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[87470] 2015年 4月 15日(水)18:12:38【1】hmt さん
気比大神 木ノ芽峠
かつては 敦賀ウラジオ航路を介して ヨーロッパに向う交通路の結節点であった敦賀。
外国貿易港や鉄道基地としての賑わいも 過去のものとなった現在ですが、選抜高校野球大会における敦賀気比高校の優勝で注目され、落書き帳でも話題になっています。

こちらでの話題の中心は畿内と越前とを結ぶ交通路ですが、ここで初心に戻り「気比」(けひ)について。

気比神宮・主祭神の気比大神(伊奢沙別命)は海神・食物神のようです。古代の人にとっては、渤海国など海外を含め、海産物や舶来品を手に入れることができた地、それが敦賀だったのでしょう。海外と言えば、神功皇后の三韓征伐とも関連し、気比大神は朝廷から重視されました。越前出身の継体天皇も関係していると思われます。

気比神宮は明治以後の称号でしょうが、越前国一宮として崇められ、古代からの北陸総鎮守だったものの、南北朝動乱では敗け組になりました。戦国時代も朝倉方で織田信長の侵攻を受けるなどして衰退。

落書き帳で「気比」を検索すると 大多数は高校野球でしたが、その中で気比の松原[16538][58771][61217]が健闘。

明治20年頃の敦賀駅は 気比神宮に隣接していたそうです。
明治26年鉄道局年報に 福井に向う線路を説明し、敦賀停車場から既成線に沿って南進し左旋して東北に向うとあります。その後に駅を南に移してスイッチバック線形を解消したようですが、[87466]で東海道線と北陸線の接点とされた敦賀ステーションが移転後なのか否かは判りません。

それはさておき、上記で引用した年報には 敦賀森田間の線路工事景況が説明されています。
森田は後に九頭竜川北岸にできた森田駅ではなく、工事の終点であった九頭竜川南岸を指していたようです。

「葉原より西北行…屈曲極めて多し…杉津の東に出て山腹を迂回…隧道橋梁交互相接し」などの記述を経て山中峠に達し、「葉原より此に至る4哩半余は 本線中至難の工区」 と記しています。

[61344]でも引用した北陸本線旧線地図を再びリンクしておきます。赤線が明治27年(1894)開通の旧線です。
青線は昭和37年(1962)開通の北陸トンネル経由の新線、緑線が昭和52年(1977)開通の北陸自動車道です。
越前海岸の絶景を展望できる唯一の駅であった杉津駅の跡は 杉津PA上り施設に利用されています。

工部省沿革報告に記された 明治14年6月井上鉄道局長の加越地方巡視復命書には、「江越の境界は 栃の木・木の芽の峻嶺を開通して敦賀線に連絡するは容易の業にあらず」と記されており、これを後回しにする姿勢でした。
しかし、それから15年後の鉄道局年報にあるように、「北陸線は本年度(明治29年)7月15日を以て運輸営業を開始」することができたのでした。

60年前にSL牽引の準急「ゆのくに」で通ったはずの旧線ですが、残念ながら天気が悪く 印象に残っていません。
地理院地図も付けておきます。2段階拡大すると、旧道の木ノ芽峠が北陸トンネルの真上近くを越えていることがわかります。

この木ノ芽峠。別名が「木嶺」で、福井県を分ける嶺北・嶺南という言葉はこれに由来します[85057]
多くの人口と文化とが集積された嶺北の福井(足羽県)は、港湾都市敦賀の拡大を見据えた敦賀県への統合(M6)に反発。
明治9年に敦賀県を分裂・消滅させるに至った騒動[85057]は、嶺北・嶺南を隔てていた木ノ芽峠の険しさを思わせます。

もっともこの措置は嶺北を併合した石川県に混乱をもたらしたようで、明治14年には分県して福井県新置となりました。
嶺南4郡については 滋賀県から離れなければならない積極的な理由はなかった とも言われますが、結局は現在の福井県に落ち着きました。
[87465] 2015年 4月 13日(月)23:22:02【1】hmt さん
日本海と琵琶湖とを結んだ鉄道は「東海道線」の一部だった時代もあった
少し間が空きましたが、[87455]畿内と越前とを結ぶルート の続編です。
[87542] 伊豆之国さん
「近江・越前国境を越える交通路」というと、北陸本線のルートと、その変遷

最初に、明治25年の 鉄道敷設法[61108] に 予定線路として記されていた区間を示します。【地名の頭の○○県下を省略】
北陸線 敦賀より金沢を経て富山に至る鉄道 及 本線より分岐して七尾に至る鉄道
北陸線及北越線の連絡線 富山より直江津に至る鉄道
北越線 直江津又は前橋若は豊野より新潟及新発田に至る鉄道
ご覧のように日本海縦貫線のうち敦賀から北の部分を主とするものですが、上越線や飯山線にも言及しています。

それはさておき、この法律では敦賀から南の鉄道には触れていません。
それは 明治15年に 金ヶ崎【敦賀港】-長浜間が既に開通していた から当然のことなのでした。
太湖汽船【初代頭取は藤田伝三郎[67436]】が運行した鉄道連絡船は浜大津に通じ、日本海と京阪神との間は鉄道で結ばれることになりました。
当初は徒歩連絡だった柳ヶ瀬トンネル区間も 明治17年(1884)に開通[87455]
関ヶ原・米原・馬場【膳所】間の開通により陸路による新橋神戸間が全通したのは明治22年(1889)でした。

北陸線グループの幹線という意味で現在も使われている「北陸本線」という名称は、明治42年(1909/10/12)の鉄道院告示第54号で 誕生しました。私鉄17社の買収が完了した 鉄道国有化の2年後でした。
国有鉄道線路名称左の通定む 北陸線 北陸本線(米原魚津間及貨物支線)、七尾線(津幡矢田新間)

これは国有化後の名称ですが、現在北陸線と呼ばれている区間のうち最も歴史の古い敦賀長浜米原間の官設鉄道は何と呼ばれていたのか?

明治26年鉄道局年報 を見ると 鉄道線路哩程延長・建設費の表があり、東京横浜間【注1】など8区間が示されていました【注2】。
【注1】 もちろん東京駅開業前ですが、新橋横浜間ではないのですね。つまり駅間でなく、都市間で表したらしい。
【注2】 横浜・神戸・敦賀・直江津と 鉄道建設資材荷揚用の港湾名[61303] が目立ちますが、武豊が脱落?

それはさておき、注目すべきは「敦賀大垣間」です。アレ? 東海道線と北陸線に跨っている。
よく見ると、東京神戸間を全通している現在の東海道線は、横浜・大垣・長浜・大津で5つの線区に分断されています。

明治27年鉄道局年報 でも同様なのですが、営業収支を示した87コマでは東海道線、信越線、奥羽線と現在と同様の線区名が登場し、88コマで次のように説明されています。
表中東海道線とは前年度まで東京神戸間、大船横須賀間、大府武豊間、米原敦賀間の4区間に区別したるものを合併改称し…

言及された前年度の表は17コマで確認。こちらには大府武豊間も記されていました。
「東海道線」という線区名は、合併改称により明治27年度(1894)に誕生したものでした。
それは現在の東海道本線、横須賀線、武豊線、北陸線の一部(敦賀以南)を総称したものでした。

既に完成していた米原敦賀間は、建設中だった敦賀から先と区別され、営業上は東海道線の一部という扱いだったのですね。
明治29年7月に敦賀福井間が営業を開始した時点で、米原以北を含めて営業線としての北陸線が登場したようです。
[87461] 2015年 4月 10日(金)23:23:08【1】hmt さん
地すべり地帯にある松之山温泉
[87457] グリグリさん
この部分、約50km程度

[87460] MasAkaさん
地すべりの多い地帯ですので(中略)、自分ならこういうルートは引かないですね。

この記事で、40年ほど前に新潟県の頸城(くびき)地方に住んでいた頃を思い出しました。
当時の東頸城郡【平成合併後は十日町市と上越市とに分属】には足を踏み入れた記憶がありませんが、このあたりの山が 地すべり地帯であることは、ローカルニュースに接しているだけでも感じていました。

グリグリさんの案によるルートを ほくほく線【北越北線】ルート図 と対比すると、越後湯沢を出て西に進み 信濃川を渡った先の津南町三箇(さんが)迄は 北越南線案と同じです。

三箇には東京電力信濃川水力発電所があります。
飯山市の西大滝ダムで取水された水は長い水路で県境を越え[66799]、この地で位置エネルギーを電力に変えています。

ここから高田の少し南に今回開業した上越妙高駅までを 東西に結ぶ新ルート ということになります。
松代(まつだい)西側の赤い直線部には、[87460]で言及された鍋立山トンネル9130mがあります。
その南に並ぶ新ルートも同じような性質の地山に由来する難工事が予想されるということですね。

松代の南の光間(ひかるま)は、東頸城郡松之山町でした。その南には薬湯で知られる松之山温泉があります。
その温泉水も地質を劣化させる原因ということなのですね。
この町では、半世紀前に 大規模な地すべりが発生し、防災50周年記録誌 『大地と共に生きる』等が作成されています。

参考までに、 アーバンクボタ20号 に掲載されている松之山地すべりの記事もリンクしておきます。
前記『大地と共に生きる』5コマにも図がありますが、地すべり地帯は、町の全域に及ぶことがわかります。
[87458] 2015年 4月 9日(木)15:55:47hmt さん
「南洋群島」 と 「遠刈田」
戦後70年、戦没者慰霊などを目的とする天皇陛下のパラオ訪問。戦後60年のサイパン訪問に続くものです。

日本がミクロネシアの島々を支配していたのは、第一次大戦から第二次大戦にかけての間でした。
hmtマガジンに収録した「戦前は広かった 日本地理の範囲」 という記事の後半部「53.南洋庁」で、この地域の歴史地理を少し詳しく説明しました。この機会に 再読していただければ幸いです。

この記事を書いた頃には、戦前の日本の行政区分を記した 小川琢治編『市町村大字読方名彙』へのリンクがありませんでした。その後、近代デジタルライブラリーに収録されたことを知ったので、今回の記事にも リンクを付けておきます

「南洋庁」には6支庁が記載されていますが、その本庁所在地は今回ご訪問の目的地パラオ諸島のコロール島でした。激戦地のペリリュー島は「ピリリウ島」と記されています。

話変って宮城県へ。
[87456] グリグリさん
北のパラオから「北原尾」。(中略)宮城県【刈田(かった)郡】蔵王町遠刈田温泉にある地名

いかにも「遠かった」と思わせる地名に惹かれて調べたら、「とおがった」と濁って読むのですね。
蔵王権現(現・刈田嶺神社)への信仰登山を兼ねた湯治場で、「湯刈田」(とうがった)から変化した地名のようです。

こんなところにも、1917年に軽便鉄道ができ、遠刈田停車場が設置されたというのには驚きました。
道路が整備されていなかった時代、参拝・湯治客だけでなく 鉱石運搬を含む大計画があったようですが、33‰勾配の連続など 軽便鉄道には いささか無理 という印象の地形です。
それでも 1921年には東北本線大河原駅からの線路が全通しました(仙南温泉軌道)。

そのうちに遠刈田温泉までの県道も整備され、バスが直接乗り入れるようになると、衰退した軌道線は 1937年廃止。

【北原尾には】集落というほどの場所は確認できませんでしたが、牧草地なども散見される長閑な場所です。

地理院地図 をリンクしておきます。家畜小屋や鶏小屋などもあるのでしょうが、思いの外多くの建物が散らばっています。
北に4kmほど行くと遠刈田温泉、南に行けば白石市です。

毎日新聞2015/4/7 によると、1946年3月と5月にパラオからの引き揚げ者29戸が定着し、手作業で開拓した焼き畑で 大豆・小麦を栽培。電灯が点いたのが1952年。
その後の冷害を経て酪農への転換を図り、「酪農の北原尾」では養鶏も順調に拡大し、ようやく生活が安定しました。
2001年には「北原尾のゆかり」を知ったレメンゲサウ・現パラオ大統領が訪問されたそうです。
[87455] 2015年 4月 6日(月)22:34:38【3】hmt さん
畿内と越前とを結ぶルート
[87452] 伊豆之国さん
畿内と越前とを結ぶルートの境界に設けられた「愛発関」(あらちのせき)。
古代三関の一つとして名前だけは知っていましたが、歴史に記録された具体的な役割については知りませんでした。

この「愛発関」が絡んだ奈良時代の大事件「恵美押勝の乱」の顛末

橘諸兄[64972]を排除して政権を握ったのは藤原南家の仲麻呂。とは言っても、極盛期だった天皇の権力によって奈良の大仏が作られた時代のことです。真の権力者は聖武天皇の一人娘・孝謙女帝でした。藤原仲麻呂は 女帝の最初の愛人になって 権力を委ねられ、恵美押勝という名も得たのです。
押勝は女帝の下で唐の文化を手本に 一時は国政を思いのままに操りました。しかし、やがて強力なライバルが出現。
それが 病勝ちの孝謙上皇と親しい関係になった 弓削道鏡でした。
恵美押勝は傀儡の淳仁天皇を通じて上皇に諫言したが怒りを買い、対立する結果になりました。
そして権力回復を図るも先手を打たれて敗退。
越前国守の息子と共に再起を図ろうとした内乱の拡大を防止したのが 愛発関だったのですね。福井県文書館

戦国時代に柴田勝家によって開かれたと伝えられる北国街道

柴田勝家の本拠地・北ノ庄。現在の地名は福井[64833]です。
この地と信長の安土城とを北から南へと最短距離で結ぶルートは、越前と近江の国境を「栃の木峠」で越える 北国街道 でした。
♪今庄朝立ち、木の本泊まり、中の河内で昼弁当♪ と歌われた近世のメインルートです。

鉄道の時代になってからは、海運・陸運の連絡輸送拠点である「敦賀」経由がメインルートになり、栃の木峠越えは寂れました。
「栃の木峠越え」という言葉は、「畿内から越前へ」を意味する言葉として使われる機会はなくなっているのでしょうか?

敦賀経由で「栃の木峠越え」から離れた鉄道ルートですが、木之本以北も柳ヶ瀬トンネル【注】の手前までは北国街道沿いでした。
【注】
1352mの柳ヶ瀬トンネルは、1884年開業時には わが国で最長の鉄道トンネルでした。これも近江越前国境です。
ところが断面が小さく急勾配のトンネルは、1928年に延べ5人の乗務員が窒息死する事故を起しました。

事故対策は、余呉から西に折れ 近江塩津経由 深坂トンネル 5170m で近江越前国境=滋賀福井県境を越える新線です。
この北陸本線新線は 戦争等の影響で遅れたものの、1957年に開業しました。同時に北陸本線の交流電化が始まりました。
このルートで福井県に入るのを「疋田超え」[87447]と言うのは、最初の駅が新疋田だからでしょうか?
でも「疋田」は峠道の名ではなく、偶々旧線の駅名に使われていた集落の名ではないでしょうか。
新線のトンネル名に使われている「深坂」は 峠や山の名 です。このルートの呼び名は「深坂越え」の方が適切と思われます。

旧北陸本線は当面柳ヶ瀬線として残されましたが、1964年の複線化を機会に廃止されました。

以上、古代北陸道の「愛発越え」、近世の北国街道「栃の木峠越え」、鉄道時代初期の「柳ヶ瀬越え」、戦後電化時代の「深坂越え」(疋田越え?)という移り変わりを概観しました。
いずれも越前・近江国境ですが、福井県・滋賀県の県境という枠に広げれば、若狭・近江県境の「鯖街道」など、別の視点のルートも加わると思います。

そして、やがては北陸新幹線が大阪まで全通する時代に。
敦賀から先のルートは未定のようです。丹波から若狭に通じる新たな「○○越え」が登場するのでしょうか。 参考
[87450] 2015年 4月 4日(土)15:39:55【1】hmt さん
国土面積統計の変遷 (18)戦後の埋立による 都道府県面積順位レースの展開
2015/3/6に国土地理院から発表された平成26年面積調は 計測方法と基礎となる地図の変更を伴うものであり、面積データの変化は全国の自治体に及ぶものでした。
集計方法でも四捨五入の処理法が変り、当サイトの面積データ更新プログラム見直しが必要になったとのことです[87424]

このように面積調の前提条件が変っているので、平成26年と前年との数値を比較することは、それ自体に疑問があります。国土地理院の発表が対比形式を避けた理由も その点にあると思いますが、おおまかな要因を知る目的で、都道府県面積の差を計算しました。その結果、北海道(-33.26km2)、長崎県(+26.44km2)など 10道府県で 3km2以上という大きな差がありました[87373]
最大の差があった北海道(-33.26km2)は、観測衛星を用いて改測された北方領土面積が主要因子であるという予想を裏付けるものでした。長崎県の大幅な増加は予想外でしたが、諫早湾干拓の調整池を国土に編入した結果として解釈することができました[87437]

今回の面積調は、都道府県や市区町村の面積に関して、久しぶりに多くの「数値変動」をもたらすものでした。[87435][87436]

しかし 都道府県ランキング の中でも「面積順位」に限れば、その変動はありません。
諫早湾埋立をした37位長崎県は 21世紀になってから 40km2も面積を増して 36位徳島県との差をかなり詰めましたが 順位逆転には至りませんでした。
平成16年(2004)面積調で愛知県と千葉県の順位が入れ替わって以来、「都道府県面積順位」は10年間不変のままです。

実は過去に遡ると都道府県面積順位でも かなり変動があります。その変動要因を解析できたら面白いと思いました。
手始めは面積の数値集め。近年の数値だけなら国土地理院の面積調が定番ですが、境界未定地について「参考値」の初出は平成16年(2004)なので[67271]、10年ほどしか遡れません。

今回の目的に最も適していたのは、統計局の 長期統計でした。目次の第1章に国土・気象 があり、1-11表で都道府県別面積のエクセルファイルをダウンロードできます。原資料名「国勢調査」とあるように、大正9年以来・原則5年間隔のデータです。

もっと古い時代の資料は統計年鑑があり、府県別面積については明治16年まで遡れます[87405]
しかし、ベースになる5万分の1地形図を 全国的に利用できる前の時代の面積データは、伊能図との二本立て記載など[87405] まだ旧時代を引きずっていた跡が窺われます。

今回の調査では、面積データとしてはkm2単位・5年間隔で揃っている長期統計1-11表を使うことにしました。
面積自体はこれでOKですが、変動要因を考察する資料は なかなか探しにくく、福井県面積の謎など全く解けていません。
とりあえず、判り易い埋立面積が影響したと思われる都道府県面積順位レースの展開を眺めます。

愛知県と千葉県だけについて言えば、元々面積が近く(5000km2余)、戦後盛んに埋立地が作られたという共通点があります。
hmtの頭の中の地図で距離や面積を比較する「物差し」になっている千葉県の面積[76231]
千葉港のあゆみ で見るように、戦後に発足した東京湾岸の整備によって千葉県の面積は 1960年からの20年間で108km2も増加し、5100km2を越えました。
千葉県の急ピッチな拡大は、面積順位レースでも同期間に73km2増えた愛知県を追い越し、1975年に27位を獲得。しかし、1990年以降は 愛知県が面積増加を続けたのに 千葉県の伸びは止り、前記のように愛知県が再逆転しています。

都道府県面積順位レースでよく知られているのは、最下位が大阪府から香川県に変った事実です。
“最小面積は大阪府” という かつての常識が覆されたのが、1988年【26年前の面積リセット】を含む5年の間でした。
1950年からの40年間で大阪府の面積増69.2km2。香川県も1945年からの40年間に23.4km2面積増と意外に健闘。
しかし[68680]で記したように、1985-1990の5年間に7km2も減少していたのですね。
やはり、埋立面積で大阪府に差を付けられただけでなく、陸海の境界が満潮界に改められ、入浜式塩田(の跡地)などが「海」になった影響があるようです。

同じく1950年からの40年間で比較すると、戦前に民間事業として開始された児島湾干拓[67436]が 戦後の国営事業として引き継がれた岡山県が+52km2で、ほぼ増減のなかった高知県を抜いて17位を獲得しました。これも1990年。

元々の面積が近かったため、埋立面積の差で順位逆転したペアをもう1組。
山口県は1960年からの50年間で+40.85 km2、茨城県は+7.8km2。23位をかけた順位逆転は1975年でした。
[87437] 2015年 3月 30日(月)17:34:27【2】hmt さん
諫早市と雲仙市の面積増加は大部分が水面?
平成26年面積調で明らかになった著しい変化として、諫早市と雲仙市の面積増加がありました[87436]
[87373]でこれを紹介した際にも、諫早湾干拓事業との関係を考えたのですが、諫早市だけでも20km2という「大きな数字はうまく説明できません」と記していました。
ところが、[87374]MasAkaさんにより紹介された毎日新聞記事には、次のように記されていました。
増加面積が最大だったのは長崎県で、26.44km2の増。水門を閉じた諫早湾を陸地に加算したため。

諫早湾干拓地案内図 を見ると、とてもそんな面積が陸地化したように見えません。

よく考えた結果、今回増えた26.44km2は その大部分が「水面のままの状態で」陸地に加算されたと思われます。
元々は「諫早湾」の一部でしたが、1999年に完成した潮受堤防によって海から切り離され、案内図に記されたように「いさはや新池」という名の調整池に変っており、淡水化が進行しているものと思われます。
海と隣り合う「ダム湖」[37037]ということでは、岡山県の児島湖の同類であり、「水面のまま」であっても 国土面積の一部に編入されるのは当然です。

以下、少し詳細に記します。
諫早市のページ を見たら、このプロジェクトは 昭和27年(1952)の長崎大干拓構想以来 何度も練り直された計画であることがわかりました。
戦後の食料不足解消のために湾口で締め切った 120km2もの諫早湾に大干拓地を作り米を増産する。
その後の社会情勢の変化に応じて事業目的や規模は何回も変更されました。
本決まりになった「国営諫早湾干拓事業」は 35km2規模に縮小されており、そのスタートは昭和61年(1986)でした。

事業者の 九州農政局 によると、有明海では干潟の成長により陸地の排水が年々困難になるために、干拓と排水を組み合わせた農地改良工事が古代から続けられ、この時代までに266km2もの干拓地が作られてきたとのことです。

10km2規模の諫早干拓は、現代でも大きなプロジェクトであると思います。
しかし、技術もお金も乏しかった昔の日本人でも、コツコツと仕事を続きた結果、その数十倍もの面積の干拓をなしとげていた。
このことに驚いた後、現代に戻るといささか失望する結果がありました。

諫早湾干拓事業の潮受堤防は締切2年後の平成11年(1999)に完成しました。
しかし、そこでの工法変更などを受けて、総事業費は増額され、完成予定も遅れました。
そして平成14年(2002)には、干拓計画に大きな変更があり、干陸面積は半減してしまいました。

会計検査院報告 を示しておきます。簡単な比較図はここにもありますが、失敗百選 に残されている当初計画図と、最終計画概要 を比較すれば、中央干拓地(1222ha)東工区や、北側の小江干拓地(104ha)の一部などが縮小対象になったことがわかります。

見て楽しい数字ではありませんが、表1 事業計画の変遷 の中から抜き書きしておきます。
項目当初計画(S61)第2回変更(H14)
締切面積3550ha3542ha
調整池面積1710ha2600ha
干陸面積1635ha816ha
総事業費1350億円2460億円
完了予定年度平成12年度平成18年度

最終的には 干陸面積816haに対して 調整池面積2600ha。
この数字を見て気がついたのが、面積調の数字と符合することです。

平成20年面積調における増加面積全国一は諫早市の 8.75km2【875ha】[68527]
平成26年面積調での市区町村面積増減 諫早市 20.57、雲仙市 7.35、合計27.92km2=2792ha[87436]

なるほど、陸地化した面積は既に平成20年面積調で国土面積に算入していたが、調整池の面積は未算入だった。
そこで、平成26年面積調で算入することにした。…私はこのように理解しました。

蛇足
有明海の干潟や干拓については、落書き帳内に過去記事があります。
熊本県の郡築村[85117]、佐賀県南端の 竹崎島

関係機関のサイトの一部は本文中でリンクしておきましたが、参考までに少し追加しておきます。
九州農政局 干拓とは有明海干拓、長崎県 干拓の歴史
[87423] 2015年 3月 25日(水)22:52:19hmt さん
市区町村面積を合計しても都道府県面積と一致しないし、47都道府県の合計も日本全国と一致しない
[87419] オーナーグリグリさん
面積データの更新作業に取り掛かったところ、重大な問題に直面しました。
合計値はその下層データの積み上げ値と一致していません。

面積は、人口と違って本質的には連続値です。連続値の測定によって得た結果を、適当なレベルの桁での四捨五入により【小数点下2桁のkmに】「まるめた」数字で発表されていることは、従来から行なわれていました。
私としてはこのような認識で、部分面積を合計した数値が全体の面積と合わないのは「当然のこと」と考えていました。

で、具体的にどの程度の不一致があるのか。平成26年面積調の47都道府県面積の合計値は 377,972.27km2であるの対して、全国面積は 377,972.28km2でした。その差 0.01km2は、わが国の全国面積として有意の値と理解すべきでしょうか?

表面的なデジタル表記にとらわれることなく、四捨五入で生じた「見掛けの違い」にすぎないことを認識する。
面積データのような連続値を扱う際には、このようなアナログ思考による解釈が妥当なのではないか?

これまでは、すべての階層において積み上げ値と合計値は一致していましたので、統計データの作りとしては大きな変更です。
との指摘により、今回問題が表面化したことに驚き、あえて異論を唱えた次第です。

それにしても、過去の面積調ではすべて一致していたのに、今回から四捨五入問題が表面化した理由は何故でしょう? 
国土地理院内が発表する「小数点下2桁」への「まるめ方」が、「ROUND関数形式」から「表示形式」へと変更されたのかもしれません。参考

余談ですが、国土地理院の元データの一部を窺うことができる資料があったので、紹介しておきます。
それは、[87371]を見た直後にダウンロードしておいた「都道府県別面積(エクセル)」です。
山形県 9323.154394、福島県 13783.748808、茨城県 6096.931984、栃木県 6408.094782、群馬県 6362.283652、埼玉県 3797.745363

小数点下6桁、つまりm2単位の測定データなのですね。他の41都道府県はすべて小数点下2桁、つまり「ha単位にまるめる」処理が施されていたのですが、この6県のデータだけは 元のデータが残っていたようです。【現在は この6県もhaの桁に揃えられています。】
四捨五入の結果、切り捨てが山形・茨城・栃木・群馬の4県、切り上げが福島・埼玉の2県。6県合計で約0.009km2の切り捨て。
他の41都道府県でも同様な切り上げ・切り捨てが行なわれた結果、47都道府県で0.01km2の切り捨てとなり、これが全国面積0.01km2の差という前記結果になったものと理解されます。

偶々得られたこの資料は、都道府県面積と全国面積との比較でしたが、市区町村面積がらみでも個々のデータとしては最大0.005km2の四捨五入があります。しかし多数のデータを集計することで四捨五入の影響は殆んど相殺され、実用上不都合なほどの差としては残らないことが期待できます。

連続値である面積データの取り扱いに関して、四捨五入の影響は皆無ではないが、その程度は小さい。
このサイトとしては “重大な問題” として 気にする必要はない のではないか。
これが私の言いたいことです。
[87422] 2015年 3月 24日(火)14:24:31hmt さん
「紀川」(きのかわ)から「紀ノ川」へ、更に「紀の川」へ
[87421]の後半部を分割しました。こちらは読み方ではなく、表記の問題です。

Kinokawaと言えば、日本語の「紀ノ川」と「紀の川」との関係も気になります。
地名集日本の Japanese(Kanji)は 「紀ノ川」ですが、河川法第四条第一項の水系を指定する政令 (昭和40年政令第43号)では 六十五 紀の川水系 となっています。
地理院地図 を見ると「紀の川」なのですが、これを縮小すると 河口付近に「紀ノ川」が現れます。

Mapionの河川名は「紀ノ川」。南海の紀ノ川駅付近から遡って 紀の川市内 になっても、河川名は「紀ノ川」のまま。
少し古いが机上の地図帳でも確認すると、平凡社も帝国書院も「紀ノ川」となっていました。

更に古い資料。有吉佐和子の小説『紀ノ川』(1959)より前の20万分の1地勢図(1956)を見たら「紀川」。
戦時中に国民学校で習った初等科地理の記述 「紀川の上流にある吉野山」には、「きのかは」と振り仮名が付いていました。

どうやら「紀川」から「紀ノ川」になった後、最近では「紀の川」の表記が使われるようになったようです。

仕事の上で、この川と密接な関係にあると思われる 和歌山河川国道事務所のサイトを確認。
河川事業 では、「紀の川」が使われています。
しかし、事務所の 案内地図 では「紀ノ川」なんですね。やはり、まだ移行途中のため不統一なのかな?

1965年の政令だけでなく、2005年に「紀の川市」ができた影響も あるのかもしれません。
[87421] 2015年 3月 23日(月)15:43:57【1】hmt さん
安倍-川・富士-川は二語だが、荒川・早川は一語
【お断り】追記・分割してタイトルも改めました。

[87420] デスクトップ鉄さん
『川の名前を調べる地図』をご紹介いただき、ありがとうございます。
収録件数が多く、役に立ちそうな資料です。

地名集日本には、300以上の"River"がエントリーしていますが、「かわ」は1割以下の23件しかありません。

確かに自然地名としての「かわ」は、明らかに少数派ですね。
「早川」は神奈川県となっていますが、地名集日本では Grid欄に 5338 と記されています。
序文 5/7に説明されているように、このメッシュコードは 20万分1地勢図「甲府」の経緯度範囲ですから、富士川支流・山梨県の早川であると思われます。

最初に[87411] 白桃さんも言われたことであり、hmtも[87413]で例示しましたが、「かわ」という読み方は、居住地名での使用について 自然地名よりも 相対的に目立つように思われます。
今回の調査でも、静岡県の井川、長野県の横川、愛媛県の城川【[80392]合成漢字自治体】などが目につきました。

地名集日本 は Gazetteer of Japan2007 というタイトルが示すように、海外向けを意識して発信された情報です。
名称にも Romanized Japanese の欄が設けられているのですが、河川名は4タイプがあります。
●kawa :Arakawa, Hayakawa, Kinokawa, Midorikawa
○ Kawa :Abe Kawa, Fuji Kawa, Hime Kawa, Su Kawa, Totsu Kawa
▲gawa :Akagawa, Amanogawa, Kiragawa,
△ Gawa :Agano Gawa, Chikuma Gawa, Ishikari Gawa, Tone Gawa

清濁の他に、一語にするか二語に分けるかの選択肢がありますが、濁音読みで二語に分ける「△」が 圧倒的に多いようです。

【追記】
安倍-川・富士-川は、固有名詞(郡名)に基づく川だから二語に分ける。姫-川のような 普通名詞の場合も二語。
荒川や早川は、形容詞に基づく修飾語を含む 一体の言葉 と考え 一語にする。
緑川の緑は名詞でもあるが、その本質は修飾語なので これも一語にする。
須-川の「す」は 元々は水質の酸性に由来する修飾語と思われるが、文字も変化しており二語扱いとなっている。
支流の酢川上流にある蔵王温泉は強酸性で有名。
名詞二語の酢-川と同様の扱いで 須-川としたのかもしれないが、やや異例と思われる。
紀ノ川は 「紀ノ」という名の川ではないから、当然 一語にする。
こんな解釈でよいでしょうか?
[87418] 2015年 3月 21日(土)23:15:51hmt さん
みどりかわ
[87415]で質問した緑川の読み方ですが、地名集日本 の1812番に「緑川 みどりかわ Midorikawa」という河川名が掲載されていました。

その他の情報
2万5千分1地形図名に 「緑川 みどりかわ」がありました。

河川名そのものではありませんが、緑川ダム で形成されたダム湖の名も「肥後みどりかわ湖」でした。
[87415] 2015年 3月 21日(土)15:55:59hmt さん
Re:「がわ」と「かわ」
[87414] デスクトップ鉄さん
ほかに一級水系の本流河川の「かわ」は、鵡川…白川があります。(中略)すべて1音か2音です。

熊本県の緑川は「みどりかわ」と読むのではないかと思い、国土交通省のサイトなどを検索したが、結論が出ませんでした。

「がわ」と「かわ」の読み方については、まとまった資料を発見できていません。
参考になる情報源をご存知ならば、ご教示いただければ幸いです。

ついでに、河川名の重複について。

長良川の支流の犀川は さいかわ ですが、千曲川の上流と石川県の犀川は さいがわ ですね。

「一級河川犀川」が、岐阜県と長野県とに存在し、読みが違うという同名異音は面白いと思いました。

一級水系名称の重複は、二十九 荒川水系(東京都・埼玉県)と 三十三 荒川水系(新潟県・山形県)だけです。
しかし、支流を含む「一級河川名」という枠組みならば 重複事例は 多数ありそうです。
その同名一級河川群の中で、「がわ」と「かわ」の読み分け事例が、犀川に続いて出るかどうか?
[87413] 2015年 3月 20日(金)23:16:20hmt さん
「とよがわ」右岸の「とよかわ」市
[87411] 白桃さん
ところが、市名になると 「がわ派」の16市に対して 「かわ派」11市、なかなか健闘している

消滅した秋川市、古川市、石川市、具志川市を加えると 17対14と 更に拮抗してきますね。

市になった年代順に並べると
旭川、市川、立川、豊川、田川  戦前・戦中は「かわ」が圧倒的に優位。
石川、加古川、古川、寝屋川、中津川、柳川  戦後になると「がわ」が逆転。
滑川、須賀川、掛川、渋川、大川、糸魚川  昭和合併期は拮抗。
滝川、砂川、深川、具志川、桶川、鴨川、秋川、吉川  「がわ」がやや多い。
吉野川、菊川、桜川、紀の川、平川、木津川  平成合併も引き続き「がわ」が多い。

そういえば岡山にいた頃、あさひがわ or あさひかわ・・・どう呼んでいたっけ???

資料 によると、国土交通省河川局は「あさひがわ」と呼んでいるようですね。

ところで、リストを見て気になったのは、河川名と市名との関係です。

旭川市に「旭川」という河川はあるの? というような市が多い中で、木津川市、紀の川市、吉野川市など いかにも 「河川名を名乗りました」 とい印象を受ける市が 逆に目立ちます。

加古川市のような例外もありますが、中心市街地名を欠き、市名を河川名に求めざるを得なかった平成合併の産物でしょうか?

「豊川」市は、河川の名でもありますが、それよりも豊川稲荷の門前町として知られた地名であると思います。
河川名は「とよがわ」なのに、地名は「とよかわ」と読むのは、このような事情を反映しているのでしょうか。

三河湾の豊川(とよがわ)河口部にある 六条潟 は、急流が供給する大粒の砂によりアサリが湧く海として知られています。
しかし、この豊かな海を脅かす開発計画が進行中で、日本のアサリがピンチ に陥りつつあるとか。
[87405] 2015年 3月 17日(火)20:01:31hmt さん
国土面積統計の変遷 (17)都道府県別面積の歴史 (明治16年から大正9年)
先日(2015/3/6)発表された平成26年全国都道府県市区町村別面積調[87371]は、測地技術の進歩による結果を取り入れた 26年ぶりの大修正でした。

前年との間で面積の増減のあったデータは多数あるのですが、その中には全く異なる原因による変動が混在しています。
北方領土改測に基づく 北海道面積の減少事例[87373]、諫早湾干拓地をカウントした 長崎県面積の増加事例[87374]
[87387]で言及された陸前高田市の松原も、測地衛星画像に基づいて岩手県面積減少にカウントされている可能性があります。
残念ながら、発表されたデータだけでは、これらを分離して考察することはできません。

最初に、面積データの26年ぶりの大修正と書きましたが、その前の大修正は何時なのか?
そもそも、面積データは どこまで遡ることができるのか?

