備前市誕生
71日向長井日豊本線宮崎県延岡市A21954.11.15長井市誕生
72福島高松日南線宮崎県串間市E1950.1.10駅開業旧南那珂郡福島町、1949.9.15仮乗降場として開業
73豊前川崎日田彦山線福岡県川崎町A21955.4.14宇島市が市制4日後に豊前市に
74豊前松江日豊本線福岡県豊前市A2同上同上読み方違い(…しょうえ)
75碧南中央名鉄三河線愛知県碧南市B12006.2.20中央市誕生
76三郷中央つくばEXP埼玉県三郷市B1同上同上
77みどり中央スカイレール瀬野線広島市安芸区B32006.3.27みどり市誕生「鉄道」と認められるか?([85670])
78美濃太田高山本線・長良川鉄道岐阜県美濃加茂市A21954.4.1美濃市誕生
79美濃松山養老鉄道岐阜県海津市A2同上同上
80美作大崎姫新線岡山県津山市A22006.3.31大崎市誕生
81美作加茂因美線岡山県津山市A22005.3.31美作市誕生
82八千代中央東葉高速鉄道千葉県八千代市B12006.2.20中央市誕生
83大和朝倉近鉄大阪線奈良県桜井市A22006.3.20朝倉市誕生
84大和新庄和歌山線奈良県葛城市A21959.2.1大和市誕生
85横須賀中央京急本線神奈川県横須賀市B12006.2.20中央市誕生

(注1)「伊那八幡」駅…1954.4.1伊那市誕生により該当する駅に、1963.2.10福岡県八幡市消滅でいったん非該当に(この間は読み方違い)。京都府八幡市の市制で再該当

<駅名を構成する市名の組み合わせのタイプ分け>
【A】…「旧国名」絡み
 A1:旧国名+所在市名
 A2:旧国名+所在地または周辺の地名(所在市名でない)
【B】…「中央」絡み
 B1:所在市名+中央
 B2:中央+所在市名
 B3:所在地(市名でない)+中央
【C】…所在市名+所在地または周辺の地名
【D】…所在市名と隣接市名の組み合わせ
 D1:前が所在市名
 D2:後ろが所在市名
【E】…郡名・広域地名・旧地名など、駅の所在市名や旧国名以外に由来する地名を冠したもの
【F】…偶然の一致(切れ目違いなど)

該当する駅名は、上記の85駅ですが、「伊達紋別」については、駅の所在地である「伊達市(北海道)/紋別市」のほかに、伊達市を福島県のほうにしても、この問の趣旨から見て「正答」みなされると思われるため、2つの組み合わせ、ということになります。同様に、「和泉府中」も、「府中」を東京都・広島県どちらとしても正答とみなされるため、結局「正答となる組み合わせ」は87組、ということになります。
この表を見ると、「旧国名」絡みである駅名(【A】グループ)が圧倒的に多いことが一目瞭然です。全体の6割強を占めており、そのうち最多なのは「伊予」の9駅([65870])で、すべて「平成の大合併」以前から該当しており、「大合併」以前は「伊予北条」も「該当する駅」でした。「伊予三島」は、以前はそのものずばり市名でもあり、「市名+市名」=「所在地市名&駅名」という唯一の組み合わせでもありました。「伊予」についで多いのは、「阿波」の6駅で、こちらはすべて「阿波市」発足と同時に仲間入りしたものです。
「和泉」「伊勢」「土佐」がいずれも5駅で続きます。旧「和泉国」内にある「和泉」のつく駅で該当する駅は5駅(平成13年(2001)のさいたま市発足以前は南海「和泉大宮」駅も該当していた)ですが、和泉市内にある「和泉府中」と、市外にある「和泉砂川」「和泉橋本」の両駅(「和泉大宮」も)については、駅の開業(駅名の誕生)が「和泉市」の発足(昭和31年=1956)以前であり、「和泉市」発足後にできた「和泉鳥取」駅(昭和38年開業)も和泉市内にはないため、これらの「和泉」は旧国名と考えられますが、「和泉中央」については、ニュータウンにできた新線の駅で、開業が和泉市ができてからだいぶ経ってからであること、和泉市域のほぼ中央に近いことなどから、「和泉」は旧国名よりも市名に由来するほうが高いものと考え、【B】グループに入れたほうがよいのではないかと思われます。「豊前松江」駅は、現在は豊前市域に入っていますが、「豊前市」発足より10年前にこの駅名になっているので、「結果として豊前市内の駅になった」ということで、この「豊前」は旧国名と見て問題ないでしょう。「安芸」と「大和」は、旧国名と同名の市がその旧国外にあるものです。同様な例に「日高市」がありますが、「日高」のつく駅で該当するものはありません。
「安芸津」については、形式上「安芸(国)+津」とみなして【A】グループに入れましたが、実態としては「安芸津」というひとかたまりの地名ではないかと思うのですが、「ご当地」の方がいらっしゃいますので、その辺の詳しいことをご存知でしたらフォローを…。>ピーくん さん。

「大合併」による新たな「旧国名市」の誕生により「仲間」に入ったものには、「阿波」のほか、「伊賀」「伊豆」「越前」「甲斐」「丹波」「美作」のつく各駅名があります。「飛騨」のつく該当駅もこのときできましたが、後述しますが短期間のうちに該当する駅がなくなっています。

【D】グループの「所在市名+近隣市名」のグループには、4駅ありますが、そのうち3駅が新幹線の駅なのが興味深いところです。ただ、「岐阜羽島」については、分類上このグループに入れたのですが、岐阜羽島駅は岐阜県内唯一の新幹線駅であり、この「岐阜」は、市名よりも県名と見たほうがよいのではないかと思われます。また、合併により両方とも市名が消え、該当しない駅名となった「水沢江刺」(所在地は旧水沢市)も、この【D】グループでした。一方、このグループで唯一新幹線の駅でない「川西池田」は、明治26年(1893)に「摂津鉄道」(のちに「阪鶴鉄道」)という私鉄の駅として開業した当時は「池田」という駅名でした。しかし、駅は当時から現在の兵庫県川西市域にあり、「池田」は猪名川を挟んだ対岸の大阪府の地名(現在の池田市)で、「県境を越境した駅名」だったのでした。現在の「川西池田」に改称されたのは、戦後の昭和26年(1951)で、大阪近郊の住宅地として発展してきた川西市(当時は「川西町」)の顔を立てたものと思われますが、それ以前に明治43年に現在の阪急宝塚線「池田」駅が、前身である「箕面有馬電気軌道」の駅として開業しており、猪名川を挟んで国鉄と阪急のそれぞれの「池田」駅がお互いに離れた場所にあった、という時代が長らく続いたのでした。池田市の中心駅(代表駅)は、市制以前から阪急の池田駅であり、川西市の中心駅も、以前の福知山線の状況から見て、阪急の「川西能勢口」駅(昭和40年以前は「能勢口」駅)であったと見られ、福知山線が複線電化され、JRになってから大増発された現在でも、能勢電鉄との乗換駅(梅田からの直通特急も運行されている)でもある「川西能勢口」駅が「川西池田」駅を乗降客数でもまだ大きく上回っているようです。…>川西市ゆかりのぺとぺと さん。([89886],[53070])

現在では「市名+○○」の形になっている、「郡上」のつく2駅は、市制以前の「郡上郡」の名をとったものと思われます。このような(旧)郡名に由来する駅名には、飯田線の「伊那○○」、鹿島臨海の「鹿島○○」、名鉄河和線の「知多半田」があります。ただ、「知多半田」(「半田」は駅の所在市名でもありますが)駅は「知多鉄道」によって開業した駅であり、同じ線にある「知多武豊」駅と同様、社名を冠して、既に開業していた国鉄武豊線の駅名と区別する意味もあったように思われます。(類例-旧「三河鉄道」の路線に多い「三河○○」駅…[83505] k_ito さん)
「中央市」の誕生と同時に「該当する駅名」となった駅が多い「中央」絡みの駅は、近年になって増加したタイプの駅名ですが、「中央前橋」と「横須賀中央」は戦前派で、共に路線開業時からの駅名です。

「大昔」に消滅した旧町村名をいまだに冠している駅名もあります。小田急の「千歳船橋」駅は、昭和2年(1927)の開業当時は「東京府北多摩郡千歳村大字船橋」だったことから、総武線の「船橋」駅との区別もあって、当時の村名を冠したものと思われます(旧国名の「武蔵」にしなかった理由はよくわからないのですが)。千歳村は、9年後の昭和11年に当時の「東京市世田谷区」に合併されて地名が消滅しましたが、それから90年近くを経た現在でも、京王線の「千歳烏山」駅と共に、当時の村名を受け継いでいます。日南線の「福島高松」駅([65843])は、隣にある「福島今町」駅と共に、駅ができた当時は「南那珂郡福島町」だったことに由来すると見られます(「串間」駅も元は「福島仲町」駅でした)。福島町は、昭和29年に新設合併で現在の「串間市」になりましたが、「福島」は古くは「櫛間」と呼ばれており、また「串間」という苗字も宮崎県に多数存在している(全国に約1800人、その約6割が宮崎県に集中)ので、「串間」という書き方もおそらく古くから存在しており、市制施行に当たって、いわば「昔の名前に戻った」ということなのでしょうか。

「市名+市名」駅名になった期日が最も早い現存の駅(駅名)は、おそらく「津山口」駅と思われます。「区切り方違い」になっているこの駅は、昭和4年(1929)の山口市の市制以来、80年以上の間このタイプの駅名になっていることになります。これに次ぐのは、やはり戦前の昭和16年からこのタイプになっている、こちらは「読み方違い」の「出雲八代」駅で、「戦前派」はどうやらこの2駅のみのようです。戦後にこのタイプになった駅で最も早いのは、開業した時点でこのタイプの駅名になった日南線の「福島高松」駅と思われます。一方、一番新しくこのタイプになった駅は、昨年3月の北陸新幹線(長野~金沢)の開業と同時に誕生(旧信越本線「脇野田」駅を移設改称、在来線は「えちごトキめき鉄道」に転換)した「上越妙高」駅です。
駅名が「市名+市名」タイプになった理由で最も多いのは、「片方がもともと市名と同名(所在市名であるものとそうでないものがある)で、もう一方が市名と同じになった」ことによるものですが、「伊予亀岡」駅は伊予市と亀岡市が同日に市になったために「該当する駅名」になった、現存唯一の例です。「伊那八幡」駅は、いったん非該当となった後、再び該当する駅名となった、これも現存唯一の例となっています。新線・新駅の開業によって「該当する駅名」になった駅は「岐阜羽島」など13駅、駅名の改称によるものは「上越妙高」のみですが、これも前述しましたが新幹線開業による「実質新駅」といえるかもしれません。

「過去には『市名+市名』タイプの駅名だった」のが、駅の廃止・駅名改称・駅名に含まれていた市名の消滅によって現在は存在しない、あるいは該当しなくなった駅もあります。これについては、次回に書き込むことにします。
[83708] 2013年 7月 21日(日)18:16:47【1】hmt さん
東京府荏原郡平塚村
[83699] 白桃 さん
1925年【国勢調査の「村」人口】1位 平塚村(東京) 72,256人
○平塚村→平塚町→荏原町→東京市→品川区
その荏原町も、前回の平塚村と並んで歴代国勢調査を通じてのトップ[83695] に輝き 二冠達成。
1930年【国勢調査の「町」人口】1位 荏原 132,108人

1930年人口13万人の「町」・荏原町の記事は[37411][37397]にもありました。1925年平塚村についても [27871]で言及されていました。

1889年の町村制で誕生した平塚村が「史上最大の人口」を持つ村であったとなると、気になるのが、ランキング入り前の人口です。同じ地域のまま名称が変った東京市荏原区と併せて戦前20年間の人口を列挙してみました。
1920年 東京府荏原郡平塚村  8,522人
1925年 東京府荏原郡平塚村 72,256人 
1930年 東京府荏原郡荏原町 132,108人 面積 1,753,895坪[8132]
1935年 東京府東京市荏原区 161,863人 面積 5.80km2[74308]
1940年 東京府東京市荏原区 188,100人

1920年からの人口増。これは、当時の東京市近郊5郡の町村にある程度共通するものでしたが、中でも5年間に 8.5倍近い値を記録した平塚村は、特に急激なものでした。[35704] BEAN さん
この時期は、どのような時代であったのか?

市制町村制制定当時と比べ、日本の産業構造は大きく変化していました。
ところが、その変化に伴う都市化の進行に見合った行政区域の修正は、ともすれば遅れ勝ちです。
それでも 大阪市では 1925年に区域の大拡張が行なわれ、伏見市など隣接部を編入した京都市(1931)、省令指定都市になる前を含めた名古屋・横浜・神戸の3市も隣接部の編入を繰り返して、大都市行政の区域を拡張してきました。
大都市の市域拡張が最も遅れていたのは、大正9年(1920)に 豊多摩郡内藤新宿町を四谷区に編入しただけの東京市でした。

そこに起きたのが、1923年9月1日の関東大震災です。住まいを失った東京市民が、郊外に求めた住居。
その有力な選択肢として、大地震の半年前に開業したばかりの目黒蒲田電鉄沿線があったと思います。
目蒲線は 平塚村の北西境界近くを通り、府立第八中学校(現小山台高校)の近くに 武蔵小山駅が開設されていました。この駅から南東に行くと中原街道との交差点「平塚橋」に至ります。

1930年の東京日日新聞附録復興完成記念 東京市街地図 の 南西端近くを拡大してみると、現在の地図との対応関係がよくわかります。武蔵小山駅・平塚橋間の小山本道にも、五反田から来る中原街道にも、建設中の新道(破線)が並んでいます。

「平塚橋」交差点の南側に町役場が記され、荏原警察、荏原電話局[55694]や郵便局も含めて、この付近が 平塚町>荏原町 の中心地であったことを示しています。同潤会住宅【表参道ヒルズで言及[67594]】の文字も見えます。

この地図には、震災後に開通した 池上電気鉄道の延長部分と 目黒蒲田電鉄大井町線も姿を見せており、この町が、目黒だけでなく 五反田・大井町・蒲田など各方向に電車が通じる 便利な町になったことを示しています。

現在はすべて東急の路線ですが、目蒲線の「小山」に加えて、池上線の戸越銀座・荏原中延、大井町線の荏原町・中延・戸越公園【蛇窪から改称[77004]】・下神明【戸越から改称】と、たくさんの新旧町名・大字名が 駅名に使われています。
「旗の台」は源頼信旗揚げの地ですが、大字中延にあった字旗ヶ岡に由来します。さすがに「平塚駅」はないようです。

戸越銀座と言えば、全国各地にある 「○○銀座」 の元祖とも言える存在です。Wikipediaによると、関東大震災後に銀座の瓦礫を運び、低地を埋め立てたことからの命名とか。311の瓦礫処理からも、何か新しいものが生まれることを期待したいです。

震災による旧市街の消失による東京市民の移動は、時宜を得た電車開通に恵まれた荏原町をして「史上最大の人口を持つ町」たらしめました。それが 独立した都市圏を持つ町 ではなく、東京都市圏の一部にすぎないことは、言うまでもないのですが。

現実に都市化したが 財政基盤が弱いままの東京郊外部の町村。これを救済するための東京市域拡張計画。三部経済制度廃止と組み合わせることにより、旧市域住民の負担増につながるという反対論を抑え、1932年10月1日に ようやく 隣接5郡の一括編入 が実現したことは [74867]に記しました。

荏原郡荏原町は単独で「荏原区」になりました。瀧野川区も北豊島郡瀧野川町から単独で区になった仲間ですが、さすがに この2区は 新設20区の中で面積最小の仲間です[8132]
足立区は南足立郡10町村まるまる、板橋区も9町村です。新設20区の中で面積格差は 15倍以上に及んでいたのでした。

