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[98077] 2019年 7月 2日(火)19:16:37【1】hmt さん
度量衡の話(2)メートルの定義 「憎くなく…」
時の記念日 99周年の記事[98033]から始めた「度量衡の話」シリーズの第2回です。

度量衡・メートル法・cgs単位などの言葉に代わり、現在用いられている科学用語は「SI単位系」でしょう。
落書き帳過去記事を探ると、次のような記事がありました。

[88892] hmt
最初は「1日」という時間を細分して示す目的で作られた「分」や「秒」でしたが、科学技術の発達に伴い制定された現在のSI単位系[86490]の中で、「秒」は一番正確な定義がなされている「基本単位」に出世しています。

[86490] YT さん
SI単位系といえば、長さがメートル(m)、質量がキログラム(kg)、時間が秒(s)、電流が(A)、温度が(K)、物質量がモル(mol)、光度がカンデラ(cd)ですが、この中で一番正確な定義がなされているのが、セシウム原子時計によって定義されている「秒」です。(中略)
SI単位系ではおそらく一番馴染みが深いのが「メートル」でしょうが、現在はメートル原器ではなく、真空中の光速度による定義に変わっています。「真空中で「1秒」の299792458分の1の時間に光が進む行程の長さ」と定義文【計量単位令別表第一】にあるように、長さの基本単位「メートル」は 時間の基本単位である「秒」により定義されており、相対誤差(10^-10)も、時間の誤差よりも大きくなります。
定義に使われた数字【光速 c = 29979…m/秒】の語呂合わせを、今回のタイトルに利用しました。
上記 YT さんの記事は、当然のことですが、キログラムの定義変更[98033]にも言及しています。

計量単位令別表第一に記されている「物象の状態の量」は 上記の 長さ・質量・時間・電流・温度・物質量・光度 を筆頭に 65種ありますが、ここでは MKS単位の一つである「秒」の定義を記しておきます。
セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍に等しい時間

時間については、ご承知のように 60進法[88892]です。
10進法を推進したフランス革命も、古くからの習慣を変えることができませんでした。
時間と角度を 60進法から 10進法に変更した革命政府は、宗教の安息日などを通じて 長い伝統を持つ 7日の週を廃止して 10日の旬単位休日を採用しました。働き方改革?
この「共和暦」は、自然現象に基づく「月の名称」にも特徴がありましたが、人々に受け入れられず、ブリュメール【霧月】クーデターで政権を握った ナポレオンによって廃止されました。[45385]

時間のことは このくらいにして、[98033]に続いて 日本の近代度量衡制度を概観しておきます。
1875年(明治8年)度量衡取締条例(太政官達第135号)
1886年(明治19年)メートル条約加盟[87405]
1891年(明治24年)度量衡法公布 1893/1/1施行
 メートル原器等に基づいて尺貫法を定義した。【間接的なメートル法導入】
1909年(明治42年)ヤード・ポンド法も公認し、尺貫法・メートル法と 3単位体系の並立状態を生み出し、混乱。
1921年(大正10年)第一次大戦後の度量衡法改正で国内単位をメートル法に一本化する改正。
 しかし、尺貫法擁護運動にさらされ、統一は事実上無期延期。
1951年(昭和26年)第二次大戦後、計量法。メートル法統一問題は持ち越し。
1959年(昭和34年)メートル法完全実施。例外で残された土地建物の坪表記も 1966/3/31限り。
1960年 メートルの定義変更 クリプトン86の波長[45385]
1983年 メートルの定義変更[45385] 真空中の光速[86490]
2019年 キログラムの定義変更 プランク定数[98033]
[98073] 2019年 6月 28日(金)16:06:47hmt さん
パリ講和会議 100周年
G20サミットということで、世界の政治家が大阪に集っていますが、100年前の 1919/6/28には、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」が開かれており、ベルサイユ条約が結ばれていました。

第一次世界大戦については、開戦100周年 2014/7/28の記事[86112]に書いたことがあります。
今日は、開戦の発端になった「サラエボ事件」の 105周年でもあります。

それはさておき、パリ講和会議の中心人物は 米国 28代大統領 ウッドロウ・ウィルソン でした。
プリンストン大学の学長経験もある政治学者で、誰かさんとは大違いの学者大統領。

欧州政治家の旧外交により始まった世界大戦に対して、大統領は 勝利なき講和 を唱え、当初は中立。
Uボート【潜水艦】による英国の豪華客船ルシタニア号への無警告攻撃により、米国市民を含む多数の犠牲者が出ました。これが英国の大々的な宣伝に利用され、米国世論は反ドイツになりました。

米国が参戦した後も、ウィルソン大統領は 和解の平和 姿勢。
1918/1/8 秘密外交の撤廃・民族自決などを含めた 14ヶ条の平和原則などを公表。
1918/9/25 ブルガリアが脱落して落ち目のドイツ大本営は、降伏の道を探ってアメリカと接触 9/28。
そして ドイツも遂にウィルソンの和平勧告に応じ休戦協定が結ばれ、1918/11/11 平和が訪れました。

このように、ウィルソンが第一次世界大戦の終結に果した役割は 極めて重要でした。
しかし、連合国側諸国が 彼と同じような考えを持っていた訳ではありません。
パリ講和会議に集まったのは 33ヶ国。政治的混乱のロシアは呼ばれず。

1919/1/18 開会宣言。ウィルソンが望んだ会議の公開は 英仏の猛反対で実現せず、秘密会議。
2/14に国際連盟規約の草案が承認されました。
ウィルソンは、国際連盟創設の功績によって、1919年のノーベル平和賞を受賞しました。

会議の中心である四人会議(米英仏伊)の争点は、フランスの対独警戒心からの領土要求。
なんとか妥協が成立して、講和条約案がまとまり、4/14 ようやく敗戦国ドイツが招請状を入手。
最終的にはドイツも条約を受諾することになり、冒頭に記したように、6/28にベルサイユ条約締結。

チェコスロバキアへのズデーテン割譲を拒否したオーストリアに対しては 修正案が提示され、1919/9/10 サン=ジェルマン条約締結で決着しています。
そして、1919/11/27 ブルガリアとの ヌイイ条約、1920/6/4 ハンガリーとの トリアノン条約、1920/8/10 オスマン帝国【トルコ】との セーブル条約により、連合国側が同盟国側と講和して 第一次世界大戦にケリをつける パリ講和会議 も終結しました。

政治学者のウィルソンには、講和会議よりも大きな政治構想・国際連盟を推進する仕事があり、講和会議小委員会の一つである国際連盟委員会の委員長には、自ら就任していました。

この委員会で、日本全権の牧野伸顕【大久保利通の次男】は、国際連盟憲章に人種差別禁止規定を盛り込むことを提案しています。
しかし、白豪主義を維持していたオーストラリアの強い反対があり、米国上院も内政干渉にあたる人種差別撤廃提案が通れば、条約を批准しないと反発し、賛成多数にもかかわらず議長権限で否決されました。

このように、ウィルソンは 期待した人を失望させながらも、国際連盟成立のためには 様々な譲歩をして、パリ講和会議の各条約を成立させ、国際連盟も成立の運びとなりました。

しかし、米国上院は、国際連盟規約10条【加盟国が侵略を受けた際、米国を含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負う】が、米国独自の中立主義【モンロー主義】に抵触すると反発。
留保条件をつけて上院の同意を得るべきだとの譲歩にも、大統領は応ずることなく、上院の批准が得られない米国は、言い出しっぺでありながら、国際連盟に参加することができませんでした。

パリ講和会議後の日本。
1920年代には「それなりの成果」のあった国際連盟を崩壊させる契機となった満州事変。
「ベルサイユ体制の打破」を唱えるドイツのヒトラーと共鳴して、第二次世界大戦。そして敗戦。
欠点はあったにせよ、ウィルソンの理想に、もっと近づけていたら…と思う 100年前の歴史でした。
[98058] 2019年 6月 22日(土)16:49:13【1】hmt さん
地理院地図の地図記号に「自然災害伝承碑」登場
昨年7月の西日本豪雨災害から1年近くになりました。
当時の報道によると、被災地の広島県安芸郡坂町小屋浦では、明治末期の1907年7月にも大雨による土石流で、甚大な被害が発生していたとのことです。

「この辺は 百年に一度、大事(おおごと)がある」。
明治の災害で祖父母を喪った お年寄りが、小さい頃から聞いてきた警告が現実に。

明治災害後には、そのことを伝える2つの石碑が建てられ、戦後の 1950年には、天地川の砂防ダム完成により「これで百年は持つ」と歓迎されていたが、2018年 せき止め能力を上回る土砂の力に 崩壊しました。

広島県は 砂防ダム1基では万が一に対応できないとして、4倍の能力を持つ2基目を造る計画を 10年以上前に策定し、工事用道路に着手したものの、本体着工時期未定のまま、昨年の水害が発生しました。
地元としては、このように全員が忘れていたわけではなく、それなりの心構えはあったようです。
しかし、新住民も居る百年後の人々にとり、災害への備えに「万全」を期すことは、言うべくして行い難い難問です。

それでも、約3ヶ月前の国土地理院発表 地図で確認 先人が伝える災害の教訓は、自然災害伝承碑の周知により、先人たちの教訓を正しく知り、災害への「備え」の充実により、被害軽減に貢献するものと考えています。

2019/6/19から、地理院地図による発信を開始
本年9月からは 2万5千分1地形図にも掲載されます。

「自然災害伝承碑」の代表事例
災害種別市町村発生年災害過去記事その他
洪水常総市2015鬼怒川水害[88943]
洪水加須市1947カスリーン台風水害[82206][82207][84091]
洪水狛江市1974多摩川水害
洪水福井市2004足羽川水害
洪水倉敷市1893高梁川等水害
津波名瀬市1960チリ地震津波研究報告
津波田辺市1854,1946南海地震津波[36355][94132]
津波牟岐町1946南海地震津波
津波大槌町1896明治29年津波
高潮木曽岬町1959伊勢湾台風高潮[83560]
地震白河市2011東日本大震災
地震小千谷市2004中越地震[34480][35102]
地震神戸市1995阪神・淡路大震災[4452][91386]他多数
地震福岡市2005玄界灘地震[38755]など多数[38820][72178]
火山王滝村2014御嶽山噴火[86419][86435]
火山島原市1990雲仙普賢岳噴火[23885][23960]の95
火山鹿児島市1914桜島大正噴火[86275]
土砂白川町1968集中豪雨・飛騨川事故
土砂坂町1907豪雨・天地川等土石流この記事前半
土砂出水市1997深層崩壊・針原川土石流[80030]国土交通省
[98057] 2019年 6月 20日(木)17:05:27【1】hmt さん
山形県沖の地震
2019/6/18夜に村上市で最大震度6強、鶴岡市温海で最大加速度653ガルを観測した地震。
震央地名は山形県沖の日本海ですが、最大震度を記録した観測値は新潟県内でした。

…というわけで、マスコミには「新潟・山形地震」などの表記も見えるが、気象庁による名称発表はなされていないようであり、名称を定めた一覧表にも未記載。
名称を定める基準に照らしてみたら、規模・被害などが基準を満たしていないように思われました。【この部分、追記により修正】

新潟・山形両県共に倒壊などの大被害が目立たなかったのは、屋根が軽く、壁が多く、窓が小さい雪国の家屋構造が関係していると伝えられています。

それはさておき、西側のユーラシアプレートと 東側の北米プレートとの境界である 日本海東縁部
1964年の新潟地震など多くの大地震の震源域が並んでいます。

京都大防災研究所の西村卓也准教授(測地学)のコメントによると、この地域は
南海トラフのようにプレートが沈み込む形ではなく、二つのプレートがぶつかり合っており、ひずみが集中している。

落書き帳の過去記事を探ると、偶然にも1年前に [96205]日本の地震とアイスランドとの関係 という記事を書いていました。
2010年の記事[74254]の追記 で紹介した 島村論文 に言及し、プレートの参考図も付けてあります。
[98055] 2019年 6月 18日(火)18:25:18【1】hmt さん
データベース 北海道(2)
[98049] グリグリさん
北海道の郡の扱いを含めた自治体の並び順については、[76346]に書いたように悩ましいところがあります。

hmtマガジン 県の下位区分 に書いたように、
「郡」の存在感は全国的に薄くなっており、北海道では特にその傾向が強いようです。[71695]

それでも、北海道にとっては広大な管内を「適当な数の地域に区画し」、権限を移譲して行政を行なう必要があります。

開拓使廃止後、函館・札幌・根室の三県と農商務省北海道事業管理局との二重構造時代もありましたが成果は挙らず、数郡程度の単位で設けていた「郡長・郡役所に代えて 19支庁を設置した」。
これが 明治30年(1897)のことであり、現在の 14区分【現・9総合振興局と5振興局】の直接の先祖でした。
3支庁統合による 後志支庁誕生 で 14支庁になったのは 1910年で、2010年まで使われました。[71731]

郡にも長い歴史があります。主な行政実務は 19世紀中に支庁に移行しましたが、「郡」は 戸籍事務に使う名称として残り、正式の住所の一部として郵便物の宛先に使われている関係で、なんと 2006年までの設置履歴があります[72863]変遷一覧表

現実の地方行政における「郡」は過去の遺物に近い存在。しかし、データベースでは切り捨てる訳にも行かない。

[98049]にリンクされた データベース検索結果を眺めて感じたことを申し上げます。

1 「自治体コード欄」と「(総合)振興局欄」とを新設し、それを表示できる体制を整える。
2 「表示順序」は、既に「自治体コード順」がデフォルトになっています。
  先ず「市のデータ」。次いで「市町村(振興局毎)のデータ」。この順番に賛成。
  順番を考えるにあたり、「過去の遺物の郡」を考慮する必要はないでしょう。
3 上記1の改善を施せば、一目瞭然の表になり、[98054]に記した説明の大部分は 不要になると思われます。
[98054] 2019年 6月 18日(火)18:07:58hmt さん
データベース 北海道(1)
[98048] シノレパシクソ さん
『市区町村隣接関係一覧』…の自治体の並び順が自治体コード順と一部異なるのはなぜでしょうか?…。北海道幌延町・大空町・洞爺湖町の位置が自治体コード順と違うかな…

指摘された3町をその前後と共に隣接一覧から抜書きし、自治体コードを補足しました。

#120【01519】利尻富士町 #121【01520】幌延町 #122【01543】美幌町
#135【01563】雄武町 #136【01564】大空町 #137【01571】豊浦町
#140【01581】厚真町 #141【01584】洞爺湖町 #142【01585】安平町

北海道の町村コードに関して最初に心得ておきたいことは、
”郡毎の順番ではなく、支庁毎の順番【01301からの30刻み】で設定されたこと”です。

幌延町は、留萌支庁から宗谷総合振興局への所属変更があり、自治体コードも【01488】から宗谷管内の末尾番号【01520】に改められました。

大空町は、2006年新設の自治体で、これも網走支庁【現・オホーツク総合振興局】の末尾番号【01564】に改められました。

【01582】虻田町と【01583】洞爺村は 洞爺湖町と合併して消滅しているので 空番です。
勇払郡である厚真町と安平町との間に 虻田郡洞爺湖町が入っていますが、
#140~#142の3町はいずれも胆振支庁【現・胆振総合振興局】の管内で、郡が違っているが、これでも自治体コード順なのです。

北海道では、総務省の自治体コード表と当サイトとの相違点が もう一つあるのをご存知ですか?
総務省コード表の北海道末尾には、北方四島6村が記載されていますが、当サイトのデータでは対象外です。
[98050] 2019年 6月 16日(日)19:24:19hmt さん
Re:データベース整備
[98047] オーナー グリグリ さん
ランキングに関連する疑問点[98044]について、早速のお返事をいただき有難うございました。

hmtさんがご覧になっているランキングは、都道府県ボトムのランキングです。

なるほど。当該ページは
   ランキングデータ > 都道府県ボトム「市区町村」 > 人口・面積・人口密度ランキング
という位置付けになっており、説明文の冒頭行からも、次の通り理解できました。
  すなわち、対象とする 人口・面積・人口密度の3項目についての
  「各都道府県のボトムである市区町村」 の 「47データのランキング」である。

私が見逃した、ランキング対象が 47データであること>「各都道府県内のボトム」への限定。
[98044]で記したように関空第2期の埋立によって田尻町の面積は増加し、「大阪府内面積ボトム」の座は 3.97km2の忠岡町に。
従って、47の「都道府県内ボトム」ランキングでも、3位は引き続き大阪府だが、銅メダル?は忠岡町へ。

サク佐久ぱんだ さんへのレスとして[98038]に記した下記の感想は、的外れのため撤回します。
「市区町村」人口・面積・人口密度のボトムランキングを見るのに便利

さて、本題のデータベース整備の件については、
おっしゃる通りです。現在その整備を進めています。データは各年10月1日現在のみに揃える予定です。
というお答えをいただき、大船に乗った気持ちですが、取り敢えずの感想。

安定期に入っている現在からの長期的視点としては、平成合併期間中の変遷日付毎の大量のデータよりも、1年毎でも5年毎でもよいから、資料の入手環境に応じて、できるだけ長期のデータベース構築を目指して整備することが望ましいように思われます。

やはり、人口については統計局の国勢調査、面積については国土地理院の面積調が基礎資料になるのでしょうが、それぞれに事情が異なり、どのように遡及できるのか?

更に落書き帳には旧版地形図など、過去の地図に関連する情報もあります。
このフォーラムに集まる地理好きの人たちの利用を考えると、都道府県市区町村データベースには、どのような未来像が描けるのでしょうか? 楽しみです。
[98044] 2019年 6月 15日(土)15:54:15【1】hmt さん
大阪府泉南郡田尻町 ランキングなど
[98036]サク佐久ぱんだ さん に刺激されて、ボトムランキングに関する記事[98038]を書き、面積最小の富山県中新川郡舟橋村にも触れました。過去記事を遡ると、アーカイブズ全国で最も面積の小さい市町村の変遷に収録されている [39317]グリグリさん の記事に至ります。

これは、平成合併の最盛期と言える 平成17(2005)年度【[87349]参照】の初頭に記された記事であり、当時の市町村面積ボトム10と、進行中であった合併動向による近未来の変遷を記したものでした。
その結論:
2005年度の1年間に4町1村( #1~#5 )の消滅が予定されており、平成17年度末には 富山県舟橋村・沖縄県渡名喜村・大阪府田尻町が「面積の狭い市町村ベスト(ワースト?)3」になる予定。

この3町村は、以後も自治体の座を維持しており、ボトムランキングに名を連ねている筈です。
しかし、関空島の中央部に位置する大阪府田尻町は、関空2期工事で面積が拡張しているので、現在のボトムランキングでは3位を維持していないのではないか? 現在は何位か?

こんな動機から、[98038]リンクした表を開いてみました。
アレ? 田尻町は ボトム面積#3 の座に居ないだけでなく、#47迄あるリストに見当たりません。

この表は、[98036]で示されていたトップランキングの末尾部分について、順番を逆転させた表示であると理解していたのですが、おかしい。

疑問を抱いたまま、無用とは思いますが [39317]の変遷予想を事後確認する意味で、2006/3/31現在の自治体構成で再表示してみると、#3 田尻町 3.86km2が現れ、当然ながら予想は的中しています。

それは良いのですが、隣のボトム人口に目が行ったら、東京都三宅村が 0【ゼロ】になっています。
なるほど、三宅島噴火で全島の住民が避難した時代[33529]であったのか… と一旦は早合点。

しかし、これはデータベースが「2004/10/1の推計人口」を用いていたからでした。
三宅島住民への避難指示は、2004年度中の2005/2/1に解除されており、2005年度には住民の帰島が進んだ結果、2005/10/1の国勢調査人口は、噴火前にはとても及ばないが 2676人 に回復していたのです。

このような事例に接すると、都道府県市区町村データベースの 「2005年度末の自治体構成の人口」に、2005年国勢調査人口が使われず、わざわざ 国勢調査前年の推計人口を使うシステム になっている現状に疑問が湧きます。

推計人口を使う理由は、5年毎しか発表されない国勢調査人口を補間するためでしょう。
「2005年度末の自治体構成」によるデータをリリースした時点では、国勢調査人口が未確定であったという理由で、取り敢えず「2004年度推計人口で代用した」。このように推察します。

短期的は これが正しいとしても、長期的に使うデータベースとしては、
「国勢調査人口が判明した時点以降では、調査日以降の自治体構成データを 差し替え修正する 」。

このような配慮がなされて然るべきではないかと思われます。>グリグリさん、ご検討願います。

「2006/3/31現在の自治体構成」でのボトムランキングで、更に気付いたこと。
人口・面積共にボトム常連と思っている東京都青ヶ島村が見当たりません。
ボトムランキングのデータ脱落は数えあげたらキリがないようです。
順位を逆転させるだけならば簡単と思われるのに、何故? この点も検討をお願いします。

話が逸れてしまいましたが、タイトルに掲げた「田尻町の面積」に戻ります。
一番簡単な確認法は、[98036]にリンクされている 最新の市町村別人口と共に示されている 1741自治体の面積ランキングのを見ることです。
最下部付近に #1731 大阪府泉南郡田尻町 5.62km2。
ボトムに換算すると、田尻町のランキング順位は、1741-1731+1=11位 になったのでした。

これで止めてもよいのですが、手を付けたついでに、国土地理院の面積調で関西空港関係3市町の面積推移を追ってみました。単位km2
田尻町の面積は、空港用地埋立によって 1.92km2から 5.62km2へと約3倍増。
それでも浦安の約4倍増[25784]には及ばず。

1988年1997年面積増12015年面積増2
泉佐野市50.8954.383.4956.512.13
田尻町1.923.861.945.621.76
泉南市44.4247.342.9248.981.64
合計97.23105.588.35111.115.53

【注】
1988年:埋立前の各自治体面積と推察 第1期埋立中の1995/1/17に阪神淡路大震災
1997年:第1期埋立完成時の面積 面積増1の合計は 空港第1期 515haより広いが理由は不詳
2015年:第2期埋立完成時の面積 面積増2の合計は 空港第2期 545haとほぼ一致する
[98038] 2019年 6月 12日(水)17:32:22hmt さん
Re^2:日本一小さい村
[98037] 白桃さん
「最新の市町村別人口」と書かれておりますが、正確にいうと、「最新の自治体構成においての2018年10月1日現在の推計人口」です。「最新」を誤解されているのは、他にもいらっしゃるようです。

「最新」を誤解した記事は hmtの[97690]です。下記は白桃さん[97692]の指摘文。
「2019/04/01の自治体構成で再表示」されるのは、2018/10/01時点の推計人口です。

2019年5月1日現在の自治体構成 (最新)

末尾の単語に目が行ってしまうのですが、それは自治体構成が「最新」であることを伝えているものであり、推計人口についての最新データが提供されていると思ったのは、明らかに誤解でした。
すぐ上部には、
人口は、2018年10月1日の推計人口によります。
と明記されていましたが、最新の推計人口データと誤解した慌て者は、見落としに気づかず。


[98036] サク佐久ぱんだ さん
私は(人口が)小さい村に興味があり、よく村の人口事情を観察しているのですが、…

都道府県市区町村トップからランキングデータに進むと、末尾に「都道府県ボトム」というページがあります。
「市区町村」人口・面積・人口密度のボトムランキングを見るのに便利ですが、[98036]で使われた表と共通のデータを使っているので、人口データは 2018年推計値です。

推計人口 169人とある 東京都八丈支庁管内・青ヶ島村。
私は[24183]を書いていました。落書き帳に参入して、間もない 2004年に記した記事でした。
青ヶ島村の国勢調査人口は、2005年 214人、2010年 201人、2015年 178人と漸減。

面積最小の富山県中新川郡舟橋村の記事[80258]も書いていました。
面積は小さいが 2018年推計人口は 3000人を越えています。

逆に、かつて北海道に存在した広大な村の面積についても記しています。[70240]
この記事は、hmtマガジン 「面積調」から探る市区町村の変容に収録しています。
[98033] 2019年 6月 10日(月)18:14:08hmt さん
度量衡の話(1)キログラムの定義が変った
今日、6月10日は「時の記念日」です[42204]

「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 …」 これは南宋の儒者朱熹の作と伝えられている詩。
ベンジャミン・フランクリンは自伝「Advice to a Young Tradesman」に記しているそうです。
無為に過ごさず、自らを益する行動を選べ。これが「Time is money」の原点である。

「時の記念日」も、1920年制定から99周年。かなりの歴史があります。
東京天文台と共に制定に関与し、時の展覧会も開催したのは 文部省外郭団体の生活改善同盟会でした。
欧米並みの生活改善・合理化を目標に、約束時間を守る啓蒙を進めていた大正時代の社会動向が推察されます。

振り子式の柱時計は既に各家庭に普及し、懐中時計・腕時計を持つ人も増えていたとは思います。しかし、正確なクオーツ時計が極めて安価に供給されている現在と比べると、生活インフラの整備は比較にならない時代でした。

もちろん、更に正確な原子時計を積んだ人工衛星により、地球上の位置を容易に知ることができる GPS[45617]の出現など、想像もできないことであり、「時間の測定」に関係する技術の進歩には瞠目するばかりです。

時間の測定からは離れますが、計測技術に関する雑談を記します。

最初に引用する日経記事は 昨年11月に開かれた国際度量衡総会における「キログラム」の定義改定を伝えています。
その後 日本でも計量単位令の改正が行なわれ、先月(2019年5月20日)施行されています。

なお、5月20日は 1885年[45385] メートル条約が締結された日であり、世界計量記念日になっています。
法令や記念日の名からわかるように、現在は「計量」という言葉を使うのが普通ですが、以前は 計量に用いる道具の名 に由来する「度量衡」という用語が一般的でした。第二次大戦後の 1952年に旧・計量法が施行される前の法律名は 度量衡法 でした。

度は長さを測る「物差し」、量は体積を量る「枡 = ます」、衡は質量をはかる「秤 = はかり」です。
パリ郊外・セーブルにある国際度量衡局(BIPM = Bureau international des Poids et Mesures)の末尾は「分銅と物差し」であり、歴史話にふさわしい「度量衡」をタイトルに使いました。

度量衡法の公布は 1891(明治24)年です。当時の日本社会で使われていた計量単位の基本は、尺・升・貫でしたが、西洋列強が新たに原器を製作して度量衡を統一するという情報を知った明治政府は、1886年にメートル条約に加盟し、副原器の頒布を申し込んでいました。

1889年には 条約に基づいて メートルとキログラムの基準となる 原器と副原器とが作られ[45385]、加盟国に配布されることになりました。我が国は、抽選により メートル副原器No.22 と キログラム副原器No.6 とを入手し、国内で使える体制を整えました。2012年重要文化財指定

これに基づき、度量衡法第二条は 基本単位の「尺」を、「33分の10メートル」として定義しました。
この寸法に近い折衷尺は、伊能忠敬も全国測量に用い[67006]、明治8年(1875)の度量衡取締条例にも引き継がれたようですが、江戸時代から枡座において枡の寸法を定めるために用いられた基準とも伝えられているようです。

1891年の度量衡法におけるもう一つの基本単位「貫」は、1871年新貨条例に記載された3.756521グラムから改め、少し軽いが換算に便利な値を採用しました。
(キログラム)分銅の質量四分の十五を貫とす

ここで昔話から現代に戻ります。
冒頭に記したように、1889年に作られた原器を用いて 130年間定義されてきた「キログラム」。
その座が交代することになり、誕生した新しい定義は下記の通りでした。

プランク定数を十の三十四乗分の六・六二六〇七〇一五ジュール秒とすることによって定まる質量

シロウトにとっては、とても「キログラム」のイメージを掴むことができません。
先月末に Eテレで ヘウレーカ!という番組【注】を見たら、「なぜ単位はいるのだろう?」というタイトルで、キログラムの定義変更問題を取り上げていました。
【注】
番組名の由来:入浴中のアルキメデスが浮力の原理を発見し、嬉しさのあまり裸で「ヘウレーカ!【わかった、見つけた】」(古代語の εuρηκα)と叫びながら街中を走った、という故事。

解説者は国際度量衡委員会のメンバーでもある 産総研の臼田孝さん。
厳重な金庫の前にに集まった委員たちが顔を見合わせ、「Still there.」(確かにまだあるね)と確認して扉を閉める。こんなエピソードは面白かったのですが、限られた放送時間内に盛り沢山な内容を解説し尽くすことは不可能でした。

恣意的に選ばれた国際キログラム原器ではなく、いつでもどこでも不変なプランク定数による、未来永劫不変な合理的定義と言えます。
同時にこれまでの定義「国際キログラム原器の質量」に比べ直感的にわかりにくいことは否めません。
この定義では意味がさっぱりわからないという方も多いことでしょう。

ということで、「ヘウレーカ!」とは程遠い状態で終りましたが、次のことはよく理解できます。

キログラムの定義を変えたら、測定値が変わるのでしょうか。
はっきり申し上げましょう。「何も変わりません」
補足をすれば、何にも影響しないよう、慎重に定義を変えるので、皆さんは気づかないのです。

それでも、臼田さん名を知ったので、昨年のWeb記事や、その末尾に紹介されていた著書により、理解を深めることができそうです。
[97794] 2019年 5月 21日(火)16:17:28【1】hmt さん
海と島(35)島が消えた? 北海道 猿払村沖
北海道北部の猿払村の沖合にあるはずの小島が見当たらなくなったとの情報が寄せられたことを受け、海上保安本部が 2019/5/20から 現地調査を始めました。

私が知ったのは 昨夜のテレビニュースですが、北海道北部・宗谷総合振興局管内の猿払村の沖合 約500mにあるはずの「エサンベ鼻北小島」の消失 が話題になったのは昨年秋で、各紙が一斉に報道しており、その一つを引用します。

第1管区海上保安本部(小樽)は、1987年の測量では 島の高さは平均海面から 1.4mあったが、「雨風や流氷の浸食で消失した可能性がある」と説明。
猿払村漁協によると、現在は海岸、海上のいずれからも目視で確認できない。

地元民にとっては船の通行障害物という認識で、積極的な利用価値のある島ではなかったようです。
三、四十年前の記憶では、数個の岩の列の先にあり、3人程度が上陸できた小さな陸地とか。

この「陸地の消失?」がニュースになるのは、領海やEEZに関係するからですが、領海問題がらみで「島」と評価されるようになって、地元では かえってビックリという印象。

政府は平成26年(2014)、領海の範囲を明確にしようと、名称のない 158の無人島に名前を付けました。
エサンベ鼻北小島はその一つでした。

昨年明らかにされた消失問題につき、1管の担当者は「測量の時期や手法を検討する」としていました。
昨夜のテレビニュースの内容は、これを受けた 海保の 新年度調査開始を伝えるものでした。