近代国家としての日本が国土面積を公表した最初に資料は、明治15年(1882)の『第一回日本帝国統計年鑑』[66993]であると思われます。[66996] YT さんが、そこに記載された「面積及周囲」を紹介し、国別面積の存在にも触れています。府県別面積は明治16年版以降とのこと。

この面積データの根拠は[76997]に追記されたように、原則として
伊能忠敬の大図 [三万六千分の一] を本として算出
したものです。翌年の統計年鑑からは、内務省地理局の実測値も用いられたことが記されています。
伊豆相模武蔵安房上総の五ヶ国は内務省地理局の実測を用ゆ

私がアクセスできる次に古い資料は、大正元年12月刊行の 『日本帝国第三十一統計年鑑』の14コマ で、ここに「道府県面積」の表があります。
3府43県の順番は現在と違いますが、2種類の面積が方里単位で記されています。
一つは第二回に記された「伊能大図+地理局」ですが、もう一つの面積は「参謀本部に於て調製したる面積」です。

この明治31年に始まった「参謀本部の面積」こそが、現在の「国土地理院の面積」の原型となるものです。
但し大正元年の表の脚注に記されているように改訂中であり、面積の決定版になっていません。

面積データは地図に基づいて測るわけですから、参謀本部によって遂行されつつあった 測地>五万分一地形図作成 事業と深い関係にあります。五万分一地形図は大正5年(1916)に全国整備が完了したとあるので、これに基礎を置く面積データも、大正年間には だいたい整備されたと思われます。

大正11年刊行の統計年鑑では 既に伊能大図に基づく面積は姿を消して「参謀本部の面積」に一本化されています。しかし、北海道、鹿児島県、沖縄県のみは未訂正で、明治31年当時の実測面積であると注記されています。

その次の 第四十二統計年鑑 に至り、「府県別面積」表の脚注から「3道県未訂正」の記載がなくなりました。タイトルの後に「大正九年十月一日」と記されています。
つまり、第一回国勢調査の行なわれた日から、「府県別面積」も完全に新版になったものと理解されます。

五万分一地形図作成事業の成果をふまえた「大正九年版の府県別面積」なのですが、この表には少し問題があります。
面積の単位が「方里」なのですね。そのあたりの事情を少々記しておきます。

実は日本のメートル条約加盟は かなり早い方で、加盟手続が行なわれたのは1885年でした。
翌 明治19年4/20には勅令無号『メートル条約』 が公布され、1890年には副原器が日本に到着しました。 
もっとも、明治24年(1891)に制定された 『度量衡法』 は尺と貫をメートル原器に基いて定義したもので、間接的なメートル法に留まっていました。
国内単位をメートル法に改める 度量衡法の改正は 大正10年 (1921)でした。

このようなわけで、統計年鑑に記された府県別面積は従来の年鑑を踏襲した「方里」単位だったのですが、大正九年から新たに始まった国勢調査報告書では、もちろん km2(方キロ)単位になっています。
大正九年国勢調査統計表 の表2が「面積及人口-府県」となっています。
[87384] 2015年 3月 13日(金)22:35:36【1】hmt さん
北陸新幹線金沢開業関連
2015/3/14に北陸新幹線が金沢駅まで延長開業し、名実共に 東京から「北陸」へのメインルートになります。

この機会に、hmtマガジンの特集 ★祝★ 北陸新幹線金沢開業 を作りました。
2013年10月に「かがやき」など列車名が発表された当時の記事が中心ですが、新幹線とは直接関係のない北陸本線に関する記事の一部も収録しました。

さて、新幹線開業の陰で大きな影響を受けるのが「並行在来線」です。
とりあえず、2015/3/14からの新規開業や、大きな影響を受ける第三セクター鉄道のページをリンクしておきます。

石川県 IRいしかわ鉄道 http://www.ishikawa-railway.jp/ 路線図
富山県 あいの風とやま鉄道 http://ainokaze.co.jp/ 路線図
新潟県 えちごトキめき鉄道 https://www.echigo-tokimeki.co.jp/ 路線図
  北陸本線→日本海ひすいライン
  信越本線→妙高はねうまライン
長野県 しなの鉄道 http://www.shinanorailway.co.jp/
  信越本線長野・妙高高原間の経営を引き受け、 北しなの線 とする

「並行在来線」とは立場が少し違いますが、特急「はくたか」の運転がなくなる 新潟県の北越急行も、経営への影響が大。
新ダイヤトンネルだらけの路線断面図

【追記】
各社の路線図を追記しましたが、その際に気になったのが、富山県の「あいの風とやま鉄道」の区間です。
倶利伽羅-市振 間でなく、石動-越中宮崎 間となっていました。

確かに境界駅の倶利伽羅は IRいしかわ鉄道が、市振は えちごトキめき鉄道が管理する駅です。
しかし、普通は境界駅までを含めて自社路線区間を表示すると思います。異例と思われる表示になっているのは何故?
[87380] 2015年 3月 10日(火)22:17:15hmt さん
悩める番地の物語
[87378] 山野さん
岐阜市鷺山1769-2。230世帯あるが住所が全部一緒だとか。

番地の本来の目的は不動産登記や課税に使う土地の符号でした。
元々が住居表示を目的とするものではなかったので、家が番地の順に並んでいる保証はありません。
でも、住所を示す仕組みがなかった時代には、住居表示には番地を流用するのが普通でした。
戦後、都市部については 住居表示制度 が作られましたが、その普及は一部に留まっています。

というわけで、明治になって郵便制度が普及しても、宛先の番地にうまく届かないという悩みは数多くありました。
今尾恵介『住所と地名の大研究』p.52には「悩める番地の物語」という節があり、事例が紹介されています。
その代表例として挙げられるのが、夏目漱石など有名人も住んでいた東京市本郷区西片町10番地[62635]でした。
6万坪もある大名屋敷跡の単一番地が貸地になり、多数の住宅が作られていました。

今回紹介された岐阜市鷺山の事例は市営住宅を分譲したとのことです。分譲対象に土地が含まれていれば分筆が行なわれると思いますが、境界が未確定のために分筆作業が完成していないのでしょうか。
年月が経過すると、相続関係が発生したりして、ただでさえ複雑な事務量が増します。
土地境界の画定を後回しにしても、新たな住居表示の実施を早急におこなうのが大多数の住民の利益ではないかと感じましたが、どうなるのでしょうか。
[87373] 2015年 3月 8日(日)12:01:18【1】hmt さん
国土面積統計の変遷 (16) 2014/10/1以降の面積データは リセットされました
[87371] MasAka さん 平成26年全国都道府県市区町村別面積調
今回から計測方法を大きく変更したことが影響
(中略)前年との面積に増減があった自治体が多数出ているようです。

平成26年計測方法変更により、全国の面積データは昭和63年(1988)以来26年ぶりにリセットされました。参照
そのためか、今回発表の成果は 例年のような 前年との対比形式踏襲を避け、平成26年単独で示しています。

今回の発表は、都道府県市区町村サイト内の面積データすべてに影響が及びます。
オーナーグリグリさんのお手数をかけることになりますが、よろしくお願いします。

hmtとしては、とりあえず都道府県面積について、平成25年との増減を調べました。
最も目立ったのは、北海道の減少 -33.26km2 と、長崎県の増加 +26.44km2 です。
以下 愛知県 +7.24km2、福岡県 +6.98km2、増加4km2以上が兵庫県、熊本県、沖縄県、増加3km2以上が大阪府。
減少3km2以上は岩手県、宮城県で、三重県がこれに続いていました。

北海道の大幅減少という結果を見て、思い出した過去記事があります。
[86284] 右左府さん
これにより、択捉島含め北方領土の島々の面積にも変更がしょうじるのでしょうか。
[86293] hmt
【JAXAの陸域観測技術衛星「だいち」の撮影画像により】改測された地形図に基づく北方領土の島々の面積が、平成26年面積調として(中略)発表されることを期待しています。

例年に比べて ひと月余遅れた発表でしたが、択捉島・国後島・色丹島の6村プラス根室市の面積を合計して比較すると、平成26年の値は平成25年の値よりも34.46km2減少しており、上記北海道の減少値とほぼ一致しました。

長崎県については、市町村別に比較したところ、諫早市が +20.56km2、雲仙市が +7.35km2でした。
面積調には増加した面積のある場所についての手掛りはありませんでした。諫早湾干拓事業や雲仙普賢岳噴火の影響が地形図に反映されていなかった分を修正したのか? とも思いましたが、この大きな数字はうまく説明できません。

そう言えば、目立った増減を記録した県の顔ぶれを見ていると、中部国際空港、北九州空港、神戸空港、東日本大震災などとの関連が推測されるのですが、これも果して当たっているでしょうか。
[87358] 2015年 3月 2日(月)19:31:08【2】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (3)上越市の事例を見る
2006年の記事[48758]にリンクされた「地域審議会・地域自治区・合併特例区の全国設置状況」をクリックしたら、2014年度初日の情報が得られました。
普通の用途ならば、これは歓迎すべきサービスと言えるのでしょう。

例えば 2006/3/20~2010/3/31の間、相模原市の中に津久井町・相模湖町という地域自治区が存在した という過去の情報は、相模原市緑区になった現在ではさほど価値があるものとは思われません。
地域自治区に関する情報は、現状を知ることができるだけで十分である。そう考える人は多数いるでしょう。

しかし、例えば上越市に設けられた28地域自治区【Cj】(9コマ)の住所表記に関して、次の疑問があります。
住所に含まれない高田区など15区と、住所に含まれる安塚区以下の13区。これが共存しているのは何故か?
これを解くには、地域自治区の履歴情報が必要です。

安塚区以下の 13地域自治区 [33723]は、2005/1/1の合併時から設置された「合併特例法に基づく地域自治区」【Tcj】(期間は5年間)でした。先に記したように、期間限定の制度ながら、この場合は地域自治区名、つまり旧町村名を住所に冠することになりました(旧・合併特例法 第五条の七)。

高田・直江津など上越市旧市内は そのままの住所なので、一見すると不統一のようです。
しかし、これは実情に合ったものであり、市民もこの表記に慣れてきたと思います。
ところが、【Tcj】の区名は5年しか使えない。どうするのか?

これに対する答えは、新市域の13区を、期限のない一般制度による地域自治区【Cj】に移行することでした。
私はこれまで【Tcj】から【Cj】に移行しても 住所に区名を使える とは知りませんでした。しかし、法律を見ると確かにOKです。

…ということで、【Tcj】の期間を少し短縮して 2008/3/31に満了させ、平成20年度(2008/4/1)から一般制度の地域自治区【Cj】に移行したのですね。

そして、2009/10/1からは 高田や直江津の旧市内にも 15区が設置されました[75709]
これにより、一見同じ【Cj】なのに、新・旧市域で 区名を冠するか否か が別れるということになりました。
[87357] 2015年 3月 2日(月)18:46:41hmt さん
地域自治区 合併特例区 (2)制度の概要 総務省の合併資料集
[87349]の続きです。
最初に、平成合併に際して設けられた地域自治区・合併特例区の制度について、基礎知識を復習します。

総務省の 市町村合併資料集の中には、 制度の概要 というページがあり、地方自治法による一般制度の改正(H16)によって定められた「地方自治区」【Cj】と、合併時の特例である2種類の制度【Tcj】【Gt】、合計3種類が示されています。便宜上、【略号】を付与しました。

落書き帳でも [48804] suikoteiさんが下記のように列挙しています。
1.改正地方自治法に基づく「地域自治区」(いわゆる「一般制度としての地域自治区」)【Cj】
2.合併特例法(及び地方自治法)に基づく「地域自治区」(いわゆる「地域自治区の合併特例」)【Tcj】
3.合併特例法に基づく「合併特例区」【Gt】

[73443]では、右左府さんが 法律の根拠条文を示して説明しているので、こちらもご参照ください。
「一般制度としての地域自治区」【Cj】:地方自治法 第二百二条の四
「地域自治区の合併特例」【Tcj】:旧・合併特例法 第五条の五、合併新法 第二十三条~
「住居表示の特例」:旧・合併特例法 第五条の七、合併新法 第二十五条
「合併特例区」【Gt】:旧・合併特例法 第五条の八~、合併新法 第二十六条~

総務省の説明ではピンクの図により「地域自治区」を説明しています。すなわち、地域協働活動の要として存在するのは 地域の意見をとりまとめる「地域協議会」ですが、その身近な事務を処理するために区を設け、「区の事務所」を置くものが一般制度としての地域自治区【Cj】です。

この制度【Cj】には 設置期間の規定がなく、資料3 によると、大半の団体で設置期間を設けていないとのことですから、長期間利用される可能性があります。
上記資料3には、特色ある事例や、地域自治区制度によらない協議会等の設置事例も紹介されていました。

合併時の特例として定められた2つの制度(【Tcj】【Gt】)は、平成合併に伴う移行期間の事務処理に特化しています。
期間限定の制度ですが、住所の表記にその名称を冠することになっているので日常生活に直接の影響があります。
特に合併特例区【Gt】は 特別職の区長、法人格などの規定で律せられた特別地方公共団体で、市町村に準ずる存在のように思われます。その一方、設置期間は5年以下に限定されています【31条2項】。

落書き帳における「地域自治区」の初出は[27999]でした。これは、でるでるさんが近く成立見込みの合併関連3法案について解説した記事です。
具体的な地名を伴った記事は、[31669]浜松市、[33723]上越市、[34201]兵庫県香美町、[48391]相模原市などの事例がありました。
そして、[48758]では 総務省のサイトにあった地域自治組織の設置状況一覧表(平成17年3月31日現在)が紹介されていました。

ところが…
今川焼さんの記事[48758]のリンク部分を、現時点でクリックして出てくるのは、「地域審議会・地域自治区・合併特例区の設置状況(平成26年4月1日現在)」でした。総務省は、同じURLのままで、内容を現年度初日の情報に更新していたのです。
[87349] 2015年 2月 28日(土)23:00:11【1】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (1)序論 平成合併の最盛期から 10年
平成26年度も残すところ約1ヶ月。そこで、10年前の年度替り、平成合併の最盛期を回想してみました。

平成17年度初日を迎え、[39216]グリグリさんは 44件の合併を伝えています。
但し、これは平成合併最多ではなく、半年後の 2005/10/1 の50件が最多で、3位の 2006/1/1 も43件で続いていました。
参考までに、昭和合併最多の記錄については [55364]をご覧ください。

件数はさておき、この年度変りは 平成合併を 法律上前期6年間と後期5年間とに2分する節目でもありました。
[39203] M.K.さん 2005/3/31 とりあえず塗り納め(特例法期限当日)
[39228] でるでる さん 2005/4/1
昨日3月31日に合併特例法による合併真正の期限を迎え、(中略)一方で、本日付(4/1)で新たに法定協議会を設置するなど、既に合併新法による合併を目指して動き始めたところもあります。

そうです、
「市町村の合併の特例に関する法律」(昭和40年法律第6号)・通称「合併特例法」は平成16年度限りで失効し、平成17年度からの5年間は 1文字違いの「市町村の合併の特例等に関する法律」(平成16年法律第59号)・通称「合併新法」に切替えられたのでした。

年度別合併件数と関係市町村数、年度末全国市町村数とその減少値を示します。
【☆H02~H07年度は 所謂「平成合併」開始前ですが、参考までに記しました。】
【★H23, ★H26は 合併新法が事実上満了した後の合併ですが、参考までに記しました。】
年度西暦合併件数関係市町村年度末減少備考
☆H0219901432413熊本市
☆H0319913732374北上市浜松市水戸市
☆H0419921232361盛岡市
☆H0519931232351飯田市
☆H0619941232341ひたちなか市
☆H0719952432322鹿嶋市あきる野市
H1119991432293篠山市平成合併第1号
H1220002432272新潟市西東京市
H1320013732234潮来市さいたま市大船渡市
H142002617321211
H15200330110313280
H1620042158262521611
H17200532510251821700
H1820061229180417
H192007617179311
H2020081228177716
H2120093080172750 H11~H21年度の累計減少数1505市町村
★H23201161417198http://uub.jp/upd/2011.html
★H2620141217181栃木市

ご覧のように、合併は切替え前後の2004~2005年度に集中し、この2年で1311市町村が減少しました。

平成合併の最盛期から 10年になる。
…ということは、通常5年から最大でも10年程度の期間限定で設けられた地域自治区の大部分が期間満了を迎えるということではないか。

過去記事を調べると、確かに 地域自治区の廃止を報じる記事 が散見されます。

その多くは地域自治区の名称が「○○区」であり、その廃止が住所の表記に影響を及ぼすために特に注目された事例ですが、この他に「○○区」を名乗らなかった地域自治区の消滅例も多数あるし、「地域自治区」を名乗りながらも、その存在根拠が 期間限定の合併特例法・合併新法から 期間の定めのない地方自治法へと変更された事例もあります。

ところが、この間の地域自治区の変遷をまとめた資料は、Webを見回しても適当なものが見当たりません。
平成合併と深い縁を持つ当サイトとして、何らかの形で資料をまとめて発表しておくべきではないか。
これが、平成合併の最盛期から 10年 という現時点で、このシリーズを記すに至った動機です。
[87328] 2015年 2月 22日(日)13:39:55hmt さん
「荒子」という地名
「荒子」という地名は、前田利家の出身地 として知られています。名古屋市中川区役所の東には あおなみ線の荒子駅があり、西に行けば新前田橋です。
1889年町村制施行(愛知県は10/1)で合成村名の万須田村になる前には 海東郡前田村 がありました。

こんなことを書き始めた動機は、「自治体越えの地名」の話題に同じ愛知県(但し尾張でなく三河)で、西尾市と安城市に跨る地名「荒子」が登場した [87274][87322]機会に、付近の「荒子」地名を調べてみたからです。

Mapionの住所一覧を使って荒子を含む町字の数を調べると名古屋市中川区が12。
荒子と荒子町の他に荒子町(地蔵前)などを列挙。荒子町の中に、小字毎の地番区域が多数あるようです。
小字単位の地番区域であることは 三河の荒子 も同様ですが、三河の荒子は小字として使われているようです。
旧明治村が分割された3市について町字数を調べると、碧南市には荒子町、安城市は城ケ入町(荒子)など7町。
そして西尾市には、南中根町(荒子)など なんと28町もありました。隣接関係を問わない総数ですが、町名の一部に荒子を使っている事例が、これほど多数あることには驚きました。

そもそも「荒子」とは如何なる土地なのか? 
名古屋の地名と由来には、次のように記されていました。
【前田氏】分家の進出した荒子は「荒処」で、未開地だったところを指す。

明治用水などの開発事業によって、未開地が新田に変貌し、三河デンマークと呼ばれる酪農地帯[75096]になった姿。
これを見ると、荒子という名が付けられた未開地を克服した近代土木技術の恩恵を感じます。
明治村という自治体名も、荒野を沃野に変えた時代を記念するものだったのでした。

しかし、よいことばかりではありません。明治用水完成から50年余を経た第二次大戦最後の冬、三河地震に襲われたのです。
1945年1月の真夜中、1ヶ月余の東南海地震でぐらついていた家屋は 大被害を受けました。ただでさえ物不足の戦時中に報道管制が重なり、救援物資も集まらず。10年後には災害を語り継ぐべき村の名も消滅[55569]。こんな悲しい歴史もありました。

ともかく、狭い範囲に別々の町字に属する28もの小字「荒子」が密集しているというのは、予想外でした。

なお、西尾市南中根町荒子が 碧海郡南中根村であったのは、1889年の町村制施行以前のことです。
町村制施行時には碧海郡米津村大字南中根字荒子になって城ケ入村字荒子と隣接状態になりました。
明治用水の完成は1890年ですから、2つの村の未開地は ほぼ同じ頃、沃野へと変貌していったのでしょう。

そして、1906年の 明治村成立によって自治体境界は、一旦消滅しました。
そして 昭和合併期の1955年には、明治村の3分村組み換えにより復活した自治体境界により、今度は 西尾市/安城市の境界を越える地名として復帰した という次第です。
[87319] 2015年 2月 19日(木)21:54:10【1】hmt さん
遅い旧正月
今日、2015年2月19日は旧正月、中国では「春節」という祝日です。
もちろん毎年巡って来るのですが、今年は少し遅いような気がしました。
そこで 2015年暦要項 で確認してみました。【日時は日本の中央標準時】
「雨水」 太陽黄経330度 2月19日8時50分
「朔」【新月】 2月19日8時47分 

ご承知のように、旧暦【太陰太陽暦】では 朔日【ついたち】から次の朔日の前日までが 「ひと月」 です。
そして、雨水がある月を「正月」とします。
雨水は太陽暦では毎年2月19日頃ですが、朔日の日付は毎年変化します。
今年は、偶々雨水の日付が旧暦の朔日だったのでした。

年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ
今年2月4日の立春は、旧暦では師走の16日。これは早い方ですが、年内立春自体はそんなに珍しいことではありません。
この歌が有名なのは、古今和歌集の冒頭を飾っていたためでしょうか。

その逆のケース。2012年の朔は1月23日、2月22日…でした。雨水は今年と同じ2月19日ですから1月23日から2月21日の30日間が正月ということになります。このように、雨水が次の朔の少し前【旧暦の日付で正月の晦日(みそか)近く】になる年には旧暦の元日が早まり、太陽暦2月4日の立春より前になります。

要するに、太陽の運行で決まる「雨水」と、月の運行で決まる「朔」との兼ね合いで生じる現象です。
そこで気がついたのが、2ヶ月前に書いた「朔旦冬至」[86827]と同じ 19年7閏 の仕組みだということです。

そうか、19年毎に巡ってくる朔旦冬至の2ヶ月後には、雨水と朔とが同日になり、遅い旧正月になるのか。
旧正月の日付を調べると、確かに19年後の2034年、更に19年後の2053年も旧正月は2月19日。

旧正月行事は日本の大部分では廃れたものの、中国・台湾・韓国・北朝鮮・シンガポール・ベトナムなど 中華文明圏の国では重要な祝祭日として健在なようです。
マレーシア・インドネシア・ブルネイなど イスラムの国でも旧正月が祝われるとか。

そう言えば、大切なことが一つ抜けていました。
最初に掲げた暦要項の中に注記した、【日時は日本の中央標準時】という部分。
二十四節気(雨水)も朔望月も世界中に共通する天文現象ですが、その「時刻」は各国の標準時によって異なります。
従って旧正月の日付が各国で同じになるとは限らないわけです。

更に言えば、朔と冬至の時刻が近接する19年目でも、両者の間で日付が変ってしまえば「朔旦冬至」に成り損ねるわけです。2014年は朔旦冬至でしたが、19年後の2033年は朔旦冬至にならないそうです。
[86827]では、このことを書き落としていました。
[87309] 2015年 2月 17日(火)19:04:06hmt さん
ルビ
[87304]の中で、使った言葉
南毛利村には「ミナミモリ」とルビが振ってあった

「ルビ」とは、小さい活字で印刷された振り仮名のことですね。
元々印刷業界でルビーと呼ばれていた7号活字のことだったようですが、私達が使うのは、活字自体ではなくて、それを使って印刷された振り仮名です。
印刷屋さんの解説 によると、手書き文書の振り仮名はルビでないので間違えないようにとのこと。

宝石のルビーが語源であることは、国語辞典にも出ています。ダイヤモンドはルビーより小粒。
活字のサイズに使う宝石名には、パール、アゲート【瑪瑙】などもあるようですが、国によって サイズはまちまち であるとのこと。レファレンス事例詳細

地理とは無関係の雑学でした。ご容赦ください。
[87304] 2015年 2月 16日(月)20:46:27【1】hmt さん
自治体名と地名
[87302] 白桃さん なんぎょう
南行徳の場合は明治の町村制施行時に生まれた自治体名ですから、そこそこ長い歴史を持っていますが、

「なんぎょう」に関連して、千葉県東葛飾郡南行徳村と同じように 町村制施行時に生まれた村名 を思い出しました。
一つは 群馬県南勢多郡→勢多郡 北橘村 です。2006年の新設合併により、現在は 渋川市北橘町になっています。

自治体消滅前の北橘村公式ページでは、「きたたちばなむら」を正式名称としながらも、中学校名にも使われている「ほっきつ」に、かなりの愛着を示していました。[48812]
そして[37082]で紹介されたように、合併後の町名には「ほっきつ」が採用されることになりました。

最初から漢字2文字である「北橘」は、省略形である「南行」の類例として適切なものではありません。
ただ、「南行北橘」と並べると「南船北馬」のような四字対句になりそうなので、この場を借りたというのが実際です。

もう一つ、1946年に hmtが入学した 旧制中学校の所在地だった 神奈川県愛甲郡 南毛利村 も 思い出しました。
この村は 1955年の新設合併で 厚木市になり、村の存続期間 約66年。学校名・駅名の省略という話題からは更に離れます。

…ということで、今回論じたいテーマは、「自治体名」と「地名」との関係です。
都道府県名・市町村名などの自治体名は、住所を記す時に使うので「地名」の典型例のように思われがちです。
しかし、「地名」本来の姿は、山・川・原などの自然地名や、人が住み着いた集落などの居住地名です。
離れた土地の人々の交流が盛んになると、いくつかの集落を総称する必要が生まれ、町村名ができました。
統一国家ができる過程で、更に広域の支配体制もでき、それが管轄する郡や国という広域地名もできました。
日本全国に県ができたのは明治4年でしたが、この時の「県」は行政組織つまり役所【今の言葉では県庁】の意味でした。

現行の地方自治法でも下記のように、都道府県や市町村の第一義は、「地方公共団体」の名称であることを明らかにしています。
普通地方公共団体は、都道府県及び市町村とする。
地方公共団体は権利・義務の主体となる資格を認められた「法人」であり、場所を表す目的の「地名」とは違います。

元々「○○県管内」と読んでいた行政区域を、単に「○○県」と呼び、「府県名」が地名にも転用されるようになったのは 明治32年の改正府県制以後のことと思われます。つまり、19世紀まで広域地名として普通に使われていた「国」がすたれ、代わりに「府県」が使われるようになったのは、20世紀からでした。hmtマガジン 参照。

このような「自治体名」と「地名」との関係を頭に置いて、「北橘」の事例を考察すると、次のように理解できます。
合併前の勢多郡「北橘村」【きたたちばなむら】は、法人格のある「自治体名」であった。
合併後の渋川市内に新たに画された10町名 「北橘町◎◎」【ほっきつまち◎◎】は、「居住地名」である。
「北橘町」単独の町名は存在しないが、北橘中学校 の名として使われてきた「ほっきつ」の読みが、北橘町真壁など旧北橘村内10町に使われた。

同じように、「南毛利」の読み方問題も再考察してみます。
2006年まで存在し、公式ページで「きたたちばな村」であると意思表示していた北橘村と違い、消滅後60年の南毛利村は、多くの資料に採用されている「みなみもり村」と、現実に使われていた「なんもうり村」とのギャップを埋めるのに、別の困難がありました。

3年前に書いた[80304]では、2005年の[44059]以来の数年間に記した疑問をとりまとめて提示し、MI さんが 神奈川県立公文書館で複写した資料 の確認をお願いしました。
[80306] MI さん からいただいた回答によると、南毛利村には「ミナミモリ」とルビが振ってあったとのこと。

これにより、神奈川県当局の意図する読み方を確認することができ、その後に編纂された多くの資料が「みなみもり」を採用していることも納得できました。
[44065]では“「正式の読み方」など存在しなかったのかもしれない”と書きました。[48812]で記したように、正式に定められていたのは「書き言葉」であり、読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよかったのではないかと思ったからです。

しかし、現実に「ミナミモリ」というルビが確認されると、「自治体名」としてはこの読み方を無視できません。
しかし、この読みは 地元に定着せず、「なんもうり」と呼ばれていたのは、注目すべき事実です。
公式の?「自治体名」と「地名」との関係を理解する上で、貴重な材料であると思われます。

「なんもうり」と読む施設名[44065][80309]
南毛利中学校 南毛利小学校
南毛利公民館 南毛利保育所 南毛利スポーツセンター 南毛利柔道スポーツ少年団 

現実に使われている「地名」の読み方が「なんもうり」であったのは何故か?
「なんもうり小学校」で学んだ人ならば「なんもうり」を使うのは当然でしょう。
そして、崇立館→長谷学校が南毛利小学校になったのは明治25年。 学校の沿革
関係者が 3年前の県令による「ミナミモリ」を知らない筈はない と思われるのですが、
学校名の読みを村名の読みに合わせる必要はないから、「立派に聞こえる」音読みを採用したのかもしれません。[80309]
参考までに、[75329]の末尾に 明治時代の学校名が並べてあります。大部分が音読み2文字の立派な名です。

学校名がある限り、地名としての「南毛利」【なんもうり】が使い続けられることは保証されていると思います。
しかし、役場・学校と共に村の代表的な施設であった郵便局でさえ、南毛利の名が消えているのです。
南毛利郵便局は、読みが「なんもうり」から「みなみもうり」へと変った後[44059]、更に愛甲石田駅前郵便局[58485]
局名に使う地名自体が変ってしまいました。

実は、「南毛利」という「地名」は、既に厚木市の居住地名の本筋である「町名」の地位も失っています。
温水、長谷、愛名、愛甲、恩名、船子、戸室などの旧村名は 大字として生きていますが、明治合併で生れた自治体名「南毛利」は、60年前の自治体消滅を機に 居住地名の地位さえも失いかけているようです。

江戸時代からの旧村名は大字としてしぶとく生き続けている。
しかし明治合併で生れた「自治体名」が自治体でなくなった後は、「地名」として存続する前途に、一抹の不安がある。

そう言えば、荏原に始まって明治の合成村名に言及した シリーズ記事 の末尾でも、同じような趣旨を書いていました。
[87273] 2015年 2月 10日(火)23:02:54hmt さん
海と島(24)地方自治法の規定で青森県所属になった 久六島
[87270] グリグリさん
第二海堡、海ほたる等の追記ありがとうございます。

秋田県は山形県の飛島を記載

これを見て、久六島 を思い出しました。
青森県の西端・久六島は、舮作崎から西に 30 km沖の日本海にある岩礁群で、青森県西津軽郡深浦町の一部になっています。

惜しいところで秋田県の領域から外れてしまった島 ということでは 山形県の飛島と共通しているのですが、こちらはずっと小さな無人島で、灯台のある上ノ島が53m×13mで最大。

深浦町史によると、久六島は天正年間には発見されていたようですが、旧岩崎村の大屋家所蔵の記録によると、船問屋の大屋久六が天明6年発見となっています。

江戸時代から、深浦・艫作・岩崎など弘前藩領海岸の漁民だけでなく、秋田藩領の村(岩館・八森)からも入漁していましたが、「石高」に関係しない岩礁は所属未定のままだったようです。

明治時代は青森県・秋田県ですが、当時の新聞は両県の間での過当競争を報道。

この状態で、明治以来も どちらの県にも所属しない状態が持ち越されたものの、1953年10月13日の閣議により所属未定地域の青森県編入が決まり、昭和28年総理府告示第196号で 久六島が正式に青森県西端になりました。

参考までに記しておくと、この措置の根拠とされた地方自治法第七条の二は 前年の法改正 により追加されたもので、本事案がその適用第1号であったと思われます。
[87268] 2015年 2月 9日(月)16:12:30【2】hmt さん
貴賓室があった 武蔵高萩駅
[87263] 伊豆之国 さん
西側の川越~高麗川間(中略)士官学校の最寄り駅であり、皇族方のために貴賓室が設けられていた武蔵高萩駅の駅舎も、改築により惜しくも取り壊されてしまいました([70706]スナフキん さん)。

連載された十番勝負関連テーマである「市駅」とは無関係ですが、かねて私が抱いていた小さな疑問が、この記事をきっかけに解明されたと思い、飛び付いてこの記事を書きました。
しかし、書いた後で再検討したら、根拠としたサイトの記載を文字通り信じることができなくなりました。
私の小さな疑問は未解明のままですが、地元 入間郡域 の歴史1コマとして、記事を残しておきます。

失礼ながら「こんな駅」と言いたくなる 武蔵高萩駅【埼玉県日高市高萩、1956年までは入間郡高萩村】。
こんな駅に 何故 貴賓室があったのか?

世間に伝えられていたのは、陸軍航空士官学校【修武台】の存在です。例えば Wikipediaには、かつて近くに存在した「航空士官学校の卒業式に臨席した昭和天皇が利用した貴賓室」との記載があります。
私自身も、1941~44年の「修武台」への行幸は川越線の武蔵高萩駅から行なわれたと記していました[34701]

脇道にそれますが、修武台という名について一言説明。
明治7年(1874)から東京の 市ヶ谷台 にあった陸軍士官学校が 神奈川県の座間に移転したのが 昭和12年(1937)で、昭和天皇から「相武台」の名が与えられました[19684]。この時代になると航空兵科の将校を養成する必要が増してきて、所沢飛行場内に士官学校の分校ができ、豊岡町への移転後 陸軍航空士官学校として独立しました(1938/12)。
「修武台」の名を下賜されたのは 昭和16年(1941)とのこと。参考

その航空士官学校があった地は 現在の航空自衛隊入間基地です。滑走路など広い敷地の大部分は 西武池袋線と西部新宿線とに挟まれた 狭山市入間川ですが、(本部の)所在地は 西武池袋線西側の 狭山市稲荷山 となっています。その他、入間市に属する地域もあります。
戦後は米軍のジョンソン基地だった時代がありました。更に遡った航空士官学校の発足時には 陸軍士官学校豊岡分校 という名でした。入間郡豊岡町【現在の入間市】の部分に 正門があったのでしょう。

武蔵高萩駅が 航空士官学校への行幸に使われたという通説について、私が抱いていた小さな疑問。
それは、お召し列車を大宮・川越経由で運転して、目的地の北北西(数km)にあるこの駅を使うのは、いかにも回り道であり、不自然だということでした。

ところが、リンクしていただいた[70706]により、この付近に詳しかった スナフキん さんが、
(陸軍女影原演習場所在を存在理由とした)皇室専用貴賓室
と説明していることを知りました。

女影原を手掛りに探したら、「武蔵高萩の里山を歩く」という探訪記に行き当たりました。
この 探訪記 の後半部分に
戦前高萩にあった陸軍の飛行場に昭和天皇が行幸したことを伝える昭和14(1939)年の新聞のコピー
が、高萩公民館に展示されている という記載がありました。

この探訪記によれば、1939年に女影原【高萩村、現・日高市】への行幸があり、その際に作られた貴賓室ということになります。
明治29年統合前の入間郡と高麗郡との関係で言うと、入間川右岸・武蔵野台地にあった修武台は 元からの入間郡域で、入間川左岸・飯能台地[55628]にあった女影原は 旧・高麗郡の領域です。
航空士官学校以外の行幸目的地があったのならば、駅に貴賓室を設けられた理由も納得できます。

これにて一件落着
…と思ったのですが、再検討の結果、致命的な問題点を発見してしまいました。

川越線の開業は昭和15年(1940)7月ではないか!! 
行幸を伝える「昭和14(1939)年の新聞」に、武蔵高萩駅の利用が記されていた筈がない。
Webに示された新聞では小さい字が読めず、日付や記事の詳細の不明ですが、どうも航空士官学校の卒業式への行幸を伝えるもののようです。

では、航空士官学校への行幸に使われた交通路は何だったのか?
それこそ 推測になりますが、学校敷地内を通過していた 武蔵野鉄道【西武池袋線の前身】 を使う可能性もあります。
目的地である航空士官学校敷地内に「臨時乗降場」を設ける。これが最も合理的です。

もっとも、国有鉄道【鉄道省線】優位の時代に、私鉄を使うことができたのか? とか、武蔵高萩駅の貴賓室の謎が解けていないなど、問題を残したままです。
参考までに、相武台への行幸には、私鉄の小田急や相模線【国有化前の相模鉄道】は使われず、省線【横浜線】原町田駅が使われました。原町田にあった宮廷ホーム[34522]は 私の記憶にあります。
引用した探訪記に記された「高萩にあった陸軍の飛行場」の裏付けも取れていません。

新聞記事が昭和14年というのが誤記かもしれず、開業前の川越線を特別に使ったのかもしれず、…
妄想は尽きることがないので、このへんでやめておきます。
[87262] 2015年 2月 7日(土)17:28:41hmt さん
海と島 (23)富山県・千葉県・神奈川県の島
[87259] グリグリさん
千葉県と富山県の地図にも島の表記を行いました。

富山県氷見市の 虻ガ島。初めて知った小さな無人島でしたが、それでも富山県最大なんですね。2島合計で0.1ha余。富山県指定名勝・天然記念物。能登半島国定公園特別保護地域。
いきなり深くなる富山湾で希少な島です。5万分の1地形図の図名では 「虻島」となっていた時もありました。

千葉県鴨川市の仁右衛門島。落書き帳では、早くも2003年に小さな有人島として登場[15942][16236]
面積は 2haとも 3haとも。平野仁右衛門を代々名乗る個人の所有で、自然島としては千葉県最大の島のようです。

人工島ですが、富津市の「第二海堡」[26174]。この島は 仁右衛門島よりも大きな島であるというだけでなく、千葉県の西端[83154]という重要な地位を占めています。是非とも 千葉県の地図に描いていただきたいと思います。神奈川県の地図にも。
少し立場が違いますが、千葉県と神奈川県とを結びつけている「海ほたる」も 地図に描かれる対象として考慮されてよいのではないでしょうか。>グリグリさん

海堡に戻ると、東京湾海堡の歴史では、品川台場にも言及しています。1914完成の第二海堡は 4.13ha。隣の第一海堡も富津市で、2.31ha 1890完成。参考までに第三海堡所在地は横須賀市でしたが、航路確保のため 2007年までに撤去されました。

神奈川県の地図に移ります。富津岬の西、第一海堡・第二海堡の対岸・横須賀に記されているのが吾妻島です。
この島は知らなかったのですが、横須賀市箱崎町の面積は82.5haで、海堡など数haの島よりも1桁以上大きな「島」です。
元々は「箱崎」という地名が示すように半島だった地形でした。1889年に付け根に開削された水路で切り離されたとのことですが、大正の地形図ではまだごく狭い水路で、「島らしい島」ではありません。
全島が米国海軍の倉庫地区になっており、一般人は立ち入ることができません。

吾妻島のすぐ北にあるのが「夏島」です。ここは元は風光明媚な金沢八景を望む天然の島でした。
海軍の軍用施設を作るための埋立で本土と地続きになりましたが、「夏島」という地名は残っています。
横須賀市夏島町の面積は288.8haもあるので 大きな島かと思ったのですが、古い地形図で確認すると 自然島の夏島は 一桁小さな島でした。現在の夏島町は大部分が埋立地であることがわかりました。

…というわけで、「神奈川県の地図」にその名を記してもらう資格はないのですが、調べてみると なかなか由緒のある島です。

夏島貝塚。その存在は戦前から知られていましたが、要塞地帯や米軍占領のために調査不能。しかし占領軍の将校の協力が得られ、明治大学による調査が実現。放射性炭素14による年代測定が日本で最初に使われ、縄文土器の年代が5000年前から9500年前まで倍近くに遡ることがわかり、考古学に大転換をもたらす。
写真の小山が本来の「夏島」で、その周囲に埋立で作られた平地が広がっていることがわかります。

落書き帳読者のみなさんは 明治22年(1889)と聞くと、反射的に「1889/4/1市制町村制施行」となると思いますが、その少し前 1889/2/11 大日本帝国憲法発布(施行1890/11/29) こそが 近代日本の統治制度を仕上げる重要なステップでした。

夏島は、その憲法発布の準備作業が行なわれた地として その名を残しているのです。
明治維新三傑亡き後の明治政府で力を持った伊藤博文は、明治15年(1882)に憲法調査の目的でヨーロッパで学んでいました。明治18年の内閣制度への移行に際しては、初代首相に就任し、ここでも憲法発布前の下準備。具体的な憲法草案の作成作業は、明治20年(1887/6)から夏島にあった伊藤の別荘で、伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らと共に行なわれた検討会で始まり、8月に一応の成果を得ました。この 夏島草案が 枢密院での審議を経て、明治22年の憲法発布に至ります。

ここまでは自然島だった夏島ですが、大正7年(1918)に横須賀海軍航空隊などの軍用施設を作るための埋立が行なわれた結果、島の様子は一変します。
大正10年修正の地形図では、島の西側に大きな埋立地が現れ、追浜飛行場と記されています。ここで追浜(おっぱま)という地名が現れましたが、相模国三浦郡と武蔵国久良岐郡との境界線がこの中を通っています。埋め立てた海の大部分が久良岐郡金沢村野島の地先だったからです。このことが、戦後飛行場跡地の帰属について横浜・横須賀両市間の係争の因になったとのことです。

敗戦後、追浜飛行場の後は、占領軍の巨大なスクラップヤードになり、南方の戦場で壊れたトラックやジープが大量に運び込まれ、その修理・解体・再利用が行なわれました。引き続き、1950年に始まった朝鮮戦争もスクラップ車両の供給源になりました。

このような過渡期を経て、現在の夏島で最大の面積を占めている施設は、日産自動車追浜工場です。
1961年操業開始 。工場が完成し、ブルーバード生産開始は 1962年3月(Wikipedia)。

夏島には、海洋研究開発機構JAMSTEC もあります。「しんかい6500」の母船は「よこすか」ですが、その前に運用されていた「しんかい2000」の母船は「なつしま」でした。現在は「ハイパードルフィン」の母船に改造され活躍しているとのことです。研究船
[87258] 2015年 2月 6日(金)19:04:36hmt さん
「○丁目」・「第○地割」におけるアラビア数字表記
初めにお断りです。昨日同じテーマの記事を書いたのですが、大幅な訂正を加えました。
訂正が許される限界を越えると判断したので、新規の投稿とします。
同じ記事番号にならないように、投稿後 昨日の記事を削除します。

[87253] 右左府 さん
私も同様に【「字」の一種と】理解していたのですが、ちょっと引っかかる出来事がありました。
岩手県滝沢市 の方の…「戸籍全部事項証明」…数字の部分が アラビア数字 で表記されていたのです。
この戸籍を見て以来 「『地割』 は『字』の類ではないのか?『字』とはまったく異なる独自の要素なのか?」 という疑問

疑問が生じた根拠
1 町字名の一部をなす数字の正式な表記は漢数字である。
2 戸籍の表示などで使われるのは、この“正式な表記”である。

市町村長の告示(地方自治法第260条第2項)で用いられた表記が、唯一の“正式な表記”であるか否かについても疑問があるのですが、告示の表記自体にアラビア数字が使われている市町村もあるようです。Wikipediaには札幌市の告示表記がアラビア数字であると記されていました。

漢数字表記を正式とする市町村であっても、アラビア数字の使用を認めて公式に採用している事例は多数あるようです。
戸籍の事例ではありませんが、住民票の住所の表記に関しては、先例があるようです(Wikipedia)。
『二丁目』は固有名詞と解されるが、横書の場合は便宜2丁目と記載してさしつかえない
という大分地方法務局長の見解が、法務省民事局長からも是認されたとのこと(1963年)。

これ以後、多数の市町村で、住民票における「丁目」の記載がアラビア数字になっているようです。

「霞が関一丁目」を「…itchôme」でなく、「Kasumigaseki 1 chôme」と表記するという自治省行政局長通知(1965)もありました。

自分の住所に戻って、富士見市長の発行した住民票を見ると確かに「富士見市ふじみ野西4丁目」とアラビア数字表記です。

ところが、2010/5/1実施の 新旧・旧新住所対照表に先立って 都市計画事業で定めた 新旧・旧新地番対照表 では漢数字表記です。

この辺が ややこしい ところです。
新町名を定めた告示を確認しようと探したが不成功。
富士見市のウェブサイトではアラビア数字に統一されていました。例規集にある 出張所設置条例 を見ても同様にアラビア数字。

ところが、街角にある 街区表示板 を調べたら「ふじみ野西四丁目」と漢数字。
縦書のせいかと思って、「ふじみ野西」地域の案内地図[75049]を見たら、横書きなのに漢数字。
市の仕事の中でもアラビア数字と漢数字が混在しています。

このような状況を見ると、告示で用いられた表記が何れであれ、それが唯一の“正式な表記”であるとする見解には疑問を抱かざるを得ません。

「丁目」を主とする記事になりましたが、「地割」も同じことだと思います。
滝沢市が発行した
戸籍謄本(正確には、電算化された横書きの 「戸籍全部事項証明」)
に使われていたアラビア数字表記に拘らず、条例で定めた地割の表記は漢数字であった可能性があります。
そして、いずれの表記であっても、それを根拠に「地割は字の一種」という理解を覆すことは困難と思われます。

おまけ
今尾恵介『住所と地名の大研究』p.200-208には『「丁目」とは何か』という節があります。
同じ本のp.93-100には『北海道の条・丁目』という節もあります。
落書き帳アーカイブズには、町名、字名(大字、小字、字)、丁目とは何か? があります。
[87250] 2015年 2月 2日(月)20:24:20【1】hmt さん
「第○地割」
[87245] N さん
2014/11/25に八幡平市役所が移転しました。

業務開始を知らせるWebページ の下端部に記された住所は「岩手県八幡平市 野駄 21-170」となっています。
「八幡平市」に続く「野駄」は大字でしょうが、その後に略記された「21-170」は何を表す番号か?

