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[85247]2014年4月8日
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[87258] 2015年 2月 6日(金)19:04:36hmt さん
「○丁目」・「第○地割」におけるアラビア数字表記
初めにお断りです。昨日同じテーマの記事を書いたのですが、大幅な訂正を加えました。
訂正が許される限界を越えると判断したので、新規の投稿とします。
同じ記事番号にならないように、投稿後 昨日の記事を削除します。

[87253] 右左府 さん
私も同様に【「字」の一種と】理解していたのですが、ちょっと引っかかる出来事がありました。
岩手県滝沢市 の方の…「戸籍全部事項証明」…数字の部分が アラビア数字 で表記されていたのです。
この戸籍を見て以来 「『地割』 は『字』の類ではないのか?『字』とはまったく異なる独自の要素なのか?」 という疑問

疑問が生じた根拠
1 町字名の一部をなす数字の正式な表記は漢数字である。
2 戸籍の表示などで使われるのは、この“正式な表記”である。

市町村長の告示(地方自治法第260条第2項)で用いられた表記が、唯一の“正式な表記”であるか否かについても疑問があるのですが、告示の表記自体にアラビア数字が使われている市町村もあるようです。Wikipediaには札幌市の告示表記がアラビア数字であると記されていました。

漢数字表記を正式とする市町村であっても、アラビア数字の使用を認めて公式に採用している事例は多数あるようです。
戸籍の事例ではありませんが、住民票の住所の表記に関しては、先例があるようです(Wikipedia)。
『二丁目』は固有名詞と解されるが、横書の場合は便宜2丁目と記載してさしつかえない
という大分地方法務局長の見解が、法務省民事局長からも是認されたとのこと(1963年)。

これ以後、多数の市町村で、住民票における「丁目」の記載がアラビア数字になっているようです。

「霞が関一丁目」を「…itchôme」でなく、「Kasumigaseki 1 chôme」と表記するという自治省行政局長通知(1965)もありました。

自分の住所に戻って、富士見市長の発行した住民票を見ると確かに「富士見市ふじみ野西4丁目」とアラビア数字表記です。

ところが、2010/5/1実施の 新旧・旧新住所対照表に先立って 都市計画事業で定めた 新旧・旧新地番対照表 では漢数字表記です。

この辺が ややこしい ところです。
新町名を定めた告示を確認しようと探したが不成功。
富士見市のウェブサイトではアラビア数字に統一されていました。例規集にある 出張所設置条例 を見ても同様にアラビア数字。

ところが、街角にある 街区表示板 を調べたら「ふじみ野西四丁目」と漢数字。
縦書のせいかと思って、「ふじみ野西」地域の案内地図[75049]を見たら、横書きなのに漢数字。
市の仕事の中でもアラビア数字と漢数字が混在しています。

このような状況を見ると、告示で用いられた表記が何れであれ、それが唯一の“正式な表記”であるとする見解には疑問を抱かざるを得ません。

「丁目」を主とする記事になりましたが、「地割」も同じことだと思います。
滝沢市が発行した
戸籍謄本(正確には、電算化された横書きの 「戸籍全部事項証明」)
に使われていたアラビア数字表記に拘らず、条例で定めた地割の表記は漢数字であった可能性があります。
そして、いずれの表記であっても、それを根拠に「地割は字の一種」という理解を覆すことは困難と思われます。

おまけ
今尾恵介『住所と地名の大研究』p.200-208には『「丁目」とは何か』という節があります。
同じ本のp.93-100には『北海道の条・丁目』という節もあります。
落書き帳アーカイブズには、町名、字名(大字、小字、字)、丁目とは何か? があります。
[87250] 2015年 2月 2日(月)20:24:20【1】hmt さん
「第○地割」
[87245] N さん
2014/11/25に八幡平市役所が移転しました。

業務開始を知らせるWebページ の下端部に記された住所は「岩手県八幡平市 野駄 21-170」となっています。
「八幡平市」に続く「野駄」は大字でしょうが、その後に略記された「21-170」は何を表す番号か?

住所地名における最もありふれた番号は「丁目-番地」のペアですが、「21」は丁目の数字としては大きすぎます。
「番地-枝番」の事例も多数ありますが、今度は「170」が大きすぎるようです。

正解は 広報はちまんたい にありました。
住所: 〒028-7397 八幡平市 野駄 第21地割 170番地
# 例規集も確認しましたが、まだ「八幡平市大更第35地割62番地」【旧西根町役場の位置】のままでした。

「野駄」という大字【1889年の町村制で松尾村になる前の野駄村】と「170番地」との間にあったのは、「第21地割」という地名階層でした。
この例では大字と番地の間ですから、「字」の一種、いわゆる「小字」に相当するものと思われます。
しかし、小字に普通使われているような「地名」ではなく、「第21」という番号を使った階層は珍しく思われました。

「第○地割」は、本当に「小字相当」の階層なのか? [48333]で紹介されている種市の事例も「小字相当」ですが、更に調べてみると、必ずしもすべての「第○地割」がそうであるとは言えないようです。
例えば盛岡城址を史跡に指定した昭和12年文部省告示212号を見ると、所在地は「岩手県盛岡市第一地割字内丸○番地」となっており、この場合の「第一地割」は、「字」の上位階層である「大字」に対応するように思われます。

滝沢市の 供養塔 の事例を見ると、これが建てられていた旧位置は「鵜飼村第24地割字笹森」、現在地は「滝沢第3地割字高屋敷72番地2」とあります。鵜飼村や滝沢は1889年の町村制で滝沢村が成立する前の旧村、つまり「大字」レベルの地名。そして字笹森や字高屋敷は旧村時代からの「字」【いわゆる小字】であり、「第○地割」は旧村【即ち大字】と「字」との中間に作られた階層であることがわかります。

供養塔自体は幕末のものですが、もちろん所在地が刻まれているわけではありません。
「第○地割」という地名は役場の人が位置の記錄に使っただけです。
いずれにせよ「地割」とは、市町村と番地との中間階層である「字」の一種であり、番号を使った点が特異的です。
使用事例は専ら岩手県のようですが、九戸郡に至る北の方に多くの事例を見ることができます。

私の勝手な推測。明治5年から明治9年にかけて存在した旧岩手県が設けた階層が生き残っているのではないでしょうか?
この時代は、大区・小区を設けて戸籍制度の整備をしていた時代です。
地名についても従来の「字」にとらわれず、便宜上当時の「村」の中を「番号で地割した」ことが考えられます。

それはさておき、珍しい「第○地割」という住所に惹かれて、落書き帳の過去記事を調べてみました。
地割には直接言及していないが、「字」や「地番」に関する記事も一部加えてあります。記事集地割

考えが纏まらないままの結語。
「第○地割」は「○丁目」や「○街区」[19560]、北海道の「条丁目」・「線号」[48808]などの同類で、「地名を使わないで番号による地区割」の一種と思われます。
千代田区「三番町」なども元々は同類だったのかもしれませんが、現在では普通の町名として定着しています。
地名コレクションにも「数字系」や「合併数地名」などがあります。
多様な「地名」。「第○地割」もその中の一つの存在と言えば、それまでのような気もします。
[87242] 2015年 2月 1日(日)12:26:42hmt さん
宮古島から開通した道路の西端にあるのは 下地島空港
[87240] k-aceさん
本日16時に宮古島市の宮古島と伊良部島を結ぶ、国内最長の無料で通行できる橋「伊良部大橋」(3540m)が開通しました。

伊良部大橋を含む道路は、沖縄県道252号で、その路線名は「一般県道平良下地島空港線」です。
沖縄県サイト 事業経緯によると、伊良部島の生活環境の改善・活性化などが図れる他に、下地島空港の利用促進に寄与するものと期待されています。

宮古島から新たに開通した陸路を 航空写真 で眺めてみます。
伊良部大橋は未完成ながら、画面右下の海上に特徴ある弧状の姿を見せ始めています。橋の東詰に県道252号の表示がありました。

目立つのは、やはり画面西端の 下地島空港にある 3000mの立派な滑走路です。落書き帳では、[83592]の末尾で僅かに言及。
以前は民間航空のパイロット訓練用に利用していましたが、日本航空(-2011)全日空(-2014)共に訓練を終了しているそうです。訓練用シミュレーターが進歩した結果でしょうか。
とにかく、現在は殆ど活用されていない状況のようです。

自衛隊の利用も検討されている筈ですが、政治問題がからみ 実現していません。
尖閣諸島に近い立地ということもあり、今後の動向に注目。

下地島と伊良部島との間の水路は狭く、航空写真では殆ど1つの島のように見えますが、県道の国仲橋を含む6本もの橋で結ばれていました[82809]
子ども達が飛び込みをしていた乗瀬(ヌーシ)橋【南端】は老朽化して解体されましたが、新しい橋に架け替えられるようです。

以下余談
「上地・下地」という地名は 沖縄では一般的に使われているようです。
[83592]では八重山の新城島に言及しました。干潮時には珊瑚礁が顕れて上地と下地の2島が連結します。
大字・小字名は、もっと近くにあります。宮古島市役所下地庁舎の所在地は 宮古島市下地字上地です。

念の為に記しておくと、平良市との合併が琉球政府告示後に撤回されたという 珍しい事例[71753]が紹介された 宮古郡下地町。これは勿論 空港の下地島ではなく、宮古島南部の「下地」です。本土復帰前のこと。
[87239] 2015年 1月 31日(土)12:59:31hmt さん
絹の話(6)楫取素彦と速水堅曹
NHKテレビの連続ドラマ『花燃ゆ』に、準主役として小田村伊之助という人物が登場しています。
主役の女性とこの人との関係はドラマに任せるとして、最初に「都道府県市区町村」との関係を説明しておくと、明治9年に群馬県の初代県令になった 楫取素彦(かとり・もとひこ)の若い頃の名が小田村伊之助でした。

名前が幕末に使われた通称の「伊之助」から変っているのはともかく、姓も小田村から楫取へと変化しています。
生家は松島家であり、養子に入った時に小田村に改姓。これは養子制度が多用された昔なら 珍しいことではありません。
楫取素彦への変更は、慶応3年(1867)に藩主の側近に取り立てられた時に、毛利敬親の命によるものだそうです。
楫取は「舵取り」の意味で、小田村家の先祖の仕事。山口藩の舵取りへの期待が込められている苗字のようです。

桂小五郎→木戸孝允、村田蔵六→大村益次郎などの例もあり、長州ではよく行なわれたことなのでしょうか?

富岡製糸場は明治5年(1872)操業開始ですが、明治政府の官僚になっていた楫取素彦が 足柄県参事から上野国に転勤してきた時期は 明治7年のようです。当時の役職は熊谷県権令、つまり副知事でしょうか。
熊谷県は明治4年に設置された第一次群馬県[54888]と入間県[36047]とを明治6年に統合したものです[36081]
熊谷県は富岡製糸場に代表される絹だけでなく、狭山茶の産地でもあり、当時の代表的な輸出産業を支える県でした。

明治9年(1876)、熊谷県の北半分【第一次群馬県域】は 明治4年から栃木県に属していた3郡【山田・新田・邑楽】を統合して 現在と同様に上野国一円を管轄する【第二次】群馬県になりました。

楫取素彦は、初代の県令(知事)になり、引き続き上野国の地方行政の責任者を務めることになりました。
県庁は最初は高崎でしたが、楫取の在任中に前橋に移りました。産業振興にも尽力した彼を讃えて、「県都前橋の父」という碑 が建てられているそうです。
なお、この時に熊谷県の南半分【旧入間県域】を編入した埼玉県は、ほぼ現在に近い県域になっています。

2012年の上毛新聞ニュース に、富岡製糸場が閉場の危機に陥った明治14年(1881)に、県令の楫取素彦が 官営存続を国に強く訴えたという資料が紹介されていました。

明治初期に全国で展開した官営の模範工場。西南戦争による財政危機に見舞われた政府は、財政的負担の軽減の見地から、官営事業払下げの方針に転換しました。藤田伝三郎が小坂鉱山を手に入れたのは、少し後の明治17年でした[67425]
しかし、大規模な富岡製糸場は買い手がつかず、請願人がなければ閉場との方針も出されました。
これに反対して 楫取素彦県令が農商務省と掛け合い、官営存続となったとのことです。

振り返ってみれば、富岡に製糸技術を輸出したのは、普仏戦争の敗戦により第二帝政【ナポレオン3世 在位1852-1870】から第3共和制に移った頃のフランスでした。

時は移り 復興したフランスは、1878年にパリ万国博覧会を開きました。
日本では明治11年ですが、この時に勧農局長だった 松方正義は 富岡の生糸の品質低下をフランスから指摘されました。
そして、松方が富岡製糸場の改革を任せるべく、第3代所長に任命したのが 前橋藩士時代の 1870年に 小規模ながら 日本初の器械製糸所を立ち上げた速水堅曹でした。
かねがね速水が唱えていた民営化を含む抜本的改革に松方が賛同したわけです。

速水は、明治13年 官営工場払下概則 制定の頃に 富岡製糸場の所長を辞任して民間人となり、その立場で富岡製糸場を借り受け経営するプランを立てていたようです。
しかし、前記のように楫取素彦群馬県令の反対で実現せず、官営事業継続となりました。
日本の産業資本が未成熟の時代には、やはり民間の手に余る大規模工場だった…ということなのでしょうか。

一度は富岡を離れていた速水も明治18年(1885)には所長に復帰しました。
速水は、明治26年の民営化実現で退任した後までも、技術スペシャリストとして全国に製糸技術を指導したとのことです。
[87238] 2015年 1月 31日(土)12:42:10hmt さん
絹の話(5)官営富岡製糸場
4つの資産の中心的な存在である富岡製糸場に移ります。明治5年(1872)開場の少し前の状況から始めます。
工場の名前は 官営時代から「富岡製糸所」と呼ばれた時期が多く、民営化後もいろいろ変化しています。
この記事では、便宜上 最初の名でもあり、世界遺産でも使われている「富岡製糸場」に統一しておきます。

シルク産業は、養蚕つまり繭の生産で完結するわけではありません。農産物である繭から生糸にする製糸工程、その絹糸を更に加工する織布・染色などの工程、更には裁縫等を経て私達が日常接する製品が完成します。
幕末に輸出が急増した日本の生糸ですが、粗製濫造の結果はたちまち評価の下落になりました。
それだけでなく、旧来の座繰りによる生糸は太さが揃いにくいという本質的な欠点がありました。
生糸の付加価値を高めるためには、器械製糸への転換が必要です。

小規模ながら日本最初の器械製糸所は、前橋藩の速水堅曹により明治3年(1870)に作られました。イタリア技術の導入です。
前橋藩については、転勤大名・松平大和守をテーマにした記事で触れたことがあります[72830]
1749年に姫路から前橋に移されたものの、利根川の侵食で前橋城は崩壊の危機。幕府に頼み込んで空き城の川越に緊急避難。川越で約100年を経過して幕末・松平直克の時代になりました。

松平直克が親藩【越前分家】の藩主でありながら 政事総裁という幕府要職に就任したのは 幕末の非常体制を示しています。
その一方で、宿願の前橋城再建により、100年ぶりの前橋復帰をも果しました。前橋復帰を実現できた背景には 利根川河川改修があったのは勿論ですが、資金的裏付けとしては横浜開港後の生糸の輸出により得られた前橋商人の財力がありました。
日本初の前橋器械製糸場の開設は、このような背景から実現したものであり、前橋城再建には直克側近の速水も関わったことと思います。

前橋藩に製糸場ができた頃、明治政府も外国資本でなく、官営の模範工場を建設する方針を決めました。
そこで御雇外国人として選ばれたのが、フランス人のポール・ブリューナでした。
彼が日本側の所長・尾高惇忠と共に選んだ立地は、前橋にも近い 上野国富岡 で、ここに外国でも例を見ない、繰糸器300釜という大規模な器械製糸所が作られることになりました。

器械はもちろんフランスから輸入しますが、それを設置する建物が必要です。倉庫その他の付属建物も必要です。
短期間に主要な建物を完成させるのに役立ったのが、横須賀製鉄所[77630]の建築を担当したバスチャンの経験でした。

2014/12/10の官報で 旧富岡製糸場の建物3棟が 国宝建造物に指定されました。文化庁報道発表
群馬県は 県内初の国宝誕生 と報じています。
参考までに、近代建築で国宝になったのは 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)に次いで 全国で2件目です。

国宝になった繰糸所は 桁行 140mと 長大な木骨煉瓦造で 高い天井とガラス窓で 明るい大空間を実現しています。
東置繭所・西置繭所は繰糸所と直交する配置で、桁行104mの2階建。明治五年と記された東置繭所の要石。

建物や繰糸器械のように有形の遺産として残されてはいませんが、工場建設に何よりも重要だったのは 従業員の確保です。
その女子作業員が「工女」ですが、前例のない西洋式の大工場で働く数百人の工女を確保するのは大仕事でした。

所長の尾高惇忠の娘を始めとして、旧士族階級出身の工女が多かったようですが、その労働環境は 1日8時間の週休制。
年末年始や盆休み。福利厚生など当時としては優れたものでした。
それでも騒音など作業環境問題もあって中途退職する工女も多く、熟練工を育てられないことによる非効率は経営上の問題点になっていたようです。

経営上の問題点と言えば、御雇外国人に支払う高給も赤字の原因で、日本人だけになった明治9年度に初黒字が出ました。
[87237] 2015年 1月 31日(土)12:26:17hmt さん
絹の話(4)養蚕技術関係の3資産
2014年春に 富岡製糸場の世界文化遺産登録を記念して、絹の話 を書き始めました。
これは、日本が近代化する過程で大きな役割を果たした絹関連産業を見据えたシリーズですが、産業構造が一変した現代の落書き帳読者に対する解説的な意味合いもあります。

…と、先輩ぶった書き方をしたのは、私が過ごした少年時代の環境には、大部分の皆さんの周囲よりも、桑の木がたくさん生えていたからです。とはいうもの、私自身も養蚕業に触れた経験はなく、受け売りの知識にすぎません。ごめんなさい。

構想だけは大きなシリーズ。3回で中断していましたが、少し書き続けます。

前回までの記事は 世界文化遺産登録が確実視される状況になった 2014年4月の ICOMOS勧告時点での紹介でした。
その後2014/6/21に Doha,Qatarで開かれた委員会において Tomioka Silk Mill and Related Sites の名で 世界文化遺産リストへの記載が正式に決まりました。

この文化遺産を構成する資産は、富岡製糸場に加えて養蚕技術関係の3資産があり、合計4資産です。

富岡製糸場【富岡市】 フランスの技術を導入した明治5年設立の官営器械製糸場。木骨煉瓦造の繰糸場や繭倉庫など。
田島弥平旧宅【伊勢崎市】 近代養蚕農家の原型になった文久3年(1863)の建物。通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」。
高山社跡【藤岡市】 通風と温度管理を調和させた「清温育」は、日本の標準的な養蚕技術として全国及び海外に普及。
荒船風穴【下仁田町】 天然の冷風を利用した蚕の卵の低温貯蔵施設。これにより1年間に何回もの養蚕が可能になった。

日本の養蚕は 古い歴史があったものの、その技術は長い間停滞していました。
江戸時代後期になると、中国からの輸入生糸による貿易不均衡を是正する必要から、ようやく技術改良が進み始めました[85527]。その成果を示す資産が「清涼育」の蚕室を具えた田島弥平旧宅でした。

幕末の黒船来航を契機とする開国で外国貿易が開始された頃、ヨーロッパにおける絹の主産地であったフランスやイタリアでは蚕の微粒子病が蔓延しました。そして清王朝下の中国も太平天国の乱などで混乱状態に陥り、蚕種や生糸は世界的な不足状態になりました。これが日本の輸出品の花形として生糸を登場させる背景になりました。

一方で日本の養蚕技術は、「清涼育」と東北地方の「温暖育」とを調和させた「清温育」により確実な繭生産が可能になりました。この技術を全国に普及させた教育機関が 高山社 でした。
高山は旧村名です。都道府県市区町村変遷情報を見ると、1889年の町村制で 緑野郡高山村等9村が 美九里村合併数地名コレクション収録済み】となり、1896年の郡統合による多野郡を経て 昭和合併時代の1954年に藤岡市になったことがわかります。

そして、荒船風穴による蚕種の冷蔵により年1回だけだった養蚕が複数回実施可能になり、増産を実現。
一代雑種(F1)の利用も 1914年に実用化しました。

このようにして、明治から大正にかけて日本の養蚕業が大発展した背景を探ると、そこに先人たちの努力があったことは勿論なのですが、時の運に恵まれたことも否定できません。
[87236] 2015年 1月 31日(土)12:06:05hmt さん
2人の「鳩山首相」の出身地
[87232]で紹介していただいたサイトを見て、ちょっと気になったので メモしておきます。
東京都 5人 高橋是清・近衛文麿・東条英機・鳩山一郎・菅直人【サイトの誤記を訂正】
京都府 3人 西園寺公望 、芦田 均、東久邇稔彦
北海道 1人 鳩山由紀夫

東久邇宮家が創設されたのは明治後期ですが、京都府出身を自認しておられたのですね。西園寺首相も京都。
対照的なのが近衛首相。藤原氏→近衛家と言えば歴史的には京都の公卿の代表ですが、現実には東京出身。

2人の「鳩山首相」の出身地も分かれていました。

鳩山家の出自を探る目的で、鳩山一郎の父・鳩山和夫を調べてみました。首相ではないが、衆議院議長の経歴あり。
美作国勝山藩士の出身ですが、親の勤務地の関係で江戸生まれ。
子供時代に勝山に戻ったこともあるが、本拠地はずっと東京で、音羽に居を構えたのは1890年で、34歳。

政治家・教育者であると共に、北海道開拓にも尽力。
岩見沢の南に位置する 栗山町鳩山地区

落書き帳メンバー紹介でもそうですが、「出身地」は本人の主観で決められます。
衆議院選挙区を意識した「北海道出身」の首相というのも「アリ」なのでしょう。

高橋是清首相は江戸町人の家に生まれたが、生後間もなく仙台藩の足軽の養子となる。
東條英機首相の出自は盛岡藩南部氏に仕えた能楽師。父は軍人。
2人共に、江戸・東京に勤務していた家で育った「東京出身者」であると思われます。
[87233] 2015年 1月 31日(土)10:33:52hmt さん
岩手県出身の横綱・宮城山
[87231] じゃごたろさん
岩手県にも横綱がいたことは驚きでした。

その横綱の しこ名が、宮城山であることを知り、また驚きました。
出身地は岩手県西磐井郡山目村【1948年一関市】で、元は仙台藩領だったようですが…
[87185] 2015年 1月 21日(水)17:40:31hmt さん
hmtマガジン更新のお知らせ
2015年になってからの更新状況をお知らせします。

2015/1/1 特集「日本の海と島」に、追加記事を収録しました。
日本の島の面積・人口集計表 や、架橋による「連島」を考慮した面積・人口の上位ランキングも含まれています。

2015/1/12 津の守坂のタイトルで連載した 高須四兄弟 をマガジン化しました。

2015/1/20 これまで収録していなかった「郡」や「支庁」についても、マガジンに収録するつもりで新規テーマを作りました。
その第1号として取り上げたのは、 hmtの居住地である 埼玉県入間郡域 です。
[87184] 2015年 1月 21日(水)16:07:10hmt さん
埼玉県植木村が関係する 明治29年の郡統合情報
1889年の町村制施行当時、植木村は 比企郡に属していました。
1896年に(旧)比企郡は横見郡と統合されて (新)比企郡 になりました。
ところが、1938年に 入間郡芳野村 と 入間郡古谷村への分割編入によって消滅した植木村は、入間郡所属となっています。

比企郡から入間郡に移ったのは何時か? この疑問を解く鍵は、1896年の「郡設置」情報に記されています。
「(旧)比企郡の一部」から設置された郡は、比企郡だけでなく入間郡もあったのです。

詳しく言うと、(旧)比企郡の大部分である2町22村は(新)比企郡に受け継がれたのですが、植木村だけは入間郡に移ったのでした。

…, 比企郡の一部 の区域をもって◎◎郡を設置
という現在の表記【◎◎=入間、比企】は、植木村だけが比企郡から外されたという現実を伝えるには不満足です。

修正案:対象となる町村名を「○○村」でなく、具体的に列挙する。
88さんはこの方針であったかもしれません。埼玉県下国界変更及郡廃置法律 も列挙しています。

別の案:次のように記載して 植木村の所属変更を伴う郡統合情報 であることを明示する。

入間郡, 高麗郡 及び 比企郡植木村 の区域をもって入間郡を設置
横見郡, 比企郡(植木村を除く) の区域をもって比企郡を設置

後者は非公式な簡略記載です。
しかし、変遷情報の本質からすると、修正に手間がかからず、利用者にわかりやすい この簡潔な表記が好ましい。
hmtとしては、そのように思うのですが、よろしくご検討願います。>グリグリさん

付言
この郡境変更は、町村制施行よりも【ずっと?】前に行なわれた河川改修の事後フォローと推測 [79671]
[87139] 2015年 1月 16日(金)16:46:37【3】hmt さん
大阪市を廃止し5特別区とする案の可否を問う 最大規模の住民投票
大阪府・大阪市特別区設置協議会 の第21回会議が2015/1/13に開かれました。
この会議によって事実上決められたのが、タイトルに掲げた住民投票です。

最初に、落書き帳では [87116]の二番煎じになることを承知で、敢えて長目のフォロー記事を書いた理由を説明します。
それは「都道府県市区町村」メンバーとして
大阪市がなくなるかもしれない!
という節目を見逃せなかったからです。
もっとも、公明党は住民に反対を呼びかけるし、5ヶ月も先の住民投票結果は予断を許しません。

今回の協議会の正式議事録は未公表です。そのため、朝日デジタル など新聞種に頼りながら、このニュースを眺めます。
忘れてはいけない資料もまとめて置きましょう。落書き帳の過去記事 です。 

2010年に立ち上げた大阪維新の会は、2011年春の統一地方選挙と同年秋の大阪府知事・大阪市長のダブル選挙で勝利しました。2012年には中央政界主要政党の賛成も得て成立した 大都市地域における特別区の設置に関する法律[81306] が成立し、翌年早々には大阪府・大阪市特別区設置協議会発足と、ここまでは極めて順調な滑り出しでした。

しかし、2013年に議論が始まると 当初は協力的だった公明党が 維新の会との対決姿勢を強め、2014年1月には決裂状態。7月に維新単独で決めたプランが10月の大阪府・大阪市の両議会で否決され、暗礁に乗り上げました。

ところが、昨年末頃から風向きが変ったようです。
橋下市長・松井知事と対立する野党の立場の公明党は、「あまりにも ずさん で問題点が多い」として特別区設置協定書内容を批判しながらも、「議論の収束をはかる」として、住民投票実施に同意する方向に動きました。

…というわけで、今年3月の府・市議会では、昨年否決された案と大きくは変わらない最終案が可決され、統一地方選挙後の2015年5月17日に 「大阪市」を対象とする住民投票[87116] が実施される見通しです。

住民投票の有権者、つまり大阪市に住む20歳以上の日本国民は約215万人にのぼり、わが国では最大規模の住民投票になるようです。と言っても、大阪市以外の 大阪府32市・9町・1村の住民【人口で70%】は蚊帳の外です。念の為。

最近の協議会で事実上決まったと伝えられるのは、大阪市に代え特別区を設置することの賛否を大阪市民に問う住民投票の実施です。
[87119]ピーくんさんが記されたように
2017年から大阪都になって大阪府と大阪市がなくなる
ことが決められたわけではありません。

【追記】[87140]へのレス
ご指摘を受けた部分の原文は、住民投票が大阪府全体でなく大阪市だけであることにその意義を認め、そのことを最初に指摘したのが山野さんの記事であることを明示し、讃える趣旨でした。しかし、記事引用の不手際から山野さんに不愉快と感じさせる逆効果になったことをお詫びします。誤解の原因部分の表現は修正しました。
  
マスコミの影響かもしれませんが、「大阪都構想」という言葉が “独り歩き” しているような気がします。
住民投票実施を決めた協議会の名に示されているように、地方行政制度として現在検討されているのは、「大都市地域における特別区の設置」です。
これが 橋下さんの掲げる「大阪都構想」と関係するものであることは間違いないでしょうが、大阪だけのものではありません。

このテーマを、市区町村変遷情報に どのように反映させるべきか?
オーナーグリグリさんは 既に[77728]以来 検討されていると思いますが、現実には 予定情報一覧 には収録されていません。
大阪府の区域内での特別区設置案は、大阪市との協定書も確定し、住民投票という段取りに到達した機会でもあり、予定情報として収録しておくべき項目であると考えます。

今回変遷情報に収録する内容。これは、もちろん大阪府か大阪都かという名称の問題ではありません。
都道府県の名称変更には特別法を必要としますが、その手続は 現実問題になっていないので、変遷情報に収録するには時期尚早でしょう。
収録すべきテーマは、やはり「特別区」という言葉で表された その中身です。

「特別区」という言葉は、従来 地方自治法第281条第1項で、「都の区」と同じ意味に使われていました。
長年使われてきた この用法から、大阪府内に「特別区」を作るのならば、それは即ち「大阪都」になることではないか? そのように考える人がいたのが、「大阪都問題」のきっかけかもしれません。

2012/8/10の衆議院で可決され[81306]、2012/8/29の成立後[81731]、平成24年9月5日法律第80号として公布され、2013/3/1から全面施行されている 大都市地域における特別区の設置に関する法律
この法律の第3条では、地方自治法の例外として、道府県の区域内における特別区の設置を認めています。
従って、大阪府のままで特別区を設置しても支障はないわけです。特別区設置は大阪都に直結しません。

それよりも注目すべきは、第1条(目的)、第2条(関係市町村の定義)に記されている「道府県の区域内」です。
新たな特別区制度は、人口200万以上の都市圏を対象にしています。
しかし、どんなに頑張っても 府県境を超えた範囲は対象外という限界があります。

[81306]で想定された8地域の中で、現実に動き出したのは2013/2/1に設置された 大阪府・大阪市特別区設置協議会 だけと思います。
この協議会の 特別区設置協定書 は膨大なものです。
到底読みきれるものではありませんが、その冒頭から要点を記してみます。

特別区設置の日 平成29年(2017)4月1日
特別区の名称及び区域
 北区   大阪市都島区、北区、淀川区、東淀川区及び福島区
 湾岸区 大阪市此花区、港区、大正区、西淀川区及び住之江区の一部(南港)
 東区   大阪市城東区、東成区、生野区、旭区及び鶴見区
 南区   大阪市平野区、阿倍野区、住吉区、東住吉区及び住之江区(南港を除く)
 中央区  大阪市西成区、中央区、西区、天王寺区及び浪速区
特別区と大阪府の事務の分担
 特別区は35~70万の人口をかかえ、中核市レベル以上の事務処理機関となるようです。

結局のところ、大阪市内は5区になりました。 2013/9/27の堺市長選挙では大阪維新の会の候補が敗れている現実も含め、2010年に報道された大阪都構想[75187]とは様変わりしています。

参考までに、頓挫していた特別区設置案が 公明党の住民投票容認により 俄に復活した政治背景に言及した 毎日新聞社説 をリンクしておきます。
依然として制度案には反対だが、決着をつけるために住民投票実施には協力するという公明党の態度については、読売 でも報道されていました。
[86827] 2014年 12月 22日(月)19:27:20【1】hmt さん
朔旦冬至
今日は「冬至」です。冬至・小寒・大寒・立春・(中略)・立冬・小雪・大雪を経て冬至に戻る二十四節気。
旧暦の名残のような印象をもつ人もいるかもしれませんが、その本質は太陽暦そのものです。

明治5年まで使われていた旧暦では、月(太陰)の満ち欠けにより日付を決めていました。
電灯のない時代には、日付によって月夜か闇夜かを判断できる太陰暦にもそれなりの利点がありました。
しかし、農業にとっては日付と季節のずれが生じることは致命的な欠点でした。
そのために閏月を設けることにより日付をできるだけ季節に近づける折衷方式【太陰太陽暦】になったのですが、これだけでは農事暦としては不十分。
そこで日付表記の旧暦と併用する目的で採用されたのが純粋の太陽暦です。こちらは、何月何日という太陰方式の「日付」と混乱しないように、数字を使わないで 太陽が一年の道程の何処にいるかを表す指標としました。

日差しが最小となり日照時間も短い冬至と、日差し最大で昼が長い夏至とが 最初に作られた指標であることは容易に推察できます。続いてその中間点であり、昼夜等分の春分と秋分。以上まとめて「二至二分」。
もっとも、古い時代の名称は「日短至」「日長至」「日夜分」など異なるものであったようです。

二至二分の中間点に定めた指標が立春・立夏・立秋・立冬の「四立」。
合計8つの指標【八節】を更に3分割し、春夏秋冬の四季に各6つを配したものが「二十四節気」です。
名称を見ただけで、北半球農業地帯の中国で成立した文化であることが理解できます。

旧暦【太陰太陽暦】の時代には、満ち欠けする太陰優先の日付と、植物相手の農作業に必須である二十四節気とを使い分ける必要がありました。日付も太陽暦になった現在では二十四節気の名称を使わなくても日常の用は足ります。しかし、二至二分と四立は 単に過去の文化を尊重する趣旨だけでなく、季節の推移を示す便利な指標として、現在も使われています。

冬至の習俗と言えば、柚子湯 冬至粥 唐茄子(かぼちゃ)など。
星祭というと七夕が一般的ですが、北斗七星を神格化した 妙見さまの星祭 は冬至。
Webで、「冬至 習俗」を検索したら、中国語のページが多数出ました。あちらで盛んなようです。

平成26年(2014)歴要領 2コマを見ると、冬至は 太陽の黄経270度で 中央標準時12月22日8時3分と記されています。
現代天文学の体系では 起点が春分になっているので、太陽の周囲りを4分の3周した 黄経270度 になっています。
しかし、前記のように 二十四節気の由来を考えれば、その起点は冬至であったと思われます。冬至は 北半球で日差しが最も少なくなる時ですが、これは「太陽の復活」が始まる日と考えることができます。

衰えていた太陽が冬至を境に勢力を増してゆく、つまり「陰が極まって陽が生ずる」転換点ですから、中国の古典『周易本義』では 冬至を「一陽来復」と言いました。
この季節には 伊勢神宮宇治橋の大鳥居中央から 朝日が昇り、冬至祭 の行事が行なわれます。古代から太陽に関係する暦の節目でした。

ここで思い出したのがストーンヘンジですが、これは夏至の日差しでした。そこで、「冬至 巨石」で検索した結果、冬至の前後に日差しが入るという岐阜県下呂市の 金山巨石群 の存在を知りました。なお アブシンベル神殿の日差しは ラムセス2世の誕生日。

ここまでは毎年巡ってくる冬至ですが、今年の冬至は 19年に一度の特別な冬至です。
タイトルの「朔旦冬至」がそれです。

歴要領の3コマに示されている月の満ち欠けを見ると、今年の12月22日10時36分が「朔」になっています。
この朔は 天球上を西の方(さそり座)から動いてきた月が いて座 で太陽を追い抜く(黄経が一致する)時刻です。
完全に同一方向の朔ならば日食が起りますが、普通は少しずれたコースで追い抜くので、月は一旦消失した後で再び生れてくるように見えます。これが「月立ち」、すなわち旧暦十一月の「ついたち」です。

先に記したように、暦学的には二十四節気の原点は冬至であり、冬至は暦の原点でもあると思われます。
その一方で、新年を祝う行事は 冬至と春分の中間点である立春付近 を用いることが多くなったようで、最終的には「冬至を含む月を十一月とする」というルールに落ち着きました。

今年のように「冬至」と「朔」とが同じ日になること。【旧暦十一月一日が冬至】
それは太陽と月とが同日に復活するわけで、たいへんお目出度いことであると考えられました。
冬至の朝、見えないお月様【新月】と共に昇ってくるお日様。そんなイメージでしょうか。

朔旦冬至は 19年周期で起ります。
BC433年にアテナイのメトンが 235朔望月が6940日で、19年と同じであることを発見。
現代のデータを使ってメトン周期を計算すると 19太陽年=365.2422日*19 = 6939.60日。
太陰太陽暦で19年に7回の閏月を入れると、19*12+7閏月 = 235朔望月=29.5306日*235 = 6939.69日。

伊勢神宮の式年遷宮20年周期も、朔旦冬至の19年周期に由来するという説があるそうです。
[86813] 2014年 12月 20日(土)18:25:52hmt さん
双頭の黒鷲
[86808] オーナー グリグリ さん
久しぶりに、メンバーの方のニックネーム変更と自分色変更の依頼があり修正を行いました。

新しいニックネームは、バルカン半島で国旗に使われている双頭の黒鷲の名ですね。
それなりの理由があると思われるので、ご本人による紹介を待ちましょう。
[86812] 2014年 12月 20日(土)17:25:42hmt さん
かみゆき 上雪 神雪
[86804] じゃごたろさん
長野県では通常の冬型の気圧配置では日本海に近い北信地方に雪が多くなるのに対し、日本列島の南岸を通過する低気圧に寒波が押し寄せた場合には中南部に雪を降らせるのですが、これを「上雪(かみゆき)」といいます。

「上雪 or かみゆき」を検索した落書き帳記事を添付していただき ありがとうございます。「上雪」単独では不十分なのですね。
落書き帳過去ログはかなり読んでいるつもりの hmtですが、「かみゆき」のことは知りませんでした。

…で、やはり気になったのは 「かみ」とは何を指しているのか? です。

「上方」の「上」であろうと推察したものの、念の為「神雪 長野」で Web検索してみたら、Yahoo!知恵袋に質問がありました。
地元でも「上雪」「紙雪」「神雪」と様々な表記がされていたようですが、ベストアンサーは やはり「上雪」説でした。
TBSテレビでお馴染みの気象予報士森田さんも、長野県の中で京都に近い南部を「上」としたと思うとのこと。なお、2008年の回答にリンクされたTBSのページはリンク切れです。

落書き帳アーカイブズは 地名における「上」と「下」 なので 「上雪」は対象外でした。

折角の機会なので、約10年前、私が落書き帳に参入して間もない頃に盛んに話題にした「上下地名」の虫干しをしておきます。

上福岡は 単独でアーカイブズになっていますが、新河岸川に臨む段丘周辺に形成された本村は「福岡村」でした。
「上福岡」という名は、後にできた下福岡、更に後の中福岡よりも上流側にあることから生れたで通称であったと考えられます。
18世紀の文書に「上福岡村」の使用例がありますが、正式名称は 明治大合併の前後を通じて福岡村でした。
世間に知られるようになったのは、1914年開業の東上鉄道「上福岡駅」でした。
自治体名に「上」が加えられたのは「上福岡市」誕生の 1972年でした。記事

福岡だけでなく、近くを流れる小河川について 上下ペアの地名を多数挙げました。石神井・老袋・古谷・新河岸・南畑・奥富・寺山・赤坂・松原等。このグループは、川上・川下に由来するので「かみ・しも」と読みます。

同じく自然地形由来ですが、台地の「うえ」と「した」。これは読みも「かみ・しも」でなく、「うえ・した」なので容易に区別できます。
最近では上野原[86777]を書きましたが、全国的にも知られたペア地名は、東京都台東区の「上野・下谷」です。

実数としては河川の上流・下流に由来する「かみ・しも」地名よりもずっと少ないのでしょうが、よく知られた官製の広域地名や有名地名が存在するのが、「京都基準の上下地名」です。
東山道の上野・下野、旧東海道の上総・下総、瀬戸内海の上関・中関・下関 (記事)。
地名ではありませんが、今回の「上雪」も「京都基準」に基いて「上」が使われた事例です
なお、ありがたきさん[18505]は 鈴木理生氏の著書に基き、高井戸・井草・板橋・連雀・北沢につき京都側が「上」としています。
しかし、これらの地名は川上・川下でも説明できます。

「上」の基準点は京都だけでなく、少数ながらローカルセンター基準の地名もあります[39305]。「関東公方」時代の鎌倉街道では鎌倉に近い方に「上宿」がありました[39526]。同じ記事では、近世の川越基準による上下地名の事例にも言及。

いろいろな上下地名がありましたが、最後に残った特異な事例が「上諏訪」と「下諏訪」でした。[36757]
諏訪大社の「上社」「下社」に由来することは確かでしょうが、社の上下関係は何に基いて決められたのでしょう。
「御神渡」により上社から下社に渡ると伝えられる男神(建御名方神)が上位とされているのでしょうか。

諏訪に降った「かみゆき」[86804]から始め、思いを巡らすうちに諏訪に戻りました。
あまり使われていないのかもしれませんが、「神雪」もなかなか味わいがある表記かな などと感じた次第です。
[86788] 2014年 12月 12日(金)23:49:42【1】hmt さん
明治村
[86786] EMMさん
[86754]で試しに検索した「地名」は「明治」でありました。【引っかかったのが 3952件】
細かく見てはいませんが、使用事例のかなりの割合が年号としての使用だと思われます。

改めて「明治村」で検索すると 69件でした。うち「博物館 明治村」が8件あり、博物館が省略されている記事もあります。
更に『正保・元禄・天保・明治村高比較表』も8件あるので、地名としての使用事例は 実質 50件以下?