平塚村>平塚町>荏原町>荏原区の範囲をはみ出しますが「荏原」についての 記事集

「荏原」という地名は、菜種油が普及する前の油料作物 エゴマ(荏胡麻)由来でしょう。
武蔵国には都筑郡荏田村(現・横浜市)という地名もありました。田園都市線の駅名は「江田」になっています。
[83624] 2013年 6月 21日(金)18:30:37【4】むっくん さん
市区町村変遷情報の今後の課題、及び未修整・未反映のままの箇所について
[83572]グリグリさん

現段階で市区町村変遷情報の今後の課題や未修整・未反映のまま等の箇所をまとめてみました。

◎今後の課題について
(1)市区町村について
「区」も「町」「村」も、言葉は同じですが、時代により根拠法令もその権能も異なります。([55731]88さん)

そこで[65018]拙稿にて、
(ア)市区町村変遷情報に、町村制や島嶼町村制や地方自治法等の法的根拠の記載
を提案しました。具体的には
1919(T8).4.1 大正8年(1919年) 4月1日 対馬国13村 島嶼町村制廃止し町村制施行
1920(T9).4.1 大正9年(1920年) 4月1日 鹿児島県大島郡16村 島嶼町村制廃止し町村制施行
1920(T9).4.1 大正9年(1920年) 4月1日 沖縄県1町52村 沖縄県及島嶼町村制廃止し町村制施行
1940(S15).4.1 昭和15年(1940年) 4月1日 東京府大島6村八丈島5村伊豆諸島10村 島嶼町村制を廃止し町村制を施行
1943(S18).6.1 昭和18年(1943年) 6月1日 北海道○○町,○○村 北海道一級町村制を廃止し町村制を施行
1943(S18).6.1 昭和18年(1943年) 6月1日 北海道○○町,○○村 北海道二級町村制を廃止し町村制(内務大臣の指定町村)を施行
1946(S21).10.5 昭和21年(1946年) 10月5日 北海道○○町,○○村 町村制(内務大臣の指定町村)を廃止し町村制を施行
1947(S22).5.3 昭和22年(1947年) 5月3日 ○○県(都道府)のすべての市町村 市制町村制を廃止し地方自治法を施行
の記載を求めたものでした。
#“町村制(内務大臣の指定町村)”は“指定町村制”との記載の方が分かりやすいかもしれませんが。。。

(1)の(ア)の記載をすると、
(イ)
●奄美群島や沖縄などが日本政府の統治から離れたり復帰したりの動き([65198]88さん)
●伊豆諸島の動き([24269]hmtさん)
●トカラ列島の動き([56242]hmtさんほか)
●小笠原での北硫黄島等が島嶼町村制等を施行することなく地方自治法施行となったこと
という4点についても、市区町村変遷情報に何らかの記載をする必要が出てくるものと考えられます。この点に付き[65198]88さんでは“後日取り扱う予定”とされて現在に至っています。

また(1)の(ア)の記載をすると、[74320][78867]hmtさんでの提案
(ウ)
明治31年(1898年)10月1日 東京府東京市 三市特例法が廃止され東京市が実質的に誕生する
明治31年(1898年)10月1日 京都府京都市 三市特例法が廃止され京都市が実質的に誕生する
明治31年(1898年)10月1日 大阪府大阪市 三市特例法が廃止され大阪市が実質的に誕生する
という“三大都市の実質的な誕生”を市区町村変遷情報に記すことも考えなければならないでしょう。
#(1)の(ア)(イ)(ウ)については現状では何もなされていませんが、記載されるとより市区町村変遷情報が充実することになります。

(2)北海道の町村制の町村と一級町村と二級町村と指定町村の区別
現状では[78854]88さんにあるように
「二級村」から「一級村」への変更や、「一級町」から「町村制の町」への切り換え、「二級村」から「指定村」への切り換えは、「市制町村制施行後の情報」に相当するものと考え、廃置分合等を伴わないものは、何も表示していません。
ですが、[78867]hmtさんから、
開拓時代の変則的な制度である 北海道二級町村制から、府県における町村制に準じた制度である 北海道一級町村制への「昇格」も、実質的な「自治体の誕生」に近いもので、変遷情報に記録する価値があるのではないでしょうか。
と北海道の一級町村と二級町村の区別の提案がありました。この提案には[78869]紅葉橋律乃介さんも同意されています。
具体的には
#変更年月日変更種別郡名等自治体名変更対象自治体名/変更内容
251901(M34).5.11町制【一級】宗谷郡稚内町【一級】宗谷郡 稚内村【一級】
341907(M40).4.1新設/町制【一級】石狩郡石狩町【一級】石狩郡 石狩町【二級】, 花川村【二級】
#1907(M40).4.1町制【一級】古平郡古平町【一級】古平郡 古平町【二級】
#1932(S7).6.1村制【一級】札幌郡白石村【一級】札幌郡 白石村【二級】
とのような記述に変更されます。ただ、単純に上記のような表記にしますと、二級町が一級町になったのか、一級村が一級町となったのかが分からなくなるという問題も生じ、表記に一工夫をする必要があるかもしれません。
#現状では何もなされていません。(2)を実行する前には、現実問題として(1)の(ア)の記載を行う必要があります。

(3)記載範囲について
現状では市制町村制施行以降に限定されていますが、[78869]紅葉橋律乃介さんの
この時代の道内の町村は、道外での「町」「村」の2種類ではなく、「一級町」「一級村」「二級町」「二級村」(それと「未施行の村」)の4~5種類あったと認識しています
との書き込みにありますように、市制町村制施行(北海道一級町村制・二級町村制)以降の町村以外の町村も併存していました。当然のことですが、制度に依らず同時期の町村の異動はすべて記される方が適切です。そこで、[79348]拙稿にて
私は47府県すべてで一律に明治22年の時点までに遡らせるのが適当である
との意見を表明しましたが、これは将来的な理想に過ぎず、沖縄県及島嶼町村制施行と不可分の情報とも言える[78766]拙稿の反映が現実的なところだと考えられます。
#沖縄県に付いては[69541]拙稿と[69542]88さんを基に明治22年の時点までに遡らせることは出来ます(詳細は将来に別稿で記載予定???)。北海道に付いては[79348][79349]を2箇所訂正した上で記載し、さらに1箇所を記せば明治22年の時点までに遡らせることは出来ます。その他では[78766]拙稿を記したうえで、愛知県で4箇所、鹿児島県で1箇所を記すことで47道府県全部で明治22年の時点までに遡らせることは出来ます。

(4)変更種別の記載方法
[70814][70815]88さん
[70905]拙稿
(1)A→B
(2)A・B
(3)A/B
(4)A:A
の4案。
#現状では何もなされていません。ただ、これを実行するのは各都道府県の公報等にあたる必要があります。ゆえに実行するのは現実的には無理である、と私は考えます。


◎未修整・未反映のまま等の箇所
(5)1918(T7).2.1の北海道室蘭区の成立の記載方法
73 1918(T7).2.1 新設/区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町, 輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村
北海道室蘭区は内務省告示第100号(T6.12.25)
内務省告示第百号
明治三十年五月勅令第百五十八号北海道区制第三条ニ依リ大正七年二月一日ヨリ室蘭郡室蘭町輪西村元室蘭村及千舞鼈村ヲ室蘭区ト為ス
大正六年十二月二十五日 内務大臣 男爵 後藤新平
にて成立しました。
室蘭町には北海道一級町村制が既に施行されていますが、輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村の3村は未だ町村制が施行されていない地域です。市区町村変遷情報を市制町村制施行時の情報とそれ以外の情報に分離して記載した現在、どのようにして表記するのが適切なのかが問題となります。([67215][78865]拙稿、[67671]88さん、[78869]紅葉橋律乃介さん、[79760]中島悟さん)
#現状では何もなされていません。[79760]中島悟さんの町村制未施行3村を削除する案もありますが、一応、町村制未施行とは雖も3村は自治体であるのでこの提案は現実的には難しそうです。
私見ですが、色で区別したり、詳細欄で対応するというのが現実的なところでしょうか。もしくは(2)を実行して
73 1918(T7).2.1 新設/区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町【一級】, 輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村
の形で市制町村制施行時の情報の方に記載すれば、意外と問題がないのかもしれません。

(6)郡について
まず[70820]hmtさんにて
郡が単なる地域呼称にすぎない存在になっている現在でさえも、「郡変更」は入力されています。例:安代町、稲武町。
これとのバランスを考えれば、「郡制」が施行されていた時代の町村についての所属郡変更は、「郡設置」との情報の重複など気にせずに、すべて入力しておくのが順当でしょう。
との提言がありました。
これに対して、[70905]拙稿にて
「郡変更」についてすべて入力するのは現実的には難しい。ただし何らかの記載が必要で、選択肢として、
(A)市制町村制施行時のように別途ページに独立させる
(B)詳細欄において対処をする
(C)重要度が低いことより、M22.4.1の他県の市制町村制施行時の情報入力を優先させる
(D)入力しない(つまりは無視)
の4通りが考えられ、現実的には(C)もしくは(D)の2択である。
と案を出しました。これに対し[71813]88さんの
(B)が現実的な案
との評価があり、その後[70905]拙稿を受けた[71814][71815]hmtさんでの
(E)変遷情報一覧表に、廃置分合を伴なわずに行なわれた「郡変更」も記載する
を新たな提案がありました。そして最終的に[72058]88さんにて
(E)が現実的な案
と方向性が定まりました。ただし、当時は
当面は市制町村制施行時の情報の充実に努めることを優先
とされ、この時に、大正時代以降、そしてhmtさんから指摘のあった岐阜県での試験的な記述が行われた、と私は記憶しています。
(E)の具体的な事例としては岐阜県の
199 1897(M30).4.1 郡変更 養老郡 郡廃置 に伴い 多芸郡 下多度村, 小畑村, 日吉村, 上石津郡 多良村, 一之瀬村 を 養老郡 所属とする
や愛知県の
286 1913(T2).7.1 郡変更 海部郡 海東郡 及び 海西郡 の区域をもって 海部郡 を置くことに伴い 海東郡 津島町, 蟹江町, 佐屋村, 永和村, 神守村, 美和村, 七宝村, 南陽村, 富田村, 大治村, 甚目寺村, 佐織村, 海西郡 八開村, 立田村, 市江村, 弥富町, 十四山村, 飛島村, 鍋田村 を 海部郡 所属とする
の記載です。
現在、未反映であるのは以下のところです。
1893(M26).4.1…東京府
1896(M29).4.1…福島県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、東京府、神奈川県、新潟県、富山県、静岡県、三重県、大阪府、兵庫県、和歌山県、鳥取県、島根県、山口県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、宮崎県
1897(M30).4.1…岩手県、千葉県、滋賀県、奈良県、愛媛県、鹿児島県
1898(M31).10.1…広島県
1899(M32).4.1…香川県
1900(M33).4.1…岡山県

(7)沖縄県の伊平屋村と伊是名村の所属郡に付いて
戦前には島尻郡所属でしたが、本土復帰する頃にはいつの間にか島尻郡所属へと変更されています。([69095]YTさん、[69110]拙稿、[69111]hmtさん、[69117]YTさん、[69126]グリグリさん)
これを受けて[69542]88さんで検討されましたが
当面の編集作業として、そのまま郡変更はなかったものとして取扱わせていただきます。
とされています。
#この結論はおそらく出ないものと考えられます。

(8)大阪市の区の記載
[74517]拙稿での
1925(T14).3.31 大阪市の区の境界変更
1925(T14).4.1 大阪市の区設置
1932(S7).10.1 大阪市の区設置
1943(S18).3.31 大阪市の区の境界変更
1943(S18).4.1 大阪市の区の区設置
が未反映のままです。
#区の境界変更については、現在の編集方針からすると編集の範囲外であり、現段階で反映させる必要性はないことを付記しておきます。

(9)1889(M22).5.1市区町村変遷情報(東京府)の東京市の箇所
[78466][78467][78468]拙稿での1889(M22).5.1東京市の箇所が未修正のままです。

(10)1889(M22).4.1市区町村変遷情報(京都府)の京都市の箇所
[78650][78651][78652][78653]拙稿での1889(M22).4.1京都市の箇所が未修正のままです。
#数は多いですが、(9)の東京市に比べると悩むところはあまり無いと思います。

(11)1899(M32).10.1市区町村変遷情報(北海道)の札幌区と函館区の表記
[78865]拙稿での1899(M32).10.1札幌区と函館区の表記が未反映のままです。
ただしこのうち函館区については[78865]に記載したものに加えて、[79349]拙稿記載の新浜町, 台場町, 仲町, 帆影町, 小舟町の5町を追加する必要があります。

(12)明治22年(1889年) 4月1日 新潟県 市制町村制施行での設置市町村数
設置市町村数は1市47町768村ではなくて1市48町767村です。

(13)明治41年(1908年) 4月1日 対馬国 沖縄県及島嶼町村制での設置町村数
設置町村数は13村ではなく、1町12村です。([79760]中島悟さん)

(14)新潟県中蒲原郡鳥屋王村から鳥屋野村への改称年月日について
9 1890(M23).12.17 改称 中蒲原郡 鳥屋野村 中蒲原郡 鳥屋王村
[68520]拙稿で指摘し[69558]88さんにてM23(1890).12.17からM24(1891).2.__へと修正されたのですが、なぜか、M23(1890).12.17へと戻っています。遅くとも2011年の7月の時点でM23(1890).12.17へと戻っています。
#これは88さんが再度変更されたわけではないと考えられます。これに関する88さんからの書き込みが2011年の7月頃までもそれ以降もありませんから。
#本件の事例は書き込みをしていないなら、おそらく誰にも気づかれていないと考えられます。実際に[83613]白桃さんでの御指摘での出口町の所属した郡などは、書いた当人もすっかり忘れていましたし。。。

(15)都府県の越境事例(岐阜県三濃村など)での記載での提案
[79782]中島悟さん
変更元の府県に記載がないので恵那郡のほか香取郡、足利郡、新座郡、北足立郡、入間郡、福井県大野郡、木曽郡、南桑田郡、岡山県吉野郡でもいつのまにか村が減少しています。
越境を含む項は三多摩を含めても29件しかないので、双方に記載しても良いのでは、とは思います。

(16)小笠原5村(大村、扇村袋沢村、北村、硫黄島村、沖村)の廃止の記載をすること
[79760]中島悟さん
[79266][79773]hmtさん
サンフランシスコ条約第3条が発効した昭和27年4月28日

(17)北海道の上川郡・中川郡に石狩国・天塩国・十勝国の区別を付けることの提案
[79772]中島悟さん

(18)岩手県での里川口町から花巻川口町への改称の記載について
[80268]中島悟さん
[80274][80320]拙稿
[80285]MIさん
[80322]hmtさん
[80346]右左府さん
[80347]YTさん
#これは新資料が出てくるまで保留で良いのではないでしょうか。

(19)その他の未修整の箇所
[79385]拙稿(滋賀県の事例4箇所と福井県の事例1箇所)
#すぐに修正可能な所です。今後、滋賀県と福井県の誤りの箇所の指摘をする予定ですので、その時の方が二度手間にはならないかもしれません。

以上が私の把握している限りで、抜けているところもあるかもしれません。

訂正
【1】誤字訂正
【2】(3)~(7)の順番を入れ替えしました。
【3】【4】(3)の表現を訂正しました。
[79735] 2011年 12月 13日(火)18:26:14【1】hmt さん
その名は「万世」、しかし短命に終った橋や駅もあった
[79717] 伊豆之国 さん 幻の銀座線「萬世橋駅」
[79721] Issie さん 省線万世橋駅

子供の頃に住んでいたのが 牛込区納戸町[41218]でした。
現在、都営地下鉄大江戸線が走る大久保通りですが、当時は飯田橋まで同じルートの路面を走っていた「東京市電」13番系統の上り方面行先が「万世橋」でした。
下り方面の行先は 「角筈」 で、こちらは大久保車庫専用軌道区間手前の抜弁天までが大江戸線ルートになっています。

