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[97438] 2019年 1月 11日(金)18:30:37【1】hmt さん
海と島 (2.1)瀬戸内海の (10)番目の海域
hmtマガジン 海と島に新しい記事を追加した機会に見直したところ、瀬戸内海の海域を挙げた[82879]に、誤解に基づく記載を発見しました。
古い記事なので訂正はできませんが、下記の部分を削除し、補足記事を加えて修正したいと思います。

[82879]記載のうち、誤解しており削除する部分
付属した図も(1)~(9)の9海域になっているのですが、“10区分”と書いてある理由は?
実は(後略)の部分に“広島湾は安芸灘の一部で…”という文があります。
(1)~(9)の9海域に広島湾【安芸灘の西部】も加えて、10区分としているのかもしれません。

海保の付属図が(1)~(9)の9海域になっていたのが誤解の原因でしたが、領海法施行令と対照させてみたら、(1)~(9)の9海域は、南東の境界【紀伊水道の南】と南西の境界【豊予海峡】とを反映していますが、この他に関門海峡の西側に「北西の境界」が存在しました。
北西の境界:竹ノ子島台場鼻(ダイバハナ)から若松洞海(ドウカイ)湾口防波堤灯台まで引いた線となっています。(付図参照)

なるほど、
領海法では 彦島付近の台場鼻と若松の洞海湾口を結ぶ線の内側は、瀬戸内海の一部として扱われていたのでした。

前記削除部分に変えるべき、新しい記述です。
付属した図は(1)~(9)の9海域になっていますが、 (10)番目の海域は、台場鼻と洞海湾口とを結ぶ線を北西の境界とする「関門港西部」です。

瀬戸内海というと、自然地理的には 関門海峡を西端とする。これが私の常識でした。
しかし、領海法という法律で定めた瀬戸内海は、自然地理の考えとは違っていたのでした。
海保の付図には台場鼻と洞海湾口が示されていましたが、スペースの都合で、 (10)番目の海域範囲は図示されていません。
[97420] 2019年 1月 9日(水)22:45:54【1】hmt さん
海と島(32)馬毛島買収問題決着へ
馬毛島は種子島の西隣12kmの東シナ海にある島ですが、落書き帳では「大きな無人島」として登場していました。

2016年 [91213]の記載
馬毛島 面積 8.17km2 鹿児島県西之表市 島を手に入れた企業が有人島化 その狙いは? 

疑問符付きで記してありますが、その答えはリンクしたページに記されていました。
島を国有化して米軍空母艦載機の陸上離着陸訓練(FOLP)に用いる計画関連。2008年から内々の打診が進行。
しかし、防衛省が提示した評価額は、高値での売却を狙う所有者の希望金額と一桁異なり、物別れの状態でした。

そこで所有者が利用したのが、地権者の言い値で国有化したという尖閣諸島と、中国企業の動きでした。
2012年になると、「中国の企業が何社か接触してきている。日本の対応次第では売ってもいい」という地権者発言。

日米両国政府による在日米軍再編合意(2006)をふまえ、厚木の艦載機部隊は2018年迄に岩国に移動しました。
日本側としても、近くなった馬毛島の整備は、待ったなしの状態に追い込まれた形です。

今朝の読売新聞は、「米軍機訓練 馬毛島を買収/安保重視 官邸主導」という見出しで決着を報じていました。

問題になっていた対価については、島としての単純な資産価値の45億円から滑走路用地や関連施設を加味した100億円に増加され、更に地権者の希望で60億円上積みした 160億円で仮契約に漕ぎ着けたと伝えられます。


【2019/1/10 追記】馬毛島の人口 産業利用の概要

渡島大島に次ぐ「日本で2番目に広い無人島」であった馬毛島。所有者の企業による土地に付加価値を付けるための工事で有人島化[91213]したが、最近の調査では 無人島に戻っているようです。日本の島へ行こうによる国勢調査人口。
0人(H27)・11人(H22)・15人(H17)・0人(H12)・0人(H7) 国勢調査

それ以前の産業利用の概略。種子島第一の西之表港の対岸にあり、種子島家が漁業基地として利用。
蛇足:種子島と言う地名からは 16世紀大航海時代「鉄砲伝来」の門倉岬や 種子島宇宙センターを連想します。
しかし、それらの地は 島の南端近い南種子町で、馬毛島からはずっと離れています。

馬毛島は、明治期の牧畜業を経て、戦時中は一時無人島にもなりました。
戦後の 1951年から馬毛島入植が再開され、1959年には 113世帯、528人を記録して小中学校も開校。
しかしその後は 旱魃・風害・食害などによる農業不振と製糖工場閉鎖で 1980年に全島民離島。無人島に。

その後は実質的な利用のないまま、土地投機の対象として翻弄される運命をたどりました。
[97343] 2019年 1月 5日(土)19:40:23hmt さん
嫦娥(じょうが)4号 と 鵲橋(じゃっきょう)
[97342]で平成31年暦要項を眺めて気がついたこと。
東京の日出入 1月11日 日出6時51分 10日間隔のデータだが、最も遅い日出は今頃
朔(新月)1月6日10時28分 地球/月/太陽 が一直線上に並ぶのが朔  旧暦12月1日
部分日食 1月6日 東京の最大食は 10時6分 日食も地球/月/太陽 が一直線上に並ぶ時

それはさておき、中国の無人探査機が、世界で初めて 2019/1/3に「月の裏側」南極付近に着陸したとのこと。朝日

タイトルは探査機の名。嫦娥は中国神話に登場する人物。Wikipediaを見ると、もとは仙女。夫から不死の薬を盗んで月宮殿に逃げた。供え物をする月見の由来とも関係。道教では嫦娥を月神とし、中秋節に祀る。
日本での竹取物語や三保松原の天女と似たところもあるようだが、蟇蛙になったというから、イメージが違う?

月の裏側は、アボロ計画での周回で写真が撮られているが、軟着陸は初めて。
月の裏側は 地球との直接交信ができず、クレーターも多く、裏側への着陸は野心的な挑戦とか。
地球との交信を中継するのは「鵲橋(じゃっきょうQueqiao)という衛星。
かささぎの橋:男女が良縁で結ばれる橋。七夕の日に織姫と彦星が出会うために天の川にできるという橋。

技術的困難があるが、中国は将来の資源開発などを視野に置き、優位に立つつもりらしい。
最終目標は月面基地の建設など、やや詳しい情報が英国の WIREDに紹介されている。
[97342] 2019年 1月 5日(土)17:57:37hmt さん
2019年の暦
十番勝負の最中に異質の書き込みで失礼します。

2019年の新年。最初に確認しておきたいと思ったものは、やはり「暦」です。
本年限りの特徴は、5月1日が新しい天皇の即位日ということで 今年限りの祝日になったことです。

しかし、これにより 昭和の日(4/29)と憲法記念日(5/3)との間の 「架橋 pont 休日」【ポン休】も発生し、2019/4/27(土曜日)から 2019/5/6(こどもの日の振替休日の月曜日)までの間の「10連休」が実現します。
【もちろん、この期間にも働いて、社会を支えている人たちが大勢います。】

即位の日付により、政府が 10連休の方針を決めた というニュースが流れたのは 2018年6月末頃だったようです。
しかし正式手続、つまり 2019/5/1(即位の日)と 2019/10/22(即位を国内外に正式に示す戴冠式の日)とを祝日扱いとする 特別法(平成30年法律第99号)の公布は 、2018/12/14でした。

そこで、平成30年2月1日 官報に掲載された 国立天文台 平成31年暦要項 で「国民の祝日」を確認してみました。
ご覧のように、上記特別法に基づく事項が 枠外4行に亘り【最近】追加記載されています。

Web暦要項は、平成30年2月1日という日付のまま、年末の特別法による修正を加えたpdf文書に改められていました。
官報の訂正は簡単でしょうが、市中に出回っているカレンダーは、簡単に訂正することができません。
手元の 12枚もの の5月1日には 赤い小文字で「即位の日」が入れてありましたが、大きな「1」の文字は黒字のままです。平成30年法律第99号の公布前には、赤文字で印刷するわけにゆかなかったのでしょう。
【シートの4月末に、"暦の内容は2018年4月3日の情報に基づくものです。" という注記が入れてありました。】
1枚ものや手帳には 「即位の日」という注記すらありませんでした。
【祝日は何れも2018年7月現在】【手帳末尾の翌年予定表に2020/2/23 天皇誕生日、24振替休日】

2019/5/1以降に使われる元号については、4/1に発表するというニュースだけです。
新元号の早期公表に反対していたのは「保守派」だそうです。記事
しかし、これは かえって国民をして「元号の使用から遠避ける」結果をもたらすだけではないでしょうか。

2019年の暦。暦屋さんの苦心の跡を偲びながらも、休日について 改めて要注意 を感じた次第でした。
[97168] 2018年 12月 28日(金)17:02:58【1】hmt さん
岩国空港国道
[97165] じゃごたろさん
昭和二十八年に(中略)これらの「重要な飛行場」や「国際観光上重要な地」が二級国道の起点して指定されています。
羽田飛行場・・・国道131号
岩国飛行場・・・国道189号

二級国道の起点として指定された重要な飛行場。岩国飛行場が 羽田と共に挙げられていたことに驚きました。

昭和28年(1953)という時代:1951年にサンフランシスコで調印された平和条約が 1952/4/28に発効し、Occupied Japanからの 独立を回復した翌年です。

時刻表 昭和27年12月号[74163]によると、当時の民間航空路は すべて外国航空で、日本から世界各地への国際線を合計しても週39便でした。
これを根拠に、1945年の敗戦から 日本航空による国際線再開(1954年)までの間、日本に飛来する民間航空国際線飛行機の発着地は「すべて羽田」と思っていました。

岩国の錦帯橋の下を流れる錦川が流れくだった河口部。三角州に海軍飛行場が建設されたのは、戦前の 1938年。
1945年の敗戦後 連合軍に接収され、1952年の占領終結後は 米軍基地→自衛隊との共用基地を経て、6年前の 2012/12/13に 民間機の定期便が就航。2013年5月には 早速利用する機会がありました。

この程度の認識でしたが、どうも戦後間もない頃の状況について認識不足があったようなので、改めて調査しました。

岩国錦帯橋空港の沿革には、民間空港の実績として、昭和26年(1951)に国際飛行場として指定され、1952年日本航空の国内航空幹線の中継寄港と記されていました。

国際線の具体的な記載はないものの、「昭和27年5月 羽田とともにわが国で2か所の国際空港」とあり、これが国道の起点になる「決め手」だったのでした。

しかし、旧広島空港【広島市西区】の供用開始(1961)後は 岩国便が衰退。
1964/12の変更で岩国への民間機定期便の就航はなくなり、48年間の空白期になっていました。

推測ですが、特に記載すべき国際空港としての実績はなく、「建前上の国際空港」に基づく国道189号か?

国道189号の終点は 麻里布の国道2号合流点ですが、大部分は柳井経由の国道188号との共用区間です。
単独区間は 0.36kmに過ぎず、神戸港の国道174号に次ぐ短距離国道とのこと。

蛇足:2013年岩国空港利用時のバス経路。民間便用入口が変更されており、国道189号は通過せず。
[97156] 2018年 12月 23日(日)18:24:02hmt さん
浜松市浜北区
[97154] 稲生さん
8年ぶりに投稿という稲生さんを歓迎して、一筆記します。
2007年の発足時から7区体制の浜松市が、新3区案を提示。
そして、2019年4月の統一地方選挙の際に住民投票実施とのこと。
政令指定都市としては人口の少ない 浜松市にとって、区役所削減による経費節減は 理解できる施策と思います。
区役所の削減により、住民の利便はある程度損なわれるかもしれませんが、止むを得ないようにも思われます。

私は幸いにも浜北区在住ですので、単独区は温存され、…

部外者なので、ブログに記された事情などには疎いのですが、C案にならず、F案が有力になったことに安堵する気持ちは、理解できるような気がします。

…ということで、これまで殆ど知ることのなかった「浜北区」について、調べた初歩的なことを記します。

浜北区の沿革(Wikipedia)によると、1889年の町村制では7ヶ村。現在の地図で浜北区の中心地と目される区役所付近は、長上郡小野田村・平貴村あたりと思われますが、1896年には浜名郡に編入されました。
その後、小野田村と平貴村(平口+貴布祢)は小野口村と北浜村に組み換えられ、1926年には日清紡績の工場が貴布祢に進出しました。
戦後の1951年には 小野口村が浜名町になり、昭和合併の1956年には 浜名町、北浜村を含む1町4村で「浜北町」になる。
「合併時点での人口52,561人は、町の人口として当時日本最大」と記されています。

浜北区南西部の現在の地図を見ると、小松・内野・平口・貴布祢などの大字地名を発見することができます。
明治時代にできた合成村名に使われた 1889年以前の旧村名ですね。

話 変わって
2010年頃にフェードアウトしてから、8年も経ってしまいました。

前回の記事の日付は 2010/6/17。「hmtマガジン」発足のご挨拶 2010/6/20 の直前でした。
[25159][58458][65372]など、稲生さんの記事も収録されています。訪問をお待ちしています
[97097] 2018年 12月 10日(月)12:24:42hmt さん
平塚市須賀
[97093] ぺとぺとさん
左岸の基本単位区が右岸に組み込まれているとしか思えないのですが、そうだとすると右岸と左岸では町名(大字名)が異なっており(右岸は千石河岸、左岸は須賀)、釈然としません。

平塚の「須賀」と言えば、相模川河口(馬入川)右岸の港町[77631]と心得ていたので、「左岸は須賀」に驚きました。

地図を確認すると、確かに左岸にも須賀がありますが、右岸にもあります。ひらつかタマ三郎漁港を中心とする地域で、河岸沿いに河口まで続いています。

湘南大橋の南側は、人家が「連担」した状態とは見えませんが、左右両岸共に「(大字)須賀」です。
歴史ある漁港地域から連続した大字須賀は相模川の両岸に広がっており、これが「人口密集地域」として扱われているものと思われます。
河口の南、相模湾に突き出た平塚漁港(新港)は DID区域外になっています。

# もともと DIDでいう人口「密集」の対象は地域です。建築用語である「連担」の対象物は人家(建築物)です。
「地域の連続」と「建築物の連担」。両者のモノサシは、本質的に違うのではないか?

千石河岸と大字須賀との関係【住居表示と地籍について】
相模川河口の両側が「大字須賀」だったので、「右岸は千石河岸」問題はなくなったのですが、「千石河岸」は 1965年に実施された住居表示に基づき、「大字須賀」の一部を対象に設置された町名【一部は1981年編入】です。
日常使われる住居表示町名とは別に、札場町など付近の町を含めて、地籍としての「大字須賀」は残っているのではないかと思われますが、この点は未調査。

DID設定範囲に関して、住居表示町名と地籍の大字町丁名とは、どのように考慮されるのか?
[97081] 2018年 12月 7日(金)19:58:11hmt さん
「虎ノ門ヒルズ」駅
[97077] ぺとぺとさん
そういえば、東京メトロ日比谷線の新駅の名称もカタカナつきの「虎ノ門ヒルズ」になったみたいですね。

2020年東京オリンピックまでに供用開始。関連事業の最終完成は2022年度。UR都市機構と東京メトロ

現在の森タワー(2014年開業)北隣にビジネスタワー、南隣にレジデンシャルタワー、そして桜田通り西側にステーションタワーができます。
配置図が示すように、銀座線の通る外堀通りから、南側の「新虎通り」【環状二号線】への移動。

hmtがこの地帯を訪れる機会も遠退きましたが、思い起こせば、通勤先が「芝の金毘羅さま」[73150]の隣のビルだったのは 20年以上前のことでした。

それはさておき、森ビル御用達の「ヒルズ」も出世して、駅名になります。

Akasaka Roppongi Knot から名付けた ARKヒルズ(開業は1986年)に始まり、2003年の六本木ヒルズを経て 、虎ノ門ヒルズ(2014)が開業。その頃に、環状二号線の記事[85227]を書きました。

本家のビバリーヒルズは、丘が連なった住宅地でしょうが、東京の「ヒルズ」は地形とは無関係。

例えば、六本木ヒルズになった港区六本木6丁目の旧名称は麻布日ケ窪町。
江戸時代には長府藩邸があった場所で、日露戦争で有名な乃木希典はこの地で誕生とか。
でも「日ケ窪」という名では、高級マンションは売りにくいのでしょうね。
人工的な高層ビルの町が「ヒルズ」という名になるのも止むを得ないか。

蛇足
[85227]には、虎ノ門ヒルズは「高さは247メートルと都内2位の超高層複合ビル」と記しました。
港区のミッドタウン・タワーより 1m低いのは、実はヘリポートの高さ。普通に使われる最高所の値を使うと 255.5mで都内1位になるのだが それを避けています。なぜ?
謎解き:公共事業の計画変更に必要な審議会の承認を回避するため(開業日2014/6/11の朝日新聞)。
[97079] 2018年 12月 7日(金)14:49:32hmt さん
大田区の最高点
[97065] EMM さん
大田区の最高点は改めて探す必要があります。
ただ、大田区の高い所ってビミョーなでこぼこがある大地の上なので、真の最高点を見つけるのはなかなか難しそうです。

大田区内町丁目別標高一覧によると、田園調布五丁目の最高標高 43.7m が最高のようです。
地理院地図上での位置:私には特定できませんでした。
[97051] 2018年 12月 2日(日)18:19:24hmt さん
柳瀬川から飯能まで連続するDID(2)
前報[97050]で示した連続DID【川越地区】の来歴を記します。
YTさんが昔まとめて投稿した連続DID情報[97027]により、DIDの履歴の大筋が判明したので、登場順に列挙します。

1960年 DID初年に設定されたのは川越市だけで、DID人口全国順位は98位の48,403人、面積は 4.6km2と、今とは比較にならない小規模でした。
1970年になると、川越市DIDは 連続した福岡町と大井町(鶴ヶ岡)に拡大し、42位 142,075人/15.6km2

1975年になると、川越地区の連続DIDは、人口194,318人で全国 30位、面積21.5km2
そして西武鉄道沿線に、狭山市I・入間市・所沢市II(狭山ヶ丘)という名の3つのDIDが連続状態で登場します。
これを【西武地区】と仮称しておきます。全国66位 109,045人、面積 21.6km2
同じ1975年、東上線沿いにも 富士見市Iと三芳町(藤久保)の連続が登場。
【富士見地区】は 104位 61,455人 面積 5.6km2

2つのギャップ:ふじみ野と新狭山【いずれも駅名に基づく仮称】による分断状態ですが、現在の連続DIDの原型である3地区は 1975年に形成されたようです。

1980年 新狭山の工業地域がDIDに組み込まれ、川越地区の連続DID人口は全国 12位 441,360人に躍進しました。1975年の川越地区・西武地区合計に対する増加率 45%。面積 61.3km2の増加率は 42%。
富士見地区は全国91位 4,360人 面積 7.2km2

その後、川越地区DIDには 1985年に飯能市、1990年に鶴ヶ島町II【鶴ヶ丘】のDIDとも連続状態になり、2000年のデータは 川越地区が 全国11位の 人口703,759人 面積89.23km2になりました。
富士見地区は 全国78位の人口 118,402人で、面積 10.01km2

このデータを前報で示した2015年のデータと比較すると、ふじみ野付近の市街地化などで少し増加したのは当然ですが、ふじみ野IIの人口は DID指定から10年以内に ほぼ飽和状態に近づいているように思われます。
年別DID連続地区市町人口面積-全国順位
2000年【富士見地区】1市2町11840210.0178
2000年【川越地区】7市1町7037599.2311
2000年【合計】8市2町82216199.24-
2015年【川越地区】8市1町856050103.96?

[97027]を見ると、2000年のギャップ【DID途切れ】状況が次のように記されていました。
志木市(京浜地区)~富士見市I(富士見地区) 約50 m (接するのは時間の問題?)
大井町I(川越地区)~大井町II(富士見地区) 約30 m (接するのは時間の問題?)

前者【柳瀬川ギャップ】は[97046]のリンク地図で示されるように現存していますが、後者は消滅しています。
後者の「約30 m」というギャップ。その位置は当時のDID地図がないので不明ですが、ふじみ野市誕生と同日の 2005/10/1国勢調査において 旧上福岡市と旧大井町にあった3つのDIDも合体し、一つになったものと推察します。
いずれにせよ、現在のふじみ野の市街地が形成される前に存在していた原野状態(耕作放棄地?)に因むギャップという意味で、ふじみ野ギャップと仮称しておきます。

この2005年国勢調査に際して、ふじみ野駅所在地を含む勝瀬原の区画整理地域にも DID 富士見市II が設定され、それに伴って新河岸川沿いにある水谷東のDID【志木市DIDに隣接】は 富士見市IIIと番号が改められました。

脱線ですが、水谷東は、1961年頃からの高度成長期に志木方面から開発された住宅地です。何度も水害を受けていますが、元々新河岸川沿いの遊水地であったとのこと。
住所は富士見市ですが、浦所道路の東にあり、DIDは以前から【京浜地区】の一部になっていました。
[97050] 2018年 12月 2日(日)17:15:32【1】hmt さん
柳瀬川から飯能まで連続するDID(1)
[97046] YT さん
2015年現在も、柳瀬川を境とするDIDの途切れは健在で、富士見市~ふじみ野市~川越市~狭山市~入間市~飯能市と続く、DID上の隠れ大都市川越は今なお健在

巨大な赤地により DID地図の中で存在感を示す京浜地区から、道路・鉄道沿い四方八方に伸びる触手。
東京の北西に伸びる赤い触手には、御指摘のように 現在も柳瀬川の DIDギャップがあります。

大正9年の国勢調査からずっと使われている「市部」という言葉は、元々は「市街地そのもの」であったのでしょうが[79563]、昭和30年代以降の市町村合併を経た現在、行政上の「市部」は、本来の意味であった「市街地」から乖離しました。

その対策として、都市的地域の特質を明らかにする統計上の地域単位として,昭和35(1960)年国勢調査から新たに設定されたのが「人口集中地区(DID;Densely Inhabited District)」です。

個別自治体や市部の連続に代えて、「DIDの連続」を指標にすれば、柳瀬川の先、飯能まで連続する赤い触手【川越地区】は、最大の「DID衛星都市」なのですね。

「DIDが富士見から飯能まで続いている」と言われても実感はないのですが、それでも 連続DID【川越地区】の住人として関心をそそられ、調べてみました。
2015年国勢調査データで該当する連続DIDを集計した結果は、8市1町に跨る 11個のDID【下記】で、合計すると 人口約 85万6千人、面積約 104km2でした。

冒頭の引用文6市【枝を含めると8市1町】に関係する 連続DID【川越地区】の 2015年版を示します。
DIDを並べる順番は、「柳瀬川ギャップ」を起点として、東上線・西武線沿いに幹を並べ、枝は1文字下げて記しました。右側3列は 来歴関係のデータ[97051]です。

DID公式名参考地名人口-面積2000年DID連続地区登場年-順位
2015年【川越地区】856050103.96
富士見市I鶴瀬・みずほ台823217.31富士見1975104
 三芳町II竹間沢73390.69富士見
 三芳町I藤久保215291.66富士見1975104
ふじみ野市上福岡1039789.33川越/富士見1970福岡町, 大井町
 富士見市IIふじみ野駅126790.76【注】
川越市28065034.53川越196098位
 鶴ヶ島市II鶴ヶ丘209782.12川越1990(11)
狭山市入間川13008622.01川越197566
入間市I豊岡11844914.77川越197566
 所沢市II狭山ヶ丘325213.02川越197566
飯能市I455207.76川越1985(12)

【注】2000年は未指定 指定後の人口:2005年5923、2010年12412なので、指定後10年でほぼ飽和?
[97038] 2018年 11月 26日(月)20:05:38hmt さん
宝塚に関する情報3題
1 初代市長

[97035] グリグリさん
なお、宝塚市の初代市長は田中九右衛門(S29.5.8就任)です。

初代宝塚市長の就任日は リンクされた水道事業資料の 3/17コマにもありますが、宝塚市>選挙の統計情報の中に、候補者別得票数や投票状況の記録がありました。
それによると、昭和29年5月8日執行の宝塚市長選挙は、立候補者4人で、65%と高い投票率。
当選者と次点者とはかなりの接戦でした。

[97002]で引用した『近代宝塚歴史紀行』(ウイルキンソン・タンサン)にも「合併問題の渦」という言葉が使われており、市長選挙が 1954/4/1の合併期日に間に合わず、宝塚市発足当初は、旧・良元村女性村長の岡田さんが「市長職務代理者」を務めたことなどが記されています。
このことから、合併そのものは成立したが、市長の選定問題は難航したことが窺えます。

なお、初代宝塚市長は4年の任期を全うすることなく、2年後に第2回の市長選挙が行われました。

2 行政地名:兵庫県武庫郡良元村宝塚町

[97013] ekinenpyouさん
武庫郡良元村大字伊孑志村の一部を分離してT4.11.10より(大字)宝塚町を設置とありました。

1954年に発足した「宝塚市」は武庫川の両岸に跨っているが、自治体名になったのは左岸の「川辺郡宝塚町」で、1951年のことでした。そのことから派生した疑問「"宝塚"が地名になったのは何時からか?」[97002]に答える調査結果をいただき、ありがとうございます。

今回、1915年まで遡った行政地名「宝塚」のルーツ。それは「宝塚旧温泉」の所在地・武庫川右岸の「武庫郡良元村宝塚町」でした。
1915年(大正4年)11月13日の官報広告欄に記された兵庫県の通知 大字区域変更 并(ならびに)大字新設
武庫郡良元村大字伊孑志(イソシ)の内 左の区域を分離し 来月十日より(大字)宝塚(タカラヅカ)を設置せり  大正4年11月  兵庫県  塚原など7字の全部と3字の一部

宝塚が加わり5大字になった大正7年市町村名鑑
「孑」というのは、珍しい字ですね。漢和辞典では「子部」に「ゲツ」という音で収録されていました。
使用例:「孔」の左側。ぼうふら「孑孑」。

3 近代的な「新」温泉と 伝統的な「旧」温泉

[97013]にリンクしていただいた「宝塚温泉物語第2章」も興味深く拝見しました。
後に炭酸泉に溶食【溶蝕】された新温泉大理石浴室[97002]の写真もありました。
向かい合う武庫川の両岸は 共栄を願いながらも、新・旧温泉で発展への競争。
1915年の「武庫郡良元村宝塚町」と 1951年の「川辺郡宝塚町」という地名争い?も、両岸の温泉が関係。
[97012] 2018年 11月 20日(火)14:47:17【1】hmt さん
女性首長
[97010] グリグリさん
女性首長一覧の更新漏れ:兵庫県良元村の岡田幾村長(1951年就任1954年廃村)[97002]

参考文献:「レジーム再編と女性首長」という論文です。その 6コマに女性町村長の経歴一覧表がありました。
しかし、岡田幾さんの年齢は記載は見当たらず。

なお、この表では 千葉県安房郡神戸村早川村長の初当選が 1947年となっていますが、これはグリグリさんの 女性首長の一覧・冒頭説明にあるように、1948年が正しいようです。[91257]参照

余談ですが、第1回統一地方選挙で当選した前任の村長は、強権発動による米の強制的供出割当がらみにより、僅か1年で失脚辞任。
食料不足時代ならではの事件でしたが、これが5人目の女性首長誕生につながったようです。[91257]の資料(1)参照

上記参考文献(選挙研究29巻 2013年)には、女性町村長だけでなく、女性知事や女性市長の一覧表もあります。
[97006] 2018年 11月 18日(日)17:35:02hmt さん
五重塔
五重塔コレクションのリリース[97001]を知り、真っ先に記憶に甦ったのが、「女人高野」と呼ばれた室生寺の五重塔でした。

大戦後間もない 1949(昭和24年)/1/26の法隆寺金堂火災をきっかけに、作家の山本有三らによる参議院議員立法による文化財保護法が、翌1950年に制定されました。毎日新聞

この法律に基づく基準により 第一次の国宝指定(1951/6/9日)を受けた 181件の中で、法隆寺金堂などの建造物は 37件ありました。

このうち、屋外にある五重塔は、コレクションに収録されているように、法隆寺・室生寺・醍醐寺の3件です。
海龍王寺五重小塔は 屋内にある建造物ですが、これも第一次指定。

「五重塔」ではないので、今回のコレクション対象外ですが、国宝の第一次として指定された「塔」を拾い出してみると、フェノロサが「凍れる音楽」と讃えた西の京の薬師寺東塔(三重塔)、法隆寺と同じく斑鳩の里にある法起寺三重塔、石山寺多宝塔と有名な塔が並びます。

・三重塔や十三重塔はどうするか?多宝塔(事実上の二重塔)は?
というコメント [96947] EMM さん もあります。対象拡張を検討していただければ有り難い と思いますが、「石造」の五重塔までを含んでいる現在の対象のまま 十三重塔に拡張すると、多くなりすぎる?

私としては、「木造」限定でよいのですが、多武峰(とうのみね)の談山神社[13109][76112]にある、世界唯一の木造十三重塔は、この種のコレクション対象としては、是非加えておきたい珍品であると思っています。

室生寺の五重塔に戻ります。
私がこの 小ぶりながら 魅力的な美しさで 人を惹きつける天女 の姿を見たのは 何十年も前ですが、台風で倒れた巨木の下敷きになって大破した というニュースを記憶しています。

その後を気にしながらも そのまま年月が過ぎましたが、今回のコレクション収録で健在を知り、調べました。
被害をもたらしたのは 平成10年(1998)台風7号。なぎ倒された巨木が小さな塔に倒れかかり、初層から五層までが損壊した無残な姿。宮大工たちも言葉を失うような惨状だったとのこと。
重さ6トンもの塔をジャッキで持ち上げ、桧皮葺の屋根の修理には、室生山のヒノキ500本の樹皮7.5トンを使用。修理の際の調査により、塔の建立年代を 800年頃とする従来の定説が裏づけられた。

室生寺の五重塔は、無事に再生できてよかったのですが、幸田露伴の名作『五重塔』のモデルになった東京・谷中・天王寺の五重塔は、1957年焼失したままで、コレクションの対象になりません。

文学作品だけに残る「谷中の五重塔」を作った大工の名は のっそり十兵衛
[97002] 2018年 11月 16日(金)18:54:02【1】hmt さん
地名ではなく、温泉名だった「宝塚」
「宝塚」を話題にした機会に、この名が「地名になった」のは意外に新しいことを記しておきます。

[96956]で紹介されたFAQの回答には、「その近くで物を拾った人には幸運が舞い込むと信じられていた古墳」があり、これが市名の由来という説が記されています。

自治体名としての「宝塚」が出現したのは、宝塚市成立の約3年前、1951/3/15の町制/改称でした。
兵庫県川辺郡小浜村→宝塚町。
変遷情報を明治合併の 1889年まで遡っても、「宝塚」という旧村名は見当たりません。
「宝塚」が地名になったのは何時からか?