それで思い出したのが、[85734]海と島(6)で記した「名称不明離島の名称決定・地図等への記載」でした。
上記158離島は、同様な政策を拡張したものと思われ、内閣府のページ 領海の外縁を根拠付ける離島の地図及び海図に記載する名称の決定には、158離島のリストが示されていました。エサンベ鼻北小島は No.13。

別件:海と島(32)馬毛島買収問題[97420] その後

160億円で仮契約が結ばれ、馬毛島買収問題決着へ と書いたのですが、情勢が変りました。
2019/4/8東京地裁の仮処分決定により、島を所有するタストン社の実権が父親の 立石勲 氏に戻り、防衛省に対して交渉打ち切りを 2019/5/7付文書で通告したそうです。出典
[97698] 2019年 5月 14日(火)16:45:48hmt さん
「百舌鳥・古市古墳群」 満点評価でユネスコ世界遺産へ
文化庁の報道発表
ユネスコ世界遺産センターからの通知があり、諮問機関 ICOMOS から、日本が推薦した「百舌鳥・古市古墳群」を世界遺産一覧表に記載するのが適当との評価を得た。
6月末から開かれる第43回世界遺産委員会で世界文化遺産登録が決定する。

ICOMOSは、歴史的価値について満点に近い評価をしていたとのこと。産経

「百舌鳥(もず)・古市古墳群」について
5世紀頃、大陸航路が発着する大阪湾。平野上に築造された、巨大な前方後円墳を含む古墳群。
百舌鳥エリアは、大阪府堺市にあり、仁徳天皇陵古墳など23基。
古市エリアは、大阪府羽曳野市・藤井寺市にあり、応神天皇陵古墳など26基。

落書き帳記事を「古墳 世界遺産」で検索したがヒットせず、改めて「陵 世界 遺産」で検索。
違う場所の首里の玉陵[65905]も出ましたが、[61395]むっくんさん 文化庁公募の世界文化遺産候補に13件。
その中に「○百舌鳥・古市古墳群~仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群(大阪府)」がありました。
[83679]hmt 世界文化遺産登録を目指す 古市古墳群

「堺の三国ヶ丘」[47313]も百舌鳥古墳群付近ですが、世界遺産には言及していませんでした。最近[97671]で言及。
[64972]に登場した垂仁天皇陵は、古市古墳群の一つです。橘の話題。
[97694] 2019年 5月 12日(日)14:47:52hmt さん
Re:アルファベット入り町名登場
[97691] 油天神山さん
外来語由来町名コレクション…アルファベット入りの町名はこれまで収録されておらず、今回の高岡市ICパークが初

「IC」の説明文には ”団地の名称を「ICパーク高岡」とした”とありました。
しかし、3月市議会の議案
戸出支所の所管区域…内の字の変更に伴い、…ICパークを追加するもの
とあり、「市町村」の一部である「町丁字」の名称が 正式に変更されたものと理解します。

日常生活の中では溢れかえっているアルファベット略号。これが、町名に初登場とは予想外でした。
考えてみれば、公式地名は「日本語であること」を前提とするので「漢字【+かな】表記になる」のが原則なのでしょう。

文化審議会国語分科会の漢字小委員会(第8回)で参考配布された 市町村の名称について という資料がありました。
日付記載はないが、平成合併時代 2006/6/13 の会議です。

基本的な考え方は、自治省行政局長通知(1958/4/21)
地名の書き表し方は、さしつかえのない限り当用漢字字体表を用いる。

2001年『ぎょうせい』で紹介された質問2 
外国語を日本語(カタカナ, ひらがな等)で表記した場合を「理由が明確であればよい」と是認した回答がありました。
アルファベット略号には触れていません。
裏返せば 当時は考慮外の表記であったのかもしれません。

アルファベットを使った別の事例。
大阪市の住所表記になぜ「ABC」 という 2014年の日経記事がありました。
これは、「街区符号」として「ABC」が使われている例であり、地名とは言い難いようです。

総務省住民制度課や地図製作会社の昭文社にも確認したが「アルファベットを街区符号に使うところは、他に聞いたことがない」そうです。
1989年に大阪市南区と東区とが統合して中央区になった影響による措置で、遡れば更に10年前からの「上町1丁目」隣接に由来する本家争いとか。
[97690] 2019年 5月 11日(土)18:39:10hmt さん
白桃さんへのお願い
「都会」人口素描のシリーズを拝見しています。

都会の四条件を点数化した企画。単なる人口やDIDの比較だけでなく、昼間人口や商品販売額、それに「親父の遺言」までも加味した独自の採点による「白桃市町村人口研究所認定」の番付、全国版の完成を期待しています。

この番付の特徴は、白桃さん独自の採点基準にあり、四条件【プラスアルファ】に基づいて、数値評価がなされる点にあると思います。

そこで最初にお願いしたいのは、総合点だけでなく、配点基準とそれに基づくポイントの内訳を示していただきたいことです。

次に、こまかくなりますが、都会度を評価する基礎となる4つの数値の出所について。

DID人口と人口の昼夜比率は最新の【2015年】国勢調査データに頼らざるを得ないと思われます。
商品販売額の出典は 2016年。1年違いなので特に問題ないと思います。

過去記事によると、常住人口には 2019年3月1日現在の推計人口が用いられています。
しかし、この日付は全国の市のランキングデータで選ぶことができず、例えば[97675]に記された推計人口を確認することができません。

なお、このランキングデータでは、「2019/04/01の自治体構成で再表示」を選ぶことができます。
しかし、その結果は さいたま市 1,295,607、狭山市 150,355 であり、下記[97679]に示された推計人口とは異なる数値でした。
さいたま市が2019年4月1日現在推計人口が1,301,861人となり、
(中略)(狭山は4月1日現在推計で15万人を割り込んでいる)
この食い違いについては理解不能です。使い方が悪いのでしょうか? 教えてください。

推計人口は、国勢調査人口に住民台帳データによる短期的な人口増減を補正した値と理解しております。
都会度の評価は、やや長期的な視野によるものと考えます。
他の2つは国勢調査を利用しているのに、常住人口についてだけ、わざわざ推計人口という補正値を使う必要性があるのでしょうか? お知らせください
[97671] 2019年 5月 1日(水)16:20:28hmt さん
筑前・対馬?・筑後の三国境
[97665] かぱぷうさん
当該地域は筑紫野市の旧筑紫村・小郡市の旧三国村にまたがり…

福岡県小郡市三国が丘のことは全く知りませんでした。地名コレクション『三国』からも落ちているようです。

今更ながら…ですが この場合の「三国」の名は?

マピオンにも地理院地図にも「国界」表示はありませんが、三国境所在地は、現在の行政境界により知ることができます。

筑前国>福岡県筑紫野市大字原田【筑豊本線の終点駅で、読みの はるだ を知っていました】
筑後国>福岡県小郡市希みが丘
肥前国>佐賀県三養基郡基山町大字小倉

国道3号筑紫野バイパス沿い。筑紫野温泉アマンディ付近で 九州自動車道の下を通過するあたりのようです。
しかし、地理院地図の15スケール以上では 筑紫野市と小郡市との境界線が見当たりません。

筑紫野市教育委員会:ちくしの散歩 原田宿(3)国境の碑 では、江戸時代に建てられた国境石が解説されています。

そのひとつ「三国境石」は、当時の三国坂(現在は消滅)の峠付近に当たる険しい山の上にあり、この場所が筑前・筑後・肥前の境となっていました。
三国坂を原田側へ下ったところに「従是北筑前国」と刻まれた威風堂々たる国境石があります。
黒田藩の書家 二川相近の書。薩摩街道が通る市内馬市にもあるが、その先の国道3号左側の公園内には、東15mから移設された筑前肥前国境石があるとのこと。

これらの国境石は 別のページでも紹介されていましたが、古いページなので温泉施設は旧名のアクアフォーレとなっていました。背中合わせの国境石の背景に コンテナ列車が写っています。

そして、更に別のページには、驚きの記載。
国道三号線の原田と 基山の中間に 「三国」と言う地名があります。読んで字の如く、筑前、対馬、筑後 が一点に交わっていますが、此処が現在も 福岡県と佐賀県の県境です。

筑前・筑後と境を接する三国の一角として記された地名は、なんと長崎県の離島である「対馬」でした。
これを見た私が最初に感じたのは、「肥前」の単純誤記の疑いでした。
しかし、読み返したら、背中あわせ石碑裏面の写真はないものの、九州地方整備局の設置した説明文「国境石」があり、「従是西肥前国対州領」を根拠とした記載「対馬」であることが判明しました。

前記筑紫野市のページにも「対馬領」の記載があり、「交渉難航をうかがわせる」と記された当事者の肥前側は、佐賀藩ではなく対馬藩だったのでした。

律令制時代に設けられた地理的名称「対馬国」は離島です。
しかし、江戸時代の人が付き合わねばならない 九州本土の隣国は、地理的には肥前国の一部であるが 行政的には「対馬領」であったのでした。

堺の「三国ヶ丘」[47313] を思い出し、九州の「三国が丘」を調べていたら、意外な隣国の登場に驚いた。
お粗末の一席でした。
[97663] 2019年 4月 28日(日)13:46:46【2】hmt さん
沖縄「屈辱の日」を知ってますか?
3年前の4月28日の琉球新報の記事です。
1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効してから28日で64年となった。
敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。沖縄が日本復帰するまで米施政権下にあった27年間、本土から沖縄へ基地が移転。日本国憲法が適用されず、人権が蹂躙された。
過重な基地負担など現在の沖縄差別の源流ともなったこの日は「屈辱の日」と呼ばれる。

自民党圧勝により、現在に続く自公政権・安倍晋三内閣が成立した 2012年末の総選挙
その翌年の2013年4月28日には、安倍晋三首相が主権回復の日式典を催し、沖縄からは強い反発の声が上がった。

hmtマガジンでは、琉球の歴史に この記事を追加し、米国統治下の沖縄では、1950年国勢調査人口表へのリンクを修正します。

【追記】
「沖縄の歴史」のサイトマップ
先史時代から現代に至る 広範囲な事項が含まれ、琉球の過去を知る 有用な参考資料 と思われます。
宮古・八重山分島問題[80962]の出典から探っているうちに、このサイトマップに及びました。
[97655] 2019年 4月 24日(水)13:18:21hmt さん
改元当日発行の地形図
[97652] スナフキんさん
いま、ちょっと気にしているのは国土地理院の地形図発行年月日の表示。

[39241] 東上鉄道「上福岡駅」の由来 という古い記事を引用します。
大正13年測図 昭和元年12月25日発行の2万5千分の1地形図に、「かみふくをか」の駅名が現れます。…
#地形図の発行日は昭和の初日です。この日付が印刷されているということは、【私の手元にあるコピーの原本が】後日増刷された地形図であるという証拠でもあります。

図歴(旧版地図)与野に記された発行年月日も、改元後の日付になっており、「大正十五年…」と印刷されていたであろう初版の日付を窺うことはできません。

[97652]
(まさか平成31年5月1日とは書けないでしょうから)

「正式文書の地形図」については、後日の訂正を前提として、平成年号の初版が発行されるのではないでしょうか?

民間の地図については、大正改元後の事例[33296]を挙げておきます。
明治45年9月20日13版「最新番地入東京市全図」。(中略)
#「明治45年9月20日」は、本当は大正元年です。明治天皇崩御は7月30日。
[97637] 2019年 4月 18日(木)18:20:22【1】hmt さん
国際姉妹都市に関係した雑感
[97634] サク佐久ぱんだ さん
佐久市はエストニアにあるサク市と友好都市の関係にあります。(中略)
名前が同じだ!って理由で仲良くなる自治体は外国にも多いのかもしれません。

姉妹都市って何だろう?!というページの冒頭には、世界最初の姉妹都市として 1893年に結ばれた 米国のノースカロライナ州ニューベルンと スイスの首都ベルンとの提携関係が示されています。ニューベルンは 1770年にスイスのベルンから来た移民たちによって作られた町だったので、姉妹都市の提携を結ぶ前から、移民元のベルンとは自然な交流があったそうで、姉妹都市はこのような形で自然発生的に生まれたと説明されています。
Wikipediaによると ニューバーン(New Bern, North Carolina)への欧州移民入植は 1710年で、指導者の故郷にちなんだ名であるとのこと。

国際姉妹都市が広く行われるようになったのは、ずっと後の第二次大戦後でした。
秦野市の解説文では、現在行われている都市提携の始まりとして、大戦後に 米国のダンケルク市民がフランスの同名市・ダンケルク市【1940年英仏軍40万人の撤退戦場】に差し伸べた友情の手を、戦後の都市提携の始まりとしています。

日本での姉妹都市第1号は長崎市で、お相手は米国の ミネソタ州セントポール市でした。
12月7日は 1941年の真珠湾攻撃、長崎は 1945年の原爆投下という痛みを伴う歴史を思い出させます。
しかし セントポールは、太平洋を結ぶ日米航路が出るシアトルに通じるグレート・ノーザン鉄道の起点でした。
3つのキーワードは、過去の失敗を反省し、平和な未来への希望を盛り込む出発点であったと理解します。
都市提携運動は、アイゼンハワー米国大統領による提唱(1956)を経て、全国各地に広まりました。

長崎の姉妹都市には、「現在、日本と海外との姉妹都市提携の数は、1577件にものぼるそうだ(財団法人 自治体国際化協会調べ 【年不明】5月31日現在)」と記されていました。

それはさておき、落書き帳過去記事を「姉妹都市」で検索したところ、ムンバイと横浜[86250] MasAkaさん など、外国絡みの記事がありました。

十番勝負では、第四十九回問六は 外国と無関係でしたが、第二十八回問四で 国際姉妹都市 に関係した問が出題されていました。

特に注目した記事は、グリグリさんの [76014] 国際姉妹都市提携の解消方法が分らない? でした。
問四の想定解の一つである柳川市は、オランダのブレーデルウィーデ市と姉妹都市提携をしているのですが、今年1月に開かれた第3回柳川地域審議会の会議録(pdf)の4/13頁から5/13頁に掛けて面白いやり取りが行われています。面白いので全文引用します。

おまけ
福井県小浜市と米国大統領になったオバマ氏。
2008年に「オバマを勝手に応援する会」があったことを思い出しました。
Obama City は日本だけで「国際同名市」には該当しなかったようですが…
[97625] 2019年 4月 13日(土)16:13:43【1】hmt さん
湖沼と その分割
ボーッと(笑)テレビを見ていたら、霞ヶ浦が登場していました。
今回のテーマではなかったものの、淡水湖なのに何故「…湖」という名でなく、「…浦」なのか?

「香取海」[65806]【注】という名も登場しませんでしたが、日本で2番目に大きな湖の前身は入り海でした。
【注】
 10年前の記事のため、「約1千年前の水系図」へのリンクが切れていました。
 現在のサイトにある対応する地図です。【霞ヶ浦の変遷>昔はどうなっていたか/約1千年前】

…という訳で、hmtマガジン「湖沼の分割」に、湖沼と海域との関係3記事を追加し、タイトルも微修正しました。
[97606] 2019年 4月 1日(月)10:28:02【1】hmt さん
1889年 地方自治体【市町村】の誕生から 130年
来月から使われる年号の公表で賑わう平成31年度初日。
このサイトの読者として記憶しておきたいことを一つ。
それは、明治22年4月1日に「市町村」という名の「地方自治体」が誕生した記念日であることです。

130年前の 明治22年(1889)というと、2月11日(紀元節)に大日本帝国憲法発布。

地方制度については、明治4年の廃藩置県による3府302県から間もなく、3府72県へのリセット。そして 明治9年の府県統合やその後の手直しなどの再編成を経て、明治21年までに 47都道府県の前身【3府43県と北海道庁】が出揃いました。
46「府県」は 自治体としての性格も少しは得ていたものの【明治11年地方三新法】、官選知事の下に置かれた地方官庁としての性格が強い存在でした。

立憲君主国家になってから最初の地方制度として施行されることになった 明治21年法律第1号の末尾には、参考として「市制町村制理由」が付されており、ごく一部ですが引用します。【条文の本体は 市制(2コマ)・町村制(17コマ)】
本制の旨趣は自治及分権の原則を実施せんとするに在りて…必先つ地方自治の区を造成せざる可からず…自治区は法人として財産を所有し…又其区域内は自ら独立して之を統治するものなり
【61頁3行】現今の制…区町村は稍自治の面を存すと雖も…府県は素と行政の区画にして…悉く完全なる自治体と為すを必要なりとす 即府県郡市町村を以て三階級の自治体と為さんとす【61頁5行】

現行の地方自治法を含めて法律の条文には「地方公共団体」が使われており、「自治体」という言葉を見出すことはできませんが、わざわざ付けられた市制町村制理由によって、上記のように「自治」を目指していたことが明らかであり、印象的でした。

市区町村変遷履歴情報日付順一覧を見ると、1889/4/1に 35府県の市制町村制施行が列挙されています。
明治22年度中に東京府と9県が続き、1890年2月の香川県で 45府県が出揃いました。

市制町村制施行初年度に新設された自治体数は、合計 40市721町12796村でしたが、130年を経た現在まで同名・同法人で続いている自治体は幾つあるのだろうか? 
# 市制町村制が明治22年度に施行されなかった北海道、沖縄県、島嶼部[83646]参照】は対象外です。

ふと、そんなことを考えてみました。

とりあえず 40市だけ調べました。*印は、市制施行日が5月以降になった県に所在した市です。

同じ市名で、法人格も変わらずに存続していたのは 29市でした。 【追記あり】
 盛岡 仙台 秋田 山形 米沢 水戸 横浜 新潟 金沢 福井
 京都 大阪 堺 神戸 和歌山 広島 高知 福岡 久留米 長崎 熊本 
 *岡山 *甲府 *岐阜 *名古屋 *鳥取 *徳島 *松山 *高松

【追記】
形式的には 29市ありましたが、いわゆる「三市特例法」[53890]によって 東京市と共に 事実上骨抜き になっていた京都市と大阪市を除けば 27市です。
三市特例法廃止により、三市が市長や吏員を持つ「本来の市」の地位を獲得したのは 1898年でした[33692]
【追記終】

新設合併によるリセットで失格:9市
 弘前 富山 高岡 静岡 津 姫路 松江 佐賀 鹿児島 
改称で失格: 赤間関(下関になった後に新設合併もあり)
都制による失格: *東京

町村については調べていませんが、同名の市になってもOKとすべきか?

蛇足
目を海外に向けると、1889年は フランス大革命(1789年)の百周年で、パリ万国博覧会が開かれました。
博覧会のシンボル企画に選ばれたのが、鉄橋建設で高評価を得ていたエッフェル社による 300mの鉄塔でした。
2年2月の短い工期で契約し、万博にて間に合わせた竣工式は 1889/3/31。偶然ですが、明治22/4/1の前日でした。
工事費の大部分はエッフェルが調達し、完成後の入場料で返済したとか。
[97596] 2019年 3月 29日(金)13:53:14hmt さん
揺れた駅名
[97594] デスクトップ鉄 さん
【TBS】番組の後半では、土屋武之氏のコメントがあった…(中略)何を語ったかも興味あります。

私も番組を見ていないのですが、土屋さんが ネーミングの重要性を再認識させた「京急の駅名改称」というページを 先月発表されていたので、参考までにリンクしておきます。

これによると、駅名改称の最大の動機は 大師線の連続立体交差化で廃止された「産業道路踏切」地元からの要請であったようです。
大師線だけでなく 京急線全線の駅名見直し に進んだ事情は、京急創立120周年記念事業との兼ね合いによる、小・中学生からの「わがまち駅名募集」(昨秋)でした。
応募は 1000件以上あり、これを参考には したものの、2020年3月に駅名改称が実現するのは僅かに4駅でした。

小・中学生は 現在の京急線利用者と意識も違い、あまり参考にならなかったのかもしれません。

鉄道会社にとっての駅名。これは 鉄道会社がその役務を提供する主要な場所であり、有形商品の商標に対応する役務標章【サービスマーク】として、本業に使われるのが本来の役目であり、「鉄道会社の財産」でもあります。

とは言え、その近くに住まい、毎日利用している地域住民にとっての鉄道駅名は、「アイデンティティ」でもあるデリケートな存在でもあります。昨今の駅名を巡る動きにより、このことを再確認できたと感じる。

土屋さんは、コメントをこのように結んでいましたが、「逗子・葉山駅」への改称については、言及していなかったようなので、更に調べました。

逗子葉山経済新聞から引用。
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 逗子市には、1930(昭和5)年4月1日に開業した湘南電気鉄道が、終着駅として「湘南逗子」を設置。1931(昭和6)年、「湘南逗子」の先約400メートルの位置に「湘南逗子葉山口」駅を新設、既存の「湘南逗子」駅は「湘南逗子沼間口」駅と名称を変更。1942(昭和17)年8月には「湘南逗子沼間口」駅廃止。同年9月1日、「湘南逗子葉山口」駅を再び「湘南逗子」と名称変更、あらためて終着駅になった。

 1948(昭和23)年7月、「湘南逗子葉山口」駅が「逗子海岸」の名称で復活。そのため、今回の駅名変更時に、「逗子海岸」の駅名復活を望む逗子市民の声もあった。1963(昭和38)年11月には、「湘南逗子」駅の名称が「京浜逗子」に。現在の「新逗子」開業は1985(昭和60)年3月2日。「京浜逗子」と「逗子海岸」の両駅が統合された。
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「湘南逗子葉山口」を含めて、呼び名が揺れた過去がある駅のようですね。Wikipediaに空中写真。
[97582] 2019年 3月 21日(木)19:37:03hmt さん
見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う 桜木を…
強風ですが暖い今日の東京。気象庁は 10時すぎに サクラ開花の目安にしている靖国神社の標本木【ソメイヨシノ】で5輪以上の花が咲いているのを確認。「東京でのサクラ開花」を発表。

10数年前には、春爛漫 桜を見に行こうと題する落書き帳アーカイブズも作られ、各地の桜を話題にしています。
日本だけでなく外国の桜も話題になるところはさすがです。
尾崎行雄[65669]が東京市長時代に贈ったポトマック川の桜並木[10964]は有名ですが、少年時代のワシントンが誤って切った桜の木[11034]は、花見用ではなく「さくらんぼ」用だったのでしょうね。
サハリンのユジノ=サハリンスク(豊原)には日本統治時代に植えた桜が残り、ロシアで唯一桜が咲くとか[11090]

国内の桜の名所は多々ありますが、現代の桜の名所は、白石川堤の一目千本桜[25609]を始めとして、品種的にはソメイヨシノが主流でしょう。
葉が出る前に花だけが咲き誇るこの品種を 江戸郊外染井の植木屋が売り出した時には、古くから有名な桜の名所を流用した「吉野桜」の名が使われました。しかし、吉野山のヤマザクラは花と葉とが同時に付いており、明らかな別品種です。「ソメイヨシノ」と改名されたのは、明治になってからでした[27015]

[74415] JOUTOU さん
とある都心の公園で花弁ごと落ちているたくさんの花びらを見てソメイヨシノそのものの寿命が心配に感じた…

接ぎ木により日本全国に広まったソメイヨシノですが、遺伝的には同一のクローン生物です。
戦後の復興期に日本中に植樹されて数十年を経過。
ソメイヨシノは 根を踏み荒らされ続けただけでなく、伝染病の脅威にも襲われ、ピンチを迎えています。

桜の苗木を生産している 日本花の会 研究員・西山正大さんのお話 2017年放送のTBSラジオ

うちの農場では、もうソメイヨシノの苗木は生産していません!!

同じクローンなので「テング巣病」と言う伝染病にかかりやすい。ソメイヨシノらしい景観を残しつつ、テング巣病を広めないために、「ジンダイアケボノ」をソメイヨシノの代替品種とする方針を進めている。
開花の時期も1日2日の差で、花を咲かした後に葉を展開するので、ソメイヨシノとほとんど同じように見られる。

ワシントンに贈ったソメイヨシノから実生で育てた「Akebono」という桜。これを日本に逆輸入して、神代植物公園に植えたところ、神代生まれの変種ができ、1991年に新品種として認定された。
「ジンダイアケボノ」と命名された新品種は、母のソメイヨシノ【父の素性は不明】と比べると少し小ぶりで、花のピンク色は少し濃いがよく似ているとのこと。
既に千鳥ヶ淵など各地に植えられているようです。
ソメイヨシノは病気問題だけでなく、大木になりすぎる。これも街路樹としては敬遠される理由のようです。

蛇足:
「Akebono」が使われているタイトルは、武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲の名曲「花」の2番から。
この歌曲は、東京都墨田区「区民の愛唱歌」。
[97575] 2019年 3月 15日(金)19:03:39hmt さん
大きな地名?
「都道府県名」は「市区町村名」よりも大きな地名。もっと大きな地名は「国名」。
住居地名や行政地名を離れた自然地名ならば、「太平洋」のような大きな地名もあります。

地球表面を離れると、本来の「地名」の意味から離れるようですが、月・木星・太陽などの天体や、恒星の大集団である銀河やその集団の名も、地名の延長線上に位置づけることができそうです。

こんなことを考えたのは、昨夜見たBS3に登場した「ラニアケア超銀河団」の巨大さが契機です。
番組タイトルに使われた「5億光年の宇宙地図」という直径を km単位に換算すると、5*10^21km。
比較にもなりませんが、太陽地球間の距離を基準にすると30兆天文単位という大きさ。

私達の地球が属している太陽系は、直径約10万光年の天の川銀河の第3腕(オリオン腕)に所在。
比較的近いアンドロメダ銀河などと共に 約40の銀河が集まり フィラメント構造の局部銀河群を構成。その大きさは約650万光年。
2014年9月に発表されたハワイ大学の研究により、この付近の局部銀河群は、その特異運動から より大規模な「ラニアケア超銀河団」に属していることが、発見されました。
この「超銀河団」の直径は5億2000万光年。10万個の銀河があり、質量は太陽の10京=10^17【10の17乗】倍。
「ラニアケア Laniakea」とは、ハワイ語で「無限の天空」を意味する言葉とか。
2019年1月には範囲を広げた新しい宇宙地図が発表され、昨夜のテレビ放送素材として使われました。

巨大なラニアケア超銀河団も、宇宙のほんの一部にすぎません。
宇宙は、観測可能な範囲だけでも、900億光年以上の広がりがあり、ラニアケア超銀河団は更に巨大なシャープレー集団に引っ張られている?

銀河の多いフィラメントと、銀河の少ないボイドとから成る宇宙の大規模構造。
その研究が進むことにより、宇宙論の2大ミステリーである 暗黒物質と暗黒エネルギーとを解明するのに寄与するだろうと期待されています。
[97554] 2019年 2月 27日(水)16:18:08【1】hmt さん
海に沈んだ炭鉱の島・横島(長崎市香焼)
西彼杵炭田に始まる長崎県の海と島とに関する記事の後、昨夜のニュースで偶然知った「海に沈んだ炭鉱の島」です。
長崎の市街地に近い「香焼」で、その炭鉱名は[97534]で列挙した8炭鉱のうちにありました。

三菱重工業の大造船所で知られる香焼(こうやぎ)。
かつては島でしたが、現在は本土と地続きです[57361][86062]

地図 の左下の岩礁に「横島」と記されています。
昔は 更に西側の小さな岩礁との間が繋がっており、横島炭鉱があったようです。

明治27年(1894)に三菱が炭鉱開発に着手。海面埋立もあり 1898年出炭開始。
発電所も稼働して電灯がついた横島は海に浮かぶ夢の島のようだったそうです。
最盛期には人口700人、社宅だけでなく、病院や小学校もできた賑わいとか。

しかし、約12万トンを出炭したところで、地圧で坑道が押し潰され、1902年閉山。
僅か4年半で操業を断念した短命の鉱山でした。【注1】
閉山後、護岸の石垣を取り外して軍艦島などに再利用したために、埋立土砂も流失し、岩礁に戻ったとのこと。

その後、1965年頃に西側の岩礁が徐々に水没。東側の一部も水没して現在の2岩礁が残るだけに。
以上の出典資料【注2】の末尾に、中の島[97509]?など「4ヵ所の炭鉱の島が写っている」という写真が紹介されていますが、遠景の3島は、よくわかりませんでした。

今回のNHKニュースは、島が沈んだ原因を探る調査の開始を報じるものでした。
岩盤の地滑りによってできたと思われる大きな崖があるようです。

【注:追記】

 三菱の横島坑とは別に、香焼島の南部・安保地区には別会社による香焼炭鉱があり、1960年頃に活動していました。
こちらは 1964年閉山とのこと。廃墟検索地図

 このページが属するサイト隼にあった写真から、珍しい 明治23年 三菱が買収した頃の端島 のあるページをリンクしておきます。肥後の石工の護岸技術に言及。
 注1に記した香焼炭鉱のアパート群写真もありました。
[97543] 2019年 2月 22日(金)19:04:50hmt さん
長崎2題
1 さるく
[97534]から続いた長崎県の島の話題に関する調査の中で、偶然「さるく」というページを知りました。

「さるく」とは、まちをぶらぶら歩くという意味の長崎弁だそうです。

ブラタモリの長崎版が放送されると「さるくタモリ」になる?…と思ったら、2015年度からのブラタモリ全国版のトップで放送されていたのですね。NHK
しかも、#2は池島炭鉱も訪れている。全く記憶なし。見落としたのか?

それはさておき、「おすすめさるく」「通さるく」「学さるく」出典 の他に、無料アプリの 長崎さるくナビ があるようです。

2 本石灰町(もとしっくいまち)
[28741] hmt
【元素由来地名で】試みに「石灰」を調べてみたら長崎市本石灰町、北海道石灰川、愛媛県石灰山
[93579] 駿河の民さん
本石灰は地名コレクション【職業由来地名】にありませんでした. 