戦後の「都電」時代も 13番でしたが、行先は少し先の秋葉原東口で、更に水天宮[10805]まで延長されました(1958)。1970年に廃止された時の終点は岩本町だったようです。

多少の変遷はありますが、万世橋近辺は 神田川の水運、馬車鉄道→路面電車、高架鉄道、都市計画道路、地下鉄道と、時代に応じた路線が集中する都内交通の要地でした。
以下、現代の地図 を見ながら、神田川の両岸に亘る交通結節点につき、少し語ります。

鉄道の駅としては、日本鉄道時代の明治23年(1890)に設置された「秋葉原貨物停車場」[34120][67094]が最初ですが、現在の高架線電車駅はずっと後の 1925年です。
路面の軌道としては、1882年開業の東京馬車鉄道→1903年東京電車鉄道の万世橋停留場がありますが、1903年に 東京市街鉄道が 神田川の南に作った停留場が、電車唱歌[33135]に ♪乗りかえしげき須田町や♪ と歌われている 一大ジャンクションでした。

「万世橋」という名は、解体された「筋違御門」の石垣に使われていた石材を利用して明治6年(1873)に作られた2連アーチ橋として登場します。当時の東京府知事・大久保一翁の命名は「万世(よろずよ)橋」で[51807]、従来の見附門付属の木橋と違う永久橋であることを誇示したものでしょう。

これが音読みされるようになったのは、似たような意味の「永代橋」(隅田川)が音読みされていた為かもしれませんが、何故か「バンセイ」でなく「マンセイ」なのですね。新潟の 萬代橋【2004年重要文化財指定】は、「よろずよばし」から「バンダイばし」に転訛したようです。

場所は 現在よりも少し上流 昌平橋との間ですが、広幅の幹線道路ではなく、西洋式の架橋技術のテストという意味合いが大きかったのではないかと推察します。常磐橋(1877)[33433]や日本橋(1911)[63949]に先立つ存在です。

幹線道路の昌平橋が洪水で流出した後、現在の万世橋付近に代替の木橋が架けられ、これが明治36年に鉄橋に変った時に 「万世橋」を名乗った とあります。そして「元万世橋」になった石橋(めがね橋)は、明治39年に解体されたとか。

万世橋駅は、明治45年(1912)4月1日に、中央線【1906年甲武鉄道国有化[61304]】の始発駅として開業しました。
これは、神田川の南岸、リンクした地図の中心マークです。南側の駅前広場に面して、ルネッサンス式の立派な赤煉瓦造の駅舎がありました。幻の万世橋停車場へ行く に掲載されている写真で見ることができます。東京駅を思わせる姿であるのも道理、後に東京駅を手掛ける辰野金吾の設計で、お手本はアムステルダム中央駅とのこと。

けれども、万世橋駅の栄光の時代は、ほんの僅かでした。万世橋駅衰退の原因として、1914年に東京駅が開業し、東京駅への電車線開通(1919)により中間駅になったことが挙げられている資料もありますが、そうとは言えないでしょう。上野駅も 1925年の都心高架線全通で中間駅になりましたが、その後も北に行く列車の始発駅の地位を長く保ったからです。

大正14年4月『汽車時間表』【JTB時刻表第1号】によると、中央本線列車の始発駅は飯田町で、万世橋は主として東京-中野(一部は吉祥寺、国分寺)間を運行する電車の中間駅になっています。
このように、万世橋駅が列車始発駅の地位を失った決定的な原因は、大正12年(1923)の関東大震災による 豪華な駅舎の焼失であったと思われます。

昭和初期の震災復興にあたっては、万世橋駅付近の道路も変りました。神田駅から直進して万世橋駅前を通り昌平橋に向っていた電車道は、現在のように神田駅を出ると少し東側に振れて、万世橋から御成道へとつながる現在の中央通りになりました。小川町から万世橋駅前の広瀬中佐銅像のある(旧)須田町交叉点に向かっていた電車道も、少し南に振れて現在の靖国通りになりました。これにより電車道の交わる須田町交叉点は、少し南東の現在位置に移動しました。要するに、万世橋駅は関東大震災により駅舎を失っただけでなく、市内電車の一大ジャンクションに面するという道路立地からも少し外れてしまったわけです。

国有鉄道の市内高架線は、神田川を渡る区間の工事中に関東大震災が起り、予定よりも少し遅れたものの、1925年には完成し、東京駅と上野駅の間が省線【注1】電車で結ばれました。秋葉原駅も旅客扱いをするようになり【注2】、立地が近接する万世橋駅の存在意義は、ますます小さくなりました。
【注1】1920年に鉄道院が鉄道省になり、国有鉄道線は「省線」と呼ばれるようになりました。
【注2】秋葉ヶ原の停車場に「あきはばら」の駅名標が出現。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。[34120]

1927年開業の浅草-上野間から南に線路を伸ばしてきた東京地下鉄道が、神田川の下に開削工法のトンネルを作り、一時的に北岸の万世橋仮駅が使われたのは、1930~1931年のこと[79717]
万世橋も、この時に鉄筋コンクリートと石材とを併用した現在の橋に架け替えられました。

最初は地上線だった貨物の秋葉原駅も 1932年迄にはすべて高架線に移り、同時に総武線の両国-御茶ノ水間が延長され、3層立体構造の駅になりました。
昭和通り側の入口から総武線プラットフォームに通じるエスカレーターは、少し前の時代の鉄道駅では珍しい施設でした。

震災によりターミナル駅としての役目を終えた万世橋駅は、東京駅の神田寄り高架下にあり震災被害を受けた鉄道博物館の再建に利用されることになり、1936年に博物館用の新館も作られ、移転開業。
万世橋駅廃止は、戦時中の1943年11月1日でした。同日付で鉄道省→運輸通信省。入場無料だった鉄道博物館が有料になったのも、同じ頃と思います。
戦後は日本交通公社を経て交通文化振興財団の運営になり、自動車や飛行機(アンリ・ファルマン機[57213])の展示もある「交通博物館」として親しまれていましたが、大宮に鉄道博物館が開業する前年(2006)に閉館されたことは、記憶に新しいことです。

言うまでもなく、今回話題にした地域の元々の地名は「神田」です。
「須田町」や「万世橋」が神田を代表する地名となった時代もあり、神保町など独自の分野で知られる地域もありますが、現代の世界に通用する地名は、何と言っても「AKIHABARA」です。
つくばエクスプレスのターミナルになったこの地名こそ、交通路を通じて発達してきたこの地域を語るにふさわしいものになりそうです。
[78433] 2011年 5月 25日(水)15:58:56hmt さん
「東京都制」による「東京市」の消滅
第三十一回全国の市十番勝負の問六に「複数市の合併」があり、それを調査する方法として、市町村雑学 東京市ってあったの? 消滅した市 のページが、[78411]グリグリさんから示されました。

十番勝負から離れますが、この機会に、雑学のタイトルにも使われた東京市の消滅について少々。

雑学の冒頭に記されているように、形式的には 明治22年(1889)5月1日に 15区で誕生した「東京市」は、隣接5郡の一括編入 による 35区への大拡張(1932年)などを経て、1943年7月1日の東京都制移行により消滅しました。

なお、いわゆる三市特例法が廃止されて、東京市が「自治体として実質的に発足した日」は、明治31年(1898)10月1日です。
東京市では、この10月1日を「自治記念日」[55178] の名で、「市の誕生日」として認識していました。
これを引き継いだ 現在の「都民の日」[33692]についても、同様の認識があります。

実は、市の変遷 に表示されている「東京市の誕生日」は、形式的な誕生日である1889年5月1日になっています。
「自治体としての東京市」の実質的な誕生日が1898年10月1日であることや、それより前の時代の 15区が東京市に従属するものでなかったという意見は、既に [74320]で記しました。しかし、市の変遷のページが 変遷情報と連動する仕組みになっているため、88さん担当の 変遷情報 に、特例法廃止による東京市(京都市・大阪市も)への制限撤廃が入力されない限り、グリグリさん としても 動けない[74330] ということのようです。
88さん、お手数ですがご検討のほどよろしくお願いいたします。

88さん。私からも、具体的に下記の案を提示します。ご検討願います。
(変更年月日)1898(M31)10.1 (変更種別)三市への制限撤廃 (自治体名)東京市
(変更内容)実質的な自治権獲得、従来の 15区も、実質的に府から市に移管

また、1889(M22)5.1 に入力されている(変更種別)区設置を、(変更種別)区移行、編入等
と変更する提案を、[74335]で行っています。併せてご検討願います。

要するに、郡区町村編制法による「従来の区」は、東京市が形式的に発足した1889年に「東京府15区」という身分を保ったまま「東京市」の領域内に「移行」した。(同時に、白金・原宿・早稲田などの地域を東京市内に編入。)
1898年からは、三市特例法廃止、市制改正(第3条、第72条)により、実質的には「東京市15区」になり、1911年の市制全改正により、形式的にも「東京市15区」になった。
以上のように理解しています。

消滅前のことが長くなってしまいましたが、東京市の消滅日は、昭和18年法律第89号 「東京都制」 の施行日です。

「東京都」は、東京府と東京市との「垂直合併」により作られた、極めて特殊な制度でした。
35区の範囲では、東京都は市町村の性格を持ち、三多摩と島では町村を包括する府県の役割を果たす。

もちろん、戦争遂行という特殊な状況の下に、帝都の一元的行政による効率化を図ったものですから、戦後の「自治・分権型」を基礎とする地方制度とは対極の位置にある、「官治・集権型」制度でした。
勅令指定都市の区【D1[74736]】が持っていた法人格は、東京市廃止後の35区に引き継がれたとはいうものの、東京都になった当初の35区【D4[74793]】は、条例制定権、課税権、起債の権限もなく、区の自治権は縮小されていました。

消滅した市の雑学・表の備考に、“特別区に行政移行”と記され、前書にもそのような記載があります。しかし、「特別区」は、戦後の新憲法下の「地方自治法」に基づく制度であり、これは間違いです。
「特別区E1[75012]」になるのは、敗戦直後の大都市改革[74795]により「市に準じる35区」(D5)になり、更に22区→23区への整理統合を経た後のことですから、消滅した市の雑学で、そこまで言及する必要はないでしょう。
[77129] 2010年 12月 28日(火)16:24:45【1】hmt さん
業平橋と押上
[77124] Issie さん
東武伊勢崎線の「業平橋」駅が,例のものの完成・開業にあわせて2012年から「とうきょうスカイツリー」駅に改称するのだとか。
何かもったいない気が。

ニュース記事 には、吾妻橋>浅草>業平橋という改称の歴史が紹介されています。この記事にある
業平橋駅単独での乗降客数は集計していないが
の意味を補足すると、業平橋駅は、2003年に開業した「押上」駅(半蔵門線乗り入れ駅)と、所在地・電話番号・運賃計算など すべて同一駅の扱いになっているためです。但し、東京メトロ赤坂見附駅と永田町駅との間にあるような 構内連絡通路はなく、両駅の間には 京成・都営浅草線の押上駅があったりして、一見すると別の駅のような顔をしています。

類似する事例の先輩として、「八木西口駅」[74479]を紹介したことがあります。
大阪電気軌道が、1929年に布施-八木間の線(現・近鉄大阪線)を桜井まで延長した際に、従来の八木駅より手前から東に直進し、従来線(現・近鉄橿原線)との交点に新駅を作りました。その際、従来駅も 八木駅構内の別の乗降場「八木西口」という形で残りました。

74年後の2003年に 営団地下鉄半蔵門線が 押上まで延長された際、東武の乗り入れ線は 業平橋駅の手前から分岐し、地下の押上駅に入りました。こちらには 八木のような 新線と従来線の交差駅はなく、従来線の業平橋駅も、(押上駅とは別の乗降場として)当然に存続します。

「業平橋」の駅名は 80年以上使われることになり、それなりの歴史があるのは事実です。
しかし、それは あくまでも「駅名」としての歴史であり、「地名」としてはどんなものでしょうか。
そもそも「業平橋」という橋があるのか?

ウィキペディアは、在原業平にちなんだこの名の橋は、吾妻橋の別名で、これが駅名の由来であるという説を述べています。
更に墨田区大横川に架かっていた橋の他に、春日部市・奈良県斑鳩町・芦屋市に現存するようです。ウオッちずでは芦屋川の橋が出てきます。

吾妻橋は、1774年に隅田川五橋の最後として架けられた 大川橋の通称 「東橋」が、1876年に 正式に「吾妻橋」になったとされます。1887年 隅田川最初の鉄橋になり、後には 東京市電も通じていました。現在の橋は 1931年。
重ね地図江戸図でも 既に「吾妻橋(大川橋)」の表記を見ますから、少なくと幕末から明治にかけては いずれの名も使われていたようです。
一方、業平橋という別名ですが、近くの大横川にあった「業平橋」と同名の別名が果して存在したのか? 疑わしく思われます。

伊勢物語で“名にし負はば いざこと問はむ都鳥…”と詠まれた 在原業平の故事は、すぐ上流の「言問橋」(竣工1928)の由来にも使われていますが、この歌枕は、更に上流の「橋場の渡し(白鬚橋付近)」とも言われています。

大横川の業平橋は、重ね地図の江戸図でも、明治図でも確認できます。現在は 大横川親水公園が浅草通りと交差するあたり。大横川は、大正6年の地形図では埋め立てられています。

東武鉄道は 関東大震災直後に、向島で「浅草」を名乗っていた現在の業平橋駅から 高架線で省線上野駅に延長する免許を申請し、翌年 浅草花川戸までに限り 認められました。この延長線が完成して 駅名が「業平橋」に改められた 昭和6年には、橋そのものは過去の存在でしたが、近くの大横川に存在した 業平橋の記憶 は残っていたと思います。

1902年の開業時には ターミナルとして「吾妻橋」を名乗った駅が、「浅草」を経て 中間駅として再改名する際に わざわざ吾妻橋の別名を名乗った という不自然な説よりも、近所にあった橋名の名残 と考える方が可能性があるのではないかな?