古墳の呼び名から地名になる間を繋ぐ名前としては、「宝塚駅」が思い浮かびます。
阪鶴鉄道宝塚駅(国鉄>JRの前身)は 1897年12月開業。阪急の前身・箕面有馬電気軌道の開業は 1910年。

駅名より更に古いのが温泉名でした。阪急の創業者・小林一三が、宝塚音楽学校創設【1913年】の頃を回顧した『宝塚生い立ちの記』を 青空文庫で読んでみると、「四十年前の宝塚風景」として次のように記されていました。
宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近…武庫川の岸にささやかな湯小屋…。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のこと…。
その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げたが、1910/3/10 【阪急の】電車開通当時は、武庫川の東岸【左岸】すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。

その宝塚温泉も、明治時代に栄えたのは武庫川西岸の旧温泉側【武庫郡良元村】であったようです。
駅側の 新温泉は、阪急が乗客誘致のために明治末の 1911年に開業したものです。
私は 1950年代末期頃 大理石を使った豪華な大浴場を利用した経験がありますが、炭酸泉に溶食されていました。
炭酸カルシウムの大理石が炭酸水に溶けるのは、ケミストならずとも常識でしょう。
小林一三さんは偉大な事業経営者ですが、材質選定が不適切と実感したのでした(笑)。

それはさておき、宝塚温泉としては、広く事業を展開した新温泉が栄えました。
小林さん本人は「無理にこしらえた新都会」と記していました。
蒸気加熱設備のない室内プールで失敗しても、これを温泉客寄せの 少女歌劇場に転用し、花嫁学校につなげるなど、事業展開の才能には舌を巻きます。

「タカラヅカ」の名は温泉から脱皮し、新しい舞台芸術として 広く知られる名前になりました。
新温泉のある東岸側・川辺郡小浜村が 1951年に「川辺郡宝塚町」を名乗ることになったのも当然でしょう。

変遷情報を見ると、昭和合併時代の 1954/4/1に 宝塚市が誕生しています。
1950年国勢調査人口では、武庫川右岸の武庫郡良元村 21687人、左岸の川辺郡小浜村 15090人で、居住者は良元村の方が多いのですが、新市名は、一足先に小浜村から改名していた 全国区の「宝塚」になりました。

突然ですが、ここで女性首長の情報です。

宝塚市になって消滅した兵庫県武庫郡良元村の 最後の村長は女性でした。
岡田幾(おかだ いく) 1951/7/5当選 1954/4/1良元村消滅 

岡田指月(しげつ)の名で俳誌「白扇」を共宰する女性俳人でした。
合併問題の渦中にあった村長就任時の句:身をすててゆくや茨の夏の道
宝塚市誕生を喜ぶ句:春光に産声高し宝塚
安堵して村長職を辞任する時の句:戦ひは終りて安き日永かな
出典 近代宝塚歴史紀行

【追記】
この記事は小林一三『宝塚生い立ちの記』の冒頭文「宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく」に基づいて書いたものです。
その後、1672年の検地記録に「川面村の小字として宝塚東・宝塚南・宝塚北が記されている。」という異説が記されていることを、Wikipediaで発見しました。しかし、この点については 未修正です。ご承知ください。
[97000] 2018年 11月 16日(金)18:02:09【1】hmt さん
「塚」という字の来歴
「塚」という字の来歴
hmtマガジンに 特集 地名漢字(1)塚 を作りました。
[96956]で 雑学 市区町村名の画数 がリリースされ、賑っている地名漢字記事へのフォローです。

現存する市町村名の中で「塚」が使われているのは4市1村、横浜市戸塚区を加えても僅か6件[65927]ですが、話題になった地名漢字の代表として「塚」を選びました。

「塚」を選んだ理由は、常用漢字に採用されている 12画の「塚」[65972]の他に 13画の旧字体、いわゆる「ひげ塚」が存在するということだけでなく、平塚市など多くの自治体が 常用漢字使用に移行している中で、宝塚市が強い愛着を持って旧字体を使用しているように思われる点に注目したためです。

今回の特集に収録された記事から「塚」という字の来歴を要約しておきます。

[65948] 土偏と「丶」のある「塚」【13画の旧字体】:中国では「冢」zhong という字の“異体字
[65962] 漢字の本筋としては、「つちへん」がなく「丶」がある「冢」という字A が“正字”
[65964] 「冢」は、土を盛り上げた大きな墓 を意味する
 足を縛られた【丶】 いけにえ【豕】を埋め、土【俗字の土偏】で覆う【ワ冠】
[65962] 土偏のある「塚」という字B【13画の旧字体】を(日本では)普通に使用
 平塚市(1932)や宝塚市(1954)が誕生した時代には、当然この字を使用
[65903][65972] 1946年当用漢字1850字制定 塚は慣用正字13画Bも「丶」なし俗字12画C 共に「表外字」
[65972] 1977/1/21「新漢字表試案」1900字の中に「丶」がない「塚」Cが登場【12画の新字体】
[65962] 「常用漢字表」制定(1945字 1981/10/1)で公式に認められた C【12画の新字体】
[96995] (引用記事)宝塚市は1985年に市名に「丶」を入れることで見解統一【現在も13画を徹底】
参考: 宝塚市トップページの冒頭画像B 【1】誤記訂正

更に、平成合併によって自治体名ではなくなったが 市内の地名として存在する 藪塚本町の「塚」。
これについても、現在の大田市HPに正式表記は旧字体Bであることが記されています。【1】誤記訂正

「ひげ塚」のような字体問題は、宝塚市のような 現存市町村名 に留まる問題ではないようです。
[96951] 2018年 10月 22日(月)19:08:53hmt さん
明治150年
今年 2018年は、「明治」という言葉が登場した 1868年から 150年になります。

政府は、明日 10月23日に 憲政記念館で 記念式典を開催します。
明治150年記念の銀貨も既に発行されているようです。裏面は、明治初期の20円金貨の紋様。
額面千円ですが、財務省の販売価格は 9000円とのこと。日経2018/5/25

50年前・明治百年の時の大蔵省は、こんな「商売」をしなかったように思うのですが…

それはさておき、「一世一元制度」と共に「明治」という新元号を定めた 明治改元の詔書が 第726号として行政官から布告されたのは、九月八日でした。
10月23日は、この旧暦【天保暦】日付を、グレゴリオ暦【明治6年採用の太陽暦】に換算[21976][49122]した日付なのです。

上からは 明治だ などというけれど、「治明」【おさまるめい】と下からは読む

新しい政治体制を引き継いでいる政府としては、150年の成果を誇らしげに宣伝したいところですが、この狂歌[75516]に示されているように、庶民からは 横暴な田舎侍(おはぎ・おいも)への反発があったようです。

戊辰戦争で負けた側にとっては、「明治150年」というよりも「戊辰(ぼしん)150年」なのかもしれません。
でも、干支(えと)は 60年周期なので、150年は2周期半。今年は「戊辰」でなく「戊戌(ぼじゅつ)」です。

既に[75457]で書いたことですが、改元の遡及効果について。
慶応四年を改め明治元年と為す
明治改元までは、このように 年初に遡って歴史に記録する のが正式でした。

しかし、当時使っていた日付を そのまま使う現在方式の方が解り易く、落書き帳の記載には、便宜上、新方式の表記を多用しています。ご了承ください。

明治150年というニュースに接し、取り留めのない記事を書いてしまいました。
私としては、「都道府県市区町村」というサイトなので、約150年前の「府県」を再認識する機会と捉えています。

150年前というと、まさに「府県」が誕生しつつある時代でした。
詳しくは、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県までをご覧ください。
[96938] 2018年 10月 18日(木)18:16:37hmt さん
MIさんにお礼
[96936]の御教示、有難うございます。
例示により、urlの「&extent=」以下の記述による 経緯度指定を知りました。
[96934] 2018年 10月 16日(火)19:25:21【2】hmt さん
五千分一東京図測量原図
[96933] MI さん
これ【永田町の富士見坂】については url が変わっており、千代田区内の坂の14.に説明があります。

御指摘を受けて、[96931]【追記2】で対応した際に 記事番号を誤記し 失礼しました。こちらが正しい番号でした。

今回の本題は、同じ[96933]で教えていただいた「五千分一東京図測量原図」を使ってみた報告です。

1884(明治17)年に作成された「五千分一東京図測量原図」は復刻版もありますが、農研機構の所蔵するものが公開されており、閲覧することが出来ます。「マップビューアーで開く」をクリックすると地図が開きますので…

デフォルト地図は、皇居を中心とした都心部の縮小地図でした。
ズームとスクロールによって、皇居の西側に移り、右に桜田濠【内濠】、左に弁慶堀【外濠】という配置にします。

明治の地図では弁慶堀の岸に赤坂区役所があり、少し東の赤坂門【赤坂見附、明治の地図の表記は南坂門?】まで伸びている濠(現存)と共に、よい目印になっています。

地図の右(東)方を見ると、桜田濠に沿った広大な敷地に陸軍の施設があります。
その中でも東京市麹町区永田町一丁目一番地。
三宅坂交差点に面するこの地については、地図の元締め 陸地測量部の住所に関する記事[94784]を書いたことがありますが、それよりも前の五千分一図には、陸軍省、その南に参謀本部と記されていました。

【追記1】
五千分一図が作られたのは東京市発足以前ですから、[94784]記載のまま書いた上記の番地は少し不適切でした。

それはさておき、この東京五千分一測量は、先進的な技術・機器を持つ内務省地理局の測量部門を併合した 参謀本部測量局による 本格的な地図作りの始まりでした[44653]
地図がフランス式彩色図から、ドイツ式一色図に変ったのも同じ時代ですが、明治17年に測量が完了した参謀本部の五千分一東京図も、フランス式彩色図で作られた原図があり、そのWEB公開が 今回落書き帳に登場したのでした。

なお、参謀本部と同じ測量結果を共有して作成された 内務省地理局の五千分一「東京実測図」15面(明治19-21刊行)についても、[44653]で言及しました。カラー印刷ではありませんが、参謀本部の地図よりも 範囲が少し広く、およそ東京府15区の範囲をカバーしているようです。柏書房の復刻地図集だけでなく、人文社の「明治の東京」(1996)に記された溜池の話[33199]も、この地図の説明でした。【追記1終】

話を永田町の富士見坂に戻すと、この坂は 赤坂見附と三宅坂との間に位置するわけですが、明治16-17年の五千分一図には、まだ姿を見せていません。

以上が、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」を眺めた結果です。

MIさん[96933]が記載してくれた情報。
これを個人的に確認するだけならば、マップビューアー上の前記操作の報告だけでよかったのです。
しかし、多くの読者に伝えるには、作業結果を地図で示したい。そのように思いました。

2万分の1の歴史的農業環境閲覧システムのように「Permalink」が付いていれば有り難いのですが、今回の五千分一図では、この状態の地図を示す方法がわかりません。

そこで、農業土地利用変遷マップを使い、東京5千分の1を表示してみました。

このマップのデフォルト地図は 新常盤橋付近の zoom=17図でした。
これをスクロールして永田町の富士見坂の位置にして、 永続リンクを表示させたた結果 です。

ここで得た地図は、「参謀本部の五千分一東京図」に現代の基盤地図情報/地名【青字】を重ねたものです。
だから、後者のレイヤーを透明にすることで、国道246号【現代の富士見坂】などを消去すれば、明治前期の地図に戻ります。

赤坂区役所。赤坂門【南坂門?】。坂名の記載がないこと。三宅坂までの道路はまだつながっていないこと。
そして、汐留川上流になる小川の周囲に 湿地状態で残る「溜池」[33199]

地図の扱いをよく理解できていませんが、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」。
どうやら、有用な資料として使いこなす手がかりを得たような気がします。

【追記2】
五千分の一東京図の礼賛記事 がありました。
残念ながら東京の中心部しかカバーしていないこの地図は 上記の基準【正確さ、使いやすさ、美しさ、歴史的価値】を全て満点で満たす最高の地図である.

この地図を自由にWEB閲覧できる時代が到来。農研機構だけでなく、教えてくれた[96933]にも感謝。【追記2終】
[96931] 2018年 10月 13日(土)18:08:09【2】hmt さん
永田町の富士見坂
きっかけは、WEBを眺めているうちに AERAdotで偶々見つけた 55年前の「永田町」 という写真です。
鉄道写真家の 諸河久さんの名は雑誌で存じ上げていたのですが、「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」を連載中であることは知りませんでした。

これだけなら、こちら都道府県市区町村落書き帳への投稿に繫がることはないのですが、次ページの記載が気になりました。
この界隈。学生時代から疑問だったのだが、赤坂見附から平河町に続く坂道の名称が不明だった。(中略)
現地踏査しても不明だったので、赤坂見附の交番にお邪魔して、お巡りさんに質問
したが、解決せず。
ご存知の方からのご教示をお待ちしたい。
とのことでした。

東京の坂道について 特に詳しいわけではありませんが、問題の坂が「富士見坂」であることは知っていました。
埼玉県ですが「富士見市ふじみ野」の住民でもあり、そのまま放置しておくことが できなくなり、教えてあげたい。
ツイッターを使えば連絡できそうです。でも 私は使ったことがなく、手を出せません。

慣れ親しんでいる こちらのページを利用すれば、何らかの情報仲介も期待できのではないか? 
というのが、この記事を書き込んだ趣旨です。

落書き帳過去記事で「富士見坂」を検索すると、[71914] 江戸の坂道 と題する記事がありました。
これによると、江戸に富士見坂が多数あったことは書いているが、永田町の富士見坂には触れておらず。
[22911] KMKZさん では http://www.t3.rim.or.jp/~kuri/fujimi/ 東京の富士見坂 が紹介されており、そのサイトの千代田区には、永田町・富士見坂 を紹介したページへのリンクもありました。

千代田区の坂(3)~平河町・麹町方面 には 地図リンク もつけられていますが、説明文を見ると【標識なし】と記されています。

【追記2】[96033] MI さん の御指摘に基づき、【追記1】を再修正しました。
この説明文には千代田区ウェブサイト【url変更】からの引用文がありました。

首都高速道路の下になって、現実の景観と外れてしまった「富士見坂」という名称の取り扱いについて。

ウェブサイトの説明文や標識が見当たらなかったことから、千代田区としては「富士見坂」の地名を放棄したいのかと疑ってしまいましたが、説明文urlの変更でした。
富士山の眺望が失われて久しい「永田町の富士見坂」ですが、地名ファンとしては「過去の景観を伝える文化遺産である地名自体は残したい」と考えます。
諸河さんやお巡りさん、そして多くの地名ファンの隠れた希望も考えていただきたい。
「富士見坂」の地名消滅に通じるようなことはせず、標識も建てていただけないものでしょうか。

余談ですが、三宅坂[94784]交差点から西に進む青山通りには、富士見坂の坂上付近の南側に 全国町村会館があります(千代田区永田町1-11-35)。
富士見坂を西に下った青山通り北側には、都道府県会館があります(千代田区平河町2-6-3)。
富士見坂を離れ、都道府県会館から右(北)に進めば、都市センターホテルの先が 全国都市会館です(千代田区平河町2-4-2)。【追記終】
[96927] 2018年 10月 11日(木)19:42:41【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (1)東京都中央卸売市場 「ターレ」の行列
我が国最大の規模を持つ生鮮食品市場が、再出発しました。
豊洲市場が開場 2年遅れ、築地継承の中核市場始動 日経2018/10/11

「東京のローカルニュース」と言えば それまで なのですが、大きな胃袋を抱えた大都市の台所。
産地直送、インターネット販売など、従来と異なる商品流通システムが稼働しつつある中で、これまで流通の中心になっていた市場の役割も見直されつつあるようです。
巨額の投資を伴った豊洲の新設備の将来が注目されます。

築地市場から豊洲市場へ。落書き帳の初期。‎[5229]蘭丸さんの「中央区」と題する記事がありました。
この区は銀座や日本橋といった日本を代表する商都を抱えており、東京都中央卸売市場築地市場も預かっています。
戦後、日本橋区と京橋区が統合されて誕生した中央区ですが、銀座・日本橋の賑わいは今や新宿や渋谷に押され気味、築地市場も、都は地元の反対を振り切って江東区豊洲へ移転計画を進行中です。

「中央」と言えば卸売市場法に「中央卸売市場」という制度があり、特に重要な都市地域における生鮮食料品等の卸売の中核的拠点と位置づけられています。

3都府県と37市とが 64市場を開設しており、Wikipediaに一覧表がありました。
これによると、東京都には 11市場が存在し、2010年度取扱金額は、青果5296、水産4571、食肉978、花卉856、合計11701億円で、東京の総額は1兆円を越えていました。

10月6日に廃止された 築地市場のデータを見ると、2014年1日当りの取扱金額(百万円)が、水産: 1611、青果:323となっていました。合計金額 1934百万円/日を260倍すると 約5000億円になります。【11市場で45億/日、260日計算で2010年度の金額とほぼ一致】

築地は、東京にある 11の中央市場の中でもダントツの知名度を持つ市場ですが、取扱金額を見ても、全体の 半分近くを占める日本一の巨大市場だったのでした。
この大市場が 中央区から江東区の豊洲に引越したわけです。

参考までに、11市場の中で築地に次ぐ大田市場【大井埠頭】は青果の他に花卉と水産の扱いもあり、合計1196百万円/日。
取扱規模の3番目は、品川駅港南口【芝浦】にある食肉市場で 495百万円/日。
以下、淀橋【大久保】、北足立【舎人】、葛西【臨海】、板橋【高島平】という順で、豊島【巣鴨】、世田谷【砧】、足立(水産)【千住】、多摩ニュータウン【永山】はその下位。【括弧内は参考までに記した地名】

江戸から東京へ 主な市場の歴史:
水産物市場(魚河岸)は、江戸以来の日本橋から 築地の83年を経て 今回 豊洲移転が実現。
開国による肉食の普及により 市内各地に作られた屠場。1938年 芝浦の施設ができ、これに統合。
最も長い歴史を重ねたのは 青物市場で、巣鴨とげぬき地蔵に近い 豊島市場の起源は 16世紀頃に遡るとか。
江戸時代以来、江戸の青物市場としては [51822]神田多町(たちょう)の名が有名で、関東大震災で焼失後も、神田の秋葉原駅北口で復興。戦後の 1989年 大井埠頭埋立地の大田市場が開場し、移転。


築地から豊洲への引越作業も大仕事だったようです。
冒頭の日経にもありましたが、朝日2018/10/7の記事を引用します。
7日は早朝から、市場で使われる小型運搬車「ターレット」(ターレ)やフォークリフト300台以上が、使用開始前の環状2号線を走って豊洲へ移った。

「Turret」という言葉は、欧州の城郭に由来する円筒形砲塔が起源で、戦車や軍用機の砲塔・銃座、更には消防車・旋盤・顕微鏡のメカなどにも使用。ここに登場するのは、市場の狭い構内を走り回る運搬用車両。円柱状の動力部と、荷台とが合体した立ち乗物で、動力部自体がハンドルの役目をしています。
昔は内燃機駆動でしたが、その後登場した電動車に置き換えられているようです。築地市場を走りまわる「ターレ」の謎に迫る

今回の 東京都中央卸売市場引越 に際しては、築地から豊洲の区間について、公道化する直前の環状2号線[85227]をターレット・トラックの行列が走り、とても珍しい光景が動画に収められていました。
[96907] 2018年 10月 4日(木)15:52:20hmt さん
上五島連島
[96903] 白桃さん
新上五島町の残りの有人島である頭ケ島、桐ノ小島、日ノ島も中通島と橋で繋がっているようです。

ご指摘の通り、4年前に[86425]で書いた<上五島連島>には見落しがありました。

この機会に、架橋により連なる8島と、主島である中通島との架橋関係を まとめて記載しておきます。

中通島 面積168.31km2, 2015年国勢調査人口 18113人 北端の津和崎鼻に至る長い半島があり、南北約39km。
頭ケ島 1.86km2, 15人 五島列島最東端の島の山頂に標高80mの上五島空港。世界遺産。頭ケ島大橋[82809]
桐ノ小島 0.04km2, 8人 中通島南部 桐古里郷の西側。ごく短い橋
上中島 無人 中通島と若松島を結ぶ県道46号 中通島との間の短い橋の名称不明[82809]
若松島 31.13km2, 1402人 中通島と若松島を結ぶ県道46号の若松大橋[82809]
漁生浦島 0.65km2, 30人 若松島の北西部 漁生浦橋[82809]
有福島 2.97km2, 112人 若松島北西にある架橋3島中最大の島 堤防道路疑惑[82877]
日ノ島【地図は日島】 1.39km2, 38人 堤防道路[82877]

参考:中通島から離島への行き方案内
[96903] 2018年 10月 3日(水)18:32:23【2】hmt さん
突然の航路休止に驚く中通島
日経2018/10/3
五島列島と長崎市や長崎県佐世保市などを結ぶ旅客船を運航する五島産業汽船(長崎県新上五島町)が全4航路を休廃止したことが2日、明らかになった。年間19万人前後の乗客が利用していたもようで、日常の足として使っていた五島市や新上五島町の住民の生活に影響を与えそうだ。

私が五島列島に関する記事を書き始めたのは、14年前の[26554]であり、その記事で最初に問題にしたのが、範囲の異なる2つの「五島列島」でした。
自然地名としての五島列島は、私より前に地球人さんの記事[17147]に記されているように 「下五島+上五島+宇久小値賀 という構図があり」、「北は、宇久島から南は、福江島まで連なる列島です。」

ところが、「行政上の五島列島」は長崎県五島支庁管内【注】に限られ、自然地名としての「五島列島」と異なります。
【注】この文を[26554]で記した5年後に、下五島【五島市】と上五島【新上五島町】、つまり遡れば南松浦郡であった区域を管轄していた長崎県五島支庁は廃止されました[71553]

宇久氏から改名した五島氏が福江島に本拠を移す前の発祥の地である宇久島【2006年佐世保市】と、その南の小値賀島とは 1878年以来北松浦郡です。小値賀島は江戸時代から平戸藩領で五島氏の領域外。
このような歴史的経緯もあり、宇久島と小値賀島【野崎島などの付属島を含む】は、「行政上の五島列島」には含まれず、「平戸諸島」に含まれています。離島振興対策実施地域一覧

前置きが長くなってしまいましたが、本題は上五島の主島であり、北端に位置している中通島です。
五島市のある福江島と長崎とを結ぶ航路は、長崎市の九州商船が運行しているので、大丈夫だろうと思います。

中通島は、4年前の[86425]で示したように【前回国勢調査では】人口2万人を越える大きな島でした。
【追記】
2015年国勢調査人口は 18113人に減少。橋で結ばれている若松島1402+漁生浦島30+有福島112を加えた「上五島連島」の人口も 19657人で、2万人に届かず。やはり、離島の人口は減っていますね。【追記終】

離島の公共交通として航路の重要性は言うまでもないことですが、船会社が突然の休止宣言。
新上五島町の役場も急に知らされたようで、会社都合による一方的な通知に、困惑しているようです。

【追記】
海上運送法第15条を見ると、航路の休止・廃止は30日(指定区間は6月)前までの届け出が必要なようです。
資金繰りの悪化など経営破綻の兆候の一部は、それより前から顕れていたのかもしれません。
情報が溢れているように思われる社会の中で、突然の航路休止騒ぎ。
もう少し早く情報を得て、必要な対策をとることはできなかったのでしょうか?

とりあえず、困った事態が発生し、2万人もの住民がいる離島だけに 影響が心配 という事件の御報告まで。
[96479] 2018年 9月 14日(金)18:40:25hmt さん
「失火の火元?」から
思いがけず、一連の記事の発端になってしまった「失火の火元?」hmtです。
再度のお詫びと併せて、記事[96463]の作成過程において ミスを発生させた「ごく個人的な事情」につき、少々釈明させていただきます。

気象庁報道発表第3報 厚真町で震度7を観測
第4報 「平成30年北海道胆振東部地震」と命名

記事[96463]の投稿動機:北海道の中で 有名とは言い難い「胆振」という地名の周知度を高めたかった という程度。
それに関連して、1960-2016年に定められた31の地震現象のリストを「列挙したつもり」でした。

ところが、PC操作ミスで 1件が脱落していました。指摘されて気付き、早速 お詫びを入れました。

しかし 火種が消えておらず、他の方に火の粉が降りかかる状況に、オロオロするばかり。
幸い、良識ある皆さんの発言により、大火にならず 鎮火の形勢となり、有り難いことです。
火元としては ホッとすると共に、私のミスから騒ぎを起したこと、改めて皆様にお詫びします。

今更ながらの言い訳ですが、「平成7年兵庫県南部地震」が消えた操作ミス の原因を推測しておきます。
6月に発症した脳梗塞[96343]の後遺症と思われる 指先の痺れ。投薬・リハビリ中ですが、未回復状態。
それでも せっせと落書き帳に投稿中。プレビューによる確認の大切さを実感しています。
[96468] 2018年 9月 9日(日)19:30:56hmt さん
Re:お伝えすべきこと
[96466] ニジェガロージェッツ さん
何かひとつ,お忘れではないですか?

ごめんなさい。
[96467] 2018年 9月 9日(日)18:55:44hmt さん
気象庁の震度観測点
北海道胆振東部地震を機会に、これまで気象観測地点ほどには話題になっていなかった 震度観測点に注目しました。

気象庁が発表する地震情報は、全国を188地域に区分した 地域名 を用いて発表されているそうです。
広い北海道は緊急地震速報が 道央(地域数9)道南(10)道北(8)道東(11)の 38地域。
その他は凡そ4~2地域よりなる府県予報区ですが、奈良県だけは全県が1地域です。
島嶼のある都県では、下記のように多数の地域が設定されています。
東京都は23区など3地域の他に 伊豆諸島(5)と小笠原(1)で9地域。長崎県は6地域。
鹿児島県は6地域と奄美群島(2)で8地域。
沖縄県が3地域と大東島・宮古島・八重山(3)で8地域。

これら 188地域に設けられた気象庁の震度観測点は 670で、全国で約1300ヶ所(約17km間隔)という アメダスの約半分の密度です。

しかし、全国には その他に、地方公共団体の 2913、防災科学技術研究所の 789と、多数の地震計が存在するようです。大学等の研究機関にも地震計があるでしょう。

[96463]では民間報道を引用して「厚真町鹿沼で震度7を観測」を伝えました。
しかし その後の調査で、2018/9/7 16時00分の報道発表・「平成30年北海道胆振東部地震」について(第6報)を知りました。
関係データ、地図、逆断層型の発震機構(速報)を含めて詳しい内容が記されていたので、改めて この pdf発表 をリンクしておきます。

震度7が観測された観測点「厚真町字鹿沼(あつまちょうしかぬま)」のデータ
地域名称:胆振地方中東部 震度観測点の所在地:勇払郡厚真町字鹿沼200-2
緯度経度:北緯42度37.4分、東経141度55.2分 地図   観測開始:2012/10/2

参考までに、胆振地方中東部で最古の観測点は、室蘭の旧気象台(大正12年6月)でした。
現存する震度観測点は、室蘭、苫小牧、登別、白老町、厚真町の5地点です。
また胆振地方西部には、現在のところ伊達市に1地点存在するだけですが、2000年頃に何ヶ所かあったのは、有珠山噴火に対応した臨時の観測点であろうと推察します。
[96463] 2018年 9月 7日(金)18:04:33hmt さん
地震に使われた地名 胆振
[96461] グリグリさん
北海道大地震(北海道胆振東部地震)に関するNHK情報ほか

北海道全域に及ぶ大停電を引き起こした昨日の地震。
ニュースを見ながら気になっていたのが、記録された最大震度と気象庁の呼び名でした。

気象庁の震度データベース検索により、「最大震度6強以上」を検索したら 2016年4月の熊本地震。
よく見ると、発生日時が2018//9/5までとなっており、昨日の記録は対象外でした。

気象庁は6日午後、北海道の胆振地方で起きた地震について、厚真町鹿沼で震度7を観測していたと発表した。
これまで気象庁は、強い揺れの影響で複数の観測点で震度の情報が送られてきていないとして、震度分布図からは震度7を観測している場所がある可能性は否定できない、としていた。
という 昨日15:25現在の報道が示しているように、正式の記録として残すデータについては、慎重な姿勢で臨んでいるようです。

参考までに、厚真町鹿沼付近の地図

気象庁の呼び名については、昨日17:30に 「平成30年北海道胆振東部地震」と決定されて発表あり。

参考までに、ウェザーニュースに紹介された 気象庁が名称を定めた地震現象のリストを列挙。

チリ地震津波   北美濃地震   宮城県北部地震   越前岬沖地震   新潟地震   松代群発地震
えびの地震   1968年日向灘地震   1968年十勝沖地震   1972年12月4日八丈島東方沖地震
1973年6月17日根室半島沖地震   1974年伊豆半島沖地震   1978年伊豆大島近海の地震  
1978年宮城県沖地震  昭和57年浦河沖地震   昭和58年日本海中部地震   昭和59年長野県西部地震   
平成5年釧路沖地震   平成5年北海道南西沖地震   平成6年北海道東方沖地震   平成6年三陸はるか沖地震
平成12年鳥取県西部地震  平成13年芸予地震   平成15年十勝沖地震   平成16年新潟県中越地震   
平成19年能登半島地震  平成19年新潟県中越沖地震   平成20年岩手・宮城内陸地震   
平成23年東北地方太平洋沖地震   平成28年熊本地震

今回は内陸でしたが、昭和57年には「浦河沖地震」というのがあったのですね。
1968年と平成15年と2回の十勝沖地震、平成5-6年の釧路沖、北海道南西沖、北海道東方沖。

「胆振」という国名は、室蘭・苫小牧という港湾都市名[78736]に比べて、知名度が低いように思われます。
せっかくの機会?なので、過去記事の中から北海道胆振国[72049]をリンクしておきます。
「胆振東部」と言えば、石勝線のトマムまでが「胆振国勇払郡」でしょうが、占冠村は胆振管内ではなく上川管内です。明治初期に鵡川を遡り到達した時代に定められた胆振国の範囲と、現状との違い。
[96451] 2018年 9月 1日(土)18:46:46hmt さん
船迫(ふなばさん)
[96448] 千本桜 さん
「船迫」は「ふなばさま」と読むのですが、昔の人は「ふなばさん」と発音していました。

これは、成田(なりた)を「なんだ」、上町(かみまち)を「かんまち」と発音する事例、すなわち 後続音のある「普通の撥音便」とは 異なるケース と考えるべきではないでしょうか?

船(ふな)迫(はざま→ばさま)という漢字の切り方を無視して、
「ふなばさま」を「ふなば さま」→「ふなば さん」と発音するのは、ありそうなこと。

そんなことを考えながら[96449]を見たら、
天神様、白桃様、とか言いづらいというか、「てんじんさん」と言った方が親しみをもってきこえる???