住所地名における最もありふれた番号は「丁目-番地」のペアですが、「21」は丁目の数字としては大きすぎます。
「番地-枝番」の事例も多数ありますが、今度は「170」が大きすぎるようです。

正解は 広報はちまんたい にありました。
住所: 〒028-7397 八幡平市 野駄 第21地割 170番地
# 例規集も確認しましたが、まだ「八幡平市大更第35地割62番地」【旧西根町役場の位置】のままでした。

「野駄」という大字【1889年の町村制で松尾村になる前の野駄村】と「170番地」との間にあったのは、「第21地割」という地名階層でした。
この例では大字と番地の間ですから、「字」の一種、いわゆる「小字」に相当するものと思われます。
しかし、小字に普通使われているような「地名」ではなく、「第21」という番号を使った階層は珍しく思われました。

「第○地割」は、本当に「小字相当」の階層なのか? [48333]で紹介されている種市の事例も「小字相当」ですが、更に調べてみると、必ずしもすべての「第○地割」がそうであるとは言えないようです。
例えば盛岡城址を史跡に指定した昭和12年文部省告示212号を見ると、所在地は「岩手県盛岡市第一地割字内丸○番地」となっており、この場合の「第一地割」は、「字」の上位階層である「大字」に対応するように思われます。

滝沢市の 供養塔 の事例を見ると、これが建てられていた旧位置は「鵜飼村第24地割字笹森」、現在地は「滝沢第3地割字高屋敷72番地2」とあります。鵜飼村や滝沢は1889年の町村制で滝沢村が成立する前の旧村、つまり「大字」レベルの地名。そして字笹森や字高屋敷は旧村時代からの「字」【いわゆる小字】であり、「第○地割」は旧村【即ち大字】と「字」との中間に作られた階層であることがわかります。

供養塔自体は幕末のものですが、もちろん所在地が刻まれているわけではありません。
「第○地割」という地名は役場の人が位置の記錄に使っただけです。
いずれにせよ「地割」とは、市町村と番地との中間階層である「字」の一種であり、番号を使った点が特異的です。
使用事例は専ら岩手県のようですが、九戸郡に至る北の方に多くの事例を見ることができます。

私の勝手な推測。明治5年から明治9年にかけて存在した旧岩手県が設けた階層が生き残っているのではないでしょうか?
この時代は、大区・小区を設けて戸籍制度の整備をしていた時代です。
地名についても従来の「字」にとらわれず、便宜上当時の「村」の中を「番号で地割した」ことが考えられます。

それはさておき、珍しい「第○地割」という住所に惹かれて、落書き帳の過去記事を調べてみました。
地割には直接言及していないが、「字」や「地番」に関する記事も一部加えてあります。記事集地割

考えが纏まらないままの結語。
「第○地割」は「○丁目」や「○街区」[19560]、北海道の「条丁目」・「線号」[48808]などの同類で、「地名を使わないで番号による地区割」の一種と思われます。
千代田区「三番町」なども元々は同類だったのかもしれませんが、現在では普通の町名として定着しています。
地名コレクションにも「数字系」や「合併数地名」などがあります。
多様な「地名」。「第○地割」もその中の一つの存在と言えば、それまでのような気もします。
[87242] 2015年 2月 1日(日)12:26:42hmt さん
宮古島から開通した道路の西端にあるのは 下地島空港
[87240] k-aceさん
本日16時に宮古島市の宮古島と伊良部島を結ぶ、国内最長の無料で通行できる橋「伊良部大橋」(3540m)が開通しました。

伊良部大橋を含む道路は、沖縄県道252号で、その路線名は「一般県道平良下地島空港線」です。
沖縄県サイト 事業経緯によると、伊良部島の生活環境の改善・活性化などが図れる他に、下地島空港の利用促進に寄与するものと期待されています。

宮古島から新たに開通した陸路を 航空写真 で眺めてみます。
伊良部大橋は未完成ながら、画面右下の海上に特徴ある弧状の姿を見せ始めています。橋の東詰に県道252号の表示がありました。

目立つのは、やはり画面西端の 下地島空港にある 3000mの立派な滑走路です。落書き帳では、[83592]の末尾で僅かに言及。
以前は民間航空のパイロット訓練用に利用していましたが、日本航空(-2011)全日空(-2014)共に訓練を終了しているそうです。訓練用シミュレーターが進歩した結果でしょうか。
とにかく、現在は殆ど活用されていない状況のようです。

自衛隊の利用も検討されている筈ですが、政治問題がからみ 実現していません。
尖閣諸島に近い立地ということもあり、今後の動向に注目。

下地島と伊良部島との間の水路は狭く、航空写真では殆ど1つの島のように見えますが、県道の国仲橋を含む6本もの橋で結ばれていました[82809]
子ども達が飛び込みをしていた乗瀬(ヌーシ)橋【南端】は老朽化して解体されましたが、新しい橋に架け替えられるようです。

以下余談
「上地・下地」という地名は 沖縄では一般的に使われているようです。
[83592]では八重山の新城島に言及しました。干潮時には珊瑚礁が顕れて上地と下地の2島が連結します。
大字・小字名は、もっと近くにあります。宮古島市役所下地庁舎の所在地は 宮古島市下地字上地です。

念の為に記しておくと、平良市との合併が琉球政府告示後に撤回されたという 珍しい事例[71753]が紹介された 宮古郡下地町。これは勿論 空港の下地島ではなく、宮古島南部の「下地」です。本土復帰前のこと。
[87239] 2015年 1月 31日(土)12:59:31hmt さん
絹の話(6)楫取素彦と速水堅曹
NHKテレビの連続ドラマ『花燃ゆ』に、準主役として小田村伊之助という人物が登場しています。
主役の女性とこの人との関係はドラマに任せるとして、最初に「都道府県市区町村」との関係を説明しておくと、明治9年に群馬県の初代県令になった 楫取素彦(かとり・もとひこ)の若い頃の名が小田村伊之助でした。

名前が幕末に使われた通称の「伊之助」から変っているのはともかく、姓も小田村から楫取へと変化しています。
生家は松島家であり、養子に入った時に小田村に改姓。これは養子制度が多用された昔なら 珍しいことではありません。
楫取素彦への変更は、慶応3年(1867)に藩主の側近に取り立てられた時に、毛利敬親の命によるものだそうです。
楫取は「舵取り」の意味で、小田村家の先祖の仕事。山口藩の舵取りへの期待が込められている苗字のようです。

桂小五郎→木戸孝允、村田蔵六→大村益次郎などの例もあり、長州ではよく行なわれたことなのでしょうか?

富岡製糸場は明治5年(1872)操業開始ですが、明治政府の官僚になっていた楫取素彦が 足柄県参事から上野国に転勤してきた時期は 明治7年のようです。当時の役職は熊谷県権令、つまり副知事でしょうか。
熊谷県は明治4年に設置された第一次群馬県[54888]と入間県[36047]とを明治6年に統合したものです[36081]
熊谷県は富岡製糸場に代表される絹だけでなく、狭山茶の産地でもあり、当時の代表的な輸出産業を支える県でした。

明治9年(1876)、熊谷県の北半分【第一次群馬県域】は 明治4年から栃木県に属していた3郡【山田・新田・邑楽】を統合して 現在と同様に上野国一円を管轄する【第二次】群馬県になりました。

楫取素彦は、初代の県令(知事)になり、引き続き上野国の地方行政の責任者を務めることになりました。
県庁は最初は高崎でしたが、楫取の在任中に前橋に移りました。産業振興にも尽力した彼を讃えて、「県都前橋の父」という碑 が建てられているそうです。
なお、この時に熊谷県の南半分【旧入間県域】を編入した埼玉県は、ほぼ現在に近い県域になっています。

2012年の上毛新聞ニュース に、富岡製糸場が閉場の危機に陥った明治14年(1881)に、県令の楫取素彦が 官営存続を国に強く訴えたという資料が紹介されていました。

明治初期に全国で展開した官営の模範工場。西南戦争による財政危機に見舞われた政府は、財政的負担の軽減の見地から、官営事業払下げの方針に転換しました。藤田伝三郎が小坂鉱山を手に入れたのは、少し後の明治17年でした[67425]
しかし、大規模な富岡製糸場は買い手がつかず、請願人がなければ閉場との方針も出されました。
これに反対して 楫取素彦県令が農商務省と掛け合い、官営存続となったとのことです。

振り返ってみれば、富岡に製糸技術を輸出したのは、普仏戦争の敗戦により第二帝政【ナポレオン3世 在位1852-1870】から第3共和制に移った頃のフランスでした。

時は移り 復興したフランスは、1878年にパリ万国博覧会を開きました。
日本では明治11年ですが、この時に勧農局長だった 松方正義は 富岡の生糸の品質低下をフランスから指摘されました。
そして、松方が富岡製糸場の改革を任せるべく、第3代所長に任命したのが 前橋藩士時代の 1870年に 小規模ながら 日本初の器械製糸所を立ち上げた速水堅曹でした。
かねがね速水が唱えていた民営化を含む抜本的改革に松方が賛同したわけです。

速水は、明治13年 官営工場払下概則 制定の頃に 富岡製糸場の所長を辞任して民間人となり、その立場で富岡製糸場を借り受け経営するプランを立てていたようです。
しかし、前記のように楫取素彦群馬県令の反対で実現せず、官営事業継続となりました。
日本の産業資本が未成熟の時代には、やはり民間の手に余る大規模工場だった…ということなのでしょうか。

一度は富岡を離れていた速水も明治18年(1885)には所長に復帰しました。
速水は、明治26年の民営化実現で退任した後までも、技術スペシャリストとして全国に製糸技術を指導したとのことです。
[87238] 2015年 1月 31日(土)12:42:10hmt さん
絹の話(5)官営富岡製糸場
4つの資産の中心的な存在である富岡製糸場に移ります。明治5年(1872)開場の少し前の状況から始めます。
工場の名前は 官営時代から「富岡製糸所」と呼ばれた時期が多く、民営化後もいろいろ変化しています。
この記事では、便宜上 最初の名でもあり、世界遺産でも使われている「富岡製糸場」に統一しておきます。

シルク産業は、養蚕つまり繭の生産で完結するわけではありません。農産物である繭から生糸にする製糸工程、その絹糸を更に加工する織布・染色などの工程、更には裁縫等を経て私達が日常接する製品が完成します。
幕末に輸出が急増した日本の生糸ですが、粗製濫造の結果はたちまち評価の下落になりました。
それだけでなく、旧来の座繰りによる生糸は太さが揃いにくいという本質的な欠点がありました。
生糸の付加価値を高めるためには、器械製糸への転換が必要です。

小規模ながら日本最初の器械製糸所は、前橋藩の速水堅曹により明治3年(1870)に作られました。イタリア技術の導入です。
前橋藩については、転勤大名・松平大和守をテーマにした記事で触れたことがあります[72830]
1749年に姫路から前橋に移されたものの、利根川の侵食で前橋城は崩壊の危機。幕府に頼み込んで空き城の川越に緊急避難。川越で約100年を経過して幕末・松平直克の時代になりました。

松平直克が親藩【越前分家】の藩主でありながら 政事総裁という幕府要職に就任したのは 幕末の非常体制を示しています。
その一方で、宿願の前橋城再建により、100年ぶりの前橋復帰をも果しました。前橋復帰を実現できた背景には 利根川河川改修があったのは勿論ですが、資金的裏付けとしては横浜開港後の生糸の輸出により得られた前橋商人の財力がありました。
日本初の前橋器械製糸場の開設は、このような背景から実現したものであり、前橋城再建には直克側近の速水も関わったことと思います。

前橋藩に製糸場ができた頃、明治政府も外国資本でなく、官営の模範工場を建設する方針を決めました。
そこで御雇外国人として選ばれたのが、フランス人のポール・ブリューナでした。
彼が日本側の所長・尾高惇忠と共に選んだ立地は、前橋にも近い 上野国富岡 で、ここに外国でも例を見ない、繰糸器300釜という大規模な器械製糸所が作られることになりました。

器械はもちろんフランスから輸入しますが、それを設置する建物が必要です。倉庫その他の付属建物も必要です。
短期間に主要な建物を完成させるのに役立ったのが、横須賀製鉄所[77630]の建築を担当したバスチャンの経験でした。

2014/12/10の官報で 旧富岡製糸場の建物3棟が 国宝建造物に指定されました。文化庁報道発表
群馬県は 県内初の国宝誕生 と報じています。
参考までに、近代建築で国宝になったのは 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)に次いで 全国で2件目です。

国宝になった繰糸所は 桁行 140mと 長大な木骨煉瓦造で 高い天井とガラス窓で 明るい大空間を実現しています。
東置繭所・西置繭所は繰糸所と直交する配置で、桁行104mの2階建。明治五年と記された東置繭所の要石。

建物や繰糸器械のように有形の遺産として残されてはいませんが、工場建設に何よりも重要だったのは 従業員の確保です。
その女子作業員が「工女」ですが、前例のない西洋式の大工場で働く数百人の工女を確保するのは大仕事でした。

所長の尾高惇忠の娘を始めとして、旧士族階級出身の工女が多かったようですが、その労働環境は 1日8時間の週休制。
年末年始や盆休み。福利厚生など当時としては優れたものでした。
それでも騒音など作業環境問題もあって中途退職する工女も多く、熟練工を育てられないことによる非効率は経営上の問題点になっていたようです。

経営上の問題点と言えば、御雇外国人に支払う高給も赤字の原因で、日本人だけになった明治9年度に初黒字が出ました。
[87237] 2015年 1月 31日(土)12:26:17hmt さん
絹の話(4)養蚕技術関係の3資産
2014年春に 富岡製糸場の世界文化遺産登録を記念して、絹の話 を書き始めました。
これは、日本が近代化する過程で大きな役割を果たした絹関連産業を見据えたシリーズですが、産業構造が一変した現代の落書き帳読者に対する解説的な意味合いもあります。

…と、先輩ぶった書き方をしたのは、私が過ごした少年時代の環境には、大部分の皆さんの周囲よりも、桑の木がたくさん生えていたからです。とはいうもの、私自身も養蚕業に触れた経験はなく、受け売りの知識にすぎません。ごめんなさい。

構想だけは大きなシリーズ。3回で中断していましたが、少し書き続けます。

前回までの記事は 世界文化遺産登録が確実視される状況になった 2014年4月の ICOMOS勧告時点での紹介でした。
その後2014/6/21に Doha,Qatarで開かれた委員会において Tomioka Silk Mill and Related Sites の名で 世界文化遺産リストへの記載が正式に決まりました。

この文化遺産を構成する資産は、富岡製糸場に加えて養蚕技術関係の3資産があり、合計4資産です。

富岡製糸場【富岡市】 フランスの技術を導入した明治5年設立の官営器械製糸場。木骨煉瓦造の繰糸場や繭倉庫など。
田島弥平旧宅【伊勢崎市】 近代養蚕農家の原型になった文久3年(1863)の建物。通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」。
高山社跡【藤岡市】 通風と温度管理を調和させた「清温育」は、日本の標準的な養蚕技術として全国及び海外に普及。
荒船風穴【下仁田町】 天然の冷風を利用した蚕の卵の低温貯蔵施設。これにより1年間に何回もの養蚕が可能になった。

日本の養蚕は 古い歴史があったものの、その技術は長い間停滞していました。
江戸時代後期になると、中国からの輸入生糸による貿易不均衡を是正する必要から、ようやく技術改良が進み始めました[85527]。その成果を示す資産が「清涼育」の蚕室を具えた田島弥平旧宅でした。

幕末の黒船来航を契機とする開国で外国貿易が開始された頃、ヨーロッパにおける絹の主産地であったフランスやイタリアでは蚕の微粒子病が蔓延しました。そして清王朝下の中国も太平天国の乱などで混乱状態に陥り、蚕種や生糸は世界的な不足状態になりました。これが日本の輸出品の花形として生糸を登場させる背景になりました。

一方で日本の養蚕技術は、「清涼育」と東北地方の「温暖育」とを調和させた「清温育」により確実な繭生産が可能になりました。この技術を全国に普及させた教育機関が 高山社 でした。
高山は旧村名です。都道府県市区町村変遷情報を見ると、1889年の町村制で 緑野郡高山村等9村が 美九里村合併数地名コレクション収録済み】となり、1896年の郡統合による多野郡を経て 昭和合併時代の1954年に藤岡市になったことがわかります。

そして、荒船風穴による蚕種の冷蔵により年1回だけだった養蚕が複数回実施可能になり、増産を実現。
一代雑種(F1)の利用も 1914年に実用化しました。

このようにして、明治から大正にかけて日本の養蚕業が大発展した背景を探ると、そこに先人たちの努力があったことは勿論なのですが、時の運に恵まれたことも否定できません。
[87236] 2015年 1月 31日(土)12:06:05hmt さん
2人の「鳩山首相」の出身地
[87232]で紹介していただいたサイトを見て、ちょっと気になったので メモしておきます。
東京都 5人 高橋是清・近衛文麿・東条英機・鳩山一郎・菅直人【サイトの誤記を訂正】
京都府 3人 西園寺公望 、芦田 均、東久邇稔彦
北海道 1人 鳩山由紀夫

東久邇宮家が創設されたのは明治後期ですが、京都府出身を自認しておられたのですね。西園寺首相も京都。
対照的なのが近衛首相。藤原氏→近衛家と言えば歴史的には京都の公卿の代表ですが、現実には東京出身。

2人の「鳩山首相」の出身地も分かれていました。

鳩山家の出自を探る目的で、鳩山一郎の父・鳩山和夫を調べてみました。首相ではないが、衆議院議長の経歴あり。
美作国勝山藩士の出身ですが、親の勤務地の関係で江戸生まれ。
子供時代に勝山に戻ったこともあるが、本拠地はずっと東京で、音羽に居を構えたのは1890年で、34歳。

政治家・教育者であると共に、北海道開拓にも尽力。
岩見沢の南に位置する 栗山町鳩山地区

落書き帳メンバー紹介でもそうですが、「出身地」は本人の主観で決められます。
衆議院選挙区を意識した「北海道出身」の首相というのも「アリ」なのでしょう。

高橋是清首相は江戸町人の家に生まれたが、生後間もなく仙台藩の足軽の養子となる。
東條英機首相の出自は盛岡藩南部氏に仕えた能楽師。父は軍人。
2人共に、江戸・東京に勤務していた家で育った「東京出身者」であると思われます。
[87233] 2015年 1月 31日(土)10:33:52hmt さん
岩手県出身の横綱・宮城山
[87231] じゃごたろさん
岩手県にも横綱がいたことは驚きでした。

その横綱の しこ名が、宮城山であることを知り、また驚きました。
出身地は岩手県西磐井郡山目村【1948年一関市】で、元は仙台藩領だったようですが…
[87185] 2015年 1月 21日(水)17:40:31hmt さん
hmtマガジン更新のお知らせ
2015年になってからの更新状況をお知らせします。

2015/1/1 特集「日本の海と島」に、追加記事を収録しました。
日本の島の面積・人口集計表 や、架橋による「連島」を考慮した面積・人口の上位ランキングも含まれています。

2015/1/12 津の守坂のタイトルで連載した 高須四兄弟 をマガジン化しました。

2015/1/20 これまで収録していなかった「郡」や「支庁」についても、マガジンに収録するつもりで新規テーマを作りました。
その第1号として取り上げたのは、 hmtの居住地である 埼玉県入間郡域 です。
[87184] 2015年 1月 21日(水)16:07:10hmt さん
埼玉県植木村が関係する 明治29年の郡統合情報
1889年の町村制施行当時、植木村は 比企郡に属していました。
1896年に(旧)比企郡は横見郡と統合されて (新)比企郡 になりました。
ところが、1938年に 入間郡芳野村 と 入間郡古谷村への分割編入によって消滅した植木村は、入間郡所属となっています。

比企郡から入間郡に移ったのは何時か? この疑問を解く鍵は、1896年の「郡設置」情報に記されています。
「(旧)比企郡の一部」から設置された郡は、比企郡だけでなく入間郡もあったのです。

詳しく言うと、(旧)比企郡の大部分である2町22村は(新)比企郡に受け継がれたのですが、植木村だけは入間郡に移ったのでした。

…, 比企郡の一部 の区域をもって◎◎郡を設置
という現在の表記【◎◎=入間、比企】は、植木村だけが比企郡から外されたという現実を伝えるには不満足です。

修正案:対象となる町村名を「○○村」でなく、具体的に列挙する。
88さんはこの方針であったかもしれません。埼玉県下国界変更及郡廃置法律 も列挙しています。

別の案:次のように記載して 植木村の所属変更を伴う郡統合情報 であることを明示する。

入間郡, 高麗郡 及び 比企郡植木村 の区域をもって入間郡を設置
横見郡, 比企郡(植木村を除く) の区域をもって比企郡を設置

後者は非公式な簡略記載です。
しかし、変遷情報の本質からすると、修正に手間がかからず、利用者にわかりやすい この簡潔な表記が好ましい。
hmtとしては、そのように思うのですが、よろしくご検討願います。>グリグリさん

付言
この郡境変更は、町村制施行よりも【ずっと?】前に行なわれた河川改修の事後フォローと推測 [79671]
[87139] 2015年 1月 16日(金)16:46:37【3】hmt さん
大阪市を廃止し5特別区とする案の可否を問う 最大規模の住民投票
大阪府・大阪市特別区設置協議会 の第21回会議が2015/1/13に開かれました。
この会議によって事実上決められたのが、タイトルに掲げた住民投票です。

最初に、落書き帳では [87116]の二番煎じになることを承知で、敢えて長目のフォロー記事を書いた理由を説明します。
それは「都道府県市区町村」メンバーとして
大阪市がなくなるかもしれない!
という節目を見逃せなかったからです。
もっとも、公明党は住民に反対を呼びかけるし、5ヶ月も先の住民投票結果は予断を許しません。

今回の協議会の正式議事録は未公表です。そのため、朝日デジタル など新聞種に頼りながら、このニュースを眺めます。
忘れてはいけない資料もまとめて置きましょう。落書き帳の過去記事 です。 

2010年に立ち上げた大阪維新の会は、2011年春の統一地方選挙と同年秋の大阪府知事・大阪市長のダブル選挙で勝利しました。2012年には中央政界主要政党の賛成も得て成立した 大都市地域における特別区の設置に関する法律[81306] が成立し、翌年早々には大阪府・大阪市特別区設置協議会発足と、ここまでは極めて順調な滑り出しでした。

しかし、2013年に議論が始まると 当初は協力的だった公明党が 維新の会との対決姿勢を強め、2014年1月には決裂状態。7月に維新単独で決めたプランが10月の大阪府・大阪市の両議会で否決され、暗礁に乗り上げました。

ところが、昨年末頃から風向きが変ったようです。
橋下市長・松井知事と対立する野党の立場の公明党は、「あまりにも ずさん で問題点が多い」として特別区設置協定書内容を批判しながらも、「議論の収束をはかる」として、住民投票実施に同意する方向に動きました。

…というわけで、今年3月の府・市議会では、昨年否決された案と大きくは変わらない最終案が可決され、統一地方選挙後の2015年5月17日に 「大阪市」を対象とする住民投票[87116] が実施される見通しです。

住民投票の有権者、つまり大阪市に住む20歳以上の日本国民は約215万人にのぼり、わが国では最大規模の住民投票になるようです。と言っても、大阪市以外の 大阪府32市・9町・1村の住民【人口で70%】は蚊帳の外です。念の為。

最近の協議会で事実上決まったと伝えられるのは、大阪市に代え特別区を設置することの賛否を大阪市民に問う住民投票の実施です。
[87119]ピーくんさんが記されたように
2017年から大阪都になって大阪府と大阪市がなくなる
ことが決められたわけではありません。

【追記】[87140]へのレス
ご指摘を受けた部分の原文は、住民投票が大阪府全体でなく大阪市だけであることにその意義を認め、そのことを最初に指摘したのが山野さんの記事であることを明示し、讃える趣旨でした。しかし、記事引用の不手際から山野さんに不愉快と感じさせる逆効果になったことをお詫びします。誤解の原因部分の表現は修正しました。
  
マスコミの影響かもしれませんが、「大阪都構想」という言葉が “独り歩き” しているような気がします。
住民投票実施を決めた協議会の名に示されているように、地方行政制度として現在検討されているのは、「大都市地域における特別区の設置」です。
これが 橋下さんの掲げる「大阪都構想」と関係するものであることは間違いないでしょうが、大阪だけのものではありません。

このテーマを、市区町村変遷情報に どのように反映させるべきか?
オーナーグリグリさんは 既に[77728]以来 検討されていると思いますが、現実には 予定情報一覧 には収録されていません。
大阪府の区域内での特別区設置案は、大阪市との協定書も確定し、住民投票という段取りに到達した機会でもあり、予定情報として収録しておくべき項目であると考えます。

今回変遷情報に収録する内容。これは、もちろん大阪府か大阪都かという名称の問題ではありません。
都道府県の名称変更には特別法を必要としますが、その手続は 現実問題になっていないので、変遷情報に収録するには時期尚早でしょう。
収録すべきテーマは、やはり「特別区」という言葉で表された その中身です。

「特別区」という言葉は、従来 地方自治法第281条第1項で、「都の区」と同じ意味に使われていました。
長年使われてきた この用法から、大阪府内に「特別区」を作るのならば、それは即ち「大阪都」になることではないか? そのように考える人がいたのが、「大阪都問題」のきっかけかもしれません。

2012/8/10の衆議院で可決され[81306]、2012/8/29の成立後[81731]、平成24年9月5日法律第80号として公布され、2013/3/1から全面施行されている 大都市地域における特別区の設置に関する法律
この法律の第3条では、地方自治法の例外として、道府県の区域内における特別区の設置を認めています。
従って、大阪府のままで特別区を設置しても支障はないわけです。特別区設置は大阪都に直結しません。

それよりも注目すべきは、第1条(目的)、第2条(関係市町村の定義)に記されている「道府県の区域内」です。
新たな特別区制度は、人口200万以上の都市圏を対象にしています。
しかし、どんなに頑張っても 府県境を超えた範囲は対象外という限界があります。

[81306]で想定された8地域の中で、現実に動き出したのは2013/2/1に設置された 大阪府・大阪市特別区設置協議会 だけと思います。
この協議会の 特別区設置協定書 は膨大なものです。
到底読みきれるものではありませんが、その冒頭から要点を記してみます。

特別区設置の日 平成29年(2017)4月1日
特別区の名称及び区域
 北区   大阪市都島区、北区、淀川区、東淀川区及び福島区
 湾岸区 大阪市此花区、港区、大正区、西淀川区及び住之江区の一部(南港)
 東区   大阪市城東区、東成区、生野区、旭区及び鶴見区
 南区   大阪市平野区、阿倍野区、住吉区、東住吉区及び住之江区(南港を除く)
 中央区  大阪市西成区、中央区、西区、天王寺区及び浪速区
特別区と大阪府の事務の分担
 特別区は35~70万の人口をかかえ、中核市レベル以上の事務処理機関となるようです。

結局のところ、大阪市内は5区になりました。 2013/9/27の堺市長選挙では大阪維新の会の候補が敗れている現実も含め、2010年に報道された大阪都構想[75187]とは様変わりしています。

参考までに、頓挫していた特別区設置案が 公明党の住民投票容認により 俄に復活した政治背景に言及した 毎日新聞社説 をリンクしておきます。
依然として制度案には反対だが、決着をつけるために住民投票実施には協力するという公明党の態度については、読売 でも報道されていました。
[86827] 2014年 12月 22日(月)19:27:20【1】hmt さん
朔旦冬至
今日は「冬至」です。冬至・小寒・大寒・立春・(中略)・立冬・小雪・大雪を経て冬至に戻る二十四節気。
旧暦の名残のような印象をもつ人もいるかもしれませんが、その本質は太陽暦そのものです。

明治5年まで使われていた旧暦では、月(太陰)の満ち欠けにより日付を決めていました。
電灯のない時代には、日付によって月夜か闇夜かを判断できる太陰暦にもそれなりの利点がありました。
しかし、農業にとっては日付と季節のずれが生じることは致命的な欠点でした。
そのために閏月を設けることにより日付をできるだけ季節に近づける折衷方式【太陰太陽暦】になったのですが、これだけでは農事暦としては不十分。
そこで日付表記の旧暦と併用する目的で採用されたのが純粋の太陽暦です。こちらは、何月何日という太陰方式の「日付」と混乱しないように、数字を使わないで 太陽が一年の道程の何処にいるかを表す指標としました。

日差しが最小となり日照時間も短い冬至と、日差し最大で昼が長い夏至とが 最初に作られた指標であることは容易に推察できます。続いてその中間点であり、昼夜等分の春分と秋分。以上まとめて「二至二分」。
もっとも、古い時代の名称は「日短至」「日長至」「日夜分」など異なるものであったようです。

二至二分の中間点に定めた指標が立春・立夏・立秋・立冬の「四立」。
合計8つの指標【八節】を更に3分割し、春夏秋冬の四季に各6つを配したものが「二十四節気」です。
名称を見ただけで、北半球農業地帯の中国で成立した文化であることが理解できます。

旧暦【太陰太陽暦】の時代には、満ち欠けする太陰優先の日付と、植物相手の農作業に必須である二十四節気とを使い分ける必要がありました。日付も太陽暦になった現在では二十四節気の名称を使わなくても日常の用は足ります。しかし、二至二分と四立は 単に過去の文化を尊重する趣旨だけでなく、季節の推移を示す便利な指標として、現在も使われています。

冬至の習俗と言えば、柚子湯 冬至粥 唐茄子(かぼちゃ)など。
星祭というと七夕が一般的ですが、北斗七星を神格化した 妙見さまの星祭 は冬至。
Webで、「冬至 習俗」を検索したら、中国語のページが多数出ました。あちらで盛んなようです。

平成26年(2014)歴要領 2コマを見ると、冬至は 太陽の黄経270度で 中央標準時12月22日8時3分と記されています。
現代天文学の体系では 起点が春分になっているので、太陽の周囲りを4分の3周した 黄経270度 になっています。
しかし、前記のように 二十四節気の由来を考えれば、その起点は冬至であったと思われます。冬至は 北半球で日差しが最も少なくなる時ですが、これは「太陽の復活」が始まる日と考えることができます。

衰えていた太陽が冬至を境に勢力を増してゆく、つまり「陰が極まって陽が生ずる」転換点ですから、中国の古典『周易本義』では 冬至を「一陽来復」と言いました。
この季節には 伊勢神宮宇治橋の大鳥居中央から 朝日が昇り、冬至祭 の行事が行なわれます。古代から太陽に関係する暦の節目でした。

ここで思い出したのがストーンヘンジですが、これは夏至の日差しでした。そこで、「冬至 巨石」で検索した結果、冬至の前後に日差しが入るという岐阜県下呂市の 金山巨石群 の存在を知りました。なお アブシンベル神殿の日差しは ラムセス2世の誕生日。

ここまでは毎年巡ってくる冬至ですが、今年の冬至は 19年に一度の特別な冬至です。
タイトルの「朔旦冬至」がそれです。

歴要領の3コマに示されている月の満ち欠けを見ると、今年の12月22日10時36分が「朔」になっています。
この朔は 天球上を西の方(さそり座)から動いてきた月が いて座 で太陽を追い抜く(黄経が一致する)時刻です。
完全に同一方向の朔ならば日食が起りますが、普通は少しずれたコースで追い抜くので、月は一旦消失した後で再び生れてくるように見えます。これが「月立ち」、すなわち旧暦十一月の「ついたち」です。

先に記したように、暦学的には二十四節気の原点は冬至であり、冬至は暦の原点でもあると思われます。
その一方で、新年を祝う行事は 冬至と春分の中間点である立春付近 を用いることが多くなったようで、最終的には「冬至を含む月を十一月とする」というルールに落ち着きました。

今年のように「冬至」と「朔」とが同じ日になること。【旧暦十一月一日が冬至】
それは太陽と月とが同日に復活するわけで、たいへんお目出度いことであると考えられました。
冬至の朝、見えないお月様【新月】と共に昇ってくるお日様。そんなイメージでしょうか。

朔旦冬至は 19年周期で起ります。
BC433年にアテナイのメトンが 235朔望月が6940日で、19年と同じであることを発見。
現代のデータを使ってメトン周期を計算すると 19太陽年=365.2422日*19 = 6939.60日。
太陰太陽暦で19年に7回の閏月を入れると、19*12+7閏月 = 235朔望月=29.5306日*235 = 6939.69日。

伊勢神宮の式年遷宮20年周期も、朔旦冬至の19年周期に由来するという説があるそうです。
[86813] 2014年 12月 20日(土)18:25:52hmt さん
双頭の黒鷲
[86808] オーナー グリグリ さん
久しぶりに、メンバーの方のニックネーム変更と自分色変更の依頼があり修正を行いました。

新しいニックネームは、バルカン半島で国旗に使われている双頭の黒鷲の名ですね。
それなりの理由があると思われるので、ご本人による紹介を待ちましょう。
[86812] 2014年 12月 20日(土)17:25:42hmt さん
かみゆき 上雪 神雪
[86804] じゃごたろさん
長野県では通常の冬型の気圧配置では日本海に近い北信地方に雪が多くなるのに対し、日本列島の南岸を通過する低気圧に寒波が押し寄せた場合には中南部に雪を降らせるのですが、これを「上雪(かみゆき)」といいます。

「上雪 or かみゆき」を検索した落書き帳記事を添付していただき ありがとうございます。「上雪」単独では不十分なのですね。
落書き帳過去ログはかなり読んでいるつもりの hmtですが、「かみゆき」のことは知りませんでした。

…で、やはり気になったのは 「かみ」とは何を指しているのか? です。

「上方」の「上」であろうと推察したものの、念の為「神雪 長野」で Web検索してみたら、Yahoo!知恵袋に質問がありました。
地元でも「上雪」「紙雪」「神雪」と様々な表記がされていたようですが、ベストアンサーは やはり「上雪」説でした。
TBSテレビでお馴染みの気象予報士森田さんも、長野県の中で京都に近い南部を「上」としたと思うとのこと。なお、2008年の回答にリンクされたTBSのページはリンク切れです。

落書き帳アーカイブズは 地名における「上」と「下」 なので 「上雪」は対象外でした。

折角の機会なので、約10年前、私が落書き帳に参入して間もない頃に盛んに話題にした「上下地名」の虫干しをしておきます。

上福岡は 単独でアーカイブズになっていますが、新河岸川に臨む段丘周辺に形成された本村は「福岡村」でした。
「上福岡」という名は、後にできた下福岡、更に後の中福岡よりも上流側にあることから生れたで通称であったと考えられます。
18世紀の文書に「上福岡村」の使用例がありますが、正式名称は 明治大合併の前後を通じて福岡村でした。
世間に知られるようになったのは、1914年開業の東上鉄道「上福岡駅」でした。
自治体名に「上」が加えられたのは「上福岡市」誕生の 1972年でした。記事

福岡だけでなく、近くを流れる小河川について 上下ペアの地名を多数挙げました。石神井・老袋・古谷・新河岸・南畑・奥富・寺山・赤坂・松原等。このグループは、川上・川下に由来するので「かみ・しも」と読みます。

同じく自然地形由来ですが、台地の「うえ」と「した」。これは読みも「かみ・しも」でなく、「うえ・した」なので容易に区別できます。
最近では上野原[86777]を書きましたが、全国的にも知られたペア地名は、東京都台東区の「上野・下谷」です。

実数としては河川の上流・下流に由来する「かみ・しも」地名よりもずっと少ないのでしょうが、よく知られた官製の広域地名や有名地名が存在するのが、「京都基準の上下地名」です。
東山道の上野・下野、旧東海道の上総・下総、瀬戸内海の上関・中関・下関 (記事)。
地名ではありませんが、今回の「上雪」も「京都基準」に基いて「上」が使われた事例です
なお、ありがたきさん[18505]は 鈴木理生氏の著書に基き、高井戸・井草・板橋・連雀・北沢につき京都側が「上」としています。
しかし、これらの地名は川上・川下でも説明できます。

「上」の基準点は京都だけでなく、少数ながらローカルセンター基準の地名もあります[39305]。「関東公方」時代の鎌倉街道では鎌倉に近い方に「上宿」がありました[39526]。同じ記事では、近世の川越基準による上下地名の事例にも言及。

いろいろな上下地名がありましたが、最後に残った特異な事例が「上諏訪」と「下諏訪」でした。[36757]
諏訪大社の「上社」「下社」に由来することは確かでしょうが、社の上下関係は何に基いて決められたのでしょう。
「御神渡」により上社から下社に渡ると伝えられる男神(建御名方神)が上位とされているのでしょうか。

諏訪に降った「かみゆき」[86804]から始め、思いを巡らすうちに諏訪に戻りました。
あまり使われていないのかもしれませんが、「神雪」もなかなか味わいがある表記かな などと感じた次第です。
[86788] 2014年 12月 12日(金)23:49:42【1】hmt さん
明治村
[86786] EMMさん
[86754]で試しに検索した「地名」は「明治」でありました。【引っかかったのが 3952件】
細かく見てはいませんが、使用事例のかなりの割合が年号としての使用だと思われます。

改めて「明治村」で検索すると 69件でした。うち「博物館 明治村」が8件あり、博物館が省略されている記事もあります。
更に『正保・元禄・天保・明治村高比較表』も8件あるので、地名としての使用事例は 実質 50件以下?