それはさておき、この機会に hmtマガジン特集 明治村・大正村・昭和村 を作りました。
市町村雑学 年号の入った市町村 に記されている記事集の増補版といったところです。

【念の為に追記】
[86786] EMMさん
大正と昭和は条件1で除外されるため【以下略】

“条件1”は [86750]白桃さん に記されています。
1.現役の都道府県市区町村の名称に使用されていないもの(×の例:東京、渋谷、博多)

例示された福岡市博多区のように、政令指定都市の行政区に使われた地名は、今回のクイズの対象外です。
従って 今回のクイズでは、大阪市大正区の「大正」や 名古屋市昭和区の「昭和」は除外されます。

一方、市区町村変遷情報が対象としている「自治体」は 「市」の中に設けられた行政区を含んでいません。
東京都の特別区と違い、区議会がない区ですから 当然の扱いと思われます。
変遷情報では全く無視されているわけではなく、例えば昭和7年【大正ではない!】に行なわれた 大阪市大正区の設置 が記録されています。しかし、自治体名は あくまでも大阪市であり、変更内容欄が“港区から大正区が分区”となっています。

雑学年号の入った市町村は、このような変遷情報検索に基いて作成されているので、大阪市大正区、名古屋市昭和区が含まれていません。
このような事情により、大阪市大正区が 現存市区町村を示す太字で記載される状態になっていない ことをご承知ください。

なお、むじながいりさんの パラパラ地図 は 行政区も対象としており、大阪市大正区が「大正」の唯一の生き残りであることが示されています。
[86778] 2014年 12月 9日(火)19:53:46【1】hmt さん
甲州へ (2)石和温泉
上野原から大月まで乗った電車は、銀色塗装ながら115系でした。
駅前案内所でパンフレットなど見ていたら、富士山を眺めるスポットを教えてくれましたが、雲がありそうだったのでトライせず。

石和温泉駅で下車。駅前に足湯があったので一休みしているうちに白桃さんの姿を見たので声を掛け、ホテルに同行。
珍しくも一番乗りで到着? 受付時間前なので、ホテルの前の温泉通を散策。中央に水路【近津用水】のある真っ直ぐな桜並木の道路ですが、明治40年(1907)の洪水前には 笛吹川の流路だったことを思い、俳句など眺めながら歩きました。

明治40年の洪水が流れ込んだ鵜飼川は、更に古い時代の笛吹川だった時もあったことでしょう。
宿場町の南と北とにある2本の流れ。自然の力は、笛吹川の本流を何度も変えたのでしょうが、大正年間の工事によって、本流は現在の南側に確定したものと理解します。

かつての鵜飼川や鵜飼橋【笛吹市役所付近】の名が示すように、夏には 石和鵜飼 が催されるのですが、船上からでなく鵜匠が水中を歩いて鵜を操る「徒歩鵜(かちう)」なのですね。

温泉湧出は 1961年(昭和36年)とのことですから、この地が温泉地に変貌してから 約50年の歴史です。

くせのないお湯にゆっくり浸かった後は、恒例の一次会。

近況報告の中で私が注目したのは、MasAkaさんが 東京都を通らずに横浜から会場に来たルートでした。
橋本からバスを2本乗り継いで相模湖に出たとのことでしたが、この2本目のバスこそ、96年前に hmtの母が人力車で旅した道[86777]をなぞるものでした。

道志橋[85669]は 川底から橋床まで 100m という高層橋 と説明されています。そして 相模ダム[43001] の堤高は 58.4m。
1918年当時の橋は 道志川・相模川の水面のすぐ上に架けられていたはずですから、人力車はこれだけの深さの谷を降り、そして登らなければならなかったのでした。

宴会の後、会場いっぱいに広げられた自治体パンフレット[86773]は壮観でした。
とても選びきれませんでしたが、いくつかいただきました。後でゆっくり拝見するつもりです。

中国雑技を30分見た後は、これも恒例の二次会です。掘りごたつに座を占めました。
「40問○×クイズ」の中に、キリ番関連の質問がありました。
[30000]【注】をゲットした当人は もちろん覚えていたのですが、質問の意味を誤解したらしく、何故か誤答。
こんな調子で、かなり当てずっぽうに解答。まあ平均的な成績だったようです。
【注】数字の付く島群
この機会に収録洩れの四十島[67135]を記しておきます。

希望者募集に応じて 手を挙げて頂戴したのが、一次会で紹介のあった 富山県作成「環日本海・東アジア諸国図」です。

佐渡市作成による 「東アジア交流地図」 が落書き帳オフ会で紹介されたのは、昨年だったでしょうか。
類似した企画ですが、今年紹介された富山県版の方が先輩で、落書き帳記事 もあります。

富山県と言えば、来年のオフ会開催地の第一候補。hmtは白熱した議論の中で沈没。ごめんなさい。

翌日朝食は和食の膳。揃って朝食は第9回岐阜以来の2度目。

帰路は、JOUTOUさんのクルマに3人が便乗したものの、あまりの好天気に2人は勝沼ぶどう郷駅で下車。
新宿まで送ってもらったのは私だけでした。
[86777] 2014年 12月 9日(火)19:42:15【2】hmt さん
甲州へ (1)上野原
第11回の落書き帳公式オフ会開催地は 山梨県でした。
hmtの住む埼玉県とは隣接しており、県境の交通路 にあるように 雁坂トンネル有料道路も通じています。
しかし 公共交通機関に頼る身なので、直行することは叶いません。

武蔵野線で西国分寺に出るつもりが、事故の影響で新宿経由に変更。赤い電車は特別快速だったのに、高尾【注】に着いたら少し前に甲府行が発車したばかり。ま、急ぐ旅ではないので次を待ちましょう。
【注】[86779]の指摘により誤記訂正
ついでに、高尾山と同様に紅葉の名所である京都の「高雄」は「高尾」とも書くのですね。だから槇尾・栂尾と総称して「三尾」。

「ぎん色の電車」で、山梨県に入って最初の駅である上野原で下車しました。

上野原で下車した理由の一つは鉄道地理の観点なのですが、その他に極めて個人的な理由がありました。
その理由というのが、「1918年中央線乗り越し事件」の現場を見ておきたいということです。

1918年秋に hmtの長兄hmfが誕生しました。場所は落書き帳に300回以上登場したという津久井[86752]です。
hm家の跡継ぎ誕生ということで御目出度いのですが、あいにく父は東京の病院に入院中でした。
退院を待てなかった父は、母子が旅行できるようになったら 病院に連れてくるようにと手紙で伝えました。

当時の交通事情。神奈川県津久井郡の北西部をかすめる中央本線は、官設鉄道時代の1901年に開業しており、与瀬駅【現在の相模湖駅】が設けられていました。もちろん単線ですが、蒸気列車は八王子-飯田町間の甲武鉄道と直通運転しました。鉄道国有化を経た 1918年当時も、基本的には同じことです。

1925年の『汽車時間表』を利用して、旅程を組んでみます。
自宅・与瀬駅間の交通。現在は国道412号で約10 km、バスもありますが、当時の道路は、道志川や相模川を越えるためにつづら折りの道で 谷を降りてはまた登る という難路。ここを人力車で通り抜けるのには、どのくらいの時間を要したのでしょうか。

与瀬発の飯田町ゆき列車は、1101, 1329, 1605, 1906【便宜上24時間制で表示】、所要時間は2時間10~15分。
36.5マイルの三等運賃は93銭、二等車【グリーン】は倍額でした。

東京での仕事は、父子対面と写真撮影くらいですから、一泊二日の旅程でOKでしょう。
問題になった帰路は 日暮れの早い冬であることを考えると、飯田町発 1216発に乗車したいところです。その次は3時間後ですから夜にかかってしまいます。

母子に同行してくれたのが祖母【安政生まれ!】ですが、自力での旅行経験ゼロという点では同レベルです。
それでも往路は無事。待望の父子対面を果たし、お宮参りの衣装で記念写真も撮影。
大任を果たして心も軽く帰途についた3人を待っていたのは思わぬアクシデントでした。

小仏トンネルを抜けて汽車を降りようと2等客室【グリーン車】からデッキに出るドアを開けようとしたが開かない!
嫁と姑は あれこれ試みたが 扉はビクともせず。客室内に1組だけいた乗客【話に夢中だった新婚さん】の助けを借りて、ようやくドアを開いた時には、発車ベルを残して汽車が動き出しました。

お迎えの人力車夫が待つ与瀬駅を後にし、心が動転したお上りさんが着いたのが上野原駅でした【藤野駅は未開業】。
事情を話したら 早速 与瀬駅に電話して 車夫達に待ってもらうように手配し、次の列車で戻るよう 案内してくれました。
「あの時の駅員さんは本当に親切で良い人だった。地獄に仏とはこの事だ。」
語り継がれたこの事件により、「上野原駅」は hm家の人々にとり 忘れられないものになったのでした。

個人的な無駄話を書いたのは、旅行の機会が少なかった1世紀前の人にとっては、近距離の旅行でも大冒険であったことを伝えることで、何かの参考になるかと思ったからです。

さて、現在の 上野原。ここは地理的観点としては 桂川【相模川の上流】が作った河岸段丘地形で知られています。

駅は幅の狭い段丘【等高線190mと180mの間】上にあり、プラットホームにある待合室のような建物が駅舎です。地理院地図 の鉄道は 記号化されているので、駅舎が中心からずれているように見えますが、プラットホーム中心線上に駅舎があります。

改札口を通って駅舎東側の跨線橋から北口に出ると、バス停のある駅前です。ここは、線路や駅舎のある段【等高線190mと180mの間】よりも1段上ですが、200m等高線【やや太い】と190m等高線の間にある幅の狭い段で、バスが方向転換するのがやっとのスペースしかありません。
「市の代表駅」という言葉から想像される駅前の賑いとは全く無縁の存在でした。

中央道のインターチェンジは250m等高線【やや太い】の南側、その北には市街地のある260m前後の上位段丘が広がっています。これこそが名前のとおりの上野原でした。

駅の南口。こちらは、折角登った跨線橋からすぐに続く長い下り階段です。ここを降りれば180mより下にある桂川の沖積面です。新田地帯であったことは、地名にも残されています。桂川橋付近の水溜りに島田湖という名があることは[43357]で触れました。
[86748] 2014年 12月 4日(木)20:45:36hmt さん
津の守坂 (7)敗れた容保・慶喜の名誉回復
戊辰戦争敗戦後の会津藩は、明治2年11月にまだ赤子だった容保の嫡男・容大による家名存続が許されました。三戸県内に3万石の斗南藩が成立し、残りは江刺県に編入されました。記事
容保個人について言うと、明治5年 38歳で自由の身になり、翌年六男の恒雄が会津の邸で誕生しました。
明治23年に陸軍省から鶴ケ城跡を払下げられています(56歳)。

会津の御薬園[79710]で誕生した松平恒雄は 外交官試験を首席で合格し、ロンドン海軍軍縮会議(1922)首席全権など活躍。
昭和3年に松平恒雄の長女と昭和天皇の弟である秩父宮との御成婚が決定しました。
皇太后【貞明皇后】の強い意向があったと伝えられますが、元会津藩関係者にとっては、これが“朝敵”から完全に名誉回復した出来事として 喜びをもって受け止められたことと思います。

八重の桜の主人公・新島八重(84)の喜びの1首。
いくとせか みねにかかれる 村雲の はれて嬉しき 光をそ見る 

秩父宮妃の名は、読みは異なるものの 貞明皇后【さだこ】と同じ「節子」という字であったため、「勢津子」と改められました。
皇室ゆかり「伊勢」と、「会津」とを結びつけた名だそうです。

松平恒雄は、戦後の新憲法による第1回参議院議員選挙で、福島地方区から当選。初代参議院議長に選ばれました。
なお、福島県との関係を言うと、1976年から12年間福島県知事を務めた松平勇雄は、松平恒雄の甥【容保の次男の子】です。

松平恒雄の孫【長男一郎の子】は徳川恒孝(つねなり)として宗家を継いでします。
家達の後を継いだ家正の子が24歳で早世したためです。
徳川家の当主:初代家康、2代秀忠、3代家光、4第家綱、5代【館林】綱吉、6代【甲府】家宣、7代家継、8代【紀州】吉宗、9代家重、10代家治、11代【一橋】家斉、12代家慶、13代家定、14代【紀州】家茂、15代【(水戸→)一橋】慶喜、16代【田安】家達、17代家正、18代【会津】恒孝。

15代慶喜から16代田安亀之助への相続は[86730]で触れ、8歳の家達が静岡藩知事だった明治3年の蓬萊橋視察は[85225]に記しました。

徳川慶喜は 静岡から東京に移り住んだ翌年、明治31年(1898)に皇居に参内して明治天皇に拝謁しました。勝海舟の下工作があったのでしょうが、有栖川宮威仁親王【熾仁親王の弟】の仲介により大政奉還以来の顔合わせが実現したとされます。

こうして徳川宗家のご隠居だった慶喜は、明治35年(1902)に宗家とは別の「徳川慶喜家」を興すことを認められ、「公爵」を授けられ、貴族院議員になりました。
[43497]では“長~い長~い余生”と書きましたが、公爵家を七男慶久に譲って再び隠居するまでの8年間は政界復帰していました。

慶喜の小石川第六天町[70277]の宏壮な屋敷には、孫の喜久子【慶久の次女で 後の高松宮妃】、喜佐子【『徳川慶喜家の子ども部屋』の著者】など 大勢の家族が暮らしていました。

高須四兄弟と従兄弟の徳川慶喜とが登場する雑情報。思いがけず長い連載になりました。
書きながら気を使わされたのが、「実名」(じつみょう)または「名乗」(なのり)です。

4兄弟の徳川慶勝と一橋茂栄。「慶」は 12代将軍家慶、「茂」は 14代将軍家茂の偏諱ですから「よし」・「もち」と読めますが、茂栄の「はる」は読めません。松平容保は有名なので「かたもり」と読めますが、普通なら無理。松平定敬の「あき」も読めません。

慶喜も「慶」は 12代将軍の偏諱だからよいが、「喜」を「のぶ」と読めるのは有名人だから。
[43834]には、よしひさ」という別の読み方も一般的に知られていたと記しました。Wikipediaによると、将軍在職中の幕府公式文書に記錄が残る他、本人の署名や英字新聞に「Yoshihisa」の表記が残っているそうです。
[86747] 2014年 12月 4日(木)20:25:50hmt さん
津の守坂 (6)錦の御旗
[86742] グリグリさん
幕末の幕府と朝廷と諸藩の勢力関係はなかなか理解が難しいのですが、

この勢力関係に決定的な影響力を及ぼした「切り札」が、鳥羽伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」ではないかと思います。
国立公文書館デジタルアーカイブの絵巻物にある「戊辰所用錦旗及軍旗真図」の解説によると、その起源は承久の乱(1221年)に際して後鳥羽上皇が官軍の将に授与した旗で、赤地錦に金銀で日像・月像を刺繍したり、描いたりと伝えられます。

戊辰戦争で使われたものは、明治天皇の権威に基づく真正の錦旗ではなく、岩倉具視の策謀により薩摩と長州とが勝手に作ったものでした。しかし、当時は存在しなかった「真正の錦旗」を見た人は もちろん居ませんから、「錦の御旗は天皇の旗で、我は官軍である」と新政府軍が言えば、これに反論はできません。
「十六弁八重表菊紋」が天皇専用(親王も不可)という定めは明治2年太政官布告802号でしたが、それ以前の戊辰戦争に際して、日・月像以外の 菊の紋章像の錦旗も使われたようです。

承久の乱の時の鎌倉武士は、本物の錦旗を見せられても怯むことなく、武力で朝廷側を制圧しました。
それなのに、戊辰戦争では贋物の錦旗にしてやられたのは何故か? 
それは、「錦旗」を含む尊王論という概念が 幕末の武士の中に ある程度浸透していたからです。
そして、この概念を日本中の知識人に広めた本こそ、水戸光圀が編纂を開始した『大日本史』でした。

「錦旗」は水戸黄門によって「印籠」と同じような力を持つことになりました。
しかし この「無敵兵器」が向けられた相手は、 水戸家出身の徳川慶喜 を総大将とする幕府軍であり、幕府実働部隊の司令官は 「水戸の血筋」[86714]を引く高須松平家出身の会津藩主・桑名藩主 でした。
水戸学という「教養が邪魔して」朝廷に刃向かうことができず、賊軍として敗れるに至ったとは、何とも皮肉な結果でした。

2001年の「911事件」の際、柳井駐米大使はアーミテージ国務副長官に「Show the flag」と言われたとのこと。
洋の東西を問わず、「旗」が軍事行動を目に見える形で示す重要な道具であることを、この時にも痛感しました。

それはさておき。幕末に朝敵にされたのは会津だけではありません。孝明天皇の時代には長州が賊軍で会津が官軍でした。
でも、最終的には最後に「勝てば官軍」で、贋物の錦旗もその正当性が追認され、♪宮さん、宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは、なんじゃいな、トコトンヤレ、トンヤレナ ♪あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか、トコトンヤレ、トンヤレナ という行進曲により、薩長軍が全国を席巻することになりました。
[86741] 2014年 12月 1日(月)20:59:38【1】hmt さん
津の守坂 (5)京都だけじゃない 越後・蝦夷・九州まで波瀾万丈 - 松平定敬の生涯
高須四兄弟の中で最若年の松平定敬(さだあき)は、安政6年(1859)14歳の時に伊勢桑名松平越中守家 13代を相続しました。亡くなった前藩主定猷(さだみち)の男子【後に14代となる定教】が幼少のために、これも幼い女子・初姫の婿になる約束で迎えられました。

この家は 16世紀の松平定勝を祖とする松山藩主家「久松松平氏」の分家です。説明のため、ちょっと歴史を遡ります。
定勝の母・於大の方は水野氏の出で、松平家に嫁いでいた天文11年に後の徳川家康の母になりましたが、今川氏との関係で離縁されました。再婚先の久松家で定勝の母になったのは永禄3年(1560)で、この年の桶狭間の戦いにより状況が変りました。
今川氏から自立した家康は 於大【伝通院】を母として迎え入れ、その息子【つまり家康の異母弟】の定勝に松平の姓を与えて家臣としました。この家系を久松松平家と呼びます。

桑名には、この松平隠岐守定勝が元和2年(1616)に入っています。しかしこの本家は、次の代に伊予松山に移りました。
桑名城主の後任として美濃大垣から移って来たのが松平越中守定綱【定勝の三男、分家の藩祖】です。
久松松平家【定勝系、定綱系】は家康の男系の子孫ではないので、親藩ではなく譜代大名とされるようです。

定綱系は 桑名の後、3代目が越後高田に、7代目が陸奥白河に移封されました。9代藩主が寛政の改革で知られる老中・松平定信[45967]【8代将軍吉宗の次男で田安家の始祖になった宗武の子】です。定信が老中に就任したことも、久松松平家が親藩でなく、譜代大名であることを裏付けているようです。10代定永に家督を譲った後、定信が要望していた桑名復帰が実現しました。
なお、藩主は桑名・高田・白河・桑名を問わず 通しの歴代数で表示しています。

[86738] hmt
「一会桑体制」呼ばれる一橋慶喜・松平容保・松平定敬のトリオ

「一会桑」とは、言うまでもなく「一橋・会津・桑名」のことです。
一橋慶喜が元治元年(1864)3月に将軍後見職を辞して新たに就任したのは、「禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮」という新設ポストでした。摂海というのは大阪湾のことです。

【注】この人事異動を忘れていた[86719]の訂正
西郷吉之助と組んで第一次長州征伐を決着させた征討軍総督・徳川慶勝を批判した慶喜の【将軍後見役だった】は誤記です。

その翌月に京都所司代に任命されたのが桑名藩主・松平定敬でした。
先代藩主の定猷が安政5年から高松藩・松江藩と共に命じられていた京都警衛の役目は定敬にも引き継がれていましたが、まだ 19歳であった定敬は 若年を理由に 京都所司代の重責【注】を固辞しました。しかし、兄の会津藩主・松平容保(30歳)が一旦任命された軍事総裁職から京都守護職に復帰するということでもあり 断りきれなかったようです。

【注】京都所司代
京都所司代は、幕末に新設され軍事的な組織である京都守護職などと違い、朝廷と幕府との間の連絡ルートである基本的な行政組織です。3万石以上の譜代大名が任命されていました。伊勢国の他に越後国【柏崎】に飛地がある桑名藩は6万石で、家格は十分にありました。

こうして発足した「一会桑体制」。若い定敬にとって それからの4年間は厳しい政治体験の場になりました。
幕府に属してはいるが江戸の幕閣とは距離を置き、朝廷上層部に食い入ってこれと協調。国政参加を求める諸藩の力はできるだけ排除。このような姿勢で禁門の変、長州征伐と進んできたのですが、第二次長州征伐の処理を機に「一会桑」の足並みは乱れ、この政権は崩壊しました。

孝明天皇の崩御後、京都における幕府の権力は失墜。慶喜は大政奉還で逆転を狙うも、倒幕の動きを止めることはできず、戊辰戦争に突入。
鳥羽・伏見の戦いで、桑名藩兵は会津藩兵と共に 主力として薩長軍と激突したが大敗。
その後、定敬は容保と同様に慶喜に従って江戸に同行させられました。

置き去りにされた本国の桑名では意見が割れましたが、結局先代藩主の実子定教を擁立し、新政府に恭順。無血開城しました。
慶喜に従って江戸に着いた定敬は、兄の容保と共に抗戦を主張したものの、恭順することに決めた慶喜に見捨てられました。

ここで、桑名藩飛地の越後柏崎が表に出てきました。
定敬は柏崎に移って、長岡藩の河井継之助と同盟し、北越戦争を戦ったのですね。
本国の桑名は恭順しているのに、前?藩主の定敬が柏崎で新政府軍に抗戦するという分裂状態。
しかし、結局は敗れて会津へ、更に箱館へと落ち延びました。

桑名の家老・酒井孫八郎は、藩の存続のために決意を固め、五稜郭に乗り込んで定敬を連れ出し江戸に出頭させようとしました(明治2年4月)。ところが定敬もさるもの、そのまま米国船で上海まで密航して逃亡。
それも路銀が尽きて、5月には市ヶ谷尾張藩邸に入って遂に新政府に降伏。

展覧会の図録p.64には、一橋茂栄[86730]【中立的立場】から徳川慶勝[86719]【新政府側】に宛てた明治2年7月1日付書簡が残っており、市ヶ谷邸での定敬の様子を心配していると記されていました。処分は死一等を減じ永禁錮でした。
最終的には桑名藩預けになり、明治5年正月免罪。翌月には、安政6年には3歳であった婚約者初子と結ばれました。

明治10年西南戦争。定敬は桑名の士族を募集して、今度は官軍として薩摩を討つために九州に赴きました。応募者350名。

これで定敬の長い戦いはやっと終り、翌明治11年には4兄弟の再会、銀座の写真館での記念撮影[86738]、本所横網町の慶勝邸での会食ということになりました。
明治27年から容保の後任として日光東照宮宮司に就任。

明治41年(1908) 63歳で没す。4兄弟の中で一番長生きでした【慶勝60歳、茂栄54歳、容保59歳】。
[86738] 2014年 11月 30日(日)13:12:07hmt さん
津の守坂 (4)松平容保 - 京都守護職としての栄光から戊辰戦争の敗戦へ
江戸四谷の屋敷で育ち、幕末の動乱期を生きた 高須藩四兄弟の物語 を続けます。

四兄弟の父である美濃国高須の10代藩主松平摂津守義建は 10男9女をつくり、うち6男1女が成人しました。
この6人の男子がすべて大名家の当主になったという事実は、優れた資質の家系と共に 運にも恵まれたことを思わせます。
もっとも、万延元年(1960)に最後の13代高須藩主になった十男義勇は 僅か2歳で相続しました。版籍奉還の明治2年には 11歳でした。そして石見国浜田藩を継いでいた三男武成[86730]は、義勇誕生よりも10年以上前に23歳で死んでいます。
このような事情を見ると、大名家というのは、家系を断絶させないだけでも 精一杯の努力を求めれていたようです。

その中で 立場の異なる4藩主として幕末が明治に変る時代に居合わせて 激動する世の中を生き抜き、平和が戻った明治11年(1878)実父義建の十七回忌に洋服姿で再会して、四兄弟の記念写真 を残していることは 感動的なエピソードであると思います。この時の年齢は、【右から】徳川慶勝(よしかつ)[86719] 55歳、一橋茂栄(もちはる)[86730] 48歳、松平容保(かたもり) 44歳、松平定敬(さだあき) 33歳でした。

ちょんまげ時代に戻ります。高須四兄弟の中でも最も知られているのは義建七男の松平容保です。
12歳で父の弟である会津松平家藩主容敬の養子になり、18歳で家督相続。この家は2代将軍秀忠の御落胤である保科正之[79357]を祖とする御家門です。養子に入った容保は、将軍に忠勤を励むべしという会津松平家「家訓」(かきん)を殊更に重視する姿勢を取りました。

容保が会津28万石の藩主になった翌年の嘉永6年(1853)は ペリー来航の年で、江戸を防衛すべく急遽築造された「品川台場」[80264]に配備されたのは 川越・会津・忍の3藩でした。彼としては、これが対外的な初仕事でしょう。
もっと大きな役目を負わされたのは、文久2年(1862)に命じられた京都守護職【注】です。家臣団からは反対されましたが、政事総裁【注】の松平春嶽らに「家訓」を引用して説得され、止むなく受諾するに至ったとか。
【注】
幕末に新設された幕府の3要職。将軍後見職 一橋慶喜、政事総裁[72830] 松平春嶽、京都守護職 松平容保

容保が藩兵千人を率いて上洛し、黒谷の金戒光明寺を本陣としたことは[86719]にも記しました。
将軍上洛の道中警護役だった壬生浪士組を会津藩の配下として、都の治安維持にあたったことはよく知られています。
# 近藤勇の浪士組に「新選組」の名を与えたのは、八月十八日の政変(後出)での働きを評価したものです。

温厚な人柄の容保は 孝明天皇からは絶大な信頼を得ており、御前で馬揃えを披露したした際の写真で着用しているのは、下賜された大和錦で仕立てた陣羽織であるとか。

雨天の中の馬揃えで体調を崩し、寝込んでいた容保にもたらされたのが、天皇が尊攘派公家への対応に苦労しているという薩摩藩からの情報でした。これにより薩摩藩と会津藩とは協力することになり、文久3年(1863)八月十八日の政変で 朝廷から長州勢力を一掃し、政局は大きく動きました。天皇は容保に感謝して 宸翰と御製を贈りました

元治元年(1864)の京阪方面は「一会桑体制」呼ばれる一橋慶喜・松平容保・松平定敬のトリオが実権を握ったように思われていました。
しかし、禁門の変の後、第一次長州征伐は生ぬるい決着に終りました。一橋慶喜は、長州征討軍総督徳川慶勝[86719]を批判し、「総督の鋭気は薄く、薩摩芋に酔うのは酒に酔うより始末が悪い」と評したそうです。

薩長同盟が成立するのは あと1年余り先のこと になりますが、時の流れはこの頃から少し変り、会津に不運が訪れてきたようです。禁門の変に際して参内した時も両側から支えられてやっと歩ける状態だったようで、どうも雨中の馬揃えで崩した体調も不安です。脱線しますが、1863年の雨中馬揃えから私が連想するのは、1943年10月に雨中の神宮外苑で行なわれた出陣学徒壮行会です。動画

決定的な不幸は、慶応2年(1866)夏に将軍家茂、その年の暮に孝明天皇と、2人のトップを相次いで失ったことでした。公武合体路線で仕事を進めてきた容保としては、頼みの綱を2本ともに断たれたも同然です。
将軍慶喜は大政奉還で逆転を狙ったものの、王政復古の大号令に始まる倒幕運動は大波になり、軍事的にも幕府軍が鳥羽伏見で大敗しました。

容保は慶喜との同道を求められて大阪城から江戸に戻り、ここで隠居して会津に戻ることを命じられました。
慶喜からも見捨てられた容保。この後で繰り広げられる会津戦争において、容保は「前藩主」として総指揮にあたったわけです。
結果はご承知のとおりの完敗ですが、容保以下の藩士一同は、武士の誇りとして戦わずに降伏することなど できなかったのでしょう。

降伏後の容保は江戸での幽閉を経て明治5年に赦免されました。
明治13年から日光東照宮などの宮司となり、藩祖の保科正之を祀る土津神社の宮司も兼任しました。
この間の明治9年、新選組の後援者であった小島鹿之助[33902]と佐藤彦五郎[78819]の求めに応じた容保は、近藤勇・土方歳三の名誉回復のための篆額を書いています。石碑は高幡不動にあります。
[86735] 2014年 11月 28日(金)13:58:25hmt さん
にしもろ(西諸)
[86732] グリグリさん
西諸地域、すなわち、西諸県郡の自治体と言うことで、えびの市、小林市、高原町の3市町の合同イベント

「にしもろ」という呼び名は知りませんでしたが、3市町をメンバーとする 西諸広域行政事務組合 が存在するのですね[14512]

諸県(もろかた)は 娘の髪長媛が応神天皇に仕えたと日本書紀に記錄された豪族の名で、古代から日向国南西部の郡名でした。
江戸時代には複数の藩が分立していた日向国は、明治4年(1871)11月に南部の都城県と北部の美々津県に属しました。
明治6年1月には統合して初代宮崎県が誕生しましたが、明治9年(1876)8月には鹿児島県に合併されました。

西南戦争後の分県運動を経て 明治16年(1883)に宮崎県が復活した際に、諸県郡の大部分は宮崎県北諸県郡になりました。
しかし、南部だけは南諸県郡として鹿児島県に残されました。
宮崎県北諸県郡からは、翌明治17年に西諸県郡と東諸県郡とが分立したので、鹿児島県南諸県郡と合せて4つの諸県郡が揃いました。

志布志を中心とする鹿児島県日向国南諸県郡は 明治30年(1897)施行の郡統合で【大隅国】囎唹郡になり消滅しました。
残った諸県郡は 宮崎県日向国の北・西・東の3郡ですが、意外にも北諸県郡がこの中で一番南にあるんですね[13215]
これは都城中心の考え方から、分立した2郡を西(郡役所:小林)と東(同:高岡)に命名したからでしょう。

ここまでは、過去記事などにより 諸県郡の沿革話を復習しました。

それはさておき、過去記事には 宮崎県・鹿児島県の4市町が関係する境界未定地域に関係する疑問も示されていました。2年も前の疑問ですが、お答えしておきます。

[82024] グリグリさん
唯一考えられるのは、湧水町と小林市の県境と、小林市と綾町の間の境界に未定部分があり、明確な小林市とえびの市の未定と合わせて4市町全体が未定になっていると言うことでしょうか。どなたかこの謎解けますか?

“湧水町と小林市の県境”は“湧水町とえびの市の県境”の誤記と思われます。
その上で、グリグリさんが見落としていると思われる境界未定部分を示します。

A:鹿児島県湧水町と宮崎県えびの市との 県境界未定部分
B:宮崎県小林市と綾町との 市町境界未定部分

A,B 2ヶ所の他に 既に指摘されている えびの市と小林市との間の境界未定部分が存在します。
3ヶ所の境界未定があるために、お説のとおり「4市町全体が未定」ということになります。

# リンクした地理院地図について。
最初は地形図本来の情報を重視して zoom=15 を使いました。
Aの西端:宮崎県西端の黒園山付近
Aの東端:肥薩線付近
Bの東端:綾北川古賀根橋ダム北の曽見川合流点付近
Bの西端:大森岳南東(綾南ダムからの地下水路付近)

ところが、この地図の境界線は見易い状態ではありません。
「ウオッちず」の頃の境界線は、着色された太い線でもっと明瞭でした。
境界線の途切れた箇所を探す目的ならば、地理院地図を少しズームアウトして zoom=13 程度にするのが適切であると知り、上のように改めました。
[86730] 2014年 11月 25日(火)23:01:47hmt さん
津の守坂 (3)高須の松平義比から尾張の徳川茂徳へ、隠居玄同から御三卿の一橋茂栄へ
徳川慶勝に続く高須松平家4兄弟の2人目は、10代義建の五男【夭折2人あり実質三男】として誕生した茂栄(もちはる)です。
幼名鎮三郎。元服後は建重・義比・茂徳・玄同・茂栄など多数の名が使われていますが、便宜上統一して使う場合は、慶応元年に最終的な名になった茂栄にします。

過去記事では 尾張藩主時代の「徳川茂徳」を使っていました。今回の御三卿当主の実名も、正式には「徳川茂栄」ですが「一橋茂栄」という形で使われることが多いと思います。

部屋住みのまま一生を過ごす可能性もあった分家の五男。それが3万石の高須藩主「松平義比」(よしちか)に始まり、約62万石の尾張藩主徳川茂徳(もちなが)へ、そして御三卿の一橋茂栄へと 3つの家を相続するに至ったのは大出世です。
それは激動の幕末の中心で活躍した人物だからですが、彼の名をあまり知らなかったのは 私だけではないと思います。

彼が高須藩11代の跡継ぎになれたのは、長兄の慶勝が名古屋の本家を継ぎ、その次の武成(たけしげ)が石見国浜田藩を継いだためでした。
なお 慶勝と武成は正妻の子ですが、茂栄は異母弟です。慶勝・茂栄・容保・定敬は4兄弟と言ってもすべて腹違いでした。

安政の大獄の時代、一橋派の兄・慶勝が戸山に謹慎させられ 尾張家15代を継いだ彼は 14代将軍家茂の偏諱を得て徳川茂徳と改名しました。慶勝に続き 四谷家は尾張家のスペアの役割を担ったわけですが、前藩主の政策を支持する家臣団の統制にも苦労があり 彼にとって 本家藩主の荷は重かったようです。
結局尾張藩の実権は 復権した やりての兄に握られてしまったようで、文久3年(1863)には 33歳で隠居。玄同はその号でした。

14代将軍家茂から再度の偏諱による 茂栄 の名を賜った慶応元年(1865)には35歳。この頃には 15歳年下の将軍と親しい関係にあったようで、第二次長州征伐で上洛した家茂の補佐役的な立場で働きました。

この年横浜に赴任してきた英国公使のパークスは、外国嫌いの孝明天皇が拒否している通商条約の批准を求め、条約4カ国(英仏米蘭)の連合艦隊を兵庫に送り込み、日本を威嚇しました。
これに対する幕府と朝廷の二元外交。対応はモタモタし、遂に家茂が辞任まで言い出して条約勅許を求める状況になり、孝明天皇も止むなく3港開港の通商条約を許すことになりました。パークスの軍事力示威作戦が成功したわけです。
茂栄は この間 苦悶する家茂と 朝廷との間の調整に尽力。家茂からは「今後親とも思う」という心情が伝えられました。

茂栄は江戸に帰った後、大阪城での日々を偲んで家茂像を描きました。
茂栄自身が撮影した写真が残されていますが、残念ながらその画像は Webで未発見です。現物は天璋院に献上後焼失。
茂栄が描いた顔に御用絵師が陣羽織の立姿の体を加えたものと考えられており、首の角度が不自然です。
和宮はこの絵を「異風」であるとして不満であり、茂栄は書き直した束帯姿の画像を贈りました。 こちらの絵は Wikipediaに掲載されています。

茂栄への処遇として、家茂は生前に清水家相続の内命を与えていました。御三家の元当主が御三卿になるのは異例ですが、家茂は親しい茂栄を側に置きたかったようです。家茂の死によってこの話は中止されましたが、兄慶勝の請願もあり、慶喜が将軍になったために空席になった一橋家相続ということになりました。清水家を継いだのは慶喜の弟・徳川昭武[43497]でした。

そして慶応4年(1868)の戊辰戦争。その後始末の段階で、茂栄は徳川本家の総代として 嘆願活動の中心になりました。
3月には江尻まで出向いて、東征大総督の有栖川宮から朝敵になった慶喜への寛大な処分の了承を得ました。
徳川家の存続についても田安亀之助[85225]による相続が認められ、駿府70万石を確保することができました。

御三卿は将軍の家族という立場だったのですが、一橋家は田安家と共に明治元年(1868)5月に至り初めて藩屏に列し、徳川宗家から独立した藩【一橋藩・田安藩】が成立しました。
しかし、3つ目の藩主になった茂栄の「一橋藩主」時代は束の間に終りました。

翌明治2年に出願した版籍奉還願に対する新政府の回答は、諸藩と違う形の処置でした。
茂栄はそれに従い、家政に従事する家臣138人を残し、他の1432人の家臣には暇を出し最寄りの地方役所所属とすることになりました。年貢も地方役所が徴収。新政府による「廃藩」のテストケースにされたようです。

藩知事表 に続く 151コマには一橋茂栄の名が見えます。
しかし、その頭に「知事」が付けられていないことにより、一橋藩が廃藩されたことが示されています。
[86719] 2014年 11月 23日(日)22:45:16【2】hmt さん
津の守坂 (2)屋敷があった荒木町、4兄弟長兄の徳川慶勝
今回のシリーズ。そのタイトル・津の守坂(つのかみざか)は、現在の新宿区荒木町にあります。
執筆の動機は、江戸時代 この地に上屋敷を構えていた尾張徳川家の分家・松平摂津守家(四谷家=高須松平家)とその屋敷に生れた四兄弟をテーマにした特別展でした。しかし、前回[86697]は 所領であった美濃高須や、木曽三川の治水工事に筆を費やし、特別展で紹介された江戸屋敷や人物について語るには至りませんでした。

高須松平家。それは治水の面で幕府から多大の支援を得ていただけでなく、「江戸定府」で参勤交代の義務を免れていた特殊な大名でした。
江戸で育って一生を江戸で暮す定めですから、美濃でなく江戸こそが「津の守」兄弟のふるさとなのでした。

江戸の武家地には町名がないので、荒木町という地名が現れるのは明治の地図です。
『明治十一年実測東亰全図』[78145]を見ると、陸軍士官学校になった尾張徳川家の上屋敷跡【市ヶ谷台】の南西に 四ツ谷荒木町の文字と高須藩上屋敷庭園跡の泉水が見えます。
市民に開放された庭園は新しい木【アラキ】で整備され、明治時代 この付近は芝居小屋・料理屋・芸者屋のある盛り場になったようです。「策(むち)の池」の一部と津の守弁天の祠は現存。
なお、現在の新宿西口・昔の角筈村にあった高須藩下屋敷にも「策(むち)の井」があり、こちらは[44125]で触れています。

[86697]で記したように、四谷家つまり松平摂津守家の最大の責務は尾張徳川家の後継者確保なのですが、実際問題としては 実子による相続だけで続けることは困難です。
8代将軍吉宗の政策に反対して敗れた第7代尾張藩主宗春の後 第8代尾張藩主になった宗勝は、四谷家第3代でした。これは当初目論見通りのスペア役を果たしたように見えます。
しかし 実は四谷家の実子ではなく、スペアのスペアである川田久保家からの養子だったのです。

大名家というのは、こんな具合に複雑な養子関係によりようやく維持されていました。
四谷家第9代の義和(よしなり)は水戸徳川家第6代治保(はるもり)の次男でした。つまり幕末近くの四谷家は、尾張の分家ながら 水戸の血筋 になっていたわけです。

高須藩第10代の松平義建(よしたつ)は 義和の嫡男で、その正室・規姫(のりひめ)も水戸家から来た従姉妹【治保の孫、有名な徳川斉昭(水戸家第9代)の姉】でした。
この夫婦の子が 12代将軍家慶の時代に尾張家14代を継ぐことになる徳川慶恕(よしくみ)、つまり高須四兄弟の長兄・慶勝です。

彼は御三家筆頭の立場ですが尊皇攘夷派で、安政5年(1858)に 大老井伊直弼が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印すると 徳川斉昭・一橋慶喜[43497]・松平慶永【春嶽】らと共に江戸城に押しかけて(不時登城)これを糾弾しました。
しかし、この抗議行動は当局側の弾圧【安政の大獄】を招き、慶勝も戸山の下屋敷での幽閉蟄居処分を受けました。

多趣味な文化人の彼は戸山謹慎の期間も有効に活用したのではないでしょうか。
書や博物学【注】だけでなく、写真術の研究家でもあり、撮影だけでなく自ら調合した薬品で現像も行いました。
【注】博物学への傾倒
 昆虫標本の作成。植物の精密なスケッチ。 四兄弟の写真 の背景に『草花図画帖』収録の作品が使われています。

慶勝(よしかつ)という名は、万延元年(1860)の復権【注】後に改めた名で、14代将軍家茂の補佐になり、将軍上洛に先立ち文久3年(1863)から朝廷と幕府を一体とする安定体制を築くべく京都での国事周旋活動を始めます。
【注】謹慎を解かれたが慶喜・慶永との面会・文通は禁止。正式の赦免は文久2年(1862)。

京都では異母弟の会津藩主・松平容保が京都守護職として黒谷の金戒光明寺に陣を構えており、この会津と薩摩が組んだクーデターから長州追放、禁門の変、第一次長州征伐へと政局が動き、慶勝は征討軍総督を勤めました。

慶勝は参謀になった薩摩藩・西郷に交渉させ、内部対立のあった長州藩相手に戦わずして決着させました。これは将軍後見役だった慶喜から見れば生ぬるい処置であり、後に復活した長州によって徳川政権が崩壊するに至った原因であったとも言えます。

慶勝は慶応3年(1867)の大政奉還後の上洛時に新政府の議定に任命され、小御所会議に出席。徳川慶喜【母方の従兄弟】に辞官納地を催告する役目を負わされました。そして鳥羽伏見の戦い後には慶喜逃亡後の大阪城受け取り。徳川御三家の筆頭として体制を守るべき尾張家なのに、新政府側としてこのような役割になってしまったのは残念なことだったでしょう。

新政府の地方官として府県と並列する「藩」という言葉が登場したのは慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)の政体書でした。
この時点で正式の改称があったわけではないと思いますが、幕藩体制時代から慣習的に呼ばれていたと思われる「尾張藩」が、新政府の地方組織である「藩」として再発足したので、便宜上これから先は「名古屋藩」と呼ぶことにします。名古屋藩という呼び方は、明治4年の廃藩置県で「名古屋県」に改められるまで使われました。

…というわけで、幕藩体制下において大名家系を存続させるスペアとしての存在意義を失った高須藩は、明治3年12月23日に廃止され、名古屋藩に編入合併される形で幕を閉じることになりました。太政官布告 M3-979 及び 980
[86697] 2014年 11月 19日(水)19:45:33hmt さん
津の守坂 (1)美濃高須藩
丸ノ内線が通る新宿通を四谷三丁目から少し東に進むと「津の守坂入口」という交差点があります。
北の合羽坂下に向う道が途中から下り坂になり、その西側が 松平摂津守の上屋敷跡 であったことに由来する地名です。
その地点から一つ東側の通りにある新宿歴史博物館で開催中の特別展 高須四兄弟 新宿荒木町に生れた幕末維新 を先週見てきました。

高須四兄弟については、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県まで に収録した 記事 の中で、次のように紹介しています。
余談ですが、3万石の小藩ながら、高須松平家出身の4兄弟は 幕末の歴史を彩りました。尾張藩主になった徳川慶勝は、議定として慶応3年師走の小御所会議[75495]に出席し、翌年正月には、徳川慶喜逃亡後の大阪城[43497]を新政府代表として受け取りました。それより前、慶応2年末に徳川慶喜の徳川宗家相続に伴い、一橋家を継いだのが 弟の徳川茂徳です。更に下の弟の 会津藩主・松平容保と 桑名藩主・松平定敬とは 幕末京都で治安維持の役目を担い、戊辰戦争の 朝敵 にされてしまいました。戦後、慶勝と茂徳とは、容保と定敬の助命に奔走し、明治11年に4兄弟は再会を果たしたそうです。

「津の守」と呼ばれた大名の家に生まれ、それぞれ別の大名の家督を継ぎながら幕末の動乱期を生きぬいた兄弟。
落書き帳の過去記事と関連させながら、関係する地名を交えながらこの記事を書いてみます。

松平摂津守、末尾を取れば「津の守」ですが、何故に摂津の略称が「津」なのか? Issieさんの解説[21549]をご覧ください。
もちろん江戸時代の難波の津は大坂奉行管轄下の幕府直轄領であり摂津守の領地ではありません。参考[72856]
では松平摂津守とは いかなる大名で、領地はどこだったのか?