口語の変化です。私も 文字にとらわれない「白桃さん」説に賛成票。
[96450] 2018年 9月 1日(土)17:45:51hmt さん
多摩川の南北にある「野川」という地名
[96446] うっかりじゅうべえ さん
自治体越えの地名掲載の神奈川県川崎市「野川」が、住居表示されるようです。

自治体の境界で分断された地名として取り上げられた地名「野川」は、1889年の町村制施行より前には、神奈川県橘樹(たちばな)郡「野川村」でした。
地図を見ると鶴見川の支流・矢上川が流れています。この川の通称が「野川」だったのかもしれません。

明治合併で成立した 宮前(みやさき)村の大字になった「野川」。
関東大震災【今日は95年の記念日】の翌年に成立した川崎市は、昭和戦前時代(1927-1939)に近隣10町村【+日吉村の一部】を編入しており、宮前村野川も、1938年に川崎市野川になりました。

この付近の交通環境を大きく変えた 第三京浜道路は 1965年全線開通。
川崎市が政令指定都市になった 1972年には そのまま高津区野川になりましたが、1982年の分区で 宮前(みやまえ)区が作られた際には、第三京浜の西側一帯だけでなく、矢上川より北・神明社のある一角も宮前区になりました。
町区域の設定図を見ると、この区域が今回の住居表示で「野川本町3丁目」になるというので、どうやらこの一角が、「野川」という集落が本来存在した地であると理解できます。

地図で付近を見渡すと、第三京浜と武蔵野貨物線【地下】とが交差する地点で、ICや貨物駅の存在から物流拠点としても利用されてきたが、宅地化に対応して、今回住居表示を実施することになったものと理解されます。

この付近には、「たちばな古代の丘緑地」などもあります。
橘樹郡の由来に関係する弟橘姫の故事。そんなことを思い出しながら、橘の記事[64972]

ここで、対象の「野川」が変ります。
実は「川崎市の野川」は、その存在自体を今回初めて知りました。
[60771]で言及されていることは、本文を書いた後で、偶然知りました。

視野を川崎から少し広げると、北方には 多摩川が都県境を流れています。

その多摩川に、東京側の武蔵野台地を水源として 合流してくる支流が 「野川」です。
国分寺崖線から流出し、現在は二子玉川で多摩川に合流していますが、古い地形図では現在よりも西を流れています。戦後の六郷用水流路廃止による流路変更があったようです[79306]

こちらの「野川」は、落書き帳の初期から登場している 有名河川?です。

[19260] グリグリさん 武蔵野夫人
TNさん[19236]がご紹介されている野川の源流です。

[38583] 音無鈴鹿 さん
それら湧水を集めて国分寺崖線に沿って流れているのが野川。上流端は日立中央研究所のなかです。

川崎市の多摩丘陵にある「野川」の数km北の 多摩川対岸には、武蔵野台地から流れ出る「野川」がある。
2つの「野川」は 偶然の一致 と思われるので、地名コレクション「自治体越えの地名」の趣旨である
同一地域を表す地名が、都道府県境、市町村境、区境によって分断された地名
に該当するものでないことを お断りしておきます。

変遷情報検索で調べてみると「○野川」という村名は66件も出てくるが、単純な「野川」という村名は5村のみ。山形 福島 神奈川 滋賀 岡山 各1村

過去記事検索で「野川」を調べると、吉野川 阿賀野川 熊野川 など多数がヒットしてしまいます。
単純な文字だけで構成されているだけに、「野川」【例えば[5320]】だけを拾うのは困難でした。

このように、単純な言葉ですが、「野川」自体は「ありふれた地名」ではない。
偶然にしても、多摩川の南北に「野川」があったのは、やはり「珍しいこと」として記録しておきたい。
そんな軽い気持ちからの書き込みでした。
[96440] 2018年 8月 26日(日)16:23:43【1】hmt さん
Re:「万歳がえし」なるもの
[96439] スナフキん さん
ネット情報を鵜呑みにするならば、どうもこれは北陸地方や長野県の一部地域で行われているもののようですが

私も体験はしていませんが、普通の万歳三唱だけでなく、「お返しつき」のバージョンが存在するようですね。
既にご存知のネット情報と思われますが、参考までに 少し列挙しておきます。

砺波市 「万歳返し」の思い
「万歳返し」っていうのは少なくとも私のふるさと福井にはなかったように思う。インターネットで調べると、信州の方では結婚式や家の建て前のときに行われるようである。

長野の締めはバンザイとバンザイ返し?
長野市とくに若穂【注】(中略)主催者から参加者に向けて万歳が送られ、その後に万歳を受けた方がお返しに万歳もあります 万歳返しとでもいうのでしょうか、

【注】本筋の「万歳がえし」と無関係だが、信州の地名に関連して追記
「わかほ」は、犀川・千曲川合流点付近の東岸で、1959年合併した3村(綿内 川田 保科)由来の合成地名。
「豊科」の同類です。「しな地名」[77926]の一つで呼ばれる保科観音のお寺は、清水寺(せいすいじ)と読みます。

万歳三唱(2)
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県外から転勤などで長野県にいらして一番最初に遭遇し、戸惑うのがこの「万歳三唱」ではないでしょうか?
県民にとっては当たり前のしきたりのですが・・・
【具体的な例より】
指名された発声者の音頭で万歳三唱をし、主催者は有り難く礼をしてお受けします。
次に、主催者は上座から(或いは上座から辞して)、代表者がお客様に対して万歳唱三唱のお礼を述べ、続いて 返礼の万歳三唱をいたしたい旨 を伝え、全員の賛同を得ます。
その際、主催者側代表は全員での万歳のご唱和をお願いします。
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万歳のお返しもあります。 ちなみに富山県です。
[96430] 2018年 8月 23日(木)19:12:11hmt さん
台東区はお台場の東?
台東区。ekinenpyouさんの記事を発端になり、その読み方が話題になっています。記事集

中心になっている中国語の読み方については、私は全くの無知であり、議論に加わることができません。
そこで 初心に戻り?、落書き帳の古い記事を検索してみました。

その結果、とんでもない 誤解記事を発見してビックリ。
[1933] mikiさん 地名+方角の区
東京都...江東区(江戸川の東)、台東区(お台場の東)

さすがに、投稿直後に Issieさんによる修正意見[1996]が出ていました。
「江東区」は“隅田川の東”,「台東区」は“台地(具体的には本郷台かな)の東”という意味です。

台東区には上野公園になっている台地があり、「上野の山」と呼ばれています。
江戸時代は、この台地の全域が 東叡山寛永寺の境内でした。
戊辰戦争では、江戸で唯一の戦場になりました。新政府軍の指揮官は西郷隆盛。銅像は何故か着流し姿。
「台東」の意味は、“台地の東”よりも、“上野の台地と、その東に広がる低地【下谷・浅草】”と理解するのが適切ではないでしょうか?

下谷区と浅草区とが統合されて台東区になったのは、敗戦直後の大都市改革[74935]の一環でした。
具体的には 1947年3月15日に 都心部の区を中心に統合が行われて、35区が「22区」になりました。
昭和22年東京都告示第127号
左側に3月5日施行とありますが、ごれは誤記で、右側の昭和二十二年三月十五日施行が正しい。

台東区について言うと、既に当用漢字表は1946/11/26に公布されているのですが、これが新字体になる「当用漢字字体表」の告示は1949/4/28ですから、「臺東区」で告示されていると推察します。
告示の原文を確認したいと思いましたが、不成功。

[96417]伊豆之国 さん
「台」と「臺」は、本来はそれぞれ別の字で、どちらも中国に古くからある漢字です。

…というわけで、Wikipedia台東区>名称由来に記された
康煕字典にめでたい意味で載る瑞祥地名でもある。
のは、「臺東区」であろうと推察しました。

そこで、ekinenpyouさんに存在を教えていただいた康煕字典で、至部8画の「臺」を覗いてみました。
東という字は末尾から3行目にありましたが、「臺東」という地名は未発見。
念の為、略字の 「台」にも「台東」は見当たらず。

あまりパッとしないレポートですが、読み方とは無関係に「台東」を調べた結果でした。
[96402] 2018年 8月 19日(日)11:26:02hmt さん
海と島(31)ユルリ島の馬
時折綴っている「海と島」シリーズです。島の人口とか無人島とか居住者の有無に関係したトピックスも多いのですが、今回の「居住者」は 人ではありません。

日曜日朝のNHK「さわやか自然百景」。今朝のテーマは、根室沖3kmに浮かぶ双子の無人島、ユルリ島とモユルリ島でした。

「鵜の島」を意味するアイヌ語と根室沖という場所から連想するのは歯舞群島ですが、歯舞群島の勇留島(ゆりとう)は根室半島の東にあります。
これに対して、ユルリ島【2km2】と より小さなサイズのモユルリ島【0.3km2】とは、根室半島の南にあり、いずれも周囲を断崖で囲まれた平坦な台地の島です。地理院地図

遠目には同じように見える平らな無人島ですが、上陸してみると草の丈が大違いです。
ユルリ島には、以前に昆布漁師が持ち込んだ馬が野生化して、背丈の高い草を食べるため充分な光を浴びた花々が草原に咲き乱れます。

昆布漁が盛んだった1950年代のユルリ島には人が住み込み、馬を使って昆布を引き上げた断崖上の平地を、昆布干場として使っていました。

時代が変わり干場としての利用が終わると、人々は島を去りました。
しかし、馬は食肉として売られることなく、積雪も少なく、水と草の豊富なユルリ島に残されました。山のない島ですが、ミズゴケによる貯水能力があり、雪の下で 馬の命を支える環境があったのですね。
最盛期には30頭にも増殖した馬。近親交配を防ぐためにオス馬の入れ替えも行われたそうです。

2006年、漁師の高齢化に伴い全てのオス馬を引き上げ、14頭のメス馬が残され、馬の数は少しずつ減少。
北海道ファンマガジンによると、2011年8月に12頭いたのが、2014年2月に6頭と2年半で半減。そして、2018年の今回取材時には3頭。

人間の都合で連れて来られ、野生化への道をたどった居住者の馬がゼロになるのは時間の問題でしょう。
そうなると 当然ですが、植生への影響があります。
海鳥たちとオジロワシとの攻防も、その行方は如何。
島という限定された世界でも、自然の姿は移り変わっているようです。
[96393] 2018年 8月 17日(金)17:30:10【1】hmt さん
横綱朝潮の出身地
[96392] うっかりじゅうべえ さん
兵庫県   8 朝潮太郎(初代)
鹿児島県  5

スポーツは不得意分野なのですが、1953年のクリスマスに、鹿児島県への復帰が実現した奄美群島[56304]のことにも関係するので、ちょっと口を出しておきます。

1956年から1961年までの間の大相撲で、幕内優勝5回を記録した朝潮太郎。
本名の「米川」から始まり「朝汐」も使ったようですが、太い眉毛と立派な胸毛の大柄な姿で記憶に残る力士。
その名は「朝潮太郎」です。大阪場所での活躍が特に目立つ力士でした。

1959年の大阪場所後に 46人目の横綱に昇進。深川・富岡八幡宮境内の「横綱力士碑」にその名が刻まれる際、既存のスペース満席のため、初の 「張出横綱」にされてしまった。そんなエピソードを新聞で見た記憶があります。

問題になるのは、この朝潮の出身地です。
Wikipedia は、その冒頭に「鹿児島県徳之島出身(出生地は兵庫県武庫郡、現在の神戸市)」と記しています。
そして、来歴の箇所の記載。「1948年(昭和23年)10月場所、本名の米川で初土俵。当時奄美は米軍の占領下にあったので兵庫県の親戚、大沢徳城を頼って貨物船に忍び込み密航、奄美が返還されるまで兵庫県(神戸)出身と番付に書かれていた。」と記しています。

奄美が鹿児島県に返還される前には、出身地を兵庫県と名乗っていた時代もあったのかもしれません。
Wikipediaの出生地:兵庫県など、古い情報の影響が残っているのかもしれない説の真偽はさておき、朝潮が奄美の徳之島で育ち、日本復帰後は「鹿児島県徳之島出身」であることを公称していたことに間違いはないと思われます。

してみると、出身地:兵庫県に該当するのは、増位山(父:大相撲では姫路市)2回と貴闘力1回の合計3回だけ。
出身地:鹿児島県に該当するのは、[96392]の5回【注】に朝潮5回を加え、合計10回ということになると思います。
【注】私なりの理解では、次の通りです。
若嶋津 2回(1984/3と1984/7)、霧島(1991/1)、30代横綱で西囎唹郡西国分村(現・霧島市)出身の三代目西ノ海嘉治郎(1925/5)、25代横綱で種子島出身の二代目西ノ海嘉治郎(1916/1)。
【追記】
16代横綱初代西ノ海嘉治郎の記事[96397] ekinenpyouさん を見て、西ノ海嘉治郎の代数と、三代目出身地を追記。
[96390] 2018年 8月 15日(水)21:44:57hmt さん
「山の日」に思う(2)
[96381] MasAka さん
山の日ということで、とりあえず近所の山にと思い立ち、今住んでいる川崎市の最高地点を目指して

都市化されつつある猛暑の多摩丘陵を脳裏に描きながら、「山」に関する 47都道府県ランキングを眺めてみる。
これが、体力のない hmtにとっては、精一杯の夏課題でした。

2016年の第1回「山の日」に作った表を少し修正。
傾斜地【山地+丘陵地】vs 平坦地【台地+低地+内水域】という対比で作ってみた結果が[96384]です。

山地と丘陵地とで約93%を占める高知県を筆頭に、42府県は 50%以上という山国の日本。
平坦地が半分以上を占めた「平坦県」は、大阪府50.8%、東京都53.2%、埼玉県61.5%、千葉県61.7%、茨城県69.1%だけでした。

茨城県は、台地率37%で首位、低地率27%も4位。これに 霞ヶ浦・北浦の内水域が加わっています。
[91185]では数値を挙げていませんでしたが、山地率23.7%の茨城県は、実は千葉県(7.6%)に次ぐ下から2番目だったのでした。
それでも、富士山の反対側から関東平野を見守る筑波山を擁し、お盆の墓参では稲田石の世話になっています。

石材、石炭、金属など特殊な「山の恵み」はさておき、最も一般的な資源は森林です。
前報の末尾にも記しましたが、都道府県データランキング 可住地面積の中に「森林面積」があり、首位の高知県83.30%と、末尾5都府県の顔ぶれは、偶々ですが[96384]と一致していました。

まんざら無関係でもないと思われるので、このリストの 森林面積(2009)と、前報の検討で用いた傾斜地【山地+丘陵地】面積との比率を都道府県別に求めてみました。

その結果、ランキング上位は 殆ど1。
北海道が1.048と1を越えている理由は、平地林の存在でしょう。以下 秋田 福井 茨城 青森 京都 岐阜 宮崎 山形 富山(0.927)。

注目したのは、今回も ランキング下位の都府県。
47位の大阪符0.631 を始めとして、45位 神奈川県0.725、44位 福岡県0.764、42位 東京都0.784。40位 愛知県0.791 は、大都市の領域が平坦地だけでなく 傾斜地に及び、丘陵地が 森林以外の都市施設に利用されつつあることを示しています。

そんな中で 41位 熊本県0.790を見ると、阿蘇の草千里のような、都市とは異なる利用形態も目に浮かびます。
そして、43位 広島県0.781と 39位 愛媛県0.796、そして 36位 山口県0.813 と並ぶと、先日の西日本豪雨災害との関連を考えたくなります。

森林面積が小さいデータが示している花崗岩の禿山。
森林保全によるメンテナンスが十分でない山は、豪雨により恐ろしい牙を向けてくる。
ごく大雑把なデータランキングですが、こんな教訓の材料にも。
「山の日」を機会に、そんなことを考えた次第です。
[96384] 2018年 8月 12日(日)18:53:46hmt さん
「山の日」に思う(1)
「海だ山だ、祝日多すぎる」慎重論もあった「山の日」 

引用した記事は、祝日法改正が行なわれた4年前に 産経新聞上で発表されたもので、「根拠が薄い」、「日航機墜落事故【今日で33年目】を考えると祝日に違和感」などの慎重論もあった「山の日」について、その意義をいかに浸透させるかが、今後の課題としています。

2016年の第1回には 私も[91185]の記事を書き、昨年夏には十番勝負[93880]にも取り上げられました。
しかし、課題と指摘された「山の日」の意義について、社会の議論は進んでいるでしょうか?

言うまでもなく、「山」はレジャーの対象や健康保持の場として役立つだけでなく、国土保全・林業を始めとする産業上の利用など、多目的の社会的意義があります。
日本の国土は、地形的な要因から「山」抜きでは語ることができません。

日本の「山」はその気候条件と相俟ち、世界的には稀とも言える量の水資源を恵んでいます。
この水資源の利用と防災とは、この国土で社会生活を営む私達にとり欠かすことのできないものです。

都道府県データランキングでは、地理・気象系に 総務省統計局の [可住地面積、森林面積、自然公園面積、田面積、畑面積、宅地面積が示されており、森林面積については 林野庁が実施している森林資源の現況調査のデータもあります。

利用目的を離れた 都道府県別の自然条件については、少し古いデータですが、日本統計年鑑に掲載された「昭和57年度国土数値情報作成調査」による [地形・傾斜度別面積:www.stat.go.jp/naruhodo/dl/zuhyou/c1s_origin/y0108000.xls] の表があり、[91185]では これを利用し、「山地の多い県」のランキングを作ってみました。

山地、丘陵地、台地、低地、内水域等の5種に分け、47都道府県ごとの面積がkm2単位で示されていますが、北方領土は未分類のままなので、計算から除外。また「内水域等」にも問題がありそうでした。

それはさておき、[96381]を拝見した機会に、山地だけでなく、つまり丘陵地の区別に拘らず、47都道府県別のランキングを作ってみることにしました。

1位から3位は 山地と丘陵地で 90%以上を占める県で、高知県、広島県、奈良県の3つ。
4位から10位は 85-90%が山地・丘陵地の県。島根 和歌山 愛媛 山口 鳥取 岐阜 山梨。
11位から18位が 80-85%で、 岩手 長野 徳島 岡山 大分 宮崎 福島 群馬。
19位から23位が 75-80%で、石川 熊本 静岡 京都 山形。 
24位から31位が 70-75%で、福井 兵庫 新潟 秋田 富山 三重 長崎 鹿児島。
32位から36位が 60-70%で、佐賀 北海道 青森 宮城 栃木。 
37位から42位が 50-60%で、福岡 沖縄 滋賀 香川 神奈川 愛知。

山岳と丘陵を合わせても50%に満たない少数派は僅かに5都府県のみでした。
大阪 東京 が40%代、埼玉 千葉の後、約31%は茨城県で、これは5%近い内水域が効いていました。

台地・低地・内水域で半分になる利根川の中・下流域4県は、山国の日本では珍しい地域であることを再確認しました。

次回は、地形だけでなく、都道府県データランキングの森林面積データも利用してみます。
[96375] 2018年 8月 10日(金)19:45:02hmt さん
港湾地区の橋
[96374] 今川焼さん
江島大橋に関して、多くの情報をいただき有難うございました。
2009年撮影の写真、ダイハツのCM、大根島最高地点からの遠望写真など、興味深く拝見しました。

遠望写真には、江島大橋の奥に 境水道大橋も写されています。
じゃごたろさんによる [96370]の紹介文で
境港市の 0m地帯から 松江市美保関の丘陵部に繋がるこの橋も かなりかなりの勾配
と記された 白いトラスの片勾配 が目を惹きます。
このトラス橋も、航路確保のために 中央部が下路構造 になっており、東京ゲートブリッジ[80265]との共通点がありました。

[96374] 今川焼さん は、更に記しています。
大阪市大正区・港区の間に架かる〝大阪のベタ踏み坂〟こと「なみはや大橋」へ今年の春行ってきました。

早速 WEB記事 で見学したところ、
西側に目を転じると赤色の塗装が鮮やかな世界最大級のゲルバートラス橋である港大橋(全長982m)
とあり、リンク先が変更されてしまった[80265]の代りとなる港大橋の写真もありました。

「港湾地区の橋」と言えば、これも日本海側の 2015年氷見オフ会のことも、ふと思い出しました。
この時は、新湊大橋を始めとする 斜張橋 が話題になりました。
[96369] 2018年 8月 8日(水)10:49:01【1】hmt さん
天に昇るような急勾配の坂
先ずは 写真をご覧ください。
島根県松江市江島の八束町と鳥取県境港市渡町とを結ぶ「江島大橋」です。

「ベタ踏み坂」と名付けられた急坂が有名で、テレビCMにも登場したそうです。
中海の水面から最上部までの高さは 45m。5千トン級の船が下を通ることができます。

側面図【中国地方整備局】からでは、なかなか想像することができませんが、松江側正面からの写真を見るとビックリしますね。

鳥取県観光案内 には、撮影地点【島根県側】を3箇所変えた写真がありました。
冒頭の写真は、大根島の海岸からの正面遠望により、坂道の距離感を失わせた作品 ということでしょうか。
[96361] 2018年 8月 5日(日)17:51:12【1】hmt さん
駿河
久しぶりのメンバー登録名変更[96337]を機会に、「駿河」という地名についての雑談を記します。

言うまでもなく、「駿河」は 東海道に属する旧国名です。
ごく初期の落書き帳[82]でも、旧国名を漢字一字で表記する場合「駿」という字を使うと記されています。「駿州」。
「駿」は 「すぐれた」【つまり足の速い】馬ですから、富士川の急流を当てた文字使いでしょうか?

最近の記事に「駿河小山」という駅名【御殿場線】[96345]が登場しました。
この駅の経歴を少し記します。

駿河小山駅は、明治22年の開業時[61303]には「小山駅」を名乗りましたが、日本鉄道[61225][61304]の国有化により栃木県の小山駅との同名回避[39241]が必要になり、1912年東海道本線「駿河駅」に改称しました。

駅付近には、富士絹で知られた紡績工場もでき、大正時代を中心に それなりに繁盛した 駿東郡小山町でした。
しかし、1934年に丹那トンネルが開通すると、御殿場回りのルートは ローカル線に転落。

そんな「駿河駅」の存在を知ったのは約70年前。
中学生時代の私は、神奈川県管内図を眺めているうちに、県境を越えた静岡県側に発見しました。

駿河国には相違ないが、静岡から遠く東に離れた地の「駿河駅」に違和感を覚えながらも、そのまま。

落書き帳に出入りするようになってから知ったのが
[39351] Issieさん の記事でした。
「駿東郡」というのは近世以降の呼称で,古代には「駿河郡」という呼称であったようです。
本来はこちらの「駿河」から「駿河国」という国名が起こったのであって…

国名の起源が駿東郡にあったのならば、御殿場線に駿河駅があったことも納得できます。
でも、1952年には 既に駿河駅→駿河小山駅への再改称が行なわれていました。

「駿河」の起源が、7世紀 珠流河(スルガ)国造の根拠地> 後の駿東郡であるとすると、「奔馬に見立てた急流」も富士川ではなく、酒匂川の上流・鮎沢川かもしれません。


2005年に静岡市が政令指定都市になり、旧静岡市の南部に「駿河区」が誕生しました。
区名候補公募を見ると、A区に駿河、B区に駿河、するが が選ばれていました。
旧国名由来の「駿河」の他に、もう一つの「駿河」が誕生して、ややこしくなりました。

2年後の2007年には、次のような記事が落書き帳に登場。
[59305] inakanomozartさん
最近は「駿河」を「静岡市駿河区」又は「駿河区役所」を指す人(狭い範囲の人か?(笑))が出現しているようです。

[59308] YASU さん
危惧されていたことが。葛飾と同じ道を歩んでしまいそうな・・。
ただ「スルガ銀行」の本店が沼津にある限り、大丈夫でしょうね。

別件
「駿河の民」さん というニックネームから自然に思い出したのが「讃岐の民」さんです。
高校生時代の2005年度[50103]までに多数の記事があり、2006年度は SANUKI-Impact と改名。
最終記事[58438]では地名コレクション作業再開の意思表示をしていたが、続報なし。
[96348] 2018年 8月 1日(水)20:11:48【1】hmt さん
ふるさと納税 「黄色い会社」のある忍野村の事例
[96342] グリグリさん
都道府県データランキングの政治・行政系に示されている「ふるさと納税」の説明文が、誤記されています。

それはさておき、市町村版の記事[96341][96342]も拝見しました。
確かに、「ふるさと納税」の性格からして、都道府県よりも市区町村が相応しい分野のようですね。

グリグリさんの記事を読み、私が特に着目したのは、寄付受領側を主とした市町村[96341]ではなく、この制度を支えている納税者側の自治体【区市町村】です。

納税者の負担を示す「差引赤字額」トップ50の中に 20区もランクインている東京都23特別区に敬意を払うために、あえて慣れない言葉を使いましたが、これは東京都用語です[75424]
政令指定都市は、20市中 17市もランクインしており、上位独占に近い状態。これも立派です。

この2種を除くと、残るは 23位の西宮以下、吹田、豊中、市川、船橋、川口、藤沢、八王子、松戸、浦安、町田、姫路、武蔵野の 13市ですが、いずれも限られた大都市圏の市です。

ところが[96324]を見たら、大都市圏外であるにも拘らず、ふるさと納税の多い町村が登場していました。
山梨県忍野村や京都府精華町。(中略)自治体の中で ふるさと納税を促進する何らかの動きがあるのではと思われます。

「自治体当局」が自らの財務体質に不利な動きをするとは考えにくいので、ご指摘の動きは、「自治体の住民」による自主的なものと推察されます。

山中湖畔の山梨県南都留郡忍野村。その自然環境[43001]はさておき、経済環境として注目に値するのは、何と言っても 黄色い会社 FANUC の存在です。
工場自動化 Factory Automation に使われる「NUmerical Control(数値制御)による工作機械装置」のメーカーとして定評があります。

富士通の1部門として始まり 1972年に分社。1980年代に約10年の歳月をかけて、東京都日野市から現在地への移転が行なわれたとか。
言わば 何もなかった富士山麓 に新設された ハイテクの会社です。

忍野村のハイテク会社で、それに相応しい収入を得ているこの会社の社員たち。
「ふるさと納税制度」は、忍野村住民として所得のあるファナック社員たちにとり、彼らが生まれ育った日本各地の「ふるさと」と、忍野村とを結ぶ絆として 活用する価値のある制度であると評価されているようです。

データランキングの出典として記された 平成30年度ふるさと納税に関する現況調査から、各自治体のふるさと納税に係る住民税控除額等の excel表【市町村税額控除一覧】で、山梨県忍野村のデータ【862行】を拾ってみました。
 
私は制度もよく理解していないなので、膨大な表の中から拾った数値やその処理が妥当か否かの自信はないのですが、右端6列【BAからBF】の数値【千円未満記載省略】を使いました。

人数【ふるさと納税者数】(BA=BD列)462人【総人口の約5%】、寄付金額(BB=BE列) 1億1645.7万円、村民税控除額(BC列) 5032.1万円、県民税控除額(BF列) 3354.7万円
寄付金額から村民税と県民税との控除額を引いた 3258.8万円を差引赤字額【納税者にとっての実質的なコスト】と考えました。

忍野村に居住するふるさと納税者1人あたりの平均値を計算してみます。
ふるさと自治体への年間寄付金額は 25万円。[96350]によると 全国で 24位とのこと。
寄付したことによる減税額は 村税 11万円と県税 7万円を合わせて 18万円。
差引 ふるさと納税のコスト 7万円をかけていますが、それよりも大きな満足を得ていると思われます。

小さな村ですから、[96341]の赤字総額が番外になるのは当然です。
しかし、「1人当り赤字(円)」を総人口概数9000人で計算してみると、3621円で[96342]の 8623円と大きく異なります。計算違いが出た原因は不詳です。

[96342]の ふるさと納税者率 10.12%について。
私は、村民税(BA列)と県民税(BD列)の 462人を同一人と考え、上記のように計算しました。
従って、ふるさと納税者率は 忍野村総人口約9000人の 約5%と考えています。
しかし、これを別々に数えれば、総人口に対する割合としては 約10%になります。
[96343] 2018年 7月 28日(土)19:10:20hmt さん
間違って「隆盛」になる前の「西郷隆永」のサイン
85歳になった hmt が記す 約13年前の落書き帳記事への自己レスです。
先日、脳梗塞で入院しましたが 生還し、[96304]で落書き帳に復帰しています。

本題に入ると、2018/7/27放送のBS3・新日本風土記【明治維新への旅1】の一部で、西郷隆盛と庄内藩との絆が取り上げられていました。
そのTV画面中に、「西郷隆永のサインがある文書」がチラリと出現したのを見かけました。

「西郷隆永」と言えば、[43834]で言及した西郷吉之助の「名乗」【実名】ではありませんか。
明治5年5月 太政官布告第149号による「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」への対応。

[43834]では、
西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人【吉井友実】が間違えて 父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。
と記しています。

本人の自筆と思われるサイン「西郷隆永」が記された書類は、彼の生涯のどんな時代だったのか?
どうでもよいことですが、気になって調べた結果を記します。

出羽庄内国際村で行なわれた 2017年の講座記録の中に、次のようなことを伝える記載がありました。

明治4年9月に菅実秀が庄内に帰る際の送別会。西郷から贈られた漢詩が記されたメモ。
落款はないが、“西郷隆永拝”とあり、「西郷隆永と本名で書かれた非常に珍しい書です」というナレーションが付けられていました。

「…自今一名タルベキ事」という前記布告は明治5年でしたから、対応を間違って「隆盛」になってしまう前のサインだったことが確認できました。

仕事上では役職名なども使われていたかもしれませんが、口語では通称の「吉之助」を使っていた時代です。
西郷隆永という本名で書かれた書類が残っているとすれば、借金証文などが考えられますが、やはりナレーションにあったように、「非常に珍しい書」なのでしょう。

「おなまえ」に便乗した雑談レスはこれだけです。
しかし、ここは地理のサイトなので、山形県メールマガジンから「西郷どんと山形県」の前編後編をリンクしておきます。

前編には、漢詩が記されたサイン入りのメモを贈られた 庄内藩の菅実秀の事績以外にも、西郷銅像のモデル、なぜ西郷は庄内藩に寛大だったのか? などが記されています。
後編は、南洲神社、兄弟都市関係、鹿児島の山形屋百貨店、三島通庸[79710]のことなど。
[96333] 2018年 7月 24日(火)23:45:14【1】hmt さん
暑いぞ 江川崎
[96331] 伊豆之国 さん
【熊谷が】皮肉にも「暑いぞ」をやめた途端に最高気温記録を更新、「日本一暑い町」に返り咲くとは…。

観測史上の最高気温記録から、日本一のデータを古い方から拾ってみました。
1927年 宇和島* 40.2度、6年後の 1933年 山形* 40.8度、更に74年後の 2007年 多治見アメダス 40.9度【熊谷*も40.9度[60620]】、更に6年後の 2013年 江川崎アメダス 41.0度、更に5年後の 2018年 熊谷* 41.1度 となります。

データが集められた観測地点は、気象台等(*印、統計開始年まちまち)とアメダス(無印、1976年)とで、設置状況を含めた観測装置や統計開始年に違いがあります。

74年間日本一の記録を保持した山形*の大記録は、観測点の数を飛躍的に増したアメダスにより、多治見・江川崎と更新されることになりました。今回の熊谷により、気象台がチャンピオンに復帰。

2007年に記録を出した[60619] 多治見アメダスは、設置場所に問題があったという指摘がなされており、堺や京田辺のアメダスでも 観測環境の悪化があったようです。

そのようなわけで、江川崎アメダスのデータについても 疑惑が出ていました。
四万十川の中流域、旧幡多郡西土佐村・江川崎は 内陸の盆地で、涼しい海風が届きにくい地形のようです。
各地のアメダスに比べて周辺環境は良好のようですが、ここ江川崎アメダスが 地域を代表する気温を観測していることを検証する目的で、予備観測による検討が行なわれました。報告

0.1度単位での最高気温チャンピオンに関係するとなると、アメダス設置環境も、熱い【暑い?】研究対象になる。
そんなことを感じた研究報告でした。

なお[60621]では、気象庁以外の参考記録にも言及しています。
[96319] 2018年 7月 22日(日)19:13:41hmt さん
自然公園の面積
[96316] グリグリさん
都道府県データランキングの 自然公園面積 を拝見しました。
第1問にも関係するのですが、沢山の面積データを漠然と眺めているうちに、気になったのが「小さな面積」です。

自然公園合計面積のトップは滋賀県。琵琶湖があるにも拘らず、国立公園は存在しない。
これも注目すべきことですが、ゼロでない「小さな面積」、具体的には福岡県の国立公園:46haと、京都府の府立自然公園:128ha とを調べてみました。

福岡県の自然公園を見ると、門司の和布刈(めかり)公園を中心とする地域が、瀬戸内海国立公園に指定されており、その面積 46haがランキングのデータと一致します。
同じページに続いて紹介されている福岡県の3国定公園、5県立自然公園の面積は、すべて数千ha以上と桁違い。

瀬戸内海国立公園は、海域部を含めば日本最大の面積を持つ国立公園です。
しかし、今回の都道府県別ランキングは、その性格上、陸域の面積に限られています。
自然公園の面積に関する統計は、陸域面積に限定した値が掲載されていることが多いので、ご注意ください。

[92754]で記したように、1934年に初指定された瀬戸内海国立公園は、備讃瀬戸付近の3県でしたが、戦後大拡張されています。ブラタモリが最近訪れた関門海峡は 1956年の指定でした。