現在の所在地は 墨田区押上1丁目ですが、江戸時代に 業平橋駅の場所は 小梅村。押上駅のある東側は 押上村で、業平村という村は ありませんでした。
「業平」を名乗る町名が生まれたのは、明治5年の「小梅業平町」と思われます。大横川に架かる業平橋の南西。

この小梅業平町を含む 吾妻橋と業平橋との間の地域は、明治11年の郡区町村編制法施行に際して、本所区になりました。 東京府直属の15区は、(明治の)朱引線を目安とした「朱引内」だったのでした[74867]
大横川の東側から北十間川北側にかけての地域(後の業平橋駅を含む)は、朱引外→郡部のまま。

明治22年の市制・町村制で、東京府葛飾郡のうち、本所区に近い 小梅村・押上村などは 東京市に編入され、2年後の1891年には新しい町名に再編されました。この時に業平橋の東側に 中ノ郷業平町誕生。大部分は旧小梅村ですが、東武地域の南縁を画する 北十間川より南(現・業平1丁目など)です。

結局のところ、業平橋は江戸時代から存在した橋の名でしたが、消滅してから約1世紀も経過しています。
一方、墨田区内に「業平」という町名は残され、伊勢物語ゆかりの故事を伝えています。
東武の駅は、現在では新線の地下駅「押上」が主体となっています。
別乗降場は 電波塔最寄り駅として生き残るという状況下では、「業平橋」の駅名が消えるのも やむを得ないという状況です。

鉄道駅に深入りしすぎるのもなんですが、この地域の駅を列挙しておきます。特記ない限り東武鉄道。

1902年(明治35年)吾妻橋駅開業。北千住-越中島間工事における曳舟からの分岐線。
1904年(明治37年)曳舟-亀戸開業で吾妻橋駅は一時廃止。1908年貨物のみ再開。
1910年(明治43年)浅草駅に改称し旅客営業を再開。乗り入れ先の総武鉄道国有化の影響。
1912年(大正元年)京成電気軌道押上駅開業。現在の京成本社の場所にあった地上ターミナル駅。
1931年(昭和6年)業平橋駅に改称。浅草雷門駅(現・浅草駅)開業で中間駅になった。
1931~1932年 東武と京成の両社が請地(うけじ)駅を開業。すぐ東側の東武と京成の並走部分で乗換駅になったが、利用は少なかったらしく、戦後廃止。
1960年(昭和35年)京成の押上駅地下化。都営地下鉄1号線(現・浅草線)開業し、相互乗り入れ開始。
1990~2003年 営団半蔵門線直通運転開始までの間、東武鉄道から都心へのバイパス通勤路として、業平橋駅を利用。
 電留線に地上ホームを設け、10両編成列車のターミナルとし、京成・都営の押上駅との間を地下通路で連絡。
2003年(平成15年)営団半蔵門線の押上駅が開業し、東武伊勢崎線と直通運転。
2012年 業平橋駅を「とうきょうスカイツリー」駅に改称予定。
[76083] 2010年 8月 23日(月)17:38:01hmt さん
廃藩置県 (6)明治4年7月14日 寝耳に水の 廃藩置県
[76077]までに記した 明治4年前半の政治状況。明治2年版籍奉還>明治3年「藩制」と府藩県三治体制を進めてきましたが、相変わらず「殿様」が支配する「藩」が近代国家としての統一を妨げています。そして財政的には、中央政府も藩も いずれも苦労。
そんな中で、西郷提案による御親兵は発足したものの、大久保が目指した組織改革は実現せず、三藩提携による中央集権化は7月に入っても機能せず、政治空白状態に陥っていました。
一方、政府外では、大藩の中から府藩県三治制の見直しが論じられるようになり[76077]、中小藩の自発的な廃藩などで、明治2年末から明治4年6月までの間に 9+4=13もの藩が消滅していました[76076]

ここに至って、政府内部からも廃藩論が提起されます。口火を切ったのは やはり兵制の統一を望む兵部省で、殿様コンプレックスの弱い長州人でした。
山縣有朋が鳥尾小弥太や野村靖と時事を論じているうちに 意見が一致し、財政の統一を目論む 大蔵省の井上馨経由で 木戸孝允参議の賛成を得たのが 7月6日のことです。

# 椿山荘[67436]と、そこから東に下る 鳥尾坂 とは、山縣と鳥尾に関係する遺跡です。東京湾の富津沖などに作られた 海堡[26174]は、鳥尾が建議した「東京湾海防策」によるものとされます。野村靖は内務大臣時代の1895年に東京府の 東京都と多摩県への再編成案 を出しましたが、帝国議会や東京市民の反対で実現しませんでした。

こうして長州内の意見は 廃藩断行で まとまりました。
では、殿様コンプレックスの強い 薩摩の 西郷と大久保は どのように対応したのでしょうか。

山縣が 西郷参議を訪ねたのが 同じく6日。廃藩置県の話を持ち出すと、意外にも 即座に同意。
西郷隆盛としても、参議に就任したものの、政治空白状態では世間の物笑い。諸藩の廃藩への動きは人力の及ぶものでない。殿様の御恩に背く廃藩は、私情としては忍び難いが、断固やらねばならぬ。彼は 事後報告で このように言ったそうです。
西郷から伝えられた 大久保利通も、既に 三藩提携による中央集権化の限界 を悟り、起死回生策としては 廃藩断行しかないと 承知しました。

7月9日、大暴風雨の東京九段下・木戸邸。密議に集まったのは、薩摩から 西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌の4人。長州からは 木戸孝允・山縣有朋・井上馨の3人。(藩名は鹿児島藩・山口藩になっているのですが、やはり薩摩・長州と呼ぶ方が気分が出ます。)
僅か7人の密議で知藩事の上京を待たずに速やかに廃藩を発令し、もし応じない藩があれば、武力に訴えることを、失敗したら全員辞職覚悟の堅い結束で決めました。“もし暴動が起きれば、拙者が引き受け申す。”(大西郷全集)

廃藩置県は、薩長の7人によって実質的な決定が下されましたが、手続的には もちろん 明治天皇に上奏して裁可を得ることが必要です。12日に決めた大綱に従い、右大臣の三条実美から上奏することになりました。大納言の岩倉具視は 聾桟敷にして置こうという意見さえあったようですが、さすがに大久保から通知。岩倉でさえ 意外の大変革には 狼狽したそうです。

明治4年7月14日(1871/8/29)、在京中の知藩事 56人は 明治天皇の御前に呼び出され、三条右大臣の読み上げる廃藩置県の詔書 法令全書350 を聞かされました。「さわり」の部分
朕先に諸藩版籍奉還の議を聴納し新に知藩事を命じ各其職を奉ぜしむ 然るに数百年因襲の久き或は其名ありて其実挙らざる者あり 何を以て億兆を保安し万国と対峙するを得んや 朕深く之を慨す 仍て今更に藩を廃し県と為す

先に版籍奉還で知藩事を任命したが、実績が挙っていない。これでは国際的に立ちゆかない。だから藩を全廃して県にする。

知藩事という名になっていた殿様たちにとり、これはまさに 寝耳に水 の宣言でした。

薩長の呼びかけに応じた薩長土提携により、中央政府の 府藩県三治制テコ入れ の一翼を担っていたつもりの 高知藩でさえ、「この日まで」、全くの聾桟敷に置かれていました。
「この瞬間まで」でなかったのは、高知藩知事の代理として呼び出された板垣退助は、上記詔書奉読の直前に、薩長土肥4藩知事に賜った勅語により、廃藩置県を知らされたからです。

この勅語 法令全書351 は、4藩の版籍奉還建議を褒め、廃藩置県への翼賛を命じたものです。
別に廃藩建議(明治4年[76077])に関係した 熊本・名古屋・徳島・鳥取4藩知事宛の勅語(法令全書352)もあります。

版籍奉還の明治2年[75521]には、正月23日の上表を受け、“会議を開き、公論を集約した上で、沙汰する”と約束し、6月に許可しているのですが、今回の廃藩置県は、“広く会議を興し萬機公論に決すべし”などどこ吹く風。
秘密裏に独断専行された電光石火の早業です。
その裏には、西郷の作った御親兵 8000人の威力があったことは、言うまでもありません。

明治2年の藩知事表[75521]にあった 274藩から、明治4年6月までに廃止された 9+4=13藩[76076]を除いた 261藩。
これが廃止されて、そのまま 261県になり、従来からの政府直轄地に置かれた府県と合せて、3府 302県になりました。
[75410] 2010年 6月 27日(日)11:12:13【2】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区 (13)ようやく基礎自治体になったが、まだ「特別」区
htmマガジン にまとめたい 特集は いろいろありますが、とりあえず 「都道府県」と 「市町村と区」を中心に進めています。
その中で、まだデビューしていないのが「区」です。

グリグリさんが立ち上げた 新メニュー 「市の変遷」[74292] に刺激されて始めた 連載 区制度の変遷 が、4月に 途切れていたので再開します。

東京の「区」の制度は、占領下の 1946(昭和21)年から、日本が独立を回復した1952(昭和27)年の間に大きく変りました。

1946年東京都制改正で「市に準じる区」(D5) 公選区長。区条例・区規則制定、課税、起債の権利。[74935]
1947年地方自治法制定による「特別区」(E1) 東京都制末期に実現した基礎自治体的な性格を承継。[75012]
1952年地方自治法改正により“東京都の内部団体”になった特別区(E4) 区長公選廃止。区の事務は制限列挙し法定化。[75018]

1952(昭和27)年改正は、大都市地域 東京23区の統一性・一体性を確保しようとしたものでしたが、その 10年後の 1962年に人口1千万になった東京都は、「市」としての事務の重圧で 行財政が麻痺し、大都市問題(Tokyo Problem)が激化しました。

このような環境の変化により、その後は、特別区に権限を委譲する方向に向かいました。
1964(昭和39)年改正で、1952年に制限列挙された区の事務10項目は21項目になり、課税権の法定化、都区協議会の設置がありました。
1974(昭和49)年改正では、区の法的性格は従前どおりながら、区長公選制も復活。人事権、事務配分原則の転換など一応「市並み」に近い自治権が実現しました。

23特別区の性格を 「基礎的な地方公共団体」 と明確に法定化することについては、既に 1990(平成2)年の 第22次地方制度調査会答申 で方向づけられていましたが、清掃事業移管問題での紆余曲折があり、法改正は 1998(平成10)年になって ようやく実現しました。

1947年発足当時の 特別区(E1)は、GHQにより与えられた 基礎自治体的な性格(1946年のD5) を承継していましたが、まだ 基礎自治体 という言葉自体がなかった時代であり、88 さん のコメント[55583] にあるように、
「基礎的な地方公共団体」となったのは、平成10年(1998年)の地方自治法改正(施行は平成12年(2000年)4月1日)以降
ということになります。

「基礎的な地方公共団体」になったので、新しい記号「E6」を付けましょう。
1878年 東京府15区(A1)>1889年 東京市発足・その領域内に移行(A2)>1898年 三市特例法廃止で事実上東京市15区(B1)>1911年 勅令指定都市・東京市15区(明治44年市制)(D1)>1932年 市域拡張・東京市35区(D1のまま)>1943年 東京都35区(D4)>1946年 市に準じる35区(D5)>1947年3月 統合により22区(D6)>1947年5月 地方自治法による特別区22区(E1)>1947年8月 23区(E1のまま)>1952年 特別区は東京都の内部団体となる(E4)>2000年 基礎自治体の23特別区(E6)


2000年4月の施行から 「平成12年改革」 と呼ばれているこの制度は、東京都の区について、戦後に行なわれた一連の制度改革の到達点でしょうか。それとも新たな改革への出発点になるのでしょうか。

23区は「基礎的な地方公共団体」ではあるが「普通地方公共団体」ではない。このあたり、まだ「特別」区です。
大都市地域行政の一体性・統一性確保のためとして、事務処理と税の賦課徴収に特例が設けられています。
例えば一般には市町村が行う事務である上下水道・消防などは都の仕事で、都区財政調整制度が存続しているなど、23区は、まだ完全な自治体ではありません。

新たな改革への模索としては、「都の区」の制度を廃止し、人口・面積・財源などの異なる基礎自治体が、自立性を維持しながら対等に協力して相互補完する 「基礎自治体連合」構想 が、2007年12月に提案されています。第二次特別区制度調査会報告 概要版pdf

大東京市の残像を払拭した普通地方公共団体「東京○○市」の連合体による新しい自治モデルは実現するのでしょうか。
[74867] 2010年 4月 11日(日)23:51:27hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (5.1)六大都市区域の拡張
先走って[74793] 東京都制による35区を先に書いてしまいましたが、その前に明治44年「市制」に基づく「区」[74736] が設けられた「六大都市」における「区域」の拡張について記すべきでした。そこで、枝番で処理します。

文政元年(1818)に幕府評定所で確定した江戸の範囲は老中決済を経て、「別紙絵図 朱引 ノ内ヲ御府内ト相心得」として公表されました。朱引は、町奉行支配境墨筋よりも拡張されており、主要部が墨筋の外だった新宿も朱引内になりました。墨筋突出の目黒は例外。

江戸に在勤していた諸藩の武士が明治になって引き上げると、東京は一時的に衰退しました。
荒れた武家地を桑畑や茶畑にして産業振興を図ろうとしたのが明治2年8月の「桑茶政策」参考pdf資料 です。朱引の範囲も、この時にかなり縮小されました[14798]

郡区町村編制法では、この明治の朱引線を目安として、朱引内に東京府直属の15区[74334]を、朱引外に6郡を設置しました。
明治22年に、形式的にせよ東京市が発足した際に、白金・早稲田など区域拡張があり A2の 15区になりました[74335]

勅令指定都市時代の東京市は、大正9年(1920)に 豊多摩郡内藤新宿町を四谷区に編入
新宿追分の京王線ターミナルも市内になったわけで、その後「四谷新宿」と改名したのも、区の名を誇りに思ったからでしょう。

このような区域の修正はあったものの、東京市の区域は概ね江戸の朱引内由来の15区のままであり、日本の産業構造の変化に伴う全国的な都市化の進行に合った行政区域になっていませんでした。

これに対して、大阪市では 1925年に区域の大拡張が行われ、京都市も 1931年に伏見市など隣接部を編入。
名古屋・横浜・神戸の3市も(省令指定より前を含めて)隣接部の編入を繰り返して、大都市行政の区域を拡張してきました。
その詳細は 変遷情報 で見ることもできますが、市の変遷にも抽出されています。

さて、市域拡張の遅れた東京市ですが、1923年に関東大震災に襲われた結果、比較的被害の少なかった郊外への人口流出が加速しました。それがもたらした小学校関係の経費が増大は、周辺町村の財政を圧迫し、都市計画区域において町村長が施行すべき道路・上下水道整備の進捗を遅らせることになりました。

1918年に五大都市に準用された東京市区改正条例(翌年 都市計画法制定)が「六大都市」の起源であることは[53893]で記しました。
この「都市計画区域」になっていたのは、東京市及び隣接5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)、それに北多摩郡千歳村と砧村を加えた区域であり、東京以外の五大都市の周辺町村編入範囲も、それぞれの都市計画区域が基準になっていました。

現実に都市化したが財政基盤が弱いままの東京郊外部の町村。
これを救済するために東京市への編入が計画されますが、これは旧市域住民の負担増につながるという反対論がありました。

実は大都市を有する府県においては、府県財政を市部と郡部に分け、市部・郡部・市郡連帯の3方法により経費を支弁するという「三部経済制度」なるものが存在していたのですが(明治32年3月改正府県制付則第140条2項)、この制度は社会の実情に合わなくなっており、廃止の動きがありました。

ここで、東京市域拡張と三部経済制度廃止を同時に行うという案が出ます。
市域拡張による旧市域の負担増は、三部経済制度廃止のみを行う場合と大差なく、新市域が発展することによる税収増加等の利益は旧市域も享受できるという考えで理解が得られ、隣接5郡の一括編入 が 1932年10月1日に実現しました。

こうして実現した「大東京」には 20区が新設され、従来の 15区と合わせて 35区になりました。
続いて 1936年には 北多摩郡の2村も世田谷区に編入

子供の頃、それまで別の沿線と認識していた京王線の千歳烏山と小田急の千歳船橋とが、昔の村の名を共有していることを「発見」して興味をそそられた記憶があります。
[74466] 2010年 3月 28日(日)00:06:01Issie さん
ありあけのハーバー
[74463] ニジェガロージェッツ さん
ソヴィエツカヤ・ガヴァニの「ガヴァニ」は港湾を意味し

のどで発音する h の音を持たないロシア語では г(g) がしばしば h に対応しますから,“港”を意味する гавань は havan (通常の転字法では gavan' だけど)。デンマーク語の havn (コペンハーゲン=ケーベンハウン Koebenhavn の havn),ドイツ語の Hafen,そして英語の harbor に通じるのでしょうね。
「ハーバー」と言えば,東京ローカルでテレビを見ていた人たちには有名なコマーシャル,「♪ありあけーのぉハ~バー」。横浜を代表するお菓子だそうで,一旦製造元が倒産して消えてしまったことを多くの人が惜しんで復活したものです。

と,無理やり話を横浜に戻して…,
[74459] で言い忘れたのですが,数日前の新聞に掲載されていた記事によると,横浜市では紋章の「ハマ」マークとは別に新しいシンボルマークを検討中なのだとか。
東京都が東京府ではなく東京市から引き継いだ“亀の子”マークの紋章(一部では“安産のお守り”)とは別に“イチョウの葉っぱ”のシンボルマーク(本当は必ずしもイチョウではないのだけど)を制定したのと同じようなものであるようです。今では伝統の亀の子よりももっぱらイチョウを見る機会の方が多い印象があるけど,横浜でもこの動きに賛否があるとか。
「ハマ」のマークを惜しむ声が多いようです(別にハママークを廃止する,という話ではないのですが)。
[74335] 2010年 3月 13日(土)19:57:34【1】hmt さん
同じ「区」の名で呼ばれても、中身は 区区(まちまち) (2)三大都市の「区」は市域内に移行
今回から、明治21年法律第1号「市制・町村制」 の時代の「区」です。