徳川家康が天下を取った後で、この国の支配権を自分の子孫に確実に伝える仕組みの一つとして、後継者の予備軍である御三家の制度を作ったことはよく知られています。徳川御三家の筆頭が尾張家ですが、尾張家としてもその役目を確実に果すためには血統を伝える分家が必要になります。このようにして尾張家にも3つの分家が作られました。それぞれの江戸屋敷の所在地【いずれも現在の新宿区内】から、四谷家・大久保家・川田久保家と呼ばれましたが2家はスペアの役割を果して消滅し、幕末期に尾張本家以外に残っていたのは四谷家だけです。

この四谷家の当主には 松平摂津守として信濃国に3万石を与えられ、元禄13年(1700)に 本拠が美濃国高須に移されました。
「高須」は岐阜県海津市役所の所在地で、約60年前の昭和合併で海津町になる前は海津郡高須町でした。
# 播磨坂に名を残す松平播磨守は水戸藩の分家で常陸府中(石岡)2万石の殿様とか[72799]

展覧会の主役は江戸四谷にあった高須藩江戸上屋敷とその地で育った4兄弟であり、美濃高須藩の所領には殆ど触れられていなかったのですが、折角の機会なので美濃国の南端である高須輪中について少し記しておきます。

高須という地名は、横須賀関連で話題にした 須賀地名 の仲間で、河岸や海岸に土砂が堆積して形成された微高地に由来します。
木曽三川が作った濃尾平野に住みついた人々は、毎年のように繰り返される洪水被害に遭いながらも、自然堤防や人工堤防を利用して水利用を進めてきました。鎌倉時代中期の文献に高洲阿弥陀寺などの記錄があります。

現在高洲輪中の中央を流れている大江川は 木曽川・長良川の旧河道でしたが、天正14年(1586)の大洪水の結果、ほぼ現在に近い東寄りの流路に変ったとのことです。
江戸時代になると、名古屋を居城とする尾張徳川家の御囲堤が慶長14年(1609)に完成。これにより尾張側は保護されたものの 美濃側の洪水は一層深刻な状態になり、水害対策に財政破綻した小笠原氏は転封を願い出る事態になりました。

木曽三川については、木曽川下流河川事務所が発行している『KISSO』という刊行物があり、1991年の創刊号から最新号(92号)まで閲覧することができます。バックナンバーリスト
歴史ドキュメントや歴史記録の長期連載もあり、読み応えのある資料ですが、その56号p.10を見ると、60余万石の美濃国のうち約20万石が幕府直轄領、約15万石が尾張藩領で、残る約25万石が大垣藩・高須藩など10藩の大名領と70余の旗本領とに細分され、錯綜状態であったと記されています。高須藩領は図示された海津町域に限っても34%に過ぎません。

美濃高須藩は3万石の小藩であり、木曽川の治水を自力で遂行できる財力も、複雑な利害関係をまとめる力もなく、幕府の力に頼らざるを得ません。
幸いなことに 幕府領になったこの地に美濃郡代として着任したが、見沼代用水[67644]でも登場した 井沢弥惣兵衛為永でした。彼は 将軍吉宗の命を受けて、享保20年(1735)笠松陣屋着任後の短期間に綿密な現地調査に基づく三川分流計画を立案しました。

この建言は為永の在世中直ちに実施されるには至りませんでしたが、1747年には奥州二本松藩による第1回の木曽川改修御手伝普請が実施されました。
二本松藩は多数の藩士を現地に派遣したものの、既に幕府により請負業者が配置されており、工事期間2ヶ月。

第2回の御手伝普請が薩摩藩による有名な 宝暦治水工事(1754-1755)です。
この時は地元農民を雇用して施工する「村方請負」が指定されました。
薩摩藩は難工事箇所を町方請負とするよう請願したが数箇所しか認められず、派遣された薩摩藩士947名、現地雇用を含めて2千人とも伝えられる大工事になりました。工事期間は2期にわたり 1年3ヶ月(実質10ヶ月)。

1766年の第3回(萩藩・岩国藩・若狭藩)工事では過酷だった宝暦の事例を踏まえた反省から、町方請負や幕府が施工する「お金御手伝」が取り入れられ、更に第4回から第16回まで続いた御手伝普請は、藩が直接施工せず費用負担だけを求めれれる方向に変質して行ったとのことです。16回の普請で御手伝(1~4回)を求められた藩の合計は48藩。
資料をリンクしておきますが、細かい字で判読困難な部分があります。56号 p.10-12, 57号 p.9-14

対象が本題の高須藩から少し拡大してしまいましたが、高須輪中付近の江戸時代の治水事業について記しました。
江戸時代の藩は独立国のように扱われる一面がある反面、美濃のような複雑な地を水害から守るためには、幕府の権威による「御手伝普請」という強制的な経済協力制度も必要でした。
江戸時代初期、金鯱の名古屋城造営の時とは制度が変っていますが、豊かな田園に恵まれることになった美濃高須藩の姿を見ると、親藩大名を優遇する政策という点では類似するように思いました。

美濃高須藩より後の時代になりますが、明治以降も国営の治水工事が引き続き実施されました。
この木曽川改修工事の時期は、1889年に全国で実施された 町村制施行と重なっていました。
これが、他の府県で行なわれた「明治大合併」を 岐阜県では同時に実施できなかった一因であろうと思われます[79347]
更に濃尾地震・日清戦争もあり、とうとう明治30年の「郡と町村とをひっくるめた再編成」[70814][70820]にずれ込みました。

岐阜県には、この明治30年再編成で、海西郡と下石津郡に由来する新郡名として「海津」 が誕生しました。
この地名は 昭和大合併での海津町に引き継がれました。
海津町誕生当時の「高須輪中」は、東の木曽川・長良川と西の揖斐川とに挟まれた“陸の孤島”に近い状態でした。
しかし、1980年以降に木曽三川の長大橋が相次いで開通し、この豊かな穀倉地帯は陸上交通も便利になりました。
鉄道は通っておらず、私には行けない場所だったのですが、2年前岐阜オフ会の翌日に EMM号に同乗する機会を得て、この地域を訪問することができました[82265]

平成大合併で市になる際に、一旦は「ひらなみ市」[9775]が選定されました。
落書き帳でも賛否両論ありましたが、結局は海津市に落ち着いた[28842]ことは、みなさんの記憶する通りです。
[86495] 2014年 10月 26日(日)16:09:40hmt さん
「日本で最も美しい村」連合
[86485] ばいちょう さん
アーカイブズ 字名としての「~村」 に名を連ねている仲間の hmtから 初めてのフォローです。よろしく。

最初に、「ばいちょう」さん というニックネームについて。
その由来は存じませんが、私がこれから連想した言葉は 「陪塚」 でした。
過去記事には「堺」という地名も登場するし、古墳時代からの由緒ある地にお住まいの方かな? などと推測しています。

“村”に関する過去記事で、三好市西祖谷山村[49890]【そんからむらへ】も拝見しました。
三好市HPへのリンクは切れていましたが、三好市住所表示案内を確認。
「三好郡西祖谷山村」を「三好市西祖谷山村」に置き換えます。
また、「字」は表示せず、三好市に続く西祖谷山村は「にしいややむら」と読みます。

hmtの出身地の神奈川県津久井町も、平成合併で まち→ちょう に変りました。
しかし、相模原市緑区になった現在は この名も消えました[73423]

[86485]に戻り
八女市星野村

2010年の合併後も大字名として「星野村」が残されているだけでなく、市役所支所前交差点の名称が、現在でも「星野村役場前」なのですね。mapion

昔の名前を大事に使っている「星野村」には、星と泊まれる天文台があり、 星空の美しさは格別 であるとのこと。
昨年のオフ会翌日に「博物館に宿泊」[84513]を試みたhmtとしては関心をそそられます。しかし、遠くなので行けません。残念。

本題に入ります。
星野村を調べてみたら、「日本で最も美しい村」連合 に加盟していることがわかりました。
「最も美しい村」という名の組織は初耳でした。日本では連合発足から10年目に入ったところですが、フランスでは2012年に30周年記念フェスティバルが開かれ、それなりの歴史や国際性のある活動のようです。沿革

連合加盟の条件 は、人口1万人以下で景観や文化などの地域資源が2つ以上あり、それを活かす活動が連合に評価されることが必要です。発起人と思われる北海道美瑛町あたりが人口の上限ですが、群馬県中之条町のように一部の地域に分けて加盟する例もあります。
加盟村一覧から、それぞれの村が未来に残したい村の特徴(地域資源)を知ることができます。
広報しらかわ2011.11 2コマには 2011年までに加盟した村の国内配置図があります。

2014年10月までに加盟した村を 加盟年と共に列挙しておきます。地方自治体とは限らず、名称も「村」とは限りません。

岐阜県白川村の「日本で最も美しい村」連合からの退会について。
連合のサイト内にある加盟村一覧を見ていたら、連合の発足メンバーであり、2010年の第6回総会開催地でもあった岐阜県白川村が掲載されていないことに気がつきました。
2014年3月末に退会したことが Wikipediaに記されていたので、裏付けを探し回った結果、広報しらかわ2014年4月号の19ページに 退会理由が記された文書を発見しました。リンク の4コマです。
過疎の危機から脱却する活動の一つとして注目したのですが、問題含みのようですね。

従って、現在の連合加盟村数は 55です。
下記の表の順番は、連合の地域区分でなく 都道府県コード順【県内は加盟順】にしてあります。

北海道上川郡美瑛町(2005) 北海道余市郡赤井川村(2005) 北海道標津郡標津町(2007) 北海道阿寒郡鶴居村(2008) 北海道虻田郡京極町(2008) 北海道寿都郡黒松内町(2011)
秋田県鹿角郡小坂町(2009) 秋田県雄勝郡東成瀬村(2009)
山形県最上郡大蔵村(2005) 山形県西置賜郡飯豊町(2008)
福島県相馬郡飯舘村(2010) 福島県耶麻郡北塩原村(2010) 福島県大沼郡三島町(2012) 福島県安達郡大玉村(2014)
栃木県那須郡那珂川町小砂(2013)
群馬県利根郡昭和村(2009) 群馬県吾妻郡中之条町伊参(2009) 群馬県吾妻郡中之条町六合(2011)
山梨県南巨摩郡早川町(2009) 山梨県南都留郡道志村(2012)
長野県下伊那郡大鹿村(2005) 長野県木曽郡木曽町開田高原(2006) 長野県上伊那郡中川村(2008) 長野県木曽郡南木曽町(2008) 長野県上水内郡小川村(2009) 長野県北安曇郡池田町(2009) 長野県上高井郡高山村(2010)
岐阜県大野郡白川村(2005, 退会2014) 岐阜県下呂市馬瀬(2007) 岐阜県賀茂郡東白川村(2011)
静岡県賀茂郡松崎町(2013)
京都府与謝郡伊根町(2008) 京都府相楽郡和束町(2013)
兵庫県美方郡香美町小代(2012)
奈良県宇陀郡曽爾村(2009) 奈良県吉野郡十津川村(2010) 奈良県吉野郡吉野町(2012)
鳥取県八頭郡智頭町(2010)
島根県隠岐郡海士町(2009)
岡山県真庭郡新庄村(2009)
徳島県勝浦郡上勝町(2005)
愛媛県越智郡上島町(2009)
高知県安芸郡馬路村(2008) 高知県長岡郡本山町(2011)
福岡県八女市星野村(2009) 福岡県朝倉郡東峰村(2012)
長崎県北松浦郡小値賀町(2009)
熊本県阿蘇郡南小国町(2005) 熊本県阿蘇郡高森町(2013) 熊本県球磨郡球磨村(2013)
大分県由布市湯布院町塚原(2011)
宮崎県西諸県郡高原町(2006) 宮崎県東諸県郡綾町(2009) 宮崎県東臼杵郡椎葉村(2014)
鹿児島県大島郡喜界町(2009)
沖縄県宮古郡多良間村(2010)
[86494] 2014年 10月 26日(日)12:08:16hmt さん
Re:アボガドロ数について
[86490] YT さん
アボガドロ数の値やSI単位系に関する最新の情報を教えていただき、ありがとう御座います。
[86482]で用いた値は 日本化学会の解説文から引用したものでしたが、2006年のCODATA推奨値だったのですね。

最新の情報には疎く、SI単位系よりも 昔の「メートル法」という言葉に馴染みのあるhmtです。
今回は、日常で使われる計測に関する 過去記事 を集めてみましたが、やはり昔話が中心になっています。
[86482] 2014年 10月 23日(木)23:33:00【1】hmt さん
6022垓1417京9千兆
地理と無関係な話題なのですが、今日10月23日は「化学の日」だそうです。
日本化学会プレスリリースの日付は 2013/10/17でしたが、今年になってから知りました。

10月23日の意味付けは、1モルの物質中に含まれる粒子の数【アボガドロ定数】 N=6.02*10^23 にちなむものです。
私達としては この数字 N を直接使う機会はなく、「非常に大きな一定の数であること」を知っていれば充分です。

もともと気体が関係する研究から、水は 水素分子H2と酸素分子O2とが体積で2:1の比率で反応して体積2の水蒸気分子をつくることがわかり、「H2O」という粒子の集まりであることが解明されました。2 H2 + O2→2 H2O
水道水は立方メートル単位で、ペットボトルの水はリットル単位で取引されます。
しかし化学物質として扱う時は、「H2O」をN個含む 18gを1モル【1グラム分子】とした単位で扱います。
この 18gの水分子の集まりは 水素原子2g(2グラム原子)と酸素原子16g(1グラム原子)とから構成されています。

こんな具合に、モルとは 微細な粒子の集合を扱う化学の分野で使われる「物質量の単位」です。
モルという言葉は、語源的には分子moleculeが対象でしたが、現在は広く原子やイオンを含む物質量の単位になっています。
いずれにせよ、Nの数値そのものを化学量論的な計算に利用することはありません。

めったに使わない大きな数ですが、折角の機会なので『塵劫記』に使われた単位【注】で表記してみると
「N=6022垓1417京9千兆個の粒子を1モルとして纏めて扱う」ということになります。
【注】
寛永11年(1634)版で使われている万進法が今日でも使われています。1垓=10^20。初版の単位とは異なります。
余談ですが、大きな数については[65536]にも言及があります。

Nの数字を覚えて役に立ったとすれば高校の試験ぐらいでしょうが、思わぬところで10の23乗が使われることになりました。
アメリカでは“Mole Day”【モグラの日】と呼ばれているとのこと。参考
[86460] 2014年 10月 15日(水)15:40:41【1】hmt さん
Re^2:生見尾踏切
[86459] みのる さん
なぜここが「生麦踏切」と名付けられなかったのかというと、実は生麦踏切は別に存在していたからなのです。

最初に、昭和18年の横浜市三千分一地形図第13号 東寺尾 を閲覧して、ご指摘の3ヶ所の踏切道の存在を確認しました。
踏切の名称は書いてありませんでしたが、この3ヶ所中で最も東京寄りの踏切が「生麦踏切」だったのですね。
踏切の南、地図の端にある「生麦国民学校」の記載が戦時中の地図であることを物語っており、もちろん鶴見区になってからの地図です。

生見尾踏切が命名された時点で、既に生麦踏切は別に存在していたのか?
踏切関係の資料は持っていないので、日本図誌大系関東I に掲載された古い地形図【明治44年総持寺移転より前】を調べてみました。

地形図1:明治14-15年【生麦村、鶴見村の頃】
鶴見停車場の南西に見える生麦村の踏切道は、花月園前踏切の次が生見尾踏切となっています。
まだ無名踏切かも知れませんが[86459]の名称で呼びます。
生麦踏切など中間3踏切の位置では 南東からの道が途絶えて 北西側に通じていません。

ケース1:
このような2踏切の状態で踏切命名がなされたのならば、生見尾踏切は「村名優先」の結果と思われます。

地形図2:明治39年【生見尾村の頃】
5本の道すべてが踏切道と認められます。

ケース2:
5踏切の状態になってから同時に踏切命名ということになったのならば、ご指摘のように東京寄りに生麦踏切の名を使われてしまった結果ということになります。

結論:地形図で示された2踏切→5踏切の変化と、踏切命名時点との前後関係がわからないので、…

【追記修正】
ここまで読み返したところで、「花月園前踏切」という踏切名[86459]が持つ情報に気がつき、結論が出ました。

結論:花月園遊園地が開園したのは1914年でした。してみると、踏切命名の時点はこれよりも後のことです。
当然5踏切時代ということになるので、「生麦の名を別の踏切に使われた」から 村名由来の生見尾踏切になった というご指摘どおりのようです。

ご教示ありがとうございます。

ついでに、[65097]で紹介したフランス式の 彩色迅速測図 も閲覧しました。
驚いたことに、モノクロの地形図と異なり既に5踏切のように描かれていました。何故食い違うのかは不明です。
[86458] 2014年 10月 14日(火)19:55:33hmt さん
生麦・鶴見あたり (3)生麦の碑
「生麦」という言葉は早口言葉に使われるくらい発音しにくいはずですが、地名としては なかなかユニークです。
意味不明の合成地名「生見尾」と違い その意味は一見して明白。生麦一丁目にあるキリンビール横浜工場では大量の大麦が使われています。でもここに工場ができたのは関東大震災で 横浜の山手にあった工場 が倒壊したためで、地名の由来とは無関係でした。

Webで生麦の歴史を調べた結果、西部本宮町会HPに詳しい紹介がありました。このページのトップによると 江戸時代に「御菜八ヶ浦」の一つとされ 特権的な漁業権を持っていたようです。それに続いて2代将軍秀忠の行列通行に際しての生麦のエピソードにより 地名と漁業特権を得たと記されています。
この「地名の由来」は Webの中で広く流布されているのですが、調べてみると 根拠がはっきりしません。

実は、上記のHPで生麦町の歴史を記された 佐藤尚一さんは昨年逝去されており、本文の連載は終っています。
リンクされている本文をざっと調べてみたのですが、著者により「地名の由来」が記された箇所を発見することはできませんでした。もちろん秀忠のエピソードも。
私としては、著者は確実な資料で裏付けできない秀忠説を あえて紹介しなかった のではないかと推察しました。

手掛りとして「御菜八ヶ浦」を調べたら、多摩川の汽水域というサイトの 参考資料に『羽田史誌』に基づく江戸時代の漁業権に関する説明がありました。それによると、江戸時代の初め頃は本芝、芝金杉、品川浦が浦元で、大井御林、羽田、生麦、神奈川、新宿の5浦が追加されて8浦が漁業【当時44浦】の元締めになったのは享保年間のようです。
どうやら、生麦の漁業特権は秀忠時代ではなさそうで、生麦の「地名の由来」も怪しくなりました。

そこで更に調べたら、既にみなとみらいトンネルの記事などで落書き帳に紹介されている「はまれぽ」に、調査結果 が出ていました。

生麦事件参考館館長の浅海武夫さんによれば、麦の穂で道路整備説の他に、生貝のむき身説もあるそうです。
驚くべき第3の説は 岸谷の竜泉寺にあった「生麦の碑」という物証に基づく説の存在でした。
この碑は1601年以前にあったことが確認できるとか。

年代も古く「生麦」と書かれた物証。
明治末期に発見した研究者が東大に持ち帰った墓石は、一番信頼できるキーになりそうです。
しかし、東大に問い合わせても所在不明らしい。
…というわけで、生麦の謎は迷宮入りしているようです。残念。
[86456] 2014年 10月 13日(月)20:44:21【1】hmt さん
生麦・鶴見あたり (2)横浜市鶴見区の変遷
現在の横浜市鶴見区は、東海道の宿場で言うと川崎と神奈川との間です。
踏切名として残された生見尾[86455]を含めて、明治大合併前後の旧村名 と、この付近の 現在の地図 を示しておきます。

校歌に「生見尾の里」という言葉が出てくる東台小学校を中心にした地図を「3D風」にして眺めると、鶴見駅西口の総持寺から広がる下末吉台地と鶴見川が流れる低地とからなる地形であることが よくわかります。

そして明治大合併によって誕生した3村のうち 生見尾村は 鶴見川の右岸(西岸)であり、東海道沿いの南が生麦、東の曲流部が鶴見、その西側の台地が東寺尾という地名であることが知れます。潮田・矢向などの町田村は鶴見川の左岸(東岸)。そして、下末吉・北寺尾・獅子ヶ谷など旭村は北部です。

これらの地名の中では、やはり東海道筋に位置し 川の名でもある「鶴見」が最有力な集落で、1872年の鉄道開業当初から鶴見駅が開設されていました。1921年橘樹郡鶴見町を名乗り、1927年の横浜市編入後の区設置にあたっても横浜市鶴見区として、川崎と神奈川の間を代表する地名になっています。

台地と低地の境目には 東海道と鉄道とが 北東から南西へと通じています。鶴見の総持寺は曹洞宗大本山なのですが 永平寺のような古刹ではなく、20世紀になってから 能登の門前[58330][80281]から移転して来ました[59353]
そして、この付近から川崎にかけての海岸は、大正から昭和にかけて造成された埋立地で、浅野総一郎など実業家たちの名前や家紋由来の地名が付けられている点でも特筆に値する存在です[49270][83552]

京急の駅名で辿ると鶴見の次は花月園前駅で、大正時代から昭和戦前には遊園地でした。戦後の競輪場も現在は廃止。
次が生麦駅。もちろん 1862年にこの地で起きた英国人殺傷事件[54415]により 幕末史を語る上で欠かせない地名です。
地名の由来については [86458]を書いたので参照願います。

次の新子安になると既に神奈川区ですが、明治19年 地方行政区画便覧の頃には、生麦村の戸長役場管内4村【生麦・子安・白幡・鶴見】に属していました。
戸数1114に達していたこの4村は、明治大合併で「生麦・鶴見」と「子安・白幡」との2村に分離しました。
「明治の大合併」とは言っても、大凡300~500戸という標準は 都市化の始まったこの地域の行政規模を 戸長役場時代よりも縮小させたようです。

「下末吉」は 関東平野の地形学では ちょっと有名な地名です。
例えば東京都地質調査業協会技術ノートNo.44中央線の 図12 を見ると、新宿駅のある淀橋台は「(S)下末吉面」であることが示されています。
関東平野の段丘の中で、武蔵野面よりも古い時代に形成された段丘に「下末吉」の名が使われているのは、最初に研究されたフィールドだからでしょう。
町名としては第二京浜新鶴見橋の西側、三ツ池公園の手前までの一帯であることがわかります。明治大合併による3村時代は旭村でした。

今回の記事では横浜市になる前の生麦付近の様子を主として記しましたが、市制町村制以後の大きな流れとしては、もちろん横浜市における市域拡張の推移があります。

こちらのサイトでは 市の変遷 により 1901年から1939年まで6次に亘る横浜市域の拡張が行なわれ、1927年に初めて設置された5区から現在の18区になった経過もわかります。
しかし、この日本一の人口を持つ市の成長記錄を示す地図となると、横浜市のサイト内を探しても適切なものを見つけることができませんでした。

特集・神奈川区の人口 の 3/12コマに「市域拡張沿革図」があったのですが、モノクロで区との関係も示されておらず満足できません。
統計キッズルームの地図もいまいち。図説横浜の歴史 第4章 横浜市域拡張と区制の施行 というページがありましたが、肝心の図が見当たりません。

結局のところ、横浜市の変遷図については、つかんぼやとさんのパラパラ地図で 神奈川県 を見ることにしています。

参考までに他の大都市を探したら、大阪市神戸市の変遷図がありました。
政令指定都市以外では、WARPに保存されていた長崎市の変遷図を紹介したこともあります[86169]
[86455] 2014年 10月 13日(月)20:24:08hmt さん
生麦・鶴見あたり (1)生見尾踏切
[86439] みかちゅう さん
鉄道の踏切とかガードでも現存しない地名が名称に使われていることもありますよね。東海道線の生見尾(うみお)踏切の由来は1889年3月末に生麦・鶴見・東寺尾の3村の合併で生見尾村が新設され、1921年4月に鶴見町に町制・改称されるまでの間に存在した地名です。

京浜間の電車で 何度となく通過した経験があるはずの踏切です。しかし、「生見尾」という地名は 記憶にありませんでした。
聞き慣れない合成地名に惹かれて、この踏切や付近の地名について調べる気になりました。

この付近は「生麦」という、一度聞いたら忘れられない地名で知られています。
それを差し置いて 読み辛く書き難い「生見尾(うみお)」が踏切の名称に採用されたのは、どのような事情があったのか? 

生見尾の由来は、橘樹郡に存在した村名以外は考えられない。このことから、命名時期は 1889年~1921年の間になります。
これが踏切のできた時期か? 私の推察は No! です。1872年に 日本初の鉄道 が開通するより前から東海道筋の漁村として栄えていた生麦村には、自然発生的な【無名の】踏切道が 最初から存在したであろう と思われます。

しかし、時代が進んで 鉄道と道路との交通量が増加した明治中期以降になると、鉄道企業としても 遮断機など防護施設を整備する 必要が生じてきました。こうなると、鉄道管理の対象設備の一つなので名前が求められます。
その時期が、たまたま橘樹郡生見尾村を名乗っていた時代だったので、生見尾が踏切名に採用されました。
これが、なぜ「生麦踏切」でなく「生見尾踏切」なのか? という疑問から発して巡らした想像の解答です。
当っているでしょうか?

その後の地名は、橘樹郡鶴見町大字生麦から横浜市鶴見区生麦町へと変化しましたが、踏切名は「生見尾」のまま現在まで使われました。
意図したわけではないが 旧自治体名を後の世に伝える機能 を発揮することになったわけです。

JRと並行する京急にも踏切があります。こちらは1905年に京浜電気鉄道として開業した当初から生麦駅が設置されており、踏切の名も生麦第一踏切だと思います。

私鉄の競合線が誕生した後の国有鉄道は、対抗して 1914年京浜間の 省線電車専用線 を開業しました[39140]
昭和初期には 品鶴線経由の貨物線 も開業しました[63856]
戦後の 1980年からは このルートが旅客用に転用されて 横須賀線電車が走るようになりました。
横須賀線と湘南電車との分離【SM分離】対応して増設された 横浜羽沢経由の貨物新線は 踏切の手前で地下に潜ったので、生見尾踏切道は3複線【注】のまま維持されました。しかし、その横断路は距離が40mもあり、路面には高低差もある状態です。
【注】
踏切道を通るのは東海道本線・京浜東北線・横須賀線ですが、その他に地下貨物線【上記】と高架でこの地点を通過する高島線[82973]とがあり、京急を含めると合計6本もの複線鉄道が並行する鉄道輻輳地帯になっています。

2001年以降の湘南新宿ラインを含めて通過する列車数は増加しており、生見尾踏切は「開かずの踏切」になってきました。
踏切道が開く時間は、歩行者の速度 5km/h を想定して計算されているということで、長い踏切道は 足弱の人にとり かなりの難所です。
近くには歩道橋も併設されていましたが、2013年8月には 5km/h の速度に足がついて行けない老人の 死亡事故発生という事態になりました。
そして 横浜市は 生見尾踏切を廃止し、大型エレベーター付きの歩道橋を新設する方針を決めました(神奈川新聞)。
その一方で、生活道路として利用している地元からは踏切の存続を望む声も多く、生見尾踏切問題は安全確保と地域分断とのジレンマで揺れているようです。参照

踏切事故ではないのですが、その50年前 1963/11/9【偶然ですが 三井三池炭鉱爆発事故と同日】には もっと大規模な 鶴見事故 がありました。
その現場は 生見尾踏切から少し先の 神奈川区との境界である滝坂踏切付近でした。下り貨物線で 脱線した貨車が 隣の東海道本線に障害を及ぼし、進入してきた横須賀線上下線電車との多重衝突を起した事故です。死者161、重軽傷120。
[86447] 2014年 10月 8日(水)16:41:07【1】hmt さん
明石地区
[86442]白桃さん独自の全国14ブロック区分
阪神:大阪府、兵庫県(摂津地区、明石市)
[86443]ペーロケさんから付けられた物言い
神戸市にも非摂津が。。。

最も簡単な解決策は「明石市」を「明石地区」と修正することでしょう。
「明石地区」とは 市制町村制施行時点において播磨国明石郡であった1町11村の地域を意味します。
この地域名が世間一般に通用しているかどうかは知りませんが、第1回国勢調査の前年に明石市になって離脱した明石町のことを考えると、これをストレートに「明石郡」と呼ぶことには憚りがあるので、会津地区に倣って明石地区と呼ぶことを提案します。

県域の変遷 に示されているように、明治9年(1876)に生れた第3次兵庫県は 3府72県時代の第2次兵庫県が 飾磨県の全部・豊岡県の西半分・名東県の淡路を統合して一気に拡大した(面積で9倍、人口で6倍)ものでした。
不自然とも思われるこの巨大な県の誕生については、当時の実力者・大久保利通の意向があったことを[54430]で記しました。

白桃さんの14ブロックでは、現在の兵庫県は3つのブロックに分属します。これを3府72県時代とおおまかに対比すれば、阪神ブロック地域が第2次兵庫県(摂津国)、白桃ブロック地域が飾磨県(播磨国)と名東県(淡路国)、畿内ブロック地域が豊岡県(丹波国と但馬国)という形です。3ブロックに分断された兵庫県は、府県制発足初期の姿を反映しているとも言えます。

その中で注目されるのは 明石地区です。

[52196]むっくんさんの記事は、国郡制度によって畿内や山陽道が作られた時代の認識を、源氏物語により説いています。
すなわち、ギリギリ畿内である摂津の須磨に流された源氏の君は、地理的にはすぐ西であるが 畿外である播磨の明石の入道が 風流を知る人であることを知り驚く という場面設定です。
みやこ人の常識としては、摂津の須磨と播磨の明石との間には 深い文化的な溝があると考えられていたのです。

しかし、近代になり 開港場として勢力を増し 六大都市の一つになった神戸の影響力は「播磨国明石郡は山陽道」という国郡制度の枠を超えて明石に及んできました。
1934年7月に運転を始めた阪神間の省線電車の運転区間は吹田-須磨間でしたが、9月にはそれが明石まで延長されており、明石が既に阪神都市圏の西端の地位を占めていたことが裏付けられます。

そして、明石郡の町村の行方を追うと 明石町は1919年に明石市として独立しました。そして、1941年の垂水町を始めとして1947年までに9町村が神戸市に編入され、1951年の大久保町・魚住村の明石市編入で明石郡が自然消滅しています。
このような経過により、過去には山陽道播磨国であった明石地区は、名実共に阪神ブロック地域に組み入れられました。

もっとも 「山陽」や「中国地方」が常に播磨国以西であったかというと、そうも言えないようです。
神戸を含む兵庫県が「近畿2府3県」に含まれず「中国地方6県」の一つになっている新聞記事(1932年~1942年)。
東海道本線と山陽本線との境界は神戸駅。新幹線では東海道と山陽との実質的区切りは新大阪駅。
元和5年(1619)に大坂の京橋まで延伸された東海道[52196]。西国街道(山陽道)との区切りは摂津大坂。
どうも境界というものは国境や県境で固定されたものでなく、「明石地区は阪神ブロック」というように、ケースバイケースで使い分ける。そのように考えるのがよいようです。

参照した過去記事
[86425] 2014年 9月 28日(日)22:17:18【2】hmt さん
海と島 (22)日本の島 「連島」を考慮した面積・人口の上位ランキング
[86421]では 天草を例に挙げて 島と架橋との関係 について考察しました。
すなわち、干潮時に歩いて渡れる浅い海であった本渡瀬戸は、戦後の土木工事によって有明海と八代海とを結ぶ運河に変りました(1961)。それは航路の整備というだけではなく、同時に 跳開橋やループ橋、昇開橋などの橋梁技術によって 2つの島を陸上交通路でも結びつけるものでした。
更に 1966年の天草五橋は 自動車道路で天草と九州本島との間を結びつけ、離島の地位を脱して 本土化する 結果をもたらしました。

これより先、1961年12月3日に 瀬戸内海の音戸瀬戸に音戸大橋が開通して 本格的な離島架橋がスタートしました。早瀬瀬戸の架橋により能美島江田島までの陸路が通じたのは1973年です。大畠瀬戸の架橋(大島大橋、屋代島)は1976年。
淡路島への大鳴門橋は1985年で、その後 瀬戸大橋(1988/4/10)、明石海峡大橋(1998/4/5)、しまなみ海道(1968年の尾道大橋に始まり 部分開通を重ね、全線開通は 1999/5/1)など島を中継地とする連絡架橋も次々と開通しています。
九州でも1977年に平戸瀬戸の架橋が実現。全国で多くの離島が本土からの自動車交通可能な状態になりました。

このようにして、架橋で結ばれた島々を <連島> として扱うと、日本の島のランキング上位がどのように変るか調べました。

以下の表において、<天草連島>のような <連島> の名称は hmtの独断による命名です。
<連島>を構成する島名のうち B維和島のように頭にBを付した島は、メインルート(例:天草五橋)からの分岐路架橋島です。

<淡路鳴門連島>=淡路島+大毛島+B島田島+高島【鳴門】
<しまなみ海道連島>=向島【尾道】+B岩子島+因島+生口島+B高根島+大三島+伯方島+大島【越智】+馬島【来島】
<江能倉橋連島>=江田島能美島+沖野島+倉橋島+鹿島
<屋代連島>=屋代島+沖家室島
<上五島連島>=中通島+若松島+漁生浦島+有福島
<平戸連島>=平戸島+生月島
<天草連島>=大矢野島+B維和島+B野釜島+永浦島+B樋合島+前島+天草上島+B樋島+天草下島+B通詞島+下須島
<宮古連島>=宮古島+池間島+来間島

ランキングは面積100km2以上かつ人口1万人以上という条件を満たす屋代島、屋久島より大きな島をカバーするようにしました。
ランキング外ですが、<安芸灘連島>=下蒲刈島+上蒲刈島+豊島【下大崎】+大崎下島+岡村島 を番外として加えてあります。

順位連島面積km2-------順位単純面積km2
1佐渡島854.531佐渡島854.53
2<天草連島>846.922奄美大島712.52
3奄美大島712.523対馬696.64
4対馬696.644淡路島592.30
5<淡路鳴門連島>607.875天草下島574.25
6屋久島504.896屋久島504.89
7種子島445.057種子島445.05
8福江島326.488福江島326.48
9西表島289.309西表島289.30
10徳之島247.7710徳之島247.77
11島後241.6411島後241.64
12<しまなみ海道連島>224.3112天草上島225.38
13石垣島222.6313石垣島222.63
14<上五島連島>203.0414利尻島182.16
15利尻島182.1615中通島168.42
16<平戸連島>180.2516平戸島163.68
17<宮古連島>164.9317宮古島159.26
18<江能倉橋連島>164.5218小豆島153.35
19小豆島153.3519奥尻島142.75
20奥尻島142.7520壱岐島133.93
21壱岐島133.9321屋代島128.43
22<屋代連島>128.43
<安芸灘連島>53.21

順位連島人口-------順位単純人口
1<淡路鳴門連島>1511171淡路島143041
2<天草連島>1227262天草下島78142
3<しまなみ海道連島>788553奄美大島64107
4奄美大島641074佐渡島62727
5佐渡島627275石垣島46922
6石垣島469226宮古島46001
7<宮古連島>468067福江島36979
8<江能倉橋連島>459838対馬34230
9福江島369799種子島31854
10対馬3423010小豆島30167
11種子島3185411天草上島29596
12小豆島3016712壱岐島28941
13壱岐島2894113江田島能美島27031
14<平戸連島>2652914徳之島25587
15徳之島2558715因島24660
16<上五島連島>2200216向島【尾道】23510
17<屋代連島>1873517平戸島20384
18島後1552118中通島20167
19沖永良部島1392019倉橋島18952
20屋久島1343720屋代島18589
<安芸灘連島>802121島後15521
22沖永良部島13920
23屋久島13437
【修正】
最初は連島の名称を 天草& のように記しましたが、据わりが悪いので <天草連島> のような表記に改めました。
[86421] 2014年 9月 28日(日)13:48:33【1】hmt さん
海と島 (21)日本で第2の島は?
日本最大の面積を持つ島【別格の5大島と北方領土を除く、以下同じ】は 佐渡島【注】854.53km2 です。
【注】
 この地の普通の呼び方[65109] は「佐渡」で十分であり、敢えて語尾に島を付けて呼ぶ必要はないと思っています。
 しかし、今回のようなケースでは 付属する無人島が皆無ではない(二ツ亀島)ことを考慮して、敢えて国土地理院の面積調による「佐渡島」の表記を使いました。国勢調査の「佐渡市」の面積 855.31km2と比較し、僅かに小さいことが確認できます。

日本最大の人口を持つ島は淡路島[24364]で、人口【2010年国勢調査、以下同じ】は 洲本市+南あわじ市+淡路市-沼島506人=143041人と計算されます。

では、「日本第2の島」は? 
面積については、このシリーズの(8) でもリンクした 海保第五管区のページ の下の方に 面積100km2以上の島のリストがあります。 1佐渡島、2奄美大島、3対馬、4淡路島、5天草下島、6屋久島、…12天草上島、…21屋代島

この中で注目したいには、天草下島と天草上島です。
大縮尺の地図でないと一つの島のように見える2島は、本渡瀬戸 により隔てられています。
この海峡は昔から有明海と八代海とを結ぶ航路でしたが、干潮時には歩いて渡ることができる浅い海でした。

現在では全国で15指定されている 開発保全航路 の1つですが、本格的な航路工事の歴史は、戦後になってからのようです。

本渡市が成立した1954年の翌年には 本渡築港が完成し、1958年には2つの島を結ぶ新瀬戸橋(跳開橋)が完成。
そして 1961年に 第1次瀬戸開削事業による 幅30m、水深3mの航路が完成しました。
現在は幅50m、水深4.5mになっており、航路と陸上交通を両立させる橋も、ループで路面を高くした天草瀬戸大橋だけでなく、歩行者や二輪車の利便を図り作られた赤い昇開橋(本渡瀬戸歩道橋)も架けられています。

結局のところ、自然島である天草下島・上島とはいうものの、その間にある海は 両島を隔てる存在ではなく、人の手による開削運河化と架橋によって 水陸両方の交通を両立させた 共有の航路である というのが実態なのでしょう。
元々あった自然の水路という意味では、大船越瀬戸や万関瀬戸の開削により分離された 対馬との違い があるわけですが、人工水路上の架橋で一体化した島であることでは共通です。
そして天草の上下2島の面積を合計すると約800km2で、約700km2の奄美大島や対馬を上回る日本第2の面積を持つ島になります。