瀬戸内海国立公園に関係する県は 11府県に及んでいますが、大阪府の指定は海域のみであるため、陸域面積には含まれません。
大阪府が、[96316]の第1問のヒント「国立公園は 6府県」に含まれのは、このような事情があるためです。

ついでに、京都府立の自然公園。こちらは、僅か 128haでありながら、3公園の合計面積でした。
その中での最小面積は、笠置町にある京都府立笠置山自然公園で、その面積は 20haでした。

別件:
「やんばる国立公園」は、最も新しい33番目の国立公園です。
落書き帳では速報[90614]の後、2016/9/15の国立公園誕生を伝えています[92742]
最近のニュースによると、隣接する米軍からの返還地の大部分が 2018/6/29に 編入されたそうです。報道発表

これにより、やんばる国立公園の面積(陸域)は 17311haに拡張されました。基礎情報
ランキングの出典は未修正ですが、西表石垣国立公園 40653ha、慶良間諸島国立公園 3520ha と合計した沖縄県の国立公園面積は、61484ha となっている筈です。
[96304] 2018年 7月 16日(月)11:48:13hmt さん
偉人たちの出身地
[96299][96302] 千本桜さん
問題にされた地名自体は、「後に内閣総理大臣となるC」が「凶弾に撃たれて散った」ことが最大のヒントになりました。
最初に思い浮かんだのは五・一五事件(1932)の犠牲になった犬養木堂でしたが、これは出身地から否定。

元老の西園寺公望が犬養の後任首相として推薦したのが「C」でした。
その名は、もちろん知っていました。hmt誕生当時の首相ですが、その出身地は知りませんでした。
hmtマガジンでは 【Tcj】地域自治区(合併特例)として取り上げた町[90173]だったのですね。

「C」は 1896年にイギリスで完成した戦艦富士を、スエズ運河経由で横須賀に回航した経歴を持つ海軍軍人。
海軍穏健派の長老として「大命降下」を受けて、2大政党連立による挙国一致内閣を編成。
高橋是清蔵相による積極財政を継続。軍部とも大きな対立を起こさず、1934年まで政権を維持。
後に内大臣を勤め、昭和天皇の信頼も得ていたようですが、これが二・二六事件(1936)を起した青年将校から天皇をたぶらかす重臣として狙われる原因になりました。

「B」は有名人です。彼の事績は [74935][85218][85227]などで触れています。

落書き帳では、「A」の記事は書いていないと思いますが、
B記念館から北へ200メートルほど進むと江戸時代後期の地理学者の誕生地跡ある。
と記された箕作省吾については、世界地理・地図関係で何か書いていたかもしれないと思いました。
過去記事を探ってみたが、残念ながら、過去記事見当たらず。
[96205] 2018年 6月 17日(日)14:17:18hmt さん
日本の地震とアイスランドとの関係
[96204]とは無関係ですが、アイスランドと言えば、ユーラシアプレートと北アメリカプレートとの境界である大西洋中央海嶺が地上に現れている場所として有名です。
落書き帳にも、火山関係の記事が多数あります。

それはさておき、ちょっと気になったのが [11702] start さん による古い記事。
以前「世界ふしぎ発見」で言っていた話ですが、世界の陸地はアイスランドから発して日本に向かっていくそうです。

これだけでは理解しにくいのですが、[11720] KMKZさんが大西洋中央海嶺に言及しています。
そして 2010年 [74254] hmtの記事の追記で、大西洋を舞台にした「日本の大地震」の研究 が紹介されていました。

北大の島村さんが書かれた記事によると、1983年に起きた日本海中部地震【男鹿半島沖の海域】の余震観測で、プレートの押し合いが始まっている疑いが強まっていたそうです。
そこに1993年の北海道南西沖地震。定説がなく、地震学者にとっても不意打ちでしたが、余震観測の結果、これもプレートの押し合いによる地震と判明。

そして、本州東北部・北海道・サハリンは北アメリカプレートに乗っており、これとユーラシアプレートとが関係する「2大プレート押し合いによる地震」という現在の説に至った。そういうことのようです。

リンクされたのページには北極の両側に及ぶプレート境界を示す地図【図1】が示されています。
図1の上方(アイスランド方面)で生み出されるプレートは、シベリア北東部にある「軸」よりも手前、サハリン・北海道・秋田付近では、2つのプレートを両側から押す沈み込み帯を形成していることがわかります。

大西洋を生み出し、アイスランドでは火山を噴出した「地球の割れ目」【図2】が、日本付近では「押し合い」という別タイプの地震を引き起こしている。

これが、[11702]の記事に記された「世界の陸地はアイスランドから発して日本に向かっていく」の真意であったと理解されます。
[96202] 2018年 6月 12日(火)23:01:30【1】hmt さん
シンガポール
米朝首脳会談で話題のシンガポール。全島1市・東京23区ほどの広さの「独立国」です。
ニュースで伝えられたように、日本とは1時間の差。標準時が UTC+8。
会場は南端の「セントーサ島」。落書き帳過去記事にも登場 [48354]小松原ラガー さん。

[79492]hmt でラッフルズ以後の歴史を少し書きました。
独自の立地にある貿易港でしたが、水道の原水でさえも輸入に頼らざるを得ない資源小国。

1965年マレーシアからの分離独立以後、リー・クアンユー(李光耀)首相の統率下、どのように生きてきたか。
注目に値する国です。

今日は予告編だけですが、別記事として書いてみたいと思っています。
[96192] 2018年 6月 8日(金)18:10:37【1】hmt さん
地図情報の更新
[96190] 稚拙さん
三江線廃止(2018/4/1)から2ヶ月経過していたのですか。
三江線は 100kmを越す長距離路線で、1975年の全通後でも 40年以上 運行されていました。
しかし、利用者は少数の短距離区間客で、鉄道の特性である拠点間の大量輸送を発揮するには、ほど遠い状態でした。

WEB地図の更新遅れに関しては、営業終了後の残存地物の可能性コメントがありました[96193]
いずれにせよ、大きな実害をもたらす問題ではないように思われます。

情報伝達技術が現在のように発達していない時代の地図の更新は、現在ではとても考えられないほど 遅れていました。
実例を思い出しので、昔の記事を一つ挙げておきます。

[67608] hmt
手元にあった昭和24年(1949)発行の1/25000地形図「上溝」。
これは行政区画資料修正により、戦時合併[37842]で生まれた 相模原町 の名前だけは辛うじて載っているのですが、1931/4/29【厚木-橋本間延伸】開業の相模線でさえ入っていないという、地物に関しては大正10年(1921)測図当時の状態を残しているシロモノです。

[94765] ekinenpyouさん に教えていただいた Stanfordの外邦図に収録されている 25000地形図の索引図
Sagamihara と記されている Sheet Number 17-10 を開くと、大正10年測図(陸地測量部)と記された「上溝」図幅が現れますが、発行日、定価などの記載がありません。
市販品とは別に内務省が調製した政府内部の資料と思われます。
右肩に「二万五千分一地形図八王子近傍十号(共14面)」と記されています。
「図番 17-10」とは、全国的には未整備で一部地域だけ作られていた当時の 25000図特有の 図番だったのですね。

現在は全国整備が済んでいる 旧版地図リストと対照すると、外邦図に収録されていた図は、【相模原町になる前の】1925/2/28発行 リスト番号76-11-4-1 に対応することが分かります。
hmt手元の 1949年発行の版[67608]は 76-11-4-3 でした。

このリストによると、25000地形図「上溝」の 1949年よりも後で、線路の位置が地図に書き込まれたと思われる「改測」が実施されていた版は、実に 1966年です。その地形図の発行は1967年10月(76-11-4-5)。相模線全列車の気動車化【併用は戦前から】とされる 1958年より ずっと後のことです。
地形図「上溝」に描いてもらえなかった「SL時代の相模線」。名称の使い回しに注目。
1921年:相模鉄道が茅ヶ崎-川寒川間で開業。相模川の砂利採取事業[41660]
1926年:倉見、厚木と北に延伸。同年、神中鉄道[28910]も厚木-二俣川間開業
1931年:相模鉄道が厚木-橋本間を延伸開業 
1943年:東急グループ内で、相模鉄道が神中鉄道を合併【相模線の名称は変化なし】
1944年:国有化により運輸通信省相模線となる【残った旧神中線が相模鉄道の社名を継承】
1949年:日本国有鉄道相模線となる

外邦図収録 Sheet Number 17-10「座間」を見れば、1927年新規開業の小田原急行鉄道に「昭和4年鉄道補入」とあります。【76-12-1-4鉄補】
同様に、鉄道開通がいかに軍事的に重要な情報であるからといっても、1931年厚木駅【注】から北への延伸開業をした相模鉄道についても、隠蔽工作などがなされたとは、到底思われません。

25000地形図の「改測」が戦後20年以上も行われずにいたとすると、その事情は何故か? 不思議です。
1949年の「資修」は鉄補でないことを確認していますが、ひょっとすると、1955年発行の 76-11-4-4「資修」で処理された可能性もあるのではないか?

【注】厚木駅[41660]
外邦図の「座間」図幅では、小田急河原口駅との交差点【現在の厚木駅】より少し北に、神中鉄道と相模鉄道との共用ターミナルである「厚木駅」が見えます。神中線が小田急ルート【下記】になり、相模線の旅客駅が河原口に移った後も貨物駅として使われ、混合列車が停車していました。
現在の相模鉄道が小田急と接続している海老名駅と連絡線とは、この地形図には まだ現れていません。
しかし、神中鉄道は 1941年からこのルートで相模川を越え、相模厚木駅【本厚木駅】への乗り入れを開始しました。
[96178] 2018年 6月 3日(日)16:02:45hmt さん
江戸川区菅原橋交差点の歴史
昨日のブラタモリ・下田で登場したのが、静岡県最南端の神子元島。[85781] hmt と同じ頃の記事に登場した北杜市須玉町若神子の「九差路もどき?」[85778]伊豆之国さん からの連想で、七差路コレクションを開いてみました。

江戸川区菅原橋交差点:「[26273]烏川碧碧さんからは「最大十叉路説」の情報提供」と記載されていました。

2004年のこの記事から14年も経ていることでもあり、新たに検索してみました。
その結果、江戸川区郷土資料室による「菅原橋交差点の成り立ち」という 解説シート(2014/10/21更新)が存在することを発見しました。

現在は 国道14号 千葉街道と呼ばれている古くからの幹線道路に存在する複雑な交差点。
菅原橋交差点は、都内でも珍しく右記【地図】のように道が交差する 11差路となっています。

江戸川区が示した【地図】は、マピオンに道路名などを書き込んだもので、国道の北東=千葉県方面(1番)から時計回りの番号を付与。
江戸川区資料には「11差路」と記されています。しかし、9番とは水路を隔てた南側にある8番の道路は、菅原橋交差点から外れていると思われます。これを除外すれば、[26273]の10差路ということになります。

1番 千葉街道NE     2番 旧上八幡道     3番 昭和初期頃の小路
4番 鹿骨街道SE     5番 仲井堀通りS     6番 同潤会通り
7番 千葉街道SW     8番・9番 小松境川親水公園沿いの街道
10番 鹿骨街道NW     11番 仲井堀通りN

文化2年(1805)の『葛西御場絵図』には、「元佐倉道中」(7番/1番)が中井堀を渡る「菅原橋」が描かれています。
橋名の由来となった菅原道真公を祀る天満宮【現在は本一色北野神社】は、『明治38年(1905)の地図』に描かれ、橋の北側から【葛飾の】新宿(にいじゅく)に至る中井堀沿いの道(11番)には、小松川道と記されています。
参考までに 葛飾新宿の更に北は、灌漑用水の水源である 水元・小合溜[82206]です。
この地形図には、菅原橋の東に上八幡道(2番)も記載されています。葛飾八幡宮(かつしかはちまんぐう)の所在地は市川市八幡4丁目ですが、地名の読みは「やわた」ですね。上八幡道も同じかな?

鹿骨街道(4番)の前身らしき道は明治38年の地形図にもありますが、その名は未登場。
鹿骨(ししぼね)は難読地名。この道が整備されたのは、新小岩駅開業後の昭和戦前期のようです。

6番の道路に名付けられた「同潤会」[83708]という言葉は、関東大震災後の被害を受けた後、東京の都市圏が拡大した 昭和戦前時代を象徴しているようですが、この道が菅原橋交差点に接続され、航空写真(1963)のような姿になったのは、戦後の昭和29年(1954)頃であったようだと記されています。
この航空写真では中井堀の南側が完全な水路で残されていますが、それが徐々に暗渠化されて、仲井堀通り(5番)になったのは、1970年代前半とのことです。
[96160] 2018年 6月 1日(金)19:04:21【1】hmt さん
賽の河原
[96080][96118]では、関西「カンサイ」という読みの例外として話題になった「カンセイ」を題材にして、「呉音から漢音へ」という順序で日本に導入された漢字の歴史を概観し、併せて発音において混乱しやすい「アイ」と「エイ」との関連についても触れました。

今回は、京都市右京区の「西院」という地名から始めます。
阪急京都線の西院駅。バス停名は座標方式の交差点「西大路四条」、住所は右京区西院高山寺町。

京都西院駅が新京阪鉄道の地上仮駅として開業したのは 1928/11/1でした。 [20843]太白さん
四条大宮の京阪京都駅まで開通した 1931/3/31 には地下の「西院駅」となり、”関西最初の地下鉄”と謳ったということである。[17211]般若堂そんぴん さん

これよりもずっと前の 1910/3/25に 神戸の川崎財閥により 嵐山電車軌道が開通しています。
これが京都電燈の経営になり、戦時中には 電力企業から分離されて、京福電気鉄道になりました(1942)。

夜の繁華街を持つ京都と繊維工場などを持つ福井県とは、以前から両者を結ぶ送電線によって電力需給バランスを図っていた筈です。
しかし、戦時体制による電力国家管理[28941][61349]は、思わぬところで「京福」という組み合わせの意義を表面化することになりました。

それはさておき、新京阪>阪急の駅名は普通の読み方「サイイン」なのに、先輩格の嵐電>京福の駅名は「西院」と書いて「サイ」と読みます。[33039]ありがたきさん、[33569]なかなかさん
これは、如何なる事情によるものか?

右京区西院高山寺町の由来である高山寺は 淳和天皇[27426][27454]の離宮でした。
御所の西にあるお寺だから「西院」で不思議はありません。
ところが…

[59769]伊豆之国 さん
京都市の「西院」の駅名の読み方が阪急(さいいん)と嵐電(さい)で異なることについて、昔見たテレビ番組で、「元は西院(さい)村と呼ばれ、『賽の河原』からきている、と言う。阪急が『さいいん』と読みを変えたのは、『賽の河原』では縁起が悪いからだ」ということを聞いたことがあります。果たしてこれは本当のことなのでしょうか、読者の中でこの事情がお分かりの方は教えてください。

落書き帳過去記事には、上記の問い掛けに対するレスが見当たらなかったので、調べてみたところ、偶々手元にあった柳田國男『先祖の話』68話「さいの川原」に出会いました。
終戦直前の執筆、1946年発行の粗悪な印刷物ですが、京都五三昧【注】の一つであった「佐比」という川原に由来するということが記されていました。
【注】京都五三昧とされる火葬場
あみだが峯、舟岡山、鳥部山、西院(さい)、竹田(中山)の5ヶ所とされる。出典
参考までに江戸五三昧は[71932]で登場しています。

京都の魔界伝説にも、
西院の地名の由来は、現在の佐井通りに該当する「道祖(さい)大路」に接していたので「さい」と呼ぶようになったと思われる。
と記されていました。

テレビ番組で紹介された「賽の河原」>西院(さい)村 という説は正しいように思われます。
現在の漢字に騙されて、「御所の西だから西院」と単純解釈してはいけなかったのですね。

現在まで伝えられる空也上人の『西院河原地蔵和讃』。
空也が不幸な子どもたちの供養した平安時代はもちろんのこと、柳田國男が『先祖の話』を残した敗戦前後の時代に比べても、私達が当然のように享受している栄養状態や医療環境は格段の進歩を遂げています。
恵まれた時代に生きることができるのを感謝しながら、賽の河原の不幸な子どもたちへの思いを馳せたのでした。

余談ですが、嵐電・西院駅付近にある電鐘。
[91964] 伊豆之国さん
現在進んでいる阪急西院駅の改良工事(中略) どうなるかが気になります…

2018/4/5のお知らせによると、電鐘のある踏切には表示灯が設置され、信号機と警報音だけではなく、歩行者の目線でも電車接近をわかりやすくなっている模様です。ご安心ください。
[96118] 2018年 5月 25日(金)20:12:53hmt さん
関西(かんせい)の読み方(2)スペインの雨
[96080]で記した「呉音から漢音へ」の続編です。
日本語全体の流れの要約
 5世紀から本格化した南朝呉音文化の導入>
 7世紀から直面した隋唐帝国の影響による初期漢音文化>>【宋音の伝来など中間は省略】
 江戸時代・明治時代を経て変質したが、現在も漢音文化が優勢。
但し、仏教用語を中心として 呉音文化も一部に根強く残る。

このような認識を踏まえて、数年前の発言に関係する「地域差」を考えてみました。
[76598] Issieさん
「西:セイ(漢音)/サイ(呉音)」では,「関西大学」と「関西学院」のペアーが有名です。どちらが「かんさい」で,どちらが「かんせい」か,“東夷”(あずまえびす)には区別できません。

関東育ちの hmtとしては、漢音を使った「SEIBU」ブランド[61836]に親しんできました。
しかし、九州には呉音読みの西部(サイブ)ガス【登記上の称号は西部瓦斯】があり、大手都市ガス4社の一角を占めていることを知りました。

このことから、地域による呉音・漢音の使用傾向の違いがあるかと思い、調べてみました。
市町村雑学によると、現存市町村について西の出現は31回ありますが、訓読みの「にし」が多数で、音読みは10件でした。
その中では、呉音「サイ」7市(印西市/湖西市/愛西市/加西市/西条市/西海市/西都市)に対して漢音「セイ」は筑西市・西予市の他に高知県安芸郡芸西(げいせい)村の3つだけ。
地域による違いについては、印旛郡/浜名湖の西にある市が「サイ」で、筑波山の西の市が「セイ」という調子であり、西国/東国の地域差は見出されないように思われます。

福島県西白河郡西郷村は「にしごう」と訓読みでした。
ついでに、NHKドラマのタイトル「西郷どん」の読みは「SEGODON」。

[43834]
明治5年5月の太政官布告で、「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」になり、通称か名乗かどちらかを一つだけを選んで戸籍に記すことになりました。西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人が間違えて父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。名乗がほとんど使われていなかったという現実を窺がわせる逸話です。

…というわけで、幕末には「吉之助どん」という呼び名が一般的でした。
名字で呼ぶ現在の習慣もまだなく、「SEGODON」と呼ばれたとすれば、それは没後のことか? 
この呼名がドラマ中に登場する機会があるとすれば、それは年末近くのことと推測します。

それはさておき、呉音のサイゴウどん から 漢音のセイゴーどん に変化し、更に セーゴーどん→セゴどん となる変化は、口の開閉が少なく、口語では起りやすい音韻変化と思われます。

呉音サイ→漢音セイ とは逆向きの変化ですが、エイ→アイ と変化する有名な例についても、言及しておきます。

バーナード・ショーの戯曲『Pygmalion』…と言うよりも、それをミュージカル化した『マイ・フェア・レディ』。
ロンドン東部の下層階級で育ったイライザに正しい英語の発音を教え込み、レディに仕立てようとする言語学者の ヒギンズ教授。
彼が教材として与えた 有名な「スペインの雨」には「エイ」の音が5回出てきます。

The rain in Spain stays mainly in the plain.

これをイライザがコックニー訛りで発音すると、「エイ」が「アイ」になってしまいます。
ザ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリー・イン・ザ・プライン

オーストラリアの英語にも、today→トゥダーイなど、同様の訛りがあるようですね。
ドイツ語では「ei」と書いて「アイ」と読みます。

呉音・漢音から出発しましたが、発音は時代と地域が異なれば変化するものである。
当然のことでしょうが、いろいろと調べてみて、改めてこのことを実感した次第です。
[96080] 2018年 5月 23日(水)19:02:53hmt さん
関西(かんせい)の読み方(1)呉音から漢音へ
1
思いがけず話題になった「関西」の読み方。
私も関係ありそうな話題を、思いつくままに 幾つか記してみます。

「関西」には「近畿」など類似する概念の用語もありますが、言うまでもなく「関西」は「関東」と対比される広域地名として認識されます。関西国際空港などの新しい用例もありますが、近畿より限定された範囲、例えば独自の歴史をもつ都市圏や風土などが背景にある地域という印象を受けます。

机上の『大辞林』により見出し語「かんさい」【関西】を確認。関西大学などの派生語も掲載されています。
ところが、「かんせい」を引くと、寛政・慣性など多数の言葉が出ますが「かんせい」【関西】は出ません。「かんせいがくいんだいがく」【関西学院大学】まで進み、ようやく単独項目で登場。

2
日本語における漢字の常識。「西」の読みは 漢音「セイ」 呉音「サイ」 訓読み「にし」。

この中で「訓読み」とされる「にし」は、「西」という漢字の意味する「やまとことば」。言わば翻訳です。

3
日本への本格的な漢字文化流入は「呉音」を通じて始まりました。
「西」という漢字と共に入ってきたのは「サイ」という「呉音」だったのです。

これは、統一帝国の隋・唐が華北に成立する前の「南北朝時代」に長江下流域の国から伝えられた読み方でした。
建康(建業)【南京】に都を置いた王朝は三国時代の呉を含めて6つあったので「六朝時代」とも呼びます。
呉音の「呉」は王朝名ではなく 地域名と理解してください。

5世紀に「倭の五王」と接触した本格的な記録を残しているのは、南朝の宋王朝でした。
【10-13世紀の北宋・南宋とは別です。】

『宋書倭国伝』 に記録された「倭王武の上表文」(478年)。百済などからの渡来人の専門家を雇っていたにせよ、この時代になると、日本も立派な漢文による外交文書を作成できる段階に達していたことを示しています。
日本国内でも、「呉音」という形で華南の言葉に親しむようになりました。

仏教が公式に日本に伝わった6世紀。この頃になると、衰微した南朝に代り、文化流入は百済経由となっています。
このようにして、日本への本格的中国文化流入は、内容的には仏教が中心になりましたが、媒体としてはそれ以前と同様に「呉音」を媒体として行なわれました。

4
ここで、日本を取り巻く国際情勢が一変します。
中国が 長い分裂時代を脱して、華北に統一帝国の隋・唐が成立したのです。
日本からも推古朝の遣隋使(607)を経て、遣唐使(630-)によって直接外交関係を結ぶことになりました。

これまで「呉音」によって漢字文化に接してきた日本も、長安を首都とする統一中国帝国が「正統的な読み方」としている「漢音」と向き合うことになります。

長安【西安】がある渭水盆地は、秦・前漢の時代にも帝国の首都であり、「関中」と呼ばれる地域です。
「関西学院」から始めたこの記事として見過ごせない地名。東の函谷関と西の隴関との中間にある平野部。

5
さて、「西」という漢字を「セイ」と読む「漢音」について。

百済と組んで唐に反抗した白村江の戦(663)。それでも どうにか 生き残ることができた敗戦日本。

そして 百済滅亡の結果、百済の人々が逃れて多数来日。日本の「漢音文化」に貢献することになりました。
『日本書紀』(720)は、初期の「漢音文化」が日本にもたらした代表的成果と思われます。

しかし、遣唐使が学んだ「漢音」は、正統的中国語の発音に拘っており、日常語として定着していた「呉音」を完全に置き換えるものではなかったようです。

現代語として普及している「漢音」には、江戸時代の研究に基づく日本語音としての漢音や、明治の文明開化時代の必要から生れた和製漢語などの成果が盛り込まれ、初期のものから変質しているようです。

6
冒頭に記したように、大辞林では「かんせい【関西】」が見出し語になっていませんでした。

どうやら、現代日本語において 「かんせい」という読みは「固有名詞の一部」として存続しているが、広域地名としての“かんせい【関西】”という「漢音読み」は 事実上消滅している。
このように受け止めました。

ところが、大修館新漢和辞典の【関西】を見たら、読みが「カンセイ/カンサイ」と漢音優位で、「1 函谷関よりも西の地…」という説明文が付されていました。さすが、漢和辞典。

7
落書き帳過去記事における「関西 かんせい」の使用例を調べたところ、結果は僅かに4件でした。

関西学院大学の前身は 1889年設立。当時の日本では、東京を「とうけい」というように漢音読みにすることが多く【[75459]参照】、「かんせい」学院と読む校名も、このような歴史によるものと説明されています。出典

落書き帳に現れている他の事例である国有化前の 関西(かんせい)鉄道[61246]も、まさに漢音読み全盛であった同時代に誕生した社名です。急行用の「早風」、短距離用の「池月」など、優雅な形式名称の蒸気機関車に付けられていた「KANSEI」の社名を、写真で見た記憶があります。

8
「呉」と「漢」とは王朝名ではなく、中国の地域名と理解してください。
「呉」は長江下流域の水田地帯、「漢」は黄河中流域の畑作地帯というイメージで、「南船北馬」という四字熟語で知られているような異なる風土に、それぞれの文化が育まれてきました。
中国の南部と北部にある二つの地域の中で、気候に恵まれた華南と遊牧民族からの脅威と刺激を受けやすい華北。
歴史は華北に生れた強い王朝が覇権を握り、それが衰えて外敵を防ぎきれなくなると南部に避難して文化を守る。
そのようなパターンを繰り返しているようです。

9
参考までに、呉音から漢音へというページを紹介しておきます。
多数の文字について、呉音と漢音の違いの具体例が示されており、参考になります。
[95754] 2018年 5月 8日(火)17:01:15【1】hmt さん
Re:歩いて行ける!「三県境」
落書き帳で取り上げられたテーマの一つである都道府県境。私も関心を持ち、hmtマガジンを作っています。

落書き帳オフ会関連でも 2008年【青森/秋田県境確定記念】、2009年【岡山/香川県境・石島/井島の探検】、2010年【栃木/群馬/埼玉三県境訪問】と続いた過去があります。そして 2016年は【熊本/大分 県境の宿】。

そこで、今回 久しぶりに復活した「三県境」の話題にも反応して、「明治前期の毛武三国境付近の地図」を紹介することにします。

本題の前に、futsunoおじ さんがまとめた 全国の県境の基礎データを紹介しておきます。
2004年:三県境(その1)(その2)
2010年:三県境点のまとめ[第7回オフ会記念版](その1)(その2)
いずれも、hmtマガジン・都道府県境に収録してあります。

地名コレクションにも 同じく futsunoおじさんによる 大作・『県境の交通路』があります。
その 附録:三県境点 には番号が付与され、Mapionへの地図リンクがあります。
栃木/群馬/埼玉三県境は 11番です。地図11

なお、hmtマガジンには 特集渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域があり、「鶴の嘴の先端」[76876]に位置する「THE 三県境」を対象とする記事も多数収録しています。
筑波山オフ会2010 翌日の探訪ルートは、グリグリさんの作品です。

前置きが長くなりましたが、「栃木/群馬/埼玉 三県境」の前身は、言うまでもなく「下野/上野/武蔵 三国境」、つまり毛武三国境【2つの毛野国(両毛)と武蔵国】です。

本題である 毛武三国境の地図に入ります。
リンク先は、明治前期(●明治10年代)に作成された「迅速測図」【[65097]参照、フランス式彩色の施された原図】に基いて 独立行政法人・農業環境技術研究所が作成した 歴史的農業環境閲覧システム[65091]です。

地図の位置情報は、地理院地図の「THE 三県境点」の値を利用しています。
zoom値も揃えたので、昔の川の流路と 現代の県境 とを 同じ縮尺で対比することができます。

明治の地図で北東部・下野国と西部・上野国との境界は、基本的に渡良瀬川の線です。それは[95752]で引用された群馬県板倉町のページにあるように、「海老瀬の七曲り」と呼ばれた曲流部で、1910年の大洪水後の工事により新河道に改修(1918)されました。

現在はコンクリートで固められた渡良瀬貯水池(谷中湖)によりすっかり様子が変っていますが、「七曲り」の痕跡は現代の地図で谷中湖西岸の県境線に示されています。「海老瀬」の地名は谷中湖西北端にも見えますが、鶴の嘴の先端をクリックしても、「板倉町大字海老瀬」の名が現れます。

明治の地図で海老瀬の七曲りに戻ると、川の中央に境界線が通っており、大きな曲流の左岸(東側)に下都賀郡下宮村と記されています。その左、「17,36」と記された地点が、地理院地図で「大字海老瀬」を確認した鶴の嘴の先端です。

この地点で西から合流する川の中央にも境界線が引かれています。これが西側の上野国と南側の武蔵国との国境線ですが、これを遡ると境界線は西から来る川【現・谷田川】に入らず、【旧合ノ川を遡り】南の利根川に入っています。

川俣での「会の川締切り」(1594)以後、「新川通開削」(1621)までの間、上記の旧「合の川」は利根川の主流格の存在であったと思われ、これが上武国境となり、ひいては群馬埼玉県境に引き継がれたものと考えています。[77081]

このように、明治前期の地図では広域地名は「県名」でなく、「国名」が使われています。

私は hmtマガジン 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探るの前書きで
明治19年式戸籍の書式[62667]に使用例がありますが、「府県」が地名化した決定打は、明治32年の改正府県制ではないかと思われます。
と書きました。

この法改正により、「府県」は「国の出先機関」である 単なる「行政機構」から脱皮して、(首長はまだ官選でしたが)直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具えた「自治体」の性格を強め、地理的にも「○○県」と呼ばれるに足る独自の領域を確保するに至ったのではないでしょうか[62889]

毛武三国境から「三県境」への変化。それは 20世紀になり、明治も遠くなってきた時代と思われます。
このサイトの主テーマである明治以降の地方制度。
同じ「県」という名で呼ばれていても、制度が変れば実体が変る。
「三県境」の話題から明治の地図と現代の地図とを対比しつつ、時代の変化は避けられないことを実感した hmtでした。
[95744] 2018年 5月 5日(土)14:15:45hmt さん
水戸
[95743] 白桃さん の問い合わせに関連し、グリグリさんの手間を少し省く目的で、調査してみました。
落書き帳の過去記事から得られた情報だけですが、メモしておきます。

出典:明治22年3月31日施行の茨城県町村区域名称
[76874] むっくんさん 「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」にリンクされた『茨城県令達類纂、上』収載の 県令甲第十二号による

【23コマ】東茨城郡水戸 旧町村欄に 水戸上市、水戸下市、常磐村の内【数個の字を列挙】、【以下3村の内が列挙されているが引用省略】

【24コマ】東茨城郡常磐村 旧町村欄に常磐村(の内)【数個の字を列挙】

【25コマ】東茨城郡(の末尾) ○大貫町 【旧町村欄は空白】
ここに記された東茨城郡大貫町と、変遷情報詳細に記録されている 大貫村 との関係など、私には理解不能です。
とりあえず調査結果だけを報告しておきます。
[95696] 2018年 4月 18日(水)11:25:43hmt さん
このままでは、「丹波」ブランドを丹波市に独占されてしまう!
[95695] 稚拙 さん には「ヤフーのサイトをリンクするのもなんなので」とありましたが、昨日配信のYahoo!ニュース を見ると、篠山市が抱いている危機感【この記事のタイトル】>「丹波篠山」への市名変更意欲 がよくわかります。