[62662]88さん の記事にあるように、上記の法律(旧・市制町村制)は 大部分の府県について 翌1889年に施行されました。
また、かなり多くの府県では 1891年から1898年にかけて 明治23年法律第36号「郡制」が逐次施行されました。

これにより、「郡区町村編制法」で設けられた「区」と「町村」の多くの地域は、新制度に取って変わられることになりました。
事実「郡制」施行の地では、これに抵触する郡区町村編制法を廃止するという規定もあります[62732]
しかし これは郡部の話で、大都市においては、郡区町村編制法で設けられた“従来の区”が、意外にしぶとく生き残っていたのでした。

それを端的に示しているのが、いわゆる三市特例法 こと 市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件(明治22年法律第12号)です。
第1条 東京市京都市大阪市に於ては 市長及び助役を置かず 市長の職務は府知事之を行ひ 助役の職務は書記官之を行ふ
第4条 東京市京都市大阪市に於ては 従来の区を存し 毎区に区長1名及書記を置き 有給吏員と為し…

三大都市において行政機関として機能していたのは、有名無実の存在である(第1条)「市」ではなく、“従来の区”なのでした。

実は 前回の記事で紹介した 明治11年東京府布達第49号による 15区の名称区域 は、“明治30年12月現行”という「東京府布令類編纂」に掲載されたものであり、東京市発足後のこの時代でさえも、「15区」を説明するにあたり 明治11年の布達に 大きな修正をする必要がない と考えられていたことがわかります。

市制町村制の施行対象は、明治22年東京府令第26号【上記文書429コマ】では、
当府管下 東京 に市制を、荏原郡外5郡 町村 に町村制を施行す
と、一体的な市街地“東京”の領域が意識されており、“15区”とも“1400町”とも記されていません。
この市街地“東京”を領域として、地理的存在の「東京市」が誕生。但し、行政的には骨抜きの存在。

実際には、例えば「従来の芝区」だけでなく、荏原郡白金村の大部分も「新しい芝区」に編入されました。
[64891]は、市制施行の際に郡部から編入された区域を次の通り列挙しています。
荏原郡白金村(編入先:芝区)の他に、南豊島郡から下渋谷村(麻布区)・原宿村(麻布区と赤坂区)・千駄ヶ谷村(四谷区)・牛込早稲田村(牛込区)。北豊島郡からも小石川・雑司ヶ谷・巣鴨・高田の各村(小石川区)、東の方で下駒込・日暮里・谷中・千束その他の各村が本郷・下谷・浅草の3区に編入。
南葛飾郡に属していた須崎・押上・亀戸・大島などの村々は本所・深川の両区に編入。(以上 新旧対照市町村一覧 18~21コマ)

このように、三市特例法では“従来の区”としか書いてなかったものの、東京市発足の 1889.5.1 には、白金・原宿・早稲田などお馴染みの地域が、地理的存在ながら「東京市」の領域内になったのでした。1920年の内藤新宿町編入以上の大きな変化ですから、これを無視するわけにはゆきません。

「東京市の変遷」において、“区設置”となっている 1889.5.1の変更種別欄は、“区移行、編入等”とでも記したらどうでしょうか?
“区移行”の意味は、「区」は 行政的には東京府直轄体制 であることに変化はないものの、地理的には 市域内【東京市の領域内】に移行した という意味です。
“編入等”は、同時に 郡部町村の編入 などがあったことを示します。
[74320] 2010年 3月 10日(水)22:29:18【2】hmt さん
♪「むらさき」匂いし 武蔵の野辺に 日本の文化の 花 咲き乱れ
3月10日と言えば 105年前(明治38年)の 奉天大会戦[59385]と、65年前(昭和20年)の 東京大空襲です。
米軍機が東京付近に現れたのは 1945年3月9日の夜でしたが、警戒警報も解除されて ほっとした市民の上に 房総沖から再び飛来した 325機のB29爆撃機が 38万発の焼夷弾・爆弾の雨を降らせたのは 日付が変って3月10日になった直後でした。

この大空襲の際には 既に東京都 35区になっていたのですが、その2年前には「東京市」でした。
市の変遷 に集録された「東京市」を見て、10年間ほど「東京市民」であった者として、ひさしぶりに「東京市歌」を思い出しました。
タイトルは 1926年に作られたこの歌の冒頭です。

[74303] オーナー グリグリ さん
市に関わる以下の変更種別についても情報を追加しました。
勅令市(勅令指定都市)、省令市(省令指定都市)、政令市、中核市、特例市、区設置

東京市 1889.5.1 区設置 麹町区, 神田区, 日本橋区 ……

麹町区以下は、「郡区町村編制法」によって設けられた「東京府15区」が、「市制町村制」によって設けられた「東京市」と共存していたものであり、東京市に“設置”された「区」ではありません。

便宜上“共存”と書きましたが、実質的には 明治22年3月23日に制定された いわゆる「三市特例法」(市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件)により「東京市」は有名無実の存在であり、実質的な行政機能は「東京府15区」にありました。

このあたりの事情は、[53890] 「六大都市制度」の生い立ち(1)六大都市前史に記してありますので、ご参照ください。

1898年10月1日 三市特例法廃止

この日付こそが、「自治体としての東京市」の実質的な誕生日であり、「東京市の変遷」に記録されるべき日です。
東京の「都民の日」10月1日はこれに因んでいます [33692]

三市特例法廃止の際にも “従来ノ区” は存続し[10997]、まさに「市と区の共存状態」になりました。
だから、[7772] Issie さんの記事にあるように、
「区」が元々独立した行政単位であったので市制施行後も「市」と「区」の権限をめぐって,両者には微妙な関係がありました。

この三大都市と「区」との関係に 決着をつけたものが、明治44年(1911)の法律全文改正です。
「市の中に設置された区」であることは、「町村制」とは別の法律になった「市制」 の第6条 “勅令ヲ以テ指定スル市ノ区ハ之ヲ法人トス”や第80条【区長は市有給吏員で市長が任免】で明確に示されました。

だから、「東京市の変遷」の中で、「区設置」は、この勅令指定都市の段階で記すのが法律的には適切なように思われます。
しかし、東京市役所東京市史編纂係「東京市十五区全図」(明治40年4月発行 裳華房)[33692]に見られるように、“微妙な関係”[7772]ではあったものの、三市特例法廃止の明治31年以後は、実質的には「東京市の15区」と認識されていたようでもあります。

そこで、改めて明治31年の三市特例法廃止時点を調べてみると、この法律廃止で失なわれた「三大都市の区の存在根拠」を含めて、旧「市制」第3条の改正が行なわれていました。明治31年法律第20号
第3条に左の1項を追加す
東京市京都市大阪市に於ては従来の区を存す 其区は財産及び営造物に関する事務其他法律命令に依り区に属する事務を処理するものとす

なるほど。三市特例法廃止後の区の存在根拠は 引き続き“従来の区”という表現ですが、後段に記された 区の処理する事務 は限定されており、その内容は 明治44年「市制」第6条後段 を先取りしています。
また、第72条への追加もあり、“区長は市長…の指揮命令を受け…”区内に関する市の事務を管掌することになり、市に対する区の従属性は明らかです。
つまり、この時点で「実質的には市の中に区が設置された」状態が実現したと理解できます。

「東京市の変遷」の中に記載すべき「15区設置の日付」について、それが 1895.5.1(名目上の東京市発足)でないことは明らかですが、実質を重視して 1898.10.1(三市特例法廃止)とするのか、法律に明記された 1911.10.1(市制の全面改正)とするのか、グリグリさんの判断にお任せしたいと思います。

以上 東京市について記しましたが、京都市・大阪市についても、同じことが言えます。
[71730] 2009年 8月 20日(木)00:43:45【2】Issie さん
問一外伝:明治・大正期の小選挙区
この話題も五月雨式になって申し訳ありません。

「問一」に関連して,[71690] で1956年に成立の一歩手前まで行った 鳩山内閣(←もちろん,由紀夫首相でも邦夫首相でもなく,一郎首相の) の小選挙区案(ハトマンダー)について,「複数の衆議院小選挙区がある市」を見てみました。そこで,もう少し時代をさかのぼりましょう。
明治憲法の時代,現在の国会に当たる「帝国議会」の衆議院議員の選挙制度は 小選挙区制(1889年) → 大選挙区制(1900年) → 小選挙区制(1919年) → 中選挙区制(1925年) → 大選挙区制(1945年) → 中選挙区制(1947年) と変遷していきました(括弧内は,それぞれの選挙制度が制定された年。その制度で実際に選挙が実施されたのは,いずれもその数年後です)。
つまり,現行の小選挙区制に先立って過去に2度,小選挙区制が実際に採用されていたのです。

そもそも最初に帝国議会が創設されたとき,衆議院議員の選挙制度は小選挙区制から出発したのでした。
(なお,帝国議会のもう一方の院(上院)である貴族院では,衆議院(下院)とは違って,全議員を同じ制度で一斉に選挙するのではなく,さまざまな選出母体からそれぞれ違った方法で議員が選出されました。任期も選出母体によりバラバラで,したがって貴族院には「総選挙」はありません。ついでに,全く違う理由ではありますが,現行制度の 参議院 も,全員の選挙が行われた最初回(1947年)を除いて半数ずつ改選しますから,やはり「総選挙」はありません。地方議会は通常,全員を一斉に選挙するのですが「総選挙」とは言いませんね。だから「総選挙」が行われるのは衆議院議員だけです。)
さて,その最初の衆議院議員の選挙制度ですが,これは 1889(明治22)年2月11日 に公布された「衆議院議員選挙法」(明治22年法律第3号)によって定められています。
この 1889年2月11日 という日付,とても重要です。「きげんぶし(紀元節)」?…  いや,もちろん紀元節(きげんせつ)には違いないのですが,ただの紀元節ではなくて,この日に「大日本帝国憲法」(明治憲法)が“発布”されました。衆議院議員選挙法は,憲法と同じ日に公布されたのですね。ある意味,当たり前と言えば当たり前ですが。ちなみに,同じ日に公布された 明治22年法律第1号 は「徴兵令」,同第2号は「議院法」です(なお,「法律」全体の“第1号”は,前年(1888:明治21年4月17日)に公布された「市制・町村制」です)。
この“オリジナル衆議院議員選挙法”では,選挙区について以下の通り定めています。

--------------------------------------------------------------------------------------
第一条 衆議院ノ議員ハ各府県ノ選挙区ニ於テ之ヲ選挙セシム其ノ選挙区及各選挙区ニ於テ選挙定員ハ此ノ法律ノ附録ヲ以テ之ヲ定ム
 (第二条・第三条略:府県知事による選挙監督,郡長・市長を選挙長とする規定)
第四条 一市ノ域内ニ於テ数選挙区アルトキハ府県知事ハ区長ヲシテ其ノ選挙長タラシムヘシ
--------------------------------------------------------------------------------------

第4条で,1つの市が複数の選挙区にまたがることが予想されていますね。
そこで,具体的に選挙区割りと定数を定めた「附録」を見ましょう。こんな選挙区かあります。

東京府第1区麹町区・麻布区・赤坂区1人
第2区芝区1人
第3区京橋区1人
第4区日本橋区1人
第5区本所区・深川区1人
第6区浅草区1人
第7区神田区1人
第8区下谷区・本郷区1人
第9区小石川区・牛込区・四谷区1人
京都府第1区上京区1人
第2区下京区1人
大阪府第1区西区1人
第2区東区・北区1人
第3区南区1人

ちなみに,東京府第10~12区,京都府第3~6区,大阪府第4~9区は,それぞれの府の郡部が属する選挙区です(大阪府第8区 には 大鳥郡・泉郡 とともに「堺区」が含まれる)。
つまり,東京市・京都市・大阪市 の3市が「複数の衆議院小選挙区がある市」でした。
ところが,この法律の「附録」には「東京市」「京都市」「大阪市」の記載はどこにもありません。なぜかといえば,それはこの法律の公布日に注目。1889年2月11日には,まだ「市制」が施行されていないのですね。日本全国,どこにも「市」が存在しないのです。この「附録」に記載されている行政区画は「郡区町村編制法」によるものなのですね。だから,大阪8区にあるのも「堺市」ではなく「堺区」なのでした。
でも前述の通り,すでに「市制・町村制」(明治21年法律第1号)は公布されています。「市」が設置されるのは既定事項だから,本文の第1条や第4条に「市」が登場するのです。実際,この法律が公布された2ヵ月後の1889年4月1日から順次「市制」が施行されて,1890年7月1日に 第1回総選挙 が実施されることになります(この日をもって 衆議院議員選挙法 が施行)。そしてその年の11月29日に 第1回帝国議会 が開会され,この日“初めて”大日本帝国憲法が施行されました。

1900年,第2次山県内閣は衆議院議員選挙法を全面改正して小選挙区制を廃止し,代わって大選挙区制を導入しました。これは基本的に各府県ごとに定数を割り振って,府県単位で議員を選出するというものです。ただし,当時はまだ稀少な存在であった「市」は府県(郡部)選挙区から分離して1選挙区とされました。東京市は11人,京都市は3人,大阪市は6人が割り振られた“大選挙区”でしたが,ほかの市は定数1の“事実上の小選挙区”でした(1902年の改正で横浜市の定数は2人に増やされました)。

これが再び改正(部分改正)されて「小選挙区制」に戻したのが1919(大正8)年,“初の本格的政党内閣”の 原内閣(政友会) でした。「複数の衆議院小選挙区がある市」は以下の通り。

東京府第1区麹町区・四谷区1人
第2区麻布区・赤坂区1人
第3区芝区1人
第4区京橋区1人
第5区日本橋区1人
第6区本所区・深川区3人
第7区浅草区2人
第8区神田区・下谷区2人
第9区本郷区1人
第10区小石川区1人
第11区牛込区1人
京都府第1区上京区2人
第2区下京区2人
大阪府第1区西区3人
第2区東区2人
第3区北区3人
第4区南区3人

やはり,東京市・京都市・大阪市 の3市ですね。
ここで注目すべきは,「小選挙区制」なのに“定数3”なんて選挙区があることです。
実は,1889年の“第1次小選挙区制”でも 214 の“1人区”に対して“2人区”が 43 ありました。これで都合,総定数300 となるのですね(奇しくも,現行の小選挙区の定数と同じです)。2人区を作った表向きの理由は「市郡を分割しない」ため。
もちろん,1919年の“第2次小選挙区制”でも表向きの理由は同じなのですが,こちらの場合,295 の“1人区”に対して“2人区”が 68,“3人区”が 11 もあります(都合,総定数は 464)。「2人区を 20 も作った」と批判された ハトマンダー どころではありません。
種明かしをすれば,従前の大選挙区制で“事実上の小選挙区制”であった 市部選挙区 はそのまま,郡部選挙区 を分割したのですね。これで有利になるのは“第一党となるべき政党”,つまり与党である政友会。事実,この後,1920年5月10日に実施された第14回総選挙では 与党・立憲政友会:278(+113),野党・憲政会:110(-11),同・立憲国民党:29(-6) と与党の圧勝でした(括弧内は前回総選挙からの増減)。あまりに露骨。
その後,原首相が暗殺された後に第2次護憲運動が盛り上がり,(男子)普通選挙制の導入をめぐって政友会が分裂して実施された 1924年5月10日 の第15回総選挙で「普選法導入」を公約とした“護憲3派”(憲政会,政友会,革新倶楽部)が圧勝。1925(大正14)年の衆議院議員選挙法全面改正で,いわゆる「普通選挙法」が成立,男子普通選挙と同時に“中選挙区制”が導入されました。各選挙区の定数が「3~5人区」であるのはなぜかというと,これを作ったのが 護憲“3派” だからだってさ…。