天草については 本渡瀬戸が運河化された5年後に開通した天草五橋により 九州本島との一体化が実現しました。
宇土半島の先端から大矢野島【現在は上天草市役所所在地】へ、そこから永浦島・前島などを経て天草上島に至る5つの橋は、昭和41年(1966)に一般有料道路として供用を開始しました。
これにより鉄道と船との乗り継ぎで3時間20分かかっていた熊本-本渡間は 車で2時間20分に短縮され、観光客数は年間54万人から315万人に急増しました(熊本県天草広域本部)。
予想外の交通量増大により有料道路は9年で償還を済ませ無料開放されました。

このようにして、天草の主な島は本土(九州本島)と結ばれた一群の架橋島【以下、“連島”と呼びます】になりました。

3号橋と4号橋との接点になっている大池島など無人島は省略してありますが、分岐路Bを含めて架橋で連なった島名と面積(km2)とを列挙します。大矢野島19.98+B維和島6.40+B野釜島0.32+永浦島0.79+B樋合島0.79+前島0.43+天草上島225.38+B樋島3.46+天草下島574.25+B通詞島0.60+下須島4.52 = 846.92(km2)。佐渡島に匹敵する大きさです。

そして、人口はというと 天草下島78142+天草上島29596+大矢野島13275人の主要3島にB樋島とB維和島を加えて122726人。

天草上島の南側にある御所浦3島【注】を含めれば文句なしに“面積最大の島”になるのですが、この部分は中瀬戸橋があるだけで、本土に通じる 御所浦架橋は まだ実現していません。
【注】御所浦3島
 横浦島1.09+御所浦島12.41+牧島5.63=19.13km2、人口752+2054+357=3163人

「連島」を考慮した島のランキングは、[86425]に分割しました。
[86419] 2014年 9月 27日(土)23:01:32hmt さん
活火山
[86417] 山野さん 木曽の「御嶽山」が噴火

紅葉シーズン土曜日の昼ごろ、登山者も多い中で「突然」の噴火でした。火山性の地震は今月10日頃からあったようですが…
灰に埋もれたままになった方もあるとか伝えられており、心配です。

木曽の御嶽山と言えば、10年前の記事の冒頭で、1979年に思いもかけず「有史以来の活動」があり、これが気象庁による「活火山」の定義を変える きっかけ になったことを記しました。

火山防災の組織というと、気象庁が事務局を担当する 火山噴火予知連絡会 が中心的存在でしょうが、国土交通省が4年前から発行している 御嶽山火山防災だよりなどによる啓発活動もあるようです。

Vol.1には 活火山が多い都道府県 の上位が示されており、16の北海道に次いで長野県が秋田県と並んで6、岐阜県は5でした。もっとも長野・岐阜県境に御嶽山を含めて4火山があるので、2県合計は活火山7です。

このランキングには「離島を除く」と注釈が付けられており、東京都・鹿児島県などの離島にある多数の火山は除外されています。

Vol.11によると、最近1万年間に御嶽山では少なくとも4回のマグマ噴火と12回の水蒸気噴火とが起きていたことが判明したそうです。今回の噴火で17回になったわけです。

[23898]では『理科年表』が「活火山」という言葉を使っていないと紹介しました。
「活きているかどうかわかりもしないのに 活火山と言えるものか」という執筆者の意思表示なのかもしれません。
このような考え方も傾聴に値しますが、人々にわかりやすい「活火山」という言葉は、選定基準が変更されただけで 現在でも 公式に使われています。
しかし、休火山・死火山という言葉は使われなくなっています。
[86400] 2014年 9月 23日(火)15:28:04hmt さん
海と島 (20)島と架橋との関係
日本には多数の島があります。
海上保安庁が 1986年に外周0.1km2以上の島を数えた結果は 6852島でした[86234]
しまっぷ統合版 には 岡山・広島・山口【瀬戸内海のみ】・香川・愛媛各県に属する 909島が収録されています。
「九十九島の数調査研究会」による調査で確定した植物の生育が認められた島の数(2001)は208でした[29533]
最近では、総合海洋政策本部により 領海の外縁を根拠付ける離島の名称決定作業が行なわれており、「ソビエト」など 158島が命名されました[86180]

こんな具合に、無人の小さな島嶼のすべてを対象にすると「きりがない」ことになります。
「しまっぷ」には 夏目漱石『坊つちゃん』に登場するターナー島[67135]のモデルである 四十島も 面積315m2と出ていました。趣味的には面白いのですが、一般的にはこんな小さな無人島を詳細に調べる必要は少ないでしょう。

島と人々の暮らしとの直接的な結びつきを表すものに 有人島・無人島という区別があり、シマーズで有人島とされた島の数は、地続きになっている香焼島などを含めて 433島でした。

今回は、島に暮らす人々が その生活にとり必要なものとして作り出した架橋について考察します。

架橋は 費用対効果が検討されて実現するものなので、短い橋ならばちょっとした出作目的での無人島架橋も実現する反面、大型自動車の通れる長い橋が必要ということになると 有人島であってもなかなか実現しないケースもあります。

島を本土から隔離して島たらしめているものは、人々が日常利用している陸上交通を阻む海です。
架橋と直接関係はないのですが、[53818]EMMさんの 記事に使われた“金沢が陸の孤島”には注目しました。
現在の金沢港というのは、昭和38年のいわゆる「三八豪雪」の際に道路・鉄道が寸断されて金沢が陸の孤島となったことから、金沢へ直接海路補給するための拠点整備を求める声を受けて建設されたものです。

船を使えば海上輸送も可能である。しかし、それなりの設備を必要とし、小回りの効く点では自動車に及ばない。
離島振興法により指定される離島が、本土との間が架橋で結ばれていない有人島に限られているのは、このような見地からして「もっともなことである」と理解できます。

例を挙げると、2008年に豊島大橋[82870]で上蒲刈島と豊島との間が繋がった結果、広島県の豊島・大崎下島それに愛媛県の岡村島までが本州からの島伝いの陸上交通可能になり、3島は離島の指定から外れることになりました。

同じように「架橋島」と言っても、その道路が本土【5大島】にまで通じているか否かで、その経済的価値は大きく違うようです。
本土に通じていない架橋は 離島間を結びつけることで地域経済の規模を拡大し、港湾設備などの共用も可能にします。
しかし、その道路が本土まで通じることにより、「離島」を脱して 事実上の本土化が実現したと扱われているようです。

島への架橋については、グリグリさんによる集大成が[82809]で示されています。
この中にも短い橋が収録されているかもしれませんが、その後で[82820]k-ace さんにより示された 佐世保市小佐々町の 前島 と本土とを結ぶ道路橋は、拡大した地理院地図から僅か数mの長さと思われます。
僅か数mの橋ですが、[82820]にリンクされた写真によると前島と、それに隣接する鼕泊島(とうどまりじま)までが 自動車通行可能な状態になりました。2島合せて約1000人の住民の暮らしは、この短い架橋により支えられていることが推察できます。
余談ですが、九州本島の西端である 神崎鼻(こうざきはな) の付近には多数の島が散りばめられており、九十九島と呼ばれています。観光地としては佐世保に近い南側が有名で、『美しき天然』は ここをイメージした名曲[29533]とされています。
前島と鼕泊島とは北九十九島の中で数少ない有人島です。

[82823][82877]EMMさん、[82831]白桃さん、[82827]グリグリさんなどによるレスなど見ても、短い橋があったり、細い橋があったりして、その扱いは なかなか難しいようですね。
私としては、統一的に整理して結論をまとめることができていなくても、せっかく集めたデータをいろいろと展示してもらえば、それなりに楽しみ、利用することができます。

[82877]の線引で前島と対比された架橋は 坂井市三国町、岬の先端の無人島・雄島にある大湊神社への参道と思われる 長い歩道橋。こういう両極端が同居しているのも楽しいのではないでしょうか。

グリグリさんによる離島架橋一覧[82809]と言えば、その先頭を飾っている島が根室市の春国岱です。
hmtが国土地理院の島リストにも出ていなかった奇跡の島・春国岱[85822]に気がついたのは、離島架橋一覧がきっかけでした。

架橋と防波堤道路との関係
架橋についての私の基本的な考え方は、島の人々が利用する交通手段です。従って架橋と防波堤道路との区別は不要という立場です。
しかし、グリグリさんの離島架橋一覧は、最初の動機が第三十六回十番勝負問四に関連するもので、大竹市阿多田島と猪子島を結ぶ堤防道路の類は除外されています[82800]

この点に関して[82759]で発表された共通項を確認してみると、意外にも
■陸続きではない二地点(人工島を除く)をつなぐ海上架橋または湖上架橋がある市
となっていて、堤防道路排除についての明確な言及がありません。
他の方の記事中には すべて問四の共通項として
■本土と本土、本土と島、島と島をつなぐ橋が架かる市(堤防道路、桟橋、人工島は除く)
が明記されているので、こちらが正しかったのではないかと思いますが、どのような事情で不一致なのか不思議に思いました。

なお、[82809]を見れば、一部が橋になっている海中道路(うるま市)や中海堤防道路の橋ならば収録対象になることがわかります。
漁生浦島~有福島間は堤防道路…とあるのですが、よく見ると2ヶ所ほど堤防が切れていて橋になっているような…要精査
などの指摘[82877]も出ており、堤防道路排除は事態を徒に複雑にしているように見受けられます。

「島と橋との関係」を論ずるにあたり、堤防道路とを橋と峻別すること。
第三十六回十番勝負問四における扱いは別として、これは果して必要なのでしょうか?
[86385] 2014年 9月 20日(土)17:32:34【1】hmt さん
スコットランド
スコットランド独立 の是非を問う住民投票が 今週 突然の大ニュースになりました 。

コトの始まりは、2年前の「エディンバラ合意」だったのですが、当時のことは覚えていません。
改めて 当時のCNNニュースを見直すと、英国首相府がその発表に使ったメディアは なんとツイッターだったとか。

ニュースによると 当時の独立支持は28%。ガス抜き狙いの住民投票で、万が一にも 独立Yes になる可能性はあるまいと 文字通り多寡【普通の用法では高】を括っていた英国首相ですが、投票日近くになって予想外の接戦という情勢を見て大慌て。
連合王国の崩壊を食い止めなければならないと、独立による経済悪化を訴えるなど 必死の防戦を展開しました。
投票結果は 独立No が55%となり、英国は分裂を免れました。
自治体数でいうと、全32のうち28地区で反対派が勝利したとのことですが、最大票田のグラスゴーでは独立賛成票が多数。

大騒ぎを演じたものの、とにかく民主主義の老舗国が、多数決の厳しさを示すお手本を世界に示してくれたわけです。
投票率84.5%は英国政治史上最高とか。参考までに、1995年に行なわれたカナダ・ケベック州独立を問う住民投票での投票率は94%だったとか。この時の結果は 反対票50.6%と 更なる接戦でした。

今回の記事を書くための調査で、スコットランド政治の基礎知識2007 というページを知りました。
直接引用することはしませんでしたが、とてもよくまとまっているので、スコットランドに関心のある方には ご一読をお薦めします。


このニュース種に刺激されて落書き帳の過去記事を検索すると、独立問題に触れた記事は皆無で、目立ったのは「ライ麦畑」など歌の話題でした。
意外にも、キルト、バグパイプ、スコッチなどのKWに該当する話題はヒットしませんでした。

余談ですが、スコッチと言えば 3M社も有名です。もちろん酒類を指定商品として「スコッチ」マークを独占することはできませんが、「テープ類」のような全く別の商品については 商標登録で独占することができます。
アメリカ生まれのテープに何故スコッチ?
この会社、Minnesota Mining and Manufacturingという社名のとおり 砥石を採掘してサンドペーパーを製造する事業を目的とする会社だったようですが、現在は粘着テープの代名詞的存在として知られています。
それが何故「スコッチ」なのかと言うと、創業期の製品について 客から スコッチ【どケチ】野郎 と罵られたことがあり、これを逆手に取って商標にしたとか伝えられているそうです。

落書き帳には、英国内における地域文化に触れた 桃象さんの記事 がありました。
スコットランド・ヤード[1785]、Flying Scotsman[81959]など スコットランドの名に関連する単発の話題も。

ニュース種、過去記事検索KWに続いて、スコットランド由来の地名談義をします。

ヨーロッパから離れて、アメリカの「ニューイングランド」。
その北には、カナダの「ノバスコシア」【New Scotlandの意味】という半島があります。
英国王の特許状を受けたジョン・カボットの船団は、コロンブスより5年後の 1497年にカナダの南東岸に到着。その後フランス人が入り、更にスコットランド人が送り込まれて「ノバスコシア植民地」を形成。
その後 仏英両国による支配の変遷を経て 1867年カナダ自治領成立当初の4州の一つになりました。北側には半島と大陸とを繋ぐシグネクト地峡やケープ・ブレトン島。
地図 を見るとニューグラスゴーという町もあります。『赤毛のアン』のプリンス・エドワード島も近くです。

更に場所が変って太平洋。日本の南、赤道を越えた先に九州ぐらいの面積の ニューブリテン島[79420]があります。
「カレドニア」はスコットランドのラテン語名なので、「ニューカレドニア」というと その一部ではないかと誤解されそうですが、もっと南東【誤記訂正】・オーストラリアの東にある 四国ぐらいの大きさの別の島です。

西洋人に知られたのは 1774年 キャプテン・クック[45308]の第2回航海で、山の多い風景がスコットランドと似ていたのでニューカレドニアと命名されました。捕鯨船や白檀貿易商人、奴隷狩り、宣教師などが訪れた後、ナポレオン3世の時代にフランスが領有宣言して流刑植民地化。英国によるオーストラリア植民の前例に倣ったものでした。

この島の成り立ちは太平洋に多い火山ではなく、大陸移動の過程で分裂したゴンドワナ大陸の破片です。
オーストラリアから分かれたニュージーランドと同様の陸塊で、1860年代に豊富なニッケル鉱石が発見され、流刑植民地から露天掘り鉱山の島になりました。19世紀末以降、日本からの出稼ぎ労働者も数千人あり、現地で結婚して帰化した人も多いとか。
モームの短編「雨」の舞台・パンゴ【PagoPagoサモア】訪問記を、新聞で読んだことがあります。現地人に日本を知っているかと聞いたら、「ああ知ってるとも。ニューカレドニアの方の島だろ。」という返事。
南の島と日本との関わりには、こんな背景があったのですね。

いずれもフランスと関係あるスコットランドゆかりの地名を紹介。カナダには実際にスコットランド移民の歴史がありました。
天国に一番近い島 という太平洋のフランス領は 風景がスコットランドに似ていただけ でした。
[86369] 2014年 9月 9日(火)18:10:21【2】hmt さん
明治の府県 (2)府県名称変更はユニークな理由もあるようだが、大部分は県庁所在地変更に伴うもの
引き続き、[86367]アクアさんの質問に関連する 私の考えを示します。
[86368]で示した 「県役所の所在地名を県名とする原則」が下敷きになっています。

2) 第一次府県統合以降の府県の名称改めについて
名称変更の「理由」は、これを法令に記す必要はなく、存在するとすれば当事者の内部資料的なものと思われます。
愛媛県の 県名の由来 には『古事記』が引用されていまたすが、アクアさんが求めている「資料」は明治6年石鉄・神山両県合併時に「愛媛」が選ばれた経緯なのでしょうね。
愛媛県と言えば、その前身である松山県から石鉄県への改称 太政官布告明治5年40号 の理由も問題になっています。
司馬遼太郎の『街道をゆく』によると、松山県令の本山茂任が太政官に出した具申書に、松山が古臭く石鉄が新鮮で民心の統一に役立つという意味のことが書かれていたそうだとのこと[16400]
私もそれ以上のことは知りませんがアクアさんの質問も、これを踏まえたものでしょうか?

松山県・宇和島県という地名由来の県名が石鉄県・神山県に改称され、愛媛県になった特別ユニークな事例はさておき、県名を改めた理由の大部分は県役所(県庁)所在地変更に基づくものでしょう。

事例を数え上げれば弘前県から青森県へ[76243]、佐賀県から伊万里県を経て再び佐賀県へ[75097]、一関県から水沢県へ、更に磐井県へなどの例もあると思いますが、代表例として金沢県庁の石川郡美川町(現・白山市)への移転 太政官布告明治5年31号 を挙げておきます。県庁所在地が金沢でなくなったので石川郡の名に基いて石川県に改めたわけです。
県庁は翌明治6年金沢に戻りましたが、当時は大都市・金沢も石川郡の一部であったので 石川県のままで OK となり、金沢県には戻りませんでした。

県庁が移転ても県名が変らない事例。兵庫県の場合は兵庫と神戸とが一体化して同一都市内の移転と考えられたからでしょう。
明治17年(1884)年 栃木県庁が栃木から宇都宮に移転しましたが、この時には県名が変わりませんでした。
この頃になると「県役所の所在地名を県名とする原則」が崩れてきた証拠と思われます。

3) 府県統合での県庁の場所
統合した2県の県庁所在地のほぼ中間に新しい県庁を設け、その地を県名として名乗る例もあります。
印旛県【佐倉】と木更津県【木更津】とを統合した明治6年の 千葉県
明治8年に新治県を分割して現在の形になります。[1644]
群馬県【前橋】と入間県【川越】とを統合した熊谷県[36081]
こちらは明治9年に旧入間県部分が埼玉県に編入。栃木県に属していた3郡を加えて上野国全部を管轄する群馬県が復活しました。

【追記】
3) 府県統合での県庁の場所 についてのレスは、質問を十分に理解しないまま書いたので少し的外れでした。

アクアさんの記事は 明治4年11月の“いわゆる”第一次統合【注】に限定した整理だったのですね。
【注】明治4年11月 3府72県への “いわゆる”第一次統合 について
 太政官布告を見れば、そこには「統合」又はそれに類する言葉が使われていません。詳しくは[76179]をご覧ください。
 hmtも、過去には この言葉を使っていたのですが、明治4年11月は 統合でなく「リセット」であることに気がつき 改めました。
[86369]で提示した明治6年や明治9年の事例は、本当の統合です。

ちょっと気になった事項を逆質問します。 
3)の1において足柄県内で小田原を上回る規模の天領都市とは どの町を指しているのでしょうか?
少し先の年代になりますが、明治13年共武政表[81089]による 小田原の人口は 13695人であり、足柄県管内では 6000人余の三島や藤沢を始め、横須賀、浦賀、下田等を圧倒的に上回る都市でした。
[86368] 2014年 9月 9日(火)17:49:00hmt さん
明治の府県 (1)県役所の所在地名を県名とする原則
[86367] アクアさん
都道府県市区町村落書き帳へようこそ。都道府県の歴史的経緯に関心を持っている hmt です。
ここでは、[228] Issieさん 以来 都道府県に関する多数の記事が語られています。検索機能も活用して楽しんでください。
自らの記事を主としたものですが、hmtマガジン の中に「都道府県」というテーマがあり、「府県」の誕生から廃藩置県まで などの特集で 過去記事の一部をまとめています。明治4年11月の3府72県でさえ序章の段階で中断状態ですが、追々書き進めてゆきたいと思っています。ご参考まで。

ご質問につき的確なお答えはできないのですが、私の考えを少し記してみます。

1) 明治期の府県庁について
府県庁所在地の根拠を探るのですね。
手始めに現在の「東京都庁の位置を定める条例」(昭和60年10月1日東京都条例第71号)を見ると、
地方自治法第4条第1項の規定に基づき、東京都庁の位置を次のとおり定める
  東京都新宿区西新宿二丁目
となっており、附則で東京都規則で定める日【平成3年(1991)4月1日】からの施行であることがわかります。

明治初期の府県は現在の都道府県と違い 自治体というよりも国の出先機関の性格が強く、このような条例はなかったでしょう。
役所の位置は国の都合で一方的に決め、それを周知する手続きも特に定められていなかったのではないでしょうか。

法令現行法では「兵庫県【という名の地方公共団体】の事務所が所在する地は 神戸市」 という関係になります。
しかし、府県誕生当初の感覚は その逆であり、「県役所の所在地名を県名とする」。
これが原則であったと思います。

慶応4年正月 鳥羽伏見の戦いの後で 幕府の兵庫奉行が引き揚げてしまった政治空白地帯に 新政府が作った組織は、兵庫鎮台>兵庫裁判所>兵庫県と名を変えながらも「兵庫」を使い続けました。このように役所の地名が県名になりました。[75495]

飛び地の集合状態だった第一次兵庫県は、明治4年に第二次兵庫県として小さいながらもまとまった県域(17万石)になり、更に明治9年の第三次兵庫県で一気に 県域を拡大 しました。[54430]

兵庫県庁の位置は、第二次兵庫県発足時は兵庫でしたが、その後 坂本村などを経て 1873年に現在地に移った[1776] とのことで、1780年の「兵神市街之図」[54297]でも神戸地区に記されています。
この間に 元は2つの都市であった兵庫と神戸とは融合し、1879年に「神戸区」、1889年に「神戸市」となっています。
このようにして、県名と県庁所在地名とは 原則を破って「別の地名」を名乗ることになりました。

府県庁をどこにするというのは書いてありません。一部関東には県庁まで書かれているところもありますが

明治4年太政官布告594号にある次の記載でしょうか。
足柄県 県庁小田原 入間県 県庁川越 埼玉県 県庁岩槻 印旛県 県庁佐倉 新治県 県庁土浦 茨城県 県庁水戸

同じ布告の中で県庁所在地が記されていないのは、神奈川県 東京府 木更津県 栃木県 宇都宮県 です。
「役所の所在地名を県名とする」原則からすれば、これらの府県は県庁所在地を特に記す必要がありません。
県庁所在地名が記されていた7県は 県名が郡名などに由来する いわば例外的な存在であったと理解しています。

明治の混乱期で、太政官令の記録の継承が不十分であったとみてかまわないのでしょうか?

太政官令という言葉は知らないのですが、布告などの記録継承体制は 不十分であったと思われます。
県庁所在地ではありませんが、明治4年11月山梨県発足前 は 法令全書668・地方沿革略譜 いずれも「甲斐県」としていますが、山梨県HPによると「甲府県」です。
日付についても、次のように こぼした経験があります。[75497]
明治元年法令全書の書物自体は 明治20年出版で、慶応4年当時の記録が残されていないものもあります。当時の日付が正確に伝えられていない可能性もあります。
[55181]には】越後府(第1次)の設置日が 法令全書の 5月29日説 の他に 公文録の 5月23日説 とがあることが記されていますが、地方沿革略譜 を見たら、こちらでは 6月3日 となっていました。こうなると、どれを信用してよいものやら。

長くなったので、ここで切ります。
[86366] 2014年 9月 7日(日)16:59:04【2】hmt さん
伊勢参りの国鉄路線
伊勢参りの私鉄路線[86363]に引き続き、それと対比すべき 伊勢参りの国鉄路線 に触れておきます。
タイトルに掲げた伊勢参りの枠から少し逸脱しますが、1885年(M18)内閣制度発足、1889年(M22)大日本帝国憲法発布、市制・町村制施行、1890年(M23)帝国議会招集を背景とした時代における本州中央部の鉄道建設・改良にも言及します。

鉄道ルートの選定には 山岳地帯や大河など 地形条件と、それを克服する隧道・橋梁・車両技術とがからみます。
東西両京を結ぶ幹線鉄道の、中山道ルートから東海道ルートへの変更は それを如実に物語る実例です。

今般中山道鉄道敷設を廃し更に工事を東海道に起すに決定す
この 閣令明治19年第24号の意味するところは 幹線鉄道の全線を近世東海道筋に改めるということではありません。
当時未完成であった名古屋以東の工事区間だけの変更です。
名古屋以東にしても箱根を避けた御殿場経由など、近世東海道沿いでない区間もあります。

国の幹線鉄道計画は、このルート変更よりも前から 鈴鹿峠の急勾配を避けた関ヶ原経由(伊吹越え)で進められていました。明治19年の東海道ルート復活でも、伊勢国の7宿(42桑名 43四日市 44石薬師 45庄野 46亀山 47関 48坂下)と近江国甲賀郡の3宿(49土山 50水口 51石部)とは 鉄道から取り残されたままです。【数字は東海道の宿場番号】

なお 東海道が中山道と合流する52草津から先は 現在の東海道線区間です。[61344]では京都-大津間【注1】に少し触れただけでしたが、琵琶湖東側を含む馬場【膳所】-米原- 関ヶ原間【注2】は 1889年に開通しました。
【注1】京都-大津間の改良
1880年の逢坂山トンネルにより最初に開通したのは、稲荷山の南を現在の名神高速道路沿いに大迂回するルートで、補機を必要とする25‰勾配線でした[61344]。東山トンネルと新逢坂山トンネルを通る現在の改良線は1921年に完成しました。
【注2】伊吹越えの改良
関ヶ原の西側は1882年に長浜への線路が通じていたのですが、1889年の新線によって 東海道線と北陸線とが米原で接続する形に改められました。その後西斜面で柏原経由の新線(1901)、東斜面で新垂井経由の下り列車専用単線【道路で言えば登坂車線】[9490] 増設(1944)というように、現在の形になるまでに勾配緩和工事が重ねられました。

それはさておき、
国の幹線鉄道計画から取り残された東海道筋は、三重県と滋賀県の後押しを得て、私設鉄道の建設に挑戦しました。
これが関西鉄道です。非力な蒸気機関車牽引の時代のこととて、伊勢から直接甲賀に入る鈴鹿峠は諦め、加太トンネルにより伊賀の柘植を経由してから甲賀に入るというルートを設定しました。
加太(かぶと)越えの難工事もやり抜いて、草津から四日市までの区間を1890年に完成。翌年には亀山から津までの支線を開業。これが伊勢参りの国鉄路線のルーツです。この勢いで名古屋進出を申請し 1895年に全通。
その後、大阪への路線を確立して官設鉄道と激烈な競争を演じた後、遂に国有化されたことは [61246]で記しました。

伊勢参りに戻ると、津から先は別会社の参宮鉄道として 宮川までが1893年、山田駅【現・伊勢市駅】開業は 1897年。
関西鉄道と共に鉄道17社の最後として1907年国有化。1909年の国有鉄道線路名称で 亀山-山田間が「参宮線」を名乗り、1911年には鳥羽まで延長されました。

文字通り伊勢参宮の重要路線であった戦前の参宮線は お召し列車もしばしば運行され、亀山-山田間の約35%が複線化される 幹線並みの扱いを受けていました。
戦前を代表する『汽車時間表昭和9年12月』で参宮線上り列車の行先を見ると、名古屋と湊町が多いのは当然ですが、草津線経由で京都・大阪以遠と結ぶ列車が6本(京都、大阪2、姫路2、宇野)もあります。食堂車付となっている姫路-鳥羽間の快速列車(の後身)は 1965年まで運行されていたとのことです。
関西鉄道時代からの歴史を考えれば、この列車の「草津線経由」が 由緒正しいものであることを知ります。
昭和9年時間表には、別に寝台車付東京行きも1本あります。

戦後の参宮線は、1970年に鳥羽線を開業して賢島までの直通ルートを開いた近鉄に完敗。天皇陛下も新幹線・近鉄を利用されています。
戦時中に単線化された参宮線は、戸籍上の地位も 1959年【紀勢線全線時】に亀山-多気間が紀勢本線になり縮小しました。

昔の地図で伊勢参りの鉄道を眺めましょう。
大正13年三重県地図
宇治山田だけでなく、松阪にも私鉄が来ておらず、参宮線が独占を謳歌することができた時代です。
参考までに 松阪-大石間の松阪鉄道は戦時中に廃止。相可口【現・多気】川添間の紀勢東線は 現・紀勢本線の一部。

日文研所蔵の 1931年宇治山田市街全図
中央やや左に参急と参宮線の山田駅。その南西に伊勢電の大神宮前駅。地図の西端を流れる宮川では、参宮線鉄橋の北からに参急、南に伊勢電と3本の鉄橋がほぼ等間隔になっています。

最後に参宮線がらみで忘れることができないのが 1956年に修学旅行生を乗せた列車が起こした 六軒事故 です。詳しくはリンク文書をご覧ください。
死者42人、負傷者92人の大事故被害者の多くは、東京教育大学付属坂戸高校(埼玉県)の生徒でした。
六軒駅の現在の所属は紀勢本線ですが、参宮線の大事故として記憶されています。
[86363] 2014年 9月 4日(木)18:17:31【1】hmt さん
伊勢参りの私鉄路線
[86351][86355] 伊豆之国さん
「伊勢電」と通称される 2代目伊勢電気鉄道 を中心に据えた 伊勢参宮をめぐる鉄道関連の大作を拝見しました。
せっかくなので、和久田康雄著『日本の私鉄』(岩波新書)などから得た知見に基き、私なりに理解するところを記してみます。
[86355]と重複するところがあるのはご容赦ください。

(初代)伊勢鉄道は、約100年前の大正4年(1915)から9年をかけ、当初の目的であった四日市と津との間 約32kmの蒸気鉄道を ひとまず完成させました。亀山経由の国鉄線【鉄道院線、1920年から鉄道省線】を16%以上短縮したことになります。

その後の飛躍は、【大正】15年に社長に就任した、四日市出身の実業家で「豪腕」として知られた熊澤一衛氏。

この人は 伊勢人であることを誇りに思い、大神宮の鎮座する「神都」が 大阪資本の参宮急行電鉄【参急】に侵されようとする状況を見て、防衛に大奮闘。しかし結果的には無残な敗北に終った。…というところでしょうか。

熊澤は社名を伊勢電気鉄道に改め、1500V電化だけでなく 積極的に南北への路線延長も行ないました。北は四日市-桑名間の約14kmで、南は津新地-大神宮前の約37km。この間に養老電気鉄道も合併しています。
北進は木曽三川鉄橋払下げがからみ、桑名で止りました。結果的かもしれませんが優先して実現したのは南進でした。

「参急に負けるわけにはゆかない」という伊勢人・熊澤の意地を感じる南進の実態を、1930年の両社路線の開業日で裏付けます。
参急の開業日 1930年3月松阪-外宮前 5月参急中川-松阪 9月外宮前-山田 10-12月榛原-参急中川 合計86.4km
伊勢電の開業日 1930年4月津新地-新松阪 12月新松阪-大神宮前 合計36.85km

目を見張るデッドヒートで張り合ったのはここまででした。
この先は無理な過剰投資をした伊勢電が経営困難に陥り、債権者の四日市銀行が休業に追い込まれました。
伊勢電名古屋線の免許は、鉄道大臣小川平吉のからむ五私鉄疑獄贈収賄事件の一つに問われて、伊勢電の熊澤社長は実刑に服することになりました。

その後の伊勢電の経営権は、愛知電気鉄道【愛電】 vs 大阪電気軌道【大軌】の争奪戦になりました。
熊澤は愛電を望みましたが、有力債権者の三井と興銀が 話をまとめた決め手は、苦境に立った伊勢電の足元を見るようなことをせず、正々堂々と交渉した大軌の種田(おいた)虎雄社長の人格であったと記錄されています。

このようにして伊勢電は大阪方の参急への合併(1936/9/15)という結果になり、桑名-名古屋間の延長が、別会社として設立された関西急行電鉄の手により1938/6/26に実現しました(1940年参急に合併)。

これにより現在の近鉄名古屋線の根幹が出来上がったことになりました。

少し補足します。関急名古屋-桑名間開通により従来の伊勢線(旧伊勢電)と併せて名古屋-大神宮間ルートが完成しただけでなく、名古屋-大阪上本町間のルートも【(江戸橋>中川)乗換を必要とするものの】繋がりました。
1936年の合併で同じ会社になったものの、中川から分岐していた参急側の標準軌路線の津駅と狭軌である伊勢線の部田駅【伊勢鉄道が1917年に開設、1924年のターミナル変更で移設改称】との間は 従来は 徒歩連絡でした。

名古屋開通を前にした1938/6/20に、参急の津駅から伊勢線江戸橋駅への連絡線が作られました。
そして同年末には 江戸橋-中川間を狭軌に改めて、名古屋方面からの狭軌線乗客は、中川での接続により伊勢・大阪両方向に向かう標準軌線に乗り換えるというシステムを確立しました。これが現在の近鉄名古屋線です。

ここに至り、伊勢電の作った大神宮前への狭軌直通ルートは、名古屋方面からの伊勢参りメインルートの地位を失ったわけです。

1959年、伊勢湾台風被害からの復旧に際して念願であった名古屋線標準軌化工事を実施したことは、みなさんご承知のとおりです。、翌年の短絡線により大阪方面へのスイッチバック運転も解消しました。近鉄ストーリー

名古屋線がらみで 先の時代に進んでしまいましたが、大軌は1941年に参急を合併、1942年には 軌道区間を鉄道に改め、大阪上本町-名古屋間は1社の鉄道路線にまとまりました。会社名は1941年改称の 関西急行鉄道【関急】を経て 1944年戦時合併による 近畿日本鉄道【近鉄】と変りました。

伊勢電が無理して並行路線を作った新松阪-大神宮前間は、戦時中の1942年に関急により廃止され、レールは名古屋線の複線化に使われました。戦後の1951年には江戸橋-新松阪間も廃止され、伊勢電が築き上げた伊勢参り路線【桑名-津新地-大神宮前間83.04km】は、約半分の 桑名-江戸橋間41.6km が近鉄名古屋線の一部として残るのみです。

熊澤の躓きの直接のきっかけは、[86355]でも触れられているスキャンダルですが、根本には世界恐慌の影響を受けた日本経済の悪化がありました。

最後は 「初代」の伊勢電気鉄道を名乗った時代もあった「三重交通神都線」。
宇治山田市の路面電車で二見、山田駅前、外宮前、内宮前などを結んでいました。
路面電車の中でも1903年開業の宮川電気に始まる歴史はかなりの古参。その名が示すように、元は電力系の会社 でした。
[86358] 2014年 9月 3日(水)23:46:06hmt さん
続・「悪」という字のつく地名
[86329]では、フジテレビの 「とくダネ!」2014/8/26を伝えた 記事 【注】などを根拠として、次のような前提事項を記しました。
「浄楽寺」ができたのが130年前だそうですから、蛇蛇落地から上楽地への変化は かなり古いことと推察。
「あしだに」も「悪」という字が嫌われて「芦谷」に変化。

このたび YT さん[86357]により、この前提が だいぶ疑わしいものであることを知りました。
「蛇落地」などという字名はなく、仮に蛇落地から上楽寺/地への改名が事実としても250年よりも前のこととなります。むしろ浄土真宗本願寺派である浄楽寺から上楽寺という字名となり、それが上楽地となったと考える方が素直です。
芦谷という地名は確認できませんでしたが、別所古墳発掘調査報告書収録の地図に足谷遺跡というのがあり、(中略)幕末にはアシヤと呼ばれる字名があり、明治の時に上楽地などに吸収されてしまった小字であると推測できます。

これをふまえると、[86329]の記事の 主テーマの信頼性 が薄くなったことは明らかなのですが、地名や防災に関する論議は 主テーマ以外にも及んでおり、特に防災についてはレスもいただいているので、安易に記事を削除すれば済む問題でもありません。

[86329]は そのままにしておきますので、ご承知ください。>落書き帳全読者の方へ

最後に、[86350] 災害関連記事について へのレスをいただいた方への釈明。

[86353] 「誰が」逆襲されたのですか?
逆襲されたのは、自然の摂理に従う大地の動きを克服したと慢心している「人類」全体です。
あなたも記されているように、都市部を含むすべての人は、今回「大蛇の逆襲を受けた人類」の一人として教訓を受け止め、普段から自分の住む地域の特性を熟知し、考えるべきことと思います。

[86352] hmtさんも、どちらかと言えば古来の地名「蛇落地悪谷」を復活させるべきだ、という意見のようですが
私はそのような意見を持っていません。地名は、その時々の風潮で安易に変えたり戻したりすべきものではありません。
もちろん、地名には先人の警告が必ず込められているものではなく、“変な地名が付いていない地域は何もしないでいい”わけはありません。

【注】
リンクページには番組名が記されていませんが、タイトルの上に表示されているサイト内の位置をクリックすれば、フジテレビ系 朝のワイドショーであることがわかります。
[86350] 2014年 9月 2日(火)14:12:54hmt さん
災害関連記事について
[86349] オッス、オラ全斗煥! さん
「大蛇の逆襲」という比喩は、被災者の気持ちを逆撫でするものなのでしょうか?