それはさておき、この機会に hmtマガジン特集 明治村・大正村・昭和村 を作りました。
市町村雑学 年号の入った市町村 に記されている記事集の増補版といったところです。

【念の為に追記】
[86786] EMMさん
大正と昭和は条件1で除外されるため【以下略】

“条件1”は [86750]白桃さん に記されています。
1.現役の都道府県市区町村の名称に使用されていないもの(×の例:東京、渋谷、博多)

例示された福岡市博多区のように、政令指定都市の行政区に使われた地名は、今回のクイズの対象外です。
従って 今回のクイズでは、大阪市大正区の「大正」や 名古屋市昭和区の「昭和」は除外されます。

一方、市区町村変遷情報が対象としている「自治体」は 「市」の中に設けられた行政区を含んでいません。
東京都の特別区と違い、区議会がない区ですから 当然の扱いと思われます。
変遷情報では全く無視されているわけではなく、例えば昭和7年【大正ではない!】に行なわれた 大阪市大正区の設置 が記録されています。しかし、自治体名は あくまでも大阪市であり、変更内容欄が“港区から大正区が分区”となっています。

雑学年号の入った市町村は、このような変遷情報検索に基いて作成されているので、大阪市大正区、名古屋市昭和区が含まれていません。
このような事情により、大阪市大正区が 現存市区町村を示す太字で記載される状態になっていない ことをご承知ください。

なお、むじながいりさんの パラパラ地図 は 行政区も対象としており、大阪市大正区が「大正」の唯一の生き残りであることが示されています。
[86778] 2014年 12月 9日(火)19:53:46【1】hmt さん
甲州へ (2)石和温泉
上野原から大月まで乗った電車は、銀色塗装ながら115系でした。
駅前案内所でパンフレットなど見ていたら、富士山を眺めるスポットを教えてくれましたが、雲がありそうだったのでトライせず。

石和温泉駅で下車。駅前に足湯があったので一休みしているうちに白桃さんの姿を見たので声を掛け、ホテルに同行。
珍しくも一番乗りで到着? 受付時間前なので、ホテルの前の温泉通を散策。中央に水路【近津用水】のある真っ直ぐな桜並木の道路ですが、明治40年(1907)の洪水前には 笛吹川の流路だったことを思い、俳句など眺めながら歩きました。

明治40年の洪水が流れ込んだ鵜飼川は、更に古い時代の笛吹川だった時もあったことでしょう。
宿場町の南と北とにある2本の流れ。自然の力は、笛吹川の本流を何度も変えたのでしょうが、大正年間の工事によって、本流は現在の南側に確定したものと理解します。

かつての鵜飼川や鵜飼橋【笛吹市役所付近】の名が示すように、夏には 石和鵜飼 が催されるのですが、船上からでなく鵜匠が水中を歩いて鵜を操る「徒歩鵜(かちう)」なのですね。

温泉湧出は 1961年(昭和36年)とのことですから、この地が温泉地に変貌してから 約50年の歴史です。

くせのないお湯にゆっくり浸かった後は、恒例の一次会。

近況報告の中で私が注目したのは、MasAkaさんが 東京都を通らずに横浜から会場に来たルートでした。
橋本からバスを2本乗り継いで相模湖に出たとのことでしたが、この2本目のバスこそ、96年前に hmtの母が人力車で旅した道[86777]をなぞるものでした。

道志橋[85669]は 川底から橋床まで 100m という高層橋 と説明されています。そして 相模ダム[43001] の堤高は 58.4m。
1918年当時の橋は 道志川・相模川の水面のすぐ上に架けられていたはずですから、人力車はこれだけの深さの谷を降り、そして登らなければならなかったのでした。

宴会の後、会場いっぱいに広げられた自治体パンフレット[86773]は壮観でした。
とても選びきれませんでしたが、いくつかいただきました。後でゆっくり拝見するつもりです。

中国雑技を30分見た後は、これも恒例の二次会です。掘りごたつに座を占めました。
「40問○×クイズ」の中に、キリ番関連の質問がありました。
[30000]【注】をゲットした当人は もちろん覚えていたのですが、質問の意味を誤解したらしく、何故か誤答。
こんな調子で、かなり当てずっぽうに解答。まあ平均的な成績だったようです。
【注】数字の付く島群
この機会に収録洩れの四十島[67135]を記しておきます。

希望者募集に応じて 手を挙げて頂戴したのが、一次会で紹介のあった 富山県作成「環日本海・東アジア諸国図」です。

佐渡市作成による 「東アジア交流地図」 が落書き帳オフ会で紹介されたのは、昨年だったでしょうか。
類似した企画ですが、今年紹介された富山県版の方が先輩で、落書き帳記事 もあります。

富山県と言えば、来年のオフ会開催地の第一候補。hmtは白熱した議論の中で沈没。ごめんなさい。

翌日朝食は和食の膳。揃って朝食は第9回岐阜以来の2度目。

帰路は、JOUTOUさんのクルマに3人が便乗したものの、あまりの好天気に2人は勝沼ぶどう郷駅で下車。
新宿まで送ってもらったのは私だけでした。
[86777] 2014年 12月 9日(火)19:42:15【2】hmt さん
甲州へ (1)上野原
第11回の落書き帳公式オフ会開催地は 山梨県でした。
hmtの住む埼玉県とは隣接しており、県境の交通路 にあるように 雁坂トンネル有料道路も通じています。
しかし 公共交通機関に頼る身なので、直行することは叶いません。

武蔵野線で西国分寺に出るつもりが、事故の影響で新宿経由に変更。赤い電車は特別快速だったのに、高尾【注】に着いたら少し前に甲府行が発車したばかり。ま、急ぐ旅ではないので次を待ちましょう。
【注】[86779]の指摘により誤記訂正
ついでに、高尾山と同様に紅葉の名所である京都の「高雄」は「高尾」とも書くのですね。だから槇尾・栂尾と総称して「三尾」。

「ぎん色の電車」で、山梨県に入って最初の駅である上野原で下車しました。

上野原で下車した理由の一つは鉄道地理の観点なのですが、その他に極めて個人的な理由がありました。
その理由というのが、「1918年中央線乗り越し事件」の現場を見ておきたいということです。

1918年秋に hmtの長兄hmfが誕生しました。場所は落書き帳に300回以上登場したという津久井[86752]です。
hm家の跡継ぎ誕生ということで御目出度いのですが、あいにく父は東京の病院に入院中でした。
退院を待てなかった父は、母子が旅行できるようになったら 病院に連れてくるようにと手紙で伝えました。

当時の交通事情。神奈川県津久井郡の北西部をかすめる中央本線は、官設鉄道時代の1901年に開業しており、与瀬駅【現在の相模湖駅】が設けられていました。もちろん単線ですが、蒸気列車は八王子-飯田町間の甲武鉄道と直通運転しました。鉄道国有化を経た 1918年当時も、基本的には同じことです。

1925年の『汽車時間表』を利用して、旅程を組んでみます。
自宅・与瀬駅間の交通。現在は国道412号で約10 km、バスもありますが、当時の道路は、道志川や相模川を越えるためにつづら折りの道で 谷を降りてはまた登る という難路。ここを人力車で通り抜けるのには、どのくらいの時間を要したのでしょうか。

与瀬発の飯田町ゆき列車は、1101, 1329, 1605, 1906【便宜上24時間制で表示】、所要時間は2時間10~15分。
36.5マイルの三等運賃は93銭、二等車【グリーン】は倍額でした。

東京での仕事は、父子対面と写真撮影くらいですから、一泊二日の旅程でOKでしょう。
問題になった帰路は 日暮れの早い冬であることを考えると、飯田町発 1216発に乗車したいところです。その次は3時間後ですから夜にかかってしまいます。

母子に同行してくれたのが祖母【安政生まれ!】ですが、自力での旅行経験ゼロという点では同レベルです。
それでも往路は無事。待望の父子対面を果たし、お宮参りの衣装で記念写真も撮影。
大任を果たして心も軽く帰途についた3人を待っていたのは思わぬアクシデントでした。

小仏トンネルを抜けて汽車を降りようと2等客室【グリーン車】からデッキに出るドアを開けようとしたが開かない!
嫁と姑は あれこれ試みたが 扉はビクともせず。客室内に1組だけいた乗客【話に夢中だった新婚さん】の助けを借りて、ようやくドアを開いた時には、発車ベルを残して汽車が動き出しました。

お迎えの人力車夫が待つ与瀬駅を後にし、心が動転したお上りさんが着いたのが上野原駅でした【藤野駅は未開業】。
事情を話したら 早速 与瀬駅に電話して 車夫達に待ってもらうように手配し、次の列車で戻るよう 案内してくれました。
「あの時の駅員さんは本当に親切で良い人だった。地獄に仏とはこの事だ。」
語り継がれたこの事件により、「上野原駅」は hm家の人々にとり 忘れられないものになったのでした。

個人的な無駄話を書いたのは、旅行の機会が少なかった1世紀前の人にとっては、近距離の旅行でも大冒険であったことを伝えることで、何かの参考になるかと思ったからです。

さて、現在の 上野原。ここは地理的観点としては 桂川【相模川の上流】が作った河岸段丘地形で知られています。

駅は幅の狭い段丘【等高線190mと180mの間】上にあり、プラットホームにある待合室のような建物が駅舎です。地理院地図 の鉄道は 記号化されているので、駅舎が中心からずれているように見えますが、プラットホーム中心線上に駅舎があります。

改札口を通って駅舎東側の跨線橋から北口に出ると、バス停のある駅前です。ここは、線路や駅舎のある段【等高線190mと180mの間】よりも1段上ですが、200m等高線【やや太い】と190m等高線の間にある幅の狭い段で、バスが方向転換するのがやっとのスペースしかありません。
「市の代表駅」という言葉から想像される駅前の賑いとは全く無縁の存在でした。

中央道のインターチェンジは250m等高線【やや太い】の南側、その北には市街地のある260m前後の上位段丘が広がっています。これこそが名前のとおりの上野原でした。

駅の南口。こちらは、折角登った跨線橋からすぐに続く長い下り階段です。ここを降りれば180mより下にある桂川の沖積面です。新田地帯であったことは、地名にも残されています。桂川橋付近の水溜りに島田湖という名があることは[43357]で触れました。
[86748] 2014年 12月 4日(木)20:45:36hmt さん
津の守坂 (7)敗れた容保・慶喜の名誉回復
戊辰戦争敗戦後の会津藩は、明治2年11月にまだ赤子だった容保の嫡男・容大による家名存続が許されました。三戸県内に3万石の斗南藩が成立し、残りは江刺県に編入されました。記事
容保個人について言うと、明治5年 38歳で自由の身になり、翌年六男の恒雄が会津の邸で誕生しました。
明治23年に陸軍省から鶴ケ城跡を払下げられています(56歳)。

会津の御薬園[79710]で誕生した松平恒雄は 外交官試験を首席で合格し、ロンドン海軍軍縮会議(1922)首席全権など活躍。
昭和3年に松平恒雄の長女と昭和天皇の弟である秩父宮との御成婚が決定しました。
皇太后【貞明皇后】の強い意向があったと伝えられますが、元会津藩関係者にとっては、これが“朝敵”から完全に名誉回復した出来事として 喜びをもって受け止められたことと思います。

八重の桜の主人公・新島八重(84)の喜びの1首。
いくとせか みねにかかれる 村雲の はれて嬉しき 光をそ見る 

秩父宮妃の名は、読みは異なるものの 貞明皇后【さだこ】と同じ「節子」という字であったため、「勢津子」と改められました。
皇室ゆかり「伊勢」と、「会津」とを結びつけた名だそうです。

松平恒雄は、戦後の新憲法による第1回参議院議員選挙で、福島地方区から当選。初代参議院議長に選ばれました。
なお、福島県との関係を言うと、1976年から12年間福島県知事を務めた松平勇雄は、松平恒雄の甥【容保の次男の子】です。

松平恒雄の孫【長男一郎の子】は徳川恒孝(つねなり)として宗家を継いでします。
家達の後を継いだ家正の子が24歳で早世したためです。
徳川家の当主:初代家康、2代秀忠、3代家光、4第家綱、5代【館林】綱吉、6代【甲府】家宣、7代家継、8代【紀州】吉宗、9代家重、10代家治、11代【一橋】家斉、12代家慶、13代家定、14代【紀州】家茂、15代【(水戸→)一橋】慶喜、16代【田安】家達、17代家正、18代【会津】恒孝。

15代慶喜から16代田安亀之助への相続は[86730]で触れ、8歳の家達が静岡藩知事だった明治3年の蓬萊橋視察は[85225]に記しました。

徳川慶喜は 静岡から東京に移り住んだ翌年、明治31年(1898)に皇居に参内して明治天皇に拝謁しました。勝海舟の下工作があったのでしょうが、有栖川宮威仁親王【熾仁親王の弟】の仲介により大政奉還以来の顔合わせが実現したとされます。

こうして徳川宗家のご隠居だった慶喜は、明治35年(1902)に宗家とは別の「徳川慶喜家」を興すことを認められ、「公爵」を授けられ、貴族院議員になりました。
[43497]では“長~い長~い余生”と書きましたが、公爵家を七男慶久に譲って再び隠居するまでの8年間は政界復帰していました。

慶喜の小石川第六天町[70277]の宏壮な屋敷には、孫の喜久子【慶久の次女で 後の高松宮妃】、喜佐子【『徳川慶喜家の子ども部屋』の著者】など 大勢の家族が暮らしていました。

高須四兄弟と従兄弟の徳川慶喜とが登場する雑情報。思いがけず長い連載になりました。
書きながら気を使わされたのが、「実名」(じつみょう)または「名乗」(なのり)です。

4兄弟の徳川慶勝と一橋茂栄。「慶」は 12代将軍家慶、「茂」は 14代将軍家茂の偏諱ですから「よし」・「もち」と読めますが、茂栄の「はる」は読めません。松平容保は有名なので「かたもり」と読めますが、普通なら無理。松平定敬の「あき」も読めません。

慶喜も「慶」は 12代将軍の偏諱だからよいが、「喜」を「のぶ」と読めるのは有名人だから。
[43834]には、よしひさ」という別の読み方も一般的に知られていたと記しました。Wikipediaによると、将軍在職中の幕府公式文書に記錄が残る他、本人の署名や英字新聞に「Yoshihisa」の表記が残っているそうです。
[86747] 2014年 12月 4日(木)20:25:50hmt さん
津の守坂 (6)錦の御旗
[86742] グリグリさん
幕末の幕府と朝廷と諸藩の勢力関係はなかなか理解が難しいのですが、

この勢力関係に決定的な影響力を及ぼした「切り札」が、鳥羽伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」ではないかと思います。
国立公文書館デジタルアーカイブの絵巻物にある「戊辰所用錦旗及軍旗真図」の解説によると、その起源は承久の乱(1221年)に際して後鳥羽上皇が官軍の将に授与した旗で、赤地錦に金銀で日像・月像を刺繍したり、描いたりと伝えられます。

戊辰戦争で使われたものは、明治天皇の権威に基づく真正の錦旗ではなく、岩倉具視の策謀により薩摩と長州とが勝手に作ったものでした。しかし、当時は存在しなかった「真正の錦旗」を見た人は もちろん居ませんから、「錦の御旗は天皇の旗で、我は官軍である」と新政府軍が言えば、これに反論はできません。
「十六弁八重表菊紋」が天皇専用(親王も不可)という定めは明治2年太政官布告802号でしたが、それ以前の戊辰戦争に際して、日・月像以外の 菊の紋章像の錦旗も使われたようです。

承久の乱の時の鎌倉武士は、本物の錦旗を見せられても怯むことなく、武力で朝廷側を制圧しました。
それなのに、戊辰戦争では贋物の錦旗にしてやられたのは何故か? 
それは、「錦旗」を含む尊王論という概念が 幕末の武士の中に ある程度浸透していたからです。
そして、この概念を日本中の知識人に広めた本こそ、水戸光圀が編纂を開始した『大日本史』でした。

「錦旗」は水戸黄門によって「印籠」と同じような力を持つことになりました。
しかし この「無敵兵器」が向けられた相手は、 水戸家出身の徳川慶喜 を総大将とする幕府軍であり、幕府実働部隊の司令官は 「水戸の血筋」[86714]を引く高須松平家出身の会津藩主・桑名藩主 でした。
水戸学という「教養が邪魔して」朝廷に刃向かうことができず、賊軍として敗れるに至ったとは、何とも皮肉な結果でした。

2001年の「911事件」の際、柳井駐米大使はアーミテージ国務副長官に「Show the flag」と言われたとのこと。
洋の東西を問わず、「旗」が軍事行動を目に見える形で示す重要な道具であることを、この時にも痛感しました。

それはさておき。幕末に朝敵にされたのは会津だけではありません。孝明天皇の時代には長州が賊軍で会津が官軍でした。
でも、最終的には最後に「勝てば官軍」で、贋物の錦旗もその正当性が追認され、♪宮さん、宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは、なんじゃいな、トコトンヤレ、トンヤレナ ♪あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか、トコトンヤレ、トンヤレナ という行進曲により、薩長軍が全国を席巻することになりました。
[86741] 2014年 12月 1日(月)20:59:38【1】hmt さん
津の守坂 (5)京都だけじゃない 越後・蝦夷・九州まで波瀾万丈 - 松平定敬の生涯
高須四兄弟の中で最若年の松平定敬(さだあき)は、安政6年(1859)14歳の時に伊勢桑名松平越中守家 13代を相続しました。亡くなった前藩主定猷(さだみち)の男子【後に14代となる定教】が幼少のために、これも幼い女子・初姫の婿になる約束で迎えられました。

この家は 16世紀の松平定勝を祖とする松山藩主家「久松松平氏」の分家です。説明のため、ちょっと歴史を遡ります。
定勝の母・於大の方は水野氏の出で、松平家に嫁いでいた天文11年に後の徳川家康の母になりましたが、今川氏との関係で離縁されました。再婚先の久松家で定勝の母になったのは永禄3年(1560)で、この年の桶狭間の戦いにより状況が変りました。
今川氏から自立した家康は 於大【伝通院】を母として迎え入れ、その息子【つまり家康の異母弟】の定勝に松平の姓を与えて家臣としました。この家系を久松松平家と呼びます。

桑名には、この松平隠岐守定勝が元和2年(1616)に入っています。しかしこの本家は、次の代に伊予松山に移りました。
桑名城主の後任として美濃大垣から移って来たのが松平越中守定綱【定勝の三男、分家の藩祖】です。
久松松平家【定勝系、定綱系】は家康の男系の子孫ではないので、親藩ではなく譜代大名とされるようです。

定綱系は 桑名の後、3代目が越後高田に、7代目が陸奥白河に移封されました。9代藩主が寛政の改革で知られる老中・松平定信[45967]【8代将軍吉宗の次男で田安家の始祖になった宗武の子】です。定信が老中に就任したことも、久松松平家が親藩でなく、譜代大名であることを裏付けているようです。10代定永に家督を譲った後、定信が要望していた桑名復帰が実現しました。
なお、藩主は桑名・高田・白河・桑名を問わず 通しの歴代数で表示しています。

[86738] hmt
「一会桑体制」呼ばれる一橋慶喜・松平容保・松平定敬のトリオ

「一会桑」とは、言うまでもなく「一橋・会津・桑名」のことです。
一橋慶喜が元治元年(1864)3月に将軍後見職を辞して新たに就任したのは、「禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮」という新設ポストでした。摂海というのは大阪湾のことです。

【注】この人事異動を忘れていた[86719]の訂正
西郷吉之助と組んで第一次長州征伐を決着させた征討軍総督・徳川慶勝を批判した慶喜の【将軍後見役だった】は誤記です。

その翌月に京都所司代に任命されたのが桑名藩主・松平定敬でした。
先代藩主の定猷が安政5年から高松藩・松江藩と共に命じられていた京都警衛の役目は定敬にも引き継がれていましたが、まだ 19歳であった定敬は 若年を理由に 京都所司代の重責【注】を固辞しました。しかし、兄の会津藩主・松平容保(30歳)が一旦任命された軍事総裁職から京都守護職に復帰するということでもあり 断りきれなかったようです。

【注】京都所司代
京都所司代は、幕末に新設され軍事的な組織である京都守護職などと違い、朝廷と幕府との間の連絡ルートである基本的な行政組織です。3万石以上の譜代大名が任命されていました。伊勢国の他に越後国【柏崎】に飛地がある桑名藩は6万石で、家格は十分にありました。

こうして発足した「一会桑体制」。若い定敬にとって それからの4年間は厳しい政治体験の場になりました。
幕府に属してはいるが江戸の幕閣とは距離を置き、朝廷上層部に食い入ってこれと協調。国政参加を求める諸藩の力はできるだけ排除。このような姿勢で禁門の変、長州征伐と進んできたのですが、第二次長州征伐の処理を機に「一会桑」の足並みは乱れ、この政権は崩壊しました。

孝明天皇の崩御後、京都における幕府の権力は失墜。慶喜は大政奉還で逆転を狙うも、倒幕の動きを止めることはできず、戊辰戦争に突入。
鳥羽・伏見の戦いで、桑名藩兵は会津藩兵と共に 主力として薩長軍と激突したが大敗。
その後、定敬は容保と同様に慶喜に従って江戸に同行させられました。

置き去りにされた本国の桑名では意見が割れましたが、結局先代藩主の実子定教を擁立し、新政府に恭順。無血開城しました。
慶喜に従って江戸に着いた定敬は、兄の容保と共に抗戦を主張したものの、恭順することに決めた慶喜に見捨てられました。

ここで、桑名藩飛地の越後柏崎が表に出てきました。
定敬は柏崎に移って、長岡藩の河井継之助と同盟し、北越戦争を戦ったのですね。
本国の桑名は恭順しているのに、前?藩主の定敬が柏崎で新政府軍に抗戦するという分裂状態。
しかし、結局は敗れて会津へ、更に箱館へと落ち延びました。

桑名の家老・酒井孫八郎は、藩の存続のために決意を固め、五稜郭に乗り込んで定敬を連れ出し江戸に出頭させようとしました(明治2年4月)。ところが定敬もさるもの、そのまま米国船で上海まで密航して逃亡。
それも路銀が尽きて、5月には市ヶ谷尾張藩邸に入って遂に新政府に降伏。

展覧会の図録p.64には、一橋茂栄[86730]【中立的立場】から徳川慶勝[86719]【新政府側】に宛てた明治2年7月1日付書簡が残っており、市ヶ谷邸での定敬の様子を心配していると記されていました。処分は死一等を減じ永禁錮でした。
最終的には桑名藩預けになり、明治5年正月免罪。翌月には、安政6年には3歳であった婚約者初子と結ばれました。

明治10年西南戦争。定敬は桑名の士族を募集して、今度は官軍として薩摩を討つために九州に赴きました。応募者350名。

これで定敬の長い戦いはやっと終り、翌明治11年には4兄弟の再会、銀座の写真館での記念撮影[86738]、本所横網町の慶勝邸での会食ということになりました。
明治27年から容保の後任として日光東照宮宮司に就任。

明治41年(1908) 63歳で没す。4兄弟の中で一番長生きでした【慶勝60歳、茂栄54歳、容保59歳】。
[86738] 2014年 11月 30日(日)13:12:07hmt さん
津の守坂 (4)松平容保 - 京都守護職としての栄光から戊辰戦争の敗戦へ
江戸四谷の屋敷で育ち、幕末の動乱期を生きた 高須藩四兄弟の物語 を続けます。

四兄弟の父である美濃国高須の10代藩主松平摂津守義建は 10男9女をつくり、うち6男1女が成人しました。
この6人の男子がすべて大名家の当主になったという事実は、優れた資質の家系と共に 運にも恵まれたことを思わせます。
もっとも、万延元年(1960)に最後の13代高須藩主になった十男義勇は 僅か2歳で相続しました。版籍奉還の明治2年には 11歳でした。そして石見国浜田藩を継いでいた三男武成[86730]は、義勇誕生よりも10年以上前に23歳で死んでいます。
このような事情を見ると、大名家というのは、家系を断絶させないだけでも 精一杯の努力を求めれていたようです。

その中で 立場の異なる4藩主として幕末が明治に変る時代に居合わせて 激動する世の中を生き抜き、平和が戻った明治11年(1878)実父義建の十七回忌に洋服姿で再会して、四兄弟の記念写真 を残していることは 感動的なエピソードであると思います。この時の年齢は、【右から】徳川慶勝(よしかつ)[86719] 55歳、一橋茂栄(もちはる)[86730] 48歳、松平容保(かたもり) 44歳、松平定敬(さだあき) 33歳でした。

ちょんまげ時代に戻ります。高須四兄弟の中でも最も知られているのは義建七男の松平容保です。
12歳で父の弟である会津松平家藩主容敬の養子になり、18歳で家督相続。この家は2代将軍秀忠の御落胤である保科正之[79357]を祖とする御家門です。養子に入った容保は、将軍に忠勤を励むべしという会津松平家「家訓」(かきん)を殊更に重視する姿勢を取りました。

容保が会津28万石の藩主になった翌年の嘉永6年(1853)は ペリー来航の年で、江戸を防衛すべく急遽築造された「品川台場」[80264]に配備されたのは 川越・会津・忍の3藩でした。彼としては、これが対外的な初仕事でしょう。
もっと大きな役目を負わされたのは、文久2年(1862)に命じられた京都守護職【注】です。家臣団からは反対されましたが、政事総裁【注】の松平春嶽らに「家訓」を引用して説得され、止むなく受諾するに至ったとか。
【注】
幕末に新設された幕府の3要職。将軍後見職 一橋慶喜、政事総裁[72830] 松平春嶽、京都守護職 松平容保

容保が藩兵千人を率いて上洛し、黒谷の金戒光明寺を本陣としたことは[86719]にも記しました。
将軍上洛の道中警護役だった壬生浪士組を会津藩の配下として、都の治安維持にあたったことはよく知られています。
# 近藤勇の浪士組に「新選組」の名を与えたのは、八月十八日の政変(後出)での働きを評価したものです。

温厚な人柄の容保は 孝明天皇からは絶大な信頼を得ており、御前で馬揃えを披露したした際の写真で着用しているのは、下賜された大和錦で仕立てた陣羽織であるとか。

雨天の中の馬揃えで体調を崩し、寝込んでいた容保にもたらされたのが、天皇が尊攘派公家への対応に苦労しているという薩摩藩からの情報でした。これにより薩摩藩と会津藩とは協力することになり、文久3年(1863)八月十八日の政変で 朝廷から長州勢力を一掃し、政局は大きく動きました。天皇は容保に感謝して 宸翰と御製を贈りました

元治元年(1864)の京阪方面は「一会桑体制」呼ばれる一橋慶喜・松平容保・松平定敬のトリオが実権を握ったように思われていました。
しかし、禁門の変の後、第一次長州征伐は生ぬるい決着に終りました。一橋慶喜は、長州征討軍総督徳川慶勝[86719]を批判し、「総督の鋭気は薄く、薩摩芋に酔うのは酒に酔うより始末が悪い」と評したそうです。

薩長同盟が成立するのは あと1年余り先のこと になりますが、時の流れはこの頃から少し変り、会津に不運が訪れてきたようです。禁門の変に際して参内した時も両側から支えられてやっと歩ける状態だったようで、どうも雨中の馬揃えで崩した体調も不安です。脱線しますが、1863年の雨中馬揃えから私が連想するのは、1943年10月に雨中の神宮外苑で行なわれた出陣学徒壮行会です。動画

決定的な不幸は、慶応2年(1866)夏に将軍家茂、その年の暮に孝明天皇と、2人のトップを相次いで失ったことでした。公武合体路線で仕事を進めてきた容保としては、頼みの綱を2本ともに断たれたも同然です。
将軍慶喜は大政奉還で逆転を狙ったものの、王政復古の大号令に始まる倒幕運動は大波になり、軍事的にも幕府軍が鳥羽伏見で大敗しました。

容保は慶喜との同道を求められて大阪城から江戸に戻り、ここで隠居して会津に戻ることを命じられました。
慶喜からも見捨てられた容保。この後で繰り広げられる会津戦争において、容保は「前藩主」として総指揮にあたったわけです。
結果はご承知のとおりの完敗ですが、容保以下の藩士一同は、武士の誇りとして戦わずに降伏することなど できなかったのでしょう。

降伏後の容保は江戸での幽閉を経て明治5年に赦免されました。
明治13年から日光東照宮などの宮司となり、藩祖の保科正之を祀る土津神社の宮司も兼任しました。
この間の明治9年、新選組の後援者であった小島鹿之助[33902]と佐藤彦五郎[78819]の求めに応じた容保は、近藤勇・土方歳三の名誉回復のための篆額を書いています。石碑は高幡不動にあります。
[86735] 2014年 11月 28日(金)13:58:25hmt さん
にしもろ(西諸)
[86732] グリグリさん
西諸地域、すなわち、西諸県郡の自治体と言うことで、えびの市、小林市、高原町の3市町の合同イベント

「にしもろ」という呼び名は知りませんでしたが、3市町をメンバーとする 西諸広域行政事務組合 が存在するのですね[14512]

諸県(もろかた)は 娘の髪長媛が応神天皇に仕えたと日本書紀に記錄された豪族の名で、古代から日向国南西部の郡名でした。
江戸時代には複数の藩が分立していた日向国は、明治4年(1871)11月に南部の都城県と北部の美々津県に属しました。
明治6年1月には統合して初代宮崎県が誕生しましたが、明治9年(1876)8月には鹿児島県に合併されました。

西南戦争後の分県運動を経て 明治16年(1883)に宮崎県が復活した際に、諸県郡の大部分は宮崎県北諸県郡になりました。
しかし、南部だけは南諸県郡として鹿児島県に残されました。
宮崎県北諸県郡からは、翌明治17年に西諸県郡と東諸県郡とが分立したので、鹿児島県南諸県郡と合せて4つの諸県郡が揃いました。

志布志を中心とする鹿児島県日向国南諸県郡は 明治30年(1897)施行の郡統合で【大隅国】囎唹郡になり消滅しました。
残った諸県郡は 宮崎県日向国の北・西・東の3郡ですが、意外にも北諸県郡がこの中で一番南にあるんですね[13215]
これは都城中心の考え方から、分立した2郡を西(郡役所:小林)と東(同:高岡)に命名したからでしょう。

ここまでは、過去記事などにより 諸県郡の沿革話を復習しました。

それはさておき、過去記事には 宮崎県・鹿児島県の4市町が関係する境界未定地域に関係する疑問も示されていました。2年も前の疑問ですが、お答えしておきます。

[82024] グリグリさん
唯一考えられるのは、湧水町と小林市の県境と、小林市と綾町の間の境界に未定部分があり、明確な小林市とえびの市の未定と合わせて4市町全体が未定になっていると言うことでしょうか。どなたかこの謎解けますか?

“湧水町と小林市の県境”は“湧水町とえびの市の県境”の誤記と思われます。
その上で、グリグリさんが見落としていると思われる境界未定部分を示します。

A:鹿児島県湧水町と宮崎県えびの市との 県境界未定部分
B:宮崎県小林市と綾町との 市町境界未定部分

A,B 2ヶ所の他に 既に指摘されている えびの市と小林市との間の境界未定部分が存在します。
3ヶ所の境界未定があるために、お説のとおり「4市町全体が未定」ということになります。

# リンクした地理院地図について。
最初は地形図本来の情報を重視して zoom=15 を使いました。
Aの西端:宮崎県西端の黒園山付近
Aの東端:肥薩線付近
Bの東端:綾北川古賀根橋ダム北の曽見川合流点付近
Bの西端:大森岳南東(綾南ダムからの地下水路付近)

ところが、この地図の境界線は見易い状態ではありません。
「ウオッちず」の頃の境界線は、着色された太い線でもっと明瞭でした。
境界線の途切れた箇所を探す目的ならば、地理院地図を少しズームアウトして zoom=13 程度にするのが適切であると知り、上のように改めました。
[86730] 2014年 11月 25日(火)23:01:47hmt さん
津の守坂 (3)高須の松平義比から尾張の徳川茂徳へ、隠居玄同から御三卿の一橋茂栄へ
徳川慶勝に続く高須松平家4兄弟の2人目は、10代義建の五男【夭折2人あり実質三男】として誕生した茂栄(もちはる)です。
幼名鎮三郎。元服後は建重・義比・茂徳・玄同・茂栄など多数の名が使われていますが、便宜上統一して使う場合は、慶応元年に最終的な名になった茂栄にします。

過去記事では 尾張藩主時代の「徳川茂徳」を使っていました。今回の御三卿当主の実名も、正式には「徳川茂栄」ですが「一橋茂栄」という形で使われることが多いと思います。

部屋住みのまま一生を過ごす可能性もあった分家の五男。それが3万石の高須藩主「松平義比」(よしちか)に始まり、約62万石の尾張藩主徳川茂徳(もちなが)へ、そして御三卿の一橋茂栄へと 3つの家を相続するに至ったのは大出世です。
それは激動の幕末の中心で活躍した人物だからですが、彼の名をあまり知らなかったのは 私だけではないと思います。

彼が高須藩11代の跡継ぎになれたのは、長兄の慶勝が名古屋の本家を継ぎ、その次の武成(たけしげ)が石見国浜田藩を継いだためでした。
なお 慶勝と武成は正妻の子ですが、茂栄は異母弟です。慶勝・茂栄・容保・定敬は4兄弟と言ってもすべて腹違いでした。

安政の大獄の時代、一橋派の兄・慶勝が戸山に謹慎させられ 尾張家15代を継いだ彼は 14代将軍家茂の偏諱を得て徳川茂徳と改名しました。慶勝に続き 四谷家は尾張家のスペアの役割を担ったわけですが、前藩主の政策を支持する家臣団の統制にも苦労があり 彼にとって 本家藩主の荷は重かったようです。
結局尾張藩の実権は 復権した やりての兄に握られてしまったようで、文久3年(1863)には 33歳で隠居。玄同はその号でした。

14代将軍家茂から再度の偏諱による 茂栄 の名を賜った慶応元年(1865)には35歳。この頃には 15歳年下の将軍と親しい関係にあったようで、第二次長州征伐で上洛した家茂の補佐役的な立場で働きました。

この年横浜に赴任してきた英国公使のパークスは、外国嫌いの孝明天皇が拒否している通商条約の批准を求め、条約4カ国(英仏米蘭)の連合艦隊を兵庫に送り込み、日本を威嚇しました。
これに対する幕府と朝廷の二元外交。対応はモタモタし、遂に家茂が辞任まで言い出して条約勅許を求める状況になり、孝明天皇も止むなく3港開港の通商条約を許すことになりました。パークスの軍事力示威作戦が成功したわけです。
茂栄は この間 苦悶する家茂と 朝廷との間の調整に尽力。家茂からは「今後親とも思う」という心情が伝えられました。

茂栄は江戸に帰った後、大阪城での日々を偲んで家茂像を描きました。
茂栄自身が撮影した写真が残されていますが、残念ながらその画像は Webで未発見です。現物は天璋院に献上後焼失。
茂栄が描いた顔に御用絵師が陣羽織の立姿の体を加えたものと考えられており、首の角度が不自然です。
和宮はこの絵を「異風」であるとして不満であり、茂栄は書き直した束帯姿の画像を贈りました。 こちらの絵は Wikipediaに掲載されています。

茂栄への処遇として、家茂は生前に清水家相続の内命を与えていました。御三家の元当主が御三卿になるのは異例ですが、家茂は親しい茂栄を側に置きたかったようです。家茂の死によってこの話は中止されましたが、兄慶勝の請願もあり、慶喜が将軍になったために空席になった一橋家相続ということになりました。清水家を継いだのは慶喜の弟・徳川昭武[43497]でした。

そして慶応4年(1868)の戊辰戦争。その後始末の段階で、茂栄は徳川本家の総代として 嘆願活動の中心になりました。
3月には江尻まで出向いて、東征大総督の有栖川宮から朝敵になった慶喜への寛大な処分の了承を得ました。
徳川家の存続についても田安亀之助[85225]による相続が認められ、駿府70万石を確保することができました。

御三卿は将軍の家族という立場だったのですが、一橋家は田安家と共に明治元年(1868)5月に至り初めて藩屏に列し、徳川宗家から独立した藩【一橋藩・田安藩】が成立しました。
しかし、3つ目の藩主になった茂栄の「一橋藩主」時代は束の間に終りました。

翌明治2年に出願した版籍奉還願に対する新政府の回答は、諸藩と違う形の処置でした。
茂栄はそれに従い、家政に従事する家臣138人を残し、他の1432人の家臣には暇を出し最寄りの地方役所所属とすることになりました。年貢も地方役所が徴収。新政府による「廃藩」のテストケースにされたようです。

藩知事表 に続く 151コマには一橋茂栄の名が見えます。
しかし、その頭に「知事」が付けられていないことにより、一橋藩が廃藩されたことが示されています。
[86719] 2014年 11月 23日(日)22:45:16【2】hmt さん
津の守坂 (2)屋敷があった荒木町、4兄弟長兄の徳川慶勝
今回のシリーズ。そのタイトル・津の守坂(つのかみざか)は、現在の新宿区荒木町にあります。
執筆の動機は、江戸時代 この地に上屋敷を構えていた尾張徳川家の分家・松平摂津守家(四谷家=高須松平家)とその屋敷に生れた四兄弟をテーマにした特別展でした。しかし、前回[86697]は 所領であった美濃高須や、木曽三川の治水工事に筆を費やし、特別展で紹介された江戸屋敷や人物について語るには至りませんでした。

高須松平家。それは治水の面で幕府から多大の支援を得ていただけでなく、「江戸定府」で参勤交代の義務を免れていた特殊な大名でした。
江戸で育って一生を江戸で暮す定めですから、美濃でなく江戸こそが「津の守」兄弟のふるさとなのでした。

江戸の武家地には町名がないので、荒木町という地名が現れるのは明治の地図です。
『明治十一年実測東亰全図』[78145]を見ると、陸軍士官学校になった尾張徳川家の上屋敷跡【市ヶ谷台】の南西に 四ツ谷荒木町の文字と高須藩上屋敷庭園跡の泉水が見えます。
市民に開放された庭園は新しい木【アラキ】で整備され、明治時代 この付近は芝居小屋・料理屋・芸者屋のある盛り場になったようです。「策(むち)の池」の一部と津の守弁天の祠は現存。
なお、現在の新宿西口・昔の角筈村にあった高須藩下屋敷にも「策(むち)の井」があり、こちらは[44125]で触れています。

[86697]で記したように、四谷家つまり松平摂津守家の最大の責務は尾張徳川家の後継者確保なのですが、実際問題としては 実子による相続だけで続けることは困難です。
8代将軍吉宗の政策に反対して敗れた第7代尾張藩主宗春の後 第8代尾張藩主になった宗勝は、四谷家第3代でした。これは当初目論見通りのスペア役を果たしたように見えます。
しかし 実は四谷家の実子ではなく、スペアのスペアである川田久保家からの養子だったのです。

大名家というのは、こんな具合に複雑な養子関係によりようやく維持されていました。
四谷家第9代の義和(よしなり)は水戸徳川家第6代治保(はるもり)の次男でした。つまり幕末近くの四谷家は、尾張の分家ながら 水戸の血筋 になっていたわけです。

高須藩第10代の松平義建(よしたつ)は 義和の嫡男で、その正室・規姫(のりひめ)も水戸家から来た従姉妹【治保の孫、有名な徳川斉昭(水戸家第9代)の姉】でした。
この夫婦の子が 12代将軍家慶の時代に尾張家14代を継ぐことになる徳川慶恕(よしくみ)、つまり高須四兄弟の長兄・慶勝です。

彼は御三家筆頭の立場ですが尊皇攘夷派で、安政5年(1858)に 大老井伊直弼が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印すると 徳川斉昭・一橋慶喜[43497]・松平慶永【春嶽】らと共に江戸城に押しかけて(不時登城)これを糾弾しました。
しかし、この抗議行動は当局側の弾圧【安政の大獄】を招き、慶勝も戸山の下屋敷での幽閉蟄居処分を受けました。

多趣味な文化人の彼は戸山謹慎の期間も有効に活用したのではないでしょうか。
書や博物学【注】だけでなく、写真術の研究家でもあり、撮影だけでなく自ら調合した薬品で現像も行いました。
【注】博物学への傾倒
 昆虫標本の作成。植物の精密なスケッチ。 四兄弟の写真 の背景に『草花図画帖』収録の作品が使われています。

慶勝(よしかつ)という名は、万延元年(1860)の復権【注】後に改めた名で、14代将軍家茂の補佐になり、将軍上洛に先立ち文久3年(1863)から朝廷と幕府を一体とする安定体制を築くべく京都での国事周旋活動を始めます。
【注】謹慎を解かれたが慶喜・慶永との面会・文通は禁止。正式の赦免は文久2年(1862)。

京都では異母弟の会津藩主・松平容保が京都守護職として黒谷の金戒光明寺に陣を構えており、この会津と薩摩が組んだクーデターから長州追放、禁門の変、第一次長州征伐へと政局が動き、慶勝は征討軍総督を勤めました。

慶勝は参謀になった薩摩藩・西郷に交渉させ、内部対立のあった長州藩相手に戦わずして決着させました。これは将軍後見役だった慶喜から見れば生ぬるい処置であり、後に復活した長州によって徳川政権が崩壊するに至った原因であったとも言えます。

慶勝は慶応3年(1867)の大政奉還後の上洛時に新政府の議定に任命され、小御所会議に出席。徳川慶喜【母方の従兄弟】に辞官納地を催告する役目を負わされました。そして鳥羽伏見の戦い後には慶喜逃亡後の大阪城受け取り。徳川御三家の筆頭として体制を守るべき尾張家なのに、新政府側としてこのような役割になってしまったのは残念なことだったでしょう。

新政府の地方官として府県と並列する「藩」という言葉が登場したのは慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)の政体書でした。
この時点で正式の改称があったわけではないと思いますが、幕藩体制時代から慣習的に呼ばれていたと思われる「尾張藩」が、新政府の地方組織である「藩」として再発足したので、便宜上これから先は「名古屋藩」と呼ぶことにします。名古屋藩という呼び方は、明治4年の廃藩置県で「名古屋県」に改められるまで使われました。

…というわけで、幕藩体制下において大名家系を存続させるスペアとしての存在意義を失った高須藩は、明治3年12月23日に廃止され、名古屋藩に編入合併される形で幕を閉じることになりました。太政官布告 M3-979 及び 980
[86697] 2014年 11月 19日(水)19:45:33hmt さん
津の守坂 (1)美濃高須藩
丸ノ内線が通る新宿通を四谷三丁目から少し東に進むと「津の守坂入口」という交差点があります。
北の合羽坂下に向う道が途中から下り坂になり、その西側が 松平摂津守の上屋敷跡 であったことに由来する地名です。
その地点から一つ東側の通りにある新宿歴史博物館で開催中の特別展 高須四兄弟 新宿荒木町に生れた幕末維新 を先週見てきました。

高須四兄弟については、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県まで に収録した 記事 の中で、次のように紹介しています。
余談ですが、3万石の小藩ながら、高須松平家出身の4兄弟は 幕末の歴史を彩りました。尾張藩主になった徳川慶勝は、議定として慶応3年師走の小御所会議[75495]に出席し、翌年正月には、徳川慶喜逃亡後の大阪城[43497]を新政府代表として受け取りました。それより前、慶応2年末に徳川慶喜の徳川宗家相続に伴い、一橋家を継いだのが 弟の徳川茂徳です。更に下の弟の 会津藩主・松平容保と 桑名藩主・松平定敬とは 幕末京都で治安維持の役目を担い、戊辰戦争の 朝敵 にされてしまいました。戦後、慶勝と茂徳とは、容保と定敬の助命に奔走し、明治11年に4兄弟は再会を果たしたそうです。

「津の守」と呼ばれた大名の家に生まれ、それぞれ別の大名の家督を継ぎながら幕末の動乱期を生きぬいた兄弟。
落書き帳の過去記事と関連させながら、関係する地名を交えながらこの記事を書いてみます。

松平摂津守、末尾を取れば「津の守」ですが、何故に摂津の略称が「津」なのか? Issieさんの解説[21549]をご覧ください。
もちろん江戸時代の難波の津は大坂奉行管轄下の幕府直轄領であり摂津守の領地ではありません。参考[72856]
では松平摂津守とは いかなる大名で、領地はどこだったのか?

