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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[91296]2016年8月30日
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[91282]2016年8月27日
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[91229]2016年8月17日
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[91213]2016年8月15日
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[91185]2016年8月11日
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[91167]2016年8月8日
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[90716]2016年7月22日
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[90652]2016年6月28日
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[90619]2016年6月22日
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[90607]2016年6月20日
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[90585]2016年6月15日
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[90584]2016年6月15日
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[90580]2016年6月14日
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[90578]2016年6月12日
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[90577]2016年6月11日
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[90564]2016年6月7日
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[90556]2016年6月4日
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[90548]2016年5月29日
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[90545]2016年5月27日
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[90538]2016年5月25日
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[90536]2016年5月24日
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[90534]2016年5月22日
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[90517]2016年5月18日
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[90506]2016年5月12日
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[90503]2016年5月11日
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[90483]2016年5月5日
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[90473]2016年5月3日
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[90463]2016年5月1日
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[90443]2016年4月26日
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[90433]2016年4月24日
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[90388]2016年4月21日
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[90362]2016年4月19日
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[90339]2016年4月17日
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[90315]2016年4月15日
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[90274]2016年4月12日
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[90189]2016年4月9日
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[90183]2016年4月8日
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[91296] 2016年 8月 30日(火)23:11:37【1】hmt さん
JR北海道 平成27年度 輸送密度
[91295] 山野さん
(廃止検討対象区間)輸送密度500人キロ未満の7線区

タビリスを見たら、下記のように記されていました。
2016年度決算【2015年度決算の誤記】で輸送密度500人未満の線区は、以下の9つです。【記載は8線区】

ご指摘のように記載洩れや誤記がありそうなので、JR北海道平成27年度決算(H28/5/9)を確認しました。

8/10コマに 利用状況のデータと 輸送密度別路線図とがありました。
これを見ると、運休している日高線が 全社平均を出している主表から除外されていますが、欄外に別記されているように、輸送密度 【注】185人/km/日です。
日高線を加えると 輸送密度500人未満の区間は 9つになります。
廃線が実質的に決った留萌~増毛と新夕張~夕張の2区間を除けば、廃止検討対象は7区間。

なお、この表には JR北海道全線区のデータが掲載されています。
全線区のデータ公表は、平成26年度からとのこと。

【注】輸送密度
1980年の国鉄再建法[85139]の時に、幹線と地方交通線とを仕分ける目的で使われた「モノサシ」では、輸送密度4000人/km/日が基準値として使われました。
JR北海道が 今後も単独で維持することを目指す(日経)という 2000人/km/日でさえ、その半分です。
状況は誠に厳しい と言わざるを得ません。
[91282] 2016年 8月 27日(土)18:43:27【1】hmt さん
米軍統治下の沖縄
[91263] グリグリさん
先週放送された NHKスペシャルを紹介していただきました。
米国統治下の沖縄に関係するこの件については、私もフォローしたいと思っているのですが、未知のことが多く、まとまった意見を記すことができません。

散発的な書き込みになってしまいますが、とりあえずのメモを記録に残しておきます。

終戦後の沖縄の市は、言わば難民キャンプと呼ばれるものでしたが、番組では収容所という表現で紹介していました。

「収容所」という表現は、琉球の風さんの[1188]を始めとして この落書き帳でも度々使われてきました。
地上戦により日本の行政機構は壊滅しており、居所を失った住民の収容施設は米軍の軍政下。
不完全ながら日本側が関与するようになったのは、戦火が収まり沖縄諮詢会が発足した後の地方行政緊急措置要綱。この要綱で「市」と呼ぶことになった住民収容所の自治組織は 1945年9月に発足。沖縄本島12市の他に 粟国,伊平屋,慶良間列島,久米島の各市があり 合計16市[1260][4680]

また、そこに収容された人々は、沖縄本島で難民となった人たちではなく、終戦前に日本本土に移動していた(疎開?徴用?)沖縄人10万人を沖縄に強制移動させた人々のことでした。

これは誤解部分があり、沖縄本島で難民となった人たちの収容所【16市】と別に、本土の「沖縄人10万人」を沖縄に強制移動させた際にできた収容所があったことを指しているように思われます。
1946年には日本から琉球への入域者が 10万人以上あったという統計があります。出典

これが日本から強制移動させられた沖縄人労働力ではないかと思い 少し調べてみたのですが、その実体解明に役立つ手がかりは得られませんでした。
ちょっと気になる存在が 後に「みなと村」[1219]になった地域です。これは那覇港の荷役労働関係かと思いますが、軍事基地関係作業で必要とされた労働力を集めた収容所地域が、他にもあったのではないかなどと想像してしまいます。

この番組に対する批評も出ています。

鈴木祐司さんの記事の中に、次の記載がありました。
“空白の1年”の1年後には決定的な出来事もあった。通称「沖縄メッセージ」と呼ばれる昭和天皇からマッカーサーに宛て送られた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」である。

既に象徴の地位にあった天皇が このような意見を示したと伝える話を知り、驚きました。沖縄県公文書館, Sebald文書 , あの日の沖縄_1947/9/22

「メッセージ」に関連する矢吹晋さんの論評 ちきゅう座

テレビで報道された基地問題につながる沖縄の戦後問題。
ちょっと調べてみただけで、まだまだ知らないことが多いことを実感しました。
[91229] 2016年 8月 17日(水)18:59:19hmt さん
杖立への道
オフ会が開かれる杖立温泉に通じる道は 国道212号ですが、日田方面から向かう途中、熊本地震による通行不能箇所が生じています。
オフ会メーリングリストでは、既に 2016/7/2に かぱぷうさんの詳細な報告がありました。
福岡から日田・杖立温泉経由の黒川温泉行きの大型バス運行ルートが通行不能になり、熊本県小国町役場付近の「ゆうステーション」経由の迂回運転を余儀なくされている。
このことについては 現在も変らないのですが、乗用車の迂回ルートは、その後短縮されました。

現在の 国道212号迂回路図 には、日田IC~杖立温泉所要時間(乗用車)が1時間15分から45分へと30分短縮されたと記されています。
以前の乗用車迂回路は、杖立温泉東側の山中を広域農道経由熊本県に入るもので、小国町役場付近迄は南下しないものの、大型車迂回路に近いものでした。

もう少し詳しく記すと、日田市大山町汗入場(あせりば)地区の田北トンネル付近が9月末まで全面通行止めという状況は変わらぬものの、もう一つの規制区間である日田市天瀬町・下岩戸トンネル付近【杖立温泉のすぐ下流】は7月15日17時から片側交互通行可能になりました。これにより、乗用車は広域農道「スカイファームロードひた」(市道)と県道12号天瀬阿蘇線の一部を使って松原ダム付近の梅林湖畔に出て、開通区間の先にある杖立温泉に行くことが可能になりました。

余談ですが、梅林湖で杖立川と合流するのが津江川です。文字は違いますが、同じ「つえ」なのでしょう。
こちらの上流は下筌(しもうけ)ダムによる「蜂の巣湖」になっています。この名は 1959年ダム反対運動目的の監視小屋・「蜂の巣城」に由来しています。マクベスを戦国時代に翻案した黒澤映画は「蜘蛛巣城」。
「津江川」から思い出すのは2002年サッカーワールドカップでカメルーンのキャンプ地になった「中津江村」。落書き帳過去記事が多い有名村も日田市の一部になりました[21428]

それはさておき、大型車迂回路は、国道210号→大分県道12号→日田広域農道【スカイファームロード】→熊本県の小国広域農道→国道387号と結んだものです。

黒川温泉行き高速バスが停車する「ゆうステーション」があるのは、熊本県阿蘇郡小国町大字宮原(みやのはる)。1984年までは宮原線【久大線の支線】の終着駅がありました[90675]。東西に走る国道387号が 南北に走る国道212号と交差する少し東で、ここから212号を北上して県境に到達した地点が杖立温泉です。

宮原線は終着駅・肥後小国の先、どんな計画があったのか? 1922年の改正鉄道敷設法[79718]別表第113号
佐賀県佐賀ヨリ福岡県矢部川、熊本県隈府ヲ経テ肥後大津ニ至ル鉄道 及隈府ヨリ分岐シテ大分県森附近ニ至ル鉄道
最初の区間は佐賀線でした。矢部川=鹿児島線の瀬高【みやま市】から先を延長して豊肥線肥後大津を結ぶ線の途中、隈府【菊池市】から分岐して久大線豊後森付近の恵良に至る線の一部が宮原線だったのでした。
最後は、またも「杖立への道」と関係ない余談になってしまいました。
[91213] 2016年 8月 15日(月)12:39:47【3】hmt さん
海と島 (28)大きな無人島
[91212] 白桃さん
「面積1km2以上の無人島」ってあるのでしょうか?

過去記事[33529][85822]を参考に 上位と思われるものを列挙し、再検討してみました。
その結果によると、事情はそれぞれ異なるが、馬毛島や野崎島は 現在は再び有人島化したようです。

島名面積km2所在地コメント
渡島大島9.74北海道松前町[15328][23960]の29
馬毛島8.17鹿児島県西之表市島を手に入れた企業が有人島化 その狙いは?
兄島7.88東京都小笠原村世界遺産になる前は空港計画があった
大黒神島7.30広島県江田島市[29879][33494]黒い噂
野崎島7.11長崎県小値賀町[89994]他多数 現在は管理人が定住し宿泊できる有人島らしい
春国岱6   北海道根室市[85822]
屈斜路湖中島5.81北海道弟子屈町
枝手久島5.79鹿児島県宇検村奄美群島 開発計画
北硫黄島5.56東京都小笠原村[79266]
弟島5.20東京都小笠原村墓や小学校の門など定住遺跡あり
洞爺湖中島4.84北海道壮瞥町、洞爺湖町遊覧船で行ける
鳥島4.78東京都(市町村なし)[18943][22460]
南硫黄島3.54東京都小笠原村[74102]

なお、下記のようにまぎらわしい存在の島もあります。

硫黄島は 23.73km2もある大きな島で、戦前は1000人以上の人が暮らして賑わった島でしたが[56162]、現在は火山活動のために一般人が定住することはできません。
 # 火山と言えば、一時的な避難でしたが、三宅島 55.21km2も無人化した時がありました。
しかし、硫黄島には海上自衛隊員が常駐しています。つまり「住民がいない有人島」です。
南鳥島 1.52km2も 同様に海上自衛隊員が常駐しています。南鳥島には気象庁職員も常駐。

これに対して、「人がいる無人島」もあります。
広い意味では、住民基本台帳の住所を有する居住者も、国勢調査の常住者もいない島が「無人島」として扱われると思います。
しかし、居住者・常住者に限定して有人・無人を区別することにすると、「定住していない通勤者や旅行者」がいっぱい居るのに「無人島」という事例が たくさん出てしまいます。
その代表が「民間空港島」なのですが、その他の事例も含めて [86161]で例示しておきました。
[91185] 2016年 8月 11日(木)19:10:50hmt さん
国民の祝日「山の日」
[85642] ピーくん さん
平成28年から8月11日を「山の日」となります。
…というわけで、本日が記念すべき?第1回の「山の日」。

上高地で開かれた全国大会には 皇太子さまが 家族連れで出席されたとのことです。NHK News Web

20年前に国民の祝日になった「海の日」は、東北地方巡幸の明治天皇が海路で横浜に帰港した明治9年(1876)7月20日に因むもので、1941年制定の「海の記念日」からでも75年の歴史があります。

「山の日」制定の動きは 国会では 2013年からのようで、上記のように 2014年に早くも改正法成立。

全国大会が開かれた日本アルプスが 日本を代表する山であることに異論はありませんが、極論すれば山だらけの日本です。
…で、山地の割合が最大の都道府県はどこか? ちょっと気になりました。

都道府県データランンキング には まだ収録されていないようなので、日本統計年鑑を見たら、「都道府県,地形・傾斜度別面積)」という表がありました。

昭和57年の調査によるデータですが、そんなに変わるものではないので これでよいでしょう。
山地、丘陵地、台地、低地、内水域等の5種に分け、47都道府県ごとの面積がkm2単位で示されています。
この5分類の面積を合計した値を都道府県ごとの総面積と考え、これに対する比率を求めます。

ところが、「内水域等」に問題がありそうです。
北海道の 5,367km2には 北方領土 5033km2が未分類のまま含まれているので、実質 334km2。
そこで、北海道だけは 北方領土を計算から除外することにしました。

滋賀県や茨城県の「内水域等」面積が大きいのは当然ですが、県内の比率を求めると、なんと大阪府が17.9%で 滋賀県の14%を上回ります。東京都、長崎県、愛知県も茨城県の4.8%を上回ります。
離島や埋立地の扱いに問題があるのではと疑いましたが、よくわかりません。

このように未解明の点があるデータですが、本題の山地面積に関しては、おしなべて比率の大きいことでもあり、妥当な数字が出ているだろうと考え、以下のように「山地の多い県」ランキグングを作ってみました。

全国で山地比率が最大になった県は 鳥取県の 87.2% でした。
以下、2 高知県、3 山梨県、4 長野県、5 愛媛県、6 和歌山県、7 奈良県、8 徳島県、9 広島県、10大分県、11 岐阜県、12 群馬県、13 熊本県、14 福島県までが 75%以上。全国平均は 61%です。

上位の県の多くは、国民の祝日制定前から、県独自の「山の日」を作っていました。
こうち山の日【11月11日】、やまなし山の日【8月8日】、信州山の日、えひめ山の日【11月11日】、紀州山の日【11月】、奈良県山の日・川の日、ひろしま山の日、ぎふ山の日【8月8日】ぐんま山の日【国民の祝日制定後に廃止】

16位の静岡県は富士山の日、34位の香川県が かがわ山の日【11月11日】、41位の大阪府が おおさか山の日【11月】。
そして 47位の千葉県は山地の割合が飛び抜けて少ない 7.6%で、対象は丘陵地でしょうが 里山の日があります。

歴史的な日付に因むものではないので、山の形をした「八」や樹木を象った「11」を用いた日が好まれているようです。
[91167] 2016年 8月 8日(月)18:11:12【1】hmt さん
それは黒船から始まった (4)外国人居留地
[65167] Issieさん
【修学旅行の目的地としての】横浜が 中華街だけとは,大変さびしい。

横浜を訪れて学ぶべきことは多いわけですが、幕末の開港に始まった「外国人居留地」。
中華街を通じて「外国人居留地」が存在した過去を学ぶのも大切なので、このシリーズに取り上げます。

ご存知でない方も多いと思いますが、「租界」(そかい)という言葉がありました。大辞林の説明。
19世紀後半から解放前の中国の開港場で、外国人が行政権と警察権を握っていた地域。

現在の学校では どのように習っているか知りませんが、同じ19世紀後半(幕末)の開港から、明治の条約改正[54388][62517]までの間(1859~1899)、上海など中国の都市の「租界」と同様に「外国の領事裁判権を認めていた地域」が 日本にも ありました。それが「外国人居留地」です。
外国人居留地は、開港場「五港」である 横浜・神戸・長崎・箱館(箱館は有名無実、新潟には設けず)の他に、「開市」した東京(築地)・大阪(川口)にも存在しました。

横浜居留地を示しておきます。
明治30年の地図【クリックで拡大】を見ると、 外国人居留地には 官有地・民有地と異なる色分けがされており、特殊地帯であったことが明らかです。
山下居留地という文字付近の南京町【現在の中華街】に隣接した三角形の官有地にも注目してください。
現在の地図と照合すれば すぐにわかりますが、加賀町警察署[57730]です。

言うまでもなく清国は領事裁判権を持つ国ではありませんが、清国人も居留地の住民でした。居留地内に出入りする日本人もいました。領事裁判権は認めるとしても、外国人居留地は 当然 日本の警察権を行使する地域です。
加賀町警察署の位置は、このような複雑な状況に対応するものであったのでしょう。
多数の中国人が住むようになった事情は[65179]に記しました。南京町という呼び名は長い間使われてきましたが、戦後に犯罪多発地のイメージを一掃する目的もあり、横浜中華街として再生しました。

山下居留地の30ヶ町。[65183]では明治19年の資料に基づいて山下居留地の29町名を紹介しました。
横浜市中区史地区編 第3章山手・山下地区 の11/88コマによると、花園町を加えた30ヶ町は 明治12年1月に命名され、加賀町警察署の他に薩摩町バス停、電話線の支線名に現存しているそうです。

関内の街路は基本的に海岸線基準の碁盤目(並行と直交)ですが、中華街だけは 東西南北の正しい碁盤目なので話題になりました。下記 中国の学者の発言は [65181]にリンクされています。
中華街は斜めではない。斜めなのは周りのほうだ。

この向きは、開港のひろば99号 図2に示されているように、開港より前の嘉永4年の水田畦道に遡ることが確認されています。「横浜新田」の造成時からとすると文化年間(19世紀初期)でしょう。海岸線基準の「周りの道路」は 1858年以後。
文久2年(1862)に幕府の工事が行なわれ、水田は居留地に造成され、街路も整備されました。しかし実務(高低差や補償の処理)を考慮し、農地の形は 街路の向きとしてそのまま残されたようです。「風水に基づいて中国人がこの土地を造成した」という都市伝説は否定されるが、風水の観点から優れたこの地は中国人に好まれ、中華街になった。開港のひろば100号は、このように伝えています。[65180][65183]

話が江戸時代の横浜新田造成に及んだ機会に、横浜の土地造成に少し触れておきます。
横浜市中区史地区編 第1章素顔の中区 の13/49コマによる概況。
明暦2年-寛文7年(1656-1667) 吉田新田 約120ha 江戸の商人吉田勘兵衛(最初の名は野毛新田)
宝暦-天明年間(1751-1788)  隣接の西区の区域に尾張屋新田、宝暦新田、安永新田、藤江新田
天保4年-10年(1833-1839)   岡野新田、平沼新田
文化年間(1804-1818)     横浜新田
嘉永年間(1848-1853)     太田屋新田【現在の関内】 三河出身の商人太田屋徳九郎
明治初年(1868-1871)     野毛浦【現在の桜木町付近】

地図があった方がよいですね。
[65182] Issieさん
こちら は個人のページのようですが,横浜開港以前の地図(横浜村外六ヶ村之図)が掲載されています。
小さくて見えにくいけれど,「横浜新田」と書かれているところが,今の中華街ですね。

現在の地図とほぼ逆向きで、北北東にある海を下に描かれていますが、「横浜村外六ヶ村」を数えてみます。
半島状をなす「横浜村」の南に「横浜新田」。その右(北西)の「太田屋新田」は まだ水面状態。
図の中央部は左の中村川と右の大岡川との間に大きく描かれているのが「吉田新田」で、一部は派大岡川を隔てた太田屋新田と同様の水面状態です。
大岡川の左(西)には「太田村」があり、大岡川の河口・左岸には「野毛浦」があります。現在の桜木町付近。

これに、図の右側・緑色の野毛山のある「戸部村」と、中村川右岸沿いの「石川中村」とを加えると8ヶ村になり、「横浜村外六ヶ村」より多くなってしまいます。水面だけの太田屋新田はノーカウント?

この地図の出典は記されていないのですが、前記開港のひろば99号図2と似ており、『横浜村並近傍之図』(横浜市中央図書館)に基づいて模写したものではないかと推察します。
[91105] 2016年 8月 5日(金)18:16:42hmt さん
それは黒船から始まった (3)神奈川と横浜
ハリスによる日米修好通商条約の第3条には、ペリーの時に開いた下田・箱館以外に開く4港【神奈川・長崎・新潟・兵庫】とその期日が記されています。最初の開港場は神奈川と長崎で、期日は条約調印から約15ヶ月後の 1859年7月4日。期日は米国独立記念日でしたが、実際は最恵国条項にもとづき 7月1日に開港しました[54351]。安政6年6月2日は 旧暦の日付ですが、何故か6月2日が現在の横浜開港記念日に採用されています。

それよりも問題なのは、開港を約束した「神奈川」の解釈です。
オランダ・中国との限定貿易時代からの窓口・長崎は ともかく、江戸に近い東海道の宿場町である「神奈川」に外国の商人が来て 一般の日本人と接触する。それにより 問題が起きたらどうするのか?
 