私も広島県に住んだことがあります。
今回ほどの大規模災害ではありませんが、風化した花崗岩の崩壊により隣家が埋められた経験もあり、それだけに他人事とは思えません。

落書き帳における災害関連記事について言うと、被災者に配慮して 徒に発言を“自粛”することよりも、防災という見地からして 適切な発言内容であるか否か、これこそが論じられるべきであると思います。

[86329]について言うと、地名に使われた文字「蛇落地悪谷」を題材にし、これが地域開発にとって目障りの少ない文字に変り、遂には住所地名から消滅したことが柱になっています。そして、不動産業者の発言を引用して
100年以上起きなかった土砂災害より 頻発する川の氾濫を目が向いて、川を避けて山側に宅地開発を進めた結果
であり、ハザードマップの整備や住民への周知対策が切実な課題であった と結んでいます。

問題とされた「大蛇の逆襲」の比喩については、広島市HPの八木ルート紹介にあった 戦国時代の大蛇退治をふまえたものです。
大蛇退治と昔の防災対策【おそらく危険箇所の回避】との結びつきは明確でないものの、その後の土砂災害は 100年に1回以下の頻度でした。
これが不動産業者や行政当局を油断させて 従来は避けていた危険箇所にも住宅が立ち並ぶことになり、今回の災害の遠因になったのではないでしょうか? ツケが回された入居者にはお気の毒な結果になりました。

問題にされた箇所は、このような趣旨を 短い言葉で表現した ものです。
[86329]の全体をお読みいただければ、防災を進める立場からの発言であることが理解できると思います。

同じように防災意識を喚起する趣旨から書いた 山体崩壊に関連する記事 を挙げておきます。ご参考まで。

そして、[86330]ぺーロケ氏の投稿に回答をされてみては如何でしょうか。

「地名が過去の災害の教訓を示すと聞きますが」以下のくだりでしょうか。
100年以上土砂災害が起きていなかったのは、やはり昔からの住民による危険箇所の回避の実践効果と推察します。たまたま稀に見る気象条件に遭遇したのは事実でしょうが、それを偶発的な事故として扱っては防災に結びつきません。
古い地名は、新住民にも共有されるべき文化遺産であり、それを単に「不都合な地名」と受け止めるか、「先人の警告が込められた地名」と解釈するかは 私達に委ねられています。

2011年に「須賀」という地名について書いたことがありますが、その後で起きた地震津波について千本桜さんからの報告がありました。
高須賀とは、洪水などで水が押し上げることのない高い砂丘の地形からきた地名です。まるで今回の震災で津波から免れることを予見したかのような的確な地名ですね。先人が残してくれた地名の重みを感じた次第です。
関係記事 をリンクし、ご参考に供します。
[86348] 2014年 8月 31日(日)23:27:00【1】hmt さん
観音下(かながそ) と 金ヶ瀬(かながせ)
2014年8月も最終日になり、気がついてみれば 落書き帳への書き込み履歴も12年目に入っていました。
松江オフ会2013でいただいた お誕生日新聞 で、落書き帳初書き込み日 2003年8月28日の毎日新聞第1面を見ると、トップは北朝鮮関係6カ国会議の基調発言で、北の発言は「核問題の解決は米国次第」。日米は拉致にも言及。この11年間に目立った進展がないことを感じます。他のニュースは、火星が6万年ぶりの最接近。コメ、10年ぶり不作。供給不安なし。

今年8月下旬の新聞では、残念ながら平成26年8月豪雨 が残した 広島での土砂災害が大きな記事になっていました。

そんなことを考えながら2003年の落書き帳を見ていたら、千本桜[軒下提灯]さん発の 「かながそ」についての質疑応答記事 が目にとまりました。大河原町にある 金ヶ瀬(かながせ)という地名が他に類例を見ないことに発した疑問とのことでした。

10年以上前の記事にレスを書くのもなんですが、せっかく思い出したので一筆。

確かに金ヶ崎町ならば岩手県にあるし、歴史的にも金ヶ崎の退き口【越前】で知られた地名ですが、金ヶ瀬となると 類例がありそうな地名なのに、見つかりにくいようです。

私も「かながせ」と「かながそ」の関係は解明できず、できるのは観音下石についての追加情報ぐらいです。

千本桜さんは 見たことがない とのことでしたが、観音下石は白山の火山灰に由来する凝灰岩で、温かみのあるベージュ色が落ち着いた雰囲気を醸す点が魅力とされています。
中日新聞に 小松市観音下の採石場や 東京都内の名建築での使用例 が紹介されていました。
日華石の名もありますが、目黒区駒場の旧前田侯爵邸【占領下ではマッカーサー元帥の宿舎として使われていた】では 大華石と呼んでいるようです。一般民家での使用例も挙げておきます。

小松市観音下(かながそ)町の方は 観音山 下の意味から出た地名であり、黄色は火山灰由来の石材の色であって 「金」を示唆するものではないようです。地図の中心、210mピークの北西が観音堂の位置です。
大河原町の金ヶ瀬(かながせ)も、付近に観音堂があるとのことなので、「観音ヶ瀬」という推測[22069]でよいのではないでしょうか?
[86342] 2014年 8月 29日(金)20:30:03【1】hmt さん
紙の里 大竹
[86339] ぺとぺとさん
和紙の取引の関係で大正5年に今の四国銀行の前身である高知銀行が【大竹】市内に開店

大竹の海兵団跡地に製紙工場があるのは知っていました。
しかし、手漉き和紙が それよりもずっと前からの 大竹の特産品 であったことは知りませんでした。

そこで 紙の歴史 を調べました。室町時代以降に多くなった書院造建築で紙の需要が拡大。また雨傘用の厚く強い紙も美濃や土佐などを中心に全国で生産。江戸時代になると 野中兼山などにより土佐藩の財政政策にも利用されました。
幕末になると 土佐国吾川郡伊野【いの町[45511]】で大幅連漉き道具が考案されるなど技術の進歩もありました。
1901年には 全国の和紙生産戸数68562でピークを記錄。以降は洋紙化と和紙の機械化が進み、手すきの戸数は減少。
この年、高知県の伊野製紙などが合併して土佐紙合資会社設立。

日本紙業芸防工場 によると、この会社が大正14年の合併で 社名を日本紙業と改めた頃、合併相手の土佐紙は 高知県伊野町の他に 山口県和木村にも工場を有し、機械すき和紙の分野で独特の地位を占めていたとのことです。

これにより、[86323] hmt が記した疑問が解決しました。
どのような経済的背景が四国と大竹とを結びつけたのか?
つまり、土佐紙合資会社による山口県和木村進出があり、これに呼応して高知銀行も小瀬川対岸にある紙の町・広島県大竹に支店を開設[86339]、そして土佐紙と日本紙器製造との合併による日本紙業の成立に至る という流れだったのでした。

工場の名になっている「芸防」、つまり安芸・周防 両国の境界を形成しているのは「小瀬川」です。
そして、紙作りに欠かすことができない 水を供給して、この地を紙生産地たらしめたのもこの川でした。
西国街道 両国橋付近の大竹側の地名から「木野川」の呼び名もありますが[15926]、現在では大竹側でも小瀬川と呼んでいるようです。例1例2

例1の小瀬川干潟は、[83553]で臨海工業地帯の工場夜景を紹介した河口付近にあります。
[86329] 2014年 8月 26日(火)18:58:40【2】hmt さん
「悪」という字のつく地名
[86328] 山野さん
この間の豪雨で多数の犠牲者が出ている、広島市安佐南区八木地区の古来の地名が「八木蛇落地悪谷」というそうで、これまた凄い地名だ。

地元の人が 昔は蛇が降りるような水害が多かったから 蛇落地(じゃらくじ)、悪い谷で 悪谷(あしだに) と伝えていた地名。
それが「八木上楽地芦谷(やぎじょうらくじあしや)」に変化し、現在の公式地名は「安佐南区八木3丁目」。
「浄楽寺」ができたのが130年前だそうですから、蛇落地から上楽地への変化は かなり古いことと推察。
「あしだに」も「悪」という字が嫌われて「芦谷」に変化。情報源

へび談義【追記あり】 はさておき、「悪」という字のつく地名の事例は 小字レベルまで含めると 100ヶ所以上になる[77020]「蛇地名」よりも ずっと少ないように思われます。

思いつくのは トカラ列島の「悪石島」と 赤石山脈の「悪沢岳」ぐらいです。なお、トカラ列島には「臥蛇島」もあります。
落書き帳を検索してみたら、[79669]油天神山さんの記事に
「アクト・アクツ」とは「悪戸」「阿久津」「圷」などと表記されることの多い、低湿地などを意味する地形名称
との記載がありました。
悪谷も、人にとって都合の悪い地形の仲間なのでしょう。

「悪」は含まれていませんでしたが、「負」のイメージを持つ漢字が使われている、地名を牛山牛太郎 さんが調べています。
[21611][21683]に加えて、KMKZさんが参加した追加版の「血」もあります。[25815][25819][25829]

参考までに、“漢字としての”ではありませんが、“言葉としての”マイナスイメージの地名について、hmtがリンクした記事集が[51911]にあります。修正版

【追記】
八木には大蛇退治を伝える碑があり、広島市HP内に 八木ルートが紹介されていることを夕刊で知りました。
今回の災害は、退治したと思って油断していた大蛇に逆襲された結果だったようです。

JCASTテレビウオッチには、100年以上起きなかった土砂災害より 頻発する川の氾濫を目が向いて、川を避けて山側に宅地開発を進めた結果 という趣旨の不動産業者の発言が記されていました。

[86316]ペーロケさんの発言で指摘されたハザードマップの整備や住民への周知対策は、まちの顔づくり事業 よりも 切実な課題であった ということのようです。
[86323] 2014年 8月 24日(日)11:57:55hmt さん
Re:意外な場所に意外な地銀が
[86217] ぺとぺとさん
[86221] 白桃さん
[86321] faithさん
[86222] 白桃さん
大内銀行の本店は讃岐三白の一つである砂糖の積出港として栄えた三本松に設置され

ここで思い出したのが、40数年前に口座を開いていた四国銀行大竹支店です。
広島県に四国銀行【本店は高知市】の店があることも意外でしたが、その建物は予想外に立派なものでした。
尋ねてみると 大竹○○銀行の本店であったとのこと。○○の部分は記憶喪失。

落書き帳で紹介しようと四国銀行の沿革を調べましたが、Wikipediaには出ていません。証券投資用語辞典にもなし。
銀行図書館 により、明治30年~大正7年に存在した「大竹貯蓄銀行」を確認することができました。
大正7年9月に本店が高知に移り高陽貯蓄銀行と改称。更に高陽銀行と改称後昭和5年に四国銀行に合併。
大竹が四国に直接統合されたのではないので、調べにくかったのでした。

四国銀行は大竹市での地位を確保しているようですが、どのような経済的背景が四国と大竹とを結びつけたのか?
hmtが最も知りたかった この点については、残念ながら調査の成果を得ることができませんでした。

とりあえず、岡山から香川県への進出の逆ケースとして、高知から広島県への進出もあった事例を報告しておきます。
[86311] 2014年 8月 20日(水)16:09:40【1】hmt さん
海と島 (19)日本の島の面積・人口集計表【修正版】
少し前に 508島を選んだ 「島list500」 の面積・人口集計表 を発表しましたが、一部のデータに誤記を発見しました。
大きな表ですが、全体をこの修正版に差し替え、誤記を含む旧版記事[86277]は削除したいと思います。

【まえがき】
[86275]に記した趣旨で選定した 「島list500」 の集計表を、5大島・離島(47都道府県別)・北方領土の 順に示します。
項目は 面積(km2)・人口【原則:2010年国勢調査】のそれぞれにつき、各都道府県の総計値、収録島数、収録島についての合計値、収録した主な島が県全体の中で占める %です。
県面積は 人口に合わせて 平成22年面積調 の値を使いましたが、個別の島面積は H25年の値 であり、この点は不統一でした。
なお、北方領土総面積は 面積調で発見することができず、国土交通省データ を用いました。その面積は 付属島を含む区分値で集計されており、面積調における個別の島面積と少し違います。

【5大島】 本島人口は、便宜上 総人口から 島list500で収録した離島の人口を差し引いて求めた。
5大島(県)県総面積本島数本島面積対県面積%県総人口本島数本島人口対県人口%
北海道(01)78420.73177984.2799.44%55064191549401899.77%
本州(02-35)231219.111227972.1998.60%103976868110346162199.50%
四国(36-39)18806.54118300.7797.31%39772821389214097.86%
九州(40-46)42191.43136750.2787.10%1320396511268044596.04%
沖縄島(47)2276.1511207.9953.07%13928181125852390.36%
合計(01-47)372913.965362215.4997.13128057352512678674799.01%

【離島(北方領土を除く) 47都道府県別】 (石島/井島は岡山県と香川県とに分離)
北海道・東北総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%
01北海道78420.7314447.900.57%55064197124010.23%
02青森県9644.54000%1373339000%
03岩手県15278.89000%1330147000%
04宮城県7285.761142.220.58%23481651157660.24%
05秋田県11636.25000%1085997000%
06山形県9323.4612.750.03%116892412280.02%
07福島県13782.76000%2029064000%
(01-07小計)145372.3926492.870.34%1484205519183060.12%

関東地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%
08茨城県6095.72000%2969770000%
09栃木県6408.28000%2007683000%
10群馬県6362.33000%2008068000%
11埼玉県3798.13000%7194556000%
12千葉県5156.7010.030.00%621628910.00%
13東京都2187.5025398.7118.23%1315938813278150.21%
14神奈川県2415.8621.370.06%904833129310.01%
(08-14小計)32424.5228400.111.23%4260408516287460.07%

中部地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%
15新潟県12583.812864.316.87%23744502630932.66%
16富山県4247.61000%1093247000%
17石川県4185.66247.241.13%1169788230860.26%
18福井県4189.83000%806314000%
19山梨県4465.37000%863075000%
20長野県13562.23000%2152449000%
21岐阜県10621.17000%2080773000%
22静岡県7780.4210.440.01%376500713160.01%
23愛知県5165.0449.310.18%7410719440860.06%
24三重県5777.27814.600.25%1854724844800.24%
(15-24小計)72578.4117935.91.29%2357054617750610.32%

近畿地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%
25滋賀県4017.3611.520.04%141077713430.02%
26京都府4613.21000%2636092000%
27大阪府1898.47110.550.56%8865245110.00%
28兵庫県8396.139630.557.51%558813381827663.27%
29奈良県3691.09000%1400728000%
30和歌山県4726.29412.340.26%1002198211610.12%
(25-30小計)27342.5515654.962.40%20903173121842710.88%

中国地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%備考
31鳥取県3507.28000%588667000%
32島根県6707.958349.635.21%7173976257603.59%
33岡山県7113.211937.60.53%19452761944150.23%石島は部分
34広島県8479.5835430.465.08%2860750341305054.56%
35山口県6113.9532263.074.30%145133832605844.17%
(31-35小計)31921.97941080.763.39%7563428912212642.93%

四国地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%備考
36徳島県4146.67821.210.51%785491583371.06%
37香川県1876.5328219.8611.72%99584227382573.84%井島は部分
38愛媛県5678.1840230.014.05%143149337371962.60%
39高知県7105.16613.20.19%764456613520.18%
(36-39小計)18806.5482484.282.58%397728275851422.14%

九州・沖縄地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%
40福岡県4977.241127.430.55%50719681047940.09%
41佐賀県2439.65913.680.56%849788824930.29%
42長崎県4105.33861835.8344.72%14267797619467113.64%
43熊本県7404.7321876.5411.84%1817426201286607.08%
44大分県6339.71917.670.28%1196529943160.36%
45宮崎県7735.9945.200.07%1135233410570.09%
46鹿児島県9188.78372675.0729.11%17062423218752910.99%
47沖縄県2276.15551054.4746.33%1392818491342959.64%
(40-47小計)44467.582326505.8914.63%145967832086578154.51%

離島合計(離島合計数は石島/井島の重複調整のため 小計の和より1つ少くなる)
離島合計総面積島数島面積対総面積%総人口有人島数島人口対県人口%
離島合計372913.9649310554.772.83%12805735243612706050.99%
参考:【3地域の離島集計値】(石島/井島は本州と四国に分離)
3地域離島県面積島数島面積対県面積%県人口有人島数島人口対県人口%
本州地域231219.111663116.701.35%1039768681465152470.50%
四国地域18806.5482484.282.58%397728275851422.14%
九州地域42191.431775451.4212.92%132039651595235203.96%

【北方領土】
北方領土総面積島数島面積対総面積%
北方領土5036.14105032.1999.92%

【日本全土】 北方領土は総面積と収録島面積に算入するが、有人島数及び人口には不算入扱いとする。
区分総面積収録島数収録島面積対総面積%総人口有人島数有人島人口対総人口%
47都道府県372913.96498372770.2699.96%128057352441128057352100%
北方領土5036.14105032.1999.92%
収録した島の合計377950.10508377802.4599.96%128057352441128057352100%
収録外の無人小島多数147.650.04%
(収録島面積合計/総面積)=99.96% が [86275]で記した“「島list500」は…面積でも国土の 99.9%以上をカバーする”の根拠です。

グリグリさん これでよろしければ、[86277]の削除をお願いします。
[86296] 2014年 8月 17日(日)13:33:56hmt さん
日本の北極観測基地・ニーオルスン
東西南北端コレクション は ウオッちず終了[85240]に対処して 地図リンクを変更中です。
択捉島の新情報[86282]については、経緯度と地図の修正[86286]を行いました。

ところで 、このコレクションには 本来の対象である「都道府県の東西南北端」から外れた南極の科学観測基地も収録しています。
これは「日本国の活動拠点の南端」という意味を持っています。
では、「日本国の活動拠点の北端」は どこなのでしょうか?

国立極地研究所の 要覧2012-2013 を開いてみました。
北極観測は、スバールバル、グリーンランド、スカンディナビア北部、アイスランド等の陸域を観測拠点として、大気、氷床、生態系、超高層大気、オーロラ、地球磁場等の観測を実施しています。(p.4)

この中で最北地点と思われるのが スバールバル諸島の主島であるスピッツベルゲン島北部にある ニーオルスン観測基地(北緯79度、東経12度、要覧p.25)です。
実はこの地については、[40317]で“人が定住する地球最北の村”として言及したものの、[80241]で産業活動のない観測基地であることを理由に 地球最北の村を返上した という「いきさつ」があります。当時は 日本の観測基地に 全く気付いていませんでした。
しかし、それと知った今回は 南極の観測基地と同列に扱い 東西南北端番付における「北の張出横綱」? になってもらいましょう。

ニーオルスンの位置は スバールバル(スピッツベルゲン)旅行記の冒頭地図に示されているように、主島の北西部・入江の奥です。でも、Google map のその場所には町の名が記されていません。
その代わりという訳でもありませんが、ニーオルスンのフォトツアー を付けておきます。

ニーオルスンより少し南になりますが、主島中央部の大きな湾の南岸には 唯一の町? ロングイヤービエン[80241]があり、この地の大学にも 日本の研究室や国際協同で運用する大型レーダー(要覧p.15)があります。

グリーンランドにおける日本の観測拠点位置は知りません。
しかし、日本の民間人が住んでいて これも 世界最北の村 と言われる シオラパルク村(北緯77度47分、西経70度46分)でも ロングイヤービエンより少し南になります。
「日本国の活動拠点の北端」は ニーオルスン と考え、この地を地名コレクション・東西南北端の末尾に追加することにします。
[86293] 2014年 8月 16日(土)16:35:26【1】hmt さん
衛星画像の解析で改測された北方領土の地形図
[86284] 右左府さん
引用していただいた新聞記事には、国土地理院による解析で 択捉島に関する今回の情報が得られた画像データは、宇宙航空研究開発機構(JAXA = Japan Aerospace eXploration Agency)の陸域観測技術衛星(ALOS = Advanced Land Observing Satellite)「だいち」が撮影したもの と記されていました。
この衛星は 2006年の打ち上げで、設計寿命3年 目標寿命5年を超えて運用されたのち、2011年に運用が終了しました。
後継機の「だいち2号」(ALOS-2)が既に打ち上げられていますが(2014/5/24)、こちらは運用開始からまだ日が浅く、今回の地形図改測に使われた画像は 先代 ALOS の撮影によるものと思われます。

これにより、択捉島含め北方領土の島々の面積にも変更が生じるのでしょうか。

経緯度や山の高さだけでなく、面積についても 当然のことながら 新たな情報が得られたことと思います。
平成20年(2008)面積調で発表された竹島【日本海】の面積変更[68680]も、衛星画像による地形図改測の結果でした。
今回改測された 地形図 に基づく北方領土の島々の面積が、平成26年面積調として 2015年1月31日頃に発表されることを期待しています。
参考までに、地形図名を眺めてゆくと、散布山・西単冠山・ラッキベツ岬【択捉島東端】があります。
[86286] 2014年 8月 14日(木)23:13:13hmt さん
択捉島の経緯度変更 と 地名コレクション東西南北端の修正
[86282] グリグリさん
日本最北端の択捉島のカモイワッカ岬が従来の地形図の位置より南西方向に100-150mにあることが判明

“最北端”が南西方向に移動したら最北端でなくなってしまうのではないか?

心配御無用です。
岬の地形を示す「図形」の中で南西に移動したのではなく、岬の図形位置を示す経緯度の方が北東に移動したのです。
これにより、岬の北端の経緯度の数値が減少したことを“従来の地形図の位置より南西方向にある”と表記したものにすぎません。

つまり、択捉島を地図上で示す経緯度の数値が全体として変更されたので、北海道東端のラッキベツ岬の“位置”【経緯度と表現した方が誤解されない】も 北緯45:30:22 東経148:53:35 に更新されました。
この値は、都道府県の東西南北端点の経緯度 に示されています。

国土地理院のサイトではこのニュースを現時点で確認できませんでした。

hmtは、6月頃に上記のページを閲覧して変更を知りました。
実はウオッ地図の終了[85240]に伴い 地名コレクション 東西南北端 の地図リンクを修正しなければならないことを認識し、その準備に取り掛かろうとして気付いたのでした。

また、地名コレクションの東西南北端も修正が必要です。

択捉島の2地点だけでも直ちに修正すればよかったのですが、全国の地図リンク修正も含めた大修正になるため、着手が遅れていました。

ウオッ地図は縮尺が画一的でしたが、地理院地図はzoom段階を選ぶことができるので、それぞれの地点に応じて適切な縮尺にできます。その反面、縮尺選定に多少は頭を使うことになります。まあ、コツコツと全国の地図リンクを修正してゆきましょう。
[86283] 2014年 8月 14日(木)15:36:29hmt さん
一本松・二本松・三本松から十六本松・千本松まで
「○本松」地名に関する記事は、既に 落書き帳アーカイブズに集められています。
その後 2011/3/11の地震津波があり、陸前高田市の松原で1本だけ残った木が 奇跡の一本松 として有名になりました。
それ自体は地名ではありませんが、これに関連した話題から hmtも「○本松」地名の記事を一つ書いています[80395]
落書き帳の仲間では 三本松の大御所は別格として、上記記事の後で 二本松市を 心の故郷[82902] とする 菊人形 さん が参加されました。

久しぶりに「○本松」地名を取り上げた動機は、少し前に目にした 朝日デジタルの ことばマガジン 連載記事 でした。

小倉勤務の記者は福岡市の六本松九大前から始め、地名の由来となった松の木の面影を追います。福岡城下のランドマークになっていた6本の松は、文政年間の大風で倒れたとのこと。福岡市営地下鉄六本松駅のロゴマークは6本の枝。

地名と共に由来の松が残る地を求め、山陽本線唯一の勾配線区・セノハチで知られる 広島県の 元 八本松町へ。
一里塚に植えられていた松2本が 各4本の枝に分れて 西国街道を旅する人のために木陰を作っていたが 現存せず。

次に訪れたのが 三本松駅。四国かと思いきや、近鉄で奈良県東端の駅でした。昭和合併前は 三本松村でした。
記者は この地で 切り株で保存されていた由来の松との対面を果たしました。3本に枝分かれした松の写真も残されていました。

こんな具合に、記者は 地名の宝庫・京都と 「○本松」地名の多い愛知県(名古屋と三河)とを訪問してゆきます。

愛知県に多い理由。それは小字起番地帯である愛知県には、一般の地図から消されている小字名が 多数残されている故と考察。
このことは、『かいと』コレクション などに関連する落書き帳での考察とも 通じるものがあります。

未登場の九本松を求めて東北地方へ。
「○本松」の仲間では 唯一の「県名」という歴史を持ち、唯一の現存自治体でもある二本松市。
由来は諸説あるようですが、その一つが霞ケ城の傘松と鶴松です。
現存の 傘松は 天然記念物ですが、地名の由来にまで遡るものではなさそうとのこと。鶴松は数年前の大雪で折れたとか。
気仙沼市長磯二本松では 地名の由来である松が 1本だけ残されており、津波にも無事でした。

ネット検索で未発見だった九本松発見の手掛りは、角川日本地名大辞典の小字一覧でした。
よく見ると、佐賀の字名は異様なほど「○本松」だらけ。九どころか十、十一、十二……十六までありました。しかも「松」のみならず、「○本杉」「○本柳」「○本桜」「○本椎」……樹木ばっかり!!(中略)
市役所で字図を特別に見せていただいたところ、あるわあるわ、「○本松」。旧神埼町の区域だけでも、九本松が2カ所ありました。

字図を参照して作られた朝日デジタル記事の挿入図を 地形図 と対比すると、地形図中心付近が神埼市神埼町姉川十六本松で、その東の中島と記されているあたりが十本松です。北側には九本松から一本松まで、南側には十五本松から十一本松までが順序良く並んでいます。
明治の地租改正測量の際に付けられた字名であり、実際に松が生えていた可能性は薄い という学者の見解が紹介されていました。

最後に、実数ではないでしょうが、落書き帳記事に記錄された 那須塩原市と長野県高山村の千本松[13001]
mapionで検索すると、更に 須賀川市・加賀市・亀岡市・いわき市などにもありそうです。
地名とは言えないかもしれませんが、岐阜オフ会2012の後で訪れたのが 木曽三川の 油島千本松原[82265]

余談
千本という地名から連想するのは京都ですが、この「千本」は樹木ではなく、船岡山や蓮台野に通じる朱雀大路の両脇に立てられた多数の卒塔婆だそうです。千本通の由来
[86275] 2014年 8月 12日(火)14:17:05hmt さん
海と島 (18)日本の島 約500島を選んでみた
[85771] グリグリさん
いずれ、独自の島一覧表を作成したいと思っています。境界線の島も参考あるいは注釈付きで。

この記事のタイトルに使われた 竹崎島は 佐賀県南端にある火山島由来の陸繋島です。

このような“境界線の島”の扱いについては まだまだ検討を要するのですが、hmtも「海と島」に関する記事を綴りながら、自分なりの「日本の島一覧表」を欲しいと思い、試作していました。
その際に考えていたことの一端を [86248]に記しています。
データは多いほど良いというものではなく、利用者の身の丈に合ったサイズが使い易い
自分として好ましい島リストとはどのようなものか?

[86248]では、これに続いて国土地理院の「島面積」・最新国勢調査の人口データ・地理的位置関係を反映させた配列・小さな有人島【例:宇品島】などの要素にも言及しています。

このようなプロセスにより hmtが到達した一応の結論です。

日本には手におえないほど多数の島がある。しかし、約500の島を選べば およそのことがわかる。
つまり「島list500」には、有人島のすべてが含まれるだけでなく、面積でも国土の 99.9%以上をカバーする。
「島」の定義は、現在の地理的環境や成因により一律に決めることは困難である。
しかし、人工島や本土と地続きになった島でも社会的に重要な地位を占める「島」はできるだけ対象に含めた。

今回「島」に含めることにしたポートアイランドの仲間について。
夜間人口でも15000人を超え、昼間は更に多くの人が働くビジネス島。「住民」は極めて少ないが旅行者を含めて人々が行き交う空港島。
大規模な架橋により本土から隔離されている このような存在は、現代の「島」を語る上で欠かせない存在です。
もちろん、この種の島の先輩としては大阪の「中之島」などがありますが、川の中洲や三角州は排除されます。
…ということは、「本土との間に存在する ある種の距離感」 が「島」に求められているのかもしれません。

選定の最後の段階で加えた桜島。噴出物により大隅半島との間が地続きになった大正3年(1914)の大噴火 100周年を迎えました。
鹿児島市街地との間を結ぶ定期航路は、災害復興から要望され 1934年に実現したものとか。大隅半島側からの連絡道路もありますが、主な交通手段を航路に依存する桜島は 実質的には島 の状態が続いているものと思われます。

なお、有人島の2010年国勢調査人口をグリグリさんに送ることを提案[86201]した時点では知らなかったのですが、グリグリさん自身による「日本の島」のページも既に作られており、その後フォロー記事[86243]がありました。

このような状況をふまえ、個々のデータを 都道府県市区町村サイト内で反映させる仕組みは グリグリさんにお任せします。
ここでは、hmtが整えた「島list500」の全体構成を 落書き帳読者のために 簡単に説明しておきます。

結果的に 選ばれたサイズは 約500島【正確には508島】でした。その内訳は次のとおりです。
(1)5大島、つまり 北海道・本州・四国・九州・沖縄島。
(2)国土地理院 H25年 島面積 (G-list)収録の島【面積1km2以上】、5大島以外の集計 336島。うち北方領土 10島。
(3)シマーズ[82777]のリスト(S-list)に収録された 1021島の一部。
 (3.1)有人島(red)として収録されたもの 433島【江田島と能美島を統合】 (2)との間には当然重複がある。
   現在は本土と陸続きになっている島も含まれる【例:かつて指定島であった瀬居島、香焼島など】。
   S-list有人島(かつ指定島)で 昨年無人化した 新島【鹿児島湾】[86249] のような例も含まれている。
 (3.2)シマーズで その他の島(blue)になっている中から収録した 7島
   沖ノ鳥島【太平洋】、竹島【日本海】、高島【石見 旧指定】、四阪島【燧灘[86161]】、沖ノ島【宗像市[86161]
   長崎空港【シマーズでは箕島になっている】、赤島【注】
  【注】
    北九十九島 “赤島などは有人島”との記載によるが、おそらく現在は無人
(4)G-list 及び S-list 以外から収録した 8島【竹崎島は選外】
  春国岱[85822]
  関西国際・中部国際・神戸・北九州の4空港[86161]【長崎空港島は シマーズに 箕島の名で収録 】
  ポートアイランド と 六甲アイランド[86161]
  桜島【鹿児島湾】
[86248] 2014年 8月 9日(土)23:11:02【2】hmt さん
海と島 (17)宇品島【広島市】・高島【鳴門】
前回紹介した瀬戸内海の 『しまっぷ』
「6852島」の詳細を窺わせる貴重なリストなのですが、あまりにも多数の小島・岩・碆などが列挙されています。
人間生活と関わりのありそうな情報は、その中に希釈・埋没されており、とても逐一検討する気にはなれません。
やはり、データは多いほど良いというものではなく、利用者の身の丈に合ったサイズが使い易いことを実感しました。

そこで、自分として好ましい島リストとはどのようなものか? 少し考えてみました。
国土地理院の島面積。 2013年10月1日現在の表には 341島が収録されています。
この程度ならば扱えるし、大きさの下限が面積であることも気に入りました。
でも 人口データがが入っていません。最新国勢調査人口[85802]を加えたいし、配列にも地理的位置関係を反映させたい。

人口というと、国土地理院のリストには入れなかった小さな島ながらも、無視できない人口を抱える島があります。
その代表が宇品島です。この島は近世までは広島湾にある自然島の一つでした。しかし、明治の築港事業が完成し、市政町村制が施行された1889年時点では、既に広大な埋立地(宇品新開>広島市宇品町)と地続き状態になりました。

1894年6月に日清戦争が始まると、同月に山陽鉄道が開通したばかりの広島は、5年前に完成した宇品港と相まって軍事拠点として注目されることになりました。8月には広島-宇品間に軍用鉄道が敷設され、広島は兵員・物資輸送の前進基地となりました。
更に9月には大本営が広島に移転し、明治天皇を迎えて 日本の臨時首都になったのでした[82870]

話が少しそれましたが、宇品島の住所地名は広島市南区元宇品町となっています。本来の宇品なのですが、気の毒なことに その地名を広島の新開地に奪われ、1904年の広島市編入以来「元」を冠した町名を使わされています。

そして宇品島自体も、明治の築港で一度は本土と地続きになり自然島消滅状態になりましたが、住民運動の結果 1893年には水路が復活して架橋島として復活しました。確認のために 地形図
この橋の名は、第二次大戦中に水路拡張した暁部隊【陸軍船舶司令部】にちなむ「暁橋」です[82809]

本題である元宇品町の人口。これは国勢調査の小地域人口で 1831人と知れます。面積は[86234]で紹介した海保の『しまっぷ』で0.51km2。公園地区ですが、市街地もあるので小さな島にしてはかなりの人口があります。

次は 宇品島よりは大きな 面積 2.59km2の「高島」について語ります。
でも この表記では どの島のことなのか 読者に伝わりません。「高島」という島は日本全国にたくさんあるからです。
最も有名なのは高島炭鉱があった「高島」でしょうか。平成合併前までは長崎県西彼杵郡高島町[71965]という自治体で、1960年国勢調査では人口2万【軍艦島こと端島を含む】を超える活況でした。
でも、ここで言及したいのは 徳島県島田島[82888]の隣にある 高島 です。

このような事情をふまえ、自分として好ましい島リストには、同名の島を区別する仕組みが必要だと思っています。
もちろんリストに記録する島の属性中には県名も加えますが、「長崎県の高島」と限定しても3島ある【長崎市、佐世保市、平戸市】ことを考えると、これだけでは不十分です。
私としては、高島【鳴門】・高島【長崎】・高島【九十九島】・高島【平戸】のように 県よりも狭い地域名 を付す方向で考えています。

ところで、何故「高島【鳴門】」を取り上げたのか? 
実は愛用(?)しているシマーズのリストから、この島が落ちていたことを発見したのです。
シマーズの 35図を確認してみると、有人島を示す赤い字の「大毛島」から出る指示線の先にあるのは 高島【鳴門】でした。
大毛島と高島の間は、地形図 が示すように 水道で隔てられているのですが、この2島が別々の島であることを明確に示すためには、かなり大縮尺にする必要があります。離島専門家の作ったシマーズでも、このような見落しがあるので、注意が必要です。

実際、水路の幅がどれだけあれば別々の島とするのかなど明確な基準はなく、大毛島と高島とは 昔からの慣習により 別々の島と認識されているのだと思います。鳴門市三ツ石の区域の一部が水路の西側に及んでいる事実からも、昔は2島の間にもっと広い水路があり、両側の島民による塩田開発を経て陸地化した結果、現在の狭い水路に変化したものと推察します。

高島には その名が示す山の部分もありますが、鳴門3島の中では面積最小ながら平地に恵まれた高島は かなり市街地化しています。人口 4095人。
[86234] 2014年 8月 8日(金)15:00:53hmt さん
海と島 (16)日本全国で 6852島 その根拠と内訳
日本の国土を構成する島の数として 6852島 が使われていることは、[29533]以来 何度も記してきました。
この数字は 日本統計年鑑等にも使われた「公式の島数」ではあるが、ここで用いられた基準(島の定義)は、海上保安庁が自ら認めているように 絶対的なものではなく、あくまでも計数するための便宜的手段です。
海上保安庁水路部【現・海洋情報部】の調査から30年近く経過していることでもあり、6852島の問題点を再検討してみます。

だいたい「島」をどのように定義して どのように数えるのか? この前提を変えれば数えた結果は如何様にも変ります。
社会的な状況や測地技術の変化も考慮して、当時用いられた前提を再検討することは意義あることであると思います。

6852島を数えた際の前提は 概ね次のようなものと思われます[85767]

(1)自然島である
昭和61年当時にも人工島【例:第二海堡[26174]】は存在しました。もっとも、外周 0.1km以上の条件を満たしている第二海堡が 6852島に算入されていたか否かは不明です。
ただ、戦後にできた大きな人工島が島嶼リストから除外されていることから、自然島に限られているものと推測されます。
また、日本離島センター には 海上保安庁の数え方として「埋立地は除外」【出典:JODCニュース34号(S62)】と記されていました。これにより、埋立による人工島は除外されていると推測されます。
参考までに、関西空港島の面積は10km2以上になっており、ポートアイランド・六甲アイランドの人口は共に15000人を超えています。
人工島を除外して世の中を語ることはできない時代になっている現実を直視すれば、自然島に限る条件は疑問です。

(2)外周 0.1km以上である
言うまでもなく、島の大きさについては 何らかの形で原則的な下限値を定めることは必要です。明治15年(1882)の 第一統計年鑑では 伊能大図で 周囲1町【109m】以上のものを掲載するとして、1847島が選ばれました[66997]
外周 0.1km以上という基準はこれを引き継いだものと理解されますが、昭和63年には3922島になっており、その翌年平成元年の日本統計年鑑から、水路部が数えた6852島に改められました。
空撮を用いて作成された地図・海図による面積計算が可能になった現在の技術水準からすれば、外周よりも面積によって下限値を定めるのが適切と思われますが、実現していません。

(3)関係する最大縮尺海図と陸図(縮尺1/2.5万)を用いて数える
主として使ったのは海図でしょうが、地形図と同様にこれも年々改められており、約30年の変化は大きいと思います。

(4)橋、防波堤のような細い構造物でつながっている場合は島として扱い、それより幅が広くつながっていて本土と一体化しているようなものは除外
1968年の「番の州埋立」よりも後ですから、沙弥島と瀬居島[86062]は除外されている筈です。事実、主として瀬戸内海を管轄する第六管区海上保安本部が 管内の島をガイドする しまっぷ統合版【注】に含まれていません。
【注】
その中には 100m2未満の島?を含む 909島が収録されており、6852島の一端を示すものと推測します。

しかし、この基準を紹介している日本離島センターが発行する『シマーズ』には 何故か本土と一体化した沙弥島・瀬居島も収録されているというように、混乱があります。

6852島であることの妥当性はさておき、本土とされる5大島を除いた 6847島が広義の離島で、その内訳は有人離島 418、無人離島 6429(H24/4/1時点)と、数からすれば無人離島が圧倒的です。
[24470]で紹介された 1955年発行の本には、有人離島が全部で436と書いてあり、無人化が進行中と思われます。

2013/4/26の第1回 国境離島の保全、管理及び振興のあり方に関する有識者懇談会 資料2-2 離島の概要を見ると、有人離島のうち 305が4つの法律の対象離島として指定されています。

これらの内、離島振興法・奄美群島振興開発特別措置法・沖縄振興特別措置法については [85802]で言及しました。
その際に、小笠原諸島振興開発特別措置法の対象は父島・母島と記したのですが、上記資料によると「4」と記されていました。あと2つはどこ? 法令を調べてもよくわからなかったが、東京都の作成した 小笠原諸島振興開発計画 の 7コマに、「その他の島しょ」として硫黄島・沖ノ鳥島及び南鳥島が示されていました。沖ノ鳥島を除く2有人島が法対象離島として加わるのでしょう。
[86201] 2014年 8月 2日(土)23:49:47【1】hmt さん
海と島 (15)2010年国勢調査による 島の人口
[86178] グリグリさん
有人島の国勢調査人口によるまとめを前々から作業しようと思っていて、なかなか進捗しないのですが

海と島シリーズの(11) で記したように、hmtも同様の調査を試みました。
その結果 理解したこと。
(1)統計局は島単位では人口を集計していない。
(2)少数の旧自治体で1島を構成の島は、公表された旧自治体単位の人口から計算できる(例:倉橋島)。
(3)離島振興法などで指定された離島は、実施地域一覧表に 平成22年国調人口の集計結果が掲載されている。
(4)適用範囲が広く正統的な方法は国勢調査の小地域データの集計ある。しかし それを利用する上では問題もある(例:青海島)。

上記(4)に掲げた小地域データの集計については、青海島よりも前に [82888]グリグリさんが 鳴門海峡にある 島田島を例に挙げて、四国本土と島田島とにまたがる町名の人口を分別できない問題点を詳しく説明しています。
町字データでなく、基本単位区にまで分解して分別するためには、調査票閲覧による場所の確認[86178]など特別な手続きが必要なのでしょうか?

小地域データの集計については、分解して島単位に組み直せるか否かの問題の他に、内訳記載がされているデータを重複して数えるという過ちを犯さないようにする注意も必要です。大字の中の内訳として字の人口が重複記載されている多数の事例だけでなく、同じ大字名が列挙されているだけの例もあるので、注意が必要です。
例えば呉市豊浜町大字豊島【安芸灘諸島の豊島】の人口は町字小地域集計の表でセルL2003に記された 1373人だけでよく、その下の3つは内訳です。

隣接する大崎下島にある呉市豊浜町大字大浜についても 同様にセルL2007の 372人だけでOKです。
旧豊町の人口 2261人から指定離島である三角島の人口 61人を差し引いた 2200人に この 372人を加えた 2572人が 大崎下島の人口 ということになります。
上記 (2)(3)(4)の手法を組み合わせた計算です。

参考までに、日本の島へ行こう に記された 1995年以降5年毎の国勢調査人口と対比すると、3696(1995) 3233(2000) 2897(2005) 2572(2010) となり、妥当な数値と判断されます。

グリグリさんが指摘された本土との分別不能など、残された問題点はありますが、こんな要領の作業によって 2010年国勢調査による 島の人口の大半について できる範囲内の結果を得ています。

近々のうちに、エクセルファイルで お送りすることができると思いますが、いかがでしょうか。

【追記】
[86203]にてレスをいただき、ご期待に添えるようなデータを提供できるように仕上げの見直し作業中です。

ところで、hmtのリストでは空欄になっていた 島田島の人口 が気になり Google検索をしました。
その結果、なんと都道府県市区町村の中に既に 日本の島のページ ができており、これがヒットしたのには 驚きました。

島田島の人口は 372人【出典:自治体統計】と記載されていました。鳴門市市勢概要 などに基づく数値でしょうか。
いずれにせよ、島田島には高島や大毛島の一部のような市街地がなく、予想よりもずっと人口が少ないことを理解しました。
[86180] 2014年 8月 1日(金)23:08:47【1】hmt さん
領海の外縁を根拠付ける離島の地図及び海図に記載する名称の決定について
[86173] じゃごたろさん 
日本の領海を決める島のうちで158の島に名称がなかったのを、今回政府がすべてに名称を付けたという報道がありました。

タイトルは 総合海洋政策本部の発表 (2014年8月1日)によるものです。
それによると、EEZ外縁の根拠となる離島のうち、平成23年度までに49島の名称を決定したが、引き続き158島の名称を決定したとのことです。

このような政策の基本となる海洋基本法・海洋基本計画については[66856]で、先に決められた49島については[85734]の末尾で言及しています。

本日発表された 158の島は政府発表に記されていますが、68番に「ソビエト」という島があります。海面から聳え立つ島?
78番の「やいと」は お灸のように煙を出しているのでしょうか。17番「ヘソイシ」とか、いろいろと想像を掻き立てる名があります。
[86169] 2014年 8月 1日(金)16:07:33hmt さん
自治体変遷図
[86167] グリグリさん
※こちらのページで福山市の市域の変遷が分かります。

これを見て思い出したのが、WARPで保存されていた 長崎市参考資料 に掲載されていた「行政区域の変遷」です。
3コマの図の前には 日付・拡張区域・面積・人口の表もありますが、図示することにより市域の拡張が一目瞭然となっています。
なお、この資料は [85101]でリンクしました。

言うまでもなく、市区町村変遷履歴については 立派な表ができており、更に市の変遷については特別にまとめたページも作られています。例:長崎市

しかし、履歴データの整備だけでは市町村の変遷を実感できないことはしばしばあり、表以外の表現形式も価値があります。
その一例が 白山市の生い立ちで使われた チャート形式です。[75486] グリグリさんは これを紹介すると共に、市町村合併の経緯を図で分りやすく表現した自治体ページの収集を呼びかけました。2010年夏でした。
その成果の一覧が [76001]にまとめられています。続番の[76002]など それ以降の情報もあるはずです。

2012年に 変遷情報図書室構想[81236]が出ました。[81240]でこれに早速反応した hmtは 次のように記しています。
およそ 次のような住み分けになるのでしょうか。
膨大な数の個別情報を網羅し、その要点を集大成する 市区町村変遷情報
現存市町村を主体とするWebページ中にある ビジュアルな視点で読者に訴える年表類を集積[76001]【原文は番号誤記】
個別情報・集積情報を問わず、詳細を保存する価値ある情報を集める 変遷情報図書室[81236]

グリグリさんの回答[81293]
[64001][76001]の間違いだと思います。で、[76001]に掲載したリンクですが、かなりのリンクがすでにリンク切れか内容が変わっていますね。やはり、リンク集は保存という視点からは非常に脆弱な手段です。したがって、上記の2番目の年表類の収集についても、Webページをアーカイブするかグラフなどの画像データを個別収集するなどの手段で保管しておく必要があると考えます。その上で、3番目の図書室に格納でしょうか。

当時のhmtは リンク切れ問題の対策を提案することができず、著作権問題だけにレスしています[81312]
しかし、その後で国立国会図書館の「WARP」= Web ARchiving Projectについての知識を得ました。
そして、WARPを利用すれば「現役の自治体サイト」にありがちな、更新による内容変更・リンク切れに対処できるのではないかと考えています。

そこで提案します。
「都道府県市区町村」サイト内の適当な場所、例えば 市区町村プロフィールの自治体欄に、自治体の生い立ちを示すリンクを付けてみたらどうでしょうか。
もちろん、適当なリンク先のみつかる一部の自治体だけということになります。

その際に、[76001]のような現役の自治体サイトへのリンクでなく、WARPに保存されたサイトを使う。
これがリンク切れを防ぎ、かつ著作権の問題もクリアするポイントです。
冒頭に示した長崎市の事例も、[79792]で使った 長崎市地球温暖化対策実行計画 へのリンクが切れていたことがきっかけでした。

WARPリンクの具体例を示しておきます。
市区町村プロフィール岐阜県の中 羽島郡 笠松町
参考までに、[75499]でリンクした笠松町の現役ページは切れていました。

市区町村プロフィール神奈川県の中 秦野市
参考までに、[78793]でリンクした秦野市の現役ページは切れており、[80318]のリンクは有効。
なお、[80318]で注意しておいたように、昭和30年4月に行なわれた 大根村の 秦野市への編入 は 大根村の“一部”というよりも“大部分”と記錄されるべきです。大根村の真田地区だけは、金目村を経て平塚市に編入。
言葉の説明よりも、地図を見れば一目瞭然。