----------(記事抜粋)----------
かつては、兵庫県と京都府にまたがって丹波国が存在していました。
時代が変わった今でも「丹波栗」や「丹波黒豆」など丹波の冠がついた特産品が販売されていて、日本全国に通じるブランドとなっているのです。 
ところが、この丹波を使うことである問題が。
実は、2004年篠山市の隣に丹波市が誕生しました。
ふるさと納税では篠山市も丹波市も「丹波ブランド」の食材を返礼品にしていますが、名前のややこしさが原因なのか、篠山市への納税額は、丹波市の半分以下だということです。
「このままでは丹波ブランドが奪われる」と危機感を募らせた地元の商工会などは、市名を「丹波篠山市」に変更するよう市に要望書を提出。
4月17日に篠山市から発表された 市名変更に伴う影響などの調査結果
丹波篠山のブランド低下による経済的損失が23億3000万円、市名変更による経済の波及効果額が28億7000万円以上  合わせて52億円以上の経済効果
----------(記事抜粋終)----------

神戸新聞記事にあった「現在の混乱状態が続くと、丹波篠山産の優位性が低下し」に関して
何がどうして「混乱状態」なのか、今ひとつ記事からはわかりにくいです。

千年以上も使われてきた広域地名「丹波」に基づくブランドが、21世紀に誕生した「丹波市」に起因する限定解釈を引き起こしている現状。
これを「このままでは丹波ブランドが奪われる」と感じて「混乱状態」と表現した篠山市の気持ち。
私にはよく理解できます。

本来は広域地名である旧国名。これを、一部の地域を表す市名として独占・僭称した事例。
楠原祐介『こうして新地名は誕生した!』(ベスト新書2008)第4章 大増殖した「旧国名僭称」型新市名 にまとめられています。

丹波篠山市への改名問題についての過去記事 もご覧ください。
[95690] 2018年 4月 16日(月)11:42:08hmt さん
Re:白桃@in東北スーパータウン
毎年、春になると一目千本桜を見に千葉県浦安市から飛んでくる
と紹介された渡り鳥でも、気象の変化を読みきれず、渡りの時を間違える結果になってしまったのですね。

平成30年一目千本桜開花状況によると、今年の満開は4月5日から8日でしたが、4月12日午後からの強風で一気に散ってしまったとあります。

過去10年間の開花状況と比較すると、開花日 3/31、満開日 4/5、散り始め 4/9の何れについても、最も早い日付が記録されたようです。
[95633] 2018年 4月 1日(日)17:31:21hmt さん
呉市の変遷履歴

この記事は、[94959]白桃さん へのレスとして1月に書き始めたのですが、未投稿のまま4月になっていました。
しかし、今日 [95629]に記された下記の一言に刺激され、投稿することにしました。
これだと「呉町」が隠れてしまい

私が書きたかったのは、明治21年の法律に基づく「市制施行地・呉町」の存在についての記事です。
長いイントロが付いていますが、本論は5です。
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[94958] むっくんさんによる 衝撃的な記事「呉町は存在しなかった」がありました。

この問題に関心を持っていたのは、落書き帳メンバーの中でも一部だけだと思われますが、当サイトの重要な資産である市区町村変遷情報に深く関わっていることでもあり、この機会に過去の経緯を含めて少しまとめてみました。

最初に、呉市の変遷関係関係する過去記事集とを示しておきます。

【お断り】
「市区町村の変遷」ページは「市区町村変遷情報」のデータからの自動作成を目指していますが[95583]、工事中の現在はそれが実現していません。上記リンクによって現在表示される「呉市の変遷」も、おそらく昨年の変遷情報に基づくものでしょうが、今回の記事の説明としては かえって好都合なので、そのまま使わせてもらいます。

「呉市の変遷」には平成合併で編入された安芸灘諸島に属する島々に関する情報が多数含まれ、膨大なものになっています。しかし 今回の話題に関係するのは、1902年の画面 赤文字の呉町【新設合併】と緑背景の呉市【市制】との2行だけです。

両者の日付は1ヶ月ずれていますが、実は両方共 1902/10/1であり、事実上
呉町は存在しなかった
それ故、「新設/市制」という1行として記載されるべきである。
これが[94958]の要旨でした。
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市制施行日については明治35年内務省告示に明記されており、最初から1902/10/1に異論なし。
そして、呉市のサイトにも4町村が合併して呉市誕生と記されていたので、これを信用した変遷情報も、2010年9月迄は、「新設/市制」1行の記載になっていました。

話を面倒にした張本人は hmtの[74500]でした。
統計局の 郡市町村廃置分合一覧表を見ていたら、偶然にも「4町村→呉町 明治35年9月1日実施」という廃置分合記録を発見し、1ヶ月だけ「呉町」が存在したのではないかと?という疑問が出てしまったのです。

約半年後の[76230]で88さんの検討結果が出て、1902年9月の合併、10月の市制という「二段階で間違いないと判断」され、変遷情報は修正されました。

前記過去記事集の冒頭に掲げた Issieさんの記事[123]にも記されているように、市の設置については 戦前の制度下でも内務省告示があったものの、町村の廃置分合については 全国的な情報入手に困難がありました。

呉市の場合について言えば、市制自体に関する情報である内務省告示M35-63号[62661]55番は、ndl官報を閲覧することもでき、また呉市の例規集にも収録されています。落書き帳では[74518]の末尾に告示原文が引用されています。今回の資料『呉市史』では 85コマ。
明治21年法律第1号市制第126条ニ依リ広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定シ明治35年10月1日ヨリ市制ヲ施行ス

ところが、明治時代 広島県内の町村合併情報が収録されていると思われる 広島県報となると、アクセスはぐっと困難です。

そこで二次資料で代用することにして 頼りにしたのが 前記統計局資料でしたが、この段階で見落とされたのが 呉町の発足日検証 であったようです。

なお、変遷情報が「1ヶ月だけ存在した呉町」に修正された2010年[76230]の翌年にも、「1ヶ月の呉町はあったのかしら」と植物的カンによる疑いの目で見ていた白桃さんの記事が記録されていました[79512]
統計局の資料の間違いは過去にもあったのですが、本件については疑うことを すっかり忘れていました。
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「呉町は存在しなかった」と題する[94958]で紹介された『呉市史』には、市制実施の準備と題した節があり、詳細な説明がなされています。その中から注目すべき記載を抜粋します。

4.1 広島県安芸郡長より関係町村役場への訓令
 本郡荘山田村 和庄町 宮原村 二川町を廃し其区域を以て呉市とし市制を施行せんとするに付 本月【M35/6】23日迄に其町村会の意見を徴し差出すべし【→各町村から異議なしの答申】

4.2 明治35年広島県告示第305号【落書き帳初出の重要な変遷情報】
 本年10月1日より安芸郡和庄町 荘山田村 宮原村 二川町を廃し其区域を以て呉町を置く
 明治35年9月2日  広島県知事 江木千之

4.3 (説明文、便宜上 文頭にabcを挿入)
 a 斯くて市制施行の希望は保証せられたり b 既に4ヶ町村は統一せられて呉町となれり c 呉町の出現は即ち市制施行に必要なる前提たり d 何となれば個々の独立せる町村が直に一躍して市となるは手続上之を許さざるのみならず自治体進歩の順序にも循わざればなり e 既に4ヶ町村が1町に統合せられたる以上は其の財産の処分を為さざるべからず【以下略】

この説明文を見ると、6月の郡長訓令(4.1)では4町→呉市と1段階だった合併が、9月の広島県告示(4.2)によって呉町を経由する2段階方式へと変化し、この間の事情を説明したものが 4.3の説明文であると理解できます。

4.4 明治35年内務省告示第63号 番号は[62661]、条文は[74518]の末尾等に既出
 明治21年法律第1号市制第126条に依り広島県安芸郡呉町を市制施行地に指定し 明治35年10月1日より市制を施行す
 明治35年9月1日  内務大臣 内海忠勝【[74518][94958]の内野は誤記】
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ようやく、この記事の本論である「市制施行地・呉町」に入ります。
「市制施行地」という言葉は、旧・市制【注】という法律の 第七章附則 第126条に基づく用語です。
第126条 此の法律は明治22年4月1日より地方の状況を裁酌し府県知事の具申に依り内務大臣指定する地に之を施行す

【注】旧・市制とその残影
「市制」と「町村制」との2つの部分から成る明治21年法律第1号の一部であり、明治44年全面改正後の 明治44年法律第68号「市制」と区別して「旧・市制」と通称する。

「旧・市制」時代に誕生した市は[62661]にリストアップされている。
64番目の新潟県高田市【現・上越市】誕生後の 1911/10/1に明治44年改正「市制」が施行され、「市制施行地」という法律上の概念はなくなった。
しかし、住所表記は現在でも「市部・郡部」で区別され、国勢調査にも残存している。

それはさておき、[62661]に挙げられた64市の内、63市は「単独市制」です。
唯一の例外はどこか? それが「呉市」だったのですね。

「新設合併/市制」という現代では普通に思われるパターンに最初に挑戦したのが呉地区でした(4.1)。
ところが、内務大臣の指定による「市制施行地」を前提とする当時の法律(旧・市制)は、必ずしもこれに合うものではありませんでした。
明治35年よりも少し前、明治31年末のデータになりますが、安芸郡和庄町の現住人口は21553人でした。近隣の町村との合併後は市の基準値2万5千に合わせるとしても、これでは合併前に「市制施行地」になれない。

苦し紛れに繰り出した一手が、合併→即日市制という「瞬間の呉町」を市制施行地として認めてもらうこと。
これが成功した結果を示すのが明治35年内務省告示第63号(4.4)であったのでした。

「呉町は存在しなかった」などと冷たくあしらうのではなく、(技能賞か敢闘賞かはともかく)呉市実現への努力を讃え、「市制施行地・呉町」が公認されていた事実を 変遷情報にも記録してほしい。これが私の感想でした。

一見しただけでは「呉町」が無視され、1段階の「新設/市制」に見える変遷履歴情報一覧表。hmtも白桃さんが声を挙げた[95629]に同感できます。
それは ともかくとして、変遷情報詳細まで見れば、「呉町設置」や「広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定」の告示が きちんと示されていました。
hmtとしては、このことを確認して一安心しました。
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蛇足ですが、「市制施行地」制度が廃止された明治44年改正法の下で、正式に誕生した「新設合併/市制」の最初の事例は1916年の尼崎市でした。
そして、1921年になると山口県厚狭郡宇部村の単独市制による宇部市が誕生します。
時代と共に増殖する「市」は、『呉市史』の説明文(4.3d)が記された「旧・市制時代の市」とは確実に変ってきたことを感じます。
[95556] 2018年 3月 18日(日)13:13:53hmt さん
浮間舟渡
[95554] 特急とりあたま さん
東京都板橋区舟渡/埼玉県川口市舟渡町

この記事を最初に見た時に、私は板橋区舟渡の対岸に舟渡町という地名があるものと誤解して、
「埼玉県舟渡の一部が東京都になった由来……それは 1950年に荒川を舟で渡ったからなのです。」
というレスを書き始めてしまいました。
ところがリンク地図を見ると、新荒川大橋付近の地名は 川口市「舟戸町」であることが判明し、この冗談は不成立。

文字違いのことはさておき、例えば[90145]を見ると、1950/4/1に、埼玉県戸田町舟渡が東京都板橋区に移ったことが記録されています。[79523]には地名「舟渡」は記されていませんが、1番に記された総理府告示による境界変更です。
「舟渡」という地名は、河川改修により 都県境の荒川を越えた結果 なので、立派な「自治体越えの地名」と思われたが、そもそも埼玉県側に「舟渡」が残っていなければ話になりません。

参考までに舟渡の記事集  誤記で「船渡」となっていた記事もあります。

「都道府県市区町村」サイトとしては、自治体越え地名集めもさることながら、変遷情報の充実が大切です。
とんだ失敗の副産物ですが、[90145]を再読した機会に 改めて気になった点を記しておきます。

1 舟渡に隣接する地域名を「浮間」に訂正【[90145]の表】
舟渡の下流側隣接地も、舟渡の境界変更より前 1926/10/1 に 埼玉県から東京府に境界変更されました。
その地域名ですが、当時の北豊島郡「岩淵」町よりも、現在の北区町名でもある「浮間」とするのが適切と思われます。
浮間の地名は 変遷情報詳細に記されており、[36159][65713][79661]などで使っています。

2 「浮間」に隣接する「舟渡」の境界変更が変遷情報未収録となっていることも気になります。
埼京線浮間舟渡駅が設けられている現在では、北区と板橋区に跨る両地域は一体的に理解されているようです。
人口異動289人は前小屋【収録済】の2倍以上の規模。[90145]末尾の【注】に記した「入飛駒」だけでなく、できるだけ変遷情報収録範囲を広げてほしい。ご検討をお願いします。>グリグリさん
[95543] 2018年 3月 15日(木)19:43:25hmt さん
北緯35度
[95542] リトルさん
大津駅の「北緯35度モニュメント」

地理院地図で確認してみたら、現在の北緯35度線は大津駅の南方を通っていました。
言うまでもなく、2002年に世界測地系に移行した結果です。[45617]

北緯35度に位置する最も有名な都市は京都です。
日本測地系時代の地勢図では 中央の北緯35度線が四条通の上に描かれていました。
現在は四条通と五条通=国道1号、9号との中間です。

南房総市が設置した「北緯35度最東端」の 標識 がありました。

北緯35度から少し広げますが、参考までに 経緯度時刻に関する過去記事を拾っておきます。
[95531] 2018年 3月 11日(日)15:48:04【1】hmt さん
「3・11」 と 「3・10」
「3・11」と言えば、2011/3/11に発生した 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震。[77760][77767][77775]など。
12都道県での死者1万5,859人,行方不明者3,021人。出典
大規模な地震と津波という天災だけでなく、それに起因する原子力発電所の事故に伴う人災により、その影響が長期化したことは報道されている通りです。

日付が1日だけ早い「3・10」は 1945/3/10の 東京下町大空襲。
落書き帳には記事を書いていませんでしたが、戦争という人の行為に基づく「人災」です。
参考 2017/8/13放送のドキュメンタリー 左から3人目が、空襲を指揮したカーチス・ルメイ[43161]です。

空襲は戦争中全国の都市に及び、東京だけでも何回も繰り返されました。
しかし、1945/3/10の焼夷弾攻撃による約10万人という死者数は、特筆に値する人数でした。
1945/5/25の 山の手大空襲 も甚大な被害を及ぼしました。宮城【皇居の呼び名です。読みは きゅうじょう】や新聞社が焼け落ち、「共同新聞」が発行されたことが記憶に残っています。しかし、こと死者数に関する限りは、下町大空襲より ずっと少数でした。

都道府県別の空襲被害死者数を見ると、原子爆弾攻撃を受けた広島・長崎と並んで、東京が抜群のトップ3に入っています。これは3月10日【注】の空襲が、「通常兵器」であっても、核兵器に匹敵する大きな力を発揮する場合があった ことを示しています。
【注】偶然にも、1905/3/10に奉天大会戦[59385]が行なわれた陸軍記念日でした。

それはさておき、別の「3・11」に関するお話。
神奈川県津久井郡城山町と藤野町とは、2007/3/11に相模原市に編入されました。変遷情報詳細
これにより津久井郡は自然消滅。

平成合併の時代には郡の自然消滅など珍しくないこと。何を今更?

でも「津久井」は 落書き帳では有名な地名です。[86752]
元禄4年(1991)には 津久井領から 「津久井県」という名になりました[41805]
これは近世唯一の「県」として明治3年まで存続[1196]太政官布告M3-131

hmtは、出身地だった津久井郡の命日?を偲ぶために、マガジン津久井マガジン相模川とを新設しました。
その他、マガジン海と島の記事も追加。

結局のところ、書きたかったのはマガジンの「お知らせ」だったのでした。
[95530] 2018年 3月 11日(日)12:23:10hmt さん
海と島(30)石狩湾挽歌
[95528] 白桃 さん 後志挽歌
この曲は「後志挽歌」とすべきではないか・・・
小樽の前にある海は石狩湾なので、それでいいじゃないの、幸せならば…。

ニシン漁で賑わった海…と言っても、作詞者・なかにし礼 の少年時代、小樽に住んだ頃よりも前の時代の海。
それを偲ぶ歌なのでしょう。

海がテーマなのだから、地理的な立場からすれば 「石狩湾挽歌」 が適切でしょう。

「石狩」という地名から連想するのは平野の中を蛇行する大河です。
松浦武四郎の命名した「後志」に至っては後方羊蹄山に由来する「陸の地名」です。

それはさておき、Webを探っていたら、歌詞にある「沖を通るは 笠戸丸」に着目した ページ がありました。

移民船や豪華客船としての笠戸丸の存在は、私も辛うじて知っていた程度。
偶々出会った今回のページで、帝政ロシア時代の病院船>旅順港で接収され呉軍港所属になる。
船名の由来は山口県の笠戸島。移民船・豪華客船・台湾航路などの時代を経て、昭和になってからは北方漁場に出漁。
第二次大戦末期にソ連軍に接収され爆沈。…数奇な一生の船でした。

なかにし礼が満州から小樽に引き揚げてきたのは8歳の時で、笠戸丸は既に存在せず。
それでも、成人していた兄が一攫千金を狙ったニシン漁が存在した時代でした。
大きな賭けが成功かと思われたが、輸送中に船が沈没。一家離散という結末でした。

歌のことなど知らないのですが、笠戸を含めて、地名にまつわる雑多なことを書き連ねてしまいました。
[95525] 2018年 3月 8日(木)21:05:01【1】hmt さん
組合村のデータ
【冒頭ですが 追記】
この記事を投稿した後で[95514]ekinenpyouさんの記事をを読み返し、自治年鑑1948に関する次の注意書きの存在に気づきました。
組合町村名が少々わかりづらい箇所があり(福島県など)補完としてこちらなども参照のこと

参照用にリンクされていたのは 1949年発行の「全国市町村便覧」であり、表記は異なるが 神奈川県足柄下郡蘆湯(アシノユ)村 の部分に
箱根町、元箱根村と組合村役場位置箱根町
であることが明記されていました。

注意書きに気づかず、自治年鑑の記載不備を中心に長々と記す結果になってしまいました。
hmtの記事内容は、直接に訂正を必要とするわけではないと考え、そのまま残しておきます。
しかし、投稿時に考えていたほどの価値がある指摘ではなかったようです。
ekinenpyouさん、むっくんさん、読者の皆さんにお詫びします。【追記終】

【以下本文】
町村事務組合。市町村が広域した現在では、消防や廃棄物処理など限られた分野で使われるのが常識になっています。
しかし、1889(M22)年の町村制施行当時は、弱小の村が多く、事情が異なりました。

埼玉県の例を拾うと、現在白岡市の一部になっている地域に南埼玉郡日勝村という村がありました。1895(M28)に前身9ヶ村【1889年発足】の 合併によって成立した村です。

余談ですが、合併日は 日清戦争 講和条約【注】会議の直前であり、村名には「日本の勝利」が高らかに付けられています。
【注】 現在では「下関条約」が普通ですが、当時の地名は「赤間関市」でした。地名の通称により「馬関条約」の呼び名もあります。

それはさておき、9ヶ村合併後でも面積 12km2弱、人口約 4000人という農村地域です。
経済データなどなくても、役場・学校その他の地域役務を行う資金が潤沢にあるわけがない。
必然的に近隣の9ヶ村による共同事業ということになった。その結果が「組合村」。

こうして発生した組合村が合併により統合され、更に戦時合併、戦後の教育改革による中学校新設に伴う課題解決、など種々の要請がからみ、昭和大合併に至りました。

昭和大合併による自治体規模拡大によって ほぼ全滅するまで ある程度利用されていた「組合村役場制度」。
市町村の歴史に関心を持つメンバーとして、その実態を知りたい。
かねて抱いていたこの思いですが、落書き帳に取り上げられないまま、現在に至りました。

古くは[39940]ひげねこ さんの記事がありましたが、フォロー記事が続かず。

しかし、最近になって [95463]の末尾の1行を きっかけとして、むっくんさん・ekinenpyouさんによる 解説・調査が行なわれ、知識を深めることができました[95495]

その後、具体的な材料として、自治年鑑(1948年版)の町村長氏名における組合表示の存在が示され[95514]、これに基いて [95517]では戦前・戦後における府県別一覧表を示していただきました。

ここまで具体的なデータを見せていただいた結果、私の目についたのが次の1行です。
神奈川県 足柄下郡 【S21】箱根町, 元箱根村, 芦之湯村 【自治年鑑1948】箱根町のみ記載

「芦之湯村」から hmtが思い出したのが「直接民主制」「町村総会」というキーワードであり、[35747][35748][65174][92819][92835][92877]などの記事でした。

芦之湯村が1950年代まで存在していたことは知っていました。人口が極めて少ないこの村が組合村から外れ、独立していた筈はない。自治年鑑1948の記載に不備な点が存在するようだ。このことに気がつきました。

芦之湯村消滅時期だけならば変遷情報で確認するのが簡単ですが、折角なので YTさんの表[84549]を使って 1950年国勢調査人口を確認したところ 120人。箱根町826人、元箱根村1050人でした。
国勢調査人口表には組合関係が示されていませんが、1954/1/1合併の前まで存在していた元箱根村と芦之湯村(の村長名)を欠く自治年鑑1948の記載は、不備であることが確かです。神奈川県足柄下郡では、真鶴町組合の首長名についても同様です。

同じ手法で、多数の組合村データが記された自治年鑑1948の福島県【59-61コマ】も調べたところ、[95517]で「○○村のみ記載」と指摘された例は、箱根町の場合と類似不備多数(…のおそれ)。
石城郡澤渡三阪村のように、組合でなく連称表示にしている例もある。なお、沢渡村と三阪村は1955年まで存続し永戸村と共に三和村を新設。永戸村と組合だった箕輪村は同時に分村消滅。
石城郡小川村も、国勢調査や変遷情報の上下2村が正しいようです。勝手に作った村?

一々挙げると長くなるのでこのくらいにしますが、自治年鑑1948のデータは有用な情報が含まれている反面、国勢調査や変遷情報と矛盾する点もあるようです。
まるごと信用することはできない。そのように評価しました。
[95508] 2018年 3月 1日(木)18:45:44【1】hmt さん
一音地名コレクションに関する提案
[95502] そらみつ さん
地名コレクションは完成させるためのものではなく、収集して楽しむものだということを忘れていました。
「浜」コレクションと「一音地名」コレクションをお受けしたいです。

早速 就任決定[95506]とのこと。おめでとうございます。

この機会に、久しぶりに 一音地名コレクション を訪問しての感想です。

冒頭の説明文末尾には、一音地名集めの きっかけとなった過去記事 2件が記されています。
このような関連情報も、コレクションを編集し、読者に提供する上で大切なものと思います。

…というわけで、編集の際に、都道府県市区町村サイト内に下記のような関連情報の存在も、リンクにより提示しておくことが好ましいのではないかと思います。
検討をお願いします。

1 市区町村雑学 に収録されている 短い読み・長い読みの市区町村
 この中に「読みが一文字の市町村(五十音順)」があります。
 津市以外は過去帳入りしていますが 市制町村制施行以後だけでも 19件が収録されています。
 コレクション収録済みの一音地名の中には、1889年施行時前の旧村も含まれていると思われます。
 変遷情報検索の対象を履歴情報に拡大することにより、ある程度は旧村由来が解明されるでしょう。
 

2 落書き帳アーカイブズ 漢字・読みともに一文字の地名
 前記2件を含め、31件の記事が収録されています。

【追記】
一音地名ではありませんが、市町村雑学の類似テーマとして、一文字地名あいうえお [94018]がありましたね。
一音地名の一部は、こちらにも収録されていました。
[95490] 2018年 2月 26日(月)18:42:27【2】hmt さん
Re:面積データの更新
[95488] グリグリ さん
2016年10月1日面積から増減があった市区町村は以下の通りです。都道府県の増減はこちらをごらんください。

1km2以上の増減は東京都と長崎県のみ。長崎県の -1.32km2は、大部分が対馬市でしたが、詳細は不明。

2.96km2増加した東京都は、落書き帳の過去記事にも関係ありそうなアイテムなので、少し補足してみました。

1 特別区部 +0.78km2
落書き帳過去記事の話題対象としては、江東区と大田区との間で争われている「中央防波堤埋立地帰属問題」がありますが、[93551][94347]で紹介されているように未決着であり、今回の面積調とは無関係です。面積も、5.09km2よりもずっと小さい値です。面積調によると、新たに生じた土地。H28/10/7 東京都告示1695号。

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面積調から離れますが、この機会に、中央防波堤埋立地帰属問題のその後の情報です。

東京都臨海部の人工島「中央防波堤埋立地」の帰属問題で、大田区は【2017年10月】30日、同様に全島帰属を主張していた江東区を相手取り、境界画定を求めて東京地裁に提訴した(毎日日経)。

財政については調整制度があり、埋立地の所属が何れの区でも、固定資産税は東京都の財源とされるようです。
しかし、東京オリンピック2020の会場にもなる埋立地の帰属は、区のブランドイメージを世界に対して高めます。

それだけでなく、中央防波堤埋立地ので引かれる線引きは、その南側に造成している 新海面処分場 の帰属にも影響すると考えられています。参考


現在 唯一の公共交通機関は、りんかい線の東京テレポート駅前(江東区)発着の都営バスです。
大田区側から通じる道は海底トンネルだけです。その道は 2012年に 東京ゲートブリッジの開通により 江東区若洲とも結ばれています[80265]
都心側をがっしりと抑えた江東区に対し、西側の大田区は明らかに劣勢です。
何とかして、勢を回復したいという大田区の思いが、調停案を蹴り、裁判に迄持ち込ませた動機なのでしょう。
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2 市部 -0.25km2
これは相模原市との境界をなす境川に関係した境界変更・境界修正です。
関連過去記事は [81933][90145]に至るまで、多数あると思います。

3 小笠原の西之島 +2.43km2 断然トップの面積増加 0.29km2(H28)→2.72km2(H29)
山野さんの記事が [86381]から[92808]までの間に多数あります。
[95484] 2018年 2月 25日(日)15:15:05hmt さん
Re:町村組合の歴史
[95477] むっくん さん
この機会に町村組合の歴史を簡単にですが、振り返ってみます。

市町村が、その事務の一部を組合に委託する形で共同処理していることは、消防や廃棄物処理の分野で広く行なわれており、現在でも生活に密着した自治組織として承知しています。
一方、明治以来の市町村の名称を調べていると、昔は「神奈川県津久井郡青山村外1ヶ村組合」という類の組合名を、頻繁に目にします。

市町村事務の共同処理という共通項で括られる この2つの制度。
殆ど意識していなかったこの事実を認識させてくれたのが、組合村の首長職肩書に関する疑問[95463]と、その回答[95469]でした。
これまで、全部事務組合、役場事務組合という名も知らずにいましたが、一部事務組合()を含めて、それぞれの首長が存在することを再認識しました。

そして、今回更に町村組合の歴史[95477]についての説明を補足していただきました。

ありがとうございます。最後に1959年まで残った役場事務組合の名は不明ということですか。

愛知県では、村の分立がされた後に当該2村による全部事務組合を結成したところがあります。

愛知県告示M24-122により碧海郡境村から「分立」した東境村がその例ですが、告示M24-173により碧海郡重原村の「分割」により生まれた半高村と重原村も、組合になったという点では同類ですね。
なお 明治24年愛知県令達類聚目録記載の告示第182号「碧海郡半田村外一ヶ村組合の件」は「…半高村…」の誤記です。

「○○村」という村名は、分立や分割という手段を使ってでも確保したい。
しかし、事務処理の統合・合理化はそれとは別問題ということでしょうか。
名称を確保したいという村人の望み。それを考えさせられる事例と思います。
[95470] 2018年 2月 21日(水)19:40:34hmt さん
組合村消滅は昭和大合併の結果?
[95469] むっくん さん
全部事務組合と役場事務組合は1959(S34).10.1から存在しなくなりました。

hmt出身地の近くにある宮ヶ瀬ダム[43001]は、2000年竣工の巨大な多目的ダムですが、その名は 1956/9/30【昭和大合併[93622]の末日】に消滅した 神奈川県愛甲郡宮ヶ瀬村に由来します。

煤ヶ谷村との合併で生まれた清川村[83701]は、1958年から現在に至るまでの約60年も「神奈川県唯一の村」として続いていますが[83698]清川村の沿革に記されているように、1889年の町村制からの 67年半は「煤ヶ谷村外一ヶ村組合」という全部事務組合でした。

このような知識に基づき、私は 全国に残っていた組合村は 昭和大合併で消滅したのだろうと漠然と考えていました。
今回紹介された総務省のページには、昭和大合併末日の3年半後以降は、組合村が存在しないとの記載がありました。
この3年半の期間には組合村が残っていたのか否か? 少し気になりました。

…と言っても、自分で手間をかけて調べるつもりもありません。
安直にWikipediaを見ると、存続期間の末年が 1956年となっている町村組合の実施例が 6件ありました。
それ以後に存続した例が示されていないので、?付きタイトルの記事にしておきます。

この6件につき変遷情報を調べたところ、 煤ヶ谷/宮ケ瀬組合と同様に 67年半存続した組合村が、昭和合併によって統合された。そのような例が大部分でした。

しかし、静岡県駿東郡高根村→御殿場市と須走村→小山町が関係する組合だけは、日付・編入先が異なることが判明。

相方の高根村に去られた後の須走村にとっては、最後の9ヶ月の後始末が大変だったことと思われます。

組合解消の結果、村長・村議会・村役場など組織一式が新たに必要。
単独事務のための須走村役場も9ヶ月のために新設? 簡素なもので対応するにしても、大変ですね。

その他の該当5組合に関係する昭和合併記録(4件)も列挙しておきます。
神奈川県愛甲郡清川村(煤ヶ谷/宮ヶ瀬組合)
三重県安芸郡芸濃町(雲林院/河内組合+3村)
和歌山県東牟婁郡熊野川町(九重/玉置口組合+2村+)
熊本県飽託郡天明村(銭塘/内田組合+奥古閑/海路口組合+2村)
[95468] 2018年 2月 20日(火)17:11:41hmt さん
バルカン半島の内陸国・コソボが独立してから10年
バルカン半島の内陸国・コソボが独立してから10年
平昌オリンピック参加 91ヶ国のリスト[95441]に付随した雑談です。
馴染みのない小国も多い中で、新聞の【スポーツ面でなく】国際ニュース面に「久しぶり」に登場したコソボを取り上げてみます。

国名としてのコソボ。私としては、これまで殆ど認識していない「国」でした。
記憶に残るのは 1998~1999年のコソボ紛争です。
当初はユーゴスラビア国内にありながら民族や宗教を異にする一地域の民族紛争でした。

しかし、国際世論の動向は NATOによる空爆>セルビア軍の撤退>国連の暫定統治を経て 2008/2/17のコソボ独立宣言という結果をもたらしました。

米英仏は早速コソボを承認。影響力のあるドイツも続きましたが、EU内部にも慎重な姿勢を示す国があり、セルビアと ロシアは勿論大反対です。
日本を含めて国連加盟国の半数以上がコソボを承認しましたが、中国は不承認。
拒否権のある2国の反対で、国連加盟は実現していません。

最近の新聞の国際面にコソボが登場したのは、独立10年という節目だからです。
2/19読売の見出しは「独立10年 晴れぬコソボ 貧困、失業…漂う失望」でした。
他紙も ほぼ同様に 政情不安・経済低迷など多くの課題が残されている現状を伝えています。

以上は 現在のコソボ共和国 ですが、Webを調べると 世界飛び地領土研究会>消滅した国々 に、同名の コソボ共和国を紹介するページがあります。
こちらは 1991~1999年に自らの存在を主張した国でしたが、承認してくれたのは アルバニアだけでした。

落書き帳の読者として注目してほしいのは、リンクした上記のページに描かれている国旗です。双頭の黒鷲「スカンデルベクの鷲」の図柄は アルバニアの国旗[86819]と同じであり、
※コソボ共和国の国旗も、国連暫定統治前【の20世紀末に】はアルバニアと同じ旗が使われていたが、【2008年の独立以後は】国内6民族(アルバニア人、セルビア人、トルコ人、ゴロニ人、ロマ人(ジプシー)、ボスニアク人(ボ スニアのムスリム人)を象徴する6つの星を描いた旗を改めて制定した。
という説明が付けられていました。
[95441] 2018年 2月 15日(木)19:21:59hmt さん
平昌オリンピック開会式の入場順
2018/2/9の開会式からだいぶ遅れてしまいましたが、過去のオリンピックでは、開会式の入場行進順番に関する記事を書いたことがあります。
たぶん最初は、2004年のアテネ大会です。

2008年に北京で開催されれた「第二十九屆夏季奥林匹克運動会」の時は、「国名に使われた漢字の画数と筆順」というユニークな着目点に驚きました。
これが漢和辞典にも掲載されている正統的な方法であることを知ったのは、Issieさんのご教示の後でした。関係記事

1988年のソウルオリンピックは、落書き帳発足前でもあり、「カナダラ順」という言葉は その後の記事[31908]により伝えられるだけです。
ハングル文字は落書き帳では書き難いし、何よりも関連する知識を持ち合わせていません。

そこで、開会式入場行進の順番表だけですが、とりあえず紹介することにしました。出典
日本の五十音順に相当するものでしょうが、だいぶ違うようです。

先頭のギリシャは別として、2番がガーナ、3番がナイジェリアと続き、ナ行の後は ダ行、ラ行と続くあたりに「カナダラ順」が見えているように感じられます。
このような「行の順番」が、日本の五十音との最大の違いでしょうか?