詳しくは こちら をどうぞ。

つぶやき…
今回の解答にあたって多くの方が参照している Wikipedia の ここ 。何か,構成や言い回しがウチのページに似ているんだよね。履歴を見ると,「2002年区割変更」とか「選挙区が分割されている市区町村」という章が追加されたのは 2008年1月26日(協定世界時で) のことらしい。
ま,深くは追求しないけど,パクったのはこちらじゃないからね。
[65266] 2008年 5月 26日(月)21:55:22【1】88 さん
市区町村変遷情報 市制町村制下の大都市の制度について
[65264] 88の続きです。
前置きが長くなりました。hmtさんのお話の、M22(1889).5.1付けでの東京市発足の取扱いについてです。

まず町村の取扱いについて。
東京市発足前は、約1,400に及ぶ町村は、[65264] のとおり「自治体」でした。このため、市区町村変遷情報では「市制町村制施行前の町村名等」欄に記載するのでよいと考えています。また、東京市発足前の15区も、前述のとおり(「三府五港其人民輻湊ノ地」として)、その区の中にある町村含んでいたものの「自治体」でした。M22(1889).5.1付けでの東京市の発足は、これらの15区と約1,400の町村との廃置分合によるものです。
一つ他の例として、M22(1889).10.1付けの名古屋市発足と見比べてみます。これは、(1)従前の名古屋区(自治体)と、(2)名古屋区に含まれる本町, 玉屋町,・・・・といった町(自治体)の「廃置分合」により、名古屋市(自治体)一つが誕生したものです。同日以降は、区はなくなり、従前の町村は自治体ではなくなり、名古屋市の中の地理的名称である町になりました。このため、「市制町村制施行前の町村名等」欄には、「名古屋区, 名古屋区 本町, 玉屋町, ・・・・」と記載してあります。
これらから鑑みると、東京市の件では、従前の自治体である15区が合併対象であったことが記載漏れとなっていますので、追記したいと思います。

そして、発足した(移行した)15の区の取扱いについて。先ほどの東京市と名古屋市の例で言うと、相違点が2つあります。
・東京市の場合は、従来の15の「区」が存置された
・東京市の場合は、M22(1889).3.23法律第12号市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件により、市長を置かずに府知事が職務を行い、市参事会は府知事がその組織に入る、など、市の権限が弱かった([53890]hmtさんなど)
「東京市」は、東京府知事が東京市長を自動的に兼務する規定があることから純粋な東京市としての意思を示すことは困難だったのでしょうが、東京市は東京府とは別の法人であり、制限されてはいるものの「自治体」である、と考えます。
また、15の区については、京都市・大阪市のM22(1889).4.1以降、東京市のM22(1889).5.1以降でM31(1898).10.1に三市特例法が廃止されるまでの間も、市の中の区であり「自治体」と言っていいのでしょう。

例えば、東京市の区については、M22.7東京市条例第1号区会条例
市制第百十三条ニ依リ区会条例ヲ設ケ第百二十一条ニ依リ内務大臣ノ許可ヲ受ケ左ノ通之ヲ定ム
とあり、区会を設置しています。根拠となる市制では、
第百十三条 市内ノ一区ニシテ特別ニ財産ヲ所有シ若クハ営造物ヲ設ケ其区限リ特ニ其費用(第九十九条)ヲ負担スルトキハ府県参事会ハ其市会ノ意見ヲ聞キ条例ヲ発行シ財産及営造物ニ関する事務ノ為区会ヲ設クルコトヲ得其会議ハ市会ノ例ヲ適用スルコトヲ得
とあるように、市制第113条は現地方自治法第294条以下の財産区の規定にも似た規定ですが、M31.9.15勅令第210号東京市、京都市、大阪市ノ区ニ関スル件
第七条 従来ノ区会ハ之ヲ存シ新ニ区会ヲ設クルトキハ市制第百十三条ノ例ニ依ル
とあるように、実情は三市特例を廃止するまでは、市制第113条を根拠として15の区(区会もある自治体)を設置していたのではないでしょうか。

もっとも、制度自体が時代によって千差万別ですから、「自治体か否か」に固執して区分する必要性がかなり苦しくなっていることは認めます。すでに、自治体でない郡や支庁を記載しているのも事実です。市区町村変遷情報の「対象」を、明治の大合併・市制町村制に遡った今、再確認すべきなのかもしれません。
例えば、東京府(都)の場合、15区を「自治体名」欄に個別に情報として記載する場合、現在が特別区という特別地方公共団体ですので15区→35区→22区→23区と変遷を記載すれば整合が取れるのですが(もっとも、地方自治法下でも都と区のどちらが基礎的な地方公共団体かは紆余曲折あり(参考HPH15.2.14第27次地方制度調査会第16回専門小委員会資料(pdf、p6-7)))、例えば京都市・大阪市の場合は東京市(府、都)の区と異なるため、上京区・下京区(京都市)、東区・西区・南区・北区(大阪市)を個別に記載するのであれば、
(1) 自治体である区→行政区画の区となっているので、現在の政令市の区も個別に記載する。同様に、他の政令市も区を個別に記載する。
(2) 自治体である区→行政区画の区という変更手続を記載し、その時点で個別情報の記載を取りやめる
のいずれかの方法により、情報が途切れたり、いつの間にか発生したり、を避ける必要があると思います(現在の入力は中途半端)。
(1)にすると、すっきりするのかもしれませんが、この場合、全政令市の区の区域を含めた変遷を確認して区ごとの個別の情報として追加入力する必要があり、当該市の条例しか根拠資料がありませんから特に区域の調査が困難にはなります(区域のみの変更を省略する手もあるかもしれませんが)。ちょっと、方針が悩ましいところです。皆様のご意見を頂戴したいところです。結構大幅な対象の変更になるので、最終的にはでるでる編集長やグリグリさんの判断が必要になるかと思います。

[65068] グリグリ さん
例えば、カラムを分割して表示する案(あまりスマートではない)、本表には一部の情報のみ表示し全体は詳細表示に委ねる案(詳細表示で再び同じ問題が発生するので本質的な解ではない)などです。
の意見とは別に、本質的に「どういった記載方法にするのが適切か」との観点で考えていることは言うまでもありません。
――――――――――――――――――――――――――――――
これらを踏まえて、六大市の制度の変遷をまとめると、次のとおりでよいのでしょうか。
施行日東京市京都市大阪市名古屋市横浜市神戸市
郡区町村編制法15区2区4区名古屋区横浜区神戸区
M22(1889).4.1市制(三市特例)●市制(三市特例)●市制(一般市)市制(一般市)
M22(1889).5.1市制(三市特例)●
M22(1889).10.1市制(一般市)
M31(1898).10.1一般市●一般市●一般市●
M41(1908).4.1二十万市○
M44(1911).10.1勅令市●勅令市●勅令市●省令市○
S2(1927).10.1省令市○
S6(1931).9.1省令市○
S18(1943).7.1-(東京都制)
S22(1947).5.3一般市○一般市○一般市○一般市○一般市○
●:区は自治体、○:区は行政区画
名古屋市の二十万市の指定については、[63761]拙稿でも述べました。これについては、この「二十万市」に指定する勅令・内務省令を見つけることができませんでした。区の設置並びに区の事務所の位置、名称及び所管区域に関する条例(昭和33年10月3日名古屋市条例第21号)の附則に
2 区設置ノ件(明治41年名古屋市告示第18号)は、廃止する。
とあり、この明治41年の名古屋市告示を確認できれば、もう少し詳細がわかると思うのですが・・・(この条例の施行日がS33.10.6であり、政令市の施行がS31.9.1ですし、ちょっと詳細不明)。
―――――――――――――――――――――――――
市区町村変遷情報のお手伝いに参加し始める頃、でるでる編集長から「メンテナンスが結構大変ですよ」とアドバイスをいただいていたのですが、当初はピンと来なかったのですが、現在はそれをひしひしと感じております。制度の再確認・調査、文献・入力内容の精査、表示・入力項目の検討、・・・。しかし、充実した日々でもあります。これもお教えをいただき、ご意見をくださる皆様のおかげです。この場をお借りして、皆様に御礼申し上げます。
[64890] 2008年 4月 26日(土)20:01:32【1】hmt さん
市区町村変遷情報(1)「明治の大合併」完成直前
市区町村変遷情報の中の過去履歴。
88さんによる着実な遡及蓄積の積み重ねによって、既に 明治22年 4月に突入しています。

振り返ってみると、日付順一覧は 2006年2月1日の88さん自身の発言 [48894] が端緒のようです。
日付順での総合情報も、同様に作成していただければ、何かと便利
そして、[49915] 2006年3月18日には
市町村合併情報の1990年以前のデータについて、お手伝いさせていただくことになりました。
あわよくば、明治の大合併や藩政村までデータを遡り…
と意欲を示しながらも
まあ、当面はその前に、「昭和の大合併」という山がそびえていますが・・。
と慎重な発言だったのですが、最初の山はあっという間に乗り切り、その年の11月には早くも“1912 (明治45・大正元) 年を入力中”[55225]

引き続いて、合併情報とそれ以外とを統合リニューアルした「市区町村変遷情報」発進[55577]
そして第2の山である「明治の大合併」の征服も間近。

大袈裟な譬え方をすれば、高橋至時に乗せられて ボランティア活動で始まった 伊能忠敬の大事業[45234]の再来を 現在進行形で見ている気分です。

ハイライトとして期待される 明治22年4月1日を目前にした現在、同年5月1日の「東京市の市制」は既に入力されています。
参加自治体名欄 には約1400町に及ぶ町々が列挙されており、なかなかの壮観です。

ところで、明治21年法律第1号 「市制」 の冒頭には、次のように記されています。
第一条 此法律は市街地にして郡の区域に属せず別に市と為すの地に施行するものとす
第三条 凡市は従来の区域を存して之を変更せず…

東京の場合、郡区町村編制法による旧制度の時代には(行政上は)郡の区域に属しなかった 東京府15区 があり、この市街地が第三条でいう“従来の区域”であり、そのまま「東京市」になったと理解されます。

本筋に影響ないことですが、上の記述で(行政上は)という断り書きを入れたのは、
地理上に於ては区の域内と雖も従前の通郡界相存し候儀と心得べし
という明治11年11月2日 東京府布達甲第55号 を意識しているからです。東京府15区と郡との重複問題については、[33692]でも言及したことがあります。

更に、市制施行の直前に制定された「三市特例法」[53890]第四条 では、
東京市 京都市 大阪市に於ては 従来の区を存し
とあり、従来の東京府15区が新制度における「東京市」の中に「移行した」ものと理解されます。

付言すると、明治31年に三市特例法が廃止された後は、法律「市制」第3条に “東京市、京都市、大阪市に於ては従来の区を存す…” という1項が 追加 され、これが東京15区などの存在根拠になりました。
明治44年になると、全文改正された 「市制」第6条 による、 “勅令を以て指定する市の区はこれを法人とす…” が 東京・京都・大阪の区の根拠になりました[53893]

長くなってしまったので、本題である東京市制に伴なう15区を変遷情報に記録するにあたっての意見は、別記事で記します。
[45560] 2005年 10月 10日(月)11:57:50Issie さん
Re:公報と官報
[45541] 紅葉橋律乃介 さん
旧憲法時代には町村の異動は告示がなく、すなわち市への編入も告示事項ではなかった模様。

[27855] は結構前かと思ったら,去年でしたね。
旧憲法体制下でありますが,直接の根拠は法律としての「市制」に求めた方がいいように思います。そして,現行憲法の施行された1947年5月3日からは「地方自治法」。

(前にも書いた覚えがありますが,
「市制」という言葉には,漠然と“「市」という制度”を意味する場合と,狭い意味で1888年に公布,翌年に施行され,1911年に全面改正された“「市制」という名前の法律”を指す場合とがあります[「町村制」も同じ]。
だから厳密には“法律を「施行」する”という意味で「市制施行」と言った場合,施行すべき法律「市制」は60年近くも前に廃止されていますから,おかしな表現ということになります。けれども,実際には“「市」という制度”という意味で自治体自体も含めて広く使用されていますから,それはそれでいいのでしょう。
ただし,1947年5月2日までは「市制施行」とは,単に“「市」になる”という意味だけではなくて,“「市制」という法律がその地域に施行される”という意味であった,ということは留意しておいた方がいいように思います。もっとも,「どう違うの?」と聞かれても,その答えはよくわかりませんが。
一方で,「町制」「村制」「区制」などという法律はありませんから,こちらは単純に“「町」(村・区)という制度”という意味でもっぱら使われるのでしょう。)

話を戻して,
前発言の通り,町村が既存の市に“編入”される場合は内務省の告示事項ではなかったようですが,既存の市が他の市に“編入”される場合には,その「市」を“廃止”することになりますからそれについての告示が内務省から出されています。京都府伏見市がその実例です(以下の日付は施行日ではなく告示公布の日付)。

 ・京都府伏見市 →京都市へ編入:昭和6年内務省告示第56号(1931年3月23日)

「市制」下で消滅した他の3市のうち,

 ・京都府東舞鶴市 →舞鶴市と合体して「舞鶴市」を新設:昭和18年内務省告示第341号(1943年5月19日)
 ・兵庫県飾磨市 →姫路市ほかと合体して「姫路市」を新設:昭和21年内務省告示第21号(1946年2月27日)

この2つは,“合体”により“改めて新設”された「兵庫県尼崎市」(昭和11年内務省告示第117号:1936年3月21日),「大阪府岸和田市」(昭和17年内務省告示第157号:1942年3月20日)と同じ手続きです。
もう1つの「東京府東京市」の場合は,法律である「東京都制」(昭和18年法律第89号:1943年6月1日)によって廃止されていて,これは内務省の告示事項ではありませんでした。

[45537] グリグリ さん
忍市

最近は便利な世の中になって,多くの自治体が「例規集」をネット上で公開していますね。で,そのうちの多くがその冒頭に当該自治体の成り立ちについての根拠法令を収録しています。
ただ,どこにその“ルーツ”を求めるかは必ずしも統一されているわけではなくて,“国レベル”(内務省→総理庁→総理府→自治省→総務省)の告示をそれとしているものもあれば,(都道)府県告示を収録してるところもあります。何も収録せずに,いきなり「市役所の位置を定める条例」を冒頭に置く自治体も少なくないのですが。

行田市の場合は 埼玉県告示 に根拠を求めているようで,

----------------------------------------------------------------------------
○忍町を忍市とする告示
昭和24年3月29日
埼玉県告示第129号
地方自治法第8条の規定により、昭和24年5月3日から、北埼玉郡忍町を忍市とする。

○忍市を行田市とする名称変更を許可した告示
昭和24年3月29日
埼玉県告示第130号
地方自治法第3条により忍市を行田市とする。市の名称変更の条例を許可した。
----------------------------------------------------------------------------

…という告示を前提にした

----------------------------------------------------------------------------
○忍町を忍市とされた場合における新市の名称変更に関する条例
昭和24年3月3日
公布
忍市を行田市に変更する。
附 則
この条例は、忍町を忍市とされた日からこれを施行する。
-----------------------------------------------------------------------------

という忍町の条例で「行田市」が誕生したことを跡付けることができます。

国レベルでの告示は4月23日付の「総理庁告示第28号」ですが,ここでは「忍町」が直接「行田市」になるように記載されています。上の経緯を経た途中経過を省略しているのですね。
「行田市」の場合は 5月3日 の発足に先立って“告示”が行われているのですが,1948年から1951年の間に発足した「市」の多くは発足よりも告示の方が遅い“事後報告”となっています。
占領下,内務省が解体された下でのできごとですが,このあたりの手続きは“独立”後とは違っていたのかもしれませんね。

市の例規集からもう1つ,
ちょうど“旧憲法/市制”体制から“現行憲法/地方自治法”体制への切り替えの隙間にはまって国レベル(内務省)の告示では確認することのできない 鳴南市→鳴門市 の改称(1947年5月15日実施)について,鳴門市が公開している例規集に

----------------------------------------------------------------------
○市名変更条例
昭和二十二年五月十日
条例第三号
鳴南市を鳴門市と変更する。
附 則
本条例は、徳島県知事の許可を得て昭和二十二年五月十五日から施行する。
-----------------------------------------------------------------------

というのがあって,とりあえず「鳴南市条例」に根拠を求めることができそうです。

もう1つ,赤間関市→下関市 というのが確認できていないのですが,下関市の例規集にはその“ルーツ”が収録されていませんでした。
[18510] 2003年 7月 21日(月)21:10:27【4】ありがたき さん
私的見解では、「同名回避であるものの、直接的方角回避ではない」
[18507]ken さん
何ゆえ、回避手段として、「上」を選んだか、ということですが、納得性がないですね。

[18506]ゆう さん
・上福岡のほうが僅かながら高緯度にあるためか?
・「上」=「東」という用法があるのか?
・東京を基点とした上下という用法があるのか?