市区町村プロフィール香川県の中 東かがわ市
[76101]にリンクされていた 2008年版は リンク切れ。

WARPリンク先の探し方
現役自治体ページでタイトルがわかっていれば簡単です。例えば[86167]の福山市では「市域とその変遷」と知れているので、これを「福山市」と共に WARP のキーワード検索に入力すれば 何件も出ます。変遷履歴だけならば どれでもよいのですが、面積の更新があったりするので保存日の新しいものを選べば、広島県 福山市 となります。
[86161] 2014年 7月 31日(木)18:03:07hmt さん
海と島 (14) 「無人島」 なのに 人がいる !?
[86062] hmt
私としては、「関西空港島」は 人工であっても立派な島である と思っているのですが…
この【長崎】「空港島」は 由来から分類すれば 自然島 です。関西空港のような純粋な人工島ではありません。

生い立ちは違いますが、これらの「空港島」は「有人島」でしょうか?
# 長崎空港建設工事前の箕島は、人口66人の有人島でした。

旅行者の存在はさておき、この島を職場として働いている人たちは 昼夜の別なく相当な人数に及ぶはずです。
でも、空港島を住所にしている人は あまり居ないのではないでしょうか。
「生活の本拠」である住所【民法第22条参照】は空港島外にあり、その登録住所から通勤しているはずです。

では国勢調査は? こちらも 本邦内に常住している者を 対象にしています。但し学校の寄宿舎、長期入院先、自衛隊の営舎、刑務所など 常住とみなされる場所が調査場所になる点など、住民基本台帳の住所とは 異なる扱いがあります。国勢調査の対象

「有人島」であるか否かは、この2つの基準のいずれかに該当する人の有無で判定されるようです。
従って海上自衛隊員が常駐している 硫黄島や南鳥島[80521]は 「住民が居ない有人島」に該当しますが、民間空港島【注】は「人がいる無人島」になると思います。
【注】参考までに開港日付順に列挙しておきます。
長崎空港 1975/5/1、関西国際空港 1994/9/4、中部国際空港 2005/2/17、神戸空港 2006/2/16、北九州空港 2006/3/16

人があふれる空港島から一転して玄界灘の孤島・沖ノ島。
宗像大社沖津宮が この島に鎮座し、たった一人の神職が奉仕します(10日交代)。

徳山港の黒髪島も、江戸時代には神域の黒神島であったようですが、明治以降は最高級花崗岩の採石場になりました。
[83592]で記したように、現在は住民がいませんが 石材会社が採石場への通勤船を運行。

[83592]では 四阪島にも言及しました。これは新居浜市20km沖合の燧灘にあった5つの島の総称です。
日本最大の銅精錬所(操業期間1905年~1976年 )があった 家の島は、美濃島との間が埋立で一体化しており、現在は4島です。1.26km2という 面積は4島の合計。

住友金属鉱山が 銅製錬所を 四国本土から離れた 四阪島に移したのは、銅鉱石に含まれる硫黄による煙害を防ぐためでした。
しかし、結局は高い煙突も煙害問題の解決にはならず、被害を拡大させてしまいました。
硫黄対策として 1913年に住友肥料製造所を開設。ここで硫酸や過燐酸石灰を製造。硫黄を更に除くための中和工場ができたのが1939年で、四阪島の製錬所は 34年をかけて ようやく 煙害対策が完了したのでした。

元禄4(1691)年に開かれた別子銅山も 1973年に閉山。別子山中の焼鉱窯から運ばれた四阪島の火は 1971年の東予製錬所火入れに使われ、四阪島での銅精錬は 1976年にピリオドを打ちました。
大正末期には 5500人もの人口を抱えた四阪島で 現在操業している仕事は、製鋼煙灰に含まれる亜鉛回収だけです。
というわけで、無人島になったこの島の (株)四阪製錬所には 数十人が 新居浜から船で通勤。

余談
かつて有数の産銅国であった日本の銅鉱山については、三菱の尾去沢鉱山[67407]、藤田の小坂鉱山[67466]、久原の日立鉱山[76480]、古河の足尾銅山[43138]で言及してきました。今回の記事で、住友の別子にも触れたことになります。
海外の銅山については[77028]
住友と言えば、金で注目される 菱刈鉱山が あるのですが、落書き帳では まだ話題になっていません。
[86112] 2014年 7月 28日(月)19:43:09【1】hmt さん
1914年7月28日
今日は何の日 7月28日の歴史 に記録された 100年前のできごと。
オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が開戦

オーストリア=ハンガリーの皇位継承者夫妻がセルビア人に暗殺された「サラエボ事件」のちょうど1ヶ月後です。
100年前に大戦の発端になる事件の起きた都市・サラエボは、ご承知のように 1992年ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナの首都です。
そして、この時に新しく組織された政府に対して セルビア人勢力が サラエボ包囲戦を仕掛け、大規模な内戦が4年間も続きました。
イスラム教【以前はオスマントルコ領だった】、セルビア正教、ローマカトリックと 3つの宗教が混在するボスニアの中心地であるサラエボは、1984年冬季オリンピックの開催地としてよりも、戦争に結びついて記憶されています。

20世紀末の記憶はさておき、100年前の世界大戦。

この戦争をきっかけにトルコ(オスマン帝国)・オーストリア・ドイツ・ロシアという4つの帝国が瓦解し、バルカン半島からフィンランドに及ぶヨーロッパ東部地域の地図は大きく変りました。

初等科地理[85960]に続いて、初等科国史 に描かれた大戦前後のヨーロッパ地図を示しておきます。
サラエボは大戦前の図ではオーストリヤハンガリー領内にあり、セルビヤとアドリア海との間に位置します。
大戦後の図は「セルボ・クロアート・スローベン王国」から国名を改めた[23009] 1929年の後なので、「ユーゴスラビヤ」の領域内になります。

【追記】
主戦場がヨーロッパであったために、戦前の日本では「欧州大戦」という呼び方が普通でしたが、英国の対独宣戦(8/4)に呼応して、日英同盟の関係にあった日本も参戦することになりました。
大日本帝国憲法時代ですから 集団的自衛権に関する議論は もちろん不必要でしたが、大隈総理は御前会議・議会の承認・軍統帥部との折衝など一切なしに参戦の方針を決めたそうです。
最後通牒を経て、大正3年8月23日 独逸国に対し宣戦の詔書を布告。

太平洋方面の戦いでは ニューブリテン島[79420]などドイツ領ニューギニアを制圧したオーストラリア軍が最大の成果を得たと言えるでしょうが、日本陸軍もドイツの中国での拠点・青島を攻略し、日本海軍はミクロネシアの島々(南洋群島[71808])を攻略しました。
余談:
1914/12/18の東京駅開業式典では 青島から凱旋した神尾中将に 品川から新規開業の京浜線電車に乗ってもらい、東京駅で歓迎するというイベントがありました。このイベント自体は成功したのですが、その後で来賓を乗せて高島町駅に向った電車が立往生する失態を演じたことを[39140]で記しています。

主戦場である欧州戦線にも陸軍派兵の要請がありましたが、これは拒絶。
しかし、地中海とインド洋には軍艦を派遣して 連合国輸送船団の護衛任務にあたりました。
マルタ島には戦死した日本海軍将兵の墓碑があります。
[86108] 2014年 7月 28日(月)12:26:50hmt さん
地名資料室(川崎市)
[86103] グリグリさん
#今日は地名の日なんだそうです。

今日は何の日 の記載から 日本地名愛好会 (福井市)という存在を知り 調べたら、
二人の地名研究家【谷川健一 1921年誕生、山田秀三 1992年没】の功績を称えて、「地名の日」を制定
と記されていました。

谷川健一さんが所長をしている 日本地名研究所(川崎市高津区)の業務案内を見たら、同じ 川崎市生活文化会館内に 川崎市教育委員会の 地名資料室 があり、地名研究所と共同で、主に地名に関する展示や学習・情報サービス等を行っていると記されていました。

資料の貸出はしていませんが、8席の閲覧席があり 約35000点の所蔵資料を 誰でも無料で閲覧できるとのこと。
xls形式の所蔵資料目録をダウンロードできます。
役に立ちそうな情報なので、ご紹介しておきます。
[86062] 2014年 7月 26日(土)20:42:05【1】hmt さん
海と島 (13)本土化した島
このシリーズの(8)で 47都道府県の「島の数」について こんなことを書きました。
算入する基準や 数える対象の地図が変われば、島の数はいくらでも変ります。

この文は、島の大きさや測定法を意識して書いたものですが、それ以前に人手の加わり方の問題があります。
一番わかりやすいのが人工島、例えば「関西空港島」を数えるかどうかです。
私としては、「関西空港島」は 人工であっても立派な島である と思っているのですが、何故か国土地理院の 島面積(H25) からも、シマーズのリストからも除外されています。

国連海洋法条約において 領海の基線となる島の定義から 人工島を排除した理由は理解できるのですが、このような国際的権利関係とは無縁の場において、人工島が島の仲間から排除されている現実には納得できません。

長崎空港は 大村湾にあった 面積90万m2=0.9km2の箕島に 人手を加えて 昭和50年(1975)にB滑走路の供用を開始した空港です。その面積は 174ha= 1.74km2です。
国土交通省の写真を見ると、対岸の本土に 大村空港(1950-1975)の頃から使っていた A滑走路が見えます。地形図では 2つの滑走路共に「長崎空港」と記され、本土側の滑走路付近には自衛隊であることが示されています。

つまり この「空港島」は 由来から分類すれば 自然島 です。関西空港のような純粋な人工島ではありません。
そして、埋立による人手が加わって拡張された面積ではあるが、現在は 1km2以上の面積を有しています。
しかし、国土地理院の島面積(H25)からは これも除外されています。昭和63年の基礎面積測定時には、自然島「箕島」が既に地形図から消えており、長崎空港は人工島であると判断されたのでしょう[82773]

地形図で認められる箕島の注記は「箕島大橋」だけですが、シマーズのリストには「箕島」が無人島して収録されています。

人工島問題はさておき、島を数え上げる際に問題になる可能性があるのは、開削による切り離しや、架橋・埋立等による一体化です。人手による工事に限らず自然作用による陸繋島などもあり、その一部は[57361]に記しました。

開削による切り離しは、既に取り上げられている 対馬の事例 のように、1つの島として扱われました。
多数ある架橋の事例。これも島であることに影響なし。

問題は長崎港入口の香焼島[57361]のように、埋立地で本土と一体化した島です。
常識的には「島でなくなった」ように思われるのですが、シマーズでは「香焼島」も対岸の「神ノ島」も共に「有人島」として収録されていました。

類似する著名な事例は、瀬戸大橋で四国本土に渡る入口に位置する番の州埋立地にもあります。

岡山オフ会2009の翌日に訪れた瀬戸大橋記念館[73151]。そのすぐそばにある 沙弥島。
そして 三菱化学のコークス工場などがある臨海工業地帯の先には 瀬居島。
この2つの島は、元々は讃岐国那珂郡>香川県仲多度郡の 塩飽諸島 に属する島でした。
1968年に行なわれた 番の州の埋立で 四国本土の一部として取り込まれましたが、シマーズでは「有人島」として収録。

島だった時代の面積は 沙弥島0.28km2と 瀬居島0.91km2で、現在の地名は 坂出市沙弥島と同瀬居町。
大昔にあった三味線形の島が地震で沈み、残った部分が三味島・線島になり、転じて沙弥島・瀬居島になったという説(角川)。
それは ともかくとして、本州と四国の間にあり、海に関する技術に卓越した人々の根拠地であった 塩飽の島々は、複雑な帰属の歴史を記錄しています。

地理的所属はずっと讃岐国でしたが、行政的所属は 江戸時代には 倉敷代官所の支配する幕府領でした。
明治以後も 倉敷県・高知県・丸亀県・香川県・名東県・愛媛県など 所属した県の多さでは有数の歴史があります。

町村制施行後の沙弥島・瀬居島は 香川県那珂郡(1899仲多度郡)与島村になりました。現在所属する坂出の阿野郡(1899綾歌郡)と郡が違います。
塩飽諸島の主島・本島などは もっと西側に位置するので、現在の所属も昔から同じ那珂郡であった丸亀になっています。

香川県で本土化した島と言えば、小豆島の「土渕海峡」南西側の通称「前島」も、かつては「鹿島(加島)」という独立島でした。
近代になってから土庄地区が 港湾改修、小豆(しょうず)郡役所など行政中心地としての整備がなされました。
これにより、地形的には狭い海峡【それも天然もの】を隔てながらも、架橋で一体化している前島地区を 小豆島とは別の独立島として認識する社会的意義は失なわれたと考えます[63537]

最後に
このシリーズの過去記事を hmtマガジン 日本の 海と島に まとめました。
[85960] 2014年 7月 22日(火)22:57:03【1】hmt さん
華麗なる国
[85936] MasAkaさん
せっかくインドに来ているので、インドの地方自治体について調べてみました。

冬のインド滞在[84897]に続いて、今度は炎熱の季節の長期出張ですか。ご苦労様。
インドでは 1853年に鉄道開業。日本より 19年も前で、欧米に次ぐ 160年以上の歴史があります。5ft6inの広軌が有名。
鉄道分野における日本からインドへの技術支援・国際協力というと、高速鉄道計画の他に 貨物鉄道計画もあるようですね。

ご紹介いただいた 自治体国際化協会の資料 は なかなかよくできていて、興味深く拝見しました。

資料冒頭の4コマにあるインド全図を見ると、首都のあるデリー準州【デリー国家首都地区】は広大な国土の中で豆粒ほどの姿。
東京都と比べると面積は 3分の2 ほどなのに 人口は東京を上回る。
ハリヤナ州は、その西側3方を取り囲むという位置関係がわかりました。

資料を見てゆくとインド進出日系企業リストがあり、グルガオンにも自動車部品など多数が記されていました。

その先にあったのが、インドとの交流における注意点(p.66)。
我々が親切と思って、落ちているゴミを拾うと、ゴミを拾う人の仕事を奪うことになるのである。
だから、我々はインドでは落ちているゴミを拾ってはいけないのである。

思わぬところで日本や欧米の常識が通用せず、ご苦労なこともあるかと思います。
p.68には、インド各州の基礎統計データ一覧がありました。

[85936] MasAkaさん
インド最大の都市Mumbaiを「ムンバイ」と表記

昔は「ボンベイ」の名で知られていました。
1995年に 英語の公式名称が現地で使われる Mumbai に変更されてから、日本での呼称も変更されました。
私も その時点で 漢字表記の「孟買」が「ムンバイ」の音訳であることに気がつきました。

ついでに、「カルカッタ」から「コルカタ」への変更は 2001年。

【追記】ムンバイ
私が国民学校6年で学習した 初等科地理 には、ボンベーは綿の輸出港で、日本人の紡績工場もあった と記されていました。
敵国の資産が接収された戦時中の教科書ですから、“日本人の紡績工場もあった”と過去形なのですね。

現在でも港湾に基礎を置く経済都市であることには変りありませんが、ムンバイは娯楽産業の拠点でもあります。
世界一の映画生産地で、「ボリウッド」と呼ばれるとか。
[85851] 2014年 7月 20日(日)12:32:20hmt さん
石敢當 と シーサー
[85843] じゃごたろさん 石敢當
表札(のようなもの)があり、それを複数見たので、沖縄だから珍しい名字の人がいるんだなあと思いました。
[85847] グリグリさん
まるで表札のような形状というのがユニークですね。これは苗字と勘違いします。

過去記事を見たら [65574]中島悟さんが 「冗談」と断りを入れて
沖縄の苗字といえば大城さんや金城さんが卓越していると思われがちですが、意外にも「石敢當」さんのお宅が多いこと多いこと・・・

[85849] 右左府さん
私の見たものは多くが 丁字路の突き当り にあったように記憶しています。

角を曲がるのが苦手な魔物(マジムン)を激突させて砕く防壁ですが、低い位置で防ぐことができる小型の魔物と推察。
実はわが家も丁字路の突き当りにあり、高さ50cm程度の三波石[38580]が置いてあります。10数年前?に石敢當のことを知って以来、自分では、勝手に これを石敢當に見立てています。

さて、琉球における「魔除け」の代表格は「シーサー」です。こちらは石敢當と違い、屋根上のような高所に置いてあります。
防衛対象として想定している魔物が、石敢當とは異なる大物なのでしょう。

シーサーは獅子で、スフィンクス起源説もあるようです。屋根の上で火災などの災難から家を守る存在。
鯱鉾や鬼瓦も連想されますが、「阿吽」で一対をなすシーサーの形態は、神社仏閣の入口にある仁王門や狛犬とも関連するように思われます。
[85841] 2014年 7月 19日(土)22:59:04hmt さん
越中国・愛本橋
[85829] 伊豆之国さん
この橋は「愛本刎橋」と言われ、「日本三奇橋」の一つに数えられたと言いますが、明治時代に水害で流失し、それ以後再建されていません。

歴史秘話ヒストリアで紹介された 加賀 前田「御家中」[3146]の 参勤交代行列ルートであった北国街道。
飛騨山脈が海岸に迫る 親不知 などの難所もありますが、黒部川を越えるのも大問題でした。
水量が増す夏季には、下流域の扇状地で 流れが分岐して「四十八ヶ瀬」状態となり、旅程を狂わせました。

確実に川を渡れる場所は 「扇の要」 に位置する愛本地区です。
ここは川幅が狭く架橋には有利な地ですが 流れが急なので、橋脚を立てても流されます。莫大な費用のかかる難工事が予想されるし、まだ戦国時代の記憶も残る 17世紀には 「防衛上」からも 架橋反対論が優勢でした。

そのような家中を抑えて 架橋を決断したのは 殿様の前田綱紀でした。石川県史p.426
下流で扇状地を横断する これまでの北国街道(下往来)は 距離的には有利。
しかし、夏季の増水時には通行途絶のおそれがある。
そこで、遠回りでも確実なバイパスルート「上往来」を確保する。
それは これから続くであろう泰平の世を支えるインフラとして必要な公共工事であると位置付けられました。

関連して、黒部川が現在の治水状態になる前の 愛本橋の重要性を物語る 過去記事に言及しておきます。
すなわち、[50173]じゃごたろさんが 明治国道二十一号 に甲・乙の2路線が設定されていたことにつき疑問を提示され、[50179]今川焼さんによるフォローがありました。
明治以降も黒部川の治水工事が行われるまでは江戸時代の街道が国道として踏襲されていたのではないでしょうか。

綱紀により方向性は示されたが、どのようにして架橋を実現するか。
橋脚なしの長スパンとなれば 吊り橋も候補に挙げられたと思いますが、実務担当の 外作事奉行・笹井正房が選んだのは「刎橋」(はねはし)という構造でした。
これは、斜めに掘削した岩盤から突き出した刎木(はねぎ)で橋桁を支える仕組みで、現代の用語を使えばカンチレバー橋です。

支持基盤や構造材料は異なりますが [80265]で引用した 東京ゲートブリッジ工事の写真 を見れば、両側からせり出した「片持ち梁」という仕組みが この形式の橋のポイントであることがよくわかります。

木製の刎橋としては甲州の猿橋があり、百済から渡来した技術者により7世紀に作られたと伝えられます。
このような小規模橋から技術が進歩して、何層もの刎木を使い 62mの長さのある愛本橋も作れるようになったのでしょう。

世界に類のない規模と目されるこの刎橋も、木製のために耐久性はせいぜい30年で、幕末までに8回架け替えられました。
その後の愛本橋は、明治24年(1891)から木造アーチ橋→鋼トラス橋→現在の鋼ランガー橋と材料・構造が変りました。

関西電力北陸支社広報誌『やまびこ』No.92に、2つの記事があったので紹介しておきます。
暴れ川に架けられた日本一の奇橋
黒部川扇状地の要に架けられた加賀藩で最も美しい刎橋
[85827] 2014年 7月 17日(木)16:09:19hmt さん
沖縄県島尻郡伊平屋村 と 同郡伊是名村
[85825] じゃごたろさん
なんで、島尻郡なんでしょうか?

沖縄県に「郡」が編制されたのは明治29年(1896)でした。同年の勅令13号 第一条
那覇首里両区の区域を除く外沖縄県を画して左の五郡とす
島尻郡 島尻各間切 久米島 慶良間島諸島 渡名喜島 粟国島 伊平屋諸島 鳥島【注:硫黄鳥島を指す】 及 大東島
以下【中頭郡 国頭郡 宮古郡 八重山郡】は記載省略

伊平屋諸島が島尻郡になった直接の根拠はこれに求められますが、その前の状態を調べたら、明治12年3月の「廃藩置県」から半年後の役所設置が 沖縄県勢要略 に記されていました。
これによると、県庁に相当する那覇役所に加えて 首里 島尻 中頭 国頭 宮古 八重山 久米島 伊平屋の8役所が置かれて分任。
後に久米島及び伊平屋島役所を廃し、那覇役所に属せしめ、今は島尻郡に編入せらる
という説明が続いており、この那覇役所管轄に変更された時が実質的に島尻郡になった時期のようです。

更に時代を遡ってみます。hmtマガジン には 佐敷【南城市】の尚巴志による三山統一より前の記事がないのですが、琉球王朝の先祖は伊平屋島出身で、伊是名島を配下に収めました。
鮫川大主が沖縄本島の佐敷に移り、その息子が第一尚氏王統の初代で中山王になった 尚思紹王です。
1429年に 2代目の 尚巴志王が南山城を落して 琉球を統一しました。

琉球王家の出身地であった伊平屋島は、地理的には北部に離れているが、現在でも沖縄の中心地である島尻郡に所属。
これと対比したくなったのが、宇久島と五島列島との関係です。
鎌倉時代から宇久島にいた宇久氏は中通島から福江島へと勢力を広め、1413年には小値賀島を除く五島列島を統一しました。
豊臣政権時代の1592年には改姓して五島氏になり、江戸時代にも宇久島を含めて五島藩の領地を維持。ここまでは似ています。

しかし明治になってからの宇久島は、平戸藩領だった小値賀島に引かれてか【?】北松浦郡になり、伊平屋島と違う道をたどりました。
中通島から福江島までの五島列島は南松浦郡になったので、宇久島と五島との縁が薄くなったわけです。
五島との縁が薄くなった宇久島は、平成合併では「佐世保市」への編入が行なわれました。
これも 佐世保市本体からは平戸市を隔てており、かなり無理した感じです。さりとて、飛び地合併とは言えないと思います。議論

伊平屋村・伊是名村と島尻郡との関係に戻ります。
実は、米国統治下の琉球政府では「郡」という区画が用いられず、北部地区・中部地区・南部地区でした。
そして伊平屋村と伊是名村は国頭郡に相当する「北部地区」に所属していました[27598]
そのせいで、1955~1970年の4回の国勢調査では国頭郡のコード番号 47316,47317 が使われました[69104]
でも、これは一時的にせよ伊平屋村・伊是名村が国頭郡になったことを意味するものではないと思います。

まとめ
王家の出身地という歴史的な「いきさつ」もあってか、伊平屋村・伊是名村は琉球王朝時代から「島尻方」としての扱い。
明治政府の扱いも、【一時的な伊平屋役所を経て】那覇役所管轄から明治29年の郡区編制で「島尻郡」へと進む。
大正時代の郡制廃止後、地理的名称になった「島尻郡」を 引き続き使用。
米軍統治下では郡そのものが使われず「北部地区」になったが、沖縄復帰と共に「島尻郡」の名称復活。
[85822] 2014年 7月 14日(月)19:13:54【1】hmt さん
海と島 (12)奇跡の島・春国岱(しゅんくにたい)
[82815] グリグリさん
春国岱は奇跡の島と呼ばれているんですね。【離島架橋一覧[82809]に】追加しました。

1年半も前の記事ですが、今頃になって この島の特異性に気がついたので、フォローします。

国後島を望む根室海峡。地図で最も目を引くのは野付半島の特異な形ですが、その南にある 風蓮湖を形成した南側の砂州が春国岱です。地形図 を見ると「しゅんくにたい」という振り仮名が付けられています。
島内の道路は細く描かれ、自然観察路と管理用道路のみと推察します。
それでも東端の水道には本土のネイチャーセンターとの間に春国岱橋があります。
これも「離島架橋」には相違ありませんが、住民の便宜を図る普通の離島架橋とは性格の違う橋です。

西端を見ると明らかですが、この島は3列の砂州が融合して形成された地形です。
奇跡の島である いわれ は、春国岱の自然 に説明されていました。北からの海流で運ばれた砂が 数千年をかけて堆積し、その間に干潟、湿地、草地、森林など7段階の自然環境が形成されたとのこと。
広さは約 600haと記されていました。

日本三景の天橋立、世界遺産になった三保松原。
これらと類似する自然の作用で作られ、それ以上に豊かな自然環境を保持する春国岱。
根室の市街地から 10kmほどの近さであるにもかかわらず 手付かずの自然が残されているのは、確かに「奇跡の島」なのでした。

私自身が最も驚いたのは、これだけの条件を具えた島であったことを知らず、今回初めてその情報に接したことです。

国土地理院の 島面積 には面積 1km2以上 の島が掲載されていますが、約 6km2 の春国岱は無視されていました。
シマーズには、根室港の防波堤の役目を果たしている弁天島(0.05km2)さえも収録されていましたが、こちらにも見当たりません。

面積約6km2の無人島というと、国内有数の大きさです。
hmt自身が [33529]で大きな無人島の記事を書いています。上位は渡島大島、馬毛島、兄島、大黒神島の順でした。
五島列島の野崎島7.1km2は、2010年国勢調査では人口 1名ながら有人島になっており、春国岱が5番目に大きな無人島になると思われます。

ついでに、6位は奄美の枝手久島。鹿児島県の地図 で見るように、奄美大島のすぐ西に隣接しています。以下、屈斜路湖中島、北硫黄島、弟島、洞爺湖中島と続きます。
洞爺湖中島 は 無人島ではありますが、遊覧船で行ける唯一の「大きな無人島」でしょう。

それはさておき、音読み・訓読みが混交した春国岱という地名。
タイ(ダイ)という言葉で表される地形で使われる最も普通の字は「台」で、八幡平など「平」もあります。
これらは高い土地が多いようですが、「岱」が使われた地名は山だけでなく 春国岱 のような低湿地も目立ち、秋田県の米代川流域に多数あるようです。
春国岱の北に隣接する別海町には、尾岱沼(おだいとう) という地名があります。もっとも、こちらは湿地とは異なる由来とのことです。[29767]でるでるさん

最後に、春国岱の特異性をもう一つ。
島名の末尾に「島」という字が使われていません。同類は四大島以外に 金華山・対馬・島後がありますが、対馬は「津の島」の意味があり、隠岐の島後も本土から島への遠近【つまり後島の倒置】です。
[85812] 2014年 7月 13日(日)11:13:11【1】hmt さん
「安息」はイランにあった国名で、「安息香」は天然樹脂由来の香薬
「安足」に便乗して「安息」のことを少し語ります。
都道府県市区町村の枠組みを越えて、2000年前のオリエント・イラン高原を中心とした国名「パルティア」ですが、中国の史書には「安息」という名で登場します。

漢の武帝が西域探検を命じた張騫[42139]の報告書で、部下による到達国と伝えられた「安息国」。
西側のローマ世界とは 数回の戦いを交えたライバル関係にありました。
カエサルが暗殺されたのも、パルティアとの戦いの準備中でした。

それはさておき、安息から連想されるものは「安息香」です。
これは天然樹脂の一種で、昔使った教科書には gum benzoin と記されていました。
主産地はイランではなく 東南アジアのようですが、この 異国の香りの主成分は 元・ケミスト[42163]にとっては御馴染みの「安息香酸」C6H5COOHで、その英語名は benzoic acid です。

有機化学の分野で「芳香族」と呼ばれるグループ内の基礎的な物質・ベンゼンC6H6の名も、 benzoic acid と関係していますが、ファラデーは別の製法で発見しました(1825)。
電気磁気学の偉人・ファラデーが、化学者デービーの弟子であった時代の仕事です。

もちろん、香炉を使って「安息香」の香りを賞した経験などありませんが、ベンゼンが 安息香酸熱分解物の主成分であろうことは推察できます。シャム安息香はバニリン【現代ではアイスクリーム用香料として有名】の含有量が多い高級品であるとか。

戦後の日本では、シンナー中毒という社会現象があります。現在その原因物質として問題になっているのはトルエンですが、有機溶剤としての利用が禁止【特定化学物質障害予防規則】される前には、生体内での分解性が より低いベンゼン が問題でした。

高価な舶来品の「安息香」ならば 大量に使って弊害を起すこともなかったが、安価な工業薬品として出回った「芳香族」化合物を 野放しにした結果、手軽な快楽を求めた若者が 「シンナー遊び」 を始め、これがベンゼン中毒の原因になってしまったのです。
文明社会への警告でした。
[85810] 2014年 7月 12日(土)18:38:16hmt さん
郡名を組み合わせた 地名?
[85805] じゃごたろさん
栃木県には足利市と栃木市を管轄区区域とする「安足土木事務所」というのがあります。

「安」の由来である栃木県安蘇郡は、現在では全域が佐野市になっているので、管轄区域は「足利市と佐野市」ですね。
「旧国名の組み合わせ」は既に[72159]でまとめられていますが、そのローカル版である「旧郡名の組み合わせ」です。
栃木県の出先機関を調べると、安足県税事務所、安足教育事務所、安足健康福祉センター、安足農業振興事務所など多数の類例があります。

栃木県南西部2郡を指す「安足」という名称は 初めて知ったのですが、埼玉県南埼玉郡と北葛飾郡とを指す 「埼葛」という呼び方[59317]は知っていました。

これらは 郡名を組み合わせたものを 出先機関の名称の一部に利用したものであり、一人前の「地名」として 独立に使われる段階 にはなっていないと思われます。

都道府県名も本来は行政機関の名前(組織名)なのですが、これは 住所表記に使われることが影響して、hmtマガジン に記したように 「地名としての地位」を獲得しました。郡名や市町村名についても同様です。

明治時代には、郡制施行と関連した郡の統合が行なわれ、その際に多数の「合成郡名」が生まれました。
その代表選手は香川県です。こうして生れた5郡が並んだところは壮観です。[40217]
大内郡+寒川郡→大川郡
三木郡+山田郡→木田郡
阿野(あや)郡+鵜足(うた)郡→綾歌郡
那珂(なか)郡+多度郡→仲多度郡
三野郡+豊田郡→三豊郡

上記5郡は 合成地名コレクション にも収録されていますが、性格が違うので「一堂に会する」状態にはなっていません。また、コレクション対象は 地名化した 市町村名・郡名などに限られているので、今回の事例のような機関名は対象外です。

郡名を組み合わせた新しい郡は、石川県鳳至郡+珠洲郡→鳳珠郡のように、平成の現代でも作られています。
東京府豊多摩郡[35838]のように消滅した郡も多いと思いますが、明治から生き残っている郡は、香川県以外にも各地にあります。

ここでは合成地名コレクションから、郡名を組み合わせた「合成市名」を拾ってみました。
千葉県山辺郡+武射郡→山武市
岡山県赤坂郡+磐梨郡→赤磐市
長野県更級郡+埴科郡→更埴市【現・千曲市】
岐阜県海西郡+下石津郡→海津町→海津市
福岡県三池郡+山門郡→みやま市
熊本県宇土郡+下益城郡→宇城市
[85802] 2014年 7月 10日(木)18:56:07【3】hmt さん
海と島 (11)離島の人口
[85801] グリグリさん
【47都道府県の地図】 残りは、長崎県と鹿児島県です。

結びの一番で優勝を賭けて対決する。
そういう形ではありませんが、残ったのは、予想通り 広い海域に多数の島を擁する両雄でした。トリを取る真打ちはどちらか?

岡山県や山口県の地図を 以前にリリースされた広島県の地図と対比したところ、島名が多数記載されたニューバージョンになっています。長崎県・鹿児島県は、そのために特に手間がかかるのですね。

この両県の対決。島の数 では概ね長崎県が優位。
しかし、鹿児島県のサイト に記されているように、離島に住む人口や離島の面積【北方領土除外】では 鹿児島県が全国第一位です。

離島の面積については、既に [85769]を書きました。
国土地理院の表【1km2以上】を利用した集計の結果、島嶼部面積【これも北方領土除外】 1000km2以上は 鹿児島県>長崎県>沖縄県。次いで 500km2以上が 熊本県>新潟県>兵庫県。更に北海道>広島県>東京都>島根県>山口県>愛媛県>香川県までが 200km2以上。石川県以下はぐっと下がって 50km2未満。
【お詫び】
ここで、[85769]における 愛媛県の島嶼部面積の誤記 に気がつきました。正しい値は 220.55km2で、割合 3.88%、12位に下ります。

残された課題は、各都道府県に所属する 離島の人口 です。
シマーズを見ると、赤い文字で記された有人島の数は 全国で500程度 ですから、データ源さえあれば 処理可能な数です。
WEBで情報を調べると、日本の島へ行こう というサイトに 多数の島の人口が記されています。一例として 宮戸島 7.40km2を見ると、平成7年から平成17年まで3回の国勢調査結果がありました。平成22年については未集計または未刊行かもしれませんが、未発見です。

自力で 2010年国勢調査の小地域を集計を試みます。
国勢調査最新結果一覧から 小地域集計に進み、宮城県の男女別人口…町丁・字等というファイル002.csv内を「宮戸」で検索すると東松島市宮戸のデータが7件得られます。最初は この7件を合計すればよいのだろうと思ったのですが、違いました。大字宮戸の中で字欄が記入されている5つは大字宮戸の内訳なので、字欄が空白の2つだけを合計するだけで よかったのでした。
結果は950人で、先に示した3回の漸減傾向の延長として妥当な値です。

こんな手順でよいのならば、根性さえあれば 2010年の島人口を揃えられるかもしれない…と思ったら、まだ難関がありました。
今度は 青海島14.95km2 を例にします。H17国勢調査が「?人」となっているのは 未刊行だったゆえと推測。
青海島の住所は長門市仙崎と長門市通ですが、前者は本土に仙崎港があることからも知られるように、島だけでなく本土側の半島の地名でもあります。
つまり国勢調査小地域集計で長門市仙崎の人口を知っても、ここが島なのか本土なのか不明という状態です。
調べてみると、このような事例はかなり多く、町字名以外の手段による判別が必要ですが、私にはその方法がわかりません。
とりあえず、本土の一部と区別できない場合は 2010年国勢調査を諦めて、古いデータで代用しましょうか。

悲観的になってもいけないので、2010年の島人口を楽~に求められる事例を一つ挙げておきます。
ご存知 江田島・能美島 91.54km2。江田島の南西には 大黒神島[33529]がありますが、無人島です。
その手前には沖野島【架橋】があり シマーズによると有人島ですが 、「日本の島へ行こう」からも無視されている程度の付属島なので、独立に数える必要はないでしょう。
そのようなわけで、江田島市の人口【2010年国勢調査】27031人 が、そのまま「江田島・能美島の人口」になります。

江田島・能美島と隣接して「倉橋島」69.59km2があります。鹿老渡[85771]を介して倉橋島南端に隣接する鹿島 2.64km2は 沖野島よりは独立性の高い有人島ですが 主従関係は明らかであり、とりあえず一体で考えることにします。

倉橋島は呉市の一部ですが、平成合併前は音戸町・倉橋町の2町でした。
2010年国勢調査報告には、旧自治体区分の人口が示されているので、この2町を合計するだけで、12702+5250=18952人 が倉橋島【鹿島を含む】の人口になります。2000年については 倉橋島22222+鹿島455=22677 と分離された人口が公表されているので 2010年のデータも小地域集計から分離可能と思われますが、その方法がわかりません。

国土交通省には離島振興を取り扱う部門があり、その外郭団体と思われる日本離島センターという団体があります。
そこで発行された 日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』 にも人口が掲載されているのですが、平成20年(2008)に第2版が完売となり、“現在改訂中です” が続いています。
日本離島センターからは、 2011年12月に 日本の島全図『Shima-zu』(シマーズ)[82777]が発行され、赤字と藍字で「有人島」と「その他の島」とを区別していますが、人口そのものは掲載されていません。

日本離島センターは、離島統計年報 も発行しています。最新版には当然2010年国勢調査結果も反映されているはずなのですが、掲載対象になっている「離島」は「離島振興法」など関係4法で指定された合計305島に限られています。

四大島と沖縄本島は、当然のことながら離島振興政策の対象外であり、無人島も指定対象外です。
それはいいとして、最大の問題は 5大島との間が架橋で結ばれた島は すべて指定から除外されており、人口などデータの公表対象になっていないことです。
以前に国土交通省のサイト内で閲覧した『離島統計年報2010』には、まだ大崎下島のデータが残っていましたが、架橋が通じた[82870]後の現在は指定対象外になっています。
WEBでの閲覧自体も最近は不成功なので 離島統計年報の利用は制約されますが、何と言っても 重要な「架橋島」が掲載されていないのは、離島データベースとしの価値を損なっていると思います。

…というわけで、[85771] グリグリさん
いずれ、独自の島一覧表を作成したいと思っています。
という結論に行き着きます。

このような不満はありますが、4法で指定された合計305島のデータは それなりに有用であり、離島の人口をまとめる際にも役立ちます。

代表的な存在である離島振興法に基づく指定地域、島名、市町村名、面積、人口の一覧表は[26381][65109]などの過去記事で既に何回かリンクしましたが、最新版(2013/7/17現在、256島) をリンクしておきます。
その一部と重複しますが、冒頭でリンクした鹿児島県のサイトの末尾にも、鹿児島県に属する 離島振興法指定20島 の一覧表があります。

奄美群島は、奄美群島振興開発特別措置法という別の法律に基いて8島が指定れています。
小笠原諸島振興開発特別措置法の指定離島は、父島と母島の2島です。

沖縄県地域離島課資料第1章 には 沖縄振興特別措置法 の指定離島(39島)はもちろん、埋立・海中道路・架橋等により連結された島や面積0.01km2以上の島など 多くの島嶼のデータも示されています。
[85798] 2014年 7月 6日(日)11:33:22hmt さん
海と島 (10)池間島
今朝の NHK自然番組で 宮古島の北にある「池間島」が紹介されていました。地形図

意外なことに この島の中央部には 湿原があります。
汐入の湾から淡水湖に変化し、飛来する鳥の影響で植物が繁茂して数十年の間に湿原化したそうです。
古い時代には、東西2つの島に分かれていたのかもしれませんね。大自然の中で地形も生きていることを実感しました。

夏の大潮、日本最大級サイズの陸蟹の群れが さとうきび畑を抜け、海岸道路を横断して産卵のための波打際に大行進します。
コンクリートの壁をよじ登るのに利用されていたブロックは、地元の人がカニのために設置した心遣いか。
オーストラリア領クリスマス島(インド洋)[11909]と 似たような光景が 日本でも繰り広げられていたのでした。

そして大潮と言えば、池間島の北の海域に数日間だけ、時間限定で出現する幻の陸地「八重干瀬」(やびじ)。
[80979]では“宮古島の北 5~15kmの約 200km2 の海域”と書いていましたが、池間島の方が更に近くでした。
冒頭に示した地形図にも、「○○ビジ」という名の干瀬(低潮時に干上がる岩礁帯)が散在していました。
[85784] 2014年 7月 1日(火)12:35:44hmt さん
7月1日
早くも今年の半分を経過し、2014年も後半に入りました。
[85782] EMMさん に記された“気ぜわしい状態”。
例年のパターンにより 7月1日頃の EMM さん から連想したのは、夏の行事1 関連でした。
しかし、グリグリさんの推測[85783]によると、「氷室の節句」は 全くの方角違いであったようですね。
[85781] 2014年 6月 30日(月)10:55:46【2】hmt さん
「みこ」
[85746] Mengeさん
[85774] グリグリさん
[85776]【←番号誤記修正】[85778] 伊豆之国さん

変遷情報検索で「神子」を調べると、町村制施行後は 山梨県北巨摩郡若神子村だけでした。
昭和合併で須玉町>平成合併で北杜市になっているので、さっそく調査が脇道に入ってしまい、落書き帳を調べてみると、こんな記事が目につきました。参考資料も付けておきます。
[61200] 熊虎さん 「すだまちょう」から「すたまちょう」に変更 変遷情報
[63023] かすみ さん 「北杜」の「杜」は ヤマナシ を意味します。 峡北地域合併協議会
# 植物に関する文字【意味に注目】と方角とを組み合わせた自治体名で、同類に 熊本県苓北町[66821] があります。

それはさておき
町村制前の旧村は、富山県3村・石川県2村・福井県1村と、北陸が優勢。
その他、和歌山県・愛媛県・大分県・鹿児島県に各1村・仙台区の1町に「神子」町村名がありました。

村名ではないが、地名として たぶん最も有名なのは 下田沖の神子元島で、静岡県南端であるため 静岡県の地図 にも その所在が示されています。

伊豆之国さんが詳しい人名で思い出すのは、江戸時代初期の剣豪・神子上典膳です。
2代将軍秀忠の剣術指南番になり、小野次郎右衛門忠明を名乗りました。
Wikipedia 神子元島 には、この島から伊豆半島石廊崎まで泳破した伝説をもつ という記述がありました。
剣術と言えば、少し時代を遡った 上泉伊勢守信綱の高弟に 神後伊豆守宗治が居ましたが、神子と関係あるか否かは 不明です。人名関連では「伊豆」との関係が気になります。

「みこ」を表す文字は、御子・皇子・巫女・神子などいろいろあります。

御子・皇子は、高貴な血筋の若者を指す言葉でしょう。
よく知られているのは、昭和2年由木康訳詞による ♪きよしこの夜星は光り 救いの御子は み母の胸に…。
戦後の昭和29年には ご本人により ♪…救いの御子は まぶねの中に… と改められています。

巫女という文字を使うと だいぶ印象が変ります。身分というよりも 特殊な職業女性 を指すようです。
問題の「神子」も 文字から解釈すると、宗教の世界で 神と人々との間を仲介する 特殊能力者であろうと思われます。
参考までに、膨大な『日本巫女史』への 入口ページ をリンクしておきます。

少し前に「神戸」地名についての議論がありましたが、「神子」地名も同系統かな?