日本側は トラブル回避のために、東海道筋から外れた横浜村を神奈川の一部であると解釈して、ここを開港地とすることを画策しました。しかし、ハリスら外国側は 長崎の出島貿易の再来になることを心配し、神奈川宿付近に領事館を設けてこの動きを牽制しました。参考

両者の駆け引きはありましたが、条約発効を前に幕府は横浜村での開港場建設を開始し、既成事実化しました。結局のところ、水深の深い横浜を貿易港とする利点に 外国側も納得し、横浜開港の運びとなりました[65179]

万延元年(1860)になると、幕府は中村川から海岸までを直結する長さ580間の堀川を開削[54352]。元町・中華街駅は、堀川の地下を横断しています。
これによって居留地は、北を海、西を大岡川末端部の内海、南西を派大岡川、南東を堀川に囲まれた「出島」状態になり、派大岡川の大岡川への合流点の南側にある吉田橋などには木戸門と見張番所が設けられました。
このような関門に囲まれた内側が「関内」、外側が「関外」です[54351]
条約には「居留地の周囲に門墻を設けず出入自在にすべし」とあります。番所は日本人用で、外国人については出入自在ということなのでしょう。

「神奈川県横浜市神奈川区」というように、地名としての神奈川と横浜とは入り乱れています。
これは元々は狭域地名[6474]だった両者が、時代の流れの中でそれぞれ広域地名化してしまったことに由来します。

最初に示すのは、明治7年に水路局が発行した 海図 YOKOHAMA BAYです。
図の下方に象の鼻を中心とした開港場・横浜の市街地が描かれています。街路は海岸線に従った約40度の斜め方向ですが、中華街だけはほぼ正しく東西南北を向いています。その左の白地には外国人居留地の文字もあります。『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の遊郭[54351]は 現在の横浜公園付近にありました。

大岡川河口部の内海は既に埋め立てられ、そこに開業後間もない(初代)横浜駅があります。
現在の桜木町駅ですが、その西側には野毛山・掃部山が迫っています。掃部山の県立青少年センターには神奈川奉行所跡の碑があります。
この神奈川奉行所[54388]は 慶応4年3月19日に新政府軍に接収されて横浜裁判所[75497]になりましたが、翌月には神奈川裁判所と「神奈川」の名が復活しました。
3月に横浜裁判所を名乗りながら翌月には神奈川裁判所という朝令暮改ぶりから、“開港場は横浜”と認識していた日本の新政府が、前政権が締結した条約の手前、対外的には“ここは神奈川”で押し通さなければならないことに気付き、慌てて改名した事情を読み取ることができます。[20917]
慌ただしい改称はその後も続きましたが、神奈川府を経て明治元年9月21日 神奈川県 で落ち着きました。
「県庁は横浜にあるのに神奈川県」という ねじれ現象は現在まで続いています。

なお、初代の神奈川県庁舎は明治15年に焼失、2代目は明治末期に解体。「キングの塔」で有名な4代目庁舎は、関東大震災で倒壊した3代目庁舎の後に 1928年完成したもの。開港のひろば88号
知事が執務する現役の庁舎としては、1927年竣工の大阪府庁本館に次いで全国で2番目に古いものとか。なお、群馬県昭和庁舎[55438]も 1928年の建築で、分館として使用されているようです。

庁舎のことはさておき、県名の由来「神奈川」という地名は、海図の北の方に見えています。
江戸日本橋から 1品川・2川崎と上る東海道3番目の宿場町でした。
明治末期の地形図を見ると、右上に「かながは」駅が見えます。現在の横浜駅のすぐ近くで、少し前の1901年に橘樹郡神奈川町から横浜市に編入された後でした。

昔からの郡名を調べると、東海道筋の宿場は 2川崎・3神奈川・4保土ヶ谷と武蔵国橘樹郡が続いた後、5戸塚で相模国鎌倉郡に入ります。 久良岐郡横浜は明らかに陸路の本筋から外れています。
このような横浜の位置が、鉄道の時代になってから、スイッチバックやら直通線やらを必要とした原因になったのでした[49808]

地名として全国に知られるようになった村名「横浜」とは対照的に、郡名「久良岐」は忘れられた地名になっています。調べたら久良岐橋がありましたが、中村川の上を通る高速道路の橋のようです。新吉田川が大通公園になる前は「川の十字路」でした。

また話が逸れてしまいましたが、明治末期の地形図に戻ります。明治7年の海図から30年以上後なので、陸地化が進んでいますが、それでも現在の横浜駅の西側には大きな内海が残っていました。
現在の地名では大部分が西区で、帷子川に近い南側が南幸、北側が北幸。この付近は内海橋名も残っている かつての岡野新田でした。

大まかに言えば、東海道【赤線】と横浜道【緑線】とが昔の海岸沿いです。
神奈川駅の先、弧を描く埋立地を初代横浜駅目指して進む鉄路の西端付近に 萬里橋[79942] の文字が見えます。
横浜オフ会では横浜駅から2代目横浜駅へのルートとして 万里橋経由が予定されていましたが、本隊から遅れた私が実際に渡ったのは帷子川の河口の築地橋でした。

万里橋については [49808][82973]で Old Map Roomを引用して説明していました。それによると、明治24年の 1:20,000地形図 など各時代の地形図が掲載されていたのですが、現在では残念ながらアクセスすることができません。

それはさておき、幕府が横浜開港に伴って設置した役所の名が何故「神奈川奉行所」だったのか?
条約での約束「神奈川を開港する」と辻褄を合わせるためとしか考えられません。
神奈川/横浜と同じように「兵庫を開港する」と約束して開港した神戸とペアにしたシリーズを書いたのは 10年前でした。[54297][54430]
[91104] 2016年 8月 5日(金)18:05:22hmt さん
それは黒船から始まった (2)1854年のペリー条約 と 1858年のハリス条約
さて、ビッドルから7年後のペリー。今度は清国に行く ついで というわけでなく、日本について本格的に研究し、フィルモア大統領の国書も携えた正式の使節です。

ペリーの黒船艦隊は有名ですが、太平洋を越えて日本にやってきたわけではありません。19世紀中頃の米国は 米墨戦争(1846-48)【墨西哥=メキシコ】により手に入れたカリフォルニアで金鉱が発見された頃です。サンディエゴに海軍基地ができたのは ずっと後の1907年でした。ホノルルも1900年まではハワイ王国でした。

経路はビッドルと同様に喜望峰経由。出港地は東海岸の海軍基地・ノーフォーク。[15871]太白さん
上海で4隻が集結した後、日本本土に先立ち琉球王国を訪れ、更に小笠原諸島を訪れました。これは日本遠征の目的が開国だけでなく、捕鯨基地の確保もあったからで、これについては[78654]で言及しています。

嘉永の浦賀来航は 4隻のうち2隻が蒸気軍艦。日本のことをよく研究し、大統領の国書も持参した米国の態度に接し、会見した浦賀奉行も相手が本気であることを実感したのでしょう。
12代将軍徳川家慶が病気中で【ペリー退去後、間もなく死去】、受け取った国書の返事は翌年までと先送りしたものの、「阿部政権」の対応もビッドル来航の時とは変わらざるを得ません。

「品川台場」[80264]を築造し、急拵えながらも、翌年には数を増して再来航し 江戸湾に入った米国艦隊に対し、辛くも日本の「海防体制」を示すことができました。

1854年の日米和親条約締結については [77711]に記しましたが、条約調印の場所に 江戸から少し離れた横浜が選ばれた背景には、品川台場の威嚇効果も多少は寄与していたのかもしれません。
林大学頭らの日本側全権との協議が行なわれた応接所は、神奈川宿の対岸にある砂洲の上の漁村、武蔵国久良岐郡横浜村に作られ、これが横浜の初舞台になりました。
アメリカ側の 武力を見せつけながらの協議を経て、嘉永7年(安政元年)3月3日(1854年3月31日)に、横浜村で 日米和親条約(日本国米利堅合衆国和親条約[1805])が締結されました。

でも、この時に開港したのは下田と箱館の2港だけで、条約を結んだ横浜を開港したわけではありません。
下田には米国領事館を置くことを認めたものの、自由貿易を認めたわけでもありません。日米両国が「和親」状態になったと言っても、米国捕鯨船【石油以前には鯨油ランプが使われていました】への食料・水・石炭[61271]などの補給基地として、遠隔地の港への入港を認めるという程度の段階でした。

次の大きなステップは 安政5年で、この年に実質的な開国への道が開かれました。
日米が「修好」だけでなく「通商」段階に進むのは、和親条約によって交渉の座を確保し 安政3年に来日したた米国総領事タウンゼント・ハリスの仕事でした。武力に訴えて清国と争っている英仏が日本に襲来する前に、友好的な米国との間で通商条約を締結する利益。これがハリスの強硬の主張の骨子で、消極的な態度の幕府を説得しました。その成果が 日米修好通商条約です。

ポイントであるアヘン輸入禁止条項はどこに記されているのか? 
日本開きたる港々に於て亜米利加商民貿易の章程第二則の末尾近くに、次の言葉がありました。
阿片の輸入厳禁たり 然るに密商し又其事を謀る輩は阿片一斤毎に15ドルラルの過料を日本役所に納むべし

条約調印は 安政5年(1858)6月19日 アメリカン・アンカレッジに碇泊した軍艦ポーハタン号の上で行なわれました。現在の横浜市金沢区八景島付近の海上です。

余談ですが、このポーハタン号は最大級の蒸気外輪軍艦でした。既に嘉永7年の来航時に この碇泊地に投錨し、ペリーは旗艦をサスケハナ号からポーハタン号に変更しています。日米和親条約で開港した下田では、吉田松陰の密航を拒絶しています。
ポーハタン号は、日米修好通商条約批准書【署名者は もちろん孝明天皇ではなく、14代将軍徳川家茂です】交換に渡米する日本使節団[77630]を迎えるためにも使われました。この航海にはサンフランシスコまで咸臨丸が随行しました。

この条約の結果 開港場になったのが 神奈川・兵庫・長崎・新潟・箱館 、総称して「五港」[51062]です。

…とは言っても、通商条約の調印と開港とが、すんなり実現したわけではありません。

最初のハードルは「勅許」問題でした。
17世紀以来 国政を任されている江戸幕府が 今更「勅許」を求める というのも、考えてみれば 奇妙なことです。
そもそも【19世紀の造語ですが】「鎖国」を決めた 17世紀には、勅許など考えてもいなかった筈です。
天皇のお墨付きがあれば 反対派対策に役立つ という老中首座・堀田正睦【阿部正弘の後任】の甘い見通しが 裏目に出てしまった ということでしょうか。

それはさておき、堀田の上洛中に 政権の実質トップとして 大老職に就任したのが 彦根藩主の井伊直弼です。

もともと開国に消極的だった井伊直弼が、勅許を得ないまま 「日米修好通商条約」を結んだ政権のトップ【注】になってしまったのは、歴史の運命でしょうか。政権運営に反対する浪士たちに桜田門外で襲われ、落命したのは 安政7年=万延元年(1860)3月3日でした。
日米条約に続いて、日蘭・日露・日英・日仏条約も締結されました。総称して「安政の五ヶ国条約」と呼びます。
「安政の仮条約」という呼び名は、誰が言い出したのか知りません。もちろん「仮に結んだ約束」という言い訳が国際的に通用する筈もなく、後の明治政府は 条約改正[54388]で苦労することになりました。
【注】
幕府の形式的なトップは、言うまでもなく 13代将軍徳川家定[80264]ですが、条約調印 約半月後に死去。
[91103] 2016年 8月 5日(金)17:47:50hmt さん
それは黒船から始まった (1)開港への序章
落書き帳オフ会番外編が横浜で行なわれました。
1854年まで無名の小漁村だった横浜が歴史にデビューした舞台。それは 黒船艦隊により浦賀に来航して開国を求めたペリーが、翌1854年再来して幕府との間で結んだ 日米和親条約でした。

でも、横浜にとり決定的に重要な転機となったのは、領事として下田に赴任してきたハリスとの交渉により結ばれた 日米修好通商条約 に基づく開港でした。その日付は安政6年旧暦6月2日[28611]

この1859年から 150周年にあたる 2009年に開催された博覧会の愛称は「開国博Y150」でした。
横浜での地方博覧会であるため、「日本開国150年」よりも「横浜開港150年」に重点が置かれた催しであったようです。実際、「開港博」と誤記されることもしばしば。[70310]

それはさておき、横浜オフ会を機会に hmtマガジンに横浜の記事を集め、開港場という特殊な地位から始まり 約160年の歴史を刻んだ横浜の姿を概観するシリーズを書いてみたいと思いつきました。

いまさら言うまでもないことですが、横浜の地理的特徴を一言で言えば「首都に近い港」であり、歴史的にも海外の諸国と接触する海運の拠点としての役割を果してきました。
外国人居留地、生糸の輸出、赤レンガ倉庫などのキーワードが思いつきます。かつての横浜は、華やかな客船を主役とする「日本の表玄関」でした。

時代と共に状況は変り、特に東京港の開港と空路の発達は、横浜に大きな影響を及ぼしました。
しかし、 横浜港自体は 健在です。そして、造船や鉄道貨物施設の跡地が「みなとみらい」地区へと生まれ変った横浜は、首都圏内の大都市として機能しています。

1853年の浦賀、その翌年の横浜に登場する主役は 米利堅合衆国水師提督【東インド艦隊司令官】マシュー・ペリーが率いる「黒船艦隊」でした。木造船ですが黒色塗装を施した外国軍艦は、白木の船だけを見慣れた目には異形の印象を与えたのでしょう。
それよりも日本人を圧倒したのは、旗艦「サスケハナ号」など一部の船が蒸気機関で外輪を駆動することで、黒船4隻が帆走せずに進む姿【曳航も併用】を見せ付けたのでした。まさに米国では「Steam Navyの父」と呼ばれたペリーの面目躍如です。

実は 米国からは ペリー艦隊よりも前に 帆船2隻のビッドル艦隊が派遣されています。
アヘン戦争(1840-1842)でイギリスに敗れた中国(清国)は、1844年に米国との間にも修好通商条約を結ばされており、ビッドルはこの望厦条約の批准書だけでなく、清国駐在の米国公使への対日外交折衝開始指令書も持参していました。既に公使は帰国後でしたが、ビッドルは条約締結の希望を伝えるために、弘化3年(1846)マカオから浦賀に来航しました。

日本側は 前年に老中首座が水野忠邦から阿部正弘に変った政権交代の後でした。国民の大多数は知らないことでしたが、政府当局は 阿蘭陀風説書【長崎出島のオランダ商館長による海外状況報告書】や、1844年のオランダ国書による忠告[77711]により このような海外情勢について、ある程度の知識を得ていました。

「阿部政権」のこの時の対応は、従来の拒絶姿勢を変えずに当座をしのぐというものでした。
正規の交渉権限を持っていなかったビッドルも 薪水・食料など提供を受けて引き下がりました。
間違いによるトラブルが発生しかけたが、大事には至らず。

横浜が歴史に登場する前も含めて、若干の予備知識を 開港への序章 として記してみました。

蛇足
米利堅(メリケン)という言葉は、嘉永7年に結ばれた日本国米利堅合衆国和親条約[1805]のタイトルに使われるなど、戦前には広く使われていました。
もっとも、この事例「米利堅合衆国」は 法令全書が編纂された明治20年頃の用法と推察します。
幕末の本文では「亜墨利加合衆国」となっています。

落書き帳内では「アメリカ」を意味する用例は少数で、最も多い使用例は神戸のメリケンパークで7件でした。

私の記憶に残っているのは、国産の「うどん粉」と異なる高品質の小麦粉を誇示する「メリケン粉」という言葉でした。真っ白で細粒の小麦粉。家庭でケーキを焼く薄力粉が主だったように思います。参考
なお、食用とは無関係の「メリケンを食らわせる」という用法もありました。参考
[90716] 2016年 7月 22日(金)15:11:36【1】hmt さん
Re:消滅市
[90709] デスクトップ鉄さん
「与野」の名は さいたま市の行政区に残されていません。
なお、与野市の区域を事実上引き継いでいる行政区は、さいたま市中央区です。

【追記】
過去記事を検索したら、こんな記事がありました。
[232] グリグリさん
制令都市になった場合、区割りはどうなるのでしょうね。与野区は間違いないように思いますが、浦和、大宮の名前は復活するでしょうか。浦和東区、浦和西区、浦和北区、浦和南区。なんか、JRの駅みたいですね。浦和武蔵区なんてのもできたりして(笑)。

ところが、区名選定委員会が選んだ最終案は かなり意外なものでした[3440]。与野市を主とするE区については、大方の予想や公募結果[1911]・市民投票[3353]で最有力と思われた与野区でなく、中央区でした[3438]
TNさんの記事[3485]が、舞台裏の事情を語っているようです。

それにしても、さいたま市の区名問題では 合併資料室に4つ、新区名で3つ、合計7つものアーカイブズが作られており、当時の熱気が推察されます。
見沼区と共に、中央区も話題を集めており、[10093]など未収録記事も多数あるようです。

最後に、本筋の「消滅市の残影」に戻り一言。
京浜東北線が停車する与野駅は東北本線に存在しますが、その所在地は旧・浦和市でした。現・さいたま市浦和区。
旧・与野市の残影を伝える駅名としては、さいたま市中央区の与野本町駅等3駅【埼京線が停車】を挙げた方が適切かもしれません。
[90688] 2016年 7月 12日(火)19:33:31hmt さん
海と島 (27)香川県の島
[90684] 白桃さん
香川県の有人島の人口(2010年国勢調査)です。結構、謂れのある島が多いです。
今では島ではなくなりましたが、屋島、瀬居島、沙弥島にも人は住んでいます。

今更なのですが、屋島も昔は「島」だったことを再認識しました。
正直なところ、日本の島 約500を選んだ時[86275]にも、全く念頭にありませんでした。
1968年の番の州埋立で 四国本土の一部に取り込まれた 沙弥島・瀬居島[86062]は hmtが選んだ「島list500」に含めています。人工島や本土と地続きになった島でも社会的に重要な地位を占める「島」はできるだけ対象に含めるという趣旨で桜島なども含めたのですが、屋島は考えていませんでした。
屋島を四国本土から隔てていた海。完全に陸地化した現在との間には、塩田時代もあるのでしょうか?