同じ意味の「漆喰」から 「石灰」を「しっくい」と読むのですね。
くんち塾フォーラムには、唐人ことばが訛った「唐音」と説明しています。
長崎では天川シックイという。天川はアマカワ、マカオのことである。
[97542] 2019年 2月 22日(金)15:42:35hmt さん
大角力・小角力
[97534] hmt
池島は 本土側の合併前境界線を角力灘に延長した線の南側になるので…

角力灘(すもうなだ)という地名が珍しかったので 地図を拡大したら、池島の南東に大角力、母子島(はこしま)、小角力という小島がありました。

調べると 角力灘に浮かぶ兄弟島の物語 というページに、大角力の写真と共に、旧・長崎県西彼杵郡外海(そとめ)町史に掲載されていた原文が紹介されていました。

兄弟げんかをする子どもたちへの教訓として創作されたとしても、荒々しい ドメスティック・バイオレンス。
現代には通用しない話ですが、美しい風景と共に、池島炭鉱坑道見学ページへのリンクもあり、紹介しておきます。
[97535] 2019年 2月 14日(木)17:41:15【1】hmt さん
海と島(34)西彼杵炭田(2)崎戸 松島 大島 池島
高島/端島炭鉱に続いて、同じ三菱の崎戸炭鉱に移ります。

蛎浦島(かきのうらしま)は昔は沿岸捕鯨、その後は崎戸炭鉱で栄えた島です。
[75121]には書いてありませんでしたが、「崎戸島」は炭鉱のある島の西隣にある別の島です。
廃墟検索地図崎戸炭鉱をスクロールすると、県道の終点が崎戸島。

廃墟賛歌から要約。
崎戸炭鉱は 1907年から九州炭鉱汽船により採掘が本格化。1940年三菱鉱業崎戸鉱業所。戦時中の1943年には100万トン以上を産出。従業員7500人の日本有数の炭鉱となった。しかしその裏には強制連行による中国人・朝鮮人を含む労働者に対する過酷な処遇。
「一に高島、二に端島、三に崎戸の鬼ヶ島」と恐れられた時期もあったとか。

落書き帳では 15年近く前の記事ですが、1960年代の崎戸炭鉱での貴重な居住体験が残されています。
[34246] 2004/10/16 地球人さん
私は40年ほど前、まだ、炭鉱が盛んだったころの崎戸町に住んでいたことがあります。長屋暮らしで、上水道がなかったのか、水瓶がありました。公衆浴場は炭鉱が設置し、無料だったこと。映画館があったことなどを思い出します。以前、猫使いさんにも書き込みましたが[32514]、当時のアパート群が廃墟となってしまっていて、郷愁を誘われます。

高島/端島炭鉱や崎戸炭鉱は三菱の経営でしたが、西彼杵炭田には三井系列の炭鉱もありました。

三井系列と言っても、九州本土に 田川炭鉱や三池炭鉱という大炭鉱を持っていた三井鉱山(株)ではなく、中小炭鉱出自の三井松島グループです。

三井が地場資本の松島炭鉱に経営参加したものの、1917年の坑内火災、1929年の海底陥没、1934年の坑内出水と事故に見舞われ、松島鉱山は閉山しました。
そのような経営難の中で大島坑【大島は崎戸炭鉱のある蛎浦島の本土側の島】を開き、その利益で戦後開発したのが池島坑でした。
このように、松島>大島>池島と場所を変えなが 2001年まで採炭事業を続けたこの会社が、九州での石炭採掘事業の最終ランナーになりました。

松島炭鉱沿革
松島炭鉱(株)大島鉱業所沿革
松島炭鉱(株)池島炭鉱沿革

このグループの創業の地・松島の炭鉱跡には 1977年に電源開発(Jパワー)が進出して火力発電所を建設し、1981年には出力100万KW(50万2基)が運転を始めました。
三井松島産業は 輸入炭供給を通じて、現在も石炭の仕事を続けています。

また、日本で培われた炭鉱技術を海外に広めるため、1997年に設立された三井松島リソーシスは、2002年度からは国の「炭鉱技術移転五カ年計画」を受け、アジア諸国研修生に技術を教える研修施設に特化し、技術移転を推進しています。

石炭や三井系資本とは無関係ですが、大島には造船所ができており、1974年操業開始。

最後に DIDに戻り、[96482] 白桃さん が締めくくり。 
あとは落ち目の三度笠。中でも、高島、大島、崎戸の石炭で潤ったところの凋落ぶりは目もあてられない・・・
[97534] 2019年 2月 14日(木)17:31:23【2】hmt さん
海と島(33)西彼杵炭田(1)総論と高島/端島炭鉱
約2週間前に白桃さんが出題した DIDなぞなぞ[97508] と かぱぷうさんの解答[97509]
ひょっとして ここ のことですか?

話題の本筋の DID から離れてきますが、この機会に長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡の島々にあった炭鉱の記事を書きました。石炭採掘が盛んだった頃には すべて西彼杵郡 でしたが、現在の所属は長崎市と西海市です。

長崎から南に伸びる長崎半島の沖にあった高島/端島などの炭鉱跡は 2005年に長崎市に編入されました。

かつて炭鉱で賑わった崎戸・大島などの町々や、石炭火力発電所に変身していた松島(大瀬戸町)も、同年の平成合併で、すべて西海市になりました。西海橋で知られる針尾瀬戸までの西彼杵半島北部と五島列島の近くの平島に及ぶ島々ですが、炭鉱があった島は本土に近い幾つかに限られています。

炭鉱の系譜で言えば松島や大島の後継である池島。地理的にも松島に近いのですが、池島は 本土側の合併前境界線を角力灘に延長した線の南側になるので、この島は外海町でした。従って平成合併では長崎市に編入されました。

広い範囲に存在する島々なので、1枚にすると端島などが見えにくなります。南北に分けた同縮尺(#12)の地理院地図。
西彼杵の島々(北部)
西彼杵の島々(南部)

さて、かぱぷうさんの解答[97509]にリンクされた地理院地図・中ノ島には、注記「史跡【記号】高島炭鉱跡 中ノ島炭坑跡」が付けられています。
この地図を#17から#16へと1段階縮小したスケールにすると、隣の端島(はしま)【通称・軍艦島】が現れ、こちらには、「史跡・高島炭鉱跡 端島炭抗跡」とあります。

高島炭鉱・中ノ島炭坑・端島炭抗と3種類の表記がありますが、端島炭抗は端島炭坑の誤記と思われます。

それはさておき、「炭鉱」は 山や海底など 採炭区域を示す名称です。
複数の炭鉱を含む 広い石炭埋蔵区域 を示す言葉として、「炭田」という用語もあります。

これに対して 「炭坑」は、炭鉱内に作られた 採炭用の坑道【竪坑、横坑、斜坑など】のことです。
石炭産業が衰退した現在、使われる機会も少なくなったので、用語について 一応の説明をしておきました。

中ノ島から 地図を北にスクロールすると、端島や中ノ島より大きい高島が現れ、その北部にも「史跡・高島炭鉱跡 高島北渓井坑(ほっけいせいこう)跡」があります。

3つの国指定史跡は 長崎市のページ で紹介されているように、幕末の佐賀藩・グラバー商会による外国資本・外国技術導入に始まり、明治・大正・昭和にかけて 近代日本の石炭産業が成立し、発展した跡を知る貴重な文化遺産です。

長崎市のページによると、中ノ島炭坑が稼働したのは 明治16年から明治26年まで(1883-1893)でした。
島嶼部に開発された近代海底炭坑の遺跡が残る島ですが、激しい出水で廃坑になったのは、僅かに10年後でした。

昭和35年国勢調査当時の西彼杵郡高島町の人口が、高島(DID人口15,879人)と端島(同5,059人)だけであり、「DID以外【中ノ島】には誰も住んでいなかった」[97508]状態になっていたのは、なんと 19世紀という昔に、廃坑→無人化されたという歴史があったからでした。

参考までに、この高島町は、DID制定5年前の 1955年に(旧)高島町【高島】と西彼杵郡高浜村大字端島名の区域との合併によって新設された自治体でした。[71965]
推測ですが、「大字端島名の区域」は、有人島の端島の他に 無人島の中ノ島を含んでいたのではないでしょうか。

冒頭に記したように、ここで 高島とその2属島を含む高島/端島炭鉱から 視点を広げて、「西彼杵郡に広がる炭鉱の島々」を対象にします。

Wikipediaを見ると、「西彼杵炭田」という言葉がありました。
初耳でしたが、「長崎県西部、西彼杵半島西部及に点在した海陸、島嶼の炭鉱群の通称である。代表的な炭鉱として高島炭鉱、池島炭鉱、端島炭鉱、崎戸炭鉱、松島炭鉱などがあった。」と説明されています。

前記史跡関係の資料においては「高島炭鉱」の一部とされていた端島が、独立の「端島炭鉱」とされており、少し相違します。以下、早期に廃坑になった中ノ島は省いて、「高島/端島炭鉱」という総称を使います。

「西彼杵炭田」は 学術文献にも使われている用語のようで、長崎県の炭鉱のうち 北松炭田は別として、蛎浦島や大島より南の島々にあった炭鉱を指すようです。2枚に分けた地理院地図を冒頭に示しました。

広島大学HPの炭田には 鉱山探訪2011/5【リンク切れ】から引用した長崎県の鉱山分布の地図がありました。同じ地図(Google画像検索結果)で、石炭鉱山の印である■を拾うと 西彼杵半島以南には 前記5炭鉱を含む8炭鉱が存在していました。崎戸[75121] 大島 松島 池島 伊王島 香焼 高島 端島です。

なお、島群コレクションには西彼諸島があり、8島の名が記されています。
この名については、2004年に[30575]を書いて疑問を提示してありましたが、それは 15年も前のことでした。
その際に、かつて炭鉱で栄えた高島や端島(軍艦島)が選ばれていないことを記しましたが、今回 長崎のしま紹介【西彼】を再確認したところ、平島 江島 松島 池島 伊王島/沖之島 高島 が地図で示され、端島についての言及もあり、だいぶ改良されていました。

余談:半島南端の樺島や橘湾の牧島も対象外となっており、コレクション記載の島名修正が必要であると思います。
私の考えでは 松島の北に位置する大島と蛎浦島(かきのうらじま)も、「西彼諸島」に加えておきたいと思います。
九州本土との間が架橋で結ばれ、現在の行政では離島扱いされていない「架橋島」ですが、本来的には「島の炭鉱」であることを強調したいのです。
[97519] 2019年 2月 9日(土)16:22:06hmt さん
ゲートウェイ
[97060] グリグリさん 他多数

英語の gate と way を連ねた「ゲートウェイ」が、日本語として どの程度に通用しているのかは知りません。
上記の過去記事から探したら…
[97069] グローバルゲートウェイ品川という再開発エリアのコンセプト名
[97086]の【以下蛇足】と断った引用
 コンピュータ―のネットワークを、プロトコルの異なるネットワークと接続するノードを意味します。
 例外としては、ホテルの名称など固有名詞がある程度。(中略)一方、横文字で「gateway」を引くと…
[97115] 道の駅「伊豆ゲートウェイ函南」

この他に私が気付いた 体験型英語学習の施設名 TOKYO GLOBAL GATEWAY
アクセスを見ると、所在地は江東区青海で、最寄り駅は ゆりかもめ テレコムセンター駅。芝浦ではない。

芝浦の「ゲートウェイ」への入り口(笑)を探ろうと思ったのですが、なかなか 辿り着くことができません。


初心に戻り、第1報の出典と思われる JR東日本のプレスリリースを確認しました。
この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり、明治時代には地域をつなぐ鉄道が開通した由緒あるエリアという歴史的背景を持っています。
という記載はあるものの、「江戸の玄関口」を「高輪ゲートウェイ」に変形した理由は発見できません。

グローバルゲートウェイ品川という再開発エリアのコンセプト名[97069]

再開発事業に使われた地名は「品川」なんですね。
正式名は「品川駅北周辺地区土地区画整理事業 」、通称が 「品川開発プロジェクト」で、実施前に発表された2015/8/31の基本概要において、既にゲートウェイと組み合わせた「グローバルゲートウェイ品川」の名が見えます。

公募トップの「高輪」と組み合わせた新駅名により、突然登場した感のある「ゲートウェイ」に違和感を覚えたのは私だけではなかったでしょう。

しかし、再開発事業関係者【特にJR東日本】にとっては、3~4年使ってきた名でした。新駅名発表よりも前の JR東日本発表にも使われていました。

今更…なのですが、品川開発プロジェクトの主体である UR都市機構による品川駅北周辺地区土地区画整理事業(施工面積 14.7ha)、実施期間 2016~2031年 のページへのリンクです。

「コンセプト」の発言は 筆頭地権者のJR東日本のみでした。
「ゲートウェイ」は URではなく「JRの造語である」と理解しました。

交通の便利さから、JR東日本は「グローバルゲートウェイ品川」をまちづくりのコンセプトに掲げている。「都心の新しい玄関口にふさわしい国際交流拠点にしたい」とJR東日本総合企画本部品川・大規模開発部の村上祐二副課長は言う。
[97503] 2019年 1月 27日(日)14:21:30【2】hmt さん
「スーパーK」連続殺人事件
昨夜のフジテレビで見た報道ドキュメンタリー番組で取り上げられた 2016年初夏の事件です。
「スーパーK」と呼ばれた加害者は 人間を襲い、人肉を味わうことを覚えてしまったツキノワグマで、秋田県鹿角市に由来するニックネームでした。

鹿角市と言えば、2008年11月に湯瀬温泉で開催された 第5回落書き帳公式オフ会の開催地で、以後恒例になった温泉宿泊型落書き帳オフ会の発祥地として印象に残っています。
[67641]に記したように、秋田県なのに「羽後国」でなく「陸中国」鹿角郡【現・鹿角市+小坂町】であるのが特異的です。

報道された鹿角市十和田大湯付近の 地理院地図を見ると、青森県との境界をなす十和利山の南西斜面で、「熊取平(くまとりたい)」付近に「熊取牧場」があり、ここから流れ出た「熊取沢」が 秋田街道沿いの大湯川となって毛馬内【十和田南】付近で米代川に合流しています。

花輪や湯瀬は米代川本流の上流になりますが、「スーパーK」事件の現場は支流域で、十和田湖に近い秋田県北東端付近であると知れました。
この付近は戦中・戦後の食糧増産のために国有のブナ林を切り開いて開設された牧草地が広がっており、その外周の沢に沿って笹原という状態になっているようです。

笹原に自生するネマガリダケのタケノコ採りは、地元の高齢者にとってよい現金収入源です。
しかし、タケノコは クマの好物でもあります。
2016年はタケノコが不作で、タケノコ採りの高齢者とクマが笹原に集中してしまい、不幸な出会いが生じたようです。

秋田県庁で自然保護行政を経験し、現在は広島県廿日市市にNPO法人「日本ツキノワグマ研究所」を設立している米田(まいた)一彦さんは「スーパーK」の名付け親です。
この事件の後で記した3回続きの緊急報告が 読売新聞に掲載されていました。

ツキノワグマも食肉目に分類されているが、ふだんはタケノコやドングリを食べているベジタリアン。
積極的に人間を襲うことは稀であり、偶発的な出会いを避けるための「クマ除けの鈴」が有効とされている。
どんな状況で人肉を食う習慣をつけてしまったのか?

人間と野生動物との付き合いに関して、考えさせられる記事と思います。この機会に ご紹介しておきます。

【追記2】
米田さんの続報がありました。
そのタイトルに ズバリ
「食べる選択肢」に人間が加わっただけ
[97438] 2019年 1月 11日(金)18:30:37【1】hmt さん
海と島 (2.1)瀬戸内海の (10)番目の海域
hmtマガジン 海と島に新しい記事を追加した機会に見直したところ、瀬戸内海の海域を挙げた[82879]に、誤解に基づく記載を発見しました。
古い記事なので訂正はできませんが、下記の部分を削除し、補足記事を加えて修正したいと思います。

[82879]記載のうち、誤解しており削除する部分
付属した図も(1)~(9)の9海域になっているのですが、“10区分”と書いてある理由は?
実は(後略)の部分に“広島湾は安芸灘の一部で…”という文があります。
(1)~(9)の9海域に広島湾【安芸灘の西部】も加えて、10区分としているのかもしれません。

海保の付属図が(1)~(9)の9海域になっていたのが誤解の原因でしたが、領海法施行令と対照させてみたら、(1)~(9)の9海域は、南東の境界【紀伊水道の南】と南西の境界【豊予海峡】とを反映していますが、この他に関門海峡の西側に「北西の境界」が存在しました。
北西の境界:竹ノ子島台場鼻(ダイバハナ)から若松洞海(ドウカイ)湾口防波堤灯台まで引いた線となっています。(付図参照)

なるほど、
領海法では 彦島付近の台場鼻と若松の洞海湾口を結ぶ線の内側は、瀬戸内海の一部として扱われていたのでした。

前記削除部分に変えるべき、新しい記述です。
付属した図は(1)~(9)の9海域になっていますが、 (10)番目の海域は、台場鼻と洞海湾口とを結ぶ線を北西の境界とする「関門港西部」です。

瀬戸内海というと、自然地理的には 関門海峡を西端とする。これが私の常識でした。
しかし、領海法という法律で定めた瀬戸内海は、自然地理の考えとは違っていたのでした。
海保の付図には台場鼻と洞海湾口が示されていましたが、スペースの都合で、 (10)番目の海域範囲は図示されていません。
[97420] 2019年 1月 9日(水)22:45:54【1】hmt さん
海と島(32)馬毛島買収問題決着へ
馬毛島は種子島の西隣12kmの東シナ海にある島ですが、落書き帳では「大きな無人島」として登場していました。

2016年 [91213]の記載
馬毛島 面積 8.17km2 鹿児島県西之表市 島を手に入れた企業が有人島化 その狙いは? 

疑問符付きで記してありますが、その答えはリンクしたページに記されていました。
島を国有化して米軍空母艦載機の陸上離着陸訓練(FOLP)に用いる計画関連。2008年から内々の打診が進行。
しかし、防衛省が提示した評価額は、高値での売却を狙う所有者の希望金額と一桁異なり、物別れの状態でした。

そこで所有者が利用したのが、地権者の言い値で国有化したという尖閣諸島と、中国企業の動きでした。
2012年になると、「中国の企業が何社か接触してきている。日本の対応次第では売ってもいい」という地権者発言。

日米両国政府による在日米軍再編合意(2006)をふまえ、厚木の艦載機部隊は2018年迄に岩国に移動しました。
日本側としても、近くなった馬毛島の整備は、待ったなしの状態に追い込まれた形です。

今朝の読売新聞は、「米軍機訓練 馬毛島を買収/安保重視 官邸主導」という見出しで決着を報じていました。

問題になっていた対価については、島としての単純な資産価値の45億円から滑走路用地や関連施設を加味した100億円に増加され、更に地権者の希望で60億円上積みした 160億円で仮契約に漕ぎ着けたと伝えられます。


【2019/1/10 追記】馬毛島の人口 産業利用の概要

渡島大島に次ぐ「日本で2番目に広い無人島」であった馬毛島。所有者の企業による土地に付加価値を付けるための工事で有人島化[91213]したが、最近の調査では 無人島に戻っているようです。日本の島へ行こうによる国勢調査人口。
0人(H27)・11人(H22)・15人(H17)・0人(H12)・0人(H7) 国勢調査

それ以前の産業利用の概略。種子島第一の西之表港の対岸にあり、種子島家が漁業基地として利用。
蛇足:種子島と言う地名からは 16世紀大航海時代「鉄砲伝来」の門倉岬や 種子島宇宙センターを連想します。
しかし、それらの地は 島の南端近い南種子町で、馬毛島からはずっと離れています。

馬毛島は、明治期の牧畜業を経て、戦時中は一時無人島にもなりました。
戦後の 1951年から馬毛島入植が再開され、1959年には 113世帯、528人を記録して小中学校も開校。
しかしその後は 旱魃・風害・食害などによる農業不振と製糖工場閉鎖で 1980年に全島民離島。無人島に。

その後は実質的な利用のないまま、土地投機の対象として翻弄される運命をたどりました。
[97343] 2019年 1月 5日(土)19:40:23hmt さん
嫦娥(じょうが)4号 と 鵲橋(じゃっきょう)
[97342]で平成31年暦要項を眺めて気がついたこと。
東京の日出入 1月11日 日出6時51分 10日間隔のデータだが、最も遅い日出は今頃
朔(新月)1月6日10時28分 地球/月/太陽 が一直線上に並ぶのが朔  旧暦12月1日
部分日食 1月6日 東京の最大食は 10時6分 日食も地球/月/太陽 が一直線上に並ぶ時

それはさておき、中国の無人探査機が、世界で初めて 2019/1/3に「月の裏側」南極付近に着陸したとのこと。朝日

タイトルは探査機の名。嫦娥は中国神話に登場する人物。Wikipediaを見ると、もとは仙女。夫から不死の薬を盗んで月宮殿に逃げた。供え物をする月見の由来とも関係。道教では嫦娥を月神とし、中秋節に祀る。
日本での竹取物語や三保松原の天女と似たところもあるようだが、蟇蛙になったというから、イメージが違う?

月の裏側は、アボロ計画での周回で写真が撮られているが、軟着陸は初めて。
月の裏側は 地球との直接交信ができず、クレーターも多く、裏側への着陸は野心的な挑戦とか。
地球との交信を中継するのは「鵲橋(じゃっきょうQueqiao)という衛星。
かささぎの橋:男女が良縁で結ばれる橋。七夕の日に織姫と彦星が出会うために天の川にできるという橋。

技術的困難があるが、中国は将来の資源開発などを視野に置き、優位に立つつもりらしい。
最終目標は月面基地の建設など、やや詳しい情報が英国の WIREDに紹介されている。
[97342] 2019年 1月 5日(土)17:57:37hmt さん
2019年の暦
十番勝負の最中に異質の書き込みで失礼します。

2019年の新年。最初に確認しておきたいと思ったものは、やはり「暦」です。
本年限りの特徴は、5月1日が新しい天皇の即位日ということで 今年限りの祝日になったことです。

しかし、これにより 昭和の日(4/29)と憲法記念日(5/3)との間の 「架橋 pont 休日」【ポン休】も発生し、2019/4/27(土曜日)から 2019/5/6(こどもの日の振替休日の月曜日)までの間の「10連休」が実現します。
【もちろん、この期間にも働いて、社会を支えている人たちが大勢います。】

即位の日付により、政府が 10連休の方針を決めた というニュースが流れたのは 2018年6月末頃だったようです。
しかし正式手続、つまり 2019/5/1(即位の日)と 2019/10/22(即位を国内外に正式に示す戴冠式の日)とを祝日扱いとする 特別法(平成30年法律第99号)の公布は 、2018/12/14でした。

そこで、平成30年2月1日 官報に掲載された 国立天文台 平成31年暦要項 で「国民の祝日」を確認してみました。
ご覧のように、上記特別法に基づく事項が 枠外4行に亘り【最近】追加記載されています。

Web暦要項は、平成30年2月1日という日付のまま、年末の特別法による修正を加えたpdf文書に改められていました。
官報の訂正は簡単でしょうが、市中に出回っているカレンダーは、簡単に訂正することができません。
手元の 12枚もの の5月1日には 赤い小文字で「即位の日」が入れてありましたが、大きな「1」の文字は黒字のままです。平成30年法律第99号の公布前には、赤文字で印刷するわけにゆかなかったのでしょう。
【シートの4月末に、"暦の内容は2018年4月3日の情報に基づくものです。" という注記が入れてありました。】
1枚ものや手帳には 「即位の日」という注記すらありませんでした。
【祝日は何れも2018年7月現在】【手帳末尾の翌年予定表に2020/2/23 天皇誕生日、24振替休日】

2019/5/1以降に使われる元号については、4/1に発表するというニュースだけです。
新元号の早期公表に反対していたのは「保守派」だそうです。記事
しかし、これは かえって国民をして「元号の使用から遠避ける」結果をもたらすだけではないでしょうか。

2019年の暦。暦屋さんの苦心の跡を偲びながらも、休日について 改めて要注意 を感じた次第でした。
[97168] 2018年 12月 28日(金)17:02:58【1】hmt さん
岩国空港国道
[97165] じゃごたろさん
昭和二十八年に(中略)これらの「重要な飛行場」や「国際観光上重要な地」が二級国道の起点して指定されています。
羽田飛行場・・・国道131号
岩国飛行場・・・国道189号

二級国道の起点として指定された重要な飛行場。岩国飛行場が 羽田と共に挙げられていたことに驚きました。

昭和28年(1953)という時代:1951年にサンフランシスコで調印された平和条約が 1952/4/28に発効し、Occupied Japanからの 独立を回復した翌年です。

時刻表 昭和27年12月号[74163]によると、当時の民間航空路は すべて外国航空で、日本から世界各地への国際線を合計しても週39便でした。
これを根拠に、1945年の敗戦から 日本航空による国際線再開(1954年)までの間、日本に飛来する民間航空国際線飛行機の発着地は「すべて羽田」と思っていました。

岩国の錦帯橋の下を流れる錦川が流れくだった河口部。三角州に海軍飛行場が建設されたのは、戦前の 1938年。
1945年の敗戦後 連合軍に接収され、1952年の占領終結後は 米軍基地→自衛隊との共用基地を経て、6年前の 2012/12/13に 民間機の定期便が就航。2013年5月には 早速利用する機会がありました。

この程度の認識でしたが、どうも戦後間もない頃の状況について認識不足があったようなので、改めて調査しました。

岩国錦帯橋空港の沿革には、民間空港の実績として、昭和26年(1951)に国際飛行場として指定され、1952年日本航空の国内航空幹線の中継寄港と記されていました。

国際線の具体的な記載はないものの、「昭和27年5月 羽田とともにわが国で2か所の国際空港」とあり、これが国道の起点になる「決め手」だったのでした。

しかし、旧広島空港【広島市西区】の供用開始(1961)後は 岩国便が衰退。
1964/12の変更で岩国への民間機定期便の就航はなくなり、48年間の空白期になっていました。

推測ですが、特に記載すべき国際空港としての実績はなく、「建前上の国際空港」に基づく国道189号か?

国道189号の終点は 麻里布の国道2号合流点ですが、大部分は柳井経由の国道188号との共用区間です。
単独区間は 0.36kmに過ぎず、神戸港の国道174号に次ぐ短距離国道とのこと。

蛇足:2013年岩国空港利用時のバス経路。民間便用入口が変更されており、国道189号は通過せず。
[97156] 2018年 12月 23日(日)18:24:02hmt さん
浜松市浜北区
[97154] 稲生さん
8年ぶりに投稿という稲生さんを歓迎して、一筆記します。
2007年の発足時から7区体制の浜松市が、新3区案を提示。
そして、2019年4月の統一地方選挙の際に住民投票実施とのこと。
政令指定都市としては人口の少ない 浜松市にとって、区役所削減による経費節減は 理解できる施策と思います。
区役所の削減により、住民の利便はある程度損なわれるかもしれませんが、止むを得ないようにも思われます。

私は幸いにも浜北区在住ですので、単独区は温存され、…

部外者なので、ブログに記された事情などには疎いのですが、C案にならず、F案が有力になったことに安堵する気持ちは、理解できるような気がします。

…ということで、これまで殆ど知ることのなかった「浜北区」について、調べた初歩的なことを記します。

浜北区の沿革(Wikipedia)によると、1889年の町村制では7ヶ村。現在の地図で浜北区の中心地と目される区役所付近は、長上郡小野田村・平貴村あたりと思われますが、1896年には浜名郡に編入されました。
その後、小野田村と平貴村(平口+貴布祢)は小野口村と北浜村に組み換えられ、1926年には日清紡績の工場が貴布祢に進出しました。
戦後の1951年には 小野口村が浜名町になり、昭和合併の1956年には 浜名町、北浜村を含む1町4村で「浜北町」になる。
「合併時点での人口52,561人は、町の人口として当時日本最大」と記されています。

浜北区南西部の現在の地図を見ると、小松・内野・平口・貴布祢などの大字地名を発見することができます。
明治時代にできた合成村名に使われた 1889年以前の旧村名ですね。

話 変わって
2010年頃にフェードアウトしてから、8年も経ってしまいました。

前回の記事の日付は 2010/6/17。「hmtマガジン」発足のご挨拶 2010/6/20 の直前でした。
[25159][58458][65372]など、稲生さんの記事も収録されています。訪問をお待ちしています
[97097] 2018年 12月 10日(月)12:24:42hmt さん
平塚市須賀
[97093] ぺとぺとさん
左岸の基本単位区が右岸に組み込まれているとしか思えないのですが、そうだとすると右岸と左岸では町名(大字名)が異なっており(右岸は千石河岸、左岸は須賀)、釈然としません。

平塚の「須賀」と言えば、相模川河口(馬入川)右岸の港町[77631]と心得ていたので、「左岸は須賀」に驚きました。

地図を確認すると、確かに左岸にも須賀がありますが、右岸にもあります。ひらつかタマ三郎漁港を中心とする地域で、河岸沿いに河口まで続いています。

湘南大橋の南側は、人家が「連担」した状態とは見えませんが、左右両岸共に「(大字)須賀」です。
歴史ある漁港地域から連続した大字須賀は相模川の両岸に広がっており、これが「人口密集地域」として扱われているものと思われます。
河口の南、相模湾に突き出た平塚漁港(新港)は DID区域外になっています。

# もともと DIDでいう人口「密集」の対象は地域です。建築用語である「連担」の対象物は人家(建築物)です。
「地域の連続」と「建築物の連担」。両者のモノサシは、本質的に違うのではないか?

千石河岸と大字須賀との関係【住居表示と地籍について】
相模川河口の両側が「大字須賀」だったので、「右岸は千石河岸」問題はなくなったのですが、「千石河岸」は 1965年に実施された住居表示に基づき、「大字須賀」の一部を対象に設置された町名【一部は1981年編入】です。
日常使われる住居表示町名とは別に、札場町など付近の町を含めて、地籍としての「大字須賀」は残っているのではないかと思われますが、この点は未調査。

DID設定範囲に関して、住居表示町名と地籍の大字町丁名とは、どのように考慮されるのか?
[97081] 2018年 12月 7日(金)19:58:11hmt さん
「虎ノ門ヒルズ」駅
[97077] ぺとぺとさん
そういえば、東京メトロ日比谷線の新駅の名称もカタカナつきの「虎ノ門ヒルズ」になったみたいですね。

2020年東京オリンピックまでに供用開始。関連事業の最終完成は2022年度。UR都市機構と東京メトロ

現在の森タワー(2014年開業)北隣にビジネスタワー、南隣にレジデンシャルタワー、そして桜田通り西側にステーションタワーができます。
配置図が示すように、銀座線の通る外堀通りから、南側の「新虎通り」【環状二号線】への移動。

hmtがこの地帯を訪れる機会も遠退きましたが、思い起こせば、通勤先が「芝の金毘羅さま」[73150]の隣のビルだったのは 20年以上前のことでした。

それはさておき、森ビル御用達の「ヒルズ」も出世して、駅名になります。

Akasaka Roppongi Knot から名付けた ARKヒルズ(開業は1986年)に始まり、2003年の六本木ヒルズを経て 、虎ノ門ヒルズ(2014)が開業。その頃に、環状二号線の記事[85227]を書きました。

本家のビバリーヒルズは、丘が連なった住宅地でしょうが、東京の「ヒルズ」は地形とは無関係。

例えば、六本木ヒルズになった港区六本木6丁目の旧名称は麻布日ケ窪町。
江戸時代には長府藩邸があった場所で、日露戦争で有名な乃木希典はこの地で誕生とか。
でも「日ケ窪」という名では、高級マンションは売りにくいのでしょうね。
人工的な高層ビルの町が「ヒルズ」という名になるのも止むを得ないか。

蛇足
[85227]には、虎ノ門ヒルズは「高さは247メートルと都内2位の超高層複合ビル」と記しました。
港区のミッドタウン・タワーより 1m低いのは、実はヘリポートの高さ。普通に使われる最高所の値を使うと 255.5mで都内1位になるのだが それを避けています。なぜ?
謎解き:公共事業の計画変更に必要な審議会の承認を回避するため(開業日2014/6/11の朝日新聞)。
[97079] 2018年 12月 7日(金)14:49:32hmt さん
大田区の最高点
[97065] EMM さん
大田区の最高点は改めて探す必要があります。
ただ、大田区の高い所ってビミョーなでこぼこがある大地の上なので、真の最高点を見つけるのはなかなか難しそうです。

大田区内町丁目別標高一覧によると、田園調布五丁目の最高標高 43.7m が最高のようです。
地理院地図上での位置:私には特定できませんでした。
[97051] 2018年 12月 2日(日)18:19:24hmt さん
柳瀬川から飯能まで連続するDID(2)
前報[97050]で示した連続DID【川越地区】の来歴を記します。
YTさんが昔まとめて投稿した連続DID情報[97027]により、DIDの履歴の大筋が判明したので、登場順に列挙します。

1960年 DID初年に設定されたのは川越市だけで、DID人口全国順位は98位の48,403人、面積は 4.6km2と、今とは比較にならない小規模でした。
1970年になると、川越市DIDは 連続した福岡町と大井町(鶴ヶ岡)に拡大し、42位 142,075人/15.6km2

1975年になると、川越地区の連続DIDは、人口194,318人で全国 30位、面積21.5km2
そして西武鉄道沿線に、狭山市I・入間市・所沢市II(狭山ヶ丘)という名の3つのDIDが連続状態で登場します。
これを【西武地区】と仮称しておきます。全国66位 109,045人、面積 21.6km2
同じ1975年、東上線沿いにも 富士見市Iと三芳町(藤久保)の連続が登場。
【富士見地区】は 104位 61,455人 面積 5.6km2

2つのギャップ:ふじみ野と新狭山【いずれも駅名に基づく仮称】による分断状態ですが、現在の連続DIDの原型である3地区は 1975年に形成されたようです。

1980年 新狭山の工業地域がDIDに組み込まれ、川越地区の連続DID人口は全国 12位 441,360人に躍進しました。1975年の川越地区・西武地区合計に対する増加率 45%。面積 61.3km2の増加率は 42%。
富士見地区は全国91位 4,360人 面積 7.2km2

その後、川越地区DIDには 1985年に飯能市、1990年に鶴ヶ島町II【鶴ヶ丘】のDIDとも連続状態になり、2000年のデータは 川越地区が 全国11位の 人口703,759人 面積89.23km2になりました。
富士見地区は 全国78位の人口 118,402人で、面積 10.01km2

このデータを前報で示した2015年のデータと比較すると、ふじみ野付近の市街地化などで少し増加したのは当然ですが、ふじみ野IIの人口は DID指定から10年以内に ほぼ飽和状態に近づいているように思われます。
年別DID連続地区市町人口面積-全国順位
2000年【富士見地区】1市2町11840210.0178
2000年【川越地区】7市1町7037599.2311
2000年【合計】8市2町82216199.24-
2015年【川越地区】8市1町856050103.96?