TOBULANBと上福岡市ホームページの内容を再確認し、少々補足を加え、経緯を時系列で並べてみると、
・明治22年に川崎、駒林、中福岡、福岡、福岡新田の5か村が合併して福岡村が誕生
・大正3年に東武東上線池袋~川越田面沢(たものざわ・今の川越市駅と霞ヶ関駅の間)間が開業、上福岡駅も同じ大正3年5月1日開業である
・昭和35年に町制施行で福岡町になった
・昭和47年に市制施行で上福岡市となった。市名は東武東上線上福岡駅に由来する
となります。

ここまでで読み取れるのは、埼玉県福岡町が市制施行の際、福岡県福岡市との同名回避の手段として駅名を採用しているということです。

お二方の最新の疑問としてあるのは、駅名「上福岡」がなにゆえ「上」を採ったかですよね?

ここで、可能な限りのデータを集めて、命名の手がかりを見出すべく、では同時期に開業した東上線の「上下」駅名がどういう経緯か調べてみました。


駅名開業年月日命名の根拠
下板橋大正3年5月1日駅舎の位置が北豊島郡板橋町大字下板橋に近接していたため
中板橋昭和8年7月12日川越街道の上板橋宿と中仙道の下板橋宿の中間に位置するため
上板橋大正3年6月17日川越街道の宿場町、上板橋宿に近接
下赤塚昭和5年12月29日700年くらい前の赤塚郷6ヵ村のひとつ、下赤塚村から
上福岡大正3年5月1日前述のとおり、公募の最得票

この中で面白いのは、「下赤塚駅」ですね。対になる「上赤塚駅」が無く、「下」だけ存在の駅です。なにより、700年前の地名を採用したことですね。ちなみに、この赤塚郷6ヵ村は、上赤塚・下赤塚・成増・徳丸(本)・徳丸脇・四ッ葉で、明治22年に町村制布かれて東京府北豊島郡赤塚村になり、6ヵ村の各名称は大字として継承されたそうです。さらに昭和7年1月1日には東京市板橋区に編入となっています。
板橋3駅ですが、川越街道(板橋区近辺では現在の国道254号線)と中山道(もしくは中仙道。同様に国道17号線)の宿場町に関連する命名ですね。2つの宿場の位置関係では、上板橋が北西、下板橋が南東寄りですが、京都に向かうために中山道(中仙道)を進むと、日本橋→下板橋→上板橋→蕨→… となって、北西側の上板橋の方が京都に近いことになりますね。(Issieさん、フォローありがとうございます。書き込み訂正を利用して補足訂正させて頂きました。)
また同じ区間には方角を用いた「北池袋駅」があります。この位置での開業は昭和9年5月1日ですが、当時は「東武堀ノ内駅」と称していました。この駅は第二次世界大戦の東京大空襲で消滅し、その後昭和22年8月に一旦廃止されています。4年後の昭和26年に再開された時に現在の名称になったのですが、その頃になると地名の位置記号が「上下」から「東西南北」になったものと思われます。

と、こうなるとなんだか上福岡の「上」の根拠がもっとも玉虫ですねぇ…。ここまで調べればかなり核心に迫れる類推を導き出せるかと思ったんですが、どうやら進展しなかったというか逆に混乱したというか…。せめて、上赤塚と下赤塚の位置関係がわかれば。こちらに関しては、板橋区教育委員会が発行している文化財シリーズというものがあるらしく、そのひとつ「まち博ガイドブック・下赤塚・成増・徳丸・高島平」でこの近辺はわかりそうですね。埼玉県あるいは上福岡市にも同様の資料があれば助かるのですが。

ただ、福岡県との直接的位置関係の「上」でははく、間接的に位置記号としての「上下」を用いているように推測されそうですね。これは、東京都東大和市が神奈川県大和市に対して東に位置するのではなく、東京の「東」を冠したのであると同様、位置記号が直接的に使われているのではないグループに入りそうですね。東大和の「東」の場合も、京都に対して「東の都」である東京から採ったのであれば間接的位置記号といえなくもないですし。
こうなると、同名回避の分類に1つ加えても良いような気もしてきましたが、果たしてそう単純なものなのか。オーナーグリグリさん、如何でしょうか?
[16831] 2003年 6月 15日(日)13:50:15【5】ありがたき さん
東多摩郡杉並村
[16804]ken さん

抽象名称っぽい「杉並」区ですが、命名の由来を発見したので参考までに。

杉並区は、その前の豊多摩郡杉並村が阿佐ヶ谷村、田端村、馬橋村、高円寺村、成宗村、天沼村の6村合併時の村名としての杉並村の名が、抽象名と言えなくもない。

実際は東多摩郡時代の合併ですね。蛇足ですが、明治29年に南豊島郡と東多摩郡が廃止され、新たに豊多摩郡が設置されています。
kenさんも述べられている東京市15区ですが、明治22年5月、それまでの大区小区域を市域とする東京市が誕生した時に命名されました。同時に東京市周囲の荏原・東多摩、南豊島、北豊島、南足立、南葛飾の6郡町村にも町村制が施行され、その際398町村を85町村にまで統合整理したのです。新しい町村名の決定にあたって東京府の方針は、合併した中で大村がある場合は原則その名前、町村の規模に優劣のない場合は各町村の名前を参考に折衷し、村数が多くそれが困難な場合は中世以来の郷名や江戸時代の村名、歴史的に著名な名称を保存するように心がけたそうです。
「杉並」という名前もその頃の合併にて生まれたもので、江戸時代初期、成宗・田端の両村を領した旗本岡部氏が、青梅街道に植えた杉並木に由来するものだそうです。著名な事跡によって村名を決めた例になりますね。
その後杉並村は町制を施行し、さらに昭和7年、周辺5郡が新20区になる際に和田堀町・井荻町・高井戸町と4町合併して杉並区が誕生しました。

余談ですが、城東区は亀戸町・大島町・砂町の3町合併で皇城の東の意味、台東区は昭和22年の35区から22区に移行の際に下谷区・浅草区の合併で誕生、上野のお山の東の意味、同じく昭和22年に江東区は深川区と城東区が合併して誕生、江戸の東の意味だそうです。
[10264] 2003年 3月 3日(月)01:29:30まがみ さん
特別区の市への転換(法律編)
最近、再び特別区の再編問題が話題になりそうなので([10242] [10244]など)、過去ログを参照しつつ、主として法律面からまとめてみました。不備な点はご叱責賜りたく。ちなみにこの原稿、書くのに3時間かかりました…


●特別区の位置付け

現行の地方自治法では、「特別区は、基礎的な地方公共団体」とされており、基本的には市と同様の立場にあります。
特別区の廃置分合は、その特別区の議会で議決して、都知事に申請。都議会で議決されると、総務大臣に届け出ることで廃置分合が可能です。市町村の場合と同じです。また、都内の市町村を廃止して特別区を設置することもできます。
市町村の合併の特例に関する法律(=いわゆる合併特例法)も、特別区は市と同視すると明記しています。
  →基礎的な地方公共団体…第281条の2 特別区の廃置分合…第281条の4 合併特例法…第17条

以前、千代田区が「千代田市」を目指すという新聞記事が載ったことがありました([348])。これについては、[349] [352] [354] [369] [377]などで意見が出されていました。さらに、特別区が市になることについて、法律的な観点からは、[3718] [3723] [4895]にあります。また、現状ではどの程度議論が進んでいるかについて、[7045] [7658]に言及があります。


●市制施行の手続き

さて、実際に市制施行するときは、どのように手続きをすれば良いのでしょうか。過去ログによれば、

[3715]黒髪 さん
市になれるのは「普通地方公共団体」に限られる。ということは、まず「村」になって「普通地方公共団体」の地位を確保してから、市制施行。

[3722]f さん
(世田谷区の例で)世田谷区を廃し、同一の区域をもって「世田谷市」を設置。

の2案が出ています。でもこの2案、実質的には同じといえます。つまり、世田谷区の例でいえば、
・世田谷区を廃止
・廃止した世田谷区と同一の区域をもって、普通地方公共団体たる「世田谷村」を設置
・世田谷村を世田谷市として市制施行

上2つは第281条の4 第1項、市制施行については第8条1項により、それぞれ可能です。
これら3つの手続きを同一の日に行なうことにより、実質的に区を市に変えることができます。
(ただし、世田谷村を設置するに際しては、第7条第1項の規定を根拠とすることはできません。第281条の3で、特別区に関しては第7条の適用は除外されています。)

ただし、千代田区についてのみ、人口が5万人を割り込んでいることから、市制施行できません。
東京都条例によれば、町となるには「最近5年間人口増加の傾向」になければなりませんが、千代田区の場合は幸いにも増加傾向ということですので、この方法で少なくとも「千代田町」にはなれます。

なお、
[3723]ken さん
特別区を市とする場合は、
確かに地方自治法二編の規定は、第283条によって特別区にも適用されますが、適用されるのは「市に関する規定」であるのに対して、第8条は「市となるべき普通地方公共団体」に適用される規定ですから、特別区を市とする場合の根拠条文としては使えません。
(そういう意図で無かったのならすみません)


●東京市復活の問題点

[3730]にあるように、「東京市」を復活させるというのも一つの手でしょう。しかしそうすると、他の政令指定都市と同様、区長・区議会の公選制はなくなり、東京市長・東京市議会が設置されることになるでしょうが、区長改め市長ポストが一挙に22も減少し、議員数も最大で96人に減らされるという事実を考えると、まず区議会で否決が必至でしょう。
   →議会必置…第89条 市長必置…第139条2項 議員定数…第91条2項11号

「東京市」に限り区長・区議会の公選制を残すとなると、大都市制度にまた一つ例外を作り出すことになり、せっかく特別区制度を解消したことが無意味になってしまいます。また、現状の特別区それぞれが市と同等の機能を有していることも考え合わせると、東京市の復活は難しいのではないでしょうか。

# 個人的には「東京府」「東京市」の復活がいいと思うのですけどね。「東京市」を政令指定都市にすれば制度上もすっきりして。


--------------------------------

町としての要件を定める条例(東京都)
人口一万以上を有し、且つ、最近五年間人口増加の傾向にあること。
当該普通地方公共団体の中心の市街地を形成している区域内にある戸数が、当該普通地方公共団体の総戸数(以下「総戸数」という。)の四割以上を占めるか又は当該地方公共団体の各連たん区域内の戸数の合計が、総戸数の六割以上を占めること。
商工業その他都市的業態に従事する者及びその者と同一世帯に属する者の数の合計が、当該普通地方公共団体の総人口の六割以上であること。
交通機関及び通信機関等が設けられ、土木、保健衛生、警防、教育及び文化等の施設を有すること。
[7689] 2003年 1月 14日(火)18:33:06ken さん
re:東京再編
[7623] 蘭丸 さん
> 1.東京都を廃止し、東京府および東京市(23区部分)を復活させる。
> 2.特別区の千代田、中央、港、新宿、文京の中心部5区を切り離し、新たに特別区とし
> て、それ以外を市に移行させる。(「特別区」という形態を首都機能集中地区に限定す
> る。)あるいは、中心部のみで東京市を形成し、周辺を東京市とは別の複数の市に移行させる
> 3.東京都を、23区あるいは中心部5区のみとして、その他を別に東京府とする。

ご説ごもっとも。基本的に大賛成です。

冗談半分のチャチャを入れさせていただきます。
千代田・中央・港・新宿・文京を、仮に東京都とし、その他を東京府とすると、
1.「東京」都、と「東京」府、同名の都道府県が出来てしまう。
2.例の淀橋区の角筈に先ごろ出来上がったバブルの「バベルの塔」をどう処分いたしましょう。
新「東京都庁」として使うには、新東京都の領域の最末端に立地し、立地が不適当。
新「東京府庁」では、そもそも東京府の府域内に立地していない。

解決案
新東京都の名称は「東京都」とする、ただし台東区は東京都に含める。

「葛飾県」を創設し、江東市、墨田市、江戸川市、葛飾市、浦安市、市川市、船橋市、習志野市、八千代市、鎌ケ谷市、松戸市、流山市、野田市、関宿町、柏市、沼南町、我孫子市で構成する。
葛飾市に県庁を置く。

「足立県」を創設し、
荒川市、北市(改名必要?王子市?南市?(爆))、足立市、川口市、鳩ヶ谷市、蕨市、戸田市、三郷市、八潮市、吉川市、越谷市、松伏町、庄和町、春日部市、宮代町、杉戸町、幸手市で構成する。
越谷市に県庁を置く。

「豊島県」を創設し、
豊島市、板橋市、練馬市、和光市、朝霞市、新座市、志木市、富士見市、上福岡市、大井町、三芳町、西東京市、東久留米市、清瀬市、所沢市、狭山市、入間市、飯能市、名栗村で構成する。(旧入間郡全部とも思いましたが、埼玉県が弱くなりすぎるので、川越線でさいたま市に出られるところはちょっと残します)
和光市に県庁を置く。

「多摩県」を創設し、
武蔵中野市(苦)、杉並市、渋谷市、旧世田谷区のうちの北沢・烏山地区からなる北沢市、及び武蔵野市の他・豊島県に含まれなかった旧「×多摩郡」の各市町村で構成する。ただし狛江市、町田市は除く。
立川市に県庁を置く。(旧区部の反対強ければ、杉並市でも可)

「荏原県or橘樹県」を創設し、旧世田谷区のうちの世田谷・玉川・砧地区からなる(新)世田谷市、品川市、大田市、目黒市、川崎市、横浜市(下記部分を除く)、狛江市、町田市、相模原市で構成する。
横浜市港北区新横浜駅周辺に県庁を置く。

「足柄県」を新設(復活?)し、
横浜市を分市し、瀬谷区、栄区、泉区、戸塚区、港南区の西南半分から新設した戸塚市、と「荏原県or橘樹県」に含まれなかった旧神奈川県の市町村で、構成する。
藤沢市もしくは平塚市に県庁を置く。
県名は5万歩譲って「湘南県」でも可。

旧東京都の島嶼部は、「荏原県or橘樹県」に所属せしむるものとする。

旧都庁舎(国際フォーラムのことではありません)は、国との間で霞ヶ関の物件と交換し、新しく作ろうとしている外務省など中央省庁を旧都庁舎に収容する。

まあ、夢物語は切りがありませんが、都民から県民になる人たちの抵抗は凄いでしょうね。
石原慎太郎がマジで武装してバベルの塔に立てこもる騒動になるかもしれませんが。
[7626] 2003年 1月 12日(日)18:14:50般若堂そんぴん さん
新「東京市」
[7439]kenさん,[7623]蘭丸さんの書き込みに反応して
東京という都市の奇妙さの一つは,都市部から山間部,離島部までを含む自治体としての「都」と都市のパーツである自治体としての「特別区」があって,まとまった都市としての自治体が無い,ということです.そこで,[7623]蘭丸さんの
>1.東京都を廃止し、東京府および東京市(23区部分)を復活させる。
を支持したいですね.さらに特別区の再編成,周辺の東京市との一体化を望む自治体をも特別区として編入する,等.
新「東京府」の範囲も現在の東京都と同じで良いかどうか?
私的妄想には違いないのですが,つい楽しんでしまいます.少なくとも,「第二次世界大戦で日本は世界平和のためにドイツ第三帝国と戦う」などという妄想よりは無害でしょう.