徳川家康が天下を取った後で、この国の支配権を自分の子孫に確実に伝える仕組みの一つとして、後継者の予備軍である御三家の制度を作ったことはよく知られています。徳川御三家の筆頭が尾張家ですが、尾張家としてもその役目を確実に果すためには血統を伝える分家が必要になります。このようにして尾張家にも3つの分家が作られました。それぞれの江戸屋敷の所在地【いずれも現在の新宿区内】から、四谷家・大久保家・川田久保家と呼ばれましたが2家はスペアの役割を果して消滅し、幕末期に尾張本家以外に残っていたのは四谷家だけです。

この四谷家の当主には 松平摂津守として信濃国に3万石を与えられ、元禄13年(1700)に 本拠が美濃国高須に移されました。
「高須」は岐阜県海津市役所の所在地で、約60年前の昭和合併で海津町になる前は海津郡高須町でした。
# 播磨坂に名を残す松平播磨守は水戸藩の分家で常陸府中(石岡)2万石の殿様とか[72799]

展覧会の主役は江戸四谷にあった高須藩江戸上屋敷とその地で育った4兄弟であり、美濃高須藩の所領には殆ど触れられていなかったのですが、折角の機会なので美濃国の南端である高須輪中について少し記しておきます。

高須という地名は、横須賀関連で話題にした 須賀地名 の仲間で、河岸や海岸に土砂が堆積して形成された微高地に由来します。
木曽三川が作った濃尾平野に住みついた人々は、毎年のように繰り返される洪水被害に遭いながらも、自然堤防や人工堤防を利用して水利用を進めてきました。鎌倉時代中期の文献に高洲阿弥陀寺などの記錄があります。

現在高洲輪中の中央を流れている大江川は 木曽川・長良川の旧河道でしたが、天正14年(1586)の大洪水の結果、ほぼ現在に近い東寄りの流路に変ったとのことです。
江戸時代になると、名古屋を居城とする尾張徳川家の御囲堤が慶長14年(1609)に完成。これにより尾張側は保護されたものの 美濃側の洪水は一層深刻な状態になり、水害対策に財政破綻した小笠原氏は転封を願い出る事態になりました。

木曽三川については、木曽川下流河川事務所が発行している『KISSO』という刊行物があり、1991年の創刊号から最新号(92号)まで閲覧することができます。バックナンバーリスト
歴史ドキュメントや歴史記録の長期連載もあり、読み応えのある資料ですが、その56号p.10を見ると、60余万石の美濃国のうち約20万石が幕府直轄領、約15万石が尾張藩領で、残る約25万石が大垣藩・高須藩など10藩の大名領と70余の旗本領とに細分され、錯綜状態であったと記されています。高須藩領は図示された海津町域に限っても34%に過ぎません。

美濃高須藩は3万石の小藩であり、木曽川の治水を自力で遂行できる財力も、複雑な利害関係をまとめる力もなく、幕府の力に頼らざるを得ません。
幸いなことに 幕府領になったこの地に美濃郡代として着任したが、見沼代用水[67644]でも登場した 井沢弥惣兵衛為永でした。彼は 将軍吉宗の命を受けて、享保20年(1735)笠松陣屋着任後の短期間に綿密な現地調査に基づく三川分流計画を立案しました。

この建言は為永の在世中直ちに実施されるには至りませんでしたが、1747年には奥州二本松藩による第1回の木曽川改修御手伝普請が実施されました。
二本松藩は多数の藩士を現地に派遣したものの、既に幕府により請負業者が配置されており、工事期間2ヶ月。

第2回の御手伝普請が薩摩藩による有名な 宝暦治水工事(1754-1755)です。
この時は地元農民を雇用して施工する「村方請負」が指定されました。
薩摩藩は難工事箇所を町方請負とするよう請願したが数箇所しか認められず、派遣された薩摩藩士947名、現地雇用を含めて2千人とも伝えられる大工事になりました。工事期間は2期にわたり 1年3ヶ月(実質10ヶ月)。

1766年の第3回(萩藩・岩国藩・若狭藩)工事では過酷だった宝暦の事例を踏まえた反省から、町方請負や幕府が施工する「お金御手伝」が取り入れられ、更に第4回から第16回まで続いた御手伝普請は、藩が直接施工せず費用負担だけを求めれれる方向に変質して行ったとのことです。16回の普請で御手伝(1~4回)を求められた藩の合計は48藩。
資料をリンクしておきますが、細かい字で判読困難な部分があります。56号 p.10-12, 57号 p.9-14

対象が本題の高須藩から少し拡大してしまいましたが、高須輪中付近の江戸時代の治水事業について記しました。
江戸時代の藩は独立国のように扱われる一面がある反面、美濃のような複雑な地を水害から守るためには、幕府の権威による「御手伝普請」という強制的な経済協力制度も必要でした。
江戸時代初期、金鯱の名古屋城造営の時とは制度が変っていますが、豊かな田園に恵まれることになった美濃高須藩の姿を見ると、親藩大名を優遇する政策という点では類似するように思いました。

美濃高須藩より後の時代になりますが、明治以降も国営の治水工事が引き続き実施されました。
この木曽川改修工事の時期は、1889年に全国で実施された 町村制施行と重なっていました。
これが、他の府県で行なわれた「明治大合併」を 岐阜県では同時に実施できなかった一因であろうと思われます[79347]
更に濃尾地震・日清戦争もあり、とうとう明治30年の「郡と町村とをひっくるめた再編成」[70814][70820]にずれ込みました。

岐阜県には、この明治30年再編成で、海西郡と下石津郡に由来する新郡名として「海津」 が誕生しました。
この地名は 昭和大合併での海津町に引き継がれました。
海津町誕生当時の「高須輪中」は、東の木曽川・長良川と西の揖斐川とに挟まれた“陸の孤島”に近い状態でした。
しかし、1980年以降に木曽三川の長大橋が相次いで開通し、この豊かな穀倉地帯は陸上交通も便利になりました。
鉄道は通っておらず、私には行けない場所だったのですが、2年前岐阜オフ会の翌日に EMM号に同乗する機会を得て、この地域を訪問することができました[82265]

平成大合併で市になる際に、一旦は「ひらなみ市」[9775]が選定されました。
落書き帳でも賛否両論ありましたが、結局は海津市に落ち着いた[28842]ことは、みなさんの記憶する通りです。
[86495] 2014年 10月 26日(日)16:09:40hmt さん
「日本で最も美しい村」連合
[86485] ばいちょう さん
アーカイブズ 字名としての「~村」 に名を連ねている仲間の hmtから 初めてのフォローです。よろしく。

最初に、「ばいちょう」さん というニックネームについて。
その由来は存じませんが、私がこれから連想した言葉は 「陪塚」 でした。
過去記事には「堺」という地名も登場するし、古墳時代からの由緒ある地にお住まいの方かな? などと推測しています。

“村”に関する過去記事で、三好市西祖谷山村[49890]【そんからむらへ】も拝見しました。
三好市HPへのリンクは切れていましたが、三好市住所表示案内を確認。
「三好郡西祖谷山村」を「三好市西祖谷山村」に置き換えます。
また、「字」は表示せず、三好市に続く西祖谷山村は「にしいややむら」と読みます。

hmtの出身地の神奈川県津久井町も、平成合併で まち→ちょう に変りました。
しかし、相模原市緑区になった現在は この名も消えました[73423]

[86485]に戻り
八女市星野村

2010年の合併後も大字名として「星野村」が残されているだけでなく、市役所支所前交差点の名称が、現在でも「星野村役場前」なのですね。mapion

昔の名前を大事に使っている「星野村」には、星と泊まれる天文台があり、 星空の美しさは格別 であるとのこと。
昨年のオフ会翌日に「博物館に宿泊」[84513]を試みたhmtとしては関心をそそられます。しかし、遠くなので行けません。残念。

本題に入ります。
星野村を調べてみたら、「日本で最も美しい村」連合 に加盟していることがわかりました。
「最も美しい村」という名の組織は初耳でした。日本では連合発足から10年目に入ったところですが、フランスでは2012年に30周年記念フェスティバルが開かれ、それなりの歴史や国際性のある活動のようです。沿革

連合加盟の条件 は、人口1万人以下で景観や文化などの地域資源が2つ以上あり、それを活かす活動が連合に評価されることが必要です。発起人と思われる北海道美瑛町あたりが人口の上限ですが、群馬県中之条町のように一部の地域に分けて加盟する例もあります。
加盟村一覧から、それぞれの村が未来に残したい村の特徴(地域資源)を知ることができます。
広報しらかわ2011.11 2コマには 2011年までに加盟した村の国内配置図があります。

2014年10月までに加盟した村を 加盟年と共に列挙しておきます。地方自治体とは限らず、名称も「村」とは限りません。

岐阜県白川村の「日本で最も美しい村」連合からの退会について。
連合のサイト内にある加盟村一覧を見ていたら、連合の発足メンバーであり、2010年の第6回総会開催地でもあった岐阜県白川村が掲載されていないことに気がつきました。
2014年3月末に退会したことが Wikipediaに記されていたので、裏付けを探し回った結果、広報しらかわ2014年4月号の19ページに 退会理由が記された文書を発見しました。リンク の4コマです。
過疎の危機から脱却する活動の一つとして注目したのですが、問題含みのようですね。

従って、現在の連合加盟村数は 55です。
下記の表の順番は、連合の地域区分でなく 都道府県コード順【県内は加盟順】にしてあります。

北海道上川郡美瑛町(2005) 北海道余市郡赤井川村(2005) 北海道標津郡標津町(2007) 北海道阿寒郡鶴居村(2008) 北海道虻田郡京極町(2008) 北海道寿都郡黒松内町(2011)
秋田県鹿角郡小坂町(2009) 秋田県雄勝郡東成瀬村(2009)
山形県最上郡大蔵村(2005) 山形県西置賜郡飯豊町(2008)
福島県相馬郡飯舘村(2010) 福島県耶麻郡北塩原村(2010) 福島県大沼郡三島町(2012) 福島県安達郡大玉村(2014)
栃木県那須郡那珂川町小砂(2013)
群馬県利根郡昭和村(2009) 群馬県吾妻郡中之条町伊参(2009) 群馬県吾妻郡中之条町六合(2011)
山梨県南巨摩郡早川町(2009) 山梨県南都留郡道志村(2012)
長野県下伊那郡大鹿村(2005) 長野県木曽郡木曽町開田高原(2006) 長野県上伊那郡中川村(2008) 長野県木曽郡南木曽町(2008) 長野県上水内郡小川村(2009) 長野県北安曇郡池田町(2009) 長野県上高井郡高山村(2010)
岐阜県大野郡白川村(2005, 退会2014) 岐阜県下呂市馬瀬(2007) 岐阜県賀茂郡東白川村(2011)
静岡県賀茂郡松崎町(2013)
京都府与謝郡伊根町(2008) 京都府相楽郡和束町(2013)
兵庫県美方郡香美町小代(2012)
奈良県宇陀郡曽爾村(2009) 奈良県吉野郡十津川村(2010) 奈良県吉野郡吉野町(2012)
鳥取県八頭郡智頭町(2010)
島根県隠岐郡海士町(2009)
岡山県真庭郡新庄村(2009)
徳島県勝浦郡上勝町(2005)
愛媛県越智郡上島町(2009)
高知県安芸郡馬路村(2008) 高知県長岡郡本山町(2011)
福岡県八女市星野村(2009) 福岡県朝倉郡東峰村(2012)
長崎県北松浦郡小値賀町(2009)
熊本県阿蘇郡南小国町(2005) 熊本県阿蘇郡高森町(2013) 熊本県球磨郡球磨村(2013)
大分県由布市湯布院町塚原(2011)
宮崎県西諸県郡高原町(2006) 宮崎県東諸県郡綾町(2009) 宮崎県東臼杵郡椎葉村(2014)
鹿児島県大島郡喜界町(2009)
沖縄県宮古郡多良間村(2010)
[86494] 2014年 10月 26日(日)12:08:16hmt さん
Re:アボガドロ数について
[86490] YT さん
アボガドロ数の値やSI単位系に関する最新の情報を教えていただき、ありがとう御座います。
[86482]で用いた値は 日本化学会の解説文から引用したものでしたが、2006年のCODATA推奨値だったのですね。

最新の情報には疎く、SI単位系よりも 昔の「メートル法」という言葉に馴染みのあるhmtです。
今回は、日常で使われる計測に関する 過去記事 を集めてみましたが、やはり昔話が中心になっています。
[86482] 2014年 10月 23日(木)23:33:00【1】hmt さん
6022垓1417京9千兆
地理と無関係な話題なのですが、今日10月23日は「化学の日」だそうです。
日本化学会プレスリリースの日付は 2013/10/17でしたが、今年になってから知りました。

10月23日の意味付けは、1モルの物質中に含まれる粒子の数【アボガドロ定数】 N=6.02*10^23 にちなむものです。
私達としては この数字 N を直接使う機会はなく、「非常に大きな一定の数であること」を知っていれば充分です。

もともと気体が関係する研究から、水は 水素分子H2と酸素分子O2とが体積で2:1の比率で反応して体積2の水蒸気分子をつくることがわかり、「H2O」という粒子の集まりであることが解明されました。2 H2 + O2→2 H2O
水道水は立方メートル単位で、ペットボトルの水はリットル単位で取引されます。
しかし化学物質として扱う時は、「H2O」をN個含む 18gを1モル【1グラム分子】とした単位で扱います。
この 18gの水分子の集まりは 水素原子2g(2グラム原子)と酸素原子16g(1グラム原子)とから構成されています。

こんな具合に、モルとは 微細な粒子の集合を扱う化学の分野で使われる「物質量の単位」です。
モルという言葉は、語源的には分子moleculeが対象でしたが、現在は広く原子やイオンを含む物質量の単位になっています。
いずれにせよ、Nの数値そのものを化学量論的な計算に利用することはありません。

めったに使わない大きな数ですが、折角の機会なので『塵劫記』に使われた単位【注】で表記してみると
「N=6022垓1417京9千兆個の粒子を1モルとして纏めて扱う」ということになります。
【注】
寛永11年(1634)版で使われている万進法が今日でも使われています。1垓=10^20。初版の単位とは異なります。
余談ですが、大きな数については[65536]にも言及があります。

Nの数字を覚えて役に立ったとすれば高校の試験ぐらいでしょうが、思わぬところで10の23乗が使われることになりました。
アメリカでは“Mole Day”【モグラの日】と呼ばれているとのこと。参考
[86460] 2014年 10月 15日(水)15:40:41【1】hmt さん
Re^2:生見尾踏切
[86459] みのる さん
なぜここが「生麦踏切」と名付けられなかったのかというと、実は生麦踏切は別に存在していたからなのです。

最初に、昭和18年の横浜市三千分一地形図第13号 東寺尾 を閲覧して、ご指摘の3ヶ所の踏切道の存在を確認しました。
踏切の名称は書いてありませんでしたが、この3ヶ所中で最も東京寄りの踏切が「生麦踏切」だったのですね。
踏切の南、地図の端にある「生麦国民学校」の記載が戦時中の地図であることを物語っており、もちろん鶴見区になってからの地図です。

生見尾踏切が命名された時点で、既に生麦踏切は別に存在していたのか?
踏切関係の資料は持っていないので、日本図誌大系関東I に掲載された古い地形図【明治44年総持寺移転より前】を調べてみました。

地形図1:明治14-15年【生麦村、鶴見村の頃】
鶴見停車場の南西に見える生麦村の踏切道は、花月園前踏切の次が生見尾踏切となっています。
まだ無名踏切かも知れませんが[86459]の名称で呼びます。
生麦踏切など中間3踏切の位置では 南東からの道が途絶えて 北西側に通じていません。

ケース1:
このような2踏切の状態で踏切命名がなされたのならば、生見尾踏切は「村名優先」の結果と思われます。

地形図2:明治39年【生見尾村の頃】
5本の道すべてが踏切道と認められます。

ケース2:
5踏切の状態になってから同時に踏切命名ということになったのならば、ご指摘のように東京寄りに生麦踏切の名を使われてしまった結果ということになります。

結論:地形図で示された2踏切→5踏切の変化と、踏切命名時点との前後関係がわからないので、…

【追記修正】
ここまで読み返したところで、「花月園前踏切」という踏切名[86459]が持つ情報に気がつき、結論が出ました。

結論:花月園遊園地が開園したのは1914年でした。してみると、踏切命名の時点はこれよりも後のことです。
当然5踏切時代ということになるので、「生麦の名を別の踏切に使われた」から 村名由来の生見尾踏切になった というご指摘どおりのようです。

ご教示ありがとうございます。

ついでに、[65097]で紹介したフランス式の 彩色迅速測図 も閲覧しました。
驚いたことに、モノクロの地形図と異なり既に5踏切のように描かれていました。何故食い違うのかは不明です。
[86458] 2014年 10月 14日(火)19:55:33hmt さん
生麦・鶴見あたり (3)生麦の碑
「生麦」という言葉は早口言葉に使われるくらい発音しにくいはずですが、地名としては なかなかユニークです。
意味不明の合成地名「生見尾」と違い その意味は一見して明白。生麦一丁目にあるキリンビール横浜工場では大量の大麦が使われています。でもここに工場ができたのは関東大震災で 横浜の山手にあった工場 が倒壊したためで、地名の由来とは無関係でした。

Webで生麦の歴史を調べた結果、西部本宮町会HPに詳しい紹介がありました。このページのトップによると 江戸時代に「御菜八ヶ浦」の一つとされ 特権的な漁業権を持っていたようです。それに続いて2代将軍秀忠の行列通行に際しての生麦のエピソードにより 地名と漁業特権を得たと記されています。
この「地名の由来」は Webの中で広く流布されているのですが、調べてみると 根拠がはっきりしません。

実は、上記のHPで生麦町の歴史を記された 佐藤尚一さんは昨年逝去されており、本文の連載は終っています。
リンクされている本文をざっと調べてみたのですが、著者により「地名の由来」が記された箇所を発見することはできませんでした。もちろん秀忠のエピソードも。
私としては、著者は確実な資料で裏付けできない秀忠説を あえて紹介しなかった のではないかと推察しました。

手掛りとして「御菜八ヶ浦」を調べたら、多摩川の汽水域というサイトの 参考資料に『羽田史誌』に基づく江戸時代の漁業権に関する説明がありました。それによると、江戸時代の初め頃は本芝、芝金杉、品川浦が浦元で、大井御林、羽田、生麦、神奈川、新宿の5浦が追加されて8浦が漁業【当時44浦】の元締めになったのは享保年間のようです。
どうやら、生麦の漁業特権は秀忠時代ではなさそうで、生麦の「地名の由来」も怪しくなりました。

そこで更に調べたら、既にみなとみらいトンネルの記事などで落書き帳に紹介されている「はまれぽ」に、調査結果 が出ていました。

生麦事件参考館館長の浅海武夫さんによれば、麦の穂で道路整備説の他に、生貝のむき身説もあるそうです。
驚くべき第3の説は 岸谷の竜泉寺にあった「生麦の碑」という物証に基づく説の存在でした。
この碑は1601年以前にあったことが確認できるとか。

年代も古く「生麦」と書かれた物証。
明治末期に発見した研究者が東大に持ち帰った墓石は、一番信頼できるキーになりそうです。
しかし、東大に問い合わせても所在不明らしい。
…というわけで、生麦の謎は迷宮入りしているようです。残念。
[86456] 2014年 10月 13日(月)20:44:21【1】hmt さん
生麦・鶴見あたり (2)横浜市鶴見区の変遷
現在の横浜市鶴見区は、東海道の宿場で言うと川崎と神奈川との間です。
踏切名として残された生見尾[86455]を含めて、明治大合併前後の旧村名 と、この付近の 現在の地図 を示しておきます。

校歌に「生見尾の里」という言葉が出てくる東台小学校を中心にした地図を「3D風」にして眺めると、鶴見駅西口の総持寺から広がる下末吉台地と鶴見川が流れる低地とからなる地形であることが よくわかります。

そして明治大合併によって誕生した3村のうち 生見尾村は 鶴見川の右岸(西岸)であり、東海道沿いの南が生麦、東の曲流部が鶴見、その西側の台地が東寺尾という地名であることが知れます。潮田・矢向などの町田村は鶴見川の左岸(東岸)。そして、下末吉・北寺尾・獅子ヶ谷など旭村は北部です。

これらの地名の中では、やはり東海道筋に位置し 川の名でもある「鶴見」が最有力な集落で、1872年の鉄道開業当初から鶴見駅が開設されていました。1921年橘樹郡鶴見町を名乗り、1927年の横浜市編入後の区設置にあたっても横浜市鶴見区として、川崎と神奈川の間を代表する地名になっています。

台地と低地の境目には 東海道と鉄道とが 北東から南西へと通じています。鶴見の総持寺は曹洞宗大本山なのですが 永平寺のような古刹ではなく、20世紀になってから 能登の門前[58330][80281]から移転して来ました[59353]
そして、この付近から川崎にかけての海岸は、大正から昭和にかけて造成された埋立地で、浅野総一郎など実業家たちの名前や家紋由来の地名が付けられている点でも特筆に値する存在です[49270][83552]

京急の駅名で辿ると鶴見の次は花月園前駅で、大正時代から昭和戦前には遊園地でした。戦後の競輪場も現在は廃止。
次が生麦駅。もちろん 1862年にこの地で起きた英国人殺傷事件[54415]により 幕末史を語る上で欠かせない地名です。
地名の由来については [86458]を書いたので参照願います。

次の新子安になると既に神奈川区ですが、明治19年 地方行政区画便覧の頃には、生麦村の戸長役場管内4村【生麦・子安・白幡・鶴見】に属していました。
戸数1114に達していたこの4村は、明治大合併で「生麦・鶴見」と「子安・白幡」との2村に分離しました。
「明治の大合併」とは言っても、大凡300~500戸という標準は 都市化の始まったこの地域の行政規模を 戸長役場時代よりも縮小させたようです。

「下末吉」は 関東平野の地形学では ちょっと有名な地名です。
例えば東京都地質調査業協会技術ノートNo.44中央線の 図12 を見ると、新宿駅のある淀橋台は「(S)下末吉面」であることが示されています。
関東平野の段丘の中で、武蔵野面よりも古い時代に形成された段丘に「下末吉」の名が使われているのは、最初に研究されたフィールドだからでしょう。
町名としては第二京浜新鶴見橋の西側、三ツ池公園の手前までの一帯であることがわかります。明治大合併による3村時代は旭村でした。

今回の記事では横浜市になる前の生麦付近の様子を主として記しましたが、市制町村制以後の大きな流れとしては、もちろん横浜市における市域拡張の推移があります。

こちらのサイトでは 市の変遷 により 1901年から1939年まで6次に亘る横浜市域の拡張が行なわれ、1927年に初めて設置された5区から現在の18区になった経過もわかります。
しかし、この日本一の人口を持つ市の成長記錄を示す地図となると、横浜市のサイト内を探しても適切なものを見つけることができませんでした。

特集・神奈川区の人口 の 3/12コマに「市域拡張沿革図」があったのですが、モノクロで区との関係も示されておらず満足できません。
統計キッズルームの地図もいまいち。図説横浜の歴史 第4章 横浜市域拡張と区制の施行 というページがありましたが、肝心の図が見当たりません。

結局のところ、横浜市の変遷図については、つかんぼやとさんのパラパラ地図で 神奈川県 を見ることにしています。

参考までに他の大都市を探したら、大阪市神戸市の変遷図がありました。
政令指定都市以外では、WARPに保存されていた長崎市の変遷図を紹介したこともあります[86169]
[86455] 2014年 10月 13日(月)20:24:08hmt さん
生麦・鶴見あたり (1)生見尾踏切
[86439] みかちゅう さん
鉄道の踏切とかガードでも現存しない地名が名称に使われていることもありますよね。東海道線の生見尾(うみお)踏切の由来は1889年3月末に生麦・鶴見・東寺尾の3村の合併で生見尾村が新設され、1921年4月に鶴見町に町制・改称されるまでの間に存在した地名です。

京浜間の電車で 何度となく通過した経験があるはずの踏切です。しかし、「生見尾」という地名は 記憶にありませんでした。
聞き慣れない合成地名に惹かれて、この踏切や付近の地名について調べる気になりました。

この付近は「生麦」という、一度聞いたら忘れられない地名で知られています。
それを差し置いて 読み辛く書き難い「生見尾(うみお)」が踏切の名称に採用されたのは、どのような事情があったのか? 

生見尾の由来は、橘樹郡に存在した村名以外は考えられない。このことから、命名時期は 1889年~1921年の間になります。
これが踏切のできた時期か? 私の推察は No! です。1872年に 日本初の鉄道 が開通するより前から東海道筋の漁村として栄えていた生麦村には、自然発生的な【無名の】踏切道が 最初から存在したであろう と思われます。

しかし、時代が進んで 鉄道と道路との交通量が増加した明治中期以降になると、鉄道企業としても 遮断機など防護施設を整備する 必要が生じてきました。こうなると、鉄道管理の対象設備の一つなので名前が求められます。
その時期が、たまたま橘樹郡生見尾村を名乗っていた時代だったので、生見尾が踏切名に採用されました。
これが、なぜ「生麦踏切」でなく「生見尾踏切」なのか? という疑問から発して巡らした想像の解答です。
当っているでしょうか?

その後の地名は、橘樹郡鶴見町大字生麦から横浜市鶴見区生麦町へと変化しましたが、踏切名は「生見尾」のまま現在まで使われました。
意図したわけではないが 旧自治体名を後の世に伝える機能 を発揮することになったわけです。

JRと並行する京急にも踏切があります。こちらは1905年に京浜電気鉄道として開業した当初から生麦駅が設置されており、踏切の名も生麦第一踏切だと思います。

私鉄の競合線が誕生した後の国有鉄道は、対抗して 1914年京浜間の 省線電車専用線 を開業しました[39140]
昭和初期には 品鶴線経由の貨物線 も開業しました[63856]
戦後の 1980年からは このルートが旅客用に転用されて 横須賀線電車が走るようになりました。
横須賀線と湘南電車との分離【SM分離】対応して増設された 横浜羽沢経由の貨物新線は 踏切の手前で地下に潜ったので、生見尾踏切道は3複線【注】のまま維持されました。しかし、その横断路は距離が40mもあり、路面には高低差もある状態です。
【注】
踏切道を通るのは東海道本線・京浜東北線・横須賀線ですが、その他に地下貨物線【上記】と高架でこの地点を通過する高島線[82973]とがあり、京急を含めると合計6本もの複線鉄道が並行する鉄道輻輳地帯になっています。

2001年以降の湘南新宿ラインを含めて通過する列車数は増加しており、生見尾踏切は「開かずの踏切」になってきました。
踏切道が開く時間は、歩行者の速度 5km/h を想定して計算されているということで、長い踏切道は 足弱の人にとり かなりの難所です。
近くには歩道橋も併設されていましたが、2013年8月には 5km/h の速度に足がついて行けない老人の 死亡事故発生という事態になりました。
そして 横浜市は 生見尾踏切を廃止し、大型エレベーター付きの歩道橋を新設する方針を決めました(神奈川新聞)。
その一方で、生活道路として利用している地元からは踏切の存続を望む声も多く、生見尾踏切問題は安全確保と地域分断とのジレンマで揺れているようです。参照

踏切事故ではないのですが、その50年前 1963/11/9【偶然ですが 三井三池炭鉱爆発事故と同日】には もっと大規模な 鶴見事故 がありました。
その現場は 生見尾踏切から少し先の 神奈川区との境界である滝坂踏切付近でした。下り貨物線で 脱線した貨車が 隣の東海道本線に障害を及ぼし、進入してきた横須賀線上下線電車との多重衝突を起した事故です。死者161、重軽傷120。
[86447] 2014年 10月 8日(水)16:41:07【1】hmt さん
明石地区
[86442]白桃さん独自の全国14ブロック区分
阪神:大阪府、兵庫県(摂津地区、明石市)
[86443]ペーロケさんから付けられた物言い
神戸市にも非摂津が。。。

最も簡単な解決策は「明石市」を「明石地区」と修正することでしょう。
「明石地区」とは 市制町村制施行時点において播磨国明石郡であった1町11村の地域を意味します。
この地域名が世間一般に通用しているかどうかは知りませんが、第1回国勢調査の前年に明石市になって離脱した明石町のことを考えると、これをストレートに「明石郡」と呼ぶことには憚りがあるので、会津地区に倣って明石地区と呼ぶことを提案します。

県域の変遷 に示されているように、明治9年(1876)に生れた第3次兵庫県は 3府72県時代の第2次兵庫県が 飾磨県の全部・豊岡県の西半分・名東県の淡路を統合して一気に拡大した(面積で9倍、人口で6倍)ものでした。
不自然とも思われるこの巨大な県の誕生については、当時の実力者・大久保利通の意向があったことを[54430]で記しました。

白桃さんの14ブロックでは、現在の兵庫県は3つのブロックに分属します。これを3府72県時代とおおまかに対比すれば、阪神ブロック地域が第2次兵庫県(摂津国)、白桃ブロック地域が飾磨県(播磨国)と名東県(淡路国)、畿内ブロック地域が豊岡県(丹波国と但馬国)という形です。3ブロックに分断された兵庫県は、府県制発足初期の姿を反映しているとも言えます。

その中で注目されるのは 明石地区です。

[52196]むっくんさんの記事は、国郡制度によって畿内や山陽道が作られた時代の認識を、源氏物語により説いています。
すなわち、ギリギリ畿内である摂津の須磨に流された源氏の君は、地理的にはすぐ西であるが 畿外である播磨の明石の入道が 風流を知る人であることを知り驚く という場面設定です。
みやこ人の常識としては、摂津の須磨と播磨の明石との間には 深い文化的な溝があると考えられていたのです。

しかし、近代になり 開港場として勢力を増し 六大都市の一つになった神戸の影響力は「播磨国明石郡は山陽道」という国郡制度の枠を超えて明石に及んできました。
1934年7月に運転を始めた阪神間の省線電車の運転区間は吹田-須磨間でしたが、9月にはそれが明石まで延長されており、明石が既に阪神都市圏の西端の地位を占めていたことが裏付けられます。

そして、明石郡の町村の行方を追うと 明石町は1919年に明石市として独立しました。そして、1941年の垂水町を始めとして1947年までに9町村が神戸市に編入され、1951年の大久保町・魚住村の明石市編入で明石郡が自然消滅しています。
このような経過により、過去には山陽道播磨国であった明石地区は、名実共に阪神ブロック地域に組み入れられました。

もっとも 「山陽」や「中国地方」が常に播磨国以西であったかというと、そうも言えないようです。
神戸を含む兵庫県が「近畿2府3県」に含まれず「中国地方6県」の一つになっている新聞記事(1932年~1942年)。
東海道本線と山陽本線との境界は神戸駅。新幹線では東海道と山陽との実質的区切りは新大阪駅。
元和5年(1619)に大坂の京橋まで延伸された東海道[52196]。西国街道(山陽道)との区切りは摂津大坂。
どうも境界というものは国境や県境で固定されたものでなく、「明石地区は阪神ブロック」というように、ケースバイケースで使い分ける。そのように考えるのがよいようです。

参照した過去記事
[86425] 2014年 9月 28日(日)22:17:18【2】hmt さん
海と島 (22)日本の島 「連島」を考慮した面積・人口の上位ランキング
[86421]では 天草を例に挙げて 島と架橋との関係 について考察しました。
すなわち、干潮時に歩いて渡れる浅い海であった本渡瀬戸は、戦後の土木工事によって有明海と八代海とを結ぶ運河に変りました(1961)。それは航路の整備というだけではなく、同時に 跳開橋やループ橋、昇開橋などの橋梁技術によって 2つの島を陸上交通路でも結びつけるものでした。
更に 1966年の天草五橋は 自動車道路で天草と九州本島との間を結びつけ、離島の地位を脱して 本土化する 結果をもたらしました。

これより先、1961年12月3日に 瀬戸内海の音戸瀬戸に音戸大橋が開通して 本格的な離島架橋がスタートしました。早瀬瀬戸の架橋により能美島江田島までの陸路が通じたのは1973年です。大畠瀬戸の架橋(大島大橋、屋代島)は1976年。
淡路島への大鳴門橋は1985年で、その後 瀬戸大橋(1988/4/10)、明石海峡大橋(1998/4/5)、しまなみ海道(1968年の尾道大橋に始まり 部分開通を重ね、全線開通は 1999/5/1)など島を中継地とする連絡架橋も次々と開通しています。
九州でも1977年に平戸瀬戸の架橋が実現。全国で多くの離島が本土からの自動車交通可能な状態になりました。

このようにして、架橋で結ばれた島々を <連島> として扱うと、日本の島のランキング上位がどのように変るか調べました。

以下の表において、<天草連島>のような <連島> の名称は hmtの独断による命名です。
<連島>を構成する島名のうち B維和島のように頭にBを付した島は、メインルート(例:天草五橋)からの分岐路架橋島です。

<淡路鳴門連島>=淡路島+大毛島+B島田島+高島【鳴門】
<しまなみ海道連島>=向島【尾道】+B岩子島+因島+生口島+B高根島+大三島+伯方島+大島【越智】+馬島【来島】
<江能倉橋連島>=江田島能美島+沖野島+倉橋島+鹿島
<屋代連島>=屋代島+沖家室島
<上五島連島>=中通島+若松島+漁生浦島+有福島
<平戸連島>=平戸島+生月島
<天草連島>=大矢野島+B維和島+B野釜島+永浦島+B樋合島+前島+天草上島+B樋島+天草下島+B通詞島+下須島
<宮古連島>=宮古島+池間島+来間島

ランキングは面積100km2以上かつ人口1万人以上という条件を満たす屋代島、屋久島より大きな島をカバーするようにしました。
ランキング外ですが、<安芸灘連島>=下蒲刈島+上蒲刈島+豊島【下大崎】+大崎下島+岡村島 を番外として加えてあります。

順位連島面積km2-------順位単純面積km2
1佐渡島854.531佐渡島854.53
2<天草連島>846.922奄美大島712.52
3奄美大島712.523対馬696.64
4対馬696.644淡路島592.30
5<淡路鳴門連島>607.875天草下島574.25
6屋久島504.896屋久島504.89
7種子島445.057種子島445.05
8福江島326.488福江島326.48
9西表島289.309西表島289.30
10徳之島247.7710徳之島247.77
11島後241.6411島後241.64
12<しまなみ海道連島>224.3112天草上島225.38
13石垣島222.6313石垣島222.63
14<上五島連島>203.0414利尻島182.16
15利尻島182.1615中通島168.42
16<平戸連島>180.2516平戸島163.68
17<宮古連島>164.9317宮古島159.26
18<江能倉橋連島>164.5218小豆島153.35
19小豆島153.3519奥尻島142.75
20奥尻島142.7520壱岐島133.93
21壱岐島133.9321屋代島128.43
22<屋代連島>128.43
<安芸灘連島>53.21

順位連島人口-------順位単純人口
1<淡路鳴門連島>1511171淡路島143041
2<天草連島>1227262天草下島78142
3<しまなみ海道連島>788553奄美大島64107
4奄美大島641074佐渡島62727
5佐渡島627275石垣島46922
6石垣島469226宮古島46001
7<宮古連島>468067福江島36979
8<江能倉橋連島>459838対馬34230
9福江島369799種子島31854
10対馬3423010小豆島30167
11種子島3185411天草上島29596
12小豆島3016712壱岐島28941
13壱岐島2894113江田島能美島27031
14<平戸連島>2652914徳之島25587
15徳之島2558715因島24660
16<上五島連島>2200216向島【尾道】23510
17<屋代連島>1873517平戸島20384
18島後1552118中通島20167
19沖永良部島1392019倉橋島18952
20屋久島1343720屋代島18589
<安芸灘連島>802121島後15521
22沖永良部島13920
23屋久島13437
【修正】
最初は連島の名称を 天草& のように記しましたが、据わりが悪いので <天草連島> のような表記に改めました。
[86421] 2014年 9月 28日(日)13:48:33【1】hmt さん
海と島 (21)日本で第2の島は?
日本最大の面積を持つ島【別格の5大島と北方領土を除く、以下同じ】は 佐渡島【注】854.53km2 です。
【注】
 この地の普通の呼び方[65109] は「佐渡」で十分であり、敢えて語尾に島を付けて呼ぶ必要はないと思っています。
 しかし、今回のようなケースでは 付属する無人島が皆無ではない(二ツ亀島)ことを考慮して、敢えて国土地理院の面積調による「佐渡島」の表記を使いました。国勢調査の「佐渡市」の面積 855.31km2と比較し、僅かに小さいことが確認できます。

日本最大の人口を持つ島は淡路島[24364]で、人口【2010年国勢調査、以下同じ】は 洲本市+南あわじ市+淡路市-沼島506人=143041人と計算されます。

では、「日本第2の島」は? 
面積については、このシリーズの(8) でもリンクした 海保第五管区のページ の下の方に 面積100km2以上の島のリストがあります。 1佐渡島、2奄美大島、3対馬、4淡路島、5天草下島、6屋久島、…12天草上島、…21屋代島

この中で注目したいには、天草下島と天草上島です。
大縮尺の地図でないと一つの島のように見える2島は、本渡瀬戸 により隔てられています。
この海峡は昔から有明海と八代海とを結ぶ航路でしたが、干潮時には歩いて渡ることができる浅い海でした。

現在では全国で15指定されている 開発保全航路 の1つですが、本格的な航路工事の歴史は、戦後になってからのようです。

本渡市が成立した1954年の翌年には 本渡築港が完成し、1958年には2つの島を結ぶ新瀬戸橋(跳開橋)が完成。
そして 1961年に 第1次瀬戸開削事業による 幅30m、水深3mの航路が完成しました。
現在は幅50m、水深4.5mになっており、航路と陸上交通を両立させる橋も、ループで路面を高くした天草瀬戸大橋だけでなく、歩行者や二輪車の利便を図り作られた赤い昇開橋(本渡瀬戸歩道橋)も架けられています。

結局のところ、自然島である天草下島・上島とはいうものの、その間にある海は 両島を隔てる存在ではなく、人の手による開削運河化と架橋によって 水陸両方の交通を両立させた 共有の航路である というのが実態なのでしょう。
元々あった自然の水路という意味では、大船越瀬戸や万関瀬戸の開削により分離された 対馬との違い があるわけですが、人工水路上の架橋で一体化した島であることでは共通です。
そして天草の上下2島の面積を合計すると約800km2で、約700km2の奄美大島や対馬を上回る日本第2の面積を持つ島になります。

天草については 本渡瀬戸が運河化された5年後に開通した天草五橋により 九州本島との一体化が実現しました。
宇土半島の先端から大矢野島【現在は上天草市役所所在地】へ、そこから永浦島・前島などを経て天草上島に至る5つの橋は、昭和41年(1966)に一般有料道路として供用を開始しました。
これにより鉄道と船との乗り継ぎで3時間20分かかっていた熊本-本渡間は 車で2時間20分に短縮され、観光客数は年間54万人から315万人に急増しました(熊本県天草広域本部)。
予想外の交通量増大により有料道路は9年で償還を済ませ無料開放されました。

このようにして、天草の主な島は本土(九州本島)と結ばれた一群の架橋島【以下、“連島”と呼びます】になりました。

3号橋と4号橋との接点になっている大池島など無人島は省略してありますが、分岐路Bを含めて架橋で連なった島名と面積(km2)とを列挙します。大矢野島19.98+B維和島6.40+B野釜島0.32+永浦島0.79+B樋合島0.79+前島0.43+天草上島225.38+B樋島3.46+天草下島574.25+B通詞島0.60+下須島4.52 = 846.92(km2)。佐渡島に匹敵する大きさです。