[97027]を見ると、2000年のギャップ【DID途切れ】状況が次のように記されていました。
志木市(京浜地区)~富士見市I(富士見地区) 約50 m (接するのは時間の問題?)
大井町I(川越地区)~大井町II(富士見地区) 約30 m (接するのは時間の問題?)

前者【柳瀬川ギャップ】は[97046]のリンク地図で示されるように現存していますが、後者は消滅しています。
後者の「約30 m」というギャップ。その位置は当時のDID地図がないので不明ですが、ふじみ野市誕生と同日の 2005/10/1国勢調査において 旧上福岡市と旧大井町にあった3つのDIDも合体し、一つになったものと推察します。
いずれにせよ、現在のふじみ野の市街地が形成される前に存在していた原野状態(耕作放棄地?)に因むギャップという意味で、ふじみ野ギャップと仮称しておきます。

この2005年国勢調査に際して、ふじみ野駅所在地を含む勝瀬原の区画整理地域にも DID 富士見市II が設定され、それに伴って新河岸川沿いにある水谷東のDID【志木市DIDに隣接】は 富士見市IIIと番号が改められました。

脱線ですが、水谷東は、1961年頃からの高度成長期に志木方面から開発された住宅地です。何度も水害を受けていますが、元々新河岸川沿いの遊水地であったとのこと。
住所は富士見市ですが、浦所道路の東にあり、DIDは以前から【京浜地区】の一部になっていました。
[97050] 2018年 12月 2日(日)17:15:32【1】hmt さん
柳瀬川から飯能まで連続するDID(1)
[97046] YT さん
2015年現在も、柳瀬川を境とするDIDの途切れは健在で、富士見市~ふじみ野市~川越市~狭山市~入間市~飯能市と続く、DID上の隠れ大都市川越は今なお健在

巨大な赤地により DID地図の中で存在感を示す京浜地区から、道路・鉄道沿い四方八方に伸びる触手。
東京の北西に伸びる赤い触手には、御指摘のように 現在も柳瀬川の DIDギャップがあります。

大正9年の国勢調査からずっと使われている「市部」という言葉は、元々は「市街地そのもの」であったのでしょうが[79563]、昭和30年代以降の市町村合併を経た現在、行政上の「市部」は、本来の意味であった「市街地」から乖離しました。

その対策として、都市的地域の特質を明らかにする統計上の地域単位として,昭和35(1960)年国勢調査から新たに設定されたのが「人口集中地区(DID;Densely Inhabited District)」です。

個別自治体や市部の連続に代えて、「DIDの連続」を指標にすれば、柳瀬川の先、飯能まで連続する赤い触手【川越地区】は、最大の「DID衛星都市」なのですね。

「DIDが富士見から飯能まで続いている」と言われても実感はないのですが、それでも 連続DID【川越地区】の住人として関心をそそられ、調べてみました。
2015年国勢調査データで該当する連続DIDを集計した結果は、8市1町に跨る 11個のDID【下記】で、合計すると 人口約 85万6千人、面積約 104km2でした。

冒頭の引用文6市【枝を含めると8市1町】に関係する 連続DID【川越地区】の 2015年版を示します。
DIDを並べる順番は、「柳瀬川ギャップ」を起点として、東上線・西武線沿いに幹を並べ、枝は1文字下げて記しました。右側3列は 来歴関係のデータ[97051]です。

DID公式名参考地名人口-面積2000年DID連続地区登場年-順位
2015年【川越地区】856050103.96
富士見市I鶴瀬・みずほ台823217.31富士見1975104
 三芳町II竹間沢73390.69富士見
 三芳町I藤久保215291.66富士見1975104
ふじみ野市上福岡1039789.33川越/富士見1970福岡町, 大井町
 富士見市IIふじみ野駅126790.76【注】
川越市28065034.53川越196098位
 鶴ヶ島市II鶴ヶ丘209782.12川越1990(11)
狭山市入間川13008622.01川越197566
入間市I豊岡11844914.77川越197566
 所沢市II狭山ヶ丘325213.02川越197566
飯能市I455207.76川越1985(12)

【注】2000年は未指定 指定後の人口:2005年5923、2010年12412なので、指定後10年でほぼ飽和?
[97038] 2018年 11月 26日(月)20:05:38hmt さん
宝塚に関する情報3題
1 初代市長

[97035] グリグリさん
なお、宝塚市の初代市長は田中九右衛門(S29.5.8就任)です。

初代宝塚市長の就任日は リンクされた水道事業資料の 3/17コマにもありますが、宝塚市>選挙の統計情報の中に、候補者別得票数や投票状況の記録がありました。
それによると、昭和29年5月8日執行の宝塚市長選挙は、立候補者4人で、65%と高い投票率。
当選者と次点者とはかなりの接戦でした。

[97002]で引用した『近代宝塚歴史紀行』(ウイルキンソン・タンサン)にも「合併問題の渦」という言葉が使われており、市長選挙が 1954/4/1の合併期日に間に合わず、宝塚市発足当初は、旧・良元村女性村長の岡田さんが「市長職務代理者」を務めたことなどが記されています。
このことから、合併そのものは成立したが、市長の選定問題は難航したことが窺えます。

なお、初代宝塚市長は4年の任期を全うすることなく、2年後に第2回の市長選挙が行われました。

2 行政地名:兵庫県武庫郡良元村宝塚町

[97013] ekinenpyouさん
武庫郡良元村大字伊孑志村の一部を分離してT4.11.10より(大字)宝塚町を設置とありました。

1954年に発足した「宝塚市」は武庫川の両岸に跨っているが、自治体名になったのは左岸の「川辺郡宝塚町」で、1951年のことでした。そのことから派生した疑問「"宝塚"が地名になったのは何時からか?」[97002]に答える調査結果をいただき、ありがとうございます。

今回、1915年まで遡った行政地名「宝塚」のルーツ。それは「宝塚旧温泉」の所在地・武庫川右岸の「武庫郡良元村宝塚町」でした。
1915年(大正4年)11月13日の官報広告欄に記された兵庫県の通知 大字区域変更 并(ならびに)大字新設
武庫郡良元村大字伊孑志(イソシ)の内 左の区域を分離し 来月十日より(大字)宝塚(タカラヅカ)を設置せり  大正4年11月  兵庫県  塚原など7字の全部と3字の一部

宝塚が加わり5大字になった大正7年市町村名鑑
「孑」というのは、珍しい字ですね。漢和辞典では「子部」に「ゲツ」という音で収録されていました。
使用例:「孔」の左側。ぼうふら「孑孑」。

3 近代的な「新」温泉と 伝統的な「旧」温泉

[97013]にリンクしていただいた「宝塚温泉物語第2章」も興味深く拝見しました。
後に炭酸泉に溶食【溶蝕】された新温泉大理石浴室[97002]の写真もありました。
向かい合う武庫川の両岸は 共栄を願いながらも、新・旧温泉で発展への競争。
1915年の「武庫郡良元村宝塚町」と 1951年の「川辺郡宝塚町」という地名争い?も、両岸の温泉が関係。
[97012] 2018年 11月 20日(火)14:47:17【1】hmt さん
女性首長
[97010] グリグリさん
女性首長一覧の更新漏れ:兵庫県良元村の岡田幾村長(1951年就任1954年廃村)[97002]

参考文献:「レジーム再編と女性首長」という論文です。その 6コマに女性町村長の経歴一覧表がありました。
しかし、岡田幾さんの年齢は記載は見当たらず。

なお、この表では 千葉県安房郡神戸村早川村長の初当選が 1947年となっていますが、これはグリグリさんの 女性首長の一覧・冒頭説明にあるように、1948年が正しいようです。[91257]参照

余談ですが、第1回統一地方選挙で当選した前任の村長は、強権発動による米の強制的供出割当がらみにより、僅か1年で失脚辞任。
食料不足時代ならではの事件でしたが、これが5人目の女性首長誕生につながったようです。[91257]の資料(1)参照

上記参考文献(選挙研究29巻 2013年)には、女性町村長だけでなく、女性知事や女性市長の一覧表もあります。
[97006] 2018年 11月 18日(日)17:35:02hmt さん
五重塔
五重塔コレクションのリリース[97001]を知り、真っ先に記憶に甦ったのが、「女人高野」と呼ばれた室生寺の五重塔でした。

大戦後間もない 1949(昭和24年)/1/26の法隆寺金堂火災をきっかけに、作家の山本有三らによる参議院議員立法による文化財保護法が、翌1950年に制定されました。毎日新聞

この法律に基づく基準により 第一次の国宝指定(1951/6/9日)を受けた 181件の中で、法隆寺金堂などの建造物は 37件ありました。

このうち、屋外にある五重塔は、コレクションに収録されているように、法隆寺・室生寺・醍醐寺の3件です。
海龍王寺五重小塔は 屋内にある建造物ですが、これも第一次指定。

「五重塔」ではないので、今回のコレクション対象外ですが、国宝の第一次として指定された「塔」を拾い出してみると、フェノロサが「凍れる音楽」と讃えた西の京の薬師寺東塔(三重塔)、法隆寺と同じく斑鳩の里にある法起寺三重塔、石山寺多宝塔と有名な塔が並びます。

・三重塔や十三重塔はどうするか?多宝塔(事実上の二重塔)は?
というコメント [96947] EMM さん もあります。対象拡張を検討していただければ有り難い と思いますが、「石造」の五重塔までを含んでいる現在の対象のまま 十三重塔に拡張すると、多くなりすぎる?

私としては、「木造」限定でよいのですが、多武峰(とうのみね)の談山神社[13109][76112]にある、世界唯一の木造十三重塔は、この種のコレクション対象としては、是非加えておきたい珍品であると思っています。

室生寺の五重塔に戻ります。
私がこの 小ぶりながら 魅力的な美しさで 人を惹きつける天女 の姿を見たのは 何十年も前ですが、台風で倒れた巨木の下敷きになって大破した というニュースを記憶しています。

その後を気にしながらも そのまま年月が過ぎましたが、今回のコレクション収録で健在を知り、調べました。
被害をもたらしたのは 平成10年(1998)台風7号。なぎ倒された巨木が小さな塔に倒れかかり、初層から五層までが損壊した無残な姿。宮大工たちも言葉を失うような惨状だったとのこと。
重さ6トンもの塔をジャッキで持ち上げ、桧皮葺の屋根の修理には、室生山のヒノキ500本の樹皮7.5トンを使用。修理の際の調査により、塔の建立年代を 800年頃とする従来の定説が裏づけられた。

室生寺の五重塔は、無事に再生できてよかったのですが、幸田露伴の名作『五重塔』のモデルになった東京・谷中・天王寺の五重塔は、1957年焼失したままで、コレクションの対象になりません。

文学作品だけに残る「谷中の五重塔」を作った大工の名は のっそり十兵衛
[97002] 2018年 11月 16日(金)18:54:02【1】hmt さん
地名ではなく、温泉名だった「宝塚」
「宝塚」を話題にした機会に、この名が「地名になった」のは意外に新しいことを記しておきます。

[96956]で紹介されたFAQの回答には、「その近くで物を拾った人には幸運が舞い込むと信じられていた古墳」があり、これが市名の由来という説が記されています。

自治体名としての「宝塚」が出現したのは、宝塚市成立の約3年前、1951/3/15の町制/改称でした。
兵庫県川辺郡小浜村→宝塚町。
変遷情報を明治合併の 1889年まで遡っても、「宝塚」という旧村名は見当たりません。
「宝塚」が地名になったのは何時からか?

古墳の呼び名から地名になる間を繋ぐ名前としては、「宝塚駅」が思い浮かびます。
阪鶴鉄道宝塚駅(国鉄>JRの前身)は 1897年12月開業。阪急の前身・箕面有馬電気軌道の開業は 1910年。

駅名より更に古いのが温泉名でした。阪急の創業者・小林一三が、宝塚音楽学校創設【1913年】の頃を回顧した『宝塚生い立ちの記』を 青空文庫で読んでみると、「四十年前の宝塚風景」として次のように記されていました。
宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近…武庫川の岸にささやかな湯小屋…。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のこと…。
その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げたが、1910/3/10 【阪急の】電車開通当時は、武庫川の東岸【左岸】すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。

その宝塚温泉も、明治時代に栄えたのは武庫川西岸の旧温泉側【武庫郡良元村】であったようです。
駅側の 新温泉は、阪急が乗客誘致のために明治末の 1911年に開業したものです。
私は 1950年代末期頃 大理石を使った豪華な大浴場を利用した経験がありますが、炭酸泉に溶食されていました。
炭酸カルシウムの大理石が炭酸水に溶けるのは、ケミストならずとも常識でしょう。
小林一三さんは偉大な事業経営者ですが、材質選定が不適切と実感したのでした(笑)。

それはさておき、宝塚温泉としては、広く事業を展開した新温泉が栄えました。
小林さん本人は「無理にこしらえた新都会」と記していました。
蒸気加熱設備のない室内プールで失敗しても、これを温泉客寄せの 少女歌劇場に転用し、花嫁学校につなげるなど、事業展開の才能には舌を巻きます。

「タカラヅカ」の名は温泉から脱皮し、新しい舞台芸術として 広く知られる名前になりました。
新温泉のある東岸側・川辺郡小浜村が 1951年に「川辺郡宝塚町」を名乗ることになったのも当然でしょう。

変遷情報を見ると、昭和合併時代の 1954/4/1に 宝塚市が誕生しています。
1950年国勢調査人口では、武庫川右岸の武庫郡良元村 21687人、左岸の川辺郡小浜村 15090人で、居住者は良元村の方が多いのですが、新市名は、一足先に小浜村から改名していた 全国区の「宝塚」になりました。

突然ですが、ここで女性首長の情報です。

宝塚市になって消滅した兵庫県武庫郡良元村の 最後の村長は女性でした。
岡田幾(おかだ いく) 1951/7/5当選 1954/4/1良元村消滅 

岡田指月(しげつ)の名で俳誌「白扇」を共宰する女性俳人でした。
合併問題の渦中にあった村長就任時の句:身をすててゆくや茨の夏の道
宝塚市誕生を喜ぶ句:春光に産声高し宝塚
安堵して村長職を辞任する時の句:戦ひは終りて安き日永かな
出典 近代宝塚歴史紀行

【追記】
この記事は小林一三『宝塚生い立ちの記』の冒頭文「宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく」に基づいて書いたものです。
その後、1672年の検地記録に「川面村の小字として宝塚東・宝塚南・宝塚北が記されている。」という異説が記されていることを、Wikipediaで発見しました。しかし、この点については 未修正です。ご承知ください。
[97000] 2018年 11月 16日(金)18:02:09【1】hmt さん
「塚」という字の来歴
「塚」という字の来歴
hmtマガジンに 特集 地名漢字(1)塚 を作りました。
[96956]で 雑学 市区町村名の画数 がリリースされ、賑っている地名漢字記事へのフォローです。

現存する市町村名の中で「塚」が使われているのは4市1村、横浜市戸塚区を加えても僅か6件[65927]ですが、話題になった地名漢字の代表として「塚」を選びました。

「塚」を選んだ理由は、常用漢字に採用されている 12画の「塚」[65972]の他に 13画の旧字体、いわゆる「ひげ塚」が存在するということだけでなく、平塚市など多くの自治体が 常用漢字使用に移行している中で、宝塚市が強い愛着を持って旧字体を使用しているように思われる点に注目したためです。

今回の特集に収録された記事から「塚」という字の来歴を要約しておきます。

[65948] 土偏と「丶」のある「塚」【13画の旧字体】:中国では「冢」zhong という字の“異体字
[65962] 漢字の本筋としては、「つちへん」がなく「丶」がある「冢」という字A が“正字”
[65964] 「冢」は、土を盛り上げた大きな墓 を意味する
 足を縛られた【丶】 いけにえ【豕】を埋め、土【俗字の土偏】で覆う【ワ冠】
[65962] 土偏のある「塚」という字B【13画の旧字体】を(日本では)普通に使用
 平塚市(1932)や宝塚市(1954)が誕生した時代には、当然この字を使用
[65903][65972] 1946年当用漢字1850字制定 塚は慣用正字13画Bも「丶」なし俗字12画C 共に「表外字」
[65972] 1977/1/21「新漢字表試案」1900字の中に「丶」がない「塚」Cが登場【12画の新字体】
[65962] 「常用漢字表」制定(1945字 1981/10/1)で公式に認められた C【12画の新字体】
[96995] (引用記事)宝塚市は1985年に市名に「丶」を入れることで見解統一【現在も13画を徹底】
参考: 宝塚市トップページの冒頭画像B 【1】誤記訂正

更に、平成合併によって自治体名ではなくなったが 市内の地名として存在する 藪塚本町の「塚」。
これについても、現在の大田市HPに正式表記は旧字体Bであることが記されています。【1】誤記訂正

「ひげ塚」のような字体問題は、宝塚市のような 現存市町村名 に留まる問題ではないようです。
[96951] 2018年 10月 22日(月)19:08:53hmt さん
明治150年
今年 2018年は、「明治」という言葉が登場した 1868年から 150年になります。

政府は、明日 10月23日に 憲政記念館で 記念式典を開催します。
明治150年記念の銀貨も既に発行されているようです。裏面は、明治初期の20円金貨の紋様。
額面千円ですが、財務省の販売価格は 9000円とのこと。日経2018/5/25

50年前・明治百年の時の大蔵省は、こんな「商売」をしなかったように思うのですが…

それはさておき、「一世一元制度」と共に「明治」という新元号を定めた 明治改元の詔書が 第726号として行政官から布告されたのは、九月八日でした。
10月23日は、この旧暦【天保暦】日付を、グレゴリオ暦【明治6年採用の太陽暦】に換算[21976][49122]した日付なのです。

上からは 明治だ などというけれど、「治明」【おさまるめい】と下からは読む

新しい政治体制を引き継いでいる政府としては、150年の成果を誇らしげに宣伝したいところですが、この狂歌[75516]に示されているように、庶民からは 横暴な田舎侍(おはぎ・おいも)への反発があったようです。

戊辰戦争で負けた側にとっては、「明治150年」というよりも「戊辰(ぼしん)150年」なのかもしれません。
でも、干支(えと)は 60年周期なので、150年は2周期半。今年は「戊辰」でなく「戊戌(ぼじゅつ)」です。

既に[75457]で書いたことですが、改元の遡及効果について。
慶応四年を改め明治元年と為す
明治改元までは、このように 年初に遡って歴史に記録する のが正式でした。

しかし、当時使っていた日付を そのまま使う現在方式の方が解り易く、落書き帳の記載には、便宜上、新方式の表記を多用しています。ご了承ください。

明治150年というニュースに接し、取り留めのない記事を書いてしまいました。
私としては、「都道府県市区町村」というサイトなので、約150年前の「府県」を再認識する機会と捉えています。

150年前というと、まさに「府県」が誕生しつつある時代でした。
詳しくは、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県までをご覧ください。
[96938] 2018年 10月 18日(木)18:16:37hmt さん
MIさんにお礼
[96936]の御教示、有難うございます。
例示により、urlの「&extent=」以下の記述による 経緯度指定を知りました。
[96934] 2018年 10月 16日(火)19:25:21【2】hmt さん
五千分一東京図測量原図
[96933] MI さん
これ【永田町の富士見坂】については url が変わっており、千代田区内の坂の14.に説明があります。

御指摘を受けて、[96931]【追記2】で対応した際に 記事番号を誤記し 失礼しました。こちらが正しい番号でした。

今回の本題は、同じ[96933]で教えていただいた「五千分一東京図測量原図」を使ってみた報告です。

1884(明治17)年に作成された「五千分一東京図測量原図」は復刻版もありますが、農研機構の所蔵するものが公開されており、閲覧することが出来ます。「マップビューアーで開く」をクリックすると地図が開きますので…

デフォルト地図は、皇居を中心とした都心部の縮小地図でした。
ズームとスクロールによって、皇居の西側に移り、右に桜田濠【内濠】、左に弁慶堀【外濠】という配置にします。

明治の地図では弁慶堀の岸に赤坂区役所があり、少し東の赤坂門【赤坂見附、明治の地図の表記は南坂門?】まで伸びている濠(現存)と共に、よい目印になっています。

地図の右(東)方を見ると、桜田濠に沿った広大な敷地に陸軍の施設があります。
その中でも東京市麹町区永田町一丁目一番地。
三宅坂交差点に面するこの地については、地図の元締め 陸地測量部の住所に関する記事[94784]を書いたことがありますが、それよりも前の五千分一図には、陸軍省、その南に参謀本部と記されていました。

【追記1】
五千分一図が作られたのは東京市発足以前ですから、[94784]記載のまま書いた上記の番地は少し不適切でした。

それはさておき、この東京五千分一測量は、先進的な技術・機器を持つ内務省地理局の測量部門を併合した 参謀本部測量局による 本格的な地図作りの始まりでした[44653]
地図がフランス式彩色図から、ドイツ式一色図に変ったのも同じ時代ですが、明治17年に測量が完了した参謀本部の五千分一東京図も、フランス式彩色図で作られた原図があり、そのWEB公開が 今回落書き帳に登場したのでした。

なお、参謀本部と同じ測量結果を共有して作成された 内務省地理局の五千分一「東京実測図」15面(明治19-21刊行)についても、[44653]で言及しました。カラー印刷ではありませんが、参謀本部の地図よりも 範囲が少し広く、およそ東京府15区の範囲をカバーしているようです。柏書房の復刻地図集だけでなく、人文社の「明治の東京」(1996)に記された溜池の話[33199]も、この地図の説明でした。【追記1終】

話を永田町の富士見坂に戻すと、この坂は 赤坂見附と三宅坂との間に位置するわけですが、明治16-17年の五千分一図には、まだ姿を見せていません。

以上が、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」を眺めた結果です。

MIさん[96933]が記載してくれた情報。
これを個人的に確認するだけならば、マップビューアー上の前記操作の報告だけでよかったのです。
しかし、多くの読者に伝えるには、作業結果を地図で示したい。そのように思いました。

2万分の1の歴史的農業環境閲覧システムのように「Permalink」が付いていれば有り難いのですが、今回の五千分一図では、この状態の地図を示す方法がわかりません。

そこで、農業土地利用変遷マップを使い、東京5千分の1を表示してみました。

このマップのデフォルト地図は 新常盤橋付近の zoom=17図でした。
これをスクロールして永田町の富士見坂の位置にして、 永続リンクを表示させたた結果 です。

ここで得た地図は、「参謀本部の五千分一東京図」に現代の基盤地図情報/地名【青字】を重ねたものです。
だから、後者のレイヤーを透明にすることで、国道246号【現代の富士見坂】などを消去すれば、明治前期の地図に戻ります。

赤坂区役所。赤坂門【南坂門?】。坂名の記載がないこと。三宅坂までの道路はまだつながっていないこと。
そして、汐留川上流になる小川の周囲に 湿地状態で残る「溜池」[33199]

地図の扱いをよく理解できていませんが、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」。
どうやら、有用な資料として使いこなす手がかりを得たような気がします。

【追記2】
五千分の一東京図の礼賛記事 がありました。
残念ながら東京の中心部しかカバーしていないこの地図は 上記の基準【正確さ、使いやすさ、美しさ、歴史的価値】を全て満点で満たす最高の地図である.