それはさておき、[86275]に記した趣旨で選定した 「島list500」 の集計表を、5大島・離島(47都道府県別)・北方領土の 順に示した集計表が作ってあるので、示しておきます。[86311]
香川県を見ると島の人口 38257 となっています。[90684]との差は 沙弥島96+瀬居島763。有人島数27は この2島の他に備考に記した井島の一部を算入していますが、石島の香川県部分【井島】は無人です。

データがあるので、香川県の島面積を島群別に集計しておきます。面積単位はkm2
小豆島と付属島:小豆島153.35+沖之島0.19+小豊島1.09+豊島14.50=169.13
直島諸島:井島1.82+直島7.82+向島0.74+屏風島0.12+牛ヶ首島0.33=10.83
高松市:大島(庵治大島)0.69+男木島1.38+女木島2.68=4.75
備讃瀬戸:櫃石島0.93+岩黒島0.17+与島1.10+小与島0.26+瀬居島0.91+沙弥島0.28=3.65
塩飽諸島:牛島0.84+本島6.77+広島11.66+手島3.41+小手島0.53+高見島2.33+佐柳島1.83+粟島3.68+志々島0.59=31.64
燧灘:伊吹島1.05
合計:28島 221.05km2【[86311]には算入していなかった元々の瀬居島・沙弥島面積を加えました。】

大部分の島は離島振興対策実施地域に指定されています。
具体的には、本土と地続きの瀬居島・沙弥島、無人の井島、近年無人になった牛ヶ首島の4島を除く24島で、自治体・面積・人口を含む一覧表になっています。
地域名は普通の用法と少し違う場合もあるようなのでご注意ください。

実は、離島指定基準は1964年以来約半世紀ぶりの 2013年に見直しが行なわれ、小豆島などが新指定されました。
国立療養所[90684]のある大島(庵治大島)も この際に検討されたのですが、船便や就業者数の多さから広島県厳島と共に指定が見送られたと伝えられ【出典】、[85202]でリンクした当時の最新版一覧表も そのようになっていました。
ところが今回確認したところリンクが切れており、再検索して得た上記平成27年7月13日現在の一覧表では大島が指定されていました。再見直しがあったようです。

…というわけで、離島振興法の有人離島数ランキングで、香川県は、堂々全国第3位の離島県でした。
長崎県51 愛媛県32 香川県24 山口県21 鹿児島県20 岡山県16 広島県13 宮城県9 東京都9 福岡県8

オヤ? 沖縄県がない… と思ったら、沖縄39島、奄美8島、小笠原2島は別の法律でした。[85802]

有人離島の数ではなく、都道府県の面積に占める 島嶼部の割合[85769]
沖縄県46.2% 長崎県44.4% 鹿児島県28.3% 東京都18.2% 熊本県11.8% 香川県11.3% 兵庫県7.3% 愛媛県7.0%

都道府県の人口に占める 島嶼部の割合[86311]
長崎県13.64% 鹿児島県10.99% 沖縄県9.64% 熊本県7.08% 広島県4.56% 山口県4.17% 香川県3.84% 島根県3.59% 兵庫県3.27% 新潟県2.66% 愛媛県2.60%

[90684]
男木島 高松市 162 かつては女木島とともに雌雄島村

昭和合併最終日[88364][73411][90105]に高松市に編入するまで存在したのですね。香川県香川郡雌雄島村
読み方が気になったので調べてみました。
しおじま メオシマ シヲジマ
昔は「雄」を「お」と読んだようです。

村の名を伝えている雌雄島海運のフェリーの名は「めおん2」 ですが、Wikipediaによると男木小学校の児童による命名だそうで、昔の村の呼び名に基づくものではないようです。
Wikipediaは しゆうじまむら となっています。

村が消えて60年も経てば、船会社の名を普通に読む「しゆうじま」が広く通用するようになってしまうのでしょう。
[90660] 2016年 6月 30日(木)10:21:07hmt さん
変遷情報あれこれ (11)1918/2/1 「自治体でない旧村」との 合併? により誕生した室蘭区 
[90655] グリグリさん 市区町村の変遷 開発記録(未処理:11件/未使用:6件)
[90657]で記した 未処理事例に続き、今回は 6件が残された 未使用事例を題材とします。

実は 受取先のなかった市区町村(6件)の意味が よく理解できませんでした。
例えば東京市と榑橋村との関係。東京市から開始して変遷情報内を過去に遡ろうとした場合、「東京市時代には練馬区が存在しなかった」ために榑橋村に到達できず、未使用で残った。最初は、そのような意味かと思いましたが、この解釈は違っていたようです。

東京市の変遷 を見ても、1891年の大泉村新設に関係した自治体として、埼玉県榑橋村の名は記録されています。
「受取先」とは榑橋村そのものではなく、ピンク地で示された町村制施行前の旧村のことではないか?
やっと気がついて確認してみたら、1889/4/1埼玉県の記録が未使用でした。未使用になった原因は 県境の壁 らしいと分かり、納得。

それはさておき、今回の主役は
室蘭市<室蘭区<北海道輪西村など3村 です。

1918/2/1 の 室蘭区(新設/区制) に伴う変遷情報の表記については、過去記事で議論がなされています。

発端は [67215] むっくんさん の記事です。変遷情報記載に関する将来的な問題点指摘を含むので、少し長いですが そのまま引用しておきます。
--------------
279 1918.02.01 区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町
は正しくは
1918.02.01 区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町, 輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村
ではないでしょうか。
参考:郡市町村廃置分合表(大正3年1月1日-大正7年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大9)5コマ、室蘭市HP(PDF)1コマ
#室蘭町には北海道一級町村制が既に施行されていますが、輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村の3村は未だ町村制が施行されていない地域です。そのため、将来的に北海道においても市区町村変遷履歴情報市制町村制施行時の情報に分離して記載するとき、記載方法にどのように記載するのが良いのやら。。。
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これに対する88さんのレス[67671]
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■T7(1918).2.1付け室蘭区 区制施行時の従前の町村について
「総覧」「便覧」・・・室蘭町
「幕末以降総覧」「辞典」・・・室蘭町,輪西村,千舞鼈村,元室蘭村
そもそも「総覧」「便覧」は、全国的に市制町村制施行以前の町村名はまったく記載されておりません。「辞典」は、ご丁寧に「非自治体の室蘭郡3村」とも書いてあります。
室蘭区区制施行の件は、内務省令?を確認できていないのですが、おそらく、ご紹介の郡市町村廃置分合表(大正3年1月1日-大正7年12月31日)(編著・出版:内閣統計局、大9)5コマ、室蘭市HP資料(pdfファイル)からも、室蘭町(一級町)と3村(非自治体)により発足した、と記述があると推測して間違いないでしょう。このため、室蘭町+3村と修正しました。
【上記[67215]の # 以下3行を引用し 】まさしく、心配していただいたとおりで悩ましいのですが、これはそのときまでにじっくり考えることとしたいと思います(つまりは「先送り」)。
--------------

ここで修正入力された輪西村以下の3村は、[78865]むっくんさんの記事引用文で確認できます。
しかし、[78869]紅葉橋律乃介さんが「( )は紅葉橋が勝手に付けたものですが」と記しているように、未施行の“村”との合併(?)が記載されていることに違和感を抱かれた方もあったようです。
[79760]中島悟さんは、ストレートに「3村は旧村なので削ったほうが良いと思います。」と発言しています。

これらの経過を踏まえた上で、「まとめ」的な むっくんさんの発言[83624](5)がありました。
#現状では何もなされていません。[79760]中島悟さんの町村制未施行3村を削除する案もありますが、一応、町村制未施行とは雖も3村は自治体であるのでこの提案は現実的には難しそうです。
私見ですが、色で区別したり、詳細欄で対応するというのが現実的なところでしょうか。もしくは(2)【一級、二級などの区別を記載する提案】を実行して
73 1918(T7).2.1 新設/区制 室蘭区 室蘭郡 室蘭町【一級】, 輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村
の形で市制町村制施行時の情報の方に記載すれば、意外と問題がないのかもしれません。

ここに示されているように、せめて変遷情報詳細
「輪西村, 千舞鼈村, 元室蘭村は 旧村であるが便宜上掲載」
というコメントを付けておけば、「先送り」[67671]のツケが今頃になって回ってくることはなかったろう。
過去記事を掘り返しただけですが、これが私の感想です。

室蘭の旧3村と同様に、正式の自治体でないのに、変遷情報の「変更対象自治体名」に記されているのが、
岡山県藤田村 村制 の前身である 「児島湾干拓地第二区」です。

東京23区【前身35区+練馬区で36回登場】<東京市  もちろん頭に付いている語句のなせる悪戯です。

結局のところ、 榑橋村は別として 「未使用の市区町村」とは「市制町村制以降の正規の自治体」でないものでした。
[90657] 2016年 6月 29日(水)12:16:12【1】hmt さん
変遷情報あれこれ (10)1906/4/1 北海道当縁郡廃止
[90655] グリグリさん 市区町村の変遷 開発記録(未処理:11件/未使用:6件)

未処理として挙げられた11件のうち、 1906/4/1 の当縁郡廃止に係る変遷情報です。

根拠である明治39年勅令第23号 [63738] には 編入先の郡名だけが記され、村名が記されていません。
変遷情報詳細もこれに基づいて記載されていたので、受入側の情報がなかったというわけですね。

落書き帳には、[63736]紅葉橋律乃介さんの記事がありました。
当縁郡当縁村の西部・歴舟村・大樹村、広尾郡茂寄村→広尾郡茂寄村
十勝郡大津村・長臼村・鼈奴村・十勝村、中川郡旅来村、当縁郡当縁村の東部→十勝郡大津村

関係する変遷情報は、北海道二級町村制施行に関するもので、その詳細は次の通りです。
広尾郡茂寄村新設/村制
十勝郡大津村新設/村制

なお、十勝郡編入に関し、「広尾郡に編入」と誤記されています。

ついでに 他の9件についても 短いコメントを。
埼玉県新座郡榑橋村は、[90653]に記したように 1891年6月【日付不明】東京府大泉村新設。

東京府小笠原旧5村の取り扱いについては、過去記事がたくさんあります。
比較的新しい記事を挙げると、[85063] [85081] [85082]

東京都35区 
そのような自治体は存在しません。変遷情報詳細の自治体名を「東京都」に改めるだけでよいのではないでしょうか。

新潟県湯ノ谷村  湯之谷村の誤記。

鹿児島県大島郡 大島郡に「沖縄県及島嶼町村制」が施行される前の郡変更なので、○○村を削除。
[90654] 2016年 6月 28日(火)19:20:16hmt さん
Re:神奈川県平塚市の飛び地
[90641] 水城珠洲 さん
平塚市大神 です。周りを厚木市長沼、下津古久、戸田に囲まれております。

久しぶりに飛び地の話題。
発見された場所は、東名高速道路厚木ICの少し南にあり、飛び地の南側と西側は 厚木流通団地になっています。

Mapionでは 南側が平塚市大神の地続きとして表示されているのですが、そこにある 日本通運厚木引越センターの住所は 厚木市長沼 となっており、[90641]でリンクされた MapFan が正しいように思われます。

ついでに、水城珠洲 さん[48502]で投稿していただいた平塚市の飛び地も見ました。
相模川の下流・馬入川の東岸にある茅ヶ崎市隣接地です。
『自治体の飛び地』コレクション にも収録されており、リンク地図の Mapionでは飛び地になっているのですが、投稿記事にリンクされた MapFan は、現在では飛び地になっていません。

この2つの事例から軽々しく決めつけることはできませんが、MapFan が 小まめな修正により、現状を正確に表示しているのではなかろうか と感じました。
[90653] 2016年 6月 28日(火)19:15:52【1】hmt さん
変遷情報あれこれ (9)埼玉県新座郡榑橋(くれはし)村
難読地名ですが 保谷村の北東に接しており、こちらは石神井川の谷を越えた白子川流域です。
町村制が施行された明治22年(1889)の2年後、同じ新座郡の新倉村長久保[4111]と共に、白子川の南岸、東京府に属する豊島郡石神井村上土支田[36159]と越境合併[37980]しましたが、その理由は小学校の統合による経費節減でした[62334]ねりま区

1891年6月 東京府北豊島郡大泉村を新設した合併により、埼玉県新座郡榑橋村は消滅しました。

大泉村新設の日付について、[85068] むっくんさんが 東京府令M24年第57号を挙げて、【当時の変遷情報に記されていたM24/6/15ではなく】M24/6/9であると指摘し、その後の変遷情報は 6/9に訂正されています。
この府令は「施行日」について触れていませんが、府令公布と同日に施行と解釈したものと思われます。

比較の為に2年前の東京府令M22年第26号を見ると、下記のように施行日が明記され、施行日の約3週間前 M22/4/11 の公布 と、施行までに 多少の時間的余裕を持たせた周知手続 であったことがわかります。
東京府令 明治22年4月11日 第26号
明治22年5月1日より当府管下東京に市制を施行し 荏原郡外5郡町村に町村制を施行す

そのようなことから、周知期間なしの「公布即日の施行」に疑問を抱き【注】、調べた結果が [85095]です。
最終的に埼玉県から東京府に移管する手続きが終了したのは、明治24年6月16日頃と思われました。
演説書など 榑橋村引継に関する埼玉県からのアクション に対する返事として、東京府知事から埼玉県知事宛に出された「了承」を伝える文書には、明治24年6月16日の日付があり、それは6月15日を修正したものでした。
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【注】法例の公布日や告示日と施行日との関係
法令とその施行日との関係については、[65445]むっくんさんの記事があります。
法律については特に定めのない限り、法例(明治31年法律第10号)(M31.6.21)により、公布の日から起算して満20日を経過した日から施行されることになり、勅令や省令についても満二十日という規定があったようです。今回問題になった東京府令については言及なし。

告示日と施行日との関係については、[69366]むっくんさんの記事があります。
それによると、県令については公布の後七日というような期限を定めている府県が大半とのこと。
そして、告示についてまで施行期限を記している事例は大部分の府県で未発見とありました。

[69558] 88さんの記事もあり、佐藤達夫編:「法制執務提要<第2次改訂新版>」を引用しています。
法律については、この規定【法例第一条】によることになることは疑いがない。(中略)地方自治体の条例、規則等についても、同様の規定があり、ただ、この期間を十日としている(地方自治法十六条三項・五項)。しかるに、その他の政令や省令等については何ら規定がないので、解釈上問題を生ずる。

前記の「法例」は全部改正されて 平成18年6月21日法律第78号 法の適用に関する通則法 になっていますが、「法律は 公布の日から起算して20日を経過した日から施行する」という原則は変っていません。[84174]
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変遷情報に戻り、日付の確定困難はともかくとして、榑橋村が廃止されたことは 間違いありません。
変遷情報詳細に記さている郡変更【新座郡→北足立郡】の中に「榑橋村」が記されているのは、誤記と思われます。
[90652] 2016年 6月 28日(火)19:06:07hmt さん
変遷情報あれこれ (8)埼玉県【新座郡→】北足立郡保谷村
17世紀の中頃、大都市化を続ける江戸の水需要をまかなうべく、11里上流の羽村から多摩川の水を引くべく開削された玉川上水[58728]
玉川兄弟の他に松平伊豆守信綱の家臣・安松金右衛門の名も伝えられています[39526]
大袈裟に言えば、江戸時代だけでなく、現代に至るまで 首都東京の生命線です。

玉川上水の主たる導水先は 言うまでもなく江戸ですが、その途中で南北に分水することを可能にするために、その流路は 武蔵野台地の尾根筋を選んで設計されました。[72799]
落書き帳記事には野火止用水[39526]や千駄ヶ谷付近[48334][48626]の分水路も現れますが、変遷情報関係で今回取り上げたいのは、境橋で分水する「千川上水」です。

「千川」というと地下鉄副都心線の駅名になっていますが、落書き帳では[12707] KMKZさんの記事で「小石川」「谷端川」という別名と共に神田川水系の支流の名として登場します。なんだか玉川上水とは無関係の方角に来た感じがしますが、実は「千川上水」によって結ばれているという関係があります。

[41575]で書いたように、玉川上水から分水した「千川上水」は石神井川と谷端川との間の尾根筋を通って本郷台地に達し、白山御殿、湯島聖堂、東叡山寛永寺、浅草寺御殿という将軍立寄先の飲料水を供給しました。
そして、台地上を流れる多摩川由来の分水は、田畑の灌漑にも利用された谷端川(千川)の水量を補完する機能もあることから「千川上水」と呼ばれたのでした。

玉川上水から千川上水が分かれる分水口があった境橋付近は、神奈川県武蔵国多摩郡と境を接する埼玉県武国新座郡上保谷村地先。これが明治22年の町村制施行によって埼玉県新座郡保谷村になりました。
明治4年11月の3府72県体制では入間県でしたが、明治9年に埼玉県になっています。埼玉県の先端部が南に突出した地域にあります。神奈川県多摩郡の方は明治12年施行の郡区町村編制法で北多摩郡になり、更に明治26年の三多摩移管で東京府北多摩郡と、変遷履歴を重ねます。

なお、この境橋付近は後に境浄水場【1924通水】も作られる重要地点ですが、少し東に行くと 現在の東京特別区の最高地点付近で、昔は東京府・神奈川県・埼玉県の境界でした。[75152]

玉川上水沿いの保谷村も、最終的には東京府に編入されましたが、それが実現したのは 三多摩移管より 14年も後の1907年でした。当然のことですが、特別法も三多摩とは別に制定されています[47106]

ところが、この14年間に 全国的な地方制度整備の一環である「新・郡制施行に先立つ郡再編」があり、保谷村の所属する郡は、埼玉県新座郡→埼玉県北足立郡→東京府北多摩郡 と変遷することになりました。

[90631] グリグリさん
西東京市の変遷はルーツが神奈川県と埼玉県にあることが明確になりました。

その通りなのですが、保谷市のルーツを遡ってゆくと、1907(M40).4.1の「変更対象自治体名 埼玉県北足立郡保谷村」の前に相当する変遷自治体が、1889(M22).4.1【埼玉県新座郡】保谷村となっています。
この間に存在する 郡変更 が欠落し、情報の連続性が失われています。
1896(M29).4.1 埼玉県北足立郡 保谷村 郡変更 埼玉県新座郡 保谷村
[90622] 2016年 6月 23日(木)20:19:54hmt さん
変遷情報あれこれ (7)(微)と記されていても 侮れない規模の場合がある
[90618] グリグリさん
(1) 変更対象自治体名にある「○○○の一部」「○○○(本)」「○○○(微)」の扱い
「○○○の一部」「○○○(本)」については「○○○」と同じ扱いとし変遷情報の遡りトレースを続けるが、「○○○(微)」についてはこれ以上遡らない。ただし、「○○市の一部」についても遡りトレースはしない。

解析プログラムでの扱いついてのご参考までに、これらの表記が使われている実体の一端をお知らせしておきます。

昭和合併のさなか、1955/12/1に福岡県八女郡下広川村の3分村・消滅。
変遷情報は、広川町への編入区域を 下広川村(本)、筑後市と筑邦町編入区域を それぞれ 下広川村(微)と表記しています。そのように扱った根拠と推察するのは、詳細欄に記されている 告示文を写したと思われる記載です。
八女郡下広川村を廃し、大字一条の一部の区域を筑後市に、大字藤田の一部の区域を三潴郡筑邦町に、その他の区域を八女郡広川町に編入する

(微)が使われた2区域は いずれも大字の一部であり、変遷情報採用基準【近世村】に及ばないように思われます。
境界変更だったら無視されるところでしたが、3分村により下広川村が消滅したので、筑後市と筑邦町への編入も 下広川村(微)という表記を使って 廃置分合として記録されました。

国勢調査こは、この3分村に伴う人口異動が記録されています。調査手法は[90607]で説明しました。

昭和35年国勢調査 付表2「市区町村の廃置分合, 境界変更, 名称変更一覧表」【60ah02b.pdf】福岡県の末尾【37/41コマ】に記された 注です。
2) 30.12.1 八女郡下広川村(5070)の一部(1093)が筑後市に、一部(502)が三潴郡筑邦町に、残りの部分(3415)が八女郡広川町にそれぞれ編入。

先に引用した変遷情報の詳細欄とほとんど同じ表現ですが、3区域の人口という定量的な記載により、(微)(本)という定性的な記載に比べて情報の価値が増しています。
(微)と言っても、1000人、500人という規模の人口異動であることも分かりました。

(微)と記されていても侮れない規模の変遷であることを知ったので、昭和合併時代の九州限定ですが、更に調べてみました。

佐賀県では 1955/3/1 藤津郡七浦村、1955/4/1 神埼郡蓮池町、1956/4/1 杵島郡橋下村、1956/9/30 小城郡砥川村の4組。
砥川村は一部(本)(3451)が牛津町新設に加わり、残り(微)(363)が江北町に編入。S35国勢調査の佐賀県注3。
橋下村は一部(本)(2070)が北方町に編入、残り(微)(1026)が白石町に編入。S35国勢調査の佐賀県注5。
蓮池町は一部(本)(3266)が佐賀市に編入、他の一部(微)(1188)は千代田村になる。S30国勢調査の佐賀県注1。
七浦村は一部(本)(6878)が鹿島市に編入、他の一部(微)(970)が太良町に編入。S30国勢調査の佐賀県注2。

大分県では、1954/3/31 東国東郡安岐町新設に奈狩江村(微)が加わっています。国勢調査で見ると人口異動は 52人であり、これは文字通りの(微)ですが、廃置分合の一部として堂々と記録されています。
2番目に 1955/7/1 大分市への境界変更が記録されているのが、大分郡挟間町(微) です。人口異動は 391人で 奈狩江村(微)よりも大きいのですが、これも同じように (本)と対になっていない「単独の(微)」として記録されています。

大分県の3番目。変遷情報では 1956/4/1 速見郡南端村(本)が別府市に、南端村(微)が日出町に編入と記録されています。
ところが…
国勢調査60ah02b.pdfの39/41コマ 大分県の注1 を見ると、
31.4.1 速見郡南端村の一部(477)が別府市に編入し、残りの部分(897)が速見郡日出町に編入