まとまりのない記事ですが、思いつくままを記しました。参考になるでしょうか?
[85775] 2014年 6月 29日(日)15:31:19【1】hmt さん
データランキング「島の数」に用いる表記について
[85770] グリグリさん
混乱させてしまい申し訳ありませんでした。

こちらこそ、元データの国土地理院の表と同じように「湖水の島(5)を含む」ものと誤解して、[85767]の【注】を記したことが原因でした。
そこで、データランキング「島の数」の誤解にもとづく混乱防止策の提案です。

提案1 原則海上であることを明記する
メインとされる「島の数」の項目を「海上の島数」に改め、右端の「湖上の島」との対比を明らかにする。

提案2 日本の島数を明らかにする
47都道府県データの次に記された「合計」の項目を「日本の島」に改める。
これにより、47都道府県の島数を単純に合計したものではないことが示される。

提案3 島数を都道府県に算入する基準を明らかにする
北海道と沖縄との本島は それぞれの島数に算入する。従来は北海道本島が未算入で、沖縄本島のみ算入。
「都道府県ランキング」において 沖縄県と異なる扱いをする理由付けがないように思われ、敢えてこのような提案を試みました。
一般的には、北海道本島を算入しない場合が多いことを承知しているので、さほど拘ることはないのですが。

本州・九州・四国の本島は 従来通り各都府県の島数に算入しない。
2県にまたがる島は 従来通り両方の県の島数に算入する。
「日本の島」の島数は、47都道府県の島数合計から県の重複分を除き、本州・九州・四国の3島を加える。
これにより、日本統計年鑑等で採用されている島の数 6852[85767] とも一致する。

提案4 変更箇所まとめ
#都道府県海上の島数
外周0.1km以上面積1km2以上面積10km2以上面積100km2以上
1北海道50920116
日本の島685233611029

重箱の隅ですが
2013年の面積調のリスト(pdf)には、北海道、本州、四国、九州、沖縄島の5島を本土として最初に掲げて、残り336島を都道府県別にリストアップしています。本土を含めると合計で342島です。
合計は 341島です。湖上の島 5 が含まれているので これを差し引くと 336島という上記の表と合致します。

参考
海保 国内の島嶼数 に基づく計算。
47都道府県の島嶼数の合計は 6855。2県にまたがる島嶼数の合計は 14。従って重複を除くと 6855-(14/2)=6848となる。
国内の島嶼数 6852 との差から、北海道・本州・九州・四国の4島が都道府県の島嶼数に未算入であることがわかる。
面積 100km2以上ある 29島のリストも示されている。
[85769] 2014年 6月 28日(土)23:49:49【1】hmt さん
海と島 (9)都道府県の面積に占める 島嶼部の割合
[34297] 佐賀県さん
【長崎県の】「しま」は県の面積の4割(以上)を占める。
[85731] グリグリさん
【東京都は】こうしてまとめてみると、島嶼部が意外に面積が広いことがよく分ります。

国土地理院>面積調>平成25年>島面積 は 面積1km2以上の島【湖水の島を含む】を収録対象としており、島名と共にその面積、所属市町村名等が、都道府県別の面積順で示されています。

都道府県の面積に占める 島嶼部の割合を近似的に求める際に 1km2未満の小島の面積を無視したら、どの程度の影響があるのか?

最初にこれを検証する目的で、長崎県を例にとります。
ここには 49島が収録されていますが、このうち対馬と壱岐島に島山島など付属4島を加えた 6島の合計面積は 840.31km2で、対馬市+壱岐市の合計面積 847.59km2の 99%以上になります。
同様の計算を 五島列島についても試みました。南の福江島【正確には黄島】から北の宇久島まで 24島の合計面積は 670.12km2。五島市+新上五島町+小値賀町の面積に、佐世保市編入前の宇久町の面積 26.40km2を加えた面積は 686.76km2ですから、その 97.6%ということになります。

もう一つ、東京都の島嶼部も 検証してみました。
伊豆諸島で1km2以上の島は 11島で、合計面積 299.88km2。大島・三宅・八丈の3支庁の面積は 301.37km2。これも 99%以上。
小笠原諸島は 13島の合計面積が 98.83km2で、小笠原村の面積 104.41km2の 95%を少し割りました。
小島の多い小笠原では これを無視した場合の影響が 他の3つのケースよりも大きそうです。
しかし 概して言えば、島嶼部の割合を近似的に求める際に 1km2未満の小島の面積を無視しても許されそうです。

長崎県に戻り、島嶼部面積を集計します。先に記したように対馬・壱岐の 6島で 840.31km2。五島列島の24島で 670.12km2。
残るは、佐賀県境の福島・鷹島[69998][75097]に始まり 的山大島(あづちおおしま)・平戸島を経て 佐世保市・西海市・長崎市に属する肥前本土に近い島々と さまざまな地理的条件にある19島 311.64km2です。
この19島中には 「最も島らしくない島」[7381][17741]であり 日本離島センターの『SHIMADAS』からも除外されている 針尾島を含んでいます。

長崎県の島3グループの中で 1km2以上の大きさをもつ 49島の合計面積は 1822.07km2です。
49島は、数からすれば 971もある周囲100m以上の島の 5%に過ぎませんが、面積では 長崎県総面積 4106km2の 44.4%にもなり、確かに4割以上を占めています。

外周100m以上の島330がある東京都では、1km2以上の島が24。その面積合計は 399km2。最大の大島でも 91km2ですが、島嶼部の自治体は 本土の区市町村に比べると結構広いのでした[85731]
そのために、東京都全体に占める24島嶼面積の割合は 18.2%にもなります。

こんな要領で、総面積に対する1km2以上の島嶼面積合計値の割合を求め、降順のリストを作りました。
沖縄県は、沖縄本島以外を島嶼部として算出しました。
海っぽい県の常連である沖縄県・長崎県・鹿児島県・東京都に続くのは、天草を擁する熊本県と小豆島のある香川県でした。
以下、瀬戸内海沿岸の4県と大きな離島のある新潟・島根の6県が4%以上で、12位までを占めています。
瀬戸内海にありながら意外に少なかったのが岡山県で、1km2以上の島の面積は県内の僅かに0.5%で、順位も16位でした。
江戸時代から続けられた大規模な干拓により本土化し、「島」でなくなった結果と理解されます。

下記リストの対象は、1km2以上の島がない20府県を除く 27都道県ですが、北海道だけは 北方四島を含む場合と 含まない場合とで結果が大きく変るので、両方を算出しました。

順位--都道府県総面積島嶼部面積割合%
147沖縄県2276.721051.2646.2
242長崎県4105.881822.0744.4
346鹿児島県9188.992596.9528.3
413東京都2188.67398.7118.2
543熊本県7404.89872.0511.8
637香川県1876.58212.6511.3
728兵庫県8396.47613.557.31
838愛媛県5678.51398.717.02
北海道83457.485463.106.55北方四島を含む
915新潟県12583.84864.316.87
1032島根県6707.98342.895.11
1134広島県8479.81425.185.01
1235山口県6114.14256.514.20
1317石川県4186.2146.691.12
1404宮城県7285.8040.390.55
1501北海道78421.34430.910.55実効支配地のみ
1633岡山県7113.2434.920.49
1736徳島県4146.8120.160.49
1841佐賀県2439.6711.210.46
1940福岡県4979.4220.900.42
2030和歌山県4726.3212.270.26
2144大分県6339.8215.020.24
2224三重県5777.3511.560.20
2339高知県7105.2012.330.17
2445宮崎県7736.084.920.06
2525滋賀県4017.361.520.04
2623愛知県5165.161.810.04
2706山形県9323.462.750.03
[85767] 2014年 6月 27日(金)18:51:14hmt さん
海と島 (8)47都道府県の「島の数」
[85752] グリグリさん
島の数データランキングのリリース、有難うございます。島の存在が大いに関係している東西長・南北長ランキングも拝見しました。

今から10年前、地名コレクションがスタートした頃に「川」、「山」、「島」などの自然地名コレクションの提案がありました[29500]

落書き帳一年生だった hmtは、それまでに 島に関する記事 を多数投稿していたのですが、[29553]により コレクション対象としての「島」が抱える いくつかの問題点を指摘させてもらいました。
「島」の定義、数が多いこと(絞る場合の選定基準)、異名、包括関係などの問題があります。

日本の国土を構成する島の数 6852島 は、都道府県別内訳を示した 海保第五管区のページ にあるように、昭和61年3月海上保安庁水路部調査により 外周 0.1km以上の島を集計したもので、平成元年以降の 日本統計年鑑 で 公式に使われています。

出典として昭和62年9月『海上保安の現況』が記されていた四管のページ[32231][84080]は現在では切れており、この出版物(現物)へのアクセスを試みたこともないのですが、個別の島名・面積の詳細データは 公表されていないのではないかと推察します。

『日本統計年鑑』【戦前は日本帝国統計年鑑】では、6852島 に改められた平成元年の前年には 3922島 であった由です。
時代を遡ると 明治15年(1882年)の 第一統計年鑑 に掲載された島数は 1847島で、その脚注によると 伊能大図で 周囲1町【109m】以上のものを掲載しています[66996][66997]。この基準は 現在の 外周0.1km以上 に近い値ですが、島数は ずいぶん違います。さすがの忠敬先生も、離島の記錄までは 正確さが及んでいなかったようです。

ここで、島を数えるにも、測地技術の影響が大きいことに気付きました。
空撮技術のなかった時代、離島の大きさを知るには、舟で周囲を回って推測するしかなかったのですね。統計年鑑の記載[66997]
島嶼ハ周囲及一町以上ノ者ヲ載ス
は 空撮のない時代に作られた基準であり、これが現在の“周囲が0.1km以上のもの”に引き継がれていたのでした。

算入する基準や 数える対象の地図が変われば、島の数はいくらでも変ります。
翌年の第二統計年鑑では 基準値を 周囲1里 に変えたので 413島に激減[42798]。この数字は大正元年(1912)の 412島(他に4大島)になっても大きく変っていませんが[66993]、戦後になると 約4000【3922】島に増加しています[42798]。海図の整備や基準値の変更があったのでしょう。

都道府県別の「島数」について 1986年海上保安庁調査に基づく 6852島以降の進展は、現在まで ないようです。
その基準は、過去記事やデータランキングのページにも記されていますが、日本離島センターの 基本情報 をリンクしておきます。
参考までに、この団体は 落書き帳でも御馴染みの 日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』 や 日本の島全図シマーズ『Shima-zu』[82777]を発行しています。

「島数」だけでなく 島名やその面積も知りたいとなると、伊能図から海保の調査まで進んできたデータでは不足します。
そこで、空撮技術を取り入れた国土地理院の面積調データの登場になります。
対象は“面積1km2以上の島”に限定されていますが、それだけに 334島(2013年)【注】に絞られており、個別の島名、所在地、面積が公表され、毎年更新のメンテナンスがなされています。
【注】湖水の島(5)を含む。データランキングの数字は 332となっており、北海道、滋賀県、香川県が疑問。>グリグリさん

次回は、この国土地理院面積調データの利用について記します。
[85748] 2014年 6月 22日(日)23:35:50hmt さん
海と島 (7)長崎県の端っこ
[85739] グリグリさん
長崎県と鹿児島県が少し手間が掛かります。

グリグリさんが [85715]末尾に記された 47都道府県の地図 についての 余談には、「県域全体を表現した地図」というのは なかなか見当たらないことが指摘されています。そして、沖縄県全体図 については、島の形がわかる部分図を貼り合わせる手作業を行なって、わざわざ新たに作成されたとのことです。

従来から存在した「分県地図」は、その表現が陸上部に重点を置くあまり「島と島との間にある海域」が無視されがちであり、部分図の縮尺が不統一になる例もありました。

今回、島根県・沖縄県・東京都に登場し、おそらく長崎県と鹿児島県にも登場するであろう「全体図」は、「離島間の海域も含めた完全な県域」が「1枚の地図で表現した地図」として仕上げられ、部分図である「自治体図」と併用することで、必要な情報を補完し合うことに成功し、類のない地図に仕上がったものと評価します。

さて、久しぶりに長崎県の話題。ずっと前ですが、[34297] 佐賀県さんの記事に こんなのがありました。
長崎県の領土を線で囲むと、九州(本島?)と同じ広さがある。

なるほど。長崎県の端っこはここ! にも地図入りで同じような趣旨の説明があります。
 
参考までに、[85713]で求めたヨコA(緯度線)タテB(経度線)の長さを掛け合せ、長崎県の外枠面積を計算しました。
その結果は 約65000km2で、陸地面積 4106km2の 16倍近くになりました。16倍の中には外枠内に入った近県の陸地面積も含まれていますが、海面により面積が十数倍にも“水増し”されていることは、「海と島」とに深い関わりあいを持つ 長崎県の特色 を示していると感じました。

外枠面積(A*B)の上位は東京都がダントツで、北海道と沖縄県とがこれに次ぎ、以下 鹿児島県、長崎県、島根県、新潟県までが5万km2以上。
陸地面積に対する外枠面積の倍率を調べると、例外的に大きな値の東京都(1273倍)と沖縄県(157倍)、それに鹿児島県(17倍)と長崎県(16倍)との4県が上位を占め、遠距離離島を抱えるこの4県が、グリグリさんの地図作りにとり“手間が掛かる”県であることを裏付けていました。

海栗(うに)島は 長崎県北端に近い島ですが “壱世帯六拾弐名”という特異な人口で、落書き帳に登場しました[17003]
その実態は 自衛隊のレーダー基地であり、フォロー記事が [17864][17875]にあります。
地理院地図 で見るように、海栗島より更に北には 三ッ島や[85734]の末尾に言及した49離島の一部【ヒバン瀬・ジロウ殿瀬】など 無人の島や岩礁があります。

五島列島南東の男女群島にある女島(五島市)も 落書き帳の記事にもなりました[55114]
女島は国土地理院公認の 長崎県南端 ですが、更に南を探せば 鮫瀬がありました。

そして 長崎県西端となると、海栗島や女島よりも更に知名度が下りますが、これも五島市に属する「鳥島」があります。この島は、沖縄本島とほぼ同じ経度です。

鳥島という地名は東京都[22460]だけでなく各地にあり、沖縄県でも何度も話題になっている硫黄鳥島以外に久米島の近くの鳥島もあります[69110]。Wikipediaには、東シナ海の鳥島は「肥前鳥島」と俗称され、1970年に福江市「鳥ノ島」として登記されたが、【国土地理院と海保の間で?】2006年の呼称統一で「鳥島」になったと記されています。
しかし、現在の 地理院地図 には「肥前鳥島」と記されているので、これが正式名になったものと思われます。電子地形図25000の更新情報 H26.1.24に“肥前鳥島地名変更”とあるのは、南岩から南小島への変更【中小島、北小島も同様】が行なわれたためです。参考:広報ごとう2013-11 p.2

長崎県東端は島原港外の九十九(つくも)島[30000]の中の櫛形島なので、長崎県の東西南北端は すべて無人島ということになり、これは47都道府県の中で唯一の存在です。沖縄県・山口県も4端がすべてが離島ですが、いずれも3端が有人島です。

長々と「長崎県の端っこ」について記しましたが、「長崎県は島の数が47都道府県中でトップ」というアイテムは欠かせませんね。

各県の島嶼数については[29533]で海保四管をリンクしましたが、その後切れたので[84080]で書き込みました。
今回調べたら、海保五管に 同じデータがありました。山梨・長野の位置が普通のコード順と違うのでご注意ください。各県の合計値は 6855 になっていますが、これに四大島を加え、2県にまたがる7島の重複分を除くと、全国の島嶼数 6852 に合います。
各県島嶼数の上位は、長崎県 鹿児島県 北海道 島根県 沖縄県 東京都 で、いずれもグリグリさんにより特別図が付属された県です。

都道府県データランキングの地理・気象系には、既に海岸線 などが収録されています。
島嶼数データも収録されたらよいと思います。
[85734] 2014年 6月 18日(水)19:18:37hmt さん
海と島 (6)国連海洋法条約による「大陸棚」の認定
これまで、主として瀬戸内海の島を話題にしていた 海と島シリーズ ですが、今回は視野を広げて、日本の周囲に広がる海域を取り上げました。 

最初に、海上保安庁の 日本の領海等概念図 を示しておきましょう。
38万km2の面積を持つ陸地の周囲には、黄色で図示された 43万km2もの 領海があります。
領海は海岸の 基線から 12海里幅 を基本としますが、陸地面積が高潮線基準であるのに対して 領海の基線は低潮線や湾口線ですから、領海の面積には 潮の干満により生じる干潟や湾内(内水)も含まれることになります。

ペリーが最初に来航した時は久里浜に上陸しました。
ここ浦賀水道は、現在では「東京湾」の一部(外湾)として扱われていますが、「江戸前」の魚介類の漁場であった「江戸湾」は、観音崎と富津岬とを結ぶ線よりも北側と認識されていたかもしれません。現在の東京湾「内湾」です。
国際条約が取り決められていない当時ですが、水深の深い浦賀水道はともかくとして、湾口を突破して勝手に内湾に進入するは、黒船にとっても冒険であり、敢えてこれを侵すことを ためらったものと思われます。

正確に言えば、基線よりも内側の海域である「内水」は、領海よりも更に領土に近い権利が認められています。
湾ではありませんが、瀬戸内海も 歴史的に我が国が有効に管轄権を行使している海域であり、昭和52年(1977)に制定された領海法では、特に“内水である瀬戸内海”という言葉を入れて、このことを明らかにしています。

そして、国連海洋法条約批准[67185]を受けた平成8年(1996)の法整備により、直線基線が採用されました。
2007年の記事 [57494] 10年前に拡大した日本の「領土」 で記したように、1997年から 直線基線一覧図 の濃青色部分が「内水」になり、12海里幅の「領海」や 200海里幅の「排他的経済水域」も直線基線に基づくことになりました。

[57494]で引用した 日本の排他的経済水域 という頁にも、外務省の頁 に掲載されている「各種海域の概念図」や 海上保安庁の 領域基線等模式図 と同様の断面説明図があり、最も理解し易いと思われます。

ここでは、基線の内側・内水と陸地(国土)とを合わせたものを「領土」としています。この範囲では、水面を含めてほぼ完全な主権を行使できます。
そして、これに 12海里幅の領海・その上空の領空・その海底を含めた領域にも主権が及びますが、外国船舶が領海内で無害通行する権利を認めなければなりません。

領海の外側で基線から200海里以内の海域。ここでは 船舶や航空機の航行、海底電線やパイプライン敷設についての自由は確保されていますが、水産資源・鉱物資源等の開発等に係る主権的権利は、沿岸国が持つ 排他的経済水域EEZ(Exclusive Economic Zone)です。

最初に示した 日本の領海等概念図を見ると、四国と沖ノ鳥島との間(四国海盆)にある EEZ空白海域 が気になります。
2008年にこれに関する動きがあり、[67184][67185]で国連への申請の動きがあることを記しました。

首相官邸ニュースサイト によると その後の動きは次の通りでした。
2008(平成20年)/11/12 国連大陸棚限界委員会CLCSに大陸棚延長を申請
2012/4/20(平成24年) 同委員会は第29会期会合で勧告を採択(4/27 受領)

…ということなので、遅まきながらフォロー記事を書くことにしました。

大陸棚に関する基本的な知識は、海洋政策研究財団 のサイトに紹介されています。
「大陸棚」は 元来は海岸から続く平坦な海底部分を意味する地形用語なのですが、国際政治の用語としては 「大陸棚を延ばす」という表現で、沿岸国の海底資源開発権を認める制度になっているようです。

国連CLCSのお墨付きが得られれば、わが国が四国海盆等の海底資源開発を独占できる。
これが国連に大陸棚延長を申請した目的です。
申請海域で期待されている海底資源は、レアメタルやメタンハイドレート。
しかし、申請海域はEEZ外の公海ですから海中、海上の漁業資源の独占はできません。
外国軍艦の軍事訓練も阻止できないでしょう。

2008年に日本が申請した 7海域 のうち、2012年4月に国連CLCSから認められたのは 四国海盆海域(沖ノ鳥島の北)、小笠原海台海域(小笠原と南鳥島との間)、南硫黄島海域の一部、沖大東海嶺南方海域の一部。4海域合計で31万km2。
却下は茂木海山海域と南鳥島海域で、条約の定義から外れるためと思われる。
パラオ共和国との重複申請になっている九州・パラオ海嶺南部海域は審査先送り。
日経2012/4/28大陸棚延長(岩田高明)

CLCS勧告の後の手続きは、勧告受入、限界線の設定、情報の寄託、政令公布などあるようですが、その進行状況は不明。

大陸棚保全・利用の動きに関連して、国境離島の保全、管理及び振興のあり方に関する有識者懇談会 が開かれており、その配布資料の中には、こちら地理サイトのメンバーにとっても関心を持てるものがあるようです。
ほんの一部しかみていませんが、例えば 第1回配布資料2-4 の 10/10コマには、「名称不明離島の名称決定・地図等への記載」という資料があり、EEZ外縁を根拠付ける 49離島が示されていました。
[85733] 2014年 6月 18日(水)15:27:00hmt さん
Re:東京都の地図
[85731] グリグリさん
東京都は沖縄県と同様に、詳細図に加えて 全体図 も用意しました。

左下に記された沖ノ鳥島。都庁から1728kmと記されています。
図の中で最も近い火山(硫黄)列島南端の南硫黄島は北東方向で、その距離は 696.5km。
図の外になりますが、北西方向のほぼ対称的な位置に沖大東島があり、そこまでのの距離を調べると 673.4km。

つまり 沖ノ鳥島の「お隣さん」は、最近話題にしたばかりのラサ島(沖大東島)[85716][85729]でした。
これに関しては、[26282] くは さんの記事があります。
参考までに、沖ノ鳥島から沖縄県庁までの距離は、東京都庁よりもかなり近い 1071kmでした。

地形的な観点からすれば、沖ノ鳥島は沖縄県の大東諸島と同じ「九州パラオ海嶺」に属する島です。
この海嶺を更に南に辿ると 約1500km先に パラオ共和国の中心地・コロール島があります。
戦前の日本、国際連盟の委任統治領時代には、ここに南洋庁【[35703]の53】があり、米国領のグアム島を除くミクロネシア全体を管轄していました。
沖ノ鳥島に より近いのは 東方にあるマリアナ群島ですが、それでも 約800km離れており、やはり「お隣さん」はラサ島です。

さて、上記「九州パラオ海嶺」について過去記事を検索すると、小笠原諸島誕生がらみで言及した[79245]よりも前の 2008年に、国連海洋法条約の「大陸棚」認定申請に関する記事[67185]を書いていました。
この件については、2012年に動きがあったのですが、フォロー記事を書くのを怠っていました。別記事にします。
[85729] 2014年 6月 15日(日)23:57:47hmt さん
Re:沖大東島
[85727] むっくん さん
5年前の記事で紹介していただいた 1946年の沖縄民政府告示を再録していただき有難うございます。
記事検索すれば すぐに出るようになっていたのに、検索を怠っていた手抜きのために お手数をかけました。

これにより、戦後1946年の北大東村設置と同時に沖大東島もその区域に編入されたことが明らかになりましたが、変遷情報には どのように記すべきなのでしょうか? >以下、グリグリさん 宛です。

大東諸島は別として、沖縄県の大部分には明治41年(1908年) 4月1日に 沖縄県及島嶼町村制が施行され、これは変遷情報にも記されています。
大正9年勅令第45号 により、沖縄県には実質的に町村制に近い「隠岐方式」[84196]が適用されました(1920/4/1施行)。
その後の改正により、沖縄県に正式に町村制が施行されたのは 大正10年(1921)5月20日でした。
この2段階の制度改正を含む市町村の法的根拠の記載が必要なことは、既に むっくん さん により指摘されていますが(例えば[83646])、現在まで変遷情報に記載されていません。

それはさておき、
大東諸島については、市町村制度の枠外であった地域に【日本の法律に基づいたものではないが】1946年に新設された村です。
従って、1947年の地方自治法施行に際して 東京都八丈小島に新設された2村 と同様の扱いになるのではないでしょうか。

そして村が新設された「北大東村」の変更対象/変更内容欄を「北大東島、沖大東島」とすれば、この時点で2島が南大東島と別の村としてグループ分けされた(戦前の会社支配時代の枠組みを変更)事実も明示されると思います。
[85726] 2014年 6月 15日(日)11:49:50hmt さん
沖縄県 地名の読方
北大東村(きただいとうそん)に所属するラサ島に関して復習した記事[85717]で、現在の所属が決定したのは、1972年沖縄復帰の際であるという前提での推察を記しました。
しかし、その経緯が 戦前の「大字―字関係」に遡るかもしれない と思い直し、一応調べてみました。

第1回国勢調査の2年後、大正11年末のデータと思われる 小川琢治編『市町村大字読方名彙』 沖縄県 島尻郡には、大東島という村名と、南大東島・北大東島・沖大東島の3大字が記されており、戦前の 沖大東島(ラサ島)が 北大東島に所属ではなかったことを確認しました。

これだけの結論ならば [85717]の追記で済ましてもよかったのですが、リンク資料を見ると、沖縄県全体について、地名の読方が現在と大きく違っていることに 目を引かれました。
時間をかけて比較検討したら面白かろうと思いましたが、とりあえず短いながら独立記事に仕立て、注目しておくことにしました。
[85717] 2014年 6月 14日(土)09:38:45【2】hmt さん
沖縄県島尻郡北大東村字ラサ
[85715] グリグリさん
それよりも沖大東島は南大東村ではないのはどういう経緯なんでしょうね。ラサ工業の支配関係でしょうか。

公式には沖大東島ですが、この記事では親しみを込めて「ラサ島」の通称を多用します。
僅か 1.15km2のラサ島は、夜鳴き寿司屋 さん による最初の記事 [21501]が伝えるように、一時は2000人が生活する島でした。
それだけの人口を支えた産業は リン鉱石採掘事業でした。
軍艦島[24547]には及びませんが、同じ会社の人々が密集した鉱山町ならではの特殊な世界でした。
事業の端緒は、明治40年(1907)農商務省肥料砿物調査所長 恒藤規隆による発見 でした。
ラサ工業 会社沿革に見るように、1911年会社設立。1937年に島の払下げを受け、現在も島全体が会社の私有地です。

南大東島30.57km2と北大東島11.94km2とは ずっと大きな島で、ラサ島の北方約 150~160kmに位置します。
琉球の人々は ウファガリ(大東)島の存在は知っていたものの、島の険しい断崖は 琉球文化圏の進入を拒んでいました。
明治33年(1900)の開拓開始は、玉置半右衛門が企画した八丈島移民による 南大東島のサトウキビ栽培でした。
この2島の経営は、玉置商会→東洋製糖→大日本製糖と移り、移民出身地も琉球人が多数になり、身分差紛争も解決へ。
しかし、この2島も 島全体が会社の私有地で、戦後になるまで 地方自治とは無縁の存在でした[56334]

戦前の南北2つの大東島とラサ島。経営する会社は別ですが、どこの市町村にも含まれない面積[74280]でした。
国勢調査人口には 大正9年の島尻郡「大東島」7393人から始まるデータがありますが、昭和10年、15年と人口減が続き、5844人になっていました。
1500人もの減少は、昭和初年の世界恐慌で ラサ島での事業が中断した影響と考えると勘定が合いそうです。
ラサ島での採掘は昭和16年に復活。ここで初めて家族連れの移民が許されましたが、戦争の激化と資源枯渇で撤退。

沖縄での地上戦が直接この地に及ぶことはありませんでしたが、爆撃を受けて製糖工場や測候所が破壊されました。
戦後は米軍の支配下になり、沖縄民政府告示第4号の1で 南大東村と北大東村とが誕生しました(1946年6月12日)。
しかし、撤退した日本の会社は土地の所有権を主張して争い、すぐには自作農による「普通の農村」に生まれ変われませんでした。

1964年になり、島を訪れた Caraway高等弁務官の決定により、大東諸島の農民は 念願の「自分の土地」獲得への道を開かれました[56334]
沖縄返還に反対する主張を掲げ、ライシャワー大使とも反目したこの人物。日本や琉球政府の評判は悪かったのですが、この大東島問題に関しては、人々に歓迎される結果をもたらしました。

南大東島を支えた産業が サトウキビ栽培などの農業であったのに対して、戦前の北大東島では リン鉱山が主力でした。
北大東島では鉱山の閉山後に離島者が多数出て、これが戦後2村の人口格差に反映していると思われます。
ラサ島のリン鉱も 戦時中までで掘り尽くされ、無人になった島は米海軍が訓練する射爆撃場になりした。
なんとなく、N の悲劇?[40421]を思い出させる末路です。

そして、1972年の沖縄復帰によってラサ島も日本に戻りました。
その際に、地理的には やや近い南大東島を飛び越して、北大東村所属になったのですね。
その経緯が わからぬまま、[56334]では次のように記しましたが、これだけでは説得力がないので、少し補足。
リン鉱石の島ということで共通する北大東村の飛び地になっているのでしょう。

ラサ工業自身も既にラサ島での仕事をやめており、どこの所属になってもよい立場です。
でも、どうせ納める固定資産税ならば、同じ仕事でご縁のあった 北大東島に恩返しをしたい。
その程度の経緯ではないかと推察します。

おまけ
海保11管内在日米軍海上訓練区域 には沖縄に米軍の射爆撃場がいくつも紹介されていました。
ラサ島の 沖大東島射爆撃場 は最大の射爆撃場のようです。
尖閣諸島にも、赤尾嶼(大正島)、黄尾嶼(久場島)と2つの射爆撃場があるが、こちらは沖縄復帰以後使われていない様子です。
[85713] 2014年 6月 12日(木)23:37:21hmt さん
南北に長い県
[85711] グリグリさん
島根県の地図では、隠岐諸島や竹島の位置関係が分るようにしました。

島根県は 隣接する鳥取県と共に「東西に長い県」という印象を抱いていました。
山陰本線をコトコト走った長旅を思い出すと、これも無理のないことなのですが、改めて地図で確認すると、本土だけでも意外に南北に及んでいることに気がつきます。
その上に隠岐と竹島まで考えると、今回 示していただいた位置図のように、「実は南北に長い県」であることを認識しました。

離島を含めて、南北に長い都道府県(以下県と略す)と、その逆に東西に長い県。
それはどのような順番になるのだろうか?
km数の絶対値としては沖ノ鳥島と南鳥島を持つ東京都がダントツであろうことが容易に推察できます。
しかし、東西と南北の比率ではどうなるか?
タテヨコの相対的評価では、島根県よりも「南北に長い県」はあるのか? また、「東西に長い県」はどこか? 

このような疑問から、都道府県データランキング『東西南北端』 でも使われている 国土地理院の経緯度データ を利用し、各都道府県が存在する南北と東西との範囲を、タテ=経度線・ヨコ=緯度線の長さ というモノサシで評価してみました。

赤道(緯度=0度)から北極(90度)までの 経度線(子午線)の長さは、理科年表に 10,001.96km という数字が出ています。
これを基準に、北端緯度と南端緯度との差から、タテ=各県の経度線長さを単純に計算しました。

緯度線の長さは、地球を半径 6378.15km の球体と仮定した赤道の長さに緯度の余弦(cos)を乗じて求めました。
ここで用いる緯度には、各県庁所在地についての値を用い、県の東端経度と西端経度との差から、ヨコ=各県の緯度線長さを計算しました。
もちろん、現実に東京都が大きく東に張り出している南鳥島と 都庁のある新宿とでは、緯線の長さは大きく違い、これで東京都の東西長さを求めるのは明らかに不合理です。
まあ、ランキング結果には影響がないと思い、便宜上このような計算方法を使ったことをお許しください。
長野県のように県庁が県内の北部に偏っている場合も、東西長さが少し短く計算されます。

正確には地球が楕円体であることなども考慮すべきでしょうが、県のタテヨコ長さ自体が上記のように便宜的な値なので、簡略化した計算で間に合わせています。

このようにして求めた各県の東西長A(km)、南北長B(km)により、「南北に長い県」ランキング、即ち ヨコA/タテB比昇順の表 を作ってみました。
その結果は、奄美群島のある鹿児島県が「最もタテ長の県」で、次点の島根県と共に A/B比が0.5以下でした。

「最もヨコ長の県」は意外にも鳥取県で、離島の影響なしに A/B比が2を超えました。
与那国島から北大東島まで連なりヨコ長本命と思われた沖縄県は、久米島の飛地である硫黄鳥島[69111]のために、A/B比が2を僅かに切りました。
本土で鳥取県に次ぐヨコ長は 川越藷の形をした埼玉県。これは予想外でした。

県名ヨコAタテBA/B備考
鹿児島県266.6588.10.453奄美群島
島根県155.6326.90.476竹島
石川県100.3198.70.505舳倉島
山形県98.5163.90.601飛島
三重県103.8170.60.608
秋田県111.6182.00.613
奈良県63.2102.50.616
滋賀県63.0101.40.621
長野県126.3203.60.621
岩手県121.6189.20.642
兵庫県111.3168.80.659淡路島
宮崎県111.7164.30.680
大阪府59.986.60.692
長崎県213.7304.60.702対馬、五島列島
千葉県102.6133.90.766
茨城県104.4134.00.778
福岡県112.1138.90.807
栃木県86.4106.20.814
岐阜県124.9147.90.845
和歌山県93.3105.70.883
岡山県105.0117.20.896
宮城県122.4136.60.896
京都府109.6119.30.919
東京都1619.91719.60.942沖ノ鳥島、南鳥島
群馬県114.1119.30.956
山梨県86.389.30.967
新潟県199.0201.90.985
愛媛県155.4157.50.987
佐賀県75.074.31.009
熊本県130.0122.31.063
大分県125.9114.01.104
広島県131.8119.01.107
愛知県106.294.11.128
富山県88.878.41.132
福井県124.4105.91.174
青森県184.2148.71.238久六島
福島県165.4131.71.255
高知県170.1131.21.297
静岡県155.3119.21.303赤石山脈
山口県158.1120.71.310
神奈川県79.860.61.321
徳島県107.079.21.352
香川県92.061.41.498
北海道777.4467.31.663北方四島
埼玉県107.358.91.822
沖縄県838.8426.81.966八重山諸島、大東諸島
鳥取県125.061.92.020

北海道、…の地図を新たにリリースしています。
元になっているCraftMAPに原因するものと推察しますが、幌加内町と幌延町の所属変更(2010年4月、支庁→総合振興局)[76341]が、地図の境界線に反映されていません。
[85709] 2014年 6月 8日(日)22:30:18【2】hmt さん
牛込区北町・納戸町など
[85692] 伊豆之国さん
東京23区の都心部の中でも「△△町」がかなり残っている、千代田・中央・新宿の各区について「まち」と「ちょう」の数を調べてみました。(中略)
牛込地域で隣接する「南町」と「中町」が「ちょう」で「北町」が「まち」だったり、(中略)地元の人でも間違えて読んで(覚えて)いるような人が多そうな気もします…>元牛込区民のhmt さん([22003])。

「まち」と読む少数派の中に、子供時代から馴染みのある町名があったので、それを題材に理屈を捏ねてみました。

牛込区>1947年新宿区の北町は、1940年に hmtが入学した 東京市愛日尋常小学校[74793]の所在地 でした。
付近には 市電13系統【万世橋・角筈(新宿)間】が走っており、青バス【東京駅東口行】と黄バス【市ヶ谷駅行】路線の交差点にもなっていて、区名を冠した停留所名「牛込北町」【うしごめきたまち】という呼び方で 東京市内に知られていました。
これに対して住宅地の中町・南町は ローカルな存在で 牛込を冠する必要がなかったようです。「町の読方」は「ちょう」でた。
では牛込区内の町名として「北町」を単独で使う場合は? 少し自信がないのですが、「きたちょう」だったのかな。

ご指摘のように 北町だけに「まち」が使われる傾向があったようなのですが、戦前の資料で見る限り 読み分けを裏付けるデータは発見できず、読みの違いは公式のものというよりも、慣習的なものであったように思われます。

明治12年12月 『郡区町村一覧』の 東京府牛込区町名一覧を見ると、牛込北町・牛込仲町・牛込南町となっています。
「町」の部分には フリガナが付けられていません。
これは昔の資料の多くについて共通することであり、「町」の部分の読みは慣習に任されていたことを裏付けているようです。

当時 住んでいたのは 黄バス通の西側・納戸町[41218]でした。その読みは 現在「なんどまち」とされています。
大正元年調査による 鐘美堂『新旧対照市町村一覧』において 牛込区68町の中で3町しか記されていない読み仮名【注】「ナンドマチ」が明記されているのですが、子供時代の hmtが記憶していたのは「なんどちょう」です。
「ちょう」と「まち」が混在している牛込では、“地元の人でも間違えて読む”という一例であるようにも思われます。
【注】
読み仮名の趣旨は、納戸の読方を明記するもので、「マチ」を示すものではないと理解されます。

…とはいうものの、昔は「まち」と読むか「ちょう」と読むかについて、当局の見解を公表して統一を図ることはなされておらず、成り行きに任せていたのが大勢であったように思われます。
その中で、小川琢治編『市町村大字読方名彙』 は、「チャウ」と「マチ」の読方を明示した点で、昔の資料の中で特筆すべき存在です。

この本で 東京市牛込区を見ると、“南町ミナミ、北町キタ、仲町ナカ”とあります。凡例として明示されてはいませんが、牛込区については「町」を「マチ」と読む24町について“細工町サイクマチ”のように示されています。これは
読方の疑わしき地名を当該府県庁市郡区役所に照会して其の読方を正確にし
た結果であり、「マチ」と明示されていない町は「不明・不定」なのかもしれませんが、「チャウ」と読む可能性が大と判断されます。
つまり、1920年当時の読み方は 現在の標準的な読方と異なる「キタチャウ」「ナンドチャウ」であったと推測されます。


そもそも、なぜ「ちょう」と読んだり「まち」と読んだりするのか? 昔の記事を探ってみました。

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[6633] 蘭丸さん
「町」も「丁」も歴史的には同義で使われてきたようです。ただ、かつては「町」は町人町、「丁」は武家屋敷地という区別があったようです。また、「町」は「まち」、「丁」は「ちょう」と読み分けていたようです。
ところが、住居表示が普及するにつれて「町」も「ちょう」と読み、「丁」が「町」に変更される傾向にあるようです。
[6657] Issieさん
“最大の城下町”である江戸(東京)には,そのような区別はありません。
…というより,武家屋敷地には「町」や「丁」という区画自体がありません。「神田駿河台」や「番町」などのような地区名や「三番町通」「神保小路」などの街路名はあるのですが,江戸の行政区画としての「町」はそもそも町人町の自治単位として編成されたものですから,本来武家屋敷地は対象外なのでしょう。
“自治単位”としての「町」は多くの場合「○○町」という形で「~ちょう」と読むのが多いようですが,「麹町一丁目~十三丁目」のように「~まち」と読む町,「本郷一丁目~六丁目」のように「町」をつけない町も少なからず存在します。
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この記事に示されたように、「~ちょう」と読む例が多い江戸町人町由来の町にも麹町【こうじまち】のような例外があります。
明治になって旧武家地に付けられた町名は「~まち」が多いのですが、これも○番町【~ばんちょう】のような例外があり、由来により どちらと決め付けることはできないようです。
参考までに、『東都番町大絵図』が示すように番町(○番丁)の名は江戸時代から使われているのですが、これは「町名」ではなくて「通」(街路名)由来の「地区名」です。

読方よりも重要なことは、江戸時代から町人の自治組織である「町」が存在した地域と、「町」がなかった武家地との区別です。

幕末の江戸切絵図『尾張屋板 市ヶ谷牛込絵図』を見ると、北町・中町・南町付近は白地の武家地ですが、個別名が記された旗本屋敷と違い「御徒組」と記されています。徒【かち】つまり騎馬を許されない軽輩の幕臣(御家人)の組屋敷で、建坪20~30坪ですが一応庭付戸建の住宅が集まっていたようです。
明治になってから 旧武家地にも町名が付けられることになり、牛込北御徒町・牛込仲御徒町・牛込南御徒町を経て「牛込北町」など M12『郡区町村一覧』記載の3町になりました。

切絵図の「御徒組」西側には「御納戸町」と記された灰色地の町家地域があり、南の「払方町」北の「御細工町」と隣接しています。
少し離れた南蔵院前の「御箪笥町」も含め、江戸城に通勤する同心の役職に由来する町名です。
払方町・納戸町・細工町・箪笥町など、独特の町名については、[41218]で説明しました。

その際に 「武士(同心)」 と書いたのですが、その実体は 江戸城内で雑務を処理する下級公務員 であり、旗本や御徒組のような「職業軍人」ではありませんでした。いわば「文官」で、武士と呼ぶのは不適切であったかもしれません。

彼らの社宅地域は 武家地ではなく、町奉行支配下の町場として扱われたことが、江戸時代から「町名」があった理由であったと理解されます。町奉行支配地ではあるが 純粋の町人町ではない。そのことが「ちょう」を使わず、「おなんどまち」のような「まち」を使う読方の原因かもしれません。

M12『郡区町村一覧』当時には牛込北町・牛込納戸町など 牛込を冠していた町名は、区名と重複する総称省略により簡素化されました。
鐘美堂『新旧対照市町村一覧』の 明治35年現在大正元年現在 とを比較すると、町名簡素化は明治末であったようです。
明治8年『東京第三大区小区分絵図』の表記「牛込北丁・同中丁・同南丁」のように 使用された文字が異なる例もありますが、昔はこの程度の違いを気にしなかったのでしょう。
個人の表札ですが、戦後の新宿区になってから 牛込中町 と書かれた事例もありました。もっとも、これは区の統合により失われた「牛込」の地名を残すためかもしれません。

いろいろ書きましたが、「ちょう」と「まち」の使い分けは“正式の読方”というよりも、「成り行き任せ」の結果が反映された現状認識 というレベルの問題 と理解しています。

江戸から明治の東京へと伝えられ、変更されながらも20世紀前半まで受け継がれてきた「○○町」という名の文化遺産。
戦後の住居表示制度で消えてしまった町名も多いのですが、東京都心部には まだかなり残されています。
その読方が紹介された[85692]を機会に、個人的な思い出を交えながら一文を綴ってみました。

純粋の町人町でない牛込北町・納戸町の読みについて、現在は「きたまち」「なんどまち」が正統的地位を保っているようです。
しかし、過去を振り返ると「~ちょう」が使われた例もあり、許容範囲内で変動する地名の自由度を感じます。
「にほん」でも「ニッポン」でも どちらも「日本」です。[65130][74061] 

最後の余談は余丁町【よちょうまち】。旧武家地に明治初年に付けられた東大久保四丁目を改めたものですが、「四」を嫌って「余丁町」。旧牛込区なので、小学校名で知っていました。旧武家地に多い「~まち」ですが、「ちょう」の衝突を避けた読方でもあります。
[85697] 2014年 6月 7日(土)18:35:03hmt さん
Re:47都道府県の地図
[85696] グリグリさん
細かいところでは、福島県塙町が茨城県とやはり不連続で(二ヶ所で)隣接しているとか……

よく理解できないのですが…
[85686] 2014年 6月 2日(月)23:48:34hmt さん
平成合併により 複数の町(ちょう)が誕生した 熊本県・秋田県・石川県
[85684] グリグリさん
自治体名に使われている「町」の読み方の勢力分布地図、興味深く拝見しました。
「ちょう」優勢の西日本の中で、九州に存在する「まち」勢力。分布図により改めて認識しました。
大きな長野県は、唯一の「ちょう」・下伊那郡阿南町が 愛知県隣接の南端に位置するで、実質的には殆ど赤に近いピンクです。

ここで気になったのが、ピンクで示された「まち」優勢県の中に存在する少数派・「ちょう」が誕生した時期です。
昭和年代に誕生した山形県河北町や福岡県遠賀町は別として、平成合併が及ぼした「町」の読み方への影響を記します。

最初に注目したのが熊本県です。23町のうち3町だけが「ちょう」ですが、あさぎり町・山都町・氷川町とすべて平成合併組。
最も古いデータベース(2003/9/1)で 表示してみると 「まち」が並んでいて壮観です。あさぎり町誕生前には前身の免田町を含めて全部「まち」でした。

秋田県9町のうちで「ちょう」と読む美郷町・八峰町・三種町も、同様にすべて平成合併で誕生。
美郷町合併前月のデータベース(2004/10/1)で、50町全部「まち」であることを確認。

石川県8町のうち「ちょう」と読むのは 宝達志水町と能登町。
これも合併前月のデータベース(2005/2/1)で、16町全部「まち」であることを確認。

例示した3県のように「まち」一色であった地域にも、近年は「ちょう」が誕生しつつある。
そのような傾向を見ることができるのではないでしょうか?
[85647] 2014年 5月 26日(月)19:12:12【1】hmt さん
人と共生する雀
[85646] グリグリさん
雀川という名前も気になりますね。「雀」地名を地理院地図で検索してみましたが、(中略)かなりの数がありました。

公共施設55件、一般地名153件。ざっと見ると、雲雀、朱雀、正雀、連雀など雀の頭に1文字冠した地名が目立ちます。

雲雀(ひばり)は 阪急の雲雀丘花屋敷駅を始め「雲雀丘」という形で全国に使われていますが、もちろん別の鳥です。
西東京市ひばりが丘[46258]のような「かな表記」の地名もあります。

朱雀(すざく、すじゃく、しゅじゃく)は想像上の動物・四神の一つで「南」の方角を守護します。
京都市・奈良市・太宰府市で使われており、その由緒を偲ばせます。

正雀は、自治体越え地名[75524](摂津市・吹田市)でコレクションに収録されていますが、淀川水系の 正雀川 が由来。そして、一級河川起点の旧地名・吹田市大字山田下字下正尺149番地先の「正尺」から正雀川の名が付けられたとのことなので、どうも「雀」とは無関係のようです。

連雀という地名は、東京付近では三鷹や川越に現存しますが、関東大震災前の東京市神田区にも 連雀町 がありました。
これによると、荷物を担ぐのに使う背負子(しょいこ)を意味する「連尺」から変化。
三鷹の連雀は明暦大火により江戸から移された人々による開拓地とのことなので、吉祥寺と類似の事例でした。

Wikipediaには、本来「連雀」とは渡り鳥の雀を指しており、行商人を渡り鳥に譬えて「連雀衆」と呼んだと記されていました。
でも、スズメという鳥は 稲作など人間の営みを利用し、人家の近くに住み着いている鳥です。
なぜ「渡り鳥」の譬えに使われたのでしょうね?