この地図を自由にWEB閲覧できる時代が到来。農研機構だけでなく、教えてくれた[96933]にも感謝。【追記2終】
[96931] 2018年 10月 13日(土)18:08:09【2】hmt さん
永田町の富士見坂
きっかけは、WEBを眺めているうちに AERAdotで偶々見つけた 55年前の「永田町」 という写真です。
鉄道写真家の 諸河久さんの名は雑誌で存じ上げていたのですが、「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」を連載中であることは知りませんでした。

これだけなら、こちら都道府県市区町村落書き帳への投稿に繫がることはないのですが、次ページの記載が気になりました。
この界隈。学生時代から疑問だったのだが、赤坂見附から平河町に続く坂道の名称が不明だった。(中略)
現地踏査しても不明だったので、赤坂見附の交番にお邪魔して、お巡りさんに質問
したが、解決せず。
ご存知の方からのご教示をお待ちしたい。
とのことでした。

東京の坂道について 特に詳しいわけではありませんが、問題の坂が「富士見坂」であることは知っていました。
埼玉県ですが「富士見市ふじみ野」の住民でもあり、そのまま放置しておくことが できなくなり、教えてあげたい。
ツイッターを使えば連絡できそうです。でも 私は使ったことがなく、手を出せません。

慣れ親しんでいる こちらのページを利用すれば、何らかの情報仲介も期待できのではないか? 
というのが、この記事を書き込んだ趣旨です。

落書き帳過去記事で「富士見坂」を検索すると、[71914] 江戸の坂道 と題する記事がありました。
これによると、江戸に富士見坂が多数あったことは書いているが、永田町の富士見坂には触れておらず。
[22911] KMKZさん では http://www.t3.rim.or.jp/~kuri/fujimi/ 東京の富士見坂 が紹介されており、そのサイトの千代田区には、永田町・富士見坂 を紹介したページへのリンクもありました。

千代田区の坂(3)~平河町・麹町方面 には 地図リンク もつけられていますが、説明文を見ると【標識なし】と記されています。

【追記2】[96033] MI さん の御指摘に基づき、【追記1】を再修正しました。
この説明文には千代田区ウェブサイト【url変更】からの引用文がありました。

首都高速道路の下になって、現実の景観と外れてしまった「富士見坂」という名称の取り扱いについて。

ウェブサイトの説明文や標識が見当たらなかったことから、千代田区としては「富士見坂」の地名を放棄したいのかと疑ってしまいましたが、説明文urlの変更でした。
富士山の眺望が失われて久しい「永田町の富士見坂」ですが、地名ファンとしては「過去の景観を伝える文化遺産である地名自体は残したい」と考えます。
諸河さんやお巡りさん、そして多くの地名ファンの隠れた希望も考えていただきたい。
「富士見坂」の地名消滅に通じるようなことはせず、標識も建てていただけないものでしょうか。

余談ですが、三宅坂[94784]交差点から西に進む青山通りには、富士見坂の坂上付近の南側に 全国町村会館があります(千代田区永田町1-11-35)。
富士見坂を西に下った青山通り北側には、都道府県会館があります(千代田区平河町2-6-3)。
富士見坂を離れ、都道府県会館から右(北)に進めば、都市センターホテルの先が 全国都市会館です(千代田区平河町2-4-2)。【追記終】
[96927] 2018年 10月 11日(木)19:42:41【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (1)東京都中央卸売市場 「ターレ」の行列
我が国最大の規模を持つ生鮮食品市場が、再出発しました。
豊洲市場が開場 2年遅れ、築地継承の中核市場始動 日経2018/10/11

「東京のローカルニュース」と言えば それまで なのですが、大きな胃袋を抱えた大都市の台所。
産地直送、インターネット販売など、従来と異なる商品流通システムが稼働しつつある中で、これまで流通の中心になっていた市場の役割も見直されつつあるようです。
巨額の投資を伴った豊洲の新設備の将来が注目されます。

築地市場から豊洲市場へ。落書き帳の初期。‎[5229]蘭丸さんの「中央区」と題する記事がありました。
この区は銀座や日本橋といった日本を代表する商都を抱えており、東京都中央卸売市場築地市場も預かっています。
戦後、日本橋区と京橋区が統合されて誕生した中央区ですが、銀座・日本橋の賑わいは今や新宿や渋谷に押され気味、築地市場も、都は地元の反対を振り切って江東区豊洲へ移転計画を進行中です。

「中央」と言えば卸売市場法に「中央卸売市場」という制度があり、特に重要な都市地域における生鮮食料品等の卸売の中核的拠点と位置づけられています。

3都府県と37市とが 64市場を開設しており、Wikipediaに一覧表がありました。
これによると、東京都には 11市場が存在し、2010年度取扱金額は、青果5296、水産4571、食肉978、花卉856、合計11701億円で、東京の総額は1兆円を越えていました。

10月6日に廃止された 築地市場のデータを見ると、2014年1日当りの取扱金額(百万円)が、水産: 1611、青果:323となっていました。合計金額 1934百万円/日を260倍すると 約5000億円になります。【11市場で45億/日、260日計算で2010年度の金額とほぼ一致】

築地は、東京にある 11の中央市場の中でもダントツの知名度を持つ市場ですが、取扱金額を見ても、全体の 半分近くを占める日本一の巨大市場だったのでした。
この大市場が 中央区から江東区の豊洲に引越したわけです。

参考までに、11市場の中で築地に次ぐ大田市場【大井埠頭】は青果の他に花卉と水産の扱いもあり、合計1196百万円/日。
取扱規模の3番目は、品川駅港南口【芝浦】にある食肉市場で 495百万円/日。
以下、淀橋【大久保】、北足立【舎人】、葛西【臨海】、板橋【高島平】という順で、豊島【巣鴨】、世田谷【砧】、足立(水産)【千住】、多摩ニュータウン【永山】はその下位。【括弧内は参考までに記した地名】

江戸から東京へ 主な市場の歴史:
水産物市場(魚河岸)は、江戸以来の日本橋から 築地の83年を経て 今回 豊洲移転が実現。
開国による肉食の普及により 市内各地に作られた屠場。1938年 芝浦の施設ができ、これに統合。
最も長い歴史を重ねたのは 青物市場で、巣鴨とげぬき地蔵に近い 豊島市場の起源は 16世紀頃に遡るとか。
江戸時代以来、江戸の青物市場としては [51822]神田多町(たちょう)の名が有名で、関東大震災で焼失後も、神田の秋葉原駅北口で復興。戦後の 1989年 大井埠頭埋立地の大田市場が開場し、移転。


築地から豊洲への引越作業も大仕事だったようです。
冒頭の日経にもありましたが、朝日2018/10/7の記事を引用します。
7日は早朝から、市場で使われる小型運搬車「ターレット」(ターレ)やフォークリフト300台以上が、使用開始前の環状2号線を走って豊洲へ移った。

「Turret」という言葉は、欧州の城郭に由来する円筒形砲塔が起源で、戦車や軍用機の砲塔・銃座、更には消防車・旋盤・顕微鏡のメカなどにも使用。ここに登場するのは、市場の狭い構内を走り回る運搬用車両。円柱状の動力部と、荷台とが合体した立ち乗物で、動力部自体がハンドルの役目をしています。
昔は内燃機駆動でしたが、その後登場した電動車に置き換えられているようです。築地市場を走りまわる「ターレ」の謎に迫る

今回の 東京都中央卸売市場引越 に際しては、築地から豊洲の区間について、公道化する直前の環状2号線[85227]をターレット・トラックの行列が走り、とても珍しい光景が動画に収められていました。
[96907] 2018年 10月 4日(木)15:52:20hmt さん
上五島連島
[96903] 白桃さん
新上五島町の残りの有人島である頭ケ島、桐ノ小島、日ノ島も中通島と橋で繋がっているようです。

ご指摘の通り、4年前に[86425]で書いた<上五島連島>には見落しがありました。

この機会に、架橋により連なる8島と、主島である中通島との架橋関係を まとめて記載しておきます。

中通島 面積168.31km2, 2015年国勢調査人口 18113人 北端の津和崎鼻に至る長い半島があり、南北約39km。
頭ケ島 1.86km2, 15人 五島列島最東端の島の山頂に標高80mの上五島空港。世界遺産。頭ケ島大橋[82809]
桐ノ小島 0.04km2, 8人 中通島南部 桐古里郷の西側。ごく短い橋
上中島 無人 中通島と若松島を結ぶ県道46号 中通島との間の短い橋の名称不明[82809]
若松島 31.13km2, 1402人 中通島と若松島を結ぶ県道46号の若松大橋[82809]
漁生浦島 0.65km2, 30人 若松島の北西部 漁生浦橋[82809]
有福島 2.97km2, 112人 若松島北西にある架橋3島中最大の島 堤防道路疑惑[82877]
日ノ島【地図は日島】 1.39km2, 38人 堤防道路[82877]

参考:中通島から離島への行き方案内
[96903] 2018年 10月 3日(水)18:32:23【2】hmt さん
突然の航路休止に驚く中通島
日経2018/10/3
五島列島と長崎市や長崎県佐世保市などを結ぶ旅客船を運航する五島産業汽船(長崎県新上五島町)が全4航路を休廃止したことが2日、明らかになった。年間19万人前後の乗客が利用していたもようで、日常の足として使っていた五島市や新上五島町の住民の生活に影響を与えそうだ。

私が五島列島に関する記事を書き始めたのは、14年前の[26554]であり、その記事で最初に問題にしたのが、範囲の異なる2つの「五島列島」でした。
自然地名としての五島列島は、私より前に地球人さんの記事[17147]に記されているように 「下五島+上五島+宇久小値賀 という構図があり」、「北は、宇久島から南は、福江島まで連なる列島です。」

ところが、「行政上の五島列島」は長崎県五島支庁管内【注】に限られ、自然地名としての「五島列島」と異なります。
【注】この文を[26554]で記した5年後に、下五島【五島市】と上五島【新上五島町】、つまり遡れば南松浦郡であった区域を管轄していた長崎県五島支庁は廃止されました[71553]

宇久氏から改名した五島氏が福江島に本拠を移す前の発祥の地である宇久島【2006年佐世保市】と、その南の小値賀島とは 1878年以来北松浦郡です。小値賀島は江戸時代から平戸藩領で五島氏の領域外。
このような歴史的経緯もあり、宇久島と小値賀島【野崎島などの付属島を含む】は、「行政上の五島列島」には含まれず、「平戸諸島」に含まれています。離島振興対策実施地域一覧

前置きが長くなってしまいましたが、本題は上五島の主島であり、北端に位置している中通島です。
五島市のある福江島と長崎とを結ぶ航路は、長崎市の九州商船が運行しているので、大丈夫だろうと思います。

中通島は、4年前の[86425]で示したように【前回国勢調査では】人口2万人を越える大きな島でした。
【追記】
2015年国勢調査人口は 18113人に減少。橋で結ばれている若松島1402+漁生浦島30+有福島112を加えた「上五島連島」の人口も 19657人で、2万人に届かず。やはり、離島の人口は減っていますね。【追記終】

離島の公共交通として航路の重要性は言うまでもないことですが、船会社が突然の休止宣言。
新上五島町の役場も急に知らされたようで、会社都合による一方的な通知に、困惑しているようです。

【追記】
海上運送法第15条を見ると、航路の休止・廃止は30日(指定区間は6月)前までの届け出が必要なようです。
資金繰りの悪化など経営破綻の兆候の一部は、それより前から顕れていたのかもしれません。
情報が溢れているように思われる社会の中で、突然の航路休止騒ぎ。
もう少し早く情報を得て、必要な対策をとることはできなかったのでしょうか?

とりあえず、困った事態が発生し、2万人もの住民がいる離島だけに 影響が心配 という事件の御報告まで。
[96479] 2018年 9月 14日(金)18:40:25hmt さん
「失火の火元?」から
思いがけず、一連の記事の発端になってしまった「失火の火元?」hmtです。
再度のお詫びと併せて、記事[96463]の作成過程において ミスを発生させた「ごく個人的な事情」につき、少々釈明させていただきます。

気象庁報道発表第3報 厚真町で震度7を観測
第4報 「平成30年北海道胆振東部地震」と命名

記事[96463]の投稿動機:北海道の中で 有名とは言い難い「胆振」という地名の周知度を高めたかった という程度。
それに関連して、1960-2016年に定められた31の地震現象のリストを「列挙したつもり」でした。

ところが、PC操作ミスで 1件が脱落していました。指摘されて気付き、早速 お詫びを入れました。

しかし 火種が消えておらず、他の方に火の粉が降りかかる状況に、オロオロするばかり。
幸い、良識ある皆さんの発言により、大火にならず 鎮火の形勢となり、有り難いことです。
火元としては ホッとすると共に、私のミスから騒ぎを起したこと、改めて皆様にお詫びします。

今更ながらの言い訳ですが、「平成7年兵庫県南部地震」が消えた操作ミス の原因を推測しておきます。
6月に発症した脳梗塞[96343]の後遺症と思われる 指先の痺れ。投薬・リハビリ中ですが、未回復状態。
それでも せっせと落書き帳に投稿中。プレビューによる確認の大切さを実感しています。
[96468] 2018年 9月 9日(日)19:30:56hmt さん
Re:お伝えすべきこと
[96466] ニジェガロージェッツ さん
何かひとつ,お忘れではないですか?

ごめんなさい。
[96467] 2018年 9月 9日(日)18:55:44hmt さん
気象庁の震度観測点
北海道胆振東部地震を機会に、これまで気象観測地点ほどには話題になっていなかった 震度観測点に注目しました。

気象庁が発表する地震情報は、全国を188地域に区分した 地域名 を用いて発表されているそうです。
広い北海道は緊急地震速報が 道央(地域数9)道南(10)道北(8)道東(11)の 38地域。
その他は凡そ4~2地域よりなる府県予報区ですが、奈良県だけは全県が1地域です。
島嶼のある都県では、下記のように多数の地域が設定されています。
東京都は23区など3地域の他に 伊豆諸島(5)と小笠原(1)で9地域。長崎県は6地域。
鹿児島県は6地域と奄美群島(2)で8地域。
沖縄県が3地域と大東島・宮古島・八重山(3)で8地域。

これら 188地域に設けられた気象庁の震度観測点は 670で、全国で約1300ヶ所(約17km間隔)という アメダスの約半分の密度です。

しかし、全国には その他に、地方公共団体の 2913、防災科学技術研究所の 789と、多数の地震計が存在するようです。大学等の研究機関にも地震計があるでしょう。

[96463]では民間報道を引用して「厚真町鹿沼で震度7を観測」を伝えました。
しかし その後の調査で、2018/9/7 16時00分の報道発表・「平成30年北海道胆振東部地震」について(第6報)を知りました。
関係データ、地図、逆断層型の発震機構(速報)を含めて詳しい内容が記されていたので、改めて この pdf発表 をリンクしておきます。

震度7が観測された観測点「厚真町字鹿沼(あつまちょうしかぬま)」のデータ
地域名称:胆振地方中東部 震度観測点の所在地:勇払郡厚真町字鹿沼200-2
緯度経度:北緯42度37.4分、東経141度55.2分 地図   観測開始:2012/10/2

参考までに、胆振地方中東部で最古の観測点は、室蘭の旧気象台(大正12年6月)でした。
現存する震度観測点は、室蘭、苫小牧、登別、白老町、厚真町の5地点です。
また胆振地方西部には、現在のところ伊達市に1地点存在するだけですが、2000年頃に何ヶ所かあったのは、有珠山噴火に対応した臨時の観測点であろうと推察します。
[96463] 2018年 9月 7日(金)18:04:33hmt さん
地震に使われた地名 胆振
[96461] グリグリさん
北海道大地震(北海道胆振東部地震)に関するNHK情報ほか

北海道全域に及ぶ大停電を引き起こした昨日の地震。
ニュースを見ながら気になっていたのが、記録された最大震度と気象庁の呼び名でした。

気象庁の震度データベース検索により、「最大震度6強以上」を検索したら 2016年4月の熊本地震。
よく見ると、発生日時が2018//9/5までとなっており、昨日の記録は対象外でした。

気象庁は6日午後、北海道の胆振地方で起きた地震について、厚真町鹿沼で震度7を観測していたと発表した。
これまで気象庁は、強い揺れの影響で複数の観測点で震度の情報が送られてきていないとして、震度分布図からは震度7を観測している場所がある可能性は否定できない、としていた。
という 昨日15:25現在の報道が示しているように、正式の記録として残すデータについては、慎重な姿勢で臨んでいるようです。

参考までに、厚真町鹿沼付近の地図

気象庁の呼び名については、昨日17:30に 「平成30年北海道胆振東部地震」と決定されて発表あり。

参考までに、ウェザーニュースに紹介された 気象庁が名称を定めた地震現象のリストを列挙。

チリ地震津波   北美濃地震   宮城県北部地震   越前岬沖地震   新潟地震   松代群発地震
えびの地震   1968年日向灘地震   1968年十勝沖地震   1972年12月4日八丈島東方沖地震
1973年6月17日根室半島沖地震   1974年伊豆半島沖地震   1978年伊豆大島近海の地震  
1978年宮城県沖地震  昭和57年浦河沖地震   昭和58年日本海中部地震   昭和59年長野県西部地震   
平成5年釧路沖地震   平成5年北海道南西沖地震   平成6年北海道東方沖地震   平成6年三陸はるか沖地震
平成12年鳥取県西部地震  平成13年芸予地震   平成15年十勝沖地震   平成16年新潟県中越地震   
平成19年能登半島地震  平成19年新潟県中越沖地震   平成20年岩手・宮城内陸地震   
平成23年東北地方太平洋沖地震   平成28年熊本地震

今回は内陸でしたが、昭和57年には「浦河沖地震」というのがあったのですね。
1968年と平成15年と2回の十勝沖地震、平成5-6年の釧路沖、北海道南西沖、北海道東方沖。

「胆振」という国名は、室蘭・苫小牧という港湾都市名[78736]に比べて、知名度が低いように思われます。
せっかくの機会?なので、過去記事の中から北海道胆振国[72049]をリンクしておきます。
「胆振東部」と言えば、石勝線のトマムまでが「胆振国勇払郡」でしょうが、占冠村は胆振管内ではなく上川管内です。明治初期に鵡川を遡り到達した時代に定められた胆振国の範囲と、現状との違い。
[96451] 2018年 9月 1日(土)18:46:46hmt さん
船迫(ふなばさん)
[96448] 千本桜 さん
「船迫」は「ふなばさま」と読むのですが、昔の人は「ふなばさん」と発音していました。

これは、成田(なりた)を「なんだ」、上町(かみまち)を「かんまち」と発音する事例、すなわち 後続音のある「普通の撥音便」とは 異なるケース と考えるべきではないでしょうか?

船(ふな)迫(はざま→ばさま)という漢字の切り方を無視して、
「ふなばさま」を「ふなば さま」→「ふなば さん」と発音するのは、ありそうなこと。

そんなことを考えながら[96449]を見たら、
天神様、白桃様、とか言いづらいというか、「てんじんさん」と言った方が親しみをもってきこえる???

口語の変化です。私も 文字にとらわれない「白桃さん」説に賛成票。
[96450] 2018年 9月 1日(土)17:45:51hmt さん
多摩川の南北にある「野川」という地名
[96446] うっかりじゅうべえ さん
自治体越えの地名掲載の神奈川県川崎市「野川」が、住居表示されるようです。

自治体の境界で分断された地名として取り上げられた地名「野川」は、1889年の町村制施行より前には、神奈川県橘樹(たちばな)郡「野川村」でした。
地図を見ると鶴見川の支流・矢上川が流れています。この川の通称が「野川」だったのかもしれません。

明治合併で成立した 宮前(みやさき)村の大字になった「野川」。
関東大震災【今日は95年の記念日】の翌年に成立した川崎市は、昭和戦前時代(1927-1939)に近隣10町村【+日吉村の一部】を編入しており、宮前村野川も、1938年に川崎市野川になりました。

この付近の交通環境を大きく変えた 第三京浜道路は 1965年全線開通。
川崎市が政令指定都市になった 1972年には そのまま高津区野川になりましたが、1982年の分区で 宮前(みやまえ)区が作られた際には、第三京浜の西側一帯だけでなく、矢上川より北・神明社のある一角も宮前区になりました。
町区域の設定図を見ると、この区域が今回の住居表示で「野川本町3丁目」になるというので、どうやらこの一角が、「野川」という集落が本来存在した地であると理解できます。

地図で付近を見渡すと、第三京浜と武蔵野貨物線【地下】とが交差する地点で、ICや貨物駅の存在から物流拠点としても利用されてきたが、宅地化に対応して、今回住居表示を実施することになったものと理解されます。

この付近には、「たちばな古代の丘緑地」などもあります。
橘樹郡の由来に関係する弟橘姫の故事。そんなことを思い出しながら、橘の記事[64972]

ここで、対象の「野川」が変ります。
実は「川崎市の野川」は、その存在自体を今回初めて知りました。
[60771]で言及されていることは、本文を書いた後で、偶然知りました。

視野を川崎から少し広げると、北方には 多摩川が都県境を流れています。

その多摩川に、東京側の武蔵野台地を水源として 合流してくる支流が 「野川」です。
国分寺崖線から流出し、現在は二子玉川で多摩川に合流していますが、古い地形図では現在よりも西を流れています。戦後の六郷用水流路廃止による流路変更があったようです[79306]

こちらの「野川」は、落書き帳の初期から登場している 有名河川?です。

[19260] グリグリさん 武蔵野夫人
TNさん[19236]がご紹介されている野川の源流です。

[38583] 音無鈴鹿 さん
それら湧水を集めて国分寺崖線に沿って流れているのが野川。上流端は日立中央研究所のなかです。

川崎市の多摩丘陵にある「野川」の数km北の 多摩川対岸には、武蔵野台地から流れ出る「野川」がある。
2つの「野川」は 偶然の一致 と思われるので、地名コレクション「自治体越えの地名」の趣旨である
同一地域を表す地名が、都道府県境、市町村境、区境によって分断された地名
に該当するものでないことを お断りしておきます。

変遷情報検索で調べてみると「○野川」という村名は66件も出てくるが、単純な「野川」という村名は5村のみ。山形 福島 神奈川 滋賀 岡山 各1村

過去記事検索で「野川」を調べると、吉野川 阿賀野川 熊野川 など多数がヒットしてしまいます。
単純な文字だけで構成されているだけに、「野川」【例えば[5320]】だけを拾うのは困難でした。

このように、単純な言葉ですが、「野川」自体は「ありふれた地名」ではない。
偶然にしても、多摩川の南北に「野川」があったのは、やはり「珍しいこと」として記録しておきたい。
そんな軽い気持ちからの書き込みでした。
[96440] 2018年 8月 26日(日)16:23:43【1】hmt さん
Re:「万歳がえし」なるもの
[96439] スナフキん さん
ネット情報を鵜呑みにするならば、どうもこれは北陸地方や長野県の一部地域で行われているもののようですが

私も体験はしていませんが、普通の万歳三唱だけでなく、「お返しつき」のバージョンが存在するようですね。
既にご存知のネット情報と思われますが、参考までに 少し列挙しておきます。

砺波市 「万歳返し」の思い
「万歳返し」っていうのは少なくとも私のふるさと福井にはなかったように思う。インターネットで調べると、信州の方では結婚式や家の建て前のときに行われるようである。

長野の締めはバンザイとバンザイ返し?
長野市とくに若穂【注】(中略)主催者から参加者に向けて万歳が送られ、その後に万歳を受けた方がお返しに万歳もあります 万歳返しとでもいうのでしょうか、

【注】本筋の「万歳がえし」と無関係だが、信州の地名に関連して追記
「わかほ」は、犀川・千曲川合流点付近の東岸で、1959年合併した3村(綿内 川田 保科)由来の合成地名。
「豊科」の同類です。「しな地名」[77926]の一つで呼ばれる保科観音のお寺は、清水寺(せいすいじ)と読みます。

万歳三唱(2)
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県外から転勤などで長野県にいらして一番最初に遭遇し、戸惑うのがこの「万歳三唱」ではないでしょうか?
県民にとっては当たり前のしきたりのですが・・・
【具体的な例より】
指名された発声者の音頭で万歳三唱をし、主催者は有り難く礼をしてお受けします。
次に、主催者は上座から(或いは上座から辞して)、代表者がお客様に対して万歳唱三唱のお礼を述べ、続いて 返礼の万歳三唱をいたしたい旨 を伝え、全員の賛同を得ます。
その際、主催者側代表は全員での万歳のご唱和をお願いします。
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万歳のお返しもあります。 ちなみに富山県です。
[96430] 2018年 8月 23日(木)19:12:11hmt さん
台東区はお台場の東?
台東区。ekinenpyouさんの記事を発端になり、その読み方が話題になっています。記事集

中心になっている中国語の読み方については、私は全くの無知であり、議論に加わることができません。
そこで 初心に戻り?、落書き帳の古い記事を検索してみました。

その結果、とんでもない 誤解記事を発見してビックリ。
[1933] mikiさん 地名+方角の区
東京都...江東区(江戸川の東)、台東区(お台場の東)

さすがに、投稿直後に Issieさんによる修正意見[1996]が出ていました。
「江東区」は“隅田川の東”,「台東区」は“台地(具体的には本郷台かな)の東”という意味です。

台東区には上野公園になっている台地があり、「上野の山」と呼ばれています。
江戸時代は、この台地の全域が 東叡山寛永寺の境内でした。
戊辰戦争では、江戸で唯一の戦場になりました。新政府軍の指揮官は西郷隆盛。銅像は何故か着流し姿。
「台東」の意味は、“台地の東”よりも、“上野の台地と、その東に広がる低地【下谷・浅草】”と理解するのが適切ではないでしょうか?

下谷区と浅草区とが統合されて台東区になったのは、敗戦直後の大都市改革[74935]の一環でした。
具体的には 1947年3月15日に 都心部の区を中心に統合が行われて、35区が「22区」になりました。
昭和22年東京都告示第127号
左側に3月5日施行とありますが、ごれは誤記で、右側の昭和二十二年三月十五日施行が正しい。

台東区について言うと、既に当用漢字表は1946/11/26に公布されているのですが、これが新字体になる「当用漢字字体表」の告示は1949/4/28ですから、「臺東区」で告示されていると推察します。
告示の原文を確認したいと思いましたが、不成功。

[96417]伊豆之国 さん
「台」と「臺」は、本来はそれぞれ別の字で、どちらも中国に古くからある漢字です。

…というわけで、Wikipedia台東区>名称由来に記された
康煕字典にめでたい意味で載る瑞祥地名でもある。
のは、「臺東区」であろうと推察しました。

そこで、ekinenpyouさんに存在を教えていただいた康煕字典で、至部8画の「臺」を覗いてみました。
東という字は末尾から3行目にありましたが、「臺東」という地名は未発見。
念の為、略字の 「台」にも「台東」は見当たらず。

あまりパッとしないレポートですが、読み方とは無関係に「台東」を調べた結果でした。
[96402] 2018年 8月 19日(日)11:26:02hmt さん
海と島(31)ユルリ島の馬
時折綴っている「海と島」シリーズです。島の人口とか無人島とか居住者の有無に関係したトピックスも多いのですが、今回の「居住者」は 人ではありません。

日曜日朝のNHK「さわやか自然百景」。今朝のテーマは、根室沖3kmに浮かぶ双子の無人島、ユルリ島とモユルリ島でした。

「鵜の島」を意味するアイヌ語と根室沖という場所から連想するのは歯舞群島ですが、歯舞群島の勇留島(ゆりとう)は根室半島の東にあります。
これに対して、ユルリ島【2km2】と より小さなサイズのモユルリ島【0.3km2】とは、根室半島の南にあり、いずれも周囲を断崖で囲まれた平坦な台地の島です。地理院地図

遠目には同じように見える平らな無人島ですが、上陸してみると草の丈が大違いです。
ユルリ島には、以前に昆布漁師が持ち込んだ馬が野生化して、背丈の高い草を食べるため充分な光を浴びた花々が草原に咲き乱れます。

昆布漁が盛んだった1950年代のユルリ島には人が住み込み、馬を使って昆布を引き上げた断崖上の平地を、昆布干場として使っていました。

時代が変わり干場としての利用が終わると、人々は島を去りました。
しかし、馬は食肉として売られることなく、積雪も少なく、水と草の豊富なユルリ島に残されました。山のない島ですが、ミズゴケによる貯水能力があり、雪の下で 馬の命を支える環境があったのですね。
最盛期には30頭にも増殖した馬。近親交配を防ぐためにオス馬の入れ替えも行われたそうです。

2006年、漁師の高齢化に伴い全てのオス馬を引き上げ、14頭のメス馬が残され、馬の数は少しずつ減少。
北海道ファンマガジンによると、2011年8月に12頭いたのが、2014年2月に6頭と2年半で半減。そして、2018年の今回取材時には3頭。

人間の都合で連れて来られ、野生化への道をたどった居住者の馬がゼロになるのは時間の問題でしょう。
そうなると 当然ですが、植生への影響があります。
海鳥たちとオジロワシとの攻防も、その行方は如何。
島という限定された世界でも、自然の姿は移り変わっているようです。
[96393] 2018年 8月 17日(金)17:30:10【1】hmt さん
横綱朝潮の出身地
[96392] うっかりじゅうべえ さん
兵庫県   8 朝潮太郎(初代)
鹿児島県  5

スポーツは不得意分野なのですが、1953年のクリスマスに、鹿児島県への復帰が実現した奄美群島[56304]のことにも関係するので、ちょっと口を出しておきます。

1956年から1961年までの間の大相撲で、幕内優勝5回を記録した朝潮太郎。
本名の「米川」から始まり「朝汐」も使ったようですが、太い眉毛と立派な胸毛の大柄な姿で記憶に残る力士。
その名は「朝潮太郎」です。大阪場所での活躍が特に目立つ力士でした。

1959年の大阪場所後に 46人目の横綱に昇進。深川・富岡八幡宮境内の「横綱力士碑」にその名が刻まれる際、既存のスペース満席のため、初の 「張出横綱」にされてしまった。そんなエピソードを新聞で見た記憶があります。

問題になるのは、この朝潮の出身地です。
Wikipedia は、その冒頭に「鹿児島県徳之島出身(出生地は兵庫県武庫郡、現在の神戸市)」と記しています。
そして、来歴の箇所の記載。「1948年(昭和23年)10月場所、本名の米川で初土俵。当時奄美は米軍の占領下にあったので兵庫県の親戚、大沢徳城を頼って貨物船に忍び込み密航、奄美が返還されるまで兵庫県(神戸)出身と番付に書かれていた。」と記しています。

奄美が鹿児島県に返還される前には、出身地を兵庫県と名乗っていた時代もあったのかもしれません。
Wikipediaの出生地:兵庫県など、古い情報の影響が残っているのかもしれない説の真偽はさておき、朝潮が奄美の徳之島で育ち、日本復帰後は「鹿児島県徳之島出身」であることを公称していたことに間違いはないと思われます。

してみると、出身地:兵庫県に該当するのは、増位山(父:大相撲では姫路市)2回と貴闘力1回の合計3回だけ。
出身地:鹿児島県に該当するのは、[96392]の5回【注】に朝潮5回を加え、合計10回ということになると思います。
【注】私なりの理解では、次の通りです。
若嶋津 2回(1984/3と1984/7)、霧島(1991/1)、30代横綱で西囎唹郡西国分村(現・霧島市)出身の三代目西ノ海嘉治郎(1925/5)、25代横綱で種子島出身の二代目西ノ海嘉治郎(1916/1)。
【追記】
16代横綱初代西ノ海嘉治郎の記事[96397] ekinenpyouさん を見て、西ノ海嘉治郎の代数と、三代目出身地を追記。
[96390] 2018年 8月 15日(水)21:44:57hmt さん
「山の日」に思う(2)
[96381] MasAka さん
山の日ということで、とりあえず近所の山にと思い立ち、今住んでいる川崎市の最高地点を目指して

都市化されつつある猛暑の多摩丘陵を脳裏に描きながら、「山」に関する 47都道府県ランキングを眺めてみる。
これが、体力のない hmtにとっては、精一杯の夏課題でした。

2016年の第1回「山の日」に作った表を少し修正。
傾斜地【山地+丘陵地】vs 平坦地【台地+低地+内水域】という対比で作ってみた結果が[96384]です。

山地と丘陵地とで約93%を占める高知県を筆頭に、42府県は 50%以上という山国の日本。
平坦地が半分以上を占めた「平坦県」は、大阪府50.8%、東京都53.2%、埼玉県61.5%、千葉県61.7%、茨城県69.1%だけでした。

茨城県は、台地率37%で首位、低地率27%も4位。これに 霞ヶ浦・北浦の内水域が加わっています。
[91185]では数値を挙げていませんでしたが、山地率23.7%の茨城県は、実は千葉県(7.6%)に次ぐ下から2番目だったのでした。
それでも、富士山の反対側から関東平野を見守る筑波山を擁し、お盆の墓参では稲田石の世話になっています。

石材、石炭、金属など特殊な「山の恵み」はさておき、最も一般的な資源は森林です。
前報の末尾にも記しましたが、都道府県データランキング 可住地面積の中に「森林面積」があり、首位の高知県83.30%と、末尾5都府県の顔ぶれは、偶々ですが[96384]と一致していました。

まんざら無関係でもないと思われるので、このリストの 森林面積(2009)と、前報の検討で用いた傾斜地【山地+丘陵地】面積との比率を都道府県別に求めてみました。

その結果、ランキング上位は 殆ど1。
北海道が1.048と1を越えている理由は、平地林の存在でしょう。以下 秋田 福井 茨城 青森 京都 岐阜 宮崎 山形 富山(0.927)。

注目したのは、今回も ランキング下位の都府県。
47位の大阪符0.631 を始めとして、45位 神奈川県0.725、44位 福岡県0.764、42位 東京都0.784。40位 愛知県0.791 は、大都市の領域が平坦地だけでなく 傾斜地に及び、丘陵地が 森林以外の都市施設に利用されつつあることを示しています。

そんな中で 41位 熊本県0.790を見ると、阿蘇の草千里のような、都市とは異なる利用形態も目に浮かびます。
そして、43位 広島県0.781と 39位 愛媛県0.796、そして 36位 山口県0.813 と並ぶと、先日の西日本豪雨災害との関連を考えたくなります。

森林面積が小さいデータが示している花崗岩の禿山。
森林保全によるメンテナンスが十分でない山は、豪雨により恐ろしい牙を向けてくる。
ごく大雑把なデータランキングですが、こんな教訓の材料にも。
「山の日」を機会に、そんなことを考えた次第です。
[96384] 2018年 8月 12日(日)18:53:46hmt さん
「山の日」に思う(1)
「海だ山だ、祝日多すぎる」慎重論もあった「山の日」 

引用した記事は、祝日法改正が行なわれた4年前に 産経新聞上で発表されたもので、「根拠が薄い」、「日航機墜落事故【今日で33年目】を考えると祝日に違和感」などの慎重論もあった「山の日」について、その意義をいかに浸透させるかが、今後の課題としています。

2016年の第1回には 私も[91185]の記事を書き、昨年夏には十番勝負[93880]にも取り上げられました。
しかし、課題と指摘された「山の日」の意義について、社会の議論は進んでいるでしょうか?