変遷情報詳細の記載。
速見郡南端村を廃止し、その区域のうち大字天間及び大字南畑の一部を別府市に編入し、その他の区域を速見郡日出町に編入する

大字単位を含んでいる別府市編入区域を南端村の (本) と思ったが、実は南端村人口の 65%は日出町編入区域であった。
こんなミスもありました。やはり人口異動のデータを無視するわけにはゆかないようです。

追々調査範囲を広げるつもりですが、とりあえず 本州からも一つ挙げておきます。

1955/3/31 広島県世羅郡吉川村の分村を含む 廃置分合において、世羅西町新設に加わった区域を「吉川村(本)」としている点にも問題があると思われます。
吉川村から豊田郡豊栄町に編入された区域は「大字吉原の一部」と表現されているので 吉川村(微) とされたのも無理からぬことと思われるのですが、国勢調査で明らかになった人口異動は、昭和25年国勢調査人口3329人の過半数でした。
このケースでは、ほとんど半々に分村されているので、(本)と(微) で区別すること自体が不適当だったのでした。
[90619] 2016年 6月 22日(水)18:12:28【1】hmt さん
昼間人口比率の低い市
[90616] 白桃さん
市の都会度(その3) ◎基礎的指標 4.昼間人口比率
【ポイントの】低い市は 富士見(-2.8)、流山、狛江、大網白里(-2.6)、鎌ヶ谷、阪南、白岡(-2.4)

なるほど。というわけで、調べてみたら 富士見市の人口等の動向分析 という資料がありました。
平27年度 第2回富士見市 まち・ひと・しごと創生総合戦略審議会 の配布資料でした。

昼夜間人口比率を県内 40 市と比較すると、富士見市は最も低くなっており、市外への通勤・通学者が極めて多い状況にあります。
1990年 1995年 2000年 2005年 2010年 
昼夜間人口比率63.6%64.3%67.5%70.4%72.4%

県内40市のうち 39市が100%未満 という埼玉県でも、もちろん最下位。
お隣のふじみ野市は 31位、83.2%でした。
昼間人口流出先の目立つの 三芳町、川越市、ふじみ野市、豊島区、千代田区とありました。

それでも上記のように比率が増加傾向にあるのですが、その理由として挙げられていたのが、高齢化と ららぽーと富士見の開業でした。

高齢化による昼間人口の増加とは自分のことか。
確かに2000年国勢調査の少し前までは 千代田区に通っていたが、近頃は電車に乗ることが少なくなった。

マクロの状況を伝える記事を読みながら、極めて個人的な感想を抱いてしまった hmt でした。
[90613] 2016年 6月 21日(火)20:16:12hmt さん
変遷情報あれこれ (6)国勢調査によって変遷情報の誤記に気づいた事例
YTさんは大作「47todofuken01.lzh」を 2013年12月にアップされています。[84549]
そのフォローとして、国勢調査人口の修正箇所の検討と共に 変遷情報の要修正箇所 も報告。[85243]
群馬県北甘楽郡小幡町の町制実施の年月日 修正前 1926(T15).5.10 修正後 1925(T14).5.10
これについては、その直後から 反響記事が続き、関心を集めました。

更に半年後、グリグリさん宛メールで伝えられた情報もあり、寄せられていた多くの情報と共に変遷履歴情報更新の備忘録に入り、町制日訂正の情報は、既に記録されています。

今回のシリーズの中で国勢調査に及んできたので、国勢調査が変遷情報の誤記に気づく「きっかけ」になった事例として利用しました。
しかし これを取り上げた真意は、次のことを再認識する機会として利用したかったのです。
落書き帳に寄せられている多くの情報。
それに一つ一つ対応しているオーナーの努力。
これによって 変遷情報のメンテナンスが支えられている。

おまけとして、誤記の原因が群馬県統計書のミスプリントに起因するのではないか という推理[85248]も盛り込みました。
「人のなせる業」は 無味乾燥な数字の正誤という問題だけでない ことです。
他人の失敗から学んだ知識を活かし、人生を楽しむ材料になれば と思いながら「あれこれ」雑談も書き込みます。

「あれこれ」ついでに、「調べてもわからなかった」変遷情報の例も挙げておきます。
岡山県和気郡英保町→吉永町の改称日
関係記事
[90607] 2016年 6月 20日(月)17:26:52【2】hmt さん
変遷情報あれこれ (5)国勢調査に記録された「市町村廃止情報」
国勢調査には 現在の変遷情報で知ることのできない人口異動情報が記録されています。
昭和30年以降の国勢調査、つまり「昭和25年10月以降に行なわれた廃置分合、境界変更」に使えます。
残念ながら「あらゆる年度で適用される、例外を完全に排した基準」[90579]というわけには行きません。
しかし「地方自治法施行以降」に かなり近い 65年間に使える基準になりそうな 有望な情報です。

具体的には、「市区町村の廃置分合, 境界変更, 名称変更一覧表」というファイルを使います。
既に[80458] 栃木県田沼町から群馬県桐生市へと境界変更した入飛駒の結果を紹介してあるのですが、今回は 前回「編入の意味」で使ったものと同じ事例を使います。

長野県北安曇郡池田町。現存です。経歴を見ると、村の頃から「池田町」でした。町制は大正。昭和合併では会染村と新設合併。というようなことが分かりますが、今回調べるのは、やはり最後の行に記された 昭和31年度末【昭和合併の時限立法が終って半年後】の「編入」です。

境界変更でなく「編入」だから、陸郷村と広津村とは 池田・陸郷・広津以外の町村も関係する処分が行なわれた結果、 1957/3/31に廃止されたことが分かります。

変遷情報と対応させた結果を見ると、生坂村の詳細に記されている3件の告示に基づいて行なわれた処分【下記5行】が記されているようです。
この表において 「行」は便宜上付与した行番号であり、「#」は変遷情報に付けられている#に対応します。

告示種別内容
182S32-116編入陸郷村を廃し、その一部を生坂村に編入
179と180116の一部編入 (陸郷村の残余は明科町及び池田町へそれぞれ編入)
182S32-117新設広津村及び生坂村を廃し、広津村の一部と生坂村の区域をもって(新)生坂村を設置
180と181117の一部編入 (広津村の残余は池田町及び八坂村へそれぞれ編入)
なしS32-118郡所属生坂村の属すべき郡を東筑摩郡とする

前置きが長くなりましたが、昭和35年国勢調査 付表2「市区町村の廃置分合, 境界変更, 名称変更一覧表」【60ah02b.pdf】長野県の内【19/41コマ】S32.3.31の分と、末尾の注の一部を抜き書きします。

町村○記号 異動地域昭和30年人口
1東筑摩郡明科町○併 北安曇郡陸郷村 11)の一部 186
2 ○境 一部の地域が北安曇郡池田町へ-924
3東筑摩郡生坂村○新 東筑摩郡生坂村 11)3734
4    北安曇郡広津村 12)の一部1635
5北安曇郡池田町 (S30.10.1旧池田町の区域)9011
6 ○併 北安曇郡陸郷村 11)の一部 702
7 ○併 同 広津村 12)の一部1355
8 ○併 東筑摩郡明科町の一部 924
9北安曇郡八坂村 (S30.10.1旧八坂村の区域)3264
10 ○併 北安曇郡広津村 12)の一部 46

11) 32.3.31 北安曇郡陸郷村(2535)の一部(186)が東筑摩郡明科町に、一部(847)が生坂村に、残りの部分(702)が北安曇郡池田町にそれぞれ編入。
12) 32.3.31 北安曇郡広津村(3036)の一部(1635)が他1村の区域と東筑摩郡生坂村になり、一部(1355)が北安曇郡池田町に、残りの部分(46)が八坂村にそれぞれ編入。

2回の国勢調査(昭和30年と35年)の間に分村して消滅した陸郷村と広津村は 本表に記載されず、このような注によって 分村先【昭和35年国勢調査時の所属】と昭和30年国勢調査時の人口とが示されています。
また、「残りの部分が…に編入」という句が使われ、この2村に存続部分がないという「廃止情報」になっています。

【追記】
行3に記されている生坂村の昭和30年人口 3734は、旧・生坂村由来の 2887と、陸郷村から編入された 847とに分けて記される方が わかり易い と思われます。

この表を眺めているうちに、○記号で示されている変更種別が 行2では境界変更なのに、行8では編入【○併は併合由来の記号と推察。記号の説明文は60ah02a.pdf】と異なっていることに気がつきました。統計局の誤記?
明科町の一部が池田町に組み入れられた 昭和30年人口 924人 の異動です。

池田町50年のあゆみの記載。
昭和32年3月31日 明科町中之郷・鵜山両地区と陸郷村・広津村の各一部を編入合併。

この記載からは、変遷情報に記載されている「編入」が正しいように思われます。
変遷情報の記載(変更対象自治体名)から 924人もの異動元である明科町が脱落していることを含め、告示による確認が望まれます。【追記終】
[90606] 2016年 6月 20日(月)17:19:00hmt さん
変遷情報あれこれ (4)変遷情報における「編入」の意味
今回のシリーズで最初に使った言葉は、「昔あった市町村」でした。
市区町村変遷情報【以下 変遷情報】トップページには、市制町村制施行時の情報数 15335という数字が記されています。現在は 790市745町183村、合計1718 (合併資料集)ですから、127年間に1万3千以上の市町村が廃止されたものと推測されます。

四文字熟語「廃置分合」。その冒頭にも「廃」という文字が使われています。
ところが、現実の 変更種別 では、「廃止」が使われていません。

その最大の理由は、「廃止」という言葉が 他の変更種別の説明中で使われており、大部分の廃止は その種別に該当するから「敢えて 廃止という結果を強調する 必要がない」からです。
新設  新設合併(合体):二以上の市町村を廃止し、その区域をもって新たな一の市町村を置くこと
編入  編入合併(編入):ある市町村を廃止し、その区域を他の市町村の区域に加えること
分割  ある市町村を廃止し、その区域を分けて二以上の市町村を置くこと

例えば、変遷情報 長野県 の 1957(S32).3.31 の記録
#変更種別郡名等自治体名変更対象自治体名/変更内容
179編入東筑摩郡明科町東筑摩郡 明科町, 北安曇郡 陸郷村の一部
180編入北安曇郡池田町北安曇郡 池田町, 陸郷村の一部, 広津村の一部
181編入北安曇郡八坂村北安曇郡 八坂村, 広津村の一部
182編入/新設東筑摩郡生坂村東筑摩郡 生坂村, 北安曇郡 陸郷村の一部, 広津村の一部

北安曇郡陸郷村と同郡広津村とが3分村された処分ですが、その変更種別はすべて「編入」となっており、この2つの村が「廃止された」ことを示しています。

これと対照的なのが、変遷情報 福井県 1955/7/15 の記録です。
#変更種別郡名等自治体名変更対象自治体名/変更内容詳細
89境界変更坂井郡金津町坂井郡 金津町, 芦原町の一部詳細
90境界変更坂井郡三国町坂井郡 三国町, 芦原町の一部詳細

「詳細」ページには 境界変更処分の対象地名が記されています。その他の地名は記載されていませんが、実際には芦原町の大部分が そのまま残りました。
処分後も「芦原町が存続こと」は、変遷種別【「編入」でなく「境界変更」】により分かります。
もちろん、2004年「あわら市」の新設/市制情報でも、それまで芦原町が存続していたことが分かります。

[90584] 桜江村は、このような「変遷情報の読み方」を踏まえた上て、下記解釈も可能な例外的な事例であったことを示したものでした。
桜江村の一部→江津市の処分については、境界変更であるから、この時には桜江村が存続していた。
しかし、【同日だが】その後で旭村の「新設」という順序であったのならば、桜江村は那賀郡4村と共に消滅した可能性がある。

…と、ここまで いかにも「変遷情報の読み方」が分かっているような姿勢で書いてきました。
しかし 過去記事を見たら、当時の自分は理解不足で、読み方を誤っていたことが露呈されていました。

2年前に書いた[85089]。この時は志紀町新設と美笹村への編入が行なわれた埼玉県内間木村が「廃止されたのか【中略】残っているのか不明」であると誤解して、「内間木村の廃止」という結果を、「その原因である編入や新設とは別情報として 明記しておく」ことを提案していました。

「変更種別の詳細説明」をよく読めば、美笹村への「編入」という処分は、自治体の廃止を伴ったものであり、廃止されたのれは内間木村以外にはあり得ない と解釈することができた筈でした。

反省を込めて、自らの誤解原因を明らかにし、皆さんが変遷情報を正しく読む資としたいと思います。

言い訳ですが、「編入」という言葉に「2つの用法がある」ことを 意識していなかったことが原因 でした。

一般的な用法:
団体や組織などに後から組み入れること。「編入試験」、「市に編入する」(大辞林)
地方自治法第六条第2項を見ると、「市町村の区域に編入」という用法は、廃置分合・境界変更を問わずに使える一般的な言葉であると理解できます。

しかし 地方自治分野の専門家たちが使う 業界用語 としては、次のような慣行があるように思われます。

「編入」という言葉は 廃置分合 の一種である 編入合併 に限定して用いる。
市町村の廃止を伴わない部分的な組み入れは「境界変更」として、「編入」と区別する。

# 境界変更であるか否かを決める市町村廃止の有無は、境界を変更する市町村だけでなく、同一告示に現れる市町村の範囲内で判断される。例えば[90585]において、#2は旭村新設で廃止される村があるので、組み入れられるのが 桜江村の一部に過ぎないものであっても、「境界変更」として告示に現れることはない。
同日の#4は別の告示であり、桜江村の一部組み入れということでは同じであるが「境界変更」になる。

このような仕組みになっているので、変遷情報における「編入」とは 最初に引用したように
ある市町村を廃止し、その区域を他の市町村の区域に加えること
という意味で使われていたのでした。
[90600] 2016年 6月 19日(日)22:55:48hmt さん
変遷情報あれこれ (3)鶏が先か? 卵が先か?
タイトルに使ったシリーズの(3)。下記2件の続編と位置付けたからです。ご了承ください。
[90584] 変遷情報あれこれ (1)「昔あった市町村が現在どうなっているのか」も知りたい
[90585] 変遷情報あれこれ (2)Re:「昔あった市町村が現在どうなっているのか」も知りたい

それはさておき、[90598] グリグリさん 郡再編と新設合併のタイミング について

2年前にも [85063] で同様の問いかけをされたことがあります。
この例で悩ましいのは、能登町新設と鳳珠郡設置の順序です。法的順序が明確であればそれに従いますが、そうでなければ上記の順序が自然かなと思います。いかがでしょうか。

その際の hmt[85071]は、受け皿である鳳珠郡の設置を先にするのが実務上自然なことと理解するとしていました。
しかし、地方自治法の趣旨からすると能登町新設が「主」であり、受け皿の郡は「従」にすぎないとも思われます。
なにやら、「鶏が先か? 卵が先か?」のようで迷い、3段階説も有力なように思われます。

ここはやはり「法的順序」、つまり告示番号順に従うのが正しいのではないでしょうか?
88さんは告示を確認していたと思われますが、変遷情報には告示番号が残されていません。

類例を求めて、三重県安芸郡と芸濃町、福井県三方上中郡と若狭町、岡山県加賀郡と吉備中央町、北海道二海郡と八雲町、北海道日高郡と新ひだか町も調べてみましたが、いずれの変遷情報にも告示番号が残されておらず、判断できませんでした。

ここは、官報情報にアクセス可能な環境にある方のご協力により、告示がどのようになっているか【2段階か3段階かと、その順番】を確認すべきではないかと思います。
[90597] 2016年 6月 19日(日)13:23:25hmt さん
明治30年前後、「旧・郡制」施行の準備として行なわれた「郡再編」
[90594][90595][90596]の各記事の対象になった「郡再編」の日付。
普段疎遠にしている「郡」が久方ぶりに登場しました。
誤記訂正・再訂正だけで終わらせるのも勿体ないと思い、過去記事を紹介しつつ、制度の変遷を復習しておきます。

国・郡制度の時代から使われていた「郡」という区画は、明治の大区小区制時代になるとその影が薄れてきましたが、明治11年制定の 郡区町村編制法で「府県」の下の「行政区画」となりました。
市制町村制や旧・府県制が制定された明治20年代になると、「郡」にも 府県の出先の行政区画だけでなく、「自治体」としての役割も与えよう とする動きが始動しました。

具体的には 1890年に 明治23年法律第36号「郡制」【以下、旧・郡制】が公布され、翌年には 11県では従来の区画のまま旧・郡制が施行されました。翌々年(1892)には宮城県にも旧・郡制施行。
地方自治体を目指すには小さ過ぎる郡を抱えていた22府県では、1896(M29)/4/1 に「郡再編」を行ないました。
大阪府を初めとする多くの府県ではかなり大規模な再編成になりましたが、3年前に三多摩移管をしたばかりの東京府のように小規模の例もありました。【東京府、神奈川県、京都府では旧・郡制施行なし。】
そして 1年遅れ(1897/4/1)で 7県も「郡再編」を実施し、旧・郡制も施行【岩手県など5県は即日】。
その後は、広島県、香川県【共に旧・郡制施行なし】、岡山県【旧・郡制施行後になった唯一の例】で、郡再編成は終りました。

旧・郡制の施行日は、同時期の旧・府県制施行日や郡再編の日付と共に、88さんが[62672]にまとめています。
[79688] hmt は、今回話題になった「郡再編」が実施された順番について 分類しつつ記載しています。

このような紆余曲折を経て1府(大阪府)39県に施行された旧・郡制ですが、明治32年(1899)には全面改正した 新・郡制 になり、これは45府県に施行されました[58745]

[51042] Issieさん
この「郡制」によって 郡 には“府県の出先機関”という性格に,議決機関たる「郡会」が設置されて“地方自治体”としての性格が加わりました。従来の「“官”の最末端」としての性格と,「“民”の共同体」(現実には,地主に代表される地方名望家が指導する共同体)としての性格の2面性を共有するものとなりました。前者を代表するのが「郡長」であり,後者を代表するのが「郡会」です。

しかし、地主階級を主体とするこの郡会は、結局のところ地方自治としては中途半端な存在で、大正12年(1923)に廃止。
その後、県の出先機関の「郡長」と「郡役所」も廃止されました(1926)。
戦時中に設けられた「地方事務所」はこの郡役所復活に近いものですが、例えば埼玉県埼葛地方事務所【南埼玉郡と北葛飾郡の2郡を管轄】の「埼葛」という名[59317]が示すように、郡そのもの ではありません。

そして戦後の地方自治法。
第259条第1項  郡の区域をあらたに画し若しくはこれを廃止し、又は郡の区域若しくはその名称を変更しようとするときは、都道府県知事が、当該都道府県の議会の議決を経てこれを定め、総務大臣に届け出なければならない。

要するに、現行法は a prioriな「郡という区域」の存在は認めているが、その機能については何も決めていません。
国として「郡」に積極的な役割を期待するものではないが、慣習の範囲内で使われるのは認めているという消極的支持でしょうか。
広域地方行政の役割は 専ら総合振興局/振興局が担い、行政当局からは 郡が事実上無視されているように見える北海道[71695]でさえ、二海・日高2郡の新設だけは行なわれ、戸籍事務や住所表示に使われています [73408]
[90585] 2016年 6月 15日(水)18:53:39【2】hmt さん
Re:「昔あった市町村が現在どうなっているのか」も知りたい
自己レスです。
[90584]を書いた時は、頭の中が「分村」に占領されていたので、それに関連した希望を長々と書いてしまいました。
投稿直後に読み直しているうちに、タイトルに書いた件に絞れば、現在の表でも、過去→現在の道の大筋を辿ることができると 気がつきました。

以下、グリグリさんのレス[90586]を受けた修正版です。

桜江村の例で記しておきます。
市町村の変遷 島根県[90586]の修正後】を開く。
Ctrl+F で 桜江 を入力→【修正後の検索結果は】下記の7件
#1 浜田市 1954/4/1 桜江村 新設 邑智郡5村
#2 浜田市 1954/10/1 旭村 新設 那賀郡5村、邑智郡桜江村の一部
#3 江津市 1954/4/1 桜江村 新設 邑智郡5村【#1と同じ】
#4 江津市 1954/10/1 江津市 境界変更 江津市、邑智郡桜江村の一部
【対象とする変遷種別に境界変更が加わったことで、この変遷が検索結果に加えられた。】
#5 江津市 1956/1/1 桜江町 町制 【#6】邑智郡桜江村
#7 江津市 2004/10/1 江津市 編入 江津市、邑智郡桜江町