そして、人口はというと 天草下島78142+天草上島29596+大矢野島13275人の主要3島にB樋島とB維和島を加えて122726人。

天草上島の南側にある御所浦3島【注】を含めれば文句なしに“面積最大の島”になるのですが、この部分は中瀬戸橋があるだけで、本土に通じる 御所浦架橋は まだ実現していません。
【注】御所浦3島
 横浦島1.09+御所浦島12.41+牧島5.63=19.13km2、人口752+2054+357=3163人

「連島」を考慮した島のランキングは、[86425]に分割しました。
[86419] 2014年 9月 27日(土)23:01:32hmt さん
活火山
[86417] 山野さん 木曽の「御嶽山」が噴火

紅葉シーズン土曜日の昼ごろ、登山者も多い中で「突然」の噴火でした。火山性の地震は今月10日頃からあったようですが…
灰に埋もれたままになった方もあるとか伝えられており、心配です。

木曽の御嶽山と言えば、10年前の記事の冒頭で、1979年に思いもかけず「有史以来の活動」があり、これが気象庁による「活火山」の定義を変える きっかけ になったことを記しました。

火山防災の組織というと、気象庁が事務局を担当する 火山噴火予知連絡会 が中心的存在でしょうが、国土交通省が4年前から発行している 御嶽山火山防災だよりなどによる啓発活動もあるようです。

Vol.1には 活火山が多い都道府県 の上位が示されており、16の北海道に次いで長野県が秋田県と並んで6、岐阜県は5でした。もっとも長野・岐阜県境に御嶽山を含めて4火山があるので、2県合計は活火山7です。

このランキングには「離島を除く」と注釈が付けられており、東京都・鹿児島県などの離島にある多数の火山は除外されています。

Vol.11によると、最近1万年間に御嶽山では少なくとも4回のマグマ噴火と12回の水蒸気噴火とが起きていたことが判明したそうです。今回の噴火で17回になったわけです。

[23898]では『理科年表』が「活火山」という言葉を使っていないと紹介しました。
「活きているかどうかわかりもしないのに 活火山と言えるものか」という執筆者の意思表示なのかもしれません。
このような考え方も傾聴に値しますが、人々にわかりやすい「活火山」という言葉は、選定基準が変更されただけで 現在でも 公式に使われています。
しかし、休火山・死火山という言葉は使われなくなっています。
[86400] 2014年 9月 23日(火)15:28:04hmt さん
海と島 (20)島と架橋との関係
日本には多数の島があります。
海上保安庁が 1986年に外周0.1km2以上の島を数えた結果は 6852島でした[86234]
しまっぷ統合版 には 岡山・広島・山口【瀬戸内海のみ】・香川・愛媛各県に属する 909島が収録されています。
「九十九島の数調査研究会」による調査で確定した植物の生育が認められた島の数(2001)は208でした[29533]
最近では、総合海洋政策本部により 領海の外縁を根拠付ける離島の名称決定作業が行なわれており、「ソビエト」など 158島が命名されました[86180]

こんな具合に、無人の小さな島嶼のすべてを対象にすると「きりがない」ことになります。
「しまっぷ」には 夏目漱石『坊つちゃん』に登場するターナー島[67135]のモデルである 四十島も 面積315m2と出ていました。趣味的には面白いのですが、一般的にはこんな小さな無人島を詳細に調べる必要は少ないでしょう。

島と人々の暮らしとの直接的な結びつきを表すものに 有人島・無人島という区別があり、シマーズで有人島とされた島の数は、地続きになっている香焼島などを含めて 433島でした。

今回は、島に暮らす人々が その生活にとり必要なものとして作り出した架橋について考察します。

架橋は 費用対効果が検討されて実現するものなので、短い橋ならばちょっとした出作目的での無人島架橋も実現する反面、大型自動車の通れる長い橋が必要ということになると 有人島であってもなかなか実現しないケースもあります。

島を本土から隔離して島たらしめているものは、人々が日常利用している陸上交通を阻む海です。
架橋と直接関係はないのですが、[53818]EMMさんの 記事に使われた“金沢が陸の孤島”には注目しました。
現在の金沢港というのは、昭和38年のいわゆる「三八豪雪」の際に道路・鉄道が寸断されて金沢が陸の孤島となったことから、金沢へ直接海路補給するための拠点整備を求める声を受けて建設されたものです。

船を使えば海上輸送も可能である。しかし、それなりの設備を必要とし、小回りの効く点では自動車に及ばない。
離島振興法により指定される離島が、本土との間が架橋で結ばれていない有人島に限られているのは、このような見地からして「もっともなことである」と理解できます。

例を挙げると、2008年に豊島大橋[82870]で上蒲刈島と豊島との間が繋がった結果、広島県の豊島・大崎下島それに愛媛県の岡村島までが本州からの島伝いの陸上交通可能になり、3島は離島の指定から外れることになりました。

同じように「架橋島」と言っても、その道路が本土【5大島】にまで通じているか否かで、その経済的価値は大きく違うようです。
本土に通じていない架橋は 離島間を結びつけることで地域経済の規模を拡大し、港湾設備などの共用も可能にします。
しかし、その道路が本土まで通じることにより、「離島」を脱して 事実上の本土化が実現したと扱われているようです。

島への架橋については、グリグリさんによる集大成が[82809]で示されています。
この中にも短い橋が収録されているかもしれませんが、その後で[82820]k-ace さんにより示された 佐世保市小佐々町の 前島 と本土とを結ぶ道路橋は、拡大した地理院地図から僅か数mの長さと思われます。
僅か数mの橋ですが、[82820]にリンクされた写真によると前島と、それに隣接する鼕泊島(とうどまりじま)までが 自動車通行可能な状態になりました。2島合せて約1000人の住民の暮らしは、この短い架橋により支えられていることが推察できます。
余談ですが、九州本島の西端である 神崎鼻(こうざきはな) の付近には多数の島が散りばめられており、九十九島と呼ばれています。観光地としては佐世保に近い南側が有名で、『美しき天然』は ここをイメージした名曲[29533]とされています。
前島と鼕泊島とは北九十九島の中で数少ない有人島です。

[82823][82877]EMMさん、[82831]白桃さん、[82827]グリグリさんなどによるレスなど見ても、短い橋があったり、細い橋があったりして、その扱いは なかなか難しいようですね。
私としては、統一的に整理して結論をまとめることができていなくても、せっかく集めたデータをいろいろと展示してもらえば、それなりに楽しみ、利用することができます。

[82877]の線引で前島と対比された架橋は 坂井市三国町、岬の先端の無人島・雄島にある大湊神社への参道と思われる 長い歩道橋。こういう両極端が同居しているのも楽しいのではないでしょうか。

グリグリさんによる離島架橋一覧[82809]と言えば、その先頭を飾っている島が根室市の春国岱です。
hmtが国土地理院の島リストにも出ていなかった奇跡の島・春国岱[85822]に気がついたのは、離島架橋一覧がきっかけでした。

架橋と防波堤道路との関係
架橋についての私の基本的な考え方は、島の人々が利用する交通手段です。従って架橋と防波堤道路との区別は不要という立場です。
しかし、グリグリさんの離島架橋一覧は、最初の動機が第三十六回十番勝負問四に関連するもので、大竹市阿多田島と猪子島を結ぶ堤防道路の類は除外されています[82800]

この点に関して[82759]で発表された共通項を確認してみると、意外にも
■陸続きではない二地点(人工島を除く)をつなぐ海上架橋または湖上架橋がある市
となっていて、堤防道路排除についての明確な言及がありません。
他の方の記事中には すべて問四の共通項として
■本土と本土、本土と島、島と島をつなぐ橋が架かる市(堤防道路、桟橋、人工島は除く)
が明記されているので、こちらが正しかったのではないかと思いますが、どのような事情で不一致なのか不思議に思いました。

なお、[82809]を見れば、一部が橋になっている海中道路(うるま市)や中海堤防道路の橋ならば収録対象になることがわかります。
漁生浦島~有福島間は堤防道路…とあるのですが、よく見ると2ヶ所ほど堤防が切れていて橋になっているような…要精査
などの指摘[82877]も出ており、堤防道路排除は事態を徒に複雑にしているように見受けられます。

「島と橋との関係」を論ずるにあたり、堤防道路とを橋と峻別すること。
第三十六回十番勝負問四における扱いは別として、これは果して必要なのでしょうか?
[86385] 2014年 9月 20日(土)17:32:34【1】hmt さん
スコットランド
スコットランド独立 の是非を問う住民投票が 今週 突然の大ニュースになりました 。

コトの始まりは、2年前の「エディンバラ合意」だったのですが、当時のことは覚えていません。
改めて 当時のCNNニュースを見直すと、英国首相府がその発表に使ったメディアは なんとツイッターだったとか。

ニュースによると 当時の独立支持は28%。ガス抜き狙いの住民投票で、万が一にも 独立Yes になる可能性はあるまいと 文字通り多寡【普通の用法では高】を括っていた英国首相ですが、投票日近くになって予想外の接戦という情勢を見て大慌て。
連合王国の崩壊を食い止めなければならないと、独立による経済悪化を訴えるなど 必死の防戦を展開しました。
投票結果は 独立No が55%となり、英国は分裂を免れました。
自治体数でいうと、全32のうち28地区で反対派が勝利したとのことですが、最大票田のグラスゴーでは独立賛成票が多数。

大騒ぎを演じたものの、とにかく民主主義の老舗国が、多数決の厳しさを示すお手本を世界に示してくれたわけです。
投票率84.5%は英国政治史上最高とか。参考までに、1995年に行なわれたカナダ・ケベック州独立を問う住民投票での投票率は94%だったとか。この時の結果は 反対票50.6%と 更なる接戦でした。

今回の記事を書くための調査で、スコットランド政治の基礎知識2007 というページを知りました。
直接引用することはしませんでしたが、とてもよくまとまっているので、スコットランドに関心のある方には ご一読をお薦めします。


このニュース種に刺激されて落書き帳の過去記事を検索すると、独立問題に触れた記事は皆無で、目立ったのは「ライ麦畑」など歌の話題でした。
意外にも、キルト、バグパイプ、スコッチなどのKWに該当する話題はヒットしませんでした。

余談ですが、スコッチと言えば 3M社も有名です。もちろん酒類を指定商品として「スコッチ」マークを独占することはできませんが、「テープ類」のような全く別の商品については 商標登録で独占することができます。
アメリカ生まれのテープに何故スコッチ?
この会社、Minnesota Mining and Manufacturingという社名のとおり 砥石を採掘してサンドペーパーを製造する事業を目的とする会社だったようですが、現在は粘着テープの代名詞的存在として知られています。
それが何故「スコッチ」なのかと言うと、創業期の製品について 客から スコッチ【どケチ】野郎 と罵られたことがあり、これを逆手に取って商標にしたとか伝えられているそうです。

落書き帳には、英国内における地域文化に触れた 桃象さんの記事 がありました。
スコットランド・ヤード[1785]、Flying Scotsman[81959]など スコットランドの名に関連する単発の話題も。

ニュース種、過去記事検索KWに続いて、スコットランド由来の地名談義をします。

ヨーロッパから離れて、アメリカの「ニューイングランド」。
その北には、カナダの「ノバスコシア」【New Scotlandの意味】という半島があります。
英国王の特許状を受けたジョン・カボットの船団は、コロンブスより5年後の 1497年にカナダの南東岸に到着。その後フランス人が入り、更にスコットランド人が送り込まれて「ノバスコシア植民地」を形成。
その後 仏英両国による支配の変遷を経て 1867年カナダ自治領成立当初の4州の一つになりました。北側には半島と大陸とを繋ぐシグネクト地峡やケープ・ブレトン島。
地図 を見るとニューグラスゴーという町もあります。『赤毛のアン』のプリンス・エドワード島も近くです。

更に場所が変って太平洋。日本の南、赤道を越えた先に九州ぐらいの面積の ニューブリテン島[79420]があります。
「カレドニア」はスコットランドのラテン語名なので、「ニューカレドニア」というと その一部ではないかと誤解されそうですが、もっと南東【誤記訂正】・オーストラリアの東にある 四国ぐらいの大きさの別の島です。

西洋人に知られたのは 1774年 キャプテン・クック[45308]の第2回航海で、山の多い風景がスコットランドと似ていたのでニューカレドニアと命名されました。捕鯨船や白檀貿易商人、奴隷狩り、宣教師などが訪れた後、ナポレオン3世の時代にフランスが領有宣言して流刑植民地化。英国によるオーストラリア植民の前例に倣ったものでした。

この島の成り立ちは太平洋に多い火山ではなく、大陸移動の過程で分裂したゴンドワナ大陸の破片です。
オーストラリアから分かれたニュージーランドと同様の陸塊で、1860年代に豊富なニッケル鉱石が発見され、流刑植民地から露天掘り鉱山の島になりました。19世紀末以降、日本からの出稼ぎ労働者も数千人あり、現地で結婚して帰化した人も多いとか。
モームの短編「雨」の舞台・パンゴ【PagoPagoサモア】訪問記を、新聞で読んだことがあります。現地人に日本を知っているかと聞いたら、「ああ知ってるとも。ニューカレドニアの方の島だろ。」という返事。
南の島と日本との関わりには、こんな背景があったのですね。

いずれもフランスと関係あるスコットランドゆかりの地名を紹介。カナダには実際にスコットランド移民の歴史がありました。
天国に一番近い島 という太平洋のフランス領は 風景がスコットランドに似ていただけ でした。
[86369] 2014年 9月 9日(火)18:10:21【2】hmt さん
明治の府県 (2)府県名称変更はユニークな理由もあるようだが、大部分は県庁所在地変更に伴うもの
引き続き、[86367]アクアさんの質問に関連する 私の考えを示します。
[86368]で示した 「県役所の所在地名を県名とする原則」が下敷きになっています。

2) 第一次府県統合以降の府県の名称改めについて
名称変更の「理由」は、これを法令に記す必要はなく、存在するとすれば当事者の内部資料的なものと思われます。
愛媛県の 県名の由来 には『古事記』が引用されていまたすが、アクアさんが求めている「資料」は明治6年石鉄・神山両県合併時に「愛媛」が選ばれた経緯なのでしょうね。
愛媛県と言えば、その前身である松山県から石鉄県への改称 太政官布告明治5年40号 の理由も問題になっています。
司馬遼太郎の『街道をゆく』によると、松山県令の本山茂任が太政官に出した具申書に、松山が古臭く石鉄が新鮮で民心の統一に役立つという意味のことが書かれていたそうだとのこと[16400]
私もそれ以上のことは知りませんがアクアさんの質問も、これを踏まえたものでしょうか?

松山県・宇和島県という地名由来の県名が石鉄県・神山県に改称され、愛媛県になった特別ユニークな事例はさておき、県名を改めた理由の大部分は県役所(県庁)所在地変更に基づくものでしょう。

事例を数え上げれば弘前県から青森県へ[76243]、佐賀県から伊万里県を経て再び佐賀県へ[75097]、一関県から水沢県へ、更に磐井県へなどの例もあると思いますが、代表例として金沢県庁の石川郡美川町(現・白山市)への移転 太政官布告明治5年31号 を挙げておきます。県庁所在地が金沢でなくなったので石川郡の名に基いて石川県に改めたわけです。
県庁は翌明治6年金沢に戻りましたが、当時は大都市・金沢も石川郡の一部であったので 石川県のままで OK となり、金沢県には戻りませんでした。

県庁が移転ても県名が変らない事例。兵庫県の場合は兵庫と神戸とが一体化して同一都市内の移転と考えられたからでしょう。
明治17年(1884)年 栃木県庁が栃木から宇都宮に移転しましたが、この時には県名が変わりませんでした。
この頃になると「県役所の所在地名を県名とする原則」が崩れてきた証拠と思われます。

3) 府県統合での県庁の場所
統合した2県の県庁所在地のほぼ中間に新しい県庁を設け、その地を県名として名乗る例もあります。
印旛県【佐倉】と木更津県【木更津】とを統合した明治6年の 千葉県
明治8年に新治県を分割して現在の形になります。[1644]
群馬県【前橋】と入間県【川越】とを統合した熊谷県[36081]
こちらは明治9年に旧入間県部分が埼玉県に編入。栃木県に属していた3郡を加えて上野国全部を管轄する群馬県が復活しました。

【追記】
3) 府県統合での県庁の場所 についてのレスは、質問を十分に理解しないまま書いたので少し的外れでした。

アクアさんの記事は 明治4年11月の“いわゆる”第一次統合【注】に限定した整理だったのですね。
【注】明治4年11月 3府72県への “いわゆる”第一次統合 について
 太政官布告を見れば、そこには「統合」又はそれに類する言葉が使われていません。詳しくは[76179]をご覧ください。
 hmtも、過去には この言葉を使っていたのですが、明治4年11月は 統合でなく「リセット」であることに気がつき 改めました。
[86369]で提示した明治6年や明治9年の事例は、本当の統合です。

ちょっと気になった事項を逆質問します。 
3)の1において足柄県内で小田原を上回る規模の天領都市とは どの町を指しているのでしょうか?
少し先の年代になりますが、明治13年共武政表[81089]による 小田原の人口は 13695人であり、足柄県管内では 6000人余の三島や藤沢を始め、横須賀、浦賀、下田等を圧倒的に上回る都市でした。
[86368] 2014年 9月 9日(火)17:49:00hmt さん
明治の府県 (1)県役所の所在地名を県名とする原則
[86367] アクアさん
都道府県市区町村落書き帳へようこそ。都道府県の歴史的経緯に関心を持っている hmt です。
ここでは、[228] Issieさん 以来 都道府県に関する多数の記事が語られています。検索機能も活用して楽しんでください。
自らの記事を主としたものですが、hmtマガジン の中に「都道府県」というテーマがあり、「府県」の誕生から廃藩置県まで などの特集で 過去記事の一部をまとめています。明治4年11月の3府72県でさえ序章の段階で中断状態ですが、追々書き進めてゆきたいと思っています。ご参考まで。

ご質問につき的確なお答えはできないのですが、私の考えを少し記してみます。

1) 明治期の府県庁について
府県庁所在地の根拠を探るのですね。
手始めに現在の「東京都庁の位置を定める条例」(昭和60年10月1日東京都条例第71号)を見ると、
地方自治法第4条第1項の規定に基づき、東京都庁の位置を次のとおり定める
  東京都新宿区西新宿二丁目
となっており、附則で東京都規則で定める日【平成3年(1991)4月1日】からの施行であることがわかります。

明治初期の府県は現在の都道府県と違い 自治体というよりも国の出先機関の性格が強く、このような条例はなかったでしょう。
役所の位置は国の都合で一方的に決め、それを周知する手続きも特に定められていなかったのではないでしょうか。

法令現行法では「兵庫県【という名の地方公共団体】の事務所が所在する地は 神戸市」 という関係になります。
しかし、府県誕生当初の感覚は その逆であり、「県役所の所在地名を県名とする」。
これが原則であったと思います。

慶応4年正月 鳥羽伏見の戦いの後で 幕府の兵庫奉行が引き揚げてしまった政治空白地帯に 新政府が作った組織は、兵庫鎮台>兵庫裁判所>兵庫県と名を変えながらも「兵庫」を使い続けました。このように役所の地名が県名になりました。[75495]

飛び地の集合状態だった第一次兵庫県は、明治4年に第二次兵庫県として小さいながらもまとまった県域(17万石)になり、更に明治9年の第三次兵庫県で一気に 県域を拡大 しました。[54430]

兵庫県庁の位置は、第二次兵庫県発足時は兵庫でしたが、その後 坂本村などを経て 1873年に現在地に移った[1776] とのことで、1780年の「兵神市街之図」[54297]でも神戸地区に記されています。
この間に 元は2つの都市であった兵庫と神戸とは融合し、1879年に「神戸区」、1889年に「神戸市」となっています。
このようにして、県名と県庁所在地名とは 原則を破って「別の地名」を名乗ることになりました。

府県庁をどこにするというのは書いてありません。一部関東には県庁まで書かれているところもありますが

明治4年太政官布告594号にある次の記載でしょうか。
足柄県 県庁小田原 入間県 県庁川越 埼玉県 県庁岩槻 印旛県 県庁佐倉 新治県 県庁土浦 茨城県 県庁水戸

同じ布告の中で県庁所在地が記されていないのは、神奈川県 東京府 木更津県 栃木県 宇都宮県 です。
「役所の所在地名を県名とする」原則からすれば、これらの府県は県庁所在地を特に記す必要がありません。
県庁所在地名が記されていた7県は 県名が郡名などに由来する いわば例外的な存在であったと理解しています。

明治の混乱期で、太政官令の記録の継承が不十分であったとみてかまわないのでしょうか?

太政官令という言葉は知らないのですが、布告などの記録継承体制は 不十分であったと思われます。
県庁所在地ではありませんが、明治4年11月山梨県発足前 は 法令全書668・地方沿革略譜 いずれも「甲斐県」としていますが、山梨県HPによると「甲府県」です。
日付についても、次のように こぼした経験があります。[75497]
明治元年法令全書の書物自体は 明治20年出版で、慶応4年当時の記録が残されていないものもあります。当時の日付が正確に伝えられていない可能性もあります。
[55181]には】越後府(第1次)の設置日が 法令全書の 5月29日説 の他に 公文録の 5月23日説 とがあることが記されていますが、地方沿革略譜 を見たら、こちらでは 6月3日 となっていました。こうなると、どれを信用してよいものやら。

長くなったので、ここで切ります。
[86366] 2014年 9月 7日(日)16:59:04【2】hmt さん
伊勢参りの国鉄路線
伊勢参りの私鉄路線[86363]に引き続き、それと対比すべき 伊勢参りの国鉄路線 に触れておきます。
タイトルに掲げた伊勢参りの枠から少し逸脱しますが、1885年(M18)内閣制度発足、1889年(M22)大日本帝国憲法発布、市制・町村制施行、1890年(M23)帝国議会招集を背景とした時代における本州中央部の鉄道建設・改良にも言及します。

鉄道ルートの選定には 山岳地帯や大河など 地形条件と、それを克服する隧道・橋梁・車両技術とがからみます。
東西両京を結ぶ幹線鉄道の、中山道ルートから東海道ルートへの変更は それを如実に物語る実例です。

今般中山道鉄道敷設を廃し更に工事を東海道に起すに決定す
この 閣令明治19年第24号の意味するところは 幹線鉄道の全線を近世東海道筋に改めるということではありません。
当時未完成であった名古屋以東の工事区間だけの変更です。
名古屋以東にしても箱根を避けた御殿場経由など、近世東海道沿いでない区間もあります。

国の幹線鉄道計画は、このルート変更よりも前から 鈴鹿峠の急勾配を避けた関ヶ原経由(伊吹越え)で進められていました。明治19年の東海道ルート復活でも、伊勢国の7宿(42桑名 43四日市 44石薬師 45庄野 46亀山 47関 48坂下)と近江国甲賀郡の3宿(49土山 50水口 51石部)とは 鉄道から取り残されたままです。【数字は東海道の宿場番号】

なお 東海道が中山道と合流する52草津から先は 現在の東海道線区間です。[61344]では京都-大津間【注1】に少し触れただけでしたが、琵琶湖東側を含む馬場【膳所】-米原- 関ヶ原間【注2】は 1889年に開通しました。
【注1】京都-大津間の改良
1880年の逢坂山トンネルにより最初に開通したのは、稲荷山の南を現在の名神高速道路沿いに大迂回するルートで、補機を必要とする25‰勾配線でした[61344]。東山トンネルと新逢坂山トンネルを通る現在の改良線は1921年に完成しました。
【注2】伊吹越えの改良
関ヶ原の西側は1882年に長浜への線路が通じていたのですが、1889年の新線によって 東海道線と北陸線とが米原で接続する形に改められました。その後西斜面で柏原経由の新線(1901)、東斜面で新垂井経由の下り列車専用単線【道路で言えば登坂車線】[9490] 増設(1944)というように、現在の形になるまでに勾配緩和工事が重ねられました。

それはさておき、
国の幹線鉄道計画から取り残された東海道筋は、三重県と滋賀県の後押しを得て、私設鉄道の建設に挑戦しました。
これが関西鉄道です。非力な蒸気機関車牽引の時代のこととて、伊勢から直接甲賀に入る鈴鹿峠は諦め、加太トンネルにより伊賀の柘植を経由してから甲賀に入るというルートを設定しました。
加太(かぶと)越えの難工事もやり抜いて、草津から四日市までの区間を1890年に完成。翌年には亀山から津までの支線を開業。これが伊勢参りの国鉄路線のルーツです。この勢いで名古屋進出を申請し 1895年に全通。
その後、大阪への路線を確立して官設鉄道と激烈な競争を演じた後、遂に国有化されたことは [61246]で記しました。

伊勢参りに戻ると、津から先は別会社の参宮鉄道として 宮川までが1893年、山田駅【現・伊勢市駅】開業は 1897年。
関西鉄道と共に鉄道17社の最後として1907年国有化。1909年の国有鉄道線路名称で 亀山-山田間が「参宮線」を名乗り、1911年には鳥羽まで延長されました。

文字通り伊勢参宮の重要路線であった戦前の参宮線は お召し列車もしばしば運行され、亀山-山田間の約35%が複線化される 幹線並みの扱いを受けていました。
戦前を代表する『汽車時間表昭和9年12月』で参宮線上り列車の行先を見ると、名古屋と湊町が多いのは当然ですが、草津線経由で京都・大阪以遠と結ぶ列車が6本(京都、大阪2、姫路2、宇野)もあります。食堂車付となっている姫路-鳥羽間の快速列車(の後身)は 1965年まで運行されていたとのことです。
関西鉄道時代からの歴史を考えれば、この列車の「草津線経由」が 由緒正しいものであることを知ります。
昭和9年時間表には、別に寝台車付東京行きも1本あります。

戦後の参宮線は、1970年に鳥羽線を開業して賢島までの直通ルートを開いた近鉄に完敗。天皇陛下も新幹線・近鉄を利用されています。
戦時中に単線化された参宮線は、戸籍上の地位も 1959年【紀勢線全線時】に亀山-多気間が紀勢本線になり縮小しました。

昔の地図で伊勢参りの鉄道を眺めましょう。
大正13年三重県地図
宇治山田だけでなく、松阪にも私鉄が来ておらず、参宮線が独占を謳歌することができた時代です。
参考までに 松阪-大石間の松阪鉄道は戦時中に廃止。相可口【現・多気】川添間の紀勢東線は 現・紀勢本線の一部。

日文研所蔵の 1931年宇治山田市街全図
中央やや左に参急と参宮線の山田駅。その南西に伊勢電の大神宮前駅。地図の西端を流れる宮川では、参宮線鉄橋の北からに参急、南に伊勢電と3本の鉄橋がほぼ等間隔になっています。

最後に参宮線がらみで忘れることができないのが 1956年に修学旅行生を乗せた列車が起こした 六軒事故 です。詳しくはリンク文書をご覧ください。
死者42人、負傷者92人の大事故被害者の多くは、東京教育大学付属坂戸高校(埼玉県)の生徒でした。
六軒駅の現在の所属は紀勢本線ですが、参宮線の大事故として記憶されています。
[86363] 2014年 9月 4日(木)18:17:31【1】hmt さん
伊勢参りの私鉄路線
[86351][86355] 伊豆之国さん
「伊勢電」と通称される 2代目伊勢電気鉄道 を中心に据えた 伊勢参宮をめぐる鉄道関連の大作を拝見しました。
せっかくなので、和久田康雄著『日本の私鉄』(岩波新書)などから得た知見に基き、私なりに理解するところを記してみます。
[86355]と重複するところがあるのはご容赦ください。

(初代)伊勢鉄道は、約100年前の大正4年(1915)から9年をかけ、当初の目的であった四日市と津との間 約32kmの蒸気鉄道を ひとまず完成させました。亀山経由の国鉄線【鉄道院線、1920年から鉄道省線】を16%以上短縮したことになります。

その後の飛躍は、【大正】15年に社長に就任した、四日市出身の実業家で「豪腕」として知られた熊澤一衛氏。

この人は 伊勢人であることを誇りに思い、大神宮の鎮座する「神都」が 大阪資本の参宮急行電鉄【参急】に侵されようとする状況を見て、防衛に大奮闘。しかし結果的には無残な敗北に終った。…というところでしょうか。

熊澤は社名を伊勢電気鉄道に改め、1500V電化だけでなく 積極的に南北への路線延長も行ないました。北は四日市-桑名間の約14kmで、南は津新地-大神宮前の約37km。この間に養老電気鉄道も合併しています。
北進は木曽三川鉄橋払下げがからみ、桑名で止りました。結果的かもしれませんが優先して実現したのは南進でした。

「参急に負けるわけにはゆかない」という伊勢人・熊澤の意地を感じる南進の実態を、1930年の両社路線の開業日で裏付けます。
参急の開業日 1930年3月松阪-外宮前 5月参急中川-松阪 9月外宮前-山田 10-12月榛原-参急中川 合計86.4km
伊勢電の開業日 1930年4月津新地-新松阪 12月新松阪-大神宮前 合計36.85km

目を見張るデッドヒートで張り合ったのはここまででした。
この先は無理な過剰投資をした伊勢電が経営困難に陥り、債権者の四日市銀行が休業に追い込まれました。
伊勢電名古屋線の免許は、鉄道大臣小川平吉のからむ五私鉄疑獄贈収賄事件の一つに問われて、伊勢電の熊澤社長は実刑に服することになりました。

その後の伊勢電の経営権は、愛知電気鉄道【愛電】 vs 大阪電気軌道【大軌】の争奪戦になりました。
熊澤は愛電を望みましたが、有力債権者の三井と興銀が 話をまとめた決め手は、苦境に立った伊勢電の足元を見るようなことをせず、正々堂々と交渉した大軌の種田(おいた)虎雄社長の人格であったと記錄されています。

このようにして伊勢電は大阪方の参急への合併(1936/9/15)という結果になり、桑名-名古屋間の延長が、別会社として設立された関西急行電鉄の手により1938/6/26に実現しました(1940年参急に合併)。

これにより現在の近鉄名古屋線の根幹が出来上がったことになりました。

少し補足します。関急名古屋-桑名間開通により従来の伊勢線(旧伊勢電)と併せて名古屋-大神宮間ルートが完成しただけでなく、名古屋-大阪上本町間のルートも【(江戸橋>中川)乗換を必要とするものの】繋がりました。
1936年の合併で同じ会社になったものの、中川から分岐していた参急側の標準軌路線の津駅と狭軌である伊勢線の部田駅【伊勢鉄道が1917年に開設、1924年のターミナル変更で移設改称】との間は 従来は 徒歩連絡でした。

名古屋開通を前にした1938/6/20に、参急の津駅から伊勢線江戸橋駅への連絡線が作られました。
そして同年末には 江戸橋-中川間を狭軌に改めて、名古屋方面からの狭軌線乗客は、中川での接続により伊勢・大阪両方向に向かう標準軌線に乗り換えるというシステムを確立しました。これが現在の近鉄名古屋線です。

ここに至り、伊勢電の作った大神宮前への狭軌直通ルートは、名古屋方面からの伊勢参りメインルートの地位を失ったわけです。

1959年、伊勢湾台風被害からの復旧に際して念願であった名古屋線標準軌化工事を実施したことは、みなさんご承知のとおりです。、翌年の短絡線により大阪方面へのスイッチバック運転も解消しました。近鉄ストーリー

名古屋線がらみで 先の時代に進んでしまいましたが、大軌は1941年に参急を合併、1942年には 軌道区間を鉄道に改め、大阪上本町-名古屋間は1社の鉄道路線にまとまりました。会社名は1941年改称の 関西急行鉄道【関急】を経て 1944年戦時合併による 近畿日本鉄道【近鉄】と変りました。

伊勢電が無理して並行路線を作った新松阪-大神宮前間は、戦時中の1942年に関急により廃止され、レールは名古屋線の複線化に使われました。戦後の1951年には江戸橋-新松阪間も廃止され、伊勢電が築き上げた伊勢参り路線【桑名-津新地-大神宮前間83.04km】は、約半分の 桑名-江戸橋間41.6km が近鉄名古屋線の一部として残るのみです。

熊澤の躓きの直接のきっかけは、[86355]でも触れられているスキャンダルですが、根本には世界恐慌の影響を受けた日本経済の悪化がありました。

最後は 「初代」の伊勢電気鉄道を名乗った時代もあった「三重交通神都線」。
宇治山田市の路面電車で二見、山田駅前、外宮前、内宮前などを結んでいました。
路面電車の中でも1903年開業の宮川電気に始まる歴史はかなりの古参。その名が示すように、元は電力系の会社 でした。
[86358] 2014年 9月 3日(水)23:46:06hmt さん
続・「悪」という字のつく地名
[86329]では、フジテレビの 「とくダネ!」2014/8/26を伝えた 記事 【注】などを根拠として、次のような前提事項を記しました。
「浄楽寺」ができたのが130年前だそうですから、蛇蛇落地から上楽地への変化は かなり古いことと推察。
「あしだに」も「悪」という字が嫌われて「芦谷」に変化。

このたび YT さん[86357]により、この前提が だいぶ疑わしいものであることを知りました。
「蛇落地」などという字名はなく、仮に蛇落地から上楽寺/地への改名が事実としても250年よりも前のこととなります。むしろ浄土真宗本願寺派である浄楽寺から上楽寺という字名となり、それが上楽地となったと考える方が素直です。
芦谷という地名は確認できませんでしたが、別所古墳発掘調査報告書収録の地図に足谷遺跡というのがあり、(中略)幕末にはアシヤと呼ばれる字名があり、明治の時に上楽地などに吸収されてしまった小字であると推測できます。

これをふまえると、[86329]の記事の 主テーマの信頼性 が薄くなったことは明らかなのですが、地名や防災に関する論議は 主テーマ以外にも及んでおり、特に防災についてはレスもいただいているので、安易に記事を削除すれば済む問題でもありません。

[86329]は そのままにしておきますので、ご承知ください。>落書き帳全読者の方へ

最後に、[86350] 災害関連記事について へのレスをいただいた方への釈明。

[86353] 「誰が」逆襲されたのですか?
逆襲されたのは、自然の摂理に従う大地の動きを克服したと慢心している「人類」全体です。
あなたも記されているように、都市部を含むすべての人は、今回「大蛇の逆襲を受けた人類」の一人として教訓を受け止め、普段から自分の住む地域の特性を熟知し、考えるべきことと思います。

[86352] hmtさんも、どちらかと言えば古来の地名「蛇落地悪谷」を復活させるべきだ、という意見のようですが
私はそのような意見を持っていません。地名は、その時々の風潮で安易に変えたり戻したりすべきものではありません。
もちろん、地名には先人の警告が必ず込められているものではなく、“変な地名が付いていない地域は何もしないでいい”わけはありません。

【注】
リンクページには番組名が記されていませんが、タイトルの上に表示されているサイト内の位置をクリックすれば、フジテレビ系 朝のワイドショーであることがわかります。
[86350] 2014年 9月 2日(火)14:12:54hmt さん
災害関連記事について
[86349] オッス、オラ全斗煥! さん
「大蛇の逆襲」という比喩は、被災者の気持ちを逆撫でするものなのでしょうか?