言うまでもなく、「山」はレジャーの対象や健康保持の場として役立つだけでなく、国土保全・林業を始めとする産業上の利用など、多目的の社会的意義があります。
日本の国土は、地形的な要因から「山」抜きでは語ることができません。

日本の「山」はその気候条件と相俟ち、世界的には稀とも言える量の水資源を恵んでいます。
この水資源の利用と防災とは、この国土で社会生活を営む私達にとり欠かすことのできないものです。

都道府県データランキングでは、地理・気象系に 総務省統計局の [可住地面積、森林面積、自然公園面積、田面積、畑面積、宅地面積が示されており、森林面積については 林野庁が実施している森林資源の現況調査のデータもあります。

利用目的を離れた 都道府県別の自然条件については、少し古いデータですが、日本統計年鑑に掲載された「昭和57年度国土数値情報作成調査」による [地形・傾斜度別面積:www.stat.go.jp/naruhodo/dl/zuhyou/c1s_origin/y0108000.xls] の表があり、[91185]では これを利用し、「山地の多い県」のランキングを作ってみました。

山地、丘陵地、台地、低地、内水域等の5種に分け、47都道府県ごとの面積がkm2単位で示されていますが、北方領土は未分類のままなので、計算から除外。また「内水域等」にも問題がありそうでした。

それはさておき、[96381]を拝見した機会に、山地だけでなく、つまり丘陵地の区別に拘らず、47都道府県別のランキングを作ってみることにしました。

1位から3位は 山地と丘陵地で 90%以上を占める県で、高知県、広島県、奈良県の3つ。
4位から10位は 85-90%が山地・丘陵地の県。島根 和歌山 愛媛 山口 鳥取 岐阜 山梨。
11位から18位が 80-85%で、 岩手 長野 徳島 岡山 大分 宮崎 福島 群馬。
19位から23位が 75-80%で、石川 熊本 静岡 京都 山形。 
24位から31位が 70-75%で、福井 兵庫 新潟 秋田 富山 三重 長崎 鹿児島。
32位から36位が 60-70%で、佐賀 北海道 青森 宮城 栃木。 
37位から42位が 50-60%で、福岡 沖縄 滋賀 香川 神奈川 愛知。

山岳と丘陵を合わせても50%に満たない少数派は僅かに5都府県のみでした。
大阪 東京 が40%代、埼玉 千葉の後、約31%は茨城県で、これは5%近い内水域が効いていました。

台地・低地・内水域で半分になる利根川の中・下流域4県は、山国の日本では珍しい地域であることを再確認しました。

次回は、地形だけでなく、都道府県データランキングの森林面積データも利用してみます。
[96375] 2018年 8月 10日(金)19:45:02hmt さん
港湾地区の橋
[96374] 今川焼さん
江島大橋に関して、多くの情報をいただき有難うございました。
2009年撮影の写真、ダイハツのCM、大根島最高地点からの遠望写真など、興味深く拝見しました。

遠望写真には、江島大橋の奥に 境水道大橋も写されています。
じゃごたろさんによる [96370]の紹介文で
境港市の 0m地帯から 松江市美保関の丘陵部に繋がるこの橋も かなりかなりの勾配
と記された 白いトラスの片勾配 が目を惹きます。
このトラス橋も、航路確保のために 中央部が下路構造 になっており、東京ゲートブリッジ[80265]との共通点がありました。

[96374] 今川焼さん は、更に記しています。
大阪市大正区・港区の間に架かる〝大阪のベタ踏み坂〟こと「なみはや大橋」へ今年の春行ってきました。

早速 WEB記事 で見学したところ、
西側に目を転じると赤色の塗装が鮮やかな世界最大級のゲルバートラス橋である港大橋(全長982m)
とあり、リンク先が変更されてしまった[80265]の代りとなる港大橋の写真もありました。

「港湾地区の橋」と言えば、これも日本海側の 2015年氷見オフ会のことも、ふと思い出しました。
この時は、新湊大橋を始めとする 斜張橋 が話題になりました。
[96369] 2018年 8月 8日(水)10:49:01【1】hmt さん
天に昇るような急勾配の坂
先ずは 写真をご覧ください。
島根県松江市江島の八束町と鳥取県境港市渡町とを結ぶ「江島大橋」です。

「ベタ踏み坂」と名付けられた急坂が有名で、テレビCMにも登場したそうです。
中海の水面から最上部までの高さは 45m。5千トン級の船が下を通ることができます。

側面図【中国地方整備局】からでは、なかなか想像することができませんが、松江側正面からの写真を見るとビックリしますね。

鳥取県観光案内 には、撮影地点【島根県側】を3箇所変えた写真がありました。
冒頭の写真は、大根島の海岸からの正面遠望により、坂道の距離感を失わせた作品 ということでしょうか。
[96361] 2018年 8月 5日(日)17:51:12【1】hmt さん
駿河
久しぶりのメンバー登録名変更[96337]を機会に、「駿河」という地名についての雑談を記します。

言うまでもなく、「駿河」は 東海道に属する旧国名です。
ごく初期の落書き帳[82]でも、旧国名を漢字一字で表記する場合「駿」という字を使うと記されています。「駿州」。
「駿」は 「すぐれた」【つまり足の速い】馬ですから、富士川の急流を当てた文字使いでしょうか?

最近の記事に「駿河小山」という駅名【御殿場線】[96345]が登場しました。
この駅の経歴を少し記します。

駿河小山駅は、明治22年の開業時[61303]には「小山駅」を名乗りましたが、日本鉄道[61225][61304]の国有化により栃木県の小山駅との同名回避[39241]が必要になり、1912年東海道本線「駿河駅」に改称しました。

駅付近には、富士絹で知られた紡績工場もでき、大正時代を中心に それなりに繁盛した 駿東郡小山町でした。
しかし、1934年に丹那トンネルが開通すると、御殿場回りのルートは ローカル線に転落。

そんな「駿河駅」の存在を知ったのは約70年前。
中学生時代の私は、神奈川県管内図を眺めているうちに、県境を越えた静岡県側に発見しました。

駿河国には相違ないが、静岡から遠く東に離れた地の「駿河駅」に違和感を覚えながらも、そのまま。

落書き帳に出入りするようになってから知ったのが
[39351] Issieさん の記事でした。
「駿東郡」というのは近世以降の呼称で,古代には「駿河郡」という呼称であったようです。
本来はこちらの「駿河」から「駿河国」という国名が起こったのであって…

国名の起源が駿東郡にあったのならば、御殿場線に駿河駅があったことも納得できます。
でも、1952年には 既に駿河駅→駿河小山駅への再改称が行なわれていました。

「駿河」の起源が、7世紀 珠流河(スルガ)国造の根拠地> 後の駿東郡であるとすると、「奔馬に見立てた急流」も富士川ではなく、酒匂川の上流・鮎沢川かもしれません。


2005年に静岡市が政令指定都市になり、旧静岡市の南部に「駿河区」が誕生しました。
区名候補公募を見ると、A区に駿河、B区に駿河、するが が選ばれていました。
旧国名由来の「駿河」の他に、もう一つの「駿河」が誕生して、ややこしくなりました。

2年後の2007年には、次のような記事が落書き帳に登場。
[59305] inakanomozartさん
最近は「駿河」を「静岡市駿河区」又は「駿河区役所」を指す人(狭い範囲の人か?(笑))が出現しているようです。

[59308] YASU さん
危惧されていたことが。葛飾と同じ道を歩んでしまいそうな・・。
ただ「スルガ銀行」の本店が沼津にある限り、大丈夫でしょうね。

別件
「駿河の民」さん というニックネームから自然に思い出したのが「讃岐の民」さんです。
高校生時代の2005年度[50103]までに多数の記事があり、2006年度は SANUKI-Impact と改名。
最終記事[58438]では地名コレクション作業再開の意思表示をしていたが、続報なし。
[96348] 2018年 8月 1日(水)20:11:48【1】hmt さん
ふるさと納税 「黄色い会社」のある忍野村の事例
[96342] グリグリさん
都道府県データランキングの政治・行政系に示されている「ふるさと納税」の説明文が、誤記されています。

それはさておき、市町村版の記事[96341][96342]も拝見しました。
確かに、「ふるさと納税」の性格からして、都道府県よりも市区町村が相応しい分野のようですね。

グリグリさんの記事を読み、私が特に着目したのは、寄付受領側を主とした市町村[96341]ではなく、この制度を支えている納税者側の自治体【区市町村】です。

納税者の負担を示す「差引赤字額」トップ50の中に 20区もランクインている東京都23特別区に敬意を払うために、あえて慣れない言葉を使いましたが、これは東京都用語です[75424]
政令指定都市は、20市中 17市もランクインしており、上位独占に近い状態。これも立派です。

この2種を除くと、残るは 23位の西宮以下、吹田、豊中、市川、船橋、川口、藤沢、八王子、松戸、浦安、町田、姫路、武蔵野の 13市ですが、いずれも限られた大都市圏の市です。

ところが[96324]を見たら、大都市圏外であるにも拘らず、ふるさと納税の多い町村が登場していました。
山梨県忍野村や京都府精華町。(中略)自治体の中で ふるさと納税を促進する何らかの動きがあるのではと思われます。

「自治体当局」が自らの財務体質に不利な動きをするとは考えにくいので、ご指摘の動きは、「自治体の住民」による自主的なものと推察されます。

山中湖畔の山梨県南都留郡忍野村。その自然環境[43001]はさておき、経済環境として注目に値するのは、何と言っても 黄色い会社 FANUC の存在です。
工場自動化 Factory Automation に使われる「NUmerical Control(数値制御)による工作機械装置」のメーカーとして定評があります。

富士通の1部門として始まり 1972年に分社。1980年代に約10年の歳月をかけて、東京都日野市から現在地への移転が行なわれたとか。
言わば 何もなかった富士山麓 に新設された ハイテクの会社です。

忍野村のハイテク会社で、それに相応しい収入を得ているこの会社の社員たち。
「ふるさと納税制度」は、忍野村住民として所得のあるファナック社員たちにとり、彼らが生まれ育った日本各地の「ふるさと」と、忍野村とを結ぶ絆として 活用する価値のある制度であると評価されているようです。

データランキングの出典として記された 平成30年度ふるさと納税に関する現況調査から、各自治体のふるさと納税に係る住民税控除額等の excel表【市町村税額控除一覧】で、山梨県忍野村のデータ【862行】を拾ってみました。
 
私は制度もよく理解していないなので、膨大な表の中から拾った数値やその処理が妥当か否かの自信はないのですが、右端6列【BAからBF】の数値【千円未満記載省略】を使いました。

人数【ふるさと納税者数】(BA=BD列)462人【総人口の約5%】、寄付金額(BB=BE列) 1億1645.7万円、村民税控除額(BC列) 5032.1万円、県民税控除額(BF列) 3354.7万円
寄付金額から村民税と県民税との控除額を引いた 3258.8万円を差引赤字額【納税者にとっての実質的なコスト】と考えました。

忍野村に居住するふるさと納税者1人あたりの平均値を計算してみます。
ふるさと自治体への年間寄付金額は 25万円。[96350]によると 全国で 24位とのこと。
寄付したことによる減税額は 村税 11万円と県税 7万円を合わせて 18万円。
差引 ふるさと納税のコスト 7万円をかけていますが、それよりも大きな満足を得ていると思われます。

小さな村ですから、[96341]の赤字総額が番外になるのは当然です。
しかし、「1人当り赤字(円)」を総人口概数9000人で計算してみると、3621円で[96342]の 8623円と大きく異なります。計算違いが出た原因は不詳です。

[96342]の ふるさと納税者率 10.12%について。
私は、村民税(BA列)と県民税(BD列)の 462人を同一人と考え、上記のように計算しました。
従って、ふるさと納税者率は 忍野村総人口約9000人の 約5%と考えています。
しかし、これを別々に数えれば、総人口に対する割合としては 約10%になります。
[96343] 2018年 7月 28日(土)19:10:20hmt さん
間違って「隆盛」になる前の「西郷隆永」のサイン
85歳になった hmt が記す 約13年前の落書き帳記事への自己レスです。
先日、脳梗塞で入院しましたが 生還し、[96304]で落書き帳に復帰しています。

本題に入ると、2018/7/27放送のBS3・新日本風土記【明治維新への旅1】の一部で、西郷隆盛と庄内藩との絆が取り上げられていました。
そのTV画面中に、「西郷隆永のサインがある文書」がチラリと出現したのを見かけました。

「西郷隆永」と言えば、[43834]で言及した西郷吉之助の「名乗」【実名】ではありませんか。
明治5年5月 太政官布告第149号による「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」への対応。

[43834]では、
西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人【吉井友実】が間違えて 父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。
と記しています。

本人の自筆と思われるサイン「西郷隆永」が記された書類は、彼の生涯のどんな時代だったのか?
どうでもよいことですが、気になって調べた結果を記します。

出羽庄内国際村で行なわれた 2017年の講座記録の中に、次のようなことを伝える記載がありました。

明治4年9月に菅実秀が庄内に帰る際の送別会。西郷から贈られた漢詩が記されたメモ。
落款はないが、“西郷隆永拝”とあり、「西郷隆永と本名で書かれた非常に珍しい書です」というナレーションが付けられていました。

「…自今一名タルベキ事」という前記布告は明治5年でしたから、対応を間違って「隆盛」になってしまう前のサインだったことが確認できました。

仕事上では役職名なども使われていたかもしれませんが、口語では通称の「吉之助」を使っていた時代です。
西郷隆永という本名で書かれた書類が残っているとすれば、借金証文などが考えられますが、やはりナレーションにあったように、「非常に珍しい書」なのでしょう。

「おなまえ」に便乗した雑談レスはこれだけです。
しかし、ここは地理のサイトなので、山形県メールマガジンから「西郷どんと山形県」の前編後編をリンクしておきます。

前編には、漢詩が記されたサイン入りのメモを贈られた 庄内藩の菅実秀の事績以外にも、西郷銅像のモデル、なぜ西郷は庄内藩に寛大だったのか? などが記されています。
後編は、南洲神社、兄弟都市関係、鹿児島の山形屋百貨店、三島通庸[79710]のことなど。
[96333] 2018年 7月 24日(火)23:45:14【1】hmt さん
暑いぞ 江川崎
[96331] 伊豆之国 さん
【熊谷が】皮肉にも「暑いぞ」をやめた途端に最高気温記録を更新、「日本一暑い町」に返り咲くとは…。

観測史上の最高気温記録から、日本一のデータを古い方から拾ってみました。
1927年 宇和島* 40.2度、6年後の 1933年 山形* 40.8度、更に74年後の 2007年 多治見アメダス 40.9度【熊谷*も40.9度[60620]】、更に6年後の 2013年 江川崎アメダス 41.0度、更に5年後の 2018年 熊谷* 41.1度 となります。

データが集められた観測地点は、気象台等(*印、統計開始年まちまち)とアメダス(無印、1976年)とで、設置状況を含めた観測装置や統計開始年に違いがあります。

74年間日本一の記録を保持した山形*の大記録は、観測点の数を飛躍的に増したアメダスにより、多治見・江川崎と更新されることになりました。今回の熊谷により、気象台がチャンピオンに復帰。

2007年に記録を出した[60619] 多治見アメダスは、設置場所に問題があったという指摘がなされており、堺や京田辺のアメダスでも 観測環境の悪化があったようです。

そのようなわけで、江川崎アメダスのデータについても 疑惑が出ていました。
四万十川の中流域、旧幡多郡西土佐村・江川崎は 内陸の盆地で、涼しい海風が届きにくい地形のようです。
各地のアメダスに比べて周辺環境は良好のようですが、ここ江川崎アメダスが 地域を代表する気温を観測していることを検証する目的で、予備観測による検討が行なわれました。報告

0.1度単位での最高気温チャンピオンに関係するとなると、アメダス設置環境も、熱い【暑い?】研究対象になる。
そんなことを感じた研究報告でした。

なお[60621]では、気象庁以外の参考記録にも言及しています。
[96319] 2018年 7月 22日(日)19:13:41hmt さん
自然公園の面積
[96316] グリグリさん
都道府県データランキングの 自然公園面積 を拝見しました。
第1問にも関係するのですが、沢山の面積データを漠然と眺めているうちに、気になったのが「小さな面積」です。

自然公園合計面積のトップは滋賀県。琵琶湖があるにも拘らず、国立公園は存在しない。
これも注目すべきことですが、ゼロでない「小さな面積」、具体的には福岡県の国立公園:46haと、京都府の府立自然公園:128ha とを調べてみました。

福岡県の自然公園を見ると、門司の和布刈(めかり)公園を中心とする地域が、瀬戸内海国立公園に指定されており、その面積 46haがランキングのデータと一致します。
同じページに続いて紹介されている福岡県の3国定公園、5県立自然公園の面積は、すべて数千ha以上と桁違い。

瀬戸内海国立公園は、海域部を含めば日本最大の面積を持つ国立公園です。
しかし、今回の都道府県別ランキングは、その性格上、陸域の面積に限られています。
自然公園の面積に関する統計は、陸域面積に限定した値が掲載されていることが多いので、ご注意ください。

[92754]で記したように、1934年に初指定された瀬戸内海国立公園は、備讃瀬戸付近の3県でしたが、戦後大拡張されています。ブラタモリが最近訪れた関門海峡は 1956年の指定でした。

瀬戸内海国立公園に関係する県は 11府県に及んでいますが、大阪府の指定は海域のみであるため、陸域面積には含まれません。
大阪府が、[96316]の第1問のヒント「国立公園は 6府県」に含まれのは、このような事情があるためです。

ついでに、京都府立の自然公園。こちらは、僅か 128haでありながら、3公園の合計面積でした。
その中での最小面積は、笠置町にある京都府立笠置山自然公園で、その面積は 20haでした。

別件:
「やんばる国立公園」は、最も新しい33番目の国立公園です。
落書き帳では速報[90614]の後、2016/9/15の国立公園誕生を伝えています[92742]
最近のニュースによると、隣接する米軍からの返還地の大部分が 2018/6/29に 編入されたそうです。報道発表

これにより、やんばる国立公園の面積(陸域)は 17311haに拡張されました。基礎情報
ランキングの出典は未修正ですが、西表石垣国立公園 40653ha、慶良間諸島国立公園 3520ha と合計した沖縄県の国立公園面積は、61484ha となっている筈です。
[96304] 2018年 7月 16日(月)11:48:13hmt さん
偉人たちの出身地
[96299][96302] 千本桜さん
問題にされた地名自体は、「後に内閣総理大臣となるC」が「凶弾に撃たれて散った」ことが最大のヒントになりました。
最初に思い浮かんだのは五・一五事件(1932)の犠牲になった犬養木堂でしたが、これは出身地から否定。

元老の西園寺公望が犬養の後任首相として推薦したのが「C」でした。
その名は、もちろん知っていました。hmt誕生当時の首相ですが、その出身地は知りませんでした。
hmtマガジンでは 【Tcj】地域自治区(合併特例)として取り上げた町[90173]だったのですね。

「C」は 1896年にイギリスで完成した戦艦富士を、スエズ運河経由で横須賀に回航した経歴を持つ海軍軍人。
海軍穏健派の長老として「大命降下」を受けて、2大政党連立による挙国一致内閣を編成。
高橋是清蔵相による積極財政を継続。軍部とも大きな対立を起こさず、1934年まで政権を維持。
後に内大臣を勤め、昭和天皇の信頼も得ていたようですが、これが二・二六事件(1936)を起した青年将校から天皇をたぶらかす重臣として狙われる原因になりました。

「B」は有名人です。彼の事績は [74935][85218][85227]などで触れています。

落書き帳では、「A」の記事は書いていないと思いますが、
B記念館から北へ200メートルほど進むと江戸時代後期の地理学者の誕生地跡ある。
と記された箕作省吾については、世界地理・地図関係で何か書いていたかもしれないと思いました。
過去記事を探ってみたが、残念ながら、過去記事見当たらず。
[96205] 2018年 6月 17日(日)14:17:18hmt さん
日本の地震とアイスランドとの関係
[96204]とは無関係ですが、アイスランドと言えば、ユーラシアプレートと北アメリカプレートとの境界である大西洋中央海嶺が地上に現れている場所として有名です。
落書き帳にも、火山関係の記事が多数あります。

それはさておき、ちょっと気になったのが [11702] start さん による古い記事。
以前「世界ふしぎ発見」で言っていた話ですが、世界の陸地はアイスランドから発して日本に向かっていくそうです。

これだけでは理解しにくいのですが、[11720] KMKZさんが大西洋中央海嶺に言及しています。
そして 2010年 [74254] hmtの記事の追記で、大西洋を舞台にした「日本の大地震」の研究 が紹介されていました。

北大の島村さんが書かれた記事によると、1983年に起きた日本海中部地震【男鹿半島沖の海域】の余震観測で、プレートの押し合いが始まっている疑いが強まっていたそうです。
そこに1993年の北海道南西沖地震。定説がなく、地震学者にとっても不意打ちでしたが、余震観測の結果、これもプレートの押し合いによる地震と判明。

そして、本州東北部・北海道・サハリンは北アメリカプレートに乗っており、これとユーラシアプレートとが関係する「2大プレート押し合いによる地震」という現在の説に至った。そういうことのようです。

リンクされたのページには北極の両側に及ぶプレート境界を示す地図【図1】が示されています。
図1の上方(アイスランド方面)で生み出されるプレートは、シベリア北東部にある「軸」よりも手前、サハリン・北海道・秋田付近では、2つのプレートを両側から押す沈み込み帯を形成していることがわかります。

大西洋を生み出し、アイスランドでは火山を噴出した「地球の割れ目」【図2】が、日本付近では「押し合い」という別タイプの地震を引き起こしている。

これが、[11702]の記事に記された「世界の陸地はアイスランドから発して日本に向かっていく」の真意であったと理解されます。
[96202] 2018年 6月 12日(火)23:01:30【1】hmt さん
シンガポール
米朝首脳会談で話題のシンガポール。全島1市・東京23区ほどの広さの「独立国」です。
ニュースで伝えられたように、日本とは1時間の差。標準時が UTC+8。
会場は南端の「セントーサ島」。落書き帳過去記事にも登場 [48354]小松原ラガー さん。

[79492]hmt でラッフルズ以後の歴史を少し書きました。
独自の立地にある貿易港でしたが、水道の原水でさえも輸入に頼らざるを得ない資源小国。

1965年マレーシアからの分離独立以後、リー・クアンユー(李光耀)首相の統率下、どのように生きてきたか。
注目に値する国です。

今日は予告編だけですが、別記事として書いてみたいと思っています。
[96192] 2018年 6月 8日(金)18:10:37【1】hmt さん
地図情報の更新
[96190] 稚拙さん
三江線廃止(2018/4/1)から2ヶ月経過していたのですか。
三江線は 100kmを越す長距離路線で、1975年の全通後でも 40年以上 運行されていました。
しかし、利用者は少数の短距離区間客で、鉄道の特性である拠点間の大量輸送を発揮するには、ほど遠い状態でした。

WEB地図の更新遅れに関しては、営業終了後の残存地物の可能性コメントがありました[96193]
いずれにせよ、大きな実害をもたらす問題ではないように思われます。

情報伝達技術が現在のように発達していない時代の地図の更新は、現在ではとても考えられないほど 遅れていました。
実例を思い出しので、昔の記事を一つ挙げておきます。

[67608] hmt
手元にあった昭和24年(1949)発行の1/25000地形図「上溝」。
これは行政区画資料修正により、戦時合併[37842]で生まれた 相模原町 の名前だけは辛うじて載っているのですが、1931/4/29【厚木-橋本間延伸】開業の相模線でさえ入っていないという、地物に関しては大正10年(1921)測図当時の状態を残しているシロモノです。

[94765] ekinenpyouさん に教えていただいた Stanfordの外邦図に収録されている 25000地形図の索引図
Sagamihara と記されている Sheet Number 17-10 を開くと、大正10年測図(陸地測量部)と記された「上溝」図幅が現れますが、発行日、定価などの記載がありません。
市販品とは別に内務省が調製した政府内部の資料と思われます。
右肩に「二万五千分一地形図八王子近傍十号(共14面)」と記されています。
「図番 17-10」とは、全国的には未整備で一部地域だけ作られていた当時の 25000図特有の 図番だったのですね。

現在は全国整備が済んでいる 旧版地図リストと対照すると、外邦図に収録されていた図は、【相模原町になる前の】1925/2/28発行 リスト番号76-11-4-1 に対応することが分かります。
hmt手元の 1949年発行の版[67608]は 76-11-4-3 でした。

このリストによると、25000地形図「上溝」の 1949年よりも後で、線路の位置が地図に書き込まれたと思われる「改測」が実施されていた版は、実に 1966年です。その地形図の発行は1967年10月(76-11-4-5)。相模線全列車の気動車化【併用は戦前から】とされる 1958年より ずっと後のことです。
地形図「上溝」に描いてもらえなかった「SL時代の相模線」。名称の使い回しに注目。
1921年:相模鉄道が茅ヶ崎-川寒川間で開業。相模川の砂利採取事業[41660]
1926年:倉見、厚木と北に延伸。同年、神中鉄道[28910]も厚木-二俣川間開業
1931年:相模鉄道が厚木-橋本間を延伸開業 
1943年:東急グループ内で、相模鉄道が神中鉄道を合併【相模線の名称は変化なし】
1944年:国有化により運輸通信省相模線となる【残った旧神中線が相模鉄道の社名を継承】
1949年:日本国有鉄道相模線となる

外邦図収録 Sheet Number 17-10「座間」を見れば、1927年新規開業の小田原急行鉄道に「昭和4年鉄道補入」とあります。【76-12-1-4鉄補】
同様に、鉄道開通がいかに軍事的に重要な情報であるからといっても、1931年厚木駅【注】から北への延伸開業をした相模鉄道についても、隠蔽工作などがなされたとは、到底思われません。

25000地形図の「改測」が戦後20年以上も行われずにいたとすると、その事情は何故か? 不思議です。
1949年の「資修」は鉄補でないことを確認していますが、ひょっとすると、1955年発行の 76-11-4-4「資修」で処理された可能性もあるのではないか?

【注】厚木駅[41660]
外邦図の「座間」図幅では、小田急河原口駅との交差点【現在の厚木駅】より少し北に、神中鉄道と相模鉄道との共用ターミナルである「厚木駅」が見えます。神中線が小田急ルート【下記】になり、相模線の旅客駅が河原口に移った後も貨物駅として使われ、混合列車が停車していました。
現在の相模鉄道が小田急と接続している海老名駅と連絡線とは、この地形図には まだ現れていません。
しかし、神中鉄道は 1941年からこのルートで相模川を越え、相模厚木駅【本厚木駅】への乗り入れを開始しました。
[96178] 2018年 6月 3日(日)16:02:45hmt さん
江戸川区菅原橋交差点の歴史
昨日のブラタモリ・下田で登場したのが、静岡県最南端の神子元島。[85781] hmt と同じ頃の記事に登場した北杜市須玉町若神子の「九差路もどき?」[85778]伊豆之国さん からの連想で、七差路コレクションを開いてみました。

江戸川区菅原橋交差点:「[26273]烏川碧碧さんからは「最大十叉路説」の情報提供」と記載されていました。

2004年のこの記事から14年も経ていることでもあり、新たに検索してみました。
その結果、江戸川区郷土資料室による「菅原橋交差点の成り立ち」という 解説シート(2014/10/21更新)が存在することを発見しました。

現在は 国道14号 千葉街道と呼ばれている古くからの幹線道路に存在する複雑な交差点。
菅原橋交差点は、都内でも珍しく右記【地図】のように道が交差する 11差路となっています。

江戸川区が示した【地図】は、マピオンに道路名などを書き込んだもので、国道の北東=千葉県方面(1番)から時計回りの番号を付与。
江戸川区資料には「11差路」と記されています。しかし、9番とは水路を隔てた南側にある8番の道路は、菅原橋交差点から外れていると思われます。これを除外すれば、[26273]の10差路ということになります。

1番 千葉街道NE     2番 旧上八幡道     3番 昭和初期頃の小路
4番 鹿骨街道SE     5番 仲井堀通りS     6番 同潤会通り
7番 千葉街道SW     8番・9番 小松境川親水公園沿いの街道
10番 鹿骨街道NW     11番 仲井堀通りN

文化2年(1805)の『葛西御場絵図』には、「元佐倉道中」(7番/1番)が中井堀を渡る「菅原橋」が描かれています。
橋名の由来となった菅原道真公を祀る天満宮【現在は本一色北野神社】は、『明治38年(1905)の地図』に描かれ、橋の北側から【葛飾の】新宿(にいじゅく)に至る中井堀沿いの道(11番)には、小松川道と記されています。
参考までに 葛飾新宿の更に北は、灌漑用水の水源である 水元・小合溜[82206]です。
この地形図には、菅原橋の東に上八幡道(2番)も記載されています。葛飾八幡宮(かつしかはちまんぐう)の所在地は市川市八幡4丁目ですが、地名の読みは「やわた」ですね。上八幡道も同じかな?