アルファベット順でも近い「IとJ」。今回もイタリア・インド・ジャマイカなど御馴染みの国々が近くに居ました。
しかし、この仲間が揃って後半の 60番付近以降に下がっています。
これが 普段のABC順と違うな と感じるところです。

雪国だけでなく、熱帯の国からの参加もあるが、気候とは別に内戦などの問題で参加できない国もあるようです。

発音の似ているオーストラリアとオーストリア。平昌リストでは並んでおり、これは常識的な結果。
しかし、ソウル1888の順番では、大きく離れています。ソウルでは「濠洲」の音を使った?
[95432] 2018年 2月 13日(火)17:58:49hmt さん
祖父江
[95429] シノレパシクソ さん
現・愛知県稲沢市の木曽川沿いに祖父江町というところがあったのですが、岐阜県瑞穂市の南東部、墨俣一夜城のすぐそばにも「祖父江」という住所がありました。

高分子化学の 祖父江寛教授(愛知県出身)を思い出し、「祖父江」の由来を調べてみました。

変遷情報検索で祖父江を調べると、紹介された愛知県と岐阜県の系統が出てきました。
愛知県中島郡【(旧)下祖父江村>】祖父江村>祖父江町>稲沢市
愛知県中島郡上祖父江村>朝日村>一宮市
岐阜県本巣郡祖父江村>牛牧村>穂積町>瑞穂市

「そぶ」と祖父江さんによると、田圃の水中に浮いている赤錆(酸化鉄)を「そぶ」と呼び、木曽川から取水した赤茶色の農業用水「そぶ水」に含まれている。
稲沢市祖父江町の地名は、「そぶ」が多い入江ということから名付けられた。

祖父江という苗字・地名は東海地方に多く「ソブエ」と濁音で読む。
同系統である「シブ」つまり金錆(金糞)のあるところ」を意味する地名は、祖父谷、渋谷、曾布川、蘇武(そぶ)、小千谷(おじや)など。

愛知県木曽川沿いの他に、岐阜県の穂積や、養老町にもある「祖父江」地名。
これらは、分割等に由来する「自治体越え」ではなく、自然条件の類似から「赤錆」が目立ったことに由来した自然条件型地名として、同一の名になったものと推察します。
[95415] 2018年 2月 9日(金)11:50:36hmt さん
赤いシリウス
2018/1/31の皆既月食の際に、地球の「かげ」に回り込んだ光に照らされて赤く見える「ブラッドムーン」[95358]が話題になりました。

[95368]で引用した過去記事の中には、「赤い星」の代表としてオリオン座のベテルギウス【赤色巨星】を挙げていますが、他にも「赤い星」として有名な存在としては、惑星の火星や 赤色巨星のアンタレスがあります。
夏の夜空を彩る Antares は、その名からして Ares【火星】由来であり、和名は赤星です。

ところが、昨夜の NHKテレビ・コズミックフロントNEXT で、約2000年前に「赤いシリウス」が観測されていたことを知り、驚きました。

シリウスと言えば、冬の夜空に君臨する 明るい白い星です。
古代エジプトでは、夏至の頃、夜明け前の太陽と共に地平線下から上昇してくるシリウスを、ナイル川の水量増加を予知させる「ナイルの星」として崇めました。
農業生産にとり重要なこの現象は、世界初の太陽暦の発明と採用、その年初決定に使われました。
古代文明発祥に深く関わっていたシリウス。
その星が「赤い時があった」とは驚きです。

もちろん、現在はシリウスBとして知られる伴星の白色矮星は、赤色巨星だった時代があるのでしょう。
でも、それは人類の歴史とは比較にならない大昔のことです。

下記の参考ページではその理由が不明なものの、恒星の進化からすれば「ごく最近」の二千年前に観測された赤いシリウスについては、過去にも 多くの謎解きが試みられたようです。

最新の説らしいのが、「ヘリウムフラッシュ」の可能性です。
日本のアマチュア天文家が 1996年に発見した桜井天体が、この新説のきっかけとか。

来週水曜日の深夜に再放送されるようです。
関心のある方はどうぞ。
[95403] 2018年 2月 7日(水)18:54:04hmt さん
まだ備前市福浦
落書き帳には、2003年の2県にまたがる島で登場した取揚島。
小さな無人島ですが、その南西部が岡山県の飛地とも思われるために[41400]などで話題になりました。

戦後の1955/3/1、国鉄山陽本線のバイパス・赤穂線が播州赤穂から日生(ひなせ)まで延長開業し、「備前福河」駅が開業しました。当時の所在地・岡山県和気郡福河村大字福浦の中で「村名」に由来する駅名ですが、「福河」とは明治合併における「福浦村と寒河(そうご)村」とを組合せた合成地名でした。

実はこの福河という村名、駅が開業した月の末日(1955/3/31)には日生町との昭和合併で消滅します。
行政関係者としては明治以来の村名を駅名に残したかったのかもしれません。しかし、江戸時代の旧村名、そして明治合併以来の大字名として住民が使ってきた「福浦」を駅名にした方がよかったかも?

そんなことを考えたのは、1963/9/1に、本土部分の福浦集落(明治合併前の旧・岡山県和気郡福浦村)ぐるみで、岡山県和気郡日生町から兵庫県赤穂市への境界変更が行なわれたからです。この境界変更の結果、
「備前」なのに兵庫県
という違和感のある状態になりました[46914]
…でも、違和感の由来は「福河駅」ではなくて「備前」を冠したことでした。備前を冠した理由は謎。

それはさておき、変遷情報岡山県では見ることができませんが、変遷情報兵庫県の詳細を見ると、境界変更対象地域は「日生町大字福浦の区域(【中略】を除く。及び福浦地先海面のうち【後略】)」と記されており、昭和38年自治省告示第106号により確認することができます。

実は、私としては【中略】の部分に記された多数の地名に注意を払っておらず、[95311]以降の福浦スレッドから脱落しています。
その後、Nさん、YTさん、ekinenpyouさんからの情報もありました。皆さんの記事により、鹿久居島の一部が福浦に含まれていたことを含め、「備前福浦」の範囲は、私が最初に考えていたような単純なものでないことを認識しました。

そして、最新の記事[95394]に記されていた 下記2件の資料を拝見して、ふと気がついたのは、A「土地に係る字の区域・名称」とB「住所表示」との違いです。
A 岡山県告示H17-214 2コマ【備前市成立時(2005/3/22)】
B 新市の住居表示

前者Aは土地に係るものであり、居住者の有無に関係なく、すべての土地に適用される。
 合併前の字:和気郡吉永町吉永中→【合併日の字】上欄:備前市吉永中→下欄:備前市吉永町吉永中
後者Bは人に係るものであり、居住者の居る土地に限定して適用される。
 合併前の住所表示:和気郡吉永町吉永中→新住所表示:備前市吉永町吉永中

この例示に従って考えると:
無人の取揚島については、A「土地に係る字の区域・名称」のみ存在し、岡山県告示H17-214により「大字」という言葉を使わなくなった 備前市日生町福浦に属する。【住居表示は当然ながら存在せず。】
合併前の字:和気郡日生町大字福浦→【合併日】上欄:備前市大字福浦→備前市日生町福浦

[95394]で存在が確認されたA「字の区域・名称」の第6欄:備前市大字福浦→備前市日生町福浦は、「大字」という言葉を使用しなくなったことの他に、遠く東に離れた取揚島まで含めた旧日生町域全部の土地の字名として「日生町」という言葉を冠するようにしたことを示しているようです。
「備前市日生町福浦」という字に取揚島以外の土地があるか否かは不明です。
しかし、旧日生町の4字名と違ってB住所表記には日生町福浦がありません。
このことは、たとえ取揚島以外にこの字名の土地があっても、居住地ではないことを示しています。
[95385] 2018年 2月 4日(日)14:21:44hmt さん
皆既月食の計算根拠
[95370] シノレパシクソさん
疑問に答えていただき、ありがとうございます。

引用記事により、下記の根拠を確認。
スーパームーンは年に4~6回【確率約0.33から0.5になりそうだが、0.25で計算】
ブルームーンは2年8ヶ月に1回【32分の1とすると確率0.03125だが、0.03で計算】
皆既月食は5.6%【確率0.056で計算】
対象は全地球、つまり「観測地域の限定なし」であると理解しました。

3条件は独立事象であると考え、0.25*0.03*0.056=0.00042 つまり0.042%=約2380分の1を算出。
定義が明確にされていないスーパームーンは、確率0.25でもよいことにしておきましょう。

問題なのはその先、
満月2380回に1度起こることになり、計算上、平均して256年に1度の出来事らしい。

約2400回の満月が起こるのに要する時間が 200年未満であることは、直感でも解ります。
[95368]の末尾は、観測値より大幅に大きかった計算値を眺め、計算根拠を疑ってのレスでした。
しかし、計算根拠の妥当性以前の問題として、この計算は間違っていませんか?

こんなこともあるので、落書き帳の書き込みについても、出典や内容のチェックに配慮する習慣をつけておいてほしいのです。
学校に出すレポートやテストの答案で失敗しない訓練としても役立ちますよ。
…と、余計な説教を付け加えたがるのは、失敗の経験を積んできた御隠居の悪癖です。ごめんなさい。
[95368] 2018年 2月 2日(金)19:22:44hmt さん
青くないのに ブルームーンとは
朔望月の平均周期29.53日(現実には少し幅がある)に対して、2月以外の暦月は30日以上であり、31日の「大の月」は 年に7回もあります。
だから、同一暦月中に2回の満月(望)が来るのは、そんなに珍しいことではない。
私はそのように考えていました。
しかし、英語では、珍しいことの譬えとして「ブルームーン」という言葉があるくらいで、珍重?されている。
…このことは知りませんでした。

天動説の表現を使えば、太陽は西から東へと1年かけて一周します。太陽の天球上の通り道が黄道です。
月は約1ヶ月で一周します。月の通り道(白道)は黄道の近くですが、完全に一致はしていません。
太陽が、前を通り過ぎる新月によって隠されるのが日食。
太陽から見ると地球の背後にできる影。満月が その中を通過する際に 暗く見えるのが月食です。
軌道面が一致していれば定期的に「食」が発生するが、実際はそうはなっておらず、人々に神秘性を感じさせました。

太陽の直径は月の約400倍ですが、約400倍遠くにあり、地球上からの「見た目」は、ほぼ同じです。
でも 地球も 月も 円軌道でなく 楕円軌道ですから 見た目が変り、時には「スーパームーン」が話題になります。
見た目よりも入射角の影響が大きい太陽。北半球の冬に スーパーサンは似つかわしくなく、使われません。

日食・月食が話題になるのは、不定期的な現象だからでしょう。特に皆既日食は珍しい現象です。
日食時 地球上に届くのは、月の本影の先端ギリギリ。観測できるのは地球上のごく限られた場所です。
その上 地球との距離の関係によっては、完全な「黒い太陽」が実現せず、金環食になることもしばしば。

これに比べて、月食の時に 地球が作る本影は 満月に比べてずっと大きく、皆既月食は はるかに起りやすい現象です。
そして、観測のチャンスとして断然有利なのは、地球の夜側で雲がなければ、どこからでもOKなこと。

…ということで、ブルームーンではないが 6年余前にも、観測条件に恵まれた皆既月食の記事がありました。

地球からこの3つが重なるのを観測できるのは35年ぶり。南北アメリカ大陸では実に150年ぶりのことだという。
出典National Geographic

[95358] シノレパシクソさん
(3つの)条件の揃った月は265年に一度(の確率)とのことで、一生に一度見られれば幸運
(中略)日本では36年ぶりです。

前記出典記載の実績とだいぶ違う年数です。
観測可能な地域など、計算条件の記載が不足しているからでしょうか?
[95339] 2018年 1月 26日(金)18:31:31hmt さん
Re:福浦
[95327] そらみつさん
岡山・兵庫県境で 1963年に行なわれた境界変更[46914]の対象である「福浦」につき再論。

[46914]の半年前の[41633]で 次のように説明しています。
明治の町村制施行時に寒河(そうご)村と合併して福河村(合成村名)になった岡山県福浦村。
地図で今昔 にも、“兵庫県内に備前福河を名乗る駅があるとは”という記事があり、福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)が、昭和合併の機運に乗じて、兵庫県赤穂市に「越県合併」したことが紹介されています。
今尾恵介さんの著書のリンク先を変更してあります。

変遷情報には、境界変更区域を示す根拠資料が「自治省告示S38-106」であることが示されていませんが、[95311]でリンクされた Wikisourceによって、両者の示す区域の同一性を確認することができます。

これによると、岡山県和気郡日生町大字福浦には「赤穂市への境界変更から除外された区域」として、取揚島以外にも東山𡽶など9字(あざ)と鹿久居島とがありました。
明治合併に際し、内務大臣訓令で旧町村の名を大字として残すことが認められました。[37482][48552][66729]
「福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)」と[41633]で書いたのは、これが頭にあったからです。
しかし 告示文を改めて見ると、境界変更対象から除外された9字2島を無視した大胆すぎる言い方であったようです。

実のところ、hmtもTakashiさんと同様に字(あざ)に関する記録調査や、東山𡽶など境界変更対象区域から除外された字の位置特定ができておらず、「これで間違いない」と胸を張ることなどできません。

自治省告示を根拠に注目したいのは、西方の鹿久居島が(その全部か一部かは不明ながら)大字福浦に含まれていたことぐらいでしょう。現在でも鹿久居島に福浦が残っていると説く人があり、字レベルの真相は不明です。 Bakusai2017/4/8
厳密には岡山県に福浦は無人だが存在する。それは取揚島と鹿久居島の東部だ。

こちらの頁も、鹿久居島と福浦との関係を伝えているようです。

hmtの記事を含めて、他人の説には疑うべき余地があります。本当に確認したいならば、自力でどうぞ。
[95324] 2018年 1月 23日(火)14:33:21hmt さん
備前市福浦の取揚島
[95315] そらみつ さん
疑問に思った点はそこではありませんでした。(中略)
なのに何故、取揚島は鹿久居島と一緒に日生に入らなかったのか、ちょっと気になったということでした。

私も[95311]記載の疑問点を誤解していました。岡山県に福浦の名が残ったわけを改めて記しておきます。

岡山県の中で取揚島だけに残る「福浦」という大字名。
寒河村との明治合併で成立した福河村の大字になり、昭和合併で日生町になるまでの66年間はそのまま。
1963年の境界変更で、福浦峠東側の旧・福浦村が兵庫県赤穂市になり、岡山県日生町に残ったのは、旧・寒河村の区域と、ずっと東の無人島・取揚島だけになりました。

2005年の平成合併で日生町は備前市と合併。
取揚島と同様に【1963年の境界変更では】日生町側に残された東山𡽶は その後【備前市】日生町寒河の字となっています。

日生町時代の大字福浦字東山𡽶は、元々が旧・寒河村でしたから、合併後の備前市の大字が「日生町寒河」に変更されるのは、不自然なことではありません。

現状を見ると、平成合併による日生地区・吉永地区の大字名には旧町名を冠するように変更されています。
しかし、これは住民のいる地域の利便のため、居住集落を対象としたルールでしょう。

取揚島はずっと東の海上にあり、旧・福浦村から見ても「東方にある無人の飛地」です。
大字福浦が取揚島(の一部)という狭い区域だけになったのも 1963年の境界変更以来のことであり、50年以上も大字福浦のままで 不都合はなかったものと思われます。
この無人島を、遥か西の地名である「日生」を冠した大字名に変更すべき理由はないでしょう。

鹿久居島は現在日生町日生鹿久居島となっています。

本題から外れますが、日生諸島の中で約10km2と最大の面積をもつ鹿久居島。
2015年に備前日生大橋で本土結ばれています。この橋は、主として頭島へのルートとして使われているのでしょうか?
それはさておき、鹿久居島が単独では大字ではなく、「備前市日生町日生」の一部であるらしいのは、大字クラスの集落がないため?
無人ながらも大字「福浦」の名を残している取揚島が、特別な存在に思われてきました。
[95314] 2018年 1月 22日(月)19:02:52【1】hmt さん
取揚島の謎
[95311] そらみつ さん
福浦……赤穂市福浦/備前市福浦
こちらを見ると、当時福浦であったことは間違いありませんが、その後なぜほかの地区と同様に寒河や日生に編入されなかったのか(それとも実はされているのか)、ちょっと不思議です。

問題になった岡山県の飛び地は、拡大した地図が示すように、「2県にまたがる島」である取揚島です。

当然、昔の記事を集めた落書き帳アーカイブズに収録されていると思い、開いて見ました。
取揚島の関係記事は、15406. 15470, 41610, 41633, 41649が収録されていました。
編集ミスと思われますが、ニジェさんの[41400] 取揚島の謎 が落ちていました。

これらの過去記事により、今回の疑問は解決すると思います。
参考までに 要点をまとめて記しておきます。

1 取揚島は兵庫県赤穂沖の播磨灘にある無人島であるが、本土の境界は別として、藩政時代から播磨だけでなく備前の住民の漁業権も存在した。廃藩置県で播磨は兵庫県、備前は岡山県の所属となったが、取揚島は2県にまたがる島になった。

2 「福浦」という地名はもともと備前国和気郡の旧村名であり、明治4年岡山県所属、明治22年の町村制では、福浦峠の西側に隣接する寒河(そうご)村との合併により福河村になった。
更に昭和合併で福河村は日生(ひなせ)町の一部となる。

3 昭和38年(1963/9/1)、岡山県日生町のうち、福浦峠の東側を兵庫県赤穂市に境界変更[46914]
この時の境界変更区域を正確に記述した告示文が [95311]で引用されたWikisourceに記されており、変遷情報もこれと同じ。

正確な詳細表記よりも、わかりやすい表記を重視して記せば、[46914]のように「福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)という記載になるのです。

詳しい境界変更区域を見れば、確かに「取揚島の区域を除く」と記されており、
岡山県が”漁業権に絡む”領海を守り抜き、赤穂市への編入から除外させた
ことを裏付けている。

まとめ:赤穂市の変遷

[95312] Takashi さんから、既に[41400]の紹介がありました。
この記事も同じ大筋ですが、やや詳しく記してあるので、併せてお読みください。
[94784] 2017年 12月 27日(水)14:54:04hmt さん
陸地測量部から地理調査所へ

[94765] ekinenpyouさん
昭和6年9月現在 陸地測量部発行地図目録

戦前における全国地形図発行状況の全容を示していただきました。
時代としては東京市15区が隣接5郡を編入して35区へと大拡張される1年前の状況ですが、[94724]で教えていただいた「旧1万分の1図」について言えば、既に大正末期から東京・大阪・神戸の近傍で発行開始されていたことも知りました。世田谷など一部については、大正末期には5色刷の豪華な地形図も現れていたことなどに驚きました。


巻末の奥付に記されている、著作権所有兼発行者である陸地測量部の住所:東京市麹町区永田町一丁目一番地。
現在は東京都千代田区に変わっていますが、同じ町名番地を受け継いだ土地が、国会前庭北地区内(憲政記念館付近)にあり、そこに設置されている日本水準原点[57343][80226]が 陸軍参謀本部陸地測量部がこの地に存在した歴史を伝えています。

そんなことを考えながら見ていたら、陸地測量部から地理調査所へという資料を見つけました。地図 52巻1号p.13(2014)

要点を一部紹介。「三宅坂」と通称された陸軍参謀本部の中枢が北側の新庁舎を新築して移転した後、陸地測量部は旧庁舎を全部使っていました。
第二次大戦の形勢が悪くなった 1944年(昭和19年)からの第一次疎開で、明治大学予科校舎(杉並区)に移転。

そして、翌1945年3月10日の東京下町大空襲の後、長野県松本盆地への再疎開を本格化しました。
しかし、残念ながら松本への再疎開は 1945/5/25の東京山の手大空襲に間に合いませんでした。
三宅坂庁舎だけでなく、新宿駅にあった疎開荷物も貨車ごと炎上し、多くの貴重な資料が焼失。

そして1945/8/15……国民に対する終戦の告知(玉音放送)。
敗戦の後、国土を復興するためには、測量関係の技術力を保持することが不可欠。
しかし、陸軍の組織として 陸地測量部が存続することは もはや不可能。
大本営で陸地測量部を管轄担当していた渡邊参謀が具申した意見が通り、平時編成の官庁に移管し、米軍進駐以前に既にその機関があることを認識させることになりました。
陸軍大臣不在の中、内務省との移管折衝は順調に成功し、1945/8/31付で陸地測量部は消滅し、内務省地理調査所の設置が決定。職員全員が一応退官した上で再雇用されました。

降伏文書調印による正式の戦争終結は 1945/9/2ですから、その前に陸軍の手を離れるという渡邊プランは辛うじて成功したわけです。

地理学関係の大学や研究所に対して、外邦図[94724]を含む大量の地図が参謀本部から放出されたのも、渡邊参謀の発案により終戦前から動いていた研究会が影響しているようです。(6コマ)

三宅坂庁舎は戦災で失われていたため、戦後に帰京した地理調査所の所在地は千葉市黒砂町の旧陸軍戦車学校跡地(稲毛庁舎)になりました。
1958年7月には目黒区の駒沢練兵場跡地[94730]に東山庁舎を新築移転。
1960年7月 建設省国土地理院と改称、1979年3月筑波庁舎に再移転しています。[94129]特急とりあたまさんの記事に登場する博物館は、その附属機関です。

三宅坂から始めた「地図の元締め」の歴史的変遷の話は、これで終ります。


[94708] Takashiさん
この地図が発行されている頃には当然この地域は東京市の一部になっているわけですから実態を反映していないことになるですけど、当時の地形図というか測量を実施した帝国陸軍としてはそのあたりが実態を反映していなくても問題なかったものなのでしょうか?

1932年の東京市35区に対する陸地測量部の対応問題。
これについては、既に[94736]の末尾に hmtの推察を書いておきました。
要するに、当時から既に5万図は時代遅れの存在になりつつあり、2.5万図の加刷や1万図の新発行を考慮して、未修正のまま発行したのだろうということです。
[94766]で ekinenpyouさん からも同意していただいたものと思っています。


[94766] ekinenpyouさん 代田連絡線

地形図の話題からは外れますが、[41513]の末尾で少し言及したことがあります。
[94763] 2017年 12月 25日(月)16:10:50hmt さん
固有名詞の表記(2)文字コード国際規格書の最新版発行
[94762] Takashiさん
日本語で使用されている全漢字約6万字コード化

情報源として NHK NEWS WEB がリンクされていましたが、独立行政法人 情報処理推進機構からのプレス発表があったことを、とりあえず補足します。

「文字情報基盤整備事業」で推進していた漢字6万文字の国際規格化が完了

「行政機関では 今後、コンピュータで人名等の正確な表記を行う際にも外字登録が不要に」と記されています。

いずれは ISO改正の恩恵が国民すべてに及ぶのでしょうが、何時頃になるのでしょうね。

別件
固有名詞の表記に関し、昨年書いた過去記事に誤記があったので、これを機会に訂正します。

[91310] hmt です。長文ですが、末尾に近いあたり。蓮田市の改称に言及した部分です。

「こだわり」の類例としては、わざわざ 2点しんにゅうの「蓮」に改称した蓮田市の例[77399][77400]も出ましたが、これはちょっと「やりすぎ」。

助詞「を」を使うべき重要な箇所が助詞「に」と記されていました。

修正文:
「こだわり」の類例としては、わざわざ 2点しんにゅうの「蓮」(旧JIS書体)を1点しんにゅうの「蓮」(83JIS書体)に改称した蓮田市の例[77399][77400]も出ましたが、これはちょっと「やりすぎ」。
[94759] 2017年 12月 24日(日)17:06:41hmt さん
吉祥寺 ブラタモリ
2017/12/23放送の 吉祥寺 ブラタモリ。
ご覧になった方も 多いことと思いますが、私なりに 少々落書きを しておきます。

国分寺、高円寺、豪徳寺、祐天寺、八王子(これは違った。)
東京には○○寺という地名・駅名が多数あり、その由来となったお寺もあります。
しかし、武蔵野市の吉祥寺には 「吉祥寺」というお寺がありません。
これについては [90037]伊豆之国さんへのレスとして[90043]を書いています。

本郷元町にあった諏訪山吉祥寺の門前町は 明暦3年(1657)の大火により焼失しました。
焼け出された被災者の救済事業として、江戸から五里離れた武蔵野への入植開拓が実施されました。
玉川上水完成後間もない時で、水利が悪くて未開拓だった台地上への分水にも恵まれました。

吉祥寺自体は焼け残ったらしく 江戸に残留。その後の火災で 現在地・駒込に移転したようです。
門前にあった4寺院も罹災して武蔵野に移り、今回のブラタモリに登場しました。、

フランス式迅速測図に基づく 歴史的農業環境閲覧システム[65097]を使い、明治13年頃の 神奈川県北多摩郡吉祥寺村付近の姿を ご覧に入れます。

地図の中央部を斜めに走る五日市街道に沿って、家が並んでいます。
五日市街道の南にある井の頭池の湧き水は、江戸神田上水の水源なのですが、テレビ番組の冒頭でも紹介されたように 台地を侵食しだ谷底(低地)にあり、入植した吉祥寺村の人々の水利には使うことができません。

そこで、井の頭谷を隔てた南の台地に太い線で記されている「玉川上水」の水が頼りということになります。
具体的には 地図の左端・境村から分水して北側の台地を通る「千川用水」の水を使うことになります。

ブラタモリ一行は、五日市街道扶桑通交差点を北に進み、千川用水まで15分の直線道路を歩いたようでした。
その距離1140m(634間)。幅36m(20間)の細長い地割とすると、面積約4町2反(12000坪以上)という計算になります。

現在考えるとビックリするような広さですが、落書き帳でお馴染みの三富新田の地割も同程度でした。
上富新田の基準:間口40間、奥行375間、面積5町 出典所沢市

[90043]でも書いたように、市制町村制の前日に行なわれた「明治合併」で、武蔵野村誕生。
その10日後の 1889/4/11 新宿-立川間に甲武鉄道が開業しました。
開通当初の停車場は強い誘致のあった境【武蔵境】でしたが、東京府になった後には、吉祥寺停車場も開設されることになりました【現在電車運転の拠点駅になっている三鷹は ずっと後の昭和5年開業です】。

吉祥寺駅が新設された位置は、五日市街道との交差点ではなく、少し西になりました。
鉄道など公共用地の取得は現在でも大きな問題になっていますが、程度の違いはあれ 明治時代にもこの問題を解決せねばならず、農地提供に抵抗があった一般農家を避けて、お寺の土地を提供してもらったようです。
このお寺は、明暦大火の際に吉祥寺門前で焼け出され、住民と共に江戸から移って来た月窓寺など4寺院であり、現在でも「四軒寺」(しけんでら)と呼ばれるそうです。

吉祥寺駅開業は明治32年(1899)。甲武鉄道は既に1889年には八王子まで開業した後、新宿から飯田町へと進む市内線(1895)の延長を進めていました。
吉祥寺駅とは離れますが、1904年に飯田町➖中野間で電車運転開始[35062]。1906年 鉄道国有化。

そして、大正12年(1923)の関東大震災を経て、武蔵野村は人口急増の時代を迎えるのでした。国勢調査人口
[94736] 2017年 12月 20日(水)14:39:36【3】hmt さん
東京35区時代の地形図事情
[94731] ekinenpyouさん
昭和一桁後半から戦時中における陸地測量部作成の地図発行・発売状況などについては より具体的に実態が解説された資料(PDF)がありますので、そちらの紹介などもかねて後日再度コメントします

ありがとうございます。
真打ち登場の前に、とりあえず 実態を十分に掴めないまま綴られた疑問とレス記事を集めた 記事集 です。

【1】以下、長い追記です
1 東京35区への道

1923/9/1の関東大震災で 大被害を受けた東京は 復興と共に 郊外への大規模人口移動の時代を迎えました。

明治以来 日本の首都になった東京は何度も災害に見舞われ、これは江戸の町から近代都市に変化するきっかけになりました。
1872年(明治5年)の大火で焼失した銀座煉瓦街の復興は、東京を近代都市に改造する事業の最初でした。
市制町村制と同じ1888年(明治21年)には、東京市区改正条例[53893](勅令M21-62号)が公布されましたが、財政事情から事業は進みませんでした。現実には都市化の進展により早期実現を迫られ、その結果 縮小した新設計、日露戦争後の外債により賄われた資金 で実現したのは、皇居周辺や下町の一部での 道路の新設・拡張、河川・橋梁・公園の整備でした。
徳川慶喜の筆になる「日本橋」の名が記された石造アーチ橋ができたのは 1911年[63949]。明治から大正へと移り変わる時代で、橋の上を通る市街電車など文明開化の産物も道路拡張の動機になったようです。[33135]の【20】参照

この東京市区改正条例は大震災の5年前、1918年に 京都・大阪・神戸・名古屋・横浜に準用され、翌年には「都市計画法」になり、更に六大都市制度に進みました[53841][53893]

「市制」の改正に先立って定められた「都市計画法による 都市計画区域」は、「東京市」だけでなく、「隣接5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)、それに北多摩郡千歳村と砧村を加えた区域」になっていました。

他の六大都市に比べて行政上の市域拡張の遅れた東京市ですが、1923年に関東大震災に襲われた結果、比較的被害の少なかった郊外への人口流出が加速しました。
それがもたらした小学校関係の経費が増大は、周辺町村の財政を圧迫し、都市計画区域において町村長が施行すべき道路・上下水道整備の進捗を遅らせることになりました。

このあたりの事情に関しては[74867]で記したような事情があったのですが、ともかく 解決策が実現することになり、15区だった東京市が、35区になったのは 1932/10/1でした。 

2 記事集の要約

東京35区時代の地形図事情に関する話題は、次の指摘から始まりました。
[94708] Stanfordサイト[94706]で見ることができる5万分1地形図「東京西南部」。
東京35区時代になってからの発行であるにもかかわらず、郡部時代の表記のまま残っている。

[94719] 5万図は戦後の1946年まで新版が発行されていない。
日米戦争より9年も前だが、軍事情報の観点から地形図の更新や公開にまで気を使ったのか?
世田谷区の記載がある日本図誌大系p.48掲載の2.5万地形図は戦後の修正で、1947年発行

[94720]追記2 76-7-1-3(1932年に発行)に赤の追記あり。どの段階での追記?