私も広島県に住んだことがあります。
今回ほどの大規模災害ではありませんが、風化した花崗岩の崩壊により隣家が埋められた経験もあり、それだけに他人事とは思えません。

落書き帳における災害関連記事について言うと、被災者に配慮して 徒に発言を“自粛”することよりも、防災という見地からして 適切な発言内容であるか否か、これこそが論じられるべきであると思います。

[86329]について言うと、地名に使われた文字「蛇落地悪谷」を題材にし、これが地域開発にとって目障りの少ない文字に変り、遂には住所地名から消滅したことが柱になっています。そして、不動産業者の発言を引用して
100年以上起きなかった土砂災害より 頻発する川の氾濫を目が向いて、川を避けて山側に宅地開発を進めた結果
であり、ハザードマップの整備や住民への周知対策が切実な課題であった と結んでいます。

問題とされた「大蛇の逆襲」の比喩については、広島市HPの八木ルート紹介にあった 戦国時代の大蛇退治をふまえたものです。
大蛇退治と昔の防災対策【おそらく危険箇所の回避】との結びつきは明確でないものの、その後の土砂災害は 100年に1回以下の頻度でした。
これが不動産業者や行政当局を油断させて 従来は避けていた危険箇所にも住宅が立ち並ぶことになり、今回の災害の遠因になったのではないでしょうか? ツケが回された入居者にはお気の毒な結果になりました。

問題にされた箇所は、このような趣旨を 短い言葉で表現した ものです。
[86329]の全体をお読みいただければ、防災を進める立場からの発言であることが理解できると思います。

同じように防災意識を喚起する趣旨から書いた 山体崩壊に関連する記事 を挙げておきます。ご参考まで。

そして、[86330]ぺーロケ氏の投稿に回答をされてみては如何でしょうか。

「地名が過去の災害の教訓を示すと聞きますが」以下のくだりでしょうか。
100年以上土砂災害が起きていなかったのは、やはり昔からの住民による危険箇所の回避の実践効果と推察します。たまたま稀に見る気象条件に遭遇したのは事実でしょうが、それを偶発的な事故として扱っては防災に結びつきません。
古い地名は、新住民にも共有されるべき文化遺産であり、それを単に「不都合な地名」と受け止めるか、「先人の警告が込められた地名」と解釈するかは 私達に委ねられています。

2011年に「須賀」という地名について書いたことがありますが、その後で起きた地震津波について千本桜さんからの報告がありました。
高須賀とは、洪水などで水が押し上げることのない高い砂丘の地形からきた地名です。まるで今回の震災で津波から免れることを予見したかのような的確な地名ですね。先人が残してくれた地名の重みを感じた次第です。
関係記事 をリンクし、ご参考に供します。
[86348] 2014年 8月 31日(日)23:27:00【1】hmt さん
観音下(かながそ) と 金ヶ瀬(かながせ)
2014年8月も最終日になり、気がついてみれば 落書き帳への書き込み履歴も12年目に入っていました。
松江オフ会2013でいただいた お誕生日新聞 で、落書き帳初書き込み日 2003年8月28日の毎日新聞第1面を見ると、トップは北朝鮮関係6カ国会議の基調発言で、北の発言は「核問題の解決は米国次第」。日米は拉致にも言及。この11年間に目立った進展がないことを感じます。他のニュースは、火星が6万年ぶりの最接近。コメ、10年ぶり不作。供給不安なし。

今年8月下旬の新聞では、残念ながら平成26年8月豪雨 が残した 広島での土砂災害が大きな記事になっていました。

そんなことを考えながら2003年の落書き帳を見ていたら、千本桜[軒下提灯]さん発の 「かながそ」についての質疑応答記事 が目にとまりました。大河原町にある 金ヶ瀬(かながせ)という地名が他に類例を見ないことに発した疑問とのことでした。

10年以上前の記事にレスを書くのもなんですが、せっかく思い出したので一筆。

確かに金ヶ崎町ならば岩手県にあるし、歴史的にも金ヶ崎の退き口【越前】で知られた地名ですが、金ヶ瀬となると 類例がありそうな地名なのに、見つかりにくいようです。

私も「かながせ」と「かながそ」の関係は解明できず、できるのは観音下石についての追加情報ぐらいです。

千本桜さんは 見たことがない とのことでしたが、観音下石は白山の火山灰に由来する凝灰岩で、温かみのあるベージュ色が落ち着いた雰囲気を醸す点が魅力とされています。
中日新聞に 小松市観音下の採石場や 東京都内の名建築での使用例 が紹介されていました。
日華石の名もありますが、目黒区駒場の旧前田侯爵邸【占領下ではマッカーサー元帥の宿舎として使われていた】では 大華石と呼んでいるようです。一般民家での使用例も挙げておきます。

小松市観音下(かながそ)町の方は 観音山 下の意味から出た地名であり、黄色は火山灰由来の石材の色であって 「金」を示唆するものではないようです。地図の中心、210mピークの北西が観音堂の位置です。
大河原町の金ヶ瀬(かながせ)も、付近に観音堂があるとのことなので、「観音ヶ瀬」という推測[22069]でよいのではないでしょうか?
[86342] 2014年 8月 29日(金)20:30:03【1】hmt さん
紙の里 大竹
[86339] ぺとぺとさん
和紙の取引の関係で大正5年に今の四国銀行の前身である高知銀行が【大竹】市内に開店

大竹の海兵団跡地に製紙工場があるのは知っていました。
しかし、手漉き和紙が それよりもずっと前からの 大竹の特産品 であったことは知りませんでした。

そこで 紙の歴史 を調べました。室町時代以降に多くなった書院造建築で紙の需要が拡大。また雨傘用の厚く強い紙も美濃や土佐などを中心に全国で生産。江戸時代になると 野中兼山などにより土佐藩の財政政策にも利用されました。
幕末になると 土佐国吾川郡伊野【いの町[45511]】で大幅連漉き道具が考案されるなど技術の進歩もありました。
1901年には 全国の和紙生産戸数68562でピークを記錄。以降は洋紙化と和紙の機械化が進み、手すきの戸数は減少。
この年、高知県の伊野製紙などが合併して土佐紙合資会社設立。

日本紙業芸防工場 によると、この会社が大正14年の合併で 社名を日本紙業と改めた頃、合併相手の土佐紙は 高知県伊野町の他に 山口県和木村にも工場を有し、機械すき和紙の分野で独特の地位を占めていたとのことです。

これにより、[86323] hmt が記した疑問が解決しました。
どのような経済的背景が四国と大竹とを結びつけたのか?
つまり、土佐紙合資会社による山口県和木村進出があり、これに呼応して高知銀行も小瀬川対岸にある紙の町・広島県大竹に支店を開設[86339]、そして土佐紙と日本紙器製造との合併による日本紙業の成立に至る という流れだったのでした。

工場の名になっている「芸防」、つまり安芸・周防 両国の境界を形成しているのは「小瀬川」です。
そして、紙作りに欠かすことができない 水を供給して、この地を紙生産地たらしめたのもこの川でした。
西国街道 両国橋付近の大竹側の地名から「木野川」の呼び名もありますが[15926]、現在では大竹側でも小瀬川と呼んでいるようです。例1例2

例1の小瀬川干潟は、[83553]で臨海工業地帯の工場夜景を紹介した河口付近にあります。
[86329] 2014年 8月 26日(火)18:58:40【2】hmt さん
「悪」という字のつく地名
[86328] 山野さん
この間の豪雨で多数の犠牲者が出ている、広島市安佐南区八木地区の古来の地名が「八木蛇落地悪谷」というそうで、これまた凄い地名だ。

地元の人が 昔は蛇が降りるような水害が多かったから 蛇落地(じゃらくじ)、悪い谷で 悪谷(あしだに) と伝えていた地名。
それが「八木上楽地芦谷(やぎじょうらくじあしや)」に変化し、現在の公式地名は「安佐南区八木3丁目」。
「浄楽寺」ができたのが130年前だそうですから、蛇落地から上楽地への変化は かなり古いことと推察。
「あしだに」も「悪」という字が嫌われて「芦谷」に変化。情報源

へび談義【追記あり】 はさておき、「悪」という字のつく地名の事例は 小字レベルまで含めると 100ヶ所以上になる[77020]「蛇地名」よりも ずっと少ないように思われます。

思いつくのは トカラ列島の「悪石島」と 赤石山脈の「悪沢岳」ぐらいです。なお、トカラ列島には「臥蛇島」もあります。
落書き帳を検索してみたら、[79669]油天神山さんの記事に
「アクト・アクツ」とは「悪戸」「阿久津」「圷」などと表記されることの多い、低湿地などを意味する地形名称
との記載がありました。
悪谷も、人にとって都合の悪い地形の仲間なのでしょう。

「悪」は含まれていませんでしたが、「負」のイメージを持つ漢字が使われている、地名を牛山牛太郎 さんが調べています。
[21611][21683]に加えて、KMKZさんが参加した追加版の「血」もあります。[25815][25819][25829]

参考までに、“漢字としての”ではありませんが、“言葉としての”マイナスイメージの地名について、hmtがリンクした記事集が[51911]にあります。修正版

【追記】
八木には大蛇退治を伝える碑があり、広島市HP内に 八木ルートが紹介されていることを夕刊で知りました。
今回の災害は、退治したと思って油断していた大蛇に逆襲された結果だったようです。

JCASTテレビウオッチには、100年以上起きなかった土砂災害より 頻発する川の氾濫を目が向いて、川を避けて山側に宅地開発を進めた結果 という趣旨の不動産業者の発言が記されていました。

[86316]ペーロケさんの発言で指摘されたハザードマップの整備や住民への周知対策は、まちの顔づくり事業 よりも 切実な課題であった ということのようです。
[86323] 2014年 8月 24日(日)11:57:55hmt さん
Re:意外な場所に意外な地銀が
[86217] ぺとぺとさん
[86221] 白桃さん
[86321] faithさん
[86222] 白桃さん
大内銀行の本店は讃岐三白の一つである砂糖の積出港として栄えた三本松に設置され

ここで思い出したのが、40数年前に口座を開いていた四国銀行大竹支店です。
広島県に四国銀行【本店は高知市】の店があることも意外でしたが、その建物は予想外に立派なものでした。
尋ねてみると 大竹○○銀行の本店であったとのこと。○○の部分は記憶喪失。

落書き帳で紹介しようと四国銀行の沿革を調べましたが、Wikipediaには出ていません。証券投資用語辞典にもなし。
銀行図書館 により、明治30年~大正7年に存在した「大竹貯蓄銀行」を確認することができました。
大正7年9月に本店が高知に移り高陽貯蓄銀行と改称。更に高陽銀行と改称後昭和5年に四国銀行に合併。
大竹が四国に直接統合されたのではないので、調べにくかったのでした。

四国銀行は大竹市での地位を確保しているようですが、どのような経済的背景が四国と大竹とを結びつけたのか?
hmtが最も知りたかった この点については、残念ながら調査の成果を得ることができませんでした。

とりあえず、岡山から香川県への進出の逆ケースとして、高知から広島県への進出もあった事例を報告しておきます。
[86311] 2014年 8月 20日(水)16:09:40【1】hmt さん
海と島 (19)日本の島の面積・人口集計表【修正版】
少し前に 508島を選んだ 「島list500」 の面積・人口集計表 を発表しましたが、一部のデータに誤記を発見しました。
大きな表ですが、全体をこの修正版に差し替え、誤記を含む旧版記事[86277]は削除したいと思います。

【まえがき】
[86275]に記した趣旨で選定した 「島list500」 の集計表を、5大島・離島(47都道府県別)・北方領土の 順に示します。
項目は 面積(km2)・人口【原則:2010年国勢調査】のそれぞれにつき、各都道府県の総計値、収録島数、収録島についての合計値、収録した主な島が県全体の中で占める %です。
県面積は 人口に合わせて 平成22年面積調 の値を使いましたが、個別の島面積は H25年の値 であり、この点は不統一でした。
なお、北方領土総面積は 面積調で発見することができず、国土交通省データ を用いました。その面積は 付属島を含む区分値で集計されており、面積調における個別の島面積と少し違います。

【5大島】 本島人口は、便宜上 総人口から 島list500で収録した離島の人口を差し引いて求めた。
5大島(県)県総面積本島数本島面積対県面積%県総人口本島数本島人口対県人口%
北海道(01)78420.73177984.2799.44%55064191549401899.77%
本州(02-35)231219.111227972.1998.60%103976868110346162199.50%
四国(36-39)18806.54118300.7797.31%39772821389214097.86%
九州(40-46)42191.43136750.2787.10%1320396511268044596.04%
沖縄島(47)2276.1511207.9953.07%13928181125852390.36%
合計(01-47)372913.965362215.4997.13128057352512678674799.01%

【離島(北方領土を除く) 47都道府県別】 (石島/井島は岡山県と香川県とに分離)
北海道・東北総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%
01北海道78420.7314447.900.57%55064197124010.23%
02青森県9644.54000%1373339000%
03岩手県15278.89000%1330147000%
04宮城県7285.761142.220.58%23481651157660.24%
05秋田県11636.25000%1085997000%
06山形県9323.4612.750.03%116892412280.02%
07福島県13782.76000%2029064000%
(01-07小計)145372.3926492.870.34%1484205519183060.12%

関東地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%
08茨城県6095.72000%2969770000%
09栃木県6408.28000%2007683000%
10群馬県6362.33000%2008068000%
11埼玉県3798.13000%7194556000%
12千葉県5156.7010.030.00%621628910.00%
13東京都2187.5025398.7118.23%1315938813278150.21%
14神奈川県2415.8621.370.06%904833129310.01%
(08-14小計)32424.5228400.111.23%4260408516287460.07%

中部地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%
15新潟県12583.812864.316.87%23744502630932.66%
16富山県4247.61000%1093247000%
17石川県4185.66247.241.13%1169788230860.26%
18福井県4189.83000%806314000%
19山梨県4465.37000%863075000%
20長野県13562.23000%2152449000%
21岐阜県10621.17000%2080773000%
22静岡県7780.4210.440.01%376500713160.01%
23愛知県5165.0449.310.18%7410719440860.06%
24三重県5777.27814.600.25%1854724844800.24%
(15-24小計)72578.4117935.91.29%2357054617750610.32%

近畿地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%
25滋賀県4017.3611.520.04%141077713430.02%
26京都府4613.21000%2636092000%
27大阪府1898.47110.550.56%8865245110.00%
28兵庫県8396.139630.557.51%558813381827663.27%
29奈良県3691.09000%1400728000%
30和歌山県4726.29412.340.26%1002198211610.12%
(25-30小計)27342.5515654.962.40%20903173121842710.88%

中国地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%備考
31鳥取県3507.28000%588667000%
32島根県6707.958349.635.21%7173976257603.59%
33岡山県7113.211937.60.53%19452761944150.23%石島は部分
34広島県8479.5835430.465.08%2860750341305054.56%
35山口県6113.9532263.074.30%145133832605844.17%
(31-35小計)31921.97941080.763.39%7563428912212642.93%

四国地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%備考
36徳島県4146.67821.210.51%785491583371.06%
37香川県1876.5328219.8611.72%99584227382573.84%井島は部分
38愛媛県5678.1840230.014.05%143149337371962.60%
39高知県7105.16613.20.19%764456613520.18%
(36-39小計)18806.5482484.282.58%397728275851422.14%

九州・沖縄地方総面積島数島面積対県面積%総人口有人島数島人口対県人口%
40福岡県4977.241127.430.55%50719681047940.09%
41佐賀県2439.65913.680.56%849788824930.29%
42長崎県4105.33861835.8344.72%14267797619467113.64%
43熊本県7404.7321876.5411.84%1817426201286607.08%
44大分県6339.71917.670.28%1196529943160.36%
45宮崎県7735.9945.200.07%1135233410570.09%
46鹿児島県9188.78372675.0729.11%17062423218752910.99%
47沖縄県2276.15551054.4746.33%1392818491342959.64%
(40-47小計)44467.582326505.8914.63%145967832086578154.51%

離島合計(離島合計数は石島/井島の重複調整のため 小計の和より1つ少くなる)
離島合計総面積島数島面積対総面積%総人口有人島数島人口対県人口%
離島合計372913.9649310554.772.83%12805735243612706050.99%
参考:【3地域の離島集計値】(石島/井島は本州と四国に分離)
3地域離島県面積島数島面積対県面積%県人口有人島数島人口対県人口%
本州地域231219.111663116.701.35%1039768681465152470.50%
四国地域18806.5482484.282.58%397728275851422.14%
九州地域42191.431775451.4212.92%132039651595235203.96%

【北方領土】
北方領土総面積島数島面積対総面積%
北方領土5036.14105032.1999.92%

【日本全土】 北方領土は総面積と収録島面積に算入するが、有人島数及び人口には不算入扱いとする。
区分総面積収録島数収録島面積対総面積%総人口有人島数有人島人口対総人口%
47都道府県372913.96498372770.2699.96%128057352441128057352100%
北方領土5036.14105032.1999.92%
収録した島の合計377950.10508377802.4599.96%128057352441128057352100%
収録外の無人小島多数147.650.04%
(収録島面積合計/総面積)=99.96% が [86275]で記した“「島list500」は…面積でも国土の 99.9%以上をカバーする”の根拠です。

グリグリさん これでよろしければ、[86277]の削除をお願いします。
[86296] 2014年 8月 17日(日)13:33:56hmt さん
日本の北極観測基地・ニーオルスン
東西南北端コレクション は ウオッちず終了[85240]に対処して 地図リンクを変更中です。
択捉島の新情報[86282]については、経緯度と地図の修正[86286]を行いました。

ところで 、このコレクションには 本来の対象である「都道府県の東西南北端」から外れた南極の科学観測基地も収録しています。
これは「日本国の活動拠点の南端」という意味を持っています。
では、「日本国の活動拠点の北端」は どこなのでしょうか?

国立極地研究所の 要覧2012-2013 を開いてみました。
北極観測は、スバールバル、グリーンランド、スカンディナビア北部、アイスランド等の陸域を観測拠点として、大気、氷床、生態系、超高層大気、オーロラ、地球磁場等の観測を実施しています。(p.4)

この中で最北地点と思われるのが スバールバル諸島の主島であるスピッツベルゲン島北部にある ニーオルスン観測基地(北緯79度、東経12度、要覧p.25)です。
実はこの地については、[40317]で“人が定住する地球最北の村”として言及したものの、[80241]で産業活動のない観測基地であることを理由に 地球最北の村を返上した という「いきさつ」があります。当時は 日本の観測基地に 全く気付いていませんでした。
しかし、それと知った今回は 南極の観測基地と同列に扱い 東西南北端番付における「北の張出横綱」? になってもらいましょう。

ニーオルスンの位置は スバールバル(スピッツベルゲン)旅行記の冒頭地図に示されているように、主島の北西部・入江の奥です。でも、Google map のその場所には町の名が記されていません。
その代わりという訳でもありませんが、ニーオルスンのフォトツアー を付けておきます。

ニーオルスンより少し南になりますが、主島中央部の大きな湾の南岸には 唯一の町? ロングイヤービエン[80241]があり、この地の大学にも 日本の研究室や国際協同で運用する大型レーダー(要覧p.15)があります。

グリーンランドにおける日本の観測拠点位置は知りません。
しかし、日本の民間人が住んでいて これも 世界最北の村 と言われる シオラパルク村(北緯77度47分、西経70度46分)でも ロングイヤービエンより少し南になります。
「日本国の活動拠点の北端」は ニーオルスン と考え、この地を地名コレクション・東西南北端の末尾に追加することにします。
[86293] 2014年 8月 16日(土)16:35:26【1】hmt さん
衛星画像の解析で改測された北方領土の地形図
[86284] 右左府さん
引用していただいた新聞記事には、国土地理院による解析で 択捉島に関する今回の情報が得られた画像データは、宇宙航空研究開発機構(JAXA = Japan Aerospace eXploration Agency)の陸域観測技術衛星(ALOS = Advanced Land Observing Satellite)「だいち」が撮影したもの と記されていました。
この衛星は 2006年の打ち上げで、設計寿命3年 目標寿命5年を超えて運用されたのち、2011年に運用が終了しました。
後継機の「だいち2号」(ALOS-2)が既に打ち上げられていますが(2014/5/24)、こちらは運用開始からまだ日が浅く、今回の地形図改測に使われた画像は 先代 ALOS の撮影によるものと思われます。

これにより、択捉島含め北方領土の島々の面積にも変更が生じるのでしょうか。

経緯度や山の高さだけでなく、面積についても 当然のことながら 新たな情報が得られたことと思います。
平成20年(2008)面積調で発表された竹島【日本海】の面積変更[68680]も、衛星画像による地形図改測の結果でした。
今回改測された 地形図 に基づく北方領土の島々の面積が、平成26年面積調として 2015年1月31日頃に発表されることを期待しています。
参考までに、地形図名を眺めてゆくと、散布山・西単冠山・ラッキベツ岬【択捉島東端】があります。
[86286] 2014年 8月 14日(木)23:13:13hmt さん
択捉島の経緯度変更 と 地名コレクション東西南北端の修正
[86282] グリグリさん
日本最北端の択捉島のカモイワッカ岬が従来の地形図の位置より南西方向に100-150mにあることが判明

“最北端”が南西方向に移動したら最北端でなくなってしまうのではないか?

心配御無用です。
岬の地形を示す「図形」の中で南西に移動したのではなく、岬の図形位置を示す経緯度の方が北東に移動したのです。
これにより、岬の北端の経緯度の数値が減少したことを“従来の地形図の位置より南西方向にある”と表記したものにすぎません。

つまり、択捉島を地図上で示す経緯度の数値が全体として変更されたので、北海道東端のラッキベツ岬の“位置”【経緯度と表現した方が誤解されない】も 北緯45:30:22 東経148:53:35 に更新されました。
この値は、都道府県の東西南北端点の経緯度 に示されています。

国土地理院のサイトではこのニュースを現時点で確認できませんでした。

hmtは、6月頃に上記のページを閲覧して変更を知りました。
実はウオッ地図の終了[85240]に伴い 地名コレクション 東西南北端 の地図リンクを修正しなければならないことを認識し、その準備に取り掛かろうとして気付いたのでした。

また、地名コレクションの東西南北端も修正が必要です。

択捉島の2地点だけでも直ちに修正すればよかったのですが、全国の地図リンク修正も含めた大修正になるため、着手が遅れていました。

ウオッ地図は縮尺が画一的でしたが、地理院地図はzoom段階を選ぶことができるので、それぞれの地点に応じて適切な縮尺にできます。その反面、縮尺選定に多少は頭を使うことになります。まあ、コツコツと全国の地図リンクを修正してゆきましょう。
[86283] 2014年 8月 14日(木)15:36:29hmt さん
一本松・二本松・三本松から十六本松・千本松まで
「○本松」地名に関する記事は、既に 落書き帳アーカイブズに集められています。
その後 2011/3/11の地震津波があり、陸前高田市の松原で1本だけ残った木が 奇跡の一本松 として有名になりました。
それ自体は地名ではありませんが、これに関連した話題から hmtも「○本松」地名の記事を一つ書いています[80395]
落書き帳の仲間では 三本松の大御所は別格として、上記記事の後で 二本松市を 心の故郷[82902] とする 菊人形 さん が参加されました。

久しぶりに「○本松」地名を取り上げた動機は、少し前に目にした 朝日デジタルの ことばマガジン 連載記事 でした。

小倉勤務の記者は福岡市の六本松九大前から始め、地名の由来となった松の木の面影を追います。福岡城下のランドマークになっていた6本の松は、文政年間の大風で倒れたとのこと。福岡市営地下鉄六本松駅のロゴマークは6本の枝。

地名と共に由来の松が残る地を求め、山陽本線唯一の勾配線区・セノハチで知られる 広島県の 元 八本松町へ。
一里塚に植えられていた松2本が 各4本の枝に分れて 西国街道を旅する人のために木陰を作っていたが 現存せず。

次に訪れたのが 三本松駅。四国かと思いきや、近鉄で奈良県東端の駅でした。昭和合併前は 三本松村でした。
記者は この地で 切り株で保存されていた由来の松との対面を果たしました。3本に枝分かれした松の写真も残されていました。

こんな具合に、記者は 地名の宝庫・京都と 「○本松」地名の多い愛知県(名古屋と三河)とを訪問してゆきます。

愛知県に多い理由。それは小字起番地帯である愛知県には、一般の地図から消されている小字名が 多数残されている故と考察。
このことは、『かいと』コレクション などに関連する落書き帳での考察とも 通じるものがあります。

未登場の九本松を求めて東北地方へ。
「○本松」の仲間では 唯一の「県名」という歴史を持ち、唯一の現存自治体でもある二本松市。
由来は諸説あるようですが、その一つが霞ケ城の傘松と鶴松です。
現存の 傘松は 天然記念物ですが、地名の由来にまで遡るものではなさそうとのこと。鶴松は数年前の大雪で折れたとか。
気仙沼市長磯二本松では 地名の由来である松が 1本だけ残されており、津波にも無事でした。

ネット検索で未発見だった九本松発見の手掛りは、角川日本地名大辞典の小字一覧でした。
よく見ると、佐賀の字名は異様なほど「○本松」だらけ。九どころか十、十一、十二……十六までありました。しかも「松」のみならず、「○本杉」「○本柳」「○本桜」「○本椎」……樹木ばっかり!!(中略)
市役所で字図を特別に見せていただいたところ、あるわあるわ、「○本松」。旧神埼町の区域だけでも、九本松が2カ所ありました。

字図を参照して作られた朝日デジタル記事の挿入図を 地形図 と対比すると、地形図中心付近が神埼市神埼町姉川十六本松で、その東の中島と記されているあたりが十本松です。北側には九本松から一本松まで、南側には十五本松から十一本松までが順序良く並んでいます。
明治の地租改正測量の際に付けられた字名であり、実際に松が生えていた可能性は薄い という学者の見解が紹介されていました。

最後に、実数ではないでしょうが、落書き帳記事に記錄された 那須塩原市と長野県高山村の千本松[13001]
mapionで検索すると、更に 須賀川市・加賀市・亀岡市・いわき市などにもありそうです。
地名とは言えないかもしれませんが、岐阜オフ会2012の後で訪れたのが 木曽三川の 油島千本松原[82265]

余談
千本という地名から連想するのは京都ですが、この「千本」は樹木ではなく、船岡山や蓮台野に通じる朱雀大路の両脇に立てられた多数の卒塔婆だそうです。千本通の由来
[86275] 2014年 8月 12日(火)14:17:05hmt さん
海と島 (18)日本の島 約500島を選んでみた
[85771] グリグリさん
いずれ、独自の島一覧表を作成したいと思っています。境界線の島も参考あるいは注釈付きで。

この記事のタイトルに使われた 竹崎島は 佐賀県南端にある火山島由来の陸繋島です。

このような“境界線の島”の扱いについては まだまだ検討を要するのですが、hmtも「海と島」に関する記事を綴りながら、自分なりの「日本の島一覧表」を欲しいと思い、試作していました。
その際に考えていたことの一端を [86248]に記しています。
データは多いほど良いというものではなく、利用者の身の丈に合ったサイズが使い易い
自分として好ましい島リストとはどのようなものか?

[86248]では、これに続いて国土地理院の「島面積」・最新国勢調査の人口データ・地理的位置関係を反映させた配列・小さな有人島【例:宇品島】などの要素にも言及しています。

このようなプロセスにより hmtが到達した一応の結論です。

日本には手におえないほど多数の島がある。しかし、約500の島を選べば およそのことがわかる。
つまり「島list500」には、有人島のすべてが含まれるだけでなく、面積でも国土の 99.9%以上をカバーする。
「島」の定義は、現在の地理的環境や成因により一律に決めることは困難である。
しかし、人工島や本土と地続きになった島でも社会的に重要な地位を占める「島」はできるだけ対象に含めた。

今回「島」に含めることにしたポートアイランドの仲間について。
夜間人口でも15000人を超え、昼間は更に多くの人が働くビジネス島。「住民」は極めて少ないが旅行者を含めて人々が行き交う空港島。
大規模な架橋により本土から隔離されている このような存在は、現代の「島」を語る上で欠かせない存在です。
もちろん、この種の島の先輩としては大阪の「中之島」などがありますが、川の中洲や三角州は排除されます。
…ということは、「本土との間に存在する ある種の距離感」 が「島」に求められているのかもしれません。

選定の最後の段階で加えた桜島。噴出物により大隅半島との間が地続きになった大正3年(1914)の大噴火 100周年を迎えました。
鹿児島市街地との間を結ぶ定期航路は、災害復興から要望され 1934年に実現したものとか。大隅半島側からの連絡道路もありますが、主な交通手段を航路に依存する桜島は 実質的には島 の状態が続いているものと思われます。

なお、有人島の2010年国勢調査人口をグリグリさんに送ることを提案[86201]した時点では知らなかったのですが、グリグリさん自身による「日本の島」のページも既に作られており、その後フォロー記事[86243]がありました。

このような状況をふまえ、個々のデータを 都道府県市区町村サイト内で反映させる仕組みは グリグリさんにお任せします。
ここでは、hmtが整えた「島list500」の全体構成を 落書き帳読者のために 簡単に説明しておきます。

結果的に 選ばれたサイズは 約500島【正確には508島】でした。その内訳は次のとおりです。
(1)5大島、つまり 北海道・本州・四国・九州・沖縄島。
(2)国土地理院 H25年 島面積 (G-list)収録の島【面積1km2以上】、5大島以外の集計 336島。うち北方領土 10島。
(3)シマーズ[82777]のリスト(S-list)に収録された 1021島の一部。
 (3.1)有人島(red)として収録されたもの 433島【江田島と能美島を統合】 (2)との間には当然重複がある。
   現在は本土と陸続きになっている島も含まれる【例:かつて指定島であった瀬居島、香焼島など】。
   S-list有人島(かつ指定島)で 昨年無人化した 新島【鹿児島湾】[86249] のような例も含まれている。
 (3.2)シマーズで その他の島(blue)になっている中から収録した 7島
   沖ノ鳥島【太平洋】、竹島【日本海】、高島【石見 旧指定】、四阪島【燧灘[86161]】、沖ノ島【宗像市[86161]
   長崎空港【シマーズでは箕島になっている】、赤島【注】
  【注】
    北九十九島 “赤島などは有人島”との記載によるが、おそらく現在は無人
(4)G-list 及び S-list 以外から収録した 8島【竹崎島は選外】
  春国岱[85822]
  関西国際・中部国際・神戸・北九州の4空港[86161]【長崎空港島は シマーズに 箕島の名で収録 】
  ポートアイランド と 六甲アイランド[86161]
  桜島【鹿児島湾】
[86248] 2014年 8月 9日(土)23:11:02【2】hmt さん
海と島 (17)宇品島【広島市】・高島【鳴門】
前回紹介した瀬戸内海の 『しまっぷ』
「6852島」の詳細を窺わせる貴重なリストなのですが、あまりにも多数の小島・岩・碆などが列挙されています。
人間生活と関わりのありそうな情報は、その中に希釈・埋没されており、とても逐一検討する気にはなれません。
やはり、データは多いほど良いというものではなく、利用者の身の丈に合ったサイズが使い易いことを実感しました。

そこで、自分として好ましい島リストとはどのようなものか? 少し考えてみました。
国土地理院の島面積。 2013年10月1日現在の表には 341島が収録されています。
この程度ならば扱えるし、大きさの下限が面積であることも気に入りました。
でも 人口データがが入っていません。最新国勢調査人口[85802]を加えたいし、配列にも地理的位置関係を反映させたい。

人口というと、国土地理院のリストには入れなかった小さな島ながらも、無視できない人口を抱える島があります。
その代表が宇品島です。この島は近世までは広島湾にある自然島の一つでした。しかし、明治の築港事業が完成し、市政町村制が施行された1889年時点では、既に広大な埋立地(宇品新開>広島市宇品町)と地続き状態になりました。

1894年6月に日清戦争が始まると、同月に山陽鉄道が開通したばかりの広島は、5年前に完成した宇品港と相まって軍事拠点として注目されることになりました。8月には広島-宇品間に軍用鉄道が敷設され、広島は兵員・物資輸送の前進基地となりました。
更に9月には大本営が広島に移転し、明治天皇を迎えて 日本の臨時首都になったのでした[82870]

話が少しそれましたが、宇品島の住所地名は広島市南区元宇品町となっています。本来の宇品なのですが、気の毒なことに その地名を広島の新開地に奪われ、1904年の広島市編入以来「元」を冠した町名を使わされています。

そして宇品島自体も、明治の築港で一度は本土と地続きになり自然島消滅状態になりましたが、住民運動の結果 1893年には水路が復活して架橋島として復活しました。確認のために 地形図
この橋の名は、第二次大戦中に水路拡張した暁部隊【陸軍船舶司令部】にちなむ「暁橋」です[82809]

本題である元宇品町の人口。これは国勢調査の小地域人口で 1831人と知れます。面積は[86234]で紹介した海保の『しまっぷ』で0.51km2。公園地区ですが、市街地もあるので小さな島にしてはかなりの人口があります。

次は 宇品島よりは大きな 面積 2.59km2の「高島」について語ります。
でも この表記では どの島のことなのか 読者に伝わりません。「高島」という島は日本全国にたくさんあるからです。
最も有名なのは高島炭鉱があった「高島」でしょうか。平成合併前までは長崎県西彼杵郡高島町[71965]という自治体で、1960年国勢調査では人口2万【軍艦島こと端島を含む】を超える活況でした。
でも、ここで言及したいのは 徳島県島田島[82888]の隣にある 高島 です。

このような事情をふまえ、自分として好ましい島リストには、同名の島を区別する仕組みが必要だと思っています。
もちろんリストに記録する島の属性中には県名も加えますが、「長崎県の高島」と限定しても3島ある【長崎市、佐世保市、平戸市】ことを考えると、これだけでは不十分です。
私としては、高島【鳴門】・高島【長崎】・高島【九十九島】・高島【平戸】のように 県よりも狭い地域名 を付す方向で考えています。

ところで、何故「高島【鳴門】」を取り上げたのか? 
実は愛用(?)しているシマーズのリストから、この島が落ちていたことを発見したのです。
シマーズの 35図を確認してみると、有人島を示す赤い字の「大毛島」から出る指示線の先にあるのは 高島【鳴門】でした。
大毛島と高島の間は、地形図 が示すように 水道で隔てられているのですが、この2島が別々の島であることを明確に示すためには、かなり大縮尺にする必要があります。離島専門家の作ったシマーズでも、このような見落しがあるので、注意が必要です。

実際、水路の幅がどれだけあれば別々の島とするのかなど明確な基準はなく、大毛島と高島とは 昔からの慣習により 別々の島と認識されているのだと思います。鳴門市三ツ石の区域の一部が水路の西側に及んでいる事実からも、昔は2島の間にもっと広い水路があり、両側の島民による塩田開発を経て陸地化した結果、現在の狭い水路に変化したものと推察します。

高島には その名が示す山の部分もありますが、鳴門3島の中では面積最小ながら平地に恵まれた高島は かなり市街地化しています。人口 4095人。
[86234] 2014年 8月 8日(金)15:00:53hmt さん
海と島 (16)日本全国で 6852島 その根拠と内訳
日本の国土を構成する島の数として 6852島 が使われていることは、[29533]以来 何度も記してきました。
この数字は 日本統計年鑑等にも使われた「公式の島数」ではあるが、ここで用いられた基準(島の定義)は、海上保安庁が自ら認めているように 絶対的なものではなく、あくまでも計数するための便宜的手段です。
海上保安庁水路部【現・海洋情報部】の調査から30年近く経過していることでもあり、6852島の問題点を再検討してみます。

だいたい「島」をどのように定義して どのように数えるのか? この前提を変えれば数えた結果は如何様にも変ります。
社会的な状況や測地技術の変化も考慮して、当時用いられた前提を再検討することは意義あることであると思います。

6852島を数えた際の前提は 概ね次のようなものと思われます[85767]

(1)自然島である
昭和61年当時にも人工島【例:第二海堡[26174]】は存在しました。もっとも、外周 0.1km以上の条件を満たしている第二海堡が 6852島に算入されていたか否かは不明です。
ただ、戦後にできた大きな人工島が島嶼リストから除外されていることから、自然島に限られているものと推測されます。
また、日本離島センター には 海上保安庁の数え方として「埋立地は除外」【出典:JODCニュース34号(S62)】と記されていました。これにより、埋立による人工島は除外されていると推測されます。
参考までに、関西空港島の面積は10km2以上になっており、ポートアイランド・六甲アイランドの人口は共に15000人を超えています。
人工島を除外して世の中を語ることはできない時代になっている現実を直視すれば、自然島に限る条件は疑問です。

(2)外周 0.1km以上である
言うまでもなく、島の大きさについては 何らかの形で原則的な下限値を定めることは必要です。明治15年(1882)の 第一統計年鑑では 伊能大図で 周囲1町【109m】以上のものを掲載するとして、1847島が選ばれました[66997]
外周 0.1km以上という基準はこれを引き継いだものと理解されますが、昭和63年には3922島になっており、その翌年平成元年の日本統計年鑑から、水路部が数えた6852島に改められました。
空撮を用いて作成された地図・海図による面積計算が可能になった現在の技術水準からすれば、外周よりも面積によって下限値を定めるのが適切と思われますが、実現していません。

(3)関係する最大縮尺海図と陸図(縮尺1/2.5万)を用いて数える
主として使ったのは海図でしょうが、地形図と同様にこれも年々改められており、約30年の変化は大きいと思います。

(4)橋、防波堤のような細い構造物でつながっている場合は島として扱い、それより幅が広くつながっていて本土と一体化しているようなものは除外
1968年の「番の州埋立」よりも後ですから、沙弥島と瀬居島[86062]は除外されている筈です。事実、主として瀬戸内海を管轄する第六管区海上保安本部が 管内の島をガイドする しまっぷ統合版【注】に含まれていません。
【注】
その中には 100m2未満の島?を含む 909島が収録されており、6852島の一端を示すものと推測します。

しかし、この基準を紹介している日本離島センターが発行する『シマーズ』には 何故か本土と一体化した沙弥島・瀬居島も収録されているというように、混乱があります。

6852島であることの妥当性はさておき、本土とされる5大島を除いた 6847島が広義の離島で、その内訳は有人離島 418、無人離島 6429(H24/4/1時点)と、数からすれば無人離島が圧倒的です。
[24470]で紹介された 1955年発行の本には、有人離島が全部で436と書いてあり、無人化が進行中と思われます。

2013/4/26の第1回 国境離島の保全、管理及び振興のあり方に関する有識者懇談会 資料2-2 離島の概要を見ると、有人離島のうち 305が4つの法律の対象離島として指定されています。

これらの内、離島振興法・奄美群島振興開発特別措置法・沖縄振興特別措置法については [85802]で言及しました。
その際に、小笠原諸島振興開発特別措置法の対象は父島・母島と記したのですが、上記資料によると「4」と記されていました。あと2つはどこ? 法令を調べてもよくわからなかったが、東京都の作成した 小笠原諸島振興開発計画 の 7コマに、「その他の島しょ」として硫黄島・沖ノ鳥島及び南鳥島が示されていました。沖ノ鳥島を除く2有人島が法対象離島として加わるのでしょう。
[86201] 2014年 8月 2日(土)23:49:47【1】hmt さん
海と島 (15)2010年国勢調査による 島の人口
[86178] グリグリさん
有人島の国勢調査人口によるまとめを前々から作業しようと思っていて、なかなか進捗しないのですが

海と島シリーズの(11) で記したように、hmtも同様の調査を試みました。
その結果 理解したこと。
(1)統計局は島単位では人口を集計していない。
(2)少数の旧自治体で1島を構成の島は、公表された旧自治体単位の人口から計算できる(例:倉橋島)。
(3)離島振興法などで指定された離島は、実施地域一覧表に 平成22年国調人口の集計結果が掲載されている。
(4)適用範囲が広く正統的な方法は国勢調査の小地域データの集計ある。しかし それを利用する上では問題もある(例:青海島)。

上記(4)に掲げた小地域データの集計については、青海島よりも前に [82888]グリグリさんが 鳴門海峡にある 島田島を例に挙げて、四国本土と島田島とにまたがる町名の人口を分別できない問題点を詳しく説明しています。
町字データでなく、基本単位区にまで分解して分別するためには、調査票閲覧による場所の確認[86178]など特別な手続きが必要なのでしょうか?