鹿骨街道(4番)の前身らしき道は明治38年の地形図にもありますが、その名は未登場。
鹿骨(ししぼね)は難読地名。この道が整備されたのは、新小岩駅開業後の昭和戦前期のようです。

6番の道路に名付けられた「同潤会」[83708]という言葉は、関東大震災後の被害を受けた後、東京の都市圏が拡大した 昭和戦前時代を象徴しているようですが、この道が菅原橋交差点に接続され、航空写真(1963)のような姿になったのは、戦後の昭和29年(1954)頃であったようだと記されています。
この航空写真では中井堀の南側が完全な水路で残されていますが、それが徐々に暗渠化されて、仲井堀通り(5番)になったのは、1970年代前半とのことです。
[96160] 2018年 6月 1日(金)19:04:21【1】hmt さん
賽の河原
[96080][96118]では、関西「カンサイ」という読みの例外として話題になった「カンセイ」を題材にして、「呉音から漢音へ」という順序で日本に導入された漢字の歴史を概観し、併せて発音において混乱しやすい「アイ」と「エイ」との関連についても触れました。

今回は、京都市右京区の「西院」という地名から始めます。
阪急京都線の西院駅。バス停名は座標方式の交差点「西大路四条」、住所は右京区西院高山寺町。

京都西院駅が新京阪鉄道の地上仮駅として開業したのは 1928/11/1でした。 [20843]太白さん
四条大宮の京阪京都駅まで開通した 1931/3/31 には地下の「西院駅」となり、”関西最初の地下鉄”と謳ったということである。[17211]般若堂そんぴん さん

これよりもずっと前の 1910/3/25に 神戸の川崎財閥により 嵐山電車軌道が開通しています。
これが京都電燈の経営になり、戦時中には 電力企業から分離されて、京福電気鉄道になりました(1942)。

夜の繁華街を持つ京都と繊維工場などを持つ福井県とは、以前から両者を結ぶ送電線によって電力需給バランスを図っていた筈です。
しかし、戦時体制による電力国家管理[28941][61349]は、思わぬところで「京福」という組み合わせの意義を表面化することになりました。

それはさておき、新京阪>阪急の駅名は普通の読み方「サイイン」なのに、先輩格の嵐電>京福の駅名は「西院」と書いて「サイ」と読みます。[33039]ありがたきさん、[33569]なかなかさん
これは、如何なる事情によるものか?

右京区西院高山寺町の由来である高山寺は 淳和天皇[27426][27454]の離宮でした。
御所の西にあるお寺だから「西院」で不思議はありません。
ところが…

[59769]伊豆之国 さん
京都市の「西院」の駅名の読み方が阪急(さいいん)と嵐電(さい)で異なることについて、昔見たテレビ番組で、「元は西院(さい)村と呼ばれ、『賽の河原』からきている、と言う。阪急が『さいいん』と読みを変えたのは、『賽の河原』では縁起が悪いからだ」ということを聞いたことがあります。果たしてこれは本当のことなのでしょうか、読者の中でこの事情がお分かりの方は教えてください。

落書き帳過去記事には、上記の問い掛けに対するレスが見当たらなかったので、調べてみたところ、偶々手元にあった柳田國男『先祖の話』68話「さいの川原」に出会いました。
終戦直前の執筆、1946年発行の粗悪な印刷物ですが、京都五三昧【注】の一つであった「佐比」という川原に由来するということが記されていました。
【注】京都五三昧とされる火葬場
あみだが峯、舟岡山、鳥部山、西院(さい)、竹田(中山)の5ヶ所とされる。出典
参考までに江戸五三昧は[71932]で登場しています。

京都の魔界伝説にも、
西院の地名の由来は、現在の佐井通りに該当する「道祖(さい)大路」に接していたので「さい」と呼ぶようになったと思われる。
と記されていました。

テレビ番組で紹介された「賽の河原」>西院(さい)村 という説は正しいように思われます。
現在の漢字に騙されて、「御所の西だから西院」と単純解釈してはいけなかったのですね。

現在まで伝えられる空也上人の『西院河原地蔵和讃』。
空也が不幸な子どもたちの供養した平安時代はもちろんのこと、柳田國男が『先祖の話』を残した敗戦前後の時代に比べても、私達が当然のように享受している栄養状態や医療環境は格段の進歩を遂げています。
恵まれた時代に生きることができるのを感謝しながら、賽の河原の不幸な子どもたちへの思いを馳せたのでした。

余談ですが、嵐電・西院駅付近にある電鐘。
[91964] 伊豆之国さん
現在進んでいる阪急西院駅の改良工事(中略) どうなるかが気になります…

2018/4/5のお知らせによると、電鐘のある踏切には表示灯が設置され、信号機と警報音だけではなく、歩行者の目線でも電車接近をわかりやすくなっている模様です。ご安心ください。
[96118] 2018年 5月 25日(金)20:12:53hmt さん
関西(かんせい)の読み方(2)スペインの雨
[96080]で記した「呉音から漢音へ」の続編です。
日本語全体の流れの要約
 5世紀から本格化した南朝呉音文化の導入>
 7世紀から直面した隋唐帝国の影響による初期漢音文化>>【宋音の伝来など中間は省略】
 江戸時代・明治時代を経て変質したが、現在も漢音文化が優勢。
但し、仏教用語を中心として 呉音文化も一部に根強く残る。

このような認識を踏まえて、数年前の発言に関係する「地域差」を考えてみました。
[76598] Issieさん
「西:セイ(漢音)/サイ(呉音)」では,「関西大学」と「関西学院」のペアーが有名です。どちらが「かんさい」で,どちらが「かんせい」か,“東夷”(あずまえびす)には区別できません。

関東育ちの hmtとしては、漢音を使った「SEIBU」ブランド[61836]に親しんできました。
しかし、九州には呉音読みの西部(サイブ)ガス【登記上の称号は西部瓦斯】があり、大手都市ガス4社の一角を占めていることを知りました。

このことから、地域による呉音・漢音の使用傾向の違いがあるかと思い、調べてみました。
市町村雑学によると、現存市町村について西の出現は31回ありますが、訓読みの「にし」が多数で、音読みは10件でした。
その中では、呉音「サイ」7市(印西市/湖西市/愛西市/加西市/西条市/西海市/西都市)に対して漢音「セイ」は筑西市・西予市の他に高知県安芸郡芸西(げいせい)村の3つだけ。
地域による違いについては、印旛郡/浜名湖の西にある市が「サイ」で、筑波山の西の市が「セイ」という調子であり、西国/東国の地域差は見出されないように思われます。

福島県西白河郡西郷村は「にしごう」と訓読みでした。
ついでに、NHKドラマのタイトル「西郷どん」の読みは「SEGODON」。

[43834]
明治5年5月の太政官布告で、「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」になり、通称か名乗かどちらかを一つだけを選んで戸籍に記すことになりました。西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人が間違えて父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。名乗がほとんど使われていなかったという現実を窺がわせる逸話です。

…というわけで、幕末には「吉之助どん」という呼び名が一般的でした。
名字で呼ぶ現在の習慣もまだなく、「SEGODON」と呼ばれたとすれば、それは没後のことか? 
この呼名がドラマ中に登場する機会があるとすれば、それは年末近くのことと推測します。

それはさておき、呉音のサイゴウどん から 漢音のセイゴーどん に変化し、更に セーゴーどん→セゴどん となる変化は、口の開閉が少なく、口語では起りやすい音韻変化と思われます。

呉音サイ→漢音セイ とは逆向きの変化ですが、エイ→アイ と変化する有名な例についても、言及しておきます。

バーナード・ショーの戯曲『Pygmalion』…と言うよりも、それをミュージカル化した『マイ・フェア・レディ』。
ロンドン東部の下層階級で育ったイライザに正しい英語の発音を教え込み、レディに仕立てようとする言語学者の ヒギンズ教授。
彼が教材として与えた 有名な「スペインの雨」には「エイ」の音が5回出てきます。

The rain in Spain stays mainly in the plain.

これをイライザがコックニー訛りで発音すると、「エイ」が「アイ」になってしまいます。
ザ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリー・イン・ザ・プライン

オーストラリアの英語にも、today→トゥダーイなど、同様の訛りがあるようですね。
ドイツ語では「ei」と書いて「アイ」と読みます。

呉音・漢音から出発しましたが、発音は時代と地域が異なれば変化するものである。
当然のことでしょうが、いろいろと調べてみて、改めてこのことを実感した次第です。
[96080] 2018年 5月 23日(水)19:02:53hmt さん
関西(かんせい)の読み方(1)呉音から漢音へ
1
思いがけず話題になった「関西」の読み方。
私も関係ありそうな話題を、思いつくままに 幾つか記してみます。

「関西」には「近畿」など類似する概念の用語もありますが、言うまでもなく「関西」は「関東」と対比される広域地名として認識されます。関西国際空港などの新しい用例もありますが、近畿より限定された範囲、例えば独自の歴史をもつ都市圏や風土などが背景にある地域という印象を受けます。

机上の『大辞林』により見出し語「かんさい」【関西】を確認。関西大学などの派生語も掲載されています。
ところが、「かんせい」を引くと、寛政・慣性など多数の言葉が出ますが「かんせい」【関西】は出ません。「かんせいがくいんだいがく」【関西学院大学】まで進み、ようやく単独項目で登場。

2
日本語における漢字の常識。「西」の読みは 漢音「セイ」 呉音「サイ」 訓読み「にし」。

この中で「訓読み」とされる「にし」は、「西」という漢字の意味する「やまとことば」。言わば翻訳です。

3
日本への本格的な漢字文化流入は「呉音」を通じて始まりました。
「西」という漢字と共に入ってきたのは「サイ」という「呉音」だったのです。

これは、統一帝国の隋・唐が華北に成立する前の「南北朝時代」に長江下流域の国から伝えられた読み方でした。
建康(建業)【南京】に都を置いた王朝は三国時代の呉を含めて6つあったので「六朝時代」とも呼びます。
呉音の「呉」は王朝名ではなく 地域名と理解してください。

5世紀に「倭の五王」と接触した本格的な記録を残しているのは、南朝の宋王朝でした。
【10-13世紀の北宋・南宋とは別です。】

『宋書倭国伝』 に記録された「倭王武の上表文」(478年)。百済などからの渡来人の専門家を雇っていたにせよ、この時代になると、日本も立派な漢文による外交文書を作成できる段階に達していたことを示しています。
日本国内でも、「呉音」という形で華南の言葉に親しむようになりました。

仏教が公式に日本に伝わった6世紀。この頃になると、衰微した南朝に代り、文化流入は百済経由となっています。
このようにして、日本への本格的中国文化流入は、内容的には仏教が中心になりましたが、媒体としてはそれ以前と同様に「呉音」を媒体として行なわれました。

4
ここで、日本を取り巻く国際情勢が一変します。
中国が 長い分裂時代を脱して、華北に統一帝国の隋・唐が成立したのです。
日本からも推古朝の遣隋使(607)を経て、遣唐使(630-)によって直接外交関係を結ぶことになりました。

これまで「呉音」によって漢字文化に接してきた日本も、長安を首都とする統一中国帝国が「正統的な読み方」としている「漢音」と向き合うことになります。

長安【西安】がある渭水盆地は、秦・前漢の時代にも帝国の首都であり、「関中」と呼ばれる地域です。
「関西学院」から始めたこの記事として見過ごせない地名。東の函谷関と西の隴関との中間にある平野部。

5
さて、「西」という漢字を「セイ」と読む「漢音」について。

百済と組んで唐に反抗した白村江の戦(663)。それでも どうにか 生き残ることができた敗戦日本。

そして 百済滅亡の結果、百済の人々が逃れて多数来日。日本の「漢音文化」に貢献することになりました。
『日本書紀』(720)は、初期の「漢音文化」が日本にもたらした代表的成果と思われます。

しかし、遣唐使が学んだ「漢音」は、正統的中国語の発音に拘っており、日常語として定着していた「呉音」を完全に置き換えるものではなかったようです。

現代語として普及している「漢音」には、江戸時代の研究に基づく日本語音としての漢音や、明治の文明開化時代の必要から生れた和製漢語などの成果が盛り込まれ、初期のものから変質しているようです。

6
冒頭に記したように、大辞林では「かんせい【関西】」が見出し語になっていませんでした。

どうやら、現代日本語において 「かんせい」という読みは「固有名詞の一部」として存続しているが、広域地名としての“かんせい【関西】”という「漢音読み」は 事実上消滅している。
このように受け止めました。

ところが、大修館新漢和辞典の【関西】を見たら、読みが「カンセイ/カンサイ」と漢音優位で、「1 函谷関よりも西の地…」という説明文が付されていました。さすが、漢和辞典。

7
落書き帳過去記事における「関西 かんせい」の使用例を調べたところ、結果は僅かに4件でした。

関西学院大学の前身は 1889年設立。当時の日本では、東京を「とうけい」というように漢音読みにすることが多く【[75459]参照】、「かんせい」学院と読む校名も、このような歴史によるものと説明されています。出典

落書き帳に現れている他の事例である国有化前の 関西(かんせい)鉄道[61246]も、まさに漢音読み全盛であった同時代に誕生した社名です。急行用の「早風」、短距離用の「池月」など、優雅な形式名称の蒸気機関車に付けられていた「KANSEI」の社名を、写真で見た記憶があります。

8
「呉」と「漢」とは王朝名ではなく、中国の地域名と理解してください。
「呉」は長江下流域の水田地帯、「漢」は黄河中流域の畑作地帯というイメージで、「南船北馬」という四字熟語で知られているような異なる風土に、それぞれの文化が育まれてきました。
中国の南部と北部にある二つの地域の中で、気候に恵まれた華南と遊牧民族からの脅威と刺激を受けやすい華北。
歴史は華北に生れた強い王朝が覇権を握り、それが衰えて外敵を防ぎきれなくなると南部に避難して文化を守る。
そのようなパターンを繰り返しているようです。

9
参考までに、呉音から漢音へというページを紹介しておきます。
多数の文字について、呉音と漢音の違いの具体例が示されており、参考になります。
[95754] 2018年 5月 8日(火)17:01:15【1】hmt さん
Re:歩いて行ける!「三県境」
落書き帳で取り上げられたテーマの一つである都道府県境。私も関心を持ち、hmtマガジンを作っています。

落書き帳オフ会関連でも 2008年【青森/秋田県境確定記念】、2009年【岡山/香川県境・石島/井島の探検】、2010年【栃木/群馬/埼玉三県境訪問】と続いた過去があります。そして 2016年は【熊本/大分 県境の宿】。

そこで、今回 久しぶりに復活した「三県境」の話題にも反応して、「明治前期の毛武三国境付近の地図」を紹介することにします。

本題の前に、futsunoおじ さんがまとめた 全国の県境の基礎データを紹介しておきます。
2004年:三県境(その1)(その2)
2010年:三県境点のまとめ[第7回オフ会記念版](その1)(その2)
いずれも、hmtマガジン・都道府県境に収録してあります。

地名コレクションにも 同じく futsunoおじさんによる 大作・『県境の交通路』があります。
その 附録:三県境点 には番号が付与され、Mapionへの地図リンクがあります。
栃木/群馬/埼玉三県境は 11番です。地図11

なお、hmtマガジンには 特集渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域があり、「鶴の嘴の先端」[76876]に位置する「THE 三県境」を対象とする記事も多数収録しています。
筑波山オフ会2010 翌日の探訪ルートは、グリグリさんの作品です。

前置きが長くなりましたが、「栃木/群馬/埼玉 三県境」の前身は、言うまでもなく「下野/上野/武蔵 三国境」、つまり毛武三国境【2つの毛野国(両毛)と武蔵国】です。

本題である 毛武三国境の地図に入ります。
リンク先は、明治前期(●明治10年代)に作成された「迅速測図」【[65097]参照、フランス式彩色の施された原図】に基いて 独立行政法人・農業環境技術研究所が作成した 歴史的農業環境閲覧システム[65091]です。

地図の位置情報は、地理院地図の「THE 三県境点」の値を利用しています。
zoom値も揃えたので、昔の川の流路と 現代の県境 とを 同じ縮尺で対比することができます。

明治の地図で北東部・下野国と西部・上野国との境界は、基本的に渡良瀬川の線です。それは[95752]で引用された群馬県板倉町のページにあるように、「海老瀬の七曲り」と呼ばれた曲流部で、1910年の大洪水後の工事により新河道に改修(1918)されました。

現在はコンクリートで固められた渡良瀬貯水池(谷中湖)によりすっかり様子が変っていますが、「七曲り」の痕跡は現代の地図で谷中湖西岸の県境線に示されています。「海老瀬」の地名は谷中湖西北端にも見えますが、鶴の嘴の先端をクリックしても、「板倉町大字海老瀬」の名が現れます。

明治の地図で海老瀬の七曲りに戻ると、川の中央に境界線が通っており、大きな曲流の左岸(東側)に下都賀郡下宮村と記されています。その左、「17,36」と記された地点が、地理院地図で「大字海老瀬」を確認した鶴の嘴の先端です。

この地点で西から合流する川の中央にも境界線が引かれています。これが西側の上野国と南側の武蔵国との国境線ですが、これを遡ると境界線は西から来る川【現・谷田川】に入らず、【旧合ノ川を遡り】南の利根川に入っています。

川俣での「会の川締切り」(1594)以後、「新川通開削」(1621)までの間、上記の旧「合の川」は利根川の主流格の存在であったと思われ、これが上武国境となり、ひいては群馬埼玉県境に引き継がれたものと考えています。[77081]

このように、明治前期の地図では広域地名は「県名」でなく、「国名」が使われています。

私は hmtマガジン 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探るの前書きで
明治19年式戸籍の書式[62667]に使用例がありますが、「府県」が地名化した決定打は、明治32年の改正府県制ではないかと思われます。
と書きました。

この法改正により、「府県」は「国の出先機関」である 単なる「行政機構」から脱皮して、(首長はまだ官選でしたが)直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具えた「自治体」の性格を強め、地理的にも「○○県」と呼ばれるに足る独自の領域を確保するに至ったのではないでしょうか[62889]

毛武三国境から「三県境」への変化。それは 20世紀になり、明治も遠くなってきた時代と思われます。
このサイトの主テーマである明治以降の地方制度。
同じ「県」という名で呼ばれていても、制度が変れば実体が変る。
「三県境」の話題から明治の地図と現代の地図とを対比しつつ、時代の変化は避けられないことを実感した hmtでした。
[95744] 2018年 5月 5日(土)14:15:45hmt さん
水戸
[95743] 白桃さん の問い合わせに関連し、グリグリさんの手間を少し省く目的で、調査してみました。
落書き帳の過去記事から得られた情報だけですが、メモしておきます。

出典:明治22年3月31日施行の茨城県町村区域名称
[76874] むっくんさん 「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」にリンクされた『茨城県令達類纂、上』収載の 県令甲第十二号による

【23コマ】東茨城郡水戸 旧町村欄に 水戸上市、水戸下市、常磐村の内【数個の字を列挙】、【以下3村の内が列挙されているが引用省略】

【24コマ】東茨城郡常磐村 旧町村欄に常磐村(の内)【数個の字を列挙】

【25コマ】東茨城郡(の末尾) ○大貫町 【旧町村欄は空白】
ここに記された東茨城郡大貫町と、変遷情報詳細に記録されている 大貫村 との関係など、私には理解不能です。
とりあえず調査結果だけを報告しておきます。
[95696] 2018年 4月 18日(水)11:25:43hmt さん
このままでは、「丹波」ブランドを丹波市に独占されてしまう!
[95695] 稚拙 さん には「ヤフーのサイトをリンクするのもなんなので」とありましたが、昨日配信のYahoo!ニュース を見ると、篠山市が抱いている危機感【この記事のタイトル】>「丹波篠山」への市名変更意欲 がよくわかります。

----------(記事抜粋)----------
かつては、兵庫県と京都府にまたがって丹波国が存在していました。
時代が変わった今でも「丹波栗」や「丹波黒豆」など丹波の冠がついた特産品が販売されていて、日本全国に通じるブランドとなっているのです。 
ところが、この丹波を使うことである問題が。
実は、2004年篠山市の隣に丹波市が誕生しました。
ふるさと納税では篠山市も丹波市も「丹波ブランド」の食材を返礼品にしていますが、名前のややこしさが原因なのか、篠山市への納税額は、丹波市の半分以下だということです。
「このままでは丹波ブランドが奪われる」と危機感を募らせた地元の商工会などは、市名を「丹波篠山市」に変更するよう市に要望書を提出。
4月17日に篠山市から発表された 市名変更に伴う影響などの調査結果
丹波篠山のブランド低下による経済的損失が23億3000万円、市名変更による経済の波及効果額が28億7000万円以上  合わせて52億円以上の経済効果
----------(記事抜粋終)----------

神戸新聞記事にあった「現在の混乱状態が続くと、丹波篠山産の優位性が低下し」に関して
何がどうして「混乱状態」なのか、今ひとつ記事からはわかりにくいです。

千年以上も使われてきた広域地名「丹波」に基づくブランドが、21世紀に誕生した「丹波市」に起因する限定解釈を引き起こしている現状。
これを「このままでは丹波ブランドが奪われる」と感じて「混乱状態」と表現した篠山市の気持ち。
私にはよく理解できます。

本来は広域地名である旧国名。これを、一部の地域を表す市名として独占・僭称した事例。
楠原祐介『こうして新地名は誕生した!』(ベスト新書2008)第4章 大増殖した「旧国名僭称」型新市名 にまとめられています。

丹波篠山市への改名問題についての過去記事 もご覧ください。
[95690] 2018年 4月 16日(月)11:42:08hmt さん
Re:白桃@in東北スーパータウン
毎年、春になると一目千本桜を見に千葉県浦安市から飛んでくる
と紹介された渡り鳥でも、気象の変化を読みきれず、渡りの時を間違える結果になってしまったのですね。

平成30年一目千本桜開花状況によると、今年の満開は4月5日から8日でしたが、4月12日午後からの強風で一気に散ってしまったとあります。

過去10年間の開花状況と比較すると、開花日 3/31、満開日 4/5、散り始め 4/9の何れについても、最も早い日付が記録されたようです。
[95633] 2018年 4月 1日(日)17:31:21hmt さん
呉市の変遷履歴

この記事は、[94959]白桃さん へのレスとして1月に書き始めたのですが、未投稿のまま4月になっていました。
しかし、今日 [95629]に記された下記の一言に刺激され、投稿することにしました。
これだと「呉町」が隠れてしまい

私が書きたかったのは、明治21年の法律に基づく「市制施行地・呉町」の存在についての記事です。
長いイントロが付いていますが、本論は5です。
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[94958] むっくんさんによる 衝撃的な記事「呉町は存在しなかった」がありました。

この問題に関心を持っていたのは、落書き帳メンバーの中でも一部だけだと思われますが、当サイトの重要な資産である市区町村変遷情報に深く関わっていることでもあり、この機会に過去の経緯を含めて少しまとめてみました。

最初に、呉市の変遷関係関係する過去記事集とを示しておきます。

【お断り】
「市区町村の変遷」ページは「市区町村変遷情報」のデータからの自動作成を目指していますが[95583]、工事中の現在はそれが実現していません。上記リンクによって現在表示される「呉市の変遷」も、おそらく昨年の変遷情報に基づくものでしょうが、今回の記事の説明としては かえって好都合なので、そのまま使わせてもらいます。

「呉市の変遷」には平成合併で編入された安芸灘諸島に属する島々に関する情報が多数含まれ、膨大なものになっています。しかし 今回の話題に関係するのは、1902年の画面 赤文字の呉町【新設合併】と緑背景の呉市【市制】との2行だけです。

両者の日付は1ヶ月ずれていますが、実は両方共 1902/10/1であり、事実上
呉町は存在しなかった
それ故、「新設/市制」という1行として記載されるべきである。
これが[94958]の要旨でした。
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市制施行日については明治35年内務省告示に明記されており、最初から1902/10/1に異論なし。
そして、呉市のサイトにも4町村が合併して呉市誕生と記されていたので、これを信用した変遷情報も、2010年9月迄は、「新設/市制」1行の記載になっていました。

話を面倒にした張本人は hmtの[74500]でした。
統計局の 郡市町村廃置分合一覧表を見ていたら、偶然にも「4町村→呉町 明治35年9月1日実施」という廃置分合記録を発見し、1ヶ月だけ「呉町」が存在したのではないかと?という疑問が出てしまったのです。

約半年後の[76230]で88さんの検討結果が出て、1902年9月の合併、10月の市制という「二段階で間違いないと判断」され、変遷情報は修正されました。

前記過去記事集の冒頭に掲げた Issieさんの記事[123]にも記されているように、市の設置については 戦前の制度下でも内務省告示があったものの、町村の廃置分合については 全国的な情報入手に困難がありました。

呉市の場合について言えば、市制自体に関する情報である内務省告示M35-63号[62661]55番は、ndl官報を閲覧することもでき、また呉市の例規集にも収録されています。落書き帳では[74518]の末尾に告示原文が引用されています。今回の資料『呉市史』では 85コマ。
明治21年法律第1号市制第126条ニ依リ広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定シ明治35年10月1日ヨリ市制ヲ施行ス

ところが、明治時代 広島県内の町村合併情報が収録されていると思われる 広島県報となると、アクセスはぐっと困難です。

そこで二次資料で代用することにして 頼りにしたのが 前記統計局資料でしたが、この段階で見落とされたのが 呉町の発足日検証 であったようです。

なお、変遷情報が「1ヶ月だけ存在した呉町」に修正された2010年[76230]の翌年にも、「1ヶ月の呉町はあったのかしら」と植物的カンによる疑いの目で見ていた白桃さんの記事が記録されていました[79512]
統計局の資料の間違いは過去にもあったのですが、本件については疑うことを すっかり忘れていました。
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「呉町は存在しなかった」と題する[94958]で紹介された『呉市史』には、市制実施の準備と題した節があり、詳細な説明がなされています。その中から注目すべき記載を抜粋します。

4.1 広島県安芸郡長より関係町村役場への訓令
 本郡荘山田村 和庄町 宮原村 二川町を廃し其区域を以て呉市とし市制を施行せんとするに付 本月【M35/6】23日迄に其町村会の意見を徴し差出すべし【→各町村から異議なしの答申】

4.2 明治35年広島県告示第305号【落書き帳初出の重要な変遷情報】
 本年10月1日より安芸郡和庄町 荘山田村 宮原村 二川町を廃し其区域を以て呉町を置く
 明治35年9月2日  広島県知事 江木千之

4.3 (説明文、便宜上 文頭にabcを挿入)
 a 斯くて市制施行の希望は保証せられたり b 既に4ヶ町村は統一せられて呉町となれり c 呉町の出現は即ち市制施行に必要なる前提たり d 何となれば個々の独立せる町村が直に一躍して市となるは手続上之を許さざるのみならず自治体進歩の順序にも循わざればなり e 既に4ヶ町村が1町に統合せられたる以上は其の財産の処分を為さざるべからず【以下略】

この説明文を見ると、6月の郡長訓令(4.1)では4町→呉市と1段階だった合併が、9月の広島県告示(4.2)によって呉町を経由する2段階方式へと変化し、この間の事情を説明したものが 4.3の説明文であると理解できます。

4.4 明治35年内務省告示第63号 番号は[62661]、条文は[74518]の末尾等に既出
 明治21年法律第1号市制第126条に依り広島県安芸郡呉町を市制施行地に指定し 明治35年10月1日より市制を施行す
 明治35年9月1日  内務大臣 内海忠勝【[74518][94958]の内野は誤記】
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ようやく、この記事の本論である「市制施行地・呉町」に入ります。
「市制施行地」という言葉は、旧・市制【注】という法律の 第七章附則 第126条に基づく用語です。
第126条 此の法律は明治22年4月1日より地方の状況を裁酌し府県知事の具申に依り内務大臣指定する地に之を施行す

【注】旧・市制とその残影
「市制」と「町村制」との2つの部分から成る明治21年法律第1号の一部であり、明治44年全面改正後の 明治44年法律第68号「市制」と区別して「旧・市制」と通称する。

「旧・市制」時代に誕生した市は[62661]にリストアップされている。
64番目の新潟県高田市【現・上越市】誕生後の 1911/10/1に明治44年改正「市制」が施行され、「市制施行地」という法律上の概念はなくなった。
しかし、住所表記は現在でも「市部・郡部」で区別され、国勢調査にも残存している。

それはさておき、[62661]に挙げられた64市の内、63市は「単独市制」です。
唯一の例外はどこか? それが「呉市」だったのですね。

「新設合併/市制」という現代では普通に思われるパターンに最初に挑戦したのが呉地区でした(4.1)。
ところが、内務大臣の指定による「市制施行地」を前提とする当時の法律(旧・市制)は、必ずしもこれに合うものではありませんでした。
明治35年よりも少し前、明治31年末のデータになりますが、安芸郡和庄町の現住人口は21553人でした。近隣の町村との合併後は市の基準値2万5千に合わせるとしても、これでは合併前に「市制施行地」になれない。

苦し紛れに繰り出した一手が、合併→即日市制という「瞬間の呉町」を市制施行地として認めてもらうこと。
これが成功した結果を示すのが明治35年内務省告示第63号(4.4)であったのでした。

「呉町は存在しなかった」などと冷たくあしらうのではなく、(技能賞か敢闘賞かはともかく)呉市実現への努力を讃え、「市制施行地・呉町」が公認されていた事実を 変遷情報にも記録してほしい。これが私の感想でした。

一見しただけでは「呉町」が無視され、1段階の「新設/市制」に見える変遷履歴情報一覧表。hmtも白桃さんが声を挙げた[95629]に同感できます。
それは ともかくとして、変遷情報詳細まで見れば、「呉町設置」や「広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定」の告示が きちんと示されていました。
hmtとしては、このことを確認して一安心しました。
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蛇足ですが、「市制施行地」制度が廃止された明治44年改正法の下で、正式に誕生した「新設合併/市制」の最初の事例は1916年の尼崎市でした。
そして、1921年になると山口県厚狭郡宇部村の単独市制による宇部市が誕生します。
時代と共に増殖する「市」は、『呉市史』の説明文(4.3d)が記された「旧・市制時代の市」とは確実に変ってきたことを感じます。
[95556] 2018年 3月 18日(日)13:13:53hmt さん
浮間舟渡
[95554] 特急とりあたま さん
東京都板橋区舟渡/埼玉県川口市舟渡町

この記事を最初に見た時に、私は板橋区舟渡の対岸に舟渡町という地名があるものと誤解して、
「埼玉県舟渡の一部が東京都になった由来……それは 1950年に荒川を舟で渡ったからなのです。」
というレスを書き始めてしまいました。
ところがリンク地図を見ると、新荒川大橋付近の地名は 川口市「舟戸町」であることが判明し、この冗談は不成立。

文字違いのことはさておき、例えば[90145]を見ると、1950/4/1に、埼玉県戸田町舟渡が東京都板橋区に移ったことが記録されています。[79523]には地名「舟渡」は記されていませんが、1番に記された総理府告示による境界変更です。
「舟渡」という地名は、河川改修により 都県境の荒川を越えた結果 なので、立派な「自治体越えの地名」と思われたが、そもそも埼玉県側に「舟渡」が残っていなければ話になりません。

参考までに舟渡の記事集  誤記で「船渡」となっていた記事もあります。

「都道府県市区町村」サイトとしては、自治体越え地名集めもさることながら、変遷情報の充実が大切です。
とんだ失敗の副産物ですが、[90145]を再読した機会に 改めて気になった点を記しておきます。

1 舟渡に隣接する地域名を「浮間」に訂正【[90145]の表】
舟渡の下流側隣接地も、舟渡の境界変更より前 1926/10/1 に 埼玉県から東京府に境界変更されました。
その地域名ですが、当時の北豊島郡「岩淵」町よりも、現在の北区町名でもある「浮間」とするのが適切と思われます。
浮間の地名は 変遷情報詳細に記されており、[36159][65713][79661]などで使っています。

2 「浮間」に隣接する「舟渡」の境界変更が変遷情報未収録となっていることも気になります。
埼京線浮間舟渡駅が設けられている現在では、北区と板橋区に跨る両地域は一体的に理解されているようです。
人口異動289人は前小屋【収録済】の2倍以上の規模。[90145]末尾の【注】に記した「入飛駒」だけでなく、できるだけ変遷情報収録範囲を広げてほしい。ご検討をお願いします。>グリグリさん
[95543] 2018年 3月 15日(木)19:43:25hmt さん
北緯35度
[95542] リトルさん
大津駅の「北緯35度モニュメント」

地理院地図で確認してみたら、現在の北緯35度線は大津駅の南方を通っていました。
言うまでもなく、2002年に世界測地系に移行した結果です。[45617]

北緯35度に位置する最も有名な都市は京都です。
日本測地系時代の地勢図では 中央の北緯35度線が四条通の上に描かれていました。
現在は四条通と五条通=国道1号、9号との中間です。

南房総市が設置した「北緯35度最東端」の 標識 がありました。

北緯35度から少し広げますが、参考までに 経緯度時刻に関する過去記事を拾っておきます。
[95531] 2018年 3月 11日(日)15:48:04【1】hmt さん
「3・11」 と 「3・10」
「3・11」と言えば、2011/3/11に発生した 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震。[77760][77767][77775]など。
12都道県での死者1万5,859人,行方不明者3,021人。出典
大規模な地震と津波という天災だけでなく、それに起因する原子力発電所の事故に伴う人災により、その影響が長期化したことは報道されている通りです。

日付が1日だけ早い「3・10」は 1945/3/10の 東京下町大空襲。
落書き帳には記事を書いていませんでしたが、戦争という人の行為に基づく「人災」です。
参考 2017/8/13放送のドキュメンタリー 左から3人目が、空襲を指揮したカーチス・ルメイ[43161]です。

空襲は戦争中全国の都市に及び、東京だけでも何回も繰り返されました。
しかし、1945/3/10の焼夷弾攻撃による約10万人という死者数は、特筆に値する人数でした。
1945/5/25の 山の手大空襲 も甚大な被害を及ぼしました。宮城【皇居の呼び名です。読みは きゅうじょう】や新聞社が焼け落ち、「共同新聞」が発行されたことが記憶に残っています。しかし、こと死者数に関する限りは、下町大空襲より ずっと少数でした。

都道府県別の空襲被害死者数を見ると、原子爆弾攻撃を受けた広島・長崎と並んで、東京が抜群のトップ3に入っています。これは3月10日【注】の空襲が、「通常兵器」であっても、核兵器に匹敵する大きな力を発揮する場合があった ことを示しています。
【注】偶然にも、1905/3/10に奉天大会戦[59385]が行なわれた陸軍記念日でした。

それはさておき、別の「3・11」に関するお話。
神奈川県津久井郡城山町と藤野町とは、2007/3/11に相模原市に編入されました。変遷情報詳細
これにより津久井郡は自然消滅。

平成合併の時代には郡の自然消滅など珍しくないこと。何を今更?