[5126]ヒロオさん
>横浜市も人口が多すぎるため自治体の機能としてなかなか動きが取れなくなってきております。
[5403]ヒロオさん
>横浜市は既に350万人の人口を有しており、きめ細かい行政サービスを市民に提供できるか?と疑問が沸きます。こういう自治体はむしろ合併などせず分割する。
のように,巨大な人口を有する自治体を危惧する見解もありますから,新「東京市」の性格は現在の「市」とは異なるものにならざるを得ないでしょう.

もちろん,「『東京』というまとまった都市なんか要らない」という考えもあるでしょうね.
[7623] 2003年 1月 12日(日)17:23:50蘭丸 さん
東京特別区の改革・再編
[7409]ヒロオ さん
[7425],[7439]ken さん
[7582]松戸 さん

 私も、全国的に市町村合併の動きの盛んなこのご時世で、東京特別区だけがその潮流に取り残されていることが、とても不自然に思えてなりません。過去には東京都の内部団体であった特別区ではありますが、今では基礎的な地方公共団体として、曲がりなりにも「自治体」の体裁を整えているわけですから、「“特別”区」とはいえ、いつまでも治外法権でいるわけにはいかないと思います。

 しかし、実際に、成立当初とはまったく別の姿になってしまった東京23区の処遇をどうするかということになると、どのように手を付けていいのか窮してしまうのが現実です。それでも、東京23区が、大都市行政の一手段として「特別区」であることを考えれば、何らかの改革や再編が必要なことは事実だと思います。

私が考える都区制度の改革方法は次のようなものです。

1.東京都を廃止し、東京府および東京市(23区部分)を復活させる。
2.特別区の千代田、中央、港、新宿、文京の中心部5区を切り離し、新たに特別区として、それ以外を市に移行させる。(「特別区」という形態を首都機能集中地区に限定する。)あるいは、中心部のみで東京市を形成し、周辺を東京市とは別の複数の市に移行させる。
3.東京都を、23区あるいは中心部5区のみとして、その他を別に東京府とする。(東京都が府県と市の両方の機能を備える特殊な構造を廃止する。)
4.東京都、東京市いずれの概念も採らず、現在の23区の区域を全面的に(複数の)市に移行する。それによりできた市が政令市や中核市に移行することや、他市と合併することは、他の市と同様に当該市の自由な判断で行われる。
5.現行の東京都-特別区の関係はそのままにして、人口分布の実態に合った区の再編を行う。

これでも、まだまだ小手先の改革案でしかないと思います。私は、ken さんのような進歩的な発想を試みると、どうもうまくまとめられなくなってしまいそうなので、とりあえず、この程度のことしか考えられません。

●特別区再編の場合の(妄想)試案
世田谷区世田谷区、太子堂区、駒沢区、成城区、玉川区
練馬区練馬区、大泉区、石神井区、光が丘区
大田区大森区、蒲田区、洗足区、丸子区
江戸川区小岩区、瑞江区、船堀区、葛西区
足立区千住区、大師区、竹の塚区、花畑区
杉並区杉並区、荻窪区、高井戸区
板橋区板橋区、志村区、高島区
葛飾区金町区、高砂区、堀切区
江東区深川区、城東区
品川区品川区、荏原区
北区飛鳥区、赤羽区
中野区中野区、鷺宮区
新宿区牛込区、淀橋区
千代田区+中央区  千代田区

これらは人口データを参照したわけではなく、単に地図上で適当にまとまりのある地域を区分したものです。ほんのお遊びということでご了承ください。ただ、現行の区から分割後の区は、一応、1区当たり15万人をおおよその基準としています。

 それにしても、今の23区の人口集積は異常といってもいいでしょう。仮に、この試案で特別区トータルの数を出すと、実に49区に上ります。
[3779] 2002年 10月 11日(金)08:27:40【2】蘭丸 さん
都道府県の相違と来歴
 過去ログで、都道府県の違いや、歴史に関するものがありましたので、私の知っている限りの情報を書かせていただきます。

 現行の都道府県制度は、地方自治法上、地位についてその名称による差異は全くなく、同等のものとして一律に規定しています。単に現行法の制定当時に存在した沿革上の名称をそのまま踏襲したまでのことです。ですから、地方自治法や都道府県条例では、市となるための要件や町となるための要件などは規定されていても、「府となるための要件」や「都となるための要件」は存在しないわけです。

 特に府と県はその実態から言って全く同じものです。なぜ、「府と県は」かというと、東京都の特別区の存在が「都」に府県とは違った役割を持たせているからです。
 すなわち、東京都はその区域の内、市町村の区域については通常の府県の権能を有し、特別区の区域については府県と市の両方の権能を有するという離れ業をやってのけています。これも一言で言えば、沿革上の都の組織を踏襲した結果です。戦時中、首都の一体的な行政遂行を目的として東京府と東京市を統合した「東京都制」が施行されましたが、戦後も「東京市」が復活することなくそのままの形が残されたわけです。戦後、区長の公選が行われましたが、昭和27年に議会選任制(都知事の同意のもと、議会が選任)となり、特別区は再び都の内部団体としての色彩が濃くなります。しかし、これでは通常の有権者は基礎自治体である市町村と広域自治体である府県の両方の自治に参加できるのに、特別区の有権者は都の自治にしか参加できない(通常の地方自治は二層制だが、特別区では一層制)という問題点が指摘され、昭和50年、区長公選が復活し、平成11年には基礎自治体に昇格して他の市町村なみの体裁を整えるにいたったのです。
 しかし、依然として都区財政調整制度や、23区職員の一括採用、消防・水道の都による運営など、通常の市町村とは異なる面が多く、やはり現在も名実共に「特別区」なのです。

 また、現在の「都」は、戦前の「東京都制」とは違って、東京に限った制度ではないので、例えば神奈川県や大阪府を大都市行政の一手段として「都」とすることは法理論上は可能です。そもそも、都と特別区の定義自体が自治法にはない、と言った方が早いでしょうか。

 道についても、沿革上の呼称をそのまま用いているだけであり、元来、一地方名であったものが府県と同じ位置付けをされた、という経緯の違いがあるだけで府県と同様のものです。

 ちなみに王政復古ののち、府は10府ありました。このことに触れている書物がわりと少ないので以下に列挙してみます。

 箱館府、東京府(←江戸府)、神奈川府、新潟府(←越後府)、甲斐府、
 度会府、京都府、大阪府、奈良府、長崎府
 ※東京府は江戸府から、新潟府は越後府から改称したものですが、新潟府とその後別個に成立した越後府とが
  一時並立した時期もあった様です。これを含めると11府あったことになります。

 この10府の内、のちに残る3府以外は全て1年足らずで廃止されている様です。しかし、当時の政府がどこを要地と考えていたかを物語る興味深い事実だと思います。

 それにしても、いろいろな統計をとる際に、23区は一つの都市と見なされながら、それを指す適切な言葉が存在しないのにはやっぱり違和感ありますよね。例え「特別区」、「23区」と表記しても、他のケースでは「神奈川県-横浜市-都筑区」のように住所表記と一致するのに対し、「東京都-特別区-渋谷区」なんていう住所ないですよね。
[2497] 2002年 8月 11日(日)13:00:57ニジェガロージェッツ さん
Re: 分かれば日まで...。(>2494)
[2494]のうち、区設置、廃止の日付について
1889年4月1日、市制施行と同時に区設置。大阪市(北、西、南、東)、京都市(上京、下京)
1889年5月1日、市制施行と同時に区設置。東京市(麹町、神田、京橋、日本橋、芝、麻布、
     赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川)
1902年4月14日、名古屋市に区設置(東、中、西、南)
1925年4月1日、大阪市市域拡張と同時に区再編、新設(此花、港、浪速、天王寺、西淀川、
     東淀川、東成、住吉、西成)
1927年4月1日、横浜市に区設置(鶴見、神奈川、中、保土ヶ谷、磯子)
1929年4月1日、京都市、新設(中京、東山、左京)
1931年4月1日、京都市市域拡張、新設(右京、伏見)
1931年9月1日、神戸市に区設置(灘、葺合、神戸、湊東、湊、湊西、林田、須磨)
1932年10月1日、東京市市域拡張、新設(品川、荏原、大森、蒲田、世田谷、目黒、渋谷、
     淀橋、中野、杉並、板橋、王子、瀧野川、豊島、荒川、向島、城東、足立、葛飾、
     江戸川)
1932年10月1日、大阪市、新設(大正、旭)
1933年1月1日、神戸市湊西区を兵庫区に改称
1937年10月1日、名古屋市、新設(港、中川、中村、熱田、昭和、千種)
1939年4月1日、横浜市市域拡張、新設(港北、戸塚)
1943年4月1日、大阪市区再編、新設(福島、大淀、都島、城東、生野、東住吉、阿倍野)
1943年7月1日、東京市、東京府と合体廃止。35区は東京都直属に移行
1943年12月1日、横浜市、新設(南)
1944年2月11日、名古屋市、新設(北、瑞穂、栄)
1944年4月1日、横浜市、新設(西)
1945年5月1日、神戸市区再編、廃止(神戸、湊東、湊、林田)、新設(生田、長田)
1945年11月3日、名古屋市合区、廃止(栄)
1946年11月1日、神戸市、新設(垂水)
1947年3月15日、東京都、35区を22区に再編(2494に詳述)、同5月3日、特別区制施行
1947年8月1日、東京都、新設(練馬)
1948年5月15日、横浜市、新設(金沢)
1950年4月1日、神戸市市域拡張、新設(東灘)
1955年9月1日、京都市、新設(南、北)
1963年2月15日、名古屋市市域拡張、新設(守山、緑)
1963年4月1日、北九州市、政令市移行に伴い区設置(門司、小倉、八幡、戸畑、若松)
1969年10月1日、横浜市、新設(緑、旭、港南、瀬谷)
1972年4月1日、政令市移行に伴い区設置、札幌市(中央、西、北、東、豊平、白石、南)
      川崎市(川崎、幸、中原、高津、多摩)、福岡市(東、博多、中央、南、西)
1973年8月1日、神戸市、新設(北)
1974年4月1日、北九州市、廃止(小倉、八幡)、新設(小倉北、小倉南、八幡西、八幡東)
1974年7月22日、大阪市、新設(淀川、鶴見、平野、住之江)
1975年2月1日、名古屋市、新設(名東、天白)
1976年10月1日、京都市、新設(山科、西京)
1980年4月1日、広島市、政令市移行に伴い区設置(中、西、安佐南、安佐北、東、南、安芸)
1980年12月1日、神戸市合区、廃止(葺合、生田)、新設(中央)
1982年5月10日、福岡市、新設(城南、早良)
1982年7月1日、川崎市、新設(宮前、麻生)
1982年8月1日、神戸市、新設(西)
1985年3月20日、広島市市域拡張、新設(佐伯)
1986年11月3日、横浜市、新設(栄、泉)
1989年2月13日、大阪市合区、廃止(北、大淀、南、東)、新設(北、中央)
1989年4月1日、仙台市、政令市移行に伴い区設置(青葉、太白、宮城野、若林、泉)
1989年11月6日、札幌市、新設(手稲、厚別)
1992年4月1日、千葉市、政令市移行に伴い区設置(中央、花見川、稲毛、若葉、緑、美浜)
1994年11月6日、横浜市、新設(都筑、青葉)
1997年11月4日、札幌市、新設(清田)
 以上、かなり大雑把ですがまとめてみました。間違いがあれば、ご指摘下さい。
 なお、1889年の市制施行以前より東京15区、京都2区、大阪4区があり、それを継承して市の
 下部組織としての「区」に移行したため、市制施行日を区設置日としました。明治時代の区
 そのものが組織された日付はつかんでおりません。
 また大日本統治時代の京城府にも1943年6月以降、区設置がありましたが詳しい日付までは
 つかんでおりません。
[228] 2001年 5月 3日(木)12:42:01Issie さん
都道府県の由来
何か呼ばれたみたいですが…
「都・道・府・県」と並列でよばれ,上下関係というか序列のようなものがあるように感じられるのですが,現行の「地方自治法」ではそれぞれに全く違いはなく,完全に“同格”の存在です。「〇〇県」とか「××府」などといっているのは,それぞれの自治体が“歴史的な呼称”を使用しているにすぎない,と解釈できます。

本来,「都」と「道」と「府・県」は由来の異なるものです。
「府・県」が設置されるのは,慶応3年末(1867年,年末なので太陽暦ではすでに年が明けて1868年)の王政復古で明治新政府が旧幕府の支配地域を引き継いで政府直轄領としたときのことです。基本的に代官の支配していた地域に「県」,町奉行や遠国奉行の支配していた主要都市などに「府」が設置されました。これらはその後の再編を通じて「府」は東京,京都,大阪の3つのみとなりました。次いで,明治4年(1871年)の廃藩置県で,それまで「藩」の管轄であった地域にも「県」が設置され,明治23年(1890年)の「府県制」によって「市制・町村制」「郡制」とともに明治憲法下での地方制度が完成しました。
「北海道」は本来,地方自治体ないしは地方官庁の呼称ではなく,「蝦夷ヶ島」とよばれていた島の呼称,あるいは「東海道」「南海道」「西海道」などと同格の地域呼称でした。青森県以南の3島に「府県制」が施行された後も北海道には「府県制」は施行されず,別の法令を根拠とする地方官庁・地方自治体として「北海道庁」「北海道会」が設置されました。この場合,「東京府」「神奈川県」と“同格”の呼称は「北海道庁」となります。
「東京都」は,戦時体制強化の一環として昭和18年(1943年)に「東京府」と「東京市」が統合されて設置されました。「府県制」ではなく「東京都制」という法令を根拠とします。東京では「東京市」の自治権の前に,実質上「東京市」以外の区域しか管轄の対象とならない「東京府」の方が立場が弱く,しかも明治以来「東京市」が政党勢力の最大の拠点(尾崎行雄は市長,鳩山一郎や三木武吉は市会の有力者)であったため,政府としては「東京市」の力を弱めるチャンスをねらっていたようです。「東京都」が発足した結果,旧東京市民は自分たちの都市区域の議員を選挙する権利,つまり「市」レベルでの自治権を奪われました(八王子市民は市会議員と都会議員とを選挙できる)。

戦後,「府県制」「東京都制」などが廃止されて「日本国憲法」とともに「地方自治法」が施行されました。このときに,各自治体の呼称は従来のままで「都・道・府・県」の4つはすべて“同格”に扱われることになったのです。
「地方自治法」には都道府県名の改称の手続きが規定されていますが,これが実際に行われたことはありません。
同じく,都道府県の合併・分離の規定もありますが,これも行われたことはありません。ただし,「分離」の方は長野県で実現寸前まで行ったことがあるのですが。
したがって,たとえば「埼玉県」と「群馬県」とが合併するようなことは「地方自治法」では予想はされています。ただ,合併後にどのような呼称とするか,つまり「府」や「都」になれるのか,というような明文規定は「地方自治法」そのものにはもちろん,施行令や施行規則にもないようです。
あるいは,「地方」規模で3~4県ほどが合併した場合には「州」の方がよい,という意見も出てきそうですね。

や,長々どうもすみませんでした。


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