[94723] 赤で加刷された仮製地形図 76-7-1-3 等は市販されたのか? これら疑問が解決できず。
【この記事は考えが足りなかった。今になってみれば次のように考えるのが自然であった。】
【現在の考え】
1932/10/1の35区に対応する2色刷りに変更され、画面に示されている通りの 1932/10/30に発行・市販された。定価はモノクロと同じ13銭。

[94724] 『外邦図』収載1万図 (世田谷区)二子の地図は S14.5.30発行(定価金13銭)。

[94730] 昭和14年(1939)に「国の作った市販地形図」が一般用に公開されていたこと了解。

3 長い追記のまとめ

陸地測量部としては、縮尺の違いにより次のように異なる対応をしたものと推察します。

2.5万図については、需要の中心であることを考慮し、既に編集作業の終っていた合併前の原図を利用した「二色刷り」を採用し、35区発足から1ヶ月というスピード作業により発行することを実現した。

1万図については、正規の編集作業により、時期としては遅れた。それでも戦時中に発行できた。

5万図をどうするか? とにかく2.5万図の作業を優先させてから考えた。
既に時代遅れということもあり、未修正のまま約2年遅れの1934年に発行した。

以上の推測。[94731]で予告された資料(PDF)で裏付けされるでしょうか?

【2】対象が戦後にまで及ぶので、タイトルを含めて東京市35区時代を「東京35区時代」に訂正
[94730] 2017年 12月 19日(火)12:53:41hmt さん
陸地測量部1万分の1地形図 
[94724] ekinenpyouさん
『外邦図』に収録されている参謀本部>陸地測量部の地形図を紹介していただき、ありがとうございます。
正直なところ、戦前の国内地形図が『外邦図』というタイトルの下に収録されていることには驚きました。
たいへん有用な資料を教えていただき、感謝しております。

「世田谷」の地図には 「一般の需要に供する為め」 の記載があるものの、「秘」と記されており、発行日や価格の記載もないので、「当局」の内部資料段階であると判断しました。
しかし、その南西 「二子」の地図になると、「秘」の表記もなくなり、発行日・発行者・定価が記された市販地形図の体裁が整えられています。 
# 図外左上に記された「仮製版」という言葉は、更新履歴用語には収録されていませんが、括弧内の説明文に「一般の需要…」とあることはご指摘の通りです。

1936/10/1に 東京府北多摩郡千歳村と砧村とが 東京市世田谷区に編入されました。
この地について、翌年修正測量がなされた後、昭和14年(1939)には「国の作った市販地形図」の形で一般用に公開されたということですね。
それは[94719]の末尾に記した戦後の1947年よりも ずっと前(戦前)のことでした。
そのことを教えられました。

例えば世田谷の地図右下(目黒区と書かれた)の広大な敷地に何が存在していたか

駒沢練兵場跡地(目黒区側)には 戦後も地形図の元締・国土地理院がありました。[67221]
この名になったのは 1960年であり、1979年筑波研究学園都市に移転しました。
この付近の青葉台にある日本地図センターの売店は、参謀本部以来の「地図作りの聖地」を伝えているのでしょう。

参考までに、駒沢練兵場跡地の左側【世田谷区側】には、防衛省技術研究本部などが現存しています。
[94723] 2017年 12月 18日(月)15:26:21hmt さん
新20区や町名などが赤で加刷された東京の地形図
[94720] Takashiさん
追記2:2.5万地形図東京西南部の図歴から各時点での地形図を確認したところ76-7-1-3(1932年に発行)では新しく編入された地域の区並びに町の境界が赤で追記されていました。これはどの段階で追記されていたものかはわからないのですが、発行された地図にはこの境界の記載は反映させていた……のですかね?

前回投稿後に思い出した昔の記事[38515]
「日本図誌大系」に収録されている2万5千分1「東京西部」(昭7要修)を見ると、郡部時代の地名に「大東京」になって付けられた町名が加筆されており、ゴチャゴチャしていますが、新旧の地名を一覧できます。

[94719]の末尾で引用した本のp.40に掲載されていた渋谷の2.5万地形図ですが、これがリスト番号:76-7-1-3の地図でした。本の引用図はモノクロであったので「ゴチャゴチャ」していましたが、新しい情報【区名・町名、道路など】が赤色で加筆されている状態が、画面によってよく分かります。

北に隣接する東京西部(76-6-2-3)も見ました。

上部左寄りに「板橋区」という赤文字が見えます。この付近は現在の練馬区ですが、35区時代には存在しなかった練馬区の表記がないのは当然です。
そのように考えて上部右隅を見ると「滝野川区」【現在は北区】もありました。これで、35区時代の区名による加刷であることが確定しました。

赤の加刷が行なわれ、欄外右肩に「仮製」の文字がある これらのカラー?地形図は市販されたのか?
市中に出回ったのならば、その時期・価格は? 
残念ながら拡大するとぼやけてしまうのですが、疑問解決の材料は示されていないようです。

2.5万地形図「東京西部」の戦後版は、測量年1945【昭20】と記されていますが 発行は1952/1/30と占領時代末期にずれ込んでいました 76-6-2-5
この地図では発見できなかったのですが、23番目の特別区として 1947/8/1に独立した練馬区[93763]が 地形図に現れた姿を探してみました。

赤羽図幅(76-6-1-5)の左端付近【成増飛行場跡[57136](光が丘)の東】にも描かれているようですが その画面は不鮮明でした。赤羽の西に隣接する地形図 志木76-6-3-4をリンクしておきます。

特色ある街路で目立つ大泉学園の南東に「練馬区」の文字を見ることができます。
この地形図で注目すべきは、測量年が練馬区誕生よりもずっと前の 1945(昭20)となっていることです。
そして、地形図発行年月日さえも 1947/7/30と練馬区誕生の前日でした。
戦争を挟んで十数年も更新がされなかった歴史と対比すると、驚くべきスピードで実現した地形図地名の更新履歴でした。
[94719] 2017年 12月 17日(日)18:09:00【1】hmt さん
Re:1934年7月30日発行50000分の1地形図「東京西南部」
[94708] Takashi さん
印刷日は1934年7月25日で、発行日は1934年7月30日なのですが、現在の東京都品川区、目黒区、大田区、世田谷区、渋谷区にあたる地域がまだ町あるいは村のままの状態で残っております。(ちなみにこの地域の町村が東京市に編入されたのは1932年10月1日)
(中略)この地図が発行されている頃には当然この地域は東京市の一部になっているわけですから実態を反映していないことになるですけど、当時の地形図というか測量を実施した帝国陸軍としてはそのあたりが実態を反映していなくても問題なかったものなのでしょうか?

先ず 5万地形図東京西南部の図歴を確認しました。 

1934年7月30日発行の図はリスト番号76-7-26という末尾になっており、リストへの追加は近年と推察します。
発行年月日の近い図を拾い出して、発行日順に並べると次の通りです。
リスト番号測量年更新履歴発行年月日備考
76-7-51929修正1931/6/30
76-7-261932要修1934/7/30Stanfordによる公開図
76-7-71932要修1946/9/30
76-7-81932要修1947/10/30
76-7-91948資修1948/10/30
76-7-101951資修1951/5/30
76-7-111952資修1952/6/30hmtの手元にあった図

Stanfordによる公開図は「戦前最後に発行された東京の地形図」という位置付けができますが、東京市35区体制発足(1932/10/1)から2年近くも後の発行であるにもかかわらず、行政区画変更が反映されていません。
しかも戦後の1946年まで次回の新版が発行されていません。

念のため、2.5万地形図【東京南部、東京国際空港、東京西南部、川崎】の図歴を見ると、戦前最後の発行は1932/10/30で、これも東京35区が反映されているとは思われません(未確認)。

1932年というと 日米戦争になるのは まだ9年も先のことです。東京市が35区になったことは、日本人にとっては知らぬ人はない公然たる情報なのですが、仮想敵国を抱える「その筋」としては、軍事情報の観点から地形図の更新や公開にまで気を使っていたようです。

もちろん世の中には「大東京35区」の地図が出回っているのですから、地形図だけに このような情報統制をしても実効は全くないと思うのですが、「防諜」という錦の御旗を掲げた「その筋」の圧力を感じることにより「地形図の更新や公開さえも ままならない」という状況が既に発生しかけていたのではないかと推測されます。
今年のニュースで忖度という言葉が話題になりました。
権力者の何気ない行動が あらぬ結果を招いてしまう。そのような気風は、戦前からのものでしょう。

それはさておき、地形図の更新履歴 用語説明を抜粋しておきます。
修正:修正測量の略。時代の変化に対応して、空中写真や現地調査を元に変化した部分を地図の全範囲について修正すること。
要修:要部修正の略。鉄道、道路、埋め立て地など、大きな変化ではあるが面積的には狭い範囲を修正すること。
資修:資料修正の略。市町村の合併や鉄道の新設など、比較的大きな変化のあった場合、その項目だけを官報や関係機関からの資料だけで修正すること。現地調査は行ってない場合が多く、特定の項目しか修正していない。

偶々hmtの手元に リスト番号76-7-11の図【地理調査所発行】があったので、図外左側に記載されていた更新履歴も確認しておきました。
明治42年測図 昭和4年第2回修正測図 同7年要部修正測図 同27年資料修正(行政区画 鉄道 主要道路)

民間の地図でなく、「国の作った地形図」において 東京35区が出現したのは何時からか?

日本図誌大系関東I(朝倉書店)p.48に掲載された地形図に「世田谷区」の表示を見つけました。
戦後になった1945年から早速に修正作業が行なわれ、1947年に発行された 2.5万地形図に至り、ようやく東京35区、…いや既に【22区を経て】23区か…の名が地形図に掲載されたのではないか?
私はこのように考えています。
[94680] 2017年 12月 8日(金)18:50:31【2】hmt さん
Re:篠山市は「丹波篠山市」になるのか?
[94670] 今川焼さん
平成の大合併では嚆矢となった篠山市ですが、此処へ来て頭に丹波の2文字をつけるべしという具体的な動きが出てきました。(中略)
最近になって農産物の生産地に関する表示方法が厳格化され、これまでのように篠山市産だからといって丹波篠山産と簡単に表示できなくなってきました。

引用された神戸新聞記事に登場する産品は「丹波篠山黒大豆」でしたが、兵庫県の発言が気になりました。
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丹波篠山産の表記は直ちに違反であるというわけではないが、消費者の誤解を招かないようにすることが最も重要
都道府県や市町村の名前のほか、旧国名など「一般に知られている地名」が認められている。ただ、丹波篠山が篠山市以外を指す例も見られるため、消費者が誤解しないよう県は「丹波篠山産」ではなく「兵庫県篠山市産」にするよう求めているという。
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原産地表示に関して詳しいわけではありませんが、この問題を巡る世間の情勢について、少し記しておきます。
原産地問題については、伝統的にヨーロッパが先進地です。

明治時代の日本、外人宅で「ポートワイン」を口にした鳥井信治郎は、その甘味が日本人の口に合うことを知り、いろいろ工夫した結果 日本人向けの葡萄酒製品を作り出しました。110年前のことです。
ポルトと言えば 発酵途中のワインにブランデーを加えた独特の製法により 糖分やアルコールを多く含む 保存性のよいポルトガルワインの輸出港で、ヨーロッパでは知らぬ者なき存在だったのですが、極東の日本ではそのような事情も知らぬまま「甘い葡萄酒」とぐらいの意味だと思って「赤玉ポートワイン」という商標を付けてしまったのでしょう。

この名は60年以上も使われてしまったのですが、さすがに本家筋・ポルトガルからの抗議もあり、1973年には「赤玉スイートワイン」に変更しました。サントリー
余談ですが、三ツ矢サイダーも「シャンペンサイダー」という名だった時代がありました。この名は、現在は飲料でなく駄菓子に残っているようです。

昔話はさておき、篠山市問題とも関係ありそうな 現在の国際貿易関係として、EU(ヨーロッパ共同体)主導で進められている「地理的表示(GI:Geographical Indication)保護制度」があります。ジェトロ

地理的表示とは、ある製品が特定の国や地域を原産地としており、その品質や評判等の特性がその原産地と結びつきがある場合に、その原産地を特定する表示を指しています。世界的に広く認知されている例:シャンパンやパルマハム。

EUは、2国間の自由貿易協定(FTA)で GI保護条項を含むよう交渉しており、2013年から行なわれていたEUと日本との間の経済連携協定EPAの交渉は、2017年7月6日大枠合意に達しています。
これを伝える 財務省サイト は長文ですが、その中から地理的表示に関連する部分を抜粋します。「2 日EU・EPAの大枠合意のポイント」の中にある〈GIの相互保護:日本産品の魅力発信・輸出促進〉という部分です。
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EU由来の制度である地理的表示(GI:Geographical Indication)*9【末尾近く】は、EU側の関心事項だが、日本側も既に法整備し【下記参照】日本GIの保護を強化している中、日EUが互いの農産品及び酒類GIを保護し合うことに合意した*10。今回の合意によって、日本のGIの生産者が、EU側に直接申請手続を行わなくとも、EUにおいて保護されることになる。これにより、日本GIの国際的保護の確立だけでなく、日本産品の輸出の促進にもつながることが期待される。
今後、国内法に基づいて公示手続を行い、相互に保護を求めるGI産品が確定される予定である。保護する産品や具体的な保護のルールは、公示手続の結果も踏まえて決めることになる。
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*9) 地理的表示制度は、産品の確立した品質や社会的評価がその産品の産地と本質的な繋がりがある場合において、その産地名を独占的に名乗ることができる制度。欧州を中心に古くから国際貿易の主要産品として取引されてきたワインの原産地呼称制度が起源であり、EUは、農産品、ワイン、蒸留酒について独自のGI制度がある。日本は、ぶどう酒と蒸留酒について、国税庁が1995年にWTO協定の一部である「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS協定)の範囲内でGI制度を施行し、2005年に清酒、2015年に全酒類に対象を拡大。農林水産省が2015年に農産品全般を対象とする独自のGI制度を導入。

上記のように、今回の大筋合意に先立って 特定農林水産物等の名称の保護に関する法律(平成26年法律第84号)が制定され、2015/6/1から運用が開始されています。出典
今回の合意により、国内でのGI登録だけでEU域内で保護されることになります。

登録産品一覧  更新日:平成29年11月10日 担当:食料産業局 知的財産課
丹波篠山の黒大豆についても登録出願中であると思われますが、未登録状態であり、どのような名称や産地を特定して出願されているのか 私は知りません。
しかし、適正に選定した「名称と産地の組合せ」による登録が実現すれば、市の名称まで変える必要はないのではないか?
私はこのように考えています。

酒類の登録については、別に国税庁の資料がある筈ですが、未調査です。
[94133] 2017年 11月 5日(日)14:13:47【2】hmt さん
自治体庁舎の標高
[94131]稚拙さん
こういう重箱の隅の日本一をさがせる人は尊敬します。

驚くほど多種多様なデータについて、日本一だけでなく、都道府県の順位までグラフ化して示してくれているのが、都道府県データランキングです。

その中の「地理・気象系」には「最高点」もありますが、自治体庁舎標高は まだ対象になっていないようです。
でも、futsunoおじさんの『自治体の最高点』コレクションには、庁舎標高も記録されています。群馬県

グリグリさんならば、新聞記事よりも ずっと見易い形で、自治体庁舎標高を示してくれるでしょう。
(…と、横から勝手に期待する)
[94132] 2017年 11月 5日(日)13:07:02hmt さん
世界津波の日 
今日 11月5日は、2015年末の国連総会本会議決議で制定された「世界津波の日」です。外務省

我が国では 大きな津波被害を受けた 2011年の東日本大震災の後で「津波対策の推進に関する法律」が制定され、この法律で毎年11月5日を「津波防災の日」とすることとしているのですが、国連の場も利用して全世界への啓発活動を進めるために「世界津波の日」を制定したというわけです。

ところで、「11月5日」を選んだ理由は?
安政元年(1854)の南海地震発生日です。その前日には安政東海地震が発生しています。
160年余を経過した現在も 日本の南にある駿河トラフ・南海トラフを震源とする 連続巨大地震津波の脅威が語られていることは、ご承知の通りです。

日本海溝を震源とする三陸など、他にも大きな津波被害地がある日本で、何故 安政南海地震津波が教訓とされるのか?
それを解くキーワードが「稲むらの火」です。
1944年に国民学校5年生だった私が使った 初等科国語6 をリンクしておきます。
稲むらに放った火を目印に 低地に住む村人を高台に誘導した行為は、緊急時の防災活動の教訓として、多くの日本人の心に染み付いていました。

この教科書自体は戦後に廃止されましたが、防災教育の一環として この話を現在に復活 という声も聞きます。

小学生のマガジン編集者誕生を祝い、昔の教科書の紹介と併せて、関係過去記事を収録した 記事集を提供しておきます。

世界津波の日に関しては、[89254]の末尾に記してあります。

最後になりましたが 特急とりあたま さんに 伝えておきたいこと。

 何時か必ず来るぞ!! 東海地震にご用心。
[94126] 2017年 11月 4日(土)20:34:34【2】hmt さん
沖縄県での明治合併
沖縄県最北部に位置する伊平屋村で 1939年に行なわれた分村[94036]について記した際に気づいたこと。
それは、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行時の変遷情報に記された 変更前の村名が、既に前地・後地8村統合後の「伊平屋村」になっていたことでした。

ご承知のように本土3府42県の大部分では、市制町村制という新制度施行と同時に「旧制度=郡区町村編制法に基づく区町村」の統合が行なわれ、新たな「市町村」に再編されました。
下記の5県で市制町村制施行に先立って行なわれた統合[78760]。これは例外的な事例と思っていました。
宮城県(区への境界変更を含む)、茨城県、千葉県、神奈川県 明治22年3月31日(新制度施行の前日)
静岡県(町村) 明治22年3月1日(新制度施行の1ヶ月前)

1908年の沖縄県における新制度施行。変更前の村名は統合後のものだ。沖縄も5県と同様の「2段階処理」? 
この疑問に答えてくれたのが、[94107] ekinenpyouさんの記事で、次のように記されていました。
従来は旧村名が記されていたようですが [69110][69541]むっくんさんの記事などを参考とした上で、「旧村はM41.1.1に従来の間切・島が村へ名称を変えた際に字となり消滅しているため、M41.4.1に合併は行われず」という認識のもと記載しない形で修正が行われたようです。

いやー、hmtマガジンに特集 琉球の歴史を作っておきながら、落書き帳過去記事を見逃しており お恥ずかしい次第。

ポイントになる [69541] むっくんさんの記事も、マガジンに追加収録します。
この記事は沖縄県の2区5郡設置(1986/4/1)以降の年表になっており、1899(M32)/1/1施行の 明治31年勅令352号(沖縄県間切島規程)にも言及されています。

実は私は「間切」という言葉にはあまり馴染みがなく、この規程を読んだのも初めてかと思っていました。
しかしこの規程を読んでみると、間切は法人格や課税収入・間切島会などを持ち、自治体と呼んでもよいような地方団体であることを知り、[84179]でも同じようなことを書いていました。
注意すべきなのは、私の記憶力のようでした。

具体的に存在する間切や島の名称は、明治26年の沖縄旧慣地方制度に収録されていました。
これを使って、1908/1/1に行なわれた「沖縄県での明治合併」を検証してみることにしました。

沖縄本島の南部地区である島尻には 後に那覇区・首里区となる市街地の外に 15間切が存在しました。
この15間切が1908/1/1に15村【ソンと読む】になり、その中の兼城村の一部から糸満町が分立[84179]したので、1908年の新制度発足時には 本島島尻郡に1町15村。離島の慶良間島と久米島にあった各2間切、そして間切ではなかったが伊平屋島・粟国島・渡名喜島の3島も それぞれ島尻郡所属の村になったので、島尻郡の町村数は1町22村という結果になりました。

これを [69541]でむっくんさんが列挙してくれた島尻郡23町村と対比してみると、ほとんど一致しています。
つまり、間切島規程が制定されるより前から存在した間切や島の名が【糸満町だけは例外として】そっくりそのまま 1908年新制度の自治体に移行したことが分かりました。

同様に本島中頭の11間切→中頭郡11村。本島国頭の9間切+伊江島→国頭郡10村。
先島諸島や大東島は別として、沖縄本島 + 近接した島々 = 沖縄列島 については、旧慣地方制度に記された間切主体の区分から 1908年の沖縄県及島嶼町村制への移行が、ほぼ完全な形で実現したことを確認できました。

参考までに、旧慣地方制度に記録された村【ムラ】を数えておくと、次の通りでした。【注】
本島島尻 161, 伊平屋島・粟国島・渡名喜島 40, 本島中頭 157, 本島国頭 130 + 伊江島 5 = 135. 合計 493
【注】
[69542]に引用されている IssieさんのHP「市町村の変遷 沖縄県」に記されていた解説はリンク切れです。
村は旧区画における間切内の区分としては「むら」,町村制(沖縄及島嶼町村制)施行による旧間切については「そん」と読む.

沖縄県の変遷履歴情報の将来
沖縄県についても、宮城・茨城・千葉・神奈川・静岡各県について示されている「市制町村制施行直前の廃置分合等」と同様の「一面真っ赤リスト」が作成されるのが理想だろうと思います。
むっくんさんも[69541]で当面 1908/4/1時点の表記としては 統合された村【ソン】段階での記載を示しましたが、将来は統合前の村【ムラ】が記載されることを期待しています[69110]

しかし、今回の一連の検討により、沖縄本島近くに関する限り、明治合併による大きな変化がないことを確認することができました。
これにより、昔の間切主体の旧慣時代から現代までの変遷を概ね把握できるようなので、現状の変遷情報でも ある程度満足できる。そのように思っています。
[94082] 2017年 10月 25日(水)17:44:53【1】hmt さん
明治18年 葱畑?に作られた 大阪ミナミの鉄道ターミナル
[94063] ekinenpyou さん
明治39年、帝国議会における鉄道国有法審議に関する詳細な議事録を紹介していただき、ありがとうございます。
そして、同時にご紹介いただいた南海鉄道の『開通五十年』(昭和11年)に記された 阪堺鉄道開業当時の難波界隈も 興味深く読ませていただきました。

難波の名産であった葱【注】の畑に作られたという難波駅。南海線の前身・阪堺鉄道による用地買収は、私鉄でありながらも「公用土地買上規則」による評価で行なわれたことなど、政府の手厚い保護があったことを知りました。
予定地内の人家立退料として記された地名が「六番町」と「難波村」でした。
【注】ねぎ
だから、葱を使った料理のことも「なんば」という。しかし、この説には 疑問もあるようです。

六番町とは、大阪に市制が施行される前の 郡区町村編制法による大阪府4区の一つ「南区」にあった 難波新地六番町を指し、私が[83142]のタイトルとして記した 
「なんば」が まだ「大阪」でなかった頃
が不正確な表記であったことは ご指摘の通りです。
難波新地も元は難波村でしたが、明治初期に大阪の市街地が拡大して難波新地一番町から六番町への再編成となったようです。

なお、難波村の方は大阪府西成郡の4つ目に記されており、明治22年の町村制施行によって新制度の 西成郡難波村 になりました。
# ふりがなに用いられた「ば」という文字が読めますか? 現在では殆ど使われていない変体仮名です。

買収地価や立退料が六番町と難波村とで差が付けられてないところをみると、難波駅建設当時には市街地と郡部の区別がつかないほどになっていたのかもしれません。

西成郡難波村の大阪市編入は明治30年。変遷情報を見ると「西区に編入」となっています。難波新地の南区とは異なる区になったのでしょうか? 
その後 浪速区への編入や境界変更があり、南区だった難波駅の住所も 現在は中央区になっています。

hmtマガジン市街地乗り入れに成功した鉄道の冒頭では、1972年の初代新橋駅を「例外的に市街地に入り込んだ 形」と書きましたが、市制施行よりもずっと前の明治18年に「区部(市街地)の鉄道駅」となっていた難波駅も、市街地駅の先駆として特筆に値する存在なのかもしれません。
難波という地名も、駅施設の所在地も市街地と郡部との境界に跨っていますが、「駅の住所」は確かに大阪市です。

[94063]ekinenpyouさんクイズの答えに付け加える蛇足
この記事で挙げていただいた明治32年の官報附録 全国各鉄道停車場名称及位置並哩程表の時点になると、大阪市の第一次市域拡張後なので、「大阪駅」の所在地であった曽根崎村も 既に北区に編入されています。大阪市域拡張図(1)
[94036] 2017年 10月 19日(木)19:58:35hmt さん
沖縄県島尻郡伊平屋村の分村
[94000] ekinenpyou さん
なお「分割」ですが、新設自治体名に従来と同じものが継続して使用された場合
「分立」と区別し難く混同されるケースがあるので注意を要します、

例示していただいた昭和14年の伊平屋村分村の件を少し調べてみました。

初めに、この村が存在する特異な位置を確認する目的で、北緯27度を中心とする地理院地図を示します。
一口で言えば、鹿児島県南端の奄美群島与論島と同緯度、沖縄県最北の村です。無人の硫黄鳥島[28741]は別。

沖縄本島 本部(もとぶ)半島の北方に見える群島がそれで、南の伊是名島は前地(メーヂ)、北の伊平屋島は後地(クシヂ)と呼ばれます。小さな無人島まで数えると7島ある「伊平屋の七離」です。有人島は野甫島を含めて3島だけ。

琉球王朝第一尚氏発祥の地と伝えられる伊平屋島と伊是名島とは古くから「伊平屋島」と総称される一つの行政地域になっており、琉球王府の番所は伊是名島に置かれていました。
1879年の琉球処分により沖縄県になった後もその状態で、前地・後地にそれぞれ4村がありました。

そして、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行で 島尻郡伊平屋村(いへやそん)という自治体が発足しました。
沖縄県でも、本土と同様に これに合わせた明治合併が行なわれました。旧村は後地(伊平屋島)に属する旧4村(我喜屋村, 田名村, 島尻村, 野甫村)と前地(伊是名島)に属する旧4村(伊是名村, 仲田村, 諸見村, 勢理名村)の8村でしたが、沖縄では 旧村は末尾を【ムラ】と読み、新制度による自治体の読み【ソン】と区別されています。

町村制施行時の変遷情報には旧村名が記されていません。
神奈川県などいくつかの県で行なわれたのと同様に、制度変更に先んじて直前の合併を行ない、その後で 新制度を施行するという2段階の処置が行なわれたのでしょうか?
それとも、単なる旧村の記載漏れか? 私には何れが正しい関係を示すものか判断できません。

前置きが長くなりましたが、1908年の新制度から31年後の1939年に実現した 前地と後地との分村 が本題です。

沖縄県が官報広告・村廃置に記載した文面には「島尻郡伊平屋村を廃し」伊是名村・伊平屋村を置く とあり、確かに 旧伊平屋村の法人格を引き継がない「分割」であると判断されます。

伊平屋村の歴史には、伊平屋村分村の動機として「村役場が伊是名島にあったので不便」であることが挙げられていました。
------引用文-------
村役場が伊是名島に設置されていたため、諸会議、役員吏員、一般民衆の不利不便は想像を絶するものがあり、村議会に分村問題を提起も取り上げ採択されず、民衆は苦境になげく状況が続きました。しかし、分村熱はますます高まり、大正5年伊平屋島(後島)有志が伊是名村との分村請願書を沖縄県に提出。伊平屋においては「分村期成会結成会」も結成され、住民の意向をうけた村議会、村当局も国、県に請願したことで、分村が実現の方向に進み県当局、県議会の調査決議を経て、ついに昭和14年5月23日、内務省令により分村許可、百有余年の懸案であった伊平屋島(後島)住民の嘆願が実現のものになりました。
------引用終-------

ここに記されているように 主な分村動機があったのは 後地側であったようです。
もっとも、これは 後地が前地と同じ村になっているのを嫌った とかいうことではなく、一つの行政地域として統治するならば必須である筈の「交通手段が整えられていなかった」ことに根本原因があるのだろうと思います。

当時の経済事情からして、前地と後地とを結ぶ村営渡船を実現することが困難ならば、解決手段は「分村」です。
役場で代表される公共機関から隔絶されており、分村を希望した 後地側を 伊平屋村のまま「分立」とし、残留する前地側は 同名回避を兼ねて 伊是名村への「改称」で処理する。これが妥当な処理であるように思われます。
前地が多数を占める分村後の国勢調査人口も「後地分立」説を支持しているようなのですが、歴史が関係する「名称の維持」が決め手になって、「分割」に落ち着いたのでしょうか。なお、面積は後地>前地でした。

地域村名面積194019501955196019651970197519802000200520102015
前地伊是名村15.42365255745689503743873279228621441897176215891517
後地伊平屋村21.82271039854008363130832254133815011530154713851238
1939分村km21940琉球琉球琉球琉球琉球1972復帰19802000200520102015

それにしても、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行で名乗ったのが、何故「伊平屋村」だったのか? など疑問は残ります。歴史的価値から伊平屋が上位だったのでしょうか。

役場支所を作るなど別の解決法もあったように思うのですが、それだけではなく、他の地域格差もあったのでしょう。「百有余年の懸案」との記述は、この分村問題には 役場以外の理由も潜んでいるように思われます。

せっかく手に入れた役場庁舎を分村後間もない 1941年に失火で失うなど、思わぬ災難もありました。
更に大きな災難は、言うまでもなく沖縄県が戦場になったことです。伊平屋島にも 艦砲射撃・空襲・米軍上陸。
住民は捕えられて、米軍に命じられた強制労働に使役されました。
1945/11/22米軍が伊平屋から引き揚げて、収容所から開放され、焼土になった集落に帰ることができました。

話を変えます。
伊平屋村と伊是名村との違いの問題でなくて共通の問題ですが、沖縄県の北部にありながら「島尻郡」に帰属している点があります。
実は、上記人口表で琉球と記した期間は米軍統治下ですが、当時は国頭郡に相当する「北部地区」に含まれ、そのために 1970年に日本で使っているものに準じるコードが採用された際にも316と317が付けられました。
これについては、[27598] Issieさんの記事があります。

最初に示した地図から明らかなように、地理的には沖縄県の最北部にある村なのに、琉球王国時代・戦前の日本・戦後の日本復帰後を通じて「島尻」所属である理由。これを明らかにした資料を紹介したのが、[69111] hmtの記事です。

最後に問題の発端となった分割と分立との区別について。

用語としては法人格を受け継ぎ方により厳密に区別されていると思います。
しかし 分村の実務にあたり処理の対象となるのは 法人格だけでなく、名称・役場・人事・財産など多岐にわたります。
分村手続における分割・分立。これに基づいて、単純に「分村の実態」を推察することはできないようです。
沖縄県北部の事例を調べた結果、このような結論を得たことを この記事の結びとして記しておきます。
[93977] 2017年 10月 10日(火)19:56:02【1】hmt さん
分属・分裂の使用事例 そして トカラのこと など
[93971] ekinenpyou さん
1 若い方向け?のクイズ
 これは、対象者から除外されていると思われるので、パスします。(笑)

2 分属・分裂の使用事例
 明治19年茨城県における「分属」の使用例、同年長崎県における「分裂」の使用例を拝見しました。

 郡区町村編制法の時代なので、普通ならば「長崎県肥前国東彼杵郡大村を分裂し大村町を置かれたり」と書くところが、『駅逓局報』なので わざわざ「…大村郵便区市内大村を分裂…」という表記になっていると解釈しました。

この大村「分裂」が現在の用語では「分割」なのか「分立」なのか?
3年先の明治22年町村制施行時には、(旧)大村から村制で「大村」と「西大村」が生まれ、(旧)大村町から町制で「大村町」が生まれています。
この結果を参照すると、明治19年の旧制度における廃置分合は、農村と市街とを含んでいた(旧々)大村から市街地が大村町として「分立」し、農村部は(旧)大村として存続したと解釈されます。