でも「津久井」は 落書き帳では有名な地名です。[86752]
元禄4年(1991)には 津久井領から 「津久井県」という名になりました[41805]
これは近世唯一の「県」として明治3年まで存続[1196]太政官布告M3-131

hmtは、出身地だった津久井郡の命日?を偲ぶために、マガジン津久井マガジン相模川とを新設しました。
その他、マガジン海と島の記事も追加。

結局のところ、書きたかったのはマガジンの「お知らせ」だったのでした。
[95530] 2018年 3月 11日(日)12:23:10hmt さん
海と島(30)石狩湾挽歌
[95528] 白桃 さん 後志挽歌
この曲は「後志挽歌」とすべきではないか・・・
小樽の前にある海は石狩湾なので、それでいいじゃないの、幸せならば…。

ニシン漁で賑わった海…と言っても、作詞者・なかにし礼 の少年時代、小樽に住んだ頃よりも前の時代の海。
それを偲ぶ歌なのでしょう。

海がテーマなのだから、地理的な立場からすれば 「石狩湾挽歌」 が適切でしょう。

「石狩」という地名から連想するのは平野の中を蛇行する大河です。
松浦武四郎の命名した「後志」に至っては後方羊蹄山に由来する「陸の地名」です。

それはさておき、Webを探っていたら、歌詞にある「沖を通るは 笠戸丸」に着目した ページ がありました。

移民船や豪華客船としての笠戸丸の存在は、私も辛うじて知っていた程度。
偶々出会った今回のページで、帝政ロシア時代の病院船>旅順港で接収され呉軍港所属になる。
船名の由来は山口県の笠戸島。移民船・豪華客船・台湾航路などの時代を経て、昭和になってからは北方漁場に出漁。
第二次大戦末期にソ連軍に接収され爆沈。…数奇な一生の船でした。

なかにし礼が満州から小樽に引き揚げてきたのは8歳の時で、笠戸丸は既に存在せず。
それでも、成人していた兄が一攫千金を狙ったニシン漁が存在した時代でした。
大きな賭けが成功かと思われたが、輸送中に船が沈没。一家離散という結末でした。

歌のことなど知らないのですが、笠戸を含めて、地名にまつわる雑多なことを書き連ねてしまいました。
[95525] 2018年 3月 8日(木)21:05:01【1】hmt さん
組合村のデータ
【冒頭ですが 追記】
この記事を投稿した後で[95514]ekinenpyouさんの記事をを読み返し、自治年鑑1948に関する次の注意書きの存在に気づきました。
組合町村名が少々わかりづらい箇所があり(福島県など)補完としてこちらなども参照のこと

参照用にリンクされていたのは 1949年発行の「全国市町村便覧」であり、表記は異なるが 神奈川県足柄下郡蘆湯(アシノユ)村 の部分に
箱根町、元箱根村と組合村役場位置箱根町
であることが明記されていました。

注意書きに気づかず、自治年鑑の記載不備を中心に長々と記す結果になってしまいました。
hmtの記事内容は、直接に訂正を必要とするわけではないと考え、そのまま残しておきます。
しかし、投稿時に考えていたほどの価値がある指摘ではなかったようです。
ekinenpyouさん、むっくんさん、読者の皆さんにお詫びします。【追記終】

【以下本文】
町村事務組合。市町村が広域した現在では、消防や廃棄物処理など限られた分野で使われるのが常識になっています。
しかし、1889(M22)年の町村制施行当時は、弱小の村が多く、事情が異なりました。

埼玉県の例を拾うと、現在白岡市の一部になっている地域に南埼玉郡日勝村という村がありました。1895(M28)に前身9ヶ村【1889年発足】の 合併によって成立した村です。

余談ですが、合併日は 日清戦争 講和条約【注】会議の直前であり、村名には「日本の勝利」が高らかに付けられています。
【注】 現在では「下関条約」が普通ですが、当時の地名は「赤間関市」でした。地名の通称により「馬関条約」の呼び名もあります。

それはさておき、9ヶ村合併後でも面積 12km2弱、人口約 4000人という農村地域です。
経済データなどなくても、役場・学校その他の地域役務を行う資金が潤沢にあるわけがない。
必然的に近隣の9ヶ村による共同事業ということになった。その結果が「組合村」。

こうして発生した組合村が合併により統合され、更に戦時合併、戦後の教育改革による中学校新設に伴う課題解決、など種々の要請がからみ、昭和大合併に至りました。

昭和大合併による自治体規模拡大によって ほぼ全滅するまで ある程度利用されていた「組合村役場制度」。
市町村の歴史に関心を持つメンバーとして、その実態を知りたい。
かねて抱いていたこの思いですが、落書き帳に取り上げられないまま、現在に至りました。

古くは[39940]ひげねこ さんの記事がありましたが、フォロー記事が続かず。

しかし、最近になって [95463]の末尾の1行を きっかけとして、むっくんさん・ekinenpyouさんによる 解説・調査が行なわれ、知識を深めることができました[95495]

その後、具体的な材料として、自治年鑑(1948年版)の町村長氏名における組合表示の存在が示され[95514]、これに基いて [95517]では戦前・戦後における府県別一覧表を示していただきました。

ここまで具体的なデータを見せていただいた結果、私の目についたのが次の1行です。
神奈川県 足柄下郡 【S21】箱根町, 元箱根村, 芦之湯村 【自治年鑑1948】箱根町のみ記載

「芦之湯村」から hmtが思い出したのが「直接民主制」「町村総会」というキーワードであり、[35747][35748][65174][92819][92835][92877]などの記事でした。

芦之湯村が1950年代まで存在していたことは知っていました。人口が極めて少ないこの村が組合村から外れ、独立していた筈はない。自治年鑑1948の記載に不備な点が存在するようだ。このことに気がつきました。

芦之湯村消滅時期だけならば変遷情報で確認するのが簡単ですが、折角なので YTさんの表[84549]を使って 1950年国勢調査人口を確認したところ 120人。箱根町826人、元箱根村1050人でした。
国勢調査人口表には組合関係が示されていませんが、1954/1/1合併の前まで存在していた元箱根村と芦之湯村(の村長名)を欠く自治年鑑1948の記載は、不備であることが確かです。神奈川県足柄下郡では、真鶴町組合の首長名についても同様です。

同じ手法で、多数の組合村データが記された自治年鑑1948の福島県【59-61コマ】も調べたところ、[95517]で「○○村のみ記載」と指摘された例は、箱根町の場合と類似不備多数(…のおそれ)。
石城郡澤渡三阪村のように、組合でなく連称表示にしている例もある。なお、沢渡村と三阪村は1955年まで存続し永戸村と共に三和村を新設。永戸村と組合だった箕輪村は同時に分村消滅。
石城郡小川村も、国勢調査や変遷情報の上下2村が正しいようです。勝手に作った村?

一々挙げると長くなるのでこのくらいにしますが、自治年鑑1948のデータは有用な情報が含まれている反面、国勢調査や変遷情報と矛盾する点もあるようです。
まるごと信用することはできない。そのように評価しました。
[95508] 2018年 3月 1日(木)18:45:44【1】hmt さん
一音地名コレクションに関する提案
[95502] そらみつ さん
地名コレクションは完成させるためのものではなく、収集して楽しむものだということを忘れていました。
「浜」コレクションと「一音地名」コレクションをお受けしたいです。

早速 就任決定[95506]とのこと。おめでとうございます。

この機会に、久しぶりに 一音地名コレクション を訪問しての感想です。

冒頭の説明文末尾には、一音地名集めの きっかけとなった過去記事 2件が記されています。
このような関連情報も、コレクションを編集し、読者に提供する上で大切なものと思います。

…というわけで、編集の際に、都道府県市区町村サイト内に下記のような関連情報の存在も、リンクにより提示しておくことが好ましいのではないかと思います。
検討をお願いします。

1 市区町村雑学 に収録されている 短い読み・長い読みの市区町村
 この中に「読みが一文字の市町村(五十音順)」があります。
 津市以外は過去帳入りしていますが 市制町村制施行以後だけでも 19件が収録されています。
 コレクション収録済みの一音地名の中には、1889年施行時前の旧村も含まれていると思われます。
 変遷情報検索の対象を履歴情報に拡大することにより、ある程度は旧村由来が解明されるでしょう。
 

2 落書き帳アーカイブズ 漢字・読みともに一文字の地名
 前記2件を含め、31件の記事が収録されています。

【追記】
一音地名ではありませんが、市町村雑学の類似テーマとして、一文字地名あいうえお [94018]がありましたね。
一音地名の一部は、こちらにも収録されていました。
[95490] 2018年 2月 26日(月)18:42:27【2】hmt さん
Re:面積データの更新
[95488] グリグリ さん
2016年10月1日面積から増減があった市区町村は以下の通りです。都道府県の増減はこちらをごらんください。

1km2以上の増減は東京都と長崎県のみ。長崎県の -1.32km2は、大部分が対馬市でしたが、詳細は不明。

2.96km2増加した東京都は、落書き帳の過去記事にも関係ありそうなアイテムなので、少し補足してみました。

1 特別区部 +0.78km2
落書き帳過去記事の話題対象としては、江東区と大田区との間で争われている「中央防波堤埋立地帰属問題」がありますが、[93551][94347]で紹介されているように未決着であり、今回の面積調とは無関係です。面積も、5.09km2よりもずっと小さい値です。面積調によると、新たに生じた土地。H28/10/7 東京都告示1695号。

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面積調から離れますが、この機会に、中央防波堤埋立地帰属問題のその後の情報です。

東京都臨海部の人工島「中央防波堤埋立地」の帰属問題で、大田区は【2017年10月】30日、同様に全島帰属を主張していた江東区を相手取り、境界画定を求めて東京地裁に提訴した(毎日日経)。

財政については調整制度があり、埋立地の所属が何れの区でも、固定資産税は東京都の財源とされるようです。
しかし、東京オリンピック2020の会場にもなる埋立地の帰属は、区のブランドイメージを世界に対して高めます。

それだけでなく、中央防波堤埋立地ので引かれる線引きは、その南側に造成している 新海面処分場 の帰属にも影響すると考えられています。参考


現在 唯一の公共交通機関は、りんかい線の東京テレポート駅前(江東区)発着の都営バスです。
大田区側から通じる道は海底トンネルだけです。その道は 2012年に 東京ゲートブリッジの開通により 江東区若洲とも結ばれています[80265]
都心側をがっしりと抑えた江東区に対し、西側の大田区は明らかに劣勢です。
何とかして、勢を回復したいという大田区の思いが、調停案を蹴り、裁判に迄持ち込ませた動機なのでしょう。
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2 市部 -0.25km2
これは相模原市との境界をなす境川に関係した境界変更・境界修正です。
関連過去記事は [81933][90145]に至るまで、多数あると思います。

3 小笠原の西之島 +2.43km2 断然トップの面積増加 0.29km2(H28)→2.72km2(H29)
山野さんの記事が [86381]から[92808]までの間に多数あります。
[95484] 2018年 2月 25日(日)15:15:05hmt さん
Re:町村組合の歴史
[95477] むっくん さん
この機会に町村組合の歴史を簡単にですが、振り返ってみます。

市町村が、その事務の一部を組合に委託する形で共同処理していることは、消防や廃棄物処理の分野で広く行なわれており、現在でも生活に密着した自治組織として承知しています。
一方、明治以来の市町村の名称を調べていると、昔は「神奈川県津久井郡青山村外1ヶ村組合」という類の組合名を、頻繁に目にします。

市町村事務の共同処理という共通項で括られる この2つの制度。
殆ど意識していなかったこの事実を認識させてくれたのが、組合村の首長職肩書に関する疑問[95463]と、その回答[95469]でした。
これまで、全部事務組合、役場事務組合という名も知らずにいましたが、一部事務組合()を含めて、それぞれの首長が存在することを再認識しました。

そして、今回更に町村組合の歴史[95477]についての説明を補足していただきました。

ありがとうございます。最後に1959年まで残った役場事務組合の名は不明ということですか。

愛知県では、村の分立がされた後に当該2村による全部事務組合を結成したところがあります。

愛知県告示M24-122により碧海郡境村から「分立」した東境村がその例ですが、告示M24-173により碧海郡重原村の「分割」により生まれた半高村と重原村も、組合になったという点では同類ですね。
なお 明治24年愛知県令達類聚目録記載の告示第182号「碧海郡半田村外一ヶ村組合の件」は「…半高村…」の誤記です。

「○○村」という村名は、分立や分割という手段を使ってでも確保したい。
しかし、事務処理の統合・合理化はそれとは別問題ということでしょうか。
名称を確保したいという村人の望み。それを考えさせられる事例と思います。
[95470] 2018年 2月 21日(水)19:40:34hmt さん
組合村消滅は昭和大合併の結果?
[95469] むっくん さん
全部事務組合と役場事務組合は1959(S34).10.1から存在しなくなりました。

hmt出身地の近くにある宮ヶ瀬ダム[43001]は、2000年竣工の巨大な多目的ダムですが、その名は 1956/9/30【昭和大合併[93622]の末日】に消滅した 神奈川県愛甲郡宮ヶ瀬村に由来します。

煤ヶ谷村との合併で生まれた清川村[83701]は、1958年から現在に至るまでの約60年も「神奈川県唯一の村」として続いていますが[83698]清川村の沿革に記されているように、1889年の町村制からの 67年半は「煤ヶ谷村外一ヶ村組合」という全部事務組合でした。

このような知識に基づき、私は 全国に残っていた組合村は 昭和大合併で消滅したのだろうと漠然と考えていました。
今回紹介された総務省のページには、昭和大合併末日の3年半後以降は、組合村が存在しないとの記載がありました。
この3年半の期間には組合村が残っていたのか否か? 少し気になりました。

…と言っても、自分で手間をかけて調べるつもりもありません。
安直にWikipediaを見ると、存続期間の末年が 1956年となっている町村組合の実施例が 6件ありました。
それ以後に存続した例が示されていないので、?付きタイトルの記事にしておきます。

この6件につき変遷情報を調べたところ、 煤ヶ谷/宮ケ瀬組合と同様に 67年半存続した組合村が、昭和合併によって統合された。そのような例が大部分でした。

しかし、静岡県駿東郡高根村→御殿場市と須走村→小山町が関係する組合だけは、日付・編入先が異なることが判明。

相方の高根村に去られた後の須走村にとっては、最後の9ヶ月の後始末が大変だったことと思われます。

組合解消の結果、村長・村議会・村役場など組織一式が新たに必要。
単独事務のための須走村役場も9ヶ月のために新設? 簡素なもので対応するにしても、大変ですね。

その他の該当5組合に関係する昭和合併記録(4件)も列挙しておきます。
神奈川県愛甲郡清川村(煤ヶ谷/宮ヶ瀬組合)
三重県安芸郡芸濃町(雲林院/河内組合+3村)
和歌山県東牟婁郡熊野川町(九重/玉置口組合+2村+)
熊本県飽託郡天明村(銭塘/内田組合+奥古閑/海路口組合+2村)
[95468] 2018年 2月 20日(火)17:11:41hmt さん
バルカン半島の内陸国・コソボが独立してから10年
バルカン半島の内陸国・コソボが独立してから10年
平昌オリンピック参加 91ヶ国のリスト[95441]に付随した雑談です。
馴染みのない小国も多い中で、新聞の【スポーツ面でなく】国際ニュース面に「久しぶり」に登場したコソボを取り上げてみます。

国名としてのコソボ。私としては、これまで殆ど認識していない「国」でした。
記憶に残るのは 1998~1999年のコソボ紛争です。
当初はユーゴスラビア国内にありながら民族や宗教を異にする一地域の民族紛争でした。

しかし、国際世論の動向は NATOによる空爆>セルビア軍の撤退>国連の暫定統治を経て 2008/2/17のコソボ独立宣言という結果をもたらしました。

米英仏は早速コソボを承認。影響力のあるドイツも続きましたが、EU内部にも慎重な姿勢を示す国があり、セルビアと ロシアは勿論大反対です。
日本を含めて国連加盟国の半数以上がコソボを承認しましたが、中国は不承認。
拒否権のある2国の反対で、国連加盟は実現していません。

最近の新聞の国際面にコソボが登場したのは、独立10年という節目だからです。
2/19読売の見出しは「独立10年 晴れぬコソボ 貧困、失業…漂う失望」でした。
他紙も ほぼ同様に 政情不安・経済低迷など多くの課題が残されている現状を伝えています。

以上は 現在のコソボ共和国 ですが、Webを調べると 世界飛び地領土研究会>消滅した国々 に、同名の コソボ共和国を紹介するページがあります。
こちらは 1991~1999年に自らの存在を主張した国でしたが、承認してくれたのは アルバニアだけでした。

落書き帳の読者として注目してほしいのは、リンクした上記のページに描かれている国旗です。双頭の黒鷲「スカンデルベクの鷲」の図柄は アルバニアの国旗[86819]と同じであり、
※コソボ共和国の国旗も、国連暫定統治前【の20世紀末に】はアルバニアと同じ旗が使われていたが、【2008年の独立以後は】国内6民族(アルバニア人、セルビア人、トルコ人、ゴロニ人、ロマ人(ジプシー)、ボスニアク人(ボ スニアのムスリム人)を象徴する6つの星を描いた旗を改めて制定した。
という説明が付けられていました。
[95441] 2018年 2月 15日(木)19:21:59hmt さん
平昌オリンピック開会式の入場順
2018/2/9の開会式からだいぶ遅れてしまいましたが、過去のオリンピックでは、開会式の入場行進順番に関する記事を書いたことがあります。
たぶん最初は、2004年のアテネ大会です。

2008年に北京で開催されれた「第二十九屆夏季奥林匹克運動会」の時は、「国名に使われた漢字の画数と筆順」というユニークな着目点に驚きました。
これが漢和辞典にも掲載されている正統的な方法であることを知ったのは、Issieさんのご教示の後でした。関係記事

1988年のソウルオリンピックは、落書き帳発足前でもあり、「カナダラ順」という言葉は その後の記事[31908]により伝えられるだけです。
ハングル文字は落書き帳では書き難いし、何よりも関連する知識を持ち合わせていません。

そこで、開会式入場行進の順番表だけですが、とりあえず紹介することにしました。出典
日本の五十音順に相当するものでしょうが、だいぶ違うようです。

先頭のギリシャは別として、2番がガーナ、3番がナイジェリアと続き、ナ行の後は ダ行、ラ行と続くあたりに「カナダラ順」が見えているように感じられます。
このような「行の順番」が、日本の五十音との最大の違いでしょうか?

アルファベット順でも近い「IとJ」。今回もイタリア・インド・ジャマイカなど御馴染みの国々が近くに居ました。
しかし、この仲間が揃って後半の 60番付近以降に下がっています。
これが 普段のABC順と違うな と感じるところです。

雪国だけでなく、熱帯の国からの参加もあるが、気候とは別に内戦などの問題で参加できない国もあるようです。

発音の似ているオーストラリアとオーストリア。平昌リストでは並んでおり、これは常識的な結果。
しかし、ソウル1888の順番では、大きく離れています。ソウルでは「濠洲」の音を使った?
[95432] 2018年 2月 13日(火)17:58:49hmt さん
祖父江
[95429] シノレパシクソ さん
現・愛知県稲沢市の木曽川沿いに祖父江町というところがあったのですが、岐阜県瑞穂市の南東部、墨俣一夜城のすぐそばにも「祖父江」という住所がありました。

高分子化学の 祖父江寛教授(愛知県出身)を思い出し、「祖父江」の由来を調べてみました。

変遷情報検索で祖父江を調べると、紹介された愛知県と岐阜県の系統が出てきました。
愛知県中島郡【(旧)下祖父江村>】祖父江村>祖父江町>稲沢市
愛知県中島郡上祖父江村>朝日村>一宮市
岐阜県本巣郡祖父江村>牛牧村>穂積町>瑞穂市

「そぶ」と祖父江さんによると、田圃の水中に浮いている赤錆(酸化鉄)を「そぶ」と呼び、木曽川から取水した赤茶色の農業用水「そぶ水」に含まれている。
稲沢市祖父江町の地名は、「そぶ」が多い入江ということから名付けられた。

祖父江という苗字・地名は東海地方に多く「ソブエ」と濁音で読む。
同系統である「シブ」つまり金錆(金糞)のあるところ」を意味する地名は、祖父谷、渋谷、曾布川、蘇武(そぶ)、小千谷(おじや)など。

愛知県木曽川沿いの他に、岐阜県の穂積や、養老町にもある「祖父江」地名。
これらは、分割等に由来する「自治体越え」ではなく、自然条件の類似から「赤錆」が目立ったことに由来した自然条件型地名として、同一の名になったものと推察します。
[95415] 2018年 2月 9日(金)11:50:36hmt さん
赤いシリウス
2018/1/31の皆既月食の際に、地球の「かげ」に回り込んだ光に照らされて赤く見える「ブラッドムーン」[95358]が話題になりました。

[95368]で引用した過去記事の中には、「赤い星」の代表としてオリオン座のベテルギウス【赤色巨星】を挙げていますが、他にも「赤い星」として有名な存在としては、惑星の火星や 赤色巨星のアンタレスがあります。
夏の夜空を彩る Antares は、その名からして Ares【火星】由来であり、和名は赤星です。

ところが、昨夜の NHKテレビ・コズミックフロントNEXT で、約2000年前に「赤いシリウス」が観測されていたことを知り、驚きました。

シリウスと言えば、冬の夜空に君臨する 明るい白い星です。
古代エジプトでは、夏至の頃、夜明け前の太陽と共に地平線下から上昇してくるシリウスを、ナイル川の水量増加を予知させる「ナイルの星」として崇めました。
農業生産にとり重要なこの現象は、世界初の太陽暦の発明と採用、その年初決定に使われました。
古代文明発祥に深く関わっていたシリウス。
その星が「赤い時があった」とは驚きです。

もちろん、現在はシリウスBとして知られる伴星の白色矮星は、赤色巨星だった時代があるのでしょう。
でも、それは人類の歴史とは比較にならない大昔のことです。

下記の参考ページではその理由が不明なものの、恒星の進化からすれば「ごく最近」の二千年前に観測された赤いシリウスについては、過去にも 多くの謎解きが試みられたようです。

最新の説らしいのが、「ヘリウムフラッシュ」の可能性です。
日本のアマチュア天文家が 1996年に発見した桜井天体が、この新説のきっかけとか。

来週水曜日の深夜に再放送されるようです。
関心のある方はどうぞ。
[95403] 2018年 2月 7日(水)18:54:04hmt さん
まだ備前市福浦
落書き帳には、2003年の2県にまたがる島で登場した取揚島。
小さな無人島ですが、その南西部が岡山県の飛地とも思われるために[41400]などで話題になりました。

戦後の1955/3/1、国鉄山陽本線のバイパス・赤穂線が播州赤穂から日生(ひなせ)まで延長開業し、「備前福河」駅が開業しました。当時の所在地・岡山県和気郡福河村大字福浦の中で「村名」に由来する駅名ですが、「福河」とは明治合併における「福浦村と寒河(そうご)村」とを組合せた合成地名でした。

実はこの福河という村名、駅が開業した月の末日(1955/3/31)には日生町との昭和合併で消滅します。
行政関係者としては明治以来の村名を駅名に残したかったのかもしれません。しかし、江戸時代の旧村名、そして明治合併以来の大字名として住民が使ってきた「福浦」を駅名にした方がよかったかも?

そんなことを考えたのは、1963/9/1に、本土部分の福浦集落(明治合併前の旧・岡山県和気郡福浦村)ぐるみで、岡山県和気郡日生町から兵庫県赤穂市への境界変更が行なわれたからです。この境界変更の結果、
「備前」なのに兵庫県
という違和感のある状態になりました[46914]
…でも、違和感の由来は「福河駅」ではなくて「備前」を冠したことでした。備前を冠した理由は謎。

それはさておき、変遷情報岡山県では見ることができませんが、変遷情報兵庫県の詳細を見ると、境界変更対象地域は「日生町大字福浦の区域(【中略】を除く。及び福浦地先海面のうち【後略】)」と記されており、昭和38年自治省告示第106号により確認することができます。

実は、私としては【中略】の部分に記された多数の地名に注意を払っておらず、[95311]以降の福浦スレッドから脱落しています。
その後、Nさん、YTさん、ekinenpyouさんからの情報もありました。皆さんの記事により、鹿久居島の一部が福浦に含まれていたことを含め、「備前福浦」の範囲は、私が最初に考えていたような単純なものでないことを認識しました。

そして、最新の記事[95394]に記されていた 下記2件の資料を拝見して、ふと気がついたのは、A「土地に係る字の区域・名称」とB「住所表示」との違いです。
A 岡山県告示H17-214 2コマ【備前市成立時(2005/3/22)】
B 新市の住居表示

前者Aは土地に係るものであり、居住者の有無に関係なく、すべての土地に適用される。
 合併前の字:和気郡吉永町吉永中→【合併日の字】上欄:備前市吉永中→下欄:備前市吉永町吉永中
後者Bは人に係るものであり、居住者の居る土地に限定して適用される。
 合併前の住所表示:和気郡吉永町吉永中→新住所表示:備前市吉永町吉永中

この例示に従って考えると:
無人の取揚島については、A「土地に係る字の区域・名称」のみ存在し、岡山県告示H17-214により「大字」という言葉を使わなくなった 備前市日生町福浦に属する。【住居表示は当然ながら存在せず。】
合併前の字:和気郡日生町大字福浦→【合併日】上欄:備前市大字福浦→備前市日生町福浦

[95394]で存在が確認されたA「字の区域・名称」の第6欄:備前市大字福浦→備前市日生町福浦は、「大字」という言葉を使用しなくなったことの他に、遠く東に離れた取揚島まで含めた旧日生町域全部の土地の字名として「日生町」という言葉を冠するようにしたことを示しているようです。
「備前市日生町福浦」という字に取揚島以外の土地があるか否かは不明です。
しかし、旧日生町の4字名と違ってB住所表記には日生町福浦がありません。
このことは、たとえ取揚島以外にこの字名の土地があっても、居住地ではないことを示しています。
[95385] 2018年 2月 4日(日)14:21:44hmt さん
皆既月食の計算根拠
[95370] シノレパシクソさん
疑問に答えていただき、ありがとうございます。

引用記事により、下記の根拠を確認。
スーパームーンは年に4~6回【確率約0.33から0.5になりそうだが、0.25で計算】
ブルームーンは2年8ヶ月に1回【32分の1とすると確率0.03125だが、0.03で計算】
皆既月食は5.6%【確率0.056で計算】
対象は全地球、つまり「観測地域の限定なし」であると理解しました。

3条件は独立事象であると考え、0.25*0.03*0.056=0.00042 つまり0.042%=約2380分の1を算出。
定義が明確にされていないスーパームーンは、確率0.25でもよいことにしておきましょう。

問題なのはその先、
満月2380回に1度起こることになり、計算上、平均して256年に1度の出来事らしい。

約2400回の満月が起こるのに要する時間が 200年未満であることは、直感でも解ります。
[95368]の末尾は、観測値より大幅に大きかった計算値を眺め、計算根拠を疑ってのレスでした。
しかし、計算根拠の妥当性以前の問題として、この計算は間違っていませんか?

こんなこともあるので、落書き帳の書き込みについても、出典や内容のチェックに配慮する習慣をつけておいてほしいのです。
学校に出すレポートやテストの答案で失敗しない訓練としても役立ちますよ。
…と、余計な説教を付け加えたがるのは、失敗の経験を積んできた御隠居の悪癖です。ごめんなさい。


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