改称や複雑な分岐があると、桜江で検索するという単純な調べ方では十分な結果は得られません。
上記#1、2には、桜江村の一部が旭村になった後、旭町を経て浜田市になったという経過が示されていません。
[90586]の ん? に答える追記】
浜田市の変遷にはその経過が示されているが、それは Ctrl+F 桜江 の検索結果外であった という意味です。

しかし、大筋の結果が得られるようです。
過去→現在の連続性確保という長期的目標は別として、とりあえずは これで満足することにしましょう。
[90584] 2016年 6月 15日(水)17:59:41【2】hmt さん
「昔あった市町村が現在どうなっているのか」も知りたい
[90582] グリグリ さん
とりあえず仮のページができました。

さっそく拝見しました。すばらしい。プログラム解析でこれだけのものを作れるのは さすがです。

あくまでも現状は非公開の暫定ページであり、作業全体への感想やご意見は歓迎しますが、【中略】表記項目への改善要望などは、当面は静観していただければと思います。

後半部の注意書きに反しているかもしれませんが、前半部の感想や意見のつもりで、将来に踏み込んだ希望を 少し記させていただきます。

現在の市区町村から明治の市制・町村制までの変遷データの連続性を確保することを目標に
とありましたが、現在から明治への「遡及」連続性だけでなく、【適切な言葉が思い浮かびませんが】時を進める前進的?関係の連続性確保も 目標とすることができないものか、検討していただければ有り難い と思います。

平たく言えば、「現在の市町村の過去」だけでなく、
「昔あった市町村が現在どうなっているのか」も知りたい ということです。

例を挙げて説明しますが、過去→現在の連続性を確保するためには、解析の対象とする変更種別に【分村などの限定的なケースですが】「旧村の存廃」を考慮する必要があるのではないかと考えています。

変遷情報には 1954(S29)/10/1に 島根県邑智郡桜江村の一部を含む新設合併があったことが記録されています。
同日には 桜江村の一部を江津市にする境界変更 も記録されています。
このような「分村」があった場合、多くのケースでは分村された村は消滅します。

例えば、落書き帳の古い話題である矢場川村[14616]のケース。
1960(S35)/7/1 群馬県山田郡矢場川村の一部区域は栃木県足利市へ境界変更【告示S35-1】
1960(S35)/7/1 群馬県山田郡矢場川村(境界変更の残余)全部が群馬県太田市に編入【告示S35-2】
変遷情報の記載を確認すると、変更対象自治体は太田市と矢場川村だけで、変更種別が【廃置分合の1種である】「編入」となっているので、「編入合併による矢場川村の廃止」を確認することができます。

ところが、1954/10/1 桜江村のケースとなると少し事情が違い、矢場川村のように分村された村が廃止されたことを示す決定的記載がありません。
そして、邑智郡桜江村が1956/1/1に桜江町になり、2004/10/1江津市に編入されるまで存続していたことから、「2件の分村があっても、元の村が廃止されたわけではない」ことがわかりました。

後で国勢調査55ah02dにより人口異動を調べたら、1954年に成立した桜江村の人口(1950年当時の5村合計)は9526人、この内 1954年に江津市に境界変更されたのは 490人、旭村【後に浜田市】の新設合併に加わった一部は 171人で、合計しても桜江村の 7%にしかなりませんでした。
つまり、変遷情報に記録された2件の変遷は、いずれも文字通り「桜江村の一部」に関するものであり、人口の93%を占める「大部分」は桜江村のまま存続していたのでした。

分村の後、更に村が存続していた事例は比較的稀であると思うのですが、過去→現在の連続性確保には、このような問題も存在します。

一般的には、分村による複数の一部編入が「廃置分合として記されていれば」、それは元の村の「廃止」を伝える情報として扱えるので、変遷情報に記す内容として「旧村の存廃」を明らかにしておく必要のあるケースは、ごく少数でしょう。
【追記】
桜江村の類例を思い出したので記録しておく。新潟県西蒲原郡岩室村【昭和30年人口 7587】
1960/4/1 新潟県西蒲原郡岩室村の一部を巻町に境界変更【人口異動 355】
1960/4/1 新潟県西蒲原郡岩室村の一部を吉田町に境界変更【人口異動 285】
岩室村の大部分【1955年人口6947】は 2005/3/21に新潟市に編入されるまで存続した。【追記終】

これに対して、多数の分村事例では 現在の変遷情報の記載のままで旧村の存廃を判断できます。
その一例に過ぎませんが、参考までに手元のメモ【国勢調査65ah03c.pdfの村名誤記】から分村データの例を示しておきます。
1962(S37)/4/1 宮崎県児湯郡東米良村の一部 西都市に編入 【1960年国勢調査人口異動 4421人】
1962(S37)/4/1 宮崎県児湯郡東米良村の一部 木城村に編入 【1960年国勢調査人口異動 810人】

1950/10/1以降の分村に関する国勢調査データは整理中であり、改めて落書き帳記事にしたいと思っています。
[90580] 2016年 6月 14日(火)20:23:42hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (7)昭和の境界変更で 柿崎町飛び地ができたが 32年後に柏崎に復帰
市の変遷・新潟県 柏崎市には 境界変更による組み入れが4件記録されています。このうち 平成元年の境界変更は 昭和合併時代の大きな境界変更で生まれてしまった飛び地の後始末となっており、2010年に落書き帳の話題になりました。
平成はともかく、昭和境界変更では かなりの人口異動があったので、今回のシリーズに再登場させます。関係記事集1

今回の事例のポイントは変遷情報に記録された奇妙な遍歴[74321]です。

1956/12/19  柏崎市が中頸城郡米山村を編入
#1 昭和合併の期限日(1956/9/30)に間に合わなかった。
1957/1/1  柏崎市の一部【大字小萱、大字上輪など】を中頸城郡柿崎町に境界変更
#2 この時の人口異動は 912人。かなり多い。小萱などは柿崎町の地続きで問題なかったが、米山の北にある 上輪・高畔・蕨野の3地区は柿崎町の飛び地になった。

【そして、飛び地状態が32年間継続した後で】
1989/4/1 柿崎町大字上輪あげわ, 大字高畔たかぜ及び大字蕨野の区域を柏崎に境界変更【飛び地解消】
#3 この時の人口異動は 178人と記録されていた。小萱などを含まないので #2より少ないのは当然であったが、飛び地の人口は予想外に少なかった。地名コレクションには「過去の飛び地」が残されていないので、代りに倉田昆布さんのページを付けておく。

1956年に消滅した米山村があった地域は、郡区町村編制法の8村時代から中頸城郡でした。1889年の町村制では南の4村が鉢崎村、北の4村が米山村になりました。1901年の新潟県内町村再編成[90141]で2村が合併して新たな米山村になりましたが、旧鉢崎村にあった駅の名は「鉢崎」のままで、「米山」への改称はずっと後(1961年)でした。
この地域は、米山を主峰とする山地が海岸まで迫っている地形で、文献史料上「米山以北」という表現で知られる「上越」と「中越」との境界地帯です。新潟県文書館

昭和合併当時の米山村は、行政境界である中頸城郡からすれば 柿崎側の「上越」ということになります。
しかし、自然地理的な境界は刈羽郡との境界よりもずっと南側にあり【鉄道や道路のトンネルは米山(鉢崎)―笠島間】、住民の意識としては「中越」つまり柏崎寄りの人々も多かったと思われます。

[74321] oki さん
30年以上たってから出戻るなら、どうして柿崎に出て行ったのか、その理由が知りたいところです。

むじながいり さんの [74348]は このあたりの事情を伝えています。
柏崎派と柿崎派との対立。合併は先送りされていたが、【昭和合併の期限が迫って】県議会は条件付きで柏崎との合併を議決。分離請求の住民投票を経て、上輪などが柿崎を、鉢崎などが柏崎を選んだ。
飛び地になってまで柿崎を選んだのは、昭和の住民投票の結果でした。

このようなケースでは、米山村を分村して 柏崎市と柿崎町とに編入合併する形の「廃置分合」を行うのが通常の処理方法と思われます。しかし、ここでは 先ず米山村全体を柏崎に編入合併し、2週間後に「境界変更」する という2段階処理になりました。国や県から昭和合併を迫られた時間的な制約が、その背景にあったように思われます。

昭和の住民は中頸城郡時代の隣村・柿崎を編入先に選んだ。
しかし、世代も変った平成の住民。柏崎に溶け込み、飛び地の不便を解消する道を選んだのでしょう。

なお、今年になってから グリグリさんによる国勢調査の新ページ作成に際して、平成境界変更の告示と面積調との日付が相違していることが問題になりました。その解明に至る経過も関係記事集2 に集めておきます。
[90578] 2016年 6月 12日(日)11:10:12【3】hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (6)人口異動と変遷情報採否の問題 西宮市田近野
「人口異動を伴う境界変更」をテーマにした検討の背景には、都道府県市区町村サイトの大プロジェクトである 市区町村変遷情報【以下単に 変遷情報 と記載】への採否問題があります。
10年近く前の記事ですが、当時担当されていた88さんの考え方を示しておきます。

[56539] 市区町村変遷情報 苦悩日記 No.8 境界変更について、さらには市区町村変遷情報の対象について

この記事では、変遷情報の対象を4段階に分け、従来からの持論である(2)を念頭に、更に進みたい姿勢を示しています。
(1) 廃置分合まで 市町村の増減を主とし、あわせて改称、郡・区設置等を記載
(2) 境界変更(大)まで 実質的に「藩政村」【近世村】の変遷を記載
(3) 境界変更(小)まで 地方自治法第7条にいう「境界変更」すべてに対応
(4) 所属未定地の編入・埋立まで 自治体の範囲が変わるものはすべて網羅

2007年当時は変更種別に含まれていなかった境界変更。その1年後には 正式に変更種別の一つとして追加され[63303]、「大きな境界変更」について変遷情報に追加される道が開けたように思われました。

その後、山奥の独立集落である入飛駒[79559]【面積5.65km2、人口557人】や、村の面積の過半(2.22km2)が市街地化して富山市に編入された 桜谷村[79560]について、変遷情報収録に値する「大きな境界変更」なのではないかという意見が出されました。

しかし、上記2つの意見によって 「近世村」を基礎とする88さんの考え方を崩すことは できませんでした。
[79660]末尾を見ると 88さんは「大字単位であれば変遷情報に収録する」編集方針を見直して、収録対象範囲を少し縮小させることも考えていたようです。

変遷情報への採否が揺れた具体例として、1969年に行なわれた尼崎市・西宮市間の境界変更 を示します。
一旦は下記の2件が変遷情報に記録されましたが、 #2の田近野町は削除され、武庫川河口の #1 が残っています。
#1 1969/4/1 西宮市→尼崎市 平左衛門町【1965年国勢調査人口異動 35人】 変遷情報存続
#2 1969/4/1 尼崎市→西宮市 田近野町 【1965年国勢調査人口異動 553人】 変遷情報削除

#2が削除された理由[65812]
ご指摘の尼崎市西昆陽字田近野の区域を西宮市に境界変更するものは、確かに小規模で他の情報との整合がとれていないことから、今回、情報から外しました。

このコメントを読んだ2008年当時は気がつかなかったのですが、上記補足データ【1965年国勢調査人口異動数】から 境界変更 #2 は 境界変更 #1 の10倍以上の人口異動を伴うものであったことを知り(2012年)、#2 が削除されたことに疑問を抱きました。

変遷情報への採否を決める境界変更範囲の大小を決めるのは、近世村が存在した時代の村落規模なのか?
それとも境界変更が実行された現代の集落規模なのか?
問うまでもなく後者が正解でしょう。
こんな考えに基づいて「近世村でないという理由だけで差別したくない」と訴えたのが[81934]でした。

しかし、[81934]は88さんへの直接問いかけという形を整えておらず、しかも折悪しく 88さんの変遷情報作業が中断していた時期[82239]でした。
そして、ご意見を聞くことができないまま 88さんの落書き帳退去という事態になってしまったのは残念です。

余談ですが、田近野に関しては、居住経験のあるuttさん【敢えて懐かしい旧旧名で引用】の記事[9524]があり、「領土交換条約」という呼び方で 上記2件の境界変更にも言及しています。
田近野町って変な町です。【中略】平行に並んでいるアパートを【西宮市と宝塚市の】市境が串刺しにしています。
なんでも昔は尼崎だったらしく、西宮と尼崎で領土交換条約(…)を結んで西宮市になったそうです。

【追記】数棟のアパートを串刺しにしている 西宮市と宝塚市の境界線
[90577] 2016年 6月 11日(土)16:44:50hmt さん
「青森県」を省略して「青森」と表記すると…
八戸市の中核市指定[90575]と直接の関係はないのですが、これを伝える NHK NEWS WEB の見出し表記が気になりました。
青森 八戸が中核市に 来年1月1日から移行

「その道に詳しい人」ならば 青森市は10年前に中核市に指定済みなので、正規の表記「青森県八戸市が中核市に」を省略したものであると理解するでしょう。
しかし、「青森」の本来の意味は都市名です。

明治4年9月に6県の統合により誕生した弘前県。「弘前」にあった県庁が「青森」に移ると共に青森県と改称されました。[76243]
「○○県」という言葉が、現在慣れ親しんでいる「県の領域」ではなく、「行政組織」とか「役所」の名前という感覚で使われていることがわかります。 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る 参照。

現在では県名と市名の両方に使われているので、自明でなければ正規の「青森県」又は「青森市」という表記で区別すべきです。
区別することなしに「青森 八戸が中核市に」と並べられたら、「普通の人」ならば「青森市と八戸市とが中核市に移行する」と理解してしまうのではないでしょうか。

多数の県や市を列挙する場合ならばともかく、正規の表記「青森県八戸市が中核市に」に比べて僅か2文字の短縮です。
新聞の見出しならば「スペースの都合で」という 言い訳もあり かもしれません。
しかし、音声やWEBでは 新聞見出しでの「必要悪」とも言える 省略表記の存在意義は 薄れているはずです。
NHK NEWS WEBに掲載されたテレビ画面の右上の字幕にしても、十分に正規の表記を収容できるスペースがあります。

今回の件は、3年前に記した[84067]と 同じ意見の繰り返しになるのですが、不必要と思われる省略表記を行なっているマスコミに対して このサイトから警告を発することは 意味があると考えたので、機会をとらえて再論しました。
マスコミで耳にする“大阪岸和田市”などという言い方は、どうも気になります。
「誰のための省略表記なのか?」ということ考えましょう ということです。
[90564] 2016年 6月 7日(火)14:51:53【1】hmt さん
肥後と豊後とに跨る温泉
今年のオフ会開催地の候補として、熊本大分県境の杖立温泉(ひぜんや)が登場したようですね。
館内の渡り廊下「両国橋」に設けられた県境標識にあるように「肥後国と豊後国」に跨るのに 何故か「ひぜんや」。

杖を手放すことができなくなったhmtとして、「杖」という文字で変遷情報検索をしてみたら、奈良県宇陀郡御杖村の他に旧4村がありました。しかし 杖立という村名を見出すことはできませんでした。
…ということで、大字レベルの地名にもなっていないようで、杖立を 自治体越えの地名として扱うには 問題がありそうです。

何はともあれ 地図で確認してみると、阿蘇外輪山の北側で、熊本県北端の近くでした。
1970年頃に 大分県の天ヶ瀬温泉で 台風に遭遇してしまった経験があるが、その少し南か。

熊本県北端から リンクしてある地理院地図を少し東に進むと 熊本県小国町・大分県玖珠町・同九重町の境界点になり、そこで 拡大すると、 西に麻生鶴、北と東に麻生釣がありました。

これも大字レベル以上の地名ではありませんが、一応地理院地図に掲載されているので、自治体越えの地名として扱えるかもしれません。審査をお願いします。
「つる」の漢字表記が2種ありますが、本質的には同じ地名が県境により分断されたものと思われます。なお 麻生(あそ)も 阿蘇と同根でしょう。

敷地が熊本・大分両県に跨る温泉旅館ということでは 杖立と共通しますが、麻生釣の方は 広大な敷地内に分散した離れ造りであり、ホテル式の「ひぜんや」の建物とは全く違うようです。
旅館の住所は熊本県阿蘇郡小国町西里麻生釣と表記されていましたから、字名としては 熊本県側・大分県側 共に「麻生釣」であろうと推測されます。 麻生釣温泉・亀山の湯>アクセス【この節、追記により修正】

九重町菅原の麻生釣には、1984年に廃止されるまで宮原線に麻生釣(あそづる)駅がありました。

地図上で杖立温泉に戻り 杖立川を少し下ると大山川との合流点になり、付近は松原ダムのダム湖(梅林湖)になっています。
大山川側を遡ると「下筌ダム・蜂の巣湖」の文字があり、1960年頃に新聞を賑わせた 蜂の巣城の攻防戦 や「肥後モッコス」という言葉を思い出しました。

以上、熊本・大分県境に関係する雑談でした。
[90556] 2016年 6月 4日(土)18:13:00【1】hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (5)1960年代と1970年代
このサイトの「都道府県市区町村変遷情報」は「廃置分合」が盛んに行なわれた平成合併時代の「市町村合併情報」からスタートしており、「廃置分合」情報を柱として進んで来ました。
しかし、次第に「境界変更」情報の重要性も認識され、その方面の情報充実も課題になってきました。

改めて言うまでもないことですが、「境界変更」とは何か? その確認から復習します。
「境界変更」が自治体【市町村、特別区、都道府県】の区域の変化を伴う変更であることでは「廃置分合」と同じです。
「廃置分合」と「境界変更」との違いは、法人格の変動【新設や廃止】の有無。それだけです。

「廃置分合」は、複数の自治体の合体などにより新たな自治体を設置する「置」と、編入合併などの形による「合」を中心に実施されています。これに少数例である「分」【分割と分離】も含め、市制町村制施行(1889年)以降の変遷情報が ほぼ洩れなく集積されています。

唯一 配慮が十分に及んでいないと思われる「廃置分合」情報は、町村廃止の情報です。
新設合併や編入合併という形で町村が「丸ごと」移行する場合は、特別の記録表示がなくても、旧自治体の廃止を伴うものであることは自明です。
記録しておく必要があるのは、分村編入による消滅です。
実は分村編入の大多数は消滅につながっているのですが、少数ながら複数の分村があっても、なお母村が残るケースがあります。従って、分村編入については消滅か存続かの区別の記録が必要です。

変遷情報記録を語るうちに 話が少し逸れましたが、本題の境界変更情報に戻ります。
2016/3/21にグリグリさんから 人口異動を伴う境界変更一覧がリリースされました[90092]。現在のところ、その対象は1980年代以降です。正確に言えば、昭和55年国勢調査の行なわれた 1980/10/1より後の35年間に実施された「境界変更」のうち、人口異動を伴うもの 77組が記録されています。

このシリーズの第1回[90100]で取り上げた「入間市と狭山市」は77組の中で最大の人口異動を伴った事例でしたが、その数は数百人止まりでした。しかし、これに触発されて過去の事例を探しているうちに、昭和合併時代には数千人規模の人口異動を伴う境界変更事例があったことを改めて認識しました。例えば 西武町[90105]や 東葛市[90517]

こうなると、過去に数百人、数千人という大きな人口異動を伴った境界変更事例を具体例で集めたくなります。
幸い、グリグリさんが統計局に問い合わせた結果得られた資料[81919]が、情報源として利用できます。
これによると、「人口異動を伴う境界変更」の情報は昭和30年国勢調査分以降について入手可能であり、昭和55年国勢調査までがPDFで公開されています。

国勢調査に基づく境界変更/人口異動データのまとめ。ご隠居仕事として挑戦してみるか。
先ずは 既にリリースされている1980年代以降につながる 1970年代と1960年代の20年間から。