城下町には、行商が連尺に荷を繋げたまま荷物を下ろし、そこに店を出した地域があり
そうか、ずらりと並んで電線にとまるスズメ。
江戸時代には電線こそなかったが、行商人が街道筋に並んで荷を下ろした姿を、スズメの この習性に譬えたのかと納得。
連雀・連尺の町名があった街道筋の城下町は、川越・掛川・浜松・岡崎・高崎など。

その他の「雀」地名に移ります。
宇都宮の手前に雀宮陸上競技場があったと記憶していたので地図を見たら、現在は栃木県総合運動公園の一部になっていました。
江戸幕府は日光街道を整備し、神社に因む名の雀宮宿が誕生しました。雀宮の由来は、四道将軍の東征で下野を治めた 雀部氏 やら「鎮(しずめ)の宮」など諸説あるようです。

福知山市には雀部小学校があります。宇都宮市には雀宮が付く4校。「雀の学校」の代表は、横浜市の小雀小学校でしょうか。
京都市には朱雀第一から第八小学校、中学校、高等学校が揃っています。
その他にも、朱雀や雲雀丘の付く学校が各地にあります。
学校以外では、燕警察署雀森駐在所などという施設もありました。

雀宮に関連して、「鳥の宮」地名を列挙しておくと、鷲宮[80958]、鷺ノ宮、鴨宮といったところでしょうか。関東以外は?

人と共生し、時には稲穂を失敬もするが 害虫を退治してくれる雀。
でも、お婆さんの洗濯糊を食べてしまい、舌?を切られるという迫害を受けたこともありました。
もっと大規模な受難は、1958年 中国での四害駆除運動でした。しかし、蝿・蚊・鼠はともかく、雀の駆除はかえって害虫の大発生を招き、農業生産に損害を与えてしまったという歴史がありました。

最後に、発端となった雀川の仲間の「雀」一般地名について。
雀田・雀森・雀林・雀塚・雀ヶ野など田園風景の中の雀地名もありましたが、意外に多かったのが、雀島・雀岩・雀磯・雀碆・雀礁などの地名でした。海の近くでも雀は目立つのでしょうか。
そう言えば、北原白秋の『砂山』にも ♪雀なけなけもう日は暮れた とありました。

【追記】加筆し、タイトルも変更。
[85635] 2014年 5月 21日(水)14:21:30hmt さん
町村議会議員の高齢化や定員割れ問題
[85626] グリグリさん
ご紹介いただいた NHKニュースのレポートは知らなかったのですが、Webの中から
DATAFILE.JPNシリーズ 第4回 人口減少“議会” という番組関連記事を発見したので、リンクしておきます。

その内容を見ると、[85626]で紹介されたように
積丹町のように議会が定員割れになった自治体は、去年【H25】12月末で全国に6つ。
という記載がありましたが、町村名の列挙は省略されており、失念されたもう一ヶ所は不明のまま。

出典として 全国町村議会議長会 の「町村議会実態調査」が示されていました。そこで、調査結果概要の 最新版(2013/7/1現在) を ざっと見たのですが、個別の町村情報は「概要」には 全くありませんでした。おそらく会員専用ページにあるのでしょう。

ついでに、先月から始まった NHKの DATAFILE.JPNシリーズ の説明です。
データから、今、日本で何が起きているかが浮かび上がります。国や自治体がオープンにしているデータや研究機関の最新の調査結果を読み解きながら社会の実相を明らかにする、NHKが挑むデータジャーナリズム・シリーズです。

第1回で取り上げた番組を見ると、若年女性が地方から消える社会 でした。4月6日放送のNHKニュース おはよう日本です。
これに関連した話題は、 消える?市町村 として、落書き帳でも取り上げられています。

第2回は 廃校が招いた過疎、第3回が “未来の津波”に襲われる、そして 第4回 人口減少“議会” が最新でした。
[85628] 2014年 5月 19日(月)17:51:32【2】hmt さん
日本創成会議 の誤記でしょう
[85627]白桃さんの記事において、「日本創生会議」は「日本創成会議」の誤記と思われます。
このような紛らわしい誤記は、記事検索の際に支障をきたすので、訂正をお願いすべく 敢えて指摘しておきます。
【追記】
日本創成会議 へのリンク
この中の「資料2-1」に 全国市区町村別人口表(2010年国勢調査と2040年推計)があります。
[85602]でリンクした「大きな一覧表」は pdf版でしたが、今回見たら excel版もありました。
[85602] 2014年 5月 10日(土)16:58:17hmt さん
人口減少問題-日本創成会議の提言
[85597]山野さんの元データを出した「日本創成会議・人口減少問題検討分科会」。初耳だったので調べてみました。
民間の有識者らで構成され、長期の人口動態を見据えた国のあり方、国家戦略を検討することを目的とするとのことです。
座長の増田寛也氏は 建設省退官後 1955年からの岩手県知事3期 12年間に 実績を積んだ人物のようです。2007年には 約1年間だけですが 総務大臣も経験。

先日の記者会見 で 「ストップ少子化・地方元気戦略」の提言(全文50頁、要約版全6頁)を発表。

報道されているように、今回の提言のポイントは、人口の再生産力の指標として「若年女性人口」(20~39歳の女性人口)に着目することと共に、その若年女性人口が都会に流出する問題点を指摘し、対策案を示している点にあります。
NHK番組「クローズアップ現代」。[85529]右左府さんが平成大合併検証を取り上げていましたが、その翌日には、「極点社会~新たな人口減少クライシス~」 と題して、増田氏を迎えた番組を放送していました。


人口再生産力に着目した市区町村別将来推計人口について という資料によると、推計の基礎データとしては、国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が 2010年国勢調査に基いて昨年出した 30年後 2040年の推計[83034] を利用。
今回の推計では、人口の社会純増・純減について、人口移動が収束しないという見方を加えた結果、社人研推計では若年女性人口が 30年間(2010→2040)で半分以下になる市区町村373(全体の2割余)が、896(全体のほぼ半数)へと大幅に増加するとのこと。

全国の市区町村について、社人研推計と今回の「人口移動が収束しない場合」とのデータを対比して示した 大きな一覧表 が示されています。

[85598]で白桃さんが一部を列挙してくれた「残る市町村」は、この表で白い地色が残されている市区町村です。
地色に濃淡のグレーをかけられたのが、「消滅可能性都市」ということですが、大潟村だけを残して全滅という秋田県は、衝撃的な結果です。
このような結果を見ると、人口減少問題は、日本の将来にかかわる大問題であると実感します。
“将来的に暗に「合併」しろ”[85597]というような推測とは 次元が異なる課題 がつきつけられています。

では、どのようにすべきか? 
単純な楽観論も悲観論も、問題解決の役には立ちません。
今回の提言の中で、実現可能な行動のポイントと思われる箇所を拾ってみました。
第一次の目標年次を2025年として、2つの基本目標を掲げる。
1 希望出生率 = 1.8 の実現
2 東京一極集中への歯止め

要約版では p.3、全文版では p.10, p.13 あたりに書いてあります。
地方自治に関心のある皆さん、この提言をどのように受け止められるでしょうか。

ところで「残る市町村」と言えども、「大きな一覧表」の一番右の列に示された「若年女性人口変化率」の数字を見ると、大部分がマイナスで、プラスは数えるほどです。
その中で、石川県川北町(+15.8%)のように、飛び抜けて高い値の町もありました。読売新聞石川版
[85527] 2014年 5月 2日(金)19:17:20【1】hmt さん
絹の話(3)19世紀までのシルク産業
富岡製糸場の世界遺産登録見込み[85463]から始めた絹の話。製糸工程[85516]に続く第3回は、枠を広げて衣服から始めます。

哺乳類は「けもの」というように保温性のある長い体毛を持つのが一般です。しかし、アフリカに住んでいたサルの仲間で、長い体毛の大部分をなくした種があります。言うまでもなく我々人類ですが、なぜ“裸のサル”になったのか?
人類が森から出て、サバンナで二足歩行を始めると、食物を得るために長距離を歩いたり走ったりする必要が出てきた。すると、今度は放熱不足で体温が上がりすぎる。そこで、毛が薄く汗が出るように進化し、効率的な水冷式ラジエーターとして作用する皮膚になった。こんな説 を聞いたことがあります。

確かに、これで運動に伴う放熱対策には有利になったものの、寒さや外傷の危険は増大しました。
それを克服し、氷河時代のアジアや欧州への進出を可能にしたのが、体を保護する衣服です。
衣服の材料は、狩猟により得られる獣の皮と思われますが、それと共に 毛皮を裁断し 縫製する「裁縫」技術が必要でした。
現生人類は、裁断のための石刃だけでなく、4万年前に精巧な「縫い針」を発明することで 衣服作りでも技術的な優位を得て、最終氷期を生き抜いたものと思われています。参考

氷河時代(更新世)に、縫い糸として最初に使われた糸は、狩猟で得られる動物の腱であったかもしれません。
しかし、温暖な後氷期(完新世)になると、もっと得やすい植物から得られる比較的長い靭皮繊維(麻)の糸が普及しました。最初はロープなどの利用であったかもしれませんが、そのうちに麻糸を縦横に組み合わせた「織物」が出現したと思われます。
古代エジプトでは紀元前1万年ごろ、既にリネン(亜麻)が栽培され、BC5千年には衣料に用いられてました。資料
別の資料 には、世界文明の発祥の地メソポタミア・エジプトの他に、先史時代のスイス湖上生活民族における麻の利用も記されています。

絹糸の利用は、おそらく麻に次ぐ古いものでしょう。
司馬遷の『史記』には「黄帝妃養蚕を愛す」という記載があり、紀元前2460年頃 落した繭を湯の中から拾い上げようとした時、糸が箸に巻きついたことから 製糸法が発見されたとか。参考
群馬県の 絹・生糸・製糸の起源 にも紀元前第3ミレニアムの遺物が記されています。
イタリアの会社のページ にも、約 4500年前頃の中国において養蚕や製糸が始まったことは間違いないと記されていました。

そのイタリアは、シルク産業と深いかかわりを持つ国です。古くはローマ帝国。1世紀の頃、中国から「シルクロード」を通ってはるばるとヨーロッパに伝えられた絹は、当然のことながら極めて高価。その贅沢品である絹を買える財力を持った国が、その頃から全盛時代を迎えたローマ帝国だったわけです。
絹の製法は門外不出とされていました。西ローマ帝国滅亡後の6世紀、ビザンチン皇帝のユスティニアニスが東方に派遣した僧侶が杖の中に蚕の繭を隠してコスタンチノープルに持ち帰り、地中海地域に養蚕が始まったとか。蚕種伝播経路と年代

イタリアに続いてフランスにも絹産業が起りました。リヨンの発展の歴史。18世紀末のフランス革命期には停滞がありましたが、19世紀になるとジャカールによりパンチカードを用いたプログラム式織機の発明などもあり、産業革命による機械工業時代を謳歌しました。
これにより、ヨーロッパは 原産地の中国をしのぐシルク産業の中心地になったわけです。

しかし、1855年に蚕の微粒子病が流行。これにより ヨーロッパの蚕飼育は打撃を受け、シルク産業は衰退しました。
1855年というと日本では安政2年ですから、まさに日本が開国する直前です。

ここで、「絹の話」を日本に移します。
3世紀の『魏志倭人伝』には絹織物を貢いでいたことが記載され、日本には 早くも弥生時代に蚕がもたらされたことがわかります。稲作と同じ頃に大陸からの移住者がもたらしたのかもしれません。先に紹介した蚕種伝播図にも1世紀に楽浪郡から伝来と記載されており、以後も百済や秦氏などによる古代の技術移転記錄があります。
古代国家の税制として租庸調が整えられる前から、女子の手になる絹布は「手末調」[83676]として位置付けられており、「調布」という地名が それを現在に伝えています。

このように日本の絹産業の歴史は長く、絹織物については撚糸技術の導入(明から)により、西陣織など高級品の生産も行なわれるようになりました。しかし、生糸の生産技術は進歩せず、高級絹織物の原料は中国からの輸入生糸で賄われたようです。
その輸入代金に支払われたのが、当時の日本で産出量の多かった銅なのですが、江戸時代には 大幅な貿易不均衡 に陥りました。
かくして、江戸幕府は生糸輸入を減らすために養蚕を奨励。諸藩も技術改良により独自の織物を生み出しました。大日本蚕糸会

このように、江戸時代後期は 日本の養蚕技術が長い停滞から脱却し、向上してきた時代でした。
そして、ペリー来航2年後の 1855年。ヨーロッパでは蚕の微粒子病が大流行し、隆盛を誇っていたシルク産業に大打撃。
微粒子病というのは、ノゼマという原生動物が蚕に寄生することによる病気だったのですが、当時はその原因がわからず、対策なし。養蚕が盛んだった南フランスの農家を救うために研究を開始したのがルイ・パスツールで、経卵感染で伝播することを明らかにして、この病気の防除に成功したのが 1870年でした。

日本と欧米諸国との貿易が始まった安政6年(1859)は、まさにこの時期。当時の日本が輸出できる代表品目と言えば、生糸と蚕種と茶くらいのもので、1865年の輸出額では生糸がが 80%近かったとか。
蚕種とは蚕の卵のことで、日本の蚕種は微粒子病に強い品種だったようです。

[85486] hmt
これは、先人たちの努力の成果と共に 時の運にも恵まれて、外貨の稼ぎ頭になりました。
という結果は、江戸時代の貿易不均衡対策から始まった養蚕技術改革、ヨーロッパの微粒子病流行、ペリー来航に始まる日本開国への動き などが重なることにより 実現したものだったのでした。
[85516] 2014年 4月 29日(火)22:26:09【1】hmt さん
絹の話(2)製糸と紡績
6月に世界文化遺産に登録されることが確実視されるに至った 富岡製糸場と絹産業遺産群[85486]
これに始まる「絹の話」の第2回は、「製糸」をキーワードにします。

「製糸」を文字通り解釈すれば「糸をつくること」なのですが、「繭から生糸をとること」に限定された用法が普通です。
では、それ以外の 糸つくり工程 は何と呼ばれているのか? 
最も普通の言葉は「紡績」です。木綿や羊毛などの短繊維を撚りながら紡ぐことによりつなぎ合わせ、望みの太さを持つ長い糸(紡績糸・スパンヤーン)にします。「つむぎ・つなぐ」という意味でしょう。

蚕の繭から得られる糸は、天然では唯一 約1000mもの長さをもつ 長繊維(フィラメントヤーン)です。
従って、糸つくりの工程も短繊維の紡績とは大いに異なり 別の言葉によって区別されているのだと思います。
しかし、絹だけを指して「製糸」という言葉が使われることは、弥生時代以来の歴史をもつ 絹の先駆者的な地位を示しているようです。

明治5年の富岡もよりずっと後ですが、明治29年(1896)創業の郡是製絲[84107]も、富岡を引き継いだ片倉工業と共に 代表的な製糸会社でした。戦後にメリヤス肌着やナイロン靴下の会社になり、社名から「製絲」が消えたのは 1967年でした。
参考までに、大阪紡績の創業は明治15年(1882)で、1914年に東洋紡績となり、2012年に東洋紡に変更するまでの 130年間「紡績」の社名が継続しました。

言葉としての製糸と紡績との対比はこのくらいにして、製糸工程に入ります。
群馬県による現代の絹産業のページ には、繭から生糸ができるまでのプロセスとして6工程が記されています。
1 乾繭 繭の音読みは「ケン」で、カンケンと読みます
2 選繭 
3 煮繭 95~100℃の蒸気または熱湯により セリシンで膠着している繭糸をほぐれやすくします 
4 繰糸 30~50℃の湯の中で数個の繭からほぐれた繭糸をよりあわし1本の生糸にして小枠に巻き取ります
5 揚返し 小枠から大枠へ
6 束装 大枠から外した生糸の束「綛(かせ)」約24本を束ねて包装し出荷する

このようにして得られた生糸は、蚕が作ったフィブロインというタンパク質でできた長繊維数本が撚り合わされた糸の表面に セリシンという膠質成分が付いたままの状態で、ゴワゴワしています(参考)。光沢があり肌さわりの柔らかな絹織物を作るためには、セリシンの大部分をを取り除く「精錬」工程が必要です。

セリシンはセリンを多く含む水溶性のタンパク質です。練糸に保湿性のあるセリシンを適度に残した方が 光沢や肌ざわりに優れた結果をもたらすようです。

紬糸(つむぎいと)も絹糸の一種ですが、こちらは天然の長繊維から製糸で作られる生糸(きいと)と違い、紡績により作られた スパンシルク です。原料は繰糸に適さない繭から作られた繊維塊(真綿)や、製糸工程から副生する くず糸 です。
紬糸からつくられた紬織物は、江戸時代に奢侈禁止令が出された折にも庶民の着用が許され、やがては粋な江戸文化になりました。

上記ページ の「織物」の部分には、精錬・染色してから織り上げる先練(染)織物の工程と、先に織り上げてから精錬する後練(染)織物の工程とが示されています。
先染め織物(練り織物)の例:帯地、お召し、紬など。シャリ感があります。柄は織柄。
後染め織物(生織物)の例:ちりめん、羽二重など。柔軟性に富んでいます。柄は捺染柄。
[85486] 2014年 4月 27日(日)19:24:29【1】hmt さん
絹の話(1)富岡製糸場が世界文化遺産に
昨日付の 文化庁報道発表 にあるように、我が国から世界文化遺産へ推薦している「富岡製糸場と絹産業遺産群」について、ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関である ICOMOS(イコモス)による勧告がユネスコ世界遺産センターより通知されました。
勧告内容は 英文資料 の9コマに記されており、「Tomioka Sik Mill and Related Sites, Japan」は 基準 (ii) 及び (iv) を根拠に 世界遺産リストに登録されるというものです。このお墨付きにより、6月にカタールのドーハで開催される UNESCO世界遺産委員会における正式決定 が確実な状況になりました。

今回認められた富岡製糸場の 普遍的価値を記述したものに、文化庁の 推薦書概要 があり、世界遺産登録基準 の (ii) 及び (iv) に照らして 説明されています。

UNESCOに提出した推薦書は 英文764頁に及ぶとのこと。前記英文勧告資料の 1~6章は、群馬県による推薦書解説資料 3コマ以下に記された「推薦書本文の概要」の 1~6章に対応しています。

この推薦書解説資料の中で、特に5コマに示された図と、その下に記された歴史的背景の記述により、今回の世界遺産登録対象が 単に日本最初の器械製糸工場であるというだけでなく、養蚕業と製糸業とが一体になった遺産群であり、それは技術移転や貿易と結びついて 世界的な影響を及ぼしたものであることが理解できます。

明治初期にフランスから富岡製糸場に導入された器械製糸技術により突破口が開かれた日本のシルク産業。
これは、先人たちの努力の成果と共に 時の運にも恵まれて、外貨の稼ぎ頭になりました。
大国ロシアを相手とした戦争を遂行することができたのも、生糸の代金でイギリスから買った軍艦があったからです。

シルク産業は、日本国内で養蚕と製糸の両方で技術革新を引き起こし、高品質の生糸を大量生産することに成功しました。
日本は、生糸だけでなく 養蚕技術や製糸技術も輸出するようになったのです。
そして、これにより、一部特権階級の贅沢品だったシルク製品は、広く世界の人々の手に行き渡るようになったのです。

良質な日本の生糸は、ロンドンやリヨンで「Mybash」「Maibashi」などの名で知れ渡り 取引されたそうです(参考)。
日本ブランドの工業製品は、現在では電気製品や自動車により世界の人々に愛用されていますが、そのルーツが 富岡で製糸されたシルクから始まったのでした。

このように考えると、今回の世界遺産登録は 極めて意義深いものであると感じられます。
[85278] 2014年 4月 16日(水)19:52:05hmt さん
「市」になる要件
[85269] Shouta さん
【人口10万人を超えていた町が】なぜ市にならなかったのか疑問
[85271] 白桃 さん
ざっくりいえば、人口要件以外に都市的要素(中略)を満たしてはいなければならない

Shouta さん はじめまして。hmtマガジンの特集 市と町の違い を編集した hmt です。
この特集や、アーカイブズ 「市」になる要件 の記事をお読みになれば、「市」になるためには人口以外の要件を満たすことが必要であることがお分かりになることと思います。
この記事では 法令に記された要件や その解釈という観点から、少々フォローしておきます。

現在の地方自治法は、その第八条第一項で 市となるべき自治体が具えるべき要件を規定しています。
そこには、5万以上という人口要件(第一号)に加えて、中心市街地要件(第二号、しばしば連たん要件と呼ばれる)・業態要件(第三号)・都市的施設要件(第四号)が求められています。後の3要件は都市要件と総括してもよいでしょう。

今回のような戦前【正確に言えば、地方自治法施行前】の話になると、法律も変りますが、前記マガジンの特集に収録された むっくん さん の記事3件を参照すると、制度の変遷がわかります。
基本になるのは、「市」という制度を誕生させるにあたり明治21年に制定された 「市制町村制理由」の記載[62749]です。リンク文書右頁19行。
今此市制を施行せんとするものは三府其外人口凡二万五千以上の市街地に在りとす

数字や、具体的な都市要件など細かい規定の違いはありますが、基本的に 人口と市街地、この2つを要件とするという考え方は、現行法の 人口要件と都市要件 に引き継がれていることがわかります。

1930年当時に施行されていた 明治44年市制 という法律の第1条に記された“市は従来の区域に依る”も、明治21年の法律の基本的な考え方を踏襲する方針を示しています。

昭和戦前(1930年頃)の「市」は、建前上は この 明治時代に決めた制度から 変っていません。
しかし、日本の産業構造は 19世紀から20世紀へと変化しており、「市」の範囲にも 本来の市街地に加えて周辺部が加わり、広域の市域が形成されつつありました。[79563]で示した人口密度から見た旧富山市の変遷は、その実例です。
M22-H15の旧富山市人口リストは、リンクが切れていますが、WARPを辿れば、到達することができます[84569]

富山市の事例は、「市」の範囲が 「市制町村制理由」に記された“市街地”そのものだけではなく、市街地を核とする 都市圏 へと拡大したことを示しています。
つまり、昔ながらの“人口2万5千以上の市街地”は“市の核”として必要ではあるが、その周辺には市街地でない郊外部を含むことが 許容されるようになりました。

本来ならば このような実態をふまえて、法律「市制」を改正すべきであったと思われます。
しかし、実際には 都市要件を成文化した規定は、ずっと後の 昭和18年内務省発地第三六號 市制施行詮議内規[83139] として現れています。
人口5万人以上で都市的形態を具備するものと認められること
そして、これが現行法の第8条第1項第1号(人口要件)と第2~4号(都市要件)の起源と思われます。

関東大震災後の人口急増で出現した荏原町[83708] 等の新興住宅地の自治体。
これが「市」になれるのか? という問題に戻ります。
郊外にできた住宅地は、あくまでも東京都市圏の一部にすぎない存在である。市の中心市街地たる“核”が東京都心と 別個に存在するとは認められない。これが荏原市否定論の根拠でしょう。
渋谷になると、単独で市になる構想もあった[35674]ようです。
しかし、誕生後2年で京都市に編入された伏見市(1929-1931)のように、現実的ではありません。

1930年当時 東京市の周辺にあった 東京府5郡の町村が 「市」にならなかった【なれなかった】理由は、法律・市制の下での「市」という存在の捉え方に起因するのだと思います。

[64148]では「中心市街地」について記しました。
しかし、その捉え方は法律・市制の時代(戦前)と現在とでは変化しているようです。

背景が東京市の周辺町村とは異なりますが、1941年に大規模な戦時合併で誕生した相模原町。
この町は、中心市街地を欠く という理由で 「市」になることができませんでした[64153]
その後も 中心市街地がどこなのかは 定かでない状態が続いていたと思いますが、とにかく昭和大合併時代の 1954年には「相模原市」が誕生しました。

この間には 法律も 市制から地方自治法へ と変り、相模原町自体の発展もありました。
しかし、決定的に変ったのは、「都市圏の中心市街地」についての要求だったのではないでしょうか。
戦前・戦中までは市に対して厳しく求められた 都市要件が 戦後の政策変化により緩和されました。
平成合併では、平成17年施行の合併新法第7条で、一時的とはいえ都市要件が不要になった時代もありました 参考資料
これは極端な緩和の事例です。しかし、それよりもずっと前の昭和合併の時代から 匙加減により都市要件の緩和は進められてきました。そして、これにより多くの市が生み出されたものと思われます。
[85266] 2014年 4月 13日(日)12:43:45hmt さん
昇龍道
今日の東京新聞日曜版・大図解シリーズに 「昇龍道」 が紹介されていました。中部・北陸9県【富山 石川 福井 長野 岐阜 静岡 愛知 三重 滋賀】の総称だそうです。
北海道は誰でも知っているし、律令時代には東海道などの七道がありました。韓国にも京畿道など8道があります。
でも、昇龍道という地域が日本にあったとは初耳。

調べてみると、「昇龍道」とは 中部国際空港の地元である 国土交通省中部運輸局が中心になり、中華圏からの観光客誘致を目的として立ち上げた プロジェクト のようです。
日中国交正常化40周年である 2年前の辰年(2012年)に発表された プレスリリース 日本 中部の道 昇龍道

能登半島を昇り龍の頭に見立て、その南に龍の胴体。
東は長野県・静岡県に及んでいるのは太り過ぎですが、胴体は 名古屋やセントレア空港に及びます。
そして龍の尾の先端近くには、秦の始皇帝の命により不老不死の薬を求めて来日した 徐福の伝説 が残る三重県熊野市があります。

昇龍道は 専ら外国向けのPRらしく、2012年に 岐阜オフ会が開かれた際にも 全く話題に上がっていなかったと記憶します。
[85263] 2014年 4月 11日(金)16:04:42【1】hmt さん
市町村への事務権限移譲
新年度になり、枚方市が43番目の【注】中核市に指定されました[85224]
【注】
中核市の一覧表 でわかるように、現存43市の他に、政令指定都市になった7市と 合体合併で一旦指定を解除された2市 があったので、正確には52番目の指定です。

それと前後して、八王子市の中核市指定申出[85215]、越谷市の中核市指定申出同意[85258]、川口市長の中核市を目指す方針表明[85221]、中核市市長会へのリンク設定[85226]、特例市制度を統合する新しい中核市制度への改正法[85260]など、中核市関連記事が続きました。

この機会に、今更なのですが、中核市は何のためにあるのか? を考えてみましょう。
もちろん、位階勲等のように「市」に「箔付け」をするものではありません。

要するに、基本的には「都道府県の事務」とされている仕事につき、その一部の「権限移譲」を受けた市なのです。
総務省のサイトから、指定都市・中核市・特例市の主な事務 をリンクしておきます。

最も左の列は 特例市が権限移譲された事務です。
中核市になると、これに加えて2番目の列の事務もできるようになります。
保健衛生に関する事務、例えば保健所の設置など、住民に身近な行政を 市が直接担うことができる。
これこそが中核市になることの利点です。
政令指定都市になると、更に3番目の列の事務も権限移譲され、指定区間外の国道・県道の管理や教職員の任免も任されるようになります。

以上は国として定めた権限移譲システムの概要であり、権限移譲先として特定されるのは「市」に限られています。
しかし、もちろん地方分権の趣旨からすれば、「町村」に対する権限移譲があってもよいわけです。
そこらのところは、都道府県ごとにその事情に応じた対策が取られているようです。

一例として、埼玉県の市町村に対する権限移譲 をリンクしておきます。
少し古い、旧制度時代の資料ですが、事務移譲先に宮代町・毛呂山町など町村名が記されている 指定リスト を示しておきます。

既に中核市へと動きつつある越谷市関係。県としての地方分権推進と 国の制度である中核市指定との関係について 埼玉県議会での質疑応答 があったので、参考までにリンクしておきます。

上田知事の答弁は、要件を満たしている市は、積極的に中核市を目指していいのではないかと肯定的です。中核市に移行すると保健所の設置により、住民は身近なところで総合的な保健サービスを受けることができると例示しています。

越谷市には、一般的な地域住民の健康作りの場としての 保健センター がありますが、より専門的な行政拠点である保健所(所長は医師)については、県立の 春日部保健所 の管轄下にあります。
中核市移行とあわせて、来年度からは 越谷市立保健所の設置を準備中 とのことです。
[85261] 2014年 4月 10日(木)22:43:02hmt さん
186国会に提出されている 地方自治法改正案
[85260] ピーくん さん
中核市と特例市を統合する議案が186通常国会の衆議院に提出されています。

平成26年3月18日、内閣から186国会に提出された「地方自治法の一部を改正する法律案」(閣法No.75)は、中核市と特例市の両制度を統合するだけでなく、政令指定都市の区制度の改正 その他いくつかの内容を含んだものです。
法律案の概要

政令指定都市の区に代えて「総合区」を設け、議会の同意を得て選任される総合区長を置くことができるとする規定(第252条の20の2)もあります。
改正案条文は、衆議院へのリンク[85260]よりも、総務省の 新旧対照条文 の方が わかりやすいでしょう。
[85248] 2014年 4月 8日(火)17:55:16【1】hmt さん
Re:国勢調査人口の修正箇所と変遷情報の要修正箇所(2)
[85247]の続き。
3番目は東京府荏原郡平塚町。
【(B): 大正15年4月1日~昭和2年6月30日の期間、平塚町が存在していたにも関わらず(平塚村→平塚町→荏原町)、平塚村から直接荏原町に改称したかのように記述してしまっていた。】

1925年国勢調査で 人口 72,256人を記録した平塚村。1930年国勢調査で 人口 132,108人を記録した荏原町。
国勢調査の町村人口で史上最大の2冠を達成したこの自治体については、[83708]で語りました。
国勢調査がなかった平塚町時代は記錄に残ることができず、残念。

4番目は神奈川県津久井郡小淵村。
これは、特に取り上げるに値するものでありませんが、hmt出身地の津久井郡なので、小淵村>吉野町(1954)>1955年に自治体名となった藤野町の名が消える際に、「藤野」の由来を問い掛けたことがあります[73423]。小淵村の小字という説が有力[73446]

5番目は群馬県北甘楽郡小幡町です。
YT さんの[85243]には、
間違いの箇所:大正14年国勢調査町村制、修正前:群馬県北甘楽郡小幡村、修正後:群馬県北甘楽郡小幡町
と記されており、[84549]で提供された 47todofuken01.xlsでもそのようになっていました。

しかし、私が閲覧した『国勢調査報告. 大正14年 第3巻』36頁に記載された 市町村別世帯及人口 群馬県 には、「小幡町」と正しく記されていました。

ここから先は hmtの憶測です。
YT さんがが 47todofuken01.xlsで誤記された原因は、最初に閲覧した報告書に「小幡村」という誤記があったからではないか?

このような疑問を抱いた hmtは、群馬県統計書. 大正14年度 人口及雑之部 を閲覧してみました。そこには大正14年10月1日現在の世帯数及び現在人口 市町村別 のリストがあり、北甘楽郡小幡村 4684人 と記載されていました。
ところが、同じ資料の8コマ 郡市町村数 は北甘楽郡 6町17村 となっており、小幡町とした方が勘定が合います。
よくよく見たら、この資料の 3コマに正誤表が貼り付けてあり、“6頁3表 北甘楽郡小幡村は小幡町の誤”と記されていました。

このような誤記に振り回される危険は常に存在します。 [85244]白桃さん が記されている
1925年国勢調査時点で「小幡村」か「小幡町」のどちらなのか疑問が出てきました。
も、誤記との関係があるのかもしれません。

国勢調査報告書と言えども、神ならぬ人の作るもの。間違いが皆無とは言えません。
[80441] hmt では、昭和24年の埼玉県栗橋町からの静村・豊田村「分立」につき、3町村設置(分割)と記錄したのは誤記であることを示しました。[82289] 白桃さん により、人口の誤記も発見されています。

尽く書を信ぜば、書無きに如かず なのですが、小幡村→小幡町の日付については、1925/5/10とする国勢調査報告書の方を信じてよいのではないかと思います。

ところで、[85244]から引用されている[83613]を見ると、地元の【甘楽町】役場に問い合わせても、旧町【小幡町】の町制施行年月日が記録として残っていなかったとのこと。そして[38612]に記したように、地方自治法の時代になってからでさえ、岡山県英保町→吉永町の改称日が曖昧なまま。

NDL官報情報[84184]により、明治16年7月から昭和27年4月までの官報が閲覧可能になるなど、情報源は広がってきていますが、それでも全国市町村の変遷履歴を求める旅は、まだまだ続きそうですね。
[85247] 2014年 4月 8日(火)17:49:06【1】hmt さん
Re:国勢調査人口の修正箇所と変遷情報の要修正箇所(1)
[85243] YT さん
膨大なデータについて、きめ細かくチェックしていただきありがとうございます。
私が過去記事で取り上げた町村も登場しているので、少々フォローしてみます。

最初は、地元の埼玉県から。
【(A): 昭和19年2月11日~昭和23年3月31日の期間、志紀町が存在したのにも関わらず、昭和23年4月1日に分割・成立後の志紀町とまとめてしまっていた。】

単純誤記でしょうが、昭和23年4月1日に志紀町の分割で復活成立したのは「志木町」です。
参考までに、志紀町関連4町村の所属する郡の履歴を記しておきます。美笹村に編入された荒川東岸の飛地[85089]は省略。

1889年町村制施行で新座郡志木町成立(以前は志木宿)→1896年北足立郡(旧郡制施行前の郡再編)→1944年北足立郡志紀町(戦時合併)→1948年北足立郡志木町(4分割)→1955年北足立郡足立町(宗岡村と合体)→1970年志木市

1889年町村制施行で新座郡内間木村成立(以前は5村)→1896年北足立郡(旧郡制施行前の郡再編)→1944年北足立郡志紀町(戦時合併)→1948年北足立郡内間木村(4分割)→1955年北足立郡朝霞町(合体)→1967年朝霞市

1889年町村制施行で入間郡宗岡村成立(以前は宗岡村)→1944年北足立郡志紀町(戦時合併)→1948年北足立郡宗岡村(4分割)→1955年北足立郡足立町(志木町と合体)→1970年志木市

1889年町村制施行で入間郡水谷村成立(以前は水子村・針ヶ谷村)→1944年北足立郡志紀町(戦時合併)→1948年北足立郡水谷村(4分割)→1956年入間郡富士見村(入間郡の2村と合体)→1964年富士見町→1972年富士見市

次も埼玉県。
(2) 埼玉県大里郡久下村の分割編入
久下村の吹上町への編入を追加する必要があります。

熊谷付近、元荒川沿いの村々【久下村、太井村、下忍村】の分村については、[38111] で言及していました。
大里郡久下村は、17世紀の工事で新しい流路となった荒川と、それ以前の本流だった元荒川とに挟まれてしまったた村です。そして20世紀の工事で村の大部分が1km近い幅の荒川河川敷になってしまったこの村は、1940年(紀元2600年)に熊谷市からの合併交渉を受け、翌年に吹上隣接の最下流部・荊原(ばらはら)を分村して熊谷市と合併しました。

この分村編入事例は、[38111]で言及した私自身もすっかり忘れており、本来ならば言及すべき 戦時合併 と その解体 や、「廃止」記錄 埼玉県[85096] からも脱落したままでした。

なお、大里郡久下村の熊谷市編入記錄は、変遷履歴 の遡及入力が開始された 2006年になされたと思われます。
今回ご指摘のあった吹上町編入脱落は、8年近くも見落とされていました。

久下村から見ると元荒川の対岸になる北埼玉郡太井村の熊谷市・行田市・吹上町への分村編入(1955/9/30)は、変遷情報入力済。その下流の下忍村は、一旦 吹上町と合体し翌年の境界変更 により分村しています。

長くなるので、ここで切ります。


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