「地所幾分を裂き」の使用例として示していただいた富山県の事例は、「一部を分けて」という程度の意味で使われており、「分裂」が「分割」を意味することまでは示していないと思われます。

3 戦前の鹿児島県大島郡十島村【じっとうそん】から現在の鹿児島県鹿児島郡十島村【としまむら】と三島村へ

[93971]で提供していただいたこの地域の「格差」を示す羽原論文。指示していただいた 15コマを見たら
太平洋戦争の終結すら、その年の11月になってはじめて知ったという。
離島であることは承知していた筈ですが、この「情報格差」には驚きました。

日付や表記など 問題もあったようですが、トカラにとって大きな転機だった 1952年の日本復帰と分村とを中心とした動きは、変遷情報一覧表によって 一応辿ることができます。
これを肉付けする 主な落書き帳過去記事をまとめておきました。ご参考まで。

【追記】
この記事集を見ていたら、敗戦後間もない頃の占領軍指令により北緯30度以南の施政権が失われた結果、当時の十島村【じっとうそん】の領域が上三島に限定されることになったことを告げる 内務省告示昭和21-22が記されていることに気がつきました[82237]

村の面積が縮小する事例は多数ありますが、主なものは他の自治体への一部編入によるものであり、軽微な場合は境界変更の手続きによります。
1946年の十島村のケースでは、有人島数が10から3に減少し、人口もそれに応じて3分の1になる。
この大きな変動が、廃置分合でも境界変更でもない手続きで行なわれた事例。これは珍しいと思いました。

官報(右上)によりその名目を確認したところ、「(地方事務所の)管轄区域改正」という名で告示されていました。
鹿児島県大島郡十島村の内 黒島、竹島、硫黄島

変遷情報に収録すべきか否かはグリグリさんにお任せするとして、珍しい事例だと思うので紹介しました。
[93949] 2017年 10月 6日(金)17:48:17【1】hmt さん
♪汽笛一声新橋を… 鉄道唱歌(1900年)334番の旅の終着駅はどこでしょうか?
間もなく10月14日。「鉄道の日」です。

10年前の秋の落書き帳で、100年前、国有化の頃の鉄道というシリーズ記事を連載しました。

事の起こりは、Issieさんが「鉄分いっぱい」に書いた[61073]中の1句「なぜかその南海が国有化されなかったにもかかわらず」に反応した単発記事だったのですが、記事を2つ書いているうちに欲が出て、タイトルを変更してシリーズ化してしまったのです。
その対象も 五大私鉄買収を中心とした 1906年から1907年にかけての国有化に留まらず、買収されなかった私鉄や、鉄道とは別物と考えられていた 軌道や電車などにも及び、自分でも予想外の長編になりました。

最終回は「明日、2007年10月14日「鉄道の日」は、新橋横浜間鉄道の正式開業[49808]から135周年になります。
大宮に 鉄道博物館 が開館します。」と結んでいます。

5年前には日本の鉄道創業 140周年を機会に hmtマガジンに 鉄道特集号 を作り、創業期の鉄道と共に 上記シリーズも収録しました。

鉄道創業145周年になる今年は、お馴染み「鉄道唱歌」を取り上げることにします。

この歌は、明治33年 西暦1900年に世に出ました。日清戦争と日露戦争との間です。
東京【駅名は新橋】神戸間の鉄道は既に1889年に開通していますが[61303]【名称の東海道線はM27年[87465]】、山陽鉄道のような幹線でさえ 未だに建設途上という時代でした。

車内放送のチャイム音しか聞いたことがないという方もあるかもしれませんが、1番の歌詞が「♪汽笛一声新橋を…」で始まることは、広く知られています。

作詞者は大和田建樹。七五調4句の歌詞に付けられた 調子の良い ヨナ抜き ピョンコ節のメロディーは 覚えやすく、今も歌われていますが、それは冒頭のごく一部に限られています。

レコードもラジオもなかった時代、歌をビジネスに結びつけたのは、版権を買った大阪の楽器店主・三木佐助です。
楽団を乗せた列車を走らせるなどの 奇抜な広告宣伝が成功・大流行した結果、明治33年内に第五集まで出版された 歌本はベストセラーになり、十数年間に約2000万部を売ったと伝えられています。

歌詞はすべて大和田建樹作詞ですが、各編2種類の曲を用意して 読者の好みに合わせる趣向も用意されました。
しかし ヒットしたのは多梅稚(おおのうめわか)作の曲であり、これが現在に歌い継がれています。

リンクした資料は明治44年発行の訂正版でした。よく見たら明治33年発行の初版から変っている箇所が 気になりました。電車ソング集で使われている歌詞の方が オリジナルに近いので、こちらも付けておきました。

日本各地の名所を含めて巡る汽車の旅を綴った長い歌詞が存在したことは、現在では忘れられています。
第一集 東海道を見ても、【6番】横須賀行は乗り換えと 呼ばれて降るる大船の 次は鎌倉鶴ヶ岡 源氏の古跡や訪ね見ん という具合に10番まで寄り道します。琵琶湖・京都・大阪・神戸と 寄り道を重ねながら 66番で東海道の旅を終えます。

その後、第二集は「♪夏なお寒き布引の 滝の響きを後にして 神戸の里を立ち出ずる 山陽線路の汽車の道」とスタートするのですが、25番の三田尻【防府】で「山陽線路の終にて 馬関【下関】に伸ばす汽車の旅」。
そこで少し戻って「徳山港を船出して 二十里行けば豊前なる 門司の港に着きにけり」となります。
鉄道は未完成ですが、日清戦争後という時代を反映して馬関条約にも言及。
31番から九州の旅。宇佐・箱崎・太宰府・熊本。八代から鳥栖に戻り佐世保・長崎に進み68番で終りますが、「あとは鉄道一筋に 瞬く暇よ青森も」。

…というわけで、第三集の東北・磐城が 64番まで、第四集の(上野から信越を経て)北陸編が 72番まで。
2003年の落書き帳[8880]に、鉄道唱歌第三集 1番と62番 の歌詞が引用されていました。

そして、明治33年の内に第五集(関西・参宮・南海)までが発表されました。これが 64番まであるので、累計334番になります。

全国を巡った鉄道の旅の終着駅こそ、南海鉄道の難波駅だったのでした。
♪治まる御代の天下茶屋 騒がぬ波の難波駅 勇みて出る旅人の 心は跡に残れども

これで、難波駅の昔話[93908][93912]にも関連した記事になりました。

おまけ
1 北海道唱歌・南の巻は明治39年に、北の巻も明治40年に作られました。大和田建樹の作詞で鉄道唱歌334番に40番まである北海道を加えると374番になります。
「千里の林万里の野 四面は海に囲まれて 我が帝国の無尽庫と 世に名ざさるる北海道」
函館から北海道を巡った終着駅は室蘭で、「青森までは海一つ」と歌われています。

2 大和田建樹(宇和島出身)は、明治41年に伊予鉄道創立20周年を記念して作られた 伊予鉄道唱歌も作詞しています。
[93947] 2017年 10月 5日(木)16:20:42【1】hmt さん
ようこそ ekinenpyou さん
ekinenpyou さんのお名前は 2014年11月のグリグリさんの記事[86602]で初めて紹介され、その直後には最初の落書き帳記事[86631]がありました。
2014年に2件、2016年に3件の書き込みがあった後、先日(2017/10/2)メンバー登録が実現しました。

5件でのメンバー登録実現は、2005年の たもっちさん(7件で登録)を上回る快挙だろうと思いますが、これも ekinenpyouさん の調査実績が グリグリさんに買われての結果であろうと 推察しています。
これから、よろしくお願いします。

メンバー登録の翌日に、私がギブアップした明治時代の変遷記録調査について、早速のレスポンスを頂きました。
その御礼を兼ねて、落書き帳への歓迎の辞と共に、明治の分村事例2題に関する記事をまとめてみました。

[93942] ekinenpyou さん

1 明治37年実施 木造町関係の分村手続
1903(M36).10.3青森県告示第308号ですが下記(右下)にて確認できます。

明治44年編纂の青森県例規に掲載されていた青森県告示M36-308を教えていただき ありがとうございました。
西津軽郡木造町を廃し 大字木造の区域を以て 更に木造町を置き
この告示原文前半により「(旧)木造町の廃止」を再確認しました。
後半の部分は、私が[93802]で提案した「縮小再置」という変遷種別を裏付ける記載です。

近隣の4村に引き取られた7大字については、下記のように [93802]記載の復元文では予想していなかった「分」という文字が使われていました。
大字△△を○○村に分属せしめ
しかし、これは 変更種別の「分割」に該当するものではありません。
「分属」とは、実質的に複数の「編入」を意味しているものと理解することができます。

官報は 告示日の10/3でなく 10/8の広告欄に「町廃置分合」として掲載されていました。
告示という言葉が使われず、告示番号や告示日もないのは、「広告」という性格によるものなのでしょうか。

参考までに、明治37年分村の結果生まれた1町4村のうち1町2村は昭和合併の木造町として復縁し、残る2村も平成合併でつがる市に復縁しています。

2 熊本県市町村合併史
2.1 第六章 三新法と地方制度 
44コマ(200頁)に記された「下野村の分村」。郡区町村編制法時代・明治12年の記録は「肥後国阿蘇郡河陽村分裂之儀に付伺」で「カワキタ」のフリガナがあります。
そして、私の関心がそそられたのは、「分裂」という言葉が使われていたことでした。
語感は が汎用的な「分割」に対して「分立」は親子のような関係に限定、「分裂」というと「喧嘩別れ」のような激しい印象です。
結局のところ町村制の時代になれば「長陽村」に統合されるのですが、明治初年にはこのような前史もあったということを知りました。

2.2 第七章 帝国憲法発布後の地方制度と町村大合併
12コマ(p.224)に「新町村名選定の事由」という項目がありました。
しかし、残念ながら阿蘇郡の町村については「記録なし」でした【17コマ】。
[93865] 2017年 9月 24日(日)19:00:14hmt さん
阿蘇いろいろ
[93824][93859][93863]に続き、熊本地震の報道でお馴染みになった南阿蘇村あたりのことを中心として、阿蘇の地理に関することを いろいろと記します。

1 立野火口瀬
[93822]で引用された毎日新聞記事には、熊本地震で崩落した国道325号阿蘇大橋の 架け替え工事で削られてしまった 柱状節理の所在地が「立野峡谷」と記されていました。このあたりについては「立野火口瀬」と表記された資料もあったが、火口瀬という言葉は初耳でした。そこで辞書で調べたら、火口やカルデラの縁の一部が切れて、火口湖内の水が流れ出した谷のことでした。

[92668]で言及した、十和田湖から奥入瀬川が流れ出る「子ノ口」。これも火口瀬の一例でした。
立野火口瀬については、博物館の解説もありました。
阿蘇谷からの黒川と南郷谷からの白川が合流する戸下(とした)から白川の流れに沿って西に延びています。

豊肥本線の立野駅は標高270m付近に描かれていますが、東の阿蘇谷方面に向かう線路は いきなりの急勾配なので、スイッチバックにより山登りするようになっています。南阿蘇鉄道【旧・高森線】の通る南郷谷も登り勾配ですが、こちらは徐々に高度を上げてゆきます。
地図の少し東側には、白川の鮎返しの滝、黒川の数鹿流(すがる)ヶ滝という名が見え、いずれの川も急流を流れ下っていることが知れます。

立野は現在では南阿蘇村の大字ですが、市区町村の変遷で見るように、明治合併の町村制で合志郡立野村から瀬田村になった後、新郡制施行準備で菊池郡に変更、昭和合併で阿蘇郡長陽村に編入、平成合併で南阿蘇村という前歴です。

2 黒川と白川
阿蘇山地域を大別すると、中心にある阿蘇五岳、その周囲のカルデラ、更に外側の外輪山になります。

最初に人が住みついて 拠点を作った主な場所は 水利の良いカルデラ内の山麓と火口原です。
その筆頭に挙げられるのが、古代からの有力氏族で 現在も阿蘇神社大宮司である阿蘇氏の本拠地と言えるでしょう。
その名も阿蘇市「宮地」付近。阿蘇谷東部のこの地は 現在の阿蘇市の中心地でもあり、黒川の流れの近くです。

黒川流域の阿蘇谷は 内牧など温泉地帯でもあるようです。
ここで思い出したのが 杖立オフ会の際には道路の関係で利用できなかった高速バスの行先「黒川温泉」[91229][91408]でした。でも 外輪山外側の黒川温泉は、阿蘇谷の黒川とは無関係でした。

白川の流れる南郷谷に移ります。阿蘇谷に比べて高低差のある南郷谷は 古代・中世の技術では開発が困難だったようで、中心地となる高森が台頭したのは近世以降のようです。南郷谷西側の開発は更に遅れて 阿蘇神社領の広い原野が残り、神事の狩場に用いられたようです。

3 南阿蘇村
平成合併の結果、南郷谷の西側に成立した南阿蘇村ですが、村の中央を北西に向って白川が流れており、ここで河川を隔てた「ひなた・ひかげ地名」のペアを見ることができます。

白川の北岸が合併前の長「陽」村、白川の南岸が合併前の久木野村【明治合併前に河「陰」村】であり、今年になってから村役場が河陰から河陽に移ったことは [93859]で記しました。
マピオンは、南阿蘇鉄道の長陽駅と河陰にあった南阿蘇村役場【旧位置】が出るようにセットしました。

そして、白川の北岸で長陽村下田よりも上流側にあるのが、平成合併に関係する第三の村・白水(はくすい)村で、南阿蘇鉄道には「南阿蘇水の生まれる里白水高原」という長い名の駅から始まる5駅があります。この辺が南郷谷のほぼ中部です。明治合併前の旧村名に由来する「両併(ふたあい)」という難読地名もあります。

南阿蘇鉄道を西に引き返すと、鮎返しの滝の先は外輪山を戸下トンネルで抜けて立野峡谷に出ます。長陽村に併合される前には別の郡だった前歴があることは、立野火口瀬の項で既に記しました。

4 白川県
阿蘇から離れますが、市制町村制よりずっと前の明治初年に 短期間存在した「白川県」に触れておきます。
阿蘇の南郷谷を流れ、黒川との合流後も「白川」として熊本に至る川の名が県名に使われた時代がありました。

法令全書 明治5年6月14日 太政官布告第178号
熊本県を白川県と改称し県庁を飽田郡二本樹村に被置候事

県庁が熊本から移転するので、県名も移転先の近くの川の名を使い「白川県」とする。
表面的にはこれだけですが、やはり移転先が気になります。

熊本県のサイト内では 二本木移転関係の適切な資料を発見することができなかったのですが、熊本市西区の広報紙2014/4により、白川の河口近くであることが判明しました。

マピオンを見ると熊本駅の近くで、現在の常識では「熊本ではない」という「県名を変えた理由」が とても理解できません。

ついでに 太政官布告の上部欄外を見ると、「【明治】9年第19号【太政官】布告を以て 県庁を飽田郡熊本に移し 熊本県と改称」とあります。
前記の西区広報紙によると、明治6年 八代県との統合【これにより、白川県は現在の熊本県域に近い管轄区域を持つことになった】により手狭になった上、水害にも悩まされ、明治8年には古城(ふるしろ)に移転し、翌明治9年に熊本県の名に戻したとのこと。
明治初期の慌ただしい制度変更の一幕でした。
[93863] 2017年 9月 24日(日)14:38:30【3】hmt さん
旧村・河陽村の読み
[93682] グリグリさん
河陽は「カワキタ」ではないでしょうか。河陰の「カミナミ」とセット。

再読してみると 郡区町村一覧のフリガナは「カハキタ」ですね。「河」の右にふられた2字目を見落としていました。
平凡社の日本歴史地名大系 熊本県p.358 長陽村の項目にも、明治22年 河陽(かわきた)村、長野(ながの)村、下野(しもの)村の合併であることが 振仮名付きで記されていました。
同書p.367 久木野(くぎの)村の項目に記された旧村・河陰村の振仮名は、「かみなみ」ではなく「かいん」でした。

読みは対象外になっていますが、変遷情報詳細の修正結果【河湯村→河陽村】も確認しました。
[93859] 2017年 9月 24日(日)10:18:14【5】hmt さん
明治合併時に長陽村の大字になった 旧村・河陽村について
[93826] k-ace さん
[93851] グリグリさん
むっくんさんの労作[76874]に基づいて、明治22年熊本県令第10号を確認したところ、予想外の記述を発見しました。
熊本県令達類纂巻上(明治26年7月編纂)
各郡町村の内左の通分合改称し来る(明治22年)4月1日より実施す【この部分は33コマ】
(中略)
下野村 長野村 河湯村
  合併長湯村と改称す

なんと「河湯村」だけでなく、合併後も「長湯村」という記載には驚きました。両方共「さんずい」です。
出典は明治26年の編纂なのですが、欄外上部にも訂正が記されていませんでした。

とりあえず、[62816] M12の 郡区町村一覧[62817] M19調の 地方行政区画便覧が「河陽村」となっていることを確認しました。
現在の住所地名を含めて、「こざとへん」が正しく、「さんずい」は誤記と思われます。

長陽村から逸脱しますが、余談も含めた補足事項を記します。

郡区町村一覧には「フリガナ」がありましたが不明瞭でした。河陽は カヤウ? 河陰は カミナミ?

「陰」には確かに「河川の南岸」の意味があり、中国の「淮陰」の例を挙げた記事[38328]を書いたこともあります。しかし日本では「陰」を使った村そのものが少なく[70882]、この字を「ミナミ」と読む実例があったとすれば初の知見です。

参考までに、南阿蘇村役場は2017年4月から新庁舎【大字河陽1705、地図】に統合されましたが、地理院地図、マピオン共に未修正です。
それまで存在した 久木野庁舎【旧久木野村役場】の所在地は南阿蘇村大字河陰145-3でした。
「河陰」の現在の読み方は マピオンに示されているように「かいん」なのでしょう。

熊本県の地図の役場位置も旧位置のようです。修正の検討をお願いします。>グリグリさん
[93824] 2017年 9月 20日(水)19:33:00hmt さん
熊本県阿蘇郡長陽村
[93822] じゃごたろ さん
南阿蘇村の柱状節理が、熊本地震の復興で壊されたという報道がありましたね。

所在地を検索すると南阿蘇村戸下と出ました。出典
阿蘇長陽大橋付近のようです。

長陽とか河陽とかいう地名から思い出したのが、阿蘇にあった長陽村や蘇陽町です[70893]
河川の北や阿蘇の南という由来は解るが「長陽」の由来は?

外輪山の影響で日照時間の短い阿蘇で、「西日が長くあたる」という説【Wikipedia長陽駅の由来】もありました。
しかし、市区町村の変遷を見たら、明治合併時の合成地名である長陽村【平成合併で南阿蘇村】に由来することが知れました。
[93802] 2017年 9月 19日(火)17:09:54hmt さん
明治37年に区域を縮小して再置された 青森県西津軽郡木造町
[93790] グリグリさん
【1911年に区域を縮小して再置された神奈川県屏風浦村は、】青森県木造町の分割、新潟県松島村の分割が同様の事例になるのかなと思います。いかがでしょうか。

青森県木造町については、[93006]で「変更種別が「分割」の変遷情報一覧」を示していただいた時から気になり、「境界変更でもよかったのでは? と思わせる内容です」[93020]と記していました。

変更種別:分割と明記されていたので、それ以上 立ち入ることをしませんでしたが、今回見直すと、詳細に青森県告示【明治36年】第308号が示され、「西津軽郡木造町を廃し大字木造の区域をもって木造町を置く」という「廃置」情報が明記されていました。
しかし、この「廃置」が手続的に「分割」であることは記されていませんでした。

そこで、この点を確認しようと 告示文を探したのですが、1903/10/3の官報には見出すことができませんでした。青森県サイト探索も不成功。
しかし、関係する1町4村の変遷情報詳細から重複部分を除いたら、次のような記述に復元されました。
西津軽郡木造町を廃し 大字木造の区域をもって木造町を置く。大字上相野及び大字下相野の区域を森田村に編入する。大字広須及び大字玉水の区域を柏村に編入する。大字蓮花田及び下遠山里の区域を出精村に編入する。大字濁川の区域を柴田村に編入する。

このように、複数の大字が存在した旧・木造町は 大字木造の区域のみに「縮小再置」され、残る7つの大字は近隣の4村に引き取られた。上記の復元文には、これを記述するのに必要かつ十分な情報が盛り込まれており、「分けて」「分割」「分立」などの言葉を必要としていません。

「分割」という用語が使われたのは、88さん【or参照資料の著者】が「これは木造町の実質的な分割だ」と考えたからであり、変更種別の詳細説明に使われている定義に合っていることを保証するものではないでしょう。

そもそも「分割」は、それ自身の中に「廃止」と「二以上の市町村の設置」を含む 完結したプロセスです。
市制・町制などとの併記はありとしても、「分割/編入」という併記には馴染まないと考えられます。

[93006]で示された多数の例の中で「分割/編入」が見られるのは、木造町関係の4村と新潟県沼垂町だけです。
いずれもケースも近隣で行なわれ廃置分合の結果無所属となった地域の 単純な「編入」として扱うだけで、特に問題ないように思われます。
横浜市域拡張に伴う 屏風浦村・大岡川村の一部編入[93788]は、その一例です。

事実上の分村だが、「二以上の市町村を置く」分割に該当しない 木造町、屏風浦村、大岡川村の残存部。
その変更種別案として、「縮小再置」はどうでしょうか。
[93788] 2017年 9月 18日(月)17:36:23hmt さん
変遷履歴の中での「新設分村?」
変遷履歴情報については、むっくんさんから多数の情報をいただいており、感謝しています。
最近も[93775][93776]で多数の情報をいただいたところですが、これに掲載された昔の告知文を眺めているうちに、類例の少なそうなタイプの廃置分合があったので、少し考察してみました。

それは[93776]の神奈川県#26からのリンク先 官報第8327号広告 に掲載されていました。
横浜市の第二次市域拡張(1911/4/1施行)に関係する「村廃置及市境界変更」を告知する文の2番目でした。
一 久良岐郡屏風浦村を廃し 大字滝頭、磯子、岡を横浜市に編入し 其他の区域を以て 新に屏風浦村を置く
# 3番目は大岡川村に関するもので、村名と編入区域が違うだけで、これも同型式の処分です。

告示の中央部は「村の一部を横浜市に編入」するという何の変哲もない告示なのですが、その前後が問題です。
「母体の村を廃し【編入以外の】区域を以て 新に【母体と同名の】村を置く」

何の目的で、このような手続にしたのでしょうか?
「村の一部を横浜市に編入」するだけならば、「境界変更」だけの手続でも足りるはずです。
わざわざ「廃置分合」という型式を選んだのは、横浜市編入となった「村の一部」こそが、「母村の主要部」であったためと推察しました。

現在の地図を見ると、屏風浦村の領域であった現在の磯子区には 滝頭や岡村を名乗る学校、磯子を名乗る警察署があります。大岡川村の領域であった現在の南区にも弘明寺・井土ヶ谷など著名な地名があります。
国勢調査より前ですが、現住人口表を用いて編入前後の人口比を計算すると、屏風浦村が60%、大岡川村が46%です。横浜市に編入された区域は村の約半分の人口を占める、市街化しつつある区域 であったと推察されます。

杉田などの大字は屏風浦村として残るものの、それは母村と同じものではなく、実質的には「分村」です。
そんな気持ちが、単純な「境界変更」でなく、母村を「廃」し、一部を新村として設「置」し、他の一部を「分」けて、横浜市に「合」併する という手続に結実したものと思われます。

変遷情報に戻り、編入対象外の一部【杉田など】による新村設置を、どのように表示したらよいのか?

「新設」だけでは「新設合併(合体)」を指す 現在の定義に合いません。
「分割」の定義には合わないので、その言葉こそ使っていませんが、実質は 村の分割【分村】です。
タイトルに使った「新設分村?」という新語【珍語?】は、苦し紛れの一案ですが、気に入りません。
告知文に記されていた言葉を素直に使い、「廃置/境界変更」のままでよいのか?
グリグリさんは どのような言葉を使うでしょうか?
[93763] 2017年 9月 15日(金)17:21:43【2】hmt さん
東京都練馬区も、「そのまま」存続
[93756] グリグリさん
分立後、現在も全く同じ市町村が存続している自治体を調べてみました(分立後、市制、町制、改称、合併をしていない)。以下の2町11村になります。

最近の分立に関する記事を思い出すために「分立」で記事検索してみたところ、渋谷村や釧路村の記事だけでなく、「板橋区からの練馬区の分立」に触れた記事[93619]がありました。

そこで、練馬区の変遷情報を確認したところ、変更種別は「分割」となっています。
どちらが誤記らしい。変遷情報に分割の根拠が示されていれば これを信頼したいのですが、それが示されていません。
そこで、関係する板橋区・練馬区のサイトを見ました。

板橋区の歴史年表:1947年8月1日 当区面積の60パーセントを分離して練馬区誕生。

練馬区の歴史 練馬区独立小史(練馬区史より抜粋)
これによると、旧制度(東京都制)時代の末期から 地元の板橋区では 練馬区独立の動きがあった。しかし(東京都には無視された形で)1947年3月15日に 35区から22区への再編が実施されたことを知りました。
同年5月3日の地方自治法への切り替え後に、新制度による板橋区議会が、練馬区新設を満場一致で可決。
これにより、ようやく 8月1日からの練馬区独立 が実現しました。

地方制度の変革時期に、このような一幕があったのは、それなりに有用な初知見でした。
しかし 抜粋された記載だけでは、分離独立の手続が「板橋区を分割し、改めて(新)板橋区と練馬区とを設置した」のか、「板橋区の一部を分けて 練馬区を分立した」のか、何れかを判断することができませんでした。

そこで、正攻法の官報を調べることにしました。幸い練馬区発足は、国立国会図書館デジタルコレクションにより無料で閲覧できる範囲【1952(昭和27)年4月まで】に入っています。
検索画面で、キーワード:練馬区、刊行年月日:西暦1947年 を入力するだけで、簡単に 官報第6163号に到達しました。

昭和22年内務省告示第253号
地方自治法第283条において準用する同法第7条第1項の規定により、昭和22年8月1日より東京都板橋区の中 練馬及び石神井 両支所の所管区域を分け、その区域を以て 練馬区を置く。
昭和22年7月31日 内務大臣 木村小左衛門

このように、母体Aの法人格存続を「AのうちBを分け」という言い方で表すのが、「分立」です。[55654]

「分割」と「分立」との混乱については、志紀町から分立?[55649]、栗橋町[80441]、釧路村[93077]などでも問題にしてきました。
今回、その続編の練馬区のケースでは、内務省告示によりそれが「分立」であることを初めて知ったというわけです。
実は hmtの過去記事[74935]でも、「板橋区から練馬区が分離して」という 曖昧な言い方をしていた のでした。

…というわけで、市区町村変遷情報の修正をお願いします。
板橋区の詳細:【分割とそれに伴う再置の情報なので】削除
練馬区の詳細: 変更種別を分立に改め、その根拠を示す。
この修正により、2種類の一覧表【東京都と1947年】は自動的に更新されるものと思っています。

[93756]の対象について
「市町村」ではありませんが、同類である「都の区」【地方自治法第281条第1項により特別区という】を対象に含めることにすれば、東京都練馬区も、「そのまま」存続している自治体の仲間です。

もっとも 練馬区70年の歴史を振り返ると、名前は変らなくても その実体が大きく変化した制度変更がありました。
hmtマガジン区制度の変遷に収録した記事では、制度変更に応じて記号を付けています。
練馬区誕生時の特別区(E1)は、1952年に東京都の内部団体(E4)になり、その自治権が揺らぎました。
「平成12年改革」で基礎自治体の地位を回復しましたが、まだ「市」とは違う「特別区」(E6)です。

詳しくは、[75018][75410]参照。

分立以来70年を迎えた練馬区。分立後、市制、町制、改称、合併をせずに「そのまま」存続していることは確かです。
しかし 実体に踏み込むと、「そのまま」という表現には、少し問題があるのかもしれません。
[93740] 2017年 9月 12日(火)13:38:00hmt さん
栗きんとん
[93733] シノレパシクソさん
中津川市は栗きんとんが有名なのですか?

中津川の「栗きんとん」のことは、2012年の落書き帳で知りました。[80118]ひぃ さん
リンクされた中津川栗きんとんめぐりを開くと、いきなり現れるのは 和菓子の写真です。
潰した栗の実と砂糖だけを煮て作った純粋の栗餡を 茶巾絞りで成形した菓子のようです。

おせち料理の重箱に入っている、栗の実の粒が入った ねばねばした【水飴由来?】「きんとん」とは 別物です。

Issieさんは 信州の小布施にも 中津川のものと ほぼ同じ菓子があると書いていました[80113]
栗100%ということで 私が[80114]で紹介した桜井甘精堂の 「純栗かの子」は、成形した和菓子ではない別物でした。

蛇足
小布施の 「楽雁」は「栗落雁」ではない[62829]
外観が 栗の形をしているだけの「栗まんじゅう」[80106]
[93713] 2017年 9月 8日(金)23:14:37【1】hmt さん
hmt出身地の表記 7年遅れの再修正
[93710]を書いた後で、改めて hmtの出身地を確認しました。
[(相模原市)津久井町」となっており、これは 平成合併に伴う変化【2006/3/20】に対応した修正でした。

その後、2010/4/1の政令指定都市化、行政区設置の際の変化には未対応でした。

そこで、表記が話題になった機会に 7年遅れの再修正: 「(相模原市緑区)津久井町」を検討しました。

これによる影響 その1:リンク先の自治体ページが自動的に緑区のページに変更されるのは当然です。
その2 出身地としては、現在の住所表記から消えている「津久井」という地名[73423]を残ておきたいが、可能か?

幸い、編集画面の冒頭説明は
出身地は 登録者が「出身地と思っているところ」とお考えください。
となっており、出身地として 「過去に存在した自治体名を含む地名」 を書くことが許容されているようです。

テスト結果は OKであり、上記案のように再修正を施しました。
[93710] 2017年 9月 8日(金)19:55:32【1】hmt さん
静岡県駿東郡」に該当する自治体がない その理由
[93709] 特急とりあたま さん
僕は最初は居住地を「静岡県駿東郡」にしようと思ったのですが、

オーナーの説明があると思いますが、偶々目についてしまったので、私が心得ている事項を記しておきます。

落書き帳メンバー紹介編集画面説明文の冒頭部 便宜上箇条書きに修正
1 居住地・出身地には、自治体名称を記入してください。その自治体の公式HPへのリンクを設定します。
2 都道府県名、郡名など省略しても構いません。また、都道府県名のみ、郡名までなど自治体名の省略も可能です。
3 詳しくは[22211]を参照してください。

私としては、原則は 1項であり、2項と3項は補足説明であると承知しています。

1 最初に、居住地としての「静岡県駿東郡」に「該当する自治体がない」理由です。

「静岡県駿東郡」は住所の一部になっている地名なのですが、【現在の】自治体ではありません。
明治後期[62662]から大正時代にかけては「自治体」【現在の法令用語では地方公共団体】だったのですが、大正10年(1921)の「郡制廃止に関する法律」で廃止されました。総務省サイト
なお、郡制廃止の施行は大正12年(1923/4/1)で、郡長や郡役所の廃止は更に後の1926年です。

2 
どこかに「県名+郡名」もOKと書いてあった気がします。

確かに、上記[22211]の例の中に (4)都道府県名+郡名 があります。
自治体名ではないが、例外的に現在も許容されているのでしょうか? 
その後の変更で現在は NG になっており、説明文3項の修正が必要なのか?


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