自治体Aの「一部」の地域が その「人口」と共に 自治体Bに変更される 境界変更
これを「国勢調査報告書付表3 市区町村の廃置分合境界変更名称変更一覧表」から抽出する作業手順:
1. 一覧表を目視しつつ異動地域の中の「一部」という語句に注目し、人口変化がゼロでない記録を抽出する。
A→Bの異動があると、Aには負、Bには正の人口変化が記録されているので見落し防止に役立つ。
2.抽出結果は変遷情報と対比し、廃置分合に該当しないものを境界変更とする。
例えば、1962/4/1に宮崎県児湯郡東米良村5231人は 西都市に4421人、木城村に810人が編入されて消滅した【人口は1960年国勢調査人口】。「一部」というKWからの抽出結果には含まれているが、これは廃置分合の一種である「編入」として記録されており、境界変更には該当しない。

結果を集計すると、20年間の境界変更は175組でした。
人口異動最大は 1961/4/1 兵庫県美方町→村岡町の 4506人。[90315]末尾に記載したように、1955年までは射添村だった地域です。
以下 岡山県日生町→兵庫県赤穂市の 1640人、青森県弘前市→大鰐町の1430人、長崎県時津町→長崎市[81913]の 1087人、埼玉県杉戸町→庄和町 993人、高知県本山町→土佐村 706人と続きます。
リンクから知れるように、長崎の事例以外の5件は変遷情報にも「境界変更」と入力されています。
175組のうち、変遷情報入力済みは僅か13組でしたが、5組がトップクラス入賞は立派でした。

昭和合併と平成合併との中間にあって、変遷情報が少ないと思われた20年間ですが、それでも境界変更175組が存在するということは、リリース済みの35年間を上回るペースです。
最初は、大きな人口異動のものだけでも変遷情報に収録していただきたいと思っていたのですが、後に控えている昭和合併を含む10年間(1950年代)のことを考えると、とても変遷情報への入力をお願いできる分量ではないことがわかりました。

せっかく集めたデータなので、後日エクセルファイルの形でグリグリさんにお送りし、その処置を委ねたいと思います。
人口異動の大きさで線引きするのも難しいと思われるので、やはりリリース済みの35年間と同様に、変遷情報とは別の簡易な形式を採用し、データを皆さんに開示していただくのが現実的なのではなかろうかと思っています。
[90548] 2016年 5月 29日(日)22:59:07hmt さん
八箇村
[90530] k-ace さん
市役所からそれほど離れていない井口新田は J【小出】町ではなく K【湯之谷】村という。

変遷情報によると、町村制施行の1889年に 井口新田など 旧・8ヶ村が合併して成立した自治体は 八箇村 でした。

旧村名を見ると、小出に隣接する井口新田から佐梨川沿いに東に伸びる村であったことがわかりますが、合成数値名そのものであることを、面白いと感じました。
もちろん 地名コレクション に収録されています。
1901年の新潟県内町村再編成[90141]で湯之谷村と合併。

ところで「八箇」(はっか)という地名が、少々気になりました。

2012年5月、八箇峠トンネル工事中に4人が死亡する 天然ガス爆発事故がありました。
同じ魚沼地方の出来事ながら、小出市街地に近い八箇村とは地形が違う山中です。調べてみると、こちらは上越市と南魚沼市【関越道六日町IC】とを結ぶ道路で、町村制施行前は中魚沼郡八箇村だった所でした。

過去記事でも信濃川発電所のある中魚沼郡津南町三箇(さんが)[87461]という地名に遭いました。
変遷情報検索で「箇」を検索してみたら 全国に分布しています。検索結果
そして、新潟県の「○箇村」は 20件(内11件が魚沼地方)で 全国一でした。
[90545] 2016年 5月 27日(金)23:15:08hmt さん
奥只見ダムに通じる道
[90542] 千本桜さん 
今回の旅行で、じいさんたちが一番喜んでくれたのは、奥只見ダムへ向かうシルーバーラインです。

「シルバー」の皆さんが喜んだ道路。もちろん電源開発[84025]が 奥只見発電所建設のために作った道路です。
現在でもダム・発電所の管理用道路として機能していますが、1969年に会社から新潟県に譲渡された2年後には、観光有料道路「奥只見シルバーライン」として利用されることになりました。
1977年には無料開放され、「新潟県道50号 小出奥只見線」になっていますが、「シルバーライン」の名は引き続き使われているのですね。

この呼名の由来である「銀山平」は、水没地域にあった唯一の集落で 越後高田藩の銀山があったそうです。
水没後の銀山平は 現在地に移転。
ダム湖の名は「奥只見湖」が広く通用していますが、「銀山湖」の名もあります[36922]

地図を見ると、国道352号とシルバーラインの明神トンネルとを結ぶ連絡道路があります。トンネルの中に丁字路の交差点があるのは、極めて珍しい事例と思われます。信号機も付いているそうです。
シルバーラインは、20km以上の殆んどがトンネルと言ってもよいほどですが、特にこの付近は 17号(明神トンネル)、18号(荒沢トンネル)が僅かに10m間隔で連続しており、実質的に7kmのトンネル区間です。
長大トンネル技術が現在ほど進んでいなかった時代ですが、電力不足解消のために、かなり無理して作った道路なのですね。銀山平まで並行する既存の道路(国道352号)は、急勾配で狭い枝折峠という難所を越えなければならなかったのでした。

この「もぐら街道」。素掘りの部分もかなりあり、湧水により路面が濡れているそうです。
全線にわたり二輪車進入禁止。歩行者も軽車両も禁止。
WEBには そんな道を二輪車で走った疑似体験?がありました。
「あくまでもフィクションです」と断ってありますが、極めて詳細で、迫力があります。山行が

[90524] 千本桜さん
この谷を流れるのは水量豊富なF川で大蛇のように蛇行する。ちなみに、この川を見るのは無料です(笑)。

hmtにとり 最大のヒントになったのは、1963年9月に「混合列車」【注】で初めて訪れた 只見川 でした。
【注】
混合列車とは蒸気機関車・貨車・客車を連結した列車で、会津若松から只見まで乗車した当時は会津線の一部であり、会津川口-只見間は この年の 8月に開通したばかりでした。小出側は只見線を名乗っていたものの新潟県内止まりで、六十里越トンネルで県境を越えて只見までが開通し、全線が只見線になったのは 1971年でした。
余談ですが、只見で泊った宿のマッチには、「祝 只見線開通」の文字と共に「電話 只見八番」と記されており、時代の違いを感じます。

田子倉発電所前では「群馬幹線第1号鉄塔」、「只見幹線第1号鉄塔」などが並んでいるのをを発見。
前者は勤務先(当時の埼玉県大井村)前を通り、後者も比較的近くを通る見慣れた送電線でした。それぞれの特徴を備えた鉄塔は、只見川の電力が首都圏に送られていることを実感させてくれました。

じいさん7名の目的地は、この川の上流にある巨大なG【奥只見】ダムなのだが、谷が険しくて道がない。

遊覧船で田子倉湖上を遡りましたが、もちろん奥只見まで行くことはできません。
その名は「只見」ですが、奥只見は広い只見町の領域外(福島県側は檜枝岐村)です。
[90538] 2016年 5月 25日(水)13:08:57hmt さん
美鈴湖
[90537] 伊豆之国 さん
スケート場の中に長野県にある「美鈴湖」というのが載っていたのを覚えているのですが

かつての美鈴湖には 30cmもの厚さの氷が張り、昭和50年代までは滑走できたようです。人工のリンクでは浅間温泉国際スケートセンターがあり、日本で一番良く滑る高速リンクとして定評があったようです。
しかし 湖畔の国民宿舎「レイクサイド美鈴」は経営不振のため閉鎖。浅間温泉国際スケートセンターも 2011年に42年の歴史を閉じたとのことです。

スケートセンター跡地には、2015年6月に美鈴湖自転車競技場が完成しています。朝日デジタル
松本市のセールスポイント。日本一標高(1000m)の高い自転車競技場。気圧が低く、小さい空気抵抗で好記録が期待できる。

江戸時代から存在した農業用溜池で 「芦の田池」と呼ばれていた。デイラボッチ(巨人)の足跡という伝説がある。地図
昭和になって大改修。1953年に美鈴湖と改称。
ダム湖コレクション 未収録。信濃川水系【女鳥羽川>奈良井川>犀川>千曲川】です。

地図を見ると新婚旅行先の浅間温泉・里山辺の近くでしたが、記憶は全くありません。
松本市内には「美須々」という地名もあり、意味と結びつきにくい「みすず」の 多様な表記の存在を思わせます。
[90536] 2016年 5月 24日(火)15:17:48【1】hmt さん
水篶刈る 信濃の真弓 吾が引かば…
[90510] 伊豆之国 さん
上田土産「みすヾ飴」の名として使われた「みすず」について少し調べてみました。

先ずはタイトルに記した万葉集の歌ですが、みすヾ飴本舗 飯島商店の 説明ページでは、「み薦刈る…」となっています。
賀茂真淵が「水薦苅(みこもかる)」は「水篶苅(みすずかる)」の誤りとしている【コトバンク参照】ことでもあり、この記事のタイトルでは「みすず」の表記を「水篶」としました。

飯島商店の説明によると、信濃国の枕詞に使われて親しまれてきた「みすヾ」は 、ササの一種の スズタケ(篠竹)であり、ブナ林の下に群生する植物となっています。【別名】スズ。ミスズダケ。

私が「みすず」という言葉に出会ったのは 60年前で、『アフリカの内幕』[70231]を出版した みすず書房であったと記憶します。

長野県上伊那郡美篶村(みすずむら)という自治体があったことを知ったのは 最近のことです。
調べてみると、明治8年 当時の筑摩県に 伊那郡美篶村として誕生しており、翌年には長野県。
郡区町村編制法>町村制の施行により上記の自治体になり、昭和合併で伊那市美篶になるまで存続しました。伊那市中心部と高遠との間です。

明治生まれの村名「みすず」について 洞泉寺 のお話も紹介しておきます。
遠方の人に住所を伝えるときに苦労する「美篶」という字の由来。 高遠藩の学者に頼んだところ、万葉集から拾って 水篶を美篶と表記したとのこと。
「水篶」という表記から、「みすず」は水と関係のある湿地の植物であるように思われてきました。

「みすず」の利用法について、これがスズタケならば、その同類であるネマガリタケのように筍を 食用とするのかと思っていました。
しかし、調べてみると「水篶刈る」という作業の目的は全く違うもののようです。

意外なことに 植物由来の「みすず」は、古代製鉄の原料として利用された褐鉄鉱であり、その植物もササではなく、ヨシなど水辺の植物のようです。

未読ですが、真弓常忠:古代の鉄と神々という本があるようで、その本を引用したページを元に 記してみます。

それによると 「み」は美称。「すず」はヨシなど 水辺の植物の根に付着した褐鉄鉱の塊で、砂鉄たたら製鉄 よりも低い温度で精錬する 原始的な製鉄技術に利用された。

褐鉄鉱の正体は、水中の鉄イオンを集めて酸化エネルギーを得る 鉄バクテリアの代謝生成物で、中空の鉄鉱塊を振ると、その中に残された小さな塊が音を出す。これが本来の「すず(鈴)」でした。
根元に「すず」が付着した植物を刈り取るから「みすず刈る」信濃…ということのようです。
スズタケ説が出たのは「みすず」という言葉から でしょうが、水辺で褐鉄鉱を作る植物としてはヨシの他にマコモ等の可能性もあり、「水薦(みこも)」が誤りとは言い切れないような気もします。

信濃以外にも同様の植物由来褐鉄鉱があります。有名なのは 豊橋市高師が原台地の 高師小僧 で、愛知県指定天然記念物になっています。

信濃からは更に離れますが、この古代製鉄技術に関する資料・ 古代褐鉄鉱精錬の可能性もリンクしておきます。
一口に枕詞と片付けてしまえばそれまでですが、「みすず刈る」という言葉には、意外な背景があるようなので、書き留めた次第です。

上田の「みすヾ飴」本舗に戻り、飯島商店の歴史の概略。
明治初期までは北国街道沿いの米屋。屋号は「油屋」。明治21年鉄道開通。駅に近い現在地に移転。
明治33年に東京深川近郊の洪水。大量の冠水米が発生した農家を救済するために澱粉に精製して水飴を製造することを考えました。その水飴を森永太一郎が創業したばかりのミルクキャラメルに販売。
米屋から飴屋になった飯島は、明治の末になると水飴に信州特産の果汁と寒天とを加え、「みすヾ飴」を作り出すことにより、原料メーカーから脱却しました。

誤記訂正のついでに:
松本市の「美鈴湖」、「美須々」など「みすず」の異なる表記について[90538]で言及。
[90534] 2016年 5月 22日(日)17:44:43hmt さん
高麗郡 1300年
[90530] k-aceさん
埼玉県日高市で高麗郡建郡1300年記念祭が行われている

1300年前、716年というと奈良時代初期の遠い昔のことなのですが、そこに至った経過を調べてみると、現代世界に影を落すトラブルの前例となるような歴史が見えてくるような気がしたので、少し記してみます。

先ず、「こま」という地名について。
市区町村変遷情報・埼玉県を見ると、1896/4/1「入間郡, 高麗郡, 比企郡の一部 の区域をもって入間郡を設置」とあり、更に1955/2/11には入間郡 高麗村, 高麗川村の合体により日高町が発足しています。これが1991年には日高市になり、現在に至っています。
東京都狛江市、山梨県南巨摩郡など「こま」という地名は他にもあります。甲斐国は昔の4郡のうち西部が巨麻郡でした。
その他、河内国大県郡や若江郡にも巨麻郷があり、山城国相楽郡に大狛郷、下狛郷があります。

「高麗」は朝鮮半島の国名ですが、4~7世紀・三国時代の「こま」と 10~14世紀の王氏「こうらい」とは読み方で区別されます。高句麗と書けば前者のことであり、以下慣習に従って 高句麗(こうくり)の表記を用いますが、高麗の自称は 6世紀には 中国からも正式名と認められていたようです。
高麗神社(後出)本殿の扁額には小さく「句」の字が彫り込まれており、高句麗を示しているそうです。

高句麗は半島南部の百済・新羅と共に朝鮮の三国時代を作りました。
最盛期だった5世紀における高句麗の版図は 半島の主要部から満州南部に及ぶ大国でした。

その満州南部(現在の中国・吉林省)に広開土王碑という巨大な石碑があり、現物は 2004年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。
文字の記録がなかった時代の日本を伝える記録として比較的信頼できるのは中国の歴史書ですが、卑弥呼が登場する『魏志』倭人伝の3世紀と 倭の五王が登場する『宋書』倭国伝の5世紀の間が欠けています。
「倭」が何回も出てくるこの石碑は、4世紀の倭国の動きを伝える重要な同時代遺物として重視され、研究が進められているようです。拓本1拓本2拓本3

391年に即位した高句麗広開土王は 中国北朝と戦って遼東に勢力を伸ばし、南は百済の首都漢城近くに迫り、百済王を臣従させるなどの事蹟を挙げました。同じ391年には倭国による朝鮮進出が始まり、新羅や百済を服属させるなどしたが、404年高句麗領に攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した等のことも記されているようです。

中国南朝の『宋書』等にも5世紀以後に「任那」が登場し、倭国が半島南部に持った拠点もこの頃からと思われます。戦前の日本が 大陸進出の歴史的根拠にしようと意図した 神功皇后の三韓征伐伝説 との結びつきはともかくとして、朝鮮と日本との間には 長期間にわたり、戦争・外交・文物伝来・移民など、種々のの関係があったようです。

高句麗と日本が敵対関係にあった5世紀までは戦争捕虜、友好的になった6世紀以降は文化的交流、高句麗滅亡後は難民・亡命者といったところでしょうか。百済・新羅とはそれぞれ違いますが、これも文化交流・難民などその時々での動きがあったわけで、仏教や書物・文字だけでなく、農業や職人の技や医薬など、生活に欠かすことのできない多くの文化が朝鮮から伝えられたと思います。
一例として、高麗駅前に立っている将軍標の写真を示しておきます。

『続日本紀』には、今年から 1300年前の 霊亀2年(716年)に 武蔵国に高麗郡が置かれ、東国7ヶ国に住む高麗人1799人が当地に移住した と記されています。この時代になると、日本も歴史時代に入っており、「変遷情報」が残されているわけです。

入間郡を分断する形で設置された高麗郡について播磨坂さんが投げかけてた疑問に始まるスレッドについては、hmtマガジンを御覧ください。
その入間郡と高麗郡とは、郡制施行に先立つ明治29年に統合されました。

この時のリーダー・高麗王若光を祭神とする高麗神社は、出世明神として知られているようです。
若光の名は、その50年前の 666年に来日した高句麗国の使節の名「玄武若光」としても記録されています。高句麗滅亡で帰国できなくなった難民集団なのか? はじめ相模国に渡来して大陸の先進文化を広めたという技術集団なのか? 両者は同一なのかもしれず、よくわかりません。参考

高句麗は5世紀の最盛期を過ぎると百済・新羅に南部の領土を奪われ始め、中国北朝を牽制するための外交政策も必要になってきました。しかし、南朝の陳は北朝の隋に滅ぼされ、高句麗は 北方の強国である突厥(トルコ)と結びながら、隋の攻撃を防ぐ立場になりました。

隋は高句麗遠征に失敗して滅びたものの、今度は後継の唐が新羅と組んで百済を滅ぼし(660)、白村江の戦い(663)では百済の残存勢力を援助した倭国軍も撃破。
この敗戦により 唐からの侵攻を受ける可能性のある 危ない状態に陥った倭国。首都の内陸移転(近江京)を含む防衛体制の整備をなんとか完成。壬申の乱(672)を経て倭国から日本国への転換を進めることになりました。

唐は引き続き 高句麗に出兵し、668年には遂に高句麗滅亡。
戦後処理の間には新羅と対峙する場面もあったが和睦が成立。新羅による半島統一が実現しました。
新羅と言えば、新座市や志木市になっている旧・新座郡の前身である 新羅(しらぎ)郡は、高麗郡設置から48年後の 758年(天平宝字2年)に設置された武蔵国で最後の郡でした。

高麗郡1300年を機会に、高句麗国の歴史を振り返ってみました。
現在ここには世界中でも異彩を放つ政治体制の国があります。穏やかなプロセスで「普通の国」になってくれることを希望するのですが、下手をすると世界秩序に混乱をもたらすことになります。
戦争はもちろんですが、経済崩壊による難民発生も困ります。
中国や韓国が恐れるのも、ヨーロッパを目指すシリア難民の群れが極東で再現することでしょう。
渡航手段の乏しい時代でも、高句麗や百済の滅亡後には多数の難民が海を渡ってきました。
高麗郡の事例は昔話で済まないように思われ、こんな記事を書いてしまったのでした。
[90517] 2016年 5月 18日(水)13:09:49hmt さん
大きな人口異動を伴う境界変更 (4)東葛市の75日
東葛市という名をご存知でしょうか? 
昭和合併時代の1954年、千葉県東葛飾郡柏町など4町村の合体により登場した市ですが、由来である東葛飾郡には 既に市川・船橋・松戸・野田の4市が誕生しており、5番目なのに今更…という市名です。
そして、この名で存続した日数は僅かに75日で、市区町村雑学 短命の市 の第3位に挙げられています。

やはり曰く付きの履歴がありました。
そこには シリーズのタイトルである 大きな人口異動を伴う境界変更 が関係していました。
変遷情報を見ると 短期間に4回も登場しています。下表は変遷情報の表記をやや改めており、1950年国勢調査に基づく東葛市→柏市の人口と その増減【注】とを付け加えてあります。

日付変更種別自治体名変更対象/変更内容東葛市の人口異動
1954/9/1新設/市制東葛市←東葛飾郡 田中村, 柏町, 土村, 小金町41504
1954/10/15境界変更松戸市←東葛市の一部-7139
1954/11/1編入東葛市←東葛飾郡富勢村の一部+4108
1954/11/15改称柏市←東葛市38473

東葛市~柏市誕生ものがたり~にも 4町村合併に反対運動があった旧・小金町の帰属についての記載があります。副知事から提示された無投票分離で決着。
柏との合併を議決した議会と異なり、住民の意向は明らかに松戸志向で、投票するまでもなかったようです。
松戸市に境界変更した地域の人口【注】は 7193人で、旧・小金町【1950年国勢調査7326人】の大半でした。
【注】人口データ出典
[81919]にリンクされている昭和55年調査報告書の「PDF2」をクリックすると 55ah02b.pdf が出ます。その末尾近く31/32コマの注16) 最終行には「29.10.15 東葛市の一部(7139)が松戸市に編入」と記されています。
総務省告示に基づく変遷情報詳細と併せ、境界変更の地名と人口異動とを知ることができます。