小地域データの集計については、分解して島単位に組み直せるか否かの問題の他に、内訳記載がされているデータを重複して数えるという過ちを犯さないようにする注意も必要です。大字の中の内訳として字の人口が重複記載されている多数の事例だけでなく、同じ大字名が列挙されているだけの例もあるので、注意が必要です。
例えば呉市豊浜町大字豊島【安芸灘諸島の豊島】の人口は町字小地域集計の表でセルL2003に記された 1373人だけでよく、その下の3つは内訳です。

隣接する大崎下島にある呉市豊浜町大字大浜についても 同様にセルL2007の 372人だけでOKです。
旧豊町の人口 2261人から指定離島である三角島の人口 61人を差し引いた 2200人に この 372人を加えた 2572人が 大崎下島の人口 ということになります。
上記 (2)(3)(4)の手法を組み合わせた計算です。

参考までに、日本の島へ行こう に記された 1995年以降5年毎の国勢調査人口と対比すると、3696(1995) 3233(2000) 2897(2005) 2572(2010) となり、妥当な数値と判断されます。

グリグリさんが指摘された本土との分別不能など、残された問題点はありますが、こんな要領の作業によって 2010年国勢調査による 島の人口の大半について できる範囲内の結果を得ています。

近々のうちに、エクセルファイルで お送りすることができると思いますが、いかがでしょうか。

【追記】
[86203]にてレスをいただき、ご期待に添えるようなデータを提供できるように仕上げの見直し作業中です。

ところで、hmtのリストでは空欄になっていた 島田島の人口 が気になり Google検索をしました。
その結果、なんと都道府県市区町村の中に既に 日本の島のページ ができており、これがヒットしたのには 驚きました。

島田島の人口は 372人【出典:自治体統計】と記載されていました。鳴門市市勢概要 などに基づく数値でしょうか。
いずれにせよ、島田島には高島や大毛島の一部のような市街地がなく、予想よりもずっと人口が少ないことを理解しました。
[86180] 2014年 8月 1日(金)23:08:47【1】hmt さん
領海の外縁を根拠付ける離島の地図及び海図に記載する名称の決定について
[86173] じゃごたろさん 
日本の領海を決める島のうちで158の島に名称がなかったのを、今回政府がすべてに名称を付けたという報道がありました。

タイトルは 総合海洋政策本部の発表 (2014年8月1日)によるものです。
それによると、EEZ外縁の根拠となる離島のうち、平成23年度までに49島の名称を決定したが、引き続き158島の名称を決定したとのことです。

このような政策の基本となる海洋基本法・海洋基本計画については[66856]で、先に決められた49島については[85734]の末尾で言及しています。

本日発表された 158の島は政府発表に記されていますが、68番に「ソビエト」という島があります。海面から聳え立つ島?
78番の「やいと」は お灸のように煙を出しているのでしょうか。17番「ヘソイシ」とか、いろいろと想像を掻き立てる名があります。
[86169] 2014年 8月 1日(金)16:07:33hmt さん
自治体変遷図
[86167] グリグリさん
※こちらのページで福山市の市域の変遷が分かります。

これを見て思い出したのが、WARPで保存されていた 長崎市参考資料 に掲載されていた「行政区域の変遷」です。
3コマの図の前には 日付・拡張区域・面積・人口の表もありますが、図示することにより市域の拡張が一目瞭然となっています。
なお、この資料は [85101]でリンクしました。

言うまでもなく、市区町村変遷履歴については 立派な表ができており、更に市の変遷については特別にまとめたページも作られています。例:長崎市

しかし、履歴データの整備だけでは市町村の変遷を実感できないことはしばしばあり、表以外の表現形式も価値があります。
その一例が 白山市の生い立ちで使われた チャート形式です。[75486] グリグリさんは これを紹介すると共に、市町村合併の経緯を図で分りやすく表現した自治体ページの収集を呼びかけました。2010年夏でした。
その成果の一覧が [76001]にまとめられています。続番の[76002]など それ以降の情報もあるはずです。

2012年に 変遷情報図書室構想[81236]が出ました。[81240]でこれに早速反応した hmtは 次のように記しています。
およそ 次のような住み分けになるのでしょうか。
膨大な数の個別情報を網羅し、その要点を集大成する 市区町村変遷情報
現存市町村を主体とするWebページ中にある ビジュアルな視点で読者に訴える年表類を集積[76001]【原文は番号誤記】
個別情報・集積情報を問わず、詳細を保存する価値ある情報を集める 変遷情報図書室[81236]

グリグリさんの回答[81293]
[64001][76001]の間違いだと思います。で、[76001]に掲載したリンクですが、かなりのリンクがすでにリンク切れか内容が変わっていますね。やはり、リンク集は保存という視点からは非常に脆弱な手段です。したがって、上記の2番目の年表類の収集についても、Webページをアーカイブするかグラフなどの画像データを個別収集するなどの手段で保管しておく必要があると考えます。その上で、3番目の図書室に格納でしょうか。

当時のhmtは リンク切れ問題の対策を提案することができず、著作権問題だけにレスしています[81312]
しかし、その後で国立国会図書館の「WARP」= Web ARchiving Projectについての知識を得ました。
そして、WARPを利用すれば「現役の自治体サイト」にありがちな、更新による内容変更・リンク切れに対処できるのではないかと考えています。

そこで提案します。
「都道府県市区町村」サイト内の適当な場所、例えば 市区町村プロフィールの自治体欄に、自治体の生い立ちを示すリンクを付けてみたらどうでしょうか。
もちろん、適当なリンク先のみつかる一部の自治体だけということになります。

その際に、[76001]のような現役の自治体サイトへのリンクでなく、WARPに保存されたサイトを使う。
これがリンク切れを防ぎ、かつ著作権の問題もクリアするポイントです。
冒頭に示した長崎市の事例も、[79792]で使った 長崎市地球温暖化対策実行計画 へのリンクが切れていたことがきっかけでした。

WARPリンクの具体例を示しておきます。
市区町村プロフィール岐阜県の中 羽島郡 笠松町
参考までに、[75499]でリンクした笠松町の現役ページは切れていました。

市区町村プロフィール神奈川県の中 秦野市
参考までに、[78793]でリンクした秦野市の現役ページは切れており、[80318]のリンクは有効。
なお、[80318]で注意しておいたように、昭和30年4月に行なわれた 大根村の 秦野市への編入 は 大根村の“一部”というよりも“大部分”と記錄されるべきです。大根村の真田地区だけは、金目村を経て平塚市に編入。
言葉の説明よりも、地図を見れば一目瞭然。

市区町村プロフィール香川県の中 東かがわ市
[76101]にリンクされていた 2008年版は リンク切れ。

WARPリンク先の探し方
現役自治体ページでタイトルがわかっていれば簡単です。例えば[86167]の福山市では「市域とその変遷」と知れているので、これを「福山市」と共に WARP のキーワード検索に入力すれば 何件も出ます。変遷履歴だけならば どれでもよいのですが、面積の更新があったりするので保存日の新しいものを選べば、広島県 福山市 となります。
[86161] 2014年 7月 31日(木)18:03:07hmt さん
海と島 (14) 「無人島」 なのに 人がいる !?
[86062] hmt
私としては、「関西空港島」は 人工であっても立派な島である と思っているのですが…
この【長崎】「空港島」は 由来から分類すれば 自然島 です。関西空港のような純粋な人工島ではありません。

生い立ちは違いますが、これらの「空港島」は「有人島」でしょうか?
# 長崎空港建設工事前の箕島は、人口66人の有人島でした。

旅行者の存在はさておき、この島を職場として働いている人たちは 昼夜の別なく相当な人数に及ぶはずです。
でも、空港島を住所にしている人は あまり居ないのではないでしょうか。
「生活の本拠」である住所【民法第22条参照】は空港島外にあり、その登録住所から通勤しているはずです。

では国勢調査は? こちらも 本邦内に常住している者を 対象にしています。但し学校の寄宿舎、長期入院先、自衛隊の営舎、刑務所など 常住とみなされる場所が調査場所になる点など、住民基本台帳の住所とは 異なる扱いがあります。国勢調査の対象

「有人島」であるか否かは、この2つの基準のいずれかに該当する人の有無で判定されるようです。
従って海上自衛隊員が常駐している 硫黄島や南鳥島[80521]は 「住民が居ない有人島」に該当しますが、民間空港島【注】は「人がいる無人島」になると思います。
【注】参考までに開港日付順に列挙しておきます。
長崎空港 1975/5/1、関西国際空港 1994/9/4、中部国際空港 2005/2/17、神戸空港 2006/2/16、北九州空港 2006/3/16

人があふれる空港島から一転して玄界灘の孤島・沖ノ島。
宗像大社沖津宮が この島に鎮座し、たった一人の神職が奉仕します(10日交代)。

徳山港の黒髪島も、江戸時代には神域の黒神島であったようですが、明治以降は最高級花崗岩の採石場になりました。
[83592]で記したように、現在は住民がいませんが 石材会社が採石場への通勤船を運行。

[83592]では 四阪島にも言及しました。これは新居浜市20km沖合の燧灘にあった5つの島の総称です。
日本最大の銅精錬所(操業期間1905年~1976年 )があった 家の島は、美濃島との間が埋立で一体化しており、現在は4島です。1.26km2という 面積は4島の合計。

住友金属鉱山が 銅製錬所を 四国本土から離れた 四阪島に移したのは、銅鉱石に含まれる硫黄による煙害を防ぐためでした。
しかし、結局は高い煙突も煙害問題の解決にはならず、被害を拡大させてしまいました。
硫黄対策として 1913年に住友肥料製造所を開設。ここで硫酸や過燐酸石灰を製造。硫黄を更に除くための中和工場ができたのが1939年で、四阪島の製錬所は 34年をかけて ようやく 煙害対策が完了したのでした。

元禄4(1691)年に開かれた別子銅山も 1973年に閉山。別子山中の焼鉱窯から運ばれた四阪島の火は 1971年の東予製錬所火入れに使われ、四阪島での銅精錬は 1976年にピリオドを打ちました。
大正末期には 5500人もの人口を抱えた四阪島で 現在操業している仕事は、製鋼煙灰に含まれる亜鉛回収だけです。
というわけで、無人島になったこの島の (株)四阪製錬所には 数十人が 新居浜から船で通勤。

余談
かつて有数の産銅国であった日本の銅鉱山については、三菱の尾去沢鉱山[67407]、藤田の小坂鉱山[67466]、久原の日立鉱山[76480]、古河の足尾銅山[43138]で言及してきました。今回の記事で、住友の別子にも触れたことになります。
海外の銅山については[77028]
住友と言えば、金で注目される 菱刈鉱山が あるのですが、落書き帳では まだ話題になっていません。
[86112] 2014年 7月 28日(月)19:43:09【1】hmt さん
1914年7月28日
今日は何の日 7月28日の歴史 に記録された 100年前のできごと。
オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が開戦

オーストリア=ハンガリーの皇位継承者夫妻がセルビア人に暗殺された「サラエボ事件」のちょうど1ヶ月後です。
100年前に大戦の発端になる事件の起きた都市・サラエボは、ご承知のように 1992年ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナの首都です。
そして、この時に新しく組織された政府に対して セルビア人勢力が サラエボ包囲戦を仕掛け、大規模な内戦が4年間も続きました。
イスラム教【以前はオスマントルコ領だった】、セルビア正教、ローマカトリックと 3つの宗教が混在するボスニアの中心地であるサラエボは、1984年冬季オリンピックの開催地としてよりも、戦争に結びついて記憶されています。

20世紀末の記憶はさておき、100年前の世界大戦。

この戦争をきっかけにトルコ(オスマン帝国)・オーストリア・ドイツ・ロシアという4つの帝国が瓦解し、バルカン半島からフィンランドに及ぶヨーロッパ東部地域の地図は大きく変りました。

初等科地理[85960]に続いて、初等科国史 に描かれた大戦前後のヨーロッパ地図を示しておきます。
サラエボは大戦前の図ではオーストリヤハンガリー領内にあり、セルビヤとアドリア海との間に位置します。
大戦後の図は「セルボ・クロアート・スローベン王国」から国名を改めた[23009] 1929年の後なので、「ユーゴスラビヤ」の領域内になります。

【追記】
主戦場がヨーロッパであったために、戦前の日本では「欧州大戦」という呼び方が普通でしたが、英国の対独宣戦(8/4)に呼応して、日英同盟の関係にあった日本も参戦することになりました。
大日本帝国憲法時代ですから 集団的自衛権に関する議論は もちろん不必要でしたが、大隈総理は御前会議・議会の承認・軍統帥部との折衝など一切なしに参戦の方針を決めたそうです。
最後通牒を経て、大正3年8月23日 独逸国に対し宣戦の詔書を布告。

太平洋方面の戦いでは ニューブリテン島[79420]などドイツ領ニューギニアを制圧したオーストラリア軍が最大の成果を得たと言えるでしょうが、日本陸軍もドイツの中国での拠点・青島を攻略し、日本海軍はミクロネシアの島々(南洋群島[71808])を攻略しました。
余談:
1914/12/18の東京駅開業式典では 青島から凱旋した神尾中将に 品川から新規開業の京浜線電車に乗ってもらい、東京駅で歓迎するというイベントがありました。このイベント自体は成功したのですが、その後で来賓を乗せて高島町駅に向った電車が立往生する失態を演じたことを[39140]で記しています。

主戦場である欧州戦線にも陸軍派兵の要請がありましたが、これは拒絶。
しかし、地中海とインド洋には軍艦を派遣して 連合国輸送船団の護衛任務にあたりました。
マルタ島には戦死した日本海軍将兵の墓碑があります。
[86108] 2014年 7月 28日(月)12:26:50hmt さん
地名資料室(川崎市)
[86103] グリグリさん
#今日は地名の日なんだそうです。

今日は何の日 の記載から 日本地名愛好会 (福井市)という存在を知り 調べたら、
二人の地名研究家【谷川健一 1921年誕生、山田秀三 1992年没】の功績を称えて、「地名の日」を制定
と記されていました。

谷川健一さんが所長をしている 日本地名研究所(川崎市高津区)の業務案内を見たら、同じ 川崎市生活文化会館内に 川崎市教育委員会の 地名資料室 があり、地名研究所と共同で、主に地名に関する展示や学習・情報サービス等を行っていると記されていました。

資料の貸出はしていませんが、8席の閲覧席があり 約35000点の所蔵資料を 誰でも無料で閲覧できるとのこと。
xls形式の所蔵資料目録をダウンロードできます。
役に立ちそうな情報なので、ご紹介しておきます。
[86062] 2014年 7月 26日(土)20:42:05【1】hmt さん
海と島 (13)本土化した島
このシリーズの(8)で 47都道府県の「島の数」について こんなことを書きました。
算入する基準や 数える対象の地図が変われば、島の数はいくらでも変ります。

この文は、島の大きさや測定法を意識して書いたものですが、それ以前に人手の加わり方の問題があります。
一番わかりやすいのが人工島、例えば「関西空港島」を数えるかどうかです。
私としては、「関西空港島」は 人工であっても立派な島である と思っているのですが、何故か国土地理院の 島面積(H25) からも、シマーズのリストからも除外されています。

国連海洋法条約において 領海の基線となる島の定義から 人工島を排除した理由は理解できるのですが、このような国際的権利関係とは無縁の場において、人工島が島の仲間から排除されている現実には納得できません。

長崎空港は 大村湾にあった 面積90万m2=0.9km2の箕島に 人手を加えて 昭和50年(1975)にB滑走路の供用を開始した空港です。その面積は 174ha= 1.74km2です。
国土交通省の写真を見ると、対岸の本土に 大村空港(1950-1975)の頃から使っていた A滑走路が見えます。地形図では 2つの滑走路共に「長崎空港」と記され、本土側の滑走路付近には自衛隊であることが示されています。

つまり この「空港島」は 由来から分類すれば 自然島 です。関西空港のような純粋な人工島ではありません。
そして、埋立による人手が加わって拡張された面積ではあるが、現在は 1km2以上の面積を有しています。
しかし、国土地理院の島面積(H25)からは これも除外されています。昭和63年の基礎面積測定時には、自然島「箕島」が既に地形図から消えており、長崎空港は人工島であると判断されたのでしょう[82773]

地形図で認められる箕島の注記は「箕島大橋」だけですが、シマーズのリストには「箕島」が無人島して収録されています。

人工島問題はさておき、島を数え上げる際に問題になる可能性があるのは、開削による切り離しや、架橋・埋立等による一体化です。人手による工事に限らず自然作用による陸繋島などもあり、その一部は[57361]に記しました。

開削による切り離しは、既に取り上げられている 対馬の事例 のように、1つの島として扱われました。
多数ある架橋の事例。これも島であることに影響なし。

問題は長崎港入口の香焼島[57361]のように、埋立地で本土と一体化した島です。
常識的には「島でなくなった」ように思われるのですが、シマーズでは「香焼島」も対岸の「神ノ島」も共に「有人島」として収録されていました。

類似する著名な事例は、瀬戸大橋で四国本土に渡る入口に位置する番の州埋立地にもあります。

岡山オフ会2009の翌日に訪れた瀬戸大橋記念館[73151]。そのすぐそばにある 沙弥島。
そして 三菱化学のコークス工場などがある臨海工業地帯の先には 瀬居島。
この2つの島は、元々は讃岐国那珂郡>香川県仲多度郡の 塩飽諸島 に属する島でした。
1968年に行なわれた 番の州の埋立で 四国本土の一部として取り込まれましたが、シマーズでは「有人島」として収録。

島だった時代の面積は 沙弥島0.28km2と 瀬居島0.91km2で、現在の地名は 坂出市沙弥島と同瀬居町。
大昔にあった三味線形の島が地震で沈み、残った部分が三味島・線島になり、転じて沙弥島・瀬居島になったという説(角川)。
それは ともかくとして、本州と四国の間にあり、海に関する技術に卓越した人々の根拠地であった 塩飽の島々は、複雑な帰属の歴史を記錄しています。

地理的所属はずっと讃岐国でしたが、行政的所属は 江戸時代には 倉敷代官所の支配する幕府領でした。
明治以後も 倉敷県・高知県・丸亀県・香川県・名東県・愛媛県など 所属した県の多さでは有数の歴史があります。

町村制施行後の沙弥島・瀬居島は 香川県那珂郡(1899仲多度郡)与島村になりました。現在所属する坂出の阿野郡(1899綾歌郡)と郡が違います。
塩飽諸島の主島・本島などは もっと西側に位置するので、現在の所属も昔から同じ那珂郡であった丸亀になっています。

香川県で本土化した島と言えば、小豆島の「土渕海峡」南西側の通称「前島」も、かつては「鹿島(加島)」という独立島でした。
近代になってから土庄地区が 港湾改修、小豆(しょうず)郡役所など行政中心地としての整備がなされました。
これにより、地形的には狭い海峡【それも天然もの】を隔てながらも、架橋で一体化している前島地区を 小豆島とは別の独立島として認識する社会的意義は失なわれたと考えます[63537]

最後に
このシリーズの過去記事を hmtマガジン 日本の 海と島に まとめました。
[85960] 2014年 7月 22日(火)22:57:03【1】hmt さん
華麗なる国
[85936] MasAkaさん
せっかくインドに来ているので、インドの地方自治体について調べてみました。

冬のインド滞在[84897]に続いて、今度は炎熱の季節の長期出張ですか。ご苦労様。
インドでは 1853年に鉄道開業。日本より 19年も前で、欧米に次ぐ 160年以上の歴史があります。5ft6inの広軌が有名。
鉄道分野における日本からインドへの技術支援・国際協力というと、高速鉄道計画の他に 貨物鉄道計画もあるようですね。

ご紹介いただいた 自治体国際化協会の資料 は なかなかよくできていて、興味深く拝見しました。

資料冒頭の4コマにあるインド全図を見ると、首都のあるデリー準州【デリー国家首都地区】は広大な国土の中で豆粒ほどの姿。
東京都と比べると面積は 3分の2 ほどなのに 人口は東京を上回る。
ハリヤナ州は、その西側3方を取り囲むという位置関係がわかりました。

資料を見てゆくとインド進出日系企業リストがあり、グルガオンにも自動車部品など多数が記されていました。

その先にあったのが、インドとの交流における注意点(p.66)。
我々が親切と思って、落ちているゴミを拾うと、ゴミを拾う人の仕事を奪うことになるのである。
だから、我々はインドでは落ちているゴミを拾ってはいけないのである。

思わぬところで日本や欧米の常識が通用せず、ご苦労なこともあるかと思います。
p.68には、インド各州の基礎統計データ一覧がありました。

[85936] MasAkaさん
インド最大の都市Mumbaiを「ムンバイ」と表記

昔は「ボンベイ」の名で知られていました。
1995年に 英語の公式名称が現地で使われる Mumbai に変更されてから、日本での呼称も変更されました。
私も その時点で 漢字表記の「孟買」が「ムンバイ」の音訳であることに気がつきました。

ついでに、「カルカッタ」から「コルカタ」への変更は 2001年。

【追記】ムンバイ
私が国民学校6年で学習した 初等科地理 には、ボンベーは綿の輸出港で、日本人の紡績工場もあった と記されていました。
敵国の資産が接収された戦時中の教科書ですから、“日本人の紡績工場もあった”と過去形なのですね。

現在でも港湾に基礎を置く経済都市であることには変りありませんが、ムンバイは娯楽産業の拠点でもあります。
世界一の映画生産地で、「ボリウッド」と呼ばれるとか。
[85851] 2014年 7月 20日(日)12:32:20hmt さん
石敢當 と シーサー
[85843] じゃごたろさん 石敢當
表札(のようなもの)があり、それを複数見たので、沖縄だから珍しい名字の人がいるんだなあと思いました。
[85847] グリグリさん
まるで表札のような形状というのがユニークですね。これは苗字と勘違いします。

過去記事を見たら [65574]中島悟さんが 「冗談」と断りを入れて
沖縄の苗字といえば大城さんや金城さんが卓越していると思われがちですが、意外にも「石敢當」さんのお宅が多いこと多いこと・・・

[85849] 右左府さん
私の見たものは多くが 丁字路の突き当り にあったように記憶しています。

角を曲がるのが苦手な魔物(マジムン)を激突させて砕く防壁ですが、低い位置で防ぐことができる小型の魔物と推察。
実はわが家も丁字路の突き当りにあり、高さ50cm程度の三波石[38580]が置いてあります。10数年前?に石敢當のことを知って以来、自分では、勝手に これを石敢當に見立てています。

さて、琉球における「魔除け」の代表格は「シーサー」です。こちらは石敢當と違い、屋根上のような高所に置いてあります。
防衛対象として想定している魔物が、石敢當とは異なる大物なのでしょう。

シーサーは獅子で、スフィンクス起源説もあるようです。屋根の上で火災などの災難から家を守る存在。
鯱鉾や鬼瓦も連想されますが、「阿吽」で一対をなすシーサーの形態は、神社仏閣の入口にある仁王門や狛犬とも関連するように思われます。
[85841] 2014年 7月 19日(土)22:59:04hmt さん
越中国・愛本橋
[85829] 伊豆之国さん
この橋は「愛本刎橋」と言われ、「日本三奇橋」の一つに数えられたと言いますが、明治時代に水害で流失し、それ以後再建されていません。

歴史秘話ヒストリアで紹介された 加賀 前田「御家中」[3146]の 参勤交代行列ルートであった北国街道。
飛騨山脈が海岸に迫る 親不知 などの難所もありますが、黒部川を越えるのも大問題でした。
水量が増す夏季には、下流域の扇状地で 流れが分岐して「四十八ヶ瀬」状態となり、旅程を狂わせました。

確実に川を渡れる場所は 「扇の要」 に位置する愛本地区です。
ここは川幅が狭く架橋には有利な地ですが 流れが急なので、橋脚を立てても流されます。莫大な費用のかかる難工事が予想されるし、まだ戦国時代の記憶も残る 17世紀には 「防衛上」からも 架橋反対論が優勢でした。

そのような家中を抑えて 架橋を決断したのは 殿様の前田綱紀でした。石川県史p.426
下流で扇状地を横断する これまでの北国街道(下往来)は 距離的には有利。
しかし、夏季の増水時には通行途絶のおそれがある。
そこで、遠回りでも確実なバイパスルート「上往来」を確保する。
それは これから続くであろう泰平の世を支えるインフラとして必要な公共工事であると位置付けられました。

関連して、黒部川が現在の治水状態になる前の 愛本橋の重要性を物語る 過去記事に言及しておきます。
すなわち、[50173]じゃごたろさんが 明治国道二十一号 に甲・乙の2路線が設定されていたことにつき疑問を提示され、[50179]今川焼さんによるフォローがありました。
明治以降も黒部川の治水工事が行われるまでは江戸時代の街道が国道として踏襲されていたのではないでしょうか。

綱紀により方向性は示されたが、どのようにして架橋を実現するか。
橋脚なしの長スパンとなれば 吊り橋も候補に挙げられたと思いますが、実務担当の 外作事奉行・笹井正房が選んだのは「刎橋」(はねはし)という構造でした。
これは、斜めに掘削した岩盤から突き出した刎木(はねぎ)で橋桁を支える仕組みで、現代の用語を使えばカンチレバー橋です。

支持基盤や構造材料は異なりますが [80265]で引用した 東京ゲートブリッジ工事の写真 を見れば、両側からせり出した「片持ち梁」という仕組みが この形式の橋のポイントであることがよくわかります。

木製の刎橋としては甲州の猿橋があり、百済から渡来した技術者により7世紀に作られたと伝えられます。
このような小規模橋から技術が進歩して、何層もの刎木を使い 62mの長さのある愛本橋も作れるようになったのでしょう。

世界に類のない規模と目されるこの刎橋も、木製のために耐久性はせいぜい30年で、幕末までに8回架け替えられました。
その後の愛本橋は、明治24年(1891)から木造アーチ橋→鋼トラス橋→現在の鋼ランガー橋と材料・構造が変りました。

関西電力北陸支社広報誌『やまびこ』No.92に、2つの記事があったので紹介しておきます。
暴れ川に架けられた日本一の奇橋
黒部川扇状地の要に架けられた加賀藩で最も美しい刎橋
[85827] 2014年 7月 17日(木)16:09:19hmt さん
沖縄県島尻郡伊平屋村 と 同郡伊是名村
[85825] じゃごたろさん
なんで、島尻郡なんでしょうか?

沖縄県に「郡」が編制されたのは明治29年(1896)でした。同年の勅令13号 第一条
那覇首里両区の区域を除く外沖縄県を画して左の五郡とす
島尻郡 島尻各間切 久米島 慶良間島諸島 渡名喜島 粟国島 伊平屋諸島 鳥島【注:硫黄鳥島を指す】 及 大東島
以下【中頭郡 国頭郡 宮古郡 八重山郡】は記載省略

伊平屋諸島が島尻郡になった直接の根拠はこれに求められますが、その前の状態を調べたら、明治12年3月の「廃藩置県」から半年後の役所設置が 沖縄県勢要略 に記されていました。
これによると、県庁に相当する那覇役所に加えて 首里 島尻 中頭 国頭 宮古 八重山 久米島 伊平屋の8役所が置かれて分任。
後に久米島及び伊平屋島役所を廃し、那覇役所に属せしめ、今は島尻郡に編入せらる
という説明が続いており、この那覇役所管轄に変更された時が実質的に島尻郡になった時期のようです。

更に時代を遡ってみます。hmtマガジン には 佐敷【南城市】の尚巴志による三山統一より前の記事がないのですが、琉球王朝の先祖は伊平屋島出身で、伊是名島を配下に収めました。
鮫川大主が沖縄本島の佐敷に移り、その息子が第一尚氏王統の初代で中山王になった 尚思紹王です。
1429年に 2代目の 尚巴志王が南山城を落して 琉球を統一しました。

琉球王家の出身地であった伊平屋島は、地理的には北部に離れているが、現在でも沖縄の中心地である島尻郡に所属。
これと対比したくなったのが、宇久島と五島列島との関係です。
鎌倉時代から宇久島にいた宇久氏は中通島から福江島へと勢力を広め、1413年には小値賀島を除く五島列島を統一しました。
豊臣政権時代の1592年には改姓して五島氏になり、江戸時代にも宇久島を含めて五島藩の領地を維持。ここまでは似ています。

しかし明治になってからの宇久島は、平戸藩領だった小値賀島に引かれてか【?】北松浦郡になり、伊平屋島と違う道をたどりました。
中通島から福江島までの五島列島は南松浦郡になったので、宇久島と五島との縁が薄くなったわけです。
五島との縁が薄くなった宇久島は、平成合併では「佐世保市」への編入が行なわれました。
これも 佐世保市本体からは平戸市を隔てており、かなり無理した感じです。さりとて、飛び地合併とは言えないと思います。議論

伊平屋村・伊是名村と島尻郡との関係に戻ります。
実は、米国統治下の琉球政府では「郡」という区画が用いられず、北部地区・中部地区・南部地区でした。
そして伊平屋村と伊是名村は国頭郡に相当する「北部地区」に所属していました[27598]
そのせいで、1955~1970年の4回の国勢調査では国頭郡のコード番号 47316,47317 が使われました[69104]
でも、これは一時的にせよ伊平屋村・伊是名村が国頭郡になったことを意味するものではないと思います。

まとめ
王家の出身地という歴史的な「いきさつ」もあってか、伊平屋村・伊是名村は琉球王朝時代から「島尻方」としての扱い。
明治政府の扱いも、【一時的な伊平屋役所を経て】那覇役所管轄から明治29年の郡区編制で「島尻郡」へと進む。
大正時代の郡制廃止後、地理的名称になった「島尻郡」を 引き続き使用。
米軍統治下では郡そのものが使われず「北部地区」になったが、沖縄復帰と共に「島尻郡」の名称復活。
[85822] 2014年 7月 14日(月)19:13:54【1】hmt さん
海と島 (12)奇跡の島・春国岱(しゅんくにたい)
[82815] グリグリさん
春国岱は奇跡の島と呼ばれているんですね。【離島架橋一覧[82809]に】追加しました。

1年半も前の記事ですが、今頃になって この島の特異性に気がついたので、フォローします。

国後島を望む根室海峡。地図で最も目を引くのは野付半島の特異な形ですが、その南にある 風蓮湖を形成した南側の砂州が春国岱です。地形図 を見ると「しゅんくにたい」という振り仮名が付けられています。
島内の道路は細く描かれ、自然観察路と管理用道路のみと推察します。
それでも東端の水道には本土のネイチャーセンターとの間に春国岱橋があります。
これも「離島架橋」には相違ありませんが、住民の便宜を図る普通の離島架橋とは性格の違う橋です。

西端を見ると明らかですが、この島は3列の砂州が融合して形成された地形です。
奇跡の島である いわれ は、春国岱の自然 に説明されていました。北からの海流で運ばれた砂が 数千年をかけて堆積し、その間に干潟、湿地、草地、森林など7段階の自然環境が形成されたとのこと。
広さは約 600haと記されていました。

日本三景の天橋立、世界遺産になった三保松原。
これらと類似する自然の作用で作られ、それ以上に豊かな自然環境を保持する春国岱。
根室の市街地から 10kmほどの近さであるにもかかわらず 手付かずの自然が残されているのは、確かに「奇跡の島」なのでした。

私自身が最も驚いたのは、これだけの条件を具えた島であったことを知らず、今回初めてその情報に接したことです。

国土地理院の 島面積 には面積 1km2以上 の島が掲載されていますが、約 6km2 の春国岱は無視されていました。
シマーズには、根室港の防波堤の役目を果たしている弁天島(0.05km2)さえも収録されていましたが、こちらにも見当たりません。

面積約6km2の無人島というと、国内有数の大きさです。
hmt自身が [33529]で大きな無人島の記事を書いています。上位は渡島大島、馬毛島、兄島、大黒神島の順でした。
五島列島の野崎島7.1km2は、2010年国勢調査では人口 1名ながら有人島になっており、春国岱が5番目に大きな無人島になると思われます。

ついでに、6位は奄美の枝手久島。鹿児島県の地図 で見るように、奄美大島のすぐ西に隣接しています。以下、屈斜路湖中島、北硫黄島、弟島、洞爺湖中島と続きます。
洞爺湖中島 は 無人島ではありますが、遊覧船で行ける唯一の「大きな無人島」でしょう。

それはさておき、音読み・訓読みが混交した春国岱という地名。
タイ(ダイ)という言葉で表される地形で使われる最も普通の字は「台」で、八幡平など「平」もあります。
これらは高い土地が多いようですが、「岱」が使われた地名は山だけでなく 春国岱 のような低湿地も目立ち、秋田県の米代川流域に多数あるようです。
春国岱の北に隣接する別海町には、尾岱沼(おだいとう) という地名があります。もっとも、こちらは湿地とは異なる由来とのことです。[29767]でるでるさん

最後に、春国岱の特異性をもう一つ。
島名の末尾に「島」という字が使われていません。同類は四大島以外に 金華山・対馬・島後がありますが、対馬は「津の島」の意味があり、隠岐の島後も本土から島への遠近【つまり後島の倒置】です。
[85812] 2014年 7月 13日(日)11:13:11【1】hmt さん
「安息」はイランにあった国名で、「安息香」は天然樹脂由来の香薬
「安足」に便乗して「安息」のことを少し語ります。
都道府県市区町村の枠組みを越えて、2000年前のオリエント・イラン高原を中心とした国名「パルティア」ですが、中国の史書には「安息」という名で登場します。

漢の武帝が西域探検を命じた張騫[42139]の報告書で、部下による到達国と伝えられた「安息国」。
西側のローマ世界とは 数回の戦いを交えたライバル関係にありました。
カエサルが暗殺されたのも、パルティアとの戦いの準備中でした。

それはさておき、安息から連想されるものは「安息香」です。
これは天然樹脂の一種で、昔使った教科書には gum benzoin と記されていました。
主産地はイランではなく 東南アジアのようですが、この 異国の香りの主成分は 元・ケミスト[42163]にとっては御馴染みの「安息香酸」C6H5COOHで、その英語名は benzoic acid です。

有機化学の分野で「芳香族」と呼ばれるグループ内の基礎的な物質・ベンゼンC6H6の名も、 benzoic acid と関係していますが、ファラデーは別の製法で発見しました(1825)。
電気磁気学の偉人・ファラデーが、化学者デービーの弟子であった時代の仕事です。

もちろん、香炉を使って「安息香」の香りを賞した経験などありませんが、ベンゼンが 安息香酸熱分解物の主成分であろうことは推察できます。シャム安息香はバニリン【現代ではアイスクリーム用香料として有名】の含有量が多い高級品であるとか。

戦後の日本では、シンナー中毒という社会現象があります。現在その原因物質として問題になっているのはトルエンですが、有機溶剤としての利用が禁止【特定化学物質障害予防規則】される前には、生体内での分解性が より低いベンゼン が問題でした。

高価な舶来品の「安息香」ならば 大量に使って弊害を起すこともなかったが、安価な工業薬品として出回った「芳香族」化合物を 野放しにした結果、手軽な快楽を求めた若者が 「シンナー遊び」 を始め、これがベンゼン中毒の原因になってしまったのです。
文明社会への警告でした。
[85810] 2014年 7月 12日(土)18:38:16hmt さん
郡名を組み合わせた 地名?
[85805] じゃごたろさん
栃木県には足利市と栃木市を管轄区区域とする「安足土木事務所」というのがあります。

「安」の由来である栃木県安蘇郡は、現在では全域が佐野市になっているので、管轄区域は「足利市と佐野市」ですね。
「旧国名の組み合わせ」は既に[72159]でまとめられていますが、そのローカル版である「旧郡名の組み合わせ」です。
栃木県の出先機関を調べると、安足県税事務所、安足教育事務所、安足健康福祉センター、安足農業振興事務所など多数の類例があります。

栃木県南西部2郡を指す「安足」という名称は 初めて知ったのですが、埼玉県南埼玉郡と北葛飾郡とを指す 「埼葛」という呼び方[59317]は知っていました。

これらは 郡名を組み合わせたものを 出先機関の名称の一部に利用したものであり、一人前の「地名」として 独立に使われる段階 にはなっていないと思われます。

都道府県名も本来は行政機関の名前(組織名)なのですが、これは 住所表記に使われることが影響して、hmtマガジン に記したように 「地名としての地位」を獲得しました。郡名や市町村名についても同様です。

明治時代には、郡制施行と関連した郡の統合が行なわれ、その際に多数の「合成郡名」が生まれました。
その代表選手は香川県です。こうして生れた5郡が並んだところは壮観です。[40217]
大内郡+寒川郡→大川郡
三木郡+山田郡→木田郡
阿野(あや)郡+鵜足(うた)郡→綾歌郡
那珂(なか)郡+多度郡→仲多度郡
三野郡+豊田郡→三豊郡

上記5郡は 合成地名コレクション にも収録されていますが、性格が違うので「一堂に会する」状態にはなっていません。また、コレクション対象は 地名化した 市町村名・郡名などに限られているので、今回の事例のような機関名は対象外です。

郡名を組み合わせた新しい郡は、石川県鳳至郡+珠洲郡→鳳珠郡のように、平成の現代でも作られています。
東京府豊多摩郡[35838]のように消滅した郡も多いと思いますが、明治から生き残っている郡は、香川県以外にも各地にあります。

ここでは合成地名コレクションから、郡名を組み合わせた「合成市名」を拾ってみました。
千葉県山辺郡+武射郡→山武市
岡山県赤坂郡+磐梨郡→赤磐市
長野県更級郡+埴科郡→更埴市【現・千曲市】
岐阜県海西郡+下石津郡→海津町→海津市
福岡県三池郡+山門郡→みやま市
熊本県宇土郡+下益城郡→宇城市
[85802] 2014年 7月 10日(木)18:56:07【3】hmt さん
海と島 (11)離島の人口
[85801] グリグリさん
【47都道府県の地図】 残りは、長崎県と鹿児島県です。

結びの一番で優勝を賭けて対決する。
そういう形ではありませんが、残ったのは、予想通り 広い海域に多数の島を擁する両雄でした。トリを取る真打ちはどちらか?

岡山県や山口県の地図を 以前にリリースされた広島県の地図と対比したところ、島名が多数記載されたニューバージョンになっています。長崎県・鹿児島県は、そのために特に手間がかかるのですね。

この両県の対決。島の数 では概ね長崎県が優位。
しかし、鹿児島県のサイト に記されているように、離島に住む人口や離島の面積【北方領土除外】では 鹿児島県が全国第一位です。

離島の面積については、既に [85769]を書きました。
国土地理院の表【1km2以上】を利用した集計の結果、島嶼部面積【これも北方領土除外】 1000km2以上は 鹿児島県>長崎県>沖縄県。次いで 500km2以上が 熊本県>新潟県>兵庫県。更に北海道>広島県>東京都>島根県>山口県>愛媛県>香川県までが 200km2以上。石川県以下はぐっと下がって 50km2未満。
【お詫び】
ここで、[85769]における 愛媛県の島嶼部面積の誤記 に気がつきました。正しい値は 220.55km2で、割合 3.88%、12位に下ります。

残された課題は、各都道府県に所属する 離島の人口 です。
シマーズを見ると、赤い文字で記された有人島の数は 全国で500程度 ですから、データ源さえあれば 処理可能な数です。
WEBで情報を調べると、日本の島へ行こう というサイトに 多数の島の人口が記されています。一例として 宮戸島 7.40km2を見ると、平成7年から平成17年まで3回の国勢調査結果がありました。平成22年については未集計または未刊行かもしれませんが、未発見です。

自力で 2010年国勢調査の小地域を集計を試みます。
国勢調査最新結果一覧から 小地域集計に進み、宮城県の男女別人口…町丁・字等というファイル002.csv内を「宮戸」で検索すると東松島市宮戸のデータが7件得られます。最初は この7件を合計すればよいのだろうと思ったのですが、違いました。大字宮戸の中で字欄が記入されている5つは大字宮戸の内訳なので、字欄が空白の2つだけを合計するだけで よかったのでした。
結果は950人で、先に示した3回の漸減傾向の延長として妥当な値です。

こんな手順でよいのならば、根性さえあれば 2010年の島人口を揃えられるかもしれない…と思ったら、まだ難関がありました。
今度は 青海島14.95km2 を例にします。H17国勢調査が「?人」となっているのは 未刊行だったゆえと推測。
青海島の住所は長門市仙崎と長門市通ですが、前者は本土に仙崎港があることからも知られるように、島だけでなく本土側の半島の地名でもあります。
つまり国勢調査小地域集計で長門市仙崎の人口を知っても、ここが島なのか本土なのか不明という状態です。
調べてみると、このような事例はかなり多く、町字名以外の手段による判別が必要ですが、私にはその方法がわかりません。
とりあえず、本土の一部と区別できない場合は 2010年国勢調査を諦めて、古いデータで代用しましょうか。

悲観的になってもいけないので、2010年の島人口を楽~に求められる事例を一つ挙げておきます。
ご存知 江田島・能美島 91.54km2。江田島の南西には 大黒神島[33529]がありますが、無人島です。
その手前には沖野島【架橋】があり シマーズによると有人島ですが 、「日本の島へ行こう」からも無視されている程度の付属島なので、独立に数える必要はないでしょう。
そのようなわけで、江田島市の人口【2010年国勢調査】27031人 が、そのまま「江田島・能美島の人口」になります。

江田島・能美島と隣接して「倉橋島」69.59km2があります。鹿老渡[85771]を介して倉橋島南端に隣接する鹿島 2.64km2は 沖野島よりは独立性の高い有人島ですが 主従関係は明らかであり、とりあえず一体で考えることにします。

倉橋島は呉市の一部ですが、平成合併前は音戸町・倉橋町の2町でした。
2010年国勢調査報告には、旧自治体区分の人口が示されているので、この2町を合計するだけで、12702+5250=18952人 が倉橋島【鹿島を含む】の人口になります。2000年については 倉橋島22222+鹿島455=22677 と分離された人口が公表されているので 2010年のデータも小地域集計から分離可能と思われますが、その方法がわかりません。

国土交通省には離島振興を取り扱う部門があり、その外郭団体と思われる日本離島センターという団体があります。
そこで発行された 日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』 にも人口が掲載されているのですが、平成20年(2008)に第2版が完売となり、“現在改訂中です” が続いています。
日本離島センターからは、 2011年12月に 日本の島全図『Shima-zu』(シマーズ)[82777]が発行され、赤字と藍字で「有人島」と「その他の島」とを区別していますが、人口そのものは掲載されていません。

日本離島センターは、離島統計年報 も発行しています。最新版には当然2010年国勢調査結果も反映されているはずなのですが、掲載対象になっている「離島」は「離島振興法」など関係4法で指定された合計305島に限られています。

四大島と沖縄本島は、当然のことながら離島振興政策の対象外であり、無人島も指定対象外です。
それはいいとして、最大の問題は 5大島との間が架橋で結ばれた島は すべて指定から除外されており、人口などデータの公表対象になっていないことです。
以前に国土交通省のサイト内で閲覧した『離島統計年報2010』には、まだ大崎下島のデータが残っていましたが、架橋が通じた[82870]後の現在は指定対象外になっています。
WEBでの閲覧自体も最近は不成功なので 離島統計年報の利用は制約されますが、何と言っても 重要な「架橋島」が掲載されていないのは、離島データベースとしの価値を損なっていると思います。

…というわけで、[85771] グリグリさん
いずれ、独自の島一覧表を作成したいと思っています。
という結論に行き着きます。

このような不満はありますが、4法で指定された合計305島のデータは それなりに有用であり、離島の人口をまとめる際にも役立ちます。

代表的な存在である離島振興法に基づく指定地域、島名、市町村名、面積、人口の一覧表は[26381][65109]などの過去記事で既に何回かリンクしましたが、最新版(2013/7/17現在、256島) をリンクしておきます。
その一部と重複しますが、冒頭でリンクした鹿児島県のサイトの末尾にも、鹿児島県に属する 離島振興法指定20島 の一覧表があります。

奄美群島は、奄美群島振興開発特別措置法という別の法律に基いて8島が指定れています。
小笠原諸島振興開発特別措置法の指定離島は、父島と母島の2島です。

沖縄県地域離島課資料第1章 には 沖縄振興特別措置法 の指定離島(39島)はもちろん、埋立・海中道路・架橋等により連結された島や面積0.01km2以上の島など 多くの島嶼のデータも示されています。
[85798] 2014年 7月 6日(日)11:33:22hmt さん
海と島 (10)池間島
今朝の NHK自然番組で 宮古島の北にある「池間島」が紹介されていました。地形図

意外なことに この島の中央部には 湿原があります。
汐入の湾から淡水湖に変化し、飛来する鳥の影響で植物が繁茂して数十年の間に湿原化したそうです。
古い時代には、東西2つの島に分かれていたのかもしれませんね。大自然の中で地形も生きていることを実感しました。

夏の大潮、日本最大級サイズの陸蟹の群れが さとうきび畑を抜け、海岸道路を横断して産卵のための波打際に大行進します。
コンクリートの壁をよじ登るのに利用されていたブロックは、地元の人がカニのために設置した心遣いか。
オーストラリア領クリスマス島(インド洋)[11909]と 似たような光景が 日本でも繰り広げられていたのでした。

そして大潮と言えば、池間島の北の海域に数日間だけ、時間限定で出現する幻の陸地「八重干瀬」(やびじ)。
[80979]では“宮古島の北 5~15kmの約 200km2 の海域”と書いていましたが、池間島の方が更に近くでした。
冒頭に示した地形図にも、「○○ビジ」という名の干瀬(低潮時に干上がる岩礁帯)が散在していました。
[85784] 2014年 7月 1日(火)12:35:44hmt さん
7月1日
早くも今年の半分を経過し、2014年も後半に入りました。
[85782] EMMさん に記された“気ぜわしい状態”。
例年のパターンにより 7月1日頃の EMM さん から連想したのは、夏の行事1 関連でした。
しかし、グリグリさんの推測[85783]によると、「氷室の節句」は 全くの方角違いであったようですね。


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