この7139人は [90105]西武町の記事で シリーズタイトルの「極端な事例」と紹介した5155人を更に上回っており、1950年国勢調査以降に行なわれた「市町村の境界変更」の中で 史上最大の人口異動であると考えられます。
「政令指定都市の行政区改変」に関しては10万人規模の人口異動もありますが、これは考慮対象外です。念のため。

富勢村編入に伴う4108人も かなりの規模の人口異動でした。昭和合併に際して 富勢村の意見は 我孫子町と柏町とに分かれており、結局分村編入することになりました。こちらは「廃置分合」として扱われるので、「境界変更」の通常の用法からは外れます。

それはさておき、シリーズタイトルの主役である 松戸市への境界変更に話を戻します。
Web内には、公的なデータだけでなく、60年以上前から語り伝えられた話も伝えられていました。
境界変更の実態を探求する目的を持つ私達にとっても 興味ある歴史が伝えられていると思われるので、幻の東葛市をリンクしておきます。
松戸市立図書館には 詳しく書いた書物があると紹介されています。

小金町を挟んだ松戸と柏との三角関係は、地元では有名な話かと思いましたが、60年を経た現在では 人々の記憶から失われつつあるようです。千葉県議会議員をされている方【当時は幼稚園】のブログによると、家でも学校でも聞くことなく育ったようでした。
[90506] 2016年 5月 12日(木)13:19:10hmt さん
Re:県の石
[90505] MasAka さん
千葉石はあくまでも千葉石であって、当該記事でみのるさんが紹介したトベルモリー石とは全く別の鉱物です。

フォローしていただき有難うございます。
[86292]に記されていたトベルモリー石の産地(南房総市平久里)は千葉石の発見地(南房総市荒川)の近くのようですが、別の鉱物であることを理解しました。シンポジウムの『千葉石の地質環境』には 次の記載がありました。
千葉石は,現在のところ,最初に発見された南房総市荒川地域の限られた露頭でしか見いだされていないが

ついでに
『日本の新鉱物と千葉石』に記されていた都道府県名の付けられた鉱物の補足

「石川石」Ishikawaite の産出地は 福島県石川郡石川町の石川山産であり、都道府県名由来というわけではないようです。参考

「愛媛閃石」 Ehimeite という鉱物名も一度は承認されたが、命名規約の変更で短寿命で終わったとのことです。出典
和名としては「愛媛閃石」も通用しているのかもしれませんが、学名ということになると、国際ルールとの関係もあり、門外漢が軽々しく発言することができないような気がします。
[90503] 2016年 5月 11日(水)14:22:41【1】hmt さん
千葉石
[90501] MasAka さん
「県の石」が、5月10日の地質の日に合わせて日本地質学会から発表されました。

日本地質学会が昨日発表した「県の石」【47都道府県の 岩石・鉱物・化石が選ばれているので 全部で141件】をざっと眺めているうちに、 千葉県の鉱物として挙げられた「千葉石」に注目しましした。

説明文を見ると、シリカ鉱物の作るカゴ状の結晶空間の中にメタンなどの小さな分子を取り込んだ構造の物質(クラスレート)であるとのこと。
南房総市での発見に因むという「千葉石」という名も、そのような鉱物が存在が存在することも初耳でした。
しかし、メタンハイドレートのような天然の包接化合物が 時の話題になっている世の中です。
メタンを閉じ込める結晶は 氷に限ったことはなく、シリカクラスレート鉱物【クラスラシル】が存在しても不思議ではない。
単に新鉱物というだけでなく 珍しい種類の鉱物で、元・ケミストの hmtとしては関心を抱かざるを得ません。

つくば市の 地質標本館【筑波研究学園都市の建設にあわせて 地質調査所時代の 1980年に設置】のサイトにも、さっそく「県の石」のページが開設されていますが、千葉石は未展示でした。

余談ですが、地質標本館サイトの標本は 通常の都道府県コード順に並べられています。
しかし、日本地質学会のサイトにおける配列は、異なる順番になっているのが気になります。
最も著しい中部地方を例に示しますが、他の地方にも違いがあります。
地方行政の中でも分野による不統一がありますが、地質学ともなると、珍しい順番に戸惑います。

都道府県コード:新潟・富山・石川・福井・山梨・長野・岐阜・静岡・愛知
県の石一覧表 :新潟・富山・石川・福井・静岡・山梨・長野・岐阜・愛知
県の石詳細  :新潟・長野・山梨・静岡・富山・石川・岐阜・愛知・福井

それはさておき、千葉県の鉱物に戻ります。
[90501]に引用されていた[86292]みのるさんの記事には 別名で紹介されていました。
ちなみに千葉県は珍しい鉱物の産地がほとんどないそうで、選ばれたのは南房総市平久里の「トベルモリー石」。こんなの知ってる県民ほとんどいないでしょう。

調べてみると、新鉱物・千葉石が発見された2011年に、千葉県立中央博物館で シンポジウム が開かれていました。
千葉石(chibaite)は、日本語では「ちばせき」と読むのですね。

シンポジウムのページには、5件の講演が収録されいました。
その中の『日本の新鉱物と千葉石』によると、日本産鉱物リストの中で千葉石は109番目の新鉱物であり、都道府県名が付けられたものの6番目にあたるそうです。
東京石、岡山石、石川石、滋賀石、大阪石、千葉石。表には和名として使用される新潟石も。
他に南部石、多摩石、備中石、釜石石、岩代石、手稲石、尾去沢石、大隅石、青海石、糸魚川石、人形石など それらしき地名の付けられた鉱物名が見えます。
この表には、単斜トベルモリー石という名もありましたが、千葉石との関係は わかりませんでした。
[90483] 2016年 5月 5日(木)17:02:25hmt さん
大戦末期に愛知県を襲った連続地震
変遷情報に関連して、分村で消滅した村のことを書こうと過去記事を見ていました。
ところが、1955年に愛知県碧海郡明治村が分村して消滅する10年前に、村が消滅した遠因とも言える三河地震が起っていたことが気になりました。
そこで、愛知県で70余年前に起きた連続地震について、ちょっとだけ書いておきます。

2016/4/14夜に続いて2016/4/16未明の本震と、連続する強震に襲われた今回の熊本地震。
連続地震が家屋などの構造物に及ぼす影響を見せ付けられましたが、大戦末期の災害も過酷なものだったようです。

第二次大戦末期、東南海地震(1944/12/7、M8.0)の37日後、1945/1/13に三河平野を襲った直下地震(M7.1)がありました。[55569]
二度目の地震が寝込みを襲われたことは今回と共通していますが、気象条件は冬の真夜中と一層厳しいものでした。

そして何よりも違うのが、海外どころか国内からの視線さえ遮断された 戦時報道管制下の孤独な環境でした。
国際援助はもちろんのこと、行政の対策も全く期待できません。
ボランティアによる支援活動など、その言葉もなく、誰でも自分を守るだけで精一杯だった時代です。
被災者は、このような孤立無援の状況に苦しんだことと思われます。
[90473] 2016年 5月 3日(火)12:11:16hmt さん
基盤地図情報数値標高モデル
[90470] グリグリ さん
地理院地図で最高点探しは楽しい(?)のですが切りがないですよね。

最高点探しというと、水準点や三角点のような基準点と 地図の等高線が 頼りと思っていたのですが、地図記号によると 写真測量による標高点もありました。

そして、今回の記事により 「基盤地図情報数値標高モデル」が構築されており、航空レーザー測量による標高値を 容易に得ることができる と知りました。

説明書によると、標高点格子の間隔は 約5m四方と かなり細かいので、小さな丘でも発見することができそうだ と期待しました。

さっそく、自宅近くの公園にある小高い丘を調べてみたのですが、何故か 期待した標高値を得ることは できませんでした。

標高探しの新兵器であることは確かなように思われますが、常に信頼できる結果が得られるとは限らないのかな?
[90463] 2016年 5月 1日(日)10:06:44【2】hmt さん
Re:東京都大田区の最高地点
[90459] Takashi さん
第2候補:大田区北千束1丁目付近 (40m)
すぐ北には 41m地点 もありました。

61.2mの三角点 もありましたが、これは ビルの屋上 でした。

[75146] hmt
三角点の標高は、存在する地点をよく確認しないといけないようです。

【追記】
[90462] Takashi さん
大田区のHPに大田区内町丁目別標高一覧というのが見つかりました。

津波対策事業として区内全域を2メートルメッシュに分け、その中心19,561,708地点の標高を計測したとのこと。
約 2000万に及ぶ標高データを集めたとは驚きですが、膨大なデータの中の最高標高は田園調布五丁目にある 43.7m とのこと。
それがどの地点になるなのか、何かの資料で紹介されていない限り地図上で探し出すのは困難なように思われます。

津波対策事業の中には 大田区標高図 もありました。
東京都水道局玉川浄水場は 標高の高い地点を選んで設置されたと思われ、近くには 40.8mの三角点もあります。
そのすぐ南側が田園調布五丁目11か12付近が大田区最高標高地点ではないかと推測したのですが、mapionでは40mを超える地点を発見することはできませんでした。

大田区のプロフール>大田区の地勢には 次の記載があり、このことからも 大田区の最高地点は北西部にあると推測されます。
海抜は、田園調布付近が最高で42.5メートル、南東に向かって次第に低くなり、…
[90443] 2016年 4月 26日(火)20:12:24hmt さん
Re:野老(ところ) 所沢、そして四万十川上流の野老野
[90440] k-ace さん
所沢の由来が野老(ところ)?という説も。

所沢市章 には、ご紹介のあったつる草「ところ」の葉に基づくデザインが用いられています。
地名の由来について:
在原業平説もありますが、野老は乾燥地を好む植物で「沢」が表している湿地との相性はよくないという異論も。
その他、北海道の常呂と同じアイヌ語説、ふところざわ説、とぐろざわ説など諸説があるようです。

それはさておき、2010年に落書き帳に登場した高知県高岡郡中土佐町大野見野老野(ところの)。
[76944] ほいほい さん
高知県中土佐町と四万十町の境界線が間違っていたそうです。
結局間違いを正式な境界線としたそうです。

元になった読売記事はリンク切れです。しかし [76945] グリグリさんのレスや 読売記事の引用文、東京新聞を引用したページ、議会の記録や国土地理院の面積調などの資料も併読参照することにより、「境界変更」という視点から情報を集め、フォローしてみました。

主な結果を列挙します。
「間違って地図に引かれていた境界」は百年間も放置されていたらしい。
平成になってからの地籍調査により、4世帯7人の住所が四万十町に属する土地にあることが分かった。
中土佐町の当局は、住民に対して四万十町への登録換えを指導し 住民も一度はこれに応じた(2008年)。
しかし 中土佐町に復帰したいとの要望が出て、両町が境界変更を議決。高知県議会での議決は2010/12/22。

地域社会を構成する住民による要望の結果として、「間違って地図に引かれていた境界」が 今度は「正式な境界として」認められるに至った。これは、珍しい事例であったと思います。

議会開催の2010年12月初めには、マスコミだけでなく落書き帳でも盛り上がり。[76944][76979]
[76948] こういうニュースを見ると場所を特定したくなるのは、ここに出入りしているみなさん共通の習性のようですね(笑)
[76979] [76954]ぺとぺとさんで、極めつけの証拠がでてきましたか。こういう成り行きは堪らないですねぇ。

最後に国土地理院・平成23年面積調 の出番です。
p.103の異動事項を見ると、H23/3/18に「境界修正」、H23/5/18に「境界変更」と2つの処分がなされています。
用語を説明した記事にも記したように、その規模はさまざまながら、「境界変更」は すべて総務省告示の対象になっています。
これに対して 「境界修正」の方は「中身を変えた」というよりも、「正しい表現に改めた」という性格で、告示の対象外です。

今回の事例において、地図上の境界線が真の境界とずれていたのを 正すだけならば、基本的には「境界修正」だけで十分なはずでした。
しかし、中土佐町だと思っていたのに 実は四万十町だった言われた4世帯の要望により、その家が存在する地域を四万十町の領域から中土佐町の領域へと「戻す」手続きとなると、地方議会の議決や総務省の告示を必要とする「境界変更」によらなければなりません。

面積調p.102では H23面積をH22面積と比較しており、その結果(面積単位km2)は次の通りです。
中土佐町は 境界変更(1)により+0.02, 境界修正(2)により-0.05 差引-0.03
四万十町は 境界変更(1)により-0.02, 境界修正(2)により+0.05 差引+0.03

北側で県道に面した家屋を中心としたGoogle Map と縮尺を合わせた 地理院地図 を示しておきます。
中心十字は 現在の境界線の僅かに左の 中土佐町域にあります。境界変更前の境界線は一つ西の谷線付近を南下し、その右は四万十町域でした。この付近の県道北側0.02km2が境界変更区域になります。
では、境界修正区域0.05km2はどこか? 残念ながら わかりませんでした。

2015年国勢調査結果。人口異動7人を伴った境界変更の記録は、中土佐町→四万十町→中土佐町となるのか?
それとも一時期だけでも四万十町になったことは無視されるのか?
[90433] 2016年 4月 24日(日)14:04:57【2】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (10.1)訂正:花巻市、気仙沼市、由利本荘市の地域自治区
[90173] 東北6県の地域自治組織 の中に誤りがあったので表を一部追加・訂正します。

1 花巻市 3つの地域自治区がすべて脱落していました。
2 気仙沼市 本吉町の合併日に誤記がありました。
3 由利本荘市 8つの地域自治区は、すべて廃止されていました。

これに基づいて、[90173] の表の内 関係する行を次のように追加・訂正します。

修正コード市町村種別名称現状合併日設置期限変更・満了記事
追加03205花巻市【Cj】花巻市大迫Cj存続2006/1/1無期限
追加【Cj】花巻市石鳥谷Cj存続
追加【Cj】花巻市東和Cj存続
訂正04205気仙沼市【Tcj】本吉町消滅2009/9/12016/3/31満了
訂正05210由利本荘市【Cj】注4(8区)消滅2005/3/222013/6/30廃止

3 の説明:
由利本荘市サイト内の 地域の声を行政に反映させる地域自治区・地域協議会 というページに 次の追記があることを発見しました。
☆由利本荘市地域自治区・地域協議会は、平成25年6月30日をもって廃止となりました。

総務省の一覧表(5/7コマ)からも除かれていたのですが見落としており、こちらから気付くこともありませんでした。

ともかくも、由利本荘市の8地域自治区は2013年6月末で廃止され、同年8月からは 新組織「まちづくり協議会」が発足しているようです。
制度を改めるに至った経過を知りたいと、同市のサイト、例規集、議会、合併協議会などを ざっと調べてみましたが、よくわかりません。
合併協議事項のNo.24からも合併時までに検討するということだけで、協議書も未発見です。
[90388] 2016年 4月 21日(木)15:57:36【1】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (17)九州地方
平成合併を機に設けられた地域自治組織制度。発足から10年以上を経過して「設置期間」が満了して 消滅したり延長したりする事例 が多く見受けられるようになったことから、このシリーズで全国の現状確認を始めました。

北海道から始めた地域別の現状確認。前回[90362] 山陰と山陽の後を見渡すと 四国と沖縄には該当地域がなく、残るは九州のみです。

九州の地方自治区について特筆すべきはことは、宮崎県がこの制度の利用に積極的であり、平成合併に関与した6市1町のすべてが地域自治区を設けたことです。

大部分の市町に設けられた地域自治区は 合併特例によるもの【Tcj】でしたが、宮崎市だけは違いました。
すなわち 2006年に3町を編入して 合併特例区【Gt】を設けた機会に、旧市域にも15の一般制度地域自治区【Cj】を設けました。その後も2010年の清武町編入→【Gt】を始め、【Cj】の分割、【Gt】→【Cj】という変遷を経て、宮崎市内には【上越市の28に次ぐ】22もの地域自治区が現存しており、その配置は 宮崎市サイト内の図に示されています。

集計すると九州全体で4県12市町57区に及ぶ大きな表になりますが、一気に片付けてしまいましょう。

その前に3種の制度を「設置期間」の観点から記しておきます。
1.一般制度としての地域自治区【Cj】 大部分は条例に設置期間を定めがない。無期限と表示。
2.地域自治区の合併特例【Tcj】 協議書で期間を定めるのが原則。10年が多いが延長事例もある。
3.合併特例区【Gt】 すべて設置期間5年を経過している。【Cj】に移行したものもある。

今回の九州では、地域自治区設置条例の本則で設置期間を定めている事例を初めて見ました。
玉名市地域自治区の設置等に関する条例
第3条 地域自治区の設置期間は、合併の日から平成28年3月31日までとする。
新設合併における地域自治区の設置手続としては、合併前市町村による協定項目に盛り込むのが一般的なようですが、この事例は合併後の条例により設置したケースです。

コード市町村種別名称現状合併日/設置日設置期限変更・満了記事
42207 平戸市合併 2005/10/1
【Tcj】注1(3区)存続設置 2005/10/12021/3/31延長[90057]
*43201熊本市合併 2008/10/6
【Gt】富合町Gt消滅設置 2008/10/62013/10/5満了
合併 2010/3/23
【Gt】城南町Gt消滅設置 2010/3/232015/3/22
【Gt】植木町Gt消滅
43206玉名市 合併 2005/10/3本文参照
【Cj】注2(4区)消滅設置 2005/10/32016/3/31満了
45201宮崎市合併 2006/1/1本文参照
【Cj】注3(15→18区)存続設置 2006/1/1無期限
【Gt】注4.1(3 Gt区)移行設置 2006/1/12010/12/31【Cj】に移行
【Cj】注4.2(3 Cj区)存続移行 2011/1/1無期限
合併 2010/3/23
【Gt】清武町移行設置 2010/3/232015/3/22【Cj】に移行
【Cj】清武Cj存続移行 2015/3/23無期限
45202都城市合併 2006/1/1
【Tcj】注5(4区)消滅設置 2006/1/12011/12/316年で満了
45203延岡市合併 2006/2/20
【Tcj】北方町消滅設置 2006/2/202016/3/31満了
【Tcj】北浦町消滅
延岡市合併 2007/3/31
【Tcj】北川町消滅設置 2007/3/312016/3/319年で満了
45204日南市合併 2009/3/30
【Tcj】北郷町存続設置 2009/3/302019/3/29
【Tcj】南郷町存続
45205小林市合併 2006/3/20
【Tcj】須木消滅設置 2006/3/202016/3/19満了
小林市 合併 2010/3/23
【Tcj】野尻町消滅設置 2010/3/232016/3/316年で満了
45206日向市合併2006/2/25
【Tcj】東郷町消滅設置 2006/2/252012/2/246年で満了
45431東臼杵郡美郷町合併 2006/1/1
【Tcj】注6(3区)消滅設置 2006/1/12014/3/31延長後満了 注9
46203 鹿屋市合併 2006/1/1
【Tcj】注7(3区)消滅設置 2006/1/12009/12/31満了 4年[35365]
46222奄美市合併 2006/3/20
【Tcj】注8(3区)存続設置 2006/3/202021/3/31延長[90057]

注1 平戸市の3地域自治区名称:生月町、田平町、大島村
注2 玉名市の4自治区名称:玉名自治区、岱明自治区、横島自治区、天水自治区
注3 宮崎市旧市域の15→18地域自治区名称:中央東Cj, 中央西Cj, 小戸Cj, 大宮Cj, 東大宮Cj【H21分離】, 大淀Cj, 大塚Cj, 檍(あおき)Cj, 大塚台・生目台Cj【H23分離】, 小松台Cj, 赤江Cj, 本郷Cj【H28分離】, 木花Cj, 青島Cj, 住吉Cj, 生目Cj, 北Cj
注4.1 宮崎市に 2006/1/1編入した3合併特例区の名称:佐土原町, 田野町, 高岡町
注4.2 宮崎市で 2011/1/1から移行した3地域自治区の名称:佐土原Cj, 田野Cj, 高岡Cj
注5 都城市の4地域自治区の名称:山之口町, 高城町, 山田町, 高崎町
注6 美郷町の3地域自治区の名称:南郷区、西郷区、北郷区
注7 鹿屋市の3地域自治区の名称:輝北町、串良町、吾平町
注8 奄美市の3地域自治区の名称:名瀬、住用町、笠利町
注9 美郷町の地域自治区:設置期間は当初の4年間から8年間に延長後満了。H26年度から住所の「区」が除かれた [87196]
[90362] 2016年 4月 19日(火)15:32:01hmt さん
地域自治区 合併特例区 (16)中国地方
中国地方も 関係市町村僅かに3 と少数でしたが、注目すべきトピックがありました。

出雲市の地域自治区設置条例を見ると、地方自治法に基づく一般制度により【Cj】を設けた他の自治体と同様に、条文の本体には設置期間の定めがありません。
ところが、附則を見ると2005年度からの施行の他に、2016年度限りということが定められていました。
1 この条例は、平成17年4月1日から施行する。
4 この条例は、平成29年3月31日限り、その効力を失う。

これだけならば 無期限が普通の【Cj】の中で、最初から12年という設置期間があったように見えるのですが、よく調べたら合併9年目の平成25年度から行なった 地域自治区制度の評価と見直し作業の結果として設けられた設置期限だったことが判りました。平成26年度第4回議会 108号(3/8コマ)参照。


コード市町村種別名称現状合併日/設置日設置期限変更・満了記事
32203出雲市(本文参照)合併 2005/3/22
【Cj】注1の6区存続設置 2005/4/12017/3/31本文
合併 2011/10/1
【Cj】斐川Cj 存続設置 2011/10/12017/3/31本文
32505鹿足郡吉賀町合併 2005/10/1
【Tcj】柿木村存続設置 2005/10/12020/9/30延長 注2
*33201岡山市合併 2005/3/22
【Gt】御津Gt消滅設置 2005/3/222010/3/21
【Gt】灘崎町Gt消滅設置 2005/3/222010/3/21住所表記変更
合併 2007/1/22
【Gt】建部町Gt消滅設置 2007/1/222012/1/21町の名称
【Gt】瀬戸町Gt消滅設置 2007/1/222012/1/21

注1 合併時の自治体毎に6Cj設置:出雲Cj、平田Cj、佐田Cj、多伎Cj、湖陵Cj、大社Cj
注2 10年の設置期間が終了する為、5年間延長 H27/6 町議会

岡山市のコードは合併当時を *33201 と表示 [90178]の相模原市も *14209 に訂正、[90274]も *22202
[90339] 2016年 4月 17日(日)13:14:08【1】hmt さん
熊本県の下位区分
[90337] グリグリさん
全国の振興局相当の行政機関を俯瞰整理してみたいですね。過去にそう言う煮詰めたデータはありましたでしょうか。

2009年に「支庁を考える」シリーズ記事を書き、その最終回で北海道の14支庁から名前が変った(総合)振興局【変更は2010/4/1】の存在意義に触れています。
hmtマガジン 県の下位区分 を作っておきました。
そのシリーズでも書きましたが、長崎県では北海道よりも1年前の2009年に 3支庁+2振興局から7振興局への変更がありました。
千葉県では県全域に10支庁が設けられていましたが、2004年に5県民センターに再編されました。
その一方で、山形県のように「支庁」という名を新たに採用した県もあります。2001年に地方事務所を統合して4総合支庁設置。

「県の下位区分」に関する全国のデータは Issieさんのページ にもありますが、平成合併前の2002年に改訂されたものであり、市町村名などを含めて最新のものではありません。

今回の地震を機会に話題になった熊本県の地域振興局にしても、その設置を定めた 1998年制定の熊本県条例(H10-44)は全部改正され、2013/4/1から 4広域本部10地域振興局体制なっています。
県央広域本部:宇城地域振興局、上益城地域振興局
県北広域本部:玉名地域振興局、鹿本地域振興局、菊池地域振興局、阿蘇地域振興局
県南広域本部:八代地域振興局、芦北地域振興局、球磨地域振興局
天草広域本部:天草地域振興局

47都道府県の下位区分は、行政の都合上 折にふれて改正が行なわれており、最新の状態を維持するには それなりのウオッチング体制が必要なものと推察しますが、とりあえず熊本県についてだけ報告しておきます。

【追記】地域振興局の管轄
地域振興局管轄市町村郡域
玉名地域振興局玉名市, 荒尾市, 玉東町, 和水町, 南関町, 長州町玉名
鹿本地域振興局山鹿市鹿本【山鹿, 山本】
菊池地域振興局菊池市, 合志市, 大津町, 菊陽町菊池【菊池, 合志】
阿蘇地域振興局阿蘇市, 小国町, 南小国町, 産山村, 高森町, 南阿蘇村, 西原村阿蘇
(県央広域本部)熊本市飽託【飽田, 託麻】
宇城地域振興局宇城市, 宇土市, 美里町宇土, 下益城
上益城地域振興局御船町, 嘉島町, 益城町, 甲佐町, 山都町上益城
八代地域振興局八代市, 氷川町八代
芦北地域振興局芦北町, 津奈木町, 水俣市葦北
球磨地域振興局人吉市, 錦町, あさぎり町, 多良木町, 湯前村, 水上村, 相良村,
五木村, 山江村, 球磨村八代
天草地域振興局天草市, 上天草市, 苓北町天草

平成10年から使われた地域振興局という区分。その領域は昔からの「郡域」に近いものでした。
熊本市の大部分を占める「飽託郡」や山鹿市になった「鹿本郡」は明治29年の郡再編の際に誕生した「合成郡名」でした。
平成生まれの「宇城市」も、宇土郡+下益城郡という2つの郡名を組み合わせた呼び方に由来するものでした。
[90315] 2016年 4月 15日(金)15:23:07【2】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (15)近畿
近畿地方の地域自治区はその数も少なく、話題が豊富だった東海4県[90274] から一変した地味な様相です。【参考3】
11あった地域自治区のすべてが合併特例【Tcj】で、奈良県の4区は期間満了で消滅。滋賀県の1区は設置期間内で存続中。
兵庫県の2町6区は合併特例であるにも拘らず設置期間を定めていません。( 南相馬市の同類)
なお、三重県の紀北町も同様に合併前の協議書では無期限でしたが、協議書を廃止する条例を定めることにより、10年半で地域自治区を解消しました。下記参考2を御覧ください。

【参考】東海4県の要約、補足、及び近畿との対比
1 要約:
 岐阜県と三重県では 先月末満了した3件を含め、設置期限満了により消滅した【Tcj】が5件。
 静岡県浜松市では 複雑な動きを経て 結局地域自治区は全廃。政令指定都市の行政区になっている。
 愛知県豊田市と新城市では 昭和合併前からの旧町村の区域を引き継いだ多数の地域自治区が現存。
2 補足:紀北町の地域自治区廃止
 合併前の協議書には設置期間の定めなし。2014年に紀北町の地域自治区廃止(2015年度迄)を決めた。条例
3 東海と近畿の地域自治区対比
 関係市町村数は東海7, 近畿4。地域自治区の合計数は東海52, 近畿11と開き、その人口に至っては東海約137万人, 近畿9万人(2010)。存続中の地域自治区だけを数えても東海35(52.5万人), 近畿7(5.5万人)と大差。

コード市町村 種別地域自治区名称現状合併日/設置日設置期限変更・満了記事
25204近江八幡市合 2010/3/21
【Tcj】安土町存続設 2010/3/212020/3/31
28365多可郡多可町[90076]合 2005/11/1
【Tcj】中区存続設 2005/11/1無期限
【Tcj】加美区存続設 2005/11/1無期限
【Tcj】八千代区存続設 2005/11/1無期限
28585美方郡香美町合 2005/4/1
【Tcj】香住区存続設 2005/4/1無期限
【Tcj】村岡区存続設 2005/4/1無期限
【Tcj】小代区【注】存続設 2005/4/1無期限
29212宇陀市合 2006/1/1
【Tcj】大宇陀区消滅設 2006/1/12011/3/31満了[79452][84194]
【Tcj】菟田野区消滅設 2006/1/1
【Tcj】榛原区消滅設 2006/1/1
【Tcj】室生区消滅設 2006/1/1

【注】小代区
1955/4/1の新設合併で美方町になる前は小代村でした。50年ぶりに復活した「村名」[41848]
なお、合併した射添村(いそうそん)の区域は6年後の境界変更により村岡町(現・香美町村岡区)になりました。
[90274] 2016年 4月 12日(火)17:36:31【2】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (14)東海4県
前回迄の地域自治区一覧表は hmtマガジンに収録しました。

岐阜県、静岡県、愛知県では 地域自治区設置が 市町村合併と同日でなく、遅れてなされた事例が目立ちました。
これを考慮して、市町村の合併日と地域自治区設置日とを区別して記載することができるように、表の形式を少し変えました。

最も極端な例は2005/10/1に合併のあった新城市で、7年半後の2013年度に地域自治区が発足しました。
しかも設定された10地域自治区の大部分は、1955~56年の昭和合併以前の町村を領域としているようです。

関心のある方は、表の中の新城市という文字をクリックしたページに現れる地域自治区概念図を眺めてください。
平成合併だけでなく、昭和合併前の地域区分が根強く残っている姿が見えてきます。
赤は昭和合併により新城町(1958/11/1新城市)を作った町村です。青は同じ頃に鳳来町になりました。

歴史上有名な地名を伝えた「長篠村」は 昭和合併で消滅しましたが、鳳来中部地域自治区の字名にはその名残が見えます。
赤の新城市、青の鳳来町、緑の作手村が合体したのが 平成合併でした。
地域自治区のおかげで、[84057]以来久しぶりに この付近の地理を復習することになりました。

コード市町村 種別地域自治区の名称現状合併日/設置日設置期限変更・満了記事
21201岐阜市合2006/1/1
【Tcj】柳津町消滅設2006/1/12016/3/31満了
21202大垣市合2006/3/27
【Tcj】上石津町消滅設2006/3/272011/3/31満了
【Tcj】墨俣町消滅設2006/3/272011/3/31満了
21210恵那市合2004/10/25
【Cj】注1 旧市域8区存続設2007/4/1無期限
【Cj】注2 新市域5区存続設2005/1/25無期限
22202浜松市注3合2005/7/1[87944]
【Cj】注4 最初の12Cj消滅設2005/7/12007/3/317行政区化
22130浜松市@政令【Cj】注5消滅2007/3/314区のCj廃止
【Cj】注6 3区の12Cj消滅設2007/4/12012/3/313区の12Cj廃止
23211豊田市合2005/4/1
【Cj】注7 旧市域6区存続設2006/4/1無期限
【Cj】注8 新市域6区存続設2005/10/1無期限
23221新城市合2005/10/1
【Cj】注9 旧市域5区存続設2013/4/1無期限
【Cj】注10 新市域5区存続設2013/4/1無期限
24543北牟婁郡紀北町合2005/10/11
【Tcj】紀伊長島区消滅設2005/10/11 2016/3/31 満了[87200]
【Tcj】海山区消滅設2005/10/11 2016/3/31 満了[87200]

注1 恵那市新設時1954/4/1に合併した8町村ごと:大井Cj, 長島Cj, 東野Cj, 三郷Cj, 武並Cj, 笠置Cj, 中野方Cj, 飯地Cj
注2 2004/10/25恵那市と合併した5町村ごと:岩村Cj, 山岡Cj, 明智Cj, 串原Cj, 上矢作Cj

注3 浜松市の地域自治区制度について
注4 2005/7/1浜松市への編入合併時に、旧3市8町1村ごとに12の地域自治区設置(条例H17-40):浜松Cj, 浜北Cj, 舞阪Cj, 雄踏Cj, 細江Cj, 引佐Cj, 三ケ日Cj, 天竜Cj, 春野Cj, 佐久間Cj, 水窪Cj, 龍山Cj
注5 2007/4/1政令指定都市移行時:中区、東区、南区、浜北区の範囲では地域自治区廃止
注6 政令指定都市移行の平成19年度から5年間は 3行政区に12地域自治区が存在:浜松西Cj, 舞阪Cj, 雄踏Cj (以上西区)、浜松北Cj, 細江Cj, 引佐Cj, 三ケ日Cj(以上北区)、天竜Cj, 春野Cj, 佐久間Cj, 水窪Cj, 龍山Cj(以上天龍区)。

注7 挙母と1956~70年に編入した旧5町村、合計6地域:挙母Cj, 高橋Cj, 上郷Cj, 高岡Cj, 猿投Cj, 松平Cj
注8 2005/4/1豊田市に編入した6町村の地域ごと:藤岡Cj, 小原Cj, 足助Cj, 下山Cj, 旭Cj, 稲武Cj

注9 1955/4/15新城町新設合併時の旧5町村ごと:新城Cj, 千郷Cj, 東郷Cj, 舟着Cj, 八名Cj
注10 2005/10/1新城市と新設合併した鳳来町の4地域と作手村:鳳来中部Cj, 鳳来南部Cj, 鳳来北西部Cj, 鳳来東部Cj, 作手Cj
[90189] 2016年 4月 9日(土)13:02:43【4】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (13)甲信
[90183]北陸 に続く「甲信」つまり山梨県と長野県の地域自治区ですが、甲州市の事情が詳らかでありません。【追記参照】
毎年更新されている総務省一覧表の過年度分を調べてみると、平成23年度までは 塩山・勝沼・大和の3地域自治区(地方自治法に基づく一般制度【Cj】)が記載されていますが、平成24年度以降は記載がありません。

合併協定書の4/28コマには 地域自治組織として 地域協議会(仮称)と地域総合局(仮称)とを設け、その内容については合併時までに定めるとあります。
約半年後の合併協議会では「甲州市地域自治区設置条例(案)」が 承認されており、甲州市発足後に条例で地域自治区を設置する方向で進んでいたと理解できます。
しかし、現在の甲州市例規集を見ても それらしき条例は 見当たりません。

前記総務省一覧表からは、平成23年度までに地域自治区が廃止されたように推測されますが、その事実を裏付ける積極的な証拠は見出していません。
甲州市サイト内を検索しても、合併後に 地域自治区が存在していたことを示す痕跡は未発見です。

【追記】
[90192] _ さん から甲州市議会の会議録と広報による地域自治区廃止の情報をいただき、有難うございました。
議会広報p.6-7。この議決により3地域自治区は平成20年度から廃止されたものと判断し、下記の表を修正しました。【追記終】

松本市では、平成合併で編入した5村のうち、四賀村だけ地域自治区が設置されませんでした。
飯田市と伊那市は、平成に編入した新市域が特例自治区【Tcj】になった後、旧市域にも一般制度自治区【Cj】が設定され、更に【Tcj】設置期間後の移行により 全地区が【Cj】になるという同じパターンです。

コード市町村種別名称現状設置日設置期限変更・満了記事
19213甲州市【Cj】塩山Cj消滅2005/11/12008年度から廃止
19213甲州市【Cj】勝沼Cj消滅
19213甲州市【Cj】大和Cj消滅
20202松本市【Tcj】奈川消滅2005/4/12015/3/31満了
20202松本市【Tcj】安曇消滅2005/4/12015/3/31満了
20202松本市【Tcj】梓川消滅2005/4/12015/3/31満了
20202松本市【Tcj】波田消滅2010/3/312015/3/31満了
20205飯田市【Tcj】上村移行2005/10/12011/3/31【Cj】に移行
20205飯田市【Cj】上村存続2011/4/1無期限おまけ注4
20205飯田市【Tcj】南信濃移行2005/10/12011/3/31【Cj】に移行
20205飯田市【Cj】南信濃存続2011/4/1無期限おまけ注4
20205飯田市【Cj】注1の18区存続2007/4/1無期限
20209伊那市【Tcj】高遠町移行2006/3/312016/3/31【Cj】に移行 注3
20209伊那市【Cj】高遠町存続2016/4/1無期限
20209伊那市【Tcj】長谷移行2006/3/312016/3/31【Cj】に移行 注3
20209伊那市【Cj】長谷存続2016/4/1無期限
20209伊那市【Cj】注2の7区存続2006/10/1無期限

注1 飯田市18区:橋北Cj, 橋南Cj, 羽場Cj, 丸山Cj, 東野Cj, 座光寺Cj, 松尾Cj, 下久堅Cj, 上久堅Cj, 千代Cj, 龍江Cj, 竜丘Cj, 川路Cj, 三穂Cj, 山本Cj, 伊賀良Cj, 鼎Cj, 上郷Cj 条例

注2 伊那市の7区:伊那Cj, 富県Cj, 美篶【みすず】Cj, 手良Cj, 東春近Cj, 西箕輪Cj, 西春近Cj  条例

注3 平成27年12月伊那市議会で伊那市地域自治区条例が改正され、設置期間が満了する高遠町と長谷も【Cj】に移行することが決りました。議案書 31/60コマ。
参考:伊那市長あいさつ   平成28年度から全地区が同種の地域自治区となる
例規集【市民生活>地域振興】に収録されている伊那市地域自治区条例は未対応。

注4 地域自治区とは無関係ですが、2005年に飯田市に編入された上村と南信濃村とは「遠山郷」と呼ばれた秘境なので、この機会に過去記事[8967]を紹介しておきます。上村の下栗集落は「天と地の境界」と言われる高所集落だそうです。[39557][39656]
[90183] 2016年 4月 8日(金)15:10:01hmt さん
地域自治区 合併特例区 (12)北陸4県
[90178]関東に続いて 北陸4県の地域自治区です。

地域自治区の具体的な紹介としては初期の記事である上越市の事例[33723]では、2005年に合併した13町村が合併特例地域自治区【Tcj】13区として発足しました。協議書に記された設置期間は5年間でした。
柿崎など13の旧町村名は 「地域自治区名」として上越市の住所表示に残ることになりましたが、このままでは設置期限内という制約を受けることになり、不安定な立場に置かれています。
そこで、先手を打って2008年度から一般制度の地域自治区【Cj】へと、種別を変更することにしました。協議事項を変更する条例H17-39
これにより、柿崎区など旧町村名を使った区名は 期限に制約されることなく住所表示に残ることになりました。

更に1年半後の2009年10月からは、旧上越市の区域【遡れば高田市と直江津市】にも 新たに15の地域自治区(一般制度)【Cj】が設置されました。上越市地域自治区設置条例H20-1。高田区・直江津区など15の地域自治区名は住居表示に使われません。
同一市内・同一種別の地域自治区でありながら、新市域13区と旧市域15区とでは住所に関する扱いが異なり、 「区」コレクションでも 後者は対象外になっています。

上越市の地域自治区(13+15)は無期限で存続していますが、北陸のその他3市の地域自治区はすべて合併特例【Tcj】であり、2014年度末から2015年度末にかけて存続期間が満了しています。

コード市町村種別名称現状設置日設置期限変更・満了記事
15205柏崎市【Tcj】高柳町消滅2005/5/12015/3/31住所表記は変りません
15205柏崎市【Tcj】西山町消滅2005/5/12015/3/31
15222上越市【Tcj】注1 新市域13区移行2005/1/12008/3/31【Cj】に移行
15222上越市【Cj】存続2008/4/1無期限[33723][87358]
15222上越市【Cj】注2 旧市域15区存続2009/10/1無期限 [75709][87358] 注3
17206加賀市【Tcj】山中温泉消滅2005/10/12015/9/30満了
18210坂井市【Tcj】三国町消滅2006/3/202016/3/31満了
18210坂井市【Tcj】丸岡町消滅2006/3/202016/3/31満了
18210坂井市【Tcj】春江町消滅2006/3/202016/3/31満了
18210坂井市【Tcj】坂井町消滅2006/3/202016/3/31満了

注1 上越市の新市域13区:【東頸城郡域の】安塚区、浦川原区、大島区、牧区、【中頸城郡域の】柿崎区、大潟区、頸城区、吉川区、中郷区、板倉区、清里区、三和区、【西頸城郡域の】名立区
注2 上越市の旧市域15区:【すべて中頸城郡域の】高田区、新道区、金谷区、春日区、諏訪区、津有区、三郷区、和田区、高士区、直江津区、有田区、八千浦区、保倉区、北諏訪区、桑取・谷浜区
注3 合併前上越市の地域自治区 メリット制度案(区域図あり)


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